2023/3/9, Thu.

 あるとき、一人の律法学者が「どうしたら永遠の命を受けられますか」とイエスにたずねた。「律法になんと書いてあるか」というイエスの反問に、彼は「神を愛し、隣人を愛せ、と書いてあります」と答えた。「そのとおりだ。実行せよ。そうすれば、永遠の命をうる」とのイエスの答えに、彼はさらに「隣人とはだれですか」と問いを重ねた。それに対するイエスの答が有名な「善きサマリア人」のたとえ話である(『ルカ』一〇の二九~三七)。だから、このたとえ話はイエスの教えの本質に触れる話である。なぜなら、この話は「愛」とはなん(end117)であり、「永遠の命」とはなんであるかを明らかにしているからである。
 あるユダヤ人が、エルサレムからエリコに降 [くだ] っていった(ちなみに、エルサレムは海抜八〇〇メートルの高地にあり、ヨルダン川地溝帯の末端にあるエリコは海面下二五〇メートルの低地にある)。彼は途中で強盗に襲われ、身ぐるみはがれて半死半生のまま置き去りにされた。そこへ、たまたま、ユダヤ教の司祭が降りてきたが、見て見ぬふりをして道の反対側を通り過ぎていった。まもなく、レヴィ人も通りかかったが、同じように道の反対側を通り過ぎていった。ところが、旅行中のサマリアの商人がそこを通りかかり、憐れに思って応急の手当てをし、自分のロバに乗せ、宿屋に運んで、デナリオ銀貨二枚を渡したうえで、帰りに費用は払うからできるだけの介抱をしてください、と頼んで立ち去った、という。だれが、強盗に襲われたユダヤ人の隣人であるかは、言うまでもない。
 ところで、この話はまず、愛とは自分の好きな人に親切にすることではない、と告げている。そういうことなら、罪人でもやっている、とイエスは言っている(『ルカ』六の三二)。そうではなくて、偶然に出会った苦しんでいる人に、つまり、かかわり合いになったら厄介を背負いこむかもしれないと思われるような人に、近づいていって一緒に苦しみを背負うこと、それが愛であると告げている。
 しかし、この話のさらに深いメッセージはつぎの点にある。なぜ、司祭とレヴィ人は、見(end118)て見ぬふりをして、通り過ぎたのか。もちろん、彼らは薄情な人間であり、他者の厄介ごとにかかわりたくないエゴイストであっただろう。それはまちがいない。しかし、それだけではない。彼らは汚れを恐れたのだ。聖なる人が聖なる仕事にたずさわるときには、身体障害者、病人、死人に触れてはならない、という掟があることにはすでに言及した。司祭やレヴィ人はこの半死人に触れて、自分も汚れることを恐れたのである。愛のない人間の例として、わざわざ司祭とレヴィ人を引き出すことにより、イエスは律法を守る人々の非人間性を暗示しているのである。
 他方、サマリア人とは、汚れた人間として、ユダヤ人から排斥されていた人々である。彼らはもともとはユダヤ人と同じ民族に属していたが、紀元前八世紀にアッシリアに侵略され捕囚民として拉致された後、異教の影響を受け、正統ユダヤ教から離れた人々であった。だから、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、触れるどころか、口をきくことさえ避けたのである。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、117~119)




  • 一年前より往路の記述。そこそこ。「紅梅と、底に薄緑を秘めてにおやかな白梅が一歩のたびにいろを交錯させてめまぐるしい」、すばらしい。「水灰色」なんていいかたもこれいらいつかっていない気がする。

街道を行くと、公園には小学生らが多数あつまってわいわい遊びまわっているすがたがあり、なかの三、四人はいったん公園を飛び出してそのさきにあるローカルな商店でなにか買っていた。裏通りにむけて折れるとそのうしろからかれらが(男女でふたりずつではなかったかとおもうが)ついてくる。正面のつきあたりに建っている白壁の公営団地をみあげればその上空、北側の空は羽衣めいて雲を帯びながらも青さもけっこうのぞいている。梅がそこここで咲いており、裏路地とちゅうのアパートのまえでは低い塀のうちからちいさな一本が伸びあがって、枝によって先のほうはまだまばらなものもうきちんとならんだものととりどりだったが、つよいいろのショッキングピンクが充実しながら四方にむけてばらけているのが花火めく。あるいていると、すぎていった車の一台もとおくなり、音が消えてしずけさがいきわたったその停止感とともに、ちょうど目がむいていた林の縁の緑葉もまったくうごかずとまっていることが認知され、風がないなとみて肌をかんじ樹々をさらにみつめることで余計に静寂と停止がさだかになる。森というか丘というか、家々と線路のむこうにもちあがっている樹壁のつらなりは、入り口ばかりでなくたかいほうもやはりうごきをはらまずひろく一面ぴたっと停まってそれがかえって威容なのだが、くすんで黴っぽいような緑のなかにわずかオレンジめいた褐色もおおく混入して目立ちながらならびをみだしており、あれは花粉をふんだんに充実させた杉の木なのだろう。薬は飲んでいるが道中くしゃみもいくらか出た。右側に空き地のひらいた一角にかかると建物のない土地だから空がひろがり東から南をぬけて西まで水灰色の敷かれ雲がおおきくまたがって空のひろさをますますあらわにしているのが一望されて、数歩すすめば二軒のちょうど境あたりにある梅は二本混ざっているようで、紅梅と、底に薄緑を秘めてにおやかな白梅が一歩のたびにいろを交錯させてめまぐるしい。

  • 実家での朝。覚めて携帯をみると七時半。天気はじつによい。窓が南なのでそとのあかるさがはやい時間からよくはいるし、カーテンをひらけばすぐそこに青空もよくみえて、このあかるさはほんとうはアパートにもほしいところだ。布団のしたでしばらく胸や腕をさすったり、花粉によって詰まっている鼻に苦戦しながら深呼吸をしたりして、七時四六分にはもう起き上がった。鼻水をかむ。トイレに行って放尿し、洗面所で水も飲むともどり、実家にいたころは瞑想をするならいだったがいまは腕振り体操をおこなう。からだは起き抜けからかなりほぐれており肌がやわらかく、太ももの裏などさわってみてもぜんぜん筋張っていない。ふにゃんとしている。前後の腕振りで軟質性をさらに高めて、八時過ぎには上階へ。湯呑みを持って部屋を出て階段をあがると、居間では両親ともテーブルについて食事を取っているさいちゅうで、おはようとあいさつをする。背伸びをしたり左右に開脚して上体をひねったりしていると、母親が、燃えるゴミあったら持ってきて、八時一五分には出さないといけないから、というので、いちど室にもどり、ゴミ箱代わりにつかっていた紙封筒を持ってきて、鼻を掃除したり鼻水をかんだりしたティッシュを台所のゴミ箱に合流させておいた。紙封筒を自室にもどし、もういちどあがってくると洗面所にはいってドライヤーで髪をとかす。髪の質感もやわらかいし、きのう髭や産毛を剃った顔の肌もなめらかで、表情がいつもの冴えないものではなくすこしばかりきりっとしているようにみえたのだが、これだけ身がほぐれているというのは、きのう風呂に浸かって静止したことがやはりおおきいのではないか。ゆっくり湯に浸かれるかどうかで健康はたぶんかなり変わる。洗面所にいると母親が洗濯機をいじりに来て、これもう洗ったから、あとは干せばいいだけと、洗濯機のまえの籠におさまらずあふれでるほど乗せられていたというかむしろ積まれてあった洗濯物をしめしたので(「これ」というのはそのなかにふくまれていたこちらのモッズコートだ)、それなら干すかとおもったがいっぺんに籠に入れて運べる量ではなかったのではんぶんくらいを取り上げてそのまま持っていき、ソファの背に置いてベランダにつづくガラス戸のまえでハンガーにとりつけた。タオルやパンツなど。集合ハンガーは二種類、長方形のやつと円型のものがあって、とりあえずタオルを長方形のものにつけていき、パンツはどうしてるんだっけとおもいつつおなじく長方形のほうにはさもうとしたところで、ゴミを出してもどってきた母親が礼を言いつつ、パンツはそっちのというので、そこでそうだった、たしかにこっちで干してたわと円型ハンガーがあることをおもいだした。その他じぶんのモッズコートや父親のTシャツなどはハンガーにかけてもうそとに出してしまったが、籠を持ってくるとのこったのは主に母親の下着類なんかでそれはじぶんでやるというので、そこまでとして食事へ。父親は飯を食い終えて台所で洗い物をしていた。そこにはいっていき、きのうの白菜でつくった味噌汁の小鍋を火にかけて、フライパンも火のうえに乗せて油を引き、かたむけながらしばらくあたためたのち、ハムと卵を落とした。ひさしぶりのハムエッグである。焼いているあいだに父親が食器乾燥機から取り出して戸棚のうえに置いておいた皿たちを棚のなかに整理し、丼に米を盛って、焼けたものをそのうえに。味噌汁もよそって卓へ。朝刊をみながら食べる。テレビは『あさイチ』。どこかの小規模水族館を紹介していた。ひさしぶりに紙の新聞(読売)を読むと、ふだんネットでも国内のニュースをぜんぜんみていないものだから、いまこんなできごとが起こっていたのかと新鮮である。一面には大日本図書という出版社が大阪府教科書検定にかんして市長だったか市議会議員だったかわすれたが便宜をはかるようもとめたという件がつたえられており、それによってこの出版社は当該科目ではこんかいの教科書検定には問答無用で不合格になると。中学校の理科なんかでそこそこつかわれている会社らしかった。政治面にはきのうの夕刊でみていたが、NHK党の通称ガーシーという議員が、参議院に当選したもののそれからずっと海外に滞在して当院していないということで問題となり陳謝をもとめられていたところがそれに応じなかったので、除名となるみこみと。国会議員としてのしごとなにやってたの? というはなしで、このひともこのひとを当選させた投票者もただのアホやんとおもわざるを得ないのだが、この国の政治や社会の底がもうかんぜんにぐずぐずになってしまっているということをあらわすまたひとつの例だろうこれも。なんだかんだ言っても、たとえば昭和という時代にはこんなことは起こりえなかったのではないかとばくぜんとおもうのだが。ちなみに立花孝志はこの件の責任を取って党首を辞任するらしい。もうひとつ、高市早苗安倍晋三との電話でこれまでの放送法の解釈はおかしいみたいなことを口にしたとつたえられて批判を受け、ほんにんは安倍と放送法について電話したことはないしじぶんのそういう発言は捏造だと弁明もしくは反論しているらしいのだが、この情報元というのは総務省が公開した七八枚のメモだといい、ただ文書には?がついたぶぶんなんかもふくまれているということで、行政文書としての正確性や信頼性がどこまであるのかはしょうじきわからん、みたいな印象だった。ほか、文化面に井上正也が安倍晋三の回想録について評した文。戦後歴代の内閣総理大臣で歴史にたいする責任みたいな観念をもっとももちあわせていたのはおそらく中曽根康弘で、回顧録も出したし、『中曽根内閣史』みたいな本も出しており、晩年までオーラル・ヒストリーのためのインタビューにもこころよく応じつづけたと。安倍晋三もじぶんの政権についてよく語ったにんげんではあるが、かれの回想録がほかとちがうのは権力争いの内実を赤裸々に書いていることで、要は官邸に権力を集中させるとともに人事をつうじて官僚にも政権の意思を徹底させるというそういう仕組みづくりのぶぶんらしいが、とうじの安倍政権は、政権がたおされるとしたらそれは敵ではなくて身内によるものだ、と断言できるほどの緊張感を党内や内輪のあらそいにおいてそなえていたらしい。もうひとつ井上が注目したのは、安倍晋三プラグマティズムで、イデオロギー性を前面に出していった第一次政権時とはちがい第二次政権のときには柔軟に妥協をする姿勢をみせており、じしんを支えてくれた保守層についても、感謝を述べるいっぽうでかれらの要求を一〇〇パーセント満たすのは不可能だと突き放した発言をしており、そこに現実的なプラグマティズムをみるとともに、理念ではなくて権力の維持そのものが目的化したような危うさもかんじると。さいごに、安倍は岸信介池田勇人がやったことを両方ともみずからの政権でやりたいという構想を持っていたらしいと紹介され、沢木耕太郎池田勇人まわりについて書いた本に安倍が言及していたことを踏まえて、祖父である岸信介よりも、人生のとちゅうで挫折を味わいつつもそこから立ち上がった池田勇人のほうに安倍は共感していたのかもしれないと締めくくられていた。
  • 食後は皿を洗い、実家にいたころはそこから風呂を洗うのがながれだったが、きょうは母親が湯がたくさんのこってるから追い焚きでみたいなことを言っていたし、どうするのかわからなかったのでまかせようと洗わず、湯呑みに白湯をそそいで自室に帰った。パソコンを立ち上げてNotionにこの日の記事を作成。一年前の日記を読みつつ足首をまわしたり。とちゅうで隣室に行ってまたテレキャスターを少々いじった。そうすると九時四〇分くらい。というか日記を読み出すまえにもうギターであそんだのだったか。どちらでもよいが、食事から一時間ほどが経ってからだがこなれてきたので立ち上がって腕振り体操をおこない、そのあとベッドに横たわって日記のつづきを読んだり、ウェブをみたりした。そうして一一時をむかえ、きょうのことを書きはじめて、ここまででもう正午直前。からだがほぐれておりやわらかなのでゆびのはこびもひじょうにかるい。なるほどたしかにこうだった、実家にいるときは、いつもというわけではないが、調子のよいときにはこういう書きぶりだったなという感触。母親は一〇時前くらいに買い物に出かけると知らせに来て、父親も献血に行くと言っていた。いますでに上階にはひとの気配がもどっている。
  • この日はあと昼過ぎくらいから母親のはなしをなんだかんだ聞き、たぶん三時くらいにそとに出て林縁の土地をみながらまた母親となんだかんだはなし、その後夕食を支度しようとおもっていたところが、花粉症がひどくなって鼻水やらくしゃみやらめちゃくちゃやられたためか疲労感がはなはだしく、ベッドで休んでいるうちに寝てしまい、家事をできず。夕飯を食ったあと八時半ごろ家を発ち、母親に(……)駅まで送ってもらってアパートへの帰路についた。書いておけることは母親のはなしくらいなのだけれど、それとて内容は過去となんら変わっておらず、中心点はだいたいふたつ、父親にまたどこかしごとを見つけてはたらいてほしいということと、このさき家のかたづけができるかどうか不安というこの二点に要約される。母親はこの数年間ずっとこれらの悩みに取り憑かれており、こちらが実家にいたころはほとんど毎日のように、来る日も来る日も、なにかしらこの圏内にある愚痴をもらしつづけていた。「繰り言」ということばのまったき具現化、このうえない例と見えるほどのものだった。そしていまもまたかのじょの不満や不安はその位置にとどまりつづけているのだが、実家にいたころは毎日毎日おなじこと(ほんとうに、ほぼまったくおなじ内容、おなじことば選び・ことば遣い、時空が反復しているのかとおもうような忠実な繰り返しだった)を聞かされるのに辟易して、もう勘弁してつかあさいという感じだったが、たまに帰ってきたときくらいはそれをいちおう聞く役になるほどの心身の余裕はいまいちおうある。といってただ聞いているのではなく、こちらの意見や評価を述べたりもしてしまうが。そのこちらの意見というのは、ひとつにはもうほっとけ、好きなようにやらせとけ、ということで、ことに幻想を捨てろということばでじぶんのかんがえを説明したのがこのたびあたらしかった。つまり母親は父親にたいしていろいろとこうしてほしい、という欲求があるわけである。そのもっともおおきなものはおそらく再就職で、母親の労働観念・社会観念からすると、定年して家にいていわゆる賃金労働をせず、養蜂とか畑とかじぶんの趣味的なことをやっているのは、世間にたいしてばつが悪い、という感じ方なのだ。具体的にはたとえば、だれか知り合いに会ったとき(たとえば(……)さんとかではないか)、旦那さんはいまなにしてんの? とかたずねられたら、定年して再就職はしていない、はたらきに出てはいない、家にいて畑とかをやっている、ということは言えない、言いたくない、言うのが恥ずかしい、という感じなのだ。週休五日制をつねに追い求めているこちらとしてはそれも働かざる者食うべからずイデオロギーに呪縛された感性だとおもうし、いぜんはその固着ぶりに苛立ちもしたけれど、母親じしんがそう感じるのだからそれはしかたがないし、いまはそういう感じ方を変えさせようともおもってはいない。おもってはいないと言いながらもしかし説得めいたことをこの日も口にはしてしまったのだけれど、そのほか母親の父親にたいする求めにはたとえば、買い物などでいっしょに外出するときはもうすこしちゃんとした格好をしてほしい、畑仕事などで薄汚れたような服ではなく、すこしばかりはきれいな、ありていに言ってあまりダサくない服装をしてほしいということがあったり、ちいさいことだとこの前日にも言い合っていたように、皿洗いをするときに水をあまりジャージャーつかわないでほしいとか、ガス代を節約するために風呂をなるべく間をあけずにつづけてはいるようにしようとか、たぶんそういうこまかいことはいろいろあるのだろう。大から小までそういう「〜〜してほしい/しないでほしい」をやいのやいの日々にいわれつづければ、それは父親も嫌気がさすのはとうぜんだろうとおもうし、苛立ちもするだろう。だからといってじぶんは父親がそれに気色ばんでおおきな声で怒鳴り、威圧的な言動をはたらくのももっともだとはおもわない。それは端的にクソな所業だとおもっているが、ただ母親側の態度や言動が父親の苛立ちを呼ぶという側面もまちがいなくあるのだ。そういうはなしにかんしてこちらが母親に言ったのは、あなたがなになにしてほしいというそれはぜんぶ父親に幻想を見ているということで、じぶんにとって理想的なあいてであってほしいという欲求に過ぎず、率直に言ってあまり益のあることとはおもえないからさっさとその幻想を捨てたほうがいい、残念ながら他人というものはじぶんの思い通りにはならない存在なのだ、なぜならそれはじぶんではなく他人だから、というようなことで(もちろんもっとカジュアルな喋り方だが)、この「幻想」論には母親は笑い、そうだねと言ってけっこう納得したようなようすを見せていたけれど、しかしだからといってかのじょの振る舞いや両親の関係が変わるかといったらそんなこともないだろう。べつに夫婦であれ友人であれ、関係のあるあいてにこうしてほしいという要求を向け、あいての振る舞いや習慣を変えさせようとすることじたいはなんら問題ではないとおもう。つねにlive and let liveで行く必要はなく、ときに衝突したり葛藤したりすることも人間関係にはよくあることで、場合によっては不可避であり、また必要なことでもあるだろう。なのだけれど、そこで実りある結果が生まれるには、おたがいがあいての言うことをきちんと聞き、受け止めてひとまず理解はし、それと照らしておのれのありかたに反省をめぐらせるという契機が相互に成立しなければならないわけで、いまの両親のあいだでそういうことができるかといったらこちらにはそのようにはおもえないのだ。べつに仲が悪いとか険悪だとか冷淡だとかいうことではない。ただそうしたはなしあいや関係の更新をはかっていくための能力や度量や意欲や環境的条件などが欠けているということだ。だから母親にも、他人を変えるっていうのはたいへんで、手間と労力がひじょうにかかることで、それをじゃああなたはできるの? ってはなしなわけよ、と言い、で、じっさいこの数年ずっとおなじことを言ってるじゃん、でもけっきょくお父さんはあのままで変わってないでしょ? だからその路線をとりつづけてもまあ無駄なんじゃないかっていうか、なんかあなたはお父さんのほうばかり向いてるっていうか、お父さんがどうでああしてほしいこうしてほしいとかばっかりで、それに縛られてるように見えるんだよね、だからお父さんはお父さんでほっといて、もっとなんかじぶんでべつの方向をみたほうがいいんじゃないの? というふうにはなし、へんなはなし、「夫離れ」をしたほうがいいんではないか、という言い方でまとめておいた。もうひとつこちらがかのじょに述べたのは、母親は父親にいろいろと要求をするが、父親のほうから母親のありかたについて要求することはないのではないかということで、聞いてみればじっさいそうだという。「自分勝手」で「わがまま」だとか言われることはあるようで、母親じしんもたしかにじぶんはそうだとおもうとも言っていたが、父親のほうから、たとえばもっと着飾ってほしいとか、こういうふうな生活をしてほしいとか、そういう要望を口にすることはないようだし、こちらの観測範囲でもないとおもわれる。それは不公平なんじゃないの? とも言っておいた。じぶんはなにもあいてにあれこれ要求してないのに、そっちからはああしろこうしろってやいのやいの言われまくったらさ、そりゃ勘弁してくれってなるでしょ、苛立ちもするでしょ、と。このへんのこちらの意見は、そとに出て林縁の敷地をうろついているあいだにはなしたことである。
  • もうひとつの母親の不安である家のかたづけにかんしては、こちらじしんはまったく不安をおぼえていないというか、そんなにまじめにかんがえてすらおらず、かんぜんに兄まかせで、立派に社会人としてはたらいていろいろ世間のことを知っている兄がそのときになったらやるべきことをやるだろうからじぶんもできる範囲でそれを手伝えばよいだろうくらいのことで、だから母親にもだいたいそういうことを言うのだが、しかしかのじょの心配や不安はもちろんそれで解消されるわけでない。こんかい母親の言を聞いてかのじょとはなした結果あたらしく得た印象は、うえにも記したけれど、母親のほうも父親に縛られているようにみえるなということで、家のかたづけにかんしてもお父さんが死んじゃったあとに(かのじょのなかではじぶんがさきに死ぬのではなく、父親のほうがさきに死ぬということが前提化されている)こんなにいろいろものがのこされたらどうしようもない、できないよ、ということを言い、したがって父親がたとえば畑につかう用具のたぐいを買ったり、あるいはまた養蜂に凝ってその道具を買ったりじっさいに蜂箱をつくったりしているのも困るというか、じぶんがかたづけなければならないものを増やさないでほしいというかんがえなのだ。そんなことを言ったらなにもできないじゃんというのがこちらの感想で、それはどうせ死ぬんだから人生は無意味だとかんがえてなにもやらないというたぐいのニヒリズムとちょっと構造的に似ているとおもうのだけれど、父親の存在にそういうかたちで縛られているというのは、父親がさきに死んだとしてじぶんひとりで自律的な生を送っていく自信がないということなのかなともおもい、その点聞いてみたのだけれど、ひとりで生きていけないとはおもわないけれど、ただ家のかたづけはじぶんひとりじゃとにかくできないとおもう、ということだった。父親がさきに逝ったとしてのこった母親が独居で行くのかどうか、またこの家に住みつづけるのかどうかというのはまたひとつの問題で、じぶんなんかはドラ息子だからここでもかんぜんに兄任せで、兄貴のところに引き取ってもらえばいいじゃん、まあもちろん向こうがよければだけど、そしたら孫ともいっしょに暮らせるじゃんということを言い、時間がのちになるが(……)駅まで送ってもらう車のなかで、もしあっちがいいっていったらあなたはそうする気はあるわけ? とたずねてみると、母親はうーん、みたいな反応で、まあそうするしかなくなったら……でも自由はなくなるよね、と回答をよこした。そこにこちらは、まあでも果たして高齢のひとり暮らしが自由かどうかっていうとねえ、年を取ってからだもおもうようにうごかなくなってたいへんという状態でひとりでなんとかがんばるっていうのがほんとうに自由なのかどうか、それだったら同居して、まあじぶんひとりではないけど、支えてもらいながら協力して暮らすっていう、そっちのほうがもしかしたら自由かもしれない、という問いを提起したがこれはこたえをもとめていたわけではないし、こちらにもむろん解は知れない。ただ兄としてはとうぜん、いずれ母親を引き取ることになるかもしれないという可能性は想定しているだろうとおもう。それでまとまればそれで良いとこちらはおもっている。こちらじしんが母親と同居するという選択肢もないではないが、経済性の面で不安がありまくりだし、ひとりが好きなじぶんの性分としてもそれはできたら避けたい。
  • ところで林縁の土地にはミツバチの巣箱がふたつ積み上げられており、これはいぜん来たときはたぶんなかったとおもうのだが(それか見なかっただけか)、近寄ってみるとちいさな蜂がブンブン飛び回って箱のすきまを出入りしていて、うわマジでめっちゃいるやん、すごいなとなった。これは刺されることはないのかと聞いてみると、たまにあるらしい。ただミツバチは温厚なのか、こちらからおどかしたりすることがなければとくに攻撃はしてこないと。これはもともとこのへんにいたミツバチがあつまってきてるってこと? と聞いてみると、どういう仕組みなのか知らないが誘引法があるらしく、だから周辺にこれだけのミツバチがいたってことか、というわけで、それもちょっとおどろくがまあたしかにあれくらいはいるだろう。ちなみに母親がいうには、この林縁の敷地にはちいさな沢というか沢とも言えないような細さの水のながれがあって、それは林のなかでは地面から一段下がった位置で草木のあいだをながれており、林の入り口あたりでは土地とほぼおなじ高さになって、そこから道路のほうにすすむにつれて小堀めいた溝のように両側に壁が生まれて、それは要するに我が家の林縁の土地と隣の敷地をへだてる空隙になっていて、子どものころなどはそこを飛び越えてあそんだりしたものだが、溝の端ではトンネルにはいり道路のしたをくぐって向かいに抜け、さらにしたへと(方角としては南へと)くだっていく。そして土地とほぼおなじ高さになっているあたりでは我が家ではむかしからなにかしら野菜が育てられていて、いまもなにかやっていたとおもうが、その水路のきわに水甕が設置されている。そこにはたまにサワガニがいたりして、子どものころのじぶんはサワガニがなぜか嫌いだったのだけれど、その水甕のなかで蜂がよく死んでいるのだと母親は言い、じっさいこのときみてみても死骸が数匹浮かんでいた。だからミツバチは死期がちかづくと水場をもとめてそこで死ぬという習性なのだろうか?
  • 林縁の土地にいるあいだは道路をとおるひとがたまにあって、なかには母親の知ったあいてもいるのであいさつをかけたりこちらもそれに同じたりするのだが、とちゅうで(……)さんの夫婦がとおった。このときは立ち話がしばらくつづいたのだけれど、母親は敷地のほうにいたままうごかず、(……)さん夫婦も土地にはいってくるでなく道路のとちゅうに立ち止まって、だから距離を置いた状態で主に女性同士がことばを交わす交流になったのだけれど、こちらは母親のそばをはなれてちょっと道路のほうにすすんだところがついてくるものがないから半端な位置で立ち止まり、あいだにあたるその半端な位置で立ち尽くしたままはなしをながれをただ追ったり、次男です、とか会釈したりした。娘さんである(……)さんのなまえが出たときには、ああはははみたいな感じで笑い、(……)ちゃん、なつかしい、とおもわず言ったが、しかしこのひとは兄の同級生だったかそれか同級生ではなかったかもしれないが、ともかくこちらと直接関係があったわけではなく、ただなまえは知っておりときおりすがたもみかけたので、いまもいちおうぼんやりと外見が出てくるくらいの記憶はある。結婚は? みたいなことをおばさんから問われたときには、ないです、まったくないです、とにやにや笑って断言しておいた。旦那さんのほうはまあ男というのはこちらもふくめてだいたいそういうもので、女性同士の会話に明確に口をはさむ機会をつかめるわけでなく、ときどきちょっと相槌の声なんかをもらしながらはなしが終わるのをぼんやり待っているという感じだった。
  • そのほか時間はこれよりまえになるけれど、昼飯を食ったあとに居間でも母親が父親にたいする愚痴をいうのを聞いており、家のかたづけについては主にそのときはなされたのだが、愚痴というのはうえに書いたことのほかたとえば、さいきんでは(……)があってしょっちゅう「(……)」(こちらの同級生である(……)の実家にあたる飯屋)に行ってて、そうすると帰ってくるのが遅くていつも一二時くらいだし、酒を飲んでしこたま酔っ払ってるからうるさいしくさいし、それで風呂にはいると風呂のなかで倒れてやしないかって心配だからうえにのこってなくちゃいけなくてさっさとしたに下りられない、寝るまえに布団のなかで本読んだりメルカリ見たりするのがゆいいつ自由な時間なのに、というはなしなど。じっさい酒を飲んで酔っ払ったときの父親は目も当てられないようすで、母親にたいしてキレやすくもなるし、テレビと会話しつつ大声を出したりもするし不愉快きわまりないのだが、このままそれがエスカレートしたとして暴力をふるうようにならないだろうなというのがちょっと心配されるところではある。たぶん父親はその一線は越えない、もしくは越えられない人種ではないかとおもうのだが。とはいえ現状の威圧的な言動も一種の暴力といえばそうだとこちらはおもうし、すくなくとも「暴力的」とは言ってよいとおもうのだけれど、この日(ではなくて前日だ)いちどめに遭遇した父親の気色ばみについてさいごに書いておけば、しかしそれがなんだったのかこちらも仔細や経緯がよくわからず、ただ夕食をいただこうと階段をあがってきたときに、母親がなんとかかれに言って、それが要領を得ないことばだったのでうまく理解できず、どういうこと? なにをいってんのおまえは? みたいな感じで苛立ちが点火され、そこからつよい声音で文句を言ったりちょっと悪態をついたりするというふうに移行したようだった。母親の言動はじっさい要領をえないことはおおくて、そのときあたまのなかに浮かんできたことを整地せずにはなすのだろう、話題はひょいひょい飛ぶし、主語やらなにやら抜けていることもおおくてわかりづらいことはままあり、こちらも実家にいたころはたしょう苛立ちをおぼえていた身だから(近年はそうでもなかったが)父親の苛立ちもわかるのだけれど、ただそれにしたってそんなに気色ばんで大声を出して怒鳴るほどのこととはまったくおもえないし、それは端的にクソ野郎のふるまいで、そういう威圧的なふるまいはあいてを抑圧してことばをうばうものだからよくないとしかおもえない。なんでその程度のことであんなに怒るんだろう? というのが理解できない。しかもへんなはなしそういう噴出は一過性のもので、直後にテレビに反応してよろこんでいたりもするし、しばらく経つと母親とふつうに会話したりばあいによっては笑ったりもしていて、なんだそれ? とこちらはおもう。いぜん悶着を起こしたときにも記したが、そんなふうにカジュアルに抑圧をするんじゃねえと。なにをなあなあにしているんだと。気色ばむならきちんと気色ばんで、きちんと抑圧者となって、きちんとそういう存在として母親と関係し、きちんと敵対したり喧嘩をしたりしろと。他愛もないことで気色ばんで怒鳴ってあいてを黙らせたそのすぐあとに、なにをじぶんが威圧した当のあいてとなにごともなかったような、仲良くやっているみたいなようすをみせているんだと。いちどめに父親にキレて悶着を起こしたときにも書いたがこれはおおきく問題化すればふつうに女性差別の問題だとこちらはおもっていて、そのとき父親は、これはおれたち夫婦の問題だからおまえは口をはさんでくるなという当事者論にうったえつつ、おまえは結婚したことがあるのか? 恋愛をしたことがあるのか? と問うて、夫婦関係というものがどういうものかおまえは理解していないだろうという夫婦関係特殊論に依拠し、さいごにはじぶんはお母さんを「愛している」から、とのたまった(「愛情表現の一種だ」みたいなことすらもしかしたら言っていたかもしれない)。これほど愚劣でみにくく、おぞましくグロテスクな自己正当化もないとおもうし、いまこうして書いていてもからだがストレスをかんじて鼓動がやや高まり、右後頭部に痛みをちょっとおぼえるくらいだ(まあ頭痛は打鍵じたいのせいもあるかもしれないが)。そういう言い分を受けてこちらは、それはドメスティック・バイオレンスをしている男がじぶんはあいてを愛しているからと言うのと構図としてはおなじだという意見をかえしたのだが、父親はその点をじゅうぶん理解しなかったとおもうし、たぶんいまも理解していないとおもう。はなしをもどすと、父親がどうでもよろしいようなささいなことであんなにすぐ怒るうえ、その怒りはたいして持続しているようにみえないというのは、まさしくその苛立ちや怒りが感情的にとくべつなもの、とくべつなできごとでなく、なんというか日常的な、ルーティン的な感情転変のうちの一部にすぎないということをあらわしているのかもしれない。迂遠な言い方をしているが、我が身に照らしてかんがえてみると、じぶんのばあいは生きていてつよい怒りを感じることがあまりなく、また性分としても怒りという感情は精神衛生にわるくてなるべく体験したくないとおもっているから、じぶんのなかで怒りという感情やそのときの心身の反応はけっこうおおきなものとしてカテゴライズされており、それが起こると疲れるし、いわば感情的な意味でのコストが高い。しかし父親のなかではああいう苛立ちや気色ばみ、怒鳴るということはそうではないのかもしれないということだ。つまり外見上の激しさに比して父親のなかではじつのところ平板な体験なのではないかということで、言い換えれば日々よくあること、生活文化のなかで日常的一形態として登録されており、とりたてて気に留めるようなことではないのかもしれないということで、とりたてて気に留めるほどでないことをひとが悪いとおもったり反省したりすることがないのはとうぜんである。そうだとしたらそれはまさしく女性差別が、あるいはゆずってそこまでいかないとしてもすくなくともハラスメント的抑圧が、両親の関係のなかに深く根付いて定着してしまっているということで、人類の歴史がいままで無限に反復してきた病理のごく局所的一例がここにあるのだとおもう。すくなくとも公的な領域でああいうふるまいを日々取っていたら、それは確実にパワハラだと認定されるとおもうのだけれど、夫婦という関係の特殊性(私的親密性)を根拠としてなぜかそれが見過ごされてしまっている。父親はむしろそとづらは良いほうで、たのまれごとを引き受けたりもけっこうしてきたようだし、会社でもたぶんひとのいい上司みたいなポジションでやってきたのではないかとおもっている。もともとの性分として社交性がことさら高いわけでもなく、また気もとりたてて強くはないだろうから、そこではたぶん父親はパワハラ的ふるまいはまず取っていなかったとおもう。それならなぜ夫婦関係においておなじように自制できないのか。じぶんには、家庭のそとの他人にたいしてはあきらかに取るべきでないと理解されているはずの(そしてじっさいに取ってこなかったはずの)おこないを、なぜ家族には取っていいとおもわれているのか、そしてなぜじっさいに取ってしまっており、そのことに実効的な反省的意識が向けられていないようにみえるのか、それがわからない。家庭のそとの他人にたいしてあきらかに取るべきでないと理解されているはずのおこないを家族にたいしては取るということは、ほかにいくらでも例があるし、こちらもやっているだろう。だからこう言うべきだとおもう。公的領域だろうが私的領域だろうが、他人にたいしてパワハラ的ふるまいはなるべくなら取るべきではない。そんなのはあたりまえのことだとおもう。
  • 「喧嘩するほど仲が良い」という関係はじっさいあるとおもうし、いがみあっているようにみえてじつはそういうかたちで両者が合意し成立しているという関係も、夫婦間にかぎらずときには存在するだろうとおもう。軽口のかたちでけなしあえる関係というのはむしろありふれたものである。しかしそれらが成立するのはあくまでそれが対等なもの同士の関係であり、そのことがおのおののあいだで了解されているときにかぎる。ひるがえって両親の関係は、じぶんにはそういうものとしてはうつらない(すくなくともいま俎上にあげている一側面にかんしては)。母親の言動が苛立ちをまねくという面はたしかにあるが、それにしたって父親の反応はあきらかに過剰だとおもうし、そんなに怒りを(瞬間的に)撒き散らさなくたっていくらでも済むことがらだとおもう。なにより良くないのは大きな声を出したり、つよい口調をつかったり、怒鳴ったりすることがあいてを萎縮させ、それいじょうの発言をひかえさせるちからをもつということだ。母親は父親からことばをうばおうなどとはまったくしていないし、むしろ父親になにかを言ったり聞いたりしているわけだから、あいてのことばをもとめ、ともかくも受け取る姿勢でいる。それにたいして父親の言動は、ほんにんにそういう意図があるのかどうかは知らないが、母親のことばをおさえつけ、それいじょうつづかないようにするものであり、したがってあいてのことばを受け止めようという姿勢はないか、あったとしても希薄である。ひらたく言ってそれはあいてを黙らせるふるまいであり、そういう意味で高圧的であり、そここそこちらがもっとも怒りを向けるポイントで、非対称的だとおもう地点だ。
  • ちなみに林縁にいるあいだに聞いたが、母親は前日、父親が気色ばんだところにちょうどこちらが上がってきたので、まずいところに来たな、なんでよりによっていま怒るんだろう、とばつの悪さを感じたと言っていた。よくないところを見られたな、と。


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  • 日記読み: 2022/3/9, Wed.