2017/2/14, Tue.

 往路。坂を上って行くと、空中に刻まれた裸木の枝の縦横の広がりを透かして、市街の方の空に雲が染みるように浮かんでいるのが見える。白褪せたような後ろの空よりも夕刻の水色に濃く、液体じみた感触でありながら輪郭線もくっきりと、段の違いが見て取れるのが、浮遊していると言うよりは、雨上がりにアスファルトの僅かに低まったところに集まる水のごとく、溜まっていると言うべき質感である。街道に出て見通す空気は仄暗くて、冬木に覆われた丘の連なりは、鮮やかな緑など当然ないがかといって黒く沈み切るでもない、まったく何色とも言いがたいような色味の貧しさの極まった鈍さに包まれている。そちらの方を見ながら進んでいるとしかし、家々を通り過ぎざまにひらき覗いたそれらの樹冠の際に、横面を幽かな薔薇色に染められた雲が掛かっているのが現れて、明るさが添えられた。裏通りに入ってしばらく行き、次に見た時にはその色ももう失われていた。歩いているうちに黄昏が強まって、駅前に着く頃には東の丘の上は、空の方が青くなって、雲はその前に石灰色で浮かんでいた。振り向いた方角では白の残光に包まれながら青灰色の雲影が固着させられており、東の方とは図が反転した趣である。

               *

 帰路、裏道の途中でふと後ろを振り返ると、月がだいぶ低まって屋根からそう遠くない位置にある。北西の方まではその光が届かないのか、線路沿いの林は暗く沈んで突き立った木々の姿形が空の黒に呑まれているそのなかで、林の表面に出ている裸木が一本、ほんの僅かに浮かびあがっているのが、白髪を思わせたのだろう、老いの観念が頭を瞬時に過ぎった。空気は冷たく、とりわけ膝のあたりが冷えて、顔の肌にも辛[から]く、マフラーの裏に口もとを引っこませずにはいられない。そういう冴えた夜気のなかでは、客観的なその正誤は知らないが、光がよく通るような気がするもので、表通りから覗いた街灯の膨らみも、周縁を滲ませて強いような感じがする。南向きに街道へと曲がるとそれまでとは建造物の並びが変わるから空がひらき、視界の端に星の煌めきが引っ掛かって、それに誘われて視線を上げて行くと、銀砂子がそれぞれの配置に散っているのが――そのなかでこちらの貧しい文化的観念に従って特別に判別されるのはオリオン座くらいしかないのだが――夜空の広さを思わせた。東の果てに再度出逢った月は、右上が隠れはじめている。

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 午前三時前、『失われた時を求めて』一一巻を一時間強読み、瞑想をしたあと、眠ることにして明かりを消し、布団に入った。しばらく瞑目してからふと開けてみると、カーテンがぼんやりと明るんでいるのに、察するところがあってひらけば、帰路には東の方に寄っていた月が、正面、真南の高みに渡って来ている。窓の片側には網戸が重なっており、そこを通して見ると僅かに欠けた円月から左右に四本ずつ、綺麗な長方形を描く光の帯が放射されて、何か翼を広げた存在の図を思わせもするのだが、網戸が掛かっていないもう片側のガラスにはそれは映らず、途切れてしまうのだった。その帯の隙間に、際立って明るい星が一つある。茫洋とした夜空を見ているとほかにも視界のあちこちで、常に光っているのではなく、時折り煌めくものがある。砂浜に埋まった貝殻の上を光が薙いでいくのを一瞬反射するかのように、あるいはカードが表にされてはまたすぐに裏返されてしまうように、かそけき光が薄氷めいて瞬間震えたかと思うと、ふたたび金属質な夜空のなかに隠れて静まるのだが、その明滅が飛行機のそれを思わせもして、あれは本当に星なのかと疑うようだったが、確かに動かず、ひとところに停まっているのだ。

2017/2/13, Mon.

 散歩に出た。時刻は午後五時半である。外に出ると、煙の匂いが薄く香った。先ほど部屋で着替えながら窓のほうを向いた時には、曇り空があるかなしかの薔薇色をはらんで、さながらコーヒーのなかに注ぎこまれて膜を広げるミルクといった趣に和らいでいたが、いまはその色も消えて仄暗かった。しかし大気が動かなければ、大した冷たさも顔に感じられない。あたりには誰の姿もない、静かな夕方道である。十字路を越えてその先の上り坂の中途に、速度制限の「30」の表示(見つけた当初は距離と黄昏のために、十の位が「3」なのかどうかもはっきり視認できなかったのだが)がオレンジ色で路上に記されたのが、薄暗い空気のなかでそこだけ浮かびあがるようで目につき、そこにそれがあるということに初めて気づくようになった。ちょっと目を離していた隙に、その表示のあたりに突如として湧き出たようにして、対向者の影が出現していた。その人とすれ違って坂を上って行き、そのまま裏道を進んだ。道の先に猫らしき影が横切るさまが、ほとんど目の錯覚のようにして不確かに映る。空には雲が多くて、行く手の西の方では落陽が隠れているらしく、辛うじて白さが敷かれて手前の雲の影形がその上に明らかだが、背後の方ではどこまでが雲でどこからが地の空なのか、薄青さのなかに境も見られなかった。古ぼけたような家々のあいだに空き地が差し挟まれて、そのすぐ際にわだかまった林の下から川の鳴りが上って来るのが、いかにも侘しげである。街道に出ると向きを変えて、東に向かった。道路のアスファルトは、こちらのほうは長く通らなかったので知らなかったが、舗装されて比較的間もないらしく見えて、墨汁を塗りこめたような真新しい黒が、まっさらとした二つ目から放たれる光に艶を帯びて、その上を車たちも実に滑らかに、行きやすそうに走って行く。最寄り駅を過ぎ、しばらく町内を横切ってから裏に入り、職場からの帰路に通る普段の道に合流した。坂の上から山際に見えた薄膜状の雲が、薄青さとの対比でか、赤みを含んでいるように見えた。林中を下って行くあいだ、ふたたび煙の香りが、どこからかわからず鼻に届いていた。

2017/2/12, Sun.

 家を発って道に出て、視界に広がるまばゆさと、肌を包む冷えた空気の感触とを感じるやいなや、満足感を覚え、要するにこれだけで良いのだなと思った。わざわざ街へ出る必要などなく、ただそのあたりを歩けば良いのだろうが、今更引き返して荷物を置き、改めて出かける気にもならない。CDを五〇枚強入れた薄茶の紙袋は大きなもので、持ち紐が手指の肉にそれなりに圧を掛けてきた。十字路から坂に入ると、細道へともう一本分かれて行くその脇に寒椿が生えており、赤々とした花をいくつかつけている。反対側の、沢を囲む林のなかにも灯るものがあって、一つは射しこむ陽のなかにちょうど捕らわれており、艶めいて厚ぼったくなっているのが花にも見えず、何か別の物質のようだった。上って行くと、傍らのガードレールを越えた斜面から、傾いだようになりながら突き出た木の塊がある。元々そのような方向に生えてしまったらしく、分岐した何本もの枝が複雑な網状を成しており、緑葉もそのなかに渾然と、絡まるようになりながら垂れ下がっていた。そのすぐ脇に、これはまっすぐに高く伸びた木があるのだが、強めの風が吹くなかで、もう一本隣のものに寄り掛かるようになりながら、ぎいぎいと、木造の小舟の軋みを思わせる音を立てる。見れば根元のほうの樹皮がいくらか剝がれて削られたようになっており、支えが弱くなっているらしかった。周囲の葉々は木洩れ陽を所々に宿して緑色を明るませている。風に吹かれ、木の鳴りを聞きながらしばらく立ち止まってから、駅に向かった。
 ベンチに座ると、電車が来るまではまだ一五分かそこらあったが、持ってきた本――『失われた時を求めて』の第一一巻――を読む気にはならなかった。それよりも、周囲の空間の感触に意識を向けていたかったのだ。晴れてはいても風の強い日で、首の後ろのコートのフードや、ニット帽の頂点についた球型の飾りから細かな震えの感触が伝わり、脚を包むズボンの布も片一方に押し寄せられるのがわかった。背後では、線路脇に生えた薄の草が、さらさらという音をひっきりなしに立てる。風は主に西から来るもので、止まることがなく、たびたび結構な激しさで吹き付け、雲は一つに大きく固まることなく分離して漂い、空は色濃い青さが染み渡って朗らかな様相なのに、午後三時前の空気の冷たさは甚だしく、頻繁に皮膚に震えが走った。風音の合間から鳥の声が、遠く伝わってくる。正面は、鉄路の敷地を区切る壁際には背後と同様に薄が生えて薙がれており、レールの敷かれた地面にも同じ薄枯色のエノコログサが散らばっている。向かいの道を越えた先は一段高くなって、三本ほど縁に並んだ梅はまだ花は咲かず、湾曲しながらフォーク型に天に向かって突き出た枝が揺れるのみだが、奥の遠くには白と薄紅のそれぞれの木が見られた。特に何が物珍しいというのでもなく、強い印象をもたらすわけでもないが、穂を垂らしながらレールの周りに低く生え残った下草とその影とが、風に掻き回されて揺動を続けるのをただ眺めていた。およそ微細だが、いっときたりとも同じリズムの繰り返されることのないその動きを追うのに、呆けたようになってただ忙殺されているその時間のなか、これこそが時間というものではないかと思った。数という観念によって分割され、統括された味気のない抽象的な構築物としての時間ではなく、具体的な、「触知可能な」時間とでも言うべきものである。感じること――差異を、あるいは生成を――がすなわちそのまま時間であるような平面、そこにおいては時計などという文明の道具は無粋な――「野暮な」――ものに過ぎないので、無論それを見ることはなかった。鵯らしい鳥が視界の端を斬って、線状に、奥の方へと飛んでいき、風のなかでもはっきりと耳に届く、叫びのような鳴きを立てた。それからしばらくすると、電車が来るらしかったので、立ちあがってホームの先、日なたのなかに移った。そこから見下ろす線路のあいだにもエノコログサが生えており、西を向くと、陽射しが透過するのだろう、それらのささやかな草が琥珀のような色合いを帯びている。丘の林の方へと目を向けると、色味に鮮やかさの乏しいなかで青味混じりの明瞭な緑の残った一角が、そこにも風が入りこんでいるらしく、内側から膨れ上がるようにして蠢いており、朦々と湧き上がる煙のようなそのうねりは、グロテスクなようでもあり、同時にエロティックなものすら感じさせるようでもあった。

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 電車内、扉際に立つ。駅で座っていた時には、見える限りでは雲は小さなもののみだったが、町並みを越えて山の際には、西から南へと掛けて、絞ったタオルのような太い雲の柱が横に伸びて鎮座しており、一部、内破して飛沫を散らしたように霞んでいる箇所がある。

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 乗り換えて座席に就いてからはプルーストを読む。正面の窓から時折りこちらの手元まで届く陽射しがページを全面包みこむと、明るさに紙の肌理が露わに映し出されるのが、微生物がなかに生息してじっと憩っているかのようである。少し前にも、同じように電車内で、あれはエドワード・サイードの『パレスチナ問題』を読んでいた時だが、太陽の照射に、ページ一面に埃が浮かびあがったかのようになって文字も一瞬読み取れないのに驚かされ、その様相の変化に子どものように魅入られて先を読み進められなくなったものだ――そこに刻まれてある文字の意味を情報として取り入れるためのものであるはずの読書という行いが脱臼させられ、意味を無視して、その下に敷かれた素材のまっさらな物質性を汲み取ることに囚われた瞬間、読むことがただ見ることへと倒錯的に転化した麗しい時間だった。光量や光線の角度の問題なのか、みすず書房集英社で使用するそれぞれの紙質の違いなのか、今回はそれほど目覚ましい模様が出現することはなかったが、それでも普段は決して視認できない繊維の微小な文様が浮き彫りとなり、ものとしての様相が半ば官能的に明らかならしめられる。太陽の光は物々の様相をいとも容易に変容させる――その実例がこの日の電車内にはもう一件あり、それは途中の駅で停まった時だったが、向かいの線路を越えた先に、位置の関係で小さく中途半端に覗く駐輪場に並んだ自転車の上に無数の光の欠片が点々と乗っていて、おそらくそれが先ほど電車に乗る前に見た下草の色合いを思い起こさせたためだろう、一瞬、ほとんど草むらのように見えたのだった。

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 帰路、最寄りで降りると、黒々と籠められた闇空である。月を探して見回しても見つからないが、階段を上ると東南の空に現れた――先ほどはマンションに遮られていたのだ。輝きの清らかに冴えた満月だが、夜空はほかに星の光も見当たらず、渡る光の浸透している気配もなく濃厚で、そのなかで月の姿形のみが空白を作るかのように際立っている。昼間に忙しく走っていた風は止んで、坂を下るあいだは周囲の林から一つの葉擦れも立たず、自分の足音のみがただ明瞭である。自宅の通りに入ると、街灯の強さの関係か、空の青味が見て取られた。空気の冷澄さに呼応して凍てたような、薄紺色の、奥行きの感じられない空で、月は南の丘陵の稜線上に掛かっていた。

2017/2/11, Sat.

 風呂に浸かりながら、知覚の拾うものに順々に焦点を絞って行く。浴槽は柔らかな感じのする白なのだが、照明の作用か、何かほかの要素との兼ね合いか、自らの身体が包まれている水は、淡い青緑色――翡翠色と言うべきか、あるいはビリジアンを水で最大限溶かしたような薄い色――に透けている。前方に投げ出されて、浴槽の窮屈さに伸ばし切ることができず、中途半端に曲げられたおのれの脚が、その緑色のなかで不動を保っているのを見れば、物質性が際立つのだろうか、何となく人形のような、自分の脚でありながら主体としての自分から離れたもののような感じがして来る――無論、動かそうと思えばすぐにでも動かすことはできるのだが。水面の、胸に近いあたりには照明の白さが小さく砕けており、身体を、呼吸すらもなるべく殺すようにしてまったく動かさずに静止させていても、液体は常にあるかなしかの波紋を作って、映りこんだ室内の像の上を素早く渡らせて行く。

2017/2/10, Fri.

 前日の雪は地上には積もることはなかったが、朝食中に山を見やると、木の伐られた斜面には白さがまぶされて残っていた。

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 往路。家を出てすぐ、数歩しか歩かないうちに、正面から流れてきて頬に当たる空気の質が、実に冷たいことを感じ取った。ことによると、雪の降った前日よりも冷えこんでいるようにも思われて、今冬一の寒気が来ているという話も本当らしい。街道まで行くと、緩く坂になった道の先から上って来て姿を現す車のヘッドライトが、妙に皓々として、上下に激しく拡大されて映る夕方である。上側は縦線がいくつも連ねられて長方形のような形になり、下方は先の鋭く伸縮性のある触手になって、身体のすぐ近くまで伸びてきた。街道を下って行くと、中学校のほうから部活動の声らしいかすかな響きが渡ってくるなか、道端に、大きなトラック様の車が停まっている。後部に長く伸びた荷台の縁に枠のような骨組みができているが、上に何も乗ってはいない。何をするためにこんなところに停まっているのだろうなと、道の向かい側から眺めていると、あれは確かミニという車種だが、その名の通り小柄が車が、古風な見た目にふさわしく古い排気システムなのか、白濁した煙を尻から勢い良く噴射させつつ、トラックの後部から近づき、一度停まって調子を見たあと、一気にスロープを上って荷台に乗りこんだ。そのあとは見ずに、先を進み、裏に入って職場へと向かった。確かに空気は冷たいが、コートのポケットに両手を突っこんでいればさほど苦しめられることもなく、耳がざらざらと痛むこともなかったので、最寒と言われても、むしろ先月の、耳朶を苦しめた夕刻の方が寒気が酷かったようにも思われる。

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 職場に入って靴を履き替えたところで、何かが何かに当たった物音だったのか、それともコンピューターから発せられた何らかの音だったのかわからないが、一音、ごく短く鳴ったものがあって、それがBill Evans Trioの"My Foolish Heart"(無論、一九六一年六月二五日の、伝説的なライブのそれである)の、最初の一音の高さとまったく同じだったので、意図する間もなく即座に続きが脳内に展開され、流れて行った。

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 帰路、夜気はやはり冷たい。自動販売機の前に二度立ち止まったが、小銭を出して飲み物を買う踏ん切りがつかず、払って先を行った。スナック傍の道端で、撒かれた餌を猫が食べているらしく丸々としゃがんでいるのに、口笛を一つ吹いてやると、猫は振り向くこともなかったが、その音が思いの外強く、裏道の静けさのなかを切り渡った。黙々と、下向きがちに歩いていたが、坂を渡るとふと前方の空に目が行って、その青味に気づいた。ところどころに曇りが付されながらも星が合間にまたたいているなか、視線を上げて行くと、月の光線の差し掛かるその先端が視界に入ってきて、たどって後ろを見上げればその先にあるものは満月であった。高くに浮かんで、表面はのっぺりと模様なく白く、それを目にしてから改めて行く道を見ると、確かに明るい。街頭の掛からぬ民家の側面の表情もよく見えるようであり、屋根と空との境もくっきりと明らかで、夜空自体もその青さはあまり深いというものではなく、奥行きのないような色だった。心中も落着いており、明鏡止水とまでは行かないが、労働のあとの疲れの匂いもなく、気力が保たれているようで、冴える夜気に呼応して意識は明晰で、あくびが洩れるのが場違いなようだった。街道に出てからふたたび空を見ると、裏通りでは道の間が狭く家に迫られているので空の高い位置しかあまり見えなかったためか、先ほど見た時よりも一段と深みを持ったように映るのが不思議であった。

2017/2/9, Thu.

 久しぶりに冷えこんだ日で、覚めて寝床を抜ける時から気温の低さが窺われ、午後からは雪も降った。寝床に転がっていた姿勢を起こして窓を目に入れると、白いものが舞い散っていたので少々驚いたものだ。とは言え、白さと粒の立ちはそれほど強くなく、雨に近いもので、霙といった風であり、窓に寄って地面を眺めてみても落ちたそばからすぐ消えて行くので、積もりそうもない。畑に続く斜面に生えた棕櫚の木は、葉を大方枯らして、頭にいくらかまだ緑のものが残ってはいるが、身を囲う薄茶色の装いも貧しく、だいぶ細身となっていた。

               *

 午後五時で、雪はまだ舞っており、黒傘をひらくと粒の擦れる音が始まる。道端の林から鵯の切実げな鳴きが立って、木の下まで来て傘の裏から見上げたが、どこにいるのかその姿は捉えられなかった。深深と、ゆったりと落ちてくる雪粒の様を見ていると、空中に漣の流れが生まれたかのようである。道中、傘を持つ手が大層冷えてひりひりとした。

2017/2/8, Wed.

 青空のなかに雲多し――地に積もったのがしばらく経ち、溶けかけて水っぽくなるとともに、砂土が混ざって色を灰に濁らせた雪氷のようである。風はそれなりに冷たく、顔の前に幕のようにはだかるが、気温はそれなりに高いようで、空中に細かな虫が湧いて、何度か顔に当たられた。

2017/2/7, Tue.

 往路、濡れたような薄暗い夕刻。下部の欠けて岩石めいた薄白い月が、凪いだ夕青の空に浮いており、頬紅のような暈も殊更に広がらずうっすらとその周囲を彩っている。空気はよく動いて、風が耳元でばたばたと音を立てる。

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 帰路、裏通りの空気は相変わらずよく動くが、そのなかに耳をざらつかせる冷たさがないのが、冬の通過と春の近づきを感じさせるようでもある。月はあまり位置が変わってはいないが、夕方よりも随分と高く、ほとんど天頂と言うべき奥処に掛かってそこが空の中心のようである。

2017/2/6, Mon.

 朝には陽射しが寝床に入って来ていたが、家を発った一一時台には薄暗いほどの曇りになっており、玄関を抜けた時から雨の気配も嗅ぎ取られ、懸念された――実際、一〇分ほどしてから、往路を行っているあいだに散るものが始まったのだが、ひどく微かで、服の上に染みも残さない程度に留まった。街道に出る前に、ガードレールの向こうの斜面に生えている紅梅はどうかと、ちょっと向かい合ってみると、途端に突風がうねって、白い薄片がいくつも正面から流れてくる。粉雪めいたそれは当然、梅の花の欠片で、木に寄り集まっているとピンク色が凝縮されて明らかだが、一枚ごとに離れて空中を流れると、紅の色合いは思いのほかに仄かで、目を凝らさないと白梅のそれと見紛うようだった。風の強い日で、老人ホームの脇に並んだ旗がどれもばたばたと、激しく音を立てて身じろぎするほどで、加えて鉛色の空気ではあるが、気温は高めで、風が肌に当たって来ても寒くも何ともない。

               *

 裏通りを行っている途中の道端で、雀が何匹か溜まっているのに出くわした。狭く、何もない地面を枯芝のような草が中途半端に覆っているだけの、敷地から除け者にされたようなちょっとした空き地で、塀に接しているそこにはなぜだか雀がよく集まっているのを見かける。随分と近くにいるものだから、眺めたいと思って足を止めたところが、すると一秒くらいしか置かないうちに、やはり人間の巨体が停まったことで警戒があるのだろう、小鳥はみな一斉に、塀の上に飛び移ってしまい、距離を取りながらこちらのことを見据えるような雰囲気だった。そうされてはふたたび足を進めるよりほかはない。

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 書店を出ると、陽射しが地に激しく反射して、純白に固まっているのが瞳を急襲した。こごっていた雲が晴れて、背の高い建物らの先に青空が見えはじめていた。

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 六時過ぎだったかと思う。代々木から新宿に向かって歩いて行き、踏切の脇から高架通路へと階段を上って行くと、淡桃色の光が視界に現れた。通路の左右に並んでいる木々に一面、電飾が取り付けられているのだ。裸になった木は幹から枝先まで、隙間もほとんどなくその人工花に覆われて、木の形を少々厚くしながら象られており、そのさまは突き立った珊瑚のようにも映った。葉のついているものも同様に装飾されており、こちらは風に吹かれると応じて枝葉が揺れるのに、両生類の卵のような丸々とした光も同調して動き、その時だけ集合体として固化していた電飾群から一列の連なりが分化して、曲線としての形を露わに撓ませてみせるのが心憎いようだった。新宿駅の目前までその回廊は続いて、薄闇を華やかに明るませており、あたりには携帯電話を構えている人も見られ、歩いているあいだ、本当に綺麗、とその輝きを賞賛する女性の声も背後に聞かれた。

2017/2/4, Sat.

 料理の途中、洗い物をしていた時だったと思うが、玄関の方から父親が母親のことを呼んだ。呼んでいると、その声を仲介して、居間の卓に就いていた母親に知らせてやると、続けて父親は、ごみ袋はあるかとか何とか訊いて、出ていった母親と話していたのだが、その言葉の輪郭が、身体を動かして――何をやっていたのか正確には知らないが、いつものように畑仕事や、また家の付近のがらくた類の片付けでもしていたのではないか――疲れていたとすればそれもあってか、何となく歳の行った人の、口のなかや周囲の肉が回りきらなくなった発語の撓みを覚えさせて、そう認識すると先ほどの、最初の呼び声も何だか弱々しく響いていたような気もしてきて、姿を見ずとも、背後から届くその声でもってと、こういう形で父親の老いの断片を知らされることになるのが、一つの小さな驚きのようでもあった。

2017/2/2, Thu.

 母親と墓参りへ。玄関を出ると、身を取り囲んで肌に触れる空気に幾許かの冷たさがある。大気のその「辛さ」が、淡青の空の澄明さを対比的に強める感じのする、輝かしいような日である。

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 駅で叔母を拾って寺へ。我が家の墓所の前まで来ると、こちらは毛先の歪んだ箒を使ってそのあたりを掃き、落葉などを塵取りへ取り入れた。叔母が花受けを洗いに行っているあいだに作業を止めて墓所に正面から向かい合っていると、台に小池のようにひらいた水受けに溜まったものの反映が、墓石の表面に揺蕩っているのがかすかに見える。その前に置かれた小社めいた形の石の器のなかでは、前回に参った時に供えたらしい線香が、色褪せている――もともとその色だったのか、それともよくある濃緑のものが風化して色を剝がされたのか、くすんだ鴇色とも言うべき、着物を思わせるような色合いだった。風が流れて、周囲のあちこちで卒塔婆が触れ合って、かたかたと鳴りが立つ。三人でそれぞれに線香を供えると、社の大きくひらいた口から煙が朦々と吐き出されて大気中に散らされて行く。母親と叔母は大して拝んだ素振りもなかったが、こちらは手を合わせると、いつも通り、金と健康と時間とを願った――何度も繰り返し頭のなかで唱えたので、随分と長いあいだ両の掌を貼り合わせたままだった。墓所をあとにしようというところで、女性二人が、梅がもう咲いていると言ったが、墓地の際に立ったその二本の方を向いても、光をはらんで背景にひらいた薄水色の空が、明るすぎて目が眩み、花が点いているかどうかなど見分けられなかった。出口に向かうあいだに見えた木は、白が灯っているのが確かに見留められて、そのなかに黄を仄かにくゆらせていた。

               *

 池に近づいて縁に立ったが、鯉は中ほどに浮かんだ小島の下の深みに引っこんで、姿を慎ましく見え隠れさせるのみで、一向に出てこなかった。なかに一匹、明るく透くような黄色のものがいて、水中を斜めに貫き射している陽のなかにそれが入ると、色がより一層強くなって、艶に美しかった。

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 帰路、裏通りに入ると、肌に触れるものが朝と同じく、なかなかに冷えている。普段なら意に介さずに受けて進むところだが、この日はこの週の労働も終わりで気分がひらいていたのか、温かいものでも飲みたいという気になって、一〇〇円のものばかり売っている自販機に寄った。ココアを買って、熱された缶を両手で包み、また頬や耳のあたりに当てながらちょっと歩き、途中で、特にきっかけもなく道端に立ち止まって飲んだ。一口目は熱の塊が、空の胃に入っていって圧を生む様子が面白いようにわかるが、続けて飲み進める液体の感覚は、既に広がった温かな膜のなかに紛れて識別しがたくなるのが物足りないようでもあった。空になると缶は途端に冷えはじめて、それをつまんだ左手の掌がひりつくようだった。月は前日、ちょうど笑みのように下向きに孤を描いて細かったのが、少々厚みを増して、船くらいになっており、色も前夜は赤みが香ったのが、薄く明るく冴えていた。左右の家々が静まって窓に薄明かりのみ貼られ、対向者も後続者もいない動きのなさのなかで、風が吹き付けるわけではないが路上の空気は常に細かく動きやまず、肌を擦っても熱をもたらしてはくれず、ただ冷たさのみが置かれて行くのだった。

2017/2/1, Wed.

 朝食中、窓外の、川向こうの集落から弱やかな煙が湧き、漂っている。薄青いそれがなくとも、光の膜に籠められた山の姿は、それ自体でやはり青く煙ったようになっている――と思いながら、いつだったかまだそれほど経っていないはずだが、前の日記にも同じことを書いたなと記憶の刺激があった。何を燃やしているのか、どこかの家で枯葉でも処理しているのか知らないが、窓外の風景のなかに煙が立ち、山影と重なるのを見るといつも、眺望に牧歌的なニュアンス――まさしく「ニュアンス」――が付与されるのを感じる。山と言っても大した高さではなく、むしろ高めの丘と言ったほうが良いかもしれないくらいのもので、麓はひらけているわけでもなく家屋根が平板に並んでおり、「牧」という字が喚起させる広い空間などなく、勿論動物の姿も見えないのだが、薄青い煙の流れるさまがこちらのなかで、よほど「牧歌的」という語から想起されるイメージと結びついているのだろう。降る光にどこもかしこも明るくなっているが、並ぶ家屋のなかで、小屋か何かのものだろうかこちらを向いた片屋根が、最も光を吸収し溜めて輝かしく発光し、小さな長方形が視界のなかで一際浮き立っていた。

               *

 昼食時、同じ風景を見やるが、先の際立ち輝いていた屋根がどれなのか、もう正確にはわからない。光は角度を変えて、山も朝にはあれほど青く煙っていたのが、いまは乾いて、緑や、裸木や土肌(一画、木の伐られてひらいた斜面があるのだ)の、どちらかと言えば赤みを含むような褐色が明るんでいる。

               *

 往路、街道に出る前で、車がこちらの道に入ってくるのを見て脇に避けたところで、すぐ背後に接したガードレールの裏の斜面には、そう言えば梅が生えているではないかと想起されて、首を曲げてみれば、やはりもう薄紅色が全面に灯っている――とは言え、まだ咲きひらいてはおらず、蕾の丸みの感覚が所々に強かったが。

2017/1/31, Tue.

 ベランダに出ると、大層風が吹いて大気をかき回したらしく、竿に吊るされているはずのシャツやらタオルやらがぐしゃぐしゃに乱れていくつも地に落ちていた。それを拾って再度吊るし、ほかのものから取りこんでいるあいだに、また強風が素早く抜けて、いま吊るしたものがまた落ちている。春めく陽気も手伝って春一番のようなと、まだ一月の終わりで無論違うとわかってはいるが、洗濯物をすべて室内に入れるまで、四月あたりを先取りしたような錯覚が抜けきらなかった。

2017/1/30, Mon.

 発ったのは四時頃だった。玄関を出ると、すぐ傍らの家壁が妙に明るいように、クリーム色に艶が出ているように一瞬映ったのは、我が家は北向きで正面は蔭を帯びているから目の錯覚のようでもあったが、実際、ひどく明るくまた、暖かい日だった――予報では、最高気温が二〇度だと言った。その暖気に誘われて姿を現したのだろう、歩きはじめてすぐに、細かな虫が空中を何匹も漂っているのが目についた。坂道の入り口付近には西陽が掛かって、脇に並び立つ木々はそれぞれに陽を受けて幹のところどころを明るませて、重なった樹皮の段を露わに見せている。そのなかに一本、位置の関係で陽を受けずに蔭に収まって、上から下まで黒いのっぺらぼうと化しているものもあった。木の間から覗く空は、雲も形を乱して浮いてはいるが薄水色に澄んで、木々を前にして蔭のなかにいると明暗の対比で殊更にその明るさが透き通っていた。前景に迫る樹幹と果ての空との対照的な絵図を見ながら、浮世絵の構図だなと一度思ったが、歩に応じてゆっくりと推移していく景色――木蔭の暗さと格子様に区切られて差し挟まれる青の澄明さと、中間的な媒介としてそれら明暗を繋ぐ西陽の斑――の、その流れるさまに、これだけでもうほとんど映画ではないかと思い直した。坂の途中で、図書館のカードを忘れたことに気づき、かといって殊更に焦るでもなく、むしろ歩く距離が増えたことを喜ぶような気持ちで、ゆっくりと来た道を戻った。右側の、先ほどの木の間とは逆側の林の、より密になった木々の向こうに西陽が輝いており、緑の網目に絡め取られたようになっていた。左手を見れば、家々が暖色をまぶされていて、坂の入り口の陽射しのなかにやはり虫が群れて湧いていた。家に帰って、カードをコートのポケットに入れると再出発した。ストールを巻いていたが、その裏の首の肌が既に汗ばんでいるほどの陽気で、外してしまっても何の不都合もないくらいだった。街道を行っていると飛行機が、突如として前方の空に現れ、斜めに切りこむように入ってきて視界を横切り、右手の――南の――空へと抜けていった。音はやはり、機体よりも遅れてその後ろから、撓みながら降ってきて、飛行機の姿は結構大きかったが、それでも距離が窺えた。明るくはあるが、雲もそれなりに空を埋めていて、裏道から見える森の裸木の連なりも雲と接しており、そうすると陽を受けていても、やや濁ったような妙な色に映った。横断歩道のある坂道では、先日も見かけたミラーによる楕円形の日向が、この日は前よりも時間がやや遅くて大きくなっており、道からはみ出すほどだった。

               *

 線路の上に張られた電線の、縦に二列並んであいだの距離を少しずつ変えながら伸びてゆくその合間を繋ぐように所々に置かれた、名も用途も知らないが何らかの金具らしい物体が、暮れに向かう陽の放射を受けて甘いようなオレンジ色を凝縮され、輝いている――脇に立った背の低い裸木の、もつれるように縦横に広がった枝の重なりも、普段は色味を落として不健康な血管の浮きあがりのようになっているが、この時ばかりは赤っぽく、血の通ったようだった。光っていた金具から伸ばした横線のちょうどその途上あたりまで来るともうその器具は輝きを失ってしまうが、その代わりに少し先のものがまた同じように朱色の熱を帯びるのだった。林の樹冠には、陰日向の境界線が既に引かれている五時前である。下校中の高校生たちが連れ立ってすれ違って行く裏通りは家々に挟まれた合間にまで届く高さも陽にはなくて薄青く、少々冷え冷えとしてきていた。十字路――先に薄日向の楕円形が描かれていたところだが――まで来ると、視界が横にひらいて、丘の上に千切れた雲が横面を茜色にしているのが見えた。どこからか、子どもたちの賑やかに叫びながら遊ぶ声が重なって渡って来る。歩きながら、ひどく自由で、何ものからも解放されているような感じがした。ニコラ・ブーヴィエのことを思いだした――彼が『世界の使い方』の端々に描きだしていた時間のことを。例えば次のようなものだ。

 エルズルムから東へ向かう道は車がめったに走っていない。村と村との距離もかなりあった。何かと理由をつけ、車を止めて外で夜明けを待つことがあるかもしれない。厚いフェルトの上着にくるまり、耳まで覆う毛皮の帽子をかぶって暖かくしながら、車輪を風よけにして焜炉の湯が煮たつ音を耳にし、夜空の星々を見つめ、カフカス山脈の方角へ向かっていく大地のゆるやかな動きや、闇に光る狐の目を感じる。熱い紅茶とわずかな言葉、煙草とともに時間が過ぎ、そして夜明けが訪れて光が広がり、輝きの中にウズラとヤマウズラがさえずる……。記憶に埋もれた死体のように、この至高の瞬間を早く流し去ろうとするが、いつの日か、記憶の底に沈んだものを探しに行くことになるのだろう。伸びをし、身体の重みが消えるのを感じながら足を少し動かす。自分の身に起きたことを言い表すには、「幸福」という言葉はあまりにも粗末で風変わりに思えた。
 つまるところ、人生の骨組となるのは家族でも経歴でもなく、他人が口にしたり思いうかべたりするものでもなく、いまここで感じているような、たまにしか訪れない瞬間、愛情よりも穏やかな浮遊感に支えられた瞬間だ。それこそ自分の心の弱さに応じてわずかにしか手に入れることができないが、人生そのものがこの瞬間を僕らに与えてくれるのだ。
 (ニコラ・ブーヴィエ/山田浩之訳『世界の使い方』英治出版、二〇一一年 、151~152)

 無為のなかの充実と、思いついた表現は陳腐なものであり、またおそらくは老荘思想禅宗めいてもいるのだろうが、そのようにでも言うべきだろう。実際、何をしていると言ってまさしくほとんど何もしておらず、ただ歩き、周囲の物音や、泡のような知覚のざわめきを拾っているだけだった――あらゆる目的性や未来(ということはつまり、いまここにないもの)への思慮の消え去った、ほとんど純粋な現在の持続? 身体には重みがあって、力が抜け、鞄を持った右手が垂れ下がり、脚も一部しか動いていないような感じで、歩調はよろめくような風があった。過去にもこのような時間を体験したことは何度かある。その時には、感興がより強く、あるいは鮮やかで、瞬間の訪れを感知するやその芽生えが、感傷へと一直線に、堪え性もなく無抵抗に直結することが多かったように思うが、いまは恍惚は低く留まって、胸のかゆくなるような感じが持続していた――まさしく、「愛情よりも穏やかな浮遊感」、そのなかでは、自分の足音の裏からさえ、音楽が聞こえてくるような感じがした。いつもこんな気分でいられたら良いのだが、と願わぬことを思った。こうした時折りの純粋な充足があれば、自分は読みも書きもせずに生きて行けるのかもしれないとも思ったが、それを、幸福なのかもしれない、と言い換えるのは、ニコラ・ブーヴィエも言うように、そぐわないような感じがした――それに実際は、体験の渦中にいる時から刻一刻と感じるものを頭のなかで言葉に変換し続けて――書き続けて――おり、帰宅したあとにも、翌日に記す時のことを考えてすぐにメモをしたためたわけで、やはり書かないわけにも行かないのだ。広めの空き地の横に差し掛かると、また空がよく見えるようになった。女子高生が二人、どうでも良いような雑談をしながらすれ違って行く向こうに視線を放つと、雲は行ってしまったらしく、往路に見えた灰色はなく、茜色と純白とが西空で重なりあっている。歩を進めながらも目をつぶりたくなるようで、そしてそのまま眠ってしまいたいような感じだった。ジョギングをする若者たちが傍らを過ぎて行くだけで、それが一つの景色として、あらゆるものが風景として目に映るような――とそう言っては大袈裟に過ぎるのかもしれないが、しかし、周囲のどんなものも自分と関係せず、あるいはそれとのあいだに距離が挟まれ、一歩引いて浮かびあがった位置から鑑賞するような位相にいる風にも思われた。裏通りから曲がって表のほうを向く頃には、もうだいぶ暮れが進んで、中学校の校舎の上で雲はやや濁ったような赤みを帯びていた。街道へ出ると、西の山の稜線上に捏ねて作った彫刻のような雲が一つ乗って、輪郭を綺麗に囲んで橙色を点けられていた。再度裏に入る時にはあたりの薄青さが濃くなっていた。三叉路の角に行商の八百屋が来ており、野菜を売りながら近所の婦人らと立ち話をしていた――そこを通り過ぎたところで、自分の胸を探って、ああ、終わったようだなというのが自然にわかった。先ほどから感じていた恩寵めいた時のことだが、それは目的地である自宅が近くなってその存在――すなわち、歩みによって区切られた時間の終わり――を意識したためかもしれないし、また、先の路肩の雑談のなかに、挨拶はしなかったが、こちらのことを多少なりとも知っている婦人がいたことが原因だったのかもしれない――なぜなら、こうした時間は絶対に、他人との関わりを意識する必要のない、自分がまったくのひとりとしている状態でないと起こらず、続かないからだ。下り坂の入り口から見えた空には、山の上に掛けて、鳥の羽ばたくのをコマ送りにしたような雲の乱雑な繋がりが浮かんでおり、一方の端で紫から始まったものが、青へと階調を移して行き、反対の端はそのまま、洋菓子の上に垂らされるソースのような同じ青さに染まった市街の上空へと繋がり、溶けこんでいた。

2017/1/27, Fri.

 往路、大層春めいて清朗な日だった。風に固さ冷たさはなく、肌の上をさらさらと流れて行くばかりで、心身がほぐれるような穏和さである。歩調も柔らかになり、身体の力が抜けるようで、裏通りを行きながら頭上を見上げると、丸いような青のひらいたなかに小さな航空機らしい白がひとひら点じられていて、機体というよりは紙の切れ端のようで緩く浮かんでいるのが音もなく静かだった。視線を吸いこむ空は実に明るく、見ていると、空が視線を吸いこむというよりは、こちらが視線を伝って逆流してくるその淡青を身体に取りこむかのようで、見ているというよりは、飲んでいるような感じがするほどの爽やかさであった。そんななかをこれから待ち受ける労働の存在も問題にならないような自由な気分に浸されて、呆けたようになりながら行っていると、「痴呆のような幸福だ」と、梶井基次郎が何かの小篇でやはり冬の明るさに満ちた道行きのことを書いていたのが思いだされて、それはこんな日和のこんな解放でもあろうかと思われた。

               *

 帰路。行きと同じ裏通りを戻っていると、倉庫めいた建物の脇にくすんだような茶色のものが落ちていて、布か何かかと思いながら近づくと、猫である。住宅街のなかに一軒、小寂れた、普通の家と変わりないようなスナックがある場所なのだが、その脇の駐車場に停まった車の下にいつも、そこが自分の居場所だとばかりに入って占領しているのを見かける。毛並みの乱れてうらぶれたような風情の野良猫だが、誰かが世話をしているのか、この時は下水道に通じるらしい小さな蓋の上に餌が撒いてあって、背を丸めて顔を見せずにそれをむしゃむしゃとやっていたのが、動物というよりは物体のように見えたのだった。傍らに立ち止まって口笛を一つ鳴らすと、猫は顔をこちらに向けたが、また食事に戻ったので、それ以上こだわらず、先を進んだ。

               *

 田舎町で、街道は午後一〇時にもなれば、昼よりよほど車の通りは間遠になるのだが、それでも、現れてこちらの横を過ぎて行った姿が道の先に見えなくなって、尾を引いて流れて行く走行音も細って消えようという頃合いに、それを絶やすまいと繋ぐようにして、丁度良いタイミングでまた新たな走行車の響きが前後のどちらかから忍び入って来る。信号や街灯の光を受けて黙りこくった左右の家々の壁がそれを反射させて、遠くまで届くタイヤの擦過と風切りの音が去って行ってはまた繋がれるわけだが、時折りにそれが途切れる時間があっても――それをこちらは秘かに待ち望んでいるわけだが――靴の音のなかに、小さいが確かに反響があって輪郭線が厚みを持ち、鼻から出入りする空気の音も聞こえるその静寂はいかにも短く、またすぐに遠くから線状の響きが伸び寄ってくるのが、惜しい。