2017/6/5, Mon.

 鴉が、声を遠くに向けて朗々と渡らせるのでなく、間の抜けたような調子でしきりに鳴き立てている夕べだった。ともすれば拍車が掛かって喘ぎのようになりかねない、妙な鳴き方だった。空気は、さらさらと流れて涼しく、肌に安い。街道まで来ると、東の地平に盛り上がってにわかに新造された山脈のようになっている雲の、あるかなしかの陽を掛けられて陰影をはらみながらくっきりと形を際立たせているのに、曇りがちの空ではあるが、大気の澄明さが表れていた。頭上に溶けて染みたようになっているものと比べれば、外周にしても内の襞にしても輪郭の強さは明白で、ありがちな形象ではあるが、まさしく雪を積み重ねたようで、にわかに新造された山脈の趣だった。その長い連なりが道を歩くあいだ残って、西陽は雲の奥に籠っているけれど、正面の空を占める白さが、ずっと明るかった。
 夜は風が吹いて、あちらこちらで樹のなかにさやぎをはらませる。それだから蒸すわけでないが、久しぶりに冷たいものでも飲むかと、自販機で炭酸飲料の缶を買った。缶を右手に嵌めて道を渡り、腕時計に目をやったところで、どうも今日は、時間がわりあいにゆっくりと流れているようだなと気付いた。理由は知れないが、落着いて一刻一刻に留まっており、のちに深夜の読書のあいだにも、時計を見ながらいつもは「もう」の感が差すところを、この日は「まだ」と思っていた。
 路程の最後の下り坂に入ったところで奥から、風が湧き上がってくるその冷たさに、雨の気配を嗅いだ。実際、その風のなかにも既に、かすかに散るものが混ざっていたようだ。食事を取るあいだに降り出し、風呂に入った頃には繁くなって、素早く直線的に落ちる降りらしいその響きを聞きながら湯に浸かっていたが、早々と衰えて、上がる時にはもう止んでいた。

2017/6/4, Sun.

 流氷のような雲の、空に広くこびりついて浮かんだ昼下がりだった。湿り気は薄く、上り坂を抜けて受けた涼気に、これでは汗もかかないなと思ったところが、直後、にわかに道が色づきはじめ、街道に出る頃には足もとに影も弱く浮かんだ。風は気紛れで、東から西から入れ替わって、それほど吹くでもない。鳥の声は周囲から引きも切らないが、なかでも裏道の中途で電線に、燕が四匹並んで、こちらが下にやって来ても飛び立つ気配もなくじっと留まっているのが珍しく、鵯と合わせて鳴きを降らせているのをちょっと見上げた。声を立てながら細かく震えるのが、風を受けて微動する楕円の木の葉のようだった。駅前まで来て寄った公衆便所でも、用を足して入り口のところで手を拭いていると、すぐ目前の宙を燕が割ってなかに飛びこんで行き、見れば壁に取り付けられた細長い電灯の上に巣があって、もうよほど大きくなって立ち上がっている子らに餌を渡してすぐ、ふたたび空を斬って駆け出して行くのを、顔の傍を通り抜けるその素早さに目を細めながら見た。電車に乗る直前、見上げた丘の上空に沈んだ色の雲がわだかまっていたが、雨の気配は感じられなかった。
 電車に乗っているあいだも、読んでいた本からふと目を離すと、床の上に、向かいの乗客らの影絵が生まれている。北側は境なく水っぽく曇ったままだが、南では晴れ間がひらいたようで、遠くの空に雲の塊がひしめきながら、その縁が白く明るんで分かれているのが見通せた。立川駅の改札を通れば身の周りを自ずと囲んでくる人群れに、今更煩わしく思うでもないが、随分とたくさんの人がいると改めて感じ入るようなところはあった。そのなかから、間近を過ぎて行く人の顔貌がくっきりと浮かび上がって人間の表情を成すのに対して、こちらがそれを捉えているそのあいだにも周囲を流れてやまない人波は人形の集合めいて、むしろ自然現象のようでもあり、人々の実体感が稀薄となるその情報の密度の断層を、不思議なように受け止めていた。広場から通路を進んで歩道橋まで来ると、西から陽が射しており、高架歩廊の高さまで背を伸ばした街路樹が揺れて、葉の合間に光の泡を崩してはまた生み出していた。
 CD店を訪れたが目当てのものが見つからず、ついでに寄った書店でもぶらついただけで何も買わず、出ると空に青さが広がっており、百貨店の高い壁が横から陽に灼かれて表面の起伏を露わに、銀色の物質性を浮き彫りにしている。中古のCD屋を訪れて、五枚を買って出るともう六時、思いの外遅くなったので喫茶店に寄るのは取りやめ、自宅で書き物をすることにして、帰途に向かった。住む町に戻った頃には、空はふたたび雲で隈なく埋まって、丘に接した一郭のみ、葡萄酒の色が漏れ出している。最寄りで降りるとその色も消えて、既に青暗く暮れきっていた。

2017/6/2, Fri.

 風の厚く、多い日で、寝覚めてからしばらく窓辺に留まっているあいだ、葉を擦りながら渡っていく気流の響きが、ガラスの外の空間を賑やかに満たしている。上空でも流れるものが雲を掃き払ってしまうのだろう、空は明るく、夕刻に近づいても、食卓から見た窓の上部にちょっと覗く露草色が、穏やかでありながら目を惹く鮮明さである。その頃には、地上の風はいくらか収まっていたようだ。景色のなかにある緑は騒がず、川沿いに伸びた林と、実際には対岸の家々の向こうに遠く位置する山の麓とが、距離を殺して縦に一続きに繋がったかに映って、そうして改めて見ると樹々の合間に覗く屋根は小さく、いかにも緑のなかに埋もれた集落の風情だった。アイロンを操る手もとにしばらく目を落としてからふたたび窓へと上げると、もう蔭の増えはじめている室内に慣れた瞳に、川沿いの樹の緑がやはり明晰で、よくもあんなに明るい色になったものだとまじまじ見つめるようだった。山の斜面には一つ、数年前に一面伐られたものがあって、今年になると新たな緑もだいぶ育ってきたようで斜めに立った草原のようになっているが、その低みに一本残った樹の影が大きく斜面に映っているのを、気づくやいなや、何も不思議なことはないのに、あんな風に影ができるかと驚いていた。
 裏道の薄青さの合間に陽が射しこむその上に、鶯の声が降るのも似つかわしい、長閑で澄明な夕刻だった。街道まで来て日なたの真っ只中に入ると、途端に肌が水気を吐き出しはじめるのが感じられる。ふたたび裏に入った角で降ってくる光が頬に強く、目を斜めに送れば丘の際で伸縮を繰り返している純白の発光体の、嵩にしても白さの密度にしても、春に見たそれに勝って明らかに烈しい。しかし道中、折々に東風が吹き、吹かずとも流れるもののやまぬ爽やぎに、暑気の不快は起こらず、ともすれば汗をかいている感覚もなく、背に転がる玉が肌をくすぐってようやくそれを思い出すような具合だった。一ミリもないのではないか、陽射しのなかで浮かびあがる微細な虫たちが、虫とも見えずただ塵のような点となって、あたりを舞い、揺らいでいた。

2017/6/1, Thu.

 ベッドに腰掛けて新聞を読んでいると、背後の窓先でぱちぱちという鳴りが始まって、カーテンをめくれば、雨が落ちてきている。ベランダの洗濯物を取りこみに行けば、空は雲間に水色が細く覗いて、近間の瓦屋根も明るみを淡く跳ね返すさなかの降り出しだが、粒と粒のあいだが広いわりに速く重く落ちるようなのが、まだ正午過ぎだが夕立めいた気配を醸した。室に帰ってふたたび腰を掛けた後ろで、粒の結構大きいようで葉や窓に当たる音がやけに固く、募りだすかと背に窺っているとじきに繁くなって外が薄白く包まれたが、それもすぐに過ぎて、あとには陽の色がほの見えた。
 夕方にはまた明るくはあっても曇りに閉じた空になり、雨が過ぎたおかげかひどく蒸すわけでもないが、風もない。街道沿いを行くあいだにただ一度、車に連れてこられたように、西から追い風が立って背に当たったが、その後裏路地では吹くものも吹かず、微細な空気の揺らぎがあるのみで、そんなものでもあればやはり肌は敏感に拾っていくらか安らぎ、なくなれば額に温みが留まる。寺の付近まで来ると突如鈍い唸りが空に渡って、飛行機が丘の向こうからやって来るかと思ったが続かずに拡散したのは、どうも雷が遠くで落ちたものらしい。感応するように、鴉が一匹、林のなかからざらついた声で繰り返し鳴き立てていた。狭い路地に燕が活発で、人に当たりやしないかと思うほどに低く、路面近くを通って軒下へ電線へと行き交ってやまない。張り渡されたものの上に数匹並んで止まっているさまと言い、体を伸ばして静止しながら宙を滑らかに流れる姿と言い、鳥というよりは水中の魚のように映る瞬間がある。
 上弦月の夜のはずだが、月の姿は雲に乱されて、オレンジ色の暈が朧げに円く広がっているのみで、歩くうちにそれも色を失って丘の傍で消え入りそうになっていた。それでも空は明るく、稜線の間近に雲がひときわ灰色にわだかまっているその層の差が見て取れる。街道を車の走っていく響きのなかに時鳥の高い声を聞き取って、また空耳だろうか、それにしても自動車に時鳥とは、と取り合わせのちぐはぐさをおかしんでいると、静かになってからも続くものがあった。深夜二時三時によく鳴いていたのが、気温の上がったせいかここのところ早く聞くようになったと思えば、この日は明るい夕刻の出掛けにも、近所の家々の屋根を越えて渡ってくるのを聞いたのだった。
 外にいればそうでもなかったが、屋内に入るとやはり停滞した空気が蒸し暑く、洗面所で手を洗うのに灯した天井の明かりさえもが首筋に温もる。気温の下端がだいぶ持ち上がったようで、深夜に至っても涼しさが募らず、窓を開けたままに肌を晒していても支障のなさそうな長閑な夜気だった。

2017/5/31, Wed.

 湿り気の多くて、室内にいても肌が汗を帯びる曇天だが、三時頃に外に出ると、風は走る。絶え間も少なく、繰り返し流れるのに、林の樹々がさざめきを宙に返す。普段とは違って駅に向かわず、車で運んでもらい、町の南側、四車線を満たす風切り音の騒がしいバイパス路から直接、図書館へと歩いた。振り向けば白くひらいた空の果てに平板な山影が薄青く映り、上方には陽がやや透けて、隈なく塗られた雲の下に暖気が籠るのだろう、風があっても大気は蒸している。坂を上り、立体交差の急な階段も上がって線路沿いの細道に入ると、リュックサックに隠れた背が粘りはじめ、額に手をやればそちらもややべたついている。踏切りを渡ったところで風が厚く走ったが、涼しさに芯がなく、あまり肌を抜けないような、身体に当たると左右に滑って過ぎていくような、と思った。駅前まで来ると、ビルに当たったものが落ちるか、通りを風がひっきりなしに埋めて汗も引く。
 例によって文を書いたり写したりで時を費やし、館を出れば一面黒々と籠められた宵の空に、月も大方隠れきって、仄白い濁りがそこだけ、手違いのように小さくくっついている。最寄り駅に着いた頃にはそれがいくらかひらいて、赤と黄をはらんだ月が霞みがちではあるが、西空で上弦になりかかっていた。坂に入って見上げれば、星も一つ、濁りに消されずに見える。下りながら、木の間の闇が視線を吸いこんで行くのに、またもう夜になってしまったか、と諦念と組んだ倦怠のようなものが立ち、このつるつると走り過ぎてやまない時の滑りの勢いを、せめてもう僅かなりとも遅らせるにはどうすれば良いのかと思った。数年前には、幾許かでも時が過ぎるというそのことのなかには既に、感傷が含まれていると思っていたこともある。しかしそれでは何か、時とは常に既に過ぎているもので、それでない限り生はなく、生とは、駆けることも滞ることも折々にあり、その猛りに追い立てられることも、その粘りに苦しむこともまたあろうが、ともかくも時が流れるというそのことなのだから、生そのものが感傷の連なりか、とそんな妄言は措くとしても、かつての自分は切ながりが過ぎるが、しかし留まりを知らずあまりに事も無げな流れを前にして、無力感のようなものに引かれることはある。誰にも似たことはあろう。坂を抜けて通りに出ると、時鳥の、近頃は深夜にばかり聞いていたのにここでいくらか気早な声が、どこからと方向もあまり知れず、届いた。

2017/5/30, Tue.

 覚めたあと、用足しから戻ってくれば、カーテンの裏で窓はひらいているのだが、それでも室内に暖気の籠っているのが感じられる。三〇度の日らしい。居間の窓の先では光の通った空中に、山の上にひらいた空の清い色が溶け混ざっているようで、空気が自ら薄青さを放っているかに映る。風はあり、室内にも入って、部屋のベッドに腰掛けて本を読む背に波打って寄せるが、アイロンを操る時にはやはり暑くて、肌を晒した。出かける前に肌着を身に戻し、その上にシャツを一枚重ねただけで、皮膚が籠められて息苦しいような、肌に触れる布の感覚が煩わしいような、そんな昼下がりである。
 普段は肉体的健康のためにも、世界に浮遊する微細な差異を感知することの精神的享楽のためにも、一駅先まで歩いて行くが、陽射しの重そうなこの日はさすがに、最寄り駅への道を取った。身体の前面に付着する熱を抱えるようにして行き、木蔭の坂に入ればさすがに涼しくなって、頭上で木々が鳴るのに合わせて、木洩れ陽によって路上にひらいた円型舞台のなかに、葉の影が入り乱れて蠢動を演じ、葉鳴りの続くあいだ、足もとを水面[みなも]のように騒がせる。駅の階段で、知り合いの老女に会った。足が弱っていて一段を、手すりに頼りながらゆっくり慎重に上って下るその横に就き、ホームに入るとベンチに並んでしばらく話をするあいだ、風が折々東から西へ、横向きに身体を通過して行くのに汗が収まって心地良く、外では青草が明るく照りながら揺らぐ。
 七十八だと言う。電車に乗って帰ってくる小学生らを、駅に立ち迎え続けて幾星霜、こちらも小児の頃によく会ったものだが、始めたのはこちらの叔母が小学三年の時と言うからもう四十数年、五十年にも近くなる。この身の生まれ落ちていままで通ってきた歳月を、その倍とまでは行かないが、遥かに越えて日々、駅に立ってきたのだから、長く、想像の及ばないものだ。この屋根の下にいればわりあい涼しいけれど、日なたがもうここまで寄せてきていますねと、ホームの端に控えめに乗っていた陽の足が、電車を待つあいだに、靴に掛かるほど進んでいたのに気付いて振れば、そうよ、こんな方まで来ますよと老女は答えて、椅子の背に触れた。下りはじめた太陽の余波に、屋根の縁から僅かに覗く北西の青空が、輝きを増しているようだった。
 そのように晴れ晴れと光をはらんだ空が、図書館で書き物に傾注して気付かないうちにいつか失われ、六時前に顔を上げると、フロアを越えて高く立てられた大窓いっぱいに、視線の引っ掛かる余地のない一面の曇り空が、白とも淡青ともつかない色に広がっていた。宵に入って館を去ると、歩廊の上の空気に、植物のものなのか、何かを燃やしているような、ちょっと煙いような匂いが、かすかに嗅がれた。月は五日目、西南寄りの夜空に浸かって、雲を網のように掛けられて、形も朧に、貼り付いていた。

2017/5/29, Mon.

 正午前の道に出て、木の間の上り坂を抜ければ、頭に降りかかってくる熱気に身体がやや頼りなくなるような、夏日である。気温は二八度とか三〇度とか聞いた。街道に出ると道路の先から走ってくる車の鼻面が、陽炎に乱されて、真白い光点を装飾品のように溜めながら、ぶれている。雲のまったく消えたまっさらな晴天というわけにはいかないが、空に伸びるもの散るものは水で溶かれたように薄く、太陽を隠すような勢力はない。熱に包まれながらゆるゆると、裏道を行っていると、帽子の下の額やら目の付近やらに熱気が籠って、熱中症を思うが、しかし身体は揺らがない。のろい歩みに、動悸も高くならず、ただ風呂を浴びるように熱を纏って行く。寺の枝垂れ桜の、長髪の房めいて下った青葉の連なりが、風に葉裏の薄色を垣間見せながら揺らされるのに、柔らかさと言うよりは、葉の粒立ちのせいか固さの感が立って、金属の飾りのきらきらと、音が鳴るように煌めきながら左右になびくさまを瞬時思った。
 電車に長く揺られて代々木に降り、待ち合わせた知人と横断歩道に立てば、帽子の下に陽射しが入りこんで、顔の横から浴びせられた熱が、頬に塗りたくられる。見上げると、飛行機が高いところを小さく行くその機体が、光を受けて白く艶を帯びてはそれをすぐに抑えて過ぎて行った。喫茶店に入って話をし、五時前だろうか出た頃には、左右をビルに囲まれた通りに陽射しはもう入らず、道を見通した遠く、宙の真ん中に聳え立った新宿のビルのあたりに留まり、白く溶けた雲がその左右、空の低みに刷かれていた。
 新宿の書店をうろついて別れたのちの電車内、座席の端を区切る銀の柱に胸を寄せて、あまり身動きもできない状況から視線だけは逃した窓の外、西空に、水っぽいような青さのなかに浸かって形を小さく崩した薔薇色の、夕陽の残骸を見た。すぐに視線は建物に阻まれ、電車も荻窪に入って高架から降り、西荻窪に向かって上ってからふたたび見た時には、もう陽の姿はなく、希薄化された山の影なのか、宵に入りつつあって冷えた雲の姿なのか、空の下部を広く埋め尽くして青い層が残っているばかりである。
 最寄り駅では、四日目の月が、夜空にかぼそく刻みを入れていた。あたりにじりじりと伸びる虫の音は、電車内でも、過ぎざま窓の外に聞こえたくらいである。下り坂の空気は乾いて、涼しいも温いもなく、虫の音は距離の問題か、前日よりざらつきが弱まっていくらかほどけたように響き、沢の音も小さくなっていた。

2017/5/28, Sun.

 窓を閉じていれば、室内に暖気がやや籠る正午である。洗濯物を取りこみにベランダに行っても、雲の多い空だが、身の周りの空気は温もっており、その静止を乱す風もない。ハンガーに掛かったものに手を伸ばしていると、屋根の縁から太陽が、敷かれた雲のなかの浅くなった僅かな間をついて現れ、足もとに目を下ろせば日なたが、ごくうっすらと生まれていた。
 気温計が指すのは二六度の目盛りだが、薄灰色の雲に天を塞がれて大気は蒸しているようで、取りこんだものにアイロンを当てていても、やはり汗が湧く。それで肌着を脱いで上半身を晒したが、風が入ってきて肌を涼ませてくれるわけでもない。しかし、家を発つ頃には大気が動きはじめたようで、行くうちに道が色付いていた。高みで風が生まれたのだろう、散らばった雲の動きが速いらしく、路上も刻々と色を変え、明るみを帯びたかと思えばすぐに薄青さに戻り、さらにまた暖色へと浮かび上がる。街道に来ると陽射しが出ており、首筋から肩に掛けて乗ってくるものが、なかなかに厚い。地上にも風は吹き、手に触れるのは糸のような柔らかな感触で、身につく方も当たると言うよりは、細胞の隙間をくぐり抜けて行くような軽さだった。裏通りを行くあいだも身は熱に触れられているが、粘るものでなく、上空を走る風のおかげで空には青さが広がって、空気に爽やかさが生じているなか、熱は肌に染みるようでいくらか心地良くもあった。
 図書館で消耗しながら二日分の書き物を済ませ、気を入れ直して他人の文も写すと、もう宵もやや深む。歩廊に出れば正面から夜風が走り、通路の下の街路樹からだろうか、じりじりと鳴く虫の音が昇って耳をつく。最寄りの駅に到り、薄白い雲が黴のように蔓延った空を見上げてから入った坂でも、同じ無愛想で即物的な鳴きが、一昨日の雨の余波がまだ残っているものか、思いのほか大きな沢音と混ざって、固く響いていた。

2017/5/27, Sat.

 柚子の木の枝を、剪定というほど大袈裟なものでないが、いくらか刈り揃えるために外に出た午前、空気は暑い。空は雲が厚めに広がって白いものの、頭上には間が生まれているようで、降り注ぐものもまたあり、結構な熱が身についてくるのに、太陽はどこかとまだ高みにあるのを求めて首を曲げて行ったが、まばゆさの圧が強すぎて、光源の端に視線を引っ掛けるまでにも、とても到らない。正午前、道に出ても、蔭と日なたの境が薄くあり、空気は温もっていた。しかし風も、小川の流れのようにするすると、涼しく吹いて、募れば涼気が一線を超え、まさしく川面に手を浸しているかのように爽やかな冷たさに転じることもある。大気は搔き回されて、涼と暖のそれぞれが混濁しながら身に触れてきた。
 午後から立川の喫茶店に友人と集まり、五時を過ぎて出た時にも、風は変わらず大きく吹いており、目の前を行く女性の、長いスカートの裾がふるふると動く。書店をうろついて、カルミネ・アバーテ/栗原俊秀訳『偉大なる時のモザイク』を買ったあと、ラーメン屋に寄ってから街を出た。最寄りを降りて入った坂の端に、色褪せた竹の葉が散り積もって、湿り気をまだ残しているようで、下りの出口の脇では前夜の雨の名残りか、側溝のひとところに寄せ集められて膨らんでいた。夜に到って風は弱く、緩く流れるようになって、そのなかに雨の子が僅か散って含まれていたようだが、すぐに触れなくなった。

2017/5/26, Fri.

 夜の白んだあとからいつか降り出した雨のなか、窓を開けたままに眠っていた。肌着一枚の格好で、腕に肌寒さがついてきた。居間の窓に視線を通しても、雨粒の宙を搔く線は視認されず、空気は石灰色に濁って、空が稜線を侵して山の表面へと浸潤している。午後に掛けて雨は、強弱の振れもあまりないらしく、単調に、勤勉なように降り続いた。昼がだいぶ下ってからふたたび食卓に就いても、梅雨寒が先取られたか、久しぶりに足もとに暖房が欲しくなるような具合で、即席うどんの汁の温みが腹に染みた。
 食い物を身に入れて服も整えて出れば、数日前と比して気温はだいぶ下がったのだろうが、あまり涼しいという感じもない。前日の、玄関を抜けた途端に貼り付くように寄ってきた湿り気の、しっとりとした感触の記憶がまだ肌に残って、それを思っていた。坂で木の下にいるあいだには、合わさり大きくなった雫に傘が鳴るが、出れば音もなく、軽く、優しいような雨である。堪えなく風に押され、東から西に傾いて流れるものに、街道に出る頃には服の前面がわりあいに濡れていた。水と風の響きを混ぜこんだ車の走行音は、空間を紙と化してびりびりと破るかのようで、すぐ横を過ぎればちょっと怯まされるほどに、耳にいかにも激しい。裏路地に入って、あたりが静まると、あるかなしかの雨音が頭上から染みてきた。傘が揺れるに応じて耳の周りの空間の形が変容するからだろう、歩を踏むのに合わせて響きは僅かに、撓み、波打ちながらついてくる。そのうちに、両膝の上の布が濡れて、踏み出すたびに膝頭に貼り付くようになってきた。
 風は、時折り走る。涼しさが、しかし肌に通ってこない。傘を持つ手首のあたりなど触れれば、いくらか冷たくなってもいるくらいの雨ではある。ところが、肌に覚える感触はあって、それを明確に、涼しさと認識してはいても、何かしっくりこないような、言語と身についてくる感覚とのあいだに矛盾が生じているような乖離の感が拭えなかった。至極軽くはあるが、いわゆる離人感というものだろうか。三、四年前には、折に触れて小さく感じ、多少の不安を呼んだことがあったようである。何かを感じているのは間違いないが、その感覚とのあいだに空白が差し挟まれて定かに触れることができないようなと、そんな風に思いながら横断歩道を渡った。
 夜に入っても降りは続いて、風がなくなったかわりに雨脚は強まっていた。直下的に落ち下るものらの包む裏路地は暗く、軒が左右に迫って電灯から離れた場所では足もとに水溜まりがあるかどうかもわからず、靴が黒い塊と化す。しばらく進んで見通しのよくなった先には、連ねられた街灯の光の一本一本が、路上を斜めに長く渡る帯となって表面を滲ませながら宿り、隙間なく合わさって引かれ、アスファルトの一画を薄金色に塗り替えている。雨夜の裏路地に生まれるそうした光景を目にするといつも、フィンセント・ヴァン・ゴッホの、月夜の河を描いた絵のなかで、街明かりの反映が川面の上に引かれて、揺らぎながら長く伸びているその様子を、思い出すものだ。
 裏から表に曲がる角も近くなって、前から車がやってくると、放たれたライトが路上いっぱいに撒き散らされて、目の粗いアスファルトのあらゆる起伏にやすやすと入りこみ、艶めく純白の輝きが足もとを席巻した、と目を落としているうちに、車は過ぎて、もっと凝視していたかったところがそれは許されず、夜の底に瞬間敷かれた白昼の明るさは、すぐさま失われてしまった。それからまもなく、裏を出る直前から、雨がさらに強く、激しくなった。アスファルトの僅かな盛り上がりに降り掛かる光によって露わにされる水のうねりが、沼のなかに沈んでいる魚の影のように、こちらの横をついてくる。飛沫を纏うようにしながら駆ける車の音は、苛烈なほどである。対岸に渡る隙を掴めず、家に続く分かれ道の向かいまで来てから、車が途切れるのを待って停まったところが、目の前の道路にまた生まれている街灯の、楕円の反映のなかに、流線と波紋の交錯した複雑極まりない水の紋様がひとときもうねりをやめず生成しているのに、目を惹かれた。車が通ればタイヤにぐしゃりと潰されて、その時だけは襞がいくらか均されるが、直後にまた、肉のような弾力を取り戻して復活する。その周囲にも、降り落ちる雨粒に分散するのだろう、光の断片が無作為に点じられており、中心の楕円から分かれ出て飛び散っているようにも、母体の方に合流するべく吸いこまれていくような風にも、映った。雨は聾されるような拡散性の響きを持っていて、身の周りを包んで閉じるようで、裏通りに入って静かになればほかの音は聞こえない。一つの音響にひたすら侵され閉ざされる、これもある種の無音、ある種の沈黙だろうか。耳が濃霧を掛けられたかのような、車が後ろから迫る音も聞こえない状態のなかで、坂を下った。

2017/5/25, Thu.

 前日よりもさらに、均された白い窓の目覚めだった。日中、居間の窓から見通すと、山の向こうの低い空にちょっと、暖色を帯びた明るみが見られもしたが、そこを残してほかはこちらの頭上まで灰青色の雲が敷き伸ばされて、近間は仄暗く、雨の降り落ちてきても不思議でない。夕刻に到って玄関を出ると途端に、湿り気をはらんでしっとりとした空気が、肌に寄ってきた。街道から見上げる空はなだらかに雲が埋めて、地上に陽の気配は粒子一つ分も窺えない。風は、吹かない。木々をそよがせるにも弱いほどの、かすかな空気の揺らぎが、間遠に、身の周りに立つのみである。裏通りを行く足が自ずと白線の上を逸れず辿りながら、踵を付けて足先まで下ろして行くその踏まえ方のゆったりと、知らず柔らかくて丁寧なように、仄かなようになっていた。周りを帰る高校生らの方が、ひと目にはだらしなく投げやりなように歩いてはいても、よほど速く、はたはたと先を進む。歩みののろさは、高校の時分にもよく言われたが、当時のそれは時に自足をもはらむ今のものとは違って、単に、心身がともに重たるかったのだ。あとから見ればあの重さはその前兆だった精神の病を、その後数年掛けて通過し、活力の回復とともに速まった足を、次第にまた緩やかに抑えてきたが、鷹揚なような足つきが習いとなった今からしてみると、過去の自分の足ぶりは、友人と並んで行き帰りした高校の時であれ、一人でいるのが常だった大学の時であれ、慣れ親しんだ四季の道の往復を繰り返すここ何年かであれ、随分と、速かった。殊更に老いづいたつもりはない。自分とて、何にと定かなものはなくとも、あとからは追いまくられ、前からは引っ張られてやまない趨勢のなかに、生まれた時から囲われて育ってきたのではある。こちらを追い抜かして距離を離して行く高校生らにはあるいはもっと、その牽引が強いのかもしれない。
 空き地に掛かって視界がひらいたのに促されてふたたび見上げると、ところどころに畝が作られてもいる空の、低くにはいくらか黒ずんだ表層雲がほつれてもいるが、その隙間から覗くのはまたまっさらな白で、雲は天上に掛けて厚く何層にも、高山を覆う雪の堆積めいて積み上げられているらしい。この日はしかし、雨はなかった。夜、勤めを済ませて出てくると、風が流れるようになっていた。戸口のところで触れられたそのなかに、乾きの感触がちょっと含まれていた。行くうちに、両耳が詰まったのは、このところよく起こる現象である。今月の一三日に初めて訪れがあり、以来何度か再訪されているが、やはり気圧が何か影響しているのか、来るのは決まって曇り空の下だったような覚えがあり、また、腹の軽くなった夜でもあったようだ。鼻の呼吸音が耳に近くつき、ちょっと咳をすれば、顔の内側に閉じこめられたその音を耳が裏から受けて拾っているような閉籠感が、室に帰って服を替えたあとも続いていた。

2017/5/24, Wed.

 夜更かしのために正午前まで長寝に浸かってから起きると、窓はのっぺりと薄白く、明るさの弱い寝床だった。未明までモニターに瞳を晒していたのが祟ったか、首の固くて、布団を離れてからあまり間も置かず、頭痛が始まった。
 歯を磨き口を濯いで室に戻って来ると、雨粒の葉に弾ける軽い音が、外から立っている。窓に就くと、響きのだんだんに集まって寄せてくる気配が僅か感知されたが、玄関を抜ければ散るものは微かで、傘を持つほどではなかった。坂に沿った木の間ではこの日も木を伐っていて、地に積み重なった枝々にチェーンソーを当てて唸らせているその手もとから、薄青い煙が湧いて漂う。風はわりあいにあり、ここのところのしどけないまでにほぐれたそれでなくてなかに小さく芯の窺えるような、比較的締まったような涼しさを持っていた。それが止まると、蒸し暑さが少々、やはり身にまつわってくる。道中、寺の枝垂れ桜に向けて、久しぶりに目を送った。五月青葉の満々とした濃さは周辺の木々も遜色ないが、この桜は枝が下っているから、梢に曲がり目が露出して、仄紫の色をちょっと被せて添えられているのが、ほかになく興だった。のろのろと歩いているあいだにも頭痛は溶け切らず、後頭部の右方に留まってこごる。
 乗る駅の周りでは燕が、頭の脇を通って飛び交い、降りたホームでも駅舎の周りを、風の象徴めいて滑らかに駆け回るのが見られる。図書館は席が埋まっており、読書をしながら待っても空かないので、向かいのビルの喫茶店に入って文を綴った。他人の文も写して宵にもいくらか入りこんでから出ると、歩廊の上を行く足が、長時間据えられた腰をほぐすように、膝から下をすっと緩く押し出すようになっている。電車が入線してくるのが見えたが走る気にならず、発ったあとのホームでベンチに就いて本をひらくと、風が地に近くを這ってくる涼しさが、顔の窪みや裾から出た腕にやや強いようだった。

2017/5/23, Tue.

 午前からよく風の吹く快晴で、起床後にしばらく、枕に尻を乗せて窓辺に佇んでいると、爽やかな葉擦れの響きが窓外を渡る。風はカーテンの隙間からなかにも入りこんで、身にも柔らかく、稀薄な靄のように触れてくる。食事を済ませて正午過ぎから始めた書き物のうちにも、たびたび背後で響くものがあるのは、窓のすぐ先の棕櫚の木の、頭に乗せた広い葉が揺らされてはためき、分かれた葉先が互いにぶつかり合うものらしい。地に伏した無数の枯葉が風に押されて路上を擦りながら駆け抜けるような音だと思って、いつかの記憶か想像か、家のすぐ前の通りを前から、褐色の葉が転がり走ってくるさまが浮かんで、秋の雰囲気が瞬時、香った。
 昼が下ってからも、風は続いた。ものを食っているあいだにも、東窓のカーテンが丸く膨らみ、それとは向かいのベランダの戸を、洗濯物を入れようとひらけば途端に吹き入るものがあって、ひどく涼しい。東の窓の先、坂に入ってまもないあたりでどうも木を切っているようで、チェーンソーらしき唸りが間を置かずしきりに立ち上がって届く。取りこんだシャツにアイロンを当てようと、卓の前に膝を付いて南窓に向かい合うと、近間の屋根の先に目に入る川沿いの木々が、偏差のさほど窺われない緑に整然とまとまって、横に並んでいる。数か月前には緑を受け持つもの持たぬものがあり、色を付されたのも鶯色が淡くくゆる程度で、ばらばらに乱れていたように思うが、随分と密に調和したものだ。川沿いに限らず、窓のなかの端々にくっきりと濃い緑の目に触れる初夏で、山はさすがにほかの緑から際立って深んでいた。
 風に鳴る梢の路上に張った蔭のなかにあれば涼しいものの、三時半のまだ高くから降って透明な陽射しのもとに出ると、途端に頭が重る。これでは確かに、熱中症で倒れる者も出ようと思って表に出れば、街道の上は両岸まで隈なく日なたがひらいて明るく、背面が、頭の上から背、腰から尻をたどって靴の踵まで、一挙に温められる。足が温もると、外を歩いていながら風呂に入っているような気分も生まれて、気怠い眠気の兆さないでもない。空にある雲は、白粉を弱くはたいた程度の、形も厚みも持たずあるかなしかの添え物に過ぎない。裏通りへと入る角に並んで停まっている車の、顔に光を溜めて反射してくるのが眩しく、上空からはまた熱が直接、頬に寄せて来る。しかし風は結構あって、道を行くあいだ、折に触れて立ち、肌の熱をいくらか散らしてくれる。確かに暑く、夏日というものだろうがしかし、猛暑の盛りからはまだまだ遠いと思ったのはその風のためもあろう、汗は当然湧くが、背の肌がそれほど激しく水気にまみれるでもなかった。
 帰路はいくらかものを思ったようで、あまり周りを見なかったらしい。空気の動きは弱く、風と言うほどのものも立たず、静かな時間の多かった。夜空は明るいようでもあり暗いようでもあり、詰まったような墨色で、雲は掛かっているようだが、星を隠せずに霞ませる程度のものである。目を伏せて電柱の傍を通り際、身の脇を、飛ぶものの影がすっとすれ違って、この夜に鳥かと一瞬思ったがどうも、見上げればあたりの灯のもとにしつこいように集まっている蛾の、その一匹だったらしい。
 外にいるあいだは涼しかったが、帰ってものを食っているとやはり、頭上のすぐから降る食卓灯のオレンジの明かりにも、顔の周りが温もるような夜である。知人との通話で夜を更かし、さらに本を短く読んで三時半、新聞屋のバイクの音も消え、夜空の白みはじめるのもだいぶ近くなってから床に就いた。仰向けになって眠りを引き寄せているあいだ、時鳥の鳴きを何度か耳にした。

2017/5/22, Mon.

 気温計が三〇度を指し示す夏日が続くが、風が爽やかに、窓からよく入っても来た。外では鶯と鵯がいつものように鳴きを散らしているその合間に、画眉鳥だろうか、柔らかく曲がる融通無碍な声のみが、あたりは黙ったそのなかに奏でられて音楽的に響く時間があった。昼を過ぎて二時の頃から気温が上がったようで、自室は居間と比べて風の通りが弱いこともあり、コンピューターに向かい合って鍵を叩いていればそれだけで身に熱が籠り、昼もよほど押し詰まってから、何をするでもなく窓辺にじっとしていても、温もりが肌に貼られる。五時を迎えて居間に上がるとしかし、さすがに暑気は和らいで、いくらかの涼しさに触れられた。
 ネクタイは付けたが肌着にシャツのみで、何も羽織らずに出た。三日連続で雲のまったく除かれた空とは行かず、午前から昼のあたりはそれでも青さが遮られずに渡っていたようだが、夕刻に至ると淡い雲がいくらか浮かんで、そのなかで東南の方に、ひとすじ横に伸びた芯からほつれるようにして両側にいくつも枝が分かれているのが、人の脊椎と肋骨を思わせた。西にも、薄いが大きく雲は湧いて、陽はそのなかで溶けて茜色を幕に留められ、光線は地上に注がず、それでも充分に明るい空気のなかに、アスファルトを見てもその上を流れて行く車の側面を見ても青さが、あからさまでなく、黄昏もまだ遥か遠くて沈むこともなく、ただ淡く乾いて含まれているその風合いを、初夏の夕べの青と思った。汗は勿論湧くが、粘る西陽の日なたのないのは幸いで、裏通りを行っても風が前から吹いてくるのが、角を立てずに肌に円い。時折り、耳の入口を覆ってばたばたと騒ぐくらいに厚くなったそのなかで、背を一粒、汗の玉が転がり落ちて行くのを感じた。
 帰路のこと、足がいくらか逸っているのに気付いて歩調を落とすと、恍惚の薄い芽のような、解放感らしきものの兆しが滲む。気温の上がって来て滑らかな初夏の夜気のなかで、よくあるものだ。風はまた向かいから、ということは行きとは逆の向きで、吹くが、それが止まれば肌が空気に触れていることさえ感じられないような、摩擦のなさである。しかし夏の感を得るには、あたりに虫たちの活気が、まだ薄く、足りないようだった。空は月の出までまだまだ遠くて、東の端ももはや明るいとは言えず、黒とも青とも付かない暗色が澄み渡って、果てまで張った上に、星がいくらか灯っている。老人ホームの角の豆桜は勤勉に手を入れられているらしく、先日は足もとに茂っていた枝葉がすっきりと、元から短く断ち落とされて、そのあとからまた生えてきたものか残されたものか、緑の濃い葉がいくらか、群れを作らず半端なように伸びていた。

2017/5/21, Sun.

 あまりにもあからさまな、開け広げな晴天だった前日にもまして暑さの盛った日で、居間に吊ってある青い気温計は一時、三二度を指していた。この日も朝から晩まで、空に雲の一粒も現れなかったのではないか。拍車の掛かった気早な夏の気の、室内に無遠慮に入りこんで来て、昼下がりに気怠いような重い熱気が溜まり、家を出る前から肌は粘っていた。旺盛な陽のなかを行けば、余計に粘つき、肌着が湿る。しかし陽射しに打たれていても、坂を上るあいだに心臓のあたりがちょっと痛みはしたものの、身の揺らがず、すっきりと立って定かに歩くのに、炎天下に出るたびに倒れるのではという不安を抱えてふらついていた数年前と比べて、随分と身体が強くなり、安定を得たものだと改めて自覚した。
 駅で屋根の作る蔭の下、ベンチに就いて、東から西へ時折り厚く走る風に身を浸されながら、津島佑子『寵児』をしばらく読んだ。こちらの足のちょっと先、ホームの端には、陽が北寄りの高くにあるようで、日なたが漣めいて屋根の少し内まで寄せて入りこみ、外では水のような光があたり一面に染み通って、草々の緑が輝かしく明るんでいる。電車を使って図書館に行き、ただ一つ空いていた学習席の一番端に運良く入れたあとは、五時半に至ってコンビニのおにぎりを食いに出た時以外はキーボードに触れて四時間、本当は他人の文も写したかったが、自分の文のみに労を奪われているうちに閉館がやって来た。
 宵に入って最寄りに戻るとあたりは涼しいも暑いもなく、ただ摩擦なく静まっているところに、下り坂に入れば、木々に囲まれた暗がりの先から緩い涼気の湧いて上って来た。帰ったのち、夜半過ぎから書見を始めて夜を更かしているあいだ、二時を回った頃に、時鳥の声を聞いた。遠く近くなりながら繰り返し、連続して鳴き募ったので、聞き間違えでない。錯聴とも付かなかった先日のものを措けば、これが初声ということになる。