2023/1/12, Thu.

 あのころのぼくはまだほんの子供だったけれど、船旅の気怠い雰囲気のなかで何日間も過ごしたすえに初めて〈高楼都市 [ハイシティ] 〉を目にしたときのことは――電気を孕んでピリピリする空気の、無数の松葉を軽く皮膚に突き立てたようなあの刺激的な感覚のことは、一生忘れないだろう。交通事故で両親をいっぺんに亡くして残ったのは借金だけだったから、ここへ来るにもほかの人たちのように空路を使うことはできなかったものの、これから先は、過去に見たことのあるどんなものともちがうこの新しい町でいよいよすばらしい新生活が始まることになっていた。それもこれも、昔から家族のあいだの語り草になっていた謎めいた大金持ちの伯父さんが、今後は面倒を見ようと申し出てくれたおかげだった。
 貨物船の甲板に出ると、太陽がまぶしかった。激しい風が瑠璃色の水面を叩き、筆で刷いたようなエメラルド色の波が立った。ぼくがあとにしてきた地域では、まだ人や荷物の行き来に海路が多く使われていた。船上での会話からするとこちらでは事情がちがうらしいとはいえ、海運業がないというのは不自然な感じがした。反対に空は飛行機だらけで、キラキラした黄金虫そっくりにあらゆる方向へ猛スピードで飛び交って、雲ひとつない一面の青に、真っ白な飛行機雲が無数の十字模様を描いていた。(end187)
 もっとも、ぼくの心をほんとうに捉えていたのは、行く手にそそり立つ夢のようなスカイタワー群だけだった。寄り集まって一個の巨大な矢尻を形作る超高層ビル群は、建築様式も壮麗なら設計も驚異的で、いつしか全世界の国々が真似したくても真似できない、得がたい完璧さの普遍的な青写真ともいえるものになっていた。それが現実に、真正面にあった。にもかかわらず、この途方もないビル群を自分の目で見ているとはなかなか信じられなかった。なにしろこれまでは写真を通してしか馴染みがなかったのだ。塔の形は澄んだ光のなかでどれも硬く鋭かった。巨大な建造物のひとつひとつが、きれいに晴れわたった空を背景に艶やかな金属の氷めいた鋭さで屹立している。おまけに、とてつもない数の透けるように白っぽい垂直な塔は恐ろしいほどに凄みがあって、容赦ない強烈な日射しのなかで、この世のものとも思えない神秘的な雰囲気を醸し出していた。
 存在感のある巨塔の群れは、景色とぼくの心を占領しつつも、どことなく身動きが取れないでいるというような印象を与えた。なんだか謎の監視者の一団が陸の突端に押し寄せて、ぼくの到着を見守りながら、一種独特の気 [﹅] というかメッセージみたいなものを発していて、それはぼく個人に関係があるのに意味がわからない、そんな感じだった。そっちをずっと見ているのはつらいけれど、そのくせ目をそらすこともできなかった。いつのまにか心のなかでは不安と紙一重の畏怖が頭をもたげていて、だったらそいつを抑えつけてやろうと、ぼくはビル群がなにを連想させるか考えることにした。そう(end188)すればビル群の異様さを、気の休まることばの境界線のなかに閉じこめられるんじゃないかと、そんな気がした。まず思いついたのは、バカでかいサボテンの棘だった。けれどもつぎの瞬間、その白っぽい色合いのせいで、別のものが頭に浮かんだ――天高く突き立てられたバカでかい剝き出しの腕と脚……ギリシャ神話の巨人 [ティーターン] の不滅の肉体……。あんな高いところを住まいにして、平然と(たぶん)暮らしていられるのは、いったいどんな種類の人間なのか……ぼくには想像もつかなかった。
 それまでぼくは巨大ビルのてっぺんばかり見ていたのだけれど、ちょっと視線を下げてみると、驚いたことに、足元のほうが濃い霧だか雲だかで(空気は水晶のように澄んでいるのに)覆われていた。しかもその霧だか雲だかは、ふつうの小さな家くらいの高さまで達したところですっぱり切れて、テーブルのように真っ平らな面が四方に広がっているのだ。どんな種類の霧も立つはずがないくらい日射しはとにかく強烈だったから、あらゆるものの輪郭が宝石の硬さでくっきり際立って見えて、そのおかしな形の雲もやっぱり鋭い線で描いたみたいで、巨大な構造物の足元に塡めこんだテーブルの天板というしかなかった。どうして強い海風があれを吹き払わないのかさっぱりわからなかったけれど、とにかくその霧だか雲だかは頑固なまでに停滞して、不動不変を保っていた。
 なんだかひどく奇妙な雲だった。ぼくの知っているどんな自然の法則に照らしても、あんなところにあんなものがあるはずはないのだ。じっと見ているうちに、やっと理由が判明した。この船の動き(end189)のせいか、海特有の光だか反射だかのせいで、しばらくのあいだ別角度からの光景が見えていたらしい。つまり、都市の足元を覆う分厚い霧の塊、濃密な霧堤と見えたものは、薄い雲が光源と同じ高さで水平に広がって、風に乱されることなくその場に留まっているだけのことだった。
 この不動の天井(微動だにしないところがなにか妙に人工物的な印象を与える)の下に、一瞬、都市を支えるいくつもの巨大な四角い台座がはっきりと見えた。ひとつひとつの台座には入り組んだ黒いトンネル網が穿たれて、台座同士は氷河のクレバスめいた深くて狭い道で隔てられている。雲の屋根の下にもうひとつの都市の姿を垣間見たような、まさにそんな気分だった。高層大気のなかできらきらと威容を誇る輝く都市とはなにからなにまでちがう、太陽の光が決して届くことのない窖 [あなぐら] と地下道でできた都市……。
 すぐにふたたび雲が厚くなり、カーテンのように霧がおりて、下層都市の姿はたちまち搔き消えた。今のは現実だったのか? なにもかも想像の産物だ、目の錯覚かなにかだと考えてすませることもできただろう。それでも、巨大台座の隙間の日の射さない亀裂を探りさぐり歩く住人がいるかもしれないと思うと、なぜだかふと不安な気持ちが搔き立てられた。とにかく今この瞬間は、あの場所のなにもかもが異様で不気味としか思えなかった。(……)
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、187~190; 「未来は輝く」; 書き出し)



  • 一年前。往路中の一景。たいした記述ではないがわるくはない。「小さ石」というのは「小さい石」の脱字ではなくて、まえに「小さ潟」みたいなことばだったか地名だったかをなにかの本でみかけたおぼえがあり、それだったら「小さ石」も行けんだろとおもってつかったのだろう。ほかにも「小さ木」をどこかでつかった記憶がある。

まだ駅からとおい裏通りを行くとちゅう、右に空き地がひらいてひだりはおおきな家の白塀になる一画で陽射しが道にひろがって、足もとにころがった小さ石のおのおのがゆびさきほどの影をもらし、こちらのすがたも塀のうえにうつしだされて顔の縁から眼鏡をつきだし、空は果てまでにごりも雲の露も変化もみられずあさましいほどに晴れ渡っていた。道端のどこかからヒヨドリが飛び立ってすこし先の電線上におちついて、見上げつつすぎればずいぶんまるまるとふくれたような、ほとんど四角いくらいにおおきな一羽だった。

  • 造語というほどではないがこういうことばのささやかな拡張でもうひとつおもいだすのは「さざなみする」で、漢語(熟語)ではない名詞+するといういいかたも活用の余地はいろいろあるだろう。「さざなみする」は二、三回つかっているような気がするが、いちばんさいしょに編み出したのは、(……)駅のホームから線路をはさんで向かいの小学校の校庭を画す巨大なネットの表面が風に波打っているのをみて記述したその日だったのではないか。風のつよい日で、砂をまきこむ微小竜巻みたいなものが校庭に立っていたような気もするが、これは偽記憶かもしれない。
  • 短歌では「過去が来るすべてあつまるいま顔をなくした夜は死者のしずけさ」「予知夢にはまどわされない荒野では信を欠いたら命取りだぜ」というふたつがまあきらいではなかった。
  • 「読みかえし2」より。920番のデータをみると、米国という社会のある一面のすさまじさがすこしだけ迫ってくるような感じがする。

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

907

●51~52(「エロディヤード」; Ⅰ 序曲)
 彼女は時々混乱して
 悲痛な予言を歌った!
 なめし皮の小姓が給仕する食事用寝台は
 亜麻布でなく、役にたたなく修道院的よ!
 夢をひそますあの懐かしい妖術の本も
 また廃れた山羊の毛織の墓所の天蓋も
 眠る髪の毛の香りももうない。あったことがあるか?
 冷たい少女は散歩を美妙な楽しみとし
 花が寒さに震える朝でも
 またザクロを折った意地悪の夕暮でも!
 三日月は、そうだ、時の鉄の指針面にただ一つあり
 振子としては反逆の天子が吊られている
 それはいつも人を傷つけ、暗黒の涙に滴る
 水時計でいつも新しい時間は泣くのだ。
 見捨てられてさまよう彼女の影の上には彼女の(end51)
 言い難い足どりにつきそう天使もいない!

     *

912

 (……)歩くことは祈りにも、性的な結びつきにも、土地と交わることにも、瞑想にもなりうる。そしてデモや蜂起においては言葉を発することとなり、都市をゆく市民の足取りは多くの歴史を記してきた。こうした歩行は政治的・文化的な信念の身体による表明であり、公における表現の形式としてもっとも普遍的なもののひとつだ。これを、共通の動きによって共通の到達点を目指す、行軍 [マーチング] と呼ぶこともあり得たかもしれない。しかし兵士たちの密接行進の足取りは、彼らが絶対的な権威のもとで交換可能な単位となっていることを示すものだ。わたしたちの行進参加者はそんな風に個々のアイデンティティを手放すことはない。むしろわたしたちが示すのは互いに違う存在であることをやめずに共通の地盤に立つ可能性であり、人びとが公の存在となることにほかならない。身体の運動が発話の一形式となるとき、言葉と実践の区別、表象と行為の差は曖昧なものとなる。つまり行進はそれ自体が閾となる可能性を孕み、表象と象徴の圏域へ、そしてときに歴史の圏域へ向かういまひとつの歩行の形式となることができるのだ。
 自分の街を象徴と実践の両方のテリトリーとして熟知している市民。徒歩で集合することができ、その街を歩くことに慣れ親しんでいる者。反乱を起こすことができるのは彼らだけだ。合衆国憲法の修正第一条に、民主主義の要諦として報道・言論・宗教の自由と並んで「市民が平穏に集会する」ことが記されていることを記憶する者は少ない。そのほかの権利は容易に認(end366)識できるとしても、都市計画や自動車依存などがもたらす集会の機会の喪失を把握することは難しく、市民権の問題として捉えられることはほとんどない。しかし公共空間が除かれてしまえば、究極的には公なるものも同じ途をたどる。個人は市民ではなくなり、同じ市民たちと共通の経験や行動をすることができなくなる。市民という地位は他人と何かを共有する感覚に基いているのであり、これは民主主義が他者への信頼の上に築かれることと同じ理路による。公共空間はわたしたちが他者と分かちあう空間であり、分け隔ての存在しない領域なのだ。(……)
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、366~367; 第十三章「市民たちの街角――さわぎ、行進、革命」)

     *

913

 内密に、『トレース』三十二号の嫌味野郎の [ウィリアム・J・] ノーブルに関してあなたにコメントしておきたい。何ゆえこの英語を教えるクロロホルム野郎が、聖像や熱狂的な信者たち、ギターでロンドをかき鳴らす者たちや百合の花の匂いを嗅ぐ者たちで溢れる会堂からやってきたこの保守的な輩が、この与太者が、文学の特別な批評家づらをしなければならないのか、あまりにもおぞましくてわたしは詳細に論じる気にもなれない。わたしにはもっと強い殺菌剤が必要だ。
 さまざまな文芸誌が溢れ、グノーシス主義者であれ、なよなよしたホモ野郎であれ、カナリアや金魚を飼っている婆さんであれ、ひたすら落ちて行こうと願う者たちが泥沼にはまり込んで抜け出せなくなり、戦場は怒りで沸き立っている。何ゆえこうした反動主義者どもは自分たちの立場に甘んじることができず、何ゆえ恐怖と嫉妬で魂を拳のように固くして、クラーケンを神のごとく出現させ、わたしたちに襲いかかり、感情を傷つけなければならないのか、(end35)まったくわたしの理解の範疇を超えてしまっている。彼らが自分たちの [﹅5] 雑誌に何を掲載しようが、間違ってもわたしは大げさに罵ったりするようなことはしない。わたしは施しを乞うてまではやりの詩の言葉を手に入れたりはしない。それでも彼らはわたしたちに口喧嘩をふっかけてきたのだ。何ゆえ? なぜなら彼らは自分たちが嗅ぐ人生の匂いに我慢ができず、理神論で分別が奪われてしまった陳腐なことこの上ない1890年代の言葉遣いと同じ泡や痰の中にわたしたちを投げ込みたいのだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、35~36; [アンソニー・リニック宛]1959年7月15日)

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Yvette Tan & Matt Murphy, "Shinzo Abe: Japan ex-leader assassinated while giving speech"(2022/7/8)(https://www.bbc.co.uk/news/world-asia-62089486)(https://www.bbc.co.uk/news/world-asia-62089486%EF%BC%89)

920

In 2014, there were just six incidents of gun deaths in Japan, as compared to 33,599 in the US. People have to undergo a strict exam and mental health tests in order to buy a gun - and even then, only shotguns and air rifles are allowed.

     *

922

 こうした相互にからみあう宗教的祝祭と広場での大規模な集会、および大人数による行進は、フランス革命が勃発から二百周年を迎えた年にふたたび出現した。この変革の年の幕を開けたのは、北京の天安門広場で学生の民主化運動を文字通り粉砕する政府軍の戦車だった。しかしヨーロッパの共産党政権はおしなべて暴力による制圧への欲求も自信も失っていた。ガンジーが非暴力主義をひろめる以前に比べれば暴力というもの自体もはるかに扱いが難しくなり、人権思想はますます堅固に確立され、世界の出来事はメディアによって可視化されるようになった。西洋においてはアメリカの公民権運動がその実効性を証明したように、平和主義と非暴力直接行動という戦術が市民的な抵抗運動の共通言語となった。ホブスボウムが指摘するように、街の一角における暴動は大通りにおける行進にほとんどとって代わられたのだ。ひろく東欧でも、反乱の担い手となった者たちは非暴力を彼らのイデオロギーの一部としていることをはっきりと示していた。ポーランドの革命では非暴力の変革がその期待通りに進展した。政治的な外圧と内部交渉をともないつつもゆっくりと進行し、一九八九年六月四日の自由選挙でその頂点を迎えたのだ。そしてミハイル・ゴルバチョフによるソヴィエト連邦解体という英断は、その恩恵をあらゆる革命にもたらした。その一方で歴史を街路でつくり上げたハンガリー東ドイツチェコスロヴァキアでは、さまざまな古都が蝟集する大衆を見事に遇してみせた。
 ティモシー・ガートン・アッシュのルポルタージュによれば、ハンガリーの革命の端緒となったのは一九五六年の動乱の失敗によって処刑されたナジ・イムレの、三十一年後の改葬式だった。その六月十六日には二十万人が集って行進したが、これはそれまでならばただちに実力で介入されていたような出来事だった。反体制派は自らの声と歴史を手に取り戻した昂揚から勢いを増し、十月二十三日には新生のハンガリー共和国〔第三共和国〕が成立するに至った。そして東ドイツがこれに続く。東ドイツでは弾圧が先行し、帰宅中の学生や労働者が東ベルリンで発生した衝突の付近にいたという理由で逮捕されていた。つまり日常的な歩行の自由も犯罪扱いになっていた(夜間の外出禁止や集会の禁止と並び、動乱時や抑圧的な体制下でよく用いられる)。一方でライプツィヒの聖ニコライ教会は以前から月曜の夕方に「平和への祈り」を行なっており、あわせて恒例となっていたカール・マルクス広場での集会の人数は徐々に増えていた。十月二日には一万五千人から二万人が広場に集まり、自発的なデモとしては一九五三年以来最大の規模となった。十月三十日には五十万人近くが行進した。「それ以降、主導権は人びとにあり、党は後手に回った」とアッシュは書いている。十一月四日に百万人が旗や横断幕やプラカードを掲げて東ドイツのアレクサンダー広場に集まり、十一月九日にベルリンの壁は崩壊した。当時現地にいた友人によれば、人びとが集っていたところに「壁が開放された」という誤報が流れ、群集の規模に圧倒された国境警備隊が手を出せずにいる間にそれが現実になったという。十分な数の群集がそこに集まってはたらきかけたことで達成された出来事だったのだ。これもまた、人びとが自らの両脚で刻んだ歴史だった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、374~375; 第十三章「市民たちの街角――さわぎ、行進、革命」)


924

 十九歳のキャロライン・ワイバーグがひとりの船員と「散歩に」出かけてゆく。場所はイギリスのチャタム、一八七〇年のことだ。散歩はすでに男女の交際における確立された文化となって久しかった。お金はかからず、恋人たちは公園や広場や大通、あるいは裏道でも半ばプライベートな空間で愛をささやくことができた(田舎によくある「恋人たちの小径 [ラヴァーズ・レーン] 」などには、もっといろいろできるような人目のない空間がある)。連れ立って行進することが集団の団結を強めるように、歩調をあわせるように歩くというこの繊細な行為もまた、ふたりの人間を感情的にも身体的にも同調させてゆくのかもしれない。そして夕べの街路を、この世界を連れ立ってともに歩いてゆくことをとおして、はじめて彼らはふたり [﹅3] であると感じるのかもしれない。一緒にそぞろ歩くという、何もしないことにきわめて近い所作によって彼らは互いの存在に浸りあう。会話を続けることも、会話を遮って注意を執拗に引くようなことも、なにも必要とはされてない。イギリスでは〈一緒に出歩く〉という言葉はかなり直接的に性的な含意をもつ一方で、持続的な関係を築いているという意味で用いられることも多かった。これは現代の米語でいう〈ステディになる〉に近い。ジェイムス・ジョイスの中編『死者たち』のなかで、(end390)妻には若いころ求婚者がいたことを発見してしまった夫が、そのいまは亡き少年を愛しているのかと問いかけると、取り乱した妻は「あの人と出歩いていたわ」と答えている。
 十九歳のキャロライン・ワイバーグが水兵と歩いているのを見ている者がいた。ある夜遅く、警察の監察官はそのことを理由に彼女をベッドから引き摺り出して連行した。当時施行されていた伝染病法によって、兵営のある街の警察は、娼婦の疑いのある者を誰でも逮捕する権限を有していた。女性はただ歩くだけでもその時間や場所によっては嫌疑を受けることになり、法はそうした疑いをかけられた者やそのような告発を受けた者を逮捕するよう促していた。逮捕された女性は医学検査を拒否すると何ヶ月間も収監される可能性があった。苦痛と屈辱をともなう医学検査には、同時に刑罰としての役割もあった。そして性病の感染が確認された場合は医療刑務所へ拘禁された。無実が証明されるまで有罪とみなされ、彼女たちは無傷で逃れることはできなかったのだ。ワイバーグは自身と母親の生活を建物の玄関口や地下室の清掃の仕事によって賄っていたが、収入が長期にわたって途絶えることを危惧した母親は、三ヶ月の拘留ではなく甘んじて検査を受けるよう説得した。彼女が拒むと、警察官は四日間にわたって彼女をベッドに縛りつけた。五日目に検査を受けることに同意するが、拘束服を着せられて処置室へ連れていかれ、両脚を開いた状態に縛られて検査台に押さえつけられた。助手が肘で胸を押さえようとすると、彼女は思わず抵抗した。もがいた彼女は足首が固定されたまま検査台から転落し、ひどい怪我を負った。検査器具が彼女の処女を奪い脚の間を血が伝うと、医務官は笑った。「どうやら本当だったみたいだな」と彼はいった。「おまえは悪い娘じゃなかった」。(end391)
 水兵の方は名前を確認されることもなく、逮捕も検査もされず、いかなる点でも法的に問われることはなかった。男性はたいてい女性よりも気楽に街を歩くことができた。一方、女性に対しては、外を出歩くというもっとも素朴な自由を試みることにさえ処罰と脅迫が加えられるのが常だった。なぜならば、こうした女性のセクシュアリティの統制を課題とする社会では、女性が出歩くこと、さらには彼女たちの存在自体が、いかなるときも避けがたく性的なものであると解されたからだ。本書がたどってきた歩行の歴史において、逍遥学派の哲学者にせよ、遊歩者にせよ、あるいは登山家にせよその主役はいつでも男性だった。なぜ女性は戸外の歩行者とならなかったのか。いよいよその問いに目を向けねばならない。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、390~392; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)


925

 移動の自由の足枷となったカテゴリー区分はほかにもあった。それでも、人種・階級・宗教・民族・性指向といった条件による制約は限定的で、女性であることと違って揺らぎの余地を残していた。それに比べ女性に課されてきた制約は、いずれのジェンダーについてもそれぞ(end394)れの自己規定に対して千年単位にわたって根本的な影響を与えている。この事実は生物学的にも心理学的にも説明が可能だが、おそらく決定的な要因は社会・政治的な状況だ。どこまで遡ることができるだろうか試してみよう。中アッシリア時代(前十七世紀―前十一世紀〔日本語でいう「中アッシリア時代」は前十四世紀から〕)、女性は二つのカテゴリーに区分された。夫のある者と未亡人は「通りに出る」際に頭部を人目に曝してならないと法に定められ、娼婦と奴隷階級の少女は逆に頭を隠してはならないとされた。法に背いてヴェールを着用した者は鞭で五十回打たれるか、もしくは融けた松脂を頭からかけられた。これに関して歴史家ゲルダ・ラーナーは次のように述べている。

家庭の女性、つまりひとりの男性に性的に仕えその庇護を受ける者は、ヴェールによって「尊重すべき [リスペクタブル] (=方正である)」存在であると示される。ひとりの男性の庇護下になく性的な統制を受けていない女性は「公衆の女 [パブリック・ウーマン] (=売春婦)」であり、したがってヴェールを着用させない。……この種の視覚的な差別化は歴史において繰り返されている。「いかがわしい女」をなにか目につく印をつけた特定の地域や建物に住まわせたり、当局への登録を義務付けて身分証を携帯させたり、といった取り決めが無数に存在する。

 無論のこと「方正な」女性も統制を免れていたというわけではないが、それは法よりもむしろ社会的な制約によるものだった。その意図がその後の世界でひろく実現されていったように(end395)も思えるこの法の登場には、多くの重要な点が指摘できる。女性のセクシュアリティを私的ではなく公的なものにしたということ。性的な接近可能性と可視性とを等号で結んだこと。女性を他人の手の届かぬ対象とするために、当人の道徳や意思ではなく物質的な障壁を必要としたこと。女性を性的な行状にもとづいて誰もが認識できる二つの範疇に分離したこと。その一方で、男性の性は私的な領域に留めることを許容し、いずれの範疇の女性に対しても等しく接近可能としたこと。方正な範疇への帰属には私的生活への埋没という犠牲をともない、空間的・性的な自由を有する範疇への帰属には社会的評価における代価が求められた。いずれにせよ、この法は女性が公的な存在として尊重されることを事実上不可能にし、それ以来、女性のセクシュアリティは公の関心事となった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、394~396; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)


927

 娼婦たちはほかのいかなる女性よりも厳格な規制のもとにおかれてきた。そのさまは、まるで彼女たちが身を躱 [かわ] してきた社会的な軛が、法に姿を変えて彼女たちを追い回しているようだ。(いうまでもなく、娼婦の客は法的にも社会的にも規制を受けることもなかった。以前の章で採り上げたベンヤミンブルトンを考えてみればよい。彼らが娼婦との関係を書くとき、文化人の社会的地位や夫に値する男性という立場を失う心配は不要だった。) ヨーロッパの多くの(end398)国では十九世紀のあいだを通じて、売春が許される状況を限定することによってその規制が試みられた。そしてこの施策は、しばしば女性が出歩くことのできる状況を限定することにつながっていった。十九世紀において女性は都会生活の暗所に向きあうにはあまりにかよわく純粋な存在とみられることが多く、公明な目的もなしに出歩くことは評判を落とすことにつながった。そのため、女性たちは買い物という行為によって自分が売り物ではないと示し、自分たちの振舞いを正当化した。商店は安心してぶらつくことのできる半公共的な空間を提供していた。なぜ女性は遊歩者 [フラヌール] になることができなかったのか、という問いに対するひとつの答えとして、彼女たちは商品として、あるいは消費者として都市の商活動から十分に身を引き離すことができなかったからだ、ということがある。店仕舞いの時間を過ぎれば、彼女たちが街をさまよう猶予もお終いになるのだ(このことは、夕方以降しか自由な時間を持てない働く女性にとって非常に難儀なことだった)。ドイツでは風紀取締班は夜ひとりでいる女性を訴追した。ベルリンのある医者によれば、「通りをぶらつく若い男の考えていることは、世間的にまともな女は夜ひとりでいるところを人に見られるようなことをするわけはない、ということだけである」。皆に見られる存在であること、そして自立した存在であることは、その時代にはなお性的な不道徳性と等価に捉えられていた。これは三千年前とまったく同じで、女性のセクシュアリティがいまだに地理的・時間的な居場所による規定を被るものとされていたということだ。ドロシー・ワーズワースとフィクションにおける彼女の姉妹のようなエリザベス・ベネットが、田舎歩きに出ていったことでひどく叱責されたことを考えてみればよい。あるいはイーディス・(end399)ウォートンの『歓楽の家』のヒロイン。ニューヨーク暮らしのヒロインの社会的地位は、小説の冒頭、一杯のお茶のために男の家にひとりで入ったことで危険に曝され、さらに夜、ほかの男の家から出てくるところを見られたことで回復し難く崩壊するのだ(法が「いかがわしい女性」を統制する一方で、「品行方正な女」はしばしば互いに目を光らせていた)。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、398~400; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)


928

 一八七〇年代までのフランス、ベルギー、ドイツ、イタリアでは、娼婦が客引きできる時間帯が制限されていた。フランスの売春規制はとりわけシニカルで、営業は認可制とされ、警察には許認可および無許可営業の禁止という両面から女性を統制する権限があった。どんな女性も性産業の行なわれる時間と場所で客引きをするだけで逮捕される可能性があり、一方、登録された娼婦はそれとは違う時間や場所に現れるだけで逮捕される可能性があった。女性はいわば昼行性と夜行性に分断されていたのだ。ある娼婦は「レ・アルで朝の九時に買い物をしたために連行され、露店の店主に話しかけたこと、および免許に指定された地区から逸脱したという廉で告発された」。この時代、風紀警察は理由の有無にかかわらず労働者階級の女性を逮捕するようになっていて、ノルマのために通行人の女性をまとめて検挙することもあった。はじめ、男性は娯楽のようにして女性の逮捕を見物していたが一八七六年には警察の取り締りが度を過ぎるようになり、居合わせた者が止めに入って逆に逮捕されることも起きている。連行された若く、多くの場合貧しい未婚の女性や少女が無実と判明することはほとんどなく、多くはサン・ラザール刑務所に投獄された。高い塀のなかの暮らしは寒さと栄養失調に苛まれ、不衛生、過労、私語も禁じられる悲惨なものだった。釈放されるのは彼女たちが娼婦として登録す(end400)ることに同意した場合だった。認可された売春宿から逃げ出した女性にはそこへ戻るか、あるいはサン・ラザールに送られるかという選択が迫られた。そのようにして女性は売春業をやめさせられるのではなく、むしろそこへ追い込まれていた。逮捕されたことに向き合うよりも自殺を選ぶ者も多かった。娼婦の人権擁護に大きな足跡を残したジョゼフィン・バトラーは、一八七〇年にサン・ラザールを訪問している。「刑務所の大勢の者がどんな犯罪をおかしたのかと尋ねると、禁止されていた通りを禁止されていた時間に歩いていたというのだった!」
 上流階級出身で教養があり、進歩的な環境で育ったバトラーは一八六〇年代にイギリスで施行された伝染病予防法に対する有力な反対者となった。敬虔なキリスト教徒だった彼女がこれらの法律に反対したのは、国が売春業を統制することによって逆にそれが暗黙に許された生業となること、およびそうした法律はダブルスタンダードなものだったという理由からだった。女性は、売春に関するごくわずかな嫌疑によって収監や「外科的レイプ」ともいわれる検査によって罰される可能性があり、性病が発見されれば監禁のような状態で治療を受けることになった。一方で男性は咎められることもなく同じ病気を拡散し続けていた(近年でもエイズと売春の絡みで同じような施策が検討の俎上にあがり、実施に至ることもある)。法律は軍の保健対策として起案されたもので、兵士は一般大衆より高い割合で性病を罹患していたという事情があった。国にとって女性よりも男性の健康や自由や人権の方が大きな価値があるという手前勝手な認識が背景にあったようだ。キャロライン・ワイバーグより酷いケースも数多くあり、少なくともひとりの女性(三人の子を持つ寡婦だった)が取り調べを苦に自殺している。家の(end401)外で歩くことは性的な行動の証左とみなされるようになり、女性の場合はそうした行動が罪とされたのだ。合衆国は法律面ではそこまで酷くなかったが、似たような状況になる場合もあった。一八九五年に、リジー・シャウアーという名の労働者階級の若いニューヨーカーが娼婦として逮捕されている。理由は、暗くなってからひとりで出歩き、ふたりの男に道を尋ねたためだった。彼女はロウワーイーストサイドの叔父の家に向かっていたが、その時間と行為は客引きのサインと解釈され、彼女は医学検査によって「よい娘」と判明してようやく釈放された。彼女が処女ではなかった場合は、性的な嫌疑と夜道の一人歩きの組み合わせによって有罪とされた可能性が十分ある。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、400~402; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)

A Russian conscript has been sentenced to five-and-a-half years in prison after getting into an altercation with his superiors over poor training conditions, in the first known ruling against a soldier who criticised the Kremlin’s unpopular mobilisation. In a video filmed on 13 November, draftee Alexander Leshkov is seen shouting profanities and shoving Lt Col Denis Mazanov at a training ground outside Moscow. Leshkov is heard telling his commander: “You are sabotaging the commander-in-chief’s direct orders [to supply and train mobilised soldiers],” adding: “You should be arrested.”

  • いま午後五時三二分で、きょうはここまで籠もりきりであり、だいぶだらだらしてしまっておりたいしたことはない。起床は九時半過ぎ。腕をよく振っている。いま椅子にあさく腰掛け、背をいくらか伸ばしながらキーボードに両手を乗せて文を書きはじめてみても、てきめんに肩とか首の横のすじがこごってくるのがよく感じ取れる。やっぱりこの打鍵をするときの両腕のかたちが問題なのだろうか。それかブルーライトでも関係しているのか。腕の高さが問題だったりもするのかもしれないが、残念ながらすでに椅子は最高、机は最低の高さになっている。あとすこしだけ椅子が高いほうがよいのかもしれないが、これいじょう調節できない。とはいえ腕をよく振っておくと効果は明白で、ゆびはかるくうごくし、肩まわりがこごってもそう悩まされはせず、胸の奥がきもちわるいようにもあまりならない。まあながく書いているとまたちがってくるだろうが。
  • きょうも快晴ではあったけれど、きのうとくらべると雲がいくらか混ざっており、ものを食ったのち正午前くらいになって、やべえやべえ洗濯をわすれていたとおもってはじめたあと、終わるころになると意外にも陽がかすれ気味になっていた。その後もちなおしたが。空の水色もややうすいような気もされた。洗濯物を干したあとは寝床でだらだらしながら『イリアス』を読んだのだけれど、なんだかやたらとねむく、文字を追いながらちょくちょく目が閉じてきたし、本を置いたあとはすこしだけうとうともしてしまって、そのながれで四時過ぎまでぐずぐずとなまけてしまったかたち。起き上がるとギターをいじる気になってあそんだがきょうはあまり精神がまとまっていなかったな。序盤は。やっているうちにけっこう追えるようになってはきたが、それでもさほどよくはなかった。
  • いちどめの食事はれいによってキャベツと白菜と豆腐(ハムは尽きた)を一皿、それに横着してカップヌードル(味噌)。あと肉まんもひとつ食べた。ものはそこそこ食っており、それは体調が回復してきたということでもあるが、食欲がすごいあるというよりは、なるべくおおくものを食ってからだにエネルギーをつけて心身の状態をより向上させようというあたまがどこかにあるようだ。そろそろ二食目を食う段にかかっているが、また横着してカップ麺にするか、それとも煮込みうどんをつくるかまよう。
  • ホメロス/松平千秋訳『イリアス(上)』(岩波文庫、一九九二年)はきょう244からはじめていま286まで。数日前から書きたい感想もあるにはあるが、九日以降の日記が済んでいないのでそちらを優先したいところ。あと書き抜きもなかなかできないのでやりたいな。
  • 洗濯物はだらだらしていたあいだ、三時くらいにいれたのだが、靴下やパンツにさわってみると湿り気ののこった部分がわずかにあったので、そこではまだたたまずに吊るしておいた。いましがた(六時前)始末。洗濯物をいれたときにはまだ窓に陽射しがあり、柵の内側や眼下の路上にはもうぬくもりは届かず青さの先触れめいた色になっていたけれど、太陽じたいは保育園の建物のむこうに低くなりながらもまだ揚々といった調子で白光球をひろげていたし、それがこちらの住まっているアパートの窓にでも反映したものなのか、保育園の一階の部屋のそとがわ、門をはいってすぐ脇のテラス的な通路をおおっているカバー(それによって通りから室内のようすは見えなくなっているし、またそとであそんできたあとには子どもらがそこで着替えるようなこともおそらくあるのだろう)のうえに希薄なあかるみの浮遊片もちらほらみられた。着々と日がながくなっているようだなとの感。