2018/1/28, Sun.

 覚めると、二時半だった。また随分と早く寝覚めしてしまったなと思い、しばらく気を落着けてから薬を飲んだが、やはり眠れない。寝床で瞑目したまま過ごして、そろそろ一時間くらい経っただろうと思って時計を見るとやはりそうで、仕方がないので読書でもしながら眠気を待つかとなった。それで身体を起こし、『後藤明生コレクション4』を読み出して、一時間ほど経ったところでまた横になってみることにした。それでもやはり確かな入眠はできず、眠ったのか眠っていないのか良くわからないような時間を過ごし、七時に至ったところで、ひとまず起きることにした。上階に行き、ストーブの前に座っていると、父親が起きてきたので挨拶をする。しばらくしてからカレーをよそって食べ、皿を洗い、風呂も洗って下階に下りた。
 そうして、セロトニン神経を活性化させようというわけで、読書である。前日までは無声音でやっていたが、この時は小さく声を出して行った。途中からベッドのヘッドボードにもたれるようにして、曇り空から洩れてくる陽光を受けながら読む。そうして一時間半ほど読んで、一〇時前に至ると、運動を行った。呼吸を意識しながら柔軟をして、頭がすっきりとしたところで、眠りを補おうとベッドに仰向けになり、しばらく静止した。この時は、うまく意識の混濁というか、イメージの流れのようなものに乗っていけて、心地良い休息が取れ、目をひらくと一五分ほどが経っていた。
 その後、先に外着に着替えてしまい、インターネットをちょっとチェックしてから、日記を書き出して、二七日の記事を仕上げてここまで至ると、正午を回っている。
 一時頃に出発。最寄り駅から行こうかと思ったが、居間の壁の時刻表を見てみるともう間に合わない時間だったので、(……)まで徒歩を取る。この時には気分はわりあい落着いていて、何と言うか、いまここに生存している、もうそれだけで十分なのではないかという思いが湧いていた。歩きはじめてすぐ、風が林の木の葉を鳴らすのを聞いても、この音だけで十分なのだ、という思いが立った。好天ではあるが、風がやはり冷たかったと思う。裏通りの路面には、まだ氷が貼り付いている。駅まで来て電光掲示板を見ると、発車まで数分あったので、公衆トイレで用を足してから改札を抜けた。一番前の車両に乗り、席に就いて、目を閉じて到着を待つ。あまり眠れていなかったので、睡眠を確保しようとしたのだ。ある程度は眠れたようで、立川の手前で、もう過ぎてしまったのではとびくりとなって覚めた記憶がある。
 到着すると、人々が降りて行くのをちょっと待ってから自分も降り、便所に寄ってから改札を抜けた。時刻は既に、二時一五分頃になっていたと思う。喫茶店へ向かう。入店し、寄ってきた店員に待ち合わせをしていると告げて、(……)たちを探す。それらしい人が壁際の席に就いており、一人でコンピューターを弄っていたので、今日は(……)はいないのかとそちらに向かいかけると、横から声が掛けられて、それで勘違いに気づいた。テーブル席に就き、会合の課題書だった本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を取り出し、しばらくしてから近くにいた店員にココアを注文する。
 本については、こちらはあまり印象に残ったことがなかったので、特段に話すこともなかった。(……)の印象としても、思っていたよりも柔らかく、さして掘り下げない概論的な本だった、というようなものだったらしい。(……)は、横文字の人名が覚えられないと言って、高校時代に世界史の授業で使っていたというレポート用紙を用いて、真面目な勉強のように項目をまとめてきていた。会話をしているあいだ、まず、喫茶店は結構混んでいたのだが、周囲のざわめきが耳を圧するようにやけに厚く聞こえて、知覚が過敏になっているのではと思われた。また、(……)らの話を聞きながらも、「くだらない」とか「どうでも良い」とか、以前だったら思ったはずもなく、また本心で思っているとも思われないような心の声が自動的に湧き上がってきて、それでやはり、自分は統合失調症的な精神になっているのではないかと思われて、気分があまり晴れなかった。四時半を前にして、会計を済ませ、書店に向かう。
 外に出ると、五時前でも空に青さが残っており、日が随分と長くなったようだった。駅舎横のエスカレーターを上がって広場に出ると、雪がまだ結構広く残っており、小児がその上で遊んでいるのも見られる。オリオン書房への道を辿り、入店して、海外文学の棚を見に行った。しばらく見たのだが、それほど興味を惹かれるものもない((……)が読んだというロベルト・ボラーニョの『チリ夜想曲』はちょっと読んでみたいが)。次回の課題書をどうするかと言いながら、今回は日本の小説でも取り上げるかと思い立って、それで芥川賞を獲った若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』を話題に出した。振り返った背後がちょうど日本文学の棚であり、平積みされているなかの端のほうに、件の本がある。また、同時にもう一人受賞した人がいたなということも言い、それも探して、反対側の端近くに見つけた。石井遊佳『百年泥』である。どちらもそれほど長いものではないから、これら二冊を合わせて次の会の課題書としても良いのではないかと提案すると、そのように受け入れられた。図書館ではきっと予約がたくさん入っていて借りられないだろうからと、ここで購入してしまうことにして、二冊を持ち、岩波文庫や哲学の区画をちょっと見てから、購入に行った。
 エスカレーターを下って退店し、SUIT SELECTの前を通ると、聞き覚えのあるモダンジャズが掛かっていたが、何の曲だか思い出せなかった(Hank Mobleyか何かではないか?)。駅に向かうあいだもやはり風が大層冷たく、ぶるぶると震えてしまう。(……)からは、喫茶店にいるあいだに、今日は飯に行くかと訊かれていたが、精神が不安定なので、今日は帰るつもりでいると断っていた。駅舎の通路に入ってもざわめきが厚い感じがしたが、先ほど、喫茶店にいる時よりは耳につかなかったような気がする。改札を抜けたところで別れの挨拶を交わし、発車が近くて人々が急ぐなか、ゆっくりとホームに降りた。端の車両に乗ったが、席が埋まっていたので扉際に就く。本を読む気にもならなかったので、概ね目を閉じて移動を待った。そのあいだ、次第に尿意が意識されてきて、不安を来たすかと思って見ていたところが、じわじわと高くなっては来るものの、突発的に盛るということはなかった。
 (……)で降りると、ホームを辿って便所に行く。用を足して出てくると、ちょうど乗り換えの電車が着くところだったので、たまには、と最後尾でなく一番前の車両に乗り、座席に就いた。ここでも本は読まず、目を閉じて休み、時折りひらいていま自分が電車内にいるのだということを確認するようにしながら発車を待った。最寄り駅からの帰路のことは特別覚えていないが、やはり寒さに苛まれたと思う。
 帰り着くと、父親の車はあるが母親のそれがなく、どこかに出かけているらしかった。無人の居間に入って家中の静かなことを感じると、今までの自分からは信じられないことだが、やはり精神が不安定なところがあるのだろう、一人でいることの寂しさのようなものを感じた。しばらくすると母親が帰ってきた。職場からたくさん貰ってきたパンを、知人のところに届けに行っていたということだった。それで食事を取る。
 食事のあと、すぐに入浴した。束子健康法を行ったが、丁寧にやりはじめて幾日か経ったので、段々とあまり効果が感じられなくなってきているように思われる。しかし、なおざりにするのではなくて、これからも丹念に続けていくつもりである。入浴後は、頭に疲労感があって、今日は眠れそうだなという感じがしていた。それにしても九時に眠るのでは早すぎるので、もう少し時間を使おうということで、『後藤明生コレクション 4 後期』を読み進めた。ここでも声を出して音読をしたのだが、そうすると余計に頭が疲労して行くのがわかり、少々ふらつくような感じにもなってきた。それで、九時五〇分で読み物は打ち切り、上階に行って湯を沸かし、湯たんぽを用意すると、室に帰って早々と就床した。

2018/1/27, Sat.

 初めに覚めたのは四時二〇分である。だいぶましにはなったが、例によって心身の緊張があった。それをやりすごし、しばらく経ってから薬を服用する。そうして、腰をもぞもぞとベッドに擦りつけながら時間を過ごす。この動きを行うと、どうしてなのか緊張が緩くなり、神経が和らぐのを如実に感じたが、しかしなかなか眠りはやって来ない。六時頃になってようやく寝付いたらしく、最終的に覚めたのは九時前だった。頭には確か、藤井隆"ディスコの神様"が流れていた。
 瞑想はせず、上階に行く。母親に挨拶をして、鍋のおじやを丼に移し、電子レンジで温めて卓に就く。それで新聞記事をチェックしながらものを食べる。食事を取って下階に帰ったあとは、まず読書をした。時刻はちょうど一〇時、『後藤明生コレクション4』を二六〇頁の「ジャムの空壜」から読み出す。黙読ではなくて、音読をする、と言っても声をはっきり出すのではなくて口を動かして無声音を発するのだが、このようにしたのは、ずっと昔、パニック障害の症状が酷かった時代にやはり諸々インターネットで調べてしまうもので、その折、音読がセロトニン神経を活性化させて不安に良いとか見たのを思い出したからだ。当時もいくらか取り組んだのだが、その時は効果をあまり実感できず、続かなかったようだ。今はどうかと言うと、確かに何となく、頭が落着くような気はするので、しばらく本を読む時はこの方式でやってみるつもりである。前日もそのようにして読書に勤しみ、コンピューターをほとんど使わなかったこともあって、随分と久しぶりのことで一〇〇頁も読んだのだ。
 それで一〇時半まで読書をして、それから何をしたのかは覚えていない。医者に行くつもりだったので、一一時前になると電車の時間を調べ、すると一一時半頃のものがあったので、外出の支度を始めた。いつもながらのチェックのシャツに空色のジーンズを履き、カーディガンとモッズコートを羽織る。上階に行くと、母親は出かけているようで、玄関を出ると車がなかった。道を歩きはじめると、前方に(……)が、道に出ているのが見える。距離のあるところからちょっと会釈をして、家に続く細道に入らずに杖をついて立っているのに近づいて行き、挨拶をして少々立ち話をした。先のほうに、消防車が来ており、人もちょっと集まっているのが見えていた。それについて話を振ると、何だか良くわからないが、シートか何かが燃えたとかいう話である。誰かが火を点けたのか、あるいは太陽光線の反射の具合で発火したのか、真相は知れない。天気は澄みやかな晴れだったが、雪が残っていてまだ寒いですねと言うと、お祖母ちゃんの時も随分降ったね、という風なことを返してくる。こちらの祖母が死んだのは二〇一四年の二月七日だが、夜の九時頃に病院から故人の亡骸を運んで帰ってくるちょうどその道すがら、雪が始まり、翌日に掛けて大層降ったのだ。あれも四年前ですねと言いつつ、その一週間後の葬儀の時にも同じくらい降りまして、と当時の記憶を話した。順番は前後するかもしれないが、目的地を訊かれて医者に、と答えると、どこか悪いのかと続くので、精神科とかパニック障害とか言うのもこちらは構わないが、あちらには無用な気遣いを与えるかと気が引けて、ずっと前から持病のようなものがあるんですよ、と濁した。そうして、お寒いので気をつけてと別れ、進むと、すぐ先で今度は(……)が掃き掃除をしているので、挨拶をする。ここでも同じようなやりとりで、どこへと訊かれて医者へと答え、どこか悪いのかと言うのにも同じようにして濁した。
 消防車は一台、こちらが消防員や集まっている人々のあいだに入ると、パトカーがちょうど発っていくところだった。事情は窺い知れなかったが、過ぎて坂に入り、駅へと上って行く。駅へ入ればホームには日なたがあるものの、西から吹く風が大層冷たい冬の晴れである。やって来た電車に乗ると、席に就いて到着を待ち、降りると向かいに乗り換えた。
 (……)で降り、便所に寄ってから改札を抜けて、(……)へ向かう。やはりひどく冷たい風が吹き、身を刺されながら行くと、医者のビルの周囲にも雪が残っており、道に貼り付いてもいる。ビルに入って階段を上がって行き、待合室に入ると、結構先客が集まっていた。カウンターの事務員にカードを差し出し、室の角、ソファの端に就いて、『後藤明生コレクション4』を読みはじめた。ここでも、口の動きはほとんどなく、ほとんど口内で僅かに舌を動かすのみだが、音読のようにして順番を待つ。人数は結構いたのだが、診察室に入っても長く留まる人がおらず、思いのほかに早々と捌けていって、正午前に着いたところが、一二時二〇分には番が来た。ノックをして失礼しますと言いながら室に入り、医師に挨拶をして、椅子に腰を下ろした。どうかと訊かれるのには、まあわりあいに落着きまして、と笑みを浮かべながら応じ、ただ一番大きなこととしては、必ず早朝に寝覚めをしてしまうと言った。四時から五時頃と具体的な時間を言い、その時に必ず心身に緊張感があるなどと説明し、どうも早朝に神経症状というのが出やすいらしいと話したところ、医師は睡眠薬の処方をするかと尋ねてきた。どうしようかなと思いながらここに来たんですけど、と応じつつ、しかしひとまず、良くはなっているようなので、今のままで様子を見てみるという風に告げ、同じ薬を出してもらうことにして、室を後にした。
 会計を済ませるとビルを出て、隣の薬局へ行く。カウンター裏で立ち働いていた局員に挨拶をして処方箋を渡し、お薬手帳はと訊かれたのには、もう埋まってしまったので新しいものをいただきたいと頼んだ。そうして手近な席に就き、順番を待ったのだが、この日の薬局は常になく忙しかったようで、一旦外出していた人らが戻ってきてもちょっと待つような状態だったし、隣の老人などはそのようにして待たされるのに苛々したのか、途中、立ち上がってその場をちょっとうろうろとしていた。こちらは待つことはそう苦ではないから、落着いて本を読み、呼ばれるとカウンターに行って、前回も同じ人だったが、眼鏡の女性局員とやりとりをした。そうして会計をして、退出する。
 道に貼り付いている氷の上を、小学生の、まだ低学年の女児が前後に滑り、母親がそれをたしなめるように穏やかな呆れのような調子で声を掛けていた。こちらは道を線路のほうへ折れて、駅へと向かう。風がやはり大変に冷たく、身体をぶるぶると震わせたが、好天のためにこの時はかなり穏やかな気分になっていたと思う。駅を反対側へと渡ると、図書館に入る。特に何かを借りるつもりはなかったが、新着図書でも見ておこうかと思ったのだ。入館して、雑誌の区画をちょっと覗くと、『現代思想』の最新号が入っており、「保守とリベラル」と題されていたと思うが、手に取ることはしなかった。そのままCDの新着も見るが、特に興味を惹かれるものはなく、便所に行ってから階を上がる。新着図書は多少気を惹かれるものがあったのだが、メモを取っておらず、覚えていない。確認してから哲学の棚を見に行くと、ここに『脳はいかに意識をつくるのか 脳の異常から心の謎に迫る』という本があり、取って見てみると、「抑うつと心脳問題――精神疾患は、実のところ心の障害ではなく安静状態の障害なのか?」とか、「統合失調症における「世界‐脳」関係の崩壊――「世界‐脳」関係が崩壊すると何が起こるのか?」とか、こちらの身に迫る話題があり、その場で立ち尽くしたまま読んだ。じきに、書棚の横の席に移って、ほとんど憑かれるようにして読んだのだが、それは自分が統合失調症なのではないか、少なくともそれになりかけているのではないかという不安に衝き動かされたが故の行動であり、そのように不安に興奮させられた頭だったので、ゆっくりと文字を追うような心の余裕もなく、文をなぞる視線の動きも早くて、また専門用語もあって本がどういったことを言っているのか理解できない部分もあったし、内容もほとんど覚えていない。ただ、そこに載っていた統合失調症の例とか、抑うつの説明とかに、自分との類似点(例えばここで紹介されていた統合失調症患者は、前兆症状として、視覚や聴覚が相当程度鋭敏化していた、などという点である)を見出しては恐れ慄き、身を不安に浸していた。しかし結局のところ、この本では自分が統合失調症になりかけているのか否かわからないので、そのうちに落着いて読むのを止め、そうして退館に向かった。
 駅までの通路の上に残った雪から水が溶け出しており、注ぐ陽光に輝き、際立っている。駅に渡ってホームに入ると、陽射しのなかに入って正面からそれを浴びるのだが、胸に当たる光の感触がじりじりと、随分と熱く強く感じられた。
 電車に乗って(……)まで行くと、すぐには降りずにしばらく目を閉じてうとうととしていた。そこに発車を知らせるアナウンスが聞こえたので、急いで降りたが、それは向かいの番線の電車だった。電車が滑り出して行く横、ホームを中ほどに向かって歩き、自販機でスナック菓子を二つ買う。まもなくやって来た電車に乗り、最寄りへ至った。
 帰路に特段の印象はない。帰宅すると、母親が食べた煮込みうどんの残りがあったので、それをいただき、室に帰った。この時もまた、自分は統合失調症なのではないか、このまま行くと人格が崩壊したり、後戻りできない地点に至るのではないかという不安から、色々とインターネットで検索してしまった。以前も引用したサイトだが、まず下記にこのページを引用する。

◆ 初期の自覚症状
発症の初期によく体験される症状として、以下の様にまとめられます。(中安信夫著、初期分裂病より)。

1、 自分の意思によらずに、体験そのものが勝手に生じてくると感じられる。その中に、自生思考(とりとめもない考えが次々と浮かんできて、まとまらなくなる。考えが自然に出てくる。連想がつながっていく)、自生視覚(明瞭な視覚的イメージが自然に浮かんでくる)、自生記憶想起(忘れてしまった些細な体験が次々と思い出される)、自生内言(心の中に度々ハッキリした言葉がフッと浮かんでくる)等により、「集中できない」「邪魔される」と感じられる。
2、 自分が注意を向けている事以外の、様々な些細な音や、人の動きや風景、自分の身体感覚や身体の動き等を、意図しないのに気付いてしまう。そのことで容易に注意がそがれてしまう。「どうしてこんなことが気になるのか」と困惑していたものが、「気が散る」「集中できない」と感じる。
3、 どことなくまわりから見られている感じがする。この体験は人込みの中で感じられることもあるが、自室に一人でいる場合でも生じる。気配を感じることもある。
4、 何かが差し迫っているようで緊張してしまうが、何故そんな気分になるのか分からなくて戸惑ってしまう。緊迫が勝手に起こり、それに対して困惑するような症状。
 (第7回 「統合失調症の初期症状」; http://www.oe-hospital.or.jp/column/column7.html

 このなかで、一番と二番は概ね自分に当て嵌まるもので、昨日今日だと特に、自生思考よりも音楽が頭のなかに勝手に流れるという症状のほうが目立っている。四番も当て嵌まるが、これは、そのように頭のなかに勝手に思考や音楽が湧き上がってくることに対する緊張や不安であり、それによるストレスだろう。その基盤となっているのは、ドーパミンの分泌過剰なのだと思う。
 続いて、同じサイトの次のページを引用する。

 統合失調症の初期症状を、本人は違和感として自覚できるように、普段の自分にない状態を「病気ではないか」と判断できることを「病識」といいます。しかし、病初期にあった病識は、病状の進行により曖昧になり、結局消失することもあります。妄想等の激しい急性期症状への経過についてまとめてみます。
◆ 初期症状により「集中できない」等の違和感について、「何故このようなことが起きるのか」という意味を考えたり、「何とかしよう」と対処を考えても症状は消えないため、神経がすり減りひどい疲れを自覚することが多い様です。不眠などの睡眠障害も伴います。この段階では病識があります。
◆ それでもなお、普段気にならない周りの音や雰囲気、人の仕草に過敏になり、例えば「何か特別の意味があるから人は笑っているのではないか?」「何かのサインがどこからか送られているかもしれない」と疑い深くなります。集中しようとしても考えがまとまらず混乱し、徐々に病識は曖昧になります。
◆ この状態が続くことは本人にとって不安や恐怖であり、予期せぬことに備えて、人との接触を避け部屋に閉じこもりじっとしていることもあります。この状態を自閉といいます。また幻覚として、自分のことを言われる内容の幻聴なども出現します。このように自閉をすることは、自分を守るための手段であると考えられます。
◆ 何とかこの事態を納得させるために理屈を考えます。例えば「人が笑っているのは、自分のことが外部に漏れているからだ」と考え「部屋に盗聴器が仕掛けられている」と結論付けたりします。この状態で病識はなくなります。
◆ この状態で人に関わると「自分を馬鹿にしようとたくらんでいる」等と感じるため怒りっぽくなり、時に「追い込まれた」と感じ急速に緊張感が著しくなり、強い拒絶や興奮が起きてしまいます。
 (第8回 「初期症状から急性期症状と病識の変遷」; http://www.oe-hospital.or.jp/column/column8.html

 現在自分は、概ね一つ目の項目の段階に至っている。ここに書かれていることがかなりの程度で当て嵌まるので、自分は統合失調症なのではないかという疑問が解消されて、確かにそうらしい、ことによると統合失調症と呼ばれる疾患に陥っていたその手前まで来ていたらしいと認識され、それでむしろ落着くようなところがあった。気が狂うということを恐れてしまうというのは、年末年始の変調がややトラウマ化しており、あまり思考を野放しにしすぎるとまたあのようになってしまうのではないか、それ以上先に行ってしまうのではないかという恐怖だが、これは不安障害的な症状だろう。思考が生じてくること、自生思考がコントロールできなくなることに恐怖を抱いているわけだが、ある意味で、自分はこの不安によって気づかないうちに症状がこれ以上進行することを止められたのかもしれない。そうだとすると、皮肉なことに、不安障害的な性向によって自分はある種救われたとも言えるわけだ。
 しかし、まだ来ていないことを恐れてばかりいても仕方がない。自分がこの先発狂するかどうかなど結局は誰にもわからず、もしそうなってしまったとしても、それは自分にはどうしようもないことである。現実的に考えて、自分は今、肉体的な神経症状も大方収まって、日常生活を概ね問題なくこなすことができている。今現在の実際的な問題としては、うまく眠れないということがおそらく一番大きなこととしてあるだろう。これに関しては、睡眠薬を用いても良かったなと現在二八日の時点ではそういう気分になっているのだが、この日の医者では処方を断ってしまった。もう一つの問題としては、自生思考や自生音楽が気に掛かって不安になる、ということがある。これに関しては、まず、唯物的な要因としてドーパミン優位の脳をどうにかする必要がある。単純な対立図式になってしまうが、それにはセロトニン、あるいは副交感神経を活性化させることがやはり有効なはずで、その点、効果的なのはまずはおそらく運動だろうと思う。さらには音読もどうもやはり効果があるような気がしており、声を出して文をゆっくり読んでいると、明らかに頭が、悪い意味でなく重くなって来て、呼吸の調子も緩くなり、欠伸が出てきたりもするのだ。これはやはり、セロトニンが分泌されている証しなのだと思う。ただ、今日(二八日)の話になるが、今しがた一時間ほど『後藤明生コレクション4』を音読したところ(「大阪城ワッソ」及び「四天王寺ワッソ」)、途中まではリラックスしていたのだが(頭の重い状態で声を止めて、思考を確認してみても、自生思考や自生音楽は生じてこなかった)、終盤は頭が澄んでまた自生音楽が始まってしまったような具合で、これは多分、副交感神経が活性化されたのに拮抗して、その後、交感神経も活性化され、ドーパミンの分泌が促されたということではないのか。そのようにしてバランスが取られるのだと思うのだが、要は不安を感じず、自生思考もそこまで暴走せず、目の前のことややりたいことに集中できればそれで良いわけで、文を読む際には音読を行って、そのたびにセロトニン神経を活性化させるのは良い習慣ではないかと思う。そのようにして、全体的に今よりも落着いた頭になって行ってくれないかというのがこちらの望みである。
 また、意識の志向性が頭のなかの音楽や思考に向き、そこから離れなくなってしまうというのが煩わしい、あるいは怖いわけだが、これに対してはサマタ瞑想の技法が有効かもしれない。つまり、常に(とは現実には行かなくとも、折に触れて)呼吸に意識を向けるようにしつつ、頭が逸れて、自生思考や自生音楽が生じていることに気づいたら、また呼吸に戻すという方法である。ティク・ナット・ハン氏という仏僧がおり、彼は日常生活を送る上で常に「いま・ここ」に気づき続けるマインドフルネス=汎瞑想を提唱しているようなのだが、インターネットで調べた限り、おそらく彼もこのようにして呼吸(とそれと連動した身体感覚)をホームポジション的な位置づけとして置いているようだ。この人の本は、いずれ読んでみたいと思う。
 今現在の結論としては、このような地点に自分は至っている。こうした生の技法を続けていれば、自分は何とか、不安にも追い立てられず、また自生思考などの症状をこれ以上進行させることもなく生きていけるのではないか。
 日記を書くつもりが、そうこうしているうちに五時に至ってしまったので、上階に上がった。カレーを作ることにして、野菜を切り分け、鍋で炒める。煮込みはじめると母親に後を任せて下階へ戻り、『後藤明生コレクション 4 後期』を読んだ。音読をしているうちに七時を回ったので、上階に行くのだが、腹が減っていなかったので先に風呂に入ることにした。それで洗面所で服を脱ぎ、ぶるぶると震えながら浴室に入って蓋をめくったところが、湯が入っていない。スイッチを点けるのを忘れていたらしいので、湯沸かしのそれを押しておき、ジャージを着て居間のストーブの前に避難した。そうして身体を温めながら待っているうちに、やはり先に食事を取るかという気になったので、カレーをよそって食べる。テレビは、八時台から、出川哲朗が電気駆動のバイクを充電させてもらいながら各地を旅する番組が始まって、結構面白くそれを眺めた。出川のキャラクターもともかくとして、映し出される一般の人々の様子が、特に何ら際立った印象をもたらすわけでないけれど面白く、テレビ番組というのは基本的に、芸能人を映しているよりもそのあたりの人間を映しているほうが面白いのではないかとも思われる。
 その後入浴し、九時を過ぎて室に帰ると、日記を記した。二六日の分をノートから写して投稿し、この日の分も一一時過ぎまで書いたところで、この日はそこまでで切りとして、眠りの準備を始めた。コンピューターを前にしていたので頭が冴えていたような感じがしたが、歯を磨いてからまたちょっと音読をしていると、欠伸が湧いてくる。それで零時ちょうどに明かりを落として就床した。

2018/1/26, Fri.

  • 一度覚めると二時頃。右を向いていた。この時気づいたが、この時間に覚めたのは、逆流性食道炎的なものでは? 以前にもあった。胃の感覚からしてそうだと思われる。左に向き直る。
  • その後、二度ほど覚める。五時。この時、夢の中で発作。頭がぐにゃりとゆがむと言うか。覚める。落ちついてから薬を飲もうと起きあがると、ぐらりとする感じが残っている。
  • その後眠れず。死者のポーズ的に脱力し、そのまま静止してすごす。頭の感覚が変だったのが、次第に落ちついたよう。寒気がくり返し、身を通りぬけていく。そのまま6時半。
  • その後も眠れず。夢のようなイメージに巻きこまれかけると、頭が自動的に反応し、そこから出てしまうというようなことを、5分ごとくらいにくり返す。そうして8時すぎ。
  • 起床。寒い。身体、小刻みに震える。上階へ。ストーブの前で温まる。その後食事。気分は平静なのだが、夢の中のような発作がいつくるか、と警戒するような感じ。身体のほうはだいぶ落ちついてきたが、頭の感覚がとにかく妙である。顔面から頭蓋の皮(筋肉)が常に張っているような。時折り、額のあたりも勝手にぴくぴくと動く。とにかく神経が何かしらおかしくなっている。
  • それでPCをやはり使わないことに。ここまで書いて9時40分。日記はやや簡略化せざるを得ない。
  • その後、PCを使わないので、読書へ。『後藤明生コレクション4』。寝床で布団を身体にかけ、太陽光を大いに浴びながら読む。途中、眠くなってうとうととするのだが、その「眠くなってうとうとしている」状態をも頭のどこかで観察している自分がいるようで、完全に意識を失うことがない。正午すぎまで長く読む。「蜂アカデミーへの報告」は長く、なかなかに面白い。引用されていたファーブルの『昆虫記』はぜひとも読んでみたいが、一体いつになるのか?
  • 瞑想をしてみることに。頭のしびれのような症状に効果があるかと。結果、よくわからない。その後、ギターを弾き、上階へ。食事を取る。納豆と豆腐を用意し、米と汁物。食後、一旦室に戻り、ふたたび読書をしていたのだが、20分ほどでPCへ。マインドフルネスと脳内物質など調べてしまう。こうした振るまいが神経症そのものである。頭のしびれるような感覚がなくなれば、概ね正常だと思うのだが。しかし焦るまい。
  • 2時に至ったので洗濯物を取りこみに行く。タオルをたたみ、アイロンかけもして、室へ。ここまで記録。
  • 運動。頭のしびれ解消。すっきりとさわやかに。
  • 上へ。補給。汁物と卵。夕食作ろうかと。しかしやめる。
  • 読書。音読。「蜂~」読み終える。
  • 着替え。
  • 母親帰宅。寒いのでカイロ。石油入れ。空、雲。希薄だが煙。灰のなかに陽の色。雪、残っている。タンク持つ。
  • 出発。西、雲、バラ色。この頃はかなり正常。

2018/1/25, Fri.

 寝付いてすぐ、二時頃に一度目覚めた。就床の際に室を暖かく保っておこうと、空調を二時間後に切れる設定で入れておいたのだが、それがまだ稼働している最中だった。ここではしかし、問題なくふたたび寝入り、次に覚めたのが例によって五時前だった。心身が緊張にまみれていた。何故なのかわからないが、神経の乱れというものはとりわけ眠りの最中に発現するらしい。以前も記したと思うが、パニック障害に罹患した初期の頃もよく、激烈な神経症状によって早朝に起こされることがあったのだ。もう慣れているので、呼吸に意識を向けて心身の感覚を落着けて、それから薬を服用した。しかし頭は冴えたままで、どうも入眠できない気配だったので、もう一旦ここで起きてしまい、本を読む時間を取り、そのうちにまた眠くなってきたら寝ようと決めた。そのような判断を実行できるくらいには体調が回復していたわけである。実際、薬を飲んだこともあり、かなり緩やかで落着いた心身の調子になっていたと思う。
 それで明かりを点け(外はまだ暗闇だった)、ストーブと空調を入れて、『後藤明生コレクション4』を読み進めた。「蜂アカデミーへの報告」である。頭は冴えていたはずだが、眠りが少ないためなのか、文をやすやすと、スムーズに通過しては行くものの、気づけばやはりその意味がうまく拾い上げられていないというような感じがあった。また、自生思考あるいは自生音楽も頭のなかにあったのではなかったかと思う。起き抜けには確か、これも随分と懐かしい曲だがJourneyの"Don't Stop Believin'"が流れていたのだが、それで不安になるということはなかった。
 六時を越えたあたりで、どうもこれはまた眠れるのではないかという感触が兆しだしたので、読書は六時一七分までとして消灯し、ふたたび眠りに向かった。確かこの時に、ヨガでいうところの「死者のポーズ」めいた姿勢を取り、ボディスキャンを行ったのだが、手がさほど温かく重くはなっていかないかわりに、ここ数日のように痺れたりもしないので、神経が調ってきているとの確信を深くした。少々時間は掛かったかと思うが。無事に寝付くことができて、その後二度目覚め、八時二〇分頃を正式な覚醒とした。
 五時に覚めた頃からあまり寒さを感じていなかったのだが、七時頃に覚めた時には、脚のほうに薄く汗の感触があったくらいで、身体が熱を持っていた。最後の覚醒の時もちょっと発熱した風になっており、また筋肉痛のような鈍い感覚が身体の各所にあった。それと似たものとして思い出されるのは、深呼吸を頑張りすぎていた時のことで、あの時はそれ以前から夜更かしが続いて身体が狂いはじめていたところに、交感神経を過剰に活性化させてしまって発作を引き起こし、それを起点としてさらに神経が狂っていったのではないかと今となっては推測するが、この時も、昨夜の束子摩擦で神経を活性化させすぎてしまったかとも思ったものの、交感神経だけでなく副交感神経のほうも調えられたようで、不安になるということはなかったし、呼吸の調子も自ずと、軽い感触でありながら深いものになっていた。それでしばらくすると床を抜け、背伸びをしてから便所に行く。戻ってくると、瞑想である。この時もやはり自生音楽があって、なかなか消えずたびたびそちらに意識が逸れてしまったが、不安は覚えず、心身の感触としても、ここ数日にはないほどにすっきりとまとまっていた。二〇分ほど座って、上階に行く。
 母親に挨拶をして、ストーブの前にちょっと座ってから(空は見える限り雲はなく、実に晴れがましい、澄んだ青さにひらかれており、窓の右上に位置する太陽から注ぐ光がその青さを覆って輝き、こちらの目にも眩しく落ちてくる)、洗面所に行き、顔を洗うとともに髪を梳かした。それからゆっくりと嗽をして、台所に出ると米のおかずが特段ないので、例によってハムエッグを焼くことにした。ほか、野菜の雑多に入った汁物とともに卓に就き、新聞をめくりながら食事を取る。新聞記事をチェックするだけはしておきながら、実際にはまったく読めていない数日が続いている。この時、見田宗介のインタビュー記事が載っていたのだが、それでこの人の名前が「みた・むねすけ」と読むのだと初めて知った(ずっと、「けんだ・そうすけ」だと勘違いしていたのだ)。
 食事中も自生思考があったと思うが、自分の行動やほかの知覚と比べてそれが殊更に際立って煩わしいということはなかった。呼吸の感触や、汁物の野菜を咀嚼する速度から自分の落着きが自然と測られる。食事を終えると皿を洗い、この日は忘れずに風呂洗いも済ませて、室から湯呑みを持ってきた。白湯を注ぐ前に、南の窓に向いて脚をひらいたり、伸びをしたりしたのだが、その時に見えた近所の一軒の屋根に積もった雪の層の、あれは木造家屋で周囲のほかのスタンダードな瓦屋根とは屋根の形が少々違うようだが、細かな襞を成してなだらかに傾斜した白さのまさしくうねり[﹅3]と言うべき感触を帯びており、まるで高級な布のように映るのが珍しく思われた。
 白湯を注いで室に戻ると、コンピューターを点して前日の記録を付け、早速日記を書きはじめた。そうしているとやはり、神経の疼きのような微細な感覚が身体のあちらこちらに生じるので、まだ油断はできない。ひとまずは早朝の寝覚めとその際の緊張感がなくなるかどうかが一つのポイントだろう。しかし、前日にも離人感的なものが少々生じて怖くなり、自生思考がぐるぐると回った時間があったが、これも結局は神経の乱れが自分に行わせているのだということを確信しつつある。だからやはり肉体に働きかけて唯物的な部分のバランスを調えることが活路になるはずで、昨夜から今日までの感触では、それには束子健康法が一番効果があるのではという気がしている。これを毎日、やりすぎることはないが、丁寧に実行していればそのうちに自然と心身が調っていくだろう。今回の変調は、そのような丹念な「自己への配慮」を怠ったがゆえの狂いだったと言うべきだろう。
 日記を綴っていると母親が掃除機を持って部屋に来たので、機械を受け取って床や机上や本の上の埃を吸い取った。それからここまで記し、現在は一〇時四三分である。それからさらに前日、二四日の記事も書き上げてしまうと、一一時二〇分になった。コンピューターの前に座り続けて頭が濁った感じがしたので、瞑想をして心身を調え、さらに運動に入った。tofubeatsの音楽を流して、三〇分ほど身体をほぐし、その後小沢健二の歌をいくつか歌った。

書き物。途中、番組タイトル調べる。ヴァージニア・ウルフ。彼女の病気を検索。自分と似ているのではと。統合失調症だとか、解離性障害だとか。それで調べて、不安になる。
寄り道してしまい、二二日を書き終えるのは二時に。わかったのだが、不安というものは徹頭徹尾自分自身が作り出している。実感できたように思う。思考によって、つまりは言語によって。思考をする限り、言語を操る限り、不安はなくならない。重要なのは不安に飲み込まれないということ。不安が来ても、呼吸などでコントロールできると知ること。
ただ、それは認知の方面。神経的な唯物的なものがあって、こちらの調整もしなければならない。と言うか、これがベースとして調っていなければ、落着いて不安に対抗することはできない。
自分の今のものとしては、思考恐怖、雑念恐怖のようなもの。思考のコントロール。あるいは、考えは考えに過ぎないと知ること。
食事しながらそのようなことを考える。お茶漬け、汁物、卵、林檎。思考を手放せるかどうか試してみる。わりあいにうまく行ったよう。
洗濯物。出しておいた。食事したのち、アイロン掛けして、たたむ。そして下階へ。日記とブログ読む。この頃には既に落着いていたよう。ブログ途中まで。神経症状出てきたので。身体が妙な感じに。額のあたりもぴくぴくしたり。
ベッドで脚ほぐしながら読書。英語。四時過ぎに終えて、ストレッチ。足の裏を合わせて股関節を伸ばすやつ。
歯磨き。現在に集中。先ほどの思考繰り返す。思考をよく見つめるようにする。

2018/1/24, Wed.

 やはり明け方、五時になる前くらいに一度覚めた。会陰部をほぐしておいたおかげか、この時、切迫する尿意の高まりはなかった。しかし例によって、頭が何だかおかしな状態になっており、ふたたび寝付こうとしてじっとしていると、両手の感覚が、特に左手のそれが消えて行く、あるいは痺れて行く。それでもこの日は、薬も使わずに寝入ることができて、その後もほとんど一時間おきに目を覚ますような状態だったが、そのたびに何とか寝付くことができた。と言うよりは、呼吸をしているうちに意識の乱れに巻き込まれて行って、入眠したのかどうか定かでない時間を過ごしたそのうちに、気づいて時計を見ると時間がいくらか経っている、というような感じだった。
 最後に覚めたのは九時一〇分である。これくらい眠れればこちらとしてもありがたいとそれ以上は眠らず、しばらく寝床でぼんやりとした。緊張感はやや残っており、また気になることとして、左手の痺れもいくらか残っていた(薬を飲むと和らいだようだったが、一一時現在、今も手首のあたりにかすかに残っている)。寝床でやはり自分の症状について思いを巡らせてしまうものだが、考えても仕方がない、身体のことは身体に、不安のことは不安に任せ、自分にできることをやっていこうというわけで、ひとまず起き上がり、ダウンジャケットを着て伸びをした。そうして便所に行ったのだが、用を足すと、尿の色がいつにも増して濃い黄色だった。
 戻ってくると、薬を服用してから瞑想を行う。左手の痺れがどうなるか気に掛かったが、静かに呼吸をしているあいだ、強くなりはしなかったので安堵した。薬の効果もあってか、心身も次第に落着いていったようである。九時半から四五分まで座って上階に行き、母親に挨拶して、ストーブの前にちょっと座ったあと、食事の支度をした。納豆を取り出して葱を刻み、タレと酢を混ぜる。ほか、前夜の残りのポトフと、これも僅かに残ったカレーピラフである。卓に就いて新聞記事をチェックしながらものを食べる。外では、川沿いの樹々が風を受けて薄緑の梢を、いたいけなように、やや緩慢に左右に揺り動かしている。食事を終えてぼんやりとしながら炬燵テーブルに目をやると、二枚乗っている座布団のその上に日なたが露わで、天板の上にはさらに、窓ガラスを区切る真ん中の枠の影が縦に差したその外側に、白い光がまばゆく溜まっている。
 食器を片付けると、白湯とともに室に帰って、日記を書きはじめた。ここまで記して一一時半過ぎ、やはり前立腺のほうが気に掛かって、座らずに立ったほうが良いのだろうかと思いつつも、ベッドの縁に腰掛けている。薬を飲んで以来、朝は比較的穏やかな気分だったのだが、先ほど排便してきて以来なぜか、また少し落着かない、そわそわとしたような調子になってきている。
 そわそわしてばかりいても仕方あるまいというわけで、風呂を洗いに行った。そうして戻ってくると、この不安感が瞑想によって改善されるのか試してみようというわけで、ふたたび枕の上に座って瞑目した。しばらく呼吸していると、一応、呼吸や身体が少々柔らかくなってきたようではあった。同時にちょっと眠いような感じになり、脳内に音楽が湧いてきたり、まったく何の脈絡もなく、創作物の一場面のようなシーンが浮かんだりするのだが、前者はともかくとして、後者の夢のようなイメージは一体何なのか。それほど深いところまで入ったつもりもなく(実際、瞑想は八分間で終わった)、意識は比較的明晰なのに(それらのイメージを妄念だとして払うメタ認知能力は定かに保たれている)、入眠時に見るようなイメージの断片が浮かんでくるのはどういうわけなのか。終えてみても、不安感が薄れたのかどうなのか、あまり良くわからない。
 その後、『後藤明生コレクション』を読んだが、このあいだのことは覚えていない。覚えていないことはどんどんカットして進むと、居間で昼食を取るあいだに、窓外の景色を眺めた。朝と同じく、川沿いの樹々が風に靡いているのだが、朝よりも光の粒立ちが均されて全体に渡るようになっているその薄緑色のざわめきを一心に見つめる。山の樹々から雪はほとんどなくなり、右方の山肌の露出した丘にはまだ残っているのだが、白さの合間に茶色が差し込まれているその質感が、全体としてまるで樹の皮を貼りつけたように見えた。空中には光が満ち渡って実に明るく朗らかであり、そのような光景を眺めていると、ああ美しいなあという感傷的な気分がやはり兆してしまい、小沢健二 "さよならなんて云えないよ(美しさ)"の一節、「本当はわかってる/二度と戻らない美しい日にいると」が自動的に連想され、このような光景もまたすぐになくなってしまうのだなあ、そして結局、我々も死に、消え去って行くのだなあと、無常感の典型みたいなことを思って、恥ずかしながら涙を催しかけた(日本の古典文学にでも描かれていそうなセンチメンタリズム)。その後、食事を終えてアイロン掛けをしているあいだも、涙が湧きそうになるのを抑えたのだが、このようなセンチメンタルな感じやすさこそが最近の自分の精神的・神経的不安定を証すものではないのかなどとも考えた。
 昨晩、極寒のなかを歩くことになり、やはり身体を冷やすのは神経にまずいと思ったので、今まで着ていなかったコートをこの日は大人しく羽織ることにした。そうして三時半頃、出発する。道を行くあいだ、やはり少々不安があって、最後のほうではまた頭がぐるぐる回って離人感めいた症状が出てきていたようである。職場に着いてからもそれはしばらく続き、最初のうちは働きながら、自分の行動や言動が自分のものでないようだというか、本当に自動的に適したように動いてくれる感じで、しかしそれで特段の誤りもないのでこれはこれで、自分自身が勝手にやってくれるのだから楽ではないかというような分離の感覚があったのだが、そのうちにそれもなくなったようだった。また、折々に前立腺炎的な症状が生じていた。この日は身体を冷やさないように、さっさと電車で帰りたかったのだが、仕事があって間に合わず、結局歩いて帰らざるを得なくなった。空腹になると交感神経が優位になるのだったか、何となく落着かない感じもあり、暖かいものを補給しなくては冷え冷えとした夜道を渡って行けないだろうということで、自販機でコーンスープを買って飲んだ。そうすると多少楽になったようで、コートを着ていたこともあって震えることもなく歩いて行く。弧が真下に向いた月が西の途上に出ていた。
 帰宅後、呼吸を意識しながら心身を落着けるように、服をゆっくりと脱いでは着替える(ボタンを外すだとか、ハンガーに掛けるだとかの動作にいちいち集中した)。食事のあいだの記憶は特段蘇ってこないので省略して、一一時を回った頃合いに入浴である。温冷浴と束子健康法の習慣を、常になく丹念に行った。冷水シャワーは細かく区切って、まずは左右の脚の膝くらいまで浴びせてから一度湯船に戻り、次は太腿のあたりまで、次は腰までという風にして、冷水と湯のあいだを何とか往復した(上半身までやると負担が大きいので、最近はもう腰くらいまでしかやっていない)。その後、束子で身体を擦るわけだが、これもほとんど身体全体、隅々までやってみようというわけで、腕から始めて腹や背、首回り、下半身は足の先から始めて両脚の付け根まで、と丁寧に行った。特段力を込めてごしごしとやる必要はない。自らの心身を労るようなつもりで、ゆっくりと軽い調子で、しかし丹念に行い、時折り身体に湯を掛けたり、湯船に戻ったりしていると、外に出ていてもあまり寒さを感じないようになった。最後にふたたび冷水をいくらか浴びて上がったが、服を着ると身体の熱が保たれており、身も軽くリラックスして、明確に神経が調っているのがわかった。眠気もあって、本を読むような頭でもないので、下階に戻るとさっと歯磨きをして早々に眠ることにした。零時二五分である。不思議なもので、歯磨きをしているうちから、身体が眠りに向かいつつある状態になると、前立腺のほうがやや蠢きだしているのが感じられたのだが、束子健康法を行って身体を温めたおかげか、大したものではなく、この夜は床に入ってからも股間のほうが縮こまるような感覚は生じなかった。まったくありがたい話で、入眠にはそう苦労しなかったのではないか。

2018/1/23, Tue.

 一度覚めた時、四時一五分頃だったと思う。先日ほどではないが、またもや尿意の高まりがあった。それは段々弱くなっていったと思うが、ふたたび寝付くことができない。眠ろうと身体を止めても、眠気は一向にやって来ず、心身が冴えたままに瞑想時の変性意識のような状態になってしまうのだ。なぜそんなに脳内物質が分泌されやすくなっているのか? わからないが、またドーパミン神経が活性化しているのだろうかと考え、不安はなかったので、ドーパミンの分泌を抑えるらしいスルピリドだけをひとまず服用した。しかしそうしてみてもやはり眠れないので、しばらくしてからロラゼパムのほうも飲む。少々心身が和らぐようではあったが、それでもやはり寝入ることができず、結局寝床に入ったまま三時間を過ごし、夜も明けて七時台を迎えた。まさか自分がここまでの不眠に苛まれるとは思わなかった。眠りたいのに眠れないというのは、なかなか辛いものである。以前も眠気がやって来ないことはままあり、そういう時は、もし眠りが来なくても、このまま朝まで寝床で耐えてやると強気に構えて、しかし実際に朝まで起きたままということにはならず、いつもそのうちに意識が途切れていたのだが、今回はそのような気持ちにもなれなかった。年始以来、順調に回復してきたと思っていたが、これは思ったよりも長丁場になるかもしれない。とは言え、今まで何年も薬を飲みつつゆっくりやって来たわけで、今次の件も長い目で捉え、一年後には多少良くなっているだろう、というくらいの気持ちで考えるのが良いのだろう。
 七時半を迎えたところで、仕方がないと起床した。心身の調子はさほど悪くないように感じられたのだが、やはり眠りが少なすぎる。上階に行ったあとのことはよく思い出せない。食事を終えて自室に戻ってくると、また慢性前立腺炎について調べて、落着かず、気が気でなかったようである。実際、自宅にいるというのに尿意も普段よりもずっとすぐに、強く感じられていたのだ。腰の痛みもあり、自分が慢性前立腺炎と呼ばれる類の症状を発現しているのは確かだと思われるのだが、これが実体のない、神経的な、言わば脳の誤作動によるものなのか、それとも実際に前立腺が炎症を起こしているのか、当然こちらにはわからない。専門家にも、根本的な原因はわかっていないようで、精神的な要因も大いに関わってくると言うから、やはりパニック障害の下位症状の一つなのだろうか。
 九時を過ぎたあたりで瞑想を行い、すると頭が振れるようだったので、この調子で眠れるのではないかと布団に入ったところが、やはり入眠することはできなかった。何かこちらの意識、あるいは脳が、眠りを拒んでいるような様子すらあるように思われる。仕方がないので諦めて、『後藤明生コレクション4』を読みはじめたのだが、前立腺炎的な症状があったので、身体を動かしたほうが良いかとすぐに切り替えて、運動を行った(その合間に、前立腺に効くというツボを調べて刺激したりもした)。
 そうして一一時一〇分からふたたび読書を始めた。「鰐か鯨か」を読み、「蜂アカデミーへの報告」にもちょっと入ったのだが、どちらの篇も、どこがどうとは明確に言えないが、なかなかに面白く読めたようである。正午も越えて、一二時四〇分頃になると、上階へ行った。朝と同じく、米に前夜の残りの鯖、汁物を用意して卓に就く。テレビのワイドショーは、小室哲哉の引退会見を取り上げて、街の人の声を聞いたり、何やら議論風のことをしたりしていた。会見に向けられる疑問点を特に三つ挙げており、引退をする必要はあったのか、妻であるKEIKO氏(この人はくも膜下出血か何か起こして、脳の障害で闘病中らしい)の容態を細かに話す必要はあったのか、あと一つは「文春」がどうのこうの、と書かれていたが、こちらとしては小室哲哉本人にも彼の作った音楽にも個人的な思い入れはないので、特段の興味は湧かない。向かいの母親は、引退しなくても良かったのにとか、奥さんのことを詳しく話さなくても良かったのにとか洩らしていた。前日の降雪から一転して晴れがましい明るさの日和であり、上に書き忘れたが、朝の居間では、昇りはじめた太陽に照らされて、電線の上にあった雪が溶けはじめ、光を帯びてゆらゆらと揺れるさまがそこここで見られた。白さの薄れた山の姿に目を向けていると、そのうちにテレビはニュースに変わっていて、群馬は草津白根山というのが噴火したと言う。気象庁の会見(音量が小さくておおよそ聞き取れなかったが)にぼんやりと目を向け、そのうちに立って、母親のものと一緒に皿を洗った。
 この頃には前立腺炎的な症状は比較的収まっていたので、白湯を持って室に帰り、飲みながらこの日の日記を記しはじめた。一五分綴ったところでしかし、そう言えば神経症状が気になって風呂を洗っていなかったのではないかと思い当たり、書き物を中断して上階に行くと、やはりそうだったので浴槽を擦った。そのついでに、ベランダに積もった雪を払うことにして、玄関の外から雪搔きを持ってきて、長靴を履いて取り掛かる。前日に母親が測ったところでは、一四センチの厚みがあったそうである。その雪の積み重なりをスコップですくい上げ、柵を越えて、植木類に当たらないようにと少々遠めに、下の地面へと投げ落とした。終えるとさらについでにストーブの石油を補充しておき、そうして自室に帰った。
 ふたたび書き物を始めたのだが、そのあいだも不安があると言うか、心身に落着きがなくそわそわとしているのが如実にわかり、そうした心身の(あるいは脳の)状態が、自分の思考にも大いに影響を与えて、疑心暗鬼的なほうへと追いやっているのが自らわかる。それで二五分ほど書いてから、また瞑想をしてみるかと思った。変性意識的な深い状態に入るのが嫌だというか、それでまた頭の調子がおかしくなったらと考えて少々怖いところはあるのだが、しかし例えば、南直哉『日常生活のなかの禅』など少々覗いてみても、坐禅が深まると「感覚の統合が失われて、五感がすべて同時に明滅しているように、あらゆるものが波動として感じられる」などと書いてあり、この人はこうした深い状態に今まで何度も入っていながら自己を定かに保っているのだろうから、そうそう容易に狂うでもないはずだ。また自分の場合、瞑想をするというのは、修行をしようとか悟りをひらこうとかいうつもりはまったくなく、実感として「心身のチューニング」といったようなものだったはずである。万全の状態を作ろうとして余計に呼吸を頑張ってしまったおかげで多分交感神経の働きが過剰になっているのが今の状態なのではないかと思うのだが、そうだとすれば、ただ何もせず座って自然な呼吸に任せるというリラックスの時間を取ることで、神経系を調えることができないか。実際以前はそのようにして概ね心身の安定を保っていたのだから、またその頃の習慣に合わせてみて、自分がどうなるか試してみようと考えた。それで回復して行けばそれで良し、仮に悪くなったとしても、薬を増やせば生きていけないではあるまいというわけで、一旦ベッドに移り窓をひらいて、二時半前から枕に座った。自然で軽い呼吸に任せるようにして、ただ何もせず座る、非能動の時間を取るのだと心掛け、すると次第に、身体の緊張がちょっとほぐれて行く。意識の志向性は、ストーブの送風音や、自分の身体の各所や、外で鳴いている烏の声のあいだを渡って行く。あまりそれらに集中しすぎないよう、リラックスを心掛け、脳内に思考が湧いているのに気づいたら呼吸に意識を戻す、という風にやっていると、そのうちに眼裏に例の靄のような薄い光のようなものが見えてくる。来やがったな、と思った。何らかの脳内物質が分泌されている証なのだろうが、


書き物。三時に至る。支度しなくてはと。 
出発。道の真ん中から雪はもうない。辻、坂、雪搔きの姿。街道。渡る。頭上で鵯の声。背中に陽射し、気づく、暖かさに。
裏。踏まれて板状の氷のようになったのが残る。歩くとしゃりしゃりと音。滑らないように慎重に、歩幅狭く行く。降りれば歩きやすい。ここでも雪搔きやっている。おばさん。左右に、いびつな三角や多角形。白い雪の上に。灰色混じりに薄汚れて。集められている。寄せられている。空き地、触れられていない雪の青い襞。昔もこれを見たなと思う。
駅近く。小学生、雪投げたりしながら歩く。
勤務。何となく落着かない。浮足立つような。前立腺も気になる。途中で何かどきりときた瞬間があり、薬服用。自分の心身が常に緊張しながら、抑えられているのがわかる。一日に三粒はさすがに多くて、頭が重く、疲労感も。
帰路、歩き。途方もなく寒い。運動したほうが良いと思ったが、選択を誤った。電車でさっさと帰るべきだった。左右に積まれた雪の残骸から冷気。がたがたと震える。その力みがまた悪いのではないかと、緊張に繋がるのではと思う。途中から腰や背の痛みなどの症状も。早く家に着きたいと気が急いてばかりいた。
帰宅。ストーブで温まる。着替え後、身体を温めようと、布団にもぐり、腰をもぞもぞとやる。しばらくして、一〇時半、上へ。食事。カレーピラフにポトフほか。
入浴。湯のなかで、前立腺とはどこかと股間さぐる。会陰部、何か固く張っている。こんなに張っているものかと押していると、何か、どっ、どっ、どっ、と音。何かと思い、もう一度押してみると、またする。それが自分の心臓。驚く。音が聞こえるくらい高まっていたが、身体に響く感じがまったくなかった。薬のおかげか。胸に手を当て、脈を取って速さを確認する。座ったりして会陰部が圧迫されるたびにこのようになっていたらそれは緊張もする、心臓発作で死んでしまうと恐れ、呼吸を調える。脈を確認しながら、深い呼吸よりもむしろ、軽い呼吸のほうが脈が遅くなるので、自然なそれに任せる。その後、髪洗い、束子。足の裏を念入りに。戻ってまた会陰部確認。ほぐれていて、押しても鼓動高まらない。ここをマッサージすることで症状が和らぐのではと周辺をもみほぐしておく。
出ると、湯たんぽを用意。湯を沸かして。バスタオルで巻く。室へ。もう頭が重く、眠い。歯磨きをなおざりにして、床へ。しかし、横になって眠りに向かった途端、変調。緊張感があり、前立腺のあたりが何か蠢く。高所に立つと股間のあたりが縮こまる感じになると思うが、あのような。それが自動的に起こる。こちらの脳あるいは身体は、かなりおかしくなっているなと思った。姿勢を変えてやりすごそうとするがうまくいかない。じきに覚悟を決めて、受け入れる態勢に入る。たびたびイメージに巻き込まれながら、呼吸に立ち戻るという瞬間があった。しかしそのうちに、眠っていたようである。

2018/1/22, Mon.

 やはり明け方に一度覚める。例によって、心身が不安と緊張にまみれていた。呼吸を観察すると、自ずとその感触が固く、浅くなっているのが感じられる。だからと言って特段に深いものにしようとはせず、ただ呼吸と身体の感覚に意識を向け続けているうちに、わりあいに落着いて、吐息が軽いものとなってきた。しかし、それでも容易には寝付けなさそうだったので、薬の力を借りるかというわけで起き上がり(この時だったか、時刻を確認すると、四時四五分頃だったと思う)、机の一角から紙袋を取ってベッドの上に薬剤を取り出す。暗闇のなかで種類を間違えないように、目覚まし時計を持ち、ボタンを押して薄いライトを灯して薬のパッケージに近づけ、きちんと確認してから服用した。そうしてまた布団のなかに潜ると、スルピリドドグマチール)が胃薬としての効果もあるからだろう、空の腹がぐるぐると動き、音を鳴らす。薬剤のおかげで緊張感は段々薄くなってきたが、かと言って眠気のほうは一向にやって来ず、それを待ちながら自ずとものを考えた。呼吸に意識を向けながら考えるという技術を身に着けられたようなので、この時の物思いは落着いたものであり、思考があるからと言ってストレスを覚えるわけではなかった。
 まず、このように不安に冒されている時間をも自分は丁寧に生きていきたいと思ったのだが、そこにおいて丁寧に生きるとはどういうことなのかと言えば、勿論、そこに生じている不安(によって導かれる身体感覚)をすら、よく感じ取るということである。しかしだからと言って、その不安に巻き込まれてはいけない。そのために軸足を置く足場、まさしく場所[﹅2]として、呼吸というもの(を中心とした身体感覚)があるのだが、それを常に己の根幹/ベースに据えることによって、能動性でも受動性でもないただ「ある」の状態、「存在性」とでも言いたいものが開示されてくるのではないか、というのは過去に記した通りである。それは、呼吸感覚こそが自分の存在の最終的な帰着先になるということで、これは考えてみればまるで当たり前のことであるというか、何しろ、呼吸活動というのは生命維持機能の根幹であり、呼吸がそこにある限り自分が存在していることは明らかだし、呼吸が(一時的にではなく恒久的に)なくなれば自分がもはや存在していないということもまた同様に明らかであるはずだ。したがって、例のデカルトは「近代的」と呼ばれるらしい「自我」の存在様態として、「私は考える、故に私は存在している」という定式を作ったわけだが、これを、「私は呼吸している、故に私は存在している」と読み替えるのがヴィパッサナー瞑想的なあり方ではないか(あるいは呼吸とはほとんど自動的な機能なのだから、ここに「私」という一人称の主体を持ち出すことすらことによると誤りというか、不正確なのかもしれない。「呼吸がある」ということそのものが、そのまま等しく「生」である、というような言い方のほうが良いのかもしれない)。
 こうした定式は上にも書いた通り、まったくもって当然の、言わば常識的な事柄であるはずで、ブログを通じてこの文章を読む方にもこちらの感じていることの内実が伝わるかどうか心許ないのだが、しかしおそらく、生を送るうちに我々人間は(様々な感情の働きや言語などに慣れ親しむことで)この当然の事柄についての実感/体感を失ってしまうのではないだろうか。例えば赤ん坊の頃などは、誰も自分の存在感として、ほとんど呼吸と身体の感覚しか持ち合わせていなかったはずで、ヴィパッサナー瞑想的な実践というのは、言わばそのような、人間としての(あるいは動物としての?)原初的な[﹅4]生の様態を幾分か取り戻そうとする試みなのかもしれない。
 呼吸を通じて現在の瞬間をよく感じ取り、しかし同時にそれに巻き込まれることはないというあり方を考える時に思い出されるのは、一昨日見つけた資料(http://hikumano.umin.ac.jp/hosei/CBT7.pdf)で読んだ仏陀の言葉であり、曰く、「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない。内にもいない。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。それは一切の苦しみの終わりである」と言う。ここから考えるに、呼吸とは、物事への密着[﹅2]の術なのではないか。物事の内側に取り込まれることなく、しかしかと言って、それらを恐れて逃れ、殊更に距離を置くでもなく、外でも内でもないまさしく境界線上に立つこと[﹅21]、そのようにある意味で付かず離れず(「不即不離」とは仏教的な概念ではないか?)でありながら、境界線上における密着(と言うと、「付く」の意味合いが強くなってしまい、それは「より良く感じる」という側面を強調したい自分の心の現れだと思うが、むしろもう少し中立的な言葉でもって、「接触」とでも言ったほうが良いのかもしれない)の位置にあること、自分としては現在のところ、仏陀の言葉からこのようなことを考えた。
 眠りを待ちながらそうしたことを考えているうちに、母親がトイレに立つ物音が聞こえたのだが、かすかな困惑とともに時計を確認してみると、先ほどから一時間が経って六時近くになっていたので、自分はそんなに長いあいだ眠れずに過ごしていたのか、と驚いた。その後もなかなか、意識がきちんと沈んでいかず、寝ているのか覚めているのかわからないような状態があいだに挟まったのち、何とか一応眠れたようで、九時一〇分に目を覚ました。
 前日に書いた通り、もう敢えて座する瞑想を行わず、生活のなかで実践していけば良いのではないかというわけで、起き抜けの瞑想はやらなかった。伸びをしてダウンジャケットを羽織り、上階に行く。ベッドから抜け出した直後は大して寒くないと思ったのだが、居間に上がって行くとやはり寒く、あとで新聞を見れば最高気温は四度とあり、何でも雪が降るらしい(と言うか、一一時を回った現在、既に降り出している)。台所に立って、電子レンジのなかのホットドッグや、鍋の汁物が温まるのを待つあいだも、欠伸をすると身体が小刻みに震えるさまだった。
 食卓に就いてものを食べていると、母親が、携帯電話をこちらに差し向けて、画像を見せてくれる。(……)の妹である(……)はニューヨーク付近に住んでいるらしいのだが、そちらでは雪が積もっており、それでシャー・ペイ犬を模した雪像を作ったということだった(前日にはやはり、梟の模造も見せられていたのだが、そちらは羽根の襞も細かく表現されており、大した出来映えだった)。シャー・ペイ犬という犬の種はここで初めて知ったのだが、中国の犬らしく、皮膚が弛んでたくさんの皺を持つものらしい。母親はその後、それと似たチャウ・チャウ犬の動画を携帯電話で探し、閲覧していた。
 外は一面まっさらに白い曇り空であり、寒暖の差で窓が曇る。母親によればもうごく小粒の雪が降り出しているということだが、卓の位置からは視認できなかった。食事を終えると食器と風呂を洗い、一度下階に戻って湯呑みを取ってきて、ポットから白湯を注いで戻る(階段や廊下を行くあいだ、裸足の裏がひどく冷たい)。コンピューターを点けると前日の記録を付け、一〇時一五分から早速日記を書き出した。前日の分を早々と完成させ、この日のことを書いているあいだ、ふと背後の窓を見やれば、雪が本当に降り出しており、既に近所の瓦屋根の襞の合間にいくらか溜まっていたので驚いた。しかし、一一時半前を迎えている現在、降りは先ほどよりも細かく、かすかなものとなっており、そう積もる気配も見えない。
 その後、二一日の記事をブログに投稿し、久しぶりに何となくはてなキーワードを探っていると、自分のものと同じように日記形式で毎日記されているブログを発見し(「(……)」というものである)、ちょっと覗いてみて興味を覚えたので読者登録をした(こちらは極々一般的なブログ、何らかの明確な主題を持ち、それに沿って明確なタイトルを付した記事を並べているそれには基本的に興味が湧かず、自分のそれと同じように毎日の生活を題材とし、日付ばかりを記事の題として由無し事を綴っているものに専ら関心を持つ性質である)。それから自分のここ最近の記事も読み返したのち、脚をほぐそうというわけで読書に入った。『後藤明生コレクション 4 後期』である。前夜に読んだ冒頭の「『饗宴』問答」は、何だかんだ言ってもやはり不安に脅かされているようなところがあったのだろうか、あまり強い印象を覚える瞬間がなかったようなのだが、この時に読みだした「謎の手紙をめぐる数通の手紙」は、読み進めているうちに面白いな、と感じられた。手紙の前置きや余談/迂回が膨張しすぎていつまで経っても本題が見えてこない感じなど、もうわりあいに見知ったやり方ではあるものの、やはりこちらの好みではある。そのようなあたり、少なくともこの「後期」の後藤明生というのは、やはりカフカやヴァルザーの方面に近い書きぶりと言って良いのだろうが、まったく曖昧な印象批評ではあるものの、彼らほど「適当に」書いてはいないというか、言語の自走性に従ってぽん、と勢いで書いてみたという雰囲気の部分が散見されるようでありつつも、同時にそれらをうまく整地/舗装して流れを作り出している、というような感触もあって、天然さと理知性がうまく同居しているような印象を受けた。この篇はまだ二通目の手紙の冒頭までしか読んでいないのだが、最初の手紙の対話など大変面白く、笑ってしまうもので(「お話の途中、失礼ですが……」「は?」というやりとりの反復など、ヴァルザーの文章にもある反復技法を思い出してしまう)、後藤という人は、一篇目の「『饗宴』問答」の架空の問答についても、こうした「饗宴」ならばいつまででも続けられると書き込まれてあったけれど、多分本当に、このような「問答」をいくらでも書き続けられるような作家だったのではないか。
 一時一五分まで読んだところで切りとした。その頃には、先ほどは幽かなものでしかなかった雪が急激に降り増して積もりだし、景色を白く埋めていた。読書の途中に職場からメールが届いており、早めに出勤できないかとのものだったので、了承の返事を送っておいた。そうして上階に行き、食事を取る。朝のホットドッグの残りと素麺である。卓に就いて心を落着けて素麺を啜ると、非常に美味く感じられたので、自分はどうやら大丈夫そうだなとの感をここでも深めた。改めて窓外を見てみると、座った姿勢からは近間の道路は窓の下方に隠れて見えず、いくつかの家屋根と、樹々と川向こうの集落とその先の山が目に入るのだが、それらの景色の大方が空漠とした白さに籠められて、山の姿はまったく映らないし、川向こうの家の姿形も霞んでほとんど見えない有様だった。こんな調子では、長靴を履いていくようではないか、むしろ職場も完全に閉まってはくれないか、などと母親と交わしながら食事を取り、室に帰ると日記を書き足しはじめた。書き出してまもなく、携帯電話に(……)から着信があり、出れば、(……)やはり来てもらうようだとのことなので、長靴を履いて行きますと了承した。ここまで記して二時一六分である。
 その後、もう支度を始めることにして、歯を磨きはじめた。その合間に過去の日記の読み返しをするつもりのところが、自分のブログの最近の記事を読んでしまい、それで時間を使って、口を濯ぐと上階に行った。靴下を履く。テレビのなかでは高田純次が故郷の調布を訪れており、それを見やりながらちょっと体操を行ったあと、室に戻った。Oasisを流して服を着替える。それで三時直前、まだ余裕があったので歌をいくつか歌ったが、この時も気持ちを高めすぎないように、歌いながら自分の呼吸や身体の感覚を意識した。
 そうして上階に行き、外出の準備を締めくくる。長靴を履くとは言ったものの、実際にはそうする気にならず、ただ雪のなかを行って靴や靴下が濡れるだろうから、替えのものをビニール袋に入れてバッグに収めた。タオルも加えて出発である。家の敷地やその前の道路にも既に雪が厚く積もっており、道に出ると車の作った轍のなかを行く。坂に入る間際で振り向くと、白く染まった家々に、遠くの霞んだ景色のなか、すぐ傍の柚子の樹が白さのなかに黄色を加えており、見ていると電線から落ちた雪が樹に当たり、仲間を巻きこんでさらに落ちて行った。坂に入ってから右手を見れば、白く塗られた樹々のなかに川の水の動きは見えず、家屋根には、ありがちな比喩だがまさしくチョコレートの板のように四角く整然と雪が形を成している。上っていくあいだ、雪かきの音があたりから聞こえる。静かななかに、烏の声や、ぴよぴよと軽い鳥の鳴きがくっきりと立つのが、雪の降っているなかにも、と何か物珍しく思われた。
 街道に出ると、歩道に積もった雪はほとんど手付かずの厚いままで、先人が踏み分けたその足跡をこちらも辿るようにしてゆっくりと踏んでいく。前方に下校する女子中学生が見えたところで、北側に渡った。そうしてまた慎重に行くあいだ、歩を踏み出すたびに、足の裏の前方に重さが移る際、雪が踏み固められる音が鈍く、連続的に立つ。
 裏通りに入ると、車の通った跡を辿れるので、多少は歩きやすくなった。進んでいると女子中学生の二人連れが後ろから迫り、ふわふわで嬉しい、などと言いながらこちらを追い抜かして行く。見れば先を行くオレンジの靴のほうが、轍でなくてその外の白雪のまだ踏まれていないなかを敢えて踏み分け、白い靴下の上に素肌のちょっと覗く足を蹴り上げたりしている。中学一年か二年生だろうか、二人とも折り畳み傘の狭い守りの下に小さな身体を屈めるようにして足もとを向き、快活に進んでいく後ろ姿(リュックサックを背負っていた)を見るに、何て邪気がないのだろう、これだけでもう小説ではないかと思った。しばらく先でも、横道から入ってきたやはり女子中学生の集団が、道脇のちょっとひらいた敷地に集まって、何やらきゃあきゃあとはしゃぎ合っているのに、また邪気のなさを覚える。小学生くらいの年齢の子どもの無邪気そうに遊び回る姿は見慣れたものだが、自意識もおおよそ固まった中学生がそのように、ひとときであっても無垢なような様子を示しているというのは、何だか感動的ではないだろうか? 
 道は静かだった。足音や道端の家の雪かきの音、時折り裏路に入ってくる車の音など、さまざまな音が、雪が降っているというその響きがあることによって、それぞれくっきりと輪郭を立たせるようであり、その合間の時間も実に静かに感じられるというのは、どういう効果なのだろう。さらに進んで空き地に掛かると、一面白く埋められたそのなかに男児が二人遊んでおり、目を振れば女児の姿も二つあって、水色とピンクの傘をそれぞれ指した彼女らが白さのなかをゆっくりと、少しずつ横切っていくそのさまを真横から眺める視線になって、ここでも、これだけでもう映画ではないかとの感を得た。その場を離れながら、やはりこの世界そのものこそがこの世で最も豊かな映画、音楽、小説、そしてテクストなのだと前々からの考えを繰り返したのだが、これらの極々日常的でささやかなシーン/偶発事に、そんな風に殊更に感じ入ってしまって良いものだろうか? 
 ようやくのことで職場に着く。服の前面やバッグについた雪を払い、傘の雪も飛ばしてから扉をひらく(……)。(……)仕事は結局なくなったということだった。(……)ただの散歩になってしまった(……)が、色々なものを見聞きすることができたので、損をしたという気持ちはまったくなかった。(……)
 (……)帰途に就く。電車が出ているのか心配だったが、駅に入ると、遅れてはいるが動いているようだったので改札をくぐる。自販機でスナック菓子を二つ買い、電車に乗る。途上、外を眺めていると、樹々は雪を乗せて白く凍った像のようになっており、時折り乗ったものがなだれ落ちて白い幕を作っているのが見られる。最寄りに着いて降りると、ホームにも雪が大層厚く積もっており、ここを行くのがこの日の路程で一番難儀だったかもしれないというほどだった。足もとの雪は至る所からちらちらと煌めきを放っており、その上に降り続く雪片の影が舞い乱れるのだが、実のところ、それらのうちのどれが電灯に照らされた影なのか、どれが地に落ちる直前に揺動する実物なのかまったく見分けがつかなかった。
 普段下りる坂は車や人の通りもあまりないので、雪が多く残っているだろうと思われ、そちらを通る気にはならず、行きにも来た道を戻ることにして遠くへ回る。街道の対岸で雪搔きをやっており、「これからあとどんくらい積もんのかな」と声が聞こえる。進むとこちら側でもやっている人があるので、通り過ぎざまにご苦労様ですと声を掛けた。入った坂でも同様である。帰り着くと、靴のなかに新聞を詰めておく。時刻は五時半くらいだったようだ。
 ひどく空腹だった。日記の読み返しをしてから上階に行ったが、米がまだ炊けていなかった。卓で待っているあいだ眠くて、目を瞑ってしまい、じきに突っ伏して眠りを取った。起きると七時に至っており、米が炊けているので台所へ行き、炊飯器を開けて米をかき混ぜ、熱を逃した。ほか、鯖やカボチャに汁物をよそって卓に就く。呼吸を意識しながら、ゆっくりと食べるように心掛けた。テレビは『YOUは何しに日本へ?』を映していた。それを見ながらものを食べ、八時くらいになると風呂に入った。身体を労るようにして束子でゆっくりと皮膚を刺激したあと、ストールを洗った。洗面器に洗剤を混ぜて揉み洗いをして、濯いでから出ると、洗濯機に放りこんで脱水を行った。長く入浴して、既に九時頃だったはずである。そうしてエプロンにアイロンを掛けていると、父親が帰ってきた。電車が途中で停まっていたので、タクシーを使ったらしい。前に一〇人ほど待っており、後ろにはさらに並んでいたという話だった。
 室に帰ると一〇時過ぎから書き物を始めたが、どうも力が入ってしまい、すらすらと言葉が出てこず、記憶の細部を思い出そうと考えてしまうようだった。緊張感とも言うべき集中の感じがあったが、しかしそこに不安はないようだった。
 この日の残りの時間については特に覚えていないので、省略する。

2018/1/21, Sun.

 多分、七時頃に例によって一旦目覚めたのではないだろうか。やはり心身が緊張感に冒されている感じがあったのだが、変な話、だからと言って殊更に恐怖を覚えたり、その状態から抜け出したいという欲求を強く感じるわけでもなく、緊張で固くなったまま安定しているようなところがあり、実際、そのうちにまた寝付くことができた。正式な覚醒は九時半となったので、八時間二〇分ほどの睡眠になる。この時には緊張感は、大方去っていたような覚えがあるが、それでも一応薬を服用しておき、用を足してきてから瞑想を行った。自生思考があっても大丈夫であり、想念が湧き上がるのはむしろ自動的で当然のことであり、それに不安になる必要はないということを自分の脳に理解させるため、この時にはあまり呼吸に意識を引き戻そうともせず、思念が遊泳するがままに任せた。この朝の夢で、母親が、『マクロスF』というアニメの挿入歌である"星間飛行"を聞いているという一場面があり(勿論、現実には母親は『マクロスF』を知らないし、こちらもこのアニメは見たことがなく、曲だけどこかで耳にして知っている)、その記憶が留まっていたのだろう、たびたびこの曲の一節が頭に生じてきて、それが煩わしく感じられるようではあったが、しかし不安は覚えなかった(この時聞こえていた曲が"星間飛行"だと思っていたのだが、今検索してみたところそうではなく、坂本真綾"トライアングラー"のほうだった。この曲の冒頭の、「君は誰とキスをする/わたしそれともあの子」という部分が繰り返し想起されて仕方がなかったのだが、菅野よう子作曲らしいので、彼女の仕事を探っていた時などに知ったのではないか)。
 二〇分瞑想をして、一〇時を回ったところで上階に行く。両親は、(……)の葬儀に出かける用があり、さらにその後一旦帰ってきてから、山梨の祖母の誕生日を(祖母には知らせずにサプライズとして)祝いに行くとのことだった。それで混ぜご飯を作っておいたと言う。ほか、ベーコンと卵を焼き、エリンギの入ったスープとともに卓に並べて、食事を取った。新聞の読書欄を見ると、磯崎憲一郎が小文を寄せていて、仔細に読んだわけでないが、知り合いの子煩悩を馬鹿にしていたところが自分に子が出来た途端に自らこそが子煩悩になってしまった、というようなことを一つには書いており、これと同じような内容が彼の小説作品のどれかに書き込まれていたような記憶が朧気にあるのだが、また、新聞に寄せて自分自身の体験を語っているその文章の文体が小説のそれの調子とまったく異ならないのが、彼の場合、やはりそうだろうなと思われた。
 室に帰ると白湯を飲みながら、他人のブログを読んだ。その後、自分の日記も二日分読み返し(二〇一六年一二月二二日と二三日)、すると正午を回ったのだが、ここで、そう言えば風呂を洗っていなかったのではないかと気づき、部屋を出た。両親がちょうど出かけて行く時刻である。上階に行って浴室に入ると、浴槽の蓋の表面が、何なのかわからないが濁った淡い黄緑といったような色でところどころ汚れているのに気づき、栓を抜いて湯が流れて行くのを待つあいだに、先にそちらを擦った。その後浴槽内も洗うのだが、終えたところで、そう言えばこの(多分、合成樹脂という素材の?)ブラシも、使ったらちょっと水を押し出して浴室の隅に吊るしているだけで毎日用いているが、それでは雑菌が繁殖しないのだろうか、今までそれで特別問題が生じているとは思えないが、一応束子と同じようにベランダに干して陽や風に当てたほうが良いのではないかと神経質に考えて、そのようにした。
 そうして下階に戻るのだが、廊下を通って自室の直前まで来たところで、自ずと足が隣室のほうへ折れてしまい、なかに入ってギターを弄りはじめた。しばらく適当に弾き散らかしてから自室に戻ると一時前、日記を記すより前に読書を始めた。例によって横になり、脚をほぐしながら本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読む。この時も、初めは文字を追いながら同時に様々な雑念が浮かんでいるのがわかり、それが気になるようだったのだが、人間、そのような散漫な思念があって当然なのだと考え、意識が逸れるたびにそれを自覚し、あるいは文を読むと同時に思念が混ざっていることを自覚しながら読んでいるうちに、思念のほうが、なくなるわけではないが後方にちょっと退いていったように薄くなって、本のほうに主に意識を向けることができたようである。志向性とは常に何かの対象に対する志向性であり、意識は常に何かしらのものを志向している、というようなことをハイデガーが言っていると聞いたことがあり、それはハイデガーの考えというよりも、多分現象学的な認識の基礎なのではないかと特段の根拠もなく推測するのだが、ヴィパッサナー瞑想によってメタ認知を鍛えた結果、まさしく自分の意識が常に何かを志向しているということがありありと「見えてしまう」ことがストレスだというのが、最近の変調の一つの要素だった。しかしこれは多分、神経のバランスが崩れていたために、自分の意識の情報取得に対して処理のほうが追いついていないというか、そのような状態だったのではないか。と言うよりはむしろ、その「見えてしまう」ということが、発狂への恐怖と結びついた結果、見えることそのものが不安になったというほうが正確かもしれない。
 今自分は、生活のあいだの多くの時間、脳内で独り言を言い続けているような状態であり、そのような自生思考が常態となっているのだが、しかし本当は多分、人間は皆そうであって、そう思えない人がいるとしたらそれに気づいていないだけなのではないだろうか。その自生思考がコントロールを失って、自己の思考の自律というものがなくなってしまったらどうしよう、というのが、今回の発狂恐怖の具体的な内実だったと思うが、しかしコントロールを失うも何も、こうした雑念・想念の類はそもそもコントロールなどできないはずである。思念とは(すなわち言語とは)次々と自然に生じてきては去っていく、そういうものなのであって、こちらにできるのはただそれに飲み込まれないように、メタ認知=観察の能力を磨くことだけではないのだろうか。ほとんど常に頭のなかに雑念・思念があると言っても、以前はそれで平気だったし、むしろそれで良いと思い、それに自ら耽るようなところすらあったのが、神経の乱れによって不安を感じやすくなった頭が、それを恐怖へと繋げてしまったというところではないか。
 そうした話は措いておいて、二時四〇分に至って読書をやめると、インターネットを少々覗き、それからエネルギーを補給しに上階に行った。混ぜご飯を一杯食べてさっさと戻ると、ふたたび読書を始め、三五分ほどで本村凌二の本を最後まで読み終えた。次には、(……)との会合の課題書となっている後藤明生コレクションを読むつもりである。
 それからまたインターネットを覗き、五時が間近になったところで上階へ行って、居間のカーテンを閉めた。さらにタオル類も畳んでおくと室に帰ってきて、日記を書きはじめたのだが、ここまで記して既に六時半前に至っている。文を書きながら、思考が湧いてそちらに逸れている時間が多かったようで、そのように脇道に逸れてしまって今自分が進めたいはずの事柄に集中できない、というのがストレスだというようなところがあった。しかしこれは、その都度サマタ瞑想方式で、目の前のことに意識を引き戻して行くほかないのだろう。ここに来て、思考が生じてくるということそのものが自分の神経症の対象となってきたようだ。
 その後、上階に上がって、夕食の一品として餃子を焼いた。台所に立って作業をしているあいだも、散漫な、内容を記憶できていないような思念が頭のなかを巡っており、餃子の袋に書かれた作り方の手順を読んでも頭に入って来ず、複数回、文字をなぞってしまうような有様だった。焼き上げると下階に戻って、(……)読書に入った。今度は英語のリーディング、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionである。英語の読書の仕方、と言うか語彙の習得方法というのはいつも悩ましいところがあり、Conradを読んでいた頃は覚えたい単語には線を引いておき、折に触れて頁を遡ってそれらを振り返っていたし、Hemingwayの時には、書抜き箇所を記しておく用のノートに調べた単語をメモしておき、これも折に触れて振り返ったりしていたのだが、そのように意志的に反復をするのが面倒臭いという気持ちに最近はなっている。それでも一応、辞書を調べたもののなかから、頭に多少印象づけておいたほうが良いかなという語彙については手帳にメモだけはしてあり、日記を書く時にこれらを改めて写すということもやろうと思っていたのだが、忘れていたので、ここ数日分をいっぺんにここに記してしまうことにする(日本語の意味はこれも面倒臭いので記録していない)。まず一七日が、corporeal, mote, impart, plumage, fabric, constituent, swarm, uniform properties, optically, graze, frisk, gambol, conspicuous, extrapolate, fluctuate。一八日が、purport, ambient, swerve, edible, permeate, terrestrial, dissemination, propel, deduction, promulgate, distillation。一九日が、lucrative, practitioner, corpuscularian, corpuscle, tertiary, devoid of。そして今日の分が、inertia, subservient, intricacy, balk at, in lieu of, defunctである。こうして写していても、意味が自然と浮かび上がってくるものもあれば、来ないものもあるのだが、自ずと想起されないものを頑張って思い出すのも面倒臭く、受験勉強のように努力して覚えて行くのもやる気にならないので、記録をするというところだけは最低限の落とし所として、英文を読む経験を重ねるうちに自然と語彙が増えて行くことを期待したい。
 英語を読んでいるあいだも、またしても思念に妨害されて文をうまく読み取れず、余計に時間が掛かってしまった感があった。七時半を回ったあたりで両親が帰ってきた音がしたので、上階に上がり、食事を取ることにした。品をそれぞれよそって運び、ものを食べているあいだは、やはりホームポジションとしての呼吸を意識するのが良いのではと考えていた。思考が生じてくるのはもうどうしようもないから、呼吸を自己の中核として据えることによって、それに巻き込まれないようにすればそれで良いのではないか、ということで、これはヴィパッサナー瞑想というよりも、サマタ的な実践だと思うのだが、これらは対立的なものというよりも、止と観を合わせて一体の、相補的なものと捉えるべきなのだろう。そのようなことを考えて、呼吸と身体の感覚にちょっと目を向けるようにしたところ、ここでは心が落着いたようで、食べ物の味も美味く感じた(……)また、母親が見せてくれた画像に、祖母とケーキとともに佐藤愛子の『それでもこの世は悪くなかった』が映っており、訊けば(……)があげたものらしい。この本と著者は新聞広告にたびたび名前が出ていたので知っており、どうもだいぶ人気で売れているという印象があるのだが、祖母は同じ著者の『九十歳。何がめでたい』も面白く読んだらしく、本は何でも貰うよと言っていたと言うので、こちらとしては安堵した。と言うのは、こちらも一人暮らしの慰みに、何か本をあげたいと思っていたのだ。以前、祖母が書いたちょっとしたメモや、自分の来し方を振り返る文章などを読んだ限り、彼女は結構「文学的」な素養がある人間なのではないか、それ相応の関心を持ち、訓練をすれば、小説か何か書ける存在だったのではないかという印象を持ったのだが、それでわかりやすく娯楽的ないわゆる大衆小説のようなものでなく、多少「文学的」な本も読めるのではないかとこちらは考えているのだ。自分としては、メイ・サートンが気になっている。この人はベルギーの作家で、『独り居の日記』とか『七〇歳の日記』とか高齢の一人暮らしの生活で綴ったらしい日記の類がみすず書房から出ており、個人的にもそれらの本を読んでみたいと思っているのだが、やはり高齢の一人暮らしである祖母にも(彼女はここで八八歳になるらしい)、何か感じ入るようなことが、共感を覚えるようなことが書いてあるのではないかという気がしているのだ。と言って自分の読んでいない本をあげるのも何だかなあという気がするので、プレゼントするのならばさっさと読んでみなくてはならない。ついでに記しておくと、二日に会って映画の話などをした(……)にも本をあげたいと思っており、こちらは、古井由吉の今のところの最新刊である『ゆらぐ玉の緒』を考えている。古井という作家は決して読みやすいものではないが、『ゆらぐ玉の緒』は、例えばその前の『雨の裾』などに比べて、全体的にわりと素直に生活に即したような書きぶりだったという印象が残っているので(特に最後の「その日暮らし」などは、本当にほとんど身辺雑記というか、「私小説」と言って良いのかわからないが(そもそも自分は、「私小説」というものが一体何なのか良くわからない)、古井にしては比較的衒わない、率直な書き方だったような記憶が残っている。ついでに言えば、この篇には、語り手である「私」が若い頃に書いた作品として「山躁賦」の名がはっきりと書き込まれており、ということは少なくともこの篇に限っては、この話者たる「私」はまさしく古井由吉という名で呼ばれている作家と同一人物であるということになると思うのだが、古井の書いたもののなかでほかにそのような篇はあるのだろうか)、やはりそれなりの歳である(……)にも(彼は確か、七〇の手前くらいではなかったか?)、何かしみじみと感じ入って受け入れられるようなところがあるのではないか、という気がするのだ。
 食事を終えて皿を洗うと、アイロン掛けを行った。大河ドラマ『西郷どん』に目を向けながら手を動かし、終えるともう父親が風呂から出る気配だったので、脚をひらいて筋を伸ばしながら待って、入れ替わりに入浴に行った。風呂のなかでもまたもや思考が回って仕方がなく、呼吸を意識すれば落着いて過ごせるのではと考えても、そのように不安から逃れようとすることでかえって不安を招き寄せてしまうのでは、とか、呼吸を意識するということが今度は強迫観念になり、ストレスを生むのでは、などという懸念が即座に湧いてきて、本当に自分の頭は大した神経症であるというか、何をしていても、何を感じ、何を考えても、ほとんど自動的な反応のようにして、それに対する心配・不安・懸念を差し向けて/突きつけてしまうようで、風呂に入っているあいだは不安を覚えていたのだが、いまこうしてその時の自分のことを記していると、滑稽なようで自ら笑えてもくる。ブログを通じてこの日記を読んでいる読者の皆さんも良く見てほしい、年末からのこちらの日記は、不安障害患者の実態をかなり克明に描けているという自信がある。
 そのように思考を回し、思考の働きによって不安を生み出し、しかしその不安を感じ、観察することでその都度、不安のことは不安に任せれば良いのだと突き放し、それに巻き込まれないようにしながらまた考えていたのだが、やはり呼吸を意識するというのは一つのポイントだろうなと思った。自分はやはり、出来る限り平静と自足を保ち、その瞬間瞬間を丁寧に生き、その時々の自己と他者を大切にして生きて行きたいと思うものであり、それが自分にとっては多分、要は書くことと生きることを一致させるということの内実だと思うのだが、そのような考えがもし強迫観念となって自分を苦しめるとしても(しかし人間、ある意味で、何かしらの事柄を強迫観念としなくては生きていけないのではないか? 自らそれに従うことを同意し、自覚した形での強迫観念、それがそれぞれの人の「物語」であり、あるいは「信仰」というものではないのだろうか)、そうであっても自分はそのようにしていきたい、瞬間を書き続けることをやめたくはないという結論が、一応導出された(しかしまたそのうちに、これを疑いはじめるのではないかという気もしており、さらにその後、またここに回帰するのではないかという見通しまで立つ。もう自分はそのように、常に迷い続ける存在で良いと思う)。そのためにはやはり、呼吸に意識を向け(しかしおそらく、呼吸を操作する必要はない)、それを経由して[﹅7]、絶えず現在の瞬間に気づいていく、ということが肝要であるはずで、そのように日常生活のすべての瞬間が瞑想の実践となるというのが、ヴィパッサナー瞑想の行き着く先だと思うが、自分はわりとそのような段階に入ってきていると思われるので、もう敢えて座してじっとする「瞑想」の時間を取らなくても良いのかもしれない。
 風呂を出ると水を一杯飲み、流し台の上のカウンターに母親の使った食器が置かれていたので(父親は炬燵テーブルで食事を取りながら韓国ドラマを見ており、母親は卓に就いてタブレットを弄っていた)、それを洗っておいて、自室に戻ると、Ciniiにアクセスして以前も読んだことのあるヴィパッサナー瞑想関連の文献を流し読みし、それから日記を書きはじめた。そのあいだ、先ほど考えたことにしたがって、たびたび呼吸に意識を向けるようにしてみたのだが、そうすると確かに心が静まり、文もすらすらと綴ることができ(そのわりにもう二時間掛けているが)、書きはじめた頃には頭痛があったのだが、気づけば今はそれもほとんどなくなっている。また、今日は朝に薬を飲んだだけで、二度目はまだ飲まずに済んでいる。現在は日付が変わる直前である。
 それから歯を磨きつつ、『後藤明生コレクション 4 後期』を読みはじめた。この時は文に集中することができて、一時間ほど、最初の「『饗宴』問答」を終いまで読み、それで切りとして、(……)明かりを落としてさっさと眠ることにした。時刻は一時四〇分だか五〇分だかだったはずである。薬を飲んでも良かったのだが、ひとまず自力で眠れるかどうか試してみようというわけで、服用せずに床に入った。頭痛がまた現れていたこともあって、結構時間は掛かったと思うが、一応そのうちに寝付くことができたらしい。

2018/1/20, Sat.

 例によって明け方に覚めたが、昨晩眠る前に、脚を丹念にほぐして血流を良くした甲斐あって、緊張感はさほどのものでなく、明確な神経症状らしいものも出ていなかった。しばらく自力で心身を和らげていたけれど、入眠できそうもないので、薬に頼ってさっさと寝付こうというわけで、スルピリドロラゼパムを一粒ずつ服用した(この時、枕元の目覚まし時計を確認すると六時二〇分くらいだった)。それでふたたび横になったところが、それでもなかなかすぐには寝付けない。じっと身体を静止させて呼吸を続けていると、自ずと心身の感覚をも観察してしまい、瞑想のような向きになってきて、薬の作用も手伝ってかじきに意識が深いところに入っていく。手が麻痺するような、あるいはその感覚がなくなったような風になり、何らかの脳内物質が多く分泌されているのがよくわかる。ある境を越えると本当に、まさしく明鏡止水といった趣で心のうちがぴたりと静まっているのがわかるのだが、それは眠りに向かっていく寛ぎといった感じではなく、また同時に意識が鋭敏になっているから、ちょっとした家鳴りの音とか、起き出した母親が活動する音などが突然立つと、ややびくりと驚くような風になって心の静止が乱される。その揺れをもさらに観察して、ふたたび平静に復帰することもできるのだが、あまりこうした深い状態に長く入り続けてそれでまた頭の調子が狂っても困ると懸念されて、適当なところで瞑想状態を解除した。しかし、眠りに入ろうと目を閉ざすとまた自ずとそちらの方向に心身が導かれる。もう一度起きてしまって、眠気が湧いてくるのを待とうかとも思ったのだが、四時間程度の短い睡眠ではそれはそれで辛い。静止をしているのがまずいのだというわけで、ちょっと動きながらリラックスしようと、腰を左右に動かして床に擦りつけはじめ、そのあたりをほぐしていると、じきに欠伸が湧いてきた。これなら眠れそうだなと、ある時点で動きを止め、その後無事に入眠できたようである。
 この日目覚めても目立った神経症状がなかった点で、自分はもう大丈夫そうだな、これから順調に回復していくだろうなという見通しが立った気がする。ここのところのこちらの変調というのは、統合失調症かなどと疑ったこともあり、実際そのような症状を少々呈しもしたのだが、結局はやはりパニック障害と、それに付随する自律神経失調症的な症状なのだと思う(と言うか、いわゆる自律神経のバランスが崩れたために、パニック障害的な症候が再発したのだろう)。つまりは今までに経験してきたことの反復なのであって(発狂に対する恐怖、というのは新しい要素だったが)、しかも過去よりも遥かに小規模な反復に過ぎず、その点大して恐るるに足らない。実際、過去の経験を思ってみれば、発症当初は一日の多くの時間をベッドで寝込んでいるような時期もあったわけで、その頃に比べれば今次は曲がりなりにも勤務に出続けることもできているのだから、まあ楽勝である(という強気な気分に、この時の寝床ではなっていたが、そのうちにまた弱気が出てくることもあろう)。
 神経が乱れたのはやはり、コンピューターに向かい合いながらいつまでも夜を更かして起きているという生活が寄与したのだろうと思う(実際、最初の発症の時期も夜更かしばかりしていたのだ)。そこでやはり、少なくとも勤務日の夜、帰宅後にはコンピューターを点けず、なるべく早めに眠る生活を保ちたい。脹脛をほぐすことが効果的なのは、昨晩からこの朝の心身の状態で立証された気がするので、眠る前には一時間かそこら、寝床で脚をほぐしながら読書をする時間を確保するようにすれば良いのではないか(寝転がって本を読んでいるうちに身体が温まり、神経が調うのだから、これほど楽な話はない)。実際以前はそのような習慣だったような気がするのだが、それがいつの間にか途絶えてしまったのは、書き物を夜にやるようになったのが原因なのだろう。文を構築する方向に欲望が向かっていた頃に(つまりは(仮)のついていない「雨のよく降るこの星で」の時期)、日中はどうにも文を作ることに集中できず、深夜の静寂のなかでないとうまく書けないという風になってしまったのだ。今はもう文章を緻密に構築しようなどとはまったく考えておらず、気楽に、適当に書けるようになったので、こうして昼日中であっても日記を記せているし、外部的な要因で中断を余儀なくされてもほとんど苛立つこともない。
 一一時五分に覚めはしたが、例によってすぐには起き上がれず、ベッドのなかでもぞもぞ動いて、二〇分頃になってから起床した。瞑想は寝床のなかでもうしたようなものなので、この起き抜けには省略し、上階に行く。母親がおり、食事はおじやだと言った。洗面所に入って櫛付きのドライヤーで髪を梳かし、顔を洗い、嗽をしたのち、食事を用意する。電子レンジのなかで鮭が加熱されているのを待ちながら椀におじやをよそって、それも同様に温めると、汁物とともに卓に並べて食べはじめた。新聞記事はドナルド・トランプ米政権のこれまでの総括が多かったようである。記事をチェックするだけして閉ざすと、母親が点けたテレビが『ドキュメント72時間』の再放送を流す(昨夜にもやっていたが、その時は良く見なかった)。熊手などを売る酉の市が舞台で、ものを口に運びながら何となく目を向けていると、デザイン事務所の長らしい六五歳の男性が現れる。一七の時から自力本願でやってきたという通り、実に自信のありげな、どっしりとした自負心に満ちたような語り口だが、その自恃には、幼少の頃から小児麻痺で脚が動きにくいところ、そうでない奴らには負けたくないというような跳ね返りの気持ちも含まれていたと言う。小学校の頃だったか、プールで泳いでいると脚がうまく動かなくなって死にそうになったが、それでも五〇メートルを泳ぎきったその時に、「人間死ぬ気になりゃ何でもできるな、と思った」と語るのを見て、あ、これは面白いな、と思った。個々の人間の人生観=物語の形成、つまりは己の体験をどのように解釈し、そこからどのような意味を引き出したかという語りは概ね面白いのだが、この人も、そうした物語を手短に語ってくれたのだ。しかし、この発言そのものはいかにも紋切り型の、良く聞かれるものであり、この人の語った内容のみがそのまま言語として[﹅9]例えば小説の頁を埋める活字になっていたとしても、それを読んだこちらはおそらく、少しも面白いとは思わないだろう(実にありがちな物語だとしか思わないはずだ。おそらく同じように、こちらが変換した言語[﹅2]を通じてこの日記を読む人々も、この時こちらが感じた面白さをあまり実感できないのではないだろうか)。なぜこの時、彼の発言=物語が面白かったかと言うと、それはやはり、それまでの数分に映った彼の身振り、動作、姿形、表情、語り口、声の調子、そういった諸々の周辺情報と発言が結び合わされていた結果なのであり、これらの周辺情報こそが小説でいうところのまさしく描写[﹅2]の領分であり、それによる差異=ニュアンス[﹅7]の付与に類比されるものだろう。それらの具体的な意味の網目[﹅5]のなかに置かれたからこそ、それそのものとしては凡庸極まりないこの発言が、具体的な重みと質感、ある種の説得力のようなものとすら言っても良いかもしれないもの(こちらがその言に説得されるという意味ではなく、この発言が彼の物語として確かに生きられている、ということを感じさせるような)を帯びるに至ったのだと思われる。こうした事柄を物凄く平たく言い換えると、例えばただ単に「愛している」と言っただけで相手に伝わるはずがない、ということなのだが、ところが不思議なことに、ほとんどただ単に「愛している」と繰り返すだけの、素朴とすら言えないほどの表現が、その「貧しさ」故に広く受け入れられ、流通しているかのように見えるのがこの世の中なのだ(全然良く知らないが、「メジャーどころ」のJ-POPなんかがその代表だろう)。
 食後、風呂を洗って室に帰り、前日の日課を記録したのち、早速この日の日記を綴りはじめた。上の段落まで書いたところで一時間が経過して午後一時を過ぎており、身体もこごりだしている感じがしたので、ここで中断して読書に入ることにした。ベッドに寝転がって本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読み進める。ほぼ一時間でちょうど三〇頁ほどを読むと、二時を回っていたので上階に行った。母親は買い物に出かけており、洗濯物は既に入れられてあった。ひとまず腹にものを補給することにして、と言って米もないのでカップラーメンで良かろうと戸棚から取り出し、湯を注いだ。一方で小さな豆腐を冷蔵庫から出し、皿に移して電子レンジで二分間加熱する。熱しているあいだ、レンジの前で何をするでもなくじっと待ち、熱の力で下部がやや崩れて水気も漏れ出ているそれに、鰹節と麺つゆを掛けた。そうして卓に移って食事を取る。ものを食べるあいだ、ベランダに続く西の窓の曇った色が少々明るむ時間があるが、太陽の気配はまたすぐに絶えてしまう。
 塩気が舌にひりつくスープもほとんど飲んでしまうと、ラーメンの容器や食器に始末を付けて(立ち上がって流し台のほうに行く際、外の道に薄陽が射して、アスファルトの上に一部、砂地ができたようになっているのを見かけた)、アイロン掛けを始めた。エプロンやシャツやハンカチの皺を伸ばしながら窓を見やると、この時はまた陽射しは薄れており、空に水色がまったくないではないが雲の多く含まれて希薄な色で、川沿いの樹々や山の姿を見る限り、空気もやや濁っている。しかし、明るく澄み切ったものでなく、フィルターを掛けられたようなその鈍い質感も、まあ悪くはないと思った。アイロンを掛け終えると、吊るされているタオルに手を出す。表面的には乾いているものの、湿り気が仄かに残っているのが感じられ、洗剤の匂いも嗅がれないが、今更外に出しても仕方なし、これ以上爽やかになるわけでもなし、と畳んでしまうことにした。その後さらに、下着や靴下なども畳もうとしたのだが、こちらはまだ水気が残っていたので、ひとまず吊るしたままにしておいた。
 そうして白湯を一杯用意して、自室に帰る。日記を進める前に他人のブログを読むことにしてコンピューターに向かい合ったが、立った姿勢で読んでいるとどうも神経が刺激される感覚があって、頭が微かに揺らされるようであり、目も乾くようなので、椅子の上にコンピューターを置き、ベッドのほうに移って腰を据えた。読みはじめた時刻は三時七分である(そう言えば、食事を取っているあいだに時計を見て、そろそろ三時か、と思いながら直後に、まだ起きてから四時間しか経っていないのかと時間の流れが遅く感じられた瞬間があった)。読み物を終えると日記に掛かりはじめて、ここまで書くと現在は四時を回ったところである。これから、前日の分も綴らなくてはならない。
 今現在、翌二一日の午後一〇時前を迎えているのだが、この日のこのあとのことは仔細に思い出せない、と言うか記憶を掘り起こすのが面倒臭いので、短く済ませることにする。記しておきたいことがあるとすれば、五時頃になって夕食に、肉と玉ねぎやエリンギなどの炒め物を作ったこと、ミシェル・フーコー中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』の書抜きを終わらせたこと、音楽を聞いたこと(Bill Evans Trio, "All of You (take 2)", "My Romance (take 1)"、James Levine, "Maple Leaf Rag", "Scott Joplin's New Rag", "The Cascades", "The Chrysanthemum"(『James Levine Plays Scott Joplin』: #2,#4-#6)、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5))、あとは、夜、また気持ちの落着かない時間があって、そこで例によってインターネットでヴィパッサナー瞑想などについて検索したのだが、その過程で以下のページや資料を見つけたということくらいである。

マインドフルネス認知療法
http://hikumano.umin.ac.jp/hosei/CBT7.pdf

瞑想(マインドフルネス)の注意点と危険性
http://hotrussianbabe.com/shinrigaku/archives/3494

雑念恐怖症の諸相〜森田療法の観点から〜
http://www.tuins.ac.jp/library/pdf/2008kokusai-PDF/00803otani.pdf

永井均先生のヴィパッサナー瞑想についてのつぶやきのまとめ~「不放逸は不死の境地、放逸は死の境涯」
https://togetter.com/li/652043

2018/1/19, Fri.

 明け方に一度、目覚めた覚えがある。例によって心身が緊張感に満たされており、この日はまた尿意の高潮があった(これは多分、寝る前に蕎麦茶を飲んだことが寄与しているのではないか)。それでトイレに立って用を足し、薬も服用してベッドに戻ったが、下腹部の緊張感がまだ取れない。ひとまず腰をもぞもぞと床に擦り付けるように動かして温めていると、症状が和らいで来たので安堵した。しかし定かに寝付くことはできず、眠りに入ったという感じのないまま七時を過ぎて、そのあたりでようやく入眠したようだった。そうして覚めると、九時五〇分頃である。床を抜けようというところでちょうど、上階で電話が鳴ったのが聞こえ、出た母親の声を聞けば予想通り(……)である。何だか知らないが前日に、こちらに用があるから、明日の朝に電話してくれという留守電が入っていたのだ。それで瞑想もせずに室を抜けて上がって行くと、今から(……)が来ると言う。この老婦人は祖母の友人だった人で、坂下に住んでおり、一二月一八日に我が家を訪れている。一時期鬱病のような状態になっていたことがあり、(……)こちらに用事というのは、(……)(その待合室でこちらは彼女と一度、行き会ったことがある)について聞きたいことがあるといったことだろうか、と考えるのが自然な推測ではあろう。
 洗面所に入ってドライヤーを使って髪を調え、来るまでに排便しておこうと階段を下りかけたところが、そこでもう玄関外の階段を上がってくる足音が聞こえており、随分と早いなと思った。用を足してから上階に戻って玄関に出ると、(……)は壁際の腰掛けに就いており、母親は床の際に座してその横にはヒーターが置かれている。挨拶をする(……)。用というのがこれだった、というよりは、このような形で敢えて用向きを拵えることで、話をしに来る口実にしたというのが実際のところではないかという気がする。
 母親は茶を用意しに一旦下がったので、床にあぐらを搔いて無造作に座ったこちらは、しばらく(……)と話をした。孫の(……)は中学生なのだが、インフルエンザで学級閉鎖が起こっているらしいとか、こちらも薬を飲まずにやれていたのだが、この年末年始でまたちょっと悪くなり、どうもよく眠れずに寝覚めしてしまう、などといった事柄である。その後、母親がチーズケーキを用意してきて、(……)は初めはお構いなく、と遠慮の口ぶりだったのだが、いざ目の前に出されると食べちゃおうかとなり、茶を飲みながら一欠片を平らげた。そうした様子や、話している時の声調からしても、前回に会った時よりも元気そうだという印象を受けたので、こちらは安心した。その後、母親が戻って座に加わると、二人のあいだで話が展開されるので(ここで(……)という、この奥さんも祖母の友人だった人の旦那さんが亡くなったのだが、その弔問に行くかどうか、いつ行くかとかいった話だった)こちらは黙り、しばらくして(……)が帰宅すると席を立ったが、こちらは今回は見送りには出ず、室内で挨拶するのみに済ませた。
 そうして、食事を取る。母親は買い物に出かけ、食事を終えたこちらは食器や風呂を洗うのだが、そのあいだもどうも下腹部のほうで感覚がざわざわとして気に掛かるような感じだった。それで室に帰ると、コンピューターを立ち上げて、前立腺炎について調べた。自分は神経症もあってか頻尿気味のところもあり、以前、そのあたりのことについて調べていて、前立腺炎というものを知ったのだが、今回また、どうもそれではないかという可能性を考えたのだ。しかし、急性や細菌性でない慢性前立腺炎というのは、これも例の自律神経失調症なるものと似たようなもので、定かな原因が絞れず、ストレスでも発症するとかいうことらしいので、これもやはり自分の場合、神経症状の一つなのではないか。結局のところ、出来ることとしては、適度に運動をしながら、自分の心身にとって良くないことを生活のなかで見極めて行き、それを避けるようにするしかないのだろう。ひとまず、利尿作用のある飲み物はやはり自分には良くないように思われたので、ここのところ飲んでいた蕎麦茶もまた一旦取り止めることにした。
 そうしてEvernoteに記事を作り、前日の記録を付けたのち、正午前からこの日のことをここまで記して、一二時半である。さらに前日の記事も綴って、今は一時二〇分になっている。書いているあいだにも、やはり下半身・下腹部のほうに感覚が乱れていて、睾丸痛めいたものや腰痛がたびたび生じていた。一八日の記事をブログに投稿したが、その際、「About」の欄に引いてあったロラン・バルトの言葉を、このような駄弁じみた日記に戻ったことだし、エピグラフめいた大袈裟な振舞いは止めにしようということで削除し、代わりに、「読者」とのあいだの最小限の回路を一応ひらいてはおくかということで、メールアドレスを載せておいた。ブログタイトルも極々単純に「駄弁」に変えようかとも思っているのだが、やはりもう少し格好付けた語句にしたい気持ちもあって、踏み切れずにいる。
 その後、瞑想を行った。座って呼吸をしているあいだ、頭の内が高速で回るのが感じられ、様々なイメージも脳裏に浮かんでは消えていったが、それに対する不安はあまり感じなかった。そのうちに、頭蓋の感覚に意識が向いて、すると何と言ったら良いのか、スピリチュアルな方面で「エネルギーが溜まる」とか「上昇する」とか何とか言われる感覚だと思うが、まあそのような感じが湧き、意識が一挙に変容するのではないかとか、極端な話、気絶するのではないかとか、発作を招くのではないかとかいう懸念があってそれはちょっと怖い感覚なのだが、ホームポジションとしての呼吸にたびたび立ち返りつつそれをも観察し続けていると、頭の感覚の引っ掛かりがふっとなくなり、一つ別のフェイズに抜ける、という瞬間があり、要はここで何らかの安息的な脳内物質の分泌が盛んになったということなのだろうが、落着いて軽い心持ちに入った。その状態に入ると不思議なことに、下半身のほうを中心にざわめいていた神経症状がほとんど収まり、まさしく心身が静止している[﹅6]といった趣になった。しばらくその状態を続け、そろそろ良いかなと思ったところで顔や身体を擦り、腕を伸ばしながら目をひらいた。その後しばらくのあいだ、落着きと神経症状の欠如が続いていたので(またそのうちに復活してしまったのだが)、瞑想はこのようにして「成功」できれば、心身を安らげて神経症に対抗するために確かに「使える」手法ではある。
 瞑想を行ったのは一時三一分から五〇分までのあいだである。その後、二時四六分から他人のブログを読み出すまでのあいだは、何をやっていたのか記憶が蘇ってこない。ブログを読むとそのまま新聞記事を書抜きし、三時半に至って運動を行った。その後ふたたび瞑想を行い、この時も先ほどと同様に「成功」することができた。時刻は四時一八分、歯磨きをして、服を着替えて出発に向かった。
 道中には大した印象もないし、書くのも面倒臭いので省略する。勤務を終えたあとは、最近は毎度電車で帰っていたところ、やはり歩く時間を多く取ったほうが良いのではないかというわけで、久しぶりに夜道を徒歩で帰ることにした。往路帰路ともに歩けば、それだけで一時間ほどは脚を動かすことになる。夜気にさほどの寒さは感じなかった。働いている最中は、目の前の仕事に追われているから余計なことを考える間もなく(それがつまらないのではあるが)、時折り神経症状や緊張が生じながらも、薬のおかげで大方落着いてもいて、しかし我ながらこうした性向、不調を抱えながらも良くもやるものだと思うくらいにはそつなくこなしていると思う。しかし職場を離れて一人になり、自分の心身に意識を向けてみると、空腹のせいもあってかやはりどことなく緊張しているような、身体が自ずと何かに耐えているかのような固さがあり、心のうちはさほど乱れていないのだが、気づけば歯を食いしばりたがっているかのように、奥歯のほうに力が入っているのが観察された(これは数日前にもあった)。しかし、歩きながら呼吸を注視しているうちに、そうした緊張感も多少和らいで、口のなかの力も抜けてきたようだった。
 帰宅後のこまごまとしたことも思い出すのが面倒なので記さないが、ぜひとも書いておかなければならないのは入浴中のことで、ここで束子健康法を久しぶりに丹念に実行したのだ。自分は数年前には、やはりあれも神経の乱れから来るものだったのだろうがアトピー的な症状を持っており、それでいつからか入浴時にも石鹸を使わなくなり、代わりに束子健康法と言って要は乾布摩擦の一種なのだが、そのまま束子で身体を擦るということを始めたのだけれど、長く続けているとやはり適当になるもので、これをなおざりにしていたのだ。この日は久しぶりに思い立って、腹回りとか腰の回りとか、さらには下半身に症状が出ているからと太腿とか脹脛とか足の裏とかを念入りに擦ってみたところ、非常に神経に効いている感じがあり、心身がすっきりとした。それでやはりいわゆる自律神経のバランスが乱れているのだなと自覚したのだが、しかし同時に、ここのところの自分の変調の原因が根本的にはそれだったのだとすると、考え方や認知といった抽象的なものを操作するのでなくて、肉体に働きかけることによってここを改善すれば良いのだから、それは簡単な話である。それで風呂を出たあとも、やはり下半身、脚を養い労るのが大事なのだなという認識の下、コンピューターなどには見向きもせずにさっさとベッドに転がり、本を読みながら膝で脹脛を刺激した。するとやはり、時間が経つにつれて身体が軽くなり、温まって神経症状もほとんど生じなくなる。『長生きしたけりゃふくらはぎを揉みなさい』とかいう本が良く新聞の広告に出ていたと思うが、自分の体感上、これは確かなことで、自律神経を調える、などというのはおそらく大方、血流の問題なのだ。要は血流を促進するような習慣を実行すれば良いというわけで、自分の場合、瞑想を一日に一回から三回ほど、柔軟を中心とした運動、入浴時の束子健康法、脹脛の刺激、これらを丁寧にやっていればおおよそ心身の健康を調えることができるのではないかという目星が付いた。薬剤の補助を借りつつそれらの(まさしく)「自己への配慮」を実践していれば、多分そのうちに不安に追いやられているような感じも消え、健やかな気分を大方保てるようになるだろうと今は見込んでいる。
 読書は零時ちょうどから二時前まで、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionと本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を続けて読み、就床前の瞑想はせずに床に就いた。

2018/1/18, Thu.

 暗い時刻から例によって何度か覚め、そのたびに心身に恐怖感があったと思う。頭がまたぐるぐると回って落着かなくなっており、そのまま思念がコントロールできなくなり、発狂するのではないかという恐怖を覚える時間があった。しかし、寝床で呼吸に意識を向けていると、そのうちにわりあいに静まりはした。多分そこで時間を確認したのではないかと思うが、その時、八時二〇分頃だった。
 脳内物質の作用なのか、夢をたくさん見るもので、その多くは忘れられながらも、断片的には記憶に残る。この日見たものは、これも自分の恐怖感が反映されていたのだろう、ホラーじみたもので、幽霊に襲われて殺されてしまう部屋があり、そこに泊まらねばならず、どのようにして難局を乗り切るか苦闘する、というようなものだった。当然、もっと細かな設定や曲折があったものの、それらは忘れてしまったのだが、夢のなかにいるあいだは多分実際に恐怖を覚えていたのではないかと思う。一方で、女性と同衾して心地良さを感じるという幸福な一場面もあった。
 八時二〇分頃に一応覚醒したのだが、恐怖感の残滓があり、頭もまだいくらか空転していて、すぐに起き上がる気力が湧かなかった。それでまた呼吸を見つめたりして時間を過ごし、しばらくしてから身体を起こすと、ダウンジャケットを着て便所に行った。用を足して戻ってくると、まだ不安があったので、薬を服用してから瞑想を行うことにした。そうして座っていてもあまり落着かなかったようで、一一分間で切り上げている。そうして上階に行った。
 洗面所に入って顔を洗う。食事には前夜の汁物がある。米はもう釜のなかに少なく、半ば固まったなかからまだ食べられそうな部分をこそげ取るようにして少なくよそり、卓に就いた。新聞をめくって記事を確認していると、母親が、窓の外に向いて声を上げる。見れば、先ほどまで晴れて光も通っていたところに、いつの間にか白い靄が大量に湧いていて、近所の屋根を越えた先は、川沿いの樹々も彼方の山もすべて煙った白さに包まれて見えなくなっていた。火事かと思うほどの靄の厚さだったが、窓に寄ってみると、霧の細かな粒が横波を成しているのがわかり、近間の屋根からも蒸気が湧いているのが見えたので、前日の雨で溜まった水気が、本格的に上りはじめた太陽を受けて一挙に蒸発したものらしい。
 食事のあいだも起き抜けの恐怖感が尾を引いたような感じで、気分が抑制的になっているのを感じていたのだが、食器を片付けて風呂を洗う段になって、浴槽のなかでブラシを持って身体を動かしながら、そんなにいつも朗らかな気分でいられるものでもない、今はこの状態を受け入れ、また穏やかさがいずれやってくるのを待とうと考えた。そうして掃除を済ませると、蕎麦茶を持って下階に帰った。前日の記録を付けておき、過去の日記を読み返す。二〇一六年一二月二〇日と二一日だが、あまり仔細に読む気も起こらず、読み流すようにしてさっと通過して、それからこの日のことを書きはじめた。現在は一〇時二一分に至っている。覚醒時の不安や緊張、恐怖感についてはここのところ毎朝のようにあるわけだが、日中は比較的落着いており、目立った症状は起き抜けのそれのみとなっている。なぜ睡眠時、あるいはそこから抜け出した際に恐怖を覚えるのか、夢を以前よりよく見ることも含めて、脳内物質の働きがどうなっているのか気になるところだが、これについては面倒臭いので調べない。前夜はいくらか夜更かしをしてしまったので今朝の症状を招いたような気もしており、勤務から帰宅後の夜はやはりなるべくコンピューターには触れず、本をちょっと読む程度にして速やかに眠るのが良いのだろうと思う。
 書き物のあいだにはたびたび欠伸が漏れて、ベッドに座っていたのだが、欠伸とともに後ろに手を突いて休まねばならないような状態だった。終盤になって外から母親の声が聞こえ、しばらくして部屋にもやって来て、柚子を採ってくれと言う。それで一七日の記事を完成させると部屋を出て、玄関から屋外に出た。家の前の日蔭にはまだ雨の跡が残っており、三月の陽気などと聞いたわりには風が冷たい。家の南側に出るとしかし日なたもあって、そのなかに入ると仄かな温みが心地良い。母親は、高枝鋏を持って柚子の樹に取り掛かっていた。それは我が家のものではなく、隣家の(……)の敷地のもので、実を採ってあげるかわりに我が家にもいただく、というような話がついているらしい。それで鋏を受け取って、棘のついた枝と枝のあいだをくぐらせ、実を収穫していく。一〇個ほどは採ったか、これくらいで良いだろうとなると仕事を終いとし、鋏を工具置き場に戻しておいて、屋内に帰った。
 正午前だったと思う。昼食にまたレトルトのカレーを食べたいと思っていたので、米を新しく研ぎ、すぐに炊飯器のスイッチを押しておいた。下階に戻ると何となくギターに気が向いて、隣室に入って楽器を弄る。瞑目しながら、自分の手指が辿って行く指板上の動きが良く思い浮かべられたが、しかしだからといって特段素晴らしいフレーズが生まれ出るでもない。しばらく弾くと自室に戻り、運動をした。運動はおおよそいつも、最初に床の上で脚を前後左右にひらいて筋を伸ばしたり屈伸をしたりしてから、ベッドに移って下半身の柔軟運動を行い、その後、腕や腹や背の筋肉を刺激するという流れになっている。最後のものはしかし、筋肉を刺激するといってもトレーニングというほどのことでなく、ちょっと身体を温めたいという程度のもので、ヨガ的に姿勢を取って静止するというやり方で行っている。この日は空腹だったので、柔軟運動までに留めて、それから食事へ行った。
 食事は、母親が食べたぺろっこうどんというものが余っていたので、湯を沸かしている合間にそれを煮込み、卓で食べながらカレーの加熱を待った。先ほど感じたはずの空腹感が、なぜかこの時には薄れていたのだが(運動をしたためだろうか)、問題なく平らげ、その後カレーも、辛くて水を含みながら食べた。天気はやはり晴れ晴れとしないもので、空は曇りに満たされ、前日と同じく雨が降りそうな空気の色合いでもあった。
 室へ帰ると蕎麦茶を飲みながら、ここ数日の新聞から書抜きを行ったのだが、そうしながら強い眠気が頭にあった。薬の効果のせいもあろうし、眠りが足りず、その質が悪いせいもあろう。書抜きを終えると、音楽を聞きながらちょっと微睡むことで解消されないかと思い、ヘッドフォンをつけてBill Evan Trioを流したが、あまりどうにもならなかったのでベッドに移った。そうして、まだものを食べてあまり時間が経っていなかったので、枕にクッションを乗せ、上体を高くして仮眠に入った。
 三時二〇分まで、ちょうど一時間ほど眠ったようである。そこからすぐに起き上がれずに、瞑想めいた微睡みを過ごし、四〇分になってから床を離れた。そうして、改めて音楽を聞く。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "My Foolish Heart"、BLANKEY JET CITY, "僕の心を取り戻すために", "胸がこわれそう"(『Live!!!』: #3,#12)、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)である。眠りを取ったために頭がわりあい明晰になっていて、Paul Motianのシンバルの連打や、"My Foolish Heart"におけるシズルの残響の波打ちや、ブラシでスネアを引っ搔くサウンドを聞いているだけで気持ちが良いようだったが、しかしその後、音楽にあまりに集中しすぎるとまた頭がおかしくなるのではないかという懸念があって、全面的に没入することを妨げられた。
 四時一五分まで聞いて、本を少しだけ読みながら歯磨きをし、服を着替えた。(……)
 ともかくも出発する。天気はあまり良くないものの、確かに寒さはそこまでのものではなかった。坂を上って辻まで来ると、この日も行商の八百屋が来ている。(……)は老婦人一人と立ち話をしており、近づくとこちらを向いていた婦人のほうが気づいて会釈をしてくるので、こんにちはと声を掛けた。(……)は例によって、寒いから気をつけてねと声を掛けてくれるので、ありがとうございますと礼を言って通り、街道に出る。
 歩いているあいだは思考が巡って、前日に勤務中に読んだ資料というのは長田弘の文だったのだが、それについてまた考えた。と言うのも、一七日の記事に書いたこととはまた別の部分として、『ゴドーを待ちながら』の最後の部分(とされていたと思うが、こちらはこの戯曲を読んだことがないので記憶が不確かである)に、沈黙とともに、「木だけが立っている」みたいな台詞があるらしく、長田はそこを引いて、「存在」だけが最終的なアイデンティティとなる、というような解釈を述べていたと思うのだが、これは先日こちらも考えた「悟り」の様態に繋がるのではないか、というようなことを思ったのだ。だからと言って特段新たな見方が生まれたわけではなく、細かな内容は重複するので、ここには記さない。
 勤務を終えると例によって電車に急いで、最寄りに着くと帰路を辿る。帰ると着替えて、食事である。テレビは『クローズアップ現代+』で、食品の「スモールチェンジ」について取り上げていたが、あまり真面目に目を向けなかったので、特段の印象はない。入浴を終えると、コンピューターには触れず、蕎麦茶を飲みながら読書をして(新聞朝刊、Catherine Wilson, Epicureanism、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』)、一時直前で眠気が満ちたので就床した。

2018/1/17, Wed.

 明け方に一度、もう少し明るくなってから一度、それぞれ覚め、多分どちらの時も心身にいくらか硬い緊張感があったと思う。しかしこの朝は薬に頼ることなく再度入眠することができ、正式な覚醒は八時四〇分から五〇分頃となった。この時もまだ多少緊張感のようなものが残っていたが、寝床でじっとしながら呼吸や身体の感覚に意識を傾けているうちに、呼吸の感触から次第に固さが抜けて行ったようだった。
 毎度の覚醒ごとに夢を見ているのだが、覚えているのは最後の覚醒の時のもののみである。場所は(……)のあたりとして認識されていて、坂を下って行くと、背の高い集合住宅が周囲に立ち並んでいるような雰囲気のなかに、一つ大きな建物がある。入り口が広く開け放たれており、食堂のような具合でなかには座席がたくさん並んでいて、実際人々がそれぞれに集っていたと思うが、体育館めいた印象もあったようである。なかに入って行き、周囲の会話が漏れ聞こえるのに、大学生らしいな、と判断する。そこから多分、この場所が大学の一施設らしいものと認識されて、集まっている人々も授業の合間の大学生となったのだと思う。
 (……)と遭遇する。随分と久しぶりに会うな、という感じがあったが、この時の自分の身分が現在のそれとして認識されていたにせよ、大学生として思われていたにせよ、会うのが久しぶりだという感覚は現実に照らして正しい。(……)はバンドサークルに入っているようで、そのうちに周囲でちょっとした演奏が披露されてもいた(食事をしている人々を楽しませる余興、といった感じだったと思う。演目は、曖昧な記憶だが、何となくレゲエかスカ風のものだったのではないか)。それを眺める一幕がある。また、自分はこのバンドサークルに入会させてもらいに来たのか、それを見物しに来たかという立場だったらしいが、場所の隅で一人でギターを適当に弄っている時間があった。自宅で弾いているのと同じように、ブルース風にやってみたり、特に枠組みもなく雑駁にコードやフレーズを散らしたりとしていて、満足して演奏を止めると、バンドサークルの一員(先輩)らしい男性から、「スケール感」というようなことを通りがかりに言われる。要は、スケールをただなぞっているだけの味気なく機械的な演奏になってしまう傾向が強い、というような指摘だったようである。その後、(……)とまた何か話したり、初対面である女性の先輩も交えて何らかのやりとりがあったりしたのだが、そのあたりは忘れてしまった。
 覚醒しても寒さのために一向に床を抜ける気力が起こらず、身体を丸めたまま時間が過ぎるに任せてしまい、九時一〇分くらいになってようやく布団をめくって外に出た。電気ストーブを点け、ダウンジャケットを羽織って背伸びをし、トイレに行く。用を足すと洗面所で嗽をして、室に戻って瞑想を行った。薬を飲んでからやったほうが良いのではないかとも思われたのだが、自分が大丈夫かどうか試してみようという心もあって、結局服用しなかった(そうして、現在正午に至ろうとしているが、この日は今まで薬を飲まなくても大丈夫なくらいに心身が落着いている)。天気は白い曇りであり、窓を開けると座って始めのうちは寒く、手も冷たいが、瞑想をしているうちに次第に身体が温まって行った。呼吸の感触が自ずと軽く、深くなっており、能動性を働かせずとも自然とゆっくりとしたものになり、吐いたあとも少々停止が入るような調子だった(そのように軽い呼吸をしているとしかし、段々酸素が足りないというような感じになってきて、何回かに一度、これも自然と、大きな呼吸が挟まるのだが)。また、ここ数日は瞑想をする時はいつも、頭のなかがいくらか乱れているというか、ごちゃごちゃしているような感じがあって、目を閉じているあいだにイメージの断片も良く見えたものであり、そうした混濁が瞑想を通してやや綺麗に片付く、というような様子だったのだが、この時は初めから意識は明晰に澄んでおり、呼吸をしながら意識が深いところへ潜っていくという感覚もあまりなく、幻覚めいたイメージも特段見えなかったと思う。
 心身の落着きを探って、このくらいかなというところで顔や身体を擦り、腕を伸ばして目を開けると、ちょうど一五分が経っていた。そうして上階に行く。ストーブの前に座りこんで少々身体を温めてから、台所に入って、前夜から続く鍋料理を温め、フライパンで卵とハムを焼いた。新聞には芥川賞直木賞の結果が報告されていた。別に誰が獲ろうとどうでも良いのだが、見てみると『おらおらでひとりいぐも』の若竹千佐子氏で、これは(……)も言及していたし、確か(……)もブログに感想をちょっと書いていた覚えがあって、(……)のほうでは確か、ヌーヴォーロマンを消化したというか、二〇世紀のそういう試みがあってこそ生まれたものなのだろう、みたいなことが言われていたような記憶が(まったく正確ではないが)あり、少々気になっていたものなので個人的にタイムリーと言えばそうである。芥川賞はもう一人同時に受賞したらしく、こちらはまったく知らない人と作品だったので、自分が現代日本文学の潮流から確実に遅れ、時代に取り残されていることを定かに認識した。直木賞には特段の関心はない。
 読もうと思う新聞記事をチェックしたあと、ものを食べていると(母親はタブレットで昔のフォークじみた音楽を流しながら、炬燵テーブルの脇に寄って、アイロンを掛けるか何かしていた)、インターフォンが鳴る。母親が出に行って、受話器越しに何やら困惑したような風にやりとりをしていたので、何のセールスかと思えば聖書を配りに来たのだと言う。(……)
 (……)
 (……)
 (……)蕎麦茶を用意して自室に帰った。この日の日記の記事を作成して、過去の日記の読み返しを始めた。二〇一六年一二月一七日の記事を見ると、八三〇〇字とか記されているので(以前は記事タイトルの横にその日の日記の字数を記録していたのだ)、たった一日のことに八〇〇〇字も綴っているんじゃねえよと面倒臭く思ったのだが、読んでみるとなかなか力の入ったと感じられる描写がいくつも見出されたので、下に引いておく(ブログにも当時、これらの部分を抜き出して載せたのだと思うが)。まず冒頭からして実に散文的に、周囲の物々を良く見ているなあと我ながら思ったものである。二番目の「星屑」のくだりについては、こちらはいかにも「文学的」で、かなり気取った感じもするけれど、まあそこそこ頑張ってはいるだろう。

 「目覚めると、部屋にはまだ朝が満ちきっておらず、向かいの壁の時計は薄暗く沈んでいたが、針が六時半あたりを指しているらしいことが窺えた。はっきりとした寝覚めだった。左向きだった姿勢を、右に寝返りを打ち、カーテンをひらいてちょっと身体を持ち上げると、南の山の稜線が、橙色をうっすら帯びているのが見えた。五時間の睡眠だったので、もう少し眠りたかったが、身体を戻して瞼を閉ざしても、意識が確かな輪郭を持って冴えて、混濁の気配が欠片も匂わないので、もう一度寝付くことはできないと如実にわかった。それでも布団を抜ける決心が付かず、窓を眺めたり、狸寝入りのようにして意識だけは確かなまま、瞼を落としてじっとしたりしていた。空は、まだ控えめに、おずおずとしているような調子で、和紙のような淡さの水浅葱である。窓のすぐ外に残った朝顔の蔓の残骸の、窓枠に接したてっぺんのあたりに、昨夜は眠る前に床で読書をしながら風の音を聞いた覚えがあるので、明けないうちに飛んできたものだろうか、赤茶色の腹を晒した葉が一枚、引っ掛かっていて、輪郭のそこここにちょっとした尖りを作って平たいその姿が、気付いた時には大きな甲虫の一種のように見えて、瞬間ぎょっとした。しばらく視界を閉ざしてからまたひらくと、時計の針は七時を回っており、そのすぐ横の、扉の上には、山の端を越えて空に膨らみはじめた朝陽が、窓によって整然とした矩形に切り取られて宿り、萎びた蔓の影もそのなかに散り混ざっているのが、のっぺりと平坦に陥るのを防いで、いくらかの装飾となっている。光の通り道にはまた、卓上に積まれた本の小塔があり、真ん中あたりに三巻並んで挟まっている『フローベール全集』の、白い背表紙がさらに一際白くなっているのが目についた」

 「(……)汁物と米もよそって卓に行った。新聞は、昨日の日露首脳会談の話題に大きなスペースを割いている。ものを食ったあと、それを読むのにもあまり身が入らずに、流れている連続テレビ小説のほうを見やって、視線がついでに窓のほうに行った瞬間に、先ほど母親が随分汚れていると嘆いたものだが、その表面に溜まった点状の埃汚れのなかの一つが、緑色をはらんでいるのに気付いた。それは、窓際に吊るされた水晶玉の反映が宿っているらしく、ほかにも緋色を帯びたものも見られて、こちらが顔の位置を移せば、それに応じて反映の度合いも変わる。ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった」

 「布団を干そうとベランダとの境に立って、外を見やると、陽を受けて葉に白い覆いを被せている柚子の木の、その樹冠の横を、快晴で光が渡っているとはいえ確かに冴えた冬の空気のなかなのに、小さな蚊柱のようにして羽虫が集まり飛び交っているのが見つかって、あれ、すごい、虫が、などと、思わず腕を伸ばし指を立てて、その場にいた母親に知らせるという、まるで純真な小学生のような無邪気な振舞いを演じることになった。布団を持ったまま、それを干しに移ろうとせずに見つめていると、何の虫なのか知らないがその集団は、入れ代わり立ち代わり靄のように柔らかく形を変えて蠢いて、ほとんどただの点としか映らない一匹一匹が集まるとしかし泡の立ち騒ぎのようで、吹き出されて直後の、連なって宙に漂う細かなシャボン玉の粒を連想させるのだが、しかしこの極小の泡は勿論、いつまで経っても破裂して消えることはない。遠くでは午前一〇時の純な光に濡れた瓦屋根が、かすかに陽炎を立ててじりじりと揺動している」

 「路上には陽が広く敷かれて、足もとから温もりが立って身がほぐれるように気持ちが良く、寒さの感触など感じられない。坂に入ると正面で、立ち並ぶ木と樹間に染みる空の青さを後ろにして、ひらひら飛ぶものがあって、ほとんど水平に、緩急を付けながら流れてなかなか落ちないそれが、枯葉とわかってはいてもあまりに蝶に似ていて、まさか本物ではないかと思わず目を凝らしてしまう。坂を抜けて表に出て、街道脇の歩道を行っていると、短い鳥の声が頭上から落ちて、見上げれば電線に止まったものがある。手で掴めるくらいの大きさの、薄白い鳥が、その腹を晒しているのをすぐ下から見たが、その先の空が甚だ明るくて、鳥の姿形のその細部がうまく捉えられない。目を寄せている鳥が飛び立って行ったあとは、自然と視線が空の高くに向かって、澄明極まりない青さに思わず周囲を見回してみれば、どの方向も果てまで何の瑕疵もなく清い一色が湛えられて、視線の抜ける広大さに、これは凄いなと遅れ馳せに驚き、高揚するようになった。そのなかに見つかった唯一の闖入物はと言えば、直上の遠くに、あれは飛行機だったのか、旅客機らしくはなく、むしろまるで、個人が操るハンググライダーのようにも見えたのだが、小さく白い物体が浮かんでいて、飛行機のように後方に軌跡も残さず、唸りも落として来ずに、たびたび見上げてもただ貼りつけられたように浮遊しているのに、本当に進んでいるのかと足を停めてみれば、確かにゆっくり、水に浮かんだように流れて行くのがわかった。裏通りに入ったところでふたたび、その飛行物の進む西の方角に目を向けてみると、しかし空には光が撒かれて濡れた布巾で擦り磨いたかのように艶っぽくなっているだけで、先の物体はもうどこにも見えなかった」

 「途中で、本のページの上に、外を滑っていく建物の途切れ目から素早く射しこんだ昼下がりの陽が乗って、その一瞬に紙の表面が、埃が一面に付着したかのようになって、文字を読み取ろうとする視線を遮るのに、いまのは何だ、と不思議になった。それから、ふたたび陽の射しこむ僅かな時間を狙って目を凝らしてみると、紙の繊維が明るく温和な照射に浮き彫りになったものらしい。指先をちょっとずつ動かして紙の角度を変えてみると、陽の当たり方によって、表面の陰影が異なった模様を描くのが面白くて、その変幻に捕らわれて、文の続きになかなか戻れないような有り様である。ページを反らせば、繊維が伸びるようで、一面まっさらな、暖色混じりの白さに統一される。ところが窪みを生むように曲げると、途端に繊維の紋様が細かな蔭とともに明らかに浮かんで、その筋が文字の上に覆いかぶさって視認を妨げる。無数の引っ搔き傷のようなその緻密な構成は、石盤の表面に付されたそれに似通ったようでもあり、人間の肌の肌理を間近から眺めているような質感でもあった」

 また、この一年前の日記を読み返していて気づいたのだが、読点の付け方が今よりも細かく、一文のなかでもフレーズを短めに区切っていると思う。そして、今こうして今日の日記を書いていても、自ずとそのようなリズムが戻ってきているのだが、これは過去の日記を読んだことに影響されたと言うよりも、それもこちらの心身の調子が戻っていることの証のように思われる。つまり、文を綴りながら同時に頭のなかに流れる独り言のリズムがゆっくりとして落着いたものに戻ったのだ。むしろそれで初めて気づいたのだが、ここのところ(この二、三か月、多分日記の書き方を記録方式に戻して以来)の自分の意識は、全体的に「気の逸った」ものだったのだと思う。脳内の独り言もかなり加速的なものになっていたようで、それは多分唯物的には、ドーパミンの分泌がやたらと促進されていたということなのではないか。
 読み返しを終えると、インターネットをちょっと覗いてから、現在の日記を書きはじめかけたのだが、夢のなかでギターを弾いていたことを思い出すと実際にギターを鳴らしたくなったので、僅か一文だけ書いただけで中断して隣室に入った。そうして楽器を適当に弄り回し、三〇分ほどしてからコンピューターの前に戻ってきて、一一時半からまずこの日のことを記しだして、現在一時を回ったところである。書いているあいだ、雲に遮られながらも陽射しが仄かに明るんだ時間もあったのだが、今はまた曇天が強くなっており、雨も降ってきそうな冷え冷えとした空気の色合いになっている。
 その後、前日、一六日のことも記したが、書き物の途中で心身の調子が乱れてきたので、あまり頑迷に堪えようとせずに、ゆっくりと緩くやっていこうというわけで、大人しく薬剤を服用した。そうして一六日のことを三三〇〇字ほど書き足し、完成させると、放置していた一二日の分に移るのだが、五日間も経ってしまったので当然のことだけれど、取ってあったメモを読んでみても記憶が戻ってこないので書くのが面倒臭くなり、この日はもうメモをそのまま日記としてしまおうと横着した。一三日以降の記事は綴ってあるので、これでようやくブログの日付を進めることができるというわけで、一二日から一六日の分を投稿し、そうして今は二時四〇分に至っている。薬を飲んだこともあって、三時間続けてコンピューターの前に留まり、キーボードを叩いていても、自分の心身は定かに静まっており、さほどの疲労も意識の乱れも感じない。
 それから食事を取りに上階に行った。レトルトのカレーがあっただろうというわけでそれを食べることにして、鍋に湯を沸かしているあいだ、残り物である蒟蒻とイカの煮物を、調理台の前で立ったままつまむ。一方で鍋料理も温めており、十分煮立つと平鍋を持って、残った中身をすべて椀に注ぎ込んだ。そうして、既に沸いていた湯にカレーのパウチを入れておいてから卓に移り、加熱を待ちながら鍋料理を食べる。箸で具材をひとつまみすると、湯気が立ち上がって顔や目の至近を上り流れて行く。食べてしまうと台所に戻ってカレーを用意し、また卓に就いて食べるのだが、たかがレトルトのカレーごときに一口一口味わうように、目をつぶって美味いなと感じ入るようにしていた。
 始末をしてから室に戻ると三時過ぎ、外出までにまだいくらか猶予があったので、読み物をすることにして、まずこの日の新聞を読んだ。「PLOオスロ合意崩壊」 イスラエル承認 取り消し 米の仲介拒否」(六面)、「サウジ強権外交 苦境 ムハンマド皇太子主導 国内外から批判 米も「慎重に」」(六面)、「ロヒンギャ 2年で帰還完了 バングラミャンマー政府合意」(六面)の三つの記事である。それから、本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』も少々読むのだが、段々と眠気が湧いてきていた。四時一〇分に至って読書を止めると、そのまま瞑想に入ったのだが、これも眠気にやられてぐらぐらとする有様で、一〇分間しか座っていられない。さらに続けて、なし崩しに姿勢を緩めて、布団を身体に掛けてちょっと休む形になってしまい、少々微睡むと四時四〇分になっているので、支度を始めなければと動きだした。Oasis "Wonderwall" を流して服を着替え、上階に行くと居間のカーテンを閉めて出発である。
 二度目の食事を取った頃から雨が降り出していた。今は結構な強さでばちばちと傘を打つが、そのわりに空気に冷たさはあまりなく、身を貫くほどの寒気ではない。坂を上り、街道に向けて道を行くが、路面の各所に水が溜まっているので、電灯の黄色く照らし出してくれる僅かな道の盛り上がりを狙って歩を踏み、時折りは仕方なく流れるものを横切って渡りと、普段よりも左右に動く足取りとなる。街道まで来ると通る車のライトのなかに降雨が浮き彫りになり、光のなかがざらざらとした質感を帯びるとともに、雨粒の姿が露わになることで光線の範囲も明確になって、空間の途中に、ライトの上端によってくっきりと境が引かれているのが目に見えるのだった。飛沫を撒き散らす走行の音は烈しく、音の大きさのせいで車のスピードのほうも普段よりも速いような気がしてくる。道の遠くから来るものらのまっさらに皓々と白い二つ目が、路面に反映して車体の下方に伸びており、放たれたもとのほうよりも、反射した光のほうが厚くなっているので殊更に明るく目に映る。
 裏通りに入ってしばらく行ったところで、先ほどよりも雨が弱まっていることに気づいた。表にひらく横道のところに掛かると、街道の車の騒がしさが伝わってくる。裏通りの路面はさしたる起伏もなく、水がそう厚く溜まるでもなく、あまり避ける必要もなくゆっくりと行くこちらの横を、男子高校生の集団が追い抜かしていく。
 勤務中、読んだ資料にベケットの言葉が引かれており、正確に覚えていないのだが、「どのようなことでも、言語に移すとその瞬間にまったく違ったものになってしまう」というような言で、どちらかと言えば嘆きのニュアンスを含んでいたように思う。これは言語を操ることを己の本意と定めたものならば誰でも実感的に理解しているはずのことで、言わば言語の無慈悲さとでも言えるのかもしれないが、こちらがこの時思ったのは、しかしそれは同時に、大袈裟な言葉を使うならば言語の救い、言語の慈悲深さでもあるのではないかということだ。大きさも違う、性質も異なる、体験者に与える影響も様々であるこの世のあらゆる物事が、ひとたび言葉になってしまえば、言語という資格において等し並に並べられてしまう。その言語の平等主義を自分は好ましく思うことがある。つまりは、言語などというものは最終的には単なる言語に過ぎず、所詮は言語でしかない[﹅10]、そして物事を単なる言語でしかないものにしてしまえる、というのが一種の慈悲深さのように感じられることがあるのだ。自分でも何を言っているのか(と言うか、何をどう感じているのか)よくわからず、理屈として的の外れたものになっているのではないかという気もするが、そのように思うことはある。そのような、所詮は言語でしかないようなものにまさしく耽溺し、深くかかずらって生きることを選んだ作家という人種は、だからひどく倒錯的な人間たちなのだろう。
 帰りは電車の発車が迫っていたので走って駅に入る。乗ると扉際に就き、最寄りで降りると雨は止んでいた。携帯電話を見ると、(……)からの誕生日祝いのメールが入っており、返信を考えながら階段を上る。木の間の坂に入ると、周囲の樹々から滴る雫の音が立って、ここだけまだ雨が残っているような感じがする。坂を出て曲がったところで、(……)が自宅の車庫の前に出て何やらやっていた。視線を向けていると、宅内に入ろうと向かう際にこちらに気づいたので、こんばんは、と挨拶を交わして過ぎた。
 帰宅するとストーブの前で身体を温めてから、洗面所に行き、石鹸で手を丹念に洗う(インフルエンザが流行っているらしい)。着替えてくると食事、ナゲットやカキフライを細かく千切って、それとともに白米を食べる。テレビは多分『クローズアップ現代』だったと思うが、ドナルド・トランプ政権のロシア疑惑について扱っていたものの、音量が小さく、あまり集中して目を向けもしなかった。父親は寝間着姿でソファに座り、緩く脚を組んだ気楽な姿勢で寛ぎながらテレビを見ているその腹が呼吸で上下している。母親はこちらの向かいでタブレットを弄って何やら見ていた。
 食後の入浴中は、湯に浸かりながら目を閉じて、メモ代わりにこの日の生活を順番に思い出していき、それに時間を掛けたので出た頃にはもう一一時半が近かったと思う(髭を剃ることもした)。蕎麦茶を持って室に帰り、夕刊(「パレスチナ援助 半額保留 米、国連難民期間への支払い」(三面)、「対北圧力 20か国一致 外相会合 非核化へ連携」(一面)、「年金受給開始 70歳超も 政府方針 選択制 額上乗せ」(一面))及びCatherine Wilson, Epicureanismを読んで、零時半前である。瞑想を一〇分行って、(……)そうして、二時半頃に床に就いた。

2018/1/16, Tue.

 七時になる前に一度覚めたのだが、その時、また心身が覚醒的になっていた。不安に冒されている感覚があったのだが、横たわったまま瞑想を試みて、多少和らいだはずである。それでも薬を飲んでふたたび入眠し、この日は長く寝過ごさずに、八時四〇分頃起床した。この時も不安感が拭いきれていなかったのだが、ともかくも便所に行ってきて瞑想をすると、いくらか心身が落着く。
 上階に行くと、母親はまだ出かける前だった。冷蔵庫から、ピラフや前日の汁物や牛肉の炒め物を取り出し、それぞれ電子レンジで温めて食す。新聞をめくったが、特段に興味を惹かれる記事は見当たらなかった。母親が出かけて行き、一人になった居間で食事を取るあいだ、やはり思考が勝手に回転するのが煩わしく、ストレスであるというような感覚があった。それに影響されて気が逸るようだったので、ともかくもゆっくりと、丁寧に行動しようと心がけつつ、食器を洗い、風呂も掃除する。そのあたりで、ホームポジションとしての呼吸ということを思い出して、そちらに意識を向けるようにしながら、ストーブのタンクを持って石油の補充に行った。玄関から出て勝手口のほうに回り、箱をひらいてポンプを稼働させる。待っているあいだ、あたりを見ると、空には薄雲があって地上に降りる陽射しは弱め、そのなかを細かな羽虫が飛び回っているものの、棕櫚の葉をちょっと揺らすだけの風でも身が震えかけて、春はまだ遠いように感じられる。タンクが満たされるのが遅かったので、石油の保存してあるポリタンクを持ち上げて、液体の流入を手伝ってやり、後始末をすると室内に戻ってタンクを機械に収めた。蕎麦茶を用意して下階に戻り、コンピューターを点けて、まず日記の読み返しをした。二〇一六年一二月一五日では、「裏通りを抜けて街道に出て、歩道を行っている時にもう一度見上げると、近くの電灯と高みの月とが一緒に視界に収まって、そうしてみると、街灯のほうには辛うじて、飾り気めいた金の色合いがはらまれているのに対して、その先の遠くで撒かれた月の明るさには、そのような和らぎは窺われず、病人の顔のような青白さの印象が眼裏に残った」という描写が少々良いかもしれない。一六日のほうには、「一番星がはっきりと輝く、暮れきった湖色の午後五時も、風が、吹き付けるというほどの勢いはなくて、道に沿って流れてこちらの身を過ぎていくだけでしかし、肌が震える冷たさである」という一文が見られ、「湖色」という表現が、「こしょく」と読ませたいのか「みずうみいろ」なのかわからないが、珍しいかもしれない。
 それから、数日前に発見していた「生きる技:ヴィパッサナー瞑想」(https://www.jp.dhamma.org/ja/art/)というゴエンカ師の講演録を読んだ。そして、インターネットをちょっと覗いて一一時、書き物に入った。前日の記事を仕上げ、この日のものもここまで記すと、一二時四〇分である。さらに、一月一二日の記事を書かねばならないのだが、疲れたのでここで少々休息しようと思う。
 そうしてベッドに寝転がり、腰をもぞもぞさせたり、脹脛を膝で刺激したりして心身を休ませる。そうしているあいだ、目を閉じているのだが、もう瞑目するだけで瞑想をしているような具合になり、閉じた視界が蠢くのが感じられ、時折り夢未満のイメージもそこにちらちらと現れる。そうして次第に頭のなかがすっきりしていった。起き上がるとまたインターネットで、ヴィパッサナー瞑想などについて調べるのだが、結果やはり、自分は言語を実体化しすぎているというか、仏教が「雑念」として退けるものに囚われすぎていたのではないかと思った。言語を操って文を作ることを毎日の営みとして定めた者としては必然的な結果かもしれないが、それで心身のバランスを崩してしまっては元も子もない。瞑想をやっているあいだも、自分の精神は多分、思念を観察しているつもりが、知らぬうちにそれらに取り込まれて、コントロールを失うような状態になってしまっていたのではないか。つまりは、言語に耽溺しすぎた、思考に淫しすぎたということだ。上のURLでその発言を読んだゴエンカ師も、観察の対象として「呼吸」と身体の「感覚」の二つを挙げているわけで、今後はこれらの身体的直接性に対する感覚を養って行き、身体性と言語性のあいだに良いバランスを保っていくのが肝要ではないか。
 そういうわけで早速身体を動かすことにして、運動を行った。各種の体操をしているあいだも、呼吸の感覚(自分が捉えやすいのは特に、空気が鼻や口を出入りする時のその「音」である)や身体の各部の感触を意識して行い、すると確かに心が静まって行く。三〇分ほど、音楽もなしに、外から聞こえてくる鳥の声に時折り耳を寄せながら身体を動かして、そこからまたここまで書いて時刻は二時直前である。
 食事を取りに行った。豆腐を電子レンジで温める一方、それとゆで卵だけでは物足りない気がしたので、カップ蕎麦を用意した。食べているあいだも呼吸や、あるいは咀嚼の感覚を見るようにしていると、蕎麦の麺がなかなか口触り滑らかで美味く、即席のカップ蕎麦ごときで美味を感じられるとは自分は何と安い人間なのかと思った。食器を片付けて下階に戻ると、歯磨きをする。同時にコンピューターを操作し、地元の図書館のホームページに繋いで、借りている本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の返却期限を確認すると、一月二五日だった。二八日の会合に持っていくので、期限が来ないうちに忘れずに貸出延長手続きを取らねばと思っていたのだ。そうして口を濯ぐと、気分が軽くて良かったので、Oasis "Wonderwall"を流して歌いながら服を着替えた。そのまま"Rock 'N' Roll Star"も流し、すると三時直前、外出前に瞑想をすることにした。この時もやはり呼吸と身体感覚に意識を向け、一〇分間座ると上階に行く。居間のカーテンを早めに閉めてしまい、食卓灯も点けておくと出発した。
 まだ三時過ぎ、陽射しも豊富で、和やかな空気である。坂に入り、上って行きながらやはり呼吸を観察していると、次第に吐息の奥に引っ張るような感覚が生まれ、吸ってもうまく吸えていないような、ちょっと苦しいような感じになってきた。息を吸っても酸素を取り込めていない感じというのは実に馴染みのあるもので、パニック障害の最初期の症状の一つがそれだった(電車内では随分と苦しめられたものである)。それであの頃の感覚だなと思い出し、坂を上りきったところで一旦止まって、大きく一息つくと、それで問題なくなったので歩みを進めた。
 街道に出ると風が吹くが、日蔭のなかにあっても寒さというほどのものはなく、温暖な、穏和なというか、「温厚な」とでも言いたいような陽気である。表の道を進み、車の流れる姿や音に意識を傾ける。Oasisの"Hey Now"が頭のなかに流れていた。坂下の横断歩道で止まると欠伸が漏れて、視線を右手に向ければ、涙で霞んだ視界の遠くに山の、やはり陽射しを降らされて色の霞んだ姿が映る。工事中の会館跡を行きがかりに覗くと、地面は瓦礫というかごろごろとした石の塊が、しかしあまり上下に乱れて段を作らずに敷き詰められたようになっていて、その情景がちょっと目に残った。なかで作業をするショベルカーの車体が、光を薄く跳ね返していた。
 勤務中については特段に記しておきたいことはない。退勤すると駅に入り、電車に乗る。座らずに扉際に立って、一旦手帳にメモを取ろうとしたがやはりやめて、目を閉じ、頭のなかでこの日の生活を想起していくことにした。そうして最寄り駅に着いて降りると、夜気にさほどの冷たさがなく、むしろ密室から出て空気の動きに触れられた爽やかさのようなものすらあり、と見ているうちに突然正面から突風が来て、これにはさすがに少々寒かったが、しかしその感触にも鋭く固まる冷気が含まれておらず、拡散的な[﹅4]/横に伸びたようなものだった。
 坂に入っても風が続き、周囲の草木がひっきりなしにざわざわと音を立てる。ストールを鼻まで持ち上げて通ってから、何だか巡るような風の動きだったようなとその響きに思い、右手のガードレールの向こうの暗闇に静まった樹々に目を向けながら下りて行き、出口も間近になって首を傾けると頭上に、影になった裸木の枝振りと、その先に灯る星々が見える。オリオン座の真ん中の三星がしかし薄いな、と見ながら、こういうことなのだな、心と頭を静かな状態に落着けておければ、殊更に求めて書こうとしなくとも、書くべき事柄が向こうからやって来て、そこに自ずと言語もついてくるのだなと思った。やはり最近の自分は、言語が先走っていた、あるいは言語と同一化しすぎていて、常に頭のなかを言語が無秩序に暴れ回っているような感じだったのだろう。この日でどうも、そのあいだのバランスをかなり適したものに戻せたような気がする。
 帰ってストーブに当たり、身体を温めていると、母親が内科と整形外科に行ってきたと話す。そこからやり取りが始まって、(……)
 それで話しているうちに、九時四五分頃には帰ってきていたはずなのに、気づけば一〇時半に至っており、なぜこんなことに時間を使わなくてはならないのかという苛立ちを久しぶりに感じた。そのように精神が少々乱れていたせいで、食事を取っていても何だかあまり味が感じられないようだったので、呼吸と咀嚼に注視しながら心を落着けるようにした。食後、入浴した頃には気分は平静に戻っていた。リラックスした心地良さという感じではなかったが、非常に平らかに落着いてはいて、不安に脅かされている感覚もないので、どうも自分は大丈夫そうだなと思われた。湯船のなかで身体を停めると心臓の動きの生み出すあるかなしかのさざ波の反復だけが水面に残るその送り出しの、何だかいたいけなような、慈しみたいような慕わしいような情を淡く覚えた。
 風呂から出たあとも心身を探りながら、どうもほぼ正常に戻ったのではないかと感じられ、疲れというほどのものもなく、眠気も差してこなかったが、時刻は既に零時を越えており、アイロン掛けをしているうちにさすがに疲労感のようなものが滲んできた。自室に帰るとしかし、健康のほうにいくらか戻ったからだろう、やや夜更かしの気分になって、蕎麦茶とともに煎餅をつまみ、娯楽的な動画を眺めて時間を使った。一時半前までそうするとコンピューターを閉じて、歯磨きとともに読書に入る。本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を、二時直前まで少しばかり読み進める頃には眠気が重く、消灯して床に就くとすぐに寝付いた。

2018/1/15, Mon.

 最近の習いで、夜の明ける頃に一度覚めた。数日前とは違って、心身が不安に苛まれている、緊張によって覚醒しているという感覚があまりなかった。それでボディスキャンというか、臥位でのヴィパッサナー瞑想を行う風にしていると、恐怖もなく意識が深いところまで潜って行って、手の感覚がなくなったり、あるいは痺れるようになったりしつつ、頭は心地の良い感じに包まれる。どうやら何らかの脳内物質がたくさん出ている状態らしいな、と思われた。そのまま薬を服用せずとも再度眠れるかとも思ったのだが、意識は観察の動きに明るくなっていて、非常に落着いてはいるが眠りの方向に進もうとしない。一度、時刻を確認すると、六時一〇分か二〇分かそのあたりだった。姿勢を変えながら何度か同じように試みても、やはりうまく入眠できないので、薬を服用したところが、それでも意識が落ちて行かない。もう起きてしまっても良いのではないか、そうすればむしろ時間が多く生まれて色々なことができるのではないかとも思ったが、五時間程度の短い睡眠で自分は大丈夫だろうか、日中、不安や神経症状に苛まれないだろうかという危惧もあって、やはりもういくらかは眠っておきたい。時刻を再度確認すると七時が間近だったので、しかし七時を越えてしまったらもう眠ることは諦めて、一度起きることにしようと決めて、ふたたび非能動の安楽さに浸っていると、ここでようやく寝つくことができた。
 二度寝をするといつもそれが長くなってしまって、この日も結局、一一時を越えるまで眠ることになった。少々寝床で待ってから起き上がり、ダウンジャケットを羽織って便所に行く。便器に向かって黄色い尿を放ちながら心身の調子を窺ってみたところでは、朝方に寝床で瞑想めいたことを行ったためだろうか、かなり落着き、整然とまとまっているような感じがした。それで、この日は起床時の瞑想はやらなくても良いのではないかと思ったのだが、やはり一応習慣として実行しておくことにして、部屋に戻ると窓をひらいて枕の上に腰を掛ける。瞑想中の意識の状態にも当然波があり、何と言えば良いのか、頭のほうにわだかまる感覚が引っ掛かって、それが溶けていかないのが僅かに苦しい、煩わしい、というような時があり、しかしそれをも怖じずに見つめていると、次第に心が落着いて行く。心身が静まっているな、と判断されたところで切り上げると、一六分を座っていた。自分の感覚に合わせて行うと、大体いつも一五分ほどになるようである。
 上階に行くと、卓の前で、脚を左右にひらいて腰や股関節を伸ばしたり、大きく背伸びをして背中の筋をほぐしたりする。それから台所に入り、食事を用意しはじめる。前夜の惣菜の残りでイカフライが一本あったので、それをいただくことにして、電子レンジで温める。ほか、白米に、やはり前日から引き続く玉ねぎの味噌汁、モヤシの炒め物や大根の菜っ葉の和え物が卓に並んだ。新聞は食卓では読まないことにして、見出しを確認するに留め、閉じるとぼんやりテレビのほうを眺めたり、母親の話すことを漫然と聞いたりしながら、イカフライを細く切り分けて、米と一緒に咀嚼する。(……)
 食後、風呂を洗い、白湯を持って自室に帰った。ひらいたままだった窓を閉めるとともに、カーテンをいくらか開けておくと、晴れの日ではあるが空には薄雲の広がりが見られ、陽射しは純に透き通っているわけでなく、言うなれば斑状の、やや淡いものだった。そうしてコンピューターを点け、前日の記録を付けるとともにこの日の記事も作成したあと、日記の読み返しをした。毎日二日分ずつ読んでいけば、いずれは一年前の時点に追いつくだろうというわけで、二〇一六年の一二月一三日と一四日の二記事を読み返した。一四日のほうでは、夜、自宅の近くに何やら消防車が出張ってきたのだが、入浴しながら窓越しにその色を見た時の描写、「浴室に行っても、磨りガラスに原色に近い赤さが宿っている。その下に白さも土台のようにしてあるのは、テールライトらしく、それに乗ってどぎついような赤の色が鼓動のようにして収縮するのは、それ自体、窓の外で炎が燃えているかのようでもあった。その紅の光によって磨りガラスの凹凸が露わに浮かびあがり、上端から水滴が流れ落ちると、赤さのなかに一筋、暗い水路がひらかれて一瞬夜の色に沈むのだが、すぐにまた乾いて起伏と色味を取り戻してしまう」というのがなかなか良いように思われた(とりわけ最後の、水滴の通過による色味の変化と復元の動きである)。
 日記を読み終えるとちょうど一時、そこから間髪入れずに作文に入り、前日の記事を早々と仕上げ、この日のこともここまで記して、現在は二時を目前にしている。
 そこから、tofubeatsなどの音楽をyoutubeで再生して、運動を行った。二時半までである。さらに歌をちょっと歌ってから、ふたたび日記の作成に入る。一月一一日のものである。
 一一日の記事を完成させると投稿し、そのままブログにて、年末年始の記事群を大雑把に読み返した。ゆっくりと読んだわけでなく、さらうような感じで、脳内に流れる言葉も早口だったので、言語に引かれて頭が回る感じがしたが、不安はさほど感じなかった。その後、上階に行って食事を取る。雑多に野菜の入った汁物に、朝と同じモヤシ炒め、そしてゆで卵一つである。時刻は四時くらいだったはずで、テレビには夕方前のワイドショーのような番組が映っており、温泉を紹介していたが、特段の興味を惹かれなかった(そう言えば自分はそもそも、温泉という場所に行ったことがない)。ものを食べながらも何か腹が痛かったので、母親が前日にこちらの誕生日だということでミルクレープのケーキを買ってきてくれていたが、それは夜にいただくことにした。
 下階へ戻ると、歯磨きをしながらほんの一〇分ほど読書をして、そうして四時半に至る。ジャージから服を着替えたあと、外出前にということで瞑想を行った。そうして上階に行き、便所に入って放尿すると、便意の蠢きをもかすかに感じたので、下半身を露出させて便器に座り、しばらく訪れを待ったが、結局出てこないので諦めて出勤に向かった。
 前日に引き続き、午後五時の空気は冷たく、ストールの内側に口もとを隠しながら行く。坂を上って平ら道に出ると、先の三つ辻にこの日は行商の八百屋が来ているのが見える。それで、もう結構日が長くなったな、と思った。先月にはこの辻で人々と遭遇していた時間には、もうよほど暮れきって宵に掛かるくらいの暗さだったが、この日はまだ空が薄い青さだったのだ。近寄って行き、こんにちはと挨拶を掛ける。青いジャンパー姿の八百屋の旦那と、(……)と、ほかに二人ほど、近隣の老人がいたようである。(……)が寒いから、気をつけてね、などと返してくれるので、行ってきますと受けて過ぎた。
 街道を行く。車道の果てから黄みがかった白の光を皓々と灯して連なる車の列の、ほとんど隙間なく密着していた明かりが次第に分解しながら近づいてくるさまの、これももう何度も見ては書いたものだから特段の印象も与えられないなと見ながら、しかしその「何度も見ては書いた」という印象のためにまた書くような気になって、反復の事実そのものが一つの新たな差異になるというこの事態はどうもややこしい、よくもわけがわからないなどと思い巡らせながら歩き、そのようにしてまたいつの間にか思弁が頭のなかに展開されていることに気づいて、自分はこのような概念の操作を書きたいのではなくて、この世の直接性をもっと感じたいのだと払い、見えるものなり脚の動きの感覚なりに傾注しようとしたが、しかしいずれまた考えが湧き出てしまうものなのだ。
 時間が前後するが、街道に入る直前から、入ってすぐ、道を北側に渡ったあたりで思ったのは、自分のテクストには「不安」という語が本当にたくさん書きつけられているだろうなということである。生身の人間として不安に追い立てられる結果、「不安」にまみれたテクストを自分は生み出している。この不安とは一体何なのか、それはどこから生まれて来るのか、そのあたりの問いを根本的な地点まで「解読」し、意味論的(ということはすなわち、認知/心理的)に納得の行く解釈を打ち立てれば、不安障害は消滅するというか、解決されるのではないかと思ったのだが、それを行うことにもまた不安感が付き纏いそうである。
 裏通りを行きながら考えていたこととしては、やはり観察技法に精進することによって、自己を高度に統御し、不安感が出てきてもそれを怖じずに見つめ、対峙できるように訓練する方向で行きたいということだ。不安障害だったに違いない釈迦は、やはりそれに苦しめられて、それから解放されるような(?)哲学的体系を作らざるを得なかったのではないかとひとまず推測してみるとして、釈迦の生涯や釈迦の残した言葉のなかにも自分にとって何らかのヒントになるような事柄があるかもしれない。そのあたりはいずれ触れてみたいとして、もう一つ気になるのは、「見ること」の力というものである。「見ること」及び「メタ認知」によって不安や恐怖が抑制され、あるいは消滅するに至るとは一体どういうことなのか、「視線/眼差し」に含まれている(意味論的な)力というものについてもう少し学んでみたい(こうした関心からすると、先日フーコーの著作を買った際に、『言葉と物』を選ぶのではなく、『監獄の誕生』のほうを選ぶべきだったのかもしれない)。「視線/眼差し/見ること」と言っているのは、内面的な事柄を対象とした場合は比喩であって、正確にはおそらく「意識の志向性」と言うべきものであり、とするとこれは認識理論とか現象学の分野になるはずで、さらに本当は脳科学とも当然関連する事柄なのだろうが、そちらの方面の素養は自分にはなさそうなので、ひとまず現象学的な方向を探索してみたいと思う(欲望や企図ばかりが過大に膨れ上がって、実状がまったくそれに追いつかない)。
 道中はそのように、思考を展開させてばかりだったようなので、具体物として印象に残ったものはいま思い出されてこない。勤務中、最初のうちはやはり腹が痛かったが、じきに収まった。(……)クッキーを、この日も三枚、ティッシュに包んでポケットに入れ、そうして退勤すると駅に入った。電車に乗って座席に就き、例によって瞑目しながら発車と到着を待つ。最寄りで降り、坂に入ると、前方に女性の二人連れがいて、同じ道を辿っている。追い抜かす気も起こらなかったので、歩調を緩めて先に行ってもらうに任せ、宙に目をやると、電灯を掛けられた葉が硬いように光っており、ほかにも道の脇から出てきている枝の、葉を落として姿態を露わにしたのが、これも馴染みの比喩だが毛細血管のような、あるいは骨のようなと思われた。そのように物々から即座にイメージを引き出して、そのもの自体から距離を取ってしまうこちらの認識性向も、どうにかならないものかなあと退屈さを覚えた。自分はそもそも、物々の「具体性」をより豊かに捉えたくて、身の周りのものをよく見るように心がけてきたのだが、その結果、その物自体に迫るというよりは、それを即座にイメージに横滑りさせてしまう性向が身についてしまった気がする。しかし、あるものやある瞬間の「具体性」というものも、結局は、そこに生じる「意味」の組み合わせのその形とか、豊かさとかで決まるのだろうか、という気もし、要は、ある一つのものにいくつものイメージが重ね合わせられて感知されるというのも、そのものの「具体性」の一つになるのだろうか、などと、そのようなことをまた考えながら道を行ったのだが、このような抽象的な思弁にはもはや飽き飽きである。自分はもっと、自分の身ぶり、動作、行動とか、そこにただ何かがあった、何かが動いていた、というような単純さを書きたい。要は、自分はもっと「叙事」をやりたいと思うのだが、個人的な性質としてどうしても思弁のほうに流れてしまうのかもしれない。
 帰宅すると、母親は風呂に入っているところだった。ストーブに少々当たってから洗面所に行って手を洗い、自室に下がって着替えを済ませてくると、母親は風呂から上がって洗面所で着替えをしているようだったので、横開きの扉を細く開けて、なかを覗かないように脱いだシャツを持った腕だけを差し入れ、洗い物として受け取ってもらう。それから、食事の用意をし、卓に就いてものを食べる。新聞の夕刊をめくると、明治天皇の和歌の英訳集が完成したという記事があったので、これはあとで読むかと目星を付けておいた。テレビは、『しゃべくり007』を映しており、見ながら時折り笑いを立てる。食後、入浴し、出ると久しぶりに蕎麦茶を飲むことにした。用意して自室に帰ると、一一時半頃である。コンピューターは点けず、新聞を読む。朝刊から、「米軍機事故 悩む政府 北朝鮮情勢 待ったなし 迫る名護市長選に影響」と、「エルサレムにトランプ駅? 「首都宣言」感謝 命名の動き パレスチナは反発」の二つの記事を、夕刊から先ほどの、「明治天皇の心 触れ30年 自然、平和…和歌311首英訳 米教授「神官との約束」」の記事をそれぞれ読んだ。それから、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionを五ページ読み、そうすると零時半頃、さらに本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』の読書に入った。文を読んでいるあいだは、就床前なのに(そしてコンピューターに触れてもいないのに)妙にくっきりと精神が張っているのが感じられ、文字が明晰で読み取りやすく、意識がまた少々覚醒のほうに傾いていたようである。そのように明晰でありながらしかし同時に、眠気が兆してくるのだ。それで何だかまた良くなさそうな気配を感じながら、眠気にしたがって一時一五分頃消灯した。入眠にはほとんど時間が掛からなかったと思う。

2018/1/14, Sun.

 前夜は久しぶりに夜更かしをして三時前の就床になった。それでこの朝は確か、七時頃にまた一度覚めたのだったと思うが、床に就く前に薬を飲んでいたのでこの時はそれに頼らず、呼吸を観察して非能動の状態に入ることで自ら寝付こうと試みて、成功したのだったと思う。そうして一一時二〇分頃まで眠った。覚めると、しばらく身体をもぞもぞと動かしながら起き上がる気になるのを待ち、一一時四〇分頃起床した。便所に行ってきてから、窓をひらいて瞑想を行う。近所のどこかから、何か建材のようなものを動かしているらしき物音が渡ってくる。
 一七分座って正午を越えると、燃えるごみを持って上階に行った。ごみを上階のものと一つに合流させておく。(……)台所に入ると、前夜の残り物であるところの、マカロニと豚肉をトマトソースで和えた料理や、大根の煮物がある。また、菜っ葉の入った味噌汁があって、鍋の底のほうにやたらと豆が溜まっているから何かと思えば、これは納豆らしい。それらを温めるとともに、ハムエッグを焼いて米に乗せ、食卓に就いた。新聞は見出しをざっと追うだけで読むことはせず、誰もいない居間で黙々とものを食べる。
 書き置きの傍には、この日がこちらの誕生日だからというわけで、小さな袋が用意されてあった。メモによればなかはハンカチらしく、父親に一枚置いて、二枚好きなものを取るようにと言う。見てみると、一枚はPOLO Ralph Laurenのものであり、もう一枚は良く覚えられない名前のもの、三枚目はBrooks Brothersというブランドのものだった。POLOを父親に譲ることにして、残りの二枚を自分のものとして、東の窓際の棚の上に置いておく。誕生日プレゼントにはもう一つ、シールで留められた青い紙の包みがあり、これはどうやら金らしい。二八歳にもなって正職にも就かず(今後も一生、正職に就くつもりはないのだが)、生活を諸々頼っている身でありながらそれに加えて金を貰うなどとは、実に決まりが悪いなと思った。とは言え、本当に微々たる、ほんの僅かなものではあるが、月々に金を収めてもいるので、そのうちからいくらかが返ってきたものと考えることにして、ありがたく頂戴した。
 食事を終えて食器を洗うと、フライパンに水を張ってそれを熱しているあいだに、風呂洗いを済ませる。出てくる頃にはちょうど水が煮立っているので火を止めて、水をあけた上からキッチンペーパーで拭って掃除をしておく。そうして白湯を用意して下階に戻り、この日は大変に久しぶりのことだが、過去の日記の読み返しをした。二〇一六年一二月一一日と一二日のもので、もはや一か月分以上読み返しが遅れてしまっているわけだけれど、如何ともしがたく、ゆっくりやっていくほかはない。一二日の記事から、最近の関心に連なると思われる以下の記述を引用しておいた。

 (……)瞑目して思念を遊ばせながら、立川までの路程が過ぎるのを待った。以前はこうした時間は、勿論音楽に耳を傾けていて、それがなくてはおそらく手持ち無沙汰になっていたと思うのだが、いまは退屈もない。それは一つには、周囲の様子を見回し観察して、日記に書くような具体性の欠片が転がっていないか探すということが可能になったからでもあるのだが、この時は特段それを心がけたわけでもなかったようである。代わりに自分の思考を観察して、物思いを遊ばせていたようで、それで退屈しないのはおそらく、どんな瞬間や時間であろうとも、内外に何かしら観察するべきものがあるという認識のあり方になってきているからで、その時間時間に自足することができていると言えるのではないか――この日の会話でもちょっと話したことだが、こうした観察と追認と気付きの実践は、日記を書き付けるなかで認識が繊細になり、世界の(すなわち時間の)肌理がより細かくなったことの帰結である――と言うよりは、両者は、実践と結果が相互に影響を及ぼし合い、相乗するようなものなのだが――そして、そうした認識のあり方は、ヴィパッサナー瞑想を行う時のそれと、似通っているようである。実際、生活のなかで何か印象深いことに遭遇し、それを実況中継のようにして脳内で言葉に落としこむ――すなわち、その場で「書く」あるいは「記述する」――時の頭の使い方と、ヴィパッサナー瞑想を行って、微細な「気付き」に言葉でもってことごとくラベリングしていく(数か月前からはそれもやらなくなって、おのれの知覚を自動的に追尾するような認識の仕方になっているが)時のそれとは、ほとんど同じであるように思われる。そういうわけなので、瞑想をたびたびやっていたのも、もしかすると世界の肌理を増すのに貢献したのかもしれないし、ヴィパッサナー瞑想を訓練してきた人の心持ちというのも、おおよそどんな時間であろうとも退屈することなく自足できるというものではないかと思えるのだ。世界の肌理が微細になる、認識の解像度が上がるというのは、勿論、差異あるいはニュアンスを見分ける能力が向上したということで、瞑想が精神疾患に効果があったり、あるいは全般的に精神に良い影響を与えたりするのも、神経的・生理的な効果はそれとしてあるにせよ、正確な観察力が磨かれることで、それまでは気付かなかった情報=ニュアンスを、明確に自覚的な状態で取りこむことができるようになり、それによって生のあらゆる瞬間が充足するということではないかとも考えられる(科学的・客観的な根拠がなく、まるきりこちらの主観的な体験に拠った推論だが)。先ほど記した、生の哲学としての西洋哲学と、東洋哲学の結節が可能なのではないかとの思いつきとは、こうした事柄である。

 それで一時過ぎ、そこから間髪入れず、(……)が先日送ってきてくれていたメールの返信を読んだ。そうしてそのまま、それに対する再返信を綴りはじめたのだが、長くなってしまうので手短になどと言いながら、書いているうちに思っていたよりも長くなってしまうのが常で、これに結局二時間ほどの時間を費やした。綴り上げた返信を、以下に引用しておく。

 (……)返信が大変遅くなってしまい、申し訳ありません。二〇一八年を迎えたということで、遅ればせながら、今年もよろしくお願いします。

 返信を綴れなかったのは、この年末年始に不安障害の症状が高じて、いくらか統合失調症的な様相を来たすまでに至ってしまい、ゆっくりと落着いてお返事を考えるどころではなかったからです。本当に、頭のなかを言語が常に高速で渦巻いて止まらず、先のメールに記したものですが、「ほとんど瞬間ごと」の「解体/破壊と建設/構築」を往来する精神の運動をまさにそのまま実現したかのようであり、それによって発狂するのではないか、自己の統合が失われるのではないかという恐怖を体験しました。一時はどうなることかと思いましたが、今は薬剤をまた飲みはじめて、不安のほとんどない状態に回復していますので、ご心配なさらず。この間の経緯や、今次の自己解体騒ぎについての分析・考察も漏れなく日記=ブログに記しており、なかなか大変な経験ではありましたが(しかしパニック障害が本当に酷かった頃に比べれば、何ほどのことでもないのです)、そこからまた生み出された思考もあり、我ながら結構面白い体験をしたのではないかと思うので、関心が向いたら是非読んでいただきたいと思います。

 丁寧で充実した返信をいただき、ありがとうございます。今しがた読ませていただき、色々と思うところや共感する部分もあるのですが、それらについて細かく述べているとまた無闇に長くなってしまうでしょうから、ここではそれは差し控えます。ただ一つ、取り立てて印象に残ったことに言及させていただくならば、(……)の返信のなかに現れている主題とこちらの最近の関心事に共通するものとして、「抽象概念の具現化」というものがあるのではないかと思いました。

 言うまでもなく、意味や概念とは、所詮は意味や概念に過ぎず、この世界に実体として存在しているものではありません(この世界の物質的な様相だって実体的なものではなく、我々の認識機構が作り出した仮象に過ぎない、という議論もあるのだと思いますが、話がややこしくなるのでこれについては今は措きましょう)。本来は我々の頭のなかにしか存在しない概念というものにどのようなものであれ現実的な力を持たせたいならば、それを具体的な、目に見える形に具現化するというプロセスが不可欠です。こちらとしては、これが「芸術」と呼ばれる営みの役割の一つではないかと考えています。つまりは、この世には何か素晴らしいもの、「希望」なら希望が、あるいは「愛」なら愛が、実際に存在するのだということを説得的な形で示す、ということです(あるいは素晴らしくないものが、それでもやはり存在してしまうのだ、ということを示す、という方向での試みもあるはずで、それはそれでやはりこの世にあるべきなのだと思います)。

 一方、(……)の返信のなかにも、例えば、「研鑽された系譜は、具体的な他者に宿り、魅力的な一人の人間の生き方として表出するのです」とか、「深い精神は身体に宿り、本人の自覚はともかく、一人の魅力的な教師として、他者を教える存在になるのです」といった文言が見られます。ここには明らかに、「体現」のテーマが観察されると思います。先のメールにおいて、最近こちらは、ミシェル・フーコーが晩年に考えていた「生の芸術作品化」のテーマに惹かれていると触れました。ある個人の生が芸術作品のようなものとなるということは、その人の生が洗練され、卓越したものとして形作られ、それによって何らかの概念を「体現」するということではないでしょうか? ここにおいて想起されるのは、もう二年と半年も前のことになりますが、New York Timesの記事で述べられていたCornel Westの言葉です。彼は明らかにこうしたテーマと同じことを語っていると思われるので、下に引用します。

(……)Yet, at the same time, we’re trying to sustain hope by being a hope. Hope is not simply something that you have; hope is something that you are. So, when Curtis Mayfield says “keep on pushing,” that’s not an abstract conception about optimism in the world. That is an imperative to be a hope for others in the way Christians in the past used to be a blessing — not the idea of praying for a blessings, but being a blessing.

John Coltrane says be a force for good. Don’t just talk about forces for good, be a force. So it’s an ontological state. So, in the end, all we have is who we are. If you end up being cowardly, then you end up losing the best of your world, or your society, or your community, or yourself. If you’re courageous, you protect, try and preserve the best of it.(……)
 (Cornel West: The Fire of a New Generation, By GEORGE YANCY and CORNEL WEST, http://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/08/19/cornel-west-the-fire-of-a-new-generation/

 希望について語るのではなく、希望そのものに「なる」ということ。(……)の文脈で言えば、(……)が関心を持っていらっしゃるのはきっと、生存の様式そのものとして「哲学」をするということであり、「哲学」を体現し、ほとんど「哲学」そのものに「なる」ということなのではないでしょうか。それは別の言い方で言えばおそらく、「考えること」がほとんどそのまま「生きること」になるような生のあり方であり(こちらにおいてはそれは、「書くことと生きることの一致」として言い換えられます)、おそらくこの関心こそが、単なる「思想の歴史家と、そうした知性に群がる官僚」と(……)とを根本的に分かつ点であり、そして我々を結びつける接続点なのではないでしょうか。

 そして、「生きること」の総体とは、一日ごとの「生活」の積み重ねとしてあるのですから、ここからは、毎日の生活をどのように形作っていくか、という問題が必然的に出来します。そうして、一日の生活をさらに細かく捉え、その日のうちの瞬間ごとの選択の集積、という水準にまで微分化して考えることもできるでしょう。ここにおいて、瞬間瞬間の自己を絶えず観察し続けることを目指すヴィパッサナー瞑想の方法論は、自己を高度に統御して洗練させることで、自分自身を最終的に「芸術作品化」していくための手法としての意義を露わに示すものではないでしょうか。

 こちらとしては、(主に後期の)ミシェル・フーコーの文献に当たることで、こうしたテーマについての思索をさらに深めたいと思っています(そう思っていながらも、怠惰やら勤務やら色々なことにかかずらわって、読書が一向に進まない現実があるわけですが)。また、この主題体系のなかに、「差異」や「ニュアンス」というテーマをも、おそらく何かしらの形で接続できるとこちらは見込んでいるのですが、まだそのあたりは明瞭に見えておらず、今後の思考の発展を待ちたいところです。自分のなかで明確な形を成した思考は、その都度日記に書くつもりでいるので、気の向いた時にブログを覗いていただければと思います。

 ほか、返信をいただいて一番強く感じたことは、仲間たちと対面し、あるいは横に並んで具体的な時空を共有しながら、日常的に思索と対話を交わす環境にいらっしゃることがとても羨ましい、ということです。勿論、妬んでいるわけではないのですが、しかしそうした環境は大変に楽しそうだなと想像し、自分もいつかそのような場に身を置けたらと夢想することをやはり留めることはできません。とは言え、今の自分の生活だって、読み書きを続けていられるのだから、そこそこ悪くないものです(と言うか、読み書きを続けることさえできれば、自分は概ねどのような環境でも、わりあいに満足すると思います)。こちらはこちらの場所で、目に見えたものや頭のなかに生まれた事柄を書き続け、自己の変容を続けて行こうと思います。

 そうするともう四時である。さらに間髪入れずに、(……)が綴っていた日記のデータも貰っていたので、そちらを読み出し、四時台も後半になったところで作業を取りやめて上階に行った。
 ひとまず、何かエネルギーを補給したかった。そしてその後に夕食を何かしら拵えるつもりでいたのだが、冷蔵庫を覗いてみても大した食材がない。おそらく買い物をして帰ってくる母親を待つようかとも思ったが、それでも冷凍庫に豚肉が保存されていたので、これを炒め、ほかに玉ねぎと卵の味噌汁でも作れば良かろうと当たりを付けて、先ほどと同様のメニューで食事を取った(炊飯器の米はもう固くなっていたので、皿に取り分けて、のちにラップを掛け、冷蔵庫に入れておいた)。ものを食べながら、卓の上、右手に、何故か古いアルバムがどこからか取り出されて置かれていたので、五つほどセットで箱に入っているそれらのなかから、一つ二つ取り出して眺めてみると、幼い頃のこちらと兄が家の前の道路で遊んでいる様子などが映っている。自分にこのような頃があったとは、まったく信じられないなと思った。また、若い頃の両親の姿もなかに映っている。ロカビリー気取りなのか、半端なリーゼントめいた髪型にサングラスを掛けた父親が、滑り台の上で幼いこちら(多分、まだ三歳かそこらではないか)を抱きかかえ、その後ろから兄も続いている、といった写真があり、そうしたものを見ているとやはり多少は感傷的な気分が催されるもので、自分は今、二八にもなっても一人暮らしをしたこともなく、まだ親元に置いてもらってあり、ただ読み書きばかりを自分の成したいことと思い定めて、社会的・経済的な能力に関してはとんと興味を持たず、金を稼いだり家庭を築いたりする能力に関しては無能そのものという風に育ってしまったけれど、本当にそれで良かったのだろうかなあ、母親はともかくとしても父親は、次男がこんな風に育ってしまって、残念だという思いを時には覚えたりもしないものだろうかなあ、などと不甲斐ないような気分が少々滲んだ。しかし自分がそんな風に、本当に殊勝な気持ちを抱いているのかと問うてみると判然としなくなり、ここからまた例の、自己の統合が緩くなったような不安を感じはじめて、頭のなかがぐるぐると回りだしたのだが、これにはコンピューターを長時間見つめながら言語を操り続けたこと、また薬剤の効果が切れはじめていたことが寄与していたのだろうと思う。しかし、不安を感じながらも自分は行動することができるぞというわけで、食器を洗ったあと、まずアイロン掛けを行った。するともう多分五時も過ぎていたと思う。外も青く暮れてきて、室内も暗いので明かりを灯してカーテンを閉め、次に米を新しく研ぎはじめた。この時、離人感めいたものがあったのだが、これは自分の場合、意識の志向性が脳内の言語に向かい過ぎてしまい、目の前の外界の知覚が希薄になることによって起こるようで、ホームポジションとしての呼吸に戻るべく、口から息を、細く音を立てながら吐くその動きに意識を寄せると、途端に目に入っている米だとかシンクだとかの実在感が回復したので、やはり呼吸に対する意識というものを訓練すれば、自分は何とかうまくやっていけそうである。そうは言っても、精神が落着かない状態に陥り続けていることは確かだった。(……)しかしそれはそれとして、母親が買ってきたものを冷蔵庫に収め、それから味噌汁を作りに掛かった。母親は寿司やらフライの類やらも買ってきていたので、それをおかずとすれば炒め物はなくてもよかろうと、汁物だけを用意することにしたのだ。玉ねぎを切り分けて湯に投入し、出汁と味の素を振ると、煮えるのを待つあいだに椀に卵を溶いておく。手持ち無沙汰になると、鍋の前に立ち尽くしながら呼吸に意識を向けて精神の鎮静を図り、適当なところで味噌を溶き入れ、卵も投入して完成とした。
 その後、室に帰り、薬を飲んでおいてから歌を歌う。何曲も歌い呆けていると、身体が軽くなり、頭もすっきりとまとまったような感じがした。そうして、六時半頃から書き物に入る。一月一〇日の記事を仕上げ、一一日にも入ったが、途中で、まだ記憶の定かなこの日のことを先に綴ってしまおうと(定かに覚えていることを十全に綴るというのが、やはり楽しいのだ)一四日の記事に移り進めて、あっという間に八時である。瞑想をしてから食事を取りに行った。
 食事は、白米に玉ねぎと卵の味噌汁、寿司(ネギトロ及びイクラの手巻きと鉄火巻を少々)、カキフライ二つに厚揚げである。食べているあいだ、そこに存在していることそのものに集中できないというか、やはり言語が脳内に湧き上がってくるのが気にかかって仕方がない、というようなところがあったようで、テレビは大河ドラマを映していたけれど、特に印象に残っていない(居間にいるのは母親だけで、彼女は炬燵テーブルに就いており、既に食事は終えて食器は空になっていたようで、父親のほうは自治会の会合に出かけていた)。しかし、厚揚げの滑らかな舌触りを美味に感じたことを良く覚えている。醤油を垂らしたカキフライや、その厚揚げとともに白米を食べ、食後には、こちらの誕生日ということで、父親が昼間に買ってきてくれたらしいコンビニのチョコレートケーキを頂いた(忘れていたのでここに記してしまうが、(……)からも誕生日おめでとうとのメールが届いていたので、いつの間にやら二八歳にもなってしまっているが、歳相応に精進したいとの返信をしておいた)。食事を終えると食器を片付けてそのまま入浴に行った。
 入浴した頃には、薬剤もかなり効いてきていたのか、湯に浸かりながら自分の意識や感覚をあるがままに放置してリラックスしている、という趣があった。たびたび瞑目しながらゆっくりと時間を掛けて浸かり、出てくると既に一〇時前だった。室に戻って、瞑想を行う。この時も、呼吸をホームポジションとして据えるのだということは考えず、多方向に拡散して逸れていく思念の糸をそのままに放置し、遊ばせながらただ観察した。多分、それで良いのではないかと思う。言語が湧いてくるのが怖い、あるいは不安であり、ストレスであると言って、それを克服するには、やはり結局はそれをよく「見る」こと、殊更に見入るほどに注視するのでなくとも、受け流しながらも観察を働かせて定かに見ることのほかにはないのではないか、という気がしたものである。
 そうして、日記の記述に取り掛かった。記憶の残っているものからというわけで、一一日、一二日のものはメモも取ってあることであるし後回しとし、前日、一三日の記事である。五〇分ほど進めて一一時に至ると、一度中断して上階に行った。と言うのは、会合に行っている父親が帰ってきたあと寿司を食うのかどうかわからないという話が先に出ており、もし食わずに余ってしまうのだったら翌日まで保たせるのも難しいだろうから、こちらが食べてしまうと言ってあったのだ。それで確認しに行ってみると、鉄火巻は食べたようで、手巻き(シーチキンとレタスのもの)が一つだけ残っていたので、それをいただいた。醤油を垂らして食っているあいだに、テレビでは、あれは何の番組だったのか、ロシアにおける「殺人マニア」のことが取り上げられており、長年に渡って何と八一人も(一人を除いてすべて女性)を殺したというから凄まじいものである。その後、母親が昼に食べきれず持ち帰ってきたサンドウィッチもあったので、それも食べてしまうことにして、電子レンジで熱して自室に持って帰り、付け合わせのポテトと一緒にプラスチックの楊枝で突き刺して口に運びながら、ふたたび日記を書き出した。ものを食べてしまうと容器を上階に運んでおき、白湯を注いできて、それを啜りながら一三日の記事を進めて、仕上げた頃には零時も間近になっていた。そこからさらにこの日の記事をここまで書き進め、現在零時九分に至っている。
 そののち、歯磨きをしつつ本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読みはじめた。口を濯いできてからも、ゴルフボールを踏みながら読書を続け、じきにベッドに横たわって、眠気が兆してきたところで終いとした。一一五頁から一三三頁まで、時刻は一時半過ぎだった。ダウンジャケットを脱ぎ、戸口の横にある電灯のスイッチを切って、布団に潜り込む。入眠に苦労はなかった。