2023/1/8, Sun.

 ときおり足をすべらせながら、わたしはぎこちなく氷の上を歩きつづけた。折れなかった大木が何本も霧のなかで不透明な噴水のように枝を広げていた。曇り水晶のような噴流ひとつひとつの中心に、黒い枝が糸のように通っている。木々は美しいと同時に恐ろしかった。わたしは木々を怖がるまいとした。神さまお願いです、どうか自然界のものにまで恐怖心をいだかせないでください。恐ろしいのは人間の世界だけで充分です……。
 電信線は大部分が切れていて、どれも一様に太さ四インチほどの硬い氷でくるまれていた。電信線をくるむ氷はぎざぎざで、塀を越えられないようにてっぺんに植えこまれた忍び返しを思わせる。ただし、こちらのぎざぎざは下向きだった。こういう氷の鎧が、切れていない電信線からときおり長さ一ヤードかそこらにわたって剝がれて落ちてくる。そうやって剝がれた氷が鉄の硬さの道路の氷にぶつかって砕ける音は、静寂のなかで爆弾が爆発したかのように唐突で恐ろしかった。
 やがて松林に来た。それぞれの木がさまざまな格好に折れ曲がった姿は、孤独な瞑想に耽っているようでもあった。松葉は一本残らず硬く凍りついていた。逆立つ松葉で身を鎧って首 [こうべ] を垂れる木々は、ドラゴンの、恐竜の、弓なりになった首にも見えた。たいそう幻想的な姿だった。幻想的で寂しかった。
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、93; 「氷の嵐」)



  • 一年前より。やはり天気風景をよく書いている。

(……)六時四〇分くらいに上階へ。例によってハムエッグを焼いた。それを丼の米にのせ、もう一品、なにかあたたかいものを飲みたかったので即席の味噌汁。食べているあたりで母親が起きてくる。かのじょが南窓のカーテンをあけてもさいしょはまだひかりの色がみられず、白いレースをとおしたさきの空もほとんど曇っているかのように希薄にみえたが、テレビのニュースが左上に七時八分をしめすころには窓の中央にあたるガラスの黒枠にオレンジ色が塗られ、その後室内にもだんだんとあかるみがはいりこんできた。

     *

車の後部座席にはいり、はこんでもらう。八時すぎなのでまだ陽は低く、街道沿いに家の影もおおくさしこまれているが道がちょっと曲がるところで窓から見える歩道は白銀のかがやきを一面いっぱいにのせており、みぎてからは東南の青空にふくらみかかって建物のあいまにあらわれる太陽が車内の目にまでまぶしさをとどける。母親が座す運転席のすぐうしろに乗ったので正面のようすはふさがれてみえずまえを行く車のすがたもうかがえないが、道路の左側にひろがる日なたのなかをその影が伸びてすすみながれていくのは目にはいる。(……)

     *

そうして一時すぎに退勤。天気が良いのであるいて帰ることに。こんな日にあるかないのはまちがっている。土曜日の昼方なので駅前も比較的ひとがおおく活気づいている印象。裏道へ。ゆるゆるあるく。建物にしろ住宅にしろ林の樹々にしろ電線にしろ見るものすべてあかるいひかりのなかで色とかたちをくっきりとととのえており、古井由吉のことばを借りれば明視感というような澄んだ明晰さが空間にあるが、それはつよくせまってくるものではなく、明晰でありながらおだやかにおちついている。とちゅうの木が微風にこずえをさわやかにさざめかせていた。前方から女子高生が三人横にならんでつれだってきていかにもな口調ではなしており、そのむこうには男子のグループもふたつほどつづいているのが見え、高校も下校の時間かと見てさわがしさを避けるために行き当たった坂でおもてに折れた。街道沿いの北側を行けば陽射しは歩道をつつんでつねにまぶしく身をあたため、右手をみやれば家並みのむこうに丘は緑を弱くして、雲なく満ちた青空とのさかいにカラスが一匹飛んでいるのもはっきりみえる。二車線の道路をとおりすぎていく車たち、人間の意思もかんじられずといって自然の過程ともみえず、たんなる自動的なはたらきのようにしてながれていく乗り物をみながら、ふだんなんの変哲もない日常的なものとしてなにもかんじないけれど、これもいかにも近代的な情景なんだよなとおもった。そもそもこのようにアスファルトで舗装された道路というものじたいも、おそらく自動車の出現によって要請されて生まれたものなのだろうし、と。太陽は西寄りの南空に浮かんで遮られることがなく、顔にふりかかってくるまばゆさもあるくあいだに絶えることがなく、視界はつねに銀がかって白く透明なすじに浸食されており、目をほそめながら行くなかでたまに片手で庇をつくってとおくをながめた。裏路地にはいってからも同様にすると、それまでまぶしさにまぎれて見えなかったこまかな羽虫がひかりを浴びつつ宙をただよっているのがわかる。坂道を下りていってその下端、ひだりてに樹々がなくなった場所で、近所の家並みのひろがりから川やそのむこう、さらにかなたの山影まで一望できるので、ふたたび片手で陽をさえぎってその景観をみはらした。やはりすべてがあかるさのうちで憩いながらつやを発散しており、ひかりはまっさらな水色をたたえられた空のど真ん中からなだれるように宙をすべって空中に膜をのがれるひとひらもなく、とおくの山は全面それを貼られて一様にかすみ、薄青さを封じこめたようなすがたになっていた。

  • (……)さんのブログから引用されていた、中国におけるマッチョ志向のはなし。

ゲイの話もたくさんした。いま(……)くんと同じ専攻に所属している男子学生は彼を含めて四人きりであるのだが、全員がゲイであるという。先生のことを何も知らずに見たらたぶんほとんどのひとがゲイだと思いますよと(……)くんはいった。実際、彼は店に到着してほどなくこちらとのツーショット写真を撮り(いつものように変顔をしたら、まじめな顔をしてくださいと真剣に言われた)、それをモーメンツに投稿したわけだが、すぐに仲間たちから「新しい彼氏か?」というコメントがついたらしい。服装がやっぱり原因かな? とたずねると、それもありますが、全体的な雰囲気ですね、芸術家っぽい感じがすごくします、そして芸術家はゲイが多いです、という狂った三段論法みたいな説明があった。日本にいたころよりも中国に来てからのほうがはるかにゲイであると勘違いされる機会が多い、ということはやはりそう思われる要因のいくらかはファッションにあると思うのだが、その点指摘すると、中国ではまず男性のほとんどがファッションに無頓着ですという返事があった。そう言われてみればたしかにその通りで、こちらが知るかぎり、ファッションにこだわりがある男子学生はこれまで(……)くんと(……)くんと(……)くんと(……)くんくらいで、前の三人はみんなゲイである((……)くんに関しては彼女を取っ替え引っ替えしていたわけだが、それでもこちらはなんとなくバイなんではないかという気がしている)。ファッションを楽しむという考え方自体が女性っぽいとする価値観があるらしく、それでいえばアメリカもたしかそんな感じだったはずだ、夏場であればシンプルにTシャツとジーンズ、あとは筋肉がひたすら重要みたいなマッチョな価値観(アメリカと中国に共通するマッチョな価値観については、はじめて中国にやってきたときからずっと気になっているテーマだ)。実際、これは(……)も言っていたことであるが、日本のメンズファッションはアメリカではすべてゲイファッション扱いらしい(一度トートバッグを持ってロスを歩いていたとき、すれちがいざまに身知らぬ人間からnice bagと皮肉を言われたことがあるという話があったはず、アメリカ人男性はカバンといえばリュックサック以外持たないのだ)。そういう中国であるので、ZARAに行く男はみんなゲイであるという考え方があるらしい(ZARAの単独狙い撃ちには正直クソ笑った)。(……)くんはファッションを楽しむことのできない中国のヘテロ男性たちをディスりまくった。これに関しては同意。あるいはこの感覚の延長に、自撮りする男子とか、メンズ化粧品を使う男子とかが位置付けられるのだとすれば、これまでは縁がないと思っていたそういうあれこれとじぶんもさほど遠くはないのかもしれない(そしてそういう視線に立脚するとき、撮影時にかならずといっていいほど変顔をするこちらのふるまいは、一種の防衛としても理解されうるかもしれない)。

    *

店を出た。雨降りの中、十分ほど歩いたのだが、繁華街にある服屋はすべてレディースの店舗。メンズをとりあつかっている服屋はマジで一軒もない。これもやはり中国のヘテロ男性がファッションに興味をもたない——あるいは、もてない——事実のあらわれだ。店で実際に衣類を試着して購入するというふるまいそれ自体を女性的とみなす風潮があるみたいなことを(……)くんはいった。

  • 「読みかえし2」より。

「子どもも親も先生も変わる! 教育において本当に大事なことは何か: 『子どもが教育を選ぶ時代へ』出版記念 野本響子×工藤勇一対談」(2022/2/28)(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/【対談】野本響子x工藤勇一/16632(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/%e3%80%90%e5%af%be%e8%ab%87%e3%80%91%e9%87%8e%e6%9c%ac%e9%9f%bf%e5%ad%90x%e5%b7%a5%e8%97%a4%e5%8b%87%e4%b8%80/16632))

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野本 先生が麹町中学校で、宿題をなくす、定期テストをやめる、固定担任制ではなく全員担任制にするなどの改革を行おうとしたとき、抵抗はなかったですか。

工藤 大きな抵抗はなかったですね。僕は基本的に敵を作らないという姿勢で仕事をしています。例えばA案をもってくる先生、B案をもってくる先生がいるとします。A案とB案の内容がまったく反対の内容だと、先生の中に考え方の対立が起きているわけですが、日本人はまずこの対立を嫌がります。考え方の対立が感情の対立に直結しやすいからです。感情の対立になると、コントロールするのはむずかしい。日本は心の教育を重要視してますが、その心の教育とは「感情が穏やかであること」と錯覚をしています。

野本 意見と感情が分けられないということですね。

工藤 それは小学校の教室からすでに起こっています。よく「みんな仲良く」と言いますが、仲良くとはどういうことか、言語化された共通認識がないので、「仲良く」の考え方が違っている。仲良くというのは、ぶつかったときにどう合意するかなんです。しかし、日本ではそのように指導するのではなく、感情的な対立を避けようとする。先生は中身よりも、言い方や感情のトラブルを増長させるようなことはやめなさい、という方向に誘導します。
 それに、日本の学校では何かを決めるときに多くの場合、多数決を使います。例えば、文化祭でクラスの出し物のアイディアを出し合った場合、ダンスに人気が集まった。劇をやろうという意見もあった。ダンスが多く、劇は少数だった状況で、多数決しましょうとなりますね。しかし、多数決というのはA案でもB案でもどちらでもいいとき以外には取るべき手段ではありません。
 日本は数の論理で、8割だったらみんなが決めたことだという理屈をつける。これは教室の中でマイノリティを切り捨てることを教えているのと同じなんです。A案と決めることによって利益を損なう子どもがいる。それはどういう子どもたちだろう。B案だったら誰がどういう利益を損ねるだろうと考える。どちらも利益を損ねる可能性がある場合に、子どもたちから「好きな子だけ出たらいい」というアイディアが出てくる。これも考えが進んだことにはなるのですが、その案では全員が参加できない。さらに話し合いを続け、全員OKというC案を出すところまで対話をさせることが重要なのです。
 しかし、日本は同調圧力が強いので、数の論理で負けていく子どもは、どんどん自己否定されることになる。そのうち自分はどうせ少数派だと、意見を言わなくなるのです。

     *

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工藤 日本の教育基本法を見てみると、第1条に「教育は人格の完成を目指す」云々と書かれており、私はここに問題があると思っています。
 例えば、デンマーク教育基本法の第1条は「学校は保護者と協力をして次のような知識やスキルを提供する必要がある」。「次のような」の部分には、「子ども自身がもっと学びたいと思うように」とか「働きたいという願望の枠組みを作成する必要がある」とある。子どもが主体的に学びたい、働きたいと思うようにし、民主主義社会への参画を学ばせなければならないともあります。
 つまり、一人で歩いていく力をつけさせ、社会が幸せになるために学校があるという考えだから、学校では民主主義とはどういうものかを教えていく。つまり、多様なものを受け入れながら、その中で起きた対立を克服し、誰一人置き去りにしない方法を模索し、持続可能な社会を作ることを教えていくのです。
 一方、日本の教育は、ある一部の子どもに良いものを全員に押し付けるので、当然そこからあぶれる子どもが出てきます。

野本 まさにそう。一部の子には合う教育なんですよね。

工藤 麹町中学校は教育熱心な保護者の下で挫折を経験した子どもたちが入学してきます。親に批判され、先生に批判され、やたら勉強時間が長く、そこから落ちこぼれていった子どもたちです。
 僕は麹町中学校で6年間校長をしていたのですが、着任した1年目、入学してきた1年生は百何十人かですが、第一志望で入ってきたのはたったの20人。残りの100人以上は受験に失敗したり、不登校だったり、勉強嫌いな子どもたちでした。毎年転校生が30人から40人いて、海外から戻ってくる子、他の学校で適応できなくなった子、私立の中退組も入ってきます。彼らの中には親も嫌いだし、先生に対しても反抗的な子もいます。1年生の4月、5月なんて見方によってはちょっとした荒れた学校です。
 麹町中ではそんな生徒の元気と主体性を取り戻すためのリハビリを行なっていくのですが、その作業がほぼ終わるのに、約1年かかります。まずはそのための環境を整えていくことです。具体的には「勉強しなさい」と言う仕組みをゼロにするところから始めます。宿題をなくす、テストをなくすなど。そして次に、主体性を失って依存心だらけで批判的に育っているから、大人を信頼しないという特性も何とかしなければならない。
 そこで考えたのが3つのセリフです。必ず子どもたちに対して「どうしたの、困ったことある?」それが1つ。2つ目が「そうか。それで君はどうしたいの?」と対話する。たとえば授業中に教室から飛び出してきた生徒に、「なんか困ったことがあったの」と声をかけると、「あの先生大嫌いだ。授業なんて受けていられない」と言うので、「そうか、で、キミはどうしたいの?」と聞く。小学校時代に「どうしたいの?」なんて聞かれたことないし、どうせ先生は叱るものと思っているから、「どうしたいの?」と聞かれても答えが出てこない。
 そこで3つ目に「なんか僕に手伝うことある?」と聞く。それでも返事がなかったら、「また教室に戻って1時間を過ごすか、別室へ行くことも選べるけど、どうする?」と言うと、「じゃあ別室に行かせてください」と。小さな自己決定ですが、これが重要です。これを何回も繰り返していくうちに、子どもは主体性を取り戻していくのです。
 この3つのセリフで、「この学校は失敗を許してくれる環境」だということを知っていく。教員は敵じゃないと分かって、学校は居場所だと安心する。失敗しても「どうする?」「どうしたい?」と繰り返されるので、自己決定をすることが自分に求められていると分かってくる。これを繰り返していると1年でほぼ全員が変わっていきます。

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野本 7歳でも15歳でも人間ですから、それを無視したらいけないし、自己決定できると人格的にも成熟してきて、他人の決定も認められるようになってきます。

工藤 日本は自己肯定感という言葉が大好きで、褒めれば自己肯定感が上がると思っているんですが、子どもは褒められたくないことを褒められても自己肯定感は上がらない。むしろ、バカにしているのかという気持ちになります。
 かけっこで1位になったから褒めると、小さい頃は喜びます。しかし、大きくなって負けを知ったときに、勝った結果ばかりを褒められてきた子どもは挫折しやすいですね。うまくいかなくなると自分には能力がないと思ってしまう。でも、1位になった結果ではなく、「楽しんでいたね」「工夫してやっていたね」と、プロセスを褒められて育った子は、うまくいかなくても、今度はこんな工夫はどうかな、とチャレンジしていくんですね。
 日本は親も先生も、褒めまくって言葉のシャワーを浴びせれば自己肯定感が高まると勘違いしています。一番大事なのは、自己決定してその結果を自分で褒めるようになること。こういう子の自己肯定感が高い。自己決定なしに自己肯定感なんか高まるわけがないのです。

野本 自己決定と、それによって引き起こされた結果を引き受けることが大事ですよね。そういう大人がたくさんいると、世の中ってまんざらじゃないな、と子どもも思えるようになる。先生が人生を楽しそうに生きていると、子どもは「自分もここに居ていいんだ」という気持ちになると思うんですが、日本は先生が忙しすぎるんですよね。

工藤 麹町中学校の保護者説明会で、「子どもたちが学校に来て、世の中って大変そうだ、世の中に出たくない、大人がカッコ悪い、大人になりたくないと思うようだったら、その学校の教育は間違っています。学校に来たら、世の中って大変そうだけど面白そうなことがいっぱい転がっていそうだなとか、素敵な大人がたくさんいるなとか、早く大人になりたいなと思う子どもを育てることが学校教育の役割でしょう。麹町はその方向に向かって改革をしているんです」と言ったんですが、そういう原点を日本の学校は本当に失ったと思います。

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工藤 日本では、教育の問題点としてメディアで取り上げられるのはイジメとか不登校。そこに焦点がいくので、問題が心の教育にいってしまいます。イジメの問題は、トラブルが起きると大人が介入して解決に当たり、あなたが謝りなさいと裁定する。すると子どもたちは、大人が介入して解決してくれるものだと体験で覚えていく。いつの間にか子どもの問題が大人の問題にすり替わり、親も学校の介入によって、裁判みたいなことを求めるようになる。

野本 どっちが悪いか決めてくれみたいに。

工藤 先日、うちの学校で3対1のケンカがあったのですが、その4人が放課後、校長室に入ってきて、それぞれ言い分をまくしたてたんです。そこで僕が間に入って、ひとつだけ質問させてくれと言いました。「いま中1だけど、これから5年以上、この学校でケンカ状態を続けたいの?」と。そうしたら4人ともいやだと言う。その点において全員が合意したんです。
 この状態を続けたくないことは一致している。それではどうすればいいかは自分たちで考えなさい。解決できなかったら明日またおいでと言ったら、次の日は解決していましたよ。

野本 面白い。先に目的を決めるんですね。

工藤 このなかで1人でも、この経験を記憶して育っていけば、次に問題が起きたときに、先生が入らなくても調整のできる子が育っていく。社会を持続させていこうという考え方ができるようになる。国と国のいさかいも同じです。お互いの国が持続可能になりたいかの合意を、国のトップも国民も一度はする必要があって、それができる国になるかならないかが重要ですよね。

野本 妥協するということですね。

工藤 デンマークのジャーナリストが、デンマークでは「最高の妥協点を探せ」という言葉があると言っていました。

野本 マレーシアでは、クラスにいろいろな民族がいて、なんとかそこの合意を作っていかなければいけないんです。そうしないとみんなが損するから。最高の妥協点、それはすごくいいと思います。

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 まさにその年、ゴシックの建築家サンダーソン・ミラーらとともにこの庭 [バッキンガムのストウ庭園] を歩いていたのが ”有能なる” 〔ケイパビリティ〕と称される庭師ランスロ・ブラウンだった。ブラウンは、簡素な水や草木の空間によって造園の革命を完成に導いてゆく。ブラウンはストウでもっとも大きくひろがるグレシアン・ヴァレーを造った(一見まったく自然のようだが、この谷筋自体は多くの人足によって掘られたもの。彼らが風景式の庭づくりをどうみていたかは伺い知れない)。ブラウンによる庭では彫刻や建築が大幅に減らされ、歴史や政治の記念物とは別物になり、背景であった自然は主題となった。庭の散策者は、美徳やらヴェルギリウスやらについて考えるよう仕向けられるのではなく、それぞれに物思いしながら曲がりくねる小径をたどるようになった(とはいえ、残された大量のテキストが示すように、その内省の対象がおおかた自然について――あるいは形而上の自然なるものについて――であったのは当然かもしれない)。こ(end150)うして、この庭は建築で構成されたフォーマルで権威的な空間から、私的で孤独な原野へと変貌した。
 ブラウンが具現化してみせた風景式庭園を誰もが受けいれたわけではない。王立アカデミー会長だったジョシュア・レイノルズ卿は次のように書いている。

作庭は、それが芸術である限り、あるいはそう呼ばれる資格を有する限り、自然と距離をとることである。多くの者が考えるように、あらゆる芸術のよそおいを奪い去り、人間の足跡を消し去ってゆくことにその真の価値があるとすれば、それはもはや庭とは呼ばれないだろう。

 レイノルズは気づいていた。次第に周囲の風景との区別を失ってゆくうちに、庭はその必要性をも失っていたのだ。ウォルポールもまた、造園家ウィリアム・ケントは「垣根を飛び越え、すべての自然を庭として発見した」と評していた。たださまよい歩いて目をよろこばせる存在が庭であるとすれば、それは造りだされるものでなく見出されるものでよかった。とすれば、庭の散策という伝統は、観光旅行を含むものへとひろげてゆくことができるだろう。景観の渉猟家が目を向けるのは人為ではなく自然の産物でもあり得た。そして、自然の産物が芸術のように見られることによって、この革命が完結する。シャフツベリ [シャフツベリ伯アンソニー・アシュリー・クーパー] の言葉によれば、豪奢な庭園は、ついにありのままの自然に道を譲る。人を寄せつけぬ世界が美学的な観想のこれ以上ない(end151)対象となったのだ。
 要塞化した城館の一隅にはじまった貴族の庭園の障壁はゆっくりと溶けて消えていった。庭が世界へ溶け出してゆくことは、イギリスがどれだけ安全な場所になったかということの徴だ(イギリス式庭園が流行する多くの西洋諸国においてもある程度同じ傾向がある)。およそ一七七〇年を境に、道路の改良や路上犯罪の減少、安価な運賃といった「交通革命」を経験したイギリスでは、旅は本質的な変化を被った。十八世紀半ばまでの旅行記は、宗教的・文化的名所以外に、移動の途上の土地に触れることは稀だった。しかし、その頃を境にして旅の流儀もまったく新しいものになった。それまで、巡礼や実務的な旅行において、出発地と目的地のあいだの空間は試練、あるいは不都合なものだった。この空間が景観として認識されるようになると、旅はそれ自体に目的を含み込んだ庭園散策の延長となった。つまり、道中の経験自体が、終着地への到達に代わる旅の目的となり得るようになったのだ。そして風景のすべてが目的地となるとき、庭や絵画のように視線が向けられる先の世界は、出発とほとんど同時に到達されるものとなった。久しく歩行が担ってきた娯楽に旅が加わると、風景を楽しむ旅で徒歩移動が大きな役割を担うようになるまでに時間はかからなかった。ついにその遅さが美点となったのだ。つつましい詩人とその妹が、ただ見ることと歩くことの愉しみのために雪の田舎道を旅するところまで、わたしたちはもうすぐの地点にいる。
 後に、ワーズワースは自分で湖水地方のガイド本の執筆を試みている。そこには、ここまでたどってきた歴史が次のように要約されている。一八一〇年に書かれたものだ。(end152)

ここ六十年の間、イギリス中で「装飾的庭づくり」と称される流行があった。この技巧への賞賛と反対のなかから、選り抜かれた自然景観への趣味が生まれた。そして旅行者たちは、街や工場や鉱山だけに目を向けるのではなく、この島にひっそりと隠された、自然が類稀な崇高さや美をかたちづくる……場所を探してさまよい歩くようになったのだ。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、150~153; 第六章「庭園を歩み出て」)

Ukraine has updated the number of Russian troops it believes it has killed to 110,740. The general staff of the armed forces said in an update on Saturday that a further 490 troops were killed on Friday.

  • まだ明けていないだろう暗さのころにいちど覚めて(おそらく六時くらいか)、腕をさすったり深呼吸をしたりしたのだけれど、そこではまだ身を起こすにいたらずいつか寝ついており、ふたたび覚めてから時刻をみると八時半くらいだった。きょうもまたそれから二時間ほどだらだら寝床にとどまりつつ、ウェブをみたり日記を読んだり「読みかえし」ノートを読んだりする。空は快晴。一〇時半ごろに立ち上がると座布団を窓外に出して寝床をたたみ、水を飲んだり用を足したり顔をあらったり。喉が乾燥しておりちょっとひっかかりがあったので、ひさしぶりにうがいもしておいた。ながしの排水溝の中蓋的な物受けをはずして金属製の蓋(穴の入り口にぴったりはまるもので、それをつかえば水を溜めることもできる)のみつけていたのだけれど、うがいをするためにそれをはずしてガラガラやっていると、まさしく腐った卵のような下水道の臭気が下方から湧いてのぼってくる。手をプラプラやったり背伸びほかからだをちょっと伸ばしたりして、一〇時五七分から瞑想した。わりとよろしい。身体および現在に比較的フォーカスできた感じ。そういえばそのまえにまた性懲りもなく洗濯もはじめていたのだった。洗うものはすくないのに。それでひだり背後で稼働している洗濯機の響きも耳にはいってくるしおりおり焦点があってひろわれるが、それをとくべつあたまのなかで形容するうごきが生まれるでもない。とおもったがさいしょのうち、ガーーー、ガーーー、という動作音のあいまになかの水が衣服類とともに波をつくって盛り上がりの音を立てるのは、川や池で鯉なんかが水面にすがたをあらわしてなかばはみ出してはまたもぐっていく、そんなイメージが湧いてその場である程度は言語化したのだった。一一時一七分までなのでちょうど二〇分。
  • 食事はいつものとおりキャベツと白菜、豆腐と、それにきのう買ってきたハムを乗せる。ごまドレッシング。しかしハムよりベーコンのほうがうまいかもしれない。ただしベーコンはいつも四パックで一セットになっているやつを二セット買い、一パックずつつかうので、そうすると毎回プラスチックゴミを洗わなければならなくてすこしめんどうではある。きのう買ってきたハムはいぜん買っていたのとおなじもので、一パックでけっこう枚数がたくさんつらなってはいっている。その他即席の味噌汁、そしてやはりきのう買ってきたソーセージのはさまったパン。食べながら、また食後にはうえのGuardianの記事を読んだ。アリゾナ州共和党議員で二〇二〇年の選挙後にトランプ(とルドルフ・ジュリアーニ)から電話があって選挙結果を改竄するようもとめられたが(州の下院議長だったので権限があった)ことわったために共和党内で孤立し追放されることになったRusty Bowersというひとへのインタビュー。きのうも関連する記事を読んだが。ほんにんも言っているとおり典型的なというか健全な、古き良き伝統的なConservativeというかんじで、たとえば”Family, faith, community – these are values at a very core level.”とかいうことを言うわけだが、このようないわばふつうの保守派がもはや生き残れないのがいまのアメリカ共和党なのだ。Is the Republican party in Arizona lost? という記者の質問には、〈“Yeah,” he said. “They’ve invented a new way. It’s a party that doesn’t have any thought. It’s all emotional, it’s all revenge. It’s all anger. That’s all it is.”〉とこたえており、いまの時代状況だから貴重な人物のようにおもえるしじっさいそうなのだろうけれど(一月六日の事件にかんする調査委員会でも証言をしたというし)、むしろこれがふつうだったはずなのだ。〈“The thought that if you don’t do what we like, then we will just get rid of you and march on and do it ourselves – that to me is fascism.”〉というわけで、民主党共和党もない、ごくふつうの良識をもったにんげんだったらそうかんがえるだろうし、選挙結果の改竄にも同意するわけがない。ところがさきの中間選挙ではだいたいの候補者が当選しなかったとはいえ、共和党はトランプとその周辺がとなえる陰謀論を奉ずるelection denierを大量に候補として動員したわけで、そういう勢力にたよらなければGrand Old Partyはもはや立ち行かず、政治をすることすらできないというのがアメリカの現状だということだろう。末法の世というほかはない。
  • 食後に歯を磨いたり、白湯を飲みながら英文記事を読んだりしたあとは、一時になるまえあたりからちょっとだけ掃除をした。扉の脇の角に立てかけてある箒をもってきて布団をたたみあげたしたの床を掃いたり、椅子をどかしてその周辺を掃いたり。それからテープをもちだして、椅子のしたに引いてある透明な保護シートをめくりあげ、そのしたやシートの裏面をペタペタやっていく。ほんとうは濡らした雑巾で拭くのがよいのだろうが、めんどうくさいのできょうはそこまでやる気にはならない。またいつか。おもて面も同様にやり、そこからさらに机のしたのコットンラグもペタペタやる。まいにちはやい段階でちょっとだけでも掃除をやるという習慣はなかなかよいものかもしれず、ある種の快楽があるものだ。そのあいだはじぶんがいかにもきちんとしたまっとうなにんげんであるかのような幻想にふけることができる。
  • 洗濯物はそれいぜんにすでに干しておいた。みじかい掃除に切りをつけるとごろごろして身をやしなうことにして、布団をおろし、窓外の座布団二枚を取って(正午を越えるあたりから柵のうちにもだんだんと陽射しがとどきはじめるが、空気はつめたいしさほどあたたまってはおらず、むしろどちらかといえば冷えている)寝床のうえに置き、あおむけになってホメロス/松平千秋訳『イリアス(上)』(岩波文庫、一九九二年)。きょうは98からはじめていま139。第四歌まで読み終えたところ。第三歌でヘレネをめぐる当事者であるパリス(アレクサンドロス)とメネラオスが一騎打ちして、メネラオスが勝つのだが、第四歌ではアテネがトロイエ側をそそのかして誓約を反故にさせ、両軍のはげしい戦闘が開始される。神々たちのそれぞれの側への肩入れがあからさまだ。おもうことはいろいろあるが、いまは措いてのちほど書けたら。ここまで綴るともう四時一〇分になっており、きょうは五日いこうの記事をどれだけ綴れるかという感じ。まあいそがなくともよろしい。だらだらしながらからだをやしなうのが先決だ。とりあえずまたパンでも食って煮込みうどんをつくろうかな。

The concept of “deep time” dates back to 18th-century geologist James Hutton, who proposed that Earth was a lot older than 6,000 years, as most people thought at the time. However, writer John McPhee officially coined the term in his 1981 book Basin and Range, saying:

"Numbers do not seem to work well with regard to deep time. Any number above a couple of thousand years—fifty thousand, fifty million—will with nearly equal effect awe the imagination."

McPhee went on to describe our place on the geological time scale with this metaphor:

“Consider the earth’s history as the old measure of the English yard, the distance from the king’s nose to the tip of his outstretched hand. One stroke of a nail file on his middle finger erases human history.”

Unlike the heart muscle, which has pacemaker cells that set its rhythm, the muscles that control breathing take their orders from the brain. Given the life-enabling importance of those brain signals, it took a surprisingly long time to track them down. One of the first to ponder their source was Galen, the Greek physician who noticed that gladiators whose necks were broken above a certain level were unable to breathe normally. Later experiments pointed to the brainstem, and in the 1930s, the British physiologist Edgar Adrian demonstrated that the dissected brainstem of a goldfish continues to produce rhythmic electrical activity, which he believed to be the pattern-generating signal underlying respiration.

But the exact location of the brainstem respiratory-pattern generator remained unknown until the late 1980s, when Feldman and colleagues narrowed it down to a network of about 3,000 neurons in the rodent brainstem (in humans it contains about 10,000 neurons). It’s now called the preBötzinger Complex (preBötC). Neurons there spontaneously exhibit rhythmic bursts of electrical activity that, relayed through intermediate neurons, direct the muscles that control breathing.

Over the years, some people have assumed Bötzinger must have been a famous anatomist, Feldman says, perhaps a German or Austrian. But in fact the name came to him in a flash during a dinner at a scientific conference where he suspected a colleague was inappropriately about to claim the discovery for himself. Feldman clinked his glass to propose a toast and suggested naming the brain region after the wine being served, which came from the area around Bötzingen, Germany. Perhaps lubricated by said wine, the others agreed, and the name stuck. “Scientists are just as weird as anyone else,” Feldman says. “We have fun doing things like this.”

  • いま一一時一二分。きょうはここまで籠もりきり。うえまで書いたあとは意外と腹が減っていなかったのでパンは食わず、またごろごろして、たぶん六時くらいから野菜を切ってスープをこしらえ、煮たあとに豆腐とうどんを追加。濃厚味噌のスープである。きのう買ったエノキダケもまえに買っておいたブナシメジもつかったし、野菜もたくさん入れて、煮込んでいるあいだに気づけば灰汁が鍋の縁に盛り上がってあふれそうになるくらいに満杯になった。食後、一〇時くらいから(もうすこしはやかったか?)五日の記事に取り組んだ。道中のことなどおぼえてやしねえしてきとうにちゃちゃっと済ませればいいやとおもっていたところが、なぜかおもいだせてしまい、勤務中のことも同様で意外とたくさん書くことが浮かんできたけれど、ゆびは軽くなめらかにうごいてわりとすらすら書くことができた。しあげたあとはきのうの夜道のこともさきほど書いて、それで切り。あとは六日のことだけだけれど、この日は医者に行ったり帰りに図書館に行ったりと書くことがおおくなりそうなので、あした以降でいいやと鷹揚におさめた。とりあえず五日分を投稿して、その後は湯を浴びてだらだらするか。疲れたし、あしたは労働だし。でも書き抜きもほんとうはしたいところ。


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  • 日記読み: 2022/1/8, Sat.
  • 「読みかえし2」: 823 - 842