2017/2/25, Sat. 

 外出したのは午後七時を過ぎた頃である。既に暮れきって空は薄黒く、雲が染みのように湧いて、合間に覗く星の光もそれほど明瞭ではなかった。坂を行くあいだ、斜面の下のほう、川の近くのどこかの木で鳴いているのか、鳥というよりは虫の声のような短い囀りが昇って来て、秋の暮れ時を思い出すようだった。比較的温暖な夜で、正面から来る風が身を包みこんでも寒さはなく、顔も膝頭も涼しいくらいで、出る前に入浴で温まった身体の温もりが、コートの下の両肩には留まっていた。公営会館の裏まで来ると人出が多く、俄かにあたりが賑わっているのは、催されたコンサートの帰りの人々らしい。道の端に停まった車の周りに人が集まっていたり、こちらの前では老婆二人が互いに支え合うように歩いたりしながら、皆口々に話しているなかに横の通りの奥から赤ん坊の泣き声が渡ってくるのも相まって、宵闇が活気づくようで、祭りの雰囲気と赤提灯の明かりを眼裏に何となく連想させた。

               *

 帰路は雲がかって白濁しがちの空の調子も、空気の感触も肩口から身内にわだかまる温もりも行きと変わりなく、腹の軽さだけがそこに追加されていた。

2017/2/24, Fri.

 五時頃に散歩に出た。川へ行くことは決まっていた――一年か二年か、随分と久しぶりのことである。もう少し早い時間には陽も出ており、本来ならその頃合いに明るい川辺を気分良く歩きたかったところだが、諸々の事柄に時間を浪費してしまったあとで、いまは曇り空が暮れ掛かっており、空気もやや冷たかった。河原にはほかに誰の姿もなかった。水の方へと近寄って、寄せてくる漣の間際まで行き、少々立ち止まった。裸木の骨組みが表面に張り出した対岸の林からも、反対側の、砂色の枯れ薄の茂った方からも鳥の声がしきりに立ち、空間に響く。それから、水辺を離れて陸地を端に向かって歩きはじめた。周囲は林の壁で囲まれ、区切られているものの、陸も長く、空は広い。表面はほとんど一面、雲が埋めているが、ほつれたガーゼのようにところどころに隙間が生まれ、そこから薄水色が覗いており、分かれた縁には僅か、夕暮れの明るみが差し掛かってもいた。流れのなかには一箇所、巨岩が鎮座した場所があって、その周辺では白渦とともに轟々と鳴りが高まっている。そこを過ぎてさらに先に進むと、川面は緩やかになって、遠くから先の厚い響きが流れてくるのにかき消されることもなく、ささやかな水音を立てていた。自分の立っているあたりを境にして、背後、西側の水面は底が透けて、錆びついたような鈍い色に沈み、その上に無数の引っ掻き傷めいた筋が柔らかく寄って渡るだけだが、境のあたりから流れの合間に薄青さが生じ、混ざりはじめて、前方の東側ではそれが全面に展開されていた――空の色が映りこんでいるのだが、雲の掛かり、時間も下って灰の感触が強くなった空そのものよりも遙かに明度の高く透き通った、まさしく空色である。水面は鏡と化しながらも、液体の性質を保って絶え間なくうねり、反映された淡水色の合間に蔭を織り交ぜながら、青と黒の二種類の要素群を絶えず連結、交錯させて止むことがない。視線をどこか一部分に固定すると、焦点のなかに、無数の水の襞が皆同じ方向から次々とやってきては盛りあがり、列を乱すことなく反対側へと去って行くのが繰り返されるのだが、見つめているうちに地上に聳える山脈の縮図であるかに映ってくるその隆起は、すべて等しい形のように見えながらも、まさしく現実の山脈と同じく、一つ一つの稜線や突出の調子にも違いがあり、言語化など不可能なほどに微妙な差異を忍びこませながら、それを定かに認識して意識に留める間も十分に与えないうちに素早く横切ってしまう――その反復のさまは、催眠的と言うに相応しかった。岸の際あたりに視線を移すと、自分の立っている石の敷き詰まった陸地が一瞬、僅かに回転するような錯覚を起こす瞬間すらあった。行き止まりになった岸の端からしばらくそうした様子を眺めてから、その場を離れた。暮れが進んで、頭上の雲には綻びも少なくなって、空気は先ほどよりも灰色に暗んでいた。戻る脚が自然、河原にごろごろと転がって起伏を作り、地面の平板さを乱している石の上を辿るようになって、思いがけなくも歩みに、平衡を崩すまいとしながら同じようにして遊んだ幼時の足取りが宿った。

2017/2/23, Thu.

 往路、コートを着ずにジャケットのみで出たが、問題のない陽気だった。坂を行くと林から、鼻に掛かったような音色で高低の二音を行き来し、嘲弄的な笑い声を思わせる鳥の鳴きが降ってくる――あるいは、ゴムを擦り合わせたような摩擦の感触も響きのなかに強いのだが、この声は近頃よく耳にするものの、何という鳥のものなのか一向に知れない。街道に出たところでいつものように西に首を向けると、山の稜線に触れるか触れないかで浮かぶ雲が、滑らかな断面を下から照らされて白橙に明るんで固化したようになっているのが、雪花石膏の具合だった。朝方に雨が降ったあと、日中は一時晴れ間も見えたようだが、今はまた雲がぐずぐずと、良く煮えた果肉のように形を崩しながら連なって青紫を帯び、下地の淡水色が露わになるのを妨害していた。気温が高めなためか鳥たちの活発な夕方で、駅の方まで来ると、周囲の家々の合間から声がしきりに立ち、一度などは、つがいだろうか目の前を二匹が連れ立って空を切り、アパートの窓先に掛かった柵のあたりに突っこんで行ったが、鳥の体が小さいことと、あたりが既に仄暗くなっていたこともあって、柵に溶けこんで行ったかのように、目を凝らしてもその姿が視認できなかった。同じ種のものが何匹か、丁字路の突き当たりの、塀に囲まれた庭に飛びこんで、玉を跳ね回すように鳴き声を弾かせ、空気をかき混ぜていた。角を曲がると、そのあとを追って、別の家の垣根に移り、軽く小さな鳴きではありながら、高速の連打を激しく聞かせていたが、その姿形を定かに見ることは叶わなかった。

               *

 帰路、行く手の西空は暗く、家屋根の輪郭線はそのなかにぼやけている。頭上から東に掛けては雲がなだらかに続いて一面を埋め、白く濁っているのが、仄かに明るいようでもある。見上げた視線を反転させて落とすと、通りの静寂が頭に染み入るようで、自分の靴底のゴムが収縮する摩擦音が耳に立った。右足を踏み出したあと左が追って前に出て、右が後ろに送られての再度の蹴り際に鳴るのだが、それを確認するようにして歩調を緩め、一歩一歩をゆっくりと踏みながら道を行っていると、頭では別のことを考えながら歩みが滞りなく続き、ちょっとした踏みの調整や方向転換も難なく済ませて、平衡を崩すこともなく鷹揚と動けているのが不思議なように思われた。寒さの和らいだ日なので、大層久しぶりにジンジャーエールのボトルを自販機で買い、右手に持って帰ったが、握ったその手指に冷たさというほどの感触は一点もなかった。

2017/2/22, Wed.

 往路、空気の質は前日よりもやや和らいだ感じがした。この日は、期限の過ぎた本を図書館に返しに行かなければならなかったので、徒歩ではなく、最寄りから電車に乗ることにして、玄関を出ると普段と反対方向に踏み出した。空には大きな雲が寝そべって空間を埋めているが、ちょうど行く手の空に、なだらかな海岸線めいたその縁が刻まれて、割れ目から薄水色も覗いていた。坂を上って行き、駅に入って階段を上がっていると、近場の森の際からまだ目に眩しく、長時間見つめることはできない陽の白さが洩れている。右奥の遠くに小さく覗く山影は、頭上を雲に覆われて雨色に籠められ、一足先に暮れ方を迎えた風情である。

2017/2/21, Tue.

 往路、玄関を抜けて外気のなかに出た瞬間に、頬に触れる空気に擦過の感触が強いのが窺われる。春一番も吹き、花粉も飛びはじめて比較的温和な日が続いたなかで、久しぶりに冬らしく冴え返った日で、露出した顔のみならずスラックスの裏の脚まで冷たさが伝わってきた。空はこの日も褪せた青さでよくひらき、街道から西を振り返ると、穏やかな川面を上空から見下ろした時に映る水の襞のようなささやかな雲が掛かっており、山際では洩れる残照に、暖色混じりの純白に燃やされたもう少し厚い雲が、さながら練絹であった。

2017/2/20, Mon.

 家の前の掃き掃除を少ししてから、散歩に出た。午後四時前である。その頃には雨が降っており、粒と粒のあいだはひらき気味で、隙間のある降りだったが、その代わりに一粒がそれなりに大きく密度を持っていて、黒傘の表面がぱちぱちと鳴った。西に向かって歩いていると、灰雲のなかの、一段窪んだ白さの裏から光の感触が透けてきて、その明るみのなかで目の前を落ちる雨粒の輪郭がより明瞭になる瞬間もあった――殊更にゆっくりとした歩調で、三〇分ほど歩いて家に戻ってくる頃には、雨は止んだものの、空から青さは消えて薄灰色が全面を覆い、空気は仄暗く夕刻に向かいはじめていた。

2017/2/19, Sun.

 正午前に外出した。路上があまりに明るく、アスファルトにしろ道沿いの木々にしろ、地に伏して崩れかけた落葉にしろ、見るものすべてが光を含んで、大気そのものが輝かしく白っぽくなっているような日だった。そのような快晴ではあるが、鼻筋に触れる空気には、幾許かの固さが戻っていた。街道に向かうと、家と林の合間から覗く道の上を、流れて行くものが遠くに見える――マラソン大会の日なので、ランナーたちが大挙して街道を埋め尽くしていたのだ。ほとんど誰も原色に近い強い色合いの運動服を身につけ、時折りなかには滑稽味を狙った仮装をしている者も見られる、その色とりどりの集団が、低い響きを道いっぱいに敷き詰めながら走って行く横を歩いた。沿道には、ちらほらと見物人が立って時折り声を掛けていたが、空気は静かで、走る人々の足音と息遣いだけがそのなかで浮かぶ。走者は歩道のほうまではみ出すほどで、邪魔にならないよう道の端に寄らなければならなかった――行く手を見ても道の先まで、色片の組み合わさった波の、ゆらゆらと小さくうねるのが一面に続いている。そこで、途中で裏道に退避し、中学校の横手に出た。あたりには誰の姿もなく、表道の響きも伝わって来ず、雲を忍びこませる余地なく淡青にひらけた空のもとで校庭の、萌黄めいた色調の淡緑をほんの僅か含ませた砂が一面に低く敷かれ広がって、空と向き合いながら停止し、静寂に浸っているのがなかなかに美しかった。静けさのなかで、屋上に立った旗柱と思うが、風に金具が揺れて当たるらしく、時々に高みから金属音が立って降って来る。道を行っていると、吹奏楽の音が聞こえはじめて、初めはちょうどその横を通り過ぎている中学校の窓のなかで練習に励んでいるのだと思ったが、そうではなく、表通りの方から響いてくるらしかった。家々の合間からそちらを覗くと、もうランナーの大波は過ぎたらしく、路上が開放的になっていたので、そちらに戻った。高校へと続く細道の入口あたりで、そこの学校の吹奏楽部だろう、制服姿の若者たちが各々楽器を持って並び、走者を鼓舞する演奏を披露しているのだった。もう走っている人々は過ぎて行ったのに、そのあとからも音を鳴らして周囲を活気づけていた。道を渡って、ドラムソロの賑やかな音を背後に裏通りに入った。頭上は清らかな青さに隈なく浸透されきったその静止ぶりのあまりに、奥から音が鳴り伝わって来そうなほどに晴れ渡った空である。飛行機雲が何本も、ほつれて太くなりながら軌跡を描いているのが唯一その上に存在する動きで、そのなかの二本が交差して十字を描く瞬間もあった。

2017/2/18, Sat.

 イザベラ・バード『日本奥地紀行』を返却し、『失われた時を求めて』の続刊を借りるために、図書館へと出かけた。ピントのぼやけたような白曇りの空である。坂の出口あたりでは鳥が何匹も飛び交わし、宙に軌跡の印された裸木に渡ってシルエットと化すと、貧しく残った葉の影と見分けがつかないようになる。街道に出る境の、ガードレールの向こうに生えた梅の木に寄ってちょっと眺めた。距離を置いて見かけた時の視覚への感触が、これまでとは異なっていたのだが、花のひらきが大きくなって、蕊がばらけて広がっているものがあるのが、紅色のなかに白さを織りこんだらしい。裏通りに入ると、空気はやや寒々しく、家々は白い空の下で黙然としているような様子で、通りのなかのどこを見ても、瞳に定かな色味の触れることがない――せいぜい、ところどころの庭の節くれ立った木に梅が咲いているくらいで、桜においてもそうだが、こちらの趣味は、過渡期の色の混淆と乱れにあるようで、この時も白花と赤く詰まった蕾の混ざっているものが一番良く目に映えた。

2017/2/17, Fri.

 イザベラ・バード『日本奥地紀行』の書抜きを始めてまもなく、背後の窓の外から風の流れる音が膨らみ耳に入って、振り向いた。素早い鳥の飛行にも似て、木の葉の横一閃にいくつも切り過ぎて行く窓を眺めているうちに風はみるみる強くなって、竜巻めいて砂埃すら湧きあがるほどで、自宅の周辺でそのような光景は見た覚えがないと驚きながら、もう終末期の枯葉が無数に渦巻いて宙を埋め、虫の大群のようになっているのを注視した。洗濯物に掛からぬうちにと案じて、上階のベランダに取りこみに行った。最高気温が二〇度ほどになると伝えられていた通り、晩冬のなかで突然四月に飛躍したかのごとき空気の温和さで、外気のなかに入っても陽光の感触に汗ばむほどだった。ベランダに落葉が次々と舞いこんでくるなか、近場の林からは、まるで川がほとんど目の前にやって来たかのような鳴りが激しく立っており、鴉が声を上げながら忙しげに飛び立って行った。

               *

 往路、コートを纏わずに、ジャケットの上にマフラーを巻いただけで充分で、前方から来る風に顔が包まれても、肌の内に寒さの粒子が一点も灯らず、むしろ心地よさをもたらすくらいなのがまさしく春の気である――のちに聞いたところでは、春一番だと言う。この日も水平線まで雲は消えて、空は何ものにも遮られることなく思いのままにひらき、透明さに浸りきった水彩絵具の青さに塗られて、天球の端だけ紫煙が仄香るそのなかを、身をほぐされるようにしてゆっくり歩を進めた。

2017/2/16, Thu.

 往路、鼻先を擦る空気の感触からすると、気温は高めらしく、そのためか知れないが、坂を上って行くあいだ、周囲から鳥の囀りが降り続けていた。身にほとんど冷たさが触れないのに、春の近づきが思われて、肌に摩擦をもたらさず体温に溶けこむあの軽い空気の夕べが早くやって来ないかと、恋しさに二、三か月後の季節を気早に先取りして胸を疼かせる晩冬である。前日に青紫の池を見かけた坂の上まで行くと、この日の東南の空は一日前よりも淡く、雲に遮られることなく、上方の薄水色から純白を挟んで町並みの際の淡紫まで一繋がりに滑らかな推移を見せている――のちに裏道を行く途中では、見上げる空の青のその淡さが、さながら半透明のセロファンを貼りつけているようにも映った。街道まで出ると、西の山際にいくらかの雲が乗ってオレンジの色を小さく添えて、既に姿を隠した太陽の色を媒介して提示しているのが背後に見えた。裏通りのなかでも、広めの空き地まで来て空がひらくとふたたびそのさまが見えて、朱の色を受け止めながら差しこまれた稀薄な雲のそれぞれによって、夕青の円熟を進めた空が一部切り取られたようになっているのが、むしろ焼けた白さのほうが、湿り気を帯びて滑らかに青く浸った雲の広がりのなかに僅かに救われひらいた空の穴として、反転的に映る瞬間もあった。

2017/2/15, Wed.

 ベランダへ続く戸口をひらいて境に立つと、肌に乗る陽射しに「照り」の感触があって、春めいている。しかし外に出て、流れる大気のなかに入ると、やはりまだ幾許かの冷たさが身に触れて、陽光の春色が中和される。洗濯物を取りこんだあと、しばらく柵の際に立ってあたりを眺めた。何という鳥のものなのか知らないが、機関銃の掃射のような――などと表現するには可愛らしさの勝り、あまりにささやかな音色なのだが――短音が間断なく連続する鳴き声が空間を埋めている。隣家の敷地の梅の木は、その枝振りが丸みを帯びて籠のようになったなかに珊瑚色めいた淡紅を点けて装っている。すぐ正面、畑の斜面に見下ろせる自家の梅は先日伐採されてしまったが、伐られた太い枝の脇から薄緑がかった細枝がすらりと生え伸びて、穏やかな白梅を点々と灯しているのが、さながら簪であった。鳥が飛び立って、隣家の端の柵の上に乗り、その場で方向転換を繰り返す際に尾の橙色が覗くのを見れば、どうやら尉鶲らしい。その動きを追いながらも、同時に隣家の梅の木にも飛んでいったもう一匹の方も見やるのに、視線が忙しい。尉鶲は近くの諸所に飛び移っていたのだが、じきに遠くの方へと渡って行って見えなくなった。そのあとから、鵯の激しげな鳴き叫びが立った。

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 往路、坂の出口付近で、市街地の上に乗った空に、雲と建造物とに挟まれて、薔薇色と夕青色の精妙に混ざった池が作られているのが見える。雲は横に断続的に伸びて山のほうまで掛かり、位置によって複雑に、それらの甘やかなような色に浸されている。

               *

 裏通りの途中、空き地を過ぎざまに、雀たちが貧相な草の生えた地面に集まって、一心不乱といった様子で目の前をつついているのを見かける。下向かせているために顔はうまく見えず、高くより見下ろす視点から主に映るのは褐色の背のみで、樹皮めいた質感を覚えさせもする。そのように丸まって、そそくさと細かく動きながら集っているのを見ると、鳥というよりは甲虫めいて見える瞬間もあった。

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 帰路、月はもうだいぶ低くなって、家々の合間を進んでいるあいだは姿が見えない。市街を見晴らす坂の上に来た時にようやく、火照ったように赤味を帯びているのが、東南の方角に現れた。

2017/2/14, Tue.

 往路。坂を上って行くと、空中に刻まれた裸木の枝の縦横の広がりを透かして、市街の方の空に雲が染みるように浮かんでいるのが見える。白褪せたような後ろの空よりも夕刻の水色に濃く、液体じみた感触でありながら輪郭線もくっきりと、段の違いが見て取れるのが、浮遊していると言うよりは、雨上がりにアスファルトの僅かに低まったところに集まる水のごとく、溜まっていると言うべき質感である。街道に出て見通す空気は仄暗くて、冬木に覆われた丘の連なりは、鮮やかな緑など当然ないがかといって黒く沈み切るでもない、まったく何色とも言いがたいような色味の貧しさの極まった鈍さに包まれている。そちらの方を見ながら進んでいるとしかし、家々を通り過ぎざまにひらき覗いたそれらの樹冠の際に、横面を幽かな薔薇色に染められた雲が掛かっているのが現れて、明るさが添えられた。裏通りに入ってしばらく行き、次に見た時にはその色ももう失われていた。歩いているうちに黄昏が強まって、駅前に着く頃には東の丘の上は、空の方が青くなって、雲はその前に石灰色で浮かんでいた。振り向いた方角では白の残光に包まれながら青灰色の雲影が固着させられており、東の方とは図が反転した趣である。

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 帰路、裏道の途中でふと後ろを振り返ると、月がだいぶ低まって屋根からそう遠くない位置にある。北西の方まではその光が届かないのか、線路沿いの林は暗く沈んで突き立った木々の姿形が空の黒に呑まれているそのなかで、林の表面に出ている裸木が一本、ほんの僅かに浮かびあがっているのが、白髪を思わせたのだろう、老いの観念が頭を瞬時に過ぎった。空気は冷たく、とりわけ膝のあたりが冷えて、顔の肌にも辛[から]く、マフラーの裏に口もとを引っこませずにはいられない。そういう冴えた夜気のなかでは、客観的なその正誤は知らないが、光がよく通るような気がするもので、表通りから覗いた街灯の膨らみも、周縁を滲ませて強いような感じがする。南向きに街道へと曲がるとそれまでとは建造物の並びが変わるから空がひらき、視界の端に星の煌めきが引っ掛かって、それに誘われて視線を上げて行くと、銀砂子がそれぞれの配置に散っているのが――そのなかでこちらの貧しい文化的観念に従って特別に判別されるのはオリオン座くらいしかないのだが――夜空の広さを思わせた。東の果てに再度出逢った月は、右上が隠れはじめている。

               *

 午前三時前、『失われた時を求めて』一一巻を一時間強読み、瞑想をしたあと、眠ることにして明かりを消し、布団に入った。しばらく瞑目してからふと開けてみると、カーテンがぼんやりと明るんでいるのに、察するところがあってひらけば、帰路には東の方に寄っていた月が、正面、真南の高みに渡って来ている。窓の片側には網戸が重なっており、そこを通して見ると僅かに欠けた円月から左右に四本ずつ、綺麗な長方形を描く光の帯が放射されて、何か翼を広げた存在の図を思わせもするのだが、網戸が掛かっていないもう片側のガラスにはそれは映らず、途切れてしまうのだった。その帯の隙間に、際立って明るい星が一つある。茫洋とした夜空を見ているとほかにも視界のあちこちで、常に光っているのではなく、時折り煌めくものがある。砂浜に埋まった貝殻の上を光が薙いでいくのを一瞬反射するかのように、あるいはカードが表にされてはまたすぐに裏返されてしまうように、かそけき光が薄氷めいて瞬間震えたかと思うと、ふたたび金属質な夜空のなかに隠れて静まるのだが、その明滅が飛行機のそれを思わせもして、あれは本当に星なのかと疑うようだったが、確かに動かず、ひとところに停まっているのだ。

2017/2/13, Mon.

 散歩に出た。時刻は午後五時半である。外に出ると、煙の匂いが薄く香った。先ほど部屋で着替えながら窓のほうを向いた時には、曇り空があるかなしかの薔薇色をはらんで、さながらコーヒーのなかに注ぎこまれて膜を広げるミルクといった趣に和らいでいたが、いまはその色も消えて仄暗かった。しかし大気が動かなければ、大した冷たさも顔に感じられない。あたりには誰の姿もない、静かな夕方道である。十字路を越えてその先の上り坂の中途に、速度制限の「30」の表示(見つけた当初は距離と黄昏のために、十の位が「3」なのかどうかもはっきり視認できなかったのだが)がオレンジ色で路上に記されたのが、薄暗い空気のなかでそこだけ浮かびあがるようで目につき、そこにそれがあるということに初めて気づくようになった。ちょっと目を離していた隙に、その表示のあたりに突如として湧き出たようにして、対向者の影が出現していた。その人とすれ違って坂を上って行き、そのまま裏道を進んだ。道の先に猫らしき影が横切るさまが、ほとんど目の錯覚のようにして不確かに映る。空には雲が多くて、行く手の西の方では落陽が隠れているらしく、辛うじて白さが敷かれて手前の雲の影形がその上に明らかだが、背後の方ではどこまでが雲でどこからが地の空なのか、薄青さのなかに境も見られなかった。古ぼけたような家々のあいだに空き地が差し挟まれて、そのすぐ際にわだかまった林の下から川の鳴りが上って来るのが、いかにも侘しげである。街道に出ると向きを変えて、東に向かった。道路のアスファルトは、こちらのほうは長く通らなかったので知らなかったが、舗装されて比較的間もないらしく見えて、墨汁を塗りこめたような真新しい黒が、まっさらとした二つ目から放たれる光に艶を帯びて、その上を車たちも実に滑らかに、行きやすそうに走って行く。最寄り駅を過ぎ、しばらく町内を横切ってから裏に入り、職場からの帰路に通る普段の道に合流した。坂の上から山際に見えた薄膜状の雲が、薄青さとの対比でか、赤みを含んでいるように見えた。林中を下って行くあいだ、ふたたび煙の香りが、どこからかわからず鼻に届いていた。

2017/2/12, Sun.

 家を発って道に出て、視界に広がるまばゆさと、肌を包む冷えた空気の感触とを感じるやいなや、満足感を覚え、要するにこれだけで良いのだなと思った。わざわざ街へ出る必要などなく、ただそのあたりを歩けば良いのだろうが、今更引き返して荷物を置き、改めて出かける気にもならない。CDを五〇枚強入れた薄茶の紙袋は大きなもので、持ち紐が手指の肉にそれなりに圧を掛けてきた。十字路から坂に入ると、細道へともう一本分かれて行くその脇に寒椿が生えており、赤々とした花をいくつかつけている。反対側の、沢を囲む林のなかにも灯るものがあって、一つは射しこむ陽のなかにちょうど捕らわれており、艶めいて厚ぼったくなっているのが花にも見えず、何か別の物質のようだった。上って行くと、傍らのガードレールを越えた斜面から、傾いだようになりながら突き出た木の塊がある。元々そのような方向に生えてしまったらしく、分岐した何本もの枝が複雑な網状を成しており、緑葉もそのなかに渾然と、絡まるようになりながら垂れ下がっていた。そのすぐ脇に、これはまっすぐに高く伸びた木があるのだが、強めの風が吹くなかで、もう一本隣のものに寄り掛かるようになりながら、ぎいぎいと、木造の小舟の軋みを思わせる音を立てる。見れば根元のほうの樹皮がいくらか剝がれて削られたようになっており、支えが弱くなっているらしかった。周囲の葉々は木洩れ陽を所々に宿して緑色を明るませている。風に吹かれ、木の鳴りを聞きながらしばらく立ち止まってから、駅に向かった。
 ベンチに座ると、電車が来るまではまだ一五分かそこらあったが、持ってきた本――『失われた時を求めて』の第一一巻――を読む気にはならなかった。それよりも、周囲の空間の感触に意識を向けていたかったのだ。晴れてはいても風の強い日で、首の後ろのコートのフードや、ニット帽の頂点についた球型の飾りから細かな震えの感触が伝わり、脚を包むズボンの布も片一方に押し寄せられるのがわかった。背後では、線路脇に生えた薄の草が、さらさらという音をひっきりなしに立てる。風は主に西から来るもので、止まることがなく、たびたび結構な激しさで吹き付け、雲は一つに大きく固まることなく分離して漂い、空は色濃い青さが染み渡って朗らかな様相なのに、午後三時前の空気の冷たさは甚だしく、頻繁に皮膚に震えが走った。風音の合間から鳥の声が、遠く伝わってくる。正面は、鉄路の敷地を区切る壁際には背後と同様に薄が生えて薙がれており、レールの敷かれた地面にも同じ薄枯色のエノコログサが散らばっている。向かいの道を越えた先は一段高くなって、三本ほど縁に並んだ梅はまだ花は咲かず、湾曲しながらフォーク型に天に向かって突き出た枝が揺れるのみだが、奥の遠くには白と薄紅のそれぞれの木が見られた。特に何が物珍しいというのでもなく、強い印象をもたらすわけでもないが、穂を垂らしながらレールの周りに低く生え残った下草とその影とが、風に掻き回されて揺動を続けるのをただ眺めていた。およそ微細だが、いっときたりとも同じリズムの繰り返されることのないその動きを追うのに、呆けたようになってただ忙殺されているその時間のなか、これこそが時間というものではないかと思った。数という観念によって分割され、統括された味気のない抽象的な構築物としての時間ではなく、具体的な、「触知可能な」時間とでも言うべきものである。感じること――差異を、あるいは生成を――がすなわちそのまま時間であるような平面、そこにおいては時計などという文明の道具は無粋な――「野暮な」――ものに過ぎないので、無論それを見ることはなかった。鵯らしい鳥が視界の端を斬って、線状に、奥の方へと飛んでいき、風のなかでもはっきりと耳に届く、叫びのような鳴きを立てた。それからしばらくすると、電車が来るらしかったので、立ちあがってホームの先、日なたのなかに移った。そこから見下ろす線路のあいだにもエノコログサが生えており、西を向くと、陽射しが透過するのだろう、それらのささやかな草が琥珀のような色合いを帯びている。丘の林の方へと目を向けると、色味に鮮やかさの乏しいなかで青味混じりの明瞭な緑の残った一角が、そこにも風が入りこんでいるらしく、内側から膨れ上がるようにして蠢いており、朦々と湧き上がる煙のようなそのうねりは、グロテスクなようでもあり、同時にエロティックなものすら感じさせるようでもあった。

               *

 電車内、扉際に立つ。駅で座っていた時には、見える限りでは雲は小さなもののみだったが、町並みを越えて山の際には、西から南へと掛けて、絞ったタオルのような太い雲の柱が横に伸びて鎮座しており、一部、内破して飛沫を散らしたように霞んでいる箇所がある。

               *

 乗り換えて座席に就いてからはプルーストを読む。正面の窓から時折りこちらの手元まで届く陽射しがページを全面包みこむと、明るさに紙の肌理が露わに映し出されるのが、微生物がなかに生息してじっと憩っているかのようである。少し前にも、同じように電車内で、あれはエドワード・サイードの『パレスチナ問題』を読んでいた時だが、太陽の照射に、ページ一面に埃が浮かびあがったかのようになって文字も一瞬読み取れないのに驚かされ、その様相の変化に子どものように魅入られて先を読み進められなくなったものだ――そこに刻まれてある文字の意味を情報として取り入れるためのものであるはずの読書という行いが脱臼させられ、意味を無視して、その下に敷かれた素材のまっさらな物質性を汲み取ることに囚われた瞬間、読むことがただ見ることへと倒錯的に転化した麗しい時間だった。光量や光線の角度の問題なのか、みすず書房集英社で使用するそれぞれの紙質の違いなのか、今回はそれほど目覚ましい模様が出現することはなかったが、それでも普段は決して視認できない繊維の微小な文様が浮き彫りとなり、ものとしての様相が半ば官能的に明らかならしめられる。太陽の光は物々の様相をいとも容易に変容させる――その実例がこの日の電車内にはもう一件あり、それは途中の駅で停まった時だったが、向かいの線路を越えた先に、位置の関係で小さく中途半端に覗く駐輪場に並んだ自転車の上に無数の光の欠片が点々と乗っていて、おそらくそれが先ほど電車に乗る前に見た下草の色合いを思い起こさせたためだろう、一瞬、ほとんど草むらのように見えたのだった。

               *

 帰路、最寄りで降りると、黒々と籠められた闇空である。月を探して見回しても見つからないが、階段を上ると東南の空に現れた――先ほどはマンションに遮られていたのだ。輝きの清らかに冴えた満月だが、夜空はほかに星の光も見当たらず、渡る光の浸透している気配もなく濃厚で、そのなかで月の姿形のみが空白を作るかのように際立っている。昼間に忙しく走っていた風は止んで、坂を下るあいだは周囲の林から一つの葉擦れも立たず、自分の足音のみがただ明瞭である。自宅の通りに入ると、街灯の強さの関係か、空の青味が見て取られた。空気の冷澄さに呼応して凍てたような、薄紺色の、奥行きの感じられない空で、月は南の丘陵の稜線上に掛かっていた。

2017/2/11, Sat.

 風呂に浸かりながら、知覚の拾うものに順々に焦点を絞って行く。浴槽は柔らかな感じのする白なのだが、照明の作用か、何かほかの要素との兼ね合いか、自らの身体が包まれている水は、淡い青緑色――翡翠色と言うべきか、あるいはビリジアンを水で最大限溶かしたような薄い色――に透けている。前方に投げ出されて、浴槽の窮屈さに伸ばし切ることができず、中途半端に曲げられたおのれの脚が、その緑色のなかで不動を保っているのを見れば、物質性が際立つのだろうか、何となく人形のような、自分の脚でありながら主体としての自分から離れたもののような感じがして来る――無論、動かそうと思えばすぐにでも動かすことはできるのだが。水面の、胸に近いあたりには照明の白さが小さく砕けており、身体を、呼吸すらもなるべく殺すようにしてまったく動かさずに静止させていても、液体は常にあるかなしかの波紋を作って、映りこんだ室内の像の上を素早く渡らせて行く。