2017/5/29, Mon.

 正午前の道に出て、木の間の上り坂を抜ければ、頭に降りかかってくる熱気に身体がやや頼りなくなるような、夏日である。気温は二八度とか三〇度とか聞いた。街道に出ると道路の先から走ってくる車の鼻面が、陽炎に乱されて、真白い光点を装飾品のように溜めながら、ぶれている。雲のまったく消えたまっさらな晴天というわけにはいかないが、空に伸びるもの散るものは水で溶かれたように薄く、太陽を隠すような勢力はない。熱に包まれながらゆるゆると、裏道を行っていると、帽子の下の額やら目の付近やらに熱気が籠って、熱中症を思うが、しかし身体は揺らがない。のろい歩みに、動悸も高くならず、ただ風呂を浴びるように熱を纏って行く。寺の枝垂れ桜の、長髪の房めいて下った青葉の連なりが、風に葉裏の薄色を垣間見せながら揺らされるのに、柔らかさと言うよりは、葉の粒立ちのせいか固さの感が立って、金属の飾りのきらきらと、音が鳴るように煌めきながら左右になびくさまを瞬時思った。
 電車に長く揺られて代々木に降り、待ち合わせた知人と横断歩道に立てば、帽子の下に陽射しが入りこんで、顔の横から浴びせられた熱が、頬に塗りたくられる。見上げると、飛行機が高いところを小さく行くその機体が、光を受けて白く艶を帯びてはそれをすぐに抑えて過ぎて行った。喫茶店に入って話をし、五時前だろうか出た頃には、左右をビルに囲まれた通りに陽射しはもう入らず、道を見通した遠く、宙の真ん中に聳え立った新宿のビルのあたりに留まり、白く溶けた雲がその左右、空の低みに刷かれていた。
 新宿の書店をうろついて別れたのちの電車内、座席の端を区切る銀の柱に胸を寄せて、あまり身動きもできない状況から視線だけは逃した窓の外、西空に、水っぽいような青さのなかに浸かって形を小さく崩した薔薇色の、夕陽の残骸を見た。すぐに視線は建物に阻まれ、電車も荻窪に入って高架から降り、西荻窪に向かって上ってからふたたび見た時には、もう陽の姿はなく、希薄化された山の影なのか、宵に入りつつあって冷えた雲の姿なのか、空の下部を広く埋め尽くして青い層が残っているばかりである。
 最寄り駅では、四日目の月が、夜空にかぼそく刻みを入れていた。あたりにじりじりと伸びる虫の音は、電車内でも、過ぎざま窓の外に聞こえたくらいである。下り坂の空気は乾いて、涼しいも温いもなく、虫の音は距離の問題か、前日よりざらつきが弱まっていくらかほどけたように響き、沢の音も小さくなっていた。

2017/5/28, Sun.

 窓を閉じていれば、室内に暖気がやや籠る正午である。洗濯物を取りこみにベランダに行っても、雲の多い空だが、身の周りの空気は温もっており、その静止を乱す風もない。ハンガーに掛かったものに手を伸ばしていると、屋根の縁から太陽が、敷かれた雲のなかの浅くなった僅かな間をついて現れ、足もとに目を下ろせば日なたが、ごくうっすらと生まれていた。
 気温計が指すのは二六度の目盛りだが、薄灰色の雲に天を塞がれて大気は蒸しているようで、取りこんだものにアイロンを当てていても、やはり汗が湧く。それで肌着を脱いで上半身を晒したが、風が入ってきて肌を涼ませてくれるわけでもない。しかし、家を発つ頃には大気が動きはじめたようで、行くうちに道が色付いていた。高みで風が生まれたのだろう、散らばった雲の動きが速いらしく、路上も刻々と色を変え、明るみを帯びたかと思えばすぐに薄青さに戻り、さらにまた暖色へと浮かび上がる。街道に来ると陽射しが出ており、首筋から肩に掛けて乗ってくるものが、なかなかに厚い。地上にも風は吹き、手に触れるのは糸のような柔らかな感触で、身につく方も当たると言うよりは、細胞の隙間をくぐり抜けて行くような軽さだった。裏通りを行くあいだも身は熱に触れられているが、粘るものでなく、上空を走る風のおかげで空には青さが広がって、空気に爽やかさが生じているなか、熱は肌に染みるようでいくらか心地良くもあった。
 図書館で消耗しながら二日分の書き物を済ませ、気を入れ直して他人の文も写すと、もう宵もやや深む。歩廊に出れば正面から夜風が走り、通路の下の街路樹からだろうか、じりじりと鳴く虫の音が昇って耳をつく。最寄りの駅に到り、薄白い雲が黴のように蔓延った空を見上げてから入った坂でも、同じ無愛想で即物的な鳴きが、一昨日の雨の余波がまだ残っているものか、思いのほか大きな沢音と混ざって、固く響いていた。

2017/5/27, Sat.

 柚子の木の枝を、剪定というほど大袈裟なものでないが、いくらか刈り揃えるために外に出た午前、空気は暑い。空は雲が厚めに広がって白いものの、頭上には間が生まれているようで、降り注ぐものもまたあり、結構な熱が身についてくるのに、太陽はどこかとまだ高みにあるのを求めて首を曲げて行ったが、まばゆさの圧が強すぎて、光源の端に視線を引っ掛けるまでにも、とても到らない。正午前、道に出ても、蔭と日なたの境が薄くあり、空気は温もっていた。しかし風も、小川の流れのようにするすると、涼しく吹いて、募れば涼気が一線を超え、まさしく川面に手を浸しているかのように爽やかな冷たさに転じることもある。大気は搔き回されて、涼と暖のそれぞれが混濁しながら身に触れてきた。
 午後から立川の喫茶店に友人と集まり、五時を過ぎて出た時にも、風は変わらず大きく吹いており、目の前を行く女性の、長いスカートの裾がふるふると動く。書店をうろついて、カルミネ・アバーテ/栗原俊秀訳『偉大なる時のモザイク』を買ったあと、ラーメン屋に寄ってから街を出た。最寄りを降りて入った坂の端に、色褪せた竹の葉が散り積もって、湿り気をまだ残しているようで、下りの出口の脇では前夜の雨の名残りか、側溝のひとところに寄せ集められて膨らんでいた。夜に到って風は弱く、緩く流れるようになって、そのなかに雨の子が僅か散って含まれていたようだが、すぐに触れなくなった。

2017/5/26, Fri.

 夜の白んだあとからいつか降り出した雨のなか、窓を開けたままに眠っていた。肌着一枚の格好で、腕に肌寒さがついてきた。居間の窓に視線を通しても、雨粒の宙を搔く線は視認されず、空気は石灰色に濁って、空が稜線を侵して山の表面へと浸潤している。午後に掛けて雨は、強弱の振れもあまりないらしく、単調に、勤勉なように降り続いた。昼がだいぶ下ってからふたたび食卓に就いても、梅雨寒が先取られたか、久しぶりに足もとに暖房が欲しくなるような具合で、即席うどんの汁の温みが腹に染みた。
 食い物を身に入れて服も整えて出れば、数日前と比して気温はだいぶ下がったのだろうが、あまり涼しいという感じもない。前日の、玄関を抜けた途端に貼り付くように寄ってきた湿り気の、しっとりとした感触の記憶がまだ肌に残って、それを思っていた。坂で木の下にいるあいだには、合わさり大きくなった雫に傘が鳴るが、出れば音もなく、軽く、優しいような雨である。堪えなく風に押され、東から西に傾いて流れるものに、街道に出る頃には服の前面がわりあいに濡れていた。水と風の響きを混ぜこんだ車の走行音は、空間を紙と化してびりびりと破るかのようで、すぐ横を過ぎればちょっと怯まされるほどに、耳にいかにも激しい。裏路地に入って、あたりが静まると、あるかなしかの雨音が頭上から染みてきた。傘が揺れるに応じて耳の周りの空間の形が変容するからだろう、歩を踏むのに合わせて響きは僅かに、撓み、波打ちながらついてくる。そのうちに、両膝の上の布が濡れて、踏み出すたびに膝頭に貼り付くようになってきた。
 風は、時折り走る。涼しさが、しかし肌に通ってこない。傘を持つ手首のあたりなど触れれば、いくらか冷たくなってもいるくらいの雨ではある。ところが、肌に覚える感触はあって、それを明確に、涼しさと認識してはいても、何かしっくりこないような、言語と身についてくる感覚とのあいだに矛盾が生じているような乖離の感が拭えなかった。至極軽くはあるが、いわゆる離人感というものだろうか。三、四年前には、折に触れて小さく感じ、多少の不安を呼んだことがあったようである。何かを感じているのは間違いないが、その感覚とのあいだに空白が差し挟まれて定かに触れることができないようなと、そんな風に思いながら横断歩道を渡った。
 夜に入っても降りは続いて、風がなくなったかわりに雨脚は強まっていた。直下的に落ち下るものらの包む裏路地は暗く、軒が左右に迫って電灯から離れた場所では足もとに水溜まりがあるかどうかもわからず、靴が黒い塊と化す。しばらく進んで見通しのよくなった先には、連ねられた街灯の光の一本一本が、路上を斜めに長く渡る帯となって表面を滲ませながら宿り、隙間なく合わさって引かれ、アスファルトの一画を薄金色に塗り替えている。雨夜の裏路地に生まれるそうした光景を目にするといつも、フィンセント・ヴァン・ゴッホの、月夜の河を描いた絵のなかで、街明かりの反映が川面の上に引かれて、揺らぎながら長く伸びているその様子を、思い出すものだ。
 裏から表に曲がる角も近くなって、前から車がやってくると、放たれたライトが路上いっぱいに撒き散らされて、目の粗いアスファルトのあらゆる起伏にやすやすと入りこみ、艶めく純白の輝きが足もとを席巻した、と目を落としているうちに、車は過ぎて、もっと凝視していたかったところがそれは許されず、夜の底に瞬間敷かれた白昼の明るさは、すぐさま失われてしまった。それからまもなく、裏を出る直前から、雨がさらに強く、激しくなった。アスファルトの僅かな盛り上がりに降り掛かる光によって露わにされる水のうねりが、沼のなかに沈んでいる魚の影のように、こちらの横をついてくる。飛沫を纏うようにしながら駆ける車の音は、苛烈なほどである。対岸に渡る隙を掴めず、家に続く分かれ道の向かいまで来てから、車が途切れるのを待って停まったところが、目の前の道路にまた生まれている街灯の、楕円の反映のなかに、流線と波紋の交錯した複雑極まりない水の紋様がひとときもうねりをやめず生成しているのに、目を惹かれた。車が通ればタイヤにぐしゃりと潰されて、その時だけは襞がいくらか均されるが、直後にまた、肉のような弾力を取り戻して復活する。その周囲にも、降り落ちる雨粒に分散するのだろう、光の断片が無作為に点じられており、中心の楕円から分かれ出て飛び散っているようにも、母体の方に合流するべく吸いこまれていくような風にも、映った。雨は聾されるような拡散性の響きを持っていて、身の周りを包んで閉じるようで、裏通りに入って静かになればほかの音は聞こえない。一つの音響にひたすら侵され閉ざされる、これもある種の無音、ある種の沈黙だろうか。耳が濃霧を掛けられたかのような、車が後ろから迫る音も聞こえない状態のなかで、坂を下った。

2017/5/25, Thu.

 前日よりもさらに、均された白い窓の目覚めだった。日中、居間の窓から見通すと、山の向こうの低い空にちょっと、暖色を帯びた明るみが見られもしたが、そこを残してほかはこちらの頭上まで灰青色の雲が敷き伸ばされて、近間は仄暗く、雨の降り落ちてきても不思議でない。夕刻に到って玄関を出ると途端に、湿り気をはらんでしっとりとした空気が、肌に寄ってきた。街道から見上げる空はなだらかに雲が埋めて、地上に陽の気配は粒子一つ分も窺えない。風は、吹かない。木々をそよがせるにも弱いほどの、かすかな空気の揺らぎが、間遠に、身の周りに立つのみである。裏通りを行く足が自ずと白線の上を逸れず辿りながら、踵を付けて足先まで下ろして行くその踏まえ方のゆったりと、知らず柔らかくて丁寧なように、仄かなようになっていた。周りを帰る高校生らの方が、ひと目にはだらしなく投げやりなように歩いてはいても、よほど速く、はたはたと先を進む。歩みののろさは、高校の時分にもよく言われたが、当時のそれは時に自足をもはらむ今のものとは違って、単に、心身がともに重たるかったのだ。あとから見ればあの重さはその前兆だった精神の病を、その後数年掛けて通過し、活力の回復とともに速まった足を、次第にまた緩やかに抑えてきたが、鷹揚なような足つきが習いとなった今からしてみると、過去の自分の足ぶりは、友人と並んで行き帰りした高校の時であれ、一人でいるのが常だった大学の時であれ、慣れ親しんだ四季の道の往復を繰り返すここ何年かであれ、随分と、速かった。殊更に老いづいたつもりはない。自分とて、何にと定かなものはなくとも、あとからは追いまくられ、前からは引っ張られてやまない趨勢のなかに、生まれた時から囲われて育ってきたのではある。こちらを追い抜かして距離を離して行く高校生らにはあるいはもっと、その牽引が強いのかもしれない。
 空き地に掛かって視界がひらいたのに促されてふたたび見上げると、ところどころに畝が作られてもいる空の、低くにはいくらか黒ずんだ表層雲がほつれてもいるが、その隙間から覗くのはまたまっさらな白で、雲は天上に掛けて厚く何層にも、高山を覆う雪の堆積めいて積み上げられているらしい。この日はしかし、雨はなかった。夜、勤めを済ませて出てくると、風が流れるようになっていた。戸口のところで触れられたそのなかに、乾きの感触がちょっと含まれていた。行くうちに、両耳が詰まったのは、このところよく起こる現象である。今月の一三日に初めて訪れがあり、以来何度か再訪されているが、やはり気圧が何か影響しているのか、来るのは決まって曇り空の下だったような覚えがあり、また、腹の軽くなった夜でもあったようだ。鼻の呼吸音が耳に近くつき、ちょっと咳をすれば、顔の内側に閉じこめられたその音を耳が裏から受けて拾っているような閉籠感が、室に帰って服を替えたあとも続いていた。

2017/5/24, Wed.

 夜更かしのために正午前まで長寝に浸かってから起きると、窓はのっぺりと薄白く、明るさの弱い寝床だった。未明までモニターに瞳を晒していたのが祟ったか、首の固くて、布団を離れてからあまり間も置かず、頭痛が始まった。
 歯を磨き口を濯いで室に戻って来ると、雨粒の葉に弾ける軽い音が、外から立っている。窓に就くと、響きのだんだんに集まって寄せてくる気配が僅か感知されたが、玄関を抜ければ散るものは微かで、傘を持つほどではなかった。坂に沿った木の間ではこの日も木を伐っていて、地に積み重なった枝々にチェーンソーを当てて唸らせているその手もとから、薄青い煙が湧いて漂う。風はわりあいにあり、ここのところのしどけないまでにほぐれたそれでなくてなかに小さく芯の窺えるような、比較的締まったような涼しさを持っていた。それが止まると、蒸し暑さが少々、やはり身にまつわってくる。道中、寺の枝垂れ桜に向けて、久しぶりに目を送った。五月青葉の満々とした濃さは周辺の木々も遜色ないが、この桜は枝が下っているから、梢に曲がり目が露出して、仄紫の色をちょっと被せて添えられているのが、ほかになく興だった。のろのろと歩いているあいだにも頭痛は溶け切らず、後頭部の右方に留まってこごる。
 乗る駅の周りでは燕が、頭の脇を通って飛び交い、降りたホームでも駅舎の周りを、風の象徴めいて滑らかに駆け回るのが見られる。図書館は席が埋まっており、読書をしながら待っても空かないので、向かいのビルの喫茶店に入って文を綴った。他人の文も写して宵にもいくらか入りこんでから出ると、歩廊の上を行く足が、長時間据えられた腰をほぐすように、膝から下をすっと緩く押し出すようになっている。電車が入線してくるのが見えたが走る気にならず、発ったあとのホームでベンチに就いて本をひらくと、風が地に近くを這ってくる涼しさが、顔の窪みや裾から出た腕にやや強いようだった。

2017/5/23, Tue.

 午前からよく風の吹く快晴で、起床後にしばらく、枕に尻を乗せて窓辺に佇んでいると、爽やかな葉擦れの響きが窓外を渡る。風はカーテンの隙間からなかにも入りこんで、身にも柔らかく、稀薄な靄のように触れてくる。食事を済ませて正午過ぎから始めた書き物のうちにも、たびたび背後で響くものがあるのは、窓のすぐ先の棕櫚の木の、頭に乗せた広い葉が揺らされてはためき、分かれた葉先が互いにぶつかり合うものらしい。地に伏した無数の枯葉が風に押されて路上を擦りながら駆け抜けるような音だと思って、いつかの記憶か想像か、家のすぐ前の通りを前から、褐色の葉が転がり走ってくるさまが浮かんで、秋の雰囲気が瞬時、香った。
 昼が下ってからも、風は続いた。ものを食っているあいだにも、東窓のカーテンが丸く膨らみ、それとは向かいのベランダの戸を、洗濯物を入れようとひらけば途端に吹き入るものがあって、ひどく涼しい。東の窓の先、坂に入ってまもないあたりでどうも木を切っているようで、チェーンソーらしき唸りが間を置かずしきりに立ち上がって届く。取りこんだシャツにアイロンを当てようと、卓の前に膝を付いて南窓に向かい合うと、近間の屋根の先に目に入る川沿いの木々が、偏差のさほど窺われない緑に整然とまとまって、横に並んでいる。数か月前には緑を受け持つもの持たぬものがあり、色を付されたのも鶯色が淡くくゆる程度で、ばらばらに乱れていたように思うが、随分と密に調和したものだ。川沿いに限らず、窓のなかの端々にくっきりと濃い緑の目に触れる初夏で、山はさすがにほかの緑から際立って深んでいた。
 風に鳴る梢の路上に張った蔭のなかにあれば涼しいものの、三時半のまだ高くから降って透明な陽射しのもとに出ると、途端に頭が重る。これでは確かに、熱中症で倒れる者も出ようと思って表に出れば、街道の上は両岸まで隈なく日なたがひらいて明るく、背面が、頭の上から背、腰から尻をたどって靴の踵まで、一挙に温められる。足が温もると、外を歩いていながら風呂に入っているような気分も生まれて、気怠い眠気の兆さないでもない。空にある雲は、白粉を弱くはたいた程度の、形も厚みも持たずあるかなしかの添え物に過ぎない。裏通りへと入る角に並んで停まっている車の、顔に光を溜めて反射してくるのが眩しく、上空からはまた熱が直接、頬に寄せて来る。しかし風は結構あって、道を行くあいだ、折に触れて立ち、肌の熱をいくらか散らしてくれる。確かに暑く、夏日というものだろうがしかし、猛暑の盛りからはまだまだ遠いと思ったのはその風のためもあろう、汗は当然湧くが、背の肌がそれほど激しく水気にまみれるでもなかった。
 帰路はいくらかものを思ったようで、あまり周りを見なかったらしい。空気の動きは弱く、風と言うほどのものも立たず、静かな時間の多かった。夜空は明るいようでもあり暗いようでもあり、詰まったような墨色で、雲は掛かっているようだが、星を隠せずに霞ませる程度のものである。目を伏せて電柱の傍を通り際、身の脇を、飛ぶものの影がすっとすれ違って、この夜に鳥かと一瞬思ったがどうも、見上げればあたりの灯のもとにしつこいように集まっている蛾の、その一匹だったらしい。
 外にいるあいだは涼しかったが、帰ってものを食っているとやはり、頭上のすぐから降る食卓灯のオレンジの明かりにも、顔の周りが温もるような夜である。知人との通話で夜を更かし、さらに本を短く読んで三時半、新聞屋のバイクの音も消え、夜空の白みはじめるのもだいぶ近くなってから床に就いた。仰向けになって眠りを引き寄せているあいだ、時鳥の鳴きを何度か耳にした。

2017/5/22, Mon.

 気温計が三〇度を指し示す夏日が続くが、風が爽やかに、窓からよく入っても来た。外では鶯と鵯がいつものように鳴きを散らしているその合間に、画眉鳥だろうか、柔らかく曲がる融通無碍な声のみが、あたりは黙ったそのなかに奏でられて音楽的に響く時間があった。昼を過ぎて二時の頃から気温が上がったようで、自室は居間と比べて風の通りが弱いこともあり、コンピューターに向かい合って鍵を叩いていればそれだけで身に熱が籠り、昼もよほど押し詰まってから、何をするでもなく窓辺にじっとしていても、温もりが肌に貼られる。五時を迎えて居間に上がるとしかし、さすがに暑気は和らいで、いくらかの涼しさに触れられた。
 ネクタイは付けたが肌着にシャツのみで、何も羽織らずに出た。三日連続で雲のまったく除かれた空とは行かず、午前から昼のあたりはそれでも青さが遮られずに渡っていたようだが、夕刻に至ると淡い雲がいくらか浮かんで、そのなかで東南の方に、ひとすじ横に伸びた芯からほつれるようにして両側にいくつも枝が分かれているのが、人の脊椎と肋骨を思わせた。西にも、薄いが大きく雲は湧いて、陽はそのなかで溶けて茜色を幕に留められ、光線は地上に注がず、それでも充分に明るい空気のなかに、アスファルトを見てもその上を流れて行く車の側面を見ても青さが、あからさまでなく、黄昏もまだ遥か遠くて沈むこともなく、ただ淡く乾いて含まれているその風合いを、初夏の夕べの青と思った。汗は勿論湧くが、粘る西陽の日なたのないのは幸いで、裏通りを行っても風が前から吹いてくるのが、角を立てずに肌に円い。時折り、耳の入口を覆ってばたばたと騒ぐくらいに厚くなったそのなかで、背を一粒、汗の玉が転がり落ちて行くのを感じた。
 帰路のこと、足がいくらか逸っているのに気付いて歩調を落とすと、恍惚の薄い芽のような、解放感らしきものの兆しが滲む。気温の上がって来て滑らかな初夏の夜気のなかで、よくあるものだ。風はまた向かいから、ということは行きとは逆の向きで、吹くが、それが止まれば肌が空気に触れていることさえ感じられないような、摩擦のなさである。しかし夏の感を得るには、あたりに虫たちの活気が、まだ薄く、足りないようだった。空は月の出までまだまだ遠くて、東の端ももはや明るいとは言えず、黒とも青とも付かない暗色が澄み渡って、果てまで張った上に、星がいくらか灯っている。老人ホームの角の豆桜は勤勉に手を入れられているらしく、先日は足もとに茂っていた枝葉がすっきりと、元から短く断ち落とされて、そのあとからまた生えてきたものか残されたものか、緑の濃い葉がいくらか、群れを作らず半端なように伸びていた。

2017/5/21, Sun.

 あまりにもあからさまな、開け広げな晴天だった前日にもまして暑さの盛った日で、居間に吊ってある青い気温計は一時、三二度を指していた。この日も朝から晩まで、空に雲の一粒も現れなかったのではないか。拍車の掛かった気早な夏の気の、室内に無遠慮に入りこんで来て、昼下がりに気怠いような重い熱気が溜まり、家を出る前から肌は粘っていた。旺盛な陽のなかを行けば、余計に粘つき、肌着が湿る。しかし陽射しに打たれていても、坂を上るあいだに心臓のあたりがちょっと痛みはしたものの、身の揺らがず、すっきりと立って定かに歩くのに、炎天下に出るたびに倒れるのではという不安を抱えてふらついていた数年前と比べて、随分と身体が強くなり、安定を得たものだと改めて自覚した。
 駅で屋根の作る蔭の下、ベンチに就いて、東から西へ時折り厚く走る風に身を浸されながら、津島佑子『寵児』をしばらく読んだ。こちらの足のちょっと先、ホームの端には、陽が北寄りの高くにあるようで、日なたが漣めいて屋根の少し内まで寄せて入りこみ、外では水のような光があたり一面に染み通って、草々の緑が輝かしく明るんでいる。電車を使って図書館に行き、ただ一つ空いていた学習席の一番端に運良く入れたあとは、五時半に至ってコンビニのおにぎりを食いに出た時以外はキーボードに触れて四時間、本当は他人の文も写したかったが、自分の文のみに労を奪われているうちに閉館がやって来た。
 宵に入って最寄りに戻るとあたりは涼しいも暑いもなく、ただ摩擦なく静まっているところに、下り坂に入れば、木々に囲まれた暗がりの先から緩い涼気の湧いて上って来た。帰ったのち、夜半過ぎから書見を始めて夜を更かしているあいだ、二時を回った頃に、時鳥の声を聞いた。遠く近くなりながら繰り返し、連続して鳴き募ったので、聞き間違えでない。錯聴とも付かなかった先日のものを措けば、これが初声ということになる。

2017/5/20, Sat.

 早朝に覚めた窓の外で、鳥の声が活気づいていた。鶯の音が普段よりも忙しなく、川に次々と石を投げこんで水柱が立つように、そこここで跳ね、その合間に鵯の鳴きが入って、僅かな間断を挟む隙もなく、なかに時折り、谷渡りの螺旋状の響きが、昇るというよりは降る軌道を眼裏に描かせながら被さる。食事を取ってから新聞を取りに出ると、七時前の陽は粉っぽく空気を霞ませ、その琥珀色のなか、染み入るような木々の緑の前で、微小な羽虫が飛び交うさまが、数多の点の浮遊となって浮かび上がった。
 一月前、兄夫婦に生まれた子のお宮参りで、朝の早くから都心の方へ出る手筈だった。予報では二八度まで上がると言う。八時に至る前には家を発ち、一点の乱れもなく晴れ渡った空のもと、既にいくらか厚くなりはじめている透明な陽射しのなかを、両親と三人で駅に歩いた。歩いているうちには気にもならないのだが、ホームに立って足を止めるとかえって、眠りが少なかったこともあろう、頭に掛かる熱の重みに、平衡が僅か揺らぐようで、足の裏の重心がいくらかぶれて前後に移動するのが感じられた。
 満員の電車に長く揺られて一〇時には、原宿にある神社の、社務所の前の木蔭の台に腰掛けて、兄夫婦を待っていた。光は渡り、雲はいまだ一片も生まれず、薄青いガラスの高層ビルが縦の輪郭線を、くっきりと明瞭に刻みながら空に突き立っていた。身に風が寄っても木々の葉はあまり揺らがず、白く埋めこまれた光点の群れを騒がせることもなく静止しているその明るさは、背景の淡青と偏差なく一体化して、空の上にそのまま貼り付けられたかのようだった。そのなかから雀が、時折り立って宙を滑る。斜めに渡って地に降り立ち、かなり近くで遊ぶものもある。周囲を画している戸口の、緑青色が古びて掠れたようになっている屋根の上に、雀が乗って左右に跳ねるたびに、組み合わされた木材の、小さな足を受け止めて鳴るささやかな音がするのだった。
 本殿で儀式を済ませて台のところまで戻ると、姪を抱いてみろと言う。こわごわと受け取り、まだ座りきっていない頭を腕に支えて抱えていると、この叔父の腕のなかで安らぎを得たのか、二、三発、大きな放屁とともに脱糞したのには笑わされた。写真を撮ったあとは駅に戻って、電車を乗り継いで兄の宅に向かう途中、山手線のなかで二つ隣に立った女子の、中学生か高校生か白い制服を着て、手の入っていない黒い髪で化粧気もないのが、内向的なような細い視線を熱心そうに紙面に沈めていた。読んでいるのが、カミュの『ペスト』らしい。今時珍しい、いかにもな文学少女の図と映った。
 粘る陽のなかを宅へ歩き、寿司やら豚カツやらをたらふく食わせてもらい、赤子の頭を撫でたり、こちらの指の三本の幅もない手を弄んだりして、それから話は周りに任せてソファに凭れ少々微睡みもしたあと、暇を乞うた。四時を間近に控えても陽には粘りが残っているが、日蔭のバス停に立っていると風が走る。繰り返し流れるものの厚いが、軽く、涼やかに身を吹き抜けて行く。両親と別れて電車に乗ったあとは、本も読まずに外を眺めながらしばらく揺られて、三鷹で降りて古書店に寄った。
 七冊に重った紙袋を手に加えて駅に帰る途中、裏路地の果ての、左右から細く区切られた空を、夕陽の濃密な赤さとその下にくゆる薄紫が満たして目を撃ったのは、六時半を迎える頃である。高架を走る電車の扉際に就いて、ふたたび西を見渡した時には、地上にはもう夕光も掛からず一律に薄青く染められた家やビルの背景に、夕陽はその形を溶解させて滲みながら拡散し、和らげられた赤と紫と青の階調が横いっぱいに伸び広がって、空は朝からこの夕刻に至るまで雲のひとひらさえも許さず澄んでひらいているのに、その西の果ては霞んで、まるで雨霧に煙っているようで、山の影も映らず、ちょっと離れた上空に飛行機の軌跡が、消えない流星のように白く焼き付けられて光っていた。一駅ごとに赤は弱って紫が優勢となって行き、しかし国分寺で待ち合わせに停まって発ったあとには、紫も衰えて地上から空までほとんど、宵に踏み入る前の青一色に染め上げられて、じきに顔を寄せている窓にも車内の反映が半ば混ざって、視線の通りを阻むようになった。

2017/5/19, Fri.

 午前から朗らかさが部屋内にまで染み入る晴天に、近所の屋根も、一時、水を溜めた囲いのようにちらちらと揺らぎ、光っているのを見せた。昼下がり、干していた布団を仕舞いにベランダに出ると、風が吹く。肌に正面から当たって来ずに、横滑りして軽やかに戯れ、身を包みこんで馴染む風である。その流れに、タンポポの、もういくらかは飛び立って球を欠いた綿毛の残りが、左右に引っ張られて形を崩しながら飛びそうで飛ばず、悶えるようになっているのを、柵に凭れてしばし見下ろした。
 散見された千切れ雲も、五時の往路に出た頃には消え失せて、これ以上ないほどの晴れの空が延べ広がった。鳥たちが騒がしく、雀が道に出て飛び跳ね、鵯が遠くから声を張り、何か小さな鳥が三匹連れ立って飛んで来て、木の葉のなかでじゃれ合うようにしたあと、また渡って行く。髪を切ったために露出した首筋に、西陽が温もり、街道を行きながら背を撫でられては暑いくらいだった。風はその暖かさのなかで、涼しいというほどにもならない。
 裏道の途中で、旧家らしい塀の前を通りながらふと顔を上げると、様々な木々の取り揃えられた庭の縁に立って覗いた楓の、涼しげな若緑に染まったのが目に留まった。過ぎてから振り向くと、先端がかすかに朱の色を仄めかせている葉に、大きく押し広がった西陽の光線が降り注いで、まばゆく、緑色が、陽に透けんばかりだった。進んで、ある家先の木のなかで、雀が二匹、姦しく鳴き騒ぎながら遊んでいるその前に、足を止めた。庭というほどの広がりもない軒先に手狭に立ったこの木は、先日も、風に乗って飛んで来た雀が突っこんだのを見たもので、この小鳥らのよく集まる場所となっているらしい。立ち止まるとすぐに、雀は、やはり大きな影がそこにあるのをわかって警戒するものか、隣の木に移って離れてしまった。もう少し先の天麩羅屋の入り口でも、木に雀が鳴いているのに耳目を惹かれ、枝垂れて暖簾のように掛かった青葉の連なりのなかに実が小さく生りはじめているのが目に入って、ああそうか、これは梅の木だったかと、今更気付いた。
 ベストから出た腕の、シャツ一枚に纏われた肌に、帰路の風は、涼しさをやや勝っていた。月は昇りが遅くなって、星の灯る空は変わらず晴れ渡っているようだが光の遠くて青みがほとんど見受けられず、深い。鼻を啜ったのを機に、このところよくあることだが、右耳がまた詰まった。息を吸うたびにその空気が、鼻孔ではなく耳のなかに入って内にわだかまり、塞ぐような感じがする。じりじりと単調に、鈍く鳴く虫の音が道端から立って耳に固いのには、夏を思わされるが、夏の夜と言うにはまだ夜気は、冷たさが過ぎるようだった。

2017/5/18, Thu.

 灰色雲が低く垂れて、薄暗いような曇りの午前だった。台所と食卓を幾度か往復するあいだに、窓外の、南の空の山際近くまで雲が広がった下に、稜線との接触面の周囲のみ、雲の浸透から逃れて白さが明るんで際立つのが目に入って、それで翻って空気の暗さに気付いた。雨を思ってからまもなく降り出し、茄子と豆腐を合わせて拵えた煮込み蕎麦を啜っているあいだに、雨脚はいや増して、篠突くようなとはこのことか、石灰色を宙に染みこませながら、夏の夕立めいて激しく搔き降った。新聞に目を落としていると瞬間、白光が目の前にひらめいて、雷かと顔を上げて耳を張ると、遅れて、しかしわりあい近くに落ちたようで、豪壮な轟きが部屋を包んで迫った。もう一度、鳴りがあったが、それで収まり、雨も盛りはすぐに過ぎて、続くのに間断も挟んで、午後一時を前に近所の美容室に出かけた際には弱く軽くなっていた。いっぱいに散り敷かれた山吹色の竹の葉を踏んで坂を抜け、表に出ると、東の空は印刷されたように淡い雲の合間に、稀釈された青さが覗いていた。
 髪を切ってもらって店を出た頃には晴れて、道路の端に残った水のなかに微細な煌めきが映り、陽射しもなかなかに厚く、肌に快い。ところが一度帰って、夕刻に到ってまた出ると空は搔き曇って陽の気配もなく、あたりが仄暗くなっているのに雨を思わされて傘を持った。坂の中途でふと、花の香りが定かに立ったのに、思わず足を止めてあたりを見回したが、ささやかに伸びたハルジオンくらいしか手近の茂みには見当たらない。風に渡って来たらしい。その風は、道を行くあいだ終始滑らかで、吹き付けるというものでなく、肌に触れてはさらさらと引っ掛かりなく抜けて行く。空は雲が搔き回されて、曇りは曇りだが一面平らかに均されたそれでなく、細かくほつれた隙間に仄青さも見えるのが、かえって天候の不安定を示唆するようだった。
 しかし結局、この日はそれから降ることはなかったらしい。帰路は風が、やや冷えていた。疲れのために自ずと欠伸が洩れ、心身が静まって足が遅くなる。前にも女子高生が、大きなリュックサックを背負い、片手に何か袋を提げて、いかにも疲れているらしく左右に緩く振れながら、こちらよりものろいくらいの歩調でいた。月は遠くなったようで西空は黒々とわだかまり、街道の上に連なって浮かぶ電灯の楕円形が、その前でくっきりと形を定めていた。下り坂に入ってまもなく、行きと同じ場所で、同じ花の匂いがふたたび香った。

2017/5/17, Wed.

 実体のあるものか耳の悪戯か、時鳥の声を未明に聞いたあともなかなか本格の眠気はやって来ず、揺蕩うような眠りのままに明け方に到って、そこからようやく深みに沈んだようで、休日の気楽さにも任せて正午前までの長寝となった。外から鶯の、川のあたりにいてよく反響するのか同じ一匹の声ばかりが、遠くから大きく膨らんで届くのを、重い微睡みのなかで、くしゃみのような、と聞いていた。
 引き続く曇天だが、この日は街道に出れば、見通した先で小さくなった車の並びにごく薄くではあるが陽炎が立ち、西空を仰げば白く収束する太陽の影があって、大気の濁りは一昨日よりも昨日よりも少なかった。風も、ここ三日では一番吹き、時折り前から道を埋めて流れてくるものが身を覆って肌を涼ませ、いくらか厚く続く時間もあるのに、この分だと夜は少々冷えるだろうかと思われ、捲っていた袖を下ろした。シャツの上にジャケットの類は纏わず、カーディガンを羽織っただけの軽い格好だった。長く床に留まった身体がこごって、いつにもまして気怠く、息もあまり速やかに身体を通って行かないようで、殊更にのろのろとしたような足になる。病み上がりにも似るようだが、その重い律動のなかからともすると、淡い恍惚のようなものが兆しかけて、何でもないものが目によく見え、足もとに視線を落とせば、周りの音がよく耳に入るようでもある。
 図書館を訪れたが、試験前の中高生らで埋まった席に空きがなく、ひとまず書架の端のボックスに掛けて本を読むことにして一時間、五時に到って立ち上がると、通路の先の、窓際の学習席からちょうど立った人があり、これ幸いとあとに入った。二時間文を綴り、梶井基次郎の文を全集から写して八時前、館をあとにして手近のスーパーに寄り、茄子やらヨーグルトやらで嵩張るビニール袋を片手に提げた。月は相変わらずないが、東は随分と明るく、滑らかなような鼠色に塗られた空だった。
 夜、一〇時過ぎに一度、窓の外に雨の気配が起こって、葉が打たれるかすかな音が始まり、空間の奥から寄せてきて籠る響きがあったかと思うと、すぐに溶けて、あとは微風のみになったらしい。再び文を綴ってモニターを見つめたために、首の重って額にも鈍るものがわだかまったその頭を、枕に預けて書見を続けていた夜半過ぎ、丑三つも近くなると流れこむ空気が冷やりとしてきて、窓を閉ざした。二時を回って明かりを落としたが、寝入るのにはいささか苦労させられて、輾転としながら一時間くらいは頭がほどけずにいたのではないか。鳥の声は聞かなかった。

2017/5/16, Tue.

 この日も白く褪せた曇り空は引き続き、胃のなかが軽くなってくるといくらか身が冷たくもなるようで、温めて食った豆腐の熱が腹に染みて美味い。シャツの上にジャケットは羽織らず、ベストのみつけて、三時半には道に出ると、空気は動きがなければ涼しいというほどもなく、ただ柔らかく肌に馴染んで心地が良い。街道から先に見通した丘の緑の、締まりの具合を見る限り、前日よりも大気の濁りは弱いようだった。裏通りを行くあいだには風が前から流れて、身の前面をすっぽりと覆うような涼しい時間もある。その風に乗って渡るようにして、正面から雀が、上下に波打ちながら向かって来て、脇を抜けて減速しながら一軒の庭木のなかに、表の葉の遮りをものともせずにすり抜け突っこみ、着地する、その滑らかな軌跡を思わず追っていた。道の終盤に掛かると頭上、電線の上に一羽、小さな鳥が影となっており、秋虫の声にもちょっと似て澄んだ音色で、回転しながら数珠繋ぎに連なるような鳴きを降らせているのを、あまり聞かない、綺麗な声だと耳を寄せながら、下を抜けた。
 勤めを終えた夜の帰り道、裏路地を戻っていると、かすかに煙るような、植物から立つものかと思われる匂いが鼻で吸った空気のなかに感じられるのは、湿り気のなかに混じるものか。鼻を鳴らしながら行っていると、やがてそれが、左右の民家から洩れてくる、食卓の、肉料理らしきものの匂いに変わって、軽い腹に快いようだった。それから、踏切りの警戒音が鳴りだしたその裏に、何かの鳴きを数音聞いた気がして、摩擦の強い質感に、時鳥では、と遅れて思ったところが、音が止んでから耳を澄ましても気配がなく、これは空耳だったらしい。この日の寝入り際にもまた、時鳥のものらしき声を聞いた。帰って食事と風呂を仕舞えて室に戻った夜半、新聞を読むなり他人の文を写すなりを思っていたところが、疲れを和らげようと床に横になったのが運の尽き、眠気に捕まって、気づけばだいぶ夜が更けていた。その後、本を読みだして、新聞屋の無遠慮なようなバイクの音も過ぎて行った三時半に到って明かりを落としたが、先のこともあって眠りがやって来ない。姿勢を繰り返し変えて、窓を背にしていたその際に、遠くに薄く、天に向かって立ち上がってはまたすぐに折れて下るあの鳴きを、一声聞いたと思ったが、仰向けに直って耳を窓の向こうに張っても、やはり続きが来ない。実声とも、錯聴とも付かない。
 老人ホームの脇、表に出る角に掛かったところでそこの木が、いつの間にやら青葉を茂らせているのに目を惹かれて、帰路の終盤、しばらく立ち止まった。豆桜というものらしく、よく見る品種よりも花柄が長く、蕊も多いようで、花の底に口紅めいて深い緋色が艶に滲むのを、四月の霧雨の、やはり夜のなかで目に留めていた。木は下部からも細枝が伸びて、わりあい大振りの葉をつけて、足もとは土が見えないくらいに茂っている。目を上げるとほっそりと伸びた幹の中途に、浅い傷が縦に二、三、走っていて、樹液らしくそこから滲むものがあって、黒褐色に濡れていた。

2017/5/15, Mon.

 この日も午前から曇り空が続いて、夕刻まで晴れ間も見えない。四時頃、居間から外を見通すと、遠くの山とのあいだに積まれた空気層のなかに、石灰色が混ざり僅かに霞むようで、一瞥、雨が降っているのかとも見え、仄暗いような天気だった。気温もいくらか低いだろうとジャケットを羽織って往路に出たが、陽の気配は欠片もなくとも、やや蒸した空気が、服の内に溜まるようだった。大気の動きは仄かで、路傍の立ち木の、横にひらいた枝葉の先をちょっと揺らがせるほどはあるが、道を行くこちらの肌に定かに触れるものもない。静まっているなと思っているとしかし、裏通りの正面から吹いてきて、するとさすがに、湿り気のいくらか混ざって涼しいものだった。
 道を行くあいだの足取りが、緩くほぐれて、一見、気怠いようになっていた。ここ最近、その調子が習いとなって身に付いたようで、歩けば自ずとその足になるらしい。急ぐことはしない。身の内の時間を、いくらかなりとも、緩やかならしめるようにして、歩く。軽く力の抜けてはいるが、それでも付いてくる一歩の重さを、きちんと踏まえるようでもある。そうしても時間というものは、常に速く、既に過ぎているもので、世界常時開闢説ではないが、いつの間にか別の時間、別の場所に来ている自分にそのたびに気付いて、今しがたの時間がもう消えてどこかに行ってしまったことに、驚くように、訝るようになることはある。その日暮らし、という言葉があるが、その一日よりも短くて、前も後もないその都度、その時ばかりで暮らしているような気に、なることもある。生まれた端から砂のように零れ失われて行く時間というものを、そのままに放って済ませてはおけず、いくらかなりともすくい上げたいとの、流れ過ぎてやまないものに対しての愛着が、一つには、日々自分に文を綴らせるのでもあるだろう。
 帰路には耳が詰まった。じきに治っても、唾を飲む拍子にスイッチが入ったように、ふたたび籠るのが、何度か繰り返された。鼻から出し入れする呼吸の音が近く、耳のすぐ外に呼気が流れているかのような感じがする。耳鳴りでも始まるか、と思って注視していたが、鳴りはじめることはなかった。二日前の、夜の電車内でも耳は詰まって、前日にも、やはり夜だったように思うが、一度あった覚えがある。頭の内で変調が始まっているか。それとも疲れのせいか、あるいは気圧の影響だろうか。気圧の低くはあるのだろう、薄灰色の曇り空は続いており、月のない夜で、山は空と分かれてはいるが裾はぼやけて、その手前に低く溜まった家並みはいかにも黒く映った。欠伸が自ずと洩れて、歩調は行きよりもさらに気怠く、のろいような足になっていた。