2023/1/6, Fri.

 華やかさどころか、スマラン一帯には色がなかった。色らしきものがあるのは海中ばかり。それも、(end71)ジャワ海特有の鮮やかな青ではない、トラ猫の目を思わせる薄く釉薬をかけたような不思議な緑で、泥の色を映した揺らめく黄が基調になっている。海岸線は、灰と青と黄を混ぜたような空よりは二段階ほど色が濃く、かろうじて空と見分けがつくという程度。背景の山にいたっては、裾野の色は空より一段階だけ濃いものの、頂の色は空とたいして変わらず、あたかも山の頂が諦めてしかたなく空に溶けこんだといった風情だった。この山は、山脈ではない。ひとつだけがどっかりと腰を据え、それが邪魔して町には陸風が吹きこまないというのだから気の毒なこともあるものだ。頂の上にふたつ、みっつと寄り集まった雲はうっすらとして、どこか所在なげだった。
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、71~72; 「ホットスポット」)



  • 一年前より。よく書けているようにおもう。ずいぶんリズムがととのっているような。

居間にあがって窓際に立ち、雪の降るさまをしばしながめる。すぐ目のまえの窓ガラスをはさんだ至近で視界の左上から絶えず白片があらわれては右下にむかってながれつづける。視界の端から粒が闖入してくるさまに、視覚が一瞬押されたような刺激を目につぎつぎとかんじる。雪のながれかたはどこをとってもさほどの差異はないものの、なかにいくつか、ほかよりも緩慢にゆったりと落ちていくものたちが定期的にあらわれる。畑の野菜や草のうえには白さが乗せられて地を染めているけれど、道路のうえに色が溜まるほどのいきおいではない。風の気配はかんじとれずシュロの葉がくすぐったいように身じろぎするのみで、梅のほそい裸木も角度が急でないものは器用にうっすら雪を乗せて片面を白く塗られており、虫がとおるための道を舗装したかのようだった。

  • 短歌をいくらかつくっているうち、「緑葉はひかりの嘘を知りながら罪をゆるさぬひとひらもなし」というのはまあきらいではない。
  • その他。

ひさしぶりに書抜きをすることに。Amazon Musicでは再生履歴をもとにマイディスカバリーとかいうプレイリストを勝手につくってくれるのだが、そこにある知らない音楽でもながしてみるかとおもって、GEZAN『NEVER END ROLL』をえらんだ。GEZANというなまえはなぜかきいたことがある。Wikipediaをみるとマヒトゥ・ザ・ピーポーというひとがボーカルで、このなまえもなぜかきいたことがあった。それでながしたところ、なんだこりゃ、とおもった。声がめちゃくちゃ変だったので。加工してあんのか? という。変すぎてすごい。男性なのか女性なのかもわからなかったが、男性のようだ。

五曲目(”wasted youth”)までは甲高く鼻にかかったような、ほそいのだけれど妙にかたくするどい、それでいてのっぺりして少年じみたような、ある種畸型的とでもいえるような声はおなじかんじで、バックのトラックの色合いが意外にけっこう多彩で(基本的にはあかるくキャッチーでメロディアスなのだけれど、それをひそめてハードなぶぶんもあったり、ちょっとドラマティックな装飾もあったり)微妙なところでちがっているのに声はずっとおなじで、そのインパクトがきわだっており、楽曲にうまく乗っているかとか合っているかとかとかんがえるとたぶん合ってはいないのだけれど、どんな色合いのうえにも異物的に浮かんでしまうそのかんじがある種おもしろく、ちょっとFISHMANSを連想させるようでもあった。佐藤伸治のばあいは楽曲に調和していると言っていいとおもうが、どんな曲でもこのひとがうたえばトラックとはなれたところでその色になってしまうし、個性一発でどんなばしょでも行けてしまえるというか、しかもうまいとか下手くそとかが問題にならず、どんなうたいかたをしても成立してしまう、みたいな印象が。#6の”light cruzing”と#7の”MU―MIN”は曲にメロウさがあって、ここでは比較的低いほうの音域もつかっており、声色に息もふくまれており、そうするとまだすこしはふつうの声にちかづいていた。#8の”feel”はまた前半のかんじにもどっていたが、アップテンポだったり激しかったりする曲で声が大きくなったり張ったりするとああいうかんじになるのだろう。

  • 正午過ぎに寝床でだらだらしているあいだ、いちおう進行中だが中断している詩片とか、To The Lighthouseの翻訳文をちょっと読みなおした。To The Lighthouseはいまのやつはぜんぶ消して、またはじめから訳しなおそうとおもっているのだけれど(いつになるかわからないが)、そのまえにみておくかと。冒頭はこれだとちょっとだめだな、とおもった。セリフのあとの二段落目だが、リズムがなっていないし、ぜんたいに固い。ラムジーの発言をはさんで四段落目あたりまではちょっとぎこちない印象。その後はそうわるくもないが。四段落目のとちゅうまでは、さいしょに訳してからけっこう経ったあとにもどって改稿したおぼえがあるので、そこでちからがはいりすぎてしまったのだろう。

 「ええ、もちろん、もし明日、お天気だったらね」 ラムジー夫人はそう言って、「だけど、ヒバリさんとおなじくらい早く起きなくちゃ、だめよ」と付け加えた。
 たったこれだけの言葉が、息子にとっては、はかりしれない喜びをもたらすことになったのだ。まるで、遠足に行けるということはもう間違いなく決まり、幾星霜もと思われるほど楽しみに待ち焦がれていた魅惑の世界が、あと一夜の闇と一日の航海とをくぐり抜けたその先で、手に触れられるのを待っているかのようだった。彼は六歳にしてすでに、ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができず、未来のことを見通しては、そこに生まれる喜びや悲しみの影を現にいま手もとに収まっているものにまで投げかけずにはいられない、あの偉大なる一族に属していたのだが、その種の人びとにとっては、幼年期のもっともはやいうちから、感覚をつかさどる歯車のどんなわずかな動きであっても、陰影や光輝を宿した瞬間を結晶化して刺しとめる力を持ってしまうものなので、床に座りこんで「陸海軍百貨店」のイラスト入りカタログから絵を切り取って遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母親がそう言ったときちょうど手にしていた冷蔵庫の絵に、まるで天にも昇るかのような無上の喜びを恵み与えたのだった。その絵は、歓喜の縁飾りを授けられたわけである。手押し車や芝刈り機、ポプラの樹々の葉擦れの響きや雨を待つ葉の白っぽい色、それにまたミヤマガラスの鳴き声や、窓をこつこつと叩くエニシダのノック、ドレスが漏らす衣擦れの音――こういったすべてのものたちが彼の心のなかでは鮮やかに彩られ、はっきりと識別されていたので、それはもはや自分だけのひそやかな暗号を、秘密の言語を持っているようなものだった。しかしまた彼の姿には、純一 [じゅんいつ] で、妥協をまったく許さぬ厳格さがそなわってもいた。その額は高く秀で、荒々しさを帯びた青い目は申し分のないほどに率直、かつ純粋で、人間の持つ弱さを目にするとかすかに眉をひそめてみせるくらいだったので、母親であるラムジー夫人は、鋏をきちんとあやつって冷蔵庫の絵を切り抜いている息子の様子を見まもりながら、白貂をあしらった真紅の法服で法廷に座る彼の姿や、国政の危機に際して過酷で重大な事業を指揮するその勇姿を、思わず想像してしまうのだった。
 「だがな」と、そのときちょうど通りかかった父親が、客間の窓の前で足を止めて口をはさんだ。「晴れにはならんだろうよ」
 斧でも火かき棒でも、とにかく父親の胸に穴をぶちあけて彼を殺せるような何らかの凶器が手もとにあったなら、ジェイムズはその場ですぐにそれを掴み取ったことだろう。ただそこにいるというだけで、ラムジー氏の存在は、それほどまでに激しい感情の揺れ動きを子どもたちの心中にかき立てるのだった。ナイフのように痩せているどころか、その刃の鋭さを思わせるくらい細身の彼はいまもまた、いかにも皮肉っぽくにやつきながら立ち止まっていたのだが、それは単に息子の幻想を打ち砕き、また、(ジェイムズが思うには)どこを取っても彼自身より一万倍もすばらしい夫人を馬鹿にして楽しむためだけではなく、自分の判断力の正確さに対するひそかなうぬぼれに耽るためでもあったのだ。俺の言うことは、本当だ。いつだって本当のことしか、言わない。嘘なんてつけるはずもないし、事実に手を加えてねじ曲げたことも、一度もない。誰であれ限りある人間の儚い喜びや都合におもねって不愉快な [disagreeable] 言葉を言い換えたことはないし、まさに自分の腰から生まれ出た子どもたちを相手にするならなおさらそうだ。俺の子どもならばまだ幼いころから心得ておかねばならんだろう、人生の厳しさを、事実の動かしがたさを、そして伝説に語られたあの土地への旅、この上なく輝かしい我々の希望も光を失い、我々を乗せて運ぶ小舟がもろくも闇に沈み去ってしまうというあの神話の地への旅には(と、思考がここまでくるとラムジー氏はいつも背すじを伸ばし、水平線を見つめながら青く小さなその目を細めるのだった)、何をおいてもまず、勇気と真実と、それに苦難を耐え忍ぶ力が必要だということを。
 「でも、晴れるかもしれませんよ――晴れるといいんですけど」とラムジー夫人は言って、そのとき編んでいた赤茶色の長靴下を、いらいらした様子でちょっとひねってみせた。もし今夜中に編み終わって明日本当に灯台 [Lighthouse] に行けることになったなら、その靴下は小さな息子がいる灯台守にプレゼントする予定だった。というのも、その男の子は結核性股関節炎におびやかされていたからだ。それと一緒に古雑誌の束やタバコなど、本当は必要でもないのに見回してみれば部屋中に散らかっている雑多なあれこれも、何でも持っていってあの気の毒な人たちを楽しませてあげましょう、何しろあの人たちは、やることといえばランプを磨いたりその芯を切ったりちっちゃな庭を掃除したりするくらいで、それ以外は一日中座りこんで死ぬほど退屈しているに決まっているんだから。だって、一度に一か月も、それどころか嵐のときはもっと長く、テニスコートくらいの広さしかない岩の上にずっと閉じこめられていたいなんて思う? と夫人はよく問いかけるのだった。手紙も新聞も見られないし誰にも会えない、結婚していても奥さんにも会えないし子どもの様子もわからない――病気になっていないか、転んでしまって手や足でも折ってやしないか、それもわからないのよ。毎週毎週、何も変わらず単調に砕けつづける味気ない波を見ている、と思ったらものすごい嵐がやって来て、窓はどれも水しぶきでいっぱい、鳥たちはランプに激突、建物全体もぎしぎし揺れて、おまけに海にさらわれないようにドアからちょっと鼻を出すこともできないのよ? そんな生活、あなたはしたいと思う? と彼女は訊ねたものだ、とりわけ娘たちに向かって、語りかけるように。そしてすこし調子を変えて付け足すのだった、だから、慰めになるものなら何でも、できるだけ持っていってあげないとね。
 「風向きは真西ですね」と無神論者のタンズリーが、骨ばった指をひろげて吹き抜けていく風を確かめながら言った。彼は、夕方の散歩でそこらを歩き回るラムジー氏のおともをして、テラスの上を行ったり来たりしていたのだ。真西というのはつまり、灯台に上陸するには最悪の風向きということだった。そうね、たしかに嫌な [disagreeable] ことを言う人ね、とラムジー夫人は認めた。いやらしい人、わざわざ余計なことを言って、ジェイムズをなおさらがっかりさせるんだから。しかし一方で、子どもたちが彼を笑いものにすることを彼女は許さなかった。「無神論者」と子どもたちは呼ぶ、「ちっぽけな無神論者」と。ローズも彼を馬鹿にする。プルーも彼を馬鹿にする。アンドリューも、ジャスパーも、ロジャーも、みんなして彼を馬鹿にする。もう一本の歯もなくなってしまった老犬のバジャーさえ彼に噛みついたけれど、それは、家族だけでいたほうがずっと素敵で楽しいのに、わざわざヘブリディーズ諸島まで一家を追いかけてくる青年が(ナンシーに言わせれば)彼でもう一一〇人目だから、ということだ。
 「馬鹿馬鹿しい」と、かなりきつい声色でラムジー夫人は口にした。自身から受け継がれた子どもたちの誇張癖は良いとして、また、何人か町に泊まってもらわなければならないくらいたくさん人を招いてしまうのも(そういうことがあるのは事実だが)さておき、来てくれた人たちに無礼があるのは許せない。特に若い男の人、教会のネズミみたいにみすぼらしくても、夫が言うには「飛び抜けて優秀」だし、彼を熱狂的に崇拝していて、休暇中にもここまで訪ねてきてくれるような人たちに対しては。実際、彼女には、自分と異なるもうひとつの性に属するすべての人々をまるごと護り、みずからのもとに包みこんでしまうようなところがあるのだった。何がそうさせるのか彼女にもうまく説明はできなかったが、おそらく彼らのそなえている騎士道的な礼節や勇敢さ、あるいは彼らが条約交渉を担ったりインドを統治したり、国家財政を管理したりしているという事実が理由のひとつではあるのだろう。しかし結局のところそれはきっと、彼女自身に寄せられるある態度、女性なら誰でも好ましく [agreeable] 感じずにはいられないような、信頼のこもった、子どもみたいに純真で敬意に満ちた態度によるもので、年配の女性が若い男性からそういった好意を受け取っても、決して品格を損なうことにはならないのだ。だから、その価値とそれが意味するものすべてを骨の髄まで感じ取れないような娘には――どうか、我が娘たちのなかにはそんな女の子がいませんように!――災いあれ。
 彼女はいかめしい様子でナンシーのほうに振り向いた。あの方は追いかけてきたわけじゃなくて、と口にする。お招きして、来ていただいたの。
 でも、あの子たちはこういう暮らしとは違った道を見つけるんでしょうね。きっともうすこし簡単で、もうすこし骨の折れないやり方があるはずだから、と夫人はため息をついた。鏡を覗きこんだときなど、白髪は増えて頬もこけてきた五十歳の自分を目の前にして、彼女は思うのだった、色々なことをもっとうまくやれたのかもしれない、と――夫のこと、お金のこと、彼の本のこと。けれど自分としては、ほんの一瞬でもみずから決断したことを後悔したり、困難を避けて通ったり、義務をなあなあに済ませたりしたつもりはない。このときの夫人の様子は直視するのも恐ろしいくらいだったので、チャールズ・タンズリーについて手厳しく叱られた娘たち――プルー、ナンシー、ローズ――は、皿からときおり目を上げながらも、黙りこくったまま、母親のものとは違う人生について前々から温めていた不届きな考えをもてあそんでいるほかはなかった。それはパリかどこかでもっと野放図に

  • 二段落目の「彼は六歳にしてすでに」からはじまる文、原文だとSince he belonged, even at the age of sixの文だが、これがやたらながくてさっそくの難所で、なにしろSince節をながながとつづけていったさきでもういちどくりかえしてsince節がかさねられたあとに、ようやく主節がくるありさまだ。一文ぜんぶ引いておくと、〈Since he belonged, even at the age of six, to that great clan which cannot keep this feeling separate from that, but must let future prospects, with their joys and sorrows, cloud what is actually at hand, since to such people even in earliest childhood any turn in the wheel of sensation has the power to crystalise and transfix the moment upon which its gloom or radiance rests, James Ramsay, sitting on the floor cutting out pictures from the illustrated catalogue of the Army and Navy Stores, endowed the picture of a refrigerator as his mother spoke with heavenly bliss.〉となり、馬鹿野郎、というかんじ。読みかえしていて、ここはリズム的にはもうかんぜんに、「彼は六歳にしてすでにあの一族に所属していた――ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができずに未来のことを見通しては、そこに生まれる喜びや悲しみの影をいま手もとに収まっているものにまで投げかけずにはいられない、あの偉大なる一族に。その種の人びとにとっては(……)」というふうに、ダッシュをもちいて処理してしまいたいなとおもったが、そこまでやっていいのかというのがわからないというか、決心がつかない。けっきょく日本語としてどうなのかというのがなによりなので、原文のかたちにこだわりすぎることもないという認識にはいたっているけれど、原文にないダッシュをくわえちゃっていいのだろうか、という疑念と躊躇は禁じえない(岩波文庫御輿哲也訳はたまにそういうことをやっていたとおもうが)。
  • いちばんあたらしく訳した時期のふたつは以下で、このころのほうがやはりうまくつくれるようになっており、文章としてひとつのリズムやながれがきちんとあるな、という印象。じぶんにしては読点がおおめで、ずいぶんゆっくりとした文章になっている気がするが。

 するとたちまちラムジー夫人は、自身をたたみこみはじめるように見えた。ひとつの花びらがべつの一枚に閉じ合わされるように彼女はたたまれていき、そしてついには、全身がのしかかる疲労感にくずおれかかり、かろうじて残ったのは指を動かすほどの力でしかなかったが、それでもたおやかなすがたで消耗感に身をゆだねながら、グリム童話のページに指を走らせ撫でてみせた。それと同時に、彼女のなかを隅まで響き渡っていたのだ、これ以上ないいきおいまで押しひろがったあと、おだやかにしずまる泉の拍動にも似て、あるべきものを生み出せたのだというよろこびの脈動が。
 夫が立ち去っていくあいだ、この律動のひと打ちひと打ちが彼女と彼をつつみこむようにおもわれ、また、二つの異なった音色が、一方は高いほう、他方は低いほうから行きあたってむすばれたときに分かち合うあの安息をも、二人に恵んでいるようだった。だが、その共振がおとろえ、ふたたび童話に意識を向けたとき、ラムジー夫人はからだがくたくたになっているだけでなく(彼女はいつも、出来事の渦中ではなくて、それが終わったあとになって疲労をおぼえるのだった)、別のところから来るなにか不快な感覚が、かすかながら肉体の消耗感にかさなっているのを感じ取った。とはいえ、「漁師のおかみ」の物語を読み聞かせているあいだ、彼女はその出どころを確かに理解していたわけではない。その不満感を言葉にしてかんがえようとも思わなかったが、ただ、ページをめくるために声を止めるときなど、波の砕ける響きがぼんやりと、不穏にただよって耳に入り、ああ、こういうことかもしれない、と思い当たるのだった。自分が夫よりも優れているなんて、一瞬だってそんなふうに思い上がったりはしないし、それに、夫にことばをかけるときも、本当かどうかあやふやなことを言うのは自分でゆるせない。いろんな大学やたくさんの人々があのひとのことを必要としているし、講義も、書いた本も、ものすごく重要な価値をもっている――それを疑ったことはすこしもないわ。けれど、夫との関係なのよね、困ってしまうのは。あんなふうにおおっぴらに来られると、誰かに見られるかもしれないのに。そうしたら、皆さんきっと言うでしょう、あいつ、奥さんに頼りきりだなあ、なんて。でも、あきらかに、わたしよりも夫のほうが、はかり知れないほど重要なひとなのだし、わたしだって世の中になにか貢献しているとしても、あのひとのやっていることに比べれば、塵みたいなものなのに。だけどそれだけじゃなくて、もうひとつ気がかりなのは――本当のことを言えないのよね、気後れしちゃって。たとえば温室の屋根も壊れているし、修理するってなれば、たぶん五〇ポンドはかかるでしょう。あと、本についても、ちょっと思うところがあって、あの人がうすうす感づいていそうで怖いのだけれど、最新の本はこれまでのなかで最高とはいえないんじゃないかしら(ウィリアム・バンクスさんの口ぶりでは、そんな気がするのだけれど)。ささいな日常の隠し事もいろいろあるし、子どもたちはそれを知っているけれど、隠すのがちょっと重荷になっているみたい――こうしたことごとが欠けるところのないよろこびを、相和する二つの音色が奏で出す純粋なよろこびを減退させ、そしてついには鬱々とした平板さをのこしながら、彼女の耳から音を絶やしてしまった。

     *

 彼女は、自覚せずにはいられなかったが、美のたいまつをたずさえているようなものだった。彼女はどんな部屋にはいるときも、そのたいまつを高くかかげてはこんでいく。そして、ときにそれをつつみ隠してしまったり、それによって強いられるふるまいの単調さに辟易することがあったにしても、結局のところそのうつくしさはだれの目にもあらわだった。夫人は称賛された。愛された。葬儀のためにひとびとがあつまり座っている部屋部屋へ彼女がはいっていく。すると彼女の目のまえで、おおくのひとが涙をながす。男性たち、それどころか女性もまた、さまざまに込み入った事情を手放して、夫人とともに単純さのやすらぎを得ることができるのだった。カーマイケル氏がたじろいだのに夫人の心は痛んだ。彼女は傷つけられた。しかも、公明正大とはいえないやりかたで。それこそが彼女の気がかりで、夫への不満にくわえて念頭に浮かんできたものだった、つまりある感覚、カーマイケルさんが質問にはうなずくだけで、本を小脇に、黄色いスリッパで、足をひきずるようにすぎていくときにおぼえた、わたしは信用されていないという感覚、そして、ひとになにかを与え、助けになりたいというこの望みも、全部虚栄心にすぎないのではという感覚が。結局自己満足のためなのだろうか、わたしがこんなにも、本能みたいに、助けたり与えたりしたいと思うのも、みなさんが「ああ、」

  • いちばんさいごの節のうち、「つまりある感覚」と体言止めで置いたのは、とうじ通話でわかりにくいといわれたおぼえがあるけれど、読みかえしてみるとここをこうしたのはリズム的にけっこうファインプレーだったのではないかとかんじられる。つぎの文から本格的に独白にはいっていくところなので、これくらい宙吊りにしてしまってもよいのではないか。
  • うえのDon Cherryについての記事を読んで知ったのだが、かれの息子も音楽家で、また継娘や孫も歌手らしい。息子の名はDavid Ornette Cherryだから、盟友Ornette Colemanのなまえをもらったということなのだろう。検索するとDavidはちょうどこの二二年、一一月二〇日に亡くなっていて、え、記事のすぐあとじゃんとおもっていたら、記事中、一家で父Don Cherryへのトリビュートパフォーマンスをおこなうと述べられていたLondon Jazz Festivalがまさしく一一月二〇日で、もしかしてちょうどコンサートの日に亡くなったのか? としらべるとそのとおりだった。JazzTimesの記事が出てきたが、パフォーマンスをおこなったその夜に喘息の発作で亡くなったという。基本ピアニストのようなのだけれど、管楽器も吹いたのだろうか。
  • ヤクがそろそろのこりすくなくなっており、きょうを入れて四日分にまで減っていた。金土日月というわけで、午後も診察しているのは月火金だけれど、月曜日は労働だしいちにち二錠のペースで行くなら火曜日まではもたない。それできょう医者に行っておくことにした。めんどうくさいきもちもあり、一錠でがんばる日をつくるか? ともおもったけれど、ここで余計なリスクを負うのはやめておいたほうがよいだろう、余裕をもって調達しておくべきだろうとおもったので行ってきた。帰りには図書館に寄って、リサイクル資料をもらったり本を借りたり。リサイクル棚からかっぱらってきたのはクリス・パッテン『東と西』(共同通信社)、阿部和重『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』(新潮社)、小松茂夫・田中浩編『日本の国家思想』(上下)(青木書店)の四冊。まず棚というかワゴンからさいしょのやつが目について、クリス・パッテンってこれ香港のさいごの総督だったクリストファー・パッテンだよなとおもってみてみたらやはりそうだった。われながらよくおぼえていたなとおもう。Guardianとかでなんどかなまえを目にしていたのだが。阿部和重の本は端のほうにあって、背表紙最下部に「阿部和」まで見えていてさいごの一文字は番号シールでかくれていたのだけれど、これ阿部和重か? とおもって取ってみるとこれもやはりそうで、こんな社会時評みたいなタイトルの本出してんの? とおもった。阿部和重で「帝国」なんてタイトルにはいっていると、蓮實重彦の『帝国の陰謀』という題もおもいだしてしまう(まだ読んでいないが――あるいは音的にもバルトの『表徴の帝国』(旧タイトルでいえば)のほうが意識されているのかもしれないが)。いま「あとがき」をちょっとのぞいてみたところ、「第1章で示されている通り、「日本人の成熟拒否」というテーマ自体は単なる借り物でしかない」、「借り受けたテーマとはすなわち、昨今巷にあふれているひとつの紋切り型である」、「現代日本文化に「成熟拒否」傾向を認める言説そのものが、適否はともかく今やあまりにもありふれている。またそもそもが、「成熟を拒否する日本人」というイメージ自体がひとつの類型にほかならない(……)だとすれば、当のテーマをめぐる論述は今日、二重に紋切り型を語ってしまうことを意味するわけだ」(235)とか、連載開始の時点で抱いていた「わたしたちのささやかな野心は、紋切り型を更新 [イメチェン] することにあった」(236)とか、「テーマ自体が借り物だったこともあり、それまで [東日本大震災の発生まで] はどこか他人事のように「現代日本」に目を向けていたところがあった。戦後史というフィクションを、一定の距離を置きながら振りかえるつもりで、例によってわたしたちはひとつの偽史的なストーリーを組み立てようとしていた」とか書かれてあって、蓮實重彦フォロワーの感がつよい。阿部和重の本も作品もひとつも読んだことがないのだけれど、(……)さんのブログとかで感想や情報などをみたりするかぎりでは、フィクションのフィクション性というところがたぶんかれがずっとやっているおおきなテーマのひとつなのだろう。
  • 小松茂夫というなまえもどっかでみたような気がしていたが、これは岩波文庫のヒュームの『市民の国について』の訳者だ。この本もやはり(……)図書館のリサイクルでまえに(たしか下巻だけ)ゲットしていたので、それでみおぼえがあったのだろう。
  • 出発したのは三時半くらいだったか。ふだんとちがうルートを取ろうということで、アパートを出ると右方面から西に向かい、(……)通りに出ると向かいにわたって寺の角から裏にはいった。ふだんはそこを左手に折れて最寄り駅のほうに行くことがおおいが、今回はそのまままっすぐすすんで(……)にいたろうというこころづもりである。駅までの道中でとくべつおおきく記憶されていることはない。
  • (……)駅から電車に乗って(……)へ。この日も出るまでによく太ももやふくらはぎを揉んでおいたとおもうので、からだが安定しており、二錠だけで問題なかった。電車内の記憶もないが、乗客もおおくはなくて座ったのではなかったか。それで音楽を耳にながしながらもうとうとしていた気がする。(……)に着くといったんベンチに寄ってリュックサックを置き、携帯の音楽をとめて機械とイヤフォンをしまうと、首から取ってしまってあったストールを巻きなおした。そうして駅を抜けて医者へ。着くと階段であがっていく。待合室にいる先客は三人程度だった。週末金曜で、しかも新年がはじまってまもないというのに意外と空いているものだ。受付にあいさつして診察券と保険証を提示し、後者を返却されると額をさらして熱をはかってもらう。OKとなったのでフロア中カウンターのある側、その脇から診察室前の隅まで伸びているソファの端についた。こちらのいる位置を俯瞰図の右下とすると室内は右半分ほどを占める長方形に、それよりもやや縦辺のみじかい長方形を左にくっつけたような空間となり、こちらの向かいには柱があってそのまわりにもかこむように席がもうけられてある。さらに左側の長方形の上端、壁際にもながめのソファ席が置かれて、その右端から正面奥にすすむとトイレがある具合だ。受付カウンターと向かい合うかたちになる左方のソファの背にあたる壁には、どういった意味のものだったかわすれたが東京都から贈られたものなど賞状がいくつかかけられてあり、これが室内にあらわれたとうじ目をつけて医師にちょっとはなしを振ってみたことがあった。BGMはつねにしずかにながれており、曲目はクラシック風味のものやイージーリスニングのたぐいである。先客のようすももうわすれてしまった。ただみんな診察に時間はかからず、ひとりの女性などはいって一分くらいで出てくるようなありさまだったが、それでこちらの番がまわってくるのもおもいのほかにはやかった。待っているあいだは携帯で(……)さんのブログを読み、それが終わるとホメロス/松平千秋訳『イリアス(上)』(岩波文庫、一九九二年)を読んだがいくらもしないうちになまえを呼ばれた。きのうの記事に書き忘れているとおもうがホメロスは前日から読みはじめたもので、大沼保昭著/聞き手・江川紹子『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』(中公新書、二〇一五年)を読み終えたあと、またれいによってなんにしようかなあと積んである本をみながらまようわけだが、『フィネガンズ・ウェイク』がそろそろ行けるんじゃないかと引かれつつも、世界最古の文学のひとつをここらでいっちょう読んでおいてやるかとえらそうにかんがえて『イリアス』を取った。過去にたしか二回取り組んだおぼえがあるが、そのいずれのときもさいごまでは行かなかったはず。印象にのこっている場面もなかったが(第二歌終わりの「軍船の表」がやたらながかったということくらい)、むかしにくらべるととうぜんながらなんからのおもしろみを見出すちからや観察力はついているし、そこにあることばをとにもかくにもひとまず受け入れて追うという胆力もついている。『オデュッセイア』のほうはまだいちども読んだことがない。持ってはいる。
  • 診察もみじかく終了。受付の女性になまえを呼ばれるとはいとこたえて本をしまい、リュックサックも持って立ち上がり、診察室の扉に寄っていちおう二回ノックをたたき、あけるとこんにちはとあいさつしながらはいっていって、ななめに振り返って扉を閉めるとすぐそこに置かれてある革張りの椅子に、まるでなるべく音を立てないようにでもしているかのようにゆっくりと腰をかける。すると正面の無骨なデスクにて向かい合うかたちになった(……)先生が、どうですか、調子は、とか聞いてくるのがお決まりのながれなので、かなりよくなってきましたねと今回はこたえた。なんだかんだ言ってもこの部屋の細部をまじまじとながめまわしたことはなく、記憶しているのは左右に棚があって精神医学関連の書物や文書類などがいろいろ雑多にいれられていることくらいだが、そのなかにはたしかDSMといってれいの、「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」もみかけたはずだ。とうぜんなければならない本だろう。そのほかに書名なんかが目についたおぼえはないのだけれど、そもそも本というよりは、だいたい資料的な文書とか冊子とかのたぐいがおおかったのではないか。デスク上にはこちらから見て左側、ちいさな卓上カレンダーがななめの角度で置かれており、はなすあいだあいての顔をずっとみてるのも気後れがするから、こちらはだいたいそれに視線を置いて日付を参考にしつつ、さいきんの主だった症状などをおもいだして現状をちょっと語ることになる。フロイトとかラカンとかについてはなしてみたいきもちもないではないが、(……)先生はそういう精神分析理論にのっとった診察をする医者ではないとおもうから、たぶんそちらの方面をことさら勉強したこともないのではないか。こちらもそれについて雑談ができるほどの知識やスキルがない。そういうわけできのうきょうと二錠のみで電車に乗ることができているとか向上を報告し、だんだん行ける気がしてきましたとかへらへら笑いながら言って、おなじペースで薬を出すということではなしはすぐに終わる。礼を言って立つと、扉のまえで医師のほうを向いて失礼しますと会釈してから退出するのがならいである。
  • 会計とか薬局とか、帰路の電車内とかはたいした記憶もないし省く。あとは図書館。(……)に着いたのがたぶん六時半とかだった気がするのだが、ちょうど帰宅のラッシュの時刻だから、満員じゃないかとおもいつつ(……)のホームに行ってみると満員までは行かないけれどひとびとはかなり密集していて、具合がだいぶよくなってきたとはいえそのなかに乗る勇気はまだないので、それだったらまだ書き抜きを完了できていないパウル・ツェランやユーディット・シャランスキーを借りてこようともおもっていたところだし、図書館に行ってついでにあるいて帰るかと決定した。図書館までの道もはぶくが、館のあるビルにはいるとゲートをくぐるまえにリサイクル資料を見分していくつかかっぱらってきたというのはうえに記したとおりである。なかにはいると新着を見て、文学のほうに行ってくだんの二冊を確保して、これだけでもってきた『イリアス』にくわえてリサイクル本が四冊、さらに二冊で七冊も背負うことになるわけで、リュックサックのなかもせまいしけっこう重くなるのだが、一冊だけほかにもなんか借りたいなとおもってうろついた。政治学とか社会学のあたりから人種問題関連の書物をみたり(たしか『人種差別の歴史』みたいなやつが三巻本であったような気がするのだが)、文化人類学をみにいって奥野克巳とかティム・インゴルドも読みたいなあとおもったり、西洋哲学の区画をいつもどおり確認したり。そこからすぐ横の精神分析のあたりも見たかったのだけれどちょうどひとが来ていたので越えて神話とか宗教らへんに行くと、奥野克巳と清水高志の『今日のアニミズム』がここにあってこれでもいいなとおもった。しかし決めきらずこんどは哲学のなかの東洋のところを見に行って(西洋とは角をはさんで接するかたちになっている)、中島隆博があるのをまえから知っているのだが、(……)さんがさいきん読んでいた『中国哲学史』でもよかったところ、ほかに『「荘子」――鶏となって時を告げよ』と筑摩選書の『悪の哲学 中国哲学の想像力』というのもあった。荘子のやつはまえまえから(……)さんがほしいけれどもう絶版でやたら高くなってしまっていてと言っていたやつで、さいきんKindle版で復刊したらしいが(復刊ではなくて文庫化だった)、この本ここにあったのかというのを今回はじめて認識した。しかもおもったよりもごつい本ではなく、二〇〇ページくらいしかなさそうだったし、いま検索してみたら「書物誕生―あたらしい古典入門」というシリーズの一冊だったのだ。岩波書店中島隆博が書いているくらいだからこのシリーズはもしかしたらけっこう良いのかもしれない。ちかくに老子のやつもあったが、いましらべてみたら東洋にかぎらずルクレティウスとかプラトンとかもこのシリーズで出ている。ともあれこれらのどれかにしようかなとおもい、のぞいてみたかんじなんとなく『悪の哲学』にひかれたのでそれに決して、貸出機で手続きへ。リュックサックにがんばって詰めて退出。
  • 帰路の記憶もたいしてないが、行きもあるいて図書館内もうろついて、しかも本で重い鞄を負いながら帰りもあるくとなるとさすがにだいぶからだは疲労し、とりわけ左肩から肩甲骨のあたりがやはりピリピリしてきて、なんというか癒着している膜が剝がれそうで剝がれないみたいなそんなざらつきをおぼえながらあるきつづけた。


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  • 日記読み: 2022/1/6, Thu.
  • 「読みかえし2」: 783 - 800
  • 「ことば」: 40, 31, 1 - 12