2016/8/25, Thu.

 六時の目覚ましでは起床に到らず、快晴の明るさのなかでしばしまどろみ、六時半頃から意識を定かに保ちはじめた。四五分になると起きあがって瞑想、眠りの少なさを堪えるようにして一〇分間静止し、七時直前になって上階に行った。前日のゴーヤ炒めが残っていたのでそれを電子レンジに入れて回し、やはり前夜と同じく玉ねぎのスープとともに卓に並べた。久しぶりの屈託ない晴れで、朝から陽射しが暑そうなので新聞を取りには行かず、テレビのニュース番組に目をやりながらものを食べ、皿を洗う室に帰った。出るまでにもはや大した時間はないので、英語を読んだり書き物をしたりしたいと思いながらもやはり本に手が伸びる。山川偉也『哲学者ディオゲネス』を三〇分読んだのち、服を着替えて排便し、家を発った。液体質のまだ薄い午前八時の光が斜めに宙を渡って空間を満たしており、自転車のサドルは久しぶりに熱を持っていた。頭が回りきっていないので運転に気を付けながら街道を越え、裏道に入ると、青い陰は道の端から、スーツの胸に差すポケットチーフのように僅かに先端を見せているだけで、路上は大半、太陽の色に埋め尽くされており、瓦屋根も白い水に濡らされて照り輝いている。正面を向き、道の先に視線をやろうとすると、額に突き当たってくる陽射しが眩しく目を射って、瞼を開けてもいられないくらいである。右手で時折り庇を作りながら、高校生たちとすれ違って進み、職場に着くと即座に働きはじめた。三時限の日だったので、退勤は二時頃になった。職場を出て自転車に寄り、眩しい光のなかで携帯電話を取りだすと、メールが来ていた。空気が明るすぎて画面が見えないので手をかざしながら読み取ると、上司が異動になると言う。急な話である。いまの上司は昨年の、確か一〇月からの新任で、そう思い返すと曲がりなりにももう一年近くの付き合いだったかと時の過ぎざまが意識されるのだが、それでも一年に満たないうちに異動というのは通常よりよほど早い話だろう。何かあったのかと疑問にも思うが、詮索するつもりはない。誰が上司になろうとこちらのやることは特段変わりはしないので――無論、やりづらさ、やりやすさに多少の変動はあるかもしれないが――大した問題ではないのだ。新任の上司は、話したことはないがこちらも研修の場で見かけて顔は知っている、ほかの支店の女性らしい。それを確認すると自転車に乗り、帰路を行った。裏通りの日陰と日向の面積比率は午前八時のそれとほとんど変わりがないが、太陽の位置は高くなって、重さを増して強烈になった光が、袖を捲った腕の皮膚や黒いスラックスに包まれた太腿を直上から鋭く攻撃する。とはいえ暑さの盛りにはしばしば体験された、朦々と地から舞いあがって立ち籠める砂煙のような暑気はなく、風もよく吹いて空気がかき混ぜられ、家々の正面に立って道を縁取っている小木たちが光を撒き散らしながら身を揺さぶっていた。その熱の和らぎに、夏が終わりつつあるのだろうかという思いがまた滲んだ。帰宅すると汗をかいたシャツを脱いでねぐらに帰り、下着一枚になるとベッドに身を投げ出した。それで『哲学者ディオゲネス』をめくっていたが、じきに眠気に刺されて意識を失うことになり、三時二〇分あたりまで眠ったようである。それからようやく食事を取りに上階に行った。またしてもレトルトのカレーである。鍋でパウチを湯煎しているあいだに風呂を洗い、米をよそった大皿に流しこむと、卓に就いた。食べていると、四時頃になって母親が帰ってきた。この日は市役所で、手伝いをしている障害者支援団体が売り物をするのを駆りだされていたらしい。生の胡瓜に味噌を付けてしゃりしゃりかじってから、食器を片付けて自室に籠った。それから何をしたのか覚えていないが、記録によると五時五分から英語を読みはじめている。ベッドに寝そべって仰向きながらGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraに取り掛かっていたのだが、先ほど仮眠を取ったにもかかわらず眠気に苛まれてたびたび瞼が落ち、一時間を掛けながらも大してページは進まなかった。しかもそのあと、またもや眠りに落ちてしまったのだ。覚めると七時四〇分で室内は真っ暗、例によって下着一枚で眠っていたのだが、薄布団の下で腕や脚が汗だくになっていた。のっそりと身体を起こして上階に行き、ソファに座って息をついた。暑気にまみれた眠りのために血液が停滞したかのようで、かえって疲れたような感じがした。腹がまったく減っておらず、食欲がなかったので先に風呂に入ることにしたのだが、重い身体が湯に浸かる用意を整えていないので、しばらくテレビをぼけっと眺めながら待ち、血が巡ってくると立ちあがって、腕をぐるぐる回したり身体をひねったりと体操をしてその流れを促進した。それから入浴に行き、汗を流して出てきても相変わらず空腹を感じなかったので、食事は甘じょっぱい炒め物と米だけをよそった。しかし食後には、兄とは別に義姉の名前で送られてきた北海道旅行の土産物であるケーキを母親が取りだしてきて、それを食した。ゴルフボールより少々大きいくらいのチーズオムレットと蒸し焼きのショコラケーキの二種類が箱のなかに並んでおり、こちらはショコラのほうを選んで手掴みで食べたが、ふわりと柔らかい食感で大層美味だった。そうして自室に帰って九時、コンピューターを再起動してから、書き物をする前にと音楽を聞いた。まず例によって、Bill Evans Trio "All of You (take 1)" を聞き、次に、売ろうかどうしようか迷っている『Warne Marsh』から "It's All Right With Me" を聞いた。このアルバムはPaul Motianがドラムスだからと買ったことを覚えていたのだが、この曲に関する限りドラムの演奏ぶりは、乱れなくオフビートに踏まれるハイハットとシンバルレガートの組み合わせにしろ、そこに適度に付与されるスネアドラムにしろ、フィルインでの同じくスネアの愚直なような連打にしろ、実にオーソドックスなモダンジャズのスタイルで、さすがにPaul Motianと言えどもまだあの脱臼的な奏法を見出していないのかと思ったのだが、そうではなく、あとでクレジットを見てみたところ、この曲に参加しているのはPhilly Joe Jonesだったのだ。それで次にBrad Mehldau Trio "Little Person" を聞いたあと、改めてMotianの参加しているなかから "Yardbird Suite" を聞いてみたが、ここでのMotianの演奏は比較的正統で、一九六一年六月二五日のBill Evans Trioでの演奏では既に見紛いようもなく現れている諸々の語法は明らかには見られず、これこそまさしくPaul Motianだと感じさせる特徴的な瞬間は聞き取れなかった(このアルバムの録音は、一九五七年一二月一二日と一九五八年一月一六日のものだが、どちらがPaul Motianの参加した日付なのかはわからない)。まだ自分のスタイルを見つけていないのかもしれないが、そうでないとすれば、自己主張は抑制し、意識して求められる演奏の形に合わせに行ったのかもしれない。というのも、ライナーノーツの情報によると、元々はPhilly Joe Jonesが全曲参加するところだったのを、彼が遅刻したか欠席したかで、Motianはその代役として起用されたらしいからだ。そしてPhilly Joeと組むはずだったベーシストはPaul Chambersで、Miles Davisのバンドを支える黄金のリズムセクションを使って売りだそうという戦略らしいが、Paul Chambersが相手ではMotianもそんなに気まぐれに叩いてもいられないだろう、正統の権化のようなベースであるし、そもそも顔合わせも初めてだったのではないか。聞きながら、やはりあのスタイルはScott LaFaroの自由自在さを相手にし、音楽的に親密になり相通じるなかで生まれてきたものなのだろうかと思ったが、ともかく、『Warne Marsh』はまだ売り払わずに、少なくとも残りのMotian参加曲もじっくり聞いてみることにした。その後一〇時前から書き物へ、音楽をAiko Shimada『Blue Marble』に移して打鍵を始め、前日の記事を三〇〇〇字で片付けると、この日のものにも入った。音楽はLarry Goldings『Caminhos Cruzados』を繋げて、零時まで書き物をした。二度も眠って休息したにもかかわらず、頭痛が芽生えていた。それでも書き抜きができていないのがまずいなと三〇分だけ行うことにして、Larry Young『Unity』を流し(冒頭の "Zoltan" が耳を掴む素晴らしさだった)、ジュリア・アナス/瀬口昌久訳『古代哲学』の文章を写した。零時四〇分まで打鍵するとコンピューターとはおさらばして歯ブラシを取りに行き、がしがしやりながら新聞を読んだあと、山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』を読みはじめた。二時四〇分まで眠気に意識を乱されながら読み続け、睡眠欲が頂点に達したところで諦めて、布団に入った。瞑想をする気力はなかった。



 メデイアを全体として見るならば、ときに応じてあちらこちらと方向を変えているものとみなすことができる。それでは、いったんは何をなすべきかについて熟慮を重ねた判断に到達していながら、そのうえで、その判断よりも強い怒りに基づいて行為するということが、どのようにして起こりうるのだろうか? ストア学派は、そこで起きている事態を次のように考える。ある感情的な状態に置かれて、彼女はその状態にふさわしい理屈に従っているのであると。つまり、彼女が復讐を求めているのは、それが怒りに駆られた人々の考え方だからである。だが、メデイア自身のなかには真の分裂は存在しない。彼女は全体として異なる意見の間を揺れ動いているのであって、彼女のなかのいくつかの部分が内的に闘っているわけではない。彼女はクリュシッポスが感情を説明するのに用いた例に似て、あまりに速く走り過ぎて止まることができない、つまり全体として[﹅5]制御がきかない走者のようなものだ。それゆえ、彼女が怒りこそ自分の計略の主人という場合に意味しているのは、怒りが計略を支配しているということである。彼女は理性を働かせているが、その仕方が、すでに怒りに支配され、怒りの目的を達成するものとなる。怒った人間は理性の働きを止めるのではない。つまり、その人間はやみくもに行為をするのではなく、その人の理性の働きが怒りに仕えているのである。(end6)

 ストア学派は、人間の魂には部分も区分もなく、魂はすべて理性的であると考える。(魂というときにストア学派が意味するのは、人間をしてとくに人間らしい生き方をさせるもののことである。) 感情はやみくもではなく、合理的な決心に打ち勝つことができる非合理的な力でもない。感情それ自体が、人がそれに基づいて行為を決定するある種の理性なのである。「自分の怒りを満足させ夫に復讐をもたらすこと、まさにそのことこそ、彼女が自分の子どもを助けることよりも有益であると考えていることなのである」と、後期ストア学派エピクテトスは述べている。やみくもの怒りであれば、メデイアが行なう周到に計画された自覚的な復讐をもたらすこともありえないだろう。

 しかし、とわれわれはいう、メデイアは彼女が行なったように行動せざるをえなかったのではないかと。つまり、彼女は激情に打ち負かされていたのだから、現実には選択の余地は残されていなかったと。そうではない、とエピクテトスは主張する。彼女は現実に他の選択肢はないと考えたかもしれないが、しかし、それは誤りであった。たとえどれほど困難であっても、彼女は自分の損失に順応できたはずだからである。「夫を求めることをやめなさい。そうすれば、あなたが求めるもので実現しないものは何もなくなるのだから」と彼は主張する。私が行なうすべてのことに、私は責任を負っている。つまり、私がなしえたはずの何か別のことがつねに存在しており、私が取りえたはずの何か別の態度がつねに存在している。私は感情に打ち負かされたと言うことは、自分が行なおうとすることがなすべき正しいことであると、ある時点で考えて行動したその者がまさに自分(end7)であったという事実から逃げることである。エピクテトスは、メデイアに同情すべきだとは考えている。彼女は曲がりなりにも「ある気高い精神から」行動したからである。たとえ拒絶する方が彼女にとっては本来よりよい行動であったとわかってはいても、われわれは彼女が復讐に及んだ理由を理解することができる。「彼女は、求めることをなすための力がどこにあるのかを理解していなかった――われわれ自身の外部からも、また事態を変化させ整理しなおすことによっても、その力が得られるはずはないことを」。
 (ジュリア・アナス/瀬口昌久訳『古代哲学』岩波書店、二〇〇四年、6~8; 「1 人間と野獣――自分自身を理解する」)

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 たいていの古代の哲学者は、自分たちの課題とは一般に世界というものを理解することであるとみなしている。それは、われわれ自身を理解することも含む。われわれもまた世界の一部であるからだ。アリストテレスは、最も印象的にその核心を突いた哲学者である。すなわち、人間はすべて生まれつき「理解する」ことを欲すると彼は述べている。そこで用いられているギリシア語はしばしば「知る」とも訳されるが、しかし、それは誤解を招きやすい。そこで意味されていることは、(end25)知られた事実の積み重ねではなく、むしろ理解の達成、つまりある分野や一群の知識を修得して、物事がなぜそのような仕方であるのかを体系的に説明しうる場合に達成されることである。物事が問題をはらんでいるのを見出すときに、しばしばそのような説明をわれわれは探求しはじめる。さらにアリストテレスは、哲学が驚きと当惑からはじまること、また、われわれにとって問題であったことに対しますます複雑な答えと説明を見出すにつれて哲学が発展することを強調している。激情にかられ、よりよい判断に反して行為する現象に当惑させられることによって、われわれは哲学的に考えはじめるのである。そして、人間の行為についてより一般的に妥当な結論によってその問題を説明できた場合に、われわれはそれをよりよく理解するようになる。(アリストテレスもこの問題に関して彼自身の理論をもっている。それは明らかにプラトンよりもストア学派により近いものである。)
 (25~26; 「1 人間と野獣――自分自身を理解する」)

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 紀元七九年、ヴェスヴィオ火山が噴火し、ナポリ近くのヘルクラネウムにある貴族の数多くの別荘を、溶解した溶岩が覆いつくした。一八世紀以来、そこに埋もれていたものの発掘が続けられてきたが、そのなかに哲学者エピクロスの著作と、後代の信奉者が彼の思想について議論した文書とを集めた大きな書庫が含まれていることがわかった。それらの文書によって、エピクロス学派の内部や他の学派との哲学的論争について、それまで知られていなかった当時の状況が明らかになった。文書はパピルス(古代の紙)の巻物で、その炭化した断片は、研究者によって細心の注意を払いながら調査されている。
 (32; 「2 なぜプラトンの『国家』を読むのか?」)

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 しかしながら、勝利を得たのは、理想主義〔観念論〕の哲学者ベンジャミン・ジョウエットのプラトン像である。ジョウエットは、プラトンの全著作を読みやすい文章で翻訳し(一八七一年)、はじめてプラトンを一般大衆に近づきやすいものとした。(われわれは翻訳を当然のものと考えているが、『国家』がたとえば韓国語やアイスランド語に翻訳されたのはほんの数年前のことである。つまり、読者がギリシア語を読まねばならないか、あるいは母語とは別の言語に通じていなければならない場合には、プラトンに近づきうるのは教育を受けたエリートに限られることになる。) ジョウエットは、プラトンを理想主義を目指した体系的思想家としてとらえており、彼が見たところではプラトン倫理学形而上学を共に政治学に結びつけていて、その脈絡において『国家』は中核をなすものとみなしている。さらにまた彼は『国家』の中心がその政治的理想にあると理解したが、以来ずっとこの点について、その著作を読んだほとんどすべての読者から彼は支持されてきた。(end44)

 なぜプラトンの理想国家は、(ユートピアを描いたファンタジーとは異なり)政治思想に重要な貢献をなしているように思えるのだろう? 実は一九世紀の半ばには、政治思想の側が『国家』に関連のありそうな諸問題に関心を寄せるようになっていたのである。民主制と普通選挙は無規律な大衆による支配として長く軽蔑されてきたが、この時代には現実の政治的な選択となっており、英米の政治家や政治思想家が自分たちの国家を考える際に、古代ローマ共和国に代わって古代ギリシアの民主制都市国家がモデルとされるようになったのである。古代ギリシア史学でも、古代の民主制がはじめて肯定的な立場から叙述されはじめた。もしも『国家』を民主制に対するプラトンの応答であるとみなすとすれば、消極的にも積極的にも数多くの貢献を、一九世紀の政治的論争に与えるものであっただろう。そして、実際にそうみなされたのである。

 ジョウエットが『国家』を古典研究の中心にすえると(それ以来ずっと『国家』はその位置を保っている)、『国家』が真剣でかつ挑戦的な理想主義者による政治テクストであるという考え方が、アカデミックな世界全体に広まった。大学で『国家』を読んだ一九世紀の男性エリートはそれに鼓舞されて、公益に無私無欲の献身をするという、利己的なものと考えられていた経済的野心に対して解毒剤となる理想を受け入れることが期待された。「守護者」の理念は、能力主義として理解された。というのは、政治的支配は教育と勤勉によって獲得されるべきものであり、貴族主義的特権(end45)として受け継がれるべきものではないからである。また、女性の守護者というプラトンの考えは、社会のなかで政治的に対等な者として、選挙権と教育を与えられた女性という考え方を男性がくみとることができるようにするための、一つの理想、省察を表現したものとして有益であった。(ここには性差が入りこむことへのヴィクトリア朝らしい懸念がある。ジョウエットは、女性の守護者を「妻と子どもは共有である」というプラトンの考えから徹底的に切り離そうとしている。) 市民に対する公教育のための共通の制度をプラトンが主張したことは、教育の民主化と普及をめざし、教育を与えることが国家の仕事であると主張して当時勢いをましていた政治運動に関わる人々によって、発想の原点とさえみなされた。民主制に対するプラトンの不平と、統治には特別な知識が必要であるという彼の考え方は、現代の議会制民主主義と選挙権の拡張についての今なお続く論争のなかに取り入れられている。『国家』は同時代の諸問題について考える材料を提供したのであり、一九世紀の関心が、プラトンの理想国家を『国家』の全体を統括する思想として照らし出したのである。
 (44~46; 「2 なぜプラトンの『国家』を読むのか?」)