さて、原因と結果の連結関係(因果関係)に関する認識は、すでに述べた論理的認識の場合のように、アプリオリには成立しない。はじめて世界を見たアダムは、水が人を窒息させる力をもち、磁石が鉄片を吸引する力をもつことを知りえないだろう。アダムはこういう事実を何回も経験した後に、はじめてこの因果関係を知りうるのである。それは、一つの感覚的印象と他の感覚的印象とのあいだには、論理的認識の場合に確かめられうるような必然的関係がないからである(『人性論』第三部第一四節)。このことは、つぎのように考えてみればすぐにわかる。
もし「AならばB」が必然的関係ならば、「Aならば非B」は思惟不可能である。たとえ(end181)ば、「直角三角形は三角形である」は必然的関係だから、「直角三角形は円である」は思惟不可能なのである。ところが、「明日、太陽は東から昇る」も「明日、太陽は西から昇る」もともに思惟可能である。私たちは、ただ、これまで何億年も毎朝太陽は東から昇ってきたから、明日も東から昇るだろう、と想像しているだけなのである。今晩のうちに地球の自転が逆向きになっていけない理由はない。そもそも自然法則が経験をもとにして立てられたものだからである。このように、因果関係はすべて、あるできごとが恒常的に他のできごとを伴って現れてきた、という過去の経験にもとづいて立てられた推測なのである(第六節)。もしも経験がなかったならば、私たちはどんな推測をたてることもできないだろう。
それでは、過去の経験にもとづいて因果関係を立てることには、なにか理論的根拠があるのだろうか。理論的根拠は何もないのだ。それは、原因と結果の関係に必然性が欠如しているからばかりではなく、自然の一様性(uniformity of nature)という前提にも基づいているからである。すなわち、いままで「AならばB」であった。だから、これからも「AならばB」だろうという前提である。ところが、この前提は、「過去、現在、未来にわたり不変の因果関係が妥当する」という前提にもとづいて成立している。つまり、ここには、因果関係は自然の一様性を前提とし、自然の一様性は因果関係を前提する、という悪循環があるのである(『人間知性に関する探究』第四節)。これまで何億回AならばBであったとしても、これか(end182)らもかならずAならばBであるという論理的理由はない。私たちは、ただ、生きるために、暗い未来を予測しようとして、想像力によって、習慣的に経験されたAなる印象とBなる印象との連続的継起もしくは恒常的連接を、因果関係として法則化しているのである。
(岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、181~183)
- 一年前より。音楽。
(……)”All of You (take 1)”はとにかくやばいとずっといいつづけているわけだけれど、やはりすごく、あまりに複雑ななにか、ほとんど混沌めいたものがなにかしら起こっているようにしかきこえない。ふつうにきけばというか、表面上は、きわめてうつくしい、きれいな、明晰な音楽である。これがうつくしい音楽だということをともあれ承認しないにんげんはまずいないとおもわれる。しかしそのうつくしさ、きれいさ、きわめつきの明晰さとまったく矛盾しない資格で、混沌じみたものがあきらかにうごめいているのをかんじる。その二重性というか同居というか、混沌と明晰がおなじものとしてあらわれている様相は、ほかのピアノトリオにもほかの音楽にもかんじないものだ。Bill Evansひとりだけだったらひたすら明晰でしかないのだろうが(そしてその明晰さは、それはそれでまた異様なのだが)、LaFaroとMotianがくわわることでとたんに度外れの複雑さがうねりはじめることになる。
夜は書抜き。立位で。Pasquale Grasso『Pasquale Plays Duke』という作品をながした。ジャズギターの新鋭らしく、音楽性は古き良き五〇年代のストレートアヘッドなバップをそのままいまにもってきた、みたいなかんじで、音づかいとしても奇妙なところはまずなかったとおもうのだけれど、テクニックはたしかにすごくて、はやく弾くときはやたらとはやい。一曲目の”It Don’t Mean A Thing”ではそれがしょうしょう衒いにきこえるところもあって、Bireli Lagreneをおもいだしたが(かれの速弾きも過剰というか、やたらひけらかすようでちょっと鼻につく気がしてなんかなあ、とむかしはおもっていたのだが、いまきいたらまた変わるかもしれない)、二曲目はすこし耳をかたむけたところではそういうかんじもなかったし、まあすごいギターであることはまちがいない。ただむしろ、四曲目の”Solitude”に参加しているSamara Joyというボーカルのほうが印象にのこった。声がずいぶんとふくよかでゆたかなひびきの歌い手だったので。さいきん知られているらしく、なんかなまえはきいたことがある気はする。あと、「チャーリー・パーカーが絶賛した」というような謳い文句でかならず紹介されるSheila Jordanも一曲参加していて、もう九〇歳を越えているが(一九二八年生まれ)いまだに現役でうたっているらしい。
- (……)さんのブログから。
『クロノ・クロス』でいえば、運命の書(フェイト)とか、まさにAIがこれから先われわれ人類におよぼすバッドエンドでディストピアな影響を予見しているともいえるわけで、それについてはずっと以前、まだTwitterをやっているときになにかつぶやいた記憶がある——と書いたところで、過去ログを「人工知能+自然」で検索したところ、2016年3月12日づけの記事がヒットした。以下、くだんのツイート。「自然科学以前」は表現としてちょっと不十分というか不正確な感じだが、いわんとするところは十分理解できる。
AlphaGoの打ち筋が現役トップレベルの棋士ですら理解できないというニュースを見て、人間の思考力のとうていおよびもつかない域に達した「人工知能(の司る世界)」にたいする「人類」の関係というのは、「自然」と「(自然科学以前の)人類」の関係みたいになるのかもしれないとすこし思った。
- うえを読んで、AIが一種の神となった世界の再魔術化みたいな感じか、とおもった。じっさいいぜん、AIを熱情的に推進するアメリカのIT界隈の一部では、その情熱が一種宗教的な雰囲気を帯びているとか、そのものずばりAIを神に据えた宗教をたちあげた事業家もいる、という記事を読んだこともある。なんとかゼヴァンドウスキーみたいななまえのひとだったはず。Anthony Levandowskiだ。このなまえでブログを検索すると、さいしょに登場しているのは2021/2/15, Mon. で、Sumit Paul-Choudhury, "Tomorrow’s Gods: What is the future of religion?"(2019/8/2)(https://www.bbc.com/future/article/20190801-tomorrows-gods-what-is-the-future-of-religion(https://www.bbc.com/future/article/20190801-tomorrows-gods-what-is-the-future-of-religion))のなかでふれられている。このBBC Futureの記事はなかなかおもしろいものだった。
And some people, like AI entrepreneur Anthony Levandowski, think their holy objective is to build a super-machine that will one day answer just as Brown’s fictional machine did. Levandowski, who made a fortune through self-driving cars, hit the headlines in 2017 when it became public knowledge that he had founded a church, Way of the Future, dedicated to bringing about a peaceful transition to a world mostly run by super-intelligent machines. While his vision sounds more benevolent than Roko’s Basilisk, the church’s creed still includes the ominous lines: “We believe it may be important for machines to see who is friendly to their cause and who is not. We plan on doing so by keeping track of who has done what (and for how long) to help the peaceful and respectful transition.”
“There are many ways people think of God, and thousands of flavours of Christianity, Judaism, Islam,” Levandowski told Wired. “But they’re always looking at something that’s not measurable or you can’t really see or control. This time it’s different. This time you will be able to talk to God, literally, and know that it’s listening.”
- その後2021/6/21, Mon. に、Aaron Z. Lewis, "METAPHORS WE BELIEVE BY"(2019/7/25)(https://aaronzlewis.com/blog/2019/07/25/metaphors-we-believe-by/(https://aaronzlewis.com/blog/2019/07/25/metaphors-we-believe-by/))という記事を読んでおり、「いわゆるシンギュラリティを信じる者たちのようすが宗教的熱狂者のそれとおなじ、というのはちょっとおもしろかった。じっさい、Uberの前directorだったというAnthony Levandowskiというひとは、Singularity Churchなんていうものもつくったらしい」と付言している。うえで念頭にあがった記事というのはこれのことだ。
(……)In a BuzzFeed report written earlier this year, Adam Morris recounts what he learned when he snuck into San Francisco’s Singularity University Global Summit:
I learned that through interplanetary colonization, explorers might acquire resources from other planets, which could meet all human energy needs on Earth … I was able to experience something that years of religious enthusiasm could never conjure: I got to feel what it was like to be surrounded by true believers in a cause that was only valued by an in-crowd, an ascendant elect. Circulating among them, I sensed the presence of that spirit that presides whenever so many ardent believers come together in its name. I could feel souls uplifted.
I’m not the first person to notice that the parallels between Biblical rapture and the technological Singularity are a bit uncanny. Much like Medieval Christians, the Singulitarians make a sharp dualistic distinction between the divine and the merely human — between AI “stuff” and non-AI “stuff” like organic biology and inanimate tools. Adherents are convinced that there will be a moment in the future when humanity is “saved” by a power that’s beyond our comprehension. But we must demonstrate our faith through good works. Singularity believers worship at the altar of their own technological prowess, praying that the AI will be benevolent when their soul is uploaded to Heaven.
- そして2021/7/18, Sun. には、「Mark Harris, 'Inside the First Church of Artificial Intelligence'(2017/11/15)(https://www.wired.com/story/anthony-levandowski-artificial-intelligence-religion/(https://www.wired.com/story/anthony-levandowski-artificial-intelligence-religion/))。Anthony LevandowskiというもともとGoogleにいたかなにかで自動運転技術開発をしていたらしきひとが、人間の知的能力を超えたAIを一種の神として奉じるWay of The Futureという組織を宗教としてつくっているのだが、それの概観的なはなし」というわけで、Levandowskiじしんに焦点をあてた記事も読んでいる。
- 覚めてしばらく過ごし、時間をみたのはちょうど九時。窓外から聞こえる保育園のあいさつの声が、ピークの頻度は過ぎているがまだいくらかのこっていたので、おおよそ八時台か九時ごろだろうと判断していた。さくばんはまたあいまいに意識をうしなってしまい、三時四〇分くらいだかにいちど覚めて明かりを落としたおぼえがある。朝に覚めたあとは布団のしたでからだの各所をさすったり、静止しながら深呼吸したり。ひさしぶりに深呼吸をそこそこちゃんとやったのだが、そうするとやはりからだの感じは相当かるく、なめらかになって、毎朝やったほうがよいのだとおもうがなぜか習慣が途切れてしまう。しかもいまの時期は花粉症で鼻が詰まるからやりづらい。ここをいま書いていて、つなぎを「しかし」にしようか「しかも」にしようかまよったのだけれど、「しかも」にしたのはその直前、前文末の、「習慣が途切れてしまう」という情報を受けたかたちで、「しかし」にすると、そのまえの、「毎朝やったほうがよいのだとおもうが」を受けることになる。したがって後者だと直前の情報からは直接的になめらかにはつながらず、だから「しかも」にしたのだけれど、こういう接続の微妙な齟齬を逆手に取って、あえて直前を受けるのではなくそれよりもまえの情報や要素を受ける文を多用することで、へんな感触の文章・文体をつくることもできるのかもしれないとおもった。むかしの作家とか、そういうことをテクニックとしてではなく、形式的統一や接続の均整にたいするこだわりのなさやいまとはちがう感覚でもってたまにやっていることがある気がするのだが、なめらかな連続性をおもんじる目からみると一種のミスや瑕疵にうつるそれを技法化すると。とくにきちんとした例はおもいつかないのだけれど、なんか牧野信一とかそういうすっとぼけたような文じゃなかったっけ? あのひとのへんな感触は文単位のそれではないかもしれないが。
- 九時にからだを起こすとカーテンをあけ、あぐらで首や肩をまわす。からだがだいぶこごっている感じがあった。きのうはひさしぶりの労働でどうも疲れたらしい。頭蓋がかなりかたかった。かたすぎてあたまをうごかしたときにぐあいによってはすこし痛むくらい。痛むというか軋むというか。むかしは長寝をしたときによくなっていた状態だ。九時間とか寝たあとはかえって頭痛をおぼえる日があった。これもけっきょく疲労と、血のめぐりのわるさによるものである。起きて水を飲んだり用を足したりすると布団にもどり、きょうは空気がなかなか冷たかったので一時エアコンをつけ、Chromebookでウェブをみたり一年前を読んだり。(……)さんのブログもすこし読んで、離床したのは一〇時四〇分くらいだったのではないか。布団をたたみ、しばらく背伸びしたりしてから瞑想。ひさしぶりに深呼吸をしばらくやってから静止。しかし鼻水が垂れてくるのでそうながくできず、とちゅうで中断して鼻をかまざるをえない。だから合わせて一五分も座っていなかったがまあよい。それから食事というわけで水切りケースのなかをかたづけるが、温野菜をつくろうとおもったところにスチームケースがみあたらない。あれ? とおもって電子レンジのうえなどもみるが存在せず、あ、そうか、とおもってレンジをあけるとそのなかにあった。さくばん、帰宅後に休んだあと、食事を取ろうとおもって野菜を切り、レンジでまわしているあいだに、また布団にたおれていると、そのまま意識をうしなってしまったのだ。そのへんの前後をあまりよくおぼえていないが。加熱されたあと一晩放置された野菜のはいったスチームケースは水気をふんだんにふくんでおり、うごかすと即座にそれが散ったり垂れたりするくらいだったが、これを数分あたためなおして食うことに。そのほか納豆ご飯といつものようにバナナやヨーグルト。あときのう職場でもらってきた菓子もいただいた。(……)くんの母親があいさつに来たさいにくれたものである。米は納豆ご飯を一杯食うと半端にのこったのでそれも食べてしまうことにして、もうひとつの椀に盛って「ふじっ子」で平らげた。そうして歯磨きや洗い物。ウェブをてきとうに見つつ一息。あと、瞑想前だったかに洗濯をはじめており、もちろん終わっていたので、洗濯物を窓外に干しもした。好天。からだがこなれてくると布団を床にもどしてごろごろしながら本を読む。南方熊楠の研究書をきのう読み終えたので、つぎなんにしようかなといつもながらのまよいだが、上巻だけしか読んでいなかった松平千秋訳の『イリアス』を下巻も読むかとそう決めた。いぜんも序盤をすこしだけ読んだのだが、ブランショかなにかを読まなければならず中断していたのだ。それであらためていちばんさいしょから読みはじめ、いま69まで行っているのでペースはけっこうはやい。からだがこごっていたのでごろごろしながら脚をほぐして鈍さを楽にしたかったのだ。第一三歌と一四歌で、ここまでゼウスがトロイエ側に加勢してヘクトルがちからをふるい、アカイア勢は防壁もやぶられてわりと追いつめられていたのだけれど、ゼウスがトロイエに肩入れしてアカイア方が劣勢になっていることに憤った海の神ポセイダオンが(かれはゼウスと兄弟にあたるらしい)、ゼウスの目を盗んでアカイアの陣中をまわって兵士たちを各所で鼓舞し、それで激戦がくりひろげられる。第一四歌の冒頭では手傷を負っている総大将アガメムノンなんかは弱気になっていて、もはや聖都イリオスを落とせずアルゴスからほど遠きこの地でわれわれが果てるのをゼウスはお望みらしい、しからばいまは船を海に下ろして夜陰に乗じてわざわいを逃れようではないかと引き上げを口にするのだが、オデュッセウスがかれをぐっとにらみつけて、かりにもアカイアをひろくおさめる王の身でそんなことを口にしてはならぬ、見下げ果てた根性だ、とつよい非難のことばで諌め、アガメムノンもこころをひるがえす。いっぽうオリュンポスのうえではゼウスによって神々が戦にくわわらないよう命じられてとどめられているのだけれど、ゼウスの妻である牛眼のヘレはポセイダオンがひそかに人間どもの陣中を走りまわってダナオイ勢に加勢しているのを見つけてほくそ笑み、同時にイデの峰の頂上にすわって戦のさまを見晴かしているゼウスを憎々しくおもうのだけれど、そこでヘレは一計を案じ、色仕掛けでゼウスを愛欲の虜にしてしまい、またねむらせて、そのあいだにポセイダオンがいっそう活躍してアカイア勢をさらに奮起させてトロイエ方を打ち任せるようにしようというのだ。そこでからだに香油を塗ったり、笑み愛づる愛の女神アプロディテから「愛欲 [ピロテス] 」と「慕情 [ヒメロス] 」、そのほか「恋のあらゆる魅惑が納めてある」(61)刺繍紐を借り、また「眠り [ヒュプノス] 」のちからも借りてゼウスをねむらせることに成功する、と。
- ゼウスがトロイエ側に加勢する動機がアガメムノンに屈辱を味わわされたアキレウスの母親テティスの頼みだということは、26にあらためて明言されている。「すなわちゼウスは、トロイエ勢とヘクトルの勝利を望み、かくして駿足のアキレウスの名を高からしめんと策していたが、さりとてアカイア勢をイリオス城下に亡び去らせる気はさらさらなく、ただテティスとその豪胆な倅の顔を立ててやるつもりであった」と。戦利品(というのはつまり女だが)の分配や陣中に発生した疫病への対応などをめぐってアキレウスとアガメムノンは対立し、屈辱を受けたアキレウスは戦に出ないといういわばボイコットによる抗議でそれにこたえているのだが、下巻の序盤にいたってもかれのボイコットというか戦士的ストライキはまだつづいているわけである。ギリシアの英雄たちの価値観からいって、怒りからとはいえそのようにいつまでも引っこんでたたかわず、なかまたちが死んでいくのに関せずいるというのは、果たして「名を高からしめ」ることができるのか否か疑問だが、それはともかく、ゼウスがトロイエに肩入れするその動機がひじょうに私的で、いわば義理というか「情」の論理にもとづくものであることとかそのへんは、上巻を読んだ時点でも書いておきたい気はしたのだが、仔細をわすれたのでいずれまた。ほかのぶぶんでも、にんげんたちが一時休戦だったかをゼウスに誓ったところが、ゼウスじしんがそれをみとめないというより積極的に破らせるように操作したりする箇所があって、これひどくない? にんげんにたいする裏切りじゃん、まさしくひまをもてあました神々のあそびに翻弄されてるじゃん、とおもったときがあったのだけれど、それもいま読みかえしてあとづけるのはめんどうくさい。
- きょう読んだ箇所では冒頭さっそく、「(……)自らは黄金の武具を身につけ、見事な造りの黄金の鞭を手にすると車に乗って、波の上を走らせて行く。海の獣らは主を見誤る筈もなく、彼を迎えて至る所で波の下から浮び上がり、楽しげに跳ね廻る。海も嬉々として分れて路を開き、馬は飛ぶが如くに走るが、車の下の車軸は濡れもせず、馬は飛び跳ねながら、アカイア勢の船陣さして主を運んで行く」(12)というポセイダオンの描写があって、かなりどうでもよいのだけれど、ここを読んだときに、漫画『ロトの紋章』の海王にも似たような場面があったなとおもいだした。何巻だっけ? たしかわりと序盤、六巻くらいにはやくも竜王が海王の封印されていた祠からアメーバ状になっているそれを解き放ち、理性と自我をうしなっているそれは敵味方関係なく海のあらゆるものを食って拡大していくという展開があった気がするのだが。その後の仔細はわすれたもののアルスたちが海底に行ってなんとかいうモンスターにとらわれている海王を救出しようとするひとまくもあり、たしかそこで遊び人ポロンがまだ自覚のないまま賢者的能力に覚醒して、両手で別種の魔法をつかってそれを混ぜるという合成魔法をもちいてモンスターをたおしたはず。その後海王はけっきょく死ぬことになってまだ稚魚である二代目がのこり、アルスたちに感謝する海の魔物どもはかれらの航行をさまたげずに道をつくる、という場面があったはずなので、厳密にはうえの記憶に対応するのは海王のそれではなかったかもしれない。終盤でも海王二世シーザリオンとかいうなまえのやつが出てきて異魔神に噛みつくもののすぐにやられていたおぼえがある。
- 三時くらいまで本を読み、その後漬けてあった釜を洗って米をあたらしく炊きはじめ、湯浴み。出てくるときょうのことをここまで記して五時直前。もう洗濯物を入れないと。
- Royce Kurmelovs and Martin Belam, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 384 of the invasion”(2023/3/14, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2023/mar/14/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-384-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2023/mar/14/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-384-of-the-invasion))
China’s president, Xi Jinping, is planning to visit Russia as soon as next week, according to sources speaking to the Reuters news agency. Xi also plans to speak with Volodymyr Zelenskiy for the first time since the start of the war, according to the Wall Street Journal. China’s president is to speak virtually with his Ukrainian counterpart, probably after a visit to Moscow next week, the paper reported, citing sources familiar with the matter.
The Italian government has said Russian mercenary group Wagner is behind a surge in migrant boats trying to cross the central Mediterranean, as part of Moscow’s strategy to retaliate against countries supporting Ukraine, Reuters reported. Wagner boss Yevgeny Prigozhin responded to the claims, saying, “We have no idea what’s happening with the migrant crisis, we don’t concern ourselves with it.”
The international criminal court intends to open two war crimes cases tied to the Russian invasion of Ukraine and will seek arrest warrants for several people. The cases are the first international charges to be brought forward since the start of the conflict, the newspaper reports.
Serbian economy minister Rade Basta called for sanctions to be imposed against Russia. Basta said Serbia, which has traditionally had a close relationship with Russia, had paid a “high price” for having delayed.
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- 日記読み: 2022/3/14, Mon.
当然ながら当局から送られてくる物には終わりがなく、やがてすべての物を保管するためにあらゆる努力をするよう――ゆえにかつてあった物とこれから来る物のための消去不能な記憶装置を設置するよう――指示が出された。私たちの苦労など微塵も知らず、白い雲に包まれたビー玉のように私たちの目の前で淡々と回転をつづける地球への帰還も含め、不可能性の世界へつながるあらゆる未来に備えて。この地球の眺めに次第に耐えられなくなったのは、私一人ではなかった。それゆえ長らく待ち望んでいた昇進を言い渡された際、私はとりたてて抵抗にあうこともなく、保管庫をまず地球とは反対の側へ、そして最終的に完全に地下へと移転させることができた。前任者たちの挫折に意気阻喪すると同時に発奮もして、私は贅沢な湖 [ラクス・ルクスウリア] の光の差さない深い地底に、一つの体系を作り上げた。その体系のもっとも輝かしい核心はおそらく、月を題材とした物のみを保管するよう指示したことにあった。私が思うに、月に捧げられた作品の中には、つねに自分の軸のまわりを回転する利己的な惑星地球の歴史がさながら夢の織物のごとく写し取られているというだけでも、これはすでにもっとも価値ある試みと見なしてよかった。なぜなら夢と暗渠は、かつてアリストテレスが想像したように互い(end237)に分かちがたく結びついているからであり、単純で貪欲なバクテリアの活発で多様な群れのような、われら月世界の仲間たちの憧れによって養分を与えられている月のクレーターは、夢を産み出すはらわたと同じく、魂の真の座だからである。
得も言われぬ慰めとなったのは、私たちの故郷である月に一度たりとも触れないという許しがたい過ちを犯した物たちを片づけることであった。――それはたとえばロマン派やその多くの後継の組織が行ったような乱用や暗喩という形であってもかまわなかった。私の厳しい選別条件を満たし、かつ従来の規定の狂暴な嵐にも耐え抜いた物は、月の保管庫 [ルナリウム] に受け入れられた。その収蔵品の核心部分をなすのは、バビロニアの月食および日食の一覧表、バラ色の太陽の紅炎を描いた日本の墨絵の画帳、『月世界最初の人間』という名の奇妙なサイレント映画、黄金色のケンタウロスにまたがる月の女神セレネの像がついた機械仕掛けのオルゴール、ある月面のクレーターの形が私の故郷ボヘミアに喩えられているガリレイの『星界の報告』の印刷原本、ならびに長く交渉を重ねる間に本質的に改善された送還申請によってようやく取り戻すことができた、無数の月の石。要するにすべてが完璧に整備されていた。だが、当初は賢明に思われた私の規定、すなわち月に言及しているという条件だけでは不十分になり、真に月を取り上げていることが求められるようになった。なぜなら古来のもっともすぐれた月の理論ですら、それらが月に求めているのは地球に他ならず、不十分な自分自身、小さな奇形の双子のかたわれを月の中に見ようとしているにすぎないという欠陥があったからである――それはあの原初の大変動 [カタストロフィ] 、まだ若い地球が名もない惑星と衝突し、それが地球上にまず生命を芽生えさせた一方で、地球の一部がすさまじい力でもぎ取られ、衛星として独自の軌道に従うこととなった、あの大変動の痕跡だった。晩期産の、できそこないの似姿、見えない鏡、冷たくなった星。
おお、私がかくも取り乱すことがあろうとは! それは所蔵品を検 [あらた] めなおしていた時のことだった。私はネブラの天文盤と、ヴィッテ宮廷顧問官夫人の手になる月の山脈の初期の蠟模型の間に、月面図(end238)の束を発見した。そこに何者かの筆跡で私自身の名前が署名されているのを見て、私の身内に戦慄が走った。ケプラーも夢で自らのデーモンに遭遇した時、同じように感じたにちがいない。才能よりは勤勉さを物語るスケッチの中で、長年崇拝してきた月の山脈に再会したことで、地球に置いてきたとばかり思っていたさまざまな感情が私の中に目覚めた。近くで見る月の山脈の眺めは、かつて地上で私の最上の時間を捧げて描いた、はるか遠くからの眺めほどには私の心を揺さぶらなかった。こうして忘却のヴェールの中から、あの至福の午後がもう一度立ち現れた。あの時、千載一遇の好機が訪れ、私が現在活動している場所の陰の面を間接的な地球照のおかげでじっくり観察し、スケッチに留めることができたのだった。眩く光るアリスタルコス、黒くくっきりと浮かび上がる湿りの海 [マレ・フモールム] 、灰黒色の姿を現すグリマルディ。まどろみから不意に揺り起こされた記憶をゆっくり味わいながら、私はとうに消えていた願望がふたたび心に満ちてくるのを感じた。かつてその願望が私をこの遠い場所へ、光の差さない洞窟の迷宮、複雑に入り組んで絨毛の生えた道へといざなったのだった。私ははっきりと悟った。かつての最高の賛美の対象がいまや日々の営みの一つになり、輝かしい未来は溶け去って近づくことのできぬ過去となった。ただ現在だけ、この儚い刹那の花だけがつねに私から姿を隠すすべを心得ていた。
いまや私は、過去の悦びと苦しみを思い起こさせる貴重な品の数々を一見手中におさめ、仕事の頂点を極めながらも、まるで剝き出しの神経のように敏感になっていた。かつての母の胎内のように私を包み守ってくれていると先刻まで錯覚していたこの身体は一瞬にして冷たくなり、私の崇高な志操は露と消え去り、これまで何度も成し遂げられてきた仕事をシジュフォスのごとくもう一度無益に繰り返すことへの嫌悪が膨れ上がった。なぜならいかなる未来の方法をもってしても、いまようやく私の中で悲しい確信へと結実した事柄を秘匿することはできぬからである。すなわちあらゆる保管庫と同じく、月は保管のための場所ではなく、容赦なき破壊の場所、地球の忌まわしい皮剝ぎ場であり、(end239)私の浅はかな仕事である月の保管庫 [ルナリウム] を不可避の運命――いつの日かさらに厳しく、より入念に作られた規定により処分されることは必定であった――から守る唯一の道は、宣告されるであろう滅亡を自ら先取りするしかないということである。
(ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、237~240; 「キナウの月面図」)