2022/9/26, Mon.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●66(「エロディヤード」; Ⅲ 聖ヨハネの讃歌)
 その超自然の停止が
 上げた太陽は
 直ちにまた落ちる
 白熱して

 あたかも椎骨の中で
 暗闇が戦慄しながら
 ひろがって一つに融合するのを
 私は感ずる。




 覚醒したのは九時半ごろ。一〇時過ぎに起床。水を飲んだりパソコンを拭いたり、用を足して顔を洗ったりと済ませたのち、寝床にもどってChromebookで一年前の日記を読む。きょうはひさしぶりに明確な晴れの日で、空に雲もみられずただ青さだけがひろがっている。きのうは読みかえしをサボったので、2021/9/25, Sat.からはじめて翌日分も。熊野純彦レヴィナス』の引用は両日とも〈近さ〉について説明しているが、このはなしは(……)さんがきのうおとといでブログに書いていた夢の記述とか、映画作品などについての記述のはなしと通ずるものなのではないか。

 〈近さ〉とは「融合」ではない(137/165)。物理的距離が消滅し、さらに一方の身体が他方の身体に侵入したとしても、他者が他なるものとして消滅するわけではない。〈近さ〉とは、かえって「同時性」と「共時性」を「断絶」する差異をふくむ(136/163)。他者にどれだけ接近したとしても、差異がなおそこにある。あるいは「接近すればするほど踏みこえられない隔たりがある」(223/260)。他者は〈近さ〉であるがゆえに遥かにへだたり、遠ざかっているがゆえに私を〈触発〉しつづける(「他者による触発」「他 - 触発」 hétéro-affection)(193/224)。差異である近さ [﹅7] が、かくて「強迫」となる(133/160, 136/163)。〈近さ〉とは差異があることであり、〈近さ〉にもかかわらず差異があるとは「無関心では - (end244)ありえないこと」(non-indifférence)なのである(133/160. ほかに、cf. 97/119, 114/139, 218/254, 227/264)。なぜか。なぜ無関心では - ありえない [﹅5] のだろうか。
 「無関心である」とは、差異のうちにとどまっている(in-différence)ことである。レヴィナスによれば、だが、ディアクロニーという断絶を超えて、なお「関係」がなりたっている(23/31)。どうしてだろうか。
 「主体性」は「関係であるとともに、その関係の項である」(rapport et terme de ce rapport)(137/165, cf. 136/164 [註165] )。他者との関係は [﹅3] 私にとって不可避であり [﹅6] 、私はすでに他者との関係を身体の内部にかかえこんでいる。他者は〈私〉のうちに食いこみ、私は他者を身のうちに懐胎している。しかも他者は、踏みこえられない隔たり、遥かな差異そのままに私のうちに食いこんでいる。つまり共通の現在 [﹅5] を欠いているほどに、私とへだたっている他者が、私の主体性のうちに孕まれている。絶対的な差異によってへだてられた他者と私のあいだに、なお関係がなりたってしまって [﹅4] いるのだ。――私は、他者の現在にけっして追いつくことがない。にもかかわらず、私は〈他者との関係〉につねに・すでに巻きこまれ、私は関係そのものをすでに [﹅3] 懐胎している [﹅4] 。差異がないわけではない、それどころか差異によって隔絶した項とのあいだに、にもかかわらず関係がなりたち、私はその関係そのものであるとともに、その関係の項となってしまっている。関係はとり返しがつかず [﹅8] 、他者との関係は済むことがない [﹅7] 。だからこそ、他者にたいして私は(end245)「無関心であることができない」。そのゆえに、他者はつねに強迫する。私は他者にとり憑かれて [﹅6] いる。
 もうすこし具体的に考えてみよう。〈近さ〉は《近さの経験》ではない。近さとは、それが意識されることで、あるいはそれを「主題化」することによってむしろ消失してしまうなにものかである(123/148)。近さは、現在の経験としてはけっして生きられないなにごとかである。経験の現在に居あわせる「意識」はかえって〈近さ〉を抹消してしまう(131 f./159)。〈近さ〉の「強迫」を意識が「引きうけることはできない」。意識が引きうけようとすれば、意識は「転覆」されてしまう。もしくは、〈近さ〉が転倒して〈隔たり〉となってしまうのだ(139/167)。
 〈近さ〉を引きうけようとする、あるいは〈近さ〉を意識しようとする経験とは、どのような経験でありうるだろうか。レヴィナスがここで、「触診であることに不意に気づいてしまう愛撫、あるいは冷淡な愛撫」(132/159)を挙げていることに注目しよう。触れているさなかに意識が立ちあってしまう愛撫は、愛撫ではない。それは触診 [﹅2] である。つまり「探究」であり「知」と化するものである(cf. 143 f. n.3/341)。触れることの現在をみずからに回収(se ressaisir)する、つまりじぶんが触れていることを察知しつづけ、われを忘れることのない冷淡な愛撫は愛撫ではない。意識が居あわせる、それはむしろ一箇の詭計 [﹅2] であろう。

 (註165): この表現は、たぶんヘーゲル精神現象学』自己意識章の定式――「自我は関係の内容であり、関係することそれ自身である」(Ich ist der Inhalt der Beziehung und das Beziehen selbst)――をふまえたものであろう。Vgl. G. W. F. Hegel, *Werke* Bd. 3, S. 139 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、244~246; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)


     *


 愛撫される皮膚は、生体の防御壁でも、存在者のたんなる表面でもない。皮膚は、見えるものと見えないもののあいだの隔たり、ほとんど透明な隔たりである。〔中略〕〈近さ〉の測りがたさは、認識と志向性において主観と客観が入りこむ接合とは区別される。知られたものの開示と露呈を超えて、法外な現前と、この現前からの退引が、不意に驚くべくもたがいに交替する。退引は現前の否定ではなく、現前のたんなる潜在でもない。つまり、想起によって、現勢化によって回収可能なものではない。退引は他性なのであって、相関者との共時性において総合へと集約されるような現在あるいは過去とは、共通の尺度を欠いている。〈近さ〉の関係は、まさにそれゆえに離散的なものなのである。愛撫にあっては、そこにあるものが、そこにはないものであるかのように、皮膚が自己じしんの退引の痕跡であるかのように、探しもとめられる。愛撫とは、それ以上ではありえないというほどにそこにあるものを、不在として索めつづける憔悴なのである(143 f./171 f.)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、248; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」; 『存在するとはべつのしかたで』より)

 ほか、二五日付のほうからは、職場でのミーティング後にとうじ教室長だった(……)さんをケアしているようすが目にとまった。一年前は検閲していた部分である。「われながら丁寧にやるなあ、とおもわないでもない」と述懐しつつ、先日同僚に菓子をよくあげることについてふれたときとおなじように、打算というか一戦術としての要素がそこにあることを語っているが、だんだんこういうささやかな調整役みたいなことがならいとなってきているようで、職場や他者へのたしょうの奉仕心めいたものが身についているようだ。(……)さんがあたらしい室長としてやってきたのがこの前年(つまり二〇二〇年)の七月くらいだったとおもうのだけれど、まあこっちのほうがこの職場じたいはながいからいろいろとわからんこともあるだろうし、と、またせっかくあたらしい室長として来たのだからやりたいことができるようにとおもっていろいろサポートしているうちに、いつの間にか講師のなかではいちばん中心みたいな、室長の補佐みたいな、そういう役回りになってしまってそのままいまにいたっている。もともとひとりで黙々とやっていたいタイプだったので、たいした成長ではある。とりわけ(……)さんはけっこう雰囲気が硬かったり、いそがしいようすを周囲に放散したり、ほんにんもたぶん気が長いほうではなく、ときにやや圧迫的なこともあったり、機嫌がよくなさそうだというのがありありとわかったりして、そういう雰囲気をかくさずにまわりに発してしまうと講師たちもはなしかけづらかったり萎縮したりはたらきづらかったりするだろうから、したでも言っているようにメンタルケアとかすこし気にしていたのだろう。あと単純にやはり仕事量がおおくてぜんぜん追いつかないのだろうなというのもわかったので、まあほんのすこしだけでも楽にできればとおもってじぶんができる範囲のことはやるようにしたりとか。(……)さんのときはどちらかというとそういう感じで、かのじょの仕事を減らすとか、かのじょのやりたいことを尊重してサポートするという意識が主だったようだが、いまの(……)さんはそのへんちょっとちがって、こちらがそんなにサポートする必要がないというか、もちろんサポートはするのだけれどわりと講師連に好きにやらせてくれるタイプなので、こちらもじぶんのやりたいようにやるという側面がつよくなっている気がする。そういう意味では(……)さんよりたぶん相性は良い。(……)さんとの相性もわるかったわけではまったくないし、むしろ信頼を得られていたつもりだが(したにも書いてある「つかれたーと漏らして伸びをしたり」というような「そこそこ気の抜けた雰囲気」は、おそらくこちらのまえでしかみせることがなかったはず)、かのじょじしん意外と人見知りというか、合わないひととどうにかしてうまく付き合っていくということができないタイプだったので、その点じぶんから友好的に声をかけて味方の感じを積極的に出し、いろいろ手伝ってくれるというこちらは信用を得やすかったのだろう。じぶんはある種「取り入る」のがうまかったのかもしれない。いまもまあわりとそうで、職場の同僚のうちでこのひととは合わない、このひととはうまくはなせないというにんげんはひとりもいないとおもう。まあ、そんなにへんなひとはそもそもおらず、みんな常識人の範疇だから。

(……)(……)さんはつかれたーと漏らして伸びをしたり、そこそこ気の抜けた雰囲気を見せた。こちらは良かったんじゃないですか、と言い、かたづけなどしたあと、せっかくなので多少ねぎらったり好意的な感想をつたえておいたりしたほうがいいかという気持ちもあって、報告を書くかなにかで打鍵をいそいでいた(……)さんに、まだやることありますか、電車が一〇時四一分なのでもしいっしょに出られれば、とむけると、待っててくださいとかえったのでしばらく待った。間に合うかどうかあやぶまれる残り時間だったが、なんとか三分くらいまえに職場を出ることができ、ふたりで駅へ。おつかれさまでした、あのスライド、よくつくりましたね、と言うと、きょうの四時半くらいからがんばってつくったのだということだった。通路と階段を行きながら、ひとりひとりコメントしてもらったのも良かったとおもいます、ああいう、フィードバックですか、大事だとおもうんで、きょうは(……)さんとみんなが、交流、でもないですけど、個人的なところが見えた会になったんじゃないですか、と述べ、ホームにあがると、(……)行きの乗り口まで行き、あいさつをして別れた。その後の帰路にたいした印象はなし。帰宅後、メールをまとめて正式に感想というか良かったとおもいます、ということをつたえておいた。なんというか、われながら丁寧にやるなあ、とおもわないでもない。それは単純なねぎらいということもむろんあるのだけれど、(……)さんとこちらのあいだの信頼関係をよりつくっておこう、とか、承認を明確に言語化してあたえることで彼女のメンタルの安定にささやかながら寄与し、それによって職場の雰囲気をよく保とうとか、おなじことだが、講師たちからそんなに直接的な反応はたぶんないだろうから、(……)さんがそのことで落胆するといけないので、先回りするかたちでそれをフォローしておこうとか、そういう打算的な思惑ももちろんないわけではない。べつにそれらをいちいちこうだからこうしよう、とかんがえ、効果を計量してやっているわけではないが。

 一一時前に起き上がって瞑想。そとの保育園では子どもらの声がにぎやかで、ほとんどモンスターじみて号泣しつづけている子なんかもいる。瞑想前にというか日記の読みかえし前にだったか、洗濯をはじめていた。瞑想を終えるとそれだけ出しておいた集合ハンガーをなかに入れてタオルや靴下や肌着などをたたみ、いま洗ったものをあたらしくとりつけてまたそとへ。その他バスタオルやきのう着たシャツ。そうして体操的にからだを伸ばすと食事へ。煮込みうどんをまた食べることにした。鍋に水をそそいで火にかけ、沸騰するあいだはちょっとパソコンを見て待ち、沸くと麺を投入。割り箸でちょっとかき混ぜてはやばやとザルにあげ、それを流水で洗っておくとタマネギとキャベツを切った。キャベツはのこりがすくなかったのでぜんぶ。麺つゆとあご出汁と鰹節を入れて熱した湯にそれらを投入。しばらく煮て、麺は水をちょっとかけて死ぬのを防ぎつつ待ち、加えるとちょっとぐつぐつやるあいだにもうまな板ほかを洗った。コンロはながしのすぐ右なので洗い物のさいに手から水滴が飛んで火やその近くに落ちるとジュー……という音が立つ。完成すると椀によそって食事。なにかしらウェブを見たはず。時刻は一二時半ごろか、すでに一時にちかかったかもしれない。ちょっとのこしておいてのちほどまた食べて行こうかなとおもっていたがけっきょく平らげてしまい、音読などしてちょっと息をついてから、(……)くんの和訳文の添削にはいった。きょうの出勤前はこれを優先し、まあこれができてあときょうのことが書ければ御の字、きのうのことはあした以降だなとみこんでいた。そうしてGoogleドキュメントをつかって文書をつくっているとちゅう、なんだか動悸がからだにひびいて、喉もとにあがってくるような感じがあり、じっさい痰のたぐいがあがってきていたのだが、胸もつかえるようで、いつの間にかじぶんが緊張していることに気づいておどろいた。腹の感じはよくなっていてみぞおちを押してもほぼ痛まなくなったし、きのう実家に行くさいの電車も特段問題はなかったから、きょうはふつうに出勤するつもりだったし、昨晩(……)さんにもそのようにメールしておいたのだ。ところがこのありさまで、ちょっとまずいなと動揺した。緊張というよりも不安のレベルに達していたと言ってもよいかもしれない。腹のなかがうごめいて体内がなんか変だし、トイレはすぐそこにあるのに急に小便に行きたくなってきたりして、あきらかにからだが動揺しているわけである。作業を止め、ちょっと目を閉じてじっとしたりしてみたが、こりゃ駄目だとおもってさきほど食後にも飲んでいたロラゼパムを追加した。そうするとすこしはほぐれるが、ちょっとこれはよくないな、まいったな、という感じだった。これで電車に乗ったらまずそうだなというのがありありとわかった。文書をつくろうとしてもそんな状態ではあたまが乱されるから文もうまく書けない。きのう行くと言っておいたそばからまた休むというのも体面が悪いと躊躇して、きょうはともかくヤクをぶっこんででもどうにか行こうかと迷ったものの、ここで無理すると場合によっては二〇一八年の二の舞いになりかねんぞという慎重さがまさって、知らせるならはやいほうがいいと職場に電話したが、その時点で二時半くらいになっていた。からだが緊張しているからあいさつをする声も細くなって出づらい。事情を説明し、きのう行くって言ったんですけど、すみません、と謝って、とりあえずいま毎日一錠で出勤日はもう一錠飲んでいたが、毎日二錠飲むようにしてようすを見てみるということにした。一週間か二週間か、いったんお休みしてもらったほうがいいですかね? と(……)さんは寛大に言ってくれて、しょうじきわからんがそのほうがもしかしたらよいのかもしれない。とりあえずはたらくにしても、一〇月は週一か週二にしたほうがよいだろうなとおもっている。ひとまずきょうは休み、きょう以降だとあさっての水曜日がつぎの出勤で、たぶん(……)さんのあたまではここももう休みという認識になっているとおもわれこちらもそのつもりだが、あしたまたメールを送っておいたほうがよいだろう。それ以降はまだ一〇月のシフトが出ていないのだけれど、ふつうに行くならつぎの勤務日は一〇月三日の月曜日で、ここから復帰するか、それともこの週も休みにして一〇月一〇日の月曜から復帰するかというところだ。シフトはいま作成中だろうから、あしたそのへんも決めて知らせたほうがよい。さすがにちょっとまいったというかなかなかうまくいかないなあという感じで、とはいえ二〇一八年にいちど最悪をみてはいるので(その最悪のしたは端的に自殺だ)、そのときと比べればまだぜんぜんうえのほうにはいる。いるとはいえ、なにかちょっとまちがって悪いほうに行くと一八年のようなことにもなりかねないぞという危機感もかんじられるような気がする。おもうににんげんの心身というのも音楽とおなじで、いま成り立っていることがつぎの瞬間には成り立たなくなるかもしれないという根拠のとぼしいところで、刻一刻とどうかして保たれているものなのだろうと。古井由吉みたいな言い分だが、だれの生もじつはそういう危機をときどきに踏まえつつ、それを越えてどうにかこうにかつづいているのだろう。気づかれないうちにその危機が越えられていたり、あとからあれはそうだったのかと気づいたり、直面のそのときに気づいたりといろいろだろうが、じぶんにおいては不安の接近というかたちでそれがまざまざと顕在化している。きのう実家に行くのにOKだったのにきょう駄目で、しかも職場のしごとをしているさいちゅうに緊張したというのは、労働がけっこうストレスとしてこちらの身にのしかかって負担をかけているということだろう。あとは文書をつくっているとちゅうのことでもあったから、文を書くという行為が負担でもあるのかもしれない。じっさい、いますでに二七日に変わって午前一時の夜で、いちおうこのように文章を書けてはいるけれど、書きながらやはり腹がしくしくするような感じと、それに応じて痰が喉もとにわだかまるような感じをおぼえている。だったらさっさとやめればよいのにそれでも書いてしまっているのが業というものだが、そろそろやめようとはおもっている。この日々の書きものもいまのじぶんにはだいぶ重荷なのかもしれず、労働などもあっておもったように書けない、しかし書きたい、なるべく書かなければならないという、強迫観念じみたそういう二律背反の状況ぜんたいが、おそらくはじぶんを裂いて心身に負荷をかけ、からだがそれに耐えられず不安や身体症状のかたちでダメージを表面化させているのだろう。このままそれがすすんで文を書くことじたいが不安とむすびつけば、それこそが二〇一八年の再来である。だから日々の書きものもばあいによってはしばらくやめるか、すくなくともすこしだけにしたほうがよいのかもしれない。こんなものは、じぶんのからだを損なったり滅ぼしたりしてまでやるようなことではない。健康に生きることのほうが大事だ。もちろんそうおもうのだけれど、しかしじっさいやめようとおもってやめられるかどうか? もうすこしひどいところまで、それこそ一八年くらいのところまで行かないと、じぶんはこれを中断しないのではないか? 去年はこんなものはいつでもやめられるとたびたびニヒルを気取り、さいきんも、じぶんは文を書かないとしてもふつうに生きていけるとたしかにおもっていたのだけれど、ここに来てちょっとそれにうたがいが生じてきた。書くことをやめることじたいはできるかもしれないが、もしそうなったら、じぶんはなにをやればよいのかわからなくなって呆然としてしまうのではないか、という気がちょっとしている。こんなことをいうのはいかにもありがちでかなり嫌なのだけれど、じぶんはじぶんを保つために書くことを必要としているのではないかと。じぶんがじぶんでありつづけるために、なんて、尾崎豊の曲名か、そのへんのできのわるい大衆漫画が標榜しそうなモットーみたいだが、もしかするとそうなってしまっているのかもしれない。二〇一八年のときはたしかにそうおもっていた。読み書きができなくなったことでもはや生きる価値はないと絶望していた、それはたしかだ。しかしいまはもうそうではないとおもっていたのだが。畢竟、日々書くというこの行為こそが、じぶんにとって最大の、そしてもっとも根源的な固定観念、強迫観念なのであって、だからそれは最大の拘束であり不自由であるわけだが、ここから逃れることができたときに、ようやくじぶんはほんとうに自由になったと言えるのかもしれない。あるいは、じつはじぶんの欲望はもはやこの日記にはないにもかかわらず、書きものがじぶんのアイデンティティとあまりにも強固に癒着しすぎてしまっているため、それをやめればじぶんを失ってしまうかのようなことになる、そのことを恐れるがゆえにほんとうはやりたくもないことをやりつづけている、ということなのか? 葛藤のかたちは、書きたい、もしくは書かなければならないのに書けない、なのか、それとも、ほんとうは書きたくなどないのに書かなければならない、なのか。じぶんじしんではそのどちらなのか、見定めがつかない。
 とはいえやっぱり、たんじゅんなはなし、がんばってやろうとするとどうも駄目っぽいなという感じはある。たとえばおとといきのうはわりと邁進できて、二四日分まではしあげることができてよかったなというところなのだけれど、そういうふうに、からだをよくうごかして活動的にととのえてバリバリどんどん書くぜみたいな、そうやって能動的にがんばるとけっきょくこういうことになるのかな、という感触がある。その活動性が心身にたいする負担になって、キャパシティを超えるのではないかと。そういうふうにがんばって書くというのはけっきょくわすれないうちにできるだけ書きたい、おおく書きたい、なるべく完全に書きたいというあたまもしくはこころから来るもので、それは要するに生産性の問題なのだ。生産性をあげたいということ。そして、生産性でやるとじぶんはどうも駄目なのではないかと。生産性と効率性というのは資本主義の金科玉条である。やはり資本主義とじぶんとは相容れない敵同士だということなのか? 敵までは行かないとしても、その原理はどうしてもじぶんの心身にはなじまないものだということなのか? この身体症状はそれにたいする一種の拒否反応なのか? いずれにしても、能動的にがんばるのではなく、楽にしぜんに無理なくできる方式でないと、おそらくはもはやこのさきつづけられないというところに来ている気がする。生産性原理をかんぜんに捨てて、それとはちがった地平をひらかなければ駄目なのではないか。ガルシア=マルケスをモデルとして日記で小説をやりたいという目論見を捨て、それにこだわらなくなったことでかえってもっとよく、それこそばあいによってはもしかすると小説みたいなことまで書けるようになったのとおなじように、毎日書くという最大の固定観念を、いよいよほんとうに解体するところまで来ているのかもしれない。


     *


 この日はそういうわけで勤務を休んだし、さらにしばらく休むことになったのだけれど、電話を終えてもからだのなかはざわざわしていてそわそわするようだし、肩や背や首なんかにもひりつく感触が貼られているようで、いままさにじぶんの身にストレスがのしかかってきているということがわかるようだったので、とりあえず寝床に避難して休んだ。休むからといってウェブを見る気にもならず、もちろん本や文を読む気にもならず、なにをするでもなく目を閉じて静止してみたりぼんやりしてみたりするこの感じは、二〇一八年中に鬱的様態におちいった時期のことをちょっとおもいださせないでもなかった。無気力な感じがすこし似ていたのだが、ただし鬱々と気分が落ちこむようなことはない。希死念慮もない。とはいえまたこれからそういう事態に下降していく可能性がないとはいえない。
 その後この日は部屋にこもったしそんなにたいしたこともせず、日記にとりかかったのもうえの部分でふれられているように日付替わり前くらいからだったはず。それまでのあいだはわりとだらだら過ごした。むしろそうするべきだっただろう。ただ、なにかの拍子に「考える人」のウェブサイトにあたり、そこで高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者」という連載をみつけて興味を持ち、夕食時から食後まで一気に最新まで五回分を読んだ。腐っても西洋史コース出身、しかもじぶんの卒論は、論などと到底呼べる文書ではなくレポート以下のまさしく腐ったゴミだったが、いちおうフランス革命をあつかったもので(フランス革命時に啓蒙の原理にしたがって宗教性が排されながらも「理性」があらたな宗教と化し、まさしく儀式的な要素もふくみながら宗教的なものとして崇められる、というような成り行きをいちおう追ったものだったとおもう)、しかも洋書文献を最低でもふたつだか用いなければならないという規定にしたがってつかった英書のひとつが、ロベスピエールの伝記だった。とうじのじぶんのちからで読み通せるわけがないので、一部だけ読んで、ほんとうにほんのちょっと典拠にしただけだが。連載中にもなまえが出てくるRuth Scurr, Fatal Purity: Robespierre and the French Revolution, 2006というのがまさしくその本である。あとはロベスピエール関連だと遅塚忠躬の『ロベスピエールとドリヴィエ――フランス革命の世界史的位置』という本も読んだはずだが、内容はまったくおぼえていない。たしかロベスピエールの土地制度にかんする思想とかをけっこうくわしくあとづけたようなものだったような気がしないでもない。あと、この本の序文みたいなところで、カントの「物自体」を援用しつつ、歴史を記述するというのもわれわれは歴史そのものにいたることは決してできないのだからこれと似たようなもので、というはなしをしていたような記憶もある。ではそこで歴史学者はどのような姿勢を取るべきかというはなしもそこでは語られていたはずなのだが、そちらについてはおぼえていない。『フランス革命を生きた「テロリスト」 ルカルパンティエの生涯』というNHKブックスの本も読んだような気がしないでもないので、もしかしたらこっちに書かれていたことだったかもしれないが。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 607 - 608
  • 「読みかえし2」: 1 - 9, 10 - 11
  • 日記読み: 2021/9/25, Sat. / 2021/9/26, Sun. / 2014/2/20, Thu.


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第1回 真の民主主義を求めて」(2022/5/23)(https://kangaeruhito.jp/article/426987(https://kangaeruhito.jp/article/426987))

 これに対して、いや、民主主義とは人民の多数派の支配だとしても、個人や少数派の権利を尊重するものでもあり、それを保障するのが司法の独立や報道の自由だ、というような反論がありうる。しかし、それが仮に民主政治を支えるものだとしても、それはまた別の理念であって、民主主義それ自体ではない。原理的に言えば、デモクラシーとは古代ギリシアに由来する「デモス(民衆/人民)」の支配であって、それ以上でも以下でもない。マイノリティの権利を擁護し多様な意見を尊重すること、また多数決を採用することでさえ、それは民主政治のひとつの手法であってその目的ではない。
 その点で、多様な意見の代表ないし政党による討議に基づく代議制=議会主義も、民主主義そのものとは別物である。かつてそう喝破したのは、ドイツの思想家・法学者のカール・シュミット(1888-1985年)である(『現代議会主義の精神史的地位』1923年)。シュミットによれば、民主主義は国民の平等(=同質性)に基づいて治者と被治者の同一性を前提とした統治である。これに対して、議会主義は国民の不平等と個人主義に基づいて治者と被治者の差異性を前提とした統治であって、これは民主主義というよりも自由主義の一種と言うべきである。したがって両者、要するに民主主義と自由主義とは明確に区別されなければならない。
 問題は、民主主義がその原理からして、「デモス」の一体性を求め、そうでないものを排除しうるところにある。人民の支配と言っても、まずは「人民」とは何かが問題となり、人民とそうでないものとが分類される。確かに全員が「人民」ということはありうる。そこに表向きは、外部(敵)はないのかもしれない。しかし、小規模でよほど同質的なコミュニティでもないかぎり、そうあることは難しい。まして、現下のグローバル化する世界においては、そのような同質性を民主国家内で維持することが不可能であることは明らかだろう。逆に、それが国民には移民の増加によって毀損されていると感じられる・・・・・がゆえに、一体性を強く求め、そのために強い権力が求められているようにも見える。そのことは、国民の同質性が比較的高いと言われてきた日本にとっても、情況の激変(移民国家化?)によって無縁ではなくなっている。
 もうひとつの問題は、民主化と世俗化(脱魔術化)が急速に進んだ結果として、民主主義自体が「宗教的」様相を帯びるようになったということである。つまり、人びとのアイデンティティ、あるいは生きる意味のようなものを確証してくれる宗教ないしは〈信じるもの〉の力が弱まるなか、私や私たちの存在証明が民主政治に託されるようになったということである。特に冷戦体制の崩壊で、「世俗宗教」としての共産主義への信用も衰微して以降、その傾向がますます強まっているのではないか。現代フランスの政治思想史家、マルセル・ゴーシェはこれを「代替宗教の破綻」と評した(『民主主義のなかの宗教:脱宗教化ライシテの軌跡』[伊達聖伸・藤田尚志訳『民主主義と宗教』]、1998年)。

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 20世紀に入って、ロベスピエールの名誉回復に先鞭をつけた高名なフランス革命史家のアルベール・マチエは、彼を「怪物として憎む者もあれば〔革命の〕殉教者として崇める者もある」が、どちらも革命をめぐる利害・情熱にとらわれており、今こそそこから離れて真実を明らかにしなければならないと訴えた。だが、そのプロジェクトは依然として未完である。
 その人と思想を理解するためには、さしあたり革命期の評価を一旦離れて、ロベスピエール個人の精神史に着目する必要があるだろう。というのも、もともと彼にとって真の自己(私)の存在の探求と真の政治(共和国)の探求はオーバーラップするものだったからだ。ロベスピエールによれば、市民は「仮面」を剥ぎ合い、その意志は他の市民、そして社会や国家の意志と一直線に結びつく、結びつくべきであり、その一体性によって初めて真の共和国=《民主主義》が実現する。逆に言えば、民主主義は〈私〉同士が一致し――皆が純粋に〈私〉を告白すれば必ず意志が一致するということを前提にして――、そうでない者を取り除くことで成り立つ政治である。そもそも民主主義とは、一体としての人民の意志の支配のはずではないか。
 ところが、ロベスピエールもその犠牲者となる。いや、《民主主義》=真の民主主義を追求したからこそ、彼自身もギロチン台で〈敵〉として露と消えなければならない運命だったのではないか。一体としての人民の支配としての民主主義はひとつの特権も、ひとりの独裁者も許さないはずだから。ここに浮かび上がるのは、革命の殉教者というよりも、あくまで《民主主義》の殉教者としてのロベスピエールの姿である。
 では、「ポピュリスト」と呼ばれる現代の政治家に、民主主義それ自体のために [・・・・・・・・] 殉教する覚悟はあるだろうか。むしろ、ロシアをはじめ東欧や南米の一部の政治指導者によって私益のために民主主義は利用=偽装され、各地で「専制化」しつつある。しかし問題がより深刻なのは、すでに述べたように、そのような傾向が「西側」でも進んでいることである。なるほど、「東側」の指導者は西欧の民主主義は偽善だと主張するが、その主張を暗に讃える有権者が欧米諸国のなかにも多く存在していることはその証左だろう(アメリカ合衆国ではプーチン大統領を英雄視する人びとも少なからず存在するという)。その事実は、民主主義を利用した権威主義体制が世界中に拡散した未来を予感させる(イワン・クラステフ、スティーヴン・ホームズ『消えゆく光』[立石洋子訳『模倣の罠――自由主義の没落』]、2019年)。


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第2回 美徳と悪徳」(2022/6/27)(https://kangaeruhito.jp/article/516603(https://kangaeruhito.jp/article/516603))

 アラスは、フランス北部アルトワの州都(県庁所在地)である。その地で、弁護士のフランソワ・ド・ロベスピエールとジャクリーヌ・カロの長男として、1758年5月6日に生まれたのがマクシミリアン=マリ=イジドール(洗礼名)、のちの革命家マクシミリアン・ロベスピエールである。ロベスピエール家は、300年前に遡るとされる法曹一家で、マクシミリアンも将来、法曹の道に進むことになる [*: 以下、ロベスピエールの伝記的事実については、邦語で読めるもっとも充実した伝記である、ピーター・マクフィー『ロベスピエール』(高橋暁生訳、白水社、2017[原著は2012]年)に多くを負っている。] 。
 フランソワは、州の最高裁判所である州上級評定院で弁護士をしていた。彼(当時26歳)がビール醸造業者の娘カロ(当時22歳)と結婚したのは1758年1月のこと、その4ヶ月後に生まれたのがマクシミリアンだった。そして、1760年から63年のあいだにシャルロット、アンリエット、オギュスタンと立て続けに子どもが産まれるが、翌年、一家を悲劇が襲う。難産が理由で母カロが急逝したのである。父は精神に変調をきたして家庭を離れ、他の地で役人になったとも伝えられるが不安定な生活を続け、子どもたちは叔母や祖父母に預けられた。つまり、一家は離散することになったのである。ロベスピエール、わずか6歳の出来事だった。
 妹のシャルロットの回想によれば、兄は母のことを語る際はいつも目に涙を浮かべていた。そして、この不幸のために、「騒がしく、乱暴で陽気」だった子どもは、「生真面目で、思慮分別のある、勤勉な」少年になったという。いまや騒々しい遊びよりも、読書とチャペルの模型を作ることに興味を抱くようになっていた。この回想がどこまで正確かはともかく、マクシミリアン・ロベスピエールにとって、母親の死が大きな心の傷痕となり、早くも人生のひとつの転機を迎えていたことだけは確かだろう。
 では、ロベスピエールはどのような幼少期を過ごしたのだろうか。幼少期の不幸や貧困がトラウマとして残り、彼のその後の人生を決定したとする論者も少なくない。だが、実際のアラスでの生活は穏やかで規則正しいものだった。彼とその弟を引き取った母方の叔母は敬虔さで知られ、2人をよく世話したという。結局、ロベスピエールは、伝記作家のマクフィーが「信仰の要塞」と呼んだアラスで、「徹底的にカトリック的な子ども時代を送った」のだ。しかも、妹たちの住居は数分しかかからない距離のところにあって、しばしば会うことも可能だった。
 他方で、この町では3人に1人がその日暮らしで、マクシミリアン少年も物乞いや浮浪、犯罪を日々目の当たりにしていた。それが彼の少年時代の原風景として頭に焼き付けられ、その後の革命家の歩みに影響を与えたことは十分に考えられる。この頃、同地を訪れたイギリスの著名な農業経済学者、アーサー・ヤングは、その印象を次のように書き残している。「その土地の労働力の大部分は収穫期のさなかだというのに失業してぶらぶらしている」(『フランス旅行記』[宮崎洋訳『フランス紀行』]、1788年)。
 こうした教会と都市の静と動、ある意味では正反対の世界のなかで育った少年を革命の指導者へと導くのは、なによりもその土地の教育環境である。アラスは、学校教育では長い伝統のある町で、識字率も他の地域に比べて高かった。8歳でその町の学校に通い始めた頃には、すでに文字が読めるまでになっていたロベスピエールは、その能力を発揮し、すぐに頭角を現すことになる。
 11歳の頃には、成績優秀のために奨学金を獲得する。そして、アラスのコレージュ(中等教育学校)の提携校であったパリの名門コレージュ、ルイ=ル=グラン(=ルイ大王)学院への入学が認められたのである。そのため、母そして(母の死後は)叔母、祖母や妹という女性たちに囲まれた親密な環境から離れ、大都会パリへと単身向かうことになる。馬車に揺られること24時間、ようやく辿り着いたパリは少年を圧倒する都市だった。

      *

 初年時(文法科生)、そして15、6歳(修辞科生)にはラテン語やフランス語、そしてギリシア語などを学ぶが、最上級の哲学科生になると古代ギリシアやローマの歴史や道徳哲学、キリスト教思想を学ぶようになる。そのテキストのなかには、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』やプルタルコスの『英雄伝』などがあった。また、主に使用されたテキストとして、「共和政ローマのもっとも輝かしい時代」に書かれたものが採用され、そこには祖国愛や自己犠牲などの「美徳」とともに、「贅沢、貪欲、陰謀、堕落といった悪徳」が描かれていた。
 このカリキュラムで使用されたテキストのなかには、有名なキケロ(前106-前43年)によるカティリーナ弾劾演説[古代ローマの執政官だったキケロが、貴族政治家カティリーナの一派による政権転覆の陰謀を未然に防いだことで名高い演説]もあった。それはまさに象徴的なかたちで、「陰謀家」たちの〈悪徳〉に対して共和政のあらゆる〈美徳〉を対置する教材だった。

われわれに対する唯一の陰謀は、われわれの市壁の中にあるのだ。危険は、敵は、内側にいる。……要するに公正、節制、勇気、賢明、これらすべての美徳が、不正、放蕩、臆病、軽率といったすべての悪徳と戦っているのだ。(同上)

 ここには、〈美徳〉と〈悪徳〉という二項対立の図式が見られる。伝記作家マクフィーの言うように、これがマクシミリアンの思考法に埋め込まれてゆくだろう。加えて、〈陰謀〉や〈敵〉といった言葉が使われていることとともに、それが《内側》にあると言及されている点も記憶しておきたい。なぜなら、それはおそらく未来の革命家のレトリックともなるからだ。
 ロベスピエール自身も、革命期の回想のなかで、コレージュを「共和主義の養成所」だったと表している。彼の教師アベ・エリヴォは、特に古典語の成績が抜群なマクシミリアン少年のうちに「ローマ人の諸特徴」を認めたと言われるほどである。ちょうどこの頃、ランスであった戴冠式(1775年6月)からの帰路、ルイ16世とマリ=アントワネットがルイ=ル=グラン学院に立ち寄ることになった。そこでエリヴォが、500人の生徒のなかから両陛下に賛辞を捧げる代表に選んだのは、ロベスピエールだった。
 しかし、彼とは歳が4つしか離れていない国王(当時21歳)との出会いは、少年にとって良い思い出になったとは言い難い。雨が降りしきるなか、校外で待ち続けること数時間、やって来た両陛下は歓迎スピーチを馬車のなかで聞くと、すぐに立ち去ってしまったのである。
 (…………)
 (……)なるほど、最新の伝記はこのエピソードの信憑性を疑い、青年が仮に両陛下にパリで拝謁しえたとしても別の機会[2人が初子誕生の祝いにパリを訪れた1779年2月]だと指摘しているが(Hervé Leuwers, Maximilien Robespierre, 2014)(……)


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第3回 「名誉」を超えて」(2022/7/25)(https://kangaeruhito.jp/article/583266(https://kangaeruhito.jp/article/583266))

 当時、アラスは2万2千人ほどの住民が暮らす地方の中心都市だった。それでも、長引く不況で繊維産業は衰退し、伝統的な穀物取引に多くを依存していた。政治も、アルトワ州三部会からして貴族によって占められ、また高位聖職者が行政権力に食い込み、同州司教コンズィエを中心に「特権階級」が大きな影響力をなお誇示する世界だった。そこでロベスピエールは、父や祖父と同様、王国の四つの州にある州上級評定院つきの弁護士として登録されるが(1781年11月)、みずから個人的なネットワークを構築してゆかなければならなかった。
 「一着の服と穴のあいた靴しか持っておらず」、社交的でなかったパリの大学の給費生が、帰郷した地方の世界で生き抜いてゆくのはそれほど簡単ではなかっただろう。だが、彼はここでもその能力によって頭角を現すことになる。半年後、普通は10年待つとされた司教管区裁判所[アラスとその周辺にある30ほどの教区を管轄する裁判所]の5人の裁判官の1人に抜擢されたのである。その能力と人格は、周囲にも強い印象を残したという。裁判デビューを果たしたロベスピエール氏は話ぶりやその明晰さの点で彼に及ぶものは皆無というじゃないか――アラスのある弁護士は手紙にそう書いている。これに対する返事で、当時パリ法科の学生だった同郷のエティエンヌ・ラングレはこう賞賛した。

事実、このド・ロベスピエール氏という人物は、君が言うように恐ろしい人だ。付け加えて言うなら、彼の優秀さに喝采を送り、このような才気溢れる人物を生んだわが故郷を祝福したい気持ちを抑えられないよ。(マクフィー『ロベスピエール』)

     *

 上級評定院では、1年目から13件の裁判の弁護を担当し、2年目は28件で法廷に立ち、3年目は13件と数こそ減ったが、そのうち10件で勝訴した。仕事は順調だったが、苦い経験もした。司教管区裁判所の裁判官でもあったため、殺人者に死刑判決を出さねばならなかったのである。しかも当時は、ギロチンが発明される前で、庶民には車裂きの刑が処されていた。妹の回想によれば、その判決の夜、帰宅すると兄は絶望した様子で、「彼が有罪であり、悪党であることはわかる、それでも1人の男に死を宣告せねばならぬとは……」と繰り返したという。こうした伝統的な慣習・因習と彼の「良心」との間の葛藤は日に日に大きくなってゆく。
 シャルロットによれば、兄が法曹の道に進んだのは「抑圧された人々」を擁護するためだった。1783年に始まるドトフ事件裁判はその一例である。それはある修道士(会計係)が修道院若い女中クレマンス・ドトフの兄を窃盗容疑で告発した事件だった。兄フランソワによれば、修道士は自身の窃盗を隠すため、また妹を口説いたが断られたその腹いせのために告発したのだ。地方の有力な地主でもあったアンシャン修道院に対して「質の悪いパンすら家族に供給することも難しい」庶民は泣き寝入りせざるをえないところ、ロベスピエールは彼を果敢に弁護し、3年に及んだ裁判で勝利した。このとき、既存の法秩序に対する「常軌を逸した見解」を表明したと弁護士会から叱責を受けたが、ロベスピエールがそれを意に介した様子はない。彼は「抑圧者に対して抑圧された人々を守ること」を義務だと信じていたからにほかならない。

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 ロベスピエールの弁護士活動でもっとも有名な訴訟として、「避雷針事件」(1783年5月)がある。ある法曹家の建てた巨大な避雷針を不安に思った――先入観のためにその装置に落雷して爆発や地震が起こると思い込んだ――住民たちの訴えを認めるかたちで、裁判所はその取り壊しを命じた事件である。これに対して、訴えられた側は上級評定院に上告、富裕な弁護士でアマチュア科学者でもあったアントワーヌ=ジョゼフ・ビュイサールに弁護を依頼した。するとビュイサールは、当初はその教育係を務めていたロベスピエールにその仕事を任せたのである。そこでロベスピエールは、この20歳以上離れた友人が所蔵する膨大な啓蒙書を参照しながら、本件で逆転勝訴を勝ち取った。その弁論は彼の「哲学」を開示する機会ともなった。
 新米の弁護士は口頭弁論冒頭、アリストテレスからデカルトまでの哲学の歩みや、医学の発見について触れた後、次のように言って〈光の世紀〉を謳いあげる。「今後は才能がその活動のすべてを自由に行うことが許され、科学は完成に向けて急速にその歩みを進めます。われわれの世紀を特徴づけるのはこの理性という特性であり、そのために人間精神がこれまで思いついたなかでもおそらくもっとも大胆でもっとも驚くべきアイデアが、普遍的な熱意を持って迎えられてきたのです」。ここには、個別の事件の弁護を超えて、彼の時代認識とそのうえでの自己主張を見てとることができよう。それは、今は理性の時代であり、人類は誤謬や偏見のためにその歩みを止めてはならず、その進歩にむしろ奉仕すべきだという理念である。
 第2回口頭弁論でも、冒頭でこう述べる。「前回の弁論であなた方に提出された反対意見に対し、今日も応答する勇気を私に与えるのは同じ動機です。私はできるかぎり全力で、それと思い切って戦いさえするでしょう」。ヨーロッパ中の支配者や国民がこの戦いに加わってきたし加わるべきであり、フランス人もそれに倣うべきだと呼びかけ、一地方の「避雷針事件」を、ヨーロッパに残るあらゆる旧弊に挑むという普遍的な問題にしてしまう。そして、「すべての科学者の側に味方する」かどうかは、わが祖国の名誉の問題であるとさえ言って憚らない。

この事件に注がれるヨーロッパ中の眼差しによって、あなた方の判決が受けるべきあらゆる評判は確実なものとなるでしょう。この狭い地方内部に視野を制限しないでください。首都を見てください、フランス全土を、他の諸外国を見てください、あなた方の判決を待ちかねています。……パリ、ロンドン、ベルリン、ストックホルムトリノ、サンクト・ペテルブルグはアラスとほとんど時を同じくして、この科学の進歩に対するあなた方の英知と熱意の金字塔をすぐに知ることでしょう。

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 「避雷針事件」で科学を勝利に導いたロベスピエールは同年11月15日、ビュイサールが院長を務めるアラス王立アカデミー(学士院)会員に選出される。そして翌年の4月に行った入会演説は、彼の政治観を初めて披瀝したという点で事実上のデビュー作といえる。
 その演説でも偏見と不正義の不・利益を訴えるが、そこで選ばれたテーマはいわゆる加辱論、すなわち「市民権の喪失を伴う処罰」によって罪人の家族全員もその不名誉を背負うべきかどうかというテーマだった。これは実は、メッス(フランス北東部にある都市)の王立アカデミーが公募した懸賞論文の論題に由来し、加辱は有害か、そうだとすればその対処法は何かを問うたものだ。演説後、ロベスピエールは原稿をいくらか手直しして懸賞論文に応募し落選するも、選考委員会が感銘を受けて特別賞(入選と同等の報賞400リーブル)が授与されることになった。同年、彼は報賞金を使ってパリで同論を自費出版する。
 主にモンテスキューの『法の精神』(1748年)を引き合いに出しながら語られるその入会演説は、未来の政治指導者にとって事実上のデビュー作といえる。その理由は、政治・社会の基礎には〈美徳〉がなければならないという、彼の根本思想が語られているからにほかならない。これに対して批判されるのは、モンテスキューが君主政の原理と規定した「名誉」である。
 演説冒頭、アカデミーないし科学者は「公共の利益」に尽力するものであると述べ、自分もあなた方(アカデミシャン=科学者/研究者)には遠く及ばないとしても、その役に立ちたいと語る。その観点から加辱の原因である「偏見」は有害であると断じる。彼によれば、偏見はある国民や人類の名誉をある個人の行為に帰すことから始まったもので、ある時代の意見(opinion)にすぎないが、統治の形態次第で大きな影響力を有することになったという。
 たとえば、「専制国家においては、法は君主の意思でしかありません」。それは、刑罰が君主の怒りの表徴でしかなく、不名誉が君主の意見によって決まることを意味する。これに対して、「各人が政治に参加でき、主権の構成員であるとすれば」、その種の偏見が力を持つことはない。つまり「共和政の自由は、この意見の専制に反抗するでしょう」。ここでは、君主政が直接批判されているわけではないが、それに対して共和政の利点が語られているのは明らかである。
 モンテスキューが言明したように、共和政の原理は〈美徳〉だが、共和政において偏見が追放されてきたことは古代ローマの歴史が証明している。また、ロベスピエールは現代の近くにある模範としてイギリス国制に注目する。この弁護士によれば、イギリスは君主国でありながら国制としては「真の共和政」をなし、それゆえ「意見の軛」を払い除けることができたのだ。ここでは、『法の精神』の著者のようにイギリスの政治体制を評価することよりも、同じく君主政をなす同国と母国フランスの政治を対照させることで、君主政の革新を主張することを慎重に避けながらも、その問題点をあぶり出すという意図があったのだろう。
 実際、モンテスキューがイギリス君主政の原理として評価した〈政治的〉名誉(=「名誉」)の問題点が指摘される。ロベスピエールは、名誉を政治的と哲学的なそれに区分し、君主政の原理と考えられる前者を批判する。彼によれば、「政治における名誉の本質は、〔人が〕好まれ区別されることを切望するところにあります。そして尊敬に値するというだけでは満足せず、特に評価されたいと望み、行動において正義より偉大さを、理性より華々しさや威厳を優先したいと思わせるものです。この名誉は少なくとも美徳と同じくらい虚栄心と結びつくものです。ただ、政治秩序のなかでは美徳自体に取って代わるものなのです」。〈哲学的〉名誉は、これとは対照的である。

哲学における名誉とは、気高い純粋な魂がそれ本来の威厳さのために持つ甘美な感情以外のものではなく、理性をその基礎とし、義務感と一体となるものです。それは、神以外に証人はなく、良心以外を判断としないもので、他人の視線からも離れて存在するものでしょう。

 判断の審級となるのは、外面ではなく内面にあり、前者が他人の意見であるのに対して後者は自分の良心である。この哲学的 [・・・] 名誉とは、〈美徳〉と言い換えられるものである。
 君主政では不可避的に地位や身分が必要とされ、生まれによって人を評価するような慣習があるが、その場合に評価の基準となるのは外見である。ロベスピエールはこれを他人の意見ないし「世論(l’opinion publique)」の評価とみなし、「偏見」と深く結びついていることを問題にする。これに対して、「真の共和政」は哲学的 [・・・] 名誉(=美徳)と呼ばれる内面から湧き上がる感情、良心に基づく政治であり、そうでなければならない。その政治の具体的な方策が示されているわけではないが、その方向性が示唆されている点にアカデミー入会演説の意義がある。
 最終的にロベスピエールは、同演説ないし論文のテーマである罪人の家族への加辱についても同様な偏見に基づくものだと指摘し、論難した。その貧しさや身体の不自由、性別のために、無実を証明できない民衆は、被告の家族までもその訴訟に巻き込まれるのだ、と。この主張には、民衆=善ではないとしても、やはり「抑圧された人々」のために働くロベスピエールの姿がある。これもまた、未来の革命指導者の政治のヴィジョンを示すものであるに違いない。ただ、彼のなかでその思想と行動が一致し激しく動き出すためには、パリの寄宿舎でその作品を読み耽った心の「師」との出会いが必要だった。


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第4回 心の「師」との出会い」(2022/8/22)(https://kangaeruhito.jp/article/659553(https://kangaeruhito.jp/article/659553))

 1786年2月、ロベスピエールはアカデミー会長に選出された。本業の弁護士業がもっとも忙しくなるなか(訴訟を24件担当)、同年4月、アカデミー会長として年に一度の公開会議を主宰した。そこでは4名の名誉会員が承認されたが、そのうちの2人は女性だった。そのとき彼が行った演説は、女性を学術の世界に受け容れることの歴史的意義を示し、この機会に女性の「権利」を擁護してみせるものだった。冒頭、その加入を祝した後、次のように述べた。

次のことを認めなければなりません。文芸のアカデミーに女性を入れることは、これまである種の異常なこととみなされてきました。フランスやヨーロッパ全体でも、その例は本当にごくわずかです。慣習の支配とおそらくは偏見の力が、この障害によってあなた方のなかに地位を占めたいと望みうる人々の願いを妨げてきたように思えます。(中略)〔しかし〕彼女たち〔今回選ばれた2人の女性〕の性別は、彼女たちの能力が与えた権利をなんら失わせることはなかったのです。

 ロベスピエールにとって、女性の「権利」の主張は、偏見や無知との戦いの一環だった。「女性にアカデミーの門戸を開き、同時にその害毒である怠慢と怠惰を追放してください」。そして、「才能と美徳を育むのは競争です」と言って、性別の隔てない「競争」を科学の進歩の観点から称賛したのである。
 この点で、「単純な、粗野に育てられた娘」のほうが「学識のある才女ぶった娘」よりもはるかにマシだと語った『エミール』の著者とは対照的だった。ルソーは同書でさらに次のように続けている。

こうした才能の大きい女性はみな、愚か者にしか畏敬の念を抱かせることはできない。(中略)彼女に真の才能があるならば、こうした見栄をはることでその才能の価値は下がってしまう。彼女の品位は人に知られないことにある。彼女の影響は夫の敬意のうちにある。彼女の楽しみは家族の幸福のうちにある。(樋口謹一訳)

 確かに「弟子」のロベスピエールも、その演説で、男女にはきっとそれぞれに相応しい学問分野があり、女性は想像力や感情の点で豊かだと言っている点では、おそらくその時代に支配的な女性観を前提にしていると言えるだろう。その点では案外ルソーと近かったのかもしれない。しかしだからといって、女性は男性の付随物、「お飾り」ではなく、その能力で評価されるべき一個の人間とみなすべきだと彼が声高に主張し、その「権利」を擁護したこと自体は過小評価されるべきではないだろう。
 前年、マリー・サマーヴィルというイギリス人女性の訴訟を引き受けたのも同様な観点からだっただろう。彼女が夫の死後、負債のために強制的に逮捕・監禁、晒し者にされた事件で、ロベスピエールは彼女を無償で弁護した。このことは、彼が社会の進歩の一環として、自由に能力を発揮する機会を女性に与える義務を主張していたことと平仄が合う。「この義務は、われわれが他のシステムを採用することができないなら、いっそう不可欠なものです」。
 女性は「弱い性」で、そのかぎりで弁護すべき対象であるが、そうさせているのは社会体制の側であって、そのなかで女性の能力を発揮する機会が開かれておらず、彼女たちの社会実践が「未経験」であることに問題の根本がある。こう主張することでロベスピエールは再び、「抑圧された人々」と運命を共にし、彼女たちの側に立つと宣言したのである。


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第5回 「幸福の革命」に向けた3つの矢」(2022/9/26)(https://kangaeruhito.jp/article/696195(https://kangaeruhito.jp/article/696195))

 1788年7月5日、ルイ16世は突如、全国三部会[1302年に国王フィリップ4世が召集した身分制議会]の近い将来の開催を約束、8月8日には、翌年5月1日の召集を発表した。
 これには伏線があった。財政上行き詰まった王家は、免税特権の廃止をめぐって貴族と対立する一方で、新しい税制の創設に向けて高等法院とも対立した。旧体制下、高等法院はパリのほか13の地方にある最終審裁判所であり(アルトワ州のように最高評定院が類似の役割を果たした地方もあった)、その法律の合法性に関して助言する建言権と王令登記権を有していた。つまり、高等法院によって登記されなければ、王国のいかなる諸法も効力を持たず、その意味で高等法院は法的な権限だけではなく、政治的にも大きな権限を握る組織だった。
 そこで、八方塞がりとなった国王が放った窮余の一策が議会の召集、つまり1614年以来開かれていなかった全国三部会の再開だった。三部会は、貴族と聖職者のほか、「第三身分」と呼ばれる都市や地方の平民・・から構成されていた。要するに、高等法院の多くを構成する貴族――しばしばお金で買われたものだったが――を超えて、広く国民の「世論」に訴えることによって事態の打開を図ろうとしたのである。
 旧体制(アンシャン・レジーム)末期、印刷物の広がりを背景にして、国王およびその側近たちの形成する意見とは異なる「世論」が都市の社交界を中心に形成されつつあった。そこで、ルイ16世が全国三部会の召集を決定すると、その会議の手順や投票方法をめぐって「世論」が沸騰することになる。各身分が個別に会議を開催するのか、決議は各身分1票なのか等々が不明確なままだったからだ。数千に及ぶパンフレットが公刊され(国王の「発表」後に月平均で100点が出版されたと言われる)、「世論」は盛り上がり、大きな力を持つことになった。
 地方でも、誰をどのように選出するのかが大問題となる。そもそもアルトワ州のような地域では、州三部会[旧体制期の州の代表機関]が特権階級によって占められていた。貴族は100票、聖職者は40票を持ち、第三身分には30票ほどが割り当てられ、しかも各都市から選ばれるそのメンバーは三部会が指名できる権限を有していた。そこで、これまで自己の良心と社会の悪弊の間で煩悶してきたロベスピエールも、この機会をとらえ、「世論」の法廷に向けて発言を開始することになる。(……)

     *

 翌年1789年1月、国王はアルトワ州でも他の地域と同様に代表を選出する選挙を実施すると発表した。それは奇しくも、『第三身分とは何か』というこの時代にもっとも有名なパンフレットの1つが匿名で出版された月だった。そのなかで、著者のエマニュエル・ジョゼフ・シィエス(1748-1836年)が、第三身分こそ「国民」であると主張したことはよく知られている。
 同年2月、アルトワ州でも匿名でパンフレットが出版された。題名は、『アルトワ人に向けて――アルトワ州三部会を改革する必要性について』、83ページほどのパンフレットだった。これが、ロベスピエールが改革に向けて放った第2の矢である。その主題は「代表」問題であり、エスタブリッシュメントがいかに人民を「代表」しておらず、「危険な敵たち」であるか、一方で「われわれは彼らに与えられた鎖の下で眠らされている」と訴え、奮起を促したのである。こうして地方でも、すでにペンの力で革命の火の手があがっていた。
 代表者は実際に [・・・] 選ばれなければならず、そうでなければ議会は「亡霊」でしかない。では、現状はどうか? 聖職者は誰にも選ばれていないし、貴族はなんら委任を受けていない。また、第三身分の「代表」と言っても、都市参事会から構成され、彼らはみずからを代表しているにすぎない。彼らは一部の特権的な都市の住民から選ばれているにすぎず、〈われわれ〉を代表する権利はまったくない。こう言ってロベスピエールは、自分たちで選ぶ自由、すなわち人民の普通選挙権が不可欠であり、これが与えられるなら、町の栄誉を得る(=代表になる)のは能力と美徳によってのみとなり、悪弊は消え去るだろうと訴えたのである。
 議会の亡霊を「真の国民の議会」に代えること、われわれ自身で選んだ代表に代えること。未来の革命家は、これを再び「幸福の革命」――女性によって進められると言われたあの革命――と呼んでいる。そして、「われわれを苦しめるあらゆる害悪の終わりは、国民議会でわれわれの利益を擁護するというおそるべき名誉を託す人々の美徳と勇気と感情にかかっている。それゆえに、この重大な選択において野心や陰謀がわれわれの行く手に撒き散らす障害を注意深く避けよう」と語り、さらに次のように問いかける。

愛国心や無私の仮面の下ですら野心を隠せない人々に何を期待するというのか、考えてほしい。

 3月末にアラス市で第三身分の会議が開かれたとき、法曹家で富裕な「友人」デュボワらが影響力を行使し、民衆に選挙権を与えることを拒もうとした。それに対して、靴職人の職能団体の会合に招かれたロベスピエールは、彼らの「陳情書」(国王が各地域でまとめるよう指示していた意見書)の作成に携わり、そうした企てに激しく反発した。そこで、その憤慨を言葉にあらわしたのが、『仮面を剥がされた祖国の敵――アラス市の第三身分会議で起きたこと』というパンフレットだった。これが、改革を訴えた第3の矢である。ロベスピエールは同冊子で、デュボワを含め彼らエスタブリッシュメント愛国心あるいは人民の代表者という「仮面」を剥ぎ取るべきだと訴えたのである。なぜなら、彼にとって、良き市民のもっとも重大な奉仕は「たくまれた陰謀の秘密」を暴露すること、「仮面」を剥がすことにあると考えられたからだ。

まさにここで私が率直に暴露したいのは、公共の大義を捨てた臆病な首謀者たちの気弱さ、そしてそれを謀った悪しき者たちの卑小さである。

 祖国の敵の「仮面」を剥がすこと、この「幸福の革命」を遂行することは、人間のもっとも神聖な義務であり、それは同胞の幸福のために身を捧げることにほかならない――。ここではいわゆる特権身分(聖職者や貴族)ではなく、デュボワをはじめとする第三身分の〈内〉にいる「敵」に攻撃の照準が合わされていることに注意したい。
 もちろん、この理屈は自身が第三身分の代表に選出されるための戦略の一環でもあっただろう。だが、それはロベスピエールの思想という観点から見て、きわめて示唆的である。〈われわれ〉の外にいる特権階級の見える [・・・] 「敵」だけでなく、いやそれ以上に〈内〉にいる第三身分の見えない [・・・・] 「敵」と戦う必要があると彼は考えたのである。つまり、〈われわれ〉の内部に存在する「敵」こそが改革のより危険な障害であり、その「仮面」を剥ぎ取ることで「敵」を〈内〉から排除するべきだという発想である。