2023/2/16, Thu.

  烙印

 ぼくたちはもはや眠っていなかった、なぜならばぼくたちは憂鬱の時計仕掛けの中に横たわっていたのだから
 そして針を笞のように曲げたのだから、
 そして針は跳ね戻り 時を血の出るまで打ちつけた、
 そしてお前は黄昏が深まっていくのを語った、
 そして十二回 ぼくはお前の言葉の夜に「あなた」と言った、
 そして夜は開き そして開いたままだった、
 そしてぼくは夜の胎内にひとつの目を置き そしてお前の髪にもうひとつの目を編みこんだ
 そしてその二つの間に導火線を結んだ、むき出しの血管を―
 そして新しい閃光がこちらへ泳いできた。

 (中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集 第一巻』(青土社、一九九二年)、79; 『罌粟と記憶』(一九五二); 「逆光」)



  • 一年前からニュース。

(……)新聞はひきつづきウクライナ情勢をおおくつたえており、ニュースでもながれた。アメリカのメディアでは一六日にもロシアが侵攻をはじめるのではないかと言われていたらしいが、プーチンはわれわれが戦争をしたいかといわれればもちろんしたくはないと述べて、協議継続と緊張緩和へのとりくみを表明したもよう。ドイツのショルツ首相と会談をしたようだ。新聞には文化面に西谷公明 [ともあき] というひとの言が載っていた。キエフ日本大使館につとめたり、ロシアトヨタの社長をつとめたり、あちらの社会や経済の事情にくわしいエコノミストだという。かれもやはり、ウクライナはロシアのルーツにあたる土地で、両国は歴史的一体性を有しているというかんがえがロシアにはあると述べていた。そこを欧米に侵食されたり取りこまれたりするのは我慢ならないのだろう。とはいえウクライナ内には、ロシアとのむすびつきを重視する東部と、ポーランドオーストリアハンガリーの一部だった歴史がありロシアからの独立をもとめる西部のナショナリストとのあいだで対立がずっとあり、選挙のたびに議論が起こってどちらかにおおきく振れるみたいなことがつづいているのだと。ソ連崩壊後はまず親欧米政権ができたらしいが、経済面でみて現実的にはソ連時代からのサプライチェーンを維持することが不可欠だった、しかし政権は親露派のそうした懸念にじゅうぶんに対応せず、対立が深まった。二〇一四年がもうひとつの画期で、親露派政権がたおされたことに危機感をおぼえたロシアはクリミアを併合したわけだが、それによって親欧米親露問わず国民のあいだに反ロシア感情がひろまり、だからロシアはクリミアを得たものの(友好国としての)ウクライナをうしなった、というのがこのひとの見方だという。今回の危機を乗り越えられたとしても、ウクライナでは今後しばらくのあいだは対露強硬姿勢がつづくだろうと。いっぽうたとえば筆者の友人であるロシアのひとはその点理解しており、ウクライナはいつかロシアにかえってくる、しかしそれはいますぐではなく、今後何十年かあとのはなしだ、と言っているらしい。ロシアのやりかたはもちろんまったくゆるされるものではないが、ただエコノミストとしてはウクライナの発展にとってロシア経済とのむすびつきは不可欠だといわざるをえない、両国が不幸を回避できるような現実的な判断をすることをのぞむ、ということばで記事はしめくくられていた。

  • 晴天。一〇時半すぎに洗濯物を干したが、そのさい冴えた風もながれており窓外に持っていったバスタオルはながれを受けて南に押され、眼下では保育園の幼児たちが出歩きからちょうど帰ってきたところで、オレンジ色や薄紫の帽子をかぶったちいさなすがたが門の内から横に折れて頭上にカバーのかけられたテラスのほうへと誘導される。おなじオレンジ色が午前のあかりにあざやかなカートもみられ、保育士らも数人あたりにいてそこそこの所帯だとおもったが、靴脱いで靴脱いでと園児を誘導する役のひとは声をかけている。建物のうえは青空のなかに、小蛇の抜け殻みたいな生気のない雲がひとつ、すっと縦にすりつけられていた。
  • いちど起き上がったのは八時一五分ごろで、睡眠がみじかいためいまこうして湯浴み後に文を書いている二時のじぶんはねむい。きのうはいちにち籠もったしたいして疲れておらず、腕振り体操も適宜よくやっていて、そうするとあたまが冴えるところがあるので入眠もすこししづらかったし、ねむりからもすぐに覚めてしまったのだ。比較的早起きできるのでよいといえばよいかもしれないが、しかしねむいので、このあと寝床に逃げてたしょううとうとしたほうがよいかもしれない。覚醒からここまで特段のことはない。いつもどおりの過ごし方で、食事は温野菜ときのうつくった煮込みうどんと納豆ご飯と豊富である。天気が良いので洗濯もした。きのうあましたいくらかにバスタオルとジャージをくわえたので、ジャージはいまプーマの白いやつのほうを着ている。きょうは勤務で四時には出る。
  • 往路。この日も南の車道沿いから踏切りを越え、中華料理屋とマンションのあいだの通路を抜けて、病院手前の空き地の脇へ。空き地の一画では工事がすすめられており、南側の歩道はそのため通行止めになっている。巨大なクレーンが高々とななめに伸び上がって、直方体の枠組みとそのなかに三角をいくつもつくるように埋めている斜線が青空を背景に黒くなり、こちらがわの面とあちらがわの面でそれぞれはいっている斜線が空洞をはさんでぴったりかさなったり微妙にずれたり、そのぶれを生み出すうごきによってふたつのフックが宙空でゆらぐ。空き地東側の道路は細く、裏道からの一方通行である。白バイが何台か連れ立ってやってきて信号待ちに停まったのをみれば、車体はぜんたいにつやめきを帯び、とりわけ触角的に伸びたミラーの裏側、銀色に磨かれたそこに光点がひときわ凝縮して白かった。角の踏切りそばまで来るとまた一台やってきて、こちらが道路を渡るものとおもったらしく停まったすがたは女性のようだったが、じぶんは渡って踏切りに向かうのではなく、左折して裏路地をすすむ身だ。最寄り駅はすぐそこで、線路に沿って駅舎を側面からみる位置になり、ふたつのホームのあいだをつなぐ通路のそとがわ、片方のエレベーターがはいっているあたりの外壁に年季の入ったツタ植物がまとわりついて、浸食的にさらばえていた。白バイは裏路地に折れてからも数台来て、通行人もなにかというような視線を向けていた。最寄り駅のそばにはマンションがのぞまれ、正面は陽をいっぺんに受けてあかるいものの、右の側面(反対側の駅前の通りに面した部分)は陰となりながら斜め奥に向かって細まっており、角をさかいに明暗の配がくっきりと截然されている。駅前マンションはもうひとつ、線路のこちらがわにあって、右手にひろがっている景色の左方に位置するそれはチョコレートクリームめいた茶色がさきのものよりもいっそう濃い。ふたつのあいだの青々としたひらきには遠く電波塔が立っており、白い土台はマンションと同様右側を陰のいろに落としこんで、そのうえに赤と白のブロックを組み合わせたような例のかたちが乗っている。しばらくのあいだ裏道北側の景観は一貫して、ひろがる空の前面にマンションやら、駐車場をはさんで近間のもっと平らな集合住宅やら、これから向かう市街のほうにそびえるいくつもの高いビルやらをのぞむ。前方をみあげれば空はあまりに澄明で、それを目にすると、いま金を稼ぐためこうして勤務に向かってあるいているけれど、そうした生活の秩序が空洞化して時間が宙に浮くというか、ながれがぽっかりとなかば無化されて、人生の根拠のなさが一瞬あらわれて実存の不安がきざしてくるかのようだった。それにしても雲はない。どの方向をみても水色がどこまでも、端までいじょうにおそらく端を越えてひろがっており、ただひかりのまき散らす白さが西南方面から青さのうえに混ざってプランクトン同士のたたかいめいたグラデーションを生んでおり、太陽は(……)の建物にかくれてそのきわは最上級の純白がこぼれんばかりの集束だったが、あるくうちにじっさいあふれてまばゆい西陽が顔や目に来る。(……)通りの交差点で止められた。目のまえを続々とながれゆく車のうちの、ひとびとの顔貌をおぼえる間すらないけれど、一定の位置に来るとフロントガラスから侵入してくるひかりを食らって顔は一様にあかるみに染まり、おうじて陰もそこここに生まれて、みなおだやかに彫りが深くなる。向かいのビルに切り取られたひかりが道路上に明暗両界を敷いているのだが、ただし通りは片側に二線だから、奥の車線におおきなトラックなどが偶然ならんでその陰にはいるときは、日なたをうばわれた一台のなかにあかるい顔はみられない。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)


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  • 日記読み: 2022/2/16, Wed.
  • 「読みかえし2」: 1234 - 1239