2019/9/5, Thu.

 たとえAIを人間の心に近づけようと試みても、一体誰の心を基準にしたらよいかが分からないから、そもそも規格が定まらない。もし「朱に交われば赤くなる」のが人の心の常ならば、そんな心を実装して環境に染まってしまったAIは、メーカーが保証することができなくなるだろう。しかもAIが自己プログラミングを施すようになったら、いかに賢くなるか、あるいは暴走するかは全く予期できなくなるだろう。AIに自由意志を持たせることには、倫理的な問題が山積している。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、118; 酒井邦嘉脳科学から見た人工知能の未来」)

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 家 東大EMPの科学史の講義でお話ししたのですが、キリスト教では17世紀のアッシャー大司教が、聖書の記述を文字通りにとって、天地創造は紀元前4004年の10月22日の夕刻の出来事だったというやたらに詳しい算出をしています。ケプラーニュートンも似たような試みをしています。その種の世界像では、天地創造、つまり地球がつくられたのも、生物がつくられたのも、人間がつくられたのも、全部その時点からの同時スタートなんですね。
 ところが今の科学でわかっていることは、宇宙は138億年前にビッグバンで始まっているし、地球は大体46億年前、それから生命は大体35億~36億年前、というふうになる。人類の祖先に至っては、せいぜい20万年ぐらい前でしょうか。文明は数千年ぐらいですかね。(……)
 (180; 家泰弘・小野塚知二・橋本英樹・横山禎徳・中島隆博「倫理の語り方」)

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 橋本 家先生がまさに今おっしゃっていただいた、やっぱり説得力であるとか、常に仮説であるということは、かつての、いわゆる単純認識論的デ・ファクトがそこにあるという考え方を、もはや近代物理学はとれない、ということです。そこで、科学者同士の間で、ある一定のルールに基づいたコミュニケーションの中で、はじめて真実が常につくり上げられていく、絶え間ない努力の下でつくり上げられていく。そのときそのときの真実という形のものに、もしなってきているんだとすると、何ていうんだろう、家先生たちの世界の真実というものの議論と、なにかすごく相同性が高くなってきていると思います。
 中島 そうなんです。おっしゃるように、ある意味で社会とか共同体の問題が、科学の真理の問題にもう入り込んじゃっているわけですか。別に外になにか共同体とか社会があって、科学は特権的な仕方で真理にアプローチするというモデルでは、もうないわけですよね。科学者が構成する共同体や社会それ自体が、実は真理のあり方と関わっちゃっているわけです。
 橋本 一種のコミュニケーションモードとしての科学である。
 中島 そう。
 橋本 ある一つの真実というものに対する、言ってみれば価値観を共有した者同士で成り立つコミュニケーションモードの下で、常に真実というものがつくり上げられていく。
 (195~196; 家泰弘・小野塚知二・橋本英樹・横山禎徳・中島隆博「倫理の語り方」)


 一二時一〇分まで惰眠を貪った。今日は出来れば早めに起きて午前中のうちに医者に行くつもりだったのだが――木曜日は医院が午前しかひらいていないのだ――その計画は我が身の怠惰のために果たされなかった。ベッドを下りるとコンピューターに寄って起動させ、TwitterSkypeなどを覗いたあとに上階に行った。母親は昼食を取っているところだった。米がないので主食はパンだと言いながら、母親自身は海苔を巻いた餅を食っていた。こちらは一月二日の日記にも記したように、喉に詰まらせて死にたくないので、餅は一生食わないことに決めている。それで台所に入ってナメコとエノキダケの味噌汁を椀によそり、小松菜とハムを炒めたものも中皿に取った。そのほか生サラダがあり、またフランスパンを焼きなと母親が言うのに、パンを焼いてバターを塗ったりするのは面倒臭えなと思っていたのだが、母親がお構いなしにオーブン・トースターにフランスパンを二枚入れてしまったので、卓に就いてちょっとものを食べたあと、焼き加減を確認して取ってきた。テレビは『サラメシ』を映していた。新聞の社会面を覗くと、エマニュエル・ウォーラーステイン池内紀の訃報があった。後者の方は既に前日、Twitter上で多数の人が言及しているのを見かけていた。カフカの『城』なども、また読みたいものだ。食事を取り終えると、母親が前日に買ってきたパモキサン錠――ぎょう虫の薬――を服用した。一度に五錠も服用しなければならなかったので、一つずつ口に入れては水で流し込んでいった。それから食器を洗い、風呂も洗って自室に戻ってくるとコンピューターに寄り、しばらくTwitterを覗いたり、FISHMANSCorduroy's Mood』を流して歌を歌ったりしたのち、一時半からこの日の日記を記しはじめた。ここまで一〇分少々で綴っている。今日は地元の図書館に行って予約しておいた牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を借り、その後(……)に出て書店で町屋良平『愛が嫌い』を購入する。(……)さんの望みで、牧野信一に加えて町屋良平も二一日の読書会の課題書に追加されたのだ。後者も図書館で借りても良いのだが、どうも今貸出しされているところらしいので、手っ取り早く買ってしまおうと思ったのだった。
 それからcero "Yellow Magus (Obscure)"を流して口ずさみながら服を着替えた。下は例のオレンジ色のズボンを履き、上はGLOBAL WORKのカラフルなチェック柄のシャツを久しぶりに身に着けた。そうしてコンピューターをシャットダウンし、リュックサックに荷物を整理して上階に上がった。すると、母親が一〇〇〇円貸してくれと言う。祭りの手伝いをしてくれた(……)さんと(……)さんという人に礼金を差し上げるのだが、細かい金がないらしい。それで一〇〇〇円を渡し、母親が支度をするのを待ちながら、ソファに就いて手帳を眺めた。彼女も図書館に行くと言うので、車に同乗させてもらうことにしたのだった。母親は例によって、眼鏡がないなどと言って辺りを探し回ったり、着ていく服に迷って着替えたりとぐずぐず時間を掛けていた。そのあいだこちらは手帳に目を落とし、瞑目して読んだ事柄を一つずつ頭のなかで反芻していた。そうして母親の支度がようやく整う頃には、二時二〇分頃に達していた。玄関に行き、そこにあった雑紙の入った紙袋を持って扉を抜け、駐車場脇の物置きに入れておく。そうして母親が出てくるのを待ち、車を出してもらって助手席に乗り込んだ。
 初めに向かったのは(……)さんの宅である。坂を上って行き、平らな道をちょっと行ってから左の上り坂に折れたところで車は停まった。母親が戸口でIさんとやりとりをしているあいだは、こちらは手帳を取り出して目を落としていた。それから今度は、(……)さんの宅に向かう。坂を上りきったところで左折して細い道に入って行くのだが、このあたりが(……)さんの家だろうとこちらは呟いた。(……)しかし、辺りに並んでいる家のなかのどの宅が件の(……)さんの家なのかはわからなかった。(……)さん宅の前に車は停まり、母親は降りて行って戸口に向かい、こちらは手帳を見ていたが、母親はすぐに戻ってきた。どうも不在だったらしい。
 それでふたたび出発して、(……)の(……)図書館へと走る。市街を抜けるあいだ母親は、仕事を始めてから家にいるのがますます嫌で仕方がない、仕事がない日はあったら良いのになあと思う、それなので週三日に増やそうかとも思うというような話をした。仕事を辞めてからそのありがたみがわかったね、とも呟き、そのように労働を称揚するような価値観にはこちらは馴染んでいないのだが、まあやり甲斐を感じられて人生に張り合いが出ているのだとしたらそれは良いことだと思う。母親はある種、ワーカホリック的なところがあるのかなとも思ったが、こちらが忌避するのも仕事と言うよりは義務的な「労働」の方なのであって、「仕事」ということで言えば、自分としては毎日このように書いている日記だとか本を読むことだとかがこちらにとってのそれだと認識しており、毎日読み書きをすることに苦痛を覚えないどころかそれこそが生の主要目的だとすら信じているので、そういう意味ではこちらも大概ワーカホリックなのかもしれない。義務的な「労働」に関しても、昔よりはよほど慣れたと言うか、実際のところ今ではそこまで忌避してもおらず、金を稼ぐこと以外にも人間たちのあいだに入って人々との交流を保つという点で一定の意味合いはあるという考えに至っている。とは言え、やはり働かなくて済むならばなるべく働きたくはないというのが正直なところでもあるのだが。(……)駅付近に近づいた頃、消防署の前あたりの位置だったと思うが、母親はもう一度、週三日に仕事を増やしたい気もすると言って、どう思うかとこちらに問いを差し向けて来た。しかしこちらとしては本人がやりたければやれば良い以上の感想がないので、知らねえよ、好きにしろ、と冷淡に突き放し、特にどうも思わないとすげなく払った。何故こちらがいちいち助言を与え、母親の肩を押してやらなければならないのかという話だ。
 それで、(……)から今は(……)に変わったビルの上層にある駐車場に入り、車から降りると大きく背を伸ばし、狭い座席に押しこめられて固まった身体をほぐした。それから母親と連れ立って歩き出し、ビルのなかに入ってエスカレーターを一階分下りて、図書館や(……)のあるビルの方に繋がる上空通路を渡った。渡る際に外に広がる駅前の景色に目を向け見下ろしたが、さほどの不安や怖さは感じなかった。(……)の前を過ぎる際、母親は、垢擦り三五〇〇円だって、などと張り紙に注目していた。エレベーターの一方がちょうどひらいて人が入り、下りて行くところだったが、こちらは急がず鷹揚な足取りを保って扉が閉じるに任せ、もう一方のエレベーターのスイッチを押した。そうしてやって来たエレベーターに乗り、二階まで下りて出ると図書館に入館した。カウンターに寄って、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を返却したあと、CDの棚を見に行こうとしたが、そこで予約図書を借りるのだったと思い出してカウンターにふたたび近寄り、予約している資料がありましてと図書カードを差し出した。それで牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を借り、それからCDの棚を見に行き、ロック/ポップスの区画の端をちょっと冷やかしたが、目ぼしいものもなさそうだったので雑誌を見ている母親の脇を通って上階に上がった。新着図書には、クリストファー・ブラウニング――という著者名だったと思うが――『普通の人々』が見られた。ちくま学芸文庫の本で、ナチス時代に「普通の人々」がどのように無意識の内に政権に加担したのか、というようなことを論じているものだと思う。これはまさしくこちらの興味のど真ん中を撃っている著作であり、いずれ読まなければならないことは当然であり、先日、(……)くんとの読書会のあとに行った淳久堂で買ってしまおうかとも思いつつも見送ったのだったが、図書館に入荷されるとは好都合である。ほか、アーサー・ウェイリー版の『源氏物語』の翻訳の四巻目があったりして、こちらも是非とも読んでみたい。
 新着図書を確認したところで、ほかに何か借りるつもりはなかったので便所に行って放尿した。個室からは何かの音声が流れ出していた。誰かがスマートフォンで動画か何か見ているのだろうか。何か着物についての番組といったような趣だったのだが、あるいはもしかすると、手続きをするのが面倒臭い横着者が、DVD再生機を持ち込んで図書館のDVDを不法にトイレで視聴している、というようなことだろうかとも推測したが、真実は知れない。放尿を済ませるとハンカチで手を拭きながら室を抜け、階を下り、退館して歩廊を渡って駅に入った。ホームに下りて端の方にあるベンチに就き、牧野信一の本をちょっとめくってみたあと――小説だけでなくてエッセイの類も三篇収録されていた――手帳を取り出して書いてある事柄を復習した。じきに電車がやって来たので乗り、七人掛けの端に就いて手帳を見ながら(……)までの時間を過ごしたが、頭のなかで読んだ文言を反復するために目を閉じていると眠気が薄く生まれて籠り、脳内の思考があらぬ方向に遊泳していくのだった。
 電車内はかなり空いていた。(……)に着くとしばらく待って人々がいなくなってから降り、階段を上った。一・二番線ホームから上ってすぐ左側にはおにぎりの店があって、ここのおにぎりを以前からちょっと食ってみたいと思っている。それを横目に過ぎ、改札を抜けて群衆の一片と化しながら北口広場へ出た。広場では高齢の人々が何かの演説をしたり、チラシの類を配ったりしていたが、何について訴える活動なのかは確認しなかった。伊勢丹の横を通り抜け、歩道橋を渡る際、車椅子に乗った女性が向かってくる人々を避けるのに苦慮しており、大変だなと思った。こちらは後ろから邪魔にならないように距離を大きめに取って追い抜かし、そうして高島屋に入館した。エスカレーターを上って六階の淳久堂に入り、まず思想の区画の新着棚を見たが、大方既に見たことのある著作だった。その向かいにはみすず書房の著作が揃えられていたり、書物復権シリーズの本が並べられていたりして、みすず書房の本たちのなかに、やはりナチス時代のドイツ人民について書いたような書物が一つあったと思うが、著者名も書名も忘れてしまった。それから二つ隣の通路に移って、ドイツ史の著作を見分した。勿論関心はナチス時代やホロコーストについてで、興味深いものはいくらもあるのだが、どれもやたら高い。ラウル・ヒルバーグのホロコーストについての著作など多分界隈では古典的な著作として扱われていると思うのだが、上下巻で一巻六〇〇〇円以上もする。こんなものをいちいち買っていたらいくら金があっても足りない(……)通路を抜け、日本の文芸の区画に向かって町屋良平『愛が嫌い』を取りに行ったのだが、これが棚に見当たらなかった。それでオリオン書房の方に行ってみるかというわけで早々に淳久堂書店を退出し、エスカレーターで下りて行ってビルを抜けた。高架歩廊を辿ってオリオン書房の入っているビルに入ると、HMVからどうでも良い、毒にも薬にもならない類のジャパニーズ・ポップスが流れ出ている。その横を過ぎてエスカレーターを上り、オリオン書房に入ると日本文学の棚を見に行った。ここには『愛が嫌い』は無事に見つかったので棚から抜き出して保持し、次に壁際の海外文学を見分した。ジョイス・マンスールの新しい翻訳らしきものが平積みされていた。棚を結構じっくりと見分してから今度は思想の区画に移ったが、ここは平積みされている新着図書をさっと見るのみに留めて、余計なものは買わずにさっさと喫茶店に行こうというわけで会計に向かった。一七八二円を支払ってエスカレーターに乗り、本をリュックサックに収めながら一階下りたところで便所に行った。何だか腹の調子が良くなかったのだ。個室に入って糞を垂れてみると、やや下痢気味の柔らかいものだった。尻の穴をよく拭き、立ち上がって水を流すと室を出て手を洗い、ハンカチで手を拭いながら外に出て、ビルを退出した。高架歩廊を辿っていき、歩道橋を渡ったところで左折して階段を下り、下の通りに出ようとすると道を自転車が結構な勢いで走ってきて通り過ぎて行き、危うく当たりそうになったので、危ねえなと思った。こちらは基本的に急ぐとか焦るとかということがないので、あのように周りもあまり見ずにスピードを出して走る人間の心持ちがよくわからない。それからビルのあいだの薄暗い路地を抜けて表通りに出て、(……)に入った。ポケットに手を突っ込んでカウンターの前を通り、階段を上がって、カウンター席にリュックサックを置くと財布を取り出して下階に戻り、アイスココアを注文した。Mサイズは三三〇円である。礼を言って品物を受け取り、階段を上がってカウンター席に入って、ココアの上に乗せられたクリームをストローで掬い取って食い、褐色の液体も一口飲むとコンピューターを取り出し、この日の日記を書きはじめた。時刻は四時半だった。その時店内に掛かっている音楽が、なかなかソウルフルで好感触なものだった。サビの最後で"I know, she knows"と強調して歌っていたので、多分これを手掛かりに同定出来るのではないか。帰宅後に検索してみるつもりだ。(……)は全体的にわりあいに音楽のセンスが良い。日記をここまで綴るとおおよそ一時間が経って、五時半が迫っている。
 それからさらに一時間打鍵を続け、九月一日の記事を完成させたところで作業を切り上げることに決めて、トイレに行った。放尿してから出てくるとコンピューターをシャットダウンし、腕時計を手首に戻し、リュックサックに荷物を入れて勢い良く背負い、氷の溶けたグラスの乗ったトレイを持って返却台に置いておき、近づいてきた女性店員に礼を言って階段を下った。一階のカウンターの向こうにいた女性店員にも会釈を送って退店し、居酒屋の客引きたちのあいだを抜けて裏道に入り、「(……)」に行った。豚骨つけ麺というものを初めて試してみることにした。七五〇円である。さらにトッピングに葱を選んで合わせて八五〇円を払って食券を入手し、サービス券とともに近づいてきた若い男性店員に差し出して、サービス券は餃子を選び、つけ麺は中盛りに出来ると言うのでそうしてもらった。カウンターのちょうど曲がるところの一席に就くと携帯を取り出して母親にラーメンを食ってくるとメールで知らせておき、手帳を読みながら品物が届くのを待った。冷房がもろに当たるところで、やや肌寒かった。しばらくして、まず餃子が持って来られた。すると手帳を仕舞い、割箸を取ってかちっと音を立てて割り、餃子に醤油と酢を掛けて、まだ熱いそれを一個ずつ口に入れて行った。五個すべてを食べ終わった頃に、ちょうどつけ麺が届いた。中盛りでも結構麺の量は多く、その上にさらにトッピングの葱がどっさりと乗せられていた。膜が出来そうな濃い肉色のスープのなかにも葱がたくさん浮かんでいる。つけ麺というものを食いつけていないのでどういう作法が正解なのかわからないのだが、普通に麺を葱の下から引きずり出してスープにつけて啜った。味が濃くて結構美味かったが、如何せん普通のラーメンと違って麺が冷たいので食っているうちにスープの熱が減じて行って、これは何とかならないものかと思ったのだがそれもつけ麺というジャンルの仕様の一つなのだろうか。店内にはいつものように毒にも薬にもならない類の退屈なJ-POPが騒々しく掛かっていた。そのなかで一度、宇多田ヒカルが掛かったのが何となく毛色が違うように思われた。
 食事を終えて水を飲み干すと、長居はせずにすぐに立ち上がり、満たされた腹を抱えて退店した。階段を下りて道に出て、駅の方へ向かうと、(……)よりもよほど都会である(……)の、ビルばかり立っている駅の前でも、コオロギかアオマツムシか、秋虫の音が群衆のざわめきや車の音にも負けず辺りに響いている。駅前に僅かに立っている乏しい木々から懸命に声を放っているようだった。それを聞きながら階段を上って高架歩廊に上がり、広場を経由して駅舎に入り、群衆のなかの一片となって改札をくぐった。直近の(……)行きは五番線だったが、座りたかったので二番線の後発に乗ることにしてそちらに向かい、ホームに下りると電車はまだ来ていなかったのでベンチに座って手帳をひらいた。しばらくしてやって来た電車に乗り、七人掛けの端に就いて偉そうに脚を組んで引き続き手帳を眺めていたが、発車してちょっと経つと電車の揺れに感応して眠気が身内から浮かんで来て、残りの道中は大方意識を曖昧にしていた。(……)に着いてもすぐには降りず、目を瞑り、横の仕切りに頭を凭せ掛けてちょっと休んでから降車した。ホームを歩いてベンチに座り、目の前に停まっていた(……)行きが出てしまって辺りが静かになると、携帯電話を取り出して(……)さんに電話を掛けた。(……)さんというのは大学時代にバンドを組んでいた仲間の人である。出会った時に四〇手前だったはずなので、今はもう四〇代も後半に掛かった頃合いかと思うが、仲良くさせてもらい、三年くらい前に一度会って、こちらの体調が悪くなりはじめていた二〇一七年の年末にも連絡をくれたのだった。もう随分と会っていなかったし声も聞いていなかったので、久しぶりに顔を合わせたいと思って電話をしたのだったが、その(……)さんはコール三回くらいですぐに応答した。お久しぶりです、(……)ですと挨拶をすると、書いてるのと来るので、書いてますと答える。(……)さんの生活はあまり変わっていないらしく、ドラムも続けていると言ったが、ただバンドは辞めて一人でやっているらしく、「山に籠っている」ようなイメージだと言う。こちらも、昨年はちょっと体調が悪くなって一年間休みを貰ったのだが、五月くらいから塾の仕事にも復帰して、相変わらずフリーターとして働く一方で書き物をやっていると話した。(……)さんはこちらの毎日の活動に感嘆らしき息を漏らし、もうだいぶ、自分の思うように書けるようになったでしょ、と訊いたが、こちらは、ああまあ、どうなんですかねえと煮え切らない答えを返した。作品を楽しみにしていると言う。こちらはもう小説作品を作る気はあまりないのだが、そのあたりは説明せず、苦笑で返した。それから、俺、彼女出来たのよ、と(……)さんは言った。以前は結婚していたのだが、その後離婚してそれ以来独り身だったはずだ。それで、このあいだ井の頭公園に行ってボートに乗ったのね、そこで(……)くんのことも思い出して――と言うのは、もう何年も前にやはり我々も男二人で井の頭公園のスワンボートに乗ったことがあるからだが――そんな話もしたんだけど、と言う。今何歳かと訊かれたので、二九だと答えると、(……)さんは、もうそんなになるのかと大層驚き、だって会った時、二〇歳くらいじゃなかったと訊くので肯定した。三〇も目前になりながら、未だにフリーターで親元に置いてもらっている身ですよと自嘲すると、まあでも、今はもうそんなの関係ない時代だからね、気にしなくても良いよと(……)さんは言った。
 彼は今、休暇で神津島というところに訪れているらしい。今検索してみたところ、伊豆諸島のうちの一島らしい。それで土曜日に帰ってくるので、そのあとにまた連絡するよと(……)さんは言うので、了解して、お願いしますと言って通話を終えた。それから手帳をひらき、読むのではなくて今日のことをメモに取って行きながら電車を待ち、来ると乗り込んで座席で引き続きメモを取って最寄り駅に着くのを待った。着くと降りて駅舎を抜け、暗闇の浸透した坂道を行きながら、岸政彦のやっている「聞き書き」を、(……)さんを相手にやってみたいなと考えていた。インタビューのような形でこれまでの人生行路をたっぷり語ってもらい、それを録音して発言を編集せずにすべてそのまま文字起こしして日記に載せるというような計画だ。そう考えると、(……)さんについて、こちらは意外とあまり知らないぞということに気がついた。若い頃にアメリカを横断する旅のようなことをしていたり、バンドをやっていてデビュー寸前まで行ったというようなことは知っているが、そもそも出身地すら、聞いたのかもしれないが覚えていない。(……)さん相手でなくても良いが、「聞き書き」という試みはいずれ是非ともやってみたいところだ。
 帰宅するとカバー・ソックスを脱いで洗面所の籠に入れておき、下階に戻ってコンピューターを机上に据えた。パンツと肌着のシャツ姿になってTwitterを覗いたり、FISHMANSを歌いながら九月一日の記事をインターネットに投稿したりしたあと、九時に至って日記を書き出そうとしたのだが、そこで(……)で耳にした音楽のことを思い出し、検索を始めた。"I know she knows"でそれらしい曲がすぐに出てくるだろうと見込んでいたのだが、ところがちっとも聞き覚えのある曲が出てこなかった。lyrics searchで調べて出てきたサイトをいくつか活用して、候補曲のタイトルを別のタブでまた検索して片っ端から聞いてみたのだが、全然目的の音源に当たらなかった。挙句の果てに、「(……) BGM」などで調べて情報を求めてもみたが、それで出てくるはずもない。結局、あの曲が誰の何という音源だったのかは不明なまま諦めて、風呂に入ろうと上階に上がった。父親がもうそろそろ帰ってくると言うので、入浴はさほど時間を掛けずにさっと済ませ、戻ってくると一〇時過ぎ、この日の日記の続きに取り掛かった。ここまで綴って一一時前だが、こんな調子ではいつまで経っても溜まっている日記の負債を返しきることが出来ない!
 そのままさらに一時間、九月二日の日記を綴って、零時を回ったところでこの日の作文は切りとした。それから(……)さんのブログを読もうとしたのだが、コンピューターの動作がやたら鈍重になっていたので、一旦再起動を施した。それに時間が掛かりそうだったので待っているあいだはベッドに移って、ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』をちょっと読み進め、しばらくしてからコンピューターの前に戻ってログインしたのだが、すぐにブログを読むのではなくてインターネットを回ってだらだらとしてしまった。それで(……)さんの日記を読みはじめたのは一時半前、二日分を読んで――こうして毎日二日分を読んでいけば、いずれは最新記事に追いつくはずだ――、その後、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きも少し行って二時前に至った。コンピューターをシャットダウンしてベッドに移り、ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』を読みはじめ、一時間ほどで最後まで読み終えた。感想や考察の類が生まれそうな気配がないでもないので、もう一度最初から読み返してみようと思っている。と言うかこの夜に早くも再読を始めようと思ったところが、読了して気が緩んでしまったのか、冒頭に戻らないうちにいつの間にか意識を失っており、気づくと四時に至っていたので明かりを落として眠りに就いた。


・作文
 13:31 - 13:44 = 13分
 16:28 - 18:26 = 1時間58分
 22:05 - 24:08 = 2時間3分
 計: 4時間14分

・読書
 25:23 - 25:33 = 10分
 25:36 - 25:52 = 16分
 26:00 - 27:00 = 1時間
 計: 1時間26分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-27「宝石を転がす舌で口にする合言葉よりたしかなものを」; 2019-08-28「化膿した母語の傷口瘡蓋を剥いて原稿用紙に並べる」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、書抜き
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 146 - 186(読了)

・睡眠
 4:00 - 12:10 = 8時間10分

・音楽

2019/9/4, Wed.

 宮本 それに対してオープンな、絶えず自分を新しくしていくナラティブもいろいろと考えられます。たとえば、死生学の渡辺哲夫さんのような、ナラトロジーのメソッドを用いる精神分析家に聞くと、日本の精神医療では、普通の精神分析医というのは患者さんに容体を聞くとき既に基準があって、この容体はこの基準に合っているからこの薬を出そうというのが多いみたいなんです。
 それに対して、ナラトロジーを使っている精神分析の場合は、ただひたすら相手の話を聞くわけです。渡辺哲夫さんに言わせると、ほとんどの統合失調症のナラトロジーの共通点は、自分は誰かに迫害されている、誰かに殺されるというのが基本的な筋だそうです。何度聞いても、手を変え、いろんな話の筋を変えて、同じような筋の話をするのです。ところがクライアントは、ある日突如として道を歩いていたら、誰か自分にほほ笑んだというような話をたまにするんだそうです。その言葉を、分析家はアンテナを鋭くして、逃さないようにして、相手に、「今日はあなた、ちょっと今までと違った話をしたね」と言うんだそうです。
 相手がほほ笑んだということを種にして、「新しい物語を作ってごらん」ということは絶対言わない。とにかく本人が新しい筋を自覚しなければならない。だからすごく時間がかかるわけですけれども、それをクライアントに言って、新しい自分の言葉とか、ナラティブを作っていくことで、新しい自分というものが成立してくる。そういうメソッドが精神分析学にも取り入れられているというわけです。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、92~93; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

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 宮本 喩え話は、抽象的な話じゃなくて、日常頻繁に起こるようなテーマを題材に取って作られたものです。「善きサマリア人の喩え」ですと、標高800メートルくらいのエルサレムからエリコという地上で一番低い都市まで下りていった人が、途中で追いはぎに遭って、半殺しの目に遭い、そこに捨てられた。そこに神殿の務めを終えた祭司と、レビ人という祭司に似たような人が来るけれども、死体に触れると穢れてしまうから、同胞愛よりも宗教的な穢れというものを重く見て、穢れないように半殺しの人を避けて通っていってしまったという話です。そこにサマリア人が立ち現れて、サマリア人というのはユダヤ人の敵なのですが、にもかかわらず、半死半生のユダヤ人を助けるという話なんです。
 (94; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 宮本 その言葉の力というものをさらに追っていくと、旧約聖書の神の名前に行き着きます。神の名前はエクソダス出エジプト記)に出てくるのですが、モーセが神の名前を尋ねると、神はエヒイェ・アシェル・エヒイェと答えました。エヒイェというのは一人称未完了単数です。アシェルというのは関係詞。エヒイェ・アシェル・エヒイェですから、エヒイェが二つあって、その真ん中をアシェルがつないでいるわけですから、これは翻訳不可能といわれている、歴史上、非常に難しい言葉です。
 エヒイェというのは未完了形ですから、たえず神が自分に自己完結しない、自分から出ていくことを意味しうるでしょう。では、このエヒイェ・アシェル・エヒイェは誰に向けられているかというと、エジプトの奴隷たちです。奴隷になっているヘブライの民。つまり、神にとって他者です。奴隷という二束三文の値打ちもない(もちろん奴隷というのはギリシャ・ローマ世界では財産なんですけれども)人たちは、エジプト王によって(この場合はファラオによって)ほとんど殲滅状態に置かれている。その他者に向かって神が自己から抜け出ていくという神の自己超出的構造を示しているわけです。その場合に、エヒイェという対他的エネルギーを体現しているのが神の助っ人として呼ばれるモーセという預言者であり、モーセの語る言葉も行為もエヒイェの体現であるわけです。
 (96~97; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 一〇時頃に一度覚醒したのだが、やはり午前四時近くまで夜を更かしているためか、身体が重く、起き上がれないままに切れ切れの夢を見ているうちに時間がするすると過ぎていき、一二時半を迎えたところでようやく呻き声とともに身を起こした。その直前、ちょっとした淫夢の類を見ていたようだ。それで股間が膨張していたので収まるのを待ちがてらコンピューターに寄って起動させた。Twitterを少々眺め、Skypeの方も覗いてから上階に行った。何となくうどんのような香りがした気がしたので、うどん? と問いながら階段口から居間に出たが、うどんではなくて茄子だと母親は答えた。台所に入ると、茄子と豚肉の炒め物、茄子の味噌汁のほか、調理台の上にはカレーパンやチョコレートのなかに仕込まれたパンの欠片、胡瓜を和えたサラダなどがあった。それらのうち、温めるものは温めて卓に移し、新聞を手もとに置いて食事を始めた。香港情勢についての記事や、APECの会合で韓国が日本批判をしたのに対し、議長国であるチリが韓国を嗜めたという報告であったりを読みながらものを食べたあと、水をコップに汲んできて抗鬱薬を服用した。セルトラリンももう二粒しか残っていなくて、普通に飲めば今回で尽きてしまうが、今日は医者に行く余裕はないので一粒のみを飲んだ。明日は労働がないので何とか午前中のうちに起きて医者に行かなければなるまい。
 母親の分もまとめて食器を洗ったあと、風呂を洗おうと洗面所に入ったが、すると母親が今洗濯をするからちょっと待ってくれと言うので、一旦下階に下りた。Twitterを覗くと(……)さん、(……)さんとのダイレクトメッセージ欄に(……)さんからの返信が届いていた。(……)さんの要望で、牧野信一に加えて町屋良平『愛が嫌い』を読書会の課題書に加えたいとのことだったのだが、(……)さんも二冊でも大丈夫ですと返答していた。こちらも二冊とも課題書にすることに異存はない。(……)
 FISHMANSCorduroy's Mood』を流して、"あの娘が眠ってる"や"むらさきの空から"を歌いながらこの日の日記を書きはじめていると、母親が部屋にやって来て、風呂を洗ってくれと言う。加えて、布団を車に運んでくれとも言うので、"むらさきの空から"を口ずさみながら部屋から出て両親の寝室に向かい、柿色の布団を身体の前に抱え込んで階段を上り、玄関を出て車の後部座席に運び込んだ。それから戻ると風呂を洗って、便所に入って糞を垂れたあと、下階に帰って"むらさきの空から"をもう一度歌い、そうしてArt Tatum『Piano Starts Here (Gene Norman Presents an Art Tatum Concert)』とともに日記の続きに取り掛かった。ここまで綴ると二時二〇分である。Twitterで(……)さんに近況を伺うダイレクトメッセージを送っておいた。
 そのまま九月一日の日記に入っても良かったのだが、何となく今日は先に(……)さんのブログを読んでおこうという気になって、八月二五日と二六日の二日分を閲覧した。それからしばらくだらけたのち、三時半頃からふたたび日記に取り掛かって九月一日の記事を進めている途中、Twitterを覗いてみると(……)さんという方が、交通事故で嗅覚を一時的に失った人間がそれを取り戻しはじめた時の記述として、次の文章を紹介していた。「そして匂いがひたひたと戻ってくるにつれ、着いたときには嗅覚環境が白紙だったニューヨークという街に、今まで見えなかった意味の層が現れた。街が新たな意味を持って脈打ちはじめたのだ」。この引用文がなかなか良いように思われたので、リプライを送って、よろしければ何という本からの引用なのか出典を教えていただきたいとお願いした。返信はすぐにあり、村田純一『味わいの現象学』からの孫引きだという言が送られてきた。さらに引用元は、モリー・バーンバウムという人の、『アノスミア――わたしが嗅覚を失ってから取り戻すまでの物語』という著作だと言う。大元の本は初めて知るものだったが、村田純一『味わいの現象学』の方は(……)の淳久堂書店の思想の棚に、表紙を見せて置かれているのを見てちょっと気になっていた本だった。それから(……)さんと少々やりとりを交わしながら日記を書き続け、四時半で中断すると上階へ行った。書き忘れていたが、母親は昼過ぎ、ドラッグストアに出掛けていた。ぎょう虫を殺す薬を買いに行ったのだが、と言うのは、ロシアの(……)さんからメッセージが送られてきて、曰く、(……)ちゃんがぎょう虫検査に引っ掛かった、念の為(……)家の皆さんも薬を服用しておいた方が良いかもしれないと伝えられていたのだった。パモキサン錠というものがマツモトキヨシに売っているらしいが、一回五錠も飲まなければならないのだと言う。母親はそれを買いに行っていて不在だったので、居間で一人食事を取ることにして、醤油味のカップラーメンを用意した。それに加えて前日の残り物、薩摩芋と切り干し大根が入った小皿に、小ぶりのクリームパン一つを卓に運び、新聞の国際面に掲載された記事を読みながらものを食べた。林鄭月娥香港行政長官の板挟み状況についての記事があった。ロイター通信が伝えたらしいが、長官は先日、私的な会合のなかで、自分の思うように行動出来るのならば、まず深く謝罪して、それから辞任したいというような言を漏らしたと言う。勿論、表立ってはそんなことを言えないわけで、公式には否定するほかはないが、長官は中国政府と民意とのあいだで板挟みの苦しい状況に置かれているとのことだった。そのほか、アフガニスタンの和平に関してタリバンと米国が基本合意に達したとの報もあった。米軍が駐留人数を減らす代わりに、タリバンの方も一部の地域での戦闘行為を控えるという線で固まったようだ。
 食後、食器を洗っておくと階段を下り、食事の余韻も味わわずに洗面所で歯ブラシを取り、口に突っ込んだ。自室に帰ってコンピューター前で歯磨きをして、口を濯ぐと階段を上がって香りのついたボディシートを一枚取り、身体を拭ったあとに下階に戻って仕事着に着替えた。そうして玄関に行き、出発である。雨がそこそこの勢いで落ちていた。傘を差して階段を下り、ポストから夕刊を取って玄関内に入れておくと、扉を閉めて鍵を掛け、道に出て歩き出した。雨が降っているために林から蟬の声は一つも漏れ聞こえず、その代わりに鳥の声が雨に混ざって頭上から落ちていた。細かく歩を踏んで水溜まりを避けながら進んでいくと、(……)さんが自宅の車庫の前に出ており、もう老齢だと言うのに傘も持たず、雨に打たれるがままになっているのも意に介さない様子でいた。近づいていき、こんにちは、と挨拶すると、行ってらっしゃいと返ったので、はいと答えて坂に入った。
 駅に着くとホームの屋根の下で手帳をひらき、目を落とす一方で、汗が湧いて仕方がなかったのでハンカチを尻のポケットから取り出して、首の後ろなどに当てて水気を吸わせた。夕刻五時台に至ってもまだまだ蒸し暑さの残る残暑の期である。雨降りなのでホームの先には出ず、到着した電車の最後尾に乗り、手帳に目を集中させて窓の外も見ずに過ごした。プリーモ・レーヴィは『溺れるものと救われるもの』のなかで、「偶然が自分の前に運んで来た人間たちに、決して無関心な態度を取らないという習慣」を自分は身に着けていたと語っており、それがのちのち『これが人間か』を作り出すことにも――あるいはそもそもアウシュヴィッツを生き延びることにすら――大いに寄与したと思われるのだが、そうした態度こそがやはり作家という人間のあり方だろうと好感を持ち、自分もそうありたいものだと電車のなかで願った。
 (……)に着くとホームを辿り、階段を下りて通路を行く。改札の手前で外国人の青年が一人、そこそこ流暢な日本語でトイレの場所を尋ねていた。多目的トイレが目の前にあるものの、それが使用中だったのでほかの場所を尋ねていたのだと思うが、随分焦っているような様子だったので、よほど我慢していたのだろうか。青年がうろついているあいだに多目的トイレが開いたのは見たが、それ以上は通り過ぎて確認できず、改札をくぐって職場に行った。
 (……)
 (……)
 (……)退勤した。雨は止んでいた。駅に入って改札を抜け、ホームに上がって発車間近の(……)行きに乗り込んで、扉際に立った。ここでは手帳を取り出さずに車内の人々に目を向けたりして時間を過ごし、最寄り駅に着くとクラッチバッグと傘を右手に提げて降りた。ホームを歩き、屋根の下に入ると自販機に寄ってコーラのスイッチを押し、SUICAを当てて炭酸飲料を購入し、ベンチに座った。辺りに響き重なる秋虫の音のなか、手帳を見ながらコーラをゆっくりと飲み込んで、ボトルを捨てると駅舎を抜けた。
 帰宅すると母親に挨拶して階段を下り、自室に入って服を脱ぐとともにコンピューターを起動させた。Skypeにログインするとグループ上で(……)さんからの不在着信が何度か掛かっていた。それで、今労働から帰ってきたところですと発言し、飯と風呂を済ませて来ますと伝えると、一時間後にまた電話を掛けますとのことだったので了承し、上階に行った。時刻は八時を過ぎた頃合いだった。夕食は納豆炒飯だと言った。納豆は白米の上に乗せて食うのが一番美味いと思っており、このように別の料理に混ぜて食うのはあまり好きではない。それで炒飯は頂かず、ナメコとエノキダケの味噌汁に生サラダのみ食べることにしてそれぞれ用意し、卓に就いた。テレビは録画しておいたものだろう、またあのおよそくだらない番組である『スカッとジャパン』が流れていた。それを背景にしてものを食べ終わった頃、母親が風呂に入らなきゃと言っていたが、先に入って良いかと希望を述べ、洗い物は彼女に任せて入浴に行った。いくらも浸からずに出て来てパンツ一丁で自室に戻ると、ゴミ箱を燃えるゴミとプラスチックゴミとの両方持って階を上がり、ゴミを一つにまとめて台所に置いておいた。そうして下階に戻ると通話の時間までいくらかでも日記を書き進めようというわけでキーボードに触れ、この日のことを書いているうちに約束の九時過ぎになって着信があったので、日記を中断して応答した。
 その後、(……)さんと、プリーモ・レーヴィについてガチガチの、それはもうガチガチの文学談義を交わしたのだが、九月八日に至った現在、この時の会話の内容の記憶は既に流星のように流れ去ってしまったし、こちらの述べたことは大方『これが人間か』の感想のなかに記してあるはずなので興味のある向きはそちらを参照して頂きたい。そのほか、クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会についても感想を交わしたが、これも省略だ! 省略、どんどん省略だ! この日のこのあとの事柄で印象に残ったことなどない! これでやっと溜まっていた日記の負債を返すことが出来た!


・作文
 13:41 - 14:23 = 42分
 15:27 - 16:33 = 1時間6分
 20:51 - 21:09 = 18分
 22:14 - 25:05 = 2時間51分
 計: 4時間57分

・読書
 14:24 - 14:50 = 26分
 25:11 - 25:37 = 26分
 25:40 - ? = ?
 計: 52分 + ?

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-25「産声とともに放った矢がめぐりめぐってこの背を射抜くのが死」; 2019-08-26「夢を見るのではないのだ夢が見るのだというのだ夢のお告げが」
  • 宇野重規「日本で進行する「静かな全体主義」への危惧」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019082900004.html
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 119 - 146

・睡眠
 4:00 - 12:30 = 8時間30分

・音楽

2019/9/3, Tue.

 宇野 (……)ベネディクト・アンダーソンですよね。要するに近代国家というのは何でできたかというと、ある種言語によって作られたわけです。
 中島 国語ですね。
 宇野 そう。決して自然なものではなく、むしろ作為的に作り出された近代語によって、その言語が支配する空間に所属する人々を、あたかも一つのネーションであると想像することが可能になった。そのような言語を普及させたのが、印刷術であるというわけですね。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、76~77; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 小野塚 日本では、漢語がまず知的な言語ないしは支配階級の言語として定着し、それに対して、やまと言葉が女性あるいは後宮の言語として、女性たちの文学とか恋愛とかの言語として使われるようになった。そういう二重構造が、近代になって翻訳を受容する過程でも続いていましたし、それは漢語に置き換える形でもって現在まで来ている。
 実を言うと日本の政治も、そうした二重構造をそのまま持っているんじゃないでしょうか。近代になって西洋の政治システムをいろいろな仕方で入れてきて、議会とか君主、政府、内閣、政党とか、それから民主制とか(共和制は確かになかなか根づかなかったかもしれないけれども)を入れてきて、それを全部、漢語でもって表現した。そういうものとしては現在でも確かに日本にあるとは思うんです。日本は立憲君主制の国であるといえば確かにそうなのかもしれない。
 だけど、日本の政治の実態は、それとはもうちょっと違うところで、やまと言葉で動いている部分もあります。忖度は、それ自体は漢語なんですけれども、人の心をおもんぱかって先に動いてしまうといったようなこととか、あるいは直近の上の人間にはこびへつらうんだけれど、直近の下の人間には非常にきつく当たるといったような、日本的な政治風土には、実を言うと、やまと言葉でないと語れないような政治というのがあって、日本の政治というのは、そういう意味では言語に対応して二重構造をなしているんじゃないのか。
 昔、経済でも、日本経済の二重構造論というのが盛んにあったわけです。日本経済というのは、表向きの重化学工業の大資本が成立している部分と、そうではない農業とか中小企業の分野と、全く違う産業構造をしているという議論があったんですけど、実を言うと政治も二重構造があるんじゃないのかという気がするんですけど、どうでしょう。
 宇野 そうではないかと思ってしまうところがありますよね。よく私は言うのですが、日本の政治家はなぜこう失言が多いのであろうかと。
 小野塚 彼らは日本語で考えているんですよね。
 宇野 というか、どこかしら公式の場では、それこそ漢語を使ってきちんとしたことを言わねばいけないという発想がある。しかし、それでは何となく言い切れない部分がある。言い切れない部分というのを内輪の世界で、和語の世界で語りたいという欲求がどうしてもある。しかし、それをつい間違えて公式の場で言ってしまうとえらいことになる。ある種の二重言語の使い分けの失敗が、日本における政治家の失言をもたらすという仮説を私は持っています。それなので、今おっしゃることは非常によくわかるんです。
 (82~84; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 この日のことは九月八日現在まだ何も記しておらず、メモもそこまで詳しく取ったわけではないので記憶の欠落が多い。覚えていない部分はどんどん省略して行こう。この日は昨日に引き続き、(……)さん、(……)さんが集まり、そこに(……)さんが加わって美術館に行く日だった。それでSkypeのグループ上に、今日もまた喫茶店でビデオ配信をしてくださいね、などという文言を投げかけていたのだが、そうすると一時四〇分頃から通話が始まった。原宿だか渋谷だかのTully's Coffeeにいるらしかった。こちらは、ビデオ通話にしておらずこちらの姿は向こうに届いていないにもかかわらず、イェーイ、見てる~? などと右手でピース・サインを作り、一人盛り上がってふざけた。じきに顔を両手で隠した(……)さんと(……)さんの姿が並んで映し出された。(……)さんの格好は(……)さんと似ており、ロングスカートを身に着けていたと思う。先日、声を拝聴した際にはちょっとふわりとした雰囲気の方のように思われたのだったが、その印象に相応しいような服装だったと思う。(……)さんは七月に会った際にも履いていたものだと思うが、クリームっぽい風合いの薄水色めいたスカートを履いていた。互いの印象を二人に尋ねてみると、(……)さんは(……)さんのことをおっとりしている美人だと言ったので、昨日のネタを引きずってすかさず、会いたい! と口にして笑いを取った。(……)さんも(……)さんのことを美人だと言うので、ここでも、マジで、(……)さんと会いたい、と冗談を投げかけると、昨日会ったじゃないですか、と呆れたような返答があった。
 通話の内容はほかに全然覚えていない。と言うか、大した話はしなかったはずである。(……)さんも三時半には東京を発たなければならず、あまり時間的猶予もないとのことだったので早めに終えたのだと思う。あとで(……)さんに聞いたところによると、(……)さんはいきなり通話が始まって困惑していたと言うか、全然知り合いがいないところに投げ込まれて当惑気味だったようなので、それはちょっと申し訳ないことをしてしまったなと思った。その後、通話からは一人ずつ抜けて行って、最後の一人になったかなというところでしかし(……)さんがまだ残っていた。それで、それから彼女とサシで、久しぶりに、五時まで三時間くらい話をすることになった。まず最初に聞いたのは、昨日耳にしたばかりの(……)さんとの関係のことだったと思う。昨日の夜、(……)さんとチャットした時には、「会う前からなにかおかしかった」と彼は言っていましたよと報告すると、(……)さんも、確かにおかしかったですねと肯定した。(……)さんが仕事に行っている時間を除けば、SkypeやらLINEやらでほとんど常に話しているような状態だったと言う。それでいて話題が途切れなかったとも言うし、以前聞いた話によると二人で実際に顔を合わせた際には図書館に五時間も滞在していたと言うので、よほど相性が合っているのだろう。ラブラブである。たまに(……)さんに会いに行くときは、始発電車に乗って行くと言う。キリンジの"朝焼けは雨のきざし"のなかにある、「君の部屋のベルを僕は鳴らすのさ/始発よりも早く愛を届けよう」という一節をこちらは思い出させられた。
 最近読んだ本の話もした。例によってこちらはプリーモ・レーヴィの『これが人間か』が素晴らしかったと告げ、そのほか、ホロコースト関連の文献を読んでいると話した。ホロコーストに興味を持ったのは何でなんですかという問いが寄越されたので、何故ということもないのだが前々から関心はあった、それについて何かしらのことは知らなければならないとは思っていた、そこに、大学の同級生とやっている読書会でルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読むことになったので、それに合わせていくらか読んだのだと説明した。また、その後、今はハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』を読んでいると言うと、(……)さんはハン・ガンは良いですね、大好きですと声を高めた。『回復する人間』が良かったらしい。最近は韓国文学がちょっとしたブームになっていますよねとこちらは漏らした。前日訪れた立川淳久堂でも、韓国文学を並べて特集した一角が見られたのだった。『八二年生まれ、キム・ジヨン』だったか、読んでいないので正確な題が分からないけれど、あれが何だかやたら売れたらしくて、それからのブームですよねとこちらは指摘した。また、(……)さんは最近中国のSFなども読んでいるらしく、ケン・リュウという人が好きだと言った。こちらも名前だけはどこかで聞いたことがあった。
 何かのきっかけで美術展の話にもなった。そう、(……)さんが最近読んでいる本としてマーシャル・マクルーハンの名前が挙がって、マクルーハンというとメディア論ですよね、ビデオ・アートとかも論じていますか、ナム・ジュン・パイクとか、と訊いたのを機に、ワタリウム美術館ナム・ジュン・パイク展を観た時のことを話し出したのだった。あれは二〇一六年のことですね、(……)さんが東京に来た時のことだ、と呟き、(……)さんという人については話しましたっけと問うと、詳しくは聞いていないようだったので、僕が日記を書きはじめるきっかけになった人ですと短く紹介し、その(……)さんとナム・ジュン・パイク展を見に行ったのが二〇一六年の一一月のことだと言うと、よく覚えていますねと驚かれたので、ちょうどドナルド・トランプが当選した時で印象に残っているのだと言って、一つのエピソードを紹介した。(……)さんはその来京の時、新宿のカプセルホテルに泊まっていたのだが、ラウンジのような場所にいたところ、テレビでドナルド・トランプの当選の報が流れはじめた、その瞬間周囲にいたホテルの客の外国人たち全員が一斉にテレビの方に視線を送り、画面を注視しはじめた、それを見て(……)さんは、今、世界史の瞬間に立ち会ったな、という感慨を覚えたのだと言う。そういう話を彼の口からも直接聞き、またブログの文章でも読んでいて印象に残っていたために、あれは二〇一六年の一一月のことだったとすぐに思い出せるのだった。その瞬間のことを綴った(……)さん本人の記述を下に引かせてもらおう。二〇一六年一一月九日のことである。

ホテルにいった。フロントにいき予約していたMですと告げてから、きのうとまるっきりおなじ手続きをタブレットでこなした。朝ルノアールに滞在しているあいだに連泊の予約をとっておいたので、それがきちんとできているのかだけ確認した。ロッカーの鍵を受けとったところでカプセルにはむかわずそのまま更衣室にいき、ジャケットとワイシャツを脱いだ。それから浴場そばの脱衣所にある螺旋階段をのぼって四階のラウンジにいき、中身の空っぽになっているコインランドリーの前にたってまずは清掃ボタンを押し、二分かかる事前清掃のそのあいだにリュックサックの中から汚れ物をまとめてとりだして先ほど脱いだばかりの白シャツといっしょにまとめ、清掃のすんだ機械のなかにぶちこんで金をいれた。洗濯と乾燥込みでたしか140分かかると表示された。そのあいだに風呂に入ろうかとおもったが、替えのパンツがなかったので、洗い物が終わるまでのあいだラウンジで過ごすことにした。適当な席についてパソコンを起動した。そうしてトランプ当選の報せにふれて硬直した。マジかよとなった。ほんのついさっきまでの、たのしくて充実した気持ちが一変した。うそだろ、うそだろ、と何度となくおもった。やがてラウンジのテレビでトランプについてのニュースがはじまった。パソコンから顔をあげてそちらに目をやると、おなじテーブルに腰かけていた日本人も、それから中国人も韓国人も、さらには別のテーブルでそれまで英語でぼつぼつとおしゃべりしていた西洋人も、おそらくはスペイン語らしいことばで電話していた男もフランス語をあやつるカップルも、みながみな手元のパソコンやらタブレットやらスマホやら雑誌やらからいっせいに顔をあげて、ききとれない日本語のニュースのほうにじっと視線を送り出した。世界史の瞬間だとおもった。民主党からは当然のことながら共和党内部からも批判されていた成金が声のでかさだけで世界でいちばん影響力のある国家の頂点にのぼりつめてしまった。おそろしく安っぽいフィクションの世界ではないかとおもった。仮にフィクションでトランプのような人物が登場し、過激な発言で注目をあつめて合衆国大統領にのぼりつめるというような筋書きがあったとしたら、われわれはきっとそれをフィクションだからの寛容なひとことを介してのみ受けいれることができるだろう。ところがこの現実はぜんぜんフィクションなどではないのだ。馬鹿なのではないかとおもった。おれたちはそろって殺したり殺されたりの殲滅戦にむかおうとしているのかとおもった。後世の歴史の教科書で人類がもっともおろかであった時代の人間としてわれわれはきっと糾弾されることになるにちがいない、というこのヴィジョンすらあまっちょろい、というのもそのヴィジョンにはいずれ人類がこの時代のあやまちをみとめて悔い改めるという未来が無条件に織り込み済みになっているからだ。現実がそう運ぶとはかぎらない、トランプ的なものがそのまま打ち倒されることなく世界の主流を占める価値観としてかがやきつづけるそんな未来だってぜんぜんありうるのだ、死ぬほど問題含みではあるが理念としていちおうは正しいとされている民主主義にとってかわるあらたな理念としてトランプ的なものが今後の世界史を通底しつづけることだってあるのだ。

 それでワタリウム美術館で観たナム・ジュン・パイク展に関しては、例えば「啓示の木」、あるいは「ケージの木」だったか? いずれにせよ、ジョン・ケージに対して捧げられた作品などがあったと話した。展示室の一角に樹木が生え伸びており、その周囲の足もとや枝先の空中にテレビが設置されて、それぞれ様々な映像を流している、という作品だったはずで、なかには一つ、確か坂本龍一が演奏か何かしている映像もあったのではなかったか。そういうものがあったり、最上階では、ヨーゼフ・ボイスとのコラボレーションのパフォーマンスを収めた映像があったりした、と説明した。ナム・ジュン・パイク展の感想と言うか、感想と言うほどのものでもないが、その日の日記で展覧会に触れた部分の記述を、長くなるけれど以下に改めて写しておこう。二〇一六年一一月八日の記事からの引用である。

 (……)カラフルに色分けされたチラシや壁に掲示されていた略歴を見ると、ナム・ジュン・パイクという人については何も知らなかったのだが、韓国に生まれ朝鮮戦争を逃れて米国に渡った人で、「フルクサス」に参加してジョン・ケージらとちかしくして、世界で初めてビデオアートを発表した人間だと言う。展覧会は、前半の時期は最初期のフルクサス時代の作品から、八〇年代までのものを取りあげていたようだが、その期間は一〇月で終わっており、いまは後半、九〇年代以降の歩みを辿っていた。それで二階はチラシによれば、「Room4: 1990- パイク地球論」との題が付いている。最初に気に入られたのは、題は忘れてしまったが(「ストーリー・ボディ」とかいう感じで、「ストーリー」という語が入っていたのは確かだと思われる)、細かく仕切られた多数の小枠のなかに、黒板にチョークで描いた子どもの絵のような記号がそれぞれ一つずつ入って並んだ絵画である。その整然とした配列を無造作に断ち切って数箇所に、複雑に配合された絵具が厚くなすりつけられていて、一箇所などはまるで木の洞のような質感を呈しており、秩序のなかに仕掛けられた侵犯の強さが鮮烈だったのだ。さらには、パイクの本領であろうと思われるビデオアートも勿論展示されていて、「時の三角形」という題だったはずだが(いま検索してみると、微妙に違って、「時は三角形」だった)、モニターを積み上げて高い壁を作り、種々の映像を映し出させるという、いかにもビデオアート然とした作品が見られた。素早く移り変わりながらまさしく機械的に反復され続ける映像はどれも少々毒々しいような、けばけばしいような色使いをされていて、ある種近未来的な想像力の安いPVめいたその配色は目に痛いようだが、その前に立ち尽くして、瞳の焦点を展示本体から手前に引き寄せて、虚空に停止させてみると、像がぼやけて無数の色彩の氾濫として溶けだした映像たちが、繰り返し幾何学的な波を作って立ち騒ぎ、麻薬の類を使って見える幻像はこうもあろうかと思われて楽しい。この階の、おそらく目玉として扱われていたのは「ケージの森/森の啓示」という、ジョン・ケージに捧げられた作品である。見上げる木々の枝葉のあいだのそこここに、角のやや丸みを帯びて四角いテレビモニターが、まるで鳥の巣めいて仕掛けられて、例の鮮烈な色使いでうねる映像を流している。なかのいくつかをしばらく見つめてみれば、一つの画像が枠を歪めて変形し、ただちに吸いこまれたり滑ったりしてどこへとも知れず消えれば、その下からまた新たな画が現れて滑らかに移行を続ける。足もとには褐色の落ち葉が敷き詰められており、その上に載せられて一つ大きめのモニターには、演奏会のような様子が映って、琴の音やそれに付された合唱の音もあたりに流れていた。京都の人はこの作が大層気に入ったようで感嘆を洩らし、双子の兄も同じく気に入ったようだった。ほかには、室の端の気づかれないような場所から小部屋が続いていて、なかに入れば暗室めいた暗がりのなかで、一本の蠟燭に灯った炎の像が壁に投影されて、あるかなしかの空気の蠢きに揺らぐ本体を拡大していくつか重ね合わせた幻像が、応じて気体めいて柔らかにほぐれている。京都の人によれば、こうした手法はフィオナ・タンという作家のそれに似ているらしい。それから階を一つ上がると、ここには「ユーラシアのみち」という作が小さなフロアをいっぱいに使って置かれていた。パイクはソ連崩壊後にモスクワからイルクーツクまで旅をしたらしい。その道々で買い集めた様々な日用品やら衣装やら人形やら、言ってしまえばガラクタめいたような雑多な物々を、上から吊るすなり無造作に並べ転がせるなりして、大陸の縮図めいた塊を作っているわけである。それを囲むようにしてお得意の、テレビモニターもごろりと岩のように設置されてある。物の配置には一見して法則性などなく、先には大陸の縮図めいたと述べたが、文化の分布を再現しているわけでもない。物置めいてただ適当に放り出されているだけだから、誰かが勝手にどれかの場所を変えても気づかれず、作品の何も損なわれないだろう。壁にはモニターがあって、パイクが自作の解説をしていると言うのでヘッドフォンを付けてみると、結構流暢な日本語で旅のあいだのことを話すのが聞かれた。各地でロボットも製作したらしく、これは写真が「ユーラシアのみち」の脇の壁に示されていた。最上階に上ると、ここのテーマはヨーゼフ・ボイスとのコラボレーションの仕事である。ボイスの死後に彼に捧げて、テレビモニターを組み合わせて作った、不格好なようなロボットもあって、表面に赤の粗い字で、「忘威洲」だったか、何の必然性もないような当て字で名が印されているのが思わず笑ってしまう。ほかに印象に残っているのは、ボイスとパイクの演奏会の場面を、黒と暗褐色でトランプカードに印刷して菱形に配置したもの、またその隣にはボイスの作も一つあって、 "Continuity" と題されていたと思うが、黒板のような大きな画面に、白い線を引いただけのシンプルなものである。初めは曖昧に小さく揺れていた線は、ある点から大きく波打っていて、両者の共同した演奏の原理を図示したものらしいが、意味合いはともかくとしてそのすっきりとした構図が気に入られたのだ。この階には映像資料も三つ展示されていた。一つはボイスとパイクのデュオコンサート、もう一つも同じく両者の、ジョージ・マチューナス追悼としてのピアノ演奏、さらに一つはボイス死後の、高橋アキとの共同による追悼パフォーマンスである。マチューナス追悼のものを初めに見たが、まったくの混沌には到りきらず、構築への意志をかろうじて残した即興という様相のピアノデュオは、ジャズに慣れた耳で聞いてもそれなりに聞けるものだった。二番目に、ボイス追悼パフォーマンスを見た。画面のなかでは白いワイシャツ姿のパイクが、ピアノの弦の隙間に螺子を打ちこんだり、その小さな金属でもって弦を搔き鳴らしたり、あるいは楽器の下に潜りこんで木板の真ん中にやはり螺子を突きこんで、残響をあたりに広がらせている。一向に次の展開に到らないので、しばらくしてヘッドフォンを外してしまったのだが、京都の人はこれを長く見て感銘を受けていた。曰く、ピアノを棺に見立てたパフォーマンスなのだが、佳境に到って、細かいことは忘れてしまったが、ピアノを破壊するような激しい様相を呈したらしく、そこに差し掛かると感動が湧いて涙を催しかけたと言う。最後に見たデュオコンサートは、ピアノが二台ステージ上に用意されていながら、鍵盤に触れているのはパイクだけで、目の覚めるようなオレンジ色の楽器をボイスの方は放置して、その前に座りもせずに立ってうろうろと行き来しながら、コヨーテの鳴き真似をひたすら続けている。死にかけの肺病病みの、喉の奥に籠った咳のような、獣の抑えた息遣いである。黒板にモールス信号めいた図を記し、それを示すのに合わせて長音と短音を交錯させてみせるのには、知らず笑みが湧くのだが、その後見ていても低調のままで、やはり素早い展開はない。退屈を感じはじめながらも見続けていたところに、長椅子の隣に若い女性がやってきてイヤフォンを付けたのに、あちらとこちらのどちらが先に立つかと、子どもめいた対抗心が戯れに生じて、腰が固まった。女性が黙って視線を逸らさずにモニターを見ているあいだ、こちらもじっと画面を見つめて、獣を自らの身に憑依させんばかりに、据わったような目つきの男が物狂おしく、しかしやはり単調に鳴くのを追う。数分で女性が立って行き、馬鹿げた勝利を獲得したあと、すぐにこちらも立つと合わせたようで嫌だなと自意識を大いに発揮して、まだしばらく眺めてから耳を解放した。最上階をあとにすると、一階に戻って、そこから階段を下りて地下のショップに入った。一画の壁にはまたもやモニターがあり、そこにはナム・ジュン・パイク追悼コンサートの模様が流されている。音量が小さくて、画面に大層耳を近づけてもよく聞き取れないようなさまでよくわからないが、照明を落とした暗がりのなかで、ノイズめいた音響パフォーマンスがなされていたようである。終わって明るくなり、出演者が一同に並んで映し出されたのを見れば、坂本龍一や、サスペンダーでズボンを吊って上着は脱いだシャツ姿の、浅田彰が立っている。締めくくりにというわけで、拍手のなかで皆が和気藹々とした様子で、ネクタイを鋏で切っては客席に投げこんで行く。これはパイクが初期のパフォーマンスで、ジョン・ケージのネクタイを切ったことに因んだものらしいが、あとで電車のなかでこの映像のことを京都の人に話すと、中原昌也が作業日誌のなかで、これを猛烈に批判していたと言う。パイクは元々ネクタイ切断を、完全に唐突なハプニングとして行って、それだからこそ面白く意味のあるものだったのに、まるで「市役所の役人」のような爽やかな様子でそれをやっても、まったくパイクに対するオマージュにはならない、という趣旨らしい。

 ほか、こちらが過去に一人で行った美術展として、二〇一四年のことだったか二〇一五年のことだったか、世田谷美術館ボストン美術館展を見に行った時のことも話した。その際の展覧会では、クロード・モネの「ラ・ジャボネーゼ」と言っただろうか、色鮮やかな日本の着物を身に着けた妻カミーユの姿を描いた作品が目玉とされていて、それを実際に前にしてみると思いの外に大きくて迫力があった、と思い出してこちらは述べた。この日の美術展の記述も当時の日記から引用しておこう。何故か句読点をまったく使わずだらだらと繋げた文体になっていて、やたら読みにくいが、この日は確か色々なものを目にして頭のなかに入っている情報量が多かったので、きちんと書くのが途中で面倒臭くなってこのような適当な書き方になったのではなかったかと思う。二〇一四年九月一二日のことである。

 (……)世田谷美術館は見た目にはそんなにぱっとした印象はうけなかったその入口前の広場のきわで女性がひとりなにかを配っていてよくきこえなかったのだけれど個展をやっていますとかなんとかいっていたような気がしてよくみずに素通りしてしまったけれどもらってみればよかったかとおもいながらなかにはいるとチケット購入にならんでいるならんでいるのは大半が中年以上の連中で若者なんてほとんどいやしない比較的若い女性がふたりづれで来ていることはあるがひとりで来ている若者なんてほとんどいやしない金曜の昼間なのだから当然とはいえなかにはいってからも絵の前に立つのはおじさんおばさんおじいさんおばあさんばかりでそういえば車いすをつかって見ている人も結構いたような記憶だけれど大規模な美術展にははじめてきたけれど要するに暇をもてあました連中の巣窟であってこれが有名なあのとかいっているわりにはみんな数秒かせいぜい一分長くても三分絵の前にとどまればすぐに次にいってしまうしというか列ができて流れ作業のように進む流れができてしまうのがこっちには困りものだったつまりじっと見ていると邪魔になってしまうしはやくいけみたいなかんじで背中を押されたりもしたのだけれどまあ結局そんなことは気にせずにみたいものの前にはとどまったし遠慮なく至近距離からじろじろとながめもしたけれどみんなぜんぜんみないしメモをとっている人間なんかほとんどいやしないひとりしかみかけなかった若い女性がひとりノートをもって熱心にあれはたしかアルフレッド・ステヴァンスの《瞑想》という絵の前だったけれどほどよい距離からながめながら熱心に書き綴っていたそれくらいだったしヘンリー・ロデリック・ニューマンの日光東照宮外壁の水彩画をみていると高慢そうなおばさんが外人が描いたんでしょやっぱり筆がなめらかじゃないね言っちゃわるいけどなどとのたまったときにはここは一体紋切型のオンパレードなのかと天を仰ぎたい気分にもなったのだが一番最初のほうは歌川広重の浮世絵がいくつかあって浮世絵というものの実物をみたのは当然はじめてなのだけれど最初の印象としてなにかずいぶんきっちりしているというか几帳面な印象を受けたのだけれど見ていくうちに単純な話浮世絵には明確な輪郭線があるということがその一因だろうとかんがえて浮世絵は線でもって明確に平面を区分していきそこに一様に均一に色を塗っていって立体的な陰影はつけないから線と面の印象が強いその平面的な領域の区分がきっちりとした印象につながっているのだろうというようなことを壁によりかかりながらひとまず書きつけていると学芸員のひとが近づいてきてよかったら椅子はお使いになられてはというので大丈夫ですとことわったのだがしばらくするとまた寄ってきてひどく申し訳なさそうな笑顔で壁から離れて書いてくださいということをいわれたのでそれ以降は絵を近くでながめては人の列を外れてメモするということをくりかえしたのだが浮世絵が面を分けていくその線というのはたしかになめらかでこの点では高慢なおばさんのいっていたことはあっていてまた面の印象が強くなるのはたとえば着物の首元にのぞく重ねの描写なんかはこまかい区分が連続するわけだから当然印象は強いし広重の《名所江戸百景 水道橋駿河台》の前景に泳ぐ鯉のぼりのうろこなんかもそうかもしれないしまたこのうろこにはこまかな黒い線の集合によってうろこの色合いと質感が描写されていてその集合にも几帳面さを感じるのだがそれはもろもろの絵の背景に書きこまれた木の林立をみたときにもおもったしまた美人画の髪の線描もそうでそれにたいして女性の顔の描写はまったくの起伏のない白い平面にパーツがのっているだけでじつにのっぺりとしていたからやはり線と面ということをおもったわけだけれど構図についていえば《水道橋 駿河台》とかあるいは《亀戸梅屋舗》この《亀戸梅屋舗》の色はよかったというか浮世絵の色はどれもすごくいい色で主張しすぎない質素さというのかたしかに日本的和的だなどという紋切型なことをいってみたくもなるのだけれど亀戸についていえば画面下部の草地の緑もいいし背景の何色といえばいいのかピンクというか梅の香りただようようなその薄紅色もいいしまたそしてどの絵もグラデーションがひどくなめらかなのにもおどろかされたけれど構図にもどると駿河台とか亀戸のようにこれは広重の特徴なのかしらないけれど前景に拡大近接してものをおいて後景と対比させることによって平面的でありながら奥行きを導入しているわけだがいちばん最後のほうにみたモネの日没の《積みわら》もみたかんじこれと似たようなことをやっていてこのころのモネはこの絵はたしか一八九一年だったけれどこのころのモネの絵はみたかんじもうかなり平面的で立体感はない例のこの展覧会の目玉でもあった着物を着たカミーユの絵みたいな立体感はぜんぜんないわけで《積みわら》の絵にみえるのはほとんどふたつの平面でつまり積みわら(前景)と後景であってそのあいだの色の対比でもって面をくぎっている具体的には積みわら上部の輪郭のまわりに配されていたのはこの絵のなかでもっともあかるい黄色あるいは金色でそれと(あいだにわずかにあかるいオレンジをはさんではいるものの)積みわらの暗いくすんだ色をぶつけることによって輪郭を強調というか面をくぎっているわけでまた積みわらの上部右側や下部左側にはピンク色の層をまとわせることによってここでも輪郭を強調しているようにみえたのだけれど後景というか積みわら以外の面はというとそこにあるのは複雑な色の混ぜ合わせとそのあいだの推移であってこれはモネの諸作とおなじ部屋にあって順番的にはすこしまえだったピサロの《雪に映える朝日、エラニー=シュル=エプト》という絵もおなじくこまかく色を混ぜていて色の組み合わせでもってひとつの瞬間の効果あるいは雰囲気あるいはそれこそ印象あるいはモネが「包みこむもの」と呼んだようなものを達成しようというのが印象派的な手法といえるのだろうけれどこれらの絵にちかづいて一部分を拡大してみるとほとんど抽象画みたいな色の混淆があってじつに混沌としているようにみえそれでいて離れてみるとものの像をなしてみえるのだからおもしろいものだがピサロのほうがモネとくらべると点描をやっていたということが関係するのかこの絵が点描をやりだす前のものなのかそれとも点描からもどったあとのものなのかしらないけれどピサロの絵のほうが色の塗り方というか一筆がこまかいようでだからよりざらざらとしたような感触をうけたのだけれどモネの積みわらの絵はよりなめらかに色がうつっていく印象でどこかどの色であるとはっきりといえないけれど積みわらより下部の草地から積みわらの横をぬけてさらに先の山あるいは丘そして山ぎわの焼けた色から空の光に満ちた黄色と緑の混淆と全体にあわい色調で移行していき山の手前にはかすかに家や人の姿も描きこまれているのだけれどそれはほとんど色のなかにとけこむというか埋没していてこれらすべてが一面としてつながっていて積みわらと対比させられているようにみえたその絵の次には《睡蓮の池》というのがあって最後に《睡蓮》があったわけだが《睡蓮》のほうは《池》のほうとくらべればかなり落ちついた色調で優美ささえもかんじられるようなものでつまり睡蓮の葉の緑色は緑色で水面の紫からピンク系統の色はその色でまたそのあいだにある影の色は影の色で同じ系統の色はまとまり濃淡のグラデーションでもって形や陰影をつくっていたこの絵をみたときの全体的な印象としてあたえられるのはその緑と水面の色の対比だとおもうのだけれど比較して《池》のほうはわりとあたまがおかしいかんじで睡蓮の池とその上にかかる橋とそのむこうの林とが描かれているのだけれど色の混ぜ方が相当混然としておりここでは画面全体がほぼまったくの一面として構成されているようにみえてそのなかでひたすら色が氾濫しているというような印象だったのだが混ざり合わさっている色というのがあまり明確にきれいなものではなくて色調は全体に暗いしにごっているという感触も避けがたいものではあって画面の下半分では特に暗い紅色がわりと多く使われて目を引くこともあってけばけばしさみたいなものもあったけれどごちゃごちゃと描きこまれていながら最低限の描きわけはなされていて池に浮かぶ睡蓮とそのあいだの水面に木々が反映しているさま赤く染まった池に金色の木々が映りこむさまはやはりうつくしい毒々しいうつくしさとでもいうようなものもかんじられてみたなかでは《ラ・ジャポネーズ》の次におもしろかったその《ラ・ジャポネーズ》はといえばたしかにこの展覧会の目玉で四十分くらいみていたけれどこの絵のまえにはさすがに常に人だかりが生まれて絶えることはなかったその目玉はまず展示されている絵のなかでいちばんサイズがおおきかったたぶん縦は二メートル五十センチくらいはあったからそのおおきさだけでもインパクトはやはりあるわけでそのなかでまず感じたのはうねりの印象赤のうねりの印象で着物のすその豊かなうねりの表現目の高さと展示されている絵の高さからいってもそれにまず目がいったわけだけれど着物のすその端は青を基調としながら金色の装飾を配した縫いこみがされておりほとんど画面左右いっぱいにひろがったその丸みにそってまず視線は動きまた同時に着物の立体的なひだの陰影にも引きつけられるそうしていくらか拡散していた視線が中央に集中していくとそこにあるのは例の武士の装飾であり刀を抜こうとしているこの武士の顔や腕それが刺繍にしては妙に立体的で自立しているようにもみえて不思議だったけれどこの装飾の基調となっているのが青色で着物下端の青よりもさらにあかるい青であってその上に乗った金色の刺繍によって動きの印象をあたえられながら上方へすべっていく視線が出会うのは当然ふたたび着物の真紅でこの赤・青・赤の色の移り変わりが鮮烈なわけだが着物の上半身には真紅のなかに配された葉っぱのかたちをした緑色の模様が目に楽しくそのあいだを抜けていく視線はカミーユの顔と金色の髪にたどりつくがまだそこではとまらずそれよりもさらに上にあるひろげられた扇の上端にまで達するそこにあるのは薄紅色で広重の《亀戸梅屋舗》の色にもいくらか似たような薄紅色であって目に強い真紅の層を抜けてきたあとの淡い色彩がさわやかさをあたえたあとにふたたび視線はたどってきた道を逆に動いて下方へとおりていくわけでとおくちかくからみながらこの上下の運動をくりかえしていたらいつのまにか時間がたっていたわけで二時ちょうどにはいって出たときは閉館の六時の十分前くらいだった(……)

 日記に関しては、上のような二〇一四年の時期までは辛うじて残っているのだが、二〇一三年のものはすべて消してしまった。そのことを告げると、何でですかと訊かれるので、単純に読み返しみて糞だったから、とこちらは答えた。本当は二〇一四年のものも削除しようと思っていて、途中まで実行したのだが、面倒臭くなって消去作業を中断したまま結局は残っているのだと続けて話す。(……)さんも醜形恐怖症があって、作品は自分の一部みたいなものだから、悪いもの、不完全なものを残しておくのが嫌ですぐに消したり捨てたりしてしまうのだと言う。彼女がTwitterに上げているイラストなど見る限り、美術の出来ないこちらからすると糞上手いではないかと思う出来なのだが、それも(……)さんは残しておくことに耐えられず、速やかに廃棄してしまうらしかった。その点、僕は過去の自分を許せるようになりましたねとこちらは笑う。そう言うと、それはやっぱり、歳を取ったからですかと訊かれるのだが、まあそれもあるのかもしれない。過去の分を残しておけばそれだけ日記の総体が長くなるから、という理由もあると思う。
 その後、昨日(……)さんや(……)さんとどんなことを話したんですか、という質問が投げかけられた。本の話とか……と漏らしながら、電車内でのことを思い出し、(……)さんが惚れやすいっていう話になったんですよ、何しろ彼はスタバの店員に惚れているくらいですからね、それで(……)さんはそういうのないんですかと(……)さんが訊くもんで、別にないけれど、可愛い女の子といちゃいちゃはしたいって言ったら、素直過ぎますって怒られました、と笑って話した。それに対して(……)さんは、(……)さんだったら今までにそういう経験あるでしょう、みたいなことを言うので、いや、全然ないのだ、恋愛経験というものが皆無なのだと答えると、そうなんですか? 意外です、という反応があった。(……)さんはさらに、いちゃいちゃしたいって例えばどんなことですか、と訊くので、そんな具体的には考えていなかったんですけど、と笑って、でもまあ僕はそんなに性欲がないですからね……と漏らすと、(……)さんは甲高く短い笑いを立てた。性欲は病気と精神薬のせいで以前よりも結構減じたし、性交に対する欲望というものは元々それほど強くはなかった。性欲=射精欲と性交欲はここでは別物として考えている。でも男性は大変だと思います、とだって定期的に「処理」しなくちゃいけないでしょ、みたいなことを(……)さんがさらに言ったのだが、それで言ったら女性の生理の方が格段に大変に決まっている。生理が基本的に苦痛を伴うものであるのに対し、男性の射精は一応快感を伴うものなのだ。それに、別に処理しなくても問題はないですよ、蛋白質として身体に吸収されますから、と言うと、(……)さんはその事実については知らなかったようで、そうなんですか! と驚いていた。定期的に精子を排出しないと身体に悪いものだと思っていたらしい。店とか行く人いるじゃないですか、と彼女は言うので、いますね、と受け、僕は特別行きたいとは思わないですけど、と答え、しかし続けて、でもまあ行ったら日記のネタとして面白そうかなとは思いますと笑った。あと、岸政彦みたいに風俗店で働いている人にインタビューをして来歴を語ってもらう、とかが出来ればそれは性交するよりも遥かに面白いことなのだろうけれど、今のところそんな見通しはない。
 そのような話をしている最中に、(……)さんが通話に入ってきた。彼は今、薬用植物園とかいう場所に来ているらしく、それについて短く語ったあと、何の話をしていたんですかと訊くので、(……)さんとエロい話をしていましたとこちらは笑っておちゃらけた。(……)さんは、何でそういう誤解を生むようなことを言うんですか、と呆れていたと思う。(……)さんはほとんど数分だけ通話に参加して、すぐに去って行ったので、(……)さんと引き続き性に関する話を続けた。結局、男性は一度射精をすればそれで終わりですからね、とこちらは言う。まあ、二回三回と射精できるような精力の強い人間もいるのだろうけれど、自分は確実に一度出せばそれで一旦終わりである。(……)さんはこちらが三十路も前にしながら聖なる純潔を未だに保っている童貞であることを取り上げて、でも、綺麗なお姉さんに手解きしてもらうとか、良いじゃないですか、と言うのだが、まあそれも良いは良いけれど、自分の場合精力に自信がないので、女性の方から仮に迫られることがあったとしても、その要求に答えられないのではないかという気がする。それであまり、性交に対する積極的な欲望はないのだ。別の観点からこちらはさらに、男性の性行為っていうのは、射精っていう終わりが定められているわけですよね、それは要するに結末の決まっている物語の退屈さなんですよ、と述べた。本番――挿入――に取り掛かりだしたが最後、それがどんなに遅延しても最後には射精に至るということは基本的にもう定められていて――射精出来なければその性交は失敗と見なされるわけだ――どのようなルートを辿っても結局は同じ地点に至るわけで、それはやはり退屈なことなのだ。そういう観点からすると、多分性行為において面白いのは本番よりも前戯や愛撫の段階なのではないかと思う。性器という特権的な部分でのみ触れ合うことはたった一つの終幕に向かって突き進まざるを得ない以上退屈なことであり、それよりもバリエーションの広い多様な愛撫の方が官能的なのであって、そこにおいて主体は官能性を拡散させ、接触の場を複数化させることの愉悦を味わうのではないかと思うのだが、(……)さんとの会話のあと、出勤するために道を歩いている途中、以前こうしたことを蓮實重彦がどこかで述べていたなと記憶が刺激された。それで今しがたEvernoteの記録を検索して該当箇所を発見したので、それを以下に引いておく。蓮實重彦のこのあたりの対談やインタビューなんかも、また読み返してみなければならないだろう。

―――それはそうでしょうねえ(笑)。ところで、以前蓮實さんは女流作家というのは畸型なのだとおっしゃってましたね。
蓮實 実はそこで問題になると思うのですけれど、僕は男性女性ということがあまりよく分からないわけです。現代の社会で、男性が女性を抑圧する構造が確立しており、そこで性差といったようなものが問題体系として浮上してくることは理念として分かる。ただし、その僕がいちばん映画で惹かれるのは、たとえば一人の女優があでやかな格好でスクリーンに立っているときではなく、女性と男性が最初に唇を合わせようとする瞬間だけなんです。ということは、女優男優あるいは男性女性ということではなくて、むしろキスとか接吻とか抱擁そのもののほうに興味があるわけです。どこか抑圧的な体型である性交よりも、唇と唇とが触れあう瞬間を目にすることって、妙に解放的でしょう。接吻は性交の征服的な体位を曖昧に隠蔽するものだと言えばそれまでだけれど、マスメディアとしての映画がつくった最大の幻想である接吻に僕はとらわれているのです。「性器なき性交」という言葉で言ったことがあるけれど、僕の批評も接吻的であることを理想とし、性交的ではありたくない。
 小説についてもそれと同じことで、女性の書き手が書いたか男性の書き手が書いたかということは、それ自体として実はあまり興味がないのです。そこに性器の結合を超えた何かが現れるような瞬間に僕は惹かれているのであって、その点では、何と言うのでしょうね、言葉があるとき、――その言葉そのものがだいたい男性化しているものではあるけれども――それがその男性性というものから不意に遊離するような瞬間を何とか引き寄せたいと思っているわけで、その遊離する瞬間は、男性作家が書いても女性作家が書いても変わらないと思うのです。たとえば夏目漱石にそういう瞬間があるわけですし、谷崎潤一郎にもそういう瞬間があるのです。
 (蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』日本文芸社、1994年、313; 「蓮實重彦論のために」聞き手=金井美恵子

蓮實 僕は理論化するつもりはないんですけれども、実感からして、何が男性的な文章であるかということは分かっている。女性が書こうが男性が書こうが、社会が必要としており、その必要性に意識的に、あるいは無意識に応じている文章はすべて男性的なんです。だから、エクリチュールは女性的だといったデリダの視点をとることはしません。それは、肉体的な性差があからさまに露呈される性器で相手と交わろうとする姿勢で書かれたものも、作者の性別をこえて男性的な文章です。その性器至上主義を文学と名づけることも可能でしょう。他と接するための特権的な場所があり、それは知性であったり、分析力であったり、あるいは感性であったりするかもしれないけれども、その特権的な場所においてのみ世界と交わろうとする文章はいずれも男性的なものです。
 それに対して女性的なエクリチュールというのがあるだろうか。僕はないと思う。文章の男性性を批判する文章の女性性などあるはずがない。こうした男性的な言説の絶対的な優位に対して対置できるようなものは、特権的な場所を自分の中につくらずに世界に交わるという姿勢だけです。接吻的でもいいけど、いわば「性器なき性交」といったような体験に似たものだけが、女性的だからではなく、男性/女性の対立を無化することができる。ふと風に吹かれたときに、より官能的なものを覚えるというような――これは日光を浴びるといったことでも何でもいいんだけれども――精神や肉体の一部を特権化せずに全身で外界と触れたときにおぼえるような喜びといった文章体験があって、これは男性的でも女性的でもなく、性を超えたというか、むしろ、より正確には性を視界に浮上させまいとする少なくとも性器中心主義的ではないエクリチュール、それだけが男性社会に特有の支配的な言説に対立し得るのです。
 (401~402; 「羞いのセクシュアリティ」聞き手=渡部直己

 そのほか、底の浅い考えかもしれないが、女性が性についてもっと表明出来た方が良いのではないかというような話もした。つまり端的に言って個人的に親密な男女の関係においても、性行為をしたければしたい、性行為をしたくなければしたくないともっとナチュラルに、はっきりと言える世の方が良いのではないかという気がしていて、それが出来ないという点で様々な誤解とかすれ違いや時には無益な暴力が発生しているのではないかというような感じがするのだ。あと、エロいということと色気ということは違いますよねとか話したり、(……)さんが色気を感じる時はどんな時ですか、と訊かれて答えに悩んだりもしたのだが、細かい話はもう書くのが疲れたので省略したい。タイプの女性、みたいなことも話したが、まあ強いて言えばこちらはボーイッシュと言うか、あまり女性女性しているよりは中性的な感じの人とかがわりと好きなのかもしれない。しかし基本的に好きなタイプというのがあまりよくわからなくて、その人物の人間性を総合的に好きになると思う、とありきたりなことを述べてお茶を濁していたのだが、そうすると(……)さんは、このSkypeのグループの人はやっぱり素晴らしいですね、真っ当ですね、みたいなことを言って妙に感激していた。そのほか、(……)さんは前日にビデオ通話でこちらの顔を見ているし、その後多分、(……)さんからも画像を貰ってこちらの顔を目にしたと思うのだが、容貌についてはダンディだったとお褒めの言葉を得た。髭を剃るのが面倒臭くてだらしない無精な顔で行ったのでそう映ったのではないか。作家らしい顔、だとも言われた。作家らしい顔というのはどんなものですかと尋ねると、何か、やっぱり繊細そうな、というような返答があったので、まあ神経質そうな顔ではあるでしょうねと応じた。
 それで五時頃になって通話を終えて、その後は労働などあったのだが、この日のことはもうよく覚えてもいないし、書くのも疲れたので割愛しよう。授業は(……)くん一人が相手で、石垣りんの「挨拶」という詩や、森鴎外の「高瀬舟」を扱ったということだけ記しておく。


・作文
 17:09 - 18:00 = 51分
 25:19 - 26:59 = 1時間40分
 計: 2時間31分

・読書
 22:37 - 23:01 = 24分
 23:03 - 24:38 = 1時間35分
 27:13 - 27:53 = 40分
 計: 2時間39分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-23「想像しうるいっさいの中にまた想像するあなたも含めよ」; 2019-08-24「反吐が出る虫酸が走る胸糞が悪くなって吐き気を催す」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、書抜き
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 91 - 119

・睡眠
 4:00 - 11:35 = 7時間35分

・音楽

2019/9/2, Mon.

 宮本 ハーバーマスなんかにとって、民主主義というのは熟議民主主義ですよね。これはやっぱり西洋独自のものだと言う。ほかの文化とか、ほかの地域ではちょっと無理なんじゃないかとは断定しないけれど、要するに、西洋的民主主義というのは西洋だけに育まれるものであると言う。やはりその主張にはギリシャの、特にソフィスト以来の連綿とした議論中心というか、議論ができるという一つの歴史的な土壌があると思います。ヨーロッパの中世でもアリストテレスのいろんなものを引きずったトマス・アクィナスも、公共善を議論で構築するという政治理論を作っていますし、そこに投票制度なんかも取り入れたりしています。
 やはりギリシャ語を見ていると、確かにおしゃべりの言語だと思うんですね。非常に論理的で、一方ではこう、他方ではこうと、二分法の分割でどんどん話が進んでいく。日本語というのは綴り方教室とかいろんなものがあっても、本来的に議論するような言語なのか。ロゴスという言葉には言語という意味と理性という意味があって、ヨーロッパでは理性と言語をパラレルにずっと連関してきたと思います。
 どこか日本語の中では、日本は日本の論理があって、儒教とか中国の影響を受けて、それなりの論理を構築してきたと思うんですが、西欧で言う民主主義的な、熟議的なことは可能なのか、ということですね。つまり、熟議をしあえる市民みたいなのが生み出されるのかという問題があるんですね。わたしが田舎に行って、いろんな村を回り、おじさんたちと話しをしていてもいわゆる世間中心の語りがほとんどでがっくりくるんです。
 宇野 重要な点をいくつもご指摘になられました。最初にまずハーバーマスについて触れると、結局ハーバーマスというのは西洋中心主義的であって、彼の理想とするコミュニケーション的理性に基づく熟議民主主義も、あくまで西洋中心的なものなのかというご指摘です。これに対し、本人はそうではないと答えると思います。コミュニケーションに参与する可能性は西洋語だけではなくて、すべての言語において開かれていて、参加することができるはずです。ハーバーマスはそう答えるでしょう。しかし、本当にそうかという問題はどうしても残ります。
 先ほどチョムスキーの話が出ました。チョムスキーの言語理論と彼の民主主義に対するコミットメントがどう関係するのかというのは、いまひとつ私も明確な考えがありません。あるいは両者はつながっているのかもしれませんし、逆にそれぞれ独立しているのかもしれません。というわけで、チョムスキーについては何も言えないのですが、思いついたのはむしろロールズです。ロールズはそれこそハーバーマスからも非常に強い影響を受けながら政治理論を展開しているわけです。
 ロールズの『正義論』で私が面白い点というのは、彼の考えている正義の二原理はあくまで論理的な演繹の産物でありながら、どこか西洋的なところがあることです。実際、平等な自由という第一原理と、公正な機会の均等の下における格差原理という第二原理について、彼は後年、『政治的リベラリズム』という本で、これは西洋の政治社会において歴史的に形成されたコンセンサスであると認めています。もちろん、『正義論』の段階においては、そうは言っていません。あの原理は別に西洋的なものではなくて、原初状態において無知のベールにかけられた人間が、ある種限定された条件の下で合理的に思考すれば、必ず行き着くはずのものだとしています。特定の西洋の言語に依存しなくても、一定の前提から論理的なプロセスを経ていけば、必ず誰もが同意できる正義の二原理に到達するはずだというのが、『正義論』の主張でした。しかし、本当にそうなのか。そこが興味深いところですね。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、59~61; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 宇野 先ほどの話の続きからそちらに持っていきたいんですけど、ロールズとかハーバーマスの思考は実は西洋的なのかもしれませんが、彼らはあくまで西洋的ではなく、むしろ普遍的に正当化できると思っているはずです。チョムスキーにしても、自らの思考を狭いアメリカ的な文脈を超えて論理化できるからこそ、それによって現実のアメリカを批判できると考えている。西洋的な歴史やその価値観と無批判に一体化するのは駄目であって、それをあくまで普遍的な論理で説明しようという願望が、西洋の知識人には非常に強いと思います。それがうまくいっているかどうかはともかくとして。
 返す刀で、日本ではどうでしょうか。一つには、ここには言葉の混乱がどうしてもあります。今、民主主義とおっしゃられたけど、デモクラシーを民主主義と訳した瞬間に、やはりずれてしまいます。つまり、主義じゃないですから。
 横山 違いますよね。
 宇野 民衆(デーモス)の力(クラトス)ですから、民衆が実際に発言して、それが力を持つという、それが正しいかどうかは別にして、そのような現実を示す言葉です。政治を決定するにあたって、少数者が決定するか、多数者が影響力を持つかという、そういう現実を説明する概念として生まれたわけであって、理想でもなければ主義でもない。
 西洋語においては、デモクラシーというのは、必ずしもずっといい意味では使われたわけではありません。ペリクレスの時代にこそ輝いたものの、その後アテナイのデモクラシーは衆愚政治に堕落し、それ以降も、トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』を書くくらいまで、デモクラシーというと、ともかく数だけが多い、しかし貧しい人々が自分たちの利害をゴリ押しするというイメージがありました。公共の利益(レース・プブリカ)が支配する共和制がつねに良い政治体制として理解されたのに対し、単に多数者の利害が支配するデモクラシーは良くないとされたわけです。ところが、そのデモクラシーが日本語に導入されたときに、主義と訳されてしまったのです。ある種の新しい「主義」の一つと捉えられたのですね。これが単に日本だけではなく、今では、近代アジアの諸言語にも影響力を及ぼしています。難しいところですね。
 (63~65; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 六時台に一度目覚めたのだが、さすがに三時間の睡眠では短いと判断してふたたび眠りに入った。次に目覚めたのが何時だったかは覚えていないが、おそらく八時台のうちだったと思う。カーテンを開けて日光を取り入れ、そうすると暑いので一方で扇風機のスイッチを入れ、緩い風と光を浴びながら寝床に留まり続けた。そうして九時四〇分頃に起床し、コンピューターに近寄ってスイッチを押し、LINEやTwitterを確認した。それから上階に行き、台所で掃除機を掛けていた母親に挨拶して、洗面所に入って顔を洗った。食事は、祭りで貰ってきた揚げ物の類があると言う。母親が冷凍庫から取り出したそれを受け取り、ビニールパックのなかから大皿に全部取り出し、電子レンジに収めて三分間の加熱を設定した。そのまま台所で、冷蔵庫で冷やされた水をコップに注いで飲んでいると、母親が今日は何かあるのかと訊くので、(……)に行くと告げた。インターネットで知り合った人が(……)を散策したいと言うので付き合うのだと説明する。それから米や即席の味噌汁も用意して、卓に就いて新聞をめくりながら食事を始めた。アメリカ合衆国テキサス州で銃乱射事件があったと言う。犯人は三〇代の白人男性で、駆けつけた警察官と銃撃戦になり射殺されたとのことである。そのほか、デモ隊がふたたび空港を占拠したという香港情勢についての記事も読みながら、唐揚げや海老フライやハムなどの肉をおかずに米を食った。外は晴れており、光が空中に浸透していて、このなかで町を歩き回るのは大層暑そうだなと思われた。味噌汁も飲んでしまうとちょっと椅子に留まって休んでから水を汲んできて、抗鬱薬を飲み、そうして台所に食器を運んでいって洗い物をした。それから風呂場に行って風呂桶も洗う。昨日洗うのを忘れたので念入りに擦っておき、作業を終えて出てくると下階に戻ってきて、コンピューターの前に就いてFISHMANSCorduroy's Mood』を流しはじめた。歌を歌いながらTwitterを眺めたりする一方、今日会う(……)さんと(……)さんにSkypeで、こちらは一三時ぴったりに(……)に着くので改札の外で待ち合わせをしましょうとメッセージを送っておいた。まもなく(……)さんから少し遅れるから(……)で三人で食事をしないかとの返信が入ったので、モスバーガーか喫茶店しかないですよと答えたところ、喫茶店に行こうということになったので了承した。その後、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに一一時から日記を書きはじめて、今日の分を先にここまで記して一一時一四分である。
 それから多分八月三〇日の記事を書き進めたのだったと思う。途中で歯磨きをして、服も着替えた。上階に行って、ボタンがそれぞれ色違いでカラフルになっている白い麻のシャツを身に纏い、下はオレンジのズボンだったか、それともガンクラブ・チェックのパンツだったかどちらだったか忘れてしまった。そうして日記の続きを進め、一二時四三分頃中断し、クラッチバッグを持って上階に上がった。母親は既に出掛けていた。引出しからハンカチを取り、玄関を抜けて出発した。空気に熱が籠っていて暑いが、林から漏れ出てくる蟬の声は確実に薄くなっていた。道を進んで行くと、(……)さんが自宅横の林のなかに登って、大きな鋏を使って草刈りをしていた。(……)さんと(……)さんの宅の合間に立った百日紅は、泡のように白い花を膨らませている。
 最寄り駅に着くとホームの先に向かい、手帳を取り出して電車を待った。乗ると、扉際に立つ。こちらの向かいの扉際には、「THRASHER」という文字の入った白いTシャツの女性が立っており、彼女はマスクをつけて顔を半分隠していたはずなのだが、そのマスクの色が何だったか忘れてしまった。黒だっただろうか? 何か特殊な色だったような気がするのだが。青梅駅に着くと降り、観光客らしき若者たちが通る横を抜けて、改札に向かった。
 改札を出たところに(……)さんと(……)さんが揃って立っており、こちらに背を向けていたので、音もなく近づいていき、彼女らが振り向いたところで挨拶をして二人とそれぞれ握手を交わした。(……)さんからは随分髪が伸びましたねと言われた。(……)さんは赤い髪留めをつけた少女の顔が大きく描かれた白いTシャツを来ており、下は何とピンク掛かったような紫色のズボンだった。やや大きめの、たっぷりとしたものである。(……)さんは青いデニムのショートスカートに、上はいくらかふわりとしたような感触の白いブラウスを身に着けていた。
 それで、事前に話していた通り、とりあえず喫茶店に行くことになった。駅前の通りにある「(……)」という店である。駅舎を出て、液体的な陽射しのなかを歩いていき、ビルの二階にある店に入る。一番奥の方のテーブル席に腰を下ろした。(……)さんがソファに座ったこちらの右隣、(……)さんはその向かいの椅子である。注文は、こちらはアイスココアを頼み、(……)さんと(……)さんはセルフドリンクサービスと、それぞれベリーと抹茶のパフェを頼んでいた。
 店内には古き良き時代のと言うか、かなり古色蒼然としたような感じのジャズが掛かっており、入口近くにはレコードを展示した棚も設えられていた。昨日は何をされていたんですかと(……)さんが訊いてきたので、目黒に行って空間展示というものを見てきたのだと言い、企画の趣旨を説明した。面白そう、という反応を(……)さんは示した。――その後、目黒のサンマルク・カフェに行ったり、(……)に移ってホームセンターに行ったり。あと、ブロードウェイに行って、(……)ってあるでしょう。――漫画とかの。――そうそう、でも普通の本も扱っていて、しかも結構良い本があって、ホロコースト関連のものがたくさんあって、また本が自己増殖してしまいましたよ。一〇冊も。
 (……)さんは今回試験監督のアルバイトに合わせて来京したのだったが、その会場というのは厚木の高校だったらしい。それで、ああ、厚木ですか、と漏らすと、知っていますかと訊かれたので、いや、マッカーサーが降り立ったところだというくらいしか知らないですけどねと笑った。大学入試における英語の試験が変わると言われて、賛否両論で世論が姦しいと思うが、その導入に向けた事前実験のようなものだったようだ。
 (……)さんは先般会った際にこちらがプレゼントした『岩田宏詩集』を読んだと言った。「モスクワの雪とエジプトの砂」が良かったと口にするので、「ショパン」のなかの一章だなとこちらは思い出し、「死んだ人は生き返らない、死んだ人は……」ですね、と受けた。あと、「この世界では 手よりも足よりも先に 心が踊りはじめる習わしだ」というような一節もありましたねと思い起こして述べた。
 この日は合わせて三回も喫茶店に入ったのだが、最初のこの喫茶店ではほかに何を話しただろうか? やはり当日、記憶が新鮮なうちに詳細にメモに取っておかないと忘れてしまうものだ。ほかには確か、ロシア旅行の話などもしたのだった。しかしそれについては大方日記に既に書いた事柄で、新たな情報はないと思うのでここでは繰り返さない。あとそうだ、(……)さんが、『岩田宏詩集』をあげたお返しに、図書カードをくれたので、これでまた本が増殖してしまうなあとこちらは笑った。先般会った際にはこちらは、ジャズを聞いてみたいという(……)さんに、Bill Evasn Trioの例の一九六一年六月二五日のライブを勧めたのだが、それはそれで大きく間違いではないとも思うものの、やはりあのアルバムはScott LaFaroの暴れぶりが初心者には決して優しくはない。(……)さんも実際、ピアノはとても綺麗だと思ったんですけど、それ以上わからなくて、と漏らし、ジャズってどう聞けば良いんですかと問うので、ジャズの基本構造はまずテーマがあって、あとはそのテーマのコード進行を繰り返すその上に乗ってアドリブが披露されるので、まずはどこからどこまでがテーマで、ワンコーラスがどれだけの長さで、というのを把握しなくてはならないのだと説明した。それで、今度また音源を紹介しますよとこちらは言ったのだったが、実際、この日帰ったあと、Thelonious Monk『Solo Monk』に収録されている"Dinah (take 2)"と、こちらはジャズではないけれど、Joni Mitchell『Blue』の冒頭、"All I Want"のリンクをSkype上に貼りつけておいたのだった。Monkはこの日行った寿司屋で、"Dinah"ではなくて"Reflections"だったか"Ruby, My Dear"だったか忘れたけれど、ともかくまあこれはおそらくMonkだろうなというピアノが流れたので思い出し、Joni Mitchellの方も、その後に行ったエクセルシオール・カフェで"All I Want"のカバーが流れたので、今日流れていたやつですと言って紹介したのだった。
 それで喫茶店をあとにしたのは三時頃だっただろうか、それとももう少し前だっただろうか。ともかく、席を立って伝票を持って入口近くのレジに行き、個別会計を頼んでこちらは四〇〇円を支払った。書き忘れていたが、給仕をしてくれ、またここで会計もしてくれた若い女性店員が、過去に塾にいた生徒のように見えたのだが、気のせいだろうか。それで店を出ると、(……)市街を少しだけ回ることにした。駅の方に戻り、東に向かう細道に入って寂れた店々のあいだを抜け、(……)の方に入って木々の下を通っていき、裏道の果てに着くと表の通りに出た。そこから通りを南に渡り、駅の方へと戻って行くのだが、我が町(……)は見るものと言ってほとんど(……)くらいのもので、それも以前よりだいぶ数が少なくなってしまったので今はもう見どころなど無きに等しい。その旨告げながら歩いていくあいだ、通りに面した店もシャッターを閉めているものが結構見られる。CDショップ「(……)」もその一つである。その前に差し掛かると、ここが「(……)」というCD屋で、中学の頃にはこちらも随分世話になって、ハードロックのCDを買い漁ったりしたものですと説明した。ハードロックを聞いていたんですかと(……)さんが問うので、こちらの音楽遍歴は、小学校六年か中学生になった頃に兄が聞いていたMr. Children及びB'zから始まったのだと話した。その後、B'zが洋楽のハードロックバンドをパクっているという情報をインターネットでキャッチして、それなら聞いてみるかというわけでAerosmithとかVan Halenとかに手を出したのが始まりだった。中学の時分は周りの連中は当然流行りのJ-POPくらいしか聞いていないから、七〇年代だの八〇年代の洋楽など聞いていたのはまあほとんどこちらくらいで――ほかには(……)という仲間も一人いたが――それがいわゆる「中二病」的な屈折した優越感をこちらに与えていたのはまあ認めるに吝かではないところだ。ジャズを聞きはじめたのはいつからなんですかと(……)さんが続けて問うたので、ジャズは大学に入ってからですねと返答した。父親が、まあ大したコレクションではないしさほど聞いていたわけでもないのだろうが、ジャズのCDをいくらか持っていて、そこから入ったのだった。
 我が(……)は昭和の雰囲気を残した町並みというものを一応売りにしていて、そんなものを売りにしたところで人は寄らないだろうとこちらは思うのだけれど、(……)とかいう施設もあって、しかしこの日は月曜日で休館のようだった。(……)とやらもあるが、このうちのどちらもこちらは地元にいながら入ったことがないし、特段の興味もない。その前を通って駅の方に戻り、(……)という町には何もないことがわかったところで、それでは(……)の書店に行きましょうと駅に入った。ホームに出て停まっていた電車のなかの、二号車の三人掛けに腰を下ろしながら、いつもここに座っているんですよとこちらは言った。席順はこちらが右端、左隣が(……)さん、その向こうが(……)さんである。
 発車してちょっと経ってから、こちらは(……)さんの青い小さなバッグあるいはポーチに付属していた飾りに目を留めて、手に取った。白と言うか透明色めいたもので、アメーバか単細胞生物のようにしか見えなかったのだが、訊けば花だと言う。Marimekkoというブランドのものらしく、(……)さんは、(……)さんはお洒落さんなんだから知ってるでしょ、と言ったのだが、初めて耳にするものだった。(……)さんはその場でスマートフォンで画像検索をし、出てきた画像を見てみると、確かに飾りと同じような形の花々のデザインが色々と見られた。フィンランドの企業らしく、青いポーチ自体もそのブランドのものだった。
 (……)さんは眠そうにしていて、いくらか目を閉じてもいたようだ。それで会話は主にこちらと(……)さんのあいだで展開された。ある時、(……)さんが、出会い厨みたいな人がいて、と突然口にした。Twitterのフォロワーに、東京に来るなら会えないだろうかとダイレクト・メッセージを送ってきた人がいると言う。それだけならまだ問題なさそうだが、普段のやりとりが特にないところに、いきなり送られてきたらしい。前回、七月に彼女が来京した際にも会えないかと送られてきたと言い、(……)さんと(……)さんと会うから駄目だと返したところ、その後連絡は絶えていたのだが、今回また来たという話だ。つまり、日常の交流がないうちに、(……)さんが来京する時期だけを狙って会いたいと送って来ているわけで、それを指して(……)さんは出会い厨みたいと言ったのだったが、確かにそれは何だか危なさそうだなとこちらも同意して、普通に色々と話して仲良くなってから会おうというならまだしも、そのステップを飛ばしていきなり会いたいというのは信頼できませんよねと言った。東京ってそういう人はいっぱいいるんですかと(……)さんは言うので、別に東京に限らないと思うが、気をつけた方が良いですよとこちらは忠告した。
 それから、その話と繋がっていたのだったか否か、(……)さんは惚れやすいという話も持ち上がった。スタバの店員にも惚れているくらいですからねとこちらが言うと、(……)さんはそういうのないんですか、喫茶店に行ってあの娘可愛いな、みたいな、と訊かれたので、そういうことはあまりないが、でもまあ可愛い女の子といちゃいちゃはしたいですよねと受けると、(……)さんは大笑いして、素直過ぎます、と突っ込んだ。しかし、大抵の男性はやはり、どちらかと言えば、もし可愛い女の子といちゃいちゃ出来るのならばいちゃいちゃしたいのではないだろうか。それはそうかもしれませんけど、そんなに素直に、と(……)さんは笑った。その後、まあいちゃいちゃは一時措いておいても、信頼し合えるパートナー的な人は欲しいような気はしますけどねと以前から折に触れて言っていることをここでも漏らすと、サルトルボーヴォワールみたいな? という反応があった。契約結婚である。まああの二人は自由恋愛ですからね、サルトルはほかの女性とも関係を持っていましたし、でも本人たちが良ければそれもまあ良いんじゃないですか、とこちらは述べた。サルトルボーヴォワールの関係については、ちょうど一年ほど前に朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』を読んでいくらか垣間見たことがある。そこでサルトルは、ボーヴォワールのほかにも女性と肉体関係を持っていながら、その詳細を当のボーヴォワール自身に手紙で書いて送っているのだ。その一方で、ボーヴォワールに対しても愛しているとか何とかたびたび睦言を差し向けていて、それを読んだ時にはさすがに、こいつデリカシーというものが欠落しているのかと言うか、端的に言ってどうかしているのではないかと思ったものだが、面白いので以下に書抜きを引いておこう。

 (……)彼女は、からだつきからもほぼわかるように、ブーブーなら「大恋愛家」とでも呼びそうな女だ。それに、ベッドでの彼女は魅力的だった。茶色の髪の女――いやむしろ黒ヘヤーの女[﹅6]と言った方がいいが――と寝るのは初めてだ。悪魔のようなプロヴァンス女、匂いに満ち、奇妙に毛深く、腰のくぼみに小さな毛並があり、からだは真っ白、ぼくよりもはるかに白いからだをしている。はじめ、この多少強烈な肉感性と、髭をよく剃っていない男のあごのようにチクチクする足は、少しぼくを驚かし、半ば嫌悪感を催させた。しかし慣れてしまうと、反対にかなり刺激的だ。彼女は、水滴のような形の尻をしていて、たるんではいないが、上よりも下の方がより重く、より広がっている。胸には小さな吹出物がいくつか(これはあなたにもよく知っているはず。栄養の悪い、あまり身だしなみに気をつけていない女子学生の小さな吹出物、それはむしろ優しい気持を誘う)。とてもきれいな足、筋肉質の、完全に平らな腹、肥満の影はひとかけらもない。全体的にみてしなやかで魅力的なからだだ。葦笛のような舌はとどまるところを知らず伸びてきて扁桃腺を愛撫し、口はジェジェのと同じくらい快い。概して、牢獄の扉のように仏頂面をした人間でも満足しうる程度の満足を得た。(……)
 (朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年、198~199; ボーヴォワール宛; 1938年7月14日; マルチーヌ・ブルダンの描写)

 (……)さんによると、ボーヴォワールの方もある映画監督に惚れ込んでいて、サルトルはそれに不満だったと言う。そういうような問題がありながらも、互いに愛し合ったと言うか、別れることなくずっと一緒にいて添い遂げたのだから、それはそれで尊い関係だったんじゃないですかねとこちらは応じた。特殊で、珍しい関係であることは確かだろう。
 あと確か、翌日(……)さんと(……)さんが一緒に美術展に行くことになっている(……)さん――本名は(……)さんというらしく、どちらにしてもイニシャルは(……)さんだ――に会いたいですかと(……)さんに訊かれた瞬間もあったはずだ。あちらが会ってくれると言うのなら、勿論お会いするに吝かではないというようなことをこちらは答えた。
 そのような話をしながら(……)まで揺られ、乗っているこの電車は東京行きだったので三・四番線ホームに降りると階段を上った。階段を上りながら(……)さんに、さっきの「出会い厨」の話って日記に書いても良いですかと尋ねた。(……)さんは良いと言うのだが、もし本人が読んだら、これって俺のことじゃん、とかならないですかねと言ってこちらは笑った。改札を抜けると北口広場へ向かい、通路に入って進んで行き、高島屋へと至る。入館してエスカレーターに乗り、淳久堂書店に踏み入ると、まずは文芸の棚を見に行った。(……)さんが翌日会う(……)さんに何か本を贈るつもりだと言うので、詩集が良いんじゃないですかと電車のなかで話していたのだが、それもあって最初に詩の棚の前に立った。こちらは、吉増剛造でも贈れば良いんじゃないですかと冗談を言ったり、長田宏も結構読みやすいですよとこちらは冗談ではなくて真意で勧めたりしたが、(……)さんは茨木のり子と迷った末、最終的に現代詩文庫の『石垣りん詩集』に決定していた。こちらは並んでいた作品のなかでは、中尾太一という人の詩集が気になった。現代詩文庫版もあり、それに収録されていない、おそらく最新の詩集もあったのだが、それは書肆子午線から出ているものだった。書肆子午線はわりあいに信頼のおける出版社であるような気がする。
 それから、(……)さんが『石垣りん詩集』を買って戻ってきたあと、日本の文芸を見ましょうかと言って一つ隣の通路に移った。(……)さんはどこかに行ってしまっていた。古井由吉を勧めたりしていると彼も戻って来たので、次に海外文学を見ることにして通路を進み、壁際に至った。こちらは(……)さんから図書カードを頂いたので、それを使って『プリーモ・レーヴィ全詩集』を買ってしまおうかと考えていた。棚を見分しているうちに尿意が湧いていることに気づいたので、トイレに行ってきますねと言って一旦場を離れ、便所に行って放尿したあと戻ってくると、(……)さんも(……)さんも辺りにいなくなっていた。それで文庫の区画の方に移ってみるとそちらに姿があったのでふたたび合流し、様々な本たちを見分した。クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』がちくま学芸文庫の欄に表紙を見せて置かれていたので、これも買ってしまおうかと思ったのだが、昨日も一〇冊も書物が自己増殖してしまっているのだからまあ落着こうと一旦見送った。その後、九月五日に地元の図書館に行ったところ、この本が新着図書として入荷されていたのでありがたいことである。その後、河出文庫の棚の前に三人で集まった。こちらは保坂和志の『カンバセイション・ピース』に目をつけて、これもなかなか面白いですよと(……)さんに勧めて、物語性はないですけどね、物語よりもある時間や空間の感覚とか雰囲気とかを書くのに長けている作家ですと紹介した。そのほか、柴崎友香に関しても、『ビリジアン』や『寝ても覚めても』を紹介し、『ビリジアン』については、これを読んだ一時期、軽くて淡い文体が羨ましくなって真似していたことがあると述べ――二〇一四年のことだと思う――、『寝ても覚めても』は読んだ当時、こちらはこの作品を「恋愛小説の皮を被ったアンチ恋愛小説」などと評していたと話した。(……)さんは『ビリジアン』には恋愛要素はないんですかと訊くので、そちらは恋愛的な要素は特にないですねと答えると、じゃあこちらにしますと決めたのだったが、その選択はちょっと意外と言えば意外に思われた。(……)さんは何となく、むしろ恋愛要素のある小説の方が好みであるようなイメージをこちらは持っていたらしい。(……)さんは文庫クセジュの方を見分してきたらしく、『心霊主義』という本など、三冊くらいを保持していた。
 レジに行く前に(……)さんから頂いた図書カードの封を開けさせてもらうと、三〇〇〇円分のものだった。こちらがプレゼントした『岩田宏詩集』は一〇〇〇円少々だったはずなので、これでは多く貰いすぎているような気がするが、まことにありがたいことである。『プリーモ・レーヴィ全詩集』がちょうど三〇〇〇円くらいだったので、都合が良い。図書カードは東山魁夷の鮮やかかつ深みのある緑色の絵がプリントされたもので、この緑色が綺麗で、と(……)さんは言った。それでそれぞれ会計を済ませて自分の欲しい本を購入すると、時刻は何時だったのだろうか? 四時半くらいだったのだろうか? もう少しあとだったかもしれない。いずれにせよ、まだ食事には早いというわけで喫茶店にでも行って時間を潰そうということに合意したのだが、淳久堂のなかにはカフェ・ド・クリエがある。こちらは一度も入ったことがなかったが、そこにも喫茶店がありますよと示すと、そこで良いのではないかとなったので、入店した。ソファと椅子の二人掛けの席が二つ並んで空いていたので、ここを繋げて三人座れるようにしてしまおうということで卓を寄せた。そうしてこちらが席に残ると申し出て、先に二人に注文を済ませてもらい、そのあとからこちらも立って、確かオレンジジュースを買ったのではなかったか。
 この喫茶店では、(……)さんの話をした。先般(……)さんは彼女と会って、目黒の庭園美術館に行き、林のあいだを一緒に歩いたと言う。(……)さんは動物が大好きで、(……)さん曰く、そうした動物好きの趣味とか精神性のような部分が彼自身に似ているとのことだ。僕を女性にして、年齢を二〇歳くらい若くした感じ、と彼は言ったのだが、(……)さんは二六歳なので二〇歳若くすると六歳になってしまう。と言うのは、(……)さんは子供のような心を持ち続けているからということで、しかし実年齢はこちらよりも上だと言う。(……)さんが、美人なんですよねと訊くと、(……)さんがうんと肯定するので、すかさずこちらは、マジで! 会いてえ! と軽薄ぶって口にすると、(……)さんに、最低、最低です、と軽蔑されてしまったので大笑いした。素直過ぎます、会いてえ、って、と(……)さんは突っ込んだ。
 その(……)さんは乖離を患っているらしい。解離性障害なんですか、と(……)さんに訊くと、離人症かな、という言が返る。離人症とはどのようなものなのか(……)さんは知らなかったので、いくらか説明した。と言っても、人によって言うことが様々で症状は非常に多様なのだが、よく言われるのは世界にヴェールが掛かったようで触れられる感じがしないとか、自分と世界とのあいだに距離があって疎遠だというような感覚である。夢を見ているような感じだね、と(……)さんは言うのだが、彼自身もいくらか離人めいた傾向があるようだ。ほかには、自分の後ろにもう一人の自分が分離的に存在していて、その自分が常に自分を客観視していたり、ロボットを操るように動かしている、というような感覚の証言もよく聞かれると思う。昨年中は離人症のスレをこちらはよく眺めていたのだが、掲示板を見ていると感情が感じられないという訴えも結構あって、当時はこちらも感情や欲求や感受性といった精神機能が消失したものだから、これは離人症というものではないかと疑ったものだった。しかし、あれが結局離人症状だったのか、鬱病の一部だったのか、それともそれ以外の何かだったのか、真実はわからない。総じて離人症というのは、現実感喪失症候群という別名でも言われるように、正常な現実感覚が失われてしまうというところを共通の基底としているようだ。そうした乖離自体は、病的なものでなければ健康人にも折りに見られるもので、例えば読書に熱中してしまって気づかないうちに多量の時間が過ぎていた、などというのがその一例である。
 話しているうちに、今ここでSkypeのグループで通話してみたら面白いのではないかということになり、(……)さんがスマートフォンSkypeにアクセスして通話を始めると、初めに(……)さんが現れた――と言うか、(……)さんが直接着信を掛けて呼び出したのだったか? その後、(……)さんや(……)さんも集まってくると、(……)さんがビデオ通話モードに切り替えて、自分の顔や向かいに座っていた我々の様子を映し出した。最初は手の指を二本伸ばして、片手は目元に、片手は口元に横に当てて顔を隠していたのだが、段々面倒臭くなって手を外し、顔貌をグループの人々に晒した。それで、作家のポーズ、などと言って頬杖を突き、俯き気味に目線を下げて陰鬱ぶった。すると(……)さんが、知性が溢れ出ている……などということをチャット上で発言してくれた。(……)さんも顔を映されて俯きながら恥ずかしそうにしていたが、積極的に隠そうとはしていなかったと思う。(……)さんのスマートフォンでも通話にアクセスしていた。それでこちらが俯くと、(……)さんの携帯のカメラが捉えたこちらの姿がちょうど手元の目線の下にある(……)さんの携帯の画面に映し出される、というような状態になっていたのだが、それを利用してこちらは自分の頭頂部を映し出し、禿げていないか確認して、まだ大丈夫そうだななどと呟いて笑いを取った。しかし、こちらの家計は父親も祖父も禿げていたので、こちらにもそのうちに運命が訪れるに違いない。あとは、耳寄りな情報を一つ、などと口にして、(……)さんは良い匂いがしますとグループの人々に報告したのだが、こういう発言ももしかするとポリティカル・コレクトネス的に危ういのだろうか? 彼女は自身が言うところでは、梨の匂いの香水をつけているらしかった。
 (……)さんたち相手側の発言がうまく聞こえなかったし、(……)さんにイヤフォンを借りてもやはりあまりよく聞こえなかったので、いきなり掛けちゃってすみません、(……)さんが通話しようって言うから! などと口にして(……)さんに責任転嫁し、通話は適当なところで切り上げた。切り上げる際にも、いきなり通話しちゃってすみませんね、(……)さんが勝手にやったんですよ! ともう一度冗談を言って終えた。それでそろそろ飯を食べに行こうということになったのだが、通話を終えた(……)さんがスマートフォンを見ながら何やら勿体ぶった様子を取っており、驚愕の事実だ、などと口にしている。こちらと(……)さんは一体何なのだろうと思って訊いたのだが、彼はますます勿体ぶって、いや、これは……いや、あとで教えるよ、などと言う。しかし(……)さんが、気になるから今言ってくださいと要求した。こちらは、もしかしてSkypeのグループのなかに知り合いでもいたのではないか、こちらが顔を晒したことでそれが発覚したのではないかなどというありそうもない可能性を考え、ついに身バレの時が来たかなどと思ったのだったが、そうではなかった。(……)さんが(……)さんに送ってきた画像を見ると、(……)さんのメッセージがそこには記されており、以前から伝えようと思っていたのですが、実は(……)さんとお付き合いさせてもらっています、との内容が書かれてあった。(……)さんというのは、ハンドルネームの苗字も添えると(……)さんという人で、最初にTwitterでこちらも交流を持ち、その後Skypeグループのメンバーにもなった人である。彼と(……)さんは二人とも関西住まいなので、以前実際に顔を合わせたということは聞いていたのだが、まさか付き合っているとは予想だにせず、確かにこれは驚愕の事実だった。Skypeのグループのおかげでそのような関係になれたわけなので、グループを作った(……)さんと(……)さんには感謝しており、いつか伝えなければならないとは思っていました、というようなことも書かれていたと思う。めでたいことじゃないですか、と言祝いだのだが、こちらがその次に即座に考えたのはこの事実を日記に記して衆目に晒しても――ほかのSkypeグループのメンバーも読む可能性のある場所に晒しても――良いのだろうかということで、自分の都合を真っ先に考えるあたりこちらはなかなかの鬼畜野郎であると言うか、人間的にあまり褒められたものではないかもしれない。根っからの日記作家ということで許してほしいが、それで(……)さん経由で(……)さんに伺いを立てるメッセージを送ってもらい、またのちのち帰宅後には直接(……)さんともやりとりをして書き記す許可を得たので、こうして無事記録することが出来たわけである。
 驚愕の事実を知らされたあと、それでは飯に行こうというわけで、カフェを出てエスカレーターに乗り、上層階を目指した。どうせ高島屋にいるのだから建物を移動せず、この上にある店のどれかで良いだろうという話だったのだ。(……)さんはしかし、控えめながら寿司を食いたいような雰囲気を醸し出していた。前日にも鎌倉で(……)さんと寿司を食ったはずにもかかわらず、である。それで九階に上がり、店舗案内を見て、ひとまず寿司屋がどんなものか見に行きますかとこちらが提案し、歩き出した。フロアを移動して寿司屋の前に来て、メニューを見ると、かなり値の張る店だったので、これはさすがになあというわけで、ほかの店にしましょうということになったのだが、結局(……)さんが、寿司が良いみたいなことを言い出した。それならLUMINEの上にもう少し安い店があるから、そこに行きましょうかと提案すると、そうしようということで合意されたので、エスカレーターを下り、ビルの外に出た。左に折れて来た道を戻っても良かったのだが、どうせなので別の道から行ってみようかということで、右に向かい、オリオン書房の入ったビルの前を曲がって――(……)さんは書店があると聞くと、しばしそちらに寄りたいような様子を見せていたが、いや、やっぱりいいやと言って振り切っていた――、モノレール駅の下をくぐり抜け、駅前に至った。(……)さんは通路を通りながら、記念にと言って写真を撮っていた。それで群衆のあいだを分け入って駅舎に入り、さらにLUMINEの入口をくぐってエスカレーターに乗って上層階に向かった。八階まで来ると「(……)」の店舗の前に行き、メニューを少々見てからここにしましょうと合意されたので、なかに入った。店員に三本指を示して人数を告げたが、今ちょうど三人以上の席が埋まっていて、ちょっと待つことになるとのことだった。了承し、入口脇にある用紙に名前を記入してから通路向かいの座席に腰を下ろした。(……)さんはトイレに行った。そのあいだに(……)さんと話をしていると、彼女は、私も(……)さんともっと文学的な話がしたいんですけど、素養がなくて、というようなことを言ったのだが、金原ひとみ『アッシュベイビー』が好きだったり、『族長の秋』をわりあいに楽しんで読める時点で素養はばりばりにあるのではないだろうか。また、(……)さんがトイレに行っているあいだに二人で並んで写真を撮った。そうして(……)さんが戻ってきてからは、こちらはロシア土産のクッキーを取り出した。実のところ、初めに(……)で寄った喫茶店「(……)」でも取り出していたのだが、その時は一つしかないこれを二人のどちらが貰うか決まらずに、仕舞っておいたのだった。それをふたたび取り出し、折角なので(……)さんがいらなければ(……)さんにあげちゃいますよと伺いを立てると、(……)さんもそれで良いと言うので、それでクッキーは(……)さんの所有物となった。
 寿司屋に入るまでは結構時間が掛かったが、通されるとテーブル席に入り、ここでもこちらの隣に(……)さん、向かいに(……)さんという位置取りになった。こちらは「(……)」だったか、そのような名前の握りのセットを注文した。(……)さんはエンガワ三貫にサーモン一貫。(……)さんは河童巻の細切りととろうずらとやはりサーモンだった。「(……)」には干瓢巻が四つのほか、八貫のネタが乗っていて、それらの内訳は、卵、穴子、海老、カンパチ、鮪二種にコハダといった具合だったが、残りの一貫が何だったのかは忘れてしまった。(……)さんはさらにのちほど追加でパイナップルシャーベットをデザートとして食べていた。飲み物にはこちらはあがりを頂き、(……)さんと(……)さんはお冷を頼んだのだが、店員側が間違えたようで茶が二つ来てしまったので、(……)さんはそれを甘受して水を(……)さんに譲り、自身は緑茶を飲んでいた。前日にも鎌倉で寿司を食った二人だが、(……)さんが言うにはこの店の方がエンガワが美味かったらしい。
 隣の(……)さんに最近読んだ本を尋ねてみると、岩田宏のほかにはプリーモ・レーヴィの『これが人間か』も読んだと言う。一番印象的だったのはどこかと尋ねると、アンリが印象的だったという返答があった。どうせなのでそのアンリという人物の人間性を描写した一節を下に引いておこう。

 イギリス人から来る物品の取り引きはアンリの独占だ。ここまでは組織を作ることだ。だが彼がイギリス人に食いこむ手段は同情なのだ。アンリの体つきや顔だちは繊細で、ソドマの描いた聖セバスティアヌスのように、かすかに倒錯的なところがある。瞳は黒くうるみ、まだひげはなく、動作には生来のしどけない優雅さがある(それでも必要な時には猫のように駆け、跳ぶことができる。彼の胃の消化力はエリアスにわずかに及ばないほどのものだ)。こうした自然のたまものをアンリは十分にこころえていて、実験装置を操る科学者のように、冷たい手つきで利用する。その結果たるや驚くべきものだ。実質的には一つの発見だ。同情とは反省を経ない本能的な感情だから、うまく吹きこめば、私たちに命令を下す野獣たちの未開な心にも根づく、ということをアンリは発見した。何の理由もないのに私たちを遠慮会釈なく殴り、倒れたら踏みつけるようなあの連中の心にも根づくのだ。彼はこの発見が実際にもたらす大きな利益を見逃さずに、その上に個人的産業を築き上げた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、125; 「溺れるものと救われるもの」)

 そのほか、終盤の、爆撃によって収容所から囚人やSSがいなくなったあと、レーヴィが残った病人たちと生き残ろうと奮闘しているところも印象深かったと言う。これは九月四日に話した(……)さんもやはり同様に、印象深かったとして挙げていた部分だが、こちらはその章のなかでは「ラーゲルは死ぬやいなや、すぐに腐敗し始めたようだった」という一文から始まる一連の描写が、ほとんど黙示録的な空気感を如実に纏っていると言うか、この世の終わりのような感じがして素晴らしいと思うので、これも下に引いておこう。「燃えてまだ煙をあげているバラックの残骸のまわりでは、病人たちが群れをなして地面に腹ばいになり、最後の熱を吸いとろうとしていた」という一文に記録された行為の絶望的な具体性。

 ラーゲルは死ぬやいなや、すぐに腐敗し始めたようだった。水も電気もなかった。壊れた窓や扉は風にバタバタと鳴り、屋根からはずれたトタン板はキーキーと軋り、火事の灰は高く遠く舞っていた。それに爆弾の仕事に人間の手が加わっていた。何とか動けるだけの、ぼろをまとった、今にも倒れそうな、骸骨のような病人たちが、うじ虫の侵略部隊のように、凍った硬い地面をところかまわずはいまわっていた。彼らは食べ物や薪を求めて、空のバラックをすべて探っていた。そして昨日まで一般の囚人[ヘフトリング]は出入りできなかった、グロテスクな飾りつけのある憎らしい棟長[ブロックエルテスター]の部屋を、狂ったような怒りをこめて荒らしていた。もう自分の内臓を管理できないので、いたるところに糞便をまき散らし、今では収容所全体の唯一の水源である、貴重な雪を汚していた。
 燃えてまだ煙をあげているバラックの残骸のまわりでは、病人たちが群れをなして地面に腹ばいになり、最後の熱を吸いとろうとしていた。またどこからかじゃがいもを見つけてきて、凶暴な目つきであたりを見回しながら、火事のおき火で焼いている病人たちもいた。何人か、たき火を起こせるだけの力があるものがいて、ありあわせの容器で雪を解かしていた。
 (204~205; 「十日間の物語」)

 そのほか、(……)さんは先般の来京時にクリスチャン・ボルタンスキーの展示を見て以来、ホロコーストにもいくらか関心が出てきたようで、ヒトラーの伝記も読んだと言った。写真で辿るヒトラー、みたいなタイトルのやつだったと思う。あとは『アウシュヴィッツの巻物』という本も読みたいと言うので、こちらはそんなものが出ているのかと驚き、それは僕も是非読みたいですねと言を合わせた。ちょうど前日にも(……)で本を買い込んだところだったので、昨日、(……)ブロードウェイに行ったらホロコーストナチス関連の文献がたくさんあって、また本が自己増殖してしまいましたよとふたたび話した。
 (……)さんは何時頃発てば良いのかと訊くと、一一時頃まではいられると思いますとの返答があったので、また喫茶店に行って話をしようということになった。それで席を立ち、入口付近のレジカウンターで個別会計をして退店すると、こちらの希望でトイレに行った。出てくると(……)さんが書店があるのを見留めて――オリオン書房である――ちょっと寄って行こうということになった。書店のなかには可愛らしいぬいぐるみが売られている一角があり、(……)さんと(……)さんがそこを見ているあいだに、こちらは近くの美術の棚に寄って見分したのだが、なかなかに興味深い本が揃っていた。我々が行ったクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会「Lifetime」の図録が見つかったので、(……)さんに手渡し、そう言えばロシアでプーシキン美術館に行ってルイ・ヴィトン財団の集めた作品の展覧会を見たのだが、そこでボルタンスキーの「アニミタス」のバージョン違いの映像が展示されていたと話した。「アニミタス(白)」というのは我々が見た展覧会に展示されていた映像作品で、真っ白で雪以外には何物も存在しない雪原に鈴をつけた無数の細い棒が立てられ、その鈴が風に触れられて立てるきらきらと金属的で清冽な音がひたすら響き続けるという作品なのだが、それの、雪原ではなくて不毛の荒野めいた場所を舞台にしたバージョンがあったのだった。そのほか書棚にあって記憶に残っているのはピカソの伝記などである。一巻だけでも馬鹿でかいものが三巻も並んで置かれており、なかの一つを取ってみると一五〇〇〇円もした。驚愕である。三つで四五〇〇〇円もの金額になる。谷川俊太郎の推薦文が帯として付されていて、面白そうではあるが、とてもではないが手が出ない。また、岡上淑子の写真集もいくつかあり、日本の美術の区画にも面白そうな論考が色々と見られた。
 そのうちに、それでは喫茶店に行きましょうということになり、エスカレーターに乗った。下層階に下りて行き、BEAMSの店舗を抜けて外に出て、(……)に向かった。入店すると、カウンターの向かいにある革張りの椅子の席が全部空いていたので、ここに並んで座れば良いんじゃないですかと提案し、そういうことになった。例によってこちらが席に残って二人に先に注文をしてもらい、そのあいだこちらは手帳を眺めていた。(……)さんはカウンターから戻ってくるとこちらの手帳に目を付けて、読みたそうにしてみせたので見ますかと手渡し、こちらは席を立ってカウンターに注文しに行った。いつも通りのアイスココアである。戻ってくると、(……)さんに、描写と物語についていくらか感想を記した箇所を示した。大澤聡『教養主義リハビリテーション』からの引用に対して付したものである。それで、いささか単純化した構図ではあるが、例の、「物語」と「小説」を対立的に捉えて、「小説」というのは描写のリアリティを追求するものだというような話を披露した。細かな詳細を改めて綴るのは面倒臭いので、以下に七月一五日の日記に記した感想文を引いておく。

 八時から二時間半ほどを掛けて、この本を一気に読み通してしまったのだが、大澤の一人語りの形式で書かれている最後の文章の冒頭付近には、描写こそが近代小説の存在意義だったのだという小説観が提示されている。勿論、Mさんが最近ブログで指摘していたように、「物語」に対抗して至極単純に「描写」を持ち上げるような単純な図式には注意を払わなければならないわけだが、それでもここで語られている、「小説の風景描写や対物描写がまどろっこしくて邪魔だと考える読者はいまでは少なくありません」(182)という受容状況にはやはり残念な思いを抱くものだ。ここを読んでこちらの脳内には、そもそも何故物語だけでは駄目なのだろうか、何故小説に描写的な細部が必要なのかという素朴な問いが改めて浮かび上がって来たのだが、それに対する自分なりの解答を出すとしたら、やはりそこにある種の「リアリティ」――これもまた曖昧で、問題孕みな概念ではあるが――のようなものの感触が表現されるからではないかと思う。勿論、この言明は、自然主義的な「リアリズム」を単純に称揚するものではない。それどころかここで言う「リアリティ」は、いわゆる写実主義的な「リアリズム」とは反対方向に離れた場所に成立するものでさえあるかもしれない。それを「差異」の感触と言ってみても良いのではないか。差異は細部にこそ宿る。そして、我々は差異との接触によってこそ自己としての、主体としての変容を誘発されるのではないか。おそらくそれは同時に、この世界の複雑性をまざまざと教えられるという体験でもあるだろう(再度強調しておくが、「この世界」という語を使ったからといってやはり、この世の様相をそのまま[﹅4]写し出すとされている――言語においてそんなことはそもそも不可能なのだが――写実主義的な「リアルさ」を念頭に置いているわけではない)。小説を要約的な物語にのみ還元し、物語という器を構築する細部を蔑ろにする読み方は、世界の複雑性を縮約し、差異との遭遇を――従って自身の変容を――回避するものだ。そこにあるのは、既に知っていることをただ貧しく反復する態度にほかならない。何しろ、物語とは誰もが既に知っている[﹅7]「型」なのだから。物語のみにあまりに引きずられた読み方は言わば、読書と言うよりは、情報処理に過ぎないのだ。

 さらに、同じ話題について(……)さんが中国人の生徒を相手に講釈していた記述に関してもこの時の会話のなかで触れたのだが、その箇所もここに引用させてもらおう。

 きみが(……)さんとの思い出の場所でもある病院で一晩を過ごしたこと、そしてその病院に向かう途中で当の本人とばったり出くわしたこと、これらの出来事はまるでよくできたドラマのようです。再開した(……)さんとそこでふたたび交流がはじまることになれば、あるいはよりいっそうドラマティックな展開だったといえるかもしれません。けれども、きみたちはそうはならなかった。きみはこんなふうに書いています。

(…)私はすごくドキドキ、はらはらしていました。見間違いましたかと思っていました。しかし、本物の(……)さんでした。私に向かって歩いて来ました。夢ではないんですかと思っていました。しかし、(……)さんが声をかけてくれました。別れた二年目で、その日にその場所で初めて合って話しました。(……)さんがすごくきれいになっていました。ものすごくきれいになっていました。
 しかし、彼女と出会ってかえって落ち着いていました。それでいいと思いました。それに彼女ともう一度恋をすることはまったく考えていなかった。むしろ、その瞬間にある女の子の顔を浮かべました。その女の子のことは一応内緒にします。とにかく、私はもうはや(……)さんがすきじゃないことをはっきりしました。

 少し抽象的な話をしましょう。難しいかもしれないので、ゆっくり読んでください。(……)くん、きみは「小説」の対義語は何だと思いますか? この質問に対する答えは色々あるでしょう。ぼくの答えははっきりしています。「小説」の対義語は「物語」です。「物語」というのは、要するに、ありきたりなストーリー、ありきたりな展開、ありきたりな登場人物、ありきたりな出来事によって成立しているお話だと思ってください(きみがどうしても好きになれない東野圭吾も、この定義にしたがえば、「小説家」ではなく「物語作家」だといえるでしょう)。紋切り型のエピソードを、手垢のついた登場人物たちが演じる――それが「物語」です。そして小説は、そんな「物語」をはっきりと否定するものです。
 ひとまずこの定義を受け入れた上で、ふたたびきみと(……)さんの再開の場面に戻ってみましょう。大学進学をきっかけに別れたかつての恋人と、ひさしぶりの故郷で、それもその恋人とキスをした思い出の病院に向かう途中、きみは再会することになりました。なるほど、これはほとんど奇跡のような出来事だと思います。こんな偶然は滅多にありません。これがごくごく普通の「物語」なら、きみはこの偶然を運命と解釈するでしょうし、その解釈に背中を押されるかたちで、おそらくはかつての恋人との関係の修復を必死で試みることでしょう。でも、奇跡的な再会を果たしたきみの頭の中によぎったのは別の女の子の顔だった――ぼくはこのときのきみの感情をとてもリアルだなと思います。それと同時に、きみの中にある小説家としてのたしかな資質を感じます。
 ほとんどの人間は「物語」に対する免疫を持っていません。くだらないドラマやくだらない映画で大泣きしたり大笑いしたりする周囲の人間に対して、なんともいえない居心地の悪さ、苛立ち、あるいは孤独をおぼえたことが、きみにもきっとあることでしょう。「物語」に対する免疫を持っていない人間は、現実生活でまさしく「物語」的な出来事、場面、状況に遭遇したとき、当人の真実の気持ちを差し置いて、自分自身ありきたりな「物語」的な人物としてふるまってしまうものです。繰り返しになりますが、もしきみが物語に対する免疫を持っていない人間であれば、(……)さんと再会した瞬間、きみは自分自身の真実の気持ち(もうひとりの女性に対する気持ち)をないものとし、かつての恋人との再会という状況から連想される「物語」の登場人物としてふるまってしまったことでしょう(つまり、彼女との復縁を望んだでしょう)。でも、きみはそうはならなかった。きみはありきたりの「物語」に負けず、きみの中にある真実の気持ちを冷静に認識することができた。そこにぼくは、たしかな小説家の姿を見るのです。
 おおげさに聞こえますか? けれども、ぼくは常日頃からだいたいこんなふうに、物事というものを見る癖がついているのです。
 もう一点、おまけで言及しておきましょう。ぼくが面白いと思ったのは、きみが再会した(……)さんのことを「すごくきれい」「ものすごくきれい」と表現していることです。たとえばこれが、「想像していたよりもきれいではなかった」であったり、「記憶の中で美化されていた(……)さんにくらべるとまったくもって美人じゃなかった」であったりすれば、ぼくは、これは「物語」だなぁと思います。なぜなら、きみもよく知るとおり、「美化された過去」と「現在」がぶつかり、その結果、憧れの対象であった人物に幻滅するというような展開は、すでに使い古されたストーリー、展開、状況、筋書き、すなわち、「物語」であるからです。でも、繰り返しになりますが、きみは(……)さんのことを「すごくきれい」「ものすごくきれい」だと思った。そしてそれにもかかわらず、彼女と復縁したいとは考えなかった、それどころか別の女性のことを考えた――ぼくはきみのこの思考の筋道に、なにかとてもリアルなものを感じるのです。ここには「物語」のように、だれでも理解できる明解な感情の経路がありません。むしろ、第三者が読めば、「すごくきれい」「ものすごくきれい」だと思ったのに、どうしてほかの女の子のことをそこで考えるの? となるのではないでしょうか。そしてこれこそが「小説」的なものなのです、リアルなものなのです。しつこく繰り返しますが、現実は「物語」のように明解ではありません。簡単でも、明瞭でも、だれにでもわかるほど筋道の通っているものでもありません。現実というのはきわめて繊細で、複雑で、脈絡がぐちゃぐちゃであったり、まったくもって論理的でなかったり、時に意味不明だったり、あるいは必然性(理由)に欠けたりするものなのです。そしてそのような現実のありかたを、それらとは無縁の「物語」に対する解毒剤として打ち込むものこそが、ほかでもない「小説」なのであり、そのような「物語」的見方に立つことなく、現実をあくまでも現実のまま直視する人間こそが「小説家」なのです。

 まあ概ねこういうような話をしたわけだ。小説というジャンルの文章表現を読む際に楽しみ方は人によって色々とあると思うが、こちらが読んでいた面白いと思うのは、やはり上にも書いたように紋切型から脱した細部の「差異」の感覚に触れられる瞬間である。それについて、この夜の席では最近読んで感銘を受けたプリーモ・レーヴィ『これが人間か』の一描写を例に挙げた。以下のようなものである。

 (……)それから私たちは無蓋バスに乗せられ、カルピ駅に運ばれた。そこには汽車と護送隊が待ち構えていた。そこで私たちは初めて殴られることになった。それはひどく目新しい、常軌を逸した行為だったので、肉体的にも精神的にも苦痛を感じなかったほどだ。ただ深い驚きだけが湧いてきた。どうして人を殴れるのだろうか、怒りにかられたわけでもないのに?
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、12; 「旅」)

 この箇所の、殴られても「肉体的にも精神的にも苦痛を感じなかった」という一点にこちらは「差異」の感触、言わば「リアリティ」を感じるわけだが、それはこの記述が、普通の、当然あると思われる物事の秩序とは逆行しているからである。人に殴られたら、どんな場合でも何らかの痛みや苦しみを感じるのが大抵の場合の物事の道理だろう。ここではそうした通常の論理から外れた現象が生じているわけだが、そこに「それはひどく目新しい、常軌を逸した行為だったので」という根拠が付け加えられて、一つの説得力を持った状態で提示されている。このように、通常あるべき物事の形から外れていながらも、同時に説得的な意味の秩序が形作られている時に、自分は「リアリティ」のようなものを感じる、というようなことを話したのだ。無論、紋切型からただ脱することを目的化してそこから外れすぎてしまっても、端的に意味不明になってしまうわけで、二者択一ではなくてそのあいだのどこかうまい点を探って心を砕くのが作家というものの仕事だろう。こうしたことを少々単純化して言い換えると、物事や世界の様相の複雑性を出来る限り殺さずに、しかし何か説得力のある一つの形として提示する、というのが作家の役割の内の一つではないか、ということだ。
 まあ大体においてそのような話を披露したわけだが、そうすると(……)さんは、参考になりますと言って自らの手帳に何やら書き込みを取っていた。それを横から覗き込もうとすると、やだー、と言われて隠されてしまったので笑う。よく自分の手帳とか、他人に見せられますねと(……)さんは言うのだが、こちらが手帳に記しているのは個人的な雑感の類よりは知識や情報に類するものが多いし、一部日記の断片を記していることもあるけれど、それもどうせのちに公開して衆目に晒す内容なので、他人に見られたとしても問題はないのだ。(……)さんはその後、(……)さんは人のことをサイコパスだとか何とか言ってステレオタイプに嵌めがちですよねと言う。サイコパスという言葉も最近では意味が広くなりすぎたでしょう、とこちらは受け、元々は外見上善良かつ社交的で、仕事においても有能であり、人から好まれそうな条件を備えているが、その実道徳心が欠如していて、自分の利益のために他人を蹴落としても何の良心の呵責も覚えないとか、そういう人のことを言うはずでしょうと説明し、でも今では何か、単なる一般からずれた変な人、というくらいの意味になっているでしょうと指摘した。そうすると(……)さんが、ソシオパス、という言葉を呟いて、ソシオパスっていうのはどういう意味なのかなと漏らしたので、それを受けて(……)さんが携帯で検索すると、他者に対する共感が欠如している人のことだと言う。それでこちらは思い出したのだが、スキゾイドパーソナリティ障害というものがあるのだと二人に告げた。ウィキペディアに診断基準が載っており、統合失調症を疑った当時にインターネットを徘徊しているとその記事に行き当たったのだが、その診断基準がことごとく自分に当て嵌まるのだと言って笑う。すると(……)さんはこれも携帯で調べてくれたので、ウィキペディア記事を閲覧しながらそれぞれの診断基準の項目を読み上げ、これはまあまあ当て嵌まるとか、これは完全に僕ですねなどと言って笑った。しかしこのスキゾイドパーソナリティ障害というのは、それ自体で他人に迷惑を掛けるようなものではないので、自分自身が困っていなければ病院に行く必要はないとも記事には記されている。それを読むと、しかし(……)さんは、いや僕は困っている、と漏らしたので、そうしたら心理カウンセラーか誰かに診察してもらわないといけませんねとこちらは受けた。
 そのうちに(……)さんは携帯を充電してくると言って席を離れ、別の席の方に行ったので、そのあいだは(……)さんと二人で会話を続けた。ここで彼女の出自に関する話を聞かせてもらった。(……)さんの父君は在日韓国人の三世だと言い、教員をしているのだが出自のせいで出世出来ないのだと言う。それで父君は何十年か前に裁判を起こしたらしいのだが、それもうまく行かなかったようだ。父親の前では政治や選挙の話は出来ない、と(……)さんは漏らす。今の日韓関係については心穏やかではいられないでしょうねえ、と言いたかったのだが、この時この「心穏やかでない」という表現がどうしても出てこなくて、苦しいでしょうねえとか、困っているでしょうねえ、みたいな妙な言い方になってしまった。今の日韓関係はやばいですよ、このままだと、いわゆるヘイトクライムですよね、それが起きかねない、と言うか既に起きているのかもしれない、韓国に旅行に行った日本人女性が乱暴されたという事件もあったし、在日韓国人の人とか旅行に来ている韓国人に対する犯罪が起こりかねないですよ、とこちらは言って危機感を共有した。周りの人は(……)さんの出自について知っているんですか、と訊くと、親しい人は知っていると言う。小学校中学校あたりではそれについて言うと、驚きが返ってきていたのだが、しかし大学くらいになると、明かしたとしてもふーん、そうなんだ、くらいの距離感になってきたとのことである。しかしそれでも、例えば英語の授業などで行ったことのある観光地を紹介しなさいという課題が出された際に、韓国を紹介しようとすると、韓国ぅ? みたいな反応が散見されるので、迂闊には言えないですよねと(……)さんは漏らした。今の情勢だと言いにくいですよねとこちらも頷く。
 そのようにして話を聞いたあと、出自というと若干デリケートな問題なので、このことについて日記に書いていいですかねと訊きながら、そればかり気にしていて、屑みたいなやつなんですけど、とこちらは大笑いした。自由に書いてくれて良いと(……)さんは言ってくれた。(……)さんが日記そのものですから、と言うので、なるほど、僕の存在自体が日記であると、とこちらは受けて笑い、確かにペルソナということを考えた場合、まあ人間には無数の側面があるだけで正面に当たる本当のペルソナなんてものはないのかもしれませんけど――というこの考え方は(……)さんがたびたび表明しているものだ――強いて言えば僕の場合、日記に書かれている自分が本体のようなところがあるかもしれませんね、と述べた。
 そのほか、(……)さんが大好きな金原ひとみ『アッシュベイビー』についてこちらが以前書いた感想記事に携帯でアクセスしてもらい、それを借りて閲覧し、読み返しながら、まあまあだなと自己評価したり、ここはそこそこの観察だなどと言って自画自賛したりした。主人公アヤは性に奔放で、たびたび色々な人たちと行為に及んでいるのだが、彼女が恋慕する男村野との行為までは「気持ちいい」という言葉を発していないという観察だとか、彼女が自らの太腿に作った傷を抉られることが性交の代理と言うか、むしろ真の性交であってそこでは象徴的な位相と現実的な位相が逆転しているようだとか、そのあたりの考察はそこそこ面白いのではないか。
 そのように話していると、一〇時半前に至る頃だったと思うが、(……)さんが戻ってきて、そろそろ帰ろうと口にした。そう言いながらそれからまたちょっとのあいだ話したのだが、(……)さんは、二人で秘密の会話をしてたんでしょ、と言って何やらその内容を知りたがった。特別に秘密の会話などしていなかったのだが――強いて言えば(……)さんの出自の問題がそれに当たるので、それに関しては(……)さんに告げても良いのかこちらには判断がつかず、黙っていることにしたが――こちらも乗って、そうです、秘密の話をしていました、と適当なことを言った。すると(……)さんは、えー、教えてよ、と言ってやたら知りたがるので、こちらは、そんなに僕の好みの女性のタイプが知りたいんですか、などと冗談を言って、僕の好きな女の子は電話に出る時に声が高くならない人です、などと笑ったのだったが、(……)さんは、それはどうでも良い、とすげなく払った。
 そうして一〇時四〇分かそこらで帰ろうということになって退店した。駅に向かう途中、(……)さんが、三人で写真を撮るのを忘れていたと言うので、LUMINEの一階の花屋か何か、ガラス窓のなかに植物がいくつも置かれているそれを背景にして、三人で並んで写真を撮影した。それからエスカレーターを上がって駅舎のなかに入り、改札を抜け、(……)さんと(……)さんが乗る三番線ホームに下りる入口の脇で立ち止まった。そうして向かい合い、ありがとうございましたと最後の挨拶を交わした。まず(……)さんと握手しながら、まあ我々は別に会おうと思えば会えますからねと散文的に口にしたので、別れの感傷とか湿っぽさのようなものは生じなかった。彼は思いの外に手が大きく、指も一本一本がこちらのものより太くて、比べるとこちらの手指がやたらと華奢なように見えた。続いて(……)さんに手を差し出すと、ハグが良いですと言われる。え? と受け、ハグ? と困惑するが、もう一度同じ言を繰り返されたのを受けて、両手を広げると、(……)さんはこちらの身体に寄ってきて腕のなかに入ったので、手を彼女の背に回して抱き合った。(……)さんは頭をこちらの右肩のあたりに寄せていた。女性とそんなに密着した経験などないので、離れたあと、恥ずかしいと照れたようにこちらが笑うと、横にいた(……)さんは、微笑ましいねと穏やかな表情を浮かべていた。
 それで、お二人、行ってください、と言ってホームに下りるように促した。(……)さんは、こちらの思い上がりでなければ本当に寂しそうな表情を浮かべており、見間違いか目の錯覚か思い込みでなければ、瞳がいくらか水っぽくなっているように見えないでもなかった。それでエスカレーターを下りていく二人に手を振ったあと、こちらは一番線ホームに下りて(……)行きに乗った。扉際で発車を待っているとカップルがやって来て、別れを交わしはじめた。男性の方は灰髪で、もう結構な歳のように思われたのだが、女性はもっと若く、色の薄い金髪で黒い服を着ており、いわゆるバンギャル的な雰囲気だった。しかしその実、結構歳が行っていたのかもしれない。彼らはありがとうと言い合い、女性の方が電車に乗り込み、発車すると見えなくなるまで互いに手を振り合っていた。
 (……)に着くまでの車内では携帯電話でこの日のことをメモした。(……)に着いてからも同様である。そうして零時九分だかに発車する(……)行きの最終電車に乗って最寄り駅に至り、聖なる静寂に満ちた駅舎を抜けて帰路に就いた。帰り着くと着替えて風呂に入り、自室に戻ってきてSkypeにアクセスすると(……)さんがオンラインだったので、一時半前に、こんばんはと声を掛けた。返答が戻ってくると、(……)さん、聞きましたよと告げて、(……)さんとお付き合いされているそうじゃないですかと差し向け、おめでとうございますと言祝いだ。二人が一度会ったのは知っていたが、その際に付き合うことになったのかと訊くと、それ以前にメッセージのやりとりが頻繁に続いていて、通話も何度もしていたので、「お会いする前からなにかおかしかったと思います」との返答が返ってきたので笑った。その後も二人は何度か会ったと思うのだが、別れたあとも、(……)さんはきっとまた会うのだろうというような予感を覚えており、「何度でも二人で会いたいと感じるのはなにかおかしくないか」と考え、それほどに会いたくなるのだったら、正式に付き合うべきではないかということで交際に至ったと言う。素敵な話である。
 (……)さんからこちらの写真を貰ったと(……)さんは言い、ダンディーな顔だと褒めてくれた。それに応じて(……)さんと(……)さんのお顔も見てみたいですねと言うと、(……)さんは醜形恐怖症なので顔を写した写真はないが、自分のものならと彼は言っていくつか写真を送ってきてくれた。それに映った(……)さんの様子は、爽やかで優しげな青年といった感じだった。(……)さんに関しては、背を曲げて真下を向き、顔が映らないように撮られた写真が一枚送られてきたが、それを見て、穏やかそうですねとこちらは感想を述べた。これは何のポーズなんですか? と(……)さんの格好について訊くと、恥ずかしがり屋さんなので、このようなポーズを取ったのだろうという返答が来たので、奥ゆかしいですね、と言い、手弱女振りというやつですねと続けると、さすがの表現です、とお褒めの言葉を預かった。
 そのようなやりとりをチャットで交わすあいだ、一方でプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きを進めていたのだった。そうして三時に至ったところで、三時なのでそろそろ眠りましょうかと言って、礼を述べて(……)さんとの会話を終了した。それからベッドに移り、ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』を四〇分ほど読み進めて、四時前に達したところで就床した。長い一日だった。


・作文
 11:01 - 12:43 = 1時間42分

・読書
 25:49 - 26:59 = 1時間10分
 27:10 - 27:50 = 40分
 計: 1時間50分

  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、書抜き
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 85 - 91

・睡眠
 3:40 - 9:40 = 6時間

・音楽

2019/9/1, Sun.

 宇野 要するに、人間というのは神でもなければ動物でもない。どこが違うかというと、人間は言語を通じて自分たちの仲間と共に暮らすことだというわけです。神は自己で完結しているし、動物というのは群れを作るけれど、それは言葉を通じてではない。人間だけが言葉を使って仲間とコミュニケーションをし、集団を作る。ここにこそ人間の独自性があり、その独自性と直結しているのが政治であり、ポリスである。これは強固な価値観です。言語を介して同胞市民と共同体を作り、それこそが政治の本質である。政治は単なる手段ではなくて、人間の生の目的ですらあるという、そういう価値観です。
 人間と動物をそこまで隔てていいのかということを含めて、これは一つの固定観念かもしれません。しかしながら、その固定観念を軸に11世紀、12世紀以降、政治的人文主義シヴィックヒューマニズム)という形で、古代ギリシャ・ローマの伝統が復興する。その中で古代の文献は、テキスト・クリティークを施され、そこに新たな解釈を加えられ、これを通じて政治もまた変化してきた。このモデルはいまだに強固にあります。
 だから、政治学にとって言語はものすごく重要で、およそ言語をどのようにイメージするかということと、政治をどうイメージするかということが、少なくとも西洋政治思想においては、かなり不可分なところがあります。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、54; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 宇野 ところで、社会契約論者は独特な想定を持っていて、個人はあらかじめ言語を使えることになっていて、言語を通じて自分の欲求を主張し、周りの人間と衝突しながら、秩序を作っていくというイメージがあります。実際には、人間は最初からしゃべれるわけではないし、赤ちゃんは当然しゃべれません。言語を習うことによって人は世界に参与するわけであって、あらかじめ言語を使って自分の欲求を主張できる人間像というのは、かなり独特な人間像であり、普遍的なモデルではありません。
 むしろ人間というのは、経験を通じて言語を獲得していくわけですし、その言語も、必ずしも確定したものではなくて、常に偶然性に開かれています。その中で、実践を通じて言語もまた変化していくという言語観をプラグマティズムは示したのです。
 パースなんかは純粋に論理学とか数学の世界でこのような議論を展開したわけですけれども、デューイは政治にまで発想を広げました。彼によれば、政治における民主主義というのは、唯一の真理が支配する社会ではなく、むしろ、いろんな人がいろいろなところで実験をすることを許す社会を指します。そのような多様な実験によって社会も変わっていく。このような、ある種の実験性や実践性を通じて、デモクラシーを擁護したのです。鶴見俊輔さんにとっても、戦後日本の民主主義を作る上で、やはりプラグマティズムの発想は非常に重要でした。その際に、実験や実践と深く結びついているのが言語です。彼が日本におけるプラグマティズムとして重視したのは、例えば綴り方運動でした。
 つまり、子どもたちが言語を自然に学習する中で、自分たちの気持ちを表現できるようになっていく。このことを通じて、はじめて新たな日本の民主主義社会の礎が作られるはずだと考えたわけです。上から何かを決めていくのではなくて、下から言葉をどんどん豊かにしていく。このことによって、日本の民主化を図ろうという考えでした。そこにはどこか、言語と民主主義を結びつけて考えようとする、プラグマティズムの発想が見られました。このような考え方は、日本の戦後思想において力を持ち、鶴見俊輔さんの影響のうちでも、非常に重要な部分であったと思います。
 (57~58; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 九時起床。何か妙な感じの夢を見たような覚えがないでもないが、いずれにせよ記述出来るほどの詳細な記憶はもはや失われている。パンツ一丁で眠っていたのでハーフ・パンツを履き、例によって尿意によって股間が膨張していたのでそれが収まるのを待ちがてら、コンピューターに寄ってスイッチを押し、Twitterなどを眺めた。そうして上階に行き、母親に挨拶してから洗面所に入ろうとすると、扉の細い隙間からなかで裸の父親が身体を拭いているのが見えたので――シャワーを浴びたらしい――洗面所には入らず、先に便所に行って溜まった尿を放った。出てくると改めて洗面所に行って顔を洗い、整髪ウォーターを後頭部に吹きかけて手櫛で寝癖を調整した。それから食事である。前日の鶏釜飯や棒々鶏を母親が皿に用意してくれたので、それを次々に卓に持って行く。スープとしてはモロヘイヤの汁物があった。卓に就くと新聞を引き寄せてひらき、三面から香港情勢についての記事を読みながら、モロヘイヤのスープを啜り、棒々鶏を口に運んだ。食後に林檎も食べてから抗鬱薬を飲み、食器を洗うと肌着の真っ黒なシャツを纏って下階に下りた。そうして扇風機を点け、コンピューターの前に就いてTwitterを眺めたり、前日の記録を付けてこの日の日記を作成したりしたあと、一〇時過ぎからFISHMANSCorduroy's Mood』とともに日記を記しはじめた。"あの娘が眠ってる"はとても良い。歌を歌う一方で、前日の記事を数文足しただけでさっと仕上げ、この日の記事もここまで書くと一〇時二一分となっている。八月三〇日の記事をまだいくらも書けていないのに、あと三〇分ほどすれば発たなければいけない。今日は(……)に向かって何やら空間展示とやらを観る予定である。そして明日は(……)さん、(……)さんと(……)を散策する予定だから、また出掛けなければならないわけで、日記を書いている暇があまりなさそうだ。やばい。
 一〇時半過ぎに至って日記を中断し、街着に着替えた。まず、ガンクラブ・チェックのズボンを履く。上は濃青か白か、いずれにせよ麻のシャツだが、どちらにするか迷ってまずは白の方から身につけてみた。濃青のシャツは、ロシアでガンクラブ・チェックのズボンと合わせた際に、ちょっと合わなかったような記憶があったのだ。それで白いシャツの方を着て廊下に出て、通路の突き当たりに置いてある鏡に自分の姿形を映して確認したあと、洗面所にも出向いてそこでも鏡を見た。続いて濃青のシャツの方に取り替えて同じように鏡に映してみたが、思いの外に変ではなかったので、こちらの装いで行くことに決めた。次にロシア土産を用意することにした。(……)さんの分である。階段下のスペースから「アリョンカ」のクッキーの、チョコレート味の方を取り、階段を上がって仏間に入るとNatura Sibericaのハンドクリームを取って、それとともにビニール袋に入れた。それで下階に戻って歯を磨き、口を濯ぐとふたたび上に戻って仏間で白のカバー・ソックスを履いて、さらに便所に入ってゆっくりと糞を垂れた。出てくると自室からバッグを持って来て出発しようとすると、母親が卵と蒟蒻だけ買いに行きたいと言う。それで(……)まで送って行ってくれると言うので、乗せて行ってもらおうと一旦は思ったのだが、彼女は財布が見つからないなどと言ってぐずぐずしている。目的の東京行きに間に合うか不安だったので、やはり自分で最寄り駅から行くことに決めて、行くわと母親に伝えて玄関を出た。
 隣家の(……)さん宅の百日紅が非常に盛って枝先に紅色を膨らませ、重く垂れ下げている。曇り空の下を歩いていると、路上、視線の先に何やら白く小さなものが浮かんでいる。最初、ティッシュの切れ端か何かが低く地を這う微風に押されているのかとも見えたのだが、その実、蝶だった。蝶は進んでいくこちらの足の横を通り過ぎて背後に飛んで行った。さらに進むと、(……)さんが家の前でしゃがみこんで草取りをしており、傍らには女児が一人、佇んでいた。近づいていくと(……)さんはこちらを向いたので、どうもこんにちは、と挨拶し、お孫さんですか、と訊くと、ええ、そうですとの返答があった。女児の方もこんにちはと挨拶してくれたので、こちらもこんにちはともう一度答えて過ぎ、坂に入って速歩き気味に木々のなかを上って行った。駅に着くとホームの一番先へ行き、腕時計を見れば一一時ちょうどだった。やって来た電車に乗り込み、まもなく(……)に着くと乗り換えである。すぐ向かいから乗り、車両を移って二号車の三人掛けに入って、携帯を取り出してメモを取りはじめた。まずこの日のことである。メモを取りながら電車に揺られているあいだ、鼻水がやたらと出て、何となく心持ちが良くなかった。風邪気味なのかもしれない。
 この日の事柄の記録が終わると、八月三〇日の事柄に移って、ひたすら携帯を使ってメモを取った。そうして新宿に着くと降り、階段口に大挙して向かっていく群衆をやり過ごし、電車が発車してすべての車両が過ぎてしまい危険がなくなってから歩き出した。階段を踏んで階上へと上がり、山手線ホームへ向かって階段を下りる。目的地は目黒から乗り換えた先の(……)なので、渋谷・品川方面である。ホームに下りるとちょっと移動し、電車がまもなくやって来たところで端の車両に乗り込み、七人掛けの席の端っこの前に立った。こちらの傍ら、座席の仕切りの脇であり扉の前でもある位置には、ベビーカーを伴った若い女性が立っていた。彼女が連れている赤ん坊は一歳くらいだろうか。ベビーカーに身を預けながらこちらを見上げて来たので、笑みを返すとあちらも笑ってくれた。その赤ん坊が蠢かせる足が、こちらの持っていたバッグに当たるので、母親がすみませんと謝って来たが、そんなことでいちいち苛立つはずもないので、いえいえ、と笑みで返した。ベビーカーを電車から下ろす際に手伝ってあげたいような気持ちはあった。どこまで行くんですかと訊こうかとも思ったけれど、しかし同じ目黒で降りるという偶然もそうはないだろう。赤ん坊は泣かず、母親に構われながら大人しくしていたが、原宿か渋谷を過ぎて車内が空いて、彼女らが車両の隅のスペースに移動したあとは泣きはじめていた。こちらは何をするでもなく窓の外を眺めながら到着を待ち、目黒で降りた。見上げると頭上の表示に東急目黒線の文字が認められたので、それに従い手近の、ホーム端の階段を下りていき、そうしてJRの改札を出ると券売機に寄って、SUICAに五〇〇〇円をチャージした。そしてすぐそこの改札をくぐり、階段を下りて目黒線のホームへ入った。(……)行きに乗れば良いのだと事前に調べてあった。一二時二一分発が今ちょうど出ていくところで、そのあとに二七分発があった。壁に寄って電車を待ちながら、ここでは携帯を弄らず手帳を眺めて、小泉純一郎政権時代の事柄などを復習した。まもなくやって来た電車に乗り、(……)までは僅か一駅である。降りてみれば、改札は一つのようだ。思いの外に早く着いてしまい、待ち合わせの午後一時までまだ三〇分もあった。ホームのベンチに座って手帳を読んでいようかとも思ったのだが、とりあえず改札に向かってみることにした。そうすると、改札を出た無効に腰掛けられそうな植込みの段が見えたので、そこに座って待つことに決めた。それで改札を抜け、段に寄り、上に乗っていた細かな砂を素手で払って尻を乗せた。そうして携帯を取り出して、この日のことを書き記した。
 記録が現在時に追いついたあとは手帳を見た。鼻水は相変わらず盛んで、鼻を啜りながら手帳を読んでいると、あ、あれか、という声が聞こえた。顔を上げると、(……)と(……)さんがこちらに向かってくるところだった。こちらの下に辿り着くと、(……)はご機嫌よう、と言ってきたので、こちらも同じくご機嫌よう、と返して挨拶を交わす。(……)は先日立川のGUで皆で選んだ――と言うか、こちらが推したのだが――黄土色っぽいチェック柄のズボンに、上はグレーのシャツを身に着けていた。(……)さんは予めLINEで言っていた通り、ウィッグをつけていた。アッシュブラウンとでも言うのだろうか、僅かに暗い褐色の混ざった灰色と言うか、灰色掛かった暗褐色と言うか、そのような色合いで、左右で三つ編みにして垂らしているウィッグのその上からさらにベレー帽を被っていた。服はあまりよく見なかったが、白いスカートではあったと思う。
 まもなく(……)くんと(……)も並んでやって来た。(……)は何だか知らないが、こちらに向かってくるあいだ、大笑いしていた。皆集まったところで、(……)さんの先導で歩き出す。段から立ったところで、こちらが座っていた植込みの前、ちょっと横にずれたところに吐瀉物が撒き散らされていたことに気がついた。座っているあいだはまったく気づかなかったのだが、それで、もう少し別の場所にいれば良かったなと思った。駅前を離れて、スマートフォンで地図を見ている(……)さんについて細道へ入る。途中、(……)という学校が道の先に覗いた。目的地までは五分ほどしか歩かなかったのではないか。今日は(……)さんがTwitterで見つけた空間展示というものを観るということで(……)まで出向いてきたのだが、展示場は一見はこじんまりとした古びた家屋といった感じで、(……)くんはもう少しスタジオ風のところを想像していたと漏らした。二階の窓外には洗濯物が干してあって生活感を醸し出している。展示は、「(……)」というタイトルである。
 引き戸をがらがらと開けてなかへ入った。受付で五〇〇円の入場料を支払い、展示物やそこを舞台に撮られた人物たちの写真が印刷されたカードを受け取る。入ってすぐ右側の壁には写真のパネルと、物語の設定が短文で記されたパネルとが多数展示されていた。写真の舞台背景は室の奥、中央に作られたセットなのだが、これは「(……)」という、惑星を販売する老舗の店、という設定で作られた空間であるらしい。その店では「星眼」と呼ばれる、眼に星の輝きを持った一族が雇われて働いており、彼らは特殊な能力を持っていて惑星間を自由に移動出来るということだ。その美しい瞳はマニアのあいだで高値で取引きされていたものの、現在は法によってそれは禁止されていると言うのだが、この設定に触れた時には、誰でも連想すると思うけれど、『HUNTER×HUNTER』の、クルタ族の「緋の眼」の逸話を思い出した。短文を記したキャプションの前半にはキャラクターの台詞が書かれており、後半でそのキャラクターに纏わる物語設定の説明、短い要約的な記述があったあと、最後に「~~の物語」という形でキャラクターの名前が付されて誰の話なのかが明示されている。そのように、様々なキャラクターの物語のほんの断片だけを提示しておいて、あとはこの世界観と同化してもらい、自由に想像を膨らませてもらうという趣向らしい。二次創作の余地を大きく作って、それを前提としているわけだ。実際、入口横にはこの世界観に触発されてファンの人が自ら描いたという漫画イラストも展示されていたし、あとで(……)さんが話していたところによれば、運営者の側もこの物語設定をフリー扱いにしていると言うか、二次創作を大いにやってこの世界を広げて行って欲しいという方針で奨励しているらしかった。
 写真は、適当な語かどうかわからないが、「耽美的」という言葉が頭に浮かぶような雰囲気で、(……)さんはこういう感じのものが好きなのか、と少々新鮮に思われた。女性キャラにせよ男性キャラにせよ、皆中性的な顔立ちで色白であり、ゲームのキャラクターを現実化したような、コスプレ的な雰囲気だった。それも当然で、これらはコスプレイヤーの人々を招いて撮ったものらしく、つまり、空間展示を制作した人と、そこを舞台にキャラクターを演じるコスプレイヤーの人とのコラボレーションというわけなのだろうが、人物たちはその中性的な雰囲気からすると、あるいは全員女性が演じていたのかもしれない。写真が展示されている壁の端、ちょうど室の角のところには洋書の置かれた書棚が取り付けられていた。こちらの興味を惹いた本は、Che GuevaraのThe Motorcycle Diariesくらいのものだったが、この本は並びの本のなかでも一つ浮いているように思われたし、この場で構築されている世界観とも全然合っていないように思われた。端的に、何故この本が置かれていたのか、その必然性がわからないのだが、おそらく洋書の選択には確たる基準はなかったのだろう。
 フロア入口から見て左の、窓際にもいくらか細々とした展示物が置かれていた。低い台のような机が置かれており、その上には、ここにも洋書が頁をひらかれて置かれてあったのだが、これはAlice In Wonderlandの本だった。頁の上には乾いた花の種のようなものが多数散っており、周りにも乾いて枯れた植物の類が設置されていた。メインの展示は先ほど述べた通り、室内中央に設えられた惑星販売店をテーマにした一角で、絨毯めいた布が敷かれた上に装飾された地球儀などが置かれ、その背後には入れ口を細かく区分した棚が組み立てられており、その棚には植物を標本のように収めた小瓶の類が無数に並べられていた。小瓶にはラベルが付されて、そのなかに収められた素材の名がいちいち記されているこだわりようである。地球儀は元々地図が描かれていたであろうその上から色を塗りたくられて一色に均され、石を取り付けられたりして装飾を施されていた。棚のさらに背後には一見洋書が高い棚にずらりと収められているように見えたのだが、近づいてみるとこれは本物ではなくて印刷だったので、本好きとしては実際に引き出して手に取り確認できないのを残念に思った。そのメインの一角に(……)さんが入って、地球儀の前にしゃがみこんだり、床に座って脚を伸ばしたりしている様を、(……)や(……)が撮影した。その後、皆で写真を撮ろうということになったのだが、ちょうど展示室に訪れている他客のなかに、先ほど写真を撮っていた女性がいて――実のところこちらは最初、その人は客ではなくて運営側のスタッフだと思っていたのだが――大きなカメラを操っており、撮り方も堂に入っていてカメラの扱い方を知っている人のようだったので、(……)が持ち前の明るさを発揮して彼女に気さくに話しかけて、写真を撮ってくれるように頼んだ。それで構築された空間のなかに五人で入って、何枚か写真を撮ってもらった。
 その後はこちらは室の右方端にあった革張りの椅子に腰を下ろして、脚を組んでいた。向かいのもう一つの椅子には(……)くんが腰掛けた。テーブルの上には感想を書き留めるためのノートや、この展示を制作した作家が過去に作ってきた写真集などが置かれてあった。そこに腰掛けながら、作家は皆こういうポーズをする、こうすると作家っぽくなると言って頬杖を突いて俯き、陰鬱に考え事をしているようなポーズを取ると、(……)が写真を撮ってくれたのだが、のちのちLINE上にアップロードされた写真を見てみると、なかの何枚かが我ながら思った以上に様になっていて、ダウンロードして自分のコンピューターに保存しておいたくらいだ。(……)も絵になると言って褒めてくれた。
 我々が入った時点、午後一時を回ったあたりでは客は少なかったのだが、二時に近づく頃にはかなり増えていて、展示室が狭くなったくらいだったので、結構ファンがいるんだなと感心した。それで我々は退出することにして出口に向かった。出際に(……)さんが運営者の方といくらか言葉を交わしていた。コスプレというのを今までやったことがなかったけれど、この展示があることを知って、これを機に挑戦してみた、というようなことを言っていたと思う。それでありがとうございましたと皆で挨拶して外に出ると、蒸し暑い晩夏の空気に包まれた住宅街が目の前に現れて、現実とのギャップが凄い、と(……)か誰かが漏らして笑った。
 道を戻って駅前まで来たところで立ち止まり、このあとどうしようかと話し合った。カフェか何かに入ろうということだったが、(……)付近よりは目黒に出た方が店があるだろうということで、一駅乗ることになり、改札をくぐった。それで電車に乗って目黒で下り、改札を抜けていくつものエスカレーターを上って地上に出たところで、(……)がカフェの一つに電話を掛けたが、埋まっているとのことだった。五人を一挙に受け入れてくれるほど空いている喫茶店となると、都会の方にはあまりない。(……)はもう一つ、atreのなかに入っている店に電話を掛けて、そうするとちょっと待てば空くかもしれないとの返答が返って来たらしかったが、そこに向かう前に目の届く範囲にサンマルク・カフェがあったので、ひとまずそこで席を確認してみようということに決まった。それで横断歩道を二つ渡り、店に入って奥に進むと、上階と地下にそれぞれ席が用意されているようだったので、空いているかどうか分かれて確認しに行った。そのあいだにこちらと(……)は踊り場に残って待ち、しばらくすると地下に行った(……)さんが戻ってきて、空いていた、(……)くんが座席を取ってくれていると言うので、我々は先に注文をすることにしてレジに並んだ。こちらはチョコクロワッサンとアイスココアというやたら甘ったるい組み合わせを購入した。それで地下に下り、(……)くんの座っている隅の一角に入った。
 BGMにはジャズが流れており、これは何だと(……)に訊かれて、Art Pepperか誰かかなと最初答えたが、さらに聞くうちにPepperらしくはない激しいような吹き方が散見されたので、どうも違うぞと訂正した。曲は多分、"Lullaby Of Birdland"だったと思う。そのほか途中では、"In A Sentimental Mood"なども掛かっていた。店で話したことはほとんど覚えていない。ただ、(……)さんの誕生日企画として三案あるなかからどれが良いかと彼女に聞いた時間があったのは確かだ。(……)くんが三案をそれぞれ説明したのだが、それらというのは、一つは(……)に行って紅葉を見物し、加えてキャンプ場でカレーを作ったり、可能ならば泊まりで星を見たりしようというもの、もう一つはどこか(……)さんが出掛けたいところに皆で出掛けて、やはりカレーを作ろうというもの、最後はレンタルキッチンを借りてカレーに限らず料理を皆で作ろうというものだが、これはそれだけだと寂しいということで、何故かさらに紙粘土を使って皆で作品を制作しようという企画が組み合わされた。大体似通ったものなのでいっそのこと全部合わせて、(……)のキャンプ場に行ってカレーを作って食べ、紙粘土遊びもやれば良いのではないかとこちらは思ったが、口には出さなかった。第一、紙粘土遊びなど特段やりたくはなかったのだ。しかし(……)さんは、(……)に行く企画は(……)くんと(……)の結婚祝いを兼ねてあとに回そうと言って、三番目の料理と紙粘土遊びの企画が良いと言った。こちらは、自分は中学時代美術の成績が二である、紙粘土など扱ったこともないし、とにかく発想力というものがないから作品など作れないと渋ったのだが、何でも良いのだから、ということで押し通された。それでは綺麗な球でも作ることを目指そうかと言うと、それでも良いと言う。ただし、「無」を作るとかそういうのは駄目だと(……)が言うので、こちらは、ドーナツの穴を作ろうかなどと冗談で受けた。
 その後、(……)に移動してホームセンターに行くことになった。と言うのは、これも説明するのが面倒臭いので適当に省いてしまおうと思うが、(……)が"(……)"のMVに使う紙芝居枠を加工するのに木材が必要だったからだ。それでサンマルク・カフェを抜け、横断歩道を渡ってから駅構内へと続く階段を下り、改札をくぐって山手線の電車に乗った。それで新宿まで行き、降りると目の前が総武線の番線だったのでそちらに乗り換える。電車内でどのような会話を交わしたのだったか、全然覚えていない。何かしらの話をしていて、(……)に着いた際、もう(……)かと口に出した覚えはあるのだが、肝心の内容を忘れてしまった。(……)と音楽の話でもしていたのだろうか? それとも、この日行った展示の話をしていたのだろうか。ともかく(……)に着いて降りると、(……)やブロードウェイのない方に駅を抜けた。と言うことは、南口ということだろう。それで(……)さんの先導でホームセンターに向かって歩いていく。彼女は(……)に住んでいたこともあり、また多分(……)付近で働いていたこともあるようで、当該のホームセンターには何度も来たことがあるようだった。途中、何とか言うホールがあり、それに隣接する形で図書館もあった。(……)さんによれば、ここが(……)中央図書館であるらしかった。その前を通り過ぎながら、図書館という施設はまったく素晴らしい、文明の利器だね、などとこちらは漏らした。
 ホームセンターに到着してなかに入ると、フロアを奥へ進み、木材のコーナーを見分した。端の方に細く細かな木材がたくさん取り揃えられている一角があった。木材が必要なのは、(……)が持っているフォトフレームの枠に細い木を取り付けて段差を作り、より紙芝居の枠らしくして絵を際立たせたいという望みからだったのだが、それに適した木材を決めるのに時間が掛かった。色々と話し合って、最終的に、八ミリ幅の細い木材を買うことになった。個々の材木によっても微妙な色合いの違い――白っぽかったり、色がやや濃かったり――があって、統一感を出すために、(……)は四本、同じような色合いの木を吟味して選んでいた。それから、その木や枠を着色する用の塗料あるいはニスを見分しに行った。枠の色味と買い足した材木の色合いが違っていたので、着色して風合いを揃えたいということだったのだ。それでニスの類を吟味して、ステインという種類の塗料と、それを掛けてから上塗りする用の水性のニスとの二種類を買うことになった。最後に、紙やすりを見分して目の粗いのと細かいのと一枚ずつ手もとに保持し、会計に向かった。こちらは(……)が会計に向かう後ろに就いて、木材だったかニスだったかを持って運んであげた。ほかの三人が先に入口の方に行って待っているあいだも、こちらは(……)と一緒にレジに向かい、会計を終えてビニール袋に入れられた品物を、荷物になるだろうと(……)の代わりに携えて店を出た。
 そうしてやって来た道を駅の方へと戻っていく。(……)ブロードウェイに行こうという話になっていたのだ。道中、(……)と(……)くんが同人誌の話をしており、そのうちに(……)くんはこちらにも、(……)さんは同人誌は買わないのと話を振ってきた。こちらは、買ったことがないなあと受け、文学フリマとかに行けば色々あるんだろうけれどねと続けたあと、文学フリマには一度だけ行ったことがあると告げた。確か、二〇一四年の五月五日だったのではないかと思うが、その当時の日記は既に消去されたので確認が出来ない。当時、Twitter上で知り合った人々と読書会を行っていたのだが、その交流の一環として皆で出向いたのだ。しかし文学フリマに行ったあと(……)に移ってPRONTOに入ると、政治談義が始まって、なかに一人全世界的に共産主義革命を行うべきだと主張した人がおり、ほかの皆がさすがにそれは時代が違うだろうと対立して、それでこの読書会のグループは解散したのだった。その共産主義を奉じていたメンバーというのは、(……)くんという人で、メンバー内にはほかに(……)くんもいた。(……)くんというのはこちらがTwitter上で再会し、今年の二月四日に新宿で顔を合わせた人だが、彼は当時「(……)」の一員として活動しており、そのやり方を(……)くんが批判したことも決裂の一因となったのだった。主張の当否はともかくとしても、当時自分は政治についてなど何も知らない若造だったくせに――今も全然知らないが――自らの主張に固執して譲らない(……)くんの態度に苛立ち、こちらには珍しく声と口調を荒げて抑圧的な振舞いを取ってしまったのだが、それについては今でも申し訳なかったと思っている。道を歩き、高架下を北口の方へ抜けながら、そのようなエピソードをいくらか搔い摘んで(……)と(……)くんの二人に話した。駅前では誰か政治家か活動家が演説をしており、香港情勢について触れていたと思うが、すぐに通り過ぎてサンモールに入ってしまったので内容の詳細は覚えていない。
 サンモールを進み、(……)ブロードウェイに入った。時刻は多分、六時前くらいだったのではないか? 途中で(……)が豆腐の店に寄って、何だったかドーナツだったか何かを買って食っていたのだが、飯時まであと一時間くらいしかないのに今食べてしまって大丈夫なのだろうか、と思ったような記憶があるからだ。上層階から順々に下りて行こうということになって、エスカレーターと階段を上り、最上階に出たが、このフロアはひらいている店が少なく、寂れているような感じだった。それで三階に下りると、「(……)」の店舗が色々と並んでいる。これがあの有名な「(……)」かと見ていたのだが、通路を進んでいくうちに、古本のコーナーが現れた。一つの店舗の外側に文庫本がずらりと並べられていたので、嬉々として見分を始めた。岩波文庫ムージル/川村二郎訳『三人の女・黒つぐみ』を発見した。さらに、講談社文芸文庫ロブ=グリエ平岡篤頼訳『迷路のなかで』も発見されたので、これはちょっと本腰を入れて見ないわけには行かないなと取り掛かり出し、そんなこちらの様子を見たほかの皆は、また戻ってくるからと言ってこちらをこの場に一人残し、ほかの店舗を見に行った。それで思うまま、じっくりと棚を吟味した。ハードカバーの本も文庫の区画の横に並べられていて、佐々木中の論集とかがあったのを覚えている。珍しいところでは、ジャン=ルイ・バローの自伝か何かがあって、これは確か一〇〇円だったので買っておいても良かったかもしれない。そのほか、レイ・ブラッドベリ小笠原豊樹訳『とうに夜半を過ぎて』も見つけたので、これも買うことにした。それから文庫の棚の接している店舗内に入ったのだが、ここは精神世界や宗教やオカルティズムに関する本が集まった店舗だった。オカルティズムにはあまり興味はないが、なかに宗教の本や民俗学の本の区画が混ざっていたので、そのあたりを見分した。民俗学の棚にはちくま文庫の『柳田國男全集』が四巻ほどと、平凡社の『南方熊楠全集』がこれも四冊並べられていた。『南方熊楠全集』が一冊一〇〇〇円で結構安かったので買うことにした。選んだのは第六巻、新聞随筆や未発表手稿が集められた巻で、これを選んだのは、南方の堅い論文など読んでも全然わからないだろうから、おそらく比較的柔らかく緩めの話が展開されているであろう随筆の入った巻にしようとの判断からである。
 それで会計をした。「(……)」と冠されたこの店舗は文庫と精神世界関連の本しか扱っていないのかと思っていたところが、あたりをよく見回してみると通路を挟んで向かいに人文学の棚があったので、こちらも見なくてはとの使命感に駆られて見分を始めた。そして、ここの品揃えがなかなか良いものだった。法政大学出版局の著作がたくさんあったし、値段もわりあいに安い方だった。しかもこちらの最近の興味関心であるホロコースト関連の本が結構見られたので、それらを中心にたくさん買い込むことになった。選出されたのは、V.E. フランクル/霜山徳爾訳『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(これは言わずと知れた古典文献であり、当然読みたいと以前から思っていた)、ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける ホロコーストの記憶を問う』(この訳者はゼーバルトを訳している人だ)、ソール・フリードランダー編/上村忠男・小沢弘明・岩崎稔訳『アウシュヴィッツと表象の限界』(上村忠男は言うまでもなく、アガンベンなどを訳しているイタリア思想界隈の重鎮である)、レニ・ブレンナー/芝健介訳『ファシズム時代のシオニズム』(芝健介という人はこちらも最近名前を知ったばかりだが、ホロコーストナチス関連の著作をものしている人であり、講談社学術文庫ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の解説も担当していた)、それに『エピステーメーⅡ[3] 【特集】エマニュエル・レヴィナス』(レヴィナスに関しては今のところこちらの読書の文脈に本格的に上がって来てはいないし――しかしそれこそ、ホロコーストへの関心から接続できるのではないか?――今読んでもわかる気など到底しないが、『エピステーメー』は蓮實重彦なども寄稿していた伝説的な雑誌であり、現物を目にしたのは初めてだったので買っておくことにした)である。
 ちょうど棚を見分し終えて、会計に移ろうというようなタイミングで(……)と(……)と(……)さんが戻ってきたのだったと思う。六〇〇〇円ほどを支払うと、(……)が、次の魔窟にご案内すると言ったのでそのあとについて階段を下った。次の魔窟というのは、(……)くんが先ほどお勧めしていた「(……)」という書店だった。普通の本屋ではあまり扱っていないような類の書籍を売っていると(……)くんは言っていたが、いわゆるサブカルチャーとかアングラ方面のものを取り揃えているようだった。入ってすぐ脇の棚には中古本が置かれており、そこにギュンター・グラスの何とかいう著作があって、それが何とたった一〇〇円だったので買おうかとも思ったのだが、これ以上荷物を増やすまいということで結局は見送った。店内には(……)くんがおり、棚の前に立って何やら立ち読みをしていた。あとで聞いた話からすると、多分寺山修司か何かを見ていたのではないか。文芸関連はあまりなかったが、幻想文学とか映画関連の著作とか漫画とかが豊富にあった。棚の上にも書物が並べられた一角があって、そこにはフォークナーを収録した世界文学全集などが置かれていたのだが、その並びのなかに、何と、ミシェル・レリス/岡谷公二訳『日常生活の中の聖なるもの』が見つかった。これは端的に言って驚きである。(……)でも(……)でも見かけたことのない著作であり、かなりレアなものではないか? ミシェル・レリスの著作は昔から集めているのだが――そのくせまだ全然読めていないのだが――まさかこんなところで出会えるとはというわけで、一冊で二七〇〇円もしたけれど買わないわけには行かない。それでその一冊を購入し、(……)くんのところに行って、俺は満足したと告げ、店外に出てから買ったものを示し、欲しかったものなのだと言った。それからほかの皆と合流しようということで歩き出し、一階下りてみると、通路のすぐ先に(……)と(……)さんの姿が見つかった。(……)は同人誌の類を見ているとのことだった。それでそのあたりに立って話したり、コスプレ衣装を取り揃えた店に入ってみたり、こちらは通路の真ん中でムージルの『三人の女・黒つぐみ』を取り出して読みはじめたりして時間を潰し、(……)が戻ってくると食事に行こうということになった。
 ブロードウェイを出て、特に目当てもなく路地に入り、軒を接して立ち並ぶ店々の前を次々に通り過ぎて行った。歩きながらこちらは、昔、(……)氏と読書会を持っていた時分に、このあたりの店のどれかに入ったことがあるはずだがと思い出していた。歩き回ったあと、見てきたなかなら鳥貴族かなと(……)くんが言ったのだが、その前に(……)さんの知っているパスタの店を見に行くことになった。「(……)」という店だったと思う。その店の前に着くと、(……)さんが地下への階段を下って五人が入れる余地があるか確認しに行った。店の前にはパスタの匂いではなく、階上にあるインド・ネパール料理屋から漏れてくるカレーの香りが漂っていた。店は空いていないとのことだったので、それでは鳥貴族に行こうということになり、ふたたび路地を歩いた。その途中、こちらは(……)に、以前読書会をやっていた時にこのあたりの店に入ったことがあると話を始めた。その時の仲間がその後(……)を受賞したのだと告げると、(……)は驚いていた。しかし今はもう交流はなくなったとこちらは笑って、ちょうどそのくらいの頃合いに鳥貴族に着いたはずだ。しかしここも五人入る余地はないとのことだったので、それでは先ほど歩く途中に見かけて空いていた目利きの銀次に行こうかと決まった。それで道を戻り、海鮮居酒屋に入店したが、店内はがらがらだった。樽のなかに入るような感じの、仕切りが設けられた席に入って、メニューを見ながらタブレットで注文を決めた。飲み物はこちらがジンジャーエール、(……)さんがコーラを頼み、ほかの皆は水だった。酒気のまったくない面々である。食事はこちらは海鮮丼に決め、(……)くんは海鮮二段重、(……)は鮪のラーメンにして、そのほか山芋のチーズ焼きだとか若鶏の唐揚だとかが頼まれた。こちらはさらに、エイヒレを希望した。エイヒレは美味い。(……)がエイヒレを食べたことがなかったので、美味いから食った方が良いとこちらは勧めたが、ほかの皆はあまり手を出さなかったので、こちらが大部分を頂いてしまった。
 食事のあとは、このメンバーでやっている音楽プロジェクトである「(……)」をどこまで広めて行くか、というような話し合いをした。(……)さんは創作用のpixivアカウントだとかTwitterアカウントを持っている。そちらの方で「(……)」の制作を宣伝しても良いだろうか、というような話である。結論としては、本名や顔を出すのでなければそのあたりは各人の裁量に任せて良いのではないか、というようなところに落着いたのだったと思う。「(……)」におけるこちらの名前は本名の(……)をそのまま片仮名にしたものにする予定だったのだが、そこからあるいは足がついてこの日記を綴っているのが(……)であるとバレると困るな、という点に思い当たったので、ハンドルネーム的なものを作ることにしたのだが、そこで(……)くんが、「(……)」は、と言ったので、それは面白い、それは良いなとこちらは笑って、採用することにした。
 そのほか、隣に座っていた(……)に対して、最近どう、と訊いた時があったのだが、(……)は、いや、一昨日昨日も会ってるからねと苦笑した。そう言いながらも彼は、今日、目黒に行って空間展示というのを見てさ、と皆がまるでそのことを知らないかのように今日のことを話し出した。一緒にいた女の子の一人がちょっとコスプレみたいなことをしていたんだけど、それがすごく様になっていて、決まっていて素晴らしかったと彼は感想を述べたので、こちらは、お前、女の子の友達いるの、羨ましいわと横から突っ込んだ。すると周囲の皆から、いやいやお前もいるだろという突っ込みが入ったが、でも三人くらいしかいないなとこちらは返した。実際のところ数えてみると、「(……)」の仲間である(……)に(……)さん、読書会のメンバーである(……)さん、それにあまり会うことはないが高校の同級生で(……)の友人である(……)さんも友達だろうとTは言っていた。あとはTwitterを介して知り合った(……)さんとももう二度も会ったし、まあ友人と言って差し支えないのではないかと思う。(……)さんなどもまだ会ったことはないけれど、友人と言って良いのだったら、計六人くらいということになるか。
 それから、(……)がこちらにも、お前は、と振ってきたので、もう皆知っていることだがロシアに行ったのだと話したりしたあと、実は今日俺も目黒に行ってさ、と(……)の目論見に乗っかった。空間展示ってのを見てきて……まあ俺も女の子の友達と一緒に行ったんだけど、その一人が、アッシュブラウンって言うのかな、そんなような色のウィッグをつけて、三つ編みを左右に垂らしていて、それで写真を撮ったりしたんだけど、まあ様になっていたな。で、そのあと目黒のサンマルク・カフェに行って、地下の隅の席に入ってくっちゃべったりして……などと話していると、(……)くんか誰かが、え、その仲間のなかに、(……)ってやついない、などと乗ってきた。ああ、(……)ね、いるよ、最近この(……)ってやつがやたら日記に出てきてさ、このあいだもうちに泊まりに来たし、などと受けていると、隣の(……)が、え、それって俺とは違う人か、と訊いてきたので、こちらは驚いた振りをして、お前か! と答えて下手くそなコントを閉じ、皆で笑ったあと、もう少し落語みたいな落ちにしたかったなと呟いた。
 その次に、(……)くんに手を差し向けて、じゃあ、どうぞ、と告げると、ええ? 最近? と(……)くんは困惑気味に呟いたあと、そうだな……まあ直近のことなんだけど、と始めて、実は今日目黒に行って、と同じ流れを始めた。展開は先の二つと同じなのだが、(……)くんは空間展示の会場で一人だけトイレに行っていたのでそのことを言及した。曰く、トイレが和式の上に様式の便器が乗っているような、折衷様式と言って良いのかわからないがそのような奇妙で珍しいものだったのだと言う。その後、(……)ブロードウェイに行って、それで目利きの銀次っていう居酒屋で飯を食って、などと(……)くんが話すのにこちらは、え、もしかして今、目利きの銀次にいるの? と訊き、ああ、いるいる、と肯定が返ると、実は俺も今銀次にいるんだけど、とまるで互いに顔を合わせず電話でもしているかのような発言をして、皆で笑った。
 (……)のバージョンと(……)さんのバージョンもあったのだが、流れは大体同じなのでそれに関しては割愛する。そのような馬鹿なやりとりを交わしたあと、店を出たのは一〇時半頃だっただろうか? 退店すると人の少なくなったサンモールを出て駅前に至り、そこでバスに乗るという(……)さんと別れを交わした。そうして改札をくぐり、ホームに上って電車に乗った。(……)行きだったかと思う。電車内で(……)くんは、三〇日の日記はいつ書くの、とこちらに問うてみせた。それに対して(……)が、楽しみにしてるじゃん、と笑うので、でもURL知らないよねと訊くと、一昨日の夜、(……)家からの帰路、別れたあとに検索したら、「二秒で見つかった」と言う。そんなに上の方に出てくるだろうかとこちらは疑問に思い、何と検索したのかと訊いたのだが、それは教えてくれなかった。しかし、(……)くんはセキュリティ系のしごとをしているから、目的のサイトを上手く速やかに見つけるような検索方法には慣れていると言う。ユニーク度の高いワードで検索し、あとは期間指定なども組み合わせると見つけやすいと言うのだが、確かに、ここ数週間の期間に範囲を限定して、例えば「ボリショイ劇場」というような語で調べれば、おそらくこちらのブログが引っ掛かって来るだろう。
 (……)に到着すると、恒例になっているが、別れの前に(……)くんと握手をして頷き合った。駅に着くと(……)と(……)くんの二人は降り、すると(……)が突然、盗撮しなくてはと言って携帯を取り出した。「盗撮」と称してこのカップルの写真を折に触れて撮るのが(……)は好きなのだ。その使命感は何なんだよとこちらは笑い、降りたところに立った(……)くんは片手で顔を隠した。(……)の方は隠し方がなおざりであり、むしろ手を振って別れを告げるような感じだった。その二人の様子を(……)が撮る。
 (……)を発車したその後、(……)は読者が増えたじゃないかとこちらに言った。しかしまずいな、とこちらは受けて、だらだらとした生活をしているのがバレてしまうと苦笑した。でも、起きているあいだは日記を書いたりしているから、何もしないうちに一時間が経ってしまったとかそういうことはないだろう、と(……)。まあ一応それはないと思う――しかし最近では、Twitterをちょっと覗くつもりで三〇分ぐらい時間を使っているようなことが結構あるが。起きるのが遅いのは遅くまで起きているからだし、ともかく、お前そんな暇があったら曲を作れよ、とか言われるような生活ではないだろうと(……)はフォローしてくれた。
 そうして(……)で降り、階段を上がったところで(……)と別れ、こちらは(……)のホームに降りた。終電の(……)行きだった。従って家に帰り着いたのは零時二〇分かそこらだったはずだ。(……)以降の帰路の記憶は特にないし、帰宅後に何をしていたのかについても印象深い事柄は特別残っていないので、この日の日記はここで幕を閉じることにする。


・作文
 10:05 - 10:33 = 28分

・読書
 25:55 - 26:40 = 45分
 26:44 - 27:40 = 56分
 計: 1時間41分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-20「盛り場の外来魚だけには分かる夜と昼とをまたぐ汽水が」; 2019-08-21「人名でしりとりをする大半は死者の名となるこれも喪である」; 2019-08-22「地図上の河川をはさみで切り抜きつなげて神話の蛇を作る」
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 31 - 85

・睡眠
 1:50 - 9:00 = 7時間10分

・音楽

2019/8/31, Sat.

 宇野 この問題を考える際、先ほどの小野塚先生の力の問題というところから入るのがわかりやすいかなと思います。私は政治学が専門ですが、入門的な政治学の講義の初回に言うのは、いつも暴力と権力はどう違うかということです。基本的な発想として、暴力(フォース)というのはむき出しの物理的な力です。これに対して、権力(パワー)というのはどう違うのか。確かに強い人間がいて、弱い人間をグイッと抑えつければ、その瞬間は服従させることができるでしょう。しかし、それでは安定した秩序は作れません。秩序を一定の期間以上維持しようとすれば、いくら力のある人間でも、すべての人を強制することはできないわけです。すべての人を力ずくによって抑えることができない以上、秩序を維持するためには、むき出しの暴力以上の存在が必要です。それが正当性(レジティマシー)の問題です。
 むき出しの暴力と、いわゆる政治権力はどう違うかという、そこに正当性の問題が加わるかどうかです。
 中島 丸山眞男的ですね。
 宇野 丸山だけではなくて、政治学の教科書には必ずそう書いてあります。言語を通じて人を説得するというプロセスがない限り、むき出しの暴力だけでは政治の秩序は作れない。そこにどうしても正当性、すなわち相手に納得した上で服従してもらうという側面が出てくる。すべての場合に力で強制していたら、そんな非効率的な政治権力は、とてもじゃないけど続きやしない。
 中島 コストが高すぎますね。
 宇野 高すぎます。すべてを暴力でやるのはとても無理なわけであって、人々がこれに従うのが正しいのだと思わせてこそ、初めて政治権力というのは維持されるわけです。そこに何らかの正当性が加わらなければならない。そして、その正当性を生み出すのは言語です。政治学では必ずそういう話から始めます。
 小野塚 それは要するに、権力というふうにおっしゃっているけれど、権威的支配と言っているのと同じことですか。人々から権威を調達しているんだ、と。それが一番安定的な支配の在り方だよ、と。
 宇野 権力(パワー)と権威(オーソリティ)の違いというのも、これまた政治学の始めでやるんですけれども、ある意味で言うと、権力というのは、最終的には暴力に支えられています。先ほど述べたように、権力は暴力にプラスして正当性が加わるわけですが、いずれにせよ、必ず暴力というのを内包している。これに対して権威は、暴力を行使した瞬間、失われてしまいます。つまり、宗教が最たるものでしょうけれども、「お前、信じろ」と言って強制した瞬間、もはやそれは権威を失ってしまうわけです。権威というのは暴力を行使してはいけない。
 小野塚 思わず信じたくなるようにならなきゃいけないわけですよね。
 宇野 したがって、最終的に暴力に担保されなくても、人々におのずと従わせる何かを持っているものが権威であって、その点で最終的には物理的暴力に支えられている権力とは違います。このことを、政治学の講義の最初で説明するわけです。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、47~49; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 宇野 ただ、面白いなと思うのは、先ほどのポスト・トゥルースじゃないですけれど、アーレントが政治と真理という問題について、深く考察している点です。政治というのは意見(ドクサ)の世界のものです。これに対して、真理は哲学、学知(エピステーメー)の世界のものであって、両者は本来相反すると彼女は言います。つまり、政治の世界というのは必ずしも一つの真理が支配するものではありません。人々の意見というのは多様で、どれか一つだけが絶対的に正しいわけではない。むしろ複数の声が響き合うことが政治の領域を形成するのだとアーレントは言います。これに対し、唯一の真理が絶対的に支配するのは反政治的なわけです。
 これはもちろんプラトン的な、哲人王の批判であり、それこそ20世紀における、ある種の真理を独占する前衛党に対する批判にまで及ぶものです。彼女はやはり、意見の世界こそが政治のすまう世界だと言います。ただ、その上でアーレントの議論が興味深いのは、みんな意見があるとすれば、とにかく言った者勝ちで、それこそ今のポスト・トゥルースでもいいのではないかということになりそうですが、それもいけないと言っていることです。
 アーレントは単一の真理が支配してはいけないという一方で、この世の中には事実というものがあって、その事実を否定することはあってはならないと主張します。たとえば、ある人が存在したのに、それをもともと存在しなかったと言い張ることは、事実の否定です。事実は時間の中で確定してきたものであり、その実在こそが世界のリアリティを作っている。これを全部否定してしまって、言葉で何とでもなるとした瞬間、政治は自壊するというのです。
 (50~51; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 八時台を迎えて覚醒した。隣の部屋ではT田も既に起きていたようで、まもなく薄青いシャツと白のハーフ・パンツを着込んだ姿が戸口に現れた。こちらはベッドに寝そべったまま彼の挨拶を受け、部屋に入ってきたT田が、何か文芸的な本を、と言うので一旦起き上がり、文芸的な本……と困惑しつつしばらく考えたあと、まあ宮沢賢治あたりで良いんじゃないかと言ってちくま文庫の『宮沢賢治全集1』を積み本の上から取って差し出した。そうしてこちらはベッドに戻り、まだ眠いと漏らして横になり、T田が静かに黙って宮沢賢治を読んでいるあいだしばらくごろごろとしていた。九時に至ると、それでは飯を食いに行くかというわけで起き上がり、部屋を抜けて階段を上がった。母親に挨拶し、洗面所でそれぞれ顔を洗ったあと、台所で料理を前にした。ガーリック・ライスとかいう代物があった。余った米をガーリック風味に炒めたものらしい。それを二皿、電子レンジに収めて温め、そのほか野菜のスープを火に掛けて、二人分よそった。さらにパックに入ったトマトやモヤシなどのサラダを卓に運び、取り皿も二つ持ってきて、そうして食事を始めた。食事中は台所に立った母親がお喋りを発揮してカウンター越しにT田に色々と話しかけ、質問を送っていたが、その詳細については特別覚えていない。
 食べ終えると使った食器を台所に運び、洗い物は母親に任せて二人で自室に帰った。T田が、彼がCD-Rに焼いてこちらにくれたフォーレ弦楽四重奏を聞こうと言うので、プレイヤーからQuatuor Parrenin『Faure: Integrale Musique de Chambre』(Disc 5)を流した。音楽を流しながら同時にアクセスしたウィキペディアの記事によると、一九二四年に作られたこの弦楽四重奏曲フォーレの最後の作品であるそうだ。ウィキペディア記事には哲学者のジャンケレヴィッチの評言などが引かれていて、そこでジャンケレヴィッチがフォーレについての著作をものしていることを初めて知ったのだったが、こちら個人の聴取によると、旋律や和音の構成に深淵そうな、内省的な感触があり、なかなか掴みどころがなく雲のように曖昧だと感じられた。そうした色合いがドビュッシーなんかと似ているのではないかと思われて――と言って、ドビュッシーなどほとんどまったく聞いたことがないので、単なる素人の不正確なイメージに過ぎないのだが――、T田に、これは印象派的というものなのかと尋ねると、印象派とはちょっと違うだろうなという答えがあった。フォーレは世代としてはドビュッシーの一世代あるいは二世代ほど前の作曲家なのだと言う。それでやはり一九世紀的な一種の堅苦しさが残っているが、時折り、先進的な和音の使い方などがあったりして、そのあたりは二〇世紀の次の世代の音楽を思わせるというのがT田の評価だった。三楽章すべてを聞いてみて、最後の第三楽章にはまだしもわかりやすいメロディーもあったが、全体的にはなかなか一筋縄ではいかなさそうな音楽だと思われた。
 それから次に、クラシック寄りのジャズを聞いてみようというわけで、Fabian Almazan『Rhizome』の第一曲 "Rhizome" を流した。優美で整然とした弦楽が織り込まれている楽曲で、改めて耳を傾けてじっと聞いてみるとやはり素晴らしかった。T田もこれは素晴らしいとの評価を下してくれたが、こちらがよりお勧めしたかったのは次の二曲目、"Jambo"だったので、そのままアルバムを変えずに音楽を続け、少々不安感を煽るような動機の繰り返しと、静と動との対比が巧みな二曲目にも耳を寄せた。終わったあとに音源を送ろうかと言うと肯定の返事があったので、その場で音楽データの入っているフォルダをひらき、ZIPファイルに圧縮してLINE上にアップロードしておいた。T田がこの人、ショスタコーヴィチとか好きだろうなと漏らしたので、ファースト・アルバム『Personalities』の冒頭が確かショスタコーヴィチの曲のアレンジだったはずだと思い出し、それも次に流した。少々電子めいた音も混ぜて、破壊的な展開を演出した音源である。それを聞いたあと、次に前夜話題に出たRobert Glasperを聞いてみようというわけで、『Black Radio』から"Afro Blue feat. Erykah Badu"を掛けた。久しぶりに聞いたが、リズムがさすがの正確さ及びタイトさで、非常に質が高く、T田も聞き終えたあと、ドラムが滅茶苦茶上手いなと感嘆していた。このアルバムのこの音源のドラムはChris Daveだっただろうか? それともほかのプレイヤーだっただろうか? と疑問に思ったが、今ウィキペディア記事を調べてみたところ、このアルバムはまだ全篇Chris Daveがドラムを叩いているようだ。
 続いてちょっと毛色を変えて、ラテン方面のものを掛けるかというわけで、Ryan Keberle & Catharsis『Azul Infinito』より最終曲の"Madalena"を流した。これは元々確かElis Reginaが歌っていた曲のカバーで、作曲者はIvan Linsだったような気がするのだが、記憶が朧気なので間違っているかもしれない。この音源もJorge RoederとEric Doobによるリズムが細かく動いて通り一遍でなく、凄まじい躍動感を生み出している好演である。そうして次に、Brad Mehldauのソロピアノがやはりとても素晴らしいぞというわけで、『Live In Tokyo』から"From This Moment On"を流した。この曲の演奏は本当に凄まじい。T田も終わったあと、気違いだなと漏らしていたので、まあやはり天才だろうな、三〇年に一人くらいのレベルではないかとこちらも応じた。今まで聞いたなかで何か欲しい音源はあるかと尋ねると、それでは今聞いたBrad Mehldauをとの返答があったので、ディスク一とディスク二を揃ってふたたび圧縮し、これもLINEに上げておいた。そして最後に、John Coltraneはどのくらい天才なのかとT田が尋ねるので、まあ彼は天才というよりは努力の人だからなとこちらは答え、その努力ぶりを示すためにMiles Davisの『Relaxin'』の"If I Were Bell"での演奏と、『Giant Steps』のタイトル曲と、『My Favorite Things』の同じく表題曲とを搔い摘んで流した。五六年、五九年、六一年――のつもりだったが、今調べてみると、『My Favorite Things』の録音は六〇年の一〇月だった――という順番である。五六年のまだ訥々として、もごもごと不鮮明に喋っているような演奏から、僅か三年で"Giant Steps"の饒舌さに至るのも凄いが、そこからさらに一年半経った"My Favorite Things"の時点では、いわゆるシーツ・オブ・サウンドがもう出来上がっている。五六年から僅か四、五年で人間はここまで来ることが出来るのだと、John Coltraneを聞く時はいつもそういうことを考え、彼がこなしたであろうとてつもない努力の跡をそこに辿るような思いがする。
 Coltraneを流している最中に、母親が氷の入れたカルピスを一杯ずつ、盆に乗せて持ってきた。お昼も食べていけばと言うのだが、T田はそろそろ発たねばならなかった。元々、一一時二分の電車で発つつもりが、聞かせたい音楽がまだまだあるということで次の三二分に遅らせてもらっていたのだ。しかし母親が青梅まで送っていこうかと言うので、そうしてもらうことにして、カルピスを飲み干すと部屋を出た。上階に上がり、テーブルに就いていた母親にもう行けると訊くと、肯定が返ったので、それでは行こうと言って玄関を抜けた。こちらは肌着のシャツにハーフ・パンツという部屋着のままだった。T田はトイレに入っていた父親に対して、また母親にも対していたと思うが、お邪魔しましたと礼を言っていた。そうして階段を下りて家の前に出ると、液体的な陽射しが肌に染み込んで暑い。母親に車を出してもらい、後部座席に二人並んで腰掛けて、出発した。
 青梅駅まではさして時間は掛からない。市街を走っていき、駅前の電話ボックスの付近に到着すると、車を降りた。そうして駅舎の入り口をくぐり、改札の前に立って、T田にありがとうと告げ、手を上げて、改札を抜けていく彼と別れを交わした。それから車に戻ってふたたび発車して、駅横の細道に入った。シルバー人材センターか何かが運営している小店に寄って野菜を買うつもりだと言う。まもなく通りの途中にあるその店に着き、草の生えた敷地に車は停まり、母親は降りてこちらは車内に残って目を閉じた。前日は朝の一〇時から夜の一一時近くまで、半日以上も外出していたこともあり、またそれでいて眠るのも遅くなったので、やはり結構疲れが溶けずに蟠っており、眠気があるようだった。母親はまもなく、緑色の菜っ葉の入った袋を手に戻ってきた。そうしてふたたび発車。表通りに出て西へ方向を変え、図書館へと向かう。揺られているあいだこちらはたびたび目を閉じていたが、そうすると目を開けている時よりもかえって身体に伝わる揺れがよく感じられて、気持ち悪くなりそうな感じがした。青梅図書館に着くと、母親が降りていった車のなかで一人目を閉ざして待ったが、車内に熱が籠って息苦しいようだったので、途中で扉を開けた。そうすると新鮮な風が入ってきて幾分ましになったが、じきに隣に別の車がやって来たので、扉を閉じねばならなくなった。まもなく母親は戻ってきた。そうして出発し、西へ向かって帰宅した。
 家に着いて、母親の借りた本の入った手提げ袋と菜っ葉の入った袋を持ってなかに入り、荷物を居間に置いておくとこちらは下階に下った。本を読みながら休もうと思ってベッドに移ったのだが、本をひらかないうちに眠りに落ちてしまい、結局四時まで横になり続けた。その時間になると何とか起き上がって上階に行き、素麺があると言うので遅めの食事を取ることにした。麺つゆを椀に注ぎ、水でいくらか薄めたあとから冷凍保存されていた葱を散らし、山葵も添えて卓に向かった。そのほかおかずとしては、前夜の残り物である炒めた茄子と鶏肉のソテーがあった。それらを食べ終えると、母親が料理を手伝ってくれと言うので、皿を洗ったあと、胡瓜を千切りにして水菜の浸けられた洗い桶に加えていった。さらにボウルに入った茹で鶏肉を手で千切っていき、脂っぽくなった手指を流水で洗うと、洗い桶から笊に野菜を取った。鶏肉の水気はキッチンペーパーを当てて取り、笊の野菜の方は傾けながら手で押さえて水気を絞り出して、そうしてからボウルに両方を合流させて、棒々鶏の素を掛けた。そうして菜箸で搔き混ぜて味が全体に渡ると、ラップを掛けて冷蔵庫に保存しておき、こちらは下階に帰った。
 今日と明日は非常に小規模なものだが地元の神社の祭りで、地元の人々が参加する催しに父親も加わって歌を歌うと言う。母親も、演者に花を渡す人がいないからと言われて、その役を務めてくれないかと頼まれたようで、両親は六時頃か七時頃かに出掛けていったようだ。お前も行けばと誘われたが、我が父親が下手くそな歌唱を人々の前で披露しているところなど見たくもないし、ほかの演者にしたって皆素人なのだから興味などまったくない。そういうわけで断り、部屋に戻って五時四〇分頃からふたたび読書を始めようとしたのだが、またもやいくらも読まないうちに――と言って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』は残り三頁ほどしか残っていなかったので、読了することはしたのだが――意識を失った。気づくと八時になっていた。そこから読書ノートにメモを取り、八時半前になるとコンピューター前に移ってインターネットを回り、それから夕食を取るために階を上がった。両親はまだ帰っていなかった。薄褐色に染まった鶏釜飯、素麺の残り、棒々鶏をそれぞれ用意して卓に就き、一人黙々と、テレビの音もないなか、新聞も読まずにただものを食べた。そうして食後、皿を洗うと入浴に行き、湯のなかで身体を休めて上がってくると、下階に帰った。
 TwitterでKさん、Hさんとダイレクト・メッセージを交わしていた。主題は勿論、読書会の件についてで、やりとりの結果、課題書は牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』(岩波文庫)、日時は九月二一日の土曜日の午後二時から、場所は新宿と決まった。その後、FISHMANSCorduroy's Mood』を流しだし、"あの娘が眠ってる"など歌う一方で日記を書きはじめた。音楽は続いて同じFISHMANSの『Oh! Mountain』に繋げて、この日の日記を進めたが、ここまで書くと既に零時に至って九月に突入している。前日の記事をまだほとんど書いておらず、まずいなと言わざるを得ないのだが、しかしこれ以上コンピューターの前に腰を下ろして身体を固めながら打鍵を続ける気力がなく、ベッドに寝転がりたい欲求が湧いている。
 そういうわけで書き物は中断してベッドに移り、ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』を読みはじめたが、例によって途中で意識を曖昧に落としていたようである。一時四七分まで読んだところで本を閉じ、明かりを落として就床した。今のところ、この本に関して特段に印象深い瞬間には出会えていない。


・作文
 22:19 - 24:01 = 1時間42分

・読書
 17:43 - 20:25 = (大方眠っていたので、実質)42分
 24:07 - 25:47 = 1時間40分
 計: 2時間22分

  • 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』: 296 - 299(読了)
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 7 - 31

・睡眠
 ? - 9:00 = ?
 12:00 - 16:00 = 4時間
 計: 4時間 + ?

・音楽

2019/8/30, Fri.

 酒井 「なるべくしてなる」という目的論的な主張は、言語学に限らず進化論においても見られますが、何ら科学的な裏付けをもちません。現存種が進化の「結果」に見えようとも、それは単なる偶然の産物かもしれないのに、すべては結果に向かっているように見えてしまうのですね。そこに共通した誤りは、目的論を規範や原理・法則と混同してしまうことです。原理と法則は、「なぜそうなるか」を説明するための根拠を与えます。ところが目的論は、結果自体を目的に置き換えてしまうことで、循環論に陥って何も説明しないことになる危険性が高いのです。
 そうした誤りを正すには、教養として「科学という考え方」を学ぶことで、自然科学の原理と法則の実例を知り、それを基準として考えるしかないでしょう。考えるための基盤が軟弱ですと、目的論に抵抗するための免疫がないわけですから。
 音楽の世界でも、西洋音楽史という一面だけで見れば、ルネサンスバロック・古典派・ロマン派・近代・現代という流れが目的論に適っているように思えるかもしれません。しかし、邦楽にはそうした流れは起こりませんでしたし、音楽の発展に「なるべくしてなる」というような必然性は存在しません。西洋音楽は、ヨーロッパからロシアにまたがる民族音楽の一形態ですから、それが音楽全体を代表するものではありません。民謡やジャズ、ロック・ポップスなどはすべて等しく音楽であり、それぞれが独自の発展の様式を持っています。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、32~33; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 宇野 時局的なところから入れば、まさに2016年の一番の流行語は「ポスト・トゥルース」でした。米大統領選では、大統領候補自らがディベートの場で、根拠のないデマに類する発言をどんどん言って、しかしそれが後で問題にもならないという、ある意味で言った者勝ちの状況が生じました。元来、欧米の政治家にとって、公的な場での発言は極めて重い意味を持つものです。一つ発言を誤れば、それが政治的生命の喪失につながりかねない。記者会見などでも、記者やその向こうにいる国民に向かって、どれだけ心を込めて誠実にスピーチするかというのは、アメリカの大統領にとっては非常に大切なものです。就任のときのスピーチを含め、いろんな形でしゃべった内容は記録され、その後の検証に晒されるわけです。このように公的な場でスピーチをするということは、非常に重要なことなのに、トランプはこれをむしろ軽視し、代わりにツイッターなどのSNSで、どんどん言いたい放題を言うわけです。
 これは政治の在り方を大きく変化させてしまうのではないか、というのが昨今の問題意識です。ところで、日本を振り返るとちょっとまた違ってきます。象徴的なのは菅官房長官ですよね。何を聞かれても「問題ない」「それは当たらない」「仮定の問題には答えられない」、という三点セットですべて答えてしまう。安倍首相は何を言われても、「印象操作だ」で終わりです。言葉というのは、まさにお互いに言葉を尽くして表現し合い、それぞれの発言の最終的な印象を決める勝負なのに、すべてを「印象操作」としてしまうと、非常に言葉が貧困になるわけです。これはこれで、アメリカとは違うバージョンですが、政治における言葉の貧困化という意味では、通底する部分があるのかもしれません。私は政治において、非常に言葉が大切であると考えています。アーレントではないですが、政治において最も本質的なのは複数の存在者の間での言葉のやりとりであると考えています。そのような意味で言うと、言葉というものが脅かされると政治もまた怪しくなるだろうと思います。それが根本的な問題意識です。
 (45~46; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 六時に覚醒した。計算上は二時間半しか眠っていないことになるが、軽く、はっきりとした目覚めだったので、しばらく呻きながら布団を引き寄せてごろごろしたあとに、一念発起してもう起きてしまうことにした。ベッドから下り、コンピューターに寄ってスイッチを押して、起動させるとTwitterをひらいて眺めた。そのほかインターネット各所も訪れたのち、六時半過ぎから早速前日の日記に取り掛かった。外では雨が降り出しており、音からするに結構な勢いで落ちている。空気が薄暗いので途中で明かりを点け、一時間余りで前日の記事は書き終えて、この日の分も僅かにここまで綴って七時四五分となっている。
 その後、家を発つまでのあいだに何をしていたのか、この朝から丸二日が経った今ではもはや覚えていないのだが、Fred Hersch『Songs Without Words』を確か流して、手の爪を切ったことは確かである。それからクラッチバッグに荷物を整理し――書物や財布や携帯や、ロシア土産のクッキーとハンドクリームなど――出発した。最寄り駅までの道中のことも特段に覚えていない――と思ったが、そうではない、この朝は母親がコンビニに行く用事があるから送っていこうかと言うので、その好意に甘えたのだった。それで九時前に車に乗り込み、家を発って、市街を抜けて行って青梅駅前、コンビニ横の細道に車は停車した。なかに誰か乗っていないといけないだろうというわけで、母親が先に用事を済ませるために降りてコンビニに行き、彼女が戻ってくると、ありがとうと礼を残して降り、こちらもコンビニに入った。まずATMで金を下ろす。五万円を下ろして財布に入れたあと、レジに向かって並び、年金を支払った。店員に礼を言って退店し、駅に入ると停まっていた電車の二号車、三人掛けに入って本を読みはじめた。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。途中で、ショートパンツを履き褐色掛かった脚を外気に晒した若い女性が隣に乗ってきたが、彼女の身体からは何やら酸っぱいような匂いがした。
 拝島に着くと降りて、エスカレーターを上り、改札を抜けるとSUICAを手に持ったままちょっと移動し、西武線の改札口に入った。ホームに降りると、階上にあるケンタッキー・フライド・チキンの匂いがあたりに漂っていた。ちょうどやって来た小平行きに乗り込み、ふたたび本を読みはじめて、まもなく発車した。僅か一駅を揺られ、西武立川で降りると待ち合わせの一〇時までまだ間があったので、ホームを移動して木製の座席に就き、本を読み続けた。
 一〇時ぴったりまで読み、切りの良いところで中断して席を離れ、階上に上がった。改札を抜けて正面の窓際に立ち尽くしていると、まもなくT田がやって来た。軽く挨拶し、行こうと言って歩き出す。――何か買って行くか。――土産持ってきたよ。――俺も。――じゃあ良いんじゃない。――飲み物は。――そうか飲み物か。じゃあ俺は牛乳買うわ。というわけで、駅舎を出てすぐ脇のコンビニに入った。こじんまりとしており、横に長細いような間取りの店である。フロアの奥に入っていき、飲み物の棚を見た。ジンジャーエールを買おうかと思っていたのだが、ピーチ風味の品しかなかったので、カルピスに決めた。あとは何かチョコレート系統の菓子があった方が良いかなというわけで、トッポを棚から取ってレジに向かった。会計をし、店員に礼を言って退店すると、なかなか旺盛な雨のなか傘をひらいて歩き出した。小公園を通り過ぎて家々のあいだへ入っていく。世間というものを知らないので良くもわからないのだが、建売住宅と言うのだろうか、同じようなデザインと大きさで敷地の広さも大体同様の家々がいくつも並んでおり、通りに固有性がなくて区別を付けづらい。それで一度、Tの家から一つずれた通りに入ってしまった。通りの端まで行って折れ、一つ手前の道に反対側から入って、彼女の自宅に到着した。インターフォンを鳴らすとTが出てきたので挨拶をして、軒下で傘をばたばたやって水気を弾き飛ばし、戸口をくぐって傘は隅の傘立てに入れておき、家内に足を踏み入れた。洗面所を借りて手を洗ってから階段を上がり、上がってすぐの部屋に入る。ここに来るのはおそらく六年ぶりといったところではないか。音楽関連の作業用の防音室である。さほど広くはなく、四人入るとそれでいっぱいといった感じだ。部屋の真ん中あたりから見て右方、入口の方にはキーボードが一つ室を横切って置かれ、その向こうの壁際には本棚があるが、並んでいる本のなかには特段にこちらの興味を惹くようなものはない。左方にはアップライトピアノが鎮座しており、今はその前にはKくんが座ってアコースティック・ギターを抱えていた。さらにその脇にはボーカル録音用のマイクスタンドが立っている。室の中央から見て正面方向にはコンピューターが置かれてあった。
 皆さん、土産ですよと言ってクラッチバッグからNatura Sibericaの黒いビニール袋を取り出し、クッキーを三つ、なかから出した。加えて、Tには、ハンドクリームを差し上げる。オブレピーハとかいうシベリアの植物を原料としたクリームだと説明すると、Tは早速箱から出して少し手につけて香りを嗅ぎ、ほかの三人にも手を差し出して匂いを分けた。それから座っているとKくんがアコオギを渡して来たので、受け取って適当にブルース風のフレーズを奏でた。弾いていると、家を出る前に爪を切ったばかりだったこともあり、もう長いことギターに触れていなかったので指の先端が柔らかくなっていたこともあろう、指先からほんの僅かに血が滲んだ。ギターはもう一本、Fujigenのエレキギターがあり、こちらものちに弾かせてもらったのだが、弦が固いように感じられ、弦高や弦の太さの問題なのか、それともそれだけこちらの指がやわになったということなのか、チョーキングもまともに出来ないような有り様だった。
 しかし、Kくんと一本ずつギターを持って弾いていると、そのうちに自然発生的にセッションが始まった。Aのブルースである。ひたすらソロとバッキングを交替で回していると、そのうちにT田もキーボードで入ってきた。しかしT田はじきにコンピューターでの作業に移るために、TにAブルースの進行を教示して交替した。それでずっとセッションをしていたが、確か"C"の音源がコンピューターから流れはじめたところで終わったのではなかったか。T田はコンピューターに就いてヘッドフォンを頭に嵌め、"C"のドラムを作りはじめた。ほかの三人は、Tの主導でボーカルのハモりを考えることになった。彼女の希望に合わせて、メロディの三度上だとか三度下だとかをギターで弾いたり、コード進行との兼ね合いを考えてここはぶつかるから四度の方が良いのではないかなどと助言をしたりする。Kくんとこちらのギター、Tのキーボードで旋律三つを合わせてみて響きの具合を確認したり、Tの携帯で手軽に簡易的に録音したりもした。
 作業は午後一時過ぎくらいまで続いた。Tは昼食の冷やし中華を作るために下階に行った。待っているあいだこちらは、彼女の書棚のなかで唯一興味を惹かれた安藤忠雄の展覧会の図録を取り出して見ていた。二〇一八年だったか二〇一七年だったかに国立新美術館でやったものらしい。浅田彰が冒頭に短い批評文を寄せていた。有名なものだが、「光の教会」などの写真を目にした。印象に残っているのは司馬遼太郎記念館の写真で、吹き抜けの三層の壁際を書棚が高く聳え立ち、上下一面を本がずらりと埋め尽くしているのだった。
 そうこうしているうちにTが作った冷やし中華を持ってきてくれた。四人分の皿で小さなテーブルをいっぱいにして、卓を囲んで食事を取る。冷やし中華は麺にこしがあってなかなか美味かった。食事中や食後は、ロシアの話をいくらか披露した。主に話したのはサーカスのことだっただろうか。空中でくるくると回る演技が見られたり、大きなブランコ様の器具が二つ、舞台の左右に出てきて、揺れるその上をカンフー風の衣装を纏った男たちが宙返りしながら飛び移る演目が見られたと説明する。あとは後半に、手品のような仕掛けのわからない演目があったと紹介した。大きなイースター・エッグから男女が出てくるのだが、男性たちは大きな扇を持っていてそれで女性の姿を一時隠す。それは大して長い時間ではないのだが、次に扇をひらくと女性の衣装が変わっている、という趣向の演目があったのだ。女性の姿が見えなくなっている時間はどんどん短くなっていて、最終的には銀色に光る紙吹雪のようなものを頭の上から撒いて流し、それで女性の姿を隠すまでに至ったのだが、紙吹雪が撒かれてから地に落ちるまでの僅か一瞬で、やはり女性たちの衣装は様変わりしているのだった。あとは、やっぱり猛獣使いじゃないですか、見所は、と告げた。舞台の左右に六頭ずつ、チーターや黒豹やライオンたちが出てきて、その猛獣たちは演技をする以外の時間は左右の台に控えてじっと待機していないといけないのだが、時折り番を待てずにそろりそろりと舞台中央の方へと出てきてしまうものがある。すると猛獣使いはすかさずそちらに駆け寄って鞭を放ち、動物を台の上に戻して大人しく座らせるのだが、そのように一方では中心となる演技を進めながら、もう一方ではほかの動物たちの様子も常に窺っていないといけず、その視野の広さを保つのが大変そうだったと話した。しかも猛獣はなかなか言うことを聞かない場面もあったし、一歩間違えて襲ってきたりすればその時点でもうアウトである。そのほか、ボリショイ劇場の壮麗さについても語った。桟敷席の外側に施された金細工が凄かったと述べる。そして、プルーストっていう小説家がいて、『失われた時を求めて』というやたら長い作品を書いているんだけれど、そのなかにオペラ座とかが出てくるのね、ああ、これはあの世界だなって思った、と告げた。
 その後、またそれぞれ作業に戻ったが、Tがこちらの持ってきたクッキーを食べたがって、昼が遅くてまもなく三時に至ったので、おやつの時間にすることになった。クッキーはミルク味とチョコレート味のそれぞれが開封され、Tは一枚を取って鼻に近づけて香りを嗅ぎ、ああ、バター、と幸福そうに漏らしていた。味も好評を得られたようである。こちらもいくつか頂いたが、まあ普通に美味かった。
 そのあとはまたハモりの作成に掛かり、じきに全篇通して完成した。多分同じ頃にT田のドラム打ち込みも完成して、新しくなった"C"の音源を流して皆で聞いたのだが、スネアの音を変えたこともあってだいぶサウンドが明るくなったような印象だった。その後は、今度はT谷が録音してくれたギターを今作ったこの"C"の音源に乗せてみようということになり、そのように編集を施して、KくんとT田がギターのサウンドの加工に取り掛かった。こちらもしばらくはそれを見ていたのだが、大した耳を持っているわけでもなし、DTMの知識も持ち合わせていないので、そのうちに作業は二人に任せることにして、持ってきた栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめた。しかしいくらも読まないうちに夕食の時間に至って、Tが作ったキーマカレーを持ってきてくれたのではなかったか。廊下に出されていた小さなテーブルを室内に運び入れるのをこちらは手伝って、その上にまずベビーリーフやトマトなどの生サラダが乗せられた。そのあとで大皿に盛られたキーマカレーを四人分乗せると、卓に空白のスペースはなくなり、ちょっと手もとの操作を誤ると皿を落としてしまいそうなくらいにいっぱいいっぱいになった。それで慎重にキーマカレーを頂くのだが、細かな野菜や肉がふんだんに入ったこれは美味いものだった。
 食後にはさらに、デザートとして西瓜も提供された。考えてみると、西瓜を食ったのは今夏初ではなかったか。三角形の赤い果肉にかぶりつき、種を吐き出しながら食べていく。この食後だったか、それともほかの時間だったか忘れたが、こちらの最近の日記について話した時間もあった。以前も知らせたことだが、noteにおいて投げ銭システムを導入したところ、金を払ってくれる人が一人現れて、いくらか売れているのだということを報告したのだ。T田もこちらの日記を独自に検索で発見して、最近時折り読んでくれているらしいのだが、彼が言うには、やっぱり俺らと遊んだ日とか、どんな風に書いてあるのかと気になって読むじゃない、それで思うのは、こいつは勝手に議事録を作ってくれているんだな、とのことである。今ここで話されていることも書くからねとこちらが言うと、そうすると日記について話したことを日記内で書くという、どんどんメタ的な感じになっていくねとKくんが言うので、その発言も記されるから、とこちらはすかさず言って、皆で笑った。金を払ってくれる人が現れたことに関しては本当にありがたい。それに関しては、まあ第一歩ですねとこちらは呟き、百年後にはちゃんとウィキペディアに俺の名前載ってるから、世界一長い日記を書いた人間って、とこのあいだも言った冗談を放ってまた皆で笑った。
 デザートとしてはほかに果肉入りのゼリーも振る舞われたのだが、皆お腹がいっぱいで食べきれないからということで、これは各自貰って持って返ることになった。あと、書き忘れていたが、T田が持ってきた山口土産である「ゆずきちタルト」という、濃い炭色の黒っぽいタルトも夕食の前だったかに出されたのだった。それで夕食後はまたしばらくT田とKくんがギターの音色を加工した。そのあいだ、こちらは何をしていたのか記憶が全然ない。Tと話していたのだろうか? 指が痛かったのでギターはもう弾いていなかったと思う。いずれにせよそのうちにギターの音色が完成した。低音部と、シャリシャリとした耳触りをもたらす高音域を一部カットして、アンプ・シミュレーターでクランチ気味に歪みを足し、ディレイとリバーブか何かを掛けて、ディレイによって複製される音を音空間の反対側に振ったと、そのような加工だったと思う。それで皆で出来上がったギターを乗せた"C"の音源を聞いた。細かな良し悪しを判断できるほどの良い耳をこちらは持っていないが、まあ概ね問題ないのではないかと思われた。ただ、スピーカーとヘッドフォンの特性がかなり違うのだろうか、スピーカーから出して聞いたサウンドと、ヘッドフォンをつけて聞いたサウンドの感触がかなり違うという声が上がった。それでこちらもヘッドフォンを借りて頭につけたのだが、スピーカーから出力された音ではギターのざくざくとした感触が結構耳についたものの、ヘッドフォンで聞いてみるとそれは気にならない音像になっていた。ただ、ヘッドフォンで聞いた場合、高音域の方がやや狭く聞こえると言うか、抜けがいまいちであるような気もした。家に帰ったあと、皆の聴取環境で聞いてみてどう感じるかも問題だなと言を合わせた。
 その時点で時刻は多分、既に九時台だったと思う。音源を聞いたあとはそれほど時間を取らずに退出したのではなかったか? この文章を綴っているのはこの日から四日が経過した九月三日のことなので、さすがに記憶が覚束ない。すぐにT家をあとにしたものとして考えよう。荷物を持ってTの音楽室を抜け、階段を下りていって玄関で靴を履いていると、居間にいたTの母君が玄関まで出てきてくれたので、お邪魔しました、ありがとうございましたと挨拶をした。Tの母君は音楽ルームにいるあいだも一度、顔を見せにやって来てくれて、その際もお邪魔していますと挨拶し、ゆっくりして行ってくださいと言われたのにも礼を返していた。それで戸口を出る時にも最後に挨拶をして、夜も更けた住宅街のなかに出た。家々の敷地に置かれている庭木から秋虫の音が漏れ出てあたりに漂っていた。暗闇の浸透具合や、虫の声の浮遊する静けさの感じは、青梅とそれほど変わらないなという印象を得た。駅まで歩いていき、駅舎に入って改札の前で一旦立ち止まり、今日はありがとうございましたとTとほか三人で挨拶を交わした。電車の時間がまもなくだったためにTが手を改札の方に差し向けて、名残惜しいけれど皆、行ってくれと言うので、ありがとうとふたたび言って改札をくぐり、手を挙げながら歩いた。歩きながらエスカレーターの方に折れてTの姿が見えなくなるまで手をまっすぐ挙げていた。ホームに下りながら、T田に、お前明日は何かあるのかと訊くと、大学に行く用事があるが、そんなに忙しくはないと言う。だから時間が合えば喫茶店で会ったりとかは出来るぞと言うのに、電車に乗って席に就いてから、いや、もし何もないんだったら今日このあとうちに来ないかと誘うつもりだったのだが、と漏らすと、おお、そうか、とT田は受けてから、じゃあそうするか、と軽く決定した。それに対してKくんが、フットワーク軽いなあと笑っていた。電車が発車すると左隣のKくんにも、まあKくんもね、いずれ我が家に遊びに来ていただければ、と言い、何もないけれどと笑うと、何もないところが良いんじゃないとの返答があったので、それは確かにそうかもしれないと同意を返した。拝島までは僅か一駅である。まもなく着いてホームに降り、エスカレーターを上って西武線の改札を抜け、青梅線の改札をくぐってホームに下りた。Kくんの乗る東京方面の電車は、既に来て停まっていたか、ちょうど来たところだったと思う。電車の入口の前で三人向かい合い、こちらはおもむろに右手を差し出すと、Kくんも手を重ねてきて、いつものように握手を交わしたが、この日はじゃあなS、じゃあなJ、というお決まりのやりとりは口にしなかった。それで電車に乗りこんだKくんと視線を合わせて頷き合い、電車が発車するまでその場で待ち、電車が滑り出していくとKくんの姿が見えなくなるまで手を挙げて見送った。
 それから反対側の番線にすぐにやって来た電車に乗り、多分扉際に就いたと思う。現代音楽の話などをした。現代音楽の話はT家にいたあいだにもちょっと交わしており、T田は今、コンテンポラリーなクラシック音楽の選集を作っているところなので、完成したら聞いてくれとのことだった。T家では例えば、お前、武満徹なんかはどうなんだという質問を投げかけたのだが、武満はやはりかなり特殊で、言ってみれば通好みというような感じであり、T田としてはなかなか聞いていられずに飽きてしまう、というような返答があった。武満徹は文章が素晴らしかったとこちらは教えた。小林康夫中島隆博の共著である『日本を解き放つ』に多数引用されていたのだが、その文章の感触がなかなか素敵なもので、原本を読んでみたいと思わされたのだ。T田は武満の音楽は「間」がどうこう、とかいうことを漏らしたのだったと思う。それに対してこちらは、日本の雅楽というのは言わばたった一音に世界全体を聞くみたいな境地だろう、武満もそういう要素を取り入れたのだろうなと、『日本を解き放つ』で聞きかじったあやふやな知識を披露した。また、彼は西洋音楽から始まって日本の音楽に回帰し、その後どちらからもずれた第三項として、インドネシアガムランにも行ったのだよなと、これも『日本を解き放つ』に書いてあったことを元に知ったかぶった。戻って帰りの電車のなかでは何について話したのだっただろうか。T.Aさん(漢字が合っているか不明)の話があったことは確かだ。Tさんというのは我々の高校の同級生でT田からすると吹奏楽部の仲間だった人であり、男性でありながらこちらは高校の頃から「Tさん」と「さん」付けで読んでいるのだが、ほかにも何人かこちらがそのように「さん」付けで呼ぶ男子はいた。それはともかくとして、Tさんは料理人としてフランスに渡っていたという情報をこちらは数年前からキャッチしており、それ以後彼の消息は更新されていなかったのだが、T田によるとその後料理人はやめて海外の大学で生物学を学び、今は日本に帰ってきているのだと言う。それでT田は彼と山口旅行の際に顔を合わせた。それで芸術の話になったのだが、Tさん曰く、フランス語では芸術というものには二つの呼び名があると言う。それは「アール」と「ボザール」という両者で、「アール」は普通の英語のartをフランス語読みしたものなのだが、後者の「ボザール」というのは、そのartの前に「美しい」という意味合いの語を足したものなのだと言う。従ってその名の通り、後者は美しさを追い求めるものなのだが、前者の方は美しさという基準には囚われず、表現方法の革新を追究するものだとして捉えられている。言語の上で既にそのようなジャンルの区分があるらしく、それに感銘を受けたとT田はTさんの話を援用しながら語ったのだった。
 青梅に着くと降りてホームを辿り、ちょうど発車前だった奥多摩行きに乗り込んだ。すぐだから座ることもあるまいと言って扉際に就き、しばらく揺られて最寄り駅に到着した。T田が我が家に来ることが決まった時点でその旨母親に知らせておいたのだが、携帯を見ると彼女からの返信がなかったので、ホームを歩きながら自宅に電話を掛けた。しばらくコールが続いたあとに母親が出たので、メール見た? と訊くと、見ていないと言う。今最寄りだけれどT田が来ているから泊めてやってくれと頼むと、ええ、と母親は言い、風呂上がりでだらしない格好だけれど、と漏らすので、そんなのは良いよと笑った。そうして通話を終えて駅舎を抜け、暗闇の浸透した坂道に入って家路を辿った。
 到着すると玄関の扉を開けてただいまと居間に向けて声を送り、T田ですと言いながらなかに上がった。両親とも居間にいた。汚い家ですが、と父親は言った。それで、どなた? と訊くので、T田だよ、前に会っただろうと答えると、ああ、ミスチルの桜井さんに似ている人だ、と父親は思い出して、確か稲城住んでいるって言っていたっけ、などと訊いていた。何も食べないで良いのかと母親が訊くのに、何も良い、まあ勝手にやるからお構いなくと答えて、階段を下り、こちらの居室に入った。扇風機とエアコンを点けた。狭い部屋で、こちらが椅子に就くとT田が座る場所はベッドくらいしかない。それでベッドに腰掛けるように勧めたが、T田はしばらく何故かベッドの脇の床に直に尻を落としていた。こちらは確か服を脱いで、上階に着替えに行ったのではなかったか。その際についでに、カボスジュースと日向夏のジュースを一本ずつ持って帰ってきて、好きな方を飲んでくれとT田に提示した。
 それから風呂に入るまでのあいだは――あるいはそのあともだったかもしれないが――こちらが本をいくつか紹介するという段になった。発端は三島由紀夫で、Tさんが三島の文章は美麗だと言っていたがそうなのかと訊かれたのだった。それで、こちらは三島など一冊しか読んだことがないし、それを読んだのももう随分と昔なのだが、手近の積み本のなかにあった講談社文芸文庫の『中世/剣』を取り、この「中世」などは確かに美麗な文だった覚えがあるなと言ってT田に手渡した。T田は冒頭を読んでから、美麗と言うよりは、思いのほかにわかりやすい、はっきりとして簡潔な文だ、というような評価を下した。こちらは、漢語がふんだんに使われているのがかっちりとした印象に繋がっているかもしれない、やはり昔の作家は漢文の素養がある、夏目漱石なんかも漢詩を書いていたし、三島も戦前から書いている作家だから、漢文の教養がまだ残っていた時代の人なのではないか、と適当な論評を言った。
 次に、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』を、この本は素晴らしかったと言って渡した。アウシュヴィッツに入れられた人物の証言録だと紹介し、T田がいくらか読んだあと、本を受け取り、例の「オデュッセウスの歌」の章のハイライト、一四五頁の文章を大まかに引用して、その部分について少々語った。その内容は以前、日記に書いて感想の記事にまとめたような事柄なので、ここでは詳しくは繰り返さない。引用部ではレーヴィとピコロのあいだに文学を仲立ちとした深いコミュニケーションが行われている、文学が極限状況でそのように機能出来たということは感動的である、その体験はレーヴィが自己の人間としてのアイデンティティを失わず、「動物」に完全に堕ちてしまわずに、人間性を保ったまま生き延びるための一助になっただろう、というような話だ。
 その次には『失われた時を求めて』の第一巻を、ちくま文庫井上究一郎訳と、光文社古典新訳文庫高遠弘美訳の両方で紹介した。紹介したと言って、このどちらも自分はまだ読んでいないので差し出して冒頭を読ませただけなのだが、T田の感じでは井上究一郎訳は読みにくいようだった。しかしこちらは、日本で初めてこの大作を個人完訳したその偉業にやはり触れたい思いはあるので、いずれはちくま文庫全一〇巻を揃えねばなるまい。
 もしかしたら順番が前後して、こちらの方が先だったかもしれないが、T田に貸している最中の梶井基次郎が話題に上った場面もあった。まだ本の序盤、冒頭の「檸檬」を通過して「城のある町にて」の途中で止まっていると言う。「城のある町にて」のなかには、蟬の翅か何かの描写で良いのがあったなとこちらは口にして、T田から新潮文庫版の『檸檬』を借りて該当の箇所を探し当て、読み上げた。今、当該の本が手もとにないので筑摩書房の全集第一巻から記録した――従って旧字体で、T田に貸している新字体の版とは違うのだが――書抜きを引いてみると、以下のようである。

 峻は此の間、やはりこの城跡のなかにある社の櫻の木で法師蟬が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車な骨に石鹼玉のやうな薄い羽根を張つた、身體の小さい昆蟲に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見てゐた。その高い音と關係があると云へば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であつた。柔毛[じうもう]の密生してゐる、節を持つた、その部分は、まるでエンヂンの或る部分のやうな正確さで動いてゐた。――その時の恰好が思ひ出せた。腹から尻尾へかけてのプリツとした膨らみ。隅々まで力ではち切つたやうな伸び縮み。――そしてふと蟬一匹の生物が無上に勿體ないものだといふ氣持に打たれた。
 (『梶井基次郎全集 第一巻』筑摩書房、一九九九年、20~21; 「城のある町にて」)

 それからさらに、エドワード・サイードの『ペンと剣』を差し出して部分的に読んでもらった。中東について全然詳しくないから、パレスチナ問題という事柄について忘れていたとT田は言う。最近はそんなに大きな争いは起きていないんだよねと訊くので、近いところでは二〇一七年の年末だかにドナルド・トランプエルサレムを一方的にイスラエルの首都認定して、それで反対運動が起きたり、和解の試みが崩れたりしたと答えた。細かな報道を追ってはいないが、現地ではおそらく抗議デモは頻繁に起こっているだろうし、死者もそれなりに出ていることだろうと思う。そこから、「パレスチナ人」と呼ばれる人々の地位であったりについて少々話した。
 その後、T田は風呂に行った。と言うかこちらも一旦ついて上階に上がって、洗面所に行き、タオルはここにあるのを適当に使ってくれとか、ドライヤーはここにあるとか、そうした教示をした。下着に関しては、シャツはないが、パンツは母親がこちらの所有のなかから、ほとんど一度くらいしか履いたことがない真っ黒のものを、嫌じゃなければ履いてそのまま持って行けばと言って用意していたので、その旨伝えて貰って行って構わんぞと言った。そうしてごゆっくり、と言いながら洗面所の扉を閉めて下階に戻り、Skype上でKさんとやりとりを交わした。T田は白いランニング・シャツ姿で戻ってきて、パンツを頂くのはやはりさすがに恐れ多いからと言って自分の下着を履いていた。こちらは風呂を終えた彼に、まあ何か本でも読んでいるか、それかインターネットを見ていても良い、あるいはもう眠たければ隣室に寝に行っても良いと言って、自分も風呂に行った。一二時間以上も外出していたわけなので、それなりに疲労感があった。それでそこそこ長く湯に浸かって肉体を癒し、出てきて自室に戻るとT田はこちらのコンピューターの前に立って何か操作していた。見れば、Winampのライブラリを見分して、どんな音源が入っているのかチェックしているのだった。
 その後、三時頃になるまでまたいくらか話をしたと思うが、何を話したのかはまったく覚えていない。三時に至るとそろそろ寝るかと切り出して、T田を隣の兄の部屋に送り、こちらはベッドに乗って、少しだけ本を読んでから眠るかというわけで栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』をひらいたが、読書の終わりが定かに記録されていないところを見ると、例によって意識を保てなかったようである。


・作文
 6:38 - 7:45 = 1時間7分

・読書
 9:10 - 10:00 = 50分
 27:04 - ? = ?
 計: 50分 + ?

・睡眠
 3:30 - 6:00 = 2時間30分

・音楽
 なし。

2019/8/29, Thu.

 中島 酒井先生が編集された『芸術を創る脳――美・言語・人間性をめぐる対話』(東京大学出版会、2013年)では、芸術家の方と対談もされていますよね。
 酒井 その本の最後の章で、日本画家の千住博さんが明快に仰っていますが、芸術は人間そのものであり、「生きる」という本能と等価です。さらに千住さんは、「芸術に外交はない」と最近仰っていました。外交というのは、外に対して働きかけ、自分と外を分けるものだから、その時点で芸術ではないというのです。芸術は、われわれ人間が皆同じ側にいるということを前提として作られるものだから、生きていくという喜びを共有できる。それこそが美学であるといえます。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、28; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 酒井 言語学という学問は、「人間とは何か」を理解しようとする科学的な追究なのです。ですから、政治学言語学と根本は全く同じです。ただし、追究の方向を社会に向けるか、個人に向けるかという違いはあるので、チョムスキーは両者を重なりがないようにさせて研究しているのだと私は思っています。
 中島 それをオーバーラップさせないというのは、たとえば、わたしは言語の記述ということで話してみたんですけど、言語を記述していく生成文法の中に、ある種の価値判断みたいなものを入れないということがあるわけですよね。
 酒井 価値判断を言葉で表すのは自由ですが、自然科学や言語学の研究に価値を入れてはいけませんね。
 中島 記述に社会性といった価値を入れてしまうとおかしくなるということですね。
 酒井 そもそも科学では、それ自体に価値基準がありません。チョムスキーが最も敬愛する哲学者バートランド・ラッセルは、「科学が知識を追求する範囲を除き、価値の領分は科学の外にある」とはっきり述べています(『科学者という仕事』中公新書、2006年、244頁)。湯川秀樹も、「科学というものの本質は、没価値の立場から研究するのだということでしょう」と語っていました(同、245頁)。
 なぜなら、科学にとって一番大切な目標は世界や現象を「説明する」ことにあるので、もし科学を役に立つかどうかという価値基準で進めてしまったら、説明できなくとも役に立てばよいことになって、科学が成り立たなくなってしまうからです。
 (29~30; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 午後二時まで糞のような寝坊をした。起き上がる少し前に携帯が三度震えていた。メールである。あまりに起きるのが遅い息子を叱咤するために母親がメールを送ってきたのかなと思っていたのだが、起きて見てみると、(……)先生からのメールだった。今日の勤務は一コマになっているが、そのあとも残って二コマやってもらえるかとのお願いだった。おかしいな、と思った。今日はそもそも休みのはずだったのだ。それでコンピューターを点けて勤務予定を管理しているEvernoteをひらこうとしていると、母親がまだ寝ているのと部屋にやって来た。扉を開けた母親は、起きているのかと言い、今日は仕事はと訊くので、なかったはずなのだが……と呟いていると、急遽来てくれって、と言うので、何かそんな感じ、と受けた。それでEvernoteを確認してみたのだが、やはり今日は勤務が入っていない。先日も思っていた勤務予定と違うということがあったし、(……)室長はそのあたり、連絡を怠ると言うか、ちょっと適当なようである。そうして携帯電話を取って、職場に電話を掛けた。五回ほどコールが鳴ったあと、(……)先生が出たので、Fですと名乗り、お疲れさまですと挨拶をした。それから、今日僕、入ってますと尋ねると、え、そこから、と(……)先生は疑問を発したので、そうなんですよと苦笑し、今日は休みのはずなんですけどねと呟いた。滅茶苦茶過ぎる……と(……)先生は呆れたような声を出したが、まあでも大丈夫なんで、行きますよとこちらは受けて、二コマの勤務となることを確認し、ちなみに誰が当たっていますかと生徒の情報を要求した。そうして電話を切り、食事を取るために上階に行った。
 母親はソファに座ってタブレットを弄っていた。こちらは台所に入り、冷蔵庫からケンタッキー・フライド・チキンの鶏肉を一つ皿に取り出し、電子レンジに入れ、一方で鍋の味噌汁を火に掛けて白米をよそった。さらに、胡瓜やレタスなどの生サラダが既に皿に用意されてあったので、それも持って卓へ向かい、着席するとものを食べはじめた。脂っぽい鶏肉にかぶりつき、米を貪っていると、母親は仏間に続く戸の上に画鋲を刺してバッグを掛け、タブレットで写真を撮影していた。またメルカリに出品するらしい。母親がたびたび暑いね、と呟くように、室内は蒸し暑く、ものを食べているだけでも汗が湧くようだった。食べ終えると食器を洗い、抗鬱薬ほかを服用して、風呂を洗いに行った。風呂を洗っているあいだも、さほど身体を動かすわけでもないのにやはり汗が湧いて襟足を少々濡らした。
 その後、下階に戻ってくると、コンピューターを前にした。記述の順番が前後するが、起きてから上階に上がる前にSkypeにアクセスして、KさんとHさんとの読書会に向けたグループを作成しておいた。グループの名前は、リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』をもじって、「読書会へ向かう三人の学徒」としておいた。正確にはこちらはもう学徒ではないし、KさんはわからないけれどHさんも学徒でないと思うが、ほかに良い言葉も思いつかなかったし、精神的に学びを絶やさない人間たちということで学徒という言葉を採用した。そうしてFISHMANSCorduroy's Mood』とともに日記を書きはじめたのが三時過ぎである。起きて一時間も経っていないのに既に午後三時! 端的に言ってやばい。どう考えても眠りすぎてしまった。ここまで綴ると三時半前。
 それから前日の記事を書き進め、四時半に至ったところで中断した。澱んだ蒸し暑さのために汗を搔いたので、久しぶりにシャワーを浴びて行くつもりだった。それで上階に上がると、母親は仏間で扇風機とエアコンを点けて涼みながらタブレットを弄っている。下着は替えなくても良いだろうと思っていたところが、その母親が、汗を搔いたんだから替えなよと強く主張するので、新たな肌着を持って洗面所に入った。服を脱いで浴室に踏み入り、シャワーを流しだして冷たい流水を足先に当てながら温度を調整する。いくらか湯を浴びたあと、頭と身体を洗って泡を流すと出てきて、バスタオルで身体を拭いた。そうしてパンツ一丁で下階に戻り、せっかく汗を流した上からまた肌がべたつかないように、エアコンと扇風機を掛けて仕事着に服を着替える。その時点でもう五時頃だった。コンピューターの前で歯を磨きながらMさんのブログを読もうとしたが、八月二〇日の記事は長くて出発までに読み終わらなそうだったので止めて、かと言ってほかに残った半端な時間で何をするというのも思いつかず、Twitterか何か適当に見ているうちに歯磨きが終わり、出勤の時間がやって来た。クラッチバッグを持って上階に上がり、黒い靴下を履くと、母親に行ってくると告げて玄関を抜けた。
 隣家の紅色の百日紅が大層盛って、零れ落ちないのが不思議なくらいに枝先に花を満々とつけていた。通り過ぎてからもその様子を反芻し、どう記述したら良いかと考えながら道を歩く。蟬の声はわりあいに勢力を取り戻していた。坂道を上っていき、最寄り駅に着いて階段に掛かると、空は大方雲に満たされているが、それらにさほどの厚みはないらしく地の色が透けて見えて白いと言うよりはいくらか暗んで青いなかに、西の下端の一角だけ雲の薄い箇所があるようでそこに今太陽が掛かって光を空に小さく焼けつかせていた。ホームに入るとベンチに座らず屋根の下に留まらず、先へと歩いていき、先頭車両の位置で立ち止まると手帳を取り出した。歩いて来るうちに熱の籠った身体が全体べたつき、首筋を撫でる汗の玉が鬱陶しかったので、ハンカチを取り出して額や首を拭った。そうこうしているうちに電車がやって来たので乗り込み、扉際に立って引き続き手帳を見下ろした。青梅に着くと降りて階段を下り、職場に向かう。
 教室に入ると(……)先生が出てきてありがとうございますと苦笑気味に言うので、こちらも笑みで受けた。準備を済ませて最初の授業は、(……)さん(中三・国語)に(……)さん(中二・英語)が相手である。(……)さんは今日が夏期講習の国語は最後の授業で、作文を書いてもらったが、綺麗によく書けていた。ただ、その文章が模範解答と随分似通っていたので、答えを見ながら書いたのかなとも思ったものの、そのような素振りも見受けられなかったのでもしかすると事前に答えを見て勉強してきたのかもしれない。最後の問題は「地域社会から学んだこと」というテーマだったのだが、それでは書くことが思いつかないようだったので、書きやすいところでというわけで「どんな高校生活にしたいか」と簡単なテーマに変えて書いてもらった。(……)さんは初顔合わせ。発展的な教材を使っていたので英語が結構出来るのかと思いきや、別にそういうわけでもなさそうだった。彼女も答えを見ながら解いているような素振りや雰囲気が散見されたのだが、こちらの見間違いかもしれないし、面倒臭いのでいちいち注意はしない。その分、解説の際に質問をしたりして理解度の増進を図れば問題ないだろうというわけだ。
 二コマ目は(……)さん(中二・数学)と、(……)さん(中三・英語)。(……)さんは、この子も初顔合わせである。大人しいと言うか、ほとんど常に仏頂面のような感じなのだが、こちらが笑った時に合わせて何度か小さな笑みを浮かべてくれもした。初回なので探り探りといった感じ。扱ったのは一次関数の変化の割合などについての単元。数学は得意ではないようで、ありがちなことだが、関数の式を具体的な意味として当て嵌めて考えるのが特に苦手なようだった。一頁扱ったあとに間違えた問題は再度解いてもらったりして、理解の定着を図った。(……)さんは最近良く当たっているのだが、ここに来て何だかやりやすい相手になってきたような気がする。二人相手だったということもあって、ノートも書かせやすい。ただやはり、こちらがついていないと手を止めてしまうという傾向はあるようだ。今日扱ったのはIt is ~ for A to doの構文。
 終盤の一時間くらいは、(……)教室の室長だと思うが、(……)さんという女性の方がやって来て室長代行を務めてくれた。終わったあと彼女が、(……)さんに伝えておきたいことは何かありますかと呼びかけていたので、今日僕、本当は休みだったんですよと声を掛け、休みで伝わっていたのだが座席表だと勤務することになっていた、そのあたり連絡をもう少しちゃんとしてもらえたらと伝えておいてくださいと言った。
 そうして九時半前に退勤し、駅に入って奥多摩行きの最後尾に乗った。一番端の席に就いて手帳を読み返していると、向かいのホームに接続電車がやって来て乗り換えの乗客たちが一斉に入ってくる。そのなかに一人、発車の本当に直前になっても急がずに大きな声で独り言を言いながら乗ってきた老婆があって、これはたびたび見かける例の人である。冬のあいだなどはキャリーケースを携えて引きながら歩いているのを見かけたものだが、夏はやはりいくらか軽装になったようでキャリーケースは伴っていなかった。車両内でもお構いなしに独り言を撒き散らしているのだが、独り言と言うよりは、見えない誰かと会話をしているような感じで、たびたび大きな笑い声を立てていた。何かそういう演技をせずにはいられない人なのか、それとも彼女の頭のなかでは本当に声が聞こえていてそれと会話しているのか知れないが、発言の抑揚の調子などは実際の会話のそれと変わらないようである。ただ、何について話しているのかは判然としない。
 その女性もこちらと同じ駅で降りるのだが、彼女は降りると、発車していく電車に向けて、どういった理由からなのか、車掌さん、お礼申し上げます、などと何回か繰り返し声を掛けていた。こちらは老婆を追い越して今日もSUICAで二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買ってベンチに就く。老婆はホームに自分以外誰もいなくなっても――正確にはこちらという存在があったわけだが、老婆からは自販機に隠れて見えない位置だった――変わらず喋っていたので、周囲の人間たちに聞かせる演技をしているというわけではなさそうだ。彼女はこちらが手帳を読んでいる背後をゆっくり通り過ぎて、駅舎を出ていった。しばらくしてコーラを飲み終えるとこちらも立ってボトルを捨て、風が湧き流れて結構涼しいなか、駅を抜けて坂道に入った。ここでも風が動いて、路上に映った木々の影が足もとで細かく震えていた。
 帰宅するとワイシャツを脱いで洗面所に置いておき、下階に戻って服を脱いだのち、パンツと肌着のシャツの姿で食事を取りに行った。母親が冷凍してしまったケンタッキー・フライド・チキンを一つ取り出して電子レンジで三分間温め、そのあいだにスープをよそったり、米をよそったりして卓に運んだ。テレビは『クローズアップ現代+』。一部の客のマナーの悪さによって日本各地で夏祭りが中止に追い込まれているというような話で、コメンテーターとしてつるの剛士が出演していたのだが、もう少しほかに出す人間がいそうなものだ。父親はまた例によって頷いたり、相槌を漏らしたりしながらテレビを見ていた。食べ終えるとこちらは皿を洗い、コップに水を汲んで飲んだのだが、そのコップを所定の位置に戻す際に、誤って上手く置き損ねたようで、コップはカウンターの上から落ちて割れてしまったので、思わずああ、と嘆息を漏らした。勿体ないことをしてしまったが仕方がない。ガラスの破片を集めてビニール袋に入れ、台所の角に置いておき、それから風呂に入った。さっさと出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、一一時二〇分からプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きを始めた。零時まで行うとそのまま日記作成に入り、一時間弱で前日の記事を完成させたあと投稿すると、Skypeのグループ上でKさんとHさんの二人に向けて、読書会で読みたい本は何かありますかと呼びかけた。そうするとHさんが応答してくれて、最近は日本の近代文学に興味が向いていると言う。徳田秋聲牧野信一の名前が挙がったので、良いじゃないですかと嬉々として受けた。特に牧野信一古井由吉大江健三郎が揃って推していたということもあって、以前から読まねばならぬと思っている作家だ。ささま書店に全集の三巻が長いこと置いてあったのだけれど、もう売れてしまっただろうかと呟いていると、Hさんは、先週行った時にはまだありましたよと答えるので、つい先週行っているとはやはりさすがだなと思われて、そのように受けた。その後、もう少しやりとりを交わして、一時過ぎに会話を終えたあと、Twitterなどまた少々眺めてから読書に入るのだが、その前に音楽を聞いた。Fred Hersch『Songs Without Words』を流していたのだが、このアルバムが素晴らしいもので、ジャズスタンダードを扱ったディスク二のなかでは特に"Whisper Not"が卓越しているようだったので、それをもう一度繰り返し、目を閉じてじっと聞き入った。素晴らしかった。
 その後、一時半過ぎからベッドに移って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめた。今日は途中で意識を失うこともなく、三時半頃までたっぷりと読み進めることが出来た。その頃にはさすがに目も少々疲れて来ていたようで、明かりを落として床に就くと、苦労せずに寝入ることが出来たようである。


・作文
 15:05 - 16:29 = 1時間24分
 24:00 - 24:56 = 56分
 計: 2時間20分

・読書
 23:20 - 24:00 = 40分
 25:33 - 27:25 = 1時間52分
 計: 2時間32分

・睡眠
 ? - 14:00 = ?

・音楽

2019/8/28, Wed.

 酒井 たとえば人間は道具を使いますが、道具を使える動物は他にもいるのではないか、という議論があります。チンパンジーは枝や石を使って虫や木の実などを食べることが知られていますから。しかしそうした例は、道具や知能を表面的な尺度でとらえたために起こる混乱です。人間と他の動物とを分ける能力は道具が使えるかどうかではなく、「メタ道具」、つまり道具を加工するような道具(たとえば枝を削るための刃物など)を作れるかどうかなのです。
 そうした人間の知能の根底には言語と心があることが疑いないわけで、知能はそれと切り離せない目的意識や意図を含めた「知性」と見なす方がより適切なのではないでしょうか。さらに人間は、知識それ自体をメタ的に体系化や一般化して、「知恵」として使うことができます。そうした知恵に基づく思考や意志の力が、人間を人間たらしめているのです。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、20; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

     *

 中島 わたしは酒井先生の著書を読んで、手話のところがすごく面白かったんです。手話もまさに自然言語なわけですね。あの記述は秀逸だなと思ったんですが、別に音声言語じゃなくてかまわないわけですよね、言語のあり方というのは。
 酒井 その点は人類学者も長らく誤解をして来ました。ネアンデルタール人あたりで喉頭の位置が下顎より下がって母音を出せるようになったことが、言語の起源であるかのように思われています。しかし手話のことを考えれば、喉頭の発達が全く無関係であるとすぐにわかるでしょう。脳に言葉を司る言語野があるならば、喉頭が発達しなくとも手話で思考や会話ができたに違いありません。親が手話の話者なら、その子どもは手話を母語として獲得することもできます。
 しかも言語の役割は、会話などのコミュニケーションに限られるものではありません。思考言語(内言語)としての役割の方がはるかに大切で、そこに音声と手話の違いはありません。「言語=コミュニケーション=音声」という見方がいかに表面的で、言語の本質に対する盲点であるか明らかでしょう。その意味でも、手話の研究は言語のあり方に対して重要な示唆を与えてくれます。
 一般の人に手話について解説をすると、最もよく受ける質問は、「手話は世界共通なのですか?」というものです。世界共通の手話言語は、音声言語と同様に存在しません。音声言語であれば、地域や世代によってさまざまな言葉や方言があることが常識でしょう。それなのに、なぜ手話も同じだとは考えないのでしょうか。人工的に手話を作れるとでも思ってしまうのでしょうか。
 (23~24; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)


 一二時一五分まで寝過ごす。母親は今日、友人のTちゃんという人を招いており、上階で話し声がしているのが聞こえていたのだが、じきに気配がなくなった。二人でどこか出掛けたらしい。こちらは上階に上っていき、台所に入って卵を二つとハムを一パック冷蔵庫から取り出して、フライパンにオリーブオイルを垂らした。そうしてハム四枚を一枚ずつ放り投げてフライパンに敷き、その上から卵を割り落とす。それでしばらく加熱したあと、丼に盛った米の上に取り出した。いつもながらの芸のない食事である。食卓に就いて、形を保ちながら温かくなった黄身を潰し、醤油を混ぜてぐちゃぐちゃと米を搔き混ぜて、そうして色のついた白米を貪った。食べ終えると台所で食器をさっと洗い、風呂も洗ってから抗鬱剤を服用した。あと四日分しかないので、そろそろ医者に行かなくてはならない。
 下階に下りるとTwitterをしばらく眺めたのち、歯磨きをして服を仕事着に着替えた。今日の労働は六時からだが、以前の室長だった(……)さんが(……)室長の代行で職場に来ており、それが四時までだと言うので早めに行って久しぶりに顔を合わせ、挨拶をしようと思っていたのだった。挨拶をしたあとは図書館に向かってそこで日記を綴り、可能ならば書抜きも行って、その後に勤務のために職場に戻ろうという魂胆である。それで着替えたあと、電車の時間を調べると、二時二七分発があったのだが、Yahooの路線案内には、青梅線は御嶽から奥多摩のあいだで運転を見合わせているという情報が記されていた。ということは、御嶽から青梅間は多分運転しているのだろうと希望的観測を抱き、二時になったら出ることにして、それまでのあいだにとMさんのブログとSさんのブログをそれぞれ読んだ。そうして二時に至ると、リュックサックに本やらコンピューターやら財布や携帯やらを用意して、上階に上がった。母親は未だ帰って来ていなかった。玄関の戸を開けて外を覗くと、雨が降っていたので久しぶりに黒傘を持つことにした。玄関をくぐると鍵を閉め、傘をひらいて道に出た。ざらざらと細かく震えて宙を搔き乱すアブラゼミの声が林から響いていたが、その勢いは軽く、聞こえるのは右方の木の間からのみで、家が連なっている左方の庭木や垣根からは声は立たなかった。十字路まで行き、坂道に入るとしかし、蟬時雨はまだそこそこ厚い。木の間の道は幽かに霧めいていた。上っていくと出口付近で前方から来る体育服姿の中学生があって、どうも(……)ではないかと目を凝らしていると果たしてそうだったので、こんにちはと挨拶した。塾行くんすかと訊くので、図書館に行ってから、と答える。今日塾です、待ってて下さいと言うのに笑って歩き出し、待ってますと背後に残して別れ、駅に向かった。
 二時二七分にはまだ間があるにもかかわらず、ホームには数人の先客があった。雨が降っているので屋根の外には出ず、閉ざした傘を左手首に掛けて、手帳を持って頁を眺めた。蟬たちのざらざらとしたGの子音が重なり合って辺りからは響いており、時折り鴉が飛んで間延びした鳴き声を振らせていた。電車は遅れているようだった。たまにアナウンスが入って、今、何駅を発車したところだと知らせてくれるのだ。柱に寄りかかりながら手帳を眺めて待ち、二〇分か二五分かそのくらい遅れてようやく青梅行きがやって来たので、乗り込んだ。車内は空いていた。山に行った帰りなのか、老年の男女たちが座席を占めて向かい合い、賑やかに話していた。青梅に着くと降りて、通路を辿り、駅を抜けて職場に向かった。
 入口を入ると、(……)さんはデスクに就いていたので、お久しぶりですと笑って挨拶し、ご無沙汰しておりますと礼をした。彼はデスクから立ち上がり、こちらの立っている前まで出てきてくれた。もう三年になりますかと呟き、知っている生徒とかもういないでしょうと言うと、肯定があり、でも今、(……)と(……)が自習に来ていて、と言った。彼らは三年前から在籍している組である。むしろ講師の方に知っている顔がほとんどおらず、それこそこちらと(……)先生ぐらいだと言ったので、そうですよねと笑った。(……)さんは現在、(……)教室の室長を務めており、(……)と言うと賑やかなイメージがあったのだが、賑やかは賑やかだけれど講師間の横の繋がりなどは意外と薄いようで、飲み会などもあまりないのだと言う。
 話に何となく切りがついたところで、(……)さんがありがとうございますと礼を言ったので、またいずれお会いできましたらと答えて、それではと別れを告げた。扉を開け、振り返り、お疲れさまですと挨拶を交わしてから職場を離れ、駅に戻った。改札を抜けてホームに上がると、三時八分発の立川行きがちょうど停まっている。それに乗り込み、席に就きながら、もう三年という感じもするが、同時に、まだ三年か、というような感覚もあるなとぼんやり考えた。しかもどちらかと言うと後者の感じの方が強いような気さえする。(……)さんや(……)さんと働いていた当時のことは、もっと昔だったかのような感覚があるのだ。それもおそらくは、昨年の人生二度目のどん底を通過したことが大きいのだろうなと考えた。こちらの人生行路の内で、それまでの自分を変容させてしまうような不可逆的な断絶となるような大きな経験は三つあって、一つ目はパニック障害である。これは二〇〇九年から二〇一〇年に掛けてがそのピークだった。パニック障害を一度発症した人間は、二度とそれ以前の認識のあり方に立ち戻ることは出来ない。自分がパニック障害患者であること、神経症であること、ほとんど常に不安に苛まれる人間であることを自覚し、そこから新しい確かな主体性のあり方を確立していくしか治癒の道はない。
 二つ目は勿論、文学との遭遇、そして読み書きを始めたことであり、これは二〇一三年の一月のことだが、この前とこの後とでは端的に言ってこちらは別人である。勿論その変容は文学に出会ったからと言って一朝一夕に成し遂げられたわけではないが、少しずつ自分は変化・成長していって、二〇一三年以前の自分とは今では考え方も認識の有り様もまったく別物となっている。そして、三つ目の大きな断絶として昨年の変調が挙げられると思うのだが、しかしこれはほかの二つの断絶と比べるとまだしもその影響力は弱いものかもしれない。身体的感覚などが変わったのは事実だけれど、鬱症状を通過しながらも自分はこうしてまた文章を書くことが出来ているわけで、それも以前よりもおそらくある種詳細に書くことが出来ているわけで、これを不可逆的な断絶と言うのはちょっと言い過ぎかもしれない。
 とそんなことを考えながら電車に揺られて、河辺で降りた。エスカレーターを上って改札を抜け、駅舎を出ると歩廊を渡って図書館へ、入るとカウンターにはまだ返却をせず、CDの新着棚に寄ったが、特に目ぼしいものはなかった。そうして階段を上り、新着図書を確認し、それから書架のあいだを抜けて大窓際に出たが、ここの席は空いていなかった。喫茶店に行くようだろうかと思いながらテラス席の方に移動すると、一つのテーブルの端が空いていたので、そこに入った。床を擦る音が盛大に立たないようにゆっくりと弱く椅子を引き、座るとコンピューターを取り出して、まず借りている三枚のCDの情報を記録しはじめた。Brad Mehldau『After Bach』、John Scofield『Combo 66』、R+R=NOW『Collagically Speaking』である。そうして、三時四〇分頃から日記を書きはじめ、前日の記事を仕上げて、ここまでさらに書き進めると開始から一時間以上が立って、もうそろそろ五時も近い。
 コンピューターをシャットダウンし、リュックサックのなかに仕舞って席を立った。三冊の本と三作のCDは手に持ち、フロアを渡って階段を下りて、カウンターに借りているものを返却しに行った。CDを先に返却してもらい、それから本だが、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』と、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』はまだ書抜きが終わっていないので、もう一度借りたいと申し出た。それで再度受け取り、ほかの本も見分するために上階に戻った。まず、韓国史の棚を見に行ったのだが、木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』は見当たらなかった。それで検索機に寄って検索してみると、歴史ではなくて外交関連の書架にあることが判明したが、予約資料との表示が出ていたので、今は棚には置かれていないようだった。悪化する日韓情勢に接して、やはりこちらと同じように歴史問題について学んでおこうと思った人間がいるのだろうか。それで一応外交の棚を見に行ったが勿論そこには所在していなかったので、歴史学の方に戻り、ドイツ史の区画から第三帝国ホロコースト関連の文献をチェックした。その後、フロアを横切って文学の方を見に行き、こちらからもホロコーストの体験記などを中心にチェックしたのち、――いや、そうではなかった、その前に反対側のフロアの端にある新書を確認したのだった。それで、前々から気になっていた書物だが、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を借りることにしたのだった。それで海外文学の方に移り、こちらからもホロコースト関連の書物を借りたい気はしたのだが、しかしここは敢えてそうではない、普通の小説を借りようというわけで、これも以前から気にかかっていたイタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』を選び取った。そうして最後にまたドイツ史の棚に戻って、先ほどチェックしたなかから、花元潔・編集・解説/米田周・インタビュー『アウシュビッツの沈黙』を借りることにして、そうして貸出機で手続きをした。計五冊である。手続きを終えると退館へ向かった。
 雨がぱらぱらと落ちる歩廊の上を渡って駅に入り、改札を抜けて電光掲示板を見上げると、電車は五時一四分、まもなく来るところだった。ホームに下りて先頭の方まで行き、リュックサックから手帳を取り出して見ながら電車を待つ。目を閉じて頭のなかで文言を反芻していると、電車が入線してきて、目の前を通過していく轟音とともに風が生まれて顔を撫でた。乗り込み、席に就いて引き続き手帳を見やりながら到着を待つ。青梅に着くとちょっと待ってから降りて、ホームを辿り、階段を下って職場へと向かった。
 この日は一コマの勤務である。相手は(……)くん(中一・英語)と(……)さん(高三・国語)と(……)(中三・英語)だったのだが、(……)は欠席になったので二対一となって気楽な授業だった。二人相手だとやはり結構な余裕がある。(……)くんは、英語は特に英単語を覚えるのが苦手なようで、文句を漏らしていたが、文法の方は多分大丈夫ではないか。(……)さんが今日読んだのは、中野好夫の「悪人礼賛」という文と、小川洋子が『思い出のアンネ・フランク』の著者にインタビューした時のことを綴った文章。中野好夫の方は、文体がやや古めかしかったこともあってか、難しいと言っていたのでいくらか手助けをした。ノートには彼が思う悪人と善人のそれぞれの特徴、その違いについて書いてもらった。曰く、悪人は特有のグラマーあるいはルールを持っているため、その文法をこちらが知悉していればさほど付き合いにくい相手ではない、それに引き換えて善人はそうしたルールがなく、無軌道に善意を振りかざすために対応しにくい、善意を言い訳とした迷惑を掛けられたりすると溜まったものではない、というような趣旨だった。
 それで一コマのみの簡単な労働を終えて退勤。駅に入り、発車間近の奥多摩行きに乗って、最後尾の扉際に立つ。手帳は見ずに最寄り駅までのあいだを何をするでもなく過ごし、降りるとホームを歩いて屋根の下に入った。リュックサックから財布を取り出すのが面倒臭かったので、SUICAでもって二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。ベンチに就いてリュックサックを下ろし、『アウシュヴィッツの沈黙』をなかから取り出して、漆黒色の炭酸水を飲みながら少々頁をめくった。これは元々、映像資料としてホロコーストの生き残りの人々にインタビューしたものを書き起こした本らしい。そうしてコーラを飲み干すとボトルを捨てて、駅を抜けて家路を辿った。
 家に帰り着くと、居間にいるのは父親のみで、母親の姿はなかった。風呂にも入っていないようだったので、母親はと尋ねると、コンサートだとの返答があった。すっかり忘れていたが、ELTか何かのコンサートを観るために中野に行っているのだった。それから脱いだワイシャツを洗面所に置いておいて下階に下り、コンピューターを机上に据えて電源スイッチを押し、服を着替えるとともにTwitterなどを眺めた。そうしてしばらくしてから上階へ上がって食事である。モヤシの酢の物があり、フライパンにはまた野菜を適当に炒めた料理があったが、これはおそらく父親が作ったものらしい。そのほか、彼はケンタッキー・フライド・チキンを買ってきていた。それぞれを温め、炊飯器のなかの米は僅かだったのですべて払ってしまい、コップに汲んだ水を二杯分、注いでおいた。そうして卓に就いて食事である。テレビは嵐が出ている番組で、大野智が遠野に行ってブラインド・サッカーの選手たちや、彼らに対する地元住民の「おもてなし」の取り組みを取材していた。地元の小学生が獅子舞を披露すると言うのだが、目が見えない人たちにどうやって獅子舞を伝えたら良いのかと悩みを漏らすのに、大野は、今まで練習してきたことを思い切りぶつけて伝えるのが一番、そうすれば伝わると思うけどね、とにかく楽しんでやるのが一番じゃない、というようなことを答えていた。物語である。それでいざ獅子舞の披露となって、盲目の選手たちは思いの外に振動や音声のみでも楽しんでいるようだったのだが、そうした様子を見て父親は、うんうん感心したような頷きと唸りを漏らし、赤い顔で、ちょっと涙ぐんでもいたような気がする。まったくもって恥ずかしいやつだなと思わざるを得ないのだが、この物語に対するあられのない屈服というのは一体何なのか。歳を取って涙もろくなってきたということもあるのかもしれないし、酒を飲んでいたために感情の箍が少々緩んでいたということもあるのかもしれない。しかし本質的にはそれはやはり父親の元々の性質の問題なのであって、いかにも紋切型の出来合いの物語に違和感を覚えずに安々と感動出来る彼は、そうした点においてまあ「善良」と言って良い人間なのだろうけれど、しかしそのような俗情と結託した「善良さ」こそが本当は一番危険なものではないのか。そうした大きな構造、価値観の体系性に唯々諾々と同化して恥じない無抵抗というのは、自分が凭れ掛かっている大きな価値観や世の趨勢が転換した途端に、成すすべもなくそちらへと呑み込まれてしまうのではないか。
 というようなことを、食後、風呂に入りながらぼんやりと考えた。そうして風呂を出てくると、冷凍庫からバニラアイスを取り出して下階の自室に戻り、コンピューターを前にしながらそれを食った。そうして容器とスプーンを上階に片付けに行ったついでに、米を磨いでおき、翌朝の六時に炊けるように炊飯器を設定しておいた。そうして自室にふたたび帰ると、午後一〇時から書抜きを始めた。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』である。一〇分少々で終わらせると、続いてインターネット記事を読むことにした。國分功一郎 「【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――7・1「閣議決定」と集団的自衛権をどう順序立てて考えるか」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2014101600010.html)、國分功一郎 「【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――解釈改憲に向かう憎悪とロジック」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2014101700006.html)、國分功一郎 「【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか?」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2014101700007.html)をそれぞれ読み、さらに徐台教「韓国「GSOMIA終了」の論理と、その余波」(https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20190823-00139589/)も読んで時刻は一一時半だった。Skypeにアクセスすると、九月二日の件で話し合いたいとNさんからメッセージが届いていたので、通話でもチャットでもどちらでも良いですよと返答しておいた。そうしてベッドに移って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の書見に入り、零時を一〇分ほど過ぎてからふたたびコンピューターの前に戻って確認すると、通話をしたいとのメッセージが返っていたので、少々お待ち下さいと言っておいて書見を中断し、両親たちに声が届かないように隣室に移動した。そうして通話である。通話の最中には、TwitterでこちらのSkypeアカウントにコンタクトするようにお願いしていたのだったが、Kさんからもコンタクトが届いたので承認し、ヘッドフォンから耳に入ってくる音声を聞いたり、こちらも喋ったりしながらも、別のチャット枠で少々やりとりを交わした。
 九月二日の件は、NさんとYさんは一一時に御茶ノ水に集合し、そこで昼食を取ったあと遥々青梅まで来てくれるということになった。別にこちらが呼んだわけではない。Nさんが、奇特なことに、およそ見るべきものは何一つないと言って良い我が青梅の町を見物したいと希望していたのだ。わざわざ時間を書けて来てもらうような町ではないとこちらは思うのだが、どうもこちらの日記の舞台を生で見てみたいというような欲求があるらしい。それで青梅市街を散策することになったが、疲れた時に休憩のために入れる店屋もさほどないような寂れた町である。駅前にもモスバーガーと喫茶店がいくつか辛うじてある程度なので、青梅を見たあとは立川まで出ても良いかもしれませんねとこちらは言った。もっとも、立川へ出たところでこちらの行き先と言ったら大方書店くらいなので、案内できるわけでもないのだが。
 そのうちに、Eさんという方の話になった。NさんがTwitterで最近知り合った人で、神奈川県住まいの女子大生らしいのだが、何でもこちらの日記に感銘を受けて読んでくれていると言う。それで、良かったらお話ししてあげてくれませんかということだったので、勿論良いですよと答えて、と言うか、今ここに呼んじゃえば良いじゃないですかと軽く受けた。それでNさんはEさんにダイレクト・メッセージを送った。しばらく反応がなかったようだが、話しているうちにじきに返信があったようで、まもなくEさんもSkypeに参加した。少々ふわふわとしたような感じの声音の人だった。初めまして、Fですと名乗り、日記を読んでくださっているみたいでありがとうございますと礼を言うと、毎日あんなに長く書いていて、凄いと思いますという返答があった。やはり長さなのだ。
 元々Nさんは来京する今回の機会を活かして、Eさんと九月三日に会う予定になっていたらしいのだが、そこに良かったらYさんも参加したらということになった。展覧会を見に行くということになったのだが、いくつか候補が上がったなかで、こちらはその日は参加しないにもかかわらず横からしゃしゃり出て、じゃあ、~~が良い人、などと言って会話を先導した。そうして話し合われた結果、三人は、乃木坂の国立新美術館――先般Nさんが来京した際にはクリスチャン・ボルタンスキー展をここで観た――でやっている「現代美術にひそむ文学」という展覧会と、渋谷でやっているマッド・ドッグ・ジョーンズという人の個展を観ることになった。多分それが決まったあたりでだっただろうか、Eさんは、携帯の充電があと五パーセントになってしまったのでと言って去っていった。
 それが二時頃だったと思う。それからYさんとNさんと三人で適当に雑談をしていたが、Yさんも二時四〇分頃になると今日は何だか眠たいと言って退出し、Nさんと二人になった。詩の話をした。最近彼女はこちらの詩を読み返してくれたらしい。それで、何か夜起きだして呻く、みたいな一節があったじゃないですかと言うので、Evernoteで詩をまとめてある記事をひらいて、該当箇所を参照した。「僕という現象は/熱と電気と空っぽな心の交感作用/まるで白痴の垂らした涎の一粒みたいなもの/こうしていつも真夜中に起き出しては/押し殺した呻き声を上げずにいられない」という詩文である。あれは実体験から出来ているんですかと訊くので、まあそういう面もないではないが、あれは実は宮沢賢治のパクりなんですよと笑った。『春と修羅』の「序」の冒頭に、「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」という言葉があって、それを何となく借用して自分なりに仕立てたつもりなのだ。Fさんにとって詩ってそういう……パッチワークみたいな感じなんですかとさらにNさんは訊くので、うーん……と唸りながらも、まあそうでないと作れないかもしれないですねと笑った。こちらには発想力というものが昔からあまりないのだ。中学校の美術の授業など、これこれという題材に従って作品を作りなさいと言われても、何をどう作れば良いのか本当にまったくわからなくて、課題を提出しなかったくらいだ。そのおかげで美術は唯一評定で二を頂くことになった。
 話は「君がさみしくないように」にも及んだ。四連のみ以下に引く。

 君がさみしくないように
 手紙を書こう 真夜中二時に
 今日 僕が何を見たのかなんて
 君は関心ないだろうけど 

 僕がさみしくないように
 手紙を書いて 朝の六時に
 今日 君は何を見るんだろうね
 僕の心は興味でいっぱい

 君がさみしくなる前に
 電話をしよう 星空の下で
 普通の会話を愛しているよ
 泣きたくなるんだ 声聞くだけで

 僕がさみしくなる前に
 電話をしてね 朝陽のなかで
 普通の会話を愛してほしい
 泣かないでくれ 声を聞かせて

 第一連と第二連に、「僕」と「君」が「見る」ものについての「関心」や「興味」が語られているのは、実はカフカの書簡が下敷きにある。下敷きにあるというほどれっきとしたものではないのだが、カフカがフェリーツェへの手紙のなかで、もっとあなたが一日のうちで何を見たのかとか、何をしたのかとか、そういったことを詳細に、具体的に書いて下さい、みたいな要求を言っていたという記憶が朧気にあって、そこが連想されたようなところはあったのだ。あと、「普通の会話を愛しているよ」は言うまでもなく、cero "大停電の夜に"からの借用、紛うことなきパクりである。
 そんなようなことを話したあと、三時に至って通話は終了した。こちらは忍び足で自室に戻り、コンピューターを机上に据え直しておくと、ベッドに移って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめたが、また途中で意識を失ったらしく、その後の記憶はない。


・作文
 15:39 - 16:47 = 1時間8分

・読書
 13:44 - 13:57 = 13分
 21:59 - 22:11 = 12分
 22:20 - 23:25 = 1時間5分
 23:43 - 24:12 = 29分
 27:03 - ? = ?
 計: 1時間59分 + ?

・睡眠
 4:30 - 12:15 = 7時間45分

・音楽

2019/8/27, Tue.

 私は、人間はどんな場合にも、人間としてのみかかわりあうべきものだと考えます。そのばあい私たちを結びつける真実の紐帯となるものは、その相互間の安易な直接的な理解ではなく、それぞれの深い孤独をおたがいに尊重しあうことであると考えます。そのような場合にのみ、私たちは人間として全く切りはなされた状態でありながら、しかもその全体の上に深い連帯が存在しうると考えることができます。いずれにしてもそのような連帯は墳墓と儀式、慣習と血族意識とを核として成立する連帯とは全く別のものでなくてはなりません。
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、123; 「肉親へあてた手紙 一九五九年十月」)

     *

 どうぞ、ここにのべた内容の中で理解できるものは理解し、理解の困難なものは、そのままのかたちにしておいて下さい。自分の理解の領域にないものを、ただちに許すべからざる異質なものとして拒むという態度をおとりにならないでください。もし私に、これからのちも人間としての成長が許され、あなた方にも、それ以上の精神の深まりがあるならば、いつかは私たちは、相互の立場の間におかれた深い断絶をそのままのかたちで承認しあい、その上で何よりもまず、人間としてのつながりが回復する時があるはずですし、またそうなければならないと信じています。
 人間が蒙るあらゆる傷のうちで、人間によって負わされた傷がもっとも深いという言葉を聞きます。私たちはどのような場合にも一方的な被害者であるはずはなく、被害者であると同時に容易に加害者に転じうる危険に瞬間ごとにさらされています。そういう危険のなかでなおかつ人間の間の深い連帯の可能性(それはまだ可能性であるにすぎず、おそらくは可能性のままであるかも知れないのですが)、そのような可能性を見うしなわないためには、人間はそれぞれの条件的な、形式的な結びつきから一度は真剣に自分の孤独へたちかえって、それぞれの孤独のなかで自分自身を組み立て直すことが必要であると思います。深い孤独の認識のみが実は深い連帯をもたらすものだという逆説を深くお考えになってください。さらにまた、その連帯は、死者との連帯の方へ向けられるのではなしに、生きているもの、問題と痛みを担って現に生きているものとの連帯へ向っての前向きのものでなければならないということも心の中にとどめておいていただきたいと思います。「死者は死者に葬らせよ」という聖書の言葉は、おそらくはこのような裏がえしの意味のなかで、はじめて深い光を放つ言葉であろうと思います。
 (132~133; 「肉親へあてた手紙 一九五九年十月」)


 九時起床。夢のなかで書店におり、そこに古井由吉の日記が売られていて、こんなものが発刊されたのかと興奮していたのだったが、夢に過ぎなかった。起き上がると生理現象で股間が膨張していたので、それが収まるのを待つあいだにコンピューターを点けて、Twitterを眺めた。それから上階へ行き、母親に挨拶すると洗面所で顔を洗い、さらにぼさぼさと伸ばしっぱなしになっていた髭を電動髭剃りで当たった。それから冷蔵庫を覗くと、ホットケーキやカレーの残りなどがあったけれど、それらはのちに出勤前に食べることにして、今はシンプルにご飯と即席の味噌汁で食事を取ることにした。それで椀に炊けたばかりの白米をよそり、味噌汁用の椀には小さな袋から蜆の混ざった即席の味噌を絞り出し、卓に就いた。米には緑黄野菜ふりかけを掛けて食べる。その頃には既に母親は着物リメイクの仕事へと出掛けていた。
 ものを食べ終えると抗鬱薬を飲んで食器を洗い、そのまま風呂も洗った。そうして下階に下ったが、例によってすぐさま日記に取り掛かる気にならず、インターネットをだらだらと回って時間を潰してしまい、一一時前からようやくキーボードに触れはじめた。まずは助走代わりに書抜き、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の文章を写していく。音楽はFISHMANSCorduroy's Mood』を流した。そうしてそれが『Oh! Mountain』に移行する頃、一一時を過ぎて、前々日の日記に取り掛かりはじめた。二〇分ほどで累計二万字ほどになった記事を仕上げて、インターネット上に投稿した。ついでに、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の感想記事も投稿しておき、そうするとまださほど打鍵していないのに、早くも疲労感が蟠って身体全体がこごったように重くなっていたので、ベッドに移った。読書をしながら休もうと思ったのだが、本をひらかないうちに眠りに落ちてしまった。そうして断続的に、切れ切れの眠りを二時四五分まで過ごすことになった。
 何とか起き上がり、上階に行くと、食事を取ることにした。冷蔵庫からピーマンや人参などの野菜と、ホットケーキとゆで卵を取り出し、ホットケーキは電子レンジへ。温めてから卓に就き、新聞を読むでもなくテレビを見るでもなく黙々とものを食った。そうして食器を洗うと、上階に上がってきた時点で取り込んでおいた洗濯物を畳みはじめた。タオルや肌着を畳んで、タオルは洗面所へ持っていき、肌着はソファの背の上に置いておいて、それで下階に戻った。自室に入ると、日記を書かねばならないのだが、またTwitterを覗いてしまい、あいちトリエンナーレ周りの論議など追って時間を費やしてしまい、気づいた時には四時が近くなっていた。まだ前日の記事も終えられていないが、まずは着替えようということでワイシャツにスラックスの姿になり、歯磨きをしたあと、ようやく四時を回ったところでこの日の日記を書きはじめた。それで既に四時二〇分なので、そろそろ出勤しなければならない。
 荷物を持って上階に行き、玄関を抜けてポストに近寄ってなかの夕刊を取ろうとしていると、母親がバイクで帰ってきた。行ってらっしゃいと言いながら家の横の小坂を下っていくのに無言で視線を向けて、夕刊を瞥見してから玄関内の台の上に置いておくと、道に出て出発した。歩いて行く方向、西の空を見上げると、頭上は一面偏差のない白さに均されており、比較的涼しさが感じられた。それでも坂を上って駅に着く頃には、やはり汗が湧いている。ホームで今日は手帳を取り出すのではなく、携帯を出して、まだ日記に書けていない前日の事柄をメモしはじめた。まもなく電車がやって来たので先頭車両に移動して乗り、青梅に着いて人々が捌けていくのをやり過ごすと席に座った。そうして五時過ぎまで、記憶を思い起こしながら携帯をかちかちと操作して、前日のことを綴ると、電車を降りて職場に向かった。
 この日は二コマの授業である。時間にかなり余裕があったので、高校生の現代文のテキストをたっぷりと、ゆっくりと読むことが出来た。そうして一コマ目の相手は、(……)さん(小五・国語)、(……)さん(中三・国語)、(……)さん(中三・国語)。(……)さんは三〇分ほど遅れてやって来たが、理由はいちいち訊かなかった。真面目で、いつも教室を退出する際にはお辞儀をしてくれる礼儀正しい子なので、止むに止まれぬ事情があったのだろう。授業は主語と述語の見つけ方を確認。(……)さんは今日は作文をやったが、よく書けていて問題なかった。(……)さんはいつもながら進みが遅くて、漢字テストなどもゆっくりとやっており、今日は最初の文章の問題までしか終わらなかったのだが、まあ彼女のペースで地道にやってくれれば良いと思う。ノートには人物の特徴と、そこから生じた主人公の心情について書いてもらった。
 二コマ目は(……)(高三・国語)、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)。まあ全体にわりあい良い調子だったと思う。英語は生徒が問いている最中にその場で介入し、解説しながらノートにメモを取らせることが出来るので、やりやすい。しかし(……)さんはやはり見張っていないと、手遊びをしている時間が多くなって――何やら自分の腕に絵を描いていたように見えたが――進みが遅くなるようだ。今日は二頁弱の進度だった。(……)さんはまとめ問題で復習。レッスン二と、レッスン三をほんの少しだけ扱い、宿題はレッスン二のまとめをもう一度と、レッスン三のまとめを今日やったところも含めて全部やってくる、という風にした。レッスン二のまとめは宿題をやって来てくれればこれで三回解くことになるので、かなり定着するだろう。
 そうして九時半頃退勤。駅に入り、発車間近の奥多摩行きに乗って、座席に就いたのだったかそれとも立ったままだっただろうか。まあそんなことはどちらでも良い。いや、席に座ったのだった。それでこの日は手帳を出さずに向かいに就いたサラリーマンを眺めていた。彼はスマートフォンを見ながら脚を組む、と言うか右脚を左の腿の上に直交するように乗せ、その足先を貧乏揺すりのように細かく震えさせていた。その様子を見ていると、電車が急停止した。アナウンスが入るのを聞けば、鹿と衝突したと言う。それでどうやら長引きそうだなと思われたので、ここで手帳を取り出して眺めはじめた。乗務員が忙しなく立ち働くのを暗い運転室に横目で見ながら手帳を読んでいると、しばらくしてから鹿の撤去が完了したと伝えられた。撤去したということはおそらく、やはり鹿は衝突の勢いで死んだのだろう。死体をどのように撤去したのだろうか? やはり単純に、線路の周りの手近の林のなかに捨てたのだろうか?
 ともかくそれで運転が再開し、最寄り駅に着いて降りた。雨が少々降っていた。ホームを移動すると、ベンチに、昨日と同じ人だと思うが、サラリーマンがスマートフォンを弄りながら座っていた。こちらは大して喉も渇いていないのに今日もコーラを飲むことにして、自販機に寄って一三〇円を挿入し、二八〇ミリリットルの飲料を買った。そうしてベンチに就き、手帳を見ながら黒々とした炭酸飲料を喉の奥に流し込んでいく。サラリーマンはそのうちに立って去っていき、そうして駅にはこちら一人しかいなくなったが、まもなくこちらもコーラを飲み終えたので立ち上がり、ペットボトルを捨てて駅舎を抜けた。坂道に入って木の下を通っていくと、ぽたぽたとワイシャツの上に垂れて潰れた玉模様をつけるものがある。織り重なった枝葉に当たる水滴の音が四方八方の宙に漂っているので、木々のあいだに入ると途端に雨が強くなったように感じられるのだった。
 雨降りでも慌てずに歩いて帰宅すると、ソファで歯磨きをしている父親にただいまと告げ、ワイシャツを脱いだ。洗面所に近づいていくと、なかから母親が着替えているよと声を出すので、扉を一面は開けずほんの少しだけ引いて、なかを見ないようにしながら腕だけ隙間に突っ込んでワイシャツを渡した。そうして下階に戻り、コンピューターを点けてTwitterを眺めながら服を着替えた。それで上階に行き、食事である。米に野菜のスープ、豆腐ハンバーグや牛蒡の揚げ煮やサラダである。牛蒡の揚げ煮は今日何とか言うスーパーで買ってきたらしく、美味しいでしょと母親が言う通り、甘じょっぱい味が少々濃かったが美味くて、それをおかずにして米を貪った。テレビは何を映していたか、特段の記憶がない。食事を終えると抗鬱薬を服用してから風呂に行き、湯を浴びてさっさと出ると、自室に帰った。そうして一一時過ぎからMさんのブログを読みはじめた。二日分を読み、Twitterを少々眺めてから続いて、前日の日記を書きはじめ、二〇分で仕上げるとまたTwitterを眺めてしまった。最近少々依存気味である。午前一時前から星浩「ドジョウ野田首相の挫折と安倍氏の執念の返り咲き 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(18)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019060600003.html)を読みはじめるとともに、引き続きTwitterを時折り覗いていたのだが、そうするとHさんが、Kさんと読書会をしたいと呟いているのが発見された。この二人とは何度かやりとりを交わしたことのある仲である。それなので、もし実現したらこちらも参加させて頂きたいと二人に向けてリプライを送っておき、その後やりとりをしながら、星浩「「モリカケ」を凌いで令和を迎えた安倍政権の本質 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(20・最終回)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019072500002.html)を続けて読んだ。そうして二時に至ると、そろそろベッドに移って読書をしようということで、今日はそろそろコンピューターを離れるので追ってまた詳細を話し合いましょうと送っておき、Twitterを閉じたのだが、コンピューターを離れると言っておきながらその後もしばらくインターネットを回ってしまい、読書を始めたのはもう二時四〇分にもなる頃だった。 それで栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読んだのだったが、記録を見ると五頁程度しか読んでいないし、記憶もあまり残っていないところを見るとどうもまた途中で意識を失っていたらしい。四時半に就床した。


・作文
 11:13 - 11:31 = 18分
 16:03 - 16:21 = 18分
 23:54 - 24:13 = 19分
 計: 55分

・読書
 10:48 - 11:13 = 25分
 23:03 - 23:28 = 25分
 24:53 - 26:05 = 1時間12分
 26:40 - 28:29 = 1時間49分
 計: 3時間51分

・睡眠
 4:30 - 9:00 = 4時間30分
 12:00 - 14:45 = 2時間45分
 計: 7時間15分

・音楽

2019/8/26, Mon.

 死んだというその事実から
 不用意に重量を
 取り除くな
 独裁者の栄光とその死にも
 われらはそのように
 立会ったのだ
 旗に掩われた独裁者の生涯は
 独裁者の死と
 いささかもかかわらぬ
 遠雷と蜜蜂のおとずれへ向けて
 ひとつの柩をかたむけるとき
 死んだという事実のほか
 どのような挿話も想起するな
 犯罪と不幸の記憶から
 われらがしっかりと
 立ち去るために
 ただその男を正確に埋葬し
 死んだという事実だけを
 いっぽんの樹のように
 育てるのだ
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、57~58; 「オズワルドの葬儀 ローズ・ビル墓地でのリー・オズワルドの葬儀は二〇分で終った」全篇; 『いちまいの上衣のうた』)

     *

 「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」
これは、私の友人が強制収容所で取調べを受けたさいの、取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に、その言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は挑発でも、抗議でもない。ありのままの事実の承認である。そして私が詩を書くようになってからも、この言葉は私の中で生きつづけ、やがて「敵」という、不可解な発想を私に生んだ。私たちはおそらく、対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でなくなるようなそしてその選別が全くの偶然であるような、そのような関係が不断に拡大再生産される一種の日常性ともいうべきものの中に今も生きている。そして私を唐突に詩へ駆立てたものは、まさにこのような日常性であったということができる。
 (100~101; 「三つのあとがき」; 「2」)


 一〇時起床。上階へ。母親は仕事で不在。洗面所で顔を洗ったあと、冷蔵庫を覗くと、前夜の残り物らしく様々な品があった。そのなかに茄子と豚肉の炒め物があったので、取り出して電子レンジに入れ、回しているあいだに便所に行って放尿する。戻ってくると米をよそって、卓に就いて飯を食う。味付けの染みている茄子をおかずに白米をもぐもぐと咀嚼する。そうして食べ終えると冷蔵庫で冷やされた水をコップに汲み、抗鬱薬を服用して、それから皿を洗った。続いて、風呂場に行って浴槽も洗う。壁から生え出ている銀色の手摺りを掴んで体重を預けながら、ブラシでごしごしと壁面を擦る。出てくると下階へ。
 日記を書く気力が湧かなかった。不可避的に長くなってまだまだ終わらないことがわかっていたからだ。それでしばらくだらだらと過ごしたが、やはり書かなくてはというわけで、まずは助走代わりに書抜きをすることにした。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』である。cero『Obscure Ride』を流して、歌を歌いながら一箇所を書き抜き、正午を越えると日記に取り掛かった。そのまま二時間。しかしまだ喫茶店にいるあいだのことすら終えられていない。途中、一時四〇分くらいになった時点で、雨が降り出した音を窓外に聞きつけて、急いで部屋を出て階段を上がり、ベランダの洗濯物を取り込んだ。
 二時間のあいだコンピューターの前に座って身体を固めて打鍵しているとさすがに疲労したので、文章作成は一旦切りとして、ベッドに転がって休むことにした。ただ休むだけでは勿体ないので同時に本を読もうと思ったところが、ベッドに移って枕とクッションに身や頭を預けて脚を伸ばすと、すぐに目が閉じてしまった。そのまま結局、三時半まで、眠りに落ちることはなかったが、本をひらくこともなく静かに休息を取った。たった二時間書いただけで休まなければならないのだから、自分はよほど体力がない。世の勤め人は朝から晩まで、あまり休憩もなしにずっと働いているのだから本当に凄いものだ。勤め人だけではない。例えば主婦の人々だって、洗濯に掃除に炊事に買い物にと家事に追われてさほど休む暇もないだろう。彼ら彼女らに比べると、自分はよほど怠惰に生きているような気がする。
 三時半に至ったところで身を何とか起こし、食事を取るために上階に行った。冷蔵庫のなかからサラダの入ったプラスチックの細長い容器と、ホットケーキを取り出し、ケーキは電子レンジに入れて加熱した。そのほか、ゆで卵。卓に就くと酸味の強めのジャガイモのサラダを口に運び、レタスも一緒に口に入れ、レタスとジャガイモの仕切りになっていたハムも二枚重ねたまま食べる。そのあと、ホットケーキにメイプルシロップを掛けて箸を使って食べた。雨は一時止んでいたようだが、今、ふたたび降りはじめて、静かに、しかし急速に勢いを強め、直線的に鋭く落ちて空間を埋め尽くしていた。ゆで卵まで食べ終えると台所に食器を放置して、勝手口の外から燃えるゴミのゴミ箱や生ゴミを封じておく薄黄色のバケツをなかに入れておき、そうして下階に帰った。歯磨きをしてから上階に戻り、髭を剃ろうと思ったのだが、髭剃りの充電が切れていたので電源に繋いでおき、階段を下りて自室に戻ると仕事着に着替えた。そうして四時過ぎから日記を書き出して、ここまで一〇分足らずで書き足した。
 準備をして出発。上階に行って玄関を出ると、雨がぱらぱらと弱く降っていた。傘を持つほどではない。降雨のために蟬も勢力を弱めて、林から飛び出してくるのはツクツクホウシの声のみだった。西に向かい、十字路から坂道に入ってもやはり蟬時雨は散り消えてしまい、撥条仕掛けが弾かれるようなツクツクホウシの鳴きばかりが梢から落ちて、アブラゼミやミンミンゼミはほとんど聞こえない。
 駅に着くと雨がやや強まったようで、屋根を打つ雨粒の音が辺りに拡散する。それで手帳を読みながら屋根の下から出ず、いつもとは違う最後尾の車両に乗った。青梅に着いて降りると、塾の生徒である(……)さんが待合室の傍に立っていた。挨拶をすると、昨日も最寄り駅にいたかと尋ねられ、オレンジのズボンで本を読んでた、と続くので、それは俺だなと肯定した。家がこちらの方なのかと訊くと、最寄り駅がこちらと同じらしい。それで別れてホームを移動し、まだ職場に行くには早いので電車に乗って涼しいなかで手帳を読むことにした。席に座って目を閉じながら情報を頭のなかで反芻しつつ過ごし、奥多摩行きが発車間近になると降りて、職場に向かった。
 今日の勤務は二時限である。一コマ目は(……)くん(中三・国語)と、(……)くん(中一・国語)。まあ概ね問題はない。二コマ目は(……)(高三・英語)、(……)くん(高二・英語)、(……)さん(中三・社会)。こちらも大体問題はないが、歴史は説明することが多くてなかなか疲れる。それでも今日は、時間を取って間違えた問題を覚えさせるというプロセスを取り入れたので、まだ余裕を持てたようだった。
 九時半頃退勤。駅に入ると奥多摩行きはもう発車間近だったので、コーラを飲んでいる余裕はなかった。最寄り駅で飲もうと考えながら最後尾の車両に乗り、そのなかでもさらに一番後ろの扉際に立って手帳を取り出した。じきに発車し、最寄り駅に到着すると降りて、ホームを歩いて自販機で二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。釣り銭を取る開口部のなかが濡れていた。ベンチには先客がいた。前屈みになってスマートフォンを弄っているサラリーマンらしき男性である。こちらもベンチに座って、渇いた身体にコーラを流し込んだ。手帳を見ながら飲み終えるとペットボトルをダストボックスに捨て、駅舎を出て帰路に就いた。
 帰宅して居間にいた父親にただいまと言う。母親は風呂に入っているところだった。ワイシャツを脱いで洗面所の籠のなかに入れておき、自室へ戻ると着替えて上階に引き返した。食事はカレーである。テレビは最初、いじめや不登校などについて話し合うような番組を流しており、中川翔子などが出演していた。そのうちに、風呂から出てきた母親が番組を変えて、一瞬だけ二四時間テレビが映し出される。誰だかがマラソンをしていたようだが、特段に興味はない。その後、録画されていたらしい音楽番組に移って、徳永英明がインタビューされていた。徳永英明にも特段の興味はないが、食べ終えても席に就いたまま何となく番組を眺めた。その後皿を洗ったのちに、風呂に入る前にシャツやハンカチにアイロンを掛けた。
 そうして入浴。出てくるとパンツ一丁で自室へ戻り、一一時五〇分から助走代わりに書抜きを行ったあと、日記に取り掛かった。読書会があった前日の記事を仕上げようと邁進したのだが、二時まで掛かってもあと少しのところですべては終わらなかった。そこで切りとして、ベッドに移り、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめたが、いくらもしないうちに力尽きた。気づくと四時半頃だったようだが、その時の記憶はもう残っていない。


・作文
 12:07 - 14:07 = 2時間
 16:05 - 16:25 = 20分
 24:24 - 25:57 = 1時間33分
 計: 3時間53分

・読書
 11:53 - 12:07 = 14分
 23:50 - 24:24 = 34分
 26:01 - ? = ?
 計: 48分+?

・睡眠
 2:50 - 10:00 = 7時間10分

・音楽

2019/8/25, Sun.

 窓のそとで ぴすとるが鳴って
 かあてんへいっぺんに
 火がつけられて
 まちかまえた時間が やってくる
 夜だ 連隊のように
 せろふあんでふち取って――
 ふらんす
 すぺいんと和ぼくせよ
 獅子はおのおの
 尻尾[しりお]をなめよ
 私は にわかに寛大になり
 もはやだれでもなくなった人と
 手をとりあって
 おうようなおとなの時間を
 その手のあいだに かこみとる
 ああ 動物園には
 ちゃんと象がいるだろうよ
 そのそばには
 また象がいるだろうよ
 来るよりほかに仕方のない時間が
 やってくるということの
 なんというみごとさ
 切られた食卓の花にも
 受粉のいとなみをゆるすがいい
 もはやどれだけの時が
 よみがえらずに
 のこっていよう
 夜はまきかえされ
 椅子がゆさぶられ
 かあどの旗がひきおろされ
 手のなかでくれよんが溶けて
 朝が 約束をしにやってくる
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、51~52; 「夜の招待」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 眠れなかったので、床に就いてから三〇分強で起き上がってしまった。スイッチを押して明かりを点け、コンピューターも起動させて、しばらくTwitterを眺めた。Lという名前のアカウントがあって、この人も夜更し勢らしく午前四時前といった深い時間にもかかわらず盛んに発言して、ポストモダン界隈の相対主義的なスタンスを舌鋒鋭く批判しており、こちらのツイートにも「いいね」を付けてくれたりしていたのだが、この人がどうも、確たる根拠はないのだけれど発言の雰囲気などからしてこちらの知人のUくんではないかと思われた。間違っていたらUくんにもL氏にも申し訳ないが。それで四時ちょうどあたりまでTwitterを眺めて、それからプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の感想文を書きはじめた。一時間ほど掛けて以下のような文章が完成した。

 ラーゲルにおいてレーヴィたち抑留者を仮借なく苦しめた「敵」の最大のものは、やはり飢えだっただろう。「ラーゲルとは飢えなのだ。私たちは飢えそのもの、生ける飢えなのだ」(92)とまでレーヴィは言っている。人間の存在そのものが飢餓と完璧に癒着し、同一化してしまうような地獄の檻。その悪魔的な威力をまざまざと知らしめてくれるのは、シェプシェルという人物の紹介文のなかにある一節である。彼は、「今ではもう自分のことを、定期的に満たすべき胃袋としか考えていない」(116)。この一節は鮮烈で、衝撃的である。ここには人間的なあらゆる意味に対する無関心に呑み込まれ、すべてを諦めてただぎりぎりの生存の維持に追われる人の姿が如実に映し出されているように思える。彼が束の間食物を得たとしても、そこには食事の喜びなどというものはあるはずもなく、それは「定期的に」行われるべき単なる事務的な作業でしかないのだろう。原語において両者のあいだに区別があるのかこちらにはわからないが、単なる「胃」ではなくて「胃袋」という訳語が採用されていることも、印象的である。「袋」という言葉を伴うことによって、肉体や臓器の物質性、その冷え冷えとした即物性の生々しさを高めているからだ。
 飢えと並んでレーヴィたちを苦しめた要素は、ほかでもない「寒さ」である。「厳しい寒さと、激しい飢えと、多大な労苦が、目の前に立ちふさがっている」(78)というように、寒さはたびたび飢えと同一次元の苦痛として並べられている。「シャツとパンツと綿の上着とズボンだけ」の装備で、「一日中、零度以下の寒さにさらされ、風に叩かれる」(159)というその寒気は、当然だが、我々が生半可な想像によって理解できるような水準のものではない。レーヴィは言う。「私たちの飢えが、普通の、食事を一回抜いた時の空腹感と違うように、この私たちの寒さには特別な名前が必要だ」(159)。そして、そうした厳寒の環境のなかでは、「陽の出が毎日批評の対象になる」(88)。抑留者たちは、「今日は昨日より少し早い。今日は昨日より少し暖かい」と日々の夜明けに孕まれているほんの微かな差異を緻密に見分け、判別するのだが、そうした「強いられた繊細さ」とでも言うべき認識のあり方には、冬の終焉と穏やかな季節の到来を痛ましいまでに切望する彼らの小さな希望がありありと反映されている。

 そうして次に、同じくプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』のメモを手帳に取りはじめた。四〇分ほどボールペンを使って頁の上に文字を刻んでいき、六時を回ったところで食事を取るために部屋を出た。両親もそろそろ起きはじめているような気配があった。階段を上り、台所に入ると冷蔵庫から卵を二つ、ハムを一パック取り出して、フライパンに油を垂らした。そうして焜炉の火を点け、ハムを四枚投げて落とし、その上から卵を割り落とした。焼いているあいだに丼に米をよそって、それからすぐに、黄身が固まらないうちに目玉焼きをフライパンから米の上に搔き出したが、この時失敗して黄身を崩してしまい、白身もフライパンの底にこびりついて綺麗にすべて搔き取ることは出来なかった。
 丼を卓に運ぶと、玄関に向かい外に出て、新聞を取って戻ってきた。鋏で新聞を包む薄いビニール袋を切り開け、それをめくりながら卵焼き丼を食べはじめる。醤油を垂らして米を中途半端に溶けた黄身と搔き混ぜ、貪り食う。食べている最中に、父親が困憊したような表情と様子で階段から上がってきたので、おはようと告げた。こちらはものを食べ終えると食器を洗い、階段を下りて自室に帰った。
 手帳には六時四〇分から読書と記録されているのだが、ほとんど読まないうちに意識を失ったらしい。信じがたいのだが、そこから一二時ぐらいまで時折り覚醒しながらもだらだらと寝過ごしてしまったようで、そのあいだの記憶は残っていない。母親がガラス戸の向こうのベランダにやって来て、昼食にスパゲッティを茹でてくれと言ったので、起き上がって上階に行った。台所ではフライパンに湯が既にぼこぼこと沸騰していた。パスタの袋から三束を取り出し、封を取って一つ目の束を投入したが、どう考えてもパスタの長さに比してフライパンが小さかった。箸で麺を搔き混ぜて何とか湯のなかに収めつつ、フライパンが小さいだろうとやって来た母親に告げると、そうだけれど仕方がないという返答があったので仕方のないことと定めて、二束目を入れようとしたのだが、麺をくくっている封のシールが上手く剝がれない。そうこうしているうちに一束目がどんどん茹だっていく。それで鋏で封を切り裂いて何とか二束目、三束目と投入することが出来た。箸で麺を搔き混ぜながら七分かそこら茹でて、それからフライパンを持ち上げ、トングでボウルのなかに麺を取り出していった。そうして瓶詰めのなめ茸と缶詰のシーチキンをボウルに空けて、そこに醤油も僅かに垂らして、トングで麺を取り上げては搔き混ぜた。それで味付けが済むと自分の分を大皿によそり、卓に移って食事を取りはじめた。テレビは『のど自慢』を放映していた。ものを食べ終えると油っぽい食器を洗って下階に戻り、服を着替えた。オープン・カラーで温かみのある茶色にチェック柄のシャツと、濃縮されたようなオレンジ色に近い煉瓦色のズボンである。そうして洗面所に行って歯ブラシを咥え、階段下の一角に置かれた袋から、ロシアで買った「アリョンカ」のクッキーを二つ、ミルク味のものとチョコレート味のものとを一つずつ取り出した。それを持って階段を上り、歯ブラシを咥えたままもごもごと、母親に、ハンドクリームはどこかと訊く。仏間だと言われたのでそちらに入って、隅の一角にヴェルニサージュ市場で買ったクロスとNatura Sibericaのハンドクリームを見つけた。それらを取り上げ、Natura Sibericaの黒いビニール袋に入れて、これでAくんに渡す土産物の準備は完了である。
 下階に戻ると歯磨きを終え、そうして便所で排便してからリュックサックを背負って上階に行った。リュックサックのなかには本がいくつも入っていた。課題書である文庫本のルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』のみならず、ここ最近に読んだ本――その大方はホロコースト関連の文献である――も紹介するために収めていたのだ。靴下は既に、白いカバー・ソックスを履いていた。それで引出しからハンカチを取り出し、尻のポケットに収めると、じゃあ行ってくると両親に告げて玄関に行った。靴を履き、姿見に映る髭面をちょっと眺めたあと、扉をひらいて外に出た。
 林から湧出する蟬の声が昨日一昨日よりも軽いような感じがした。隣家のTさんの宅の一角では紅色の百日紅が、花を重くつけた枝先を突き出し垂れ下げている。家の内からは既に終焉も間近の『のど自慢』の音声が漏れ出してきている。左右から蟬の鳴きしきる道を行くと、途中にあるT田さんの家からも同じように歌番組の音が流れ出していた。
 坂道に入って上っていくと、蟬が一、二匹、地面の上に潰れて干からびている。頭上からは鴉の声が降り、耳をそちらに寄せて、三羽か四羽いて鳴き交わしているなと判別した。鴉の声など普段大して気にも留めないが、改めて傾聴してみると、それぞれに色合いが違うものだった。間の抜けたようなもの、おおらかで伸びやかなもの、詰まってざらついたものとあった。彼らも言語を持っているのだろう。木の間の坂道に降る蟬時雨は、やはり昨日一昨日よりも密度が減っているように感じられた。あるいは時間帯の問題だろうか。
 最寄り駅に入り、ホームの屋根の下に立って手帳を取り出した。道中陽射しもあったし勿論暑くて汗は止まないが、ハンカチを取り出して首筋や額に当てるほどでもなかった。まもなく電車到着のアナウンスが入ったので、ホームの先の方に歩いていき、入線してきた電車に乗り込んで、扉際に立って手帳の文字を追った。今日の朝にメモしたばかりの、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』からの言葉である。青梅に着いて降りると乗換え、ホームを歩いて立川行きの二号車まで行き、なかに入って三人掛けの一席に腰掛けた。そうして引き続き、手帳に視線を滑らせ、たびたび目を閉じて書かれていることを頭のなかで反芻する。
 電車に乗っているあいだ、周囲に特段に興味深いことはなかった。立川に着くとほかの乗客が降りていくなか、こちらは一人席に留まって、人々が階段口から捌けていくのを待つ。そしてしばらくしてから降りる間際、最後に読んでいた手帳の言葉は、ダンテ『神曲』中の「オデュッセウスの歌」の一節、レーヴィがピコロのジャンに暗唱して聞かせた例の、「きみたちは自分の生の根源を思え。/けだもののごとく生きるのではなく、/徳と知を求めるため、生をうけたのだ」という文言だった。それを頭のなかで繰り返し繰り返し唱えながら電車を降りて階段を上り、駅構内を歩いて改札を抜け、群衆のなかで俯きつつ北口方面に向かった。托鉢僧の鳴らす鈴の音が、煙のような人々のざわめきのなかを一閃して耳を射った。引き続き、「オデュッセウスの歌」の言葉を脳内で唱えながら階段を下り、通りを歩いてルノアールへと向かう。
 建物に入って階段を上り、入店すると、Aくんの姿が席に見えたので手を挙げて挨拶し、彼の向かいに入った。リュックサックを隣の椅子に置いて腰を下ろす。Aくんは飯を食っていないのだと言った。それで何を食べようかとメニューを見て迷っていたが、こちらはコカ・コーラに即決し、Aくんもいつも通り飲み物はカフェゼリー・アンド・ココアフロートに決めて、店員を呼んでひとまず飲み物だけ注文した。その後、Aくんはハニー・トーストを食べることに決断して、女性店員が飲み物を運んで来た際に追加注文したのだが、この店員がちょっと面白い人で、何やら躊躇しながらコーラをこちらの前に置いたあとに、何か言いたいことがあるのだが言えない、というような素振りを見せて、何かと思えば、あの、これ、何て言うんですっけ、とAくんのグラスの下に敷かれたコースターを指した。こちらの分のそれを持ってくるのを忘れたと言うのだった。それで彼女はすみませんと謝り、恐縮しながら戻って、コースターを持ってきてくれたのだったが、今度はストローを忘れたと言ってまた取りに戻って行った。こちらは笑って有難うございますと言いながらそれを受け取った。
 それからAくんに、ロシア土産だと言って袋を取り出し、中身を出してテーブルクロス様の布はヴェルニサージュという市場で買ったものだと言った。これはAくんに使ってもらっても、今日は用事があって欠席しているNさんに使ってもらっても良い。クッキーはそれぞれ一つずつ、そしてNさんにはそれに加えて、Natura Sibericaのハンドクリームを買ってきたのだと見せて、記憶が朧気だが、確かオブレピーハとかいうシベリアの植物を原料にしたという代物なのだと紹介した。そうして品物をビニール袋に収め直してお収めください、と言ってAくんに贈った。
 それからしばらくのあいだ、会話の序盤はロシア旅行の土産話が展開された。バレエを観たり、サーカスを観たり、グルジア料理を食ったり、ウズベキスタン料理を食ったりと盛り沢山だったと述べた。サーカスは特に凄かった。ボリューム満点で疲労するくらいだった。お馴染みの空中遊泳があったり、大きなブランコのような装置が舞台の両側に置かれて、その上を中国のカンフーめいた格好をした男たちがくるくる回りながら飛び移ったり。後半に、あれは早着替えと言うか、早着替えとはちょっと違うと思うのだが、僅かな時間のあいだに女性の衣服が次々と変わっていくという演目もあった。イースター・エッグの形をした大きな装置が舞台にいくつも出されて、そこから男女が現れる。男性は大きな扇を持って女性の姿を隠し、次に扇をひらいた時には女性の衣服が変化しているという手品のような趣向だ。どんどん女性の姿が隠れる時間が短くなっていき、最終的には紙吹雪のようなものをばら撒いて、それで女性の姿を隠すまでに至ったのだが、その一瞬で確かに服装が変わってしまう、あれはどういった仕掛けになっているのかまったくわからなかった。演目の途中では髪の飾りまで変わっていたのだ。下に何枚も着ているわけではないんだよねとAくんは訊く。身体にぴったりとくっつくような服装だったので下に着込んでいるようには見えなかったし、仮に着ていたとしても脱いだあとの衣服が残らず消え去ってしまうのも不思議だ。
 そのほかやはり見ものだったのは猛獣使いではないか。虎やら豹やらチーターやらが何匹も出てきて演技をするのだが、猛獣たちはなかなか素直に言うことを聞かない場面もあった。舞台の中央に歩み出て演技をする以外の時間は、動物たちは左右の端に設けられた台の上に静かに待機していなければならないのだけれど、時折り待っていられなくなって舞台の方に出てきてしまうものがいる。そうすると猛獣使いは即座にそちらに向かっていき、鞭を振るって動物を台の上に戻さなければならないのだ。一方で演技中の猛獣を操りながら、舞台全体を見渡して常に状況の変化を把握していなければならないわけで、視野の広さを発揮しなければならないのは大変そうだった。ところで、猛獣の演目のあいだに面白いことが一つあって、それはなかの一匹が糞をしたのだが、舞台の周囲に張られた金網の隙間を通して、黒子のようなスタッフが棒を差し入れ、その糞を台から落としていたことだ。サーカスの世界というのは非常に高度に構築された物語、要するに夢のようなフィクション世界なわけだけれど、その時は一瞬、その構築された世界観が綻びを見せていた。予定調和ではないね、とAくんは言う。そう、予定調和でない、そうしたささやかな出来事が起こったことによって、世界の裏側が一瞬垣間見えたと言うか、舞台裏が覗き、物語世界が破れるような感覚があって、それがかえって現実味を醸し出していた。そうした瞬間はもう一度あって、白い鳩がたくさん出てきて舞台に降りたあと、退場していくという場面があったのだけれど、そのなかに一羽、マイペースな鳩がいて舞台の端に居残っていたのだ。そうした本来の筋書きにはないはずの小さな瑕のような出来事が、奇妙な現実感を与えていてこちらには面白かった、と概ねそのようなことを語った。
 そうしてそのうちに、この日の課題書であるルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の話に移っていった。どういった流れからだったか、Aくんが当該著作に言及しはじめたのを機に、こちらはリュックサックから本をすべて取り出して卓上に並べた。ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。こちらは『これが人間か』を最初に差し出して、これは……ちょっと……素晴らしかったね、と告げた。視線を逸らして困ったような顔になりながら、これはね、ちょっと……まあ、読んだ方が良いんじゃないか、と続けた。のちにも、自分はあまり他人にこういうことは言わないけれどと漏らしながらも、もう一度読んだ方が良いと思うと勧めたのだった。Aくんは、何がそんなに素晴らしかったのかと訊く。――収容所という地獄の環境を記録した一証言録なわけだよね。しかしそれでいて同時に、文学作品として、一つのテクストとして単純に面白いものになっている。まあ面白いという、そういう言葉を使っていいのかわからないけれど。記述が練られているのもよくわかるし、比喩なんかも文章のなかにぴたりと適合している。非常に質の高い作品になっていると思う。
 そうして段々と、『アウシュヴィッツ収容所』の話に入っていった。その長い会話の筋道を再現することは、当然ながら出来ない。こちらの感想はブログに上げたようなものなので、ここでは詳しくは繰り返さないことにするが、ヘスが自分の任務を疑うことを「許されなかった」と執拗なまでに繰り返しこの言葉を用いて述べていることを指摘し、彼の精神の宗教性について触れたりした。Aくんは、読む前はヘスという人はもっと、言ってみれば「普通の」人、一般人に近い人なのかと思っていたけれど、いざ読んでみるとこの人は思ったよりも一般的ではないのではないかという印象を持ったと言う。――一六歳で家を飛び出して、戦争に従軍して。その後ナチ党にも参加して、人も殺しているからね。――確かに。有能な人ではあったんだろうね。――何しろ、アウシュヴィッツを建てる時なんかも、どんなブラック企業だ、って感じじゃないですか。資材も何もなくて自分で調達しなきゃならない環境で、上司に窮状を訴えても聞き入れられない。視察しに来たヒムラーは、「まあ、いけるでしょ」みたいな感じで。普通だったら、いやいや、無理ですって、とかなりそうなものだけれど、それを実際にやっちゃったわけだからね。――まあ、ナチ体制下でなければ、能力のある、良い官僚になっていただろうね。それにしても、ヘスの自己放棄ぶりは際立っている。――彼も命令に対して、「うん?」という違和感を覚える時とか、嫌だなと思う時とかはあったと思うんだ。でも、そこで自分を押し殺して、あるいは克服して、命令に対する忠誠心の方が勝ってしまう。――そういう義務感、忠誠心は並々ならぬものがあるね。命令を疑うことは「許されなかった」とたびたび繰り返している。そこで同時に、「健全な理性が逆のことを告げたとしても」とも言っていて、俺はここを読んだ時、ヘスは自ら、自分の判断が理性とは逆行している、非合理的なものだと認めていると思った。批判的理性の放棄だよね。ほかの場所では、「総統の名におけるヒムラーの命令は、聖なるものだった。それに対しては、いかなる考慮、いかなる説明、いかなる解釈の余地もなかった」とも言っているわけだ。聖典の言葉に自分の「解釈」を交えず、一字一句そのまま遵守しようとする宗教的原理主義者の態度と、重なるものがあると思う。
 ヘスの例を見る限り、ナチ・イデオロギーには宗教的な側面が間違いなく含まれている。もっとも、それはナチスだけではなくて、どのような政治的理念も宗教的になっていく契機を孕んでいるということかもしれないが。ヘスの自己放棄ぶり、命令に対する忠義心は際立っていて、その点であまり一般的ではなくて特殊なのかもしれないが、しかし本当に特殊な例なのだろうか、という疑問も湧いてくる。ヘスのように命令に唯々諾々と服従する人間が多数いたからこそ、SSという機構が、ナチスという体制が成立したとも思えるからだ。――まあ、現代の日本とも、そんなに遠い話ではないのかもしれない。いわゆる「ネトウヨ」と言うか、政権与党を熱狂的に支持している連中ともあまり変わらないかもしれないね。
 ――ありきたりな言い分になっちゃうけれど、やっぱり批判的理性を働かせることが大事だと思うんだ。よく言われる言葉で一口に言うならばそれは、「自分で考える」っていうことなんだけど……でも、それが一番難しいよ。「自分で考える」ってどうやるんだって思う。――確かに。考えるって、どういうことなんだろうね。――と言うか、人は「自分で考える」ことなんて出来ないんじゃないか。「自分で考える」っていうのは、「他者とともに考える」っていうことと同じなんじゃないだろうか。――なるほど。こうやって話しているのもそうだし、本を読むのも一種の他者との対話だもんね。――そういう自分と違うものからの誘引がないと人間ってのは考えられないよね。――でも、例えば就活とかで、人気のある企業リストみたいなのが出て、それを見てこの企業がいいなとか決めるわけじゃん。ネームバリューがあるからとか。でもあれって自分では考えてないよね。外部の要素によって決めていて、自分の本当にやりたいこととそれは合ってないことが多い。それで入社して、思っていたのと違う、ってことになってつまずいちゃう人もいるんだよね。勿論、そういう挫折の経験を次に活かせるかもその人次第だし、なかには結局この会社に入って凄く良かったって感じる人もいるとは思うんだけど。――俺が就活をまったくしなかったのもそれでさあ。要は、俺は、面接で嘘を言うのに耐えられなかったんだよね。まあパニック障害の問題もあったんだけど、俺は、そもそも、働きたくなかったし(と大笑いする)、やりたいこともなかったし、だから特に興味のある企業もなかったし。でも、面接ってなると必ず、じゃあこの企業を選んだ理由を聞かせてくださいってなるわけじゃん。そこで俺の言うことは必ず嘘になっちゃうわけよ。その欺瞞ぶりに耐えられなかったっていうか……くだらないと思ったんだな。いや、くだらないなんていうと怒られちゃうけど(と笑う)。……そうすると、行けるのは公務員くらいかなってことで地元の市役所を目指したけど、それも結局興味がないから、勉強に身が入らず、当然落ちる。その後、文学なんてものにかかずらうようになって、まあ、今に至るわけだけど。
 ――あと今思ったのは、「他者とともに考える」ってことと、「他者に考えさせられる」っていうのは違うのかもしれない。Aくんの挙げたような例は、自己の主体性が欠けているよね。外部要因に凭れ掛かって、それによって考えさせられていると言うか、思考を誘導させられていると言うか。そこで、吟味するっていうことが重要になってくるんじゃないか。考えるっていうのは、吟味するっていうことなのではないか。その時、吟味の対象のなかには自分自身が入っていないといけないと思う。――吟味するっていうのは、例えば本を読んだ時に……。――例えばこのヘスの本を読んで、自分がどう感じたかっていうのを対象化する。相対化する。――自分が感じた、その感じ方を一段上から……。――そうそう。自分がヘスの考えのどこに共感したのか、あるいは反発したのか、細かく調べる。ヘスの考えを対象化するとともに、自分の考えや感じ方も同じように対象化する。それで自分にとって確かなことを求めると言うか。そういう風に、絶えず自分を吟味していくっていうのが考えるっていうことなんじゃないか。一言で言うと自分自身を疑うってことかな。ただ、そうしていくと、必然的に相対主義に落ち込むと思うんだけど、そこでその相対主義すらをも吟味する、この吟味の絶えざる連鎖が考えるっていうことなのかもしれない。
 Aくんは、ゾンダーコマンドーについても言及した。ヘスの手記のなかには、ガス室の清掃だとか死体の処理だとかを担わされた特殊部隊のユダヤ人たちが、自分もいずれは殺されるという事実を当然承知していながら、しかし虐殺に「熱心に協力」したと述べている場所がある。――あれはぞっとしたな。あの、特殊部隊の人が、死体のなかに自分の奥さんだかの顔を見つけて、一瞬ぎょっとするんだけど、そのあと何ともない風になるっていう……それは、何なんだろう、やっぱり無感覚になっちゃうのかな。――無感覚……それもあるかもしれないけど、でもあれはヘスが言っていることだからね。――それは確かにそうだ。――外見からはわからないよ、その人が本当はどう感じていたかなんて。……それに、ゾンダーコマンドーの人たちも、屈辱を、絶望的な恥辱を感じているわけだよやっぱり。それで、どこかから紙を入手してきて、そこに言葉を書いてさあ、誰かに伝えなきゃいけないって思ってるからね、それを死体のなかに隠したりするんだよね。それが発見されたりしているらしいんだけど。……それで言うと、語っておくべきエピソードが一つある。クロード・ランズマンっていう映画監督の、『ショアー』っていう作品がある。九時間もある長いものなんだけど、それはホロコーストを生き延びた人々の証言を収録したもので、そのなかにこういう話がある。ある床屋の人が、友達の、囚人の髪を切る仕事をしていた床屋の人について語るんだけど……ガス室に入る前に、髪を切るわけよ。そこに連れてこられたユダヤ人たちは何も知らない。自分が今から殺されるっていうことを知らないんだ。今からシャワーを浴びるんだ、とその床屋は言う。俺はユダヤ人だ、同じユダヤ人の仲間の言うことなら信用できるだろう、って。そういう説得の役目をやらされているわけだ。それでガス室に入る前に、抑留者たちの髪を切る。その髪の毛は、繊維産業に売られて、製品の材料になったりしているわけよ。切られた女性たちの髪の毛が、アウシュヴィッツの博物館に展示されているらしいね。それで、床屋は髪を切っていたんだけど、ある時、自分の妻と子供がそこにやってくる。囚人の一員として。でも、どうしようもないわけよ。今からお前たちは殺されるんだって言っても、逃げることも出来ない。自分も一緒になって逃げるとしても、何も変わらない、殺されるのが二人になるか三人になるかの違いしかない。それで、証言者の床屋は、その友達の床屋について言うんだ、あいつはよくやった。あいつは本当によくやったんだ、自分に出来ることを最大限やったんだって。あいつは普段、一分も掛けないで髪を切っていた……でも……(とここでこちらは感極まってしまったと言うか、涙を催してしまい、言葉を詰まらせ、涙声になる)ごめん、泣けてきちゃったんだけど……(声がうまく出ず、長い間を置きながら)奥さんの時は……三分掛けてやったんだ、って……。Aくんは神妙そうな顔で黙り込み、卓上にはしばらく沈黙が流れた。
 こちらは泣いてしまったことに対する照れ隠しのようにして、久々に泣いたわ、と口にし、手帳をめくった。Aくんはしばらく黙っていたあと、ぽつりと、それは重い……重すぎるね、と言った。こちらは、それじゃあ『これは人間か』のなかで最も感動的だったシーンを紹介しようかと言って本をひらき、例の、レーヴィが仲間のジャンというピコロ(使い走り)に対して「オデュッセウスの歌」の講釈をする場面を読んだ。

 さあ、ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ。

  きみたちは自分の生の根源を思え。
  けだもののごとく生きるのではなく、
  徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

 私もこれを初めて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分がだれか、どこにいるのか、忘れてしまった。
 ピコロは繰り返してくれるよう言う。ピコロ、きみは何といいやつだ。そうすれば私が喜ぶと気づいたのだ。いや、それだけではないかもしれない。味気ない訳と、おざなりで平凡な解釈にもかかわらず、彼はおそらく言いたいことを汲みとったのだ。自分に関係があることを、苦しむ人間のすべてに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じとったのだ。肩にスープの横木をのせながら、こうしたことを話しあっている、今の私たち二人に関係があることを。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、145)

 それでこの場面に対するこちらの解釈と言うか感想を述べたのだけれど、それをここに再構成する気力はもはやないし、そもそも日記にも一度書いたことでもあり、『これが人間か』の感想を近いうちにアップしようとも思っているので、ここには繰り返さない。その他『アウシュヴィッツ収容所』について話したことも、大体は感想文に含まれていると思うので、ここには記さない。ただ一つ、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』のなかの重要な論旨を紹介することはした。それは、ユダヤ人大虐殺というと従来はナチズムの非合理性を表す代表的な行いのように思われてきたが、栗原氏の考えではむしろそれは行き過ぎた合理主義、人間の価値や生命よりも能率を上位に置くという、一線を越えた合理主義の産物なのだという考え方だ。プリーモ・レーヴィは『これが人間か』の終わりに付録のようにして収録されている「若い読者に答える」という文章のなかで、「ナチの憎悪には合理性が欠けている」(254)とはっきりと述べている。これら両者の考え方は一見対立するようだが、実は同じことを言っているのかもしれない。と言うのも、どちらもナチズムが通常の合理性では測れず、その枠を超え出たものであるという点に関しては一致しているからだ。
 そのほか、最近の日韓関係の悪化に対して実に短絡的に反応している人々の発言がSNS上に見られて、さすがに気が滅入ると言うか、短絡的で性急な空気が社会全体に醸成されつつあるような感じがしてどうも居心地が悪い、といったような話もした。五時半頃まで話しこんで、それで書店に行くことになった。席を立ち、個別でそれぞれ会計を済ませ、店を出ると、Aくんはトイレに行くと言った。それで鏡に自分の姿が映っているのを瞥見したりしながらしばらく待ち、Aくんが戻ってくると共に階段を下りて外に出た。道を歩きながらAくんは、凄く眠いと言って、今日は実は四時くらいから起きているのだと明かしてみせた。聞けば、サイクリングに行っていたのだと言う。多摩川沿いを走るのだが、雨の日は当然辛いのでサイクリングは出来ない。雨の翌日も水溜まりがそこここに出来ていて、その上を自転車で勢い良く通ると水が跳ね上がり、背に負ったリュックサックが汚れてしまうので避ける。さらには晴れの日であっても、川沿いの道というのは日蔭がほとんどなく、常に太陽に照らされているような具合なので、日中に走ると熱中症になってしまいかねない。仕事との兼ね合いや自分の体力の問題もある。というわけで、走れる条件の揃う時日は限られているのだが、ここのところ梅雨などでしばらく――一か月か二か月と言っていただろうか――行けていなかったところ、今日の早朝に久しぶりに走りに行ったのだということだった。そこまで聞いた頃には我々は駅舎入口のエスカレーターを上り、北口広場に出て、そこから高島屋方面への通路に入ったところだった。風が強く吹いていた。前からやっていたんだっけ、とサイクリングについて訊くと、色々な人に話しているから誰に話したかわからなくなってしまい、もしかしたら話していなかったかもしれないけれどそうなのだという返答があった。発端は、しまなみ海道だったと言う。一度、中国から四国へと――あるいはその反対だったかもしれないが――自転車で渡ろうと挑戦したことがあったのだが、その時、途中で「ぶっ倒れた」。体力が追いつかず、中途でダウンして、道端で気を失いかけていたところをタクシーの運転手に助けてもらったのだと言う。それで、これは自分、体力がなさ過ぎるだろうということで、リベンジを目指して身体を鍛えはじめた。ジムに通いはじめたのもその一環である。それで、去年だったか一昨年だったかリベンジを果たしたのだったが――しかも今度は往復をしたのだが――身体を鍛えたおかげで自分はこの程度の負荷で倒れたのかと拍子抜けするほどだったと言う。それ以降もたまに走りに行っているとのことである。歩道橋を渡りながらAくんは、脚はかなり鍛えられたと誇った。何でも、初めてジムに行った時は、レッグプレスと言ったか、脚の力で錘を持ち上げるような機械があるらしいのだけれど、それが五五キロ程度しか持ち上げられなかったところ、今では一八〇キロを持ち上げていると言う。凄いな、三倍ではないかとこちらは驚愕した。
 そうして高島屋に入り、エスカレーターを上って淳久堂書店へ。次回の課題書を何にするか、大まかな方向性すらも決めずに来てしまったのだが、とりあえず海外文学を見に行くかと合意して、フロアを歩いた。そのあいだAくんには、モスクワから東京へ帰る飛行機のなかで出会ったブラジル人、Jのことを告げて、メールアドレスを教えたら本当にメールが来たのだと話した。海外文学の棚に着くと、まず最近発売されたと言う『プリーモ・レーヴィ全詩集』を探し、発見した。そのほか、プリーモ・レーヴィの作品は、以前からこちらの興味を引いている『周期律――元素追想』があり、さらに、これは今回初めて気づいたものだが、『リリス』も発見された。欲しいなあ、欲しいなあと言いながら手に取ってめくるが、まだ決断はせずに棚に戻す。Aくんはパスカルキニャールの著作を確認した。そのほか、宇野邦一による新訳のベケットも確認していると、Aくんは、Fはあれ読んだの、あの、ゴドー……と漏らすので、『ゴドーを待ちながら』か、と受けて、読んでいないのだと答えた。『ゴドー』なら、白水社Uブックスから出ていたと思う、と言って棚の端に移動し、件のシリーズの並びを確認すると、果たして発見された。それをAくんに渡して見てもらったあと、どうしようかと言ってフランス文学の棚に戻り、新訳のベケットをふたたび見分したのだが、しかしこれはこちらは良いけれど、多分Nさんには厳しいだろうとこちらは笑った。それで、韓国の本でも良いかもしれないなとこちらは口にした。喫茶店にいるあいだ、日韓関係について話し、両国間の歴史問題についても勉強したいねと言っていたところだったので、そうした歴史の本でも良いかもしれないとの意図だったが、Aくんは文学のことだと思ったらしく、『カステラ』みたいな、と受けた。パク・ミンギュ『カステラ』という韓国作家の小説を以前、会で読んだことがあったのだ。こちらも文学でも勿論良いので、韓国文学の区画に行くと、ハン・ガンの名前が目に入ってきて、そう言えばこの人も評判が良いと思い出して言った。『回復する人間』が表紙を見せて置かれていたが、『すべての、白いものたちの』も評判が良かったと探し出し、それをAくんに手渡すと、なかを見分した彼は、良いんじゃないかと思いますと言ったので、次回の課題書はそれにすることに決定された。
 それから海外文学をまた少々眺めたあとに、思想の棚に行っても良いかと了解を取ってフロアを移動した。それで思想の区画を、表紙を見せて陳列されている新刊本を中心に見分したのだが、積読がいくらでもある現状、敢えて購入して手もとに持っておきたいと思うほどに惹かれる著作はなかった。それでも、以前からの興味の範囲内だが、スーザン・ソンタグエドワード・サイードなどは気になった。ソンタグの論集、『サラエボで、ゴドーを待ちながら』があったので、以前図書館で借りてそれを読んだことのあるこちらは、これも感動的だった、NATO空爆下の状況で、『ゴドーを待ちながら』を演じているのだ、と紹介した。感心のような吐息を漏らしたAくんは、でも、ほかにやることあるだろとも思うよねと言うので、しかし、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』について話したこととも繋がるけれど、現地の人々が、そういう状況下でも文化活動を絶やしたくないと言って、ソンタグに演出の依頼をし、それで彼女は飛んでいったのだと事情を説明した。それは、戦争下にあっても尊厳のある人間といてありたいという望みだろう。
 それから韓国史の区画に行った。何年か前に吉野作造賞か何かを取った、何とか言う日韓の歴史問題についてまとめた本があったはずだが、と覚束ない記憶を頼りに棚を見分したが、それらしきものは見当たらなかった。書店にいるあいだは著者名も著作名も思い出せなかったが、こちらの念頭にあったその本というのは、木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』というものだった。そのほかにもいくつか、同じようなテーマの興味を惹かれる著作はあったが、特にメモを取ったりすることはなかった。ある程度見分したところで、わかりました、とAくんに向けて重々しく頷き、行くかと告げて歩き出した。最後に、文庫は見ていく? と訊くと、講談社学術文庫だけ見ても良いかと言うので勿論了承し、文庫の区画に移動した。こちらは岩波現代文庫を見分して、前回の読書会のあとに初めて見つけたヨッヘン・フォン・ラング編/小俣和一郎訳『アイヒマン調書 ホロコーストを可能にした男』を購入することに決断した。それで講談社学術文庫の棚の前にいるAくんのところに行くと、彼も色々と興味の惹かれる本はあるのだろうが、今日は見送ることにしたようだった。こちらは、俺は『周期律』を買うぞ、と笑いながら大きく宣言して歩き出し、海外文学の書架に至ってプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律』を棚から取り出して、それで会計へと向かった。
 計三冊で六四三七円を支払い、Aくんと合流すると、リュックサックにビニール袋に入れられた本を収めて、エスカレーターに乗った。ルミネの上層階にある店で寿司でも食おうということになっていた。立川は今日、祭りが催されているらしく、ビルの外に出て高架歩廊を行くと、表通りの方から太鼓の音や、神輿を担いでいるか山車を引いているかしているらしい男たちの掛け声が聞こえてきた。そのなかを駅まで歩いていき、駅舎に入るとさらにLUMINEに入って、エスカレーターを何階も上って行った。八階に至り、寿司屋の前まで来ると、休日で飯時――既に七時頃だった――だし、絶対に混んでいるだろうと思っていたところが、待っている人は全然おらず、店内を覗いても席に空きが見える。店の前に立っているメニュー看板をちょっと見てから、入店した。店名は「築地玉寿司」である。テーブル席に通されて、メニューをひらいた。こちらは「ばらちらし」にすると決めていた。Aくんは、「築地マグロ握り」というセットを選んだ。こちらはちらし寿司に加えて握りもいくつか食うことにして、づけまぐろ、炙りサーモン、カンパチ、コハダを選んだ。本来は食べ放題用の用紙だったらしいが、テーブルに備え付けられていた注文表に欲しい品を記入して店員に渡した。
 茶を飲みながら、最近どう、と出し抜けに、不躾に尋ねると、いや、今年は激動の年になりそうだという返答があった。訊けば、家を買うのだと言う。マンションの一室である。それで、今日の午前中もモデルルームを見に行っていた。フローリングにするとか棚をつけるとか、オプションが色々とあるらしく、それを決める必要があったのだ。つけないと、かなり殺風景になるらしいが、それで当然だがまたいくらか掛かる。
 さらには、転職することにもなった。一一月一日からだ。まあ、向こうから具合の良い話がやって来て、決断することになった。加えて、入籍もする。元々、近々入籍はするつもりだったのだけれど、Nさんの方で不幸があった。母方の祖父が亡くなったのだが、あちらの家庭がそうしたことを多少気にする家なので、いくらか期間を空けないといけない。調べてみると、母方の祖父だと三か月くらいが妥当らしい。亡くなったのは七月末なので、一〇月末まで延期、一一月に籍を入れることになるだろう。
 ――転職は、話が向こうから来たと言うが、一体どういう伝手でやって来たのか。
 ――職場に電話が掛かってきた。取ったのは同僚だったのだが、先方はSと名乗った。どちらのS様ですかと訊くと、Sと言えばわかると言う。それで替わってみたところが、相手は転職支援会社のエージェントで、当然自分の知己ではない。どこから調べたのか知らないが、あなたの経歴を見て力を貸してほしいという企業がある、話だけでも聞いてくれないかと言われた。それで、まあ損するものでもないし、話くらいは聞いてみるかという気になった。
 ――新しい仕事はどんな職なのか。
 ――いくつか候補があったなかから決めたのだが、販促資料や広告を代行して作るような会社で、今と内容としてはあまり変わらない。今まではインタビューをして、その企業のことを自分がある程度汲み取って書いていたけれど、今度はれっきとした顧客がいて、そちらの意図をきちんと聞いて代弁するということになるので、今よりは詳しく話を聞くようになるかとは思う。
 そうした話をしている最中に寿司がやって来て、こちらはAくんが話すのをうんうん頷きながらあっという間に寿司と、付属した茶碗蒸しにアオサの味噌汁を喰らってしまった。Aくんは、こちらに近況を説明しながら間を見つけては握り寿司を口に運び、ゆっくりと食べている。彼は飯を食うのがかなり遅いと自認しているのだが、それは食事中によく喋るからだろう。こちらは食事中はあまり喋らず、聞き役に徹することが多いので、食べるのは多分わりあいに速いほうだ。
 ――転職があるので、銀行から金を借りることが出来ない。源泉徴収票を出せないからだ。それでNさんに借りてもらうことになっている。また、税金対策のために、両親から五〇〇万円ずつ借りることになっている。正式な借用書も作る。五〇〇万円というのは、借用書に収入印紙というものを貼らなければならないのだが、それが五〇〇万円までなら二〇〇〇円で済むところが、五〇〇万円を越えると途端に二万円に値段が跳ね上がるからだ。だから、例えば父親一人から一〇〇〇万円借りるよりも、二人に分けた方が安くなる。加えて、年に一一〇万円までなら贈与税が掛からないので、それも自分の口座に移してもらう。そして、その金を使って月々いくらかずつ借りた金を返済していく。マネー・ロンダリングみたいなものだが、とAくんは笑う。こちらにはよくもわからないが、そういう形で税金を支払わずに済むらしい。
 彼がものを食べ終える頃から、互いのブログについて話した。そう言えば、全然関係ないんだけれど、とこちらはそれまでの話の文脈を断ち切り、noteというクリエイター向けSNSがある、そこにも日記を投稿しているのだと明かした。それで、一記事一〇〇円を設定して投げ銭システムを取っている。すると一人、金を払ってくれる人が先日現れた。俺の文章は累計で、今、一二〇〇円の経済的価値を生んでいる、と笑うと、Aくんも凄いな、と笑ってくれた。まあ第一歩だね、とこちらは言い、一〇〇年後は俺の名前ちゃんとウィキペディアに載ってるから、「世界一長い日記を書いた人間」として、と大言壮語を吐いて大笑いした。Aくんもブログをやっている。それは、やたらと長々しくそれだけで読む人を選ぶこちらの日記とは違い、本人の使った言葉を借りれば「大衆向け」と言うか、本や映画の内容などをわかりやすく、通り良くまとめているものである。検索対策だとか、広告の導入だとか、フリー素材から画像を拾ってきて記事に付加したりとか、色々と試行錯誤をしていると言う。こちらは良くも知らないが、いわゆるSEO対策とかいうやつだろう。頑張っているのだが、結局、Google Analyticsなどの分析を見てみると、読まれているのはAくんが力を入れて書いた記事よりも、むしろ適当に綴った筋トレについての記事の方だったりするのだと言う。彼は城が好きで、ゴールデン・ウィークにも中国とか四国の方の城を行脚して来たのだが、これは誰も書いていないだろうというような城についてまとめて記事にしてみても、意外とライバルがいて、検索してみても自分のブログは上位に出てこないのだと言う。まあでも何はともあれ、Fが前から言っていることだけど、とにかく続けることだと思うから、と彼は言うので、こちらも頷き、まあまずは一年でしょ、と受ける。一年、そして五年、そして一〇年だね、と続けると、うわ、今の言葉、ちょっと肝に銘じておくわ、とAくんは笑った。
 九時頃まで話して、そろそろ行くか、となった。席を立ち、それぞれ会計を済ませて店舗の外に出て、トイレに行った。用を足してからビルの外に出ようとしたが、エスカレーターは既に停まっていたので、エレベーターの方に向かった。エレベーター前に着くと、ちょうど下りのエレベーターが来たところだったので、周りの人々とともにそれに乗り込む。そうして二階まで下っていき、室内から出て、ビルからも退出した。人々の群れのなかを改札へ向けて歩いていき、駅構内に入って天井から下がった電光掲示板を眺めると、Aくんの乗る電車はあと一分で発車するところだった。もう行くわ、と彼は言って、お疲れさまですと手を挙げてきたので、有難うと礼を言って別れた。こちらは青梅線ホームへ行き、二番線の青梅行きの先頭車両に乗り込んだ。乗ると、車両の端にある車椅子に乗っている人などのための手摺りがついたスペースに男女がいた。女性は立っているが、ソフトモヒカンのような髪型で褐色の肌の、いくらかやんちゃそうな男性の方は女性の足もとにしゃがみこんで、俯きながら女性の脚を両腕で抱くようにしていた。具合が悪いのだろうか。酒を飲みすぎて、気持ちが悪い、とかだったのだろうか。その後、車椅子の人が乗ってきたので、二人は優先席の方に移動していた。
 こちらは扉際に立ち、手帳を眺めて青梅までの時間を過ごした。着くと降りて、奥多摩行きに乗り換えた。じきに最寄り駅に到着し、降りて駅舎を抜け、家路を辿った。家に着いたのは一〇時過ぎだったと思う。自室に帰って服を脱いでから、インターネットを少々眺めたのち、風呂に行った。湯浴みして出てくると下階に帰った。さすがに疲労していたので、日記を書かねばならないとわかっていながらも、そうする気にならなかった。それでも零時前になるとそろそろ取り組まねばなるまいというわけで、助走としてまずルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の書抜きをすることにした。二〇分ほど打鍵をして、その勢いでそのままこの日の日記を記しはじめた。そうして三時間弱、午前三時前まで綴ったが、多分一万字も書けなかったと思う。三時になる前に就床した。長い時間外出して疲れたので、今日はさすがに眠れるだろうと思った通り、入眠には苦労しなかったようだ。


・作文
 4:08 - 5:13 = 1時間5分
 24:05 - 26:49 = 2時間44分
 計: 3時間49分

・読書
 5:24 - 6:02 = 38分
 23:42 - 24:04 = 22分
 計: 1時間

・睡眠
 2:45 - 3:20 = 35分
 7:00 - 12:00 = 5時間
 計: 5時間35分

・音楽

2019/8/24, Sat.

 ぼくらは 高原から
 ぼくらの夏へ帰って来たが
 死は こののちにも
 ぼくらをおもい
 つづけるだろう
 ぼくらは 風に
 自由だったが
 儀式はこののちにも
 ぼくらにまとい
 つづけるだろう
 忘れてはいけないのだ
 どこかで ぼくらが
 厳粛だったことを
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、43; 「風と結婚式」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

     *

 だれもが いちど
 のぼって来た井戸だ
 ことさらにふかい
 目つきなぞするな
 病気の手のゆびや足の指が
 小刻みにえぐった
 階段を攀じ
 やがてまっさおな出口の上で
 金色の太陽に
 出あったはずだ
 泣かんばかりのしずかな夕暮れを
 それでも見たはずだ
 花のような無恥をかさねて来て
 朝へ遠ざかるのが
 それでもこわいのか
 病気の耳や
 病気の手が
 そのひとところであかく灯り
 だれもがほっそりと 
 うるんで見えるなら
 それでも生きて
 いていいということだ
 なべかまの会釈や
 日のかたかげり
 馬の皮の袋でできた
 単純な構造の死を見すえる
 単純な姿勢の積みかさねで
 君とおれとの
 小さな約束事へ
 したたるように
 こたえたらどうだ
 (45~46; 「病気の女に」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一一時半まで寝坊。汗を搔いていた。布団を身体から剝ぎ取り、ハーフ・パンツを履いて上階へ。母親はこちらが高校生の時の保護者仲間と食事に行っている。天気は晴れに寄っており、陽射しがあって、ベランダには洗濯物が出されていた。冷蔵庫を覗くと餃子が二つ残っていたので電子レンジに入れ、そのあいだに便所に行って放尿した。戻ってくると白米をよそって餃子とともに卓に置き、新聞を瞥見しながらちまちまとものを食った。食べ終えれば抗鬱薬を服用し、食器を洗って風呂へ、背を丸め腰を曲げて手すりを掴みながらブラシで浴槽を擦り洗う。終えると出てきて下階に戻り、Twitterを眺めたり、前日の記事に記録を付けたりしてから日記に取り掛かった。一二時半過ぎだった。それからちょうど一時間で、前日の記事を綴り、この日の記事もここまで書いている。
 それから二時に至るまでのあいだは確かまたTwitterを眺めたりしていたのではないだろうか。そうして大体二時ちょうどに、インターネット上に昨日の記事を投稿した。そして洗濯物を取り込むために部屋を出て上階に行った。白いポロシャツによくある青さのぱっとしないジーンズを履いた姿の父親がソファに就いていた。その背後を通り、ベランダに出て吊るされた物々を室内に入れていく。障子を向こうに据えたガラス戸に、裾の溶けた雲の浮かぶ薄青い空が淡く映り込み、ありきたりな印象ではあるがガラスかその先の障子に絵が描かれているようだった。洗濯物をすべて取り込んでしまうと、まずバスタオルから始めてタオル類を畳んで行った。次に両親の寝間着や肌着である。ソファの背の上で畳みながら目の前のソファに腰掛けている父親の後ろ姿を眺め、その側頭部の一番端、耳に近いところの髪の毛が白くなっているのを見て、歳を取ったものだなあとの感慨を催した。同時に、歳を取ると子供に戻っていくようなタイプの人間と、聖人のような鷹揚さを身につける人間とに分けられるのだとしたら、うちの父親はおそらく前者のタイプだろうなと密かに思って、来たる父親の退化を先取りして煩わしく思った。
 洗濯物を畳み終えると自室に帰って、読書に掛かることにした。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。クッションや枕に上体を預けてベッドに横になり、扇風機の風を浴びながら読みはじめたのだが、例によっていくらも読まないうちに眠気が身中から湧き出し籠って瞼を下ろした。一体何故、夜には眠くならないのに、日中にばかり眠ってしまうのか? そういうわけで実際読んでいた時間は三〇分ほどくらいしかなかったと思う。意識を覚醒に固定出来た頃には既に四時一八分だった。
 出勤前に食事を取るために上階に行った。テーブルの上には母親が頼んだELTか何かのチケットが届いて置かれてあった。メルカリでお礼のメッセージを送る必要があるためだろう、チケットが届いたらメールをしてくれと母親に予め言われていたのだが、父親がもう送ったのだろうかと思い、南窓の網戸を開けて、眼下で畑の周りの草を刈っている父親に呼びかけた。メールを送ったかと訊くと送っていないと言うので了承し、一旦室に戻って携帯で母親にチケットが届いた旨を報告しておいてから、ふたたび上階に上がった。冷蔵庫から前夜の残り物――モヤシやカニカマのサラダに、雪花菜と胡瓜のサラダ――とゆで卵を取り出し、卓に就いて黙々と食った。そうして食器を洗うとさっさと階段を下り、歯ブラシを咥えながらMさんのブログにアクセスした。歯を磨きながら二日分の記事を読み、その後、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流しだし、弦楽が優美な旋律を奏でるのを聞きながら服を着替えた。そうして日記の加筆に取り掛かり、ここまで書き足して五時一〇分、そろそろ出発の時間である。
 クラッチバッグを持って部屋を抜け、階段を上ると仏間に入り、アーガイル柄の入った真っ赤な靴下を履いた。そうして玄関に行き、暗褐色の靴を履いて外に出ると、扉を開け放したまま階段を下りてポストに近づき、夕刊を取って戻った。新聞を台の上に置いておくともう一度戸をくぐり、扉の鍵を掛けて道に出た。作業着を着込んだ父親は家の斜め向かいの敷地で小さな畑の周りの草を毟っていた。そちらの方に視線を投げてもあちらはしゃがみこんだまま視線を寄越さないので、手を上げることなくそのまま西へ向かって歩き出した。林からは織り重なる激しい電磁波のような蟬の声が降り注いでいた。道を行っている最中、今日は土曜日だったと思い出した。そうすると普段と電車の時間が異なっており、ただでさえ少ない本数が土日はさらに少なくなったりするので、ことによると勤務開始時間に間に合わないかもしれないぞと思った。それでなるべく早く駅に向かうことにして速足で歩き、坂道に入って、蟬時雨が空間に浸透して身を包み込むなかを上がっていく。駅に着くとちょうど奥多摩行きが入線して乗客が何人も降りてきたところだったが、こちらが乗るのは青梅行きである。掲示板で電車の時刻を見ると、五時台の電車は五時五分か五〇分かしかない。現在時刻は五時二〇分頃だった。五〇分のものに乗ればぎりぎり間に合うことは間に合うし、今日の勤務は一コマだけなので準備をほとんどしなくともどうにかなるだろうと判断して電車を待つことにした。それで階段口に掛かると、前から母親が下りて来たので、あ、と声を出し、相手が気づくとおかえりと言った。すぐに別れ、こちらは階段を上り下りしてホームへ、ベンチに座って手帳を取り出したが、首筋や腕に汗がべたべたと湧いていたので、一方でハンカチを取って肌の水気を拭った。しばらくのあいだ、駅にはこちらしか人影がなかった。箒で地面を掃いている音がどこかから響き、蟬が時折り宙に飛び立って翅音を立て、こちらの足の周りには蚊が一匹寄ってきて、スラックスと靴下に阻まれて肌に着地し血を吸うことが出来ないのに、未練がましくいつまでもそのあたりを飛び回っているのだった。手帳を読みながら暗唱のために目を閉じると、まろやかで優しげな風が肌を涼しくしてくれるのを感じた。
 五〇分に至る頃、席を立ってホームの先に歩いていき、やって来た電車に乗り込んだ。車内は混み合っていた。土曜日なので山に行ってきた行楽客がちょうど帰る時刻だったのだろう。こちらの傍らには腕に入れ墨を彫り込んでサングラスを掛けた背の高い――バスケットボールでもやっていそうな――黒人が立っており、仲間と話をしているなかに日本人らしき女性も一人含まれていて、英語で会話をしていた。その会話に密かに耳を立てたり――しかし全然聞き取れなかった――手帳の情報を頭のなかで反芻したりしながら揺られて、青梅に着くと降りて階段を下った。
 職場に着くとすぐに支度を始めて、まもなく授業である。今日の相手は(……)くん(中三・英語)及び(……)さん(中三・英語)。二人相手で余裕があったこともあり、今日の授業は全体的に上手く行った。二人の傍らに立ちながら進行を見守り、答え合わせを待たずに介入するべき時には即座に介入することが出来たのが良かった。その結果、そこから滑らかな流れでノートに事項を記録させることも出来たわけである。やはり問題をやっている途中でも、何か解説をしたらその場ですぐに記録させてしまうのが良い。(……)さんは以前当たった時にはこちらに見つからないように携帯を弄っていたのだが、今日はそのような様子は観察されなかった。ただ、こちらが場を離れてしまうと問題をなかなか進めず俯いた状態でいるのだが、あれは何をやっているのだろうか。
 授業を終えてさっさと退勤し、駅に入った。普段なら先発の電車に間に合う時間だったが、土曜日なのでそれも普段より早かったようで、既に経ってしまっており、八時一四分発の電車まで待たなくてはならなかった。ホームに上がると例によって自販機でコカ・コーラを買い、木製のベンチに就いて手帳を眺めながら漆黒色の炭酸飲料を胃にゆっくりと流し込んだ。
 そうして奥多摩行きが来ると乗り、引き続き手帳に記された知識を頭のなかで反芻しながら時間が過ぎるのを待ち、最寄り駅に降り立った。空気はそよとも動かず、温みが宙に宿っているのが感じられたが、電車が動き出すとそれに応じていくらか風も生まれた。駅舎を抜けて坂道に入ると、今日も闇の奥から、鈴虫の幽幻な声が立って彷徨う。チリン……チリン……チリン……チリン、と四音を一単位としてたっぷりと間を置きながら鳴いていた。
 坂を下りて平らな道に出る間際で、どこか遠くの方から花火でも撃っているような響きが伝わってきた。どこぞで祭りでもやっていたのだろうか。クラッチバッグを手に提げながら夜道を行き、家の近くの林の前まで来ると、多種多様な無数の秋虫の声が周囲から替わる替わる立って交錯した。
 家に入るとワイシャツを脱いで洗面所に置いておき、下階に戻って服を着替えた。そうして食事へ。上っていき、台所に入って茄子の味噌汁を椀によそって電子レンジへ、それから鮭も温める。一方で米をよそり、レタスや胡瓜などの生サラダを大皿へ盛った。そうして卓に就き、テレビには録画したものだろうか、ドラマ『凪のお暇』が掛かっているなか、ものを食べた。食べ終わる頃、母親がセブンイレブンの、あれは手羽元だっただろうか、小さな骨付きの鶏肉を温めて持ってきてくれたので、それも口に入れてもごもご咀嚼し、骨を吐き出しながら食った。そうして食器を洗ってテーブルを布巾で拭くと、風呂に行ったのだが、母親が湯沸かしスイッチを押すのを忘れていて浴槽は空だった。それなのでスイッチを押しておき、湯が湧くまでのあいだ下階に戻って英文メールを綴りはじめた。と言うのも、モスクワから東京に戻る飛行機のなかで席が隣になって会話を交わしたJからメールが届いていたのだ。本当にメールを送ってきてくれて驚く気持ちもいくらかあるが、彼はI'll write you laterと繰り返し言っていたし、その念押しの様子が社交辞令には見えなかったので、多分実際に送ってくるのではないかなと思っていたのだった。それでいくらか文を綴ったあと、九時半頃になって風呂に行った。さっさと湯を浴びて上がり、パンツ一丁で部屋に戻ると、引き続きオンラインの辞書を駆使しながらメールを綴った。以下の文面が完成する頃には、一一時を迎えていた。

Hello, J!

First of all, thank you very much for really writing to me. I'm so glad to hear from you.

Since coming back to Japan, I have been engaging in reading and writing same as before. As you know, I'm working as a cram school teacher, so my service usually starts in the evening. I read books or write my diary for the rest of a day.

Please let me introduce myself again here.

I'm 29 years old. I graduated from Waseda University in 2013. I studied the Western History in the university and wrote about The French Revolution in my graduation thesis (But I was a BAD student and it was a terrible paper as I think of it now). I rather got interested in the literature since a little before the graduation. Then I started reading some works, and I've been fascinated with the literature. Since then, I have been reading many books and writing some texts while working as a part-time jobber (In Japan, they generally call someone like me a "freeter" ).

I came across the literature in 2013 and I started writing at the same period. I write my diary everyday. My journal is rather special, I guess. It may feel strange to some people. I write EVERYTHING about my life from the time I get up to the time I go to bed. Therefore my daily stuff becomes so long that ordinary people don't want to read it. It takes an hour or two hours, and sometimes three hours and more to complete my daily work.

I used to dream about creating a great novel. But now I don't think much about it. Instead, I'm devoting my life to writing my diary. I'm crazy about documenting almost everything about my life and my world. I have a grandiose idea that I write until the day I die. It is not some analogy or exaggeration. I do hope so.

Well, I'm a kind of man like this. Then, If you have time to do that, would you let me know about your life so far?

You said you were flying to South Korea. It sounds nice. Sad to say, relationship between South Korea and Japan is getting very bad in the present. But I personally don't have any bad impression about South Korea. What do you go to South Korea for? I hope that you will enjoy your trip. And I wish to meet you somewhere and enjoy talking.

Excuse me if my English feels strange to you, for I have never written a letter in English! (I looked in a dictionary a lot to write this message!)

Best regards,
S.F

 沖縄のHさんからも今月初めにメールが届いており、モスクワ行きなどで忙しくて返信を書けずにそれを放置してしまっているのが心苦しいのだが、今日は英文を綴るのにだいぶ力を使ったので、彼女へのメールはまた別の日に綴ることにする。彼女はシカゴの神学校で神学修士の学びを始めるのだと言う。凄い。
 それから Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』とともにこの日の日記を書き足して、現在ちょうど日付が替わるところである。
 その後、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の書抜きを行い、さらに星浩「3・11、小沢一郎氏との抗争…混乱続いた菅政権 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(17)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019052300004.html)を読んだあと、ベッドに移って書見に入った。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。二時四〇分まで読んで明かりを落とし、就床したのだが、眠気が皆無だったので、とても眠れる予感がしなかった。


・作文
 12:37 - 13:37 = 1時間
 16:56 - 17:10 = 14分
 23:13 - 23:59 = 46分
 計: 2時間

・読書
 14:22 - 16:18 = (1時間半引いて)26分
 16:41 - 16:53 = 12分
 24:04 - 24:28 = 24分
 24:36 - 25:04 = 28分
 25:06 - 26:42 = 1時間36分
 計: 3時間6分

・睡眠
 3:00 - 11:30 = 8時間30分

・音楽

  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • R+R=NOW『Collagically Speaking』

2019/8/23, Fri.

 さびしいと いま
 いったろう ひげだらけの
 その土塀にぴったり
 おしつけたその背の
 その すぐうしろで
 さびしいと いま
 いったろう
 そこだけが けものの
 腹のようにあたたかく
 手ばなしの影ばかりが
 せつなくおりかさなって
 いるあたりで
 背なかあわせの 奇妙な
 にくしみのあいだで
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいるのだ
 いった口と
 聞いた耳とのあいだで
 おもいもかけぬ
 蓋がもちあがり
 冗談のように あつい湯が
 ふきこぼれる
 あわててとびのくのは
 土塀や おれの勝手だが
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいる以上
 あのしいの木も
 とちの木も
 日ぐれもみずうみも
 そっくりおれのものだ
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、42~43; 「さびしいと いま」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一一時半まで寝過ごす。もう少し早く起きたいところだ。やはり夜更しをし過ぎなのかもしれない。パンツ一丁のほとんど裸の格好で眠っていたので、布団を身体から引き剝がすとハーフ・パンツを履き、肌着の黒いシャツは手に持って部屋を出た。階段を上がったところでシャツを身につけ、母親の書き置きを確認すると、ピラフがあると言う。それで冷蔵庫からピラフと、前夜のエノキダケの汁物の残りを取り出し、ピラフは電子レンジへ入れて、スープは椀によそった。電子レンジが稼働しているあいだにトイレに行って放尿し、また洗面所で顔を洗うとともに後頭部の寝癖に整髪ウォーターを吹きかけた。そうして出てくると次は汁物を電子レンジに入れ、そのあいだに自分はピラフを持って卓に移って食べはじめた。新聞の一面は、韓国が日韓の軍事情報協定を破棄したという話題を大きく取り上げていた。それを読みながらピラフと汁物を食べ、食べ終えると台所で皿を洗ったのち、抗鬱薬を服用した。そうして米を磨いでおくことにした。台所の調理台の下の収納から笊を一つ取り出し、玄関に出て戸棚のなかの米袋から三合を掬い取る。それで流しに戻って洗い桶のなかで米を磨ぎ、炊飯器の釜にもうすぐに入れてしまって、水も注いで六時五〇分に炊けるよう設定しておいた。それから風呂洗いである。済ませると下階に下りていき、自室に入ってコンピューターを点けた。Twitterを少々眺め、そのほかインターネットもちょっと回ってからFISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのが一二時五〇分だった。そしてここまで一〇分も掛からずに記している。
 その後、音楽はBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』に移しながら、三時まで二時間ほど文を綴った。例によって、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の感想を綴るのに時間が掛かったのだった。感想や分析、考察の類を綴るのは、概ね自らの生活をただ時系列順に追っていけば自ずと出来上がる普段の日記を記すのとは違い、それで一つの論理や文脈の筋道を構築しなければならないためになかなか難しく、骨が折れ、手間が掛かるのだが、細部まで力を込めて構成した文章を完成させることが出来ると、充実感もひとしおである。その感想文も含んだ前日の記事をインターネット上に投稿すると、上階に行った。冷蔵庫から茄子焼きと胡瓜と豚肉を和えたサラダ――どちらも前日の残り物だ――を取り出し、卓に就いてそれらを食した。これらを食べているあいだは新聞を読んだのだったか否か、覚えていない。食べ終えると台所で使った食器を洗い、階段を下りていって、食事の余韻も味わわずにすぐに洗面所で歯ブラシを取って口に突っこんだ。そうして室に戻り、歯を磨きながらMさんのブログを読みはじめた。その後口を濯いできてから仕事着に着替え、引き続きMさんのブログを読んで二日分を通過すると、今度はプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』のメモを取りはじめた。書抜き候補の頁をメモしておいた読書ノートを見ながら本の当該頁を振り返って参照し、メモするべきだと思う文言があれば手帳にメモを記していく。そうして四時半に達したところで手帳を閉じ、コンピューターをシャットダウンしてクラッチバッグに荷物を入れ、部屋を出た。階段を上って仏間に入ると、踝までの短い靴下を履き、さらに居間の引出しからハンカチを取ってポケットに入れ、玄関に向かった。焦茶色の靴を履いて扉をひらき、階段を下りてポストに寄ると夕刊を取り出し、玄関に戻って台の上に置いておいた。それから姿見に全身を映してみると、首もとまで高く覆うタイプの黒い肌着がワイシャツの隙間から覗くのが野暮ったかったので、第一ボタンを留めた。そうして玄関を抜けて出発、林から空間を搔き乱す蟬の叫びが大挙して湧出しているなか、道に出た。西へ向かって歩いていき、十字路に至ると、ここではツクツクホウシの弾ける撥条のように弾力的な鳴き声が木の間から飛び出していた。坂道に入り、アブラゼミの声が天蓋を成すなかを上って行って、駅に到着すると、ちょうど青梅行きが入線してきたところだった。腕時計を見て発車まで二分あることはわかっていたが、一応急ぎ足で階段を上り下りし、一番手前の車両の開いていたドアから乗り込んだ。そうして扉際に立ち、手帳を見やる。
 青梅に着くと降り、ホームを先の方へと移動した。職場に行くにはまだ早すぎる時間だった。それなら次の電車で来れば良かったのにと思われるだろうが、一時間に一本または二本しか電車のない田舎路線なので、この次の電車に乗ってくると、それでも勤務には勿論間に合うものの、予習などの準備の余裕を考えると少々遅い時間になってしまうのだった。それで今日は早めに青梅駅に到着し、手帳を見ながら時間を潰してから職場に向かうつもりだった。ベンチに座ろうかと思っていたのだが、今しがたこちらの乗ってきた電車が奥多摩行きに変わって、五時九分発となっていた。その時間まで駅に留まってそれから職場に行けばちょうど良かろうというわけで、冷房の掛かって涼しい車内で時間を潰すことにして、車両に乗り込み、座席に就いて脚を組んだ。車内は涼しかったが、すぐには汗が引かず、首筋や髪の裏の頭皮にじわじわと滲み出す感触があったので、尻のポケットからハンカチを出して首もとを拭った。そうして手帳を見つめながら時間を過ごし、向かいの番線に奥多摩行きに接続する電車がやって来たのを機に降りて、階段を下りた。通路を辿り、改札口まで来るとすぐにはくぐらず、精算機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。それから改札を抜けて職場に向かった。
 勤務開始の六時までにはだいぶ時間があったので、余裕を持って予習をすることが出来た。一コマ目は(……)くん(中一・英語)と(……)(高三・英語)。(……)くんは来て早々今日は駄目だと呟いて、序盤はやる気なさげにしていたのだが、最終的には三頁を扱うことが出来たのでそれほど悪くはなかった。前回、When及びWhereの疑問文を習っていたのだが、授業冒頭の前回の復習の際に、そのあたりの知識の定着がいまいちだったように思われたので、前回と同じくWhen及びWhereの頁をまず扱った。その後復習として、How much ~? の表現の頁を二頁やってもらった。ノートもそこそこ充実させることが出来た。(……)は今日から長文を扱いはじめた。出来はまあまあといった感じ。まだまだ語彙が足りないようではある。せっかく二対一で余裕があったのだから、もう少し細かく、一緒に読んでいくようなことをすれば良かった。
 二コマ目は一コマ目から引き続き(……)(高三・国語)と、(……)くん(中三・社会)、(……)さん(中三・社会)。社会の二人は両方もう歴史に入っている。歴史は説明することが多いのでなかなかに忙しく、喋る量も多くて疲労した。社会が二人までならまだ何とか回せるが、三人とも社会になったりするとかなり厳しいだろう。(……)くんの方は間違いやわからなかったところが多かったので、問題を解き終わったあとに解答を覚えてもらう時間をいくらか取った。これはなかなか良い方策かもしれない。こちらも時間の余裕が取れてそのあいだほかの生徒に当たっていられるし、生徒の方も知識を頭に入れることが出来るからだ。自分で解答を見ながら覚えることが出来る生徒が相手だった場合は、そうした時間を取っていくのが良いだろう。(……)さんは、この子も打ち解けてくれているのかいないのか、好感を持ってくれているのかいないのか、いまいちわかりにくい相手である。笑みを返してはくれるので、多分多少打ち解けてはいるのだと思うが、その笑いが困ったような感じであり、普段の表情も微かに不安気な仏頂面、といったような感じなので、どこまで打ち解けているのか確かなところが掴めないのだ。それでもコミュニケーションに問題はないし、授業は真面目に受けてくれるので、支障はないのだが。(……)の国語は西郷信綱の文章などを解説した。自分で進めて自分で疑問点をこちらに訊いてきてくれるので、やりやすいはやりやすいのだが、その代わりに今日は授業内容ややや薄くなってしまったような気がする。もう少し突っこんだ指導をしたかったのだが、社会の二人に追われてなかなか出来なかった。
 授業後、片付けやプリントのコピーなどをしてから退勤。時刻は九時半を過ぎてしまったので、一〇時台の電車で帰らなければならない。職場を出るとその目の前で、工事をしていた。道路の脇を掘り返しているその横を係員の誘導に従って渡り、駅に入ってホームに上がると、自販機に寄っていつものようにコカ・コーラを買った。そうして木製のベンチに座ってバッグから手帳を取り出し、コーラを飲みながら情報を追う。線路の向こうからは秋虫の翅を擦り合わせる音が響いていた。ひらひらと舞い上がるように甲高い、回転性の鳴き声である。手帳の内容は一項目ずつ、目を閉じて暗唱出来るくらいになるまで読み込んでいき、奥多摩行きがやって来ると車内に移って三人掛けに腰を下ろした。そうして引き続き手帳を追い、瞑目して頭のなかで情報を唱え、最寄り駅に着くと降車した。正面から、つまり西方向から心地良い風が走ってくるなか、顔を俯き気味にしてホームを歩いていく。ホームの端には一匹、蟬が伏せており、階段の途中にも一匹落ちていたが、どちらももう死にかけだったのか、騒ぐことはせずに静かに地に佇んでいた。駅舎を抜けて横断歩道を渡り、坂道に入ると、闇の奥へとこちらを誘い込むように鈴虫の、鬼火のごとく細かく震えながら鳴る声が浮かび漂う。ここでも風が吹いて巨大な生き物のような木の影が足もとで暴れ交錯し、しばらく進むあいだも路上は騒がしかった。雨が来るのだろうかと思った。それとも雨が去ったあとの風だったのだろうか。坂を出て平らな道を行き、自宅の傍まで来ると林から多数の虫の音が湧き出しているが、駅で聞いた秋虫の音はそのなかになく、どれも無色の地味な色合いで、空気をあまり孕まず詰まったような散文的な声だった。
 帰宅すると居間には寝間着姿の母親がテーブルに就き、父親はいつもの炬燵テーブルの座で食事を取っている。テレビには多部未華子が映っているので、『これは経費で落ちません!』というテレビドラマだなとわかった。ワイシャツを脱いで洗面所に置いておき、下階に戻ってコンピューターを点けるとともに服を着替えた。Twitterなどをちょっと眺めたあと、食事を取るために上階に向かった。夕食のおかずは主に餃子である。醤油を掛けて、細かく千切りながら米と一緒に咀嚼するそのあいだ、テレビは先のドラマを放映していて、多部未華子が夜の公園でブランコに乗りながら何か思い悩んでいて、最終的に涙するのだったが、瞥見したその映像がシチュエーションからしてもう紋切型極まりなく、音楽にしても台詞にしても演出にしてもありきたりそのもの、よくもここまで恥ずかしげもなく「物語」出来るなという類のもので、こちらはそれらの諸要素によって醸し出される全体的な「物語」の雰囲気からしてもう辟易してしまうのだが、一方炬燵テーブルでは父親が真剣な表情をしながらテレビ画面を注視しているのだった。それでドラマには興味が湧かなかったのであまり目を向けず、夕刊の一面に目を落としながらものを食った。一一時に至るとドラマは終わって、何かのドキュメンタリー番組が始まった。女性たちが数人、テーブルに集って食事を取っている場面が映される。最初、『ドキュメント72時間』かと思ったのだがそうではなく、女性らのなかの一人は右手が肘までしかないのだった。パラリンピックに出場する陸上アスリートの何とかいう人と、そのコーチである何とかいう人のドキュメンタリーだった。インタビューに答える二人の真摯な飾らない表情を見て、先のドラマを全篇見るよりも、この表情が映っているワンカットを見るほうがよほど興味深いなと思った。テレビ番組というものはもはや大概どうでも良いものばかりなのだが、ドキュメンタリーはまだ比較的見ることが出来るようだ。それから、母親が一つだけ買ってきたと言ってバニラアイスを持ってきたので、半分ずつ分けて頂き、そのあとで梨を食ったが、アイスの甘味によって梨の甘味は駆逐されていた。
 そうして抗鬱薬を飲み、食器を洗ってテーブルを台布巾で拭くと、入浴に行った。浴室に入ると、いつものことなのだが、風呂の蓋の上に水気がびしょびしょに散らばっていた。一体どのようなシャワーの浴び方をしているのか、父親が入ったあとは必ず蓋の上がびしょ濡れになっているのだ。そこにタオルを置くと濡れてしまうため、フェイス・タオルはひとまず窓際の縁に避難させておき、蓋をひらいて湯に浸かり、湯を両手で掬って顔を洗って脂を流した。しばらくしてから出てくると、パンツ一丁で下階に下り、コンピューターの前に就いてLINEにログインし、Tに八月三〇日は何時から集まるのかと訊いた。決めていなかったと言って彼女はグループの方に、何時にしようかと問いかけるメッセージを投稿し、それに応えてT田が、結構作業に時間が掛かると思うから一〇時集合で良いかと投稿した。結構早いが、こちらは特別にやることもないので、あとから合流したって良いわけである。
 それからLed Zeppelin『How The West Was Won』と一緒に、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の書抜きをした。三〇分ほど打鍵したあと、さらにこの日の日記を綴りはじめた。これも三〇分強続けて、そうして次に、星浩「逆風に沈んだ麻生首相、未熟だった理念の鳩山首相 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(16)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019050900010.html)を読んだ。鳩山由紀夫が内閣を作っていた二〇〇九年はこちらは一九歳、まだまだ未熟極まりなく、当然文学にも出会っていないし、政治というものにもまったく興味がなかった。それで当時のことは全然覚えていないのだが、年末の一二月には鳩山由紀夫の脱税疑惑問題が出来したと言う。母親から毎月一五〇〇万円もの贈与を受けながら納税していなかったために、鳩山氏は修正申告して約六億円を追加納税したと言うのだが、小遣いとして毎月一五〇〇万もの金を貰えることと言い、追加で一気に六億円もぽんと納税出来ることと言い、一体鳩山家の資産はどうなっているのだと驚愕した。羨ましい。こちらは一億円でもあれば一生暮らしていける自信がある。
 一時を過ぎて記事を読み終えると、ベッドに移って栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読みはじめた。三時まで読んで就床したのだが、予想した通り眠気は一向にやって来なかった。一時間経っても眠れなかったら起きて本を読もうと考えていた。それでこの日のことを脳内で振り返り、たびたびあらぬ方向に逸れていく思念を誘導して記憶を探りながら床に臥していたのだが、そうしているうちに三時五五分に達したので、一時間には五分足りないがもう起きてしまうことにして、ベッドから身体を下ろして電灯のスイッチを入れた。そうしてふたたび書見に入ったのだが、ここに至って遅れ馳せながらそのうちに眠気が湧いたようで、いくらも読み進めないうちに意識を失ったらしかった。


・作文
 12:50 - 15:01 = 2時間11分
 24:06 - 24:41 = 35分
 計: 2時間46分

・読書
 15:27 - 15:53 = 26分
 16:02 - 16:30 = 28分
 23:35 - 24:03 = 28分
 24:44 - 25:14 = 30分
 25:25 - 27:00 = 1時間35分
 計: 3時間27分

・睡眠
 2:30 - 11:30 = 9時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • Led Zeppelin『How The West Was Won』

2019/8/22, Thu.

 霧のある夜がとりわけて
 自由だとはいわぬ
 君らにどこで行き遭おうと
 君らと僕らのけじめはないし
 告発の十字砲火で
 みごとに均らされたこの町では
 人があるけば
 どこでも大通りだが
 まれには まともな傷口が
 それでも肩ごしにのぞくとなると
 霧のある夜と ない夜とでは
 うしろめたさも
 ちがうというものだ
 重心ばかりをてっぺんにおしあげた
 お祭りさわぎの魔女狩りの町では
 やつさえいっぱしの
 ジャコバン党だが
 どこでうちおろす石槌でも
 火花の色がおんなじなら
 誰が投げ出す金貨にしても
 おもてと裏がおんなじなら
 鞭と拍車が狎れあう町へ
 霧よ ためらわずに
 おりてこい!
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、28~29; 「霧と町」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

     *

 いつ行きついたのか
 歩行するものの次元が
 そこで尽き やがて
 とまどい うずくまる――
 意志よりも重い意志が
 遮断機よりも無表情に
 だまって断ちおとした未来
 その赤ちゃけた切口に
 たとえばどんな
 決断の光栄があるか
 またたくまに
 風となった意志
 たんぽぽを抜き
 おれは踵[くびす]をめぐらそう
 もはやおれを防ぐものはなく
 おれが防ぐものが
 あるばかりだ
 そこに立ちどまって
 みせるな
 カンテラよりも
 おろかなやつでさえ
 おれを笑うことを知っている
 重たく蹴おとした意志の
 むこうにあるものはいつも
 明るく透明であるほかに
 なんのすべをも知らぬ
 能なしの夜明けだけだ
 (37~38; 「絶壁より」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一〇時半起床。睡眠時間は八時間。悪くはないが、もう少し早く起きられたはずだとも思う。上階に行き、洗面所で顔を洗って、整髪スプレーを後頭部に振り掛けて手櫛で寝癖を押さえておくと、台所に出て冷蔵庫を開けた。前夜の残り物――豚汁と鰆か何かの煮魚――があったのでそれらを取り出し、それぞれ火に掛けたり電子レンジに入れたりして温めた。そうして食卓に就き、食事を始めながら新聞に目を落とす。一面には日韓外相会談の模様が伝えられていた。国際面からはインド関連の記事を読んだ。インドでは未だカースト制度が根強く残存しており、身分を跨いだ結婚などは歓迎されない傾向にあると言う。上層の国民のなかには、カーストはインドの秩序を保つのに必要な制度だとの意見も見られるとのことだった。
 食事を終えて抗鬱薬を飲み、台所で食器を洗うとそのままいつも通り風呂に行った。ブラシを上下に動かしてごしごしと浴槽の壁を洗い、出てくると下階に下りた。この日は昨日に比べると肉体の重さはましだが、それでもやはりすぐに日記に取り掛かる気力が湧かなかった。それなので例によってベッドに寝転びながら書見をすることにして、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を持って寝床に移った。そうしてこれも例によって、読んでいるうちに姿勢が水平に崩れていって、いつの間にか眠りのなかに入っていた。また時間を無駄にしてしまったわけだ。二時前までそうして過ごしてから、食事を取りに上階に行った。上がって行くと母親が、ブロックを動かすのを手伝ってくれと言う。何のことかよくわからなかったが了承しておき、食事にはピザがあると言うので、冷蔵庫からそれを取り出して、二切れをアルミホイルに載せてオーブン・トースターに入れた。そのほか、やはり前夜の残り物であるポテトサラダとゆで卵である。サラダや卵を食っているあいだにピザが焼けたので、それも持ってきて、廉価なものではあるが香ばしくチーズの溶けた料理にかぶりついた。食べてしまうと、台所で父親の飲んだ炭酸水のペットボトル二つから包装を剝ぎ、それではブロックとやらを運ぼうかと言いながらクロックスを突っかけて玄関を抜け、まず物置きにペットボトルを置いておいた。そうして母親を待ったが、出てきた母親はまず家の前に出ていたバイク――動かなくなったので先ほど馴染みの自転車屋に来てもらってバッテリーを取り替えたらしい――に乗りだした。後ろに乗せてやろうかと言いながら笑うが、こちらは断って先に家の横に向かうと、母親は試運転をすると言ってちょっとそのへんを走りに出て行った。こちらが山積みになった軍手のなかから比較的綺麗なものを取り分けて手につけていると彼女は戻ってきたので、バイクを所定の位置に収めるのを手伝った。それから、元々隣家のあった敷地に積まれているコンクリート・ブロックを移動させに掛かった。これはどこから来たものなのかと訊いても、母親にもわからないと言う。父親がどこかから引っ張り出してきたものなのだろう。それがここに置いてあると、隣家の人が土地を見に来た時など、我が家のものがその敷地に置いてあって決まりが悪いから移動させるのだと言った。それで、ほとんど離れていないが近くの草が茂っているあたりに木組みの台を置き、その上にコンクリート・ブロックを並べて載せていった。それが終わると今度は何に使ったのか良くわからない木材の断片なども移動させた。終えると母親が、お父さんが草を刈ったから下を見てみなと言うので、家の南側に足を進める。草は確かに旺盛に繁茂しているなとこちらも思っていたのだったが、先日の火曜日の休みの時に父親がそれを刈ったらしく、畑の周りはいくらか軽い装いになっていた。今は父親が何も言わずともそれをやってくれるから良いが、彼が動けなくなったりした時に、こちらや母親が独力でやらなければいけなくなることを考えると、途方に暮れる。それから母親は、家の南側の壁の前にネットが張られているのだが、そこに伸びて来ている朝顔に注意を促した。誰かから貰った八重咲きの珍しいものだと言い、確かに細かな花弁が集合しているようだった。その花の近くに小さなバッタが止まっていたので、軍手を嵌めた手でもって掴もうとしてみたが、バッタは飛び跳ねて逃げてしまうのだった。
 室内に戻ってくると冷蔵庫から冷やされた水を取り出し、一杯コップに汲んで飲むと下階に戻った。そうして自室に入り、日記を書かねばなるまいと決意を固めてコンピューターの前に就き、キーボードを打ちはじめた。前日の記事は数文足しただけですぐに終わったが、出来ればあとでまた書物の感想を記したいところだ。それからこの日の記事をここまで綴って三時を越えた。
 歯磨きをしながらMさんのブログにアクセスし、読みはじめたのだが、階段下の室にいた母親が呼んで、いくらも読まないうちにコンピューターの前を離れることになった。パソコンがうまく起動しないのだと言う。それでその後、服を着替えたりしながら、強制的にシャットダウンしたり、セーフモードで起動させてみたりと試したが、マウスの電池が切れたのかポインターがまったく動かなくなったこともあり、根本的な解決はなされなかった。そうこうしているうちに、Mさんのブログを一日分も読むことが出来ないまま、出勤の時間が迫ったのでコンピューターをスリープ・モードに移行して部屋を出た。
 時刻は三時半直前だった。母親がまた送っていってくれることになっていた。それで彼女の支度を待ちながらソファに座って手帳に目を落とした。しばらくすると出発することになったので、手帳をクラッチバッグに仕舞い、玄関に行って靴を履いた。そうして外に出て、母親の車の脇に立って彼女が車を出してくれるのを待つ。そのあいだ、隣のTさんの宅に生えた百日紅の、枝先を楚々と彩る薄紅色に目を寄せていた。
 車に乗るとAir Supplyが掛かっており、透明感のある男性の歌声が、I can live forever if you say you'll be there, tooなどと歌っている。母親はバイクを整備しに来てくれた自転車屋の老人の話をした。胃にポリープか何か見つかって、何か月かに一度だか検査に行っているのだと言う。それに答えて母親も、色々なところが痛くって、言わないだけでもうがたが来ているんだよ、とか話したということだった。駅前ロータリーに入ってバスを待っている人々の群れを見た母親は、本当、中高年ばっかりだね、と言い、まあ人のこと言えないけど、自分も中高年だからと漏らした。職場のすぐ脇に停めてもらい、礼を言って降りた。
 職場に入って座席表を見ると、前日、今日は二コマの勤務で良いですかと言われて了承したはずが、一コマのままになっていた。さらに、室長のデスクの上にある翌日の座席表を見てみても、一コマ勤務のはずが二コマの仕事になっていた。今日は室長が不在だったので真意がわからない。それで準備中、(……)先生に話しかけて、こういう訳だが何も聞いていないですよねと確認すると、予想通り特に何も聞いていないとのことだった。まあ別に大丈夫なんで、良いんですけどねと笑っていると、でも一応メールを送ってみてくれと言われたので、さっと文を作成し、室長に送りつけた。室長からはのちのちこちらの携帯に直接連絡があって、すみません、よろしくお願いしますとの返答だった。
 そういうわけで今日は一コマのみの勤務となった。相手は二人、(……)くん(中一・英語)と、(……)さん(中三・国語)。特段の問題はない。(……)くんは夏期講習用のテキストを忘れてきていたので、学校準拠のワークを使って、予習をすることにした。そろそろ夏休みも終わりで学校の開始が近いので丁度良いと言えば丁度良かった。今日扱ったのは、How much ~?の表現などである。彼は授業中の取り組み方は特別問題ないと思うのだが、宿題や単語テストの勉強をして来ないのがちょっと気になる。(……)さんは物語文の読解。人物の心情について何点か問い、それについてノートに記してもらった。授業中にはまたクッキーを配った。
 そうして退勤した。屋内にいるあいだに激しめの雨が通って町は上から下まで水に塗れていた。少し前から、久しぶりにモスバーガーを食べたいような気持ちが湧いていなくもない。駅前に店があるのだ。あるいはまた、コンビニでポテトチップスでも買って帰りたいような気もしており、寄り道の誘惑を感じながらも、最終的には何だか面倒臭いというわけでモスバーガーの前は素通りし、コンビニの方には行かないでまっすぐ駅に入る。改札を抜けて通路を行っていると、前から(……)先生がやって来て、こちらを認めた彼女は「あ」の形に口をひらきながら驚き顔でイヤフォンを外した。お疲れさまですと挨拶を交わして過ぎ、階段を上ってホームに出ると自販機に寄って財布を取り出し、一三〇円分の硬貨四枚を機械に挿入して、二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。わざわざ硬貨を出さずとも、SUICAを使って購入した方が簡便なのだが、何故かどうもそうする気にならない。
 そうして木製のベンチに就くと、クラッチバッグから手帳を取り出してひらき、黒々と深い色の炭酸飲料を空の胃に流し込みながら記されてある文字を追った。書かれてあることを一項目ずつ、目を閉じて頭のなかで再生できるようになるまで繰り返し読んでいった。待ち時間は三〇分ほどあったと思うが、そうしているうちに時間は支障なく流れ、奥多摩行きが到着すると車内に移って脚を組み、同じことを続けた。プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』から引いた情報などを復習して、到着を待ち、最寄り駅に着くと降りてホームを辿った。空は宵闇のなかに冷めた青さで暮れきって、その色に包まれて雲がどす黒く魚影のように蟠っていた。雨は止んでいたが、横断歩道を渡って坂道に入ると、路面は全面、木の下までじめじめと濡れそぼっており、天蓋が閉じたその下を通っていくと枝葉から落ちる雫の音があたりに響いて、まだ雨が降り続いているかのようになり、実際頭や肩口にぽたぽたと落ちるものがあって濡れるのだった。樹冠の方では蟬の声が泡立っていた。
 帰宅するとワイシャツを脱いで丸め、洗面所の籠のなかに入れておき、自室に帰った。服を脱いで肌着とパンツの姿になると、出かける前に読んでいたMさんのブログの続きを読んだ。八月一〇日と八月一一日の記事である。「弟が広島で引いたおみくじを見せてくれたのだが、「吉凶未分」という結果で、こんなものを見たのは初めてである。まだ「ことのはじめ」の段階であるので、今後吉と出るか凶と出るかわからないみたいな趣旨の文章が、ひらがなオンリーの古文めいた文体で書き記されていたのに、すでに十年も穀潰しをやっているにもかかわらずまだ「ことのはじめ」かよと、母とそろって爆笑した」との記述に、こちらも爆笑した。同じ一一日の記事の終いにある、「「K」は伊勢にあるセブンイレブンの店長をしているという話をMちゃんから聞いたことがあったのでそれをTに伝えた上で、でもあいつ副業もしとるからなと続けると、なにやっとんの? と当然はTはいう。そこで、いやアゴの中でセミの幼虫飼っとんねん、幼虫が成虫になるまでの七年アゴの中で育ててとる、今年はちょうど脱皮する年やからまたあたらしい幼虫仕入れやなあかん、ほやしセブンで雇っとるバイトの子らにたのんで山の中でセミの幼虫探させとるわ、などとクソくだらないことをいって、おたがい腹が痛くなるほどゲラゲラ笑うのだが、こうして書いてみると全然おもしろくない、しかし夜中のテンションということもあってわれわれはこういういちいちに死ぬほど、本当に死ぬほど笑うのだった」という馬鹿馬鹿しい発言にも同じく笑った。
 それから続けて、Sさんのブログも、七月序盤のものを三日分読んだ。「ふだんコーヒーをそれほど飲むわけではないが、図書館の帰り道にある喫茶店にはよく立寄る。日々の生活において、きちんと淹れてあるコーヒーを飲む機会はその店を訪れたときだけだ。注文はいつもその日のサービス価格になっているレギュラーコーヒーをお願いする。今日はバリ・アラビカという豆。飲んでみたら、これが実に美味しい。美味しいコーヒーを飲んだとき特有の、深みとさっぱりが絶妙に交じり合って体内の鼻腔口腔を抜けて脳内にまで駆け上がってくる快楽に浸りながら、はーっと力が抜けてうっとりする。覚醒的だが刺激によって目覚めさせるのではなく倦怠感や疲労感そのものを中和させてしまっているような感じがする。美味い酒もそうだが、美味いコーヒーも飲みながら本を読んだりスマホを見たりできず、それを飲むことしかできなくなる」との記述があった。端正である。俺はコーヒーを飲んでも、いやそればかりでなく何か美味い飯を食っても、こんな風に感じ、陶酔したり、こんな風に文章化したりすることは絶対に出来ないぞと思った。三〇を目前にしてもコーヒーも酒も飲みつけないお子様のこちらであるが――一応、パニック障害だったという理由があるにはあるのだが――、それで損をしているような気持ちになるようなことがないでもない。酒もコーヒーも非常にバラエティ豊かで奥が深いものなのだろうから――と言うか食文化全般がそうであるに違いないのだが――、それをいくらかでもわかった方が人生が豊かになるのではないか、と思わないでもないのだ。と、そうは言いながらも、しかしそれでは実際に酒やコーヒーを嗜む習慣を自分が身につけるかと言ったら、そんな自分の姿も想像できないのだが。結局のところ、そこまでの興味や欲望はないということなのだろう。スーパーで三袋ワンセットで売っている安っぽいうどんを、玉ねぎと卵と一緒に煮込んで食えば満足できる廉価な舌の主である。
 他人のブログを読み終えると食事を取りに上階に行った。メニューは白米に焼き茄子、豚肉と胡瓜を和えたサラダにエノキダケのスープ。テレビはおよそどうでも良いような番組をやっていたので、興味を引かれずあまり目も向けなかった。それでは代わりに新聞を読むかと言ってそういうわけでもない。テレビが掛かっていては文に集中することも出来ない。それで、タブレットを弄っている母親と向かい合いながら、大して発言もせず黙々とものを口に運んだ。茄子がとろけるように柔らかくて美味だった。
 ものを食べ終えると薬を服用し、台所で食器をさっさと洗って風呂に行った。上がってくるとパンツ一丁で自室に戻り、扇風機の風を背後から浴びながら日記を書きはじめたのが八時一一分だった。Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を流してみると、一曲目の、ボロディン弦楽四重奏第二番第一楽章が非常に優美で素晴らしかったので、この音源をCD-Rに焼いてプレゼントしてくれたT田にその旨LINEで送った。そうしてやり取りを交わしながらこの日の日記を進めて、現在は九時半前に至っている。音楽はその後、Fabian Almazan『Rhizome』に繋げている。
 その後、T田とLINEで会話しながら前日の記事を作成して、一一時に至った。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』の感想とも分析ともつかない文章を綴るのに時間が掛かったのだった。それを含んだ前日の記事をインターネットに投稿すると、今度はヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きを始めた。二箇所を抜いてこの本の書抜きは終了、それからまた零時頃までT田とやりとりを交わした。八月三〇日は元々レコーディング・スタジオに入る予定だったところが、デング熱に掛かったT谷の都合などで日にちをずらすことになった。T田とTはそれでも独自に集まるらしいので、こちらもその会合に参加しようかと思っており、その旨伝えたところ、良いんじゃないかとの返答があった。それでTにも了承を求めるメッセージを送っておき、それからプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』のメモを手帳に取りはじめたのだったが、文字を記していたはずがいつの間にかコンピューターをひらいて自分の日記を読み返したりしている有り様である。それで無駄な時間を使いながら一時まで作業を進めたあと、コンピューターを閉じ、ベッドに移って読書を始めた。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。そうして二時半直前まで読んで就床した。

 プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』。レーヴィは入所後一週間で、身体を綺麗に保っておく気力を失ってしまった。そうした彼に対して、シュタインラウフという規律正しい元軍人の友人が投げかけた言葉が引かれている。

 今も心が痛むのだが、私は彼の正しく明快な言葉を忘れてしまった。第一次世界大戦の鉄十字章受勲者、オーストリア・ハンガリー帝国軍の元軍曹、シュタインラウフの言葉づかいを忘れてしまった。私の心は痛む。なぜなら、良き兵士がおぼつかないイタリア語で語ってくれた明快な演説を、私の半信半疑の言葉に翻訳しなければならないからだ。だが当時もその後も、その演説の内容は忘れなかった。こんな具合だった。ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわねばならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に敬意を表するのではなく、生き続けるため、死の意志に屈しないためだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、46~47)

 収容所の劣悪な環境に敗北しまいと努力するシュタインラウフの不屈の抵抗心は感銘を与えるものだ。しかし、この演説はレーヴィの耳には「ひどく奇妙に響いた」と言う。シュタインラウフの思想は彼を納得させず、むしろ彼に違和感を与え、レーヴィにとって理解できたのはその一部分だけだった。「シュタインラウフの賢さと徳性は、確かに彼にとっては良いものだ。しかし私には十分とはいえない」。レーヴィの考えは混乱をきたしており、彼は生き延びるために確実に依拠すべき明快な原則を打ち立てられずにいる。そもそも絶滅収容所という「錯綜した死者の世界」のただなかで、そのような明確な原則を確固として成立させることが本当に出来るのか、成立させられたとしてそれが本当に上手く機能するのか、という根本的な問題点にレーヴィの疑念は向かうのだ。「ある思想体系を練り上げ実行することが本当に必要なのだろうか? 思想体系を持たないという自覚を得ることのほうが、ずっと有益ではないだろうか?」という疑問の言葉で、この「通過儀礼」という章は締め括られている。確かに、自らの存在を支える足場として固く保たれていたはずの原則が、圧倒的な暴力によって絶えず掘り崩され、無化されてしまうのがラーゲルという環境の忌まわしい力ではないだろうか。
 そこにおいてレーヴィの支えとなったものがもしあったとするならば、それは常にその正当性を毀損される恐れに直面し続ける一般的な原理原則ではなくて、文学という人類の歴史的遺産に媒介された個々の具体的な「体験」だったのではないか、とこちらは考えたいと思う。以前引用した部分だが、例えばそれは「オデュッセウスの歌」の章に描かれているもので、過去の文学作品が現在の彼の状況と不意打ちのようにして接続され、他者との深く真摯なコミュニケーションを引き起こすような体験である。レーヴィはそこから何か自分に役立つような一般的な「思想」を導き出そうとはしない。しかし、「オデュッセウスの歌」の章におけるダンテ『神曲』を仲介役としたピコロとの交わりは、この作品のなかでも最も感動的なハイライトと目されるべき場面であり、収容所の非人間的な環境のなかでも失われないこの上なく人間的な輝きを皓々と放っている。
 聖書との関わりについても、それは同様である。レーヴィや仲間の囚人たちは、夜、互いに自らの身の上話を語り合う。それらは、「みな聖書の物語のように簡潔で分かりにくい。だがこうした話が集まれば、新しい聖書の物語になるのではないだろうか?」(80) この文章に註を付けてレーヴィは、「著者は、かつての迫害と、今日の、いまだかつてなかった、最も血なまぐさい迫害との間に、悲劇的な連続性を見て取っている」(265)と述べている。同様に、別の註では、「昔の聖書につながるような「新しい聖書」の状態が生起したことに、著者や仲間たちは、束の間だが、大きな慰めを得た」(266)と述懐されている。自分たちの苦難が過去の書物のなかに既に記されているという歴史的接続性、文学という人類の伝統のなかに生きているという意識がレーヴィを支えていたのだ。このように、文学作品が体験的に光を放つ瞬間を知っていたという意味で、レーヴィは紛れもなく文学者であり、小説家だった――いや、と言うよりはむしろ、収容所におけるこのような「輝き」の体験を通して、レーヴィは文学者に、小説家になった[﹅3]とおそらくは言えるのだろう。
 シュタインラウフの「思想」は彼の「戦い」の根幹である。彼にとって汚れ水で身体を洗うことは、生存を賭けた闘争であり、収容所という死の環境に対する真っ向からの反抗である。しかし、レーヴィの「文学的体験」はそれとは趣をいくらか異にしているように思われる。それは、正面からぶつかり合う「反抗」の手段となるものではなくて、横から、あるいは斜めから射し入る光芒のようにして、レーヴィの生に不意に闖入してきて彼の存在を、人間性を根底から下支えするようなものだった。前にも記したように、そうした体験が生じたからと言って、別に何か状況が変わっているわけではない。事態が一つでも良くなっているわけではない。しかし文学は、勝者と敗者を決定せずにはいられない「戦い」の論理とは違った回路でもって、それとは違った次元において、人間の生を力強く肯定するものである。レーヴィの記述はそうしたことを告げているように思われる。
 「思想」を闘争の武器としたシュタインラウフと、文学によって自己のアイデンティティを回復したレーヴィとのあいだにも、一つの共通点がある。収容所における自らの体験を、外の世界[﹅4]に持ち帰り、他人に語らなければならないと決意していることである。シュタインラウフは、生き延びねばならないのは、「証拠を持ち帰り、語るためだ」と断言している。レーヴィもまた、この著作の序文において、「「他人」に語りたい、「他人」に知らせたいというこの欲求は、解放の前も、解放の後も、生きるための必要事項をないがしろにさせんばかりに激しく、私たちの心の中で燃えていた」(6)と述べている。アウシュヴィッツの絶望的な状況のなかでも彼らがそうした人間的な欲求を失わず、反対に激しく燃え立たせ、おそらくは使命感と呼ぶべき感情にまで高めたであろうこと、そしてそれが『これが人間か』というテクストの形で実際に具現化されたという現実には、一抹の救いのようなものを見る思いがする。


・作文
 14:35 - 15:02 = 27分
 20:11 - 22:57 = 2時間46分
 計: 3時間13分

・読書
 11:36 - 13:58 = (1時間半引いて)52分
 15:10 - 15:21 = 11分
 19:06 - 19:26 = 20分
 23:20 - 23:38 = 18分
 24:08 - 25:03 = 55分
 25:18 - 26:27 = 1時間9分
 計: 2時間45分

  • 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』: 65 - 90
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-10「神殿の落書きも千年後には装飾となる歴史の粗忽」; 2019-08-11「言霊を耳飾りとする子らのささやき声はかくも美し」
  • 「at-oyr」: 2019-07-06「バリ・アラビカ」; 2019-07-07「バンド」; 2019-07-08「暫定」
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』、メモ

・睡眠
 2:30 - 10:30 = 8時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』
  • Fabian Almazan『Rhizome』
  • Pablo Casals『A Concert At The White House』