2019/3/29, Fri.

 一一時起床。Twitterを覗いてから上階へ。ジャージに着替えて顔を洗う。食事はおじやとマフィンと前日のウインナーの炒め物の残り。母親、将来に対する不安を漏らす。この家は一人で住むには広すぎると。しかしYちゃんにも言われたことだが、兄が家を出て外国になど行っている現状、この流れのままで行くとこちらがこの家を守っていく立場にならざるを得ないのではないか。自分に果たしてきちんと家を継ぐことができるかどうか、そのあたりこちらも心許ない。翌日、相模原の親戚の墓参りに行って帰りに山梨の祖母宅に寄るという話もあった。朝早く起きられればこちらも行っても良い。母親が料理教室で作ってきたオレンジ・ケーキと、その仲間から頂いてきたふわふわのシフォン・ケーキをデザートに食って、薬を飲んで皿を洗って下階へ。日記を書き出したのが一二時一四分。『特性のない男』の感想をちょっと綴り、前日の記事を仕上げて、ここまで書くと一二時四六分。花冷えの金曜日である。
 FISHMANS『Oh! Mountain』を流した。そうして前日の記事から『特性のない男』の感想部分をTwitterに投稿し、記事全体をブログに投稿する。それで時刻は一時頃、"土曜日の夜"が流れ終わると上階に行った。母親は炬燵に入って食事を取っていた。こちらは風呂場に行ってゴム靴で室内に踏み入り、風呂の栓を抜くとともに蓋を除いて、洗濯機に繋がったポンプ管も持ち上げて水を排出させる。それからブラシを手に取り、浴槽のなかに入って四囲を擦る。下辺を念入りにごしごしとやっておき、シャワーで泡を流すと栓と蓋をもとに戻して室を出た。立川に出かける気になっていた。それで下階に戻ると、『Oh! Mountain』の流れるなかで早速服を着替えた――臙脂色のシャツに、僅かに青みがかったグレーのイージー・スリム・パンツ。やや冬戻りしたようでそこそこ冷える日なので、上着には久しぶりにバルカラー・コートを着るつもりでいた。街着に着替え終わると、音楽の流れるなか、出かける前に「記憶」記事を復習しておこうと一時半前からぶつぶつやりはじめた。椅子に座って背を丸め、コンピューターに向かい合って三〇分、中国史の知識を確認すると、音楽は"チャンス"が流れているところだった。Twitterを眺めながらその次の"いかれたBABY"まで聞き、そうするとコンピューターをシャットダウンし、荷物をまとめて上階に上がった。二時過ぎだった。Marie Claireのハンカチを引き出しから取って母親に行ってくると告げ、玄関に出たところで鍵を持ってくるのを忘れたことに気がついたので、自室に戻った。鍵を棚から取ってズボンのポケットに収め、もう一度階段を上がって出発である。
 やはり空気のやや冷たくて、少々張ったような肌触りだった。とは言え道に出れば陽は射していて首の後ろに温もりが宿る。坂に入り、こごっている脚をほぐすようにしてゆっくりと歩を送り出してのろのろと上っていると、そんなわけもないのにまるで病み上がりであるかのような気分が兆すようだった。出口に掛かると風が通って、周囲の緑葉がさらさらと靡き、ガードレールの向こう、一段下がった道の脇に生えたピンク色の木蓮も無数の蝶のような花を揺らがせる。
 街道に出るとすぐに北側に通りを渡った。石壁の上、頭上から張り出している小さな桜の、粒立った白い花びらを見上げながら過ぎると、脚もほぐれてきたようで歩調が軽く、いくらか滑らかになっていた。道端でユキヤナギの、白い花の連なった房が無数に広がり重みでいくつもの曲線を描いているその氾濫に、自然にそのように生長したと言うよりは人工的に整えられたオブジェを見ているような感が差した。小公園の桜はまだ開花前だが、もうほとんどひらきかけて蕾の紅色を枝先に充実させている。
 裏通りに入って行きながら、右方の塀から足もとに掛かってくる影と、その足もとから斜めに伸びる自分の影絵とがいくらか淡いのに、何かいたいけな、とでもいうものを見たような心地になった。変わらず温もりはあるが、空はどちらかと言えば雲寄りのようだ。途中、通行人もない通りのなかに、錐揉み状とでも言おうか、そんな形象を思わせる鶯の谷渡りが左方の林から響き落ちてきて、気づけば風が流れており肌にも触れて、見やれば線路の向こうの木の葉も揺らいでいる。さらに進んで青梅坂の近づいた頃に現れる白木蓮の、遠くから見ても落花のあとの貧しさが露わで、無残なような姿を晒している。天に向けて突き立つ枝に茶色に萎んだ花の残骸を突き刺すようにして、下部にはまだ白い花もいくらか残ってはいるが、そのどれも口を窄めながらすっと立つ力をもはや失って、しどけなく花弁を四方にひらき垂らしていた。短い華やぎだったな、と哀れんだ。薄黄色混じりの白さを全面に漲らせたかと思いきや、盛りはいくらも続かずすぐさま端から炎に炙られたように茶色く変色していき、梅や桜のように楚々とした白さを保ちながら散り舞って人の目を楽しませるのでもなく、燃え尽きた花火の残骸のように色を濁らせてぽとりと直下に落ちて伏す。難儀な花だ、と思った。
 道の左右の草むらやら庭木やらに現れる鵯に目を向けながら市民会館跡地裏まで行くと、駐車場の向こう、林の縁で、緑の木に隠れるようにして、しかし隠しきれず、山桜がくゆるように光っている。とすれば梅岩寺の、名物の枝垂れ桜ももう咲いているかと進んで見れば、果たして色を宿していて、木の足もとの駐車場には見物の客の姿がいくつもあったが、手前の山桜の、白髪のように光る淡い薄紅色こそ捨てがたい。人の通う道もなく木のもとには古びた家が一軒あるのみ、寺の桜から僅かな距離の差なのに誰にも見られず照っているかと仄かにものを哀れに覚えて、句を詠んだ。

 見る影も絶えて木蔭の山桜

 駅まで来ると改札をくぐってホームに上がり、先頭車両の位置まで来ると手帳を取り出して道中印象に残った物事を短くメモした。やって来た電車に乗ると今日はいつもと違って、七人掛けの端に就く。そうして、加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』を取り出して読みはじめた。尿意がやや高くなっていた。股間の感触に、途中で漏らしはしないだろうなと、パニック障害時代から習いとなっている緊張が微かに湧く。それでも途上、初めのうちは本に気が紛れて尿意を忘れていたところが、昭島を過ぎたあたりから段々膀胱が張って来るようで、いや、漏らすことはないとわかってはいても集中を逸らされた。車両内、端の優先席に座った家族の、まだ幼い子供が、明かりをつけましょぼんぼりに、とあどけない声で、正確な音程など知らぬ気に、歌うと言うよりは叫ぶような声を放っていた。
 立川に着くと降車、階段に向かって人々の流れていくあいだに立ち止まって手帳に読書時間の終わりを記録した。緊張はあるが、敢えて急がずにゆっくりと歩き、階段を上り、便所に入って小便器の前に立った。長い放尿を終えると手を洗ってハンカチで拭きながら室を出て、外していたコートの前釦を嵌め直すと歩き出し、改札へ向かった。こちらの直前で女性が一人、カードがうまく読み込まれなかったのか別のカードを当ててしまったのか、改札の赤いランプに捕まっていた。こちらは抜けながら振り向くと、彼女は別の改札からもう一度試して無事通れたようで、売店の脇に立っていたサングラスを掛けてオレンジ色の上着を纏った男性に近寄っていた。すぐさま男が女の肩を抱いて引き寄せ、髪など撫でているところでは恋人らしい。
 広場に出て、伊勢丹方面へと通路を辿って行く。歩道橋に掛かるところで横からこちらを追い抜いていく男女の、先ほどの二人ではないかと見ながら確信が持てなかった。サングラスこそ顔に掛けていないものの、オレンジ色のジャンパー風の上着の先刻見たばかりのものではないかと思い、女性のほうの姿形にも覚えがあるような気がしながら、記憶が早くも索漠として定かでない。人の記憶とは何と朧気なものかと思いながら道路の上を渡り、高島屋へと折れて二人を追っていたところ、男のほうが女の頭に腕を回して抱くようにじゃれ合っていたので、その親[ちか]しい距離感から言っても多分、先の二人と同一人物だったようだ。
 高島屋に入館し、エスカレーターを上って淳久堂へ入店した。目当ては山我哲雄『一神教の起源』である。次の読書会の課題書であるこの作は、地元の図書館に収蔵されているのだが、検索してみると貸出中が続いており、だったらいっそのこと買ってしまおうと思って来たのだった。それで、選書の棚を見に行くと件の著作は棚に見つかったので、それを手に持つ。それから岩波文庫の棚など見分して、ルソー『告白』が揃って上中下あるのを確認すると、次に海外文学を見に行った。仔細に棚を見てみれば、面白そうな本はいくらでも見つかるが、金を出して買うかどうかとなると踏み切るほどの気にはなかなかならない。この時見たなかでは、『リヒテンベルクの雑記帳』という著作が面白そうで手帳にメモしておいた。この名前は、先日読んだショーペンハウアーがその文章のなかで優れた著作家として挙げていたものだ。
 それから文庫のほうに戻り、ルソー『告白』はここで買ってしまうことにした。それで合わせて五〇〇〇円くらい、Mさんから貰った五〇〇〇円分の図書券を持ってきており、それでカバーできるので、もう一冊何か買おうという気になっていた。それで思想の区画を見に行く。ショーペンハウアーが言っていた通り、何か世評の確立された、天才が記した古典的な著作でも買おうかという心で棚を辿って行くと、ハンナ・アーレントの一角があったので、アーレントなど良いのではないかと見分した。『エルサレムアイヒマン』が三〇〇〇円台で良さそうだった。候補として頭のなかにメモしておいて、一旦その場を離れて西洋思想の長々しい棚を追って行くと、古代のところで、アウグスティヌスの『告白録』を発見して、これも良いのではないかと思った。ルソー『告白』と合わせて自伝文学の白眉であり、主題的な連関性・統一性も取れる。値段は四八〇〇円、どうしようかと思いつつ、二〇一二年出版のこちらのほうが多分良いのだろうが、『告白』なら岩波文庫にも入っていただろうと、ひとまずそちらを見に行った。しかし岩波文庫版は上下のうち片方しかなかったので、やはり買うならハードカバーのほうだなというわけで思想の区画に戻り、『告白録』を手に取って中身を覗きながら迷う。アーレントの区画にも戻ってふたたび『エルサレムアイヒマン』も見分した。さらに、『アウグスティヌスの愛の概念』という著作もなかを覗いてみたのだが、これを先に買うよりはやはりアウグスティヌスの原書のほう、『告白録』そのもののほうを読むべきだろうと思われたので、やはり『告白録』を購入することに決めて、ハードカバーの厚い著作を手に取って、計五冊を持って会計に行った。
 そうしてエスカレーターを下って退館。曇り空の下、歩道橋を渡り、左方に階段を下りて、ビルのあいだの細い道を抜けて表通りに出ると、PRONTOに入店した。二階に上って席を見れば、喫煙席傍に二つのテーブルが繋がった四人掛けがあって広々と使えそうだったが、さすがにそれを一人で占領するのは気が引けたので、カウンターの端に入ることにして荷物を置いた。そうして下階に下り、小腹が空いていたので何か食べたいと棚を見やって、ソーセージ・エッグ・マフィン(二八〇円)を手に取り、レジカウンターの女性店員に差し出した。そうして、あとですね……と前置きを置いて、アイスココア、と呟くと、踊るように身を翻してマフィンを背後のレンジに収めながら店員がサイズを尋ねてきたので、Mサイズでと告げて、合わせて六一〇円を支払った。品物を受け取ると上階の席に戻り、ココアの上の生クリームをちょっとすくって食べたあと、ストローで突いて褐色の液体のなかに沈め、甘ったるいその飲み物を啜る。それからマフィンの包装紙を剝がして一口一口かぶりついていった。食事を終えるとコンピューターを取り出し、ココアを飲みながら打鍵を始めたのが五時直前、それから一時間余りを作文に費やしてここまで追いつかせることができた。
 トイレに立った。放尿したあとトイレットペーパーで便器を拭き、蓋を閉めてから放水のスイッチを押した。手を洗ってハンカチで拭きながら出て、席に戻るとバルカラー・コートを羽織り、立ったまま前屈みになってコンピューターを操作してシャットダウンさせ、荷物をまとめて片手に本の入った紙袋を、もう片手にトレイを持った。喫煙室のほうからやって来た男性店員がこちらの持つトレイを引き受けてくれたので、ありがとうございますと礼を言って階段を下り、レジカウンターの向こうの女性店員にもありがとうございますと掛けて退店した。右に折れてエスカレーターに向かいながら、そろそろ薄暗んだ空を眺めて、時間が経つのがまことに速いなと思った。一日が短いのだが、それは主に、昼前までだらだらと寝過ごしていることが原因ではあるだろう。もう少し早く起きて一日を長くしたいものだと思いながらエスカレーターを上り、通路を辿って広場へ。広場では何かの演説が行われていた。それを聞き流しながら駅舎に入り、ざわめきと人波のなかの一片と化して改札をくぐった。青梅行きは五番線から六時一六分発があったが、後発で座って帰ろうと一・二番線ホームに下りた。そうして一号車に入り、その一番端、先頭車両の先頭――と言うか、進む方向からすれば最も後方――の席に就いた。加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』をひらく。道中、特段に興味深い人物や出来事は見かけなかったと思う。本の方は、具体的な描写をしているならば良いのだが、エッセイ風の考察などになるとやはり言っていることの意味がわからない箇所が散見される。それでも読み進めて、青梅に着くと淳久堂の白い紙袋に本を収めてホームを歩き、奥多摩行きに乗り込んで扉際に就くと、ふたたび『特性のない男』を手に取ってひらいた。窓ガラスに凭れつつしばらく読んでいるうちに発車して最寄り駅に着く。ホームを辿って駅舎を抜け、星のない空を暗夜らしいなと見上げながら坂道に入り、下って行った。さらに平らな道を辿って帰宅。
 母親にただいまと挨拶するとすぐに下階に下りて、服を着替えた。臙脂色のシャツは脱がず、その上からジャージを羽織ったままで上階へ。洗面所の籠にハンカチを投げ入れておいてから、台所で食事を用意した。米・鯖のソテー・茹でて鰹節を振った春菊・白菜とウインナーの汁物などである。卓に就き、ものを食べながら、母親と将来の不安についてなどちょっと話し合った。一体自分は本当にしっかりとした主体としてこの先生きていくことが出来るのだろうか? 母親は母親で、今の家は一人で住むには広すぎると考えているらしい。テレビは『ミュージック・ステーション』で、そちらを時折り見やりながら話をしたが、まあテレビのことはどうでも良い。食後、薬を飲んで入浴に行った。頭を洗いながら、ともかく一〇年は続けてみることだな、そうすれば何かがひらけるかもしれないと、無根拠にそう思った。二〇一三年の一月から書くことを始めて六年強、昨年の一年間は頭がぶち壊れて休んでいたので実質五年強と考えて、あと五年間である。その頃には三四歳になっている。果たして何らかの道がひらけているのか否か。
 風呂を出るとすぐに自室に下った。cero『Obscure Ride』の流れるなかで、Mさんのブログを読む。二日分。ここのところ読んでおらず、最新記事から少々遅れている。その後、fuzkue「読書日記(128)」を一日分。そうして書抜きに入った。小林康夫『君自身の哲学へ』に、ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』。BGMは途中でAndy Milne & Dapp Theory『Forward In All Direction』に繋ぐ。そうして一時間ほど打鍵して、一〇時半近くに至った。「記憶」記事に書き抜きしたばかりの記述のなかからいくつか引いておき、それから日記を書き出してここまで。
 歯を磨きながら買ってきた『一神教の起源』をちょっとめくってみたり、Twitterを眺めたりしたのち、一一時半前から読書。川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(下)』を一時間。エンターテインメント的な物語を考えるというのも、大変なのだろうなあと思う。こちらにはない才能である。それから『特性のない男』を三〇分弱読み、一時前には床に就いた。


・作文
 12:14 - 12:46 = 32分
 16:52 - 18:04 = 1時間12分
 22:34 - 22:56 = 22分
 計: 2時間6分

・読書
 13:23 - 13:57 = 34分
 14:51 - 15:24 = 33分
 18:15 - 19:16 = 1時間1分
 20:45 - 21:24 - 22:23 = 1時間38分
 23:25 - 24:52 = 1時間27分
 計: 4時間13分

  • 「記憶」: 59 - 68
  • 加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』: 18 - 42
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-24「手のひらをながめて探す永遠を見つけたいいや見つからない」; 2019-03-25「目の前の扉を開けた天井がおれをむかえるここは棺桶」
  • fuzkue「読書日記(128)」: 3月11日(月)まで。
  • 小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、書抜き
  • ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』岩波文庫、一九八三年改版(一九六〇年初版)、書抜き
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(下)』: 86 - 152

・睡眠
 1:45 - 11:00 = 9時間15分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • cero『Obscure Ride』
  • Andy Milne & Dapp Theory『Forward In All Direction』
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2019/3/28, Thu.

 一〇時二〇分希少。ここ最近の日々のなかではまずまずといったところか。上階に行くと母親はテーブルに就いていた。ジャージに着替え、洗面所で顔を洗い、台所に入って、フライパンに炒められた菜っ葉とウインナーを皿に取って電子レンジに突っ込み、味噌汁は焜炉で熱する。そうして米をよそって卓へ。母親は、父親の入院関係の書類に署名していた。手術は四月三日、そこから一週間ほど入院するらしい。手術に立ち会うのは面倒臭いが、どうせ暇なのでまあ行ってもいい。入院中も一日くらいは見舞いに行くのも良いだろう。その時には、暇つぶしのために何か漫画でも持っていってあげようか――などとそんなことを考えながらものを食べた。そうして抗鬱薬ほかを服用し、皿を洗って下階へ。時刻は一一時頃だったはずだ。ceroの三曲を流しながら前日の記録をつけ、この日の記事も作成すると、コンピューターの速度を回復させるために一旦再起動した。そうしてだらだらとした時間を過ごしたあと、正午に至って日記を書きはじめた。流したのはFISHMANS『Oh! Mountain』
 前日の記事をブログに投稿すると、一二時四〇分からベッドに移って読書を始めた。ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』である。途中、鶯の鳴き声が窓の外から聞こえた。また、何かの器具で土を搔いて草を取っているらしい音も窓外から伝わってきたので、母親が草取りをしているのかと思いきや、これは隣のTさんが頼んだ男性が発する音だった。空は曇り、今日は散歩に出る気にもならない。それなので思う存分本を読もうと思ったところが、二時一五分に達して、何だか疲れが湧いたようで――朝もゆっくり眠って、そののちもほとんど何もしていないのに疲れるというのが不思議なところだが――横になっているうちに意識を失った。そのまま断続的に、意識を取り戻しつつも四時一〇分まで休んで起き上がった。そうしてふたたび読書。二七頁には、「低劣な著作家の大多数は、新刊書以外は読もうとしない民衆の愚かさだけをたよりに生きているにすぎない」という文言がある。何故、専ら新刊書しか読まない者は「愚か」なのか? それは、それらの新刊書は未だ時の試練を経ておらず、価値が定まっていないものだからだろう。勿論、新刊書のなかにものちのちの「古典」となるべき卓抜した著作はあるだろう。しかし大半は凡百のもので、時代を越えてあとに残ることはないものばかりである。何よりも、既に幾星霜を耐え抜いて価値が証明された「古典」を読まずしてどうするのか、ということだろう。とは言え、読書好きの身からすると、次々と出版されて目まぐるしく書店に並ぶ色とりどりの新刊のなかにも、魅力的な、興味を惹かれる本はたくさんあるもので、と言い訳をしたくなる。また、現在/現代の、同時代の作品をこそ読んでいくべきだという考え方もあり得るだろう。いずれにせよ大事なのは、無数の出版物の氾濫に溺れないように、楔となるような自分の「古典」を見つけていくことだと、そんな穏当なところに落としたい。
 また、ショーペンハウアーは独特の具体的な比喩を使って、なかなか鋭く痛烈な罵倒を放ってみせる。例えば、「そのへんの藁にも似たもろい頭脳の所有者たち」(59)とか、「中古のガタガタ水車式にとめどなくしゃべりちらして、客をつんぼにしかねない浮世床的饒舌」(64)などといった調子である。その痛罵が最高潮に達するのが、四六頁から五四頁に掛けて長々と繰り広げられている「匿名批評家」への非難である。ショーペンハウアーは署名をせずに無記名の陰に隠れながら他人を批判する文筆家が大嫌いなようで、それは詐欺の輩、卑しい存在だと断じており、彼らが文章を書く際には、「不肖この私めは」「臆病狡猾なこの私は」「卑しき素浪人の私は」などといった一人称の言い方を使うべきだなどと主張している。鋭い舌鋒のその執拗さにはほとんど憎しみのようなものすら感じられて、翻って滑稽に思われるくらいだ。
 五時二〇分に至ったところで読書を切り上げ、上階に行った。ほぼ同時に電話が鳴って、母親が出て玄関に持っていく一方こちらは風呂場に行って浴槽を洗うのだが、漏れ聞こえてくる母親の声から察するに、下のMさんが亡くなったらしい。それでこちらが風呂桶のなかに入って壁を擦っているあいだに通話を終えた母親は、ちょっと行ってくるねと言って外出していった。残ったこちらは食事の支度をすることにして台所に入り、冷蔵庫を覗くと茄子が一本残っており、それに先日買ってきた椎茸があったので、これらは味噌汁にすることにした。ほか、ほうれん草もあったのでこれを玉ねぎと混ぜ、ウインナーと一緒に炒めれば良かろうというわけで支度に取り掛かった。まず茄子を細く切り分ける。椎茸も切って小鍋に沸いた湯に投入し、一方でフライパンにも湯を沸かして、いくつかに切り分けたほうれん草を投入、茹でているあいだに玉ねぎを切った。そうしてほうれん草を笊に茹でこぼすと、油を引いて玉ねぎを炒めはじめ、まもなくウインナーも計一二本投入して、その上からほうれん草も加えた。かたわら、汁物は茄子がもうよく煮えているようだったので、チューブ式の味噌を押し出して溶かす。それからしばらく炒めて完成、時刻は五時四五分頃だった。母親の帰ってこないうちにもう食べてしまおうかと思いながらも一旦下階に下りようとすると、ちょうど彼女が帰ってきたので、どこからの電話だったのかと訊くと、M先生とかいう名を出していたが、こちらはこの人のことを定かに知らない。ともあれ、Mさんが亡くなったので至急回覧板を回さなければならず、自治会長である我が家に連絡が来たという経緯だと思われる。息子か娘かが来ている先方の宅に行ってきた母親は、何か菓子の小袋を貰ってきていた。亡くなったのはちょうど今日だと言う。死因は不明。こちらはちょっと話を聞くと自室に下りて、日記を書きはじめてここまで綴って六時半前である。
 やや早いが、食事に行った。米にウインナーの炒め物、茄子の味噌汁に、何となくカップカレーうどんが食べたい気がしたので、「どん兵衛」を戸棚から取り出して湯を注いだ(しかしこれは、カップ麺に相応しく大した味ではなかった)。バターと醤油で味付けをした炒め物をおかずに白米を頬張り、カレーうどんのつゆを飲みながら汗を肌に滲ませる。食事を終えると薬を服用し、台所で皿を洗って下階に下りた。そこから、FISHMANS『ORANGE』を背景に流しながらだらだら。八時前になって入浴へ。湯のなかに浸かりながら、前日に「記憶」記事の読み返しで読んだ蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』の文言――テクストを読むことはどこかしら生を生きることに似ているという指摘周辺の――を思い返し、出てくると畳んだジャージをソファに置いて下階に戻る。そうして八時半過ぎから読書、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』をまもなく読了し、下巻にも入って、一〇時一五分あたりまで読み進めた。それからショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』をふたたび。一二八頁には、読まれたものは「反芻」され、「熟慮」されなければならないとの真っ当な主張が見られる。「熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる」のだ。この「反芻」の試みとして自分が行っているのが、書抜き及びそれに付随した「記憶」記事音読の実践である。本を読んでいて良いと思った部分や興味を惹かれた箇所を書き抜くことはもう長年の習慣となっているが、そうして写した記述のなかからさらに頭に深く染みつかせたいと思った文章を、「記憶」と題した記事にまとめて折に触れて読み返しているのだ。「反芻」の試みはそれで良いとして、それでは「熟慮」のほうは? まずもって、どのような箇所を熟慮すべきなのか――それは勿論、自らが「関心」を持った箇所を、ということになるだろう。この本の冒頭近く、「思索」の篇のなかでショーペンハウアーも、思考というものは「風にあやつられる火のように」、「関心」によってこそ燃え上がると述べていた。自分の場合は「関心」を惹いた箇所というのは基本的に書き抜かれる箇所のことである。それでは次に、我々はどのようにして「熟慮」すれば良いのか、あるいは「熟慮」するとはどういったことなのか? それは、該当箇所を読みながら、そこから思考が広がって行かないか、何か別の事柄に繋がる道筋が見えてはこないか精査することではないだろうか。言わば、生い茂った草のあいだに隠れている間道がないかどうか探索するようなものだ。ふと気に留まった一文が、時には一語さえもが触発源になるだろう――たった一語すらにも反応するということこそが、テクストを読むということではないだろうか? そして、多くの場合、隠れた道筋への入り口は問いの形を取るのではないか。と言うのも、思考とは一般に、何らかの問いを抱き、それに対する答えを求めてその周囲を経巡ることだと考えられるからだ。そしてその場合、結果として何らかの答えに到達できるかどうかはおそらくさほど重要なことではない。答えを探して問いの周りをぐるぐると回る運動、そのうろつき[﹅4]の過程こそが思考そのものであるからだ。
 一三三から一三四頁では、「読まずにすます」技術の重要性が語られる。「多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである」。ショーペンハウアーの考えでは、ベストセラーは読むに値しない本なのだ。確かに、書店の入り口、踏み入った誰の目にもつく場所で平積みにされ、あるいは棚に立てかけられ、表紙を見せて置かれている本のことを考えてみると、それが一年後に読み返す価値があるか、一〇年後も残っているかどうか疑わしくなってくるのではないだろうか。ショーペンハウアーが言うには、「愚者のために書く執筆者」は、「つねに多数の読者に迎えられる」のだ。あまりに売れすぎているものには警戒が必要なのかもしれない。それは、時の試練を耐え抜いて後代にまで残る普遍性を持つがための人気と言うよりは、誰にでも受け入れられるように口当たりよく薄められているが故の取りつきやすさかもしれないのだ。誰にでも受け入れられるものほど貧しいものはないのではないだろうか? カフカの言葉を思い出そう――「僕は、およそ自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている」(吉田仙太郎訳『決定版カフカ全集9 手紙 1902―1924』新潮社、1992年、25)
 一一時一五分まで読んでから、ベッドを離れ、FISHMANS『KING MASTER GEORGE』をヘッドフォンで聞きつつ日記を書きはじめた。そうしてここまで綴って日付も変わる直前である。
 日記を書きながら上に記した感想をTwitterに投稿し、書き終わったあとしばらく他人のツイートも眺めて、零時半前からふたたび読書に入った。ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』は読了。そうしてついに、加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』を読みはじめた。「大西洋上に低気圧があった」の一文から始まる冒頭、気象の叙述を過ぎたあと、視点はウィーン市街に焦点を絞り、賑やかな街の「騒音」を「針金の束」に喩える稠密な描写が繰り広げられる。「千百の音響」がひしめき合うその街のざわめきのなかから、外見や言動も上品で、「明らかに特権階級の一員」と見られる二人の男女が現れ通りを闊歩してくるのだが、「彼らの名前はアルンハイムとエルメリンダ・トゥッチだとすれば、それは当たっていない」(10)と二人は紹介される。ここで思わず、当たっていないのかよ! と笑ってしまった。この小説作品に書き込まれている最初の固有名詞が主人公ウルリヒのそれではなくこの二つであるにもかかわらず、この場面ではそれらの名前は誰とも知れずただ導入されるだけで、いま現前している二人の男女を指示することなくどことも知れぬ領域へと浮遊していく。彼らはアルンハイム及びエルメリンダ・トゥッチ「でない」という否定性によって導入される謎めいた二重の匿名性――通りを歩く二人がどこの誰だか皆目わからないという匿名性と、固有名詞によって指示される二人も未だ作品中に姿を現してはおらず、その細かな素性も知られないという匿名性――が生み出す、いま現前している人物たちとそこに書き込まれた名前とのあいだのずれ=亀裂、そのなかからこの小説世界は立ち上がろうとしているのだ。
 一時四〇分まで読んで就寝。二段組でもあり、記述も密でなかなか読み進まない。これを六巻分読むのは骨が折れる読書になりそうだ。


・作文
 11:58 - 12:26 = 28分
 17:49 - 18:22 = 33分
 23:17 - 23:54 = 37分
 計: 1時間38分

・読書
 12:40 - 14:15 = 1時間35分
 16:10 - 17:20 = 1時間10分
 20:34 - 23:15 = 2時間41分
 24:24 - 25:41 = 1時間17分
 計: 6時間43分

・睡眠
 2:15 - 10:20 = 8時間5分

・音楽

2019/3/27, Wed.

 一一時半起床。もはや意志的に早起きをすることは不可能だと悟った。意図していないのにたまたま早く起床できてしまった、という偶然の恩寵を待つしかない。眠りたければ眠りたいだけ眠るが良いのだ。
 上階に行き、寝間着からジャージに着替える。母親は料理教室で不在、帰りにお茶をしてくるかもしれないとのことだった。台所に入り、冷蔵庫から水菜の生サラダと味噌汁の鍋を取り出す。味噌汁は前夜味が薄かったので塩を少々振り入れて熱し、そのほかチョコチップメロンパンを持って卓に就いた。新聞は国際面を読む。米国のゴラン高原におけるイスラエル主権容認の話題。また、イスラエルがガザからの攻撃を受けてハマスの関連施設に空爆を行ったとのこと。ほか、ローマ法王フランシスコが一一月にも来日との見通し。彼は史上初めてのイエズス会出身の法王だと言う。それらを読みつつものを食べて、味噌汁は二杯飲んですべて払ってしまい、薬を服用すると台所に行って、食器に洗剤を垂らして網状の布でごしごしと擦った。泡を流し、食器乾燥機に収めておいて、そうして下階に戻ると、イギリスのEU離脱国民投票が行われたのは二〇一六年の六月だったよなと確認のために検索した。そうすると、「イギリス「EU離脱」はなぜこうももめているのか」(https://toyokeizai.net/articles/-/272661)、「【ゼロからわかる】イギリス国民はなぜ「EU離脱」を決めたのか」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50639)という二つの記事をついでに見つけたので、いずれ読むことにして日記にメモしておいた。それからTwitterを覗いていると、次のようなツイートが目についた。

https://twitter.com/tryshd/status/1110500478721245184
ごく普通の会社員‏ @tryshd
ごく普通の会社員さんが小林 章をリツイートしました
へえ…やはり今の日本、狂ってるよ。 レイプの加害者が次々と不起訴というだけでも十分狂気なんだが…

とうとうレイプの「加害者」が「被害者」を逆ギレで訴え返す、1億3000万も賠償請求するなんて事態に。

「被害者」が徹底的に、完膚なきまでに叩きのめされる美しい国、ニッポン…

 伊藤詩織氏の件で、被告である山口敬之が反訴を行い、一億三〇〇〇万もの賠償を請求したとのことである。これも忘れないように、リツイート元のツイート及び画像とともに、Evernoteの日記にメモしておいた。気になったことはとにかく何でもメモしておくのが吉であろう。それから日記を書き出したのが一二時二〇分過ぎ、三〇分を費やしてここまで追いついている。
 cero "Yellow Magus (Obscure)"の流れるなかで前日の記事をブログに投稿し、Twitterにも投稿通知を流しておいて、それから"Summer Soul"に"Orphans"を歌うと、散歩に出ることにした。鍵をズボンのポケットに、手帳と赤ボールペンを上のジャージのポケットに収めて上階に行き、早速玄関を抜けた。外に出るとともに軽い風が踊るように身の周りを包みこんで、肌に緩く絡んでくる。午後一時の日向はまだ広く、西に向かって歩いていると正面から陽射しが降ってきて額が温かい。空はしかし前日よりも雲が遥かに多く、南のほうでは裾が空の地に溶け込んでおり、十字路に辿り着く頃には陽も一旦陰っていたものの、歩いているうちにまたすぐに日向が復活し、どちらかと言えば太陽の方が勝って西の空は雲もまとめて空がすべて淡くなっていた。やや大股に、一歩一歩を着実に踏んで脚をほぐすようにしながら坂を上って行くと、周囲の木々が風に触れられて鳴りを立てるが、道にいるこちらの身に重く掛かってくるものはない。沈丁花の香りを今日も嗅ぎながら家並みのあいだを行っているあいだ、上空でも風がよく流れているのか雲の動きが速いようで、頻りに路上で日向と日陰が入れ替わり、電線の影が足もとにまっすぐ浮かび上がったかと思えばすぐにその周囲から陰が湧出してきて道の色に同化してしまうのだった。それでも全体には天気は晴れに寄っていて、陽の射している時間のほうが長いようだ。
 街道を渡って上の道へと入りながら、目の前の一軒の一角に黄色く染まった花の無数に茂った木が立っているのを、これはレンギョウというやつだろうかと目に留めた。それから右に折れて緩やかな坂道を歩いて行くと、足もとのハナニラに微小な蜂が寄っている。斜面に沿って起伏の乏しいこの坂道では、風がいつも強く吹く。この時にも正面から分厚く駆けてくるものがあったが、勢いは強くてもそのなかに冷たさが含まれていないのが気温の高さを物語っている。墓場まで来ると壁のような斜面がひらけて空間がやや広くなるためか、風も拡散するようで、身に触れてくるものが弱まった。
 最寄り駅まで来ると桜の木はほとんど白に近いごく淡い紅を枝に乗せて美しく、整然と統一された色彩の存在感が強まっていた。街道の道路工事は続いており、対岸の歩道際、ショベルカーが出張って土を掘り返している。カラーコーンのなかに立っているヘルメットを被った交通整理員の、大きなくしゃみを放った一人が、市民会館跡地の現場にも勤めていた髭の老人――母親が「亀仙人」と呼んだ人だ――であることに気がついた。道を東へ向かって行き、横断歩道前で車の途切れた隙に渡って、油っぽい匂いの漂う肉屋の脇からまっすぐ下って行く木の間の坂道に入った。今日も微風の舞い上がってくるなかをゆっくりと、膝を曲げながら一歩一歩を踏んで帰る。
 帰宅すると自室に戻って、ベッドに乗って小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。BGMにはJose James『The Dreamer』を流していた。一時四〇分から二時半まで読んでこの本は読了、感想と言ってうまくまとまって統一された言葉にならない。「語り書き」の本らしく柔らかく、簡便な語り口ではあったが、多くのイメージを手がかりに思考を連ねていくその文章は、やはりいくらか抽象的ではあって、隅々まで腑に落とすことが出来たわけではない。しかしブリコラージュ的な「希望の装置」の製作だとか、「親」が自分の絶対的な起源ではないという知見など、収穫はあったと言うべきだろう。それからインターネットで『君自身の哲学へ』の感想を少々探ったのち、ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』を新しく読みはじめた。しかしまもなく三時に達したので、一旦読書をやめて上階に行き、ベランダの洗濯物を室内に取り込む。タオルや肌着類、靴下などをソファの背の上で畳み、それから風呂場に向かうとその途中の台所にレトルトのカレー――先日、Yさんの葬式で返礼品として貰ったカタログで頼んだのが届いたものだ――があるのを見て食べてみたくなったので、小鍋に水を汲んで火に掛けておいた。そうして風呂場に入って浴槽を洗う。出てくると湯が沸いていたのでレトルトパウチを放り込んでおき、加熱されるあいだに今度はアイロン掛けである。炬燵テーブルの上に台を出して、母親のシャツ、エプロン、ハンカチを処理していき、終わると台所に行って大皿に米をよそり、鋏を使ってパウチを開封してその上に中身を掛けた。そうしてテーブルに移動して食べたが、不味くはないけれどまあそれほど大した味ではなかった。皿にこびりついたカレーの残骸を水で洗い流して、洗剤を使って洗うことはまだせずに水に浸けて放置しておくと下階に戻って、ふたたび『読書について 他二篇』を読みはじめた。
 「ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。つまり思索はいわば、風にあやつられる火のように、その対象によせる何らかの関心に左右されながら燃えあがり、燃えつづく」(6)と言う。「思索」を実行することはやはり困難なのだが、そもそもそれは意志的にやろうと思ってできるものではないのではなかろうか。「関心」を種として半ば自動的に展開し、炎が風に吹かれて勢威を増すように煽られるものだとすれば、それでは「関心」を育むためにはどうすれば良いのか、というのが次の問いになるだろう。
 またショウペンハウアーは読書は思索の代用品に過ぎず、本を読むのではなく自ら考えることこそが肝要だと主張するが、自分の身など照らし合わせてみて、一部の才人ならともかく、精神の「弾力性」を持たない凡人は自分自身だけで思想を作り上げることは難事であって、やはり他人の書籍の助けが必要なのではないかと思ってしまう。読書が思索に比べて一段劣った位置に置かれるのは、それが精神の方向や気分と無縁な思想を押しつけるからだと言うが、その圧力を跳ね返し、あるいは取り込む「弾力性」を持つことができれば読書もまた精神に益するものとなるのではないか。あるいはまた、精神の「気分」と「無縁」でない読書、自分の関心に適切に、正確に従った読書なら有益ではないかとも考えられる。
 いずれにせよショーペンハウアーは、思想家とは書物ではなく世界そのものから「素材」を得て思索を練り上げる人と考えているようだ。しかし、書籍だって「世界」の一部、立派な「素材」の提供源ではないだろうか。それと同様に、世界もまた言ってみれば一冊の、そしておそらくこの世で最も豊かな「書物」なのであり、禅の言い方をすればそれは言わば「無字の書」である。重要なのは世界と書物のあいだに境界線を置いて截然と区切ってしまうのではなく、それらを一体のものとして学びの源泉にすることではないだろうか。小林康夫の「教養」の定義を思い出そう――「どんなものからも学ぶことができ、かつ学びは無限でけっして終わりがないということを知っていること、そしてそれゆえに一生学び続けることを――どのようにしてか――決意[﹅2]していることが<教養>というものでしょう」。
 しかしショーペンハウアーの、読書は思索の代用品でしかないという主張、読書をしている時我々は決して自分の頭で考えているのではないということを頭に留めておくのは有益なことだろう。問題はそこからどのように自分で考えられるかということなのだ。ところでショーペンハウアー自身も、読書にも一抹の有用性があることは認めている。「読書はただ自分の思想の湧出がとだえた時にのみ試みるべきで、事実、もっともすぐれた頭脳の持ち主でもそうしたことはよく見うけられる事実であろう」(9)と言っているからだ。自分の考えの流れが止まってしまったら、読書からさらなる材料を得ることができるのだ。しかしあくまで自分で考えること、自分の考えを発展させることが主なのであって、ただ字句を読み取ることを目的としてはならないというわけだろう。その二つの事柄のあいだの軽重を逆転させてはならないのだ。
 同様に彼は、「思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない」と、思想家も多くの本を読むことを認めてもいる。「思想家」の精神には「弾力性」があるため、知識に溺れずにそれらを「消化」することができるのだ。凡人たる我々は、どうすればそのようになれるのだろうか? 上に書いたように意志的に、コントロールして思索ができないのだとすれば、それが自然に生まれてくるのを待つしかない。我々に出来るのは、貧しいものでありながらも確かな思考の生まれた瞬間を逃さず捉えることだけなのではないか――実際、この点に関してはショーペンハウアーも次のように述べている。「思想と人間とは同じようなもので、かってに呼びにやったところで来るとは限らず、その到来を辛抱強く待つほかはない」(15)。思索は外からの刺激と内側の「気分」がうまく一致すれば自ずと動き出すと言うのだ。従って、思考の発生は「意志」によるのではなくて「気分」によるのであって、それは外界との相互作用として現出するのだ。
 四時二〇分まで書見を行った。それからちょっとインターネットを回って、五時前から文章を書き出し――BGMはcero『Obscure Ride』――現在五時四〇分である。
 上階に行った。台所に入り、炊飯器に残った固くなった米を皿に取って新たに米を磨ごうとしているところで母親が帰ってきた。玄関に行き、まだ何もやっていないよと言いながら、父親がクリーニングに出していたワイシャツやネクタイを引き受けて、それを下階の衣装部屋に持って行った。それから上階に戻り、笊を持って玄関の戸棚に行き、米を三合取り分けると流し台でそれを磨いだ。そうして炊飯器にセットしておき、次の料理に取り掛かる。鶏肉があったのでそれを焼くことにした。塊を二つに切って、それぞれに切り込みを入れてちょっと平らにひらき伸ばすようにして、そのほか葱と椎茸も切り分けた。そうしてフライパンで焼く。蓋をしながら弱火で加熱し、そうしているあいだに母親が茹でたほうれん草を一つずつ揃えて絞って切り分けた。鶏肉に焦げ目がついたところで裏返し、ふたたびしばらく熱しながらほうれん草を処理し、鶏肉の裏側も焼けると母親が拵えておいた調味料――ニンニク醤油に生姜などを混ぜたもの――を掛け入れて、弱火で少々沸騰させれば完成である。汁物はジャガイモとワカメの味噌汁が製作中、こちらは仕事をそこまでとして下階に戻った。そうして小林康夫『君自身の哲学へ』を書き抜きはじめる。BGMは物凄く久しぶりに、JUDY AND MARY『THE POWER SOURCE』など流したが、JUDY AND MARYのロックは激しく、良質なものである。一時間ほど打鍵して、七時半を迎えたところで上階に行ったと思う。それとも食事を取りに行く前にインターネットを回ったりしたのだったか? よく覚えていない。
 上階に行くと父親が既に帰宅しており、機器に片腕を突っ込んで血圧を測っていた。こちらは食事を用意して――米・鶏肉・母親が料理教室で作った弁当(こちらにもチキンが入っており、そのほかキャベツのオムレツとパスタ)・味噌汁・ほうれん草――卓に就いた。テレビは最初、よくわからない何かのドラマをやっていたが特段に興味の惹かれるものではなかった。それから母親がチャンネルを変えて、カラオケ大会のような番組が映し出された。プロの歌手が持ち曲を歌って、素人によるカラオケの平均点と競い合うみたいな企画らしい。どうでも良いが、途中で出てきた相川七瀬が"夢見る少女じゃいられない"を歌ったのはそこそこ格好が良かった(サビで最高音に達する時、ほんの僅かに――多分六分の一音かそのくらい――フラット気味だったが)。食事を終えると風呂は父親が入っていたので下階に戻って、「記憶」記事を読んだ。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』。蓮實重彦の文章などを読んでいるあいだ、Twitterも覗いていたのだが、Yさんという方から、こちらのツイートはそれ自体シュルレアリスムの作品のようだ、との評言が届いた。シュルレアリスムとは自分はまったく思ってもみない言葉だったので、どのような点にそう思われましたかと尋ねたところ、「わたしの感じる空気と、F氏が感じる空気との間に、絶望的なまでの隔たりを感じます。同じ空気や風景も、わたしの感じ方と、F氏の感じ方では全く別の感じ方であり、F氏の現実は、わたしの現実ではない。当たり前のことなのですが、F氏の文章を読んでいると、それを強く感じます」との返答があった。それに対して、「なるほど。非常に朧気な記憶ですが、プルーストが、作家というものはそれぞれ違う宇宙、違う星雲に棲んでいる、というようなことを言っていたのを思い出します。しかし作家に限らず、人間は皆それぞれの宇宙、それぞれの世界に棲み、それぞれの感覚の在り方を保っている」「これはまことに、「当たり前のこと」ですね。しかし、そうした「当たり前のこと」を改めて、ありありと感じさせる、それも文学が成す重要な働きの一つなのかもしれません。自分の文章が他人にそう感じさせることが出来たこと、そしてYさんがそのように感じてくださったことに感謝したいと思います」との回答を送っておいた。
 そうして九時頃になって入浴へ。出てくると、すぐに下階に戻り、それからyoutubeFISHMANSのライブ音源など流しながら、だらだらとした時間が続くことになる。零時前になってようやく読書に入った――川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』。三〇分ほど読み、ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』に移行。しかしどうも、よく覚えていないのだが、この書見の途中で意識を失っていたようだ。気づくと時計が二時一五分を指していたのでそのまま就寝した。


・作文
 12:23 - 12:52 = 29分
 16:48 - 17:41 = 53分
 計: 1時間22分

・読書
 13:39 - 14:30 = 51分
 14:48 - 15:05 = 17分
 15:35 - 16:20 = 45分
 18:27 - 19:25 = 58分
 20:15 - 20:52 = 37分
 23:55 - 26:15 = 2時間20分
 計: 5時間48分

・睡眠
 0:45 - 11:30 = 10時間45分

・音楽

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2019/3/26, Tue.

 計り知れない怠惰、堕落である。何と一二時四〇分まで床に留まってしまった。睡眠時間は一一時間二〇分。ほとんど半日を寝て過ごしている。いかにも無職という身分に似つかわしいが、これではまったくもって生が勿体ない。何故これほどまでに起きられないのか? 意志の力の問題なのだろうか。ともかく、一二時四〇分に至って呪いから解放されたようにようやく身体を持ち上げることが出来た。Twitterを覗くと、新しい通知が一〇もあって、昨夜以来、こちらの投稿したツイートに対して結構反響があったようだ。それを確認してから上階に行く。母親は着物リメイクの仕事で不在。台所に行くと、パックのなかに冷凍の唐揚げと里芋の煮転がしが入っている。ほか、あれはほうれん草だろうか小松菜だろうか、仔細に確認しなかったが、鰹節の掛かった緑の菜っ葉に汁物。電子レンジと焜炉とでそれぞれ温めて卓に就き、新聞を読みながらものを食べる。辺野古基地建設のため、「第二区画」にも土砂が投入されはじめたとの報。また、ドナルド・トランプがネタニヤフ首相との会談でゴラン高原イスラエル主権を改めて容認するとの見通し。ものを食べ終えると薬を服用して台所で皿を洗った。それから、雨を恐れたのだろうか洗濯物がベランダに出されずに居間の隅に吊り下がってあったので、それをベランダに出す。空はいくらか雲混じりだが、今は薄陽が射していて暖かだった。その陽のなかにシャツやタオルを出しておき、それから下階に戻ると、Twitterのリプライに返信をしてから、日記を書きはじめた。前日の記事は短く書き足して済ませ、今日の分もここまで綴ると、二時が目前である。BGMとしては前夜から引き続き、Jose James『Love In A Time Of Madness』を流している。
 ceroの三曲を流して歌いながらブログに前日の記事を投稿した。そうして鍵をポケットに入れて上階へ。散歩に出るのだった。玄関を抜け、陽の射している道に出る。一路西へ。風が流れ、道端の、あれは柚子なのかそれともほかの柑橘類なのか、丸々と黄色に実った果実をぶら下げた枝葉が、振り子のようにぶらぶらと揺れていた。桜の生えた小公園を過ぎ、坂を上って行きながら、正面から降り掛かってくる眩しさに右手を目の上で庇のようにかざして見た西の空は雲もほとんどなくて、光の端まで浸透して淡い水色に塗られている。そのように片手で陽射しを遮りつつ視線を上方に向けながら進んでいると、緑に茂った一軒の庭木のあたりから、水面を細かく搔き回すかのような鳥の声がぴちぴちと賑やかに重なって落ちた。人間は本当に発展することなど出来るのだろうか、発展しているつもりで、螺旋を描くようにして生涯同じ領域に戻り続ける、そうしたこともあるのではないかなどと疑問を回しながら裏路地を行っていると、沈丁花の匂いが数メートル手前の時点でもう、風に乗って鼻に香った。ユキヤナギも道脇のそこここに生えて、白い花の連なりの重さに曲線を描いた房を四方に展開させ、清涼な風に揺らしながら咲き盛っている。街道を渡って細道に入ると、オオイヌノフグリのほかに、青白い筋のちょっと入った星型の、ヒトデのような花が目につく。これはあとで帰ってきてから調べたところ、ハナニラというものらしく、ウィキペディアが出典の真偽不明の情報だが、星型の姿形に相応しく「ベツレヘムの星」とも呼ばれるようだ。それを見下ろしながら過ぎて墓場へ向かって行くと、左方の斜面に沿って風が流れるのだろう、正面から強く吹き寄せるものがあって、さすがに涼しさを越えて少々冷たいほどに盛った。保育園の横を通って家並みのあいだに入ると、前方の宙からがさがさいうような鳴き声がかしましく落ちる。春を迎えて道に、鳥の声も豊かになったようだ。シジュウカラだろうかと電線に停まっている一羽を見上げていると、一羽だと思っていたものが二羽に分かれて、戯れるように飛び立って場所を移し、それと同時に路上には黒地の、そのなかに鮮やかな青が差し込まれて美しい蝶が一匹現れて、こちらの頭の上を越して前方に後方にと飛び交って行った。そこを過ぎてからも、背後からシジュウカラの声がしばらくついてきた。
 裏路地の尽きる手前、一軒の角にもうだいぶ花を散らした白梅があり、足もとには花びらが無数の粒となって路面を彩っているそのなかに風が駆けてきて、楕円形の小さな花弁の渦が生まれるのに目を奪われた。駅の桜はようやく花をひらいて、枝の上に雪を積もらせたように白く照っている。駅の正面の街道では道路工事をしており、一人の人足が道脇に作られた溝のなかで、竹を真ん中から割断したような舟形の容器を金槌か何かで頻りに叩いていた。東に向かって歩いていると、道路に立っている交通整理員のうちの一人が、これで桜も一気にひらいちまうな、こんなに暖かくちゃな、と口にするのに耳を惹かれた。それを受けて褐色の顔の、先頭で車の流れを管理していた高年が同意して、そうだ、シマちゃん、あそこがいいよ、と大きな声で秩父にあるらしい寺の名前を言う。あそこはいいよ、奥さん喜ぶよ。そんな会話を耳にしながら通り過ぎ、忘れないようにと反芻しながら通りを渡って坂に入り、風の下から舞い上がってくるなかを、ゆっくりと歩を踏みしめて下って行く。風と一緒に正面の家並みを越えた先から川の水音も上ってきて、足もとでは乾いた落葉や枯枝の砕ける音が立った。陽の射した通りに出ると家はもうすぐそこである。くすんで黒っぽい蝶の舞う傍を抜けて、鍵を右手の人差し指に引っ掛けてくるくると回しながら帰った。
 時刻は二時半頃だったはずだ。自室に帰ってポテトチップスを食いながらだらだらと過ごしたあと、三時過ぎになって洗濯物を取り込むために部屋を出て階段を上った。ベランダに出て先ほど出したシャツやタオル類を室内に入れ、ハンガーから取り外して畳んで行く。肌着も畳んで整理しておき、靴下やパンツの吊るされた一つは、これはうっかり出すのを忘れてしまって湿り気が残っていたのでそのままに吊るしておいた。それからタオルを洗面所に運んでおき――風呂は湯がたくさん残っているから今日は洗わなくて良いとのことだった――戻ってくるとアイロンを用意する。器具のスイッチを入れ、台を炬燵テーブルの上に用意すると、屈伸をしながら機器が準備されるのを待ち、カチリと音が鳴ると機械を手にしてエプロンやシャツの皺を取り除いて行った。そうして終えると台をもとの場所に片付けておき、アイロンを掛けたばかりの自分のシャツを持って自室に帰った。それからふたたび、五時半頃までひたすらだらだらとした時間が続く。
 上階に行くと帰宅済みの母親は例によってタブレットを弄っている。こちらは台所に入り、挽き肉を買ってきたと言うので、それと茄子を合わせて炒めることにした。茄子を五本取り出し、切り分けていき、鍋のなかの水に晒しておく。それからフライパンを用意し、油を引いて加熱したのち、笊に取り出した茄子を投入した。蓋を閉めて熱し、時折りフライパンを振るあいだに、汁物用の鍋を用意して玉ねぎを切り分ける。その後、椎茸も切って一緒に湯のなかに投入し、フライパンの方にも挽き肉を入れ、箸で崩して熱したあとに、すき焼きのたれを味付けとして垂らした。そうしてまたしばらく蓋を閉めて加熱すると完成、汁物も煮えてきた頃には母親も台所に入ってきて、BGMとしては彼女のウォークマンからQueenの"Bohemian Rhapsody"のライブ音源が流れ出していたので声を合わせる。そうして汁物にチューブから味噌を押し出して入れ、溶き卵も注いでこちらも完成、ほかに母親の求めに応じて新玉ねぎを円型のスライサーでおろしたあと、あとはよろしくということで、流れていた"Hammer To Fall"に合わせて口ずさみながら階段を下りた。そうしてねぐらに戻ってくると、ceroの三曲を歌ったあとに同じくceroの『WORLD RECORD』を背景に日記を書き出して、現在七時半を迎えている。
 「記憶」記事音読。四〇番から五〇番まで。その後、食事を取りに上階へ。母親は既に食べるものを食べ終えていた。台所に入り、丼に米をよそってその上に茄子と挽き肉の炒め物を乗せてカバーのように埋め尽くす。その他味噌汁、水菜とトマトの生サラダ、前日の残り物であるパスタを和えたもの。それぞれ卓に運び、食べはじめる。テレビは世界各地に住んでいる日本人を尋ねていく番組で、千原せいじがエジプトのクフ王のピラミッドの内部に潜入していた。その後、カイロの街に戻って、今回探す日本人がいる町はルクソールだと発表されたのだが、こちらがルクソールという名前で思い出したのは、確か一九九六年かそのくらい、九〇年代に観光客の殺害事件があった場所ではなかったかということだ。日本人も被害者になっていたはずだと記憶する。
 ものを食べ終えて、薬を服用して皿を洗っていると父親が仕事から帰ってきた。何故かわからないがケーキを買ってきたらしく、白い小箱がテーブルの上に置かれた。あとで母親が中身を見たところ、ロールケーキだったと言う。こちらは風呂を父親に譲って下階に戻り、だらだらとした時間をふたたび過ごしたあと、九時過ぎからfuzkueの「読書日記」を二日分読んだ。BGMはJose James『The Dreamer』、この作はJose Jamesのデビュー盤らしいが、バックの演奏もなかなか骨があって好盤だという印象だ。そうして九時半頃になって入浴に行った。両腕を浴槽の縁に乗せ、身体を伸ばして湯に浸かっているうちに三〇分があっという間に過ぎる。出てくると、一〇時過ぎだったはずで、自室に戻ったあと、まただらだらとした時間を過ごしたのだったか、Twitterでも眺めていたのだったか。一一時前から二〇一六年六月二五日の日記を読み返したのは確かである。以下のようななかなか力の入った描写が含まれていて、Twitterにも投稿した。

 駅に入って便所に行き、小便器の前に立ちながら左に首を向けて窓の外を見ると、一面の水っぽい青の色である。空は折り重なって筋を引いた雲で塞がれて、線路や町並みを越えた果ての壁には下端から上空とは別種の、紙のように立体感のない雲が立ちあがって山が生まれたようになっていたが、その左の裾は地に下らずに上下に広くひらいて空隙を占め、水平線と上空とのあいだを繋がんばかりだった。用を足してから室を出て、エスカレーターに乗りながらイヤフォンを付けてBlankey Jet Cityを聞きはじめたが、ホームに降りてからもこの青さは凄いな、と空を見てばかりだった。ほつれは諸所にあれど、どの方向に視線をやっても、くすんだ灰色混じりに濡れた青さの雲に遮られて、空が一挙に近くなったかのようであり、地上にも染みだして空気に吸いこまれたその色のなかで、居酒屋の照明のピンクの色が毒々しく映った。視界の広くを埋めて大陸じみた巨大な雲が浮かんでおり、落ちてこないのが不思議なほどに青さを含んでのしかかるようなそれは、自分の重さに難儀する亀に似てまったく動かないかのように見えるのだが、じっと見つめていると、無造作に引かれた端の線の位置がじわじわと、砂に水が浸食するようにして確かに進んでいるのが見て取れるのだ。ホームの黄線の際からそんな風に、顔を上げて眺めていると、視界の低みで動きがあって、見れば白い猫が、突如として線路の真ん中に現れていた。尾の先のほうだけが茶色く染まった猫は、レールを乗り越えて背の低い草むらも踏んで柵の前まで行ったが、それを越える気力はないようで、ちょこちょこと四つ足を動かしてちょっと歩くと、止まって体を搔きはじめた。既にあるかなしかの明るみも一刻ごとに落ちていく黄昏のなかで、その猫の白い体色だけがまだ浮かんで、一面の青さに吸収されず、それと対照を成しているようだった。

 二〇一六年の日記と現在の日記を比べてみると、叙事的には進歩が見られると言うか、全体的に時間の分節がより細かくなっていて生活を詳細に綴っているのだが、上のような風景描写の密度などは当時の方が優れているかもしれない。日記を読み終えたあとも少々Twitterを眺めていると、次のようなツイートを目にした。KAZUKO‏ @PeriKazukoという方のものである。「戦争末期、空襲が激しくなる中、動員された工場の朝礼で「君が代」を歌った。敗戦を予想しながら、先生が睨みつける中、背筋を伸ばして大きな声で歌う。そして空襲で家全焼で山奥へ。月日が過ぎて、孫の小学校入学式で「君が代」斉唱のとき、どうしても声が出ない、歌えなかった。今も歌えない」。壮絶な体験をしたのだろう、印象的なエピソードである。ほか、岩手県議会が「沖縄県民投票の結果を踏まえ、辺野古埋立て工事を中止し、沖縄県と誠意を持って協議を行うことを求める意見書」を可決したとの情報も手に入れた。
 そうして一一時一八分から、ベッドに移って小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。文字を追う合間に時折り目を瞑って思考を巡らせながら読み進めて、零時四〇分頃に切りを付けて就床した。


・作文
 13:34 - 13:51 = 17分
 18:40 - 19:28 = 48分
 計: 1時間5分

・読書
 19:29 - 20:04 = 35分
 21:08 - 21:18 = 10分
 22:50 - 23:02 = 12分
 23:18 - 24:41 = 1時間23分
 計: 2時間20分

  • 「記憶」: 40 - 50
  • fuzkue「読書日記(127)」: 3月10日(日)まで。
  • 2016/6/25, Sat.
  • 小林康夫『君自身の哲学へ』: 172 - 214

・睡眠
 1:20 - 12:40 = 11時間20分

・音楽

  • Jose James『Love In A Time Of Madness』
  • cero, "Yellow Magus (Obscure)", "Summer Soul", "Orphans"
  • cero『WORLD RECORD』
  • Jose James『The Dreamer』

2019/3/25, Mon.

 一一時四〇分まで惰眠。言い訳できない。完膚なきまでの敗北。眠ってしまったものは仕方がない。沖縄のHさんが出てくる夢を見たが細部は忘れた。彼女が我が家に泊まって、居間の片隅で眠っている場面があったのは覚えている。
 上階へ。食事は炒飯と言うかピラフと言うか、炒めた米に、温野菜。ほか、卵蒸しパンを半分。母親は外で草取りをしているらしかった。卓に就いてものを食べ、薬を服用するとともに皿を洗った。台所にはまた、皮の色が黒くなったバナナが置かれてあったが、それは食べなかった。そうして服をジャージに着替え、下階に下る。
 前日の日課の記録を付け、支出を計算し、日記を書きはじめたのが一二時半前だった。cero『Obscure Ride』の三曲を歌いながら進め、その後、『Obscure Ride』全体を流し、一時間一〇分で前日の記事を仕上げるとともにここまで綴って一時四〇分前である。
 Twitterにも記述を流しつつ、ブログに前日の記事を投稿したあと、上階へ。図書館に行ってもいいかいと母親に軽く尋ねると、いいよ、とのことだったので出かけることに。昼食には、ボロネーゼ・パスタの残りがちょっとあると言う。それを食べる前に浴室に入り、風呂を洗った。そうして出てくると、プラスチック・パックに入っていたパスタの麺の、少々固くなって絡まっているものを箸で持ち上げ大皿に取り分け、その上から赤茶色のボロネーゼ・ソースを掛けた。そうして卓に就いて実食。麺を持ち上げてソースと絡めている時に、ソースのなかに含まれている野菜か肉の微小片が一つジャージの胸元に飛び、赤っぽい点の染みが一つ生まれてしまって、まるで子どものようでちょっと恥ずかしい。ボロネーゼは結構酸味の強いもので、母親はもう少し甘いほうが良かったと言っていた。食べ終えると皿を洗い、下階に戻って、ceroの三曲を流しながら服を着替える。赤・白・紺のチェック柄のシャツにベージュのズボンを合わせ、モッズコートを羽織った。そうしてcero "Summer Soul"を歌ったあと、荷物をまとめて上階へ。Marie Claireのハンカチを持って出発した。
 陽のやや薄い日である。坂に入って視線を飛ばすと、坂上の宅は今日は布団を干していない。その家のあたりまで来ると緩やかな風が吹いて、しかし冷たさはなく軽く肌に絡んでくるもので、あたりの草木もしずしずと鳴りを生じさせる。ピンク色の木蓮の木を横目に坂を抜け、平らな道を街道に向かっているとTさん夫妻と遭遇した。こんにちは、と奥さんの方に声を飛ばし、それから旦那さんの方にも視線を向けて会釈すると、あちらはこちらが誰だかわからないだろうが、会釈が返って来た。行ってらっしゃいと奥さんが笑みで言ってくるのに、はいと答えて過ぎる。
 街道を行きながら首の後ろに温もりが溜まって、モッズコートだと暑いくらいの気温だった。空は雲が全体に薄く混ざっていくらか色が淡くなっており、途上を見上げれば雲の混ざり方が、石板のような、と言おうか――とこうして比喩にしてしまうとありきたりな感が出るが――あまり見ないような質感を生み出していた。道端ではユキヤナギが旺盛に雪白の花の連なりを膨らませている。
 あの梅の木はもう花を落としているだろうか、それとも風のあまり入らない場所のようだから、まだ残っているだろうかと思いながら裏道へ折れると、件の色違いの紅梅二本は、いくらかは散ったようだがそれでもまだ結構明るく灯っていた。裏路地に入ると一軒の庭にやはりピンク色の木蓮が、いくらか枯れつつも色鮮やかに立っている。しばらく進んで、茶色混ざりの白木蓮を過ぎたあと、たまにはルートを変えるかということで、青梅坂下から表に出た。車の流れる横を通って行くが、時折り流れが途切れて静寂が差し挟まると、そのなかに種々の鳥の声が落ちる。近くの庭木にいるものもあり、家々と裏路地を挟んでさらに向こうの林の方から渡ってくるものもあるようだった。市民会館跡地では人足が金属の棒や木板を持ちながら立ち働いているその隅に、別の人足たちが三人固まって座り込み、手を振りながら談笑している。そこを過ぎ、街道をそのまま駅に向かって行った。
 駅に入ると、ちょうど一番線の電車が発車するところだった。それを見送ってホームに上がり、二番線の立川行きを待って先頭車両の方に行くと、子どもたちの声がどこかから落ちてくる。向かいの小学校の体育館のなかからだろうかと思いきや、そうではなくて、どうやらその先、丘の上にあるグラウンドから流れてくるようだった。小林康夫『君自身の哲学へ』をリュックサックから取り出し、手帳に読書時間の開始をメモする。そうして読みはじめるところが、向かいの小学校の脇の細道を歩いている小さな女児と母親の二人連れに目が行った。初めは道端に突如として立ち止まって遅れを取った女児を母親が、上げた手を兎の耳のように曲げて手招きしていたのだが、女児が走り出し、母親の地点も越えて先行すると今度は遅れた母親が凄いねえ、と幼児に向ける時特有の甘いような声音で褒めながら追って行くのだった。そのような風景の一幕を眺めたあと、本に視線を落とした。じきにやって来た電車に乗り、二号車の三人掛けに腰を下ろして引き続き文字を追うのだが、その合間に目を閉じて内容を咀嚼するようにした。それで、自分にとって考えるということは目を閉じることなのだなと思った。視覚を閉ざし、目の前にある事物に視線を送るのではなく、暗闇のなかで自らの脳内に、どこからか生まれて来ては流れていく言語の動きに注視すること。本を読んでいる途中にも、折に触れてそのような時間を挟んで行くことが肝要なのだろう。
 そうして読み進めると言うよりは、大方目を閉じて思考を巡らせながら到着を待ち、河辺で降りるとエスカレーターを上って改札を抜けた。駅舎の方に進めば、高架歩廊の途中で何やら演説をしている高年の男があって、その前ではチラシを配っているようだ。差し出されたピンク色のチラシを受け取ったので、これも歴史の一断片というわけでここにその文言を引いておこう。

 新生存権裁判署名にご協力ください!
 東京地方裁判所民事第3部で始まっている、安倍政権による生活保護基準の引き下げを元に戻す裁判で、徹底した丁寧な審理を行い、憲法25条を活かし、公正な判断を下すよう求める署名に取り組んでいます。
 多くのみなさんの世論の力で、裁判が正しく行われ、裁判官の公正な判断が下されるよう求めていきます。署名へのご協力よろしくお願いします。
この私がまさか
生活保護制度に救われるとは!
生活保護は他人ごとではありません
もし、あなたが大きな病気やけがなどで収入が途絶えたら どうされますか?
☆貧困化が進み、生活に困ったときあてにできる蓄えがほとんどない暮らしをしている国民が増えています。
☆低年金で生活できない方々が生活保護制度を利用され、人間らしい最低限度の生活を維持しています。
☆国民が生活困難に直面した時、日本国憲法は、国民の生存権=人間らしく生きていく権利を保障することを国家と自治体に義務づけています。生存権の保障です。
☆人間だれでも困難に直面することがあります。そうした時、差別なく全ての国民に手を差しのべてくれるのが憲法25条です。

憲法25条【生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務】
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

許せません! 一路軍事大国へ軍事予算を増やし続ける安倍政権
トランプ言いなり、社会保障を削り、高額の米国製兵器を爆買い!
 今後10年間で27兆円の無駄遣い
F35Aステルス戦闘機1機116億円を45機・F35Bと合わせて147機購入
航空自衛隊も要求していないものを官邸主導で爆買いし、消費税を10%へ

生存権裁判をささえる西多摩の会 連絡先 西多摩労組連 0428-23-8494

 視線を落としてそのチラシの文言を読みながら歩いていると、歩廊の途中にもう一人、中年くらいの男性で、同じチラシを配っている者があって、視線を上げてその顔を見ると会釈をしてきたのでこちらも頭をちょっと振って返した。チラシは折り畳んでモッズコートのポケットに入れておき、図書館に入る。カウンターに寄ってCD三枚と、斎藤慶典『哲学がはじまるとき』を返却し、CDの新着棚を見に行くと、Jose James『The Dreamer』という作品がある。新作かと思いきや、デビュー・アルバムの一〇周年記念盤だと言う。さらに見れば同じJose Jamesの、こちらは最新作だと思うが、『Lean On Me』もあって、それなのでこの二枚を借りるかと手に取った。こちらの周囲では、小さな女の子がうろついて棚のDVDを見分していた。そこを離れてジャズの区画に行き、見れば、狭間美帆/Metropole Orkest Big Band『The Monk: Live At Bimhuis』があるので借りることにして、三枚を持って貸出機のほうに向かうと、途中で先の女児が、その背がモニターの下端にやっと掛かるくらいの検索機の前に立ち、背伸びするようにして手を掲げてタッチパネルを操作していて、モニターを見れば「どらえも」とあったので、ドラえもんのDVDを探しているのだな、可愛らしいではないかと微笑ましくなって思わず顔を綻ばせてしまった。それでこちらは貸出機に寄って三枚を手続きし、リュックサックに入れながら上階に上がった。新着図書に特段の変化はなし。そうして大窓際に抜け、一席に就いてコンピューターを取り出し、日記を綴りはじめたのが三時半前である。ここまで書き記して現在は四時一〇分。
 書抜き、小林康夫『君自身の哲学へ』。ではなかった、その前に、借りたCD三枚の情報を記録し(どの曲に誰が何の楽器で参加しているかなど、細かくメモするのだ――Kris Bowersが曲ごとにローズとピアノとハモンド・オルガンとウーリッツァーのどれを弾いているかなど)、書棚から本を押さえる用の大きな本として、『ドナルド・キーン著作集』の三巻目を取ってきてから便所に行った。狭苦しい個室のなかで排便し、手を洗って帰りがてら、文芸批評の区画などちょっと見分して、佐々木敦の『新しい小説のために』を少々立ち読みしたりしたのち、席に戻って書抜きを始めた。二二頁には「実存」の定義として、「僕がこうやって存在しているということが僕自身にとって問題となるような存在の仕方」という簡潔な説明があるのだが、こうした「実存」の在り方と「純文学」の在り方は似ているのではないかと思った。いわゆる「大衆小説」から離れたいわゆる「純文学」の特異性があるとしたら、それは自己自身に向けた再帰的な「問い」がそこに含まれていることによるのではないかと思うからだ。すなわち、「実存」が自らの存在そのものに絶えず問いを投げかけるような存在の在り方であるのと同様に、「純文学」は自らが実践する「書く」という行いを絶えず問題の俎上に取り上げ続けるような書き方なのではないか。それは、小説には、あるいは文学には何が表現出来るのかという問いを、その作品の内に(必ずしも明示的にではないにせよ)孕み持っており、その問いに対して答えようと試みる不断の努力であるはずだ。
 また、六六頁には以下のような記述がある。

 僕がブリコラージュという言葉を強調するのは、「正しいか、正しくないかという基準はない。正しい神話、正しくない神話というものがあるわけではない、問題は君がそれをつくるかどうかだ」ということを言いたいからです。
 「正しい」という基準を捨てて、目的論的な発想を捨てて、君自身の実存の神話をつくるなら、それは君がつくったものなのだから、それでいい。もちろん、もともと機能なんかしないのだから。カラスは捕まらないのだから。どこかにあるような他の基準と比べてみて、「正しい、正しくない」とか「間違っている、間違っていない」ということを考えること自体がますます井戸のなかへと自分を落ち込ませることになるのではないか、と言いたいわけです。そうではなくて、「正しい、正しくない」という二律背反的基準そのものを無効にするために、それから逃れるために純粋に、自分の実存の質に触れるようなものをつくり、あるいはそれを行為する。まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、正否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に[﹅3]遊ぶべきだろう、と。
 (小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、66)

 ここで語られていることは自分においてはやはり毎日の「日記」の営みとして実現されているように思われる。こちら自身の「実存の神話」というものを簡潔に述べるとしたら、それは「死ぬまで日記を書き続けること」という一つの「物語」として言語化される。それは自分においては明らかに、何か他人の持っているような基準に照らし合わせて判断される「正しい/正しくない」を超えた領分にあり、その二項対立を無効化しており(ついでに言えば、「面白い/面白くない」の二律背反も廃棄したいところだ)、「機能や意味に還元されない」ものとしてある。しかし実際のところ、この「物語」を完結させるには途方もなく長い時間が掛かり(何しろ人生そのものと同じだけの時間が必要なのだ)、その道行きのあいだには当然、様々な困難もあるだろうと予想される。しかも、外的な困難――すなわち、昨年一年間がそうだったように、精神的な病など何らかの事情によって書けなくなることもあろうし、生活のなかで日記を書くだけの時間や労力を確保することができなくなることもあるかもしれない――も、内的な困難――端的に、自分が「日記」という営みに飽きてしまうことだって考えられる――も乗り越えて、「物語」の「完結」に向けて邁進したとしても、そもそもこの「物語」は最初から挫折を運命づけられているのだ(すなわち、それは「もちろん、もともと機能なんかしない」)。何故なら、端的に言って、自分自身で自分の「死」の瞬間のことを書くことは不可能だからであり、従って「自分の人生を隈なく記し、跡づける」という試みはどうあがいてもその最後の瞬間において、実現を阻まれざるを得ない。それは望み通り「死ぬまで」続けられたとしても、決して「完成」を見ない「神話」なのだ。しかしだからこそ、「完成」を絶えず先送りされて最終的にはそれに手が届かないということがはっきりしているからこそ、むしろそうした「遊び」に「真剣に」取り組み、遊ぶ価値があるように思われるのだ。
 そんなことを考えながら打鍵を続け、五時四〇分過ぎに至ったところでモニターにバッテリー残量があと五パーセントと表示されたので、帰ることにした。残った僅かなバッテリーで切りの良いところまで打鍵してしまい、書抜きを終えた時間を記録しておき、そうしてコンピューターをシャットダウンして荷物を片付けた。『ドナルド・キーン著作集』第三巻を書棚に戻しておき、退館へ。下階に下りたところで過去の塾生らしき顔を見かけたのだが、マスクをしていたし、明後日の方向を向いていたこともあって定かな判断は出来なかった。立ち止まるほどのことでもないので彼女の背後を素通りし、退館すると寒風のなか短く歩廊を渡って、河辺TOKYUに入った(入り口外のエレベーターのところで、子供が何やら非常に大きな泣き声を上げて駄々をこねていた――あれでは母親は大変だろう)。フロアの奥に進み、籠を持って食品売り場に踏み入る。まず最初に、水菜が七〇円で安いのを見つけて買うことにした。そのほか、茄子を二袋、椎茸も二パック確保し、それから豆腐を取りに行く。三個一セットのものを二つ手もとに加え、そのほか一〇〇〇グラムの油やカップ麺の類など手に入れて会計へ。女性店員に二一三一円を払い、整理台の前に立ってリュックサックと大きなビニール袋とにそれぞれ品物を入れて、袋を片手に提げて退館へ。外に出ると、空の青さがそのまま地上に降りて来て大気を包んでいるかのような黄昏の時間だった。時刻は六時である。歩廊を渡っていると駅から青梅方面行きの電車が発車するのが見えて、しまったな、あれが奥多摩行き接続の六時二分だなと思った。しかし見送ってしまったものは仕方がない、駅舎に入って次の電車の時間を見ると、六時九分である。改札を抜けてホームに下りると、先頭の方に歩き、リュックサックを下ろしてベンチに腰掛け、瞑目して思考をしようとした。しかしそうそう秩序立って形を成した思考が生まれるものでもない。散漫に頭を回して、まもなくやって来た電車に乗り、ここではせっかく下ろしていたリュックサックを背負ってそのままに座席に就き、前屈みになってやはり何をするでもなく瞑目して、頭のなかの思念に注視を送った。そうして青梅着。ホームを歩き、木製のベンチに座って小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。途中で右方に、ヘッドフォンを付けた若い、やや小太りの男がやって来て、彼は黒い無骨なリュックサック背負ったままベンチに就いて前屈みになり、手に持ったゲームに視線を固定していた。耳を塞ぎ、視線もひとところに固めて自らの世界に引き籠った「井戸」的実存の例がここにも一つあるわけだ。「井戸」的実存の何が問題なのかと言うと、そこには「偶然」というものがなくなるということではないだろうか。自らに都合の良い情報しか取り入れないことによって、「偶然」によって自らの「外部」と遭遇する機会を逃してしまうこと。Twitterは使いようによっては、そうした「偶然」が生じる場として機能するようにも思われる。勿論自ら選んで相手をフォローするわけだが、相手も皆複雑性を孕んだ人間なので、時に思いがけない発言や情報がタイムラインに出現するし、予想もしなかった相手からリプライが送られてくることもある。そうした偶然の出会いこそが、自らを「再組織化」することに繋がるはずだ。
 じきに奥多摩行きがやって来たので乗車。三号車の三人掛けの真ん中にリュックサックを背負ったままに腰掛け、隣にはビニール袋を置いて我が物顔に座席を占領する。前屈みになって読書を続けた。電車は遅れていた。一番線にやってくる接続電車が、踏切りの安全確認か何かで遅れたらしい。六時四四分発車のところ、実際の発車は五二分ほどになって、そうして最寄り駅着。腕時計を見て読書の終わった時間を記憶しながら降り、駅舎を抜けると通りを渡って正面の坂道に入るのではなく、東に向けて歩き出した。別の坂から帰るつもりだったのだ。しばらく行ったところでちょうど車が途切れたので、その隙をついて対岸に渡り、木の間の細い坂道に入って下りて行った。
 帰宅。買ってきた品々を冷蔵庫と戸棚に収め、下階に戻ってジャージに服を着替えた。そうして上階へ。食事は、卵とトマトの炒め物に里芋の煮転がし、米、豚汁の類。テレビは『帰れマンデー』だったか、バス旅をしながら飲食店を歩いて探す番組。まあどうでも良い類のものではあるのだが、何となく、食事を終えてからもすぐに席を立つのではなくて見やってしまった。場所は群馬県の四万という地域で、透明度のおそろしく高く透き通った青さに染まっているダムが映されたり、『千と千尋の神隠し』のモデルになったらしい湯屋の情景が映されたりした。薬を服用して食器を洗うと、風呂に行った。入浴中に特段の事柄はない。出てくると下階に戻り、Mさんのブログを二日分読んで九時に至ると、借りてきたCD三枚をインポートしたあと、日記を綴りはじめた。BGMはJose James『No Beginning No End』。書いた傍からTwitterに記述を流しながら進めたところ、そんなに大したことを言っているわけでもないと思うのだが、結構リツイートとか「いいね」とかを貰えた。そうしてここまで綴ると、一時間半が経過しており、現在はもう一一時も間近である。BGMは同じJose Jamesの『Love In A Time Of Madness』に移行されている。
 読書。まず、Ernest Hemingway, Men Without Women。邦訳を参照し、また辞書で単語の意味を調べて赤線を引きながら、"A Simple Enquiry"の篇を読み終える。四頁しかない、短い篇である。翻訳の練習をするとしたら、このくらいのものから始めるのが良いのだろう。三〇分強でそれを読み終え、それから、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』。そこそこ面白いけれど、やはりこうしたライトノベル的な物語はアニメなどの形で視覚的に享受したいという気はする。また、何しろ長いので、職場に復帰したあと、これをこのまま読み続ける時間的余裕が取れるかどうかも怪しい。これを読むのだったら、『特性のない男』や英語の勉強などに時間を使ったほうが良いのではないか、という気もしないでもない。四〇分ほど読んで、小林康夫『君自身の哲学へ』に移行する。たびたび目を閉ざしながら読んだのだが、時間が遅いこともあって瞑目のなかで頭が回ると言うよりは眠気が滲むようで、あまり益する読書ではなかったようだ。一時二〇分頃就床。


・作文
 12:27 - 13:37 = 1時間10分
 15:27 - 16:09 = 42分
 21:13 - 22:46 = 1時間33分
 計: 3時間25分

・読書
 14:58 - 15:13 = 15分
 16:51 - 17:44 = 53分
 18:15 - 18:54 = 39分
 20:35 - 21:00 = 25分
 23:04 - 23:40 - 24:21 = 1時間17分
 24:35 - 25:16 = 41分
 計: 4時間10分

  • 小林康夫『君自身の哲学へ』: 142 - 172
  • 小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-22「鏡像をながめて飽きる口移しするわたしからわたしに向けて」; 2019-03-23「逆光があなたを縁取り蝕となる天文学の歴史の外で」
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 90 - 93
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』: 712 - 770

・睡眠
 0:50 - 11:40 = 10時間50分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)", "Summer Soul", "Orphans"
  • cero『Obscure Ride』
  • Jose James『No Beginning No End』
  • Jose James『Love In A Time Of Madness』
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2019/3/24, Sun.

 一〇時三五分頃起床なので完膚無きまでの敗北である。太陽の助けを借りているのだが、どうにも起きられない。上階に行くと母親はテーブルの端に就いており、カウンターの上ではウォークマンが極々小さなスピーカーに乗せられて、Queenの音楽が流されていた。顔を洗い、鍋の汁物を火に掛けて温める。どのタイミングだったか忘れたがインターフォンが鳴り、受話器の近くにいたこちらが出ると郵便局だと言うので、母親にそう伝えて出てもらった。戻ってきた母親はお母さんからだ、と言う。山梨の祖母から何か届いたのかと思えば、そうではなくてT子さんの母君の方、T.T子さんからの荷物だった。こちらは汁物をよそり、椀に盛った米に塩昆布を乗せて卓に就く。送られてきたのはイカナゴの釘煮と、生姜風味の飴か何かだった。手紙も細長い長方形の紙で二枚、添えられている。それを見せてもらいながらものを食べ、一方で新聞の書評欄をチェックし(『新書アフリカ史』や三浦瑠麗の新刊が取り上げられていた)、食べ終えると台所に行って食器を洗う。カウンターから流れ出している"I Want To Break Free"に声を合わせながら皿を擦り、食器乾燥機に収めておくと、水を汲んで抗鬱剤ほかを飲んだ。そうして下階へ、自室に戻ってくるとコンピューターを起動させ、前日の日課の記録を付け、三月の家計も記録し、アマゾン・アフィリエイトについて調べたりしたのち、一一時半過ぎから日記を書き出した。現在、正午に至っている。
 背景に流れるCharles Tolliver Big Band『With Love』のなかで前日の記事をブログに投稿し、それから上階に行った。両親はテーブルに就いて食事を取っており、台所には大皿にいくつも並べられた稲荷寿司があった。洗面所を通り抜けて浴室に行き、ゴム靴を履いて室内に入ると、蓋を除くとともに洗濯機に繋がったポンプを持ち上げて、管のなかの水が重力に従って排出されるに任せた。それから浴槽を隅々まで擦って洗い、出てくると、先ほど食べたばかりだが、昼食を取ることにした。台所に立った母親から稲荷寿司を二つ、小皿に分けてもらって卓に就く。テレビは『のど自慢』である。向かいに座った父親が、オリンピックのロゴマークの入ったジャンパーを羽織っているのでそれは何かと訊けば、自治会から支給されたものらしい。卓上にはTさんが送ってきてくれたイカナゴの釘煮がパックに入れられて置かれてあって、イカナゴというのはイカナゴという魚なのかと尋ねると、小女魚(という字ではなかったかと思うのだが、変換に出てこない)とかと同じものらしい。テレビのなかには途中、Louis Armstrongの真似をしてトランペットを持ちながら濁声で歌う顔の黒い青年が登場して、その物真似はなかなか堂に入っていた。母親がよそってきてくれた汁物も飲み干し、台所に立つと食器乾燥機のなかを片付けてから、両親の使った分も含めて皿を洗った。そうして下階に戻る。
 両親は、母親の車を車検に出しに行くということでじきに出かけて行った。こちらは下階に戻ると歯磨きをして、それから服を街着に着替えた。臙脂色のシャツに褐色のスラックス、そしてジャケットの下にはスーツに付属している紺色のベストを付けたが、以前と比べていくらかでも太ったためだろうか、思いの外に着心地が窮屈な気がした。服を着替えながらcero "Yellow Magus (Obscure)"を歌い、その後に"Summer Soul"と"Orphans"も歌ったのち、『POLY LIFE MULTI SOUL: Instrumental』を流しながら「記憶」記事を読みはじめた。一項目音読したあとには目を閉じて覚えている限りのことを復習し、気になった情報に関しては手帳に改めてメモしながら進める。三〇番から三九番、大津透『天皇の歴史1』の途中まで進めると三〇分が経過したので、そろそろ出かけるかと荷物をまとめた。立川に出るつもりだった。特に何か買う予定もないが、好天でもあり街に出たい気持ちがあり、書店でも回るかという気分だったのだ。それで上階に行くと両親はもう帰ってきていた。引き出しからBrooks Brothersのハンカチを取り、便所で放尿したのち、リュックサックを背負って行ってくると告げた。
 最高気温は一五度だが、風が吹くと清涼で、少々首もとに冷たいような感じもした。道端にオオイヌノフグリや、紫色の小花が咲き並んでいる。坂に入って上って行くと、行く手の一軒がベランダに布団を干して太陽に晒している。街道に出るとちょうど車が途切れたところだったので、すぐに通りの北側に渡った。見上げた空は色濃い青で、輪郭線の定かならぬ、ふわふわとした犬の毛を思わせるような雲が浮かんでいる。ユキヤナギが道端でもじゃもじゃの髪の毛のように旺盛に咲き誇って白さを撒き散らしている。途中の小公園には桜が二、三本立っているが、最寄り駅前とは違ってまだ蕾の紅色も枝先に生まれていなかった。
 街道の途中から裏通りに入り進んでいると、背後の細道から家族連れが通りに入ってきた。赤い帽子を被って自転車に乗った少年と――彼の自転車走行の練習をしているらしかった――母親が先行してこちらを追い抜かして行ったあと、後ろから、ばたばたという高い足音と楽しそうな声音を伴って女児が走って現れて、こちらの横に来たのを見ればまだ四、五歳だろうか、随分と小さい女の子だった。あとからやって来た父親が手を繋ぎながら歩いてこちらを抜かして行くのを見やれば、女の子の背丈は父親の半分にも達していない。父親は先行していた母子に速いよ、と荒っぽい声を投げかけ、しばらくして追いつくと女児は楽しそうに、童謡 "チューリップ"を口ずさんでいた。
 白木蓮は盛りだが、もうあちこちに火に炙られて焦げたような褐色が差し込まれて、全体としては濁りの気味が強く、白さを誇って楚々と佇むわけには行かず、足もとには力尽きて地に伏せた落花が茶色に草臥れていた。歩いていると背面に陽が宿って、リュックサックの裏側の背まで温もりが染み入ってくるようだった。
 駅に着くと立川行きの発車が二時一四分、掲示板の傍の時計を見ればあと一分しかない。しかしそれでもあくまで急がずに階段を下りて通路を渡り、上りではちょっと急いで一段飛ばしで大股に上って行き、ホームに出るとちょっと移動してから乗り込んだ。今日は珍しく、三号車の三人掛けに腰を掛けた。そうして手帳を取り出し、二時一五分をメモすると、小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。第二章の終わりの結論としては、異質なるものに出会うことによって自己を再組織化していくことが必要であるとされていて、差異との遭遇によって変容していくというそのテーマはこちらにあっては馴染み深いものだし、結論としてありきたりな感を得たのだが、やはりそういうところに落ち着くものだよなとも思う。ただそこで、他なるものとの相互作用を「ゲーム」あるいは「遊び」として捉えているのがこちらにとっては目新しいと言えば目新しいかもしれない。その「ゲーム」は、他者との相互作用を繰り広げているあいだにいつの間にか生まれているようなものであって、初めから外部に「ルール」があってそれに従って「遊び」を展開するのではなく、行為をしているその動きのなかから内在的に、事後的に「ルール」が発見されるようなものだと言う。そのような自己の変容あるいは再組織化に「井戸」的な実存、「引きこもり」からの解放という希望を見る点においてはこちらも同意だが、しかし具体的にどうやってその「遊び」を実現・実践していくのか。例えばこちらの日記執筆という営みは、そのような「遊び」たりえているのか。日記を書くという営為を世界=差異との交流だと言ってみても良いのかもしれないが、ここで引っかかるのは小林康夫が、「そういう営みは、それが生まれた瞬間に、逆に、習慣になり、拘束になる」「習慣、癖みたいなものこそ、ほんとうは、最大の問題です」と語っていることで、まさしくこの日記はある点では、「拘束」としての「習慣」になっているのではないかと思えないでもない。「日記」という形式においてしか文章が書けない――ということは、そういう形でしかものを考えられないようになっているような気がするのだ。出来上がってしまったスタイルは、一度完成するとそれが新たな桎梏になる。「だからこそ、つねに再組織化して、活性化しなくてはならない」と小林も言うのだが、この毎日の営みにおいて日記を改めて「活性化」することが出来ているかと言えば、実感としては甚だ心許ない。単純に、目に映るもの感じるものが今までの繰り返しばかりで、新しいことを書けていないように思うのだ――もっとも差異とはそのような反復のなかからしか生じ得ないものであるのかもしれないけれど。やはり異質なるものの最たるもの、自分とは違った原理を持って生きているものとしての人間たる「他者」と交流していくことが重要なのだろうか。Twitterは使いようによってはそれに益するものになるだろう。
 立川に着くと乗客たちは一斉に降りて階段へと向かう。こちらは一人席に残って本を読みながら彼らが去って行くのを待ち、出口の向こうをゆっくりと流れて行く人影がなくなり、階段も空いているだろうというくらいの時間が経ったところで、胸の隠しから手帳――モレスキンのそれの頁が尽きたので、数日前からMDノートというやつを利用しているのだが、これがなかなか、ペンをしっかりと捉える紙質で書きやすいものである――を取り出して読書時間をメモすると、降車して階段を上った。人波のあいだを通って改札をくぐり、人々の流れの一部と化しながら北口広場に出る。伊勢丹の方向に通路を進むと、パン屋兼カフェの前あたりで、前方から音楽と歌唱の声が聞こえてきた。R&B風の、女性の声に聞こえたのだが、進んでみると通路の隅に座り込んでスピーカーか何か操作していたのは短い髭を生やした男性だった。彼は、皆さんこんにちは、と挨拶し、東京都内で音楽活動をしているTSUYOSHIと言います、と自己紹介し、一曲二曲でも是非聞いていってくださいと通行人を誘ったが、こちらはその前を通り過ぎて行って歩道橋に出た。午後三時の陽射しが西南方面から照射され、下の道を走る車の、車体の先端に白い点が溜まり、こちらが角を曲がる時には手摺りの一部に一瞬、光がぱっと反射して目を射る。左折して高島屋に入り、エスカレーターを上って淳久堂に向かった。入店すると哲学の書架のあいだに入り、哲学概論のあたりなど見分する。特に目当てがあったわけではないのだが、舟木亨(だったか?)の、『いかにして思考するべきか』(だったか?)という本が気になり、「はじめに」のあたりなど立ったまま少々読んだ。それから日本思想の棚を巡ったり、反対側の西洋思想の棚も巡ったりしたのだが、今買って読むべきだと思われる本はなかなか見つからない。興味を惹かれるものは色々とあるのだが、どうせ今買ったところでそれらは読んでもわからないに決まっているのだ。
 結構長い時間を費やして棚を見分したのだが(退店する頃には四時近くになっていたのではないか)、先の舟木亨(舟田だったか?)の本を除くと、欲望にぴったりと当て嵌まるものは見つからず、家にも図書館にもたくさん読む本があるのだから無理には買うまいと書架を出て、フロアを渡って海外文学のほうに行った。ここでもしかし金を出してまで欲しいという本は見当たらないので、少し見ただけですぐに区画を離れ、下りのエスカレーターに乗った。
 二階に降りて、出口に向かうまでにある「軽井沢シャツ」という店がまたしても気になったが、マネキンの身につけているジャケットが二万三〇〇〇円とか記されているあたり、結構値が張りそうな店である。その横を通って館を抜け、オリオン書房にも行くことにして右折した。途中で男児が、柱にしがみつきながら頭を左右に振り、「ちら、ちら」などと声を発してふざけていた。建物のなかに入るとまたもエスカレーターに乗って入店、哲学の区画を見に行った。日本の思想のあたりをちょっと見分してから、平積みにされている本を見ていく。京都大学学術出版会から出ている入門的な哲学の本二冊が気になっていたのだが、いざ見てみるとやはり買うほどではないかなと思われた。それでここでも棚を仔細に見ていくのだが、やはり欲望を激しく唆られるものはなく――と言うか、家に積んである多数の本のことを考えると意気が挫けるのだったが――、無理に買うまいと区画を離れ、文庫のほうに行った。岩波文庫は井筒――井筒何だったか、東洋哲学やアラビア思想の権威であるあの人の本を新刊としていくつか出しているらしかった。それからちくま学芸文庫なども見たのち、こうして書店巡りに時間を使ってばかりいても仕方がないと退店に向かった。
 喫茶店に行こうか、それとも河辺の図書館に行ってそこで作業をしようか迷う心があった。とりあえずはPRONTOに行ってみることにして、通路を辿って歩道橋を渡り、地上に階段を下りてビルとビルのあいだの薄暗い道を抜け、喫茶店に入店すると、レジカウンターには長い列が出来ている。その横をくぐって二階に上がると、多少テーブルに空きはあったのだが、どうも左右を人々に囲まれて作業をするのに気が向かず、やはり地元の図書館に向かうことにした。そうして退店し、エスカレーターを上って(前に立っていた若い女性の肩から提げたバッグが鮮やかな青で、passage何とかとロゴが入っていたのだが後半の文字は忘れてしまった)、広場を横切り(すれ違う人々の顔が西陽で薄赤く染まる)、駅舎に入った。人波の一部と化して改札をくぐり、青梅行きは二番線、下りて一号車に乗車すると席に就いた。そうしてふたたび読書を始める。じきに出発し、読み進めるのだが、最近実感しているところに、自分は本を読みながら全然ものを考えていない。とにかく最近は、自分がいかにものを考えていないか、ということばかりが気になっている。勿論この日記だって思考の一つの形態に他ならないわけだが、上にも書いたように、こうした形以外の形で思考することが出来ないというのが悩みなのだ。端的に言って、もう少し見たもの聞いたものについて分析して、叙事だけでなく思弁的な事柄を日記のなかに取り込んで行きたいものなのだが、そうした方向に頭が回らない。二〇一八年末のあの勢いは何だったのだろうかと思わざるを得ないが、あれはやはり脳内物質の作用か何かで思考が過剰に蠢いていたということなのだろう。
 河辺で降車。ホームには多数の中学生。手帳を取り出して読書時間を立ったままメモし、エスカレーターに乗って上階に上がると、改札を抜ける。歩廊に出て、階段を下り、コンビニへ。レジに並ぶ人多し。その前を横切り、壁際に行って、おにぎり二つ(ツナマヨネーズに海老マヨネーズ)を取り、次にパンの区画からオールド・ファッション・ドーナツを取って列に並ぶ。ちょっと待って会計。掠れた声で礼を言って退店し、階段を上って図書館へ。一つ目の扉をくぐったところに軽食スペースがあるので、そこのテーブルに就き、リュックサックは隣の椅子に乗せておき、ものを食べはじめた。行き来する図書館利用者の姿を眺めながらおにぎりを頬張る。こういう時、世の人々はやはり食べながらスマートフォンを弄るのだろう。途中で左方にやってきた男性も、視線を向けなかったが、どうも何か飲みながらそうしている雰囲気があった。こちらは視線を飛ばすくらいしかやることがない。三つの品を食い終わるとビニール袋を丸めてリュックサックのなかに突っ込み、そうして立ち上がって入館した。CDの新着棚はスルーして上階へ、新着図書をちょっと見たが特に目新しいものはない。そうして書架のあいだを抜けて大窓際に出ると、日曜日のわりに、時間のおかげか思いの外に空き席が多い。一番端の一席に就いて、コンピューターを起動させ、打鍵を始めたのが五時半だった。そこから一時間強でここまで追いつかせている。
 書抜き、木田元『哲学散歩』。最初は読書ノートにメモを取っていたのだが、例によってふたたびこれは面倒臭いなという気持ちが立って、もうさっさと書き抜いてしまおうと方針を転換した。それで打鍵を続け、七時半過ぎまで。エンペドクレスの逸話は面白い。

 キリキアのラエルテ出身の伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスによって紀元三世紀前半に書かれた『ギリシア哲学者列伝』(加来彰俊訳、岩波文庫)によると、エンペドクレスは深紅の衣をまとい、黄金のベルトを締め、頭には紫のリボンを巻いた上に華やかな月桂樹の冠をかぶり、青銅のサンダルを履いて、厳しい面持ちで大勢の信奉者やお供の少年たちを従えて歩き、「私はもはや死すべき者としてではなく、不死なる神としておまえたちのあいだを歩いているのだ」と託宣していたという。
 エンペドクレスは、医者に見放された女性を治療して生き返らせたり、近隣の町で河から立ち昇る瘴気によって発生した疫病を終熄させようと、私財を投じて河の流れを変えたりもした。そして、その工事完成の祝宴が催された日、宴が果てたあと彼はエトナ火山へ向かって旅立ち、火口にゆきつくとそこへ身を投じたという。炎のなかから復活してみせることによって、神になったという噂の裏づけをしてみせるつもりだったらしい。だが、後日噴き上げられてきたのは彼が履いていた青銅のサンダルの片方だけだったそうだ。
 (木田元『哲学散歩』文藝春秋、二〇一四年、20~21)

 そのまま小林康夫『君自身の哲学へ』の書抜きもするかどうか迷ったが、帰宅することに決めた。荷物をリュックサックにまとめ、木田元『哲学散歩』を片手に持って席を立つ。人気の少ないフロアにかつかつと足音を響かせながら横切り、階段を下ってカウンターに近づくと、談笑していた職員三、四人のうちの一人がこちらの相手をしに出てきたので、返却をお願いしますと持っている本を差し出した。そうして礼を言って退館。歩廊を渡って駅へ。掲示板を見ると奥多摩行き接続の電車は出たばかりで間が悪い。次の電車は七時四二分、到着まであと二分ほどだった。改札をくぐってエスカレーターでホームに降りると、まもなく電車がやって来たので乗り、リュックサックを背負ったまま席に就く。何をするでもなく前屈みの姿勢で到着を待ち、青梅で降りるとホームを渡って、ジャケットにベストの格好では外は寒そうだったので待合室に入った。先客は誰もいなかった。室の奥の席に就いて、小林康夫『君自身の哲学へ』を読み出した。途中、紙袋を持った赤い服装の男性が一人、入ってきたがそれだけであとに続く者はなかった。一番線に電車がやって来て彼が出ていったのちまもなく二番線の奥多摩行きもやって来たので、こちらも外に出て電車に乗る。高校生か大学生くらいの若い女性三人組が座っているのと同じ列の端に就いた。そうして本を読み続け、最寄り駅に着くと書籍を仕舞って降りて、電灯の明かりのなかで手帳に読書時間をメモした。駅舎を抜け、車通りのない静けさのなか通りを渡り、坂道に入る。下って行って平らな道に出て、冷え冷えと吹く風を正面から受けながら家路を辿った。
 帰宅するとすぐに自室に戻ってコンピューターを起動させるとともに服を着替える。Twitterを覗くと、Sさんという方からリプライが届いており、投稿していたこちらの散歩時の記述に対して、純文学の一節みたいだ、これは何かの詩ですかとのお尋ねがあったので、これは自分の日記の一節である、何かインスピレーションの素になってくれたなら嬉しいと返信を送っておいた。そうしてジャージ姿で部屋を出て階段を上りながら、俺の描写というのは意外と結構上手いのかなと思った。ブログタイトルが(仮)のついていない「雨のよく降るこの星で」だった時期、毎日見たもの感じた天気や季節感ばかりを綴っていた時期のあの練られた記述に比べれば、今の文章というのはかなり砕けた、力を注いでいないものなのだが、それでもこのように言及してくれる人が折に触れて現れるということは、そこそこの質は持ち合わせているのかもしれない。
 食事。稲荷寿司の残りに天麩羅・蓮根と鶏肉の炒め物・サラダなどである。テレビは何だったか――覚えていない。母親は相変わらずソファに就いてタブレットを弄っていた。またメルカリを見ているのかと訊くと、今日はそんなに見ていない、日中は少々草取りをしていたと言う。そんなに面白いかねと言うと、色々な品物が出ているからつい見てしまうと。その時間を使って本を読みたまえと提案しておき、ものを食べ終えて薬を飲むとともに皿を洗うとこちらは風呂に行った。風呂のなかではどのように過ごしたのだったか覚えていない。小沢健二 "天気読み"のメロディを口笛で吹いたことは覚えている。その他、特段に印象深いことはなかったはずだ。出てくると自室に戻り、一〇時ぴったりから他人のブログを読みはじめた。Mさんのブログにfuzkue「読書日記」を読んでおき、その後は久しぶりにErnest Hemingway, Men Without Women。"Fifty Grand"の篇を最後まで読む。そうして次は、音楽。Bill Evans Trio "All of You (take 1)"を最初に。それから、彼の死の直前のライブ音源、『Turn Out The Stars - The Final Village Vanguard Recordings June 1980』から、"My Romance"。冒頭の、ピアノのソロでの導入部における強弱の付け方からして、一九六一年のそれとはまったく異なっている。六一年のEvansはもっと淡々と醒めており、ある意味で機械のようだ。それはしかし人間らしさがないということではなく、これ以上ないほどに人間味に溢れた演奏機械と化しているかのようなのだが、八〇年六月のEvansは全体に音を詰めこみ気味で、その演奏は「速い」。大仰で、何かを焦っているようにも聞こえ、ありきたりな感想だが、死の近づきを悟って残った生命の炎を隈なく燃焼させようとしているかのようだ。
 それからBill Stewart "Think Before You Think"(『Think Before You Think』)を聞き、時刻は零時。小林康夫『君自身の哲学へ』に移行する。

 母親だけではなくて、幾人かの複数の「つながり」によって編み上げられ織られた、ちょうど掌のように、落ちてくる生命を受けとめてくれる窪みのようなもの、容器。それが与えられることによって、そのような迎え容れの贈与によって初めて人間はほんとうに誕生することができる。(……)
 (小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、117)

 親は、重力に従って落ちてきたこの無力でフラジャイルな存在を、最初に受けとめ、迎え容れてくれた。彼らの迎容の「縁」をめがけて、わたしは落ちてきたのです。そして、そこで差し出された手の「輪」が、わたしがこうして育つことをゆるしてくれた。それは当たり前のことではないのです。そこにはわたしが負うべき負債がある。けっして返すことのできない負債です。そう思えて、初めて親に対して、ある特別の感謝というものが湧き上がってくる。生物学的な親だからなのではないのです。生物学的に血がつながっていようがいまいが、わたしの落下を受けとめてくれた「近さ」、それこそが「親」なのです。
 (127)

 小林は、「親というものはいないのだ」と、一種過激な主張をする。我々は、どことも知れないところから、誰かに受けとめてもらわなくては自力で生存することも出来ない無力な存在として、彼の言う「迎容」の「輪」のなかに「落ちてくる」。そこにおいては本質的に、「親」というものは我々の絶対的な起源ではないと捉えよう、ということだ。そうした考え方をすることによって、「親」との関係におけるある種の桎梏――親からの承認を求める心だとか、あるいはそれの裏返しとしての反発だとか――を克服し、独立した一個の人間として親とのあいだに生まれる「責任」を考えることができるようになると。
 自力では生命維持もままならない存在を「迎え容れる」というのは、その存在に対して、そこにいてくれるだけで良い、存在してくれるだけで良いと絶対的な肯定を与えるということだろう。ここでこちらに思い出されるのは、叔父のYちゃんが言っていた言葉で、彼曰く、人間などというものは単純に、ただ生きているだけで良いのだ、と言う。何故ならお前が赤ん坊としておぎゃあと生まれてきた時には、お父さんお母さんはお前が五体満足で生まれてきてくれた、それだけで良かった、それだけで感謝していたのだから、というわけだ。我々が親という存在に感謝するべきなのだとしたら、それは、我々に生命を与えてくれたということそれ自体ではなく(つまり彼らが我々の存在の起源であるという事実にではなく)、生命の「受け容れ」を、すなわち我々の生命に対する絶対的な肯定を与えてくれたこと、そして我々の存在に対して感謝を送ってくれたことに対してだろう(現在の自分が生きているという事実それ自体が、そのような絶対的に肯定的な時間があったということを証している――なぜならそれがなければ我々は生命を繋ぎ、現在まで辿り着くことはできなかったはずだから)。
 そのほか、カフカの「法の門」の「法」というのが「死」の謂ではないかというのもちょっと面白かった。零時五〇分まで読んで就床。


・作文
 11:38 - 11:59 = 21分
 17:33 - 18:42 = 1時間9分
 計: 1時間30分

・読書
 13:05 - 13:37 = 32分
 14:15 - 14:47 = 32分
 16:39 - 17:07 = 28分
 18:48 - 19:33 = 45分
 19:49 - 20:16 = 27分
 22:00 - 22:41 = 41分
 22:43 - 23:15 = 32分
 24:03 - 24:49 = 46分
 計: 4時間43分

  • 「記憶」: 30 - 39
  • 小林康夫『君自身の哲学へ』: 96 - 142
  • 木田元『哲学散歩』文藝春秋、二〇一四年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-21「面影が飛沫をあげて終わらない四月はすでに春だといった」
  • fuzkue「読書日記(127)」: 3月8日(金)まで。
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 86 - 89

・睡眠
 0:20 - 10:35 = 10時間15分

・音楽

  • Charles Tolliver Big Band『With Love』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL: Instrumental』
  • Charlie Haden & Kenny Barron『Night And The City』
  • Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"
  • Bill Evans Trio, "My Romance"(『Turn Out The Stars - The Final Village Vanguard Recordings June 1980』: Disc 1)
  • Bill Stewart, "Think Before You Think"(『Think Before You Think』)

2019/3/23, Sat.

 七時頃に自ずと目覚めた。布団の下で脚に汗をかきながらさらに少々休んで、七時二〇分に、八時のアラームを待たずして起床することに成功した。久方ぶりの、睡眠に対しての勝利である。職場に復帰した夢を見たが、場所は教室ではなくて自宅だった。T先生や昔の教室長であるSさんが登場して、既に授業が始まっているにも関わらず手順がわからずあたふたと準備をしている最中に目覚めたようだった。
 上階へ。母親に挨拶をして、唐揚げがまだあるのかと訊けば、多少残っていると言う。ピザパンを電子レンジに入れたあと、冷蔵庫からそれを取り出し、一つのみ残して皿に取り分け、こちらもレンジで温める。そのほか、米である。テレビはニュース。特に興味を惹かれた話題はない。母親が前日のサラダの残りとほうれん草を用意してくれたので、「すりおろしオニオンドレッシング」を掛けてそれも食べ、さらにゆで卵も食す。薬を飲んだあと、台所に行って、父親が昨晩使ったものも含めて食器を洗っていると、その父親が仕事着姿で階段を上ってきたので挨拶をした。林檎を一欠片齧り、その後こちらは炬燵に入って身体を温める。弱い雨降りの、久しぶりに少々寒々しいような天気である。そのうちにテレビではNHK連続テレビ小説まんぷく』が始まって、「まんぷくヌードル」とやらが制作される様子を、炬燵の温かさに安穏としながらぼんやりと眺める。そうして八時半近くになると立ち上がり、洗面所に行って、脱水の終わった洗濯機から洗濯物を取り出し、居間の隅、ベランダに続く戸の前に持って行き、ソファの背の上に置いた。そうしてタオルや下着などをハンガーに吊るしていく。終わるともう一度洗面所に行き、一度では運べなくて余っていた洗濯物も追加で持って行き、同じように干して、すべて終了すると下階に下った。自室に戻り、コンピューターを点けて前日の記録を付けると、九時から日記を書き出した。四〇分ほどで前日分を仕上げ、ここまで綴っている。
 cero『Obscure Ride』から、例によって三曲――"Yellow Magnus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"――を流しながら、前日の記事を投稿した。そうして一〇時過ぎから、ベッドに移って小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめたのだが、いくらもしないうちに意識を失うことになった。そのまま断続的に三時間以上、一時四〇分あたりまで床に伏すことになったのだが、珍しく早く起きても結局こうなるわけだ。しかし、昼頃まで長く寝ているよりは、早めに起きてあとでこのように追加の眠りを取るという方式のほうが良いと思う。ベッドのなかで意識を取り戻し、しばらく本を読んでから上階に行った。

 「正しい」という基準を捨てて、目的論的な発想を捨てて、君自身の実存の神話をつくるなら、それは君がつくったものなのだから、それでいい。もちろん、もともと機能なんかしないのだから。カラスは捕まらないのだから。どこかにあるような他の基準と比べてみて、「正しい、正しくない」とか「間違っている、間違っていない」というこおとを考えること自体がますます井戸のなかへと自分を落ち込ませることになるのではないか、と言いたいわけです。そうではなくて、「正しい、正しくない」という二律背反的基準そのものを無効にするために、それから逃れるために純粋に、自分の実存の質に触れるようなものをつくり、あるいはそれを行為する。まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、正否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に[﹅3]遊ぶべきだろう、と。
 (小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年、66)

 母親は既に食事を終えており、使ったあとの食器が盆に乗せられてカウンターの上にあった。昼食はおじやだと言う。台所に入って半分残ったカレーパンを電子レンジに突っ込むとともに、鍋からおじやをよそって煮物とともにこちらもレンジで加熱した。そうして卓に向かい、ものを食べはじめた。テレビは何だかわからないドラマで、特別面白くも何ともない。おじやを一杯食べてしまうと席を立ち、残ったもう一杯分を取って、今度は薩摩芋とともに電子レンジで加熱、ゆで卵も持って戻るとさらに食事を続けた。食後、母親の使った分も含めて食器を洗い、風呂を洗おうと浴室へ向かったところでインターフォンが鳴った。母親がばたばたと受話器に駆け寄る音が聞こえた。それから洗面所に入ってきた彼女に尋ねると、行商の八百屋さんだと言った。風呂は湯がたくさん残っていたので洗わなくても良いかと了承を取って今日はそのまま沸かすことにして、居間に戻って掛かりっぱなしになっていた『激レアさんを連れてきた』を少々眺めた。中古車販売店を経営していながらラーメン好きが嵩じてミシュランガイドに乗るほどのラーメンを作ってしまった、という男性が紹介されていた。そうして階段を下りて自室に戻り、Cecil Taylor Segments Ⅱ『Winged Serpent (Sliding Quadrants)』を流しながら「記憶」記事の音読を始めた。読みながら、手帳に主要な事柄は簡易的にメモしつつ進めて行ってあっという間に五〇分、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』の復習は終えて、その頃には音楽はCecil Taylor『Solo』に移っていた。そうして日記を書きはじめて、ここまで一〇分少々でさっさと書き足して四時半前となっている。
 Mさんのブログを一日分、fuzkueの「読書日記(127)」を同じく一日分読んだ(ベン・ラーナー『10:04』についての感想、「悲しさも喜びもおかしさもなにか直接触れてくるようなそういう感触がこの小説にはずっとあってタコが全身で味を味わうそういうことに似ているのかもしれなかった(……)」という一節が何か不思議に面白かった)。それで五時に至ると食事の支度をするために上階に行った。何をやろうかと母親に尋ねると、巻繊汁でも作るかということになる。それで人参、ブナシメジ、玉ねぎ、里芋など用意して切り分けて行く。大根は、前日に父親が山梨の知人から貰ってきたものを母親が持ってきて切断したが、一部なかが黒くなっていて、三分の一くらいは廃棄しなければならなかった。野菜をそれぞれ切り分けていくあいだ、背後のラジカセからはFISHMANS『ORANGE』が流れ出していた。歌を歌いながら切るものを切り、大鍋を取り出すと油を垂らして火を点け、その上から生姜をすり下ろすと即座にばちばちと激しく音が立つ。そうして野菜を投入し、木べらでもって搔き混ぜながら炒めた。もう一方の焜炉では大根がシーチキンとともに煮られていた。そうしてしばらく炒めて水を注ぐと、母親が大根を山に捨ててきてくれないかと言うので了承し、薄く透明なビニール袋に入ったそれを持って玄関を出た。裸足に靴を突っかけて道を渡り、林のほうに行って、頭上に樹木が生い茂った奥のほうまで入るとそのあたりに悪くなった大根の欠片を放り捨てた。そうして戻ろうとすると、坂道から若い青年が走って上がってきて、こちらのほうを見やっているようで、話しかけようかどうしようか迷うような素振りを見せたあと、こんにちは、と声を投げてきた。こちらも挨拶を返すと彼は走り去ってしまった。距離があって、目が悪いので顔貌がわからなかったが、あれがSくんではないかと思った。それだったら家庭教師の件についていくらか話をしたかったのだが、こちらが道に戻った時にはもう彼は道路の遥か先に行ってしまっていた。
 室内に戻り、汁物の灰汁を取ってしばらくしてから楊枝で大根を突き刺したが、味を付けるにはもう少し煮る必要があると判断された。しかしそれを待つのも面倒なので、じゃあ、いいすか、とぞんざいな口調で母親に自室に戻る許可を伺うと、良いとの返答があったので、あとは頼むと任せてラジカセからFISHMANSのCDを取り出すと、その音楽は頭がおかしくなると母親が言ったので思わず笑ってしまった――確かに"気分"など、「ぱっぱっぱー・ぱっぱぱー」などと冒頭で繰り返しているけれど。頭がおかしくならない、と訊いてくるが、こちらは好きで聞いているものである。母親は何だか苛々してくるらしい。笑いながら階段を下りて行くと、でもそんなこと言っちゃ失礼か、と執り成すような声があとから聞こえた。
 時刻は六時前である。Sさんのブログを読むことにした。それで九日分の記事を一気に読んだ。この時ゆっくり音読をしてみたのだが、そうするとSさんの文体の柔らかさがより良くこちらの身体の内に染み入ってくるかのような感じがした。三月一四日の「信じる」と題された記事が全体として良かった。また、三月一七日の記事に書かれたムージル「黒つぐみ」の感想の内の次の一節には、そうだよなあ、そういうことがきっとあるのだろうなあとしみじみと頷かされるような心地になった。

 …それにしても、やっぱり戦争はやばい、ダメだ。一兵卒としてわけのわからない場所に運ばれて、そこで戦争はきっと、人を覚醒させるだろう、全身の血液が力強く脈打ち、みずみずしく健やかな気持ちが嵩じて、ああ生きているとはこれだと、生と死を手に取ったかのように、そのまま神秘に、思うのだろうなあ、人生に張り合いをもたらし、滋養をあたえ、人の絆を強めるのだろう。銃弾が降り注ぐ中で、この私の生命はこれまでにないほどつよく光り輝いているだろう。

 それから、小林康夫『君自身の哲学へ』を三〇分ほど読んで――背景にはCharles Mingus『Epitaph』を流していた――時刻は七時、もう暗い時間だが散歩に出ることにした。部屋を出て上階に行き、母親に散歩、と告げて仏間に入り、短い靴下を履いて玄関へ、鍵は持たずに扉を抜けた。見上げた空は曇り気味のようで、星の明かりも定かならない。前日から一転して気温の低い日だが、ダウンジャケットの前を首もとまで閉ざしていればそれほど寒いものでもなかった。散漫に思考を巡らせながら西へ向かい、坂を上って行く。裏路地の中途で、街灯の明かりを注がれているユキヤナギがあって、満開にひらいた花が緩く曲線を描きながら連なっているそのさまが、針金をなかに通した硬貨の筒のように目に映った。家並みのあいだを通って行き、街道に出ると、歩行者用信号は赤だったが車の通りがないのを良いことに対岸に渡ってしまい、薄暗い細道に入る。墓場に差し掛かると風が流れたが、暗闇に包まれて斜面に広がり聳えている墓地は押し黙っており、そのなかから卒塔婆の風に揺らされ触れ合う音もほとんど立たない。人通りのない裏路地を、時折り首を思い切り曲げて直上を見上げながら進んで行き、駅の間近まで来ると道の隅に梅の木が一本立っていて、その根元から点々と花びらが道に散って、夜の底でも白さを保っていた。駅の桜はひらきつつあるが、まだまだ闇のなかでくっきりと照ってはいない。それから街道を東へ行き、途中で対岸に渡って木の間の細い坂道に折れ、緑の葉叢が電灯の光を薄く跳ね返しているなかを下って行った。
 帰宅すると食事である。米・鮭の小さな欠片・巻繊汁の類・鰹節を振った春菊・きんぴらなどである。席に就くと母親が、『LIFE』が何度見ても面白いと言って録画してあるその番組を流しだす。内村光良がFreddie Mercuryの扮装をして真似をしているのだと言う。それで彼が"I Was Born To Love You"に合わせて身体を躍動させながらスーパーの惣菜に割引シールを貼って行くのを眺めつつ飯を食い、食べ終えると皿を洗って薬を飲んだ。そうして入浴である。残り湯のたくさんある状態で風呂を沸かしたので、湯はほとんど満杯であり、なかに入るとざあっと浴槽の縁から溢れ出した。それからしばらく浸かっていると父親の車が砂利を擦って家の敷地に入ってくる音がしたのでそれを機に立ち上がり、頭を洗って上がり、短い髪をさっと乾かして洗面所を出ると、父親におかえりと挨拶した。そうして下階へ戻ってきて、二〇一六年六月二六日の記事を読み返した。次のような記述があった。

 それでグレープフルーツジュースを買ってきて席に就き、コンピューターを取りだすのだが、背後のテーブルに集まっている女性たちの話し声が、ひどく騒がしい。河に大きな石を投げこんだ時に立ちあがる水柱のように、突発的に跳ねあがる笑い声がとりわけ頭に響くようで、また喫煙室に行き来する人々が後ろを通るのすら煩わしく、わざわざ人の多い場所に出てこなくてもよかったのではないかと、後悔した。日曜日というのは、まったくもって行き場のない曜日である。家には両親がおり、街には群衆がいる。イヤフォンを付けてEdward Simon『La Bikina』で耳を塞ぎながら、ただ静かに一人になれる場所はないのかと自問したが、自分の手の届く範囲には見つからないようだった。この時代にあっては、孤独の安息さえも、金で買わねば手に入らない、贅沢な特権物なのだ。

 これを読んで思い出したが、確かに当時は書き物読み物をしているあいだなど、他人の気配が身の周りにあるだけで煩わしくて、どうにかして一人になれる場所はないものだろうかと頭を捻っていたものだった。やはり今よりも少々過敏だったと言うか、不安障害の圏域にまだ取り残されていて、いくらか対人恐怖症的な性向を持っていたのだろう。コンビニに入って店員とやり取りをすることすら煩わしくて仕方がなかったはずだ。今はそうしたことはほとんどなくなって、喫茶店に行っても音楽で耳を塞がなくとも作業を出来るくらいの図太い神経を手に入れたようである。
 そうして読み終わった記事をブログに投稿しておき、それから日記を書き出して四五分、背後にNOW VS NOW『The Buffering Cocoon』を流しながら打鍵して一〇時が近くなった。
 小林康夫中島隆博の対談、「知を生きる、水は流れる」(https://dokushojin.com/article.html?i=5006)を読んだ。そうして一〇時半前。ここから一一時過ぎまで日課の記録に空白が挟まっているが、その時間で何をしていたのかは覚えていない。そうして一一時過ぎから、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』を読みはじめて、ベッドに乗って一時間。零時をだいぶ回ったところで、小林康夫『君自身の哲学へ』に移行しようとしたところが、例によっていつの間にか意識を失っていた。目覚めたのは多分、二時半頃だったような気がする。そのまま就寝。歯磨きは読書中に済ませてあった。


・作文
 9:03 - 9:40 = 37分
 16:12 - 16:24 = 12分
 21:01 - 21:48 = 47分
 計: 1時間36分

・読書
 10:13 - 10:30? = 17分
 13:45 - 14:17 = 32分
 15:20 - 16:10 = 50分
 16:34 - 17:03 = 29分
 17:52 - 18:23 = 31分
 18:25 - 19:00 = 35分
 20:36 - 20:49 = 13分
 21:48 - 22:25 = 37分
 23:07 - 24:18? = 1時間11分
 計: 5時間15分

・睡眠
 1:20 - 7:20 = 6時間
 10:30 - 13:40 = 3時間10分
 計: 9時間10分

・音楽

2019/3/22, Fri.

 一〇時四〇分起床。睡眠時間九時間三五分では、敗北だと言わざるを得ないだろう。いつもながらのことではあるが、八時のアラームで目覚めてはいるのだがそこで正式に起床することがどうしても出来ない。九時台のあたりからは太陽もやや昇ってガラス窓のなかに入ってきて、そこから放たれる熱烈な光線を顔に受けながら微睡んだ。そうしてようやく起床すると上階に行き――母親は郵便局や銀行に行くとのことで不在だった――、便所に行ったあと洗面所で顔を洗う。おかずは冷蔵庫のなかに前夜の肉じゃがの残りがあったが、それでは足りないのでベーコンと卵を焼くことにして、フライパンに油を垂らし、ハーフベーコンを五枚、重ね合わせながらふんだんに敷いて、その上から卵を二つ割り落とした。そうして肉じゃがを電子レンジに入れて一分加熱し、そのあいだに丼に米をよそり、ベーコンエッグがある程度固まるとその上に搔き出す。そうして卓に移って、丼の上に醤油を垂らして潰した黄身とぐちゃぐちゃに混ぜながら食べた。新聞は一応ひらいたものの、あまり興味を惹かれる記事もなく、本式に読んだものではない。ものを食べているあいだじゅう、ceroの"Orphans"が頭に流れて仕方がなかった。そうして食事を終えるとセルトラリンとアリピプラゾールを服用し、食器を洗って食器乾燥機に片付けておき、それから服をジャージに着替えて自室に戻った。コンピューターを起動させ、前日の日課の記録を完成させ、作文に取り掛かったのが一一時半前だが、便所に行って排便してきたのを機に途中でインターネットに繰り出して娯楽的な動画を閲覧するなどしてしまい、余計な時間を費やして、ようやく日記に戻ったのが一二時二〇分頃だった。音楽はCecile McLorin Salvant『Womanchild』を流してそこから打鍵を進め、現在一二時五〇分に至っている。図書館か、立川か、ともかく出かけようかと漠然と思っているが、どうするか。
 上階へ行った。帰宅していた母親に挨拶し、浴室へ行って風呂の栓を抜く。僅かに残った水が排水口に吸い込まれていくあいだに蓋を除き、洗濯機に繋がったポンプも浴槽から上げてバケツのなかに入れておき、ブラシと洗剤を取ると風呂桶のなかに入って、上下左右に四囲の壁を擦った。四面とも隅々まで泡を付着させながら磨くと、今度は床を擦り、そうして浴槽から出てシャワーで洗剤を流す。浴室から出てくると、バヤリースのオレンジジュースのペットボトルを持って自室に帰り、甘ったるい液体を飲みながら「記憶」記事の音読を始めた。冒頭、一番から読んでいく。岩田宏神田神保町」の一節はもうほとんど覚えているようだ。新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』からの情報も、もう何度も読んできて結構頭に入っているようなので、音読は二度ではなく一回だけにして、一度読むと目を閉じてぶつぶつと文言を呟き、頭のなかに入っている情報を確認した。そうして三〇分をそれに費やすと、cero "Yellow Magus (Obscure)"を流し出し、服を着替える。立川に出るのではなくて河辺の図書館に行くことにした。誰と会うわけでもないし街に出るわけでもないので、そんなに洒落た服を着なくても良かろうと、上は白シャツ、下はベージュのズボンで、上着は濃紺のジャケットである。歌いながら服を着替え、cero "Summer Soul"も歌うとコンピューターをシャットダウンしてリュックサックに収めた。そのほか財布や携帯など手荷物を整理して上階に行くと、洗濯物を畳んでいた母親が、送って行こうかと言う。自分も西友に行きたいらしい――と言うのは父親の下着類などを買うためだと言う。こちらは歩いていくと言うのだが、妙に何度も乗って行きなよと言うので、まあどちらでも良かろうとそれに従うことにして、ハンカチをポケットに詰めたあと、出支度の済んだこちらはもう先にリュックサックを片方の肩に掛けて玄関を抜けてしまった。道の向かいの木造家屋の垣根に寄って、そこに立っている松の木の鋭い葉先や、あたりの草木から細かな虫が飛び立って動き回るさまを眺めていると母親が出てきた。車の助手席に乗り、シートベルトを閉めると、持ってきたcero『Obscure Ride』のCDを流しはじめて出発である。車内の温度は生温く、少々暑く感じるくらいだった。坂を上って行き街道に出て、東に一路進んでいると、途中で例の、いつも独り言を言いながら荷物を引いている老婆の姿があったので、あのおばさんだと母親に知らせる。以前は黄緑色のコートを着ていたのを、ピンク色に変わったねと母親は言い、何をしているんだろう、家がないのかなと漏らすのだが、そういうわけでもあるまいとこちらは思う。先日は立川で見かけたと言うと母親はちょっと驚いていた。新たな文化施設を建造中の市民会館跡地まで来ると彼女は、もうだいぶ出来てきたねと言う。我々の車はその前で少しのあいだ停車した。敷地の縁では、ちょうど歩道にタイルを敷いているところで、男の人足が一人、バケツから、あれは何と言えば良いのだろうかセメントと言うのかそれともモルタルというものなのか、漆喰に似たような粘着剤の類を篦で地面に伸ばしていた。その上からタイルを貼っていくようで、赤褐色の道が途中まで既に作られている。その人足の後ろに同じようにしゃがんで作業を行っていたのは女性のようで、母親は、見てあれ、女の人だよ、などとこちらに向けて注意を促してきた。凄いね、と言う。
 西分のあたりまで来ると母親が、あの人、脚が長いねと路肩の一人に言及して、脚を随分と露出させているのに、男かな、女かな、などと言っている。こちらは目が悪いこともあって遠くから見ると、脚を出しているのではなくて肌色に近い履き物を履いているようにも見えたのだが、近づいてみると確かにデニムのショートパンツから何にも覆われていないらしい脚がすらりと伸びていて、髪の長さからしても若い女性のようだ。ドキドキする、などと母親が訊いてくるのに、いや、別に、と答えながら思わず苦笑した。それからちょっと行って西分の踏切りに掛かった頃、父親の手術の話になって、わざわざ足を直さなくとも、特例としてスニーカーで拍子木役を務めさせてもらえば良いとこちらなどは思うし母親などもそう思っているだろうが、拍子木役と務めてそののちも何かと役目について出張らないといけない、そうするとやはり草履を履けないといけないらしい。癒着している二本の指を分離させて、捩れたようになっているらしい神経を正常に直し、尻の皮か何か取ってきて移植するとのことで、思いの外に大掛かりなことになりそうで、どれだけ掛かるのかと訊くとだから一週間、と母親が言うのに、そうではなくて金のほうだと尋ね直せば、母親もそれは分からないとのことだった。一〇〇万円くらい掛かるのかと訊けば、そのくらいはするかもねと言う。保険が利くと言うからもういくらか安いのではとは思うが、命に関わるのでもないたかが足の癒着を取り除くくらいのことに一〇〇万をぽんと出せるなどまったくこちらには信じられないような話だ。
 そうして河辺に着くと、西友の駐車場へと昇って行く入口のところで下ろしてもらい、礼を言って母親と別れた。図書館に向かって歩いているあいだ、風が吹きつけるが、空が曇っていてもそのなかに冷たさはもはやなく、春の陽気である。図書館へと階段を上りながら、出る前に済ませてきたはずなのに妙に尿意が嵩んでいることに気づき、理由は知れないが緊張しているのだろうかと疑った。それで館に入るとまず真っ先に便所に行く。鏡を前にして歯を磨いている男性の横を過ぎ、小便器の前に立って出してみると、先ほど出したばかりなのに思いの外によく出るのはジュースを一本飲んだからかもしれない。そうして手を洗い、ハンカチで拭きながら室を出て、CDの新着棚に行くと、ジャズの新作がたくさん入っていた。桑原あいがあったり、キャンディス・スプリングだったか、ブルーノート・レーベルの、プリンスが生前に絶賛していたという歌姫のアルバムがあってそれにはChris Daveが参加していたり、そのほかにも新しめの、コンテンポラリー・ジャズの名前があって、Loius Coleの名前が見られるのには田舎町の図書館のくせになかなか攻めてくるなと思った。さらに視線を移せば、P-VINEから出ているNOW VS NOWというバンドの作品があって、見ればこれはJason Lindnerのプロジェクトなのだ。それを発見した時点で、元々CDを借りる気はあまりなかったのだが、これは今日もう借りておいたほうが良いなと判断して、三枚を選び出すことにした。NOW VS NOW『The Buffering Cocoon』のほかには先のLouis Cole『Time』、それにキリンジの二〇周年アルバムとなる『愛をあるだけ、すべて』も見られたのでこれを選んだ。ところでキリンジのこの作のレーベルというのは、Verveなのだ。Louis ColeはBrainfeeder、NOW VS NOWはP-VINEとどれも有名なレーベルなので、おそらく入荷する新しめのジャズ作品というのはレーベルで選ばれているのだろう。何にしても有り難いことではある。あと借りなければならない目当てとしては先般見かけた狭間美帆の作品があるのだが、これは他日として、三枚を持って貸出機に寄り、カードを読み込ませて手続きをした。そうして上階に上がって新着図書を見ると、こちらも目新しい著作がいくつもあって、第一次世界大戦に関するみすず書房の厚い本があったり、ニーアル・ファーガソンヘンリー・キッシンジャーに関する大部の著作があったり、本屋で見かけていた小泉義之の真っ赤な新刊があったり、ほかにも思い出せないがいくつか目ぼしいものはあって、なかなかに良さそうな本ばかり取り揃えてくれてこちらも有り難い。新着図書をチェックし終えると書架のあいだを抜けて大窓際に出た。席はないかと思いきや端のほうが空いていたのでそこに入り、コンピューターを取り出してジャケットを脱いで椅子の背に掛け、Evernoteを起動させて日記を書きはじめたのが三時直前だった。ここまで三〇分で書き足すことができた。
 それから借りたCD三枚の情報をEvernoteに打鍵して写しておくと、三時五〇分から書抜きを始めた。メモをしておいた読書ノートに従って、そのメモを読み返しつつ、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の記述をコンピューターに写していく。雲が広く空を覆っていたが、途中、西南の空に太陽がちょっと顔を出して大窓から斜めに陽が射し込み、格子状になった席の仕切りに切り取られた明るみがノートの上に複数の筋となって掛かった時間もあった。黙々と打鍵を続けて二時間弱、六時も近くなるとバッテリー残量が五パーセントだとモニターに表示されたので、作業を切り上げて帰ることにした。

 (……)先にも見たように無と存在は表裏一体の関係にあるのだから、実は存在に関しても(無に関してと同様)「存在とは何か」と問うことはできないのではないか。世界のすべては存在している、世界の究極の根拠は存在である、とは言えても、その存在に関してあらためて、では「存在とは何か」と問うことはできないのではないか。存在に関しては、無と違ってそれがまさしく存在であるがゆえに、それに対して「何か」と問うことの矛盾が見えにくいが、つまり一見問いが立つように見えるのだが、実はこれもまたほとんど不可能な問いなのだ。「存在とは何か」と問うことは、ちょうど「無とは何か」という問いが無を何らかの存在するものとしてしまうのと同様、存在を存在するものとすることによってはじめて可能になるのだが、実は存在は存在するものではないのだ。存在するもの(存在者)の「根拠」が存在なのだから、存在は存在者ではないのだ。別の言い方をすれば、存在(とその裏側に貼りついている無)は究極の述語であって、もはや決して主語となることがないのである。「存在とは……である」と述べることができないのだ。究極の述語であるとは、それが理解という営みの最終的な到達点であることにほかならず、あらゆる理解がこの究極の述語の上に成り立っていることを示している。そしてそれだからこそ、この究極の述語自体はもはや理解の対象、すなわち問いが向けられる宛て先ではないのである。
 (斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』ちくま新書(651)、二〇〇七年、82~83)

 アナクシマンドロスに戻ろう。彼は現代科学の最先端で戦わされているこうした議論をとうの昔に見通していたかのように、こう考えたのだ。万物を構成する根源物質を求める問いは、それが特定の、すなわち限定された物質を以て答えるかぎり、どこまでも遡行してやむことがない。もしこの問いに答えることができるとすれば、それは、<それによってあらゆる「もの」が特定の限定された「もの=物質」として構成されているところの、それ自身はもはや何ら限定されないもの>、すなわち「無限定なもの」を以てして以外ではない、と。(……)
 「無限定なもの」と言われてつい私たちは、何か曖昧模糊とした、もやもやした「もの」を思い浮かべてしまうが、それはちょうど「雲」がどんなに輪郭が定かでなくても立派な(?)一個の「もの」であるのと同じく、すでに「もの=物質」である。アナクシマンドロスがその議論の果てに到達した「無限定なもの」は、そうした「もの=物質」では決してない。彼が「無限定なもの」と言ったときのそのような「もの」など、私たちは見たことも聞いたこともないのだ。したがって、それを何らかの仕方で「想像する」、つまり「思い浮かべる」こともできない。それは、強いて言えば、すべての「もの=物質」を、万物を、それぞれの規定性・限定性のもとで存在するにいたらしめるある動向、すべてを何らかの「もの」として存在せしめんとするある趨勢のごときものなのだ。もはやそれ自身は「もの」ではなく、すべてが「もの」へといたり、存在するにいたるある種の「力」と言った方がよいかもしれない。
 現に、先のハイゼンベルクは、みずからが素粒子に与えた解釈、すなわち量子の存在論上の身分を、このアナクシマンドロスの「無限定なもの」をわざわざ引き合いに出し、それになぞらえてもいたのだ。それは決して単なる確率上の可能性なのではなく、「ある奇妙な実在性」だと、彼は言うのである。そして、もしそれがすべてを特定の・限定された「もの」として存在せしめる動向、「力」なのだとすれば、それを<「存在者(存在するもの)」を「存在者」たらしめているところの「存在」>と呼ぶことも、決して牽強付会ということにはならないだろう。(……)
 (106~108)

 バッテリーの乏しさを示すランプが点灯するなか、切りの良いところまで写しておき、コンピューターをシャットダウンして荷物をまとめ、ジャケットを羽織って席をあとにした。通路をフロアの端のほうまで辿って、哲学の書架の著作を端からチェックしていく。哲学概論、各論、日本思想と見分していき、西洋思想の初めのあたりまで確認したところで、こうして見てばかりいても読むことはできないのだしと考えて、そろそろ行くかと時計を見れば六時をもう過ぎていて、奥多摩行きに接続する電車は逃してしまった。それから新着図書をもう一度チェックし(気になったのはロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』や、ジョン・ロバートソン『啓蒙とはなにか 忘却された<光>の哲学』など)、退館に向かって階段口に入ると、大窓の向こう、西空のほとんど果てまで青く暗い雲が垂れ込めているが、雨に籠められているかのように青く薄っぺらな山影を写した空の果てには残照の幽かな揺蕩いが覗いてもいた。退館し、歩廊の上から頭上を見上げると雲は西寄りで、東のほうには空の地の青さも覗くが、もう六時だからだいぶ暗くて雲の色味とほとんど変わりがない。空の高さに少々くらくらとなりそうだった。歩廊を渡って行くと、駅舎の周囲に鳥が群れて旋回しながら鳴き声を降らしている。その下をくぐって駅に入り、改札を抜けると電車は六時九分、エスカレーターを昇ってくる人の多さからしてもう着いているようで、急いでエスカレーターを下り、発車のベルが鳴らされるなか、飛び乗った。そうして扉際に就き、車内の様子が窓ガラスに反射しているのを通して暗んだ外気を眺めながら二駅、青梅で降りると奥多摩行きまで三〇分もの時間があるので、歩いて帰ることにした。階段を下りて通路を辿り、階段を上がって改札を抜ける。ズボンのポケットに両手を突っ込みながらロータリーを回り、裏通りに入ればもう深く黄昏れて、対向者の顔も定かならない。裏路地を行くあいだ、自分の頭で考えるというのはどういうことなのだろうなどと考えていたが、勿論明快な答えは出ない。そのほか日記のことも考えて、自分の生の主目的というのはやはり日記を書くこと、なるべく長くこの文章を書き続けることなのだが、書くからにはそれをなるべく豊かなものにしていきたい。現在、叙事的な記述に関しては、以前よりも細かく、より緻密に出来ているように思うのだが、これにもっと違った種類のこと、例えば思弁的な事柄なども主題として組み込んで行ければさらに良いと思う。最近哲学に興味が出ているのは、そうした日記を豊かにしていくための「考える」という営みに関する何らかのヒントがないかという目論見も半ばはあるようだ。ともかくも今の自分は全然ものを考えるということが出来ていないという感じがしていて、もっと深く、もっと広範に思考というものを練り上げて行きたいのだが、そのためにはやはりものをたくさん読むしかないのだろうか――読んでばかりいても、ショーペンハウアーが言ったように、自分の頭で考えることが出来なくなりそうな気がするのだが。しかし、自分の頭で考えるとはそもそもどういうことなのか、とここで先の疑問に戻るわけである。人間は本当に、自分の頭でものを考えるなどということが出来るのだろうか? 自分で考えているつもりでいて、周囲の環境や、過去に蓄積された経験や、逃れがたい傾向性などによってある事柄を考えるように追い詰められているのではないのだろうか? まあそんなややこしい話は措いておいても、単純なところ、もう少しばかり賢い人間になりたいなあと思うものなのだが、そのためにはどうすれば良いのだろうか。知識があるということと、思考力があること、ものを深く考えられるということは完全に分離してはいないにしても、やはり別の事柄だろう。
 そうした話は措いて、裏通りの途中から高い足音が背後から聞こえてきて、こちらの横を抜かしていく姿を見れば、買い物をして帰ってきた主婦というところだろうか、袋を二つ左腕に掛けた女性の歩調が、ある種雄々しいように威勢が良く、素早い。それを見ながら、そんなに急がなくても良いのに、と余計なことを思った。道中、風はあまり吹かなかったようで、肌寒さに苦しめられた記憶はない。道はもうだいぶ暗がりで、道端の花の色もよく見なかった。
 そうして帰宅して(六時四五分頃だった)居間に入ると、肉を焼いたような良い香りが漂っている。良い匂いがする、と母親が訊くので肉かと訊き返せば、唐揚げを揚げたのだと言う。それでこちらは下階に戻り、コンピューターをテーブルに据えて、服をジャージに着替えると、早くも食事に行った。米・唐揚げ・牛蒡の天麩羅・薄味の汁物・大根などの生サラダである。テーブルの上には新聞のほかに、日本共産党のチラシがある。市議会選が近いのでそれの広報活動だろう。夕刊にはイチローの引退が大きく取り上げられており、その下に、ドナルド・トランプゴラン高原におけるイスラエルの主権を認めると表明したとの記事。来年に迫った大統領選に向けて、ユダヤ系の支持者へのアピールというわけだろう。国連安保理は今まで、イスラエルによる高原併合を無効とする決議を採択しているらしく、トランプ氏は、エルサレムイスラエルの首都と独自に認定した二〇一七年末に続いてここでも、アメリカ・ファーストの姿勢を貫いている。テレビのニュースもイチローの引退会見を取り上げていた。こちらは野球ファンではないので特段の感慨はないが、イチローと同僚だったオリックスのコーチが「虚無感」と言っていた通り、ファンからしてみるときっと、まさしく一時代の終焉という感じがするのだろう。ものを食い終わると薬を飲み、皿を洗って、まだ風呂には入らず一旦下階に戻った。そうして八時前からfuzkue「読書日記(127)」を読みはじめた。BGMにしたのはWynton Kelly Trio/Wes Montgomery『Smokin' In Seattle: Live At The Penthouse』。借りてきたCDをインポートさせながら二日分読み、さらに二〇一六年六月二七日の記事を読み、大した記述ではないがそこから一部、「過去のこと」としてTwitterに投稿しておいた。そうして時刻は八時一五分、入浴に行った。湯のなかではUさんにメールを送りたいということをまた考えたのだが、何を書けば――と言うかむしろ、どのように書けば良いのか見通しが出来ていない。こちらが最近考えていることと言えば、上にも書いたように、考えるとはどういうことなのか、人間は考えるためにはどうすれば良いのか、というようなことで、このあたりUさんの考えも聞いてみたいのだが、メールをどのようにまとめられるかまだわからないし、ショーペンハウアーなどもう一度読み返してからのほうが良いのではないかという気もする。そう長く浸からずに出てくると、下階に戻って日記を書きはじめた。BGMはWynton Kelly Trioの次に、借りてきたKIRINJI『愛をあるだけ、すべて』。ここまで書き足して九時半過ぎ。
 斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の、残っていた最後の一箇所を書き写して一〇時を越えると、ベッドに移って、木田元『哲学散歩』を読み出した。二〇六頁にエルンスト・カッシーラーの逸話が紹介されているが、彼はいわゆる写真記憶の持ち主で、「ほとんどの古典をテキストなしに引用できたし、ノートなどけっしてとらないのに、読んだばかりのものをいくらでも正確に引用できた」らしい。まったくもって羨ましい、超人的な能力だ。そうして一一時過ぎまで読んでこの本は読了。この著作は先にも書いたように、思想そのものに焦点を当てた記述というものはあまり含まれておらず、哲学者たちの伝記的なエピソードを中心に組まれているので、思想入門的なものを想像していたこちらとしては少々肩透かしの感はあったが、それでも結構面白かった。そんななかにも、例えばプラトンイデア論は元々ユダヤ思想との結びつきがあったのではないかなど、木田元特有の知見が時折り盛り込まれて光る構成になっている。紙幅の都合もあって一回一回にそれほど深く掘り下げて記述は出来なかったのだろう、概略的な説明に留まっている向きもあるが、それでもそう長くはない一回の文章を書くために、参考文献を数冊以上当たっているのが示されていて、木田自身はほとんど他者の「受け売り」であると謙遜しているが、やはり学者というものは豊かに本を読むものだ。
 『哲学散歩』を読み終えたあとは、小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。冒頭、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の一場面を引いて、「井戸」的な実存の在り方というものが現代という時代における人々の一つの存在の仕方なのではないかと考察されている。「井戸」は近代的な――あるいはもっと根源からの――人間の欲求の象徴である「塔」と対照的な方向への退却であり、言わばその陰画であるとの見取り図には頷かされる。こちらの実存は、「井戸」か「塔」かで言ったら、やはり「井戸」志向だろう。こちらという人間は言ってみれば、この日記という文章のなかに引き籠っているような存在であるわけだが、そこから何に/どこに繋がっていくのか、あるいはどこにも繋がっていかないのか?
 小林は、この「井戸的実存」において、そこにおける状況を創造的に変容させていくための一つのヒントとして「ブリコラージュ」という概念を持ち出してきている。これはもともとはレヴィ=ストロースの用語で、「器用仕事」などと訳されるらしいのだが、要するに有り合わせのガラクタを組み合わせて、何か別のものを作り上げてしまうということを指す。これはこちらのような断片的な思考形態、断片を志向する性向と相性が良いのではないかと思った。ブリコラージュとは、全体という体系に回収されずにそれぞれ個別的に独立している断片的なものを繋ぎ合わせることだと考えられるからだ。
 途中、コンピューターに寄って、小林康夫の動画を検索し、その講演などをちょっと眺めたのち(さらに、関連動画から飛んで高山宏の講演などもしばらく視聴してしまった)ベッドに戻り、一時過ぎまで本を読み進めて就寝。


・作文
 11:26 - 12:50 = 1時間24分
 14:53 - 15:25 = 32分
 20:43 - 21:37 = 54分
 計: 2時間50分

・読書
 13:11 - 13:41 = 30分
 15:50 - 17:44 = 1時間54分
 19:53 - 20:15 = 22分
 21:55 - 22:02 = 7分
 22:03 - 23:09 - 25:17 = 3時間14分
 計: 6時間7分

  • 「記憶」: 1 - 14
  • 斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』ちくま新書(651)、二〇〇七年、書抜き
  • fuzkue「読書日記(127)」; 3月5日(火)まで。
  • 2016/6/27, Mon.
  • 木田元『哲学散歩』: 176 - 217(読了)
  • 小林康夫『君自身の哲学へ』: 1 - 53

・睡眠
 1:05 - 10:40 = 9時間35分

・音楽

  • Cecile McLorin Salvant『Womanchild』
  • Wynton Kelly Trio/Wes Montgomery『Smokin' In Seattle: Live At The Penthouse』
  • KIRINJI『愛をあるだけ、すべて』
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2019/3/21, Thu.

 一一時二五分起床。言い訳の出来ない敗北である。空には雲が多いようで、基本的に晴れてはいるものの、窓が白く染まる時間と、太陽が分厚い光を顔に向けて射し入れてくる時間との移り変わりが激しかった。身体を起こしてベッドから抜け、上階へ。今日は春分の日である。父親も休みだったようで、両親は揃ってI.Y子さんとともに先般亡くなったYさんの墓参りに行くとの話で、既に不在だった。洗面所に入って顔を洗い、台所に出て、前夜から残った茄子と豚肉の炒め物を電子レンジへ、一方で鍋にはおじやが作られてあったのでそれを火に掛けて搔き混ぜながら熱する。そうしてそれぞれを持って卓へ、新聞の二面、総合面を読みながらものを食べると、まだ足りない感じがしたので戸棚からカップヌードル(カレー味)を持ってきて湯を注いだ。三分待つあいだに寝間着からジャージに着替え、そうして出来たものを啜りながらふたたび新聞を読み、食べ終えると皿や容器を台所で片付けて、下階に戻った。シャットダウンしてあったコンピューターを起動させ、Twitterをちょっと覗いたあと、日記に取り掛かったのが一二時二〇分だった。それから三〇分ほどで前日の記事を仕上げ、この日の分もここまで書いた。BGMは例によって、cero『Obscure Ride』から、"Yellow Magus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"の三曲。
 前日の記事をブログに投稿したのち、"Yellow Magus (Obscure)"を歌いながら下半身をほぐし、鍵をジャージのポケットに収めて上階に行った。仏間に入って短い靴下を取って履いたあと、散歩に出た。前日に引き続き、大気の柔らかい春日だが、額に触れてくる陽の勢いは昨日ほどではない。点々と散った梅の白い花びらの上を行き、十字路近くまで来ると前方で高年の男性が二人、立ち話をしている。一人はNさんだろうと見当を付けて近づいていくとやはり彼の顔があるので、向こうがこちらに気づいて会釈をしてきたのに被せてこんにちは、と挨拶をして、それから連れの男性のほうにも目を向けると、これがN島さん、つまり同級生であるI.Kのお祖父さんだった。歩いているのかと問われたのに散歩ですよと答え、それからしばらくその場、市営住宅に隣接した小公園の脇で立ち話をした。Kのお祖父さんはリウマチで身体がまったく動かなくなり、一時は生死の境を彷徨ったらしいが復活し、今はこうして、杖を突きながらであっても外に歩きに出ることも出来るようになったのだ。やはり歩かないと、と言うので、そうですよと応援するように肯定した。少々左右にたるんだような、福々と、丸々と膨らんだような顔をしており、しかしやはり身体は動きづらいですか、と会話の途中で尋ねると、関節のあたりがやっぱりね、という返答があり、服をめくって見せてくれたその腕の、やはり老人特有の、皺ばんで色もくすんだような肌のなかに青暗い痣がついているところがあった。彼は昭和四年生まれ、Nさんの一つ上だと言う。昭和四年と言うと一九二九年だから、もう九〇か、と頭のなかで計算して、昭和四年じゃ、九〇歳ですかと声にも出すと、Kのお祖父さんは照れたように笑ってみせた。この辺じゃ一番だねとNさんが言うのにしかし、うちの隣のTさんも、九八ですよと告げると、Nさんは九八、と驚いていたようだった。最近見ないねと言うのに、やっぱりなかなか歩けないんじゃないですかと答えると、デイサービスに行っているよねとKのお祖父さんが補足してくるので、そうですねと肯定する。Nさんからはまた、顔を合わせるたびに言われているような気がするが、今年は会長で、とふたたび言われた。父親のことで、ここで自治会長に就任することになっているのだ。それで、色々とお世話になることがあると思いますので、よろしくお願いしますと互いに礼をして挨拶しておいた。そのうちに散開する雰囲気になったので、お元気で、とKのお祖父さんに残して失礼し、道の続きを歩き出した。坂を上って行きながら、祖母のことを思い出していた。何年生まれだったかと記憶を探っていたのだが、確か一九三一年生まれだと思っていたところ、二〇一四年の二月に確か八三歳で亡くなったのでそうすると計算は合う。しかし、三月の誕生日に八四歳を迎えるその前に亡くなったはずだから、二〇一四年で八四歳になったはずだったと考えると一年ずれて、一九三〇年生まれではないかと計算が付く。とすると昭和五年生まれだが、六年生まれだったか五年生まれだったか記憶が定かにならない。そうして坂を上って行き、平らな道に沿って家並みのあいだを行けば、昨日と同じように道端の沈丁花が鼻に香った。天気は相変わらず、晴れ晴れとしてはいるが雲も多いようで、路上で日向と日陰の交代が素早い。犬を散歩させている老人の傍を通り抜けて行き、角を曲がって表に出ると横断歩道に止まって、この日はしかし風があまり盛らないようだなと、弱く寄せてくるものを身に受けた。渡って緩く上りになった細道に入り、道端の草むらの、タンポポが綿毛を膨らませていたり、何と言うのか知らないが紫の花が咲いていたり、オオイヌノフグリが群れて小さく並んでいたりするなかをモンキチョウの飛び交っているその脇を過ぎて行き、墓場に近づくとやはりあれは線香の匂いだろう、前日と同じく鼻に漂ってくるものがある。斜面に設けられた墓地の前を通るあいだ、彼岸の中日のわりに人の姿はなく、代わりに風が流れていたが、卒塔婆が揺れて触れ合う音は立たなかった。
 肩口に温もりを宿されながら裏通りを行き、駅前に出ながら桜の木を見上げると、ちょうど今日だか昨日だかに都心で開花との宣言が出されたという話だが、我が町のそれも枝先にピンク色の蕾を充実させて、もう今にもひらきそうな具合だった。街道にふたたび出て、車の流れる通りに沿って東へ向かい――太陽は今は屈託なく照っていて、西を振り向けば低みに青白いものが蟠っているのみで、太陽のある高みからは雲が消えており、当分は陽射しが遮られることはなさそうだった――、対岸に渡る隙がなかったので横断歩道まで行くとここでかえって流れが途切れてボタンを押さずに渡って、シャッターの閉まった肉屋の前を過ぎて西へちょっと戻ると折れて木の間の細い坂に入った。微風が下から上って来て、柔らかな膜のようにして身の周りを包み、左方の林から張り出した緑の枝葉が頭上で緩く揺れるその下をゆっくり踏んで行き、通りに出ると温かな日向が敷かれているなかを家まで戻った。
 居間に入るとベランダに干された洗濯物を取り込み、タオル類を畳んだあと、洗面所にそれを持っていくついでに風呂を洗った。浴槽のなかをブラシで擦りながら、Kのお祖父さんの九〇という歳を思い、こちらの生と六〇年ものひらきがある、それはやはりそれだけで凄いことだよなあと思ったりもした。出てくると今度は肌着の類や靴下を畳み、それから自室に戻ると、ceroの三曲を流しながらMさんのブログを読みはじめた。その後、fuzkueの「読書日記(126)」も最後まで読んで、それだけで一時間が掛かって時刻は三時過ぎ、その頃には両親が帰ってきていた。腹が減ったこちらは上階に上がり、おじやの残りを温めて卓に就き、母親が何とか言うのを聞き流しながらゆで卵とともに腹に入れる。葬式の返礼品カタログで注文した新しい食器乾燥機が届いており、それを古いものと替えて設置しなければとのことだったが、面倒臭かったので我関せず、変わらず古いもののほうに洗った食器を入れてしまった。そうして自室に帰り、ベッドの上に乗って木田元『哲学散歩』を読み出した。哲学者たちのエピソードを紹介しながら「にわか仕込みの受け売り」と木田は言うものの、多数の本を読んで博識を身に着けていることは明らかである。自分ももっと読まなくては、という気持ちにさせられるが、しかし読書において数や量を性急に求めて急ぐことは禁物だろう。連載の第十回ではジョルダノ・ブルーノという思想家が紹介されていた。初めて聞く名前だったが、一六〇〇年に火刑に処されたルネサンス期の思想家で、「科学者とも哲学者とも魔術師ともつかず、そのどれででもあるような生き方」をした人物だと言う。彼はアリストテレスプトレマイオス的な古代以来の宇宙観を廃絶し、コペルニクスの地動説を採用したが、しかもただ彼の学説を紹介するだけではなくそれを乗り越える試みも行っていた。つまり、コペルニクスは宇宙の中心を地球ではなくて太陽であるとはしたものの、やはり宇宙に特定の中心があるという認識の枠組みは脱していなかったところ、ブルーノは、「宇宙を真の意味で無限なものと見、したがってそこに特定の中心はなく、すべての個物が中心になりうる」と考えたということだ。当時としては相当にラディカルな思想家だったようで、彼の生涯やその「記憶術」などについてももっと詳しい部分まで知りたかったが、連載の紙幅の都合もあって木田の記述はごく概略的なものに留まっていた。
 また、木田はハイデガー現象学のあたりが専門だが、カント関連の翻訳の仕事を二つしてきたと言う。一つは白水社文庫クセジュ」の一冊、ジャン・ラクロワ『カント哲学』であり、もう一つは同じく白水社の『ジンメル著作集』の一巻、『カント』だと言う。このあたりの著作も読んでみても良いかもしれないなと思われた。五時五分まで本を読むと食事の支度に向かわねばならないところだが、布団を身体の上に掛けてクッションに凭れながらしばらくまどろんでしまった。そうして五時半を過ぎてから上階に行くと、既に母親が大方の準備は済ませてしまっており、フライパンでは肉じゃがが煮られてあって、鍋には汁物も作られている。茄子を茹でてくれと言うのでこちらは手を洗うと茄子を二本、細く切り分けて、白滝を湯搔いて肉じゃがに投入したあとから水に入れて茹でた。その合間に勝手口の外に干されたゴミ箱をなかに取り込んでおき、茹で上がったものは笊に取っておいて、そのほか肉じゃがに生姜をすりおろして加えたり、大根や人参、新玉ねぎをスライサーで細かくして簡易な生サラダを拵えたりした。そうして茄子のその後は母親に任せることにして下階に戻り、ceroの三曲をバックにTwitterを覗いたりしてちょっと遊んだあと、六時四〇分頃から日記を書き出した。ちょうど一時間ほど打鍵して、現在は七時四〇分に至っている。
 上階へ。食事は米・冷凍されていた天麩羅と前日のフライ・肉じゃが・サラダなど。それぞれ用意して卓に就くと、テレビは、『ドキュメント72時間』に似ているが、マルタ島という場所のどこか、あれは空港か何かだろうか――に設置されているピアノを定点として、そこに来てピアノを弾く人々の様子を映していた。それを見ている母親は、楽器が出来るのはいいよねえと羨ましそうに呟く。父親も、会社を辞めたら何か楽器でも習おうかと口にして、Sの弟子になってギターでもやろうかと冗談を言って笑っていた。その番組が終わると今度は『モヤモヤさまぁ~ず2』にチャンネルが移され、この日の舞台は八王子である。エレベーターの表示盤を作っている会社にさまぁ~ずが訪れるのを見ながらものを食ったあと、皿を洗い、入浴に行った。八時過ぎから三〇分ほど、右膝を立てて左の脚は寝かせ、左腕は浴槽の縁に乗せて凭れ掛かるようにして湯に浸かったあと、出てきて、すぐに下階に戻った。時刻は九時前だった。そこから、cero『WORLD RECORD』を背景に流して、「記憶」記事を音読する。途中で携帯にメールが入っているのに気づいて、見ればTからで、満月が綺麗だよとあったので南窓に寄ってみると確かに丸々と大きな月が、皓々と白くくっきりと照っていた。メールに返信するのではなくてLINEにアクセスしてみるとグループでTが発言をしていて、彼女は今ベランダで月を見ているところらしかった。四月一四日にプラネタリウムを見に行こうと皆を誘っているので、時間はあるので行っても良いと返信しておき、音読に戻った。一〇時近くまで音読をすると、それから斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の書抜き箇所を読書ノートにメモした。これも果たして意味があるのかないのかいつもながらの疑問を抱かざるを得ないが、ともかく該当箇所から重要と思われる情報を抜き出してノートに写しておいた。

 (……)あなたの足元の地面を這いまわる蟻たちにとって、1が1として、「1+1=2」として、まして三角形の内角の和が二直角として、姿を現わすことはないだろう。それはちょうど、コウモリのようにいわば耳でものの配置や形状を「見る」存在にとって世界が「何」ものかとして姿を現わしているそのさまに、耳では「聴く」ことしかできない私たちが立ち会うことができないのと同じではないのか。そうであれば、世界の「数」としての立ち現われに居合わせることができるのは、通常「理性」と呼ばれている能力(より正確には、記号を用いた理念的=概念的思考能力)をもった者にかぎられるのではないか。理性と相関的に、すなわち理性に相対的に現われるものを、世界のそれ自体における在り方だとする根拠はどこにあるのか。かりにその根拠が提出されたとしても、そのようにして提出された根拠自体が、すでに理性に相対的でしかありえないのではないか。(……)
 (斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』ちくま新書(651)、二〇〇七年、181)

 それから木田元『哲学散歩』においても同じことを少々やっておいた。プラトンのいわゆるイデア論というのは、ギリシアの伝統的な思考からするとむしろ異質な原理の導入なのだという話があった。古代ギリシア人は「万物は流れる[パンタ・レイ]」として、すべてのものは自ずから生成変化・消滅する自然[フュシス]だと考えていたわけで、そこに純粋に超自然的な不変の理念であるイデアという思考様式を革新的に持ち込んだのがプラトンなのだというわけだが、それ以前にパルメニデスが、「あるはある、ないはない」という定式において存在の生成変化を否定したはずで、そのあたりからギリシアの思考に変容が起こってきたのだろう。また、古代ギリシア人のそれに通じる自然観として古代の日本人のそれもちょっと触れられていたが、タカミムスビなどの神名にも用いられている「ムスヒ」という言葉は、「草ムス・苔ムス+霊力[ヒ]」というのが由来なのだと言う。
 メモの途中から音楽は、cero『POLY LIFE MULTI SOUL』をヘッドフォンで聞いていた。それで時刻は一一時前、切り良く音楽が終わるまでTwitterを覗いたりしてから、ベッドに移って川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』を読みはじめた。合間に歯磨きを済ませながら読み進め、一時間ほど経って日付も替わると、『哲学散歩』に移ってさらに読み進めた。そうして一時を過ぎて就寝である。


・作文
 12:20 - 12:50 = 30分
 18:38 - 19:40 = 1時間2分
 計: 1時間32分

・読書
 14:04 - 15:09 = 1時間5分
 15:25 - 17:05 = 1時間40分
 20:58 - 21:44 = 46分
 21:50 - 22:56 - 24:03 - 25:03 = 3時間13分
 計: 6時間48分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-18「透明な景色を一緒に見たいから回し喫みするきみのくちびる」; 2019-03-19「壁、壁をたたえよ、たたえてあがめよ、あがめてそして砕けよ壁を」
  • fuzkue「読書日記(126)」
  • 木田元『哲学散歩』: 110 - 176
  • 「記憶」: 107 - 113
  • 斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』、メモ
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』: 520 - 594

・睡眠
 1:35 - 11:25 = 9時間50分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)", "Summer Soul", "Orphans"
  • cero『WORLD RECORD』
  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』

2019/3/20, Wed.

 一〇時二〇分起床。もう少し早く起きたいところだ。小中の同級生であるK.Yを殺そうとするという不穏当な夢を見た――彼とはもう何年も――一〇年かそこら――会っていないし、小中時代はかなり仲良くしていたのだが。ベッドを抜けると上階に行き、母親に挨拶して、仏間の箪笥からジャージを取り出して寝間着から着替えた。食事は素麺の煮込みに、温野菜だと言う。洗面所に入って顔を洗うと、台所で鍋の素麺を温めるとともに、野菜の入ったピンク色のスチーム・ケースを電子レンジに収めた。そうして卓へ、新聞をめくり、親の体罰を法律で禁止する方針だという記事を読みながらものを食べた。エホバの証人がやってきたと母親は話す。今、手が離せなくてと言って話を聞くのを断ったらしい。そのほか、立川のA家のYの配属先が、青梅西中に決まったという話もあった。それで入学式の帰りに寄るかもしれないとのことだ。歓迎する。
 ものを食べ終えるとアリピプラゾールとセルトラリンを服用し、皿を洗って下階に下りた。今日は最高気温が二一度まで上がる春日らしかった。部屋に戻るとコンピューターを立ち上げ、手帳のメモを読み返しながら各々のソフトが起動されるのを待ち、一一時七分から日記を書きはじめた。前日の分は書くこともさほどなくすぐに終わり、この日の分もここまでさっと書いて一一時二〇分過ぎである。BGMは例によって、cero "Yellow Magus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"の三曲。
 前日の記事をブログに投稿したのち、二〇一六年六月二九日の記事を読んだ。Nと立川で会って服屋などを巡っているが、八〇〇〇字近くとなかなか長く書いているわりに、特段に言及しておくべき面白い箇所は見当たらない。読み終えると一一時五〇分、ceroの音楽が流れるなかで、前後また左右に開脚して脚の筋を和らげた。それから部屋を抜けて階段を上がり、仏間から短い灰色の、もうくたびれたような靴下を取って履いていると、どこかに出かけるのと母親が訊いてきたので、散歩と告げる。彼女は台所で茄子や茸などの入ったカレーを作っていた。こちらは玄関に出て踵の随分と磨り減ったローファー型の靴を履き、扉をひらいて外に出た。瞬間触れたのみでわかる春の日の、肌に抵抗のない柔らかな大気である。道に出て歩き出すとまもなく、額を照ってくる太陽の光線が分厚い。風は身の周りに踊るようにして緩く漂うのが、上質な布のように柔らかで軽く、心地良い。十字路を越えて小橋に掛かると、何やら小さな打音が耳に入ってきた。最初、鳥の鳴き声かと思ったのだが、橋の右方にひらいた宙にシートのように垂れ下がっている緑葉のほうを見やっていると、渡りきったところの、葉叢に囲まれている一本の裸木に止まって顔を頻りに振っている姿が見えて、キツツキではないかと思った。初めて見るものだった。その場に立ち止まってしばらく眺めたが、キツツキは幹の上を素早く左右に駆け回って見え隠れして、最近めっきり視力が悪くなったのもあってその姿形を定かに捉えるには至らず、鳥と言うよりは虫のような鳴き声が聞こえてくるだけだった。そのうちに鳥は木々の奥のほうに飛んでいってしまったので、諦めてふたたび歩き出し、坂を上って一軒の小庭に生えた和菓子のような薄紅色の枝垂れ梅の前を過ぎ、そのまま裏路地を行っていると突然、鼻に香るものがあって、脇を見れば民家の前に生えている、紙で作った毬のように白い花弁が丸く寄り集まったなかに微かに赤紫色も差しているそれの、確かこれが沈丁花というやつだったなと見た。匂いを感じながら過ぎて日向のなかを行きながら見渡せば四囲に雲の一片もなくて空は晴れがましく、偏差のない青のなかで西南の一角のみ、光がよく通り天頂から山際まで降って空を覆ってちょっと白味を帯びて淡くなっている。角を曲がれば出てきた空き地のなかに黄色い蝶が一匹舞って、停まっている車の屋根を飛び越えて過ぎたかと思うとすぐに低みに下りて背の低い草のあいだに紛れて行った。街道に出て横断歩道で止まると、東風が寄せて汗を帯びた身体を涼ませる。渡ってふたたび裏に入り、薄黄色の蝶の左右に飛び交うなかを通って行くと、何かふたたび鼻に香るものがあって、不快ではないがちょっと煙を思わせるようなそれは、墓場に供えられた線香から漏れてきたものだったのだろうか不明だが、彼岸とあって墓に掛かると、黄や白、赤や紫、オレンジと色とりどりの真新しい花々が供えられているのがそこここに見られた。さらに進むと春の陽気に当てられたものか、保育園前の一軒が飼っている鶏が、発情したかのように頻りに鳴き盛っている。静かな昼下がりの裏道の、家並みのあいだを通って行き、駅前に出ると広場では高年の男性がしゃがんで草むしりの仕事をやっていた。その脇を過ぎて行き、まだ開花していない桜の木の下も通って街道に来ると道路工事をしており、どうぞと交通整理員が言ってくるのに導かれて横断歩道を渡る。そうして東に折れて、道路の端が四角く直方体状に長く掘られているその脇を歩いて行き、林のなかに続く細道に折れると途端に表通りの音声が減じて静かになったなかに、また香る沈丁花があって、立ち止まって塀の向こうの花をちょっと眺めた。それから林のなかに踏み入り、分厚い風が空間を埋めて軽やかな鳴りを立て、細かな虫が足もとの土から飛び立って点として宙に舞うそのなかを下りて行って帰宅した。
 居間に入るとカレーがフライパンに完成されていたので、早速大皿に米をよそってその上に盛る。母親が三人分、小鉢に分けて用意しておいてくれたサラダも持って卓に移り、食べはじめた。テレビはNHK『旬感 ゴトーチ!』を映しており、この日は長谷寺が取り上げられており、見ていると色鮮やかな花々の咲き乱れる様や、経蔵や、本尊である黄金に染まった巨大な仏像などが映し出される。そのうちに畑で耕運機を扱っていた父親も作業を終えてなかに入ってきて、両親とも向かいに座って食事を始めた。こちらは早々と自分の分の皿を洗って、下階に帰ると、一二時四五分からベッドに移って書見を始めた。まず、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』である。読んでいるうちに午後二時を越えて、その頃には両親は揃って整形外科へと出かけて行ったようだ。こちらは二時半から今度は木田元『哲学散歩』を読みはじめたのだが、クッションに凭れて布団を身体に掛けていると例によって睡気が滲んで、少し眠る時間が挟まって、起きると三時半かそこらだったのではないか。それからふたたび、今度は身体を完全に倒して枕の上に頭も乗せながら読んだのだが、更なる眠気にも襲われずに書見が進んで、五時を回ったところで一旦布団を抜け出して上階に行った。風呂を洗うためである。浴槽のなかをごしごしと擦って泡を流してから下階に戻ってくると、Mさんのブログを読み、さらにfuzkueの読書日記も二日分読んだ。そうして時刻は五時四五分かそこらで、六時になったら食事を作りに行こうと「記憶」記事に取り掛かったが、九八番、ハイデガーの『アンティゴネー』解釈を抜き出した項目の記述が長くて、二度音読してからその内容を確認するためにぶつぶつ呟いているとそれだけでもう六時になった。
 上階に行き、居間のカーテンを閉めると台所の明かりを点けて、茄子と豚肉の炒め物を作ることにした。昼のカレーも残っているので、自分の食事はその二品で充分である。茄子を切り分けて鍋のなかの水に晒しておき、豚のロース肉も切断してからフライパンにオリーブオイルを引き、チューブのニンニクを落としてばちばちと音がしはじめたところで茄子を投入した。蓋を閉ざしてしばらく待ち、ひらいてフライパンを揺すってふたたび蓋をする、ということを繰り返して加熱し、そのうちに肉も入れて、三枚重ねて切ったからくっついていたものを箸で剝がして一枚一枚に分けて行き、赤味がなくなったところで醤油を撒いた。そうしてふたたび蓋をして味が染みるようにして、一方で隣の焜炉のカレーを温めてもうよそってしまい、炒め物のほうも丼飯の上に乗せて、卓に移動して食事を始めた。新聞の政治欄を瞥見しながらものを食い、食い終わるとさっさと洗い物をして自室に帰った。
 両親が帰ってきたのは七時も近くなった頃だったと思う。こちらはインターネットを回って時間を潰したのち、ceroの三曲を歌って、七時四四分を迎えるとPaul Bley Trio『Essen 1999』を共連れにして日記に取り掛かり、一時間弱でここまで綴った。
 それから入浴へ。そう長くも浸からずに出てきて、下階に下りようと階段に掛かったところで母親が、お父さん、入院するんだって、と告げたので、どういうことかと足を止めた。脚を長くする手術をするんだ、などと酒を飲んだ父親はくだらない冗談を言うが、聞けば例の、どちらの足だったか父親は小指と薬指がくっつくような形になっていて草履などが履けないのだが、それを履けるようにする手術をするとのことだった――と言うのは、青梅大祭の役目で草履を履かなければならなくなるからだ(ちなみに、その拍子木役には助手のような形で息子も付き従う――ということはこちらがそれをやることになりそうなのだが、嫌な話だ)。その手術は意外と難しいもので、思いの外長く、一週間は掛かるらしい。四月にそういう次第で入院の期間を取ることになるとのことだった。
 自分の部屋の燃えるゴミを上階のそれと一緒にしておくと、自室に戻って九時半から「記憶」記事の音読を始めた。町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』からの記述である。ラングとパロールの違い、音素列と意味の結びつきの恣意性、ラングの共時態について、など。三〇分ほどで最新、一〇六番まで読み終えると、その後、田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』及び斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』からも記述を足して、一一三番まで項目を増やした。
 それから、コンピューターを置いたテーブルの前の椅子に腰掛けたまま、Ernest Hemingway, Men Without Womenを読みはじめた。邦訳を参照しつつ、覚えるべき単語はインターネットで意味を調べて赤線を引きながら読み進めて、満足したところで今度は、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の書抜き箇所を読書ノートに抜粋しはじめた。先日、これにも時間が掛かるから文をノートに写すことはせずにさっさと実際に書き抜いてしまったほうが良いだろうと判断したばかりなのだが、やはり何となく、せっかく読書ノートを今まで使ってきたのにそれを中断するのが勿体ないような気がして、また、読み書きにおいては効率性など二の次であるという天邪鬼な思いもあって、再開したのだった。しかしやはり実際、これをしたからといってよりよく頭に知識が入るような気もしないし、迷うところではある。ともかくこの時はテーブル前に座って、片手に新書を持ちながら読書ノートに文言を写していき――しかもこの写す記述がかえって以前よりも細かく、一項目につき一文ではなくて複数になっているから余計に時間が掛かるのだ――零時を過ぎたところでまだすべては終わっていないのだが切りとし、ベッドに移りながら歯磨きをして、木田元『哲学散歩』の書見に移行した。この本は様々な思想をわかりやすく、簡便な言葉で紹介するものかと思いきや、むしろ思想家たちの逸話や伝承、伝記的なエピソードに焦点を当てたもので、哲学入門的な理論の解説を欲していたこちらとしては目当てが外れたところがないではないが、これはこれでつまらなくはない。一時半過ぎまで読んで就床した。


・作文
 11:07 - 11:23 = 16分
 19:44 - 20:37 = 53分
 計: 1時間9分

・読書
 11:38 - 11:50 = 12分
 12:45 - 14:32 - 17:09 = (一時間引いて)3時間24分
 17:23 - 17:59 = 36分
 21:27 - 21:56 = 29分
 22:04 - 24:14 - 25:34 = 3時間30分
 計: 8時間11分

  • 2016/6/29, Wed.
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』: 331 - 520
  • 木田元『哲学散歩』: 13 - 110
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-16「千年の長きにわたる鼻歌の一小節としての地鳴りが」; 2019-03-17「原色の海で溺れて息絶えるくらげのような一生だった」
  • fuzkue「読書日記(126)」: 3月2日(土)まで。
  • 「記憶」: 98 - 106
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 83 - 86

・睡眠
 2:45 - 10:20 = 7時間35分

・音楽

  • cero, "Yellow Magnus (Obxcure)", "Summer Soul", "Orphans"
  • Darcy James Argue『Brooklyn Babylon』
  • Paul Bley Trio『Essen 1999』
  • Paul Bley『Play Blue: Oslo Concert』
  • cero『Obscure Ride』

2019/3/19, Tue.

 例によって一二時半近くまで長々と床に留まってしまう。ようやく瞼をひらいたままに出来るようになると、布団を剝いでベッドの縁に腰を下ろし、鼻のなかをティッシュで掃除した。それから部屋を抜けて上階に行き、寝間着からジャージに着替える。台所には焼売やらブロッコリーやら前日の残り物(ほうれん草の炒め物と大根とシーチキンの煮物)やらが一つの皿にまとめられていたので、それを電子レンジに突っ込み、加熱しているあいだに洗面所に入って顔を洗った。それから米もよそって、おかずとともに卓に運び、食事である。新聞をめくってニュージーランド関連の記事を読みながらものを食べると、薬を飲んで食器を洗い、下階に戻った。コンピューターを立ち上げるとすぐには日記に取り掛からず、怠惰の虫が湧いてしまってだらだらと過ごしたあと、二時を越えてようやくキーボードに触れはじめた。前日の夜も怠惰に過ごしただけなので記憶に残っていることも特になく、前日の記事は一文書き足したのみで終わらせて、それからここまで短く書くと僅か一〇分程度しか経っていない。音楽は前日に引き続き、cero『Obscure Ride』から"Yellow Magus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"の三曲をリピートさせている。
 歌を歌いながら前日の記事をブログに投稿したのち、二時半から日記の読み返し、二〇一六年六月三〇日の分。日記に改めて引いておくほどではないが、ちょっとした具体性を醸している描写の箇所をTwitterに投稿していると、Yさんが、こちらの記述を引いて評言とともに紹介してくれていたのでまことに有り難い。他人に紹介したいと思ってもらえるほどの文章を書けているのだから、二〇一六年当時の自分もなかなかやるものではないか。それから、Mさんのブログを一日分読んだ。すると三時に至ったので上階に行き、まず風呂を洗った。浴槽のなかに入って内壁を隅々まで磨くと、下辺に沿ってブラシを前後に動かし滑らせて、床の上をよく擦って水垢を落とした。そうして出てくると今度は洗濯物を取り入れる。ベランダに続くガラス戸を開けて、吊るされていたものを室内に取り込み、花粉が入ってしまうけれど外気を吸いたかったので戸は開けたままにして、タオルや肌着を畳んで行った。下着や靴下はソファの背の上に置いておき、タオルを洗面所に運ぶと下階に戻った。それから久しぶりにfuzkueの「読書日記(126)」を読み(二月二八日の分まで)、そうしてベッドに移って斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の書見を始めた。しかし、最初のうちは布団を身体に掛けながらも比較的高い頭の位置を保っていたのだが、まもなく姿勢が崩れて水平に近づき、すると例によって、午前中すべてを臥位に費やしたにもかかわらず眠気が忍び寄ってくる。逆らう術もなくそれに巻き込まれて意識を落としつつ断続的に読み進めていると、あっという間に部屋の内は薄暗んで、小さくひらいたカーテンの隙間からあるかなしかに入りこむ夕暮れの微光で辛うじて文字の判別がつく程度になった。母親は四時頃に帰ってきたようだったが、それ以来上階には人が動く気配が感じられなかった。六時に達したところで本を置いて上階に様子を見に行くと、母親は薄暗いなかで例によって炬燵に入りながらタブレットを弄っており、まだ食事の支度はしていないようだった。葉を茹でてくれと言うので手を洗って、冷蔵庫を覗くと小松菜があったのでビニール袋に入ったそれを取り出して開封し、流水にちょっと晒すとともに水を汲んだフライパンを火に掛けたが、台所にやってきた母親によって小松菜は仕舞われてしまい、代わりにあれは何の菜っ葉なのだろうか、自家製のものだろうか、緑の植物が数本取り出されたのでそれを茹でる。ちょっと加熱するとすぐに取り出し、水に晒しておき、続いてブロッコリーを切り分ける。軸を切り落としてさらに半分に切断すると、塊をそれぞれ薄く、板型に切って行って、花蕾のほうも切り分けて、湯に投入した。その他、シシャモを買ってきたのでそれを焼こうということになった。二パックで計一六本である。フライパンにオリーブオイルを引いて熱したあと、一六本を一本ずつ箸で掴んで所狭しと敷いていった。そうして蓋をしておき、隣の焜炉では母親が器具を使って千切り状にスライスしたジャガイモを炒める。こちらも蓋をして、時折り両方をひらいて裏返したり搔き混ぜたりして加熱を続け、ジャガイモには仕上げにすき焼きのたれを垂らし、胡椒を少々振って完成とした。汁物は母親に任せて、こちらは自室に戻り、六時五〇分からふたたびベッドに乗って読書を始めた。今度はさすがに眠気は寄って来ない。一時間ほど読んで、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』は読了した。

 (……)この机はさっきも「いま・ここ」にあったし、いまも「いま・ここ」にあり、きっと明日も「いま・ここ」にあるだろう(ここでいう「いま・ここ」はいつ・どこにおいても不変のあの「絶対的いま・ここ」のことではなく、そのつどの時・空間的規定におけるそれである)。だがそれは、「さっき」や「いま」や「明日」のそのつどにそのような思いが存立し、それがたまたま何回も繰り返されているからにすぎない。そのつど存立しているその思いに注目してみれば、それは原理的に先の<「ない」(もの)が「ある」>という構造をしているのだ。つまり、ひとたびその「思い」が成り立てば、次の瞬間に何らかの事情で机が「いま・ここ」に存在しなくなってしまったとしても、そのこととは無関係にその思いは存続しつづけるのである。このような仕方で「何」かが「ない」ことによって「ある」こと、「失われる」という仕方で「所有される」こと、あるいは「失われる」ことを以て「所有される」こと、このことが<世界の内に「何」かが存在する>という事態の成立なのだ。
 (斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』ちくま新書(651)、二〇〇七年、190~191)

 それから川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』を読みはじめ、八時過ぎまで読んで食事に行った。既に父親は風呂に入ったあとで(書き忘れていたが料理をしている最中に父親は早々と帰宅していた)、両親は揃って炬燵に入って食事を取っていた。こちらも米・ジャガイモ・シシャモ・レタスや人参や玉ねぎの生サラダなどを用意して卓に就いた。テレビは『サラメシ』。裁判所がこの日の舞台だったようだが、特段興味深い瞬間はなかったように思う。父親がテレビに向かってたびたび頷き、母親はタブレットを見ながら何とか言っているなか、黙々と、大方黙ったままでものを食った。何となく、虚しいような情を感じないでもなかったが、しかし何が虚しかったのかはよくわからない。ものを食べ終えて薬を服用し、皿を洗うとそのまま風呂に行った。八時五三分から湯に浸かって、浴槽の縁に両腕を乗せながら目を閉じて、次に目をひらいた時には空間に湯気が満ちて時計が読み取れなくなっていた。その後も瞑目して、Uさんにメールを送るようにして頭のなかで文章を回したり、現代史の知識などを思い出しているうちに時間が経って、浴槽から上がって時計に近づき見てみると、既に九時二五分ほどに至っていた。それから頭を洗って浴室を抜け、身体を拭くとゆっくりと服を身に着け、髪をさっと乾かして洗面所から出た。母親と分け合ってミックス・フルーツのゼリーを食べたあと、自室に戻り、日記を書きはじめた。Yさんに礼の返信を送っておき、それからやり取りを交わしながら日記を綴って、ちょうど一時間が経って一〇時三五分である。BGMにはcero『Obscure Ride』を採用した。
 その後、一一時半前からふたたび書見。『境界線上のホライゾンⅢ(中)』。それから木田元『哲学散歩』を読みはじめたが、まもなく力尽きて意識を失った。零時一〇分かそこらを指している時計を見たのは覚えている。それからしばらく読んだのちに眠りのなかに包み込まれていたわけだが、気づくと時刻は二時四〇分あたりだった。読書時間を零時四〇分までと考えて手帳にメモしておくと、歯磨きもせずにそのまま就床した。


・作文
 14:08 - 14:19 = 11分
 21:35 - 22:35 = 1時間
 計: 1時間11分

・読書
 14:31 - 14:58 = 27分
 15:15 - 15:29 = 14分
 15:30 - 18:00 = (半分と考えて)1時間15分
 18:49 - 20:19 = 1時間30分
 23:24 - 24:40? = 1時間16分?
 計: 4時間42分

・睡眠
 3:40 - 12:25 = 8時間45分

・音楽

2019/3/18, Mon.

 一二時半まで長々眠る体たらく。色々と夢を見たがもう覚えていない。射し込む太陽を顔に送りつけられながら長く床に伏したのち、太陽も天頂に達し窓枠のほうに逃げていった頃合いに身体を起こしてベッドを抜けて、寝間着からジャージに着替えた。そうして上階へ。母親が、よく眠れた、と訊くので肯定する。台所に入るとフライパンには茄子と豚肉が炒めてあり、大根の汁物も小鍋に用意されている。さらに、両親は前日墓参りに行ったのだが、その際に買ったマクドナルドのチーズバーガーが残っていると言う。それでそれぞれを温めて、サラダとともに卓に運んだ(電子レンジを使おうとするとなかに汁物の椀が、随分放置されていたらしくもう冷えた状態で入っていて、知らせれば朝に温めたまま忘れていたと言うのだが、それで母親はちょっと呆けてきているのではないだろうなと疑った)。新聞を引き寄せてめくりながらものを食べるが、特に興味を惹く記事は見当たらなかったようだ。炒め物に醤油を掛けて肉と一緒に米を頬張っていると、向かいで食事を既に終えている母親が、仕事に復帰しようかと思うがどう思うかと尋ねてくる。「K」という、発達障害のある子どもに運動をさせたり勉強を見てやったりしてサポートする職場で、母親は昨年、ほんの少しだけそこに通っていたのだが、こちらの頭がおかしくなったので心配してくれ、今までずっと休んでいたのだ。やっぱり家にいるとだらだらしちゃって、やり甲斐がなくて、というようなことを母親は言う。どう思うも何も、やりたければやれば良いではないかとそれに尽きるのだが、母親は、仕事をしたい気持ちがあっても同時に出来るかどうか自信があまりなくてやや尻込みしているようだった。お前は、N先生は何て言ってたと訊くので、あとは薬を減らしていくわけだが、あまり急がないほうが良いだろうと言われたことを知らせる。仕事の方も、そろそろ戻るつもりはあるが、最初のうちは週に二回とかそのくらいにして、段々と増やしていく形を取るのが良いだろう。ただ、休むことが許されているうちに本を読みたいという気持ちもあって、長いやつがあるからそれを読み終わったら戻ろうかなどと考えていると告げると、しかし特に反対されないのが我が家の甘いところである。そのうちに時刻は一時に達して、『まんぷく』の再放送が終わり、国会中継が始まると母親は何だ、と言って番組を変えようとするが、そのままで良いとこちらは言った。それでちょっと見ていると、山本太郎が質問に立つ(彼は今、国民民主党に属しているのだ)。沖縄の米軍基地の問題を取り上げて、ローレンス・ウィルカーソン元陸軍大佐の言など紹介していたが、この人は九〇年代に米国内外の基地再編やその必要性について調査研究した人で、こちらも昨年末に毎日新聞の関連記事を読んだことがある(https://mainichi.jp/articles/20181223/rky/00m/040/005000c)。それによると、「ブッシュ(子)政権で、パウエル米国務長官の首席補佐官を務めたローレンス・ウィルカーソン元陸軍大佐は19日までに本紙のインタビューに応じた。同氏は1990年代初頭に米海兵隊大学校(バージニア州)の責任者を務めていた際に、冷戦終結に伴う米国内外の米軍基地再編・閉鎖に関する調査研究などを分析した。その結果、日本政府が多額の駐留経費を負担する在沖海兵隊カリフォルニア州での経費より米側の負担は50~60%安く済むと指摘。「沖縄の海兵隊駐留に正当な戦略上の必要性はないことが示された。(駐留は)全てお金と海兵隊の兵力維持のためだった」と明らかにした」とのことで、さらに、「仮に朝鮮半島で有事が起きた際でも在沖海兵隊の派遣は「戦闘が終わってからしか現地に到着しないだろう。60万人の韓国軍にとって微少な追加でしかなく、戦略的理由はない」と述べた」らしい。ここに書いてあるのと似たような事柄を山本太郎は紹介していたと思われるが、こちらはもう随分と目が悪くなってしまったためテレビ画面に映し出されるパネルの小さな文字が定かに読めず、さらに向かいで話す母親の声で質疑応答の声もあまりよく聞こえなかったので、内容を仔細に理解することができなかった。その頃にはまた、母親が食べようかと言ってこちらが同意して、冷凍のたこ焼きが電子レンジで六分ほど温められて卓上に用意されていて、熱々のそれを楊枝で刺して食べながら母親の声を聞いたり、テレビに目をやったりした(使った食器はたこ焼きを温めているあいだに既に洗ってあった)。そうしてたこ焼きを食べ終わると席を立って、紙のケースをぐしゃりと潰して始末し、下階に戻った。早速日記を書き出し、ここまで綴ってもう二時を回っている。これから前日の、長くなるであろう記事を書かなければならないわけだが、多分仕上げるまでに二、三時間は掛かるのではないか。BGMとしては例によってFISHMANSの、しかし今日は『Oh! Mountain』ではなくて久しぶりに『ORANGE』を流している。
 そうして前日の日記。BGMはcero『WORLD RECORD』『Obscure Ride』と流し、後者のうちMVも作られてプッシュされている三曲、"Yellow Magus (Obscure)"、"Summer Soul"、"Orphans"の三曲はさすがに良くて、後半はその三曲だけを取り上げてリピート再生させていたが、たびたび歌詞を見ながら合わせて口ずさむ練習をしていたので、日記がなかなか進まなかった。しかしceroの曲はメロディのリズムにせよラインにせよ一本調子でなく、一筋縄では行かない感じがあって歌うのは難しい。五時一〇分まで四時間弱、日記を綴ったところで一旦中断し、ceroの三曲を歌ってから上階に行った。風呂を洗わなければならなかった。浴室に踏み入って浴槽の掃除をしたあと(微小な蜘蛛が一匹、死んでいた)、台所で既に作業を始めていた母親の隣に立った。ほうれんそうをベーコンと炒めると言う。それで冷蔵庫に入っていたほうれん草を絞って切り分け、ハーフベーコンも切って、炒めはじめた。そこに母親が細切りにした人参を加え、さらに冷凍のコーンも電子レンジで温めてから投入する。音楽はFISHMANS『Oh! Mountain』をラジカセで掛けていた。始めのうちは母親がケツメイシを流しはじめていたのだが、こんな糞みたいな音楽は聞いていられないと、彼女がトイレに行っている隙に差し替えてしまったのだった。母親は途中でそれに気づき、これお前のCD、と訊く。そうだと肯定すると、何だ、と言い、"さくら"が出てこないからどうもおかしいと思ったと漏らした。FISHMANSについては彼女は、独特だねと言い、何だか馬鹿にしているような歌い方じゃないと評した。わからないでもない。炒め物を作ったあとは、人参を小鍋で茹で、一方でシーチキンと大根ももう一つの鍋で煮ている。さらに、汁物として白菜を切り、小鍋に入れて熱しはじめ、火が通るのを待つあいだにこちらは開脚柔軟を行ったり、両腕を背中の後ろに回してまっすぐ引き伸ばし、肩甲骨のあたりをほぐすなどしていた。どうも前夜に長い外出のあとに夜更かしをしてこの日もだらだらと寝床に留まっていたおかげで、身体が全体にこごって疲れていたのだ。それで汁物には母親の言うところの「良い出汁」(どこのメーカーのものかは見なかった)を入れて味付けをし、仕上げるとあとは頼むと言って下階に戻った。それが六時二〇分頃だった。前日の記事を仕上げて投稿したのち、二〇一六年七月一日の日記を読んで、そこからここまで日記を書き足して今は七時一〇分に掛かる前である。BGMはcero『POLY LIFE MULTI SOUL』
 この日の残りの時間は夕食に風呂、そしてその後は深夜までだらだらと過ごしたのみで、読書も何もやっておらず、特に印象深い瞬間もないのであとは省略する。


・作文
 13:21 - 17:10 = 3時間49分
 18:22 - 18:26 = 4分
 18:58 - ? = ?
 計: 3時間53分+α

・読書
 18:44 - ? = ?
 計: ?

  • 2016/7/1, Fri.

・睡眠
 3:30 - 12:30 = 9時間

・音楽

2019/3/17, Sun.

 八時のアラームで夢のなかから追い出され、ベッドを抜けて立ち上がり、そのまま寝床に戻らず伸びをして、起床を実現することに成功した。睡眠時間は六時間三〇分、上々だろう。日々このくらいの睡眠に抑えられれば結構なことである。夢はもうよくも覚えていないし、細かに思い出して記述するのも面倒臭い。
 まだ眠たい頭を抱えて上階に行くと母親はテーブルに就いて食事を取っている。弱設定になったストーブの前に座り込んで、眠い眠いと言いながらしばらく温風を受けていると、便所に行っていた父親が玄関から居間に入ってきたので挨拶をした。それからこちらは立って台所に入り、フライパンにあったモヤシなどの炒め物に同じくモヤシの汁物、そして米をそれぞれよそる。卓に向かって新聞をひらきながら食事を取りはじめた。書評欄を瞥見すると、苅部直古井由吉の『この道』を紹介している。それを読み、それから二面に戻ってニュージーランドのテロ事件の続報を追いつつ、炒め物とともに米を頬張った。向かいには父親も来て、くしゃみをしながら食事を始め、こちらも鼻がむずむずしてくしゃみが湧く。テレビは『小さな旅』を映しており、この日は青森かどこかが舞台で、番組中の一人がシジミラーメンを拵えているのを見て、そう言えば昔は祖母がよくシジミの味噌汁を作ったものだと思い出し、昔、お祖母さんがよく洗面所でやっていたなと口にすると、砂出しね、と母親が受ける。洗面所の足もとの、あれは洗面器だったのかほかの何かだったのか、ともかくそれにシジミが詰め込まれて、水のなかに浸っていたものだ。そのうちに母親が林檎を剝いて切ってきたのでそれも頂き、ジャージに着替えて薬を服用すると、台所に移って皿洗い、自分の分と両親の分、それに前夜に父親が散らかした分も含めて洗うので、計四人分となって仕事が多かった。大量の皿を網状の布で擦り、濯いでは食器乾燥機に収めて行き、終わるとダウンジャケットを羽織って洗面所に入って整髪料をちょっと頭につけた。そうして下階に下りてきて、八時四六分から日記を書き出して二〇分、BGMは前夜にちょっとだけ流したBrad Mehldau Trio『Art Of The Trio, Vol. 4: Back At The Vanguard』を掛けている。
 前日の記事をブログに、Amazonへのリンクも本文中にいちいち仕込んで投稿し、Twitterにも通知を流したのち、九時半からMさんのブログを読みはじめた。傍ら、ポテトチップス(しあわせバター味)を摘まむ。C.Sくんに対するMさんの手紙はやはり素晴らしいと言いたい。リルケの「若い詩人への手紙」を思い出さずにはいられない。
 それから、自分の過去の日記も読み返す。この頃には音楽は例によってFISHMANS『Oh! Mountain』に移っていた。二〇一六年七月二日を読みつつ、まあまあ書けているなと思った箇所をTwitterに投稿していると、Yさんという方が、Fさんの文章、すごく好きですとメッセージを送ってきてくれたので、嬉しいですとお礼を返した。ここに引いておきたいのは、夏の夜空に幽かに残った青さの描写である。結構凝縮的に良く書けていると思われ、二〇一六年当時の自分は、風景に関する感知力でいったら現在の自分よりも優れているのではないか――しかし現在は現在でそれとは違った形で強みを持っていると言うか、当時よりも日々を細かく記せているのは確かだし、当時は書けなかったようなささやかな事柄も、それほど練られた文章ではないにしても、「散文的に」記述のなかに取り込むことが出来ているのではないか。やはり無駄と思われるようなことでも冗長に書いてこその散文、日記である。

 職場の戸口から踏みだした瞬間に、空気がひどくぬるいのが感知された。蒸された夜気が身を囲んで、それは皮膚を覆うというよりは、無臭でありながら夏のにおいとして嗅覚を刺激するような種類のものだった。やはり尾骶骨が痛むなと思いながら裏通りに入って歩いている途中に、行く手の西空が青いなと気付いて、足を止めた。八時を迎えるまであと五分の時刻になっても、まだ宵の名残りが残っているのだ。丘の際からまさしく最後の明るみ――明るみと言うのも誇張になるくらいの、うっすらとした透明感のようなものだが――が洩れて青さを辛うじて空に留めており、同時に、今はただ切り絵のような黒い影と化している森が昼間には満々と湛えていた緑の色素が風に吹きあげられてその影の奥から染みだしたかのように、空に生まれた池のなかには翡翠めいた神妙な色合いが数滴加えられていた。そのような精妙な色の空を目にするのは、おそらく初めてだった。東の方角を振り仰ぐと、ビルの先に覗くそちらの空はもはや単調な墨色に染まり尽くしており、左手、南側の空も地上から舞いあがる光を夜の深みが吸いこんでいる。西空のなか、やや北寄りの一角のみに、闇に追いやられて取り囲まれ、暗んでほとんど埋没しかけた青の領域が夜の侵食に対して虚しい抵抗を続けていたわけだが、それも東から迫り来る無慈悲な夜空の静かで仮借のない進軍のなかに吸収されてしまうのは、もうまもなくのことだった。

 日記の読み返しを終えたあとは、一〇時二〇分あたりから「記憶」記事の音読に取り掛かった。一日三〇分ぐらいずつ、読んでいければ上々なのではないか。ムージルアフォリズムや、神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』講談社選書メチエ(511)、二〇一一年からの記述を読んでいく。アナクサゴラスの世界論はなかなか面白い。彼はこの世界の根源(アルケー)を考えるに当たって、ほかの全てを構成する原子のような最終的な物質的着地点(例えばエンペドクレスが考えた、火、水、空気、土の四元素のような)を想定するのではなくて、世界の最小単位への分割は無限に続くと構想した。無限に分かたれて無限に小さくなっていくその微小体のなかに、あらゆる事物の最小部分が含まれていると考えたのだ。だから、あらゆる事物を含み持った混合物が、それぞれに特有の仕方で寄り集まってあらゆる事物を形成している。従って、例えば「肉」という物質が顕現しているとしても、この「肉」はたまたま「肉」という性質が優勢になっているから「肉」として現れているのであって、純粋無垢な「肉」ではありえず、ほかのあらゆる物質の性質を分かち持った混合物だということになる。アナクサゴラスはこうした意味での世界の最小単位を「事物(クレーマタ)」あるいは「種子(スペルマタ)」と呼び、「あらゆるもののうちにあらゆるものの部分が含まれている」(エン・パンティ・パントス・モイラ・エネスティ)という原理を打ち立てたのだ(中二病的精神をくすぐるような用語ではないか?)。
 一一時まで「記憶」記事を音読したのち、上階に行って風呂を洗った。ゴム靴で浴室に踏み入ると浴槽の蓋を除き、洗濯機に繋がったポンプを持ち上げて静止させ、管のなかに溜まった水をまっすぐ下方に排出させる。それから洗剤を取って風呂桶の内壁に吹きつけ、今しがた読んだばかりの哲学的知識を断片的に思い返しながらブラシで擦って行った。隅々まで洗い終えるとシャワーを使って洗剤を流し、栓と蓋を戻しておいて退出、自室に戻ってくると日記を書き出して、現在一一時半過ぎに達している。そろそろ出かける時間だ。
 FISHMANS, "MELODY"を流して、音楽のなかで服を着替えた。臙脂色のシャツ、褐色のスラックス、それに濃紺のジャケットである。髪を切ったので青い帽子も被る。そうして次に、"Walkin'"の流れるなかで歯を磨き、そうして荷物をクラッチバッグにまとめた。斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』を入れ、夜になると寒かろうかとストールを丸めて収め、さらに財布と携帯である。そうして上階へ。母親は、それだと寒いよとこちらの格好を指して言うのだが、バルカラー・コートでは暑いだろうし、最高気温が一四度か一五度あるのだから大丈夫だろうと意に介さずに、戸棚の引き出しからBrooks Brothersのハンカチを取った。父親は自治会か床屋か何かに出かけて帰ってきたところらしく、白灰色のジャンパーを羽織って黙って立ち尽くし、うつむきながら携帯か何かに視線を落としていた。こちらはポケットティッシュをジャケットのポケットに入れ、これも持っていきなと母親に言われたチョコレート(リキュール入りのもの)をバッグに加えて出発した。
 道へ出ると、坂を一人の女性が上がって来たので、こんにちはと挨拶を送ると、向こうも、誰だろうとちょっと戸惑うような風を見せながら、こんにちはとそれでも明るめの声で返してきた。下のHさんの娘さんだろうか? わからない。そこを過ぎて上り坂に入ると、なるほど風に冷たさが含まれてはいるが、しかしだからといってそれが寒さに繋がるわけでもない。あるきながら足もとを見つめると、日向とその上に象られた自分の影とが薄く、振り仰げば西空に雲が白くて、首を曲げた視界に太陽は高く眩しいものの相応に遮られているようだ。東のほうは雲が少なめで青さが見えるが、それも淡いようだった。上って行き、坂の出口に掛かるとガードレールの向こうの斜面で篠竹が鳴りを立て、遅れてその向かい、左方の、小さな斜面の草も吹かれてさらさらと響き、冷たさが顔を擦るものの、進んで風が止まれば背が温もって、街道に出る頃には服の内で汗の感触も微かに兆していた。街道に出る前、斜面下から生え伸びた巨木から、シジュウカラだろうか、ぴち、ぴちと鳥の声が、表通りの車の音にも負けずに降っていた。
 一軒の壁にチラシが貼ってあり、見れば市議会議員選挙が四月二一日にあると言う。ちょっと進んでから、胸の隠しから手帳を取り出してメモしておいた。そうしてふたたび歩き出す。ベランダに干された色とりどりの布団。胸を張り、片手をズボンのポケットに突っ込んで意気揚々と行く。そうして裏道へ。この日も淡と濃の紅梅二種が、視線を送っているあいだぴくりとも揺らがず、静かに灯っている。過ぎて、反対側の右方の家には百日紅の木が蜂の巣のような瘤を晒している。裏通りに入って行っていると、一軒の前で犬に吠えられた。窓外の柵のあいだから顔を出した白い小犬で、さらさらとした毛が放射状に顔の周りを覆っていて可愛らしかった。
 風はよく流れ、続いていた。ドーム状に枝を振り伸ばした、鮮やかに色濃い紅梅を過ぎ、白木蓮を見上げて過ぎ、青梅坂から表へ出た。郵便局に寄って金を下ろすつもりだったのだが、この日が日曜日だということを失念していたのだ――いかにも毎日休暇で曜日感覚のない生活をしている無職らしい失念である。その後、特段に興味深い事物とは遭遇しなかったようだ。街灯につけられた旗が風にことごとく身じろぎしているなかを駅に向かった。
 電車は一二時二五分発だった。ホームへ上り、例によって二号車の三人掛けに腰を下ろす。今日はリュックサックではなくて手持ちのバッグなので、ストールのせいでやや膨れたのを丸めて、左の仕切りと身体のあいだに置き、その上に腕を乗せて携帯電話を使って道中のことをメモに取った。それがほとんど立川まで掛かってしまい、本を読むことが出来なかった。日曜日とあって車内には子連れの家族の姿が多く見られたように思う。立川では三番線に着き、降りて階段を上がって、改札を抜けると人の流れのなかを横切って、向かいの壁のATMに寄った。五万円を下ろす。それから北口へと向かう。人々のざわめきのなか、頭上からは駅員のアナウンスが落ち、ダイヤ改正に伴って特急がどうのこうのと言っていた。駅構内の隅、広場との境には托鉢僧の姿があって、鈴の音が凛と響き渡り、その着物には風雲流水を表現したものだろうか、雲のような不定形の筋状の模様が描かれているのだが、それが場合によっては砂埃に汚れきったさまのようにも見えるのだった。
 広場に出て左方に折れ、HMVのほうに向かう(立川で降りたのはこのCD屋に寄るためだったのだ)。歩いていると左方、駅改札のほうから何やら音楽に乗った歌声が渡ってくるのだが、曲調は愚にもつかないJ-POP風のもので、二人でハーモニーを合わせているボーカルもまあ『のど自慢』レベルだろうというところだった。そこを過ぎ、モノレール駅の下の通路をくぐって行き、ビルのなかに入ってSUIT SELECTの前を過ぎ、HMVに入店した。目当ては三つあった。一つはFISHMANSのライブ盤、もう一つは中村佳穂、さらにceroである。入口にはSuchmosの三枚目のアルバムが発売されるという広告が張られてあった。最初にFISHMANSの区画を見に行ったが、ベスト盤しか置いておらずDamnである。中村佳穂も、まあ勿論そうだろうと思っていたがあるわけがない。最後にceroは四、五枚あって、そのなかから『WORLD RECORD』、『Obscure Ride』、『POLY LIFE MULTI SOUL』を一気に買うことにした(あとの一枚は『My Lost City』というやつだった)。それからジャズの区画も一応見に行ったが、ここの店のジャズの品揃えは大したことがないので早々に場を離れて会計へ。無精髭の生えた男性店員を相手に七九三三円を支払い、袋を受け取って退店すると、まだ駅には向かわず、何も買う気はないが本屋もちょっと見ていくかということでエスカレーターに乗った。前には小さな男児が親と一緒に乗っていて、彼の履いている靴がちょっときらきらとしたものだったので、なかなかいかしたものを履いているねと心のなかで話しかけた。オリオン書房に入店するとまず海外文学のほうに行くのだが、その途中、芥川賞を受賞した町屋良平選書フェアという棚が設けられていた。オクタビオ・パスとかバルトとかが並んでいたと思ったが、以前会った時にヴァージニア・ウルフの『灯台へ』が好きだと言っていたのでそれもあったかもしれない、よく見なかったが。それから書架のあいだを抜けて、壁際の海外文学へ。アリス・マンローの新作。国書刊行会水声社の著作がやはり面白そうである。ほか、名前が覚えられずメモも取っていないのだが、「一五世紀のジョイス」と言われているらしい人の本などもあって、これにはやはり興味を惹かれずにはいられない。平積みにされている本を端から端まで見下ろしていったあと、今度は哲学の区画に移って、ここでも新刊を確認していった。『今から始める哲学入門』というような本があったように思う。京都大学学術出版会から出ているやつで、このあたりの良質そうな入門書の類をたくさん読むことで、哲学というものに慣れていけないだろうか。ほかには何があったのか、特段に印象に残っているものはない。西谷修の著作が二、三あったのでこれも読んでみたいはみたい。
 そうして退店した。エスカレーターを下り、Right Onの横を通り過ぎて外へ、駅に戻っていくあいだに特に印象深いことはなかった。駅構内に入ると、焼き栗屋がモンブランやマロンデニッシュを売っている出店の横を通り過ぎ、改札を抜けて三・四番線のホームへ、下りて先頭車両のほうに行くとまもなく電車が入線してきた。快速である。車内はがらがらだったので席の端に座ることができた。ここではメモをほとんど取らず、本を読むことにして、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』をひらいた。国分寺で特快と待ち合わせをしたが、そう急ぐこともあるまいというわけで座ったまま電車を移らず、その後も引き続き本を読み続けた。向かいの席にはポケットモンスターのゲームか玩具か買ってもらったらしい男児が、両親と一緒に乗ってきて、彼らは武蔵境で降りて行ったのだが、率先して降車していく子どもに向けて母親が後ろから、早くやりたくてたまらないんだよね、と声を放っていた。その後向かいにはまた別の親子連れが入ってきていたと思う。
 三鷹で降車。クラッチバッグをベンチに置いて手帳を取り出し、読書時間をメモする(一時五一分まで)。それからエスカレーターを上り、QUEEN'S ISETANという構内のスーパーに入る。ジンジャーエールをいつも買ってきてもらっていたので、今日は自分で買って行こうと思ったのだ。さらについでに、チョコレートも買って持って行くつもりだった。それでジンジャーエールのペットボトルを持ってチョコレートの区画を見分し、アーモンド・チョコレートを買うことにした。これは結構数がたくさん入っているもので、大学時代、サークルにまだ属していた時分、スタジオ練習の時にもよく買って行ったものだ。
 会計して(三七五円)ビニール袋を手に提げながら改札を抜け、駅舎を出る。左方に折れてすぐのところをさらに左方に、高いマンションのあいだを通り抜け、裏路地に入ってKくんの宅を目指す。マンションの入口を入り、エレベーターは使わずに階段をとんとん踏んで四階まで上がり、Kくんの部屋に辿り着くとインターフォンを鳴らした。彼が出てきたのでこんにちはと挨拶し、靴を脱いでなかに入って、既に集まっていた皆にもこんにちはと挨拶をする。T、T田、Mさんが既におり、来ていないのはあとはT谷だけだった。荷物を置くと、部屋の奥に踏み入り、ベッドの端に座って、ごくナチュラルに、断りもせずにKくんのギターを手に取る。するとKくんがチューナーアプリを起動させたスマートフォンを貸してくれたので、それを使ってチューニングし、適当に弾きはじめた。じきにT谷もやってきてこれでメンバーが揃った。
 それから、多分二時半頃からだろうか、"(……)"という曲のMVの絵コンテ案をMさんが作ってきてくれたのを、皆で見ながら話し合って案を出していくということを、一旦七時頃まで行い、その後外に飯を食いに行ってきたあと戻って、ふたたび一〇時頃まで話し合ったのだが、特段に興味深い展開や瞬間もなかったように思うし、細部まで記憶できてもいないし、こうした時間のことをどのように書けば良いかもよくわからないので、どんどん省略して行こう。絵コンテ案は全部で九〇番まであったのだが、そのままだとMさんが描かなければならない絵の量が膨大になったり、また場面転換も速すぎる部分が散見されたので、原案から削れるところは削って行く方向で皆で話し合った。こちらはこうした場合、結構やはり黙りがちで、うんうん頷くばかりで大した意見や案を出せるわけではないので、途中でたびたびギターを弄って遊んでいた(Kくんも、彼はアニメなどにも詳しくて、よく考えられた提案を色々と出していたが、彼もまたその合間にギターをこちらと交替で弄ったり、コーヒーを作ったりしていた)。MさんはGoogle Driveにアップロードした絵コンテ案を紙に印刷して持ってきており、それを配布してくれたり、それぞれの絵を小さな紙に切り抜いて色をつけて、紙芝居風にして見られるようにもしてきてくれており、随分とこの活動に熱心に力を注いでいるという印象を受ける。対してこちらは美術は専門外だし、音楽に対する熱情ももうさほどないというわけで、まあ言ってみれば外部オブザーバー的な立場だと自認している。
 そういうわけで詳細の諸々はさっさと省略して、飯の時間のことに移ろう。七時前に至ってTがこちらに、お腹空いた、と訊いてきた。まあ、普通に、と答えると、彼女とKくんでよく行く店があって、今日は皆でそこに行きたいと言う。勿論異論のあろうはずがない。それでKくんが七時半に予約を取り、それからまた少々話し合って、七時一五分頃に宅を出た。皆がエレベーターに乗るなか、こちらは一人階段を下りて行くと、一階でちょうど合流できた。外に出て、裏通りから表のほうへと抜けて行く。最初のうちはKくんにT谷が先頭に並び、その後ろにこちら、さらに後ろにほかの三人といった隊列だった。三鷹駅の反対側へ抜けて、高架歩廊からエスカレーターで通りへ下りた際に、T谷が吹き寄せる風に寒いとか何とか言って、三月のわりにまだまだ寒くないかと言ってきた。こちらは、今年はしかし、暖冬だったと返し、二月が暖かかったかわりに三月がまだ寒いのだろうかなどと根拠のない適当なことを言った。それから歩いているうちに、T谷は後方に退いていったようで、Kくんとこちらが先頭で並ぶことになった。道中、「M」があったので、言及すると、思い出の? とKくんに訊かれた。いや、思い出というほどでもないが、こちらはMで働いていたのだ。すると、やっぱり思い出のじゃんと。まあ青梅のはね。そこから塾についてちょっと話した。Kくんがこちらの病気についてどこまで知っているのか知らないが、Tからどれくらい聞いているのか知らないが、去年調子が悪くて今は休んでいるのだと話す。それから、塾、行っていた? と尋ねると、小学校の公文式から始まって高校のZ会までずっと行っていたと。小学校の時にはしかもKくんは、自ら率先して公文式をやりたいと言い出したらしい、と言うのは、友達がやはり塾に通っていて小学生なのに既に中学校の勉強をやっているのが格好良かったから、とそんな理由を挙げていた。
 その他に話したことは覚えていない。そのうちに裏路地の途中にある店に着いた。「(……)」という店だった。入店するとちょっと待たされたのち――待っているあいだ、Tがこちらに寄ってきて、調子はどう、と尋ねてくるので、まあ悪くはないと答える。問題はないと。薬を飲んでいるかとの問いにも肯定し、こちらのことを心配してくれているようなので、もう一度、問題はないと答えておいた――、フロア奥の席に六人で案内される。(……)という語が店名に入っているだけあってというわけか、子供連れの姿が見られて、赤ん坊の泣き声なども途中で聞かれていた。席に就いてメニューをひらくと(席順は、三人ずつで分かれて、こちらの側は左からKくん、こちら、T田、向かいは左からT谷、T、Mさんだった)、ここのグラタンが非常にお薦めだとTが言う。グラタンの概念を覆されるとまで言うので、それならば自分は、グラタンは結構好きなことでもあるし、それにするかとすぐに決めた。しかし煮込みハンバーグも良いなと言うと、T田がそれにするからシェアしようと言う。了承し、こちらはそのほかにシーザーサラダのSサイズを頼むことにした。ライスかパンのセットにすればミニサラダがついてくるらしかったのだが、こちらはライスもパンも別にほしくなかったし、あくまでも単品でのサラダにこだわった。そのほかKくんとTはこちらと同じくグラタン、T谷は和牛ハンバーグ、Mさんは日替わりのパスタにしていた。
 BGMはわりと洒落た感じで、フォーキーなものやソウルフルなボーカルが掛かっていて、まあ悪くなかった。待っているあいだ、隣のT田に呼びかけ、最近はどうだ、人生は、と実にふわりとして曖昧な質問を投げかける。するとT田は、そろそろようやく進路というものをきちんと考え出したと。何でもAI関係に興味が出てきているらしい。と言うのは、自分はなるべくなら働きたくない、嫌な仕事をやらなくて済む社会のほうが良いと思う、だからそうした社会を作ることに貢献したいと思うのだが、そのためにはやはりAI技術というものが核心の一つになってくるだろうから、そうした分野に多少なりとも参加したいようなことを言っていた。しかし今まで彼がやってきた医学、理学療法士関連の分野とはやはり違う方向なので、どのような形になるかはまだまったくわからないと。T田はAI技術が発展して、なおかつ政治がそれを活かして社会保障のシステムを革新するなりすれば、今よりも労働というものの比重が減って、もっと文化的な隆盛が見られる社会になるのではないかと希望しているらしい。平たく言ってベーシック・インカムのようなことを思っているのではないかとこちらは思い、俺もベーシック・インカムをさっさと導入しろとずっと思っているよと財源のことなどまったく考えず主張すると、T田は財源の問題は、やはりAIが仕事を肩代わりすることによって余剰になる人件費などから捻出できるのではないかと言うが、しかし企業は絶対に抵抗するだろうなとこちらは返す。
 そんな話をしているうちに、じきにサラダから品がやってくる。ミニサラダとシーザーサラダを比べるとやはりこちらのほうが充分な量で、余は満足であった。グラタンは確かに美味かった。しかし「概念が覆される」はさすがに大袈裟だったが、Tが話すに、この店の品はグラタンなのにマカロニがほとんど入っていない、その代わりに野菜がごろごろとふんだんに入れられている、そこでこんなにマカロニ少なくていいんだ……!となって「グラタン」の考えを一新されるとのことだった。実際、自家製ベーコンと野菜のグラタンなので野菜を売りにしているわけなのだが、蕪・薩摩芋・ジャガイモ・キャベツ・南瓜などなどが含まれていて、どれも美味かった。どう、と訊かれたのに、細かいことはわからないが、と置いてから、美味い、と断言し、何だかまろやかだねと付け足した。T田とシェアしたハンバーグも美味であった。
 食事のあとは、Kくんがカフェオレを頼んだのみで、皆デザートなどは注文しなかった(ガトーショコラが非常に美味いという話だった)。そうして会計。個別に。先頭のT田が会計している際、釣りが足りなくなったらしく、一円玉が切れたので少々お待ちくださいねと店員が言う。それで新たな硬貨の筒が用意された。こちらの会計の時にも、それから固い包装を取り除いて硬貨を取り出すのに店員が苦戦して、ちょっと待ち時間があったが、こちらは彼の様子を観察しながら待った。茶髪を後ろに引っ詰めて一つに結わえて眼鏡を掛けたこの店員は、オーダーの時から配膳までずっと我々のテーブルを担当してくれたのだが、なかなか丁寧な物腰・言動で印象が良かった。先の、硬貨が切れたということを伝える時などもそうで、こういう時結構皆無言で作業を進めてしまうように思うのだが、一言、しかも慌てるでもなく軽い感じで、かと言って軽薄にもならずに客に断りを入れるというこの一手間が丁寧が印象を与えるのだった。しかし硬貨の筒のある場所を知らずにほかの同僚に訊いていて、その際に何か指示を受けたりもしていたので、この店のなかでは下っ端のほうなのかもしれない。
 そうしてそれぞれ皆会計を済ませて退店(こちらは一五一二円だった)。店からの帰りはふたたびKくんと並んで塾の話をした。何を教えていたのかと訊くので、英国社、たまに数学と答える。オールマイティーだね。理科は出来ないよ。英語が一番楽だったね、予習をしなくても済む。国語が面倒臭かった、やっぱり事前に読んでおかないと細かいところまで教えられないから。しかし準備時間もそう豊富にあるわけではないのだ、と話す。準備の時間も給料に含まれるので、基本は授業前一〇分で済ませるように求められる、それ以上に時間が欲しい場合には申請書類を書いて提出しなければならないのだ、と(こちらは元々給料に含まれている一〇分に加えてさらに一〇分を毎回準備時間として貰っていた。書類の提出も、もう話が通っているので毎回室長の許可を貰うなどしなくて良いのだが、申請書類をいちいち記入しなければならないのはちょっと面倒臭かった)。それだからあまり多くの時間準備をしたい時などは必然的にただ働きになってしまう、しかしそれでも良くなったほうなのだ、と言うのは以前は準備時間にはまったく給料が出ていなかったのだから。それで誰かが訴えて、塾業界はブラックだなどと一時期話題になったこともあったのだが、結果、今の申請方式に落着いているというわけなのだった。
 そんな話が終わったあと、Kくんは一応、オタクなんだよねとこちらから話を振る。きっかけは何だったのと。まずオタクというのはKくんの考えでは、オタクになるとかオタクをやめるとかそういう類のものではなく、何か一つのことを突き詰めずにはいられない性向のことを言うのだと。そこに例えばアニメオタクとか漫画オタクとか形容がつくこともあるのだが、Kくん自身はアニメオタクに類するらしかった。きっかけは、『涼宮ハルヒの憂鬱』だと言う。あのアニメが放映されていたのがちょうどKくんが中学二年のあたり、多感な時期だったのだが、そこにそれを見て自分のなかで革命が起こったらしい。そこから深夜アニメの類に嵌まって、高校時代は軽音楽部に入ったのだが、アニメ・ゲーム・音楽の三位一体三昧の生活を送っていたと言う。
 三鷹駅構内に入ると、俺がギターを始めたのも中学二年だったよとこちらのことを話す。やはりそのあたりで自意識が出来てきて、自分の興味を追求しはじめるよね、と。駅を出て、暗闇の夜空の下を行きながら、まあしかしオタクってのはいいもんだよとKくんが言う。それを受けてこちらは、まあ一生退屈しなさそうだなってのはあるよねと。裏路地に入る間際のマンションの区画には梅が咲いており、夜闇のなかでうっすらと明るんでいた。それを見ながら、(……)は梅の里だから、そこら中に梅があるよなどと言いながらKくん宅に戻っていく。
 それでふたたび絵コンテ案について話されるわけだが、こちらは例によってギターを弄って遊んでおり、話し合いは大方Mさん、T、T田の三人のあいだで行われたようだった。それで一〇時頃になると、時間がまだあるので(こちらの終電は一一時ぴったりだった)レコーディングをしようということになる。"(……)"の音源にこちらのギターを入れるのだ。Kくんがコンピューターでソフトを立ち上げたり、オーディオインターフェースにコードを繋いだり、マルチエフェクターを取り出したりして準備を整えてくれているあいだ、こちらはベッドに腰掛けて待ちながらT田と話す。『灯台へ』を読んだかと訊くと、読んでいる途中で、そろそろ第一部が終わりそうなところだった。一一章が全篇完璧で素晴らしいと主張しておく。そこから純文学と大衆小説などについて話したが、細かく覚えていないので内容は割愛する。T田はほか、音楽に出来ることは何か、というようなことを考えたと話す。それはまずもってやはり、当たり前のことではあるが、音響のデザインなのであって、例えば吹奏楽部員(高校の頃のことか、大学の部でのことか、それともT田がOBとして高校の部に教えに行った時のことか、その全部か)が表現を考える時に、ここはどういう表現にするかと訊くと、視覚的なイメージとか物語的な要素はよく出てくるのだが、音楽的なアイディアというものはあまり提出されないのだと。しかし、物語を表現するというのはほかのメディアでも出来ることなのだから、音楽特有の表現というものはあくまで音楽的なものでなければならないのだよな、とそんなことを話すのに、こちらは全面的に同意し、その通りだと頷きを繰り返す。こちらは、音楽を物語などの「意味」に還元する向きがあまり性に合わないのだ。勿論それは音楽を表象に奉仕させるということになるからである。勿論物語と結びついた音楽があって結構なのだが、まずもって音楽は音楽としての組成と形式を持って我々の感覚に現前するのだから、最低限というか第一の段階で、音楽として整っていなければならないだろうとそういうことである。
 そのうちにKくんがソフトを整えて録音の準備が出来た。KくんのエフェクターにもT谷が持ってきたディストーションにもギターを繋ぐという大掛かりなことになったが、ヘッドフォンを借りて音色を少々調整し、一〇時半くらいから、じゃあやります、と言って弾きはじめ、少々ミスしたが一発録りで五分くらいで仕事を終えた。全体的に下手くそで、コードチェンジなど滑らかでないのだが、と言うかコードチェンジとかアルペジオというのは基本中の基本であるはずなのだけれど、ギターを弾いていて一番難しいのはそこではないか。録ったものをTに聞いてもらい、彼女はふむふむ、なるほど、などと言っていたのだが、どうすか、と尋ねると、いや、もっと聴き込んでみないと、簡単には答えられないということを言った。そんなに難しいことをやっているのではないのだが。
 それで一〇時四五分頃になってKくん宅を辞した。こちらはゴミを残して行くまいとジンジャーエールの空のボトルと、アーモンド・チョコレートのケースを誰にも気づかれずにバッグに入れ、余ったリキュール入りのチョコレートはT田に食ってくれと渡した。そうして室の外に出て、今度は皆でエレベーターに乗って地上に下り、裏路地から表へ、ここでもこちらは確かKくんと並んで歩いたと思う。そうして三鷹駅へ。改札。皆で顔を見合わせて、また四月に集まりましょうと。こちらはKくんと意味もなく、何故だかわからないがとりあえず握手をした。それで別れ、改札をくぐる。そうして振り向き、手を挙げて左右に緩く振ると、Kくんも手を挙げて笑っていた。
 東京方面に向かうT谷とMさんとも別れて、こちらはT田と一緒に三番線へ。一〇時五五分発の電車に乗る。そうしてT田に、そう言えば、例の人のイベントには行ったのかと尋ねると、まだだ、今月末だと。どんなことを話したらいいかわからない、向こうも同じだと思うと苦笑してT田。一週間に一通くらいのやり取りだから何とか話せているが、もっと頻繁だったらネタが尽きているだろうと。こちらはMさんの日記に書いてあったカップルのやり取りを思い出して、いつも話しているからどんなことを話せばわからないですね、と言えば良いんだと助言する。
 そのうちに、この日の絵コンテ案の話し合いについてからずれたのだったと思うが、最近自分がいかにものを考えていないか痛感しているということを語った。ものを考えるということは一体どうやってやるのか? 自分はもっとよく、深くものを考えたいと思うのだが、なかなかそれが出来ない、全然考えていないように思われると。受けてT田も、クラシックのコンサートなど自分も少し前に行って、悪くはなかったのだが、いざどうだったかと訊かれると感想が出てこない、自分は何を感じたのだろうと。そういうことがあると、自分はクラシック音楽が実はそんなに好きではないのではなどと思ってしまうと。その気持ちはこちらもわかって、例えばこちらは日記を書いていて、勿論毎日の日記には本を読んだということも書くわけだが、ではその時に、どんなことが書いてあったか思い出して書こうとしても一向に思い出せないと話す。
 ショーペンハウアーっていうドイツの哲学者がいてさ、とそのうちにこちら。『読書について』って本を書いているんだよね、もう随分前に読んだから記憶がだいぶ曖昧だけれど凄く簡単に言うと、読書ばかりする人は他人の考えを追ってばかりだから自分の頭で考えられなくなる、とそういうことを言っているんだわ。何かそれが段々わかるようになってきたような気がするな……。確かにインプットだけでそれを消化してアウトプットする機会がないと、そうなるかもなとT田。アウトプットのやり方も考えもので、自分は日記をずっと書いてきたけれど、そのせいで思考の形が日記向けになったと言うか、日記の形でしかなかなか文章を考えられなくなっているような気がする、自分が追求してきた形式に縛られるっていうこともあるんだろうな。
 そんなようなことを話しながら立川まで揺られ、降りて階段を上り、T田と別れて一番線へ。奥多摩行きに乗り、座って携帯電話でメモを取る。Kくんの宅でもずっと座っていたから腰が痛んだ。河辺まで来て乗客がほとんどいなくなると、人の少なさを良いことに靴を脱ぎ、脚を前方にだらりとまっすぐ伸ばしてだらしない姿勢を取った。そうして青梅に着くと降りて、奥多摩方面の車両に乗り移る。そうして扉際に立ち、相変わらずメモを続けるのだが、こちらの前の席に座っている男が酒を飲んできたらしく頻りにしゃっくりを発しており、何だか気分も余り良くなさそうなので、頼むから俺が降りるまでに吐かないでくれよと祈った。
 無事、嘔吐されることはなく最寄り駅で降りて駅舎を抜け、深夜零時の聖なる静寂のなか通りを渡り、坂道に入る。足もとに伸びた自分の影が明らかなのに、どうも月があるらしいなと見上げると、やはり、七割くらいに膨らんだ月がくっきりと照っており、星もあった。坂を下って行き、平らな道に出て夜道を辿り、帰宅した。なかに入ると、父親が仏間で仏壇に向けて正座して線香を上げているところだった。酒を飲んだのが一見してわかる顔で何とか呟いており、こちらの姿を見ると仏壇に向かって、Sが帰ってきましたよと祖父母に報告していた。こちらはすぐに下階に下りて服を脱ぎ、入浴に行った。さすがに疲れたので湯のなかに長く身を沈めて上がると、父親はまだ居間にいてカーリングを観ている。こちらが戸棚から「どん兵衛」の豚葱うどんを取り出して湯を注ごうとすると、父親は、今日は何を作ったの、と訊いてくるので、今日は作っていない、外で食べたと答えて、下階に向かった。その後、即席うどんを食い、Tから一か月遅れのバレンタインデープレゼントして皆に配られたシフォンケーキの類も食って、のち長々と夜更かしをして、三時半に就床した。

2019/3/16, Sat.

 なかなか苦戦して一〇時起床。小敗北。アラームを一時間遅らせて八時にして、その時点で、と言うかその時点よりも遥かに早く、何度も覚めているのだが、アラームを受けてそれを止めに立ち上がっても身体の重さに耐えきれずすぐにまたベッドに戻ってしまう意志薄弱である。とにかくもう少し早く起床する習慣を何とかして確立したい。上階に行くと母親は外に出ているようで、台所に入って前夜の残りの天麩羅を電子レンジに突っ込むと、勝手口の外で何かやっている音が聞こえた。米をよそり、洗面所に入って顔を洗った。今日は一二時から散髪、その後は図書館に行って書抜きをするつもりでいる。出てくると米と天麩羅を卓に運び、ものを食べはじめた。新聞を見ると一面に、ニュージーランドクライストチャーチでモスクが二箇所襲撃されて四九人が死亡とセンセーショナルな事件が伝えられている。犯人はFacebookで一七分のあいだ、襲撃の様子を実況中継したというのも強い印象を与える情報だ。記事を読みながらものを食べていると、室内に入ってきた母親が汁物をよそって差し出してくれたのでそれも食べる。母親はその後、居間の隅、テレビの前でアイロン台を使わずにシャツにアイロンを掛けていた(彼女はいつもアイロン台を使わずに座布団の上で作業を行う)。こちらは食事を終えるとセルトラリンとアリピプラゾールを服用し、皿を洗ったのちに風呂を洗う。そうして下階に帰ってくると、Tからメールが届いていたので、LINEにアクセスした。翌日の集まりについてである。午後からになるらしいが、具体的な時間はまだ決まっていなかった。そもそも場所からして不明だったので、Kくんの宅にまた集まるのかと質問を投げかけておいてから日記を書き出した。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなかで前日分を仕上げ、この日の分も書いて一一時半過ぎ。そろそろ時間が迫ってきた。
 急いでブログに前日の記事を投稿する。それから、着替え――美容院に行き、一人で図書館に向かうだけなのであまり綺麗に洒落た格好でなくても良かろうと、上は白シャツ、下は星の煌めきのような模様の散ったベージュのズボン、それを身につけたのち、FISHMANS "チャンス"に合わせて歌を口ずさみながら廊下に出て、モッズコートを羽織る。音楽が最後まで終わるのを待ってから(同時にLINEでやり取りをして、翌日の集合は午後二時からと定まった)コンピューターをシャットダウンさせ、リュックサックに荷物をまとめて部屋を出た。上階に行くと母親は台所に立って、採ってきたフキノトウを料理しに掛かるところだった。こちらは戸棚からハンカチを取って尻のポケットに入れ、玄関に出ると母親が、今日は色々あるから買い物はして来なくて良いと言う。その後にしかし、前言を翻すようにして、もし買ってくるのだったら、苺と林檎を、と言って、それぞれ良さそうな、何円くらいのやつ、と値段までついたがそんなに細かく覚えてはいない。それを受けて玄関を抜けたこちらは、道に出る前に手帳をひらいて「苺とリンゴ」とメモしておき、そうして歩き出した。風が流れるが、そのなかに冷たさとして結実する感触はない。坂の手前まで来ると、競技用自転車に乗って格好も固めた集団が続々と坂の曲がり角の向こうから下ってきて通り過ぎて行く。こちらは坂の入口で、いつものようにまっすぐ行くのではなくて左に折れて、別の木の間の坂道を街道へ上がって行く。息を少々切らしながら上って表通りへ出て、ちょうど車が途切れていたので北側に渡り、ちょっと移動して、こんにちはと言いながら美容院に入った。少々お待ちくださいねと言われるので入口脇の席に座り、リュックサックは隣の椅子に置く。そのあたりに集まっている雑誌類を探ってみると、「ビッグコミックオリジナル」があったのでひらき、『カイジ』とか『アカギ』とかを描いている福本何とかいう作家の、黒沢何とかみたいなタイトルの漫画をちょっと読んでいると(冒頭から例の、「ざわ……ざわ……」の表現が見られる)、どうぞと呼ばれた。リュックサックはここで良いですかと尋ねると良いとのことだったのでそのままに放置し、店の奥に踏み入り、洗髪台に身を委ねる。助手のYさんが、花粉症はどう、と尋ねてくるので、そうですね……と置いていると、大丈夫と続くので、大丈夫ではないですけれど、でも例年よりもましな気がしますねと受けた。今年はしかし、例年よりもまずいという人が多いらしく、Yさんもまずいほうだと言う。確かに洗髪してもらっているあいだも、仰向けになって布で隠された視界の向こうで、彼女がたびたび鼻を啜る音が聞こえていた(それで思い出したのだが、昨日の記事に書き忘れたけれど、夜、立川から青梅に帰ってくる電車のなかでも、こちらのすぐ右方に立った男が、ほとんど五秒置きに、時には二、三秒置きのペースで、花粉症特有のさらさらとした水っぽい鼻水の感触というよりは風邪の時のような黄色く粘りつくような音でずず、ずず、と鼻を啜っていた)。髪を洗ってもらったあとは、頭にタオルを巻かれて、鏡の前の中央の席に就く。Yさんが広げてくれるカットクロスに腕を通して身に纏い、少々お待ちくださいねと言うのにはい、と受けると、彼女は隣の女性の傍の台から西多摩新聞を持ってきて、Fくん、この人知ってる、と訊いてくる。見れば岩下尚史のことだった。先般、と言ってもう結構前だと思うが、物好きにも我が青梅に越してきた作家で、市役所かどこかで講演をしたらしい。確か和辻哲郎賞か何か獲っていたように思うが、軍畑に(越してきたんですよね)、と言うと、そうそうとYさんは受けて、うちのおばあちゃんなんか見に行ったんだ、とか何とか言っていた。それで西多摩新聞をひらいて待っていると、みずほ九条の会が発足したという記事が目に入ったのでそれを読んだ。また、河辺TOKYUが四月で閉店するらしく、そのあとにはイオンが入る予定だとあった。そのうちに美容師の女性(この店には高校生の時分から通っているにも関わらず、この人の名前が未だに定かにわからない――多分Iさんだと思うのだが、助手の人も「先生」と呼ぶので確証が持てないのだ。一五年近くも通っていて、今更、お名前は……などと訊けまい!)がやって来て、今日はどうするかと訊くので、短くしてくださいと答える。もう暖かくなってきたしね。そうですね。それで髪を切られはじめるわけだが、わりあい最初のほうで、調子はどうとの問いがあったので、調子は良くなって来まして、お蔭様で、と答え、仕事のほうもそろそろ復帰できるのではと考えていますと言った。そのうちにフロアをうろついていたYさんが、外を見て、「黒い人」が来ている、と知らせてくる。道の向かいに店と言うよりは自動車を売っているちょっとしたスペースがあるようなのだが、そこに黒人が客としてやって来ているらしい。「黒い人」という言い方も、ポリティカル・コレクトネス的にちょっと危ういのではないかと疑うのだが、(車を売っている)お爺ちゃん、大丈夫かななどとYさんは続けており、Iさんも同じるように受けて、こちらは、やはりそういう意識があるのだなと思った。本気で黒人が危険だと無条件でそう考えているわけではないのだろうし、Yさんも、偏見の目で見ちゃいけない、とその後呟いてはいるのだけれど、やはり何となく、怖いような「イメージ」というものがあるのだろう。こうした悪意のない、ある種罪のない、小さな無意識の、それ故に本人にとって反省されにくい差別意識(と敢えてこの言葉で言い切ってしまいたいと思うが)のほうが、ある意味で根深いと言うか、厄介な問題なのかもしれない。こちらは、凄く良い人かもしれませんよ、とか、フードを被ったままの格好をしているというのにも、ヒップホップでもやっているんじゃないですかとか、適当なことを言っていたのだが、その後もYさんはふたたび触れて、まさか「黒い人」が来ているって警察に言うわけにもいかないしねえ、などと口にして、これは多分アウトだろう。通報するような事案ではまったくないはずなのだ。Iさんも、人種差別になっちゃうからなと、その点勿論理解しているのだが、こうした本人に悪気のない偏見の目というのは一体どこから生じたものなのだろう。
 黒人が来ているというところから、外国人という繋がりで、中国人のことに話題が横滑りした時間があった。Iさんは中国人は逞しいね、とか言う。テレビで見たらしいのだが、中国人の親子が海かどこかではぐれた時に、お互いを探して、相手が見つからないのにお互いに憤慨していたと話すので、しかし中国というのは儒教の国なんですけどねえとこちらが呟くと、二人は、何だか難しいことを言い出したぞ、というような雰囲気を発しはじめた。あの孔子の、『論語』とか知ってますよね、とIさんに訊くと、知らないと言うので、知らないですかと笑ってしまった。儒教は仁とか礼とか言って、思いやりとか礼儀とかを大切にする教えのはずなんですよ、それが紀元前からずっと伝わってきているはずなんですよ、とか何とか話す。思いやりの国のはずなのだが、岡本隆司『中国の論理』にも書いてあったように、エリート層はともかくとして、「庶民」のあいだには儒教的な徳のイデオロギーというものはやはり根付いていないのだろうか。そのわりに、朱子学的な、年功序列と言うか長幼の序と言うか、年上や親には逆らわないというような考えは浸透しているような、これも単なるイメージがあるのだけれど、現代中国の実情はどうなのだろうか。
 そんな話をしながら髪を切られ、途中、ある程度切ったところでどうですかと訊かれたので、もっと短くやっちゃってください、バリカンでがっとやっちゃってくださいと言うと、そのようになって、最終的には相当に短く、スポーツ選手のようになった。ほか、特別に印象深かった話題と言ってこれと言ってないと思う。二度目の洗髪の時にYさんが、布で塞がれた視界の向こうから、Fくん、塾はもう辞めちゃったの、と訊いてきたので、去年ちょっと調子が悪くて、休んでいるんですよと受ける。そうすると、辞めたほうがいいよ、大変だもん、とか続くので、笑ってしまった。あの年頃の子どもを相手にするのはとにかく大変だと言う。加えて保護者も最近は、というようなことを言うので、しかしうちの教室では保護者対応は大概教室長などがやって、こちらは基本的にはものを教えているだけでしたから、などと話した。僕は塾くらいでしか働けないと思います、少なくとも、コンビニとかファストフードとかよりは、よほど自分に向いていますよ。
 こちらの散髪も佳境に掛かって、二度目の洗髪に移ろうという頃合いに、高年の女性客がやって来た。散髪やパーマの予約はないようで、新しくなった電車の時刻表をこの店で配っているのを受け取りに来たらしい。入口のほうでYさんと何だかんだと話し込んでいるその傍ら、こちらは髪を一旦切られ終えて、あとでまた調整しますということになり、洗髪台のほうに誘われて移るのだが、その際、Iさんが、こちらにだけ聞こえるように、あるいはこちらにも聞こえないような独り言としてほんの幽かな声で、しつこいな、と漏らすのが聞こえた。その高年の女性客のことをあまり好いていないと言うか、相手をするのが面倒なのかもしれない。しかしそうした本心があってもそれを隠して愛想良くしなければならないのが客商売、その後Iさんは女性客に、お茶でも飲んでく、と誘って、店のなかに導き入れ、コーヒーを用意していた。このような悪口と言うか、ある種の人間の「汚さ」(非常にささやかなものだが)のようなものが露呈した瞬間に立ち会うと、数年前のこちらは潔癖にも怒りを覚えたり、あるいは嫌気が差したりしていたと思うのだが、もうよほど図太くなったもので今では何とも感じない。それで短い髪をさらにちょきちょきと切って、最終調整を終えてお疲れ様でした、と散髪を終えると、こちらの分もコーヒーを淹れてくれたと言うので、どうもすいません、ありがとうございますと感謝して頂くことにした。入口脇の席に移り、Yさんが運んできてくれたものを受ける。おそらくはインスタントのコーヒーに、いびつな球状のアーモンド・チョコレート二粒である。コーヒーに付属させられていたミルクと砂糖を全部入れ、啜りながらチョコレートを摘んで、飲み終えて盆を運ぼうと持って立ち上がると、Yさんが、悪いじゃないと言って近寄ってきたので渡した。Iさんが、偉いねとか何とか言ってきたが、ただ盆を運ぶだけのことで、そのくらいやるものだろう。家でもそうやっているんだねとか言ってくるので、まあ皿洗いくらいはしますけど、と返すと、皿洗いをしてくれりゃ上等だ、みたいなことを言ったが、そんなわけがない、皿洗いくらい誰だってやることだろう。それで会計をお願いしますと申し出て、三二五〇円を支払い、吊るしてあったモッズコートを羽織って、それじゃあどうも、ありがとうございましたと二人に礼をして退店した。高年の女性客は退去していくこちらに遠慮のない視線を向けてきていた。多分こちらがいなくなったあとで、あの子はどこの子、などと訊いていたのではないかと思う。
 外に出たこちらはリュックサックのなかに入れてあった帽子を被り、街道を東へ歩きはじめた。先ほどの会話を思い返しながら行っていると、向かいの南側をピンク色の上着を身につけて傘を持ち、荷物を引いた姿が見えはじめる。例の、いつも独り言を言っている老婆だが、以前は常時鶯色のコートを着ていたのを、やはり暖かくなってきたからというわけで衣替えしたのだろうか。今日は車のナンバーを叫んでいないようだったが、通りを挟んですれ違う際に、やはり東京都の小河内ダムがどうのこうのとか大きな声で独り言を言っているのが聞こえてきた。さらに進んで、多摩高校の前で裏道に折れる。裏の通りに繋がる間道を通っている時に、目の前を鳥が一匹素早く横切って左方の梅の木へと飛んで行ったその体の一部にオレンジ色が覗いたのに、あの色は確かジョウビタキという鳥の色ではなかったかと思い出し、あとで調べてみようと立ち止まって手帳にメモを取っておいた。裏通りを進むあいだ土曜日とあって人通りは少なく、午後からことによると雨とか言われていて、確かに雲も多いけれど西空から陽も透けて通り、髪を短く刈ったばかりで露出した首筋に暖かく、麗らかで、静かに長閑な、いかにもそれらしい休日の昼下がりだと思って腕時計を見やると、時刻はちょうど一時半だった。途中の一軒の前で女児が、玩具を使ってシャボン玉を作って遊んでおり、泡の球体が周囲を舞い流れるなかで佇んでいた。それを振り返り振り返り見ながら進むと、今度は前方に白木蓮の高い木が現れ、まだ大方は蕾のままであるものの、枝先のことごとくに無数の薄黄色い花を灯したその姿が既に壮観のようだが、すべてひらけばさらに見ものになるだろう――しかし、樹冠が汚れなく澄んだ黄色一色で統一される期間はおそらく短いもので、低いほうの花が押しひらいて盛りを迎える頃には、多分高みにある花は焦げついたように茶色く濁って、あるいはもう落ちはじめてしまうのではないかと思うが。
 さらに進んで、市民会館跡地まで来ると、ドリルと言って良いのか、よく工事現場にある地面を掘削するような機械を扱っている人足がいて、その様子を観察しようと目を向けていたらしかしすぐに機械を停止させてしまった。工事現場というものも、そこここで色々な種類の動きが起こっていて、しっかり観察すれば面白そうなものだ。表通りのほうから大きな荷台の長いトラックが入ってきたのを受けて、黄色い蛍光色のベストを羽織った整理員が、オーライ、オーライ、と言うよりは、オレーイ、オレーイ、というような発音で声を大きく上げて誘導していた。その脇を過ぎて行き、駅前に出てロータリーを回り、駅に着くと改札を抜けた。電車は一時四九分発、ホームに上がって、ちょうど入線してきた電車の、いつも通り二号車の三人掛けに腰を下ろそうと思ったら、明るい金髪の、黒いブーツを何だか気にして前屈みになって弄っている女性が先客としていたので、その手前の七人掛けに腰掛けた。そうして、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』を読みはじめる。それで河辺まで待って降車し、エスカレーターを上って改札を抜けると、『名探偵コナン』とコラボレーションしたスタンプラリーの、スタンプを押す台の前に数人の列が出来ていて、随分と人気なのだなと思った。駅舎を出て高架歩廊から眼下を見下ろせば、コンビニの前のベンチ二つに、顔色が茶色く肌の皺ばんだような老人たちが席を埋めて向かい合っているその脇に、誰かが何か撒いたのか鳩がたくさん集まっていて、なかの高年の男一人が集う鳥に向けて足を繰り出して追い払う素振りを見せていた。そんな様子を観察しながら進むと、眼下にいた鳩の一匹だろうか、飛び上がってきたものが目の前を羽ばたきながら横切って行き、右方、図書館から通りを挟んで向かいの、河辺TOKYUのビルの側面、薄緑色のガラスの縁に渡って行く。そうしてこちらは入館し、CDの新着を見たが特段目ぼしいものはなく、上階に移って新着図書を見ればハン・ガン『すべての、白いものたちの』――これはTwitterで良い評判を色々と目にした覚えがある――とか、保阪正康の『昭和天皇』上下巻などが新しく見られた。それから書架のあいだを抜けて大窓際に出ると、一席空いているところがあったのでそこの机上にリュックサックを置き、便所に向かったその途中、通ったのは動物学とか生物学の本の集まった棚の区画で、『ファーブル昆虫記』をちょっと手にして瞥見したりした。トイレで放尿を済ませ、鏡の前で帽子を外して髪の具合を確認し、ハンカチで手を拭きながらフロアに戻って席に帰りがてら、生物学などの著作をちょっと眺めた。この分野も、読めば面白いものがたくさんあるのだろう。そうして席に就くとコンピューターを取り出して、斎藤慶典の新書を読みながら起動を待ち、Evernoteを準備すると二時一四分から日記を書き出しった。一時間一五分が経って、現在ちょうど三時半に至っている。文章を落として行くそのリズムのようなものが出来てきた、言葉のスムーズな流れ方が掴めてきたような気がする。
 腹が減っていたのでものを食べに行くことにした。リュックサックから財布を取り出し、モッズコートを羽織ってポケットに手を突っ込んでフロアを渡る。階段の踊り場の壁に薄陽が射して、柱の影と明るみの矩形とが映し出されていた。館を抜けると高架歩廊から階段を下りる。コンビニ前のベンチには、女性はいなくなって中高年の男性ばかりが就いており、ベンチの上にはビール缶が置かれ、足もとに小さなペットボトルが転がっていた。コンビニに入店、「口どけチョコのオールドファッション」というドーナツを手に取り、ほか、おにぎりを二つ、ツナマヨネーズと牛めしのものを確保して会計する。三六五円。女性店員に礼を言って退店し、空いていたベンチに座って初めにツナマヨネーズのおにぎりの包装を取り除きながら、風が走っても寒くもない穏やかな空気に誘われたものか、悪くないなと思った。こうして午後の遅い時間に外気のなかで一人でおにぎりを賞味している、それだけでまったく悪くない生だった。前方は先ほどの男らが就いているベンチで、二つのベンチに四、五人が向かい合いながら座っているのだが、全員同じグループなのか、それともベンチごとで仲間が分かれているのか、それすら判別が付かない。ベンチの横には誰かが何か撒いたらしく鳩が群れて頻りに地面をつついているのだが、なかの一匹は狙っている食べ物の欠片が大きすぎて、何度も口に咥えながら食べられずに落としてしまう無益な動作を繰り返していた。左方では子どもが二人、道端の段の上に腰掛けてゲームか何かやっている。そのうちに前方のベンチに座っている男の一人、老人が、持っていたあれはパンだろうがそれを千切って放ると、鳩がそれに向かって一斉に群がり、大きな長方形のパンを集団で激しく貪りつつく。そのうちにパンは細かな欠片に分解されていく、するとまた老人がいくらかの破片を放って、また集団がそちらへ向けて殺到するということが繰り返された。じきにこちらのベンチにこれも老年の男性が寄ってきて、手を上げてちょっとすまん、というように素振りを見せながら(こちらも会釈を返した)座り、持っていたのは多分ビール缶だろうがこちらに背を向けながらそれを飲んで美味そうな溜息をついていた。こちらは三つの品を食い終わると、最後に口に入れたドーナツをもぐもぐやりながら立ち上がり、包装ビニールを入れた袋の口を縛ってコンビニ前のダストボックスに投入し、階段を上って図書館に戻った。入館して即座に、ものを食ったばかりで綺麗な公共の場に踏み入ったことによる緊張が兆したが、それが定かな感触として浮上したのは一瞬だけで、すぐに収まって消えた。上階に上がって席に戻りがてら、今度は環境学や地球学などの本が揃った棚のあいだを抜けつつ書架を眺めたのだが、なかに篠原雅武『複数性のエコロジー』というのがあって、これは図書館の新着図書でも本屋でも見かけてちょっと気になっていたものである。記憶に残しておくためにその著者とタイトルを手帳にメモしておき、そうして席に戻ると書抜きを始めるのだが――田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』である――ひらいた頁に乗せて抑えるための大部の本を求めて立ち上がり、ずらりと並んだ『ファーブル昆虫記』のうちの、最も厚くて大きいように見えた第八巻の下を持って席に戻った。そうして書抜きを始めたのが四時直前だった。ムージル著作集の分はもう大方済んでいたのですぐに終わり、それから、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』の書抜き箇所を読書ノートに記録しようとペンを持ち、始めたのだったが、二箇所からそれぞれ一文をメモしたところで、いやこれ面倒臭いなとなった。結局こうして記録をしたところで、読み返さなければ大して頭に入らないのだし、それだったらさっさと書き抜いてしまって頭に入れたい箇所を「記憶」記事に送り込んで音読したほうが良いのではないか、と以前にも考えた思考をまた辿って、それでひとまず読書ノートへの一文抜書きはやめて、以前と同じように手帳にメモされた頁をもとにさっさと書抜きを行うことにした。また読書ノートを使いたくなったらそうすれば良い。それで休止していたコンピューターをふたたび立ち上げてキーボードに触れ、打鍵を進める。一時間強経って五時半前に至ると、バッテリー残量があと四パーセントと出て、至急電源に繋いでくださいと表示されたので、仕方あるまいと時間を区切ってシャットダウンし、帰途に就くことにした。荷物をまとめてリュックサックを背負って席を立ち、『ファーブル昆虫記』を棚に戻しておくと列を移って、民俗学の区画をちょっと見分してから階段に向かった。退館し、円型歩廊を渡って河辺TOKYUへ、入口には閉店の知らせが掲げられてあった。先ほど携帯電話を見たところ、果物は買ったからいいと母親からメールが入っていたのだが、どうせ風呂場用洗剤を買うつもりだったのだ。それで籠を持って、まずはいつも通り茄子を二パック取り、さらにエノキダケも籠に入れてから、洗剤の区画に行ったが、我が家で使っている「ルック」の詰替え用が見当たらない。以前ここで買ったように思うのだが、気のせいか。別にほかのメーカーの品でも大丈夫だとは思うが、「バスマジックリン」の品を手に取ってみると、しかし必ず該当の容器に移し替えてくださいと書かれてあって、まあサイズが違って余分に余ってしまうのも面倒かと思って、洗剤は母親に任せるか、いずれドラッグストアにでも行く機会が生まれた時に買うことにした。それからポテトチップスの大袋を二つ手もとに加えて会計である。並んで待ったあと一〇三二円を払い、整理台に移ってポテトチップス一つをリュックサックへ、その他はビニール袋へ入れて片手に提げ、退館した。外に出ると西南の空に雲が湧いており、空全体を見ても雲が多くてほとんど全面薄青さに浸ったなかに、これもやはり冷たく青い山影と雲とのあいだにピンクというか紫というか、山の向こうから浮かび上がってくる残照の反映がそこのみ鮮やかな色を差し込んでいて、光の一部は雲のなかにも亀裂を食い込ませるように筋となって走っていた。その様子を眺めながら円型歩廊を回り、駅舎に入って掲示板に寄ると奥多摩行きへの接続は五時四五分、残り二分ほどで丁度良い。改札を抜けるとその電車がもう入線してきており、この日は普段と違ってエスカレーターではなく階段のほうを下って行って停まった電車に乗り込んだ。扉際に就く。ガラスには車両内の様子とその向こう、こちらの背後、反対側の扉の向こうの駅のホームを行く人々の姿が映りこむが、午後六時前の薄青い空気に暗さが足りずにその情景は幽かなものに過ぎない。そうして電車が発車すると、先ほどの山際のピンク色が見えないかと視線を外に飛ばすのだが、線路脇の家々が遮蔽となって遠くの空の様子はほとんど覗かないのだった。そうして青梅着、奥多摩行きはまだ来ていなかった。二番線のほうに移って待合室の壁に凭れ、斎藤慶典の新書を読み出す。じきにやって来た電車に乗ると、やはり扉際に立ったままビニール袋は脚のあいだに置いて本を読みながら発車と到着を待った。最寄り駅で降りると、新書を小脇に抱えたまま駅を抜け、横断歩道を渡って坂道に入ると前方の竹の葉が風に晒されてさらさらと鳴り響いたそのあと一呼吸置いてから、道の上にも風が、坂の下から吹き上げるようにして走ってきて顔や首や身体を包んだ。
 帰宅。母親は台所で天麩羅を調理しはじめるところだった。こちらは買ってきたものを冷蔵庫に収め、下階に下りるとコンピューターを机上に据えて服を着替えた。そうして家計の支出を記録しようと思ったのだが、コンピューターがいつまで経っても立ち上がらない。ついに壊れたかと思いながらひとまず強制シャットダウンしてもう一度スタートさせてみて、待つあいだに隣室に入ってギターを適当に弾いて、ちょっとしてから戻ってくるとつつがなく準備されていたので安心した。ギターを持ってきて、(……)らの曲、"(……)"を明日宅録するらしいのでその練習に入る。と言ってフレーズはもう大方固まっているのであとはミスしないように通して弾けるようにするだけである。アンプにも繋がない貧弱な音のまま、流れる音楽に合わせて何度も繰り返し頭から通して弾いたが、単純なエイトビートのコード・ストロークでさえも難しい。コードチェンジを滑らかにするというのは基本のはずなのだが、これほど難しいこともない。それで七時半くらいまで練習をしたと思う。その後、FISHMANS『Oh! Mountain』から"いかれたBABY"をリピート再生にしてベッドに乗り、歌いながら手の爪を切った。鑢掛けもしてティッシュを丸めてゴミ箱に放ると、今度は勢いに乗ったまま"感謝(驚)"を流して歌い狂い、それからyoutubeFISHMANSのライブ動画をいくつか閲覧した。そんなことをしているうちに八時が過ぎる。上階へ行くと母親がお先にねと言ってくるので、ああ、と受ける。食事は米に野菜スープにフキノトウの天麩羅に唐揚げに茄子の和え物にサラダである。こちらが先日買ってきた鶏肉を揚げたらしい。テーブルに寄ると葉書があって、見ればUさんからこちらに送られたものである。表面にはサックスを吹くプレイヤーのシルエットがある絵葉書で、裏面のメッセージは、「いつだったかニューオーリンズに行ったときに買った絵葉書を見つけました。たしかFさんはジャズ好きでしたよね? お元気で。U」とのことである。有り難いことだ。彼にも久しぶりにまたメールを送りたい――どんなことを話せば良いだろうか。最近こちらはどんなことを考えているのだろう、と言ってむしろ何も考えていないと言うか、考えるとは一体どのようなことなのかとか、ものを読めば読むほどものを考えられなくなっているような気がするとか、自分は全然ものを考えていないのではないかといったことを疑問に思っているようなのだが。そうして卓に就き、どうでも良いテレビ番組を尻目に夕刊の一面に目を通す。ドナルド・トランプ大統領が、非常事態宣言の無効化決議に対して拒否権を発動したと言う。そのほかニュージーランドのテロ事件の続報があって、主犯者が法廷に出頭したが(随分と早くないか?)その様子は不遜で、にやにやと笑っており、白人至上主義をアピールするような素振りも見られた、というようなことが書いてあった。頭がおかしいとしか言いようがない。そうしてものを食べ終えたこちらは食器を洗い、そのまま風呂に入った。湯のなかではUさんにどのようなことを書き綴ろうかと散漫に頭を回し、出てくると身体を拭いてドライヤーで髪を乾かすのだが、短髪も短髪になったために即座に終わって楽だった。そうして下階の自室に帰り、ポテトチップスを食いながらちょっと休んだのち、九時半ちょうどから日記を書き足しはじめた。BGMはBobo Stenson / Anders Jormin / Paul Motian『Goodbye』である。ここまで記してぴったり一時間が経過した。最近は何だか書くことが多いような気がする。この日の記事も数えてみると既に一万二〇〇〇字を越えていて、以前は一日一万字書けばそれだけでぐったりとしていたような気がするが、もうよほど書きぶりもこなれて楽になってきたようだ。
 その後、一一時直前から、Brad Mehldau Trio『Art Of The Trio, Vol. 4: Back At The Vanguard』を流しだし、「記憶」記事を音読しはじめたのだが、もう時間も遅いので三箇所読んだのみでやめ、音楽も冒頭の"All The Things You Are"の途中で止めた。そうしてベッドに移り、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』を読みはじめたのが一一時ちょうどだった。それから二時間半、途中で眠気に苛まれつつも、ベッドの縁に腰掛けるなど姿勢を変えて回避しつつ読み進めて、一時半に就床した。下記の、「時=空=間的断続体」という表現が印象に残っている。

 このように世界の時=空=間的変動はとどまるところを知らないが、このことは必ずしも世界の時=空=間的変動が連続的であることを意味しない。先にこの変動を記述する際、「はっと気づいたときには」とか「いつの間にか」と述べたように、私たちの経験の実際は時=空=間的変動を示す位相差(いま/たったいま、ここ/そこ、など)の切断線が時と場合に応じてさまざまな仕方で引かれることで成り立っているのであって、世界は時=空=間的連続体というよりはむしろ時=空=間的断続体とでも呼んだほうが実態に近い。世界にはそれこそ無限に多様な仕方で無数の亀裂が縦横に走っているのであって、それを時=空=間的連続体と見るのは、「もの」(「何」)の時間(持続)や空間(大きさ)を測定する「秤」から持ち込まれた一種の想定にすぎないのだ。時間を数直線で表示すれば、直線の性質から時間もまた(無限に分割可能な)連続体に見えてくる道理である。ここで忘れてはならないのは、そもそも時間を数直線で表示すること自体が、それでもって「何」かを(時間的に)測るための方便にすぎないということなのだ。
 (斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』ちくま新書(651)、二〇〇七年、145~146)

2019/3/15, Fri.

 一〇時一五分起床。睡眠時間は八時間、小敗北と言ったところか。やはりもう少し眠りを減らしたいとは思う。実のところ毎回、まだ暗いうち、四時やら五時やらに一度目が覚めているので、その時点でもう起きて活動を始めてしまい、足りない眠りはあとで稼ぐようにすれば総計の睡眠時間も少なくなるだろうと思うのだが、なかなかそう起きられないのが現状だ。ダウンジャケットを羽織らず上階へ行き、寝間着からジャージに着替えると、便所で用を足したあと洗面所に入って顔を洗うとともに髪を梳かした。台所には前夜の残り物である鯖と葱のソテーが置かれてあったので、そのうちから鯖を一つ小皿に取り分けて電子レンジで加熱する。米もよそって、貧相だが二品だけの食事を卓に運んで取りはじめた。太陽は旺盛に光を降らし、南窓の向こうでは近所の屋根が真っ白に輝きを纏っているが、気温の体感は思いの外に肌寒く、電気ストーブを点けて足もとに暖風を送らせた。新聞を瞥見しながら鯖をおかずに米を食べ、終えると薬を服用、残りは一回分のみとなっており、今日の午後に医者に行く予定である。それから皿を洗って食器乾燥機を駆動させておき、下階に戻ってくるとダウンジャケットを羽織ってコンピューターを点けた。Twitterを覗いたり、前日の記録をつけたりしたのち、一〇時五〇分から日記を書き出した。さほどの時間も掛からず前日の記事を仕舞え、この日の分もここまで綴って一一時一〇分を迎えている。
 FISHMANS『Oh! Mountain』を今日もまた流しながら、ブログに前日の記事を投稿した。それから久しぶりに過去の日記の読み返し、二〇一六年七月三日、フランツ・カフカの誕生日だと冒頭に書きつけている。酷暑のようで、「部屋に立っているだけで熱が興奮した蜂のように身の周りに群がってくる」と漏らしているが、暑気を「興奮した蜂のように」と喩える比喩はちょっと良かった。ほか、風景描写。

 甘く熟した果物のような、生ぬるい夏の黄昏時である。駅へと階段を上がって、通路の壁の上方にある窓の向こうに目をやると、西のほうでは薄紫が煙り、その右方では、図書館のビルに遮られて定かではないが、細い炎の筋のような夕焼けの色も僅かに見られたようだった。雑多な掲示の紙が張られて味気なくくすんだ壁が左右を囲み、窓はその上端に申し訳程度にしかひらいていないこの通路を通るたびに、やや高い位置にあるのだから全面ガラス張りにすれば良かったのにと思うものだ。ホームに降りると北側に寄って空を見上げた。暮れ方の空に、綿を薄く裂いて配置したような、あるいは水のなかに落とした絵具の一滴を筆で引き広げたかのような淡い雲が棚引いており、青に染まった表面のなかでそれのみが紫とも薔薇色ともつかない微妙な色を帯びていた。

 黄昏が進んで空の青が一層醒め、地上にも同じ色を含んだ半透明の幕が下ろされてあたりは薄暗み、その向こうに立つ小学校の白壁も色に浸かっているように見える。空はそれと比べるとまだ明るみを残して、と言って小学校を抱く丘の際にやっとのことで届いているそれは、西に去っていった光の細った切れ端であり、厚みを失ったその先端に辛うじて触れられているだけの青い空は一枚の紙のようで、その紙の輪郭線は既に黒影と化している木々の冠の連なりによって、誰かがそこに噛み付いて隙間を空けずに何箇所も食いちぎり、その歯型が刻まれたかのようにいびつに波打っているのだった。

 それから音楽の流れるなかで「記憶」記事をぶつぶつと音読する。ソシュール言語学の基礎事項に、中国史あるいは現代史の知識である。後者の情報は、大きな事柄の日付と名前を手帳にメモしながら進めた。柳条湖事件が一九三一年の九月一八日に起こったとか、そういったことである。そうして一二時を回ると切り上げて、上階に行った。前日買ってきた「どん兵衛」の豚葱うどんを食べようかと思っていたのだが、既に母親が冷蔵されていた米と釜に入っていた余りの米を使ってカレーピラフを作っておいてくれたので、大人しくそれを食べることにした。そのほか、サラダやフキノトウの入った味噌汁。フキノトウは家の近間で摘んできたものらしく、汁に口をつけてみると少々苦かったが、なかなか美味く、母親は春の味がすると言って喜んでいた。食べ終えると即座に食器を洗って片付け、テレビの前にシャツが二枚放置されてあったので、アイロン台を出してきて母親のものを食べている炬燵テーブルの端に置き、テレビに目を向けながら皺を処理した。テレビは美容・健康番組を紹介していて、例えば血液中の鉄分の多寡で赤血球の色が変わり、顔や肌の明るさに反映されるのだと、そんなことを解説していた。シャツにアイロンを掛け終わると機器のスイッチを切ってアイロン台を元の場所に戻しておき、自分の臙脂色のシャツを持って下階に下った。部屋の収納にシャツを掛けておくとキーボードに触れて日記を書き足し、一〇分でここまで綴った。医者は三時から、二時頃に出れば充分だろう。医者のあとに立川に出ようか、それとも地元の図書館に行こうか迷っている。
 FISHMANSの"感謝(驚)"の流れるなかで服を着替えた。上はGLOBAL WORKのカラフルなチェック柄のシャツ、これは結構薄手のものだがモッズコートを羽織れば大丈夫だろうと判断した。下はUnited Arrows green label relaxingで買った青灰色のイージー・スリム・パンツ。着替えてモッズコートももう羽織った状態で、テーブル前の椅子に就き、時間が来るまでと斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』を読みはじめた。音楽は止めた。そうして五〇分、二時がやって来るとコンピューターをシャットダウンさせてリュックサックに入れ、その他身支度を済ませて上階に上がった。炬燵に入ってタブレットを弄っていた母親が顔を上げて、もう行くの、と尋ねてくる。Brooks Brothersのハンカチを引き出しから取りながら、医者のあとに立川に行ってくると告げた。FISHMANSのライブ盤が欲しくて、ディスクユニオンに行くつもりだったのだ。そうして出発、道に出て歩いて行くと、道端の雑草が瑞々しい緑色に伸びており、春の気配が漂っている。坂に入ると前日と同じく風が正面から走って来たが、その風は前日よりも首もとに冷たいようだった。上って行って出口に掛かる頃、足下に視線を落とせば、電線や木枝やこちら自身の影と日向とがくっきり分かれて路面に描き出されており、首を巡らせば雲は乏しく、西空に掛かった太陽を遮るものはなくて、まだ当分のあいだは日向が揺らぐことはなさそうだった。街道へ向かい、表に出るとすぐに通りを北側へ渡って、ぬくぬくとした陽射しを背に受けながら歩いて行くのだが、正面から寄せてくる風はやはり清冽で、身体の前と後ろとで違った温度が身に宿る。汗の感触は、昨日よりも薄いようだった。
 裏通りに向けて折れると民家の庭に生えた紅梅の木が二つ、色の淡いものと濃いものと、薄陽を受けながらどちらも風に揺らがず、花を散らしもせずに咲き静まっているその動じない様子からして、今がちょうど力の満ちた、花の盛りのようだった。この日は昨日と違って時間が比較的早いから――と言って一時間も変わらないが――裏通りに下校する高校生やすれ違う小学生らの姿もなく――小学生が帰りはじめることを告げる二時半の時報が途中で流れた――静かななかを黙々と歩いて行く。特段に興味深い事物とも遭遇しなかったようだ。日向が急に薄くなった時間があって、振り仰げば太陽が雲のなかに包まれてあったが、すぐにまた復活した。道中の一軒に生えている白木蓮は、宙を穿たんとばかりに直上に向けて鋭く突き立った枝の、その梢のほうに近い花は既にいくつかひらいていて、黄味を僅かにはらんで人工的なライトのように白く灯っているものの、地上に近いほうはまだ蕾が多かった。青梅坂に掛かると横断歩道の向かいに、小さな女児と祖母らしき女性が立って、あどけない声と老いた声とが何やらやり取りしていると見ているうちに、子ども用の極々小さな自転車に跨った女児は方向を転じてこちらの行く道先へと向かい、緩く坂になった道を自転車に乗って、ペダルを漕ぐのでなくて地面を蹴って進みはじめ、祖母がそれを追いながら、前を見て、前を見て、などと心配そうに忠告していた。そのあとを追っていき、市民会館跡地前に来ると駐車場の隅、停まった車の脇に人足が、ヘルメットに尻を嵌め込んでその上に乗って座りながら煙草を吹かしていた。駅前に出る口の前、コンビニの横でも、何故わざわざそんなところで、しかも身を低くして吸っているのか、コンビニの店員なのだろうか一人の女性が、しゃがみこんだまま煙草を吸っていた。
 青梅駅に着いたのは二時半過ぎだった。改札をくぐり、ホームに上がって先頭に近いほうへと移動する。小学校の校庭には紅白の帽子を被った体操着姿の子どもたちが右往左往しているのが見られ、目が悪くてあまり定かに捉えられなかったがボールらしきものを投げていたり、バットらしきものを振ったりしていたかもしれない。それを見ているうちに電車が入線してきたので振り向き乗って、いつも通り二号車の三人掛けに、リュックサックを下ろして腰掛け、斎藤慶典の本を取り出すと頁に目を落としはじめた。本の端に、窓から射しこんでくる薄陽が掛かる。発車してからも文字を追い続け、河辺に着くと降りて、エスカレーターに乗った。前に立った女性は、色の褪せたようなジージャンを羽織って、黒い靴は下端が少々砂埃に汚れたようになっていた。くしゃみをしながら改札を抜けると、いつも向かう図書館とは反対側に折れ、階段を下りて駅舎を抜ける。ロータリーの周りを回っていると突風が吹きつける。それに髪を乱されながら家並みのあいだを進み、Nクリニックのあるビルに踏み入った。時刻は診察開始の三時直前だったが、階段を上がって行くと、待合室には既に四人の姿があった。電話をしていた受付員の一人に会釈し、リュックサックを座席の端に下ろして財布を取り出し、出てきたもう一人にお願いしますと言って保険証と診察券を差し出した。ほんの少し待って返却された保険証を受け取り、席に腰掛け、斎藤慶典の新書を取り出して読みはじめたが、受付員の電話の会話が、耳に入れるともなく入ってきてそちらに気を取られてなかなか進まない。患者からの要領を得ない相談のような、あるいは雑談のような電話がよく掛かってくるようで、それをいかに巧みに受け流し、通話を終了させるかに心を砕いているようだった(「心を砕いている」は言い過ぎか?)。勿論こちらが聞こえるのは片方のみ、受付員の声だけなのだが、それでも何となくその会話に耳が行って、電話が繋がっているあいだは頁が進まないのだった。BGMは最初、あれは何という曲だったろうか、確か小学校か中学校の音楽の授業で習うか、合奏をやるかしたような覚えがあるが、その曲の、フュージョンめいたギターが旋律を担当したアレンジが掛かっていた。その後はクラシックの類である。先生は三時を五分過ぎてからやって来た。そうして患者が呼ばれはじめ、最初はこちらの右方に座っていた、覇気のない、目の虚ろな亡霊のような顔の若い男性が呼ばれていた(「S」という名字だった)。途中で受付員が、Fさんがどうのこうの、と言ったらしく聞こえた。こちらの名前が聞こえたように思われたのだったが、微かに聞こえた断片から内容を推測するに、どうもFさんの若さが際立つ、といったようなことを言ったのではないかと推し量られ、実際、先の若い男性を除けばこちらのほかに室にいるのは中高年ばかりなのだった。
 じきに何人かの患者がやって来て、多少混みはじめてきた。なかに一人、左右に振れながらゆっくりと歩く恰幅の良い女性――背負った大きなリュックサックについたキーホルダーか何かの飾りが、動きに合わせて音を鳴らす――がやって来たのだが、この人は以前も見かけたことがあった。彼女は今日は父親らしき男性を同伴していたが、この父親が、人相のあまり良くなくて、眼鏡を掛けているのだがヤクザを思わせるようなやや粗暴そうな顔貌の人だった。彼女らがこちらの右方に向き合うようにして座り、こちらは呼ばれると――四時三二分だった――、ちょっと失礼、といったように会釈をしながらそのあいだを通り抜け、扉に近寄ってノックをして、開けるとこんにちはと言いながら診察室に踏み入った。扉を閉め、革張りの椅子に腰掛ける。いつも通り、どうですか、と訊かれるのには、笑いながらまあ、変わらず、と答えた。悪くはないですねと問うので、悪くはないと応じると、にこにこしているから、見たところでも調子がわかるというようなことを医師は言う。外出したり日記を書いたりしていますかと続くのには、していますと力強く答え、ちょっと置いてから、今日もこれから立川に出ようと思っておりますと告げた。元気になってきましたね。もうかなり……(と言葉を考えて)常態に戻ってきたのではないかと思います。一年ぐらい掛かりましたね。そうですね、ちょうど一年くらいでしたね。仕事への復帰は考えているかとの問いには、考えてはいるとひとまずは答えた。しかし続けて、憚りながら――とにやにや笑い――今の生活があまりに楽なもので……と破顔すると、それはそうでしょうねと先生も笑う。それで、今のあいだにしか読めないものを読んでからにしたいなどと思っております……ムージルという作家がいるんですけれど、彼の『特性のない男』という作品がありまして、それが長いものなので、それを読んでからにしようかなどと、甘いことを考えております、まあそのあたりは両親とも話し合って、復帰のタイミングを決めようと思っていますが。どのくらい長いですか。邦訳で六巻ありますね、ハードカバーで。それは長い……ムージル、と言うんですか。ムージル、です。いつ頃の人なんですか。二〇世紀ですよ。翻訳もあるということは、そんなに最近の人ではない。そうですね、一応二〇世紀文学の最高峰とされているんですけれど……(それじゃあ有名なんですね)、いや、そうでもないんです(と笑う)。例えばカフカだったら……。カフカは一九世紀の人ではないんですか。生まれたのは一九世紀ですね(確か一八八三年だったか?)。書いていたのは二〇世紀ですか。一九一四年とかそのあたりではなかったかと思います、一九二四年くらいに亡くなった人なので……カフカなんかと比べると、知名度が低いようです。カフカは誰でも知っていますもんね。あと長いやつだと、プルーストなんかがありますけれど。ああ、そう、プルーストも長いですね――とそんな感じで会話を交わし、今後の方針を尋ねると、薬は保ちつつ、あとはどのように減薬していくかだろうとのことだった。しかしそんなに急いで減らさないほうが良いと思いますね、ということで、今回は変わらず、一日に朝晩二回の処方で四週間分と定まった。ありがとうございますと礼を言って椅子を立ち、扉に近寄るとこれもいつもの習いだが、失礼しますと言って医師のほうに頭をちょっと下げ、それから室を抜けた。本を仕舞い、リュックサックを背負って会計、どうも、ありがとうございましたと礼を言って退室した。階段を下って行き、外に出ると近くの小学校の児童らが下校している途中でわさわさと群れており、なかにけん玉か何かを振り回している姿が見られた。薬局に入り、お薬手帳と処方箋を差し出す。保険証を提示したほうがよろしいですかと尋ねると、そうしてもらえると助かりますとの答えだったので財布から出して渡し、するとお薬手帳に名前を記入していただけませんかと頼まれたのでペンを借りてその通りにした。そうして六一番の紙を受け取って席に就く。最初のうちは局員と高齢の女性がやり取りする声などを背後に聞いていたが、そのうちに本を取り出して読みはじめた。しかしさほどの時間も掛からず呼ばれたと思う。この日の相手はN.Aさんである。ちょっと飄々としたような感じの女性である。この一か月、調子はどうでしたかと問われたのには、調子は良かったです、お蔭様で良くなってきましてと頭を下げた。眠くなるとかそういったこともないですか。大丈夫です。実際、副作用らしいものは特段発現していない(性欲が減じて自慰が全然気持ちよくなくなったくらいではないかと思うが、これは薬の副作用というよりむしろ、原疾患のなせる業ではないかとこちらは推測している。カフェインが利かなくなったこともそのうちの一つだが、病気以来、全体的に心身が鈍化したような感じがあって、当然性感も乏しくなったというわけだ)。それで会計をすると――二〇八〇円。薬代もなかなか馬鹿にならない――その際に、何やら読売新聞をプレゼントするサービスというのをやっているらしくて、受け取りますかと差し出されたが、うちは読売を取っていますと言って断った。薬局で新聞を配るんですかと言うと、今月限りのキャンペーンで、ほかにも色々なところでやっていると思いますよとの答えがあった。なかなか自宅訪問だと取ってくださらない方が多いんじゃないですか。なるほど。それで礼を言って退店し、リュックサックの内に袋を入れて駅に向かった。行きとはルートを変えて、線路脇に出る。西には空とほとんど同化したような雲が湧いており、日向が淡くなっていたが、風は盛らず時間が下っても行きよりも冷たさはないようだった。線路脇に出ると、駅の反対側のマンションの傍、下方は空に溶け込んだ巨大な雲を背景にして、鴉か何かの鳥が一羽ばさばさと翼をはためかせて飛んでおり、こちらの頭上までやって来るのを追う。そうして駅に向かい、階段を上がって通路を行き、改札を抜けてホームに下りた。立川方面行きは発ったばかりである。線路に向かって立ち、立ったまま新書を取り出して読みはじめた。近くには小さな女児と母親の二人連れがいて、次の電車は十両ですとのアナウンスが掛かると女児は、十秒?と言い、十両だよと母親に訂正され、母親は、電車が一二三四五六七八九十、って十個繋がってるの、電車は一両、二両って数えるんだよと子どもに教えていた。やがて来た電車に乗る。先頭車両である。席の端に就いて、本を読みながら到着を待った。道中、先程の女児は、次は羽村です、とか福生です、とかアナウンスが流れるたびに、はむらー、ふっさー、などと復唱していた。彼女はこちらの左方にいたが、反対側、右方の車両の端、優先席にはベビーカーと赤ん坊を伴った母親が乗っていて、赤ん坊は途中で目を覚ましたようでママ、だかまんまだか、母親を意味しているのかご飯を意味しているのか(おそらく前者だろう)、頻りにMの音を大きな声で発していた。途中で乗ってきた高年のサラリーマンらしき男が、姿も見えなかったし声も聞こえなかったが、その優先席の隣に就いたようで、赤ん坊を相手にあやしてやっていたようで、母親と何とかかんとかやり取りをしていた。赤ん坊は一歳ちょっとだと言っていた。
 立川に着いて席を立つと、東京行きだから三番線に着くだろうと思っていたところが実は立川行きで一番線着、それだったら客が皆捌けてから降りたかったのだが、扉の横のボタンを押して、皆と同時に降りることになった。ちょっと脇に引いて手帳に読書時間をメモしながら乗客たちが階段へ向かうのを待ち、その後ろから上がって行く。駅構内に出ると、人波が厚い。今日は金曜日、現在は四時半だから、人々が帰りはじめる時間帯だろうか。改札を抜けるとパンかラスクのような、香ばしいような芳しいような匂いがどこからか漂っていて、鼻を鳴らしながら進むとルミネの横でマロンデニッシュを売る台が出ていたので、香気の出所はここらしかった。人波の一部になりながら広場に出て、エスカレーターを下りて賑やかなビックカメラの前を過ぎ、広い交差点で立ち止まった。こちらのいるのは十字の右下、方角で言っても正面がそのまま北だから南東の一角、そこから斜めに渡った左上、北西の一角に、今まで気づかなくていつからあるのか知れないがセブンイレブンが出来ていた。通りを挟んで向かいのローソンと張り合っている。信号が変わるのを待って通りを渡ると、ディスクユニオンへと階段を上って入店した。まずJ-POPの棚を見るが、目当てのFISHMANSは僅か二枚しかない。Damn. さらに中村佳穂がもしかしてないだろうかと「な」の項も見たが、あるはずがなかった。それから壁際のブラジル音楽の棚をちょっと見分したあと、ジャズに移る。最初に見つけた目ぼしい品はBobo Stenson『Goodbye』で、Paul Motianがドラムスで、しかも九八〇円でわりと安いので、これは買おうかなと思って新着棚の上のほうに取り分けておいた。それからアルファベット順にメジャーな名前ではなく、列の先頭の、現代ジャズがあるあたりを探っていく(棚の下段を見分する時にしゃがんで爪先立ちになると、足の裏に負担が掛かって苦しかった)。そうしてじきに、Darcy James Argueを発見した――しかも二枚、さらには『Brooklyn Babylon』が四八〇円、『Real Enemies』が三八〇円と非常に安い。何故こんなに安いのか知れないがこれは買いだろうということでこの二枚も取り分けておき、その後、フリーの区画が復活していたのでそこをちょっと見たり(と言っても品揃えは非常に薄いが)、後半のアルファベットを端まで探って、あと一つ買おうと思ったのはPaul Bley Trio『Essen 1999』である。これはプライベート盤のCD-Rらしいのだが、Paul BleyPaul Motianでライブで一〇〇〇円となればやはり買わずにはいられないだろう。そのほか、Jimmy Giuffreの一九六一年の録音――ライブかどうかは不明――、これはSteve SwallowとやはりPaul Bleyが共連れだったり、またJason Lindnerのビッグバンドのライブだったりと興味深いものは色々とあったが、そんなに買ってもどうせ聞ききれないし、予算の関係で断念である。会計をする頃には五時四五分が来ていた。二六七九円を払って退店、リュックサックのなかに買ったものを入れると、ふたたび十字路の横断歩道に並んだ。空は色が非常に淡く、白に近くなっていて、少しの偏差もなく広がったそれは晴れ晴れと澄んだ空が暮れて色を剝がされたものなのか、それともいつの間にか全面に雲が湧いていて空に溶け込むようにして覆い尽くしたものなのか、一見して区別がつかない。信号が変わると通りを渡り、フロム中武の前でメイド姿でチラシを配っている女性の横を通り抜け、ビックカメラの前も通って、いつもはPRONTOに行くけれど今日はヤサを変えようということで、北口を出てすぐ横にあるエクセルシオール・カフェに行くことにした。Mさんが東京に来た時、三日目、昭和記念公園に行く前に入った店舗である。入店し、フロアに視線を走らせながら一旦上階に上がったが、上に空きはなさそうだったので下階の奥の丸テーブルの一席に就いた。席の脇には、あれは壁龕と言って良いのだろうか、柱と柱のあいだでちょっと窪んだスペースがあり、そこに抽象画の類が掛かっている。リュックサックを椅子の上に置いておいて、カウンターに注文に行った。アイスココアのMサイズ(四一〇円)。礼を言って品を受け取り、席に戻ると、グラスのてっぺんに盛られた生クリームをすくって一口食べ、その後はストローの先で突いて崩して液体と混ぜ、甘ったるいココアを啜った。そうしてコンピューターを取り出して、日記である。六時直前に打鍵を始めて、途中トイレに行きながら(トイレに行くと周囲の会話や店員の声や作業の音が聞こえなくなるので、BGMがよく耳に通る――この時は、ブラジルめいた音楽で、結構力の入ったフルートソロが披露されていた)進めて、思いの外に結構書くことがあって二時間弱掛かり、現在はもう八時も近くなっている。
 ラーメン屋で食事を取ってから帰ることにした。机上を片付けてモッズコートを羽織り、リュックサックを背負ってグラスを持ち、返却台に片付けておくとそのままカウンターの前を横切って退店した。見上げれば夜空のなかに月の光が、雲に包まれて小さくぼんやりと、染みのようにして浮かんでいるので、やはり全面に雲が溶け込んで曇っているらしい。ロータリーの周りを回って行き、横断歩道で立ち止まった。左方、駅の方に視線をやれば、海の底を行き交う魚のように、タクシーたちが乗り場の周辺をゆっくりと動き、曲がっている。通りを渡って裏道のほうへ折れると、サラリーマンか大学生か何かの四人連れがおり(なかの一人はギターか何か、楽器を背負っているように見えたがどうだろうか)、そのなかの一人が恐竜の鳴き真似のような、あるいは端的に狂っているかのような奇声を発していた。彼に無言の視線を送りつけ、すれ違って「味源」に向かう。ビルに入って階段を上り、入店すると威勢の良い声が飛んでくる。醤油チャーシュー麺の食券を買い(一〇五〇円)、近寄ってきた店員にサービス券とともに渡して、割引と餃子とどちらにしますかと問われたのには餃子で、と相手の顔をまっすぐ見ながら答え、カウンターのちょうど角に当たる席に就いた。母親にラーメンを食ってくるとメールを送ったあと、水をコップに注いで、何をするでもなく食事が届くのを待つ。じきにラーメンがやってくると、まずスープを一口二口啜ってから器の外周に盛られたチャーシューを汁のなかに沈め、麺を掘り出して吸い込んだ。左隣の男性客は豚骨つけ麺というものを頼んでいた。こちらはつけ麺というジャンルはよく食わないものであるので、次回来た時には頼んでみても良いかもしれない。彼は食べながら机上に置いたスマートフォンを何やら操作しており、一向に食事が進まないのだった。途中でこちらの右方、カウンター席が折れたその向こうに就いた男性客もやはり豚骨つけ麺を注文しており、さらにそれにライスがついていた。彼もまた食べながら、イヤフォンをつけてスマートフォンで何かの動画を閲覧していたようで、どいつもこいつもただ食べるということができず、食事のあいだの僅かな時間でさえスマートフォンで何かをしなければ気が済まないようだ。そんななかでこちらは一人黙々とものを食べ、丼を傾けながら蓮華でスープもすくって結構飲むと、長居はせずに立ち上がってリュックサックを背負った。引き戸を開けたところでありがとうございましたの声が飛んできたので、外に出ながら振り向き、ごちそうさまでしたと答えて退店した。ビルを抜けて左に折れ、マクドナルドの前を過ぎ、駅前に出ると高架歩廊へ階段を上がる。写真を撮っている外国人の二人連れがいた。その傍を通り抜けて広場を渡り、駅舎に入ると分厚い人波のなかの一人と化して構内を進んで行き、改札をくぐって一番線へ下りた。一号車に乗って扉際に立ち、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』を取り出して読む。道中、目立った事柄はなかった。河辺に着いて乗客がほとんどいなくなると座り、読み続け、青梅に着くと降りて乗り換え、八時五六分発の奥多摩行きに乗って、また扉際に就き、発車までの僅かな時間を過ごした。頁に目を落として到着を待ち、最寄り駅に着くと降りて、電灯の光のなかに入って手帳を取り出し、読書時間を記録する。そうして歩き出し、駅舎を抜けて、たまには違うルートを取るかということで坂道には入らず東に折れた。そうして車の隙をついて通りを南側に渡る。空はやはり全面曇っているようで星の姿は見えず、灰色に沈黙しているばかりのそのなかに、直上、綿の切れ端のような月の朧気な光が幽かに浮遊していた。暗い木の間の坂道を通って下りて行き、帰宅した。
 居間に入ると薬の袋を取り出して所定の位置に置いておき、それからねぐらに戻ってコンピューターを机上に据え、服を脱いだ。シャツに下はパンツのみの姿で上がって行き、入浴である。風呂に入っているあいだに特段印象深いことはなかったようだ。何を考えていたのかも覚えていないし、大したことは考えていない。出てくるとそろそろ一〇時も近い頃合いだったと思われる。一〇時五分から読書を始めている――川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』である。Gary Thomas『Till We Have Faces』Pat Methenyが普段とは違って、やや尖ったようなプレイを見せている)をヘッドフォンで聞きながら、また今日買ってきたCDたちを早速インポートしながら読み進め、音楽が終わると洗ってもらってあったシーツを寝床に整え、ベッドに移って読み続け、一一時半を迎えると斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』にスイッチしたのだが、じきに立ってTwitterを覗いたりしているうちに何故か自分のブログにアクセスしてしまい、そこからキーワードのページにも飛んで何か良いブログはないかとの探索の旅に出てしまった。結局眼鏡に適うブログは見つからず、余計な時間を費やしてしまったのちに読書に戻って、二時前になると眠気が差してきたようだったので書見を切り上げ、明かりを落として床に伏した。


・作文
 10:50 - 11:10 = 20分
 12:45 - 12:56 = 11分
 17:58 - 19:45 = 1時間47分
 計: 2時間18分

・読書
 11:21 - 12:12 = 51分
 13:10 - 14:01 = 51分
 14:54 - 15:32 = 38分
 16:03 - 16:37 = 34分
 20:17 - 20:58 = 41分
 22:05 - 23:25 - 25:47 = (一時間減じて)2時間42分
 計: 6時間17分

  • 2016/7/3, Sun.
  • 「記憶」: 103 - 106; 74 - 81
  • 斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』: 48 - 134
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』: 112 - 174

・睡眠
 2:00 - 10:00 = 8時間

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Gary Thomas『Till We Have Faces』