2018/1/18, Thu.

 暗い時刻から例によって何度か覚め、そのたびに心身に恐怖感があったと思う。頭がまたぐるぐると回って落着かなくなっており、そのまま思念がコントロールできなくなり、発狂するのではないかという恐怖を覚える時間があった。しかし、寝床で呼吸に意識を向けていると、そのうちにわりあいに静まりはした。多分そこで時間を確認したのではないかと思うが、その時、八時二〇分頃だった。
 脳内物質の作用なのか、夢をたくさん見るもので、その多くは忘れられながらも、断片的には記憶に残る。この日見たものは、これも自分の恐怖感が反映されていたのだろう、ホラーじみたもので、幽霊に襲われて殺されてしまう部屋があり、そこに泊まらねばならず、どのようにして難局を乗り切るか苦闘する、というようなものだった。当然、もっと細かな設定や曲折があったものの、それらは忘れてしまったのだが、夢のなかにいるあいだは多分実際に恐怖を覚えていたのではないかと思う。一方で、女性と同衾して心地良さを感じるという幸福な一場面もあった。
 八時二〇分頃に一応覚醒したのだが、恐怖感の残滓があり、頭もまだいくらか空転していて、すぐに起き上がる気力が湧かなかった。それでまた呼吸を見つめたりして時間を過ごし、しばらくしてから身体を起こすと、ダウンジャケットを着て便所に行った。用を足して戻ってくると、まだ不安があったので、薬を服用してから瞑想を行うことにした。そうして座っていてもあまり落着かなかったようで、一一分間で切り上げている。そうして上階に行った。
 洗面所に入って顔を洗う。食事には前夜の汁物がある。米はもう釜のなかに少なく、半ば固まったなかからまだ食べられそうな部分をこそげ取るようにして少なくよそり、卓に就いた。新聞をめくって記事を確認していると、母親が、窓の外に向いて声を上げる。見れば、先ほどまで晴れて光も通っていたところに、いつの間にか白い靄が大量に湧いていて、近所の屋根を越えた先は、川沿いの樹々も彼方の山もすべて煙った白さに包まれて見えなくなっていた。火事かと思うほどの靄の厚さだったが、窓に寄ってみると、霧の細かな粒が横波を成しているのがわかり、近間の屋根からも蒸気が湧いているのが見えたので、前日の雨で溜まった水気が、本格的に上りはじめた太陽を受けて一挙に蒸発したものらしい。
 食事のあいだも起き抜けの恐怖感が尾を引いたような感じで、気分が抑制的になっているのを感じていたのだが、食器を片付けて風呂を洗う段になって、浴槽のなかでブラシを持って身体を動かしながら、そんなにいつも朗らかな気分でいられるものでもない、今はこの状態を受け入れ、また穏やかさがいずれやってくるのを待とうと考えた。そうして掃除を済ませると、蕎麦茶を持って下階に帰った。前日の記録を付けておき、過去の日記を読み返す。二〇一六年一二月二〇日と二一日だが、あまり仔細に読む気も起こらず、読み流すようにしてさっと通過して、それからこの日のことを書きはじめた。現在は一〇時二一分に至っている。覚醒時の不安や緊張、恐怖感についてはここのところ毎朝のようにあるわけだが、日中は比較的落着いており、目立った症状は起き抜けのそれのみとなっている。なぜ睡眠時、あるいはそこから抜け出した際に恐怖を覚えるのか、夢を以前よりよく見ることも含めて、脳内物質の働きがどうなっているのか気になるところだが、これについては面倒臭いので調べない。前夜はいくらか夜更かしをしてしまったので今朝の症状を招いたような気もしており、勤務から帰宅後の夜はやはりなるべくコンピューターには触れず、本をちょっと読む程度にして速やかに眠るのが良いのだろうと思う。
 書き物のあいだにはたびたび欠伸が漏れて、ベッドに座っていたのだが、欠伸とともに後ろに手を突いて休まねばならないような状態だった。終盤になって外から母親の声が聞こえ、しばらくして部屋にもやって来て、柚子を採ってくれと言う。それで一七日の記事を完成させると部屋を出て、玄関から屋外に出た。家の前の日蔭にはまだ雨の跡が残っており、三月の陽気などと聞いたわりには風が冷たい。家の南側に出るとしかし日なたもあって、そのなかに入ると仄かな温みが心地良い。母親は、高枝鋏を持って柚子の樹に取り掛かっていた。それは我が家のものではなく、隣家の(……)の敷地のもので、実を採ってあげるかわりに我が家にもいただく、というような話がついているらしい。それで鋏を受け取って、棘のついた枝と枝のあいだをくぐらせ、実を収穫していく。一〇個ほどは採ったか、これくらいで良いだろうとなると仕事を終いとし、鋏を工具置き場に戻しておいて、屋内に帰った。
 正午前だったと思う。昼食にまたレトルトのカレーを食べたいと思っていたので、米を新しく研ぎ、すぐに炊飯器のスイッチを押しておいた。下階に戻ると何となくギターに気が向いて、隣室に入って楽器を弄る。瞑目しながら、自分の手指が辿って行く指板上の動きが良く思い浮かべられたが、しかしだからといって特段素晴らしいフレーズが生まれ出るでもない。しばらく弾くと自室に戻り、運動をした。運動はおおよそいつも、最初に床の上で脚を前後左右にひらいて筋を伸ばしたり屈伸をしたりしてから、ベッドに移って下半身の柔軟運動を行い、その後、腕や腹や背の筋肉を刺激するという流れになっている。最後のものはしかし、筋肉を刺激するといってもトレーニングというほどのことでなく、ちょっと身体を温めたいという程度のもので、ヨガ的に姿勢を取って静止するというやり方で行っている。この日は空腹だったので、柔軟運動までに留めて、それから食事へ行った。
 食事は、母親が食べたぺろっこうどんというものが余っていたので、湯を沸かしている合間にそれを煮込み、卓で食べながらカレーの加熱を待った。先ほど感じたはずの空腹感が、なぜかこの時には薄れていたのだが(運動をしたためだろうか)、問題なく平らげ、その後カレーも、辛くて水を含みながら食べた。天気はやはり晴れ晴れとしないもので、空は曇りに満たされ、前日と同じく雨が降りそうな空気の色合いでもあった。
 室へ帰ると蕎麦茶を飲みながら、ここ数日の新聞から書抜きを行ったのだが、そうしながら強い眠気が頭にあった。薬の効果のせいもあろうし、眠りが足りず、その質が悪いせいもあろう。書抜きを終えると、音楽を聞きながらちょっと微睡むことで解消されないかと思い、ヘッドフォンをつけてBill Evan Trioを流したが、あまりどうにもならなかったのでベッドに移った。そうして、まだものを食べてあまり時間が経っていなかったので、枕にクッションを乗せ、上体を高くして仮眠に入った。
 三時二〇分まで、ちょうど一時間ほど眠ったようである。そこからすぐに起き上がれずに、瞑想めいた微睡みを過ごし、四〇分になってから床を離れた。そうして、改めて音楽を聞く。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "My Foolish Heart"、BLANKEY JET CITY, "僕の心を取り戻すために", "胸がこわれそう"(『Live!!!』: #3,#12)、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)である。眠りを取ったために頭がわりあい明晰になっていて、Paul Motianのシンバルの連打や、"My Foolish Heart"におけるシズルの残響の波打ちや、ブラシでスネアを引っ搔くサウンドを聞いているだけで気持ちが良いようだったが、しかしその後、音楽にあまりに集中しすぎるとまた頭がおかしくなるのではないかという懸念があって、全面的に没入することを妨げられた。
 四時一五分まで聞いて、本を少しだけ読みながら歯磨きをし、服を着替えた。(……)
 ともかくも出発する。天気はあまり良くないものの、確かに寒さはそこまでのものではなかった。坂を上って辻まで来ると、この日も行商の八百屋が来ている。(……)は老婦人一人と立ち話をしており、近づくとこちらを向いていた婦人のほうが気づいて会釈をしてくるので、こんにちはと声を掛けた。(……)は例によって、寒いから気をつけてねと声を掛けてくれるので、ありがとうございますと礼を言って通り、街道に出る。
 歩いているあいだは思考が巡って、前日に勤務中に読んだ資料というのは長田弘の文だったのだが、それについてまた考えた。と言うのも、一七日の記事に書いたこととはまた別の部分として、『ゴドーを待ちながら』の最後の部分(とされていたと思うが、こちらはこの戯曲を読んだことがないので記憶が不確かである)に、沈黙とともに、「木だけが立っている」みたいな台詞があるらしく、長田はそこを引いて、「存在」だけが最終的なアイデンティティとなる、というような解釈を述べていたと思うのだが、これは先日こちらも考えた「悟り」の様態に繋がるのではないか、というようなことを思ったのだ。だからと言って特段新たな見方が生まれたわけではなく、細かな内容は重複するので、ここには記さない。
 勤務を終えると例によって電車に急いで、最寄りに着くと帰路を辿る。帰ると着替えて、食事である。テレビは『クローズアップ現代+』で、食品の「スモールチェンジ」について取り上げていたが、あまり真面目に目を向けなかったので、特段の印象はない。入浴を終えると、コンピューターには触れず、蕎麦茶を飲みながら読書をして(新聞朝刊、Catherine Wilson, Epicureanism、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』)、一時直前で眠気が満ちたので就床した。

2018/1/17, Wed.

 明け方に一度、もう少し明るくなってから一度、それぞれ覚め、多分どちらの時も心身にいくらか硬い緊張感があったと思う。しかしこの朝は薬に頼ることなく再度入眠することができ、正式な覚醒は八時四〇分から五〇分頃となった。この時もまだ多少緊張感のようなものが残っていたが、寝床でじっとしながら呼吸や身体の感覚に意識を傾けているうちに、呼吸の感触から次第に固さが抜けて行ったようだった。
 毎度の覚醒ごとに夢を見ているのだが、覚えているのは最後の覚醒の時のもののみである。場所は(……)のあたりとして認識されていて、坂を下って行くと、背の高い集合住宅が周囲に立ち並んでいるような雰囲気のなかに、一つ大きな建物がある。入り口が広く開け放たれており、食堂のような具合でなかには座席がたくさん並んでいて、実際人々がそれぞれに集っていたと思うが、体育館めいた印象もあったようである。なかに入って行き、周囲の会話が漏れ聞こえるのに、大学生らしいな、と判断する。そこから多分、この場所が大学の一施設らしいものと認識されて、集まっている人々も授業の合間の大学生となったのだと思う。
 (……)と遭遇する。随分と久しぶりに会うな、という感じがあったが、この時の自分の身分が現在のそれとして認識されていたにせよ、大学生として思われていたにせよ、会うのが久しぶりだという感覚は現実に照らして正しい。(……)はバンドサークルに入っているようで、そのうちに周囲でちょっとした演奏が披露されてもいた(食事をしている人々を楽しませる余興、といった感じだったと思う。演目は、曖昧な記憶だが、何となくレゲエかスカ風のものだったのではないか)。それを眺める一幕がある。また、自分はこのバンドサークルに入会させてもらいに来たのか、それを見物しに来たかという立場だったらしいが、場所の隅で一人でギターを適当に弄っている時間があった。自宅で弾いているのと同じように、ブルース風にやってみたり、特に枠組みもなく雑駁にコードやフレーズを散らしたりとしていて、満足して演奏を止めると、バンドサークルの一員(先輩)らしい男性から、「スケール感」というようなことを通りがかりに言われる。要は、スケールをただなぞっているだけの味気なく機械的な演奏になってしまう傾向が強い、というような指摘だったようである。その後、(……)とまた何か話したり、初対面である女性の先輩も交えて何らかのやりとりがあったりしたのだが、そのあたりは忘れてしまった。
 覚醒しても寒さのために一向に床を抜ける気力が起こらず、身体を丸めたまま時間が過ぎるに任せてしまい、九時一〇分くらいになってようやく布団をめくって外に出た。電気ストーブを点け、ダウンジャケットを羽織って背伸びをし、トイレに行く。用を足すと洗面所で嗽をして、室に戻って瞑想を行った。薬を飲んでからやったほうが良いのではないかとも思われたのだが、自分が大丈夫かどうか試してみようという心もあって、結局服用しなかった(そうして、現在正午に至ろうとしているが、この日は今まで薬を飲まなくても大丈夫なくらいに心身が落着いている)。天気は白い曇りであり、窓を開けると座って始めのうちは寒く、手も冷たいが、瞑想をしているうちに次第に身体が温まって行った。呼吸の感触が自ずと軽く、深くなっており、能動性を働かせずとも自然とゆっくりとしたものになり、吐いたあとも少々停止が入るような調子だった(そのように軽い呼吸をしているとしかし、段々酸素が足りないというような感じになってきて、何回かに一度、これも自然と、大きな呼吸が挟まるのだが)。また、ここ数日は瞑想をする時はいつも、頭のなかがいくらか乱れているというか、ごちゃごちゃしているような感じがあって、目を閉じているあいだにイメージの断片も良く見えたものであり、そうした混濁が瞑想を通してやや綺麗に片付く、というような様子だったのだが、この時は初めから意識は明晰に澄んでおり、呼吸をしながら意識が深いところへ潜っていくという感覚もあまりなく、幻覚めいたイメージも特段見えなかったと思う。
 心身の落着きを探って、このくらいかなというところで顔や身体を擦り、腕を伸ばして目を開けると、ちょうど一五分が経っていた。そうして上階に行く。ストーブの前に座りこんで少々身体を温めてから、台所に入って、前夜から続く鍋料理を温め、フライパンで卵とハムを焼いた。新聞には芥川賞直木賞の結果が報告されていた。別に誰が獲ろうとどうでも良いのだが、見てみると『おらおらでひとりいぐも』の若竹千佐子氏で、これは(……)も言及していたし、確か(……)もブログに感想をちょっと書いていた覚えがあって、(……)のほうでは確か、ヌーヴォーロマンを消化したというか、二〇世紀のそういう試みがあってこそ生まれたものなのだろう、みたいなことが言われていたような記憶が(まったく正確ではないが)あり、少々気になっていたものなので個人的にタイムリーと言えばそうである。芥川賞はもう一人同時に受賞したらしく、こちらはまったく知らない人と作品だったので、自分が現代日本文学の潮流から確実に遅れ、時代に取り残されていることを定かに認識した。直木賞には特段の関心はない。
 読もうと思う新聞記事をチェックしたあと、ものを食べていると(母親はタブレットで昔のフォークじみた音楽を流しながら、炬燵テーブルの脇に寄って、アイロンを掛けるか何かしていた)、インターフォンが鳴る。母親が出に行って、受話器越しに何やら困惑したような風にやりとりをしていたので、何のセールスかと思えば聖書を配りに来たのだと言う。(……)
 (……)
 (……)
 (……)蕎麦茶を用意して自室に帰った。この日の日記の記事を作成して、過去の日記の読み返しを始めた。二〇一六年一二月一七日の記事を見ると、八三〇〇字とか記されているので(以前は記事タイトルの横にその日の日記の字数を記録していたのだ)、たった一日のことに八〇〇〇字も綴っているんじゃねえよと面倒臭く思ったのだが、読んでみるとなかなか力の入ったと感じられる描写がいくつも見出されたので、下に引いておく(ブログにも当時、これらの部分を抜き出して載せたのだと思うが)。まず冒頭からして実に散文的に、周囲の物々を良く見ているなあと我ながら思ったものである。二番目の「星屑」のくだりについては、こちらはいかにも「文学的」で、かなり気取った感じもするけれど、まあそこそこ頑張ってはいるだろう。

 「目覚めると、部屋にはまだ朝が満ちきっておらず、向かいの壁の時計は薄暗く沈んでいたが、針が六時半あたりを指しているらしいことが窺えた。はっきりとした寝覚めだった。左向きだった姿勢を、右に寝返りを打ち、カーテンをひらいてちょっと身体を持ち上げると、南の山の稜線が、橙色をうっすら帯びているのが見えた。五時間の睡眠だったので、もう少し眠りたかったが、身体を戻して瞼を閉ざしても、意識が確かな輪郭を持って冴えて、混濁の気配が欠片も匂わないので、もう一度寝付くことはできないと如実にわかった。それでも布団を抜ける決心が付かず、窓を眺めたり、狸寝入りのようにして意識だけは確かなまま、瞼を落としてじっとしたりしていた。空は、まだ控えめに、おずおずとしているような調子で、和紙のような淡さの水浅葱である。窓のすぐ外に残った朝顔の蔓の残骸の、窓枠に接したてっぺんのあたりに、昨夜は眠る前に床で読書をしながら風の音を聞いた覚えがあるので、明けないうちに飛んできたものだろうか、赤茶色の腹を晒した葉が一枚、引っ掛かっていて、輪郭のそこここにちょっとした尖りを作って平たいその姿が、気付いた時には大きな甲虫の一種のように見えて、瞬間ぎょっとした。しばらく視界を閉ざしてからまたひらくと、時計の針は七時を回っており、そのすぐ横の、扉の上には、山の端を越えて空に膨らみはじめた朝陽が、窓によって整然とした矩形に切り取られて宿り、萎びた蔓の影もそのなかに散り混ざっているのが、のっぺりと平坦に陥るのを防いで、いくらかの装飾となっている。光の通り道にはまた、卓上に積まれた本の小塔があり、真ん中あたりに三巻並んで挟まっている『フローベール全集』の、白い背表紙がさらに一際白くなっているのが目についた」

 「(……)汁物と米もよそって卓に行った。新聞は、昨日の日露首脳会談の話題に大きなスペースを割いている。ものを食ったあと、それを読むのにもあまり身が入らずに、流れている連続テレビ小説のほうを見やって、視線がついでに窓のほうに行った瞬間に、先ほど母親が随分汚れていると嘆いたものだが、その表面に溜まった点状の埃汚れのなかの一つが、緑色をはらんでいるのに気付いた。それは、窓際に吊るされた水晶玉の反映が宿っているらしく、ほかにも緋色を帯びたものも見られて、こちらが顔の位置を移せば、それに応じて反映の度合いも変わる。ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった」

 「布団を干そうとベランダとの境に立って、外を見やると、陽を受けて葉に白い覆いを被せている柚子の木の、その樹冠の横を、快晴で光が渡っているとはいえ確かに冴えた冬の空気のなかなのに、小さな蚊柱のようにして羽虫が集まり飛び交っているのが見つかって、あれ、すごい、虫が、などと、思わず腕を伸ばし指を立てて、その場にいた母親に知らせるという、まるで純真な小学生のような無邪気な振舞いを演じることになった。布団を持ったまま、それを干しに移ろうとせずに見つめていると、何の虫なのか知らないがその集団は、入れ代わり立ち代わり靄のように柔らかく形を変えて蠢いて、ほとんどただの点としか映らない一匹一匹が集まるとしかし泡の立ち騒ぎのようで、吹き出されて直後の、連なって宙に漂う細かなシャボン玉の粒を連想させるのだが、しかしこの極小の泡は勿論、いつまで経っても破裂して消えることはない。遠くでは午前一〇時の純な光に濡れた瓦屋根が、かすかに陽炎を立ててじりじりと揺動している」

 「路上には陽が広く敷かれて、足もとから温もりが立って身がほぐれるように気持ちが良く、寒さの感触など感じられない。坂に入ると正面で、立ち並ぶ木と樹間に染みる空の青さを後ろにして、ひらひら飛ぶものがあって、ほとんど水平に、緩急を付けながら流れてなかなか落ちないそれが、枯葉とわかってはいてもあまりに蝶に似ていて、まさか本物ではないかと思わず目を凝らしてしまう。坂を抜けて表に出て、街道脇の歩道を行っていると、短い鳥の声が頭上から落ちて、見上げれば電線に止まったものがある。手で掴めるくらいの大きさの、薄白い鳥が、その腹を晒しているのをすぐ下から見たが、その先の空が甚だ明るくて、鳥の姿形のその細部がうまく捉えられない。目を寄せている鳥が飛び立って行ったあとは、自然と視線が空の高くに向かって、澄明極まりない青さに思わず周囲を見回してみれば、どの方向も果てまで何の瑕疵もなく清い一色が湛えられて、視線の抜ける広大さに、これは凄いなと遅れ馳せに驚き、高揚するようになった。そのなかに見つかった唯一の闖入物はと言えば、直上の遠くに、あれは飛行機だったのか、旅客機らしくはなく、むしろまるで、個人が操るハンググライダーのようにも見えたのだが、小さく白い物体が浮かんでいて、飛行機のように後方に軌跡も残さず、唸りも落として来ずに、たびたび見上げてもただ貼りつけられたように浮遊しているのに、本当に進んでいるのかと足を停めてみれば、確かにゆっくり、水に浮かんだように流れて行くのがわかった。裏通りに入ったところでふたたび、その飛行物の進む西の方角に目を向けてみると、しかし空には光が撒かれて濡れた布巾で擦り磨いたかのように艶っぽくなっているだけで、先の物体はもうどこにも見えなかった」

 「途中で、本のページの上に、外を滑っていく建物の途切れ目から素早く射しこんだ昼下がりの陽が乗って、その一瞬に紙の表面が、埃が一面に付着したかのようになって、文字を読み取ろうとする視線を遮るのに、いまのは何だ、と不思議になった。それから、ふたたび陽の射しこむ僅かな時間を狙って目を凝らしてみると、紙の繊維が明るく温和な照射に浮き彫りになったものらしい。指先をちょっとずつ動かして紙の角度を変えてみると、陽の当たり方によって、表面の陰影が異なった模様を描くのが面白くて、その変幻に捕らわれて、文の続きになかなか戻れないような有り様である。ページを反らせば、繊維が伸びるようで、一面まっさらな、暖色混じりの白さに統一される。ところが窪みを生むように曲げると、途端に繊維の紋様が細かな蔭とともに明らかに浮かんで、その筋が文字の上に覆いかぶさって視認を妨げる。無数の引っ搔き傷のようなその緻密な構成は、石盤の表面に付されたそれに似通ったようでもあり、人間の肌の肌理を間近から眺めているような質感でもあった」

 また、この一年前の日記を読み返していて気づいたのだが、読点の付け方が今よりも細かく、一文のなかでもフレーズを短めに区切っていると思う。そして、今こうして今日の日記を書いていても、自ずとそのようなリズムが戻ってきているのだが、これは過去の日記を読んだことに影響されたと言うよりも、それもこちらの心身の調子が戻っていることの証のように思われる。つまり、文を綴りながら同時に頭のなかに流れる独り言のリズムがゆっくりとして落着いたものに戻ったのだ。むしろそれで初めて気づいたのだが、ここのところ(この二、三か月、多分日記の書き方を記録方式に戻して以来)の自分の意識は、全体的に「気の逸った」ものだったのだと思う。脳内の独り言もかなり加速的なものになっていたようで、それは多分唯物的には、ドーパミンの分泌がやたらと促進されていたということなのではないか。
 読み返しを終えると、インターネットをちょっと覗いてから、現在の日記を書きはじめかけたのだが、夢のなかでギターを弾いていたことを思い出すと実際にギターを鳴らしたくなったので、僅か一文だけ書いただけで中断して隣室に入った。そうして楽器を適当に弄り回し、三〇分ほどしてからコンピューターの前に戻ってきて、一一時半からまずこの日のことを記しだして、現在一時を回ったところである。書いているあいだ、雲に遮られながらも陽射しが仄かに明るんだ時間もあったのだが、今はまた曇天が強くなっており、雨も降ってきそうな冷え冷えとした空気の色合いになっている。
 その後、前日、一六日のことも記したが、書き物の途中で心身の調子が乱れてきたので、あまり頑迷に堪えようとせずに、ゆっくりと緩くやっていこうというわけで、大人しく薬剤を服用した。そうして一六日のことを三三〇〇字ほど書き足し、完成させると、放置していた一二日の分に移るのだが、五日間も経ってしまったので当然のことだけれど、取ってあったメモを読んでみても記憶が戻ってこないので書くのが面倒臭くなり、この日はもうメモをそのまま日記としてしまおうと横着した。一三日以降の記事は綴ってあるので、これでようやくブログの日付を進めることができるというわけで、一二日から一六日の分を投稿し、そうして今は二時四〇分に至っている。薬を飲んだこともあって、三時間続けてコンピューターの前に留まり、キーボードを叩いていても、自分の心身は定かに静まっており、さほどの疲労も意識の乱れも感じない。
 それから食事を取りに上階に行った。レトルトのカレーがあっただろうというわけでそれを食べることにして、鍋に湯を沸かしているあいだ、残り物である蒟蒻とイカの煮物を、調理台の前で立ったままつまむ。一方で鍋料理も温めており、十分煮立つと平鍋を持って、残った中身をすべて椀に注ぎ込んだ。そうして、既に沸いていた湯にカレーのパウチを入れておいてから卓に移り、加熱を待ちながら鍋料理を食べる。箸で具材をひとつまみすると、湯気が立ち上がって顔や目の至近を上り流れて行く。食べてしまうと台所に戻ってカレーを用意し、また卓に就いて食べるのだが、たかがレトルトのカレーごときに一口一口味わうように、目をつぶって美味いなと感じ入るようにしていた。
 始末をしてから室に戻ると三時過ぎ、外出までにまだいくらか猶予があったので、読み物をすることにして、まずこの日の新聞を読んだ。「PLOオスロ合意崩壊」 イスラエル承認 取り消し 米の仲介拒否」(六面)、「サウジ強権外交 苦境 ムハンマド皇太子主導 国内外から批判 米も「慎重に」」(六面)、「ロヒンギャ 2年で帰還完了 バングラミャンマー政府合意」(六面)の三つの記事である。それから、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』も少々読むのだが、段々と眠気が湧いてきていた。四時一〇分に至って読書を止めると、そのまま瞑想に入ったのだが、これも眠気にやられてぐらぐらとする有様で、一〇分間しか座っていられない。さらに続けて、なし崩しに姿勢を緩めて、布団を身体に掛けてちょっと休む形になってしまい、少々微睡むと四時四〇分になっているので、支度を始めなければと動きだした。Oasis "Wonderwall" を流して服を着替え、上階に行くと居間のカーテンを閉めて出発である。
 二度目の食事を取った頃から雨が降り出していた。今は結構な強さでばちばちと傘を打つが、そのわりに空気に冷たさはあまりなく、身を貫くほどの寒気ではない。坂を上り、街道に向けて道を行くが、路面の各所に水が溜まっているので、電灯の黄色く照らし出してくれる僅かな道の盛り上がりを狙って歩を踏み、時折りは仕方なく流れるものを横切って渡りと、普段よりも左右に動く足取りとなる。街道まで来ると通る車のライトのなかに降雨が浮き彫りになり、光のなかがざらざらとした質感を帯びるとともに、雨粒の姿が露わになることで光線の範囲も明確になって、空間の途中に、ライトの上端によってくっきりと境が引かれているのが目に見えるのだった。飛沫を撒き散らす走行の音は烈しく、音の大きさのせいで車のスピードのほうも普段よりも速いような気がしてくる。道の遠くから来るものらのまっさらに皓々と白い二つ目が、路面に反映して車体の下方に伸びており、放たれたもとのほうよりも、反射した光のほうが厚くなっているので殊更に明るく目に映る。
 裏通りに入ってしばらく行ったところで、先ほどよりも雨が弱まっていることに気づいた。表にひらく横道のところに掛かると、街道の車の騒がしさが伝わってくる。裏通りの路面はさしたる起伏もなく、水がそう厚く溜まるでもなく、あまり避ける必要もなくゆっくりと行くこちらの横を、男子高校生の集団が追い抜かしていく。
 勤務中、読んだ資料にベケットの言葉が引かれており、正確に覚えていないのだが、「どのようなことでも、言語に移すとその瞬間にまったく違ったものになってしまう」というような言で、どちらかと言えば嘆きのニュアンスを含んでいたように思う。これは言語を操ることを己の本意と定めたものならば誰でも実感的に理解しているはずのことで、言わば言語の無慈悲さとでも言えるのかもしれないが、こちらがこの時思ったのは、しかしそれは同時に、大袈裟な言葉を使うならば言語の救い、言語の慈悲深さでもあるのではないかということだ。大きさも違う、性質も異なる、体験者に与える影響も様々であるこの世のあらゆる物事が、ひとたび言葉になってしまえば、言語という資格において等し並に並べられてしまう。その言語の平等主義を自分は好ましく思うことがある。つまりは、言語などというものは最終的には単なる言語に過ぎず、所詮は言語でしかない[﹅10]、そして物事を単なる言語でしかないものにしてしまえる、というのが一種の慈悲深さのように感じられることがあるのだ。自分でも何を言っているのか(と言うか、何をどう感じているのか)よくわからず、理屈として的の外れたものになっているのではないかという気もするが、そのように思うことはある。そのような、所詮は言語でしかないようなものにまさしく耽溺し、深くかかずらって生きることを選んだ作家という人種は、だからひどく倒錯的な人間たちなのだろう。
 帰りは電車の発車が迫っていたので走って駅に入る。乗ると扉際に就き、最寄りで降りると雨は止んでいた。携帯電話を見ると、(……)からの誕生日祝いのメールが入っており、返信を考えながら階段を上る。木の間の坂に入ると、周囲の樹々から滴る雫の音が立って、ここだけまだ雨が残っているような感じがする。坂を出て曲がったところで、(……)が自宅の車庫の前に出て何やらやっていた。視線を向けていると、宅内に入ろうと向かう際にこちらに気づいたので、こんばんは、と挨拶を交わして過ぎた。
 帰宅するとストーブの前で身体を温めてから、洗面所に行き、石鹸で手を丹念に洗う(インフルエンザが流行っているらしい)。着替えてくると食事、ナゲットやカキフライを細かく千切って、それとともに白米を食べる。テレビは多分『クローズアップ現代』だったと思うが、ドナルド・トランプ政権のロシア疑惑について扱っていたものの、音量が小さく、あまり集中して目を向けもしなかった。父親は寝間着姿でソファに座り、緩く脚を組んだ気楽な姿勢で寛ぎながらテレビを見ているその腹が呼吸で上下している。母親はこちらの向かいでタブレットを弄って何やら見ていた。
 食後の入浴中は、湯に浸かりながら目を閉じて、メモ代わりにこの日の生活を順番に思い出していき、それに時間を掛けたので出た頃にはもう一一時半が近かったと思う(髭を剃ることもした)。蕎麦茶を持って室に帰り、夕刊(「パレスチナ援助 半額保留 米、国連難民期間への支払い」(三面)、「対北圧力 20か国一致 外相会合 非核化へ連携」(一面)、「年金受給開始 70歳超も 政府方針 選択制 額上乗せ」(一面))及びCatherine Wilson, Epicureanismを読んで、零時半前である。瞑想を一〇分行って、(……)そうして、二時半頃に床に就いた。

2018/1/16, Tue.

 七時になる前に一度覚めたのだが、その時、また心身が覚醒的になっていた。不安に冒されている感覚があったのだが、横たわったまま瞑想を試みて、多少和らいだはずである。それでも薬を飲んでふたたび入眠し、この日は長く寝過ごさずに、八時四〇分頃起床した。この時も不安感が拭いきれていなかったのだが、ともかくも便所に行ってきて瞑想をすると、いくらか心身が落着く。
 上階に行くと、母親はまだ出かける前だった。冷蔵庫から、ピラフや前日の汁物や牛肉の炒め物を取り出し、それぞれ電子レンジで温めて食す。新聞をめくったが、特段に興味を惹かれる記事は見当たらなかった。母親が出かけて行き、一人になった居間で食事を取るあいだ、やはり思考が勝手に回転するのが煩わしく、ストレスであるというような感覚があった。それに影響されて気が逸るようだったので、ともかくもゆっくりと、丁寧に行動しようと心がけつつ、食器を洗い、風呂も掃除する。そのあたりで、ホームポジションとしての呼吸ということを思い出して、そちらに意識を向けるようにしながら、ストーブのタンクを持って石油の補充に行った。玄関から出て勝手口のほうに回り、箱をひらいてポンプを稼働させる。待っているあいだ、あたりを見ると、空には薄雲があって地上に降りる陽射しは弱め、そのなかを細かな羽虫が飛び回っているものの、棕櫚の葉をちょっと揺らすだけの風でも身が震えかけて、春はまだ遠いように感じられる。タンクが満たされるのが遅かったので、石油の保存してあるポリタンクを持ち上げて、液体の流入を手伝ってやり、後始末をすると室内に戻ってタンクを機械に収めた。蕎麦茶を用意して下階に戻り、コンピューターを点けて、まず日記の読み返しをした。二〇一六年一二月一五日では、「裏通りを抜けて街道に出て、歩道を行っている時にもう一度見上げると、近くの電灯と高みの月とが一緒に視界に収まって、そうしてみると、街灯のほうには辛うじて、飾り気めいた金の色合いがはらまれているのに対して、その先の遠くで撒かれた月の明るさには、そのような和らぎは窺われず、病人の顔のような青白さの印象が眼裏に残った」という描写が少々良いかもしれない。一六日のほうには、「一番星がはっきりと輝く、暮れきった湖色の午後五時も、風が、吹き付けるというほどの勢いはなくて、道に沿って流れてこちらの身を過ぎていくだけでしかし、肌が震える冷たさである」という一文が見られ、「湖色」という表現が、「こしょく」と読ませたいのか「みずうみいろ」なのかわからないが、珍しいかもしれない。
 それから、数日前に発見していた「生きる技:ヴィパッサナー瞑想」(https://www.jp.dhamma.org/ja/art/)というゴエンカ師の講演録を読んだ。そして、インターネットをちょっと覗いて一一時、書き物に入った。前日の記事を仕上げ、この日のものもここまで記すと、一二時四〇分である。さらに、一月一二日の記事を書かねばならないのだが、疲れたのでここで少々休息しようと思う。
 そうしてベッドに寝転がり、腰をもぞもぞさせたり、脹脛を膝で刺激したりして心身を休ませる。そうしているあいだ、目を閉じているのだが、もう瞑目するだけで瞑想をしているような具合になり、閉じた視界が蠢くのが感じられ、時折り夢未満のイメージもそこにちらちらと現れる。そうして次第に頭のなかがすっきりしていった。起き上がるとまたインターネットで、ヴィパッサナー瞑想などについて調べるのだが、結果やはり、自分は言語を実体化しすぎているというか、仏教が「雑念」として退けるものに囚われすぎていたのではないかと思った。言語を操って文を作ることを毎日の営みとして定めた者としては必然的な結果かもしれないが、それで心身のバランスを崩してしまっては元も子もない。瞑想をやっているあいだも、自分の精神は多分、思念を観察しているつもりが、知らぬうちにそれらに取り込まれて、コントロールを失うような状態になってしまっていたのではないか。つまりは、言語に耽溺しすぎた、思考に淫しすぎたということだ。上のURLでその発言を読んだゴエンカ師も、観察の対象として「呼吸」と身体の「感覚」の二つを挙げているわけで、今後はこれらの身体的直接性に対する感覚を養って行き、身体性と言語性のあいだに良いバランスを保っていくのが肝要ではないか。
 そういうわけで早速身体を動かすことにして、運動を行った。各種の体操をしているあいだも、呼吸の感覚(自分が捉えやすいのは特に、空気が鼻や口を出入りする時のその「音」である)や身体の各部の感触を意識して行い、すると確かに心が静まって行く。三〇分ほど、音楽もなしに、外から聞こえてくる鳥の声に時折り耳を寄せながら身体を動かして、そこからまたここまで書いて時刻は二時直前である。
 食事を取りに行った。豆腐を電子レンジで温める一方、それとゆで卵だけでは物足りない気がしたので、カップ蕎麦を用意した。食べているあいだも呼吸や、あるいは咀嚼の感覚を見るようにしていると、蕎麦の麺がなかなか口触り滑らかで美味く、即席のカップ蕎麦ごときで美味を感じられるとは自分は何と安い人間なのかと思った。食器を片付けて下階に戻ると、歯磨きをする。同時にコンピューターを操作し、地元の図書館のホームページに繋いで、借りている本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の返却期限を確認すると、一月二五日だった。二八日の会合に持っていくので、期限が来ないうちに忘れずに貸出延長手続きを取らねばと思っていたのだ。そうして口を濯ぐと、気分が軽くて良かったので、Oasis "Wonderwall"を流して歌いながら服を着替えた。そのまま"Rock 'N' Roll Star"も流し、すると三時直前、外出前に瞑想をすることにした。この時もやはり呼吸と身体感覚に意識を向け、一〇分間座ると上階に行く。居間のカーテンを早めに閉めてしまい、食卓灯も点けておくと出発した。
 まだ三時過ぎ、陽射しも豊富で、和やかな空気である。坂に入り、上って行きながらやはり呼吸を観察していると、次第に吐息の奥に引っ張るような感覚が生まれ、吸ってもうまく吸えていないような、ちょっと苦しいような感じになってきた。息を吸っても酸素を取り込めていない感じというのは実に馴染みのあるもので、パニック障害の最初期の症状の一つがそれだった(電車内では随分と苦しめられたものである)。それであの頃の感覚だなと思い出し、坂を上りきったところで一旦止まって、大きく一息つくと、それで問題なくなったので歩みを進めた。
 街道に出ると風が吹くが、日蔭のなかにあっても寒さというほどのものはなく、温暖な、穏和なというか、「温厚な」とでも言いたいような陽気である。表の道を進み、車の流れる姿や音に意識を傾ける。Oasisの"Hey Now"が頭のなかに流れていた。坂下の横断歩道で止まると欠伸が漏れて、視線を右手に向ければ、涙で霞んだ視界の遠くに山の、やはり陽射しを降らされて色の霞んだ姿が映る。工事中の会館跡を行きがかりに覗くと、地面は瓦礫というかごろごろとした石の塊が、しかしあまり上下に乱れて段を作らずに敷き詰められたようになっていて、その情景がちょっと目に残った。なかで作業をするショベルカーの車体が、光を薄く跳ね返していた。
 勤務中については特段に記しておきたいことはない。退勤すると駅に入り、電車に乗る。座らずに扉際に立って、一旦手帳にメモを取ろうとしたがやはりやめて、目を閉じ、頭のなかでこの日の生活を想起していくことにした。そうして最寄り駅に着いて降りると、夜気にさほどの冷たさがなく、むしろ密室から出て空気の動きに触れられた爽やかさのようなものすらあり、と見ているうちに突然正面から突風が来て、これにはさすがに少々寒かったが、しかしその感触にも鋭く固まる冷気が含まれておらず、拡散的な[﹅4]/横に伸びたようなものだった。
 坂に入っても風が続き、周囲の草木がひっきりなしにざわざわと音を立てる。ストールを鼻まで持ち上げて通ってから、何だか巡るような風の動きだったようなとその響きに思い、右手のガードレールの向こうの暗闇に静まった樹々に目を向けながら下りて行き、出口も間近になって首を傾けると頭上に、影になった裸木の枝振りと、その先に灯る星々が見える。オリオン座の真ん中の三星がしかし薄いな、と見ながら、こういうことなのだな、心と頭を静かな状態に落着けておければ、殊更に求めて書こうとしなくとも、書くべき事柄が向こうからやって来て、そこに自ずと言語もついてくるのだなと思った。やはり最近の自分は、言語が先走っていた、あるいは言語と同一化しすぎていて、常に頭のなかを言語が無秩序に暴れ回っているような感じだったのだろう。この日でどうも、そのあいだのバランスをかなり適したものに戻せたような気がする。
 帰ってストーブに当たり、身体を温めていると、母親が内科と整形外科に行ってきたと話す。そこからやり取りが始まって、(……)
 それで話しているうちに、九時四五分頃には帰ってきていたはずなのに、気づけば一〇時半に至っており、なぜこんなことに時間を使わなくてはならないのかという苛立ちを久しぶりに感じた。そのように精神が少々乱れていたせいで、食事を取っていても何だかあまり味が感じられないようだったので、呼吸と咀嚼に注視しながら心を落着けるようにした。食後、入浴した頃には気分は平静に戻っていた。リラックスした心地良さという感じではなかったが、非常に平らかに落着いてはいて、不安に脅かされている感覚もないので、どうも自分は大丈夫そうだなと思われた。湯船のなかで身体を停めると心臓の動きの生み出すあるかなしかのさざ波の反復だけが水面に残るその送り出しの、何だかいたいけなような、慈しみたいような慕わしいような情を淡く覚えた。
 風呂から出たあとも心身を探りながら、どうもほぼ正常に戻ったのではないかと感じられ、疲れというほどのものもなく、眠気も差してこなかったが、時刻は既に零時を越えており、アイロン掛けをしているうちにさすがに疲労感のようなものが滲んできた。自室に帰るとしかし、健康のほうにいくらか戻ったからだろう、やや夜更かしの気分になって、蕎麦茶とともに煎餅をつまみ、娯楽的な動画を眺めて時間を使った。一時半前までそうするとコンピューターを閉じて、歯磨きとともに読書に入る。本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を、二時直前まで少しばかり読み進める頃には眠気が重く、消灯して床に就くとすぐに寝付いた。

2018/1/15, Mon.

 最近の習いで、夜の明ける頃に一度覚めた。数日前とは違って、心身が不安に苛まれている、緊張によって覚醒しているという感覚があまりなかった。それでボディスキャンというか、臥位でのヴィパッサナー瞑想を行う風にしていると、恐怖もなく意識が深いところまで潜って行って、手の感覚がなくなったり、あるいは痺れるようになったりしつつ、頭は心地の良い感じに包まれる。どうやら何らかの脳内物質がたくさん出ている状態らしいな、と思われた。そのまま薬を服用せずとも再度眠れるかとも思ったのだが、意識は観察の動きに明るくなっていて、非常に落着いてはいるが眠りの方向に進もうとしない。一度、時刻を確認すると、六時一〇分か二〇分かそのあたりだった。姿勢を変えながら何度か同じように試みても、やはりうまく入眠できないので、薬を服用したところが、それでも意識が落ちて行かない。もう起きてしまっても良いのではないか、そうすればむしろ時間が多く生まれて色々なことができるのではないかとも思ったが、五時間程度の短い睡眠で自分は大丈夫だろうか、日中、不安や神経症状に苛まれないだろうかという危惧もあって、やはりもういくらかは眠っておきたい。時刻を再度確認すると七時が間近だったので、しかし七時を越えてしまったらもう眠ることは諦めて、一度起きることにしようと決めて、ふたたび非能動の安楽さに浸っていると、ここでようやく寝つくことができた。
 二度寝をするといつもそれが長くなってしまって、この日も結局、一一時を越えるまで眠ることになった。少々寝床で待ってから起き上がり、ダウンジャケットを羽織って便所に行く。便器に向かって黄色い尿を放ちながら心身の調子を窺ってみたところでは、朝方に寝床で瞑想めいたことを行ったためだろうか、かなり落着き、整然とまとまっているような感じがした。それで、この日は起床時の瞑想はやらなくても良いのではないかと思ったのだが、やはり一応習慣として実行しておくことにして、部屋に戻ると窓をひらいて枕の上に腰を掛ける。瞑想中の意識の状態にも当然波があり、何と言えば良いのか、頭のほうにわだかまる感覚が引っ掛かって、それが溶けていかないのが僅かに苦しい、煩わしい、というような時があり、しかしそれをも怖じずに見つめていると、次第に心が落着いて行く。心身が静まっているな、と判断されたところで切り上げると、一六分を座っていた。自分の感覚に合わせて行うと、大体いつも一五分ほどになるようである。
 上階に行くと、卓の前で、脚を左右にひらいて腰や股関節を伸ばしたり、大きく背伸びをして背中の筋をほぐしたりする。それから台所に入り、食事を用意しはじめる。前夜の惣菜の残りでイカフライが一本あったので、それをいただくことにして、電子レンジで温める。ほか、白米に、やはり前日から引き続く玉ねぎの味噌汁、モヤシの炒め物や大根の菜っ葉の和え物が卓に並んだ。新聞は食卓では読まないことにして、見出しを確認するに留め、閉じるとぼんやりテレビのほうを眺めたり、母親の話すことを漫然と聞いたりしながら、イカフライを細く切り分けて、米と一緒に咀嚼する。(……)
 食後、風呂を洗い、白湯を持って自室に帰った。ひらいたままだった窓を閉めるとともに、カーテンをいくらか開けておくと、晴れの日ではあるが空には薄雲の広がりが見られ、陽射しは純に透き通っているわけでなく、言うなれば斑状の、やや淡いものだった。そうしてコンピューターを点け、前日の記録を付けるとともにこの日の記事も作成したあと、日記の読み返しをした。毎日二日分ずつ読んでいけば、いずれは一年前の時点に追いつくだろうというわけで、二〇一六年の一二月一三日と一四日の二記事を読み返した。一四日のほうでは、夜、自宅の近くに何やら消防車が出張ってきたのだが、入浴しながら窓越しにその色を見た時の描写、「浴室に行っても、磨りガラスに原色に近い赤さが宿っている。その下に白さも土台のようにしてあるのは、テールライトらしく、それに乗ってどぎついような赤の色が鼓動のようにして収縮するのは、それ自体、窓の外で炎が燃えているかのようでもあった。その紅の光によって磨りガラスの凹凸が露わに浮かびあがり、上端から水滴が流れ落ちると、赤さのなかに一筋、暗い水路がひらかれて一瞬夜の色に沈むのだが、すぐにまた乾いて起伏と色味を取り戻してしまう」というのがなかなか良いように思われた(とりわけ最後の、水滴の通過による色味の変化と復元の動きである)。
 日記を読み終えるとちょうど一時、そこから間髪入れずに作文に入り、前日の記事を早々と仕上げ、この日のこともここまで記して、現在は二時を目前にしている。
 そこから、tofubeatsなどの音楽をyoutubeで再生して、運動を行った。二時半までである。さらに歌をちょっと歌ってから、ふたたび日記の作成に入る。一月一一日のものである。
 一一日の記事を完成させると投稿し、そのままブログにて、年末年始の記事群を大雑把に読み返した。ゆっくりと読んだわけでなく、さらうような感じで、脳内に流れる言葉も早口だったので、言語に引かれて頭が回る感じがしたが、不安はさほど感じなかった。その後、上階に行って食事を取る。雑多に野菜の入った汁物に、朝と同じモヤシ炒め、そしてゆで卵一つである。時刻は四時くらいだったはずで、テレビには夕方前のワイドショーのような番組が映っており、温泉を紹介していたが、特段の興味を惹かれなかった(そう言えば自分はそもそも、温泉という場所に行ったことがない)。ものを食べながらも何か腹が痛かったので、母親が前日にこちらの誕生日だということでミルクレープのケーキを買ってきてくれていたが、それは夜にいただくことにした。
 下階へ戻ると、歯磨きをしながらほんの一〇分ほど読書をして、そうして四時半に至る。ジャージから服を着替えたあと、外出前にということで瞑想を行った。そうして上階に行き、便所に入って放尿すると、便意の蠢きをもかすかに感じたので、下半身を露出させて便器に座り、しばらく訪れを待ったが、結局出てこないので諦めて出勤に向かった。
 前日に引き続き、午後五時の空気は冷たく、ストールの内側に口もとを隠しながら行く。坂を上って平ら道に出ると、先の三つ辻にこの日は行商の八百屋が来ているのが見える。それで、もう結構日が長くなったな、と思った。先月にはこの辻で人々と遭遇していた時間には、もうよほど暮れきって宵に掛かるくらいの暗さだったが、この日はまだ空が薄い青さだったのだ。近寄って行き、こんにちはと挨拶を掛ける。青いジャンパー姿の八百屋の旦那と、(……)と、ほかに二人ほど、近隣の老人がいたようである。(……)が寒いから、気をつけてね、などと返してくれるので、行ってきますと受けて過ぎた。
 街道を行く。車道の果てから黄みがかった白の光を皓々と灯して連なる車の列の、ほとんど隙間なく密着していた明かりが次第に分解しながら近づいてくるさまの、これももう何度も見ては書いたものだから特段の印象も与えられないなと見ながら、しかしその「何度も見ては書いた」という印象のためにまた書くような気になって、反復の事実そのものが一つの新たな差異になるというこの事態はどうもややこしい、よくもわけがわからないなどと思い巡らせながら歩き、そのようにしてまたいつの間にか思弁が頭のなかに展開されていることに気づいて、自分はこのような概念の操作を書きたいのではなくて、この世の直接性をもっと感じたいのだと払い、見えるものなり脚の動きの感覚なりに傾注しようとしたが、しかしいずれまた考えが湧き出てしまうものなのだ。
 時間が前後するが、街道に入る直前から、入ってすぐ、道を北側に渡ったあたりで思ったのは、自分のテクストには「不安」という語が本当にたくさん書きつけられているだろうなということである。生身の人間として不安に追い立てられる結果、「不安」にまみれたテクストを自分は生み出している。この不安とは一体何なのか、それはどこから生まれて来るのか、そのあたりの問いを根本的な地点まで「解読」し、意味論的(ということはすなわち、認知/心理的)に納得の行く解釈を打ち立てれば、不安障害は消滅するというか、解決されるのではないかと思ったのだが、それを行うことにもまた不安感が付き纏いそうである。
 裏通りを行きながら考えていたこととしては、やはり観察技法に精進することによって、自己を高度に統御し、不安感が出てきてもそれを怖じずに見つめ、対峙できるように訓練する方向で行きたいということだ。不安障害だったに違いない釈迦は、やはりそれに苦しめられて、それから解放されるような(?)哲学的体系を作らざるを得なかったのではないかとひとまず推測してみるとして、釈迦の生涯や釈迦の残した言葉のなかにも自分にとって何らかのヒントになるような事柄があるかもしれない。そのあたりはいずれ触れてみたいとして、もう一つ気になるのは、「見ること」の力というものである。「見ること」及び「メタ認知」によって不安や恐怖が抑制され、あるいは消滅するに至るとは一体どういうことなのか、「視線/眼差し」に含まれている(意味論的な)力というものについてもう少し学んでみたい(こうした関心からすると、先日フーコーの著作を買った際に、『言葉と物』を選ぶのではなく、『監獄の誕生』のほうを選ぶべきだったのかもしれない)。「視線/眼差し/見ること」と言っているのは、内面的な事柄を対象とした場合は比喩であって、正確にはおそらく「意識の志向性」と言うべきものであり、とするとこれは認識理論とか現象学の分野になるはずで、さらに本当は脳科学とも当然関連する事柄なのだろうが、そちらの方面の素養は自分にはなさそうなので、ひとまず現象学的な方向を探索してみたいと思う(欲望や企図ばかりが過大に膨れ上がって、実状がまったくそれに追いつかない)。
 道中はそのように、思考を展開させてばかりだったようなので、具体物として印象に残ったものはいま思い出されてこない。勤務中、最初のうちはやはり腹が痛かったが、じきに収まった。(……)クッキーを、この日も三枚、ティッシュに包んでポケットに入れ、そうして退勤すると駅に入った。電車に乗って座席に就き、例によって瞑目しながら発車と到着を待つ。最寄りで降り、坂に入ると、前方に女性の二人連れがいて、同じ道を辿っている。追い抜かす気も起こらなかったので、歩調を緩めて先に行ってもらうに任せ、宙に目をやると、電灯を掛けられた葉が硬いように光っており、ほかにも道の脇から出てきている枝の、葉を落として姿態を露わにしたのが、これも馴染みの比喩だが毛細血管のような、あるいは骨のようなと思われた。そのように物々から即座にイメージを引き出して、そのもの自体から距離を取ってしまうこちらの認識性向も、どうにかならないものかなあと退屈さを覚えた。自分はそもそも、物々の「具体性」をより豊かに捉えたくて、身の周りのものをよく見るように心がけてきたのだが、その結果、その物自体に迫るというよりは、それを即座にイメージに横滑りさせてしまう性向が身についてしまった気がする。しかし、あるものやある瞬間の「具体性」というものも、結局は、そこに生じる「意味」の組み合わせのその形とか、豊かさとかで決まるのだろうか、という気もし、要は、ある一つのものにいくつものイメージが重ね合わせられて感知されるというのも、そのものの「具体性」の一つになるのだろうか、などと、そのようなことをまた考えながら道を行ったのだが、このような抽象的な思弁にはもはや飽き飽きである。自分はもっと、自分の身ぶり、動作、行動とか、そこにただ何かがあった、何かが動いていた、というような単純さを書きたい。要は、自分はもっと「叙事」をやりたいと思うのだが、個人的な性質としてどうしても思弁のほうに流れてしまうのかもしれない。
 帰宅すると、母親は風呂に入っているところだった。ストーブに少々当たってから洗面所に行って手を洗い、自室に下がって着替えを済ませてくると、母親は風呂から上がって洗面所で着替えをしているようだったので、横開きの扉を細く開けて、なかを覗かないように脱いだシャツを持った腕だけを差し入れ、洗い物として受け取ってもらう。それから、食事の用意をし、卓に就いてものを食べる。新聞の夕刊をめくると、明治天皇の和歌の英訳集が完成したという記事があったので、これはあとで読むかと目星を付けておいた。テレビは、『しゃべくり007』を映しており、見ながら時折り笑いを立てる。食後、入浴し、出ると久しぶりに蕎麦茶を飲むことにした。用意して自室に帰ると、一一時半頃である。コンピューターは点けず、新聞を読む。朝刊から、「米軍機事故 悩む政府 北朝鮮情勢 待ったなし 迫る名護市長選に影響」と、「エルサレムにトランプ駅? 「首都宣言」感謝 命名の動き パレスチナは反発」の二つの記事を、夕刊から先ほどの、「明治天皇の心 触れ30年 自然、平和…和歌311首英訳 米教授「神官との約束」」の記事をそれぞれ読んだ。それから、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionを五ページ読み、そうすると零時半頃、さらに本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の読書に入った。文を読んでいるあいだは、就床前なのに(そしてコンピューターに触れてもいないのに)妙にくっきりと精神が張っているのが感じられ、文字が明晰で読み取りやすく、意識がまた少々覚醒のほうに傾いていたようである。そのように明晰でありながらしかし同時に、眠気が兆してくるのだ。それで何だかまた良くなさそうな気配を感じながら、眠気にしたがって一時一五分頃消灯した。入眠にはほとんど時間が掛からなかったと思う。

2018/1/14, Sun.

 前夜は久しぶりに夜更かしをして三時前の就床になった。それでこの朝は確か、七時頃にまた一度覚めたのだったと思うが、床に就く前に薬を飲んでいたのでこの時はそれに頼らず、呼吸を観察して非能動の状態に入ることで自ら寝付こうと試みて、成功したのだったと思う。そうして一一時二〇分頃まで眠った。覚めると、しばらく身体をもぞもぞと動かしながら起き上がる気になるのを待ち、一一時四〇分頃起床した。便所に行ってきてから、窓をひらいて瞑想を行う。近所のどこかから、何か建材のようなものを動かしているらしき物音が渡ってくる。
 一七分座って正午を越えると、燃えるごみを持って上階に行った。ごみを上階のものと一つに合流させておく。(……)台所に入ると、前夜の残り物であるところの、マカロニと豚肉をトマトソースで和えた料理や、大根の煮物がある。また、菜っ葉の入った味噌汁があって、鍋の底のほうにやたらと豆が溜まっているから何かと思えば、これは納豆らしい。それらを温めるとともに、ハムエッグを焼いて米に乗せ、食卓に就いた。新聞は見出しをざっと追うだけで読むことはせず、誰もいない居間で黙々とものを食べる。
 書き置きの傍には、この日がこちらの誕生日だからというわけで、小さな袋が用意されてあった。メモによればなかはハンカチらしく、父親に一枚置いて、二枚好きなものを取るようにと言う。見てみると、一枚はPOLO Ralph Laurenのものであり、もう一枚は良く覚えられない名前のもの、三枚目はBrooks Brothersというブランドのものだった。POLOを父親に譲ることにして、残りの二枚を自分のものとして、東の窓際の棚の上に置いておく。誕生日プレゼントにはもう一つ、シールで留められた青い紙の包みがあり、これはどうやら金らしい。二八歳にもなって正職にも就かず(今後も一生、正職に就くつもりはないのだが)、生活を諸々頼っている身でありながらそれに加えて金を貰うなどとは、実に決まりが悪いなと思った。とは言え、本当に微々たる、ほんの僅かなものではあるが、月々に金を収めてもいるので、そのうちからいくらかが返ってきたものと考えることにして、ありがたく頂戴した。
 食事を終えて食器を洗うと、フライパンに水を張ってそれを熱しているあいだに、風呂洗いを済ませる。出てくる頃にはちょうど水が煮立っているので火を止めて、水をあけた上からキッチンペーパーで拭って掃除をしておく。そうして白湯を用意して下階に戻り、この日は大変に久しぶりのことだが、過去の日記の読み返しをした。二〇一六年一二月一一日と一二日のもので、もはや一か月分以上読み返しが遅れてしまっているわけだけれど、如何ともしがたく、ゆっくりやっていくほかはない。一二日の記事から、最近の関心に連なると思われる以下の記述を引用しておいた。

 (……)瞑目して思念を遊ばせながら、立川までの路程が過ぎるのを待った。以前はこうした時間は、勿論音楽に耳を傾けていて、それがなくてはおそらく手持ち無沙汰になっていたと思うのだが、いまは退屈もない。それは一つには、周囲の様子を見回し観察して、日記に書くような具体性の欠片が転がっていないか探すということが可能になったからでもあるのだが、この時は特段それを心がけたわけでもなかったようである。代わりに自分の思考を観察して、物思いを遊ばせていたようで、それで退屈しないのはおそらく、どんな瞬間や時間であろうとも、内外に何かしら観察するべきものがあるという認識のあり方になってきているからで、その時間時間に自足することができていると言えるのではないか――この日の会話でもちょっと話したことだが、こうした観察と追認と気付きの実践は、日記を書き付けるなかで認識が繊細になり、世界の(すなわち時間の)肌理がより細かくなったことの帰結である――と言うよりは、両者は、実践と結果が相互に影響を及ぼし合い、相乗するようなものなのだが――そして、そうした認識のあり方は、ヴィパッサナー瞑想を行う時のそれと、似通っているようである。実際、生活のなかで何か印象深いことに遭遇し、それを実況中継のようにして脳内で言葉に落としこむ――すなわち、その場で「書く」あるいは「記述する」――時の頭の使い方と、ヴィパッサナー瞑想を行って、微細な「気付き」に言葉でもってことごとくラベリングしていく(数か月前からはそれもやらなくなって、おのれの知覚を自動的に追尾するような認識の仕方になっているが)時のそれとは、ほとんど同じであるように思われる。そういうわけなので、瞑想をたびたびやっていたのも、もしかすると世界の肌理を増すのに貢献したのかもしれないし、ヴィパッサナー瞑想を訓練してきた人の心持ちというのも、おおよそどんな時間であろうとも退屈することなく自足できるというものではないかと思えるのだ。世界の肌理が微細になる、認識の解像度が上がるというのは、勿論、差異あるいはニュアンスを見分ける能力が向上したということで、瞑想が精神疾患に効果があったり、あるいは全般的に精神に良い影響を与えたりするのも、神経的・生理的な効果はそれとしてあるにせよ、正確な観察力が磨かれることで、それまでは気付かなかった情報=ニュアンスを、明確に自覚的な状態で取りこむことができるようになり、それによって生のあらゆる瞬間が充足するということではないかとも考えられる(科学的・客観的な根拠がなく、まるきりこちらの主観的な体験に拠った推論だが)。先ほど記した、生の哲学としての西洋哲学と、東洋哲学の結節が可能なのではないかとの思いつきとは、こうした事柄である。

 それで一時過ぎ、そこから間髪入れず、(……)が先日送ってきてくれていたメールの返信を読んだ。そうしてそのまま、それに対する再返信を綴りはじめたのだが、長くなってしまうので手短になどと言いながら、書いているうちに思っていたよりも長くなってしまうのが常で、これに結局二時間ほどの時間を費やした。綴り上げた返信を、以下に引用しておく。

 (……)返信が大変遅くなってしまい、申し訳ありません。二〇一八年を迎えたということで、遅ればせながら、今年もよろしくお願いします。

 返信を綴れなかったのは、この年末年始に不安障害の症状が高じて、いくらか統合失調症的な様相を来たすまでに至ってしまい、ゆっくりと落着いてお返事を考えるどころではなかったからです。本当に、頭のなかを言語が常に高速で渦巻いて止まらず、先のメールに記したものですが、「ほとんど瞬間ごと」の「解体/破壊と建設/構築」を往来する精神の運動をまさにそのまま実現したかのようであり、それによって発狂するのではないか、自己の統合が失われるのではないかという恐怖を体験しました。一時はどうなることかと思いましたが、今は薬剤をまた飲みはじめて、不安のほとんどない状態に回復していますので、ご心配なさらず。この間の経緯や、今次の自己解体騒ぎについての分析・考察も漏れなく日記=ブログに記しており、なかなか大変な経験ではありましたが(しかしパニック障害が本当に酷かった頃に比べれば、何ほどのことでもないのです)、そこからまた生み出された思考もあり、我ながら結構面白い体験をしたのではないかと思うので、関心が向いたら是非読んでいただきたいと思います。

 丁寧で充実した返信をいただき、ありがとうございます。今しがた読ませていただき、色々と思うところや共感する部分もあるのですが、それらについて細かく述べているとまた無闇に長くなってしまうでしょうから、ここではそれは差し控えます。ただ一つ、取り立てて印象に残ったことに言及させていただくならば、(……)の返信のなかに現れている主題とこちらの最近の関心事に共通するものとして、「抽象概念の具現化」というものがあるのではないかと思いました。

 言うまでもなく、意味や概念とは、所詮は意味や概念に過ぎず、この世界に実体として存在しているものではありません(この世界の物質的な様相だって実体的なものではなく、我々の認識機構が作り出した仮象に過ぎない、という議論もあるのだと思いますが、話がややこしくなるのでこれについては今は措きましょう)。本来は我々の頭のなかにしか存在しない概念というものにどのようなものであれ現実的な力を持たせたいならば、それを具体的な、目に見える形に具現化するというプロセスが不可欠です。こちらとしては、これが「芸術」と呼ばれる営みの役割の一つではないかと考えています。つまりは、この世には何か素晴らしいもの、「希望」なら希望が、あるいは「愛」なら愛が、実際に存在するのだということを説得的な形で示す、ということです(あるいは素晴らしくないものが、それでもやはり存在してしまうのだ、ということを示す、という方向での試みもあるはずで、それはそれでやはりこの世にあるべきなのだと思います)。

 一方、(……)の返信のなかにも、例えば、「研鑽された系譜は、具体的な他者に宿り、魅力的な一人の人間の生き方として表出するのです」とか、「深い精神は身体に宿り、本人の自覚はともかく、一人の魅力的な教師として、他者を教える存在になるのです」といった文言が見られます。ここには明らかに、「体現」のテーマが観察されると思います。先のメールにおいて、最近こちらは、ミシェル・フーコーが晩年に考えていた「生の芸術作品化」のテーマに惹かれていると触れました。ある個人の生が芸術作品のようなものとなるということは、その人の生が洗練され、卓越したものとして形作られ、それによって何らかの概念を「体現」するということではないでしょうか? ここにおいて想起されるのは、もう二年と半年も前のことになりますが、New York Timesの記事で述べられていたCornel Westの言葉です。彼は明らかにこうしたテーマと同じことを語っていると思われるので、下に引用します。

(……)Yet, at the same time, we’re trying to sustain hope by being a hope. Hope is not simply something that you have; hope is something that you are. So, when Curtis Mayfield says “keep on pushing,” that’s not an abstract conception about optimism in the world. That is an imperative to be a hope for others in the way Christians in the past used to be a blessing — not the idea of praying for a blessings, but being a blessing.

John Coltrane says be a force for good. Don’t just talk about forces for good, be a force. So it’s an ontological state. So, in the end, all we have is who we are. If you end up being cowardly, then you end up losing the best of your world, or your society, or your community, or yourself. If you’re courageous, you protect, try and preserve the best of it.(……)
 (Cornel West: The Fire of a New Generation, By GEORGE YANCY and CORNEL WEST, http://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/08/19/cornel-west-the-fire-of-a-new-generation/

 希望について語るのではなく、希望そのものに「なる」ということ。(……)の文脈で言えば、(……)が関心を持っていらっしゃるのはきっと、生存の様式そのものとして「哲学」をするということであり、「哲学」を体現し、ほとんど「哲学」そのものに「なる」ということなのではないでしょうか。それは別の言い方で言えばおそらく、「考えること」がほとんどそのまま「生きること」になるような生のあり方であり(こちらにおいてはそれは、「書くことと生きることの一致」として言い換えられます)、おそらくこの関心こそが、単なる「思想の歴史家と、そうした知性に群がる官僚」と(……)とを根本的に分かつ点であり、そして我々を結びつける接続点なのではないでしょうか。

 そして、「生きること」の総体とは、一日ごとの「生活」の積み重ねとしてあるのですから、ここからは、毎日の生活をどのように形作っていくか、という問題が必然的に出来します。そうして、一日の生活をさらに細かく捉え、その日のうちの瞬間ごとの選択の集積、という水準にまで微分化して考えることもできるでしょう。ここにおいて、瞬間瞬間の自己を絶えず観察し続けることを目指すヴィパッサナー瞑想の方法論は、自己を高度に統御して洗練させることで、自分自身を最終的に「芸術作品化」していくための手法としての意義を露わに示すものではないでしょうか。

 こちらとしては、(主に後期の)ミシェル・フーコーの文献に当たることで、こうしたテーマについての思索をさらに深めたいと思っています(そう思っていながらも、怠惰やら勤務やら色々なことにかかずらわって、読書が一向に進まない現実があるわけですが)。また、この主題体系のなかに、「差異」や「ニュアンス」というテーマをも、おそらく何かしらの形で接続できるとこちらは見込んでいるのですが、まだそのあたりは明瞭に見えておらず、今後の思考の発展を待ちたいところです。自分のなかで明確な形を成した思考は、その都度日記に書くつもりでいるので、気の向いた時にブログを覗いていただければと思います。

 ほか、返信をいただいて一番強く感じたことは、仲間たちと対面し、あるいは横に並んで具体的な時空を共有しながら、日常的に思索と対話を交わす環境にいらっしゃることがとても羨ましい、ということです。勿論、妬んでいるわけではないのですが、しかしそうした環境は大変に楽しそうだなと想像し、自分もいつかそのような場に身を置けたらと夢想することをやはり留めることはできません。とは言え、今の自分の生活だって、読み書きを続けていられるのだから、そこそこ悪くないものです(と言うか、読み書きを続けることさえできれば、自分は概ねどのような環境でも、わりあいに満足すると思います)。こちらはこちらの場所で、目に見えたものや頭のなかに生まれた事柄を書き続け、自己の変容を続けて行こうと思います。

 そうするともう四時である。さらに間髪入れずに、(……)が綴っていた日記のデータも貰っていたので、そちらを読み出し、四時台も後半になったところで作業を取りやめて上階に行った。
 ひとまず、何かエネルギーを補給したかった。そしてその後に夕食を何かしら拵えるつもりでいたのだが、冷蔵庫を覗いてみても大した食材がない。おそらく買い物をして帰ってくる母親を待つようかとも思ったが、それでも冷凍庫に豚肉が保存されていたので、これを炒め、ほかに玉ねぎと卵の味噌汁でも作れば良かろうと当たりを付けて、先ほどと同様のメニューで食事を取った(炊飯器の米はもう固くなっていたので、皿に取り分けて、のちにラップを掛け、冷蔵庫に入れておいた)。ものを食べながら、卓の上、右手に、何故か古いアルバムがどこからか取り出されて置かれていたので、五つほどセットで箱に入っているそれらのなかから、一つ二つ取り出して眺めてみると、幼い頃のこちらと兄が家の前の道路で遊んでいる様子などが映っている。自分にこのような頃があったとは、まったく信じられないなと思った。また、若い頃の両親の姿もなかに映っている。ロカビリー気取りなのか、半端なリーゼントめいた髪型にサングラスを掛けた父親が、滑り台の上で幼いこちら(多分、まだ三歳かそこらではないか)を抱きかかえ、その後ろから兄も続いている、といった写真があり、そうしたものを見ているとやはり多少は感傷的な気分が催されるもので、自分は今、二八にもなっても一人暮らしをしたこともなく、まだ親元に置いてもらってあり、ただ読み書きばかりを自分の成したいことと思い定めて、社会的・経済的な能力に関してはとんと興味を持たず、金を稼いだり家庭を築いたりする能力に関しては無能そのものという風に育ってしまったけれど、本当にそれで良かったのだろうかなあ、母親はともかくとしても父親は、次男がこんな風に育ってしまって、残念だという思いを時には覚えたりもしないものだろうかなあ、などと不甲斐ないような気分が少々滲んだ。しかし自分がそんな風に、本当に殊勝な気持ちを抱いているのかと問うてみると判然としなくなり、ここからまた例の、自己の統合が緩くなったような不安を感じはじめて、頭のなかがぐるぐると回りだしたのだが、これにはコンピューターを長時間見つめながら言語を操り続けたこと、また薬剤の効果が切れはじめていたことが寄与していたのだろうと思う。しかし、不安を感じながらも自分は行動することができるぞというわけで、食器を洗ったあと、まずアイロン掛けを行った。するともう多分五時も過ぎていたと思う。外も青く暮れてきて、室内も暗いので明かりを灯してカーテンを閉め、次に米を新しく研ぎはじめた。この時、離人感めいたものがあったのだが、これは自分の場合、意識の志向性が脳内の言語に向かい過ぎてしまい、目の前の外界の知覚が希薄になることによって起こるようで、ホームポジションとしての呼吸に戻るべく、口から息を、細く音を立てながら吐くその動きに意識を寄せると、途端に目に入っている米だとかシンクだとかの実在感が回復したので、やはり呼吸に対する意識というものを訓練すれば、自分は何とかうまくやっていけそうである。そうは言っても、精神が落着かない状態に陥り続けていることは確かだった。(……)しかしそれはそれとして、母親が買ってきたものを冷蔵庫に収め、それから味噌汁を作りに掛かった。母親は寿司やらフライの類やらも買ってきていたので、それをおかずとすれば炒め物はなくてもよかろうと、汁物だけを用意することにしたのだ。玉ねぎを切り分けて湯に投入し、出汁と味の素を振ると、煮えるのを待つあいだに椀に卵を溶いておく。手持ち無沙汰になると、鍋の前に立ち尽くしながら呼吸に意識を向けて精神の鎮静を図り、適当なところで味噌を溶き入れ、卵も投入して完成とした。
 その後、室に帰り、薬を飲んでおいてから歌を歌う。何曲も歌い呆けていると、身体が軽くなり、頭もすっきりとまとまったような感じがした。そうして、六時半頃から書き物に入る。一月一〇日の記事を仕上げ、一一日にも入ったが、途中で、まだ記憶の定かなこの日のことを先に綴ってしまおうと(定かに覚えていることを十全に綴るというのが、やはり楽しいのだ)一四日の記事に移り進めて、あっという間に八時である。瞑想をしてから食事を取りに行った。
 食事は、白米に玉ねぎと卵の味噌汁、寿司(ネギトロ及びイクラの手巻きと鉄火巻を少々)、カキフライ二つに厚揚げである。食べているあいだ、そこに存在していることそのものに集中できないというか、やはり言語が脳内に湧き上がってくるのが気にかかって仕方がない、というようなところがあったようで、テレビは大河ドラマを映していたけれど、特に印象に残っていない(居間にいるのは母親だけで、彼女は炬燵テーブルに就いており、既に食事は終えて食器は空になっていたようで、父親のほうは自治会の会合に出かけていた)。しかし、厚揚げの滑らかな舌触りを美味に感じたことを良く覚えている。醤油を垂らしたカキフライや、その厚揚げとともに白米を食べ、食後には、こちらの誕生日ということで、父親が昼間に買ってきてくれたらしいコンビニのチョコレートケーキを頂いた(忘れていたのでここに記してしまうが、(……)からも誕生日おめでとうとのメールが届いていたので、いつの間にやら二八歳にもなってしまっているが、歳相応に精進したいとの返信をしておいた)。食事を終えると食器を片付けてそのまま入浴に行った。
 入浴した頃には、薬剤もかなり効いてきていたのか、湯に浸かりながら自分の意識や感覚をあるがままに放置してリラックスしている、という趣があった。たびたび瞑目しながらゆっくりと時間を掛けて浸かり、出てくると既に一〇時前だった。室に戻って、瞑想を行う。この時も、呼吸をホームポジションとして据えるのだということは考えず、多方向に拡散して逸れていく思念の糸をそのままに放置し、遊ばせながらただ観察した。多分、それで良いのではないかと思う。言語が湧いてくるのが怖い、あるいは不安であり、ストレスであると言って、それを克服するには、やはり結局はそれをよく「見る」こと、殊更に見入るほどに注視するのでなくとも、受け流しながらも観察を働かせて定かに見ることのほかにはないのではないか、という気がしたものである。
 そうして、日記の記述に取り掛かった。記憶の残っているものからというわけで、一一日、一二日のものはメモも取ってあることであるし後回しとし、前日、一三日の記事である。五〇分ほど進めて一一時に至ると、一度中断して上階に行った。と言うのは、会合に行っている父親が帰ってきたあと寿司を食うのかどうかわからないという話が先に出ており、もし食わずに余ってしまうのだったら翌日まで保たせるのも難しいだろうから、こちらが食べてしまうと言ってあったのだ。それで確認しに行ってみると、鉄火巻は食べたようで、手巻き(シーチキンとレタスのもの)が一つだけ残っていたので、それをいただいた。醤油を垂らして食っているあいだに、テレビでは、あれは何の番組だったのか、ロシアにおける「殺人マニア」のことが取り上げられており、長年に渡って何と八一人も(一人を除いてすべて女性)を殺したというから凄まじいものである。その後、母親が昼に食べきれず持ち帰ってきたサンドウィッチもあったので、それも食べてしまうことにして、電子レンジで熱して自室に持って帰り、付け合わせのポテトと一緒にプラスチックの楊枝で突き刺して口に運びながら、ふたたび日記を書き出した。ものを食べてしまうと容器を上階に運んでおき、白湯を注いできて、それを啜りながら一三日の記事を進めて、仕上げた頃には零時も間近になっていた。そこからさらにこの日の記事をここまで書き進め、現在零時九分に至っている。
 そののち、歯磨きをしつつ本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読みはじめた。口を濯いできてからも、ゴルフボールを踏みながら読書を続け、じきにベッドに横たわって、眠気が兆してきたところで終いとした。一一五頁から一三三頁まで、時刻は一時半過ぎだった。ダウンジャケットを脱ぎ、戸口の横にある電灯のスイッチを切って、布団に潜り込む。入眠に苦労はなかった。

2018/1/13, Sat.

 五時台に一度目覚めた時、不安の高い精神の状態になっており、家鳴りなどのかすかな物音にもびくびくするような有様だった。いつも通り、自力で寝付こうとしばらく試みたものの無駄だったので、薬を服用して眠りに就き、一一時まで長く眠った。
 覚えていない時間についてはどんどん省略するが、一二時半から読書を始めている。ここでは、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionを新しく読みはじめた。HemingwayのThe Old Man And The Seaを読んで以来、長いこと英語に触れていなかったのだが、毎日は読めなくとも、ともかく英語に持続的に触れなくてはならないと意識を新たにしたのだ。一時を四分の一ほど越えるあたりまで読んだのち、作文に入っているのだが、これは多分、一二日のことをメモに取ったのではないか。その後、運動をしたのち、瞑想が先だったか支度が先だったかわからないが、外出の準備を始めた。古本屋に行くつもりでいた。売る本を一二冊、淳久堂の濃緑の布袋にぴったり収めて、家を発ったのが三時過ぎである。
 最寄り駅へ向かう。坂に入る。先日に見た時は、梢の上方のみが黄色く染まっていたが、この日はその時よりも時間がやや早かったのだろう、右手の壁の上にまで陽が射しこまれて、段の上に生えた樹の根もとまで明るみが届いている。横から張り出した緑色の葉叢が光を受けて細工めいているのに目を向けながら上って行き、駅に入った。ホームにもまだ日なたが広がっていて暖かく、東の彼方を見据えてもこの日は平衡が乱れる感じもない。回送の電車が入線してくる。向かいに停まったその手前、線路の隙間に生えたネコジャラシの草は、もう色も抜けて吹けば崩れるような軽い薄白さに染まっているが、左手、太陽のほうに目をやれば、陽射しを注入されたものがいくらか、琥珀のような飴色のような風情を帯びていた。まさしく、斜陽、という言葉の色だな、と思った。
 やって来た電車に乗って、乗り換えで先頭に行く。本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読み出す。過去に読書をしているあいだに緊張が高まるということがあったので、警戒する心が少々あったが、支障なく、むしろかなり集中して読むことができた。立川を越えて高架に入ると、西に落ち行く太陽が時折り建物の合間に現れて、一瞬、頁の上や銀色の手すりに散るその陽の色が、もうだいぶ濃く、茜の強さだった。
 (……)で降りる。空腹が頼りなかったので、荷物をベンチの上に置き、何か食うわけでないが腹を温めてはおこうと、ココアを買って飲んだ。それからエスカレーターを通ってホームから上がる。駅舎内に設けられた店舗の合間を通ると、アコーディオンのBGMが聞かれる。ヨーロッパの瀟洒な街路風アコーディオン、とありがちなイメージではあるが言葉を当て嵌めながら便所に向かうのだが、そうしつつ、何だかシニフィアンシニフィエが逆転しているようだな、と思った。通常の図式で言うと言語がシニフィアン=記号表現であり、それに包まれて伝達される意味=内実がシニフィエ=記号内容とされるはずだが、何か自分の関心を惹くものを感知するなり、ほとんど自動的にそれが言語に変換される自分にあっては、この世界の様相そのものがシニフィアン=記号表現であり、そこにおいて自分は、湧き上がってくる言語表現そのものをシニフィエ=意味として受け取っているかのようだと感じられたのだ。そんなことを考えながら用を足し、出ると改札を抜けて駅舎も抜けた。ロータリーのなかには電球装飾が仕掛けられており、植え込みの一角は緑や青にざわめき、樹の幹や枝に沿っても白や緑の光が連ねられている。そのなかに、これは昨年も目にして日記に書きつけた覚えがあるが、ワイヤーの類が縦に張ってあるらしく、どういった仕組みなのかその線上を上から下に、白い光が尾を引いて滑り落ちる演出が見られるのが、これがここの装飾の勘所だろうなと思われた。そちらに目をやりながら過ぎて、通りを渡ると、(……)に向かう。
 店前の百円均一の棚を見ると、大江健三郎の古い全集が何冊かあったのだが、入手しておいたほうが良いものなのかどうか、今のこちらには判断がつかない。なかに入ると、随分な盛況で、どの通路にも人の姿があるくらいだった。カウンターに本を持っていき、店員の女性に買い取りを頼む。相手が袋から本を出しているあいだに、今日は店主さんは、と訊くと、いまちょうど休憩に行っているところで、とのことだった。了解し、店内を見て回る。しばらくすると呼ばれて、買い取りは二八〇〇円になるとのことだったので、了承して書類にサインをした。
 ふたたび店内を見て回るのだが、見分しているあいだのことを時間に沿って再構成することは面倒なので、最終的に購入した品目を以下に並べる。

小沼純一編『高橋悠治 対談選』
・ミシェル・ヴィヴィオルカ/宮島喬・森千香子訳『差異 アイデンティティと文化の政治学
・須山静夫訳『フォークナー全集9 八月の光
・ハンス・エーリヒ・ノサック/香月恵里訳『ブレックヴァルトが死んだ ノサック短篇集』
蓮實重彦『帝国の陰謀』
檜垣立哉『瞬間と永遠 ジル・ドゥルーズの時間論』
・Edited by Amritjit Singh and Bruce G. Johnson, Interviews with EDWARD W. SAID

 フォークナーの『八月の光』は、岩波文庫にも入っており、もしかするとそちらも同じ訳者のものではないか、だとすればわざわざ古い全集を買わなくても良いのだが、と考えながらも、須山静夫というのはフラナリー・オコナーの訳業を(……)が褒めていた訳者でもあるので、ここで入手してしまうことにしたのだった。ノサックは、やはり岩波文庫に入っている『死神とのインタヴュー』を、確か古井由吉がどこかで「私の三冊」というような企画の時に挙げていたのが思い出されたこともあり、何となく読んでおいたほうが良さそうだなとの直感が働いた。蓮實重彦の『帝国の陰謀』は確か絶版だったはずなので、ここで安く入手できたのはありがたい。また、サイードのインタヴュー集成は、英語なのでいつになったら読めるかわからないが、個人的には掘り出し物である。ほか、塚本正則(この人は、ロラン・バルトの講義録の二冊目『<中性>について』を訳した人である)などが編集した『声と文学』という本もあって、これは以前淳久堂で見かけて面白そうだと手帳にメモしたものであり、それが二〇〇〇円で買えるというのは魅力的だったが、檜垣立哉と迷った結果、文学論の類よりも(そもそも自分は、文学論、文芸批評にそれほど興味があるのだろうか? ただ自分なりに作品を読み、楽しみ、生の糧にできればそれで良いのではないか?)「瞬間」というものに対する哲学的な関心のほうを優先することにしたのだった。七冊合わせて六八〇〇円になったが、買い取りの分と相殺して、実質四〇〇〇円である。
 店内を回り尽くして会計に至った頃には(……)が帰ってきていたので、会計の際に、いつの間にか年が明けてしまいまして、ご無沙汰しておりました、などと少々言葉を交わした。この人とは夏に一度会合を持っており、その後また、と言いながらも機会が得られずに今日まで至っているのだが、あちらはなかなか忙しいようで、こちらも来月後半くらいまではそれなりの忙しさが続く。二月後半にもなればいくらか時間が空くので、またお話しできたら、と話を振っておき、互いに時間ができたら連絡し合いましょう、ということになった。
 そうして退店、店の前の道路が妙に艶めいて見えたので、知らぬ間に降ったのかとも思われたが、これは気の所為だったらしい。駅に戻る。既に六時台だったはずで、空は暗く、駅前の電飾がビルの上の暗部を背景に際立っている。改札を抜け、ふたたび便所に寄ってからホームに降り、電車に乗った。車内では瞑目して心と頭を休めながら移動を待った。精神は落着いており、離人感というか、ある種夢のなかにあるような現実感の希薄さがあったようだが、それに対して不安を覚えることはなかった。
 立川で降りる。コンピューター用の眼鏡を買うつもりでいた。ひとまず先に飯を食うことにして、例によってラーメン屋((……))に向かう。入店すると、たまには味噌を食うかということでそれを選んで食券を買い、ネギのトッピングとサービス券の餃子を足して、近寄ってきた女性店員に注文する。カウンターの角に座り(右手の壁際には、母と娘の親子が座っていた)、買ったばかりの『高橋悠治 対談選』をちょっと覗いていると、すぐに品が届いた。割り箸を取って二つに割り、スープを少々啜ってから、野菜の下から麺を引っ張り出して一口食べる。かつてのパニック障害時代のように、食べているあいだに気持ち悪くなるのではないかという危惧が少々あったのだが、そのような体験は今までに何度もしてきているわけでもはや慣れっこであり、今は財布に薬も入っているのだから仮に症状が出たところでそれを服用すれば良いというわけで、物怖じせずに、ネギとモヤシと麺をまとめて口に含んでがしがしと咀嚼した。美味かった。途中、入口の戸をひらきっぱなしにしていった客があり、外の空気が吹きこんで冷たかったので、一番手近にいるこちらが閉めよう、ともぐもぐやりながら鷹揚に立ち上がり、のろのろとした動作で戸を閉ざしたのだが、すると調理場にいる店員の方から腰の低い礼の声が飛んできた。
 食べ終えるとちょっと息をついて、配られていた口臭用のタブレットを口に含み、余計な時間を過ごさず、入口のところで礼を告げて退店した。そうして表の通りに出て、道を渡り、電気屋ビックカメラ)に入る。エスカレーター前にあるフロアごとの案内を見て、パソコン周辺機器とあるから二階だろうと目星を付けて上がり、フロアを回ったところが、眼鏡のコーナーは見当たらない。もう一度案内表示の前に戻ると、地下一階に眼鏡売り場があるらしいので、そちらだったかと階を下り、一階からは階段を下った。そうして探すと、フロアの端に確かに区画がある。目当てのものを探せば、ブルーライトカット用眼鏡というコーナーが、小さなものではあるが設けられていた。三〇パーセントカットとか、四四パーセントカットとか、いくつか種類が揃えられている。果たしてこの種の眼鏡が本当に効果をもたらすものなのか疑わしく思う心もあり、また、三〇パーセントカットと四四パーセントカットで値段の変わらないものも見受けられて、何が何だかわからないのだが、ともかくもなるべく多くカットできるほうが良かろうと、上下に並んだなかの下方、四四パーセントカットできるという一番値の張る種類のものを買うことにした。色の種類は乏しく、鼈甲調めいたものか、緋色というか抑えた紅色のものかだったところ、後者を選んで会計をした。
 階段から地上に出る(出入り口のところをちょうど、女性店員が、箒を持って階段を掃除しているところだった)。高架歩廊に上がって駅舎に入り、改札を通って電車に乗る。帰路は(……)まで瞑目して頭を休ませ、それからまた本を読んだ。(……)に着いてからも、待合室に入って読み続け、乗り換えの電車がやって来るとそちらに移っても読書を続け、最寄りに至る。
 あとのことはよくも覚えていないし、面倒臭いので省略する。ただ、買ってきた眼鏡を掛けてコンピューターに向かい合ってみたところ、確かに神経症状があまり出ないようではあった。単純に、薬剤を飲みはじめて数日経ったので、こちらの症状が和らいでいるというだけのことかもしれないが、プラシーボだろうと効果があれば良いのであって、ひとまず掛け続けてみるつもりである。それでこの日は、九日の記事を完成させ、一〇日の記事を少々進めることもできた。

       

2018/1/12, Fri.

 現在、一月一七日に至っており、五日も前のことを思い返して綴るのも面倒臭いので、この日は下のメモをもってそのまま日記の内容とする。

六時台にやはり覚醒。覚醒感まし。ボディスキャン。入眠しかけたところで冴えたのでは? 薬飲む。
一〇時台。上へ。シチュー残っている。ルクレに温野菜。椎茸乗った。モヤシやニンジンなど。ハムエッグ焼くことに。母親、何とか言って外へ。のちに確認すると、車なく、外出していた。買い物だろう。食事、新聞、中国船が尖閣付近を航行と。接続水域を。スイスの『民間防衛』の話。前日に引き続き。スイス人には知られていないと。時代遅れのものと。日本では最近また売れているらしい。
皿洗い。風呂洗い。ブラシと洗剤持って隅々まで。ゆっくり。白湯持って下へ。まず前日のことを手帳にメモ。それから、コンピューター、八日の分を写していく。メガネを入手していないが、紙に書くとやはり時間が掛かって、日記が溜まる一方である。一時間強、一時になる。
運動へ。tofubeats掛ける。あまり根詰めないように、リラックスを心がける。そうして二時。Maroon5歌ってから、瞑想をして上へ。
アイロン掛け。母親、居間の隅でけん玉。全身運動とか。そんなわけはない。その後、食事。米、シチューの最後の残り。ゆで卵。米は払ってしまう。おにぎりにして。それで食後、新しく炊いておく。新たに袋をあける。水の温度をうまく調整しながらとぐ。
室。歯磨きしながら読書。ザマの戦いと漢。アッシリアによるユダヤの苦境。その後、着替えてしまい、書き物。九日を写す。神経症状というか、肩や背が妙なものに包まれるように貼られるようにこごってきたり、頭も曇る感じ。各部が固く。頭痛めく。目を閉じて白湯を飲みつつ、息をつきながら進める。また、背伸びしたり、首まわしたりたびたび。その後、四時過ぎて、この日のメモも。ここまで来ると、神経症状が強くなって、精神が落ち着かなくなっているのがわかるので、もう薬を飲んだ。
出発前に瞑想。上へ。便所。排便を待つ。(……)
五時直前に出発。ちょうど、犬を連れた婦人。挨拶。(……)に行くのと。いや、と。仕事だもんね。はい。別れる。雲、薄茜色。筋ができて、横に、そこから下に掃かれている。垂れている。空気、確かに寒い。腹の奥がやや震える。空間のなかで身体が頼りないような。歩をしっかり踏む。街道前、後頭部に痛み。ちくちくと刺すような。むしろ内側から。街道入って進むと、それが鈍く広がりのあるものに変わる。やはり言語が勝手に浮かんでくるのがストレス、というような感じがちょっとあった。音楽が繰り返されるのも。
裏路。中学生。一軒のところで。通常攻撃がどうとか。ゲームの話か。早口。空き地、保安灯なし。一、二個、端に。重機もなくなり、均されている。広々としたよう。
会館跡裏。皆さん、本当に歩くのが速いと思う。先に行くのを見ながら。
(……)である。駅前来ると、出店、屋台が結構出ている。人出もそこそこあるよう。横断歩道渡りながら、小銭の落ちる音。
勤務。(……)勤務中、一瞬、気持ち悪くなりかけたというか、不安が登ろうとしているのがわかる時があった。しかし問題なし。
帰り、電車。乗る。遅れている。瞑目してじっと待つ。最寄り。坂。同じところで見上げる。四日目ともなると差異を見つけられない。星はある。寒いが、昨日のほうが感じとしてはむしろ寒かったような。
帰宅、食事。言語学。ダイアモンド教授? クレオール。その後、ドラマ。『女子的生活』らしい。主題はともかく、わざとらしさ。一瞬ごとに。
入浴後、下階へ。白湯を飲みつつ本を読む。夜にPCはやはり良くないのだと思う。神経に。覚醒させてしまって。その後、瞑想。そうしてまた本を読む。英語も読みたかったが、気力が持たず、零時半過ぎで就床へ。

2018/1/11, Thu.

 やはり六時台に覚醒する。空気は寒く、額が冷たく、ボディスキャンを試みても身体がほぐれていかない。例によって薬に頼って入眠し、一一時に至って再度覚めると、ここで改めてボディスキャンを行っておいた。寝床を抜け出そうともたついているあいだ、何故かMr. Childrenの"Heavenly Kiss"が頭のなかに流れていた。起床は一一時二五分になる。ベッドから降りると背伸びをし、上体を左右にひねってほぐしておいてから、上階へ行った。
 食事はおじやに温野菜。スチームケースに入った野菜を電子レンジで温めているその合間に洗面所に入り、顔を洗ったり、乱れた髪を押さえたり、嗽を行ったりとした。食事をしながら新聞からは、永世中立・自主防衛国家スイスのシェルター事情についての記事を追った。冷戦も終わった今や供給過剰で老朽化が進んでいるという話だった。また、イスラエルがダマスカス付近に攻撃、との記事も読んだ。
 テレビに映る天気予報を見ていると、日本海側は雪模様らしい。東京は穏やかそのものの晴れ日だったが、週間予報を見るに鹿児島までもが雪の予測になっており、東京も今夜が今冬一番の寒気になるとの話だった。食器と風呂を洗うと、自室から湯呑みを持ってくる。ポットから白湯を注ぐ前に、ストレッチをしながらふたたびテレビを見やると、昼のニュースに、まずは商工中金がどうのこうのとこちらには良くもわからない事柄が報じられ、その後に、カナダが米国をWTOに提訴するとの話が伝えられた。
 自室に下りると、コンピューターを点けて、一月七日の日記をノートから写してブログに投稿した。その後、ここ数日の日記記事をEvernoteに作成するのだが、モニターを見つめているとやはり、頭の周りがこごってくるような違和感が生じる。それで運動をして、身体をほぐしてから、メモを取った。
 それで三時前である。上階に行って豆腐などでエネルギーを補給したのち、アイロン掛けをすると下階に戻り、外出の支度に入った。歯を磨きながら、手近にあった『蟲師』の五巻を取ってめくり、生まれ変わりの島の話と「眼福」の話をなおざりに読む。そうして口をゆすいで着替えたあとに、久しぶりに瞑想を行った。能動性を排除することを心がけつつ座り、意識の志向性の多方向への蠢きをしばらく感じると、出発である。
 四時を過ぎたあたりである。最寄り駅へ向かう。家を出てすぐの林の縁、塀のようになった石段の前に男子中学生が数人溜まっている。その前を通り過ぎると、それまで賑やかにしていたのが妙に静まり、背後から何やらひそひそとしたような調子の声が聞こえてくるので、何かこちらのことでも噂しているのではないかと自意識過剰を大いに発揮したが、烏の鳴き声が二、三、落ちてきて、すぐに忘れた。今冬一番の寒気が来ると言われるだけあって、さすがに空気は冷たい。寂れた小公園に立った桜の、冬枯れの枝の宙に静まっているそこから鵯の鳴きが立って、道を渡って向かいの一軒((……)の宅)の庭木にも仲間がいるようで頻りに鳴き交わしていた。坂に入るとふたたび寒気が寄ってくるが、見上げれば頭上に被さる梢の上方のみが陽を当てられて黄色に染まり、塗り直されたようになっている。
 駅に着き、ホームから東の丘を眺めれば、老いて弱いような、かすかなような色の山にもまだ陽の色が全体に掛かっている。見つめていると、ふらりと来そうになってそれで前方に向き直った。線路の向こうは沿道を挟んで段の上に梅の樹が立ち、さらにその先は人家の敷地になっているが、そのどこかから、虫の羽音のような鳥の声が繰り返し散って立ち、なかにピアノ線の一瞬の煌めきを思わせるような澄んだ声も差し挟まるのは、どうも同じ鳥の違う鳴き方らしい。
 電車に乗って(……)へ行く。駅舎の外に出ると、東の空の際にピンクと紫の色味が仄かにくゆっており、反対側、西南を向けば残光が見えて、図書館のビルにもその様子が映りこんでいる(おそらくそのような映像効果を狙って設計されたものなのだろう)。西の山の色がいつになく締まって、深く鮮やかな青に見えた。
 図書館に入ると、雑誌の区画から『現代思想』をちょっと覗く。現代思想の総展望というような特集で、柄谷行人中沢新一大澤真幸といったようないかにも日本の「現代思想」感あふれる名前が見られる。『思想』や『現代思想』誌は、いつも確認するだけはするのだが、借りて読んだことは一度もない。文芸誌にしてもそうなのだが、自分はなぜか、雑誌というものをあまり好んで読まないのだ(一応買って手もとに置いてはある『子午線』、『早稲田文学』、『ゲンロン』などの雑誌も、一向に読みはじめる気配がない)。それからCDの棚を見に行ったが、Suchmosはまだ借りられているようで見当たらないので、それでは今日はCDは借りなくとも良かろうと判断し、場を離れてトイレに行った。用を足してから上階に上がると、新着図書をちょっと眺める。それからフロアを端のほうまで渡り、文庫の区画から目当ての、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を取ってくると(相沢くんらとの会合で今度はこれを読むことになっている)貸出を済ませて、ふたたび新着図書の棚の前に立った。ドリンダ・ウートラム『啓蒙』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)、谷崎昭男保田與重郎』(ミネルヴァ書房)、『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』(岩波文庫)、マルク・オジェ『非 - 場所』(水声社、「人類学の転回」シリーズ)、ウィリアム・マガイアー『ボーリンゲン』(白水社高山宏編纂の「異貌の人文学」シリーズ)、『イスラームのロシア』、ユージン・ローガン『オスマン帝国の崩壊』が手帳にメモされた書名である。法政大学出版局・叢書ウニベルシタスの本は最近結構入荷されており、これはありがたい傾向である。また、「異貌の人文学」シリーズは、今回この著書が新刊ということで入荷されたのだろうが、シリーズ内の過去の作品では、エルネスト・グラッシ『形象の力』とアンガス・フレッチャー『アレゴリー』あたりをとりわけ読んでみたいと思っているので、これを機に過去作のほうも揃えられないかと期待しているのだが、多分そうはならないだろう。
 その後、哲学の棚、仏教の棚と移行して、『現代坐禅講義』というような題の本をちょっと覗いた。坐禅だとか瞑想関連について、並んでいるなかではこの本が一番まともそうで、いずれ読んでみたいと思っている。そうして、借りるものを借りたので退館すると、東の空から先ほどの紫色は消え失せ、青さが空の端まで追いついており、西の山影は黒味を増して襞がなくなっている。暮れた空のなかで残光はかえって明るく澄んだようだった。
 駅に入り、ホームに立ちながら瞑目して電車を待つ。向かいにある居酒屋の室外機のごうごうという音が耳を占領する。電車に乗っても席で目を閉ざしたまま休み、着いてもすぐには降りずにちょっと休んでから、職場に向かった。
 労働を終えて職場を出た途端に、身を包む空気の質が一瞬で、しかし一挙にぱっと切り替わるのではなく高速の推移(グラデーション)の形で冷えて行くのがわかり、確かに空気の冷たさが違うな、と思われた。電車に乗る。やはり瞑目して到着を待つ。最寄り駅から坂に入ると、昨日と同じ場所で空を見上げる。暗さが増しているように思われ、星は相変わらずあるものの、樹々や家の屋根と空の境もほとんど明らかでない。バッグを脇に挟んで、両手をポケットに突っ込みながら帰った。
 帰宅して、ストーブに当たっていると、マルグリット・ユルスナール『黒の過程』のなかに、このような、火に当たって何か物思いを巡らすような場面があったなと記憶が想起された。重厚というほかないあの物語のなかで、しかし読んだ当時、一番印象に残ったのがなぜかそのようなささやかな一部分だったのだが、この時、具体的な言葉としては思い出せなかった。引いてみると、次のようなものである。

 (……)寒さがあまりにも厳しくなると、生徒と哲学者は、暖炉の煙突口の下に閉じ込められた大きな火のそばによるのだったが、そのたびにゼノンは、これほどの安楽をもたらす火、灰のなかのビール壺をおとなしく暖める飼い馴らされた火が、同時に天空を駆けめぐり炎と燃える神でもあることに驚異の念を覚えるのであった。(……)
 (マルグリット・ユルスナール岩崎力訳『黒の過程』白水社ユルスナール・セレクション2)、二〇〇一年(Marguerite Yourcenar, L'Œuvre au noir, Editions Gallimard, 1968)、161)

 改めてここだけ抜いて読んでみると、さしたる印象も与えないような部分に思われるのだが、やはり物語の流れのなかで読んだ時には何かが違ったのだろう。
 食事のあいだは両親とのやりとりが少々あったのだが、面倒臭いので書くのは省略する。その後も大した出来事はなく、入浴し、出ると瞑想をして、職場から貰ってきた菓子を食いながら読書をしたのちに、一時に就床した。

 

2018/1/10, Wed.

 例によって五時過ぎに寝覚めし、ボディスキャンを試みるものの眠れず、薬に頼る。薬の作用なのかドーパミンの作用なのかわからないが、ここのところ夢を大量に見ている。一〇時五〇分に覚醒。
 食事を取りながら新聞。韓国、慰安婦合意を巡って、「自発的な真の謝罪」を求める、と。風呂を洗ったのちに室に戻り、コンピューターを立ち上げて、神経症状を警戒しながら、不安とドーパミンの関係などについてインターネットを検索した。その過程で、PC用の眼鏡を使わずとも、コンピューターの設定でブルーライトを削減することができるということを知り、四〇パーセント削減の設定を施しておいた。
 一二時半から古井由吉『白髪の唄』の読書。薬によって頭もまとまっていたようで、文がかなり明晰に追えたらしく、また、呼吸も軽いものだった。そのうちにゴルフボールを踏むのも飽いてベッドに転がると、窓の向こうに覗く空は青々と明るく、雲はちょっと粉を零した程度のものしかない。ガラスの傍に掛かった朝顔の、とうに枯れ尽くした蔓のその縁が光を帯びており、正面、西の窓のほうに視線を移せばカーテンが明るく陽をはらんでいて、全体として大変に寛ぎの気分を覚えた。
 一時半過ぎから書き物。紙のノートに日記を記す。そののち、運動を行うが、腹が空になっており、胃の動く音が聞こえるくらいだったので、体操と柔軟運動のみであまり筋肉に力を入れるようなことはしなかった。上階に行って洗濯物を取りこむ。ベランダに日影は通らず、風が冷たい。その後、ハムエッグを焼いたり、汁物の残りなどで食事を取る。食事中にはまた、言語が自動的に脳内に湧き上がってくるのが微細なストレスとして感じられたようである。しかし、このように不安やストレスが小さなうちに気づき、それを微分して処理するというのは精神衛生にとって良いのではないか(と言うか、ヴィパッサナー瞑想の方法論というのはそういうものなのではないか)。
 タオルを畳み、身体性に目を向けながらアイロン掛けをする。その後、肌着なども畳んでおくと、ハムと卵を焼くのに使ったフライパンを掃除して、下階に帰った。メモを取っておくと四時になったらしい。勤務に出発するまでにふたたび読書をしたが、この時、眠気があったようである。それで、久しぶりに、五分足らずではあるがその場でじっと瞑目して瞑想めいた振舞いを取った。イメージや声が無秩序に流れて行くのが感じられたらしい。
 着替えて上階に行くと、靴下を替えて出発した。五時前である。坂を上っていると、弾くような鳥の声が聞こえる。街道まで出て、正面から吹きつける風に煽られながら進む。一軒の窓に目が留まり、歩を進めるにしたがって移って行くその色の変化を見つめて過ぎる。なかに西の残照の反映された時間がちょっとあった。
 裏通りに入って歩いていると、前方を行く二人連れの、一方の衣擦れが静かな道に響き続ける。運動服用の、輪郭の緩く太めのものを履いており、足を送り出すたびに左右の布地が擦れ合うのだろう。右手の家並みの合間から覗く雲を見かけて、数瞬のうちに、アザラシのようだとか、毛筆で半紙に押した点のようだとか、太くふさふさとした眉のようだとか、三種類のイメージが頭に展開される。そちらを見やりながら行くと、表に折れる横道の角で、二階家の上の窓と下の道とで会話を交わしているところに出くわす。二階の窓から顔を出しているのは声の大きな老人であり、杖を突いて道から声を上げているのも年嵩の老女である。そちらに目を向けて通り過ぎながら、このような何でもない場面が目に留まり、しかもそれが頭のなかで記述されて記憶に残されるとは、と思った。
 森のほうに続く坂になった辻の手前で、犬のような動物の姿が見られた。誰かが連れているわけでなく、姿態を定かに見分けられる距離に来る前に、辻のほうへ退いていき、そのまま坂上のほうに上がって行った。道の交差部まで来て動物の行ったほうを見やったのだが、やはりかすかにしか見えない。まさかとは思うが、犬ではなくて、鹿の子だったかもしれないと思った。以前、電車に乗っている時に、森の縁のちょっとひらいた場所に鹿が佇んでいるのを一度のみ見かけたことがあるので、山のほうから降りてこないとも限らないだろう。
 さらに進んで一軒の塀上に、蠟梅が黄色く咲いているのに目をやって、一年前にもこの同じものを眺めて日記に書いたなと思い出した。
 勤務を済ませると電車の発車が間近だったので走り、乗り込むと扉際に立って瞑目した。最寄りで降りて入った坂の、前日と同じ場所で同じように空を見上げると、昨日と似た色合いだがより暗くなったように感じられた。坂は静かで、葉擦れが一瞬たりとも立たず、ちょっと立ち停まって耳を張ってもやはり聴覚に入ってくる音がない。歩みを再開すると、木屑を踏む足の音が定かに響く。平ら道に出ると、顔に前から冷たさが寄せてくるが、風というほどのものでなく、耳が痛くなるような冷気もなく、と何でもない身体の感覚を言語化して確認しながら不安が生じてこないのに安息を覚え、自己とこの上なく一致しているような気分になった。
 その後のことはメモを見てもよく思い出せないので省略する。

2018/1/9, Tue.

  • 朝方、例によって寝覚めする。6時半なので、一応覚める時刻が遅くなってはいる。心身に覚醒感を帯びており、直前まで夢を見ていた。ボディスキャンを試みたもののうまく行かず、やはり足が冷たく、眠気もやってこないので、薬の助けを借りて寝つく。それで11時まで寝てしまう。睡眠は零時半から11時。
  • 食事はおじや。新聞からは旧ユーゴ解体の際の内戦を処理した国際司法裁判所の人のインタビュー記事を読む(ようやく新聞が読める頭になった)。室に戻ったあとは、ブルーライトを警戒しつつ、インターネットでドーパミンなどについて調べる。統合失調症の幻覚や妄想というのはドーパミン神経の過剰な働きによるものではないかという説があるらしく、これは自分としても頷ける話である。実際、先日の自己(世界)解体騒ぎの時の自分の精神は、明らかに過剰に覚醒していた。その過覚醒をもたらした直接的な要因は、やはり深呼吸のしすぎだっただろうとこちらとしては推測する。何しろ瞑想時のみならず、生活内のほかの時間のあいだにも、呼気をすべて吐ききり、吐ききった先で何秒か止める、というような呼吸を実践していたのだが、ドーパミンは物事に集中する際に分泌されるものであるらしいところ、これによって自分の頭は一時的にドーパミンが過剰になってしまった、要は「ハイにキマって」しまったのだ。身体が軽く、滑らかになる感じとか、思考の明晰さとかはその作用だったのだろう。そして、不安障害である自分は不安の意味素に非常に敏感だから、覚醒しすぎた頭がそれまで定かに見えていなかったような不安要素を発見していき、さらに、ドーパミン(交感神経)が過剰でセロトニン(副交感神経)が追いついていない状態だから、不安は覚醒作用と結びついて雪だるま式にふくれあがっていき、ついには発作的な妄想の様相を呈した、というところだろうと思われる。今の自分はおそらくまだ、ドーパミンが優位な神経バランスが残っているだろうから、薬剤で交感神経の働きを抑えつつ(実際、スルピリドにはドーパミン抑制効果があるらしい)、そのバランスを適したものに調え、保っていくことになるだろう。
  • 何故そんなにも呼吸の実践をがんばってしまったかというと、これは明らかに自分の、常に万全の体調でありたいというような願望(これこそまさに我執である)から来ている。そして、なぜそんなに万全さを求めるかと言えば、不安が怖いからであり、なぜなら不安は自分の場合、最終的には発作へと帰着するものだからだ(そしておそらく、自分にとってパニック発作は、象徴的に、「死」「発狂」といったような、「不可逆的に外へ出て戻れなくなること」というような意味を含んでいる。「死」はともかくとしても、そのような元に戻れないような急激な、一挙の変化などこの世にはまずあるまい、と理性的に考えても無駄である。なぜなら最初のパニック発作そのものが「不可逆的な変化」として体験されてしまっているからであり、「一瞬の不可逆的な変化によって戻れなくなること」がこの世に存在するということを、自分の心身は知ってしまっているからである。発作体験が強固なトラウマとなっているわけだろうが、これを克服する方策はひとまず二つ考えられる。一つは、「あの発作は不可逆的な変化などではなかった、パニック障害によって自分は大して何も変化していない」という認識=理屈=物語を新たに作り出すことだが、これは端的に言って不可能だろう。もう一つは、パニック発作と「不可逆的な変化」という意味の連結を現在時点において切り離すことだが、これは結局、上と同じことを言っているのか? ともかく、不安は単なる不安にすぎず、それはそうそう発作につながるものではない、よしんばつながったとしてもそれで自分は本質的にどうにかなるものではないという考えのもとに、不安を受け入れ、それと共存していく、ということだ。こうした認知を自分はとうに構築できているつもりでいたのだが、やはりそうはうまく行っていなかったらしい。ここにおいては(呼吸の存在を中核に据えた)ヴィパッサナー瞑想の観察 - 受け流しの方法論がやはり有力な手法となるだろう。我々不安障害者は不安から逃れることは絶対にできない、しかし不安とは、そもそも逃れる必要すらないものなのだ。
  • 12時ちょうどから書き物を1時間強。その後、運動をして澄んだ気分に。洗濯物を取りこみに行く。大変に暖かで気持ちのほぐれる陽気なので、洗濯物を入れたあと、ベランダに溜まった日なたのなかに座りこんで、日なたぼっこをする。畑のほうにはカラスが二匹おり、一匹は父親が育てている大根の葉をどうもついばんでいるようだった。じきに二匹一緒に飛び上がって、近くの電柱及び電線の上に移る。その後、取りこんだものをたたみ、またシャツ類にアイロンをかけようとしたところが、思いのほかに乾いていない。それで三枚をまた外に出し、きちんと陽が当たるように二段に分けておいた。
  • その後、豆腐などで食事を取り、室に戻ると読書、古井由吉『白髪の唄』である。338頁に、藤里の空襲体験が短く語られており、そこに、「(……)人に棄てられた防空壕の中へ、お父さんには申訳ないけれど、火が吹きこんだら三人一緒に死にましょう、と飛びこんだきり、周囲のことは知らなくなった。妹の息のほかは、何も知らなくなった」とあるのだが、この「知らなくなった」という言い方はちょっとすごいのではないかと思った。
  • 三時に至ると外出の支度をして、薬を飲んで上へ行った。母親、帰宅している。イスについて窓のほうを眺めやり、自分の知覚を確めるようにしていると、川向こうの空に煙が一瞬、薄く吹き上がって、すぐに消えてそのあとが続かなかった。
  • 三時十五分頃出発。何を見ても不安、というような心の調子が、底のほうのかすかなものだが感じられ、街道に出て東の果てに澄んだような白い雲が大きく出ているのを見ても、知覚の確かさを疑うような心があったようだ。まだ陽の残った時刻なので、表通りをそのまま行く。車道を挟んだ向かいから、立ち話をしている婦人の連れた犬が、こちらに向かって吠えてくる。工事の続く会館跡の敷地を覗くと、奥のほう(裏通りのほう)が結構深く掘られていて、そこに入ったショベルカーの運転席も見えないくらいだった。
  • 駅傍の、西から陽を受けて明るんだマンションに目が留まる。常にない風合いを感じたようで、その感触を言葉にしようと試みて、白々、という語が出たがこれは違うなと払われたあと、定かなものが続かず、明るくきれいなのは確かなのだがと思いながらも言葉が成らずに、意識が逸れた。T字路の横断歩道で止まる。頭に、Suchmos "STAY TUNE" が流れている。渡って職場のほうへ向かうと、喫茶店から女性店員が出てきて、通りを渡りかけ、半分行って車線のあいだで止まる一方、進むこちらの目の前には横道から女性が一人、唇の赤い人が出てきてこちらと目が合い、ふっとそらして背を向けると、先のほうにいる二人の連れ合いだったようで横に並んで合流していた。と、このような「何でもない」、実に意味の薄い情景(?)が記憶に定かに残っており、それを容易に記述できるというのは、どういうことなのだろう? また、今この部分を記述しながら、一応「こちら」という形で一人称を用いてはいるものの、実質三人称と変わりがないような、カフカの小説に言われることの逆で「こちら」を「彼」に置きかえても何の支障もないような、自分自身を中心として書いているのではなくてその場にあった動き(意味の浮遊)の一部分、一断片として(その場に包含されたものとして)書いているような感じがしたのだが、この点、どうだろうか?

 紙のノートに記したのは上の部分までである。ここからはキーボードに戻り、現在は一月一三日土曜日もそろそろ終わろうという時刻になっている。この日の生活の続きを記すと、手帳のメモには、「勤務、最初、緊張」とあるのだが、これについてはよく覚えていない。労働を終えて職場を出て、駅舎に入るまでのあいだ、駅前を行き交う人々の各々の流れだとか、ロータリーの内に灯っている電飾の灯りだとか、そこにある動きのそれぞれがくっきりと把握されて、本当にこの世界が意味の「揺蕩い」として感知されるような感じがした。駅に入り、電車に乗ると、席に就いて瞑目する。発車しても目を閉ざしたままでいると、電車が空気を切って走るその音がやけに大きく、烈しく聞こえて、まるで大波が寄せているような、海のなかを突き進んでいるかのようなイメージが脳裏にもたらされ、目をひらいているよりもかえって走行の速さがよくわかるようだった。
 最寄り駅で降り、坂を下る。出口あたりで見上げると、空は澄んで星もあるが、青いというよりは鈍いような色合いである。帰宅して食事、テレビは『クローズアップ現代』。吉野源三郎君たちはどう生きるか』の最近のブームについて。高橋源一郎が画面に登場したところで、その名を口にすると、父親が、この人がそうなのかと受け、何か前に読んだけれど何だったか、などと洩らしていた。それを機に会話の生まれそうな気配になったので、俺があげた本はまだ読んでいないのかと訊くと、まだだと言う。いまちょうど、テレビでも取り上げられていた『君たちはどう生きるか』を読んでいるところだと言う。こちらのプレゼントしたヘミングウェイ老人と海』はどんな話だったかと尋ねるので、もう長いこと漁に出ながらも釣果のない老人がおり、仲の良い子どもの釣ってきた魚などを食って暮らしていたところ、ある日の漁で大物が掛かって三日ばかり海の上で奮闘することになり、と筋を話しながら、その先の、大魚との闘いに勝ったは良いものの結局鮫の襲撃を受けて得たものを喰われてしまう、という結末が思い浮かび、これ以上話すといわゆる「ネタバレ」になるなと思って留まった(もっとも、「ネタバレ」をすることで面白くなくなる小説というのは、読む価値のない作品だということを自ら証すものだと思うが)。父親は、読んでみるよ、と言っていた。そこから、どのような文脈が挟まったのだったか忘れてしまったが、本の読み方や本を読んでいる時の感覚というようなことに話が及び、読んでいると、「ふっと来る」瞬間があるでしょう、それは自分自身の過去の記憶かもしれないし、あるいはその本のなかで前に読んだ部分かもしれないけれど、とゆっくり、言葉を丁寧に扱うようにして話し、だから本というのは、まっすぐ、直線的に読んでいくものだけれど、そのなかで色々な部分が色々なところに繋がっている、言わばネットワークを成しているのだ、というようなことを語った(要は、書物というのは「テクスト」なのだということを言ったのだ)。
 その後、テレビ番組は『グッと! スポーツ』に移って、レーサーの佐藤琢磨が出演する。一回のレースでは三時間、高速で走りっぱなしになる、しかし人間そんなに集中力を保てるものでないから、どこかでうまく力を抜く時間を作らなければならない、自分たちにとっては最も高速で走っている直線コースの部分がそれなのだと話していた(しかしその直線コースでのリラックスというのは、僅か数秒間の話である)。また、レースを終えるとほとんど軽い脱水症状のようになり、一回走れば三キロ体重が減ると言っていたのも、具体性があって興味深く聞かれた。
 食後、入浴中は、瞑想について考えた。まず、瞑想の大別としてサマタ瞑想というものと、ヴィパッサナー瞑想があるらしい。前者は「止」の瞑想と呼ばれ、後者は「観」の瞑想とも呼ばれるようだが、要は集中性のものと拡散性のもの、という風にひとまず理解しておきたい。ずっと昔にインターネットを検索して得ただけの情報なので、確かでないが、流派によって、観察をするのに必要な集中力を養うためだろう、サマタを訓練してからヴィパッサナーに移るものであるとか、最初からヴィパッサナー式でやるものだとか、ヴィパッサナーをやるにしても補助として「サティ」の技法、すなわち気づきをその都度言語化する「ラベリング」を用いる派、用いない派と様々にあるようだ(ラベリングは必須なのかとか、ラベリングをすることに囚われてもまずいとか、それは自転車に乗る際の補助輪のようなものに過ぎず、慣れてくれば不要になるとか、当時覗いた2ちゃんねるのスレで色々と議論されていた覚えがある)。それはともかくとして、集中性/拡散性の二分を、能動/非能動(ここではひとまず、「受動」という言葉は使わずにおく)と読み替えてみたいのだが、そのように考えると、サマタ瞑想は一つの対象に心を凝らし続ける能動性の瞑想であり、それに専心するとおそらくドーパミンがたくさん分泌されるのではないか(そして今回、呼吸法の形でそれをやりすぎたためにこちらの頭は少々狂った)。対してヴィパッサナー瞑想は、能動性がほとんど完全に消失した状態として考えられる。以前、瞑想とは「何もしない、をする」時間なのだと考え、日記にもそんな風に記したことがあったと思うが、これはおそらく正解なのだと思う。したがって、ヴィパッサナー瞑想を実践するにあたっては、多分、身体を出来る限り動かさず、静止するということが重要なポイントになると思うのだが、そのように能動性を排除したところで何が残るかと言うと、感覚器官の働きや、心のなかに自動的に湧き上がってくる思念などの、「反応」の類である。そして、ヴィパッサナー瞑想は、能動性を退けたからと言って、純然たる受動性に陥ってこれらの反応に対して無防備に晒されるがままになることを良しとせず、それらに(比喩的な意味ではあるが)視線を差し向けることによって(視線=眼差しには(どのようなものであれ何らかの)「権力」(力)が含まれている)、それらと静かに対峙し、それらの反応をただ受け止め、受け流すことを目指すものである。まず能動性を消去し、その次に完全な受動性のうちに巻き込まれることをも拒むその先に、能動/受動の狭間において露わになってくるもの、それが「実存」ではないかと、この時風呂に浸かりながら考えた(ここでは「現実存在」という言葉から、実存主義的な意味合いを剝ぎ取ろう)。あるいは「存在性」と言っても良いと思うのだが、要はただの「ある」という様態がそこに残る/浮かび上がってくるのではないかと思ったものであり、そこで中核となるのがおそらく呼吸、及びそれと結びついた身体感覚ではないか。そして、「悟り」というか、ヴィパッサナー瞑想が目指している境地というのは、このただ「ある」の様態、「存在性」の様態を常に自らの中心に据えて自覚しながら生きる、というような生存のあり方ではないかと思ったのだが、この議論がどの程度確かなのかはわからない(國分功一郎が取り上げて最近とみに知られるようになっていると思われる、「中動態」というものと、このような議論はやはり関係があるのだろうか?)。
 その後のことは、メモを見ても大して思い出せないので、省略する。

2018/1/8, Mon.

  • 例によって深夜に覚める。5時前。どうも、発作で覚めたのでは、という感じがあった。薬剤の効果でブロックされていたのだろうが、何らかの神経症状の名残りらしき気配があったのだ。しばらく、寝つこうと試みる。ボディスキャンを行うが、手がうまく温かくならない。それで薬を飲み、床に戻ると、今度は途端に、手のみならず背まで温まる。そんなに一瞬で効くものだろうか?
  • 幻聴を聞く。何と言っていたのかは聞きとれなかったが、右耳の至近で何か、二フレーズほどささやく声を聞いた。中世のキリスト教徒だったらまちがいなく、天使か悪魔のそれだと思ったに違いない(どちらかと言えば、天使のほうを思わせる声だった)。それで意識が覚めたので、入眠時の幻聴の強いものだったのだろう。その後また、幻覚めいたものも。と言って、布団から手を出したつもりが、布団の上にその手が見えず、透明になっている、という程度のもので、正気づけば手はもちろん布団のなかにあるままだった。その他、明せき夢も見る。学校にいた。今、俺が夢の中にいるのはわかっているのだが、さてここからどう抜けだせば良いのか、などと考えていたようである。
  • 今のところ、こうした幻覚類は意識レベルの低くなった時に限られているようで、半ば夢のようなものに留まっているのだが、これが覚醒時にまで広がってくると厄介である。
  • 9時頃覚めたが、目をつぶってまた幻覚が出てくるか試したり、腰をもぞもぞさせたりして、床を抜けたのは9時40分頃だった。
  • 上階へ。(……)前日の味噌スープを温める一方、ハムと卵を焼く。卓へ。新聞。トランプが暴露本に対してどうのこうのとあったが、これはどうでも良い。ドイツの大連立交渉について読む。それから、日本の財政政策について。どうもやはり文の意味が読みとりづらい。何度も同じところをなぞってしまう。頭が多動的なままなのではないか。
  • 自分の頭は今や、常に何かに気づいていないと(集中していないと)済まない、というような感じになっているらしい。メタ認知を鍛えすぎてしまったのだろう、常に自分の意識の志向性が見えてしまうのだ。それが過剰に暴走してしまったのが今回の件なのだろうが、拡散する志向性が最終的にいつも戻ってくるホームポジションとして、呼吸を据えるのが良いのではないか。なぜなら呼吸は常にそこにあり、身体性と密に結びついているからである。自分の場合、今まではそのホームポジションが言語になっていたような気がする。脳内の言語を見つめすぎ、またあまり野放しにしすぎたために、その自己増殖と浸蝕を招いたのだ。今後は、うまくこの言語を飼いならしていかなければならないだろう。
  • 食後、洗い物をすませ、風呂も洗う。やはり心身に以前よりも落ちつきがないというか、静まり、というものがない気がする。意識してゆっくりと動作することはできるのだが、そうしながらも、何かに追い立てられているような感あある(内から)。歩行禅でもやったほうが良いのかもしれない。そう思い、部屋から湯のみを持ってきて白湯を注ぎ、戻るあいだ、丁寧な動作を心がけた。
  • ここまで書いて、11時半である。起き抜けには白く閉じた空だったが、今しがた、ちょっと陽が出ていた。
  • 古井由吉『白髪の唄』を読む。まず、先日読んだなかから、書き抜きをしておく箇所を探し、275頁の、「狂うのと、人心地がつくのとは、似ているのかもしれない」という、最近のこちらには何だか身につまされるような部分をチェックしておく。また、301頁に、紅い実のついたイイギリらしき枝を拾って持ち帰るという小挿話があり、そこに、「冬に感じた身体がしきりにその曖昧を求めていた」とあってなかなか面白い表現ではないかと思っていたところが、チェックする段になって「曖昧」でなく、「暖味」であるのに気づいた。これだと尋常だが、どうせなので書き抜くつもりである。ほか、313頁、「人への想像だけがゆらゆらと舞っては消える空部屋」という表現も少々気に入られた。また、この一節を含む一段落も妙だと言うか、いくつかの事柄が接続されているのだが、それが話者の中でどのようにつながっているのかはわからない。同様のことは『野川』の最後、それまでのエピソードをすべて並べた一連の部分でも起こっていたはずで、そこではわけのわからないカタルシスというか、大団円の感のようなものが生まれていたのだが、何かの論理が隠れているらしいがしかしその姿はおそらく読者には見えないようになっている、というこの見通せなさは、多分ムージルから学んだものの細かな応用なのだと思う。
  • 読書中、西窓のほうから薄陽が射して、本の頁の上に斜めに渡る。細くひらいたカーテンの隙間のレースにこされて、光と影とがそれぞれ何すじか、淡く頁を横切って、ところによって文字は光にちょっと輪郭をふくらませるようになり、また行間に紙の表面のきめがかすかに現れる、とこのように(無論、このままではないが)、見たものが自ずと描写されるのを感じながら、自分の頭は今、正常だな、前と同じ働き方をしているなと思った。
  • 1時すぎまで読み、その後、PCは避けたかったので、携帯で(……)のブログを読んだ。それから、運動である。身体を動かすにはやはり音楽が欲しかったので、モニターをあまり見ないようにしながらPCを立ち上げ、tofubeats "WHAT YOU GOT" を流したのだが、音楽が頭に響く感じがしたので結局、すぐに消した。2時まで運動し、その後、上へ。
  • 読書中、窓ガラスを叩く音がして、雨が降り出したことに気づいていた。朝と同じ汁物に豆腐、卵でエネルギーを補給する。食後、味噌汁くらいは作っておいたほうが良かろうと、料理にかかる。ワカメと豆腐、ネギの簡単なものである。その後、米も新しくといでおく。
  • 料理をするあいだなどは、先ほど考えたように、ホームポジションとしての呼吸を意識した。一方、頭に言語が浮かんでくるのが不安になったり、自分が思ってもいないようなことが言語として浮かんできたりするのも特に困惑させられるのだが、しかしこれは気にせず、受け入れれば良いのだろう。ヴィパッサナー瞑想が教える通り、言語や思念とは所詮は心の反応にすぎず、端的に言って、去来するもの=次々と来ては去っていくものである。自分はどうやら、言語を実体化しすぎていたようだ。ある一つの事柄に対して、相反する二つの思いを抱くこともあるだろう(と言うか、そうしたことはむしろありふれているはずだ)。それどころか、もっとたくさんの、複雑に絡み合い、矛盾し合う反応を覚えることもあろう。今回自分は、不安障害的な性向が手伝ってか、それらの断片化された反応群のあいだに整理をつけられず、思考の統合を失いかけ、恐怖を覚えたらしいが、「自己」という点から考えると、それらの混乱した反応をすべて合わせた総体こそが自己である(これはおそらく、「自己」など存在しない、と言っているに等しい)。人間の反応、思考、感情は、すさまじく複雑で、自分は言語と密着しすぎたがためにその複雑に襲われてしまい、頭をやられかけたのかもしれない。要は、主体とは、散乱させられたもの[﹅9]としてある。その散乱した断片群のなかには、我々が目をそむけたいもの、抑圧したいもの、自分の一部として認めたくないものが当然含まれている。「悟り」という概念をひとまず、それらをも等しく受け入れていく態度として考えよう。そのようなある種の平等主義において、(はじめて?)「自由」が発生するとも考えられる。なぜなら、現実に「自己」「主体」として生きている我々は、何らかの行動をしていかなければならず、我々のうちに生起する反応群がいかに込み入ったものだろうとも、そのあいだにおいて何らかの判断を下していかなければならないからである。言いかえれば、自分のうちに発生した無数の相矛盾する反応のうち、我々が我々のものにするのはどれなのかを、我々は具体的な場において判断し、選択し、決定することができる。その判断(吟味)、選択、決定は、時には非常に責任を持たれた理性的なものでもあろうし、時にはただ何となくの、まるで無根拠なものでもあるだろう。具体的な瞬間ごとのそのような決定において、かろうじて、仮に作り上げられるもの、立ち上げられてはすぐにまた散乱していくもの、それが「主体」ではないのか。「主体感」とはそのようにして、その都度仮に確保されるのではないか。
  • すべての先行的な観念を相対化・解体し(今のところ、「悟り」をこのようなものとして考えておきたいが)、自己のすべての反応を受け入れる「悟り」の境地にあっては、判断・決定の選択肢は非常に広いはずである。極端な話、そこにおいて主体は、その都度いかようにも姿を変えることのできる「流体的なもの」として現前するのではないか? しかし、理論的にこう考えたとしても、先行的な観念が解体されつくしたとしても、現実的には、主体のその都度の選択をある程度規定し、方向づける具体的な条件が残っているだろう。一つはその場=時空における意味=力の配置のネットワークであり、一つは直前の時点から引き続く状況の文脈であり、一つは主体がそれまでに積み重ねてきた経験の記憶への照会である。以上の記述を踏まえて、ひとまずここでは「悟り」を次のように定式化しておきたい(もう、勤務に向かわねばならない)。すなわち、極限的な自己の微分と、徹底的な帰納主義による主体の高度な流体化、と。
  • ここからは、翌1月9日に記している。料理ののち、三時から五時直前まで上記を書いたのだが、そのあいだ、頭痛というか、頭の各部に何か変な感じが生じ、やはり脳内に目を向けたり、言語を考えるのがこわい、というところがあったようだ。文を書くことに集中すると、頭の症状が生じてくるようだった。そこで、呼吸に意識を戻してみるとそれだけで文を綴るスピードも緩くなり、心身の固さが少々取れる。そうしてやっていると、じきに神経症状もなくなり、良い気分で書くことができた。これほど多くの分量を紙の日記として書くというのははじめてだが、これはこれで面白いものである。キーボードとはスピードが違うので、当然、頭で考える文の速度も変わってくるし、それによって時には読点の位置も違ってくるだろう。文字を書くのに時間がかかるから、落ち着いて進めることができるというのも、今の自分にとっては良いだろう。
  • 「悟り」についての考察に思いのほかに時間がかかり、五時直前に至ってしまったので、急いで着がえをして、歯を磨いた。居間のカーテンを閉めておき、出発である。
  • 雨が続いていた。坂を上り、路面のおうとつにちらちらと、電灯の白さが散乱しているのを見下ろしながら街道へ向かう。真っ黒な水たまりの中を、ゆがんでぼやけた電灯の姿が、月のように渡っていく。街道を歩いているあいだ、車が途切れた間があって、そうするとその静けさと暗さに、もう夜も更けたような、これから行くのではなくてもう帰り道であるかのような錯覚が立った。水音に増幅された車の走行音が、やはりまだ頭に響く感じがする。
  • 裏路の途中で濡れた土のにおいが一瞬立った。庭もないような、あってもすべて舗装された駐車場のような家々のあいだでも、蛙のいる林を思わせる土のにおいが嗅がれるものだなと思った。進んで、取り壊された会館の裏の、駐車場やら線路やら、乏しい人家の灯やらを前にまた、もの侘しいような情を感じた。
  • 勤務の途中から、薬の効果らしく(出る前に一粒ずつ追加していた)、自足感めいたものがあった。座っていると眠気が兆してくるほどで、また、喋れば口は勝手にうまく動き、次の発言も自ずとつながってくるし、行動しても思考が実に滑らかにつながるものだった。
  • 帰路、(……)と久しぶりに一緒に帰る。卒業論文で難民を取り上げているということだけは以前に聞いていたので、もう少し詳しく教えてくれ、と言うと、ロールズって知ってますか、と来る。『正義論』の、と受けると、(……)は通じるとは思っていなかったのか、大袈裟に喜んだ。知っていると言って名前だけで、ロールズなど勿論読んだことはないのだが、例の「無知のヴェール」がどうのこうの、と半端な知識を提示すると、(……)が受けるには、ロールズ国民国家内における正義を考えたのだが、それをグローバルな概念として拡大しようとする動向があって、というようなことを言う。これも内実はまったく知らず、単なるイメージで、それは例えばアマルティア・センとか、と訊き、あとは、なぜ遠くの国の貧しい人に対して義務が……とうろ覚えの書名を挙げようとすると、(……)は、まさにそれです、と興奮した。自分でもこの本の存在をどこで知ったのか不明で、よく頭に出てきたなと思うのだが、トマス・ポッゲとかいう人のものらしい。
  • その後、相手ともう少し話したかったので、相手の帰路に合わせて会館跡の前から坂を下っていき、エルサレム首都認定はあれはまずいなあと思ったよ、などと床屋政談以下の感想をちょっと話したりもし、川を渡る手前で別れて裏に入った。中学校の裏手の坂まで来ると、樹々に接した道に霧が濃く湧いて、上った先も見えないほどである。こんなところを通っていると、本当に幻覚が見えてきやしないだろうなと恐れながら行くと、その上の裏路も、すぐ脇が林で、その下は川になっているからだろう、霧がひどかった。
  • 帰宅後はすぐに食事に。テレビは『プロフェッショナル』。ワイン用のブドウをつくるのに奮闘する人の話だったが、ブドウを収穫してワインにし、試飲した時に、職人の細君(フランス人と思う)が(日本語で)、彼自身が表れているワイン、という風に評していたのが印象的だった(実際にはもう少し違う言い方だったと思うが)。わりとありがちな評言ではあると思うが、人間性(概念)が物に具現化されるというテーマにはやはり惹かれるところがある(それは芸術と呼ばれる営みの仕事の一つであるはずだ)。あるいは、例えば音楽だったり文章だったりならばこちらにも、誰々らしいな、という感じ方はわかりやすいが、味にもそれがあるのだというのが新鮮だったのかもしれない。
  • その後は海外のファンを対象にしたJ-POPのイベントが流れており、脚を左右にひらいて身体をほぐしながら眺めはしたものの、特段の印象はない。風呂に行った。浸かっていると雨の音が薄くにじみだし、じきに少々高くなって、また収まった。呼吸を意識していると、水面に浮いた、垢なのか何なのか、細かなゴミの漂っているのに目の留まる時間がある。どれだけ動かずじっと身体を静止させていても、くり返し送り出されて水面を渡っていく弱い波紋があるのだが、それはこちらの左胸の鼓動が生み出しているものなのだ。定期的に水の上を滑るその微小な波に、浴槽の縁近くに映った電灯の白い姿が揺らされて、時折り額や髪から水滴が落ちると、より大きな波紋が既存の動きをすべて巻きこんで行く。
  • 入浴後、零時過ぎから半まで本を読み、就床。

2018/1/7, Sun.

 まだ明けていない深夜に一度目を覚ましたのだが、その時携帯電話を見ると、三時三八分だったような覚えがある。数日前のように、脚の先のほうがひどく冷えているという感覚があった。横向きになって脚を折り、上体のほうに引き寄せつつ、身体を抱くようにしたり、また、冷えを我慢しながら仰向けにひらいて、白隠禅師に倣って軟酥の法=ボディスキャン(そしておそらく、ヨガの「死者のポーズ」もこれと大方同じものではないか)を試みるのだが、今度は一向に冷えが解体されていかないので、仕方ないと薬を飲むことにした。スルピリドロラゼパムをそれぞれ一錠ずつ飲むと、すぐに寝付くことができたようである。
 それまでにも覚めたような覚えがあるのだが、最終的な起床は一〇時四〇分頃だったと思われる(睡眠は一一時間ほどになったはずだが、これほど眠ったのは相当に久しぶりのことである)。窓を叩く音がして、覚醒したのだ。意識を取り戻してからも、すぐに動けずに伏したままでいると、ふたたび窓ガラスが叩かれたので、カーテンをひらいた。上体を起こすと、外に父親が笑って立っており(こちらからはやや見下ろす形になる)、開けてくれと言うので、寝惚けた頭で窓をひらくと、玄関を開けてくれと言い直された。おそらく自治会の役でどこかそのあたりに出かけていたのだろうが、鍵を持っていくのを忘れたらしかった。そういうことかと正気付いて布団を抜け出し、上階に行って玄関の鍵を解除した。頭がぼさぼさだったので、そのまま洗面所に入って水を使って少々撫でつけておく。
 すぐに食事に入ったのだったと思う。ものを食べながら新聞をひらきはしたが、記事の見出しを追うだけで、ここではまだ読む気にならなかったのではないか。食器を片付けて風呂も洗うと、白湯を持って自室に戻った。それからコンピューターを立ち上げて、調べ物に入った。調べるのは勿論、ここ最近のこちらが苦しめられた件についてで、まず念頭にあったこととしては、前夜、食事を取っている時や風呂に入っている途中などに、身体をじっと静止させていると心拍が上がって身の奥から不安が滲み出てきて、身体のなかの諸部分に広がってざわめきはじめる、ということが観察されていたのだ。精神のみならず、肉体までも自分はじっとしていられずに動きすぎてしまうのか、などと思ったのだが、しかし今回の件が起こるまでは、むしろじっと静止しているのは得意だったはずである(瞑想だって習慣的にやっていたのだから)。身体を静止させていると、パニック発作のトラウマに脅かされるのだろうかとこの時は思ったのだが、統合失調症の治療薬(こちらの服用しているスルピリド統合失調症にも用いられる)の副作用として、「アカシジア」という静座不能症状があるということなので、これの軽度のものなのかもしれない。
 また、自分が結局のところ統合失調症になりかけているのか、それとも今回の件はパニック障害の再発なのかという点も気になるところである。検索して出てきたサイトによると、統合失調症の初期症状として、次のものが紹介されていた。

1、 自分の意思によらずに、体験そのものが勝手に生じてくると感じられる。その中に、自生思考(とりとめもない考えが次々と浮かんできて、まとまらなくなる。考えが自然に出てくる。連想がつながっていく)、自生視覚(明瞭な視覚的イメージが自然に浮かんでくる)、自生記憶想起(忘れてしまった些細な体験が次々と思い出される)、自生内言(心の中に度々ハッキリした言葉がフッと浮かんでくる)等により、「集中できない」「邪魔される」と感じられる。
2、 自分が注意を向けている事以外の、様々な些細な音や、人の動きや風景、自分の身体感覚や身体の動き等を、意図しないのに気付いてしまう。そのことで容易に注意がそがれてしまう。「どうしてこんなことが気になるのか」と困惑していたものが、「気が散る」「集中できない」と感じる。
3、 どことなくまわりから見られている感じがする。この体験は人込みの中で感じられることもあるが、自室に一人でいる場合でも生じる。気配を感じることもある。
4、 何かが差し迫っているようで緊張してしまうが、何故そんな気分になるのか分からなくて戸惑ってしまう。緊迫が勝手に起こり、それに対して困惑するような症状。
 (第7回 「統合失調症の初期症状」 http://www.oe-hospital.or.jp/column/column7.html

 このうち一番の「自生思考」および「自生内言」は、完全にこちらが持ち合わせている症状である。また、二番の症状も不安にやられきっていた数日前にはあったと思う。三番はないが、四番は不安障害患者の常態である。統合失調症の付随症状としてパニック発作があるとも言うので、結局のところどちらが主なのかは決定できず、自分の場合、両方が結びついていると考えるべきなのではないか。少なくとも、完全な「統合失調症」とは言えないにしても、こちらの精神が統合失調的なものになってしまっているのは確かでないか。

 何故このような症状が起こるのか、完全には分かっていませんが、理解しやすい仮説をお話ししましょう。私達は周囲の雑踏の中から、相手の声を聞き分ける事が出来ます(カクテルパーティー現象といいます)が、その際の現象を例にとって説明します。相手の話を聞こうという集中力が適度であれば良いのですが、集中し過ぎると、他の様々な音にも注意が向いてしまい(注意集中力が高まり過ぎている状態を過覚醒といいます)、何を聞いて良いのか優先順位が分からなくなり、かえって聞き分けは困難になります。これは脳内のドーパミンという物質を介して働く神経が、過覚醒になっているからです。また雑踏の他の音にフィルターをかけて意識しない様にし、相手の声を聞き分けられる様になっていますが、このフィルターが失調していると他のいろんな音が入って来てしまい集中できなくなります。このように急性期の統合失調症の症状は、ドーパミン仮説やフィルター理論で説明されます。
 (第9回 「急性期治療のポイント」 http://www.oe-hospital.or.jp/column/column9.html

 「過覚醒」というのは、こちらが体験した

 以上はこの当日に記したもので、コンピューターの画面を目の前にしているとやはり神経・精神が乱れる感じがあったので、しばらくなるべくコンピューターから離れることにして、このあとのことは紙のノートに記したのだった。以下にそれを引用する。

  • ドーパミン過剰→ヨガ及び瞑想の深呼吸のためか。
  • 1時頃上へ。父親ソファ。洗濯物入れる。タオルたたみ、アイロンかけ。ラジオ、爆笑問題
  • 昼食。煮物残り。豆腐。卵。この時、新聞、阪大の入試ミス。途中まで。
  • ギター。
  • 書き抜き。
  • 運動。肉体をもう少したくましく。
  • 日記("水星"反復されて集中できない)。五時前、上へ。料理。小沢健二。野菜スープ。ゴボウ。エノキダケ。玉ねぎ。人参。ダイコン細い。(……)音楽とめているあいだに、炒め、煮こむ。一方でマーボー豆腐も。六時前、仕上がる。
  • 戻って日記。今日の分。統合失調症について書いているとまた不安に。一度、頭がぐらりと来た。どうも不安が高いので、薬を追加。それでベッドでボディスキャン。
  • 食事へ。大河ドラマ。なんとなく頭が落ちつかない、乱れているような。飯は美味いが。入浴。入浴中、髪洗う。シャワーの音。イメージ連想。頭や身体をこする音も耳につく。これは本当に、そのうち幻覚が見えるかもしれないと思う。
  • 言語が自走しようが、多少の幻覚、幻聴があろうが、それに適応できれば良いのだが、今は不安がついてくる。
  • 室へ。モニターの前に来ると(見ると)、やはり妙な感じ。調べると、ブルーライトドーパミンを増やすとか。一旦使わないことに。ブルーライト用のメガネを入手したい。
  • 思えば、このような症状はパニック障害の最初期にもあった(休学中)。あの頃に戻ったようだ。
  • それでPCから離れる。しばらくパソコンに触れない生活をしてみることに。そのあいだの日記は紙のノートを使う。
  • 日記を書いたあと、古井由吉『白髪の唄』を読みだしたが、そのうちに眠っていた。11時半。あきらめて就床。

2018/1/6, Sat.

 この朝のことはもはや覚えていない。全然記憶が蘇ってこないので諸々と省略するとして、八時頃に出勤路に就いた。晴れの日だが、朝の空気はやはり冷たい。日なたのあまりない街道を行く。道を歩くあいだ、やはり脳内に言語が自動的に湧き上がってくるのを警戒する心があって、もっと身体的直接性に目を向けようというわけで、地を踏む脚の感触や呼吸の感覚に主に意識を向けるようにしていたと思う。
 勤務中、周囲の情報に応じて自動的に脳内に言語が発生するのがやはり少々怖いようなところはあり、また、初めのうちは話していてもうまく言葉が出てこなかったりしたが、時間が経つにつれて落着いた気分になった覚えがある。動作もゆっくりとするように心がけた。
 退勤したのは二時前である。職場を出ると、(……)駅のほうへ行き、郵便ポストに葉書を投函した(何なのか良く見ていないが、母親から前日に頼まれたのをすっかり忘れていたので、この日に済ませたのだ)。駅舎にちょっと踏み入って、電車の来る時刻を見てみると、まだまだ間があったので歩いて帰ることにした。日蔭に入っているとやはり寒かった覚えがある。もう少し陽を浴びたいなと、裏通りの途中の辻から表に折れて、日なたのなかを行く。
 自宅の前まで来ると、(……)玄関をくぐる。室内に入ったあとの様子や食事のことなど、まったく思い出せないあたり、やはりまだ精神状態が不安定で思考が拡散していたのではないだろうか。ただ、この日のある時点から、気分はわりあいに平常のものに近くなった覚えがある。
 四時前から書き物をしている。前日、一月五日の分である。この時もやはり、自分の頭のなかの言語に目を向けることに不安があり、またモニターを目にしていると後頭部や肩のあたりなどに神経症状らしきぞわぞわとするような感触が生じ続けたのだが、自分は不安を感じながらもやるべきことをやることができると自らの姿勢を定め、一時間半を綴って記事を完成させた。時刻は五時半頃、そこからインターネットに繰り出した。(……)途中、また自分の感情が定かに作動しているのかどうか不安に思う、というようなことがちょっとあったかもしれない。
 七時半前まで過ごしたところで、食事に行ったと思う。この時や、入浴中のこともやはり記憶が自然に湧いてこないので、割愛する。九時過ぎから、(……)にアクセスして、二日分を読んだのだが、確か途中で自分のブログの読み返しを挟んでしまい、一時間半もの時間を無闇に掛けてしまった。その後、久しぶりにという気力が湧いたので運動をして、一一時である。歯磨きをしながら古井由吉『白髪の唄』を読み出したのだが、抗不安薬のためだろう、頭が重く、読み続けていられないようだったので、零時になる前に床に就いた。

2018/1/5, Fri.

 六時のアラームが鳴るだいぶ前に覚醒した。やはりあまり眠れないようである。一度覚めた時点で目が冴えて、その後、寝付けなかったような覚えがある。六時のアラームが鳴ったところで布団を抜け出し、上階に行って、生ハムと卵を焼いた。おそらくずっと頭のなかに言語が沸き返って、そちらに意識を取られていたせいだろうか、次に何をやったかと記憶を探ってみても、容易に出てこない(かと言って、その時考えていたことが思い出されるわけでもない)。
 瞑想をしなくなったので、食事を終えたのは早く、多分七時くらいだったのではないか。下階に戻って歯を磨き、服を着替えて、不安のために何をやるという気持ちも起こらなかったので(むしろさっさと出勤し、仕事を終えて、医者に行きたいという心があった。前日中も、早く時間が流れてほしいとそればかり思っていたと思う)、早々と居間に戻って、ストーブの前に座りこんだ。身体を温め、排便を済ませると、七時五〇分くらいには出勤に向かった。
 外に出ると、大層な寒さだった。この日は前日、前々日とは違って、曇り空だったのだ。身体を震わせながら街道を渡り、ちょっと行って裏通りへと入る。路地には登校中の中学生や出勤する大人らの姿があり、そのなかに一人、こちらに挨拶を掛けてくる人がいた。特に面識のない人なのだが、以前に朝番だった時期にも、すれ違いざまに挨拶をくれることが何度かあったのを覚えている。
 勤務中は、わりあいに良い気分だったと思う。ただ、自分の行動や言動があまりに明晰で、特に発する言葉や自分の反応が以前よりも自動的に細かく分節されて捉えられているということが良くわかった。情動が論理過程に解体されるようなのが不安だったのだが、しかし感情を論理的に分析するなどということは結構誰でもやることなのだし、それが明晰になったということはむしろ感情と論理がより密接に統合されつつあると考えるべきなのではないか、などとも思った。
 退勤すると、まだ一二時半より前で、(……)の(……)(精神科)が午後ひらくのは三時からである。一旦帰って食事を取ってからまた出向いたって良いわけだが、そうする気にもならず、図書館に行くことにした。駅に入って、冷たい空気のなかで身を震わせながら待ち、やってきた電車に乗る。何かしらまたものを考えながら(言語が勝手に蠢く、などと頻繁に書いていたから、それで自己暗示に掛かってしまい、自分が言葉をコントロールしているという主体感が失われたのかもしれない)、(……)まで行くと、降りてエスカレーターを上った。改札を抜けて、図書館へと渡る。医者がひらくまで、ここで時間を潰そうと思ったのだ。入ると階を上がり、新着図書の棚を見る。前回来た時にも見かけて手帳にメモしたエリクソンアイデンティティ: 青年と危機』があり、まさしくアイデンティティの危機を迎えているこちらにはぴったりではないかというわけで、その場で立ったまま少々拾い読みをした。なかに、ウィリアム・ジェイムズの体験したアイデンティティの危機が紹介されており、彼もやはり神経症を患っていたようなのだが、そこからの脱出口を見つけた際の発言として、「私の自由意志が最初に行う選択は、自由意志の存在を信ずるということだ」というようなものが引かれており、やはりどこかでこのような同語反復的な、相対化しきれない地点を見つけないと、人間、自我を保てないのだろう(自分の場合、今はそれが「不安」になっているのではないかという気がするのだが、これについてはあとで触れるかもしれない)。
 ちょっと読んでから、窓際の席は空いていなかったようなので、書架の横に置かれたボックス様の腰掛けに就いて、『アイデンティティ』を読んだ。読んだとは言っても、大方の時間はやはり、頭のなかでぐるぐると思考が回っていたので、ほとんど読んでいないし、内容も特段覚えていない。今次の自己解体騒ぎは実に色々な側面から考察することができるのだが、この時考えた理路からは、今回の危機はこちらの相対化傾向が極点まで至ったことによるものだろうと考えられた。元々自分は、中学二年生になったあたりから、どうもこの世の中というものはくだらないなと思いはじめ(まさしく「中二病」的なのだが)、高校生の時期には、特段死にたいわけでもないけれど、大して長く生きたくもない、まあ四〇歳程度で死ねれば良いかな、という風に考えており、大学時代には完全にニヒリズムの病に冒されていた。要は、青年期にありがちないわゆる「実存の危機」だが、自分が生きている意味がわからない、ということで、大学四年の時には卒業論文を担当してもらう教授に相談に行き、本を読んだり勉強をしたりするというのは、何のためにやるのでしょう、などという問いを発してもいたのだ(教授の返答は、自分のような歳と立場になってくると何のためになどと考える前に、まず目の前のことをこなさなければならない、という実際的なものがまずあり、その次に、でもやはり、楽しいからとか、何かを知りたいからとかでは、というものが返ってきた)。しかし結局、こちらはこの時この返答には共感することができず、例えばイラクあたりの歴史の本を読みながら、相変わらず、これを読んで何になるのだろう、などとその「意味」を探し求めていたのだ。そんな具合で卒業論文にも身が入らず、今から考えると糞尿以下の代物を提出してしまったのだが(それで学位取得が許されるのだから、都の西北、などと誇らかに言われていても、たかが知れている)、その後、いつ頃になってからだったか、ニヒリズムなどというのは単なる観念論(当時はこのような言葉遣いをしなかったと思うが)に過ぎない、と気づく時があった。自分が生の意味を感じられないのには、いずれ自分は死んでしまうのだから、というありがちな論拠があったのだが、自分が死ぬことが決まっていても、いま現在ここで自分が何かを喜んだり、食事を取って美味いと感じたりしているということは否定できない、と考えたのだ。すなわち、自分はニヒリズムを相対化することに成功したのだが、それ以来段々と、この「いま・ここ」への集中、現在の時間を味わい尽くす、というような姿勢が自分の基本的な生存様式になり、それは書くことに対する欲望と結びついて、現在時点を絶え間なく言語化する営みへと結晶したわけだが、それによって、この「いま・ここ」の実在さえもが解体されかかった、というのが今回の危機だと考えられる。
 言語化とはそのまま相対化である。しかし、ほかの人々が例えば、自己などというものは存在しないのではないか、いま自分が見ているこの世界は実在しないのではないかなどと考えたとしても、それで少々不安を覚えるようなことはあっても、実際に自我の解体の危機を感じるなどというところまでは行かないはずだろう。実際、そのような議論を行っている哲学者たちは、実に理性的に、その自我を保ちながら論を考えているはずだ。ところがこちらにあっては、こちらが考えたこと、こちらの頭のなかに浮かんできた言語が、そのまま強い不安という身体症状を引き起こすわけである。こちらが感じ考えたことを言語に移し替えているのではなく、言語として浮かんできたことがそのままこちらが感じ考えていることになるかのようだったのだが(ここ数日の自分の体験を言い表すのには、「言語が第六の感覚器官になった」という比喩よりぴったり来るものを思いつけない)、これは明らかに異常であり、この点にこそ自分の狂いがあるのかもしれない。しかし、実際には、これはやはり不安障害が寄与しているものだろうと思う。不安に襲われている脳と身体というのは、瞬間瞬間に自分の思いつくことの影響を、非常にダイレクトに受けてしまうのだろう。あるいは、不安障害自体を、意味論的体系が現実的体系と畸形的にずれ、あまりに過剰になりすぎる病状として定義することもできるのかもしれない(何しろ、ほかのほとんど誰もが危険や不安を感知しない場において、「不安」の意味を読み取ってしまい、それが高じて発作を誘発するくらいなのだから)。だから、最初のパニック発作の時点でこちらの頭はどこか決定的にずれてしまい、その後ずれにずれ、意味論的体系が膨張しすぎて今に至っているのかもしれない。
 それはともかく、腰掛けに就いてものを考えるあいだ、開き直りの瞬間があった。自分の相対化傾向、考え、書く欲望が狂気の不安を呼ぶのだとしても、自分はやはり、自分とはどのような存在なのか、自分の不安は一体どこから来るのか、勿論最終的にはわからないにしても、その都度考え、書き続けたい、自ら不安を呼び寄せながらも考え続ける、それが自分なのだ、という形で自己像の統合が図られた。それで気分がわりと収まったので、エリクソンの『アイデンティティ』を書棚に戻し、それから古井由吉『白髪の唄』を読みはじめた(と言ってやはり、読んでいて文の意味が良く取れなかった)。
 それで二時半前になると席を立ち、館を出て医者へ向かう。歩くあいだ、朝に食べて以来腹に何も入れていなかったので、身体が寒くて仕方がなかった。ビルに入り、階段を上がって行く。待合室に入ると、既に二人程度人がいたが、カウンターで聞くには五番目くらいになりますとのことだった。室の奥の、角近くに腰を下ろし、古井由吉『白髪の唄』を読んで待つ。先ほど考えを開き直らせたので、臆することなく小説に集中しようとしたが、やはり知覚が相当拡散的になっていて、文を読み取っているつもりがすぐに何かほかの感覚刺激に逸れてしまう。それでも一時間以上、顔をあまり上げずに読み続け、呼ばれたところで診察室に入った。
 半年ぶりだという話だった。ずっと薬を飲まずに来て、それで大丈夫だと思っていたのだが、最近またちょっと調子が悪くなりはじめた、と話しはじめた。それで、日記として毎日の生活を初めから終わりまで綴る営みを行っていること、それを続けた結果、生活をしているその場で頭のなかに言葉が溢れてくるようになったこと、それが離人感に繋がっているらしいこと、などを話した。(……)がキーボードを打って情報を入力するのを待つのだが、ここで自分は何だか以前よりも待つことができず、やや性急に続きを話しはじめてしまったような感じがした(これはあとで薬局の局員と受け答えをした時もそうだし、その後の帰路でもそうだったのだが、自分の行動(のみならず、単に頭の角度を変えるという程度のことでも)や知覚、相手の発言の意味の理解やこちらから送り出す言葉のスピードが、やたらと速く感じられたのだ)。話を進めさせていただくと、と前置きをして、物事を言語化するというのは相対化をするということと同じなのだが、それで最近は思考が勝手に、例えばいま目の前に見えているこれは本当に実在しているのか、とか、そういったことまで考えてしまい、それで自我の統合が危うくなっている気がする、というようなことを説明した。(……)は笑って、哲学の理論だとそういうことは言いますけどねと言い、それをこちらも笑って引き取って、そう、それはあくまで理論なんですけど、その理論がそのまま身体に影響してきてしまうんですよ、と言った。その後、ソシュールとかハイデガーとかデカルトとかの名前も出て、例の「我思う故に我あり」の言も聞かれたが、こちらはそれが体感として本当に良くわかる、とこれも笑って返した。そのように話しているあいだも、分離感が結構あり、自分が話すように操られているような感覚があった(何かが自分を操っているのだとしたら、それも自分自身のほかにはないのだが)。
 話をちょっと戻すと、相対化のことを説明した際に、自分にはそもそも性質として、どうしても「確かな」ものを求めようとしてしまうところがある(格好良く言えば「真理」への愛であり、すなわち哲学=フィロソフィアである)、しかし同時に、(普遍的に)確かなものなど存在しないのだということもわかっている、しかし、その都度その都度「確かだと思われたもの」で良いので、そうしたものをその都度その都度発見して行きたいのだが、それが今回、不安性向と結びついて極地に至ったのではないか、という自己分析を話した。つまり、その時々の「確かな」事柄を判断するために自分の精神は瞬間的な物事の相対化を行うが、直後にはすぐさま、それが本当に「確か」なのかと疑いはじめてしまい、不安を呼び起こす、そしてその不安から逃れるために/不安から追い立てられて、精神は高速で次の「確かさ」を探り当てようとし、発見したかと思えばそれをまたすぐに相対化しはじめる、といった具合で、自分の頭は永遠の循環に陥っているのだろう。実際、今回の危機でもそのままこれが起こって、目の前の世界の実在を疑い不安が生じるやいなや、身に湧き上がってくる不安こそが「リアル」なものとして感じられ、それで自分はまだ正気であると確認する、しかしそのすぐあとにはまた自らの正気を疑いはじめる、というような反復が何度も繰り返されたのだ。どうもそのように非常に分裂的な傾向が自分にはあるらしいと説明し、しかしもうそれで仕方がないと思っている、自分は不安を感じながらでも、その都度の確かさを求めて行きたい、それが自分なのだと先ほど図書館で開き直った、ということも話し、ただ、その分裂の幅をもう少し狭くしたいので、その点、薬で調節できたらと思っていると告げた。つまり、三日に(……)との通話で出てきたキーワードで言えば、自分の精神は明らかに「動きすぎて」いたのだが、「動きすぎず、動き回りたい」というのがこちらの望みなのだ。また、この「分裂」を主軸として自分の不安の意味論的体系を(ある程度まで)読み解くこともできると思われるのだが、それはここでは触れない。さらにまた、自分のこのような特性を観察した結果として、むしろ「不安」こそが自分を自分として成り立たせている第一/最終原理、つまりはそれ以上相対化できないものとして定位されているのではないか(中世のキリスト教神学者たちが「神」に与えていた地位が、自分においては「不安」になっている)と考え、さらにそこから、「悟り」というのはこの「不安」でさえも相対化/解体しきったその先にあるのではないかということも考察したのだが、それもここで細かく述べる気にはならない。しかし今回のことで、仏教の言う「一切皆苦」という考え方がこちらには身に染みて理解できた。釈迦は不安障害患者だったとしか今の自分には考えられない。
 以前に飲んでいたスルピリドロラゼパムをまた出してもらうことになった(医師はスルピリドだけでも大丈夫だと思うが、と言ったのだが、もしそれで不安が収まらなかったら、という不安があったので、こちらが頼んだのだ)。礼を言って診察室を去り、ソファに掛けて、本を鞄にしまってストールをつけ、前かがみになってじっとした。この時、自分の動きのいちいちが(ちょっと頭の位置を変えるだけでも)際立って感じられた。会計に呼ばれるのを待っているあいだは、また何か頭のなかで思念が渦巻いていた覚えがある。支払いをするとビルを出て、隣にある薬局に入った。
 カウンターにいた局員に処方箋と保険証を渡し、席に就いていると、先ほどの局員が寄ってきて、何か差し出してくる。プラズマ乳酸菌とかいうもののサプリメントらしく、試供品として配っているとのことだった((この時、局員の説明に対して、はい、はいと受ける自分の返答がやたらと速い気がした)。礼を言って、古井由吉『白髪の唄』を読んでいると、いくらもしないうちに呼ばれたので、カウンターに行く。女性局員が、今日は以前お出ししていたのと同じものを、二八日分ですねと言うので、最近ちょっとまた調子が悪くなりまして、と受けたのだが、彼女が慇懃な笑みを浮かべたり、眉を下げたような労りの表情を示すのに対して、何の感情も自分から生じないのに不安を覚えた。また、やはりここでも、相手の言葉をはい、はい、と受けるその間が速い気がした(と言うか、速く話を進めたい、という焦りのようなものがあったのかもしれない。やはり不安に追い立てられてのことだろう)。感情が解体されていくかのような不安というのは、表層的に、すべてを高速の論理過程として把握しているかのような感じがしたのだが、もしかすると「悟り」というのは、ある種の『表層批評宣言』なのかもしれない。つまり、相対化を無限に繰り返して行くことによって、この世に真相=深層が存在しないということを最終原理とすることなのかもしれないなどと、そんなこともこの数日で考えた。
 薬を受け取って薬局を去ると、随分と長いこと何も腹に入れていないので(そう言えば、精神科の待合室にいるあいだには、身体が手の先まで冷えきって、このままだと倒れるのではないかと感じた時間もあった)、ひどく寒かった。駅に戻って電車に乗り、(……)で降りると、自販機でココアを買って飲む。ベンチに就き、古井由吉『白髪の唄』を読む。じきに電車が来たので乗り込んで、座席に就いて本を読み続けるのだが、この時、同じ車両の離れたところで子どもたちが遊んでいるのを、うるさいな、とか思った瞬間があり、自分がそう思ったということにまた不安になった。子供らが遊んでいるのに、ちょっとうるさいと思うことなど勿論誰もあるだろうし、自分も例外ではないが、前はそのような思いが浮かんでも不安になるなどということはなかったはずである。ところがこの時は、それが何か自分に属していない悪い想念が勝手に浮かび上がってきたかのように感じられた。ここからは、こちらが実は自分は高潔でなければならない、というような強迫観念(強迫観念で言えば、自分の書くことに対する欲望は、もはや強迫観念とほとんど差のないようなものだろう)を持っており、普段、悪心を抑圧しているのではないかという解釈が予想され、それはまた分裂気質と繋げてさらに広い体系を並べることもできるのだが、今はそれを書くのは面倒臭い。駅や電車のなかではまた、感情が急速に解体されていく、というような妄想が感じられた。歳を取ればそれは皆、そうなっていくものだろうが、しかし感じられる自分の変化が速すぎて、何か失ってはならないものを失ってしまうのではないかという不安を覚えた(しかし自分は元々、もっとさまざまなものを外部から取り込んで、自己を変容させていきたいと思っていたはずである。ここにも、変わりたい自分と変わりたくない自分の分裂が見られ、こうした二項対立が至る所に見出されるのだが、こちらの「無意識」は全体としてそのように、非常に「葛藤」的なものなのかもしれない)。これらの危惧は、抗不安薬を服用しはじめた今だから言えるが、不安に追い立てられて抱いた妄想に過ぎない(ヴィパッサナー瞑想をやったり、日記書くことで自分自身を相対化することを習慣づけてしまった自分の感情は、大方の人よりは抑制的なのかもしれないが、それが一気に失われてしまうなどということはないだろう)。
 それで、電車内から不安を散らしたくて深呼吸を始め、降りてからの帰路もずっと続けながら帰った。家に帰って母親とやり取りをすると、妄想が浮かんでこず、自分の身体がいくらか落着いていることがわかったので、安堵した。腹が減っていたので、玉ねぎと豚肉の炒め物を作り、白米とともに食事を取った。食事のあいだも深呼吸を続けていた。
 そうして室に帰り、いよいよ薬を一粒ずつ服用してみた。これで不安が収まらなかったらどうしようかという不安が勿論あったのだが、果たして服用した直後は、不安が収まるどころかむしろ高まり、腕から指の先まで、芯が冷たくなったようで、その不安を収めるために呼吸を頑張るのだが、やはりそれがかえって駄目なのか、余計に不安が増長する。不安を抑えたければまずは不安がそこにあるという状態を受け入れなければならないと、その点、過去の体験で十分わかっていたはずだが、実際には難しいことである。しかし方針を転換して、薬も飲んだことだし、成すがままに任せようと呼吸を自然なものに戻すと、じきに心身が落着いて行った。
 その後、入浴などの時間については覚えていない。八時半過ぎから書き物を始めたのだが、時間が過ぎるのが大層速く、気づけば三時間を一息に綴って、一一時四〇分に至っていた。久しぶりに、時間に対して「もう」の感覚を抱いたものだ。最近はむしろ、時間が過ぎるということがいつも遅く感じられて、自分は時刻の観念を解体することに成功したのだななどと思っていたのだけれど、あれは不安に追い立てられた頭の思考速度が上がっていたということなのか、あるいはやはり不安に浸された心身が、いつまで経っても時間が過ぎてくれない、と感じていたということなのだろうか。
 その後、歯磨きをしながら他人のブログを読んでいると、またいつの間にか零時半ほどになっている。とこう書いていま気づいたのだが、ここ最近は不安に蝕まれた心身(この表現がほとんど比喩でなく、現実そのものとして感じられるのが不安障害というものである)のために頭の働きも極端に多動的になり、知覚も拡散的になっていたので、多分自分は作業や行動の合間にきょろきょろと目を動かしてしまい、それで頻繁に時計の時間が目に入っていたということではないだろうか(そして、頭が非常に活動的になっているので、そのたびに視認した時刻を定かに記憶に留めてしまう、というわけだ)。口をゆすいでくると、さっさと床に就いた。精神安定剤のおかげで眠気が湧いており、入眠にはまったく苦労しなかった。

2018/1/4, Thu.

六時前覚醒。ボディスキャンして待つ。
勤務中、概ね落着いている。


テレビ番組。相対化自体を相対化。それが悟り?しかし速すぎる。もう少しゆっくり進みたい。不安から逃れるための相対化だろう。
風呂、発狂に対する恐怖、ふたたび。モノローグが秩序を失う。相対化のしすぎで。最終的にはやはり、発作がトラウマになっているのだろう。

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 この日のことを細かく書く気は起こらない。