2019/6/8, Sat.

 この世界には、おそらく無数のダーガーがいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。もうひとりのダーガーが、いま私が住んでいるこの街にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。いや、それはすでに失われてしまったのかもしれない。ダーガーの存在に関してもっとも胸を打たれるのは、ダーガーそのひとだけではなく、むしろ、別のダーガーが常にいたかもしれないという事実である。
 だがやはり、ここでもまた、もっとも胸を打つのは、ダーガーがそもそも「いなかったかもしれない」ということである。「見出されたダーガーの世界」では、ダーガー本人は自分の営みが報われたことを知らないが、私たちは知っている。「見出されなかったダーガーの世界」では、見出されたダーガーは存在しないが、そうした報われない存在が「いた」ということは、私たちは想像することはできる。だが、「ダーガーがいなかった世界」では、ダーガーがいたかどうか、彼のやってきたことが報われたかどうかを、「私たちですら知らない」。知られない、ということが、ロマンチックな語りやノスタルジックな語りの本質であるとするなら、もっともロマンチックでノスタルジックなのは、ヴィヴィアン・ガールズを制作した本人が見出されなかっただけではなく、彼が見出されなかったことを私たちすら知らない、という物語である(見出されたことを知らない、のではなく、見出されなかったことを知らない、ということ)。
 このようにして、私たちの隣のアパートに住んでいるあの老人は、おそらくただの老人であり、部屋のなかにはおよそ人の目をひくような芸術品が存在することは決してないだろう、ということになる。
 そして、それはとても「物語的」である。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、33~34)


 一二時二〇分までだらだらと糞寝坊。上階へ。母親に挨拶。食事はジャガイモとえんどう豆の炒め物に、前夜の味噌汁の残りに、胡瓜とトマトをマヨネーズで和えたサラダ。『メレンゲの気持ち』を見やりながらものを食ったあと、母親の分もまとめて皿を洗ってさっさと下階へ。前日の記録を付け、この日の記事も作成したあとに、コンピューターの動作速度を回復するために再起動を施した。そうしていつもだったら日記を書くところだが、何となく本を読みたい気持ちのほうが勝っていたので、一時ぴったりから渡辺守章フーコーの声――思考の風景』を読みはじめた。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』。中村雄二郎村上陽一郎と渡辺の鼎談を読み進め、蓮實重彦豊崎光一との鼎談にちょっと入ったところで中断。ちょうど音楽も終わる頃合いだった。そうして日記を書くかと思いきや、隣室に入ってギターをちょっと弄ったり、インターネットを閲覧したりして、書き物に取り組みはじめるには二時四七分を待った。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)とともにそれから一時間二〇分ほど書き進めて、ようやく前日の記事を終えてここまで綴っている。
 日記に思いの外に時間が掛かり、前日の記事をブログに投稿し、noteの方についていたコメントに返信を拵えると、既に時刻は四時半を回っていた。その頃にはパソコン教室に出かけていた母親が既に帰ってきていただろうか。あるいはもう少しだけあとだったかもしれない。いずれにせよ、それからふたたび本をいくらか読み足したのち、五時に至って食事の支度をするために上階に行った。台所で包丁を操って何かを切っている音が下階にいても伝わってきていた。階段を上っていって何をやるのかと問えば、煮物を作ると言う。それで今は人参を切り、それを湯搔く段だった。おかずとしてはほかに、昼間のジャガイモとえんどう豆の炒め物がフライパンにいくらか残っていた。そのほか玉ねぎの味噌汁を作ろうと言うので、こちらは母親が皮を剝いた小さめの新玉ねぎを二つ切り分けた。その一方で母親は、小鍋にごま油を引いて人参、蒟蒻、牛蒡を炒めはじめた。そこに水を注いだあたりでもう一つの鍋の湯も沸いたのだったと思う。そちらには玉ねぎを投入し、こちらは立ち尽くしてそれが煮えるのを待っている一方で、母親はキャベツや人参をスライスして生サラダを拵えていた。粉の出汁と椎茸の粉を二つの鍋にそれぞれ振り入れ、玉ねぎが柔らかくなったところで味噌を溶き入れて汁物を完成させ、今日も父親は山梨に泊まって帰ってこないのであとは煮物が出来るのを待てば食事の支度は完了である。
 こちらはそのあと下階に下りてきて、五時半からふたたび書見に入った。BGMとして流したのは『Bob Dylan』、それにChris Potter Underground Orchestra『Imaginary Cities』である。Bob Dylanのデビュー・アルバムのワイルドな歌唱とギター・プレイは気に入られた。これは繰り返し聞きたい音源である。部屋に薄暗闇が差し込んで頁の上の文字が見づらくなる七時頃まで明かりを点けずに読書を続け、その後電灯を灯してまたほんの少し読み進めたあと、七時一二分で切って食事を取りに行った。米とおかずと汁物をそれぞれよそり、炒め物には醤油をちょっと垂らして味を濃くして、それと一緒に白米を咀嚼する。テレビは最初はニュースを流していたと思うが、じきに母親がどうでも良い番組に変えてしまった。ものを食べ終えると抗鬱剤を服用し、食器を洗って、風呂に入る前に一旦自室に帰った。そうしてMさんのブログを読むことにした。五月二八日から三〇日の分まで三日間の記事を読んだが、二九日の冒頭に掲げられていた立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』からの引用が面白く、啓発的でもあるように思われたので、ここに引かせてもらう。

 このように、フェティシズムを支える倒錯的固着は、誰もが次の項を予期できるほど一般化された既成のメトニミーに依存している。とすれば、私たちはそこから一歩進んで、こう指摘することもできる。連鎖を中断するとしないとにかかわらず、およそ既成のメトニミーに依存し、それをふりかざす態度は倒錯的である、と。ラカンは、倒錯者の振舞いがおうおうにして自己の欲望の特異な在り方を「証明する」(あるいは「見せつける」)性格をもつことを指摘している。その際に倒錯者が依拠するのが、しばしば「aならばb」というたぐいの既成のメトニミーであることは偶然ではない。翻って、今日の私たちの文化のなかに、この種のメトニミーがどれほど氾濫していることか。ある種の人格障害を見れば、必ずや過去に幼児虐待の経験があると信じて疑わぬ臨床家がいる。大事件を起こした個人の生育歴や内面には、その事件を説明する決定的な要因が存在していると決めてかかる言説もあとを絶たない。因果性(原因/結果の関係)は、ヒュームとカント以来、それを措定する主観の関与を抜きにしていかなる意味でも成り立たないと考えられてきたにもかかわらず、今日の一部の科学的言説が、客観性の名のもとに、それを直線的で機械的な刺激/反応図式に還元して憚らないのは驚くべきことだ。このように操作的に用いられるメトニミーは必ずしも因果関係だけとはかぎらないが、誇張されたメトニミーの有無を言わさぬ押しつけが、それ以外の論理や思考の可能性をことごとく圧殺する目的でなされることも稀ではない。世間ではもっぱら「反原発発言」としか受け止められなかった村上春樹カタルーニャでの美しいスピーチが、こうしたメトニミーが今日の社会でいかに暴力的に幅をきかせているかを告発したのは印象的だった――

まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね」「夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。〔…〕原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

村上が耐えがたく思っているのは、「原子力発電の停止→電力不足」という、完全な誤りとは言わないまでも、きわめて限定されたメトニミーを、あたかも動かしがたい「現実」であるかのようにふりかざす言説にほかならない。ラカンが指摘したように、メトニミーを成り立たせる二つの要素の繋がりは、厳密に言語のなかにしか存在しない。とすれば、そうした繋がりのひとつ(だけ)をあからさまに突出させて、それに「現実」の名を被せることは、村上が看破したように「論理のすり替え」以外の何ものでもない。もっとも、そうした「論理のすり替え」によって反原発派を黙らせようとする勢力を批判することが、村上のスピーチのテーマだったわけではない。村上の訴えの中心にあったのは、これらの「論理のすり替え」を「効率」のような安易な基準のために許してしまったところに、広島・長崎という大きな犠牲の上に成り立っていたはずの戦後の日本の倫理と規範が、福島の事故で一挙に崩壊してしまった理由があるということだった。「効率」という一元的な基準に二度と支配されない「新たな倫理と規範」を打ち建てなくてはならないと村上が訴えるのは、そのためだ。だが、私たちは、これらいっさいが村上にとってもっぱら「言語の問題」として捉えられていることを見逃してはならない。私たちの倫理や規範の崩壊は、なによりもまず、微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧されることからはじまるのだ。その意味では、かくも果敢な村上の発言をただの「反原発」の一点に矮小化して伝えた我が国の多くの報道や、やはりその一点のみに賛否を集中させたインターネット上の議論は、村上が批判しているのと同じタイプの言論を垂れ流したにすぎない。マス・メディアを介していまや私たちを四方から取り囲んでいるように見えるそうした言論の多くは、ラカンがメトニミー型固着をそう呼んだのと同じ意味において「倒錯的」であると言わねばならない。
立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』)

 Mさんのブログを三日分読むと時刻は既に八時半ちょうどに達していた。部屋を出て入浴に行った。階段を上がると母親が、下着はそこに置いておいたと言うので、階段横の腰壁の上に置かれたものを取ってありがとうと口にし、洗面所に入った。風呂のなかでは、やはり自分には哲学やら思想やらの能力はないのだろうなということを考えていた。今、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』を読んでいても、比較的軽い形で語られている鼎談においても、発言者がどういうことを言っているのか、どうしてそういうことになるのかわからないような部分が多々見られるのだ。どうも自分には難しい文章を読み解き、哲学的な概念をうまく掴み捉えるような方面の才覚はないように思われる。結局自分にある才能というのはただこうして毎日日記を書くことのそれのみなのだろうと今までに何度思ったか知れないことをまた思い、それ以上を求めるのは高望みなのかもしれないなどと考えた。そうして浸かっていた湯から上がって出てくると、母親に風呂を出たことを伝えてさっさと自室に帰り、Chris Potterの音楽を背景に日記を書きはじめた。九時前から始めて、二〇分弱で現在時刻に追いつかせることが出来た。
 それから『岩田宏詩集成』の書抜き。愚にもつかないような素朴なコメントを付しながら、四〇分ほど岩田宏の詩句を日記に写した。続いてさらに、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』のなかから書き抜きしたい歌をまず手帳にメモ。それに三〇分強使ったあと、「第28回Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞記念対談 大竹昭子氏×九螺ささら氏」(https://dokushojin.com/article.html?i=4666)という記事を僅か四分でさっと読み終えた。そうしてベッドに移り、Michael Brecker『Pilgrimage』が流れるなか、ふたたび渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書見。残っていた二〇頁弱を読み終えてしまうと、コンピューター前の椅子に就いた。と言ってインターネットを見て回ったりしたわけではない。久しぶりに読書ノートをひらいて、そちらに九螺ささら『ゆめのほとり鳥』から先ほど手帳に写した歌のいくつかを引き、感想を付していったのだ。少し前まで書抜きをする前に読書ノートにメモを取っていたのだが、面倒臭くなって止めてしまったところ、しかし結局手帳に場を変えて同じようなことをやっているのだから、また読書ノートに書けば良いではないかと思ったのだった。手帳はそのコンパクトさを活かして、書抜き候補の頁や、読書中に思ったちょっとしたことなどをメモするのに使い、正式な記録は読書ノートに取る。そうしてさらに正式な記録はコンピューターを使ってEvernoteに打ち込む、という三段構えの方策でひとまずやってみるかと相成った。それで九螺ささらの短歌について、全然大したものではないがいくらか感想を綴ったので当該の歌とともに以下にも記録しておこう。

 鳥避けのCD揺れる銀河色 四億年前の記憶のごとく
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、9)

 エレベーター昇りきるとき重力はとうめいになる シリウスが近い
 (14)

 目玉焼きが真円になる春分は万物が平等になる一日[ひとひ]
 (36)

 一首目は、「銀河色」という色の形容が美しく、またこの語によって読者は宇宙的スケールにまでイメージを拡張していくことになる。「四億年前」という時間の指示も同様の働きを持っていて、人類がこの地球に誕生する以前の、ほとんど宇宙的な時間がここでは想像されている。「鳥避けのCD」というどこにでも見られる日常的な事物から、時間・空間両面において「宇宙」を連想させ、想像力を拡大していく規模の大きさが特筆するべき点だろう。
 二首目において主題化されている「重力」は元々透明で目に見えないものだが、ここではあえてその語を使うことによってエレベーターが「昇りきるとき」の浮遊感、常に身体に作用している重みがふっと消えた時の感覚をよく表しているように思われる。それはまさに「重力」がその実質を失い、「とうめい」になったかのような感覚だ。「とうめい」の語を漢字にせず平仮名にひらいているのもポイントだろう。また、結語の「シリウスが近い」では、ここでも「宇宙」への志向が見られる。空を越えて天体と同じ位相にまで浮かび上がっていきそうな浮遊感・上昇感というわけだろう。
 三首目。「真円」は欠けた箇所のない完全な形であり、それは「万物」の「平等」という完全性の観念の形象化と言っても良いだろう。目玉焼きが偶然、完璧な円になった時のささやかな喜びを想像的に増幅させて、このようなやや大仰とも思われる表現に仕立てたのだろうか。しかし、「春分」の語から連想される春を迎えた頃合いのうらうらとした暖かさのイメージも調和して、ユートピア的に浮き浮きするような春の一日をよく描き出しているように思われる。
 「鳥避け」の一首や「目玉焼き」の歌にも見られるように、この作家は、極々日常的で身近な事物や情景を、いくらか抽象的で大規模なイメージや観念と結び合わせることが得意なようだ。同じような趣向を持った歌には、例えば次のようなものがあるだろう。

 あくびした人から順に西方の浄土のような睡蓮になる
 (8)

 耳鼻科には絶滅種たちの鳴き声が標本のごと残響してる
 (21)

 日曜の歩行者天国から空へレジ袋天使が旅立ってゆく
 (24)

 ありきたりな評言ではあるが、これらの歌は、日常の見慣れた世界を「異化」し、その豊かさや重層性を浮き彫りにして見せてくれるという機能を果たしているだろう。
 その後、一時一四分から新しく山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読みはじめた。最初の断章、「柳小橋界隈」の雰囲気が魅力的で、この少女トエの物語の続きをもっと読みたいという気持ちにさせられるのだが、頁を先取りして確認してみたところ、彼女の物語が語られるのはこの冒頭の断章のみらしく、その点残念である。ほか、「しんねりと」(7)、「ぐじぐじと」(8)、「じれじれと」(12)、「やわやわとした」(16)といったように、珍しい擬音語・擬態語が使用されているのが印象的である。
 二時半前まで読んだところで書見を切り上げ、就床した。


・作文
 14:47 - 16:09 = 1時間22分
 20:54 - 21:12 = 18分
 24:33 - 24:54 = 21分
 計: 2時間1分

・読書
 13:00 - 14:10 = 1時間10分
 16:37 - 17:01 = 24分
 17:30 - 19:12 = 1時間42分
 19:45 - 20:30 = 45分
 21:12 - 21:50 = 38分
 21:55 - 22:29 = 34分
 22:31 - 22:35 = 4分
 22:39 - 24:32 = 1時間53分
 25:14 - 26:23 = 1時間9分
 計: 8時間19分

  • 渡辺守章フーコーの声――思考の風景』: 222 - 383(読了)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-05-28「文明が居心地悪いわたしらは大停電の夜に生まれた」; 2019-05-29「深海で星が降るのを待つ貝のようなあなたのくちびるがいま」; 2019-05-30「寝坊したおかげで今日はまだだれの訃報も目にしていないという」
  • 岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年
  • 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、メモ
  • 「第28回Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞記念対談 大竹昭子氏×九螺ささら氏」(https://dokushojin.com/article.html?i=4666
  • 山尾悠子『飛ぶ孔雀』: 7 - 24

・睡眠
 4:00 - 12:20 = 8時間20分

・音楽

2019/6/7, Fri.

 二人の会話のかけがえのなさは、二人が死んだ世界では、私たちも二人も知っている。二人が普通に帰ってきた世界では、そのかけがえのなさを、私たちは知っているが二人は知らない。そして、この二人の存在が与えられていない世界では、そのかけがえのなさは、私たちも知らないし、(言うまでもなく)二人も知らない(というより、そもそも存在しない)。
 この二人の話は、私がでっちあげた作り話である。ぜんぶ嘘なのだ。こんな二人はどこにもいないし、たかが泥棒よけのためにこんなに不自然なほど手のこんだことを考えるものはほとんどいないだろう。もともと私たちには何も与えられていないし、私たちは何も失ってはいない。
 そして、このようなことは、世界中に存在しているのである。あらかじめ与えられず、したがって失われもしないために、私たちの目の前に絶対に現れないようなものが、世界中に存在しているのだ。何も起きていない現実が世界中で起きているのである。私たちが毎日かわしている何気ない会話は、エリック・ドルフィーが音楽について述べたのと同じように、空気のなかに消えていって二度と戻ってはこない。しかしさらに感情に訴えかける事実は、それが戻ってきたからといって、やはりその言葉に特別なものは何もないということである。ロマンチックなもの、ノスタルジックなものを徹底的に追い求めていくと、もっともロマンチックでないもの、もっともノスタルジックでないものに行き当たる。徹底的に無価値なものが、ある悲劇によって徹底的に価値あるものに変容することがロマンなら、もっともロマンチックなのは、そうした悲劇さえ起こらないことである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、31~32)


 アラームで一度床を離れるも、いつものように二度寝に入って結局一一時四〇分まで糞寝坊。その頃には家の間近で日本共産党の市議会議員、F.H氏が演説をしていて、その大きな音声で意識を確かなものにした形だ。なかなか強い雨の昼だった。上階に行って母親に挨拶し、演説の声が響いて壁や窓を貫き家のなかまで達してくるそのなかで、炒飯や細麺のうどんを温めよそり、卓に就いた。まず、前夜の残り物である茄子と豚肉の炒め物を食べた。それから、鮭やコーンの混ざった炒飯とうどんを替わる替わる食し、最後に玉ねぎドレッシングを掛けた生サラダ――具はキャベツ・モヤシ・玉ねぎ・人参・えんどう豆など――を食った。すると母親が、サイダーを半分飲むかと訊くので肯定し、彼女の用意してくれた炭酸飲料を口にしつつ、バナナも母親と半分ずつ分け合って食べて食事は完了である。台所に立って食器を網状の布でごしごし洗って乾燥機に入れておくと、階段を下って自室に帰った。コンピューターを起動させると早速FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだし、日記を書きはじめた。前日の記事はもうほとんど書かれてあったので、僅かに書き足したのみで完成し、この日の記事もここまで短く綴って、現在時刻は一二時半に近づいている。
 前日の記事をブログに投稿したあと――Mさん方式で、他人の著作から書き抜いた文章を毎日の記事の冒頭に引用して掲げていくことにした――図書館で借りている三枚のCDの情報をEvernoteに記録した。Marc Ribot Trio『Live At The Village Vanguard』、Seiji Ozawa: Toronto Symphony『Takemitsu: November Steps etc.』、Bob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』の三作である。それに三〇分ほど使ったのち、『岩田宏詩集成』の書抜きを始めた。手帳にメモしてある頁と断片的な文言を参照しながら打鍵を続け、途中でFISHMANSの音楽が終わったのでBob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』にBGMを移行させながら岩田宏の詩句を写した。この時書き抜いたなかでは、『いやな唄』収録の「むすめに」という作品が非常に素晴らしいと思うので、先日Twitterにも投稿したばかりだが、ここにも改めて全篇引いておく。

 ことばは手に変れ
 とても男らしい手に
 すこし汗ばみ すこし荒れた
 実用的な手に なぜなら
 ぼくはことばを
 突き出さなければならない
 自殺を決心したむすめ
 あなたに なぜなら
 それがぼくの権利
 あなたの義務は
 思いつめ 思いつめること
 まるで追いつ追われつ
 走るように なぜなら
 夜は戦争よりも長いんだ
 政府もあなたも徹底的に一人で
 朝ほど痛い時間はほかに絶対ないんだ
 そのことを百回あるいは
 千回思って絶望しなさい
 あなたは睡眠薬を二百錠飲むつもりだが
 薬より口あたりのわるいことばを
 あなたの穴という穴に詰めこむのが
 ぼくのほんとうの望みなんだ
 サディストどもが
 拍手している ぼくは
 あなたにあげる
 握手を!
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、56~57; 「むすめに」全篇; 『いやな唄』)

 特に鮮烈なのは、「夜は戦争よりも長いんだ」から「ぼくのほんとうの望みなんだ」までの節で、この冒頭の比喩は短歌にもたびたび借用させてもらっているこちらのお気に入りのフレーズである。
 岩田宏の詩句をコンピューターに記録したあとは、大層久しぶりにMさんのブログを読むことにした。彼のブログもSさんのブログもそのほかの人たちのブログもここのところ、まったく読めていない。fuzkueの「読書日記」ももはや読むことを諦めてしまった。しかし同じ日記作家として彼の活動を応援したい気持ちはあるので、月々の課金はやめないつもりである。確か半年ごとくらいに日記を書籍化したものを贈ってくれるというサービスもあったような記憶があるから、その書籍化されたやつをまとめて読めば良いのではないかと考えている。それで、Mさんのブログを五月二四日の記事から四日分読むと、もう時刻は二時半だった。それから渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書見に入った。ベッドの上で薄布団を身体に掛けながら書籍を読み進める。音楽は途中でBob Dylanの長いライブ音源が終わりを告げたので、同じBob繋がりで、Bob Marley & The Wailers『Live At The Quiet Knight Club June 10th, 1975』を繋げた。そうして四時一四分まで文を読むとそろそろエネルギー補給でもするかというわけで書見を中断し、しかし上階に行く前に最近伸ばしっぱなしで鬱陶しくなっていた陰毛を処理することにして、下半身を丸出しにしている情けない姿が外から見えないようにカーテンを閉め、ハーフパンツと下着を脱いでベッドに座った。そうして股間の下に二枚のティッシュペーパーを敷き、Bob Marleyのレゲエが流れるそのなかで、縮れた毛の群れを左手で掴み、右手に持った鋏でじゃきじゃきと切っていく。性器を傷つけないように慎重に鋏を操作して、周辺の毛を概ね短く切り揃え終わるとティッシュを丸めて黒々とした毛を包み込み、ゴミ箱に捨てて服装を元に戻した。そうして上階へ上がった。
 まず玄関の戸棚から三合の米を笊に取ってきて、流し台の前に就いた。右手の指を鉤爪型に曲げて、笊のなかに流水を落としこむとともに米粒の集合をじゃりじゃりと擦り洗っていく。そうして良いところで水からあげ、笊を振って水気を切ったあと、すぐに炊飯器の釜に収めて水も注ぎ、六時五〇分に炊けるように機械をセットした。それから昼間のうどんの残りを小鍋で熱し――加熱しているあいだは立ったままバナナをぱくついた――丼に注ぎ込んで卓に向かった。新聞を瞥見しながらうどんを啜り、デザートとしてキャラメル風味のラスクを齧ると、台所に戻って食器を洗った。それから、今日は母親が仕事で帰りが七時くらいになるので――こちらも七時半から一時限のみ勤務がある――食事の支度を簡単にしておくことにした。冷蔵庫を覗くと茄子、エノキダケ、白菜などがあるので、茄子とエノキダケを炒め、茸の一部を白菜とともに汁物にすれば良かろうと献立を組み立てた。それで下階からFISHMANS『ORANGE』のディスクを持ってきて、CDラジカセで流しだしながら野菜を切った。沸騰した小鍋に先にエノキダケと白菜を投入して煮はじめたあと、フライパンにオリーブオイルを引き、その上からチューブのニンニクを押し出して落とした。そうして茄子を炒めはじめた頃、音楽は四曲目の"MY LIFE"に差し掛かっていた。それを歌いながら、蓋をしたフライパンを時折り振って茄子を加熱し、適当なところでエノキダケも加えると、汁物の方に味噌を溶かし入れ、そのほか粉の出汁や椎茸の粉も混ぜ、味噌だけでは薄いような気がしたので醤油を少量混ぜた。それからフライパンの蓋を取ってみると、茄子から色素と水分が出たようで、エノキダケが薄青く、何とも食欲をそそらない色に染まっていた。味付けをして色を誤魔化そうということで、すき焼きのたれを入れたが、量が足りなかったので、こちらにも醤油をさらに加えて、何とか色合いは酷い状態から脱することが出来た。それで食事の支度は終わり、サラダは昼間の余りが残っている。そうして洗面所に入って髪を整え、髭を剃ってから下階に戻ってくると、Bob Marley & The Wailersの音楽をふたたび流しだし、日記を書きはじめた。打鍵を始めてまもなく、蒸し暑さを煩わしがって、くたびれた黒の肌着を脱いで上半身裸になった。そうしてここまで打鍵し、現在五時半過ぎである。雨はどうやら止んだらしく、歩いて出勤できるかもしれない。
 それから肌着のシャツを身につけ直し、仕事着に着替えた。淡い水色のワイシャツに紺色のスラックス、ネクタイは灰色を地の色としてその上に細かな四角形と赤い点が散ったものである。紺色のベストも羽織って姿形を整えると、歯磨きをした。それからベッドに上り、出勤前の一時間ほどを読書に使うことにした。渡辺守章フーコーの声――思考の風景』である。ヘッド・ボードと背のあいだに挟んだ枕やクッションに凭れつつ、胡座を搔いたり脚を前に伸ばしてくつろいだりしながら渡辺守章の文章を追った。そうして六時四〇分に至ると本を置き、手帳に読書時間を記録しておいて、財布と携帯を入れたクラッチバッグを持って上階に行った。居間の食卓上の暖色の電灯を点けておくとすぐに出発である。焦茶色の靴を履き、玄関を抜けるとポストに寄ってビニール袋に包まれた夕刊を取って室内に入れておき、そうしてから黒傘を持って道に出た。なかなかに涼しい空気の暮れ方だった。坂に入って上っているあいだ、梢の厚く重なったその下、道の縁にはぽたぽたと落ちるものもあったが、あれほど強い雨が長く降ったのに、こちらの歩くあたりでは水滴が頭を襲うこともない。坂を抜けるとホトトギスの声を遠く背後に聞きながら表を目指し、街道に出る頃には、涼しいとは言ってもさすがにベストまで羽織ってネクタイもきちんと締めていると歩いているうちに身体が温もって、シャツの内側の腕の肌や前髪の裏の額に湿り気が現れていた。
 表通りの途中にあるバス停の脇、乗車客が座って待てる貧しい小屋のような建物の軒下に、燕が巣を作ったようでそこから空中に弧を描いて飛び立っていく親鳥の姿が見られた。なかでは子供らが餌を待っているのだろう、ぴいぴいと姦しく鳴く声が落ちる。そこを過ぎて老人ホームの角を曲がり、裏道に入ると前方から向かってくる女子高生が、白線の上をはみ出さないように、両足を踏む軌跡をまっすぐにしながら歩いていた。ランウェイを歩くモデルをちょっと連想させる歩き方だ。
 既に七時前、鳥たちはもう塒に帰っていったのか、頭上から落ちる声はなく、表通りの方から燕らしき鳴き声がちょっと響いてくるのみである。鳥のいない電線の彼方に広がる空は全面雲に覆われて、暮れ方なのに青味は見られず鈍い白に均一化されている。足もとのアスファルトから薄暗い宙空まで空間全体が濡らされたような宵だった。そのなかを歩いていると前方に、黄褐色の体色をした猫が一匹現れた。こちらの足音を聞きつけているのか、足早にとことこと歩いていくが、道の端に沿ってまっすぐ向かっていくのみで、民家の敷地に入っていったり物陰に隠れたり、すぐに逃げる素振りは見せない。その猫を追いかけるようにして歩いていくと、件の家の前で白猫が台に乗って佇んでいたが、もう一匹の猫はそれに関心は見せずに過ぎて、いつも白猫が寝そべっている家の入口から敷地内に入りこんで行った。
 七時を過ぎたあたりでようやく空に僅かばかりの青さが見受けられるようになった。職場に着くとこんにちはと挨拶をして入り、座席表を確認してから奥のスペースに行く。ロッカーにクラッチバッグを仕舞っておき、それからタブレットを取ってきて授業記録を確認したあと、入口付近でタイムカードを通して準備を始めた。そうして授業、この日の相手は(……)くん(中一・国語)と(……)さん(中三・英語)の二人である。授業直前まで入口付近で生徒の出迎えと見送りを行い、チャイムが鳴ってから教室奥の区画に入ると、そちらの区画にいるのは我々三人だけだったので、何か我々だけ隔離されているよねと言って笑った。そうして授業が始まると、(……)さんは初めて当たる相手だったので、初めまして、Fです、よろしくお願いしますと挨拶をしたのだったが、すると彼女が何やらふふっと小さく笑いを零したので、何でやねんと早速突っ込んだ。自己紹介したら笑われるって何でやねんと似非関西弁で突っ込んでさらなる笑いを引き出して、和んだ雰囲気でスタートを切ることが出来た。その(……)さんだが、単語テストの勉強はしてこなかったと言うので、今日はテストはやりませんと宣言し、その代わりに今練習してもらいますと指示した。それでちょっと練習してもらってから、三つこちらがピックアップしてさらにそれらを覚えるように伝え、ちょっと経ってから用紙を裏返して答えを隠しながら確認、という方法を取った。そうして書くことができたそれら三つの単語は、早速ノートにメモさせるという流れである。それから前回の復習を行ったのだが、ここで最上級が出てきたのでこちらも解説してそれもノートに記録させた。(……)さんは英語は結構苦手なようで、宿題を確認するとknowとかvisitの意味がわからないレベルだったのでそれらも勿論記録させ、宿題の確認にせよリスニングにせよワークの問題にせよ、英文を日本語に訳せるようにするという点に傾注して授業を進めたのだが、彼女本人は、自分でわからないということがわかっているからだろう、訳をやりますと言うと、苦笑気味に嫌がる素振りを見せたので、もしかしたら多少うんざりしていたかもしれない。しかしそれでもよくついてきてくれた。今日扱ったのは"What's wrong?"とか体調を訊いたり表したりする会話表現の単元だったのだが、ワークの問題を解く前に、まず教科書本文の訳を確認した。一通り確認したあと、shouldの意味は、とか、文を指してここは何て言ってるの、とか、じゃあここは、といった具合で、繰り返し意味を発語させて記憶の定着を図った。なかでもshouldは授業全体を通してかなりの回数訊いたので、結構頭に入ったのではないかと思う。一週間経つと忘れてしまうかもしれないが、授業最初の復習の時間ですぐに思い出せるだろう。二対一だったこともあってこのようにわりと密着した指導ができ、ノートも結構充実させることが出来たのだが、これはやはり二対一で余裕があるから出来ることである。こちらの経験として、二対一が一番指導しやすく――つまりこちらに暇な時間が生まれることがほとんどなく、なおかつ不足なく充分に行き届いた指導ができる――三対一だとやや忙しくて満足な授業をすることが出来ないことが多いように思うのだが、まあ我が社は三対一を根本的なベースとしているのでこの点が変わることはないだろう。
 (……)さんに対して充実した授業が出来たのと対象的に、(……)くんの方は今日は駄目で、何でも雨のなか体育祭をやってきたあとだと言い、それもあってだいぶ疲労していたようで眠っている時間が多かった――こちらとしてもあまり披露を押して取り組ませることはしたくないので、机上に肘をついて顔を支えながら大口ひらいて微睡んでいた彼を放っておいたのだが、授業終盤になって起きるように身体を揺さぶっても起きようとしなかったのはちょっと誤算だった。おかげで扱った頁は僅か二頁、漢字と言葉の問題だけで、読解問題は途中で終わってしまった。チャイムが鳴っても意識をはっきりさせようとしないので、記入していなかったノートの項目をこちらが代わりに記入してやらなければならなかったくらいだ。彼がそのようにだらけていたおかげで(……)さんのきめ細かい指導に注力できたという側面もあるにはあったのだけれど。
 そんな具合で授業を終え、(……)さんに記録をチェックしてもらい、退勤。駅に向かっている途中で傘を忘れてきたことに気づき、小走りになって取りに戻った。お疲れ様ですと改めて挨拶をして退出し、駅に入ってホームに上がると、スナック菓子を売っている自販機の前に行き、小さなポテトチップスの類を二袋買った(一八〇円)。それから最後尾の車両に乗り込み、席に座った。電車は一〇分ほど遅れていた。携帯を見ると、珍しくWから連絡が入っていて、何でも月曜日に子供が生まれたと言う。おめでとうと返信しておき、その後は手帳を見ながら発車を待ったのだが、こちらの対角線上の向かいの席の端に座った男性が、何やらものを食いながら頻りに自分の顔を、ぱんぱんぱんぱんと左手で叩いていて、その音が結構車内に響いていた。何かものを一口口に含んだかと思うと、咀嚼の代わりのように――実際には咀嚼しながらだろうが――顔を叩き出すようだったが、何故そんなことをしているのかわからなかったので、もっと注視して観察したかったのだけれど――そしてそれを日記に書き記したかったのだけれど――あまりじろじろと視線を送った結果絡まれたりしても困るので――そうなるのではないかという可能性を頭に浮かばせるほどにはいかつい顔つきの人だったのだ――それほど緻密な観察は出来なかった。じきに遅れていた電車がやって来て、ホームの向かいから乗り換えの人々が入ってきた。こちらの左方には女子高生が座り、そのあとから知り合いらしき男子高校生もやって来て隣に座り、どうでも良いような他愛ない話で談笑していた。こちらの正面、向かいには年嵩の男性が座り、その醒めた青のジーンズや、おそらくVANSの――目が悪くて文字がうまく読み取れなかったのだが――ややくたびれたようなスニーカーや、耳をイヤフォンで塞ぎながらそれが繋がったスマートフォンを操作している様子などをこちらは眺めて、到着を待った。最寄り駅に就いて降り、ホームを歩くと、追い抜いた二人の男が、一方は若者、もう一方は中年だが、どちらも手もとの携帯を覗き込むようにして顔を伏せ気味にしてゆっくり歩いている。電車のなかに視線を移せば座席に座っている人々もことごとく顔を伏せてスマートフォンの画面に注視しており、そうしていない人が見当たらないくらいで、この画一性は改めて目撃するとちょっとした驚きを覚えるような光景だった。小林康夫が『日本を解き放つ』のなかで述べていた、「存在とは別の仕方で」という言葉が思い出された。

 小林 やっぱり世界のなかに存在しているということですよね。世界内存在、あるいは世界に帰属している存在として。でも同時に、垂直に世界と向かいあってもいるんです。それが人間です。直立するというのは根源的なこと。この世界は、138億光年の広がりをもってあるのに、わたしは、まるで微小な、ほとんど「無」の存在なんだけれども、しかし垂直にその広大な世界と向かいあう「1本の蘆」である。それを可能にしてるのは、言語です。直立することと言語をもつことはオーヴァーラップしている。わたしという「ほとんど無」の存在が、何億もの銀河系を包みこんだ広大無辺の世界とかろうじて拮抗し、対抗するんです。すごいよね。言語が与えてくれるこの非対称のバランスを通じて、そして、この言葉というロゴスを通して世界を知り、世界を愛する、それはある意味では、人間にとっては、もっとも基本的な衝動なんですよ。「学」などというものではない。人間のもっとも根源的な「運動」なんです。フィロソフィーというのは、たとえそれがギリシャからはじまる「哲学」というものに収まらないとしても、どこかで人間には避けがたいんです。避けることができないんです。
 けれども、世界と向かいあって存在しているという感覚が薄れてしまうと、言語をそのような探求へと発動する心が生まれてこないように思いますね。意識がいつもどこかに接続されて、つねに情報が流れ込んでくる、そういうあり方に慣れてしまうと、向かいあいという拮抗が失われてしまう。からだがなくなって、全方位、だけど世界という不思議が感じられなくなってしまうというかね。自分が「いま、ここ」に存在するというプレザンスの感覚が日々薄くなりつつあるような気がしますね。でも、われわれの脳はそれで充足できるんですよ。脳は情報が入ってくれば癒やされるのかもしれない。これは、脳が存在しているのか、脳ではない「わたし」が存在しているのか、という大きな問題ですよね。
 脳という意識は癒やされる。情報刺激が入ってくればね。テレビを見て、インターネットを見て、映像を追いかけ、音楽を聴いて、さらにはゲームに埋没して、そうすれば、存在という厄介なものは忘れてしまえる。存在って厄介ですからね。
 たとえば引きこもりの人は、引きこもって存在してるというよりは、引きこもって人間の存在を忘れさせてくれる膨大な情報を引き入れていたりする。それは、いまの時代の大きな問題ですよ。「存在とは別の仕方で」存在しているというと、レヴィナス哲学を茶化しているようですけど、レヴィナスが言ったのとは違った意味で、「存在とは別の仕方で」がはやってきているように思えたりします。この現にある世界に、世界内に存在することが、難しくなってきているという奇妙な事態。脳が、この世界ではなく、ヴァーチャルな世界に常時接続しているみたいな、ね。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、389~390)

 そうして階段通路を行きながら、駅前の街道を車が何台か走っていくのを眺めて、例えばあの車の赤い尾灯が流れていく情景の方が、スマートフォンのなかのどんな情報よりも実体的であり、詩情を含んでいて美しいと思うのだが、と考えた。それから駅舎を抜けると横断歩道を渡り、木の間の坂道に入った。樹木の葉叢のなかで雨粒が移動して葉や枝にぶつかって立てているらしき音が、動物が枝葉の上に潜んで絶えず移動しているかのような響きに聞こえた。
 帰宅すると父親の車がなかった。今日は山梨の実家に泊まってくるという話だった。なかに入って母親に挨拶し、すぐに自室に下りていくと服を脱いで、ハーフパンツの気楽な格好に着替えて上階に行った。食事はこちらの作ったものである。丼によそった米の上に茄子とエノキダケの色の悪い炒め物を載せ、そのほか味噌汁などよそって卓に就いた。テレビは何らかのドラマを映していたが、まもなく母親が風呂に行ったので電源を切って沈黙させた。静けさのなかでものを食い、薬を飲んで皿を洗い、そうして下階に戻ると、買ってきたポテトチップスを二袋一気に食った。そうして日記を書きはじめようかなというところで母親が風呂から上がった気配が伝わってきたので、部屋を出て入浴に行った。出てくるとパンツ一丁の格好でソファに就き、『ドキュメント72時間』を少々眺めた。バナナを母親と半分ずつ分け合って食べたあと、下階に戻ったが、労働の疲労のために日記を書く気力が湧かなかった。そうこうしているうちにSkype上でYさんが発言し、通話が始まる気配だったので、コンピューターを電源から外してヘッドフォンを繋ぎ、隣室に移動した。
 そうして通話開始。最初のうちは何のきっかけだったか、Conversation Exchangeというサイトの話になって、YさんはここでEさんやらINさんやらと知り合ったのだが、こちらもちょっと登録してみるかということで、通話しながらフォームを入力していった。プロフィール紹介には、文学が好きだと書き、特にガルシア=マルケスの『族長の秋』が好きで今までに七回読んでいるということを記した。
 その後、MYさんやKさんも通話に参加して、コミック・マーケットの話であったり、『ひぐらしの鳴く頃に』の話であったり、Kさんが今嵌まっているというドラマ『ハンニバル』の話であったりがなされたのだが、あとKさんは明日合コンというものに参加するという話題もあったのだが、細かく綴るのが面倒なので省略する。コンピューターのバッテリーが切れかけたところでこちらは通話を離脱し、自室に戻って書見を始めたが、じきに意識を失って気がつくと四時を迎えていた。そうしてそのまま就寝。


・作文
 12:16 - 12:24 = 8分
 17:05 - 17:34 = 29分
 計: 37分

・読書
 13:04 - 13:32 = 28分
 13:40 - 14:28 = 48分
 14:35 - 16:14 = 1時間39分
 17:44 - 18:41 = 57分
 25:05 - 27:58 = (1時間引いて)1時間53分
 計: 5時間45分

  • 岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-05-24「いずれ死ぬものたちばかり集まってにぎやかな週末のモール」; 2019-05-25「雨水の染み込んだ靴来年の今頃どこで何をしている」; 2019-05-26「手のひらを合わせて息を吹きこんだあなたは誰に何を祈るの」; 2019-05-27「けだものが走る土星の輪の上をお前が死んで今日で七日目」
  • 渡辺守章フーコーの声――思考の風景』: 90 - 222

・睡眠
 2:15 - 11:40 = 9時間25分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Bob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』
  • Bob Marley & The Wailers『Live At The Quiet Knight Club June 10th, 1975』
  • Fred Hersch『Open Book』

2019/6/6, Thu.

 さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。
 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。
 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。
 私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、20~21)


 一一時半過ぎまで糞寝坊。パンツ一丁で眠っていたため、起きて身体から布団を剝ぎ取ると、肌着のシャツとハーフ・パンツを身につけて上階へ行った。母親におはようと挨拶すると、中華丼でも食べるかと言うので賛成し、玄関の収納戸棚から中華丼の素の詰まったレトルトパウチを二つ取り出し、水を入れたフライパンに収めて火に掛けた。それを熱しているあいだにこちらは洗面所に入り、後頭部に整髪ウォーターを吹きかけて寝癖を整え、そのまま風呂も洗った。風呂を洗っているあいだに台所にやって来た母親が、水菜のサラダと混ぜた豆腐を用意しはじめた。そのほか、前夜の味噌汁の残りなど支度して卓に就き、新聞をめくりながらものを食った。最高気温は三一度に達するらしい、なかなか空気に熱の籠った日だった。ものを食べ終えると抗鬱剤を飲み、食器を洗って、そうして下階に戻り、Skypeのチャットを眺めた。Bさんは結局、何とか人数分のレジュメを印刷できたようだったので、良かった良かったと送っておき、それからコンピューターの動作速度を回復させるために再起動を行った。そのあいだに便所に行って糞を垂れ、戻ってくるとコンピューターにログインし、前日の記録をつけるとともにこの日の記事も作成すると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流して日記である。一二時四五分から始め、三〇分ほどで六月五日の記事を仕上げて、それからこの日のことをここまで書いて一時半前に達している。夏のロシア行きに向けてパスポートの更新をする必要があって、母親にも今日行ってきたらと言われているのだが、何だか面倒臭い。また、AOKIに預けたスラックスも取りに行かなくてはならないのだが、それには車が必要であるから母親に出してもらわなければならないだろう。
 前日の記事をブログやnoteに投稿したのち、一時半過ぎから九螺ささら『ゆめのほとり鳥』を読みはじめた。歌集なので短く一時間ほどで読了に達し、それから、「コンビニに生まれ変わってしまっても君はわたしを見つけてくれる?」という一首をさらりと拵えてTwitterに投稿したあと、服を街着に着替えた。ガンクラブ・チェックのベージュのズボンに、上はモザイク様のやや抽象的な柄の入った白いTシャツ一枚の軽装である。これは五月二六日日曜日に読書会に行った際のそれと同じ格好だ。それで荷物をリュックサックに整理して上階に上がった。母親も出かけるらしいので、車に乗せていってもらうつもりだった。パスポートを更新しに行くかどうかは迷っていたのだが、ひとまず図書館にだけは行くことにして、身分証明用の年金手帳を探したりしているあいだに――それは結局見つからなかったのだが――今日は荷物も多いし、パスポートを取りに行くのはまた今度とすることに決心した。それで母親がまごまごと支度しているのを手帳を読みながら待ち、三時を過ぎた頃合いに玄関を抜けた。母親の出してくれる軽自動車の助手席に乗り込んだ。車内は一応冷房が掛かっているがそれでも暑く、汗の感触が肌に滲む。坂を上って行き、街道に出たあたりで母親が、掛かっていたどうでも良い音楽の音量を上げた。"I Love You"とか"愛してる"とかをひたすら念仏のように唱えている類の、具体性がまったくない感情歌である。そのどうでも良い音楽が流れるなか、市街を通っていく途中で、母親が先日亡くなったY.Hさんのことを話題に出したので、どうだった、と訊いた。死人の顔は、と付け足すと、思ったよりもふっくらとしていて安らかだったという返答があった。前立腺癌だったか膀胱癌だったか忘れたが、モルヒネを投与し続けていたらしく、相当に苦しい思いをしたようだが、最後は安らかに逝けたようだったと言う。
 AOKIに着くと降り、ポケットから伝票の控えを出して入店した。レジではこちらと同じく、スラックスを何枚か受け取っている女性が店員とやり取りをしていた。その傍らに立って、ハンカチや財布を眺めたりしながら彼女の番が終わるのを待って、自分の番がやって来るとお願いしますと言って用紙を差し出した。すると年嵩の女性店員は、奥のスペースに入っていき、そこからハンガーに吊るされたこちらのスラックス三枚を取り出してきた。受領書にサインをしたのち、ビニール袋に入れてもらったそれを受け取り、相手の顔を正面から見てありがとうございましたと頭を下げて、退店した。車に戻ると母親が、先ほどこちらがアイスが食いたいとこの暑気に当てられて何気なく呟いたのを拾って、クレープ屋で食べていこうかと言う。どちらでも良いよと受けて、混んでいなかったら食べていくということに決定した。それで車内に陽の射し込むなか、河辺駅近くまで走ると、クレープ屋で待っている人影はほとんどなかったので、路上駐車した車からこちらが下りて、店に近寄った。先客――小さな赤ん坊を抱いた母親――がクレープを受け取ると、ソフトクリームを二つ、と奥の薄暗いような店内にいる女性店員に注文した。四二〇円に一〇〇〇円札を出してお釣りを受け取り、カップかコーンかと訊かれたのにはコーンで、と答え、ほんの少し待って二つのソフトクリームを受け取った。車に戻ると、両手が塞がっていたので母親が内側から扉を開けてくれた。その母親にソフトクリームの片方を渡し、助手席と運転席に並んで白く甘くて冷たい牛乳の塊を舐め、味わった。冷たい、と母親は言いながら食べていた。コーンをばりばり食って完食すると、こちらは図書館に行くために、じゃあねと言い残して車を降りた。リュックサックを背負い、図書館への階段を上がり、入館するとCDの棚を見に行った。特に変わり映えのしない新着を確認したあと、クラシックの区画に向かい、ライブ録音の音源の所蔵を確認した。器楽曲から室内楽曲、管弦楽曲から交響曲まで大まかに確認していって、気になるものもないではなかったが、しかしまだ今借りているCDを返していないので借りられない。そうしてしゃがみこんでいた脚を伸ばして区画を抜け、午後四時と言うよりは午前九時のような明るく透明な陽射しの宿る階段を上り、新着図書を確認した。棚に収まりきらない新着図書は、棚の横に移動式の台を設けて紹介してあるのだが、そのなかに、Thelonious Monkなどのパトロンだったパノニカ夫人の伝記があった。棚の方には、新潮文庫から出ているブルガーコフの作品や、河出文庫入りしたボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』などが新しく見られた。こちらが文庫の新刊を見分していると、隣に中年男性がやって来て、その身体から汗の匂いが少々漂った。横を見やると、こちらの背後で高年女性が番を待っているのがちらりと見えたが、気にせずに棚の下段にゆっくり視線を滑らせ、それから横にずれた。そうしてそれから書架のあいだを抜け、大窓際の席を一つ取り、コンピューターを取り出して起動させ、パスワードを打ち込んでログインすると、準備が整うあいだにと席を立って短歌の区画を見に行った。興味深い歌集は特段見受けられなかったが、現代短歌全集なんかはいずれ借りても良いのかもしれない。この区画に並んでいた『和歌文学大系』は文学全集のコーナーに移しましたと表示があったので、フロアの隅に進んでそこから『一握の砂』を収めた巻などを手に取って眺めた。それからフロアをかつかつと横切って席に戻り、椅子に腰掛けるとEvernoteをひらいて、日記を書きはじめた。四時一九分だった。それから三〇分も掛からず、記述を現在時刻に追いつかせることができた。これから書抜きをする予定である。
 まず、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』から残っていた二箇所を書抜きした。それからコンピューターを一旦閉ざし、その上に手帳を載せて、ルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』の書抜き箇所を確認しつつ、各箇所の中核だと思われる部分を手帳に書き込んでいく。そうしてから次にコンピューターを復活させ、メモした箇所を実際に打鍵し書き抜いていったが、そのあいだ、文学全集のコーナーに立った時間があった。須賀敦子の全集があっただろうかと思って見に行ったのだ。棚にはきちんとクリーム色の全集が全八巻プラス別巻の合わせて九冊揃っていた。それぞれの巻を手に取りひらき、目次を瞥見してから席に戻ってきて、引き続き打鍵を進めた。書抜きを終えたのはちょうど六時だった。そうしてコンピューターをシャットダウンし、荷物をリュックサックにまとめ、図書館で借りている三冊――小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』、ルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』、山岡ミヤ『光点』――は返却するために片手に持って、席を離れた。西空に浮かんでいるオレンジ色の入り陽を見やりながら階段を下りてカウンターに近づいた。カウンターに就いていた女性職員は、ちょっとうとうとしていたのだろうかあるいは体調でも悪かったのだろうか、前屈みに顔を伏せており、こちらが目の前に立つまで接近に気がつかなかった。こんにちはと挨拶をして、返却をお願いしますと三冊を差し出し、手続きをしてもらったあとありがとうございましたと礼を言って、道を引き返した。ふたたび上階に上がって、哲学の区画を見に行った。借りたい本は色々とあるが、ひとまず家に積んである本を読むことに決めて、何も借りずに帰ることにした。それでまた階段を下り、カウンターの前を横切って退館した。歩廊の上では風が流れてTシャツの表を軽くはためかせ、西の果てでは雲のあいだに焼けついた鉄の塊のような太陽が沈んでいくところだった。駅舎に入って掲示板を見ると、直近の青梅行きは六時一四分、腕時計を見ればちょうどその時間で既に電車が入線してきたらしき気配が伝わってきたが、奥多摩行きへの接続電車はまだ先なので急がず改札を抜け、電車から降りてきた群衆とすれ違いながらエスカレーターを下りた。ホームに下り立ったこちらの目の前で電車は発車した。それを見送り、ベンチに腰掛けて脚を組んだ。こちらの左方には高校生のカップルが座り、男子の方が女子の肩口に顔を近づけ、いちゃついていた。手帳を見るでもなく、何をするわけでもなく座席に座っていると、目の前の視界に横から滑り込んできたものがあって、視線を合わせれば一枚の切符である。同時に、ああ、ほら、だから言ったじゃない、というような緩い声音も聞こえて、近くにいた母子連れの幼い子どもが切符を落としたらしいとわかったので、そちらを見やりながら席を立とうとしたところに、まだ若く女盛りと見える母親がやって来て、すみません、大丈夫ですよと間延びのしたような声を掛けてきた。それで躊躇しながらも席を離れて歩を踏み出し、こちらも何故かすみませんと言いながら切符を拾って渡してあげ、そうして座席に戻ってポケットに両手を突っ込み、脚をだらりと前に伸ばした。周囲に座っていた人々は、背後のホームに立川行きがやって来ると皆立ち上がってそちらに乗り込んでいった。一人残ったこちらは両手をポケットに突っ込んで脚をだらしなく投げ出したまま、暮れ方の薄青い空を眺めた。燕らしき鳥たちがぴいぴいと鳴き声を振らせながら黒い点となって空を横切っていき、ホームの屋根の裏側に入って見えなくなったかと思えば、あたりを旋回しているようですぐにまた空中に現れて入り乱れるその様子が、落ち葉が風に無造作に散らされているようでもあり、矢印の形をした人工物が四方八方宙に舞い散っているようにも映った。地上近くからは雀の囀りが間断なく立っており、線路の向こうの駅前では二本の木が風を受けてそれぞれ葉叢を震わせていた。何年か前にはこうした世界の具体性をただ感受するのみの器官と化した無為の時間に、恍惚とも言うべき垂直性の官能の発露を覚えたものだが、もうそうした感覚が訪れることもなく、息を深くして心身は多少柔らかくなっていたものの、心は平静に落着いたままだった。そのうちに電車がやって来たが、入線してきても姿勢を崩さずじっと静まったまま目の前を流れていく車両のなかを眺め、電車が停まるとほぼ同時にリュックサックを持って立ち上がり、乗り口に寄った。人々が降りるのをやり過ごしたそのあとから車両のなかに入って、席の端に就いた。ここでもやはり、普段だったら手帳を眺めるところだが、この時は何もせずにただ呼吸を深く繰り返して電車が青梅駅に着くのを待った。東青梅で電車は二分ほど停まった。向かいの線路にオレンジのラインを車体に引かれた立川方面行きの電車がやって来たのち、その電車が発車するとほぼ同時にこちらの電車の扉も閉まって、あちらがホームから滑り出して行くのを見ているうちに自分の乗っている方の電車ものろのろと発進しはじめ、じきにスピードを上げるのだった。青梅駅に着いてもすぐには降りず、少々待って車両のなかにほとんど一人になってから立ち上がって降車した。向かいのホームには奥多摩行きが既に来ており、ボーダー柄の色濃いブルーのポロシャツを着た男性が、ちょっと離れた位置から電車の正面に向けてカメラを構えていた。その横を通り過ぎ、おそらくはカメラの視界にも入りながらホームを行き、奥多摩行きの最後尾に乗り込んで席に就いた。ここでようやく手帳を取り出し、岩田宏の詩句を読み返したりしながら、短歌を考え、いくつか案を手帳にメモした。そうしているうちに電車は発車した。向かいの座席には、中年に差し掛かる頃合いらしき黒いスーツ姿のサラリーマンが就き、スマートフォンを横にしながら片手でその画面に頻りにタッチしていた。この人は河辺駅から乗った青梅行きのなかにもいて、その際はこちらの座った席の右方にいたのだが、何か薄声が聞こえたと思ってそちらを見ると、彼は何やら一人でにやにやしながらスマートフォンを操作し、覗き込んでいたのだった。何かゲームでもしているのだろうか。両脚を頻繁に左右にひらいたり閉じたりと動かしながら、ゲームか何かに熱中しているらしきその姿を眺めながら電車に揺られ、最寄り駅に着くと立ち上がって、扉横のボタンを押して降車した。駅舎を抜けると横断歩道がちょうど青になるところだったので、大股で下りていって通りを渡り、木の間の坂道に入った。かつかつと足音を鳴らしながら坂を下りていくあいだ、短歌を一首、頭のなかで巡らせていた。それを形にしながら帰路を辿り、家のなかに入ると台所で母親が肉を炒めているところだった。暑いねと言ってこちらは下階に下り、自室に入るとリュックサックのなかのものを棚に出し、コンピューターを机上に据えて起動させながら、服を脱いだ。上半身裸でハーフ・パンツ姿になって、インターネットに接続すると作った短歌を投稿した。コンビニの歌も改めて含めて、今日の五首を以下に引いておく。

 コンビニに生まれ変わってしまっても君はわたしを見つけてくれる?
 晴れ渡る空安息の日曜に自殺すれば成仏できるかも
 冴え冴えと月の亡霊泣く夜に雨が降るあの娘が眠ってる
 鳥の唄歌う緑のあの人は俺を見つめる風景のよう
 言の葉に意味を託して今日も雨純粋音楽憧れながら

 それから上半身裸のままで食事を取りに行った。台所に入り、茄子と肉の炒め物を皿によそって電子レンジに突っ込むと、そのほか豆腐や汁物やサラダを卓に運んだ。夕刊の一面を見やりつつ、炒め物をおかずに白米を貪り、玉ねぎドレッシングを掛けた豆腐を食べた。生サラダの材料は水菜・キャベツ・人参・玉ねぎ・ミニトマトだった。こちらにも玉ねぎドレッシングを掛けて、丈の長い水菜に苦戦しながらもしゃもしゃと食い、最後にワカメとモヤシのスープを飲み干して、エネルギー補給を完了した。コップに氷をいくつか入れて水を汲んでくると、喉を潤したあと抗鬱剤を腹に流し込み、そうして台所に行って食器を洗った。それから入浴、湯に浸かりながら深呼吸を繰り返して身体を温め、出てくるとパンツ一丁の格好のまま下階に下りた。そして書見、新しく読みはじめたのは渡辺守章フーコーの声――思考の風景』である。FISHMANS『Chappie, Don't Cry』及びBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)を背景に、ほとんど裸の身体を薄布団に包みながら二時間ほど読み、渡辺守章清水徹の対談の途中で中断した。そうしてコンピューターに寄り、少々だらだらとした時間を過ごしたのち、一一時過ぎから日記を綴りはじめた。Marc Ribot Trio『Live At The Village Vanguard』を背景にちょうど一時間ほどでここまで記し、つい先ほど音楽をMeshell Ndegeocello『The World Has Made Me The Man Of My Dreams』に移行させたところである。
 それからまもなく音楽を止めて、ベッドに移ってふたたび書見を始めた。ホトトギスの鳴き声が外から伝わってくるなか、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』を読み進めたのだが、いつ頃からか意識を曖昧に落としていたようだ。気づくと午前二時過ぎ、手帳に読書時間をメモして、すぐに明かりを落として就床した。パンツ一丁のままの眠りだった。


・作文
 12:45 - 13:24 = 39分
 16:19 - 16:44 = 25分
 23:03 - 24:05 = 1時間2分
 計: 2時間6分

・読書
 13:33 - 14:29 = 56分
 16:46 - 18:00 = 1時間14分
 20:25 - 22:20 = 1時間55分
 24:08 - 26:13 = 2時間5分
 計: 6時間10分

・睡眠
 3:10 - 11:35 = 8時間25分

・音楽

2019/6/5, Wed.

 もう十年以上前にもなるだろうか、ある夜遅く、テレビのニュース番組に、天野祐吉が出ていた。キャスターは筑紫哲也だったように思う。イランだかイラクだかの話をしていて、筑紫が「そこでけが人が」と言ったとき、天野が小声で「毛蟹?」と言った。筑紫は「いえ、けが人です」と答え、ああそう、という感じで、そのまま話は進んでいった。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、12)


 八時のアラームで起床することに成功。睡眠時間は六時間。上階に行き、食事を取っている母親におはようと挨拶。食事はくるみパンにゆで卵、前夜の茸料理の残り。NHK朝の連続テレビドラマにちらちら目をやりながらものを食べ、抗鬱剤を服用すると食器を洗った。母親はYさんの宅にもう一度線香をあげに行ってくると言う。こちらも来るように誘われたが遠慮して、下階に下りると、日記を書かなければならないはずが気力が全然湧かなかったので読書をすることにして、九時過ぎからルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読みはじめた。しかし、眠気に苛まれてほとんど読むことが出来ないままに気づけば正午を越えていた。帰ってきた母親が呼ぶので身体を起こして行ってみると、焼きそばを作ろうということだった。それで台所に入って手を洗い、くたびれたキャベツの残りや、小さな人参や、玉ねぎなどを切り分けていった。朝の炒め物も加えてそれらを炒めたあと、麺を投入し、木べらで搔き混ぜながら加熱して、ソースを振り掛ける。そうして完成、こちらはそれから食べるよりも先に風呂を洗った。そのあいだに母親が大皿に焼きそばをよそっておいてくれたので、それを持って卓に就き、食事を取った。食事を取り終えると下階に戻り、一時一五分からふたたび読書を始めたのだが、先の時よりはましにしても、やはり眠気に苛まれてたびたび意識を危うくし、三時半まで読んだところで横になって休みに入った。外では母親が草を取っているなかでのこの体たらくである。充分休んだあと、そろそろ日記を書きはじめなければということで四時二〇分からコンピューターの前に就き、FISHMANS『Oh! Mountain』とともにようやく日記を綴りはじめた。五時前になって母親が呼ぶので音楽を小さくして聞き返すと、洗濯物を入れてくれとのことだったので部屋を抜けた。母親は草取りに疲労困憊したらしく、階段下の室でだらりと横になっていた。こちらは階段を上がってベランダに出て、吊るされていたものを取り込むと自室に帰って、引き続き日記を綴った。そうして現在五時一六分である。
 母親が米を磨いでくれと言っていたが、六時になってからで良いでしょうと緩く答えて、ふたたびベッドに乗って読書をした。ルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を三〇分ほど読んで六時を目前にした頃、そろそろ始めるかというわけで上階に行き、台所に入って笊のなかに用意されていた米を磨ぎはじめた。流水に晒しながらじゃりじゃりと擦り洗ったあと、笊を振って水気を切ると、すぐに炊飯器の釜に収めて炊けるようにセットした。それから水の沸いたフライパンに小松菜を放り込み、一方で味噌汁にするためにモヤシも小鍋に投入した。小松菜が茹で上がったあとは同じフライパンに水を汲み直し、味噌汁に入れるための油揚げを油抜きし、その一方で水菜でいっぱいになった洗い桶のその上から人参と玉ねぎをスライサーで下ろした。そのほか、鮪の切り身をソテーにする。オリーブオイルを引いたフライパンにニンニクを落とし、その上から鮪を三枚敷いて、蓋をして熱したあと、茹でた小松菜を一部加えて、すき焼きのたれで味をつけた。それで食事の支度は終了、僅か一五分ほどで短く済ませることが出来た。そうしてこちらは自室に帰ると、ふたたび書見を始めた。青く暮れた空を背景に、南の宙に浮かんだ雲が仄かな赤紫色を帯びていた。七時に至ると食事を取るために部屋を出た。その頃には父親も帰ってきており、階段を上がっていくと既に寝間着に着替えて風呂に入る前の姿があった。ニュースは福岡で起こった高齢者による車の運転事故を伝えており、両親は二人ともそれに目を向けて何とか言っていた。先ほど拵えた料理たちをこちらはそれぞれ皿に用意し、卓に就いて速やかに食事を取った。母親は、早く食べたいけれどこれも見たい、などと笑って、タブレットでメルカリか何かを閲覧している様子だった。食事を終えたこちらは抗鬱剤を飲み――早くもっと減薬したい――食器乾燥機のなかを片付けてから使った皿を洗い、そうして風呂に行った。どうにも疲労感の抜けない身体を湯のなかに沈めてしばらく休み、上がってくるとパンツ一丁の格好で自室に戻った。そうしてふたたび読書である。いや違った、風呂に入る前にも一旦自室に下りて、読書をしたのだった。七時半から八時半直前まで一時間弱、ピランデッロの小説を追ったのだったが、BGMとして流していたHerbert von Karajan & Wiener Philharmoniker『Dvorak: Symphonien No.8 & No.9』に耳を向けているうちに、最後の方では軽く意識を失っていたようだった。それで入浴を済ませてきてからふたたび書見に励み、九時四〇分頃になってルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』は読み終えた。全体的にユーモラスな色合いが目立って、なかなか悪くない短編集だったが、しかしこちらの思考や感覚を強く駆動させる瞬間に出会うことは出来なかった。もっとそのような瞬間に遭遇し、感じたこと考えたことを文章化していきたいものである。本を読み終えたあとはコンピューターの前に就き、Martha Argerich And Friends『Live From The Lugano Festival 2011』をヘッドフォンで聞きながら、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』の書抜きを行った。武満徹の文言などを書き抜いたあと、Twitterを少々眺めたのち、日記を書きはじめたのが一〇時五一分、そこから二〇分弱で現在時刻に追いついた。
 それから、「なぜ組織をゼロから再構築しなければならなかったのか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【後編】」(https://finders.me/articles.php?id=859)を読む。前日に読んだ前編からの引用を日記にし忘れていたので、今日の分と合わせてここに引いておく。

学問ではエビデンスを追求しなければいけないし、社会に出てきたと思ったら、こんどは「これは絶対に正義です」「断固許すことはできません」みたいな話しかしない。何だかなって。やっぱり僕は、基本的には哲学や思想って人の頭を柔らかくするものだと思うんですよね。人々が日常生活で緊張している中で、哲学書思想書を読んで「こういう考え方もあるんだ」「少し気が楽になったぞ」と思うのが基本的な機能。なのに現実はすごく遠く離れているんですよ。僕はそれが本当におかしいと思っているんですよね。

だからそういう点でも僕は、さっき「哲学は役立たない」と言ったけど本当にそうだと思っていて、やっぱりビジネスのために通勤時間を使って哲学入門書を読むのは使い方として間違っているんですよ。哲学書は、読んだら「そもそも通勤なんてしないでいいのでは?」と思ってしまうようなものであって、読み終わったあと学びを使ってバリバリ働いたりするようなものではないんですよ。そういう点でも哲学とか思想の役割が誤解されている。

東:無制限にする必要はないけど、とりあえず3時間にするのがいいですよ。僕の今までの経験から言うと、人は2時間までは何も大事なことはしゃべらないですね。特に初対面の人との場合、その人が今まで言ってきたことの繰り返しみたいなことしかしゃべらない。でも2時間経つと、登壇者も疲れてくるんですよ。だんだんどうでもよくなってくる。ここから先が大事で、そうすると変なことを言うようになるんですよ。「こんなことを言ってきましたけど、ぶっちゃけ全部どうでもいいんですよね」みたいになるんです。その地点に到達して、初めて面白い話が引き出せる。

 そうして次に、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』を読みはじめた。書肆侃侃房から出ている「新鋭短歌」シリーズの一冊で、確か以前に「偽日記」でも言及されていた覚えがある。読みはじめたは良いのだが、短歌を読んでいると自分でも作歌したいという思いが募ってくるもので、それだから一〇分少々で読書は切り上げてコンピューターに寄り、手近にあった『岩田宏詩集成』をひらいて短歌を作りはじめた。この時作ったのは、以下の五つである。

 神話よりむごい男さこの俺は孤島のような背中をしてる
 夢の縁の砂地に足を埋[うず]めつつ根のない樹として星の雨を待つ
 陽炎を吸い込みうねるあなたの髪は炎天下にて蛍を宿す
 耳たぶを掴んでひねりあっかんべすれば暑さも和らぐはずさ
 空腹を抱えて眠り目覚めれば雨垂れの音が銀河色して

 四つめの一首は、Twitterに上三つの短歌を投稿したらDKさんから「俺とあんたで何ができるよこの6月の蒸し暑い夜に」というリプライが送られてきたので、それに対して返歌のような形ですぐさま拵えたものである。Twitterに投稿するのと同時に、Skypeのチャット上にも投稿して、Aさんからお褒めの言葉を頂いていた。最後の歌をその場で作ってすぐに投稿すると、Aさんが、「え、それ、即興ですか?」と訊いてきた。即興と言うか、今作ったのだと答えると、称賛の言葉を頂けて、どこかに応募してみたらとの提案があったので、ひとまず千首作れたら考えますと応じた。
 それから今日は通話しましょうかと提案し、コンピューターを持って隣室に移動した。ギターを弄りながら待っているとAさんが発信してくれたので、それに乗って「通話に参加」ボタンを押した。最初はAさんしかいなかったが、すぐにYさんがやって来て三人グループとなり、そののちにBさんやDさん、Eさんなども参加した。初めのうちはこちらがギター演奏を披露して、と言っても曲など出来ないから適当にブルース風のフレーズを弾くだけのものなのだが、それで皆の心を和ませた(?)。
 一時頃になるとAさんは、明日が早いからと言って去っていった。それからDさんに今何を読んでいるのかと訊くと、ハリー・マシューズの『シガレット』という作品だと言う。書店で見かけたような覚えのある名前だったが、訊いてみると、「ウリポ」に参加していたアメリカ人作家なのだということだった。それはなかなか面白そうだなと思っていると、パズルのような小説で、一読しただけではやはり理解しきれない、もう一度読まないと、との言があった。それからこちらは何を読んでいるのかと聞き返されたので、今日、ピランデッロの『カオス・シチリア物語』というのを読み終えて、先ほど九螺ささら『夢のほとり鳥』という歌集を読みはじめたところだと応じた。
 それからどういう理路を辿ったのだったか、話題が「百合」のことになった時間があった。Bさん曰く、百合とレズビアンは似て非なるものだと言う。ゲイとBLの違いのようなものか、イメージの理想化が介在しているかどうかか、などと話し、そもそも女性の同性愛が「百合」という言葉で表象されるのはどういった由来なのかという疑問が持ち上がった。それで例によってウィキペディアに頼ると、男性の同性愛を示す「薔薇族」の対義語として、「百合族」という語が考案されたと書かれてあった。百合の花を選んだことに関しては、元々日本では美しい女性を百合に喩えることがしばしばあったことに加えて、真っ赤な薔薇との対比で白百合のイメージが取り上げられたのではないかという説があるらしい。「百合」的な作品の日本における起源としては、Yさんがたびたび紹介していた、吉屋信子花物語』という作品が最初のものらしく書かれていた。
 百合の話をしている最中に、MRさんが短い時間だがチャットで参加した。Bさんが彼女に、女子はわりと女子同士でいちゃつくことが好きではないかと問いを投げかけたところ、MRさんは、いちゃつくことの安心感というものがあるのかもしれないと答え、それを受けてYさんが、百合というのは母性愛の交換なのだろうかと説を提出した。それにはなるほど、と思わされた。Bさんも、その視点は鋭い、近いものがあるかもしれないと評価していた。
 その後、Eさんが短く参加した時間もあって、そのあいだにYさんが彼に、Eは何語を喋るの、どれだけの言語を喋るのと問いかけると、まず彼は皆が知っているようなものとしては、フランス語、英語、ドイツ語、日本語などだと答えた。皆が知らないようなものだと、驚いたことに、セネガルのある村でしか使われていないような非常にローカルな言語を喋ることが出来るのだと言う。旅行に行った際に学んだらしい。そのほか、カメルーンの言葉もいくつか喋れると言うので、この人は本当に言語的に多彩な人間だなと思った。
 その後、DさんやEさんが去り、こちらとYさんとBさんの三人だけになった。Bさんは大学の課題として古典の語釈を書いたレジュメを作っているらしかったが、そのデータを別のパソコンに移すことが出来ない、印刷も出来ないとトラブルに見舞われて嘆いていた。こちらとYさんが色々提案してみたのだが、解決に至らず、じきに三時を迎えたので通話は終了し、自室に戻りつつチャットでのやり取りに移行した。助っ人として沙耶さんが呼ばれたところで、こちらはもう寝ると呟き、もう嫌だ、死にたいと嘆いているBさんに対して、「Bさん、強く生きるんだ……」との応援メッセージを送っておき、それでコンピューターをスリープ状態にした。そうして明かりを落として、すぐに就床した。三時一〇分頃だった。


・作文
 16:20 - 16:51 = 31分
 16:54 - 17:16 = 22分
 22:51 - 23:08 = 17分
 計: 1時間10分

・読書
 9:08 - 12:25 = (2時間半引いて)47分
 13:15 - 15:29 = (1時間半引いて)44分
 17:27 - 17:54 = 27分
 18:25 - 19:02 = 37分
 19:30 - 20:27 = 57分
 20:58 - 21:38 = 40分
 21:45 - 22:31 = 46分
 23:09 - 23:23 = 14分
 23:28 - 23:40 = 12分
 計: 5時間24分

・睡眠
 2:00 - 8:00 = 6時間

・音楽

2019/6/4, Tue.

 明け方から何度も目覚めたのに、起床に至らず、結局気づけば一一時まで眠っていた。不甲斐ない。眠りが浅くて何度も覚めてしまうが故にかえって長く床に留まってしまうのだろうか。上階に行き、着物リメイクの仕事に行った母親が残した書抜きを読み、便所に行って長々と放尿した。それから台所に入って冷蔵庫から昨日の残り物――カレーとアスパラガス――を取り出し、まずはカレーを電子レンジに突っ込んで、二分間の加熱を設定する。そのあいだに洗面所に入って顔を洗い、さらに後頭部に整髪ウォーターを吹きかけ、さらに水で濡らしもしたあとに櫛付きのドライヤーで梳かしながら乾かした。出てくると加熱は終わっていたので今度はアスパラガスをレンジのなかに入れ、温まると、二つの皿と箸にスプーンを持って卓に就いた。新聞を瞥見しながらものを食べ――六・四天安門事件から三〇年だ――食い終わると薬を服用し、台所で皿を洗った。今日は二時限の労働がある。それでさっさと風呂を洗っておいた方が良いだろうとの判断の下、皿を洗ったあとは浴室に向かって風呂桶を洗った。ブラシと洗剤を使って浴槽の壁や床をごしごしと擦り、シャワーで流すと蓋を元に戻して室を抜けた。そうして下階にやって来てコンピューターを点け、日記を書きはじめたのが一一時五三分。この日のことを先にここまで綴るとちょうど正午である。
 それから前日の記事、そして前々日の記事と綴って一時直前を迎え、ようやく六月二日の記事を完成させることが出来た。一日中外出していたものだから例によって書くことがたくさんあって――それでもなかなか覚えていられないこともあって、まだまだ書き漏らしがあるのだが――二万字近くに達した。六月二日、三日と続けて記事をインターネットに放流し、それからベッドに移ってMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを読みはじめた。英単語を調べ、手帳にメモしながら五〇分ほど読んで二時に至ると切り上げ、続けてルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』にも入ろうかと思ったところが、気力が湧かず、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)の流れるなかで微睡みに入り込んだ。二時半になったら労働に向けて支度をしなければならないと思っていたところが、そのうちに二時四五分に達していたので慌ててベッドから離れて上階に行った。まず、ベランダの洗濯物を室内に取り込んだ。それから冷蔵庫を探ると、小松菜の残りとゆで卵があったので、それを食べることにした。そのほか、レトルトのカレーがあったことも思い出して、冷蔵庫に保存されていたパウチを取り出して水を張った小鍋に入れて火に掛けた。加熱しているあいだに卓に就いて、醤油を掛けた小松菜と、塩を振ったゆで卵を食べる。食べ終える頃にはパウチは温まっていたので台所に行き、大皿に米を盛ってパウチを鋏で切り開き、その上にカレーを掛けた。卓に戻ってあっという間にそれも食べると、流し台に向かい合って使った食器を洗い、そうして下階に下りてすぐに歯磨きをした。それから着替え、ワイシャツとスラックスを身に纏い、ネクタイは先日買ったばかりのシンプルな水色のものをつけた。ベストも羽織り、それからここまで一〇分も掛からずに日記を書き足して、現在は三時二〇分を過ぎたところである。音楽は、"Milestones"が掛かっている。
 上階へ行き、出発。道に出ると、林の縁や沢の付近に白い蝶が何匹も飛び交っていた。天気は曇りだが、こちらの薄影が路上に浮かぶくらいの光量はある。それなりに蒸していて、坂を上りきって街道に出る頃にはベストの内側に汗が滲む感触があった。街道では珍しく、東に向かう車が渋滞していた。道の先で行われている工事の影響らしかった。それで車が途切れないので、高校生らとすれ違いながら通りの南側を歩いていき、タッチ式の横断歩道で渡って裏通りに入った。
 街道にいるあいだ、道の先の方で横断歩道を渡る女子高生らの姿が目に入っていたのだったが、裏道に入ってみると高校生の影はなかった。雀が塀の上を飛び跳ねているなか、汗を滲ませながら歩いていき、この日も家の前に寝そべっている白猫と遭遇した。しゃがみこんでその体をゆっくりと撫でているあいだ、風が流れて涼しさをもたらしてくれる。口もとに指先を持っていって首のあたりを撫で、数分戯れたあと、立ち上がって先に進んだ。クラッチバッグを小脇に抱え、片手はポケットに突っ込みながら裏道を歩いていく。
 職場に着いたのはちょうど四時を回ったあたりだった。入口から入りながら、こんにちはと挨拶をし、タブレットを取って奥に進んで、ロッカーにバッグを入れると椅子に就き、タブレットで今日担当する生徒の授業記録を閲覧した。それから四時一〇分になったところで席を立ち、入口の方に向かうと、(……)さんがいたのでお疲れ様ですと挨拶をした。そうしてタイムカードを通し、準備を始める。準備中、(……)さんから、研修の一環ということでアンケートを書いてほしいと用紙を渡されたので了承した。それはひとまずレターケースのなかに仕舞っておき、準備を進めて授業である。この日は二時限。最初の時限は、(……)くん(小四)と(……)さん(小五)の姉弟が相手。昔も当たったことのある二人であるので、俺のこと覚えているの、と訊いてみたところ、覚えているとのことだった。またよろしくお願いしますと挨拶。科目は二人とも国語及び算数。一応問題はないが、二人とも遊びがちだと言うか、姉弟であることもあって話したりする時間が多く、こちらが就いていないと――あるいはこちらが就いていても――一人ではなかなか問題を解き進めようとしないので、あまり多くの問いを扱えなかったのが反省点である。国語と算数で半々にしなければならないというのも、忙しいところだ。四五分などすぐに過ぎてしまう。
 二時限目は(……)くん(小六・国語)、(……)くん(中二・英語)、(……)さん(高三・英語)を担当。(……)くんは優秀で、この日問いた問題のなかでは間違いはほとんどなかった。しかしそんなに出来るものだろうか? 答えを見ながら解いているのではないかという疑いがないでもないが、しかし真面目そうな様子なのでその可能性は低いだろう。問題についてはそういうわけで触れることがあまりなかったので、本文の要約をさせたりして突っ込んだ理解を図った。(……)くんはテスト前。補助教材を使って接続詞のthatの使い方や、過去形の文法などを復習。彼も優秀で、ほとんど間違いなく出来た。教えたのはWhoを使った疑問文に対する答え方や、excitingとexcitedの違いなど。(……)さんは以前、結構よく当たっていた生徒なので、彼女にもまた戻ってきたので、よろしくお願いしますと挨拶をした。彼女の授業は、宿題の解説がやや長くなってしまい、授業本篇は分詞を一頁扱っただけで終わってしまった。まだ最初の簡単な問題だからということもあろうが、出来は充分で、動名詞と現在分詞の区別をいくつか間違えたのみだった。宿題はメイン教材から新しい部分を一頁、復習を一頁、補助教材から前回の宿題と同じところを一頁出したが、補助教材を使わずにメイン教材一本に絞って繰り返し復習をしていった方が良いような気はする。何を目的として補助教材を使っているのかがあまりはっきりしない。
 ともかくそんな感じで授業を終え、奥のスペースで事務勤務申請書及び(……)さんのアンケートを書いていると、マネージャーがやって来たのでお疲れ様ですと挨拶をした。新しい講師の面談をするのだと言う。その後、ちらりとその新講師の姿を目にしたが、女性で、ブルーのスーツがなかなか決まっていて、歳はどれくらいだろう、面談の会話を盗み聞きしたところでは、どこかほかの会社で働いてきたあとに移ってきたようなので、こちらと同じくらいだろうか。
 書類の記入を終えると、それぞれデスクに提出しておき、退勤に向かった。面談スペースでは室長と(……)さんが並んで、誰か女性と面談していたのだが、あれは保護者の方だったのだろうか、それともこちらも新講師の面接だったのだろうか。ともかく、八時を回った頃合いに退勤し、駅に入った。ホームを歩いてスナック菓子の売っている自販機の前に行き、小型の筒状の袋に入ったポテトチップスの、うすしお味とコンソメ味をそれぞれ購入してバッグに入れた。それから奥多摩行きの最後尾の車両に乗り込んで、最初は扉際に立っていたのだが、じきに優先席に腰を掛けた。そうして手帳から岩田宏の詩句を読み返しながら到着を待ち、最寄り駅に着くと降車した。ホームを歩いていると前方の車両から友達に明るく挨拶しながら降りた高校生女子があって、その姿に見覚えがあるようだった。Aさんかなと思った。以前塾で担当していた生徒である。それでそのあとを追って歩いていくと、階段通路の入口あたりで携帯を取り出して止まった彼女がこちらに視線を送ってきていたので、こちらも長く視線を合わせていると、会釈が送られてきたので彼女だなと確定された。Aさん、と呼びかけ、A……下の名前は忘れちゃったなと顔を顰めると、Nですとの返答があった。高校一年生だと言う。また塾に来ないんですかと誘うと、部活が忙しくて来られないとの回答があったので、また受験期になってからかなと受け、いつでもお待ちしておりますと鹿爪らしく会釈をして、じゃあねと言って駅舎を抜けた。帰路を行っているあいだに、特段に印象深かったことはない。
 帰宅すると自室に下りて服を着替え、食事を取りに行った。聞けば今日、母親は着物リメイクに行ったのではなくて、先日亡くなったYさんの宅に行っていたのだと言う。食事は米にカキフライ、茸の炒め物に味噌汁など。どうでも良いテレビ及びニュースを見ながらものを食べ、薬を飲んで皿を洗うと風呂に入った。入浴を済ませて出てくると下階に戻り、一〇時直前から小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』の書抜きを始めた。Robert Johnson『The Complete Recordings』とともに三〇分ほど打鍵したのち、「思想・哲学をビジネスにするにあたって「ゲンロンがしないこと」は何だったか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【前編】」(https://finders.me/articles.php?id=858)を、これも三〇分弱で読むと、一一時からルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読みはじめたのだったが、まもなく意識を失ったようである。気づくと二時前、パンツ一丁のまま布団にくるまって眠りに就いた。


・作文
 11:53 - 12:54 = 1時間1分
 15:13 - 15:23 = 10分
 計: 1時間11分

・読書
 13:13 - 14:00 = 47分
 21:59 - 22:27 = 28分
 22:30 - 22:54 = 24分
 23:01 - 24:28 = 1時間27分
 計: 3時間6分

・睡眠
 1:05 - 11:10 = 10時間5分

・音楽

2019/6/3, Mon.

 早い時間から何度か覚めていた。六時五〇分のアラームが鳴らないように設定し直した覚えがあるので、少なくとも六時台には既に覚めていたはずだ。しかし結局は一〇時四〇分まで惰眠を貪った。身体を起こして上階に行くと、母親が今日はバイト、と訊いてくるので、今日はないと答える。台所に入って蓋の閉まっていた鍋を覗くと、素麺が煮込まれていた。そのほか、前夜のおかずの残りである魚があると言うのでそれを冷蔵庫から出して電子レンジに突っ込んだ。そうして卓へ。新聞一面から天安門事件関連の記事を読みながら麺を啜る。社会面に掲載されていた元農水事務次官の息子殺害事件も興味深いと言うか、この長男はいわゆる「引きこもり」状態にあったらしいのだが、鬱病にやられていた昨年中はこちらも似たような境遇にあったわけで、引きこもり関連の事件が起こると結構他人事ではいられないと言うか、自分も何かが違っていればこうなっていたかもしれないなという思いを禁じ得ない。あるいは、これから先、そのようになる可能性だってまったくないとは言い切れないのだ。ものを食っている最中母親から、立川のYちゃん(叔父)について、副鼻腔炎になって仕事を数日休んだのだという話があった。そうしてものを食べ終えると、マンゴーのゼリーを母親と分け合ってデザートに頂き、それから薬を服用して食器を洗った。そうして下階に下りてくるとコンピューターを起動させ、前日の記録を付けるとともに、この日の記事を作成した。書籍購入記録の方も付けておくと、今年は今までで既にちょうど七〇冊購入しており、八七〇〇〇円ほどを費やしている。さすがにそろそろ新しく本を買うのは止めて、積み本を少しずつ読んでいかなければならないだろう。そうしてFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだし、裏拍の位置で指を鳴らしながら洗面所に行き、歯ブラシを取ってきて歯を磨いた。その後、一一時三六分から日記を書きはじめて、先にこの日のことをここまで綴って一一時五五分である。合間に、元農水事務次官の息子殺害事件についてインターネットで検索したのだが、件の被害者はオンラインゲームの「ドラゴンクエストⅩ」の界隈では知られた人物だったらしく、引き籠ってゲームに耽っていたようだ。それで殺害されてからも彼のアカウントはログインが続いた状態になっているようで、彼のアバター(?)にほかのプレイヤーが「ザオラル」を掛ける「ザオラル祭り」なるものが持ち上がっていると言うので、世も末だなと嘆息した。
 それから前日の記事を書き足したのだが、一二時半過ぎで早くも力尽きてしまい、気力を回復させるために一旦ベッドに移った。それで一時から二時四五分まで、微睡みに意識を乱されながらルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読んだあと、臥位になってさらにしばらく休んだ。気づくと四時が近くなっていたのだと思う。上階に行き、腹を満たすついでに風呂を洗うことにした。浴室に行って浴槽の壁を擦り洗い、流して出ると玄関の戸棚から「カップスター」醤油味を用意して、電気ポットから湯を注いだ。さらに薬缶に水を汲んで電気ポットの水を足しておくと、下階に戻り、インターネットを閲覧しながらカップ麺を食った。不健康にもスープをすべて飲み干し、容器をぐしゃりと潰してゴミ箱に放っておくと、四時半過ぎからふたたび日記に取り組みはじめた。丁度一時間半綴って、六時に達したところでそろそろ食事を作らねばなるまいと一旦切りとした。日記作成の終盤、Skype上ではYさんとのチャットが始まっていた。Cさんに「そそのかされて」、小説を書いたと言う。そのCさんも前日、小説のデータをこちらに送ってきてくれていて、皆が盛んにものを書きはじめたこの状況はなかなか良いものである。それで六時を過ぎるとそろそろ飯を作りに行きますと言い、送られてきた小説のデータをダウンロードしておき、コンピューターを離れて上階に行った。カレーを作るようにと台所の調理台の上には人参や玉ねぎやジャガイモが取り出して置かれてあった。それらを洗って切り分けていき、さらにヨーグルトに漬けられた鶏肉も細かく切り分けると、手を洗い、フライパンに油を引き、その上から生姜をたくさんすり下ろすとともにチューブのニンニクを落とした。それで木べらで円を描くようにしながらしばらく搔き混ぜたあと、野菜を投入した。弱めの火力でじっくりと、じゅうじゅう音を立てさせながら炒めていく。野菜が柔らかくなり、水分が抜けて嵩がだいぶ減ったところで鶏肉を加え、さらに炒めてから水を注いだ。煮ているあいだに、玄関から外に出て、郵便物を回収し、それから自室に下りて手帳を持ってきた。灰汁を取ったあと、ソファに就いて手帳を読んでいるとインターフォンが鳴った。玄関に出ていくと、三丁目のKさんという若い人で、青年団の方で今度盆踊りを催す、引いてはその旨を回覧してほしいということで、茶封筒に入った用紙を渡してきたので、礼を言って受け取った。戻ると封筒をテーブルの上に置いておき、ソファにふたたび就いて脚を炬燵テーブルの上に伸ばして楽な姿勢を取りながら、手帳から岩田宏の詩の断片を読んでいると、母親が下階から帰ってきた。上がってきた彼女に、ルーを投入するように頼み、こちらはソファでだらけた姿勢を取りながらその後のことを任せ、そうしてカレーは完成された。七時一五分くらいまでだらけたあと、まだ腹がそれほど減っていなかったので、下階に戻って本を読んだが、ここでもまた終盤にはいつの間にか意識を失ってしまったようで、大して読み進められないうちに八時を迎えていた。そうして食事へ。カレーに焼売にサラダ。卓に就いてテレビのどうでも良い番組に時折り目を向けながらものを食っていると父親が帰宅した。おかえりと呟き、カレーをもう一杯おかわりして食すと、回覧の件を母親に促されて父親に伝え、それから皿を洗って風呂に行った。"いかれたBABY"のメロディを口笛で吹きながら湯に浸かり、出てくるとさっさと下階に戻って、八時半から一時間、前日の日記を書き足した。一時間で力尽きて、その後、一〇時半過ぎから小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』の書抜きを始めているのだが、それまでの一時間のあいだに何をしていたのかとんと記憶が残っていない。一〇時半から書抜きをしながら、Skypeのチャット上でやりとり。前日に行ったうさぎカフェのことなどを報告。そうして一一時半からふたたび日記を書きはじめたが、一五分で面倒臭くなって翌日に回すことにした。その後はベッドに移って、コンピューターを持ち込みながらインターネットを回ったり、引き続きSkypeでチャットを交わしたりしたのち、一時過ぎに就床した。


・作文
 11:36 - 12:37 = 1時間1分
 16:34 - 18:05 = 1時間31分
 20:33 - 21:34 = 1時間1分
 23:34 - 23:49 = 15分
 計: 3時間48分

・読書
 13:00 - 14:45 = 1時間45分
 19:17 - 20:04 = 47分
 22:34 - 23:24 = 50分

・睡眠
 2:40 - 10:40 = 8時間

・音楽

2019/6/2, Sun.

 携帯電話が所定の場所から手近の机上に移っていたところから見ると、六時五〇分のアラームで一度起き上がったはずだが、その時の記憶はまったくない。気づくとそれから一時間が経って、七時五〇分だった。起き上がって上階へ行き、母親に挨拶をして洗面所に入り、頭に整髪ウォーターを吹きかけて、早速後頭部の寝癖を直した。そうして洗面所を出ると、食事を用意。ヒレカツに胡瓜を細かく刻んだもの、白米、ワカメスープにジャガイモの残りと生ハムを支度して、卓に就いた。父親は朝も早くから、近くの花壇の植え替え作業を行っていると言う。食後にヨーグルトと葡萄ゼリーを食べて食事を終えると、抗鬱剤と風邪薬を服用し、それから食器を洗った。そうして下階に下りてきてコンピューターを起動させると、動作速度が鈍かったので再起動を仕掛け、それを待つあいだに上階に上がって風呂を洗った。戻ってくるとコンピューターにログインし、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめたのが八時五二分、一〇分も掛からずに前日の記事を仕上げて現在時に追いついている。わりあいに冷やりとする空気の曇りの朝で、ハーフ・パンツ姿だと少々肌寒いくらいだったが、先ほどフレンチ・リネンのシャツと煉瓦色のパンツに着替えたところ、丁度良い体感温度となっている。
 FISHMANSの音楽が流れるなかで、手帳に『岩田宏詩集成』からの言葉を写していく。コンピューターを閉じてその上に手帳を置き、左手には本をひらいて紙の上にペンを滑らせていく。時折り旋律を口ずさむが、やはり喉ががさがさと絡んで高い声が出ない。詩の方は例えば、「ところが今のこの慕わしさは/なぜだろう この衛生的な世紀では/人はもしかしたら自殺によってのみ/わかりあえるのかもしれないね」(「裁きのあと」)といったフレーズが良い。そのほか、「悼む唄」中の一節が改めて読んでも素晴らしく、それは次のようなものである――「こうしてわれわれは/おもむろに夢と死とに馴染み/それほど劇的でもない雨の朝/やさしい気持をとりもどすために/もっぱら死人のことを考えよう」。最後の二行はこちらが先日作った革命と音楽の詩――と仮に名付けておくが――の結びでほとんどそのまま盗用したものである。
 九時四五分までメモを取ったあと、作業を切り上げて、クラッチバッグを持って上階に行った。母親がこちらを見やるなり、またその格好なの、と言って笑った。いいでしょ、と自慢してみると、派手だよ、と彼女は言う。性格が地味だから服装は派手なくらいで丁度良いのだ。それから仏間に入ってカバー・ソックスを求めたが、見つからなかった。母親にもその旨を伝えて、ひとまず靴下を探すのを彼女に任せて便所へ行き、糞を垂れた。そうして戻り、あたりを探し回るが見つからない。そんなところにないだろうと思いつつも、階段を下りて両親の衣装部屋にも入ってみたが、当然見当たらない。上階へ戻ると、母親はどこかで見たんだけど、などと呟いている。時間が一〇時に迫ってきて、そろそろ猶予がないな、代わりの短いソックスで行くかと思ったところで、簞笥のなかに無事見つかったので、それを履いて出発した。
 丁度良い気候だった。涼しくもなく暑くもなく、肌と同じ温度で馴染む空気である。坂道の途中、くすんだ色の蝶二匹を、ガードレールの向こうの草むらのなかに見かけた。蝶たちは口づけを交わすように、愛に戯れるように近づきあって飛んでいたかと思えば、すぐに離れてそれぞれの方向に分かれてしまった。
 街道に出ても汗の感触はまだなかった。曇り空は磨かれた鏡面のように白いが、しかし直上にはさらに白い太陽の収束も見えて、空気の流れが止めば温もりが肌に感じられた。老人ホームの角、咲き誇っている躑躅の群れの前を折れて裏道に入る頃には、いくらか蒸し暑くなっていた。しかし、裏通りには風が吹かない。時折りあっても流れる程度で、吹くまでに盛らず、温気が宙に漂っている。
 踏切りを渡って森の方から高年の夫婦が出てきた。リュックサックを背負って、山歩きの装いである。既にハイキング・コースを歩いて森から出てきたものか、あるいは線路の向こうの近間の家の人で、これから山歩きに繰り出す格好か。夫が靴紐を結ぼうと立ち止まってしゃがみこんだ際に、女性の方がついた疲れを滲ませるような深いため息からすると、前者のように思われた。
 白猫の姿がいつもの家の前にないなと思えば、通りを挟んでその向かいの一軒の敷地で、母娘が猫を前にしていた。淡い黄色のスカートを履いた、まだ幼い、小学校中学年くらいの娘がしゃがみこんで猫を撫でており、猫の方は静かに撫でられるがままに佇んでいた。そこを過ぎてしばらく行くと、少々風の流れが生まれた。先ほど猫を撫でていた少女がキック・ボードで背後からやって来て、こちらを抜かしていく。彼女は市民会館跡の施設前で止まって、おそらくはあとから来るだろう母親を待って手持ち無沙汰にしていた。施設では何かの催しがあるのか、ベビーカーを押した親子連れや、自転車に乗った家族の一団などが見られた。交通整理員の言によれば、駐車場は満杯らしい。
 天麩羅屋の前にも躑躅がたくさん、赤く群れて咲いていた。雀だか燕だかが電線の上で囀るその下を抜けて行くと、駅前に出る角で頭上に燕が一羽飛んできて、看板の細い柱の上に止まり、見上げれば二股に分かれた尾が目に入った。
 駅に着くと券売機でSUICAに五〇〇〇円をチャージして、改札をくぐってホームへ上がった。二号車の三人掛けの位置に就く。それよりも前方、一号車の一には老婆が車椅子に乗っており、傍に女性と男性が一人ずつ控えていて、そこに今、乗降補助用の板を持った駅員が到着するところだった。振り向くと小学校ではサッカーの試合が行われており、赤と緑のユニフォームを着た子供らのあいだをボールが行き交っている。石段には見物の大人たちの姿がちらほら見られた。
 じきに東京行きが来たので、乗り込んで三人掛けへ腰を下ろした。そうして携帯を取り出して日記を書く。湿るというほどでないが、歩いてきて背に汗が滲んでいたので、初めは前屈みになって座席から背を離しておき、じきに深く腰掛け直して後ろに寄り掛かった。東中神まで掛かってようやくメモを終えると、そのあとは持ってきた梶井基次郎檸檬』を読んだ。『灯台へ』を読み終わったT田がほかにも文学作品を何か貸してくれと言うので、持ってきたのだった。表題作の「檸檬」や「冬の日」を読むのだが、やはり素晴らしい――何でもないような描写にもいちいち詩情が香るようだと言うか……四ツ谷まで読み続けて、降車した。
 丸ノ内線へ乗り換えである。FISHMANS "いかれたBABY"のメロディを口笛で小さく吹いたり、鼻歌で鳴らしたりしながらホームの端へ歩いていった。それから階段を上って改札を抜け、地下鉄駅の改札をくぐる。ホームの中程に立ち、手帳を読みながら待っていると電車がやって来たので乗った。扉際に就く。こちらの向かいの扉際では、サラリーマンと同僚らしき女性が一人、談笑していた。何の話をしていたのかはもはや覚えていない。
 二駅乗って国会議事堂前で降りた。階段を上り、通路を辿るのだが、地下鉄駅の通路というのは無機質かつ閉鎖的であり、風景にも変化がなく単調で、歩いているあいだのことを全然覚えることが出来ない。どこをどう辿ったのかも覚えていないが、表示に従って通路を歩き、千代田線のホームに入った。我孫子行きがまもなくやって来たので乗ったものの、この際の車内の様子もまったく記憶にない。相変わらず手帳を眺めてはいたはずだ。二駅で日比谷に着き、降りて改札を抜け、長たらしい通路を通ってA-14の出口へ向かった。
 階段を上って地上に出ると、すぐそこが日比谷公園の入口だった。公園入口には何かアンケートみたいなものを持ってうろついている人が立っており、警備員の姿もあった。あたりにはテントがいくつも設けられて色々なものを売っているようだ。人々のうろついているなかを進んで、小音楽堂方面へ。広場に着く。出店が色々とあり、噴水を取り囲むようにして席が多数設けられている。テントの一つはラジオのブースとなっており、その前に人だかりが出来ている。T田、T、Kくんの三人は先にもう到着しているはずだった。席のうちのどこかに座っているかと噴水の周囲を回っていくが、それらしき顔が見つからない。そのうちに携帯を見るとTからメールが入っていて、列に並んでいるとあった。列とはどこか? 広場にいると返信しておき、列を探して小音楽堂方面の通路に入っていくと、ここに長たらしい行列が出来ていた。二列が二つ並んでおり、左の二列と右の二列は人々の向かう方向が違っていて、途中で折り返しがあるくらいに長くなっていた。並んでいる者の顔を見やりながらその列に沿って進んでいると、T田が前からやって来たので、おう、と挨拶した。彼について歩いていくと、結構先で二人と合流することが出来たので、こんにちはと挨拶をした。あたりには木々が立ち並んでおり、明るい緑の幕が頭上に生まれていて、近間にはテニスコートがあって老若男女が球技に勤しんでいる。TとKくんはそれを見て、あそこの一組だけ明らかに上手いね、弾道が低いもんね、ほかは山なりだもんね、などと話し合っていた。リハーサルの音やTRUEという歌手の力強い歌声が遠く離れていても伝わってくる。
 そのうちに列が動きはじめた。前に向かって歩いていき、立っているスタッフを点として折り返し、音楽堂の方へ向かう。ここでこちらと並んだTは、軟式テニスは品が悪いという話をしてくれた。軟式テニスと硬式テニスでプレイヤーの柄に違いがあるらしく、軟式は相手が失点した時など煽るような声を出すのだと言った。そんな話を聞きながら音楽堂まで歩いていき、席のある区画へ入った。席は長椅子と言うかベンチと言うかがいくつも並んでいるだけの簡素なものである。まだ人の入っていない一画が残っていて、その最前列が良さそうだとこちらは思ったが、先頭を歩いていたT田とKくんが流れに従って後ろの方の列に入ってしまったので、それに続いた――もし最前列を選んでいたとしても、楽団から見ると横方向になったので、音のバランスはあまり良くなかったかもしれないが、それでもやはり近くを取った方がまだ良かったのではないかと今からは思える。並びは左端からT田、Kくん、Tにこちらという順番である。Tの格好はボーダー柄のワンピースに、足もとは可愛らしいような、小さな菫の花でも思わせるような紫色のヒールで、首もとにはネックレスをつけていた。それだけならば軽装だが、彼女はさらにカーディガンを持ってきており、のちの電車内などでは羽織っていた。荷物は腕に掛けるような白いバッグに日傘である。Kくんはこちらもボーダー柄のインナーに、薄手の紺のサマー・ジャケット、下は前回植物園に行った時のものと同じだろう、真っ黒なパンツに、靴下は赤だった。彼は手ぶらでバッグなどは持っておらず、財布を内ポケットに入れて、水のペットボトルを持ち、マカデミア・ナッツのチョコレートをポケットに収めていた(待っているあいだに、こちらも一粒だけ頂いた)。T田はいつもながら洒落っ気がなく、ワイシャツのような色気のないシャツに、下は苔色のズボン。それに手提げのバッグを持っていたが、これはのちに帰りの電車内で聞いたところでは、去年の誕生日にKくんとTが彼に贈ったものなのだと言う。
 待っているあいだ、左のTに、最近はどうかと訊かれる。忙しいかと問われるのに、そんなに忙しくはないと答え、最近は短歌を作ったりしており、このあいだなどは生まれて初めて詩を書いたと伝えた。子供の頃国語の授業でやった、結構好きだったと彼女。何についての詩かと問うので、言葉を適当に並べただけだからあまり何についてというのはないと答える。
 天気は曇りである。陽は陰っていた。それに加えて頭上には薄緑色の木々の冠が掛けられており、人がたくさん集合しているので多少蒸す感じはあったが、それほど暑くはなかった。涼しくて良かったね、とTと話しながら開演を待つ。客はやはりアニメやそちら方面の歌手を好きな人が多いようで、ライブの物販で売られているのだろうTシャツを着ている姿がいくつか見られた。じきに一二時四五分が来て、演奏が始まった。洗足学園音楽大学フレッシュマン・ウインド・オーケストラ &TRUE(from 響け!ユーフォニアム)の公演である。最初の一曲はMCなしでいきなり始まったと思う。TRUEが早くもその歌唱を披露したのだが、こちらの位置からは彼女の姿はちょうど一本の木に完全に隠されていて、指揮者と楽団の姿しか見えず、曲が始まってからしばらくは、歌手は一体どこにいるのだろう、サビあたりで登場するのだろうかと勘違いしていた。本当は当然、一番最初からステージ上に登壇していたのだ。TRUEという歌手はこちらは勿論初めて――いや、『響け! ユーフォニアム』の劇場版を見た際にエンディングで彼女の歌唱が流れたのを別とすれば初めて聞くものだった。Aメロなどの低音部ではやはり微かに安定性が落ちると言うか、いや、それでも充分に膨らみのある声だったとは思うのだが、やはり僅かに聞き劣りはしたものの、中音域から高音域に掛けての声の張りは見事で、「凛とした」というような形容がよく似合うように思われた。地声や低音では少々可愛らしいようなと言おうか、やや弱い声色なのだが、ある程度の音域を越えると、いかにも「歌声」という感じの力強く響きのふくよかな発声に変わるのだ。最高音はかなり高いところまで達していたと思うし、長く音を伸ばしたあと、呼気をかなり使ったあとの音の消え際でビブラートを掛けたりというテクニックも披露していて、呼吸や発声のコントロールはさすがにプロだなという感じだった。
 二曲目は"ライディーン"。パーカッションのソロがラテン風味でリズミカルでなかなか良かったが、短いものだった。ベースはエレキ・ベースだったが、やや出力が弱かったか? 全体としてもドラムの音の方が目立ってベースはバランスとしてはやや弱いようにこちらは感じられたのだが、しかしKくんはあとになって、コントラバスの音が非常によく聞こえたと言っていた。どちらの言が正しかったのかはわからない。ドラムのシンバルが八分の裏打ちをする場面があったのだが、そこではほんの僅かにリズムがずれていたと言うか、安定性をほんの僅かに崩していたと思う。この点はKくんも指摘していた。しかし全体的にドラムのハイハットの刻みが忙しい曲展開が多くて、一六分音符で細かくリズムを作っていくような曲ばかりだったので、ドラムは結構健闘していたと言うべきだと思う。T田もあとになって、リズムは吹奏楽の演奏ではかなり良い方だったと評価していた。
 三曲目、五曲目はこちらの知らない曲。『響け! ユーフォニアム』本篇のなかで取り上げられたものだろう。六曲目はふたたびTRUEが出てきて、多分劇場版のエンディング・テーマだった曲を披露したのだったと思う。四曲目は"リズと青い鳥"で、これはこちらも映画を見たから知っていた。まあやはり白眉と言うのはこの曲の演奏だったのではないかと思う。第一楽章は、第三楽章のソロをすべて収めるためだろう、かなり短く編集されていた。そのオーボエとフルートのソロなのだが、映画で見た時にはもっと朗々と吹き上げていたように思うのだが、この時はそれよりもやや平板と言うか、細かなニュアンスが伝わってこないように感じられた。ただそれは演者の問題ではなく、こちらの座った席と楽団との距離の問題だったのだと思う――加えて、野外での演奏なので音が拡散しやすいということもあっただろう。
 それで終演。人々の流れに沿って席から退去しながら、それぞれ感想を少々漏らす。広場を抜けて公園入口へ。飯は措いて、とりあえず池袋に移動することになった。夜から彼の地でうさぎカフェとやらに行く予定になっていたのだ。それで有楽町からならば一本で行けるということで、有楽町駅まで歩くことに。馬鹿でかいビルの足もとを歩いていき、線路沿いに出て、ガード下に様々な飲食店が集っているあいだを通っていく。ラーメン屋が結構あるねとTと話す。線路のガード下をくぐり、有楽町駅の正面に出て、JRか地下鉄で行くかとなって、地下鉄を選ぶことに。Tに、地下鉄大丈夫なのと尋ねた。彼女が地下鉄が苦手だというようなことを以前にLINE上で言っていたのを思い出したのだ。一人ならば避けるけれど、皆と一緒ならば平気だと言う。地下鉄が苦手だというのはどういう心境なのだろう、パニック障害時代のこちらと似たような感じなのだろうか。閉鎖的な感じが嫌なのだろうか。ともかく、地下鉄駅に入ったのだが、このあたりの改札を抜けたりした時の記憶は全然ない。情景がまったく蘇ってこない。電車に乗って、四人並んで席に就いた。ホームで電車を待っているあいだにこちらの前に立っていたT田が、貸していた『灯台へ』を差し出してきた。それに応じてこちらは梶井基次郎檸檬』を交換で差し出したのだった。それで電車内では『灯台へ』のどこが良かったか、自分はどこが好きかなどという話をした。T田は、第三部では全篇に渡って誰もがラムジー夫人のことを思い出し、彼女のことを考えているわけだけれど、他人がずっと他人のことを考えているという様をひたすら描写していくその点が印象的だったというようなことを述べた。第三部のなかでこちらの好きな箇所は、リリー・ブリスコウがラムジー夫人の存在そのものが――彼女が特別な何をしたわけでもないのに――自分とチャールズ・タンズリーのあいだを結びつけてくれ、「芸術作品[ワーク・オブ・アート]のように」いつまでも心に残って消えない瞬間を生み出したことがあったと回顧している部分である。長くなるが以下に引いておこう。

 (……)そういえば、とリリーは思い出す、海辺でちょっとした事件があったっけ。あれは忘れられない。ある風の強い日の朝、皆で浜辺に出かけていた。ラムジー夫人は、そばの岩陰に腰を下ろして手紙を書いていた。夫人は長い間ずっと書き続けているようだった。「あら」とやっと目を上げると、彼女は海に何か浮かんでいるのを見つけて言った。「あれはエビ取り籠[ロブスター・ポット]なの? それとも転覆した舟[ボート]なの?」もともともと近眼でよく見えなかったのだろうが、たったそれだけの言葉で、チャールズ・タンズリーが急に打ち解けた様子になったのだ。彼は水切り遊び[ダックス・アンド・ドレイクス]をし始めた。小さく平たい黒っぽい石を拾っては、二人で波の上を走らせるように投げた。時折り夫人は眼鏡ごしに見上げると、二人の方を見て笑った。互いに何を話したのかは覚えていない。ただ、わたしとチャールズが石を投げ始めて二人の間が急になごやかになったことと、ラムジー夫人がそれをじっと見守っていたことを覚えているだけ。でも見つめていた夫人の姿は、はっきりと意識に焼きついている。あの時の夫人の姿は、と一歩後ろに下がって目を細めながらリリーは考えた。(夫人がジェイムズと踏み段のところにすわっていてくれたら、ずいぶん構図は変わっただろうに。そうすればあそこに影ができたはずだわ。)ラムジー夫人――自分とチャールズが水切り遊びをした浜辺での光景を思い起こすと、どういうわけかあの場面のすべては、岩陰で膝に便箋をのせて手紙を書いていた、あのラムジー夫人がもたらしたもののように思えてくる。(夫人はしょっちゅう手紙を書いていて、時々風に便箋を吹き飛ばされ、わたしとチャールズがもう少しで海に流されそうだったのを取って来てあげたこともある。)でも人間の心には、なんて不思議な力があるものだろう。ただ夫人がそばの岩陰で手紙を書いているというだけで、すべてがとても単純なことのように思えてきて、怒りも苛立ちも古いぼろきれのように脱げ落ちてしまったのだから。夫人は、これとあれと、またこれと、というふうに実に無造作に結び合わせて、取るに足りない愚かさや憎しみの中からでも(わたしとチャールズはいつもいがみ合い、愚かなことで仲違いしていた)、何か大切なものを――たとえばあの浜辺での一場面、あの友情と好意の瞬間のようなものを作り出すことができた。そしてそれは長年月を経ても少しも色あせなかったので、タンズリーを思い出そうとしてそこに身を浸すこともできるし、その場面自体がほとんど芸術作品のように、心の奥に宿っているのだった。
 「芸術作品[ワーク・オブ・アート]のように」とリリーは繰り返して、キャンバスから客間へ上がる踏み段に目を移し、さらにまたキャンバスの方を見た。少し休まなければ。絵と風景をぼんやり見比べながら休んでいると、絶えず心の中の空を横切り続ける昔からの疑問が、またしても頭をもたげてきた。それは茫漠とした摑みどころのない疑問なのだが、こんなふうに張りつめていた気持ちを少しやわらげた時など、決まって妙になまなましい形をとって浮かんでは、彼女の前に立ちはだかり、動こうともせず、暗くのしかかってくるのだった。人生の意味とは何なのか?――ただそれだけのこと。実に単純な疑問だ。だが年をとるにつれて、切実に迫り来る疑問でもあった。大きな啓示が訪れたことは決してないし、たぶんこれからもないだろう。その代わりに、ささやかな日常の奇跡や目覚め、暗がりで不意にともされるマッチの火にも似た経験ならあった。そう、これもその一つだろう。これとあれと向こうのあれと、わたしとチャールズと砕ける波と――ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ。「ラムジー夫人! ラムジー夫人!」とリリーは繰り返し呼びかけた。こんな啓示を受けたのはあなたのおかげです。
 (308~311)

 「人生がここに立ち止まりますように」! 何と美しい言葉だろう。そのほか、『檸檬』は私小説的で、まあ言ってみれば身の周りの日常を描いているのだけれど、描写が非常に瑞々しい、ささやかな日常のなかにもそうした瑞々しい、はっとするような瞬間があるというのをこれを読んで知るのも良いのではないだろうか、などと話しているうちにあっという間に二〇分ほどが経って池袋に到着した。電車を降り、階段を上ったと思うのだがよく覚えていない。改札を抜けたところで、T田が金を下ろしたいと言い、TもICカードに入金しに行った。残ったKくんとこちらの目の前にはちょうど柱に貼られた広告があったのだが、それがまさしく檸檬のそれだったので、檸檬じゃん、タイムリーだなと言い合った。お中元の広告で、瀬戸内レモンを勧めるものだった。何とかいう文言が書かれてあったのだが、こういう一節が小説中にあるのとKくんが訊くので、いや、ないなと笑って答えた。そのうちに二人が戻ってきたので通路を辿って地上に出た。池袋東口の駅前で、さてどうするかと話し合う。T谷とMUさんは遅れて来る。そのうちにKくんが、「餃子の王将」に行くのはどうかと提案した。Tは王将は行ったことがないと言い、こちらも同様だった――こちらの狭い行動範囲のなかに王将を見かけたことがないのだ。それでそこに向かうことに決まり、歩き出した。歩いているあいだのことは覚えていないし、池袋など土地勘がないのでどこをどう歩いたのかもまったくわからない。王将に着くと入店し、二階の隅の席に通された。注文したのは、Kくんは餃子定食、Tはジャストサイズの炒飯に餃子一人前、こちらは豚カルビ炒飯にやはり餃子一人前、T田は焦がしニンニク醤油ラーメン定食みたいなやつだった。タッチパネルを使ってそれぞれ注文し、品物が来るのを待つ。待っているあいだ、そして食事のあいだに何を話したのかは例によって覚えていない。じきにこちらの品物もやって来たのだが、どうもこれが豚カルビ炒飯ではなく、普通の炒飯だったのではないかという気がする――店員も「炒飯のお客様」と言っていたし、見た目もTが頼んだ普通の炒飯と何も変わらなかったように見えるのだった――まあ面倒臭いので何も口出しせず、持ってこられたそれを文句を言わずに普通に食ったが。じきに、食事をそろそろ終えようという頃になって、T谷とMUさんが合流した。彼らはテーブルの横にちょうど二つ置かれていた背もたれのない――いや、あったかもしれないが――丸椅子に二人並んで座った。食事を終えたこちらは、右手に座ったMUさんに、親指を差し向けて、キャラメルボックスが……と口にした。そう、休止しちゃってと彼女は受ける。前日だかにTwitterのトレンドに「キャラメルボックス」という単語が入っていたので、見てみたところ、この劇団の活動休止の報が見られたのだった。MUさんの推測によると、団員のなかの「加藤さん」という人に何かあったのではないかということだった。
 そのうちに、喫茶店に行くかあるいはファミレスに行くかというような話になって――うさぎカフェの時間までに何をするかは未定だったのだ――、こちらはルノアールはどうかと提案した。王将まで来るあいだにルノアールがあるのを見かけていたし、ルノアールだったら六人でも入れ、なおかつ長時間いても追い出されないのではないかと思ったのだった。ボーリングはどうかという案も出たが、これはこちらが面倒臭いと言って却下した。しかし今まで二、三度却下してきているので、そろそろ行かなければならない羽目になるような気がする。面倒臭いことだ。そのうちにT谷が、淳久堂に行きたいみたいなことを言い出した。それに対してこちらが、淳久堂、と反応したところ、ボーリングの時と比べて食いつきがいいな、嬉しそうだなということで皆に笑われた。それでひとまず書店に行くことに。そうして席を立ち、こちらが伝票を持って階段を下りて会計へ。個別会計を頼み、こちらは七九九円を払って外に出た。
 そうして通りをまっすぐ歩いていると、いつの間にか淳久堂が目の前にあった。入店。三階が文芸の階だと言うのでこちらはそこに行くことに。T谷とKくんは六階のコンピューター関連の区画に行きたいらしい。それでT田も合わせて四人でエレベーターに乗り込んだ。こちらは三階で降りたところ、T田がついてくると思っていたのだが、振り向くと誰もおらず、一人になっていた。それで思う存分見分を楽しむことに。最初は海外文学の棚を見ていたのだが、じきに詩の方へ。北園克衛の詩集が念頭にあった。北園克衛の著作は、『記号説』と『単調な空間』だったか、おそらくわりと新しめの編集版らしきものが二冊あり、どちらも結構前衛っぽかったので、もう少し穏当なところから触れていきたいなと思った。現代詩文庫の『北園克衛詩集』があれば良かったのだが、これは置かれていなかった。そのほか、『白昼のスカイスクレイパア』という小説集もあって、これも以前から少々気になっているものではある。現代詩文庫の欄を見ると、『続・岩田宏詩集』があった(「続」がついていない普通の『岩田宏詩集』もあった)。そのなかを覗くと、今まで気づかなかったものの、旧版には含まれていない詩篇やエッセイが新版には含まれているらしいことに気づいたので、これは旧版で既に持っているのだけれど購入しておくことにした。それから短歌の棚に。石井辰彦という歌人が気になっていて、作品があるかなと見に来たのだったが、薄めの『全人類が老いた夜』と、比較的厚めの『逸げて來る羔羊』の二冊があったので、どちらも買うことにした。この人は括弧を多用したり、三点リーダーやダッシュなどの記号を取り入れたり、ルビを効果的に使ったりしていて、前衛風の作風なのだ。そのほか、せっかく遠出して淳久堂本店に来たのだからここでしか買えないようなものを買おうということで、日本の現代文学の区画を見分して、『金井美恵子エッセイ・コレクション [1964-2013] 3 小説を読む、ことばを書く』を買うことにした。また、木下古栗も気になったが、さすがに金が掛かるので見送ることにした。そのほか金原ひとみの新作、『アタラクシア』も表紙を表にして並べられていて、これはNさんが言っていたやつだなと見た。四冊を持ちながら海外文学の方にふたたび行き、ソローキンの『青い脂』など買おうかとも思ったが、やはり金が掛かるのでやめた。海外文学を見て回ったなかでは、アンリ・ボーショー『アンチゴネ』という著作が面白そうだった。書肆山田の「りぶるどるしおる」シリーズから出ているやつで、訳者の宮原庸太郎という人は個人でトリスタン・ツァラを訳している人である。
 そうして見て回ったあと、一階に下りて会計をした。九五〇四円。また散財してしまった。それからふたたび三階に上がって皆がいるかどうかフロアの隅まで確かめたが、姿がなかったので、ひとまず思想の棚でも見に行くかということで四階に上がった。そうして思想の区画をうろついていると、T田と遭遇し、合流した。その後も一人で哲学・思想の著作を見分していると、ほかの皆もじきにやって来たので連絡を取らずともうまく合流することが出来た。そうして喫茶店にでも行くことにして、エスカレーターを下り、ビルを出た。
 近くにVELOCEがあったのでまずはそこに行ってみようということで入ったのだが、やはり六人は厳しいということだった。それでルノアールへ。道中歩いている時のことは例によってよく覚えていない。入口から階段を上って二階の店に入ると、ここでもやはり六人は厳しい、三・三で分かれるようだと言うので、それではやはりファミレスに行くかとなった。それでT谷を先頭として歩き、ガストへ。ビルの二階の店舗で、階段で上っていき、一旦店内に入ってT谷が用紙に名前を記入したあと、階段の途中に皆溜まって呼ばれるのを待った。待っているあいだ、階段には頻繁に人が行き来し、それも女性が多かった。上は何があるのかなと言うので、先ほど看板を見ていたこちらは、女性専用のゲーム店だと言った。どうも人気があるようだ。それからしばらくして店内に入り、椅子に腰掛けて呼ばれるのを待ったが、結局やはり三・三に分かれてしまうことになった。それでも、テーブルが空いたら合流できるという許可を店員から取りつけ、こちら・T田・T谷、Kくん・T・MUさんの三人ずつで分かれた。こちらのテーブルでは、デザートでも食うかというわけで、チョコレートサンデーを二つと抹茶のババロアを一つ注文し、その後、T谷が腹が減ったと言って山盛りポテトフライを追加注文した。
 話したことは大して覚えていない。こちらは、最近はドヴォルザーク交響曲第八番と第九番を聞いているという話をした。カラヤン指揮のやつを久しぶりに聞いたが良かったと言い、第九番の第四楽章の、あのダサさね、と笑った。DokkenやMichael Schenker Groupに通ずるダサさを感じると言った。それに対してT田は、あのあたりの短調の陰鬱なメロディというのはスラブ方面のもので、チャイコフスキーなんかも初期にはよく使っていたものだと説明した。
 話したことを覚えていないのでどんどん先に進もう。だいぶ経ってから六人掛けられるテーブル席が空いたのでそちらに移動した。MUさんがポテトフライを、T谷とTはそれぞれ食事を何か頼んでいた。こちらはポテトフライとサンデーを先ほど食っていたので腹は特に減っていなかった。それで雑談しながらものを食うものはものを食ったあと、六時半頃になって、六月一二日、T谷の誕生日にそれぞれのメンバーが行きたいところをプレゼンしてT谷に決めてもらうという流れになった。Kくんは船橋アンデルセン公園。ここはこちらも良さそうだなと思っているが如何せん遠すぎて向かうのが面倒臭い。Tはディズニー・シー。MUさんはディズニー・ランド。こちらは美術館として、上野の国立西洋美術館で松方コレクション展というのがやると紹介した。結果、T谷はディズニー・シーに行ってみたいと言った。従ってこちらは一二日は欠席することが決まったのだが、その点についてほかのメンバーは来るように誘ってくれたものの、こちらはテーマパークの類にはあまり興味がないし、場所も遠くて面倒臭いしで固辞した。
 それで六時四五分頃になったところで退店。個別会計は不可だったので、細かい金のなかったMUさんが一万円札を出した。こちらは彼女に一四〇〇円を渡し、自分たちのテーブルで食べたものすべての会計を持った。T谷に奢る形になったわけだが、これもまあ誕生日プレゼントの一環ということで良いだろう。そのほか、ヘミングウェイの『老人と海』を贈ろうかなと思っている。
 そうして退店し、うさぎカフェに向かった。道中のことはやはり覚えていない。いつの間にか店に着いていた。店は地下。階段を下りていき、Tが予約していた者だと申し出たのち、トイレを済ませに行った。トイレはさらにもう一階地下にあり、その階には獺の部屋も設けられていた。トイレから戻ると先払いだということだったので、一五〇〇円を支払い、狭いアパートの部屋のような店内に入店。狭いスペースで靴をスリッパに履き替え、荷物を物掛けに掛け、スカートのような布を装着し、さらにその上からエプロンを身に纏った。そうして、店内を区切っているいくつかの小部屋のなかの一つに入る。そこには兎が五、六匹いた。実に可愛らしい生き物である。それぞれ皆席に就いて、渡された餌を兎にあげたり、ふわふわと体を撫でさすったりして動物を愛でた。T田などはかなり可愛がってひたすら撫でており、その様子を見てこちらはT田の(父性ではなくて)母性が発揮されているなと呟いた。兎たちのなかには一人、KくんやTが「やまのごとしくん」と呼ぶ薄茶色のものがいた。曰く、まさしく山のごとく静止して動かないのだと言うが、最初のうちは彼(彼女?)も動き回っていたものの、じきに食事を取って落ち着いたのだろうか、部屋の隅で確かに動かずにじっと留まっていた。こういう動物が、いるんだねえと爺のようにしみじみ呟くと、皆に笑われた。
 ドリンクの注文を取ったあと――こちらはグレープ・フルーツ・ジュースを頼んだ――一旦兎の部屋をあとにして、獺の方に向かった。スリッパ履きのまま室を出て階段を下りていき、そちらの一室に入る。キューキューいう鳴き声がたくさん響いていた。部屋は二つに区切られており、そのうちの一室に一人ずつ入っていった。獺が脱走しないように、扉を開けると風呂桶の蓋のようなものを仕切りとして身体を取り囲まれ、扉を閉めたあとにその仕切りも取り払って室のなかに進む、という形だった。獺は三匹いた。結構大きく、多動で、座った我々の膝の上を終始行き来し、渡り歩き(岩田宏の著作の名前だ!)、鳴き声を散らしながら室内を動き回ってやまなかった。KくんやT谷などは、肩の上に乗られたりしていた。そのうちに女性店員の手によって、餌の魚が室内に運び込まれた。皆は抵抗なくそれを受け取って手に載せ、獺に食べさせていたが、手が汚れて臭くなってしまうという店員の言葉にこちらは怯んで、手を出さず、こちらのもとにやってくる獺を撫でるに抑えていた。獺たちは旺盛に動き回って、一度などこちらのつけているエプロンの内側に入り込んできたこともあった。また、ポケットを探ろうとするのだった。上の階で着替えた際に、その点は注意されていて、ポケットのなかのものを取ろうとするので、ポケットは空にしておいてくださいと言われていたのだった。
 獺たちと戯れたあとは、ふたたび上階に戻って最初とは別の仕切られたスペースに、三・三で分かれて入った。こちらはKくんとT田と一緒になった。グレープ・フルーツ・ジュースを飲みながら兎三匹と戯れる。この部屋の兎は、一匹は毛が普通に整えられていたものだったが、あとの二匹は毛が結構伸びていて、老人の白い髭のようになっていて、佇まいも何だか貫禄があると言うか、ふてぶてしいような感じだったので、こいつは「長老」だな、と一匹の方を名付けた。それで、「長老! 長老!」と呼びながら撫でたり、「長老、食べてください」などと言って口もとに餌を差し出すなどして遊んだ。
 そうして時間がやって来たのでスカートとエプロンを外し、手を洗って荷物を持って退店。階段を上がって地上に出る。それからどうしようか、もう解散しようかと話して、T谷が公園にでも行こうかと提案した。それで彼について歩いて行く。サンシャイン・シティを越え、高架下の横断歩道を渡ったところに公園があった。電灯の少ない、薄暗い公園で、人は結構いたが――一人で座り込んでスマートフォンを弄っている人影が結構見られたのだが、あれは「ポケモンGO」でもやっているのだろうか?――その顔や姿形は定かに見えなかった。段差のあたりに集まって、腰掛ける。それで適当な話を交わす。そのうちにTが、こちらが買った詩の本を見てみたいと言い出したので、『続・岩田宏詩集』を渡した。最初は詩篇を読んで何やら笑っていた彼女だったが、じきに巻末の方に収録されている谷川俊太郎の、「33の質問」を見つけて、それを読みはじめ、また何故かKくんに、それをFさんにも訊いてみたらとそそのかされて、こちらにも質問を投げかけはじめた。こちらは特に嫌がらず、何でも答えようと言ってそれらの質問を受けて立った。実際の質問は順不同だったが、今は『続・岩田宏詩集』の該当箇所を見ながら、順番に沿って訊かれた質問と、こちらが答えた回答を記しておく。

 ・「アイウエオといろはの、どちらが好きですか?」――そりゃあ、いろはでしょう。しかし、アイウエオの即物性も捨てがたい。
 ・「前世があるとしたら、自分は何だったと思いますか?」――そりゃ、小説家でしょう。
 ・「草原、砂漠、岬、広場、洞窟、川岸、海辺、森、氷河、沼、村はずれ、島――どこが一番落着きそうですか?」――草原。
 ・「白という言葉からの連想をいくつか話して下さいませんか?」――白から安直に雪を連想して、雪のエピソードと言うと祖母の死んだ日と葬式の日のそれかなと思ったので、それについて話した。
 ・「好きな匂いを一つ二つあげて下さい」――好きな匂いではないが、今ぱっと思い浮かんだのは、雨が降って止んだあとのアスファルトから立ち昇る匂い。
 ・「あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい」――日の出とともに目覚める。
 ・「一脚の椅子があります。どんな椅子を想像しますか? 形、材質、色、置かれた場所など」――背もたれのない、丸い座席がついている、スツール型と言うのかそういった椅子で、脚は四本。色は何でもいい。置かれた場所もどこでもいい。
 ・「目的地を決めずに旅に出るとしたら、東西南北どちらの方角に向いそうですか?」――南。
 ・「子どもの頃から今までずっと身近に持っているものがあったらあげて下さい」――内向性。
 ・「素足で歩くとしたら、以下のどの上がもっとも快いと思いますか? 大理石、牧草地、毛皮、木の床、ぬかるみ、畳、砂浜」――ぬかるみ。
 ・「あなたが一番犯しやすそうな罪は?」――怠惰の罪と答えたかったのだが、Kくんに先を越されてしまったので、困った結果、「罪を犯さないという罪」というよくわからないことを言った。
 ・「理想の献立の一例をあげて下さい」――煮込みうどん。
 ・「大地震です、先ず何を持ち出しますか?」――やはりコンピューターを持ち出したくなる。日記を書くために。
 ・「宇宙人から〈アダマペ プサルネ ヨリカ?〉と問いかけられました。何と答えますか?」――おはようございます! と。
 ・「人間は宇宙空間へ出てゆくべきだと考えますか?」――地球のことだけで手一杯だよね。
 ・「もっとも深い感謝の念を、どういう形で表現しますか?」――やはり「ありがとうございます」と言うしかないよね。

 その後、さらにメンバー一人ひとりが好きな質問をこちらに投げかけてみようということになり、何故こちらばかり答えているのかよくわからなかったのだが、ともかく何でも答えるぞとこれも受けて立った。Tからは、手近の木を指して、あの木を名付けるとしたら何という名前にするかという質問があったので、間髪入れず、「ジョージ」と答えた。あるいは「譲二」のように日本語名でも良いだろう。Kくんからの質問は何だったか忘れた。MUさんからは、動物を買うとしたら何かとあったので、猫と答え、T谷はそれに被せて、その猫に名付けるとしたらと寄越して来たので、これも間髪入れず、ぱっと思いついた名前で、「ロートレアモン」と答えた。するとそれに対して、それは「ロートレアモン」とずっと呼び続けるのか、それとも「ロー」と略したりするのかと訊かれたので、確かに「ロートレアモン」といつも呼ぶのは長くて面倒臭いから、「ロー」で良いと答えると、『ワンピース』のトラファルガー・ローみたいだなと言われた。T田は質問が思いつかなくて散々迷ったあげくに、文学を嗜むようになったきっかけを話してくれとあったので、前々から文学というものに興味はあったが、大学四年生の時に卒論を終えてからようやく読むようになって……などと簡単に話した。
 それからさらに、こちらから何か皆に質問はないかと訪ねられたので、好きな言葉は、と訊いたあと、大切な言葉は、と追加して言い直した。Tは「ありがとう」というお礼の言葉を大切にしているとのこと。ほかの皆の回答は忘れた。そのようなやりとりを交わしたあと、一〇時前くらいだったかと思うが、そろそろ帰ろうということになって公園を出た。池袋駅に向かって歩いていく途中、路傍に躑躅がたくさん咲き群れている一角があったのでそのことに言及すると、T田が、これはサツキツツジだなと言った。サツキツツジという名前のわりに、五月の下旬から六月頃にならないと咲かないらしい。
 駅に入り、改札の前でT谷と別れ、ほかの皆は駅内に入って電車に乗った。山手線である。T谷への誕生日プレゼントは何が良いのかということを話しながら揺られて、新宿で降車。階段を下り、京王線か何かに乗るMUさんとはここでお別れである。ディズニー・シーには行かないというこちらに対して、MUさんは、こちらの片手を両手で取って包みながら行かないの、と誘ってくれたのだったが、こちらは薄笑みを浮かべながら首をひたすら横に振った。そうしてMUさんと別れ、あとの四人は中央線に乗るので通路を辿って該当のホームへ。階段を上ってすぐのところの列に並び、電車がやって来ると乗り込み、扉際に集まって引き続きT谷へのプレゼントについて話した。色々と案は出ているのだが、T的にはこれだ! という決定的なものがないようだった。こちらはコーヒー・メーカーの類など良いのではないかと思ったのだが。いずれにせよこちらはヘミングウェイ老人と海』を贈ろうかと思っているので、残りの皆さんで決めてもらえばいい話である。
 そうして三鷹に着いてTとKくんは降車。Kくんが例によって片手を差し出してきたので何故か握手を交わした。じゃあな、S、と下の名前で呼ばれるのに対して、じゃあな、J、とこちらも呼び返して別れ、その後はT田とともに立川まで乗った。我々の目の前、扉の反対側には、一組のカップルが立っていた。男の方はTシャツにジーンズの軽装で、髪は無造作に、ちょっとだらしないように伸ばしたような髪型で、正直言ってあまり冴えないような風貌である。女性の方は喪服のような真っ黒なワンピースの装いで、うなじあたりまでしかない短めの髪も黒、青白いような、不健康なような肌の色の人だった。その二人が手を繋ぐと言うか、指を絡め合って戯れているのだが、男性の方はそうしながらも終始もう片方の手に持ったスマートフォンを見つめていて、恋人の方にはほとんど目を向けないでいた。女性の方はそれが不満なのだろうか、何となく浮かないような表情をしていたようだ。そのうちに座席に座るとしかし、男はスマートフォンを弄るのを止めて、女性の方に頭をやってその肩に凭れながら休んでいた。
 T田との会話は弾まなかった。疲れていたし、特に話題が思いつかなかったのだ。それでもしかし、立川がもう近くなった頃に、例の文通はまだ続けているのかと訊くと、肯定の返事が返った。何にしても長く続くといいな、とにかく続けることが大事だからといつもながらの言を送りながら降車すると、何だかんだでもう結構続いているとの返答があった。確か昨年の一一月からと言っていたと思うから、もう七か月、半年以上も続いているわけだ。それは大したものだとこちらは答え、エスカレーターを上って通路の途中で向かい合った。T田はこちらがディズニー・シーに来ることを前提とした話し方をした。距離の問題は、T田の家かKくんの宅に前日に泊まれば解決するだろうと言うのだが、しかしそれでもやはり面倒臭いので、こちらは薄笑みを浮かべて首を横に振った。別れ際、去っていくT田の後ろ姿に向けて、俺の作った詩と短歌を帰ったら送るよと言うと、振り向いた彼は手を挙げて、楽しみにしていると答えた。それでこちらは一番線ホームに下りて、たまには一号車の方ではなくて反対側の端、一〇号車に乗ってみるかというわけでそちらに向かい、乗り込むと席の端に就いた。じきに大学生らしき一団が乗ってきて、吊り革にぶら下がったりしながら騒いでいたが、彼らは早くも中神あたりで降りていった。こちらは携帯を扱ってこの日のことをメモに取った。そうして青梅に着き、乗っている電車はそのまま奥多摩行きへ移行するものだったので、席から立ち上がらずに引き続き携帯を操作し続け、最寄り駅に着くと降りた。
 その後は帰宅して風呂に入ってだらだらとして眠ったくらいのことしかないので、以下の細かな事項は省略する。


・作文
 8:52 - 9:01 = 9分

・読書
 9:18 - 9:45 = 27分
 25:45 - 25:58 = 13分
 計: 40分

・睡眠
 2:00 - 7:50 = 5時間50分

・音楽

2019/6/1, Sat.

 九時半のアラームで一度ベッドから離れたのだったが、今日も今日とてまもなく寝床に戻ってしまった。ベッドの端に落ちている陽のなかに入り、光を吸い込むようにしながら一時間ほど微睡みに苦しんだあと、一一時を前にしてようやくふたたび起き上がることが出来た。上階に行き、母親に挨拶をして何かあるのかと訊くと、前日のおかずがほんの少し残っているということだったので、冷蔵庫から茄子と焼豚の炒め物に鯖の煮付けを取り出した。両方とも電子レンジに収め、しばらく加熱したあと破裂する前に取り出し、米をよそって卓に就いた。そのほか、プラスチックのパックに入った、これも前日の残りであるキャベツの生サラダである。ものを食べていると、母親はまもなくクリーニング屋に行くと言って出かけていった。残されたこちらは食事を終えると抗鬱剤と風邪薬を飲んでおき、食器を洗うとそのまま風呂場に行った。浴槽の蓋の上には黒い体の一匹の蜂が止まっていた。既に弱っているらしく、飛ぶ力がないようで、緩慢に蓋の上から浴槽の縁に移り、そこに溜まった水に足を取られているようだった。蓋を取り除くとこちらはその蜂を指で弾いて浴槽のなか、残っている水のなかに落とし、栓を抜いた。微かに生まれる水流に蜂は為す術もなく乗せられていき、排水口の近くまで来たところで止まったので、こちらは湯船のなかに入り込み、ゴム靴を履いた足で蜂を排水口に送り込んだ。少々残酷なことをしてしまったかなと気を咎めながら風呂を洗い、出てくると下階に下りた。コンピューターを起動させ、日記を書きはじめたのが一一時三六分だったが、どうにも気力が湧かなかったので僅かに八分間書き足したのみで切り上げ、ベッドに移った。そこでも本を読むでもなく、Hermeto Pascoal『Ao Vivo Montreux Jazz Festival』の流れるなかで目を閉じて、クッションに凭れて休んでいると、天井が鳴った。それで部屋を出て階段を上ると、帰ってきた母親が、即席の冷やし中華を作ったから食べればと言った。こちらはものを食べたばかりで腹はまったく減っていなかったが、ほかに食べる者もいないので頂くことにして卓に就き、ふたたび腹を満たした。
 そうしてまた自室に戻ってくると、一二時四九分から読書を始めたのだが、例によって、意識を完全に落としきるのではないものの、ただ目を閉じて何もせずに休んでいる時間が多くあった。そのあいだに流した音楽は、FISHMANS『Oh! Mountain』にHerbert von Karajan & Wiener Philharmoniker『Dvorak: Symphonien No.8 & No.9 』である。そうして、Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionとルイジ・ピランデッロ/白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読んで四時半過ぎまで時間を使ったが、そのうち二時間くらいは意識が不確かな時間があったと思う。本を置いてからも寝転がって少々休み、そうして五時ちょうどからようやく前日の日記を書きはじめた。Phantom Blues Band『Shoutin' In The Key: Taj Mahal & The Phantom Blues Band Live』をBGMにして書き進め、三〇分ほどで五月三一日のことを書き終えた。その頃にはちょうど母親が帰ってきていたので、食事の支度をするべく書き物を止めて上階に行った。居間の隅に吊るされた下着をハンガーから外して畳みながら、何にするかと尋ねると、鶏肉を買ってきたと母親は言った。それで棒々鶏を作ることになった。その前にまず、小松菜を洗って半分に切り分け、沸いたフライパンにそれを投入しておく。それから胡瓜を千切りにし、そのあいだに茹で上がった小松菜を水に浸して、そこから取り上げ絞ってこちらが切っているあいだに、母親は胡瓜を大皿三枚の周縁に並べていった。そのほかトマトや玉ねぎ、人参をそれぞれ切ったり下ろしたりして、それらも皿に盛っていき、一方でジャガイモを煮ようというわけで母親が皮を剝くそばから受け取ってそれも切った。ジャガイモを火に掛け、もう一つの焜炉では鶏肉を茹でるべく小鍋の水を加熱して、その状態でこちらは台所を離れ、ソファに就いた。手帳を持ってきていたので、それに目を落とし、英単語を確認したり、小林康夫・中島隆博「日本を解き放つ』からのメモを読み返したりした。そうしているうちに鶏肉が茹で上がったようで、母親がそれを裂いて皿に盛るところまでやってくれたので、こちらはソファで漫然とだらけているだけで済んだ。時刻は六時半頃だった。腹が減っていたので、少々時間が早いがもう食事を取ってしまおうと考えていた。その前に植木に水やりをすることにして、階段を下り、下階の物置きに放置されているくたびれたスニーカーを履いて外に出た。水道の周りにはヤモリが一匹いたが、素早く隙間に身を隠してしまった。蛇口を捻って水を流しだすと、家の南側に移ってホースを持ち、水を放出させて植木鉢の土を濡らしていった。あたり一帯に水をやり終えると、ホースの水流形式を直射モードに変えて、眼下の畑に向けて水の線を放った。そうして仕事は終い、なかに戻って手を洗い、大皿に盛られた鶏肉や野菜に棒々鶏の素を掛け、そのほかジャガイモや小松菜やワカメスープや米をよそって卓に就き、食事を始めた。テレビについては良いだろう。ものを食べ終えると抗鬱剤と風邪薬を飲み、食器を洗って自室に下りてきた。そうして七時七分から日記に取り組みはじめ、ようやくここまで書き記すことが出来たというわけである。
 それからベッドに移り、ふたたび読書を始めた。Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionである。BGMに流したのは、Seiji Ozawa: Toronto Symphony Orchestra「Takemitsu: November Steps etc.』。いつも通り頻繁に英単語を辞書で調べ、時折り手帳にメモ書きしながら頁を繰り、八七頁まで読み進めた。その頃には時刻は九時を迎えるところだった。風呂に入ろうかと上階に行くと、しかし帰ってきた父親が入っているところだったので階段を引き返し、隣室から五キロのダンベルを持ってきてベッドに腰掛け、器具を持ちながら腕を上下させはじめた。肘のあたりを太腿の内側につけて、ダンベルを持って上腕部を伸ばしては曲げるのだった。『SIRUP EP』の流れるなかで両腕ともそれを行って筋肉を少々使うと、父親が風呂から出たようだったので室を出て階段を上った。仏間にいる父親におかえりと挨拶し、下着を持って洗面所に行った。服を脱いで入浴、何をするでもなく身体を水平に近くして浴槽のなかで憩い、しばらくすると上がって下階に戻った。
 一〇時からコンピューターに寄り、Istvan Kertesz & London Symphony Orchestra『Dvorak: Symphony No.8 & Symphony No.9』を聞きながら小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』の書抜きを行った。一一時までちょうど一時間、打鍵をするあいだ、LINEのグループで一二日のことが話し合われていた。一二日はT谷の誕生日である。翌日、二日にもこのグループで集まる予定だが、その時それぞれ自分が行きたい場所についてプレゼンしてT谷に一二日の目的地を決めてもらおうという話になっていた。しかし、こちらは特段に行きたい場所など思いつかない――強いて言えば美術展を見に行きたいくらいのことで、人出は相当に多いだろうが、門外漢でも見やすい定番の場所としては上野の国立西洋美術館あたりで良いだろうと考えており、明日はその旨言い出してみるつもりだ。TやMUさんなどはディズニー・ランドに行きたがっているのだが、こちらは夢の国などまったく興味がなく、リアリスティックに現実に生きる人間なので、もしディズニー・ランドに決まった場合は俺は欠席させてもらうぜと発言しておいた。するとTが、ご自由にどうぞと言ってきたので、妙に引き止められたりしなくて良かったと安心した――その後、Kくんが、こちらの言葉を引用して、マジかよと呟いていたが。一一時に至ると間髪入れず、今度は『岩田宏詩集成』からのメモ書きに移った。コンピューターを閉ざし、その上に手帳を置き、左手の机上には本を載せて、『族長の秋』のハード・カバーで頁をひらいたままに押さえつつ岩田宏の言葉を手帳に写していった。音楽は途中からKendrick Scott Oracle『Conviction』に繋げて、これもちょうど一時間行ったところで切りとし、それから日記を書きはじめて現在零時一八分。
 岩田宏の文言を写しながら、短歌を三つ作った。

 黄昏の光のような音楽で悪魔を刺して血の海に踊る
 真夜中の白痴になって歌唄うそれだけでもう一篇の詩さ
 禁じられた遊びに耽り夏を越え秋風のなか涙を落とす

 それからインターネットを回ったのち、一時からルイジ・ピランデッロ/白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』。安定性の高い確実な描写とユーモア。なかなか良い。二時直前まで読み、六時五〇分にアラームを仕掛けて就床。相変わらずホトトギスがよく鳴く夜だった。


・作文
 11:36 - 11:44 = 8分
 17:00 - 17:28 = 28分
 19:07 - 19:37 = 30分
 24:03 - 24:19 = 16分
 計: 1時間22分

・読書
 12:49 - 16:38 = (2時間引いて)1時間49分
 19:48 - 20:59 = 1時間11分
 22:00 - 23:00 = 1時間
 23:01 - 24:01 = 1時間
 25:03 - 25:58 = 55分
 計: 5時間55分

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 75 - 87
  • ルイジ・ピランデッロ/白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』: 46 - 122
  • 小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、書抜き
  • 『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、メモ


・睡眠
 3:20 - 10:50 = 7時間30分

・音楽

  • Hermeto Pascoal『Ao Vivo Montreux Jazz Festival』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Herbert von Karajan & Wiener Philharmoniker『Dvorak: Symphonien No.8 & No.9
  • Phantom Blues Band『Shoutin' In The Key: Taj Mahal & The Phantom Blues Band Live』
  • Seiji Ozawa: Toronto Symphony Orchestra「Takemitsu: November Steps etc.』
  • 『SIRUP EP』
  • Istvan Kertesz & London Symphony Orchestra『Dvorak: Symphony No.8 & Symphony No.9』
  • Kendrick Scott Oracle『Conviction』

2019/5/31, Fri.

 一二時まで糞寝坊。上階に行き母親に挨拶。食事は炒飯だと言う。台所に入ってフライパンから炒飯を大皿にすべて盛り、それを電子レンジへ。二分半温めているあいだに、アスパラガスにマヨネーズを掛け、卓に就いて食う。テレビはニュース。例の川崎の事件の犯人宅から、大量殺人の記事が載った雑誌が発見されたとのこと。炒飯が温まると皿を卓に持ってきて、新聞をめくり、イスラエルの組閣失敗の記事を読みながら食べた。右派内部で、超正統派に対する兵役免除の廃止について折り合いがつかなかったらしい。ものを食べ終えて薬を服用し、皿を洗った頃、母親は「K」の仕事へ出かけていった。こちらは下階に下り、自室に入ってコンピューターを起動させ、Bob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』(Disc 2)を流しながら日記を書きはじめ、一時直前にはここまで書き記すことができた。今日の天気は曇り、半袖のシャツとハーフ・パンツでいると結構涼しい気候である。
 そこからベッドに移って山岡ミヤ『光点』を読むところだが、一二時まで眠りこけたにもかかわらず――あるいはそれ故にこそ?――何だか身体が重いと言うか、疲れているような感じがあって、意識を完全に落としきったわけではないが、薄布団を身体に掛けてクッションと枕に凭れながら目を閉じ、長い時間休んだ。そうして二時半から、FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなかで読書を始め、四時五分になって『光点』を読了した。特に印象深い部分や感覚に引っかかりを覚える部分のない小説で、蓮實重彦が一体この小説のどこをそれほど評価したのか不可解なままに読み終えてしまった。「足の裏」とか「踏む」とかの主題の配置がどうのこうの、と言っていたような覚えがあるのだが、彼ほどの繊細さを持って主題的配置を読み取る能力がこちらにはない。その他の面と言って、物語的には半端なところで終わっているし、細部の描写にもこちらとしては特に感応するところがなかったので、あまりこちらと相性の良い小説だったとは言い難いようだ。
 その後、音楽はSeiji Ozawa: Toronto Symphony Orchestra『Takemitsu: November Steps etc.』を流しだし、またちょっと休んでから今度は、ルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読み出した。五時過ぎまで読み、それからまた五時半まで布団を被って休んだあと、食事の支度をするために上階に行った。その前にまず風呂洗いとアイロン掛けだが、風呂は水がたくさん残っていたので洗わないことにして、ただしマットだけは漂白したと母親が言っていたので、シャワーで水を掛けて洗剤を流した。それから居間に出てアイロン掛け、ブルーのフレンチ・リネンのシャツや、母親のガウチョパンツやエプロンなどの皺を伸ばし、終えると台所に入って、まず炒飯の残骸がこびりついたフライパンに水を注いで火に掛けた。蓋をしておき、熱しているあいだに炊飯器の釜を洗い、玄関の方に出て戸棚のなかから米を三合、笊に取って戻ってくるとフライパンの蓋の隙間から蒸気が湧き上がっていたので、沸騰した湯をシンクに流し、キッチン・ペーパーで汚れを拭った。それから米を磨ぎ、釜に入れて六時五〇分に炊きあがるようにセットしておくと、冷蔵庫から大きく見事な茄子を二本、それに解凍しておいた焼豚を取り出して、切りはじめた。切った茄子は小鍋の水に浸けておき、それから焼豚を摘み食いしながら切り分けたのち、フライパンにオリーブ・オイルを引いてチューブのニンニクを落とした。そうして茄子を投入し、蓋をしながらたまにフライパンを振って炒めていく。焼豚も加えてしばらくしてからすき焼きのたれを味付けに注いで、また少し熱すると完成した。そうして食卓灯を点けておくと下階に戻って、Marc Ribot Trio『Live At The Village Vanguard』を背景に日記を書きはじめて現在七時近くである。どうも疲労感が抜けない。
 それでふたたび、八時半頃まで横になって休んでしまった。それから上階へ食事に。米・茄子と焼豚の炒め物・キャベツとトマトの生サラダ。炒め物をおかずにして米をかっ喰らう。テレビは何だったか覚えていない。食事を取り終えて皿も洗い、抗鬱剤や風邪薬も飲むと、居間の隅でタオルや下着などの洗濯物を畳んでから風呂に行った。浸かって出てくると下階へ、九時四五分から読書を始めている。ルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読んだはずだ。どこがどうとはわからないが、なかなか良い感じ。BGMにはHerbert von Karajan & Wiener Philharmoniker『Dvorak: Symphonien No.8 & No.9 』を流して、こちらもさすがカラヤンと言うべきなのか結構良くて、繰り返し聞いてみたい音源である。一〇時五〇分になると読書を切り上げてコンピューターに寄り、Hermeto Pascoal『Ao Vivo Montreux Jazz Festival』をヘッドフォンで聞きながら、小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』の書抜きを行った。Skype上では通話が始まっているようだったが、まだ参加せず、一方でLINEで翌々日の集合などを話し合いながら打鍵を進めた。そうして零時を過ぎた頃から音楽を止めて、Skype通話にミュートで参加した。通話をしているのはYさん、Nさん、MYさん、Kさんだった。あと一人、誰かいたような気がするが、それはのちにAさんが参加した時の記憶かもしれない。最初のうちは漫画の話をしていたようで、押見修造『悪の華』などの名前が訊かれた。MYさんは、押見修造は「気持ち悪い」主人公を描かせたら右に出るものはいないと言った。『悪の華』のなかには、主人公が同級生だか何だか知人の女子に、古本屋かどこかでロートレアモンやアンドレ・ブルトンを熱を籠めて紹介する場面があると言うのだが、ロートレアモンとはまたなかなかコアなところを選ぶなとこちらは思った。皆結構漫画は詳しい、と言うかこちらが読んだことのないようなものを色々と読んでいるようだった。
 そのうちに、チャット上からNさんに、ブログはもっと書かないんですかと呼びかけた。続けて、続ける者こそが偉大なのだといつもながらの言を主張し、毎日じゃなくてもとにかく続けていればいいんですよと発言したところ、Nさんは、毎日は難しいけれど一週間に一回くらいは必ず更新するようにしようと思いますと返答を寄越した。それから、Fさんは私にとっては「パイオニア」ですと言ってくれるので、パイオニア、と笑いの文字を付けながら返答した。そのあと、NさんがMYさんに、MYさんは何か書かないんですかと尋ねたところ、彼は自分で小説を書いているとのことだった。サークルで書いているものと、津原泰水の講座に参加して書いているものと二種類あって、それらを一一月の文学フリマで発表する予定だとのことだった。
 その後、「皆さん今何読んでるの?」と気楽な口調で問いを投げかけたところ、Nさんは夏目漱石の『こころ』だと言った。懐かしい、高校の授業でやったと受けると、学校の授業だとどうしても抜粋なので不充分だけれど、全篇通して読むとやっぱり面白いですねという返答があった。MYさんは今、ウィリアム・バロウズを主人公にした小説を書いているらしく、その資料として伝記を読む一方で、ピンチョンの『競売ナンバー』何たらという作があったと思うが、あれと、あとは『とりかへばや物語』なども読んでいるらしい。多岐に渡る人である。
 そして、Yさんがそのうちに、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』の名前を出した。あれは断片集だったなというところから、僕は断片的な人間ですとこちらは発言し、体系的な人間と断片的な人間がいるようで、と以前Mさんが言っていたことを踏まえて説明した。自分は本を読んだ際に、全体的な感想などをうまく要約してまとめるのが苦手で、「ここに何かがあるな」とか「ここいいよね」といったように、具体的な箇所を指した断片的な感想になってしまう傾向があるのだと話した。それに対してYさんは、自分は体系的と断片的だったらどちらの性向だろうと問うてみせるので、Yさんは脱線的、とこちらは第三項を導入した。彼は実際、連想が豊富で、話していると思いだした事柄からどんどん話題を脱線させていくという趣があるのだ。言うまでもないが、脱線という運動はロラン・バルトが称揚した小説的な運動の一つである。
 その後一時半前に至って、「どん兵衛」の鴨出汁蕎麦を用意してきて、今カップ蕎麦を食うところですなどとチャット上に自分の行動を発言しながら啜った。蕎麦を食い終わり、スープもすべて飲み干してしまって容器を潰してゴミ箱に放り込んでおくと、それから眠っている両親の妨げにならないようにとコンピューターを持って隣室に移って、一時四〇分頃から音声通話に参加した。その頃にはちょうど、MYさんもKさんも退出したところで、こうして初期メンバー三人が残るわけですねと、NさんとYさんに向けてこちらは言った。一番最初に通話をした時のメンバーがこちら、Yさん、Nさん、それにIさんの四人だったのだ。
 その後、どんなことを話したのかはよく覚えていない。改めてNさんに、先日のブログ記事は具体的でなかなか良かったと伝えると、本当にありがたいです、先駆者の方からそう言ってもらえるとは、との返答があったので、先駆者という言葉に笑いを上げた。そのほか、Nさんが七月に東京に旅行に来るという話もあった。何かインディーズのアーティストのライブを見に来るらしく、そのついでに二泊三日くらいで観光すると言う。それで、東京って夜とか一人だと危ないですかと言うので、自分の住んでいるのは東京と言っても西の田舎なのでそんなこともないが、都心の方だと危ないかもしれないと告げた。Yさんに案内をしてもらうらしく、予定としては上野に行くことが決まっていると言う。それで国立西洋美術館の企画展を調べてみると、六月半ばから松方幸次郎コレクションの展覧会が開催されるらしく、これはこちらもちょっと見てみたいなとなった。
 そのほか途中で、兄の部屋にちょうどギターがあったので、こちらが適当なギター演奏を披露した時間もあった。適当にコードを弾いて進行を作ったり、スケールに合わせてブルース風のフレーズを奏でたりすると、二人から称賛を得ることが出来た――Yさんなどは三時過ぎになってこちらが通話を離脱しようという時に、わざわざもう一度、ギター演奏は凄く良かった、と言ってくれた。
 そのような感じで通話を交わし、三時過ぎにこちらはそろそろ眠ると言って退出し――ちょうど電源から外していたコンピューターのバッテリーが切れそうになったのだった――コンピューターを持って自室に戻り、机上に機械を据えておくと、九時半にアラームが鳴るように仕掛けて、明かりを落として就床した。ホトトギスの鳴き声が外からひっきりなしに聞こえていた。そのうちに、蚊が一匹耳元に寄ってきて、不快な羽音を耳のなかに送り込んできたが、手を振ったり寝返りを打ったりして追い払っていると、じきに近寄って来なくなり、無事に眠ることが出来たようである。


・作文
 12:43 - 12:57 = 14分
 18:26 - 18:42 = 16分
 計: 30分

・読書
 14:30 - 16:05 = 1時間35分
 16:26 - 17:17 = 51分
 21:45 - 22:44 = 59分
 22:51 - 24:26 = 1時間35分
 計: 5時間

  • 山岡ミヤ『光点』: 22 - 132(読了)
  • ルイジ・ピランデッロ/白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』: 9 - 46
  • 小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、書抜き

・睡眠
 2:30 - 12:00 = 9時間30分

・音楽

  • Bob Dylan『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』(Disc 2)
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Seiji Ozawa: Toronto Symphony Orchestra『Takemitsu: November Steps etc.』
  • Marc Ribot Trio『Live At The Village Vanguard』
  • Herbert von Karajan & Wiener Philharmoniker『Dvorak: Symphonien No.8 & No.9
  • Hermeto Pascoal『Ao Vivo Montreux Jazz Festival』

2019/5/30, Thu.

 一〇時半に起床した。七時半にアラームを仕掛けていたのだがいつもの通り、ベッドに舞い戻ってしまい、起床にはならなかった。上階に行き、母親に呻き声で挨拶をすると、仏間に入って簞笥からジャージを取り出し、寝間着から着替えた。食事はあるかと訊くと特にないと言うので、例によってハムと卵を焼くことにした。冷蔵庫からそれぞれ取り出し、換気扇のボタンを押して、フライパンに油を少量垂らして火に掛け、しばらくしてからハムを四枚敷いてその上からさらに卵を二つ割り落とした。黄身が固まらないうちに広がった卵の縁を箸でつついてめくっておき、丼に盛った米の上に引き入れた。そうして卓に移り、丼に醤油を掛けて黄身を崩してぐちゃぐちゃと混ぜながら搔き喰らった。その一方で新聞を見て、一面から例の川崎の通り魔事件の続報を追った。犯人は一〇年近く引きこもりの状態にあったと言う。社会や世間や他者というものに対する憎悪、ルサンチマンを燃やした末の犯行か、あるいは自らの行き先に絶望した者の最後の行動だったのか。小林康夫が『君自身の哲学へ』のなかで言っていた通り、他者に自分の存在を、たとえそれが一瞬であっても、ねじ曲がった方向性であっても、強制的に承認させるという動機の究極的な形としても捉えられるのかもしれない。飯を食い終わると台所の流し台の前に移り、青林檎の香りのする洗剤を丼に垂らし、網状の布でしっかりと擦って泡立て、皿に付着した黄身の残骸を取り除いた。流すと食器乾燥機のなかに収めておき、それから水を汲んで抗鬱剤を飲むと――風邪薬はもう飲まなくても良さそうだ――テーブルの片隅に置かれてあった鳩サブレの半分を頂き、そうして下階に帰った。コンピューターを再起動させたのち、日記を書きはじめたのが一一時一二分、現在はそこから一五分が経過して一一時二七分に至っている。
 そののち、一時二二分から読書を始めているのだが、このあいだの二時間で一体何をしていたのかとんと思い出せない。ベッドに乗って薄布団を身体に掛けながら、本を読むでもなく何をするでもなく微睡む時間があったのはわかっているのだが、一体自分は二時間も眠気にやられていたのだろうか? そうだとすると、これはちょっと信じがたい事実である。ともかくも一時台から『岩田宏詩集成』を読みはじめたわけだが、そのあいだもたびたび眠気に刺されて意識を曖昧に濁らせることになった。そうして二時半を過ぎたところで切りとして、上階に食事を取りに行った。茄子が焼かれてあり、「浅草今半」の牛肉と大豆を煮た料理も少量残っていたので、それらをおかずにして白米を食った。それから皿を洗って風呂も洗い、台所に出てくると居間にいた母親に向けて、じゃあ行くか、と口にした。パスポート用の写真を焼き増しするため、「カメラのK」に行こうということになっていたのだ。そのほかにも色々と行かなければならない場所、済ませなければならない用事があった。それで下階に下りると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだし、そのなかで服を着替えた。海のように深いブルーのフレンチ・リネンのシャツに、オレンジっぽい煉瓦色の九分丈のパンツである。それらを身に纏い、リュックサックにコンピューターなどの荷物を整えて上階に行くと、仏間に入って黒のカバー・ソックスを履いた。それからふたたび下階に戻り、スーツのスラックスを、黒・グレー・紺の三本、それぞれハンガーから取って階段を上り、母親の持ってきた布袋にそれらを収めた。一〇キロも太った結果、腹回りがきつくなってしまったこれらのスラックスを、引き伸ばしてもらいにAOKIにも行く予定だったのだ。そうして出発、向かいの家にはO.Sさんの車が停まっており、なかからは楽しそうな笑い声が漏れていた。車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めると、CDシステムに入っていたどうでも良い歌手のCDを取り出して、代わりにcero『WORLD RECORD』のディスクを挿入した。風の多い日だが、車内はいくらか暑かった。街道に出て一路東へ向かい、まず郵便局の前に停まってもらった。国民年金を払い込む必要があったのだ。ついでに母親が、軽自動車税か何かの払込書を差し出して、これも払ってくれと言うので了承し、財布と通帳と書類を持って車を降りた。郵便局に入ると右のスペースに入り込んで、ATMを操作して五万円を引き出した。それからもう一つの自動ドアをくぐって奥に入り、カウンターの職員にこんにちはと挨拶をして、これらをお支払いしたい、と書類を二枚、差し出した。合わせて一八〇〇〇円くらいを支払い、差し出された書類に名前と連絡先を記入すると、お掛けになって少々お待ちくださいと言われたのでソファ席に腰を下ろした。そうしてあたりをきょろきょろと見回したり、手に持った財布の表面の艶や傷や汚れなどを見つめたりしながら待ち、ふたたび呼ばれると領収書を受け取り、きちんと礼を言って頭を下げ、局をあとにした。車に戻ってふたたび出発、次に向かうのは職場である。と言うのも、職場のレター・ケースのなかにAOKIの優待サービス券が入っているのを回収しなければならなかったからだ。それで駅前まで走ってもらい、裏路地に入って停まったところで車を降り、太陽を浴びながら職場まで歩いて、表の扉をひらいた。こんにちはと言いながらなかに入ると、(……)さんが電話を取っていて、郵便局からだと言ってそれを室長に渡すところだった。自習席には(……)がいた。先生、わからない、と言って英語のテキストを見せてくるのに対して、無理、無理、と笑って答えながらひとまず奥のスペースに行き、レター・ケースからAOKIの優待券を回収した。それから彼のもとに戻って、並べ替え問題を見たのだが、結構難しいもので、自習中の生徒を教えてはいけないと言われているし、母親を待たせてもいるしで細かな吟味が出来ず、適当に答えてしまったのだがあれは間違っていたかもしれない。残念なことをしてしまった、もう少し丁寧に時間を使ってあげれば良かった。それで(……)さんにお疲れ様ですと声を掛け、これを取りに来た、と券を見せ、これから行くんですか、いいですねという言葉を受け、電話をしている室長の背後に入ってシフト表を取り出し、六月一二日の欄をすべてバツ印にした。この日はT谷の誕生日で、いつものグループでテーマ・パークかどこかに行こうかと計画がなされているらしいのだ。正直なところ、こちらはテーマ・パークなど大して興味がないし、候補となっているディズニー・ランドにせよ船橋アンデルセン公園にせよ――アンデルセン公園はホーム・ページを見ると結構良さそうなところだったが――ひどく遠いので行くのが面倒臭い。それで仕事が入ったことにしようかなとか、そうまでせずとも、シフトの一二日の欄は丸にしておいて、偶然仕事が入ることを願おうかなとか思っていたのだったが、やはり一応空けるだけは空けておこうと思い直したのだった。ディズニー・ランドなど正直全然行きたくないが、アンデルセン公園ならまだ楽しめそうな気がする。それにしても遠くて、青梅駅から二時間くらい掛かるわけで、二時間も電車に揺られて遠出しなければいけないのはまったくもって面倒臭いことこの上ないが、そのあたりも含めて六月二日に話し合えば良いだろうと思ったのだった。そうしてシフト表を書き換え、お疲れ様ですと言って職場をあとにし、母親の待つ車に戻った。
 そうしてふたたび発車し、市街を抜けていく。西分のあたりで母親は、Eさんから連絡があったみたい、と言った。昨日会った時に、ヴィトンの財布が当たったということを知らせたのだが――以前、母親はクリーニング屋の抽選か何かで当該商品を入手していたのだ――それを言うとEさんは、売って欲しいと言ってきたのだと言う。それで売ろうかどうしようか、一万円で売ろうか、それともリサイクル・ショップなどに持っていって見てもらおうかなどと母親は迷っているのだが、こちらはそれに対して、無償の贈与こそ価値があるんだと偉ぶったことを言い、友達だからと言って気前よくポンと、ただであげてしまえば良いではないかと促した。別にこちらにとっては特に興味関心のないことだし、母親がどの選択肢を選ぼうがどうでも良いのだが、そういう行為こそ価値があるんだと助言してみたところ、母親は初めは嫌がっていたもののじきに説得されたようだった。
 cero『WORLD RECORD』の流れるなか、東へ向かって走り続け、「カメラのK」に到着した。財布と写真のデータ・カードを持って降り、店内へ入ってカウンターに近づくと、女性店員がやって来たので焼き増しをしたいと申し出た。パスポート用を二枚、背景はブルーでOK。その旨告げると五分から一〇分ほど店内でお待ち下さいとあったので、カウンターのすぐ横に設けられていた席に就いて、手帳を読み返しながら品物が出来るのを待った。そうしてじきに呼ばれたので手帳をポケットに仕舞ってふたたびカウンターに行き、女性店員を相手に八〇〇円弱を支払った。女性はちょっと翳のあるような雰囲気の、なかなか綺麗な人だった。別にそれだからというわけではないけれど、会計が終わると相手の目を正面から見据えてありがとうございましたと礼を言い、そうして退店して車に戻った。
 それから、AOKIへ向かってもらう。車中では母親が職場のことなど話していたと思うが、内容は覚えていない。AOKIに着くと母親はEさんに電話するから先に行っていてと言うので、布袋を持ったこちらは一人店に入った。そうしてこんにちはと言いながらカウンターに近づき、男性店員を相手に、以前こちらでスーツを買わせて頂いたんですが、と切り出した。ありがとうございます、と慇懃に頭を下げる男性店員に続けて、太ってしまいまして、とちょっと口もとを歪ませながら伝え、ウエストを引き伸ばすことが出来るのかどうか見てもらいに来たのだと告げた。それで袋から三本のスラックスを取り出すと、可能だとのことで、何センチ伸ばせばいいのかはわからないと言うと、それでは履いてみましょうと早速案内され、試着室に向かった。なかで一本、黒いやつを履いてみてカーテンを開けると、男性店員はこちらの留めていたボタンを外し、これならそれほど伸ばさなくても良さそうですねと言って調節をした。これでどうですかと言われるのに、もう少しだけ緩い方がと望みを伝え、結局四センチ伸ばすことになった。それでスラックスの方はOK、ほかにはと訊かれたのに、ワイシャツを買おうと思っておりますと言ったあたりで母親も店内に入ってきた。それで三人でワイシャツを見分する。まあどれもデザイン的にそんなに変わるものではないし、さっさと決めた方が良いなと思われたので、三つ適当に選んだ。さらに、ネクタイも欲しかった。ネクタイに関しては立川のtk TAKEO KIKUCHIに赤の格好良いものがあったのだが、一万円くらいして、さすがにネクタイにそこまで出す気にはなれない。この日AOKIでは三点で一〇〇〇〇円、五点で一五〇〇〇円のセットフェアをやっていたので、ネクタイも二本買って、セットで一五〇〇〇円にしようと目論んだ。それで、グレーに細かな四角形が散らされた模様のものと、シンプルな鮮やかな水色のものを選び、それでOK、伝票を作るのでしばらく休憩席でお待ち下さいとなったので、母親と向かい合って席に就いて呼ばれるのを待った。そうして呼ばれるとカウンターに寄って会計、全部で二万円ほどだったが、優待券の一〇パーセント引きが使え、さらにカードのポイントで八〇〇円弱引いたので、合わせて一七七六〇円となった。そうして支払いを済ませると、こちらの持ってきた布袋に入った商品を持って店員がカウンターの後ろから出てきて、店の入口まで見送ってくれたので、袋を受け取ると手を差し出して握手を求めたのだが、そうすると彼はちょっと驚いていたようだった。それで車に戻った。発車しながら、寿司が食いたいと口にすると、ちょうど小僧寿しがすぐ傍にあるので買っていけば良いということになった。そうして少々の距離を車で移動し、降りて入店すると、酢のような匂いが店内には充満していた。「すずらん」という種類の品の、一二貫のものをこちらと父親用に、一〇貫のものを母親用に買うことにして、さらに手巻きのシーチキンとネギマグロのものを一つずつ取った。三つのパックを重ねた上に手巻きを載せた組み合わせをレジカウンターに運んで、会計はここでは母親に持ってもらった。そうして退店しようとすると、母親は追加で飲み物も買うようだったので、こちらは一人、袋を手に提げて退店し、車の横に立ち尽くして雲のほとんど混ざっていない薄青色の空を見上げたり、その空の向こうを低く飛んでいく飛行機の大きな機影を眺めたり――音は聞こえてこなかった――、風にざわめく街路樹の緑を見つめたりした。そうして母親が出てくると後部座席のボックスのなかに荷物を収め、助手席に乗り、図書館まで送ってもらうことにした。しばらく走って西友の前で停まり、礼を言って降車すると、背後から掛かった陽のなかにこちらの影が長く伸び、正面からは風が非常に厚く走って前髪をすべて捲るとともに身体を押してくる。そのなかを目を細めながら行っていると、ハナミズキの青々と茂った葉叢が揺れ動いているのが目に入って、一枚一枚が個別に振動するのではなくて、全体として一篇に動き回っているその密度が、まるで毛糸で作られた編み物のように映った。
 図書館に入るとCDを見に行った。まずはクラシックである。武満徹の作品は何かないかと思って見てみれば、小澤征爾指揮・トロント交響楽団演奏の、『November Steps etc.』があったので、これを借りることにした。それから新着の棚に行ってみると、前々から借りようと思っていたBob Dylanのライブ音源、『Live 1962-1966: Rare Performances From The Copyright Collections』があったので、二枚目はこれを選んだ。同様に新着の棚から、Marc Ribot Trio『Live At The Village Vanguard』も手に取って、その三枚を持って貸出機に近づき、手続きをした。それから上階に向かって階段を上る。踊り場の大窓から見える西空に太陽が膨らみ、手近のビルの屋上に凝縮された光が溜まって輝いており、あまりの空気の明るさに今から太陽が落ちていくのではなく、これから午前が始まるかのような錯覚を得た。階段を上がり、新着図書を瞥見したあと、大窓際の席に入ってリュックサックからコンピューターを取り出した。手帳を読みながら起動を待ち、Evernoteが立ち上がると、五時三九分から日記を書きはじめて、ここまで書き足すと六時四八分に至っている。
 帰宅することにして荷物をまとめ、席を立ってリュックサックを背負った。書架に寄り道せずに――既に借りている本があるし、積み本もよほど溜まっている――まっすぐ階段口へ進み、下階に下りて退館した。歩廊の上に出ると、青く醒めた空を背景にして虚空を鳥の集団が飛び回り、あたりからは鳴き声がひっきりなしに響いている。そのなかを駅へ渡り、改札を抜けながら電光掲示板を見上げると、既に過ぎた時刻の電車が記されていたので、どうも運行が遅れているらしかった。エスカレーターを下っているとちょうどその遅れた青梅行きがやって来たので、ホームに下りると車両の壁の前、乗り口の脇に就き、吐き出される人々をやり過ごしてからなかに入った。そうして扉際に就き、手帳を眺めながら時間を過ごして青梅着、ホームを歩いて待合室の壁の前まで来ると、姿勢をやや横向きにして壁に凭れながら引き続き手帳を読んだ。奥多摩行きがやって来ると三人掛けに入り、リュックサックは下ろさず背負ったまま浅く腰掛けて発車を待った。遅れていた電車からの乗り換えを待って、三分ほど定刻を過ぎてから発車した。英単語などを確認しながら到着を待って、最寄り駅に着いて降りると西空は東山魁夷の描くような青々とした空気に浸っており、そのなかに雲がさらに青暗い影と化して不定形に浮かんでいた。ぶんぶんと細かな羽虫の無数に群れて飛び回っている階段通路を抜け、駅舎を出ると、横断歩道を渡って木の間の坂道に入った。特に周囲に感覚を巡らせずに散漫な意識で黙々と歩いていき、平らな道に出て帰路を辿って家に着く間際、午後七時の薄暗んだ大気のなかに風が生まれ流れて、林の木々を揺らし優しく騒がせていた。
 帰宅するとさっさと下階に下り、コンピューターを机上に据えると服を脱いでジャージに着替え、上階に行った。腹が減っていた。フライパンに焼かれていた鯖のソテーを二つ取って電子レンジで熱し、そのほか紫玉ねぎの水っぽいサラダや、寿司を用意して卓に就いた。父親は風呂から出て、仏間で足に包帯を巻くか何かしていた。こちらが食べ終わってソファに就いた頃になって食事の支度をして炬燵テーブルの方にやって来たのでこちらはソファから退[ど]いて、母親の勧めに従って買ったばかりのワイシャツを身につけてみた。細身とあって、きつすぎてはいけないから試してみろと言うのだった。サイズはぴったりで、特段きついという感じもしなかったので良いだろうと判断し、母親がまた、着る前に水に通しておいたらと言うのに従って洗面所に行き、ネットに包んで洗濯機に入れ、洗剤は加えずに水のみで七分間ほど洗うように機械を駆動させた。そうしてパイナップルを食べたりしながら洗いが終わるのを待ち、脱水も一分間してから洗濯物を取り出すと、居間の隅に移動して袋からワイシャツを取り出し、ハンガーに掛けて室の東側の竿に吊るしておいた。ネットもベランダ側のハンガーに、洗濯挟みで挟んで吊るしておき、そうしてこちらは風呂に行った。湯のなかに入り、手を組み合わせて浴槽の縁に置き、片膝立てた姿勢で目を閉じ、結構長く――少なくとも二〇分間くらいは――そのまま静止していた。こちらがじっと静まっているあいだに、窓外では時折り風が林の木の葉をさざめかせる響きが聞こえた。上がってくると父親は酒を飲んでいくらか良い気分になったらしく、羽生善治の将棋がニュースで解説されるのを見ながら独り言を呟いていた。こちらもちょっと見てから下階に下り、九時半から『岩田宏詩集成』を読みはじめた。そうして二時間ほどぶっ続けで読み続けて読了すると、コンピューターに寄ってBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)とともに日記を書きはじめたのが一一時半だった。そこから三〇分足らずでここまで書き足し、記述を現在時刻に追いつかせることができたわけである。
 それから詩を作った。ところどころ岩田宏をパクっている。

 両手でちっぽけなピストル構え
 意地悪く曇った歴史の断片を正確に撃ち抜く
 ギロチンの奏でるご機嫌な唄を聴き
 落ちた林檎のような青白い生首を拾っては捨てる
 諸君 革命は成就した 今はただ
 この腐った日暮れ時のような血塗れの平和を享受しよう
 だが 戦争にあろうと 平安にあろうと
 海底にあろうと 冥王星にあろうと
 ゴミ箱のなかにあろうと 蟻地獄に落ちていようと
 音楽だけは忘れてはいけない
 なぜならそれは我々の歴史の最終到達点だからだ
 否定よりも肯定よりも烈しい無垢の聖域だからだ
 昼間の地震よりも冷たくて
 真夜中の憧れよりも暖かな
 そんな音楽を 我々は称揚する
 君たちはピアノを奏でるか? シンバルを叩くか?
 トランペットを寥々と吹き鳴らすか? それならば
 我々は鳥の唄よりも鮮やかで姦しい沈黙を歌おう
 一人で歌うと 絡まった海藻よりも滑稽で
 大勢で歌えば 磨かれた鏡面よりも悲しい
 海の彼方の落日のような鎮魂歌によってのみ我々はわかりあえる
 生きている人間が優しさを取り戻すには
 死んだ人間を悼むよりほかに方法はないのだ

 詩が完成するとTwitterにそれを流し、また同時にSkypeのチャット上にも貼りつけると、Aさんがすぐに反応してくれた。ジョン・ケージの『4分33秒』を連想したと言うので、そのあたりについて少々会話を交わしていると、そのうちにCさんやBさんもチャットに参加してきた。Bさんが今眠気と戦っているところだと言うので、「眠気の唄」というものを三分ほどで簡単に作った。これは完全なお遊びである。

 眠気よ眠気 あなたはどうして眠気なの? あなたが眠気でなかったならば
 眠気は煙 眠気は唄 眠気は霧雨 眠気はナイフ
 倒れながら踊ること
 夜の中心にある台風の目を突き刺すこと
 朝の周縁に生えた花をちぎり取り
 夜のなかに戻ってそれを空へと投げ散らかすこと
 眠気よ眠気 あなたはどうして眠気なの? とはもう問わないわ
 眠気は煙 眠気は唄 眠気は霧雨 眠気はナイフ
 眠気は戦士 眠気は鵯 眠気は薫風 眠気は宇宙
 眠気は無敵。

 その後、『岩田宏詩集成』から気に入ったフレーズを手帳にメモしていたのだが、そのうちにチャット上のやりとりが頻繁になってきたので、コンピューターを持ってベッドに移り、何をするでもなく会話を追った。合間に短歌を二つ作ったが、あまり頭が冴えていないと言うか、インスピレーションが湧いてこなかったので、二つのみに留まった。

 寂しくて僕らは頬を膨らませガムを吐いてはまた踏みつける
 残酷な映画みたいに待ちぼうけ一人で歩く赤ん坊連れて

 そうしてこちらは発言しないままチャットのやりとりが二時半頃に終わったので、コンピューターを机上に戻して明かりを落とし、そのまま就寝した。


・作文
 11:12 - 11:27 = 15分
 17:39 - 18:48 = 1時間9分
 23:29 - 23:55 = 26分
 計: 1時間50分

・読書
 13:22 - 14:37 = 1時間15分
 21:33 - 23:24 = 1時間51分
 24:54 - 25:28 = 34分
 計: 3時間40分

・睡眠
 3:00 - 10:30 = 7時間30分

・音楽

2019/5/29, Wed.

 七時一五分のアラームの甲斐もなく、一〇時四〇分まで眠りこける。雨が降るという予報を聞いていたが、ベッドの端には薄陽が入り込んで宿り温もっていて、空を見上げれば確かに雲が多く掛かってはいるものの、青味もうっすらと見て取れた。起き上がって上階に行くと、母親は今日も不在である。何の用事だったか、書き置きに書いてあったと思うのだが、もう忘れてしまった。唐揚げとおにぎりがあると書かれてあったので冷蔵庫を覗き、それぞれ取り出して、まず唐揚げを電子レンジに突っ込んだ。一分半温めているあいだに便所に行き、黄色い尿を放出してから戻ってきて、次におにぎりも温めて卓に就いた。新聞で、登戸の通り魔事件についての報を一面から読みながら、ものを食べる。とんでもない事件が起こってしまった、という感慨を得ずにはいられない。食べ終えるとさっと皿を洗い、それから抗鬱剤と風邪薬を飲んでおいて、下階に戻った。コンピューターを起動させ、日記を書きはじめたのが一一時一三分だった。FISHMANS『Oh! Mountain』を途中から流しだして、ここまで綴ると一一時三五分になっている。
 前日の記事をブログに投稿し、Twitterに日付とURLだけの簡素な投稿通知を流しておいたあと、さらにnoteの方にも日記を放流した。それから上階へ行く。母親は帰ってきていた。散髪に行っていたらしい。風呂を洗おうと風呂場へ行くと、湯が結構残っており、その旨台所の母親に知らせると、浴室までやって来て浴槽のなかを覗いた母親は、洗うかどうかはこちらに任せると言った。それで、面倒臭いので洗わないこととして、洗濯機に繋がった汲み出しポンプのみ水のなかから取り出してバケツに入れておき、ゴム靴を脱いで浴室から出ると、靴も同じバケツのなかに入れておいた。それから居間でアイロン掛けを行った。その背後で母親は、冷やし中華ならぬ冷やし素麺を食べていた。こちらの分もあとで出勤前に食べるようにと用意してくれたようだった。
 自室へ下がってベッドに乗り、読書を始めた。Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionである。しかし性懲りもなく、またもやいつものように眠気に刺されて、一時間半くらいはクッションに寄りかかりながら意識の曖昧な時間が続いたのではないか。その頃には陽は薄れて、空は全面真っ白になっていた。意識がようやくはっきりしてくると、Zionismを五頁ほど読み、それから『岩田宏詩集成』に移行した。「ショパン」という端的な題名の作の、最終第八章「モスクワの雪とエジプトの砂」は、改めて読んでみても全篇素晴らしいので、長くなるがここに引用しておこう。

 どんなにあなたが絶望をかさねても
 どんなに尨大な希望がきらめいても
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
 どんな小鳥が どんなトカゲや鳩が
 廃墟にささやかな住居をつくっても
 どんな旗が俄かに高々とひるがえっても
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
 あやまちを物指としてあやまちを測る
 それが人間ひとりひとりの あなたの智恵だ
 モスクワには雪がふる エジプトの砂が焼ける
 港を出る船はふたたび港に入るだろうか
 船は積荷をおろす ボーキサイト
 硫黄を ウラニウムを ミサイルを
 仲仕たちは風の匂いと賃金を受け取る
 港から空へ 空から山へ 地下鉄へ 湖へ
 生き残った人たちの悲しい報告が伝わる
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は!
 ふたたび戦争 かさねて戦争 又しても戦争
 この火事と憲法 拡声器と権力の長さを
 あなたはどんな方法で測るのですか
 銀行家は分厚い刷りもののページを繰る
 経営者はふるえる指で電話のダイヤルをまわす
 警官はやにわに駆け寄り棍棒をふりおろす
 政治家は車を下りて灰皿に灰をおとす
 そのときあなたは裏町を歩いているだろう
 天気はきのうのつづき あなたの心もきのうそのまま
 俄かに晴れもせず 雨もふらないだろう
 恋人たちは相変わらず人目を避け
 白い商売人や黒い野心家が
 せわしげに行き来するだろう
 そのときピアノの
 音が流れてくるのを
 あなたはふしぎに思いますか
 裏庭の
 瓦礫のなかに
 だれかが捨てていったピアノ
 そのまわりをかこむ若者たち
 かれらの髪はよごれ 頬骨は高く
 肘には擦り傷 靴には泥
 わずかに耳だけが寒さに赤い
 あなたはかれらに近寄り
 とつぜん親しい顔を見分けるだろう
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は
 けれどもかれらが耳かたむける音楽は
 百五十年の昔に生れた男がつくった
 その男同様 かれらの血管には紛れもない血が流れ
 モスクワの雪と
 エジプトの砂が
 かれらの夢なのだ そしてほかならぬその夢のために
 かれらは不信と絶望と倦怠の世界をこわそうとする
 してみればあなたはかれらの友だちではないのですか
 街角を誰かが走って行く
 いちばん若い伝令がわたしたちに伝える
 この世界はすこしもすこしも変っていないと
 だが
 みじかい音楽のために
 わたしたちの心は鼓動をとりもどすと
 この地球では
 足よりも手よりも先に
 心が踊り始めるのがならわしだ
 伝令は走り去った
 過去の軍勢が押し寄せてくる
 いっぽんの
 攻撃の指が
 ピアノの鍵盤にふれ
 あなたはピアノを囲む円陣に加わる。
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、170~175; 「ショパン」; 「8 モスクワの雪とエジプトの砂」; 『頭脳の戦争』より)

 四時で読書を切り上げた。上階へ。母親はふたたび出かけていた。Eさんと会っているようで、映画を見てくるとのメールが入っていた。冷蔵庫から冷やし中華ならぬ冷やし素麺を取り出し、皿に盛られた白い素麺や、昨日のワカメサラダの残りや、人参や細切りにしたハムの上に薄味のつゆを掛けた。そうして山葵を混ぜながら喰らうと、皿を洗い、甘い風味の白い風邪薬を三錠飲んでおいた。そうして下階に戻り、コンピューターの前に就いてSkypeを見ると、今日は水曜日でCさんやAさんが休みだからだろう、昼間にも関わらず通話が成されていたので、歯ブラシを咥えてきてからチャットで参加した。話しているのはYさん、Cさん、Aさんだった。歯を磨きながらチャットで会話し、口を濯いできたあとは仕事着に着替え、ベスト姿になるとちょっと髪を整えてきますと発言をチャット上に残して上階に行った。靴下を履き、洗面所に入って後頭部に整髪ウォーターを振りかけ、櫛付きのドライヤーで乾かすと戻って、マイクのミュートを解除し、音声通話に参加した。そうして、Cさんが働いているドラッグストアの話などを聞いた。彼は今、正確な名称は知らないが、薬剤師のドラッグストア版のような資格を取ろうと取り組んでいるらしく、それが取れたら責任者になれるとのことだった。そこで、責任者になれたらどんなドラッグストアを作りたいですかとAさんが尋ねたのに対して、老人客などを囲い込んでリピーターとして利益を生み出すシステムを構築したいみたいなことを、冗談だろうがCさんは答えていたので笑った。彼の働くストアでは、時折り風邪薬などを大量に購入していく人がいると言った。きっとオーバー・ドーズしてトリップ――までは行かないかもしれないが――しようという目的の客なのだろう。本来はそういう客には販売を自粛しないといけないのだが、そのあたりグレー・ゾーンでまかり通っているということだった。
 年齢の話にもなった。こちらとCさんはどちらも二九歳、Yさんが九二年生まれの二六歳で、Aさんはぐっと下がって一九歳である。となるとAさんはちょうど二〇〇〇年あたりの生まれということになるのだが、そう考えると実に若いなという感じがする。こちらで言うと、三九歳の人間を話しているのと同じことかとYさんが言ったが、しかしまあ一九と二九の一〇年差と、二九と三九の一〇年差だと質が違うような気もしないでもない。そこからこちらは、職場にも六五歳の人がいるのだけれど、年齢など関係ないなと思う一方で、六五歳と言うとこちらよりも三六年ほど長く生きているわけで、それだけの時間の蓄積の差があるというのは凄いなと思う、と述べた。それで言ったら隣家の老婆などもう九八歳なのだから、こちらとは生の時間に七〇年ものひらきがあるわけだ、それは一体どういうことなのだろうと困惑する、と続けて話した。人格だの行状だのは別として、それだけの生の時間を重ねてきたというただその一点のみでも敬意を払いたくなってしまうほどだ。
 五時を過ぎて出勤時間が過ぎた頃になって、Aさんの働いている塾のことを尋ねた。彼女は小中高すべて担当し、しかもほとんど全教科を教えているらしかった。高校生の数学や物理は出来ないと言っていたが、それでも凄いものである。彼女の塾は特に大手というわけではなく、地域に二つくらいしかないローカルなものらしく、やって来る生徒も学力が相当に低い子ばかりで、小学生の授業など一〇人くらいを一篇に担当するのだが、まさしく動物園、まず椅子にきちんと座らせるところから始めなければならないという話だった。その後、問われるがままにこちらの塾のことも話した。詳しく書くと身分がバレるので割愛するが、授業全体のシステム的な部分について説明した。
 そうして五時一〇分に至ったところで、そろそろ僕は出勤しますと通話を抜けて、チャット上に礼の言葉を投稿しておき、コンピューターを閉ざして上階に行った。――一つ書き忘れていたことをここで思い出したが、冷やし素麺を食べたあとに米を磨いで釜にセットしておいたのだった。――それは良いとして、上階に上がると財布と携帯の入ったバッグを持って玄関を抜け、ポストに近づき、なかの郵便物を取ると階段を引き返して、玄関のなかに放り込んでおいてから出発した。わりあいに涼しい夕方だった。歩きはじめてまもなく、背後から車がやって来てこちらの横にゆっくりと停まったので見れば、O.Sさんで、後部座席にはSくんも乗っていた。Sちゃん――と彼女は子供の頃からこちらのことを下の名前を省略した渾名で呼ぶ――、乗っていったら、と言うのだが、時計を見て迷い、早すぎる、と続けて訊かれるのに、早すぎますねと笑って答えた。それからSくんに勉強を教えるという件について少々立ち話をした。彼は線の細い男子で、和太鼓部に入ったというのがあまり似つかわしくないようにも見えたのだが、何故和太鼓をやろうと思ったのか聞いてみたいところではある。その部活動がかなり忙しいらしく、土日も活動があると言って、休みになるのは月曜日だけなのだと言った。Sさんが、Sちゃん、月曜日は塾でしょうと言うのに、でもまあそのあたりは調整して休みに出来ますよと答えておき、またお話しさせてほしいと言われたのには、こちらはいつでも大丈夫なのでと受けて、ふたたび発進した親子を見送った。Sくんは後部座席から手を振っていたので、こちらも手を挙げ返した。
 川沿いの木々に午後五時の淡い陽射しが掛かって黄緑色を明るませていた。坂を上って平らな道を行っていると、ちょうどT田さんの奥さんが家から出てきたところで、横から行ってらっしゃいとの声が掛かったので、ああどうもと笑って会釈し、行ってきますと答え返した。それからT田さんは二言三言、暑いでしょう、とか何とか言って、それに対してこちらは、まあ今ぐらいならもうわりと涼しいので、と答えて、ありがとうございますと礼を言って先を進んだ。街道に出て行くと、道路の上の日蔭のあいだに日向が切れ込みを入れている。見上げれば右方、南の空は青灰色の雲が山際まで一律に垂れ込めて、その雲勢は行く手、東の果てまで及んでいたが、左方の北空では雲はいくらかほどけてその下の青味が現れており、北西の端では落ち行く太陽がまばゆい光を放っていた。雨が降る心配はなさそうだった。
 裏通りに入って行っていると、前方には男子高校生が四人、ちょっと足を左右に広げながら押し出すような、ぶらぶらとした歩き方で帰路を辿っている。一軒のアパートの前に咲いている、ピンク色の、金平糖が集合したような風情の花に横目をやりながら進んでいき、白猫のいる家の前まで来ると、近辺の子供らが自転車を乗り回して遊んでいるその脇で、彼ら彼女らの騒ぐ声や様子などまったく意に介さずに、猫は敷地の端にごろりと寝転がって休んでいた。その傍に寄ってしゃがみこみ、腹を撫でてやったり首もとに手を持っていったりすると、猫は一度立ち上がったけれど、すぐにまたごろりと横になった。身体を撫でるたびに白い毛が身から離れて浮遊し、気づくとスラックスの膝のあたりにいくらかくっついて溜まっていた。
 猫と別れると遊んでいる子供らのあいだを抜けていき、青梅坂に辿り着く頃には道の上にも日向がひらいていた。そのなかを進んでいき、元市民会館の施設裏まで来ると左方に目をやった。梅岩寺の枝垂れ桜は青々とした深緑に染まりきって、周辺の山々の緑と調和し、そのなかに埋没している。駅近くの裏路地を行きながら、古びたビルの、ところどころに罅の入ったような側壁に陽が掛かって、電線の薄い影が何本もその上に引かれて模様となっているのを眺めていた。
 職場に到着。こんにちは、と挨拶するその声が昨日一昨日よりもいくらかましになっていた。今日の相手は(……)くん(中三・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)さん(中三・英語)。全員英語である。全員が英語だとさすがに忙しい。単語テストにリスニングが曲者である。(……)くんは二年前、中一の時分にも――と言うよりはそれより以前から――担当したことのある生徒で、大人しそうな性格は変わっていなかった。テスト結果など見ると、英語は九七点取っており、相当に優秀である。この日扱ったのは現在完了の完了用法。問題はないだろうと思う。ノートもわりあいに書いてくれた。リスニングの方も、何も言わずとも自分で書いてくれた。
 (……)くんは先週国語を三コマ担当した一年生。テスト結果がどうなのか気になるが、今日は点数を覚えていなかった。前回はthis is/that isの範囲をやっていて、授業冒頭の復習の際にそれを質問してみたけれど、きちんと覚えられていたのでなかなか良い感触である。今日はその単元の難しめの問題一頁と、新しくWhat is ~?の構文を扱った。これもわりとよく覚えられたのではないかと思う。ノートも色々と書いてくれた。
 (……)さんは、名前を見た時からそうだろうなと思っていたのだが、(……)(漢字がこれで合っていたかどうか思い出せない)の妹だった。顔もなかなか似ていた。授業冒頭で彼女と顔を合わせた際、名乗って挨拶をしたあとに、お姉さんがいるね、と訊き、こちらの推測が正解だとわかると、うわあ懐かしいなあと口にした。姉は今一九歳だと言うから、彼女を担当したのはおそらく四年か五年ほど前になるわけだ。向こうが僕のことを覚えているかわからないけれど、あいつに会ったって言っといて、などと伝えて授業に入った。姉の方はあまり優秀だった覚えはないが、妹の彼女の方は結構出来るような印象だった。学校進度に比べて相当に進みすぎていたので、今日の一時限は復習に使うことにして、レッスン二の読解単元の部分を扱った。教科書本文を一緒に訳して単語や表現を確認しながら、こちらがほかの生徒に当たっているあいだには問題も解いてもらうという形を取った。問題は何と全問正解。一度扱っているので覚えていたこともあるかもしれない、だがそれならそれで良いことである。反省点としては、教科書の本文訳が一頁、つまり半分までしか終わらなかったことだが、しかし三人相手で本文訳をやるとなるとやはりそのくらいまでが限界というところだろう。それに、一頁だけでも結構わからない単語などあって、学べたことは多かったはずだ。ノートにはそれらの単語や表現をたくさん書いてくれた。そう、それで、この教科書本文のなかに、クロード・モネの、妻カミーユが赤い着物を着て扇を持っている姿を描いた例の絵が紹介されており、この絵はこちらは数年前に世田谷美術館ボストン美術館展で実際に見たことがあるので、その旨を話した。教科書に載っている写真を指さして、僕はこの絵を実際に見たことがあります、と言い、世田谷美術館でどうのこうのと説明し、赤と青の対比が鮮やかでしたねとか何とか言ったのだが、このような脱線をもっとたくさん授業中に盛り込んで生徒を楽しませていけたらと思うのだが、なかなかそううまくも行かない。それで、当のボストン美術館展でこの絵を見た時の感想を、どうせなので下に引いておく。二〇一四年九月一二日金曜日の日記からであるが、当時は日記を書きはじめてまた一年と八か月程度なので、文章的にはやはり全然未熟である――と言うか、何故句点読点を排して無理矢理ひと繋がりに書いているのか、その理由がわからない。截然と区切って書くのが面倒臭かったのだろうか?

 (……)その《ラ・ジャポネーズ》はといえばたしかにこの展覧会の目玉で四十分くらいみていたけれどこの絵のまえにはさすがに常に人だかりが生まれて絶えることはなかったその目玉はまず展示されている絵のなかでいちばんサイズがおおきかったたぶん縦は二メートル五十センチくらいはあったからそのおおきさだけでもインパクトはやはりあるわけでそのなかでまず感じたのはうねりの印象赤のうねりの印象で着物のすその豊かなうねりの表現目の高さと展示されている絵の高さからいってもそれにまず目がいったわけだけれど着物のすその端は青を基調としながら金色の装飾を配した縫いこみがされておりほとんど画面左右いっぱいにひろがったその丸みにそってまず視線は動きまた同時に着物の立体的なひだの陰影にも引きつけられるそうしていくらか拡散していた視線が中央に集中していくとそこにあるのは例の武士の装飾であり刀を抜こうとしているこの武士の顔や腕それが刺繍にしては妙に立体的で自立しているようにもみえて不思議だったけれどこの装飾の基調となっているのが青色で着物下端の青よりもさらにあかるい青であってその上に乗った金色の刺繍によって動きの印象をあたえられながら上方へすべっていく視線が出会うのは当然ふたたび着物の真紅でこの赤・青・赤の色の移り変わりが鮮烈なわけだが着物の上半身には真紅のなかに配された葉っぱのかたちをした緑色の模様が目に楽しくそのあいだを抜けていく視線はカミーユの顔と金色の髪にたどりつくがまだそこではとまらずそれよりもさらに上にあるひろげられた扇の上端にまで達するそこにあるのは薄紅色で広重の《亀戸梅屋舗》の色にもいくらか似たような薄紅色であって目に強い真紅の層を抜けてきたあとの淡い色彩がさわやかさをあたえたあとにふたたび視線はたどってきた道を逆に動いて下方へとおりていくわけでとおくちかくからみながらこの上下の運動をくりかえしていたらいつのまにか時間がたっていたわけで二時ちょうどにはいって出たときは閉館の六時の十分前くらいだった(……)

 そうして授業終了後、入口近くの最前線に立ち、生徒たちの出迎え見送りをこなしてから片付けをし、室長に記録をチェックしてもらって勤務終了。その後、奥のスペースに座り、タブレットを使って気になる生徒の記録を閲覧していたので、職場を出るのは八時五分頃と遅くなった。電車で帰ることに。駅に入り、ホームに上って、待合室の壁の前に立ち、携帯電話を取り出して日記を綴る。奥多摩行きがまもなくやって来ると乗って席に移り、脚を組みながら引き続き携帯を操作した。発車して最寄り駅に着くと降り、蛍光灯に羽虫が群がって飛び回っている階段通路を抜けて駅舎を出た。横断歩道を渡ると左に折れ、ローカルな商店の前の自販機に寄って、一五〇円でゼロ・カロリーのコーラを一本買った。そうして、普段とは違って駅前の坂道に入らずに、そのまま東の方へと歩いていき、家の近間に出る木の間の下り坂に入った。薄暗がりのなか、左右から旺盛に生えた草が迫り、薄茶色の羽虫が宙を飛び交って、足もとには乾いて褪せた色になった竹の葉が多数降り積もっていた。そのなかを抜けて帰宅した。
 父親も既に帰宅して、寝間着姿で居間に立っていた。ただいまと言って冷蔵庫にコーラを収めると自室に下り、服を着替えたあと食事を取るために階段を戻った。夕食のメニューは白米に、牛肉や玉ねぎなどの炒め物、それにシチューに素麺を入れた料理である。ココーラをコップに注いで腹を膨れさせながらものを食べ、食べ終えると抗鬱剤を服用して食器を洗った。そうして父親と入れ替わりに風呂へ。残り湯のある状態で焚いたので湯が大量になっており、身を沈めると湯船の縁から液体がざあざあと溢れて音を立てた。出てくるとパンツ一丁で自室に戻り、しかしだいぶ涼しかったのですぐに寝間着のズボンを履き、シャツも着て、そうして日記を綴りはじめたのが九時四五分である。それから現在時刻に追いつかせるのに二時間も掛かってしまった。途中でAくんからメールが届き、詩を読みました、二番目のものが一番好きだったとあったので、日記を書くのを一時中断して、携帯をかちかち打ってその場ですぐに返信を拵えた。

Aくん、ありがとうございます。

二番目の詩はわりと私性があるというか、実際の僕の体験や考えをもとにした部分があります。

狂い鳴く鶯に関しては実体験ほとんどそのままです。出勤中など、路程の途中で鶯がまさしく狂ったように激しく鳴き声を散らすのが時折聞かれるのですが、その鳴き声はわりと明確な音程を持っているもので、それが僕には何か色の断片がまき散らされているように感じられるわけです。色を「耳で見ている」ような体験とでも言いましょうか。

「世界は書物だ」の連に関しても、大体僕の考えをそのまま翻訳したものですね。僕は以前からこの世界そのものこそがこの世界でもっと豊穣な書物――すなわち差異や意味の体系――だと考えています。その意味の網目=ネットワークのなかに、我々という存在はあり、そしてその網目に色々な仕方で何がしかの影響を与え、介入していくことが出来るわけです。それを書物に文字を書き込むという比喩で言い表してみてもいいでしょう。

自己解題をしてみるとそんな感じです。僕も詩の分析などまったく出来ないので、好きなフレーズを紹介するだけになってしまいそうな気がしますが、まあそれはそれでいいんじゃないでしょうか。

 その後、零時を回ってから小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』のメモを始めた。手帳に記してあった頁を参照し、重要と思う部分を要約的に手帳の最新頁に書き込んでいく。それをしているあいだにはヘッドフォンを頭につけており、BGMとして流していたのはGreg Osby『9 Levels』やHamish Stuart『Real Live』だった。そうして二時頃まで、閉ざしたコンピューターを台として黙々とメモを取り続け、それからベッドに移って『岩田宏詩集成』を読んだ。読んでいるあいだ、窓からはこつこつとガラスに何かが当たる音や、羽音が聞こえていたので、虫が明かりに引き寄せられて飛んできていたようだ。そうして一時間弱、詩を読んで、三時前には就寝した。


・作文
 11:13 - 11:35 = 22分
 21:45 - 23:55 = 2時間10分
 計: 2時間32分

・読書
 12:10 - 16:00 = (1時間半引いて)2時間20分
 24:03 - 26:52 = 2時間49分
 計: 5時間9分

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 70 - 75
  • 岩田宏詩集成』: 72 - 228
  • 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』、メモ

・睡眠
 2:20 - 10:40 = 8時間20分

・音楽

2019/5/28, Tue.

 七時一五分のアラームが鳴る前に目を覚ましており、アラームを受けて立ち上がりもしたのだが、またしても寝床に戻ってしまって、そこから長々と、一一時過ぎまで寝過ごしてしまった。ベッドに戻るとほとんど必ずその後の眠りが長く、漫然と伸びたものになる。この寝床へと回帰する運動の流れをどうにか断ち切らなければ早起きは叶わないようだ。外は曇りで、のちに新聞で見たところでは今日も最高気温は二九度あると言うが、前日の暑さに比べるとだいぶ涼しく感じられた。
 上階に行き――母親は着物リメイクの仕事で不在――寝間着からジャージに着替えると、何か食べ物はないかと冷蔵庫を探ったが、キャベツの生サラダの残りくらいしかなかった。それで米をおにぎりにするかというわけで、炊飯器の置かれた戸棚の上にラップを敷いて、大きなおにぎりを一つ、中途半端に握って成型した。そのほかサラダを盛り皿に取り分けて卓に向かい、新聞に少々目を落としながら一人黙々と食事を取った。食後は抗鬱剤を服用しておき、今日は風呂洗いを早々と済ませておくかというわけで、皿を洗うと浴室に行った。湯は結構残っていた。栓を抜いたところで風邪薬を飲み忘れたことに気づいたので、残り湯が流れていくのを待つあいだの時間を利用して、一旦浴室を出て居間のテーブルの片隅にある風邪薬を取り、真っ白な薬を三錠、口に入れた。その甘い風味を舌で味わいながら台所に入り、水を汲んで一杯飲んで服用すると、浴室に戻って掃除を始めた。鼻水はもうほとんど出なくなり、声も昨日に比べればいくらかは回復したようである。しかしまだ少々痰の引っかかりやすいような感触は残っている。掃除を終えて出てくると下階に帰り、コンピューターを点けてTwitterを確認したあと、前日の記録を付けて日記を書きはじめた。正午前だった。ホトトギスが頻りに鳴き叫んでいるのが窓外から聞こえていた。それから、FISHMANS『Oh! Mountain』を共連れに五〇分ほど打鍵して、一時前には記述を現在時刻に追いつかせることができた。今日も六時から労働があるが、昨日と同様、たった一時限のみである。ちなみに明日も同じ時間にやはり一時限の労働がある。
 日記を書き終えてから一時一二分に読書を始めるまで、二〇数分のひらきがあるのだが、このあいだの時間で記事をインターネットに投稿する以外に何をしていたのかは不明である。上階に行った記憶もない。Twitterでも覗いていたのだろうか? 僅か三、四時間前のことがこうも思い出せないとは。ともかく、一時を過ぎてから書見を始めた。Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionである。こちらが読書をしているあいだ、母親は、二時頃になって――と書いたところで思い出した、日記を書いて投稿したあと、母親が帰ってきた気配が上階にあったので、買い物をしてきただろう彼女を手伝いに行ったのだった。階段を上がって玄関に出ると、大きな買い物袋がいくつも置かれてあったので、そのなかから二つを取って居間の方に運び入れ、冷蔵庫に野菜などを詰めていった。そのほか、カップ麺の類や米などを戸棚に収めておき、下階に戻ったあとに読書を始めたわけだが、母親は二時頃になって今度は歯医者に出かけていった。こちらは一人、読書に邁進するかと思いきや、一一時一五分まで寝ていたにもかかわらずまた眠気がガスのように湧いて身を包み込み、曖昧に濁った意識を長いあいだ遊泳させることになった。たびたび目覚めて時計を見ており、そのたびに本を読まなくてはと思うのだったが、催眠ガスを嗅がされたかのようにこちらを囲繞する眠気の霧に打ち勝てないのだった。それで気づけば四時前である。その頃には母親も既に帰宅していた。四時五分まで、ほんの少しだけ英文を読み足しておき、それから上階に行った。母親が昼に食った残りの廉価なピザがあることを知っていた。明太チーズのものである。それを冷蔵庫から取り出していると母親が傍にやって来て、今日行った歯医者の話をする。あまり要領を得なかったが、要はぼったくりかもしれないということのようである。アルミホイルの上にピザを載せてオーブン・トースターに突っ込んでおき、焼けるのを待つあいだに卓に移って、母親が支度してくれたものだが、パイナップルと混ぜたアロエヨーグルトを食べながらまた話を聞いた。治療が終わったあとも三か月に一回は来院しなければならないと言われたのが母親は気に掛かっているらしく、何やらプラークだとか何だとか「理屈っぽく」たくさん説明されたと言う。焼けたピザを食べながらこちらは、要はその医院は歯の健康を完璧に保つという方針なのだろうと推測を述べ、そこまでの努力をしたくないあなたとは方針のずれがあると分析した。一方で、おそらくは利益のために患者を囲い込みたいというような動機もあるのではないか、専属の歯科医のようにしたいということもあるのではないかと推測を述べると、母親はそれに強く同調していた。いずれにせよどうでも良い話ではある。ものを食ってエネルギーの補給を終えると――食っているあいだに夕刊を手に取って裏返し、一面を見ると、例の黒字に白抜きのセンセーショナルな演出で、川崎市登戸のショッキングな通り魔事件が伝えられていた――こちらは下階に戻り、排便するとともに歯を磨いた。それからスーツ姿に着替え、今日も蒸し蒸しとして暑いには暑いが、昨日よりはましなのでベストを身につけた。そうして仕事着姿になったのち、日記を書きはじめたのが四時四二分、ここまで一五分ほどで書き足している。BGMはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)だった。
 出勤までに残った僅かな時間で短歌を作ることにして、『岩田宏詩集』をひらいた。「むこうに陽炎がみえ氷の塊が流れ」、「紫いろのくちびるは帰らなければ」、「つぎはぎだらけの楽器をかかえこみ」という節をそれぞれ盗んであっという間に三つを拵えた。

 陽炎と氷の塊引き連れて砂漠を行こう天使のもとへ
 日暮れ前に紫色の唇は帰らなければ凍えぬように
 つぎはぎだらけの楽器を抱え込み歌おう永遠[とわ]に目覚めぬ夜に

 それで時刻は五時一〇分かそこらだったので、出発することにしてコンピューターを閉じ、上階に行った。居間の端の引出しからハンカチを取り出し、尻のポケットに入れると母親の行ってらっしゃいの声を受けて玄関をくぐった。昨日と比べるとわりあいに涼しい、柔らかな空気の流れる夕時だった。道を歩きだしてまもなく、小さな雀が二羽、路上に現れ、一匹は右方へ水平に、浅く緩く波打ちながら滑るように飛んで駐車場の柵に止まった。その動きを自ずと追ってこちらの眼球が動いていた。残った一羽の方は左方に、垂直に近く飛び上がり、林の縁の茂みのなかへ入っていった。
 街道に出て車の流れる横を行っていると、尋ね人を知らせる市内放送が曇り空に響き渡った。四〇歳の男性が今日の朝から行方不明なのだと言う。身長や服装の特徴を述べるのに漫然と耳をやりながら歩く身を包む空気は蒸しており、髪の茂みの奥にある頭皮が湿っているのが感じられた。老人ホームの横の窓からなかを覗き込みながら過ぎる。この時間にはいつもテーブルの周りに高齢者たちが集っているのが見られる。なかには車椅子に座っている者もあり、視線を差し向けるとあちらの何人かも傍観的な通行者としてのこちらを見ているので、なかにこちらの姿形を覚えていて、今日もあの若者が通る、などと思われたりもしているだろうかと想像した。
 裏通りに今日は高校生らの姿はなく、広々としている。途中の一軒の垣根の端に、野菜のような清潔な薄緑色の紫陽花が咲きはじめていた。まだ小さくこんもりとしており、可愛らしいようで、茸に似ているようでもあった。白猫は今日は姿が見られなかった。短歌を頭のなかで考えながら路地を進み、職場が近くなったところで空を見上げると、水っぽい色に沈んだ空が全体に掛かっており、空の地の色はまったく見えない。薄い亀裂もあってその先はいくらか明るんでいるものの、覗いているのはやはり白の色だった。
 職場に到着。ちょうど(……)さんがコンビニで食事を買って戻ってきたところで、彼女のあとに続いて扉をくぐり、こんにちは、お疲れ様ですと挨拶した。今日の相手は(……)くん(小六・国語)、(……)くん(中三・英語)、(……)さん(高二・英語)。五時四五分くらいから授業準備を開始した。授業間近になっても(……)先生が来ていなかったので、(……)さんを呼び止めて――室長は面談中だったので――その旨告げると、今日はもともと彼の仕事がないところに急遽来てもらうことになって、ギリギリになるのを室長も含めて把握し、了承しているとのことだった。それでこちらも了解した。結局(……)先生は授業の開始には間に合わず、いくらか遅れてきて、そのあいだの生徒の対応は(……)さんが行ってくれた。
 こちらの授業はと言えば、(……)くんは昨日も当たった相手である。国語も受験用のテキスト。四年生の復習から始め、主語・述語の章の最初まで入った。出来は結構良い。こちらが解説をしていると折々に、はい、はい、としっかりとした相槌を返してくれて、こちらとしてもやりやすい。反省点としては、もう少し本文自体について解説したり、突っ込んだことを聞けたりしたら良かったのだが、それはなかなか事前に読んでいないと難しいことでもあるし、また三人が相手ではその余裕もあまりない。ノートはきちんと書いてくれている。
 (……)くんは大人しそうな生徒である。宿題はやって来ていたが、単語テストは勉強してきていなかった。それでもテストさせて、たくさん間違えたそのなかから三つを選んで練習させ、ノートにメモさせたのだが、このようなちまちましたことをやっていてもなあ、というような感じもある。単語テストはやはり事前にきちんと勉強してきてもらっていて、さっと始めてさっと終わらせ、授業本篇に多くの時間を取るというのが理想だ。しかし現実、勉強をしてこなかったり、あるいはまた単語の単純な暗記の仕方がわからないという生徒もいるだろう。そういう生徒にはやはり授業中に単語練習をする時間を取らなければならないだろうが、そうすると文法などが充分に出来ないというジレンマもあって、どうしたものかといつも思う。ともかく、(……)くんの今日の授業は、会話表現の単元と、レッスン二のまとめを四分の一扱って終了。出来は良いし、ノートにもたくさん学んだことを書いてくれたのでまあオーケーだろう。
 ノートにあまり事柄を記入できなかったのは(……)さんで、彼女はもっと書く時間を取るようにすれば良かったと言うか、関係代名詞を使う時の見分け方など書けたような気もする。本文訳を一緒にやることにばかり注意を向けてしまって、ノートに書くことをあまり考えていなかった。結局、今日書いたのはthere is/are の表現のみである。高二でthere is/are を覚えていないというのもなかなかだが、しかし一緒に訳してみると本文訳はわりあい問題なく出来ていたし、受動態などの形も覚えていた。明日がテストだと言う。テスト勉強用のプリントを持っており、それは教科書本文の一部が空欄になっており、そこに入る単語や表現などを覚える、という種類のものだった。それで、教科書本文を見ながら一緒に一文ずつ訳していき、一文訳したあとにはプリントで教科書を隠して、穴埋めの部分を覚えているかどうか答えさせるという方式でやっていった。このやり方はまあ悪くはなかったのではないかと思うし、こういうやり方で良い、と本人に訊いても、それで良い、覚えられそうとの返答があったので、生徒当人としても悪くないやり方だったのだろう。ただ三人だとやはりあまり余裕がないと言うか、ほとんど常に誰か一人のところに就いている、というようなことになってしまう。ノートにコメントを書く時間なども取りづらいし、その時間すら勿体無い、それをしている時間があったらもっと指導をしたいというところだ。反省点は先ほども述べたように、あまりノートに知識を書き込めなかったこと。もっと教科書本文を解説しているその場ですぐに書かせる、という風にすれば良かった。
 以上である。授業を終えたあとは、室長はやはり面談中だったので、(……)さんに記録をチェックしてもらった。こちらの観察や考えなども話すと、チェック後、色々と考えていらっしゃって素敵だなと思いました、という言を頂いたので、彼女からの評価も今のところ悪くはないようだ。そうしてタブレットを仕舞ってから奥のスペースに行き、机を使って授業の片付けをしていた(……)先生にお疲れ様ですと挨拶をした。ロッカーからバッグを取り出したあと、ふたたび(……)先生に声を掛けて、何かわからないことや気になったことなどはありますかと尋ねると、最初、彼はやや当惑していたようだったものの、いや、そりゃもうたくさんありますよと話してくれた。彼はもともと教員をやっていた身なのだが、教えていたのは国語なのだと言う。それで国語ならばばっちりだけれど、実際にこの塾で任せられるのは英語や数学ばかりというわけで、自分でも解き方がわからないような部分もあるので困っているということだった。それはなかなか厳しいですねとこちらは受けて、でも授業前に予習などはやられていますかと訊いてみると、あまり早く来ちゃいけないみたいなんで、との返答があった。それでも自分でテキストなど買って、大まかに今の時期に扱っているような部分は確認しているのだと言う。しかし、実際誰と当たるのか今日どこをやるのかは塾に来てみないとわからないため、完全にカバーすることはできないとそんな状況らしかった。そこでこちらは、予習の時間を事務勤務として取らせてもらいたいと室長に相談してみたらどうですかと勧めておき、もう長いんですかとの質問には、去年ちょっと休んでいたんですが、実は結構長くて、もう七年目くらいですかねと答えた。それはそれは、といった反応があり、それだと色々訊くことがあるかもしれませんと言ったので、是非訊いてくださいと締め括り、相手が覚束なげにこちらの名字を発音するのに、名前を改めて名乗っておいた。
 そうして退勤。雨が降りだしていたので、電車で帰るべく駅に入った。ベンチに腰掛ける。こちらの左方には濃い小麦色の脚を多く露出させた、若いのか年取っているのかよくわからないような外見の女性が座っていた。彼女はじきに立川行きに乗って去り、そのあとから男子高校生の三人連れがやってきて、二人が席に座った。一人立ったままでいたのは、三人とも座ってしまうと顔を向かい合わせられず喋りにくいということもあっただろうし、何となくこちらと隣り合って座るのも気後れするようなところがあったのかもしれない。男子高校生の気配を時折り窺いながら携帯電話を操作して日記を書いていたのだが、途中、ホームの反対側を女子中学生が二人、きゃーきゃー甲高い声を上げながら走って行ったのを見て、男子高校生のなかの立っている一人、眼鏡を掛けていた者が、「きしょ」と口にしたのをこちらの耳が捉えた。無邪気に騒いでいる女子を目撃したというだけのことなのに、この憎悪――と言っては大袈裟に過ぎるが――、忌避感のようなものは一体何なのだろうか。彼は一体何故そんなにも周囲の世界に対して敵愾心を抱いているのだろうか――まあ一〇代の半ばなんてそんなものかもしれないが。
 奥多摩行きがやって来ると乗り、携帯を操作し続けながら到着を待って、最寄り駅に着くと降車した。雨は都合良く止んでいた。階段通路を歩いていると、頭上に灯った白い蛍光灯にくすんだ砂のような色の細かな羽虫たちが群がっており、それらが電灯の表面に衝突する音が、屋根を叩く雨音のようにかん、かん、と小さく響いていた。途中で一匹、こちらの右耳に襲いかかってきたものもあった。そんななかを抜けて、道路を渡り、坂道に入って見上げると、空は墨を注ぎ込まれたように暗色に沈んでおり、それでかえって濁っているのではなくて均一に暗んでいた。平らな道に出て、咳を漏らしながら行っていると、自宅の間近に来て道端の車庫の屋根を雨が打つ音が聞こえはじめ、それがにわかに膨らんであっという間にそこそこ大きな降りになったので、間が悪いなと足を速めた。自宅の前まで来ると父親もちょうど帰ってきたところらしく、ヘッドライトを点けた車の運転席に入っているその姿に向けて手を挙げ、おかえりと言うのにああ、と低く受けた。そうしてなかに入り、母親にも挨拶をして下階に戻ると、ジャージと肌着に服装を替えて上階に行った。食事は素麺の煮込みに枝豆、唐揚げ、ワカメのサラダ、昼のピザの残り、それにオレンジ・ジュースである。それぞれ用意して卓に就くと、最初はテレビは歌番組を流していて、山田涼介(だったか?)がダンスを披露したりしていたのだが、じきに気象情報を通過して九時のニュースが始まった。取り上げられている話題は勿論、登戸の通り魔事件である。悲痛な様子で記者会見する、亡くなった児童の通っていた小学校の校長などの様子が映された。それを見たあと薬を飲み、食器を洗って風呂に行った。そう長く浸からずにさっさと上がってきて、なかなか涼しかったがパンツ一丁の格好で下階に戻ると、Skypeのチャット上でYさんとやり取りを交わしながら、短歌をいくつか作った。

 家出しよう終日[ひねもす]雨の白夜には不確かな気が狂わぬように
 へい兄ちゃん何か一曲やってくれ眠りも家も目もない俺に
 殺人が大衆化したこの世では天使も悪魔も欠伸ばかりさ
 冬なのか夏の日なのかわからない沼に沈んで空見上げれば
 鉄の環をちぎってはまた繋ぎ替え位牌を作る君悼むため
 逝く君の手首と髪を抱きしめて脈動測る世の最後まで
 劇場の燃える舞台の上に立ち詩を読み叫ぶ声嗄れるまで
 エンパイア・ステート・ビルの跡地にて花を捧げる天に向かって
 神様の気まぐれな手にすくわれて君と出会った親子のように
 君思う大停電の真夜中に戦争よりも遠い朝まで

 まあ説明をするのも野暮だが、元ネタを明かしておくと、一つ目の歌はcero "Orphans"が元、二つ目はわかりやすいと思うが、Bob Dylan "Mr. Tambourine Man"である。最後から一つ前のものもcero "Orphans"をパクっている。その後、一〇時を回ったあたりから、cero『WORLD RECORD』をお供に日記を綴りはじめ、音楽を同じくceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』に移行させながら打鍵して、一時間強でここまで記し終えた。
 その後、一一時半前からSkype上のグループで通話が始まった。最初に参加しているのはこちらとYさんの二人だけだった。そのあとしばらくしてから、続々と皆さんがやって来たのだった。最初のうちに話していたことで覚えているのは熊の話である。先日、フィンランド人のJさんが通話に参加したわけだが、フィンランドでは日本よりも人間と熊の距離が近い、というような話がYさんからあり、それに応じてこちらは、そう言えば青梅でも熊が出たんですよと話した。そのほか、『プロフェッショナル 仕事の流儀』というNHKの番組で、過去に北海道の猟師の仕事が取り上げられたことがあった、それがなかなか面白かったと話した。自分が撃って殺した獲物の鹿に対して、「お前」と二人称で呼びかけているのを見て、やはり同様に魚に対して呼びかけるヘミングウェイの『老人と海』のなかの老人を連想した、などと話したわけだが、このあたりに関しては過去の日記に書いてあるので詳しくはそれを引用しよう。二〇一七年一二月一一日月曜日の記事からの引用である。

 (……)まず最初に展開されたのは、久保という七〇歳のその猟師が実際に鹿を撃って獲得するまでの映像である。森のなかを探索したあと、平地に鹿がいるのを発見し(場所は北海道である)、森の縁の樹々に隠れながら機会を見て射殺するのだが、そこで銃を構えたまま、鹿が充分に近づいてくるのを五分か一〇分か、あるいはそれ以上待ったということだった。一発で確実に生命を奪うという点に、こだわりを持っているらしい。それは獲物をなるべく苦しませずに殺すという意味も勿論あって、それが猟師としての責任だとこの人は考えているらしかったが、もう一つ実際的なものとして、一発で弾丸を急所に通過させて絶命に至らしめると、そのほうが肉が美味いという話だった。それで実際、この時も一発で仕留めたのだったが、弾丸を撃ちこまれた時の鹿の肉体のその動きが、こちらとしてはやはり強く印象に残っている。まさしくのたうち回るという言葉の意味を体現したもので、地に倒れ伏しながら脚を何度も反復的にバネのように跳ね動かすその撓るような動き、そしてそれによってやはり繰り返し生まれる土の飛散である。凄まじい、圧倒的な[﹅4]具体性、ここにはやはり何かしらの強いものがあると感じ、いつもながらの思考だが、これが小説の領域だろうと思った。実際、番組の終盤に放映された熊を追い求める段もそうだったが、この人が猟(複数人でやるいわゆる「狩り」と、「猟」とは全然違うものだと猟師は語っていた)をするために山に入って獲物を仕留めるまでのあいだに見聞きし感じることを十全に記述することができれば、それでもう一篇小説が出来るのではないかと思われた。
 もう一つ、大きく印象に残っているのは熊猟について語っていた最中の一言で、初めは人間が熊に「挑む」という言い方をしていたのが、直後に付け加えて、挑むというよりは「呼ばれている」という感じだと言っていたのだ。ああ、やはりそういう風な感覚になっていくのだなと、どういうことなのか良くわからないものの得心された。
 いまはちょっとほかの細部が滑らかに頭のなかで繋がらないが、様々な点で、先日読んだErnest Hemingway, The Old Man And The Seaの老人を地で行くような人ではないかと思った(最初に連想が働いたのは、仕留めた鹿に向かって、多分解体する段ではなかったかと思うが、「お前はうまい鹿だ」と(二人称で)呼びかけて[﹅5]いるのを見た瞬間である)。このような人間がこの現代にも存在しており、また昔はもっとたくさん存在していたのだという点、また、番組の途中で映し出された自然環境(降雪もそうだが、岸のすぐ下の川の流れのなかに大きな鮭がうようよと[﹅5]ひしめき合ったりしているのだ)の様子などを見るにつけ、北海道という地は一応日本国と呼ばれる国家のなかの一領域として、何の不思議もないかのような顔をして位置づけられているが、例えば自分が生まれて育ったこの東京などとは本当に、相当に異なった土地なのだということがわりあいに真に迫って感じられたような気がする。そして、ここから先は今日(一二月一二日)に思い巡らせたことなのだが、そのように随分と異なった土地のあいだの歴史的/文化的/地理的差異を均して、一つの国家という抽象観念の下に同じ日本として統合しようなどということを考え、そしてそれを実際に敢行してのけたいわゆる「近代」という時代の凄まじさ、ナショナリズムという思想=物語を心の底から本気で信じ込んでしまった時代のとてつもなさというようなものの、その一端を垣間見ることができたような気がする。

 その後、グレッグ・イーガンの話、カンディンスキーの話、パウル・クレーの話などをしたのち、人形あるいは縫いぐるみの話題からディズニー・ランドの話になった。Tさんによると、ディズニー・ランドを設計した人間というのは本物の地質学者で、地質学的構造を細部まで非常に正確に再現しているのだということだった。彼は高校生なのだが、鉱物を集めたり何だりしていて、着目点が常識的な人間とは違う。
 そうして零時半になったところで、僕はそろそろ退出しますよと発言すると、皆もそれでは解散しようかという流れになった。ありがとうございました、おやすみなさいと言い合って通話を終え、チャット上にも礼の言葉を投稿しておいて、コンピューターを閉じて読書に入った。Michael Stanislawski, ZIONISMや、山岡ミヤ『光点』を読んでいる途中なのだが、何となく詩が読みたくなったので、『岩田宏詩集成』を読むことにした。それでベッドの上で読みながら、途中でコンピューターを持ってきて、読んでいる内容から連想的に詩を拵えようとしたのだが、なかなか上手く行かず、中途半端に何行かが出来たのみだった。そうして、二時一五分頃まで読んで就床。眠りはわりあいに近かったと思う。


・作文
 11:56 - 12:48 = 52分
 16:42 - 16:56 = 14分
 22:06 - 23:13 = 1時間7分
 計: 2時間13分

・読書
 13:12 - 16:05 = (2時間引いて)53分
 24:45 - 26:14 = 1時間29分
 計: 2時間22分

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 68 - 70
  • 岩田宏詩集成』: 12 - 72

・睡眠
 2:40 - 11:15 = 8時間35分

・音楽

2019/5/27, Mon.

 一一時一〇分になってようやく起床することができた。上階に行って、アイロン掛けをしている母親に低い声で挨拶をした。声の調子はまだ戻りきっていない。それからしばらく、まだ何となく眠気が残っているような感じがして、意識が冴えていなかったので、ソファに凭れ掛かり、身体を横に倒して目を閉じて休んだ。そうして一二時が近くなってから立ち上がり、母親が盆に用意してくれた食事を卓に運んだ。ドナルド・トランプの来日、新天皇との会見、日米首脳会談などについて伝えるニュースをぼんやりと見やりながら食事を取り、取ったあとは抗鬱剤や風邪薬を飲むと、布巾でテーブル上を拭いてから皿を洗った。そうしてジャージに着替えて下階に戻り、コンピューターを起動させた。LINEでT田からの返信が入っていた。昨日の夜、彼に化していた『灯台へ』をついに読み終わったというメッセージが入っていたのに気づいて、返信しておいたのだった。六月二日にまた彼とは会う予定があるわけだが――いつものグループで、代々木公園の音楽イベントに行ったあと、うさぎカフェとやらに繰り出すらしい――その時に、また純文学の小説を貸してくれと言うので、ちょっと考えて、それでは梶井基次郎にしようと返信しておいた。それからSkypeのやりとりも確認し、そうして日記を書きはじめたのが一二時半頃だった。途中で今度は、Hさんに近況を尋ねるTwitterのダイレクト・メッセージも送っておいた。そうしてFISHMANS『Oh! Mountain』を流しながら打鍵を進めて一時間半、現在は二時を過ぎたところで、音楽はaiko『暁のラブレター』に移っている。
 それから風呂を洗ったのが先だったか、それともAくんへの返信を綴ったのが先だったか? どちらでも良いのだが、つい数時間前のことをこうも思い出せないとは。ともかく、多分このタイミングで風呂を洗いに行ったはずだ。そうして戻ってくると、携帯を取ってAくんから昨晩来たメールの返信を綴りはじめた。日記を書いている途中、『ダブリナーズ』の感想をまとめてブログにアップした際に、今日の読書会で語ったことを文章化したから読んでくれというメールを送ってあったのだった。それに対する返信の再返信を綴ったのだったが、最初は携帯をかちかちと操作して文言を入力していたところが、途中から、これは長くなりそうだぞと気がついたのでコンピューターに触れて、日記に文章をさっと書いてからそれを見つつ携帯の方に写すという方策を取った。以下が返信の全文である。

Aくん、こちらこそいつもありがとう。良い時間を過ごさせてもらっています。

考えてみると、我々の読書会が始まったのは確かAくんが大学を卒業した年、すなわちこちらが未だ四年生だった頃のはずですから、おそらく二〇一二年のことです。そうするとこの会も――昨年中はこちらの調子の問題で休止が挟まりましたが――もう七年も続いていることになります。これはちょっと、驚愕の事実です。本当にそんなに経ったのでしょうか?

しかし、七年ものあいだ、毎月顔を合わせてずっと会合を続けてきたのだとしたら、それ自体なかなか大したことではないでしょうか。

ところでブログを少々読ませてもらいました。かなり一般向けに書かれている印象ですが、このようにまとめる習慣をつければ、読んだ本の記憶など、より強固に残るのでしょうね。

昨日も口にしたことであり、上に書いたこととも関わることですが、何かの営みを行うに当たって一番重要なのは、それを続けるというただ一点、そこに尽きると思います。続けた者こそが偉大なのです。質だのスタイルだの個性だの評価だの影響だのは、とにかく続けていればあとから勝手についてきます。

何かを続けるということは、それを習慣として、それとともに日々を生きるということです。僕の場合だったら、日記とともに生きること、いや、むしろ、日記それ自体を生きること(ここに強調の傍点を付したいところです)、と言いたい。僕は本気で、この世を離れるその日まで文章を書き続けたいと願っています。勿論、それは相当に困難なことでしょうが。

ヘンリー・ダーガーという人物をご存知でしょうか? 世界一長い小説を書いたと言われている人間です。彼は半世紀ものあいだ、誰にもそれを見せることなくたったひとりで書き続けたのですが、死後にアパートの管理人が、その部屋に残された膨大な量の文書を発見し、日の目を見たのです。今では彼の作品は、アウトサイダー・アートの代表作と目されています。また、次回の課題書になったエミリー・ディキンソンも、生前はまったく無名でしたが、死後に千篇以上の作品が発見されて、評価されることになりました。

僕はヘンリー・ダーガーのように、「世界一長い日記を書いた人間」として歴史に小さな名前を残したいという野心を抱いていますが、しかし本質的には、「世界一」という称号が重要なのではまったくありません。そうではなく、彼らの営みを自分なりに引き継ぐ人間がいるということこそが重要なのです。

プルーストは死ぬまで『失われた時を求めて』を書き続けました。ヴァージニア・ウルフも自殺するまで文章を書き続けたし、カフカも日々日記に断片を残し、死の直前まで自作の校正を続けました。彼ら彼女らがそのようにして、何かを書き続けたという誰にも否定できないその事実(ここにふたたび強調符号を添えたいところです)、これを引き受け、それに対して報いる後世の人間が必要なのです。それが文化が、芸術が、そして人間の世界が続いていくということなのです。

だから我々も、自分なりにものを書き続けましょう。そして、それについて考え、話し合い続けましょう。我々のそれぞれの営みや読書会が、これから先も長く続くことを切に祈って、今回の長い返信の筆を擱きます。

 それで時刻は三時半過ぎくらいだったはずだ。とすると、二時過ぎに日記が終わったのだから、返信を作って送るのに一時間半ほど掛かっている計算になるのだが、本当にそんなに掛かったのだろうか? 何かほかのことをしていて、それを忘れているということはないだろうか? わからないが、その後、Nさんのブログを読んだ。昨晩Twitterで、彼女がブログを始めたことを知っていたのだ。以前読ませていただいた小説に比べて記述がぐっと具体的になっており、なかなか良いように思われたので、その旨リプライを送っておき、そうして四時前からベッドに移って読書に入った。小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』である。小林康夫が書いた最後の小論で取り上げられていた武満徹の文章が美しく、なかなか面白そうで、彼のエッセイを読んだり、彼の音楽を聞いてみたりもしなければなるまいなと思った。武満徹の文章は、例えば次のような調子だ――「ひとつの生命が他の別の生命を呼ぶ時に音が生まれる」! この一節だけでほとんど詩ではないか?

ひとつの生命が他の別の生命を呼ぶ時に音が生まれる。その、沈黙を縁どる音の環飾りが音階となり、やがて、音階のひとつひとつは光の束となって大気を突き進み、あるいは、河の流れのようにほとばしる飛沫となって大洋へと解き放たれる。それは、無音の巨大な響きとしてこの宇宙を充たしている。
 (武満徹『樹の鏡、草原の鏡』; 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、355より孫引き)

 本を読んでいるあいだ、窓外では鴉が間歇的に声を上げ、雀がちゅんちゅんと短く囀り、そのほか何の鳥のものなのかわからないが、細いピアノ線を擦っているような鳴き声も合わさって、空気が常に揺らぎ、波打っていた。そうして四時半過ぎまで読むと、出勤前に小腹を満たしておこうというわけで、上階に行き、おにぎりを一つ作った。それを握りながら階段を引き返し、自室に入ってさっさと食ったあとは、すぐに歯磨きをした。歯磨きをしているあいだはふたたび本をめくり、口を濯いでくると仕事着に着替えた。さすがに暑いのでベストは身につけず、ワイシャツにスラックスだけの姿である。ネクタイも締めずにバッグに入れて持っていって、締めないで良いかどうか室長に尋ねるつもりでいる。部屋にいてこうして打鍵しているだけで肌に汗が湧き、左手首につけている腕時計の裏などじっとりと湿り、髪の奥の頭皮にも微かな汗腺の滲みが感じられる暑さである。
 五時七分まで日記を書き、記述を現在時に追いつかせることができたところでコンピューターを閉ざし、財布に携帯、水玉模様の水色のネクタイが入った鞄を持って上階に行った。母親は仕事に出ていて不在、一人の居間から玄関に出て、扉をくぐるとポストに近寄り、夕刊を取った。上り階段を引き返し、玄関のなかの台の上にそれを置いておいてから、扉に鍵を掛けて出発した。道に出てすぐ、竹林の向こうに低くなった太陽がオレンジ色に焼け上がっているのが目に入ったが、横から射してくるその光線は、もはや目を刺すほどの威力は持っていなかった。坂を上っていき、平らな道に出ると、八百屋の来ている三ツ辻から白い髪の老婆が一人、歩いてきた。低く掠れた声でこんにちは、と挨拶をしてすれ違うと、老婆は通り過ぎたあとから、急に暑くなりましたねとさらに掛けてきたので、はい、と答えて先を進んだ。三ツ辻では八百屋の旦那があれは何やら測っていたのだろうか、その場にしゃがみこみ、その脇にT田さんの奥さんが立っていた。こんにちは、と挨拶すると、八百屋の旦那が、今日はさすがに暑いなと、ネクタイもつけていないこちらの軽装を見て言う。こちらは、風邪を引いてしまいましたと低い声で言って笑った。T田さんの奥さんはこちらのことを、生徒たちに対して怒ったりしなさそう、と言う。そうですね、全然怒らないですと答えて、車が通り過ぎてそちらに視線を向けたのを機に、じゃあ行ってきます、ありがとうございますと言って歩き出した。教室に行ったらクーラーでまた喉が悪くなるんじゃねえのと旦那は言うので、歩き出しながら、そうですねと笑って応じて、気をつけて、との続く言葉を受けた。
 空気は温もっており、汗が身の内から湧き出していた。空にはコーヒーの表面に生まれる牛乳の膜のような薄い雲が混ざっていた。裏通りへと道を折れると、左の家の庭には赤々と鮮やかな薔薇が、右の家には躑躅が大きく咲きひらいていた。そのなかを通って行き、裏通りに入ると、鶯のふくよかな声が響くなかを歩いていく。鶯の鳴き声というのはまさしく「放つ」という言葉が似つかわしく感じられる。「ほー……」の部分で弓を引き絞り、「ほけきょ」の部分で一挙に矢を放つようなイメージだ。あるいは、「ほけきょ」のその音は、サイエンス・フィクションに出てくるレーザー銃のような、科学的で人工的な響きに聞こえなくもない。
 一軒の家の前に、金平糖が集合したような形の、ピンクあるいは紫めいた色の花が咲き連なっており、何の花だろうと近づいたが、こちらの知識のなかには含まれていないものだった。女子高生の集団が背後で騒いでいるなか、歩いていくと、白猫が家の前にいたが、今日の暑さにさすがに猫もやられているのか、日蔭に姿勢を崩してだらしなく寝そべっていたので、その憩いを邪魔することはするまいと構わずに通り過ぎた。
 職場に着いてなかに入ると、室長は面談中だった。グレーのスーツ姿の見知らぬ若い女性がいて、近寄ってきて(……)だと名乗り、今日から研修させてもらうことになりましたと言うので、低い声でFですと挨拶し、すみません、風邪を引いていてと謝った。今日から研修との言葉に、新人講師だと思ったのだったが、あとで判明したところでは――直接訊いたのではないが――そうではなくて、おそらく教室長研修のようなものなのではないか。授業はせずに、電話に出たりコンピューターを操作したりしていた。年齢はどのくらいだろうか、三〇には達していなかったように思われるが、物怖じせずにあちらから話しかけてきて積極的にコミュニケーションを取ろうとする物腰の自然さや電話応対の調子からすると、大学を卒業してまもないという風でもないように感じられた。大学を出てから何年間かどこかに務めていて、それから我が社に転職してきたというような境遇だろうか? 授業終わりには、室長がやはり面談中だったので――この日、室長と自分はほとんど言葉を交わさなかった――代わりに授業記録のチェックを担当してもらった。その際にも結構質問してきたりして、危なげない感じだった。
 それから教室の奥に進むと、そこにも新しい顔があった。高年の男性で、お疲れ様ですと声を掛けると、(……)と名乗り、今日が初めてですと言った。しかし、どこかほかの場所で働いていたこともあるらしい。それはほかの塾ということではなくて、タブレットのシステムに早速対応していたところから見ると、おそらく我が社の他教室という意味だろう。それでよろしくお願いしますとがらがらの声で挨拶し、バッグをロッカーに入れて、ホワイトボードの表面の極々幽かな影の反映を鏡代わりにしながらネクタイを締めた。
 そうして授業、この日は一時限で二人が相手だった。(……)くん(中三・英語)と、(……)くん(小六・理社)である。(……)くんは(……)先生の授業から連続で引き継ぎ。範囲は現在完了。簡単な問題なら出来るが、英作文などの難しめのものはまだまだといった感じ。授業態度は比較的真面目。落としたものを拾ってあげた時や、貸出のイヤフォンを持っていった時など、いちいちありがとうございますときちんと口にするので、育ちが良いと言うか、礼儀というものを知っている種類の子のようだ。それをのちに(……)さんに話すと、体育会系なのも関連しているかもしれませんねとの返答があった。身体は細く、あまり体育会系という印象はなかったのだが、凄く日焼けしていたので、部活で焼けたんだろうなと思いましたと彼女は言った。その可能性もあるかもしれない。ただ、授業中ペンを置いている時間が何度かあり、そこにこちらが振り向いたり姿を現したりすると、取り繕うように素早くペンを持って問題の続きをやりはじめるという場面が見られた。
 (……)くんは真面目な子で、今日は初回だったがノートもきちんと、欄からはみ出すくらいにたくさん書いてくれた。質問にも知っている事柄ならばスムーズに答えてくれる。問題は解説を見ながら解いて良いとしたのだったが、知識はまあまあといったところではないか。それなので宿題には今日やったところをもう一回というのを含んだ。何の教科でも知識というものは同じだけれど、理社は特に反復しないと覚えられないだろうから、今後もこの方針は堅持していきたい。それに加えてその日の授業で扱っていないところを一頁ほど出せるようになればさらに良いだろう。こちらの事情としては社会は特に問題ないが、理科は本来出来ない教科なので、彼の持っているのと同じテキストを用意して、授業中に問題を確認しながら進めた。もう長くやっているのでその程度のことはお手の物だが、しかしこれは相手が二人だったから出来たことであって、三人相手になるとなかなかそうした暇はないだろう。
 授業が終わると入口近くに立って、がらがらの声でありながら生徒の出迎え見送りをこなし、それから片付けをしたあとに先にも書いたように(……)さんに授業記録をチェックしてもらった。そうして退勤。駅のロータリーを通って駅舎内を覗き、電車で帰るかどうかちょっと迷ったが、やはり歩くことにした。裏路地に入って見上げると、星も月も見えない暗夜である。昼間は薄雲が掛かっていながらも青味もよく見える空だったのだが、今はどうやら雲が湧いて全面を覆っているらしかった。右手にバッグを提げながら進んでいると、空気にはやはり温もりが籠っており、風も弱々しいのが僅かに流れるのみで、夜気に特有の清涼さが感じられなかった。裏通りを歩きながら、行きの道中のことを初めから思い出そうと努めるのだったが、いくらも辿らないうちに思念は遊泳して別の事柄に逸れていき、それに気づくたびにもとの場所に引き戻すけれどまもなくふたたびはぐれていく、といったことを繰り返した。
 街道に出てしばらく行き、ふたたび裏道に入ってまもなく、黒々と蟠る道端の樹木の梢から、ジージーという、夜鳴く蟬のような、砂っぽい線形のノイズめいた虫の鳴き声が大きく響き降っていた。それが木の傍を過ぎて、下り坂に入ってだいぶ遠くなってからも明らかに聞こえるので、めっちゃ届くやん、と心のなかで突っ込み、振り返り振り返り坂を下りていった。あまりに遠くまで届くので、木ではなくて自分の背にでも虫がくっついているのではあるまいなと一瞬疑いを差し挟んでしまったくらいだ。木の間の下り坂を抜けて家の傍まで来てから空を見上げると、やはり星は一つも見られず、雲の幕が全体に掛かっているようだった。
 帰宅すると居間の母親に挨拶し、暑い、と呟きながらワイシャツを脱いで椅子に掛けておいた。テレビは歌番組を流しており、今は星野源が"恋"を披露しているところだった。それから台所に入って水を一杯飲み、そうして下階に下りた。服を脱いで汗ばんだ肌を解放し、肌着とジャージの姿になると上階に引き返し、食事である。おかずは麻婆豆腐や、昼にも食べたものだが、魚のフライをカツ丼風に玉ねぎや卵と混ぜて煮たもの、それにキャベツの生サラダに玉ねぎスープだった。麻婆豆腐を加熱して、丼にたくさん盛った米の上に掛ける。そうして卓に移って食事を始めると、まず麻婆豆腐丼をすべてかっ喰らってしまった。テレビは先ほどから引き続き歌番組を放送しており、今は青春ソングという括りで数々の歌が流されていたが、大衆に膾炙したヒット曲というのは、歌詞にせよサウンドにせよ、やはり「物語」に抵抗なく寄り掛かったものばかりで、特に見るべきものはないようだった。順々に皿の上のものを平らげていき、抗鬱剤や風邪薬を飲んでおくと食器を洗い、ソファに移った。この時はテレビはニュースに移行しており、ドナルド・トランプ安倍晋三首相とともに大相撲を観戦している様子が映されたのだが、トランプ大統領は終始顔を少し顰めたような風情で、外観上はあまり楽しんでいないように見えた。母親が用意してくれた缶詰のパイナップルを食べると、入浴に向かった。湯のなかに浸かり、汗を流して出てくると、パンツ一丁の格好で階段を下り、自室に戻った。そうして一〇時直前から小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』を読み出し、三〇分ほどで読了した。それから確か、隣室に入ってしばらくギターを弄ったのだったと思う。いつものようにブルース風のフレーズを弾くのではなくて、ゆっくりとしたテンポで、スケールにこだわらず一音一音を鳴らしていき、旋律未満の音の連なりを感じるようにした――しかし最終的にはやはり、普段通り、ペンタトニック・スケールに乗って適当に弾き散らかすこともしてしまったが。部屋に戻ってきて、一一時半から日記に取り掛かりはじめたのだが、まもなくSkype上でIさんが、今日突然ブログの読者が一五人ほど増えて困惑している、一体何が起こったのだろうと発言した。何かわからないかと言うので調べてみた結果、はてなブログダッシュボードにある「購読中のブログ」欄、その右端に設けられている「こんなブログもあります」の区画に、Iさんのブログが紹介されているのを発見したので、その旨伝えた。するとYさんから、探偵だ、との反応があったので、「また一つ謎を解いてしまった……笑」と発言してふざけておき、日記に戻ろうというところだが、同時にAくんからのメールが届いていたので、そちらの返信を作っているうちに日記を全然書けないままに零時を越えてしまった。そこからようやく文章を綴りはじめたのだが、Skypeのチャット上ではH.Sさんが久方ぶりに姿を現して、「色が匂い立つ」という表現はどういうことなのだろうと問題を投げかけていた。それでチャット上では共感覚に関して皆の話が繰り広げられ、こちらもいくらか発言しておくなかで、上にも引いた武満徹『樹の鏡、草原の鏡』の記述をTwitterに投稿すると、まもなくIさんからSkypeのチャットで、『日本を解き放つ』は僕も読みました、というメッセージが届いた。武満徹の文章が素晴らしく、面白そうだったという点について二人で合意して、それからようやく本格的に日記に取り掛かり、John Mayer『Where The Light Is: John Mayer Live In Los Angeles』を流しながら打鍵を続けて、一時半前まで書いたところで今日は終いとした。コンピューターをシャットダウンして、一時五〇分頃からふたたび読書、新しく山岡ミヤ『光点』を読みはじめた。眠る前までに二〇頁ほど読んだが、今のところ強烈に気に掛かっている部分は特にない。平仮名へのひらきが結構多いなという印象はあって、例えば「みぎ」や「ひだり」もひらかれていて、「みぎ手」という表記が見られたりして、これはなかなか珍しいように思われる。一人称の語り手である実以子の母親は、彼女に理不尽に高圧的に、厳しく当たる抑圧的な母親であり、それに対して父親の方は娘の味方となることを欲しながらも、あまり充分にその任を果たせていないといった家族関係があるのだが、このあたりはいささかわかりやすく、図式的に描かれすぎているような気がしないでもなかった。しかし、まだまだ序盤である。
 二時半過ぎまで本を読んで、七時一五分にアラームが鳴るよう仕掛けておいてから、電灯のスイッチを押して明かりを落として布団に潜り込んだ。真っ黒な肌着のシャツを身に纏い、下は寝間着を履かずにパンツのみという涼しい格好だった。


・作文
 12:33 - 14:06 = 1時間33分
 16:52 - 17:07 = 15分
 23:31 - 25:25 = 1時間54分
 計: 3時間42分

・読書
 15:52 - 16:37 = 45分
 21:55 - 22:20 = 25分
 25:49 - 26:33 = 44分
 計: 1時間54分

  • 「Thinking Over」: 「自然にふれる」
  • 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』: 327 - 406(読了)
  • 山岡ミヤ『光点』: 3 - 22

・睡眠
 4:10 - 11:10 = 7時間

・音楽

2019/5/26, Sun.

 四時五五分になって自然と夢のなかから浮上した。布団のなかの身体が汗だくだった。それで布団を剝ぎ、寝間着のズボンを捲ったり肌着のシャツも少々引き上げたりして、汗ばんだ肌を外気に晒した。五時近くでもうよほど明るく、身体を起こして窓の向こうを見やれば、東南の空の際にはゼニアオイ色はもはや見られず、漂白されたような朝陽の暖色が揺らめいていた。臥位に戻ってみれば、西の方面に入りの月がうっすらと、控え目に埋めこまれたように映っている。汗が引くとふたたび布団を被って一応眠ろうとはしてみたものの、予想していたとおり眠気が訪れる気配が露ほどもないので、五時一五分頃になるともう起き上がってしまい、コンピューターに寄ってスリープ状態を解除した。そうして前日の記録を付け、日記を書き出したのが五時二〇分、さほど書くことはなかったのですぐに仕上げてこの日の分も短くここまで綴ると五時三五分である。眠る前に鼻が詰まっていたのはおおよそ解消されているが、声の方はまだ治っていないようだ。そして、腹が減っている。熱がないらしいのが幸いなことだ。
 前日の記事をインターネット上に公開すると、上階に行った。居間の東窓のカーテンを一枚ひらくと、その裏に隠されていた白い幕が太陽の光を受けて仄かに温まっており、レース編みに濾された陽射しがテーブルの上を斜めに横切って影と明るみの絵柄を作る。南窓のカーテンもひらいておき、それから台所に入って、溢れんばかりになっていた食器乾燥機のなかを少々片付けたあと、ハムと卵二個を冷蔵庫から取り出した。フライパンに油を引いて少々熱してからハムを一枚ずつ剝がして放り落とし、その上から卵二つを割り落とした。そうして僅かに加熱して黄身が固まらないうちに、丼によそった米の上に取り出し、卓に就いた。醤油を掛けて黄身を崩して米と搔き混ぜ、一人で黙々と食事を取るとさっさと使った食器を洗って下階に帰った。
 時刻は六時だった。Mさんのブログを読むことにした。コンピューターの前のスツール椅子に腰掛けて一時間、六日分の記事をゆっくりと読むと、そろそろ両親も活動しはじめたし良いだろうというわけで、音楽を流しはじめた。いつもながらのFISHMANS『Oh! Mountain』である。そうしてベッドの上に乗ってティッシュを一枚敷き、足の爪を切る。切って鑢を掛けているあいだ、窓から射し込む陽射しが午前七時だと言うのに既に液体質の粘つくようなもので、汗が湧いてきた。爪とその粉を受けたティッシュを丸めて捨てると、それから今日の読書会に着ていく服を見繕って、次々に着替えてみて独りファッション・ショーのような様相を呈した。Tシャツを着るのだったら上にカーディガンでも羽織らなければ様にならないが、生憎と良いアイテムがない。一つはユニクロのブルーもので、それは冬用なので今日着るにはもう暑いし、もう一つも滋味深い海を思わせるような青々とした色のなかなか良い品だが、もう古いものである。Tシャツに合わせるとしたら後者で、あるいはフレンチ・リネンの青いシャツを着ていくという選択肢もあった。その場合、下はガンクラブ・チェックのズボンでも良いし、この青シャツとともに買ったオレンジっぽい煉瓦色のズボンでも良いが、色味の鮮やかさからするとやはり後者だろうか。色々と着てみてから一旦ジャージの格好に戻り、そうして七時半過ぎから読書を始めた。まず英文、Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionである。辞書で単語を調べ手帳にメモを取りながらそれを一〇頁余り読んで、そののち九時前から小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』に移行した。クッションに凭れて脚を伸ばすと丁度その伸ばした脚の位置に光の矩形が重なって暑く、途中からジャージを大きく捲って脛を露出させた。動いておらずとも肌に汗が滲んでくる今日も夏日だった。
 一〇時半から一一時まで三〇分ほど、枕に頭を載せて意識を曖昧にしていたようだった。そうして読書を切り上げると、上階に行った。便所で真っ黄色な尿を放出し、それから台所に入ってカレーを食べようかなと母親に言うと、流水麺の蕎麦にしなと言う。そのほか、茄子を炒めることとなった。それで大きく色濃い茄子二つを切り分け、笊に入れて水に浸け、そのようにして灰汁を抜いているあいだは卓に移って新聞をめくりながらいくらか時間を過ごし、台所に戻るとオリーブ・オイルをフライパンに垂らして炒めはじめた。蓋をしつつ、時折りフライパンを振って搔き混ぜながら炒めて完成すると、今度は流水麺を水に晒して洗い、そうして食事の準備は整った。卓に移って一人で先にものを食べる。麺つゆが「にんべん」の「ゴールド」と名前に冠されたもので、高いものだから節約して使いなと母親は言ったのだが、そのわりにあまりぱっとしないような味だった。それでも文句を言わずに安っぽい蕎麦を啜り、茄子を食い、母親が即席で作ってくれた胡瓜の和え物も齧って、食事を終えるとさっさと皿を洗った。それから風呂も洗って下階に戻ってくると、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)とともに日記を書きはじめて現在正午が目前となっている。一時前には家を出なければならない。
 服を着替えた。まず、ガンクラブ・チェックのパンツを身につけ、Tシャツ二枚と海色のカーディガンを持って上階に上がった。仏間に入ると先日買ったカバー・ソックスを履き、その次にまず、赤褐色の幾何学的な模様のTシャツを着た。そうして玄関の大鏡に映して調和を吟味したあと、モザイク状の抽象画めいたプリントのTシャツに替えて同じように映し、こちらを着ていこうと決定した。そうして自室に戻ると、出かけるまでに一時間弱の時間が余っている。前回の読書会以来、この一か月間に読んだ本をリュックサックに入れた。ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直木村榮一訳『族長の秋 他六篇』、金原ひとみ『アッシュベイビー』、『いま、哲学が始まる。 明大文学部からの挑戦』、岸政彦『ビニール傘』、岸政彦『断片的なものの社会学』、ジェイムズ・ジョイス/米本義孝訳『ダブリンの人びと』、ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』、それに今読んでいる途中のMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionに、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』である。こうして数えてみると、九冊もの本を収めていたわけである。それから財布や携帯なども入れてしまい、その後の時間で出発までに何をするのか迷ったが、また短歌でも作るかというわけで『岩田宏詩集』をひらいた。それで作歌を試みたが、頭のなかの言葉が定型の音調にうまく嵌まらない気配だったので、作詩に移行した。一連を三行ずつと決めて適当にイメージを膨らませて作ると、一二時四五分ほどに達した。完成させた詩をTwitterに投稿したあと、短歌も三つ、さっと適当に作った。

 放課後の田舎娘が通せんぼする
 目くるめく蛍光灯の嵐のなかで
 彼女の青白い額は孤独な島のように照り輝く

 あれは小夜曲か 夜想曲か 狂詩曲か
 不穏な闇の不安な匂いのなかで
 倒れながら踊る娘の肉体の真っ白な影絵

 手に触れるものすべてが
 夢よりも確かで現よりも朧なとき
 彼女の声はささめきよりも弱々しい悲鳴と化す

 さあ 唄を歌おう
 ただし街に向かってはいけない
 ごろつきどもの集まりに火の矢を投げかけてしまうから

 風がカーディガンの裾を翻す
 娘は欠伸を漏らしたあとふたたび踊りはじめる
 その肉体に身震いしながら僕ら 唇を噛みしめる

 路地裏をばかり選んで闊歩する後ろめたくて表に出ない
 儚くて今日も今日とて徘徊す臨終までに地図を埋めたい
 誰も彼も死ぬというのにこの世には挽歌もなけりゃ終末もなし

 そうしてリュックサックを持って上階へ行った。玄関に出て、もう一度鏡にTシャツ姿を映して吟味しているとちょうど父親が帰ってきたので挨拶をした。カーディガンは羽織らずに、リュックサックに収めて持っていくことにした。何しろ暑い日であり、北海道は帯広で三八度を観測したとかTwitter上でも騒がれていたのだ。Brooks Brothersのハンカチをパンツのポケットに入れて出発した。
 道の上に染み渡る陽射しに触れたそばから汗が湧きはじめた。前方、道の奥には車が停まっており、こちらを向いたそのフロントガラスに純白の――と言うよりは真空めいて色という構成要素を剝ぎ取られたかのような光球が、ガラスのなかは狭いと言わんばかりに大きく厚く膨らんでいる。その車の脇を過ぎるとまた日向がひらいていて、額や頭頂に掛かる陽の重さ、頭がくらくらしては来ないかと恐れられるような類のそれに、これでは倒れる人も出るだろうなと思った。木の間の坂に入ってまもなく、腕時計をつけてくるのを忘れたことに気がついた。木屑の散らばったなかを上っていくと、木蔭のなかに日溜まりが蜂の巣状になって円々とひらいている。出口に掛かって頭上に樹木がなくなると、ふたたび重い陽射しが伸し掛かってきて、それに動きを停滞させられるかのようにのろのろと坂を抜けた。
 駅に到着した。一〇分ほどの行程で既に汗まみれである。ホームの屋根の下で携帯を取り出して日記を書きはじめてまもなく、電車がやって来た。屋根の下から出て乗り込み、扉際でメモを続ける。青梅に着くと乗り換え、携帯を右手に掴んだままホームを移動し、二号車の三人掛けへ入った。車内は冷房が利いていて、汗の水気で助長されるその涼しさがなかなか鋭かった。シャツの背がべったりと貼りつくのを避けて前屈みになりながら携帯を操作する。カーディガンを羽織ろうかとも思っていたのだが、じきに汗が引いてくると涼風にも慣れた。それでいつものように勿体ぶって脚を組みながら引き続きメモを取る。拝島で停まっているあいだに現在に追いついた。
 その後は手帳を読み返しながら到着を待った。立川に着くと座席に座っていた人々もすぐに立ち上がって一斉に降りていき、乗ってくる者を別にすれば車両内に残ったのはこちらだけとなった。人々は、何故あんなにも行動を急ぐのだろうか。こちらは少々のあいだ手帳を読み続け、階段口に人の気配がなくなったところで降車し、広々とスペースの空いている階段を上り、改札を抜けて北口方面へと曲がった。広場に出る手前の階段に折れて下り、LUMINEの前を通り過ぎると、車椅子の女性が通り掛かって、何故だか頻りににやにやと笑っていた。過ぎて進み、通行整理員が、お渡りになる方はどうぞ、と声を張っている横を短く渡り、さらに進んでビルに入って二階へ階段を上った。銀座ルノアールに入店した。店内を見回したが、AくんとNさんはまだ到着していなかった。レジカウンターの後ろから出てきて、煙草はお吸いになりますかと声を掛けてきた初老の男性店員に、がらがらの声で吸いませんと答え、手近の四人掛けに入った。隣の椅子にリュックサックを置いておき、メニューを見ていると店員が水とおしぼりを持ってきたので、クリーム・ソーダを注文した。そうして、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』を読みながらAくんたちが来るのを待った。
 彼らはまもなく、ちょうど二時頃にやって来た。挨拶し、風邪を引いたと言って笑う。体調を慮られるのに、大丈夫、声はがらがらだが喉が痛いわけではない、苦しくはないと応える。二人が入ってきたのを店員は見逃していたのか、水とおしぼりが出てこなかった。しばらくして注文の品を決めた二人が店員を呼び、オーダーとともに水を頼むと、すみません、すぐにお持ちしますと女性店員は恐縮してみせた。ちょっとおどおどしているような感じの人で、彼女を見るといつも、優しく見守ってあげたくなる。その彼女が何やら困惑した様子で黙って立ち尽くしていたので、気づき、あ、僕はもう頼みました、と言った。
 しばらくすると飲み物が届いた。クリーム・ソーダは液体の量が多すぎたのか、アイスクリームが溶けてそれがグラスの外側に白く垂れついていた。届けてきた店員のいる前で即座に拭いては批判しているように取られようと配慮し、彼が去ってから密かにおしぼりで汚れを拭った。そうしてまずアイスクリームを食べようとしたのだが、スプーンでアイスを突くとふたたび白い液体がグラスの上端を越えて細くつーっと垂れてしまったので、またもや拭い、まず液体の量を減らそうとストローで化学的な緑色のソーダを吸った。
 『ダブリンの人びと』あるいは『ダブリナーズ』の話。ちくま文庫の米本義孝の方はこちらとしては訳があまり気に入らなかった、二〇〇八年の訳にしては古めかしいと言うか、それを措いても、どこがどうと正確に指摘するのは困難なものの、日本語としての精度が低いように感じられたと言った。Nさんも訳が固いと感じたようだ。それでこちらはわざわざ、柳瀬尚紀訳を買い足してそちらも読んだわけだ。『フィネガンズ・ウェイク』って知ってる、とAくんに尋ねた。Aくんは初めわからなかったようだが、前に本屋で紹介したことがあると思うけれど、あのジョイスの、滅茶苦茶というか訳がわからないやつで、と言うと、ああ、と思い出したので、この訳はあれを訳した人の翻訳なのだと言った。時系列を無視してのちのちに話したことを先に書いてしまうが、米本義孝訳では「オムツ新教徒やーい!」と訳されていたプロテスタントに対する侮蔑・からかいの言葉を、柳瀬尚紀は「メソジスト」に掛けて「めそ児[じ]ッたれ!」と創造的と言うほかない訳出に仕立てているのだと紹介した。そのほか、「執達吏」という言葉に「ひったくり」というルビを振っているテクニックなどにも言及した。
 『ダブリンの人びと』は、最後の「死者たち」あるいは「死せるものたち」の終盤を別とすれば、こちらにとっては特段に注目するべき箇所の見当たらない、地味な作品だった。それで全体に地味な作だとは思った、あまり書き抜きたいと思ったところもなかったと述べると、Nさんもあまり面白く読めなかったようで、いわゆる純文学を読むとままあることなのだけれど、どうしてこれが評価されているのかわからなかったと言った。今回ばかりはこちらも、その言に幾許かの共感を表明した。そこからNさんは、詩というものを読んでも、純文学的な小説と同じように評価の基準がわからないと漏らした。と言うのは、ちょうど昨日、他人の詩を読む機会があったのだと言う。――確か昨日、と言っていたと思うが、泊まったようなことを行っていたので、もしかしたら一昨日とかだっただろうか? 忘れてしまったが、ともかく、その詩を読まされた相手と言うのは、あれはおそらく大学の後輩なのだろう。Nさんはサッカー部のOGとして大学のクラブの活動に未だにたびたび参加している。その関係の後輩という話だったと思うのだが、件の人は一八歳でありながらNさん曰く「アル中」であり――酒を瓶から直接、いわゆる「喇叭飲み」する人を初めて見たと彼女は語った――なかなか「アウトロー」なタイプの人間であるらしく、彼女はそれを「紙一重」の人間と形容した。話を聞いていると、今どき珍しい、無頼派じみた人間であるらしい。それでその後輩が詩を書いていて、深夜の零時頃になって唐突にそれを読まされたと言うのだが、Nさんとしては、良いなと思うフレーズのようなものはあったものの、それ以上の感想が出てこなかった。Nさんが見るところ、それに対して相手は不満だったのかもしれず、本当はもっとその裏にある「思い」などを読み取ってもらいたかったのだろうと言う。自分はそれに充分に応えることが出来なかった、そもそも詩というものを読む時の評価基準がわからず、ここが良いな、くらいの感想しか持てないとそういう話だった。こちらはそれに答えて、それで良いと思う、自分も詩の読み方など皆目わからず、このフレーズ格好良いな、くらいの意識でしか読んでいない、要は音楽を聞くようなものだという風に話した。
 そこからいわゆる文学や芸術というものがどのように評価されるのか、その社会のなかにおける位置づけ、近年の人文学系学問や芸術という分野の肩身の狭さなどについても語られたのだったが、これに関してはよく内容を覚えていないので割愛する。先に『ダブリナーズ』の話に戻っておくと、こちらが良いと思ったのは「死せるものたち」の終盤だと説明した。ゲイブリエルが、歌に耳を傾けている妻の姿を目にして、若かりし頃に戻ったかのように改めてその美しさを感得し、それで感情が猛烈に高まってしまい、それに従ってこれから愛を交わそうという時になってしかし、妻は先ほどの歌に聞き入っていた時間のあいだ、昔の恋人のことを思い出していた、ということが判明する。それを受けてゲイブリエルは、当然不満や怒りや嫉妬を覚えるわけだが、そこで終わってしまえば凡百の小説なのだとこちらは言い、しかしジョイスはそこから、眠る妻の姿を眺めるゲイブリエルに、自分のなかに「愛」とも名付けるべき感情があることを自覚させるところまで進む、そうした感情の機微を描いているところが、やはり小説だなと思ったと述べた。Aくんはそれに対して、いきなり「愛」という言葉が出てくるのが、若いなと思った、と言った。青臭い、とこちらが言い換えると、そうそう、と彼は受けて、ゲイブリエルが何歳なのかはわからないけれど、三〇代後半くらいだとすると――多分設定上はもう少し年嵩なのではないかと思うが――その歳の主人公が唐突に口にするには、「愛」という語は青臭い、でも、「死せるものたち」をジョイスが書いたのは二五歳の時だから、そう考えると納得が行く、というようなことを言った。それに応じてこちらはさらに、この「愛」の対象が肝心なところなのだと説明を展開した。まず、該当部分を引いておくと――訳は柳瀬尚紀のものに依る――「傍らに寝ているこの女が、ずっと長い間、生きていたくないと告げたときの恋人の目の面影をどんなふうにして心の内にしまいこんでいたのかと、彼は思った。/寛大の涙がゲイブリエルの目にあふれた。己自身はどんな女に対してもこういう感情を抱いたことはなかったが、こういう感情こそ愛にちがいないと知った」である。ここにおいて、「寛大の涙」が向けられている相手、「愛」と言うべき感情の行き先こそが問題であるわけなのだが、それは普通に読めばおそらくゲイブリエルの妻グレッタだということになるだろう。しかしこちらがここを読んで理解したところでは、この「寛大」さと「愛」が差し向けられているのは、妻グレッタのかつての恋人、すなわちゲイブリエルの恋敵であるマイケル・フュアリーであるようにも思えるのだ。むしろ、ここの記述は、情動の対象がどちらとも取れるように書かれているのかもしれない。これらの感情は、自分の妻と恋敵の双方に同時に向けられているのであり、ジョイスの描写は感情の行き先がどちらなのかを問うことは意味をなさないという水準にあると言うべきなのかもしれない。こちらとしては後者の読みを是非とも採用したいと思うのだが、そのように、先ほどまで嫉妬や刺々しい感情を覚えていた当の相手に対して、打って変わったほとんど虚無的な冷静さのなかで突然に「愛」を自覚するというダイナミズム、この動勢こそが小説という芸術形式の賭け金であるように思われたのだ。その「愛」は同時に「追悼」のような感情でもあるのではないかと推測するが、いずれにせよ、ここで起こっていることは一種の「啓示」であり、感情の「浄化」である。若くして亡くなった妻のかつての恋人に対する「愛」と「追悼」を「啓示」のようにして突然に認識する――そのように読んでこそ、その一文あとの、「涙がなおも厚く目にたまり、その一隅の暗闇の中に、雨の滴り落ちる立木の下に立つ一人の若者の姿が見えるような気がした」という記述にも滑らかに繋がるように思う。雨のそぼ降る暗闇のなかに立ち尽くすこの影は、言うまでもなくマイケル・フュアリーのものである。既に死者の領域にある彼の姿を想像しながら、ゲイブリエルの「魂は、死せるものたちのおびただしい群れの住うあの地域へ近づいて」いく。そうして雪が降り出すのだ。アイルランド全土に、「生けるものと死せるものの上にあまねく」、深々と降り積もる雪の白い風景に包まれながら、「彼の魂はゆっくりと感覚を失っていった」と小説は結ばれる。ここでは死者の姿を想像的に夢見ながら、ゲイブリエル自身も美しく白い死の領域へと入りこんでいくかのような描かれ方が成されている。それよりも前の箇所では、彼はジューリア叔母の死を思いながら、叔母だけでなく自分自身も含めて「一人、また一人と、皆が影になっていくのだ」と虚無的な思いに打たれているのだが、それもなかなか魅力的な静謐さであり、ここにこちらは『マクベス』の終盤に主人公が漏らす台詞との響き合いを感じ取った、とも述べた。
 こちらは途中、一度トイレに立った。戻ってくると、二人は次回の課題書は詩にしようかと話していたところらしかった。Nさんが前日の体験から、これを機にいくらかなりとも詩というものに触れてみたい、詩というものを読む時の基準を見出したいというような気持ちになったようである。彼女はエミリー・ディキンソンの名を口にした。それも前日に会った「アル中」の「アウトロー」である後輩が名を挙げていたらしい。こちらは勿論了承して、そう言えば自分もちょうど昨日、生まれて初めて詩を書いたと話した。タイムリーだねと言い、ブログに載っているので読んでいただければとAくんに告げ、まあでも全然大したものじゃないけどね、素人のものなんでねと笑った。
 後半はこちらが持ってきた本の紹介がなされた。話が盛り上がったのは岸政彦『断片的なものの社会学』を紹介した時である。この本のなかからこちらは特に二箇所で書かれていた内容についてその一部を――がらがらの錆びついた声で――音読しながら紹介したのだが、該当箇所の付近を、長くなるが下にまず引いておこう。

 さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。
 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。
 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。
 私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、20~21)

 多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。
 マイノリティは、「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しをされる。しかしマジョリティは、同じように「日本人」「ナイチャー」「健常者」「ヘテロ」であると指差され、ラベルを貼られ、名指しをされることはない。だから、「在日コリアン」の対義語としては、便宜的に「日本人」が持ってこられるけれども、そもそもこの二つは同じ平面に並んで存在しているのではない。一方には色がついている。これに対し、他方に異なる色がついているのではない。こちらには、そもそも「色というものがない」のだ。
 一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。
 そして、このことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてもよい人びとが、普通の人びとなのである。
 (170)

 学生を連れてよくミナミのニューハーフのショーパブに行く。だいたいいつも、女子学生が大喜びする。ああいう空間では、むしろ女性のほうが解放感を感じるようだ。あるとき、ショーの合間にお店のお姉さんが、女子学生が並んだテーブルで、あんたたち女はええな、すっぴんでTシャツ着てるだけで女やから。わたしらオカマは、これだけお化粧して飾り立てても、やっとオカマになれるだけやからな、と冗談を飛ばした。
 私は、これこそ普通であるということだ、と思った。すっぴんでTシャツでも女でいることができる、ということ。
 もちろん私たち男は、さらにその「どちらかの性である」という課題すら、免除されている。私たち男が思う存分「個人」としてふるまっているその横で、女性たちは「女でいる」。
 (171)

 一番上の箇所に関しては、この、「世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」」を知り、実感し、それに思いを馳せるということが言わば芸術家であるということなのではないかとこちらは話した。そうした世界の豊穣さを知るということは、先に話されたNさんの後輩のエピソード関連でも出てきた。彼女曰く、その後輩は「詩はコミュニケーション」だと言っており、Nさんに対して何かを伝えたく、自分が試作に籠めた何らかのものを理解してもらいたかったようなのだが、それに対してこちらは、コミュニケーションは勿論結構だが、それは結局のところ自己表現ということだろう、しかし自己表現など大方大したものではないのだと突き放したように語った。自己などというものは世界が途方もなく豊かであるのと同じ意味で途方もなく貧しいものであり、言ってみれば屑みたいな、塵みたいなものである。自己表現も結構だけれど、あまり自己というものに耽溺しすぎると、自己のその周りにある世界というものの豊かさを見落としてしまうことになりかねない、とこちらは言ったのだった。
 二つ目と三つ目の箇所に関しては、その一部を音読しながら、これは本当にその通りだと思った、自分で言えばパニック障害の経験があるから、それを考えればよくわかると言った。そうした話の流れで、同性愛やLGBTの人々のことが話題に上りもして、こちらは昔に友人から、女性と付き合う気配の一向に生まれないお前はゲイなのかと思ったと言われたとエピソードを紹介して、そうした言明が「笑える」冗談になるという事実それ自体に、この社会の一種の縮図が現れていると言うか、同性愛者の人々が置かれている社会状況の一端が垣間見えているように思えたと話した。「お前、ゲイなの?」という発言が冗談になりうる一方で、「お前、ヘテロなの?」という言明が冗談になることは決してない。同様に、「在日韓国人」というレッテル貼りが存在するとしても、日本国内において「日本人」というレッテル貼りは存在しないということだ。勿論、例えば外国に行った場合などは、この「日本人」という国内においては透明な属性が一つのレッテルとして機能するようになることもあるわけだが。
 そうした流れで、驚くことに、Nさんがバイセクシュアルであることが明かされた。と言っても、彼女自身そのように強く自認してアイデンティティを持っているわけではなくて、大学時代に仲良くなった女性がレズビアンの人で、その人から愛情を伝えられて付き合っていたことがある、というようなことらしかった。それ以来、ほかに付き合いたいと思う女性と出会ってもいないと言うし、現在は男性であるAくんと付き合っているわけである。彼女は大学の仲間には比較的オープンにその事実を明かしてきたらしかった。と言うのも、彼女の通っていた(……)大学は、そのあたり雰囲気が寛容だと言うか、比較的明け透けな空気が醸成されていた場所らしく、周りにも結構同性愛者がいて、オープンに振る舞っていたのだと言う。サッカー部の仲間などはほとんど皆知っていたし、寮の仲間も知っていた。ただ一人、仲良くはしていたけれど、この人にだけは話せないなと思った相手はいたらしいが。それで言えばAくんも、中学時代から関係の続いている仲間のなかに一人、自分では言わないし、周りからわざわざ訊くこともしないけれど、多分ゲイなのではないかと思われる友人がいるのだと話した。もう二〇年近くの付き合いになるわけで、彼が実際にゲイだったとしても、それをカミング・アウトされたとしても、Aくんからすれば彼らの関係に何一つ変化はもたらされないと思うのだが、それでもやはり自分から尋ねるということはできないよね、と彼は言った。それはそれで良いのだと思う、と言うか、そうした、何と言うか、ただ静かに見守り、相手が向こうから自ずと言いたいことを言うのを皆で待つという人間関係は、非常に良いもの、貴重なものなのではないかという気がこちらにはした。
 どんな事柄でも同じだが、そして言うまでもない当然のことでもあるが、例えば同性愛者と一口に言っても、一般的にカテゴリカルに一括りにできるものなのではなくて、一人ひとりはそれぞれの差異を備えた固有の存在なのだ、という話もした。同性愛者と呼ばれる人々のなかには、例えば結婚を法的に認められて、言わば異性愛者の社会に「同化」したいという人もいるだろう。しかし他方では、例えば「クィア」と自認する人たちもいる。このあたりこちらは全然詳しくないし、それに関連する文献もまったく読んだことがないので、本来だったらそれについて語る資格など持ち合わせていないのだが、「クィアqueer)」という言葉がある、それは知っているかとAくんに問いを投げかけた。Aくんはそれを知らなかった一方で、意外にと言っては失礼に当たるものの、Nさんはこの言葉を知っていた。大学でジェンダー論の講義など取っていたのかもしれない。「クィア」というのは、「奇妙な」というような意味なのだけれど、要は「変態」ということで、一部のLGBTの人たちなどが、八〇年代からだろうか九〇年代あたりからだろうかわからないが、自分たちは「クィア=変態」なんだという形で、むしろ自分自身の周縁的な性自認を強烈なアイデンティティとして主張するようになったのだと説明した。そうした人々は、おそらくはむしろ、異性愛者がしているような「幸せな結婚」のモデルによる「承認」には反対するわけだろう。そのように、一口にLGBTと言ったって、非常に当たり前のことなのだが画一的な集団ではない。カテゴリカルに一律に定義できるものではないわけで、一人ひとりはそれぞれの好みや趣味嗜好や政治的傾向性といった固有性を備えたただ一人の人間なのだ。大きな政治のレベルではそれらのあいだにうまく調停をつけなければならないから難しいわけだが、非常に小さな私的な領域においては、つまり我々が個々人としてそうした人々と関係する場合においては、相手の固有性を尊重するということが実践の基本的な方針となり、それに尽きるのではないかとこちらは話した。そして、上に述べたこととも関連するわけだが、そうした他者の固有性を捉え、認識し、それを尊重して描き出すということは、芸術というものの一つの役割なのではないかということも言った。
 本来はもっと色々と話したのだったが、それを逐一充分に記録できない自分の能力の貧しさに不甲斐ない思いを覚える。しかし会話の記録はこれくらいにして、今は先に進むほかはあるまい。喫茶店に滞在していたのは四時半頃までだったかと思う。書店に行こうということで席を立った。Nさんがトイレに行きたいということで先に会計を済ませるからと伝票を持ってレジカウンターへ向かった。その後ろでこちらはAくんに、短歌作るの結構面白いよ、と話しかける。彼は、それは空想なのか、それとも自分の体験などをもとにしたものなのかと問うので、何と言うか、言葉からイメージの連鎖を膨らませるような感じだろうかと答えて、二番目に会計をした。クリーム・ソーダで七二〇円――高い! 一〇二〇円を払って女性店員に礼を言い、ガラス扉をくぐって店外に退出した。そうしてしばらくAくんとNさんを待って、合流すると階段を下りた。
 淳久堂書店の方に行くことになった。太陽を見上げながら駅舎方面に歩き、駅舎入口にあるエスカレーターに乗る。こちらが先頭だった。後ろを向きながら、自分は詩では岩田宏という詩人と、石原吉郎という詩人が好きだと二人に話した。それで駅前広場に出ると伊勢丹方面の通路へ。Nさんはアメリカのセレブリティが掛けるような大きなサングラスを掛けており、後ろを振り向いてそれを見ながら、めっちゃサングラスやん、とこちらは笑った。歩道橋を渡り、高架歩廊を行って高島屋に入館、エスカレーターに乗って数階上がり、淳久堂書店に踏み入ると、左折して詩のコーナーを見に行った。現代詩文庫というシリーズがあると喫茶店にいるうちに話してあった。『岩田宏詩集』も『石原吉郎詩集』も見事に揃っていたので、その二つを二人に紹介し、岩田宏のなかでは「神田神保町」という詩の、「やさしい人はおしなべてうつむき/信じる人は魔法使のさびしい目つき」というフレーズが好きだと言って、一時期ブログのタイトルにしていたこともあると話した。そのほか、長田弘を、この人の詩は優しげでわかりやすいと紹介したり、あとはやはり谷川俊太郎だろうなあなどと言って『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』を見せたりした。Nさんは長田弘が気になったようで、現代詩文庫の『長田弘詩集』を持って、その名前を記憶しようとしていたようだ。Aくんは選ぶ基準がわからないけれど、それでも何となく石原吉郎が良さそうだという結論に達したようだった。
 それから、岩波文庫の区画に、エミリー・ディキンソン詩集を見に行った。赤版のコーナーの前に達すると、AくんとNさんが早々と当該著作――亀井俊介編『対訳 ディキンソン詩集』――を発見し、見分を始めた。刊行年を訊くと、一九九八年だった。二〇年も前の刊行であるわけだが、ぱっと見た感じでは特に訳文に違和感はなかった。ハード・カバーでも何か出ていたように思うとこちらは言って、海外文学の方も見に行ってみるかと訊くと肯定の返事があったので、フロアを歩いてそちらに移動し、アメリカ文学の棚を見分したが、ディキンソン関連の著作は解説書が一つあるのみで、彼女自身の詩を収録した本は見当たらなかった。それで、先ほどの岩波文庫の『ディキンソン詩集』と、『石原吉郎詩集』が次回の課題書ということで良いのではないかと相成った。こちらとしても異存はない。それで、じゃあ俺はもうここで買ってしまうわと言って、海外文学の棚の前に残った二人と一時離れ、詩のコーナーに行った。そこで、『金井美恵子詩集』、『小笠原鳥類詩集』、谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』を買うことにした。小笠原鳥類という人は、名前は勿論以前から聞き及んでいたのだが、その詩の現物を目にしてみると、氾濫する言葉の感触がなかなか凄いように感得されたので買うことにしたのだった。それから岩波文庫の区画に移動して、『ディキンソン詩集』も手に取り、レジカウンターに向かった。締めて四三六八円。会計を済ませると近くの書棚の前に移ってきていた二人と合流し、退館に向かった。
 次回の日程を決めていなかった。退館後、通路を行きながらAくんとNさんの二人が話し合って、七月七日、七夕の日ではどうかということになった。Nさんはサッカーなどで色々忙しいようで、少しあとになってしまうが、こちらは異論なかった。そこで思い出して、エクセルシオール・カフェの前を通り過ぎたあたりで、そう言えば、と口にし、俺、職場に復帰しましたと報告した。お蔭様でと定型句を口にすると、何を教えているのかと来たので、英国社だと答えた。相手は小中高すべているが、基本的には中学生相手。色々ともどかしいことがあるでしょうとAくんが言うのに、あるね、と答えはしたものの、彼の言わんとするところの正確な意味はわかっていなかった。駅前広場を通過して、人波で溢れる駅舎に入ったあたりでAくんは追加して、Fは結構知識が豊富だけれど、それを全部伝えることは出来ないだろうから、話したいことを選んで話さなければならないだろうから、と説明した。しかし自分はそんなにものを知っているわけでもないし、相手は所詮中学生なので、伝えたいことが何かしらあるとしてもあまり通じるとは思えない。むしろ中国で学生に日本語を教えているMさんのように、例えば国語の授業などで文章から連想される脱線的なエピソードを話したりして生徒を楽しませたいと思うのだが、自分はそういうことは苦手で、そうした能力はどうもあまりないようである。Mさんのあの連想力と言うか、話題を次から次へぽんぽんと思いつく力というのはやはり一つの才能なのだ。
 改札をくぐると、AくんがNさんに、トイレに行っていいすかと言った。それでトイレの前に行って、そこで二人と礼を言い合って別れ、こちらは一人、一番線ホームに下りた。青梅行きは既に停まっていた。一号車に乗り込み、鷹揚に席に就くと、最初は携帯で日記を書こうかと思ったが心を変えて、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』を取り出して読みはじめた。途中でこちらの隣には明るめの茶髪の若い女性が座った。彼女も文庫本を手に持って、集中してそれを読んでおり、こちらはその頁の上に時折りちらりと視線をやったが、何の本なのか同定することは出来なかった。小説ではあったようである。拝島でしばらく停まっているあいだ、空の彼方から西陽の光が斜めに射し込んで、こちらの持っている本の頁の上にふわりと宿り、手にも触れた。光に明るんだ右手の甲を眺めていると、あれは汗なのかそれとも肌の脂なのか、皮膚の細かな肌理の襞のなかに、塩の粒よりも小さな極小の液体が嵌まっているようで、それが光に感応して僅かに光るのが目に見えるのだった。その後の道程では、走る電車の外を流れていく家々の建物の合間、西南の空に、数千度の高熱を帯びた灼熱の鉄球のような太陽の姿が時折り露出した。そうして河辺に着いて降りると、ベンチに寄ってリュックサックを座席の上に置き、手帳に読書時間を記録してから歩き出した。ここでも線路のレールの上に落ちていく太陽の光が斜めに乗って、甘やかなとも言うべき琥珀めいた橙色に激しく焼けついているのが見られた。
 駅を出て歩廊を渡るあいだ、左方の果てに落日が見えるが、高度はもうだいぶ低く、その明かりは右方の、円形歩廊を挟んだ向こうのマンションに掛かるのみで、歩廊の上にはもはや宿らず、目を直接に射ってくることもない。歩廊の下の広場に立ったヤマボウシが花の盛りを迎えていた。図書館の入口前まで来ると、リュックサックから本を一冊ずつ取り出し、ブックポストに入れて返却していった。そうして黒点と化した鳥たちが空中を飛び交うその下で歩廊を戻り、駅舎の入口まで来ると、ここにはいくらか西陽の薄い照射があった。右方を見やれば太陽が山際に膨らんでいるが、それももうまもなく姿を隠してしまうはずだった。
 ふたたび改札を抜けてホームに戻り、立ったまま手帳を取り出し、読みながら電車を待った。まもなく電車がやって来ると乗り込んで南側の扉際に就き、手帳に目を落とし続ける。青梅駅に着くと奥多摩行きは既に到着していた。乗り換え、ここでも扉際に立ち尽くして、手帳に記された英単語などを確認し、最寄り駅に着くと降車して駅舎を抜けた。太陽の落ちた夕刻の、それでもまだまだ薄明るい初夏の空気のなかで、多少なりとも涼しくなった気温を感じながら帰路を辿った。
 帰宅したのはちょうど七時頃だったように思う。自室に戻って服を脱ぎ、リュックサックのなかの本類を取り出しておき、ジャージ姿になって上階に行った。食事のおかずは餃子、米がなくなったのでメインは素麺だった。プラスチック・パックに入った素麺を、鍋に用意された汁に放り込んで少々煮込み、丼によそった。そうして卓に就いて食事を取ったが、テレビが何を流していたのかはまったく覚えていない。父親は既に風呂に入って会合に出かけたという話だった。食事を終えると抗鬱剤ほかと風邪薬を飲んで食器を洗い、風呂に行った。風呂のなかでのことも特に覚えていない。出てきて下階に戻り、Skypeを確認すると、通話がなされていたので、八時過ぎから参加した。驚くべきことに、この日は昼間から通話が始まって、今までずっと続いているらしかった。よくもそんなに話すことがあったものだ。一体何を話していたんですかと訊くと、ゆるゆると、どうでも良いような雑談をしていたという答えがあった。通話にはEさんが参加しており、彼のマイクから、BGMとして流しているらしいヒップホップの音楽が薄く漏れていた。こちらは風邪っぴきのがらがらとした低い声で、今日は読書会だった、『ダブリナーズ』について話したが、こちらとしてはあまり印象深い小説ではなかったため、脱線している時間の方が多かったかもしれない、そのほか、岸政彦『断片的なものの社会学』などを紹介したと語り、次回は詩を読もうということになったと報告した。
 それから、Eさんが自作のフランス語の詩をチャット上に貼り、それを音読しながら意味するところを日本語で説明する時間があった。そのなかで印象的だったのは、彼が受けてきた数々の差別的な扱いで、例えばロシアに行った際など、警官に突然呼び止められてポケットのなかを見せるように求められた、それでどうしてかと尋ねると、お前は黒人だから、黒いから怪しいと言われたという話があった。また、フランスの学校でも進路相談のような時間があって、担当の教師についてもらって話をするらしいのだが、そこでも黒人には建築関連の仕事などが推薦される一方、白人には医者などの職業が推薦される、そのような形の差別的な扱いもあるということだった。Eさんは、自分はそれはおかしいと思う、白人にも建設の仕事を勧めるべきだと思う、と言った。こうした生々しいエピソードを聞くのは勉強になることだ。
 そのお返しというわけでもないが、こちらも前日に作った狂い鳴く鶯の詩と、この日の昼間に作って上記してある田舎娘の詩をチャット上に貼りつけた。Bさんは田舎娘の詩が好きだと言ってくれたので、これは、とりあえず三行ずつって決めて適当に作ったやつですと笑った。そこから確か詩の話になって、こちらは岩田宏という詩人の「神田神保町」が好きだとここでも繰り返すと、是非朗読してくださいとの反応があったので、手もとにちょうどあった『岩田宏詩集』を取って、最初の連と最後の連を低い声で音読した――そのあいだ、Eさんは夕食を料理していたようで、彼のマイクからは何やらがちゃがちゃ作業をやっている音が漏れていた。Aさんが、朗読はいいですよねと言い、自分は物心ついた頃からもう本を読みまくる子供だったので、普通は夜眠る前など、子供が親に絵本を読んでもらうようにせがむものだと思うが、自分の場合は親のところに行って、自分が読むから聞いてほしいと、逆のせがみ方をするような子供だったと話して、これは少々面白かった。
 その後、通話に途中から参加していたNNさんに、今読んでいるのは何ですかと尋ねた時間もあった。石川淳の『狂風記』だと彼は言った。石川淳も名前だけしか知らないで、それ以上の情報はなく、著作を一つも読んだことのない作家である。金井美恵子が若かりし頃、石川淳を一番よく読んでいたというようなことを自分で語っていた覚えがあって、それ以来多少なりとも気になっている作家ではある。『狂風記』はかなりロックな作品だとNNさんは言った。
 そうして一〇時に達したところで、こちらは日記を書かなければならないのでと言って退出した。そして、aikoの音楽をBGMに聞きながら、一時過ぎまで三時間ほど日記を綴ったのだったが、それでも喫茶店での会話の途中までしか書けなかった。そこで区切りとして一旦上階へ行き、戸棚から明星の「チャルメラ」(醤油味)を取り出し、電気ポットで湯を注いだ。それを自室に持ち帰り、インターネットを閲覧しながら食うと、汁をすべて飲み干し、容器をぐしゃりと潰してゴミ箱に放り込んでおき、それからベッドに移って読書を始めたのだったが、ほとんど読まないうちにいつの間にか意識を失っていた。気がつくと四時一〇分で、カーテンの裏がもう既に薄白く明るんでいたのだが、明かりを落としてそのまま就床した。


・作文
 5:21 - 5:35 = 14分
 11:39 - 11:56 = 17分
 22:18 - 25:13 = 2時間55分
 計: 3時間26分

・読書
 6:00 - 7:02 = 1時間2分
 7:38 - 11:04 = 3時間26分
 17:35 - 18:10 = 35分
 計: 5時間3分
*
「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-05-18「幽霊がそこらにもしもいたならばきっと驚く独語の多さ」; 2019-05-19「石ころを手土産にするあなたには迎えにきてくれるひとがいる」; 2019-05-20「水鳥の風切羽にしたたる水滴が落ちるあなたの眠り」; 2019-05-21「火種とは子らの沈黙いたずらな犬の足取り視線の行方」; 2019-05-22「水星を背負って歩くけだものになりきることができればいいのに」; 2019-05-23「少しずつ夜になっていくあなたやぼくがいたりいなかったりする」

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 57 - 68
  • 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』: 196 - 327

・睡眠
 2:45 - 4:55 = 2時間10分

・音楽

2019/5/25, Sat.

 四時前に自ずと目が覚めた。睡眠時間は三時間ほど、さすがにまだ起きるには早いだろうと寝床に伏しているあいだ、蚊が一匹耳の周囲を飛んで甲高い羽音を聞かせていた。暗闇のなかで、自分の肌に止まったと思われる時に手を伸ばして叩いてみたりもしたのだが、捉えられなかったようだ。どうにもふたたび寝付くことが出来ないので、四時を回ったところで起きてしまうことにして、布団を身体から剝ぎ取った。夜が明けていくところで、東南の空の際にはゼニアオイ色の空気が薄くくゆり、西の方面には青さのなかに入りの月が浸りながらくっきりと浮かび上がっていた。コンピューターに寄って起動させ、昨晩の、こちらが離脱したあとのSkypeのやり取りを読んだあと――Eさんがふたたび通話に参加していたようだった――前日の記録を付け、この日の記事も作成してから、コンピューターの動作速度を復活させるために再起動した。再起動しているあいだに便所に行って用を足し、何となく短歌の芽を頭のなかで巡らせながら戻ってきて、コンピューターに再度ログインするとEvernoteをひらき、短歌をいくつか作った。

 頭蓋骨が溶けるような虐殺を夜は戦争より長いから
 純白の真昼の光の只中で蝶が孵化する夢を見てから
 死人[しにびと]が腐った林檎を齧りだす列車のなかですすり泣く君
 道端の小石を拾い涙するいかなる夜も祝福だから

 鼻をかむと、黄色く濁って粘ついた鼻水がティッシュの表面に残された。喉も砂を差し込まれたようにかさかさとするし、風邪気味の状態はまだ解消されていないようだ。そうして時刻は五時、ゼニアオイ色は既に駆逐されて、東南の果てにあるのは朝陽の漂白されたようなオレンジ色だった。日記を書きはじめた。前日の記事を仕上げ、この日の記事もここまで書くと時刻は五時半、太陽が昇りはじめており、窓外の緑に色づいた光が掛かっている。
 前日の記事をインターネット上に放流すると、上階に行った。居間の東窓のカーテンを開けると、太陽の光がレース編みの白い幕を通して眩しく目を射った。南窓のカーテンも開けておき、それから台所に入って冷蔵庫から昨日のカレーのフライパンを取り出し、焜炉に掛けた。搔き混ぜながら加熱して、一方で大皿に米もよそっておき、カレーが温まったところでその上に掛け、卓に運んで椅子に座った。背後から射し込む午前六時前の透明な陽射しのなかで、一人黙々とカレーライスを食べた。食べ終えると台所に移り、「浅草今半」の佃煮――牛肉と椎茸を合わせたものと、牛肉と大豆を煮たものが残っていた――があったので、それも食べることにして今度は椀に米をよそった。そうしてふたたび卓に移動し、褐色の塩っぱい佃煮をおかずにして米を貪った。その後、食器を洗い、抗鬱剤ほかを服用すると、さっさと下階に戻った。
 また短歌でも作ろうか、と『石原吉郎詩集』を眺めていると、「脱走」という詩の冒頭、「そのとき 銃声がきこえ」という一節が目に留まった。「銃声」をテーマにして何か一首作れないかと頭を巡らせたのだが、そのうちに、短歌ではなくて、驚くことに思考が詩の形を取りはじめる気配があったので、あれ、これは自分、詩が書けるのではないかと思ってその導きに任せた。そうして、一作完成した。生まれて初めて詩というものを書いたわけだ。大したものではないけれど、ともかく出来たものは出来てしまったので、以下に載せておく。

 一発の
 不敵な銃声を
 唯一の合図として
 我々は走り出す
 愚劣な血液を撒き散らしながら
 砂を湿らせるその血漿
 地に貫き染み込んで
 地下水に達し河を赤く染め上げるだろう

 悲しいと
 今 言ったのは
 俺か それとも俺の左手か
 右手か 耳鳴りか 水膨れか
 するすると
 影が俺の足もとから伸びては
 血液のように土に混ざって消えていく

 夕暮れには外に出たまえ
 君が誰であるにしろ
 と ある高名な詩人は言ったが
 朝焼けのなかではどうすれば良いのか
 銃声が轟き渡る
 あの血塗れの夜明けのなかで
 我々は部屋の隅にうずくまって朝陽を避ける

 夜が
 祝福であるならば
 朝は退屈な義務に過ぎない
 毎日 月を拭い去っては
 赫々たる太陽をもたらす
 その勤勉さ

 一発の
 不実な銃声を
 唯一の合図として
 我々は走り出す
 血塗れの夜明けに
 手足を振り乱す亡霊のように
 振りかざされた偉大な静寂の下で
 愚劣な血液を撒き散らしながら

 そうして六時半直前から読書を始めた。Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionである。一時間読んで七時半に至ろうというところで書見を中断し、やはり三時間では眠りが足りなかったらしく、意識が曖昧になっていくのに任せた。南窓からベッドの上に入りこんで宿る光のなかで布団を身体から剝ぎ取りながら眠り続け、気づけば正午を回っていた。折角早く起きたのに午前中を無駄にしてしまったけれど、それでも睡眠時間は合わせて八時間にも満たないので、まあ適正というところだろう。両親の気配が家のなかにないので、揃って買い物か何かに出かけたらしかった。起き上がってコンピューターに寄ると、先ほど生まれた詩をツイートしておいたのだが、Twitterの通知が三〇件にも達していたので驚いた。CさんやYSさん――彼女とリプライを交わすのも久しぶりだ――に対して返信を送っておき、それからFISHMANS『Oh! Mountain』と共連れにして日記を書きはじめた。喉の痛みはないのだが、声が低く掠れたようなものになっており、鼻水も黄色く濁ったものが相変わらずよく粘った。一二時半過ぎから書き出して、現在一時を目前としている。
 上階に行った。レトルトカレーで食事を取ることにして、玄関の戸棚からパウチを一袋取り出し、フライパンに水を汲んで火に掛けた。当然まだ温かくなっていないが、パウチをもう水のなかに放り込んでしまい、熱しているあいだに風呂を洗うことにした。そうして浴室に入ったところで両親が帰宅して、台所に入ってきた母親が流水麺の蕎麦を買ってきたからそれを食べろと言う。さっきもカレーを食べたんだから、と言うが、こちらとしてはどちらでも良かった。風呂洗いを続け、浴槽の床をよく擦って洗剤をたくさん泡立たせ、シャワーで流して出てくると、手を洗って流水麺を笊のなかで洗った。麺の塊のなかに右手を突っ込んで、掴み上げほぐしながら搔き混ぜ洗っていく。そのあいだに横では母親が、これも買ってきたフライの類――搔き揚げにチキンにコロッケ――を切り分けて三人分の皿に盛っていた。そうして麺つゆを用意し、フライを電子レンジで温め、卓に就いてまもなく葱と生姜の薬味も届いたのでそれをつゆに加えて流水麺を啜った。テレビは『メレンゲの気持ち』を流していたが、特段に言及するべきことはない。両親と向かい合って食事を取っていると、父親がこちらの声や鼻を啜る音を聞きつけて、お前、風邪引いたのかと言った。そうなのだと受けて鼻をかみ、明日読書会なのにと漏らして食事を続け、食べ終えると食器を洗って下階に戻った。
 そうして一時四〇分前からふたたびMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを読みはじめた。英単語を調べ、手帳にメモしながら読み進めているうちに、三時に近づくと、窓外で父親が草を刈っているらしき音が立ちはじめた。こちらは我関せずでおり、三時前に至って英文を読むのに疲れたので、ちょっと書見の趣を変えようと小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』を読みはじめたところ――Cさんが並行して何冊も読まないと集中力が続かないと言っていたのがこういうことかとよくわかった――まもなく母親が戸口にやってきて、草刈りを手伝いなと言う。面倒臭えなと思いながらも素直に要求に従って、三時八分で書見を切り上げ、一旦両親の寝室に行って布団を取り込んでいた母親を手伝い、彼らの寝床を整えた。そうして上階に行って水を一杯飲んだあと、階段を下り、下の階の物置きから外に出た。足もとは白の古びたスニーカー、手には灰色の軍手を嵌めていた。家の南側に出て、ベランダの下の雑多にものが置かれている場所から鎌を取り出し、畑に続く階段の左右を刈りだすと、畑の周囲の斜面を刈っていた父親がまもなく、やらなくていいよと言ってくる。母親が皆でやろうと言うから、と受けて、父親がこちらを慮り自分が使っていた切れ味の良い鎌を貸してくれたのを受け取り、引き続き草をぐわっしと掴みながら鎌を小さく振って断ち切っていった。こちらのいる梅の木の下は既に日蔭になっていて、汗が出ないわけもないが思いの外に涼しく、熱中症の心配はなさそうだった。刈っていく下草の合間に、薄緑の小さな梅の実が多く見られた。しばらくすると母親もやってきて、手には黄色の保冷バッグを持っている。母親はそのまま、階段上の一帯にしゃがみこんで、周囲の草を払いはじめた。
 今から考えると、実際にはたくさん鳴いていたはずだが、草を刈っている最中、鳥の声にまったく耳が向かなかった。囀りを一回も認識した覚えがない。ある程度刈ったところで、母親が「DAKARA」を持ってきたと言うのでそれを飲むことにして、階段の上にある木造りのテーブルに寄った。ティッシュも持ってきてくれていたので、こちらは鼻をかんでねばねばした黄色い鼻水を排出し、母親が湯呑みに注いでくれた飲料を飲んで喉を潤した。ご丁寧に飲み物の入れ物を三人分持ってきていたのだった。そうしていると父親も斜面から抜けて寄ってきて、母親は彼には炭酸水を渡す。それでテーブルの周りに三人揃って就いて、ひととき休憩を取った。テーブルの端のほうには何か黒い小さな粒々のようなものが落ちており、母親はそれを見て、何か毛虫か何かのうんこかな、と口にする。ちょうどそこは、柚子の木の下に当たっている場所なのだ。揚羽蝶の幼虫でもいるんじゃないかと言って父親が梢を見分しはじめるのに母親は、嫌そうに、いいよ見なくて、と声を上げた。向こうの坂を、中学生だろうか子供が三人ほど、自転車で息を切らせながら上がっていく。
 しばらく休んでから父親がふたたび作業を始めたので、こちらも「GREEN DAKARA」を飲み干して軍手を嵌め直し、今度は階段下の畑の隅、道具が雑多に置かれてある台の付近の草を刈りはじめた。低くしゃがみこんで脚の周りの草をぶちぶちと鎌で千切っていき、それから立ち上がって斜面の奥に放っていると、くらくらと少々立ちくらみがする時もあった。四時になったらこちらは仕事を切り上げてなかに入ることと勝手に決めて、母親に時間を尋ねると、三時五八分だと言った。最後に周辺をもう少々刈っておいてそれで終いとすると、母親が玉ねぎを持っていってくれと言う。それで彼女について畑の向こうの端の方に行き、母親がビニール袋に入れた玉ねぎ六、七個を受け取って、階段を上っていった。上に出ると、草間から大きなバッタが飛び跳ねて別の葉の上に移った。それでうわ、と口にし、でかいバッタがいると報告すると母親も見に来て、本当だ、主だねと言った。枯れた葉のような褪せた褐色の体色をしていたのだが、あれはトノサマバッタというものなのだろうか。
 下の階の物置きからなかに入り、軍手と玉ねぎはそのあたりに置いておき、階段を上るとジャージをもう一着の方に取り替えた。それで自室に戻り、真っ黒な肌着のシャツは脱いで椅子に掛けておき、上半身裸になってベッドに乗って、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』をふたたび読みはじめた。伊東忠太という建築家の存在を初めて知った。Architectureを「建築」という訳語に定着させた人物であるらしく、東大正門などを造ったと言う。そのほか、巻頭の二人の対談はトマス・カスリスの「インティマシー/インテグリティー」という対概念をベースに議論が展開されていくのだが、法政大学出版局から刊行されている彼の『インティマシーあるいはインテグリティー 哲学と文化的差異』はこちらの積み本の一巻を占めている。この本も読みたいところだ。
 そうして五時一五分を迎えた頃には母親も既になかに入ってきており、上階の台所で食事の支度を始めたようだった。こちらも読書を切り上げ、肌着のシャツを着ながら階段を上がり、台所に入ると、もともと大根ステーキでもやろうかと話していたのだったが、鮭があったのでそれで良いだろうということになった。こちらとしても不満はないので、母親の指示に従って冷凍されていた筍をフライパンのなかに空け、砂糖と醤油を加えたあと、盛り皿の上に載せられた鮭の塊二つの上に濡らしたキッチンペーパーを蓋のように掛け、それを電子レンジで加熱した。サラダももう出来ており、味噌汁も前日の残りがあって、そのほか昼に買ってきたフライの余りもあると言う。それではもうやることがないではないかというわけでこちらはさっさと自室に下がり、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流しながら日記を書きはじめた。そうして現在は六時を回ったところである。
 ふたたび読書、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』。一時間弱読み、光が萎えてくるとカーテンを閉めて食事に行った。台所には母親の手によって既に料理が皿に盛られて用意されてあった。大根や胡瓜を細切りにしてシーチキンを混ぜたサラダや、昼の残りのフライ類に筍とワカメの煮物、それに鮭である。さらに米と、豚汁じみた野菜スープをよそっているあいだ、炬燵テーブルでは既に父親が食事を始めていた。こちらも卓に移って食事を始め、テレビに目を向けると、ニュースはドナルド・トランプの来日を伝えている。フライに醤油を垂らしてそれをおかずにしながら米を食べ、僅かに残った米を鮭と一緒に平らげるとそのほかの品も食べていった。ニュースに時折り漫然と目をやりながら、枝豆をちまちまと一粒ずつ食い、それで食事を終えると水を汲んできて、風邪薬を服用した。同時に抗鬱剤ほかも飲んでおき、食器を洗うと寝間着と肌着を持って洗面所に行った。洗面台の電灯を灯して、電動髭剃りで髭を剃りはじめたが、顎の毛を当たっている途中に機械が弱りはじめて、ついに駆動を停めてしまった。電池が切れたのだ。それでケーブルを持って居間に出て、コンセントに繋いでおくと、テレビは『ブラタモリ』に移行しており、大阪にも古墳があるのかと父親が呟くので、あるよ、大仙古墳が、日本最大の、とがらがらの声で答えておき、ふたたび洗面所に入って扉を閉め、服を脱いだ。そうして入浴。湯に浸かったまま身体の動きを止め、呼吸を静めて瞑想じみた振る舞いをしてみたのだが、やはり以前のように変性意識に入ることは出来なかった。瞑想の実践が無意味と化したのはなかなかに痛い。身体的鋭敏性を高めるに当たって、瞑想は大いに寄与していたように思うのだ。それを続けていれば、あるいは余人には計り知れない領域の事々もいつかは視えていたかもしれないと考えると、惜しいものである。それから洗体スペースに出て、シェービング・ジェルを顔に塗り、鏡に顔面を近寄せながらT字剃刀で剃り残した毛や産毛を当たった。その後、頭と身体を洗って上がると、すぐに下階に戻った。
 そうしてHorace Silver『Paris Blues, 1962』やTomoko Miyata『Secret Of Life』を流しながら、上半身は裸のまま、一〇時五〇分まで二時間ほど書見。中島隆博という人は中国哲学の専門家なのだが、西洋の哲学にもいくらか通じているようだし、カンタン・メイヤスーの名前なども口に出していて、最新の動向も多少追っているようだ。さすがはプロである。小林康夫の方も、自然科学方面の議論にも通じているようで――最新の自然科学が提示する世界観に応答することなしにはもはや現代の「哲学」は可能ではないというようなことも言っていて、それはやはり本当はそうなのだろうなあと思う――また、読書案内に記されている文献など見ると、こんなものまで読んでいるのかという名前も見られて、こちらも実に幅広い。彼らは講義だの論文作成だの事務作業だの、教授職の仕事で忙しいだろうに、一体いつどのようにして文献を読んでいるのだろうか? やはりああいう人々というのは読むのはやたらに速いのだろうか?
 その後、Marcos Valle『Samba '68』をヘッドフォンで聞きつつ、日記をここまで綴ると一一時二〇分前に至っている。
 それから、Marilyn Crispell Trio『Live In Zurich』を流しつつ、一一時三七分から小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』の気になった部分を手帳にメモした。そうして時刻は零時一五分、風邪を引いてもいることだしさっさと寝れば良いのに、そこから何故か短歌を作り出した。現代詩文庫の『続・天沢退二郎詩集』や『岩田宏詩集』、ちくま文庫の『宮沢賢治全集 1』などを参照し、時にその文言を借用しながら――平たく言えばパクりながら――短歌を作ってはTwitterに投稿し続けるマシンと化した。一体いつになったら終わるのだろうかと思いながら次々と作っていたが、二時前に至った頃だろうか、ついにインスピレーションが尽きてきて、その代わりに何故かまた一つ詩を作る回路が作動した。大したものではないが、意外と作れるものだ。今日は生まれて始めて詩を書いたし、短歌も合わせて二〇首作ったし、読書は八時間ほど行ったし、なかなか勤勉な一日だったと言って良いのではないだろうか。

 寂しいと今言ったのは僕の瞳? 夜空の下ではすべて眩しい
 結晶と化した林檎を齧り捨て山越え向かう緑の国へ
 明け方に台風の目を刺し殺す風が絶えたら俺も死ぬから
 赤らんだ石の記憶が忘れられ歴史は腐る樹液のように
 黄昏の砂の帳を切り捨ててスケッチしよう虚無の色味を
 白紙にて青い照明灯しつつ鉱質インク撒いて詩を書く
 冥王星から降り注ぐ宇宙塵白夜の空に溶けて光れよ
 崩れ落ちたガラスの破片で指を切り血を撒き描く真理の唄を
 白っぽい道の遠くで霧が泣くなかで踊るは悪魔の僕[しもべ]
 「ロリータ」と発語するたび舌を噛む血塗られた唇でキスしたい
 暮れ方に両手をだらり道に下げ西陽を吸って息吹き返す
 胎内に神を宿した女が言う「狂った人ほど純粋なのよ」
 唇の口内炎を貫いて叫べる声があればいいのに
 色褪せた水晶よりも純粋で貴婦人よりも淫猥なもの
 虹色に泣いた視界を横切って子犬が吠える声を枯らして
 崩壊よお前の唄は聞き飽きた真っ赤な雲から注ぐ銃弾

 西陽のなかで狂い鳴く鶯が
 色彩の反乱めいた音列を撒き散らす
 美しく荒れ果てた菫色の空に
 僕は役立たずのカメラを捨てなければ
 
 世界は書物だ
 不甲斐ない脳のなかに
 一本の鋭いペンさえ持っていれば
 いつだってどこだって
 頁と頁の隙間に文字を忍ばせることができる
 たとえそれが誰にも見つからない言葉だとしても

 インクは僕の血液
 夜に馴染んで不健康に汚れた血の色を
 今すぐあなたに見せてあげたい
 断末魔のように苦しみくねりのたうち回る
 文字と文字の合間を繋ぐ書き損じの
 一本の線の仄かに明るい色を
 
 もしよかったらあなたも
 あなたにしか見えない紙の上の泣き声の色を
 僕に見せてくれたら嬉しいな

 電話が鳴ったからもう行かなくちゃ
 西陽のなかで狂い鳴く鶯が
 通り雨のように降り注がせる色彩の音を聞きながら
 唇と唇をわざわざ遭遇させなくたって
 僕らが繋がり合う方法はほかにいくらでもある
 しめやかな葬列のような夜が来る前に
 さよなら ばいばい また明日。

 詩を作り終え、Twitterに投稿して二時を越えるとコンピューターを閉じてベッドに移り、また少々書見を進めてから二時四五分頃就床した。コンピューターの前で長く作歌していたからだろう、目と頭が冴えていて、これは眠れないのではないかと思いながらもとりあえず横向きに寝床に臥せながらじっとしていたのだが、じきに眠気を感じる暇もなくいつの間にか夢のなかに落ちていたようだ。


・作文
 4:55 - 5:28 = 33分
 12:35 - 12:54 = 19分
 17:24 - 18:05 = 41分
 22:58 - 23:17 = 19分
 計: 1時間52分

・読書
 6:28 - 7:28 = 1時間
 13:38 - 15:08 = 1時間30分
 16:10 - 17:15 = 1時間5分
 18:06 - 19:02 = 56分
 20:42 - 22:50 = 2時間8分
 23:37 - 24:15 = 38分
 26:09 - 26:41 = 32分
 計: 7時間49分

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 46 - 57
  • 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』: 2 - 196

・睡眠
 0:55 - 4:00 = 3時間5分
 7:30 - 12:10 = 4時間40分
 計: 7時間45分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)
  • Horace Silver『Paris Blues, 1962』
  • Tomoko Miyata『Secret Of Life』
  • Marcos Valle『Samba '68』
  • Marilyn Crispell Trio『Live In Zurich』