2014/1/28, Tue.

 呼吸三十回分のあいだ瞑想をしてから寝床に入った。わずか十分にも満たない時間だったろうが深い呼吸をくり返していると意識がほどけていき、存在するものは時計の音と鼻から出入りする空気の音のみになった。寝る前になかば以上眠っているような精神を体験したおかげか入眠に苦戦した記憶はなかった。七時前に一度目覚めてカーテンが朱色に染まっているのを見たが、最終的には九時に起床した。鶏肉を甘じょっぱく炒めたものをおかずに米を食べていると食が進み、お椀に二杯分のご飯を食べることになった。食事の途中で電話に出るとI.Yさんで、今日Kさんの家にいくがそのついでに我が家に届け物をしたいというので承諾した。リビングもそうだが自室はそれ以上の冷えこみで電気ストーブをつけても一向に暖まらずエアコンをもつけることになった。Hさんには申し訳なくも今朝送られてきた彼の小説よりも先に図書館で借りている本を読まなくてはならず、とはいえ気になるので最初の段落だけを読んだ。詩的なイメージも含み自動筆記に似た感触もいくらか感じとれる思弁的な記述は『Folktronica』のときから続くHさんの文章のひとつの基調と言っていいのかもしれないが、今回はそれに加えて通常ならばまちがいなく漢字で書くだろうところを大胆にひらがなへとひらいており、それが固めの記述とミスマッチではありながらも――このミスマッチが良い方向に作用しているのか逆なのかはまだわからないが――文章のトーンを柔らかくする役目を果たすとともに妙な感覚を生んでいるようにも思えた。
 寝間着からジーンズとジャージに着替えてリビングでクロード・シモン平岡篤頼訳『路面電車』を読みながら来客を待った。十一時ごろには来るという話だったが半になっても訪れがないので書き抜きもしたいし部屋に戻ろうかと思いつつトイレに入りジーンズのボタンを外した瞬間に階段をあがる足音が聞こえたので排尿は我慢して室を出て応対した。病院でも見かけたことのある少しくすんだようなベージュ色のジャンパーを着たYさんはこの寒さのなかでも元気な笑みを見せ、七十を超えたとは思えないほど矍鑠として見えた。お昼ごはんにでも食べて、と言いながら彼女は炊きこみご飯が入っているという包みを差し出し、そのなかにはまたこちらが好きだということを思い出してどこかで買ってきたらしい素甘も入っているということで恐縮したが、さらに加えて今夜のおかずにでもという別の包みもいただいた。
 Yさんを待っている最中にスーツを干そうと思いついたのは昨日着たときに、土曜日に喫茶店を訪れてついた煙草の匂いがまとわりついて軽い頭痛を起こしたことを思い起こしたからで、スーツの上着とベストとコートの三着を部屋から上階のベランダに持ってきて二段になっている物干し竿の上奥の段にかけた。澄んだ空一面に陽光は広がり穏やかな天気ではあったが寒々しい風に棕櫚の葉がばさばさと揺れた。隣家の柚子の木はまだたくさんの実を実らせてはいるものの一月の終わりともなればさすがに往時のつややかな色はいくらか減じたように思えた。鳩が二、三匹、畑を囲む斜面や木立の上で羽ばたきながらほうほうというような鳴き声をあげ、また意識しなければ聞こえないほどに背景と化した名も知らぬ鳥のぴよぴよという鳴き声もどこか遠くから聞こえてきた。
 Herbie Hancock『Mr. Hands』を流しながら書きはじめた日記が一段落しBGMも終わるとthe pillows "ストレンジカメレオン"をくり返し流し、ついでRadiohead『The Bends』に移行しながらクロード・シモン路面電車』を書き抜きした。午後一時をむかえていた。晴天に誘われて図書館まで徒歩で一時間半はかかるだろう道を歩こうかと心中ひそかに計画していたが、この時間になってしまっては断念せざるを得なかった。歯を磨き、風呂を洗い、布団を叩く音が響くなかで洗濯物をとりこんでから外出した。
 樹上から照らす陽が林に敷きつめられた落ち葉や枯れ草のひとつひとつに宿り、常ならば特に美しいとも思わないそれらが色彩豊かに描かれた写実画のようにたしかな美を含んで見える、そんな日だった。乾いた枯れ葉の茶であれ、頭上を覆う常緑樹の緑であれ、風雨にさらされてところどころが色あせた竹の深緑であれ、申し訳程度に不揃いに置かれいくらか朽ちかけてもいる木の階段の根元の苔むした薄緑であれ、自然の色はそこにただあるだけですべて必然を持っているように思えた。
 Hank Mobley『Roll Call』を聞きながら電車に乗った。古井由吉に少し似た老人がこちらと同じ駅で降りた。ゆっくりと歩いていたが足取りは危なげなく、杖をついてはいてもまだいいほうで、対して帰りの駅で見かけた男性は同じように杖をついていたが背すじが完全に曲がって常に下を向き、ほとんどその場で足踏みしているようにしか見えないほど狭い一歩一歩をひたすら積み重ねて帰っていくのだった。
 図書館ではNumber GirlZazen BoysFishmansなどのバンドのCDを借りたかったのだが予想していたとおり置いておらず、棚を眺めていると先日のH兄弟との会話にちらりと出た記憶のある坂本龍一『out of noise』があったので一枚はそれを借り、もう一枚はTom Waits『Orphans: Brawlers, Bawlers & Bastards』という三枚組の大作に決めた。棚の向こう側に妙な男性、かしいだ姿勢で棚の前に立ちつつかすれた声でぶつぶつつぶやいたりうめいたりしている男がおり、その人物から発しているらしい煙草のにおいがあたりに広がって棚をひとつ隔てても鼻に届くほどだった。彼はしばらくすると雑誌を読む人々が座る席に移ったが、見れば変わらずうめきながら豊富とは言えない髪を入念に櫛で撫でつけていた。
 新着図書にめぼしいものはなかったがあっても借りられないのはマルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて』を借りることに決めていたからであり、ハードカバーで全十三巻のうち書架に置かれている六巻中の二巻から四巻をCDと一緒に借りてすぐに帰宅した。帰りの車内では左肘の裏側がやたらとかゆかった。わが町には柚子の木がわりと多く、林に近い場所にある家の周りによく見られたし、森のなかの切り開かれた一画の中央にぽつんと立っているものもあった。家を出てから一時間で帰ってこれた。母が帰ってきていた。
 Yさんが持ってきてくれたホタテの炊きこみご飯と餃子を食べ、父が昨日都内のほうで買ってきたらしいドーナツを食べ、さらにキャベツをざくざくと切って食べたあとに茶を飲んで一休みしているともう四時で、そこから一時間半のあいだベースを弾いた。以前コピーしたことのあったCarole King "I Feel The Earth Move"のフレーズを確認して思い出すと音源に合わせて何度か弾いたりメトロノームを鳴らして十六分の細かいフレーズを練習したりした。ベースを置いてCarole KingTapestry』を流し、ガルシア=マルケス『族長の秋』の冒頭六頁目から十三頁目を音読し、食事中に読んだTheo Hobson "For Rousseau, it's humanity that's divine, not reason"(http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/jan/27/rousseau-humanity-divine-not-reason)から二、三の文を書き写すと『The Carnegie Hall Concert』にBGMを移して六十一の英文を音読した。
 茶をたくさん飲んでカフェインをとった影響も空腹時に優位になるという交感神経のせいもありつつも主原因はまちがいなく薬を飲んでいないことだったが、久々に心臓が内側に縮んでいるような不安を感じる夕方で、特に風呂に入ったときには心臓神経症の症状を意識せざるを得なかった。いい加減に英語を読むだけでなく聞くこともしなければならないという気持ちが日に日につのっていたので英語で文学を朗読した音源はないかと探してみると、以前はキーワードがわからず一向に見つからなかったが今回は検索しているうちにaudiobookという単語を知り、すぐにVirginia Woolf, To The Lighthouseの朗読CDを売っているamazonのページにたどりついたのでほとんど衝動的に注文した。その後もliterary audiobook freeなどで検索してみると出るわ出るわ、Learn Out Loud(http://www.learnoutloud.com/)やLibriVox(https://librivox.org/)というページに多数のフリー音源が置かれており、まったくいい時代になったものだが、後者にVirginia Woolf, Kew Gardensの音源があるのを見つけて狂喜しながらダウンロードし、その過程で見つけたKatherine Mansfield, At the BayとThe Garden Partyの音源もついでに落としてから夕食に向かった。米、納豆、豚汁、豆腐、Yさんがくれた春巻き、しゅうまい、餃子を食べた。この餃子よりいつも買っている餃子のほうがうまいよねと母に聞かれて明確に同意したのだがすぐあとにまた同じことを聞かれて苛立ったのは今回だけでなく同じようなことが何度もあるからで、最近ではもしかして痴呆の前兆なのではないかという疑いも持つようになった。会話だけでなく仕事上でも計器の読み取りミスを何度もくり返しているところを見るとあながち馬鹿げた考えとも言えないように思えた。
 Kew Gardensの音源を一度流したあとにKendrick Scott Oracle『Conviction』をかけながらクロード・シモン路面電車』を読み、BGMが終わったあとも布団に半身をうずめながら読みつづけて十時半に読了した。今まで読んだ小説のなかで最も一文の息が長い作品だった。飛躍と脱線を伴って次々に移り変わっていくイメージの奔流に押し流されるようにして読んだ。どのようなルートをたどって今現在の地点にたどりついたのかわからない感覚は『族長の秋』をはじめて読んだときのそれにも似ているような印象をいくらか持ったが、一文一文が宝石のように磨きぬかれたガルシア=マルケスに対して、過剰とも思える形容が奇形じみて膨れ上がったシモンの文章は記憶や意識や認知というものの雑然さを表しており、混沌とした渦に巻きこまれているような感触を得た。Radiohead『Kid A』を流しながら日記をつづった。小学生のころに兄の部屋から洩れてくるのを聞いてまちがいなく頭のおかしい人間のつくった音楽であると思ったのはこのアルバムだった。