2023/2/26, Sun.

 遠征を前にしたクセルクセスと、亡命のスパルタ王デマレトスとの対話が、ヘロドトスによって伝えられている(『歴史』第七巻一〇二~四)。デマレトスは祖国での処遇に不満をいだいてペルシアに亡命した、いわば裏切り者である。そのような者は、クセルクセスの諮問に(end8)対して、とうぜんギリシア人の弱点を語り、ペルシア人を賛美するはずだ。ところが、クセルクセスの期待は外れた。
 ク:はたして、ギリシア人どもが余に刃向かい、抵抗するかどうか申してみよ。
 デ:ギリシアでは昔から、貧困は生まれながらの伴侶のようなもの。しかし、私たちは知恵ときびしい法の力によって勇気を身につけました。どれほどの大軍が攻め寄せても、彼らは一〇〇〇人でも戦うでしょう。
 ク:ギリシア兵の一人が二〇人のペルシア兵に匹敵するというのか。しかし、彼らは自由を好むという話だ。わが軍のように、一人の統率下にあれば、指揮官を恐れる心から実力以上の力も出し、鞭に脅かされて寡勢をも省みず大軍に向かい突撃もしよう。だが、自由ならそのいずれをもしないだろう。
 デ:スパルタ兵は一人一人の戦いにおいても何人にもひけはとりませんが、団結すれば世界最強の軍隊です。なぜなら、彼らは自由ですが、法という主君を戴いている。彼らが法を恐れることは、ペルシア人が大王を恐れるの比ではありません。この法の命ずるところはただ一つ。いかなる大軍を迎えてもけっして敵に後ろをみせず、あくまで自分の持ち場に踏みとどまり、敵を倒すか、あるいは自分が滅びよ、ということです。
 祖国を裏切ったデマレトスの口からでさえ、話がギリシア人の本質におよぶとき、身のほ(end9)どを忘れてほとばしり出るこの優越の意識。それは人間的生の基礎としての自由の自覚であり、しかも、その自由が人間の権威にしたがうことによってではなく、法の秩序にしたがうことによって可能になったという認識にほかならない。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、9~10)




  • 一年前はひきつづきウクライナの情報をいろいろ追っている。

Many Ukrainians are preparing to fight. City authorities have urged residents to stay home but prepare molotov cocktails for a citizen uprising against Russian fighters if they break through defensive lines. In one district they handed out rifles to any citizen who wanted to fight, and the defence ministry has opened the army to any Ukrainian citizen.

  • ここ四八時間で五万人いじょう、という避難者の数が出ている。

“More than 50,000 Ukrainian refugees have fled their country in less than 48 hours – a majority to Poland and Moldova,” said the UN refugee agency head Filippo Grandi, adding that “many more are moving towards its borders”. Photos have shown enormous queues of cars heading for Ukraine’s western borders. On Friday, guards fired warning shots to prevent a stampede at Kyiv’s central station as thousands of people tried to force their way on to evacuation trains.

Vladimir Putin urged the Ukrainian army to overthrow its leadership, whom he labelled as a “gang of drug addicts and neo-Nazis who has lodged itself in Kyiv and taken hostage the entire Ukrainian people”.

  • NATOウクライナ内に軍をおくることはできないと再度明言している。

Nato will deploy significant extra troops to countries in eastern Europe who are part of the alliance, its secretary general, Jens Stoltenberg, has said. UK ministers warned there would be no forces going to Ukraine itself to avoid an “existential” war between Russia and the west.

  • プーチンとラブロフにたいする資産凍結の制裁が、実質的な効果はあまり持たず”largely symbolic”でしかないことがしるされている。

The EU and the UK have moved to freeze foreign-held assets of Putin and his foreign minister, Sergei Lavrov. The initiative is largely symbolic but followed recognition that appeals for action from Volodymyr Zelenskiy had to be heard.

  • 国連安保理の非難決議では中国、インド、アラブ首長国連邦が棄権した(ロシアは拒否権を持っており、とうぜん反対するので決議は成立しない)。

The UN security council voted on a resolution deploring the Russian invasion of Ukraine. Eleven member states voted for the resolution, three abstained (China, India, and UAE), and one voted against (Russia). As Russia holds a veto, the resolution was not upheld.

     *

Approximately 69% of Russians now approve of Putin, compared to the 61% who approved of him in August 2021, according to Russian polling agency the Levada Center. And 29% of Russians disapprove of Putin, down from 37% in August 2021.

  • したがって、〈The Russian public largely believes that the Kremlin is defending Russia by standing up to the West.〉という理解になる。とうぜんながら、国内では情報は操作されている。

Russian state media has issued continuous denials that the Kremlin was preparing for war with Ukraine.

Russian talk shows regularly mocked Western predictions of a looming invasion into Ukraine as “hysteria” and “absurdity.”

Russian news shows started circulating lies about the security situation in Ukraine around February 21. Anchors on the state television Channel One, for example, have said that Ukraine is forcing its own citizens in the Donbas to flee.

  • だいたいのひとびとは戦争を予想していなかったし、ウクライナについてもおおむね好意的にみているが、西欧にたいする反感はつよく、現行の危機はロシアに責任があるとかんがえているひとは四パーセントである。

About 38% of Russians did not consider war with Ukraine a real possibility as of December 2021, according to Levada Center polling. Another 15% completely ruled out the possibility of armed conflict.

Approximately 83% of Russians report positive views on Ukrainians. And 51% of Russians say that Russia and Ukraine should be independent, yet friendly, countries.

The popular narrative is that Russia is a besieged fortress, constantly fending off Western attacks. Half of Russians blame the current crisis on the US and NATO, while 16% think Ukraine is the aggressor. Just 4% believe Russia is responsible.

  • プーチンの支持率はクリミア併合後、過去最高の八九パーセントに達した。サイバー攻撃もあわせたいわゆる「ハイブリッド」な電撃作戦で、あまり血を流すことなく同地をものにすることができたからである。

Putin’s approval ratings reached an all-time high of 89% less than one year after Russia forcibly annexed Crimea, a Ukrainian peninsula, in 2014.

The largely bloodless conquest resulted in “collective euphoria” among Russian people, who have often vacationed along Crimea’s scenic coastline.

  • しかしジョージアのときやシリアへの介入にかんしてはそうではないし、ウクライナ東部ドンバスについてもロシアのひとびとはクリミアと同様の感情をいだいてはおらず、ロシア連邦のいちぶだとはみなしていない。

But Russia’s other recent military actions, including its 2008 invasion of Georgia and its intervention in the Syrian civil war in 2015, were not met with the same enthusiasm.

Public support dropped following both of these military interventions. Now, Russians have not expressed the same personal connection to the Donbas that they felt for Crimea.

Polls conducted since the annexation of Crimea in 2014 consistently show that most Russians support the independence of the two self-declared republics in the Donbas. But they do not see them becoming a part of the Russian Federation.

  • ウクライナでの紛争はおおくのロシア兵を犠牲にすることにもなり得るし、したがって、プーチンの権力の正当性はそこなわれ、国内にもおおくの反対を生み、かれはそれを抑えるためにおおきなコストをついやさなければならないだろうと。

I believe the unfolding conflict in Ukraine could result in countless body bags of Russian soldiers returning to Moscow.

Russia’s ensuing military intervention in Ukraine may prove costly for Putin domestically, undermining his legitimacy and forcing him to spend more resources on quashing internal dissent.

  • 起床は一一時半とまたおそくなってしまった。瞑想はOK。新聞朝刊の一面にはロシア軍がキエフに侵攻、という報。うえにもふれたように、プーチンおよびゼレンスキーが協議を口にしているという情報もあった。亀山郁夫が識者としてインタビューされていたので読んだが、文学者らしく、ロシア国民の精神性とか、プーチンの価値観とか感情とか、観念的なほうを考察した内容だった。そういうこともたしかにあるのだろうけれど、でもやっぱりたしょうふわふわしていて、このばあいなんかなあ、という感。ひとつ興味深いエピソードがあったのは、亀山郁夫は二〇一四年にゴルバチョフにインタビューしたらしいのだが、そこでクリミア併合についてきくと、クリミアのひとびとがそれをえらんだのだから一概にわるいとはいえない、と言っていたのだという。また、ソ連解体のときにNATOの東方不拡大を文書で約束しなかったのを後悔している、とも言っていたと。
  • Nikola Mikovic, “Tracking Putin’s flip-flops on Ukraine”(2022/2/24, Thu.)(https://asiatimes.com/2022/02/tracking-putins-flip-flops-on-ukraine/(https://asiatimes.com/2022/02/tracking-putins-flip-flops-on-ukraine/))。二〇一四年にとうじのウクライナ大統領ヤヌコヴィッチが大衆の抗議によって追放されたさい、プーチンアメリカの要請を容れてかれに軍を動員させないようにしたというのだが、それにもかかわらず西側(交渉を仲介したポーランドとドイツとフランス)が、大統領側と反対派側でむすばれた合意の内容を反対派に遵守させなかったとして(というのは、けっきょくその翌日にヤヌコヴィッチ政権は転覆されてしまったということだろう。ちなみにこの合意がむすばれた日付は二月二一日だとあるから、プーチンが親露派二地域の独立承認を表明したのとおなじ日であり、ちょうど八年前ということになる)、やつらは「無礼」だと憤っていた。NATOが東方不拡大の約束をやぶった、という主張でもおなじ”rude”の語をもちいている。きのう新聞で読んだ二四日のプーチン演説の要旨でも、かれは二度「無礼」という語をつかって強調していたし、西側はわれわれを「見下している」という語も出てきていた。プーチンにとって西欧諸国は、ロシアをなんどもだまして(deceive)きた、鼻持ちならない嘘つき、詐欺師だということだろう。かれ個人の感情面にかぎっていえば、コケにされている、なめられている、という怒りと屈辱感が基調にあるのでは。ちなみに東方不拡大の約定については、典拠をおもいだせないが、もともとの文脈ではドイツについてのみいわれたことをプーチンNATOや西側ぜんたいについて拡大解釈している、というはなしをどこかでみた記憶がある。

“It was possibly the first time that they deceived us in such a rude and arrogant way,” the Russian leader replied.

It was certainly not the first time Putin accused the West of deep deception. In 2010, he said NATO “deceived Moscow in the rudest way” after breaking a promise made to the Soviet Union on no NATO expansion eastward.

  • 往路の描写はわるくない。

木の間の坂をゆっくりのぼっていく。ひだりのガードレールのさき、斜面下の細い沢でガサガサ落ち葉が鳴っていたので、鳥かなにかいるなと視線をおくったが、すがたはとらえられなかった。出口ちかくまでくると樹冠がなくなるから陽が射して、右手の壁にみじかく生えてぼろぼろ毛羽立ったタペストリーのようにそこを覆っている草の緑がかるくなっており、その色のあかるさをみているだけでやっぱりなにか解放感があるなとおもった。休日の気楽さでゆるゆる駅の階段を行き、ホームに出てものろい足取りで前のほうへ。空は穏和に真っ青であり、先頭車両の位置で足をとめて線路のほうを向くと、いましがたまで背後だった左手から西陽がばーっとながれて視界の端を埋めつつ頬を薙ぎ、正面の丘のふもとでは木が一本、葉叢の緑にあきらかな明暗線を引いて若さ暗さをくっきりわけながら、繊毛でできた異生物のようにわさわさもさもさと、各所のうごきをそろえず無造作に風にうごめいていた。陽のもとにちかくちいさくのぞく北西の空では、かなたの山影に空がまぜられ、淡青じみてかすんでいる。

  • さくばんまたエアコンをつけっぱなしのまま寝床で力尽きてしまって、覚めると五時台とかだったはず。しかし意外とからだはかるく、エアコンとデスクライトを消してからもそんなに本格にねむるというかんじにならず、しばらくあいまいに過ごしながらからだをさすったりして、六時二〇分にはもう身を起こした。日の出とともに起きたのなどいつぶりかわからない。水を飲む。天気は晴れ。窓外をちょっとのぞくと保育園のうえに浮かぶ朝空の青さはまだ薄く、無人の二階部屋の窓ガラスにこちらの視点からは背後にあたる東方の空の薄オレンジに染まっているさまがうつりこんでいた。この像をみるのは越してきていらいはじめてかもしれない。腕や手をちょっと振ってから寝床にもどるとごろごろしつつウェブをみたり一年前の日記を読んだりする。そうして七時半くらいにはもう離床したのではなかったか。しかし瞑想をしたのは八時すぎから二〇分ほどだったから、もうすこし遅かったかもしれない。食物はのこりすくない。米はきのう炊いていて二食分はあるので、納豆をおかずにそれを食べるしかない。あとは即席の味噌汁。水切りケースからまな板とか椀やスチームケースを取り出しておき、プラスチックゴミも踏んで潰したあと、それぞれ用意。即席の味噌汁を飲むのはひさしぶりだ。さいきんはからだが比較的あたたまっているから汁物を飲もうという気にならなかった。食後は椀や納豆のパックはまだ洗わず漬けておき、歯磨きをしたり、ウェブをみながら足首をまわしたり。あと洗濯もはじめて、一〇時ごろから寝床に逃げてごろごろしているあいだに終わったので、一〇時半すぎに立って窓外に干した。天気はよい。清新な朝で、風もつよくはないが、窓をあけたときの外気の感触はいくらか冴え返っている。洗濯物を干し終えたあとはとりあえずきょうのことを書こうとおもったが、そのまえに手をよくほぐしておきたかったので、先日録ったギター演奏の20番をnoteでながして聞きながらゆびをストレッチしたり、手首を振ったり。ちょっとだけのつもりだったがそれで一五分すべて聞いてしまった。ここ数日でなんかいか聞いているけれどこれはかんぜん即興のわりにけっこううまく行ったような気がする。さいしょにいちおうスケールに沿ってややメロディ感というか調性感が出たのがよかった。それでそこが根拠地になった。ミスはいつもながらたくさんあるが。それで手もほぐれたし書き出そうとしたところが、スペースキーの感触がおかしく、うまくはずむ感じがなくて死に体みたいになっているので、カバーをはずしてなかを掃除。上下にあってカバー裏にパチっとはまるようになっている銀色の細い棒が汚れていたし、それいがいのぶぶんも埃などで汚かったが、たしかにさくや温野菜の汁かなにかをちょっとこぼしたおぼえがあったので、一晩経ってそれが固まって棒にこびりついたのだろう。拭うが、いまもあまり感触はよくない。いちおう問題なく反応はするが。汁物の波及はとなりの無変換キーにもおよんでいたらしくそちらも鈍くなっているのだけれど、めんどうだからこれは掃除しなかった。ここまで記すと一一時半。風はつよくないとおもったところが、いまみてみるとそうでもなくて、洗濯物たちはそろって南へとかたむきなびいている。日記は一八日いこうができていない。またやっつけでてきとうにかたづけてしまおう。
  • それでいま一八日分の日記を書いていたのだけれど、すると窓のほうからガタンというおとが聞こえて、また物干し棒が落ちたんだなとわかった。椅子を立って布団のうえを踏んで窓に寄り、カーテンをめくってみればやはりそうで、洗濯物はピンチによってくっついたまま、右端が支え具から抜けて柵の内側に落ちている。マジでちょっとお願いしますよという感じなのだけれど、それでビニール紐をつかって補強することに。支え具は壁から突き出しておりさきのほうまでいくつか穴が開いていて、その穴のなかに物干し棒をとおして架けていたわけだけれど、洗濯物を吊るしている状態で北風が駆けるとその風を受けた洗濯物の重みによって左側、南方面へと圧力がかかっていつも落ちてしまうらしい。穴の下側縁に縛りつけておいた。いっぽんでもだいじょうぶだとはおもったが、なんとなく不安だったのでもういっぽん、かさねて縛っておいた。ただこれで落ちなくなったとしても、右側の支え具は、左側が水平にまっすぐ突き出しているのとはちがってすこししたに向かってかたむいており、くわえて壁にちかいもとのほうにちいさなひびもみえたりするので、負担がおおきくなって劣化がすすむのではないかという懸念もある。というかまさしくまえの住人もこういう問題に直面しておなじ解決法をしたためにつうじょうまっすぐ伸びているはずが、水平を保つ内部器具かなんかがこわれてかたむいているのではないかとおもうのだが、さらに劣化がすすんで万が一壊れてしまったらむしろもっとめんどうくさいことになるわけだ。ともあれそういうかたちで対処はしておき、立ったついでに小便がしたかったのでトイレに行って、椀をながしに放置していたのもわすれていたので洗っておいた。
  • いま一時二五分で、一八日分をざーっと書いてしまえた。手首をよく振ってゆびと手のひらをほぐしておくとやはりさらさら書けるようだ。
  • 二時ごろまで寝床で休憩。小野紀明『政治思想史と理論のあいだ 「他者」をめぐる対話』(岩波現代文庫、二〇二二年)を読んだ。第6章「共和主義的規範理論 Ⅰ ――シヴィックヒューマニズムの系譜」にはいっている。リベラリズムとデモクラシーは現在基本的には結合しているわけだが、ほんらいは区別しうるもので、じっさいルソーなんかは(イギリス的)リベラリズムは物質的な利益の配分をめぐるブルジョア間の闘争でしかないとして軽蔑していたらしい。そこでは政治や政治的共同体が個人の利益を実現するための手段になってしまうのだが、たいして共和主義とは市民の能動的な参加を不可欠とするものであり、またそこにおいて政治は共同体を日々に構成・維持していく営みとしてそれじたいが目的となるものだと。アメリカにおいては建国の理念の理解をめぐって共和主義論争というものがあったらしく、つまりロック的なリベラリズム独立革命の理念としてながいあいだ共有されていたところ、一九六〇年代から共和主義(この文脈ではデモクラシーと相当する)の観点でそれをかんがえる研究が盛んになってきたといい、とりわけ画期だったのはポーコックの『マキャヴェリアン・モーメント』(一九七五年)だという。このポーコックというなまえはなぜか知っており、著作名も聞いたことがある気がするのだが、いったいなぜ知っているのか、まえにどこでみかけたのかおもいだせない。それでアリストテレスキケロマキャヴェリとつづくシヴィックヒューマニズムもしくは共和政体の系譜がざっと紹介されるなかで、共和主義ってこういうことだったのかという簡易な説明があったり、ベンジャミン・バーバーという、市民の政治参加を重視する(というのはデモクラシーの要素を強調することでリベラリズムの行き過ぎを修正しようとするこころみということだ)論者の所説が解説されたりして、たいへん勉強になっておもしろい。しかしとうぜんこれをいちど読んだだけでよくおぼえたり理解したりできるわけがないので、書き抜きをして読み返さなければならない。やはり読むこと、書くことにくわえて、他人の文をうつすこともまいにちしなければ駄目だ。つまり南方熊楠メソッドである。他人の文をうつすということはおそらくものを読み、書き、かんがえるにあたっての恒常的な、終始継続するべき基礎である。一箇所でもよいのでまいにちうつすべきなのだ。そういうおもいに立ち返ったので、ここ数日はいちおう三島由紀夫の『中世・剣』の書き抜きをたしょうやっているのだが、じっさい書き抜きするべき本も三年分くらい、めちゃくちゃ溜まりまくっていてどうしようもない。しかも本を読めば、本にもよるが基本的にまいにち一箇所いじょうは書き抜くべき記述がみつかるので、うつさなければならない文章が増えていくいっぽうだ。追いつくことは望むべくもないから、それはかんがえず、ともかくもなるべく頻繁にうつす時間を取っていきたい。
  • 二時で起き上がると食事。あたためた豆腐と、冷凍の唐揚げをおかずにした白米。米はぜんぶはらってしまう。二品だしすぐに食い終わる。食後は歯を磨いたり、からだのなかがこなれるまで待つ。そうして三時にいたると、太陽は保育園の上空でまだ屋上まで距離をはさみつつ青さのなかに得々とおよいでひかりを目一杯そそいでいるのでちょうどいま日当たりのピークというところなのだが、もう洗濯物を入れてしまい、寝床のうえにしゃがみこんでたたんだ。そうして湯浴み。シャンプーを水増ししてつかっているわけだが、それだとぜんぜん泡立たないので、もう手に取るのではなく、ボトルをつかんであたまのうえに押し出し、ちょっとこすってはまた押し出しということをくりかえしてようやくすこし泡が立ってくるのだけれど、それでもながしてみるとなんだか髪の毛がキシキシしているようであまり効果が感じられないので、もう地元の美容室にさいごに行ったときにもらったものに変えてしまうことにした。といってまだ用意していないのだが。あとでやっておきたい。また、燃えるゴミもあしたが回収日なのだけれど、さきほどゴミ箱をのぞいた感じではスペースがおおくてまだいけるんじゃないかと、木曜日まで行けるんじゃないかとおもったのでこれはどちらでもよい。ここまで書くと四時一七分。打鍵がなめらかなのはよいが、打っているとやはり背なかの中央内部、芯のほうがやたらこごる感はある。そうしてそこのこごりはからだの緊張や呼吸のしにくさにつながる。いかんともしがたい。あと、一八日一九日分の記事は二食目のあとに投稿した。二二日まではもうめんどうくさいので、手帳に取ってあるメモをそのままうつすかたちでお茶を濁そうかなというこころになってきている。だからきょうあとはきのうのことを書ければというところだが、それも無理は禁物である。
  • また横になって本を読んだり、腕や手首を振ったりしたあと、買い出しに出向くことにした。時刻は五時すぎ。いつものようにジャージのしただけズボンに着替え、靴下を履き(部屋のなかでは基本裸足にスリッパですごしている)、モッズコートを羽織る。リュックサックのなかから勤務の日にはもっていく水のペットボトルを出して、結果財布とビニール袋くらいしかほぼはいっていないそれを背負い、マスクをつけて部屋を出た。扉に鍵をかけて階段をおりる。簡易ポストに郵便物はなし。そとに出ながら右方に向かうつもりでそちらを向きかけていたところ、自転車に乗った女性がやってきたのですれ違い、すぐ路地を抜ける。向かいの、せまい土地をうまくつかって建てたというようなややモダンなおもむきの一軒(軒などなかろうが)は窓に青空をうつすとともに暮れ方の薄橙が壁にかかって、これから向かう左に視線をふればそっちのほうの家のガラスは西陽のオレンジ色もまとめて空をうつしとっており、道をわたって方向転換すると正面は西、T字路になる突き当たりの家屋のきわに、つやをうしないながらもきらめきは底に秘めている漂白的な白さとないまぜになった橙がひろがって、時は落日である。なぜかストールは巻かなくてもだいじょうぶだろうとおもってきたのだが、それは過信だった。突き当たりの横断歩道をわたって右折、きょうは休みらしくシャッターが閉まったそのうえに二月の休み予定カレンダーが貼られた豆腐屋のまえを通り過ぎ、角の駐車場に敷かれた砂利のうえをななめに横切って(……)通りにはいれば、風は盛んに走ってなかなかつめたく、肩にややちからがはいってもちあがる。小公園には犬の散歩のすがたがあった。アパートを出てすぐ横の路上でも、この通りでも、街灯のひとつがいま点いたというところを目撃し、それはすこしふくらむように曲がった縦線を何本もならべて上下が切り取られた紙風船のようなかたち(また鳥かごをも連想させる)をつくった枠組みのなかに白色灯がはいっているのだが、いまはまだ空気に闇の色がないからその白さはきわだたず、意識されず見過ごしてしまう程度の、あかるさというよりはただの白さで、道を照らすというよりやや鄙びた場末町の背景に溶けこむようにして宙をいろどっている。もちろん街灯というものがおしなべて瞳を刺すように伸ばしてくる触手めいた光線のばらまきもいまはみられず、ただ籠組みのなかに白さじたいがおさめられて浮かんでいるだけだ。西へまっすぐしばらく行って、(……)通りに当たるころにはまた風が正面から厚く駆けてきて肌につめたく、なぜストールをつけてこなかったのか? とおもった。しかし空はすばらしい。おもてに出て左折しながら行く歩道、右手の車道を越えたさきでスーパーの駐車場からひらいた空には、いつも出勤時にそのそばを通る穂草の空き地で工事につかわれているクレーンの、夕映えを背後に置いて実体というより影絵のようなすがたが空に伸び、周辺のなかではいちばんの高さに達してやや右にのぞく病院の屋上線も越えているくらいだが、それとて手前にそびえる駅前マンションのおおきさにくらべればおもちゃじみており、さらに空のひろさからみれば下端にわずか生えだしている程度、どこを取っても強烈な色彩がなくてしかし青・白・オレンジ・わずかな紫と多種の淡色でさかいも分かたれずおりなされている夕空はほんものの無雲、どの方角も端まで一面につながって乱れることなく推移だけが存在している。それをみればやはりすごいなと、なかば呆けたようなこころになって、すすみながら視線を各方に振ってみあげることばかりしてしまう。横断歩道で止まるとちょうど向かいで老婆がボタンを押したところで、待ちながら目のまえを左右に、すなわち南北にまっすぐ走る車道のさきへと、やはり空に向けて視線を上昇させてしまうが、信号はとそれを直上に引きこんで三つ並びのが赤になっているからまもなくと確認したその余得で、機械のそばに高くちいさい細月が白く刻まれだしているのを発見した。
  • 日曜日の夕時だしスーパーは混んでいるのではとおもったが、もちろん相応にひとはいるもののそんなに混雑という印象でもなかった。キャベツを吟味したり、三個一パックの豆腐を籠に突っ込んだり、白菜は安くなっているのがあったのでふたつも取ったり、温野菜や汁物用の(といってさいきんつくっていないが)野菜をあつめ、入り口のちかくにもどってバナナも二袋ゲットし、その他レトルトのカレーだったり、このあと米を炊くつもりだから肉をおかずに食いてえと惣菜を見分してロースカツに決めたり、あした勤務だしとパンを買ったりともろもろ。会計は「(……)」というなまえの高年にあたる婦人で、白髪もしくはなにグレーというんだっけああいうのは? ロマンスグレーか。そのくらいの白さのあたまがなかなか似合って物腰もわりと上品にみえる眼鏡の女性で、手袋をつけているのだがほかの店員もつけていたかな。手袋ではないがビニールをつけたりはしていたかもしれない。それで機械で金を支払い、整理台の端にうつってリュックサックとビニール袋に荷物をまとめて退店。
  • スーパーに滞在していた一〇分かそのくらいのあいだに暮れはすすみ、往路ではみられた西陽の気配はもはやうかがわれなくなり、空気は冷たくしずかな色合いへといっそう向かって午後六時へとかたむいている。横断歩道をわたるとすぐそこの口から裏へ。帰路の序盤はさして寒くなかった。しかしアパートがちかくなってくるとだんだん風にやられて寒くなり、そうなるとゆっくりだった歩もやや焦ってくる。空はどこも青く、純白混じりの淡色を越えて明度が下がってかえって色濃くなり、帰り道では行く手にあたる東の空には寂寞めいたそのなかに紫も浅くくゆっていた。帰り着くとさすがにこの短時間でポストになにか来ていたということはない。階段をあがって部屋にはいり、荷物をおろすとマスクに抗菌化スプレーをかけて捨て、買ってきたものを冷蔵庫などに整理して、服をまたジャージにダウンジャケットのかっこうにかえるといましがたのことをさっそく日記に書き出した。とちゅうでやはり背の中心部がこごるので、たびたび立って腕を振ったり手首を振ったり背伸びをしたりしながらすすめ、ここまでで七時一一分。ひさしぶりのいきおい。この調子できのうの、せめて往路くらいはきょうじゅうに行きたいが果たして? あと、日記を書き出すまえにプラスチックゴミを始末して米も炊きはじめておいた。
  • このままのいきおいでやっちまうかとおもってきのうの往路を書き出し、いま八時三六分でしまえた。よかったよかった。しかし背はこごる。そのためたびたび立ってからだをうごかしている。そのほうがじっさいよいかもしれない。すこしでもやりづらいなとおもったらいったん中断して、からだをほぐしてから再開すると。立って背伸びなどしてみると、肩甲骨のほうだけでなく、したのほう、腰のあたりもこごっているのがわかる。だから背面が上下ぜんたいてきにかたくなっている。背筋が圧倒的に足りないのかもしれない。たしかに、じぶんのからだに背筋というものはほとんどついていないだろう。うしろすがたのたよりなさには自信がある。背中で語ることなど一生ない。
  • その後はからだがこごったので寝床に逃げて休み、そうして夕食。買ってきたキャベツをつかいだして温野菜。あと大根も。そしてロースカツにソースをかけて白米とともに食う。うまい。バナナとヨーグルトも食う。食後はけっこうからだが重くて、ウェブをみてだらだらしていたとおもうが、腹のなかがこなれてくると布団にうつって休息しつつ、あした(……)さんとの通話があるのでUlyssesを一段落だけでも訳そうとおもい、身をやしないながらChromebookでPDFファイルを確認しつつ訳をかんがえて、零時ごろに起き上がるとデスクについて文をつくった。Fergus’ songというのはイェイツのWho goes with Fergus? という詩のことで、この直前に砦の屋上から階段をくだって去っていくBuck Mulliganがその一節をくちずさんでおり、だからとうじの文化では歌が、メロディがついていたということらしいのだが、そのあとひとりのこったスティーヴンが海を見つつ母親のことをおもいめぐらせているのがこのあたり。Yeatsの詩は原詩ぜんぶもいちおう読んで(一二行しかないのでみじかい)、そのうえでlove’s bitter mystery(はその詩の一節である)はかんがえた。変哲のない言い方になったが。ここはすでに(……)さんが訳してきて通話中にも読んだ箇所ではあるのだけれど、まあせっかくなのでこちらもページのはじめから訳してみるかということで。

A cloud began to cover the sun slowly, wholly, shadowing the bay in deeper green. It lay beneath him, a bowl of bitter waters. Fergus’ song: I sang it alone in the house, holding down the long dark chords. Her door was open: she wanted to hear my music. Silent with awe and pity I went to her bedside. She was crying in her wretched bed. For those words, Stephen: love’s bitter mystery.


 雲が太陽をゆっくりと遮りだし、やがてすっかり覆ってしまうと、陰につつまれた湾はいっそう深い緑色をたたえた。それは彼の眼下にひろがっていた、苦い体液を溜めたボウルが。ファーガスの歌。家にいるとき、ひとりで歌ったものだ、暗く尾を引く情感を抑え気味にして。寝室のドアはひらいていた。母さんが歌を聞きたがったから。畏れと哀れみとで黙りこくったぼくはベッドの横に行った。むごたらしいベッドのなかで、母さんは泣いていた。あのことばのせいなんだよ、スティーヴン、愛のもたらす苦しき神秘っていう。

  • その後は寝床でだらだらと夜を更かしてしまい、三時四〇分ごろ就寝した。