2017/12/5, Tue.

 例によって何度か覚める。覚醒の感触は数日前よりも明らかに軽かったのだが、その都度睡眠の時間を計算してしまうと、やはり少なさが気になってまた眠ってしまうのだった。しかし本当は、初めの覚醒の時に速やかに起き上がったほうが良いのだろう。この日は一一時四五分の起床となった。布団を抜けると、前日と同じように蓮實重彦特集の『ユリイカ』を少々めくり、身体が落着くとトイレに行った(洗面所の鏡を見ると、髪が寝癖で珍妙な風に歪んでいたので、いい加減に水で濡らして押さえておいた)。用を足して戻ってくると、一二時一〇分から瞑想を行った。ゆっくりと深い呼吸を繰り返していると、空っぽの腹がぐるぐると鳴りを立てる。外からは烏の声が薄く聞こえてくる。(……)瞑想を終えると、一七分が経っていた。
 上階に行く(……)。嗽をしてから冷蔵庫を覗くと、前日の残りらしい豆腐ハンバーグがあるので、それを電子レンジで加熱した。合間に即席の味噌汁を用意し、大根の煮物も温めると、白米をよそって卓に運んだ。新聞からは、イエメンの大統領が暗殺されたという記事、ベルギーに滞在しているカタルーニャ前州首相らの審理が進行中であるという記事を読み、ものを食べ終えたあと、一面に載っていた現政権の「人づくり革命」政策の方針についても読んだ。そうして食器を片付けると風呂を洗う。時刻は一時過ぎであり、まだ光が明るく満ちているので洗濯物はもう少し置くことにして、室に下りた。
 コンピューターを立ち上げると、前日の支出を計算して記録しておき、それからこの日の日記に早々と取り掛かって、一三分ほどでここまで記した。長めの労働を控えている日だが、気分は悪くなく、わりあい穏やかに静まっている。
 それから一二月四日の記事も一〇分少々書き足して、二時に至ると洗濯物を取りこみに行った。畳むものを畳んでおき、戻ってくるとtofubeatsを流しながら体操や柔軟運動を行った。(……)その後、上階に行き、豆腐に即席の味噌汁、ゆで卵でエネルギーを摂取し、それからアイロン掛けをした。(……)
 服の皺を伸ばすと時刻は三時を回っており、部屋に戻ってきて歯磨きをし、着替えると出発の頃合いである。(……)晴れた空は明るく、山は薄金色の靄のような光を抱いてその姿を霞まされているが、足もとには既に光はなくて林の梢の高いほうに掛かっている。残った光に明るんでいる葉っぱの、褪せた黄色や褐色に染まって水気なく萎えたのが、からからと音が鳴りそうな様子で、あとはただ落ちるのを待つばかりの風情である。その傍ら、薄緑色の竹の葉が小さくまとまったその向こうから、鵯の鳴きがいくつも降っていた。
 街道ももう大方は日蔭だが、なかに短く差し込まれた日なたがあり、踏み入ると道の脇に向けて影が斜めに伸びて、道路を通る車の二車線に乗った双方ともがやはり影を差し掛けて、足もとを前後に滑らせて行く。道の上には楓の葉の老いた臙脂色に染まったのが、あるものは堂々と体をひらき、あるものは鉤爪のように身をすぼめて伏していた。
 (……)
 帰路、物音に振り返ると、背後の東空に月が出ている。満月も近く、よほど厚くなって光も清かな照り方である。星もあたりに見え、夜空は青みを露わにしていた。主体の「見る」機能とそれによる分裂について、また主体を「演じる」感覚についてなど考えたと思うが、まだ記せるほどの形を成してはいない。
 帰り着くと手を洗い、服を着替えて、(……)を読んだ。それから食事を取りに行き、食後、風呂に入って出てくるともう零時も近かったと思う。長めの勤務の日は概ねいつもそうだが、身にこごる疲労感のためか書き物をする気にはならず、かと言って何か読書をするのでもなく気楽にだらだらとインターネットを回って過ごす。一一月二九日から一二月一日までの記事が済んでいないが、特段の焦りはなかった。一時半を前にして、ともかくもまったく文を書かないというのはあってはならないと気を調えて、キーボードを叩きはじめた。前日、一二月四日のことをメモに取っておき、それから一一月二九日の記事に掛かって仕上げるところまで行った。それで二時半、疲労も募っていたのでこの日はここまでとして、歯磨きをすると、パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』の読書に移った。ベッドに横になりながら読んでいたが、じきに眠気が湧いて微睡むような有様だった。これも久しぶりのことで、緑茶を排してカフェインを取らなくなったことの一つの影響なのではないか。三時半に至る前に、瞑想はする気力がなかったので怠けて、明かりを落として就床した。

2017/12/4, Mon.

 九時に鳴るよう仕掛けておいた目覚ましに一度起こされた。立ち上がって時計を停めたものの、すぐに布団に戻る。しかし、前夜にゴルフボールをたくさん踏みつけたおかげもあって、眠気のもたらす混濁はさほどでなく、ひらいたカーテンのあいだから降る陽射しを顔に受けながら深呼吸をして、段々と意識を確かなものにしていった。九時二五分を迎えたところで起き上がると、心身の感覚は概ね落着いている。便所に行ってきてから、すぐに瞑想をするのではなく、蓮實重彦特集の『ユリイカ』をひらいた。布団を抜けてベッドの縁に腰掛けた際に、積まれた本のなかから『表層批評宣言』の背表紙が目に入り、この特集の巻頭インタビューのことを思い出していたのだ。具体的には、蓮實重彦自身が決して読み返したくない著作として、『表層批評宣言』と『小説から遠く離れて』の二つを挙げていたなと思い起こされて、何故かその発言の箇所を確認したくなったのだった(より些細な点にこだわると、この二作にそのように言及する際に、「告白すると」というような言い出し方をしてはいなかったかと、その点が何故か気になったらしかった)。そうと言ってしかし、該当の部分をすぐに探して確認するのでなく、部分的にしばらく文字を追ってしまい(そのかたわら、例によってボールを踏んでいた)、一〇時まで時間を使ったところで瞑想に移った。
 食事を取るために上階に行くと、卵とハムをフライパンで焼いた。それを丼に盛った米に乗せ、ほか、前日の汁物やサラダを合わせて並べる。新聞からは、「スペイン国旗 なびかぬ町 バルセロナ近郊 独立支持75% 住民 強い民族意識」と、「ハマス、蜂起呼びかけ警告 米「首都エルサレム」認定なら」の二記事のみを読んだ。食後、食器を片付けて風呂を洗うと、ストーブのタンクを二つ持って外に出た。葉っぱが随分と散らかっており、自宅の敷地と道路の境に差し挟まれた砂利の地帯が半ば覆い隠されるようになっていた。勝手口のほうに回ってタンクに石油を補充し(……)作業を終えると屋内に戻り、手を洗って下階に帰った。
 インターネットで電車の時間を調べると、一二時台後半のものがちょうど良さそうである。既にこの時点で一一時を回っていたはずで、正午には家を発つ必要があるから、もうさしたる時間はない。Oasis『(What's The Story)Morning Glory?』を流しながら体操をして身体を少々ほぐすと、歌を歌いながら服を着替えた。それから歯磨きをしていなかったということに気づいたので、口内を掃除し、出発に向かった。
 道を歩き出したのだが、しばらくして、歩調のなかに何か妙な感触が混ざっているなと気づく。それで足もとを見下ろせば、左の靴の前面が割れかかっており、足を踏み出す際にそれがひらいて余計なリズムを差し挟むのだった。この靴も、もう二年くらいは履いているはずだから致し方ない。さすがにこれではと道を戻って玄関に引き返し、別の靴を履いて再度出発した。坂を上って行く。出口の付近で裸になっている樹の枝の、毛細血管じみて細く分かれたその先端までもが、白っぽい空を背景にして良く目に映る。と言うことは、この日の天気は晴れ晴れとしたものではなく、暗くはなかったはずだが、陽射しらしいものもこの時にはなくなっていたのではないか。道中について、特段の印象深さは残っていない。
 駅前まで来ると、コンビニに寄ってATMを使い、財布に金を補充した。そこでついでに年金の支払いもしようかと思ったが、レジには人が並んでおり、また電車の時間を考えても数分しかなかったので、あとにしようと退店した。公衆トイレに寄ってから駅に入り、先頭の車両に乗って席に就いた。『ダロウェイ夫人』の文庫本を持ってきてはいたが、文を読む気にはならず、目を閉ざして心身を休める姿勢に入った。
 道中のことは省く。代々木に着くと、改札を出てメールに返信し、壁を背にして駅舎と外の道の境あたりに立った。(……)を待ちながら、行き交う人々を眺める。山水楼という中華屋がすぐそこにあるのを、初めて明確に認識した。代々木には大学時代に結構来ていたのだが、その頃には何かを見る目というのがまったく養われていなかった。中華屋の二階の窓際に就いている人の姿や、一階のフロアのなか、人々が動き回る様子を眺める。ギターを背負い、エフェクターケースを載せた小型の台車を引いて通る女性がいる。それを見て、バンドをやっていた時代のことを思い出した。代々木には昔、PAN School of Musicという専門学校があり(一度潰れたということを聞いたような記憶があるが、さらにその後、名前を変えて再始動したと聞いた覚えもあるような気がする)、そこに通っていた友人に誘われてギターを弾いていたことがあるのだ。じきに(……)が来る。喫茶店(……)に向かう。入店し、二階に上がり、階段脇の席に就く。カフェインを断つことにしていたので、せっかくコーヒーが売りの店に来ながら、こちらは葡萄ジュースを注文した。
 『ダロウェイ夫人』について、諸々話す。最後の一連のパーティの場面が何だかわからないが良かった、そのなかでも特に、ダロウェイ夫人がある青年(セプティマス)の訃報を聞き、一人で別室に行って物思いをする部分が良かった、という点で感想が一致した。こちらが話したのは概ね、一一月二六日の記事や一二月二日の日記に書いたようなことである。ほか、(……)が最近読んだという『暗夜行路』についての話など聞く。途中、男性が二人入ってきて奥の席に就く。そのうちの一人を一見して、(……)に似ているなと思った。本人なのだろうかと思ってそちらのほうをちらちらと窺い、また聞き耳を立てたところ、岩波書店の「世界」(のことだったと思うのだが)がどうのとか、(……)がどうの(……)がどうのという話をしていたようなので、多分当人だろうと判断した。そうしたこともある一方で、何故かわからないが、(……)の話を聞いている途中、突発的に尿意がやや高まりはじめて、それによる緊張に気を取られて、目の前の話をあまり細部まで集中して聞き取ることができなかった(……)。その時(……)が語っていた事柄というのは、『暗夜行路』には至るところに「不在」のテーマが見出されるようだということで、一応緊張を気取られないようにもっともらしく、重々しいような調子で相槌を入れることはしておき、話に区切りがついたところで、少々性急なようになってしまったと思うが、トイレに行ってくると言い出して便所に行った。用を足して戻ってくると、その後は特に困ることはなかった。(……)
 四時頃に店を出たと思う。出るや否や、(……)に、奥の席に座っていた人を見ましたかと訊く。あれは多分(……)で、(……)の友人の人ですよと教える。話しかければ良かったじゃないですかと(冗談混じりに)(……)には言われたが、彼の著作は読んだことがないし、その著作を読んだことがある相手だとしても、自分はおそらくそのような振舞いはしないだろう。
 新宿へと歩いて向かいながら、二か月前に読んだ(……)の小説、『(……)』の感想を告げる。ここで述べたことをまた細かく再構成して、改めてこの日記に記しておこうという気でいたのだが、いざこの段を前にしてみるとやはり面倒臭く思われてくるので、仔細に書き記すことはしない。要点のみ触れると、『(……)』は明らかに秩序だった構築への意思を持たずに場当たり的に書かれた作品であり、言ってみれば「失敗作」に当たると思われ、こちらとしても釈然としないような部分は多くあったが、しかしその一方で、話者の主体/人格に何かほかに類例がないような「奇妙さ」の気配を、幽かにではあるが感じ取ったようで、その点が気になったということが一つある。「奇妙さ」と言うとまず、冒頭のほうにもっとわかりやすい形の奇妙さ/わかりやすい奇妙さの形が一つある。話者は母親の飼っている蜥蜴を地中に埋めるのだが、そのたびに蜥蜴は「何事もなかったかのように」家のなかに立ち戻っている、そうした現象を受けて話者が導き出す論理として、「ぼくは埋めるという行為自体を信用しなくなった」と述べられているのだ。「常識的な」論理というか、蜥蜴を埋めてもそのたびにいつの間にか戻ってきてしまうといった場合、「お約束」としては、蜥蜴という「行為の対象物」のほうに何らかの特殊性が備わっていると考えるのが一般的ではないかと思うのだが(と言って本当にそうなのかあまり自信はないものの、少なくとも、我々はそのように考えることに慣らされているのではないかと思うのだが)、この話者は反対に(?)「埋めるという行為」そのものの全般的な有効性を疑うようになるわけである。これは、「詭弁」と呼ばれる類の論理ではないかと考える。要は、多分フランツ・カフカやローベルト・ヴァルザーや磯崎憲一郎あたりが良くやっている(と思うのだが、今、具体的なテクストの箇所として指摘することはできない)道筋の作り方(通常、分かれ道が見当たらないはずのところに無理やり抜け道を拵えてしまうというか、舗装された道から突然横に折れて林のなかに突っ込みはじめるような、言わば「獣道」的な進み方)と大方同じものだと思われ、これはこれでちょっと面白かったのだけれど、こちらがこの話者に感じたようである「奇妙さ」というのは、もっと得体の知れないようなもので、曖昧な印象であってどこからそれが生じてきたのかということは具体的に説明はできない。ただ、その萌芽があるような気配は幽かに覚えたので、この点をもっと突き詰めて探究し、一つのものとして展開できれば、それは面白いものになるのではないかという風に述べた。過去の小説のことも引き合いに出して、(……)はこうした「奇妙さ」とか、もう少し広く言って「狂い」のようなものを書くのが得意なのではないかということも伝えておいた。あとはやはり、今回の小説の場当たり性も踏まえて、ローベルト・ヴァルザーのようなものを書いて欲しいと、それも『盗賊』のようなものをいつか拵えて欲しいとこちらの希望も告げた。今は構築するようなタイプの作品に取り掛かっているらしく、それはそれで良いと思うのだが、そのようにして文を書く底力のようなものを養っていったあとに、思いつきだけで適当に作っていって、何だか知らないけれどそれが偶然うまく行ってしまった、というようなものを(……)には是非とも作って欲しいと望むものである。(……)
 (……)新宿駅南口に出る。巨大な人波のなかに紛れて、やけに広い横断歩道(くるり "グッドモーニング")を渡る。東南口のほうへ折れる。道の脇で、男性が一人、北朝鮮がどうのという演説をしている。いつもここで誰かしらが演説をしていますよねと(……)と交わしながら、過ぎる。(……)に、来年の目標はありますかと訊かれて、間髪入れずにないです、と返す。自分でも笑えるような反応の速度だった。東南口の階段を下り、左に折れて、しばらく行ったところで街中に入り、紀伊國屋書店へ向かう。
 二階の文芸のフロアに入り、例によって海外文学あたりから見ていく。意外にもパク・ミンギュ『カステラ』がなかったので、あとで立川に寄るかと考えた。しばらくして、日本文学の棚の付近にいた(……)と合流し、何か良いのはありましたかと訊くと、後藤明生コレクションを示す。あるいは、坂口恭平が俺はドゥルーズだと豪語している例の、小説なのか何なのか知らないがその作でも良いという話で、こちらはどちらでも良いと(……)に選択を委ねると、それでは後藤明生にしましょうと決定された。五巻あるコレクションのうちの、後期のテクストを揃えた四巻目を読むことになった。(……)一冊のみ残されていたそれをこちらが保持し、その後文庫のほうに行って適当に見て回る。このあたりでこちらは、尿意が股間のあたりを内から刺激するのがやや気に掛かっていたが、トイレに行こうと思えばすぐに行けるのだと考えて慌てずにやり過ごしつつ、本を眺めた。どういうわけなのか、歩いているあいだでなく、立ち止まって本の背表紙に記されたタイトルを注視していると、感じられるものが強くなってくるようだった。しかしそののち、階を上がって哲学/思想のコーナーを見ているうちにこの尿意はいつの間にか消散していたようである。ここも結構長く見て回って((……)は日本の思想の棚の前で、ずっと何かを立ち読みしていたと思う)、奥の壁に沿った棚にある社会学のコーナーも見てみると、いくつか気になる本が見られたので、手帳にメモを取っておいた。池田今日子『ユダヤ人問題からパレスチナ問題へ』、P・スローターダイク『シニカル理性批判』(これはわりと色々なところで名前を目にする気がする)、レス・バック『耳を傾ける技術』(これはいずれ購入するような気がする)、ジュディス・バトラー『権力の心的な生』『自分自身を説明すること』(フーコーの権力/主体論を継受し、精神分析的な視点も活用して補完したような仕事だと聞いた覚えがある)である。哲学のコーナーにはいくらでも欲しいものがあるのだが(こちらは一応、生の本意として小説を書きたいと思っているはずなのだが、棚を回っていると、文学作品よりも哲学/思想的な著作のほうが明らかに食指を動かされるものが多いのはどういうことなのか)、この日はミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』のみを購入することにした。これは先日来、岩波現代文庫版を探していたもので、今回見つけたのは「岩波モダンクラシックス」版の単行本のほうなのだが、文庫はどこの書店を見ても見当たらないし、もうこれで良かろうと購入を決断したのだった。ほかには、ダン・ザハヴィ『自己と他者』という著作があって(この人の名前は、地元の図書館に『自己意識と他性』という著作が入っていたのを見て知った)、最近出たばかりのもののようで、めくってみると大変に興味を惹かれる感覚を覚えてこれも買ってしまおうかと思ったのだが、新刊だからきっと立川の本屋にもあるだろうと考え、ここでは留まった(しかしその後訪れた立川の書店には、何故か入荷されていなかったのである)。
 出ると六時である。駅へ向かう。(……)
 改札に入ってまもなく(……)と別れる。その後は電車内で非常に自足的な気分になっていることに気づき、人々の顔がきめ細かくくっきりと目に映って、古井由吉が『白髪の唄』で明視感ということを取り上げ、雑踏の人々の顔がことごとく「羅漢さん」に見えるというようなことを書いていたのを思い出し、あれは小説だけれど現実にそういうことも確かにあるのだろうなと得心が行く、ということがあったりもしたのだが、面倒なのでこれ以上詳細には記さない。立川で降りてラーメンを食い、本屋の前にHMVに寄りもしたが、ここでの詳細も割愛する。音楽は何も買わずに書店(オリオン書房)に入って、パク・ミンギュ『カステラ』を保持し、ここでも哲学の棚を見る。トマス・ネーゲルの著作三つ、『どこでもないところからの眺め』『理性の権利』『コウモリであるとはどのようなことか』が揃って所在されていたので、以前から少々(考えてみると、この「以前」とは遠く大学時代からのことである。大学生協の棚にも彼の著作があるのを目に留めていた記憶が今蘇ってきた)気になっていたそれらを改めて手帳にメモしておく。ほかの本屋ではもう大方売れてしまっている『ミシェル・フーコー思考集成』が、ここには棚の最上段に一〇巻中の八巻分くらいは揃っていて、こちらがもっとも気を惹かれている第一〇巻、第九巻もあるものだから、勢いに任せていまここで購入してしまおうかとも考えたが、やはりさすがに一巻六五〇〇円には心が怯む。荻窪の(……)にでも一〇巻セットで揃って三万円くらいで売ってはいないだろうか? 
 その後、Oxford University Pressから出ているVery Short Introductionsのシリーズがどこに行ったのかと移ったあとを追って語学の区画に所在を確認し、また先日は見付けられなかった『ロトの紋章』続編の居場所も発見しておいてから、ミンギュのみ買って店をあとにした。これ以降の生活についても色々と記録したかったことはあるが、この日から一二日が経過してしまった現在、億劫な気持ちが先に立つので省略し、この日の日記はここまでとする。

2017/12/3, Sun.

 まず初めに、八時台か九時の頃合いに覚めた。その次に覚醒すると、一〇時二〇分くらいだったと思う。感触としてはかなり軽い目覚めで、もう少し意志の力があればそこで起床できたはずだったのだが、結局はいつも通り、いつの間にかまた寝付いていた。正午前から段々と意識を定かなものにしていって、一二時一五分に布団から出た。最後の覚醒の時には、仰向けになって脚を曲げ、深呼吸を繰り返し行った。そうしていると、血圧の具合なのか何なのか知らないが、鈍ったように停滞している身体の感覚が確かに調って、ようやく動けるようになるのだ。初めの覚醒時からこのように深呼吸を行うことができれば、多分そこで速やかに起きられるのだろうが、と思った。ベッドの縁に腰掛けて少々息をついてから便所に行き、戻ってくると瞑想を行った。比較的温暖な晴天の日和で、外の音が聞きたいから瞑想の時は窓をちょっとひらくのだけれど、ダウンジャケットを羽織らなくとも寒さはない。緩やかな気分で一八分を座ると、上階に行った。
 (……)新聞は、まず「モスクテロ 「子どもから殺された」 エジプト 生存者が証言」というエジプトの事件の続報から追った。その後、「ワールドビュー: 屈辱が強めた民族意識」(これはカタルーニャ情勢についての記事である)、「メディア 米国のいま 広がる分断 下: コメディー 過激化 反トランプ うっぷん晴らし」と国際面の記事を追い、それから二面に移って、「エルサレム「首都」認定検討 トランプ氏にパレスチナ反発 米報道」、さらに三面の「「露と接触 中枢幹部指示」 フリン氏 偽証認め司法取引 クシュナー氏の関与 焦点」と、相変わらず海外の情報ばかり読んだ。そうして席を立って洗い物をして、風呂も洗うとそのまま玄関を抜けて、竹箒を手に取った。散らばった落葉を掃き集めていくのだが、その合間にも西から風が流れて、これから掃こうというものが流されて行く。まだ二時前で、太陽は林の樹々の頂点にその光輝の広がりが触れるか触れないかというところで、明るさは十分に残っているものの、風が厚くなればやはり肌に冷やりとする。途中で地面から目を上げると、向かいの家の入り口付近に楓の葉がたくさん伏して、貝殻のようになっている。傍らに立った楓の樹の、鮮やかな紅色に染まりきった葉の群れが、陽射しを掛けられて赤の色を明と暗の二種に分けて揺らいでいる。そうした様子を全体として眺めて、なかなか粋ではないかと思った。(……)道の先の楓の樹は、もう随分と色褪せて、不健全なような濁った色合いになっていた。
 そうして屋内に入り、手を洗って室に帰ると二時直前、緑茶を用意してから、(……)を読みはじめた。緑茶をおかわりしに行った(……)。それから自室に戻って引き続きブログを読んでいた(……)上階に行った。それでタオルや肌着などを畳んで整理しておき、アイロンを掛けるものにはアイロンを掛けた。(……)室に帰り、ブログ記事の続きを読んだ。その後、三時半から日記を記しはじめて、まず前夜の就床前のことを記述して一二月二日の記事を完成させてしまい、それからこの日のことをここまで記して、現在は四時半である。
 そののち、上階に行って、(……)紫玉ねぎと大根をそれぞれスライサーで薄くおろし、笊のなかに入れたまま水に浸けておいた。済ませると室に帰り、五時台後半からふたたび(……)を読みはじめている。そうして六時に至ると、早々と食事を取りに行ったのだが、この時何故か、気分がかなり良く、明るいようになっていた。空腹を抱えて階段を上りながら、これは飯が美味く感じられるだろうなと思われたほどだった。何故そんなに心持ちが上向いていたのか、(……)が面白かったということもあるかもしれないが、確かなところはわからない。実際、食事は普段と特に何か変わっていたわけではないのだが、大変美味く、満足の行くものだった。食べながら新聞の日曜版の冒頭の記事を読む。読売新聞は毎週日曜には通常の新聞に合わせて薄めの日曜版も発行していて、そこの一面と二面の記事はいつも、文学作品などから一節を引いて、それにまつわる事項について少々物したという趣向のものになっている。この日の引用元は道元で、載せられていた永平寺の写真(上空から撮ったもの)が結構なものだった。極彩色ともちょっと言いたくなるような紫や橙や紅が、斑に、ことによると毒々しいかに差し込まれた山の合間に、帯成す霧まで湧いて画面を白く横切っているその向こうに寺の威容が覗くという構図だが、まるで漫画の、これから物語が始まるという冒頭にでも据えられていそうな画だと思った。引かれていたのは、『典座教訓』とやらの文言で、要するに食事を作るというのも、食事を取るというのもまた修行である、一日の生活のうちすべての時間が即ち修行であるというような考えに繋がる部分だったと思うが、こうした観点についてはヴィパッサナー瞑想のことも思い合わせて色々と考えを巡らすところはある。ベルクソンおよびドゥルーズの系列が構築したと思われる差異=ニュアンスの哲学に、東洋の仏教系の思想、さらにはそこにフーコーが晩年に考えていたという「生の芸術作品化」の視点も結び合わせて、何かしらの「生(生命)の哲学」のようなものを樹立することができるのではないかと、そうした予感は前々から抱いているのだが、しかし如何せん予感だけで、文献自体にちっとも当たれないのが現状である。新聞の文を読み終えると、まだ食物が残っていたので、一口を仔細に味わうようにゆったりとした調子で食った(そして実際、一口ごとがどれも美味く、安息するものだった)。食事を終えると自室に帰って、緑茶を飲みながら日記の読み返しをした(二〇一六年一一月二三日水曜日)。それから書き物に入り、一時間半で二七日、二八日の二日分を仕上げたところで切りとした。何か身体がこごるような感じがあったのだろう、そこから、Oasis『(What's The Story)Morning Glory?』をBGMにして運動を行った。二〇分間身体をほぐし、FISHMANSなどをちょっと歌ってから入浴に行ったのだが、この時、先ほどの晴れやかで落着いた気分からは一転して、緊張の感覚が全身を覆っていた(あるいは蝕んでいた)。自室を出て居間に行くだけで、そのような感覚を覚えるのだ。風呂に浸かりながらも、この自分の心身の調子の変動の激しさは妙だなと思いを巡らせた(「変動の激しさ」などと言ったって、それはこの自分が主観的に、その都度計測器のようにして感知しているだけで、外面には表れておらず、誰にも気づかれていないのだが)。湯のなかにいても不安の感覚が抜けず、芥川龍之介ではないけれど、自分が存在しているということそのものに対する茫漠とした不安、などと戯れに思ったりもした。最近の自分は尿意の高潮などもあるし、どうもまた色々な面で不安神経症の兆候が現れはじめているような気がしないでもない、このまま行くと、あるいは何かの機会にふたたび発作を起こすかもしれないぞと危ぶんだが、そうなったらそうなったでまた薬を貰って頭を鎮めれば良いだろうという当てはあった。それにしても、不安や緊張というもののまったく存在しない平静あるいは自足の状態というのは、全然やってこないなと呆れるようになった。結局のところ自分は、不安症状自体は日常生活を問題なく遅れるくらいの水準に収まりはしたけれど、不安神経症的な性向そのものを消し去ることができたわけではない(神経質な人間は、おそらく一生、神経質なままである。ただ、自分が神経質に何かを気にしてしまうということを気にしない、という方向に認識の傾向を誘導することは可能だろう)。多分自分はこの先も、始終微細な不安をおのれの内に検知してはそれにいちいち反応して、精神の安息を求めながらも決定的なものは得られないままに死んでいくのだろうなと先行きが容易に見えるような気がして、しかしそれに失望せず、笑うようになった。ある種、喜劇的な人間類型の一つかもしれない。そうしたことは措いて、突然の気分の変動をもたらした要因を現実的に考えてみると、やはり緑茶ではないかと思われた。カフェインがそうなのか、その他の成分なのか知らないが、自分の身体とは相性があまり良くないのだ。それでも食後は何か一服したくて飲んでしまうわけだが、ともかくまたしばらく緑茶を飲むのはやめてみようと心を定めた(今までもこのように、緑茶を飲んでは体調の変化を感じて止め、しばらくして心身が良好になるとまた飲みはじめるということを繰り返してきたので、またそのうち飲みだすのではないかという気もするが)。こうしたことを思い巡らす一方で、窓の外からは風の音が耳に届いていた。林の葉叢を鳴らしている響きが、初めは小さく渡ってきていたのだが、じきに高まって、結構な流れ方になったので、もしや明日は雨になりはしないだろうなと心配された。
 心を落着けるように浴槽のなかで深呼吸を繰り返し、風呂を上がってくると、気分は多少平常の方向に戻っていた。白湯をいっぱい注いで室に帰り、胃を暖めながら何をするかと考えて、ひとまず音楽を聞くことにした。一〇時一〇分から始めて五〇分ほど、最初はいつも通り、一九六一年六月二五日のBill Evans Trioの演奏から、"All of You (take 3)"と"Porgy (I Loves You, Porgy)"を聞き、次にFISHMANS "新しい人"に耳を寄せて(この曲は大変に素晴らしい)、その後はTHE BLANKEY JET CITY『Live!!!』から数曲流した("Bang!", "TEXAS", "2人の旅", "不良少年のうた", "SOON CRAZY"; #4-#8)。"TEXAS"のギターソロなど聞くと、浅井健一のギターの音の運動というのは、ほとんど「動物的な」と言いたくなるようなものだと思った。このようにギターを鳴らすことができ、それがこの上なく様になるというのは、やはり羨ましいことではある。
 そのうちに、カフェインだか何だかの効力が抜けてくるだろうと思っていたのだが、音楽を聞き終えるとやはり心身の感覚は結構落着いていた。歯磨きをしながら自分のブログでここのところの日記を読み返し、そののちに、武田宙也『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』をしてからこの日の日記の続きを記しはじめた。ここまで書いて、現在は午前一時八分になっている。
 その後は、(……)棚に何列にもして積んである本のなかから蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』を取って、きちんと読むのではなく色々な箇所を無造作にひらいて拾い読みをした。前日に『ダロウェイ夫人』を読み終えて、新しい読書に移ることもできるところ、中断した古井由吉『白髪の唄』の続きを読んでも良いのだが、月末の会合でパク・ミンギュ『カステラ』という小説を読むことになっていたので、一二月は忙しいことでもあるし、やはりそちらを優先したほうが良いだろうと思っていた。件の本はこの時点ではまだ入手しておらず、この翌日に新宿まで出かける用があったので、その時についでに買って読みはじめるつもりだったのだ。それでこの深夜には気楽な拾い読みに遊びつつ、例によってゴルフボールを踏んでいると、先ほどの頭痛が解消されて行く。翌朝は久しぶりに九時には起きようとアラームを設定してあったので、三時には床に就きたい気持ちでいたが、疲労感が抜けていくのが快くて、結局消灯するのは三時半になった。就寝時の瞑想をしなかったが、寝床で仰向けになりながらじっと動かずに深呼吸を繰り返すのもほとんど同じようなものだろう。この頃には不安感というほどのものはほとんどなくなっていたと思う。頭がひどく冴えていたというわけでもないが、眠りはなかなかやって来なかった。深い呼吸を繰り返していると、身体感覚(肌[﹅]の感覚)が鋭敏化されるのだろうか、全身が繭に包まれているような心地になってくるのだが(自律訓練法を実践したことのある人間なら思い当たるはずだ)、感覚が鋭くなったそのために、何かの拍子にかえって奥[﹅]から(一体何の奥[﹅]なのか?)不安を引っ張り出してきてしまいそうな気配が微かにあって、変性意識(と呼ばれる状態だと思うのだが)もだいぶ深みに進んだところで肉体の静止を解いた。それで左右に姿勢を変えてしばらく過ごしたのち、ふたたび仰向けに直って静かにしていると、今度は深まりがある程度進んだところで、感覚がぱっと別のフェイズに転換する瞬間があった。何と言えば良いのか、繭の比喩を使い続けるならば、そのなかに籠められていたところから外皮を脱ぎ捨てる、あるいは脱ぎ捨てるまで行かなくとも、外皮が非常に薄くなって肉体の周囲にぴったり貼り付いてほとんど同化したような状態になったと言うか(しかしこんなものは単なるイメージに過ぎない)、ともかく、外側に出る[﹅5]というような感覚の訪れとともに、頭のなかの濁りが一掃されて晴れ晴れと明晰な意識の状態がもたらされた。と言ってやはり冴え冴えとした固い鋭さがあったわけでなく、その内から、ようやく眠気の寄ってくる兆しがあって、そのうちにうまく眠りに入ることができたらしい。

2017/12/2, Sat.

 就床から三時間か四時間ほどの時点で一度覚め(この第一の目覚めは大抵軽いものなのだが、睡眠の短さのために身体を起こす気にならない)、そこから長々と眠って一二時四〇分に意識を取り戻し、時計の時間を認識した。しばらく布団のなかで深呼吸を繰り返しながら起き上がる気になるのを待った。ベッドに腰掛け、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を少々読み、身体が落着くとトイレに行った。戻ってくるとダウンジャケットを着込んで窓をひらき、瞑想を行った。結構集中した感があったのだが、目をひらいてみると一時五分から一六分までと、短めのものとなった。
 (……)チャーハンを熱し、即席の味噌汁を用意する。前夜の煮物もほんの少しだけ残っていたので合わせて卓に並べ、新聞を読みながら食事を取った。米国のメディア状況についての記事や、ティラーソン国務長官が年内にも辞任するらしいという見通しや、天皇の退位と即位が一九年五月一日案で定まったという話などを読んだ(正確な記事タイトルは、あとでその気が起こればここに追記しておくこと/追記: 七面から「メディア 米国のいま 広がる分断 中 興味満たす デマ番組 ユーチューブ 流布の温床」、「米国務長官 早期辞任か 大統領と食い違い 「120年で最短」観測」、「ローマ法王 ロヒンギャ難民と面会 バングラで 宗教超えた結束訴え」、一面から、「改元 19年5月1日 天皇陛下 4月30日退位 皇室会議 新元号 来年公表へ」)。情報を追うのには適当なところで区切りを付けて、台所に立つと乾燥機のなかの食器の山を慎重に崩して棚に収めて行き、自分の使った分を洗った。風呂も洗ってしまうと(上階に来て最初に束子を風呂場から運んでベランダに吊るしておいたが、その時は明るい陽射しが宙を漂っていた)、緑茶を用意して自室に帰り、ベッドに腰掛けてコンピューターを椅子の上に置いた。前日の記録を付けてこの日の記事も作ったあとは、日課の類に掛かる気が起こらず、ゴルフボールで足の裏を刺激しながらインターネットを閲覧して緩やかに過ごした。三時に至るとベランダの洗濯物を取りこみに行く。この頃には空気中に光はなく、肌に触れる感触も少々寒々としていた。烏が二、三羽で頻りに鳴き交わす声が響いており、ハンガーを取り上げながら視線を上げると、声を落としながら空を渡って行く一羽があって、それを視線で追いかけた。羽ばたきながら宙を横切って行くその向こうには、半端に水っぽい灰色の雲が多くこびりついており、アメーバ状に網目を成したその隙間に薄水色が覗く。室内に入ると取りこんだものを畳み、そうして下階に戻った。
 何となくギターを触りたい気分があったので、隣室に入り、アンプのスイッチを付け(アンプやケーブル類は先日来繋いだままで、すぐに遊べるようにしてあった)、気の向くままに音を鳴らした。するともう四時が近い。自室に戻って、『ダロウェイ夫人』がもう終わり間近なので読み終えてしまおうと、読書を始めた。四時半まで読んで読了である。終盤の一連のパーティの場面はかなり良いような感触を得た。まさに最終盤、ある青年(セプティマス)が自殺したことを聞かされてダロウェイ夫人が思いを巡らす部分や、再会したサリー・シートンとピーター・ウォルシュが夫人を待つあいだの会話(とそれぞれの思念)の流れなど、文を追っていて、ああ良いな、小説を読んでいるなというような印象を覚えたのだが、しかし何がどのように良く、何がどのように小説的なのかはわからない。読書後、この日のことを先に日記に記しはじめて、ここまで書いて五時である。
 上階に行く。(……)アイロン掛けを行った。すぐに済ませて室に帰って来ると、五時半前から新聞記事の書抜きを始めた。読むだけ読んだは良いけれど、気に掛かった部分を写していない新聞が何日分も、机の上に重ねたまま放置されていたのだ。二四日と二五日の分を仕舞えて六時、ちょっとインターネットを覗いてから、一一月二六日の記事を記しはじめた。テーブルには就かず、ボールを踏んで足の裏をぐりぐりやりながら気楽に進めて、八時に到達する前には仕上げた。いくらか検閲してブログに投稿しておくと、食事である。
 煮込みうどんを食べたいという気分にこの日もまたなっていた(三つセットの生麺が一食分、残っていた)。それで台所に立ち、しばらく作業を行って、玉ねぎにエノキダケ、葱に豆腐を具とした温かいうどんを拵えた。(……)テレビはNHKの『チョイス@病気になったとき』を流している。睡眠時無呼吸症候群についての回である。そちらにちらちらと目をやりつつも、同時に夕刊の記事も追い(この日はなぜか、テレビが点いていても気を散らされることなく文を読むことができた)、「フリン氏、偽証罪認める 露疑惑で訴追 捜査協力も表明」、「安保理 北の人権侵害 討議へ 日本人拉致も議論」と二つの記事を読んだ。六面には篠沢秀夫に対する追悼記事が出ており、さらにそちらも読んだ。「戦中だった子供時代、夢は少年飛行兵になることだった。だが戦後、周囲が英語一色となり、急な変化に反発。フランス文化の奥深さを知り、「日本再興のためフランス語を学び、ヨーロッパ精神の根本を知ろう」と決めた」という来し方の紹介に、やはり時代というものが感じられるように思った(特に、「日本再興のため[﹅7]フランス語を学び」の部分)。彼が訳したブランショの『謎のトマ』という小説は、かなり以前に一度図書館で借りたけれど、その時は端的にこちらのレベルが足りずに、読みはじめてすぐに挫折してしまった覚えがあるので、いずれまた読んでみたいとは思う。うどんの汁まですべて飲み干して満腹になると、食器を洗い、流し台に溜まっていた器具の類もいくらか片付けておき、それから緑茶を用意して一旦室に下りた。茶を二杯飲みながら、今度は二六日の新聞からエジプトのテロ関連の記事を写しておいた。事件を受けて大統領自ら国営テレビの放送で、「軍は、殉教者(犠牲者)のために報復を行い、治安を回復する」と述べたと言うのだが、「報復」という言葉を堂々と宣言するのはちょっと凄いのではないか、と思った(どういう意味での「凄い」なのかは、いまいち判然としないのだが)。
 新聞記事を写す二〇分ほどの時間で腹の内がいくらかこなれたので、入浴に行った。風呂を浴びているあいだは、大概思念が脳内でよく蠢いて、物思いをしている合間に身体が自動的に動いて洗体などを済ませているような具合なので、時々自分が頭を洗ったのだったかわからなくなることがある(実際に、最後まで洗髪を忘れていながらそれに気づかず、洗面所に上がったあとの髪の感触でどうも洗い忘れたらしいと知ったということも今までに何度かある)。この時も、髪を濡らしただけで、そのあとのシャンプーを使って洗い流すという工程を忘れそうになった。そんな風になりながら考えていたのは、一つには『ダロウェイ夫人』のことである。『灯台へ』の記述を援用するならば、クラリッサにとって「捧げ物」たる「パーティ」というのは、「生の瞬間の芸術作品化」というような意味合いを持っているのではないか、というのは二六日の記事に記した通りである。一方でクラリッサはたびたび、色々な場面で「生」への「愛」を表明してもいる(それと矛盾するように「愛と宗教」など大嫌いだと感情を高ぶらせている箇所もあるけれど)。この「生」への「愛」が、彼女の「パーティ」と何らかの形で結びついていることは確かだと思われるが、その点はまだ、テクストに即した[﹅8]明晰な理屈の道筋を作り上げることができていない。非常にわかりやすい印象論(つまり、テクストとの言語的な対応を調べていない手軽な「解釈」)として、クラリッサにとって「パーティ」とは、彼女の「生」への「愛」の表現/体現なのだと考えてみると、彼女がパーティを開くのは言わば「芸術的な」動機によるものだということになるのだが、クラリッサ自身の視点から見てそうだとしても、こうした見方には批判的な別の視点が作品内には用意されている。それは勿論、ピーター・ウォルシュの下す評価であり、彼からするとクラリッサがパーティを開くのは、夫であるリチャードの「役に立つ」ためか、あるいはそれを言い換えて「世俗的な成功」を求める心のため、要するに単なる「俗物根性」によるものだと見えている(ついでに指摘しておくならば、クラリッサの「親友」だったサリー・シートンも、彼女のことを「心の底では俗物」だと評している(三二九頁))。「芸術家」としてのクラリッサと、「俗物」としてのクラリッサと、二つの像がこの作品には同居しているわけだが、テクストは(この作品の言語を書きつけた生身のヴァージニア・ウルフ当人は、ではない)その様相として、このうちのどちらのほうに寄っているのか、どちらのほうを擁護しているのか? そうした問いを思わず発してしまうものだけれど、おそらくそれは決定できないようになっているのではないか。一つの事柄に対する見方が人々によって異なるという複数性の様相を、こちらはそのまま受け止めればそれで良いのではないか(それは我々が実際に生きているこの「現実」の、(ずっと昔は違ったのかもしれないがいまやほとんど)「常識的な」あり方である)。
 もう一つ思いを巡らせたことには、上のようにクラリッサにとっては手厳しい評価を下すピーターだけれど、クラリッサが備えている「生」の「瞬間」に対する「愛」と相応するようにして、彼のほうも「瞬間」への志向性を作中で露わにしているのだ(ただ、ピーターのほうはその点に関しては、確か一度も「愛」という言葉を用いてはいないはずで、これは重要な相違ではないかと思われる)。また、クラリッサの「パーティ」に対応するものとして、ピーターには「恋愛」というものがあるという風にも、(クラリッサの独白のなかで)描かれている。要するに、この二人はある部分では(もしくはある程度までは)「似た者同士」のはずなのだ(だからこそ二人は過去において惹かれ合ったのだ、と読んだり、「似た者同士」であるはずの二人が一緒になれなかった、という点に(大袈裟な言葉を使えば)「悲劇」を感じたりする、ということも可能なのかもしれない)。そこから類推するに、ピーターには、クラリッサのパーティに対する「芸術的な」動機を理解する余地があるのではないだろうか。彼がもしクラリッサの「思い」を仔細に聞いていたならば、それを理解することは十分に可能だっただろうと想像し(これは「言語」ではなくて「表象=物語内容」に付く態度、すなわち二次創作的な姿勢だ)、そこから照らして、現実にテクスト上に展開されている二人の「すれ違い」に少々切なさを感じたわけである。
 入浴のあいだには、言語的に展開してみるならば大方そのようなことを思い巡らせ、出てくるとちょうど一〇時頃、室に戻ってこの日の日記を書きだし、ここまで記すと現在は一一時半直前である。
 その後、何をするか立ち迷いながらも、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを読みはじめた。既に終盤で、読んでいるうちに興が乗って、ここまで来たらやはりもう終幕を迎えてしまいたいなという気分になったので、一時間を費やして読了した(八七頁から九九頁まで)。この作品の物語は、悪くないものだったなと感じられ、なかなかの満足感があった(どこがどう悪くなかったのかは良くわからない)。邦訳を読んでみたいともちょっと思ったし(福田恆存訳の文庫本が兄の部屋にあったので、持ってきて時折り参照していたが、こちらとしては好きになれない日本語だったので、そのうちに見るのをやめてしまった)、原文でもいずれもう一度読み返しても良いなとも思われた。その後、一時を回った頃合いから前日の記事に掛かって、まだメモを取っていなかった後半の部分を記憶に頼って記してしまい、今しがたそれが終わったところである。現在は、二時二六分を迎えている。
 その後、歯磨きをしながら自分の最近の日記の記述を何とはなしに読み返してしまい、そうしているうちに三時半を過ぎたので、読書はせずに眠ることにした。三時四〇分から四時五分まで瞑想をして、消灯すると布団の内に入った。例によって頭は冴えており、脳内に言語が間断なく湧き上がっては渦巻き、それがちょっと気持ち悪いようですらあった。何と言うか、外界の知覚よりも頭のなかのその言語の蠢きのほうが認識の内で比重が高くなっており、外界を知覚するや否やその情報が即座に言語圏に回収される、あるいは、外界の手前に言語層が差し挟まっているというような感じがして、それがために現実感がやや稀薄だった。自分の身体感覚なども、自分自身から切り離されたもののように感じられ、例えば顔をちょっと動かした時に首もとがジャージの襟と触れ合う感覚とか、後頭部が枕と擦れ合うそれとか、そうした微細な知覚情報のいちいちが実に明晰に追われるのだけれど、それがしかし全体としては自分から分離されたもののように、あいだに少々距離が挟まっているように感覚される。こうした分裂的な精神状態、これをこちらは「離人感」という言葉で理解しているが、そうした状態に陥ることはわりあいにある。これがあまりに強く進みすぎると、何らかの精神疾患に分類される状態に至るのではないかと思い、そうするとやはりちょっと不安になったが、そうなったらそうなったでまたその状態を書き記すことができるなという拠り所のような思いもあった。こういう場合、「見る」という認識上の働きが非常に優勢になっていると感じられる。「見る」主体と、「見られる」主体が(仮想的/主観的に)分裂しているわけだが、そこにおいていつも「本体」として感じられるのは、「見る」側の主体の働きのほうである。主体というものの究極的な本質は、この「見る」動き、要するに「傍観」のそれとしてあるのではないかと思うこともたまにある。そうした話はともかくとして、寝床に伏していると次第に意識がほぐれてきたようで(と言うか、脳内の言語が明晰な形を取らないように、なるべく無秩序な「声」やイメージの連想へと意識がひらいていくように少々誘導したところがあったのだが)、入眠にひどく苦労した覚えはない。

2017/12/1, Fri.

 現在は一二月一一日の午前二時一一分を迎えており、この一日当日からもう一〇日が経ってしまっている。メモを取ってはあるが、こうなるとさすがに細かく記述をするのも面倒臭い。これ以降の日々の日記は四日の分を除いてほとんど完成しているので、さっさとブログの投稿を先に進めたいのだ。ちなみに下の、「その後用を足したりして」の段落以降は、この翌日の一二月二日に先んじて記しておいたものであり、したがってこの日の記事は、記述が推移するにつれて話者の現在時点が遡るという珍しいものになっている。
 億劫なので印象に残っていることのみ記すと、まず、朝刊の社会面に宮沢賢治の妹が回想録を残していたことが判明したという記事があった。高校の国語の教科書にも載っている「永訣の朝」にその死が描かれている(とつい書いてしまったが、しかし、本当に詩のなかでは妹が生命を失うその瞬間まで記述されていただろうか? この作のことは、例の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の「声」しかもはや覚えていない。/しかしそのように、たった一文、たった一言だけでもそこに書きつけられたテクストがそのままに[﹅5]人の記憶に残るというのは、やはり何だかんだで凄いことではないか。文学作品などというものは、極論するに、それが何であれ何らかの一文、一語を忘却に抗して人の頭に刻みつけることができれば、それである種「成功」なのかもしれない)妹トシではなく、一九八七年まで生きたシゲという妹が記したという話である。
 ほか、午後に一度家の外に出て近間まで歩いて風景を眺める機会があり、向かいの家の楓の真っ赤になっているさまを目にしたり、林のなかで黄色く染まった樹の固化したように静まっている様子に空中に直接色彩が落とされたようだと思ったり、帰り道で遠くの丘陵に紅葉の色が唐突なように差し入れられているのを見て幾許かの感慨を得たりもしたのだが、前後の仔細な展開を追うことはしない。以下、二日に記した分に移る。
 その後用を足したりして、この日は早めに、四時四〇分に出発した。(……)辛うじてまだ黄昏に入る前の明るみが大気には残っており、坂から見下ろす銀杏の黄色も窺える。(……)街道を歩くうちに、尿意が高まっていることに気づいた。実のところ、出発する前に小用を済ませていたのだが、それからすぐにまた排出したくなるこの頻尿はちょっと異常だなと思った。蕎麦茶を飲んだためなのだろうが(蕎麦茶には利尿作用がある。それに加えて、白湯を一杯飲んだことも効いたのかもしれない)、それにしても早い。途中で小さな公園の前を通る際に、ここにトイレがなかっただろうか、もしあったら寄っておいたほうが良いのではないかと迷ったが、結局は素通りした。しかし、裏通りに折れたところでやはり見ておこうと思い直し、裏路から来た方角へ戻ったのだが、多分あの公園にはトイレはなかっただろうなと目星を付けてはいた。それで敷地内に入ってみると、もうよほど暗んで蔭のわだかまっている周囲にそれらしいものはやはり見当たらないので、仕方がないと踵を返して、駅の傍まで耐える覚悟を決めた。感覚として尿意が結構差し迫ってはいたのだけれど、呼吸を深く、長く吐くことに集中していたので、不安が退っ引きならないまでに高潮するということはなかった。足を急がせるでもなく、下校する高校生らに追い抜かされる程度の歩調で進んでいたのだが、しかしもうあたりが暗くて周囲の視線を意識しなくて良いからわりあい落着いているけれど、これが昼間だったらまた違っただろうなとは思った。交差路まで来て、駅前の公衆トイレまで行くか、それとも踏切りの向こうの図書館分館に向かうかと選択肢を前にしたのだが、駅前に行くことを考えると、やはり明かりもあって人の数も裏路よりは多いから緊張する感覚があり、これは分館に寄るのが正解だなと判断した。それで、ここに来て鳴りはしないかと危惧しながら踏切りを越え、そうするとすぐ目の前の施設に入って便所を借りた。用を足してしまえばこちらのものというわけで、あとは困ることもなく職場に向かった(ただやはり、働きはじめてからもしばらく、何となく緊張の名残りのようなものが肉体に残っていたようではあったが)。
 (……)
 帰り道には月が浮かんでいる。白々と照っており、星も周りにいくつも見えて、日中はかなり曇っていたはずだが、この夜には空は晴れているようだった。徒労感を抱えながら道を行っていると、Radioheadの"The Bends"が頭に浮かんでくる。それで音楽を脳内に鳴らしながら進むと、何か知らないが最近工事作業が進行中の空き地で、コーンの頭に取り付けられた保安灯が点滅している。いくつかの色が高速で灯っては消えながら破線状に散らばっているのをじっと眺めれば、慎ましやかだが結構綺麗なものである。花火を連想させるようだった。さらにしばらく行ってからふたたび見上げた月は、半月も越えて、満月に向けてまた厚くなっているところだった。
 (……)自室に下りて着替えると、足の裏を刺激しながら(……)を読んだ。そうして一〇時半、上階に行き、煮込んだ麺の類を食べた。テレビには初め、何だか知らないがドラマが映し出されており、いかにも安直なと言うか、紋切型に嵌まりきった物語の空気が、あまり画面を見ずとも音声だけで伝わってくる(……)。こちらはそんな場面は見たくもないので、新聞に目を落としていたけれど、音が邪魔になって文字を追えない。しばらくしてドラマが終わると、その後番組は『ドキュメント72時間』に移って、これならばこちらも実に安心して目にすることができる。こちらとしては、大方のテレビドラマの類を見るよりも、このドキュメンタリーで映し出される人々の顔を五秒間でも眺めていたほうがよほど面白いと感じられる。この日は二四時間営業の印刷店が舞台だった。色々と印象に残っている点はあるけれど、一つ挙げるなら、妻に黙って深夜に電子の競馬新聞を印刷しに来ている男性という人がいた。中学生だかの時に、細かいところを良く覚えていないが何か失敗体験があり(受験に落ちたということだったろうか?)、気晴らしで競馬場に行ってみたところ、後ろのほうに遅れていた馬が終盤になって、前の馬を一気にまとめて追い抜かして勝つというレースを目撃したと言って、こんな勝ち方もありなんだなと思い、それ以来競馬に嵌まったという話だった。こうした人生の物語というものは、基本的に面白い。誰もがこのようなものを自分の内に持ち合わせているわけだが、この番組の面白さというのは、それが出来合いの、通りの良い形に成型されて提示されるのではなくて、あくまで断片的に、不完全な形で[﹅6]、しかも次々と/続々と提出されてくるという点にあるのではないか。そして何より、それらの物語/人生/人々のあいだに論理的な/必然的な繋がりは少しもなく、彼らがこの番組内で「共演」することになったのは、ある一つの同じ「場所」にそれぞれの理由/事情でいたというまったくの偶然によるものでしかない[﹅17](この番組の内容に、いわゆる「やらせ」がないと信じるとすれば、だが)。言い換えれば、彼らは、ある一つの「場」を根拠として(単純な三日間の時系列に沿って)「ただ並列されただけの存在」である。その並列された人々が、それぞれの時間の厚みを背負ってそこに存在しているということをまざまざと感じさせてくれるという意味で、この番組は、こちらが思うところ、「豊かな」番組である。面白いものとは豊かなものであり、この世界が我々の想像を遥かに超えて豊かであるということを(その都度何度も繰り返し)教え、実感させてくれるものである(「文学」と呼ばれている営みが担う「役割」の、少なくとも一つはそこにあるのではないか)。
 食後、入浴した。室に帰ったあとはしばらくだらだらと遊んだのだと思うが、午前一時の直前から文を書きはじめている。一一月二六日の記事に一時間半を費やしている。また長々と思念の類を綴るのに時間を掛けてしまい、もう少し書き方を考えなければならないなと思ったのだった(そう言いながら、上にもまた「感想」の類を展開してしまったのだが)。その後、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を一時間読んで(三〇三頁から三二三頁まで)、瞑想をして四時五分に消灯した。寝床では確かまた、心臓がちょっと痛んだ覚えがある。

2017/11/30, Thu.

 毎朝のことで、何度も覚めては寝付いて睡眠が長くなるのだが、面倒なのでその仔細な展開は追わない(と言うか、もはや良く覚えていない)。最終的にはまた正午過ぎに床を抜けることとなった。一一時台後半の覚醒にも、油断するとまた眠りに落ちかねないような感じがあったが、身体を丸めて深呼吸をしていると、腹の筋肉がへこんだり前に戻ったりするその動きで意識が確かになってきたのだった。布団から出るとベッドに腰掛けてちょっと息をついてから室を抜け、洗面所で嗽を行いトイレに入って用も足したあと、戻って瞑想に取り組んだ。深い呼吸を繰り返して一九分、一二時四〇分で区切ると、上階に行った。(……)台所に入ると前日に作った味噌汁と餃子も残っているので、汁物は措いて、ひとまず今はこれを食べることにした。薄暗い曇天の日で、米をよそるために炊飯器を開けても、釜のなかが蔭になる。諸々温めて卓に就き、新聞を寄せると、一面は当然、前日の夕刊に続いて北朝鮮が発射したICBMについての記事を載せている。「北ICBM 高度4000キロ超 過去最高 「新型 米全土射程」」というその記事と、そこから隣に接した「「ICBM絶対許さない」 トランプ氏、首相に伝達 来日時」という記事、あとは国際面から、「独大連立 交渉前に溝 メルケル与党閣僚 SPD反対案に賛成」という記事を拾って、ひとまずそこまでとした。
 日中のことは割愛し、五時過ぎに移ると、自室を出て廊下を通り階段まで行ったところが真っ暗で、明かりを灯すまで何も見えないその暗闇の感触がやや印象的だったようで、よく記憶されている。上階に上がると食卓灯を点け、窓のカーテンをそれぞれ閉めると麻婆豆腐を作ることにした。小沢健二『刹那』をラジカセから流して作業を進め、完成させると下階に戻った。しばらく遊んでから六時を越えると、早々と食事を取りに行った。ものを食べるあいだ、テレビは親方が同席した日馬富士の引退会見を放映しており、日馬富士に寄せられた質問に対して親方が横入りし、答えなくて良いと制した振舞いを取り上げて、苛立ちが先に立っているように見えるなどと分析が述べられていた。
 その後、九時半から書き物に入って、二五日の記事を進めた。途中、どこかで切ろうと思っていたところが、三時間、仕上げるまで続けてしまった。二五日が完成しても五日分、日記が現実の生活に遅れていたわけだが、あまり急ぎ、必死になって取り組む気にもなれなかったようだ。そのあと、午前一時前から音楽を聞いた。少しずつつまみ食いをするようにして色々と聞き、一時間半の長きに渡った。

  • Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "Detour Ahead (take 1)", "Waltz For Debby (take 1)"
  • Art Tatum, "Tea For Two", "St. Louis Blues", "Tiger Rag", "Sophisticated Lady", "How High The Moon"(『Piano Starts Here / Gene Norman Presents An Art Tatum Concert』: #1-#5)
  • Charlie Parker, "Now's The Time"(『Bird At The Hi-Hat』: #1)
  • Bud Powell, "Wail"(『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』: #2)
  • John Coltrane, "Giant Steps"(『Giant Steps』: #1)
  • Fabian Almazan, "Rhizome"(『Rhizome』: #1)
  • Muddy Waters, "Streamline Woman"(『Muddy "Mississippi" Waters Live』: #1-4)
  • Brad Mehldau, "River Man"(『Live In Tokyo』: #2-8)
  • Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』)

 Art Tatumのこのアルバムは、一九三三年に録音された彼の初めてのリーダー・セッションの四曲を含んでいる。なかでは特に"Tiger Rag"が評判のようだが、確かにこの演奏は相当に頭がおかしいなと思われた。
 三時半前まで読書をしてから床に就き、例によって仰向けに静止しながら深呼吸をしていると、心臓に意識が寄って少々痛みはじめた。胸の鼓動のほうに吸い込まれるようにして、精神の志向性が収束しはじめ、それとともに不安が湧いてきそうだったので姿勢を横に変えて気を散らした。横向きになっても痛みは多少感じられたようだが、この日の生活のことを思い返しているうちにうまく寝付けたらしい。

2017/11/29, Wed.

 八時台のうちに一度覚醒したらしい。その時、睾丸が痛む鈍い感じがあった。痛みと言うか、よく使われる言い方だが、しくしくと泣くような、などと言ったほうが良いのかもしれない(ミシェル・レリスがその日記に、そうした睾丸の痛みについて書いていなかったかという漠然とした記憶の感触があったのだが、少々主題の種類は違ったものの、おそらく次の箇所がそれである。「わたしにはひとりの友人もおらず、もはや誰も愛してはいず、完全にひとりきりだと本当に言うことができる。言葉では言いえぬほどに退屈している。子供の頃によくあるように、泣きたいほどに退屈している。退屈が嵩じ、自分が空虚であるせいで、内臓が、睾丸が、すべての身体器官が身近に感じられる。これほど疲れ果てた感じさえなければと思う」(ミシェル・レリス/ジャン・ジャマン校注/千葉文夫訳『ミシェル・レリス日記1 1922-1944』みすず書房、2001年、176))。同時に不安が少々滲んで落着かないという心地があったのだが、こうした体験は今までにも時折り訪れたことがある。不安によって睾丸が痛むのか、睾丸が痛むから不安が生じるのかわからないが、神経症状の類というのはどうも寝起きに、あるいは寝ているあいだによく発現されるようだ。パニック障害が最も猛威を奮っていた時期は、午前四時や五時のまだ夜も明けない頃合いに突如として目覚め(当時は体調が極端に悪かったから、当然現在のように夜更かしなどはできなかったのだ)、覚醒と同時に猛烈な痛みのなかに放り込まれているということが折に触れてあった。どこが痛むかと言えば顔の側面で、耳が痛いのか歯が痛むのかそれすらも感じ分けられないような激しいものだった。まさしく骨をえぐられるような、あるいは顔の両側から(もしくはむしろ両側面の内側から)ぎりぎりと圧迫されるような鋭く深い痛みであり、痛みとして表れる神経症状のなかではあれが一番厳しいものだったと言える。
 この朝は、深呼吸をしているうちに睾丸の痛みは和らいで、例によってまた眠りに入って正式な起床は一時を過ぎた。
 (……)
 この記事を記している現在、既に一二月六日の午前二時を迎えている。と言うことは、日付上この二九日から一週間が経ってしまっているわけだが、二九日から一二月一日までの記事をまだ仕上げられていない。記述を速やかに現在の生活まで追いつけるために、あまり印象に残っていないことは割愛し、時間が経ってもそれなりに覚えていることのみを簡潔に記すことにする。そういうわけで、日中の生活の諸々は省き(夕刊を目にすると、一面に北朝鮮ICBMを発射したという報が出ていたのは記憶に残っている。午前三時一八分に発射したとかあったと思うが、その報を見るまでまったく情報に接しておらず、このように「大きな」出来事があってもそれを知らずに過ごしていたそれまでの数時間が不思議なように思われた)、夜半から聞いた音楽のことに移る。この日に聞いたのは、以下のものたちである。

  • Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "All of You (take 2)"
  • Fabian Almazan, "Alcanza Suite: Ⅶ. Pater Familias", "Alcanza Suite: Ⅷ. Este Lugar", "Alcanza Suite Ⅸ. Marea Alta"(『Alcanza』: #10-#12)
  • Erykah Badu, "20 Feet Tall", "Window Seat"(『New Amerykah: Part Two (Return of the Ankh)』: #1-#2)
  • Erroll Garner, "I'll Remember April", "Autumn Leaves"(『Concert By The Sea』: #1,#4)
  • James Levine, "The Entertainer"(『James Levine Plays Scott Joplin』: #9)

 Fabian Almazanの『Alcanza』を聞き終えたあとは、そのままライブラリを上に移行して、何となくErykah Baduを聞いてみるかという気持ちが起こった。このアルバムは相当以前に図書館で借りて以来、ただ一度ちょっと耳にしたのみで、やはりR&Bの類は性に合わないなと思ってこれまでずっと放置していたのだが、耳が熟した現在立ち戻ってみると、結構楽しんで聞けるものである。冒頭曲は、曲自体はやや単調に感じられたものの、多分ローズだろうか、キーボードの音色のみでわりと満足することができたし、この一曲目にはドラムがないからおそらく次でビートを利かせたやつが来るのだろうと思っていると、予想通り、締まったリズムの曲が続いて、これも気持ちの良いものだった。その後、さらに上へライブラリをスクロールしてErroll Garnerを聞いたわけだが、これも相当に久しぶりに耳にするもので、今まであまりきちんと吟味したことはない。"Autumn Leaves"は、単音のラインのなかには耳を惹かれる箇所が折々あったが、リズムと合わせたいわゆるキメの部分は大仰に過ぎるように感じられた。
 床に就いたのは三時四〇分である。よくあることだが、意識が一向にほぐれていかなかったようだ。脳内に湧いては消える言葉の群れが、明晰な形を保ったままだったのだ。態勢を変えつつ深呼吸を繰り返して眠りが近寄ってくるのを待つわけだが、眠れなくとも頭のなかの独り言を定かに捉えるのを良しとするようなところがあって、言葉の生まれるがままに任せていたところ、もうそろそろ良いかなと思った境があり、そこから段々と言語が融解し、混沌とした調子になってきた。寝付くまでには、おそらく一時間ほど掛かっていたのではないか。

2017/11/28, Tue.

 覚醒すると、時計が一一時五分を指していた。この朝には珍しく、まだ早いうちに一度覚めたという記憶がなく、この時間までひと繋がりに眠っていたようだった。目覚めの感触は数日前よりも明らかに軽く、やはりとにかくゆっくりとして深い呼吸を普段から心掛け、入眠時にも実践するのが吉なのだなと確信された(ヨガに精を出すご婦人方がいるのも頷ける)。ただ、覚めたは良いものの、すぐに起き上がることができなかったのはいつも通りで、意識を落とすことこそなかったとは言え、そこから三〇分強、寝床に留まって自分の呼吸を見つめたり、微睡み未満の安穏さのなかで脳内に流れるイメージを眺めたりしていた。一一時四〇分になると布団を抜けて、(……)洗面所に行った。顔を洗うとともに嗽をして、トイレに入って用を足すと室に帰って瞑想を行った。それで正午を回って上階に行き、前日から引き続いてシチューを熱して食った。ほかに何か用意する気にもならなかったので、食事のメニューはそれだけである。二杯を食べながら新聞の国際面の記事をほとんど隅から隅まで読んだ(記事タイトルに関しては、のちにここに追記しておくこと)。(追記: 「コロンビア 地雷の傷痕 和平合意1年 失明の元警官「支援乏しい」」、「独CDU 大連立継続 模索で一致 首相、SPD党首と30日会談」、「「カタルーニャを無視ばかり」 独立是非 住民の思い 「民族主義の高揚危険」反対も」、「「ニーハオ」トイレ 早くおさらば 習氏 異例の「重要指示」」、「露空爆 死者53人に シリア東部 集合住宅が被害」、「エジプト テロ2週間前 攻撃予告 「イスラム国」 政府に批判の声」、「イスラエルの保健相 「安息日」めぐり辞任」)
 食事を終えると食器を片付け、風呂洗いをしてから室に帰り、蕎麦茶とともにコンピューターに向かい合った。インターネットを僅かに覗きもした(……)。そうして一時四〇分付近に至り、二時半を迎えるまでに僅かでも文を綴っておきたいと思っていたが、その前に運動をすることにした。tofubeatsの音源をyoutubeで流しながら身体をほぐしたのち、テーブルに就いて書き物に移るわけだが、音源の連鎖の最後として、DAOKO "水星" を流していた。この曲はtofubeatsのもので(遡るとさらに元ネタがあるようだが)、youtubeの関連動画に登場するのだけれど、それ以前にも自分はこの存在を知っていた、と言うのは、(二時半を過ぎたのでここで一旦中断)
 と言うのは、高校の同級生である(……)がこのDAOKO版の"水星"を好んでいて、カラオケで歌ったりもしていたのだ。ウィキペディアを見るとDAOKOという人は一九九七年生まれで現在二〇歳、となると(……)がこの曲を教えてくれた数年前にはまだ一〇代も半ばの若年で、随分と早くから活動しているのだなと思ったのだが、作品リストを見てみると"水星"が発表されたのは二〇一五年のことらしい。これには少々、自分の記憶と照らし合わせて納得の行かない思いが生じた。(……)からこの曲を聞き知ったのは、大学生の頃だったと完全に思いこんでいたのだ。あれがまだ二、三年前のことだとはとても得心が行かないものの、思い返してみると、多分あれが二〇一五年のことだったのではないかと思うが、もし時間があればどうだとゴールデンウィークにこちらから誘って会ったことがある。"水星"の発表は二〇一五年の二月らしいので、その時に教えられたのかと、今しがた(現在は一一月二九日の午前二時三九分である。認識としてはまだ二八日を終わらせていないので、この記事は当日に綴っている意識でいる)日記を遡ってみたところが、二〇一五年の五月初頭には(……)とは会っていない。ゴールデンウィークに会見したのはその一年後、昨年、二〇一六年のことだった。去年のうちは結婚式(七月三〇日)にしか顔を合わせていないものと思っていたがと、ここでも記憶の錯誤が挟まっていたわけだが、それはともかくとして話を戻すと、"水星"の存在をいつ知ったのか正確にはわからなくとも、それが二〇一五年以降でしかあり得ないというのは、繰り返しになるが、改めて考えてみても不可解を覚える。と言うのは、うまく説明するのが難しいのだが、自分は記憶の出来事と現在との距離を日記に結びつけて考えるところがあって、要するに、あのことは日記にこんな風に書いた覚えがあるなとか、あの頃はまだ全然文章がうまく書けていなかったから二〇一四年のことかなという具合で、当時に自分が書きつけた言葉や、その時点での文の質(と言うのは自分の場合、そのまま認識や感受性の質/きめ細かさと等しい)の記憶(手触り)を参照して、過去との距離を測る一助とするのだ。そうした観点から見た場合、(……)と喫茶店で向かい合って何かの音楽を教えてもらったとか、カラオケで歌っているのを聞いたとかいう記憶は完全に、自分がまだ文章を書いていなかった頃(すなわち、大学時代)、あるいはそこまで行かずとも、文を書きはじめて間もない頃の時期に分類されていたのだ。
 こうした計測の仕方というのは、文を書く力の進歩・発展の度合いを、過去との距離の大きさと概ね同一視するということなのだが、そう考えた場合に、例えば昨年の(……)の結婚式にしても、あれが二〇一六年という年号=数値で表される年の出来事だったというのは確かな認識としてあるが、そこから現在までの距離を測ってみると、まだあれから一年と四か月しか[﹅2]経っていないのか、という感想が起こり、もっと遠い過去の事柄であるように感じられる。これを翻訳すると、自画自賛になってしまうけれど、この一年で自分は相当に文を書けるようになったな、ということなのだ(さらに別の言い方をすれば、今の自分があの結婚式を経験したならば、もっと色々なものを感じ取り、細部をより繊細に汲み取って、もっと面白い文章が書けていただろう、ということになる)。他人から見るとどうかわからないけれど、少なくとも主観的には、数値上の距離と自分の実感としての距離感覚とが相応しないくらいに、自分はこの一年で認識の発展=主体的変容を遂げてきたわけである。日記を書くというのは(つまり自らの「生」を綴るというのは)、自分の経験上、自身に対して観察の目とそこに付随する「権力(あるいは端的に、力)」の作用を差し向け、それによって、比喩的イメージを用いるならば彫刻家が鑿でもって素材を削り取ってある形を作り出すように、自分自身の形を成型/変形させていくということなのだ。言い換えれば、「自己の解釈学」の働きを絶えず駆動させることで、体験/生と言語/文の(主体がこの世から消滅するまで永続する)往還運動のなかに自らを放り込み続けるということである。晩年のミシェル・フーコーはおそらく、「ものを書く」という行為/営みが主体形成に果たす役割について、このような事柄を考察していたのではないかと予想しているのだが、まだ文献を読んでいないので詳しいことはわからない。
 上の部分までは、この一一月二八日当日に記した記述である。ここからは一二月三日日曜日の午後八時直前から記しはじめている。二八日は、二時半過ぎまで書き物をしたあと、前日のシチューの残りを食ってエネルギーを補充した。洗濯物はこの時に室内に入れた(……)。服を着替えると、歌をちょっと歌ってから三時半に出発した。
 坂道を歩いて上って行くにつれて、道の脇から、山吹色やら紅やら渋緑やら様々な樹々の彩りが登場し、それらが前後で複数の層を成して交錯しながら流れて行く。坂上まで来ると、街道の向こうの林が目に入り、例年の比喩だが、砂でもって着色をされたようなと乾きの意味素を含んだ印象が湧く。いつの間にやら随分と紅葉が進んだなという感を受けた。近間の木の間からは、鵯らしき鳥の声が頻りに立ち上がっている。街道を渡った先の裏路地でも、先ほどよりも近くに見る森が、目にしていなかったこの数日のあいだに急速に色を変えたのではないかと思われた。前日に保安灯の彩りを見た空き地では、ショベルカーを出張らせて何かの工事を行っていた。
 帰路は半月をたびたび見上げながら帰った。その他、特段の印象はない。帰り着くと足裏をほぐしながら(……)を読み、そののち食事に行った。(……)脚を組みながら、何やら随分と落着き払って、箸や腕の運びが丁寧なような挙措の食事だった。(……)ハワイにも出雲大社があるのだということを知った(……)。
 入浴して室に帰ると、長めの労働だったので疲労感が強い。世の中の人々はもっと長く、しかも毎日働いているのだから本当に凄いなと思った。日課の類に取り掛かる気力が湧かず、ゴルフボールを踏みながらだらだらとインターネットを回り、二時をだいぶ過ぎたところでようやく書き物に入った。三〇分程度綴ればひとまず良かろうと思っていたところが、知らず一時間二〇分ほど続けていた。それでもう午前四時も近いのだが、読書をまったくしないというのは嫌だったので、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を三〇分のみ読んでから(二二四頁から二三二頁)、瞑想をする気力もなくそのまま床に就いた。

2017/11/27, Mon.

 まず最初に、七時に目を覚ましたらしい。三時間半の睡眠なので、さすがにこれではとまた眠りに就いたところ、例によって一一時に至ったが、七時間半の長さなので悪くはないと評価されたようだ。起き上がってみて身体の重さもあまりなかったようで、深呼吸の効果はやはりあるらしいと判断したと言う。瞑想も呼吸を深くするように心掛けて、そうすると布団に隠した手指の先まで、相当に温かくなったらしい。上階に行くと食事を取り、そのかたわらいつものように新聞を読んだが、いま手もとに二七日分の新聞がなく、取ってくるのも面倒なので記事の題名は省略する。エジプトの事件の続報と、天皇の退位関連の連載を読んだようだ。
 この日は緑茶でなくて蕎麦茶を用意して、室に戻ると日記の読み返しをした。二〇一六年一一月二〇日日曜日のものである。「雨のよく降るこの星で」を始めた当初の考えが記されていたので、次に引く。曰く、「ブログにふたたび文章を公開しはじめたからといって、そのために文を緻密に組み立てて書くつもりはない(そうした欲望が出てしまうこともあるのだが、それはこの日記という、日々の営みにおいては余計なものである)。自然な習慣として綴ったもののなかから、公開に値するものが生まれれば良し、一つもない日があってもそれもまた良しというわけだが、抜きだしたものを読み返してみると、そうした姿勢のわりにはなかなかによく書けているのではないかと自画自賛の情が湧いた。正直なところ、ある瞬間との遭遇を逃さず捉え、精神をうまく働かせてそこにある情報を十全に拾うことができれば、このくらいのものはいくらでも書ける。そのくらいの実力は既についているわけで、作品をこしらえるための準備は、着々と進んできたと言えるかもしれない。日記はこの先、おのれの心に引っ掛かったものを何であれ取り入れ、拡大させながらも、ますます自然なものに、以前使っていた言葉で言えば、「一筆書き」のようなものにしていくことを目標として、言葉を構成するという欲望の方は、作品が受け持つことになるだろう」。こうした姿勢でいたはずのところ、どういうわけなのかいつの間にか「文を緻密に組み立てて書く」という欲望のほうが優勢になってしまったわけだが、そうした時期を経由していまはこの当初の考え方に回帰していると言えるだろう。
 過去の日記を読んだあとは、tofubeatsの曲を流して運動をした。それからインターネットを覗いたり、Oasisを歌ったりしたのち、二時過ぎから文を記しはじめた。まずこの日の朝からのことをメモに取り、二三日の新聞から少々書抜きをしたあと、二四日の日記を進めた。三時になったら洗濯物を畳んだりアイロン掛けをしたりしようという頭があったが、実際には三時半まで書き物を続けることになった。上階に行くと、うどんを食うことにした。(……)台所に立って、Oasisの"Wonderwall"を口ずさみながら、玉ねぎと葱を切り、煮込みうどんを拵えると、卓に就いて食事を取った。その後、米がなくなっていたので新しく研いでじきに炊けるように手配しておいたり、服にアイロンを掛けたりした。そのように家事をこなしていると四時半が過ぎる。下階に行って歯磨きをし、Suchmos "STAY TUNE"を流しながら服を着替えると、出発した。
 この日は生活のあいだも呼吸をゆっくりするよう心掛けていたのだが、歩きながら欠伸が湧いてくるのも、精神がリラックスしている証ではないかと考えた。坂道から見下ろす銀杏は、暮れ方の暗さのなかでさすがにもう色が見えない。(……)寒さはさほどのものでなく、風が流れても身が震えるようなことはない。街道に来て目を細めると、道路を次々と走り去る車のライトが瞳に向けて一斉に伸びてきて、その光の筋で視界が狭くなる。裏通りに入ってからも、自らの呼吸に目を向け、腹がへこむくらいに吐ききることを意識しながら歩いて行く。下校中の高校生らが周囲を歩いており、前後から挟まれるのに大抵の場合は居心地の悪さを感じるのだが、この日はそんなこともなく、やはり心が落着いているなと確認された。実際、気分はかなり緩やかなものだったようである。空き地に差し掛かると、敷地の端のほうにカラーコーンが置かれており、保安灯の明かりがその頭で色を変えながら明滅しているのを見つめて過ぎた。坂を渡ってすぐのところに最近新しく焼肉屋ができたのだが(よくこの町で新しい商売をやろうとするものだと思う)、その建物の裏口にあたる小さな戸の隙間から、猫が顔を出してみゃあみゃあと鳴いている。そこに近づく前から声が聞こえて、通りのなかに響いていた。
 帰路もやはり、それほどの寒さではなかった。労働を終えたあとでほっとするかと言えば、むしろ行きの道よりも気怠いようで、歩調がのろくなっていた。帰宅するとゴルフボールを踏むことはせず、すぐに食事に行く。(……)夕刊にはオノ・ナツメのインタビューが出ている。『ACCA13区監察課』の単行本がすべて発売されて切りがついたのを機にしたものらしかった(オノ・ナツメという漫画家の作品は、以前に『さらい屋 五葉』というのを全巻読んだことがある)。食後、流しに食器を持って行ったが、何かすぐに皿を洗う気力が湧かず、ソファに就いてしまったものの、ここでも"Wonderwall"を口ずさんでみるとそれに引かれて頭のなかに音楽が流れ出し、その勢いに乗るようにして立ち上がることができた。食器に始末を付けると自室に帰り、緑茶を飲んで一服しながらインターネットを回った。その後、入浴を済ませて出てくる(……)。
 その後、零時前から二四日の記事に取り掛かった。書いているあいだ、時間がゆっくりと流れているような感じがあり、折に触れて時計を見る時にも、もう、ではなくて、まだこのくらいの時間かという気持ちのほうが明確に立った。このような泰然として軽い心持ちを常に保ちたいわけだと独りごちて文を落として行き、二時に至るとインターネットに繰り出して遊んだ。そうして四時から短く瞑想をして、就寝である。

2017/11/26, Sun.

 床に就いたのはもう夜明けも近い午前四時五〇分とかなり遅くなったのだが、そこから四時間ほど経った時点で一度覚めていたらしい。ふたたび眠りに入って、次に覚めたのは一一時台の後半だった。正午も目前だが、消灯の時間を考えると思いのほかに早い。前日、一年前の日記を読み返していると、この一年後と同じように眠りの長さや寝起きの悪さに悩んでおり、そこでは布団に入ってから入眠までのあいだに深い呼吸を繰り返すという方策を実行して、それなりの成果を得ているようだった。いつの間にか習慣が途切れてやらなくなっていたこの技法を、それではまた試してみるかとこの夜に行ったのだったが、やはり深呼吸というのは効果があるのかもしれないなと思った。思えばパニック障害の時期だって、とにかく不安を少しでも和らげ、発作を遠ざけるために、四六時中ゆっくりと深い呼吸を心掛けていた覚えがある。睡眠は時間にすると七時間一五分と、ここのところでは一番遅く眠ったのに一番短くなった。
 起床後の瞑想も入眠時と同様に、とにかく呼気を吐ききることに重点を置いて実行し(ヨガの呼吸というのは多分こういうものなのではないか)、すると二三分の長きを座ることになった。そうして上階に行くと、(……)おでんを温めているあいだに、前日に買ってきた納豆を一つ取り出し、酢と大根おろしを混ぜて用意し、諸々揃えて卓に就いた。新聞の二面に、エジプトのテロの続報が載せられていた。「エジプトテロ 襲撃時「イスラム国」の旗 死者305人、軍は報復空爆」と言う。それを読み、そこから国際面に移って、そこに並べられた記事のほとんどを読んだ。「過激派 標的拡大か エジプトテロ 神秘主義者が礼拝 異例のモスク襲撃」とこちらにもエジプトの事件の関連記事があり、ほか、「クルドに武器提供停止 トルコ「米大統領が伝達」」、「独、大連立維持を模索 メルケルSPD党首と会談へ」、「ワールドビュー: 欧州ポピュリズムの底流」である。あいだに、ドナルド・トランプが米誌「タイム」の「今年の人」を辞退したとあるが、これはまったくもってどうでも良い情報だと思った(しかしそのように、「どうでも良い」と思ったということを記憶し、メモに取り、書き記すことができるということは、「どうでも良い」というのもまた一つの差異なのだ。本当にどうでも良く、自分の脳がまったく関心を抱かない事柄を記すことはできないだろう)。さらに続けて二面に戻って、「基礎控除10万~15万円増 政府・与党調整 高所得者は段階的縮小」という所得税改革についての記事をも読んだ。毎週日曜版に設けられている書評欄は仔細には見なかったが(新聞の書評は、普段自分が触れないような書物を知るにはいくらか役に立つが、そこに寄せられている文を面白いと思ったことは一度もない)、ちょうどこの前日に図書館の新着棚に見かけた神崎繁『内乱の政治哲学』を納富信留が紹介していた(「神崎繁様」と冒頭に宛名を置き、一年前に亡くなった著者に対して二人称で呼びかけるという趣向を取っていた)。
 新聞に切りを付けると一時一五分くらいだったらしい。立ち上がって洗い物をし、風呂桶も擦ったのち、緑茶を持って自室に下がった。何とはなしに気分が良いような感じがしたのだが、これも深呼吸のために良く眠れたということなのだろうかと、半ばこじつけ気味にそう思った。しかし、日付上で一二月二日に入った現在、この数日の体感を顧みるに、ゆっくりと吐ききる呼吸を意識することで心身にいくらかの作用が働くことは確かだと思われる。まず端的に、心が落着くようになり、この日記にもたびたび書きつけていることだが、他者や外界に対して折々覚える不安や緊張のようなものが薄くなった(それが完全になくなるわけではない)(また、自分においては、こうした方面から見るその日の心的安定性は、道を歩いている時にすれ違う相手にまっすぐ遠慮なく視線を向けることができるかとか、通りがかりに行き会った知人と話す際の言動のリズムや声の高さといった点から容易に測ることができる)。さらに、深い呼吸によって血液が良く巡るようになるのか、あるいはこれもセロトニンなどの脳内物質の分泌による効果か知れないが、全体として肉体もほぐれて軽くなるように感じられる。それにしても、このような技法の実践に現れる自分の執心、「常に落着いた心持ちでいたい」「不安や緊張というものを微塵も感じたくない」「いつも万全の精神状態でありたい」というような願望は、それ自体がまさしく神経症的ではないだろうか?(「苛立ちという感情の存在自体に苛立つ」という心的傾向も、この性質と軌を一にしたものだろう) 一種の完璧主義とでも言うべきなのかもしれないが、こうした性向をこちらが身につけたのも、やはりパニック障害という経験ゆえであると、これは確かな実感としてそう思われる。実際、こちらが自分の現在時点での「体調」、その瞬間瞬間における心身の調子を生活の折々に確認する癖を習得したのは、パニック障害に対抗するそのなかでのことである。それは勿論、発作に対する恐怖心がそうさせたのであって、「習得」などと言うと何かポジティヴな能力を意志的に身につけたかのような響きがあるが、そうではなく、自分はいま疲れていないか、身体が凝ってはいないか、気分が悪くはないかという風にして、こちらが気づかないところから発作が忍び寄って来ている兆候を見落としていないかと、自らの状態を「監視」せざるを得なかったのだ(パニック障害という疾患の内に長期的に巻き込まれれば、誰でもそうなるのではないかと思う)(「監視」「見張り」(より広くすれば「観察」)というのは、ヴィパッサナー瞑想の実践のなかに含まれているはずのテーマであり、また、言うまでもなく、フーコー的な主題の一つでもある。と言ってこちらは『監獄の誕生』をまだ読んでいないので確かなことは言えないのだが、自分の体験と結びつけて予想するに、おそらく、「監視」という主題はフーコーの権力論と主体論を接続する蝶番の一つなのではないだろうか。つまり、「監視」という活動においては、「視線」のうちに対象を(その行動様式や心身[﹅2]の働き方を)変容/変形させるような「権力」が含まれているわけだが、主体は自らに絶えず「視線」を差し向けることによって、すなわち自分自身に対して「権力」を作用させることによって、主体そのものの存在様式を変容させていくことができる(そのようにして時には、外部から迫ってくる望ましくない(抑圧的な?)「権力」に抵抗/対抗することができる)というようなことが、そこでは考えられているのではないか。パニック障害を患って以来自分が実践してきたのも、結局はこういうことだったのではないかとまとめられるようにも思われる。こうした文脈における「書くこと」や「ロゴス」の位置づけや、こちらの神経症的性向の方向転換(?)についてなど、まだ考えるべきことはあるが、しかし既に一二月二日の深夜二時半前に至っており、疲れも高じてきたので、ひとまず今日はここまでとしよう)。
 その日の生活を記録するのみでなく、上のように、連想される思考を書き付けていては、要するに現在の時点からの「注釈」を付してばかりいては、日記の記録がいつまで経っても生活そのものに追いつかないのは必定である。ロラン・バルトが「省察」と言って、日記というものが「作品」たりうるのかということを考察した文章(『テクストの出口』に収録されていたはずだ)のなかで、もしそうしたいのだったら、人は(あるいは「私は」だろうか)非常に熱心に、必死になって、それこそそれしか見えないくらいにその営みに没頭しなければならないだろう、というようなことを結論として述べていた覚えがあるが、要するにそういうことなのだ。「日記」と称されているこのテクストを本当に(十全に)「書こう」と思ったら、自分の生活の大部分はそれに占領されてしまうことになるだろう。本を読むこともできず、ほかの種類の文章を書くこともできず、その他諸々の活動もできなくなるわけだが、さすがにそれはこちらとしても困る事態だ(一応こちらは、いつか「小説」を作りたいという願望をまだ持ち続けている)。このテクストは、もっと気楽に、毎日無理なく続けられるという種類のものであるべきなのだ(何よりも重要なのは、「毎日続ける」というその一点である)。そうでなくては、明らかにいつまで経っても小説作品を拵えることなど出来はしない。「思考」や「注釈」の類を書きつけるにしても、それが自分の頭のなかでどの程度明晰な形を成しているのか、いま書き付けておくほど「確かな」ものとなっているのか、という点を見極めるべきだろう(自分のなかで「確かな」ことが記録できればそれで良いのだ)。基本的にはやはり、「過去(記憶)に付く」こと、これが肝要だろう(しかし、この段落全体の記述がそもそもそうした方針を裏切るものである)。
 自室に下りたあとは、日記の読み返しをする(二〇一六年一一月一八日金曜日及び一九日)。その後、この日のことをメモに取り、上階に行くと取り込まれた服にアイロンを掛けた。テレビには、『マツコの知らない世界』が映っていた。アイロン掛けを終えたあともソファに就いて、ローカルな各地域のパンだとか、世界の護身術だとかが紹介されるのを眺めて少々笑った。そうして自室に戻ったが、さて次に何をしようかと立ち迷うところがあり、決められないままに隣室からギターを持ってきて弄びはじめてしまった。例によって適当に鳴らすだけなのだが、結構長く没頭してしまい、四時前に至る。Oasisのファーストアルバムを掛けながら、運動を始める。身体をほぐすと、他人のブログを読み、その後、『ダロウェイ夫人』から気を引いた部分を抜き出して記録しておいた。
 五時を過ぎると室を出て台所に行き、紫玉ねぎを隼人瓜を洗面器様のトレイのなかへスライスしていった。ほか、茄子とブナシメジを合わせて炒めることにした。(……)炒め物はバターと醤油で味付けをして、料理ののち、ストーブの石油を補充しに外に出た。タンクを持って勝手口のほうへ回る。あたりは空間全体が濃淡さまざまな墨色で塗られ、満たされている。二つのタンクをいっぱいにすると屋内に持ち帰り、自室に下がった。空腹が差し迫っていたが、ふたたび『ダロウェイ夫人』の記録を始めて、そうすると熱が入って七時過ぎまで続けることになった。思考がうまくまとまらず、その形が良く見えないので一旦区切り、食事を取りに行った。
 煮込みうどんを食べたいという気分になっていた。それで鍋に湯を沸かし、合間に玉ねぎと白菜を切る。生麺をさっと湯がいて、新しく水を火に掛け、麺つゆと粉状の出汁と味の素を加えると、野菜を投入した。その上から生姜をふんだんにすりおろして、野菜が煮えるのを待つあいだに、丼に卵を溶いておく。具合の良い時点で麺を入れ、ちょっと経ってから卵も垂らして、完成とした。丼から零れそうになるくらいに盛られた上にさらに大根おろしを乗せ、ほか、先ほど炒めたものなどを用意して卓に就いた。テレビ番組やウツボカズラや、以前シンガポール土産に貰ったその置物などについては割愛する。
 食後、入浴に行き、上がって室に帰ると緑茶を飲みながらインターネットを回った。この時、官足法のスレを眺めたが、有用なあるいは興味深い情報は特に見当たらなかった。官足法というのは、脚を揉みほぐすことで体調を整え、健康を保とうという養生法のことで、こちらが自室内で良くゴルフボールを踏んでいるのも、その手軽な実践形態の一つということになるだろう。官足法を非常に熱心に実行することで病気が治ったとか癌が消滅したとか、そのような噂が流通してもいるようだが、そこまで行くとさすがにこちらには胡散臭く思われ、仮にそのような体験をした人がいても治癒にはほかにも要因が重なっていたのではないかと推測するものだが、しかし血行が良くなるのは確かではないか。もっとも、「血行が良くなる」というのも考えてみるといまいちどういうことなのか良くわからないようでもあるのだが、疲労感が軽くなるというのは体感として確かに感じられるので、病気がどうのこうのと大袈裟なことを言わなくとも、その程度の効果が得られれば十分だろうと落とした。
 その後、ふたたび『ダロウェイ夫人』の記録を行い、続けて、武田宙也『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』の書抜きも大変久しぶりに行った。読み終えた本の書抜きを全然できていないというのは、最近の懸案事項の一つではある。そうして瞑想をしてから音楽を聞き出したが、眠気と疲労が散っておらず、目を閉じて耳も塞いでいると意識がぼやけてくるようで、音も明晰に聞こえてこないので、三曲で切り上げた(Bill Evans Trio, "All of You (take2)", "My Man's Gone Now"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5))。かと言って眠る気にはならず、それから書き物に入る。二三日の記事を仕上げ、この日のメモを取って一時四〇分、さらに二時二〇分まで二四日の記事を進めたあと、『ダロウェイ夫人』を読んだ(二一四頁から二二四頁まで)。瞑想をして三時半に就床である。


ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年

●126
 「(……)そのとき十五分の鐘が鳴った。十二時十五分前の鐘が」

  • 現在時の指定。


●135
 クラリッサは、「(……)要するに女らしい女だったということだ。どこにいても自分だけの世界を作り上げるあの才能――あれが女の持つ力でなくて何だろう」(ピーター・ウォルシュ)


●137
 「結婚生活で起こりがちな悲劇の一つだ。夫の二倍も頭のいい妻が、夫の目で物事を見るようになるんだから。自分で考える頭がありながら、口を開けばリチャードの受け売りをするんだから。リチャードの考えなど、朝にモーニングポスト紙を読めばすむことではないか。パーティにしたところで、すべてはリチャードのため、クラリッサの思い描くリチャードのためだ(客観的には、ノーフォークで農業をやっているのが一番なのに)」(ピーター・ウォルシュ)

  • 「パーティの動機」に対する、(クラリッサ自身とピーター・ウォルシュのあいだの)見解の相違。212でクラリッサ自身は、「わたしはただ生きたいだけ」、「だからパーティを開くの」と述べている。そして「パーティを開く」ということは、彼女にとっては「捧げ物」という言葉で表現されるような実質を持つ(しかし、この語が表す意味の内実は(クラリッサ本人も認めている通り)あまり判然としない)。


●138~139
 「それでいて懐疑主義なんだから奇妙だ。それも、めったにお目にかかれない徹底した懐疑主義ときてはな。わかりやすさとわかりにくさが同居するクラリッサ。(……)神々などいない、誰が悪いわけでもない――そう思うようになって、善のために善をなすという無神論者の宗教が生まれた」(ピーター・ウォルシュ)


●140
 「ダロウェイの役に立つかもしれないというだけの理由で、食卓の主人役として老いぼれ相手の時間を堪え忍ぶ(……)」(ピーター・ウォルシュ)


●141
 「(……)こうして五十三にもなると、もう他人などほとんど必要なくなる。生きていることだけで十分。人生の一瞬一瞬、生の一滴一滴、ここ、いま、この瞬間、日の光、リージェント公園――それで十分だ。いや、多すぎるとさえ言える」(ピーター・ウォルシュ)

  • クラリッサとの類似(現在の「瞬間」に対する志向性)。→ ●21: 「わたしが愛するのは目の前のいま、ここ、これ。タクシーの中の太ったご婦人」 → ●214: 「わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……」
  • しかし、クラリッサは生の一瞬一瞬を「愛している」が、ピーター・ウォルシュはそれに対して愛を抱いているとは述べていない(それで「十分」あるいは「多すぎる」とだけ言っている)。また、ピーターの場合、こうした心境を抱くようになるには、加齢が条件として必要だった(「こうして五十三にもなると」)。


●147
 「レーツィアは、何週間もひどく不幸だった。起こること起こることに暗い意味づけをし、ときに善良で親切そうな人を路上で見かけると、呼び止めて、一言「わたしは不幸です」と言いたい衝動に駆られた


●154
 ルクレーツィアは、「悪趣味や過剰な装いを目にするとけなしたが、辛辣に言い募るというより、むしろ手の動きでいらいらを表した(まじめに描かれていても明らかな駄作を見た画家が、いらいらとそれを遠ざけるときの手の動きに似ていた)」


●165~166
 「いまちょうど十二時。ビッグベンが十二時を打った。(……)十二時の鐘が鳴ったとき、クラリッサ・ダロウェイは緑のドレスをベッドに置き、ウォレン・スミス夫妻はハーリー通りを歩いていた。十二時が約束の時刻だ。たぶん、灰色の車が止まっているあそこ、あれがサー・ウィリアム・ブラッドショーのお宅ね、とレーツィアは思った。鉛の同心円が空気中に溶けていく

  • 現在時の指定。
  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の三度目。
  • 「鉛の同心円が空気中に溶けていく」の反復(三度目)。 → ●13: 「ほら、始まった。まずは警告、これは音楽的。そして時報、鳴ったら取り消せない。鉛の同心円が空気中に溶けていく」 → ●88「半を告げるビッグベンの音が降り注いでくる。鉛の同心円が空気中に溶けていく


●180
 「ハーリー通りの時計という時計が六月の一日をかじりとっていく。(……)やがて時間の山がほとんど侵食されつくし、オックスフォード通りのある店の上に設置された店舗用時計がやさしく、親しげに、一時半を告げた(……)」

  • 「六月」への言及。
  • 現在時の指定。


●182
 「ヒューの親切は忘れられないもの。ほんとうに驚くほど親切な人。いつ、どう親切にしてもらったかはもう忘れたけれど、とにかくヒューはとても親切な人」(ミリセント・ブルートン)


●183
 「他人を切り刻んで喜ぶ、クラリッサ・ダロウェイみたいな人の気が知れない」(ミリセント・ブルートン)

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の四度目。


●186
 「その意識は男相手の昼食会などよりずっと深くを流れ、レディ・ブルートンとクラリッサ・ダロウェイを特異な絆で結びつける」

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の五度目。


●195
 レディ・ブルートンは、「眠りはしなかったが、気だるく、眠かった。この六月の暑い日。太陽に照らされたクローバーの野のように、気だるく、眠かった」

  • 「六月」への言及。


●205
 「これが幸せだ、とディーンズヤードに入りながら声に出した。ビッグベンが鳴りはじめた。まずは警告、これは音楽的。そして時報、鳴ったら取り消せない。昼食会があると午後が丸々つぶれてしまうな――そう思いながらドアに近づいた」(リチャード・ダロウェイ)
→ ●12~13: 「クラリッサには確信があった。ビッグベンが時を告げようとする直前のあの沈黙、あの荘厳、いわく言いがたい一瞬の休止、あの緊張(でも、心臓のせいなのかしら。インフルエンザの後遺症があると言われたし)……ほら、始まった。まずは警告、これは音楽的。そして時報、鳴ったら取り消せない。鉛の同心円が空気中に溶けていく。人はみな愚か者、とビクトリア通りを渡りながら思った」


●210
 「世間は「クラリッサ・ダロウェイはだめなやつだ」と言うでしょう。アルメニア人より薔薇が大切らしいと言うでしょう」

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の六度目。


●212
 「二人とも――少なくともピーターは――わたしが人前に出るのが好きだと思っている。有名人に囲まれるのが好き、大物の名前が好きだと思っている。要するに、単なる俗物ということね。それがピーターの考え」
→ ●136~137: 「はっきり言えるのは、クラリッサは世間ずれした――これだ。地位や階級を気にしすぎ、世俗的な成功に目がいきすぎる。ある意味そのとおりね、とはクラリッサ自身も認めている(……)。(……)クラリッサの客間で出会うのはお偉方に、公爵夫人に、白髪頭の伯爵夫人だ。おれに言わせれば、この世で多少なりとも意味のあるものから恐ろしくかけ離れている連中だが、クラリッサはそこに大きな意味を見る。(……)もちろん、ここにはダロウェイの影響が大だ。公共心、大英帝国、関税改正、支配階級の責務……クラリッサの中でそんなことが大きくなった」(ピーター・ウォルシュ)


●212
 「でも、二人とも見当違いよ。わたしはただ生きたいだけ。
 「だからパーティを開くの」と、クラリッサはに向かって語りかけた。
 こうやって部屋にこもり、何もせずソファに横になっていると、常々当たり前のように感じているが物理的な存在となって迫ってくる。日の当たる通りから立ちのぼる騒音の衣をまとい、熱い息を吐き、そのささやきでブラインドを揺らす」

  • 「生」のテーマ。


●213
 「心の中でもっと深く掘り下げてみたら、わたしが生と呼んでいるものはいったいどんな意味を持っているのかしら。考えると、とても不思議。サウスケンジントンに誰かがいる。ベイズウォーターにも誰かがいる。さらに……たとえばメイフェアにも誰かがいる。それぞれの存在をわたしは絶えず感じている。なんという無駄、なんたる口惜しさ、と思う。みんなを一つ所に集められたらどんなにすばらしいか、と思う。だから、やる。つまり捧げ物結び合わせて、作り出して……でも、捧げる相手は誰? /たぶん、捧げ物をするための捧げ物ね」
→ ●『灯台へ』(御輿哲也訳、岩波文庫)、310~311:
 「[ラムジー]夫人は、これとあれと、またこれと、というふうに実に無造作に結び合わせて、取るに足りない愚かさや憎しみの中からでも(……)、何か大切なものを――たとえばあの浜辺での一場面、あの友情と好意の瞬間のようなものを作り出すことができた。そしてそれは長年月を経ても少しも色あせなかったので、(……)その場面自体がほとんど芸術作品のように、心の奥に宿っているのだった。
 「芸術作品[ワーク・オブ・アート]のように」とリリーは繰り返して、(……)絵と風景をぼんやり見比べながら休んでいると、絶えず心の中の空を横切り続ける昔からの疑問が、またしても頭をもたげてきた。(……)人生の意味とは何なのか?――ただそれだけのこと。実に単純な疑問だ。だが年をとるにつれて、切実に迫り来る疑問でもあった。大きな啓示が訪れたことは決してないし、たぶんこれからもないだろう。その代わりに、ささやかな日常の奇跡や目覚め、暗がりで不意にともされるマッチの火にも似た経験ならあった。そう、これもその一つだろう。これとあれと向こうのあれと、わたしとチャールズと砕ける波と――ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ。(……)」

  • 「結び合わせる」こと、および「作り出す」ことの一致。そして、これらの共通する語彙は、どちらの作品にあっても、「人生の意味とは何なのか」という疑問とともに登場している。
  • ダロウェイ夫人にとっては、「結び合わせて、作り出」すこととは、「みんなを一つ所に集め」ることであり、それはすなわち、「パーティを開く」ことと同義である。そして彼女にとって、「パーティを開く」こととは、「捧げ物」としての意味合いをはらんでいる。
  • 灯台へ』の記述を総合するに、リリー・ブリスコウの考えによると、ラムジー夫人が実現した「結び合わせて」「作り出す」こととは、「ある一つの(「何でもない」ような)瞬間/場面を芸術作品(=「いつまでも心に残るもの」)にすること」と言えるだろう。それは、「絶え間なく過ぎゆき流れゆくもの」を、「しっかりとした動かぬもの」に変えること、という表現に言い換えられてもいる。
  • 語彙及び主題の同一性を根拠にして、『灯台へ』における論理を『ダロウェイ夫人』のなかにも導入するならば、後者において曖昧だったダロウェイ夫人の「捧げ物」の意味は、「芸術作品化された生の瞬間」というようなものとして措定されることになるだろう。あるいはむしろ、テクスト外の伝記的事実に添って読むならば、『ダロウェイ夫人』(一九二五年)よりも『灯台へ』(一九二七年)のほうがあとに書かれたのだから、前者においては未だ「捧げ物」という判然としない表現で詳細な内実を明らかにせずに提示されていた主題が、後者に至ってより明確な形を持って展開されたと見るべきなのかもしれない。

2017/11/25, Sat.

 一〇時半の時点で一度目覚めて、七時間の睡眠と計算したらしい。カーテンをひらくと陽射しがあって、顔にも多少触れたのだと思うが、しかしやはりどうしても目がひらいたままにならなかった。次に時計の時間を定かに確認したのは一一時五分で、そこから二五分に正式な覚醒を迎えるまでのあいだに夢を見たが、内容はすぐに忘れた。どうにも寝起きが良くならないが、起き上がると脚は軽かったようで、体内の流れのようなものもすぐに回り出すように感じられる。一年前二年前と比べれば、全体として肉体はかなり軽く、確かなものとなってはいる。便所に行ってから瞑想をすると、階段を上った。(……)
 卵とハムを焼いて食事を取る。食いながらいつも通り新聞を読む。国際面からは、「ジンバブエ新大統領就任 平和的な権力移行強調」、「移民社会アメリカ 下 分断の家族」。次に四面に戻り、「退位へ 残された課題 3 「上皇」あるべき姿とは」。さらに二面に移り、「「自衛隊改憲議論 影響も 自民・維新 連携不透明に」、それに接する「モスク襲撃184人死亡 エジプト 礼拝中に爆発・銃撃」、そして最後に、「韓国に「慰安婦記念日」 8月14日 日韓関係 影響も」と辿って、普段よりもやや多く読んだような感じがする。すると、一二時三五分だった。立ち上がり、食器乾燥機の中身を片付けてから自分の使った皿を洗い、さらに風呂を洗いに行った。磨りガラスの嵌め込まれた窓が好天に明るく、外のガードレールの白さが、上下の輪郭を曖昧に広げた筋として横に走っていた。同じような主題(効果)は、ここのところ夜道を歩いていると、街路の端々に設置されたミラーのなかにことごとく見られる。結露で曇った鏡面に街灯や信号の明かりが朧にぼやけて、普通に映るよりも広がりを持って彩っているのが何とはなしに心惹かれるものだ。浴槽を洗い終えると、食後の緑茶を用意する。合間に外を見やると空は澄み渡っていて、晴れやかにひらけたそのなかに、ちょっとものを掠った痕のような曇りが僅かに見える。右上に弧を据えた細い曲線形のそれが、月でないかと思われたが、答えは知れない。
 自室に帰ると(……)を読んだ。すると一時半前で、出かけるかどうしようかと迷う心があった。天気が良いので陽の下を歩きたい気持ちはあったが、どうもやはり、日中ただ散歩するという気にはならず、外出するのなら何らかの目的地もしくは理由が必要なようだった。それで、昨日Nina Simoneを聞いて元ネタのほうも聞きたいと思ったBessie Smithを図書館に借りに行くかと目的を呼び寄せたのだが、それでもまだ迷いが抜けきらなかった。決めきれず、ひとまずギターに流れ、ブルース風に鳴らして二時を過ぎ、洗濯物を取りこみに行った。タオルなどを畳んで戻ってきた頃には、どうせこのような気分が湧いた時でもないとわざわざ外に出ないのだから、ともかくも出かけてみようと心を決めていた。その前に身体をほぐすことにして、この日はtofubeatsでなくて何となくくるり『アンテナ』を掛けて軽い運動をし、その後、また諸々歌を歌ってしまって二時台を過ごした。歯磨きをして街着に着替え、出発する。
 三時も越えると既に陽は薄い。北東のほうに逃げはじめており、空には雲も結構多いのだが、坂の入口あたりにぼんやりと淡い日なたが置かれてはいる。楓は内側を覗いてももう橙の色も少なくなって、注視しながら前を歩くと、空を背景にして赤の葉の折り重なりが、ちらちらと視神経に刺激を与えながら交錯するのが瞳に良い。坂の日なたに入っても、特段の温もりは感じなかったようだ。眼下の銀杏に目を向けて過ぎ、上って行きながら自らの内側を、胸のあたりの感覚を探ったが、この日は不安というほどのものは何も感じないようだった。
 西にひらいた丁字路に掛かっても、太陽は雲に留められて照射がない。もっと早く出れば良かったのだろうが、と勿体ないような気がしたが、街道まで来ると一応、それなりの日なたが用意されていた。裏に折れず表を進む。道端の家の、真っ赤に染まった植木に目が行く。家々の側面や、それらを越えた先の林はまだ陽を掛けられている。坂下の辻で信号待ちに立ち止まると、向かいの通りの一軒の窓に山際の暖色が映りこんでいたが、目を振っても家屋に遮られて直接には見えない。解体工事中の会館の前に差し掛かると、頭上の足場で作業員が鉄骨の類を取り扱っている。年嵩の、穏和そうな顔貌の警備員が、通ってしまうようにという風に身振りをしてくるので、会釈して下を通過する。過ぎたあとで、あそこでもし鉄骨が落ちてきて頭に直撃したらそれだけで死んでいたな、とちょっと思った。図書館(分館)に続く折れ口に掛かったあたりで、考えの理路は不明だが、散漫な物思いのなかに、「書く」という語は「綴る」と比べて実に散文的で良いなとふと浮かんできた。Kの子音が二つ重なるその音の軽さが良かったようで、対して「綴る」は濁点の響きが粘るように感じられたらしい。
 駅に着いて改札を抜けると、通路の途中の便所に寄ってから、ホームへの階段を上った。ゆっくりとした調子で、足取りも何か重く、老人になったような心地がする。先頭車両に乗ってしばらく、降りて駅舎を出ると、歩廊の上でカメラを構える高年の男性がいる。その後ろを通りつつ、レンズの向いた先を追うと、西の空に陽が沈んでいくところで、雲が出張って眩しくはないが縁に薄朱の灯っているのが小さく見られ、その上にも雲は出て、左右に搔き乱されたように荒くなっていた。図書館に入ると、雑誌の区画から『思想』と『現代思想』の表紙をチェックするのだが、見ることは見ても今まで一度も実際に借りたことはない。文芸誌にはあまり興味を惹かれないので素通りして、CDのコーナーに入り、Martin Scorseseが編集したBessie Smithの音源を獲得した。一度に三枚まで借りることができるので、どうせだからもう二枚何か借りようと見てみると、James LevineというピアニストがScott Joplinを演じたアルバムが見つかり、これも借りてみることにした。そのほか、現役の演者のものでは類家心平やら大西順子やらBill Frisellやらのアルバムが見られ、また、女性ボーカルに合わせてHelen Merillにするかとか、Esperanza Spaldingの作品も結局聞いていないなどと考えたが、ひとまずロック/ポップスのほうに移行してみると、ここに区分を間違えられてArt Tatumがある。古い時代の音楽でまとめるかということで、その『Gene Norman presents An Art Tatum Concert』を三枚目として、CDを小脇に抱えて階段を上った。新着図書の棚を一通りチェックしてから、先に貸出機で手続きを済ませ、CDをバッグに収めてから棚の前に戻って、気になった書名を手帳にメモしていった。長く陣取ってメモしているあいだに、当然ほかの人々もその場にやってきて棚を眺める。邪魔にならないようにとちょっと後ろに退きながらもメモを続けるわけだが、そうしているあいだに、顔が熱くなって赤面しているのが感じられた。何しろほかに、そんな風に熱心に書物を見分している人間などいないから(しかし自分がこのようにやっているのだから、見たことがないだけでほかにも何人か、そういう人間はいるはずだろう)、珍しい人だとか変な人だとか思われやしないかと、そんな意識が働いたのだと思う。要するに自意識過剰なのだが(自意識過剰でなければ、多分パニック障害になどなりはしない)、同じような行為をしていても、こうした恥の感覚があからさまに発揮される日とそうでない日があるのはどういう要因によるものなのか、いまいち良くわからない。この時記録された書物は以下の通りである。

・土田知則『現代思想のなかのプルースト
・ウラジーミル・ソローキン/松下隆志訳『テルリア』
ブルガーコフ『劇場』(白水Uブックス
松田隆美『煉獄と地獄』
・指昭博・塚本栄美子編著『キリスト教会の社会史』
・クレイグ・オリヴァー/江口泰子訳『ブレグジット秘録』
・ハーバート・フーバー『裏切られた自由 上』
神崎繁『内乱の政治哲学』
・『火の後に 片山廣子翻訳集成』
・カマル・アブドゥッラ『欠落ある写本』(水声社
・鈴木範久『日本キリスト教史』
・フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

 それから哲学の区画を見に行く。ブノワ・ペータース『デリダ伝』を読みたいものだと大層厚いそれを手に取ってめくる。それから東洋哲学のほうにずれる。日本国と呼び慣わされている地理・文化的圏域に一応は生を享けて育ってきた身だから、この国の(あるいはより広く、「アジア」や「東洋」と呼ばれている地域の)先人たちがどういったことを感じ、考えてきたのかということにも触れたいとは思っている。並んでいるなかでは、長谷川宏『日本精神史』上下巻が、見取り図を掴むには良さそうに思った。また、前田勉という研究者の平凡社選書から出ている二冊、『兵学朱子学蘭学国学 近世日本思想史の構図』と『江戸の読書会』にも少々興味を惹かれた。そのほか、無骨で巨大な本居宣長の研究書などもあった。
 出先で書き物をできたらと、コンピューターを持ってきていた。それで空いている席はないかと窓際を辿って行くのだが、予想通りすべて埋まっている。書架の角からテラスのほうを覗いてみても混んでいるので、そのなかに入って行って作業をする気にはなれない。どうしようかと考えながら海外文学の列を眺め、ひとまず隣のビルにある喫茶店を見に行き、実際にその場を目にした時の気分で滞在するか否か決めようと相成った。それで退館し、歩廊を渡ってビルに入り、喫茶店をガラスの外から眺めたところ、それほど混んでいるわけでもないのだが、やはりどうもなかに入る気持ちが起こらない。先の自意識過剰にも、この日の内向的な精神状態が表れていたのだと思うが、人間たちのあいだに座って作業をするということに気が向かないようだった。やはり自室が一番良いのだろうと落とし、買い物だけして帰ることにした。スーパーのほうに進んで行き、籠を取って、まず三個でセットの豆腐を二組取り、次に生麺のうどんを獲得した。それから納豆を入手しようと思ったところが、納豆の区画の前には人がいたので、方向を変えて野菜のコーナーに入り、長茄子を二袋確保してから戻って、納豆は一パックを取った。そこまで来たところで、何か寿司が食いたいという欲求が湧いており、フロアの端に設けられた区画の品々を見に行ったものの、一旦保留として棚のあいだに入り、麻婆豆腐の素を籠に加えた。それからスナック菓子の類を見に行ったが、棚を眺めてみてもこれを買おうという気が起こらないので不要と判断し、フロアを渡って行ってヨーグルトを一つ、入手した。そうして寿司に戻った(……)こちら個人の分と、ほかに一応ネギトロの中巻を一パック買って帰ることにした(……)。鰤やら真鯛やら鯖寿司やら(これはもしかすると、関サバというやつだったのだろうか)、九州の味覚を取り揃えたという触れ込みのものを選び、そうして会計に行った。列に並んでいる途中で、隣のレジが空いたようで女性店員が拾い上げてくれる。その女性は感じの良い、穏やかそうな雰囲気の人だったのだが、会計はやはり、何か緊張があるというか、居心地の悪さの感じが否めなかった(しかし過去、パニック障害の時代に、会計の列に並んでいて大きな不安を招いたということはなかったように思う)。支払いを済ませると品物をバッグとビニール袋に仕分け、両手を塞いでビルを出た。
 既に宵がかった暗さである。空の中央にペンキをぶち撒けたようにして、大きな雲の影が挿し込まれ、その外縁はところどころ蔓のように細くなって伸びている。雲の裏には黄昏の青さが残っているものの、内実を抜き取られて醒めたような淡色で、微生物の集合めいて浮遊する橙の色素が山際にまったく窺えないではないが、残照と言えるほどの厚みはもはやなかった。円形の歩廊を駅舎のほうへ回っている僅かなあいだにも、微かになり、消え行くようにすら思われた。
 ホームに入るとベンチに就き、脚を組めば自ずと腰が前に滑って座りが浅くなる。そのように偉そうな姿勢で座りながら、何をするわけでもない。欠伸を漏らすと涙が瞳の表面に張られて、正面に見える街灯や駐輪場の白い明かりがいくらか水っぽく艶を帯び、まばたきをする瞬間にこちらの眼球に向けて一斉に筋を伸ばしてくる。やって来た電車に乗って降りると、乗り換えを待ってまたベンチに就いた。横に座っていた中学生二人が、去って行く間際に、見えなくても聞こえるな、というようなことを口にする。確かに、線路を挟んで正面の小学校の校庭から、既に闇が降りてものの姿も動きも視認できないその暗がりの内から、子どもらの遊び声が湧いては昇り、音のみで動き回っている。ジャンケンをしたり、やっほー、と声を合わせたりしたあとに、何が面白いのかわからないが、必ず皆で一斉に大きく笑い声を重ねるその邪気のない様子に、こちらも心和んでちょっと笑みを浮かべそうになった。それから、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読みはじめる。空気は冷たいのだが、しかし待合室に入る気にはならない。文庫本を持つ手が大層冷えるのに、片手をコートの内に差し込み、脇で挟むようにして守って、交代させながら文を追った。
 (……)最寄りからの帰路に、特に印象に残ったことはない。自宅まで来て、ポストから夕刊を取って玄関の鍵を開けると、その音が静まった夜の路上に、思いのほかに定かに響く。居間の卓上に荷物を置くと食卓灯を点し、まず窓のカーテンを閉ざした。それから買ってきたものを冷蔵庫に収めたのち、室へ行き、何故か知らないが入浴まで街着を着たままで過ごそうという気分があったので、コートだけを脱いでダウンジャケットを羽織った。そうして上階に戻り、台所に入ると、風呂の湯沸かしスイッチを押す。(……)麻婆豆腐を作ることにした。ここの行動の連鎖は記すのが面倒なので省略するが、白菜も加えたものを作り、そのまま食事に入った。麻婆豆腐は丼に盛った米に掛け、ほかに大根と紫玉ねぎをスライスしたのみの簡素なサラダを添えた。寿司は美味だった。真鯛から食べはじめて、二貫を平らげて鰤も食い出すと、胃が空だったところに栄養価が高いものを入れたためか、刺激がちょっと強い感じがした。つまり、気持ち悪くなるのではないかという予感が微かに兆したのだが、それで麻婆豆腐のほうに一旦寄り道し、野菜も腹に入れて調子を取って、その後は問題なく食事を進めることができた。夕刊にはエジプトのテロの続報が出ていた。「エジプト モスクテロ死者235人に イスラム過激派犯行か」というものである。現場はシナイ半島は北部アリーシュ近郊、ビルアベドという町のラウダモスクと言う。この地域はスーフィー教徒が多いらしく、イスラム国関連の組織は彼らを異端視しているので、今回の犯行に及んだのだろうという話だった。一一面にも関連記事があって、「集団礼拝に手投げ弾 エジプトテロ 逃げる信者を銃撃」と題されている(「ラウダモスク」という施設の名前はこちらに載っていた)。こちらには、目撃者の証言がいくつか紹介されているのだが、そのなかの一つ、「あらゆる場所から攻撃され、多くの人が逃げ切れずに死んでいった」というものが印象に残った(特に、「あらゆる場所から攻撃され」という部分に(この事件の襲撃は、包囲攻撃[﹅4]である)、傍点による強調が見えるかのようだった)。
 食器を片付けて室に帰り、(……)日記の読み返しを行った。二〇一六年一一月一七日である。そのまま続けて、岡崎乾二郎「抽象の力」を読みはじめた。途中の記述に触発されて、過去に自分が考えたことを(と言うよりはむしろ、書き記した文=言語のことを)思い出した。この日のメモを取った時点では、回帰してきた思考を改めてまとめ直そうと思っていたのだが、今の気持ちとしてはそれはやはり面倒臭く思われるので(現在は、一一月三〇日の午後一一時三〇分である)、触発の元となった岡崎の記述と、自分の過去の文章を合わせて引いておくことで間に合わせとする。これは、二〇一六年六月二八日に(……)に送ったメールの一節である。

 「(……)事物に関わり、何かを形づくることはむしろみずからを陶冶する=形成することに繋がるのだ。これは柳宗悦が見出した、手工芸制作過程に内在する倫理性とも通じるものだった(『民藝とは何か』1929)」

 「しかし《フレーベルの教育遊具》は、その演習が、あまりに詳細な操作方法まで指定されていたことによって形式的すぎる、儀式的であるという批判もされていた。ここまで詳細に事物との関わりに指示を与えてしまうと、児童の自発性、自由はむしろ抑制されるのではないか。後続するモンテッソーリの《教育遊具》はそもそもマリア・モンテッソーリ(1870-1952)が知的障がい児の知能向上育成にあげた驚異的な成果をもとに発想されており、事細かな指示がいっさいなくても、ただ遊具と具体的に接していれば自動的に思考や感情が促されるように工夫されていた[fig.109]。まさにモンテッソーリの《教育遊具》は主知的な指導がなくても事物が身体を触発し、知性を生成させるという発想に基づいていたのである。
 《感覚教育》として知られる、そのメソッドは以下のようなものだった。身体的な運動およびその感覚から、抽象的な概念、法則性の理解を自動的に促すこと。そして身体的な交渉、試行錯誤を繰り返すことで、その過程で与えられる具体的な感覚、感性的感受から高度な抽象概念の習得へと導くこと。すなわち事物との関わりこそ知性を維持し育成するきっかけになる。むしろ知性を誘うのは事物である。人は事物に触発され考えさせられるのだ。触発すなわち事物が与える感覚が人間を育てる」


 事物の具体性と一般性、そのそれぞれを明晰に認識する能力を鍛え、――通りの良い言葉を使えば――統合させることこそが、必要なのではないでしょうか。しかし、僕の個人的な感覚からすると、この「統合」という言葉はあまりしっくり来ておらず、その代わりに「交雑」とでも言ってみたいような気がします。つまり、一つには勿論、具体的な個々の事物に対する観察力を養い、またそこから一般的な図式や概念などを見出し、抽出すること。そしてもう一つには――逆説的で、矛盾している表現かもしれず、したがってこうした考えが有効なのかどうかについても自信がないのですが――観念の具体性とでも言うべきものを、掴むこと。抽象的な思考に長けた人は、まるでそれを舌で味わうかのように、観念と接することができるのではないでしょうか? 鋭敏な数学者は、ある種の数式に美しさや、エロスさえも感じるということも、聞いたことがあります。こうしたことを考えるのは、抽象的な情報の塊に過ぎないはずの言語に対して、僕自身(そして多かれ少なかれ、ほかの人もきっと)、それがまるで手に触れられる物質であるかのような、特殊な質感を覚えることがあるからです。

 ここにおいて、僕が「統合」という言葉を採用しなかったのは、それがはらむ静的な感触に不足を感じたからなのだと思います。統合という語は、複数のものをまとめて、ある一つの定まった形を作りあげること、というような意味を持っていると理解していますが、我々の認識は固定された一つの形に行儀良く収まるというよりは、もっと流動的に入り組んでおり、複数的でさえあるものではないかと感じるわけです。そうしたニュアンスを表現するために、別の語が必要とされ、ここでは差し当たって「交雑」という言葉が選ばれました。したがって、ここで僕の言う「交雑」は、具体的なものをその具体性とともに一般性において把握する能力、また、抽象的なものをその抽象性のみならず具体性において捉える能力、そして、それらの認識のあいだの諸段階を滑らかにスライドするように、絶えず動的に行き来すること、というほどの意味になるでしょう。

 このようにして考えてくると、ここでの思考が前提としてきた二項対立は、我々の認識上、あるいは言語上の罠であるのかもしれません(だとしても、ある程度有効な罠だとは思うのですが)。なぜなら、具体的とか一般的とかいうことは、おそらく常に相対的な事柄であって、ある一つのものに対する位置取りの違いに過ぎないように思われるからです。二つの領域は、対立的なものと言うよりは、相補的なものであるのかもしれません。そうだとすれば、小説家の性格と関連させて、物事の具体的な側面の感受ばかりを強調したのは、あまり適切ではなかったとも考えられます。優れた小説家は、具体物のみならず、抽象概念に対する鋭利な感受性をも、持ち合わせているはずだからです。むしろ、先に述べた「交雑」を言い換えるようにして、そうした小説家の持つべき資質、そして優れた文学が担っており、時には読者に教えることもあるはずの性質を、比喩を交えて次のように言い表してみることができるかもしれません。すなわち、泡のように微細な世界のニュアンスを汲み取る繊細さ――あるいは、夕刻の空に描かれる青と紫と薔薇色の階調にも似て、最小の具体性から最大の抽象性まで連なる、差異のグラデーションを見分ける視力、と。

 岡崎の論文中、この日読んだ部分のなかには、パウル・クレーが息子のために作ったという人形の画像が載せられていたのだが、これを見て、一人でくすくすと笑ってしまった。グロテスクと言うか、悪夢にでも出てきそうな感じのもので、とても子どもに与えるようなものには思えなかったからである。ほか、fig.133の、長谷川三郎の写真は格好良く思われ、また、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキというポーランドの画家の絵画も良い感触を受けた。
 八時半に至ると入浴に行き、戻ると、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを久しぶりに読んだ。九時四〇分まで三〇分ほど、足の裏をゴルフボールでほぐしながら読んだのだが、外出したためだろう、疲労感があったので、瞑想をすることにした。枕の上に座しているあいだ、身体の諸部分の肌の表面に、微細な痺れと言うか、泡立ちのようなと言うべきか、ともかく疲れが溜まった時の鈍いような感覚がある。それで一二分しか座っていられず、瞑想を済ませても眠気が抜けなかった。ベッドのヘッドボードに凭れて、脚を前に伸ばしながら五分ほど微睡みに入る。
 その後、便所に行ってから上に行く(……)残った三切れをこちらが食べることにした。(……)テレビを漫然と眺めていると、白鵬が四〇回目の優勝をしたと流れて、そんなにたくさん優勝しているのかと驚いた。寿司を食うとすぐに室に帰って、用意した緑茶を飲みながら、借りてきたCDをコンピューターにインポートした。その後、この日の生活のメモを取ったのち、音楽を聞いた。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "Gloria's Step (take 2)"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)、Bessie Smith, "Need A Little Sugar In My Bowl", "Backwater Blues"(『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』: #9, #15)、Big Bill Broonzy, "Backwater Blues"(『Big Bill Broonzy Sings Folk Songs』: #1)、Brad Mehldau, "Someone To Watch Over Me"(『Live In Tokyo』: #1-6)、Radiohead, "Paranoid Android"(『OK Computer』: #2)で、五〇分ほどである。Martin Scorsese編纂のBessie Smithのこのアルバムの冒頭には、「善良な男はなかなかいない」("A Good Man Is Hard To Find")という曲が据えられているのだが、これはフラナリー・オコナーの小説の題名と同じである(そちらでは、「善人はなかなかいない」という訳になっている)。元ネタであるに違いないと思う。最終曲の"Backwater Blues"というのはBessie Smith自身が作った曲らしい。このタイトルにどうも見覚えを感じていたのだが、ちょうどライブラリで上下に接しているBig Bill Broonzyのアルバムの先頭曲がそれだったので、ここで見知っていたのだなとわかった。それも聞いたあとに、思い立って、Brad Mehldauの独奏を聞く。一〇分に及ぶ演奏の中途で感動が迫ってきて、ナイーヴな話だが、涙が少々湧き出すのを禁じ得なかった。
 日付が変わった頃から書き物を初めて、一一月二一日から二三日までの記事に二時間半を費やした。(……)四時に到達する直前からまた『ダロウェイ夫人』を読んで、五時も間近になっての遅い就床となった。

2017/11/24, Fri.

 ほとんど毎日のことだが、一〇時頃から意識をたびたび取り戻しつつも起床に結びつかず、最終的には寝床に就いたまま一時を迎えた。意識の混濁と闘っているうちに、いくら頑張っても閉じていこうとする動きを抑えてくれなかった瞼から、突然重さが抜けてひらいたままに保たれるようになる境の瞬間というものが明確にある。起き上がってベッドの縁に腰を掛け、肩をぐるぐると回して肉をほぐした。午後に起きる生活の何が良くないと言って、世間一般的な基準から見たところの「だらしなさ」という点にもまったく引け目を感じないではないが、それよりもやはり、一日の活動を開始してからいくらも経たないうちに夜になってしまうということである。もっと陽射しを浴びたい、浴びるまでしなくとも、瞳に太陽光の明るい感触をもっと感じたいという気持ちはある。その一方で、深夜の静けさというものが非常に心を落着けるので、つい夜を更かしてしまうわけだが、明るさに触れることの少ない生活というのは、確かに精神にも影響があるように思う。日照時間の減る冬季にのみ発現する鬱があるというのも頷ける話で、この昼に起きたこちらも、身体が固いこともあって何となく不安を感じないでもなかった。
 便所に行ってから二〇分の瞑想を済ませて、上がって行くと、(……)前日のおじやや、豚肉と玉ねぎの炒め物の残りを電子レンジで温め、また、冷凍されていたカレーパンも同じように熱して、食事を取った。卓に就いて新聞に目をやる(……)。
 新聞記事はいつも通り国際面から読みはじめて、まず、「カタルーニャ議会選 来月21日 独立の賛否 伯仲」の記事に目を通していたのだが、その合間にふと顔を上げて窓のほうを向くと、空中に薄白い漣めいた大気の動きが生まれているのが見える。どうもどこか近くでものを燃やしていて、その煙が流れてきているらしいと判別し、洗濯物に臭いがついてしまうのではと思ったが、立ち上がってベランダのものを避難させるのが億劫に感じられて、そのまま捨て置いた(その後すぐに、煙の動きはなくなったようだった)。それから、「独大連立継続 説得へ 大統領 SPD党首と会談」、「パレスチナ 来年議長選 和解協議 6月以降、評議会選も」と読み進め、二面に遡って、「ジンバブエ 前副大統領が帰国、演説 ムガベ独裁に決別 表明」の記事を読んで切りとした。(……)
 食事を終えて食器を洗うと、既に二時に至っていたらしい。風呂場から束子を持ってきてベランダに干しておくとともに、吊るされたタオルに触れて乾き具合を確かめたが、半端だったので、まだ留めておくことにした。風呂を洗ってから(……)緑茶を用意して自室で一服する。おかわりを注ぎに行ったところで(……)タオル類を畳んで整理した。自室に戻って二時四〇分から日記の読み返し(二〇一六年一一月一六日水曜日)をしたあとは、三時を迎えて掃き掃除に出た。空気にさほどの冷たさはなかった。箒を動かしていると、背後のほうで車が曲がった気配を感知して、ふと振り向けば、坂の下り口のところでその車が停まっている。運転手がこちらを見ているようなのに、思い当たるところがあって見返していると、手を挙げてきた。(……)のお祖父さんである。(……)というのは、保育園から中学校まで一緒だったこちらの同級生で、幼い頃はすぐ近所にあるこのお祖父さんの家に遊びに行き、サイダーなどのジュースを良く飲ませてもらったのだ。今となっては別に付き合いがあるわけでもないが、このように、時折りこちらを見かけると挨拶を送ってきてくれる。それでこちらもこんにちは、と声を届かせ、会釈をしてから掃除に戻った。(……)また、その件よりも先だったかあとだったか定かでないが、やはり終盤、自宅から東側の路上に見える楓に陽射しが掛かっているのを眺めた。空はやや雲がちで、楓からまっすぐ視線を伸ばしたその先には、石切場から切り出した石材のような雲が浮かんでいた。それほどに時間を掛けずに掃除を終えると、屋内に入って手を洗った。
 三時半よりも前には自室に帰っていたはずだ。多少インターネットを逍遥したのだが、次に日課の記録に登場する時間は四時半過ぎ、これは音楽を聞き出した時刻である。この日のことを思い返してメモを取った際に、これは遊びすぎではないかと思った。そんなに長くインターネットを回っていた記憶もないのにおかしいなと引っ掛かり、ブラウザの履歴を確認してもみたのだが、三時台後半からはまったくの空白になっており、何をしていたのか自分で自分の足取りが掴めない。しかし、のちになって就寝前の瞑想中に思い出したけれど、ここの時間は隣室に行ってギターを弾いたのだった。それも、確かこの日のことだったはずだが、一弦の切れて指板の汚れもひどいテレキャスターを大層久しぶりにアンプに繋いで弄ったのではなかったか。即興演奏などと言えるほどのものではない、ブルース風のフレーズを適当に散らかして遊んだのち、この日は早めの時間から音楽を聞く気が向いた。五時半までの一時間ほどで、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "Solar"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)、Fabian Almazan, "Alcanza Suite: Ⅳ. Mas (feat. Camila Meza)", "Alcanza Suite: Ⅴ. Tribu T9", "La Voz De Un Bajo (Linda May Han Oh)", "Alcanza Suite: Ⅵ. Cazador Antiguo", "La Voz De La Percusion (Henry Cole)"(『Alcanza』: #5-#9)、Ibrahim Maalouf, "Intro", "DIASPORA", "Improvisation kanoun", "HASHISH"(『Diaspora』: #1-#4)である。Nina Simoneのこのナンバーは、大変に素晴らしいと思う。元々この曲はBessie Smithが歌っていたものらしいのだが(Nina Simoneが間奏中に、"Bessie Smith, you know"と呟くのでそれと知られたのだ)、そちらの音源も聞いてみたいものだと思った(そして、図書館にちょうどそれを含んだCDが所蔵されていたので、翌日に早速借りてきて聞くことになる)。前日に続いて聞き進めたFabian Almazanの作品中、この日聞いたなかでは六曲目が面白く感じられ(しかし何が面白かったのか細かなところはわからない)、続くLinda Ohのベースソロも耳を惹くところがあった。音楽に集中して耳を傾ける時間というものは、端的に言って最高[﹅2]である(最高に「気持ちが良い」)。正直なところ、小説を読んでいるあいだよりも満足の度合いは高いと感じられる(そのわりに、音楽を聞こうという気が起こらない日もあるのが不思議だが)。それはやはり、表象によらない感覚的直接性の成せるわざなのだろうか、あるいは言葉というものの肌理を汲み取るこちらの感受力がまだまだ未熟だということでもあるのかもしれない。
 その後、いくらかの料理をするために上階に移った。(……)米は既にといであるものが笊に入って置かれてあったので、それを釜に移し、水を張って炊飯器にセットした。そして、フライパンで茹でたあとの大根の葉を取り上げ、両手で強く圧迫して水気を絞り、それを端から刻んでいった。ハムも細かく切り分けて、胡麻油でもって双方炒める、と簡単な具合に一品を拵えると、すぐに自室に帰ってヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読みはじめた。七時を回るあたりまで書見を続けて、一二七頁から一四八頁まで渡った。その後、瞑想に入ったのだが、空腹のためかじっと座っているだけでも身体が少々苦しいように感じられたので、すぐに一度、切り上げるかと顔を擦ったものの、そうしているあいだにやはりもう少し頑張ってみるかと気が変わって続行した。記憶を探りながら一五分を過ごすと、食事を取りに行った。メニューは、先ほど用意した大根の葉の炒め物のほかには、カキフライおよび白身魚のフライの惣菜があった。テレビには何かしらの料理番組が映っており、谷原章介が出演していて、彼が黄色のパプリカを切りはじめたところ、その包丁の動きが高速で無駄なく流れ、実に手際が良い。いかにもイケメンらしい(「イケメン」のイメージ(=「物語」)に過たず合致している)、と思ったものだ。新聞の一面には、「北国境の橋 中国が閉鎖 きょうから10日間予定 貿易制限 警告か」という記事が載っており、その本文を追いたかったのだが、どうも気が散らされて読むことができなかった。
 食後、散歩に出たのが、七時四五分頃だったと思われる。休みが続いていて出歩かないので、身体が全体的に鈍り、こごっているように感じられ、そろそろ道を歩いて肉体をほぐさなくてはという気持ちが高まっていたのだ。しかしこの夜は、凄まじい寒さだった。ダウンジャケットを着ていても身体が勝手にぶるぶると震える強烈な冷気であり、肩が自ずと上がって首もとを固めるようにこわばる。倒れるのではないかと、歩きはじめにちょっと頭に過ぎったくらいだった。それで一歩一歩慎重なように踏んで行き、坂を上りながら短い襟を持ち上げて口もとも覆わせる。空は例の、透き通って凍てたような冬の夜の色合いで、雲は欠片が一つ擦られたようになっている程度でほとんど見られないそのなかを、飛行機の明滅が露わに通って行く。とてもでないが、悠長に長時間の散歩に洒落込むような気温でなかったので、ルートをカットして早めに表の通りへ出た。街道まで来たあたりで、身体も温まってきたようで、震えは一応止まっていた。と言ってそれでもやはり寒くて、周囲の物々に注意を向ける余裕もあまりなく、歩調も速まっていたのではないか。帰ってくると八時五分だった。すぐに風呂に入ると危ないように思われたので、緑茶を飲みながら書き物をちょっとして身体を落着け、それから入浴に行った。(……)出ると(……)白湯を持って室に帰り、書き物の続きに取り組んだ。二〇日の日記である。一〇時半過ぎまで一時間半ほどを掛けると、身体が固まったのでベッドに移り、読書をしながら脹脛を刺激した。わりあいにゆっくりと、言葉を良く見ながら読むことができたようである。この時は『ダロウェイ夫人』を一四八頁から一七六頁まで進めた。すると零時前、途中で起き上がってゴルフボールを踏みもしたところ、身体がだいぶ軽くなっていたので、ふたたびコンピューターと向かい合った。この時には、それまで椅子の上にコンピューターを載せてベッドの縁に座りながら作業をしていたのをやめて、テーブルに就く形に戻した。と言うのは、ベッドに腰を下ろしながらモニターを前にすると、座る場所の感触や機器との距離などの条件によって、顔が自然と前に突き出してしまい、姿勢も猫背になって、そうすると身体全体が容易にこごってしまうからである。それで書き物はやはりスツール式の椅子に座って背すじを伸ばした状態で取り組むことにして、この時もそのように進め、その途中で新聞を持ってくるために上階に行った。(……)そうして、白湯を新しく注いで室に戻り、二一日の日記を綴っているうちにいつの間にか二時間が経過していた。おのれの心中に(と言うかむしろ、心身に[﹅3])生じた不安についての考察を記したところまでで切りとした。この日の書き物は合わせて四時間、字数で見ると七〇〇〇字ほどとなった。
 その後ふたたび『ダロウェイ夫人』を読み進めた(一七六頁から一九五頁まで)。前日よりも早く眠るつもりだったので、三時過ぎに切り上げて、瞑想をこなすと三時半に消灯した。暗闇の寝床で、心臓神経症の残滓が微かに生じるようだった。不安について書き記したので、それについてあるいは死についていくらか思いを巡らせたのだが、そうするとやはり少々怖くなってくる感じがあった。つまりまた、自分は次の瞬間には死んでいるのではないかという例の妄想が頭に湧いてくるのだが、こちらもこの数年でよほど耐性を身に着けているので、それに囚われることもなく、姿勢を変えたりしてやり過ごしているうちに、じきに寝付いたらしい。

2017/11/23, Thu.

 一〇時台のうちに一度、目を覚ました。しかしいつものことで気付かないうちにまた眠りに落ち、次に覚めると既に午後一時になりかかっていた。カーテンをひらくと、窓の向こうの空は一面、一片のくすみもない青に満たされていた。また眠ってしまわないようにと注意しつつ、姿勢を変えながら自分の呼吸や身体の感覚に意識を寄せて、起き上がる意志が自然と生じてくるのを待った。布団から抜け出すと一時五分か一〇分というところだった。睡眠時間を計算すると、四時四〇分から一時五分までとして、八時間二五分となるが、やはりもう少し縮めて七時間台には収めたいと思うものだ。ベッドの縁に腰を掛けて肩を少々回してから、洗面所に行って口のなかをゆすぐとともに水を飲んだ。それから便所に入って用を足すと、部屋に戻って枕の上に尻を乗せた。遅い起床にはなってしまったものの、やはり起きてすぐ、一日の始めに瞑想を行っておくことは大切だろうと考え、この日はきちんとこなすことにしたのだ。布団で脚を覆い、薄手のダウンジャケットを羽織ると、外の音が聞こえるようにと窓を細くひらき、瞑目して何らの能動性もない自然さのうちに身を委ねた。そうして一時一六分から三〇分ちょうどまで一四分間を過ごすと、食事を取るために部屋を出た。
 (……)前夜の餃子の残りがあったので、それを電子レンジで加熱して、椀によそった白米とともに卓上に並べた。ほか、白菜やニンジンを小さく分けて多少熱したものらしく、飾り気のない野菜の入った皿も横に置き、食事を始めた。新聞をめくって興味を惹く話題を確認している最中に、あいだの頁に挟まれたユニクロの広告のなかにカシミヤのセーターを着た女性の画像があり、見れば佐々木希と名が付されているのに、佐々木希という人はこんな顔だったかとちょっと意外に思った。結婚をしたから、人妻らしく(というのも良くわからず、疑問符が付く言い方だが)、化粧が以前よりも落着いて「ナチュラル」な風になっているのだろうと、そのようなことを考えながら、この情報が自分の頭のうちで「あとで書き記すこと」のほうに分類されかかっているのを感じ、このようなささやかな、特段の興味もない人物についての印象は、わざわざ記さなくとも良いのではないかと自分自身の脳の動きに対して反論した。記録の必要は明らかにないだろうと思ったが、しかし必要性で考えるとなると、日々あれほど長々とした日記を綴る必要そのものがもとよりまったく存在しない。結局は自分の気分と欲望に任せて、自ずと書き記されるものは記されるに委ねればそれで良いわけだが、そもそもそれがどのような物事であれ、何かがそこに「ある」(存在している)ということは、それだけですなわち、「書かれる価値がある」ということと同義なのだ。この世に生起するすべての[﹅4]物事のうちで、(現実的には勿論、能力的に書けないこと、感情的に書きたくないことが様々あるにせよ)「本来的に(原理的に)書くに値しない」ことなど、ただの一つとして[﹅8]存在しない、というのが、二〇一四年の頃以来、変わらずこちらの主体の根幹に据えられている「信条」(信仰)である(「法」でも「神」でもなく、「筆」の前の平等という意味での平等主義)。
 新聞のなかでは例によって国際面から読みはじめ、まず、「パレスチナファタハ幹部 「統一政府樹立に遅れ」」という記事を読み、次いで、「レバノン首相帰国 辞任は保留の意向 大統領が要請」、「ムラジッチ被告 終身刑 旧ユーゴ戦犯法廷 ボスニア虐殺 判決」、「新たな独裁懸念も ジンバブエ ムナンガグワ氏 政敵弾圧の疑惑」と進んだあとに、一面に戻って、「19年5月1日 改元へ 新元号、来年中に公表」というトップニュースを読んだ。それに隣接して、「退位へ 残された課題」と題したシリーズものの記事が始まっていたのでそれにも目を通し、四面に続きがあるとされていたので、そちらも最後まで読み通すと切りとした。食べるものも既に食べ終えていたので、そうして席を立ち、台所に食器を運んで洗い物を済ませると、風呂場へ行った。そこから湿った束子を持ってベランダに行き、陽射しのなかに吊るしておくと浴室に戻って、ゴム靴を履いた。浴室の床には、普段立てられてあるはずのマットが何故か寝かされていたが、室内に漂白剤の香りが僅かに感知されたので、処理中なのだろうかと放っておくことにして、ゴム靴でその上を踏みつけながら浴槽の蓋を取り、ブラシを使って縁や内側を洗った。風呂洗いを行ったあとは緑茶を用意して室に帰り、ベッドの縁に腰を掛け、椅子の上にコンピューターを置いて起動させた。Evernoteを立ち上げて前日の記録を付け、当日の日記記事も作成すると、Twitterを覗くなどしてインターネットをほんの少し回ったが、すぐにブラウザを閉じた。それでこの日は初めに何をするかと気分を探ったところ、このところ中断していた日記の読み返しのほうに気が向いたので、二〇一六年一一月一五日火曜日の記事を読みはじめた。描写的な一節を二つ、この日の記事にも引いておきながら、二時三一分から四〇分までの九分で読み返した。三時になったら洗濯物を取りこむつもりでいたところ、それまでの少しの時間で何をするかと考え、これも久しぶりに、半端に読みさしていた岡崎乾二郎「抽象の力」の続きを読もうと固まった。それでページにアクセスして、二時四三分から三時二分まで文章を読み進めて、「自由学園」という学校について触れた短い部分を日記のほうに引いておいた。「フレーベルの方法の批判改良もした(1919年に来日もしていた)ジョン・デューイの方法を取り入れた」という部分が少々気を惹いたのだ(ジョン・デューイの名が目に留まったわけだが、このアメリカの哲学者がいくらかの興味の対象となっているのは、(……)知人が研究しているのを瞥見したところ、いずれこちらも著作を読むべきではないかと思われていたからである)。この部分は、村山知義という美術や演劇など多方面で活動したらしい人物について記述されているその途中にあったのだが、この村山という人は初めて知る名前だった。
 そして三時に至ったので一旦上階に移り、まず便所に行って放尿してから、ベランダの洗濯物を取りこんだ。先ほど食事をしているあいだなどには空気に光の感触が含まれていたが、この時には西の空に雲が広く無造作に湧き、陽射しの暖かみはなくなっていた。とは言え、気温としてはさほど低くないようで、戸口に立って外気を受けると、冷気が寄せてくるのでなく、どちらかと言えば爽やかというような大気の感触だった。それからソファに腰掛け、タオル類を畳んで洗面所の籠まで運んでおくと、ヨーグルトを一つ食ったのちに下階に戻った。ベッドの縁に腰を下ろし、ふたたびインターネットを覗くと、(……)が更新されていたので、それを読むことにした。二〇一七年一一月二二日分の記事である。三時一三分から四四分まで掛けて読み通し(途中には、何に触発されたのだったか、こちら自身のブログにもアクセスして前日に綴った一八日の記事を少々読み返した)、それから、身体をほぐすことにした。コンピューターをテーブルの上に移し、アンプから伸びたケーブルを繋いで音楽を室に満たせるようにしてから、例によってyoutubeを用いてtofubeatsの"WHAT YOU GOT"を流した。その音のなかで脚を前後にひらいて筋を伸ばしたり、左右にひらいてスクワット様の姿勢で静止したり、屈伸を行ったりした。音楽が自動的に"BABY"に移行されると、こちらもベッドに場所を移して、柔軟運動を行って下半身をさらにほぐした。"Don't Stop The Music"、"朝が来るまで終わる事のないダンスを"と音楽を移行させて、それが終わると運動も終いとして、三時四七分から四時九分までと時間を日記に記録した。そのまま例によって、またもや歌を歌いはじめた。初めにMr. Children "ファスナー"を歌い、それからライブラリを探っていると、実に久しぶりのことだがOasisを掛ける気になって、『(What's The Story) Morning Glory?』の二曲目から連続する三曲、"Roll With It"、"Wonderwall"、"Don't Look Back In Anger"を流して歌った。さらに同じアルバムから、最終曲である"Champagne Supernova"を流したが、Oasisセカンドアルバムのなかでは、自分はこの曲が一番好きなのだと思う。それで興が乗ったのだろうか、熱の入った歌いぶりになって、昨日(この記事は、溜まっているものを後回しにして二三日の当日に記しており、現在は午後七時九分である)、一八日の記事に記した「ゾーンに入った」とでもいうような状態になり、そういう時にままあることだが、太腿のあたりの筋肉がぶるぶると細かく震えた。
 ここからは、一一月二六日の深夜一時三一分に記しはじめている。上の記述は二三日当日に書いたものであり、まだ時間が経っておらず記憶も詳細に残っていたので、自分の行動や印象をできるだけ細かく追い、正確に記してみようと試みたのだったが(と言うか、明確な意思を感じないまま、書いているうちに記述が勝手にそうした方向に進んだのだが)、これはやはり面倒臭い。何時何分から何分まで何をやったなどと、日課の記録から正確な時間の数値を引き写してもみたが、これはまったくもって億劫で、やる必要はないなと判断された。自分が何の歌を流したり歌ったりしたかなどということも、日記本文に仔細に跡付けるほどのことではなく、端的に言ってどうでも良いではないかと思う(しかし対して、何の音楽を聞いたか(じっくりと腰を据えて耳を傾けたか)ということについては、きちんと記しておきたいという気持ちがある)。そういうわけで、OasisのあとにまたSuchmos "STAY TUNE"を流したり、Stevie Wonderを歌ったりもしたのだが、そのあたりの詳細は省いて次の行動を述べると、五時に至ったあたりで上階に行った。暗くなった居間のカーテンを閉めていると(……)その時こちらはベランダに通じる西のガラス戸の前に立っていたところで、水晶的な青さの夕空に細い三日月が掛かっているのが目に入った。
 それから台所に立って多少の料理を行うわけだが、"いちょう並木のセレナーデ"を聞きたいという気分があったので、この日も小沢健二『刹那』をラジカセで流した。件の曲を聞いてから冒頭に戻し、手軽なところで肉と合わせて炒めるために玉ねぎを切った。また、炊飯器にもう米がほとんどなく、それをおじやとして食べることになったので、その具として人参や大根も細かく切り分けてから、冷凍されていた肉と玉ねぎをフライパンで調理した。
 食事の支度に切りを付けると室に帰り、一時間五〇分ほど書き物をしている。この時記したのが、この記事の冒頭からの四つの段落である。七時を回ると瞑想をしてから食事に行ったはずだ。食事の席ではテレビが『プロフェッショナル 仕事の流儀』を流しており、この日の放送は舞妓スペシャルというような形で、舞妓という存在を成り立たせるのに欠かせない専門的な職人たちを取材していくという趣向だった。インタビュアーとして滝沢カレンという女性モデルが招かれており、職人の人々に話を聞いていたのだが、この人は確か、Instagramの写真に付すコメントで個人言語とも言うべき「狂った」文章を発明している人ではなかったかと思い出された。最初に取り上げられていたのは簪を作る職人で、記憶が正確でないが、多分仕事の動機の中核は何かというような問いが向けられたのに対して職人が、自分の道具を使ってもらえて嬉しいという気持ちよりも、責任感のほうが強いですね、これがないと舞妓さんは座敷に出られないわけだから、というような具合で答えたのに対して、滝沢カレンは、珍しい言い分だという風に評価していた。それが本当であれ嘘であれ、わかりやすく嬉しいからとか、「笑顔のために」とか言う人が多いじゃないですか、でもそうじゃなくて、「責任」ということをおっしゃったので、すごく頑固なんだなと思いましたという風に述べて、職人のほうも、それは大変褒め言葉ですと受けていた(支配的な「物語」に対して批判的/批評的距離を取るという身振りの、実にささやかな水準ではあるものの、一具体例)。次にフォーカスされたのは帯を作る職人で、こちらは確か七〇歳にもなるというくらいの女性だった。手機を使って糸を一本一本手作業で織り上げているわけだが、その手機というものが何と言うか、無数の糸が取り付けられた細密な構造物で、有機的な生き物のように動くもので(蜘蛛のイメージが微かに喚起されたかもしれない)、あそこにも多分、あの女性にしかわからない小宇宙みたいなものがあるのだろうなと思われた。実際、カメラの前で作業をしている途中に、手もとで織られている布地に何か異変があったらしく(正しい模様とは違う場所に妙な筋が入っているという話だったが、こちらには見分けられなかった)、それでどこかの糸が切れているなと女性は判断して、無数に垂れ下がっているもののなかから切れた箇所を見つけ出していた(業者を呼んでいる暇がないので自ら直すわけだが、老齢のために機械の上部に登って下りるのが難儀そうで、骨を折ったことも二回あると言っていた)。
 食後は自室に緑茶を用意してふたたび岡崎乾二郎「抽象の力」を読み、一箇所を日記に引いたのち、風呂に行った。戻ってくると九時半から一九日の日記を綴りだし、おおよそ一時間ほど続けて完成させたらしいが、そのまま次の日の分には入らず読書に移っている。それはおそらく、腰のあたりがひどくこごっていたからだったと思う。入浴前に岡崎乾二郎の論文を読んでいる際にも、ベッドに腰掛けながら腰回りを良く揉みほぐしていたのだったが、ここまで来てこわばりのために、スツール式の椅子に背すじを伸ばして座りながら打鍵を続けるのが辛くなったのだろう。それでベッドに寝転がり、ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を一時間強読みながら休んだのち、書き物を再開する前に音楽を聞いた。原則に従って、Bill Evans Trioの一九六一年の音源から、"All of You (take 2)"と"Some Other Time"を聞いたのち、一七日に購入したTHE BLANKEY JET CITY『Live!!!』の冒頭三曲を流した("絶望という名の地下鉄", "冬のセーター", "僕の心を取り戻すために")。至極曖昧な印象でしかないのだが、浅井健一の歌唱というのはある面で、Robert Plantとタイプとして近いところがあるのではないかと思った。浅井健一も声は甲高いけれど、ハイトーンがどうのこうのという話ではない。基本的に「歌唱」というのは、旋律を構成する音群を整然と区分けしながら、そのそれぞれの高さをなるべく正確になぞって発声するという技術を基盤として、その上に何らかの質感だとか「表現力」とか呼ばれる類のものを付与する(要するに、ニュアンスを凝らす)、というものとして披露されると思うのだが、浅井健一とかRobert Plantとかいうボーカルは、そうした意味での「歌唱」や「歌声」というものから不安定にはみ出た、ある種の「語り口」のようなものが優勢となる場面が多いのだ(だから、他人がそれを真似する/彼らの楽曲を歌いこなすのは難しい)。THE BLANKEY JET CITYのあとは、現代ジャズと呼ばれているジャンルの音楽を続けた。Fabian Almazan, "Alcanza Suite: Ⅰ. Vida Absurda y Bella", "Alcanza Suite: Ⅱ. Marea Baja", "Alcanza Suite: Ⅲ. Veria", "La Voz De Un Piano (Fabian Almazan)"(『Alcanza』: #1-#4)、同じくFabian Almazan, "H.U.Gs (Historically Underrepresented Groups)"(『Personalities』: #2)、最後に、Ryan Keberle & Catharsis, "Madalena"(『Azul Infinito』: #8)である。Fabian Almazanの『Alcanza』は、数か月前にBandcampで購入したのをようやく聞きはじめることができたわけだが、ここまで来るともはや「ジャズ」という言葉を使う意味が良くわからなくなってくるような気がする(「現代ジャズ」と呼ばれる分野には、多分ほかにも結構そういった作品はあって、いまに始まったことではないのだろうが)。一曲目が面白かったのだが、このあたりは「ジャズ」というよりも、(「前衛的な」?)クラシック作品とか、あるいはプログレッシヴ・ロックなどのほうが作法として明らかに近いのではないか。
 音楽には一時間をたっぷり費やし、その後一時半からふたたび書き物に入って、二〇日の記事を四五分間進めた。新聞記事を写したあとはだらだらと過ごしたらしい。その時だったか、書き物のあいだだったか忘れたが、Twitterをちょっと覗いた時に、阿部公彦を聞き手として古井由吉がインタビューされた映像を発見し、全篇を見るのは有料だったが、短いサンプルが三つ公開されていたのでそれらを視聴した。眠る前には瞑想を二〇分行って、四時一〇分に消灯である。

2017/11/22, Wed.

 既に一一月二六日の午前零時三九分を迎えているのだが、この日の生活の様子は中途半端にしかメモを取っておらず、日付として四日も前になる一日の記憶を念入りに探って仔細に記すのが面倒臭いので、大方は省略して一言だけ触れることにする。ここからこちらが得た教訓は、やはり記述を見てすぐに記憶が蘇ってくるくらい詳細なメモを記録しておかないと、書きたかったことがあっても書けなくなってしまうということだ。非常に粗いが情報量だけは豊富な細かい下書きというような感じで、時間を経てから見ても文を書き記す気持ちが起こるような記録をつけておかねばならないだろう。
 新聞記事についてだけ言及しておこうと思うが、一度目の食事(また八時間半に渡る怠惰な眠りを過ごしてしまった結果、食事時には既に一時半頃になっていたようだが)のあいだに、「退位 19年3月末か4月末 政府2案 来月1日 皇室会議」、「北の更なる孤立化図る 米が「テロ国家」再指定」という二記事を一面から読んだ。退位と改元に関しては、翌日の朝刊で、統一地方選終了後の一九年五月一日案が本線となる見通しだと続報が述べられていた。この二二日の朝刊内ではほか、一〇面に寄せられた井上智洋「AI時代 人間が働くには」という小文も読んだが、この人は『ヘリコプターマネー』という本の著者である(この著者及び著作の名は、(……)で知った)。


ヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年

●38
 「肩にショールをかけ、歩道で花を売るモル・プラットは、愛すべきあの子に幸あれ、と願った(あれは絶対に皇太子殿下だよ)」
 → 12: 「クラリッサは縁石に立ち、やや緊張して待った。すてきな人だ、とスクロープ・パービスは思った」
 → 35: 「ブルック通りのこちら側にはクラリッサ、向こう側には老判事サー・ジョン・バックハースト(長年法律上の判断をなさってきた方、身なりのよいご婦人がお好みの方)」

  • おそらくこのテクストにおいて、ただの一度しか[﹅7]その名前を書き記されずに終わるであろう人物たち(「通りすがりの」人々)。


●38
 「その間も噂は体内をめぐって血管に堆積し、この身が王族の目に触れた、王妃様に会釈された、皇太子様に手を振られたと思っては、太腿の神経をうずうずさせた」


●41
 「この異様な静けさと平和、この淡い青さ、この清らかさの中で、鐘が十一時を打った」

  • 物語の現在時の判明。


●58
 「いえ、立ち向かうのは、正しくはにらみつけてくる月並みな六月の朝ね」

  • 「六月」への言及。


●68~69
 「違う、わたしはまだ老いてなんかいない、と思った。人生五十二年目に入ったばかりだもの。(……)クラリッサは、落ちていく水滴を捕まえにいく勢いで化粧台に駆け寄り、この瞬間の核に飛び込んで、それを固定した。ほら、これが六月の今朝の――あらゆる朝の重さを背負った今朝の――この瞬間。クラリッサは、鏡と化粧台とそこに並ぶすべての瓶を新たな目でながめ、この一瞬におけるわがすべてを鏡の中に据えた。女の小さなピンク色の顔をながめた――今夜パーティを開く女の、クラリッサ・ダロウェイの、自分自身の顔を」

  • クラリッサの年齢の判明。
  • 「六月」への言及。
  • 「クラリッサ・ダロウェイ」という呼称の初出。ここではその名は、何よりも「パーティ」と結び合わされている(「今夜パーティを開く女」)。


●69
 「この顔――何百万回見てきたことか。いつも、傍にはそれとわからないほどにちょっと引き締めて(クラリッサは鏡を見ながら口を結んだ)。これでわたしの顔になる。これがわたし。尖って、ダーツの矢みたいで、輪郭がはっきり。意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めたときのわたし。いつもとどれほど異なり、どれほど相容れないか、わたし以外は誰も知らない。世間向けに作られた一つの中心、一つの菱形、一人の女。その女は客間にすわり、大勢の集まる場を用意する。人生に退屈している方々にはきっと一瞬の気晴らしになるでしょう。孤独な方々にはたぶん慰めの場になるでしょう。若い人を助けて感謝もされた。わたしはいつも同じ自分であろうと努め、それ以外の自分は――欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分は――おくびにも出さないようにしてきた。たとえば、レディ・ブルートンの昼食会に招かれなかったときのわたし。(……)」

  • 「意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めたときのわたし」「世間向けに作られた(……)一人の女」 対 「それ以外の自分」「欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分」。
  • 「客間にすわり、大勢の集まる場を用意する」という記述を、「パーティを開く」ということと同義と取り、上の項目で触れたことを考え合わせるならば、ここでの前者の「わたし」は「クラリッサ・ダロウェイ」としての夫人の様態だということになる(これが以前に出てきた「ダロウェイ夫人」=「リチャード・ダロウェイの妻」と等しいものなのかどうかは、まだいまいち良くわからない)。夫人にとって、その様態の自分であるためには、「意識的な努力」が必要である(「意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めた」「わたしはいつも同じ自分であろうと努め」)。後者の「それ以外の自分」は、「クラリッサ」としての夫人ということになるだろうか?

 

●82
 「「いま、恋をしている」とピーターは言った。クラリッサにではなく、闇の中によみがえらせた誰か――手では触れられず、暗闇の芝生で花輪を捧げるしかない誰かに言った。
 「恋を」と繰り返した――今度はさほど感情を込めず、クラリッサ・ダロウェイに。
 「インドにいるある女に恋を」。さあ、花輪は捧げたぞ。それをどうするかはクラリッサしだいだ。」

  • 「クラリッサ・ダロウェイ」の二回目。


●88
 「ビッグベンが半を打ち、鐘の音が異様な力強さで二人の間に割り込んできた」

  • 物語の現在時の指定(十一時半)。


●93
 「軍服の若者が隊列をなし、銃をかつぎ、まっすぐ前を見据えて行進していく。その腕は固定され、顔には銅像の台座に刻まれた碑銘のような表情がある」

2017/11/21, Tue.

 一一時台に一度覚めたらしい。その時にはまだ、カーテンをひらくと太陽が寝床に少々光を射しこんでくる位置にあり、陽射しを多少受けもしたようだが、起き上がる気力は湧かなかった。布団のなかで首や肩のあたりを揉んでいるうちに、結局は正午を過ぎての起床となった。前日よりも暖かな空気の調子だった。
 (……)食事を取っているあいだ、新聞からは、「和解後のガザ 生活劣悪 電気は1日5時間 薬届かず」という記事を読んだ。また、連日の報道を追ってこの日も「ムガベ氏強制退陣へ ジンバブエ 弾劾案 可決の方向」の記事も読んだはずだが(なぜ自分がジンバブエ情勢の話題をここのところ追いかけているのか、自分でも理由ははっきりしない。ジンバブエという国家については何も知らないし、特段の興味の手掛かりも掴んでいないはずだが)、これについてはあまり印象に残っていない。
 室に戻ったあとはいつものごとく緑茶で一服しながらコンピューターに向かい合い、前日に綴った一七日の日記を自ら読み返しているうちに二時が近くなった。それで運動を行い、歌もちょっと歌ってから上階に行き、ベランダの洗濯物を取り込むと畳むものを畳み、それからゆで卵を一つ食した。さらにアイロン掛けをしたあとに、炊飯器にもう米がなくなっていたので研いでおきたいと思い、四合半を笊に用意して洗ったが、手を晒す水がさすがにもう相当に冷たいもので、まさに骨身に染みるという慣用句を地で行く刺激の強さだった。
 着替えを済ませて三時半頃に玄関を出ると、(……)出勤に向かった。坂道に入ると、斑に色づき明るくなっている風景のなかで、眼下の道に立つ銀杏の樹がもう上から下まで一色に整って、薄陽を添えられて周辺でも殊に明るんでいるのが目に入る。上って行きながら、確固とした訳もなく、不安めいた気持ちを少々感じ取った。二〇日の記事には書き漏らしてしまったが、この前日にもやはり同じ坂を上りながら、何か覚束ないような不安の類を覚えていたのだ(だからと言って、この木の間の坂という場所自体がこちらにそうした心情を喚起させる何らかの特殊性を備えているわけではない)。その時のそれは、どちらかと言えば離人的なものというか、周囲の知覚情報や自分の現今の存在の現実感が朧であることに起因するものではないかと、その場では推測された。このような離人感(という名称分類で合っているのか確信がないのだが)の類は、これまでも折に触れて感じたことのあるものである。この時はさらに続けて、(文章化すると飛躍があるように思われるかもしれないが)自分は時間が流れるということそのものが怖いのではないか、と思いついた。それはすなわち、自分の死がいつか到来することを恐れているということだろうか、と更なる解釈が継ぎ足されたものの、これはわかりやす過ぎるもので、実感に照らしてもあまり確かだとは思われなかった。現在のところ、こちらの心としては、死んだところで所詮大したことではない、というような(虚無的な?)気分がどちらかと言えば支配的であるように感じられる。言い換えれば、自分の死についてあまり興味が湧かないということで、あれはストア派の考えだったかエピクロス派のそれだったか忘れたけれど、古代ギリシア・ローマの哲学流派で、自分が死ぬ時にはその自分自身は既に存在していないのだから、それについて考えても仕方がないというような捉え方を唱導したものがあったと思うが、これは現在のこちらの心情とわりと近いものであるような気がする。自分の死というものは、完全に自分の「外部」にあるということだ(この点で(自分自身の)「死」とは、「無」や「神」というものと似ている)。要するに、それは自分にとって「確かに見えない」もの、「考えることのできない」ものなので、それについて諸々の感情を抱くこともないということだろうか(しかしまた、いま(一一月二五日の午前一時半)書き記しながら思ったのだが、「自分の死」そのものと、「自分がいずれ死ぬという事実」は異なる思考対象のはずで、主体にとって実存的問題となるのは主に後者のほうではないか)。以前の自分は明らかに「死」を恐れていたと思う。と言うのも、「死への恐怖」によって生み出される幻想的な神経症状を体験した時期があるからだ。そのうちの一つは頭痛や頭の違和感で、これは二〇一二年の八月に祖母がくも膜下出血で倒れたという出来事がきっかけで、自分もいつ何時あのように脳出血を起こして死ぬかもわからない、という思いが頭に根付いたことが直接的な要因である(祖母はその後、二〇一四年の二月七日に死去した)。もう一つは心臓神経症で、これがなぜ始まったのかはわからないが、夜の寝床で眠りを待っていると心臓の鼓動が気に掛かって、これがどんどん速く高まっていってそのまま心臓が破裂するのではないか(不安の具体的内実は、「心臓が停止するのではないか」ではなく、物理的に考えればあり得ないのだが、やはり「破裂するのではないか」だったように思われる。あるいは「破裂する」というのは一つの象徴的イメージで、要するにこれも「死ぬのではないか」ということと同義だったと考えるべきだろうか)という幻想的な不安に囚われてしまうのだ(そして、それによって実際に心臓は爆発的に亢進する)。そうした時期を何とか乗り切ったいま、その当時に死を恐れるだけ恐れた反動のようなもので、ある種吹っ切れたような心境になっているのではないかと思うこともある(これもありがちな解釈ではあるが)。このように一応は言ってみるものの、しかしそれでは自分がいま死をまったく、完全に恐れていないかと言えば、そう確言する自信はない。何らかの理由で、自分がいよいよ、そろそろ死ぬのだということが確かに見えるようになれば、また怖がりだすのではないかという気もしないではない。
 前日の不安についての言及が思いのほかに長くなってしまったが、この日の不安のほうに話を移すと、これは言わば「内臓的な」不安で、胃のあたりだろうか身体の奥に実体的な苦しさがちょっと滲むような感じだった。前日のような離人感は伴わなかったらしく、この時に自分の感覚を探って下した解釈としては、自分は(私的領域ではなく)外界にあることそのものに緊張しているのではないかと考えられた。「外界にあること」を、「他者との接触可能性があること」と読み替えるならば、要は自分は「他者」と関わること(誰であれ他人と言葉(すなわち、意味/力の作用)をやりとりし、コミュニケーションを交わすこと)そのものに対して、ある種の不安を覚えがちなのではないかと思われるわけだが、もしそうだとすれば、自分は主体の基本的な性質として、社会性(あるいは全般性)不安障害的な性向を備えているということになるだろう(パニック障害を発症したのも、結局はそこが核心だったのではないか)。そのようなことを諸々考えはしたものの、実際にはそんなに大袈裟な話ではなく、単に食後に飲む緑茶に含まれているカフェインの作用なのかもしれないが、とも思った。
 道中、裏路を歩いていると、女子高生二人が前方で立ち止まり、スマートフォンを掲げて写真を撮っている。それは、もう角度もだいぶ鋭くなった西陽を受けて明るんでいる森の姿を収めているらしく、こちらも合わせて目を向ければ、渋くなった緑の合間にところどころ丹色も挟まる樹々の上から暖色を掛けられた様子の確かに鮮やかで、美しいと言っても良いかもしれない。色のうちに、甘いような調子が僅かに覗かれるようだった。
 勤務中や帰路や、帰宅してのちの食事中のことは覚えていないので割愛するとして、自室に戻ったあとの時間に話を移すと、ベッドに座った位置でもアンプを通して音楽を聞きたいと考え、上に積まれた本をどかして機材の位置を移して試行錯誤をしたものの、ケーブルの長さなどが不都合で諸々面倒だとなり、結局元のままに直すという一幕があった。零時半過ぎから書き物を始めたのだが、爪が伸びているためにキーボードを打ちにくいのが気に掛かって、すぐに中断して手の爪の処理を先にした。Robert Glasper『Covered』をヘッドフォンで聞きながら切り終えると、一一月一八日の記事に取り組んで、二時半前までで二〇〇〇字を足した。その後は四時二〇分までヴァージニア・ウルフ土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読み(四五頁から七七頁)、一〇分瞑想をして就床である。