2023/4/7, Fri.

 ローマの遺跡保護のために心を砕く者はごく少数だったが、ヴェネツィアからやって来たジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージほど炎のような好戦的な性格の持ち主はなく、彼を励まし経済的に支援してくれる人々とことごとく不和になった。よって人間よりも石と付き合う方を好んだこの男が、三十三歳にして一人の女性を見つけたことはほとんど奇跡に近い。彼が自分の少なからぬ持参金をすべて膨大な量の銅板に投資してしまったにもかかわらず、彼女はこの人間に耐え、彼のために五人の子を産んだ。軋轢と怒りの発作と並んでこの暗く光る目を持つ長身の男を特徴づけていたのは、献身と犠牲を厭わぬ心だった。ピラネージの近くに十五分いるだけで具合が悪くなると言った者は、何がこの暗い額の胆汁気質者を真に悩ませているのかを見誤っていた。まるで熱に浮かされた時のように遺跡が彼に語りかけ、安らぎと眠りを奪い、次々に映像を呼び覚ました。古代ギリシャの芸術がローマの芸術に勝っていると主張してはばからない若い世代や無知な輩の嘘を罰するために、彼はそれらの幻影 [ヴィジョン] を記憶に留めねばならぬと信じた。恋する者のような一途さで、彼は時代の無思慮を糾弾した。彼は毎回新しいパンフレットに書くのだった、現代のお粗末な無知は、過去の途方もない崇高さを知る者を絶望させざるをえないと。そしてピラネージはそれを知る者だった。彼は見たのだ。子どもの頃、アドリア海から押し寄せる波への防護壁を整備する技師であった彼の伯父の、潟湖 [ラグーン] のゆらめく灯りに照らされた小部屋でローマの歴史家の年代記を読んで以来、古代人が彼の夢の中に住んでいた。
 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、85; 「サケッティ邸」)



  • 一年前の日記からニュース。

(……)新聞をみるとロシア軍の残虐行為についての続報がつたえられている。きのうの新聞でみた情報では、ウクライナはロシア側の通信を大量に傍受しており、市民の殺害がロシア政府の指示だったことを立証しようとしている。また、New York Timesが調べたらしいが、ブチャではロシア軍撤退前の三月ちゅうから路上に遺体があったことが衛星写真の分析をとおして判明したと。その遺体はその後三月下旬になっても変わらずにずっとそこにあったので、ロシア側の、遺体はわれわれの撤退後にウクライナがでっちあげたものだという主張の正当性はうしなわれる。きょうの新聞にいわく、米国のブリンケン国務長官は民間人殺害などの残虐行為はロシアによる意図的な行動だという認識を表明したという。また、ゼレンスキーは国連安全保障理事会の会合にオンラインで参加し、ロシアがもっている拒否権によって安保理は世界の平和と安全をまもるための有効な機能を果たせていない、早急に改革をおこなうべきだ、それができないならばロシアを追放するか、それとも国連がみずから解体するべきだと主張したとのこと。またこれはきのうの新聞ですでにみたが、国営メディアの「ロシア通信」が、「ロシアがウクライナにするべきこと」みたいなタイトルの論説を載せ、そのなかで反露的なウクライナ人を「浄化」する必要性を主張したという。戦争中の悲劇は反露的な行動の抑止に役立つ、と述べ、「浄化」やエリート層の「除去」をとなえているらしい。「浄化」は即座に民族浄化(ethnic cleansing)という語をあたまに呼び起こすものだが、この語の意味からして、反露的ウクライナ人はロシアからみると一種の汚れ、あるべき状態を汚染している不純物だということになる。またぞろ純粋性のレトリックである。プーチンは開戦時の演説で「特殊軍事作戦」の目的としてウクライナの「非ナチ化」をあげ、またブチャで市民を弾圧したロシア軍兵士が「ナチス」はどこだと探していたとの報告もあり、くわえて捕虜となったあるロシア兵も「ウクライナにはナチスがいるとおもっていた」と証言しているらしいが、純粋性のイデオロギーはそれじたいがまさしくナチスドイツのものである。思想的にもじっさいの行為の面からしても、「ナチス」であるのはウクライナではなく、ロシアのほうである。ところがそのあからさまに「ナチス」的な政府の長や高官らが、ユダヤ人としての出自をもつゼレンスキーの政府や市民を「ナチス」と指弾し、国連の場でたしかな証拠をもって残虐行為を非難されても、代表大使はおおまじめな顔で、遺体や映像はロシアをおとしいれるための欧米の捏造だとそればかりをくりかえしてやまない。この現実を記憶し、記録しておかなければならない。ロシア軍によって殺された市民の遺体はおそらく今後各地でさらに出てくるだろうし、マリウポリや、ロシアが占拠している東南部の町々では、いまも現にひとびとが殺されたり、暴行を受けたり、強姦されたりしているだろう。ロシアがウクライナ人数万人をロシア国内の収容所に連れ去ったというたしかな情報がある、ともこの日の新聞には載っていた。

  • 本。

(……)『魔の山』下巻はいま420くらいまで来ており、ちょうど800くらいで終わりなのでのこりはんぶんというところ。つきあってみるとけっこうおもしろい小説ではある。山のうえの国際サナトリウムとその近辺というせまい範囲の舞台で、ハンス・カストルプはずーっとそこにいて生活もたいして変わりはしないのに、にんげんもようや形而上学的なことやユーモアや病や死など、いろいろもりこんであってなかなかのものだなとおもった。もろもろできごとや変化や発展はあるにしても、そこの生活や生やにんげんたちが本質的には「たいして変わりはしない」ということ、「低地」から隔絶されたとくべつな場でありある種の異界であるのかもしれないアルプス高山の、そこに停滞し沈殿し永遠につづくかのような、出口のみえずまっさらにひろがる回帰的な時間のありかたをえがいている小説なのだろう、とそんな感触。終章である第七章の冒頭では「時間そのものを純粋に時間として物語ることができるであろうか」(401)という問いがなげかけられ、404では、「実のところ、私たちが時間は物語ることができるかどうかという問題を提出したのも、私たちが現に進行中のこの物語によって、事実上これを企てているということを白状したかったからにほかならない」と述べられている。話者が物語ることをこころざすその「時間」とはどういう時間なのかはよくわからないが、この小説を読んでいるときの印象としては永劫のてざわりがつよい。ただいっぽうで、この作品は「ドイツ教養小説の最高傑作」(上巻カバー裏のあらすじより)と目されているらしい。教養小説とはいっぱんに主人公がさまざまな経験をえてにんげんとして成長していくさまを物語るジャンルとされている。成長とは変化変容のことだから、それは「永遠につづく」かのような「停滞」や「沈殿」の相とは一見して対立するはずである。じっさい、ハンス・カストルプも国際サナトリウム「ベルクホーフ」での滞在をとおして、主には思想的形成や知的興味の面であきらかに発展していることがみてとれる。しかしそれじたいが、この山のうえの無時間的な時間につつみこまれ、そのなかで、あるいはそのうえで、それを必要不可欠な条件として起こっている、という印象をあたえるものだ。読者はハンス・カストルプの成長や存在をとおして、アルプスの高所に鎮座しているこの永劫的な時間にこそむしろふれることになる。だから、ありがちないいかたをすれば、この作品の主人公はハンス・カストルプ青年(だけ)ではなく、この場所に存在しつづける時間そのものだということも可能だろうし、うえで表明されている話者の企図にはそういう意味がふくまれているだろう。ありていにいって、このままずっとつづくんだろうな、という感覚を読むものにあたえる作品で、それはもしかしたらすぐれた長篇小説のあかしなのかもしれない。ヨーアヒム・ツィームセンは蛮勇によっていちどはこの牢獄的な時間を脱走したものの、けっきょくまいもどってきてしまい、出口をみいだせぬまま、時間のいっぺんとして吸収され溶けこむかのようにあっけなく死んでいった。永遠に停滞しつづける時間の、ひとびとをひきよせ、とらえ、とりこんでいくその牢獄的な同化吸収作用こそが、「魔の山」の魔力だというのがもっとも標準的な理解となるだろう(ちなみにこちらが気づいたかぎりでは、この土地について直接「魔」という語をもちいて形容した箇所は、たしか上巻の中盤あたりにあったみじかい一箇所のみなのだが、メモをとっておくのをわすれたようでいまその文を同定できない)。物語としてハンス・カストルプがついに出口をみいだすにいたるのか、下界に帰還することになるのか、それはいまだわからない。

  • 音楽。

夜だったかどこかのタイミングで、Keith Jarrett Trio『Tribute』をまたきいた。”All of You”からはじめて”Ballad of The Sad Young Men”、”All The Things You Are”、”It’s Easy To Remember”。”All The Things You Are”がききたかったのだが、ひさしぶりにきいてみるときもちがよかった。むかしよりおとが追えるようになっているので、イントロのJarrettのごつごつしたコードプレイによるテーマがどういうことになっているのかというのもまえよりはみえる。本篇もスリリングな演奏で、Gary PeacockとJack DeJohnetteがここでは強力であり、派手なことはやらないが、ふつふつとしたはげしさをうちにこめつつ強靭きわまりない土台をかたちづくっており、そのうえにのるJarrettもそんなに息がながくないけれど、ベストなしかけかたをねらう集中力の気配をうかがわせながらリズムとわたりあうように駆けていて、きいているほうもすこし緊張する。Gary Peacockがベースソロでウォーキングをえらんだのは正解だとおもった(テンポ的にそれいがいやりづらいということもありそうだが)。ただ、ベースソロ後半からおちついてきて、DeJohnetteのソロもそんなにあばれないままテーマにもどって終わるので、爆発感が足りないような気はした。三者一体でもりあがるピークが一箇所あったほうがよかったのではないかと。ピアノソロも駆けまわってはいるのだがある種淡々と、あまりたかまらず一定の起伏におさまっていたし。ピアノソロの後半でもっともりあげる可能性もあったはずだが、そういうながれにならなかったのだろう。ところでこのライブ盤はスローバラードは三曲、”Little Girl Blue”と”Ballad of The Sad Young Men”と”It’s Easy To Remember”がはいっているのだが、どれも透明に美麗で質はたかい気がする。”Ballad of The Sad Young Men”がいちばん好みか。

  • めざめて時刻を確認したのがちょうど八時ごろ。起きた瞬間からきのうと変わらず、というかきのうよりもいっそうはげしく、そとを行き交う風の轟音がひびいており、午後二時前現在までそれは変わらず、まさしく暴風的な荒れ狂う春の嵐の様相で、瞑想中など屹立する巨大な風の壁がつくりだす渦のなかに封じられているような印象だった。寒さはない。天気はおおかた白茶けたような曇天、しかしときに薄陽がもれる瞬間もわずかにあった。とはいえ洗濯をしようとなる気候ではない。いちど抜けてもろもろ済ませてもどってから寝床には一〇時くらいまでとどまってしまい、その後からだをすこしうごかしてから瞑想。一〇時七分から三〇分くらいまで。座りやすくなってきているが、二〇分そこそこでしかない。食事はいつものように温野菜に納豆ご飯、きのうの夜スーパーに行ったのでバナナとヨーグルトも食べられる。米がなくなったので釜を水に漬けておいた。食後はさきに歯磨きをしてから洗い物をかたづけて、足首をまわしまくりつつWoolfの英文を三項目読み、ものを食ってから一時間ほど経った一二時半で臥位の書見へ。ティム・インゴルド『生きていること 動く、知る、記述する』のつづき。第七章まで終えていま234。第二部を通過したことになる。あいかわらず言っていることはやたらよくわかるつもり。ブルーノ・ラトゥールのいわゆるアクター・ネットワーク理論と、ティム・インゴルドじしんの「メッシュワーク」的世界観とのちがいについてなど。要はきのう書いたのとおなじことで、前者が固定的な、境界線の内側にくくりこまれて完結した要素あるいは対象を前提しており、したがってそこにおける「関係」とはそれらのあいだをつなぐものでしかないのに対し、後者の線は流動性のあらわれであり、有機体自体がそのような線の集合、からまりあいとして構成されているということ。したがって有機体と環境のあいだに境界線はなく、おのおのの線に沿っていとなまれる生のはたらきや力の作用は相互浸透的で、たがいにひらかれており分離不能というよりは混淆的である、というようなかんがえかたで、要約の厳密な正確性はれいによって保証しないが、これやっぱり仏教じゃんとはおもう。仏教思想やいわゆる「空」とか「縁起」についてもちゃんと勉強したわけではないのだが。「このことを表現するもうひとつの方法は、有機体は、アンヌマリー・モルとジョン・ローが呼ぶところの「流動空間」に住みついていると言うことである。流動空間にはっきり定義された対象や存在者はない。それどころか流動し、混ざり、突然変異する実体がそこにはあり、それは時にはうつろいがちなかたちへと凝結するが、再び溶け、再形成しても連続性を損なうことはない。流動空間におけるあらゆる線、あらゆる関係は、川床あるいは身体の血管や毛細血管のような流動の経路である。血流のイメージが喚起するように、生ける有機体はただ一本の線ではなくそのような線の全体的な束である」(211~212)という記述など、ほとんどそのまま無常観のバリエーションではないか? とおもう。また、「空気と水は行為する存在者ではありません。それらは物質的なメディウムであり、生ける物たちはそのようなメディウムに深く巻き込まれており、空気や水を渦や力、圧力勾配によって経験するのです。正確には、チョウだけで飛ぶのではなく、空気中のチョウが飛ぶのであり、サカナだけで泳ぐのではなく、水中のサカナが泳ぐのです。しかしそのことは、それがサカナをサカナと水のハイブリッドにしないのと同様に、チョウを飛行と空気のハイブリッドにしたりはしません。物が相互作用するためには、それらの物を取り囲むメディウムの渦が整えるある種の力の場に、深く巻き込まれていなければならないと認めることにすぎないのです。これらの渦から切り抜かれると、つまり、物へと還元されるとそれらは死んでしまいます [﹅8] 」(226)などという一節もあるけれど、これは道元がたしかまったくおなじことを言っていたはず。道元のはなしでは例が蝶ではなく鳥だった気がするが、魚と水の不分性をいうのはおなじだったはずで、要は図と切り離されて地はなく、地と切り離されて図もないというはなしだが。


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  • 日記読み: 2022/4/7, Thu.
  • 「ことば」: 1 - 3