2019/9/20, Fri.

 干潟はどこまでもつづいていて
 その先に海は見えない
 二行目までは書けるのだが
 そのあと詩はきりのないルフランになって
 言葉でほぐすことのできるような
 柔いものは何もないと分ったから
 ぼくは木片を鋸で切り
 螺子を板にねじこんで棚を吊った
 これは事実だよ
 比喩はもう何の役にも立たないんだ
 世界はあんまりバラバラだから
 子どもの頃メドゥーサの話を読んで
 とてもこわかったのを覚えているが
 とっくに石になった今では
 もうこわいものは何もない
 どうだい比喩なんてこんなものさ

 水鳥の鳴声が聞える
 あれは歌?
 それとも信号?
 或いは情報?
 実はそのどれでもないひびきなんだよ
 束の間空へひろがってやがて消える
 それは事実さ
 一度きりで二度と起らぬ事実なんだ
 それだけだ今ぼくが美しいと思うのは
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、52~54; 「干潟にて」全篇)

     *

 乳くり合いと殺し合いの地球の舞台が
 なまあたたかい息のにおう寝室に始まって
 小暗い廊下を過ぎがたぴしする階段を下り
 そこからぬかるみへそして冬枯れの野へ
 または灰色の海辺へとひろがってゆき
 その上にいつに変らぬ青空を戴いているのは
 この半球も他の半球も変りないが
 愛を語ろうにも王を語ろうにも
 ぼくらの国に韻文が失われて既に久しいのは
 いったいいかなる妖精のいたずらなんだろう
 (55~56; 「シェークスピアのあとに」)

     *

 ああシェークスピアさん あなたのあとで
 いったいどうやって最初の一行を書き始めればいいんだい
 道化師になるのは王になるよりもっと覚束ない
 思いつく限りの悪口を並べたてても
 喩を入力できるコンピュータはありはしなくて
 午前七時四十分に郊外の駅へ歩いてゆく勤め人のように
 一二一二ときりのない二進法で
 月賦で買った美術全集の中のスフィンクスに答えるのが
 この世紀の流行の詩法なのかもしれないな
 人間はたしかに月へ行ったけれども
 形を変える月の不実に変りはないんだ
 世界はいまだにあなたの見た通りのもので
 スープをすする口が呪いを吐き散らし
 言葉にするのも憚られるところに接吻し
 やがては吸う息も吐く息もなくなって
 土の下で白樺の根を育てることになるのは
 うそつきも正直者も無口もおしゃべりも同じだ
 (57~58; 「シェークスピアのあとに」)


 八時のアラームで一度目覚めるのだが、一度起き上がってベッドを離れた身体も吸い付けられるように寝床に舞い戻ってしまい、そのまま一一時過ぎまで断続的に眠った。いつものことである。亡くなったKのおばさんの宅に行っていたであろう母親が帰ってきたのを機に起き上がり、部屋を抜けて階段を上がった。暑いね、と母親は言う。こちらとしてはむしろもう夏が確実に終わったらしく思われる涼しさだったが、確かに陽射しは窓外の空中に密度濃く漂っていた。便所に行って膀胱を解放してきてから冷蔵庫を覗くと、弁当箱に炒飯が収められていたので、それを中皿によそって電子レンジに突っ込む。待つあいだに卓に就いて、新聞の一面を読み出し、電子レンジが鳴ると台所に移って炒飯を取り出すとともに、前日の野菜炒めの残りも温めた。それら二品を食いながら、東電の元経営陣の無罪判決についての記事などを読んだ。食後に母親が貰ってきたというラスクも頂き、水を汲んできて抗鬱剤を飲むと皿を洗って、その後に風呂場に行った。マットが漂白されてあったのでシャワーを掛けて洗剤を流し、それから浴槽の蓋を取り上げて洗い場に置き、その裏側をブラシで擦る。水が捌けていくと浴槽内も擦って流し、出てくると下階に戻った。母親はまもなく、仕事でまた出掛けていった。自室に帰ったこちらはコンピューターの前に立ち、前日の記録を付けると同時にこの日の記事も新規作成し、一二時一八分からFISHMANSCorduroy's Mood』とともに早速日記を綴りはじめた。前日分を短く足して仕上げ、この日の分もここまで書くと一二時半を過ぎている。
 前日の記事をインターネット上に放流すると、そこから三時前までひたすらだらだらとした。それからJohn Coltrane『Blue Train』を流し出し、ベッドに移ってリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読みはじめたはずが、音楽に耳を寄せて目を閉じているうちに瞼がひらかなくなった。それでアルバムが終わったあともしばらく瞑目のまま意識を緩くして、三時五〇分頃から復活し、新書を読み進めた。寝転がったまま四時半前まで読むと切りとして上階に行き、また新聞を少々読みながら、炒飯の残りとキャベツの生サラダで食事を取った。食器を洗うと居間の片隅に吊るされてあった肌着の類を畳んで、そうして下階に行き、歯磨きをしながらMさんのブログを読みはじめた。口を濯いできて読み終えると五時、John Coltrane『Blue Train』がふたたび掛かっているなか、仕事着に着替えた。この日のスラックスは父親から借りている緩めのやつである。着替えるともう出るまでにいくらも時間がなかったので、残りの時間をSさんのブログに充てることにした。彼のブログは一記事がコンパクトにまとまっているので、時間がない時でも読みやすいのだ。それでLee Morganの瞬発力に感嘆しながら七月いっぱいまで記事を読んだところで時間は五時一五分頃に達した。カーテンを閉め、部屋を出て上階に行くと仏間に入って靴下を履き、居間の引出しからハンカチを取って玄関に移動した。扉を開けてポストまで行き、夕刊ほかの郵便物を取って玄関内の台に置いておくと、扉の鍵を掛けて出発である。もはや秋の陽気なので蟬の声は聞こえないかと思いきや、ツクツクホウシの音が乏しいながら、林の縁で伸びている。しかしそれよりも、茂みのなかから回転しながら響き出て長く持続する秋虫の声の方がいくつも重なり合って大きかった。道には涼気が浮かんでいて、着替える際にベストをつけようか迷ったのだが、着てきても良かったかもしれないなと思われた。しかし、"You'd Be So Nice To Come Home To"のメロディを頭のなかに流しながら坂を上っていくと、出口間際で風が正面から流れて身を包んだものの、その頃にはやはり汗の気がいくらか生じていたので、ベストはまだ早いなと思い直した。駅に入ってホームの先まで歩いていくとちょうど電車が入線してきたので乗り、扉際に立って僅かな時間の合間、手帳を眺めた。青梅に着いて降りると、山帰りの乗客たちが続々と開口部から吐き出されて向かいの電車に乗り換えて行くので、ベンチの前で停まってその流れをしばしやり過ごし、それから歩き出して階段通路に入った。通路の途中には、荷物をばたばたいわせながら必死に走る中学生がいたが、おそらく電車には間に合わなかっただろう。駅舎を出ると何本も生えた街路樹のそれぞれから、おそらく椋鳥だろうか、鳥の声が湧き昇って空に織り重なっていた。
 今日の授業は元々二コマだったのだが、振替えが多く出たということで一コマに減っていた。相手は(……)くん(中三・英語)に、(……)くん(中三・社会)。(……)くんは主格の関係代名詞を扱ったがいつも通り問題なく、特筆するべきことは見当たらない。(……)くんはテスト前の社会の授業は全部で三回、本人の希望を聞き、そのうちの二回を歴史に充て、最後の一回は公民を扱うことになった。今日は歴史、第二次世界大戦の始まりから扱っていった。説明している最中、ワークの解説にユダヤ人への徹底的な差別という項目が出てきて、アウシュヴィッツ強制収容所の名前があったので触れたのだったが、太字になっていなかったためだろう、(……)くんは、覚えたほうが良いですか、と尋ねてきた。うーん、そういうレベルの問題ではないのだけどなあ、と思いながらも、そんなに強く押せないものだから、まあ非常にやばい事件なので、知っておいた方が良いと思いますよ、と言うに留めた。むしろホロコーストについて覚えないで、ほかに何を覚えるべきだと言うのか。しかしそれはこちらの個人的関心に寄せすぎかもしれない。ともあれ一応、一般には六〇〇万人ほどのユダヤ人が殺されたと言われているという情報を伝えたが、六〇〇万人などと数字を言われたところで勿論想像が追いつくものではないだろう。やはり印象に残すためには生々しい具体性が大事なので、例の、ガス室に追いやられていく自分の妻と子供の髪を切らなければならなかった床屋のエピソードでも話そうかと機会を窺っていたのだが、中学生に話すには重すぎる挿話であるようにも思えたので、結局はチャンスを掴めなかった。
 授業後、書類を記入したあと退勤し、駅舎に向かっていると、あれはサッカー部だろう、紺色の運動着を着た中学生らしき集団が、モスバーガーの新作らしき広告絵の方を指して、美味そうじゃね、と賑やかに言い合っていた。駅に入ってホームに上るといつものように自販機で二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。ベンチの一方は先の中学生の仲間らしい同じ紺色の姿で埋められていたので、反対側の端に就いて手帳を取り出し、情報を復習しながらコーラを飲んだ。瞑目して頭のなかで知識を反芻しながら電車を待ち、やって来た奥多摩行きに乗ると引き続き手帳を眺めて、最寄り駅で降りると、小さな羽虫が蛍光灯に惹かれて泡のように浮遊している階段通路を抜けた。虫の数も夏の一時期に比べると随分少なくなったものだ。横断歩道を渡って暗い木の間の坂道に入ると、今日も鈴虫の、金泥色めいて鈍く光沢を帯びた輝きが林のなかに重なりながら漂っている。涼しい夜気の満ちたなかを歩きながら、戦後七四年を経てホロコーストの歴史も、まさに今風化しつつあるのだろうなと考えた。何しろ、学校の教科書にはどうだか知らないが、塾の教材ではアウシュヴィッツは太字になっていないし、六〇〇万という数字も出てこないし、それで言えばそもそも「ホロコースト」という用語すら記されていなかった。もっとも、六〇〇万人という一般的に語られているホロコースト犠牲者の数字は、おそらくアイヒマンヒムラーにした報告を元にしているのではないかと推測するのだが、学問的にはこれは正確な数字ではなかったはずだ。加えて、この六〇〇万という数字が、例えばイスラエルに対して何かを言おうとする際に、すべての批判を黙らせるためのマジック・ワードとして機能することもあるのは、テジュ・コール/小磯洋光訳『オープン・シティ』に書かれていた通りだが、それは別の話である。おそらく、どんな国にも、どんな民族にも、苦難の歴史というものがある。ユダヤ人にもあるし、パレスチナ人にもある。ドイツにもあるし、アメリカにもある。黒人にもあるし朝鮮にもあるし、中国にもあるし、日本人にも勿論ある。沖縄にもあるし、アイヌにもあるし、広島にも長崎にも水俣にもある。それらを出来るだけ広く、かつ深く学び、伝えていきたいと思うが、勿論自ずと限界はあるし、自分には大した能力もない。
 帰宅するとワイシャツを脱いで洗面所の籠に入れておき、下階に戻った。服を脱いでコンピューターを点けると、ソフトやブラウザの起動を待つあいだに、ティッシュを切らしていたので、空き箱二つを持って上階に行き、箱を潰して玄関の戸棚のなかに始末しておくと、階段の途中に置いてあるティッシュ箱を二つ持って帰り、Twitterを眺めたりしたあと、ハーフ・パンツを履いて部屋を出た。先に風呂に入ることにした。湯に浸かると目を閉じ静止して、汗がだらだらと途切れることなく次々首筋に湧いて流れるのを感じながら、先ほど駅で復習した知識をここでも反芻した。出てきて髪を乾かすとパンツ一丁で居間に出て、食事をそれぞれ皿に盛って用意した。炊飯器に米はないので冷凍されていた五目御飯のおにぎりを解凍し、茸が少しだけ入った薄味のスープを椀に掬い、茄子と豚肉の炒め物にマヨネーズなどで和えたキャベツのサラダをよそる。そうして卓に就き、わりとどうでも良いテレビ番組に目を向けながらものを食うと、抗鬱薬を服用して皿を洗って下階に下りた。そうしてしばらくだらだらとして、一〇時過ぎから過去の日記を読み返した。二〇一六年六月一二日日曜日のものだが、当時のブログに公開していた本文すべてよりも、欄外に書きつけられていたヴァルザーについての評言の方が面白かった。「ローベルト・ヴァルザーの小説ほど、書かれているすべてはただ紙の上だけで繰り広げられている芝居であり、人物は単なる薄っぺらな操り人形であるという印象を与えながら、同時に生き生きと踊り跳ねるような魅惑的な躍動感、道化的な紛い物の生命の輝きを感じさせる文章はないのではないか」というものである。単なる曖昧な印象批評だが、二〇一六年の自分もそこそこ頑張っている。
 その後またちょっとだらだらして、一〇時四〇分過ぎからプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きを行い、最後まで終わらせると、続けてインターネット記事を読むことにした。「週刊読書人」からの二記事、「二十歳のドゥールズに出会い直す 『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』(河出書房新社)刊行を機に 宇野邦一・堀 千晶対談」(https://dokushojin.com/article.html?i=33)と、長濱一眞「九〇年代の遺産としての自由――内戦ー浄化に至る――」(https://dokushojin.com/article.html?i=5938)を読むともう日付が替わる直前だった。前者の記事から気になった部分を以下に引いておく。

堀 冒頭でも少し申し上げましたが、後の時代に繋がる要素が、とても面白かったですね。たとえば「女性の叙述」(一九四五年)を読んでいると、すでに「顔」に対する鋭敏な関心をもっていることが分かります。そのなかには「お化粧論」があって、おそらくファンデーションをイメージしていると思いますが、一方には表面系のお化粧がある。他方で、口紅のように穴を縁取る、開口部系のお化粧の話が出て来ます。この二極を区別してドゥルーズは議論を進めるのですが、『千のプラトー』(一九八〇年)での「顔貌論」でも同じように、「白い壁」と「黒い穴」によって、表面と穴によって顔は構成されるという議論があります。こうして意外な形で、後年にまで伸びてゆく線が浮かびあがってきます。また「女性の叙述」での「ほくろ」と「そばかす」の対比もたいへん面白い。顔にほくろがあるのではなく、逆に、ほくろに顔が付属している、ほくろを中心に顔全体が組織されると彼は考えるわけですね。一種の中心化作用です。それに対して、そばかすはもっとはかないものであり、奥からそっと立ち上がってきた厚みのない泡が、ふわっと皮膚の表面に浮き出し、まるでそこで静かに揺れているかのような描き方です。そしてほくろとはちがって、そばかすには中心化作用がなく、消え去る泡のようなはかなさを湛えながら、表面でじっと浮動している。それをドゥルーズは讃えるわけですね。彼は表面性を愛するような感性を、若い頃から持っていたわけですが、こうした議論を見ると、どうしても意味の表面、その皮膚を論じる『意味の論理学』(一九六九年)を想起してしまいます。
宇野 つまり「化粧」と「表層性」ということですよね。


宇野 もうひとつ、「発言と輪郭」という一風変わったテクストがあって、これも部分的には女性論になっていますよね。マスターベーションとか露出趣味といった性的なカテゴリーを、精神分析とはまったく無関係に、ある種の存在論として展開する。この辺りの文章を読んでいると、プルーストの影響がとても強いことがわかります。プルーストの登場人物が持つ倒錯性をドゥルーズは巧みに哲学化している。『失われた時を求めて』の中で、眠ったアルベルチーヌの姿を観察するシーンを取り上げて、それもまた女性論に繋げていく。〈眠る女〉とは外部性が一切ない状態であると言って、とても印象的な分析をしている。初期テクストの中の一番最後では、ディドロの小説『修道女』について論じていますよね。修道院で、「自由」という問題に直面する修道女が、修道院の中でどういう事態に出会い、同性愛的な関係に何を見出すのか、エピソードをたどりながら美しい考察をしている。この論文は、『修道女』の序文として書かれたものです。こうした一連の文章を繋いで読んでいくと、明らかに「マゾヒズム論」に繋がっていく発想の萌芽を見ることができる。「マゾヒズム論」では、苦痛を快楽と感じることが、マゾヒズムの一番本質の問題ではないという提案をすることになる。マゾヒズムサディズムはセットで、マゾとサドが一緒になるとちょうどいいなんていう通念は全くの誤解だと、ドゥルーズは断じた。それよりもマゾヒストと女性との契約が大きな問題である。そういう意味では、「パパ―ママ―ボク」の三角形の図式から、父が完全に閉め出された世界が、マゾヒズムの構造である。「マゾヒズム論」の中には、女性つまり母との契約が法を覆すという論点も入っていますよね。法というのは父の法であるわけですから、父の法を覆す母との契約は、父の法を倒錯させてしまう。マゾヒズムとはそういう戦略であるという読み方を、ドゥルーズはしたわけです。ドゥルーズガタリと出会い、『アンチ・オイディプス』で初めて「欲望機械論」に向かっていくようにみえますが、こうやって初期論文からの展開を読んでみると、実は、精神分析と相いれない欲望機械の内在性というモチーフは、初期作品から周到に形成されてきたことがよく見えて来ますね。
サディズムマゾヒズムを分離したことが、マゾッホ論における概念の発明なんだと、ドゥルーズ自身が言っていますよね。S/Mは相互補完的なものでない、と。けれども同時に、「父系」の「法」の原理と、「母系」の「契約」の原理とを区別することもテーマであり、今のお話を聞きつつ初期テクストと対比してみると、サディズムマゾヒズムばかりでなく、男性的なものと女性的なものとを分離し、女性的なものを取り出すことが重要な問題としてあったことがわかります。つまり、母/父、女/男は相補的なものではない、と。それは、「父―母―子」という家族主義的なオイディプスの三角形を決定的に破壊することにも繋がってゆくように思います。女性的なものは、この家族主義的な図式のなかに収まる一項なのではなく、三角形の外にあるまったく別の原理として取り出されるわけですから。また女性的なものに関わる問題は、『千のプラトー』の中で、「女性への生成変化」としても出て来ます。そこでも、「男性への生成変化」は存在しないという形で、女性的なもの/男性的なものという相補的ペアが成り立たないようになっている。それに先ほどのアルベルチーヌのお話と関連する点では、同じく『千のプラトー』での「秘密」をめぐる議論もありますよね。つまり、隠しているものが何もなく、すべてを外部に晒しているときにこそ、すべてが謎めき、秘密となるという話です。初期テクストを読んでいると、後年の本を単体で見ている時とは違う角度からラインが引かれていきます。


堀 それとドゥルーズのヒューム読解には、ご指摘のあった「関係」の問題があります。ドゥルーズには「関係の外在性」という用語がありますが、これは端的にいうと、一種の全体主義批判です。超越的役割を果たす中心的な審級(項)が、社会「関係」全般を統御してしまうこと、超越的な「項」の内部に「関係」を取り込んでしまうこと――そのような議論に対する根底からの批判を、ドゥルーズは「関係の外在性」に見出していた。関係を項のなかに取り込むことは絶対にできない、超越的な項が関係を決めることはできない、と。ドゥルーズはヒュームの中に、こうした抵抗のモチーフを最初から読み込んでいたのではないでしょうか。そのときにドゥルーズの念頭にあったのは、おそらくヘーゲル批判です。すべてを単一なものの中に包摂してまとめていってしまうような思考様式に対する批判を、ヒュームの中に見出しつつ、同時にその彼をとおして、全体主義に回収されないような主体形成のありようを考えていたように思います。
宇野 この本に収録されているガタリへの書簡の中で、ドゥルーズは次のようなことを言っていますよね。「あなたは素晴らしい野性的概念の発明家である」。そしてこの「野性的な概念」とは、イギリス経験論つまりヒュームのなかにあるというわけですよね。こんなひと言によって、実に多くのことを言っている気がするんです。つまりドゥルーズはヒュームから、ある思考の内容、主題という点で強い影響を受けたというよりは、スタイルや着想、論の進め方のところで、ヒュームが染み込んでいる。そんな印象を受けるんですね。『経験論と主体性』を今回読み直してみて、やはり一番迫力があるのは、主体がはじめからあるのではなく、観念の集合として主体が構成される過程があるだけだ、というふうに論じているところです。「妄想」「幻想」「信念」といった言葉をキーワードとして使っていて、カントに比べると歴然としますが、要するに、理性とは妄想であり信仰であると言うわけです。そうやって大胆に理性批判をしながら、問題を提起していく。つまりここでドゥルーズは、哲学のアカデミックな伝統から遠い方法について語っている。その意味でガタリに対して、「sauvage(野性的)」であると言っていることも重要に思えるんですね。そうした「野性的な」思考法を、既にヒュームの中に見ている。ニーチェの方がはるかに「野性的」かもしれないけれども、むしろイギリス経験論に思考の野性を見る。ヒュームに関する講義を、ドゥルーズが重視したのも、そんなヒュームの思考のプロセスに逐一拘り、検証し直す必要性を感じていたからだと思いますね。


宇野 『無人島』に入っている「ルソー論」の中でドゥルーズは、「物に即する」という言い方をしていますよね。ルソーは『エミール』でも、子どもに物を持って来てやるのではなくて、物の方に子どもを行かせることを重視する。そのことと関連させて、『物の味方』という作品を書いたフランシス・ポンジュを引用したりする。初期テクストの中でも、ポンジュの詩からの引用が出て来ます。そして「感情を物にするのではなく、物を感情にしなければならない」、つまり「物が感情の比喩になっては駄目だ」と言うことです。またパントマイム、「マイム」に対して、アンチマイムとは何をやるのか。「物に即した表現でないといけない」「感情を物に翻訳するような表現は間違いである」と言う。ドゥルーズが二十歳そこそこで書いたことですが、「物に即する」という問題は、実は、政治的なコミュニケーションの問題にまで繋がって来ることですよね。ルソーは『社会契約論』にも、このような発想を注ぎ込むことになる。
堀 その点は、『アンチ・オイディプス』の欲望論にも関わってきますよね。ドゥルーズガタリは、欲望を心的なものではなくて、物質的なものとして規定しようとしています。いわば「欲望の唯物論化」が大きなテーマで、精神分析マルクス主義との結合が行なわれていく際の鍵となる発想ですが、それは今回の本に収録された『アンチ・オイディプス』をめぐる討論の中に出て来る「乾燥の流れ」の話にも繋がっています。それは乾燥というのを、水が足りない状態として、欠如として読んではいけないという話で、むしろ乾燥という物質的なプロセスの流れがあり、その流れが、水を追いかける身体の別の流れと結合する。こうしたいくつもの物質的プロセスとともに、欲望をいかに構成していくか。それが『アンチ・オイディプス』の主眼としてあった。そうなると欲望を構成するために、欠如はいらなくなるわけですよね。内側で何かが欠けているから欲するのではない。つねに外側にある積極的なものが連結することで、欲望が構成され、アレンジされていくわけです。

 そうしてまたちょっとだらだらとしたのち、零時二〇分からこの日の日記を綴りはじめた。BGMはKeith Jarrett Trio『Tribute』。何だかんだ言って、やはりあまりに美麗で雑駁さのなさ過ぎるピアノだが、それでは明快かと言うと、必ずしもそうでもないような気がする。Bill Evans的な、ある種機械的と形容したくなるような明快さとは違う、情念に煽られ、縁取られたような美しさだ。それを背景に聞きながら日記を進めていると、一時頃になってSkype上でYさんが通話を始めたようだったので、久しぶりにチャットで参加してBGM的に聞いてみるかと入ったところ、Yさんしかいなかった。それからじきに、MYさん、Cさんがやって来たのだったが、会話は深夜の静けさに相応していまいち盛り上がらず、一時四〇分頃になってCさんが去ったのを機に、こちらも日記作成に戻った。ここまで綴ると午前二時が目前となっている。
 それからまたちょっと怠惰な時間を過ごしたあと、二時半からベッドで読書に入った。リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』である。読書ノートにメモを取りながら読んでいるとあっという間に四時を回って、さすがに眠かったのでそこで就床した。


・作文
 12:18 - 12:34 = 16分
 24:20 - 25:58 = 1時間38分
 計: 1時間54分

・読書
 14:49 - 15:00 = 11分
 15:50 - 16:22 = 32分
 16:42 - 16:57 = 15分
 17:03 - 17:13 = 10分
 22:09 - 22:17 = 8分
 22:44 - 23:08 = 24分
 23:15 - 23:57 = 42分
 26:29 - 28:05 = 1時間36分
 計: 3時間58分

  • リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』: 24 - 53
  • 「わたしたちが塩に柱になるとき」: 2019-09-18「もうなにも浮かばないから飼い犬の名前を書くことにするコビィ」
  • 「at-oyr」: 2019-07-26「今年の夏」; 2019-07-27「香」; 2019-07-28「youtubeフジロック2019」; 2019-07-29「明るさ」; 2019-07-30「宵」; 2019-07-31「元の世界」
  • 2016/6/12, Sun.
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、書抜き
  • 「二十歳のドゥールズに出会い直す 『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』(河出書房新社)刊行を機に 宇野邦一・堀 千晶対談」(https://dokushojin.com/article.html?i=33
  • 長濱一眞「九〇年代の遺産としての自由――内戦ー浄化に至る――」(https://dokushojin.com/article.html?i=5938

・睡眠
 3:00 - 11:15 = 8時間15分

・音楽

2019/9/19, Thu.

 さらけ出そうとするんですが
 さらけ出した瞬間に別物になってしまいます
 太陽にさらされた吸血鬼といったところ
 魂の中の言葉は空気にふれた言葉とは
 似ても似つかぬもののようです

 おぼえがありませんか
 絶句したときの身の充実
 できればのべつ絶句していたい
 でなければ単に啞然としているだけでもいい
 指にきれいな指環なんかはめて
 我を忘れて
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、35; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「14」; 「金関寿夫に」)

     *

 川崎
 知らぬ間に再び君に支配された私たち
 デリケートな太鼓腹
 歴史の外の不変のはにかみ
 海にまじってイル
 横須賀の人よ
 (41; 「一九六五年八月十二日木曜日 an anthOARogy」)

     *

 きみは生きていて呼吸してたに過ぎないんだ
 十五分間に千回もためいきをつき
 一生かかってたった一回叫んだ
 それでこの世の何が変ったか?
 なんてそんな大ゲサな問いはやめるよ
 真夜中のなまぬるいビールの一カンと
 奇跡的にしけってないクラッカーの一箱が
 ぼくらの失望と希望そのものさ

 そして曰く言い難いものは
 ただひとつだけ
 それがぼくらの死後にあるのか生前に
 あるのかそれさえわからない

 魂と運命がこすれあって音をたててら
 もうぼくにも擬声語しか残ってないよ
 でも活字になるんじゃ
 呻くのだって無駄か
 (50~51; 「My Favorite Things」; 「ジョン・コルトレーンに」; 8/2/1973)


 八時に一度覚め、身体を起こしてベッドから下りるとコンピューターを起動させてTwitterをちょっと眺めたのだが、まだ眠り足りない感じがしたので寝床に舞い戻り、引き続き薄布団を乱しながら夢の世界に囚われることになった。一一時半頃になって意識を取り戻し、寝床でもがきながら呻いていると、料理教室に行っていたであろう母親が帰ってきた気配があった。彼女は午後にはまた別の料理教室か何か――確か、栗の渋皮煮教室と言っていたか?――に出向くらしく、すぐにまた出掛けて行ったようだ。こちらはベッドから離れ、ふたたびコンピューターに寄ってTwitterを見てみると、Uくんからのメッセージが届いていた。Twitterから消える可能性があるのだが、FさんはLINEをやっていますかと言う。これがなかなか困りどころだった。この朝、HMさんからもメールが入っていて、メールアドレスでLINEを検索してみたが、こちらのアカウントは出てこないと言う。彼との連絡を取るのにも、LINEが簡便で都合が良いのだが、こちらの扱っているのはPC版のLINEである。それで友達のアカウントをIDなり電話番号なりで検索しようとすると、何故か、スマートフォンの方で「年齢確認」をしなければこの機能は使えません、というような表示が出てきて、検索が出来ないのだった。それでほかの方法はないかとインターネットを調べてみたのだが、どうも最近のアップデートでそのように仕様が変更されたらしく、とにかく「年齢確認」をしなければ友だち追加機能が使えなくなったようだ。しかし、こちらはスマートフォンを持っていないので、当然だが「年齢確認」が出来ない。スマートフォン版のLINEではEmailによる友達招待ということが出来るようなので、それで繋がることが出来ないかというわけで、HMさんにその旨返信しておき、それから部屋を出て上階に行き、便所で放尿してからものを食べることにした。冷蔵庫のなかには昨夜の汁物の残りや、母親が作ってきた弁当の類があったが、それらよりも何となくハムエッグ丼を久しぶりに食べたいような気がしたので、四枚入りのハムを一パックと卵を二つ取り出して、フライパンに油を引いた上から投入した。しばらく加熱して、黄身や白身が固まりきらないうちに、丼に盛った米の上に被せて、それだけを持って卓に移り、醤油を垂らしてぐちゃぐちゃと搔き混ぜてから食べはじめた。新聞からはイスラエルの選挙情勢の記事を読んだが、組閣が失敗してやり直された今回の選挙でも、リクードも野党側もともに過半数を得ることが出来ず、ベンヤミン・ネタニヤフは自身の汚職問題もあって首相職続行に黄信号が灯っている、との内容だった。強硬派リクードが政権の座から退くことになったとしても、野党側も近年、対パレスチナ政策に関しては与党とあまり差異が見られないようになっているとの情報を以前聞いた覚えがあるので、あまり楽観視は出来ないのではないか。
 食事中、電話が掛かってきた。口のなかにあるものを急いでもぐもぐと咀嚼して飲み込んでから出ると、西多摩霊園のパンフレットをお送りしますとの言が耳に送られてきた。先祖代々の墓があるので別にいらないのだが、ありがとうございますと受けておき、すぐにやりとりは終えて電話を切り、引き続き食事を取ったあと台所で皿を洗ってから抗鬱薬を服用した。それから風呂場に行って浴槽を洗い、出てくると洗濯物のタオル類が室内に取り込まれていることに気づいたが、外では陽が明るく照っていたのでそれらをベランダに出し直した。そうして下階に戻ってくると、母親に兄の室を掃除しておいてくれと言われていたので、階段下のスペースから掃除機を取り、兄の部屋に移動してカーペットの上を掃除した。ついでに自室の方も床の埃や細かなゴミを吸い込んでおき、終えると階段下のスペースに掃除機を片付けたあと、TwitterでUくんにも返信を送り、Emailでの招待が出来るようだったらしてみてくれと伝えておいた。それからFISHMANSCorduroy's Mood』を流しながら前日の記事に日課などの記録を付け、この日の記事も作成して、それで早速Mさんのブログを読みはじめた。九月一七日付の記事を読み終えるとそのままこちら自身の一年前の日記も読み返した。この頃はまだ鬱病の圏域に囚われていながらも、一時日記執筆の習慣を復活させていた頃なのだが、一応筆致としては基本的にはそれ以前や今の様子とあまり変わらないようには見える。ただやはり、全体から何となく元気のないような雰囲気が漂ってくる気がしないでもなく、当然ながら出来るだけ細かく書くぞというような気力はないようだ。実際、二〇一八年の八月くらいから一時期また日記を書いてはいたものの、書いていても特に楽しいとか充実しているとか自分のやるべきことをやっているという感覚はなかったはずで、端的に言って何故書いているのか動機がわからず、細かな記録の習慣はまもなく一〇月頃からふたたび途絶えてしまうのだった。再度の復活には、セルトラリンを飲みはじめた年末、一二月まで待たなければならない。
 その後さらに、二〇一六年六月一三日月曜日の日記も読み返してブログに投稿してから、一時半に至ってこの日の日記を書きはじめた。BGMは『Art Pepper Meets The Rhythm Section』である。上の段落まで綴ったあとは、昨年の自分の日記を色々と断片的に読み返してしまい、それで時間を使ってあっという間に二時半前に達した。そこでそろそろ洗濯物を入れようと一旦部屋を出て階段を上り、ベランダに吊るされたものを取り込んでおき、足拭きマットの類はソファの背の上に広げておいて、まだ畳まずに自室に戻るとふたたび『Art Pepper Meets The Rhythm Section』を流し出してキーボードに触れた。三時過ぎまで文を拵えたあと、そこで区切って読書をすることにして、まずその前に身体をほぐそうということでベッドに乗って「コブラのポーズ」を行い、大きく背を反らして腰の裏側を刺激した。それから柔軟運動を行ったあと、クッションと枕に凭れて書見、町屋良平『愛が嫌い』の終盤である。一時間四〇分ほど掛けて最後まで読了したあと、気になった箇所をいくつか読書ノートに書き抜いておいた。そうして時刻は五時過ぎ、その頃には母親も帰って来ていたので、こちらも上階に行って食事の支度を始めることにした。その前にまず放置していたタオルを物干しから取って畳み、洗面所に運んでいると、K子さんから電話があったけれど、これから出かけるからと言って切っちゃった、などと朝だか昼間だかのことを母親は話す。K子さんというのは近所に住んでいたO.M子さん――老いてから鬱病の類に冒され、昨年の三月に橋から飛び降りて自殺した――の妹だか姉だかで、我が家には時折り漬物などを持ってきてくれるのだが、母親はそれを受け取りたくないのだ。そうしてこちらは台所に入り、ケースに入った砂糖の塊をナイフで突き崩していく。その最中、電話が掛かってきて、母親はまたK子さんだったら嫌だからだろう、こちらに出てくれと、そして彼女だったらいないと行ってくれと言う。それで電話を取ると、相手はHだと地名だけ言うものだからこちらは戸惑ってしまったが、あとから考えるとこれは親戚の、K.Hさんの奥さんだったようだ。息子さんかな、と訊かれるのに肯定し、母親はと続くのには、K子さんではないので別にすぐ替われば良かったのだが、こちらも戸惑っていて判断が上手く回らず、ひとまずまだ帰っていないと答えてしまった。おばさんは最後に、Kのおばさんが亡くなったと伝えてくださいと言い残して通話を切った。Kのおばさんというのは、母方の祖母の腹違いの姉で、もう九六だかそのくらいでホームに入っていた人である。あとで聞いたところでは、今朝方身罷ったとのことである。それで通話を終えると台所の母親にその旨告げて、こちらは野菜炒めを作りに掛かった。人参を千切りにし、玉ねぎは薄く切り分け、白菜を斜めにざくざくと切って行くと新調されたフライパンに油を引き、刻んで凍らせた生姜をばら撒いて溶かしてから野菜を投入した。母親が豚肉のパックを冷蔵庫から取り出して、少量の肉を適当に横から加えた。それらを炒め、餡掛けの素のような調味料があったのでそれを入れてまたしばらく搔き混ぜると完成である。母親が昼に作ってきた弁当も残っているし、前夜の汁物も残っているし、そのほかの品は良いと言うので、こちらは電灯も点けず水っぽく灰色に暗い居間で肌着や靴下やパジャマを畳んでソファの背に整理しておき、下階に下った。LINEの最新版で友達検索が出来ないのなら、以前のバージョンを改めてダウンロードすれば良いのではないかと思いついた。それでインターネットを検索して古いバージョンを見つけ、ダウンロードしてログインしたところ、検索は出来るようになったのだが、そうしてみてもHMさんのアカウントは出てこなかった。どういうわけなのかわからない。ともかくもふたたび前日の日記に取り掛かって、三〇分ほど掛けて完成させると七時過ぎ、インターネットに記事を投稿してから食事に行った。腹が随分と減っていた。メニューは白米、野菜と茸の汁物、野菜炒め、厚揚げ、それに母親が作ってきた弁当に入っていた、あれは何という料理なのか不明だが、鶏肉を細かくすり潰して固めたようなものだろうか、そんな風なものである。その他やはり弁当に入っていた生のキャベツを食い、食後にはやはり母親が作ってきた蒸しケーキの類も頂いた。テレビはおよそどうでも良い番組を映していたのでほとんど目を向けず、新聞の夕刊から福島第一原発事故の責任を問われた東電の元経営陣の裁判が今日行われるとの記事や、米国務長官サウジアラビアの皇太子が会談したという記事などを読んだ。それでものを平らげると抗鬱薬を飲み、食器を片付けてから風呂に行った。湯のなかで目を閉じて先ほど読んだ新聞記事の内容を反芻しながら静止し、しばらく浸かると上がって髪を乾かした。そうして上半身裸で出てくると自室に下り、T田にLINEでメッセージを送った。彼を介してHMさんと繋がることは出来ないかと考えたのだった。つまり、どうにかしてT田とHMさんに繋がってもらえれば、T田がこちらの連絡先をHMさんに教えることが出来るだろうとの目論見だった。実際、去年最初にLINEを使いはじめた際にも、そのようにしてM田さんを介してTと繋がったのだったと思う。そういうわけでHMさんのIDや電話番号検索は出来ないかと訊いてみたのだが、T田も年齢認証とかいう事項をクリアしていないらしく、検索機能を使えないらしかった。次善策としてHMさんの方からT田のIDあるいは電話番号を検索してもらうのはどうかと思ったのだが、どうも年齢認証をしていないと、友達として追加されることも出来ないのではないかという疑いがあった。それでT田はQRコードを用意してくれたので、それをメールに添付してHMさんに向けて送っておいた。T田は今、こちらが貸した梶井基次郎檸檬』を読んでいるのだが、「冬の日」が第一章だけでもとても凄かったと言った。「冬の日」は確かに、こちらもおそらく一番多く書き抜いた篇だと思う。T田とのやりとりを間遠に交わしながらこちらは、「東電旧経営陣3被告に無罪判決 福島第1原発事故で東京地裁」(https://mainichi.jp/articles/20190919/k00/00m/040/102000c)と「イスラエルのネタニヤフ首相、総選挙後の前途は多難」(https://jp.wsj.com/articles/SB12696131808382783557304585559341938724842)の二記事を読み、そのあと日記を書きはじめた。Art Tatum『Piano Starts Here(Gene Norman Presents An Art Tatum Concert)』をバックにここまで綴ると一〇時が目前となっている。
 一〇時一〇分過ぎからぴったり一〇時半まで、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きをした。僅か二箇所を抜くに留めて、それから、千葉 雅也・大橋 完太郎・星野 太「「ポスト構造主義」以降の現代思想 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって」(https://dokushojin.com/article.html?i=6)を読みはじめた。以下、興味深かった箇所をメモとして引用しておく。

大橋 レヴィナスデリダに対しては、図式的には、カント的な影響下にあるという読みがしばしばされます。彼らは「メシア性」や「無限の彼方に到来する神」といった、いわばカント的「理念」のような概念を提示してくるのですが、メイヤスーはそれとは全然違う。その点に関して、千葉さんに聞いてみたかったことがあります。デリダ亜流のメシア論がメイヤスーの仮想敵なのは間違いないとして、ドゥルーズとの絡みではどう読めるのでしょうか。
千葉 昨日のシンポで話したこととも関係しますが、まず整理すると、メイヤスーの場合、不可能なものへの漸近ではない。なぜならば、現在では不可能なことが本当にいつか起こり得るから。世界丸ごとの変化という極端な形で、不可能なものが実際に実現し得る。これがメイヤスーの立場です。それを待とうが待つまいが、突然やって来る。そういう意味ではメシアは本当に来るという話です。ドゥルーズの場合、この世界が別様になる可能性は、絶えず複層的に潜在している。そのことを問題にする。僕の読みでは、メイヤスーの場合、世界の変化可能性は今ここに潜在しているのではない。今ここの状態は、ただ今のここの状態であるだけであり、余地としてのいかなるポテンシャルも持っていない。ある時突然変わる、その変わる時だけポテンシャルが発生するというような、そんなイメージでメイヤスーは考えているんじゃないか。ドゥルーズに比べると、潜在性がない世界だということです。そうすると、メイヤスーはバディウを引き継いでいるという文脈と関係して来るわけでしょうね。 

千葉 今の話、もう少し展開していただけませんか。「ヒヤッとした崇高」というのは、どういうものなんでしょうか。これまでの崇高論の伝統の中に位置づけられるものですか。
星野 カント自身が「崇高の分析論」の中で「数学的崇高」の例を出していますよね。カントはその例としてピラミッドを挙げている。我々が感性的に把握しうる、ピラミッドのような具体的な対象を通じて喚起されるものが、数学的な崇高である。確認までにそのメカニズムを話しておくと、我々がものを見る時には、把捉と総括というふたつの働きを通して見ていくわけです。ピラミッドの場合も、まずはその部分部分を見ていくわけですが、どこかで個別的な要素の把捉が限界に達して、全体を総括できなくなる。このようなものが数学的崇高だとカントは言う。ただし、そのような数学的崇高の契機となるのはやはり感性であって、それはあくまでも視覚を通じて看取されるものであるわけです。しかしメイヤスーの立論が醸し出している恐怖(ホラー)は、カントのように感覚を通じて入って来る崇高ではない。それは論理的なものが喚起する、自然法則の突然の崩壊のようなものであり、思弁的な形で到来する崇高を考えているのではないか。
千葉 数学的崇高の場合、人間の把握のフレームの有限性と関連していると整理していいのかな。そうすると、ある有限性のフレームからはみ出してしまうような物量で、感性的所与が入ってきた時に崇高が生じる。まさに有限性と、有限性と相関的にある不可能なもの、というペアによって生じる崇高であって、それはメイヤスーが乗り越えようとした構造ですね。
大橋 昨日のシンポでの議論と関連させて言うと、四十数億年後に、銀河系がアンドロメダに飲み込まれるという話がありましたよね。ロジックとして、四十数億年後に世界が確実に滅びることを怖いと思うかどうか。それが数学的崇高と関わる話なのかなと思ったんですね。
千葉 その話のポイントは、我々は、そんな膨大な時間が経つ前に死んじゃうということですよね。一切関係がないことであって、しかし関係ないことなんだけれど、すごいことではある。
星野 その話は、大橋さんが言っていた、強い学問と大して強くない学問という話に繋げられるんじゃないか。つまり物理学が言う、四十数億年後に銀河系が飲み込まれる話って、僕らには関係ないからそれほど怖くないわけですよね。「へえ、そうなんですか」で終わってしまう。でもメイヤスーはそういう話を扱いつつ、それをホラー的に語る。人間とは無関係な世界が存在していることを、ナラティブな方法で提示する。その意味では、弱い学問としての哲学がもたらしている効果はあると思いますね。
大橋 関係ないものを関係づける力を、ナラティブは持っているということですね。
星野 数十億年後の宇宙の話は、僕らと関係がない。それはカント的な、我々に関係があるものとしての崇高さとは違う、無関係な崇高である。しかしさらにそれを真剣に、我々に関係があるかのようなものとして語っていく。
千葉 そこに生じる面白さがあるんですよね。
星野 ある意味で、ホラーの発生を哲学的に演出しているかのような手触りがありますね。
大橋 数十億年後に来ることを、そうではないかのように語る。ナラティブの力によって、関係性の遠さは保ったままで、手元に引き寄せて来るような感じがある。
千葉 整理をすると、まず無関係性という問題がある。無関係なものに対して、ナラティブによる関係づけがあり、それによってカント的な意味での崇高さが生じる。
星野 この話は面白いですね。一方で、メイヤスーがやっていることは相関主義の批判ですから、関係性に対して無関係性を打ち出しているところにその新規性がある。けれども他方で、その関係のなさを我々に関係づけていく。メイヤスーのナラティブの戦略性を考えるうえでは、案外ここが本質的なポイントのような気がしてきました。

星野 ハーマンの哲学は、メイヤスー以上に現代的な感性に触れているところがありますよね。単にオブジェクト(モノ)が無関係なまま触れ合っているだけであり、我々自身もオブジェクトに過ぎないというシニカルな世界観を提示している。そこが受けているのは、わかる気がします。
千葉 主体性がなくなるということが、メイヤスーにおいてもハーマンにおいてもポイントですよね。
星野 確固たる主体性がないという話は、ポスト構造主義にとっても馴染みのあるテーゼでした。主体性はつねにすでに他者によって構築されているというアルチュセール的な話が、ポスト構造主義のひとつのシェーマだった。ただ、メイヤスーもハーマンも、そういう人間関係論的な主体性の構築とは全然違う形で、主体性の抹消をやろうとしている。
千葉 メイヤスーの場合では、他者との関係で主体が構成されるのではなく、主体が完全にゼロであり、他者しかいないわけですよね。ハーマンのオブジェクト指向存在論でも、全部が他者であり、どこにも自己がいない。逆に言えば、全部自己なのかもしれないけれど、自他の関係における構築というモメントがない。
星野 ハーマンを中心とするSRに関しては、ブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク・セオリーとの親和性がよく言われますよね。この理論では、いちおう主体性らしきものはあって、それがエージェントとして行為するというモメントが積極的に引き受けられている。
千葉 多方向的に行為するわけですよね。
星野 そういう理論ともハーマンは決定的に違う。主体のエージェントとしての特権性を認めないという立ち位置ですから。
千葉 アクター・ネットワーク・セオリーでは、世の中を考える変数を増やして、すべてをフラットに考えましょうということですよね。すごい常識的な世界観であって、要は世の中をよく見ましょうと言っているだけのことです。単に人間だけを考えるのではなくて、周りに何が置かれているかとか、すべて考えていく。だから徹底的な写生になるわけです。しかし、SRで面白いのは、誇張法によって、徹底的に活動性がない世界を描き出そうとしているところですよ。だから、世の中がどうなっているかをよく分析して、よりよい人間関係を作ることに役立てようとか考えるのであれば、アクター・ネットワーク・セオリーでいいわけです。ハーマンのオブジェクト指向存在論には、もっと違うところに面白みがある。すべてがすべてに対して疎外されている状態について言っているわけです。そこに何か社会的な意味があるのかと問われれば、第一には「ない」という答えでいい。
星野 そういう意味では、ハーマンも誤解されていますよね。つまり彼の議論を建築やアートに応用しようというのは、ポジティブな側面を読むから、そうなってしまう。でもハーマン自身が言っているのは、引きこもり的なオブジェクトが単に並置されているだけだという話であって、アート系におけるSRの受容は、かなり誤解された上でなされているような気もします。
大橋 引きこもっている奴を引っ張り出して、社会活動させるみたいなイメージになりますね。
千葉 ハーマン的なプログラムをそのまま建築とかに実装しようとすれば、かなり大変なものができるんじゃないだろうか。まだそれはやられていないし、その余地はあると思うけれど、まともな建築になるのかは微妙ですね。単純に住み得るものになるとは思えませんから。
星野 ハーマンのオブジェクト指向存在論は、単純だからこそ誤解されやすくて、別の分野にも利用されてしまっているところがあると思いますね。
大橋 ただ、単純なことだけれど、それを公に言うことは大事だと思うんです。
千葉 一個一個のオブジェクトすべてが、徹底的に引きこもる。ハイデガー的に翻訳すれば「退隠」するというのがその主張ですが、そこまで単純にはっきり言った人っていなかったのかな。あまりにも素朴すぎて、誰も言わなかったのか。単純なことを言っちゃったことによって、大ごとになったという意味では、メイヤスーもそうですよね。この世界が存在する根本的な理由は何もないとか、小中学生だって思いつきそうな話でしょ。そういうことを考えた哲学者もちょこちょこいるだろうにせよ、こんなに整理された形では書かれていなかった。
星野 今の話で言えば、「退隠」をキーワードとして出した人はいたけれど、やはりそこでは主体性が完全には消えていなかったと思うんですね。引きこもるというのは、結局のところ主体的な行為です。だけどハーマンの場合、オブジェクトはつねにすでに引きこもっている。それは主体性なしの引きこもりです。退隠(引きこもり)もやはりポスト構造主義のキーワードのひとつですが、そこでは決定的に主体性が残っている。ハーマンの議論が過去のものと決定的に違うのはそこだと思います。
大橋 理論物理学者の野村さんは、こんなことを言っていました。小学生が持つ疑問をどこまで徹底化できるか、そこに学問の賭けどころがあると。そういう意味では、メイヤスーの本は、本格的な学問の要素を十分含んでいるんですよね。つまり「世界って終わるの?」みたいな問いに、哲学史の知識を動員して答えているようなところがある。
星野 昨日、野村さんも「素朴」というキーワードを使っていましたが、その話にも繋がりますよね。素朴実在論というのは、カント以来たえず攻撃されてきたわけです。でも考えてみると、「……は素朴である」というのは、本当に批判になっているのか。そういう問題が一方にある。野村さんは、科学者は素朴にやっていくしかないんだと、この言葉をポジティブに捉えていらっしゃいました。これはメイヤスーがやっていることにも繋がるんじゃないか。素朴実在論とは違うけれど、メイヤスーは素朴に人類以前の世界を考えてみたわけですから。
千葉 哲学史上、素朴さを極端化することによって、洗練した理論が取り出されるというのは、ひとつのテクニックとして脈々とありますよね。実は何の深い構造もなく、そこにものがあって、それで行為するみたいなことを考えるのが、一番ラディカルである、などなど。ハーマンの考えているオブジェクト指向存在論にしても、ペットボトルとかタバコとか、まずは日常的なものの話であって、そういう素朴なことをどうラディカライズして考えていくかという話です。

星野 ブラシエは、ニヒリズムの徹底化を図っていますよね。ニーチェに倣って、さらにニヒリズムを徹底化させる。最近のインタビューのタイトルも「私はニヒリストである、なぜなら私はまだ真理を信じているからだ」というものでした。つまり真理を信じている人間が、ニヒリストの最たるものであるという逆説です。これも逆張りか誇張の一種だと思いますが、そういうところは面白いポイントだと思いますね。
大橋 今の時代に、真理への信頼を語ることがニヒルになるということを自覚している。

 三〇分ほど掛けて上記の記事を読んだのち、コンピューターの前に就いたまま、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読みはじめた。同時にこの夜もTwitterで話し相手を求めていたのだが、それに応じてくれる人は今宵は見つからなかった。ただ、途中でMIさんからメッセージが送られてきて、『ガーンジー島の読書会の秘密』という映画を勧められた。原作の小説は、図書館で見かけたことがあるような気がしないでもない。紹介された映画の公式ホームページを見てみると、監督はマイク・ニューウェルという人で、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を映画化した監督らしいので、ちょっと興味を持った。しかしこちらは、映画を観るという習慣を自分の生活のなかになかなか取り入れられない。友人と映画を観に行く機会などがあれば是非見てみたいと思うと返しておき、短くやりとりを終えると読書に戻った。歯磨きを終えたあと、零時前からベッドに移っていたが、零時一五分だか三〇分だかわからないけれどそのくらいにはもう意識を落としていたようだ。はっと気づくといつの間にか身体を横にして眠っており、時計を見ると三時だったのでそのまま就寝した。


・作文
 13:33 - 14:25 = 52分
 14:28 - 15:06 = 38分
 18:34 - 19:06 = 32分
 21:13 - 21:55 = 42分
 計: 2時間44分

・読書
 12:59 - 13:26 = 27分
 15:20 - 17:05 = 1時間45分
 20:15 - 21:08 = 53分
 22:14 - 22:30 = 16分
 22:34 - 23:02 = 28分
 23:07 - ? = 少なくとも1時間
 計: 4時間49分 + ?

・睡眠
 3:35 - 11:40 = 8時間5分

・音楽

  • FISHMANSCorduroy's Mood』
  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Art Pepper Meets The Rhythm Section』
  • Art Tatum『Piano Starts Here(Gene Norman Presents An Art Tatum Concert)』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』

2019/9/18, Wed.

 金は木の葉に変るといいと思うよ
 全部じゃなくて半分くらい
 そしたら木の葉を眺めて
 一日中ぼんやり座っていられる
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、17; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「5」)

     *

 葉書を書くよ
 葉書には元気ですなどと書いてあるが
 正確に言うとちょっと違うんだな
 元気じゃないと書くのも不正確で
 真相はつまりその中間
 言いかえれば普通なんだがそれが曲者さ
 普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
 鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で
 たとえば日曜日の動物園に似てるんだ
 猿と人間でいっぱいの
 (20~21; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「7」)

     *

 題なんかどうだっていいよ
 詩に題をつけるなんて俗物根性だな
 ぼくはもちろん俗物だけど
 今は題をつける暇なんかないよ

 題をつけるならすべてとつけるさ
 でなけりゃこんなところだ今のところとか
 庭につつじが咲いてやがってね
 これは考えなしに満開だからきれいなのさ
 だからってつつじって題もないだろう
 (24~25; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「9」)


 八時に起床することに成功した。前夜は多分二時半くらいから意識を失っていたと思われるので、睡眠時間は五時間半といったところだろうか。コンピューターに寄って起動させ、Twitterにログインすると、ちょうどUくんからダイレクト・メッセージが届いているところだった。彼はKendrick Lamarのラップの分析で修論を書くつもりでいるのだが、それと関連して、奴隷制時代の黒人霊歌の歌詞について書いているブログを紹介してくれた(http://nagi1995.hatenablog.com/entry/547)。このブログがなかなかに凄いもので、様々な洋楽の歌を翻訳しているのだが、現在のところ六一三曲も揃っているようで、その網羅ぶりは素晴らしいものである。UくんがURLを貼ってくれたのは「Swing Low Sweet Chariot もしくはハリエット·タブマンと「地下鉄道」のことなど (19c. African-American Spiritual)」の頁で、それを軽く読んだあと、彼がさらに紹介してくれたDr. Dreの"Let Me Ride"という音源をyoutubeで閲覧した。"Swing low, sweet chariot, Comin' for to carry me home"と歌われる一九世紀の黒人霊歌の文言が、Dr. Dreによって"Swing down, sweet chariot, stop, and let me ride"と歌い直されている。黒人の歴史的遺産がしっかりと現代の文化のなかに根づいているわけで、こうしたギャングスタたちというのはおそらく、我々の想像以上に自らのルーツに対する意識が強いのだろうなと思った。Uくんはそれについて、「奴隷制時代から続いてきた宗教的な歌がそのまま引き継がれて、ゲットーを生き抜くギャングスタたちのラップのサビで歌い直される(しかも独自の解釈で)ことを見ると泣けます笑」とのメッセージを寄越した。さらに、Cornel WestがNew York Timesの記事(https://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/08/19/cornel-west-the-fire-of-a-new-generation/)で述べていた希望の存在論的様態について彼は、それをテーマにした短い戯曲を書いたことがあると言って、それも紹介してくれたので、これは今日、労働から帰ってきたあとに上のブログの記事と合わせて読んでみなければなるまい。
 それから上階に行った。食事は昨晩のうどんの残りだと言う。うどんが入った鍋を冷蔵庫から取り出して火に掛け、同じく前夜の残りである茶色の、肉と玉ねぎとモヤシの炒め物を電子レンジに突っ込む。それらを持って卓に就くと食事を始めた。テレビは『あさイチ!』を流しており、延命治療の是非といったようなことについて話が交わされていて、母親はそれを見ながら本当だよねえ、と呟いた。テレビで紹介されていた例では、脳梗塞の後遺症で意思表示がほとんど出来なくなり寝たきりで入院している祖母と、認知症で自宅介護を受けている祖父との双方に掛かる医療費が月に三〇万円と言われていたのだが、一体どこからそのような金が出てくるのだろうか? こちらの親のうちどちらかのみがそのような状態になったとしても、こちらには彼らをきちんと介護していける経済的余裕がいつまで経っても持てるとはとても思えない。
 食べ終えると下階に下り、コンピューターの前にまたしばらく就いたあと、九時からベッドに移って書見に入った。町屋良平『愛が嫌い』である。最初の「しずけさ」は昨晩中に読み終えていたので、表題作「愛が嫌い」に入って読み進めていくのだが、何となく頭や肉体の感触からそうなるだろうと思っていた通り、また眠気に刺されてまもなく倒れることとなった。一時間半くらいは断続的に眠っていたと思われる。途中、一一時頃だったか、それとも一二時頃だったかわからないが、ベッドに倒れ込んでいると窓外で雨が降り出したのに気づいたので、急いで起き上がって上階に行き、ベランダの洗濯物を取り込んだ。それで戻ってから今度は眠らず読書を進めて、一時直前になって表題作を読み終わった。こちらも感触としては結構悪くなかったが、「しずけさ」の方が書き抜きたいと思う箇所が多くて、と言うか表題作の方には書き抜きたいと思うほど強い印象を覚える部分がなくて、今のところ冒頭の作の方が気に入られている。残るは書き下ろしの「生きるからだ」である。「愛が嫌い」を読み終わったところで本を置き、そのままベッドにごろごろとして休んだ。さっさと家事をやるなり、日記を書くなりしなければならないと思っていたのだが、眠りに落ちはしないにしても目を閉じて休み続け、あっという間に二時を迎えてしまった。その頃になると母親が帰ってきた気配が伝わってきたのでようやく起き上がり、上階に行った。玄関には買い物袋が置かれてあった。台所から笊を取って戸棚をひらき、米を三合掬い入れていると母親が外から入ってきたので、米を磨ぐよ、と言って流し台に移り、洗い桶に注ぎ込まれる流水のなかで素手を使って米を搔き混ぜた。洗い終えると釜に入れて、もう炊きはじめるようスイッチを押した。米を炊き、レトルトのカレーを食って出勤するつもりだったのだ。それから風呂を洗っていると、母親の、茄子が腐っていたという声が聞こえた。出てきて見てみると確かに袋に五本入った茄子のなかの一本の表面が木の洞のようにえぐれた風になっている。それを取り替えに行く際についでに職場まで乗せていってくれると言うので、言葉に甘えることにした。それからこちらは自分のシャツにアイロンを掛け、そうして母親が買ってきてくれたクレープバウムを二人で半分ずつ分けて食った。飲み物として母親が緑茶を淹れてくれたが、葬式の返礼品として貰ったというこの茶は彼女も言う通り、苦味ばかりが先走って味に深みやまろやかさがなく、全然美味くないものだった。使った食器を台所に片付けておくとこちらは下階に下りて自室に入り、FISHMANSCorduroy's Mood』とともにこの日の日記を書きはじめた。その後、音楽をSIRUP『SIRUP EP』に繋げて、ここまで綴ると三時半前に至っている。
 そのあと四時過ぎまで、前日か前々日のものか忘れたけれど、ともかく日記を書き続けたのち、食事を取るために上階に行った。上にも書いた通り、レトルトのカレーを食べるつもりだった。台所では母親が早くも夕食の支度を行っており、きんぴら牛蒡や、野菜や茸の入った汁物が用意されていた。焜炉を一つ空けてもらってそこに水を注いだ鍋を据え、まだまったく温まっていないのにレトルトパウチを最初から入れて火に掛けた。それでタオルを畳んだり新聞を瞥見したりしながら加熱を待って、カレーが温まると大皿に米を盛ってその上から注ぎ掛けた。そうして卓に就いて食ったのだが、このカレーが辛いだけで全然美味くない。味に深みというようなものがまったくなかったのだ。もっとも、同じ種類のレトルトカレーは以前にも食ったことがあったのでそのことは既に知っていたのだったが、改めて美味くないと口に出すと、母親も同意してみせた。訊けばこのレトルトカレーは父親の会社の知人か誰かが、長野県は蓼科に行ってきた際の土産物なのだと言う。その知人には悪いが、これは土産物としては低品質の部類である。文句を言いながら辛いカレーを食って、食器を洗うとシャワーを浴びに行った。身体にべたべたと付着していた汗を流し、臭いを取り払って、頭を洗ってから出てくると、パンツ一丁で下階の自室に戻り、携帯電話で吉祥寺SOMETIMEに電話を掛けた。それで九月二七日のOMA SOUNDの公演がある日にHさんと二人分の予約を取っておいた。開演は七時半、オープンは六時半だと言う。Hさんとは五時に待ち合わせをしていて、そのまま店に行ってくっちゃべりながら公演を待とうと思っていたのだが、六時半にならないと開かないのだろうか? その点、五時でも良いかと訊いてみれば良かったが、昼間から営業しているはずだから多分五時に行っても大丈夫なのではないだろうか。もし駄目だったとしても、ほかの喫茶店で時間を潰してから店に向かえば良い話である。通話を終えると仕事着に着替えて、歯磨きをしながらMさんのブログを読んだ。九月一五日付の記事を読んだところで時刻は五時一五分頃、最後にSIRUP "SWIM"を歌って、それでクラッチバッグを持って部屋を出、階段を上り、母親に行こうと告げた。それから数分、母親の支度を待って出発である。雨はもうほとんど降っていなかったが、つい先ほどまで降り残っていて路面は濡れそぼっていたし、空気は湿り気に包まれていつまた盛り出してもおかしくないように思われたので、黒傘を持った。それで母親の車の助手席に乗り込むと、例によってEvery Little Thingの音楽が掛かっている。
 市街に向けて街道を走っていくあいだ、母親は突然、祭りの接待の話を始めた。今年は連絡がないからやらなくていいと思ってたって、そんなのないよねえ、毎年やってるんだから普通わかるよねえ、と言うのだが、およそどうでも良く、ただ一言知るか、と言いたいような話である。まずそもそも、主語を明示しないで言うので誰の話なのか不明だし、言われたところでこちらにはわからない名前だった。そしてさらに、地元の秋祭りなどもう二週間も以前に終わっているのであって、一体いつの話をしているのか、いつまでこだわっているのかとこちらは呆れてしまった。そう言うとしかし母親は、別にこだわっているわけじゃないけど、と薄笑みで執り成しながら曖昧に否定する。こういう時の母親は必ずそうした言動を取るのだ。続けて彼女は、このあいだもデニーズで打ち上げらしきことを行ったが、相手はやりましょうやりましょうと言うだけで一向に話が進まないので、自分の方からこの日はどうですかと訊かなければならなかった、ということを漏らすのだが、これも一言、知らん、という話であって、端的に行って糞みたいにどうでも良く、関心を持てなかった。
 そのような話を聞き流しながら職場の傍まで送ってもらい、ありがとうと言って降りると、降り増した雨のなかを、しかし傘を差すのが面倒臭いので服にいびつな水玉模様をつけながら歩き、職場に行った。この日は室長の姿が見えなかった。準備は例によってすぐに済んだので、残った時間はいつものように手帳にメモを取っていた。そうして授業、この日の相手は(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)(高二・英語)である。前者二人はここのところ毎週当たっていると思う。(……)くんは先週はきちんと宿題をやって来て、単語テストの勉強もして来ていたようだったので、こちらの言葉の効果があったのかなと思ったのだったが、今回はまた宿題もテストの勉強も忘れてきていた。残念である。(……)くんはこの日、遅刻した。多少遅れてくることはあるが、それは五分程度の話であって、一〇分も一五分も現れないのは珍しかったので電話を掛けたところ、先ほど確かに家を出たと母親は言う。それでもう少し待ってみますと答えて切ったこちらの頭には、まさかどこかで事故にあったりしているのではないだろうなという可能性が過ぎっていたのだが、授業開始から三〇分ほど経って、髪を雨にだいぶ濡らした状態でやって来たので安心した。何故そんなに時間が掛かったのかはわからないし、訊かなかった。二人は今日は同じ箇所、himやherなどの代名詞目的格の単元と、when及びwhereの疑問文の単元を扱った。(……)は関係代名詞。まあ全体に問題はないだろうと思う。授業中、(……)が突然、友人の(……)さんの話を始めたのだが、彼女は演劇部に所属していてそれで都大会に出場するのだと言う。それを聞いて、確かに役者として映えそうだと思ったのだったが、(……)さんはしかし役者ではなくて、裏方を担っているという話だ。
 一コマの楽な授業を終わらせると、生徒たちの見送りをし、片付けをして退勤した。アオマツムシだかコオロギだかの鳴き声が凛々と響き渡るなか、駅に入りホームに上がって、もうだいぶ涼しい秋の夜の気候で、喉も大して乾いていないのにまた二八〇ミリリットルのコーラを買って、ゆっくり飲みながら手帳を眺めた。日本国憲法の条文などを頭のなかで反芻し、暗唱出来るようにしながら電車を待ち、来ると三人掛けに乗り込んで引き続き手帳に書かれてある事柄を復習する。最寄りに着くと降りて駅舎を抜け、木の間の坂道に入ると樹冠には雨の残滓がまだあるようで、坂を下りるあいだ細かな水音があたりを囲むように立っていた。
 帰宅するとワイシャツを脱いで丸め、洗面所へ続く扉を開けると、風呂から出たばかりの父親がパンツ一丁で髪を乾かしていたので、ただいまと挨拶をして籠のなかにシャツを放り込んだ。そうして下階へ戻り、コンピューターを少々弄ったあと階段を上がり、まだあまり腹が減っていない感じがしたので先に風呂に入ることにした。湯のなかでは身体を水平に近くして浴槽の縁に頭を預け、身をじっと静止させて首筋に湧き流れる汗の動きを感じながら、先ほど駅や電車内にいるあいだに手帳から確認した知識を頭のなかで反芻した。出てくると食事、モヤシの上に茄子の和え物を乗せたのが一皿、カキフライが二つ、さらに細切りの大根を添えたサーモンの刺し身があり、汁物や野菜や茸の入った薄味のものだった。それぞれを卓に運んで椅子に腰掛けると、カキフライをちまちまと千切って口に運び、それをおかずに白米を咀嚼した。テレビはニュース。消費増税を前に、各種飲食店でテイクアウト用の商品を新たに開発しているという話が取り上げられていた。「外食」に対して「内食」には軽減税率が適用されるため、増税による支出増を嫌って持ち帰りを選択する顧客の需要を掴もうという目論見らしい。通りすがりの人に対するインタビューでも、これからはテイクアウトを多くしちゃいそうですね、とか、外食が好きだったがその生活スタイルを考え直すべき時かもしれません、などという声が聞かれる。それらを眺めながら、まったく阿呆らしいなと思った。企業の方は生き残りを欠けているから当然の努力だと言うべきだろうが、それでも増税に皆、踊らされている。そんななか、千葉では台風によって多くの人々が被害を受けているにもかかわらず、政府は内閣改造に遊んでおり、そこで環境大臣に抜擢された若き新鋭――とされている――政治家は、福島復興について何の具体性もない意味不明な譫言を発するばかりで、しかもその同じ人が次の首相に最も相応しいとの世論の支持を得ている始末だ。そんな思いを抱きながらものを食ったあと、食器を片付けて下階に戻り、一〇時前から三宅さんのブログを読みはじめた。「帰路、万达の広場をふたたび通ったのだが、ステージの上では告白イベントのようなものが催されていた。司会とは別の男性がマイクを手にしてなにやら語りかける、するとそれを受けたおなじステージ上の女子三、四人が、YES/NO枕のようなものをひっくり返してなにやら応じるという趣向だった。正気の人間には決して参加できないイベントだ。殺人や近親相姦を犯す人間よりもこの手のイベントに平気な顔をして参加できる人間のほうがよほど狂っていると思う」という記述に爆笑した。一〇時頃に至るとUくんからメッセージが送られてきたので、彼が紹介してくれたブログの記事(http://nagi1995.hatenablog.com/entry/547)を読み、さらに彼の作った短い戯曲も読んでから返信を送っておいた。それから、日記である。前日の記事を日付替わり間近まで進めたあと、インターネット上に投稿してから過去の日記を読み返した。二〇一六年六月一四日のものである。そうして次に、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きを少々行うと、この夜もTwitterで話し相手を募集した。すると、K.MKさん――イニシャルでは後半を取って、MKさんと表記することにする――という方が応じてくれた。また、以前からこちらの短歌に折に反応をしてくれるDKさんもメッセージを送ってきてくれ、さらにSNさんもこのあいだの続きを、と言って来てくれたので、一気に三人とダイレクト・メッセージのやりとりをすることになった。それで合間に町屋良平『愛が嫌い』を少しずつ読み進めながら、二時頃まで短歌の話や、宮沢賢治の話や、好きな小説の話などを三者と交わした。二時に至ったところでやりとりが続いていたのはMKさんとのあいだだけだったが、そろそろ読書に入るかというわけでコンピューターを離れる旨相手に告げて、礼を言い合って別れた。そうしてコンピューターをシャットダウンさせると、ベッドに移って町屋良平『愛が嫌い』を読みはじめた。最後の篇、「生きるからだ」である。三時半過ぎまで読み進めて就床。


・作文
 14:44 - 16:09 = 1時間25分
 22:31 - 23:44 = 1時間13分
 計: 2時間38分

・読書
 9:02 - 12:57 = (1時間半引いて)2時間25分
 17:02 - 17:13 = 11分
 21:48 - 22:04 = 16分
 22:05 - 22:26 = 21分
 24:04 - 24:15 = 11分
 24:19 - 24:33 = 14分
 24:39 - 24:55 = 16分
 26:08 - 27:32 = 1時間24分
 計: 5時間18分

  • 町屋良平『愛が嫌い』: 93 - 230
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-09-15「待ち人の朝はいずれもはやいのだ夜泣きをするな爪を齧るな」; 2019-09-16「星屑を拾い集めて水槽の中に沈めるわたしの命日」
  • 「華氏65度の冬」: 「Swing Low Sweet Chariot もしくはハリエット·タブマンと「地下鉄道」のことなど (19c. African-American Spiritual)」(http://nagi1995.hatenablog.com/entry/547
  • 2016/6/14, Tue.
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、書抜き

・睡眠
 ? - 8:00 = 5時間半くらい?

・音楽

2019/9/17, Tue.

 飲んでるんだろうね今夜もどこかで
 氷がグラスにあたる音が聞える
 きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
 ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
 それをまぎらわす方法は別々だな
 きみは女房をなぐるかい?
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、10~11; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「2」全篇; 「武満徹に」)

     *

 総理大臣ひとりを責めたって無駄さ
 彼は象徴にすらなれやしない
 きみの大阪弁は永遠だけど
 総理大臣はすぐ代る

 電気冷蔵庫の中にはせせらぎが流れてるね
 ぼくは台所でコーヒーを飲んでる
 正義は性に合わないから
 せめてしっかりした字を書くことにする
 (12~13; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「3」; 「小田実に」)

     *

 にっちもさっちもいかないんだよ
 ぼくにはきっとエディプスみたいな
 カタルシスが必要なんだ
 そのあとうまく生き残れさえすればね
 めくらにもならずに

 合唱隊は何て歌ってくれるだろうか
 きっとエディプスコンプレックスだなんて
 声をそろえてわめくんだろうな

 それも一理あるさ
 解釈ってのはいつも一手おくれてるけど
 ぼくがほんとに欲しいのは実は
 不合理きわまる神託のほうなんだ
 (15; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「4」; 「谷川知子に」)


 一一時に起床した。陽射しが寝床に射し込んでいた。ベッドから降りるとコンピューターの前に行ってスイッチを押し、起動して準備が整うのを待ったあと、Twitterをひらくと、UくんとHさんの二人からダイレクト・メッセージが届いていた。Uくんは、ピエール・ルジャンドルの勉強は一時中断していて、今は修士論文のためにKendrick Lamarのラップの読解に取り組んでいるとのことだった。Hさんからは、唐突だが明日の午後は空いているか、あるいは二七日金曜日の午後はどうかとあったので、明日は労働だが二七日ならば空いていると返信しておいた。そうして上階に行くと、着物リメイクに出掛けたはずの母親が帰ってきたところだった。休みだった、と言う。それで帰りに買い物をして来たその荷物を運んでくれと言うので、玄関に置かれた大きなクーラー・ボックスと布袋を台所の方に運んだ。食事は前日の残り物として五目御飯にセブン・イレブンのメンチカツ、それにキャベツや人参など生野菜のサラダがあったので、温めるものは温めて卓に配膳し、新聞をめくってものを食べはじめた。平らげると氷の入った冷たい水で抗鬱薬を流し込み、台所に移って食器を洗った。そうして次に風呂を洗っていると母親が、二八日は結局どうする、お前も行く、と訊いてくる。立川のホールで開催される村治佳織渡辺香津美のコンサートである。なかなかに興味深そうなので、行こうじゃないかと答え、浴室から出ながら、それで俺は帰りに立川の家で夕食を頂いて来ようかな、と言うと、どこか外で食えば良いではないかと母親は言う。立川図書館を不正利用するために、YかKの図書カードを貸してもらいたいとこちらは思っており、そのためにはすぐにカードを受け取れるように先方の宅に出向いた方が都合が良いのだが、まあそう急ぐ話でもないし、どちらでも良いことではある。
 そうして母親が買ってきたチップ・スター(サワークリーム・オニオン味)を分けてもらって自室に持ち帰り、ぱりぱり食いながらTwitterを眺め、食べ終わるとUくんに返信を送った。Uくんが紹介してくれたKendrick Lamar "Alright"の音源をyoutubeで聞き、格好良いですねと送ったのだが、こちらには想起される記憶があって、と言うのは、数年前にNew York Timesで読んだCornel Westのインタビューのなかで、Kendrick Lamarの曲の一節がアメリカの若者のあいだでデモのコールとして使われている、と言われていたのを思い出したのだ。その一節というのが、この"Alright"という曲の主要部分として繰り返される、"We gon' be alright"というフレーズだった。このような叫びの背景と言うか系譜としてはさらに、Donny Hathawayの"Little Ghetto Boy"の後半で繰り返し合唱される"Everything has got to get better"などがおそらくあるだろうし、Bob Marleyが"No Woman, No Cry"のなかで吠えている"Everything's gonna be alright"ももしかしたらその源泉の一つとして位置づけられるのかもしれない。それはともかくとして、こちらはそのCornel Westの記事を思い出したので、Evernoteの記録のなかから該当記事を探し出して、URLをダイレクト・メッセージ欄に貼りつけてUくんに紹介するとともに、こちらの印象深かった部分についていくらか述べておいた。
 音楽はFISHMANSCorduroy's Mood』を流していた。その後、正午を過ぎた頃合いからMさんのブログを二記事読み、それからは自分の最近の日記をいくつか読み返してしまい、あっという間に一時半に近づいたところでSIRUP『SIRUP EP』を背景に、ベッドに乗って柔軟運動を行った。それからようやくこの日の日記を書き出して、ここまで記すと二時ももう目前となっている。またどうせやたら長くなるであろう前日の記事を記さなければならないのが大層面倒臭い。
 三時半まで文を綴って、それから読書である。町屋良平『愛が嫌い』。しかし本当に毎度毎度のことで呆れてしまうが、眠気にやられて、五時まで続けた読書のあいだ、四五分間くらいは眠っていたのではないだろうか。それからさらに、五時半頃まで休んでから夕食を作りに上階に行った。母親は、米がないのでうどんにすると言い、それを煮込むための汁だけはもう作ったと言った。加えておかずを作るためにこちらは台所に入り、玉ねぎとモヤシと豚肉を炒めることに決めた。玉ねぎ二つの皮を剝いて細く切り分けていき、笊に入れられた茹でモヤシの上に乗せておく。それから生ニンニクを細かく刻んで油を引いたフライパンに投入し、その上から野菜も被せ入れた。しばらく炒めると小間切れになった豚肉も加えて加熱し、味付けは砂糖と醤油で済ませた。こちらが炒め物を作っているあいだ、横の流し台の方では母親が大根や胡瓜や人参を細くスライスして生サラダを拵えていた。炒め物が完成すると次に鍋で湯を沸かし、生麺のうどんを放り込んでさっと茹でると、野菜や肉の入ったスープの方に移して少々煮込み、丼によそった。まだ六時頃だったが、早くも夕食を取ってしまうことにしたのだ。それでそれぞれの品を皿に盛って卓に運ぶと、椅子に腰掛け、甘じょっぱい炒め物を貪り、うどんを啜った。テレビは何かしらのニュースでも映していたのではないだろうか、特段に覚えていることはない。食事を終えると抗鬱薬を服用し、食器を洗って下階に帰った。コンピューターに向かい合って、LINEを見ると、T田からメッセージが入っていた。女の子の仕草などの描写が豊富な小説作品でも知らないか、という問いだった。彼はどうやら『Steins; Gate』の二次創作を書こうとしているようなのだが、その参考となるような文章を求めているとのことだった。それでEvernoteの読書記録を探りながら少々考えてみたのだが、まずそもそも自分はあまり若い女の子の出てくる小説というものを読んでいないような気がした。そのように伝えて、続けて、T田が求めるものとは違う気がするがと留保を置きつつ、少女の心理や感情を描いたものとしては、太宰治の「女生徒」の名前が浮かんだと言っておいたが、この作を読んだのも随分と昔なので、細かな印象は特に残ってはいない。さらに続けて、二五日水曜日の昼間は空いていないよなと問いかけたのだが、その時日には大阪にいると返ってきた。二五日には吉祥寺SOMETIMEで昼から大西順子がライブをやるので、是非とも見てみたいのだ。勿論一人で行ったって良いわけだが、ただ一人でライブを観に遠出をするというのも何となく面倒臭い感じがして、どうせ吉祥寺まで出向くならば誰かと会いたいような気がしているのだった。しかし平日の昼間だから身の自由な人間もなかなかいないだろう。やはり一人で行ってみるべきだろうか? 
 七時直前からふたたび日記に取り掛かった。ハン・ガン『すべての、白いものたちの』の感想を、そんなに長くもないし大したものでもないのだが書くのにやはり手こずり、八時半まで時間を掛けたところで風呂に行った。浸かって上がって戻ってくると、九時ぴったりから一〇分ほどまた文を綴り、今日はここで切りとすることにした。それから三〇分ほどのあいだは何をやっていたのか不明である。一〇時前から過去の日記を読みはじめたが、同時にTwitter上でまた夜の話し相手を募集していた。すると、KUさんという方がすぐに応じて来てくれたので、ダイレクト・メッセージでやりとりを始めながら、二〇一六年六月一五日の日記を読んだ。「雨はもはやないが、広がった水気に街灯の色が忍びこんで、駅前の通りに金色の靄が生まれていた。裏通りを行きながら民家の向こうを縁取る林のほうを眺めても、白濁した夜空が降りてきて樹頭の輪郭線が霞んでおり、地と空が繋がって白灰色の壁を作っているために、ビニールハウスのなかに包まれているような感じだった」という一節がまあまあだなと思われた。さらに、Sさんのブログの七月後半の記事も読み進めながら、KUさんとやりとりを交わした。彼は今、ショーロホフというロシアの作家の『静かなドン』という大長篇を読んでいると言った。初めて聞いた名前だが、ソルジェニーツィンと折り合いの悪かったソ連の作家らしく、この世界にはまったく作家という存在がいくらもいるものだ。ソルジェニーツィンの名前が出たので、『収容所群島』もやたらと長い、確か六巻あるのだったか、と振ってみると、この作品も併読中だとKUさんは答えた。
 その後、今まで読んだなかで一番印象に残っている作品は何かあるかと尋ねてみると、筒井康隆『霊長類 南へ』、レマルク西部戦線異状なし』、井上ひさし吉里吉里人』『父と暮らせば』の名前が挙がった。どの作も作家もこちらは読んだことがないものだった。そのなかでも、レマルクをフェイヴァリットに挙げる人というのはなかなか珍しいのではないかという印象を持った。そういったところで、翌日が平日であることもあって、KUさんはそろそろ会話を終了させてもらっても良いかと伺いを立てて来たので、全然構わないです、ありがとうございましたと礼を言ってやりとりを終えた。
 そうして一〇時四〇分から二〇分ほど、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きをしたあと、しばらくだらだらとして、一一時半から町屋良平『愛が嫌い』を読み出した。読み出してまもなく、Hさんからダイレクト・メッセージが届いた。二七日の金曜日に会おうという話になっていたのだが、それに関してこちらは、吉祥寺SOMETIMEに行かないかと誘いを掛けていた。と言うのも、鈴木勲のバンドであるOMA SOUNDがその日にライブをやることになっていて、オマさんこと鈴木氏ももう八六歳だからいつ観られなくなってもおかしくないということで、是非行っておきたかったのだ。Hさんはジャズにはあまり興味がないのではないかと思いながらも誘ってみたわけだが、それに対して、是非行きましょう、めっちゃ楽しみですという返答が返ってきたので、こちらは安堵して、五時に吉祥寺駅集合ということに取り決めた。ちなみにHさんはこの日は仕事がかなり早めに終わったと言うのだが、かなり早めに終わっても既に日付替わりも間近になっているわけだからとんでもない。普段は帰宅は一時過ぎになり、長い場合には二時手前になることも往々にしてあると言うので、本当に体調にだけは気をつけてください、と労りの言葉を送っておいた。
 そうしてコンピューターの前に座って町屋良平『愛が嫌い』を読み続けたのだが、最初に載せられている「しずけさ」という作がなかなか面白かった。以前も日記に書いたけれど、町屋氏とは一時期交流していたことがあって、その時分に彼の書いていた作品も読ませてもらったことがある。その淡い記憶や、折に諸所で瞥見された情報からすると、記述を敢えてスカスカに拵え、風通しを大層良くした薄い文体で書く作家だという印象を持っていたのだったが、平仮名が多用されて確かに軽みを帯びており、幾分ポップとも言えるかもしれない文章ではあるものの、ところどころの描写がしっかりと書き込まれているのが感得された。特に、鬱症状――本文中では平仮名で「ゆううつ」と記されている――の人間が囚われる閉塞感や停滞の感覚、あるいはほとんど根源的な無感覚[﹅3]を、平易な言葉遣いでありながら通り一遍でなく的確に捉えているように思われたのだ。例えば、次のような具合である。

 (……)しかしゆううつのさなかにはゆううつ以外ない。三十秒先のことを考える気力すらないのだ。なにもおもしろくはないし、なにもうれしくもない。不安すら好調時のいち症状でしかなかった。ただ時間と不調だけがそこにある世界で、身を潜めている。(……)
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、15)

 驚きを驚くのは体力がいる。かれは感受したものや感動したことに思考を伴わせることができていないが、その源泉はまえとおなじようにからだにはある。それを自分に報せるだけの表現力すらないだけだっった。(……)
 (17)

 (……)ゆううつはゆううつを脱けるという価値基準をもてない。ゆううつを脱けたところで、そこにある世界想定もゆううつを離れたものではありえず、いきたい世界なんてどこにもないからだ。
 いきたい場所があるということが正常だ。
 それは過去か未来にある。
 おもいだしたい過去か、夢みるべき未来があるか。明日いきたい場所、あいたいひとがいるか。そもそもかれにはそんな思考も組み立てられない。ゆううつでは思考も時間も組み立てられず、ただおそろしい「今」をくりかえしていくしかなかった。このように「今」というのは純然たるモンスターだった。
 (29)

 書かれているのは「ゆううつ」の感覚でありながら、しかしここからはどろどろと澱み渦巻く暗鬱な自意識が取り払われていて、三人称の記述は平静に距離を挟んで病状を客観視しており、文章はあくまで軽くスムーズに、フラットに流れていく。この作家の文体は、水気をいっぱいに孕んだ暗雲のように垂れ下がる近代文学的な内面の重みから一線を画すことに成功しているのではないだろうか。「ゆううつ」の魔の手に囚われている棟方という人物は、夜ごと「久伊豆神社」の池を見物に行くのだが、池やその周囲の木々の様子、水に棲んでいる鯉や亀といった生き物の動き、大気の感触や光と闇の見え方などの風景、季節や天気や気温に影響されて日によって異なる様相を見せるそれらの差異も堅実に書き分けられており、予想していたよりもずっと描写の力に富んだ作家だという印象を受けた。
 零時四〇分まで読んだところで一旦中断し、腹が減ったので上階にカップ麺を用意しに行った。電気ポットから湯を注いで自室に持ってくると、割り箸を使って啜りながらレジス・アルノー「男性が不慮の死「外国人収容所」悪化する惨状 今もハンガーストライキが行われている」(https://toyokeizai.net/articles/-/295480)を読んだ。塩気の強いスープまで全部飲み干してゴミ箱に容器を捨てておくと、ベッドに移ってふたたび書見を始めたが、まったくいつものことでまた途中で意識を失った。二時半くらいまでは起きていたのではないだろうか。気づくと四時だったので、そのまま明かりを落として正式な眠りに向かった。


・作文
 13:28 - 15:29 = 2時間1分
 18:52 - 20:33 = 1時間41分
 21:00 - 21:11 = 11分
 計: 3時間53分

・読書
 12:07 - 12:22 = 15分
 15:39 - 17:00 = (45分引いて)36分
 21:49 - 22:33 = 44分
 22:41 - 23:00 = 19分
 23:29 - 24:40 = 1時間11分
 24:46 - 25:04 = 18分
 25:08 - ? = ?
 計: 3時間23分 + ?

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-09-13「あいさつの言葉もいずれ古語となる中秋節の月は変わらず」; 2019-09-14「でたらめに巨大な獣から落ちる影こそ夜の正体だという」
  • 町屋良平『愛が嫌い』: 21 - 93
  • 2016/6/15, Wed.
  • 「at-oyr」: 2019-07-21「型」; 2019-07-22「夫婦」; 2019-07-23「眠り」; 2019-07-24「味覚喪失」; 2019-07-25「ギター」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、書抜き
  • レジス・アルノー「男性が不慮の死「外国人収容所」悪化する惨状 今もハンガーストライキが行われている」(https://toyokeizai.net/articles/-/295480

・睡眠
 4:00 - 11:00 = 7時間

・音楽

2019/9/16, Mon.

  水準原点

 みなもとにあって 水は
 まさにそのかたちに集約する
 そのかたちにあって
 まさに物質をただすために
 水であるすべてを
 その位置へ集約するまぎれもない
 高さで そこが
 あるならば
 みなもとはふたたび
 北へ求めねばならぬ

 北方水準原点

 これだけでは、とても分かりにくい作品かもしれない。石原は詩集の「あとがき」でこう記している。「日本水準原点標は国会前庭の一角にある。標識の文字が北面していることを知ったときの感動は、いまもなおあたらしい」。これでもとうてい十分ではないかもしれない。「日本水準原点標」は、東京湾の平均水面を基準にした全国の標高基準を示したものであり、国会の前庭(憲政記念館、北庭)に設置されている。そして、その原点標そのものは日本水準原点標庫という建物に収められている。石原が「標識の文字」と呼んでいるものがなにかふたたび分かりにくいが、単行詩集『水準原点』の表紙の装丁には、日本水準原点標庫の上部にレリーフされた「水準原点」という大きな横並びの古風な文字(篆書体と呼ぶのだろうか)が額縁のような枠とともに再現されている。この点からすると、この標庫上部の「文字」を指しているのだと思われる。その文字が「北面」している、北を向いているのを知って、感動したというのである。
 そのあたりの事情が、単行詩集の帯にこう書かれている。「日本水準原点が北面している――忘れえぬシベリアと日本をつなぐ海の原点を見たそのときのような、苦い感動の世界を沈黙と断言によって表現する詩篇群」。宣伝文の放つある種の不快さはあるにしろ、「水準原点」という文字に接してシベリアと自分の宿命的な結びつきにあらためて石原が気づかざるをえなかったことが、簡潔に表わされている。確かにそういうことなのだろうと言わざるをえない。とはいえ、この作品においては、『サンチョ・パンサの帰郷』のいくつかの作品が提示していたような、イメージの奔放な展開はない。言葉の内在的なアレゴリーとして作品が織りなされてゆく躍動感はない。「海」を「石のような物質」として捉えたエッセイ「望郷と海」と比べても、作品全体がきわめて概念的である。つまり、ここで石原は自分がなにを書いているかを完全に了解してしまっている。「水準原点」という文字に不意打ちで直面させられたとはいえ、自分の「原点」がシベリアにあることを石原はここであくまで意識的に主張している。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、287~289)

     *

 石原吉郎は、聖書、キルケゴールカール・バルト椎名麟三カフカなどの熱心な読書家でもあった。そこから、石原の詩をそういう読書による知識を背景にして理解する試みもありうるが、私自身は、石原が直接、それらの読書体験を下敷きにして詩を書いていたとは思わない。私は同時に学生時代からいまにいたるまで、カント、ヘーゲルからフランクフルト学派にいたるドイツの思想を研究対象としてきた。そういう立場からすると、石原が思想書を読む際の、強みと弱みの両方がよく見えてくる。石原がバルト神学から受け取ったものも、その内容というよりは、逆説的な語りの論理である。知識によって体系的に把握するよりも、片言隻句をつうじて直観的に反応する、それがよくも悪くも石原の体質だったと私は感じる。
 (359; 「あとがき」)


 一一時過ぎまで床にだらだらと留まる。起き上がるとコンピューターに寄って、TwitterやLINEやSkypeをさっと確認したのち、部屋を出て上階に行った。父親がソファに就いてラジオを聞いていた。彼はごほごほと苦しそうに大きく、やたらと咳き込む。この咳がもう随分と長く続いていて、風邪ではないと思うのだが、何かの病気、肺炎か何かではないだろうなと恐れられる。こちらは便所に行って腸を軽くしてから、洗面所に入って整髪スプレーを頭に吹きかけ、櫛付きのドライヤーを操って髪型を整えた。それから台所に出て、そこに置かれてあった赤飯を椀によそり、同時にワカメやミョウガや卵の汁物を火に掛け、こちらも椀によそる。そのほかゆで卵を一つ持って卓に就き、父親と会話を交わすこともなく、新聞を瞥見しながら黙々とものを食った。食事の終盤、父親のラジオから流れ出てきた音楽が、なかなか良いものだった。アレンジの凝っている女性ボーカルのポップスで、もしかすると中村佳穂だろうかと思ったのだが、近い部分は見受けられつつも、やはり声などちょっと違うのではないかとも思われた。中村佳穂にしては――と言うほど彼女の音楽をたくさん聞いていないのだが――サビのアレンジが直線的なように感じられ、また全体的にジャズやソウルの風味も少ないように思われたが、真相は定かではない。ものを食べ終えると抗鬱薬を飲み、皿を洗ってそのまま風呂も洗った。そうして下階に戻ってきて、コンピューターの前に座り、中村佳穂 "きっとね!"をyoutubeで流しながら、早速日記を書きはじめた。続いて、例のラジオで流されたスタジオライブの音源も流しながらここまで綴ると一二時一〇分、今日はAくんたちとの読書会で、一時前には家を発たなければならないのでもうあまり猶予はない。
 その後一二時半まで日記を作成し、それから『SIRUP EP』の流れるなかで服を着替えた。ボタンの色がそれぞれ違ってカラフルになっている麻の白シャツと、例によってオレンジ色のズボンである。それを着て歯磨きを済ませ、一二時四三分から五〇分まで、またほんの少しだけ日記を進めたあと、荷物を持って上階に上がり、父親に出かけるよと告げ、仏間で靴下を履いたあと続けて引出しからハンカチを取りだしながら、今日は読書会、多分帰りは遅くなると思うと伝えて、じゃあ行ってくると玄関に向かった。
 外に出ると、雨の赤子のような淡い水の粒が宙に散っていたが、傘を持つほどではなかった。路上には濡れた痕が残っていた。そのなかを歩いて行くと、百日紅の紅花が地面に敷かれて、金平糖が散らばったようになっていた。落花の時季である。そのことを句かあるいは歌にしようと試み、頭を捻りながら坂を上って行くが、結局形にはならなかった。
 最寄り駅のホームに着いて先頭の方に行き、一両目の位置で立ち止まると、東から風が吹く。それが涼しいけれど一方では西の方から――ということはつまり身体の左面に対して――陽の感触が幽かに浮遊してくるのが感じられ、また湿り気が服の内に籠り、肌に纏わりついてきて暑かった。やって来た電車に乗って青梅に着くと乗換えである。ホームを辿って一番線の立川行きの二号車、いつもの端の三人掛けに腰を下ろし、携帯電話に短く道中のことをメモすると、読書ノートを読み返した。今日の読書会の課題書だったハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』から取りだした一節や、ちょっとした感想の類などを読み返したあと、その後、今度は手帳をひらいた。途中で、隣の一席を空けて右方に年嵩の男性が乗ってきたのだが、彼の方からは酒とも何ともつかないような臭いが漂ってきて鼻孔に触れた。あるいはキムチのような、酸っぱいような感じの臭いも含まれていた。
 電車に乗っているあいだ、わりと眠くて、手帳を見ながらうとうととした。立川に着いてもすぐには降りず、目を閉じてしばらく休んでから降車し、階段を上った。改札を抜けるとそのすぐ脇に若いカップルが立っており、女性の方が男性の首に両手を回して抱きついており、男性は笑みを浮かべながら片手で女性を背をぽんぽんとやっていた。別れの風景だろうか。駅舎内のコンコースを歩いていくと、LUMINEの入口の前で、ルミネカードの作成を呼びかける販売員が声を上げていた。スーツ姿の女性で、その声が伸びやかに甲高く響いて空中を渡るのに、物売りの声だな、と思った。プルーストが『失われた時を求めて』のなかで、あれは何巻目だっただろうか、アルベルチーヌと二人で閉じ籠ったような暮らしを続けているあいだのことだっただろうか、早朝だかに自室の窓の外から聞こえるパリの街の多種多様な物売りの声をユーモラスに描き出していたと思うが、そのことを思い出した。思い出しながらその傍を過ぎ、階段を下りて駅舎から抜けると、東の方面に向かい、旗を持った交通整理員の立ち働いて車や歩行者の流れを制御している短い通りを渡り、歩道を行ってルノアールのある建物に入った。階段を上って行き、入店するとすぐに女性店員が出てきて何人かと問うので、三人で待ち合わせをしていると答え、手前が禁煙、奥が喫煙ですといつもながらの言を受けてフロアに踏み出すと、その直後に手を挙げているAくんの姿を発見した。ソファと椅子に挟まれたテーブル席に、Nさんと向かい合って就いていた。Aくんの隣、ソファの方に腰を下ろすと、Nさんは、このあいだは休んですみませんと言い、お土産もありがとうございましたと礼を言ってきた。続けて、自分も旅行に行って――どこに行ったと言っていたか忘れてしまった――土産を買ってきたのだが、それを持ってくるのを忘れたと言うので、全然良いよと軽く受けた。
 注文はこちらがコーラ、Aくんはこの前に三〇〇グラムのつけ麺を食って腹がはち切れそうだということで、いつものカフェゼリー/アンド/ココアフロートは頼まず、軽いアイスティーを選び、Nさんは水出しコーヒーか何かを頼んでいたと思う。ハン・ガンの本に入るより前に、そのほかの話が長く続いた。まず最初にあったのは、Aくんが東北へ旅行に行ってきたという話題だった。例の城巡りである。九月六日、七日で行ってきたと言っていただろうか。山形、秋田、岩手を回ったらしく、最上では城に併設されている博物館だか資料館だかの解説のおばさんの話をじっくり二時間半も聞いたのだと言う。と言うのは、Aくんはいつもはスケジュールをきっちりと決めて、この場所には何時までいて、何時までにはここに行って、という風に移動していくと言うのだが、今回はそうした旅行の方法を取らないで、余裕を持って旅程を組んだのだと言うので、こちらは、前近代的な時間の過ごし方だねと応じた。それでその解説員の人から聞いた話を色々と彼は話してくれた。山形の戦国大名というと最上義光という人がいると言って、こちらも名前くらいは聞いたことがあるような気がする。その最上義光は知略に長けた「謀将」として知られているらしく、ちょうど解説員の出身地を治めていた殿様なども、病気になった最上に呼び出されたその場で暗殺されたと言う。本当に病気でそれを上手く利用したのか、それとも病気の振りをしていただけなのか、そのあたりは話を聞いていてもわからなかったが、ともかく首尾良く殿様を殺した最上はそれと同時にその地に攻め入って、難なく領地を併合したとのことである。そのような酷いことも行った将ではあるが、山形人から見ると英雄らしい。しかし、義光の奮闘によって五七万石まで成長した最上家だったが、その後、江戸時代に入ってからはお家騒動を原因として近江一万石に改易されてしまい、さらにのちには五〇〇〇石まで所領を減らされて、大名ですらなく旗本になってしまったと言い、そうした流れにAくんは歴史の栄枯盛衰を如実に感じたらしかった。お家騒動は当時まだ一〇歳だかそのくらいの子供と、最上義光の四男とのあいだで争われたらしいのだが、一〇歳の子の方は近江に飛ばされて、それでは四男の方はどうなったのかと言うと、この人は水戸藩の家老として取り立てられて、一万石の所領を安堵され、水戸光圀の養育係として勤めたのだと言う。彼は山野辺と改名し、こちらは知らないし、Aくんも見たことがないので知らないのだが、と言っていたが、テレビドラマ『水戸黄門』には山野辺何とかという家老が出てくるらしく、その山野辺はこの最上義光四男の息子だか孫であるらしかった。ここで、最上義光ウィキペディア記事から、「義光死後の最上家」という欄の記述を引いておこう。

義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。このため、家親の子・義俊が後を継いだが、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易となった(最上騒動)。義俊の死後はさらに石高を1万石から5,000石に減らされ、最上家は交代寄合として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。また、四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えている。テレビ時代劇『水戸黄門』に登場する国家老・山野辺兵庫は、義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。

 さらに、上述の経緯をより詳しく述べた「最上騒動」の記事の記述も。

 義光の死後、最上家の家督は次男の家親が相続し、最上氏第12代当主・山形藩の第2代藩主となった。家親は江戸幕府との関係を強化するため、大坂冬の陣が始まると、家臣・一栗高春が担ぎ出す気配があり、さらには豊臣氏と親密な関係にあった弟・清水義親を誅殺する。そして大坂冬・夏の陣では江戸城留守居役を務めて徳川氏への忠誠を示した。ところが家親は元和3年(1617年)に急死する。37歳で江戸で急死した家親の死因には、「猿楽を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ」(徳川実紀)とあるように毒殺説も有力である。家親の死後、最上家の家督はその1人息子であった家信が継いで最上家第13代当主・山形藩の第3代藩主となった。しかし家信は若年であったために、重要な決定は幕府に裁断を求めることが取り決められた。
 家信は若年で指導力が発揮できず、さらに凡庸で文弱に溺れたとされている。このような藩主に不満を持った最上家臣団は、家信を廃して義光の4男・山野辺義忠を擁立しようと画策する一派と、家信をあくまで擁護しようという一派に分裂して激しい内紛を引き起こした。
元和8年(1622年)、義光の甥にあたる松根光広が老中・酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出た。忠世は訴えに基づいて楯岡を調べたが証拠はなく、松根は立花氏にお預けとなった。
 騒動を重く見た幕府は奉行の島田利正と米津田政を使者にして、一旦最上領を収公し家信には新たに6万石を与え、家信成長の後に本領に還すという決定を下した。義忠と鮭延秀綱は納得せず、「松根のような家臣を重用する義俊をもり立てていくことは出来ない」と言上した。
 幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易を命じられた。ただし義俊(家信から改名)には新たに近江大森で1万石の所領を与えられ、最上家の存続だけは許された。

 その次に、秋田の話があった。秋田を収めていたのは佐竹という大名で、これは元々水戸から出た家柄だったらしい。佐竹という名前にはこちらも聞き覚えがあった。高校の時日本史で、何代目かの佐竹が善政を敷いた当主として出てきていたはずだ。弘道館みたいな藩校を建てた当主だったはずだが、と思って今手もとの山川出版社「日本史用語集」をめくってみたところ、佐竹義和という名前が見られ、彼が建てたのは明徳館という藩校だったということである。確かその頃の秋田藩は絵師を輩出していなかったかとこちらが問うと、そうそう、小田野……とAくんは口にしたので、ああ、直武か、とこちらがあとを引き取って受けると、よく知ってるね、と驚かれた。偶然である。確か西洋画を取り入れた人だよね、と続けて訊くと、Aくんは目を見ひらいて、F、よく知ってるなあ! とふたたび称賛してくれた。小田野直武は、平賀源内から西洋画法を学んだ人で、当時の藩主にも絵を教え、その後『解体新書』の挿絵を描くことにもなったと言う。西村京太郎だったか内田康夫だったか忘れたけれど、『写楽殺人事件』という本を書いている人がいて、昔は――多分中学生か高校生くらいの時だと思うが――こちらもそういうミステリー/サスペンスの類が好きで結構読んでいたものだから、家に父親が持っていたその本も読んだのだけれど、そのなかにそのあたりのことが載っていたような気がする、とこちらは話した。しかし、今検索してみたところ、この著作を書いたのは西村京太郎でも内田康夫でもなく、高橋克彦という人だった。この本は江戸川乱歩賞を取ったものだと言う。
 それからこちらは、Aくんの今回の旅行における時間の過ごし方に関して、それは小説的な時間を過ごしたのかもしれないねということを言った。また例によって飽きもせず物語/小説の対比構図なのだが、物語というものは一言で言って、経済性が高いのだ。そこにおいてはなるべく無駄が省かれ、説話の進行において過剰となるような余計な事柄は語られないのに対し、小説というものはむしろ一見必要のないような迂回的な細部が時に輝いたり、魅力を放ったりするものである。だから、近代的な、スケジュールをかっちりと最初から最後まで決めた旅の仕方と言うのは、物語的と言えるのではないか。目的地が予め決まっており、余計な行動は最大限に切り落とされ、路程の始まりから終わりまでが首尾一貫して経済的に定められているわけだから。それに対して、あまり予定を細かく定めずに、その時の気分でふらりと脇道に立ち寄ってみるとか、目的意識のない行動のなかに豊かな時間が生まれるというのが、小説的な旅のあり方なのではないかというようなことをこちらは言って、Aくんの今回の旅の過ごし方はそれに近かったのかもしれないとまとめた。
 それにさらに関連して、こちらは、前日に目にしたテレビ番組『ポツンと一軒家』の作り方が幾分小説的と言えるかもしれないと紹介した。Aくんはこの番組を知らず、対してNさんは知っていたので、二人でどういった趣旨の番組かということを説明する。グーグルマップから取り出した航空写真を元にして人里離れたところにポツンと一軒だけある家に出向き、そこに暮らしている人に生活の模様やこれまでの人生を語ってもらう、というような種類の番組である。昨日の日記にも書いたけれど、それを見ていたところ、一軒家を探し求めている過程で、探索―到着の物語的な構造のなかにおいて明らかに過剰だと思われる、ほとんど無意味な要素が含まれていたのだ。その一つが、聞き込みに行った家の奥さんがリアルな魚のサンダルを履いていた、という細部であり、もう一つが、助っ人を呼びに行ってきた案内人が帰ってくるとその車がパンクしていたという情報である。前者の要素は説話の進行という観点から見ると完全にどうでも良い、無意味な事柄で、むしろ省略した方が物語的構成としてはすっきりする類のものだ。後者もまた、「パンクしていたので車を乗り換えて出発した」とか一言ナレーションすれば簡単に済む話であって、わざわざ当のパンクした車のタイヤとか、それを見た時の案内人の笑いとかを映し出す必要はない。ところが、むしろそうした過剰さ故にその無意味な細部がかえって印象に残ったのだ、ということをこちらは話し、そうした作り方はある種小説的だと言えるのではないかと説明した。
 それに対してAくんは、『水曜どうでしょう』とかがそうかもしれないと受けたので、あれは完全にそうだね、とこちらは応じた。そこからさらに、結局テレビというものも、あまり作られていない方が、素人をただ映していた方が面白いんだよねと、一昨日HMさんと話したのと同じようなことをここでも話した。そうすると、『YOUは何しに日本へ』とか、とNさんが口にするので、そうだねと受け、あとはNHKでやっている『ドキュメント72時間』とか、とここでも紹介すると、Nさんもあれは面白いと言った。Aくんはこの番組も知らなかったので、七二時間のあいだ同じ一つの場所を定点観測し、そこにやって来た人間たちにインタビューをして自分の人生などを語ってもらうのだ、と説明した。――様々な人の物語が、断片的に、不完全な形で提示されるっていうのがポイントじゃないかと思うんだよね。それに、映っている人が皆、やたらと良い表情を見せるんだわ。テレビドラマの表情ってあるじゃん? ――役者が演じているってこと? ――そうそう。当たり前だけど、ドラマの表情って作られていて、わざとらしいんだよね。見ると、ああ、物語だなって思う。――それは、あれは物語ですよ。――いや、ここで言う物語っていうのは、つまり、紋切型の、ありきたりな、月並みの、ってことで、そういう顔、台詞、演出、音楽、にテレビドラマは満ち満ちていてさ、見た瞬間に、ああこれは物語だなって思うわけ。その臭み、みたいなものが鼻について……まあ、辟易するんだよね。勿論、なかには良いものもあるんだろうけど。
 『テラスハウス』とかはどうなのかな、とAくんは持ち出した。こちらはその番組を見たことはないが、名前くらいはどこかで聞いたことがあった。シェアハウスで共同生活を男女の自然発生的な恋愛模様を写し撮る、というような趣旨のものらしい。Aくんによれば、テレビドラマなどに比べるとわりあいに自然だと言う。――でも、やっぱり台本があるのかもしれないけどね。知り合いのテレビ関係の仕事をしている人が言うには、あの時あのアングルだと、これは待ち構えていないと撮れないなっていう画があるらしいから、やっぱりあれは台本あるよって言っていたけど。
 また、『バチェラー』という番組の話もNさんから持ち出された。一人の独身男性が二〇人くらいの女性のなかからパートナーを選び出す、というような半ドキュメント的な番組らしく、まるで漫画のような設定である。女性たちの経歴や職業は多種多様で、ピアニストがいたり、OLがいたり、ネイリストがいたり、ギャルモデルがいたり、といった具合らしいのだが、それも漫画みたいだなという印象をこちらは持った。要はおそらくハーレムもののラブコメを実写化したような感じで、漫画の方でいわゆる「属性」と称される、ツンデレとか、ロリとか、そういったキャラクター的特徴の区分けが実写の方でも導入されているわけだ。Nさんによるとこの番組は、一人の男性を巡って展開される女性たちの露悪的な争いを楽しむものであるらしい。陰でライバルの女性の悪口を言ったり、口汚くけなしたりしているのが面白いということなのだが、Aくんは、この人たちはどうしてこの番組に出ようと思ったんだろうね、ここに来るまでの経緯を描いて欲しいわと言って、それは面白い、それは小説だわ、とこちらも応じて大笑いした。
 その後、新海誠の話にもなった。Aくんは先日、『天気の子』を観たと言う。その前にAmazonのサービスか何か、あるいはほかのサービスだったかもしれないが、ともかく彼は新海の過去作品もすべて観たらしいのだが、そうしてみると新海の作風の変遷がよくわかるとのことだった。端的に言って、初期の頃の彼の物語は救いがなかったのだと言う。そこにおいて主人公とヒロインの恋愛関係は成就しなかったのだが、しかし最近の物語ではそれが喜ばしく成立するようになっている。『天気の子』は世界と女の子とを天秤に掛けて、明確に女の子の方を選ぶ物語となっているらしい。いや、そうではなかったか? 世界を救うということと、女の子を選ぶということの両方を取って、いいとこ取りをするような話なのだったか? このあたり、過去作の説明と記憶が混在していてよくわからないが、確か一応ハッピーエンドで終わるけれどその代わりに女の子の記憶はなくなってしまう、みたいなことをAくんは言っていたような気がする。こちらはTwitterの俺のタイムライン上では、『天気の子』は評判があまり良くないなと言って、その批判を紹介した。ちょっと垣間見ただけだが、『天気の子』のなかでは「この世界は元々狂っているんだから」みたいな台詞があるらしく、それを大人が子供に向かって口にする、そのような箇所が、思考停止と現状追認を促し、それを良しとするような映画だとして捉えられていたのだったと思う。
 新海誠という作家はやたらと売れているようだが、端的に言ってこちらは特段の興味は持っていない。彼の作ったものも、テレビのCMで流れた映像以外には観たことがない。それなので勝手なイメージしか持ち合わせていないのだが、やたらと感傷を煽るような作風の持ち主なのだという印象が何となくある。映像美にしてもそうで、彼の作るアニメーション映像は確かに綺麗であるには違いないが、こちらの感触としてはあれは一種、ラッセンみたいなものではないかという気がする。あるいは、言葉が悪いけれど、と慎重に前置いて、ある種ポルノ的って言うかね、美しさがどぎついって言うか、とこちらは漏らした。作品をきちんと観たことはないという点をもう一度繰り返しておき、曖昧なイメージであることを承知しながら述べるが、あの美麗さも感傷的な気分を煽り立てるための道具ではないかというような印象を受けるのだ。皆、そうした感情を喚起するような美しさを楽しんでいるのだと思うけれど、こちらはそうしたロマンティシズム的な感傷の過度な煽り立てには警戒を禁じ得ない。それが何故かと言われてもうまく理路を立てられないのだが、端的に言ってそれは下品ではないかとも思われるし、感傷という心の働きによって何か大切なものが覆い隠される、そういうこともあるような気がするからだ、とこの席では述べた。
 そうした話題とどのような経路で繋がっていたのかもはや思い出せないが、物語とは皆が既に知っている型なのだ、と二日前にHMさんとの会合で話したことをここでも繰り返した。物語を求める人というのは、既に知っていることの反復を求めているのだと言い、ロラン・バルトの言葉を前に紹介したでしょう、と隣のAくんに向かって続ける。――つまり、再読をしない者は、至るところで同じ物語に出会うほかない。再読こそが物語を新しいものへと変化させると。そういうことだとこちらは告げたが、それに対して、でもある程度はやっぱり反復にならざるを得ないよね、とAくんが疑問を呈するので、それは勿論だと受ける。逆に、完全な反復をするというのも無理なので、月並みな言い分ではあるが、ずれをいかに生み出すのか、差異をいかに組織化するかというのが、要は創作ということだろうとこちらは言った。――要は、音楽で言えば物語ってのはコード進行なんだよね。その上にいかに新しいアレンジを乗せるかって言うか。勿論、コード進行そのものを改良する方向もあるけど、それには限界がある。大まかな型自体はもう出尽くしているし、あんまりそこから外れようとしても単純に意味不明になっちゃうしね。
 ――コード進行の話から強引にこの本に繋げると(と言ってこちらはブックジャケットを取ってあるハン・ガンの『すべての、白いものたちの』に手を乗せる)、これはワンコードみたいな作品だったね。白、という一つのコード一発でやってみました、みたいな。勿論、緩やかな進行はあるけれど。
 どうにも掴み所のないような、取り付き方がわからないような作品だったというのが、AくんやNさんの評価だったようだ。詩のようでもあるし、エッセイのようでもあるから、どのように読めばわからなかった、というようなことではないかと思う。この小説は、生まれてから僅か二時間で亡くなった姉である「彼女」を、「白」という要素を媒介にして「私」が蘇らせようとする作品である。その際、「彼女」の生を「私」のそれとはまったく違った別個のものとして虚構的に構築しようとするのが通常取られる方策かと思うが、この作者はそうした方法を採用しない。代わりに作者は、「私」の生がそっくりそのままで[﹅9]「彼女」のものだったら、という可能性を考えるのだ。「私」である「彼女」、あるいは「彼女」である「私」の重なり合いが実現されているのが「彼女」と端的に題されたこの作品の第二章であり、そこで語られている様々な生の場面はおそらく本当は「私」自身のものなのだが、この章は基本的に一貫して「彼女」という主語を用いた三人称の視点で綴られている。つまり、「私」は「彼女」に自分の身体と生を貸し与え、同化することで、死者である「彼女」をこの世に呼び戻そうと試みるのだ。「私」には明らかに、「彼女」の死を背負って、「彼女」の代わりに生きているという意識があるように見受けられる。「だから、もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることは、あってはならない。/今、私が生きているのなら、あなたが存在してはならないのだ」(153~154)。
 この言葉に続けて、「闇と光の間でだけ、あのほの青いすきまでだけ、私たちはやっと顔を合わせることができる」(154)と述べられている。「私」がいるワルシャワの街――本篇中に「ワルシャワ」という固有地名が明示されることは一度もないが――の夜明けは冷たい霧に包まれる。それによって「空と地面の境界は消え」、「この世とあの世のあわい」(28)が薄ぼんやりとひらけてくる。霧は、生者の世界と死者の世界の境であると同時に、「白」でもなく「黒」でもない、あるいは「白」でもあり「黒」でもあるようなもので、色彩としても境目にあり、中性である。その霧のなかに、ナチスドイツによって完膚なきまでに破壊され尽くした「この都市の幽霊たち」が歩み出す。「彼女」は、「この都市と同じ運命を持った人」、「一度死んで、破壊された人」(33)として、このワルシャワの街と、その死者たちと重ね合わされている。「彼女」は、「この世とあの世のあわい」においてのみ、束の間、復活することが出来るのだ。
 そう、それは勿論、束の間のものにならざるを得ない。「私」だったかもしれない「彼女」の生に思いを馳せ、それを想像し、「彼女」を蘇生させようとする「私」の試みは、最終的なところでは頓挫せざるを得ない。「彼女」が死者である限りは、それは当然のことだ。挫折は運命づけられている。だから、この書物自体が、一つの追悼の儀式なのかもしれない。そこにおいて「彼女」は束の間生まれ直し、生と死のあわいにおいて「私」に貸し与えられた肉体と生を生きて、死者の領域に戻っていく。この白い本は、生まれ直した「彼女」を包み込む「おくるみ」であると同時に、ふたたび死に行く彼女を埋葬する「棺」でもあるのだ。「おくるみ」は同時に「棺」であり、「産着」は同時に「壽衣」――埋葬の際に死者に着せる衣装――である。そのどれもが、まっさらで清冽な白さに満たされている。従って、この小説における「白」は多義的である。作者は「作家の言葉」――つまり著者あとがき――において、韓国語で言うところの「ヒン[しろい]」という言葉は、「生と死の寂しさをこもごもたたえた色である」(182)と述べている。「白」はあるところでは生誕と結びつけられ、あるところでは破壊と死に繋がっている。しかし、「生」と「死」という対立的な抽象概念のみならず、「白」はまた、人生の様々な瞬間や場面に現れてそれらを担い、生命や世界の多様な様相を映し出す。それをスケッチしていく作者の筆致は、清らかで静謐なトーンに満ちており、仄かな物悲しさと透明感を湛えている。
 だいぶあとづけで補完してしまったが、大体上のような感想を述べた。そのほかにもいくつか気になった箇所や書き抜こうと思った部分について触れたが、それについては大きな事柄ではないし、面倒臭いので記録は割愛する。じきに話すことも尽き、次回の課題書をどうするかという話題が持ち上がった。それで、このままの文脈で行くなら、例えば韓国の歴史の本とかだろうかとこちらは言い、数年前に吉野作造賞を受賞した木村幹の『日韓歴史認識問題とは何か 歴史教科書・『慰安婦』・ポピュリズム』を読みたいと思っていると紹介した。前回の読書会のあとも淳久堂でこれを探して、見つからなかったのだが、それは歴史学の棚しか見なかったからであって、おそらくこの本は政治学方面の棚にあるのだろうと推測を述べた。あるいは、もう一つの文脈で、アジアの文学ということで行くなら、例えば残雪と莫言という中国のノーベル文学賞受賞作家がいるから、そのあたりは以前から読んでみたいと思っているとこちらは言った。Nさんはスマートフォンで検索を始めながら、ノーベル文学賞というと村上春樹がどうしても頭にちらつく、と笑った。村上春樹はここにいる三人の誰も読んだことはなかった。こちらの興味からすると、読書の文脈のなかに上がって来ないのだとこちらは言い、Nさんは、村上春樹こそこういう機会でもなければ絶対に読まないからそれでも良いかも、と言って彼の著作を調べはじめた。『風の歌を聴け』とかだよね、とこちらは応じ、Nさんは画面を見ながら、『アフターダーク』、などと口にするので、それってオウム真理教のやつ? と訊いたが、そうではなく、オウム真理教事件の被害者にインタビューをしたのは『アンダーグラウンド』という本だった。村上春樹の小説作品にはあまり興味は湧かないが、この本は面白そうだったので、それでも良いかもねと合意して、ともかく書店へ行こうということになった。
 それでそれぞれ会計をして――Aくんは昼飯でNさんに奢ったのだろうか、この時は彼の分もNさんが払っていた――退店し、Aくんがトイレに行っているあいだNさんと並んでいると、台風大丈夫でした、と来る。我が青梅はさほど酷いことにはならず、我が家も特段の問題はなかったのだが、Nさんは、ジャングル、と一言口にして、ジャングル? とこちらが疑問を投げると、スマートフォンで写真を見せてくれた。通勤路に木が倒れ、枝葉があたりを埋め尽くしているような有様だったので、これは凄いなと言っていると、Aくんが戻ってきて、書店に向けて出発した。ビルを出ると空は晴れており、駅前広場に上がると西陽が路面に液体のように撒き散らされて、その反射が目を射って来る。それに目を細め、片手を額につけて庇を作りながらそこを過ぎ、高架通路を辿って高島屋まで行った。デパート内に入るとエスカレーターに乗って数階上がり、淳久堂書店に踏み入ると、まず村上春樹アンダーグラウンド』を確認するために講談社文庫の区画に行った。『アンダーグラウンド』は八〇〇頁近くあり、しかもなかの一部は二段組になっているので、だいぶ読み応えがありそうだった。Aくんがそれを見分しているあいだにこちらは近くにあった『風の歌を聴け』をひらいてみたのだが、そうすると一番初めの書き出しに例の有名な一節、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という台詞が据えられていたので、これ書き出しだったのかよと突っ込んで、そこから滲み出る臭みに大いに笑った。このような物凄く気取った、あまり良くない意味での文学臭が芬々とした文章を作品の一番冒頭の一節として、しかも括弧付きの台詞として持ってきてしまうそのセンスだけをもってしても、この小説を読んでみようという興味をなくしてしまうのだが、何故世の中では広くこれが受け入れられているのだろうか?
 その次に、木村幹の著作を探しに行くことにした。店内に設置されていたコンピューターに寄って場所を検索し、社会の区画二番の棚ということを確認して、そちらの本棚のあいだに移った。『日韓歴史認識問題とは何か 歴史教科書・『慰安婦』・ポピュリズム』以外にも面白そうな本がまことにたくさんあって、当該著作を確認したあとも周辺の書物を眺めていた。Nさんも意外と熱心そうに、何かの本を取って立ち読みしていた。しばらくしてからAくんの下に戻ってどう、と訊いてみると、彼は苦悶のような呻きを漏らして迷った挙句、どちらかと言うと、あちらの方かな、と村上春樹を推してみせたので、ではそうしようと合意された。それで文庫本の区画の方に戻り、Aくんはここで買ってしまうと言うのでこちらは新着の文庫を見ながら待ち、合流するとエスカレーターに乗って退店した。
 ビルを出ると高架通路を行き、歩道橋を渡って並び立つ建物の合間に入って、下の道に下りるエスカレーターの前で立ち止まった。AくんとNさんはそれぞれ用事があるらしく、今日は飯を共には取らないことになっていたので、こちらは一人、ラーメンを食って帰ることに決めていたのだった。それでありがとうございましたと礼を交わし、また次回、と手を挙げて挨拶しながら別れ、こちらはエスカレーターを下りて道を辿り、ビルの二階にある「味源」に入店した。滑りの悪い重い扉を開けて入り、腕に力を入れてふたたびぴったりと閉めておく。今日は和風つけ麺を食べてみることにした。そして今回も、トッピングに白髪葱を選んだ。寄ってきた女性店員――この店で女性店員を見るのは久しぶりである――に食券とサービス券を渡し、サービス券は餃子で、と言い、加えてつけ麺の方は無料で中盛りまで増量出来るので、それを注文した。そうしてカウンター席に就き、店員の運んできたお冷をコップに注いで口をつけたあと、最初は手帳を見ていたが、すぐに携帯電話で忘れないうちにメモを取ろうと思い直して小型の機械を弄った。そうしているうちに餃子が届いたので携帯を操作しながらあっという間に食べ、まもなくつけ麺も運んで来られたので、そうすると携帯は仕舞って食事に集中した。途中、BGMに小沢健二の"カローラⅡに乗って"とか、松任谷由実の何らかの曲が流れていた。食べ終えるとティッシュペーパーで口の周りを拭いて水を飲み干し、長居はせずにさっさと立ち上がって、カウンターの向こうの厨房の店員にごちそうさまでしたと挨拶をして店をあとにした。
 まだ時刻は六時台だったはずだ。表に出て駅前広場に続く階段を上がって行くと、暮れ方の東の空は掃除されたようになって全面薄青く染まっている。広場を歩いて駅舎内に向かいながら右手を見やると、西空には薄紅と青が混在した精妙なグラデーションが見られて、青と赤の中間地帯は磨き込まれた金属表面のような質感の淡色だった。駅舎に入って人波のうねるコンコースを行っていると、昼間の往路と同じようにルミネカードの作成を呼びかける販売員が立っており、またその次にはこれも昼間と同様に、栗を売っているカウンターがあって、男性店員が、栗――――、栗――――、と語尾を非常に長く伸ばしてよく膨らんだ響きの伸びやかな声を聞かせており、ふたたび物売りの声だな、と思った。改札をくぐると電車は二番線、ホームに下りて一号車に乗り、座席に就くと携帯電話でまたメモを取りはじめた。
 青梅までの道中、特段に印象深いことはなかったと思う。地元に着くと降り、奥多摩行きが既に着いていたがすぐには乗らず、ホームを歩いて菓子を売っている自販機の前に立ち、細長いパックに入った小さなポテトチップスの類を二種類買った。一八〇円である。それからホームを戻って奥多摩行きの後ろの方、あれは四車両あるうちの三号車ということになるのか、その端の三人掛けに乗り込んだ。そうして引き続き携帯を弄って到着を待ち、最寄りに着くと既に夜に入った道を辿って帰宅した。
 飯は食ってきたと言い、自室に帰ると服を着替え、それから何をしたのだったか? 七時半過ぎから五分間だけ読書時間が記録されているのは、これはおそらく過去の日記、二〇一六年六月一六日の記事を読んだのだと思う。それから何をして過ごしていたのかは忘れてしまった。風呂には多分、八時半くらいに行ったのではないか。と言うのも、九時を回った頃合いにふたたび読書時間が記録されているからで、それまでには入浴は済ませていたと思う。この時にはどうも、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きを行ったらしい。この本の書抜きはさらに、深夜、Twitterのダイレクト・メッセージでKJさんとやりとりしている時にも、傍ら取り組んでいたような覚えが微かにある。書抜きを終えると九時半前から一〇時一〇分まで日記を書いたようだが、一旦中断したあと一〇時半からふたたび作文を始めており、このおよそ二〇分間の空隙が一体何を意味しているのか不明だ。ともかく一一時前まで日記を綴ったあとは、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめた。確かこの時既に、Twitterでどなたか文学談義でも致しませんかと夜の話し相手を募集していたと思うのだが、それには誰も引っ掛かって来ず、零時過ぎにふたたび投稿したところ、KJさんが昨晩に引き続き応じてきてくれたのだ。ちょうど牧野信一を最後まで読み終えた頃合いだった。それで、多分書抜きをしながら二時までやりとりを交わした。牧野信一と並んで課題書になっている町屋良平の方はどうだったかと尋ねると、強烈な印象は受けなかったが最後まで読めたので面白かったのだと思う、との返答があった。「悪い意味ではなく、玄人っぽさがない」と彼は評してみせた。その後の流れでKJさんの年齢を伺ってみると、三一だと言った。「こんな歳まで生きているとは思わなかった笑」などと彼は言ってみせるので、保坂和志じゃないですか、とこちらも「笑」の文字を付けて返し、『三十歳まで生きるなと思っていた』みたいな本を出していなかったですっけ、と続けた。KJさん的には、保坂和志は『小説の自由』などの小説論は面白いが、実作の方はあまり乗れない、という感じらしかった。
 KJさんはさらに、筋立ての巧みな戯曲として、プリーストリーの『夜の来訪者』を勧めてくれた。確かこれは岩波文庫に入っていたと思うのだが、まだおそらく文学に本格的に遭遇する前に読んだような記憶が幽かにある。だけど如何せん文学的な感性というものが磨かれていなかった時期なので、何もわからなかったのではないかと思うし、記憶もまったく残っていない。KJさんは劇作家ではテネシー・ウィリアムズとヴィルドラックが好きだと言った。シャルル・ヴィルドラックという名前はこちらは初めて聞くものだったし、ウィキペディアの日本語版記事も作られてはいるものの、多分相当にマイナーな方の作家ではないかと思うのだが――何しろ、KJさんによれば作品は軒並み絶版になっているらしかった――どうやって知ったんですかと尋ねると、白水社の『フランス文学史』という本にほんの少しだけ記述があって何故か心に掛かったので図書館で持ち出し禁止の古い全集を読んだのだと言う。凄いですね、その嗅覚、とこちらは称賛した。
 それで二時に至るとKJさんは眠ると言うのでやりとりを終えたのだが、彼との会話の終盤にはまた、SNさんもメッセージを送ってきてくれていた。この方は以前から折に触れてリプライをくれる方で、この前夜に、Twitterで話し相手を募集していたところ、緩やかなペースでダイレクト・メッセージ文通みたいなことをやりたいと仰ってくれたので、是非やりましょうと受けていたところ、その第一信が届いたのだった。もう相当に遅い時間だったのでおそらく就床したのだろう、彼女とのやりとりはすぐに途切れてしまったのだが、緩やかなペースの文通ということなので、それで良いのだ。さらには、二時を過ぎてから、前々からこちらが注目していたLというアカウントからもメッセージが届いたのだが、これがこちらの予想通りUくんだったので、そうじゃないかと思っていましたと受けて笑った。元々は哲学や文学の話だけしていたくて作ったアカウントのはずなのだが、どうしても政治的なことを発信してしまうと言うので、それだけUくんのなかには強い危機感や憤りがあるんですねと受けると、「割とどこを見渡しても、それほど危機感を持っている人が少なくて、そのことに危機感を覚えます」と返って来て、これは平和ボケしている自分のような類の人間にも耳の痛い言である。それに続けて、自分はもう怒りという感情を覚えることがなくなってしまった、これは諦観なのだろうか、と自問のようにして問いかけると、プリーモ・レーヴィの読み方などを見ていると、諦観とは程遠いと思いますと送られてきたので、こちらが書いたレーヴィの本の感想を読んでくれたのかと思い、礼を言った。続けて彼は、今現在牛久に収容されている外国人の人々などは、アウシュヴィッツほどではないにせよ酷い状態に置かれているので、非常にアクチュアリティを感じる、と言った。正直に言うと、入国管理機関で不法滞在の外国人が酷薄な扱われ方をしているという情報はこれまで何となく耳目に入っていたが、その施設が牛久にあるということはここで初めて知ったのだった。東日本入国管理センターというものがあるらしい。それで、自分の関心領域の狭さを恥じ、Uくんの言を受けて慌てて検索し、「相次ぐ外国人収容者の死。牛久の東日本入国管理センターで何が起きているか」(https://hbol.jp/166587)と、「牛久入管 100人ハンスト 5月以降拡大、長期拘束に抗議」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201907/CK2019072502000132.html)の二つの記事を読んだ。そのあいだ、Uくんからは返信がなかったのだが、これはコンビニに行っていたらしい。時刻は既に深夜三時だった。それなので、こちらも大概だが、Uくんも相当な夜更しですね、と笑いを送っておいたあと、コンピューターをシャットダウンして、寝床に移り、町屋良平『愛が嫌い』を読みはじめた。一時間弱読んで四時を迎えようというところで就床である。


・作文
 11:54 - 12:30 = 36分
 12:43 - 12:50 = 7分
 21:25 - 22:11 = 46分
 22:29 - 22:54 = 25分
 計: 1時間54分

・読書
 19:38 - 19:43 = 5分
 21:02 - 21:24 = 22分
 23:01 - 24:43 = 1時間42分
 24:47 - 25:28 = 41分
 26:36 - 26:58 = 22分
 27:00 - 27:55 = 55分
 計: 4時間7分

・睡眠
 5:00 - 11:10 = 6時間10分

・音楽

  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Art Pepper Meets The Rhythm Section』
  • Art Tatum『The Tatum Group Masterpieces』

2019/9/15, Sun.

 ひとつの情念が、いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく、実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき、私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。衰弱と荒廃の果てに、ある種の奇妙な安堵がおとずれることを、私ははじめて経験した。そのときの私にはすでに、持続すべきどのような意志もなかった。一日が一日であることのほか、私はなにも望まなかった。一時間の労働ののち一〇分だけ与えられる休憩のあいだ、ほとんど身うごきもせず、河のほとりへうずくまるのが私の習慣となった。そしてそのようなとき私は、あるゆるやかなものの流れに全身を浸しているような自分を感じた。/〔……〕私の生涯のすべては、その河のほとりで一時間ごとに一〇分ずつ、猿のようにすわりこんでいた私自身の姿に要約される。のちになって私は、その河がアンガラ河の一支流であり、タイシェットの北方三〇キロの地点であることを知った。原点。私にかんするかぎり、それはついに地理的な一点である。しかし、その原点があることによって、不意に私は存在しているのである。まったく唐突に。私はこの原点から、どんな未来も、結論も引き出すことを私に禁ずる。失語の果てに原点が存在したということ、それがすべてだからだ。
 (Ⅱ、三四; 「沈黙するための言葉」)

 このような一節に記されていることは、日常 - 非日常、加害 - 被害という対立をもはや大きく超え出ているだろう。ここでは「告発しない意志」などとわざわざ書き留める必要はない。このエッセイの元来の主題は、強制収容所で言葉が喪失されてゆく「失語」の過程と、「脱走」で描かれている一発の銃声によって呼び起こされた「沈黙」である。あたかも自然過程のように生じてゆく「失語」と、意志的に選び取られた「沈黙」の対比であり、石原の詩はすべて「沈黙するための言葉」である、ということになる。しかし、そういうエッセイの主題的な道筋と、ここで石原の描いている「寂寥」という「原点」は、必ずしも整合していない。こういう箇所は、石原の詩学にとって重要な「沈黙」よりもいっそう突出した印象がある。石原のあの黙想的な論理がことごとく消失する一点。言ってみれば、石原のシベリアとはここだ[﹅12]、と思わせるところがあるのだ。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、273~275)

     *

 四月三〇日朝、私たちはカラガンダ郊外の第二刑務所に徒歩で送られた。刑務所は、私たちがいた捕虜収容所と一三分所のほぼ中間の位置にあった。ふた月まえ、私が目撃したとおなじ状態で、ひとりずつ衛兵所を通って構外へ出た。白く凍てついていたはずの草原[ステップ]は、かがやくばかりの緑に変っていた。五月をあすに待ちかねた乾いた風が、吹きつつかつ匂った。そのときまで私は、ただ比喩としてしか、風を知らなかった。だがこのとき、風は完璧に私を比喩とした。このとき風は実体であり、私はただ、風がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。
 (Ⅱ、一九七; 「望郷と海」)

 風こそが「実体」であり、「私」が風の「比喩」と化してしまうこと――。それは不幸な自己喪失に違いない。しかし、同時にこの一節には、なにか恍惚としたものが感じられる。前節で見た「寂寥」と通じるような、石原が自己への固執から解き放たれる、忘我の瞬間のようなものが感じ取られる。自分という強固な実体から解き放たれる、それは限りない幸福のひとときでもあったに違いないのだ。とはいえ、石原がこの一節に続けて書きとめているのは、当時彼が身を切るようにしておぼえた「忘れられる」という恐怖である。

ここにおれがいる。ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた(七万の日本人が、その地点を確認されぬまま死亡した)。もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。望郷に代る怨郷の想いは、いわばこのようにして起った。
 (Ⅱ、一九七 - 一九八)

 ここにはもはや「告発しない意志」というような、ある種の取りすました態度、あるいは気負った態度が存在する余地はない。「望郷」の思いを「怨郷」へと変貌させて、ふたたび生霊のごとく、故国の日本人を見据えている石原がいる。「肉親へあてた手紙」に描かれていた親族との場面で、石原が発してもよかったような強い直接的な言葉がここには書きつけられている。(……)
 (278~280)


 前日は午前から出かける用事があったので八時にアラームを仕掛けていたが、その設定を解除していなかったのでこの朝も八時に目覚ましの音が鳴り響き、それに応じて珍しく起床することに成功した。コンピューターに寄ってスイッチを押し、Twitterなどを覗いてから上階に向かった。母親は卓に就いて食事を取り終えたところのようだった。食事は前日に作った滑茸とシーチキンのスパゲッティの残りだと言う。それで冷蔵庫のなかから白い大鍋を取り出し、スパゲッティを大皿に盛って電子レンジに突っ込むとともに、そのほかモロヘイヤとミョウガの汁物を椀によそった。そうして卓に就き、スパゲッティが温められているあいだに既にスープを飲みはじめ、電子レンジが音を立てると席を立ってもう一品を持ってきた。醤油を少々垂らして箸で麺を取り、啜る。テーブルの上には母親宛ての葉書があり、見れば渡辺香津美村治佳織のコンサートの優待券だった。立川のホールで九月二八日に行われるらしい。母親はお前も行く、と訊いてくる。何でも開演が午後四時からなので、コンサートを見たあとに立川の連中とどこかで飯でも食おうかということを考えているらしかったので、良いのではないかとこちらは受けた。
 ものを食べ終えると抗鬱薬を飲み、食器を洗った。そのまま風呂も洗おうかと思ったが、今ちょうど洗濯をしている最中だったのであとに回すことにして、脱水途中で取り出されたこちらのシャツ――昨日着た、濃青の麻のもの――を受け取り、裏返してベランダに吊るしておいた。そうして階段を下りて自室に戻ると、前日の記事の記録を付け、この日の記事を作成したあとに、朝も早くから勤勉に短歌を作りはじめた。SIRUP『SIRUP EP』を背景に、『大岡信詩集』をお供にして歌をいくつも作った。

鉛色の夢を魔銃に装填し君の頭を撃ち抜く夜明け
慟哭に首を括って去る君のその心臓の痛みを知る夜
傷口を小窓となして息を吸う外の景色は終末めいて
よく熟れた地球の果肉を削り取り宇宙は廻る僕の足下
永久[とこしえ]の月の記憶を身に宿しあなたを待とうビッグバンまで
この宇宙[そら]の開闢以来どれだけの星が私を残して去った?
悠久の荒地を渡る子守唄処女懐胎の赤子はいずこ
ひたぶるに嘘の短歌を垂れ流す機械となろうその日も越えて
導きに従い黄泉の海を往く彼岸の浜は白く輝き
たった一度の虹との出会いを胸に秘め根元を探し世界を渡る
この朝も滅びの朝も聖書でも夜明けはいつも言葉を奪う
夕暮れに笛を吹く子の頬を染める千年前と同じ光が
始まりで俺を巡って吹く風は来世に至りあなたを包む

 以上の一三首を拵えると一時間二〇分ほど経って、時刻は一〇時二〇分頃に至っていた。それから音楽をBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』に移して日記を書きはじめ、前日の記事より先にここまでを一〇分少々で記している。午前中から勤勉なことで、父親は畑で耕運機を操っている。
 一一時五〇分になると前日の日記を中断して、上階に行った。母親が既に盆の上に食事をほとんど用意してくれていた。そのメニューは何だったか? まず、野菜と煮込んだくたくたの素麺が鍋にあり、これはあとでよそることになった。米もまだよそっていなかったので、椀に盛ったはずだ。何かをおかずにその米を食ったはずなのだが、それが思い出せない。肉だったのか? 魚だったのか? 炒め物の類だったのか? 惣菜だったのか? ここまで思い出せないのも珍しいことだ。そんなに印象に残らない味だったのだろうか? 僅か九時間ほど前に食ったものだと言うのに! しかし、九時間も経てば思い出せなくなるのも道理ではないだろうか? 中皿に煮豆の類がちょっと盛られていたのは覚えている。こちらは煮豆はあまり好きではないので、最後に残していっぺんにさっさと食ったのだ。そのほか、中皿にはあと二品、何かが乗っていたと思うのだが、そしてそれをおかずにして米を食ったはずなのだが、それが何だったのか忘れてしまった。しかしそんなことはどうでも良い! 母親は天気が良いから外で皆で食事を取ろうと言ったが、陽射しが暑そうだったのでこちらは断った。父親の食膳を下へ持って行ってくれと言うので、盆を持って玄関に行き、一度台の上に食事を置いてからサンダルを引っ張り出し、それを履いて扉を開けておいてからまた盆を持って外に出た。そうして家の横を下っていき、父親が相変わらず白いタオルを頭に巻きながら作業を続けている畑から見て階段の上、木製のテーブルの上に膳を置いた。テーブルの縁には何やらオレンジ色の小さな棘のようなものが生えていた。茸の類なのかと思ったが、手近にあった雑巾で擦ってみても固くて全然取れないので放っておき、それで室内に戻った。居間の食卓に就いて新聞をめくりながら一人ものを食うと、食器を洗っておいて下階に帰った。
 母親が布団を干してくれたのは昼食前だったと思う。ベランダの柵に干された布団のその上に置かれた枕とクッションを取って、シーツの取り去られたベッドに乗り、クッションに身体を預けて読書を始めたのが一二時四〇分過ぎだった。牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』だが、五時間も眠っていなかったので薄々そうなるのではないかと思っていた通り、まもなく目が閉じた。それで三時頃まで休むことになった。後半では姿勢が崩れて、完全に臥位になり、横を向いて猫のように身体を丸めていた。ようやく起きると母親が洗ったシーツを部屋まで持ってきてくれていたので、ベッドにマットを敷き、その上にさらにシーツをばさりと広げて整えた。それからベランダの布団を取り込み、ついでに母親たちの布団も彼らの寝室の方に入れておいた。あと、廊下に掛かっていた冬用のコートも陽と風に当てるためにベランダに出しておいたのだが、それも元の場所に戻しておいた。そうして日記にふたたび取り掛かったのが三時半過ぎである。Brad Mehldau『After Bach』、Dollar Brand『African Piano』を背景に四時間。四時間もぶっ続けで、と言っても時折りTwitterを覗いたりもしていたが、ともかくそんなに書き物に邁進出来るとは我ながらびっくりする。これだけで今日は五時間半以上も文を書いていることになる。しかしそれでも前日の記事はまだまだ終わらない。体感では七割に至ったか至らないかといった感じだった。
 七時四〇分に至って食事に行った。この夕食はまだ食べたばかりなので比較的よく覚えている。米、餡の掛かってちょっと粘りのついた野菜炒め、鯖の煮付け、雪花菜にトマトなどを混ぜたサラダ、それに味の薄くて塩気の全然ない枝豆である。テレビは『ダーウィンが来た!』を映しており、ハチドリの生態を紹介していて、酒を飲んでいる父親は例によっていちいちうん、うん、と頷いて感心したようにしていた。ものを食い終わったあと、まだ何か食いたかったので、コンビニの冷凍の手羽中を食べないかと母親に訊くと、食べたらと言うので立ち上がり、冷凍庫から鶏肉のパックを取り出して三つを皿に盛り、電子レンジで温めた。それを卓に持っていくと、こっちの分もやってよと言うので、食べるのかと受けてもう三個を同じように温め、卓に差し出した。そうして手羽中をおかずにしておかわりした白米を食ったあと、食器を洗って、アイロン掛けを始めた。父親の就いている炬燵テーブルの端に台を乗せ、昨日着たこちら自身のシャツとハンカチの皺を伸ばしていく。テレビはこの時は『ポツンと一軒家』に移っていた。目的の一軒家に辿り着くまでの聞き込みの途中で、案内人の細君が魚の造型を取ったサンダルを履いているとか、案内人が助っ人を呼んで戻ってくるとその車のタイヤがパンクしていて大笑いしたとか、探索―到着という物語の進行の上では何の寄与にもならないどころか、むしろ余計なものとも思われるほとんど意味のない事実が時折り織り込まれていて、その無意味さがかえって印象に残った。
 それから風呂に行った。湯浴みをして汗を流し、腋の下を擦り洗って汗の匂いを取り除いておくと、上がってパンツ一丁で部屋に戻った。階段の途中から先ほどアイロンを掛けたシャツを取って自室の収納に吊るしておき、ゴミ箱を持って上階に引き返してゴミを合流させた。そうしてねぐらに帰ると『SIRUP EP』を流して歌を歌い、その後、FISHMANS『Neo Yankees' Holiday』とともに九時一八分からこの日の日記を書きはじめたのだが、途中で一〇時前から一〇時半頃までインターネットに浮気した。その次に今度はLINEでT田からメッセージが届いた。こちらが貸している梶井基次郎檸檬』を今日は集中的に読み進めたと言って、気になった文の書抜きを送ってきた。随分とたくさんあった。そのなかに、「雪後」という作品のなかの一節、「ある日、空は早春を告げ知らせるような大雪を降らした。/窓の戸を繰ると、あらたかな日の光が部屋一杯に射し込んだ。まぶしい世界だ。厚く雪を被った百姓家の茅屋根からは蒸気が濛々とあがっていた。生まれたばかりの仔雲! 深い青空に鮮やかに白く、それは美しい運動を起していた」という記述があり、このなかの「生まれたばかりの仔雲!」という詠嘆など、こちらが読んだ際には見落としていたようだけれど、なかなか良いではないかと思った。生まれたばかりの雲を子供に喩えるという発想自体はあるいはありふれたものかもしれないが、「仔」という字を用いることで動物の赤子のイメージがそこに重ね合わされるのがこちらの心に引っ掛かったようだ。T田は、お前も日々の書抜きをブログに公開したらどうかと言った。以前は一日の記事の最後にその日に書き抜いた文章を付していたのだけれど、やたら長いそんなものは誰も読みはしないだろうし、自分で読み返すのにも負担が大きすぎるので、今のように一日の記事の冒頭に少しずつ引用しておく方式に変えたのだった。それで冒頭にあるものがそれだと言うと、しかしあれは興味深いけれど、書抜きと言うには長過ぎないかと言うので、あれは全部本を読んだ時に書き抜いた文章だと伝えると、T田は大層驚いたようだった。
 それから、今日記はどこまで読んだかと尋ねると、九月七日までとあり、どこか面白いところはあったかと続けて訊けば、七日の冒頭に引かれている引用が興味深かったと言う。しかし思考の整理に時間が掛かるし、今から風呂に入ると言うので、続く話はのちほどということになった。こちらは前日の日記を綴りながらT田を待っていると、零時ももう近くなった頃合いで、「つまり、言葉の星座としての石原の作品は、そこでそれぞれの語が新しい意味を獲得する意味生成の現場であるとともに、おのおのの語がその根源的な意味を回復する関係の現場でもあるのだ。/この意味を理解できれば面白そうなんだけど、細見氏はこの書き抜き部分において考察結果のような内容を並べてくれている一方で、具体的な説明を述べていないので、私には理解できない」と送られてきて、続けて、「他の部分に、石原作品においては語が「新しい意味を獲得」していることについての説明と、「その根源的な意味を回復」していることについての説明、それと「根源的な意味」の具体例は書いてあるの?/俺は評論というものをほとんど読んだことがなくてその界隈の常識を知らないんだけど、評論って難解であっていいものなの?」との問いも届いた。ここからの対話は整理して綴るのが面倒臭いし、それ自体もなかなか有意義だったように思うので、LINEのチャット画面からそのまま引用して並べる。

 ――まあ文芸評論というのは、わりあいに難解で抽象的な表現が使われるものだな。この箇所は俺も具体的に[﹅4]、きちんと理解できているわけではない。ただ前半部分で言われていることはまあ何となくわからんでもない。
 ――「位置」という語のもとに詩の言葉が連鎖させられることで、つまりそれまでになかったような語句の関係性として布置されることで、通常の、日常的に、あるいは歴史的に使われてきた「位置」という言葉がその狭い意味から解放されて、大きな射程を持つようになっている、というようなことではないだろうか。
 ――「位置」という言葉の「原初的な意味」とか「根源的な意味」とかはよくわからんな。
 ――まあでも、結構詩の言葉を言葉というものが持つ本来の意味とかを表現するものとして言うような評言はわりとあるような気がする。

 ――言葉が狭い意味から解放されて、ということのまとめとなっている前半部分については、細見氏が「石原作品の語を辞書通りの意味で読もうとするとうまく意味を取れないから、石原さんは語に独自の新しい意味を付けたのだろう。その『新しい意味』が具体的に何であるかは石原さん本人じゃないから知りませんが」ということをカッコつけて書いているだけのように見えてしまってならないのです…

 ――我々の言葉っていうのは伝達の手段でしょう? しかしその観点からすると詩の言葉というのはほとんど用をなさないわけだよ。非常に難解で多義的で、文脈の連鎖も日常的な言葉のそれとはまったく違っている。そこでは言葉は手段ではなくて、それ自体が言わば目的と化しているわけだ。しかしそこにある種の感動を与えるようなものが時に生成する。そういう時に伝達されているはずの「言葉にならないような意味」というのを「根源的な意味」とか言っている、という風に考えてみても良いのかもしれない。
 ――言葉というものが日常性に摩耗させられる前の意味、と言うか。イメージとしてはそんな感じかな。谷川俊太郎も、「人間がまったく先入観とか知識とか、もしかしたら言語もなしに一人で地球上に立った時の感情」とか言っている。
 ――仮に「新しい意味」というものがあったとして、そんなものは石原吉郎自身も具体的に何であるか、知らなかったと思うね。一つに定められるようなものではないと言うか。
 ――詩の言葉の意味を具体的に一つに定める必要はないわけだよ。そこから喚起されるイメージとか、連想的な概念とか、そういったものをすべて含めて「意味」と称する、と言うか。
 ――かと言ってでたらめに読むことも出来ないわけだが。

 ――「根源的な意味」が「人間がまったく先入観とか知識とか、もしかしたら言語もなしに一人で地球上に立った時の感情」に近い物だとすると、わかりそうな気がする。
 > 詩の言葉の意味を具体的に一つに定める必要はないわけだよ。そこから喚起されるイメージとか、連想的な概念とか、そういったものをすべて含めて「意味」と称する、と言うか。
 ――わかったかもしれん。作者自身も把握していないかもしれない「新しい意味」を含みうる語で構成された詩というのは、日常の言語よりも、色々な情景や心情を楽器だけで表現しようとしている音楽に近いんじゃないか。
 ――音楽を聴くように読めと言ったのはそういうことか?

 ――その通りだ。
 ――「意味」っていう言葉のまさしく意味の射程が詩においては散文のそれよりも広いんだ。

 ――意味の「射程が広い」とは、「より抽象化されている」というようなことか?
 ――例えば、音楽で怒りを表す主題というのは「怒り」を抽象化したものだ
 ――ごめん、例えが適当すぎたかもしれん

 ――と言うよりは、より多義的で多様で重層化されている、というような感じかな。抽象化して一つの概念に統合されていると言うよりは、具体的な意味やイメージが複数並立的に並び、あるいは渦巻きあってひしめいていると言うか。
 ――まあ詩の読み方、解釈の仕方、受け止め方なんて俺もよくわからんわけだが。

 ――「具体的な」意味やイメージが並立、と言われると俺には再びわからなくなってしまうなぁ。
 ――まだ抽象化の路線を引きずるのだけど、例えば「声」の辞書的な意味そのものを述べたいわけではなくて、「声」の辞書的な意味を含む概念を述べようとしたいところなのだが、「音」まで広い概念ではなくて、適切な言葉が日本語に存在しないので、自分の想定する概念に最も近い「声」という言葉を用いた、ってわけではないのか。

 ――うーん。
 ――並立、と言ったのは、ある詩からAという意味もしくはイメージ、Bという意味、Cという意味が引き出せるとして、そのなかのどれかにその詩の真の意味があるのではなくて、その複数性そのものがその詩の意味だ、というような意味合いで使ったつもりかな。

 ――あ、そういうことか。

 ――その複数の重なり合いからまた新たな意味が生成されるということもあるかもしれない。そのようにして絶えない意味の連鎖を生み出していく、というのがもしかしたら理想的な詩なのかも……? とこれは単なる思いつきだが。

 ――大衆感覚の及ばない領域だな…

 ――まあ難解な考察とかは良いとして、単純に、「このフレーズいいな」って思ったのを覚えてしまって持ち運べるというのも詩の魅力の一つだろうな。音楽を聞くように読めといったのは、そういう意味でもある。
 ――好きなフレーズは口ずさめるようになるでしょう? それと同じことだ。
 ――それがどんな意味の射程を持っているか、何につながっているかなんてのはまああとで良い。自分が覚えてしまえるほどにその言葉から何らかの強い印象を得たというその事実にこそ意味がある。
 ――そのようにして持ち運んでいた言葉が、ある時具体的な状況のなかにあって何かピンと来るかもしれない。あるいは俺のように短歌に仕立てたりして、また別の言葉の生成を生むかもしれない。

 ――うん、そういうことだと思っとく。
 ――説明できない前衛音楽でも、何となく面白みを感じる時は感じるんで。
 ――作者が他人である以上は、作者と寸分たがわぬ意図や気分を感じることは無理だ。

 ――それは勿論そうだ。と言うか、「作者と寸分たがわぬ意図や気分」を感じることが文学の理想だったとしたら、それほどつまらないこともないのではないか。

 ――具体的な描写というのはそれを目指しているのでは?

 ――うーん。これが微妙なところだな。

 ――「寸分たがわぬ」は無理な想定で誰もがやっているとは思うけど

 ――確かに、正確な伝達を心がける新聞記事のような文章だったら、それはそうかもな。

 ――まぁ、それは文学ではないね。

 ――そうだね。
 ――作者と読者の差異、そのずれから新たなものが生まれていくように思うんだよな。

 ――読者が作者の真意より自分の解釈の方を気に入っているというケースもあるしね。

 というような感じだ。T田とのやりとりを交わしながら同時に、Twitter上で話し相手を求めるツイートをしていたのだが、それに答えてKJさんがダイレクト・メッセージでのやりとりなら可能です、とリプライを寄越してくれていた。それなので、T田との対話が終わった午前一時から、今度は彼とDMで会話を始めた。KJさんは二一日の課題書である牧野信一をもう読み終わったらしかった。もう一冊の課題書である町屋良平の方も以前、読み終えたとツイートしていたと思う。読むのがなかなか速いものだ。牧野信一は何だか記述が粗いと言うか、変で奇妙と言うか、描写の順番などがいびつな感じがするという点で互いに一致した。こちらは正直、読んでいて強い印象を受けた箇所がそれほどなく、古井由吉大江健三郎が揃って推していたから期待をしていたわりには、ううむ、というような印象だったのだが、KJさんも概ね同じような評価であるらしかった。ただ一箇所こちらが印象的だったと言うか、笑ったのは、「天狗洞食客記」という篇の途中で、一つ大々的な脱線と言うか迂回のような記述がある箇所で、その唐突さと、整然と文脈を作り上げる意志の不在の様相に、こいつ適当に書いているんじゃないかと思わず笑ってしまい、その気まぐれさにヴァルザーのような気味を少々感じた、ということはあった。
 KJは筋を楽しむ方ですか、と尋ねると、「一概にそうと断言はしませんが」という慎重な留保を置いたあと、多分それ以外の要素を楽しむタイプだろうと彼は答えた。筋立てを覚えるのが苦手であるらしい。こちらもわりとそうで、物語はあまり気にならないと言うか、よほど紋切型のありきたりな展開ででもなければ、どのような物語であろうとわりあいに受け入れることが出来るタイプだと思う。それよりも、細部の言葉遣いなどに惹かれる傾向があるようだ。KJさんは、自分は物語上の矛盾などに気づきにくいので、自分でも矛盾がすぐにわかる作品は相当まずいのだと思う、と言った。今までにそういう作品は何かありましたかと尋ねると、書物になったプロの小説ではないが、インターネット上の詩や小説などではあったとの返答があった。また、書物になっている作品でも、水嶋ヒロのものは「なんじゃこりゃ」という感じだったと言うので、水嶋ヒロまで読んでいるとか、幅広すぎでしょうとこちらは笑った。彼はまた、自分でも詩と小説を書くという話で、詩の方では日本現代詩人会のホームページで佳作として取り上げられてもいると言う。それでいてまだ詩の方は書きはじめて一年くらいだと言うので、凄いではないですかとこちらは称賛した。
 そのあたりで二時に至ったので、こちらはそろそろ牧野信一の続きを読みますと言い、ありがとうございました、当日はよろしくお願い致しますと挨拶して会話を終了した。KJさんとやりとりを交わしながらまた短歌を作っていたので、以下に掲げる。

精密な機械仕掛けの鰓呼吸泡が言葉を生むと夢見て
銀河中の宇宙塵を食べ尽くしまっさらな闇の繭に抱かれる
夢に出た無色の孔雀を追い求め大気圏まで落ちて燃え尽きる
名月や匙で掬って飲めそうな黄金色の光清かに
青風にシャツも手帳も染め抜かれ若葉のように恍惚として
心臓を掴まれるような不安とは古い友だち愛するほどに
導きの井戸を覗けば果ての島落ちた涙が君の瞳に
神界の炎と氷を織り混ぜて衣を編んで亡き人に送る

 そうして二時一〇分過ぎからベッドに移って読書を始めたが、例によっていくらも読み進まないうちに意識が弱くなって、気づくと何と時計は午前五時を指していた。そのまま明かりを落として眠りに就いた。


・作文
 10:20 - 11:50 = 1時間30分
 15:33 - 19:39 = 4時間6分
 21:18 - 24:18 = 3時間

・読書
 26:13 - ? = ?

  • 牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』: 239 - 251

・睡眠
 3:20 - 8:00 = 4時間40分

・音楽

  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • Brad Mehldau『After Bach』
  • Dollar Brand『African Piano』
  • FISHMANS『Neo Yankees' Holiday』

2019/9/14, Sat.

 (……)「告発しない」という自分の姿勢について、石原がいちばんまとまった形で語っているのは、講演「沈黙するための言葉」のなかで、おそらくは会場からの質問に答えた部分である(司会者からの質問かもしれない)。そこで石原はこう語っている。

 告発しないという決意によって、詩に近づいたということですが、これも、今いった詩を選んだ動機に、ある意味ではつながると思います。〔シベリア抑留の〕八年の間見てきたもの、感じとったものを要約して私が得たものは、政治というものに対する徹底的な不信です。政治には非常に関心がありますけれど、それははっきりした反政治的な姿勢からです。人間が告発する場合には、政治の場でしか告発できないと考えるから、告発を拒否するわけです。それともう一つ、集団を信じないという立場があります。集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。人間は告発することによって、自分の立場を最終的に救うことはできないというのが私の一貫した考え方です。人間が単独者として真剣に自立するためには告発しないという決意をもたなければならないと私は思っています。
 (Ⅱ、七四―七五)

 ここでは、告発の拒否が、そもそも石原が詩に向かった動機とすら語られている。これはやはりかなりあとづけの理屈、しかもあの山本太郎の評言を踏まえたうえでの理屈だろう。そのうえで、政治への不信、集団への不信が告発の拒否の根拠とされている。そして、「単独者として真剣に自立するため」には、告発しない決意をもつ必要があると主張されている。とはいえ、「告発しない」と語ることは、自分に告発する権利がつねに留保されていることを前提にしている。結局のところ石原は、一貫して自分をいつでも告発の立場に立ちうる被害者[﹅17]という位置に置いていることになる。実際に告発した場合、その告発は無視されるかもしれないし、思わぬ反論にさらされるかもしれない(石原と親族の関係がまさしくそういうものだった)。告発しないと語ること[﹅10]は、そういう対決の場面を回避しつつ、自分のなかに告発の権利を無傷なものとして絶えず確保しておくことである。ここにはやはり錯誤がふくまれているのではないか。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、269~271)

     *

 このエッセイ[「確認されない死のなかで」]には『日常への強制』収録版までは、「よしんば名前があったにしろ/名前があったというだけが/抹殺された理由ではない。」というエピグラムが添えられていたが、『望郷と海』に収録されたとき、「百人の死は悲劇だが/百万人の死は統計だ。/アイヒマン」に置き換えられる。アイヒマンとは、「アイヒマン裁判」のアイヒマンである。石原が新たにエピグラムに置いているのは、一般にアイヒマンの語録として知られるものの一つである。アイヒマンの姿に石原は独特の向き合いかたをした。エルサレムでのアイヒマン裁判の報に接して、「アイヒマンの孤独」と書きつけたのは、世界中でおそらく石原吉郎ただひとりではなかったかと思われる。
 アドルフ・アイヒマンは、ヒトラーのもとで行なわれたホロコーストの責任者のひとりだった。彼はゲスタポのユダヤ人課の課長として、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送する作戦計画の指揮者だった。アイヒマンは戦後アルゼンチンに逃亡していたが、イスラエルの秘密警察が一九六〇年に彼を拘束する。アイヒマンイスラエルに連行され、一九六一年四月一一日からエルサレムで彼を裁く公開裁判が開始された。石原は一九六一年四月一八日付けの「ノート」にこう書きつけている。

 ふたりの男が経験しなければならなかった深い孤独の世界について、新聞は報じている。一つは、人類史上はじめて打ち上げられた人工衛星の中で、〈英雄〉ガガーリン少佐がただひとり経験した、重力圏外の沈黙と孤独の世界であり、他の一つは、人間の堕落の責任者、人類史上最大の犯罪者として、イスラエルの法廷のまっただなかに立たされている親衛隊中佐アイヒマンが、全世界の抗議の目の壁のなかで経験しているおそるべき絶望と孤独の世界である。
 (Ⅱ、一四五 - 一四六)

 ソ連の開発したボストーク一号でユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功したのは、一九六一年四月一二日、まさしくアイヒマン裁判開始の翌日であって、石原はこの二つの事件に不思議な類縁を見たのだった。しかも、同じ日付のノートのなかで、宇宙空間における孤独とエルサレムの法廷における孤独について考察しながら、「僕がはげしい関心をもつのは、第二のアイヒマンの孤独である」(Ⅱ、一四六)と記している。
 (271~273)


 八時に仕掛けていたアラームで目論見通り起床することに成功した。ベッドから降りるとコンピューターを点けてTwitterを覗き、それから部屋を出て上階に上がった。母親に挨拶し、洗面所に入ると顔を洗って、さらに整髪ウォーターを髪に振り掛けてドライヤーで寝癖を整えた。食事は米がないのでパンだと言う。それで冷蔵庫から食パンを取り出してトースターに入れ、焼いているあいだは卓に就いて前夜の味噌汁を飲んだ。パンが焼けるとバターを乗せてさらにハムを二枚上に置き、皿に取り出すとともにもう一枚を続けてトースターに入れて焼きはじめた。卓に移って新聞を読みながらパンを齧り、食べ終わるともう一枚を取ってきてそれも食した。その他牛蒡サラダなども食べて、皿を洗っていると父親が階段を上がってきた。父親は昨夜、三時かそのくらいまで起きて酒を飲んでいたようで、朝から疲れたような様子で、よいしょ、よいしょ、と言いながらゆっくりと階段を上がってきた。風呂をもう洗えるのかと母親に訊くと、まだ洗濯をするとのことだったので、こちらは下階に下りた。Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流しながら「短歌」記事を更新し、それからSさんのブログを読んだ。一〇分間で五記事を読めるこのコンパクトさ。九時に至るとLINEでT田から昨夜のやりとりの返信が届いたので、また言葉を交わしながら日記を書きはじめた。最初は音楽もBorodin Quartetを続けていたのだが、途中からyoutubeにアクセスして中村佳穂のスタジオライブ音源を流し、これがやはりなかなか素晴らしいので、LINEを通じてTにも聞くんだと勧めておいた。ここまで記すと九時四二分である。
 それから、「加速主義と日本的身体 —柄谷行人から出発して」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2019/06/14/200000)を読んだ。youtubeに上がっていたSIRUPのミックス音源や、Suchmos『THE ASHTRAY』を流して一〇時半まで掛けて読了し、それから便所に行って糞を垂れた。そのついでに上階に上がって風呂を洗い、戻ると完成させた前日のブログを投稿し、そのあと、SIRUP "Synapse"の流れるなか服を着替えた。UNITED ARROWS green label relaxingで買った濃青の麻のシャツに、下はガンクラブ・チェックのパンツである。そうすると既に出発の時刻だったので、クラッチバッグに小荷物を入れて上へ上がった。仏間でカバー・ソックスを履き、ハンカチを取って出発した。
 林にミンミンゼミの鳴き声が復活していたが、しかし勿論、もうその勢いはかなり乏しい。空気は軽く涼しくて、空は白く覆われて隈がないが、見上げれば眩しさの感触が淡く瞳に触れた。坂道に入り、木屑が散乱しているなかを上っていくあいだ、ここには蟬の声がもうなくなって、沢の音と虫の音のみだった。着実に夏が終わりつつあるようだ。
 最寄り駅に着くとホームの先の方に歩いていき、まもなくやって来た電車に乗り込んだ。青梅に着くと乗換え、移る先の東京行きはすぐの発車だったので、降りたあと移動せずにすぐ向かいから乗り込み、車両を移っていった。先頭車両まで来ると七人掛けの端に就き、まず携帯電話を取り出してここまでのことを短くメモに取ったと思う。それから手のものを手帳に持ち替えて、書かれている情報を復習した。
 立川で少々停まっているあいだのことだったと思うが、電車内に坊主頭の――と言うかむしろ禿頭の――大男が現れた。床の上にボストンバッグをバッグを投げ出し、両手を大きく上げて吊り革を掴み、大仰な咳払いをたびたび漏らすその挙動が何だか少し奇妙だった。彼はそのうちに車両内を移動して座席の前に人が立っているのもお構いなしに網棚の上に手を伸ばしていたのだが、戻ってきた男の手にはペットボトルが握られていたので、どうも誰かが忘れていったそれを自分のものとしたらしい。しかし、良く見ていなかったので詳細はわからないが、自分のものとしたはずのそれを彼はまた、車外に投げ捨てていたようにも見えた。そのようにちょっと妙な行動を取りつつ、周囲を威嚇するような咳払いを放っていた彼だが、国分寺で停まった際に降りていった。入れ替わりに今度はまだだいぶ小さな子供、座っているこちらの頭の位置よりも背の低い男児がこちらの座席付近にやって来た。白いポロシャツにローファーを履いており、身なりの良い子供だったが、最初は扉際で外の景色を眺めていたものの、そのうちに彼はすわりたい、と母親に訴えはじめた。替わってあげても良かったのだが、どうせいくらも経たないうちに三鷹で降りるのだ、というわけでこちらは座席に留まり、子供はその後、母親に抱き上げられて大人しくしていた。
 三鷹で降りると向かいの快速だったか各駅停車だったかに乗り換え、扉際で手帳を読んでいるとHMさんから電話が掛かってきた。今三鷹です、あと一駅ですと受けると、吉祥寺に着いたら公園口から出て、そこで電話をくれと言う。了承して切り、吉祥寺に着くまで手帳を読み続け、降車すると大挙して階段口へ向かう群衆のなかの一つの泡と化し、改札に向かった。公園口あるいは南口改札を抜けたところできょろきょろとあたりを見回したが、HMさんの姿は見当たらなかった。それで、駅舎外に続く階段の上で電話を掛けると、すぐ出たところにいると言い、見れば階段を下りた先に携帯を耳に当てている彼の姿があったので、ああ、いたと口にして通話を切り、階段を下りた。お久しぶりですと挨拶すると、「MORE」というジャズ喫茶に行こうと彼は言ったので了承し、歩き出した。駅のコンコース内を北側に抜けるあいだ、HMさんは、何か作家っぽくなったね、格好がもう作家だなというようなことを言ったので、そうですかと笑った。――やっぱり、今学んでいることとか、打ち込んでいることとか、そこから得たものって雰囲気に出るよなあ。
 HMさんは前回会った時もそうだったと思うが、髪を後ろで縛ってやや引っ詰めたような髪型にしていた。服装は白いTシャツにベージュっぽい色の短パンで、のちに行った「SOMETIME」ではその上にあれはフランネルのものだろうか、シャツを身に着けたり脱いだりを忙しなく繰り返していたが、この時も既にそれを羽織っていたかもしれない。ズボンにはチェーンや鍵がついており、歩くのに合わせてそれがしゃらしゃらと鳴るのだった。道中に交わした会話は覚えていないし、吉祥寺に土地勘がないので道順も記憶していない。サンロードの前を左に折れたのだったような気がする。「MORE」に着くと幅の狭い急な階段を上がって二階にある店の扉を開けたが、そうすると今満席だと言う。待つようだということで、僕は全然良いですよと言って一旦店外の、狭い階段の途中で待つことにしたが、それか「SOMETIME」の方に行く? とHMさんが言うので、それでも良いですねと賛成し、それでそちらに向かうことになった。HMさんはわざわざもう一度店のドアを開けて、なかの女性店員に、すいません、出ます、と伝えていた。「SOMETIME」までの道順も覚えていないのだが、吉祥寺はこの日祭りだったらしく、途中の道端に太鼓が台に乗せられてあって、その上に幼い女児が乗ってゆっくりとした間合いで叩き、音を響かせていたのを見かけたことは覚えている。また、地下に続く店の階段を下りる頃合いに、HGの話になっていたのは確かだ。HGとはベースを弾いていたこちらの高校の同級生で、大学時代にHMさんと組んでいたバンドに誘ってくれた当人である。――HGはもう数年前に結婚して、子供もいますよ。多分どこか都心の方に住んでて、そろそろ二人目でも作っているんじゃないですかね。
 入店すると、あれは中二階と言うのだろうか、店の奥に階段をちょっと上がったロフトのような小さなフロアがあるのだが、そこの一角に座を占めた。そこから見下ろす位置、フロアの真ん中あたりにピアノが置かれ、我々のいる位置から見て奥の入口の方面にはカウンターや厨房があるのだが、カウンターの頭上には酒の瓶がずらりと並んでいるようで、それらが天井から降り注ぐ照明の光を受けてきらきらと輝いていた。こちらは無論、ジンジャーエールを注文し、HMさんは最初はビールを頼み、次にハイボールを二杯、それが薄いと言って最後にジンジャーハイボールを飲んでいた。HMさんはこの前にも知人と会う用事があって、おそらくそこで飯を食ってきたらしく、腹が減っていないと言った。こちらも食ったのは八時頃だったものの、そこまで空腹ではなかったので、何か摘むものでも頼もうということで、ソーセージの盛り合わせを途中で頼んだ。しかしその後、チーズの盛り合わせも注文され、さらに最後には結局ピザも頼むことになった。ピザを決める時に、メニューを見せられたこちらがソーセージ、と口にすると、HMさんはまたソーセージか、と笑い、それは女の子に嫌がられるよ、女の子は色んなもの食べたがるからね、と言うので、じゃあ茸のピザにしましょうかとこちらは意を変えたのだったが、でも男だたら一つに決めたらそれを貫き通すかとHMさんは言って、結局ソーセージのピザが注文された。
 飲み物が届くとグラスを合わせて乾杯した。前に会ったのはあれはいつ頃? という話をして、二〇一五年か二〇一六年の年末でしたね、と答えたのだったが、そのやりとりをしたのは店に着く前、まだ歩いているあいだのことだったように思う。おそらく前に会ったのは、当時記した覚えのある日記の記述の感触、そのレベルからして二〇一五年のことだろうと思っていたのだが、今、過去の日記を調べてみると、やはり二〇一五年一二月二六日のことだった。電話が掛かってきて、福生のライブハウスで今夜ブルースのライブをやるから来ないかと誘われ、二つ返事で了承して出向いたのだった。折角なので、これでまた一気に記事が長くなるが、その日の日記を引用しておこう。この頃と今だとやはり書き方がちょっと違っているように思う。

 (……)店の場所は駅のすぐ近くだったので、どこかそのあたりにあるだろうと裏通りに入った。暗く静かな住宅地で夜の店の明かりなどなさそうに見えたが、一つ目の角を右に向くと、それらしきものが見えた。近づいていくと小さな建物だったが、たしかに目的の場所だとわかった。マスクをつけている男が誰かを待っているように店の前に立っていた。その脇から扉をあけてなかに入り、二つ目の扉もあけると、すぐ目の前の薄暗闇のなかに人が立っていた。奥のステージでは演奏がされていた、知人がいないかと見回したが、知った顔はなかった。カウンターの向こうの店主らしい初老の女性と目が合ったので、顔を近づけて、何か頼むようですよねと言った。彼女はチャージが一五〇〇円でドリンクが五〇〇円だから二〇〇〇円になります、とややしわがれたような声で言い、メニューを持ってきたので、ジンジャーエールの辛いものを頼んだ。釣りと緑色の瓶を受けとってフロアの奥に進み、L字を横に反転させた形の大きな木のテーブルに着いた。演奏中のバンドは実に素人くさく、リードギターはメロディを何の抑揚もつけずに危なげに弾き、初心者丸出しだった。そのバンドの演奏がまもなく終わると、次にスリーピースバンドが出てきた。ありきたりのギターポップという感じだった。演奏がはじまる前の準備中、ステージの端に立ってマイクを取った店主は、こう見えてはちゃめちゃなギターを弾くのだ、と二八歳のギターボーカルを紹介したが、はちゃめちゃさなど感じられなかった。といって、ギターを構えた格好や、プレイ中の目つきを固くした表情や、熱の籠った歌いぶりなどはそれなりに様になっていたのだが、MC中の挙動や言動を見ていると、「変人」に憧れる人間が変人と見られたいために一生懸命がんばっているというような印象を受けた。彼は、故郷に変える金がないんです、と早口で言って、一枚一〇〇〇円のCDを買ってくれるように繰りかえし懇願し、演奏のあと、酔っぱらいのあいだに何人かの客を得たようだった。知人は、そのバンドが演じている途中に入ってきた。見回した顔に手をあげて、近づいてきた彼と握手をした。いま何歳、と聞かれたので二五と答え、そちらはと返すと、四一だと言った。顔を見て、若いですよと言った。いやでももう四一、そっちも会ったのは二〇のときだったけど、二五ってなるともういい大人だもんな。いい大人の実感またくないですけどね、と返した。スリーピースの次が、その知人が参加しているブルースバンドだった。そんなに難しいことやらないから見ててと言うのに、でもやる気はまったくないんですけどね、来てはみたものの、とあらかじめ断りを入れた。ステージの前面には、髪を立てて狼のような印象のギターボーカルと、ハンチング帽をかぶってジャケットを着たテナーサックスに、禿頭で水色のスカジャンを羽織ったバリトンサックスの三人が並んだ。"Everyday I Have The Blues"からはじまったので、いい気分になって演奏とともに歌声を出した。リーダーらしいボーカルは、ギターを身体にぴったりとつけるように縦に近い角度で構え、柔らかい手つきで弾きながら、鼻にかかった歌い声を出していた。それまでの二つのバンドに比べればよほど安定した演奏だったが、曲の入りのタイミングや、ソロ回しの意思疎通などが整っておらず、サックスのソロの途中でボーカルが割りこんで歌いだすような場面が見られた。それで、帰りの車のなかでワンマンなんですかと尋ねると、そういうわけではないが、リーダーの彼の気分ですべて回っているようなもんだから、合わせるのが難しいという答えがあった。次のバンドはフロントのギターボーカルが髪に灰色が混じった中年で、いかにもおやじバンドという風情だったが、演奏自体は安定しており、曲調もカントリーめいたものから、架空の戦隊物のテーマ曲を想像的につくったもので五拍子を基調にしたインスト曲や、The Beatlesのカバーなど多彩だった。先ごろ、CDもつくったという話だった。戻ってきた知人と隣りあわせて眺めながら、終わったあとにどこかに飯に行かないかと話していたのだが、相手は翌日朝の五時半から用事がある上に、この場に最後までいなければならないという話だった。それで、帰り送っていってあげるから、ここで飯食べちゃわないと相手が言うのに了承し、ミートソースのスパゲッティをおごってもらった。それを食べながら、最後のバンドを眺めた。知人がいいバンドだと演奏の前に言っていた通り、この日見たなかでは、演奏にしてもMCやパフォーマンスにしてももっともこなれており、場を盛りあげるのに手馴れている感じだった。曲は骨太なロックンロールでブルースもやり、茶髪のフロントが白いレスポールでリズムを刻みながら熱唱し、右手にいるハンチング帽の五一歳が、上体をかがめながら感情的なソロを取った。左手に立ったブルースハープ奏者は卓越した腕前で、酒が入っていい気分になりながら、シャツの裾をズボンからはみださせ、魂を吹きこむかのように顔を真っ赤にして、高速で飛翔するような熱情的なソロを吹いた。ボーカルは彼を指差しながら、今年一番調子に乗っていると叫び、"Honey Bee"というあだ名で紹介した。そのバンドの演奏が終わったのは、一一時ごろだった。挨拶回りをしている知人を待っていると、バンドのリーダーに紹介すると言われたので、席を立った。革のジャンパーを着たギターボーカルは、目の周りにやや化粧を施しているようだった。彼とバリトンサックスの禿頭が並んでいる前で、会釈をし、ボーカルと握手をした。作家になるんだって、と聞かれて、いや多分ならないですけどねと返した。どんな本が好きなのと言われて小説、と返し、どんな作家なのと続いた質問には昔のやつが多いですねと曖昧にぼかし、禿頭の人が芥川龍之介とかと言ったのに合わせて、芥川など実際のところ一冊も読んだことがなかったが、ああそういうやつです、と返した。すると森鴎外とか太宰治とかの名前が挙がって、昔読んだんだけど全然わからなかった、とか、酔っ払ったボーカルとバリトンサックスのあいだで話が盛りあがりはじめたので、知人のほうを向いてそろそろ行きましょうか、と言った。もう一度相手と握手をして別れ、知人がほかの人にも挨拶を終えたあとに、一緒に店を出た。駐車場に停まっている車はベンツだった。右側に位置する助手席に入り、シートベルトをつけて、どのバンドがどうだったというような話をした。ナビソフトをひらいたままのスマートフォンが時折り声をあげた。知人はそれを右手に持ったまま左手でハンドルを操りつつ、道があまりわからないと言っていたが、裏通りを抜けて街道に出たあとはまっすぐ進むだけだった。前にもうしろにもほかの車がほとんどいないなか、街灯が両側を転々と縁取っている道路を走った。知人はここのところ、人生について考えているらしかった。ドラムは一つ、続けていくものとして定まっているとして、制作会社のほうもそれなりにうまくいっているが、ほかに何か熱を持てるものを探しているようだった。こちらの書き物について聞いてきたので、日記のような生活の記録をつけていると言い、ブログに発表していると明かした。読ませてくれと言いかけた相手の先手を打って、誰にも読ませませんよと笑った。もう三年やっていると言うと、自分がうまくなっているのがわかる、と聞いたので、それはもう明らかにわかる、一年前の比べると段違いだと答えた。相手は歌詞を書いてみたいと唐突に言った。それでいまからはじめて、三年やればうまく書けるようになるよね。きっかけがあってはじめれば、あとは毎日やるだけですよ、楽器でも何でもそうですけど。あたりが見知った光景になってきたころ、好きな作家とかいるのと聞かれたので、海外の昔のやつが多いと返した。例えばと続いたのに、ローベルト・ヴァルザーなどと言っても仕方がないしなと考えて、カフカとか、と名前を出すと、村上春樹、と返された。ああ、そうじゃなくて、村上春樹が『海辺のカフカ』ってやつを書いていて、それの元になったフランツ・カフカって人がいるんですよ、あとは『失われた時を求めて』っていうすごく長い小説があるんですけど、そのプルーストって人とか。それはいつくらいの人なのと聞かれたので、両方とも一九二〇年代にはもう死んでますねと答えると、相手は唐突に古着が好きだという話をはじめた。この靴も、と足を持ちあげて指差して、七〇年代くらいのアディダスで、そういうのがあるとお、ってなるのね、三〇年以上時を越えてきたのか、って、でもいま一九二〇年代って聞いて、想像が追いつかないわ、八〇年とかあるもんね、それを越えられるんだもんね。市民会館正面の坂をのぼっているとき、今日のバンドはどうだった、ああいう大人たちを見てどう思った、と相手は尋ねた。少し考えてから、特にどうも、と答えたあと、甚だ曖昧な物言いになったが、まあでも僕としては、もっと音楽そのものに近づこうとしているっていうか、そういう音楽が聞きたいですね、と言った。街道から裏通りに入って木々のあいだの坂道をおりていき、自宅のすぐ近く、小さくて何もない、他人の敷地の駐車場に停まった。星を見ていい、言う相手と一緒に外に出た。首をうしろに傾けると、頭上遥かに満月が照っていたが、空の色はくすんだようで青みがなかったので、昨日か一昨日あたりはすごく明るかったんですけどねと口にした。深夜零時前、冬の冷たい夜気のなかで、また少し話をした。きっと君の書くものは何かしら世に出たり、賞を取ったりするよ、というようなことを言われて、相手の顔を見ながら黙っていると、知人は笑みをこぼして、自分では実感ない、と尋ねた。というか、と考えながら口をひらき、自分ではもう自分のことを作家だと思っているのだと告げた。それは作品をつくっているとか、本を出版しているとか、誰かに読まれているとかそういうことではない、自分の言う作家であるということは、書きつづけているということで、もし作家という言葉が違うならば、ただ書く人間と言ってもいいが、自分はもうそういう人間になってしまったし、これからもそのままだろうと確信を述べた。最後に握手をして互いに礼を言うと、数歩下がって車が発進するのを待った。低い排気音を響かせながら去っていく車に向けて、道路に出ながら手をあげた。車中の黒い影の右手が一度あがったあと、左手が窓の外に突きだされて斜めに伸びた。それに向けてまた手をあげてから、自宅に歩いていき、なかに入った。(……)

 実に懐かしい。HMさんも、もしこれを読んでくれれば、ああこんなことがあったなあと懐かしく思い返されるのではないだろうか。それにしても、自分はもう既に作家であるなどと、たかだか日記を毎日書いているだけの分際に過ぎないくせに、それもまだ三年も続けていなかったくせに、随分と偉そうなことを言っているものだ。ところでこれも歩いているあいだに話したことだが、HMさんはこの時加わっていたブルースのバンドは今はもう辞めたのだった。やっていても正直あまり面白くなかったのだと言うが、その際に、まあそれは俺の手数とかの問題なんだけど、と他人のせいにしないのが彼の謙虚なところである。しかし多分、上の記事にも記されているように、わりとギターボーカルの人が主役となってその人の気分で演奏を決めるようなバンドだったから、あまり掛け合いとかがなく、ずっと同じようなパターンを刻んでいなければならないのが退屈だった、というようなことなのではないか。HMさんは今日も朝の七時半からスタジオに入って練習していたと言った。八月中にドラムマガジンの演奏課題を仕上げて送ろうと思っていたのだが、それには間に合わなかった、しかし来月か再来月あたりで動画をyoutubeに上げて勝負を掛けるつもりだと言う。それで、ドラムマガジンの課題曲に合わせて他人が演奏している動画というものを、スマートフォンで見せてもらった。茶髪の綺麗な女性が細腕で演じており、曲は日本語のヒップホップで、女性ドラマーはジョン・ボーナムばりに細かいキックの連打などを披露していた。
 ――俺、彼女が久しぶりに出来たのよ。二九歳で、Fくんと同級生。――あ、そうなんですか。結構離れてますね。――そうそう。でも、まあFくんが比べてどうとか言うわけじゃないけど、人生経験が豊富だから、多分三四、五くらいには見えると思うのね。で、俺が今四五だけど多少若く見られるでしょ、だからそんなに歳の差は感じられないと思う。――どうやって知り合ったんですか? ――渋谷に「H」っていう居酒屋があるんだけど、そこで――多分仕事相手と言っていたと思うが――知り合いと飲んでいたら、近くにいたわけ。俺は「人の話に入るプロ」って呼んでいるんだけど、話がとにかく上手いのよ。一八から居酒屋で働いていて、色んな人と喋ってきてるから。今はアパレル店に勤めていて、月に一回くらい中国に行ってる。で、喋ってたら話に入ってきたわけ、それ知ってます、みたいな感じで。俺はさあ……そういう風にぐいぐい来る女は好きじゃなかったの。だから、知り合いが一緒に飲もうよって言ってそういう感じになったんだけど、その時は何とも思わなかったのね。ただ宮古島が大好きだって言って、俺も宮古島が大好きなのよ、だからそこだけは一致してるなって思ってたんだけど、その二日後にまた同じ店で飲んでた時に、来てみたら、って呼んで。それで話してみたら趣味とか価値観が合うのよ。ものの考え方が似てる。
 僕は相変わらずの女日照りですよ、とこちらは笑う。この四年くらい――つまりHMさんと前回会ったあとの期間――はどうだったのかと問われるので、何もないですよと払い、何しろまだ純潔を保っていますからねとふたたび笑った。――性欲が……去年一年間、鬱病みたいになっちゃって。それで今も抗鬱薬を飲んでるんですけど、そうすると性欲が低下するんですよ。――鬱病ってどんな感じ? ――うーん……本も読めなかったし、書き物は当然出来なかった。だから家事をやって、寝て、みたいな感じですよね。なるべく毎日飯を作るようにはしてましたけど。――それは、自分でもわかっているんだけど、どうにもならないっていう……辛いね。……ある日、ひらける日が来るもの? ――……僕の場合は、日記をまた書きはじめたのが大きかったかもしれないですね。図書館で、西村賢太っていう芥川賞作家の日記を見たんですよ。――あの風俗が大好きな。――そうそう。で、それは僕のとは全然違って、一日が短いんですよね。簡素で、いかにも日記らしい日記で。このくらいでもいいんじゃないかなって思ったんですよね。それでまた始めてみたら、最初のうちはやっぱり少しだけだったんですけど、段々書けるようになって。まあそれで持ち直したってところはあるかもしれないですね。
 HMさんの会社にも一人、鬱病ではないかもしれないが、精神疾患めいた人がいるのだと言った。その人はある日突然勤務に来なくなり、心配して連絡しても繋がらない。どうも家に帰っていなかったらしい。何とか捕まえてどうしたのかと訊いても、自分でもわからないと言う。電車に乗っている最中に、「シャットダウンしてしまって」――と話しながらHMさんは、顔の前にひらいた両手を掲げて下ろすような仕草をした――、夢遊病のような状態になった。それで街を彷徨い、へとへとに疲れ切って何とか帰ってきたのだと言う。その人は仕事が出来なくなってしまったので休みを取り、今アルバイトから復帰しはじめているところだとのことだった。
 ――そもそも、僕らが会った時――もう九年も前のことだ――、ラジオの仕事をしてらっしゃったじゃないですか。放送作家のような? ――どちらかと言えばディレクターだね。――今もそれは変わらないんですか? ――AbemaTVって知ってるでしょ、そこの番組を五、六個作ったりしてるね。番組構成みたいな感じ。名前は(……)というのだと言って、HMさんはスマートフォンでホームページを見せてくれた。――NICO Touches the Wallsっているでしょ、あれの曲にあってさ、ボーカルにつけてもらった。――懐かしいですね。やりましたよね。――やったっけ? ――"葵"でしたっけ、何かしっとりしてるやつやりましたよ。会社自体は二〇〇九年だかに立ち上げて――ということは、我々が出会う前ではないか?――小規模ではあるが着実に大きくなっていき、今はバイトを入れて六人ほどの体制でやっていると言う。
 HMさんとやっていたバンドはカバーを練習する感じで、いずれライブをやりたいと勿論言っていたのだったが、そこまでは至らずに終わってしまった。メンバーはこちらとHMさん、HGのほかにMRさんという、当時二五かそのくらいだったと思うけれど、群馬だったか栃木だったかから出てきていた人がいて、彼はちょっと変わり者と言うか、Guns N' Rosesに憧れて河原で一人歌を練習していたら、近所の人々から頭が狂ったのではないかと思われたというエピソードの持ち主で、スタジオ練習の時には毎度バナナを買ってきて食っていたのをよく覚えている。そのMRさんは志半ばにして地元に帰ってしまい、HMさんももう連絡はつかないのだけれど、数年前に彼の本名で検索してみたところ、何か公民館だか音楽教室だか、そんな風なところで親父連中に混ざってギターを弾き語りしている彼の映像が出てきたと言うので、元気にやってはいるらしい。当時バンドでやっていたのはOasisとか、Red Hot Chili Peppersとかだ。――"Can't Stop"とか聞くとさあ、今でもちょっと、俺たちの曲だって思うね。――あと、"By The Way"とか。――ああ、"By The Way"ね。やったなあ。――最近は何を聞いているんですか? ――まあ日によって変わるんだけど……昨日はそれこそ、Oasisやっぱすげえな、ってなったり。あとはフレンチレゲエだね。ニューヨークに行ってた際に――HMさんは、この夏、確か七月中と言っていたと思うが、一七日間の長期休暇を取ってニューヨークに滞在していた――何とかいう知り合いのDJがいるのだが、その人がミックスした音源を車のなかで聞いていたところで、そのフレンチレゲエの曲が突然身に迫ってきたのだと言う。――何かその一曲だけある時急に来る、ってことあるじゃん。――ありますね。レゲエで言ったら、僕は今年に入ってからはFISHMANSを聞いてますよ。――ああ、FISHMANS。いいよね。――『Oh! Mountain』っていうライブ盤があって、それが良くて五月くらいから毎日一日の初めに流すっていう。だからもう一五〇回くらいは流してますね。――『Oh! Mountain』ね。メモしておくわ。そう言ってHMさんはスマートフォンで検索していた。
 先ほど書いたように、HMさんは七月――と言っていたと思うのだが――にニューヨークに滞在していた。その生活のなかで撮った写真なども見せてもらった。ゲストハウスに泊まり、タイムズスクエアの近くにあるスタジオで朝からドラムを練習し、セントラルパークを走る、というような生活をしていたらしい。ほかにはライブハウスやクラブの類に足を運んで昼間から酒を飲みながら音楽を観ていたり、船上パーティーに誘われて繰り出したりと、大変充実した時間を送っていたようだ。――そのパーティーでさ、凄い場面を見ちゃって。そういうところだから、普通にマリファナが回ってくるのよ。あ、俺はいいですって言って。それはいいんだけど、近くにいた若い男の子がさ、こうやって手にマリファナを乗せて、一気にこうやって鼻で吸うみたいな。あんなの映画でしか見たことがないよ、とHMさんは笑った。sniffというやつだろう。Oasisの"Supersonic"にもその単語が歌詞として出てきていたはずだ。
 HMさんの会社には一人、二四歳と言っていたと思うが若い女性がいて、その人がこちらに合うのではないかと思っていたのだと言う。非常に真面目な女性で、それを物語るエピソードが一つあるとHMさんは話した。番組制作の現場で仕事をしている際、HMさんが離れたところにいて様子を確認したり指示を出したり出来ない場面があった。そこで、知り合いのPAの人に彼女を任せることにした。HMさんは彼女に、君の今日の仕事の一つは、演者の人が捌けてきた時に水を渡すことだからね、と言い含めておき、HMさんは別の場所で仕事をしていたのだが、PAの人から聞いた話によると、演者が今は絶対に捌けてこないというタイミングで、ちょっと運んでほしいものがあるからこっちに来てと言われても、彼女は、いえ、HMさんから言われているので、持ち場を離れられませんと自分の仕事を固く守っていたのだと言う。――忠犬ハチ公かよ、みたいな、とHMさんは笑った。――それでその子が、Fくんに合うんじゃないかと思って、会わせたかったんだけど、沖縄出身で、もうすぐ沖縄に帰っちゃうのね。だからFくんのことを話しても、それだと失礼なので会えませんって言ってさ、またそこに真面目な性格が出てると思うんだけど、とのことだった。
 こちらの日記周りの話もした。二〇一五年末に会った際に、こちらのブログのURLを教えていたのだが、二〇一五年というとまだ前のブログにいた頃だから、その後こちらがURLを変えてしまってHMさんは閲覧できなくなってしまったのだろう、もう一度教えてくれと言うので、「雨のよく降るこの星で」と検索すれば出てくると言い、その場でブックマークに登録してもらった。――これは小沢健二の曲から取ったんですよ。――あ、そうなの。素敵だね。――"天気読み"っていう曲のなかに、「雨のよく降るこの星では」って歌詞があって。そこからパクりました。――いいところから取るね。……もう何年書いてる? ――始めたのが二〇一三年の一月なんで六年半くらい、まあ去年は一年間休んでいたので、実質五年半ですか。――いや、凄いな……今日は面倒臭いなっていう日はない? ――いや、勿論ありますよ。――でも書くわけだ。――そうですね。――でも、何もない日があるわけじゃない? ――いや……何もない日ってのは、ないですよ。――うわ、それはちょっと、一つのキーワードかもね。何もない日がない、という。――書くことがまったくない日ってのはないですよ。何かのささやかな……出来事って言うんですか、それは必ずありますね。――まったく同じ一日ってないもんなあ。
 HMさんは現状やはりなかなか忙しいらしく、ドラムの練習時間も朝からになってしまうような様子で、そうするとどうしても、どうでも良い類の人と付き合わなければならないのが時間が勿体ないと思ってしまう、と言うので、こちらはむしろその逆で、最近はやたら色々な人々と交流していると話した。こちらも数年前はもっと尖っていたと言うか、とにかく毎日書く、そして毎日読めるだけのものを読む、そのほかのことはまるでどうでも良い、という感じで、自分の本意でないことに時間を使うのが本当に勿体ないと思っていたし、例えば職場の飲み会などは無論、完全に時間の無駄だと考えていた。ところがそれに比して、最近の、Twitterなどを介した社交ぶりである。ほかにも職場周りでは、自ら後輩を誘って飯に行ったりするようにもなった。自分も随分丸くなったものだ。Twitter周りの方はともかくとしても、職場の後輩との交流など、ではそれが何か有益な時間か、こちらにとって凄く楽しい時間かと言うと、特段にそういうわけでもないのだが、もはや有益/無駄という価値観の軸でもって自分は時間というものを測っていないような気がする。加えて、以前と比べると他人と時間を共にすることを格段に好むようになった。それなので最近も積極的にLINE上でT田やTにメッセージを送ったり、Skypeの通話に参加したり、Twitterで話し相手を募集したりしてみているわけだが、他者というものはやはり何だかんだ言って面白いのだ。ジェイムズ・ジョイスが、「私にとって面白くない人間というものはいない」みたいなことを言って、教養のない人々との付き合いを止めなかったということを、以前Mさんのブログで読んでこちらは知ったのだが、端的に言ってこちらもそういう風になりたい。ここでMさんのブログを検索して件の記述を発見したので――佐々木中の講演録か何かからの引用だった――以下に写しておく。

佐々木 ブランショでもフーコーでもベケットでもドゥルーズでも、もう誰もが言っていることですが……ということは、まさに誰が語っていてもいいことですが――書くということは、名を失い、顔を失い、来歴を失い、誰でもない誰かになる、ということだと思う。キルケゴールは、「信仰の騎士」について、ありふれていて、どこにでもいる小市民と何も変わらない、と言っている。そういう誰かになろうと試みること。それが書くということです。とくに小説を書くということはそうなのではないか。ジョイスはウェイターや果物屋など、無名である人びとと付き合うのをやめなかった。時間の浪費だと忠告する者には、「私は一度も退屈な人間に会ったことがない」と答えたそうです。伝記作家リチャード・エルマンは、「他の作家がそう言えば、ただ感傷的に聞こえるだけだろう」と語る。なぜなら、「平凡とはどういうことか、ジョイスが書いて初めて人はそれを知った」からだと。ヘンリー・ジェームズは、「小説家とは、彼にとっては何も無駄にならない誰かのことである」と言っています。これはビュトールが引用していますね。小説にはそういう力がある。誰でもない誰かになろうとし、誰でもない誰かになる者、なおかつ誰でもない誰かをも、何でもない何かをも、それらすべてを決して無駄にはしない者。
佐々木中『この熾烈なる無力を』より「小説を書くことは、誰でもない誰かになる冒険だ」)

 「私は一度も退屈な人間に会ったことがない」。幾分気取りが含まれているようにも感じられるが、しかし素晴らしいではないか。「平凡とはどういうことか、ジョイスが書いて初めて人はそれを知った」というのは的確な評言だ。『ダブリナーズ』、あれほど「平凡」な、地味な小説もそうそうないのではないか? ヘンリー・ジェイムズの「小説家とは、彼にとっては何も無駄にならない誰かのことである」も素晴らしい。端的に言って、こちらはこの境地を目指している。つまり、先日の日記にも書いたことだが、すべてが書く対象になるということだ。そのような彼にとっては、「有益/無駄」の二項対立は破壊され、この世界にその対概念は存在しなくなる。
 そういうわけでこちらは勿体ないの亡霊から解放され、時間的検閲の魔が相当に緩くなったのだが、それで最近は色々な人々と交流していると言うと、HMさんはそれの繰り返しなのかもしれないね、と言った。――つまり、人と付き合って、でもそうするとやっぱり自分の時間が欲しくなって、でもまた今度は人と交流したくなって、っていう。それはそうかもしれない。しかし、HMさんはまた、多様な付き合いを持つ人の方が「艶っぽさ」がその身、立ち居振る舞いから滲み出るものだ、というようなことを言った。――ドラムなんてのはさ、かなりオタク趣味じゃん、だからめっちゃ一人で練習して、打ち込んで、凄く上手くなった人ってのがいるんだけど、でも技術的に上手い人よりも、それよりも技術的にはちょっと劣っているけど、何だか魅力的な人ってのがいるもんなんだよね。「艶っぽさ」があるっていうか。――人生経験とかがその人自身から香り立つみたいなことですよね。――そうそう。――それで言ったら、文学だってそうですよ。相当なオタク趣味ですからね。で、やっぱり、まあ……こう言うとあれですけど、文学好きっていわゆる文学青年みたいな、まあ何だかぱっとしないような感じの人が多いんじゃないですかやっぱり。しかし、これは短絡的な、曖昧に矮小化されたイメージだろうか? ともかく、何でも広い方が良いのだ、色々な物事に触れ、それらを最大限取り込んだ方が良いのだとこちらは単純な主張を掲げ、これもずっと昔に――と言うのはおそらく、「きのう生まれたわけじゃない」の時代のことだが――Mさんのブログで読んで知ったものだが、ゲーテ御大の例の必殺の言葉、「深く掘るためには広く掘らなければならない」を紹介しようとしたところで、HMさんの携帯に着信が掛かってきた。やりとりを聞いている限り、クレジットカードの会社のようだった。何かの代金の引き落としが出来なかった、という連絡だったようで、確かニューヨークに向かう空港でと言っていたような気がするが、HMさんはカードを一度紛失したのだった。と思っていたところがそのカードは別の財布のなかに発見されたらしいのだが、その時の手続き関連で多分何やらあったのだろうと思う。そういうわけでこちらはゲーテ御大の言葉を紹介する機会を逸してしまった。
 何かの拍子にテレビ番組の話にもなった。結局、芸能人を見るよりも、普通の人をそのまま映すのが面白いんですよ、とこちらは主張した。つまり、バラエティなどよりもドキュメンタリーの方が面白いということで、例として、以前から折に触れてこの日記内で言及していると思うが、NHKの『ドキュメント72時間』を挙げた。ああ、あの定点の、とHMさんは受ける。そう、七二時間のあいだ同じ場所を定点観測して、そこに来た様々な人々に自分の人生の物語を少々語ってもらうという番組だ。色々な人間模様、人生の様相が断片的に――と言うのが重要な点だと思われるのだが――語られるのがなかなか面白くて、映る人々もテレビドラマなどのわざとらしく作られたような顔貌に比べて遥かに良い顔をしているような気がして、なかなか良い番組だと思う。――芸人が雛壇に集まって喋ってるのよりも、そういう方が面白いって僕は思っちゃうんですよね。――それはそうかもしれない、とHMさんは受け、自分はテレビ業界の人間ではあるのだけれど、『アメトーク!』が放送開始当初から好きではないと言った。面白さがわからないのだと言う。――あれって結局、知識や経験をコンパクトな話にまとめて披露しているだけじゃん、とHMさんは言うのだが、こちらは『アメトーク!』を見たことがないので判断は出来ない。――でもあれが評価されてるんだよね、どうしてそういう風になるのかな。こちらはここで、Mさんがよくブログのなかで言及している『さんまのお笑い向上委員会』のことを思い出し、これもこちらはほとんど見たことがないのでわからないが、この番組は、Mさんの記述によると、編集をあまり入れず即興感のようなものを大事にしているプログラムだったはずなので、そこには敢えて整理されないライブ感の面白さのようなものがあるのではないかと思ったが、記憶が不確かだったのでそれには言及せず、――やっぱりわかりやすさが必要なんですよ、広く受け入れられるためには。わかりやすさっていうのは要するに「型」なんですよね。皆その「型」の繰り返しを求める。つまり、既に知っていることの反復を求めるわけです。だけど僕はそうではなくて、やっぱり本を読んでいて面白いのって、それまで知らなかったことに触れるとか、こういう考えがあるんだとかってそういうところじゃないですか。だから、違うものに触れていく。違うものを自分のなかに取り入れることで人は成長するはずなんで、僕はそっちの方が大事じゃないかと思うんですけどね。
 この言自体も、この日記内で頻出するテーマ、差異を取り込むことで生成変化するということを繰り返しているに過ぎないものであり、そもそもそれまでとは違うものに触れたと思った際に、その「違う」と思っている事柄が本当に「違う」ものなのか、実際に違うとしてどれだけ違っているのか、そもそも人は完全に「違う」ものに触れてそれを受け入れることなど出来るのかというような疑問もあるのだが、それは一旦措いておこう。HMさんは、それはその通りだと思う、いや、俺はうまく言葉が出てこないけど、でもそれは本当にそうだなと思うねと受けた。その流れではなかったはずだが、彼に向かって、今度インタビューをさせてほしいと頼んだ時があった。――岸政彦っていう社会学者の人がいるんですけど、その人は「聞き書き」っていうことをやってるんですね。つまり、ある人にインタビューをして、数時間、その人の人生について喋ってもらって、それをそのまま本に載せる、っていう。――それは面白いね。――面白いですよね。だから僕もそれをやりたいと思っていて。インタビューを録音して、それをそのまま書き起こしてまったく編集せずにブログに載せるっていう。全然いいよ、是非やろう、との返答だった。ありがたいことである。しかしこれを実行するためには、ICレコーダーの類を購入しなければならない。
 人の話を聞くって面白いよね、とHMさんは言った。――俺も昨日、ちょうど親父と飯食ったんだけど、話がやっぱり面白くて、興味深いのね。HM家のルーツがどこにあるかって聞いたりしてさ。石川県から、今だったら新幹線で一時間半のところを、電車と船を乗り継いで六時間掛けて来たとか。HMさんの父君は今七五歳で、「全然悲しい話ではないんだけれど」、前立腺癌を患っているとのことだった。その治療のために、月に二一回も病院に通わなければならないと言う。大変なことだ。
 覚えている会話の内容は大体そんなところである。あとは最初、席に座った途端に姿勢が良いねと言われたのだが、姿勢が良いってよく言われるんですよ、とこちらは笑って受けた。二時から演奏が始まる予定だったので、どうせだから観て行こうということになっていた。この日の演者は早坂紗知(ss, as)、RIO(bs)、永田利樹(b)、その三者にプラスして田中信正(p)だった。あとで聞いたところによると、リーダーらしきサックスの早坂氏と永田氏は夫婦、その息子がバリトンサックスのRIO氏で、家族でTReSというグループを組んでいるとのことだった。そこにピアノがゲストとして加わった形らしい。曲目は全五曲、冒頭が永田氏オリジナルの、題名がよく聞き取れなかったのだが、"パタゴの伝説"、みたいな感じで聞こえた。それでパタゴニア? と思ったのだが、多分こちらの聞き違いだろう。二曲目は"Seventh Heaven"、これは早坂氏のオリジナルで、家の猫が亡くなった時に作った曲だと言う。三、四曲目はスタンダード、とは言っても演目は、Dollar Brand――現在ではAbdullah Ibrahimという名前になっている――の"Water From An Ancient Well"と、Thelonious Monkの"In Walked Bud"だったので、あまりよく知られた、いわゆるスタンダードという感じの曲でもなく、わりと通好みな感じの選曲になっていたのではないか。Dollar Brandは南アフリカ出身のピアニストで、今来日しているところらしい。こちらの手もとには『African Piano』と、Abdullah Ibrahim名義の『Senzo』が音楽プレイヤーのライブラリに入っているけれど、それで偶然知っていただけで、ジャズファンのあいだでもそこまで有名な名前とは思えない。しかし三曲目の彼の曲は、非常に牧歌的な色合いの濃い佳曲だった。"In Walked Bud"が演奏されはじめた時は、こちらは溜まった尿意に耐えかねて演者の横を通ってトイレに行っていた時だったのだが、演奏が始まってすぐにMonkの曲だなと判別はついたものの、曲名までは同定出来なかった。Monkの曲はメロディの作り方が独特でわかりやすいのだが、反面、いやこれはこちらの聞き込みが足りないだけなのだろうけれど、どの曲も似通った風に聞こえてしまい、この旋律はこの名前、と区別して覚えづらいのだった。じょぼじょぼと便器に向かって放尿しながらMonkのメロディを聞き、手を洗って出てくると演奏中の演者の横を通るのに気が引けたので席には戻らず、入口付近の階段の途中で立ち止まって、壁に寄り掛かりながら演奏を聞いた。そうして席に戻って五曲目はRIO氏のオリジナル、"羅列と衝動"と言っていたと思うのだが、この曲が一番難しく、譜割りがどのようになっているのか最後まで判別出来なかった。二〇小節でひとまとまりになっているような気はしたのだが、定かではない。全体としては結構熱の入ったジャズで、早坂氏は当然だけれどJohn Coltraneなんかも消化しているのだなという感じで激しくうねる飛翔を見せたり、時には、フリーとまでは行かないけれど、Eric Dolphyばりのフリーキーな高音を発したりもしていた。RIO氏は、Gerry Mulliganと言うよりは、Pepper Adams方面と言うか、速いフレーズや嘶きめいた長音の叫びも織り混ぜて豪放に吹く、という感じ。過去のジャズプレイヤーの名前を引き合いに出してしか語れなくて申し訳ないのだが、ピアノはMcCoy Tynerを何となく連想させるような気がした。しかしこれはあまり定かな印象ではない。チャージ料僅か一〇〇〇円でこれだけのものが観られれば充分満足だな、という質だった。
 ところで、演奏のあいだに若い女性が一人、階段を上がって我々のいる中二階に踏み入って来た。我々のいた席から一つ小さな丸テーブルを挟んで隣のフロアの隅には、中年の夫婦と思しき男女が座っていたのだったが、夫婦の娘らしき彼女はその席に合流した。この女性が、鼻筋が高くすっと通っており、やたら綺麗な顔立ちだった。偉そうな言い分になってしまうが、こちらがわざわざ日記に取り上げて書くほどに美しい顔貌を持っている人間というのは珍しい。
 後半のセットは観ず、今日吉祥寺は祭りをやっており、近くの神社に出店も出ているのでそこに行こうということになった。それで席を立ち、会計に行ったのだが、こちらは財布を出していたものの、HMさんが先に外に出ていてと言って会計を受け持ってしまったので、その言葉に従って退店し、狭く急な階段を上って店の入口で待った。しばらくして上ってきたHMさんに、まったく払わないのは申し訳ないので、チャージ料と飲み物代くらいはと言って二〇〇〇円を渡した。それで道を歩き出した。道中、HMさんに途中で我々の横の席にやって来た女性を見たかと訊くと、彼も目に留めていた。――めっちゃ可愛くなかったですか(とこちらは軽薄ぶる)。――凄く綺麗だったね。――娘さんみたいでしたね。――俺のなかでは、途中から、サックスのあの若い子の彼女だって設定が出来てたよ。何歳くらいだったかな? ――二十……。――二〇代? 三〇代じゃないか。――多分僕より若いんじゃないですか。――でも土曜なのにあとから来たから、昨日の金曜の仕事が終わってなくて、午前中にそれをやってから来たとかね。――めっちゃ想像しますね。
 いくらも歩かずに、武蔵野八幡宮に着いた。それほど広くはない参道の両側に屋台店がずらりと狭苦しく並んでおり、そのあいだを人波が埋め尽くしていた。どうせだからお参りして行こうよ、と誘われて、本殿の方に向かった。並んでいる人々の後ろに着くとHMさんは、会社の近くにも小さな神社があって、そこにほとんど毎日参っているのだと言った。何を拝むんですかと訊くと、まずはありがとうということだよね、それから今日一日、仕事を恙無く終えられますようにってことと、あとはその時思いつく限りの人たち全員の健康かな、とのことだった。座禅なんかも通ってみたいと言うので、こちらは座禅ではないが、瞑想を長くやっていましたよと話した。――どれくらいやるの。――一回一〇分から二〇分くらいですかね。朝起きたあとと、夜眠る前と、あと日中に一回くらい。……変性意識って言うんですけどね、瞑想をしていると、ちょっと違う意識の状態に入れる……入れた、わけです。ただ、病気になって以来それに入れなくなって、やめちゃったんですけど。――どんな感じなの、そのあいだは? ――繭に包まれているような心地良い感じですね。だから多分、アルファ波だか何だか知りませんけど、そういう脳波が出てたんじゃないですか。――それを出せるようになったわけだ。――前は出来ましたけどね。今はもう出来ないです。
 我々の前に立っていた女性も青年も、随分と長く、しっかりと祈っていた。ここにも、見えないけれどそれぞれの物語が秘められているわけだ。それで番が来て、HMさんはこちらに先を譲ってくれたので、階段を上って踏み出し、財布から取り出しておいた五円玉を賽銭箱に入れ、作法など良くも知らないが二礼二拍手一礼で良いのだろうと適当にやった。拍手は弱々しい音になった。手を合わせて拝んでいるあいだは、金と時間と才能をくれと三回ぞんざいに心のなかで唱え、そうしてその場を退去した。
 人間たちでごった返している参道の、熱の籠った空気のなかを引き返しながら、HMさんに何か食べますかと訊いたが、もう腹はいっぱいだとのことだった。こちらも同様だったので折角来たけれど何も買わずに神社の外に出て、特に目的地も決めないでぶらぶらと歩き出した。道中、HMさんは中学時代の同級生だという人のことを話した。その人も本の虫らしく、三〇歳くらいで仕事を辞めてそれから一五年ほど、たまにアルバイトをするくらいでずっと本を読み続けていると言う。父親が結構な資産を持っている人か何からしく、マンションを買ってもらって家はあると言うが、金には困っているようで、今日の午前にHMさんが会った人が彼だったのだが、金の無心をされたと言う。以前にも一度金を貸してくれと頼まれたことはあって、その時にHMさんは、本も良いけれど、まだ身体も元気で体力もあるんだから、警備員の仕事でも何でも働けるだろうと説諭したと言うが、その彼自身はどこ吹く風といった様子なのだと言う。その人が、最近、異世界転生物というジャンルが流行っているけれど、そのルーツを発見したと自分で言っていると言う。それが何と近松門左衛門だと言うので、こちらはマジですか、と笑い、近松門左衛門はなかなか読まないですよと受けて、どうも相当なコアな読書の趣味の持ち主らしいなと推し量った。
 そんな話をしているうちに、古本屋に行ってみようかということになった。「よみた屋」という、HMさんの好きな店があると言う。こちらは勿論二つ返事で了承し、HMさんについて歩いていくあいだ、駅付近に来てガード下に掛かったあたりだったと思うが、こうやって歩いているあいだのことを書くのが難しいんですよね、と漏らした。――それも書く対象なわけだ。――そうです。――あれなの、その日にあったこと全部を書くの? ――なるべくすべてですね。――どういう言葉を使うのかな、例えばさあ、今日久しぶりに行った「SOMETIME」は変わっていた、みたいなことを書く時に……比喩っていうか……。――うーん。なかなか上手い比喩なんて思いつかないですけどね。ただ、やっぱり具体性ですよね。物事の質感とか様相とかを、具体的に書く。……あとは、あまり紋切型にならないようには気をつけるかもしれないですね。それで言うと今の例、久しぶりに行った「SOMETIME」は変わっていた、というのはもうそれ自体で紋切型なんですよ。――そうなんだ。――ところが、久しぶりに行った「SOMETIME」は全然変わっていなかった、と、これも紋切型なんですよ。――そのあたりに来るとこっちにはもうわからない話だなあ。――よく長いあいだ会っていなかった人に久しぶりに再開した時に、変わったな、とか変わってないなとか言うじゃないですか。でも結局あれって、どちらでも同じことで、ああいう言葉っていうのは結局、我々のあいだに長い時間が流れてしまいましたねっていう感情を共有するためのものなんですよね。だからどちらを言ってもその言葉の機能としては同じだって言うか。
 ――と、そのようなことを話しながら「よみた屋」に向かったのだが、この最後の変わった/変わらない発言の問題に関しては、高校の同級生であるWの結婚式で会った際に、HGから言われて上記のようなことを思ったのだった。折角なので、今その日の日記を検索して、当該部分をここに引いておこう。二〇一六年の七月三〇日のことである。小池百合子が当選した都知事選の前日の、暑い一日で、熱射のなかを黒い礼服の上着まで着込んで東京駅に出向いたのだった。その夜の帰り道のことである。「駅まで行く道中でカフェ店員が、先ほどの純情じみた女子の前を行く背を示しながら、皆変わっただろ、とか訊いてくるのに、そうか、と疑問符付きの留保を返した。以前にも記した通り、こうした場における変わった変わらないの言葉は、一次的な意味合いにおいては非常に粗雑で人間の複雑さを矮小化するものなのだが、この発語の眼目はそこにはない――そのどちらが口にされるにせよこれらの語の事実上の機能は、過去とのあいだにひらいた時の積み重なりに対する曖昧な感傷の共有を図るというもので、その点においては両者の差はなく、そうした大雑把な感情の共有には自分は端的に興味がない」と冷淡にその日のこちらは書き記している。
 そうして「よみた屋」に到着した。吉祥寺駅南口からちょっと東に行ったところの位置だった。店の前に出ている一〇〇円の棚を見ると、筑摩書房の世界文學大系のカフカの巻、それにセルバンテスの巻が、『ドン・キホーテ』を前後篇に分けて二つ置かれていた。ちなみにクローデルヴァレリーの巻もあったのだが、それは措いておくとして、カフカは『城』など、やはり手もとに持っておきたいものだった。つい先般亡くなった池内紀の訳が白水Uブックスで簡便に手に入るのだが、彼の訳はやはり毀誉褒貶が激しいと言うか、平易ではあるのだろうけれど、結構省略などが多いような印象があるので、昔の翻訳も読んでみたいところだったのだ。『ドン・キホーテ』にも興味はあるが、水声社の新訳だと前後篇で多分一五〇〇〇円かそのくらいはするだろうし、岩波文庫の方は全六巻だったはずだ。如何せん古いものなので訳の出来はわからないが、それが二冊で、僅か二〇〇円で読めるというのは素晴らしいではないかというわけで、この三巻を早速買うことにして、手に抱えて入店すると、こちらの姿を見たHMさんは、入る前で既に、と言って笑った。「よみた屋」はなかなか良い品揃えの店だった。ただ、価格帯は水中書店やささま書店に比べると幾分高いかという感じで、興味深い本はいくらもあったが、手もとの籠に入れるには躊躇うものが多かった。それでもその後、哲学思想あたりの店を中心に回って、J. ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』、エドワード・W. サイード/山形和美訳『世界・テキスト・批評家』を籠に加えた。前者は一一〇〇円、ポール・ド・マンなどとともに活躍したいわゆる脱構築批評の旗手で、興味のある名前だった。サイードに関しては説明の必要はないと思うが、こちらはパレスチナ問題を中心に彼の言説に興味があるのでその著作は結構集めている。『世界・テキスト・批評家』も前々からちょっと欲しかったもので、普通に新刊書店で買うと確か六〇〇〇円くらいするはずのものが、三分の一の一九〇〇円で買えるということなので購入に踏み切った。ちなみにこの二冊はどちらも、法政大学出版局叢書ウニベルシタスの著作である。ほか、『現代詩手帖 一九八五年一二月臨時増刊 ロラン・バルト』も買うことにしたが、これは見かけた時点で、確か以前に水中書店かどこかで買ったのではなかったかという気がしていた。それでも目次をめくってみるとあまり見覚えがなかったので一応購入しておくことにしたのだったが、帰ってきてから蔵書を調べてみるとやはり同じものが水中書店の袋のなかにあった。目次に並べられた論考やその筆者の名前に見覚えがなかったのは、袋のなかに入れっぱなしにしておいてめくることがなかったからだろう。そういうわけで二重に買ってしまったわけだが、まあ五〇〇円なので大した損害ではない。誰かにあげれば良いだろう。二一日にHIさんとKJさんと読書会を行うので、その時にでも持っていけば良いかと考えている。
 それでそれからナチス関連の歴史書の棚を見ていると、HMさんがやって来て、そろそろ行かないといけないと言った。彼は渋谷に戻って、土曜日にもかかわらず仕事をする予定だったのだ。それで了承し、まだ見ていくかと言われたが、いや、これ以上いても増えるだけなのでと笑って会計に向かった。まだ文芸の区画など見ていなかったのだが、そこを見ていれば確実にもう何冊かは足すことになって、金も飛び荷物も増えて重くなっていただろうから、見分を断ち切ってくれたHMさんに感謝するべきだろう。それで六冊で三八〇〇円を支払い、店をあとにした。HMさんは二重のビニール袋に入れられた戦利品を見て、こんなに買ってる人初めて見た、と笑い、いや、でも深いところにタッチしているなあとまるで羨ましがるような調子で言った。
 それで吉祥寺駅南口に戻り、駅舎に入って、中央線の改札の前で別れた。日記、普通に楽しみにしてるよと言われたので、何しろ長いので、断片的に読んでくれれば充分だと思っておりますよと返し、向かい合って握手をしたあと、次はTony's PizzaだねとHMさんは言った。吉祥寺にその名を冠したピザの美味い店があるのでいずれ行こうという話になっていたのだ。「よみた屋」の向かいあたりにあるということだった。あと何だっけ……とHMさんが漏らすので、何かありましたっけ……とこちらも考えてちょっと間が挟まったあと、ああ、インタビューね、とHMさんが思い出し、是非やろうよということになったので、ありがとうございますと礼を言った。それで別れ、こちらは中央線の改札に入り、ホームに出て端の方まで移動すると、やって来た電車に乗り込んだ。扉際を取ることが出来た。そこでTに、用事が終わったのだが今から行っていいかとメールを送った。今日は元々、「G」のメンバーでT宅に集まってギターのアレンジなどを固めるという予定だったのだが、こちらは行っても大してやることがないだろうからとHMさんとの会合を優先しており、それに今から合流しようというのだった。このあたりも、以前の自分だったらさっさと帰って日記を書く時間を確保しなければという思いに駆られて、あとから別の用事にわざわざ合流するなどということは決してなかったと思うのだが、今は自分一人の孤独な時間ではなく、他人と共有する時間の方に重きを置くようになっているのだった。それで携帯を取り出し、かちかちとこの日のことをメモしながら電車に揺られ、国分寺で青梅行きに乗り換えた。そうして立川を過ぎたあたりだったかと思うが、Tからの返信がなかったので電話を掛けてみると、まだ集まってやっているよとのことだったので、じゃあ行くわ、と告げた。それで拝島までまた携帯を操作しながら待ち、降りるとホームを辿って階段を上り、改札を抜けて西武線へ向かう。改札をふたたびくぐってホームに下りると各駅停車の西武新宿駅が発車間近だったので乗り、足もとに書物の入ったビニール袋を置いて扉際に就き、僅か一駅のあいだもメモを取った。西武立川駅に着いて改札を抜け、駅舎も出るとすぐそこのコンビニで水と、何かチョコレートの類でも買っていくことにした。それで、壁際の飲み物の棚に寄って新潟かどこかの天然水六〇〇ミリリットルと、チョコレートの区画から「紗々」を手に取り、レジに行った。三一八円を支払って退店し、そうして同じようなデザインの住宅がいくつも並んでいるなかを通ってTの家に向かった。家の前に着くと、防音室はインターフォンが聞こえないので電話してくれと言われていたので、発信した。そうすると、開けま~す、と一言応答があったので、はい、と受けて切り、戸口の前に立って、庭に生えている紅白のオシロイバナを見下ろしたり、空を見上げていくらか橙の風味の混ざりはじめた千切れ雲を見たりしているうちに、Tがやって来て扉をひらいてくれた。かたじけない、と時代掛かった言い方をしてなかに入ると、Tはこちらのもったビニール袋を見て、随分荷物があるねと言ったので、また本が……と漏らし、自己増殖してしまったよと嘆息めいて口にした。椅子を持っていくから先に上がっていてと言うので、Tを階下に残して階段を上がり、音楽室に入って皆に挨拶をした。なかに集まっているのは、T田、T谷、Kくんの三人だった。それにこちらとTを合わせて全部で五人である。当然、そう広くもない防音室は満杯といった感じだったが、Tが白い椅子を持ってきてくれたので、こちらはそれに腰掛けて水を飲んだ。そして、チョコレートを買ってきたぞと言って袋から「紗々」を出すと、Tは明快な笑顔を撒き散らして大変喜んだ。そう言えばこの集まりのあいだ、結局こちらは自分が買ってきたこのチョコレートを一つも口にしなかったが、まあ皆が味わい喜んでくれたならそれで良い。多分帰宅の時間になっても全部食い終わってはいなかったはずなので、今頃Tが一人で食べているのではないか。
 それで今日集まったのは先にも記したように、ギターのレコーディングのためである。T谷がそれで新調したという例のギター、Dragonforceのハーマン・リ・モデルの品を持ってきていたので、ちょっと触らせてもらった。ネックや指板が非常に滑らかですべすべとした感触だった。音入れは終盤に差し掛かっていた。多少の話し合いをしながらT谷がその場でギターを弾いて大まかな録音をしていくのだが、トーンはともかくとしても、アレンジや弾き方が全体的に優しげな感じになっていた。この日扱った楽曲、"C"のギターは左右に分かれ、またアディショナルとして三本目の音も時に入っているのだが、基盤となるであろう左のバッキングは妙に控えめだったので、もっとがつがつと弾いても良いのではないかとこちらは思った。また、右ギターのフレーズも練られておらずいくらか単調なように思われたので、動いているわりに遊びが少ないのではないかと言ってT谷にその点問いただすと、これはまあ型だね、ここからもっと動きを入れていくことは充分あり得るとの返答があった。あくまで今回の音入れは簡易的な雛形ということになるのだろう。最後、帰る間際に音源を通して聞いた際にもT谷は、もっと自信を持って動いて弾いて良さそうだなと言っていたので、これからもっと詰められていくはずである。
 これはまだギターに触りはじめる前、室に入ってすぐの頃合いだったと思うが、コンピューター前に就いていたT田がそこを離れてこちらの隣にやって来て床にしゃがみこみ、朝に交わしたLINEでの会話の続きを話しはじめた。「抱いた情感はその人独自のものであって他人とも共通とは限らないから、自分の抱いた情感が伝わるように書くというのが物書きとしての能力ということになるのかな」という疑問に対し、「伝わるように、と言うか、明晰な文章で表せるかどうか、ということになるのではないか」、「ただし、明晰だからと言って簡単かと言うと多分それは違うし、必ずしも伝わりやすいとも限らない。明晰な難解さというものもあるだろう」とこちらは返答していた。「明晰な難解さ」というのは、確かムージルの「合一」の二作を訳した岩波文庫の訳者解説で古井由吉が用いていた言葉だと思う。そのこちらの発言に対してT田が何とか言ったあと、何か訊いてきたのだが、それが正確にどんな質問だったか思い出せない。文学における文章の要諦は何か、というようなものだったような気がするが、それに対してこちらは、上にも書いたように、まず基本となるのはとにかく具体性だろうと受けた。物事の質感や様相を具体的に書く、それが出来て初めてそこから発展して、抽象的な観念を扱えたり、詩的な表現を織り混ぜたりすることが活きてくる、というようなことを言うと、T田は、ああ、じゃあ多分考えていること同じだわ、と言った。彼が言うところの「伝わるように書く」というのも、それと似たようなことらしかった。具体的な基盤がなくてふわふわとした感情ばかりが乗っている文章というのは、それは要するにJ-POPなのだとこちらは主張した。まあJ-POPと言っても広いのだけれど、つまり愛してる愛してるとまさしく馬鹿の一つ覚えのように繰り返す、最も最大公約数的な大衆歌と何の変わりもないということだ。風景も事物も具体的な場所も何もなく、曖昧模糊で、のっぺりと襞のない、矮小化された情念だけがふわふわと浮遊している、というのがここで言うところの「J-POP」の特徴だ。あまりこちらは人に何かメッセージのようなものを伝える書き方というのはよくわからないが、伝える伝えないの話で言えば、ただ単に「愛している」と言ったところで、他人にその気持ちが円滑に伝わるはずがない、ということだ。と言うか、意味内容としては伝わっても、情念そのものとしては伝達されないと言うべきかもしれない。「愛している」という言葉の内実を伝えたいのならば、敢えて迂回的に別の言葉を用いて表現するという方向もあるだろうし、あるいはこの単純な一言のみを用いるとしても、声のトーン、言い方、表情、またそれを口にするシチュエーションなどのまさしく具体的な要素が伝達には多大に影響してくるのであって、文章で言えばそれらの諸要素を揃えて背景や文脈や装飾を作り上げるのが描写の役割であるわけだ。ところがある種のポップスの歌詞というものは、メッセージや感情だけが剝き身のままぽんと投げ出されていて、それが乗る舞台設定もないし、何らかの事物も出てこない。つまり一言で言って、そこには時空がないということになるのだが、ところが、とこちらは苦笑した。そうした抽象的な歌というのがこの世の中では大いに流通するわけだよ――何故かと言えば、まさにその抽象性の故に、だ。そう言うとT田もこちらの言わんとすることをわかって、つまり、受け手が自分の状況に合わせてどのようにも想像出来るという……と漏らすので、その通りだ、とこちらは受け、しかしそれは非常に曖昧な、ふわふわとした感情の共同体なんだとこちらは言い、俺はそれには反対するね、と笑った。
 T谷の録音などが進む背景で、こちらはギターを借りて――Tの家にはアコギとエレクトリックの二本があり、今日もどちらも弄らせてもらった――、例によってブルースめいたフレーズを適当に弾いて遊んでいた。Kくんも同じようにギターを弄っていたので、時折り適当にAのキーなどでブルース進行を奏でて簡易セッションを行った。
 Tの部屋には小さな足置きみたいなものがあって、Kくんがその上にFujigenのエレクトリック・ギターを乗せて重心を調整すると、何故かギターはぴたりと静止して立ち、手を離しても倒れずに静かに佇んでいるのだった。そうしたことを出来るとKくんが発見し、それを面白がってT田はスマートフォンで動画に撮っていたのだが、二人から、この現象を何と描写する、と言われてこちらは困った。まず、ギターの乗った台となっている足置きのようなものを何という言葉で言い表せば良いのか、そこからして困り物であり、そもそもあの台が一体何なのか、どういう用途のものなのかもよくわからない。ちょうど椅子に座った時に足を置いて休めそうな高さなので、今は便宜的に足置きと言い表しているが、Tは途中でその上にすっくと立ち上がって背筋を伸ばしたりもしていた。まあともかくそういうことがあって、日記にどのように書かれるのかT田が楽しみにしていたようだったので、ここに手短ではあるが記しておく。
 ギターが一通り完成すると、次にコーラスの検討に入るところだったのだが、もう七時を過ぎていたので、その前に食事を取ろうということになった。Tがチキンカレーを作ってくれたのだった。彼女がそれを温めに下階に行っているあいだ、各々楽器を弄っていたのだが、こちらがDeep Purpleの"Smoke On The Water"を弾き出すと、じきにKくんもT谷も乗っかって来たのでセッションが始まった。T田はキーボードを担当した。それで適当にソロを奏でたりして何周もして終わったあと、こちらはアコギを借りて、ジャズベースの真似をしてFブルースをフォービートで奏でていたのだが、そうしているうちにカレーが室外の廊下に運ばれてきて、食卓が整えられつつあった。テーブルを室内に入れる余地がないので、階段の上の踊り場のような場所で食べるのだった。Fブルースをやっていると、Fさん、食べるよ~というTの声が聞こえたので、ギターを置いて防音室を出た。白いテーブルを囲んだ一角に就き、座布団に尻を乗せる。こちらはHMさんとの会合で色々食っていてあまり腹が減っていなかったので、チキンカレーはちょっとで良いと頼んでいたのだが、食べる頃には意外と腹の感じが軽くなっていたのでこれだったらもっと貰っても良かったなと思った。しかし注文はつけず、少量のチキンカレーとサラダをあっという間に平らげた。サラダに掛けるドレッシングはキューピーのチョレギサラダのもので、これはちょうど今我が家で使っているものと同じだった。
 中村佳穂を聞いたかとTに訊くと、皆で聞いたと言う。あれは素晴らしいと言うと、T谷などは、とにかく糞上手かったなと漏らしていた。ジャズ感があるよね、とこちらは言った。それはテンションコードを使っているとか、ジャズの風味が混ざっているとかということではなくて――無論、そうした面でのジャズ要素も多少は入っていると思うが――即興感があると言うか、spontaneousな感覚が濃いというような意味合いで言ったのだった。
 食後、皆が食器を運びに下階に行ったあいだ、こちらは今日の戦利品である六巻の本をテーブル上に取り出して、中身を見分していた。皆が戻ってくるとそれに目を付けて、世界文学全集など多分皆に取っては結構珍しいものだろうから、興味深げに見ていた。これは一〇〇円なのだと言うと、T谷などは、一〇〇円でこれだけのものが買えるなら普通に欲しいわと言うので、古い文学全集などはわりと一〇〇円で叩き売られていることが多いと応じた。Kくんが中身をひらいて、三段組になっているのを見て、これはなかなかだね、二段はわりとあるけど、と漏らしていた。Tはサイードの『世界・テキスト・批評家』をめくったり、その帯文を口に出して読んだりして、何が書いてあるのか全然わからない……と呟いたので、まあ俺もわかんねえよとこちらは笑った。
 それでそのうちにTの母親が梨を切って持ってきてくれた。これはT田が持ってきたもので、彼の住んでいる稲城市は梨が名産なのだ。評判が高いだけあって、梨は非常に瑞々しく、甘味も豊かなもので、かなり美味かった。それを食ったあと、食器はTが下階に運んでいき、残ったT田やKくんがテーブルを畳んで、その場に立て掛けた。それが滑って倒れないようにこちらの書物をその前に置いて支えにしておき、それで音楽室内に戻った。
 確か食事のあと、音楽室に戻ってからのことだったと思うが、TとKくんの婚姻届の証人欄にT田とT谷が署名をするという一幕があった。今の婚姻届というものは結構洒落ていて、きらきらとしたような青い絵柄とともに、「Happy Wedding」の文字が筆記体で記され、装飾されたものだった。T田もT谷も、いきなりそれに記入して失敗してはまずいというので、コピーした練習用の紙をまず記入していた。その途中で、T田が借りていたTのボールペンが壊れたようだったので、こちらがズボンのポケットに入れていたボールペンを貸してやった。本籍地の最後の欄が番地なのか番なのかよくわからんな、というような問題もあったのだが、最終的には恙無く署名は済んだ。こちらは署名をする二人の横に立ち、腰に手を当てて見守っていたのだが、そうしていると、塾の授業感ある、などと言ってTは笑っていた。T谷が書いた文字に関しても、先生、どうですか、などと問われるので、「6」の字に勢いがないね、などと適当なことを言ったのだが、正式な用紙に書かれたT谷の「6」は、丸の部分が潰れ気味になって練習の時よりもさらに勢いがなくなっていた。
 その後、Tがコーラスを大まかに加えた"C"の音源を皆で聞いて、ここはこれで良いんじゃないか、ここはいらないんじゃないか、などと話し合い、添削していった。それが終わりきらないうち、一〇時になる前だったかと思うが、T谷は帰っていった。皆は下階まで見送りに行ったが、こちらは何故か防音室に一人残って、アコギを鳴らしてOasisの"Married With Children"を弾き語っていると、TとKくんが先に戻ってきて、歌っているこちらを見て笑っていた。こちらはそのまま最後まで歌ったが、終盤、Tがこちらにスマートフォンを向けて動画を撮影していたようだった。それからT田も戻ってきて、またコーラスの検討に入った。こちらは2Bの部分にコーラスが欲しいと主張し、要検討ということになったが、その音決めをしているうちに時間が過ぎて、終わった頃には一〇時半前になっていたのではなかったか。さすがにそろそろ帰ろうというわけで、防音室をあとにし、荷物を持って皆で下階に下りた。下りながらT田がこちらに日記の話をして、一〇日の記事を読むと、本当にこいつ理解力と記憶力が素晴らしいなって思うよと言ってくれたので、お褒めに預かり光栄だ、と返しながら階段を踏んだ。マジで議事録になってるよ、とT田は続けた。下階に着くとTの母君がリビングから出てきて顔を見せてくれたので、ありがとうございましたと礼を言い、靴を履きながらこちらはT田に、一〇日って何の日だっけ、と訊くと、電話をした日だと言うので、ああ、猥談をした日だなと笑いながら外に出た。あの日はT田が物語/小説の対立構図についていくらかのこだわりを見せ、そのあたりはこちらの彼がどのような点にこだわっているのかよく理解できなかったのだが、T田本人からしても自分のそのこだわりの内実を上手く説明できなかったという実感があったと言い、そうした部分はやっぱり伝わっていないんだなとわかった、それに対して、自分が比較的良く伝えられたと思う部分の内容は、誤解なく記述されており、良くまとまっているとの評価を彼は下してくれた。
 満月が家屋根に近いところにぽっかりと浮かんでいた。宮沢賢治の表現を借用するならば、スプーンで掬って飲めそうな明るい黄金色の、中秋の名月だった。西武立川駅までの道のりのあいだ、ふたたびT田と物語/小説構図についての話をしたが、あまり整理された話し合いではなかったし、どんな会話だったか定かには覚えていない。駅に着いて改札に掛かると、もう電車が二、三分で出るところだったため、Tは改札の横に立って止まらず行ってくれと言うので、三人で改札を抜けて、ありがとうと手を挙げながらホームに向かった。ホームへの階段、あるいはエスカレーターだったかもしれないが、そちらに向かって折れる際に振り向き、ふたたび手を挙げてTに別れを告げた。そうして下りたホームで、横のT田に、今日もうちに来るかと誘うと、じゃあ行こうかと一度は軽く受けた彼だったが、しばらくしてから、でも届け物があるんだよなと言い出した。同人誌を頼んでおり、それが翌日の午前中に届く予定になっているらしい。それでひとまずその話は措いておいてやって来た電車に乗り、座席に三人並んで腰掛け、電車が発車してちょっとするとKくんが、Fさんは増税前に何か買うものあるのと尋ねてきた。向かいの壁に設置された増税前セールか何かの広告を見ての問いらしかった。こちらは、いやあ、本ぐらいしかないなあ、とすぐに答え、それにKくんは何とか答えてまたしばらく会話は途切れたのだが、その次にKくんは、今日の一日を俳句で表すとすると、という問いを投げかけてきた。その答えとなる句を考えながら車両から降り、拝島駅エスカレーターだか階段だかを上りながら、最初は名月や、にしようと思うとKくんに言った。そうして改札を抜け、JR線の方の改札に移ってなかに入り、ホームに下りたところで、しかしあとが続かないので、こちらは目を閉じ、両眉を上げてすっとぼけたような顔をしながら首を振ると、出た、その顔、と二人は笑った。ここでT田にもう一度誘いを掛けたのだが、どこかに電話をしていたT田は、明日は母親も午前中家にいないようなので、今日は大人しく帰るわと言った。それを了承し、まもなくそれぞれの番線の電車がほとんど同時にやって来たので、いつものごとくKくんと握手を交わし、じゃあな、じゃあな、と言い合って別れた。こちらは青梅行きに乗り、携帯を取り出してかちかちとこの日のことをメモに取った。
 青梅に着くと、奥多摩行きは確かもう来ていたのではなかったか? ちょうどすぐに発車だったような気がする。最寄り駅に至り、自販機でコーラを買って飲んだような気がするのだが、よく思い出せない。いや、確かに飲んだのだ。と言うのは、ベンチに就いて携帯を操作しながらコーラを飲んでいるあいだに、回送電車がやって来たのだが、その際に昼間に聞かれるのと同じ女性の声で、黄色い線の内側までお下がりください、というアナウンスが掛かったのに、自分以外には駅に人っ子一人いないこのような時間にも変わらずアナウンスが掛かるのだ、ということは、無人の駅に誰にも聞かれることなくこのアナウンスが響いている時もあるのだろうなと、そのことが何やら不思議と印象付けられたのを覚えているからだ。自分の存在しない場所で、自分の存在しない時にも世界が確かに着々と動いているということの確かな証拠を得たような気分になったのだった。その後、駅を抜け、涼しい夜道を辿って家に帰った。
 帰り着いたのは一一時半頃だったはずだ。下階に戻り、服を脱いでコンピューターに向かい、インターネットを回ったと思う。そのあいだに階上の父親が、また酒を飲んだらしくテレビを見ながら何やら大きな声を出しているのに、うるせえなと思った記憶がある。その後風呂に行って戻ってくると、疲労した状態で長くなることが必定である日記に取り掛かるのが嫌だったので、Twitterで話し相手を募集したのだが、この夜は誰も引っ掛からなかったはずだ。それで待っているあいだに短歌を作って夜を更かした。

月の夜に胸いっぱいの愛を撒く君の乳房に呑まれるほどに
手のなかに小さな青の風招き我は散りなむ刹那の空へ
一粒の雨を絵筆に閉じ込めて都の君に秋を送ろう
黄身のない卵のように明け透けなあなたの笑顔忘れぬように
逝く人を悲しむならばこの声を緋色の空に灯して泣こう
哭くほどに澄んだ空から垂れる死を零さず拾えそれが人生
緑風が宇宙[そら]の果てから吹く夜に君の吐息の冷たさを知る
酔い疲れ人の儚さ悟る朝公衆便所の落書きを見て
君の夜に私はいるの? 夜明けには歌に吸われて消えていきたい
魂が高層ビルから身投げして千々に砕けて詩華を描く
日を綴る愚者の昨日が砂と化し零れ行くのが許せないから
鉄の靴で堕ちた太陽踏みつけて夜の果てまで火を届けよう
四畳半に涙を落として夜もすがらジンジャーエールの味もわからず

 その後二時四〇分に至ってからベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめ、この日は意識を失うことなく三〇分少々読んだが、そこでさすがに目や肉体が疲労してきたのでここまでとして、明かりを消して床に就いた。


・作文
 9:16 - 9:42 = 26分

・読書
 8:47 - 8:57 = 10分
 9:52 - 10:31 = 39分
 26:42 - 27:17 = 35分
 計: 1時間24分

・睡眠
 3:15 - 8:00 = 4時間45分

・音楽

  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • Suchmos『THE ASHTRAY』
  • SIRUP『SIRUP EP』

2019/9/13, Fri.

 とはいえ、戦後の日本社会はたんに石原らの存在を黙殺し、忘れ去っただけではなかった。逆に「シベリア帰り」として、石原らをマークしつづけた。石原が帰国したのは、まだ「戦後革命」に向かって日本共産党武装路線をぎりぎり堅持していた段階である。敗戦後間もなく、石原らに先立って、シベリアで「民主化運動」の波をかぶった、ソ連派と目されるひとびとが帰還して、まだ実力革命を唱えていた日本共産党と合流して盛んに活動していた。その後、逆に日の丸組(日本主義者)の帰還が続いたとはいえ、はじまり出した冷戦のもとで、「シベリア帰り」はソ連で洗脳されてきた「アカ」(共産主義者)という疑いの目に晒されることになった。しかも、石原のようにすでに四〇歳に手が届こうという身では、とうてい満足のゆく就職口は望めなかった。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、249~250)

     *

孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。
 (Ⅱ、九; 「ある〈共生〉の経験から」)

 石原自身、このような認識をもたらした背景にシベリア体験を置いているし、通常、こういう一節のもつ洞察力や喚起力は石原のシベリア体験によって裏打ちされたものと理解されている。とはいえ、ほんとうにここに石原のシベリア体験が刻印されているのだろうか。孤独と連帯をめぐるこの優れた、しかしあくまで一般論[﹅3]――。シベリア体験が彼にこの認識をもたらしたのだろうか。百歩ゆずって、ここに石原のまぎれもないシベリア体験が刻まれているとしても、それはこういう一節にほんとうに包摂されうるものだったのだろうか。さきに引いた「食罐組」の食事の分配をめぐる抑えがたいユーモアに満ちた記述と引き比べてみるだけでも、孤独と連帯をめぐる石原の論理の正当性と同時に、いかんともしがたい貧しさが浮き彫りになるのではないだろうか。私はそこに、シベリアのリアルな記憶を自らのうちに喚起しながらも、それを自分の黙想的な論理に押し込めてゆく、ほとんど暴力的な石原の振る舞い(石原の論理の振る舞い)を見ないではいられない。
 (260~261)

     *

 石原が、たとえば鹿野武一のようなかけがえのない友人のことを綴っても、そこには「他者」としての鹿野は不在である。石原がどれだけ「日常」の重要性を説いてもじつは具体的な「日常」はきわめて希薄である。そこに存在しているのは、石原の黙想的な論理ばかりではないか。(……)
 (268)


 正午前まで寝坊。とは言っても床に就いたのが午前四時なので、睡眠時間としては八時間ほどだ。上階に行き、おそよう、と言う母親に答えて、洗面所で顔を洗った。食事はうどん、及び前日に作った麻婆風の炒め物。煮込みうどんは丼に注ぎ込み、麻婆風の炒め物は電子レンジで温めて、これも丼によそった米の上に掛けた。そうして卓に就いて食事を開始。母親は今日は仕事、こちらも夕刻から労働である。食事を終えた頃、ばたばたと準備をする母親が、腰が跳ねるように痛いと漏らすので、揉んでやろうかと言って近づき、彼女の背後から腰のあたりや背中を少々マッサージしてやった。それから食器を洗い、風呂も洗って下階に下りる頃、母親は出掛けていった。自室に戻ったこちらはLINEをひらくと、Tからのメッセージが入っていて、予想通り昨日は寝落ちしてしまったと謝罪が送られてきていたので、大丈夫、そうではないかと思っていたと受けた。ギターについての相談というのは、"C"のギターアレンジで良い案がないかというようなことだったらしい。それは難しいなとこちらは受けて、その後いくらかやりとりを交わしながら日記を綴った。一時半前から始めて、おおよそ一時間で前日の記事を仕上げ、この日の分もここまで綴ると二時半過ぎである。音楽はcero『Obscure Ride』を背景に添えた。
 前日の記事を投稿したあと、cero『POLY LIFE MULTI SOUL』を流し出し、ベッドに乗って柔軟運動を行った。「コブラのポーズ」と「船のポーズ」もやって腹と背をそれぞれほぐしておき、それから牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめたが、クッションと枕に凭れ掛かっていると例によっていくらも経たないうちに目が閉じる。扇風機を点けなくても良い涼しさで、むしろ半袖の肌着にハーフパンツで寝ていると少々肌寒いくらいの気候だったので、途中で薄布団を引き寄せて身体を包み、意識を完全に落としはしないが瞑目して動かなくなった。そうして過ごしているうちに携帯が震えて、それが三度で止まらず鳴り続けるのでメールではなく着信だとわかり、身体を起こして機械を取った。HMさんだった。明日はよろしく、と言うのでこちらもよろしくお願いしますと返し、俺、昼飯は食って来ちゃうから、それだけね、と伝えてくれたのに了承し、通話は短く終えた。それを機に眠気が散って目が冴えたので、牧野信一の小説を四時半過ぎまで読み進め、それから上階に上がった。メロンパンが半分残っていると聞いていたのでそれを冷蔵庫から取り出し、そのほか即席の味噌汁を用意してバナナも食卓に添えた。温かい味噌汁を啜り、ものを食べ終えると台所で食器やバナナの皮を片付け、下階に下ると洗面所から歯ブラシを取った。時刻は四時四五分頃だった。歯磨きをしながら二〇一六年六月一七日の日記を読み返し、ブログに投稿すると口を濯いできて服を着替えた。そうすると五時である。Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流し、Mさんのブログを読もうかと思ったのだが、一五分では読みきれない長さであるように推測されたので、久しぶりにSさんのブログの方を読むことにした。七月一一日から一五日まで。一四日の「ハシビロ」という記事などを読むと、ほとんど一篇の掌編のようだなと思われる。一五日の記事には中村佳穂のスタジオライブへのリンクが貼られていたので、帰ってきてから聞いてみようということで、Evernoteの今日の日記にURLをコピーしておいた。それで五時一五分まで読んだところで急いでコンピューターをシャットダウンし、財布や携帯や手帳の入ったクラッチバッグを持って上階へ行き、仏間で長い黒の靴下を履くと玄関を抜けた。夕刊をポストから取って玄関内に置いておくと、扉を閉めて少々錆びた鍵で施錠し、道に出て歩き出した。かなり涼しい空気だった。林から蟬の鳴き声が湧き出すことはなく、代わりに鵯が、今にも切れそうな線のように張り詰めた声を伸ばしていた。歩く道の左右の至るところに百日紅が花をつけて鮮やかなピンク色を宙に漂わせている。坂道に入ると、出際に流していたBorodinの弦楽四重奏のメロディを頭のなかに反芻しながら上って行った。駅に着くと、涼しいとは言ってもさすがに歩いてくれば身体も温まるようで、汗の気が服の内に滲み、籠っていた。階段通路を下りているうちに電車が入線してきたので、ホームの先まで向かう猶予はこの日はなくて、二両目の途中に乗り込んだ。車内では手帳を読むのではなく、扉際に立ち、青白い雲に全面閉ざされて濃淡の差によって生まれたうねりが幽かにしか窺われない曇り空を眺めていた。青梅駅に着くと降り、ホームを歩いて階段通路に入ると、一番線で発車間際の電車に何とか間に合おうというのだろう、階下から必死の形相の男性が駆け上がって来てこちらの横を通り過ぎた。こちらは通路を通っていき、改札を抜けると券売機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージし、それから職場に向かった。
 準備には余裕があったので、後半は手帳に日記用のメモを取っていた。この日の勤務は二コマ、一コマ目は(……)(中三・英語)、(……)くん(中三・英語)、(……)くん(中三・英語)が相手だったが、(……)は安定のサボりで欠席だった。そのくせ次のコマには来ていたのでよくわからない。(……)くんは初顔合わせだった。声が呟くような感じで小さいながらも、細かくはい、はい、と返事をしてくれて真面目な方の生徒なのかと一旦は思ったが、しかし授業が進んでくると少々だらけるような様子が生まれてきた。また、トイレに頻繁に立つのも気になった。授業中に全部で三回立っていたのではないか。それでトイレのなかでサボっているのかと思いきや、しかし三回とも長居する様子もなかったのでよくわからない。やたら頻尿というわけでもないだろうから、気分転換のようなものなのだろうか。英語の実力はあまりないようで、基本的な単語の意味もわからなかったりするが、ただ単語テストだけは何故か出来ると思いますと自信を見せ、実際ミスは比較的少なかったのでこれもよくわからない。宿題はやって来ていなかったのだが、単語テストのみ勉強してきたのだろうか? (……)くんの方はいつもながらも真面目ぶりで特段の問題はない。今日は関係代名詞を扱った。
 二コマ目は(……)(中三・英語)、(……)くん(中三・英語)、(……)さん(中三・国語)の担当。(……)は相変わらずの不真面目ぶりで、こちらがついていないときちんとやろうとはしない。まずもって字を書くのを面倒臭がって、一文の終わりの方など適当に書き殴ってしまうので一部文字が読めない。ノートに記入するのにもそんな調子で、また字をやたら大きく書くのでいくらも記さないうちにスペースが埋まってしまうのだった。さらに言えば、彼は途中で授業に飽きて仕切り壁に落書きをしはじめたので、馬鹿野郎、とこちらは笑い、俺の仕事を増やさないでくれと注意したのだが、こちらも怒るということが苦手でへらへら笑いながらの注意なので効き目はない。それを消すのは俺なんだから、と言うと、良いじゃないですかとか何とか緩く相手は受けるので、さっさと仕事を片付けて家に帰りたいんだからと続けると、何でですかと来る。家があるからだよと返せば相手は、え、先生、ホームレスじゃなかったんですか、などと冗談を差し向けてくるので、笑いながらこちらは、こんなにきちんとした格好をしているだろ、と自らのワイシャツ及びスラックスの姿を示したが、それ盗んできたんでしょ、などと相手もなかなか口が減らない。随分と綺麗な服を取ってきたなとこちらは落として授業に戻った。
 (……)くんはまあいつも通りといった感じ。ただ、(……)の方につきすぎたか、あるいは彼自身の回答速度の問題もあるかもしれないが、一頁しか扱えなかったのが心残りではある。(……)さんは初顔合わせ。あまり愛想のない感じの女子だ。石垣りんの「挨拶」をさっと復習してから「高瀬舟」に入ったが、その高瀬舟を今日やる単元としてノートに記入する際に、すべて平仮名で「たかせぶね」と書いているような有様である。しかし、問題の出来はともかくとしても、文章の内容を確認するために色々と質問してみたところでは、そこまで絶望的に理解力が悪いわけではないように思われた。
 授業後、室長が伝えてくれたところでは、またそのうちに研修を受けなければならないのだということ。以前勤めていた時期に、四段階くらいある研修のうちの二段階目くらいまでは受けていたのだが、それは「ノーカン」になり、システムの変わった一つの研修を改めて受け直さなければならないとのことである。面倒臭い話だ。直近では九月二三日にあると言うのだが、その日は勤務が入っているし、すぐに受けなくても今後定期的に開催されるらしかったので、そう急がなくても良かろうと今回は断った。それで九時半直前に退勤し、駅に入って奥多摩行きに乗ると、(……)兄弟が通路を挟んで向かい合って座っている。あちらもこちらの出現に気づいたので近づいていき、(……)の方にさらに接近して、座っている相手の身体を覆うように近距離にまで密着し、圧迫感を与えるという遊びを行った。最近(……)兄弟に対してはこの遊びをよくやっているのだ。それから隣に腰掛け、適当なやり取りをしながら発車と到着を待つ。(……)は数学の夏休み明けテストが七九点だか取れたと言った。悪くない点数である。(……)の方はおちゃらけていながらもまだしもそこそこ出来るようなのだが、問題は今日こちらが当たった(……)の方で、あいつの方が心配なんだよな、と向かいの席で炭酸ジュースを飲んだり何か棒状のスナック菓子をぽりぽり食っている姿に指を向け、まず字が読めないし、と言って笑いを取ったのだが、双子の扱いに差を設けるようなこうした態度も本当は良くないのかもしれない。最寄り駅で降りてホームを移動し、自販機の傍まで来ると、じゃあ俺はここでコーラを飲んでいくからと言い、じゃあな、気をつけてと言葉を送って二人と別れた。そうしてSUICAを使って簡便に二八〇ミリリットルのコーラを買い、ベンチに座って手帳を見ながらゆっくり飲むと、ボトルを捨てて駅舎を抜けた。今日も木の間の暗い坂道に鈴虫の音が揺蕩っていた。午後一〇時も近くなって相当に涼しい夜気であり、歩いていても汗もほとんど湧かないくらいに気温は下がっていた。
 帰り着くとワイシャツを脱いで洗面所の籠に入れておき、下階に下ってコンピューターを点け、着替えるとともにTwitterなどを眺めたあとすぐに上階に引き返した。食事は九八円の廉価なハンバーグ、それを鍋の湯のなかで温め、ほか、ワカメの入った味噌汁やキャベツとトマトの生サラダをそれぞれ大皿や椀に用意する。ハンバーグは丼の米の上に乗せた。卓に就いてどうでも良いテレビ番組を瞥見しながら食事を取り、皿を洗っていると父親が風呂から出たので入れ替わりに入浴した。出てきて自室に戻ると、昼間にURLをメモしておいた中村佳穂のスタジオライブを聞き、関連動画に出てきたライブ映像なども視聴して、なかなか素晴らしいのでLINEでT田に呼びかけて、なかなか凄いぞと勧めておいた。その後、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を聞きながら一一時からMさんのブログを読み、時刻が一一時半付近に達すると何をやろうかと迷ったが、久しぶりに――と言って二日前にも作っているのだが――短歌を拵えることにした。それで手近にあった現代詩文庫の『大岡信詩集』を適当にひらいて、目のついた語句から連想を膨らませたりして、零時半頃まで一時間ほど言葉をひねり回し、以下の一三の歌を生み出し、次々にTwitterに投稿した。

太陽を飼い馴らしては闇を焼く夜と朝との汽水域にて
鈍色のピアノの音から血が漏れて床を彩る無限の記号
静寂にパウル・クレーの夜啼き鳥黒の幾何学司る声
真っ白な天井のように単純な空に落ちてくそんな恋だけ
一行の出来損ないの詩のなかで空はすべての比喩を吸い込む
人間の生まれる前も死ぬのちも海はすべての言葉の母さ
頼りない天使の歌に涙する二人ぼっちの雲の狭間で
満月にいかれた君のキスを受け偽の詩人は魔法使いに
魔術師の呪文のような詩を書いて彗星に乗せ神に届ける
短夜に三十一字の唄を投げ私は変わる夢の詐欺師に
三人の女を讃え書を捧ぐ天を孕んで死を産む魔女よ
一行の言葉の夢に目が眩み塩の柱と化して漂う
紅薔薇の花びら纏う轢死体弔う母の腹には赤子

 そうして零時四〇分からBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を繰り返しつつ日記を書き出し、寄り道しながらも打鍵を続けて、ここまで記述を追いつかせると一時五〇分に至っている。明日は吉祥寺で一二時からHMさんと会うため、朝早めに起きなければならず、あまり猶予がないのだが、これで日記を書く労は今宵の自分が担ったので、翌朝は速やかに完成させて投稿することが出来るだろう。
 その後ちょっとだらだらしたあと、二時二〇分過ぎからベッドに移って、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめた。夜気はかなり涼しく、冷たいくらいのものだった。五〇分ほど書を読んで三時を一〇分少々過ぎたところで切りとして、明かりを消して就床した。


・作文
 13:25 - 14:34 = 1時間9分
 24:39 - 25:51 = 1時間12分
 計: 2時間21分

・読書
 14:56 - 16:34 = (1時間引いて)38分
 16:47 - 17:14 = 27分
 23:00 - 23:25 = 25分
 26:24 - 27:12 = 48分
 計: 2時間18分

  • 牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』: 195 - 234
  • 2016/6/17, Fri.
  • 「at-oyr」: 2019-07-11「あなたみたいに美しい女性が、どんな人生を送っているのかに興味があるんですよ」; 2019-07-12「E氏」; 2019-07-13「浜離宮」; 2019-07-14「ハシビロ」; 2019-07-15「中村佳穂LIVE配信」
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-09-11「光線が矢尻となって心臓を貫く時を夜と名付ける」; 2019-09-12「静脈に流しこむのだ水銀を世界で一番速くなるため」

・睡眠
 4:00 - 11:50 = 7時間50分

・音楽

  • FISHMANSCorduroy's Mood』
  • cero『Obscure Ride』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』

2019/9/12, Thu.

 第二の層の考察の最後に、鳴海英吉『ナホトカ集結地にて』との比較について考えておきたい。というのも、内村剛介が石原論『失語と断念』のなかで、まさしく石原の「脱走」と鳴海の「列」を並べて、鳴海の作品こそは「ホント」、石原の作品は「ウソ」と裁断しているからである。鳴海の「列」は以下のような作品である(引用は全行)。

  列

 ふりむくな と言われ
 おれは思わず ふりかえってみた

 砲撃でくずれ果てた町があった
 まず くすみ切って煙が上っていた
 くねった電柱があって黒い燃えカスだった
 黄色のズボンを下げた兵士が
 むき出した二本の足をかかえていた
 桃色のきれと 血を啜う黒い蠅が見え
 死んで捨てられた もの たちが見えた

 兵士の口のまわりには
 米粒が蛆色をして乾き 干し上り
 めくれあがった背中の大きな傷口に
 もぞもぞと動いている蠅
 おれは断定した
 あいつも飢えていたのだ
 おまえもおれも乾ききっていたのだ

 くだかれたコンクリートのさけ目だけが
 さらさらと白い粉末のようなものを流し
 果てしなく 乾いて そのまま流れつづける
 あれは女ではない
 おまえのかかえ上げたものは
 砲撃で焼かれつづけたさけ目[﹅3]
 しわしわと 死んでも立っているものを
 美しいと おれは凝視しつづけていた

 ふりかえるな 列を乱すものは射殺する
 おれは罵倒するソ聯兵の叫びが
 こんなにも無意味だと知ったとき
 おれの眉毛が 突然せせら笑う
 いつもお前の言い分は 列を乱すなである
 おれの眉毛の上に 八月のような
 熱い銃口があった
 整列せよ まっすぐ黙ってあるけ

 すこし場面が分かりにくいかもしれないが、「おれ」は「ふりむくな」と言われて思わず振り返ったとき、ソ連兵のひとりが女性の死体を抱え上げて、いわゆる死姦をしている、そのおぞましい場面を目にするのである。こういう事態をまえにして、しかもそれを捕囚たちに目撃されて、ソ連兵たちのなかにもいささか動揺が走っていたかのようだ。(……)
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、213~216)


 一二時半まで糞寝坊である。上階に行っても身体の重さが取れていなかったため、ソファに寝転んでしばし休んだ。食事はカレーだと言う。しばらくして、NHK連続テレビ小説なつぞら』が始まった頃合いで起き上がって台所に入り、カレーを火に掛けるとともにマルゲリータ・ピザを電子レンジに入れて温めた。それぞれを持って卓に就くと、テレビに時折り目を向けながらカレーをスプーンで掬い、口に運んだ。母親が何事か話していたと思うが、良くも聞いていなかったし、覚えてもいない。食後、抗鬱薬を服用し、食器を洗ってそのまま風呂も洗うと自室に帰った。コンピューターを点けてFISHMANSCorduroy's Mood』をこの日も流し出し、歌を歌うと早々と日記に取り掛かった。一時三六分から三時五六分まで二時間二〇分を掛けて、九月一〇日の記事を完成させた。T田とNさんの二人と通話をした日で、思いの外に書くことがたくさんあって、予想外に時間が掛かった。それから完成させた記事をインターネット上に投稿しておくと、『Art Pepper Meets The Rhythm Section』の流れるなかでベッドに乗り、柔軟運動を始めた。前日の日記に書き忘れたと思うが、昨日から、大層久しぶりのことで柔軟などの軽い運動を始めているのだ。果たして習慣として続くかどうか知れないが、やはり下半身などある程度ほぐしておいた方が肉体の疲れ方も違うだろう。もう長いこと、まったく運動をしていなかったこともあって脚の筋は凝り固まっていた。その後、ヨガで言うところの「船のポーズ」を行って腹筋を軽く刺激し、それで運動を終えると牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめた。牧野信一の小説は確かに結構変な感触はあるのだが、今のところは物凄いな、というような大きな感慨を覚えた箇所はない。それを読み進めているうちに例によって眠気に苛まれて、読書を出来たのは五時頃までで、それから三〇分ほどのあいだは横になって目を瞑っていた。そうして五時半を過ぎたところで上階へ、しかしすぐには食事の支度に掛かれず、またソファに転がって休む。そのうちに母親がじゃあやって、と言うので立ち上がり、台所に入ってまず、ゆで卵を二つ剝き、スライサーで細く切断してボウルに入ったキャベツと混ぜた。サラダを作るのだったが、キャベツの量が少なかったので追加して千切りにし、笊に上げて塩を振っておくとあとのことは母親に任せて、麻婆豆腐を作り出した。麻婆豆腐と言っても豆腐が一パックしかなかったので、モヤシとピーマンを嵩増しとして入れることにして、素も量の少ないものだったので麻婆風炒め物といった感じである。モヤシとピーマン、それに冷凍の小間切れ肉をフライパンに投入して炒めたあと、麻婆豆腐の素をパウチから絞り出し、豆腐も加えて搔き混ぜた。もう一方の焜炉では前夜の味噌汁をちょっと嵩増ししてエノキダケを加えた汁物が熱されていた。料理が出来るとまだ六時一〇分だったが、もう食事を取ってしまうことにして、丼によそった米の上に麻婆豆腐風の炒め物を乗せ、汁物をよそり、マヨネーズや辛子で和えられたキャベツのサラダを皿に盛り、さらに照焼きチキンのピザを一切れ温めた。そうして卓に就いて食事、新聞からアメリカの政治情勢の報を瞥見しながらものを食べ、完食すると抗鬱薬を飲んで食器を洗った。そうして自室に帰ってきて、Milt Jackson Quintet featuring Ray Brown『That's The Way It Is』を流しながらふたたび日記に取り組んだ。一時間ほど掛けて前日の記事を仕上げることが出来、これで負債は無事完済されたというわけだった。インターネット上に記事を投稿すると、そのままnoteでフォロー攻勢を仕掛け、フォローしすぎて制限が掛かるまで適当に目についた人々をフォローしまくってこちらの存在を知らせておいた。こちらの記事に金を払ってくれる人を見つけるには、ともかくやはりこちらという存在、こちらの文章の存在を広く周知していかなければならない。さしあたり手当り次第にフォローして、ともかくもこういう人間がいてこういうことをやっていますよということを知らせていかなければならないわけだ。それから風呂に行った。湯を浴びてパンツ一丁で戻ってくると、九時過ぎから過去の日記を読み返すことにした。久しぶりのことである。過去の日記も出来れば一日一記事ずつ読み返してブログに投稿していきたい。ブログを覗くと、最も古いものは二〇一六年の六月一九日まで投稿されていたので、六月一八日土曜日のものを読んだ。以下の描写がなかなか良かった。

 眠っているあいだに頭蓋内の部品の位置が誤ってずらされたような、配線が組み替えられたような軽い頭痛(……)

 もう四時前なので、道には林や家から伸びる、薄く青みがかったような蔭が敷かれている。そのなかを渡っている分には過ごしやすかったが、坂に入って上がっていき、木の下から抜けて通りに出ると、顔に触れるだけで呼吸がしにくくなって心臓の動悸も速まるような陽射しである。駅のホームにも西陽は容易に流れこんで足もとに水溜まりのような薄金色が広がり、屋根はさしたる役を果たしていなかった。草木の緑は映え、線路のレールはおのれを溶かさんばかりに白く発光して空間に皺を付けている、その明るみのなかで、風に飛ばされてきた砂の一粒としか見えないような細かな虫が、かわるがわる宙に軌跡を刻んでいった。

 校舎を抱く裏山の木々が、葉の底まで密に浸潤して空間に溢れださんばかりに鮮やかな、濃い緑色を水のように湛えており、接した空も清澄な青一色に染め抜かれていた。

 自然や風景の描写という点に関しては、今よりもやはりこの頃の方がよほど自分は頑張っていたのではないかと思う。今は風景などを目にしても、そこから細かな情報を得られないと言うか、あまり具体性を帯びた文言や上手い比喩などが思いつかないと言うか、一言で言って昔よりも認識の解像度が下がったのではないかというような気がする。その代わりによりささやかなものも、簡易な文章で取り上げられるようになって、より冗長に書けるようになった気もするが。
 続いて、Mさんのブログを一日分読んだあと、この日の記述に取り掛かった。Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』の流れるなか打鍵を進めて、九時五〇分である。このアルバムはやはり六曲目、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏第八番の第二楽章がとても素晴らしい。
 それから二年前の日記、二〇一七年九月一二日火曜日の記事を読んでいると、突然Skypeの方で着信が掛かってきたので、何ですか、と言いながら応答した。グループにはYさん、HKさん、HN.Sさんの三人がいた。HKさんとは初顔合わせだったので、どうも、Fと申しますと挨拶をした。HKさんは大学生だと言っていただろうか? バルザックなどのフランス文学を好むらしかった。それなので、フランス文学と言うとこちらはプルーストなんかを読みましたねと言うと、HKさんはプルーストは原文が難しいんですよねえと受けたので、でも今二人、新たに訳していますよね、岩波文庫光文社古典新訳文庫で、吉川一義高遠弘美ですか、と言った。こちらについて話していたところだと言うので、どんな風に話していたんですかと訊くと、二万字の日記を書くとか、と言うので、確かに、九月一〇日の日記は引用も含めてですけど二万五〇〇〇字くらいかなと告げた。
 HKさんはそのうちにちょっと退席しますと言って通話から離脱した。それで残ったYさん、HN.Sさんと三人で他愛もない話をして、一〇時半頃に解散となった。こちらはそれから二〇一七年九月一二日の記事を読んだあと、ベッドには移らずコンピューター前の椅子に就いたまま、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめた。Tと通話することになっていた。歯磨き中だから少し待ってくれと言うので了承し、本を読んで相手の準備が整うのを待つことにしたのだった。しばらくしてTは歯磨きを終えたようだったが、今度はSkypeのアプリを入れるからちょっと待ってくれと言う。それで引き続き読書をして待っていたところが、いつまで経ってもその後の進展が知らされて来ない。零時に至ったところで、どうなってる? とこちらからLINE上でメッセージを送ったが、既読がつかないので、これは大方、Skypeのダウンロードを待っているあいだに眠ってしまったというところだろうなと推測した。今夜は通話はもうないだろうということで、階上に行き、カップ蕎麦「緑のたぬき」を用意して食うことにした。湯を注いで自室に持ち帰ってくるとそれを食べ、あるいはこちらの方が先だったかもしれないが、Jへの返信を綴った。返事が遅れて申し訳ない、最近は日記と仕事に追われていたのだと冒頭に釈明を綴り、相手が専攻しているという"Industrial Engineering"について手短に教えてくれと頼み、会合の時日については一〇月に会うのはどうかと提案しておいた。場所は、相手が確か上野に滞在すると言っていたはずなので、未だそこにいるなら上野で会っても良い、国立西洋美術館があるからそこに行くのはどうか、あるいは立川まで来てもらって昭和記念公園でも散歩するのはどうかと案を出しておいた。返信を完成させて送ると一時二〇分だった。それから今夜もTwitterで話し相手を募集したのだが、すると昨夜もお話ししてくれたERさんがふたたびメッセージを送ってきてくれたので、今宵もお付き合い頂いてありがとうございますと礼を言った。Twitter上で少々やりとりしてからSkypeの方に移り、こちらは隣の兄の部屋に移動して通話を始めた。ERさんは、こちらがもっと年輩の男性だと思っていたと言う。ツイートなどの雰囲気が落着いていたのでと言うので、まあ文章が歳を取ってるとはよく言われますねと苦笑した。二九歳だと明かすと彼女は驚き、自分はそれよりも一回りほど年上だと言った。それはこちらにとっても少々意外だった。特に彼女が何歳くらいだと想定していたわけではないが、それほど歳が離れているとは予想していなかったのだ。
 話は読書好きの常で、文学との出会いや好きな作品や互いの書いている文章などの主題に沿って展開された。昨日の日記にも書いたことだが、ERさんは澁澤龍彦との出会いが決定的だったと言う。本人曰く、彼女の趣味嗜好は「かなりマイノリティな方」だと言い、幼い頃あるいは若い頃にはそれについて自分は「頭がおかしいんじゃないか」と思い悩んだ時期もあったのだが、ある時、澁澤龍彦の著作に出会ったところ、自分の好きなことが大っぴらに書かれている、それで自分を肯定されたような気持ちになって救われた、とのことだった。これもまた文学という営みが一人の迷える人間を拾い上げたことの一例だろう。それで澁澤はその作品を全部読みたいというほどに惚れ込んだ。そのほか、昨日も話に出たが江戸川乱歩三島由紀夫などが彼女は好きで、特に乱歩の「芋虫」という短篇は、恋愛小説としてベストに挙がると言う。
 彼女はこちらの日記を読んでくれたと言い、諸所の文章表現が素敵で、読み応えのある日記だという評価を下してくれた。ERさんは日記文学の類が好きだということで、二階堂奥歯の『八本脚の蜘蛛』とか、アナイス・ニンの日記とかを読んだことがあるらしかった。こちらの日記は日記というジャンルの文章のなかでもやや特殊な方に当たると思うが、それでも日記文学好きには受けるのではないかとのことだった。しかし僕は作品が書けないんですよ、日記しか書けないんですねと呟くと、私小説みたいなものを書いてみたらどうかと提案されたので、まああの日記がもう一種の私小説なのかもしれないですけどねとこちらは受けた。
 ERさんにも、どんな小説を書くんですかと訊いてみると、彼女は「誤解を生む言い方をすると」自分はエロいことが大好きなのだと言い、官能的な小説を書きたいのだと言った。しかしただ官能的なだけではなくて、官能と恐怖という要素は表裏一体だと思うから、その二つの要素を同時に感じさせるような作品を書きたいと言う。それを聞いてこちらの念頭に浮かんだのは古井由吉だったので、その名前を口にしてみると彼女も知っていて、最新作である『この道』を買って積んであると言う。Hさんがよく古井由吉を評して、この爺、くっそエロいなと思うと言っていたものだが、男女の関係を書いた時に香るような官能を感じさせる文章と言うと、やはり古井由吉は相当なものだろう。恐怖という要素も、普通のホラーとは種類が違うと思うが、特に初期の方の作品――もう読んだのが随分前なので記憶があやふやだが、「杳子」とか「妻隠」とか「聖」などだろうか――にはおどろおどろしい不穏さのような雰囲気が濃く含まれているように思う。
 そのほか途中で詩の話になって、ERさんは詩が全然書けないしわからないと言う。こちらも同様なのだが、しかし八作くらい適当に作ったものがあると言うと、それは読めるのかと訊くのでブログのURLを貼った。良いじゃん、と彼女は言ってくれた。続けて、マヤコフスキーを連想したと言うので、マヤコフスキーですかとこちらは驚き、それは全然意識してなかったなあと漏らしたが、マヤコフスキーを訳している小笠原豊樹岩田宏の方はわりとパクっている。もしかしたらそれでマヤコフスキーに通じたのかもしれないが、より直接的にパクっているのは石原吉郎だと言って、戦後にシベリアに抑留された、ソ連強制収容所に入れられていた人で、と紹介した。本当に渋いところを選ぶね、とERさんは言った。
 翻訳物でお勧めなどはあるかと訊くので、最近読んだもので言うと、プリーモ・レーヴィの『これが人間か』が素晴らしかったと、こちらは紹介した。ERさんはレーヴィの名前は初耳のようだった。――アウシュヴィッツ強制収容所に……また収容所なんですけど(とこちらは笑う)、入れられていた人で、その体験録とかを書いていますね。そのほかこちらは読んだことがないが、『天使の蝶』などの幻想方面の作品も書いているので、もしかしたら彼女の好みに合うかもしれない。ERさんは最近だと、デイヴィッド・ピース『Xと云う患者 龍之介幻想』という小説を読んでこれが面白かったと話した。初めて耳にする作家と作品の名前だったが、芥川龍之介の生涯を作品のなかに取り込んで書いたものらしい。その場で検索してAmazonのページを見たが、その紹介文を読んでみるとなかなかに面白そうな作品だった。デイヴィッド・ピースという人は、主にミステリー方面の作家のようで、ミステリーはこちらの観測範囲外なので知らなかったのもむべなるかなという感じだが、しかし面白そうな試みをやっている人が本当に色々な場所にいるものだ。そう思ってその場で日記に名前をメモしておいた。
 そんな話をしているうちに時刻は三時半前に至っていた。ごめんねえ、大丈夫なの、とERさんは訊くので、まあいつも夜更ししているので僕は大丈夫ですけど、でもさすがにそろそろ寝ましょうかということで、礼を言い合って通話を終えた。チャット上でも改めて、ありがとうございました、良い眠りを、とメッセージを送っておき、そうしてこちらは自室に戻ってコンピューターをシャットダウンさせるとベッドに乗り、四時まで三〇分だけ読書をしようということで、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読んだ。そうして四時に至って就床。


・作文
 13:36 - 15:56 = 2時間20分
 18:38 - 19:44 = 1時間6分
 21:25 - 21:51 = 26分
 計: 3時間52分

・読書
 16:21 - 17:00 = 39分
 21:04 - 21:24 = 21分
 21:53 - 21:58 = 5分
 22:30 - 22:33 = 3分
 22:35 - 24:11 = 1時間36分
 27:34 - 27:58 = 24分
 計: 3時間8分

  • 牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』: 118 - 195
  • 2016/6/18, Sat.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-09-10「凍てついた炎のような目できみがながめるものに私はなりたい」
  • 2017/9/12, Tue.

・睡眠
 4:20 - 12:30 = 8時間10分

・音楽

2019/9/11, Wed.

  夜がやって来る

 駝鳥のような足が
 あるいて行く夕暮れがさびしくないか
 のっそりとあがりこんで来る夜が
 いやらしくないか
 たしかめもせずにその時刻に
 なることに耐えられるか
 階段のようにおりて
 行くだけの夜に耐えられるか
 潮にひきのこされる
 ようにひとり休息へ
 のこされるのがおそろしくないか
 約束を信じながら 信じた
 約束のとおりになることが
 いたましくないか

 一見、虚無的な夜の訪れを徹底的に孤独な位置で歌った作品のようでありながら、全体にはそのこと自体を楽しむような雰囲気がある。冒頭の「駝鳥のような足」からして、どこかユーモラスですらある。改行の間合いも絶妙としか言いようがない。ぷつりぷつりと途絶えるようでいて、むしろそれがつぎの行への橋渡しとなっている。ただし、ここでは「さびしくないか」、「いやらしくないか」、「おそろしくないか」、「いたましくないか」といった情緒がたえずつきまとっている。むしろそういう情緒を確認することこそがこの作品の眼目のようである。これにたいして、それらの情緒的な部分を表現のうえからすっかり削ぎ落とすことによって、「位置」「条件」「納得」といった、『サンチョ・パンサの帰郷』のなかの第三の層を代表するいっそう厳しく酷薄な作品が書かれることになると言える。(……)
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、185~186)

     *

 『サンチョ・パンサの帰郷』の主流をなす作品、「位置」「条件」「納得」「事実」などが漢字・漢語の内在的・アレゴリー的な展開をつうじて、それらの漢語に充塡されている記憶を解き放つ独特の力学に支えられているのにたいして、ここで「クラリモンド」というロマンス語系のカタカナは、それらの漢字・漢語の重力を軽々と遮断する力を有している。そして、このカタカナのもつ解放的・開放的な力は、やはり、石原が若いころから身につけ、鹿野武一とも共有していたエスペラントに淵源しているのだと私は思う。漢字・漢語の重力とエスペラントに由来するロマンス語系語彙の浮力――。この二つの力学を、ロマンス語系語彙の優位という形でみごとに提示しているのが「自転車にのるクラリモンド」ではないだろうか。石原が特徴的に用いる漢字・漢語がほとんど不可避にシベリアを指し示してしまうのにたいして、ロマンス語系の語彙は、それとはまったく異質な別世界を暗示する。シベリアを核とするのが石原の「世界」だとすれば、まさしく「反世界」と呼べるような未知の物語の場である。
 (199~200)


 一二時三五分までぐずぐずと臥位に留まった。まだ覚醒しきっていない意識のなかで、今日は九月一一日か、すると米同時多発テロがあった日だ、二〇〇一年のことだからあれからもう一八年か、と考えていた。窓は白っぽかった。姿勢を左に向けて瞼をひらくとその白さが目にいくらか刺激を与えたが、起床の助けにはあまりならなかったようだ。起き上がってベッドから下りると部屋を出て上階に行き、暑い、と言いながら居間に出ると、母親が遅い、と言うので、おそよう、と挨拶した。洗面所に入って顔を洗ったあと、冷蔵庫にウインナーの炒め物があると言うのでそれを取り出して電子レンジに入れるとともに白米をよそった。そして前夜の残りの汁物を温めているあいだに調理台の上の小皿に乗せられた焼売と春巻きは摘んで食べてしまい、大根の煮物を持って卓に向かった。新聞の一面に載っている改造された内閣の顔触れを興味なさげに眺めながらものを食っていると、母親はタブレットを差し出して、(……)ちゃんが描いたという絵の画像を見せてきた。二歳児が描いたとは思えないと母親が言い、才能があるんじゃないなどと笑うのだが、これは明らかに親馬鹿の類で、祖母としての贔屓目が入っている。絵は、一本の茶色い線が緩くうねりながら用紙の下部で横に引かれ、用紙左方ではその線の上に接するようにして何やら赤い塊が蟠っている、というような感じのもので、実際確かに抽象画めいた雰囲気を醸し出してはいたのだが、まあ幼児が思うままに色を並べれば時にはこういう風にもなるだろうとこちらには思われた。それから水を注いできて抗鬱薬を服用し、そうして食器を洗うために台所に立った。母親の使った皿もまとめて洗ってしまうと、さらに風呂を洗いに行き、済ませると下階に下って自室にエアコンを点け、扇風機のスイッチも入れた。コンピューターを起動させ、FISHMANSCorduroy's Mood』を流しはじめると、さっさと日記を書かなければならないのだが取り掛かる気が起こらず、ここ数日間の日記を無意味に読み返してしまった。二時を越えると音楽を『Art Pepper Meets The Rhythm Section』に繋げて、ようやく打鍵に取り掛かった。まずこの日の記事をここまで綴って二時三七分である。
 その後、四時一〇分頃まで前日の日記を綴り続けた。父親はこの日何故か随分と早く帰ってきて、この頃には畑で耕運機を操っていた。少し前から雷が轟き、日記を中断した頃には雨も始まっていたかもしれない。上階に行くと、母親が――彼女は確か歯医者に出掛けていた――室内に入れたまま放置していったパジャマの類がソファの背の上に乗せられていたので、それらを畳んだ。それから食事である。冷蔵庫から蜜柑の入ったゼリーの残りと、ゆで卵と、小さな豆腐と即席の味噌汁を取り出してそれぞれ卓に用意した。ものを食べていると急激に雨が盛ってきて、あっという間に白い粒子が空間に浸透し、満ち満ちていった。結構な大雨だった。しかしそこで留まらず、雨はさらに激しくなって白さは蔓延し、山が消え、川沿いの林もほとんど見えないほどに霞み、空と地の境がなくなったのだが、まさしくバケツをひっくり返したような大雨は短い一過性のもので、食後に皿洗いに立った頃にはもう大方収まっていた。皿を洗ったあと、シャワーを浴びた。出てくるとパンツ一丁の格好で下階に下り、洗面所で歯ブラシを取って咥えながら自室に帰って、余計な汗を搔かないようにエアコンを点けた。そうして歯を磨きながら(……)さんのブログを読む。口内を大体綺麗にし終わると口を濯いできて仕事着に着替え、引き続きブログを読んで、五時過ぎになって上階に上がった。ソファに腰掛けて目の前の炬燵テーブルの上に置かれてあった新聞を取り上げて見ていると、ちょうど母親が帰ってきた。送っていこうか、と言う。こちらとしてはどちらでも良く、どちらかと言えば自分で最寄り駅まで歩いて行こうと思っていたのだが、母親は、じゃあ最寄り駅まででも乗せていこうかと続けて言う。それだったら(……)まで送ってもらいたいというわけで、歩いて余計な汗を搔くのも嫌だし、結局乗せていってもらうことに決めた。玄関を抜けると、雨がまた弱く降り出していたので、傘を持った。乗車すると、図書館で借りたものだと思うが、Every Little Thingの音楽が掛かっていた。発車し、裏道を上って行って街道に達し、市街を抜けて行くあいだ母親は、この日に行ったスーパーかどこかで誰々さんに会った、というような話をした。それが誰だったのか忘れてしまったし、元々こちらの知らない人だったのではないかと思うのだが、覚えているのはその人について母親が、随分飾り気がなかったと言うか、髪がざんばらで化粧もほとんどしていなかったと報告し、もっと綺麗にすれば良いのにと思った、と言ったことだ。それを言ったあと即座に、まあ、余計なお世話だけど、と彼女は言うのだが、やはり彼女のなかには女性として生まれついたからには身だしなみを美しく整える努力をするべきだというような観念がいくらか根付いているらしい。走っているあいだにまた母親は、(……)の同級生に(……)くんっていたでしょ、と声を掛けてきたので、(……)がどうかしたのかと思って肯定すれば、今通った人、(……)くんのお母さんだよと言い、その人についても髪が随分白くなっていたとか、化粧っ気がないというようなことを言った。こちらは(……)さんのことを思い出した。九月三日の日記には書き忘れたと思うのだが、彼女に対して、女性として差別されているとか抑圧されているとか感じることはありますかという質問を投げかけた時間があったのだ。それに対して(……)さんは、自分はアトピーがあって肌が弱いので、化粧というものをしないのだけれど、やっぱり世間的には公的な場に出る時には女性は必ず化粧をして美しく着飾るものだというような意識があって、それがちょっと嫌だと話したのだった。勿論、身だしなみを清潔に整えるということは必要だと思うのだけれど、必ず化粧をしろというような感じがあって困る、とのことだった。(……)さんは同時に、これから就活というものを始めるわけだけれど、その際に何センチ以上のヒールを履かなければいけないとかいう規則があるのが嫌だとも言った。ヒール強制はマジで意味ないですよね、とこちらは受けたのだった。
 駅前で下ろしてもらい、また雨がいくらかぽつぽつと降り出したなかを、しかし傘は差さずに職場に行った。(……)
 (……)
 (……)くんは宿題をやって来ていた。前回、宿題をやって来ないと勿体ないよと言い、ノートにもその旨コメントを記したことが奏効したのかもしれない。対して、(……)くんの方が今度は宿題をやって来ていなかったので、彼にも同じように、宿題をやって来ないと単純に勿体ない、それは自分のレベルアップの機会をわざわざ自分で捨てていることになるからだ、我々講師も無考えに適当に出しているのではなくて、授業の内容を考慮してここをやればさらにレベルアップ出来るかなという頁を考えて出している、だからその機会を自ら潰すことはなるべくしてほしくない、忙しいとは思うが何とか頑張ってやって来てくれればと思う、と真面目なことを語った。何と教師らしい振舞いを取っているのだろう! 信じられない。実に良い先生ではないか?(……)
 (……)それで(……)くんと一対一で授業をすることになった。ノートに日付を記入する段になって、君は何年生まれ、と訊くと、二〇〇六年だという返答があった。それじゃあ九・一一とか知らないでしょうと訊くと当然知らない。それで、二〇〇一年の九月一一日にアメリカで同時多発テロという非常に大きな事件があったのだと言い、当時は僕も子供だけれど、テレビで連日報道されてね、ツインタワーっていうでかいビルがあったんだけど、そこに飛行機がぐわーっと突っ込んでいく様子が何度も流れて、などと身振りつきで語った。九・一一って言えば、日本人もそうかもしれないけれど、ある程度以上の年齢のアメリカ人なら、知らない人は本当に一人もいないよ、と言った。(……)くんはその映像を見てみたいと言った。テレビでやってるかなと言うので、今日ならもしかしたらやってるかもねとこちらは受けた。
 それで授業を終えると片付けもすぐに済んで、九時一五分頃、余裕を持ってさっさと退勤した。雨は止んでいた。駅に入り、ホームに出ると、(……)行きはまだ着いていなかった。自販機に寄っていつものように二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買い、ベンチには空きがなかったので――(……)行きが到着する前のこの時間に駅に来るといつもは空いているベンチが埋まっているのか、と新たな発見をした――待合室の壁に寄って立ち尽くしながらコーラを飲んだ。飲み干すと自販機横のボックスにボトルを捨て、手帳を見ているうちに電車はやって来て、なかに入って三人掛けに腰を下ろし、引き続き手帳を眺めた。最寄り駅に着くと降り、駅舎を抜けて坂道に入ると、風が行く手の暗闇の奥から緩く吹き上がってきて、雨に湿った空気のなかに鈴虫の音も幽玄に漂う。
 帰り着くとワイシャツを脱いで丸めて洗面所の籠のなかに入れておき、ねぐらに帰った。服を着替えるとすぐに上階に引き返して食事である。夕食はガーリック・ライスに菜っ葉の入った味噌汁、あとは鶏肉を使った肉じゃがのような料理などだった。父親はまた酒を飲んだようで、テレビで流れるスポーツニュースを見ながら独り言をぶつぶつと呟いている。(……)そのうちに風呂に向かう母親がソファに就いている父親に向けて、玄関に置いてある炭酸水の箱を運んでおいてねと声を掛けるのだが、それにも父親は答えず、テレビを見ながらへらへらぶつぶつとしている。炭酸水は父親が定期的に注文しているものである。ペットボトルが何本も詰まった段ボール箱は母親には重くて運べないだろうし、自分のものなのだから自分で運ぶのが道理だと思うが、どうせ父親はやらないだろうし、そうなるとまた母親の方もぶつぶつ文句を言って鬱陶しいことになるだろうからと、食後、皿を洗ってからこちらが箱を元祖父母の部屋に運んでおいた。食事を終える頃には一〇時に差し掛かっており、テレビは『クローズアップ現代+』を映していて、一般病院での身体拘束の問題が取り上げられていた。
 食後、風呂は母親が入っていたので自室に引き返し、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きをちょっとしたあと、入浴に行った。湯を浴びて出てくると一一時過ぎ、部屋に戻ると日記を書かねばならないのだが、気力が湧かないので先にインターネット記事を読むことにした。村上隆則/平尾昌宏「「差別はなぜいけないの?」倫理学者に聞いた、"正しさ"が強調される時代を生き抜くためのヒント」(https://blogos.com/article/379023/)と「土田知則×巽孝之トークイベント(東京堂書店)載録 ポール・ド・マン事件とは何だったのか!? 『ポール・ド・マンの戦争』(彩流社)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=3551)の二つを読んで、零時に至るとようやく前日の日記の続きに取り掛かったのだが、打鍵しながらも面倒臭い気持ちが抜けず、何となく誰かと会話なりやりとりなりをして日記から逃げたい感じが強まったので、Twitterで、誰か文学談義でもしないかと話し相手を募集した。するとそれに、(……)さんという方が応じてダイレクトメッセージを送ってきてくれたので、挨拶し、二時半までメッセージのやりとりを交わした。彼女は蛇を飼っていて今餌をあげているところだと言うので、そのあたりの話から伺っていった。餌は冷凍の鼠らしい。それは僕には厳しそうですね、と笑いで受けると、と言うか全然文学談義じゃなくてすみませんと彼女は謝るので、いやいや全然良いんですよと応じて、どんな話でも結構面白いものです、文学ってどんな対象も扱うものだから、どのような話のなかにも文学的な要素って見出すことが出来るんじゃないかと思いますと答えた。その後書き物について話したり、(……)さんが参加した文学フリマについて話を聞いたりした。好きな小説について訊いてみると、彼女の好みはすべて澁澤龍彦から始まっていると言うので、ここにも幻想怪奇好きのホラー・エリートが一人、と思った。あとは江戸川乱歩三島由紀夫も大好きだと言う。そのあたりのものも読んでみなければなるまいと思う。こちらの好みも訊かれたので、どちらかと言うと海外文学寄りで、今まで一番繰り返し読んだのはガルシア=マルケスの『族長の秋』だといつもながらの自己紹介をし、そのほかヴァージニア・ウルフの『灯台へ』も非常に素晴らしいと紹介した。(……)さんも海外文学をそこそこ読む様子だったが、『百年の孤独』は挫折したと言う。
 それで二時半に至ったところで、もう遅いし今日はこのへんでおひらきにしましょうかとこちらから言い出し、礼を交わし合ってやりとりを終えた。後半、やりとりを交わしながら久しぶりに短歌を作っていたのだが、生まれたのは以下の五つである。

凝視せよアウシュヴィッツの朝焼けを火のない炉から昇る煙を
満天の星夜に焚いた火のもとで鎖の響き時空を超えて
指と指唇と唇が触れ呼吸が止まるそれが平等
掌の生命線を切り裂いて流れ出た血で遺書をしたたむ
確実に死ぬ方法を探しつつ食事を止めないこれが矛盾か

 それでベッドに移り、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読んだはずなのだが、いくらも読み進めないうちにまた意識が飛んだらしい。気づけば四時一五分に至っていたので、就床した。


・作文
 14:15 - 16:09 = 1時間54分
 24:01 - 25:12 = 1時間11分
 計: 3時間5分

・読書
 16:49 - 17:06 = 17分
 22:27 - 22:39 = 12分
 23:10 - 24:00 = 50分
 26:43 - 28:15 = (1時間引いて)32分
 計: 1時間51分

・睡眠
 4:00 - 12:35 = 8時間35分

・音楽

2019/9/10, Tue.

 エスペラントは、一八八七年にポーランドユダヤ人ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフが発表した「人工的国際語」である。日本では一九〇六年に「日本エスペラント協会」が設立されている。元来エスペラントの運動を満たしていたものはインターナショナリズムの精神にもとづく国際平和主義であって、日本では大杉栄や長谷川テルらがその体現者だった。一九三〇年(昭和五年)には、日本プロレタリア・エスペランチスト協会(PEA)が設立され、それは翌三一年(昭和六年)に日本プロレタリア・エスペランチスト同盟へと発展する。これが石原の記している「〈ポ・エ・ウ〉(プロレタリア・エスペランチスト同盟)」である。しかし、この運動的な流れは、それこそ「昭和一〇年前後」には、徹底した弾圧の対象となる。その結果、一九三四年の時点で日本プロレタリア・エスペランチスト同盟は消滅したとされている。つまり石原は、すでに中央機関が不在になった状態で、東京外語時代の初期に「〈ポ・エ・ウ〉(プロレタリア・エスペランチスト同盟)のメンバーとしばしば会合をもつ」ということをしていたことになる。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、59~60)

     *

 当時、召集された兵士のうち、中等学校以上の学歴を有する者は、幹部候補生として志願することができた。まだこの時代、中等学校以上の学歴を有する者はけっして多くなかった。身体検査等に合格して幹部候補生として認められると、一〇ヵ月から一年の「修業期間」があたえられ、その分、危険な戦地へ送られるのが遅くなる。東京外語を卒業していた石原は、もちろん幹部候補生を志願する資格が十分あった。「幹部候補生を志願せず」という言葉には、まずもって、自分はそのような特権を行使しようとはしなかった、という石原の自負がこめられているだろう。
 (88)

     *

 このふたりのやりとりを踏まえて、郷原宏は、「夜の招待」について、以下のような優れた批評を記している。

《全く散文でパラフレーズ出来ぬ》はずだったこの詩にも、しいてさがせば散文の入りこむ余地が全然ないというわけではない。たとえば《かあてんへいっぺんに/火がつけられて》という形象は、詩人の貧しい窓を照らす夕陽のあかるさを想わせるし、《ふらんすは/すぺいんと和ぼくせよ》という断言は、当時の国際情勢に対する何ほどかの意志表示を示しているだろう。《切られた食卓の花にも/受粉のいとなみをゆるすがいい》という二行は、それこそ切り花のように截断された自らのアドレッセンスへの哀惜を伝えているはずだ。また《夜はまきかえされ/椅子がゆさぶられ/かあどの旗がひきおろされ/手のなかでくれよんが溶けて》といった表現に、この詩人にふたたび表われることのないエロティックなものへの関心を見てとることも可能である。というより、この詩全体が、夜になると《にわかに寛大に》なり、《もはやだれでもなくなった人》と手をとりあい、その手のあいだに《おうようなおとなの時間》をかこいとってみたりする以外になすすべのない――昼間はそれさえも不可能であるような、帰還直後の失意と倦怠の日々をうつしているといってよい〔後略〕。

「夜の招待」という作品のシニフィエについて、これよりも優れた読解を示すことはおそらく困難ではにだろうか。それでいて、郷原自身記しているように、「いくら微細に散文にパラフレーズしてみたところで、この詩の美しさを説明することはできない」のである。実際、郷原が確認しているこの詩の究極のシニフィエは、「帰還直後の失意と倦怠の日々」ということになるが、それはしかし、この詩のシニフィアンとしてののびやかさ、明るさとはむしろ対極にあるシニフィエとなってしまう。この逆説(シニフィアンシニフィエの根源的な対立)には、石原の帰還直後の詩の魅力を形づくっている決定的な要素がひそんでいる。
 この詩が「三〇分ほど」で書かれたという石原の述懐をそのまま信じるかどうかはともかく、書き手が冷静に意味をコントロールして書いたというよりも、ある律動がこの詩を書かせた[﹅4]と受けとるほうが素直なところがあるだろう。それでいてその作品には、郷原が指摘してみせたようなシニフィエが付着している。そのシニフィエをすっかり明確にする点を書き手の意識の極とするならば、この詩はむしろ無意識のところで書かれている。あるいは、意識と無意識のはざまで書かれている。無意識のところで、あるいは意識と無意識のはざまで書かれた詩が美しい形象を結ぶとともに、痛切な過去の体験の記憶や現在の状況を映し出している作品――それが帰還直後の石原の作品の本質を形成しているのである。
 (165~167)


 七時二五分にベッドを離れることに成功した。コンピューターに寄ってスイッチを押し、起動させるとTwitterを一瞬覗き、それから室を抜けて上階に行った。母親に挨拶すると、食事はおにぎりと前夜の豚汁の残りだと言う。便所に行って放尿してから豚汁を火に掛けていると、父親も重い足取りで階段を上って来た。こちらは豚汁をよそり、鰹節のまぶされたおにぎりとともに卓に持って行って、椅子に就くとものを食べはじめた。新聞をめくって国際面の記事を流し読みしながら食物を摂取し、食べ終えると食器を洗った。母親は居間の片隅、ベランダに続く戸の前で洗濯物の処理をしていたと思う。父親はソファに就いて足先を擦りながら、困憊したような表情でテレビに目を向けていた。
 階段を下りかけたところで薬を飲むのを忘れていたことに気づいたので、台所に引き返し、コップに水を注いで抗鬱薬を服用した。それから下階に下りていくと時刻は八時、コンピューターの前に就いて、早速(……)さんのブログを読みはじめた。その次に、「【対談】 國分功一郎×木村草太 【哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――筋道を発見する」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014111000011.html)と「対談=橋爪大三郎山本貴光 思考する人のための読書術」(https://dokushojin.com/article.html?i=2309)の二記事を読んだが、どちらも手帳にメモを取るほどの内容は含んでいなかった。それで時刻は九時、ベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』に取り掛かろうとしたところ、四時間ほどしか眠っていなかったので薄々そうなるのではないかと思っていたのだが、睡魔に刺されてあえなく伏せることになった。そのまま一二時四五分あたりまでベッドに留まり、起きると食事を取りに上階に行った。母親は職場の定例会議とかで出掛けている。父親の姿はなかったが、便所に行った際に玄関横の小窓から外を覗くと、車は停まったままだったので出掛けてはいないようだった。こちらはレトルトカレーを食べることにして戸棚から箱を取り出し、小鍋に水を汲んで火に掛けるとともにレトルトパウチをそのなかに入れた。そうして加熱を待つあいだ、下階から手帳を持ってきて卓に就き、扇風機を常にこちらの方へ風を送るように固定させて暑気を紛らわせながら手帳を読んでいた。しばらくしてそろそろ良いだろうという頃合いになると台所に立って、鋏を使ってパウチを熱湯のなかから取り出し、切り開けて大皿の米の上から注ぎ掛けた。そうして食卓に向かい、汗を搔きながらカレーを食すと、食器を洗って下階に帰った。Twitterをしばし眺めたりなどしてから、一時半に至ってFISHMANSCorduroy's Mood』を流し出し、日記を書きはじめようとしたのだが、窓外に覗く空気に灰色が織り混ぜられているのに気がついた。先ほどから、遠い空から雷の轟きが渡ってくるのも何度か聞こえていたのだった。それでどうやらこれは降るなと判断されたので、いくらも文字を綴らないうちに音楽を停め、部屋を出て上階に行き、ベランダの洗濯物を取り込んだ。取り込む最中、ベランダの隅から何やら小さな生き物が素早く駆け出してあっという間に柵の際まで辿り着いたので、あれは何だと目を凝らせば、薄白く粘土質めいた体のヤモリだった。ヤモリは放って逃げるに任せておき、洗濯物をすべて室内に入れてしまうと、タオルくらいは畳んでおこうというわけでソファの背の上で何枚ものタオルを折り畳んでいき、それらを洗面所に運んだところで風呂を洗っていなかったことに気づいたのでゴム靴で浴室に踏み込んだ。そうして首筋や顎の裏に汗を溜めながら風呂桶を擦っていると、母親が帰って来た。風呂を洗い終わったあと、出ていくと玄関に品物の詰まった買い物袋が置かれていたのでそれを台所に運び、母親と一緒にものを冷蔵庫に収めたあと下階に戻ってきて、FISHMANSCorduroy's Mood』をふたたび流しだした。"あの娘が眠ってる"と"むらさきの空から"を歌ってから日記に掛かり、FISHMANSのミニアルバムが終わると『Art Pepper Meets The Rhythm Section』を次に流しながら打鍵を進めて、ここまで綴ると二時九分となっている。
 その後、前日の記事を仕上げると二時半が迫っていた。インターネットに記事を投稿すると、次にプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』の書抜きを始めた。一四分で二箇所を抜き、初めに写した一箇所――強制収容所を作り上げ、虐殺を実行したSS隊員たちは、自分たちの行いのあまりの非道さを自覚しており、囚人たちが証言を持ち帰ったとしてもそれは人々に信じられないだろうと言って勝ち誇っていた、という内容――はTwitterにも流しておいた。それから寝床に移動して出勤の支度を始める時間まで、読書である。牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読み進めるのだが、計り知れない怠惰の虫がこちらの身中には巣食っており、ベッドで本を読んでいるとどうしても眠たくなってくる。かと言ってほかに居心地良く書見を出来る場所も存在しない。それで四時過ぎまで過ごした読書時間のあいだ、また三〇分くらいは本を持ちながらも目を瞑って意識を曖昧に溶かしていたと思う。起き上がると終わっていた『Art Pepper Meets The Rhythm Section』をもう一度初めの"You'd Be So Nice To Come Home To"から流し出し、伸ばし放題になっていた足の爪を切ることにした。ベッドにティッシュを一枚敷いて、その上で爪を切り落とすと、太い爪の残骸が散らばったティッシュは丸めて捨ててしまい、もう一枚を敷いてその上で切ったばかりの爪に鑢を掛けた。それで爪の粉が散ったティッシュの方も丸めてゴミ箱に捨てておくと、食事を取りに上階に行った。冷蔵庫を覗くと、缶詰の蜜柑を使ったゼリーがあったので、それを食べていると、母親がトーストを焼こうかと言うのでお言葉に甘えた。しばらくして出てきたトーストは、ハムと胡瓜を乗せられ、マヨネーズを掛けられたものだった。それを頂いたあと食器を洗い、シャワーを浴びることにした。肌着を持って洗面所に入り、服を脱ぐと、むわむわとした暑気の籠っている浴室に踏み入って、水道の蛇口を捻ってシャワーを流出させる。暑いのであまり温度が上がらないように調節して湯を浴び、頭を洗ってさっさと上がって、身体を拭くと鏡の前で髪を乾かした。パンツ一丁のままで洗面所を出ると即座に階段を下り、洗面所で歯ブラシを取って自室に戻り、確か牧野信一の小説を瞥見しながら歯を磨いたと思う。その後、仕事着を着込んで、日記を綴り出したのだが、音楽は何かジャズ・ボーカルでも聞こうと思って、そうすると有名な音源だが、Sarah Vaughanの"Autumn Leaves"が聞きたくなって『Crazy And Mixed Up』を流した。打鍵をしているあいだに一曲目、二曲目と通過し、三曲目の"Autumn Leaves"に至って指を止め、Sarah Vaughanスキャットに耳を傾けていると、今更だけれどこれはやはり物凄く素晴らしいなと思われたので、LINEで(……)に知らせて共有を図ることにした。それでLINEをひらき、(……)! と相手に呼びかけ、Sarah Vaughanの"Autumn Leaves"を聞くんだ、と促した。すると(……)からはすぐに返信が返って来たのだが、それに付随して、九月三日の日記に書いたことだけれど、性交は本番行為よりも前戯の方が醍醐味があるという説を支持するという言が送られて来たので、まあ俺は未だ聖なる童貞だから、経験を得たらがらりと意見を翻すかもしれないけどな、と答えておいた。それからちょっとのあいだ(……)とやりとりをしながら打鍵を進めて、五時一二分に至ったところで書き物を中断し、これから出勤するからまたあとで話そうと(……)に伝えてコンピューターをシャットダウンした。クラッチ・バッグを手に持ち部屋を出て、階段を上がると仏間に入って黒の長い靴下を履き、そうして玄関を抜けた。家の前の水場では父親が何やら水を使っていた。その脇のポストに近寄って郵便物を取り、戸口から顔を見せた母親に渡しておくと、両親に行ってくると告げて道を歩き出した。軽快な足取りで道を進んでいくと、途中で(……)さんが路上を履いていたので、こんにちはと挨拶をして通り過ぎた。公営住宅の入口では二人の女児が座り込んで何をするでもなく佇んでおり、通りを挟んでその向かいでは(……)さんが庭に出ていたが、あちらの視界の内にこちらが入っていないようだったので、ここでは挨拶はしなかった。坂道を上がっていくあいだは、物語と性の類比について頭を巡らせていた。駅に着くとホームの先の方に行き、立ち止まると途端に汗が湧くのでハンカチを取り出して首筋を拭う。まもなくやって来た電車に乗り、扉際に留まって、冷房のなかでも汗が止まらないので引き続きハンカチを使いながら(……)に着くのを待った。
 降りて駅を抜け、強い冷房の掛かった職場に入ってもワイシャツの裏が汗でひどくべたついていた。(……)
 (……)
 (……)
 それで九時二〇分を過ぎた頃合いに退勤した。駅に入って通路をゆっくりと歩き、ホームに出ると(……)行きに乗る。最後尾の車両のうち、一番進行方向側の七人掛けの席に就き、手帳をひらいて発車と到着を待った。最寄り駅に着くと手帳を閉じて立ち上がり、降車するとホームを歩いて自販機に寄り、SUICAを当てて二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買う。それでベンチに就き、手帳を見ながらしばしコーラを飲用したあと、ボトルを捨てて駅舎を抜けた。階段通路の途中、頭の高さに蜘蛛の巣が一本横に張られていたので、引っ掛からないように身を屈めて通り過ぎた。
 帰路を辿って帰り着くと、居間では酒を飲んだらしい父親が機嫌良さそうにソファに就いてテレビを見ていた。母親は既に寝室に下がったようだった。こちらはワイシャツを乱雑に脱ぎ、丸めて洗面所の籠のなかに入れておくと、下階に下り、自室で服を着替えたあと食事を取りに行った。台所の調理台の上に母親が既に用意をしてくれていた。おかずの中心となるのは秋刀魚である。大根と卵の味噌汁と秋刀魚を電子レンジで温め、そのほか胡瓜を挟んだ竹輪とか、茸の混ざったモヤシとか細々としたものを卓に運んで食事を始めた。ものを食べはじめてまもなく、父親がリモコンをこちらに委ねて階段を下って行ったのでテレビを消し、夕刊を読みながら食事を進めた。アフガニスタンにおけるアメリカとタリバンとの和平協議は、タリバンのテロ行為を理由として基本合意から一転して決裂したとのことだった。ものを食べ終えると無人の静寂のなか、皿を洗い、そうして風呂に入った。出てくると居間の明かりを落とし、自室に帰って、LINE上で(……)にSarah Vaughanの"Autumn Leaves"を聞いたかと問いかけた。これから聞くとのことだった。それでこちらはこの日の日記を書きながら(……)の反応を待った。しばらくしてから、これは素晴らしいなとの言が返って来たので、これがジャズ・ボーカルというものだ、と宣言しておき、それからも打鍵を続けながらやりとりをした。一一時になったところで、Skypeは繋がるかと言うので肯定し、Skypeにログインして、コンピューターを持って隣の兄の部屋に移った。本当は一一時かそのくらいから(……)さんと通話することになっていたのだが、急遽(……)と話すことになったので、彼女には、三〇分から一時間くらいお待ち頂けますかとメッセージを送っておいた。
 それでまもなく(……)がコンタクトを取ってきたので受けた。最初は電波が弱くて通話が出来ないとのことだったが、コンピューターを再起動すると困難が解消されたらしく、あちらから着信が掛かってきたのでそれに応じた。最初は先ほど聞いたSarah Vaughan "Autumn Leaves"の話をした。クオンタイズしたのでは出ない雰囲気だと(……)は言った。――DTMをやってると、多少リズムがずれていてもクオンタイズすれば良いやという思考になってしまう、だけどそうするとやっぱりクオンタイズしたなりの感じになる、俺はそれが悪いとは全然思わないけれど、やっぱりクオンタイズしたなっていうのはわかる、だけどこの音源はそうじゃなくて、とんでもなく上手い人たちがせーので合わせてるわけだから……縦が隅から隅まで完全に合っているわけではないじゃない? 普通はずれてたら気持ち悪いはずなんだよね。だけどそれで成立している。スリリングだね。――スリリングということで言うと、Miles Davisが六四年にやったライブ音源があるんだけど、それもかなりスリリングだな。当時確か一八歳くらいだったと思うけど、Tony Williamsが、かなり……何と言うか……流体的と言うのかな、つまり曲中でテンポを変えたり、あとフロントのソロの裏で叩くのをやめちゃったりしていて。Miles Davis自身も、そんなにきっちり音を嵌めて吹く方じゃないじゃん、だから細かいパッセージがずれたりとかしてるんだけど、それが熱になってるね。『Four & More』という音源だけど。――メモっておくよ。
 ――忘れないうちに言っておくけど、このあいだあげたフォーレの音源は、あれはピアノトリオの方がメインだから。――六曲目か? ――いや、四、五、六かな。このあいだは何か流れで弦楽四重奏の方を流したけど、あれはピアノトリオが素晴らしい。――ピアノトリオで言うと、俺はやっぱりカザルスの、ホワイトハウスでやったコンサート、あれが一番好きかな。あれが多分一番聞いたクラシックの音源だと思う。カザルスも、まあ……粗い、と言うかな。リズムとか音程とか、まあ結構緩いところとかもあって、音程なんかフラット気味だって批判する人もいるだろうけど、でもあのホワイトハウスのコンサートは素晴らしい……あれはメンデルスゾーンのピアノトリオ第一番かな、それをやってるんだけど、同じ曲をやっている音源を入手して、別のグループの、もっと新しいやつね、入手して聞いたんだけど、やっぱり全然違う、全然面白くないんだわ、だからやっぱり、マジックみたいなものはあるよな。――マジック、本当にある。俺は、あれは五、六年前かな、プラハのオーケストラ(と(……)は言っていたと思うのだが)がやったドヴォルザークのチェロ協奏曲を聞いたことがあって、ミッシャ・マイスキーっていう人がチェリストだったんだけど。――ああ、ミッシャ・マイスキー。――知ってるか? ――名前は知ってるな。マルタ・アルゲリッチとやっていた人だろ。――ああ、そんなのもあるな。で、これが凄かった。本当に圧倒された……何が凄いって、マイスキーはかなり……俺が俺がって言うか、リーダーとしての自負があるんだろうな、かなり突っ込んだり引いたり自由にやってたんだけど、まあリハーサルできっちり合わせたからそういうことが出来たんだろうけど、でもそれにオーケストラの方もがっちり組んでついていく。まあチェリストだけの功績ではない、指揮者も相当でないとああいうことは出来ないんだろうけど、でもとにかく凄かったな。
 と、そのような感じで音楽の話をしたあと、(……)が最近読んだこちらの日記のなかにあった記述を取り上げて話が展開された。(……)は、九月二日にこちらが書いた例の、「物語」と「小説」の対立構図について、あれは誰か別の人の文を引用していたと思うけれど、その著者の人の考え方なんだよね、と訊くので、まあ多分あまり一般的な捉え方ではないなとこちらは答えた。東浩紀なんかは以前、「物語」と「小説」を対立させて考える構図というのは、蓮實重彦が勝手に作り出したもので全然有効性はない、などと批判していたはずだ。あとは名前を挙げておくならば、保坂和志とそのフォロワーの人々なんかも、そのような捉え方をする傾向はあると思う。(……)は、世間一般的に「小説」に区分されている文芸作品のなかにも、この独自の定義に従えば「物語」と呼ばれるべき作品があるわけだよな、と問うた。それは勿論のことで、例えば(……)さん本人も言っていたけれど、東野圭吾なんかはこの対立構図に即して言えば「小説家」ではなくて「物語作家」と呼ぶべきなのかもしれない。そうした現代の作品だけでなくて、いわゆる古典に属するようなもの、同時代の人々が「小説」として考えていたし、今もなおそのように考えられている作品のなかにもやはり「物語」的なものがあるのだろうか、と(……)はその点に少々こだわった。それで、説話文学のようなものは勿論古来からあるわけだが、まあ概ね一六世紀のセルバンテスドン・キホーテ』あたりからいわゆる近代小説というものが始まったとされていること、ただその頃の小説作品は、こちらも実際に読んだことはないので又聞きだが、いわゆるリアリズム的な「描写」が乏しく、ほとんど物語的な構造だけが浮き彫りになるような形で書かれているということを説明した。(……)が疑問を抱いている点の本質がこちらにはよくわからなかったが、いわゆる「物語」的な作品のなかにも「小説」的な瞬間が生まれることはあるだろう――むしろそれこそが文学を読む醍醐味なのかもしれないとこちらは思うが――、またどのような「小説」であれ、それが持続するのに「物語」が必要であることも確かだ、だから便宜的に「物語」と「小説」とを対立させて考えてみたけれど、本来はそこまで截然と区分出来るものではなく、どのような作品にも両方の側面が含まれているものではないだろうかとこちらはまとめた。
 (……)はまた、こちらが「リアリティ」の説明として挙げていたプリーモ・レーヴィの文章は例として非常にわかりやすかったと言う。例の、レーヴィがSS隊員だか誰だかに殴られた時、それがあまりに常軌を逸した予想外の行動だったので、肉体的にも精神的にも苦痛を感じず、深い驚きだけが湧き上がって来たと書かれている箇所だ。わかりやすかったと言うか、小説というジャンルの文章においてこういう「逆説的な」――という言葉を(……)は連用した――表現はよくあるよな、と思われたのだと言う。
 それから、(……)は経験がないのにもかかわらず、良く前戯に着目したなと思った、と(……)は言ったのでこちらは笑った。九月三日の日記に書いたことだが、例の、性交において面白いのは本番行為よりもその前の愛撫の段階ではないかという説に対する評価である。(……)はどちらかと言うと「ちびちびと」前戯をするのが好みだと言う。射精は結局、一度出したらそれで終わりだからつまらないのだと、彼もこちらと同じことを感じているようだった。これで件の説が欲求を持て余した童貞の妄言でないという証明をするための証言が一つ得られたわけだ。そうした話を既にしていた時だったと思うが、エンターテイメント系の物語を評する時によく、「頁をめくるのを止められず、一晩で一気に読んでしまいました」みたいなのがあるだろう、とこちらは投げかけ、あれは要するに射精欲求と同じなんだと考察を述べた。早く終わりに辿り着きたい、早く終わりがどうなるか見たいということだから、それは早く精子を出して快感を味わいたいというのと相応する。そういう面白さを作るのも一つのテクニックだろうと(……)は言ったので、それには同意し、物語的な誘惑を持っている作品と言うのは、比喩的に言えば「エロい」ということなんだ、と述べた。それも確かに一つのテクニックだが、やはりそうした刺激は単純なんだな、それよりも俺が求めるのはやはり細部の煌めきのようなもの、散在された差異の輝きのようなものだと続けた。あとの展開あるいは結末がどうなるか早く知りたいという欲求を射精欲と類似するものと捉え、物語的な面白さに従属して作品を読むことを性感帯として特権化された性器の触れ合いに喩えるとすると、一つの箇所に極点化されずに接触点を肉体の諸所に散在させる愛撫という行為は、「小説」的な官能の複数化を求めるものだと言えるのではないだろうか。
 そんな話をしているうちに、(……)が去年まで付き合っていた恋人との性関係の話題になった。その女性というのはモンゴル出身の人だったのだが、いざ行為に及ぶという段になると、前戯などすっ飛ばしてとにかく早く入れろ入れろとそういう欲求の持ち主だったらしく、その情緒のなさに(……)は辟易していたと言う。ベッドに入ると必ず一度はやりたがる、しかし(……)としては今日は何もせずに穏やかに眠ろうよという日も当然ある、ところが恋人はそれにはお構いなしなので、相手の欲求を解消してあげないといけないというわけで、無心になってひたすら手を動かす、そんな時は自分は一体何をやっているんだろうという虚しさ、惨めさ、情けなさのような感情に打たれたものだと(……)は話す。その彼女とのあいだに一度トラブルが持ち上がったことがあった。――相手がやっている最中に、もっと強く、と求めるわけだ。しかもあいつ、それを言うのに副詞じゃなくて形容詞を使うんだよな。more strongって、stronglyじゃないかと思うんだけど……と言うか、そもそもstrongを比較級にするんだったらmore strongじゃなくてstrongerだろうと思うんだが、まあ行為中にそんなことを指摘したら白けるから、勿論言わない。で、ともかく、もっと強くと言うものだから、まあ、強くしたわけだよね。そうしたら、その後、痛い、と言うわけだよ。聞けばどうも、膣のなかが傷ついたと言う。それで手術をしなければならないと。それが一〇万掛かると言うので、まあすぐに振り込んだ。それで手術は済んだんだけど、その後もしばらくのあいだは痒かったり痛かったりするらしくて、たびたびそれを訴えてくる。俺もまあ、強くと言われはしたけれど、実際に身体を動かして傷つけたのはこっちだから、自分にも責任があるのは確かなんで、ああ辛いんだなと思って不平を言われても言い返さずに我慢してきた。……でもそれがあまりにも続くんだな、半年とか一年経ってもその時のことを蒸し返される。そうするとさすがにムカつくし、いや、お前が強くって言ったんじゃん、とも言いたくなるわけだよ……向こうにも責任があると思うんだよね。割合としてはこっちと向こうで五分五分くらい。それとも、いや、お前が悪いだろうと、(……)に九割くらい責任があるだろうと思う? ――いや、まあ、わからんな(とこちらは日和見的に、曖昧に受ける)。――まあ五分五分くらいとしておいてほしいんだけど、それで随分経ってもまだその時のことを言われるもんだから、それもこっちが全面的に悪いっていう言い方をしてくるのよ。お前が女性の扱いに慣れていないからだとか、経験が少ないからだとか、言ってくる。それでさすがにうんざりしちゃって、あれはもう別れようと思ってた頃だと思うけど、ついにぶちぎれて、ぶち撒けたことがあった。お前が強くって言って俺はそれに応じたのに、俺が全面的に悪いみたいな言い方をされるのは非常に気に入らない、と。そうするとでも相手は、そんなことは言ってないって言うんだな。……まあ本当に都合の悪いことを忘れてしまっていたのか、それともしらばっくれていたのかわからないけど、どちらにせよ、この人とはもう付き合えないと。――それでも、どれくらい付き合った? ――二年半くらいは続いたかな。――よくそれだけ続いたな。――これもね、良くないと思うんだけど、プライド。――プライド? ――何かその、付き合ってすぐに別れるっていうのは自分として許せないようなところがあるのね。それにまあ、長く付き合ってみないと見えてこないところもあるでしょう、それはある程度真実だと思ってるから。……まあなあなあの、成り行き任せと言われればそうかもしれないけれど。……ともかく、そういう件を通じて学んだのは、信頼って本当に大事だなってことだね。信頼を作るのは大変で、壊すのは簡単だとかよく言うけれど、本当だなと思うね。だから、恋人関係に限らず、友人関係でも、大学の方の関係でも、信頼関係を裏切るようなことはするまいとね、思ってるよ。
 と、そのような話を聞かせてもらったあと、また少し物語関連の話に戻ったと思うが、既に時刻は零時三〇分を超えていた。こちらは(……)さんを想定以上に待たせてしまっていることが気に掛かっていたので、零時四〇分に達した頃合いで、今日はこのへんにしておこうと口にした。そうすると(……)は、(……)はこれからまた書いたり読んだりして寝るのか、と笑いながら訊いてくるので、いや実はこのあと(……)さんという人と話すことになっているのだ、と告げると、(……)は、ああそうなのか、それは失礼したと言うので、いや、大丈夫だと受けて通話を終えた。それで(……)さんに、大変お待たせしてすみません、まだ起きていますか? とメッセージを送った。さすがにもう寝てしまったのではないかと思っていたのだったが、しばらくすると起きていますと返信が来たので、良かった、と受けて通話を始めた。最初のうちに、どういう流れだったか忘れたが、また(……)さんが惚れっぽいという話になった。何しろ、Twitter上で恋愛しているくらいですからね、と(……)さんが言うのだが、これは初耳だった。そうなんですかと受けると彼女は詳しい話をしようかどうしようか迷うような素振りを見せたので、言わない方が良いですよ、また日記に書いちゃうから、とこちらは笑った。それで、具体的に(……)さんが誰に惚れているのかということは訊かず、ただ気になっている人がいる――これは本人も質問箱の質問に答えて以前明かしていた――ということを聞くに留めた。あと、これはのちに「真面目な猥談」について話した際だったと思うが、私の知り合いに、あの……エッチなモデルの写真を集めている人がいて、と彼女は漏らすので、それは明らかに(……)さんじゃないですか、とこちらはイニシャルで答えて笑った。何でわかるんですか、と(……)さんも笑うので、何か以前、Twitterかどこかでそんなことを言っていませんでした? とこちらは受ける。(……)さんは、そういうのはあまりよろしくないと感じているらしい。
 (……)
 話題の展開としては、(……)さんがこちらの日記に書いてあったことを取り上げてこちらに質問し、それに答えるという方式が結構多かったと思う。最初のうちに訊かれたのは、やはり九月三日の日記に書いたことで、――(……)さんとの「真面目な猥談」にやはり皆着目してそれが気になるようなのだが、(……)さんの疑問は、性交欲と射精欲の区別をしていたけれどそれはどういうことなのか、ということだった。あれはまあこちらが勝手に個人的に区別して考えたもので、と言うのも、男性の性欲というのは結局のところ最終的には射精したいという欲求に収斂されるのではないかと思うのだけれど、性交は射精だけではないわけで、何よりも相手がいないと出来ないことである。そこから愉しさも面倒臭さも生まれてくるものだと思うが、こちらは性欲=射精欲は、以前より減じたとは言え多少はまだ残っているけれど、誰かと性交をしたいという欲求はそこまで持ち合わせていないというわけで、その二つを個人的に区分して考えてみたのだ、とそんなようなことを説明した。また、(……)さんは、女性がもっと性についてはっきり表明できた方が良いっていうことも書かれてましたけど、あれはどういうことなんですかという質問も差し向けてきたので、こちらは、女性があまり大っぴらに性について語りにくいような空気というものがあると思う、また実際行為をする時でも意思表明をしにくくなっているのではないか、そこから男女間の色々な誤解やすれ違いや、場合によっては無益な暴力のような状況が生まれているような気がするのだ、つまり有り体に言えば、本当はやりたくなかったのに流されてしまったとか、そういうことだけれど、その点、女性の方もやりたければやりたい、やりたくなければやりたくないとはっきり意思表明出来たほうが良いのではないかと、まあ底の浅い考えかもしれないけれどそう思うわけだ、単純な話、男性と女性の性の評価に関しては非対称性がある、男性はセックスしたければセックスしたいと簡単に口に出来るのに対し、女性はそうは行かないと思う、性経験に関しても、経験の豊富な女性が一般的にあまり褒められたものではないと思われているのに対し、男性の方は経験豊富であることは一種のステータスになりやすく、場合によっては「男の勲章」のような扱われ方をされるでしょう、というようなことを説明した。(……)さんは納得したようだった。
 (……)さんは以前、セックスの際にそれをしている自分に違和感、嫌悪感のようなものを抱く、という心性を男性とのあいだで話し合い、共有したことがあると言った。やはり大っぴらに人に見せられないようなことをやっている、という点に何か罪悪感のようなものを覚えるらしい。それを話したのは、例の先輩なんですけどね、と言う。先輩と言うのは、(……)さんのリアルの知り合いなのだが、Twitterで別アカを使用して別人に偽装し、(……)さんとの交流を図ってきたという人である。それまでこちらはその先輩というのは女性だと思っていたのだが、ここで話を聞いて、それが男性だと判明したので、それはちょっと危なそうですね、と言った。女性同士ならばまだしも、(……)さんのことをもっとよく知りたかったからという動機で説明できそうな気がするが、男性である先輩が別人を装って女性である(……)さんに近づこうとするというのは、少なくとも第三者視点からは少々ストーカーじみたものを感じてしまうものだ。それで(……)さんはその件があって以来、爽やかな人だと思っていた先輩をそのような目で見ることは出来なくなった、しかも彼から本を借りていて返さなければならないのだが、やはりなるべく会いたくはないと言うので、もう借りパクしちゃえば良いじゃないですかとこちらは唆して笑った。ところで、その先輩当人がこの日記を読む可能性もないではないと思うのだが、(……)さんが彼のことを他人に話しているという事実や、彼女の彼に対する感情をこのように赤裸々に――というほどでもないけれど――記してしまっても良いものだろうか? まあそれはともかくとしても、ネット上の関係だからこそ、人間として尊厳のある関係を築けるようにしたいものですよね、とこちらが言うと、(……)さんは、尊厳……? と疑問の声を漏らした。尊厳と言うと大袈裟になってしまうけれど、まあ要は信頼し合えるというようなことですよと言うと、私と(……)さんや(……)さんの関係はどうですかと彼女は訊くので、(……)さんはまあ測り知れないようなところがないでもないけれど、とこちらは笑い、(……)さんはもう二回も会っているし、日記も読んでくれているし、と続けた。(……)さんの方からはどうですかと訊き返すと、勿論ですよという返答があり、私は(……)さんに憧れているんですよと熱烈な言が送られてきたので、ありがとうございますと礼で受けた。――(……)さんは何だかわかりますか? ――いや、わからない。――(……)さんは、(……)教の神ですよ、(……)神ですよ、もしくは作家様ですよ、と(……)さんは言うのでこちらは大きく笑った。ついにこちらという存在が神格化されることになってしまった。(……)さんもその点については自分で、私はまあちょっと(……)さんを神聖化しすぎるきらいはありますけど、と言い、でも今はそれで楽しいから良いんですと漏らす。まあそのうちにきっと、熱も冷めてくるだろうとこちらは思う。もしかしたら(……)さんもいずれ毎日毎日同じようなことばかり性懲りもなく綴っているこの日記に飽きてしまって、読むのを止めてしまうかもしれない。それでも彼女の人生の一時期にこちらの日記というものが大きく場所を取って存在したということは既に事実なのであって、それだけで良いのではないかと思う。勿論、飽きずに読み続けてもらえるならばそれは非常に喜ばしいことだ。例えば一〇年後、一〇年後と言うとそもそも自分が生きているかもわからないような未来のことであり、生きていても文章を書くことを続けていられるかもわからないが、仮に書き続けられていたらそれは素晴らしいことだし、その頃になっても(……)さんや、今こちらの日記を読んでくれている人々がまだこちらの営みに付き合っていてくれるのだとしたら、それはとても素晴らしいことだ。私はこうして、(……)さんと話せるだけでありがたいですと言うので、また大袈裟なことだとこちらは笑ったが、続けて彼女は、周りの人が(……)さんのことを慕っているのが日記を読んでいると伝わって来ますよと言う。そうなのだろうか? (……)などはわりと、同じグループの皆を尊敬していると言うが、こちらとしては、あ、そうなんだ、くらいの感覚である。最近では(……)はよくこちらの文を読んでくれているようだし、(……)くんも読んでいるかどうかはわからないが、少なくともこちらの日記を見つけはしたようだ。それで、読まれて嬉しいですかと(……)さんは訊くのだが、まああまり嬉しいというような感じはしないですねとこちらは笑った。ただ、(……)のように、こちらの営みを一つの面白い営みとして認めてくれるのはありがたいですねと続けた。――だって、冷静に考えてみれば、何だこの変な文章は、何だこの長文、で終わりじゃないですか。それをわざわざ読んでくれて、こちらの大切な営みとして認めてくれるわけだから、それはありがたいですよ。というわけで、この日記を読んでくれており、こちらの営みに付き合ってくれている人というのは、大方自分にとって信頼できる相手のような気がするものである。
 また(……)さんは、こちらの日記を毎日読んでくれているらしいのだが、最新のものだけでなく最近では過去のものも遡って読んでいると明かした。まことに暇で奇特な人間である。しかし考えてみれば、こちらも(……)さんの「(……)」の記事を最初からすべて読んだわけで――しかも一度のみならず二回くらいは読んだと思う――、人のことは言えない。(……)さんのブログに対するこちらのような存在が、こちらの日記に関しても現れる日がいつか来るだろうと信じて営みを続けてきたが、ついにその日がやって来たということなのかもしれない。それで(……)さんは過去の日記も読んでくれているらしいのだが、九月三日の日記のなかにもこちらは過去の美術展の感想を引用していたのだった。そのなかにあった、――世田谷美術館ボストン美術館展を見に行った際、外国人の線は日本人に比べて下手くそだというようなことを漏らしていたおばさんに遭遇した時のことだが――「ここは紋切型のオンパレードかと天を仰ぎたくなった」というような言い分には笑った、と(……)さんは言う。そのほか、いつのことだったか忘れましたけど、道を歩いていたら前の人が煙草に火を点けて、その火が暗い道のなかに浮かぶと同時に煙草の匂いが流れてきて、このようなささやかな瞬間をやはり自分は書きたいのではないかと思った、という記述がありましたけれど、と(……)さんは取り上げたので、あれは確か、病気になりかけていた頃のことですね、だから多分二〇一八年の二月かな、日記に対する欲求も失われつつあって、迷っていた頃ですねと受けた。ささやかな瞬間を書きたいっていうのは今もそうなんですかと訊かれたのには、うーん、と少々考えて、まあそうかな、と曖昧に答えた。(……)さんも以前にどこかで言っていたことだけれど、書かなければ忘れてしまうような事柄を敢えて書き記すのが日記という営みの本意であるような気もしないでもない。印象に残りそうもないことをこそ、どのように印象として取り上げるのかが腕の見せ所と言えばそうなのかもしれない。
 ほか、(……)さんが病気のあいだに断片的に書かれた記事も見たんですけど、と(……)さんは言う。そのなかに、「救いはありません」って書かれていたものがあって、と言うので、こちらは笑って、そうか、そんなことも書いていたなと思い出した。あれは多分、二〇一八年の七月かそのくらいのことで、当時は本も読めず、日記も書けず、生の意味が完全に失われたように感じていた。一言で言って絶望していましたね、とこちらは明かす。ベッドに寝転がっては何もせずに死にたい死にたいと頭のなかで繰り返して、近所の橋から飛び降りることを想像してはしかし怖くて実行できないと諦める、ということを繰り返していた頃だ。今もベッドにはよく寝転がっているが、現在は死にたいと思うことはまったくなくなり、本を読んでいるので、随分と回復したものだ。あれからまだ一年少々しか経っていないのかと考えると、ちょっと不思議な感じがする。
 (……)さんも九月二日のことに関しては日記を書いてくれて、それを読んでいると、こちらは忘れていたことなども書かれていて、やはり行動を共にした人間が書いた記録を読むというのはなかなか面白いものなのだが、(……)さんはこちらの文章に影響を受けてしまうと言った。それを直すのが大変だったと言う。具体的にはどんなところですかと訊くと、「それなので」とか、と言うので笑った。(……)さん以外には使っている人を見たことがないですと言うが、こちらもそんなには使っていないと思う。あとは一日の終わりの部分の書き方などが油断すると同じ風になってしまうと言うので、全然パクって良いですよとこちらは気軽に許可を出した。
 九月二日のことで言えば、(……)さんは、ハグとかしてもらってすみませんと謝ったので、こちらはいやいや全然良いですよ、こちらにとっては得しかないじゃないですか、女の子に抱きついてもらえるなんて、と軽薄ぶって受けた。女の子と抱き合うなんて経験ないんでね、と続けると、(……)さんとのあいだではそういうことはなかったんですかと(……)さんは訊く。そういうことはまったくなかったのだ。こちらが一方的に恋慕していただけだし、何しろ当時彼女には恋人がいたのだから。手を繋いだりしたことも、と訊かれるので考えてみたが、手を繋いだことすらないと思う。何しろこちらは今流行の(?)奥手な男子だし、女性に自分から触れるなんてとてもとても、というわけだ。あれが恋愛というもののピークでしたねえ、とこちらは思い返す。(……)を好きだった時期には今でも覚えている一日があって、自室にいながらとにかく彼女に会いたい、彼女の身体を抱きしめたいという衝動に駆られた日があったのだが、あれほど激しい恋情というものを体験したのはその時が最初で最後である。まあでも、すぐにこの気持ちは落ち着くなとわかっていましたし、実際その通りになりました、と話すと(……)さんは、その点が疑問だったようで、何でそんなことがわかったんですかという風に訊いてきた。何でと言われてもこちらにもよくわからないが、ともかく自分の恋心が遠からず冷めるだろうということは容易く予想されたのだ。――もうああいう激しい恋愛というのは出来ない気がしますね、まあでもそれで良いです、もっと穏やかな関係が築ければ。――穏やかなって、どんなのですか。――いや、わからないですけれど、でも(……)さんと(……)さんとか穏やかそうじゃないですか。図書館に言って五時間もずっと本を見ながら話している、みたいな。――それは穏やかですね。
 こちらもそうだが、と言うかこちらは皆無なのだが、(……)さんも恋愛経験は、あるもののそんなに豊富な方ではないと言う。でもまあ、恋愛関係を特権視する必要はないんじゃないですか、とこちらは受ける。――数ある人間関係のなかの一形態に過ぎないわけですし……まあ勿論、ほかの関係よりも深く付き合う傾向の強いものなので、人間的に成長できるってことはあるかもしれませんけど。でもそれで言ったら、僕と(……)さんの関係だってなかなか深いものですよ、何しろ二人とも毎日自分の生活を隈なく綴ってそれを読み合っているわけですからね。――それはもう、恋人以上ですね、と(……)さんは受ける。――相手のことでわからないことはもう何もないですよ……と言うのはさすがに言い過ぎかな、とこちらは笑うが、実際、(……)さんと会ったことは多分今までに三回しかないのだけれど、そうとは思えないくらいに我々が互いのことを知っているのは確かだ。
 その流れで、(……)さんのブログにアクセスし、じゃあここで(……)さんが一〇年前に書いた詩を紹介しましょう、と言った。「ぼくがAV監督だったら」っていうんですけど、とこちらは苦笑し、でも素敵な詩ですよと言ってチャット上にコピーした文言を貼りつけた。ここにも引用させてもらう。

──すべてのAV女優にささげる

ぼくがAV監督だったら
きみの服を脱がさないところからすべてをはじめる
そんなにかんたんに全裸になんてなれやしない
みんなじぶんの裸がどこにあるのかわからないって
そういいながらインターネットをしているし
だから監督としてきみに命じることができるのは
せめて部屋着のきみ自身を
なんとか上手に演じきってくださいってこと

セーラー服もナース服もメイド服もいらないから
古着屋で買ったっていうそのニット帽をかぶってみせてよ
艶だらけで上滑りしてしまうあえぎ声よりも
雑踏のなか自分ひとりにしかきこえない声でつぶやくそのうたを聞かせてほしい
うやむやになってしまう部分の歌詞を
いっしょにつくりなおしたい

ぼくがAV監督だったら
きみにカメラを向けるなんて無粋なまねはせず
むしろカメラそれ自体をきみに手渡して
登場人物のいない短篇映画を撮ってきて、と
そうたのむだろう
きみの裸の風景がしりたい
ほんとうの全裸になったきみを見たがる変態がぼくだ

体験人数やアブノーマルなプレイの経験談はまた今度にして
まずは今までにいちばん読みかえした回数のおおい小説のタイトルをおしえてよ
はじめて買ったCDはなんだったか覚えてる? ぼくはファイナルファンタジー7のサントラだった!
カメラにむけた扇情的な目つきよりも
雨の日曜日をいっしょにすごすための伴侶を図書館でえらぶきみの真剣な目が見たいな
その一冊がこのあいだぼくが読みおえたばかりの詩集だったりしたらほんとうに最高なのに

ぼくがAV監督だったら
きみの撮ってきた短篇映画の編集作業を徹夜でつづけるだろう
ときどきはきみもつきあってくれるかな
とても苦いコーヒーをいれてくれたりなんかして
BGMはFF7のサントラから選ぼうぜ! なんて
それはぼくの感傷に過ぎないから
感傷と鑑賞と干渉がぜんぶおなじ読みだなんて
日本人が古来から詩人だった証拠に他ならないよ、きっと
和歌での逢い引き 辞世の句
詩を失った民族は滅ぶってゴダールがいってたんだ

ところできみのとっておきの一行はもうみつかった?
映画のタイトルは余白のまんまでそれを待ってるし
ぼくはぼくできりのない編集作業をつづけている
ヒントを与えるとすれば、その一行はきみの体のとある部分
自分自身ではぜったいにのぞきこむことのできない部分に
入れ墨のようにしてふかく刻みこまれているんだけれど

せつなさのあまりうれしさのあまり泣けてしかたないような
そんなセックスができればいいな
きみさえよければぼくはいますぐにでもその一行を見つけ出すつもりだから
そのときはどうかきみもぼくの体のどこかにある一行を探してみてください

 しばらく沈黙が続いたあと、これが二〇〇八年に書かれた詩ですねとこちらが言うと、(……)さんは読みました、と受け、凄くハートフルな詩ですねと評価した。これは確か、(……)さんが初めて書いた詩だっただろうか? 若書きのものであり、かなり感傷的なトーンではあるけれど、「歌」の感覚があるし、美しい透明感にも満ちている。
 日記が職場にバレたらまずいんですよね、と(……)さんは言う。――まずいでしょうね。でもやっぱり働いているあいだのことも書かないと。まあ、バレたら謝れば良いかな、みたいな、とこちらは屈託なく笑う。――同僚には話しているんですか、日記を書いているって。――うーん、一部話した人もいますね。ただ、ブログとして公開していることは言っていないですよ。
 どのタイミングだったか、(……)さんには僕の営みを引き継いでもらいたいと思っていますよ、と口にすると、彼女は絶句し、私がですか……毎日書くんですか……などと小さく呟きはじめたので、こちらは執り成して、何かしらの形で何か受け継がれるものがあると良いなと思いますと言った。(……)さんは、毎日書くのは難しいですけど、書くこと自体は続けたいと言うので、そういうことですよねとこちらは受け、僕も昔はカフカやウルフの日記を読んで感動して、自分も絶対に、何があっても書き続けるんだと強く決意したものです……それでまあ実際、書き続けているわけですけどね、と言った。ヴァージニア・ウルフの日記ってどんなものなんですかと(……)さんは問うた。それでEvernoteの記録にアクセスし、書抜きを瞥見しながら、まあウルフにはマンスフィールドっていうライバルみたいな作家がいたんですけど、そのマンスフィールドの作品をけなしていたり、などと説明した。――あと印象に残っているのは、モーパッサンの引用ですね。作家の性質としてモーパッサンが述べていることを引用しているんですけど、曰く、「彼にはもう何の単純な感情も存在しない。彼の見るものすべて、彼のよろこび、たのしみ、苦しみ、絶望はただちに観察の対象になってしまう。あらゆることにもかかわらず、彼自身にもかかわらず、人びとの心や顔や身ぶりや声の抑揚を際限なく分析してしまうのだ。」(ヴァージニア・ウルフ福原麟太郎監修・黒沢茂編集・神谷美恵子訳『ヴァージニア・ウルフ著作集8 ある作家の日記』みすず書房、1976年、316)と。これは本当のことですよ……ウルフも、「ほんとうのことだと私は思う」と書いています。すべてが観察対象になる。すべてが書く対象になるということですよね。それがやっぱり作家っていうことじゃないかなと思います。
 引用元の、モーパッサン『水の上』の当該箇所も――勿論翻訳だが――引いておこう。

 文士には、もはや単純な感情というものは、少しも存在しない。彼が眼にする一切は、その喜びも、楽しみも、苦しみも、絶望も、直ちに観察材料となるのだ。彼は、何がどうあろうと、われ知らず、どこまでも、心情を、顔貌を、身ぶりを、音調を分析する。ものを見たとなると、それが何だろうと、すぐにその理由を知らずにはいられないのだ! 彼にあっては、衝動といい、叫び声といい、接吻といい、淡泊率直なものは、一つとしてない。世間の人が、知らず知らずに、反省もなく、理解もなく、ついで得心することもなくて、単にせずにはいられないからする、といった刹那的な行為ですら、彼には、まったく見られないのである。
 彼は、悩みがあれば、その悩みを記録し、記憶のなかで分類しておく。この世で最も愛していた男なり女なりを葬った墓地からの帰るさに、こう考える、「奇妙な感じがしたな。それは、悲痛な酔い心地とでもいうようなものだった、云々……」と。そして、そのとき、彼は、いろいろと細かいことを思い出す。自分の近くにいた人たちの様子、そらぞらしい素ぶり、心にもない愁嘆ぶり、うわべばかりの顔つきといったような、さまざまのつまらない小さな事柄、芸術家として観察した事柄、例えば、子供の手をひいていた老婆の十字の切り方とか、窓に日がさしていたとか、犬が一匹、葬儀の列を横ぎったとか、墓地の大きな水松[いちい]の下を通った際の霊柩車の感じとか、葬儀屋の頭のかっこうや引きゆがんだ顔つきとか、柩を墓穴におろした四人の男の骨折りぶりとか、要するに、心の底から、ひたすら悲しんでいる律儀な人なら、とうてい眼にもとめなかったろうと思われる、さまざまな事柄を思い出すのである。
 彼は、われ知らず、すべてを観察し、すべてを記憶にとどめ、すべてを記録した。それというのも、彼は、何よりもまず文士であるからだ。そして、彼の精神が、こんな具合にできあがっているからだ――彼にあっては、最初の衝動よりも、反動の方が、はるかに強く、いわば、はるかに自然であり、原音よりも、反響の方が、一そう高く響く、といった具合なのである。
 彼は、どうやら二つの魂を持っているらしい。その一つは、隣の魂――万人に共通の自然のままの魂が感ずることを一々、記録し、説明し、注釈する魂である。そこで、彼は、常に、どんな場合にでも、自身の反映であると同時に他人の反映として生きるべく運命づけられているのだ。感じ、行動し、愛し、考え、悩む自身を眺めずにはいられないのだ。だから、喜びを味わうごとに、またすすり泣きをするごとに、あとで自身を分析などせずに、普通の人間のように、素直に、虚心に、単純に、悩み、考え、愛し、感ずる、というようなわけには決して行かないのである。
 (モーパッサン/吉江喬松・桜井成夫訳『水の上』岩波文庫、一九五五年、75~77)

 それに関連してだったかと思うが、頭のなかの「自動筆記装置」について書いているところがありましたけど、それはまだあるんですかと(……)さんは尋ねた。「自動筆記装置」もしくは「テクスト的領域」と名付けた脳内の機能について記していたのは、おそらく二〇一七年の一一月か一二月か、そのくらいのことである。それに関しては、一応まだあるのだが、ただ、以前よりも精度は落ちたかもしれない。精度と言うか、密度と言うべきだろうか? 以前はもっと脳内の言葉の渦に没入するような感覚がたびたびあって、歩いているあいだなどはひっきりなしに頭の内で独り言を言いまくっているような状態だったし、風呂に入っているあいだなども思考に集中しすぎて行動がほとんど自動化されて、頭を洗ったのかどうかあとになって思い出せないようなことがあったものだが、そういうことはなくなった。ただそのわりに、日記の文章は以前よりも冗長に、詳細に書けているので、よくわからないところではある。
 そのほか、(……)さんが最近何を読んでいるのかを尋ねると、川上未映子の『ヘヴン』を読み終えたところだと言っていたのだったか。それで次に何を読もうか迷っていると言っていたか? 忘れてしまったが、アルバイトの研修の前に図書館に行って、『アウシュヴィッツの巻物』を読んだと言っていたのは確かである。冒頭の三〇頁ほどを読んだらしく、そこにプリーモ・レーヴィについても結構書かれていたらしい。また読みたい本が増えてしまったというわけだが、Amazonにアクセスして値段を調べてみると、さすがみすず書房、七〇〇〇円もしたのでとても手が出ない。やはり立川図書館の利用を本格的に計画するべきではないだろうか! 多分立川図書館にならこの本も所蔵されていると思う。
 通話は三時半まで続いた。そこまで至ったところで、さすがにそろそろ眠りましょうかと合意して、礼を言い合って通話を終えた。こちらはコンピューターを持って静かにゆっくりと自室に戻り、ベッドに乗るとしばらく会話の内容を思い出して手帳にメモ書きした。そうして四時に掛かるところでここまでとして、明かりを落として眠りに向かった。


・作文
 13:29 - 14:26 = 57分
 16:57 - 17:12 = 15分
 22:36 - 22:58 = 22分
 計: 1時間34分

・読書
 8:07 - 8:26 = 19分
 8:26 - 8:53 = 27分
 9:00 - 9:30 = 30分
 14:36 - 14:50 = 14分
 14:52 - 16:06 = (30分引いて)44分
 計: 2時間14分

・睡眠
 3:10 - 7:25 = 4時間15分
 9:30 - 12:45 = 3時間15分
 計: 7時間30分

・音楽

2019/9/9, Mon.

 この地点から振り返って見るならば、あの「葬式列車」という作品もまた不思議なアレゴリーとして立ち現われてくるのではないだろうか。屍臭たちこめる「葬式列車」に詰めこまれていた亡霊たち、それは石原の記憶であり、言葉そのものである、と言うことができるからだ。いまだ目覚めることのない不定形の「まっ黒なかたまり」としての言葉。「もう尻のあたりがすきとおって/消えかけている」記憶。「やりきれない遠い未来に/汽車が着くのを待っている」それらの亡霊たち――そして亡霊とはまた、もはやけっして死ぬことのできないものの謂いにほかならない。だがそうだとすれば「葬式列車」とは、宙吊りにされた戦後を駆け抜けてゆく、石原という詩人の肉体の喩以外のなにものであるだろうか。
 あの作品が結末において冒頭に回帰する円環的な構造をそなえていたのも示唆的である。石原の肉体に詰め込まれた記憶=言葉は、自らの原点に回帰する以外、どこにも行き着く先をもたないのだ。どろどろと橋桁を鳴らしながら、戦後のとある街角で、おびただしい記憶と言葉が石原の肉体のなかで「ひょっと/食う手をやすめる」だろう。そのとき言葉は思い出そうとするだろう、「なんという駅を出発して来たのか」を。そしてシベリア・エッセイとは、それ以上不可能なまでに厳密な散文でもって、この駅の名を銅板に刻みこむようにして正確に名指そうとする試みにほかならない。
 だが、ゴヤの黒い絵のシリーズを思わせるあの不気味な詩が石原の戦後の肉体の喩であるとすれば、それはいくらか暗鬱な解釈でありすぎるかもしれない。あの詩の別の可能性あるいは魅力についても私たちは語っておかなければならないだろう。あの作品においては、やがて生じることになる石原とシベリア体験をめぐるさまざまな評者の思い入れ、場合によっては石原自身も陥りかねなかったすれ違いや錯誤といったものの遥か手前で、確実に言葉はある解放的なリズムで紡ぎ出されている。そこでは言葉はなによりもリズムと連帯することによって自らの記憶を運びつづけているのである。
 あの作品は、円環構造をとることで自律的な作品空間を構成し、そのことによって、のちの石原独特の酷薄なまでに気密な構造体としての作品への方向を予示しながらも、あくまで語りとしてのゆたかさをたたえている。その意味では、「葬式列車」という作品は、ややのちの意識的にシベリア体験をあつかった物語叙述的な作品と、石原の単独者としての言葉で張りつめた気密的な作品への分裂の手前に打ち建てられた、記憶とリズムとの確かな共生の記念碑でもあるだろう。やがて私たちは、省察の突出がこの記憶とリズムの共生に独特の荷重をくわえるのを目にすることになる。その結果生じる、圧縮や褶曲や断裂の諸相こそが、石原の特異な詩の顔貌を形づくってゆくのである。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、39~40)

     *

 たとえば文芸評論家・平野謙は、すでに一九二八年(昭和三年)三月一五日にはじまった日本共産党への大弾圧を背景として、その後共産党およびその周辺で戦前に生じた「転向」問題を捉えるうえで、「昭和一〇年前後」を一つのメルクマールとした。小林多喜二が築地署で虐殺されたのは一九三三年(昭和八年)二月二〇日であり、同年五月には滝川事件が生じ、日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親の「転向声明」が発せられたのはその翌月(一九三三年六月一〇日)のことだった。これ以降、転向現象が雪崩のように生じたのはよく知られているだろう。ふたたび確認するならば、石原吉郎は、平野が繰り返し俎上にのせた「昭和一〇年」にまさしく二〇歳を迎えた世代である。
 (58)


 正午前までだらだらと寝過ごす。ベッドから起き上がって携帯電話を見ると、(……)からのメールが入っていた。昨夜の一一時頃に、起きてる~? という連絡が入っていたのだが、こちらがそれに気づいたのは零時を回ってからで、携帯を見ていなかったと返信しておいたところ、それに対する再返信が届いていたのだった。ギターについて相談したいことがあるから、明日の夜にでも話せないかとのことだったので、明日だと労働があるから一一時か一一時半頃になってしまうが良いかと問いを返しておいた。そうして次にSkypeを確認すると、(……)さんから台風の被害を案ずるメッセージが届いていたので、お気遣いありがとうございます、大丈夫ですとの返信を送っておき、それで上階に上がった。母親に挨拶をしてから台所に入ると、前日天麩羅を揚げた油をまた使ったようで、細切りにして揚げられた鶏肉が皿に入っていたのでそれを電子レンジで温める。そのほか米をよそって、既に椀に用意されていた生サラダも持って卓に就き、食事を始めた。母親はスマートフォンで、(……)ちゃんがファームに行って山羊に餌をあげている様子を映した動画を見せてくれた。また、今日母親は労働なので、良い時間になったら洗濯物を入れてくれ、ただし白い足拭きだけはびしょびしょなので四時くらいまで出しておいてくれと言うので了承を返し、ものを食べ終えると彼女が作ってくれたカルピスでもって抗鬱薬を流し込んだ。そうして皿を洗い、さらに風呂も洗って出てくると、居間の隅、ベランダに続く戸の手前に掛けられていたGLOBAL WORKのカラフルなシャツを持って、下階に運んだ。自室の収納のなかに吊るしておくと上階に戻って、昨日頂いた柿の種をまた一袋貰おうと思って玄関の戸棚や辺りを探したのだが、見当たらなかった。その過程で仏間に入ったところ、押入れのなかの収納ケースに、前田裕二『メモの魔力』があった。父親が買ったものだろうが、それを持ち上げて下に置かれていたもう一つの書籍を見てみると、これが何とみすず書房のスーザン・サザード/宇治川康江訳『ナガサキ』だった。まさか父親がみすず書房の本など購入するとは予想だにしていなかったが、なかなか良さそうな本を買ったものである。それから階段を上がってきた母親に柿の種はどこかと尋ねると冷蔵庫だと言うので、なかから一袋を頂き、ハーフ・パンツのポケットに入れ、さらにそろそろ出勤に向かおうとしている母親が、父親の飲んだ炭酸水や水のペットボトルを始末しておいてくれと言うので、彼女を見送りながら、空のペットボトルを裸足で踏みつけて潰した。全部で六本あった。六本とも潰してしまうとビニール袋に入れて、クロックスを突っ掛けて外に出て、駐車場脇の物置きに収めておいた。そうして戻ってくると下階の自室に帰り、柿の種を食ったあとにFISHMANSCorduroy's Mood』を流し出して歌を歌いながら前日の記録を付け、この日の記事も作成した。その後、(……)さんとSkype上でチャットを交わしながら、(……)さんのブログを二日分読み、さらにプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きを行い、最後の一箇所を写してこの本の書抜きを終わらせた。(……)さんとの会話のなかで、企業の内部留保が過去最高を更新したという話題を挙げたので、何となくそれについて検索してみると、河北新報の社説が出てきたので、Cさんとのやりとりが終わるとそれを読んだ(https://www.kahoku.co.jp/editorial/20190907_01.html)。さらに、同様に検索で引っ掛かった磯山友幸「使わないなら家計に回せ!企業「内部留保」が7年連続過去最大って…」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66995)も読んだのち、「あとで読む」と題したEvernoteのノートにストックしてある記事のなかから、木村草太「【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――憲法73条から集団的自衛権を考える」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014102500005.html)を続けて読んだ。それをちょうど読み終わった頃、机上の携帯電話が震えたので見ると、(……)さんからの着信だった。先日こちらから久しぶりに連絡を取ったのだが、大学時代にバンドを組んでいた年上の仲間である。近々会おうと言い合っていたのだが、出ると、一四日の土曜日はどうかとあった。一旦、うーん、と受けておき、一応用事があるんですけどね、と言って、まあでもどっちでも良い感じなんですけどね、行っても行かなくてもと告げると、任せるよと言われたので、それなら一四日に会いましょうかと決断した。一四日は元々、「(……)」のグループでスタジオに入るとか、あるいは(……)宅の防音室でアレンジを固めるとか言われていたのだが、こちらは実際に演奏するわけではないのでまあ参加してもしなくても良いくらいの緩い感じだったと思うのだ。こちらも一六日や二一日など予定が入っているし、ほかに都合の良い日を(……)さんとのあいだで再検討するのも面倒臭かったので、決断してしまった形である。(……)と明日の夜電話することになるだろうから、その際に一四日の件については伝えておけば良いだろう。電話を終えると部屋を出て、洗濯物を取り込みに行った。上階のベランダに出ると、陽射しは淡いが、空気には熱が籠っていた。吊るされているものを室内に入れておき、足拭きは言われた通りまだ出しておいて下階に戻ると、この日の日記を綴りはじめた。ここまで記すと三時一四分である。
 身体がこごったのでベッドに移って書見をしながら休もうと思ったのだが、やはりもう少しだけ日記を進めておくかと思い直して、前日の記事に着手した。しかし結局八分間しか作業は続かず、一旦コンピューター前から離れてベッドに移り、扇風機をこちらに向けて風を浴びながら、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みだした。三〇分ほどは目を覚ましていたと思うが、四時に達した頃合いから薄布団を被ってしまい、それで為すすべもなく眠りのなかに引きずり込まれたのではないか。五時半前まで休み、そろそろ食事の支度をしようということで上階に行った。まずベランダに出しっぱなしだった足拭きなどを室内に入れ、それからタオルをハンガーから取って畳み、洗面所に運んでおくと台所に入って夕食の準備に取り掛かった。カレーでも作ってくれれば良いと言われていたのだが、冷蔵庫を覗くとカレールーがいくつもなく、これでは明らかに足りないだろうと思われたので、材料はカレーと同じだが代わりに豚汁を作ることにした。それで茄子、人参、玉ねぎ、ジャガイモを切り分け、笊にまとめるとフライパンを取り出し、油を引いてその上から生姜を摩り下ろしたあと、野菜を炒めはじめた。玉ねぎ、人参、ジャガイモを先に炒め、ちょっとしてから茄子も加えるとさらに冷凍になった小間切れ肉をばらばらと投入し、それからまたしばらく火を通した。そうして水を注ぐと、左側の火力が弱い方の焜炉に汁物は移動させ、右側の焜炉の上にはもう一つのフライパンを置き、餃子を焼くことにした。冷凍庫から餃子の袋を取り出してフライパン内にばら撒き、火に掛けて、平たい面が下に来るように向きを揃えて並べると、袋に書いてあった作り方の指示通りに水を投入した。蓋を閉めて蒸し焼きにしているあいだに、下階に下って手帳を持ってきたのだが、それを読んでいる暇はほとんどなかった。すぐに水が少なくなってフライパンから上がる音が甲高くなってきたので、蓋を開けると油を回し掛け、さらにまた火に晒したのだが、ここで餃子の下側がフライパンの底に貼りついて動かなくなっているのが気になって、フライ返しで剝がそうとしたところ、何個かは失敗して上手く剝がせず、袋を傷つけてしまい中身が少々露出した。ほかのものはおおよそこんがりと焼き目をつけて焼けたので、もう少し待ってからひっくり返した方が良かったかもしれない。餃子が仕上がると今度は汁物、水量が少なくなっていたので小さな薬缶で水を足しておき、爪楊枝でジャガイモを刺すとあと少しだけ煮た方が良さそうだったので、一旦台所を抜けて居間の椅子に就いた。扇風機を固定状態で回して汗だくの身体に風を浴びせかけながら手帳を読む。それで五分か一〇分かそのくらい待ったあと、台所に戻って豚汁に味噌を溶かし入れた。
 そうして食事が完成すると、もう夕食を取ってしまうことにした。風呂の湯沸かしスイッチを押しておき、米とまだ温かい餃子に豚汁をそれぞれよそると、いつものように食卓の東側の席に就いた。扇風機は相変わらず固定させてこちらに常に風が当たるようにしておき、食卓灯のオレンジ色の薄明かりが降るなかで新聞も読まずテレビも点けず、黙々と餃子をおかずにして白米を賞味した。豚汁が美味かった。野菜が良く煮えており柔らかくほどけるようだったし、味付けも、適当に目分量だったのだがちょうど良かった。それですべてものを食べ終えるともう一杯汁物をおかわりし、汗を流しながら食べ終えると冷たい水を汲んできて抗鬱薬を飲んだ。それから食器を洗っておくと下階に下り、Franck Amsallem『Out A Day』を流してだらだらとした時間を過ごした。合間にSkypeで(……)さんからメッセージが送られてきて、明日の夜、通話するのはどうかと訊くので、明日は労働で遅くなるのでそれでも良ければと答えると、問題ないとのことだったので了承した。八時過ぎから日記を書きはじめたのだが、途中で(……)さんが綴った九月二日の記事を読んだり、それに触発されて自分の日記を読み返したりしているうちに時間が過ぎて、いくらも書かないうちに八時四〇分になって入浴に行った。上がって行くとパジャマ姿の母親は頭にタオルを巻いて卓に就いており、父親はパンツ一丁でいたのでちょうど今しがた風呂を出たところらしい。おかえりと挨拶すると、豚汁はまだ食べていないと言うので、美味いよと勧めておいてから下着を持って風呂に行った。出てきてパンツ一丁で自室に戻ると、扇風機にエアコンをふたたび点けてだらだらしたあと、一〇時ぴったりからFISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめた。前日の記事はまもなく仕上がり、この日の記事もここまで綴って記述を現在時刻に追いつけると一〇時半である。
 インターネット記事を読むことにした。昼に読んだ木村草太の講演会記録の続きである。木村草太「【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――ネッシーは本当にいるのか?」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014102900008.html)、木村草太「【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014103000009.html)、さらに同じイベントで木村と並んで講演を行った國分功一郎との対談、「【対談】 國分功一郎×木村草太 【哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――憲法制定権力とは何か?」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014110800005.html)も読みながら、いくらかの事柄を手帳にメモした。法解釈の意義とは、立憲主義における権力分立の工夫の一つなのだという話が興味深かった。法に対する解釈という作業を介在させ、規範制定者に対して規範翻訳者、技術者を設置することで、権力者が自分と異なる考え方をする「他者」と向き合わざるを得ないようにしているとのことだった。木村はまた、昨今の政治情勢を観察していると、「他者の視点」を経由することを回避しようという姿勢があちこちで散見されて、それはとても危険なことだと批判している。他者の尊重、などという文句はもはや最大限に使い古された、実にありきたりの定型句だと思われるのだけれど、こうした社会状況のなかではやはりそうした当たり前の正論を改めて強く守るべきだという主張が大事ではあるのだろう。ただ、他者を尊重するべきだといくら強く唱えたところで、例えば現在の日韓情勢に接して国交を断つべきだなどと感情的に短絡的に断言している人々や、戦争によって北方領土を取り戻すべきだなどと吐いている一部議員などが、はいそうですねと単純に聞き入れてくれるはずもない。それほど物分かりの良い人々ばかりならばこんな世の中にはなっていないわけだ。こうした一部の政治家の専横というよりは、社会全体の空気感や風潮の短絡化・劣化というような問題は、今すぐにどうにかなる事柄ではないだろうから、やはり一〇年二〇年の長期的なスパンで考えて新たな価値観や文化を立て直していくしか対応策がないのだろうか?
 零時直前に至ったところで部屋を出て上階に行き、戸棚からインスタントのカレーうどんを取り出した。父親は歯磨きを終えたところで、洗面所でげほげほいいながら口を濯いでいた。こちらはポットからカップうどんに湯を注ぎ、ゴミを始末しておくと容器を持って下階に戻り、コンピューターを閲覧しながら麺を啜り、汁を飲んだ。空になった容器をそのままゴミ箱に突っ込んでおいたあとも、いくらかだらだらとした時間を過ごし、そうして一時前になるとベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を手に取った。手帳の読書時間の記録には三時五分まで読んだことが記されているのだが、後半は例によって意識を落としており、実質読んだのは二時頃までだったと思う。眠りから正気に戻ると明かりを消して正式に就床した。


・作文
 14:48 - 15:14 = 26分
 15:18 - 15:26 = 8分
 20:02 - 20:39 = 37分
 22:00 - 22:31 = 31分
 計: 1時間42分

・読書
 12:50 - 13:16 = 26分
 13:20 - 13:39 = 19分
 13:47 - 14:35 = 48分
 15:29 - 16:00 = 31分
 22:45 - 23:55 = 1時間10分
 24:56 - 26:00 = 1時間4分
 計: 4時間18分

・睡眠
 3:10 - 11:50 = 8時間40分

・音楽

2019/9/8, Sun.

 なぜ「姿勢」や「位置」をはじめとする言葉が石原の作品においてそのような自己主張を果たすことができたのか。それは、それらの言葉が、そしてそれらの言葉のみが、石原という詩人の体験を忠実に記憶している主体にほかならなかったからだ、と考えることができる。そして、シベリアから帰国した直後の石原がなによりも詩作に没頭しえたのは、当時の石原にとって詩という表現のみがこの記憶としての言葉を解放しうる実践形式であったからだと見なすことができる。いわば言葉がその記憶を自律的・実践的に保持しているあいだ、石原自らはその記憶から理論的に守られていることができたのである。「条件」「納得」「事実」といったそっけないタイトルを付された石原の代表作は、このような記憶としての言葉[﹅8]の、ほとんど無意識的(非意図的)な内在的展開――もっと言えばアレゴリー的展開――にほかならなかったのであって、他のどこにもましてそこにこそ、シベリアの記憶は唯一無二の形で保存されていたのである。
 以下では石原の詩を読み解く際に、漢字・漢語の内在的アレゴリー的展開という受けとめかたを、私は何度も繰り返すことになる。その際の「アレゴリー」の意味は通常とは異なるので、簡単にここで解説しておく必要があるだろう。
 通常アレゴリーは概念を具象的に描いたものを意味している。たとえば、騎士の姿が「徳」のアレゴリー(寓意)であったり、乙女の姿が「清純」のアレゴリーであったりする。それにたいして、一七世紀のバロック悲劇を読み解くなかで、アレゴリーにそれとは異なった意味の次元を開いてみせたのが、ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンだった。ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』のなかで、君臨する王様のシンボルとしての正午の太陽が日没へと向かうことによってその王様の没落のアレゴリー[﹅8]となるような事態を捉えた。それは通常、私たちがメタファーという言葉で理解したり、もっと日常的な用語では「連想」という言葉で理解したりしている内容に近い。重要なのは、その意味のめざしている方向が、こちらのコントロールの範囲を超えていて、むしろイメージが、言葉が、一種自律的に展開してゆく、ということである。
 平たく言うと、「位置」「条件」「納得」「事実」など、石原の詩の代表作は漢字・漢語から生じる連想によって綴られている、というのが私の理解である。そこにあえてベンヤミンの用いている意味での「アレゴリー」という言葉を組み込んでいるのは、その連想から生じるさらなる言葉やイメージを一種の謎として追いかけてゆく感覚を込めたいからである。(……)
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、36~38)


 一〇時三五分起床。例によって暑く、汗を搔いていたので一〇時頃扇風機を点けて、風を浴びながら段々と覚醒を確かなものにしていった。起き上がるとコンピューターに寄ってTwitterSkypeを確認し、それから上階へ。台所で換気扇のカバーを洗っている母親に挨拶。洗面所で顔を洗い、台所に出ると冷蔵庫からガーリック・ライスと前夜の汁物を取り出し、それぞれ加熱する。そうして卓へ。新聞を瞥見しながらものを食べると抗鬱薬を飲み、食器を洗ってから焼きそばを作りはじめた。資源回収に出張っている父親がそろそろ帰ってくるだろうから昼食に作ってくれとの要望があったのだ。キャベツや玉ねぎ、ピーマンに人参を切り分け、フライパンで炒めはじめる。しばらくすると麺も投入し、水を掛けながら加熱して、最後にソースを入れて完成させると、先ほどものを食べたばかりだが、追加で自ら作った焼きそばも食べることにした。それで皿によそり、さらに先ほどは知らなかったがサラダがあると言うので、ハムと生の胡瓜にトマトを合わせたそれも持って卓に就き、ふたたび食事を取った。食べ終えると食器をまた洗い、それから風呂も洗って、そうして下階へ、正午過ぎから日記を書きはじめた。九月二日の分である。『Art Pepper Meets The Rhythm Section』とともに一時間ほど綴ってようやく完成させるとインターネット上に投稿し、それからこの日の記事もここまで短く適当に書いて、一時半である。あとは九月三日の分を仕上げれば、残りの数日分は大体もう記してあるのでどうにかなるだろう。しかし身体が疲れた。こごっている。
 一時四三分まで日記を記したあと、読書をしようということでベッドに移り、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめたのだが、いつものことでいくらもしないうちに意識が弱くなった。結果、四時前まで二時間ほど惰眠を貪ることになった。覚醒するとふたたび読書に取り掛かりはじめ、一時間ほど読んだあと、五時を目前にして上階に行った。唐揚げを作ろうと母親は言った。それで台所に入って手を洗い、二つの大きな鶏胸肉をパックから取り出して細かく切り分けていき、ボウルに入れた。全部切ってしまうとボウルに入った鶏肉に竜田揚げの粉を振り掛けて、箸を使って搔き混ぜた。そうしてフライパンに油を注いで火に掛け、しばらく待ってから菜箸を油のなかに入れてみると、泡が弾けたのでそろそろ良かろうと判断し、肉の一片を投入した。それからいくつか揚げて行ったが、母親が揚げられたものを見てもう少し揚げた方が良いんじゃないのと言い、実際一つを取って二つに切ってみても、なかに赤味がまだ残っていたので、もう少し時間を掛けて揚げないと駄目なのだなと判断した。それで結構時間が掛かりそうで、肉が揚がるのを待っているあいだも手持ち無沙汰だったので、自室から手帳を持ってきてそれを読みながら作業を続けた。こちらがフライパンの前に待機しているあいだ、母親は横の調理台で厚揚げを用意したり、多分サラダを作ったりしていたかと思う。すべて揚げ終わる頃にはちょうど六時頃になっており、居間に出ると母親が見ていた『笑点』が終わるところだった。こちらは下階に下りて、九月三日の日記を書きはじめ、一時間余り打鍵して七時を四分の一超えると食事を取りに行った。
 食事は唐揚げをおかずにして米を食べた。テレビは最初、ニュースを映しており、翌日関東に上陸するらしい台風について盛んに伝えていたが、そのうちに七時半に至って『ダーウィンが来た!』が始まった。今回取り上げられていたのは、何とかいう緑色のインコが東京の都心部で大量発生しているという話題だった。それに目を向けながらものを食べ、食器を洗うとすぐに風呂に行ったのだったと思う。入浴中の記憶は特別に残っていない。出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、自室に入ると扇風機とエアコンを点けて室内を冷やし、汗を止めようと試みた。八時一七分から読書をしたと日課の記録に記されているのだが、この時は多分、(……)さんのブログを読んだのだったと思う。そうしてその後、日記を綴りはじめ、一〇時四〇分まで掛かってようやく九月三日や四日の記事を仕上げることが出来、これで概ね溜まっていた負債を返済することが出来た。しかしやはり時日が経つと会話のなかの細かなやりとりなど忘れてしまうものだ。九月三日、四日の記事は本当はもう少し詳しく書けたように思うのだが、その日のうちかせいぜい翌日くらいまでに書かなければどうしても記憶は失われてしまう。ともあれ一応完成はしたので安堵し、たくさん文を綴って疲労もしたのでこの日の日記の続きを記すのは翌日の自分に任せることにして、九月三日から七日までの日記を一つずつ、ブログに投稿し、さらにTwitterにもそのたび通知を流し、最後にnoteにも発表した。投稿する際には人名などを検閲してイニシャルに変えるので、それだけで結構な時間が掛かった。その後、一一時四〇分過ぎからまた読書時間が記録されているが、これはプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きをしたのだろう。それが終わると零時も過ぎており、浅田彰田中康夫の対談、「憂国呆談 season 2 volume 111」(https://sotokoto-online.jp/460)を読み、さらに木村草太「【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――「多矛盾系」としての集団的自衛権」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014102200009.html)も読んであっという間に一時二〇分を迎えた。そうしてコンピューターをシャットダウンし、ベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』に取り掛かったが、多分二時に達した頃にはまた意識を曖昧にしていたのではないか。三時一〇分頃になって就床した。


・作文
 12:07 - 13:01 = 54分
 13:21 - 13:43 = 22分
 18:09 - 19:15 = 1時間6分
 20:46 - 22:42 = 1時間56分
 計: 4時間18分

・読書
 15:55 - 16:50 = 55分
 20:17 - 20:33 = 16分
 23:42 - 24:12 = 30分
 24:14 - 25:20 = 1時間6分
 25:24 - 27:08 = 1時間44分
 計: 4時間31分

・睡眠
 3:00 - 10:35 = 7時間35分

・音楽

2019/9/7, Sat.

 これもしばしば指摘されることだが、難解な石原の作品でも、個々の言葉それ自体はけっして難解ではない。作品「位置」にしてもそうである。難解なのは言葉と言葉の関係である。石原の詩においては、既知の語彙が未知の関係のなかに投げこまれる。その未知の関係を既知の関係(場面)に置きなおそうとするとき、「誤読」がはじまるのは避けようもない。その言葉と言葉の関係は、その詩のなかで一回かぎり生起するものだからである。石原の作品においては、言葉は通常の意味の束縛から身をふりほどく。そのことによって、たとえば「位置」という語は「敵」という語を、「姿勢」という語を、「声」という語を、「挨拶」という語を、自らのまわりに引き寄せる。
 ちょうど星座の「意味」が星と星との関係のうちにのみ存在するように、「位置」という作品の「意味」は、「位置」、「姿勢」、「敵」、「挨拶」といった語の布置関係のうちにのみ存在している。そして、この詩という星座の布置は、「ほとんど唐突に」あるいは「石原吉郎自身への衝撃のように」形成されるとしか言いようのない、その作品においてのみ生じる一回かぎりの「出来事」なのである。
 けれどもその際、それぞれの語と語が形づくる関係は、けっして偶然的なものとしては現われないし、その関係のなかではじめて輝き出すそれぞれの語の新しい意味も、まったくでたらめなものとして感受されることはない。むしろ、「位置」にしろ「姿勢」にしろ、その語の原初的な意味が「位置」という作品においてあらためて輝きはじめるように思われる。つまり、言葉の星座としての石原の作品は、そこでそれぞれの語が新しい意味を獲得する意味生成の現場であるとともに、おのおのの語がその根源的な意味を回復する関係の現場でもあるのだ。それこそが、作品の成功[﹅5]という一般にはきわめてあいまいな概念が石原の詩において厳密に意味している事態である。
 しかもそのことは、たとえば「位置」という語のうちへと錐揉みするようにして内在してゆく主観の介入なくしては、起こりえないことである。正しい語の意味をもとめて、ということはつまり、正しい語と語の布置をもとめて、石原という詩人の主観は、思惟と想像力を激烈に働かせる。あたかも一昔まえの熟練した金庫破りが、複雑に組み合わされた金庫のダイヤルを、繊細な指先の感覚とかすかな音感をたよりに開いたように、詩人は言葉とその布置を、カチッという音がするまでためすのである。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、30~32)


 一二時起床の体たらく。コンピューターに寄って起動させ、Twitter及びSkypeを覗いてから上階に行った。母親に挨拶して便所に行き、用を足してから食事である。母親はこの午前中にクリーニング屋や買い物に出掛けてきたらしく、アメリカン・ドッグを買ってきたと言った。それのほか、朝の残りであるらしいウインナーなどを卓に用意して、食事を始めた。新聞を瞥見しつつものを食べる一方で、テレビには『メレンゲの気持ち』が映し出されており、千原兄弟桑田真澄の息子であるらしいMattという人などが出演していた。それをぼんやりと眺めながらものを食い、母親が作ってくれたカルピスで抗鬱薬を流し込み、食器を洗うと風呂も洗った。そうして下階へ下り、FISHMAN『Corduroy's Mood』を流し出して、歌を歌いながら前日の記事の記録を付けたりしたのち、この日は初めに(……)さんのブログを読んだ。八月三一日と九月一日の二日分を読み、それからTwitterのダイレクト・メッセージで(……)さんに送る再返信を綴り、短く書き上げて送信した。おそらく今月末か来月の上旬に久しぶりに顔を合わせることになりそうだ。
 そこまで作業を進めたところで、溜まっている日記に取り掛からなければならないのだが、気力が湧かなかったので今日は先に本を読みながら休もうということでベッドに移った。しかし、ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』をほとんどひらきもしないうちに瞼が閉じて、気づけば姿勢を崩していた。窓外では母親がこの暑いのに、文句を漏らしながらも草取りを行っていた。三時台の途中で、その母親が室内のこちらに声を掛けてきた。曇ってきてことによると降るかもしれないので、ベランダの布団を入れてくれと言う。それで、その声を受けてもすぐには起き上がれずしばらく休んでからだったが、部屋を抜け、両親の寝室を通ってベランダに出て、そこの柵いっぱいに掛けられた布団たちを寝室内に取り込んだ。それから階段を上がって上階のベランダにも行き、タオルや足拭きや毛布をソファの上に入れておいて、そうして自室に帰った。時刻は四時前だった。ここでようやく読書に入ることができ、一時間ほど読んで五時に至ったのだが、その頃にはまた意識が弱くなっていて、頭を枕に預けて寝転び、ふたたび夢のなかに吸い込まれることになった。そうしてそのまま、室内に暗闇が浸透するまでずっと床に留まった。夕食の支度をしなければならないと思っていたのだが、そういうわけで仕事は果たせず、日記も書かずに眠ってばかりいる今日の怠惰具合は端的に言ってやばい。糞である。
 上階に行くと、せめて家事を少しでもやろうというわけで、居間の隅に掛かっていたシャツにアイロンを掛けた。テレビはニュースを映しており、先日トラックとの衝突事故があった京急が運転を再開したと伝えられていた。運転を再開した電車の走るその線路沿いには見物の人々が集まって写真を撮ったりしていたのだが、暇な人間たちがいるものだ。なかの一人がインタビューに答えて言った、大好きな京急が復活してくれてとにかく嬉しい、というような言にも、何か釈然としないものを覚えた。それから食事、野菜炒めや汁物を用意して電子レンジで温めていると、既に帰って来て風呂を浴びていた父親が洗面所から出てきた。夕食のメニューは、キャベツ・玉ねぎ・人参・ピーマン・コーンなどが入った野菜炒めに中華丼の素を絡めて餡掛け風にした料理が一つ、青紫蘇を添えられたサーモンの刺し身四切れが一つ、ワカメと卵と葱の醤油風味のスープが一つ、胡瓜に人参に大根をスライスした生サラダが一つ、あとは米である。卓に就き、醤油を垂らした野菜炒めをおかずにして米を口に運び、一方で新鮮で滋味深いサーモンの切り身も味わう。テレビは外国人が思う日本の変なところ、というようなお定まりの番組を流していた。キャッシュレス決済が話題に上がっていて、中国では顔認証の決済サービスが普及しつつあるだとか、スウェーデンだったか北欧では手にマイクロチップを埋めこんで決済や扉の開閉などに使えるようにした技術なども取り入れられているとの報告があった。
 ものを食べ終えると抗鬱剤を飲み、食器を洗って入浴に行った。湯に浸かると、窓外から、コオロギだろうかアオマツムシだろうか、秋虫の声が窓いっぱいを埋め尽くすような勢いで響いてきて、古井由吉の小説で知った「野もせに」という表現を思い出した。頭と身体を洗って上がってくると、パンツ一丁で下階に戻り、八時半手前から『Art Pepper Meets The Rhythm Section』とともにこの日の日記を書きはじめた。ここまで綴ると九時が目前となっている。
 それから確か前日の日記を綴ったのだったと思う。そうして九時四〇分に至ると、一旦読書をしようということでベッドに移った。ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』の二周目である。さっさと日記を進めなければとは思っていたのだが、ベッドに身体を預ける安楽さに飲まれ、一時間四〇分ほどぶっ続けで読み進めて、それからようやく日記に戻った。時刻は一一時半前だった。Skype上ではグループ通話が行われていた。零時前後になって確か前日、九月六日の記事が完成したので、ちょっと顔を出してみるかということで、ミュートで参加した。グループには(……)さんのほか、(……)さん、昨日も参加していた(……)さん、それに新しい方で(……)さんという人が参加していた。(……)さんと(……)さんが、新海誠の『天気の子』について熱心に語り合っていた。(……)さんはちょうど今日、『天気の子』を観てきたのだが、その内容が頂けなかったようである。話を途中から聞き出したし、のちには日記に集中したくて一時アンプの音量を絞って会話の音声が聞こえないようにしていた時間もあったので、その感想内容の正確なところを理解出来てはいないが、どうも現状追認の事なかれ主義を促進するような物語になっている、というようなことが(……)さんの評価であるらしかった。新海誠という作家に関しては、やたらと売れているようだが、こちらは大して興味がない。映像美に象徴されるように、やたらと感傷的で情緒を煽るような物語を作るというイメージがあるのだが、これはあまり確かなものではないのでもしかしたら間違っているかもしれない。いずれにせよ、こちらの鑑賞の文脈には挙がってこない作家だと思うので、誰かに誘われでもしなければ観には行かないだろう――そもそも自分は、映画というものを全然見つけない人種でもあるのだが。
 それで何となく会話を聞き流しながら日記を進めたあと、一時頃に至って書き物は中断し、チャットではあるが本格的に会話に参入した。その後、一時半頃から今度はミュートを解除して、二時まで三〇分だけと言って音声で通話に参加した。どんなことを話したかは今記憶が呼び起こされて来ない。二時まで話したところで、それでは解散しようとなり、通話を切って、ありがとうございました、よい眠りを、とチャット上に書き込んでおいて、そうしてコンピューターをシャットダウンした。ベッドに移ってハン・ガンを読み進め、二周目の最後まで読み終えると三時前だったので、そこで眠りに就いた。


・作文
 20:23 - 21:39 = 1時間16分
 23:24 - 24:59 = 2時間35分
 計: 3時間51分

・読書
 13:07 - 13:24 = 17分
 15:55 - 17:00 = 1時間5分
 21:41 - 23:18 = 1時間37分
 26:11 - 26:48 = 37分
 計: 3時間36分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-31「匿名の遺言ばかりが当て所なく漂う宇宙で名付け親になる」; 2019-09-01「全集を焚き火にくべる狼煙にもなりえぬほどに痩せてたなびく」
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 14 - 186(読了)

・睡眠
 ? - 12:00 = ?

・音楽

2019/9/6, Fri.

 本書でその生涯と表現を追いかけてゆく詩人・石原吉郎は、そのような時代に文字どおり翻弄されたひとりである。一九四一年に、ロシア語の特訓を受けた兵士として満洲に渡った石原は、日本の敗戦後、シベリアに抑留されることになる。当時、五七万人あまりの日本人がシベリアに抑留され、最長一一年におよぶ期間、極寒の地で苛酷な労働を強いられ、その過程で一割近くが死亡したとされる。
 ソ連側には、戦後処理における交渉カードとして抑留者を用いる意図もあったが、なんといっても当時、スターリンの支配していたソ連は膨大な労働力(奴隷労働)を必要としていた。その意味で、シベリア抑留とは、「戦争と革命の時代」のただなかで、まさしく戦争(日本の侵略戦争)と革命(ソ連社会主義革命)が接点をもった場所で生じた現実だった。石原はそういう抑留者のひとりとして、八年の抑留ののち、一九五三年一二月、日本に帰国したのだった。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、1~2; 「はじめに」)

     *

 (……)石原が鹿野について綴った代表的エッセイは「ペシミストの勇気について」だが、大野が引いている「体刑と自己否定」という短いエッセイにおいてもまた、シベリアにおける鹿野の特異な姿が振り返られている。
 そこで石原は、「労働の名に値するものは肉体労働だけだ。精神労働というようなものは存在しない」(Ⅱ、二四八)という鹿野の言葉を軸に、収容所で断食を行なったり、危険な労働をすすんで引き受けたりした鹿野の行動の「内的な契機」に触れようとする。それは石原によれば、鹿野がけっして自らを被害者の位置において発想しなかったこと、むしろたえず自らを加害者の位置において考えていたことにある。収容所という弱肉強食ならぬ弱肉弱食[﹅4]の環境においては、およそ一方的な被害者というものは存在しない。そのことへの問いなおしを、鹿野は自己自身への加害、すなわち「自己処罰」という形で行ないつづけたのだ、と石原は考える。そこから石原は、肉体労働を「体刑」として担いつづける「自己否定」という思想を、鹿野のうちに認めようとする。
 (28)


 八時か九時頃から目を覚ましており、カーテンを開けて陽射しを寝床に取り込んでいたが、覚醒が定かになるのではなくてただ暑いばかりでなかなか起きられず、一一時に至ってようやく身体を起こした。暑い昼前だった。コンピューターに寄って起動させ、TwitterSkypeを覗いたあと、部屋を出て上階に行き、母親に挨拶をした。前夜の残りのシチューやら鮭やらウインナーやらがあると言う。冷蔵庫からそれらを取り出し、まずシチューを深めの皿によそって三分間、電子レンジで温めたあと、鮭やウインナーも加熱して卓に持ってきた。新聞からは香港情勢の記事を読みながらものを食べる。母親はタブレットで(……)さんから送られてきた(……)ちゃんの動画を見せてくれた。「(……)のばあばは?」とか「(……)のじいじは?」などと訊かれるのに対して、皆の名前を答えているもので、母親はそれを見て賢いね、と感心していた。また、今日こちらが医者に行くということを彼女は知っており、それで先生にロシアのお菓子を持って行ったらと提案してきた。こちらはどちらでも良かったのだが、適当に返答しているうちに母親は冷蔵庫に入っていたチョコレートを取り出して、保冷剤とともに袋に入れて用意してくれたので、折角だから持って行くことにする。食後、食器を洗い、風呂も洗って部屋に帰ってくると、FISHMANSCorduroy's Mood』を流し出し、前日の記事の記録をつけたりしながら歌を歌った。"あの娘が眠ってる"と"むらさきの空から"は非常に良い。その後、正午を回ったところで今日は先に書抜きをこなしてしまうことにして、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の文言をコンピューターに写した。その時のBGMは『Art Pepper Meets The Rhythm Section』である。書抜きも毎日少しずつやっていかないといつまで経っても終わらない。それから(……)さんのブログも二日分読み、その後少々だらけたあと、『Art Pepper Meets The Rhythm Section』をもう一度冒頭から流してこの日の日記を書き出した。
 日記は午後二時過ぎまで書き続けた。その後、Twitterを閲覧しながら歯磨きをしたあと、上階に行って洗面所に入った。髭を剃るためである。天井の電灯と洗面台に取り付けられた明かりと両方を点けて、電動の髭剃りで口の周りや顎を当たった。うまく剃りきれずに残った細かな毛は鋏で短く切っておき、ついでに眉毛の上端で余計にはみ出した毛も切り揃えた。そうして次にベランダに出て、足拭きマットや毛布を室内に取り込んでソファの上に広げておいた。それからボディシートで身体を拭いたあと、エアコンの入った自室へ戻って、"あの娘が眠ってる"を歌いながら仕事着に着替えた。時刻は二時半頃だった。出発までのあいだは(……)さんにダイレクト・メッセージの返信を綴った。五月くらいからTwitterSkypeで様々な人々と交流を持っていることについて、「数年前の自分が知ったら驚き、ことによると軟弱だとして軽蔑するかもしれない社交ぶり」だと笑いを添えて報告しておいた。メッセージを送るとFISHMANS "忘れちゃうひととき"を流して歌う。「用もなく 用もなく 歩く このひととき/言葉にならないで いつもどっかいっちゃうんだよ」という詞が良い。歌を終えるとリュックサックを持って上階に行き、トイレで排便したあと、ハンカチを持って出発した。
 陽射しが厚い。近所の(……)さんが家の横の林の縁、草の茂ったなかでドラム缶に火を焚いて、木枝か何かを燃やしていた。煙が朦々と立ち昇り、白い煤が宙を渡ってこちらの方にも飛んでくるなか、こんにちはと挨拶した。もう少し進むと日向に出て、眩しさに思わず目が細まり、百日紅の色も定かに見えない。坂道に入ると速歩き気味に上って行ったので、熱狂的に盛った陽射しのなかを通り抜けて駅のホームに着く頃には汗だくになっていた。空に雲はほとんどなく、これでもかというくらいの晴天だった。手帳を取り出すとまもなく電車のアナウンスが入ったので、東風の流れて涼しいなか、ホームの先の陽射しのなかへ歩いていき、乗車したが、冷房のなかでも汗がすぐに引かないのでハンカチを取り出して首筋を拭った。(……)で乗り換えである。乗り換え先の電車は間を置かずすぐに発車だったので、今日は先頭の方に移らずにすぐ目の前の車両に乗り込み、扉際で手帳を広げた。優先席に観光客らしい白人のカップルが座っていた。
 (……)で降車し、駅を抜けて線路沿いの日蔭のなかを行く。クリニックのビルに到着すると入って階段を上った。待合室に入ってみると今日はかなり混み合っていて、席はほとんどいっぱいに埋められ、空きがほぼ見当たらないくらいだった。診察券と保険証を受付に出し、かなり混んでますねと呟いて、どのくらいですかと訊くと、一時間くらいですかねえとの返答があった。そうして辛うじて空いていた席の一角に就き、ここまで混んでいるとこのあとに図書館にでも行って日記を作成するつもりだったがその時間があまり取れなさそうだというわけで、この待ち時間を利用してメモを取ることにした。まず九月二日の事柄で思い出した一事を手帳にメモ書きしていき、そのあと、この日のことを綴っていった。客のなかに幼い子供を連れた人が多いのが今までに見られなかったこの日の珍しい特徴だった。やはり夏休みが終わって学校が始まったことと関係があるのだろうか。
 メモを現在時まで追いつけると確かにちょうど一時間ほどが経っていた。手帳を仕舞い、目を閉じて首をゆっくりと、何度も回して筋をほぐした。そうしているとまもなく呼ばれたので、返事をしてリュックサックを持って立ち上がり、扉に近寄って二度ノックしたあと開けて、こんにちはと言いながら診察室に入った。革張りの椅子にゆっくりと腰掛けると、いつものように調子を問われるので、まあ変わらず良いと笑う。――夏期講習はそろそろ終わりですかね。――そうですね、もう終わりました。講習中はそこそこ忙しかったですけれど、もう落ち着きました。――そこそこ、という感じでしたか。――今年はまあ……教室長の方も、手加減してくれたと言いますか。
 ――それで、八月の前半から半ばに掛けて、ロシアに行って参りました。――ロシアに(と先生は目を見ひらく)。――兄が向こうに赴任しておりまして。家族三人を呼んでくれたんですね。――ご家族で行って来られた……モスクワですか。――モスクワです。――お兄さんはもう何年くらいあちらにいらっしゃるんですか。――二年くらいですかね。――それでいつ頃まで。――……来年ですかね。――じゃあ三年ほど……そうですか……ロシアは……自由なんですか。いや、自由というか……ソ連時代のような感じではないわけですね。――空港では特に問題なく通れたんですけれど、外国人はやはり滞在登録みたいなものが必要なようで、兄の家に泊めてもらったんですけれど、それとは別にホステルみたいなところに行って登録をするようでした。それで、実際には兄の家に泊まっていたんですけれど、登録上はそのホステルに停まっている態にする、という形で。
 ――と、そのような話をしたあと、先生は薬のことに話題を移して、前回減らしたんでしたねと確認する。今回はこのままで行きますか、それとも減らしたいですかと訊くので、減らせるようなら減らしたいですとこちらが答えると、まあアリピプラゾールを減らすかどうかなので、六ミリだったのを三ミリにしてみましょうか、ということになった。これで服用量は、セルトラリンを朝夜二粒ずつで一日四錠、それに三ミリグラムのアリピプラゾールを夜に一錠となる。順調である。それで了承し、椅子を立つと扉に近寄り、失礼しますと先生の方に頭を下げて、そうして退出した。
 ちょっと待ってから会計を済ませると(一四三〇円)、受付の女性職員にもありがとうございましたと礼を言って待合室を抜け、階段を下りてビルの外に出ると隣の薬局に入った。処方箋にお薬手帳、それに保険証を渡し、呼び出し番号の記された紙を受け取って席に就く。手帳を読んでいたが、呼ばれるまでにさほどの時間は掛からなかった。立ち上がってカウンターに寄り、女性局員と定型的なやりとりを交わして金を支払い(一九七〇円)、薬局をあとにした。空気にはまだまだ熱が籠っていた。それでふたたび線路沿いに出て建物の影のなかを行き、駅前の日向まで来ると目を射る眩しさに瞼の隙間を細めて瞳を守り、それから階段を上った。腹が減っていたのでコンビニでおにぎりでも買って食べようかと思っていたのだが、たまにはロッテリアに行ってハンバーガーでも食べるかという気分になりつつあった。その考えが思いつくと同時に、元々図書館で書き物をしようと思っていたのだが、わざわざ館に移動せずともロッテリアで食事を済ませたあとそのままその店内で書き物をすれば良いのだということに気づき、そうすることにした。労働に間に合うためには、五時半ぴったりの電車に乗らなければならない。現在は五時直前で、僅かな移動の時間も取りたくはなかった。図書館に行ったのに席が空いていなかったりすればそれでまた余計な時間を食ってしまうので、その観点からしても最初からロッテリアに行っておくのが良いだろうと思われた。そういうわけで、高架歩廊に出ると左方の階段を下った。下の道では核兵器廃絶団体らしき高齢の人々が署名を求めており、なかの一人はロッテリアの前で覚束ない演説をしていた。こちらは道路を縁取る柵を跨いで越えて道を渡り、そちら側の柵も跨ぎ越してロッテリアに入店した。カウンターに寄り、メニューを見たあと、エビバーガーとバニラシェーキを注文した。六〇〇円だった。エビバーガーはすぐに出来たが、シェーキは時間が掛かるらしく、ごめんなさい、お届けしますねとの言とともに番号札がトレイに乗せられたので、ありがとうございますと言ってバーガーのみが乗ったトレイを持って席に行った。窓際のソファ席である。それでコンピューターを取り出し、ものを食べはじめるのはシェーキが着くまで待つことにして、日記を書きはじめた。しばらくして飲み物がやって来たので礼を言って受け取り、口をつけると、コンピューターを脇にどかしてエビバーガーを貪った。そうして食べてしまうとシェーキを啜りながら打鍵を続け、五時二〇分を過ぎたところで切りとしてコンピューターを仕舞い、トレイやゴミを片付けて退店した。ふたたび柵を跨ぎ越して通りを渡り、駅に向かって、改札を抜けてホームに降りると、電車までは五分の猶予があった。ホームに立ったまま手帳を取り出して眺め、しばらくしてやって来た電車に乗り込み、リュックサックを背負ったまま座席に腰掛けて到着を待った。(……)に着くとちょっと待ってから降車して、職場に向かった。
 (……)
 七時四五分頃に退勤した。(……)行きの発車が迫っていたが急がず次に乗ることにして悠々と歩いていき、(……)方面から来た電車から降りてきた乗客たちが流れてくる通路の端を通ってホームに上がった。そうしてこの日も自販機に寄って、SUICAを使ってコカ・コーラを買い、ベンチに座ってゆっくりと、一口ずつ間を置いて飲んでいく。飲み干すとボトルを捨て、席に戻って手帳にメモを取りはじめた。こちらの座っているベンチの端には、(……)で見かけるのは珍しいが、黒人の人が就いていた。こちらの背後、ベンチの反対側には共通の運動着を纏った中学生らしきグループが集まっていたのだが、その黒人が中学生たちに、サッカー? とか、今、中学生? とか話しかけていた。子供たちはいくらか困惑した様子で、イエス、とか、言葉少なに答えていた。
 (……)行きが来ると乗り、引き続きメモを取って到着を待ち、最寄りに着くと降車した。降りて視線を上げた瞬間に、西の空に浮かぶ細い三日月の白さが目に入った。その右斜め下には星の光も一つ引っ掛かっているのだが、それに焦点を合わせても遠近感が曖昧で、遥か何光年の彼方に位置しているとはとても思えず、すぐ近間の空中に浮かんでいる羽虫のようにしか見えないのだった。
 駅を出て家路を辿り、帰宅すると、自室に帰ってコンピューターをリュックサックから取り出し、机上に据えておいて着替えると夕食を取りに行った。夕食が何だったのか、いまいち覚えていない。確か何かをおかずにして米を食ったような気がするのだが。鮭だっただろうか? ほかにも何かもう一品くらい、米と合わせて食べられるおかずがあったと思うのだが、明らかでない。まあ、何を食ったかなどどうでも良いことだ。こちらがものを食べている途中に母親が風呂に行ったので、食後、こちらは皿を洗って下階に下り、だらだらとしたあと、九時四七分から日記に取り掛かりはじめた。一〇時に至るとSkypeのグループで通話が始まったので、BGM的に聞こうかとミュート状態で参加したのだったが、やはり人の会話というのは意味があるからうまく聞き流すことが出来ず、同時に日記を書き進めることも難しかったので、そのうちにチャットで通話に本格的に参加した。一一時になったあたりで風呂に入ってくると言って一度自室を離れた。それで入浴して戻ってくると、(……)さんが通話に参加していた。初めてのことである。それでチャットで参加しながら通話を聞いていたのだが、そのなかで、ピエール・ギュヨタという新しい作家の名前を知ることになった。何でも、クロード・シモンとアラン=ロブ・グリエが揃ってメディシス賞に推したのだが惜しくも落選し、それに対する抗議でシモンとグリエは選考委員を辞めたとかいう逸話の持ち主で、彼の何とかいう作品はロラン・バルトが序文を書いたりもしていると言う。それは物凄いな、面白そうだなとウィキペディア記事を見てみると、二〇一八年にメディシス賞を取っている人だった。これでまた読んでみたい本が増えてしまったわけだ。
 零時半に至って人数が減ってから、マイクのミュートを解除して音声で参加した。(……)さん、(……)さん、(……)さんらとしばらく話し、一時に通話を終えたあと、ふたたび日記に掛かって九月二日の記事を書き進めた。三〇分強進めたところで、今日はもう疲れたなというわけでコンピューターを停止させ、ベッドに移ってハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』の二周目に取り掛かったのだが、例によっていくらも読まないうちに意識を落としてしまった。


・作文
 13:10 - 14:09 = 59分
 16:58 - 17:21 = 23分
 21:47 - 22:36 = 49分
 25:03 - 25:39 = 36分
 計: 2時間47分

・読書
 12:05 - 12:22 = 17分
 12:24 - 12:37 = 13分
 25:43 - ? = ?
 計: 30分 + ?

  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-29「捨て石を集めて投げる来世でもおれは負け犬鎖と無縁の」; 2019-08-30「梳る未来も過去もひとすじの流れに尽きて岸辺はいずこ」
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 7 - 14

・睡眠
 4:00 - 11:00 = 7時間

・音楽