2018/2/27, Tue.

 入眠が難しそうだったので薬を飲んだのだが、そのおかげで寝付くことができた。何度か覚めただろうが、その都度のことは覚えていない。最終的に、九時頃に覚醒した。上階に行くと、母親は(……)へと出かけるところだった。食事のメインとなったのは、おじやである。そのほか、蒟蒻と鱈の料理や南瓜を温めて、朝食を取った。
 風呂を洗ってから下階に戻ると、コンピューターを点けた。前日の記録を付けたり、インターネットを回ったり、前日に買ったティク・ナット・ハンの著書を拾い読みしたりしているあいだに時間が経ち、読書に取り掛かるのは一一時四〇分になった。ヴァージニア・ウルフ/御輿哲也訳『灯台へ』である。第二部を越えて、第三部、一〇年を挟んでラムジー夫人も亡くなったあと、一同が別荘へ戻ってきたあとまで読み進めた。憂鬱なラムジー氏が女性の同情を求めてリリー・ブリスコウに近づくのだが、リリーはそうした時に相応しい言葉を氏に掛けることができない、ところがそこでラムジー氏の靴が目に入り、素敵な靴だと思わず口走ってしまうとともに、思いがけなくもラムジー氏の様子が穏やかになる、という展開の作り方がうまいように思われた。そのあたりまで読んだところで天井が鳴ったので、読書を切りとして上階に行った。一旦帰ってきた母親が台所にいた。父親が何か呼んでいると言う。それで玄関のほうに出てみると、ちょっと手伝ってくれと言われた。便所で用を足してからサンダル履きで外に出ていくと、テーブルの土台を運びたいということだった。それで二人で向かい合って大きな四角形のそれを持ち上げた。なかなか重いもので、足もとがうまく見えずに何度か躓きそうになるのを何とか避けて、家の南側のほう、空いたスペースまで運んだ。それで屋内に戻る途中、坂を上ったところで、風が吹いて林の竹の葉がさわさわと揺れているのをちょっと見上げた。
 母親はまたまもなく、今度は(……)で何か健康関連の講演があるとかで出かけるということだった。こちらは食事を取ることにして、おじやの残りとカレーパンの半分を温め、サラダもともに食べる。母親はもう洗濯物を入れてしまい、ストーブの前でタオルを畳む。こちらは林檎と小さなチョコレートも二枚食べて、母親が出かけるのを見送り、しばらくしてから皿を洗った。それから、ストーブの石油を入れておいてとのことだったので、タンクを持って勝手口のほうに出た。父親は、ドリル様の工具を使って、椅子にネジを差し込んでおり、奇矯な鳥の鳴き声のようでもある音が時折り立っていた。石油が補充されるのを待つあいだ、風が吹く。思わず寒いなと洩らしながら屋内に戻り、手を洗うと自室に帰った。
 またティク・ナット・ハンの著作をところどころ読んで、それから日記を書き出した。ここまで記すと二時四五分である。
 前日の日記を綴って四時直前を迎えると、身支度を整えて、家を出た。もう薬が尽きかけていたので、医者に行くのだった。家の南側へ下りて、作業を行っている父親に、医者に行くと伝えておいた。そうしてから道へ出る。坂に入ると、右方の遠くに覗く川の響きが立ち昇ってくる。坂を出て平らな道へ入るところでは、近所の家の戸口から、何やら中年女性が訪問して喋っているのが聞こえ、ちょっと進むと樹上から鵯が鳴きながら飛び立った。街道に出る前、ガードレールの向こうの斜面の際に生えている梅を立ち止まって眺めた。紅梅である。先のほうにまだ赤い粒がいくらか残っていて満開とは言えないが、結構花がひらいて、ピンク色を灯していた。
 街道に入って歩きながら、やはりこの一瞬一瞬をよく感じ、味わうような生き方が自分はしたいのではないかと、そんなようなことを考えていた。この世界が途方もなく豊かであるということ、その豊かさの一片であっても、それをこそ書いていきたいというのが、元々の欲望だったはずなのだ。裏通りへ入ると、ジャージ姿の高校生二人が自転車に乗って、後ろからこちらを抜かして過ぎて行った。進んで行くと、先のほうで男女の高校生が何か燥ぐようにして走って行ったり、小学生らが道端で遊んだりしている。歩きながら呼吸を意識するようにしていたのだが、じきに鼻がむずむずとしはじめて、くしゃみも頻発するようになった。擦っているうちに切れたのか、左の鼻の穴の入り口あたりにちょっと痛みがあった。目も痒く、自ずと涙を帯びてくるようで細めてしまう。
 駅に入ってホームに出て、先の方へ歩いていくと、空を二機、飛行機が、そう遠くない高度で機体の形も明瞭に横切って飛んでいき、見上げた先には既に月が出ている。駅の向かいの駐車場で人が乗り降りしたり、車が発進して出ていったりするのを見ながら電車を待った。西の彼方では青い雲が空に大きく盛り上がっており、駅舎のあいだに覗く果てでは、雲と山との隙間に淡く曖昧な陽の色が付されていた。
 電車内では瞑目して到着を待ち、(……)で降りると便所に寄ってから駅舎を出た。居酒屋の店舗から全盛期のモダンジャズが流れ出てくる。ロータリーに沿って離れて行っても、サックスの音が響くのが聞こえた。
 クリニックは人が少なく、こちらの前にはちょうど診察室に入っていた人と、高年の女性が一人いたのみだった。『灯台へ』を読みながら待っていたが、わりあいにすぐに呼ばれて診察室のなかに入った。こんにちはと挨拶し、革張りの椅子に就くと、どうですかと訊かれたのに、だいぶ落着きはしたと答える。しかし、常に頭のなかで独り言を言っているような感じだと続けると、先生は、聞こえているのか言っているのかとか、声として聞こえないかとか(声としてというのは、外からということですねとこちらは確認した)訊いてきた。統合失調症の可能性を考えていたわけだが、こちらもあとになって、自分で調べてしまい、自分の意思を離れた思考というのが統合失調症の初期症状にあるなどとあるので怖くなって、と話した。そのほか、殺人イメージのことや、何かを思った時に疑いの言葉が自動的にそれに続く(例えば、ものを食べて「美味い」と思った時に、「本当に美味いのか?」などと疑問が自動的に湧く)などということを話して、それで今、自分が自分でよくわからないような状態になっていますねと話した。妄想というのともちょっと違うのかもしれないが、そのような奇妙な症状がありつつも、しかしそれに巻き込まれてはいないようなのでと、薬はそのままで様子を見るということになった。現実との区別が付かなくなったり、振舞いがおかしくなったりと、酷くなるようだったら薬で抑える必要があると言うのに、抑えられるものですかと訊けば、できますと端的な返答があった。それが知りたかったとこちらも笑って応じ、あとになって、これで心置きなく狂えるななどと、悪い冗談が頭に浮かんだ。
 会計を済ませて、薬局に行く。ここでもすぐに呼ばれた。丁重なような局員とやり取りをして会計をし、外に出ると六時過ぎであたりはもう暗く、月の白さが濃くなっていた。駅へ戻って電車に乗る。やはり瞑目して呼吸を意識し、降りて乗り換えると、接続の電車が遅れていて発車がいささかあとになるというので、読書をしながら出発を待った。
 最寄りからの帰路の印象は特にない。帰ると着替えて食事を取る。おにぎり、野菜の汁物、モヤシやカニカマのサラダ、菜っ葉とエノキダケの和え物である。こちらが食べる卓の向かいで、母親が何やら作業をしていたのだが、それは姪の初節句で義姉のほうに送る包みを準備していたのだ。こちらが食事を取ったらと言っても、やることが多くて食べられないと愚痴が返ってきた。父親は、我関せずの平気な顔で、酒を飲みながらテレビを見、食事を取っている。番組は、日本の百円グッズを海外の人に使ってもらうというやつである。こちらが食べ終えても母親がまだ食事に掛かれないのが気になって、父親も手伝ってやれば良いのになどと思ったのだが、それで仏間にいた母親のところに行って、包みを紐で縛っているのを手伝った。それから食器を洗い、洗濯物も干すようだと言うので、洗濯機のなかから衣服を籠に取って、居間の隅に干していった。
 そうして、入浴に行った。湯に浸かっているあいだ、瞑目して呼吸に集中する時間を作った。上がって自室へ戻ると、(……)からメールが来ている。翌日に会う約束だったのだが、明日は一二時とあったので了承した。そうしてこの日の支出を計算・記録しておいてから、石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』を書抜く。目が疲れたので一箇所のみとして、その後メモを取って一〇時五〇分になった。
 何だかもう既に眠くなっていた。それなので早々と寝ようと思ったが、その前にちょっとだけ読書をすることにして、ヴァージニア・ウルフ御輿哲也訳『灯台へ』を二〇分ほど音読し、歯を磨いてから就床した。

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2018/2/26, Mon.

 四時半頃に一度覚めて、薬を飲んでから再度入眠した。一体いつになったら、深夜に寝覚めせず、朝までぐっすりと眠れるようになるのか? とは言え、もはやさほどの支障も感じてはいない。起床は八時頃になった。
 上階に行くと、母親は既に(……)の仕事で出かけていた(日曜日に加えて、最近は月曜日の午前も、身体を悪くして休んでいるという人の代理として出ているのだ)。ストーブを点けてその前に座ると、昇りはじめた太陽が南の窓の上枠との境あたりに掛かっている。フローリングの床には陽射しが宿って、ストーブが熱風を吐き出しはじめると、色の変わったその区域のなかに、空中を漂う視認できないほど細かな塵の影なのか、空気の動きが揺らめいて映り、右方に向かってはこちらの影が浮かび上がる。しばらく温まると立ち上がり、台所に入ってハムエッグを拵えて、即席の味噌汁(あさり)とともに食べた。新聞は少々めくりはしたものの、記事を読んではいない。最近は社会的な事柄からとんと離れてしまっており、あまりそちらに気が向かなくなっている。できれば関心を取り戻したいものだ。
 皿を洗ってから風呂を洗おうと浴室に行ってみると、残り湯が結構あったので、これなら湯を抜いて洗わずとも今日は追い焚きで済ませれば良いのではないかと判断した。そうして、白湯を持って自室に戻る。インターネットを少々覗いてから、コンピューターをスリープにして、読書を始めた。ヴァージニア・ウルフ/御輿哲也訳『灯台へ』である。時刻は九時二〇分だった。例によって急がずに音読をしていくのだが、皆が食堂に集まっての食事と会話の場面など、やはり隅々まで実に隙のない作り方をしているなという印象を持った(訳者の仕事も相当な力添えをしているのではないか)。一文一文の接続、流れにおいて、瑕疵と見える部分がまず見当たらないように思う。様々な人物の思念、そこから生まれる発話、それがほかの人物に与える心理的影響、それらが繰り広げられる場の描写、そこに付される装飾的イメージ、そういった無数の要素を優れた滑らかさで結び合わせ、織り上げて行くその手腕は、やはり稀に見るものだろう。この本のなかにこそ、「小説」があるのだと、そう言ってしまいたくなるような作品である。
 一時間半ほど読んでいるうち、読書の終盤になって母親が帰ってきて、上階でベランダの戸を開ける音がした。また一方で、窓外にも何やら音が立っていたので見てみると、隣の(……)が庭に出て、柚子の樹の傍で何やらやっていた。それからまもなく、水音が聞こえだし、母親が外に出て植木に水をやっているのだなとわかった。こちらはちょうど、第一部を読み終える間近だったので最後まで読んでしまい、一〇時四五分で読書を切りとすると、窓を開けて母親に、風呂は湯が多かったから洗っていないと伝えた。母親は、(……)に話しかけた(耳が少々遠いので、(……)は何度目かでようやくこちらに気づいた)。柚子を取ってジャムにしようかと思ったのだが、棘が痛くてとても取れないと言うのに、母親がこちらに対して、取ってあげたらと言う。こちらも(……)の姿を見かけた時から手伝ってあげようかなと思っていて、異存なかったので、部屋を出て上階に行き、玄関から外に出た。家の南側に回れば陽が落ちていて、空気は暖かである。それで母親とともに、(……)と立ち話をした。明日のこともわからない身だと(……)は言う。本質的には我々の誰もがそうなのだろうが、しかし九七歳にもなるといよいよそうなってくるだろうなと思う。話をしている最中に、自治会の関係で男性が姿を現して、母親はその応対で去って行った。残ったこちらは(……)と少々言葉を交わしていたが、彼女が細長い棒(園芸の支柱に使うような緑色のもの)を持っているのに(それで柚子の実を突いて取ろうとしたのだろう)、おばさん、それ貸してみ、と掛けたのだが、声が届かなかったようで、(……)は去っていく素振りを見せたので、まあいいかと落として、一人残って小さな段の上に乗り、風を浴びたり、あたりに向けて感覚をひらくようにしてじっとした。じきに(……)は、高枝鋏を持って戻ってきたので、改めて手を差し出して受け取り、樹冠のなかに道具を差し込んでいき、二粒を落とすことに成功した。ちょうど二つ目を落としたあたりで母親が、ヨーグルトを持って戻ってきた。彼女の持ったトレイにはまた、キウイフルーツのジャムが入った瓶が載せられており、それをヨーグルトに混ぜて(……)に食べてもらおうと言うのだった(「キウイ」のジャムだと説明を受けた(……)は一度、「胡瓜」のジャムだと聞き違えて、物珍しそうな反応をしていた)。美味い美味いと言いながら(……)はジャムを混ぜたヨーグルトを食べ、そうしながらまたちょっと立ち話をする。そうして別れると、一一時をそこそこ過ぎた頃合いだったと思う。こちらと母親はなかに向かうが、途中、家の東側の、以前は(……)とは反対側の隣家が立っていた敷地に父親の作りかけた椅子とテーブルがあるので、そこに座ってみた。椅子は長いベンチ用のもので、まっすぐな木材を組み合わせて作り、角張ったような形である。母親はこれじゃあ高いと文句を言い、こちらも、背もたれがもう少し高いほうが良かったのにとか、座りの部分がもう少し広ければなどと勝手なことを言ってから、屋内に入った。
 それから居間で、母親の話を聞いた。前日に(……)の仕事に行って、三月いっぱいまででと断りを入れ、また今日は社長の奥さんとも話してその旨を伝えるとともに、月曜日に行っている臨時の配達も、三月は色々とあってできないと断ってきたのだが、しかし午前中の僅か二時間なので、やっぱりやってあげたほうが良いかと迷いはじめたということだった。以前だったら、そんなことはこちらの知ったことではない、自分の気持ちのままに決めろと突き放していたであろうこちらだが、最近は精神性の転換があったので話をしっかり聞き、と言ってやはり、自分でそういう気持ちがあるならばという答えがひとまずは出てくる。そうして話している途中にインターフォンが鳴って話は中断されたのだが、来客は(……)で、先ほどのお礼に蟹缶を持ってきたのだった。母親はそれで、これを早速使おうと言ってサラダを作りはじめるので、こちらも手を洗って、卵を道具で輪切りにし、野菜と蟹の身を混ぜる。そのあいだに先ほどの話題が回帰してきたのだが、ここでは、自分の身体を労ったほうが良いのではないか、もう済みませんがと断ってしまったことでもあるのだし、という風に言った。その後母親は、来週の日曜日に仕事に行った時に、明日も頼めませんかと訊かれたら受けても良いかなという心に至ったようだったが、しかしそうするとやはり来週も、となし崩しに引き受けることになりはしないかとこちらは指摘した。しかし母親としては多分、ひとまず先のような心で落着いているのだと思う。
 母親が買ってきたパンのなかからピザパンを貰い、「どん兵衛」を半分ずつ分け、厚揚げの残りと作ったばかりのサラダで食事を取った。「どん兵衛」はカップ蕎麦と言ってもなかなか美味く、麺の舌触りも滑らかだし、汁も味が良い(カップ蕎麦ごときで満足できる、庶民的なこと極まりない味覚である)。そんなことを言いながらものを食べて、皿を洗うと、気をつけてねと残して下階に下りた。母親は午後からは、今度は「(……)」の仕事である。こちらがギターを弄っているあいだに、洗濯物を入れてねと言いに来たので、目を閉じ、楽器を操りながら返事をした。
 それから自室に戻り、ネットをちょっと覗いてから日記を書き出した。一時前からここまで書いて、一時間が経過している。
 洗濯物を入れに行った。ベランダの空気は穏やかだった。タオルを畳んでアイロン掛けも行ったのち、部屋に戻ってきてふたたび日記を記した。前日の記事を綴って、途中までは集中して行っていたのだが、終盤になって自分のこの行いに疑問が兆してきて、手が止まる時間があった。そのように疑問を持ちながらもともかくも終わらせて、記事をブログに投稿した。
 思考が巡っていた。自分はいまこれをやりたいのかとか、自分が思ったことに対して本当にそうだろうかなどと、自動的に疑問を差し挟む疑いの思考が生じて、頭がまとまらないようになっていた。日記を書いたあとは疲労感があったので、ひとまずベッドに寝転がって休むことにした。じきに布団も被って瞑目したが、そのあいだも頭が勝手に回っているのを感じていた。しばらくすると、幻聴めいた声が聞こえてはっと目を覚ますようになった。強いて言えば「は」の音に近かったが、一瞬の、曖昧なものだった。それでまたちょっと、頭のまとまらなさも含めて、統合失調症になりかけているのではと不安なほうに頭が流れたのだが、しかし以前、昼寝の際にも幻聴めいたものとか金縛りとかは体験したことがあったと思う。
 (……)それで四時半になったので、そろそろ支度をしなければと歯磨きをした。立川で職場の同僚と飲み会の予定があったのだ。服も着替えたあと、五時から少しだけ『灯台へ』を音読して、そうして出発した。
 坂を上って辻まで行くと、時間は五時半で、いつも出勤の際に会うよりも遅かったが、八百屋の旦那や(……)がいて、挨拶をした。いつもと服装が違うのに、今日はどうしたのと言うので、今日は休みで、飲み会があるんですよと答える(自分は酒は飲まないのだが、とも付言した)。(……)が、そういうのには出ないのかと思っていたと言うのには、以前はそうだったのだけれど、最近はそういうのも良いかなと思うようになりましたと返した。そんな風にちょっと立ち話をしてから過ぎて、街道へ出た。道中の際立った印象は特にない。
 駅に入ると電車の一番先の車両に乗り、本を読もうとしたのだが、音読に慣れてしまって電車内で黙読しても意味が頭に入ってくる感じがしなかったので、途中で止めて、その後は瞑目して到着を待った。立川に着くと降り、便所に寄ってから改札を抜ける。ATMで金を下ろし、人波のあいだを抜けて駅を出て、本屋に向かった。オリオン書房のほうでなく、高島屋に入っているジュンク堂書店である。通路を通って行き、道路の上を渡る際には右方を向いて、交差点に停まっている車の灯に目を向けながら過ぎる。ビルに入るとエスカレーターを上って行き、書店に入ると、まず精神医学の区画を見た。その書架の端に表紙を見せて置かれてあった、『マインドフルネスで不安と向き合う』というようなタイトルの本をしばらく読み、すると七時くらいになったと思う。棚を辿って通路を移動し、仏教の区画に行って、ティク・ナット・ハンの著作を発見した。付近のほかのものもちょっと見ながら、『ブッダの<気づき>の瞑想』と、『リトリート ブッダの瞑想の実践』の二つの本を買うことにした。それでレジに持っていって会計をして、退店した。
 駅へと戻る。待ち合わせ場所である小店の付近に行くと、(……)と(……)の姿があった。挨拶をして、残りの一人である(……)を待つ。しばらくすると彼も合流して、居酒屋へと向かった。「(……)」という、辛い鍋の店である。入店すると、地下に続く階段上に並んで待っている人々の姿があり、訊けば三〇分ほど待つと言う。どうするかと言いながら、待つことに決まって、列の後ろに就いた。適当に雑談をしながら((……)はスマートフォンのゲームをやっていた)待ち、階段の下まで来て椅子に座ると、(……)が持っていた何かの参考書を取り出して、皆で語彙の問題を解いたりする。そうしているうちに呼ばれて、卓に入った。
 店には八時頃から閉店の一一時過ぎまで居座ったわけだが、交わした会話のなかで特別に記しておきたいこともない。食事は、鍋は一一段階の辛さが選べるようなシステムだったのだが、こちらは唐辛子の辛さが苦手なので、鍋を二つ用意してもらい、一つは零番、もう一つは辛いもの好きな(……)と(……)用とした。飲み物は、こちらは勿論ジンジャーエールである。ほかの三人は、ビールなり、サワーなり色々と飲んでいた。ほかに、後半塩キャベツとたこわさを頼んで、結構早々に腹が満足したこちらは、終盤はたこわさをつまんでばかりいた。
 後半、酔った(……)の様子がだんだんとおかしいようになり、(……)の水を奪ったりしていたのだが、一一時でもう店は閉店、そろそろ会計をして帰ろうという段になっても、鍋がまだ少し残っているのを全部食べなくてはとこだわり(食品ロスがどうのこうのと言っていた)、辛くて苦しいだろうに無理矢理のように詰め込むという有様だった(そのあいだ、ほかの三人は無言になり、妙な空気が漂っていた)。そうしてようやく退店し(こちらはレジのところにあった飴玉を一個もらって、外に出ると口に入れた)、駅に戻る。そのあいだも(……)はテンションがおかしく、女性である(……)にじゃれつくようにするのを、(……)にガードしてもらうような形だった。それはセクハラになるぞ、などとこちらも制しながら改札内に入り、ホームに降りると一番端まで行ったのだが、(……)はやはり落着かず、酔いに任せてふざけていた(だからと言って険悪な雰囲気ではなくて、少々困ったような空気ではあったが、こちらは結構笑ってしまった)。電車に乗ると、(……)の隣に(……)、そしてこちらに(……)という並びで、(……)を防波堤として(……)を(……)から遠ざけて、車両の端の四人掛けの席を取った。(……)がやや被害を受けていたのだが、次第に(……)も落着いて、少々眠るようになり、後半はこちら以外の三人で、LINE上でふざけたやりとりをして時間を過ごしていた。
 そうして(……)に着くと挨拶をして、こちら以外の三人は電車を降り、こちらはそのまま引き続き乗って、最寄り駅に着くともう日付が変わっている。さすがにそこそこ疲れた感じがあった。帰路を辿り、帰り着くと父親が居間に起きていたのでただいまと言う。そうして室に下り、着替えてから入浴をした。するともう一時、自室に帰って歯磨きをすると、本を読む気力もなく床に就いたのだが、しかし入眠がうまくやって来なかった。それで一度起きて時間を確認してみると一時間が経って、二時二〇分になっていた。眠りの助けにと服薬をして、その後何とか寝付けたようである。

2018/2/25, Sun.

 いつも通りに深夜のうちに目覚めたのだが、それが何時頃だったかは定かに覚えていない。服薬をして寝付き、七時頃に覚めたかと思うが、やはり眠りを稼ぎたくて八時四五分まで浅い睡眠のなかにいた。カーテンをひらくと、外は真っ白な空である。一五分ほど寝床に留まってしまうが、そのあいだ湧いてくる思念も、もうよほど気にならなくなって、自分はだいぶ回復してきたという実感がある。
 九時に至ると起き上がって上階に行った。音読のやり過ぎなのか、それとも花粉が寄与しているのか、喉が痛かった。それで洗面所に入り、嗽を念入りに行った。食事にはうどんがあったので、パックに入ったそれを箸で引き上げ、ちょっと揺さぶって絡みついているのをほぐして鍋に入れる。一方、前日に母親が作ってくれたもので、肉と里芋を合わせて焼いた料理が、冷蔵庫にちょっと残されていたので、それを温めた。あとはレタスなどのサラダであり、パックに収めたままそれを卓に持って行き、食事の最後に大根おろしとドレッシングを掛けて食べた。
 食事を取りながら新聞をめくって、気になったのはエルサレム大使館移転の記事だが、これはまだ正式に読んではいない。書評欄には、最近「(……)」などでも言及されていた覚えのある、マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』が取り上げられていた。抽象的な思弁をすることによって頭がおかしくなるのではないかという懸念を拭い去れず抱きながらも、頁のなかでそうしたテーマの本に目が行き、その記事を読んでしまうあたり、自分の頭は結局はやはり、もうそうしたことを自ずと考えてしまうようにできているらしい。
 母親は(……)の仕事に出かけて行った。こちらは皿を洗い、風呂も洗って下階に帰る。コンピューターを点けてTwitterにアクセスしてみると、こちらのブログ更新の通知をリツイートしてくれた方がいたので、ありがたく思った。インターネットをちょっと巡ってから、ヴァージニア・ウルフ御輿哲也訳『灯台へ』を読みはじめる。一〇時四五分頃だった。空は白いのだが、太陽の影が僅かに浮かんでもいて、手帳に読みはじめの時間を記す銀色のボールペンの先にちらちらと跳ね返るくらいの光もあった。『灯台へ』はやはり素晴らしく、音読でゆっくりと読んでいると、以前は頭に引っ掛かって来なかったところがしばしば書抜き対象として目に留まる。小説作品の読み方というのは色々あって、物語の面白さに浸るなり、その内容から思索を巡らせるなり、テーマ批評的に細部に着目するなり、人々は各々の読み方をするわけだが、自分の場合、結局はやはり、書抜きたいと思う箇所、何だかわからないけれどここは良いな、と感じられる箇所が見つかれば、それで良いのではないかという気がする。こちらが書抜きたいと思う要因も色々あると思うが、それはもしかすると「リアリティ」と呼ばれるような何らかの質なのかもしれない。
 この時に読んだなかでは、第一部の一一章が全篇通じて、ほとんど完璧なのではないかと思った。ラムジー夫人が灯台の光を見つめて主客合一のような境地に入っているさまなどを読み進めながら、どうもこれは完璧なのではないかという思いが兆していたのだが、一二〇頁に至り、彼女がふたたび灯台の光を見つめ直して以降の記述を読むなかで、感動が高まりはじめた。「(……)そんな光をうっとりと催眠術にでもかかったように眺めていると、まるで光がその銀色の指で彼女の頭の中の密封された器を愛撫[ストローク]し始め、やがて器が割れはじけて、彼女の全身を歓喜の渦で満たすことになるとでも言うように、彼女は幸福を知っている、精妙な幸福、激しい幸福を知っているのだと悟った。昼間の光が薄らぐにつれて、荒波はさらに明るく銀色に染まり、海の青さがかき消えると灯台の光は澄んだレモン色の波となってうねり」と、ここまで来て、「レモン色」という語を視認した瞬間に涙が湧いてきてしばしのあいだ声を出せなくなり、その後、「波は丸くなって盛り上がっては浜辺にくだけ、それを見る夫人の目には恍惚感があふれ、純粋な歓喜の波が心の底[フロア]をかけめぐって、彼女は、もうこれで十分、これで十分だわ、と感じた」に至っては、感動が頂点に達して目から涙が溢れ出し、しばらく頬の上を伝って下って行くのに任せていた。それからティッシュを一枚取って鼻をかみ、ふたたび文を読みはじめたのだが、一体これは何の感動だったのか? 「共感」だったのか、ほかの何かだったのか、わからないし、理解する必要も感じない。ただ本を読んでいて、こうした激しいと言って良いだろう感動が訪れたのは久しくなかったことだった。
 その後の一二章、夫人とラムジー氏が連れ立って庭に出て、ささやかな話を交わしながら歩く場面なども、最初は穏やかな雰囲気を漂わせていたのが、それが次第に、二人のあいだに僅かに齟齬が挟まれたようになって行くのも、まさしく意識や内面の転変といった風で、実際にこういったことはあるだろうなあという感じを受けた。と言うか、自分の思念の動き、まさしく「意識の流れ」が以前よりもよく見えるようになってしまったこちら(この一月二月は、それに結構悩まされたものだ)としては、『灯台へ』の記述が大方全篇に渡って、以前よりも身に引きつけてリアルに感じられるような気がする。ウルフもやはり、自らの思念の蠢きを、おそらくはこちら以上に精密に、深く観察し、自覚し、実感していたのではないだろうか? そのように自分の身に比して考えてしまうわけだが、加えてやはり、このような小説を作り上げるまでに自分の精神を見つめすぎたがために彼女は病んだのではないかと(勿論それだけが要因ではないだろうが)、こちらはどうしてもそう考えずにはいられない。
 一二時半前まで読むと日記を書き出したのだが、先の感動のことを思うと、やはりこれは書いておきたいという思いが自ずと湧いたものだから、自分は何だかんだ言っても書く意欲をまだ失ってはいないらしい。
 その後、日記の読み返しをしてから上階へ行った。母親と一緒に話しながら飯を食べたいなという気持ちがあったのだが(これも以前の自分からは考えられない、驚くべきと言うべき変化である)、なかなか帰ってこなかったので、一人で食べることにしたのだ。フライドチキンに即席の味噌汁、ゆで卵である。ちょうど食べ終えたあたりで母親は帰ってきた。買い物をしてきており、買ってきたバナナを食べるかと訊かれた瞬間に、自ずとありがたいという心が湧いた。バナナは一本一本がやや小振りだが、なかなか美味いものだった。
 その後、母親と並んで炬燵に入り、テレビを見たが、母親は携帯を見ていたり、うとうととしていたりで、あまりまともに視聴してはいなかったようだ。録画されたもののうちから最初は、『U-29』というドキュメンタリー番組が流され、これは二九歳以下の若者の各回一人取り上げてその生き様を見るといった趣向のものだが、今回見たのはクラブイベントなどを管理する警備員の回だった。特段印象に残っている点はないが、しかし人生というもの、自分というものは、本当に訳がわからないものだと思う。こちらはそれが概ね揺るがずにわかっているつもりでいたのだが、年末年始の変調以来、自分のまさしく根幹であった書く欲望が揺らいだことで、わからなくなってしまった。とは言え、ここ数日では、自分にはやはり、この日々を書くことのほかにはないのではないか、というような思いがまた芽生えはじめてもいる(何しろ、一日を過ごしながら自動的に頭のなかで書いてしまうのだから)。自分がどのような人間かなどということは、最終的には誰にもわからないのではないか。ロラン・バルト的な言い分ではないが、主体の深奥にはただの空虚が広がっている、そこに向けて人間は一生のあいだ、ああでもないこうでもないと、「自己の解釈学」を延々と続けて生きなければならないのかもしれない。
 それから、『櫻井・有吉THE夜会』が流された。これはこの日は坂上忍のプライベートに密着するという企画で、「キチキチ」と称されるその時間管理の厳守ぶりには結構笑った。炬燵に入っていると気持ちが良くて、自ずと心身が弛緩して眠たいようになり、瞼のあいだも狭くなった。
 次に、『じっくり聞いタロウ』という番組に移った。これは自分は初めて見たもので、テーマに添って様々な人を呼んで話を聞くといった趣向のようだが、今回は「地獄を見た男」という特集だった。初めに、『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』(だったか?)という、確か光文社新書から出ているものだったと思うが、あの本の著者である公認会計士の人が語る。この人は会計士の仕事を紹介する小説も書いていてそれも結構売れており、また『さおだけ屋は~~』も一六〇万部と言っていただろうかヒットして、三八〇〇万円だかを印税で儲けていたところ、それらをFXにつぎ込んで最終的にすべて溶かしてしまったという話だった。もっとも良い時期には、利息で毎日五万円が入ってくるような生活だったと言う。
 二人目は鳥越俊太郎で、彼は四度も癌で闘病したわけだが、初めの大腸癌の際、便が赤黒く染まっていたとか、肛門から内視鏡を入れて自分の腸内を見てみると、明らかにこれは癌だなという肉の盛り上がりが見えたとかいう話を聞いていると、不安神経症の頭が勝手に、やはりいずれも自分は癌になるのだろうかということを考えてしまい、怖いような気分になった。その後、笑い話として、五〇年以上も前の話になるが、ファーストキスの際に下半身的に感極まって思わず射精してしまったなどという話も語られていた。
 三人目は会社経営者の人で、一四〇億円の借金があってどうのこうのと言うが、それだけの金額になるとまったく訳が分からず、想像の届かない世界の話である(こちらの月収は良い時で一〇万円程度しかない)。そろそろ飯の支度をと言いながらも炬燵から抜け出せず、五時頃に至り、録画されていた番組は終いとして母親が現在放映されているチャンネルに移すと、幽霊の存在を科学的に証明することはできるのか否か検証しようというような番組がやっていたのだが、これについては細かく書くほどの意欲がいま起こらないので割愛する。
 次第に何とか炬燵を抜け出て、米を研いだ。おかずにはフライドチキンが残っており、また朝のうどんも残っていて、母親が厚揚げを買ってきてくれてもいたので、もうそれで良かろうと、飯についてはやることがないのでアイロン掛けをした。それから、便所に行ったのだったか、何かの際に玄関に出た時小窓から、(……)が外で掃き掃除をしているのが見えた。手伝ってあげようかという気持ちが湧き、しばらく迷ったのだが、話をしたいという気もしたので外に出た。駐車場にいるところに話しかけ、しばらく立ち話をした(手伝いを申し出たのだが、これは断られた)。(……)は隣家に一人で住んでいる九七歳の老女であり、耳がやや遠いので、多少声を張って話した。会うといつもそうなのだが、しきりといい男だと褒めてくれる。このあいだで二八になったと言うと、これもいつもそうであるように、結婚だなと返ってくる。以前は曖昧に受けながら、心中で結婚はしないと否定していたのだが、他者との関わりに対するスタンスが変わった現在、そう意固地に拒否するでもなくなった。子孫を残すということには未だ怖気づくところがあり、その責任を負える気がしないものの、少なくとも、人生をともに過ごしていくパートナーのような相手は欲しいなと思うようにはなった。そういうのは巡り合わせだからね、良い巡り合わせがあれば、とこの時は答えた。(……)は、最近調子が悪かったと言う。ここで死ぬかなと思った、と言うのには、こちらも真面目なような顔になってしまったが、しかし調子は持ち直したようで、食欲はあるかと訊けばそれはあると言うから安心した。
 まだ寒いから身体に気をつけてと言って別れると、こちらも家の前を少々掃いておくことにした。塵取りと箒を持ち出しながら、自ずと目に涙が湧いた。(……)も、そうは言っても遠からず死ぬのだろうという思いが過ぎったのだ。最近は本当に涙を催してばかりで、昔だったら女々しいとか女子供みたいになどと言われそうなほどのこの感じやすさは一体何なのか? これこそ頭がどうにかなっているのではないかなどともちょっと思ってしまう。
 なかに入って自室に帰ると、(……)のブログを読んだ。それから二四日の記事を書く。何となく、やはり自分にはこれを書くしかないのかなあというような気になってきている気がした。八時前まで文を綴り、その後、Nina Simoneを流して運動を行った。腹が空になっていたので、筋トレは腕立て伏せのみで、腕振り体操とストレッチである。
 そうして上階へ行った。母親は入浴中だった。台所に入り、うどんの鍋を布巾を使って掴み、中身を丼へと流し込んだ。そのほか、厚揚げやチキンを温め、生野菜のサラダと卓に並べる。うどんに大根おろしを入れて、のちにサラダにも掛けた。食べていると母親が風呂から出てきて、父親もじきに帰ってきた。母親がテレビのチャンネルを回すと、『水曜どうでしょう』の文字が見えたので、ちょっと見てみたいと言って止めてもらった。アメリカかどこかの川を下りながら旅をしているもので、一歩間違えると内輪で笑っているだけになりかねないような雰囲気だったが、食後にアイロン掛けのかたわら見ながら少々笑った。その後、皿を洗って、下階へ下りた。
 そうしてこの日のことをメモに取ると一〇時で、時間が過ぎるのが速すぎるなと思った。その後は入浴と、ウルフ『灯台へ』を読んだこと以外に特段に書いておくことはない。

2018/2/24, Sat.

 五時頃だったかに一度覚めた時に服薬をしたが、それからあまりスムーズに寝付けなかった。目を閉じていると、何故か自ずと、瞑想時のように瞑目の視界に靄の流れが湧いており、意識が沈んでいかない感じがしたのだが、これはもしかすると、前日に音読をしすぎたためなのかもしれない(前日は合わせて五時間強、文を読んでいる)。しかし夜が明けるまでには入眠し、最終的に九時一五分に覚醒した。しばらく寝床に留まってしまうが、このあいだ、思念の流れが以前よりも小さく遠くなったように感じられて、あまり気にならなかった。
 上階に行く。ストーブの前に座っていると、父親が洗面所から出てきたので、挨拶をした。こちらも洗面所に入って顔を洗い、嗽もする。食事は炒飯である。それをよそって電子レンジで熱し、冷蔵庫にワカメや玉ねぎのサラダの残りがあったので、一緒に卓に並べて食べた。父親は今日休みで、クリーニング店に行くらしく、灰色の布袋を持って出かけて行ったので、行ってらっしゃいと声を掛けた。母親は卓の向かいに就いて、どうしようかと迷ってみせるのは、ここで(……)(姪)が初節句で、前日に(……)から贈り物が届いたのだが、三月三日までに(……)(義姉)のほうまで送らないと、ということだった。昨日(……)から荷物が届いたということを(……)に知らせておくか、それとも我が家の贈り物と同じタイミングで、一緒にまとめて送ってしまうかと言うので、後者のようにして、その時に(……)の贈り物についても触れて連絡しておけば良いのではないかと答えた。母親は今日は認知症サポーター養成講座というようなものに出かける予定があって、それがイオンモールで開催されるものなので、早めに行って贈り物を見繕ってくるつもりらしかった。
 食後、温かい汁物も飲みたいなという気になり、即席の味噌汁を飲もうかと思ったところで、ガスコンロの上の鍋を覗けば、前日の汁物がちょっと残っている。それでそれを温めてよそり、ヨーグルトとともに卓に運んで、追加で食べた。そうして皿を洗い、風呂場の束子をベランダに干しておき、風呂桶を擦って洗う。母親はそのあたりのタイミングで出かけて行き、こちらは白湯を持って下階に帰った。
 コンピューターを点け、前日の記録を付けたり、インターネットを少々覗いたあと、一一時から読書に入った。ヴァージニア・ウルフ/御輿哲也訳『灯台へ』である。読むのはもう四回目か五回目くらいではないかと思うが、音読しているとやはり、書抜きたいなと思う箇所が見つかるものである。下に一箇所だけ引いておくが、これは、後段のうち「だめだ、僕にはうまく言えない、ちゃんと気持ちがこもらない。でもどうしてなの、と夫人は考えた」という部分、内面の発話=台詞が直接に接しながら記述の焦点がタンズリーから夫人に移っている、その転換の素早さ、鮮やかさにはっとするような感覚を抱いた点である。

 (……)道端で一人の男がポスターを貼っているところだった。大きなひらひらした紙が平らに広げられ、ブラシの一刷けごとに、多くの足、曲芸用の輪や馬、きらきら光る赤や青が鮮やかに姿を現わし、やがて壁の半分ほどがサーカスの広告でおおわれた。百人の騎手たち、二十頭の芸をするアザラシ、ライオン、トラたちが……夫人は近視だったので首を伸ばして読みあげた……「もうすぐこの町にやって来る」 でも片腕の人があんな梯子の上で働くなんて危ないわ、と思わず彼女は大声になった――二年前、あの人は刈取機に巻き込まれて左手をなくしたんです。
 「皆で行ってみましょうよ!」 また歩きだしながら、まるでたくさんの騎手や馬が子どものような興奮を与え、あわれみなど忘れさせたかのように、夫人は叫んだ。
 「行ってみましょう」とタンズリーは彼女の言葉を繰り返したが、自意識過剰でぎこちない言い方になってしまい、夫人をたじろがせた。「サーカスに行きましょう」――だめだ、僕にはうまく言えない、ちゃんと気持ちがこもらない。でもどうしてなの、と夫人は考えた。彼のどこがいけないのかしら。彼女は急にこの青年をいとおしく感じた。子どもの頃サーカスに連れてってもらったことはないんですか、と彼女は尋ねてみた。ええ一度もありません。それが一番言いたかったかのように、サーカスなど行ったことがないとずっと前から打ち明けたかったんです、と言わんばかりにタンズリーは答えた。何しろ大家族で、九人の兄弟姉妹がいて、父は労働者階級ですから。
 (ヴァージニア・ウルフ御輿哲也訳『灯台へ岩波文庫、二〇〇四年、21~22)

 一二時二五分まで、一時間二〇分のあいだ読んだが、過ぎてみると時間が経つのがあっという間だなという思いが湧いた。その頃には父親が帰ってきており、階上に人が動く気配があった。こちらは読書後、目を閉じてしまって、しばらく微睡みのなかに入った。微睡みとは言っても、意識は保たれており、無数の思念や言葉が素早く、細く勢いの良い水流のように流れて行くのが見えていたが、そのどれも記憶には引っかからず、ただ流れすぎていくのみで気になることもなかった。一度目を開けると二五分が経っていたが、今度はもっと横たわった姿勢になってふたたび目を閉ざしてしまい、そうすると安穏とした心地良さが訪れる。一〇分後、父親の足音が階上に聞こえたのを機に起き上がった。
 何をするかと迷う心があってインターネットを覗いたのだが、結局、やはり日記を書くかという気になって打鍵を始め、ここまで記して一時四五分になっている。
 さらに前日の記事を続けて書き、仕上げると二時二〇分、上階へ行った。洗濯物を取りこんでから、食事を取ることにした。炒飯の残りがあったのでそれと、冷凍食品のたこ焼きを六個、袋から皿に出して温めた。卓に移動すると、テレビは点けずに静かにものを食べた。父親は外で何か作業をしていたのだが、これはどうも最近、テーブルと椅子を手製で拵えているらしい。それを家の南側のスペースに置いて、隣の(……)や近所の人など呼んで、お茶でもしたら良いじゃないかという話のようだ。
 こちらはその後、タオルを畳み、アイロン掛けをして、下着や靴下も畳んで炬燵テーブルの上に並べておいた。時刻は三時過ぎだった。下階に戻ると兄の部屋に入ってギターを弄った。三時半過ぎまで弾くと自室に戻り、日記の読み返しを行った。昨年の二月二四日は川に散歩に行っているのだが、川面を眺めての記述が我ながらなかなか緻密に書けているものだと思われたので、下に引く。

 自分の立っているあたりを境にして、背後、西側の水面は底が透けて、錆びついたような鈍い色に沈み、その上に無数の引っ掻き傷めいた筋が柔らかく寄って渡るだけだが、境のあたりから流れの合間に薄青さが生じ、混ざりはじめて、前方の東側ではそれが全面に展開されていた――空の色が映りこんでいるのだが、雲の掛かり、時間も下って灰の感触が強くなった空そのものよりも遙かに明度の高く透き通った、まさしく空色である。水面は鏡と化しながらも、液体の性質を保って絶え間なくうねり、反映された淡水色の合間に蔭を織り交ぜながら、青と黒の二種類の要素群を絶えず連結、交錯させて止むことがない。視線をどこか一部分に固定すると、焦点のなかに、無数の水の襞が皆同じ方向から次々とやってきては盛りあがり、列を乱すことなく反対側へと去って行くのが繰り返されるのだが、見つめているうちに地上に聳える山脈の縮図であるかに映ってくるその隆起は、すべて等しい形のように見えながらも、まさしく現実の山脈と同じく、一つ一つの稜線や突出の調子にも違いがあり、言語化など不可能なほどに微妙な差異を忍びこませながら、それを定かに認識して意識に留める間も十分に与えないうちに素早く横切ってしまう――その反復のさまは、催眠的と言うに相応しかった。

 さらに二〇一六年一〇月一三日も読んだのだが、なかに、「高速で移り変わって行く思念を追いかけ」とか、「横になってからも脳内を言葉や声が駆け巡り」などとあるので、自分の頭は概ね、以前から今と同じような感じだったのだ。言語に習熟して思考が多少速くなったということはあるかもしれないが、道を歩きながら、自分は本当に、頭のなかで常に独り言を言っているなと思ったり、それに意識を向けすぎて知らぬうちに声に出してはいなかったかなどと思った記憶もある。以前はそれが大丈夫だったのだが、それが年末年始の騒ぎで、思念の存在そのものが神経症の対象になったというのがこのところのこちらの苦しみの実情だろう。分類としては、やや特殊かもしれないが、雑念恐怖というものにあたるのだろうか。今はもうだいぶ慣れてきたので、このまま慣れていければそれで良いと思う。
 インターネットを回ってから他人のブログを読むと五時半前である。運動を行った。気分ではなかったので、音楽は流さずに身体を動かし、筋肉トレーニングも行った。それから上階へ行くと、母親は既に帰ってきており、台所で料理を行っていた。こちらは職場での会議のために七時過ぎには家を発たなくてはならなかったので、ゆで卵と豆腐を用意した。認知症サポーター講座は良かった、寸劇などもやって泣けたと母親は話した。それから父親について、夜遅くまで酒を飲んでオリンピックを見ながら騒いでいる、あれが嫌だという風に愚痴を洩らすのだが、こうした愚痴には以前は苛立っていたところ、最近はほとんど気にならず流せるようになり、苛立ちというほどのものも湧かなくなった。これが、精神安定剤を服用しているために心が落着いているからなのか、ヴィパッサナー瞑想的な自分の感情に巻き込まれないという姿勢がより身についたということなのか、確かなところはわからないが、多分両方あるのだろう。食後、こちらは勝手口に出てストーブの石油を補充したり、翌日が廃品回収だったので新聞を縛ったりしたのだが、母親はそこで、身体の痛みを訴えた。右半身が頭から脚まで痛いと言う。そう聞くと、脳の病気を疑ってしまい、もし本当にそうだったらどうしようという不安な思いが湧くのを留め得ない。台所で作業をしていると寒くて、立っていると辛くなって座りたくなると言うのに、とにかく精密検査を受けたほうが良いと応じた。こちらとしてはとにかく、頭に何かあるのではないかとその点が気に掛かって仕方がない。一年前だかに詳しい検査を受けた際には、腰のあたりだか、背骨がすり減っているということを言われたらしく、それで神経に来ているということも考えられる。ソファに座りながら話を聞き、とにかく精密検査を受けることと、自分に合った運動やストレッチを見つけることだろうと話を締めくくった(こちらとしては、身体をほぐすという点でやはりヨガが良いのではないかと思い、ヨガの催しなんかがあれば行ってみたらどうかと提案した)。
 歯磨きと着替えをし、糞も垂れて七時過ぎに出発である。夜道のなかを出かけて行くというのはやはり何だか物寂しいというか、不安を微かに惹起させられるような感じがした。どうせ歩くのだったらやはり陽光の下が良いものだ。裏通りの静けさのなかに入るのも躊躇われて、車の音や光に耳目を向けながら、また呼吸と足音を意識しながら表通りを行った。
 会議中は、後半、ちょっと退屈さを覚えることもあったが、たくさん笑うことができたのがありがたかった。帰路も歩きになったのだが、街道を行きとは逆向きに進みながら、考えとは自由ではないのではないか、ということを思いついた。人が何を感じ、何を考えるのかは、自分で決定することはできず、感情や思念とは向こうから勝手に湧き上がってくるものであり、言わばそれは我々に「課せられた/押し付けられた」ものであり、我々はそれに対して第一の地点においては受動的であらざるを得ない(だからこそ最近の自分は、自分の考えが恐ろしかったのだ。望んでもいないような考えが自動的に去来し、それによって言わば「洗脳」され、自分が今の自分から変化していき、いつか恐ろしい考えを持った存在へと変貌してしまうのではないかという不安があったのだ)。自由というものがもしあるとしたら、何かを考えるという点にではなく、常に既に何かを考えてしまったそれに対してどう応じるか、無数の思念や感情のなかからどれを拾い上げて自分のものにし、行動に反映していくのか、そうした現実化の水準にこそあるのではないか(あるいはそこにしかないのではないか)。ここのところの自分は、殺人妄想によって少々苦しめられ、自分はまさか本当に人を殺したいと思っているのではないだろうなと怖れた数日があった。しかし今はそうではないと断言できる(この点、自分の精神は安定して、正気を取り戻してきている)。誰かを殺害するイメージが湧くこともなくなったし、もしそれがまたやって来たとしても、自分はそれが一瞬の単なる(感情や欲望を伴わない)妄想、言わば脳の誤作動のようなものだとして真に受けないし、「殺す」という言葉が浮かんできたとしても、それは単なる思念に過ぎず、自分は自分が人を殺したりはしないことを知っている。これが自由ということではないのだろうか? そんな風に思考を巡らせながら、こうしたことについて誰かと話してみたいなと思った。
 歩みの最中はまた、自分の自動感についても考えが向いたのだが、これについては今はあるようなないような、あまりはっきりしない。少なくとも、それが気になって仕方がないということはなくなったので、あるとしても適応してきているようだ。この自動感というものが何なのだろうと考えた時に、それは、死を終末とした生/時間の流れのなかの、その都度その都度の瞬間(それはほかのどの瞬間とも異なっており、そのどの瞬間も本質的にまったく一回性のものであって、純粋に繰り返されることは決してない)に不可避的に「嵌め込まれている」という感覚ではないのかと、そんな言い方を思いついたのだが、これが妥当な言語表現なのか、どういうことなのかは自分でも理解できていない。
 歩いているうちに、近くに街灯がなくて、周囲より一段と暗くなっている一角に差し掛かり、その暗さに気づいて歩調を緩めた時があった。暗闇や、向かいの家の正面に僅かに灯る明かりに目をやりながら、この瞬間、こうした瞬間があるな、と思った。それからちょっと進んで、中学校のほうに入っていく横道の前を越えたあたりでは、本当に夢のように時間が過ぎ去っていくなとの感慨が兆した。
 帰宅して(一〇時半を過ぎていた)、食事は父親が買ってきてくれたフライドチキンに、レタスなどのサラダである。テレビはカーリングのハイライトや選手へのインタビューを映して、父親は笑みを浮かべながらそれを見ていた(少々感動しているような、もしかしたら涙を催しているのだろうかというような調子の声を洩らしてもいた)。
 入浴、時間も遅かったので、束子は足の裏を念入りに擦って、全身隈なくというわけには行かなかった。会議の途中からだっただろうか、頭痛があった(最近は頭の違和感や弱い頭痛が多いのだが、このあたり、まだ神経が整いきっていないということなのではないか)。歯磨きをしたあと、『灯台へ』を少しだけ音読したが、この時、頭痛がちょっとほぐれたような、和らいだような感じがしたように思う(音読で頭を使うはずなので、むしろ助長されるのが道理ではないかという気がするのだが)。零時三五分に就寝した。

2018/2/23, Fri.

 一度目に覚めた時、六時直前で、以前よりも長く覚醒することなく寝られるようになっているのではと希望を持った。ただ例によって、薬の袋を寝床に持ってきておくのを忘れていたため、寒さのなかに起き上がるのが億劫で服薬できず、そうすると、その後はあまり深く眠った感じもしなかった。それでも目を閉じ続けて、八時二〇分になると自ずと覚醒が来た。また一日が始まってしまったか、という思いが少々あり、それはまたあの途切れなく続く思念の連鎖のなかに放り出されねばならない――と言うか、覚醒時から既に放り出されているわけだが――というような思いだった。呼吸をしながら寝床に留まって、時計が一秒を刻む音を聞いていても、時間がするすると流れ去って行き、気づけば一〇分なり一五分なりが経っている。我々は時の牢獄のなかに囚われているのだ、とこんなことを言っては格好付けが過ぎるが、それでも、大いなる時の流れとでも言うべきものがすべてを支配しており、自分自身の行動、思い、その存在さえもがその流れのなかで、そこから逃れようもなく、自動的に押し流され、過ぎ去って行く。例えば、寝床から起き上がろうと思った、あるいは心中にそのような言葉を作ったその意志、その言葉までもが、自分が作り出したものではなく、流れのなかで泡[あぶく]のように自動的に生じてきたもののように感じられるのだ。そのようにして、すべてはただ流れて行き、終末には死が待っているのだが、自分自身にとっての死というものが一体どういうものなのか、我々の誰も決して知ることはできない。
 八時三五分頃になると起き上がって上階に行った。今日も寒いねと母親に言って、ストーブの前に座る。それから便所で用を足し、食事の用意をする。前晩、風呂から出たあとに、米を新たに用意し、早朝に炊けるようにしておいた。母親はそれについて、礼を言ってくれた。その白米をよそり、納豆が食いたかったのだが、汁物に使ったようで冷蔵庫には目当てのものはなく、茶漬けにして食べることにした。そのほか、納豆とワカメと菜っ葉の汁物に、前夜の残りの煮物とサラダである。
 テレビは『あさイチ!』を映していて、この日も過去の放送の特集で、遠藤憲一が出演していた。それに目を向けながらものを食べると、母親が、何やら話を始める。話題が連想的・飛躍的に飛んでいき、要領の良い全体の要約が見えないままに細部の説明に拘泥し、本題を短く示すことなくその周囲を迂回してばかりいるその語りぶりは、バランスの良い物語的な構造を欠いており、ある種「小説」的と言えなくもないのかもしれないが、それはともかくとして、要点は、ガイドヘルパーというものの講習が三月の日曜日に毎週あるけれど、それを受けても良いものかどうか、ということだったようだ。この前日に「(……)」という団体に話を聞きに行ってきて、講習を受けて資格を取ればその団体にヘルパーとして登録し、例えば週一日からでも障害を持つ人の支援の仕事をできると言う。懸念材料としては、今、「(……)」という、これも発達障害のある子どもを支援するというものなので職種は似ているのだが、別の職場で働きはじめたばかりであること、(……)の仕事もあること、また日曜日となると父親が自治会のほうの用向きで忙しいこと、さらには三月頭に兄がロシアから帰ってくるような話もあり、そうすると皆で集まるのではないかということ、そしてまた父方の祖母の米寿の祝いに三月に集まろうというような話も出はじめていることと、そうした諸々が重なって忙しいだろうところに、また新しいことに手を出すと色々やりすぎではないかという思いがあったらしい。それで、ひとまずガイドヘルパーのほうは置いておき、今、「(……)」の仕事を始めたばかりなのだから、まずそちらの仕事がどうか、自分に合っているか、そうしたことを様子見したほうが良いのではないかと助言した。講習は毎月あるというので、チャンスはまだまだある。「(……)」の仕事だって、ガイドヘルパーのそれと多少重なるのだから、それに多少習熟してからのほうがタイミングとして良いのではないかという風に述べた。そのあいだ、インターフォンが鳴って母親が出に行くと、(……)(母方の祖父の末妹)からの届け物である。話が終わったあと、包みをひらいてみると、(……)(姪)がここで初節句を迎えるので、それに対する心付けと贈答品だった。両親宛に付されていた手紙を読ませてもらったが、和紙に直筆で挨拶文を綴ったもので、この人は毎度のことながら丁寧に心遣いを調えてくれるもので、母親としてはまたお返しをしなくてはという点で頭が痛いのだろうが、こうした今では古いようになったであろう作法は、個人的には好感を持つものである。
 風呂を洗うと、フロアに掃除機も掛けた。祖母の部屋から始めて、台所や玄関まで行ってから居間に戻り、仕事を終えようとしていたところ、母親が、洗面所とトイレはと言う。やっていないと答えると、それでは渡すようにと言うので、あとは任せることにして、白湯を持って下階に下りた。コンピューターに向かい合い、Amazonアソシエイトのレポートをまず見たが、始めてから二三日、未だクリック数二で停まっている。一日二〇から三〇程度のアクセスでは、そんなものだろう。アフィリエイトを導入したからと言って、読んだ本の感想などを無理に書こうとするのも面倒臭い、自然と浮かんできたものを書くスタンスで行きたいと思っている。これから記事の集積が進むうちに、いくらかなりと収益が発生してくれるとありがたい。
 それからここまで日記を書いて一一時前だが、朝には肌寒い曇天だったのが、先ほどちょっと陽が射して、今もベッドの枕元にうっすらとした明るみが乗っている。
 W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を読んだ。ベッドに乗って身体の上に布団を掛け、急がずにゆっくりとした調子で、一節一節の意味をきちんと取ろうとしながら音読をしていくのだが、これがなかなか充実した時間になった。ゼーバルトの語りというのは、いつの間にか別の時空、別の記憶、別のエピソードに移っているその理知的で淀みのない移行ぶりも洗練されているのだが、各部分での語りの内容も、具体的な情報や修飾が緻密に付与され、引き締まりながら充実しており、ただ読んでいるだけでわりと面白い、というようなところがあるようだ。歴史だとか人物史を魅力的に語るのが上手いな、という感じがあって、この時読んだなかでは、エドワード・フィッツジェラルドという人物の生涯を語ったくだりが読んでいて面白かった(それにしても、ゼーバルトのこの本に出てきて詳しく語られる人々というのは、皆、何らかの不幸のようなものを抱えて、翳を帯びたような人物ばかりではないか?)。それとは別の部分だが、書抜きたいと思った箇所を一つ、下に引いておく。「書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない」という一節は、どうしても自分の身に照らし合わせてしまう。自己客体化を徹底し、日々の生を書き綴るこの営みによって、自分は段々と狂いつつあるのではないかという疑念を、完全に否定し、拭い去ることがどうしてもできないでいるのだ。

 ミドルトンの村はずれ、湿原のなかにあるマイケルの家にたどり着いた時分には、陽はすでに傾きかけていた。ヒース野の迷宮から逃れ出て、しずかな庭先で憩うことができるのが僥倖であったが、その話をするほどに、いまではあれがまるでただの捏[こしら]えごとだったかのような感じがしてくるのだった。マイケルが運んできてくれたポットのお茶から、玩具の蒸気機関よろしくときどきぽうっと湯気が立ち昇る。動くものはそれだけだった。庭のむこうの草原に立っている柳すら、灰色の葉一枚揺れていない。私たちは荒寥とした音もないこの八月について話した。何週間も鳥の影ひとつ見えない、とマイケルが言った。なんだか世界ががらんどうになってしまったみたいだ。すべてが凋落の一歩手前にあって、雑草だけがあいかわらず伸びさかっている、巻きつき植物は灌木を絞め殺し、蕁麻[イラクサ]の黄色い根はいよいよ地中にはびこり、牛蒡は伸びて人間の頭ひとつ越え、褐色腐れとダニが蔓延し、そればかりか、言葉や文章をやっとの思いで連ねた紙まで、うどん粉病にかかったような手触りがする。何日も何週間もむなしく頭を悩ませ、習慣で書いているのか、自己顕示欲から書いているのか、それともほかに取り柄がないから書くのか、それとも生というものへの不思議の感からか、真実への愛からか、絶望からか憤激からか、問われても答えようがない。書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない。もしかしたらわれわれみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。その一方でわれわれは、測りがたさという、じつは生のゆくえを本当にさだめているものをけっして摑めないことを、ぼんやりと承知してはいるのだ。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、171~172)

 ここまで記して一二時四〇分ほどになり、上階を覗きに行ったのだが、母親は既に出かけていた。下階に戻ってくると、運動をしようと思っていたところが脚が隣室に向いてしまい、ギターをいじりはじめる。楽器を触っているあいだは、独我論めいたことを思い巡らせていたのだが、その後、自室に戻って運動を行い、また食事を取りに行くあいだなどは、結局やはり、呼吸が根源なのだと考えていた。呼吸という人体の機能が根本的な部分で生命維持を司っており、呼吸がなければ身体的・精神的の双方を含めて人間の成す諸活動が何もできない、と言うか我々が存在できないのは自明のことである。呼吸という機能は従って、存在の証となる働きであり、その呼吸を感じるということは、そのまま自らの存在を感じるということである(ここには本当は、論理的・言語的に飛躍が挟まっているような気もするのだが、ひとまずこのように考えたい)。自分はどちらかと言えばやはり、生き生きとした生を生きたいものだと考えるが、生き生きとした生というのが、自らと他者や世界の存在をその都度よく感じ取るような生き方だとするならば、恒常的に存在している呼吸の感覚に目を向け、またそれを経由して自分の行動や知覚をも現在の瞬間においてよく感じ取るような生き方がそうだとは言えないか。さらに、我々が存在の証である呼吸をどうして維持できているのかと言うと、それは当然、食べ物を食べることで身体の機能を保っているからである。栄養を摂取することで呼吸をすることができ、呼吸をすることによって身体を維持するという循環的な関係がここにはあるわけで、呼吸と食べることという二つの活動が、根源的な部分でまさしく我々を存在させていることは確かだと思われるが、食べなければ息をすることもできないのだから、我々は我々の外部にあるものを取りこむことでしか存在できないのであり、外部によって生かされているというのは明らかではないか? 概ねそのようなことを考え、目の前の食事を味わうことに集中しようとしたのだが、皮肉にも頭のなかにこうした思考が流れていたので、望むほど意識を向けることができなかった。昼食に取ったのは、焼売カレーに、煮物に、前夜のサラダにキャベツを足したものだった。その後、ヨーグルトを食べて皿を洗ったが、冷蔵庫をひらいた際に即席の味噌汁があったことに気づき、暖かい汁物が飲みたい気がしたので、ゆで卵とともに味噌汁も追加して摂取した。
 下階に戻ってくると、Mr. Children "ファスナー"やMaroon 5 "Sunday Morning"などを歌ったあと、現在のところまで日記を書き足してしまおうと思って取り掛かったのだが、独我論について検索して出て来た「独我論批判――永井均とそれ以外」(「翻訳論その他」)という記事を読んで、時間を使ってしまった。ここまで記すと、三時半前である。
 それから、石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』から二箇所を書抜き、日記の読み返しをした。二〇一七年二月二三日の日記では、「朝方に雨が降ったあと、日中は一時晴れ間も見えたようだが、今はまた雲がぐずぐずと、良く煮えた果肉のように形を崩しながら連なって青紫を帯び、下地の淡水色が露わになるのを妨害していた」という一文が、何やらちょっと良いように感じられた。「雨のよく降るこの星で」を始める以前の日記も、ブログに投稿していき、過去の分も含めた集積を段々と作っていこうと(それほど強くではないが)考えているので、二〇一六年一〇月一四日の記事も読み返し、ブログに投稿した(この記事は、あとでTwitterにもツイートを流しておいた。長らく何の発信もしていなかったTwitterを、ブログを広める手段としてふたたび使いはじめたわけである)。
 それから、椅子に座ってコンピューターを前にしたために、背中が強張ったので、ベッドに寝転がり、読書を始めた。仰向けの姿勢で、W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を、一節ずつ間を置いて音読していく。この時読んだなかには、柴田元幸も解説のタイトルにしているが、「ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと」という、アシュベリー夫人の述懐の箇所があり、この部分を書抜くことにした。この発言にも、共感を覚えてしまうものである(しかし自分はまだ年若いのだから、この先、生というものに段々慣れて自足できるようになる可能性もあるだろう)。

 (……)それでわたしたちは呪われた魂みたく、ひとつところにずっと縛られて今日まできたのです。娘たちのえんえんとした縫い物、エドマンドがある日はじめた菜園、泊まり客をとる計画、みんな失敗に終わりました。十年ほど前にクララヒルの雑貨屋の窓にチラシを貼ってからというもの、あなたは、とアシュベリー夫人は言った、うちにいらしたはじめてのお客さまなのですよ。情けないがわたしはとことん実務にむかない人間、じくじくと物思いにふける性分です。家じゅうそろって甲斐性のない夢想家なのですわ、わたしに劣らず、子どもたちも。ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、207~208)

 音読をずっと続けていると喉が痛くなってきたので、五時付近で一度洗面所に立ち、嗽をした。そうして戻ってくると、もう少し寝転がっていたい気がしたので、読書をさらに続けた。そうして五時半前で中断した。そろそろ溜まっている日記を書かなくてはと思ったのだ。その前にしかし、暗くなっていたので上階に行って、居間のカーテンを閉めて食卓灯を点し、戻ってくると歌をいくらか歌った。そうして六時からここまで綴って、現在六時半を目前としている。
 それから二一日の記事も綴って、完成させてブログに投稿すると七時を回っていた。その頃には母親が帰ってきていた。台所でキャベツのサラダを取り分けていたので、ごめん、何もやっていないんだと言って、タオルを畳んだ。もっとも、汁物や、アジと野菜のソテーは、母親が出かける前に作っておいてくれたのだ。食事はそれらに、米や蒟蒻である。テレビはまた録画したものから何か見ようかと母親が言って、『アウト×デラックス』を流す。それを見ながら思ったのだが、人のことを悪く思いたくない、あるいは悪感情を感じたくないというような思いが、自分の分裂と神経症を生んでいるのではないか。思念自体が頭のなかに巡ってやまないことを怖れたり、煩わしく思ったりするのに加えて、「悪い」想念が浮かんでくることを嫌がる気持ちもある。「良い人」でありたい、良い格好をしたいという心の反面として、かえって「悪い」思念を呼び、それを気にしてしまうということなのかもしれない。以前はしかし、そのようなことは気になっていなかったはずだが、先の年始の錯乱のなかで、それがトラウマじみたものになってしまったのかもしれない(一月五日のことだが、医者からの帰り道、電車内で子どもらに対して「うるさい」という思念が浮かんだのに対し、まるで自分に属していない(とその日の日記にも書いたと思うが)悪い想念が浮かんできたかのように思われて恐怖したのを覚えている)。ここ最近では、脈絡なく、感情的な嫌悪は伴わずに、「気持ち悪い」という言葉が浮かんでくるのが鬱陶しいのだが、これについてもまた思い当たるのは、中学生時代のことで、当時は周囲の同級生らがやたらと誰々がキモいとか、誰々がうざいとか話してやまないのが、嫌で仕方がなかった。そうした感情の底には、多分自分がそう思われたくはないという自意識過剰、ナイーヴさがあったと思うのだが、これも小さいものだが一種のトラウマのようにして機能し、現在のこちらにおいてそうした思念というか言葉を呼んでしまっているのかもしれない。
 食後、風呂に入りながらもさらに頭は巡ったのだが、やはり主体は、分裂どころか散乱的なものとしてあり、瞬間瞬間において思念は高速で移り変わっていく。しかしそうした思念が思念に過ぎないこともまた確かであって、それはそれそのものではこの世界に何の影響も与えないのだから、思念が生じてくること自体を恐れる必要はない。散乱した思念のうちからあるものを拾い上げ、それを行動の面、現実の面へと反映させる原理が、おそらく要は「統合」ということなのではないか。主体は散乱された断片的な状態から、その都度仮に統合され、そしてまた次の瞬間には散乱し、という風に、そのあいだを行き来しながら暫定的に保持されている。自分においては今のところ、この「統合」の段階が問題なく働いている。と言うのはつまりは、鬱陶しい思念はあるものの、両極のあいだで過度に引き裂かれることなく、ある場において支障なく行動できているということだ。あとはまさしくヴィパッサナー瞑想の教えを生かして、「悪い」思念が生じてもそれはそれとして受け入れ、流して行くことだろうと、概ねそんなことを考えた。
 入浴後は、九時から五〇分間、日記を書いている。ここで二二日のものを完成させて投稿した。その後、他人のブログを読んで、一〇時半前から読書に入った。ベッドに寝転がったり、時折り起き上がったりしながらW・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』をゆっくり音読し、日付が変わってちょっとすると、読了した。なかなか読み応えのあって面白い本だったと思う。それから歯磨きをして、次に何の本を読むか迷うところがあったのだが、ヴァージニア・ウルフ/御輿哲也訳『灯台へ』をここで再読してみたい気がしたので、眠る前にもう少し本を読むことにした。一時一〇分まで読んで、明かりを落として布団を被った。

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2018/2/22, Thu.

 五時前に目を覚ました。服薬をしようにも薬の袋が寝床になくて、寒さのせいもあって起き上がる気にならず、そのまま眠ったが、そうするとやはり寝付きは多少悪かったような気がする。七時台からは眠りが浅く、もう少し眠っておきたいと思いながらもあまりうまく入眠できず、七時四〇分になって覚醒を受け入れた。真っ白な曇りの朝だった。呼吸に意識を向けながらも思念が巡り、寝床にいるあいだ、時間が経って行くのが実に速いなという感じがした。呼吸をしているうちに、気づけば一〇分、一五分が経っている。
 八時頃になって寝床を抜け出し、上階に行った。早いじゃない、と母親は言った。便所で放尿し、食事は前夜と同じく、天麩羅や、茄子に舞茸と牛肉の佃煮を合わせたものや、野菜の汁物である。食べているとじきに、NHK連続テレビ小説が終わり、『あさイチ!』が始まって、この日は過去の回の再放送で、先日も見た瀬戸内寂聴の出演回がもう一度流される。それをふたたび見ながら林檎を食った。番組では、前回は見逃した部分だが、瀬戸内の『いのち』の終わりの部分が読まれ、曰く、七〇年間小説一筋にやってきたが、あの世から生まれ変わるにしても自分はもう一度小説家になりたい、それも女の、ということだった。それに触れて瀬戸内は、やはり女のほうが喜びも、苦しみも、深く感じることができて、それが生き甲斐となる、ということを言った。自分は、女性のほうが感受性が強いというこのような見方に必ずしも同意するものではないが、苦しみも、と彼女が言ったところにやはり何かしら感じるものはあった。
 皿を洗って、風呂も洗う。その後、炬燵に入るその頃には、番組は今度は小澤征爾がゲストの回を流している。時間が前後するが雨、というか細かな雪のような降りが始まっており、ぱらぱらと結構降っているそのなかで、母親はストーブの石油の補充をしていた。終わったら受け取ろうと思って待っていたわけだが、そのあいだ、母親が修理を頼んだバイク屋がやってきて、明細を渡して行ったらしい。母親が室内に戻ったあと、値段を見てくれと言うので、封筒を切り開けて見てみれば、(……)円余りで、母親はそんなに掛かるのかという意味合いの声を上げた。
 小澤征爾の出演を見たあと(クラシック以外に聞く音楽はあるのかという質問に、ブルースが大好きだと答えていたのが印象に残った)、母親とともにタオルやシャツや靴下などの洗濯物を干した。それから掃除機を掛け(この日はトイレのなかまできちんとやった)、下階に下りた。食事を取っているあたりは、テレビを見ていても余計な思念が生じるのが感じられたが、食後は心が落着いて、それがあまり気にならなくなった。これは食事を取って副交感神経が働いたためかもしれない。ともかくも心が落着いていれば、思念があってもさして支障はないのだ。
 この日はここで服薬をして、ここまで日記を書くと現在はちょうど一〇時である。それから、W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を三〇分ほど音読した。母親は、(……)という、家から一五分ほど道を行ったところにあるのだが、障害者支援サービスをしている団体がいわゆる「まちゼミ」をひらいているというので、そこに出かけていた。(……)それで(……)ふたたび読書に戻ったのだが、この日は寒い曇天で、布団に潜っていても本を持つために出した手が冷たくなる。ゼーバルト土星の環』のなかでは、一一三頁の、このあたりはジョゼフ・コンラッドことコンラト・コジェニョフスキのエピソードが語られているのだが、彼が船員になってから十数年後にウクライナの伯父の家に帰還した際、家まで送っていく橇を操る御者が聾啞の子どもなのだが、この子についての記述やその後の風景の描写なんかがちょっと良くて、書き抜くことにした。「イギリス行脚」と副題の付されている作品で、実際、語り手の行った様々な場所、そこで話者の体験したことについての語りもあるけれど、話は結構、色々な人物のエピソードに飛んだりして、流れを要約するのは難しそうな小説である。六章では、サウスウォルドとウォールバズウィックのあいだのブライズ川という川に鉄橋が掛かっており、かつてこの路線を走っていた列車は、本来中国皇帝が乗るために造られたものだった、というところから、記述はほとんど歴史記述のようになり、太平天国の乱とか、その後のアロー号事件に始まる英仏の中国侵略とかが語られるのだが、太平天国の乱というのも、学校の勉強で名前だけは知っているけれど、考えてみると一五年くらい続いているもので、しかも二千万に上る人々が命を落としたといい、洪秀全の自殺のあとを追っても大量の人々が自殺したということで、改めて意識するととんでもない出来事だというか、このあたりの歴史の本なんかもちょっと読んでみたいなという思いが湧き、ひとまずゼーバルトの記述を書抜きメモに加えておいた。
 そうして読んでいたのだが、ちょうど一二時半になったところで、帰ってきていた母親が階上で床を踏み鳴らしてこちらを呼ぶのが聞こえたので上がって行くと、石油を運んでくれと言う。(……)から帰ってきたあと、バイクの代金を払いに行き、さらに石油やその他の諸々を買ってきたらしい。それで寒い寒いと言いながら外に出て(雨はかすかに降り残っていた)、赤いポリタンクをよいしょっという風に持ち上げて勝手口の箱に入れる。その後、もう一つのタンクに液体を移し替えておくわけだが、こちらはなかに入って母親の買ってきたものを冷蔵庫に入れてから、炬燵にあたっていると母親が、ポンプの電池がないから新しいのを取ってくれというので仏間から取ってやった。
 その後、焼きそばを作る。フライパンで野菜と麺を炒めて、完成するとこちらは食卓、母親は炬燵テーブルで食事を取る。母親が、何か録ってあるものを見ようかと言って、『家、ついて行ってイイですか?』を流す。一人目のカップルについては措いて、二人目は、プラモデルなどの類が大好きな五〇代の男性だったのだが、この人は二六歳の時に母親を亡くしていて、ある朝突然、卒中だか脳梗塞だかで倒れていたのだと言う。だから前夜の何でもないような、まったくいつも通りの会話が最後のものになったと言うのだが、その翌日だかに、母親が作ってくれた最後のカレーを涙をぽろぽろ流しながらよそって食べたと語るのには、少々もらい泣きめいて目が潤んでくるところがあり、これはまあ言ってみればありがちな「物語」、感動話なのだが、自分にはそれに感化されて涙を催してしまうようなところが前からあるにはあった。以前はしかし、これはよくある物語に過ぎない、こんなことで目に涙を帯びるのはナイーヴ過ぎる、と自分を制する心が働いていたところ、このところはもう別に、そんなことは良いのではないかと、大いに感情移入して涙して良いのではないかと思うようになっている。と言うのには、最近は自分の感情というものが本当によくわからず混乱しているので(段々そこからまた統合を取り戻しつつあるような感じもするが)、そうしたある種単純な感情の働きが自分に確かにあるということに安心する心があるのだ。またこの番組は、いつも素人の家を借りて収録をしているわけだが、この日のその家の主である九二歳のおばあさんが、健康そうで喋りもしっかりしているのだが、やはりたまにすっとぼけたような感じを見せていたのだが面白く、母親と一緒になって大いに笑い声を立てた。
 その後、『激レアさんを連れてきた』という番組も流し、それも視聴する。一人目に出て来たのは、竹馬ならぬ「鉄馬」でキリマンジャロ山を登頂した経験を持つという超人じみた七〇歳の男性で、最初のうちは修行のために四キロの鉄下駄を履いて登山をしていたというこの時点から既にあたかも漫画のエピソードなのだけれど、じきにそれが物足りなくなり、鉄下駄は一〇キロのものになり、最終的に竹馬から「鉄馬」に至ったというから、半ば訳がわからない。もう一人、出て来たのは森三中の黒沢で、彼女は中学生まで「朝ごはん」という概念そのものを知らなかったという話が語られるのだが、それを見るかたわら、アイロン掛けを行った。
 そうして二時半になって下階に下り、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』から二箇所書抜きをして、この本の書抜きはこれで終いである。そうすると三時、(……)のブログを読んだのだが、夜にはコンピューターを使わないという生活習慣を保っているために、自分の過去の日記や他人のブログをなかなか読むことができない現状があり、「(……)」も、いまだ二月二日までで停まっている遅れぶりである。ブログを読む際にも音読をしたのだが、やはり音読は何となく良いのではないかという感じがして、この日は、昼時にはちょっと明るいような気分で、テレビを見ていてもよく笑っていたし、全体的に心持ちが落着いており、余計な思念の蠢きもほとんどないように思われる。ここまで日記を書き足して、もう四時を回っている。
 上階へ。豆腐を電子レンジで温め、ゆで卵とともに食べる。済ませると下階に戻って、歯を磨きながらゼーバルトを読む。一四四頁から一四六頁のあたり、西太后についての記述のあたりは、何だかガルシア=マルケスのあの過不足ない語りを思い起こさせるようだというか、『族長の秋』を読んでいる時の感触と似たものを感じた。服を着替えると上階に行き、ストーブに当たりながら手を擦って、五時に出発である。
 雨は続いていた。坂を歩いているあいだ、その先の辻で八百屋や人々と会ってちょっとした会話を交わすことを期待している自分に気づいた。それとともに、先ほど読んだゼーバルトの小説のなかの一節、「時間の否定は、トレーンの哲学の学派におけるもっとも重要な教えである、と<オルビス・テルティウス>についてのかの書物には記されている。この教義にしたがえば未来はわれわれがいま持っている恐怖と希望というかたちのなかにしか存在せず、過去はたんに記憶であるにすぎない」(一四七頁)という部分が思い起こされた。未来というものは現在時に現前していないのだから、明らかに我々が頭のなかで構築する観念なのだが、恐怖(不安)や希望(期待)というものは、この観念を志向することによって、つまりはある意味で何らかの「妄想」によって生まれるのだと思ったのだ。そして、希望や期待が生まれてくれば、その裏返しとして、恐怖や不安も生じてくる。しかし我々はどうしても未来という観念を妄想せずにはいられない存在だろうし、そうしなければ生きていけない。したがって我々に出来るのはただ、自分が妄想しているということを自覚しながら妄想するということなのではないか。そういうわけで、現在を離れて未来を妄想していたなということを自覚しながら歩いて行き、辻では予想通り八百屋の旦那や、近所の老女や、(……)と立ち話をしたのだが、書き留めるほどの内容ではないものの、そうしたささやかな他者との触れ合いによって、期待通り、和むような気持ちになった。これはありがたいことだが、しかしおそらく、このありがたさにも執着しすぎてはいけないのだろうと考え、次の現在に行こうと思いながら歩みを続けた。
 この日の勤務は最初、何故か緊張があったが、始まるとなくなった。しかしその代わりなのか、働きながら疲労感を覚えていた。終わるといくらか和らいだようだったので、やはり多少、気の張るところはあるのだろう。
 缶に入っていた最後の菓子をもらってしまい、退勤すると、雨はまだ残っていた。駅に入り、電車に乗って座席で瞑目し、発車前の駆動音を聞いた。電話の鳴りを底にかすかに思わせるような、待機中の息遣いのような音だった。電車が走っているあいだは呼吸に集中し、ゆっくりと息を吐いて腹の動く感触に意識を向けていた。降りて傘をひらくと、電車が行ってしまったあとに、ちりちりとした細かな雨音が残る。
 駅を出て通りを渡ると、煙草に火を点けた男性がおり、一緒に坂に入る格好になった。何かぼそぼそと言っているので、独り言だろうかと思いながら抜かすと、じゃあまたね、と後ろから聞こえたので、ハンズフリーの電話だったようだ。通りに出ると、また雨音とともに行く。呼吸を意識することを忘れずに行きながら、帰りは思念があまり巡らないような気がするなと思った。一日の活動を終えてほっとしているのか、あるいは疲れのためだろうか。
 帰宅すると、寒いと言ってストーブの前に座った。母親にまた菓子をもらってきたと示すと、あとで半分ずつ食べようということになった。手を洗って自室に戻って着替えると、手帳にメモを取る。メモ書きをしながら、欲望という感じがないのをやはり不思議に思った。忘れてしまう前に、というような心はあるらしい。このようにして自分は、もうほとんど自分なりの書くことと生きることの一致を実現しているのではないかともちょっと思った。
 夕食は、赤飯の残りのおにぎりに、野菜の汁物、丸蒟蒻や牛蒡や人参の煮物、また、酢を帯びさせているのだろうか細切りの玉ねぎとカニカマに、ワカメやシーチキンを混ぜたサラダである。これらのどれも美味いもので、煮物は牛蒡の味が良かったし、おにぎりを食べると、口内から食道を通って胃に入っていく熱そのものがありがたいように感じられた。夕食のあいだはスピードスケートがテレビに掛かっていたのだが、それにもほとんど目を向けず、ものを味わって食べた。食事の終わるあたりからテレビを見てみると、男子のリレーをやっていた。コースの内側を併走している選手たちが、交代の場所まで来るとうまく走者の前に入りこみ、その背を前走者が押し出すことによってリレーが繋がれる。よくぶつからないなと思いながら見ているあいだ、最初のうちは中国がトップをキープしていた。韓国の選手がそれを抜かそうとした際に転倒して遅れを取ってしまい、ここで最下位が決定した。あとの走者はカナダとハンガリーで、ハンガリーは序盤はあまり目立っていなかったように思うが、最終的にトップでゴールした。
 その後、入浴前に、カーリングフィギュアスケートのハイライトも目にした。女子のフィギュアスケートは二人の演技を見たのだが、選手の個性だとか凄さ、持ち味といったものが当然まったくわからないものの、きちんと継続して見慣れれば、この分野も面白いのだろうなと思った。
 入浴中は呼吸を意識し、頭がさほど回った覚えはない。今日は髪を洗っているぞときちんと確認しながらシャンプーを手に取り、束子健康法も呼吸に合わせて身体の隅々まで行った。出ると下階へ行き、歯磨きをしながらゼーバルトの続きを読んだ。その後しばらく音読を続けたあとに、メモを取ろうと思っていたことを思い出した。それで手帳に記しはじめたのだが、眠気で瞼が落ちる有様だったので、仕方なく諦めて就床した。零時四〇分である。

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2018/2/21, Wed.

 一度覚めると、三時頃だった。服薬して寝付き、何度か目覚めながらも、八時半まで眠った。すぐに起き上がることができず、呼吸に集中しつつ、また一方では思考が湧いて回るのも感じながらしばらく寝床で過ごし、九時近くになって布団を抜け出した。
 上階に行って、母親に挨拶する。今日はどこかに出かけるのかと訊くと、その予定はないとのことだった。便所に行って用を足し、洗面所で顔を洗う。食事は、前夜のおじやの残りに、これも前日の料理だが、ジャガイモに魚とキノコをトマトソースで和えたもの、あとはポテトサラダである。前日にやっていた『マツコの知らない世界』を録画してあるという話だったので、それを見ようと母親に誘ったところ、あとで、昼食後にしようとの返答だった。ものを食べ終えてから新聞を少々めくり、食器を片付ける。
 風呂の洗剤が切れていたので、詰め替え用パックから容器に移しておき、浴槽を洗う。そうして居間に出てくると、母親がちょうど掃除機を掛けはじめたところだったので、自分がやると手を差し出し、受け取って床を掃除した。一通り終えて良かろうとスイッチを切ったあたりで、トイレのなかは、と訊かれ、そこはやっていなかったのだが、トイレは今度と緩く落として終いとした。そうして白湯を持って下階に行く。
 いつも通りコンピューターを点けて、記録の記入である。日記を書き出す前に、また自生思考についてちょっと検索してしまった。統合失調症には「思考化声」という症状があり、これは考えていることがそのまま声になって聞こえるというもので、それだけ聞くと自分にも当て嵌まるようだが、どうもこれは基本的には、「外部から」聞こえるものとして表れるようで、そこは自分の症状とは違う点である。自分は大体常に頭のなかに独り言や音楽が流れているような感じではあるが、それはあくまで自分の脳内に留まっているもので、自分の外側から声として聞こえたり、逆に自分の外側に洩れたりしているとは感じられない。この点、自分は少なくとも今のところは統合失調症とは診断されないと思うが、この先そうならない保証はどこにもない。
 また、自生思考に関連して、以前にも閲覧したことのある、「頭がさわがしい,次々と考えや映像が浮かぶ「思考促迫」とは何かー夏目漱石も経験した創造性の暴走」(https://susumu-akashi.com/2015/11/gedankendrangen/)というページもふたたび少々読んだ。さらにそこから、「ハイパーグラフィアの私は「書きたがる脳 言語と創造性の科学」について書かずにはいられない」(https://susumu-akashi.com/2013/03/hypergraphia/)という記事にも飛んで、「ハイパーグラフィア」というものの存在を初めて知った。ここで紹介されている本の特徴によると、以下のようなことらしい。

1.同時代の人に比べて、大量の文章を書く

2.外部の影響ではなく、内的衝動(特に喜び)に促されて書く。つまり報酬が生じなくても楽しいから、あるいは書きたいから、書かなくてはやっていられないから書く

3.書かれたものが当人にとって、非常に高い哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている。つまり意味のない支離滅裂な文章や無味乾燥なニュースではなく、深い意味があると考えていることについて書く

4.少なくとも当人にとって意味があるのであって、文章が優れている必要はない。つまり感傷的な日記をかきまくる人であってもいい。文章が下手でもいい

 これを見る限り、自分は結構な程度、この「ハイパーグラフィア」に当て嵌まると思われる。もっとも二番に関しては、以前はこのような記述が完全に当て嵌まっていたが、最近では留保が挟まるもので、今、自分は一応このように日々の生活を記していても、喜びなどの内的衝動は特段にないし、楽しいという気持ちや書きたいという欲望も、書かなければならないという義務感や使命感も感じない。何かのきっかけがあれば、別に書くことをやめてしまっても良いのではないかという気もしないでもない、そのような状態なのだが、それでも何故か、毎日書き続けている自分がいるというのが実状である。以前は本当に、死ぬまでのすべての一日を記述するのだという妄想的野望を抱き、それが自分がこの生で成すべきことだと強く思っていたのだが、もはやそのような野心も自分の内には感じられない。ほかにやることもないからなあ、というような気分がもしかしたら最も近いのかもしれない。ともかくも、自分の頭あるいは心がやめたくなれば勝手にやめるはずなので、自らの向かう先に任せようと思う。
 時間が前後すると思うが、巡回先のブログを回っている際に、「R.S.N」というブログの二月一五日の記事に目を惹かれた。このブログおよびその書き手である(……)という方については、(……)経由でその存在を知ったのだが、この一五日の記事は、大体全篇良いと思うが、電車から女子高生が降りて行ったのを見ての物思いの段落、褥瘡治療の段落、そして最後の段落が特に良い。(……)の書き方というのは、(……)が昔、「白い」エクリチュールというものがもし実際にあるとしたら、彼のそれが真っ先に思いつくという風に評していたと思うのだが、何か独特の良くわからない質感があって、何と言うか、常にある種の柔らかさを失わないというようなところがあるような気がする。例えばこの日の記事のなかでは、先にも挙げた電車内の段落の内に、「他人には他人の時間があって、彼ら彼女らはその中に生きているのだろうが、そこでまた別の目的や希望や絶望や倦怠をかかえているのだろうが、それはわかるが、しかしその理解は理屈に過ぎず、かの高校生の実際の生、そのたった今の時間と、これまでの僕の時間と、これはほとんど並立していながらまったく混じり合うことはない、…そんなことを、こういった見知らぬ場所の、突拍子もない時間の、その刹那の瞬間には、思い浮かべやすいというものだ。ほんらい別々にあるはずの世界がたまたま今ここに隣接したとか、そういうことではなく、この私の今までとこれから、その膨大さと同じだけの大きさが、あの停車駅で降りていった誰かの内にも存在していた、というか今もそう」という記述があるが、「というか今もそう」というこの一文の締め方にこちらは注目させられたもので、それまで少々、緩くうねるような感触を見せながらやや思弁的な事柄を述べてきたところに、口語的なこの一言が差し挟まることによって、記述の流れがふっとほぐされるというか、そんな風に感じられる。褥瘡治療の際の、人々やそこにある動きへの観察も良いのだが、こちらが一番心を惹かれたのは最後の一段落だったので、この部分をここに引用させていただきたい。

生きていて、生活していて、色々見たり聞いたりして、面白いこと、書かれたら良いと感じること、残されるべきだと思うことなど、いくつもあるが、しかし、書かれたものの面白さというのは、それらすべての再現というより、それらの代替になるように作用しなければいけないんだろうとも思う。書かれたものは書かれたものとして、現実と呼ばれる何かとはリンクしない書かれた限りでの事実それ自体でしかなく、その裏側から、過去とか、記憶とか、あるいは作者とか、背景というか、テーマというか、モチーフにされたもののイメージが、その香りが、状況によっては後付けで香ってくることも、あるかもしれないが、それはそれで、書かれたものは原則として何の裏付けもなく、それ自体としての事実性をもって存在する、そんなことでなければいけないはずだ。僕は反動的なところもあるかもしれないが、まったくありえないはずのことがありえたという喜びのうちに留まることは、それほど悪いことではないはずと思いたく、でもこの香りが良いから、それを別の媒体にこすり付けて、それをその香りとして楽しもうとしてはダメなのだ。別の物体の別の現れが、結果的にその香りと結びつくことはあるかもしれないし、人と人も、行為と行為もそのように響きあうことがあるかもしれない、というか、そうでなければいけないはず。収容所体験を語っても死者はよみがえってこないが、かつてその場所があり生があったことの(再現ではない)手触りを、語りは再生させるはずだ。そのときに物理的な時間や空間の飛躍が、ある意味奇跡のように目の前に実現されていると言って良いはず。

 早々にゼーバルトを読むはずが、そんな風に時間を過ごしてしまい、また一一時前からここまで一時間弱、日記を綴って、もう正午が近くなっている。
 W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を読む。どこがどうとはわからないが、なかなかに面白く、読み応えがある。この日の天気は曇りで、太陽の影が白い空のうちにうっすらとあったが、陽射しというほどのものはなかった。その後、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』の書抜きをして、ちょうど一時になると上階へ行った。
 母親は既に食事を済ませていた。赤飯が炊いてあり、ほか、茄子の炒め物や、納豆にワカメとハマグリの汁物があった。食べながら、録画してあった『マツコの知らない世界』を見る。前日に途中まで見たものの続きで、口笛特集である。見ながら笑いを立てるのだが、しかし同時に、くだらないのではとか、どうでも良いのではというような思念が湧くのも感じていた。くだらないと思いながらも笑ってしまうということは人間あるものだと思うが、そういうことでもなく、自分の感情が分裂しており、どちらなのか確定的にわからない、というような感じなのだ。
 皿を洗ったあと、炬燵に入った。熱に温められて心地良く、自ずと目を閉じてしまう。少々休んで下階へ行き、ギターを弄ったあと、自室でコンピューターに向かい合い、娯楽的な動画を眺めた。見ながらよく笑っている自分がおり、仮に本心から笑っているのかどうかわからないにせよ、ともかくも笑えるということは良いことなのだと思った。
 そうして日記を綴る。一時間を費やし、前日、二〇日の記事まで仕上げる。その後、Oasis "Wonderwall"を流して腕振り体操をちょっとやったあと、上階へ行った。ゆで卵を食べたのちにシャツを一枚アイロン掛けし、下階に戻って歯を磨いた。そのあいだ、言語というものやその無根拠さについて、ひいてはこの世界そのものの、あるいはその分節のありようの無根拠さについて思考が巡ったのだが、まったくまとまらず、その内容は覚えていない。しかし、他者こそがやはり自らの正気を保証してくれるのではないか、自分の言語的=意味論的体系を、自分のものと似通ってはいながらも微妙に違う他者のそれと交わし合い、調整することによって、世界像というものが保たれるのではないかというようなことを考えた瞬間はあった。
 服を着替えて、出発である。坂の途中で、犬を連れた(……)と会った。こんにちはと挨拶をすると、今日はまた寒いね、と返ってくるので、はい、と笑みで答える。行ってらっしゃいと言うのに、ありがとうございますと返して、通り過ぎた。
 道中、やはり思念が巡るのだが、一つにはこのように、思念ばかりが蠢くようになって、印象として引っかかってくるものがあまりなくなってしまったなと考えた。ずっと以前は「具体性の震え」と呼んで、この世界の事物の様相が鮮やかに現れてくる瞬間を折々に感じており、自分の書き物というのは、初期のうちはそれを記したくてやっていたようなものだったと思うが、最近ではそうした特権的な瞬間があまりなくなってしまったようだ。また、思考や記憶が断片化の一途を辿っているというか、今まで保たれていたその体系が解体されつつあるような風にも思われた。
 勤務を終えると、電車の時間が迫っていたので、駅の通路、降車した人々が前から流れてくるなかを、小走りに進んだ。電車の最後部、扉際に就き、目を閉じて走行の音を聞いた。最寄り駅のホームに降りて見上げると、月のない夜空で、そう言えば今日は曇りだったなと思い出し、同時に、前夜には弧を下に向けた細い月を見たという記憶も蘇った。
 帰宅すると何か良い匂いがしたので、ストーブの前に座って、炬燵テーブルに就いた父親に訊くと、天麩羅だということだった。母親は下階に下りたところだと言う。着替えてきて、食事は赤飯に天麩羅、野菜の汁物、小松菜に人参、キャベツといったメニューである。天麩羅がうまく、食事の最初にバランス悪くそれと米ばかり食べてしまった。テレビはカーリングを映しており、食べるかたわらに見つめたが、スイスとの試合で、日本は最終的に負けてしまっていた。
 その後、スピードスケートの映像が映る。日本が金メダルを獲ったと言う。父親はテレビに向かってつぶやきを色々洩らし、実況も熱が入って世紀の試合と言っていたが、こちらには凄さがよくわからないまま、ともかくも映像を見つめた。皿を洗ったあとストーブの前に座ると、金メダルを獲った日本女子チームにインタビューがなされ、三人目の人が、勝てた要因はとか訊かれてちょっと困惑しながら、応援が自分たちの力に変わったし、四人で一体になって力を合わせることもできたと、ありきたりなことを答えていた。インタビュアーは、四人目にはチームへの思いをと向け、選手は本当に最高ですと答えて、そのあとに対話者から視線を外して横を向き、皆、ありがとうと呼びかけたのに、四人が笑い合って、それに誘われてこちらも父親も自然と笑いを浮かべた。
 その後入浴したのだが、湯に浸かり、温冷浴を行い、束子で身体を擦るその二、三〇分ほどのあいだに、実に頭がよく回った。一体、原稿用紙何枚分の言葉がこちらの頭のなかを駆け抜けて行ったのか。しかし、湯船に戻って我が身を振り返って驚いたのだが、今しがた考えていたはずのそうした思念のうち、ほとんど覚えていることがなかったのだ。しかし一つには、自ずと笑えるとか、飯が美味いとか感じられるというのは、普通のことであっても、無数の偶然的な要素がうまく噛み合い重なってそうした瞬間が生まれているわけだから、やはり幸運な、ありがたいことなのだと思っていた。もう一つには、またもや言語や分節の無根拠性というようなことについて頭が巡ってしまったのだが、こうしたことを考えていると世界が解体してしまうのではないかと思いながらも、一向にそうした気配はなかった。年始のあの騒ぎがやはりそうだったのかもしれない、常に頭に言語が渦巻いて止まず、目の前に見ているものが霞んでくるようなあの状態は、もう体験したくはない。あのまま行っていたら、自分は正気を失っていたのではないかという思いはやはりある。だから、この世界の無根拠性とかいうことについても、自ずと考えが巡ってしまう時があるのだが、そんなことを考えていると狂うかもしれないとの懸念も、それに明確な不安は感じなくなったものの、拭い去れずにいまだある。認識論とか存在論とか形而上学を考える哲学者という連中は、一体どうしてそのようなことを考えながらも、不安を感じず、明晰で強固な自我を保ったままでいられるのだろうか?
 思念を巡らせてばかりいたので、自分が髪を洗ったのかどうだったのか、その点がどうしても思い出せなかった(こうしたことは以前にもあった)。多分洗ったのだろうと思ったのだが、髪に触れてその感触を探ってみてもよくわからなかった。風呂から上がり、身体を拭いて髪を乾かしながら、いっそ自分はいつか狂うということを、確定的に信じてしまったほうが気は楽なのかもしれないなと思いついた。いつか自分が死ぬというのは確実である。それを一応今は受け入れられているように(本当にそうかという疑念、また、この先受け入れられなくなるのではないかという疑念も勿論あるが)、自分は狂うということを、先取りされた事実として確定してしまう[﹅18]ということだ。
 洗面所を出ると、父親は歯磨きをしながら落語を眺めていた。こちらは自室に帰って手帳にメモを取る。その振舞いが、熱を帯びている。行動だけを見れば、自分は書く意欲を全然なくしていないように見える。しかし内面の感じとしては、強い欲望に駆られているという感覚はない。見る自分と見られる自分の分離が進みすぎてしまい、観察者の感覚と被観察者の感覚が一致しないようになってしまったのだろうか? ともかくも、不思議なことである。
 歯磨きをしながらゼーバルトを読み、その後、零時四〇分まで読書を続けてから就寝した。

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2018/2/20, Tue.

 二時台、四時台あたりにそれぞれ一度ずつ覚めたと思う。二度目の覚醒時に薬を服用した。何度か覚めながら、最終的に八時五〇分まで寝床に留まった。起き上がって上階に行く。母親の姿がなかったので、もう(……)出かけてしまったのかと思ったところ、洗面所で顔を洗っていると、下階から階段を上ってきたので挨拶をした。冷蔵庫に、自分用に作った弁当の残りらしく、ハンバーグが少々あったのでそれを電子レンジで熱する。ほか、前夜から続く納豆とエノキダケの味噌汁に、生のキャベツのサラダである。
 卓に就いて食べはじめるのだが、久しぶりに新聞をめくって大雑把に記事に目を通しながら食べたため、食事に意識を向けられず、あまりよく味を感じずに食べてしまったことに気づいた。それで最後に残ったキャベツだけは、ドレッシングを掛けて、ゆっくりと集中して咀嚼した。食事を終えた頃には、母親は既に出かけていた。食後、卓に就いたまま窓外の景色を眺めた。見ているものをその場で意図的に言葉にしようとせずに、ただ見つめることを意識して、川沿いの樹々の風にちょっと揺れるさまや、川向こうの屋根に溜まった光や、まだ太陽が低めで光の感触の強い空の青さを眺めた。そうして穏やかな時間を過ごしたあと、台所に食器を運び、ヨーグルトを食べてから洗い物をした。
 皿を洗うと、居間の炬燵テーブルの上に落ちている明るみに惹かれてそちらに寄り、窓辺に立って陽射しの温かさを感じた。それから、掃除機を掛けた。台所や玄関のほうまで掛けておき、さらに外に出て、家の前を掃き掃除した。中くらいの箒を使って、塵取りに葉っぱを掃きこんでいると、名前を何と言うのか知らないのだが、向かいの家に集っている人の一人がおはようございます、と声を掛けてきたので、こんにちは、とこちらも返した。葉っぱをある程度片付けると、林のほうに捨てておき、そうして屋内に戻る。
 洗面所で手を洗い、そのまま風呂も洗った。そして下階に下りるとコンピューターを立ち上げた。数日前にAmazonアソシエイトへの申し込みを行っており、その審査結果が届いているかとメールボックスを見たが、まだだった。大体三日くらいで届くという話を聞いていたのでおかしいなと調べてみると、即日届いていた「Amazon.com Associates プログラム-アプリケーションが承認されました」というメールが、審査OKの知らせだったらしい。それからここまで日記を記して、一一時過ぎである。
 Amazonの審査が通っていたということで、直近の記事で感想を書いたり引用したりした作品について、早速リンクを貼った。それから、読書に入った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』である。と言ってもう本篇は読み終えていて、中山元の解説を音読で追って行く。太陽はもう窓の端に昇っており、その陽射しを求めるようにしながら読んだ。最後まで読み終えると一時前、そのままクッションに頭を預けて、少々微睡みに入った。目を閉じているなかで、うとうとと微睡んで意識が定かでなくなるたびに、呼吸に焦点が戻されるということが繰り返された。二〇分ほど微睡んだようだった。それからまた日記をここまで書き足した。
 そのまま一八日の記事も綴って完成させ、二時を過ぎて、それから豆腐などで昼食を取ったと思うのだが、このあたりのことはよく覚えていないので省略する。
 出勤は三時半である。陽の温もりを背に受けながら街道を行く。歩くあいだに思考が巡ったのだが、脳内に勝手に考えや言語が湧き上がってくるとは言っても、考えは考えに過ぎず、言語は所詮言語に過ぎない。それは明らかに自分そのものではなく、完全に切れているわけではないが、完全に繋がっているわけでもない。実際自分は、道行く人を見て、その人を殺すというイメージ、あるいは殺すという言語を考えたとしても、それを行動に移すことは勿論ないわけで、自分の頭に生じてくる思念や思いを拾い上げ、それに同意し、行動の面に反映させるという段階、その領域の原理が存在していなければならないはずである。そして、今のところ自分のうちでは、その同意の原理は自動的に、概ね正しく働いているようだ。考えは自分そのものではないのだから、どのような考えが湧いてきても自分はそれに、完全に影響を受けないということはないだろうが、少なくとも飲み込まれることはない。馬鹿げた考えが浮かんだとしても、自分はそれに説得されない。このようなことを考えて、自分は適切に行動できるだろうと言い聞かせた。
 そうした考えが説得的だったのだろうか、この日は勤務をしているあいだ、どこか明るいような気持ちでいられ、言葉を発することにも支障を感じなかったと思う。退勤すると、電車に乗り、座席に座って瞑目し、呼吸に意識を向けた(この日は全体的に、呼吸によく立ち戻ることができたと思う)。降りた最寄り駅のホームに、もう雪はなくなっていた。
 帰宅すると、八時頃である。職場から貰ってきた菓子をテーブルの上に出した。母親は、食べている蕎麦を示した。これはカップ蕎麦を鍋で煮込んだものである。いつも通りストーブの前に座って身体を温めるのだが、勤務中、気分は良かったものの、何だか疲れたなという感じはした。しかしそのためか、着替えてきて取った食事(おじや、蕎麦、小松菜や人参など)は自ずと美味いと感じられた。父親がもう帰ってくると言って、母親は風呂に行った。テレビは外国にいる日本人に会いに行くという番組をやっていたが、さほどの興味関心は惹かれなかった。そのうちに父親が帰宅し、母親も風呂から出てくると、九時前である。『マツコの知らない世界』があると言うので、父親が風呂から出てくるとテレビを取られてしまうだろうが、それまで見ようかということになり、皿を洗って炬燵に入った。番組は親子丼の紹介で、これを見ながら自然と笑えたようだ。父親が出てきて食事の支度をすると、こちらは炬燵から離れて、風呂に入ることにした。すぐに番組を変えるかと思いきや、父親は、最近の新たな親子丼の紹介をちょっと眺めていた。
 この日の帰宅後はまた、心が落着いている感じがして、思念があっても気にならなかった。入浴のあいだも呼吸を意識し、出てくるとテレビにはノルディックスキーの様子が映っている。自室に戻って、手帳にこの日のことをメモした。時刻は一〇時半、そこからW・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を読み出し、零時過ぎまで読書を続けた。小さな声で音読をするわけだが、この読書もあまり余計な思念が湧かず、かなり集中できた覚えがある。と言って余計な思念が湧かないということは、考えを巡らせる時間もなかったということで、あまり特別に印象に残っていることもないのだが、全体的な感触としては、ゼーバルトのこの本は読んでいてなかなか手応えがあるものである。書抜き箇所としては、冒頭近くの、フローベールについての一挿話をメモしたが、これはもういまここで書き抜いてしまおうと思う。

 (……)ちなみに自分の考えを話しながらときにこちらが心配になるほどの興奮にたびたび陥ったジャニーンが、ことのほか個人的な関心を込めて探究していたのが、書くことに対するフロベールの懐疑についてであった。ジャニーンの言うには、フロベールは嘘偽りを書いてしまうのではないかという恐怖に取り憑かれ、そのあまりに何週間も何か月もソファーに座ったまま動かず、自分はもう一言半句も紙に書きつけることはできない、書けばとてつもなくみずからを辱めることになってしまう、と恐怖していたという。そんな気持ちにかられたときには、とジャニーンは語った、フロベールはこの先将来、自分はいっさい執筆などしまいと思ったどころか、過去に自分が書いたものはどれもこれも、およそ許しがたい、測り知れない影響をおよぼすだろう誤謬と嘘がたてつづけに並んでいるだけのものだ、とかたく思い込んでいた。ジャニーンの言うのは、フロベールがこのような懐疑を抱いたのは、この世に愚鈍がますます蔓延していくのを目にしたからであり、そしてその愚かさがすでに自分の頭をも冒しつつあると信じていたからだった。砂のなかにずぶずぶと沈んでいくような気がする、とフロベールはあるとき語ったという。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、11)

 歯磨きをしながらまたちょっと読んで、零時を回ったところで就床である。

2018/2/19, Mon.

 四時半頃だったろうか、一度目覚め、薬を服用してふたたび寝付いた。最終的な覚醒は八時五〇分である。ちょっと寝床に留まってから抜け出し、上階に行った。母親は(……)仕事で、既に出かけていた。前夜の残りの秋刀魚と、ポテトサラダ、それに即席の味噌汁を用意して食べたが、そのどれも美味く感じられた。特に、ポテトサラダを食べているあいだに、林檎が混ざっているものだったのだが、その甘味のあるのが舌に美味しく感じられた瞬間があった。
 食器を洗ってから浴室に行くと、湯が多く残っているので洗わなくて良いとの書置きがあったので、それに従って放置し、台所に出てヨーグルトを食べた。この時、ヨーグルトの味に集中せず、意識を向けずにさらりと食べてしまったことに食べ終えてから気づき、もっと味をよく感じれば良かったなと思った。諸々行動しているあいだ、例によって音楽や思念が次から次へと湧いてきて、これはもう仕方のないものなのだが、それに気づき、サティの呪文を入れることでそうした頭の流れがあっても気にならなくなってきたようである。
 室に降りると、コンピューターをちょっと弄ってから、読書を始めた。一〇時半で、ベッドに乗ると陽射しがまだよく顔に当たる時刻である。そうして音読していると眠気が差して目を瞑る数分もあり、正午近くに至って読書を終えても(本篇は読み終え、中山元の、なかなか長く力の入っているらしい解説の冒頭まで辿り着いた)、目を閉ざして休んでしまった。その五分ほどのあいだに、何やらよくわからないし覚えてもいないイメージがやはり展開し、巻き込まれるのだが、そのあとになってそこから出て、妄想、妄想という風にサティを入れることもできる。
 上階に行く。母親は、午後からはまた「(……)」の仕事で出かけるのだが、一旦帰ってきており、食事を取りはじめたところだった。こちらはソファに就き、脚を前に伸ばして、一休みする。それから母親の作ってくれたうどんを丼に用意し、味が薄いと言うので麺つゆをちょっと足し、また、スチームケースに入った生野菜も電子レンジで熱して卓に運んだ。そうして母親と言葉を交わしながらものを食べる。ほか、薩摩芋と林檎があったのだが、食べるもののどれも美味しく感じられた。食べ終えても卓に就いたまま一息ついていると、母親が、もう洗濯物を入れてしまおうと言ってベランダのほうに行き、吊るされたものを取りこみはじめたのだが、明るい空気のなかのその姿を見ていると、何故なのか、どのような思いなのかわからなかったが、涙の感覚が目の奥から湧いてくるのを感じたものの、そこまで高まりはしなかった。その後、皿を洗おうとする母親に、もう出る時間だろうからと制してこちらが食器を片付け、母親の出かけて行ったあとは、取り込まれたタオルを畳んだり、アイロン掛けをこなしたりした。その後、靴下や肌着なども整理しておき、下階に帰る。
 (……)ちょうど二時から日記を書き出して、現在二時半前である。
 それから、ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』および、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』の書抜きをした。ビラ=マタスのほうに、「フェルナンド・サバテールは、スペインのことわざ「物事を哲学的に受け止める」というのは、諦めをもって受け止める、あるいは真剣に受け止めるという意味ではなく、喜びをもって[﹅6]受け止めるという意味だと書いている」と紹介されているが、本当にそうありたいものだなあと思った。書抜き後は一七日の日記に取り掛かり、三時四〇分まで綴ると、運動に移った。あまり時間がなかったので、柔軟と腕振り体操のみ行って、すると四時である。
 上階へ行った。台所に入って鍋をひらき、うどんが残っていることに気づいた。炊飯器の米は残り少なく、やや固まっていたので茶漬けにすることにして、余った分は皿に取ってラップを掛け、冷蔵庫に入れておいた。食事は集中することができて、味をよく感じながら食べられたようだった。ものを食べ終えると、窓の外、川向こうから煙が薄く立って流れて行くのを見つめる。
 そうして皿を洗い、米を研いで、ポットに湯を足しておき、下階へ下りて、歯ブラシをくわえながら自室に戻った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』を読みながら歯磨きをして、身支度を整えて出発である。
 この日のあとのことはほとんどメモを取っておらず、思い出せないので省略しようと思うが、出勤時、三ツ辻で八百屋の旦那らと会話できたことは心に残っている。(……)

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2018/2/18, Sun.

 一度目覚めたのは、確か五時半頃ではなかったか。もう心身の緊張感はほとんどないので、そのまま寝付き、短い眠りを何度も繰り返して、最終的に九時二五分に至った。カーテンをひらいて光を顔に受け、巡る思念を感じながら一〇分ほど寝床に留まり、そうして身体を起こした。上階に行く。
 母親は既に(……)仕事に出かけていて不在、父親は休みだと思うが、多分前夜は帰ってきたあとも結局酒を飲んだのだろうから、まだ眠っているのだろう。こちらは便所に行って用を足したり、顔を洗ったりした(髪は前日に切ったので、もはや梳かす必要がない)。食事のためには、焼き鮭が新たに拵えられており、前夜帰ってきてから母親が作ってくれたワカメと大根の汁物に、前日の天麩羅の残りもあった。それらを支度しているあいだ、あらかじめ意図してそうしていたわけではないのだが、例えば頭のなかに音楽が勝手に流れ出した時に(大体、運動の時に流しているtofubeatsの音楽のなかのどれかなのだが)、「音楽、音楽、音楽」という風にサティ(気づき)を三度唱えている自分がおり、それを繰り返しているうちに、こう唱えれば短いあいだであっても自生音楽が消えるなということに気づいた。これは勿論そのほかの、よくわからない断片的な思念とか、妄想の類とか、思考の勝手に展開しそうな気配とかにも適用できるものである。言葉でもってサティを入れるというのは、(流派にもよるようだが)ヴィパッサナー瞑想の基本的な技法なのだが、自分はもうそのように言語化せずとも気づけていると思っていたので、長らくこれをなおざりにしていた。
 しかし、飯を食っているあいだに考えたところでは、このサティの「呪文」は、要は「差し止め」の効果を発揮するのだ。何か自分にとって望ましくない感情、思念の類が頭のなかに生まれた時に、それに気づき、それに単純な文言=概念を当て嵌めて思念をそれに還元することで、脳内の動きの上から/あるいは反対側から、対抗勢力としての気付きの文言を、言わば差し当てることになり、それ以上の思念の拡大、増幅を防ぐことができるのだ。(本当のヴィパッサナー瞑想とは、そのように思念に「望ましい」「望ましくない」の区別すらせず、すべてを等しく「観る」ものなのかもしれないが、こちらにはそのような境地は無理である)。遊泳する思念を差し止めた結果、意識の志向性は、いま現在、自分が行っていることに焦点を合わせられる。そこでは、「自己との一致」が実現するだろう。つまりは、メタ認知が「見られる」側の自己と密着し、常に寄り添っているような状態がほとんど自動的に維持されること、それが現在に留まり続けるということの理想的な到達点なのかもしれない。
 現在の自分の状況としては、こちらが意図してもいないのに勝手に思考が展開すること、また、勝手に頭のなかで音楽が流れだすこと、さらには、本気で思っているはずもない思念が浮かんでくるということが鬱陶しいのだが、サティ=気づき=差し止めの技法によって、これらに煩わされることを防ぎ、それらを消滅させるのは無理だとしても、うまくそれと共存していけるのではないかと思ったものだ。思考をするにしても、思考をしたいと思っていないのに勝手に思念が流れるのが鬱陶しいのであって、「自分は今思考をする」という選択・判断の下に、ゆっくりと脳内で考えをまとめる時間を取れば、それは「自己との一致」がなされているわけだから、問題ないはずだ。実際、上に書いたような事柄も、食事のあいだに箸を止めたり、食事を終えたあとに座ったまま考えたことである。
 こちらとしては、雑念の類に気づいたら、サティを三回唱えて、その時の行動もしくは呼吸に戻る、というプロセスを生活のなかで繰り返して習熟させて行きたい。そのなかでもこちらとしては、やはり呼吸に戻り、呼吸とともにあることを意識するということが肝要なのではないかという気がする。なぜなら呼吸とは、心の働きや身体感覚と密に結びついており、存在性の証だからである。技法の過程に慣れていくうちに、サティを省略して、呼吸に戻るだけで雑念を散らすことができるようになってくれはしないかと見込んでいる。
 こうしたことを考える一方で、新聞をめくって、藤井聡太棋士羽生善治に勝って優勝もしたという記事を見やったり、書評欄をちょっと眺めたりもした。そうして立つと皿を洗い、そのまま風呂も洗ったあと、ヨーグルトを食べて下階に下りた。一〇時五〇分から日記を綴って、現在一一時半前である。
 それから、読書に入った。ベッドで布団を被りながらルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』を一時間ほど読み(今日は九時台まで眠ってしまい、読み出す時間が遅かったので、太陽は既に窓の隅のほうまで昇っており、あまり陽射しを浴びることはできなかった)、その後、隣室に入ってギターを弾いた。そうして一時を回ると、自室に戻って、小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』を流して、運動を行った。腕振り体操を始めにやり、柔軟のあと、力を籠めて腕立て伏せに腹筋、背筋、スクワットと運動をこなして、四五分を掛けた。
 そうして上階に行くと、母親が帰ってきている。肉まんを買ってきてくれたので、それを一つと、大根とワカメの汁物にゆで卵を食べる。母親がちょうど録画したテレビ番組一覧の画面をひらいていたところだったので、『マツコの知らない世界』を見ようかということになった。ちゃんぽん麺と、公園遊具の回である。視聴しながら、ものを食っている最中なのだが、ちゃんぽん麺が食べたくなった。それで、しかしこの付近に店はないよなあと母親に振ったところ、(……)の一階に入っていると言う。煎餅をかじり、またアイロン掛けをしながら公園遊具の回のほうも見て笑い、その後、ソファに就いたのだが、母親が次に選んだ番組をそこでそのまま視聴してしまった。城みちるという人の歌手活動や半生を紹介したもので、その物語を大方追ったあと、ストーブの石油を補充しに外に出た。勝手口のほうへ回り、ポンプが液体を汲んでくれるのを待つ。空は素晴らしく晴れて、希薄な青さに澄み渡っていたが、風が流れるとダウンジャケットを羽織っていても少々肌寒かった。待ちながら考えたことに、今自分は、両価性と呼ばれるもので合っているのかわからないが、何かをしたり何かを見たりした時に、くだらないとか、どうでも良いとか、そのようなネガティヴな想念がたびたび湧き上がってくるような症状(以前にも、何かをくだらないと思うことはあったはずなのだが、今はそれが気になってしまうのだ)に、少々悩まされている(悩まされていると言ったって、実際行動はできているわけなので、大したことはないのだが)。また、ギターを弾いたり、文を書いたりと、自分が気が向いてやっているはずのことをやっている最中にも、自分はこれをやっていて本当に楽しいのか、本当にこれをやりたいのか、自分は本当にそのように感じているのか、などといった風に、疑いの念が自動的に生じてくるようなことがある。自己客体化がそのような相対化、懐疑と結びつきすぎてしまい、単純で「純粋な」感情とか感じ方がなくなってしまったように思われ、これが行き過ぎて自分が妙な方向に変化してしまったり、物事についての判断を下せなくなったり、適切な行動が取れなくなったりすることを自分はおそらく怖れているのだが、しかしそれらは結局、すべてこちらの心のなかで起こっていることであり、それ単体では外部の世界には何ら影響を与えない。実際に自分の外側の世界に何らかの影響を与えるのは、こちらの行動や言動であり、今のところ自分は、上のような悩みや迷いがあるにしても、日々、実際に行動することができている。しかも、他者(家族)のことをより考えるようになったり、他人とのコミュニケーション=会話に対する志向が以前よりも強まっているらしいことを思い合わせると、むしろ良い行動をできるようになっていると言っても良いのではないか。そういうわけで、自分は上のような想念の悩みを無理に消滅させようとせず、それも(上述したサティの技法も時折り用いながら)客観視して(と言うか、自動的にそうしてしまうのだが)、自分に起こる変化を待とうと思う。勿論、悪い方向に変化して、悩みがより深まってしまうこともあるかもしれないが、それはもう仕方がない、その時はその時である。精神の動き、働き、その変容というものは、自分にはもはやどうにもできないものなのだ。
 そうして室内に戻り、タンクをストーブに戻しておくと、自室に戻ってきて、ここまで日記を綴った。この日記というものも、もはや自分がやりたくてやっているのかわからないのだが、そうした「わからなさ」と相反するように、自分は以前よりも頻繁にメモを取り、細かく綴るようになっている気がする。自分自身などというものがわからなくとも、人は動けるのだ。そうして、ともかくも実際に自分がそのように行動しているという事実は、一つの支えにもなる。
 一六日の日記も綴って完成させると五時、Oasisを流して腕振り体操をした。そうして歯磨きをしたり服を着替えたりしながら、やや明るいような気分になっているのに気づき、ありがたく思った。
 五時半頃に出発である。母親が、坂の上まで歩こうとついてきた。並んで歩きながら坂を上って行き、三ツ辻まで一緒に行ったところで別れ、こちらは街道に出た。道中に特段の印象は残っていない。思念もあったが、記憶に残っていないので、神経症的な凝り固まりというのはなかったらしい。
 駅に着いて電車に乗ると瞑目してしばらく待ち、(……)で降りる。駅舎を出て図書館に入り、CDの新着を見ると、Ella Fitzgeraldアムステルダムでの録音があった。Suchmosを探しに行くが、見当たらない。そうして雑誌の棚に寄り、「新潮」の日記リレーに目を通す。興味の対象となるのは、蓮實重彦古井由吉柄谷行人あたりである。最初は棚の前に立っていたが、途中から席に座って読んだところ、蓮實の欄は、息子重臣の葬儀だか別れの会だかの日から始まっていた。ほかの日では、山岡ミヤ『光点』という、すばる新人賞を獲ったらしい小説の構造を「透視」したとあり、優れた小説だと褒めていた。その後、古井と柄谷のものも読んだが、やはりそれぞれの色があるなという感じを受けた。
 そうして上階に行くと、新着図書の棚の横に、追悼石牟礼道子の特集が組まれている。新着図書に目を向けていると、横から突然挨拶をされたので見れば、(……)が上階から下りてきたところだった。こちらはその後、海外文学の棚を見に行った。ロシアのあたりを見ている時に、これも読みたいなと自然に心中に言葉が湧いた瞬間があり、それを自覚して、やはり自分はまだ本を読みたいという気持ちがあるのだと安堵した。棚を見て回るが、時間はあまりなかった。ゼーバルト土星の環』を借りることに決めて、持って書架を出たが、貸出機が使用中だったので、哲学のほうをちょっと見てから戻り、手続きを済ませた。それから石牟礼道子特集を見やって、集められていた全集をちょっと手に取りもしたが、もう予定の時刻、六時五〇分に至っていたので、やや急いで退館した。鞄を持ってこなかったので、ゼーバルトの本はそのまま手で持った。
 職場の送別会があったのだ。通路から下りたところに皆が集まっていたので、合流し、居酒屋に入った。人数は全部で一三人ほどであり、最初は男女別に二つのテーブルに分かれた。料理は、サラダや、刺し身や、白身魚のフライや、味の濃いめな鍋料理などである。どれも美味くいただけた。一時間半ほど経ったところで、即興で籤が作られて席を移動することになり、こちらはもう一方のテーブルに移った。じきに、ここで職場を離れる二人に対して、花やメッセージを付した色紙や餞別の品が贈られ、その後も会は続いたのだが、話したことなどを細かく書くのは面倒臭いし、それほど印象に残ったこともない。ただ、この飲み会のあいだは、特に余計な思念が回る間もなく、自然なようにいられ、またたくさん笑えたようだったので、帰路には安心した。一一時に至ったところで、(……)が突然の声を上げておひらきとなった。
 諸々省略してしまうが、皆で(……)まで戻り、ほかの面子は二次会に繰り出す流れだったが、こちらは歩いて帰ることにした。別れを告げて歩き出すと、(……)がついてきた。この人はここで職場を離れる人なのだが、表通りまで見送ってくれ、まだ会う機会はあるでしょうからまた、と挨拶を交わして別れた。夜道を黙々と歩くあいだ、本を持った手がじんじんと冷えて、時折り持ち替えてポケットに避難させながら行った。
 帰宅するとちょうど零時頃だった。炬燵に入って手と身体を温め、手帳にこの日のことを少々メモに取ってから、入浴した。あとは読書を少々行って、一時半に就寝した。

2018/2/17, Sat.

 五時になる前に一度覚めたのではないか。覚醒時の緊張感というものも、最近ではだいぶ薄れて、この日も身体を動かして薬を飲むのが億劫で、そのままに任せてふたたび眠った。七時過ぎ頃から意識が浅くなり、七時四五分に自ずと覚めた。夢を見ており、詳細は覚えていないが、何か一帯の危機のなかで我が家は悪者扱いをされて、ボウガンで狙われている、というようなものだった。夢中にいる時には危機感も覚えていたと思うのだが、こちらの不安が反映されたものなのだろうか。
 八時を迎えると身体を起こして、便所に行ってきてから室に戻り、この朝は起き抜けに腕振り体操をしてみた。しばらくベッドの上で腕を前後に振ってから、上階に行き、母親に挨拶をする。ストーブはちょうど消されたところだったが、床に陽が落ちているのでそのあたりにちょっと座り、それから洗面所に入って顔を洗って髪を梳かし、台所に出て食事を用意した。鍋には前夜の汁物、フライパンには餡掛け風の炒め物があったので、それぞれをよそって卓に就く。テレビはオリンピックの報道をしていた。そちらを見やったり、母親の話すことに耳を傾けたり受け答えをしたりして、食事の味にばかり意識を向けることができなかったが、それでも食べていてどれも美味く感じられた。
 食器を洗って風呂も洗ったあと、洗面所の床にしゃがみこむ。と言うのは、母親がそこでネックレスの飾りを落としてしまい、行方が知れないのだということで、一緒に探してくれと頼まれたのだった。それでものをどかしたり、床の各所を注視したりするのだが、何しろ小さなものなので容易に見つからないなと思っていたところが、母親があった、と声を上げた。戸口の引き戸の隙間あたりに転がっていたようである。良かったと言って場を離れ、居間に出ると、明るい光が炬燵テーブルの上に落ちている。それに惹かれて、その上にあぐらをかいて乗り、温もりを感じながらヨーグルトを食べた。そうして下階へ下りる。
 コンピューターを点けると、インターネットを覗いたあと、一月一五日から二月一四日までの収支を整理しておき、それから日記を書いた。ここまで綴って一〇時ぴったりである。
 それから、ギターを弾いたのだが、弄りながらまた殺人について思念が流れるのを感じた。ノイズのようなものである。一人でいる時には、ノイズのような脈絡のない思念がずっと流れており、端的に言って自分の頭はひどく雑念まみれなのだが、しかし段々、それらに影響を受けないようになってきているのでは、という気もした。
 それから読書を行った。音読をしているうちに眠くなったのだが、天井が鳴ったので正気付き、上階に行ってみると、母親が天麩羅をやっていた。トイレに行きたいから見ていてくれと言うので了承し、そのまま揚げる仕事を担当した。具はエリンギに玉ねぎ、セロリの葉っぱである。それらを揚げ、昼食にはほかに水沢うどんというコシのあるうどんが用意され、また朝の炒め物の残りもあり、それぞれ分けて三人で食べた。どれも美味しくいただくことができた。食後、皿洗いを済ませてからさらに、父親がバレンタインデーに会社で貰ってきたチョコレートケーキとGODIVAのチョコレートをいただき、これも美味かった。そうしていると、母親がLINEだかViberだかの通知を発見し、何でも兄がチェコ料理店に行ったとのことである。豚の膝の肉を食ったらしいが、そのメッセージや写真を見せてもらった。
 自室へ戻ると、ルソーを音読し、続けて歯を磨きながら一時四五分頃まで読んだ。そうして、服を着替えて美容院に向かう。玄関を出ると、父親が水場で大根を洗っていた。行ってくると告げて、ゆっくりと歩いて行く。木の間の坂に入って上って行くと、道の脇、草木の手のつけられず自然そのままになっている空間から、こちらの足音を聞きつけて、鳥が何匹も羽音を立てて飛び立って行った。
 美容院ではちょっと待つ時間があったので、日帰り旅行特集の雑誌を手に取り、暇潰しに眺めた。金沢の頁を見ると、何でも鈴木大拙館というものがあるらしい。じきに呼ばれ、髪を洗ってもらい、鏡の前の椅子に就く。ここでも少々待つ時間があったが、(……)(助手の女性)の持ってきてくれた本や雑誌のなかから、今度は箱根についてのものを選んだ。箱根にも、彫刻の森美術館というものがあるらしく、ニキ・ド・サンファル作の彫像が置かれていたり、またピカソを特集したピカソ館というものもあるという。
 その後、ほかの客の世話が済み、美容師の婦人が来ると、今年は雪が降って以来寒かったですね、などと世間話をしながら、髪を切ってもらう。最近は筋肉をつけたいと思っているとか、やはり足腰が大事なのだろうとか、そうした何でもない話をするのだが、最近ではこうした雑談のスキルが上がったようで、以前と比べると結構こちらから話を継ぐことができたようだ。
 一時間ほどで散髪を終えると、戸口でありがとうございましたと二人に向けてそれぞれ頭を下げ、帰途に就いた。髪が短くなったので、やはり風が冷たく感じられたが、坂を下りて道に出ると、陽射しの恩恵があった。帰宅すると、母親は録画した『しゃべくり007』を見ていたところで、こちらも炬燵に入って、ちょうど三時でそのまま『マツコの知らない世界』の傑作選を視聴した。大学博物館と、シャボン玉兄弟の回である。最初のうちは、近くにやって来た反核団体か何かの演説が被さっていたのだが、じきに声は聞こえなくなった(母親は、畑のほうで働いている父親に飲み物などを持って行こうと用意していたようだが、団体がいるのに気後れして出ていきかねているようだった)。
 四時である。ギターを弾いたあと、自室に戻ってメモを取り、そのまま一五日の記事を三〇分間綴った。それで五時一五分、六時頃には家族で出かける予定だったので(ピザ屋に飯を食いに行き、ついでに近くの公園で星を見ようとのことだった)運動に入り、腕振り体操や各種トレーニングをこなすと、歯磨きをして、運動のためにジャージに替えていた服をもう一度着替えた。ちょうど六時頃に出発である。
 行きの道は父親が車を運転し、こちらは母親と並んで後部座席に座った。(……)を越えて埼玉のほうへと抜けるのだが、道中は実に暗く感じられ、電灯もあまりないようなところに家の灯が乏しく見られるような具合の場所もあり、ここにも人がいるんだなというような感じを抱いた。母親が、病院だか老人ホームだかがそのあたりにあるでしょうと言うのにも、その施設だか定かでなかったが、建物のいくつも並んだ窓の光を眺めて、そこに入っている人の暮らしを想像するような、そうした生、そうした生活もあるのだよなと思いを寄せるような心が働いた。
 ピザ屋には二〇分ほどで到着したと思う。車から降りると、宵の青さのなかに小さく湧いた雲の形がよくわかる空だった。店は、(……)という名前だった。六時半に予約を取ってあった。席に案内され、父親はビール、母親はノンアルコールのもの、こちらはジンジャーエールを飲み物に注文し、ほか、ミックスサラダにホタルイカのパスタ、ピザは、オーダーを聞きに来た女性店員(この店員さんを見た時、自ずと素直に、綺麗な人だなとの思いが湧いた)に野菜の乗っているものはと尋ねて、メニューのうちから指されたそれにした(名前は忘れてしまった)。
 サラダを三人で分けると思いのほかに量がなかったので、もう一種類の、タコとオリーブとジャガイモのサラダを追加で注文しようとしたが、タコを切らしているとかいうことだったので、代わりにバーニャカウダを注文した。ピザは、エビと緑の葉っぱの乗ったものだった。それを分けて賞味し、パスタを食い、バーニャカウダのあと、最後にカキフライを食べて終いとした。
 退店すると、母親が傍のスーパーに寄って行くと言ってすたすた歩いて行くので、そのあとを父親と二人でついていった。店内では父親がカートを押し、こちらは、ヨーグルトや茶漬けや即席の味噌汁などを籠に入れて行く。会計すると品物を袋に詰めて外に出て、寒い寒いと言いながら車に戻った。
 それから、近くの展望公園に移動した。夜気の冷たいなか、階段を上って行くと、頂上は円い広場になっていた。ほかに犬の散歩の人が一人おり、明かりはその人が持っているライトのものしかなく、高校生くらいだろうか、若者が二人いたのだが、暗闇のためにその姿も見えなかった。父親は寝転がって、星がよく見えると言っていたが、見上げた星空の明度としては、自宅の周りとあまり変わらないように思った。こちらとしては星よりも、町並みが一望できる周囲の見晴らしの良さがよく、特に、方角はわからないが、一方の果てに町の灯が並んで、地平線にうっすらと赤く、横線が引かれて浮かんでいるのに心惹かれた。じきに、罰ゲームの類か、若者が音楽を流し、スピッツの"チェリー"を歌いはじめた。少々やけっぱちのような声だったが、酒を飲んでいた父親が途中で声を上げて拍手を入れ、こちらも口笛をちょっと合わせて吹いたりした。終わると拍手を送り、それで我々三人は帰ることにした。
 帰りの車中では母親が、今度カラオケにも行こうよとこちらを誘ってきた。別に、と言ったが、それほど拒否する心も起こらなかったので、その時の気分で、と落とした。車内には兄が置いていったものらしく、Mr. Children『IT'S A WONDERFUL WORLD』が掛かっており、何かの拍子に音量が上がったので、歌いながら家に着くのを待った。帰宅すると、八時を過ぎたところだった。
 ストーブで温まってから自室に下りた。この時、本当に時間が過ぎるのが速いという感じがした。いつの間にかまたいまここにいる、ここまで来ていると気づく瞬間が何度もあって、コンピューターに向かい合った際にも、そう感じたのだが、それに不安を覚えはしなかった。この日のことをメモに取っておいてから、入浴に行く。
 風呂を浴びるついでに洗面器でストールを揉み洗いした。出ると洗濯機で脱水し、スーパーで買ったチョコデニッシュパンの、母親の食べたあとの半分が残っていたので、それをいただき、大根もおろして腹に入れて胃を助けた。自室へ帰ると一五日の日記を書き、インターネットを閲覧して零時近くになるとそこから読書に入ったが、途中で気を失った。起きると洗面所で短く歯を磨き、一時頃に就床した。

2018/2/16, Fri.

 五時になる前に一度目を覚ましたが、もう心身に緊張感はさほどないようだ。薬を飲むのも億劫で(あるいは服薬せずとも眠れるか試してみるような心もあって)そのまま寝付き、多分二度ほど覚めながら最終的に七時五〇分まで眠った。起き抜けの自動思考の渦巻きというのも、もうほとんど気にならなくなっている。この朝は一体どういった連想からなのか、"In Your Own Sweet Way"が鳴る時間があったと思う。カーテンをひらくと、比較的すぐに起き上がる気力が身にやってきた。
 上階に行き、母親に挨拶して、便所に行って放尿する(最後に起きた時、下世話な話だが股間の膨張、いわゆる「朝勃ち」があり、ということはおそらく身体的にはおおよそ健康だということなのだが、同時に尿意も大きかった)。それから洗面所に入り、櫛の付いたドライヤーで無造作に伸びた髪を梳かす(明日、切りに行く予定である)。特段のおかずはなかったので、卵を二つ、焼くことにした。黄身を固めないままにそれらを丼の米に乗せ、ほか、前夜から続く野菜スープや、ブロッコリーと人参である。卓に就いた時、初めはテレビはNHK朝の連続小説『わろてんか』を映していたが(このドラマに関してこちらに特段の関心はなく、以前は見ていたらしい母親も、先日、最近はあまり面白くないと言っていた)、じきにそれが終わると朝の情報番組『あさイチ』に移り変わる。内田有紀という女優が出演しており、彼女の最新出演作として、宮部みゆき原作『荒神』という作品が紹介されていた。江戸時代を舞台としていながら、「ゴジラ」に出てきそうな少々グロテスクな怪獣をCGで構成して混ぜ込むという趣向らしく、その舞台裏、メイキングの映像が少々見せられたのだが、怪獣の部分は実際の撮影の時には、緑色の棒を十字に組み合わせたものをスタッフが掲げて、怪獣の動きを模してのしのしと歩いていたり、やはり緑色の全身タイツ的な衣装に身を包み、バランスボールのようなものを抱えたスタッフに向かって役者が突撃していって、怪獣に跳ね飛ばされるシーンを撮っていたりと、そうした内情の暴露はちょっと面白かった。
 母親の分もまとめて皿を洗い、それから風呂を洗って、シャワーで浴槽についた泡を流していると、インターフォンが鳴るのが聞こえた気がした。水を流し続けていたのだが、母親が出て行く様子がないので、シャワーを止めて、直接玄関に出ていくと、やはり人がいて、母親が修理を頼んだバイク屋である。修理の終わったのを届けにやってきたのだ。少々お待ち下さいと告げ、下階に下りて、バイク屋の人が来ていると母親に知らせた。そうしてもう一度玄関に戻り、いま参りますのでと言っておいてから、あとはやって来た母親に任せてこちらは浴室に戻り、風呂洗いを完了させた。「(……)」というらしいこのバイク店は(この店のある地域には、同僚にも一人いるので多分それと同じく、「(……)」と漢字を書くのだろうが、この名字の人が多いらしい)、父親によるとぼったくるという噂だということだったのだが、ちょっと見たところでは愛想の悪くなくて明るい感じの人で、特段悪徳というような印象は受けなかった。
 そうして白湯を持って下階に戻ると(裸足で歩くと床が大層冷たいので、靴下を履いた)、コンピューターを立ち上げ、前日の記録を付けたのち、今日の記事をここまで書いた。九時二七分である。
 それから、伸びていた手の爪を切ることにした。傍ら、何らかの音楽を掛けたいと思ったが、それでは朝にも勝手に頭のなかで鳴っていた"In Your Own Sweet Way"にしようかと、Miles Davis『Workin'』に入っているその音源を流し、ベッドの上にティッシュを一枚敷いて爪を切って行く。曲が終わると、ライブラリでその上にあった'Round About Midnight』が目に留まり、これを久々に聞くかと、まだ朝九時で陽射しも少々洩れて明るくなってきたところだというのに、"'Round Midnight"を掛けた。この時期のJohn Coltraneは三、四年後の彼とはまったくの別人で、誰が聞いてもわかると思うが端的に言って技術的には未熟であり、むしろここから僅か三年でよく"Giant Steps"のレベルまで持っていったなと、彼の努力のほどを窺って賞賛するような思いがいつも湧く。五六年付近のColtraneの演奏はのちの極端な饒舌さとはまるで反対の、朴訥さ、口下手さ、「煮えきらなさ」とでも言うべきニュアンスをそこここに漂わせているように思うのだが、"'Round Midnight"はしかしその時期のなかでも、比較的うまく吹いているような気がする、と、爪をやすり掛けするかたわらそんなことを考えながら聞いていると、掃除機を持った母親が部屋に来て、その音で音楽は乱されてしまった。バイクにはいくら掛かったのかと訊けば、まだ正式にわからないが、今のところで(……)円とか言った。特に悪そうな人でなかったではないかと言うと、そうだねと母親は同意し、しかし付近ではそういう噂があるのだと、だから(……)(川のこちら側)と(……)(川向こう)とで派閥争いみたいなものがあるんじゃない、と笑って言い、こちらも本当だろうかと笑った。
 爪を切り終えるとその後、日記を僅かに書き足して、読書に入った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』である。ベッドに乗って布団を身体に被せ、窓から射し込む光を受けながら、例によって音読をしていく。しかし、この時の読書はやや散漫で、文を声に出して読みながら気が逸れることが多かったようだ。一一時を過ぎて区切りとしたが、眠気が湧いており、クッションに頭を預け、目を閉じて少々微睡んでしまう。微睡みのなかに安穏と安らいでいることに安心する自分があった。二〇分ほどうとうとと過ごすと、起き上がり、インターネットをちょっと覗いてから、書抜きを始めた。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から長い一箇所、続けて、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』から二箇所を抜いて、そうすると一時も近く、食事を取りに上階に行った。
 母親は既に「(……)」の仕事に出かけており、姿はなかった。洗濯物が室内に入れてあったのだが、まだ陽射しの朗らかさが続いているので、もう少し出しておこうとベランダに吊るした(この時触れた空気の感触に寒さはなく、柔らかな調子だった)。母親は食事の支度も多少しておいてくれたのだが、それらを食べるのは夜に回すことにして、この時はカップ麺で済ませることに決めた。戸棚を見れば蕎麦があったのでそれを選び、胃の消化を助けるために大根おろしを用意する。温めた豆腐にも大根おろしを掛けて、卓に就いて食べはじめた。何の変哲もない、特別なところの何もない簡素な食事ではあるが、どれも美味く感じられた。飯が美味いということは、実にありがたいことである。パニック障害の最も酷かった時期のことを思い出すのだが、あの苦しみの日々のなかでは、食べるものに本当に味が感じられず、「砂を噛むような」という比喩の意味を身をもって体験した一日があった。そこから思うに、人間、食べるものが美味いと感じられているうちは、きっとまだ大丈夫なのだと思う。
 母親が流しに残していった食器もまとめて洗い、片付けて、下階に戻ると日記を僅かに書き足した。現在、一時半である。その後、一四日の記事を完成させてから上階に行き、洗濯物を畳んだらしいが、このあたりのことはまったく覚えていない(現在は、二月一八日に至っている)。
 自室に戻ると運動だが、腕振り体操を久しぶりに行った。腕を前後にぶらぶらと振るだけのもので、パニック障害に陥った初期の頃はよくやっていたものだが、柔軟をこなしたあとに最後にもまたやってみると、身体がほぐれて呼吸が落着いたものとなり、具合は悪くなさそうである。それから、(……)白湯を注いできて、日記を読み返し、続いて、三宅さんのブログも読んだ。最新記事からだいぶ遅れてしまっているのだが、この日読んだ一月三〇日の記事には、渡辺真也という人物によるらしい國分功一郎『中動態の世界』の書評が引かれており、そのなかに興味深い部分が含まれていたので、こちらにも転載させてもらう。存在を意味するbe動詞のルーツが「呼吸」を意味する語だったというのは、こちらが呼吸について考えていたことを裏付けるもので、自分はやはり仏教思想とかインド哲学のあたりをより勉強するべきではないのかという気がするものである。

ペルシャのブラフマニズムから影響を受けたインドでは、そもそも意識は受動的に生まれるものだと認識されており、その思想は唯識仏教において完成したと私は考える。バラモン教の経典ヴェーダでは、梵我一如のことをサンスクリット語でTat Tvam asi(古英訳:That art thou. 我はそれなり)と表記するが、ここでは梵(ブラフマン)すなわち宇宙を、特定できないが故に便宜的に「それ」と表記し、「それ」を「我(アートマン)」と一致させることで、「主体」の成立を退けつつ全てを一元論的に内在化させている。
このasi (as, asmi)が英語のbe動詞(ドイツ語のsein)のルーツだが、これは呼吸を意味し、さらに英語のbe動詞やドイツ語のseinは対格を取らず、右辺と左辺を一格と一格で繋ぐという特徴を持つ。例えば I am a student. という文章では、a student が私と完全に一致するという訳ではなく、地にある私(我)が、天すなわち宇宙の中における[学生]という集合と重なり合い、我すなわち「内(主語=わたし)」と「外(補語としての a student)」の間を、呼吸という再帰的な動詞が繋いでいるのだが、私はこの文法に、同じインド・ヨーロッパ語で書かれたヴェーダの梵我一如の影響を感じる。
呼吸とは、全ての生き物が生命維持の為に常に行い、「吸う」と「吐く」という陰陽を持ち常に自らの身体へと再帰する、対格を持たない特殊な動詞である。「私」と「補語」を一格同士で結ぶ「呼吸する」という動詞は、外部の宇宙と繋がることで存在可能となる私を規定しているから、そこから規定される主格は再帰的である。故に、常に再帰的であり続ける呼吸を意味していたbe動詞やドイツ語のseinが、存在を意味する特殊な動詞になったのだろう。

 その後、また腕振り体操をちょっとしてから、上階に行った。ゆで卵と林檎を食べる。陽射しはもう薄れて、外は白っぽい曇りになっていた。林檎は、一口一口、噛む感触を味わいながら、ゆっくりと食べることができた。そうして下階に戻り、ルソーを読みながら歯を磨いたあと、着替えをした。服を着替えているあいだ、脳内に"'Round Midnight"が流れており、ネクタイを締める一方でその自生音楽を聞く風になったのだが、しかしそれがあっても不安は覚えず、感触としてももうだいぶ薄いようだった。
 上階に行くと、五時まで一〇分余っていたので、靴下を整理し、下着を畳み、それから出発した。坂を上って行くと、出口の付近で風が流れ、篠竹というやつだろうか、斜面の細い竹が鳴りを立て、道の反対側の脇に生えた草々もざわざわと揺れる。しかし、身を震わせるほどの肌寒さは感じなかった。
 労働は余計な思考がなく、問題なくこなすことができ、結構楽しんで他人と話したりもしていたようである。九時半前に退勤すると駅に入り、通路を小走りに行って、電車に乗る。扉際で目を閉じて待ち、最寄りに降りたところ、ホーム上に雪はほとんどなくなっており、シャーベット状になったものが僅かに残っているのみで、それを爪先でちょっと踏んでみたりもした。
 坂を下りて行き、道に出たところで、またもういまここの地点に来ているな、という、いつの間にかまたこの現在に至っているという気づきが訪れた。それに気づいて歩調をちょっと落としたその意志、その動き、それすらも含めて、すべてが自動的に流れて行くような感じがしたが、それに不安を覚えることはなかった。歩きながら自分の横を流れて行く家々や、空などに目を向け、こうしてすべては流れて行き、そしていつか死ぬのだ、と考えると、『ダロウェイ夫人』のなかの一節が想起された。

 そんなわたしでも、一日が終われば次の日が来る。水曜日、木曜日、金曜日、土曜日……。朝には目覚め、空を見上げ、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会ったかと思うと、不意にピーターがやってくる。最後はこの薔薇の花。これで十分だわね。こんなことがあったあとに、死など到底信じられない――これがいずれ終わるなんて。わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……。
 (ヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年、214)

 帰宅すると、ストーブの前に座った。母親が、ここで始めた新しい仕事の資料が鞄に入っていると言って示してみせる。ADHDの子どもの特徴や、彼らに対する接し方の注意などがまとめられたものである。それをちょっと読んでから下階に下り、着替えてきて食事を取った。レンコンと鶏肉、野菜の汁物などである。テレビは『ダウンタウンなう』を選び、五木ひろしが出演してダウンタウンと酒を飲んだりしていたのだが、あまり面白く感じられず、じきに母親が、これ面白いと訊いてきたのに、あんまり、と答えると、彼女は番組を変更した。『たけしのニッポンのミカタ!』である。高齢になっても、五〇〇円で食べ放題バイキングの食堂を続けている八二歳の女性が紹介されるのを眺め、食事を終えると入浴に行った。この日はなぜだか頭や身体が重くて、湯のなかで目を瞑ってしまうほどであり、温冷浴を繰り返してもあまり眠気が散らなかった。束子摩擦も全身をやる気力はなく、腹から胸のあたりと足の裏だけで済ませて、出てくると零時近くになっていた。歯を磨きながらルソーを読んだものの、そのまま続けて読書をする気力もなく、ベッドに倒れ伏してちょっと微睡んだあと、零時に至るとさっさと就床した。

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2018/2/15, Thu.

 一度覚めた時に時計を見ると、五時だった。前日は薬を追加したこともあって、そこそこ眠れたらしい。それからまた寝付き、最終的に覚めたのは八時五分だった。呼吸を意識しつつ少々布団に留まり、身体を起こして上階に行った。
 母親に挨拶し、洗面所で髪を梳かす。食事には、生野菜をレンジで熱したものがあった。ほか、米と、前夜の納豆の味噌汁である。テレビは朝の情報番組で、狭心症心筋梗塞について扱っていて、それを目にした途端、また自分は例の不安神経症で、ここで言われていることを自分の身に当て嵌めて考えてしまい、自分も狭心症ではないかなどと不安を自ら作り出すぞということを直感した。実際、ものを食べつつ番組を目にしながら、自分の身体の諸症状を思い返して頭がそうした方向に向かうのを感じたのだが、もう自分のそういう性向はわかりきっているので、気にしないように努めた。なかでは、家族性高コレステロール症とかといって、悪玉コレステロールが血管中に溜まりやすい病気というものが紹介されていたのだが、母親が健康診断の結果を記した紙を取り出して見てみると、そこで紹介されていた値と同じくらいに悪玉コレステロールの値が高くなっていたようだ。それでやはり塩分を減らさなくてはとか運動をしなくてはと言うので、とにかく歩かないと、という風に言い、のちにも散歩をしてくるように勧めた(ただ今日は、宅配便の再配達があるのでそれを受けなければならないとのことである)。
 食後、風呂を洗って、一度室に下りてから白湯を注ぐために居間に戻ったのだが、そこで、掃除機を掛けようという気になった。それで祖父母の暮らしていた部屋から掃除機を持ってきて、居間や台所や玄関の床を掃除し、そうしてから白湯を持って自室に帰った。インターネットをちょっと覗いてから、早速この日の日記を記しはじめたのだが、その最中、母親が、針に糸を通してほしいと部屋にやって来た。ベッドの縁に腰掛けたまま迎え入れて、道具を受け取り、三本分セットを作った。その後、記述を続けて、現在は九時四六分である。
 一三日の記事も続けて書いてしまったあと、日記の読み返しを行った。最近はブログに、「雨のよく降るこの星で」を始めた以前の過去記事の投稿も進めているため、二〇一六年一〇月一六日のものを読み返したのだが、そこにさらに過去の日記の引用がなされており、磯崎憲一郎の小説についての分析がされていた。それが二〇一四年の自分にしては随分とよく書けているように思われ、いま読んでみても特別反論もなかったので、ここに改めて引いておく。

2014/10/15, Wed.より。

 磯﨑憲一郎の小説には「未知」あるいは「謎」が充満している(それをあらわす記号が「どうしてか」「どういうわけか」「まったく不思議なことなのだが」などのいわば枕詞である)。そのことについて考えていたら、蓮實重彦のこの文章について腑に落ちるようなところがあった。「語ること」と「語られているもの」との無理のない調和による「レアリスム」とは、より具体的なかたちに言い換えると、ひとつには、小説のなかで起こる事象や人物の行動の理由や原因に想像がつく、ということだろう。何か事件が起こったとき、あるいは登場人物が何か行動=アクションを起こしたとき、そこに合理的な理由や原因や動機が設定されている、あるいは明確に書かれなくても読者にその想像がつく。磯﨑憲一郎の小説はまさにこれと逆をいっている。妻がなぜ不機嫌なのか、その理由は読者には明かされないし、想像もつかない、いや、読者どころではなくて主人公たる「彼」にとっても未知のままにとどまる。妻が十一年ものあいだ「彼」と口を利かなかった理由についても同様である。磯﨑の小説には、現実に起こりうることも(物理的な法則などに反していて)起こりえないことも含めて、「理由のわからないこと」=「未知」あるいは「謎」があふれんばかりに詰まっている。それによって、磯﨑の小説は(もしかしたら不安を誘うかもしれないような)奇妙さ、あるいは不気味さ、通常の現実と似ていながらそれとずれている(いわば「偽物の世界」のような)感覚を与える。
 通常の小説においては、人物の行動や事件の展開のあいだに合理的な因果の連関が設定されているか、少なくとも想像がつくため、そこにおいては要約が可能になり、そのような小説を要約してみると簡潔で受け入れやすいかたちにおさまる。磯﨑の小説は合理的な因果のつながりをとらない。我々の世界の論理=合理的な連関とはちがったつながりを事象のあいだに生みだす。本来道のないところに道すじをつけてしまうその手つきはもしかしたら豪腕と形容してもいいのかもしれないし、舗装された道をそれてわざわざ獣道を進むかのごとくでもある。
 蓮實も引用している満月の挿話を例にとって考えてみると、まずここで書かれていることは我々の世界の物理法則には反している、通常起こりえないことである。通常起こりえないことが起こってしまっているわけだが、そこに合理的な理由づけがなされることはない、なぜそれが起こっているのか読者に(そして主人公にも)明かされることはないし、想像することもできない。つまり端的にいって満月の膨張という現象は、原因不明=謎として提示されている(一般的に言われる「謎」というものは解き明かされることを前提としているのかもしれないが、ここにおける謎とはその解明が不可能な、まったくの謎そのものである)。この満月の挿話が前後の文脈とどういったつながりをなしているのか、それもほとんど明らかではなく、というよりはむしろほとんどつながり=物語の展開に寄与する合理的な連関はなく、挿話は挿話そのものとして単体で、独立して提示されている。実際この月の挿話はその後の物語の展開において何の役割も果たさない。当然、月が何を象徴しているのかといった意味の解釈もそこでは成り立たず(なぜならそういった「象徴」は物語の(合理的な)展開や人物の(一貫性のある)心情などとの関連で機能を果たすものだからだ)、むしろ蓮實重彦が言っているように、この挿話はそれ以外のものとの置き換え、別の意味として読まれることを禁じている(そしてそれこそが磯﨑憲一郎の言う「具体性」の内実であると蓮實は論じている)。
 合理=通常の論理からのずれというのが磯﨑の小説における「奇妙さ」の正体なのか?
 ひとはどういうときに「奇妙さ」を感じるのかということだ。通常考えられないこと、めずらしいことが起こったとき、ひとは「なぜか」とその理由や原因を考える(たとえば、通常ひとを殺すということは考えにくい子供が殺人を起こしたとき、その動機に合理的な説明づけをしようとする)。つまり起こりにくいこととその理由づけとは基本的には一体のものだ(つまりひとは謎を感じると解明したくなる)。通常の小説では、なにか起こりえないことやめずらしいことが起こった場合、そこに合理的な理由づけがなされる。磯﨑の小説にはそれがない。つまり謎は謎のまま放置される。

 その後、読書に入り、ゴーゴリの『鼻』を最後まで読み終えた。正午に至り、次に何の本を読むか迷って決められず、インターネットを回ったり、ギターを弾いたりして時間を使ったあと、上階へ行った。母親は、自転車屋へ出かけてきたと言う。自転車の空気を入れてもらい、その後、「(……)」という、少々割高の豆腐屋まで自転車に乗って行き、おからのコロッケとハンバーグを買ってきたらしかった。それから食事に入って、そのコロッケとハンバーグを食べたが、これが美味しいもので、美味い美味いと何度も言いながらいただいた。食後、食器を片付けると米を研ぐ。
 下階に戻ると日記の記述である。コンピューターに向かい合って書き物をしていると、頭を働かせるからなのか、モニターを見つめるためなのか、心身がやはり固くなってくるようだった。それで一時間で中断し、上階に行き、洗濯物を取りこんだ。ベランダに出て、明るみのなかで寒さを感じさせない緩い風を浴びながら、ああ、この瞬間だけでもう良いのだ、などと思った時があった。タオルを畳んで洗面所に運んだところで、インターフォンが鳴った。出ると、近所に住んでいる老婦人、(……)である。母親と二人で玄関に出て彼女を迎え入れ、こちらもそこに留まって話をした。以前よりも会話に加わって、口が自然とよく動き、相槌もよく打っていたようである。話をしている最中に電話が鳴ったのでこちらが取りに行くと、新聞屋で、いまちょっと手が離せないのだと断って戻り、ふたたび話を続けた。
 (……)は、二月七日が祖母の命日だからということもあって、話をしに来たのだろうが、線香を上げるとは言い出さなかった。饅頭か何かの贈り物を持ってきてくれたのに、母親もお返しに漬け物なり洋菓子なりを袋に入れる。(……)が帰る際には、それをこちらが持って、三人で一緒に、杖をつく(……)に合わせてゆっくりと歩いて、彼女の家の戸口まで送って行った。そのまま細道を下の通りに下りて、母親と一緒にあたりを一周する形で家まで戻る。良い天気だった。坂を上って行き、自家の敷地の前まで来ると、福寿草が咲いたのだと母親が言って、林の近くにあるのを示すので、そこまで進んで黄色い花を見下ろし眺める。そうして見ていると車がやって来て停まったのは、(……)で、我が家の向かいの家でちょっとした商売をしている人である。この人は先日我が家を訪れた(……)の娘なので、降りてきたところに、先日はいただきものをしてと礼を言っておいた。そうして、屋内に入る。
 アイロン掛けをしながら考えたことに、ここ最近は感謝の念が自分のなかに訪れることが多い。それはありがたいことだが、それだけではなく、物事に対して意地悪な見方や、自分は口にするつもりのない言葉が、心中に自動的に浮かんでくるような頭の状態になっている。これが何らかの症状なのか(「両価性」と呼ばれるものではないかとも思うのだが)、それとも自分のなかに本当にそのように思う部分があるのか(しかし、本当に感情を伴っているという感じはしない)、それはわからない。どちらにせよ、そのように頭がごちゃごちゃとした状態であるので、はっきりとした感謝の念が浮かぶとそれ自体がありがたいのだが、しかし今はそれが特別なもののように思われていても、これにも次第に慣れていくはずである。その時に自分は、おそらくまた、感謝という感情が自分のなかから薄くなってしまい、感じられなくなるのではないかということに、また悩むのではないか。と言うか、そのようなことを考えるからには、今現在、既にそういう不安があるということだろう。しかし結局、なるように任せるほかはない。少なくとも現在は自分のなかにそれが訪れる瞬間があるということ、いまはそれをただ生きるしかない。
 自室に帰ると、(……)から来ていたメールに返信をして、美容院に電話し、土曜日の二時に予約を入れた。それからちょっと運動をして、出勤前にものを腹に入れるために上階に行った。食べたのはゆで卵に豆腐である。豆腐には刻み葱を乗せて、鰹節も加えて麺つゆを垂らした。卓に就いてものを食べるあいだ、不安はなかったものの、やはり頭がよく回り、自分は統合失調症になるのが怖かったが、我々の存在は、そもそも本当は安定的な統合などしていないのだ、などと考えていた。自我や思念の動きは本当に動的で、常に動き回って止まず、断片的に散乱させられたもので、自己などとというものはその都度の瞬間に仮に立ち上げられる構成概念だということが、ますます腑に落ちつつあると思った。それでは何によって構成されるのかというと、それは他者との、あるいは自分の外にある世界との関わりによってだろう。
 その後、着替えを済ませて、上階に行き、出るまでにちょっとのあいだと炬燵に入った。向かいでは母親がレシートを並べて出して家計を計算している。携帯電話を渡されて、彼女が読み上げていく値段を電卓アプリで打ち込んで行った。それから出発、この日はさほど寒くなかったようである。三ツ辻まで行くと八百屋が来ており、久しぶりに顔を合わせたが、(……)もいる。挨拶をして、今日は暖かいと言っていると、今日は帰りも歩きかと八百屋の旦那が豪快に笑うので、こちらも笑いで受けた。最近は寒いから帰りは電車に乗っちゃうんですよと(……)に話し、風邪を引かないようにねと言ってくれるのに、ありがとうございます、失礼しますと言って場を離れた。以前は、このように他人とやりとりするのにも緊張と気後れがあったのだが、最近はこうした何でもない会話が好きになってきたかもしれないなと思った。
 街道に出る前、ガードレールの向こうでは紅梅が咲きはじめている。葉鳴りが流れるが、その音のなかで身に冷たさがついてこないのに、春が近いなとの感を得て、「春めく」という語から連想して、キリンジ "車と女"が頭に流れた(歌詞の冒頭が、「春めく フェアレディ うわの空に 思い出の雲をつかむよ」というものなのだ)。道中は、前日と違って殺害のイメージに悩まされることがなく、特段神経症的な思考もなかったようだ。
 労働も落着いて、余計な思考もなく集中していたと言って良いだろうが、ただやはりどこかに苦しさのようなものがあった。落着いてはいるがその裏で、何か早く終わってほしいというような心があって、時計もよく見たようだった。帰り際に、(……)について(……)に話しかけられたのだが、電車の時間が近かったので、今日は失礼しますと帰ろうとすると、最近は電車なんですねというようなことを振られた。最近はもう寒いので乗ってしまう、もう少し暖かくならないと、と返すと、お爺ちゃん、と(……)が笑って洩らし、こちらもそれを受けて笑ってしまった。
 電車で扉際に立ちながら、今の自分は、おそらくほとんど常に自分の意識の志向性が見えているために、何かある意味で、気の休まる暇がないのではないかというような気がした。「永井均先生のヴィパッサナー瞑想についてのつぶやきのまとめ~「不放逸は不死の境地、放逸は死の境涯」」(https://togetter.com/li/652043)で「放逸」と「不放逸」について述べられているが、自分のなかからはもしかすると、「放逸」的な時間が段々なくなりつつあるのではないか。そうすると本当に、瞬間が次々と移り変わって行くというか、留まることを知らない時間の流れに押し流されているような、まるで時間というものに操られているかのような感じを覚えることもあるようだ。そしてそうして流れて行った先には、最終的に死が待っている。
 最寄り駅で下りて、通りを渡る際、近くにいた男性が煙草に火をつけた。坂へ入っていくその後ろをこちらも歩くと、煙草の香りが漂ってきて、それが不快でなく思われて、こうしたささやかさをやはり自分は書きたいのではないかと思った。出口が近くなったところで見上げながら下って行くと、木々の影の合間に星が映っている。
 帰宅すると、職場からもらってきたラスクをポケットから出して母親に示し、着替えに行った。食事は、天麩羅である。ほか、米に、薄いジャガイモなどが入った野菜の汁物、ブロッコリーと人参に、ワカメの和え物だった。テレビはオリンピックのカーリングの、日本対韓国の試合を映しており、カーリングというのはルールもきちんと把握していないほど馴染みがなかったが、父親とちょっと話しながら見てみると、なかなか面白いものだった。
 入浴したのち、室に帰って歯を磨きながら、ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』を読んだ。その後メモを取り、零時からまた三〇分ほど読書をしたのち就床したが、本のなかに不安について、こちらの身にはリアルだと、その通りだと感じられる記述があったので、引いておく。

 (……)今、現実にある不幸など大して重要ではない。現在感じている苦しみについては、きちんと受け入れることができる。だが、この先、襲ってくるかもしれない苦しみを心配し始めると耐えられなくなるのだ。こうなったらどうしようと怖々ながら想像すると、頭の中であらゆる不幸が組み合わさり、何度も反復するうちに拡大、増幅していく。実際に不幸になるより、いつどんな不幸が襲ってくるのかと不安にびくびくしているときのほうが百倍もつらい。攻撃そのものよりも、攻撃するぞという脅しのほうがよほど恐ろしいのだ。実際にことが起こってしまえば、あれこれ想像を働かせる余地はなく、まさに目の前の現状をそのまま受け入れればいいのだ。実際に起こってみると、それは私が想像していたほどのものではないことが分かる。だから、私は不幸のど真ん中にあっても、むしろ安堵していたのだ。(……)
 (ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』光文社古典新訳文庫、二〇一二年、13~14)

2018/2/14, Wed.

 例によって三時台に一度目覚める。さっさと薬を飲んだほうが良く寝付けて良いのだろうが、空気の寒さのために、起き上がって布団から少しでも身体を出すのが億劫で、身体はやはり少々緊張感を帯びているのだが、そのまま目を閉じていた。そうすると、イメージの展開がずっと続いたようで、あるいはそれは夢を見ていたということなのかもしれないが、ただ実感としてあまり眠っているという感じはなく、時折り姿勢を変えているうちに、時計をふたたび見るとそれでも時間が過ぎていて、六時頃になっていた。ここで服薬し、するとやはり効果があって心身の感じがちょっとほぐれて、多少眠りらしい眠りに入れたのではないか。ここで夢を見た。蓮實重彦がジャズについて書いた批評文を読んでいると言うか、その文字列だけがイメージとして見えるような感じのものだったと思うのだが、蓮實はレッド・何とかという(レッド・カスケイド、みたいな感じだったと思うが、これは多分間違っており、正確には思い出せない)ジャズピアニストが好きだという話で、このピアニストは勿論実在しないのだが、設定としては、どこかのジャズクラブを根拠地にして五〇年台から三六年間ほどずっと演奏を続け、そのあいだ様々なプレイヤーと共演してきたということだった。どちらかと言えば燻し銀的な、メジャーでないプレイヤーのようで、そうした人を好むというのは蓮實らしいなと思った覚えがある。こちらの夢のなかの蓮實はもう一人、先の人とはまたタイプの違うプレイヤーとしてお気に入りを挙げていたはずだが、それについては覚えていない。また、この夢、というか蓮實の批評文自体に既視感があって、ここ数日で同じ夢を一度既に見ていたような気もする。
 そうして、七時を回り、陽も昇って部屋には明るみが入りこんでいる。これ以上は眠れないだろうという感覚がありつつも、目を閉ざし、あるいはひらいて、寝床に留まってしまうそのあいだ、脳内には高速で、イメージなり完全な形を取らない言葉・声のようなものなりが、まさしく渦巻いており、次々と流れすぎて行く。その流れはほとんどが記憶に残らないほど速く、まさに奔流といった感じなのだが、その動きが自分で見えるのだ。こんなものを頭のなかに抱えていながら、よく自分は生活をこなせている、狂わずにいられるなと思い、これが今よりも酷くなってしまうと、ことによると狂うのかもしれないという不安もやはり感じた(こちらが考える「狂い」というのは、具体的には、自分の行動や言動について適切な判断が下せなくなること、他者の言語が理解できなくなること、他者とコミュニケーションを取れなくなること、というあたりが内実のようである)。
 七時半前になると起きようという気持ちが湧いて、布団を抜け出した。上階に行って、ストーブの前に座る。それから洗面所で顔を洗い、髪を調え、台所に出ると、おかずらしいものが何もなかったので、卵を二つ焼くことにした。また、母親が、焼売があると言って取り出してくれる。それらを用意し、また米はもう炊飯器に残った最後のものだったので、茶漬けにして、卓に並べた(そうしたことをしている最中、父親が出勤していった)。ものを食べているあいだ、テレビに目を向けたり、母親の言葉を聞いたり、それに対して心中でコメントをし、あるいは実際に言語を発して応答したり、そうした動きのなかで目の前の食事を味わわなくてはと思い、ゆっくりと咀嚼する感覚に注意を振り向けたり、そのように常に動き回ってやまない自分の意識の志向性のいちいちが、くっきりと見える感じがした。ここに不安が伴うと、おそらく自動感が生まれてくるのではないかと思うが、この時はそれがなかったようである。
 食後もすぐには立たずにいると、母親がもう少し何か食べたいねと言って、林檎を剝いてくれる。それをいただいてから食卓を立って皿を洗い、そのまま風呂を洗ったのだったか、それともストーブの前に座ったのが先だったか、ともかく、温風に温められ、また同時に窓から射し入ってくる陽の暖かさも顔の左側に感じて、ありがたいという気持ちが湧いた。風呂を洗っている最中には、自分の心持ちが何だか明るいということに気づき、回復を証しているようでこれもありがたく思われた。その後、先日買ってきたアイスを食べようと思い立ち、チョコレート味のそれを持って、陽射しが温かいねと言いながら、光がもっとも当たっている炬燵テーブルの上に乗り、陽の感触を肌に浴びながら、アイスを少しずつ食べた。美味かった。テレビは、宝石類の整理や掃除方法、本物偽物の見分け方、査定額などについて放映していたが、これについては詳しく書くほどの興味はない。
 そうして白湯を持って自室に戻ってきて、今日は早速日記を綴るという気持ちになったので、ここまで書くと、現在は九時四〇分である。
 その後、ギターを弾いたりしたのちに、一〇時半過ぎから読書を始めた。南直哉『日常生活のなかの禅』である。音読をしている最中は、やはり脳が刺激されるのか、頭痛までは行かないが頭が固いような感覚が訪れ、その後、陽を浴びていることもあってかちょっと眠気が湧いて、目を閉じて休む数分もあった。南直哉の本を最後まで読み終えてしまっても、まだもう少し何か読みたいなという気持ちがあった。海外の小説でも読もうかと思い、何となくノサックが念頭に上がって来たのだが、迷いながら積んである本を眺めていると、岩波文庫ゴーゴリ/平田肇訳『外套・鼻』があるのに目が留まって、薄いものだし、先日後藤明生を読んだ流れでこれにするかというわけで、読みはじめた。そうして一二時一五分になると中断して、上階に行った。
 既に母親が米を炊き、また冷凍されていたキーマカレーを解凍しておいてくれた。母親が食べた残りを袋から米の上に掛け、電子レンジで温める。また、エノキダケとキャベツのサラダも卓に並べ、ものを食べた。デザートに、(……)(義姉)から貰ったというチョコレートをいただき、この時の食事はどの品も美味く感じられたので、そのことに感謝した。ちょっと休んでから立って皿を洗い、そのままアイロン掛けをする。最中、母親が、土曜日に父親と星を見に行こうと言っている、と話す。お前も行くかと訊くので、どちらでも、行っても良いと答えると、それでは行こうとなったので了承した。このあたりも、以前だったら間違いなく断って一人で家で過ごしていたはずで、ここ最近のこちらの、急激と言って良いだろう変化が現れている。
 その後、室に帰ってきて、日記を書き出し、二月一二日の記事を完成させて、現在、二時を回っている。振り向けば窓の外の空は、柔らかく、すっきりとして滑らかな青さに広がっており、良い天気である。
 その後、日記の読み返しをしてから、運動を行った。スクワットをしながら、自分が太腿に随分と力を籠めているのに、回復を実感した。それから、藤井隆 "ディスコの神様"を歌ったが、気分が持ち上がりすぎた感じがしたので、少々心を落着ける。そうしてSuchmos "STAY TUNE"も続けて流したのだが、やはり運動と音楽によって頭が浮き立っているような感覚があったので、音読をして気持ちを静めることにした。ゴーゴリの『外套』をゆっくりと読む。この時、話者の存在感というか、語り手がただニュートラルに物語を語ることに徹するのではなく、「読者」という語を用いたりもして、しばしば姿を現していることに気づいた。『外套』は一八四〇年に発表されたものだが、ほとんど不可視の、透明な話者による語りが成立する前の小説ということなのだろうか? ざっと読み返してみて、気づいた部分を、下にまとめておく。

 彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前はけっしてことさら選り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。
 (7)

 こんなことをくだくだしく並べたのも、これが万やむを得ぬ事情から生じたことで、どうしてもほかには名前のつけようがなかったといういきさつを、読者にとくと了解していただきたいためにほかならないのである。(……)
 (8)

 こんな仕立屋のことなどは、もちろん多くを語る必要はないのであるが、小説中の人物は残らずその性格をはっきりさせておくのが定法[きまり]であるから、やむを得ずここでペトローヴィッチを一応紹介させてもらうことにする。
 (16)

 ところで、くだんの招待主の役人がいったいどこに住んでいたかは、残念ながら、しかと申しあげることができない。記憶力がひどく鈍り、ペテルブルグにある一切のもの、街という街、家という家が、すっかり頭の中で混乱してしまっているので、その中から何なり筋道を立てて引き出すということがはなはだむずかしいのである。
 (33)

 四時まで二〇分ほど読んだところで、食事を取りに上階に行った。ゆで卵に加えて豆腐を温め、さらにおにぎりを作って卓に就く。食べながら、例によって、苦しみというものは決してなくならないのだなどと考えていた。外面的にどんなに満たされているように見えようとも、何らかの苦しみは必ずある、なぜなら我々が感じ考える存在だからと、そんなことを思いながらおにぎりを食べていると、窓外で生まれた動きにはっと気づいて目を上げた。薄陽を掛けられた川沿いの樹々の前を、白い鳥がすうっと、まっすぐ右方へと宙を横切って滑空していくそのさまに、自ずと目を奪われ、気を取られていた。その後、同じ鳥なのかわからないが、今度は羽ばたきながら左のほうへ戻っていくのも見たのだが、まもなく、この瞬間も失われていく、いままさに失われつつあるのだと、またもや無常の感覚が湧き起こり、涙を催したのだが、それもすぐに収まった。無常感そのものすらも続かずに、絶え間なく移り変わっていくのだ。
 皿を洗うと下階へ戻り、歯を磨きながらまたゴーゴリを読んだ。この時、今度は、この小説のなかには妙に曖昧さが付き纏っているなということに気づいた。作品設定の細部において、「わからない」などという表明がたびたび見られるのだ(まず冒頭からして、「ある省のある局」と、アカーキイ・アカーキエウィッチの職場がぼかされている)。もう少し細かく作り込むか、それか別に言及しなくても良さそうなところを、わざわざはっきりしないということを明示するのである。やはりざっと読み返して気づいた部分を、のちに読んだ部分のものも含めて下に引く。

 ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。(……)つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、さる警察署長から上申書が提出されて(……)
 (6)

 この官吏の姓はバシマチキンといった。この名前そのものから、それが短靴[バシマク]に由来するものであることは明らかであるが、しかしいつ、いかなる時代に、どんなふうにして、その姓が短靴という言葉から出たものか――それは皆目わからない。
 (7)

 いつ、どういう時に、彼が官庁に入ったのか、また何人が彼を任命したのか、その点については誰ひとり記憶している者がなかった。
 (8~9)

 ところで女房のことが出たからには、彼女についても一言しておかずばなるまいが、残念ながら、それはあまりよく知られていないのである。
 (16)

 ペトローヴィッチは(……)円い嗅ぎ煙草入れを取った。それにはどこかの将軍の像がついていたが、いったいどういう将軍なのか、それは皆目わからない。というのは、その顔にあたる部分が指ですり剝げて、おまけに四角な紙きれが貼りつけてあったからである。
 (20)

 ところで、くだんの招待主の役人がいったいどこに住んでいたかは、残念ながら、しかと申しあげることができない。記憶力がひどく鈍り、ペテルブルグにある一切のもの、街という街、家という家が、すっかり頭の中で混乱してしまっているので、その中から何なり筋道を立てて引き出すということがはなはだむずかしいのである。
 (33)

 ところで、その有力な人物の職掌が何で、どんな役目についていたか、そのへんのことは今日までわかっていない。
 (41~42)

 ついに哀れなアカーキイ・アカーキエウィッチは息を引きとった。彼の部屋にも所持品にも封印はされなかった。(……)こうした品が残らず何人の手に渡ったかは知るよしもない。いや、正直なところ、この物語の作者には、そんなことはいっこう興味がないのである。
 (49)

 また、アカーキエウィッチが新調した外套を強奪される場面、そこまでの流れも、ゆっくりと音読していると何となく良い感じがしたので、引いておく。この強盗は結局、捜査もされず、犯人が誰だったのかもわからず、その後の物語のなかでその真相が明かされることはまったくなく、ヒントすらも与えられず、まったく純粋なこれだけの「事件」、言わばアカーキエウィッチを死に追いやるという機能しかほとんど果たしていないように思われる。

 (……)間もなく、彼の目の前には、昼間ですらあまり賑やかではなく、いわんや夜はなおさらさびしい通りが現われた。それが今は、ひとしおひっそり閑と静まり返り、街燈も稀にちらほらついているだけで――どうやら、もう油がつきかかっているらしい。木造の家や垣根がつづくだけで、どこにも人っ子ひとり見かけるではなく街路にはただ雪が光っているだけで、鎧扉[よろいど]をしめて寝しずまった、軒の低い陋屋がしょんぼりと黒ずんで見えていた。やがて彼は、向こう側にある家がやっと見える、まるでものすごい荒野みたいに思われる広場で街通りが中断されている場所へと近づいた。
 どこかとんと見当もつかないほど遠くの方に、まるで世界の涯[はて]にでも立っているように思われる交番の灯りがちらちらしていた。ここまで来るとアカーキイ・アカーキエウィッチの朗らかさも何だかひどく影が薄くなった。彼はその心に何か不吉なことでも予感するもののように、我にもない一種の恐怖を覚えながらその広場へ足を踏み入れた。後ろを振り返ったり、左右を見回したりしたが――あたりはまるで海のようだった。《いや、やはり見ないほうがいい。》 そう考えると彼は目をつぶって歩いて行った。やがて、もうそろそろ広場の端へ来たのではないかと思って目をあげたとたんに、突然、彼の面前、ほとんど鼻のさきに、何者か、髭をはやしたてあいがにゅっと立ちはだかっているのを見た。しかしそれがはたして何者やら、彼にはそれを見分けるだけの余裕もなかった。彼の目の中はぼうっとなって、胸が早鐘のように打ちはじめた。「やい、この外套はこちとらのもんだぞ!」と、その中の一人が彼の襟髪をひっつかみざま、雷のような声でどなった。アカーキイ・アカーキエウィッチは思わず《助けて!》と悲鳴をあげようとしたが、その時はやく、もう一人の男が「声をたててみやがれ!」とばかりに、役人の頭ほどもある大きなこぶしを彼の口もとへ突きつけた。アカーキイ・アカーキエウィッチは外套をはぎとられ、膝頭で尻を蹴られたように感じただけで、雪の上へあお向けに顚倒すると、それきり知覚を失ってしまった。しばらくして意識を取り戻して起ちあがった時には、もう誰もいなかった。彼はその広っぱの寒いこと、外套のなくなっていることを感じて、わめきはじめたが、とうていその声が広場の端までとどくはずはなかった。(……)
 (37~38)

 ついでにそのほか『外套』の感想を述べておくと、外套を奪われたアカーキエウィッチが突然死んでしまう展開は急に思われたのだが、しかもその後、物語の最後に至って、幽霊として街を彷徨うようになるというのも、結構な急展開ではないだろうか。話者はそうしたことに自覚的で、「しかもたまたまそんなことになってこの貧弱な物語が、思いもかけぬ幻想的な結末を告げることになったのである」とか、「この徹頭徹尾真実な物語が、幻想的傾向を取るに至った(……)」などと述べている。この幽霊が、警察官らに取り押さえられようという際にくしゃみをして、警官の取り出した嗅ぎ煙草が目潰しとなって逃げることができるというのも、幽霊がくしゃみをするのだ、という点が何かちょっと面白かった。結局、アカーキエウィッチの幽霊はその後姿を現さなくなるのだが、物語の結びに至っては、突然、「はるかに背が高くて、すばらしく大きな口髭をたて」た別の幽霊が登場し、「そしてどうやらオブーホフ橋の方へ足を向けたようであったが、それなり夜の闇の中へ姿をかき消してしまった」という風に話が終わる。この最後の幽霊が何者なのかはまったくわからず、それまでの物語内容と何の連関もないように思われ、この小説は終幕までこのように、不透明さが付き纏っているようである。
 その後、身支度を済ませて出発した。道中、人の姿を目にすると、やはり自ずと殺害のイメージが湧いてきて、それはまったく気持ちの良いものではなく、自分が不安を感じているのがわかって、あまり人の姿を見られないようになった。不安とともに回る頭では、自分が無意識のうちに人を殺すということを欲しているのではないか、などと考えてしまうのだが、これはやはり加害恐怖の一種で、自分が人を殺してしまうということを(そのようなことになる現実的な根拠はまったくないのだが)恐れるが故に、かえってそうしたイメージが浮かんでしまうのだろう。今まで自分が不安を乗り越えてきた相対化のパターンからすると、例えば嘔吐恐怖だったら、別に電車のなかで吐瀉物を吐こうが、ちょっと迷惑は掛けてしまうがそれで人が死ぬわけでなし、結局大したことではない、というような考えを作ってきたわけだが、しかし今回、殺人に対する恐怖となると、別に人を殺したところで大したことではない、などという風には自分は考えたくはない。そのあたりの道徳観を相対化するのだったら、自分はまだしも、不安を抱えてこの苦しみをそのままに受け止めて生きたほうがましであると考え、自ずとこの妄想が収まるのを待とうというスタンスを取った。わざわざ道徳観を相対化しなくとも、「殺害や暴力のイメージが浮かぶ」という現象そのものを相対化すること、要はそれに慣れて、イメージが浮かんでもこれは単なる妄想であると払い、何とも思わなくなるということは可能なはずであり、それを待つことにしたのだ。
 この日は道中、そんな様子だったので、職場についてからも不安を感じたままで(何しろ、屋内にたくさん人がいるわけで、それらのいちいちに殺害のイメージが付き纏うのではなどと考えると、やはりそう落着いてはいられない)、薬を追加して服用することにした。そのおかげで勤務中は落着き、言葉を発する際の苦しさもなく、ほとんど以前と同じような感覚で働けたようで、他人とやりとりをしているうちに楽しいような気持ちを感じた場面もあった。
 そうしたなか、労働中でありながら手隙の時間にちょっと奥の、見えないところに引っ込んで、道中のことをメモに取った時間があったのだが、自分がそのようにしていることを考えるに、書く欲望が自分の内にあるのかどうかわからなくなったなどと言いつつ、むしろ意欲が増しているのでは、とも思われた。結局のところ、自分はやはりこの日々を書いていくほかないのではないか。自分がこの生において最終的に出来ることは、このくらいしかないのではないか、と言うか、より正確には、自分の人生の物事は、それがどのようなことであれ大方、この書くという領域へと還元されてしまう、そのような主体としてもはや自分は構成されてしまったのではないか。
 帰路は、薬を追加したためだろう、やはり心が落着いていて、最寄り駅から坂を下って行きながら、頭のなかの雑念があまり見えないなと思った。脳内の独り言がまったくないわけではなく、蠢きは感じるが、頭の奥のほうに引いたような具合だったのだ。そうした落着いた心持ちで考えてみると、自分は人を殺したいなどとはまったく思っていないなということが確信された。そのような欲望、衝動は自分のなかにはない。坂を出て、家までの道を歩くあいだ、前方に灯る電灯の光の白々とした本体から、蝶の口吻のようにいくつもの光の筋が、鋭いようでもありまた先をちょっと曲げて柔らかいようでもありながら、顔の傍にまで伸びてくるのを見ていた。
 夕食は、鶏肉とエリンギをバジルソースで和えた料理に、納豆とエノキダケの味噌汁、ほか、ほうれん草やモヤシとオクラの和え物である。テレビは、宮部みゆきの小説を深読みするという番組がやっていて、集まった作家やら批評家やらのなかに、高橋源一郎の顔が見られた。参加者がそれぞれに、これは「~~小説」であるというように、色々な解釈(まさしく解釈)を披露していくのだが、あまり興味は惹かれず、そのように統一的な意味体系の像を構築するよりは、それよりもやはり自分は、ここにこんなことが書いてあるよね、こんなものが、こんな動きがあるよね、ここのフレーズは素晴らしいよね、などという原始的な読み方のほうが楽しいのだろうなと思った(統合よりも断片化を志向する性向であるということだろうか)。
 デザートに先日買ってきたグミを食べ、両親にも分けた。また、苺も父親と分け合っていただき、髪を染めた母親が先に風呂に行ったので、こちらは室に下りてメモを取った。その後、風呂を待つあいだにゴーゴリ『鼻』を読んだのだが、これがまたなかなかに訳の分からない小説で、ある朝突然小官吏の鼻がなくなってしまっているという、カフカを連想させるかもしれない物語の起点はともかくとして、こちらがこの時驚いたのは、その後、このコワリョーフ氏が、自分の鼻が紳士となっていることを発見した時の部分である。下に、前後を含めて当該箇所を引く。

 (……)不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉[と]があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮[なめしかわ]のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛[はね]のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。(……)
 (ゴーゴリ/平田肇訳『外套・鼻』岩波文庫、一九六五年改版(一九三八年初版)、69)

 おわかりのように、この紳士が自分の鼻であるということを気がつかせる根拠が、まったくもって、何一つ、ほんの一片の情報すらも明示されていないにもかかわらず、コワリョーフは無条件で、紳士が自分自身の鼻であることを確信するのだ。人間の姿をしたものが実は鼻であるなどと判断する理屈など、そうそう立てられるものでもないだろうから、ゴーゴリとしてはこのようにするしかなかったのかもしれないが、この唐突さ、強引さには驚かされた。
 その後入浴し、それからまた本を読み出したのだが、ベッドに横になっているうちにいつの間にか意識を失っていて、気づけば一時半前になっており、そのまま就寝した。

2018/2/13, Tue.

 やはり深夜に一度目覚める。尿意があるのが、心身が緊張している証拠と感じられる。薬を飲んで寝付き、この日はその後、七時になる前に覚めたが、もう少し眠っておきたかったので、目を閉ざし、八時五分まで寝床に留まった。
 ここ数日とは違って、なかなかに寒い。上階に上がってストーブの前に座ると、炬燵テーブルの表面に落ちる光の白さが眩しい。身体を温めていると、Maroon 5 "Sunday Morning"を自ずと口ずさんでしまったのだが、その時、何か自足感のようなものがあった。
 朝食のおかずは、前日にこちらが作った炒め物に里芋をあとから混ぜたものである。食べていると父親も起きてきて、また、じきに母親は(……)出かけるので、二人で行ってらっしゃいと見送った。デザートには、両親が前日に買ってきてくれたシュークリームをいただいた。
 皿と風呂を洗い、この日はその後、前日に忘れていたアイロン掛けをもこなし、それから自室に帰った。インターネットを覗いたのち、一〇時前から読書に入る。南直哉『日常生活のなかの禅』である。音読をしている最中、概ね落着いた心持ちでいられ、眠気が湧いて瞼が下りてしまうような時間もあった。そんな時は、目を瞑っている一分か二分のあいだにも、夢のような脈絡のないイメージが眼裏に展開されるが、それに不安を覚えることはなかった。空は晴れ晴れと青く、途中までは陽射しが顔に当たっていたが、そのうちに広い雲が湧いていて、太陽はそれに隠されてしまった。
 一一時半まで本を読むと、一旦上階に行って、掃除機を掛けた。台所や玄関のほうまで広く床のごみを吸いこんでおき、それから、母親が帰ってくるまでに(また、父親もこの日は休みで家にいたので)何か一品作っておこうと冷蔵庫を探り、変わり映えしないが、前日の肉の残りを玉ねぎと葱と炒めることにした。それぞれ切り分けてフライパンで炒め、砂糖と麺つゆを少々加えて味付けするとちょうど正午頃、飯を食べる前に運動をすることにして、自室に帰る。
 tofubeatsの音楽を流して身体を動かす。腕立て伏せや腹筋、背筋、スクワットもやると、身体が温まって少々汗が滲んだ。運動を終えると一二時半だったが、この日はここまで、落着いた心持ちで過ごせていた。思念の流れは相変わらずあって、それはもうなくならないものだろうが、呼吸に意識を向けることもそれとの共存を助けてくれているのだろうか、気になることはあまりなかった。
 再度居間に行くと、母親が一旦帰ってきており(午後からは、体操教室に出かけるとのことだった)、こちらが料理を拵えておいたことについて礼を言ってくれた。また、母親自身も、汁物に素麺を入れて煮込んでおいてくれた。食事を用意して卓に就き、テレビを点けて、適当なワイドショーを流しながらものを食べる。デザートに、前日に買ってきたアイスのなかの、バターサンド風のものを食べた。母親は一時を回ったあたりでふたたび外出した。こちらは皿を洗い、この日に干したシャツのアイロン掛けを済ませると、下階に戻った。日記をここまで綴って、一時四〇分である。
 その後、一一日を完成させ、一二日の分も綴ったが、どうも心身が固くなってくるのを感じたので、三時前までで中断した。それから、「【対談】ソーヤー海✕藤田一照①|呼吸につながって到着する。マインドフルネスの体現者であるソーヤー海氏が影響を受けた人物と、彼の人生とは?」(https://masenji.com/contents/95)というページを歯磨きしながら読む。ティク・ナット・ハン関連で検索していた時に見つけたものなのだが、瞬間瞬間に「到着」するという捉え方・言い方はこちらの頭のなかにはなかった。その後、身支度を調えて、背中にカイロを貼って出勤する。道に出て少々行ってから見返ると、家の脇に出ている父親(この日は休みだった)のほうに母親が寄って何とか言葉を掛けているのが、陽射しの向こうに見えて、そうした姿を見た瞬間に、突発的に涙を催した。また無常感にとらわれていたのだ。自分の死よりも、他人の死を考えることのほうが悲しみを覚えるようだ。呼吸に意識を向けて心を落着け、坂を上って行く。まだ陽射しのある時間帯なので、表通りを歩いていくそのあいだ、太陽の感触が背に温かい。辻でよく会う八百屋の傍を通りかかると、烏が、水道管理局だったか、褐色の建物のその上から鳴きを降らしていた。進んで行きながらやはり頭は勝手に巡るが、神経症的にそれが気になるということはなかったようだ。考えていたのは例によって辛気臭いようなことだが、苦しみというものは決してなくなることはないのだと思っていた。それを抱え、うまく付き合いながら、苦しみや不安があるけれどもそれでも生きていくのだ、そして生はそこまで悪いものではないのだと、そんな方向で生きていくことにしたい。勿論不安はないほうが良いが、自分の性向からして、と言うか不安神経症でなくとも、それを完全になくすということは不可能であり、不安があることによってその反面として物事に感謝できるのだとしたら、不安はむしろ必要なものなのだと思った。
 そうして歩いているあいだに、何だかんだで自分はこのようにして歩けている、ふらつきなども感じずに、二本の脚で立ってしっかりと歩けていると身体の調子を自覚した瞬間があり、力強く感じた。その後の労働も自動感が多少あったが、前日のように気になるというほどではなく、問題なくこなすことができた。また、普段はあまりしない雑談などもして、よく笑うこともできたようである。そうした雑談の際にも、物事を説明する際にも、以前の自分よりも言葉がよく出てきて、見通しを立てずに始めた言葉が自ずとうまく繋がっていくというようなところがあり、それを見る限り、頭の回転は確かにはやくなっているのではないか。音読の効果かもしれない。自生思考と自動感、不安性向を除けば、自分はおそらく健康である。頭のなかがちょっと変だというだけの話だ。
 退勤するといつも通り電車に乗り、扉際で到着を待った。最寄り駅の雪は、ほとんどなくなっていた。既に人々も先に去ってしまったあとの階段を一人で上っていると、静寂の感が強く覚えられ、上りきって今度は下りながら、道を車の、こちらに向かってくる白いライトのものと、あちらへ去っていく赤い後部ライトのものとがすれ違って流れていくのを見ると、無常感の芽があった。
 帰宅して夕食は、昼の炒め物の残りや、素麺、ほうれん草、生ワカメなどだった。テレビはオリンピックの様子を映し、父親がそれを眺めていた。母親が、先日こちらが買ってきたアイスを食べると言い出したので、こちらにも分けてくれるよう言い、父親と三人で分かち合って食べた。こちらは同じ時に買ったグミも食べた。父親は休日なので酒を飲んでいたようで、テレビに向かって色々と独り言を洩らしていたが、以前のように鬱陶しさを感じなかった。
 そうして入浴である。この日は全体に、呼吸をよく意識し、折々にそこに立ち戻ることができたようだ。しかし、そうして呼吸にばかり焦点を向けていると、今度は呼吸そのものが神経症の対象になるのでは、という考えがやはり思い浮かんでくる(ほとんどあらゆる事柄に対して懸念を考えてしまうのが、不安神経症というものである)。しかし、そうなったらそうなったでもはや仕方がない。自分の意思でどうにかできることではないのだ。
 風呂を上がると、自室で読書をした。小さな声で音読しているうちに眠くなってきたので、零時半に就床した。