2023/1/27, Fri.

  港にて

 無事に港に着いた男は
 海も嵐も振り捨て
 いま やすらかにぬくぬくと腰をおろす
 ブレーメン市役所のりっぱな地下酒場で

 このぶどう酒杯 [レーマーグラス] に 世界がいかにも気持よく
 ほほえましくうつっている
 波うつ小宇宙が かわききった心へ
 いともあかるく ながれこんでくる
 おれは このグラスのなかにすべてをながめる
 古い また新しい諸民族の歴史を
 トルコ人ギリシャ人を ヘーゲルやガンスを
 レモンの森や衛兵の隊列を(end243)
 ベルリンやシルダやチュニスハンブルク
 けれども とりわけ恋びとのすがたを
 あの天使の顔を ライン酒 [ワイン] のかがやく底に

 おお なんといううつくしさ 恋びとの美しさよ
 おまえは まるで薔薇のようだ
 だがシーラスの薔薇ともちがい
 ハーフィズのうたった夜啼鶯 [うぐいす] の花嫁でもなく
 また あの予言者のたたえる神聖な 赤い
 シャロンの薔薇でもなくて
 おまえは このブレーメン市役所の地下酒場の薔薇だ
 この薔薇こそは 薔薇のなかの薔薇
 年をかさねるごとに愛らしく咲く花
 そのすばらしいかおりに おれは驚喜し
 感動し恍惚とした
 ブレーメン市役所の地下酒場のおやじが
 おれを おれの髪をしっかりつかまなかったら(end244)
 おれは ひっくりかえったろう

 まったく感心なおやじだ おれたちはいっしょにすわり
 兄弟のように飲みあった
 おれたちは 理想や秘密をいろいろ語りあった
 おれたちは ためいきし抱きあった
 おやじのおかげで おれの心は愛の信仰へかわってきた
 おれは憎しい敵の健康をすら祈って飲んだ
 へぼ詩人どもをおれはすっかりゆるしてやった
 同様に いつかおれ自身もゆるされようが
 おれは敬虔な気持から泣いた
 ついにめぐみの門はひらかれた
 そこで十二人の使徒が 神聖な酒樽が
 無言の説教をする しかも
 あらゆる民族につうじるように

 りっぱな人物たちだ(end245)
 みかけは質朴で 着ているのは ぶざまな上衣
 だが 実質はどんな寺院のいばった役僧よりも
 金のかざりをつけたり緋の衣を着たりした
 ヘロデの新衛兵や廷臣たちよりも
 もっとうつくしくて 光をはなっているのだ
 おれは くだをまかずにゃいられなかった
 天の王はいつだって
 俗物どもなど相手にしないで そうだ
 すぐれた仲間とだけ暮すんだ と

 ハレルヤ おお おれの周囲にただよう
 ベテルの棕櫚のなつかしいざわめき
 ヘブロンの没薬 [ミュレ] のかおり
 ヨルダンはせせらぎ 歓喜してよろめく
 おれの不滅のたましいもよろめく
 そして おれの体もよろめいて よろめきながら
 ブレーメン地下酒場の感心なおやじに(end246)
 階上へ 日の光へ はこびあげられた

 おお 感心なブレーメン市役所の地下酒場のおやじよ
 見たまえ 家々の屋根に
 天使がすわり 酔っぱらって歌っているぞ
 あの上に炎 [も] える陽は
 酔っぱらいの赤鼻だぞ
 世界精神の鼻
 世界精神の鼻の周囲を
 酔っぱらった世界中がまわっている

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、243~247; 「港にて」(Im Hafen); 『歌の本』)



  • 一年前から。ニュース。

新聞からは共通テストの問題が流出した件について。高二女子を名乗る下手人と家庭教師を申し出た東大生のあいだでかわされたメッセージのやりとりが載っていたが、一二月中に家庭教師を募集したさいに、一月一五日に実力を見るための試験をやらせてほしいとすでに書いてあり、だから計画的な犯行だったはず。つまりその時点でもうテスト中に写真を撮って送ることが可能であると、その方法が確立されていたということだろう。どうやったのかまったくわからないが。載っていた写真二枚を見るかぎりでもふつうに机に置かれた問題用紙のうえから撮ったようすだったし(ちなみに一枚の端に紙をおさえる指先がほんのすこしだけ映りこんでいたが、その爪がマニキュアを塗られているらしき赤さだったので、それを見るとたしかに女性なのかなとおもわれる)。きのうの夕刊だったかに載っていた関係職員にいわせれば、まあいつかこういうことが起こるとはおもっていた、試験を監督する人員の全員がスマートフォンなどの機器に精通しているわけではないし、これは氷山の一角なのではないか、じっさいにはもっと多くが気づかれないまま見逃されているのではないか、ということだった。ところで東大生ふたりはそれぞれ二〇問程度とか一二問程度だったかそのくらいの世界史の問題を二〇分くらいで解いて送ったようだが、片方が一問ミスっただけであとはすべて正解だったらしく、さすがに東大生ということのようだ。下手人は午後から現代文もお願いしますとたのんでおり、東大生がもっとはやい時間でもいいですよと送ると、こちらの都合でその時間のほうがよくて、と返ってきたという。学生ひとりは解いた時点ではさすがに共通テストの問題だとはおもわず、同時におこなわれている模試の問題なのかなとおもっていたところ、不審をおぼえたので現代文のときに、この結果はどのように使うんですか? と送ってみると返信がなくなったと。その後、カンニングの片棒をかつがされたかもしれないと判明して愕然としたという。

  • 風景。

上階へ行き、アイロン掛け。五時をまわって窓外は海底に沈みつつあるかの鈍い薄青、窓の上端にのぞく山際の空には雲がはびこって畝なしながらちぎれたすきまにほとんど白い地も線とみえる。暗んだ大気のさきで川面のうえの宙にあたる空間を白い鳥が一羽はばたいて横切り、ガラスにうつったじぶんのすがたは顔貌も色もあらわれない黒ののっぺらぼう、その内部にそのままそとの樹々や屋根の色味をうばわれつつある暗いようすが切り取られはいりこんで、脇ではオレンジ色の食卓灯がクラゲのように浮かんでいた。(……)

  • To The Lighthouseを一段落訳してうだうだと注釈をつけている。

Immediately, Mrs. Ramsey seemed to fold herself together, one petal closed in another, and the whole fabric fell in exhaustion upon itself, so that she had only strength enough to move her finger, in exquisite abandonment to exhaustion, across the page of Grimm's fairy story, while there throbbed through her, like a pulse in a spring which has expanded to its full width and now gently ceases to beat, the rapture of successful creation.


 するとたちまちラムジー夫人は、自身をたたみこみはじめるように見えた。ひとつの花びらがべつの一枚に閉じ合わされるように彼女はたたまれていき、そしてついには、全身がのしかかる疲労感にくずおれかかり、かろうじて残ったのは指を動かすほどの力でしかなかったが、それでもたおやかなすがたで消耗感に身をゆだねながら、グリム童話のページに指を走らせ撫でてみせた。それと同時に、彼女のなかを隅まで響き渡っていたのだ、これ以上ないいきおいまで押しひろがったあと、おだやかにしずまる泉の拍動にも似て、あるべきものを生み出せたのだというよろこびの脈動が。

  • Immediatelyは「~~するやいなや」のいいかたがいいかなとさいしょかんがえたのだが、そうすると~~のぶぶんを埋めなければならず、前段落の終わりでラムジーがその場を去っていくので、夫が去るやいなや、みたいな言い方にせざるをえないのだが、そうするとあまりながれないかんじがしたし、この段落にない文言を補いすぎにもおもわれて「するとたちまち」を取った。
  • one petal closed in anotherは、inと言っているので、たぶん一枚がたたまれてもう一枚のうちにつつまれるようなかんじなのだとおもう。だからほんとうは「折りこまれる」というふうに「こむ」の語をつかったほうがよいのだろうが、じぶんはなぜかこのinに花弁が「合わさる」というイメージをいだいてしまい、またcloseの「閉じる」の意味も尋常にストレートに盛りこみたかったので、「閉じ合わされる」となった。one petal closed in anotherのぶぶんはたぶん隠喩的な様態の付与でfoldにかかっているとおもうのだけれど、訳は一文目をtogetherまでで切ってしまったので、そうなると「彼女はたたまれていき」ということばをつけくわえないとつながらない。ここの「彼女は」を入れるか否かもすこし迷いどころではあった。入れなくても通る気もする。ただ、入れないばあいは「ひとつの花びらが」が「たたまれていき」の主語として取られるおそれもあるが、それはそれで比喩的な表現として成り立ちえないわけではない。いずれにしても、その後のandを「そしてついには」と取ったからには、「たたまれていき」の「いき」は必要になったわけだ。
  • fabricの語はむずかしくて、辞書を引けば織物とか骨組みとか構造という意味が出てくる。だから編みあわされた繊維組織みたいな大意になるのだろう。ここではさらにラムジー夫人が花にたとえられているので、花弁から茎、そしてそこから分かれて生えた葉をもふくんだ全体像がイメージされる。構造や編み物的なニュアンス、あるいは植物的なイメージを訳にも混ぜたかったが、どうも無理そうなので、けっきょくは「全身」で処理。
  • 厄介だったのはそのあと、in exquisite abandonment to exhaustionの部分で、exquisiteな自己放棄ってなんやねん、というはなしだ。exquisiteは優美な、とかひじょうにうつくしい、すばらしい、上品な、精巧につくられた、また食べ物につかわれれば極上の、絶品の、そして果てはよろこびや苦痛について甚だしい、強烈な、鋭い、という意味を言う。岩波文庫はこの箇所を、「どこか心地よい消耗感に身を委ねた彼女は」(70)としており、「どこか心地よい」がexquisiteにあたる訳語だろう。しかしそれだとなんかなあというか、exquisiteの意味として弱くないか? とおもわれた。うえにならべたように、これはあきらかに程度のおおきさを意味としてはらむ語なのだ。exquisiteが直接通じているのはabandonmentであり、夫のあいてをしたあとのおおきな疲労感に身をゆだね自己をそのなかに放棄し投げこんでいるさまがexquisiteだといわれているわけである。となればここは、「どこか心地よい」というような夫人の主観的な感覚ではなく、かのじょのようすを形容した描写ととらえてよいのではないか。つまり、指を動かす程度の力しかないほど疲れ切っているが、それでもそのすがたやそぶりに優美さが見受けられる、ということではないかとかんがえた。疲労による消耗のイメージをとりこみつつ優美上品をいうならば、その語は「たおやかな」しかないだろう。くわえて、「疲れ切っているがそれでも」と、「それでも」を用いた留保的逆接をさだめたので、その前段、so that she had only strength enough to move her fingerの箇所は、「かろうじて残ったのは指を動かすほどの力でしかなかったが」と、これはスムーズにさっと出てきた。leftの語はないが「残ったのは」のいいかたにしたほうが、そのまえの「くずおれかかり」からうまくながれるし、リズムとしてもこのはじまりがよい。「かろうじて」を足せばonlyの意味も盛りこめる。ただ、そうすると挿入をはさんでつながるacross the pageのぶぶんにmoveの意をふたたびくわえないと、日本語がおさまらない。そういうわけで「指を走らせ撫でてみせた」で締めたが、この「指を走らせ」までは岩波文庫にならったものである。「撫でる」の語はわずかにニュアンスをこめすぎかもしれないが、move across the pageを逐語訳すると、ページ上を横断するように指を動かすということで、紙面を撫でるように指が行くイメージが浮かんだので、「撫でる」まで言いたくなった。「たおやかな」のイメージとも親和する語ではあるだろう。
  • while以下の後半は倒置である。動詞のthrobbedがさきに出ているが、これに対応する主語がさいごのthe rapture of successful creationである。Woolfはこういう、ながい中間部をはさんで主語で文を閉じる倒置をけっこうよくもちいている。ここなどはまだあいだの修飾がみじかくてわかりやすいほうである。せっかく倒置になっているので、やや仰々しくはなるけれど、日本語もそれにあわせて主語をさいごに持ってきたかった。この後段もなかなか苦戦したが、まずthrobを引けば鼓動や動悸の意だったので、through herを合わせればこの動詞は「響く」にするか、と決めた。なんだかんだいってロマン主義的な好みの人間なので、音楽的な比喩の常套句にながれてしまったのだ。throughということは全身をとおって、ということだから、「つらぬく」の語をつかうか? とこれも常套を考慮し、「つらぬき響く」とか、あるいは逆に「響きつらぬく」もおもったが、「つらぬく」というとかのじょのからだを通り抜けて出ていってしまうようなイメージにもなるので、ここはよろこびの鼓動が全身に渡っている、ということだろうとおさめて、尋常に「響き渡る」で落とした。ただ、「渡る」だけだとなんとなくthroughの意味が弱いような気がしたので、「隅まで」を補足してここは仕舞い。
  • そのつぎの、like a pulse in a spring which has expanded to its full width and now gently ceases to beatに時間がかかった。前半はたいしたこともない。泉が水を湧出させているさまの比喩で、その水の量が増減するのが鼓動にたとえられている。widthはそのまま取れば「幅」であり、水があふれでてひろがるそのおおきさひろさを言っているのだろうから、これを「いきおい」を読み替えた。問題だったのは後半、gently ceases to beatのぶぶんで、直訳すれば、鼓動を打つことをやさしくしずかに止める、ということになる。難点はふたつである。第一に、ceasesをどこまで受け取るかということで、辞書的には停止するの意なのだが、beatが完全に停まってしまっては、よろこびが疲れ切ってたたずんでいる夫人のうちを響き渡ることができない。くわえてこのつぎの段落でもthrobやpulseがtwo notesにたとえられながらつづいているので、ここは拍動が停止しきったわけではなく、ただ泉の湧出が振幅のおおきい状態から平常の一定のペースにおさまった、と取るべきだろう。はげしいbeatはやめたが、水の湧出じたいはしずかながらつづいているわけである。そうかんがえたとして第二に、具体的な訳語の困難があって、beatを「鼓動」というたぐいの二字熟語におさめつつ「やめる」とか「とめる」を組み合わせようとすると、throbとpulseというふたつの類縁語とかぶってくどくなってしまうのだ。とくに直後の「泉の拍動にも似て」はもう定まっていたので、その直前に「鼓動」とか同種の語をつかうとじつに野暮ったく、厚ぼったくなる。かといって、「脈打つのをやめる」のように、beatを熟語にたよらず訳してもどうもながれない。ここに詰まって風呂に行ったわけだが、湯のなかでかんがえるうち、ここは一語一語きちんと意味を盛りこもうとせずイメージについたほうがよいと落着いた。要はうえに書いたような、いきおいがしずまって淡々とした水の調子になったということなので、「脈打つ」だの「やめる」だの「止める」だの言おうとせずに、「おだやかにしずまる」くらいでいいではないか、とおさめたのだ。「しずまる」といえば「泉の拍動」の述語としてもはまる。ceases to beatを「しずまる」と縮約し、gentlyで「おだやかに」を足したかたちである。
  • そうしてさいご、the rapture of successful creationも日本語にするのがけっこうむずかしい表現だが、岩波文庫は「見事に何かを創造しおおせたことの喜び」(71)としていた。creationは「つくりあげる」のように動詞化したほうがいいだろうなと見越していたが、岩波のように「何かを」をおぎなうとどうも曖昧になり、意味の抽象性が一抹ノイズにかんじられる。また、「つくりあげる」というよりは、なにもなかったところにあらたなものをつくり出すような、「出す」のニュアンスを重んじたほうがいいだろうなとおもい、creationは「生み出す」に決定。ただそれにかかっているsuccessfulも日本語にするには曲者である。岩波は「見事に」としており、こちらも、うまく、巧みに、首尾よく、など当初はやはり副詞的にかんがえた。creationを動詞化したいじょうとうぜんのことだが、どれもあまりはまらない。訳をさだめるには、「何かを」の問題ともからんで、ここで夫人がじっさいにはなにを生み出したのかということを具体的にかんがえなければならないだろう。となると、successful creationは前段落までのながれを受けて、敗北感におそわれて夫人の生気を吸い取るように同情をもとめてきた夫のこころをなだめ、元気づけることができた、ということを指しているはずだ。つまり夫において望ましい状態をつくりだした、それに回帰させたことを言っている。ならばcreationの対象は、「何か」というよりは、「あるべきもの」くらいのいいかたにするのがよいだろう。しかもこの語をもちいれば、successfulの意味、うまく成功した、という意味までもりこめる。「成功裏の創造」を「あるべきものを生み出せた」と言い換えるわけだ。「生み出した」ではなくて「生み出せた」と可能の一文字を混ぜれば、「成功」の意がよりたしかになる。そういうわけで、the rapture of successful creationは、「あるべきものを生み出せたのだというよろこびの脈動」として完成した。「よろこび」の語までで終えて「よろこびが」と閉じても良かったのだが、音律があまりよくない気がしたので、動詞のthrobをここに回収するかたちで「脈動」をくわえてしめくくった。
  • いま読みかえしてみるとまあわるくはないだろうがそんなによくもなく、もうすこしなんとかできるだろうという印象。リズム的にもうーんなんかなあという感じだし、「指を走らせ撫でてみせた」の「撫でる」とか、has expanded to its full widthを「いきおい」と意訳したあたりなんかは、かえってうまくないようにおもわれる。原語の範囲にもうすこし忠実にしたうえでなんとかしつつ、より良い訳にする方法があっただろうと。in exquisite abandonment to exhaustionを婦人の主観的感覚ではなくそのすがただと解釈したのも、とおらないわけではないとおもうがひじょうに微妙なところで、読みかえしてみれば岩波文庫と同様に感覚として取ったほうがよいようにもおもえる。exquisiteに「たおやかな」をあてたのはよいとおもうのだが。うまく行っているようにおもえるのは、さいごのthe rapture of successful creationを「あるべきものを生み出せたのだというよろこび(の脈動)」としたところくらい。この「あるべきもの」をみちびきだせたのはよかったとおもう。
  • 「読みかえし2」より。

高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第4回 心の「師」との出会い」(2022/8/22)(https://kangaeruhito.jp/article/659553(https://kangaeruhito.jp/article/659553))

1153

 1786年2月、ロベスピエールはアカデミー会長に選出された。本業の弁護士業がもっとも忙しくなるなか(訴訟を24件担当)、同年4月、アカデミー会長として年に一度の公開会議を主宰した。そこでは4名の名誉会員が承認されたが、そのうちの2人は女性だった。そのとき彼が行った演説は、女性を学術の世界に受け容れることの歴史的意義を示し、この機会に女性の「権利」を擁護してみせるものだった。冒頭、その加入を祝した後、次のように述べた。

次のことを認めなければなりません。文芸のアカデミーに女性を入れることは、これまである種の異常なこととみなされてきました。フランスやヨーロッパ全体でも、その例は本当にごくわずかです。慣習の支配とおそらくは偏見の力が、この障害によってあなた方のなかに地位を占めたいと望みうる人々の願いを妨げてきたように思えます。(中略)〔しかし〕彼女たち〔今回選ばれた2人の女性〕の性別は、彼女たちの能力が与えた権利をなんら失わせることはなかったのです。

 ロベスピエールにとって、女性の「権利」の主張は、偏見や無知との戦いの一環だった。「女性にアカデミーの門戸を開き、同時にその害毒である怠慢と怠惰を追放してください」。そして、「才能と美徳を育むのは競争です」と言って、性別の隔てない「競争」を科学の進歩の観点から称賛したのである。
 この点で、「単純な、粗野に育てられた娘」のほうが「学識のある才女ぶった娘」よりもはるかにマシだと語った『エミール』の著者とは対照的だった。ルソーは同書でさらに次のように続けている。

こうした才能の大きい女性はみな、愚か者にしか畏敬の念を抱かせることはできない。(中略)彼女に真の才能があるならば、こうした見栄をはることでその才能の価値は下がってしまう。彼女の品位は人に知られないことにある。彼女の影響は夫の敬意のうちにある。彼女の楽しみは家族の幸福のうちにある。(樋口謹一訳)

 確かに「弟子」のロベスピエールも、その演説で、男女にはきっとそれぞれに相応しい学問分野があり、女性は想像力や感情の点で豊かだと言っている点では、おそらくその時代に支配的な女性観を前提にしていると言えるだろう。その点では案外ルソーと近かったのかもしれない。しかしだからといって、女性は男性の付随物、「お飾り」ではなく、その能力で評価されるべき一個の人間とみなすべきだと彼が声高に主張し、その「権利」を擁護したこと自体は過小評価されるべきではないだろう。
 前年、マリー・サマーヴィルというイギリス人女性の訴訟を引き受けたのも同様な観点からだっただろう。彼女が夫の死後、負債のために強制的に逮捕・監禁、晒し者にされた事件で、ロベスピエールは彼女を無償で弁護した。このことは、彼が社会の進歩の一環として、自由に能力を発揮する機会を女性に与える義務を主張していたことと平仄が合う。「この義務は、われわれが他のシステムを採用することができないなら、いっそう不可欠なものです」。
 女性は「弱い性」で、そのかぎりで弁護すべき対象であるが、そうさせているのは社会体制の側であって、そのなかで女性の能力を発揮する機会が開かれておらず、彼女たちの社会実践が「未経験」であることに問題の根本がある。こう主張することでロベスピエールは再び、「抑圧された人々」と運命を共にし、彼女たちの側に立つと宣言したのである。

     *

高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第5回 「幸福の革命」に向けた3つの矢」(2022/9/26)(https://kangaeruhito.jp/article/696195(https://kangaeruhito.jp/article/696195))

1155

 翌年1789年1月、国王はアルトワ州でも他の地域と同様に代表を選出する選挙を実施すると発表した。それは奇しくも、『第三身分とは何か』というこの時代にもっとも有名なパンフレットの1つが匿名で出版された月だった。そのなかで、著者のエマニュエル・ジョゼフ・シィエス(1748-1836年)が、第三身分こそ「国民」であると主張したことはよく知られている。
 同年2月、アルトワ州でも匿名でパンフレットが出版された。題名は、『アルトワ人に向けて――アルトワ州三部会を改革する必要性について』、83ページほどのパンフレットだった。これが、ロベスピエールが改革に向けて放った第2の矢である。その主題は「代表」問題であり、エスタブリッシュメントがいかに人民を「代表」しておらず、「危険な敵たち」であるか、一方で「われわれは彼らに与えられた鎖の下で眠らされている」と訴え、奮起を促したのである。こうして地方でも、すでにペンの力で革命の火の手があがっていた。
 代表者は実際に [・・・] 選ばれなければならず、そうでなければ議会は「亡霊」でしかない。では、現状はどうか? 聖職者は誰にも選ばれていないし、貴族はなんら委任を受けていない。また、第三身分の「代表」と言っても、都市参事会から構成され、彼らはみずからを代表しているにすぎない。彼らは一部の特権的な都市の住民から選ばれているにすぎず、〈われわれ〉を代表する権利はまったくない。こう言ってロベスピエールは、自分たちで選ぶ自由、すなわち人民の普通選挙権が不可欠であり、これが与えられるなら、町の栄誉を得る(=代表になる)のは能力と美徳によってのみとなり、悪弊は消え去るだろうと訴えたのである。
 議会の亡霊を「真の国民の議会」に代えること、われわれ自身で選んだ代表に代えること。未来の革命家は、これを再び「幸福の革命」――女性によって進められると言われたあの革命――と呼んでいる。そして、「われわれを苦しめるあらゆる害悪の終わりは、国民議会でわれわれの利益を擁護するというおそるべき名誉を託す人々の美徳と勇気と感情にかかっている。それゆえに、この重大な選択において野心や陰謀がわれわれの行く手に撒き散らす障害を注意深く避けよう」と語り、さらに次のように問いかける。

愛国心や無私の仮面の下ですら野心を隠せない人々に何を期待するというのか、考えてほしい。

 3月末にアラス市で第三身分の会議が開かれたとき、法曹家で富裕な「友人」デュボワらが影響力を行使し、民衆に選挙権を与えることを拒もうとした。それに対して、靴職人の職能団体の会合に招かれたロベスピエールは、彼らの「陳情書」(国王が各地域でまとめるよう指示していた意見書)の作成に携わり、そうした企てに激しく反発した。そこで、その憤慨を言葉にあらわしたのが、『仮面を剥がされた祖国の敵――アラス市の第三身分会議で起きたこと』というパンフレットだった。これが、改革を訴えた第3の矢である。ロベスピエールは同冊子で、デュボワを含め彼らエスタブリッシュメント愛国心あるいは人民の代表者という「仮面」を剥ぎ取るべきだと訴えたのである。なぜなら、彼にとって、良き市民のもっとも重大な奉仕は「たくまれた陰謀の秘密」を暴露すること、「仮面」を剥がすことにあると考えられたからだ。

まさにここで私が率直に暴露したいのは、公共の大義を捨てた臆病な首謀者たちの気弱さ、そしてそれを謀った悪しき者たちの卑小さである。

 祖国の敵の「仮面」を剥がすこと、この「幸福の革命」を遂行することは、人間のもっとも神聖な義務であり、それは同胞の幸福のために身を捧げることにほかならない――。ここではいわゆる特権身分(聖職者や貴族)ではなく、デュボワをはじめとする第三身分の〈内〉にいる「敵」に攻撃の照準が合わされていることに注意したい。
 もちろん、この理屈は自身が第三身分の代表に選出されるための戦略の一環でもあっただろう。だが、それはロベスピエールの思想という観点から見て、きわめて示唆的である。〈われわれ〉の外にいる特権階級の見える [・・・] 「敵」だけでなく、いやそれ以上に〈内〉にいる第三身分の見えない [・・・・] 「敵」と戦う必要があると彼は考えたのである。つまり、〈われわれ〉の内部に存在する「敵」こそが改革のより危険な障害であり、その「仮面」を剥ぎ取ることで「敵」を〈内〉から排除するべきだという発想である。

  • 1153番を読むに、「確かに「弟子」のロベスピエールも、その演説で、男女にはきっとそれぞれに相応しい学問分野があり、女性は想像力や感情の点で豊かだと言っている点では、おそらくその時代に支配的な女性観を前提にしていると言えるだろう」と留保をつけられているとはいえ、この年代ですでに、アカデミーの演説で、「次のことを認めなければなりません。文芸のアカデミーに女性を入れることは、これまである種の異常なこととみなされてきました。フランスやヨーロッパ全体でも、その例は本当にごくわずかです。慣習の支配とおそらくは偏見の力が、この障害によってあなた方のなかに地位を占めたいと望みうる人々の願いを妨げてきたように思えます。(中略)〔しかし〕彼女たち〔今回選ばれた2人の女性〕の性別は、彼女たちの能力が与えた権利をなんら失わせることはなかったのです」というようなことばを吐くことができるというのは、そうとうにはやい、かなり進歩的なようにおもわれる。二三〇年を経ても世界はいまだにロベルピエールが述べたこの「異常なこと」、「慣習の支配」と「偏見の力」からそうとおくないところにあり、たしかにおおきな変化があったとはいえ、状況はそんなには変わっていないとも言える。
  • 1155番を読むと、(ローマ的な?)「美徳」の強調をべつとすれば、ポピュリズム政治家をおもいおこしてしまうところがかなりある。いわゆるエスタブリッシュメントへの「一般民衆」の不信と、そのあいだの対立・分断という現在の社会状況は、フランス革命期の状況と、おのおのの内実はもちろんちがうとはいえ、かなり似通っているのではないか。ロベルピエールがポピュリスト、人民動員者だというイメージは、したに引くきょう読んだ連載のつづきをみてみてもたぶん当たっているとおもうのだが(こまかな理論的定義の観点から見てどうなのかは知らないが)、近年のいわゆるポピュリストたちといちばんことなるのは、「美徳」というようなエリート的だとおもわれる価値(卓越性)を原理的に擁護するか否かではないかとおもわれ、ドナルド・トランプは「美徳」なんてまちがっても口にしないだろう。ジャイール・ボルソナーロも同様で、かれらはむしろ、そのような「美徳」だとか「人権」だとかいうおきれいなことばかり言ってるやつらは社会の現実をただしく見据えておらず、「われわれ」のための政治をおこなっていない、「われわれ」にはなんにもしてくれていない、というメッセージを「大衆」にむけて発したはずで、それに共感し呼応したひとびとが急速かつ強硬に露悪に走っているというのが二〇一〇年代(とりわけ二〇一五、六年くらい)からのおおざっぱなながれなのだとおもう。かれらとその支持者はまた、エスタブリッシュメントと必然的にむすびつく知的専門性とか教養と呼ばれるものとかを信用せず、「常識」的な「市民」(?)感覚(世間感覚?)を支持し、それでもってことがなせると信じているとおもう。その「常識」といわゆる「良識」(コモン・センス)との関係も気になるところだが、ロベスピエールはいっぽうでは「美徳」擁護の点で現代のポピュリストとはちがうようにみえながらも、はなしはそう単純ではなく、微妙にもつれたところがあるようにみえる。したに引いてあるが、議会議員や政治家たちのほうが腐敗しており、善良なのはまさしく人民なのだというかれの主張は、現在のポピュリストの言い分とかさなりあうだろう。ただし連載のつづきによれば、その後ロベスピエールも人民を「啓蒙」する必要性を認識するにいたっており、「啓蒙」などというかんがえかたはまたしてもドナルド・トランプなどとは無縁のものだ。同時にこの点で、かれはある種のちの共産主義に先鞭をつけているようにもおもえる。
  • ロベスピエールも昨今のポピュリストも、エスタブリッシュメントのいう「美徳」(ロベスピエールにとっては、かれらがそなえていなければならないはずの価値)が虚飾であり偽物だと弾劾するところまでは共通しているとおもう。ただそのあとがちがう。ロベスピエールは、議員らの「美徳」は偽物であり、かれらは腐敗しており、真の「美徳」は民衆のがわにあると主張する(ただし、「啓蒙」のみちびきなくしてはかれらはそのことに気づかない)。現代のポピュリストは、そもそも「美徳」というものじたいをおそらく信じていない。それは観念じたいからして虚飾であり偽物なのであって、それよりも(さまざまな感情的露悪をふくんだ)「常識」感覚のほうが根拠としてたしかなものであり、現実なのだというのが、たぶんポピュリストや支持者の認識ではないか。さまざまな種類の(道徳的・知的)卓越性とされてきたものじたいがもはや信をうしなっていると。

1159

 ぼくの義弟についてまた書きます、マックスについても、レーヴィについても。なにについて書くかは結局ぼくにはどうでもいいことなので、ただ一語一語でもってあなたに、最愛のひと、かかわりをもつと思えることにだけ価値があるのです。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、227; 一九一三年一月一五日から一六日)

     *

1161

 (……)今朝、起床前非常に不安な眠りのあと、ぼくはたいへん悲しく、悲しさのあまり窓から身を投げるというのではないけれど(それはぼくの悲しさにとってまだ元気がよすぎることだったでしょう)自分をちびちびとこぼし出してしまいたいくらいでした。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、236; 〔労働者災害保険局用箋〕一九一三年一月二一日午後二時半)

     *

1170

 (……)だれか他の人をちらりと思い浮べることなしに、全く自分のことで絶望したことがありますか? 輾転反側するほど絶望し、最後の審判が過ぎるまでも横たわっていることが? あなたの敬虔さはどんなものですか? あなたはシナゴーグに行きますが、最近は行かなかったでしょう。なにがあなたを支えているのですか、ユダヤ教または神の考えですか? あなたは――これが肝要なことです――絶えまない関連を、自分と、安堵させるほど遠い、あるいは無限の高み乃至深みとの間に感じていますか? それをいつも感じる人は、野良犬のように走り回って、哀願しながら、しかし沈黙したまま見回すような必要はなく、墓が温かい寝袋であり、生が冷めたい冬の夜ででもあるかのように、墓にもぐりこみたい欲求を抱く必要もなく、オフィスの階段を昇っていくとき、同時に自分が上から、おぼつかない光のなかでゆらめきながら、運動の速さで回転しつつ、焦慮のため首を振り、階段全体を転げ落ちる姿を見る思いをする必要もありません。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、262; 一九一三年二月九日から一〇日〔おそらく一九一三年二月七日から八日の夜〕)

     *

1172

 最愛のあなた、もうまた遅くなりました。なにもしおえないで、古い習慣から、降らない雨を待っているかのように、ぼくは目ざめています。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、266; 一九一三年二月一一日から一二日)

  • 1170番はなかなかすごく、切れているようにかんじられる。また、クライストの作品についての評価も以下のように。

1171

 昨晩はお便りしませんでした。『ミハエル・コールハース』のため遅くなったのです(あなたはこれを知っていますか? 知らなければ、読まないでください! ぼくが [﹅3] 読んであげます!)。もう一昨日読んでいた小部分は除いて、一気に読んだのです。おそらくもう十度目でしょう。これはぼくが真に神への畏敬の念をもって読む物語で、驚嘆が次々にぼくを捉えます。もしやや弱い、部分的には粗野に書き下された結末がなかったら、完璧といえるでしょう。つまり、ぼくが実在はしないと好んで主張するあの完璧な作品です(ぼくの言うのは、どんなに最高の文学作品でも人間的なものの尻尾をもち、もし人がそう望み、それに対する眼をもっておれば、それは蠢動しはじめ、全体の崇高さと神的相似性を邪魔するということです)。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、264; 一九一三年二月九日から一〇日)

  • クライストというひともたしかヴァルザーが小文書いていたとおもうし、古井由吉も『詩への小路』のなかでとりあげていたし、カフカもこのように称賛しているわけで、なんとなく特殊な作家ではないかというイメージをもっているのだが、まったく読んだことがない。

 バスティーユ監獄襲撃から3ヶ月、「第2の革命」と呼ばれる事件が勃発する。
 議会では、国王の暫定的(停止的)拒否権が承認される一方で、二院制案が否決され一院制にもとづく立憲君主政が目指される。だが、ルイ16世は同意せず、議会は膠着状態に陥った。そんな中、食糧危機にあったパリの女性たちが、パンを求めて市役所前に集結、市長のバイイや国民衛兵[もともと1789年夏に諸都市で組織された民兵団]司令官のラファイエットが不在と分かると、ヴェルサイユに向けて行進を開始したのである。
 10月5日、一日かけてヴェルサイユに到着した女性たちは、議会に乱入しパンの供給を要求、彼女たちの代表が国王と面会し小麦の供給の約束を取り付けた。だが、それで話は終わらない。続いて国民衛兵が到着すると、国王は大臣の進言に従って脱出することを拒み、議会で承認された諸法令を受理する旨を通告するが、彼らは国王のパリ帰還を要求した。翌6日、群衆が宮殿に乱入、国民衛兵がそれを鎮静化させたとき、国王にはパリに帰還する以外に道は残されていなかった。午後1時頃、国王一家が兵士やパリの女性たちとともにヴェルサイユを出発、パリのチュイルリ宮殿に入ったのは夜の10時頃だった。その後、議会はパリに移り、11月9日には改造された同宮殿が議場となる。
 この「10月事件」は、特権身分代表はもとより第三身分代表にも大きな衝撃を与えた。すでに7月の第1の革命に対して少なからず恐怖を抱いた彼らにとって、議会に乱入し実力行使によって国王を引き摺り出した〈民衆=人民〉の再登場は警戒感を強めさせるものだった。これには彼らの出自も関係していた。「庶民」議員を名乗っていても、彼らの約3分の2は大卒で法律職に就いており、残りの3分の1も職人や中小農民は皆無で、いわゆる民衆層には属さない人々だった。また、58名の貴族が第三身分代表として選出されていたのである。同代表の著名人の一人で議長となったムーニエは、(立憲)君主派を結成していた(その後、早々に田舎に帰り、国外へ亡命した)。同身分内の階層や利害のずれが、今後さらに表面化することになる。
 同月下旬に提案されたのは、〈二つの国民〉案である。その議論を主導したのは、革命前もっとも影響力のある冊子『第三身分とは何か』を刊行していたシィエスだった。ただ、「第三身分とは何か?――すべてである」という言葉で始まる冊子は、共通の法律や代表のもとに「一つの [・・・] 国民」を作り出すことを訴えたのではなかったか。しかし、彼の手になる7・8月の人権宣言草案にはすでに〈二つの国民〉――「能動的市民」と「受動的市民」と呼ばれる――構想が含まれており、それは多くの第三身分代表の意見を代弁するものでもあった。直前に勃発したパリの「蜂起」、民衆による市長の虐殺がその背景にあったことは明らかである。
 庶民の家に生まれながら社会的上昇を目指して聖職者となったシィエスが、同草案に記したのは「受動的市民」論であり、市民・国民の区別・分類だった。

一国のすべての住民は受動的市民の権利を享受すべきである。すべての者は自己の人格、所有権、自由その他のものの保護を求める権利を有するが、すべての者が公権力の形成に能動的に参加する権利を有するわけではない。すべての者が能動的市民であるわけではない。女性――少なくとも現状においては――、子供、外国人、公的組織の維持に何の貢献もしていない者は、公の問題に能動的に影響を及ぼすべきではない。

 さらに、「その代表者は、公の問題に対して能力とともに関心を有するすべての市民 [・・・・・・・・・・・・・・・・・・] によって、短い任期で、間接または直接に選ばれなければならない」と書かれ、教養のある有産者だけが有権者すなわち「能動」国民であると想定されていたのである(浦田一郎『シエースの憲法思想』。傍点引用者)。国民議会はシィエスの案にもとづき、3日分の労賃に相当する直接税を納めている「能動」国民に選挙権を限定した。それだけでなく、彼らが10日分の労賃を納めている者から(国民議会の議員を選ぶ)選挙人を選出という間接選挙を提案したのである。同案によれば、成人男性の3分の1が選挙権を失うことになる。
 これに対して、平民出身の聖職者グレゴワール(1750-1831年)が主張したように、それは本来の人権宣言の原理に矛盾するものであると同時に、新たに特権階級を生み出すことを意味した。とはいえ、「一つの国民」が主権を担うという建前があっても、国民の区分が何らかの形で存在するという矛盾を抱えた「民主主義」の時代がこのとき開幕したと見ることもできる。

     *

 しかし、ロベスピエールの立場を支持する議員は少なかった。そして議会は〈二つの国民〉案を可決、「市町村の構成に関する法令」(12月14日)においてその要件を明文化した。
 この間、ロベスピエールが翌年の市町村選挙に向けて書き進めた冊子が残されている(彼の生前には未公刊)。そこでは、国民議会がこれまで行ってきたこと、その歴史的業績を列挙した後、それを保障する憲法の必要を指摘し、それはとりわけ国民の大部分をなす、教育を受けていない貧しい人々のために制定されるべきだと述べられている。そのうえで、立法者が遵守すべき「聖なる規則」は三つあるという。

1、 社会の目的は、万人の幸福である。

2、 すべての人間は、生まれながらにして自由で権利において平等であり、そうでなくなることは許されない。

3、 主権そのものの原理は国民に属し、あらゆる権力は国民に由来し、そこからしか生まれえない。

 続いて示される行動原理を含め、ロベスピエールがここで従うべきだと訴えているのは、まさに人権宣言の諸原理だった(第1規則は人権宣言ではなく93年の憲法に反映されるものだが)。そこで謳われた人間の《平等》は、ロベスピエールの信念であっても革命の信念ではなくなっていたのである。彼は田舎の友人への手紙(11月9日)でも、〈二つの国民〉は憲法(案)の最悪の部分をなしていると書き、12月23日の議会ではプロテスタントユダヤ教徒にも平等な市民権を要求した。ただ、女性の「政治的」権利について積極的に主張することはなかった。
 年が明けても、市町村のあり方に関する議論は続いた。1月25日の演説でロベスピエールはアルトワ州選出の議員として、同州やその周辺では――地主に納められる貢租のために――直接税はほとんど支払われておらず、「能動」国民になりうる人民がきわめて少数であることに懸念を表明した。その点で、封建制を完全に廃止し、少なくとも全国に一律の税制システムが確立されるまで、〈二つの国民〉に関する措置は凍結されるべきだと主張したのである。
 また、封建制=不平等の問題が未解決だったために各地で頻発する農民反乱の処理をめぐって、議会は紛糾した。これに対して、南部やブルターニュ地方などに軍隊を送り込む戒厳令という荒療治が提案されるが、これにもロベスピエールは中央の執行権力を行使する前に地方自治体、そして議会があらゆる措置を講じるべきだと主張、非暴力的な手段によって反乱を鎮静化させる〈和解〉の必要を強調した。「人間に対して軍事力を行使することは、それが絶対に不可欠でない場合、犯罪である」。
 「人民は長い圧政から突如解放され」たため、「みずからの不幸の記憶のために道を踏み外した人々は心しんからの犯罪者ではないことを忘れないでいただきたい」。ロベスピエールがそう訴えたのは、「人民の自由の敵」たちがこの機会を利用して〈民衆=人民〉の運動をすべて鎮圧すべき「暴動」として排除するのではないかという猜疑心からだった。
 1790年6月19日、議会は世襲貴族制を廃止した。それに合わせてロベスピエールも、通常貴族や爵位を表す接頭辞の「ド」をつけて署名することをやめた。本連載では省略してきたが、出生証明書にも記載があった「ド・ロベスピエール」は彼の一族が代々受け継いできた姓である。それは貴族とは無関係だったが、それと混同されることを避ける意図があったのだろう。この「改名」も、彼の決意の表れと見ることもできよう。

     *

 1789年10月19日、サン=トノレ街のジャコバン(=ドミニコ会修道院の建物に設立された「憲法友の会」は、のちにジャコバン・クラブという名で知られるようになる。ロベスピエールヴェルサイユに来てから出入りしていたあのブルトン・クラブの後身だが、(立憲)君主派に対する革命派(=愛国者)の拠点となった。翌月以降、ロベスピエールも議会演説の予行演習の場として同会を利用するようになる。それは、彼の「育ちの悪さ」を指摘したスタール夫人らが形成した上流階級のサロンのような洗練された作法(マナー)を必要としない、それとは異質な空間だった。
 90年3月後半からの一時期、ロベスピエールジャコバン・クラブの会長を務めた。全国的な通信網を維持するために書簡を送ることに加えて、彼は自身の演説の写しをそれに同封した。それもあって、毎日のように全国から、特に女性たちからファンレターが届き、なかには彼に心酔したある侯爵の令嬢の書簡もあった。もちろん、熱狂したのは女性だけではない。のちに盟友となる人物、当時国民衛兵中佐だったサン=ジュストもその一人だ。サン=ジュストロベスピエールに次のような熱狂的な手紙を送っている。

専制と陰謀の激発に、よろめきながら立ち向かっているこの国を支えるあなた、ちょうど数々の奇蹟を通して神を知るように、私はあなたのことを知っています(マクフィー『ロベスピエール』から重引)。

 他方で、王党派や聖職者の新聞を中心に多くのメディアからロベスピエールは批判を浴びせられた。こうして形成される敵対関係が助長されるなか、彼は田舎の友人への手紙(3月25日)で検閲を心配してもいる。それを一種のパラノイア(妄想)だと断じる伝記作家もいるが、ますます神経質になっていたのは確かだろう。4月の国民議会での演説で国民の区別はスキャンダルだと改めて熱弁するが、5・6月は心身ともに疲弊し、ジャコバン・クラブで演説を時々しただけだった。
 10月23日、今度はエコノミストのピエール=ルイ・ロデレール(1754–1835年)が納税の議論で、国民議会は「能動」国民の資格を得る納税の条件を決定すべきだと主張、生きるのにやっとの給料の人間は問題外で、彼らには社会の奉仕は不可能だと喝破した。これに再びロベスピエールが立ち上がった。「もはや市民ではないという境界を設定する権限は誰にもなく、立法者にもない。人間は生まれながらにして市民である」。これを新聞『人民の友』は次のように伝えた。「ロベスピエール氏、偉大な原理を教えているように見える唯一の議員、おそらく国民議会に席を持つ唯一の真の愛国者は、そのような不正義を激しく攻撃したのだ」。
 さらに12月5日夜、国民議会で可決した法案をめぐってジャコバン・クラブで激しい論争が繰り広げられた。国民衛兵から「受動」国民を排除するという同案に対して、ロベスピエールは「能動であれ非能動であれ、すべての市民には国民衛兵に加入する権利がある」と主張したのである。これに対して、当時同クラブの議長だったミラボーは、同案を批判することは誰にも許されないと言って、その場を収めたが、それはジャコバン・クラブ内にもあった対立を顕在化させることになった。そのときすでに疎遠になっていた両雄の間に信頼関係はなくなっていた。ミラボーは多忙を極め、目に見えて衰弱していったという。
 実際、〈二つの国民〉をめぐる論争は議会そして国民の中に軋轢を生み、革命の帰趨を占う争点となっていた。少なくともロベスピエールは重大な局面だと信じたに違いない。このとき78ページに及ぶ冊子『国民衛兵の組織に関する演説』を刊行し、広く世論に訴える手段に出たのである。そこで、同案を支持する議員を〈敵〉と認定するとともに、〈われわれ〉人民との二項対立図式を描いてみせたのだ。

人間性、正義、道徳。ここにこそ政治があり、立法者の叡智がある。それ以外のものはすべて偏見、無知、陰謀、悪意でしかない。このような有害な体系の信奉者は、人民を中傷し、己の支配者を冒涜するのをやめよ。……不正義で汚れているのはあなた方である。……善良で我慢強く高潔なのは人民なのだ。われわれの革命、その敵の犯罪が、そのことを証明しているではないか。

 フランス革命では民主主義が目指されたが、それは当初国王の存在と矛盾するものとは考えられていなかった。むしろ、ある面では補完し合うものと考えられていたのである。
 その点に関連して、現フランス大統領のマクロンは、大統領就任の2年ほど前のある雑誌のインタヴュー(2015年7月8日)で、いまや「フランスの共和政は、集合的な同意を作り出す象徴的かつ想像的な表象であり、ある内容を伴った民主主義を具現させた形である」が、かつてはその役割を国王(王政)が担っていたと語っている。

 民主主義がつねに不完全な形をなすのは、それだけでは事足りないからです。民主主義の過程や機能には欠けるものがあります。フランスの政治においてこの欠けるものとは、王の肖像です。私は根本のところでは、フランス国民はその死を欲してなかったと考えています。

 ここで確認できるのは、民主主義に欠けているものが「集合的な同意を作り出す象徴的かつ想像的な表象」であり、革命後も人々はその役割を国王に期待し続けたという見方である。その死をいかにも残念そうに語っているように見える、マクロンの政治家としての評価はさしあたり問題ではない。問題は、確かに旧体制下に生まれたフランス革命期の人々、特にその指導者の多くにとっても、国王はフランス政治の〈象徴〉であり、少なくともある時期までその死は望まれていなかっただろうということである。
 〈象徴〉が実際に国を統治しているとは限らない。君臨するが統治しないということもある。フランスの歴史では、実際に統治をおこなっていなくとも君臨する国王が諸民族や諸部族を「国民」に統合する〈象徴〉をなすことがあった。それは伝統的に血統や慣習によって継承されながら形づくられてきたものである。そうであるがゆえに、〈人間は生まれながらにして権利において自由で平等〉というフランス革命の原理とはいつか必然的に対立する。
 ところで、第二次世界大戦後の日本でも、同種の問題が喫緊の政治課題となった。敗戦を迎えるなか、天皇の地位が問題になったのである。そのときに案出されたのが〈象徴〉という概念装置だった。なるほど、ある見方からすれば日本の歴史のなかで天皇は以前から〈象徴〉の役割を担ってきたのかもしれない。だが、このとき初めて明治期以降の「統治者」という地位とは区別された〈象徴〉という存在として意識的に位置づけ直された。その点で思想的な役割を果たしたのは和辻哲郎である。戦後すぐ、昭和20年暮に書かれた小文で和辻は、「『国民の総意』を表現するものはわれわれにおいては天皇にほかならない」と述べたあと、「ということが明らかになれば」と言ってこう結論する。

 人民に主権があるということと、天皇が主権者であるということとは、一つになってしまう。人民主権を承認するために天皇制を打倒しなくてはならぬという必要はない。(「国民全体性の表現者」(1948年7月)に再録)

 日本国憲法制定後に発表された論文「国民全体性の表現者」で、「それは象徴であるほかない」と書かれているが、前記の小文で言われる「国民の総意」を形成し表現するものとは、確かに〈象徴〉と呼びうるものに違いない(同論では憲法第1条が念頭にあったと言われるが、和辻は天皇の地位が「日本国民の総意に基く」とは言っていないことには注意すべきだろう)。それが必要なのは、人民主権あるいは民主主義だけでは国民の総意や「集合的な同意」が作れないと考えられるからだろう。
 むろん、そのように論じる和辻にとって、民主主義(人民主権)が強要されるなかで旧体制(天皇制)をいかに堅持するかが課題だった。逆に旧体制を破壊し、民主主義を生誕させようとしたフランス革命の指導者にとってさえ、〈象徴〉という存在は必要だと暗に考えられていた。バスティーユ監獄襲撃後、ロベスピエールは国王がブルボン家の白とパリの都市章の青・赤を結びつけた帽章を受け取った場面を「荘厳で崇高な光景」と称したことはすでに見た通りである。さらに遡れば、全校生徒を代表して国王に祝辞を述べたと語られてきた、必ずしも心地よくない少年時代の記憶も、その人への崇敬の念を失わせることはなかったように思われる。確かに、彼らは意識的・積極的に国王を〈象徴〉と考えていたわけではないかもしれない。だが、それがなくなって見ると、かえってその重みを意識せざるをえなくなる。
 1791年6月20日夜、ルイ16世はパリを抜け出した。ヴァレンヌ事件である。翌日の夕方、フランス東部の国境付近で [・・・・・] 発見、ヴァレンヌという村で逮捕された。
 国王の意向はともかく――最後まで逃亡を拒み続けたのは彼自身であって、逆にその優柔不断さが暗い結末にもつながったと言われるが――、国外脱出を謀ったという事実は全国に知れ渡ることとなり、その人物への信頼は大きく揺らいだ。事件後すぐ、ロベスピエールはバルナーヴなどの有力な議会指導者たちが国王の逃亡を「誘拐」と呼んで擁護したのに対して、彼らを「反革命」だと言って糾弾するとともに、国王の裁判を要求した。とはいえ、7月13日のジャコバン・クラブの会合でロベスピエールは共和政と君主の両立を主張している。

 共和政という言葉は、特定の統治制度を意味するものではなく、祖国を持つ自由な人々のあらゆる統治のひとつです。さて、上院があるのと同様、君主がいても自由ではありえます。現在のフランスの国制とは何か。それは君主のいる共和政です。ゆえに君主政でも共和政でもなく、どちらでもあるのです。

 君主のいる共和国(!)。ルイ=ル=グランの校友で急進派のデムーランも思い描いていたこの構想は、フランスの政治には〈象徴〉が必要だと考え続けられたことを示唆している。

     *

 ロベスピエールが [1791年] 7月14日の演説でルイ16世の退位を求めた翌日、議会はその責任を問わないことに決めた。これに対して、コルドリエ・クラブ[同名の修道院内に90年4月に設立、会費が安くより庶民的な政治クラブ]などの民衆協会が抗議の声をあげ、協力要請を求めてジャコバン・クラブに赴くが、拒否された。すると17日、彼らは直接示威行動に出た。王制の廃止を求める長大な請願書とともに、シャン=ド=マルス[軍神マルスの広場という意味。もともとルイ15世によって建設された練兵場で、一年前に連盟祭が開催された場所]に設置された「祖国の祭壇」で、請願書への署名を求める活動を強行したのである。5万人ほどの人が集まった。これに対して議会は市当局に出動を要請、共に出動した国民衛兵が発砲し五十人ほどの市民が殺害された。シャン=ド=マルスの虐殺である。
 同日、ロベスピエールジャコバン・クラブで議会の対応に憤慨を表明した。そして、7月終わりには『フランス人に宛てたマクシミリアン・ロベスピエールの演説』を出版し、改めて人権宣言の諸原理を擁護するとともに、人民(国民)の主権を訴えた。「私は国民主権の原理そのものによって次のような考えに至りました。国民の権威は虚しい作り物ではなく、実現されるべき聖なる権利だということです」。この後、メンバーの大半が同クラブを離れ、穏健な立憲君主派のフイヤン・クラブを結成した。そうしたなか、国民衛兵が国民を分断させた責任があると叫んでジャコバン・クラブ内に乱入する事件が起きた。このとき、ロベスピエールは彼の警護を申し出た大工がサン=トノレ街に借りていた住居に引っ越した。
 確かに、ロベスピエールが望ましい政体と考えたのは、古代ギリシアのリュクルゴス[スパルタの伝説的な立法者]のそれだとされ、彼にとっては人民を先導すべき立法者の存在が必要であり、「代表者」こそが政治の核心であるはずだった。しかし、彼によればそのほとんどが腐敗にまみれている議員たちに対して、〈人民=民衆〉みずからが純粋に [・・・] 抗議の声をあげたのである。このときロベスピエールはなかば民衆に押されるかたちで、それと一体化してゆく――。
 前回紹介した当時23歳のサン=ジュストの言葉は、このことを表現したものとして読むことができる。「あなたは単なる一地方の議員ではありません。人類と共和国の議員なのです」。

     *

 91年5月9日、ロベスピエールはグレゴワールやペティヨンとともに、同年春から議会を主導していたバルナーヴ、デュポール、ラメットらによる「三頭政治」が民衆による請求権を認めないことを厳しく批判した。彼にとって人民主権(民主主義)の要素をなす請求権は革命の原理そのものだった。さらに数日後(5月16日)、ロベスピエールが議会で提案したのが議員の再選禁止法案である。つまり、憲法制定議会の解散後、議員は直後の議会選挙には立候補できないという規定である。議員が人民から離れ腐敗することを防ぐという法案の趣旨が理解されたかはともかく、同案は多くの賛同者を得て可決された。ロベスピエールはこのときから「清廉な人」、つまり腐敗していない人と呼ばれるようになった。そして彼は8月の演説で改めて〈二つの国民〉を攻撃することで、政治勢力としてこのとき出現した民衆、「サン=キュロット」[当時貴族が着用していたキュロット(半ズボン)を穿いていない労働者]との結びつきを強めた。
 9月3日、その〈二つの国民〉の規定を含む1791年憲法が国民議会で採択された。14日に国王が署名し正式に成立、憲法制定国民議会はその役割を終え、30日に最後の会議を開いて解散した。そのとき、「清廉な人」がペティヨンとともに議会を出ると、市民による歓呼の声があがった。「腐敗のない議員たち万歳、清廉な人万歳!」。さらに、ルイ=ル=グラン学院の生徒たちがやってきて、彼らに三色のリボンとリースを手渡した。それに対してロベスピエールは、馬車から飛び降りて声をかけたという。それはあたかも攻守所をかえて、かつて国王が果たすべきだった役割をロベスピエールが演じ直しているかのようでもあった。

 ロベスピエールは、アルトワの農村地帯に友人を訪ねて旅行したり、農場で休暇を過ごしたりした。また、町の教会のミサを訪れ、その時の様子を知人[パリで住居を提供してくれたデュプレ]への手紙(10月16日)で語っている。
 それは、「宣誓拒否聖職者」(後述)が執り行っていたミサにおいて、足に重傷を負っているとされる男が突如松葉杖を放り投げて両手を挙げて歩き出すという「奇跡」が起き、その妻が神に感謝を捧げたという出来事である。「私には場違い」だったと言う教会をまもなく立ち去ったロベスピエールは、その光景を残念に思ったという。このような「奇跡」が起こるのは地方の修道会では珍しいというわけではなかったが、彼にショックを与えたのは、革命後にもそれを賛美する民衆の「狂信」であり、それを利用する「宣誓拒否聖職者」の影響力の大きさだった。
 別の手紙(11月4日)では、「宣誓拒否聖職者」のことを「貴族の聖職者」と呼び、新信者を見つけては「革命の敵にしている」と非難している。「というのも、彼が惑わしている無知な人々は宗教の [・・・] 利益と国民の [・・・] 利益を区別できないため、彼は宗教の見解と見せかけて専制反革命を説き聞かせているのである」。つまり、ロベスピエールが田舎で発見した民衆は「無知な人々」であり、聖職者によって惑わされることで「革命の敵」になりかねない存在だった。
 そのため、彼は今あるがままの民衆と一体化するわけにいかなくなる。たとえ本来は善良な存在だとしても、今目の前にいる民衆は惑わされている。そうだとすれば、みずからが彼らを教え導く存在にならざるをえないのではないか。このとき初めて、ある意味でライヴァルの存在として浮上したのが聖職者、特に「宣誓拒否聖職者」である。逆に、それまでロベスピエールが「聖職者」を特別扱いすることはなかった。
 ここで「宣誓拒否聖職者」の存在を理解するために、革命の「反キリスト教」化の経緯を簡単に確認しておこう。もともとフランス革命は、当初から反キリスト教を目指したわけではなく、社会の非キリスト教化を求めたわけでもなかった。聖職者のなかには革命に協力的なものも少なくなく、彼らは1789年8月の封建的権利の廃止にも同意した。また、国家財政が逼迫するなか、教会の全財産を国有化しようという提案が聖職者議員タレイランによってなされた。その結果として、収入源を失った聖職者が「公務員」化するのはある意味で必然となったが、これは革命と宗教が激しく反目し合う原因となった。
 1790年7月12日、聖職者市民(=民事)化基本法が成立。聖職者の職務・任用や報酬などを規定した同法は、聖職者を国家から給与が支払われる「公務員」にするというもので、同法を含む憲法への宣誓を義務づけた。市民化法は、俸給が極端に下がる高位聖職者にとって望ましくなかったばかりか、なにより聖職者に叙任するのは教皇、その背後にいる神であるという戒律を破壊するという点で、教会にとっては譲れない一線を超えるものとみなされた。
 パリなどでは「縛り首か宣誓か?」という民衆による圧力があり、国内の宣誓聖職者は5割を超えたが、それでも特に地方では宣誓聖職者は逆に「裏切り者」と呼ばれ、糾弾されることも少なくなかった。ロベスピエールはこの時点で、全国的な宣誓拒否への根強い支持を十分に認識ないし警戒していなかったかもしれない。司祭が結婚する権利も擁護したことで、「信仰の要塞」と呼ばれたアラスの市民のなかで彼への反感が強まった。
 ただ、ロベスピエールは宗教(キリスト教)を批判するというよりも、《民主主義》を貫徹することが目的だった。つまり、聖職者も主権者(=人民)によって選ばれることに同法の意義を見いだしたのである。他方、この観点からカトリック以外の宗教を排除することなく、すでに89年12月23日、あの〈二つの国民〉案を批判した頃の演説で、プロテスタントユダヤ教徒に対して平等な市民権を要求していた。彼にとって、これは宗教・宗派の種類の問題というよりも、あくまで民主主義の宗教であるかどうかが肝心だったと言える。
 ところが、帰郷したアラスでの経験は司祭あるいは教会の「政治的」影響力に対する警戒心をロベスピエールに抱かせることになった。と同時に、彼らの影響力を排除しながら、民衆をいかに教育し啓蒙していくかが当面の課題となる。この課題に取り組むため、民主主義によりふさわしい革命の宗教が必要ではないかという意識もまたのちに前景化してくることになる。

     *

 しかし、政治状況は大きく変わっていた。国王が国境付近の町ヴァレンヌで逮捕されて以後、特に91年8月27日にピルニッツ宣言[オーストリア皇帝のレオポルト2世とプロイセン国王フリードリッヒ=ヴィルヘルム2世がザクセンのピルニッツで会見し、ヨーロッパの君主たちに向けてフランスに対し準備が出来次第「緊急の行動」をとることを要請したもの]が発表されて以降、対外戦争の恐怖が煽られていた。実際、王弟が亡命宮廷を作り、同年には6千人の貴族将校たちが亡命したという推計もある。これは「反革命」の動きとみなされ、またカリブ海植民地で起きた「反乱」によって敵国による干渉がなされるという憶測がその恐怖に拍車をかけた。
 ジャコバン・クラブ内では、ジャック=ピエール・ブリソの一派(のちにジロンド派と呼ばれる人々)によって、主戦論が主導されていた。ブリソはひと月前、亡命者エミグレに関する法案を議会に提出、ヨーロッパ列強との戦争を示唆した。1754年生まれのブリソはシャルトル[仏中部の都市]近郊の仕出し屋の息子で、パリに出て革命前後に文筆で名をなし、国民議会に選出されていた。アラスへの帰郷前、ロベスピエールもその才能を認めていた人物だが、その後二人は同クラブで最大の政敵関係となる。
 12月16日、長い不在の後、会合に姿を現したブリソが沈黙を破った。彼は革命の勝利には戦争での勝利が不可欠だという信念を語り、執行権力(国王)が戦争を宣言するが、仮に国王が国民を裏切ることがあっても、「人民がそこにいる、心配すべきことは何もない」と言って、国民の不信を打ち消そうとした。演説はジャコバン・クラブ喝采を浴びた。
 2日後、ロベスピエールは真っ向から反対した。「戦争を欲するのは、国民の利益がそれを欲する場合である。国内の敵を制圧しよう。続いて、まだいるとすれば、国外の敵に立ち向かおうではないか」。「これらの敵のうちでもっとも多くもっとも危険なのは、コブレンツ[プロイセンの町]にいるだろうか。いや、われわれの中にいるのだ」。実際、いま対外戦争を望んでいるのは宮廷であり政権である。われわれが想定しうる戦争、それは「革命の敵」との戦争でしかありえない。また、戦時には、執行権力が恐るべき力を得ることに警戒すべきだ。そのように訴えたのである。主戦論で圧倒された同会で、彼の演説は冷ややかに受け止められた。
 では、〈国内の敵〉との戦いとは何か。それは翌92年1月2日、ロベスピエールの二回目の主要演説のなかで明らかにされる。「なによりも重要なことは、われわれの努力の成果がどうであれ、その真の利益と敵の利益について国民を啓蒙することである」。今は対外的な戦争をするときではなく、国内の反革命派と戦い、そのために国民を「啓蒙すること」が必要なときである。続けてロベスピエールは、ブリソ派が自分のことを人民の「守護者」を自認し彼らを堕落させようとしていると言うが、その非難はまったく当たらないと力説した。

 まず、私が人民の守護者ではないことを知ってほしい。かつてそのような肩書きを要求したことは一度もない。私は人民の一員である。これまでそれ以外の者では決してなかったし、私はただ人民でありたいと望んでいる。

 「人民の一員である」という告白を額面通りに受け取るわけにはいかない。というのも、続けてロベスピエールは、「人民」であるためには彼らをそのまま眠らせておくのではなく、その欠陥から守る必要があると言っているからだ。つまり、今あるがままの人民の一員だと言っているわけではないのである。そして、ロベスピエールは続けて次のように言う。

 この点で、『人民はそこにいる』というのは非常に危険な言葉である。ルソーほど、われわれに人民の真の理念を見せてくれた人はいない。なぜなら、彼ほど人民を愛した人はいないからだ。『人民はつねに善を欲するが、つねに気づくわけではない』。

 ここで確認すべきなのは、アルトワでの体験に基づいた思想上の転回であり、そのままの [・・・・・] 人民を超えて昇華された〈民衆=人民〉という理念をルソーに代わって示すというロベスピエールの使命への自負である。

  • さくばんはまたしても明かりとエアコンをつけたまま意識をうしなっていたのだが、それらを消して寝ついたのち、朝にいたって目を覚ましてからしばらくのあいだはまた鼻で深めの呼吸をつづけてからだをセットアップし、身を起こして時間をみたのが八時半ごろだった。天気は曇りで、午前のうちにはまだしも空気にうすあかるさがふくまれているようにみえたが、正午を越えたあたりからそれもなくなっていかにも曇りという感じの平板さにいたり、レースのカーテンをちょっとめくってみてみれば空は一面分厚そうな白さに占領されきっていた。きょうは立ち上がらずに首や肩をまわしたあとそのままあおむけにもどり、Chromebookでウェブをみたりものを読んだり。離床したのは一〇時ごろ。そこで水を飲んだりトイレに行ったり顔を洗ったりして、体操的にからだをうごかしてすじを伸ばしたりほぐしたりもする。瞑想は一〇時一三分から三六分だったかな。窓外では保育園の児童たちが園庭か近間の公園かにうつるところで出てきており、みっちゃん! みっちゃあん! と名を呼ぶ女児の声をはじめ、数人が甲高い声を立てており、保育士の女性もほそい声ではあるがそれに負けずおなじトーンでことばを発していたが、そのあと、タンタカタン、とかタタタタタン、みたいな、小学校の音楽の授業で楽譜の読み方や音符の意味合いを説明するのに手をたたいてやることがあるとおもうが、あれのように手拍子でリズムが鳴らされ子どもたちがそれを真似て反復するというあそびがおこなわれはじめ、四拍子の三拍目はかならずタンと四分音符で締められてさいごの一拍は休符になり、その空白をを区切りとして先生と園児たちのあいだで提示と模倣が交替し、リズムの交換がなされるわけだ。さいごのほうではタタカタタカタン、と三連符までとりいれていた。からだの右方はそういうそとの物音が聞こえたり、また座っているあいだじっとするから寒いかとエアコンを再度つけてもいたので空気が吐き出される音も持続的に浮かんでいるのだが、左手に耳をむけてみればきのうとおなじくまったき無音がひろがっており、その非対称はなんとなくバランスがよくないというか、意識が音のある右側に行きがちだからからだもそちらにひっぱられているような感じがあって、すこしだけきもちがよくない。椅子を横にむけて窓を正面にするかたちでやったほうがよいのかもしれない。とはいえからだはよくほぐれる。深呼吸をしてあるので太ももの裏側や尻もすでにわりと軽く、座っているのが楽だ。各所がほぐれてうごめきはじめると、意識が自動的にその感覚を検知して、それまでみえていなかったその部分が焦点化されてひろいあげられる。そのようにして精神的指向性はからだのさまざまなところを遊動的にわたっていく。そのうちすこしだけ前傾していた上体がすーっと、背後霊に引かれでもしたかのようにうしろにうごいてよりまっすぐな背の立ち方にちかくなるが、これはよくあることだ。腰のあたりか尻がほぐれるとそうなるのだろうが、背が立つとおうじて胸から鎖骨のあたりがより張るような感じになるので、そこのほぐれ具合によっては直立をたもっていられず、またちょっと前傾にもどってしまったりする。
  • 終えると食事へ。きのうつくった煮込みうどんがのこっているのでそれで済む。麺つゆと水をすこし足して加熱。待つあいだ手を振ったり、またからだをうごかしたり。二杯食った。あと肉まんも。食後はさっさと洗い物をかたづけ、しばらくてきとうにネットサーフィンをしたり歯を磨いたり。じきに湯を浴びようかなというこころになる。一二時半くらいだったか? しかしそのまえに、きのう洗濯物を入れただけでたたまず放置してあったので、それをかたづけて(たたみあげてあった布団のうえにハンガーから取ったものを置き、しゃがんだ姿勢で整理していく)、下着など用意してから浴室へ。栓を締めて湯のほうの蛇口だけをまずまわし、シャワーから出てくるものが熱湯になって、それが浴槽の底のほうにすこし溜まって湯気も湧き、鏡が曇って室内がかすみ、ほんのわずかにぬくもってくるのを待つ。それから水も混ぜて調節して、シャワーから出ているながれに手でふれて温度を確認したあと、縁をまたいで浴槽内にはいり、さいしょに手と顔を洗う。そのあとシャワーを壁からはずしてからだに湯をかけ、座りこんでそのままつづける。あたたかい湯を浴びるというのは至福だなとおもった。それでながく各所にかけながら素手で肌をさすりつづけてしまい、その後ボディソープを手にとって本格に洗う。あたまも洗ってながして、しゃがみこんだ状態のまま栓を抜き、水嵩が低くなるとたちあがってさいごにもういちどからだをながして、フェイスタオルで全身の水気をよくぬぐってから出る。
  • 服を着てあたまを乾かしたあとはテープで机のしたや椅子のしたあたりの埃やゴミを取っておき、それから寝床に逃げてだらだらすることに。脚をやわらげながらロベスピエールについてのうえの連載を三つ読んだ。最新まで。なかなかおもしろい。そうすると二時半過ぎくらいだったのか? 立ち上がって空腹だがきょうの日記にとりかかり、ここまで記すと四時五分。とちゅうなんか指が鈍いなと、首のうしろあたりがかたくなっているなと気づいたので、一時立ち上がって腕を振ったり手を振ったりした。けっきょく肩まわりがほぐれているか否かというのが、緊張とか胸のあたりの違和感とかに直結するようだ。きょうはもともとひさしぶりにあるいて書店に行こうかなとおもっていたのだが、起きたときから寒々しい天気だったし、この時間になってしまったし、またこもるか、それか食い物が減ってきているので買い出しに行くくらいにして、書きものなどに時間をつかうか、という気になってきている。二四日まで済んでおり、きのうはこもっておおかた書いただけだから特段のこともないし、実質二五日をのこすのみだ。しかしともあれ食事を取りたい。
  • いま一〇時前。ここまでだいぶだらだらしてしまった。二食目に温野菜とうどんののこりとヨーグルトを食べたのち、からだがおちつくのを待ちながら、背もたれにあたまをあずけて左右に首をかたむけるかたちでマッサージしていたのだが、それがきもちよく、やっているうちに脳がリラックスしたのかめちゃくちゃねむくなってきて、しばらくまどろんでしまい、さいしょのうちはそれでも意識レベルが低下したことで脚のほうがちょっと冷えてきているのを感じたりしていたのだけれど、じきに断絶がはさまって、気づくと七時を過ぎていた。そこから寝床にうつってウェブをてきとうに見つつごろごろしてしまい、いましがた復活してきのうの記事にみじかく加筆。二五日も書きたいところだがあまりやる気は出ない。これから買い出しに行ってくるつもり。兄夫婦が送ってくれた炊飯器でさっさと米を炊けばよいのだが、それもいまいちやる気にならない。
  • いつもどおりジャージのしただけズボンに履き替え、モッズコートを羽織って夜の道へ。ストールもさすがにつける。アパートを出て右に折れ、この時間ではとおる車もないが車道と歩道の境がない幅広の道路に出てわたると、宙をちらちら舞ってかそけくながれるものがあり、生まれたての雨粒のようでもあるが水滴よりも雪に寄っているようだった。とはいえ風花といえるほどのおおきさもない、塵のような散らばりである。風はながれて肌につめたく、布団屋のまえに立った旗が、街灯と軒のあいだにはさまってとらわれたようになりながら半端にからだをうねらせている。通りに行き当たってわたり、右に折れてすこしだけすすんでから左にはいると(……)通り、風はよく生まれて家々のすきまなどからものや袋のうごく音の立つのが、小動物かひとの気配めいて生き物がいるのかいないのか判じかねるよう、しかし小公園から音が聞こえるのは、これはひとがいるなと夜空にひろがる裸木の奇っ怪じみた枝ぶりをながめつつ行って、入り口の向かいまでくると、なかには犬を連れている老人がいる。先日の、脚をとめかねないほど風と冷気に重さのあった二四日の夜ほど行かないが、この夜も走るものはつめたく身を過ぎ、モッズコートのポケットの内側さえもつめたさを貼ってゆびにふれる。(……)通りにあたると左へ。向かいは寺だがその塀に沿った範囲の歩道にはなぜだか街灯が置かれておらず、すぐさきにスーパーが白々しているとはいえ物騒な暗さで、女性などあまりとおりたくはないだろうとおもうばしょだが、対岸のこちらもおなじくみじかい範囲なぜか街灯がなくていかにも暗く、そこをすぎればコインランドリーのなかが壁も明かりも出し抜けに白くて夜をぽっかり切り取った風情、いま客はひとりだけで、男性がテーブルについて新聞を読んでいるようにみえたものの、水着かなにか肌の露出のおおい女性の写真らしきものがみえたので雑誌だったのかもしれない。すすんださきで横断歩道をわたってスーパーにはいる。手を消毒し、籠を持つと野菜コーナーの一角にある値引き品のラックを見に行って、すると安くなっているバナナがたくさんあったのでこりゃいいと二袋籠に入れておいた。その他煮込みうどんをつくるときのためにキノコを買ったり麺も買ったり、パンや豆腐やヨーグルトも。夕食になんか肉のはいった弁当でも食いてえとおもって三〇〇円の唐揚げ弁当をえらんだが、これはたいした味ではなく、冷凍の唐揚げをパック米と食ったほうが断然うまい。
  • 帰路やその後のことはわすれてしまった。


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  • 日記読み: 2022/1/27, Thu.
  • 「読みかえし2」: 1153 - 1172