純粋理性批判とは、感覚的経験を離れて(純粋に理性そのものになって)形而上学へ向かう理性能力を吟味する、という意味である。カントにとって、基本的に感覚的経験を離れれば理論的知識は成立しない。それゆえ、形而上学は理論的知識としては成立しないのである。
では、カントの言う理論的知識の条件とは何か。それは、現象世界におけるできごとについての知識、ということである。現象世界は、まず、感覚的経験を出発点として成り立っている。そして、私たちが感覚するものはかならず時間と空間のうちにある。だから、理論的知識は時間と空間のうちにあるものについてしか成立しないのである。
ところで、時間・空間は、カントの考えでは、事物の性質ではない。なぜなら、そうだとすれば、赤いリンゴも黄色いリンゴも存在するように、時間・空間のうちにある事物も時間・空間のうちにない事物も存在することになるだろう。それゆえ、時間・空間は事物の性質ではなく、事物が成立するためのアプリオリ(先天的)な条件なのであり、そういう条件は認識する主観の枠組み、すなわち、認識主観の直感の形式としてしか成り立たない、とカントは考えるのである。わかりやすく言(end175)えば、認識する私たち人間が時間・空間という形式を通して事物から送られてくる所与を受けとる、ということである。
だが、それだけでは、いまだ認識は成立しない。感覚的直感にさらに知性による加工が加えられなければならない。その加工は、カテゴリーとよばれる存在者の存在構造による規定である。カテゴリーは存在論を創始したアリストテレスによって最初述語の諸形式として整備されたが、カントはこれを判断の諸形式からみちびきだした。要するに、実体とか量とか因果性とかいう、存在者の存在のしかたのことである。知性はこれらの論理的存在論的諸形式を現象界に与え、これによって世界に関する私たちの認識が成立するのである。この点に関するカントの特色は、これまで存在者そのものの構造と考えられてきたカテゴリーを認識主観の構造へと逆転し、認識主観が存在者にその秩序を与える、と考えた点にある。そう考えた理由は、ヒュームの因果律批判に触発されて、存在者に普遍的に妥当する秩序は経験からは生じえないと考えたためであった。これが有名なカントのコペルニクス的転回である。
しかし、私たちはこれらのカテゴリーを、感覚的経験を離れて、つまり現象界を超えて適用しようとする。なぜなら、私たちは神とか魂とか自由とか、感覚的経験に結びつけることのできない形而上学的実在を考えようとして、これらのカテゴリーを無条件的に使用するからである。このとき、カントの言う純粋理性の誤謬推理や二律背反がおこる。こうして、カ(end176)ントは形而上学的実在についての理論的認識を放棄したのであった。
(岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、175~177)
- いま三月二一日火曜日の午前二時直前なのだけれど、この一週間前の記事をのぞいてみたら、おどろくべきことに引用だけでなにひとつ文が書かれていなかった。じつによくないがしかたがない。もはやこの日のことでおぼえていることなどほぼ存在しない。通話中のことをひとつ。(……)
- あとは引用のみ。一年前のニュース。
(……)新聞一面からウクライナ情勢。ロシア軍は北東と北西からキエフ中心部にだんだん接近しているもよう。各地で攻撃もつづいている。西部にも戦線が拡大したのは、各地の主要都市をとっておいてキエフを攻撃するまえに降伏をせまる思惑もあるのではないかという。二日まえくらいからそういう情報が出ていた気がするが、セルゲイ・ショイグ露国防相によれば、中東から一万六〇〇〇人の志願兵を確保しているとか。あと、さくばんの夕刊ですでに出ていたが、METAがウクライナ国内にかぎりロシアにたいするヘイトスピーチ的な表現を容認したとあった。きのうの夕刊でみたときには、「露に憎悪表現容認」というような見出しになっていて、さすがにそれはよくないんじゃないのとおもったのだが、記事内をみてみると、「侵略したロシア兵にたいする憎悪表現」のように書かれてあり、それならまだだいじょうぶかなとおもったのだった。ただ、この読売新聞の見出しは誤解をまねきかねないのでは、ともおもった。「ロシア」や「ロシア人」一般と、「ウクライナに侵略したロシア兵」はちがうものなのに、「露に憎悪表現容認」というような見出しでは、ロシア一般にたいするヘイトスピーチがみとめられたと読めるからだ。ただ、きょうの新聞だと「ロシア兵にたいする」という情報は本文中からなくなっていたし、METAの運用がほんとうに侵略者とみなされるロシア兵にまつわるものだけ削除しない方針なのか、それともロシア一般についてのヘイトスピーチもみとめるということなのか、よくわからない(前者の方針だったとして、ほんとうにその運用基準を徹底できるかということもある)。もし後者だったらさすがにやばいとおもう。META側のいいぶんとしては、現状においてそういう投稿を削除してしまうと、侵略にたいするウクライナのひとびとの自衛の表現をうばってしまうことになる、というもの。METAの方針と運用のじっさいてきなところという問題もひとつありつつ、ここでもうひとつさらに問題なのは、うえにもふれたように、読売新聞がまず誤解を生みかねないとおもわれる見出しを採用し、かつその点の詳細を記事中で説明していないことだとおもう。これはメディアのしごととして不十分なものなのではないか。
書評面はまだよくみていないが、入り口の文庫本にしたい世界文学みたいなコーナーで、阿部公彦がシェイマス・ヒーニー全詩集をとりあげていたのだけ読んだ。ロマン派以降詩人はみな個人のことばで個人の資格でかたることを余儀なくされ、それによっておおかれすくなかれおどろくべき他者としてあらわれてきたが、ヒーニーは古代的なものを下地に置きつつ、ひととしても作品としてももっとやさしく善良で、もちろん繊細な言語操作がないわけではないし、アイルランド紛争の重い影を反映していないわけでもないけれど、読者をはねつけるようなところがない、それが魅力だ、というような評を述べていた。
- 音楽。
この日は作業中、Mike Nockというピアニストの作品をながした。diskunionのサイトの新譜情報にあってはじめて知ったなまえだが、ニュージーランド出身のひとでベテランらしく、七〇年代だか八〇年代だかにECMから一作出しているとか。ソロピアノの作品と、Michael Breckerをフロントに据えた作品(ベースはGeorge Mraz、ドラムはAl Fosterだったとおもう)をながしたが、けっこうよさそう。
- 通話中のはなし。
(……)ともあれ、論点はひとまず一見したところでは、個人の権利と公共性のあいだの対立という位相に置かれているようにみえ、(……)くんが葛藤しているのもそこだとおもう。つまり、個々人の自由はたしかにひじょうに大事なのだが、それが行き過ぎて私的利益の追求だけが価値となり、公共性が毀損されほとんど崩壊しているようにみえる、というのもまた現状だろうと。なんらかのかたちで公共性をつくりなおさなければならないというのはこちらも(……)くんに同意するところで、だからかれがそういう観点から公共哲学、コミュニタリアニズムに関心をもっているというのも共有するところだ。ただとうぜんながら、個を越えた公共の領域を重視するということは、右派的言説と相性がよく、抑圧的で醜悪な思考に容易にむすびつきかねない。そこがジレンマなわけである。このあたりの思考のとりかたは(……)くんとこちらとでたぶんほぼ一致しているとおもうのだが、かれは、哲学史をまなべばまなぶほど、右翼的思考の価値がわかってきてしまうんだよなあ、みたいなことを言っていた。こちらも、ネトウヨとかトランプ支持者とか極右みたいなやつはもちろん論外だが、真正でまっとうなたぐいの右翼だったら、その思想にもまなべることはさまざまあるだろうとまえからおもってはいる。じぶんが疑問なのは、右派の、「愛国」とか「保守」が排外主義へと直結するそのありようである。他を憎み排することと自国を愛することはほんらいべつのことではないかとおもうのだが? ありていにいって、たとえば百田尚樹みたいなにんげんが日本の歴史はすばらしいととなえるわけだけれど、日本の歴史にすばらしいものがあるのだったら、それとおなじ資格で諸外国の歴史にも同様にすばらしいものがあるとかんがえるのが順当ではないかとおもうのだけれど。じぶんをたかめることが他をおとしめることと不可分になっているありかたがこちらにはよくわからないし、いまひろく流通している右派的思考の健全でないところはそこだとおもう。しかし右翼思想においてそれが避けられない要素なのかどうかはわからない。すくなくとも幕末の尊皇攘夷運動からそういう特徴はあるわけだけれど、その後の歴史でずっとそれが受け継がれているのか、右派的思考はどうしてそうなってしまうのか、そういう点で、日本的右翼の歴史と構造分析は重要なしごとである。
- 「偽日記」から引用されていたのをあらためて。
●おそらく陰謀論に至る思考には三つくらいの特徴がある。(1)敵の過大評価、(2)常識に対する逆張りへの好み、(3)ノイズや小さな徴候から過剰な意味を読み込む。
(1)最初にあるのは不信感ではないか。右派からはじまる陰謀論では、リベラリエリートへの不信や敵意から、左派からはじまる陰謀論では、政権や体制、大手メディアに対する不信感から、はじまる。そしてその、不信感という捉えがたいモヤモヤを、敵の悪によって一元的に説明しようとする。累乗される不信の増加(あるいは、「味方」の弱さへの「理不尽だ」という感情)が敵への過大評価に繋がり、敵を巨大化させ、そこから常識を超えた大きな悪を引き出すことになる。最初の不信はおそらく正しいのだが(おそらく、それは敵であるという直観は正しく、そこに悪や欺瞞がまったくないというわけではないのだ)、不信の増大からくる敵への過大評価が、認識の暴走を招く。
(2)その時、逆張りへの好みが暴走のための燃料となる。我々は、たとえば、一見健康的に思われる習慣が実は不健康だったとか、逆に、一見強面の男が実は心優しかったとか、その手の逆説的ナラティブにとても弱い。真犯人が意外であるほど面白い(説得力がある)というミステリ的ナラティブは、途中のロジックをすっとばして「意外性=真実らしさ(リアリティ)」という短絡を生む。
(世間は零落した場であり、隠された真実は少数の「賢者」によって開示されるというナラティブも、逆張りに加担するだろう。)
(大手メディアから発せられる情報より、SNSを含めた口コミ---しかも又聞き---から得られる情報に説得力を感じてしまうという都市伝説的ナラティブもまた、一種の逆張り的な効果と言える。信頼できる---つまり、同様の陰謀論的傾向をもつ---人やコミュニティから直接入る情報だから、それを信じる。常識的な信憑性よりも、人やコミュニティへの信頼や愛着、そして「直接性」への信頼が勝る。)
(3)不信からくる不安は、世界の徴候に対する過敏さへと通じる。敵は巨大であり、組織化されている。罠は至る所に張り巡らされている。騙されてはならない。故に徴候は丁寧に読み取らなければならない。過剰な免疫反応がアレルギーを引き起こすように、過剰な徴候への注目は、ノイズまでも徴候として拾い、世界を過剰に意味付け、その意味付けがさらなる過剰な意味付けを導き、波状的にひろがり、世界は陰謀に満ちたものとなる(世界が「Deep Dreamの悪夢」のようになる)。
(徴候への過敏さは、時折「意外な正解」をもたらすこともある。過剰な読みのうちの何割かが「正しい」と検証されることによって、読みの過剰さが正当化されてエスカレートする。)
(4)これらのことは、「世界の安定に対する(無意識のうちに働いている)信頼」が崩れているという「地」があるからこそ作動すると思われる。そして、陰謀論的思考の展開が「常識的な感覚」を徐々に摩滅させ、それが「世界の安定への信頼」の崩壊をさらに推し進める。世界の安定性への一定程度の信頼は、陰謀論の回避のために必要だと思われる。ただし、変化の激しい流動化した現在で、それを維持するのは簡単ではない(そもそも、無意識のうちに働いているものなので、意識的にどうしようもない)。そして、このような「世界の安定性への信頼」は、場合によっては正常化バイアスとして作用する。
(陰謀論と正常化バイアスとは対偶の関係にある? 陰謀論を嫌うあまり常識に従いすぎると、今度は、正常化バイアスと思考の停滞、あるいは「諦め(現実主義)」の支配という別の罠が待っている。日本ではむしろ後者の方が根深いのかもしれない。陰謀論とは、一種の「ニヒリズムに対する闘い」ではあるかもしれない。)
付け加えるならば、(5)人の心が元々もっているジャンクなものへと惹かれていく傾向---フロイトなら「死の欲動」と言う?---という要素もあるのかなと思う。(2)における逆張り的な賢者の知は、裏返った崇高としてのジャンクな要素を集めた知となる傾向をもつ(妙な造語を好む言語感覚のジャンク化など)。
- 「しかし風呂というのはほんとうにおちつくし心身もすっきりするし文化のきわみで、古代ローマ人がせっかく浴場をつくり入浴文化を確立したのに、それを個人化せず現代の住宅にまで受け継がなかった西洋の連中は馬鹿である。(……)さんはKindleではなくふつうに紙の本をもちこんで読んでいたわけだが、え、それ腕とか拭くんですか? ふやけて読んでます? という(……)くんの質問にはわらった。「ふやけて読む」といういいかたがおもしろかったのだ。(……)さんの文庫本はまさしくふやけているらしく、岩波とかちくま学芸とかだと風呂にもちこむのはためらわれるが、新潮文庫ならいいかなというかんじがあるといい、その差別はちょっとわかる気がする。たしかに新潮文庫はまあいいかな、という謎のかんじはある。たんにやすいということもあるのだろうが。講談社文芸文庫とかはぜったいに風呂にもちこむ気にはならないだろう。」とも。
- Royce Kurmelovs, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 383 of the invasion”(2023/3/13, Mon.; 00.45 GMT)(https://www.theguardian.com/world/2023/mar/13/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-383-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2023/mar/13/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-383-of-the-invasion))
President Volodymyr Zelenskiy has awarded the Hero of Ukraine to Oleksandr Matsievskyi, a soldier who was executed by machine gun fire on camera after being captured by Russian soldiers. Zelenskiy said: “Today I conferred the title of Hero of Ukraine upon Oleksandr Matsievskyi, a soldier. A man whom all Ukrainians will know. A man who will be remembered forever. For his bravery, for his confidence in Ukraine and for his ‘Glory to Ukraine!’”
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Belorussian president Aleksandr Lukashenko has arrived in Iran for an official visit to meet local leaders and discuss “trade and economic cooperation”.
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- 日記読み: 2022/3/13, Sun.