2023/4/8, Sat.

 ピラネージは斧と松明でもって藪と夕暮れを切り拓き、ヘビやサソリを追い払うために火を放った。黒いケープに身を包み、月光に照らし出されたその姿は、まるで未来の小説の登場人物のようだ。つるはしと鋤で地中の王国に向かって掘り進み、台座や石棺を発掘し、古い防御施設や風化した橋の控え柱や支柱を測量し、石塀の接合部分や柱の配列を観察し、建物の正面 [ファサード] や土台を調べ、納骨堂の碑文を解読し、柱の縦溝の装飾とアーチの帯状装飾 [フリーズ] を模写し、土に埋もれた猛獣の檻や劇場の舞台の平面図と立面図、生い茂る植物に覆われた神殿や城砦の横断面図と縦断面図をスケッチし――さらに休みない手で、この途方もない建築物群を造るために必要だった梃や角材、鉤金具や鎖、振り子や担い棒を描いた。彼にとっては石ころ一つでも何も語らぬということはなく、もろい石塀や、損なわれた円柱基部の中に、かつて力に満ち溢れていたこの都市の身体を形成する手足や筋肉、この身体を養う血管や臓器を見出せないことはなかった。橋や幹線道路、水道や貯水槽、そして何より迷路のような最大下水路 [クロアカ・マキシマ] の、多数の手を持つ運河は、もっとも低次の欲求を統制するものであるにもかかわらず、いやむしろまさにそれゆえに、すべての建築術の頂点に位置するものであり、ピラネージの評価によれば、その壮大さは世界の七不思議をも凌駕した。百年前、処刑された殺人犯のまだ温かい死体を解剖した解剖学者ヴェサリウスのように、ピラネージもまたなかば朽ちかけた建物の本体、彼の目には罪なくして滅亡したように映る過去の帝国の残骸を解体した。
 生涯にわたり一軒の家も建てることのなかったこの建築家は、雄弁な瓦礫の山をもとに憧れの過去の見取り図を作成すると同時に、まったく新たな世界のヴィジョンを立ち上げ、彼の銅版画に描かれたその世界は、大地に縛られたいかなる建造物よりも多くの人間を虜にした。仕事場で冷たい滑らか(end86)に磨き上げられた銅板の上にかがみ込み、赤鉛筆の大まかなスケッチをエッチング用の地塗りに写していく時、彼のまなざしは堆積物や建材を苦もなく透視した。無数の線や点や鉤、染みのような形、震える線、まるで新しい針路をとるように、細部を描くごとに線の向きは変わるにもかかわらず、それらはごく稀にしか交わらない。彼は銅板を繰り返し腐食液に浸しては表面を取り除いていき、また別の版には液を滴らせてごく微細な溝にまで酸を浸透させ、彼が忘れたくない物、忘れられない物の姿を永遠に留めようとした。
 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、86~87; 「サケッティ邸」)



  • 一年前の日記から。ニュース。

(……)新聞一面からG7およびNATOの外相会合があってロシアを非難という記事、ならびにキエフやチェルニヒウ周辺からロシア軍はかんぜんに撤退したもようという報を読んだ。その兵力はいまベラルーシやロシア国内にひいているらしいが、これから東部に再配置されるはずで、そちらの戦闘激化が懸念される。国際面にはブチャの市民らの証言があった。男性は問答無用でなぐりたおされひざまずかされ、目隠しをしてあたまに銃をつきつけられた女性などもいたと。ロシア軍兵士は、おまえたちをナチスから救いに来たと告げ、ゼレンスキーはNATOにはいりたいだけのピエロだ、ナチスはどこだとおおまじめな顔で言っていたという。かれらが「ナチス」ということばでどのようなにんげんや思想を想定しているのかがまったくわからない。たんに「凶悪人」とか「われらの敵」ぐらいの、意味のはなはだひろいマジック・ワードのようにしてとらえられているふうにみえるのだが。たんなる方便でしかないのだ。そしておそらくこの例のような前線の兵はそれに気づかず、クレムリンプロパガンダを信じこみ、「ナチス」という語をじぶんに都合のよい意味で解釈し、行為を正当化するために利用している。プーチンや高官らにしてもほぼおなじことだろう。兵のなかにはまだ学生のようなあどけなさをのこした顔立ちの若者もおり、かれはいくらか動揺していたようだが、古参の兵はおちついてそのようなことを主張していたと。いっぽうで証言者によれば、酔っ払ったロシア兵の対立がきこえ、かたほうがウクライナナチスだらけだというのにたいし、もうひとりはプーチンは嫌いだ、戦争なんてしたくないといっていたという。

  • 述懐。

きょうの昼間のどこかのタイミングで、もうすこしじぶんじしんにつきたいとおもった。凡庸きわまりないことでもそのときじぶんがそうおもったりかんじたりしたのなら、凡庸さを凡庸さのままにいいはなってしまうふてぶてしさというか。もうすこし堂々と、厚顔無恥に書きたいと。たとえばきのうの記事でトーマス・マンの『魔の山』について記したとき、ひとをとらえる永続的かのような時間感覚の同化吸収作用が魔の山の「魔」性についての「もっとも標準的な理解となるだろう」みたいな書きかたをしたのだけれど、この「もっとも標準的な理解」というのはようするに、この作品を読めばだいたいだれでもこういうことはおもいつくだろうとくにおもしろくもない解釈だということをいいたいわけである。それをそのまま意気揚々とかきしるすのがしのびないので、自己相対化による皮肉的な水準をどうしてもさしはさんでしまうのだけれど、もうすこしこういうことわりをせずにありきたりなことを堂々と書きたいなあと。しかしまだそこまで自意識を廃することはできない。皮肉をはさむというのもそれはそれでいま現在のじぶん、どうしても相対化ぶってしまうじぶんについているともいえるのでまあべつによいはよいのだけれど、それはしょせんはじぶんはそのていどのことしかおもいつかず書くこともできない平凡者であるということをそのままみとめてしめすことができずに糊塗せざるをえない似非インテリの知的ポーズなのであって、蓮實重彦だったらせいぜい「相対的な聡明さ」にすぎないと言ってけなしたにちがいない性質である。「相対的な聡明さ」の反対がなんだったか、絶対的な愚鈍さなのか、絶対的な差異にふれる能力ということなのか、よく知らないのだが、べつにそれをほしいとまではいわないとしてももうすこし自己相対化なしでじぶんにつきたいなあと。けっきょくのところ問題はじぶんじしんに、それもじぶんじしんのまずしさに徹底的につくということなのだ。こういった思考傾向の発展には三つの段階がある。はじめに自己相対化を知らず、たんに無思考で無邪気な素朴さのレベルがある。つぎにあらゆるものごとを相対化して懐疑したり吟味したりする知的とよばれるふるまいの段階がある。それを経過して一周まわるようなかたちでさいしょの素朴さに、しかしなにかしらの深さや気配や自覚をたたえたような異なおもむきで回帰するのが三つめの水準である。ロラン・バルトはどこかでそれを螺旋状の回帰と呼んでいた。はじめとおなじ地点にもどるのだが、しかし位相がちがう。道元もたぶんそれにちかいようなことは言っているはずで、仏教のほうでもこういうかんがえかたはあるのではないか(バルトのネタ元もそうだったかもしれない)。

  • 出勤路。

徒歩。家から東の坂道にはいると日なたの範囲が先日よりもみじかく、背に来るひかりもそこまで厚みをもたずじりじりしないようにおもわれたが、それはもう三時だからだろう。風があり、左右の木立をさわがせ、とちゅうの篠竹のあたりでも葉擦れを起こしているそのおとが、先月の記憶とはひびきがちがってシズルシンバルのさらさらしたたなびきではなくもっとひっかかりのある重さをもっていた。斜面したのみちにある一軒の脇で桃紫のモクレンが盛りをはずれて蝶の花にくずれの気配をみせだしている。

おとといとおったときとはちがって水路は平常にもどりひびかず、かわりにきょうは風がひっきりなしにおどるかのようであたりのこずえはことごとくおとを吐き、ほそながい竹などさきのほうを押されてかなりかたむいていた。きょうも街道に出ると工事現場にとめられている車を待ち、去ったところでむかいにわたって東へ一路、背後から陽射しが肩口から尻や靴もとまでつつんでくるおもて通りは先日よりも時間がくだってむしろ熱い気がした。公園の桜はまだふくらみをたもって一見かわらないが、もう盛りは超えて、となりの家の砂利の駐車場には花びらがたくさん混ざって、歩道にもあり、すぎざまになかをのぞけば地にはふるいでおとされた小麦粉のように白い花弁がまぶされていた。

きょうは裏にはいらずおもてをそのまま行き、じきにさすがに首のうしろにたまった熱が重くなってきたので、ジャケットを脱いでかたてにもち、バッグとで両手ともふさぎながらみちをたどった。おもてみちにも風はあり、吹けばベストから出てワイシャツいちまいにおおわれたのみの前腕がすずしい。とちゅうでとつぜん砂っぽいようなにおいがマスクのしたの鼻にふれた瞬間があり、なんだとおもったらひだりにどす黒いような木の古家があるそのまえをとおるところだったので、ああこれは木のにおいだとおもった。ひかりをうけてあたたまった古木が吐いたのだろう。観光というほどの名所もないが、(……)の枝垂れ桜でもめざすものか、よそから来たらしい散策すがたの高年の男女一団がおり、木造屋の壁に貼られた古びた地図をまえにどこだとかなんとかはなしていた。前方には女子高生四人ほどがつれだって、こちらの足でも追いつきそうな気ままなゆるやかさで下校中、とおりのむかいではビルのわきの妙な像のあたりにこちらも下校中の小学生らがつどってにぎやかにあそんでおり、笑いさざめくその声が建物や空間に反響して女子高生らもそちらをみていた。ヒバリだかツバメだかなんの鳥だかわからないが、さえずりもしきりに路上に降って、対岸かららしいとビルのうえなど目をむけるがもとを視認できようはずもない。駅ちかくなって裏に折れて行くと、自転車にふたり乗りした男子高校生らがさわがしく追い抜かしていき、みちのさき、駅前に出る角ではべつの集団がたむろしていて、なかまらしく合流してなんとかいいあったあと、こちらがそこまであるくまえにほとんどのこらず発っていった。

  • 覚醒後の寝床で一年前の日記を読んだあとは、(……)さんのブログも何日分か読んだ。さいきん大雑把にのぞくばかりで正式に読めていなかったので。いまさらいうまでもないが、以下の言い分はひじょうによくわかる。

 食後、女子らはタクシーに乗って大学にもどるという。(……)くんが散歩がてら歩いて大学まで帰りたいというので、かまわないよと受けたのだが、地図アプリで大学までの道のりが4キロあることを知った途端、やっぱりタクシーに乗りましょうといった。軟弱なやっちゃ! ただただおしゃべりしながら歩くという行為の豊かさをまだ知らないのだな。(……)くんとカフェでだべったあの夜は、すでにかなり遅い時間であったにもかかわらず、われわれは一時間かけて大学まで歩き、そのあいだひたすらしゃべり通したものだった。日本でも中国でもおなじだ、カフェだの食事だの映画だのは単なる方便にすぎない、おまけでしかない、本当にゆたかな時間というのはただしゃべること、だべること、歩きながら語ること、それだけなのだ。こちらがこれまである程度親しい関係を築くことのできた人物は、みんなここのところを理解していたし、このよろこびを共有することができていた。

  • けっきょく友達と会う、遊ぶといって、なにかとくべつな場所に行ったり、アクティヴィティをしたりしてもよいわけだけれど、べつにもうただくっちゃべるだけでいいじゃんと。それがいちばんおもしろい。じぶんのいうこととか思考はだいたいいつもおなじなので基本つまらんのだが、他人のはなしを聞くことはほぼつねになにかしらのおもしろさをふくんでいる。かくいうじぶんもむかしはひととはなすことが得意ではなく、むしろ苦手なほうで、いまもとくべつ得意ではないが、やっぱり文学にふれはじめ読み書きをはじめてからひととはなすのはおもしろいという感性がはぐくまれてきたな。正確にいえばさいしょのうちは読んで書くいがいの時間など無駄だというかぶれた熱情状態にあったから、職場の飲み会とかもちろん時間の無駄でしかないとおもっていたのだが、何年か読んで書いているうちにそういう時間のなかにも興味深いもの、おもしろいものがふくまれていることに気づきはじめ、人生において退屈をおぼえるということがほぼなくなった(それは瞑想習慣の寄与したところもおそらくある)。そういう感性をそなえたいまのじぶんにとって、日々多数の一〇代(ときにはそれ未満も!)の若者もしくは子どもたちとコミュニケーションを取ることになる塾講師というしごとは、まあ天職とまでは言わないが、かなり向いているとおもう、おもしろいものになった。
  • その他引用もろもろ。

 いったい、あの世があるものか、あるとすればそこにはどんな眺めがあり、なりわいがあるかということほど、人々の大きな関心をひくものはありません。それもこうした世なればこそですが、明朝が倒されて清朝になり、戦乱あいついで匪賊が横行し、目を覆うばかりの殺戮がなされる。商家が興り農民が安穏を得たと思えば束の間で天災蝗害などが起こり、たとえこの世からあの世に行ったとしても、いわばそうした世変わりに過ぎず、あの世とても官僚が腐敗しきって、賄賂など行われるのが当然と考えていたのかもしれません。
(森敦『私家版 聊齋志異』)

  • 「たとえこの世からあの世に行ったとしても、いわばそうした世変わりに過ぎず」。すばらしい。

千葉 政治活動は、主体化にとって非常に大きな場だということですよね。ただ、政治活動以外でも、アーティストが芸術活動で主体化するように、人は何かに熱中することで主体化される。そうするとポイントは、目的志向的な活動は何か主体化を取りこぼす面があるということですよね。
 目的志向的に動いていると、何かが疎外される。つまり、目的志向活動の外部にこそ、主体化があるわけです。さらに言うと、この主体化という言葉は、主権化とも言い換えられると思うんです。國分さんはさきほど、目的志向的に活動すると、ある方向性に一致する人々は喜ぶけど、犠牲が出ると言いました。つまり、そこで振り分けが起こる。そこで取りこぼされた人たちは、自分たちの居場所がないという不満を持ってしまう。そうではないようにするためには、いかに主体化あるいは主権化の場を、目的の外部で確保するかが重要になるわけですよね。
國分 その場合、「主権化」というのはどういう意味だろう?
千葉 何が言いたいかと言うと、主権化を、いま言ったような意味での主体化というものに定義変更すべきだということです。いままで主権という言葉は、目的志向的な行動の強者の側に割り当てられるような響きを持っていましたから。
國分 主権というのは最終的な決定権のことだからね。いまの千葉さんの定義変更は大竹さんの議論ともつながるように思う。合目的ではない政治は、いままで決して政治的な主体とみなされなかった無力な者たちも包摂するような政治であると大竹さんは言っていて、非人間的なものや事物の政治の構想が語られている。
千葉 たとえばネグリが議論しているようなある種の開かれた主権性というものも、いま言った主体化の問題につながっていて、まさに無力な者たちがいかに主体化するかという話だと思います。さらにひねった展開をすると、トランプ支持者やブレグジット支持者の議論ともつながりますよね。
 あの人たちは、自分たちがある目的志向性から排除されて、主体化できないことを不満に思っていて、主体化させてくれと言ってるわけですよ。そのときに与えられるソリューションが、排他的なレイシズムと結びついてしまうことに今日の問題がある。だから、そうではない仕方で、その主体化あるいは主権化の要請にどう応えるかということが、政治の次の課題として問題になっている。
國分 非常に面白いですね。主権を求める人たちの声がなぜレイシズムに引っ張られてしまうかというと、主体化のモデルが敵に基づいているからだろうと思うんです。
千葉 そうです、そうです。
國分 敵をやっつけることで主体化するというモデルしかないから、主体化への要求が敵を打ち立てるレイシズムに結びついてしまう。すると、いま議論しているような目的を持たない遊びとしての政治は、アドホックには敵はあるかもしれないけれども、それが主体化のモメントになるのではなくて、参加して活動していることそのものが主体化につながっていくような政治であるのかもしれませんね。
千葉 根本的に敵対関係によって動機づけられるものではないような主体化、ということですよね。そのような政治は可能か。まさに反シュミット的な政治ですね。
 でも、それこそがコミュニズムだと思います。コミュニズムが言っている「コミューン」とは、敵友関係がない、遊びの共通地平を拓くということですよ。歴史的な共産主義運動は、はっきり敵を作ってやってきた。その歴史から言えば、いま言ったような遊びとしての共通平面を立てるというのは、どちらかというとアナキストが考えてきたことだと思います。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

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千葉(…)おそらくそこで重要になってくるのが、僕らが繰り返し議論している「権威主義なき権威」をどう作っていくかということです。それは歴史性を尊重することだという点は確認してきました。ただ、歴史性を尊重する、大事にするといっても、放っておけばそうなるわけでもありません。なんらかの意味で尊重させる、大事にさせるという強制性が伴うことになる。
 でも対談の冒頭に言ったような知の民主化がそこに立ちはだかっている。つまり、インテリの教養主義などふざけんなという反エスタブリッシュメントの動きが強まっている。それはそれなりに倫理的な重要性がある抵抗ですから、無視できないと思っているんです。
國分 それを無視できないというのは僕も共感します。では、そのうえでどうすればいいか。千葉君はどう考えますか。
千葉 まず大事なのは、自分が他のものに依存していることを認めることだと思うんですよね。いまの平等化は、みんなが自己権威化している状態になっている。個々人が小さな権威になってぶつかっているわけですよ。
 でも、人間が思考するときには、必ずその素材なり何なりをどこかよそから持ってきている。常に他者依存的に動いている。これはラカンを持ち出すまでもなく、何らかの他者のイメージとか他者の言語を参照しないことには、主体化はできないわけですよね。にもかかわらず、まるで自分が自分一人で存在しているような勘違いをしている人たちが多数いるのが現在の状況です。
 われわれが「権威主義なき権威」と言うことで何を呼び起こそうとしているかというと、われわれは常に何か、他なるものを参照してきているんだということ。根本はこれだと思います。
 そのうえで、われわれ人文学者は、そのことを「歴史性」という言葉で言っている。常に何かのテクストを参照して考える。それを絶対視するわけではないけれど、さしあたり、あるテクストに依拠して語るということをやっているわけですよ。
 僕が『勉強の哲学』で広めようとしたのも、自分は他者によっかかっているということです。それはある種の謙虚さを導入するということですね。
國分 なるほど。それも「使用」とつながってきますね。自己権威化とは自分が他者を通じて主体化したことの忘却であり無視である。人は必ず何かを使用することで主体化していってるはずですね。そのことが認められれば、自分が主体化するときに「使用」した他者や物に対する敬意やそれを慈しむ心も出てくる。
 これは何度でも強調したいところだけど、言語というのは社会や親から押しつけられて使用しているわけですね。言語は自分のものではなくて、他なるものである。
千葉 レイシズムの問題もそこにあります。他者を敵対的な鏡として使うことによって主体化する人たちが、いま、主体化で困っている人たちなわけですから。
國分 それは使用関係でなく、支配関係なんだよね。
千葉 そう。そこから使用関係に抜けていくことで、別の主体化に導いていく。そういう政治的実践はあり得るんじゃないかということですよね。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

 たいていの場合、ひとが助言を求めるのは、ただそれに従わないためである。あるいはもし助言に従うのだとすれば、それは助言をくれたそのひとを責めるためだ。
——アレクサンドル・デュマ『三銃士』
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)

Russia or pro-Russian elements are likely behind the leak of several classified US military documents posted on social media, three US officials told Reuters. The unnamed officials said the documents provided a partial, month-old snapshot of the war and appear to have been doctored to play down Russian losses, according to Reuters. The New York Times earlier reported the documents provided details of US and Nato plans to help prepare Ukraine for a spring offensive against Russia. The US Justice Department said it has begun a probe into the leak.

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Russian Federal Security Service investigators formally charged Evan Gershkovich with espionage but the Wall Street Journal reporter denied the charges and said he was working as a journalist, Russian news agencies reported on Friday. Gershkovich is the first American journalist detained in Russia on espionage charges since the end of the cold war.

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Russia’s foreign minister, Sergei Lavrov, has threatened to abandon a landmark grain deal with Ukraine if obstacles to Moscow’s exports remained. The agreement last July allows Ukraine to export grain through a safe corridor in the Black Sea. “If there is no further progress in removing barriers to the export of Russian fertilisers and grain, we will think about whether this deal is necessary,” Lavrov told a news conference in Ankara alongside his Turkish counterpart, Mevlut Cavusoglu, on Friday

Ukraine can resume exporting electricity after a six-month gap, given the success of repairs carried out after repeated Russian attacks, the energy minister, Herman Halushchenko, said on Friday. Last October, Ukraine halted exports of electricity to the European Union – its main export market for energy since the war began – following Russia strikes on energy infrastructure. “The most difficult winter has passed,” Halushchenko said.

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Ukraine president Volodymyr Zelenskiy on Friday criticised Russia’s treatment of the Muslim-minority Tatar community in Kremlin-controlled Crimea and vowed to recapture the peninsula from Russia during a first official state iftar. Speaking outside the centre of the capital, Zelenskiy announced Ukraine was beginning a new tradition of hosting an official iftar, the meal breaking the daily fast during the month of Ramadan.

  • この記事のなかに、〈Loomer has previously described herself as “pro-white nationalism”, claiming “there’s a difference between white nationalism and white supremacy … and a lot of liberals and leftwing globalist Marxist Jews don’t understand that”.〉という一節があって、〈leftwing globalist Marxist Jews〉なんていうくくりがまだ生きているんだなとおもったのだが、これはたんにユダヤ陰謀論を信奉しているひとびとにとってだけのことかもしれない。とはいえ、左派やグローバリストをそのままマルクス主義者と等値するとらえかたが、西暦二〇二三年の日本に生きるこちらにとってはある意味で新鮮というか、まだそんな古臭い見方がのこっているのか、という印象を生じさせる。とはいえこれも反グローバリズム陰謀論者界隈にかぎったことかもしれないけれど、ただなんというか、日本では「マルクス主義者」なんていうレッテルもしくはくくりは、もはや化石的なひびきを帯びて聞こえる気がするのだけれど(しかしこれもわからん、さいきんだと斎藤幸平がゆうめいになったりしているので、マルクス主義的左派の復権がたしょうみられるのかもしれないし、マルクス主義はともかくとしてマルクスが左派思想にとってつねに重大な存在であることはうたがいないだろうが)、アメリカやヨーロッパなどではMarxistに日本とはちがったかなりおおきな意味合いが乗せられているんだろうなということを漠然と想像する。それはソ連との関係からくる歴史的事情があるのだとおもうが、ところでうえの〈leftwing globalist Marxist Jews〉というくくりかたは、第二次大戦中にナチスドイツがソ連にいだいていたイメージとまったくおなじだとおもうのだが。おまえはいつの時代を生きてんねんという感じだけれど、ということは要はトランプ派のこういうひとたちにとって(あるいはひろく右派にとって)、合衆国内の左翼というのは国内に旧ソ連勢力があるのとおなじようなことなのかもしれない。しかしいっぽうで、ソ連の崩壊を歴史的悲劇とかんがえ連邦もしくは偉大なるロシア帝国の復活をゆめみているであろうプーチンは、欧米の右派勢力のあいだにも支持者がおおい。
  • ちなみにこのDonald Trumpが起用を指示したLaura Loomerというひとの合衆国観はつぎのようなもの。〈In the same conversation with a white supremacist podcast, in 2017, Loomer said the US “really was built as the white Judeo-Christian ethnostate, essentially. Over time, immigration and all these calls for diversity, it’s starting to destroy this country.”〉
  • Marjorie Taylor GreeneはLoomerを嘘つきだと非難しているが、かのじょはかのじょでやはりユダヤ陰謀論の信奉者だ。〈“Laura Loomer is mentally unstable and a documented liar,” wrote Greene, who has risen to power in the Republican party despite spreading conspiracy theories including that wildfires are caused by space technology controlled by the Rothschild family and that the Parkland school shooting in Florida was a “false flag” operation.〉ロスチャイルド家がどうのとか、マジでいつまでそんなこと言ってんの? とおもってしまうが。
  • ところでかなりどうでもよいことではあるのだけれど、〈Loomer, Greene said, “can not [sic] be trusted. She spent months lying about me and attacking me just because I supported Kevin McCarthy for [House] speaker and after I had refused to endorse her last election cycle.”〉という箇所のsic(原文ママ)が、さいしょなんでこれがあるのかわからなかったのだけれど、つうじょうcannotのところがcan notに分かれているからか、とおもいあたった。それでちょっとおもったのだけれど、can not be trustedだと、not be trustedをひとまとまりにしてcanと分けるとらえかたができるのかなと。つまり、信用されないことが可能である、信用されない可能性がある、という読み方をする余地が生まれるのかなと(文脈上ここの意味は明白だが)おもったのだが、たぶんこれはかんがえすぎだろう。
  • 覚醒をみて時刻を確認したのが七時五三分。そこが起上だったとおもうが、それいぜん、布団のなかで鼻から深呼吸したり、からだの各所を揉んだりさすったりしていた。からだを起こしてからも腰の周辺を揉んだり首をまわしたりし、それからカーテンをあける。曇天である。立ち上がって水を飲むときょうは尿意がなかったのでそのまま布団のうえにもどり、掛け布団はたたんで奥に寄せておき、座布団二枚のうえにあおむいて旧枕をクッションがわりに胸のうえに置いて、Chromebookをそこに乗せてウェブをみたり日記を読みかえしたりした。(……)さんのブログも。九時半ごろ離床。ジャージに着替えると、すぐに椅子について瞑想をした。さいしょのうちはしばらく鼻から深呼吸して、じきに静止。きのうよりはましだが腰まわりがやはりいくらか硬いのが感じ取れる。それで静止のうちにもときどき深呼吸をして、からだの奥のほうまでほぐれるよう促進する。じっさい、深呼吸をしたあとは静止していても各所のほどけが加速されて、腰のあたりもだんだんだいぶ稼働性が高くなり、前後左右にゆれるようになってきた。とはいえ根源的なぶぶんはまだまだという感じがある。そもそもあまり大幅にゆらいでもまずいだろうし。背すじがすっとまっすぐ立つというよりも前傾しがちなのはやはり腰の筋肉が硬いために姿勢が反っているのかなという気がする。とはいえこの日は深呼吸によるいわばドーピング効果でながく座り、三〇分を越えて目をあけると一〇時をまわっていた。座っているあいだは保育園からおとなひとりと出てきたらしい子どもふたりの、いっぽうがまずお花がたおれてる、と言い、もうひとりもつづいてお花がたおれてるー! とくりかえすのが聞こえた。その他路上をすべる車の音など。土曜日に園にあずけられている子どもは平日とくらべるとかなりすくないが、それでもいるようだ。
  • 天気がふるっていなかったのだが洗濯はどうなのかなとYahoo! の予報をみてみると、一二時いこうは晴れそうだったので洗うことにしたのだが、しかし午後三時半現在、ここまでちっとも晴れていないどころか、ただでさえ濁りよどんでいた曇天がいっそう鈍さのほうに向かって、いまやかすかな青みをはらんだ白雲が全面にひろがりつくしている始末、雨が来てもおかしくない空と大気のいろあいで、吊るしたものもちっとも乾きそうもない。おとといきのうとことなり風はなく、ひびきは聞こえず、レースのカーテンのむこうにほとんど同化的に透ける影も緩慢で気まぐれなうごきをしている。食事は温野菜と、冷凍のヒレカツをおかずに米。バナナとヨーグルト。食べながらGuardianを読んだ。食後、なんとなくスタンディングスタイルでまたやってみるかという気になり、机の右方にとりつけられている高さ調節用のレバーをぐるぐる回し(ちなみにそこには携帯の充電器ケーブルもゆるく巻きつけられて場を得ている)、上昇させていったのだが、おもったよりも上がるな、こんなに高くなるんだっけ、という調子で、最高まで行きつかないうちに止めたし、そこからちょっともどしたくらいだ。左手にある収納スペースの下面をすこしだけ越えたくらいの高さにしている。それで歯を磨きつつ、なぜか『ムージル書簡集』をこれから日々食後にすこしずつ読んでいこうかなという気になったので、箱からとりだしたのを机上、パソコンの左側にひろげて読むが、本を置いて読むとなるとあまりよい高さではなく、文字はやや見づらい。しかも首が下方に曲がってかたむいた姿勢で固定されるので、こういうのでストレートネックになるのかとおもい、首の横とかうしろをそこらじゅうゆびでかるく揉んでほぐしておいた。書簡のはじまりは一九〇一年。ムージルは一八八〇年の生まれだから二一歳か二〇歳。三通目でさっそく「ヴァレリー宛?」と題された一通が出てきて、草案だとあるのでじっさいに出されたのかはわからないが、交流あったのか、とおもった。と書きながらいま検索してみたが、これはポール・ヴァレリーのことではなかった。この年譜(https://core.ac.uk/download/pdf/291680247.pdf)の一八九九年の欄に、「たぶんこの頃に若い女優へ強烈な恋心を抱き、彼の感情は「生まれて初めて金で刺繍されている緋色のマントを着る」。その後日記のなかで、この体験は「ヴァレリー体験」という客観的な名称を与えられ、彼の魂の研究課題となる」とあったから、恋慕した女性のようだ。
  • ムージル書簡をちょっと読んだあとはそのまま立位で四月一日と二日の記事を投稿。このときなぜかscopeのことをおもいだし、ひさしぶりに聞きたくなって、Amazon Musicにあったんだっけと検索してみると、ベスト盤である『アイノウタ』と『野中の薔薇』しかないようで残念だが、ベスト盤のほうをながした。初期の、こちらがもっていなかった音源からの曲もふくまれている。歌はしょうじきうまくないし時代をおもわせるような(その時代がいつの時代かわからないのだが、九〇年代ということか?)へんな癖があるけれど、メロディのとちゅうで一音だけファルセットで高音を入れてみせるつくりとか、コード進行なんかはけっこうソフトで、scopeは「ガレージAOR」みたいなことを自称していたとおもうけれど、そういういろははじめからすでにちょっとある。『太陽の塔』が好きでよくながし、歌ったものだ。聞いていると歌うたいてーとなる。投稿作業をすすめたあとはそのままきょうの記事を書き出したのだけれど、立位でもやはり打鍵するとからだがピリピリ来て軋むので、そうながくはつづけられず、そのうち寝転がっての書見に逃げる。ティム・インゴルド『生きていること 動く、知る、記述する』を進行。第三部「大地と天空」。八章の「大地のかたち」を終えて、九章「大地、天空、風、そして気象」の冒頭に来ている。ページでいうと234から280で、なんか読むのがすこしはやい。第八章は、子どもやおとなに、大地(earth)や天空(sky)はどのようなかたちをしていますか? とか、ひとはそのなかのどこにいますか? とか質問をしてその絵を描かせるという実験について触れつつ、存在が根付く経験的な地面という意味での大地と、科学的に真実とされる球形惑星たる意味での大地(地球)(という知識・認識)とは分離しており、「実験結果がハイブリッドなモデルのように見えるものだらけであることは、科学的理性が発達の途中段階にあることの徴候であるというよりは、科学そのものの基礎が矛盾していること、つまり認識することと存在することを科学が無理やり分離してしまったことの徴候なのである」(274)ということを述べるもの。つづく第九章は、大地と天空がおりなす「「開けのなかに」存在するということの意味をはっきりさせ」(279)、「空気を感じて地面の上を歩くということは、周囲と外的に触覚的に接触するということではなく、周囲と混交するということ」(279)を説明する企図をもったものだが、このあたりまさしくじぶんにちかしいテーマで、ずっとまえに差異=ニュアンスこそがひとを根源的なぶぶんで生かしているものであり(なぜならその動的生成がなければひとは化石のように固化した世界にあらざるを得ず、つまり端的に生きることができないだろうから)、差異=ニュアンスの最たる領域とはその日その日の天気と風景にほかならず、だからそれらは生命的なものなのだということをかんがえ、(……)さんの『囀りとつまずき』もそういう方面からとらえようとしたことがあったが(またどうじに、バルトが言っていた「差異学」「ニュアンス学」の一実例ではないかというかんがえも仮にしめしたが)、そういうはなしにちかいのではないかと見込んでいる。
  • 切りをつけて立ち上がると三時を越えたところ。机が高くなったので、臥位の視点でみるといっそう高く、いままでちょっとからだを起こせばそのうえにある携帯に手が届いて時間をかんたんに見られたところがとても手の届く範囲ではない。飯を食おうかなというところなのだが、ストレッチをしたり、ゆるいスクワットをしながら息を吐いたり、あと壁に両手の五指を立てて押すように前傾しながら息を吐いて腕にちからを入れるという、ストレッチの延長みたいなものだがそういうことごとをしてからだをあたため、飯を食うよりまえにきょうのことを記してみると、ここまでゆびはけっこうよくうごいてスムーズに書けた。ただ、体内はやはりひりつく。書いているとちゅうに雨音を感知したので洗濯物はさきほど入れた。

Japan fares poorly in international comparisons of female representation, ranking 165th out of more than 180 countries, with women comprising just 10% of lower house MPs, according to the Inter-Parliamentary Union.

Just over 30% of town and village assemblies have no female representatives, according to 2019 figures, and at the last lower house election, in 2021, of the 1,051 candidates, just 186 – or less than 18% – were women.

An alarming number of women who run for office say they are the target of sexual and other forms of harassment, including inappropriate touching and verbal abuse. In a 2021 cabinet office survey of 1,247 women with seats on local assemblies, 57.6% said they had been sexually harassed by voters, supporters or other assembly members. Many said they had been targeted with sexually explicit language or gender-based insults.

     *

Political parties have attempted to recruit more women to run for office after a 2018 gender equality law required them to “make efforts” to select similar numbers of male and female candidates.

While the more powerful lower house remains a male bastion, a record proportion of female candidates – 33.2% – ran in last summer’s upper house election, taking the country close to the government-set target of 35% by 2025. Of the 125 seats contested – half the chamber – an all-time high of 25 were won by women.

     *

Almost 30% of the centre-left CDP’s local election candidates are women, while the Communist party has made the most progress, with 41%. A record 489 women are among the 3,139 candidates for prefectural assembly seats, according to public broadcaster NHK,

Still, only 43 of Japan’s 1,741 municipalities have female mayors, according to a recent survey, in which half said they had struggled to launch political careers. Some had encountered voters who believed mayors should be men, and experienced abuse and harassment online, even from members of their local assemblies.

  • いま九時。ここまでで四月三日の勤務時をしるして仕上げ、四日と五日もちょっとだけ書き足して投稿した。きょうはなかなか良いペースで書ける。スタンディング・デスクスタイルをひさびさにやってみたわけだが、そのほうがやる気が出るようだ。脚がつかれたらごろごろしながらウェブをみるなり本や文を読むなりすればよいし。ただうえにもふれたように、打鍵をすればするだけからだは軋む。さきほど八時一八分から二〇分くらい瞑想をしてみたのだが、けっきょく左半身の各所、まさしく節々に散らばっているひっかかり、ノイズ、ざらつき、軋みの感覚はぜんぶつながっているということを看破しているので、全身のバランスをととのえていくしかない。深呼吸と瞑想はそのためにけっこう良い方法だ。あとはスクワットとかかなたぶん。それも深呼吸の延長みたいなものだが。瞑想で静止しているとじわじわとではあるが各所のざらつきが減って肉がほぐれていくのがわかるのできもちがよい。側頭部や耳の上のあたり、首すじ、手のひらや膝のあたりが比較的ほどけても、腰にはちいさなビスが挿しこまれたような感覚がのこっていたので、腰はひとつクリティカルポイントなのかもしれない。きょうはあと六日の夜歩きがとちゅうになっているのでできたらそれを書きたいのだが、ここまででけっこう打鍵してしまっているので無理かもしれない。できるとしても、これいじょう打鍵するのもよくないかもしれない。
  • ティム・インゴルド/柴田崇・野中哲士・佐古仁志・原島大輔・青山慶・柳澤田実訳『生きていること 動く、知る、記述する』(左右社、二〇二一年)より。これいじょう打鍵しないほうがよいかもといいつつ、すばらしくて書き写さずにいられない。
  • 308: 「私たちは自分自身を、何よりもまず、形成―済みの世界の地面の上に置かれたもろもろの対象のまわりを進んでゆく観察者にすぎないものとして考えるのではなく、形成―中の―世界のもろもろの流動のなかに自分たちの存在全体でそれぞれが没入している参与者として考えなければならない。私たちがそのなかで見ているところの日光のなかに、私たちがそのなかで聞いているところの雨のなかに、私たちがそのなかで触れているところの風のなかに没入している――。参与とは観察の反対ではなく観察の条件なのであり、それはちょうど、光が物を見ることの条件であり、音が物を聞くことの条件であり、感触が物を触ることの条件であるのと同じなのだ」: 「私たちがそのなかで触れているところの風のなかに没入している」! 完璧に同意。これがじぶんの経験だ。ついおとといもきのうもそれを経験している。
  • 311: 「地面とは、物質性そのものの表面などではなく、多様な素材からなる繊維なのであり、それはメディウムとそれが接するサブスタンスとのあいだの浸透可能な境界面を横断する動的な相互遊戯を通じて育成され堆積され編み合わされているのである」: すばらしい!
  • 311~312: 「ようするに、ハイデガーの表現を借りれば、気象とは「世界の世界すること〔world’s worlding〕」なのであり[Heidegger 1971: 181]、そういうものとしてそれは想像の産物などではなくまさに存在の気性 [﹅2] 〔*temperament*〕なのである[Ingold 2010: S133]」: 完全に同意。「気象とは「世界の世界すること〔world’s worlding〕」」、マジでこれ。これが天気ということだ。
  • 314~315: 「知覚的な経験がどのように感性的な感覚を基礎づけているかについての研究のなかで哲学者アーノルド・バーリアントは、流動的な環境が休止しないということが、「ひとの陸地的な実存を、そしてより大きな尺度では私たちの形而上的な存在の理解を、通常限定しているあらゆるパラメーター」に深く影響していると述べている。(……)「大気はそれそのものが流動的なメディウムである」[Berlean 2010: 139]」: 「私たちの形而上的な存在の理解」とか、それを「通常限定しているあらゆるパラメーター」の内実がよくわからないが、これはもしかしたらこちらがうえで触れたようなことを言っているのかもしれない。天気とは根源的に生命的な差異=ニュアンスであり、したがってわれわれの生を根本的にささえているということ。「大気はそれそのものが流動的なメディウムである」といわれているとおり、「流動的な環境」とは大気のことだろう。そして大気の流動とはそれが天気だ! マジで「きょうの(お)天気」という小説を書きたい。どういうものになるのかわからないが。でもこれらのようなインゴルドのはなしは、いぜん高校時代の断片的な記憶をもとにしてバルトの「偶景」みたいなのをやりたいとかんがえていたやつとテーマ的にぴったり相応しているんだよな。その小説案では語り手は一人称の主体としてそこにいるのだけれど、一人称は決してつかわず、ゆいいつ「こっち」という指示代名詞だけはつかってよいこととし、男か女かもわからないように書き、友人などとともにいることもあるのだけれど、印象としては世界そのものと同化しているような希薄な存在として書きたいとかんがえていたので。それをはじめて考案しだしたのは柴崎友香の『ビリジアン』を読んであのうすくてかるい文体がうらやましいなとおもった二〇一四年のことだったはずで、だからここ九年、読み書きをはじめてまもないころからいままでずっと、こちらの関心を引くテーマとか趣味とかは変わっていないことになる。
  • それでいえばブログの旧題は「雨のよく降るこの星で(仮)」だったが、これは小沢健二の”天気読み”のサビの冒頭のフレーズから取ったもので、その題に変えてはじめのうちはまさしく日々天気を読むだけの存在として立ちあらわれようというもくろみで風景や気候の記述だけを投稿していたのだったとおもったが、インゴルドの論にそくせばあれも天気を読んでいたのではなく、天気を生きていたというべきなのだ。「気象―世界のなかで知覚し活動することは、太陽や月や星々の天上的な運動や、昼夜や季節の律動的な交替や、雨と晴れや、日向と日陰にあわせて、自分自身を連動させることなのである」(315)というわけだ。完全無欠なまでに同意する。このひとが存命じゃなかったら前世のおれかとおもってるところだ。
  • 316: 「眼は、平滑空間のなかでは、諸物をめがけて [﹅5] 見やるのではなく、それらのあいだを [﹅5] 散策するのであり、固定された目標を狙うのではなく、道を探りながら進んでゆくのである。それは個々の対象を識別したり同定したりするために調律された眼ではなく、光と影の微妙な変化とそれがあらわにする表面の肌理を表現するために調律された眼である」: 「光と影の微妙な変化とそれがあらわにする表面の肌理を表現するために調律された眼」! すばらしい。
  • 夜、書きもののあいまにRob Mazurek & Exploding Star Orchestra『Lightning Dreamers』というのを聞いた。ヘッドフォンをつけて椅子にすわり、深呼吸もしくは瞑想がてら。全五曲で四〇分。これはdiskunionのジャズ新着ページをみてせんじつ作業の裏にかけたのだが、こういうコレクティヴ・インプロヴィゼーションと言ってよいのか、二曲目なんかわりとそういう感じだとおもうのだけれど、エレクトリックでややアヴァンギャルドないろの音楽を得意としているわけではなく、どちらかといえばあまりなじめない性分なのだが、せんじつ聞いたときにはJeff Parkerのギターがちょっと耳を惹いたのだった。Jeff Parkerなんぞなまえだけではじめてちゃんと耳にしたが。ほかの参加メンツでなまえを知っているのはCraig TabornとGerald Cleaverだけ。Chad Taylorというなまえもみられて、なんかみたことがある感じがあり、ドラマーだったかなといま検索してみるとそうで、Angelica Sanchezというピアノといっしょにやっているトリオ作があるが、このAngelica Sanchezは『Lightning Dreamers』にも参加しているのだけれど、Tony Malabyの連れ合いだという。Tony MalabyはタイトルをわすれたがPaul Motianがドラムの作品をいちまい持っていてけっこうよかったおぼえがある。このへんぜんぶChicago Undergroundまわりの人脈のようで、そもそもChicago UndergroundをつくったのがこのRob MazurekとChad Taylor。それであらためて聞いてみるとそこそこ行けるというか、意外とさほどとっつきづらくはなく、つまらなくはない。くりかえし聞こうという気になるほどでもないが。一曲目や三曲目の後半ではリフがあって、どちらもなんか気の抜けたようなつくりだなあとおもうものの、それにフリーっぽいソロが乗る。一曲目はギターソロが二種類あってどちらもJeff Parkerのはずで、ひとつめはほぼパキパキやってるだけみたいな調子なのでソロと言ってよいのかよくわからないが、こういう感じなんだというのはちょっとおもしろい。二曲目や四曲目はポエトリー・リーディング的な声もはいっていてリズム的にはかっちりしていない、気体的にもしくは流体的に構成されていたとおもうが、そのテクスチャーにいろいろ混ざっている感じもきらいではない。
  • その後もう日付が変わってからだったとおもうが、夕食というか夜食を取った。温野菜と、カップカレーうどん。そうして二時ごろに寝床にうつったとおもったがよくあることでじぶんの意図にさからって意識をてばなしており、気づけば四時台だった。就寝。
  • あとこの日、二食目を食べたあとになにをしようかと立ちまよった時間があって、文を書くにはまだからだがこなれきっていないし、かといって本やブログやウェブ記事を読む気にも、田子の浦にうちいでるごとくワールド・ワイド・ウェブの大海にくりだす気にもならず、そういうときはたまにある。それで机のしたのコットンラグをクラフトテープでペタペタやって掃除した。数日前にもいちどやったので、そんなに汚くなかったが。ついでに奥の壁際に放置していた雑紙類を紙袋に入れて始末しておく。そのへんに溜まっていた埃もテープで駆除。背後の洗濯機のきわや冷蔵庫とのすきまも。あと気になっているのは浴槽で、越してきていらいいちども掃除していないのでいまマジでそうとう汚いのだけれど、やろうという決心が起こる瞬間がおとずれない。あと便器のなかもやらないとまずいとおもうのだが、カビキラー買ってこないと。


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  • 日記読み: 2022/4/8, Fri.
  • 「ことば」: 1 - 3