マニは北へ向けて出発した、ティグリス川左岸の生まれ故郷の街へ。翼のある石の獣に守られた門を通り、集まってくる人々の群れに交ざり、声をあげ、古より預言者たちが語ってきたことを語った。汝らは地の塩なり。この世の光なり。我につづく者は闇を彷徨うことなく、生命の光を得るであろう。
人々は足を止めた。なぜかはわからない。暑さが彼らに一休みするよう促したのかもしれないし、奇妙に斜めに傾いたマニの姿形が人を惹きつけると同時に嫌悪をもよおさせ、通りすがりの者ですら彼とその成長を止めた片脚に目が釘づけになったためかもしれない。しかし、もしかするとそれは彼の伝える言葉のためでもあったかもしれない。彼の言葉の光の中では一切の濃淡が消え、すべてが黒か白になった。魂は善ですでに失われており、物質は悪で堕落している――そして両者の合字である人間は、救済と浄化を切望している。彼の対比の手法が物事を明確に、混じりけのないものにし、現実の世の中を暗く翳らせると同時に、遠い確実な未来を明るく光り輝かせた。その未来とは、いまは失われた、完璧であった原初の時代を再現することに他ならないという。それはめでたき報せに富む土地にもたらされためでたき報せ、福音の乏しからぬ時代の福音、多くの問いへの答えだった。太陽が最高点に達し、昼の休息が近づいたいま、マニは人々の顔にそうした問いを読み取ることができた。この国では初めについて語る術を心得た者だけが耳を傾けてもらえることを知っていた彼は、すべてがどんな風に始まったかについて語り始めた。初め、この世の成り立ちの前は、すべてが善であった。(end161)優しく芳 [かぐわ] しい風が吹き、光はあらゆる色に輝き、平穏と朗らかな節度が支配していた。そしてかの国を意のままにする神は、永遠の善き神、偉大な父、光の支配者であった。永きにわたり平安がこの天国を支配し、南方にある騒々しい小さな闇の国のことを気にかける者などいなかった。そこでは各属州の諸侯が古の昔から相争っていた。この二つの勢力はむしろ隣り合わせに併存していた。光は己のために輝き、闇は己に対し猛り狂い、それぞれが己の目的を果たしていた。ある日――それがいつのことであったか、知る者はない――闇が光に襲いかかり、闇と光、魂と物質、異質な物同士が闘いながら混じり合った。そうして第二の時代、中の時代が始まった。この世の壮大なドラマ、いま、ここ、今日、に人類は捕らわれているのだ。
マニはうねる波のような柔らかい東アラム語を話したが、彼の言葉は辛辣で、反論を許さなかった。この世のすべては、と彼はもう一度言った、善と悪、光と闇、魂と物質、二つの異なる性質のものの混合であり、それらは生と死のように、分かれてあるべきものである。したがって、この世に己の住処を求めるべきではない、家すら建ててはならぬ、子を作ることも肉を食べることも、肉欲に耽ることもならぬ。物質との接触を極力少なくするため、すべて行動は必要最低限に制限すべし。なぜなら土を耕すこと、野菜を切ること、果実を摘むこと、いや、草の茎を踏みつけることですら、その中に含まれる光の種を痛めるからだ。
(ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、161~162; 「マニの七経典」)
- 一年前からニュース。
(……)新聞一面からウクライナ情勢を追う。ロシア黒海艦隊の旗艦である大型ミサイル巡洋艦「モスクワ」がおおきな被害をうけたと。新聞にはまだその情報はなかったが、同時にながれたテレビのニュースでは火災によって沈没したというロシアがわの発表がつたえられていたし、きのう時点ですでにそういうはなしはどこかでみたおぼえがある。ウクライナがわはミサイルで同艦を攻撃し、多大な損害をあたえたと主張しており、ロシアがわの報道は火災の原因についてはふれていない。米国のジェイク・サリバン大統領補佐官やジョン・カービー国防総省報道官は、攻撃を独立の事実として確認できていないが、ウクライナがわのいいぶんは妥当でもちろんありうることだと述べた。ロシアはキエフ再攻撃を示唆するようなことも言っており、東部からウクライナ軍の勢力をひきはなしたいようす。マリウポリではウクライナ兵一三四人が自発的に投降したと主張している。
日本海周辺でロシア軍の軍事演習がおこなわれてミサイルが発射されたという報もあった。欧米にくみしてロシアと対立した日本への牽制らしい。
- さらにその一年前から『浮雲』についての感想を引いている。
二時半くらいまで文を書き、一三日水曜日の記事の勤務中でいまとまっているのだが、歯磨きをするあいまに一年前の日記を読みかえしてみた。一年前の四月一五日木曜日はいろいろ引いていてながく、さいしょのほうのすこししか読んでいないが、二葉亭四迷『浮雲』についての感想がそこそこおもしろかった。さいきんもトーマス・マン『魔の山』について印象にもとづいた感想をおりおりつづったが、去年もけっこう書いていたのだなと。ライトノベルとやりくちがおなじじゃんという分析、ならびに「お勢はいまでいうところの小悪魔的な女子というのか、からかい好きな女性らしく、それに堅物の文三が焦らされ振り回されてうだうだする、みたいな調子で、だから日本の小説って一三〇年前からおなじことをやっているのか、と思った」というのはあらためて読んでみてほんとうにそうだなあというか、しょうもねえなあとおもった。すくなくとも近代をむかえて流通ということが旨となっていらい、おおくのひとにうけるやりかたというのはそう変わりはしないのだろう。
- (……)二葉亭四迷はその後も合わせていま47くらいまで読んだが、冒頭の二葉亭四迷自身の序文と、彼が相談した相手でありこの作品を世に出すにあたって寄与があったらしい坪内逍遥の推薦序文の両方とも、文章のリズム感が当然ながら現代のものとはまるで違うし、いまや失われてちっとも知らない語彙もたくさんあって、それだけでもうかなり面白い。この二つの序文はたぶん、どちらかと言うとまだ漢文の感覚をそこそこ残しているのではないか。本文も似た感じではあるのだが、いわゆる言文一致というやつで、たしかに落語家とか講談師などがいま目の前で物語を話している、というような感じを出そうとしているのが見受けられる。文体=語り口の調子自体もそうだし、ほかにもたとえば、「(……)トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸作りの二階家へ這入る。一所に這入ッて見よう」(10)とか、「ここにチト艶 [なまめ] いた一条のお噺があるが、これを記す前に、チョッピリ孫兵衛の長女お勢の小伝を伺いましょう」(19)、「これからが肝腎要、回を改めて伺いましょう」(23)というような読者への呼びかけに、そのあたりあらわれているだろう。「回を改めて伺いましょう」というのは、この小説の区分けが「第一編」、そしてそのうちの「第~回」という言い方になっているからで、先の23の文言は第二回の締めくくりにあたるのだけれど、そういう語り口に言ってみれば紙芝居的な趣向を感じないでもない。今日はここまで、続きは次回、また聞きに来てね、という感じだ。そういう、みずからが語る物語に対して語り手が距離を取って自律しており、あれこれ言及したり評論したりしてつかの間姿をあらわすメタ的手法というのは珍しくはないのだが、二葉亭四迷のここでの紙芝居的な演出に近いものは、たとえば現代の漫画雑誌で毎話コマの外に記されているコメント、編集部なのか作者なのか主体がわからないがなんか感想じみたことを述べたり次回の内容をすこしだけ紹介したりするあれのようなかたちで残っているのではないか。それはともかく、「伺う」というのは「聞く」の謙譲語だから、話者が聞き手である読者の立場にみずから同一化しにいくような言い方で、つまり自分も話を語りながらひとりの聞き手としてみなさんと一緒に物語を聞いていますよという含みが出るので、より読者を対象化しつつ巻きこむような言葉遣いだなと思ったのだが、これは検索してみると、「《「御機嫌をうかがう」の意から》寄席などで、客に話をする。また、一般に、大ぜいの人に説明をする」という用法があることが判明した。だからやはり、語彙からしても落語や話芸のそれになっているわけだ。
- 内容としては若い男の下級官吏がやっかいになっている叔父の娘に惚れて嫁にもらおうとするのだけれど時あたかも都合悪く役所をクビになってしまってさてどうするか、というあたりまでがいまのところ。全体的に話芸の気味というか、諧謔味というか、これがいわゆる戯作、というやつの雰囲気なのか、語り手が人物をちょっと戯画化しながらユーモラスに話す感じがあって、冒頭の役所から帰る男たちの描写にすでにそれはふくまれている。二葉亭四迷はたしかツルゲーネフを読んで翻訳し、日本の文学にもあちらのやり方を取り入れようとしたとか聞いたおぼえがあるが、うだつの上がらない冴えない平役人をちょっと滑稽に扱っているあたりはたしかにロシアの、ゴーゴリなんかを思わせないでもない。ところで主人公内海文三は先に書いたとおり、叔父の娘だから従妹にあたるお勢という女性と仲良くしていて、互いに互いの好情をわかっていながらも決定的な恋愛関係もしくは夫婦関係に入る手前のぬるま湯のなかでいちゃいちゃしている、みたいなところがあるのだけれど、これライトノベルやんと思った。べつにライトノベルに限らないのだが、漫画とか大衆小説の方面とかでよくあるやつじゃん、と思って、やり口としてはかなり流通的になっている。ある夏の夜に家内がみんな出かけているなかでお勢の部屋で二人きりになるところがあるのだけれど、文三は話しているうちに自分の感情を抑えきれなくなって、もうすこしで告白しそうになるというか、ほぼもう思いを言ってしまっているような言葉を発するのだが、そこでお勢は、「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」(29)と出し抜けに言って風景のほうに視点を移すのだけれど、これライトノベル方面でよくあってネタにされてる、聞こえないふりをするやつじゃん、と思った。そこから記述は庭の描写に移行し、さらにお勢の姿を横からながめる文三の視線に移るのだけれど、「暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面 [よこがお] が次第々々に此方へ捻れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢う」(29~30)などという動きの推移がそのあとにあって、このスローモーション的な演出も、なんと言えば良いのか、いかにも、という感じがして、ちょっと映画みたいな雰囲気もある気がするが、それで流通的なやり方になっているぞ、と思ったのだ。そのあとまた文三が思いを伝える寸前まで行きながらもひとが帰ってきてそこで打ち切りとなるのも、よく見るやつだ。こういう一夜がありつつも二人の関係はやはり決定的な踏みこみにいたらず、お勢のほうは相手が恋情に屈託しているのをどうも知りながらわからないふりをして、「アノー昨夕 [ゆうべ] は貴君どうなすったの」(31)などと言い、「やいのやいのと責め立てて、終 [つい] には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッた」(31)りもして、実際にからだを触れ合ってもいるようで「じゃらくらが高じてどやぐやと成ッた」(32)りもしているのだけれど、こいつら何いちゃついてんねん、とまあこういう感じで、お勢はいまでいうところの小悪魔的な女子というのか、からかい好きな女性らしく、それに堅物の文三が焦らされ振り回されてうだうだする、みたいな調子で、だから日本の小説って一三〇年前からおなじことをやっているのか、と思った。まあこういうのはべつに日本に限らず、もっと昔からあるのだろうが。また、物語と人物関係としてはそんな様子だけれど、おりおり風景などの描写もけっこう仔細に書かれていて、それはわりと良い。だがこちらがいまのところ一番面白かったのは、先に触れた場面の直前、文三がお勢の部屋に招き入れられて話をしているところで、文三としてはお勢に恋しているわけだけれど、彼女とあまり仲良くしていると叔母などになんだかんだ言われ噂されるからそれは嫌で、だから彼女の部屋に入るのにも躊躇して、「お這入なさいな」(24)と言われてようやく、まだもごもごしながらも踏み入るというはっきりしないありさまで、そこでお勢は、母からはそんなに仲が良いなら結婚してしまえとからかわれる、でも私は「西洋主義」(26)で嫁に行くつもりはなし、こんなことを言ってる女は友だち連中のなかでも自分だけだし、心細いけれど、でもあなたが「親友」(27)になってくれたからよほど心強いです、みたいなことを語る。お勢はかぶれやすい気質で、隣家の娘が儒者の子で学問をものしていたのを真似て塾に行っていた時期があり、ただ肝心の学問は半端におさめたくらいで終わったようなのだが、この時点ではそこから退塾して帰ってきているわけだ。文三は「親友」関係では満足できないだろうから、あなたと「親友の交際は到底出来ない」(27)と受け、あなたは私をよくわかっていると言うが実際にはわかっていない、「私には……親より……大切な者があります……」(27)と恋情をほのめかす。それにお勢も、「親より大切な者は私にも有りますワ」(27)とこたえて、そして誰かと問われたのに断言するのが、なんと「真理」なのだ。「人じゃアないの、アノ真理」(28)と言っているのだ。ここはちょっとびっくりしたというか、唐突に出てきた大きな概念の大仰さに滑稽味をおぼえながらも、ここで、明治時代の女性に「真理」などと言わせるのか、と印象深かった。まあ、こいつ何言ってんねん、という感じではあるし、男性がこう口にしたとしても大しておどろきはなく、むしろ中二病的な臭みが出るというか、大仰さが半端に終わってわざとらしいことになる可能性が大いにあると思うのだけれど、明治時代に書かれた小説のなかで女性の人物がこう口にすると、大仰さが突き抜けて臭みとかが追いつけないところまで行っている、という感じがする。実際のところ、歴史社会を想定するに、この時期(『浮雲』第一編は一八八七年に発表されている)の女性でこんなことを言うひとはほぼまったくいなかったはずで、だから当時の読者は、いやいやこんな女現実にはおらんやろ、という受け止め方をしたのではないか。相当に奇矯な女性像として受け取られたのではないかと想像されて、そのあたりもだから、ライトノベルとか漫画とかでやたら突飛な言動をする女性キャラが、現実にはそんな風に振る舞う女性はほぼいないにもかかわらず、なぜかキャラクターとして可愛く描かれ、一定数の読者の心をつかんでいるのと似たようなことになっていたのかもしれない。作者自身も当然、こうした女性が突飛で奇矯だということは理解していたようで、だから第二回のタイトルは「風変りな恋の初峯入 上」となっているし、第三回になると「余程風変りな恋の初峯入 下」と、わざわざ「余程」をつけたして強調しているから、その点読むひとに対してことわっているわけだ。
- 外出路。
(……)三時一五分ごろに出発した。雨降り。傘をさし、バッグは提げるのではなくて左腕でかかえるようにしてあるいていく。みちのはじに薄桃色の桜の花びらが足をいざなう飾りのように点じられているがもとは知れない。雨はそこそこの降りだったはずだがひとつきくらいまえに得たような閉塞感、外界からの隔離の感覚はなく、せまく収縮した孤独の安息とはまたちがったおだやかな開放感があり、降りのわりに空気は灰に濁らずあかるめだったようだし、じつのところほとんど傘をさしていたという記憶がないくらいで、頭上を絶えず打っていたはずの雨音も耳にのこっていない。街道の工事はされていなかった。あたらしくつくられた歩道のアスファルトのうえをせっかくなので踏んでとおり、それから北側にわたって前進。濡れた路面をこすりあげて砂煙のような飛沫を撒き散らしつつ行く車の擦過音で街道はさわがしい。老人ホームの角を裏に折れて路地にはいると一軒目だか二軒目できょうも庭の端に立ったハナミズキが充実しており、アプリコットジャムをおもわせぬでもない品のよいピンクいろの花が隙なくいくつもつらなって、中心に淡緑の豆粒をひとつおきながら正面にむけてくちをひらいているそのすがたは空間に浮かんだ吸盤めいているが、雨をうけてもゆらぎみじろぎをすこしもみせずにしずかな満開を持していた。小学生とおおくすれちがった。自動車工のまえあたりまで来たところでとおくから叫びがきこえ、鳥か猫の絶叫かひとの声か断じづらかったが、じきにみちの果てから小学生の数人がつれだってあらわれたのであれだなとわかった。四、五人の男子だったが全員がまだちいさな、そろって三年生以下とみえる背丈のおさなさで、うんこしたい、ここでうんこしまーす、とか縁に草の生えたひろい空き地のまえでいいつつ前後に分かれてふらふらあるいているのにはやくもちょっと笑ってしまったのだけれど、その最後尾にならんだふたりのいっぽう、一年生にもみえるが入学直後にしては堂に入っているから二年とおもえるひょうきん者がにやにやしながらさきほどきこえた叫びを立てて、おまえだめだよ、さっきあのおばさんびっくりしてたから、と先行者を気にするひとりに制されていた。ヒヨドリが喉を張って鳴きつのっているときをおもわせる、たいした絶叫だった。中途にかかった坂を越えてふたたび細道を行くに一軒の脇にちいさな畑地でもありただの草花の場でもあるような、柿の木がなかにいっぽん立ったひかえめな挿入地があるが、その角に咲いているユキヤナギが白い房をもはや弱めて饐えた褐色をおおくさしこみつつ、雨にさからうちからもないようで横やうえに伸びながら微風にゆれるすがたを捨てて一様にみずの重さに垂れていた。
- Guardian staff and agencies, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 416 of the invasion”(2023/4/15, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2023/apr/15/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-416-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2023/apr/15/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-416-of-the-invasion))
Russian president, Vladimir Putin, has signed a bill allowing authorities to issue electronic notices to draftees and reservists amid the fighting in Ukraine, sparking fears of a new wave of mobilisation. The bill signed into law was published Friday on the official register of government documents. Russia’s military service rules previously required the in-person delivery of notices to conscripts and reservists who are called up for duty.
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China approved the provision of lethal aid to Russia for its war in Ukraine but wanted any shipments to remain a secret, according to leaked US government documents. A top-secret intelligence summary dated 23 February states that Beijing had approved the incremental provision of weapons to Moscow, which it would disguise as civilian items, according to a report in the Washington Post. China’s foreign minister, Qin Gang, said on Friday that country would not sell weapons to parties involved in the conflict in Ukraine and would regulate the export of items with dual civilian and military use.
Ukrainian forces are finding a growing number of components from China in Russian weapons used in Ukraine, a senior adviser to Ukraine president Volodymyr Zelenskiy’s office said.
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The 15 Russian diplomats expelled by Norway this week had sought to recruit sources, conduct so-called signal intelligence and buy advanced technology, Norwegian security police said on Friday.
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Ukraine has barred its national sports teams from competing in Olympic, non-Olympic and Paralympic events that include competitors from Russia and Belarus, the sports ministry said. The decision published in a decree on Friday, criticised by some Ukrainian athletes, comes after the International Olympic Committee angered Kyiv by paving the way for Russian and Belarusian athletes to compete as neutrals despite Russia’s invasion of Ukraine.
- 「国と国の交渉では限界?気候変動対策を巡る変化、日本の課題は G7会合前に考える<ロングインタビュー>」(2023/4/15)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/243776(https://www.tokyo-np.co.jp/article/243776))
日本が議長国となる先進7カ国(G7)の気候・エネルギー・環境相会合が15、16日、札幌市であり、交渉の行方が注目されている。ただ、気候変動対策を巡る国際交渉を見続けてきた専門家は「国と国の間の交渉で進めるやり方に限界が表れ始めている」とも指摘する。世界で何が起きているのか。日本に求められていることは何か。東京大大学院サステイナブル社会デザインセンターの亀山康子教授に聞いた。(デジタル編集部・福岡範行)
*
Q 亀山さんはこれまで、国の動きだけでは対策の流れを把握しきれない例として、トランプ政権下のアメリカも挙げていました。なぜでしょうか?
A アメリカの例は分かりやすいです。
アメリカが国として気候変動枠組み条約から距離を置いたのが、2回あります。京都議定書から出て行ったブッシュ政権のときと、パリ協定から撤退するんですと、当時のトランプ大統領が宣言した2017年です。両方とも(対策の枠組みに)民主党政権で合意して、選挙で共和党政権に移って、抜け出るということでした。
それが起きたときに、アメリカ国内の反応は決定的に違っていました。
ブッシュさんのときには、京都議定書はアメリカにとって経済的に悪影響を及ぼす合意であって、途上国が参加していない枠組みにアメリカが入るのはとても不公平なので、京都は失敗だし、「京都という言葉自体アメリカの国内では聞かれなくなった」というコメントも、私が2005年ぐらいにインタビューをして回ったときには聞かれました。
「Kyoto is gone(京都は終わった)」みたいな言い方をするんですよ。当時のアメリカは、そんな印象でした。
ところが、トランプさんのときには全然違っていて、抜け出ますといった翌日には「We are still in」というグループがアメリカ国内で立ち上がりました。「私たちはパリ協定に入っていますよ」という意味です。そこに州知事、市の市長、企業の社長が賛同しました。
最終的に24の州の知事が入り、企業もGoogleとかMicrosoftとかも入っていたので、アメリカという国は抜けているが、国内の主体を足し合わせると、人口やGDPの半分以上が残っているということが起こった。
似たような事象がアメリカ以外の国でも散見されています。
例えば、ダボス会議(スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」の年次総会)で、企業のCEOたちが集まって、気候変動が企業のリスクとしてトップに出てくる。これまでの国家間の国際交渉という、雲の上でやっているような話とは次元が違う話として、企業の方々には映ると思います。*
Q アメリカ国内の反応が違ったのは、なぜですか?
(……)
もう一つは、アメリカの中国に対するスタンスも無視できないと思っています。
京都議定書が1997年に採択されたときは中国は途上国扱いだけれども、直後から経済的に伸び始めた時期に当たっていた。議定書が発効したのは2005年。アメリカにしてみると「中国ってこれから脅威になってきそうだよね」という時代でした。「中国は安い製品をアメリカに売りつけてくるじゃないか。なぜ京都議定書は中国の排出削減目標を設定していないんだ」という意味での不公平感があったと思います。
2015年のパリ協定の後は、中国側も自分たちが世界第一の(温室効果ガス)排出量だということは自覚して、国際社会の中で批判を浴びないような立ち振る舞いをするようになってきています。下手をするとアメリカの方が悪者扱いされかねない状態になってくるんですよね。中国もある程度やるって言っているときに抜けてしまうと、アメリカだけが孤立化してしまうんじゃないかという点でも、ブッシュさんのときとトランプさんのときでは違うんじゃないと思います。
特にいまヨーロッパでは、二酸化炭素(CO2)を出して生産しているものには関税をかけようという話になってきています。対策が遅れてしまうと、アメリカの製品が売れなくなってしまったり、炭素税かけられてしまったりといった、現実的な懸念がアメリカの一部の企業にはあるんじゃないかと思います。*
Q 気候変動対策を巡る国際交渉の場は、気候変動枠組み条約の締約国会議(COP)が軸だと思います。重要性や位置付けに変化はあるのでしょうか。
A COPの重要性は下がっていなくて、年に1回、一堂に集まるのは大きいです。政府関係者だけでなくて、(企業や自治体、NGOなどの)非国家セクターの方も有名な方は集まっていて、セミナーや、タイミングを合わせた報告書の公表をしています。
2021年にイギリスのグラスゴーであったCOP26が顕著だったと思いますが、(国家間の交渉による)正式な決定文とは別に、多くのアライアンス、協力体ができました。クリーンエネルギー、自動車、金融、石炭火力をなくすようなアライアンスもありました。国だけでなく企業もいいですよ、というのも結構あり、入りたい人だけ入ってくださいと、やりたい人から始まっていく。と言いつつも、アライアンスに入っていないということが、その国に対する批判材料になり、(対策を)後押しするような影響がある。そういうものをうまく使うようになったのは、最近の国際会議の動きだと思います。
(温室効果ガスの排出を減らす)気候変動の緩和策については、まだ十分ではないけれども、ようやく非国家セクターが自発的に転がり始めたと言えると思います。*
Q 日本国内では2020年の菅義偉前首相による2050年カーボンニュートラル宣言(温室効果ガスの排出を実質ゼロにする宣言)で脱炭素化の動きが強まったと感じます。日本では国の方針に左右される部分が大きいのでしょうか。
A 国の動きに左右されるのは、全ての国が原則そうだと思います。それを前提にした上で、だけど、国内で起きている動きが、日本とヨーロッパ、アメリカとでは、かなり違う印象です。
ヨーロッパは、自国内で脱炭素への意識が高いがために国の方針につながっていると思います。
日本の場合は、菅さんのカーボンニュートラル宣言も、国内の動きで決まっている部分があります。2019年から2020年にかけては、ヨーロッパなどの国が宣言をし、自治体も宣言をして、その話が日本に輸入されて、日本の自治体が宣言をして、「じゃあ国もやって」となった。菅さんが宣言したときには先進的な企業や自治体が「やっと国が動いてくれた」と喜びました。慌てたのが、その動きに遅れをとっていた日本国内の残りの自治体と企業だと思います。
それまでは、国際条約があって、日本が合意して、国が目標を立て、自治体は国と全く同じ目標を掲げていた。上からおりてくるみたいに。
だけど気候変動対策の目標に関しては、自治体はばらばらです。例えば2030年目標をうちはもっと頑張りますとか。国とは違う設定をし始めていて、独自性が出ています。今までは見られていなかったことが日本国内で起きている気がします。*
Q 省エネで温室効果ガス排出減につながる住宅の断熱化でも、国の先を行くような目標を自治体として掲げる動きがあり、自ら先を行く例が見られる印象を受けています。
A 東京都の屋根置きの太陽光パネル(の設置義務化)もその例ですよね。
ただ、菅さんのカーボンニュートラル宣言の話に戻りますと、たしかに日本の一部の自治体と企業が(国の動きを)後押ししたんだけれども、その一部の自治体と企業は日本国民から後押しされたわけではなく、海外からの輸入なんですよね。海外のまねっこをしている。それが、今の日本の最大の問題だと思います。
2022年夏に出た国際比較の調査では、自国内の気候変動影響を心配しているかで日本は真ん中、平均的なところにいるんですけれども、国に何かをやってほしいと思う気持ちはあんまりなく、企業が気候変動に対して対処すべきかについては日本は最下位でした。
複数の世論調査で共通して見られる日本の傾向として、国民が、政府や企業が対策をとることに対して、それほど強く賛同していないと言えると思います。
使っていない部屋の電気は消しましょうとか、レジ袋は断りましょうとかは浸透しているけれども、日本人が今、やるべき一番重要なことは、自分たちが意識をもって、企業や国に対策をとることを期待していくことなんじゃないかなと思います。
- いま一〇時で、きょうはここまで籠もりきり。きのうもそうだったが。それなのでたいしたこともなし。天気は雨降りで、午前中に覚めてからしばらくはそとを行く車のタイヤ音に水気のたなびきがともなっていながらも降っているのかどうかは聞き取れず、それくらいのわずかさでたぶん降っているのだろうとおもったが、午後にはいったあたりから柵をひかえめにカンカンと打つ音が聞こえだし、降りがあきらかな気配となった。いまこの夜はまたしずまっており、止んだらしい。
- さきほど音楽を聞きながらゆっくり息でも吐くかとおもい、Brad Mehldau『Live In Marciac』を三曲聞いた。こういうときにあたらしいアルバムを聞こうとしないのがよくないところだが、まだ知らないやつはとりあえずBGM的にながしてみて、腰を据えて聞こうとおもったやつのみじっと聞きたいというあたまがある。Mehldauのこの独演は前半に三曲、クラシカルだったり現代音楽的というかやや抽象的だったりして印象にのこっているトラックがあり、それらがどういう曲なのか、どういうプレイなのかまだつかみきれていないのでひさしぶりに聞こうとおもったのだ。それで#5の"Resignation"からはじめてしまったがこれはまちがいで、#4の"Unrequited"からがくだんのちょっとつかみにくいいろあいの演奏だった。しかしもどらず、#6 "Trailer Park Ghost"と#7 "Goodbye Storyteller (for Fred Myrow)"も聞いた。いちおうこんかい聞いてこういう演奏ねというのはある程度聞き取ることができたつもりだが、しかしそうはいってもやはりわかりやすくよりどころになる色がないから、"Resignation"なんて七拍子だったことしかおぼえておらず、それいがいのことは聞いたそばからわすれている。しかし後半でしばらく速弾きするぶぶんがあったのはたしかこっちだよな? その速弾きはすごく、テクニック的にきわめてはやいという点もさりながら、ピアノをこんなふうに鳴らせるんだなというか、むしろMehldau個人の手腕よりもこんなふうに鳴ってしまえるピアノという楽器のすごさを感じるようで、こんなふうにというのはすばやくちょっともたげては沈む波打ちのぐあいだったり、高速で水平にひらいて敷かれるつらなりの粒立ちだったりでことばにしてみればよくありそうにおもえるけれど、あからさまにアウトするでもなくといってメロディックという手触りでもなく、やはり抽象的な中間色みたいな調子で、音やメロディというよりその微妙にうつりかわっていく希薄ないろとうごきとしてフレーズが聞こえるようで(つまり瞑目の脳裏に表象されるのだが)、これはと耳を寄せていた。#6のほうはまだいくぶん記憶があっていちおうテーマがあるのだけれどその旋律もなんやねんこれみたいな、バッキングがけっこうバタバタあるくみたいな感じでアブストラクトないろあいのわりにちょっと活気のある曲なのだけれど、そこに間をひろめに鷹揚に置かれていくテーマはやはり一筋縄ではいかない、あまりメロディという感じではなく、コード進行もよくわからない。しかもすぐにソロにはいって忘れ去られるし。それでいてさいごできちんともどってきたりして、いちおうこの曲はずーっとテーマの構成に沿っていろいろ展開している尋常なやりかたなのだとおもう。その展開のしかたはむろん油断ができず、乗ってくると耳を惹きつけられる。
- 煮込みうどんをひさしぶりにこしらえたのでこれから食う。
―――――
- 日記読み: 2022/4/15, Fri.
- 「ことば」: 1 - 3