2018/2/12, Mon.

 やはり三時か、そのくらいで一度覚めたはずである。その後、六時になる前、アラームが鳴るよりも早く覚めて、先んじてスイッチを切っておいたのだが、油断してふたたび眠りに入ってしまった。気づけば六時四五分になっており、カーテンに朝陽の色が付されている。
 上階へ行く。朝が早いのでさすがに寒く、ストーブで温まる。母親が汁物を作っておいてくれた。ほか、米を茶漬けにして食べたが、あまり時間がない。皿洗いをする頃には七時半前だったので、自分の分だけ洗って下階に下り、歯磨きや着替えをした。先月分の国民年金を支払うのをすっかり忘れていたので、今月のとまとめて二か月分を懐に入れ、出発する。
 林から、風の音が聞こえていた。竹の幹が僅かに触れ合う音もする。坂を上っていても風が吹いて寒い。表通りの日なたのなかを歩いて行く。空は晴れ晴れとしており、雲はほとんどなくて、僅かに希薄な染みのようにしてあるのみである。
 労働は概ね問題なかったが、しかし、自分の行動や発言がすべて自動的に流れているかのような感じがあって、気に掛かった。それとも関わっているのかもしれないが、喋る時には、やはりどこかに苦しさのようなものがあった。
 二時前に退勤すると、コンビニへ行った。ATMが空いていなかったので、パンの棚を見ながら待ち、その後、金を下ろしてまず年金の支払いをした。そうして籠を持って、昼食を入れていく。メインとしては、鶏肉の入ったグラタンを選び、ほかにパンを二つ、またアイスを四つほど買うことにした。さらにスナック菓子でも買って帰ろうかと考えたのだが、棚を前にすると気が向かなかったので、グミを選んだ。
 帰路、歩きながら、労働中の自動感が気になって、頭が回った。自己の自律感が薄いというか、自分の意志というものがなくなって、自分の身体が勝手に動いているような、とでもいう感覚である。どうもやはりこれは、メタ認知の問題で、主体として「見る」ほうの地位が優勢になりすぎてしまったのではないかという気がする。また、無常感、この世の無根拠性の感覚ともどこか関わっているようにも思えなくもない。すべてがあらかじめ決まっているというのではないが、ある種、運命論にも通じそうな感じに思われた。何か超越的な存在、「神」が自分の信じるものとして導入されれば、おそらくそうなるのだろう。自動的に動くようでも、振舞いとして特に問題は起こっていないので、適応できればむしろ楽なのかもしれないが、神経症的性分のなせる業か、今は気になってしまう。
 天気は、美しいと言って良いだろうものだった。道端の樹々や、民家の脇に小さく生えた植物の葉が、光で彩られていた。帰宅すると服を着替え、食事を取る。グラタンやソーセージを挟んだパンを温めて食べるのだが、食べているあいだも頭が回ってしまい、そのこと自体が不安でストレスである、という感じが少々あった。最終的に、それでは勿体無いというところに至った。思考、思念というものは抽象的であり、そちらにばかり意識が向いていると、目の前の、実体のある具体的な現実世界が疎かになってしまう。ものを食べているのにその味もろくに感じないようではいただけず、自分は生きているこの一瞬を大切にしたいと考えた。そういうわけで、デザートのアイスを味わって食べ、それから風呂を洗って米を研いだ。続いてタオルを畳んだのだが、このように家事をしているあいだも、行動に焦点を合わせるように心掛けた。思考も良いのだが、自分の頭は明らかに思考に偏ってしまっているので、意識的に行動のほうに注意を向けるくらいで、バランスが取れるのではないか。
 室へ帰って、白湯を飲みつつコンピューターを操作し、この日のメモも取った。それから(……)にメールを出した。返信を待つまでのあいだに隣室に入ってギターを弄んだ。目を瞑りながら弾く時間があり、ちょっとしてから携帯電話を確認してみると、気づかないうちに返事が来ていたので慌てて返信し、自室に戻ってSkypeにログインした。こちらからコールを掛け、そこから二時間、六時半くらいまで話した。
 会話を順序立てて再構成することはできないので、取っておいたメモに従って個々の話題に触れるが、まず自分の最近の症状について話す時間があった。自生思考というか脳内の言語が意思を離れて自走しており、妙な妄想を勝手に繰り広げたりするのだった。一番嫌だったこととして、町を歩いている時に可愛らしい犬を見かけたのだが、その直後に、その犬の首を締めて殺すというイメージが自動的に湧き上がってきたということを話した(この時は話さなかったが、両親についても同じようなことがあった)。これは一種の加害恐怖で、そうしてしまうのではないかという(根拠のない)恐れから、かえってそのことを考えてしまうということではないかと思ったのだが、当時は不安で頭がまとまらず、自分が本当に殺したいと思っているのでは、無意識のなかにそうした欲望を抱えているのではなどと考えてしまい、怖くなったものだった。また、ここ最近折に触れて、というか頻繁に抱いている無常感や、行動の自動感についても話した。自動感については上に書いたのでここには繰り返さないが、要は自己が客体化されすぎて外界の事物とほとんど同じ位相に置かれてしまったということではないのか(外界の事物とは、まさしく「勝手に動いていく」ものである)。神経症性向によって、今はそれが違和感として、不安として現れて気に掛かってしまうことがあるようだが、それに適応したものが要は「悟り」なのではないかということも話した。そうした自動感に適応できれば、まさしく流れていく世界のなかの一片としての自分として、随分と楽に生きていけるのではないか。最近の自分は、自生思考の件もあって、自分の頭のなかに考えが生じること自体が怖い、何かを感じてしまうことそのものが怖い、というようなところがあったもので、神経症もここまで来ると相当なものと言うか、ほとんど極地ではないかと思うが、しかし現在、薬の助けもあって、それにもどうやら改めて慣れつつある。今までに症状として発現してきた心臓神経症とか嘔吐恐怖とかも、概ね克服して来ているわけで、すべての不安の対象を一度不安として認識し、その後それに耐えて相対化し、要は「慣れて」行けば、ついには何も怖くないという境地、まさしく苦しみからの解放がやって来るのではないかという見通しも、(……)と共有した。しかし自分は別に、そのような悟りじみた境涯に至りたいとは思わない、もう苦しみや不安は、あまり過度にならなければあって良いと今は考えている。
 そうした話のなかで、宗教の起源について話が及んだ時があった。森達也が言っていたらしいのだが、なぜ宗教があるのかというと、やはり人間は自分が死ぬということを理解しているからではないか、という、これはやはり納得の行く考えである。仏教はその厳然たる事実を受け入れる方向を志向し、キリスト教は永遠の生とか救済とかいう「フィクション」(自分にはやはり、それは一つのフィクションだとしか思えないが、しかしこのフィクションを実際に必要とする人々が、この世にはいるだろう)でそこからの救いを志向する、と、方向性は違うがどちらもやはり「死」に対してどのように対応するのかという話なのだ。
 また、不安症のただなかにある時は、文字すらが、単なる意味すらが怖くなるということも共感し合った。(……)が一時期不安障害的な症状に陥った時には、死への恐怖が酷かったので、「死」という文字をまともに読めなかったと言う。こちらは嘔吐恐怖があったから、「吐く」が怖い時期があったとそれに応じた。「嘔吐」そのものの意味で使ってなくて、例えば「言葉を吐く」などと書いてあっても、自動的に連想が働いてしまい、怖くなるのだ。
 そうした精神衛生に悪い話ばかりをしていたのだが、その後この先のことも話し、こちらは、今年度までで職を変えて、知り合いの古本屋に雇ってもらえるよう頼んでみようと思っていたところが年末年始の例の変調で、今ちょっと環境を変えるのが怖くなって様子見していると言った。そうすると(……)は、こちらに古本屋は似合いである、こちらがカウンターの裏で寡黙に店番をしている姿、そのヴィジョンが完全に見えたと言って、転職するよう大いに勧めてくれて、そのように言われているうちに、こちらとしてもやはりそういう気が湧いてくるのを感じた。少なくとも、人間関係、「他者」との関わりから言っても、今の職場よりは確実に未来があると思うので、もう少し暖かくなってきたらやはり頼んでみようと思う。
 ブログにアフィリエイトを導入する可能性についても話した。以前は、何事にも繋がらない純粋な書く欲望のようなものを体現したいと思っていたのだが、変調を受けて、現実のこの先の生活の可能性を考えざるを得なくなったいま、なりふり構ってはいられない。今は両親の支えを享受させてもらっているけれど、当然のことながら親だっていつまでもあるわけでなく、こちらのこの先について、彼らを不安にさせるようなことはなるべく避けたい。しかし当の自分はこんな頭であって、自分がいつか狂うのではという考えが(今のところ、それに不安はもうあまり覚えなくなったものの)脳から去って行かないし、狂う云々は措いておいても、自分が不安神経症として結構厄介な脳を持っていることは確かであって、今更社会の本流に戻ってサラリーマンをするというのも難しいだろう。このまま行くしかないのだが、そうすると自分にできること、自分がここ数年で唯一磨いてきた能力というのは、やはりこうして文章を書くこと、それしかないのであって、文章と言ってもそれも自分の生活あるいは生を綴る類のそれでしかないのだが、この文章を載せているブログを、どれだけの人が読んでくれているのかはわからないが、やはり何かしら、生活や収入に繋げる方策を探って行くべきではないのか(生活を書くことで生活を立てて行くと言うと、まるで私小説作家のようだ)。そうすると自分が思いつくのはアマゾン・アフィリエイトであって、一応本は読むので、読んだ本を紹介するというような形で、幾許かの金銭を得られないか。勿論大した金額にはならないだろうが、一応この先も日記とブログは書き続けて行くと思うので、塵も積もれば、という感じで考えて、とりあえず導入するだけしてみてはと思うのだが、どうだろうか?
 そうした諸々を話し、六時半頃になると、(……)が夕食に呼ばれたと言うので、ありがとうございましたと礼を言って通話を終えた。上階に行くと居間は真っ暗だったので、明かりを点けてカーテンを閉めた。そうして、食事の支度である。自生思考がありながらもそれを気にせず、うまく受け流し、共存して行くには、やはり呼吸に意識を向けるのが大事だろうというわけで、ものを切りながら、そのように心掛けた。作ったのは、豚肉と玉ねぎの炒め物である。両親が帰ってくると(この日、両親は、父親の会社の同僚に誘われたとかで、「利き茶」の会に出かけていた)安堵し、彼らが居間に入ってきたあと、台所から目を上げて二人の姿を見て、そこにいてくれるということをありがたく思った。その後、レタスを千切り、人参を千切りにして、茹でるのは母親に任せて下階へ戻った。
 そうして、音楽を掛けながら運動を行った。最中はとにかく、呼吸を意識するようにした。これを自分の存在の中核として据え、思考とのバランスを保って行きたい。ティク・ナット・ハンも、呼吸を核とした存在性みたいな点についてはおそらくヒントをくれると思うので、その著作を今度買ってみるつもりである。身体を動かすというのはやはり良いようで、身体性を感じることができ、思考もあまり湧いてこないようだった。
 その後、歌を歌った。Suchmos, "STAY TUNE"を流しながら、気分が上がっていたので動き回りすぎて、頭が痛くなった。そうして、書抜きである。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から文を写しながら、折々に先の電話での会話の内容が思い出されて、その都度メモをしつつ、このように自分の頭は随分と忙しい、多動的なものになってしまったのだなと思った。
 九時になると夕食に上がった。テレビには、ピンク・レディーの二人が映っており、もう六〇歳なのだが、三九年ぶりにレコード大賞の舞台に立ってパフォーマンスを行ったとのことだった。銀色のラメのついたきらびやかな衣装で、年の割にまったく見苦しくなく、身体も非常にキレを持ってよく動き、真剣に、熱を籠めたパフォーマンスを披露しているということが如実に感じられた。
 食後は母親の分も合わせて皿を洗い、入浴した。風呂に入っているあいだも、行動の自動感が気になったのだが、しかし、この時は不安は覚えなかった。出てからヨーグルトを食って自室に帰ると一〇時半、そこから一時間強読書して、一一時四五分に就床した。

2018/2/11, Sun.

 一度覚めた時、確か四時台で、前よりも覚めるまでの時間が長くなっていることに安堵する心があった。と言って心身にはやはり緊張感があったと思うのだが、しばらくしてから身体を起こし、机上の袋からベッドの上に薬のパッケージを取り出し、目覚まし時計のライトで間違えないように確認しながら二粒を服用した。その後、もう一度覚めたと思うが、それがいつだったのかは覚えていない。最終的には八時四五分頃覚醒して、あまり寝床でだらだらとせずに、比較的すぐに起床できたと思う。
 上階へ行き、洗面所で顔を洗ったり髪を梳かしたりする(そろそろ散髪に行きたい)。食事はモヤシの炒め物とともに米を食った。また、前日に作った葱と豆腐の味噌汁も残っていた。母親は、九時頃になると(……)の仕事に出かけて行った。
 皿と風呂を洗って自室に帰ると、一〇時から読書である。石井遊佳『百年泥』の続きを読み、一時間ほどで読了した。現在時の物語的展開としては、百年に一度の大洪水で川が氾濫したその三日後、家を出て、職場(インドのIT企業で新入社員に日本語を教える仕事)に向かって川の上に掛かった橋を渡って行く、という程度の短い時間幅しかないのだが、その合間に過去語りであったり、職場でのあれこれであったりが挟まれて紙幅が長くなっている、という構成になっている。橋の上には川の氾濫によって集積された泥(これが「百年泥」である)が溜まっており、そこから過去の姿のままに留まっている人間や、話者の過去に結びついている何らかの物品など、人々の「記憶」を喚起させる物々が掘り出されて、それに応じて何らかの挿話が語られるというような趣向である。人々の「記憶」がそのまま具象化して発見されるように、彼らの過去の友人や恋人などが、当時の姿のままで発掘されるというのが、不思議な点となっているのだが、そのほか、「翼」を背に付けて「飛翔出勤」するエリート層がいたり、話者のなかに他人の記憶が、「声帯のふるえ」によらない「メッセージの中身だけ」の声によって伝わってきたりというのが、帯に「魔術的」という文言が見られる理由になっているのだろう。終盤で発掘された一人の男が、話者の「五巡目の男」であるようでもあり、そのほかにも何人もの人が集まって、彼は自分の親友であるとか甥だとかいとこだとか言い合っているなかで、「こうなにもかも泥まみれでは、どれが私の記憶、どれが誰の記憶かなど知りようがないではないか?」という言葉が見られるのだが、これを「記憶」が個々人の垣根を越えているという風に取るとすれば、話者のなかに他人の記憶(一つは、話者の中学三年生の時の同級生である「新藤さん」のものであり、この女子はほとんどまったく口を利かない、という存在なのだが、その同じ性質を共有した話者の母親と重ね合わされている。もう一つの記憶は、デーヴァラージという、話者の教えるクラスの生徒の一人の幼少時のもので、現在時ではこの彼が、話者の目の前で泥のなかから物品を掘り出していく)が伝わってくるのも、まあ不思議ではないということになるのかもしれない(正確な読みではないが)。このように内容をまとめてみながら、芥川賞受賞作品ではあるけれど、自分としてはそんなに印象深く感じる部分もなく、さらさらと読んでしまって、書抜きをしたいと思う箇所もなかったのだが、「土」「地面」「踏む」「足あと」といったテーマが散見されることがちょっと気になりはしたので、以下にまとめておく。

 朝のカーテンの向こうに私は、ついに地面を見た。(……)地面を踏みたかった。三日ぶりに目にする地面、泥まみれだろうがなんだろうが片足ずつ、右踏んで、左踏んで、じん、と感触をあじわう。ああ地面、そのまま会社へむかう。(……)
 (9)

 (……)歩くにつれここは東京郊外かと目を疑うような鬱蒼たる森に入りこんでゆき、いろんな色かたちのきのこやシダ、さまざまな苔類をさんざん踏んで乗り越えやっとの思いでいりくんだ木立ちをぬけたとたん、いちめんの花畑がひらけた。
 (35~36)

 ふたたびあの森を通りかかり、(……)薄暗い中をまた苔をふんで歩いた。
 (38)

 結婚して半年もたたない頃と記憶するが、ちょうど雨上がりの美しい午前中、駅前の西友と隣のパチンコ屋との間にしっとりととても具合のいい土があるのを通りがかりに目にし、しんぼうたまらずそこに入りこみ足あとをつけて遊んでいると、(……)
 (39)

 春によく堤防でいっしょによもぎを摘んだことをおぼえている。ふたりで川を見ながら歩いた。(……)歩くにつれ、しっとりとした堤防の土に足あとがつく。母はしばしばじぶんの足あとを見るためふりかえり、そのときかすかに子供っぽい顔になった。自分が土をふむ、それを土がすなおにうけ足あとでへんじするそのことをたのしんでるふうにみえた。
 (74)

 (……)みわたすかぎりの浜辺、だまりこくって級友たちのうしろをゆく私とその子の前にあらわれる砂地はいたるところ級友たちの足あとだらけ、自分たちの足あとをつけることはむずかしかった。それでも波がしなやかな掌をのばし前方の足あとをうちけしてくれるのを待ち、潮騒のとどろきに抱きしめられてそのあとを踏めばほんのわずか、こころがあかるむのを感じた。
 (81)

 ときどきいっしょに海辺をさんぽした。はだしで砂浜に足あとをつけて遊んだ。かかとだけで歩いたり、足を真横にして、左右交互に方向を変えて進んでみたり、砂の掌がわたしたちにくれるへんじがうれしく、夢中になってふたりでいろんなもようを描いた。
 (82; ここは「新藤さん」の記憶)

 (……)靴屋で新しい運動靴を履いて、心の踊りはねるそのままおばあさんと手をつないで砂浜へ行き、うれしく砂をふむと、新しい靴は足あともくっきり新しい。世界はただ受け、おしみなくへんじする。新しい足あとをふりかえり、ふりかえり歩いた。(……)
 (84; 同上)

 それからちょっとインターネットを覗いたあと、さらに読書を続けることにした。次に選んだのは、南直哉『日常生活のなかの禅』である。この日の天気は曇りがちで、そう暗くはないが陽射しの感触もあまりなかった。一時直前まで読んでから、食事を取りに上階に行く。
 フライパンに余っていたモヤシ炒めは帰ってくる母親に残しておこうというわけで、こちらは納豆を用意し、そのほか、母親が作っておいてくれた人参のサラダや、味噌汁や、ゆで卵を卓に運ぶ。テレビを点け、『新婚さんいらっしゃい』を眺めながらものを食っていると、そのうちに母親が帰ってきた。彼女も食事を取り、食後、そのまま『パネルクイズ アタック25』を見て、皿を洗ってから、二時に至っても炬燵に入って居間に留まり、テレビを眺めてしまう。番組は、マイナーだが味は美味い魚を紹介するという趣向のバラエティで、炬燵の温かな心地良さに浸りながら、穏やかな気分になった。
 母親は翌日、出かける用事があったのだが、それに持っていく土産を買うとのことで、(……)に行くつもりらしかった。こちらも、いくらか歩いたほうが良いだろうということで、車で運んでもらい、帰り道を歩いてくることにしようと、外出についていくことにした。三時を過ぎて身支度を調えると、そうして出かけ、車に乗って店まで行く。すぐに歩きはじめるのでなく、こちらも何となく、母親と一緒に店内に入り、ショーケースのなかの品を眺めた。じきに母親が買うものを決めて会計を済ませると、外に出て別れる。道にはちょうど、ハイキング帰りのようでリュックサックを背負い、山登りをする人がよく持っている杖のようなものを携えた集団がぞろぞろと流れていた。彼らのなかに立ちまじり、歩くのが遅いのでどんどん抜かされながらゆっくりと行く。川の上に掛かった橋に入ると、高所恐怖で少々緊張したが、川のほうを眺めても思ったよりも恐怖感はなかった。渡り終えて街道を行くと、薬剤の効果もあるのか気分は心地良く、ゆったりと歩を進めて行く。道路を次々と走って行く車や、コンビニの駐車場で細かく揺れている旗を眺めて、揺蕩いの感覚を覚え、すべてはこのようにして流れ去って行くのだな、失われて行くのだなという無常の感じをまたもや覚えた。
 道をしばらく進み、神社の前まで来ると、樹々に薄陽が掛かっており、歩くうちに左斜め後ろの空に、太陽も顔を出した。このあたりでは歩きながら、ブログでアマゾンアフィリエイトをやったほうが良いのでは、ということをまた考えていた。そうした場合、アクセス数がやはり鍵となるわけで、また他者との関係を広げて行く、何になるかはわからないが自分の文章を何かしらに繋げて行くという観点からしても、Twitterをふたたび始めて(一応アカウントは残してある)、そこにブログの記事を投稿していくというようなこともやったほうが良いのでは、とも思うが、このあたり、迷うところである。
 帰宅すると書き物を行ったが、そうするとあっという間に五時半になった。上階へ行くと、帰ってきていた母親が既に飯の支度を済ませてしまっていたので、アイロン掛けをした。ストーブの石油を入れてほしいと言うので、それも行おうとしたが、『笑点』を見てからにしたらと言われたので、そうするかと居間に留まったが、この番組を見ているあいだは、ちょっと笑いを漏らしてはいながらも、何となく心中に虚しさのような感じがあった。それから石油を補充しに勝手口のほうへ出る。あたりは既に暮れて、薄闇が降りている。遠くの市街のマンションの、長方形の側面に点々と、上下左右に整然と並んだ灯りの点の集合が、ゆらゆらと震えて見えた。
 戻ると、自室で運動をした。その最中に、(……)から電話が掛かってきた。メールを貰っていたのに、あまり見なくて返事をしていなかったので、と言う。三月くらいになって温かくなったら、また吉祥寺の井の頭公園でボートにでも乗ろうと言うので、賛成した(昔、男二人で一緒にスワンボートに乗ったことがあるのだ)。運動をして、筋肉を刺激しているあいだに、虚しさは消散したようだったので、所詮はその程度のものなのだと思い、その後、何曲か歌を歌った。気持ちが持ち上がっていたので、そのままの勢いで、実に久しぶりのことだが、ヘッドフォンをつけて音楽を聞いた。まず類家心平『UNDA』から、冒頭の二曲を聞いたのだが、これがなかなか格好良いもので、有機的かつ弾力的にテンポを変えながらややフリー風の演奏を繰り広げる二曲目などは、ニューヨークでも充分通用するのではなどと思ったのだが、しかしやはりあちらにはこのくらいのミュージシャンたちは掃いて捨てるほどにいるのだろうか? それから、やはり相当に久しぶりに、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"を聞いた。聞いていて、思わずフレーズに合わせて歌ってしまい(ベースソロはうまく歌えないが)、楽しんでいる自分がいるので、安心した。そうして最後に、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"を流し、やはり歌ってしまった。
 そうして、七時半になって夕食へ向かった。メニューは、エリンギなどを混ぜたマグロのソテー、白菜を足した味噌汁、モヤシ、蕪か何かのサラダで、どれも美味く感じられるのがありがたかった。じきに父親が風呂から出てきて、その後こちらも入浴し、その最中は、書くことについて頭が回った。書くことに対する欲望がもはやあるのかどうなのかわからないが、しかし何だかんだで毎日書いている自分はおり、生活している最中にも、過去の記憶を思い出して、メモを取らなければなどと考えたりしている。もはや強迫観念なのかもしれないが、頭のなかで常に何かを書き、考える、そのような主体に自分はなってしまったらしい。今まで自分は自分の欲望だけを根拠にして毎日の日記を書いていると思っていた、そのような、何の役にも立たないし、何にも繋がらないが、しかしただやるのだという欲望がこの世にあるということを示したいとも思っていた、しかし、その欲望が相対化されてしまったようである今になっても、何故か書き続けている自分がいるのだ。これは本当に、欲望すらも根拠ではなくなって、完全に無根拠の地点に至ったのではないかという気もするが、しかしやはりなかなかそうは行くまい、人間何だかんだで何かしらの根拠は必要である。今までは「自分の欲望」が根拠だったのが、それに入れ替わって、「他者の存在」が根拠として挙がってきているような気がする。
 風呂を上がると九時、メモを取った。翌日は朝からの労働だったので、六時には起きたいものだから早めに眠る必要があった。八時間と考えれば一〇時には就床するべきだったが、南直哉『日常生活のなかの禅』を読んでいるうちに、一一時に至り、そこで床に就いた。

2018/2/10, Sat.

 三時前に一度覚めた。この時、何らかの夢を見ていたのだが、そのなかで急に緊張が高まってそのまま覚醒するという形だった。薬を服用して寝付き、六時頃にももう一度覚めた記憶があるが、その後、最終的に八時二五分まで眠った。うまく入眠できず、眠っているのかいないのか、本当のところもわからないような眠りだった前日と比べて、この朝は一応眠ることができたようである。あまり寝床に留まることもなく、一〇分ほど経つと身体を起こした。と言うのは、この日は母親が九時頃に陶芸教室に出かけるという話だったのだが、その前に顔を合わせておきたいという気持ちがあったからである。
 それで上階に行って、挨拶をする。無造作に伸びてきた髪に寝癖がついているのを笑われた。洗面所に行き、顔を洗って櫛付きのドライヤーで髪を梳かす。食事は、炒飯である。母親はじきに出かけて行った。ものを食べると皿を洗い、そのまま風呂も洗ってから下階に下りた。
 インターネットを覗いたあと、一〇時ちょうどから読書を始めた。石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』である。ベッドの上で、窓から射し入ってくる光線を浴びながら、音読をしていく。晴れの日ではあるが、空には希薄な雲があり、陽射しは前日や前々日と比べると控えめで、太陽が雲の裏に隠れて陰る時間もあった。読んでいると、母親が帰ってきた音がした。母親はこの日、午後には前日面接を受けた職場(「(……)」という会社で、発達障害などのある子どもらと一緒に遊び、支援をするらしい)を見学(と言うか、実質初仕事ということなのだろうが)に行くとのことで、午前中の陶芸教室からそのまま向かうとのことだったが、思いのほかに早く終わったので、一旦帰ってきたのだった。一一時半まで本を読んだところで、中断して上階に行く。
 母親は、食事を取ったところだった。カップ蕎麦を利用した温蕎麦の残りが鍋にあったので、こちらもそれをいただくことにした。ほか、ゆで卵である。食後、母親が先日買ってきた苺風味のチョコレート菓子をいただき、また、オレンジ味のゼリー飲料も続けて貰い、どちらも美味く感じられ、ありがたいという気持ちが湧いたので、これはあとで記録しておくことにした(実は先日来、「感謝および良かったこと」として、その日に感謝したことを日記の別欄に記録しているのだ。このようにして、ささやかなことでもありがたいと感じることのできる感受性を失うことなく、それをより拡張させていきたいと考えているのだが、これもまた不安に対抗するための一手段として考えてもいる。自分の不安神経症は、最終的には不安そのものに対する不安、つまり再帰的な不安として定位されていると思われるのだが、それに対して、感謝・良かった・ありがたいというポジティヴな気持ち、再帰的な感謝を増幅させることによって対抗したいという考えである(感謝が再帰的なものであるのは、どのような感謝の情であれ最終的には、「自分が何かに感謝できるということそのものが最も感謝するべきことである」という地点に帰着すると思うからである)。
 昼食後、皿洗いを済ませて、南の窓辺に寄って陽の温もりをちょっと感じたあと、自室に帰った。そうして、久しぶりに過去の日記を読み返すことにしたのだが、二〇一六年一二月台の終盤までしか読めておらず、本当はその日の一年前の記事を読み返したいところが、もうとても追いつけないほどに距離が離れてしまったので、途中のものを読むのは諦めて、二月一〇日のものを読んだ。そうしてからふたたび、『記号の国』を読み出す。もう太陽が西寄りになって、通常の枕の位置には光が届かないようになっていたので、ベッドの端、南窓の際に寄って、ガラスの隅に浮かんでいる太陽の陽射し(高度も上がったので、もうあまり定かな感触もない)を辛うじて浴びる。時折り、窓外で立つ鳥(多分、鵯ではないか)の声に耳を取られながら、一時間四〇分を読んで、一気に読了してしまった。二日間で読んでしまったわけで、自分としては相当に速い。なかではやはり、「俳句」(意味の中断/免除、「悟り」)について述べられた部分などに主に興味が惹かれ、書抜き箇所として手帳にメモをするわけだが、自生思考があるということそのものに苦しめられている最近のこちらとしては、まさしくそうした、無秩序に増幅していく意味の停止/言語・思考の不在のような状態が実現されればなあという心だった。文中に引かれていた臨済義玄の言葉、「歩くときには、歩くことだけをせよ。座したときは、座すことだけをせよ。けっしてためらうな!」(「行かんと要せば即ち行け、座せんと要せば即ち座せ。一念心に仏果を希求する無し」)にも同じ憧れを抱いた。
 二時を迎えたので、洗濯物を取りこみに行った。タオルを畳み、シャツにアイロンを掛けていると、その最中にインターフォンが鳴る。出れば(……)(行商の八百屋さんだが、出勤時に辻で会うほうとは別の人である)で、母親は不在なわけだが、どうせ来てもらったのだから何か買ってあげようというわけで、ちょっと待ってくださいと告げて、財布を取りに室に下り、戻って玄関を抜けた。どうも、と挨拶をして、今日は良い天気ですね、雪が降って以来随分と寒かったですね、などと話しながら、トラックに積載された品物を見回って行く。それで、ヨーグルトと、葱と、人参(一袋)を買うことにした。五五〇円をぴったりと払って、礼を言って玄関の戸を入り際、目に入った林のほうの宙が、薄陽によって本当に煙ったようになっており、また、樹々の至る所に光の斑点が付されているのにも目を奪われて、少々眺めた。このような、以前のような感受性の働き方は、不安に苛まれてばかりいた最近のこちらにはほとんどなかったものであり、それがここでふたたび生まれたのはありがたいことである。八百屋のトラックが去っていったあとには、木の葉を撫でる風の響きが残った。
 そうしてアイロン掛けに戻り、また下着を畳んだりもするのだが、そのあいだ、目の前のことに集中できているような感じがした。と言うか正確には、何らかの行動を実行しながらその裏で、無秩序に思考が蠢いているのを感じてもいるのだが、それが明確な言語となって聞こえては来ず、だいぶ後景に引いたような感じで、思考があってもあまり気にならない、という感じだった(完全に言語化されないままの思考が高速で流れていくのだが、それは次々と流れ、移り変わって、こちらを「通過して」いくものなので、不安を感じる暇もない、というような? また、意識の志向性が思考にばかり定位されず、殊更に努力せずとも、目の前の外界の物事のほうにもたびたび焦点が合ったようだ)。これは一か月強薬を飲み続けて、その効力が定着してきたということなのか、それとも音読の効果なのか、あるいはその相乗効果なのかわからないが、やはり何となく、音読は精神安定に良いのではないかという気がするので、これからも続けてみるつもりである。
 下階に戻ると三時前で、日記を書くことにしたのだが、Evernoteを見ると、ネットワーク接続の不具合で同期が出来ていないという表示が出ていたので、階段下の室にあるスイッチをかちかちとやりに行った。その帰り、突如として気まぐれに、ギターを弄る気持ちが湧いたので、それに従って隣室に入り、少々弾いたのだが、ここでもやはり、ギターを弾きながら余計な思考が湧くという感じがほとんどなかった。そうして自室に戻り、前日の記事よりも先に、この日のことをここまで書いて、四時直前となっている。
 それから前日、九日の記事を仕上げて投稿すると、四時四〇分である。書き物をしているあいだも、不安はなかった。そうして、上階に行って夕食の支度を始める。まず、米である。新たに四合を用意して研ぎ、もうだいぶ腹が減っていたので、すぐに炊きはじめてしまった。それから、鶏肉を茹でて色の白くなったものが冷蔵庫にあったのでそれを取り出し、ジャガイモとともに炒めることにした。芋を三つ、皮を剝き、薄めにスライスして、そのあと鶏肉も細かく切り分ける。ジャガイモは本当は、多少茹でてから炒めたほうが柔らかくほくほくとなって美味いのだろうが、面倒臭かったので、オリーブオイルをフライパンに引き、そのまま炒めはじめた。この時、久しぶりに音楽を歌いながらやるかという気になって、台所のラジカセで小沢健二『刹那』を流した。そうして、歌を口ずさみながらジャガイモを炒めて行くのだが、途中、結構焼き目もついたあたりで一欠片食べてみても、少々固さの残っており、やはり茹でたほうが良かったなと思われ、遅ればせながら水を使うかということで、ちょっと水を投入して蓋を閉じ、蒸らしてみることにした。待つあいだも歌を歌い続け、そうして鶏肉も加えて念入りに炒めてから、塩コショウをほんの少し振って完成とした。それから、汁物を作る。これは先ほど買った葱を使えば良かろうと決め、さらにちょうど絹の豆腐があったのでそれも入れることにした。湯が沸くのを待ちながら葱を斜めに切り(切り終えてしまったあとは、居間の窓のカーテンを閉めた)、湯に粉の出汁と味の素を振ったあと、鍋のなかに投入する。煮えるのを待って豆腐も切り分けて入れ、血圧を心配している母親に薄味でと言われているので、こちらも味噌を少なめに溶かして仕上げた。
 そうすると、時刻は五時半を回ったころだった。"流星ビバップ"を歌いながら洗い物を済ませ、下階に戻ると、そのままの流れで久しぶりに、歌を歌いはじめた。このように、歌を歌おう、声を出そうという気分が自然と生まれたこと自体が、こちらの回復を示しているように思われる。最初は、ちょっと歌ってから、母親が帰ってくるまでのあいだに(母親の帰宅後に、一緒に食事を取ろうという気持ちだったのだ。以前はこんな心になったことはほとんどまったくなかったはずで、自分でも驚くべき変化なのだが、この点について多少の分析/解釈を加えておくと、例えばこちらが無意識のうちに抑圧していた「マザコン」傾向を認めるに至った、ということが言えるかもしれない。と言って別に自分は、以前のこちらも、今のこちらも、特段過剰に「マザコン」だとは自認していないが、もっとも、例のエディプス・コンプレックス的な図式に従うならば、素直にそれを認めるにせよ、反発するにせよ、すべての男子は最終的にはマザコンなのだということになるのかもしれないが、これは退屈な考え方ではあると思う。それはともかく、こちらがどちらかと言えば支持したいもう一つの解釈はと言えば、それはやはりこちらの内における「他者」像、「他者」に対する態度の転換で、思うに、自分にとって母親とはより広い「他者」を象徴する存在、最も身近で根源的な「他者」だったのではないか。同じ家族という小共同体のうちにありながら、明確に自分とは違う性質を持った存在、苛立たざるを得ない存在、端的に言って「話の通じない」存在として、こちらにとっての母親はあったと思うのだが、「他者」への姿勢が変化したことにより、そうした母親の存在を受け止め、受け入れ、彼女と概ね協和することができるようになったのではないだろうか。これは、ブログの読者の皆さんには、二八歳にもなって今更と思われるかもしれないし、あるいは逆に、二八歳にもなってマザコン的であると思われるかもしれないが、自分としては良い変化だと思うし、この思いやりのような心が、薬剤の効果によって精神が落着いているための一過性のものでないことを自分は願う)、いくらか書抜きをしようと思っていたのだが、勢いが止まらず、一時間ほど歌い続けてしまった。歌った曲を列挙しておくと、Suchmos "STAY TUNE"を皮切りに、Mr. Chilren "ファスナー", "NOT FOUND"、くるり "グッドモーニング", "ロックンロール", "How To Go "、小沢健二 "大人になれば", "ローラースケート・パーク"、James Morrison "Save Yourself"、Maroon 5 "She Will Be Loved", "Sunday Morning", "If I Never See Your Face Again"である。一人カラオケの前半部で、(……)のことを思い出す瞬間があり、この人は二〇一二年から二〇一三年のあたり、ちょうど文を書きはじめたのと同じ頃までこちらが恋慕していた高校の同級生の女性で、彼女のことと言うよりは正確には、彼女が、家族は大事にしなければいけないよという風に言っていたのを思い出し、それとともに一家の生活を支えてくれている父親のことなども思い合わせて、ああ、彼女が言っていたことは本当だった、自分は今までそうしたことを顧みず、良く感じ取ることなく、何と傲慢だったのだろうと反省し、歌を歌いながら感情が高ぶって涙を催す瞬間が何度かあった(彼女にまた会って、こうしたことを話してみたいとも思った)。このような感謝の情が湧くのは良いことだと思うが、しかし最近の自分は明らかに涙を催しすぎており、精神の安定の観点からするとややまずいと言うか、もう少し落着いて、動きの少ない頭と心になりたいという気はする。ともあれこの時、「他者に対して優しい人間になりたい」という気持ちが明確に自分のなかにあることを自認し、そうした気持ちがあることそのものに感謝したのだが、何とありきたりな、紋切り型の、「綺麗な」物語だろうか? 人によっては拒否感を催してしまうような言い草かもしれない(以前の自分もどちらかと言えば、そうした方面の人間だったと思うが、このように変化するほど、不安にこっぴどくやられたということなのだろう)。しかし、自分はこの紋切り型を堂々と生きたいと、少なくとも今のところはそう思っており、その願いがこの先消えないでほしいとも思っている。それは本心だろうか? わからない、ここ最近の自生思考の暴走のうちでは、自分のなかから「本心」というものが解体されてしまったように思えた時もあったし、そもそも人間に「本心」などというものがあるのかどうかすらわからず、疑う心もあるのだが、しかし自分は自分の意志で、こうした気持ちが自分の「本心」であると、今この瞬間は「信じて」おきたいと思う(「私の自由意志が最初に行う選択は、自由意志の存在を信ずるということだ」とウィリアム・ジェイムズは言った)。ところで、このように生活を舞台にして自分の「内面的な」事柄、「思い」ばかりを綴っていると、いかにも近代文学的な私小説のようなものをやっているのではないかという気がしてくるのだが、読者の皆さんの目にはどう映るのだろう? 自分はもはやこれを「小説」として書いているつもりはないし、「小説」にしようという心もないのだが、かと言って「日記」を綴っている、というような感じも(ほかに適した言い方がないので、便宜上そのように書くわけだが)薄くなってきたような気もする。
 随分と脱線してしまったが、話を戻すと、歌を歌い終えたあとは、書抜きを一箇所でもしようということで、ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から一部分(それが長かったが)を写した。空腹の状態を持続させてしまい、かつ歌を歌い散らして交感神経を活性化させてしまったのか、頭や身体が緊張しているような感じがあったので、書抜きの途中にこの日二度目の服薬をした。そうして、七時半頃になって上階に行く。
 初仕事を終えた母親の話を聞きながら食事を用意し、卓に就いて食べはじめた。母親が帰りに小さな惣菜の酢豚を買ってきてくれていたのだが、これが、玉ねぎや人参にまで味がよく染みていて、美味いものだった。八時に至って新聞を見ると、出川哲朗が充電バイクで旅をする番組がやっているとあったので(その前に、新聞の一面に、石牟礼道子の訃報(九〇歳だと言う)が出ているのを見て、ああ、と嘆息するような風になった。と言って、彼女の作品は何一つ読んだことがないのだが、『苦海浄土』はやはり読むべきではないかと思うし、水俣病闘争についてもできれば学びたいという心はある)、それを見ようと母親に言って番組を回してもらった。ロンドンブーツの田村亮と一緒に四国を旅しており、途中、和菓子屋に止まって、わらび餅をいただいたり、充電させてもらう代わりに客引きをやったりしているのだが、そうした様子を見ながら、こういう何でもない他人との交流というのはやはり良いものだなという印象を持った。父親が早く帰ってくるというので母親は風呂に行き、こちらは皿洗いを済ませると自室に帰って、ここまで日記を記した。現在は九時二〇分である。前日とはうってかわって、日記を書きながら不安がなく、精神がまとまりを得ている感じがするのだが、このように久しぶりに長々と自分語りを展開できたということ自体が、やはりこちらの回復を物語っているのではないだろうか?
 その後、入浴するために上階へ行った。帰ってきていた父親におかえりと挨拶する。父親は、寝間着の上にダウンジャケットを羽織り、いつも通り炬燵テーブルで食事を取りながら、オリンピックのスピードスケートを見ていた。こちらも下半身を伸ばしながらちょっとそれを眺めたあと、ベランダに干しっぱなしだった束子を取る。すると、雨が降っているのに気づいたのだが、訊けば父親が帰ってくる途中から少々降り出していたと言う。
 入浴する。温冷浴を、久しぶりに腕の付け根のほうにまで冷水を掛けて、念入りに行った。窓に静かに響く雨音に、頭が俳句を作る方向に向いたが、形にならなかった。上がると室に戻り、他人のブログを読もうとしたのだが、何か緊張するところがあってやめ、コンピューターは閉ざして、読書をすることにした。ロラン・バルト『記号の国』のあとに選んだのは、先般芥川賞を受賞した石井遊佳『百年泥』である。これは、三月の頭に控えた(……)たちとの会合で読むことになっているものだ。一〇時半から一時前まで、二時間以上、一気に八〇頁近くを読み、そうして眠りに向かった。一日出かけず、運動もせず、あまり疲労感が感じられなかったので、うまく眠れるか懸念があったのだが、自ずと入眠することができた。

2018/2/9, Fri.

 うまく入眠できなかった。自動的な思考、また自動的なイメージの狭間に捕らえられ、寝ているという実感がなく、切れ切れに覚めた。六時前になってようやく薬を飲み、それで八時過ぎまで、一応眠ったようだ。日中、活動できているので休めてはいるのだろうが、とても質の良い睡眠ではないだろう。最後の覚醒時にも自動思考が回っており、しばらくしてから起床した。
 上階へ行き、ストーブの前に腰を下ろすと、テレビでは瀬戸内寂聴が秘書であるらしい若い女性と一緒に出演している。この女性が、六〇歳ほど年齢差のある瀬戸内とともに過ごす生活のことを綴った本を出したらしい。前夜の残り物で食事を取りながらテレビに目を向けたが、瀬戸内は、補聴器をつけてはいるものの、九五歳にしては実に元気で、喋りぶりにも淀みがなかった。彼女の小説は一作も読んだことがないのだが、そこまでの高齢になっていながらも文章を書き続けているというのは、やはりそれだけで素晴らしいこと、ことによると尊いと言っても良いかもしれないことではないかと思う。じきに母親が、テレビをもう消してと言うのでその通りにして、皿を洗った。
 母親は面接へと出かけて行った。発達障害などのある子どもを支援するような職場だと言う。あとで帰ってきた際、報告を受けたところでは、早速明日から出向くことになったということだった。母親の出かけて行ったあと、こちらは上階に掃除機を掛け、そうして自室に帰った。インターネットをちょっと覗いてから、読書である。一〇時直前だった。エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』をまもなく読み終わり、そのまま石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』を読みはじめた。和食(天麩羅やすき焼き)だとか箸だとかについてバルトが考察していることは、彼が体験したのはそうは言っても高級料理店などでの食事だろうから、一般庶民の暮らしをしているこちらとしては少々大袈裟にも思えてしまうが、しかし、彼が日本という文化形態に出会って、そこから非常に繊細に、形やイメージを豊かに引き出しているということは感じられる気がする。ここまで書くからには、バルトは本当に、見たもの、体験したもののそれぞれに、まさしく目を惹かれた[﹅6]、非常に惹きつけられたのだろうという印象が湧くものだ。
 正午過ぎまで読んだ。その頃母親が帰宅して、部屋の戸口に来て、面接の結果を報告した。その後、運動をしてから上階に行き、食事を取る。素麺に、母親が買ってきてくれたコロッケとカキフライである。またその後、キウイもいただいたのだが、揚げ物にしても果物にしても美味しく感じられ、そのことに感謝した。食後、母親は、(……)自転車屋に電話をしていた。と言うのは、翌日の出勤にはバイクで向かうつもりのところ、そのバイクが壊れていてエンジンが掛からないので、運んで行って見てもらおうとのことで、事前の連絡をしたのだったが、店の主人はポリープを取りに行くという話で、今日は見られないということだった。それでも外へ出て、家の側部、様々なものの置き場に停めてある原付を、玄関付近の陽の当たるところまで移動させるのだが、エンジンが掛からないので家の横にある短い坂を力づくで持ち上げなければならず、母親とこちらと一緒になって押して行くのだが、これがなかなかの苦労だった。店に運んで行こうと言うのを、気軽に了承していたが、店までの道には長い坂があるわけで、後日になるにせよ、これではとてもでないが運んで行くことなどできないぞと思った(結局その後、母親は付近の自転車屋を検索し、取りに来てもらったとのことである)。そうして、母親が跨る後ろを押して、エンジンが掛かるかどうか何度も試したのだが、やはり結局駄目で、最終的に駐車場の車の後ろに置いておいた。その後、自転車も取り出してきてみようと母親が言うので、こちらとしては面倒臭い気持ちもあったのだが、玄関前の陽のなかに運んで来て、もう長いこと使っておらず汚れきっていて、タイヤのシャフトには蜘蛛の巣が掛かっているようなものを、雑巾で掃除していった。前輪は空気が抜けてベコベコになっており、空気入れを探したのだが、結局見当たらなかった。元の置き場に戻しておいて、屋内に入る。
 二時過ぎだった。ギターを弾いたあと、書き物に入る。文を書きながら緊張するようなところがあったので、あまり気を張りすぎないようにした。そうして八日の記事を完成させると午後四時、歯磨きと着替えをして、薬を飲むとメモを取った。それで四時二五分になったので、『記号の国』を少しだけ読んでから上階に行った。
 炬燵に入ってしまう。バイクは取りに来てもらったと言うのを聞きつつ、炬燵の心地良さにしばらく囚われ、五時直前になって出発した。誰だかわからないが、通りがかった女性にこんにちはと挨拶をして、歩いて行く。道を行くあいだは、呼吸に意識を向けた。そのおかげか、余計な物思いがなかったようである。と言いながら、やはり考えてしまっているのだが、呼吸とは、「流す」ための技法なのではないかと思った。何か余計な思い、嫌な思いが去来してきたとしても、それにいつまでもこだわらず、それを流し、その都度の現在の時点に(現在時点には常に呼吸の動きが存在している)立ち戻るための技法ということである。
 時間が前後するが、街道に出た時には、西の空に黒い山の影と仄かな色の残光が見え、明るさのまだ残った空に虹のような形で雲の筋が掛かり、飛行機が細いV字型の軌跡を描きながら、斜め下に向かって、その雲のほうへと飛んでいる。裏通りを行く途中、(……)(我が家のほうにも時折り回ってくる行商の八百屋)のトラックが停まっているのに出くわし、挨拶をして少々言葉を交わした。
 勤務は、余計な思考がなく、集中してこなすことができた。ただ、同時に、頭の疲れた感じ、頭痛もあった。退勤するといつも通り駅に入り、電車で帰る。帰路に特段の印象はない。
 夕食は、昼の残りのカキフライや、素麺などである。テレビには、平昌オリンピックの開会式が映し出され、父親が興味深げに眺めていた。こちらは、頭というか意識が結構重くなっていた。皿を洗ったあと、『ドキュメント72時間』を見たいという気持ちがあったので、ストーブの前に座りこんで、『名探偵コナン』の映画版が流れるのを時間繋ぎに目を向けながら待つ。ドキュメンタリーは、おでん屋が舞台で、穏やかな気持ちで眺め、それから風呂に入った。湯に浸かっていても自ずと目が閉じて行き、そのたびに訳の分からない言葉が去来してくるような有様だったが、温冷浴をしているうちに少々意識が確かになった。それでも、出てきて歯を磨くと、読書はせずにすぐに眠りに向かった。

2018/2/8, Thu.

 二時前だったろうか、一度覚めて時間を確認した覚えがある。久しぶりにそこそこの緊張感が身に湧いていたのだが、起き上がるのが面倒でそこでは薬を飲めず、寝付いてもう一度覚めた時に服薬した。そうして、切れ切れではあったと思うが、一応八時まで眠った。カーテンをひらくと雲のない晴天で、窓外のネットに絡まったアサガオの残骸が、空気の流れに触れられて僅かに震えている。
 起床して上階へ行くと、ストーブで温まった。食事は、米がもう炊飯器に残り少なかったので、すべて払って前夜と同じく茶漬けにし、また、鍋料理にゆで卵である。その後、前夜の土産物であるショコラ風チーズケーキをいただいたが、これが濃厚なものだった。その後に苺を二粒食べたが、前日と同じく美味いと感じられ、そう感じられたことに感謝した。
 窓の上方、山の姿の上に覗いている空はまだ青の色が薄く、澄み切っている。風呂を洗ってから室に帰ると、インターネットを覗いてから読書を始めた。ベッドに乗って音読をしていると、途中、眠いような感じが出たが、それを越えると頭と身体が軽いようになった。陽射しが顔の左側に熱かった。
 一一時一五分頃まで読書をすると、その後、久しぶりに書抜きすることにした。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』である。三〇分ほど打鍵をして正午を回り、そのまま日記を記しはじめた。一時間ほどでここまで綴って、現在一時過ぎに至っている。
 その後、ギターを弾いた。楽器を弄っているあいだも、自分の意思が働くのではなく自動的に手指が動くというか、指と頭の赴くままに任せるといった感じがあった。二時前になると、上階へ行き、炬燵に入っている母親の隣に入れてもらった。テレビには、録画してあった『マツコの知らない世界』が流れていた。前半は、コーヒー焙煎の世界チャンピオンを獲ったという人が招かれており、コーヒーの美味しい淹れ方や様々なコーヒーメーカーを紹介する趣旨だったが、それを見ながら炬燵の安穏さに眠いようになって、そのように不安なく穏やかな気持ちになれたことに感謝し、これが幸福というものかもしれないと思った。
 そのうちに炬燵から抜け出して、食事を取ることにした。母親が鍋料理に素麺を入れて煮込んでおいてくれていた。それを食べる頃には、テレビの企画は片手袋研究に移っており、街に片方だけ落ちている手袋を一三年間、見つけるたびに必ず写真に収め、その傾向を分類するなどという妙な趣味を持つ人が出演していたのだが、なかなか面白いなと思いながらそれを眺めた。
 そうしているうちに、母親の携帯に着信が入り、出て声を高めて謝っている様子からすると、料理教室の日程を一週間勘違いして、すっぽかしてしまったらしい。この当日にあったものを、一五日と思い込んでいて、料理教室のメンバーたちから着信がいくつも入っていたのだが、散歩に出ていた母親は気づかず、ここでようやく連絡が繋がったという形だった。各方面に謝りの電話を入れたあと、母親は、駄目だな、という風に嘆きを漏らしたが、それを聞きながら以前のように苛立ちを覚えず、そういうこともあるよと穏やかに宥める自分がおり、このように落着きを持って母親に接することができるようになったのはありがたいことだと思った。
 その後、何か面白いテレビ番組でも見ようということで、録画されてあったなかから『しゃべくり007』を選び、笑った。前半は坂口健太郎という人と綾瀬はるかがゲストで、後半は二階堂ふみという女優がゲストだった。二階堂ふみは冒頭で、最近生活スタイルが変わったと語り、また湯葉が大好きなのだという風に話した。その後、しゃべくりメンバーとのあいだで、初対面の人と友達になることを目指すという寸劇が行われたわけだが、やはりホリケンの瞬発力が随一で、先の湯葉の件を踏まえて、(今井美樹 "PRIDE"の冒頭の「私はいま」のメロディーに合わせて)「私は湯葉」といきなり歌いだしたところが一番面白く、大笑いしてしまった。テレビの前でスクワットをしながら番組を眺め、その後、炬燵に入って歯を磨きながら四時前まで視聴した。
 その後、洗濯物を畳み、ストーブの石油を補充する。勝手口に出ながら空を見上げると、まだ青さが明るいものだった。室内に戻ると自室に下がり、メモを取って四時二〇分である。着替えをしたあと、出るまでにまだちょっと時間があったので、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を少々音読した。この日の読書では、書抜きをしたい箇所が見つかったのだが、そのうちの一つに、最近の自分の状態にほとんどぴったり当て嵌まるような記述があったので、ここに引用しておきたい。

 そんなことを考えているうちに、私は無意識のうちに両手で顔を覆っていた。孤独、不安に満ちた探求、日々出会う不条理な出来事、そうしたものが私の世界の一部を作り上げていたが、ものを書く上では何の役にも立たず、むしろ苦しみを増すだけだった。ほかの作家たちが自分の不安を大いに活用して小説を書いていることは知っていた、というかそういう話を聞かされていた。ところが、私は自分の不安を生かして作品を書くためにどうすればいいのか見当もつかなかったのだ。私は両手で顔を覆ったまま、床に敷いてあるぞっとするようなマットレスの上に倒れ込み、これ以上何も考えないでおこう、意識を消し去り、理解も分析もしないようにしようと心に決めた。知恵というのはおそらくそういうことなのだと考えた。しかし、何も考えまいとすること自体何かを考えることなのだと思い当たったとたんに、苦々しい思い、不安といった苦悩がふたたびよみがえってきた。あの頃の私はそうしたものを自分の文学に移し替えるすべをまだ知らなかった。
 (234~235)

 そうして時間が来ると上階に行き、ホットカイロを背に貼って出発した。坂を上って行き、辻まで来るとトラックで移動販売する八百屋が来ており、老女が一人いて、少々やり取りをした。コートを着ているのを指摘されたのに、雪が降って以来寒いですからねと答えると、今日もちょっと降った、ぱらぱらっと散ったと八百屋が言ったので、そうでしたかと受けた。それから、以前は帰りも歩いていたが、最近は寒いから電車に乗ってしまうなどと話して、じゃあ行ってきますと告げて別れた。このように、実に些末で何でもないやりとりだったのだが、そのような何でもないやりとりができるということ自体に、感謝の気持ちが湧き上がってきた。と言うのは、年末年始の変調以来、自分の感情や気持ちに確信が持てず、何かを感じることや考えることそのものが不安だというようなところがあり、自生思考が自走して思ってもいないはずの言葉や妄想が湧き上がってきたりして、端的に言って自分というものがわからなくなっていたからだ。そんな状態だから、テレビ番組を見て素直に笑えたり、他人と問題なくやりとりができるということ、それ自体が実にありがたいことのように感じられるのだった。ナイーヴにも、そのことに涙を催すほどだったのだが、一番感謝するべきことは、感謝の気持ちや言葉が自然に湧いてくるということ、自分のなかにそれが確かにあるということだと思った。このようなことで涙するというのは、やはり自分の精神が不安定であることを証しているものではないかと思うが、それは端的に、不安に冒されているからである。しかしこの時、街道を歩きながら、このような感謝の気持ち、尊いような気持ちになれるのならば、不安というものも、悪いものではないのかもしれないという考えが湧き、そう思えたということは、多分自分は大丈夫なのではないかと思った。自分は、この他者や様々な事柄への感謝の気持ちを決して忘れたくない、何とかそれを、この先もずっと持続させて行きたいと思う。
 街道から振り見た西空には、いくつかに分かれた雲が浮かんでおり、紫を帯びて縁取りされていた。その後、歩きながらまたどうしても考えが巡ってしまう。この思考すること、ものを感じるということによって苦しみが生まれるのは間違いない。釈迦の「一切皆苦」という考え方にはそのようなことも含まれているだろう。しかし人は、そして自分は、どうしても感じ考えてしまう存在である。考えないということは無理である。したがって、ものを感じ考えることによって生まれる不安や苦しみと共存していくほかはない。パニック障害になった最初の頃にも考えた考え方だが、この苦しみが自分に割り当てられたもの[﹅9]なのだ。何らかの意味で苦しまない人間などこの世におそらく一人としておらず、誰もが固有の苦しみを抱えている、そしてそれを生きることこそが生なのだと、この時はそんな風に考えた。
 職場に着くと、働きはじめるまでにちょっと時間があったので、先ほど感じたことを手帳にメモし、それから準備を始めた。勤務のあいだはだいぶ落着いており、以前とほとんど同じようにゆったりと働くことができたと思う。余計な思考、妄想もあまりなく、またよく笑えたようだった。しかし一方で、言葉を発すること、物事を説明するのが何かどこか苦しいような、そんな感じも途中にはあった。
 帰りは駅でSUICAに金をチャージし、電車に乗ると瞑目して到着を待った。降りた最寄り駅には、ホームの真ん中に雪がまだやや残っており、取り除かれないまま幾日も経ってしまったので、縁が凍りついていた。帰宅すると、一〇時前だった。水道の工事か何かの関係で、一一時から水が濁るという話だったので、野菜炒めだけをちょっと食べて、先に風呂に入ってしまうことにした。父親もじきに帰ってきたので、温冷浴は繰り返しやって、束子は全身でなく腹や腰回りだけを擦り、一〇時半には上がった。出ると父親が、こちらはもう食事を済ませたと思っていたようで、牡蠣を食べてしまったと言ったが、笑って、いいよと受けた。食事は、米に納豆を用意し、キクラゲの入った汁物に野菜炒め、また里芋の煮物である。テレビは最初、『カンブリア宮殿』でライザップの社長が話をしていたが、卓に就くと『ダウンタウンDX』に変えて、見ながらものを食べた。その後、一一時になると、『OUT×DELUXE』を映すと、野村克也が出演して、昨年亡くなったサッチーこと沙知代夫人についてなど話をする。夫人の最期の様子が語られたのだが、曰く、食堂で突っ伏しているのをお手伝いさんが発見して、向かった野村が背を揺らしたところ、「大丈夫だよ」と答え、それが最期の言葉になったと言う。様子が明らかにおかしいので救急を呼んで、心臓マッサージなどを施したがそのまま逝ってしまい、本当に五分くらいで亡くなったとのことで、マツコ・デラックスが言った通り、まさしく大往生だったらしい。
 歯を磨きながら番組を最後まで視聴し、その後、自室に下りてメモを取ると零時前になった。眠気があまりないようだったので、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を一時間、ゆっくりと、小さな声で読み、一時を回ったところで就床した。

2018/2/7, Wed.

 例によって深夜のうちに一度覚めた。さっさと薬を飲み、一応寝付いたのだが、しかし本当に眠れているのかどうかいまいち良くわからないようでもある。八時半になると意識がはっきりして、しばらく寝床で呼吸に集中してから、九時になって起床した。
 食事は、キーマカレーの残りである。母親は、九時四五分頃、外出していった。こちらはものを食べ、風呂を洗って下階に戻ると、やはり自生思考があるのが気になって、その関係の薬について調べたり、スレを覗いたりと神経症的な振舞いを取ってしまった。その後、読書、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』である。ベッドで好天の陽を浴びながら音読していく。途中、窓を見上げると、光を放つ太陽から湧くようにして薄雲が広がっており、光の混ざりも相まって雪のようになっている時があった。
 一二時半過ぎまで本を読み、その後、運動をした。前日の運動のために腹は筋肉痛になっていたので、腹筋は避けて済ませ、それからメモを取ると一時二〇分である。そのまま書き物に入り、五日の記事からここまで書いて一時間強が経っているのだが、時間があまりにも速く、ほとんど一瞬のようにして過ぎ去ってしまうこの感覚は一体何なのだろう。以前にも勿論、たびたびそうした思いを抱いたことはあるが、そのどの時よりも最近は一日が速く、時間が止めどない。記憶力も落ちたような気がするというか、そう言っては少々違うのか、何と言うか、以前よりも一日の各部、生活の細部が、自然と要約/縮約されて捉えられているような感じがする。
 上階へ行った。何かしらのエネルギーを補給しようというわけだが、その前にアイロン掛けをすることにして、エプロンやハンカチを処理した。台所には母親が作ってくれた鍋料理があったのでそれを温め、一方で例によって豆腐を熱し、それぞれを食べる。豆腐を食いながら、喉元を過ぎて胃の腑へと落ちて行く熱の感覚が気持ち良いようだった。ものを食べたあと、身体の力が抜けたように、楽なようになった。自生思考があるのがやはり気になるのだが、それをも受け入れるかのような心持ちに、この時はなっていた。最近の自分の思考は、脈絡のない妄想が甚だしく、そんなことを考えているとそのうちに本当に行動に移してしまうのではないかと不安なのだが、食後、これもやはり不安障害、あるいは強迫性障害の一種なのではないかと思いついた。「やってはならないこと」に対する不安があり、それを恐れるがゆえに、それについて考えてしまう、ということではないのか。
 その後、皿を洗ってから下階に帰り、(……)のブログを読む。そのあいだは不安は収まっており、自然なような感覚でいられ、四時一四分を迎えた現在も一応そのような状態ではある。
 そうして、本を読みながら歯を磨き、服を着替えた。室を出ると、母親もちょうど出かけるところだった。父親の会社の幹部連のあいだで、夫人も一緒の会食があるのだという話だった。上階に行き、母親が玄関を出たあと、こちらはホットカイロを背中に貼ろうと思って戸棚からそれを取ったところで、インターフォンが鳴った。玄関の戸が近かったので返事をしながら直接そちらを開けると、(……)で、父親のやっている自治会の組長の仕事の関連で、転出・転入か何かの調査結果を持ってきたのだった。頭を下げて礼を言い、封筒に入ったものを卓上に置いておくと、カイロを貼ったり、マスクを用意したりしてから、トイレに入った。
 排便すると五時、出発しようと玄関を抜けたところで、ちょうどまた人が来ており、先の(……)と同じ用事で、紙を受け取って卓に置いておくと、出発した。ガーゼのような質感の薄い雲が、空に広く掛かっているなか、東の果ての低みには隙間があって、すっきりとした青と白が覗いている。坂に入ると、川のほうからぴちぴちというような鳥の声が上ってくる。上って行っても、弦を軽くはじくような短い鳴き声が繰り返し聞かれる。街道に出ると、西の空に少々厚く溜まった雲の裾が、下から煽られるようにしてオレンジ色に焼けていた。歩いているうち、一刻ごとにその色が深まっていくような暮れ時で、裏通りに入ったところで見るとさらに濃くなったようで、またもう少々進んでから見返ると、紫を含んで茜色の風情になっていた。
 一方で例によって、頭のなかでは思考が回っており、時間が過ぎるのがとにかく速いなと思っていた。すべては生成し、変転し、過ぎ去っては流れ消えて行くのだという思いが湧いており、自分もその変転のなかで変化せざるを得ない、この先狂うかもしれないし、あるいは病に冒され、いずれは死ぬだろう。しかしそれでも、自分はこの生を生きていたいという気持ちがあるようだった。生が一切皆苦なのだとしたら、そんな場所からはさっさとおさらばするのが良いのかもしれず、生きたいというその心こそが苦しみの最終的な根源なのかもしれないが、それでも自分は、生の苦しみを受け入れ、この一瞬一瞬を精一杯生きようと思った。そのように考えて感情をやや高ぶらせていたのだが、少し経つと、精一杯などと気張る必要はない、ただ生きれば良いのだと冷静な気分になり、これこそがまた変転を証しているのだと考えた。思いさえも続かずに、移ろい続けて行くのだ。
 労働は一応問題なくこなせてはいたのだが、何か落着かないような、早く終わってほしいというような気持ちがあったように思われる。また、すべてが、自分の動きや言動さえもが自動的に動き、回って行くような、そんな印象に付き纏われて、自分が何か勝手な言葉を口にしないかと恐れるようなところがあった。この自動感というのは、良くわからないが、やはりメタ認知が鍛えられすぎたためのものなのではないかというような気がする。勤務が終わると、気持ちは落着いたようだった。帰り際、(……)に、元気ですかと尋ねられ、唐突だったので何で、と返すと、声があまり聞こえなかったと言った。また、(……)が、前日こちらの元気があまりなかったと言っていたと言う。(……)こそ、声の小さく、内気そうで、活発とはとても言えない人間なので、彼にそう言われるとは、と(……)なども笑い、こちらも面白く思って笑ってしまった。そこでちょうど彼が来たので、どのあたりが元気でなかったかと尋ねると、声のトーンが一段低かったと言う。前日は眠かったからそのためかもしれず、また、最近のこちらの変調が、意外と外に出ているのかもしれないとも思われたが、しかしともかくも生きている。(……)にもそのように、生きてはいる、とやや冗談めかして返したのだが、これはわりとこちらの本心であるように思われる。ともかくも自分はいまこの瞬間、生きており、存在している、最終的にはもうそれで十分なのではないか?
 退勤して駅に入った。改札を通る時、SUICAのなかの金が随分少なくなっていることに気づいた。今日あたり、入金しておかなければならない。電車に入ると席に就く。向かいには、風体の良いとはとても言えない老人がおり、ポテトチップスか何かをぱりぱりと食べていた。
 降りて帰宅すると、両親はまだ帰っていない。ストーブを点けて温まり、その後着替えに下りた。そこで携帯電話を見ると、(……)から着信が入っている。掛け直すと、長いことコールが続いていたが、切ろうと思って電話を耳から離したところで出た気配があり、もしもしと掛けて会話を始めた。体調はどうかと尋ねられたが、良いのか悪いのか良くわからないと言い淀んだ。少し前にも電話をして、近いうちに会おうという話をしており、あちらは水曜日が休みなので、それでは二八日の水曜日を空けておくと言った。そうしてほかの話はせずに短く通話を終え、服を着替えて食事を取りに行く。
 鍋料理に、米には茶漬けを振り、ほか、薩摩芋とほうれん草である。また、食後には苺を食べたが、これが美味しいものだった。食べ終えたあと、何となくバラエティでも見て気持ちをほぐそうかという気分が湧いてテレビを点け、『水曜日のダウンタウン』を眺めた。見始めた時間にはまず、人脈を活用して助っ人を呼んで行うサッカーというものをやっており、最終的に五〇人以上もメンバーが集まって、コートが人でいっぱいになり、ヘディングの連続でボールが回る、というような事態になっていたのが滑稽だった。その後、高田純次は普通に、「高田純次です」と自己紹介をしたことがあるのかとTBSの出演番組を検証するという企画が披露され、結果としては初期はそのように通常の自己紹介をしていたのだが、これを見ながら大いに笑った。
 そうして、一一時も近くなってから風呂である。出かける前に沸かしてあったのでもうだいぶぬるくなっており、それを追い焚きして、温冷浴を何度も行った。束子で身体を擦ることも、前日はあまりできなかったがこの日は下半身までもやり、結局、一時間近くの長きに渡って入っていたのではないか。風呂を上がるともう零時前になっていたが、両親の帰りは遅く、まだ帰ってきていなかった。自室に帰ってこの日のことをメモに取ると零時一〇分過ぎ、眠気は特段に湧いていなかった。それなので読書を行ったが、その最中に両親は帰宅した。カラオケに行っていたらしく、終電になったのだった。こちらは一時前まで読むと、欠伸が出るようになったので、明かりを落として床に入った。

2018/2/6, Tue.

 この日の朝というか深夜というかは、あまりうまく眠れなかった。眠ろうとしても意識が沈んでいかず、脳が自走して何か良くわからない妄想とかイメージとかを繰り広げているのを眺めてしまい、入眠できないという感じがあるのだが、やはり睡眠薬を貰うべきなのかもしれないと考えた。一応七時半まで寝床に留まり、起き上がるとゴルフボールをちょっと踏んでから上階に行った。食事は、焼きそばと野菜スープである。テレビは朝の情報番組で、おたまについて取り上げていたが、特段の興味はない。
 風呂を洗って洗面所を出てくると、母親が台所の床にしゃがみこんで何やらやっている。仏壇にあった香炉の灰を紙の上に広げて、線香の燃え滓を取り除こうとしているのだ。そこでこちらもしゃがみ、母親がスプーンで灰をふたたび香炉のなかに入れていく一方、黒い燃え滓を指で摘んで取り除いて行った。
 それが終わると自室に帰って、コンピューターを点ける。支出などを整理したあと、九時半から読書に入った。エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を音読するのだが、最中は、頭に負荷が掛かっている感じがして、眠気のようなものが湧き、目を閉じそうになる。終わったあとは、わりと落着いた気分になっていたようである。
 そうして、久しぶりにOasis "Wonderwall"を流しながら服を着替えて、歯を磨く。洗面所で磨いていると、上階から、まだかと母親に急かされた。上って行き、トイレに寄って外に出て、母親の車に乗り込んで出発した。墓参である。道中、車内にはMr. Childrenがごく薄く掛かっていたので、口ずさみ、まず母親の用事で眼科に停める。薬を貰ってくるあいだ、こちらは車のなかで待っていた。好天だが、足が冷える。しかし、洩れ入ってくる薄い陽の温もりも、左膝付近に掛かっていた。外を見れば、二本立った竹の葉が良く揺れている。
 目を閉じて休んでいると、気持ちが落着いて、ありがたいと思った。しばらくしてから目をひらき、ふたたび竹のほうを見やり、今度はその先にある空にも目をやると、実に青々としている。母親はなかなか戻って来なかったので、携帯電話でウェブに繋ぎ、他人のブログを読んだ。母親が帰ってきた頃には、一一時をちょっと回っていた。(……)(叔母)との待ち合わせは一一時だったのだが、まだ連絡がないと言う。ともかく駅へ向かったが、こちらからメールを送ってみればと提案すると、ネットワークがどうのこうのと出て送れなかったようで、それであちらからの連絡が届いていなかったのではないかとわかった。実際、行ってみると、駅前のベンチに叔母は座って既に待っていた。彼女を乗せて、寺へ向かう。
 降りて墓地に入り、水を用意しようとするのだが、井戸の水が凍っているようで、汲み上げポンプの取っ手を動かしてみても、水を汲み上げる抵抗の感覚がまったくなく、空回りするばかりでどうしようもない。幸いと言うか、手近の桶に、あまり綺麗ではなかったようだが水の入ったものがあったので、それを使わせてもらうことにした。墓所の前に行くとこちらは周辺を掃き掃除し、叔母が花を支度したりして、じきに線香を供える。手を合わせ、以前だったら金とか時間とかを願っていたところだが、ここではやはり精神の健康を願った。
 墓地を出ると、二人は外で食べてきたらいいと言って、こちらは一人、歩いて帰ることにした。車が出ていくのを見送ってから寺の居住区域に隣接した便所に行き、出てくると、猫がいる。鈴をつけており、寺の飼い猫のようである。しゃがんで手を伸ばしたりしてみるが、近づいてこない。じきに離れてしまったので、諦めて外に出て、道に出て帰りはじめた。好天だが風はやはり冷たく、立ち止まってモッズコートの前を閉ざす。街道へ出て、日なたの多い北側に渡って、歩いて行った。帰るあいだは折々陽に当たられて心地よく、穏やかな気持ちになって、今は以前と同じような安心した心持ちになっているのではと思われ、ありがたかった。
 家に帰ると、一二時二〇分頃だった。着替えて、食事はうどんを用意する。フライパンで生麺を湯がき、それを余っていた汁物に入れて煮込む。一方、豆腐をレンジで温め、卓に就くと、ゆっくり味わうようにして食べた。
 その後、室に帰ると書き物をしてから、運動である。運動はいつも、床の上で下半身の筋を伸ばし、ベッドに移ってさらに柔軟をやり、その後、腕立て伏せなどを行うといった順序なのだが、今までは最後の、やや筋トレ的な行程も、力を入れた状態で身体を静止させるという風に行っていたところ、この日は、通常の筋肉トレーニングと同様、身体を動かすことにした。それでいつもよりやや念入りにやって、するともう三時前なので、外出の支度である。
 着替えて上に行き、出る前に米をといでおく。冷えた手を電気ストーブで温めてから、出発した。まだ日なたの残っている表通りを、先ほど帰ってきたのとは逆方向に進んで行く。(……)
 勤務中も、最初はやや頭が散漫だったようなのだが、次第に集中できた。ただ、途中、意識が少々遠くなるようなというか、頭に違和感があり、どうもやはり脳が疲れて眠気が湧いているのではという感じがあった(実際、欠伸も結構出た)。
 労働を済ませて退勤すると、(……)そうして駅に入る。電車に乗ると扉際に立って、最寄りで降りて帰路を辿った。帰宅すると、食事はキーマカレーである。食後はやはり眠気というか、目を閉じたくなるような頭の重さがあって、テレビはフレッド・コレマツという、二次大戦中の米国の日系人収容に対して反抗し声を上げた人を取り上げていたのだが、それに目を向けながらも、折々に目を閉じてしまった。皿を洗ったあと、風呂に入る前にも、父親が場所を離れた隙に炬燵に入って休んでしまう有様である。その後の入浴時もやはり、湯に浸かりながら瞑目してしまった。温冷浴はこなしたが、身体を念入りに擦る気力はなく、下半身は擦らずに上がって、室へ戻った。その頃には多少眠気が弱くなっていたので、零時半前まで読書をしてから就寝した。

2018/2/5, Mon.

 例によって午前二時前くらいから何度も覚めるのだが、薬を飲まずともふたたび入眠できるようになってきている。六時頃に覚めたあとが難しかったが、七時を越えたあたりで一応寝付いたようで、覚醒は八時二〇分になった。不安はなく、わりあいに落着いた心での覚醒だった。カーテンをひらくと、空は青い。光のなかに塵が浮遊しているのをちょっと眺めてから、身体を起こす。
 背伸びをしたりと身体を和らげてから上階に行った。母親は前日に引き続き、臨時に頼まれた(……)の仕事で不在である。居間には南窓から陽が射しこんでおり、炬燵テーブルの上に乗り(食後、そのなかに入ってちょっと日なたぼっこのような時間を取りもした)、床にも引かれていて、玄関のほうの便所に行って戻ってくる際など、居間に続く扉のガラスが白く眩しくなっていた。ハムと卵をフライパンで焼き、米に乗せて簡単な食事とする。食卓から南の窓を見やると、山や樹々の大方はまだ影に浸されているものの、川沿いの樹々の梢のあたりには陽が届いて、そこだけ黄緑色を浮かび上がらせて空間に明るみの曲線を描き、柔らかいような質感を露わにしている。窓辺に吊るされた小さな水晶玉が、こちらの頭が前後に動くのに応じて、青やら緑やらの光を送ってみせる。
 皿を洗うと、そのまま風呂も洗った。ゴミが烏に散らかされていないか見ておいてくれとのことだったので(実際、寝床で覚めた時にも、烏が何匹も外を行き来し、鳴きを立てているのが見られた)、玄関を出た。今回のものかどうか知れないが、確かに烏がつついて千切ったらしいゴミ袋や紙の細かな破片が、少し散らばっていたので、一つずつ拾って塵取りに収め、林のほうに捨てておいた。
 そうして室内に戻り、白湯を持って自室に帰ると、早速日記を書きはじめた。前日の分を速やかに仕上げ、この日のものもここまで書いて、現在は一〇時直前である。
 その後、ベッドで光を浴びながら読書をした。エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』である。読後は落着いた気分になっていたようだ。そうして運動をしてから上階へ行き、卵一つのみを食べると速やかに下りて、歯磨きと着替えをした。薬を飲み、ホットカイロを背中に貼りつけて、出発である。
 玄関を出ると風が林に流れるところで、竹の葉の鳴りが響き、それのみならず幹同士が擦れ合う音も頭上で立った。坂を通るあいだも風が大きく流れて樹々を揺らし、身に冷たい。街道に出るあたりでちょっと不安が湧いたような感じになり、車の通る音や、道路工事の音のいちいちが耳につくようで、知覚が騒がしく、うるさいように感じられたのだが、歩いているうちじきに受け流すような感じになった。薬のおかげだろうか。裏通りの途中では、抹茶色のメジロが一軒の庭木にとまって細かく鳴いているのを目に留めた。
 財布のなかに札が一枚もないという状況だったので、駅前のコンビニで金を下ろした。それから公衆トイレに寄ってから駅に入り、電車に乗る。道中、立川までのあいだは瞑目して非能動の状態を保ち、どんなものかと自分の心身を探ってみたのだが、不安には襲われず、落着きがあったので安堵した。立川を過ぎると、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を取り出して読書をした。外を見れば空に雲は結構あるが、それでも明るくて良い天気だとの印象を否定できない。
 やや遅れる旨、(……)にメールを入れておき、中野で乗り換えて代々木へ渡った。駅を出るといつもの喫茶店に行き、先に入店していた(……)と合流する。カフェインを嫌って、葡萄ジュースを注文した。そうして、『後藤明生コレクション4 後期』について、何となく話しはじめる。特に後半の作品などは、作家が町を歩いた実体験を概ねそのまま書いているらしく、私小説的ではあるけれど、いわゆる近代文学的に内面や自意識を描くそれと違って、資料の引用などを交えて、私小説というよりもむしろ紀行文的な感触ではないかなどと話した。また、この時言うのは忘れたけれど、とりわけ後半の、大阪付近の文化や旧跡を扱った作品群の書き方はいかにも冗長であり、こちらは頭の調子がおかしかったこともあって、読んでいるあいだ、あまりきちんと読み取れた感じもしなかったのだけれど、この冗長さというのを、「蜂アカデミーへの報告」のなかにあった冗長さについての言及と結びつけて捉えることもできるのかもしれない。そこでは確か、岩田久二雄という、「日本のファーブル」とも呼ばれる学者の著作を引いて、観察記録というのはやはり省略をせず隈なく書く、そういう冗長な姿勢で書かれたのが本当なのだ、というようなことが話されており、後藤は確か、それをファーブルの昆虫記の書きぶりとも絡めて、「科学的」精神とちょっと対立させる風にしていたと思うのだが、後藤自身も後半の作品で、そうした冗長さを支持する振舞いを見せたということなのかもしれない(そして、この「冗長さ」とは言うまでもなく、「物語」と(単純に)対立させて考えられた時の「小説」的な態度でもある)。
 後藤の小説についての話が一段落すると、近況だとか最近の心境の変化などについて話した。こちらのそれについて言えば、読み書きに対する欲望に自信が持てなくなってしまったとか、他者というものの重要度が自分のなかで上がって来ているようだといったようなことである。諸々話したあと、三時半頃に退店した。(……)はトイレに行くと言うので、こちらがまとめて支払いを済ませ、店外で精算をした。そうして新宿へと歩き出す。
 まだ陽の感触は残っており、好天ではあるのだが、風が吹き、道は寒い。ジョギングや運動などについて話したりしながら、また三日に(……)と話したフローベール文学史的位置づけなどについても語りながら、新宿駅の南口へと歩いて行く。巨大な通りの横断歩道を渡って、東南口のほうへ移行し、下りて町中に入って行った。このあたりで(……)に、彼にとって「他者」とはどんなものかとそのスタンスを尋ねてみたのだが、「厄介なもの」というのが最初の答えで、それは確かに、と思わず笑ってしまった。ただその後、色々な意味で依存してしまう(あるいはせざるを得ない)存在でもある、それがまた厄介だ、というような話がなされたが、このあたりはあまりよく覚えていない。こちらは最近の変調のおかげで、以前からは考えられない変化だが、自分は一人でいないほうが良いのかもしれないと思うようになったと語った。自分一人で、脳内で独り言を繰り広げてばかりいると、それこそ頭がおかしくなってしまうのではないかという不安があり、家族がいるというのがありがたいような気持ちになっている、家を出るにしても、ルームシェアでもして誰かとの共同生活をしたほうが良いのかもしれない、などと話しながら、新宿紀伊國屋書店本店へと入って行った。
 次回の課題書は、喫茶店にいるあいだに決まっていた。今次復刊された、『フラナリー・オコナー全短編』(上下)である。これはちくま文庫から復刊されたのだが、しかし文庫のほうを見に行く前に、単行本の区画を見て回った。こちらはうろついたあと、後藤明生のコレクションや著作、また座談会をまとめた本などをぱらぱらめくり、(……)は(……)で何かしらメモを取っていたようだった。そうして、文庫の区画へ移る。件のものは平積みされているのがすぐに見つかった。(……)が見回っているあいだ、こちらはちくま学芸文庫の棚にR.D.レイン『引き裂かれた自己』を発見してしまい、そのうちの「統合失調気質における内的自己」を読み耽って、これは自分にも当て嵌まるところがあるのではないか、などと考えたりしていた。とにかく、自分がこの先、統合失調症などの精神病になるのではないか、もうなりかけているのではないかと気に掛かって仕方がないのだ。あまりこうした方面の情報に触れないほうがむしろ良いのかもしれないが、しかし結局、オコナーの文庫本と一緒に購入してしまった。
 退店すると、五時一五分だった。日が長くなりましたねと(……)が言うので、空を見上げて、今になって雲がなくなっていますねなどと返した。高層ビルの先に見える空は実際、まっさらな暮れの青さに染まっていた。腹が減っていると(……)が言い、飯を食っていくことになった。周辺を放浪した結果、(……)という野菜料理をメインとした店に入ることになった。通りから階段を上がって二階のフロアに入ると、通路の両側にカーテンで仕切られたテーブル席が並んでいるなかの一つに通された。飲み物を頼むと(こちらはジンジャーエール、(……)は生ビール)、カボチャの豆腐のお通しがついてきた。これはなかなか美味いものだった。そのほか、イクラのお浸し、安納芋、ブリを葱で少々辛味に和えたもの、大根の唐揚げ、ロールキャベツを注文してそれぞれ取り分け、追加でスパイシーチキンを注文し、最後に牡蠣の温蕎麦を食べた。
 話はこちらの変調だったり、互いの不安性向だったり、あまり精神衛生に良いとは言えないものが多かったようである。先々のことを考えると不安しかなく、特にこちらは最近、自分がこの先狂うのでは、精神病になるのではとそのことにばかり気を取られている。ほか、また他者について話して、自分のブログも他者に何かしら益するものになってくれていると良いと言い、また、この先の生活の不安と絡めて、こんな頭の状態であるし、十分な金を稼ぐような経済的能力もないから、ブログでアマゾンアフィリエイトでもできないだろうかなどと笑いながら話した。
 退店したのは、七時頃だったと思う。東南口に戻り、改札を入ったところで(……)と別れた。頭が固いような感じが生まれていた。駅の人波に圧されるような感じで、ホームに下りても人の多さに緊張するようだった。乗った電車も満員で、扉際に押し込められて逃げ場がなく、そうするとやはり、かつてのパニック障害時代のように、気持ち悪くなってくるのではとか、発作が起こるのではとか懸念が湧いて、実際、腹のあたりや呼吸の感覚など見てみても、自分が緊張しているのが明らかに認められたが、目を閉じて呼吸に集中することで何とかやり過ごした。こちらの前にいた女性は、満員でほとんど身動きが取れないなかにあってもスマートフォンでゲームをしており、電車が揺れるとこちらの腹のあたりにその身が当たってきた。武蔵境でだいぶ人が降りたので気持ちとして楽になり、立川まで来るとわりあいに落着いていたと思う。
 (……)に着くと、母親に何か菓子でも買っていくかと自販機に向かう。なかに、苺のふわふわショコラ、というようなチョコレートの類があったので、苺の類の菓子が最近好きらしい母親に良いだろうと二三〇円を払った。そうして待合室に入り、本を読みながら乗り換えが来るのを待つ。車内でも読書を続けて、最寄りで降りると、帰路を辿った。
 帰宅すると、ささやかな土産を差し出し、母親と分けて少々食べた。服を着替えてくるとアイロン掛けをして、翌日、(……)(叔母)がやって来て墓参に行くと言うので、自分も行くと申し出て、そのあたりのことをちょっと話した。入浴を済ませて自室に帰ると、この日のことをメモに取って時間を使ったようである。以前よりも早く、一一時とか零時になると眠気が重く湧くのは、やはり頭が過活動なのではないかと思われた。

2018/2/4, Sun.

 目を覚まして時計を確認すると、二時になる前で、普段よりも覚醒が早かったが、これは上階でまだ起きていた父親の立てる物音で目が覚めたらしかった。この日も薬を飲まずに一応寝付き、その後しかし、六時頃からは正式に入眠することはできなかったと思う。一〇分か二〇分かそこらの微睡みくらいのものはあったようだが。ボディスキャンと言うか、死者のポーズ的なものも何度か行いつつ、八時半頃に起床した。
 起床時には、比較的穏やかな気持ちだったと思う。上階に行って母親に挨拶し、前夜の餃子の残りや、サラダを用意する。新聞は書評面(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』が取り上げられていた)をちょっと見たのみで閉じ(最近は新聞記事を読む気が全然起こらない)、呼吸をゆっくりとしながら餃子を米と合わせて咀嚼する。母親はじきに、(……)出かけて行った。それで、飯を食っているあいだだったか、もう食べ終えて一息ついている時だったか、電話が鳴ったので取ると、(……)ですけれど、(……)いる、と覚えのない名前と声が聞こえる。困惑していると、祖母の命日で(……)が来ていないかとか何とか訊いてきて、今日あたり来ていれば、沢庵をあげようと思って、とか言う。それで電話の相手がわかった。我が家との関係は良く覚えていないが(確か(……)の妹だったか?)、折に触れて漬物をくれる高年の婦人がいるのだ。(……)は六日に来るという話だったと思うが、母親は漬物にはもう辟易しているだろうから、確定的な日時は伝えずに詳しく知らない風で濁し、伝えておいてくれと言うのを了承し、礼を言って切った。そうして食器を洗い、自室に帰る。
 時刻は一〇時頃である。三〇分ほど娯楽的な動画を眺めたのち、一一時前から読書に入った。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。読書のあいだ、外の様子を見やると、本の内容にも触発されて、何ということもない景色だが、近所の屋根が薄明かりを帯びているさまなどに目が行き、風景全体が何とはなしに、綺麗だなと感じられ、そのように感じられたことそのものをありがたく思うような心が湧いた。音読でもって本を最後まで読み終え(三〇日に読みはじめたので、四〇〇頁ほどある本のわりに、こちらとしてはなかなか速いペースだと思う)、そうしてぼんやりとしていると、窓の上端付近に広がった雲から、段々と太陽の光が現れだす。そのさまを眺め、受け取るようにしていた。
 しばらくしてから運動を行う。そうすると一時も過ぎて、上階に行けば、どこかしら出かけていた父親が帰ってきていたが、ふたたび外出していった。こちらは豆腐を電子レンジで温め、ほか、朝にも食べたサラダとゆで卵を食べる。そのうちに母親が帰ってきて、テレビを点すと、『アタック25』が映し出される。それを眺めながら、甘味の類を母親と分け合って食べて、番組が最後まで至ると立ち上がって食器を洗った。母親の使った分もまとめて洗い、彼女が餅を食うのに用いた皿は、こびりついたものがすぐには取れないので水のなかに浸けておく。
 そうして、ベランダに続く西の窓からソファのほうに陽が細く射しているのに惹かれて、そのなかに座ってちょっとしてから、靴下を履いて下階に下りた。図書館に出かけるつもりだった。歯磨きをしたのち、出かける前にこの日のことをメモに取ってしまおうと思ったのだが、実際にはメモではなく正式に書き出してしまい、ここまで三〇分で綴って三時になっている。
 振り向くと、雨が降り出していた。服を着替えて上階に行くと、両親は二人とも玄関にいて、何やら話をしている。青い作業着姿の父親が座っているその先、玄関の扉は開け放たれており、雨とも雪ともつかない半端なものが宙を降っているのが見える。こちらも玄関に行き、折りたたみ傘を持っていったらとか、傘を差して行こうとかやり取りをしたのだが、結局、すぐに止むだろうということで、また実際、まもなく降りが衰えてきたようだったので、傘を持たずに出発した。降りはやはりすぐに止んで、坂を上りながら振り向くと、入り口の先に覗く空に陽の色が見え、斜面の下の道に停まった車の車体にも反射している。前に向き直って歩きはじめても、路面に薄陽が敷かれていた。
 街道を越えて裏路に入ると、前方に犬の散歩をしている二人連れがいる。並んで似たような犬を連れているのに、初めは夫婦だろうかと思ったのだが、よく見れば女性のほうは少々年嵩で、男性はまだ若く、近所の知り合いのようだった。呼吸に意識を向けながら行くと、不安が生じてこず、穏やかな落着いた心持ちでいられ、ありがたい気分が湧いた。(……)駅が近くなると、雨がまた始まって、少々冷たかった。
 駅のホームに上がり、寒いなか、立ち尽くして電車を待つ。来たものに乗ると、手帳にメモを取っておき、それから瞑目して到着を待った。(……)で降りると図書館に入り、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を返却すると階を上がって新着図書を見る。タイトルをメモする気にはならず、見るだけでその場を離れ、海外文学の棚のほうに行った。何か海外の小説を読もうという気持ちになっていたのだ。休日だけあって、席はあまり空きがなく埋まっているようだった。目当ての書架の前をうろついて、ラテンアメリカ、フランス、ドイツ、英米と見て行った結果、念頭に上がったのは、イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』か、メイ・サートン『七〇歳の日記』あたりだった。トロヤノフのこの小説は、リチャード・フランシス・バートンという探検家の生涯を綴ったものらしく、以前からちょっと読んでみたくはあったのだが、三〇以上の言語を話し、『千夜一夜物語』を翻訳したというこの人物は、この日にちょうど読み終えたトリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』にも探検家の一人として名前が挙がっていたのだ。メイ・サートンのほうは、先日にも記した通り、個人的な興味に加えて、山梨の祖母にどうかと思っていたのだが、なかを覗いてみると、これはやはり祖母にいきなり読ませるにはちょっと厳しいのではないかと思われた。それは措いても、自分でも読んでみたくはあるのだが、心を決めることができなかった。と言うのは、ロラン・バルト『記号の国』を加えて借りようと思っていて、そうすると『世界収集家』のほうは長すぎる気がし、またサートンのほうは小説ではなく日記である。もう少し短めの小説を何か一緒に借りようと思って書架を辿ったところ、エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』が目に留まり、これだなと即座に心が決まった。
 本を見ているあいだ、南の大窓から、西空に現れた夕陽の光が射しこみ、目に届く時間があった。二冊を持って、フロアの逆の端へと移り、老荘思想の本をめくったり、仏教関連の書籍(仏陀の言葉を収録したものや、坐禅についてのもの)を探ったりする。そうした関心にはやはり、何でもかんでも気にしてしまう自分の神経症的性向から逃れるヒントがないかという思いが寄与しているのだろう(ただ、この時は特に不安を覚えていたわけではなかった)。そうして五時を回って、貸出手続きを済ませると、退館に向かった。
 館を抜けて歩廊に出ると、空には雲が厚く出て大層青く、通路の路面にもその青さが反映している。東の方(と言うのは左方だが)は隙間なくその青い雲に籠められてもうだいぶ暮れの趣だったが、南西方向は山の周囲に(この山も雲とほとんど同じ青さの影となっていた)空白の地帯がいくらかあって、そこに残光の色が仄かに差し込まれていた。駅に入ると、ベンチに就いて電車が来るのを待つのだが、非常に寒い。改めて見てみても空は実に青く、特に東の方角は厚く塗り込められている。待っているあいだ、背後には小さな子どもを連れた母親がやって来て、セーターを着せ替えてやったり、写真を撮ったりしていた。子どもは風邪を引いていたのか、ちょっと咳を漏らしていて、しかし動き回って、声がこちらの耳に近くなる瞬間もあった。
 やって来た電車に乗って席に就くと、暖房に温められて、ありがたいという思いが湧く。正面には、面長で、頭頂の毛の少なくなった男性(良さそうなコートを羽織っていた)が乗っており、静かに瞑目している。左斜め前の座席のほうには、老夫婦が座っていた。到着して乗り換え、最寄りで降りると、空はもはや暮れきって大変暗い。階段を抜けて通りを渡り、坂に入ったところで見上げると、星や飛行機の明かりが見えた。
 道に出て歩いていると、背後から足音が近づいてきて、じきにこちらの影に追いつくようにして現れた影が、こちらのすぐ後ろのほうに添うようにしてきたので、警戒の心が働いて左にずれる。しかし、横から現れた人を見れば、(……)だったので、あ、こんにちは、と口にしたが、もう六時も回って薄暗闇だったのだから、こんばんは、と言うのが相応しかっただろう。
 帰宅するとストーブにあたって、身体を十分に温める。ソファに座っていた父親はじきに風呂に入りに行った。こちらは着替えてきて、夕食にする。頭から尾まで丸ごと食べられる鰯を三尾、それに冷凍の唐揚げ、ほか茸の汁物や、カボチャを使ったサラダなどである。テレビは中国のパンダ事情について放映していたようだが、ろくに見はしなかった。
 ものを食べ終えると、入浴に向かう。この日は温冷浴を念入りにやってみることにした。どうも、湯たんぽを入れているにもかかわらず、寝ている時に足が冷えているらしかったからである。今の時期は寒いので、まず膝のあたりまで冷水を浴びせてから湯船に戻り、二度目は腿の付け根まで、三度目で腰あたりまでという風に分けて下半身を冷やしては温めているが、その後、この日はさらに二回、冷水と湯のあいだを行き来した。そうすると、わりと具合は良さそうである。それから、身体を労るようなつもりで、束子で全身をゆっくりと擦り、風呂を上がる。
 出るとちょうど八時頃で、両親は炬燵テーブルに集って、大河ドラマ『西郷どん』を見始めるところだった。炬燵テーブルの横にはエプロンとハンカチが一枚ずつ放置されており、これにアイロンを掛けようと思って母親にそう言ったところ、自分がやるから良いと言う。いやこちらがという風に申し出をちょっと続けてみたのだが、母親はやはり自分がやるからと繰り返すので、そこをあまり押してもと引き下がり、自室に帰った。
 白湯を飲みつつ他人のブログを読んで九時、そこから日記を書き出して、現在は一〇時半前である。書いているあいだ、不安な気持ちがほとんど生じなかったのが、実にありがたいことである。
 それから、歯磨きをするために部屋を出て、歯ブラシをくわえて戻る。この時父親は、階段下の室で、コンピューターを前にしていた。口を濯ぐと、湯たんぽの用意をするために上階に行く。台所に入って、薬缶を火に掛け、沸くのを待つあいだ、日曜日で父親は酒を飲んでいたようで、下階から鼻歌を鳴らすような声が聞こえていた。
 自室に戻って湯たんぽを仕込むと、借りてきたエンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』を読みはじめたのだが、いくらもしないうちに眠気が湧いたので、読書を中断してさっさと眠ることにした。まだ一一時一五分だった。

2018/2/3, Sat.

 例によって深夜に覚めたのだが、そのあたりの記憶ははっきりしない。ただ、この日は薬をすぐに飲むのではなく、そのままに寝付くことができ、薬はあとで飲んだのではなかったか。七時頃まで眠ったあと、ぐずぐずと寝床に留まり、半を迎えてから起床した。
 朝食は、炒飯である。上がって行くと、まだフライパンに米を入れただけで途中だと言うので、搔き混ぜて、皿によそった。ほか、前日の残り物である鶏肉とグラタンの料理があった。食後すぐに、ストーブの石油を補充し、その後、ベランダの雪搔きも率先して行うと、自室に帰った。
 この日は休日ということもあってか、いくらか娯楽的な気分が湧いており、室に帰ると、もう随分前に買ったものだが、スナック菓子をつまみながらインターネットを少々回り、その後、九時四〇分から読書に入った。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。一一時前まで音読をすると、その後またちょっとインターネットを回ったのだったと思う。正午が間近になっても腹が全然減っていなかったので、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の書抜きをすることにした。この合間に、またヴィパッサナー瞑想などについて調べてしまう時間が挟まったが、一時前には書抜きを終えた。
 その後、上階に上がって、炬燵に入ってしまったのだが、この時には二時が近くなっていたと思う。テレビは、NHK連続テレビ小説わろてんか』の出演者がインタビューを受けるような番組を流していた。それには大して目をやらず、炬燵のなかで温もりながら目を閉じて、うとうととする。傍らには母親が洗濯物を畳んだり、動いたりしている音が聞こえる。休みながらも、「休んでいる、休んでいる」と頭のなかで呟いて実況中継をするというヴィパッサナー瞑想の実践を行っていたのだが、その声が折々に逸れていって、何か良くわからない妄想を展開しているのに気づく時間があった。そのたびに戻すわけだが、そうしながらも、全体として気持ちは安らぎ、心地良い微睡みの時間を過ごすことができた。母親は途中で出かけて行ったのだが、結局、三時半前くらいまでそのように休み、それから立ち上がって、米を研ぐ。そうしてから下階に帰った。
 インターネットを回るのだが、炬燵で休んだためだろうか、この時は落着いた心持ちでいることができた。四時半から、ふたたび読書を始める。最初は座って読んでいたが、じきにベッドに寝転がると、淡い紫色を微かにはらんだような暮れ時の空が見える。その空が段々と薄暗くなっていき、五時二〇分頃になったところで読書を切り上げ、上階に行った。
 食卓灯を点し、各方の窓のカーテンを閉めてから、餃子を焼きはじめる。フライパンに餃子を敷いて、ちょっと熱してから水を注ぎ、蓋をして、待っているあいだは脚を左右にひらいて筋を伸ばしていた。焼き上がると室に帰り、日記を書き出したのだが、まもなく母親が帰ってきてこちらを呼ぶので、すぐに中断して上がって行った。タイヤを買ってきたのでそれを運んでくれと言う。了承して外に出て、車の後部から重いタイヤを一つずつ取り出し(全部で四つあった)、玄関前の階段下のスペースに入れて行く。その後、買ってきたものを冷蔵庫に収めたあと、モヤシを茹でた。鍋がなかったので、餃子を焼いたのではない、もう一つのフライパンを使った。
 そうして室に帰り、書き物をする。二月一日の記事からである。文を記しながら、次第に心身が緊張していくのを感じていたのだが、呼吸を意識するとそれを和らげることができた。いま、正直なところ、生活の端々で自分の状態が気になったり、折に触れて不安が湧いたりと、全般性不安神経症のような心の状態になっており、記憶を思い返したり、日記を書いたりするのにも何か不安が付きまとうようなのだが、やはり呼吸を常に意識の中核に据えておくことで、精神の安定を図るというのが重要なのではないだろうか。ここまで記すと、六時過ぎから始めたのがもう八時直前に至っており、時間というものはこのように止めどなく過ぎ去ってしまう、そのことにもまた何か不安があるような気がする。
 夕食を食べに上階に行った。メニューは、先ほど焼いた餃子に、味の薄いうどん、ほか、牛蒡のサラダにモヤシを添えたものである。テレビは萩本欽一香取慎吾が司会を務める仮装大会を映しており、それを見ながら時に笑いを立てた。また、優勝したのは「参勤交代」という演目を披露した子どもたちの集団で、最後にそれがふたたび演じられるのを見ながら、何か感じ入るようなところがあって、それは演目自体の内容がどうこうと言うよりも、無常感のようなものに捉えられたことによるものだったと思う。最近ではこの無常の感覚に捉えられることが本当に多く、恥ずかしながら涙を催しそうになることもしばしばなのだが、それはやはり精神がまだ不安定だということなのか、それとも中世の日本人のように情感が細やかになったということなのかは知れない。このあと、洗い物をしているあいだにも、台所に立って流しに向かい合い、皿を擦っているだけなのだが、いまここにこうしてある、この瞬間だけでもう十分なのではないか、とそのような気持ちが立つところがあった。
 時間が前後するが、食後のデザートとして、母親が買ってきてくれた、どちらも苺味の品である(母親は最近、苺関連の甘味に目がないようだ)ロールケーキと、雪見大福的な菓子を分け合っていただいた。最近のこちらの変化としてもう一つ明確に挙げられるのは母親に対する感情で、何かしら慈しみのような情が基調となりつつあるように思う。母親と時空をともにしていて苛立つということがなくなったし、実にささやかなことではあるが、彼女のために家事の手伝いをすると、そうしたことができてやはり良かったなという気持ちが湧くことがある。端的に言って、家族とともにいるというのも悪くはないものだなというような心持ちになっており、これは以前の自分からすると信じがたいような変化だが、その底には、やはりどこかで常に不安を覚えているというような心の状態があるのではないかと思う。
 家族というのは最も身近な他者であるわけだが、他者のために何かをしたいというような気持ちも、以前よりも強くなりつつあるように感じる。正直なところここ数日、自分の感情だとか、自分のやりたいこと、自分の欲望というものに自信が持てず、この日記にしたって以前はこれこそが自分の成すべきことだと思い定めていたはずが、今や自分は本当にこれを書きたいのかわからず、欲望が相対化されてしまったのだろうか、惰性で続けているような気がしないでもないのだが、ただ自分が他者に何かしらの(良い、と信じたい)影響を及ぼすことができるとすれば、その手段はこの日記、一応日々続けているこの文章を措いてほかにはないのではないか。専ら他者のために書く、ということではない。書くということ、何かをするということ、そして「~のために」というのは、そんなに単純なことではないはずだ。ただ一応、自分がいまここにこうして生きている、このようなことを感じている、それを誰かが読んで、どんなものかはわからないが、何かしらの良い作用を受けてくれるとありがたいと思う。実に優等生的で、綺麗な考え方だが、何しろ自分は、中学一年までは文句なしの優等生だったのだ。
 入浴後、一〇時から他人のブログを読んでいる。その後、おそらく湯たんぽの用意などして、一一時からトリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を読みはじめているが、横になっているうちに意識を失っていたはずである。気づくと零時半頃になっていたので、そのまま就床した。

2018/2/2, Fri.

 一度覚めた時に時計を見やると二時四〇分で、毎日驚くほど正確だなと思った。薬を飲んで九時まで眠り、ボディスキャンをしてから起き上がる。上階に行くと、外は雪景色である。立ったまま居間の南窓を見通すと、川沿いの樹々が雪を施されて、白さが樹々の合間に差し挟まったために遠近の境が曖昧になり、全体としてボリュームを増したような風に見えた。朝食中は、あまり気分が晴れなかったようである。
 一〇時半から正午過ぎまで、読書をしている。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。途中、白い空に太陽がうっすらと見えた時間があった。音読をして気分が少々明るいようになり、その後、運動である。
 そうして昼食へ。確かこの時は煮込みうどんを食べたのではなかったかと思うが、ものを食べると副交感神経が働いたのか、穏やかな気分になった。芸能人の女性たちが格安の着こなしを競う番組を眺め、食後、炬燵で休んだ。その後、外へ。隣の(……)宅の入り口の階段を掃除しようというわけで、母親と一緒に雪搔きを行った。母親は塵取りを使い、こちらは大きなスコップ型の雪搔きを操って、段の上の雪をすくっては、階段を上り、道に出て、林のほうへと投げ捨てて行った。(……)の家の階段を掃除し終えると、その後、自宅の前もいくらか綺麗にする。合間、母親は駐車場の隅で、濃いピンク色の手袋を付けた手で雪をぺたぺたとやって、不格好な雪だるまのようなものを作っていた。その子どものような様子、また、目を向けると返されてきた笑みに、何かちょっと心が和むような気持ちが湧いた。
 室内に戻ると、二時半になっている。自室に帰ると、やはり自分のいまの状態に対して不安が抜けきれないのだろう、ヴィパッサナー瞑想認知行動療法について検索してしまい、それに時間を費やして、書き物をする時間がなくなった。二〇分だけ前日の日記を記すと、外出の支度に入る。上階に行って、豆腐を温めて食べた。この頃には、川沿いの樹々の雪がもう溶けてなくなっていたので、あまり大した降雪ではなかったと言えよう。
 家を出発すると、林のほうから、梢の雪が落ちて竹の葉を掠めて鳴らし、また地にも連続的に当たる音が立つ。姿は見えなかったが、烏が樹冠のほうで鳴き声を降らしていた。坂を上っているあいだにも、脇の林から雪の落ちる響きが続く。
 裏通りを行きながら、空き地にふたたび敷かれた雪のまっさらな白さに目をやっていると、反対側から激しい猫の鳴き声が立って驚いた。見れば、自動車整備工の敷地に、二匹の猫がいる。一匹は細めのもの、もう一匹は相対的にやや肥えたように見えるもので、細いほうが何かやたらと地面に寝転んで身をくねらせているその周りを、もう一匹が回っていた。
 この日の勤務中は、何か気が逸っていたと言うか、不安があったと言うか、落着かずに時間が過ぎるのを待つようなところがあったようである。終わると、もうすぐに帰れるからというわけだろう、一応落着いて、電車が入線してくる時間まで待ち、退勤すると駅に入った。
 帰るといつも通り、ストーブの前に座って身体を温めるのだが、そうしているうちに父親が帰ってきた。アイスを買ってきたと言う。これはあとで食後にいただいたのだが、濃厚な味の美味いもので、食器を洗っている父親と並んだ際に、礼を言っておいた。夕食は鶏肉とグラタンを混ぜたような料理だった。
 入浴を済ませて室に帰ると一一時半頃、眠る前に少々本を読もうと思ったが、意識を保つことができず、いつの間にか時間が過ぎており、零時半になって諦めて就床した。

2018/2/1, Thu.

 やはり三時前に覚める。しかし、心身の緊張感というのはあまりなかったようだ。もう慣れたもので、さっさと薬を飲んで再度寝入り、何度か覚めながら八時頃まで眠った。起き上がる前に横たわったままボディスキャンをしておき、八時半頃、身を起こした。上階に行き、いつも通り母親に挨拶をして、ストーブの前に座る。ちょっと身体を温めてから洗面所に立ち、髪を梳かしたり顔を洗ったりする。食事は、炊飯器の米がもう最後だったので、固まったものを椀に取って、茶漬けにした。ほか、前夜の汁物の残りである。曇りの日で、何でもまた雪が降るとかいう話だった。
 食器を洗い、風呂も洗って下階に戻ると、一〇時前から読書を始める。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。初めはベッドに腰掛けて読んでいたのが、じきに寝台の上に移って、布団を身に掛けながら脚を伸ばし、さらには終盤では枕に頭を乗せる、という風に移行しながら一二時半まで長く読み続けた。昼前の曇天は平板な白さのなかにほんの少し青さが含まれており、一一時頃だったか、窓の右上のほうに太陽の作る丸く小さな穴も見えた。途中、視界の端を何か横切ったと見れば、近所の家の電波受信アンテナの上に烏が一羽、止まっており、その様子をじっと見つめた。烏は後ろ羽をちょっと広げながら短めに鳴き声を上げていたが、それに応じたものか、遠くからもっと長く伸びた声が返るように響いてきていた。じきに、緩く滑空して、別の家の建物で隠されて見えないほうに行ってしまった。
 読書に切りを付けると、昼食を取りに上階に行く。母親は石油などを買いに出かけていた。うどんが一つあると書置きにあったので、冷蔵庫からそれを取り出し、フライパンを使って少々湯搔く。一方で、汁物はもう残りが乏しかったので、麺つゆと水を足して嵩増しし、湯搔いたものをそちらに入れて煮込みうどんとした。それを丼によそって卓に運んでから、豆腐を電子レンジで温めて、加熱を待ちながら食事を始める。豆腐も卓に並べて食べていると、母親が帰ってきた声がして、石油を運んでくれと言うものだから玄関から出て、車の後部に乗ったポリタンクを勝手口のほうに運んだ。ついでに、ポンプを使ってもう一つのタンクのほうに中身を移しておき、それから室内に戻って食事を続けた。
 昼食後には眠気が湧いていた。母親が、世界遺産を紹介するテレビ番組を録画しておいたらしく、それを流しはじめたので見る。取り上げられるのはベルギーはブリュージュで、ここは二〇一四年の渡欧の際に訪れた場所なので、それで母親も録画したのだ。見覚えがあるような運河や町並みの様子が映る。ブリュージュはその旧市街と、鐘楼と、ベギン会の修道院の三つが世界遺産として登録されているのだが、初めに紹介されたのは鐘楼だった。ここには多数の鐘が設置されていて、ピアノのようにしてそれを演奏できるのだ。と言っても、ピアノとは異なって鐘に繋がっているわけだから、その鍵盤は太く大きく、演奏者は拳を握り込むようにして叩いて奏でていた。鐘は、小さいものでは一二キロから、大きなものでは五トンにもなるとか言っていたと思う。
 その他、我々も訪れたマルクト広場やベギン会の修道院、また、なかには入らなかったがビールの醸造所なども映し出されるのを見て、下階に行った。三時前から他人のブログを読んでいる。その後、書き物に入って、四〇分ほどで四時に至ったので切りとすると、着替えをして、上階に行った。出るまでにまだ少し時間があったので、炬燵に入ってテレビを見ている母親の横で、ソファに就いて脚を入れさせてもらって、こちらもテレビを眺め、少々笑ったりもする。番組は、これも録画してあったのだろう、有吉弘行の『夜会』で、実演販売のカリスマのような人が出演して、品物を紹介していた。途中で歯を磨いていなかったことに気づいたので、歯磨きを済ませ、そうして出勤へ向かった。
 昼食のあいだから雨が始まっており、家を発つ時にも降り続いていた。この夜からまた雪になるとかいう話だった。辻まで行くと、八百屋が来ている。こんにちはと挨拶をして、少々やりとりをする。(……)
 街道を歩いていると、雨のなかに、ごく幽かなものではあるが既に雪が混じりはじめていて、地面に落ちる直前で左右に緩く振れる白い粒が見える。裏通りを進んでいると、男子中学生の集団が、傘も差さずに後ろから歩いてきて、賑やかにやりながら通り過ぎた。彼らはその後、一行のなかの誰かの家らしいアパートのベランダに寄って、柵を乗り越えて入ろうとしていた。
 (……)
 電車に乗って帰宅する。降りると、ホームには雪が敷かれはじめていた。その上を歩くともう、ぎゅっ、ぎゅっ、と踏み固める靴の音が立つくらいには積もっている。(……)
 着替えて、その後夕食である。(……)食後、自分も貰ってきた菓子を食べたが、これがなかなか美味いものだった。
 風呂に入っているあいだ、束子を持ってくるのを忘れたことに気づいたので、呼び出しボタンを押して母親に持ってきてもらった。そうして身体を擦り、出ると、湯たんぽを用意して、部屋に戻ると眠気に耐えられず、すぐに床に就いた。

2018/1/31, Wed.

 例によって、三時前のあたりで一度覚めた。薬を服用して寝付いたのだが、五時か六時かそのくらいでふたたび目覚めて、この時、尿意があったので便所に立ったのだが、その行き帰り、空気が寒いにしても、身体がやたらとぶるぶる震えて止まらなかった。何かしら、神経がおかしいのだと思う。床に戻ると、しばらく腰をもぞもぞと動かしながら温まり、最終的に九時まで眠り続けた。
 上階に行き、母親に挨拶をして、ストーブの前で少々温まってから、洗面所に行って髪を梳かすとともに顔を洗う。さらに嗽もしてから食事を用意する。前夜と同じメニューである。食べるあいだ、意識が逸れがちではあったと思うが、ものを口に運び、咀嚼している現在を意識するようにした。食事を終えると皿を洗い、風呂洗いもして、白湯を持って自室に戻る。
 コンピューターを点けて前日の記録を付けたり、この日の記事を作ったりすると、この日も早速、読書に入った。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を音読していく。読書のあいだ、ふと顔を上げて窓のほうを見やると、希薄な色の青空に、山の稜線の近くにすっと飛行機雲が通っていた。棕櫚の葉が、風で少々揺らされている。
 正午前まで読むと、インターネットを覗いて、ちょっと娯楽的な時間を作ってから、昼食を取りに行った。レトルトのキーマカレーが、露芯式ストーブの熱を利用して、温められていた。それを母親と分け合って米に掛け、ほか、朝と同じく汁物とサラダである。カレーはなかなか美味く感じられた。(……)
 林檎も食べて食事を終えると、台所に移り、皿洗いをする。ストーブの上で沸いていた薬缶の湯を使うようにと母親が言うので、洗い桶のなかに食器を入れた上から湯を注ぎ、洗剤も混ぜてちょっと揺らしてから洗い物を始めた。終えると下階に戻り、過去の日記の読み返しをする。それからさらに、他人のブログも読んだあと、便所に立ち、戻ってくると隣室に入ってギターを弄った。そうして二時、ギターを弄っている一方でまた頭がぐるぐると回ったようで、何か不安な感じが出ていたので、音読をして心を落着けるかとちょっとだけ声を出し、そうして二時半から運動に入った(ブログを読んだのは、この運動に入る前の時間だったかもしれない)。身体を動かすとちょうど三時を迎えて、そこから日記を記述しはじめて、現在は四時直前である。
 上階に行き、ゆで卵を食べてエネルギーの補給として、下階に戻ると歯磨きをして、着替えもした。出るまでにちょっと時間が余ったので一〇分だけ読書をして、それから出発した。薄白い、曇り空の夕方だった。街道の南側の歩道にはまだ雪がいくらか残っている。裏通りを行くあいだ、この日は数種類の鳥の声が良く耳に入った。呼吸を意識しながら歩いていると、不安はほとんど湧いてこなかったようである。
 勤務は前日よりもさらに、余計な思考を差し挟まずに、ここでも折に触れて呼吸に意識を置いて、比較的集中して取り組めた。帰りは例によって電車に乗る。ホームに行くと既に着いていたので、最後尾からなかに入って、手近の席に腰掛け、瞑目して出発と到着を待つ。(……)
 最寄り駅で降りて、坂に入る。風が周囲の樹々から音を立てさせ、見上げれば墨色がかった夜空に月があるのだが、それが爪の切れ端を二つ重ねたように、弧が二つ並んで二重にぼやけているように見えた。帰ってからテレビで知ったことには、この日は皆既月食というものだったらしい。
 帰宅して居間に入り、両親と挨拶を交わす。ストーブの前にあぐらをかいて座りこみ、身体を温めると、手を洗ってから下階へ下りた。ジャージ姿に着替えて、上階に行き、食事を取った。肉と豆腐の料理に汁物、緑の菜っ葉の類である。テレビは『クローズアップ現代+』で、ビットコイン流出問題を扱っていたが、この仮想通貨の仕組みや問題はこちらの理解には余るし、今のところあまり興味も湧いてこない。皿を空にしたあと、母親が林檎を剝いてくれたのをいただいたが、これが瑞々しく、美味に感じられた。
 食後、風呂に入ったのが一一時前、出てくると湯を沸かして湯たんぽを用意した。そうして自室に帰って、あまりすぐに寝るとまた胃液の逆流で覚めるのではないかと、トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を読みだしたのだが、頭が重く、眠気があったもので一〇分しか続かず、仕方がないと日付が変わる前にもう床に就いた。

2018/1/30, Tue.

 一度覚めると、一時四五分頃だった。例によって心身には覚醒感、不安な感じがあった。薬を服用しながらも、三時頃まで眠れなかったが、その後、一応寝付いたようで、五時頃に一度目を覚まし、さらに眠って七時半が最終的な目覚めとなった。八時頃まで腰をもぞもぞと動かしながら寝床に留まって、それから上階に行く。
 上がって行き、母親に挨拶をする。食事は、前夜の鯖の残りや汁物である。前日から始めたヴィパッサナー瞑想の行動の実況中継が、早くも根付いてきたようで、鯖を皿に取り分けて、電子レンジのなかに入れ、加熱のボタンを押すあいだなども、いちいち自分の動作を追っていた。食事を取り、食器を洗うと白湯を持って下階に戻った。
 コンピューターを点け、今日の記事を作成すると、早々と読書に入った。ベッドの上に乗り、窓から射しこんでくる陽光を浴びながら、『後藤明生コレクション 4 後期』を音読する。この日は、無声音ではなくて、小さく声を出して読んでみることにした。そうして最後まで読み終えたのだが、この時、何か爽やかな気分になっていたので、実際音読というのは脳に良い効果があるのではないかと思う。ありがたいことに、もっと本を読もうという意欲的な気持ちになっていたので、次の本として、トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を選んだ。そうしてさらに音読を続けて、正午前に至り、この本も早くも六〇頁ほどまで読み進めることができた。この日は既に、三時間弱も読書をすることができたわけである。
 落着いた気分は続いていた。そのままtofubeatsの音楽を流して運動に入る。運動のあいだもやはり、「伸ばしている、伸ばしている」とか、「呼吸、呼吸」、「船のポーズ、船のポーズ」といった具合で、自分が今行っている動作や姿勢を実況中継し、一方で歌を口ずさんだりもしていた。二〇分少々で身体をほぐし終えると、そのままちょっと歌を歌う。このあいだもやはり、歌っているということを自覚したり、喉の感覚に意識を寄せたりと、現在に集中するようにした。そうしていると、確かに不安とか余計な思考というものは、ほとんど出てこないようである。
 そうして、一時前から書き物に入った。文を綴りながら折々に呼吸を意識していたところ、以前と概ね同じような感覚で日記を書くことができたと思う。書いているあいだ、時間の流れ方もゆったりとした感じに思われ、一時間半で現在時点まで追いつけることができた。今は、二時二三分になっている。
 それで上階に上がり、ゆで卵などを食べてエネルギーを補給した。食事を終えると三時に至っており、思いのほかにもう時間がなかったのだが、アイロン掛けをすることにして、自分のシャツとハンカチを何枚か、皺を伸ばした(エプロンは、時間がなくて扱うことができなかった)。そうして下階に戻ると歯磨きをして服を着替え、出勤に向かう。老人のようだが、貼りつけられるタイプのホットカイロを背中に貼って、マスクを一枚持って出発である。母親は外出していたが、居間のカーテンは閉めなかった。五時頃には帰ってくるという話だったので、もう今の時期ならば五時でもそこまで暗くはならないだろうと判断したのだ。
 時間が遅くなってしまったため、徒歩ではなく最寄り駅から電車に乗ることにした。坂へ向かっていると、ちょうどその坂から小学生の女児が下りて来て、こちらとすれ違いながら公営住宅のほうへ入っていく。坂を上るあいだは、妙に呼吸が苦しいような感じがした。街道に出ると、何やら道路工事を行っている。交通整理員の人に目配せをすると、こちらから、と横断歩道の位置よりも少し離れたほうに誘導されたので、はい、と受けて通りを渡った。ホームに入り、西から来る陽射しを受けながら電車を待つ。
 先頭の車両の一番手前側に乗ると、近くの席にちょうど(……)が座っていた。到着すると横に来て、挨拶を掛けてきたので返し、降車する。彼は一人ですたすたと先に行く。そのあとからゆっくりと階段を下りて行く(……)。
 勤務である。勤務中もヴィパッサナー瞑想の実況中継を意識したところ、余計な思考はわりあいに抑えられて、概ね集中して取り組むことができたようである。(……)
 電車内では席に就き、瞑目して到着を待つ。降りるとホームを辿って駅を抜けるが、帰路の道中の記憶はこれといって残っていない。帰り着くとストーブの前で身体を温めてから手を洗い、下階に下りた。服を着替え、シャツにつけていたホットカイロを肌着につけかえて背に保持し、そうして上階に行き、食事である。夕食のおかずは肉料理、ほか、醤油風味の野菜の汁物や、トマトやキャベツやベビーリーフの混ざったサラダである。
 夕食後、風呂に入ったのが一一時頃ではなかったか。身体の隅から隅まで、丹念に束子で肌を擦り、出てくると、湯たんぽを用意した。その間、母親が録画した『マツコの知らない世界』を見ていたので、こちらもちょっと目を向けた。紙袋収集家の人が出ており、袋の口を鼻に寄せてぱたぱたやりながら匂いを嗅いだりしているのを見て、少々笑った。切りの良いところで自室に帰り、湯たんぽを布団のなかに仕込んでおくと、歯磨きをして、眠る前の読書を始めた。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。日付の変わる前から一時間弱読んで、就床した。

2018/1/29, Mon.

 例によって深夜に覚めはしたものの、その時のことはあまり覚えておらず、その後、一応七時まで眠ることができた。上階に行くと、ハムエッグを焼いて、食事にする。皿洗いと風呂洗いをして自室に戻ると、またもや自分の症状が気に掛かって、こちらは解離性障害なのではないかなどと調べ物をしてしまった。解離性障害と呼ばれる症状でも、思考促迫や知覚の敏感さがあると言う。また、現実が現実でないような、あるいは自分が自分でないような感覚、いわゆる離人症も主な症状の一つとしてあるらしいが、自分にはこれが実際あるなとこの時はそう思われた。「解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの」(https://susumu-akashi.com/2015/12/dd_creativity/#i-2)というページなどを見ていたわけだが、しかし、もうこのようなことに必要以上にかかずらうのはやめようと思う。結局のところ、人間の精神の形というのはそんなに単純に割り切れるようなものではなく、外から見てこれこれであると確実な診断を付すのは難しく、実際、統合失調症などは診断ミスが多いという話だが、それも当然で、ある一つの精神症状が色々な名前の疾患のどれにも現れる、ということもあるのだ。一度診断を付した精神が、その後変化するということだってあるだろう。自分の場合、時折り不安に襲われることはあるものの、概ね日常生活を問題なく遅れているのだから、もうそれで十分だと考える。
 インターネットを回ったあとは、読書をした。『後藤明生コレクション 4 後期』だが、この時、音読は無声音に戻していた。声を出すと、どうも頭を使いすぎるような感じがしていたからだ。読んでいるあいだ、気分はわりあいに良くて、やはり自分は、この現在に集中してそれを感じ、そこから得たものを綴って行きたいなと開き直るような気持ちになった。その後、そうした明るめの気分のまま運動に入り、tofubeatsを流して歌いながら身体をほぐした。
 一一時を過ぎると、久しぶりに日記の読み返しを行った。そのあいだ、廊下のほうから母親が呼ぶので何かと行ってみると、階段下の室でコンピューターを前にしており、なかに入っている写真を見たいのだということだった。ダブルクリックをするのだと実に初歩的な事柄を教えて、写真のファイルをひらいたあとは、これ全部いちいちクリックしないといけないの、と言うので、キーボードの矢印キーを押すようにと教えて自室に帰った。
 そうして日記を読んだあと、正午になると上階に行った。台所に入ると、大根の葉を炒めるかと母親が言うので了承して、ベーコンとともに切り分けて、フライパンで加熱した。ほか、スープやカレーパンなども合わせて食事を取る。テレビでは成田山新勝寺が取り上げられていた。昼食のあいだはだいぶ落着いた気分になっており、(……)。
 食後、立ち上がると、好天に惹かれてベランダに出たが、陽射しはあってもやはり風が冷たい。眼下の棕櫚の樹は葉を落としてすっきりとした姿になっており、畑の雪はほとんど溶けたようだった。食器を洗って自室に帰ったあとは、他人のブログを読んだり、またインターネットを回ったりして、一時から二時間も時間を使ってしまった。それから書き物に入る。二八日は外出の日だったが、やはり頻繁に思考というか妄想が湧いて、現在の瞬間に集中できていなかったのだろう、それほど記憶に残っていることがなく、一時間ほどで完成した。労力の面からすると、そのくらいコンパクトにまとまったほうが良いのかもしれない。
 外出の準備中は、無益な妄想を断ち切るためにヴィパッサナー瞑想の実況中継の技法を実行してみようというわけで、廊下から服を取って着るあいだも、「歩く、歩く」、「ボタンを付ける、ボタンを付ける」などと心中で呟きつつ、自分の動作を追うようにした。そうしていると確かに、不安は生じてこないようである。ここ数日で実感したことがあるが、不安というものは徹頭徹尾、自分の思考の働きから生まれてくるものである。要は、「~~したらどうしよう」などと考え、そのような考えを自分自身に差し向けることで、自ら不安を惹起しているのだ。そうした余計な思考=妄想が暴走してしまったのが最近のこちらなのだろうが、そこをヴィパッサナー瞑想の方法論で矯正していきたいと思う。
 身支度を整えると上階に行き、水を一杯汲んで薬を服用した。そこで電話が鳴り、母親が出たところ、(……)さんらしい。こちらは玄関のほうに出て、戸棚からマスクを一枚取ると、電話中の母親に行ってくると告げて出発した。
 道中、街道を歩いている途中に、不安が身に生じてきたが、これもちょっと経てば薄れていくのだと考えて呼吸に意識を戻し、やり過ごした。出勤のあいだも、呼吸や歩みに意識を向けようと試みたが、実際にはまた結構余計なことを考えてしまっていたようである。勤務中も、妙な妄想をしてしまい、自分がそれに従って突拍子のない行動を取ってしまうのではないかと心配したが、そのようなことはなかった。
 (……)
 そうして退勤し、駅に入って電車に乗る。目を閉じて休みながら到着を待ち、最寄りで降りると、ホームには真ん中あたりにまだ雪が残っていて、しかし降りた最後尾のあたりから階段のほうへ進むにしたがって、次第に乏しくなって行った。帰路の記憶は特にない。
 帰ると、母親は風呂に入っていたと思う。ストーブの前で温まるそのあいだも、呼吸や手を擦り合わせる感覚に意識の志向性を向けた。下階に降りて着替えをする時も同様である。上階に行くと食事、やや甘じょっぱいような鯖をおかずにして米を咀嚼する。テレビは『しゃべくり007』である。前半は阿川佐和子が出演していた。今まで二〇〇〇人以上もの人々にインタヴューを行ってきた阿川に対して、しゃべくりメンバーたちが札に書かれたお題を聞き出してみようという企画が行われる。有田哲平が趣旨を無視してひたすら一人語りで終わらせたのもちょっと面白かったが、白眉はやはりそのあとの堀内健で、始まりの何も考えずにものを言っているようなすっとぼけたような間からして面白かったし、そのあと、カラスの言葉がわかる、などと急に尋ねるのも訳がわからない。その後、カラスの声真似をして何を言っているのか互いに当てる、などというやりとりをしていたところから、突然お題の、嫌いな芸能人はいるかという質問に移ったのも脈絡がないが、カラス語で良いので、などと補足を付したのもさすがの瞬発力だった。
 途中、飲み会だったらしい父親が帰ってきて風呂に行ったので、それを待ちながら後半の、ゆりやんレトリィバァという女性芸人の出演回も視聴して笑い、最後まで見たのちに風呂に行った。出てくると、自室から布団のなかに入っていた湯たんぽを取り出して(数日前から用意して入れるようにしている)、上階に運び、薬缶で湯を沸かした。薬缶を火に掛けているあいだは、傍らに立ったまま、呼吸に集中するようにした。それで湯が高熱に沸いたところで、布巾を手と取っ手のあいだに挟んで薬缶を持ち上げ、湯たんぽに湯を注ぎ入れたのだが、その後、新たに薬缶に水を入れておこうと蓋を開けたところで、なかから昇ってきた高温の蒸気が左手の親指にまともに掛かってしまい、軽い火傷のようになった。じんじんと痛むのを流水でいくらか冷やしておいたのだが、現在、痛みも腫れもない。
 そうして室に帰って湯たんぽを仕込んだあと、眠る前に少々、と『後藤明生コレクション 4 後期』を読みだしたのだが、頭が重かったので、一五分ほど読んだのみで就床した。