2019/8/2, Fri.

 清水 モデルニテとニーチェというのは、つまりこういうことだと思う。近代性[モデルニテ]というものの問題性、袋小路性、苦しみ、複雑さというもののどうにもならなさは、われわれが近代性のなかに生きているという事実と切りはなせない。近代性というものがなぜゴルギアスの結び目であるかといえば、なかにいる限り絶対解けないものが近代性だからなんですね。宮川淳がよく使ったことばを借りれば、われわれはあるひとつの文脈のなかに生きている以上、その文脈自体を問題にできないということで、近代性ぐらいそれをはっきり表わしているものはないと思う。ニーチェがいまなぜ現代フランスにとって、あるいはわれわれにとって問題であるかを改めて考える場合、いちばんはじめにぼくが触れたバタイユニーチェ観に戻るべきなんだな。ニーチェというものはニーチェのなかにいかなければニーチェニーチェであるゆえんがわからないものであると。しかしニーチェのなかにはいってニーチェを考えるということは、近代性とまったく違うパラダイムを考えさせられるということですよ。さっき豊崎君が、寡黙な豊崎君らしく非常に要約して言っちゃったけど、クロソフスキーが「永劫回帰」という命題を考えていって突きぬけたところですね。始原とか最初というものは絶対ない、したがって最後もない、オリジナルはない、あらゆるものはすべてコピーである、あらゆるものは全部マスクである、素顔はどこにもない、固有の意味はどこにもない。要するに、同一性原理なるものが完全に解体してしまうのが「永劫回帰」の思想だというふうにクロソフスキーが言うでしょう。そういう思考を考え抜くことによってしか、近代性から抜けられないんじゃないかと現代フランスの思想家は考えてる。これまでの歴史性から抜け出して、さてその次になにが来るかは絶対わからない。わからないけれども、新しい神話、新しい科学が、もしかしたらこの次にあるかもしれないということを、最もよくわからせてくれるのがニーチェだということでしょう。
 豊崎 別の言い方で言うと、「無知」ということなんですね。ニーチェは無知になることを要求するんですよ。残るものは「永遠回帰」か「力への意志」、この二つは非常に関係してるんだけど、それしかなくて、これはもうぜんぜん「知」じゃないわけね。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、112~114; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)

     *

――(……)フロイト精神分析は、カトリック教会による告解の義務づけという、十三世紀以来のヨーロッパの伝統を無視しては理解できない。わたしの関心を惹いているのもそこなのです。自分の性について、細大洩らさず語る、そこにこそ自分自身についての真実が隠されているからだという義務感につき動かされて執拗に語るのだし、語らせるのですね。
 それに一般的に言って、〈告解=告白〉の伝統は、現在のヨーロッパでも極めて根強いのです。たとえば全然別の例ですが、同性愛者の権利主張をする団体がある。ところが、そういう団体に加入を認められるには必須の条件が一つあって、それは、自分の同性愛の遍歴を細大洩らさず告白する、ということです。
――公にですか?
――そうです。
――一種の秘密結社への入社秘儀[イニシエーション]……?
――全くそうです。しかし重要なのは、ここでも〈告白〉というものが、性についての真実を言説化することが、その人の主体の真実の保証であり、かつ、それを相手に引き渡すことによって一つの力関係に組み込まれる、という点です。同性愛者としての主体[シュジェ]の成立は、そのような隷属化[アシュジェチスマン]によってしか可能ではないという話になる。わたしとしては、こういう要請は法外なもので、とても認めることはできない!
 (128~129; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 三日月を戴くヘルマプロディートス」)


 一〇時覚醒。夏日。暑気。汗。扇風機を点けてしばらくベッドにごろごろとしたあと、起き上がって、コンピューターを点けた。Twitterやnoteを確認してから部屋を抜けて上階へ。母親は仕事に出ている。弁当を作っておいたと書き置きがあった。便所に行って大便を腸から放出したのち、冷蔵庫から弁当を出して食卓に就き、新聞をめくりながらものを食った。『妻のトリセツ』という著作が人気らしく、四〇万部を超えているとの広告が頁下部に付されていた。この著者はいつだったか『世界一受けたい授業』に出演していて、いかにもステレオタイプ的な、根拠薄弱と思える男女の観念をあたかももっともらしいもののようにして撒き散らして憚りなかった人なので、そのような著作が人気を得ているという世の風潮には苦々しい思いを禁じ得ない。このような本を読むより、『灯台へ』を読むのだ! 食事を終えると使ったプラスチックの容器と箸を洗った。台所のカウンターの上には塩キャラメルが置いてあった。小さな箱から一つを取って口に入れ、そのまま風呂場に行って、キャラメルを舐め、噛み、口のなかで溶かしながら浴槽を擦り洗った。それだけで汗が湧く陽気だった。戻ってくると抗鬱剤を服用し、もう一つキャラメルを食いながら下階に下りていって、コンピューターの前に立つとSkypeにログインした。「きみがさみしくないように」のグループにK.Mさんが加わっていた。それに対してYさんが注目を促してきたので、答えていると、やりとりが続いて、日記を書きはじめてからもしばらくメッセージを交換し続けた。部屋には最初のうち、エアコンを入れていたが、裸になった上半身から汗が引いてくると停めて、扇風機の風だけで我慢することにした。日記は一一時から書きはじめて、前日の記事を仕上げてさらにここまで綴ると、既に正午を越えている。音楽はFISHMANS『Oh! Mountain』を流した。
 前日の記事を投稿してからMさんのブログを読みはじめるまで、三〇分ほどのひらきがあるのだが、このあいだに何をしていたのかは不明である。一二時四〇分からMさんのブログを二日分読み、続いてSさんのブログも一週間分読んだ。その時点で時刻は一時二〇分、洗濯物を取り込むために部屋を出て上階へ行った。ベランダに裸足で出ると、熱線を浴びた砂浜のような熱さが足裏を責めた。洗濯物を室内に取り込み、タオル類を畳んで洗面所に運んでから戻ってくると、今度は星浩「破壊者か救世主か?小泉首相劇場政治が開幕 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(12)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019031400001.html)を読みだした。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を背景に、手帳にメモを取りながら記事を読み進めて、二時を過ぎたところで読み終わった。その頃には父親が、何故こんなに早いのか知らないが、帰宅した気配と足音が上階から伝わっていた。上がって行くと白いランニングシャツ姿になった父親は冷蔵庫を覗いて食事を用意していた。飯はと訊くのでまだだと答え、こちらは冷蔵庫からサラダとミルクプリンを取り出し、椀に白米をよそって鮭の振り掛けで食べることにした。カップ蕎麦を食べることにしたらしい父親と向かい合って食事を取り、食器を洗うと下階に戻って、エアコンの掛かったなか、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』からのメモを手帳に取りはじめた。背景音楽はWynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』。ウィキペディアでナチ政権高官の記事をいくつか見ながらメモを取って、三時二〇分に達した。歯を磨いたあと、ふたたび上階に行って薄青いワイシャツを手に取り、纏いながら戻ってスラックスも履いた。それからほんの少しのあいだ、須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』を読み、三時四〇分になったところで切りとしてクラッチバッグを持って部屋を出た。上階に行くと便所に入ってこの日二度目だが糞を垂れ、それから出発した。端的な酷暑だった。道を西に歩いて市営住宅の敷地前まで来ると、前方の路肩に真っ青な車が停まっており、どうも父親のものらしいなと判別された。見ていると父親が姿を現し、車に乗り込んだその横を、手を上げて通りかかると、送ろうかと言ってきたが、いや、いいと払って別れ、坂道に入った。蟬時雨の激しく降り注ぐなか、路上に映った木洩れ陽を踏みながら上っていくと、暑気のためにほとんど息苦しいほどだった。出口に掛かって日向に出ると、途端に熱線が重く伸し掛かり、まるで細胞の隙間まで染み込んで、身体の動きを粘っこく阻害するかのようだった。横断歩道を渡って階段通路を行き、ホームに入ると、女児が一人座っているベンチには陽が掛かっていたのでこちらは腰を下ろさず、その後ろの薄い日蔭のなかに立った。汗は全身から噴出し、汗疹に冒された肘の裏が痒く、汗の玉が背に転がるのに身体がぞくぞくとした。手帳を取り出し眺めながら、ハンカチも取り出して首の周囲や腕を拭いているとアナウンスが入ったので、ハンカチを仕舞い、手帳を持ったままホームの先に歩き出した。スラックスの裏の腿や膝や脛までもに湿った感覚が滲んでいた。乗車すると冷たい空気のなか扉際に立ち、引き続き手帳を眺めて、青梅に着くと降車して階段通路に入り、改札を抜けた。駅舎を出たところで立っていた一人の男性からお使いくださいと言って何かを差し出された。有難うございますと言いながら受け取ってみると、ウェット・ティッシュだった。それを左のポケットに収めて職場に向かった。
 今日は室長も(……)さんも不在の日だった。こちらの勤務は三コマ。一コマ目の相手は(……)さん(小四・算数)に(……)さん(小五・社会)。(……)さんははっきりとした顔立ちで円な瞳をしており非常に愛らしい子だが、地頭はあまり良くないようで、勉学の指導の方はなかなか骨が折れる相手だ。今日扱ったのは二つの三角定規を合わせて出来る角の角度を足したり引いたりして求めるという問題だったのだが、まずもって三角定規の角度が一方は九〇度・六〇度・三〇度ということ、もう一方は九〇度・四五度・四五度ということも、何となくしか理解していないようだった。ここは何度、と訊いてもまったく見当違いの答えを返してくるのだ。それなので、円の角度が三六〇度で半円はその半分の一八〇度であるということを理解させるのにも苦戦したと言うか、ノートに書いてもらったけれどおそらくきちんと腑に落ちてはいないのではないか。まあ地道にやっていくほかはない。彼女の母親は、この日も迎えに来ていたのだが、日本語の発音や語調から察するに、おそらく日本人ではない。外見から判断するに、何となくフィリピンの人ではないかという気がする。その母君と授業時間の変更について少々やりとりをしたのだが、丁寧な態度の結構愛想の良い人である。(……)さんの方は特段の問題はない。
 二コマ目は(……)くん(中一・英語)、(……)さん(高一・英語)、(……)くん(中三・国語)。三人ともわりあいに真面目な方の生徒なので、特段の問題はない。(……)くんが宿題をやって来なかったことだけ少々気になるが。彼は今日、This is / That is構文の疑問・否定形を扱ったのだが、一番難しい問題の頁も大方出来ていて、ミスは単語のスペルがわからなかったことによるそれのみだったので、三つの単語を練習してもらい、ノートにメモしてもらった。
 三コマ目は(……)さん(中二・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(高二・英語)。(……)くんの教科書をたくさんコピーしなければならなかったり、(……)先生が担当していた(……)さんが来なくて電話を掛けたりで結構忙しかった。気になるのは(……)さんで、スペルミスがかなり多い。しかもそれに自分で気づいているのか気づいていないのか、答え合わせの際には見逃して丸にしてしまうので、こちらが改めて隅までチェックをしなければならないのだ。和訳させてみるとわりあいに出来るので、文法的な知識はそこまで貧困ではないようだが、如何せん細かなところのミスが多い。(……)さんはいつも通り、問題なく進められた。(……)くんも教科書の和訳を進行。彼はまずは基本的な語彙を身につけなければいけないだろう。
 それで終了。終業時には(……)先生も既におらず、こちら、(……)先生、(……)先生、(……)先生の四人が残っていた。それで今日は鍵閉めは誰が、と訊くと、(……)先生がやってくれると言う。有難うございますと礼を言うと、(……)先生がそれに追随して、朝から晩までなのにすみません、と言うので(……)先生最初から最後までだったの、と驚き、神がもう一人いた、と言って笑った。その後、翌日の予定も訊くと、やはり朝の一番最初から最後のコマまでだと言う――この日は青梅の花火大会のため、終わりの時刻は普段よりも二コマ分早くはあるのだが。それで、死なないようにねと忠告しておき、片付けを済ませて退勤した。
 暑気のなか、駅へ。ホームに上がり、奥多摩行きに乗り込み座席に就くと、手帳を取り出して眺めた。そうして発車、しばらく経つと最寄り駅に到着したので降りる。階段通路の途中では、蟬が一匹暴れ回り、宙を縦横無尽に飛び走って蛍光灯に自殺的な体当たりを繰り返して音を立てていた。それにぶつかられないように警戒しながら階段を下りていき、横断歩道を渡って木々に囲まれた坂道に入った。下っていって坦々とした道に出て歩いていき、自宅の近くまで来ると、林の奥からここでも蟬の、ギッ、ギギッ、という少々耳障りでもあるような声がたびたび立って聞こえた。
 帰り着くと両親は居間にいた。父親は酒を飲んだようで見るからに酔っている。例によってテレビに向かって何やらぶつぶつと呟いていたと思う。ワイシャツを脱いで洗面所に入れておき、下階に下って着替えると、インターネットをちょっと見てから上のフロアに戻った。そうして食事。鶏肉のソテーに自家製のシーチキン巻き、その他サラダなど。卓に就いて食べはじめるとちょうど一〇時を迎えて、何やらテレビドラマが始まった。出演している主役の女性は、多部未華子という人だったと思う。以前と比べて随分綺麗になったような気がした。ぼんやり見ていると、『これは経費で落ちません!』というドラマタイトルが表示された。その後もぼんやりと見つつものを食べ、冷たい水で薬を服用して食器を洗ったあと、風呂は母親が入っていたので自室に下りた。そうして一〇時半前から日記を書き出し、一一時まで三〇分ほどこの日の記事を書き足したところで入浴に行った。浴槽の縁に頭を預けて身体を水平に近く寝かせながら長く浸かって休み、出てくるとパンツ一丁で髪を乾かし、居間に抜けるとハーフ・パンツと肌着のシャツを着た。そうして下階に戻り、Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』をヘッドフォンで聞きながらヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』から三箇所を書き抜きし、日付替わりと同時にベッドに移って須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』を読みはじめたのだが、ほとんどいくらも読まないうちに眠気に刺されて殺されたようだった。息を吹き返すと既に三時台後半か四時台に入っていたはずである。そのまま明かりを落として就床した。


・作文
 11:02 - 12:05 = 1時間3分
 22:26 - 22:59 = 33分
 計: 1時間36分

・読書
 12:40 - 13:21 = 41分
 13:35 - 14:09 = 34分
 14:33 - 15:18 = 45分
 23:39 - 23:55 = 16分
 24:00 - ? = ?
 計: 2時間16分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-23「水切りをする罪のないものだけが投げることの許された石で」; 2019-07-24「手首から走る傷跡手のひらにおよんで伸ばせ生命線を」
  • 「at-oyr」: 2019-06-14「酔客」; 2019-06-15「無駄足」; 2019-06-16「悲しき渋谷」; 2019-06-17「泡沫」; 2019-06-18「姿勢」; 2019-06-19「シュウマイ弁当」; 2019-06-20「若い女」; 2019-06-21「負ける」
  • 星浩「破壊者か救世主か?小泉首相劇場政治が開幕 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(12)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019031400001.html
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』、メモ
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き
  • 須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』: 14 - 20

・睡眠
 4:10 - 10:00 = 5時間50分

・音楽

2019/8/1, Thu.

 渡辺 マルクスの『資本論』は、誰でも言うように、勧善懲悪のメロドラマであり、十九世紀通俗小説の骨格でしょう。フロイトは、『オイディプース王』でギリシア悲劇までいく。ニーチェはそこも突き抜けちゃう。始めに清水さんがニーチェを詩人だと言ったのは、詩人であると同時に神話の活性者……。
 清水 いやむしろ新しい神話をつくってるわけですよ。
 渡辺 神話を活性化するだけではなくて、新しい神話をつくるというのは、類稀な能力でしょう。それは〈エクリチュール・フラグマンテール〉とも関係するかもしれない。ニーチェの言っている内容もそうですけど、内容以上に語り口が、ニーチェを歴史的に囲いこむことを非常に困難にしてるんじゃないかという気もする。つまり歴史的に囲いこむこと自体は、ある程度簡単なことかもしれないけど、それではやはり本質が逃げちゃうとみんな思うんじゃないだろうか。この場合の語り口というのは、ファーブル〔物語〕の構造まで含めてですが。
 清水 ブランショなんかはマルクスフロイトはどこも矛盾していないけど、ニーチェは矛盾だらけだから囲いこめないって言っている。つまりブランショの言うところの断片的……。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、109~110; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)

     *

 渡辺 ここでさっきの清水さんの質問の三番目の〈エクリチュール・フラグマンテール〉と演劇の関係をしゃべっておくと、それは〈登場人物〉の解体の問題と全く重なるわけでしょう。〈主体〉の解体の物語レベルにおける等価物がそれなんだから。その点は、マラルメ以来主張されていて、舞台上でそれが極めて現実化するのは、イヨネスコやベケットのいわゆる五〇年代前衛劇、あるいは不条理演劇です。ただぼくとしては、登場人物という虚構の枠組みが無くなるということだけでは芝居の上では問題が立ちにくい。むしろ一方では、その背後に隠れていた役者体というか、演劇体のラディカルな再検討が必要だった。と同時に、ニーチェとの関係というか、今ここでとりあげたようなフランスのニーチェ読みの視座との関係でいえば、記号や仮面そのものが〈強度〉と深く関わることと、それからフーコーが好んで引く「歴史を学んだとき、人は、己れのうちに一つの不死の魂をではなく、多くの死すべき魂を収めていることに満足する」という言い方にあるような、人間の中にある複数の存在という命題ですよ。演戯者はもはや偉大なる主体としてのペルソナを受肉するのではない、様々な仮面の〈強度〉によって己れ自身を一つの分断された力学場と変じつつ、そのような複数の仮面の強度を演じ続けるわけです。それは、通常用いられるのとは違う意味での〈引用〉としての演劇なので、いささか手前味噌じみますが、今度の『女中たち』の実験もそこにあったわけです。
 (110~111; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)

     *

 清水 いわゆる第三共和制的ヴァレリーの地中海じゃない地中海があるわけだよ。カミュはそれを語ろうとしたわけだし、ニーチェは「ギリシア悲劇時代の哲学」という、いちばん最初の論文でそれを言っちゃったということでしょう。もうすこし具体的に言えば、闇の奥に光の氾濫を、光の過剰に暗黒を見るような思考、つまりニーチェの言う、「大いなる真昼」とは深夜の暗黒の果てに一切の転倒の結果として出現するというような考え方が、ニーチェカミュの地中海にはある。これは北方的なヘーゲル弁証法とはまるでちがうんですね。
 (112; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)


 一〇時二〇分に至って起床した。今日もまた暑く、寝床にいる時点から汗をたくさん搔いていた。下はハーフ・パンツを履き、上半身裸のまま上階に行き、母親に挨拶。冷蔵庫を覗くと、前夜の酢の物の残り――胡瓜と蛸とモヤシを混ぜたものである――とピザパンがあったので、それらを食べることにした。ピザパンを電子レンジで温め、卓に就いて胡瓜と蛸をつまむ。テーブル上には、T.T子さんが送ってきてくれた暑中見舞いや、Mちゃんの写真などが置かれていた。食事を取ると水を汲んできて抗鬱剤を服用し、食器を洗うとそのまま風呂場に行き、汗を搔きながら浴槽を洗った。窓の外には近くの坂道の入口とガードレールが見えており、ガードレールに付属している円筒状の台の上に、いつか隣のTさんが何をするでもなくただ座っていたことがあったなと、そうした記憶が思い起こされた。彼女はあの時、何を見ていたのだろう。九八年だかそこらも生きていると、やはりものの見え方がこちらなどとは全然違うのではないだろうか。こちらの三倍を遥かに越えた年月を生き延びてきているわけで、それは端的に言って凄い。その事実だけで尊敬出来るような気分になると言うか、大袈裟に言えば一種の聖性のようなものすら感じないでもない。年古りた巨大な老木に崇敬の念のようなものを抱くのと、同じような感覚だろうか。
 風呂を洗って出てくると台所に「じゃがりこ」のたらこバター味があったので、頂くことにして、これ食べるよと母親に言った。母親は、ロシアに持っていこうと思っていたのだが、と言う。わざわざ「じゃがりこ」をロシアに持っていかなくても良かろうと払って、何本か母親のために分けて紙の上に置いてから下階に戻り、自室に入ってエアコンを点け、コンピューターも起動させた。「じゃがりこ」をぼりぼり食いながらTwitterを覗いたりしたあと、Evernoteで前日の記事に記録を記入し、この日の記事も作成。SkypeやLINEなども確認しておいてから、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しはじめて日記を記しはじめたのが一一時七分だった。ここまでこの日の記事を記して、これから三〇日と三一日の記事を完成させなければならない。今日は労働が一時限のみで比較的時間に余裕があるので、出勤を控えた夜までに何とか仕上げてしまいたい。
 それから二時前まで日記に邁進して、三〇日の記事はようやく完成させることが出来た。全体でおよそ二万字になった。それをインターネット上に投稿したのち、ベッドに移ってプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読みはじめた。エアコンは消して、母親が隣の兄の部屋から持ってきてくれた、カバーがうまく嵌まらなくなっている古い扇風機を使って身体に向かって微風を送らせた。それで曲がりなりにも過ごせて、汗が肌の上をだらだら甚だしく垂れるわけでもないので、昨日一昨日の愚かしいまでの暑気と比べるとまだましな日だったのではないか。途中、例によって一時間ほどの意識の消失を招きながら本を読み続け、五時一六分に至って読み終わった。本を閉じて、それから六時過ぎまで一時間ほど、ふたたび暑気のなかの微睡みに入った。そうして意識を取り戻すと上階に行き、薄暗い居間に入り、冷蔵庫から豆腐とゆで卵を取り出した。豆腐には鰹節とポン酢を掛けて卓に持っていき、椅子に就いて手早くそれらを食べた。それから台所に戻って箸を洗い、卵の殻を排水溝に捨て、豆腐の容器を濯いでゴミ箱に入れ、便所に行った。玄関に出ると、外から鈴を細かく振り鳴らすようなカナカナの鳴き声が旺盛に響き届いていた。小用を足して居間に戻ると肌着のシャツを脱いでボディ・シートで肌を拭い、シャツを着直すと部屋の隅に掛かっていたワイシャツを取って身に纏った。そうして下階に下り、スラックスも履くと、先日T田が音源をくれたBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』を途中から流しながら歯磨きをしたが、このアルバムのなかのショスタコーヴィチ弦楽四重奏第八番の第二楽章が、スピーディーで切れが非常に鋭く、素晴らしい演奏であるように思われた。口を濯いでくると日記を書きはじめ、ここまで書き足して七時が目前である。母親が送っていってくれるらしい。
 クラッチバッグを持って上階に行き、母親に行こうと告げた。図書館に寄るので、本をブックポストに返却してほしいと言う。自分で行きなよなどと言いながらも了承し、玄関に出て靴を履き、扉を開けると、母親が渡してきた本や雑誌類を抱えて外に出た。なかに村田沙耶香コンビニ人間』が混ざっていたので、読んだのかと訊いたが、読めなかったということだった。車に乗って本を膝の上に抱え、発車した。道中、母親は髭を剃らないの、と訊き、剃った方が良いよと言ってきたので、実質面倒臭くて剃っていないだけなのだが、舐められないように、と適当な答えを返した。その頃には図書館に続く細道に入っていた。図書館の門の前に車は停まり、こちらは本を持って降り、大きな門の脇、細い通用口を通ってなかに入り、家型のブックポストに一冊ずつ書籍を入れていった。そうして車に戻り、ふたたび発車してもらい、青梅駅前まで走って道路の途中に横付けしてもらい、有難うと礼を言って降りた。頑張ってね、と母親は言った。
 職場に着くと室長が電話をしながら、面談室に何やら用紙をいくつも並べていた。今日は一時限なので楽である。準備を済ませて、相手は、(……)くん(高一・英語)、(……)くん(中三・英語)、(……)(中一・英語)。(……)くんは初顔合わせである。夏期講習ということで、高校生用の文法ワークをコピーして、文の種類という単元から始めたが、多少苦戦したのは感嘆文くらいのようで、ほかは問題なく出来ていた。結構優秀なのではないか。(……)くんも問題なし。進みはやや遅く、苦戦する場所もあったが、ノートを充実させることが出来た。問題は(……)である。この生徒は先日携帯を没収した子なのだが、その時のことが多少利いたのか、今日はあまり携帯を弄ろうとしなかった。と言うか、妥協案として、ゲームを自動操作モードにしておき、時折りこちらに許可を取ってほんの少しだけ弄る、というような振舞いを取っていた。一種姑息とも言えなくもないが、まあ可愛らしいものである。過去にはもっと酷い生徒もいくらでもいたのだ。今日はまあそこそこ頑張ったのではないか――と言ってもぎりぎり二頁終わらなかったくらいだけれど。まとめ問題を扱ったけれど、地頭もさほど悪くはなさそうで、簡単な問題は難なく解けていた。
 そうして授業を終えるとさっさと退勤。駅に入り、ホームに上がって自販機に寄ると、例によって一三〇円のコカ・コーラを買う。奥多摩行きは既に着いていたが、なかにはまだ入らず、木製のベンチに腰掛けて手帳を見ながらコーラを飲んだ。糖分を取りすぎかもしれない。飲み干すと自販機横のボックスにペットボトルを捨て、そうして電車に乗車。端の席に就いて手帳を眺め続けた。今日も電車は遅れていた。先月くらいから甚だしい頻度で遅れている。しかし手帳を読んでいれば待ち時間は気にならない。そのうちに発車して、最寄り駅に着くと降り、駅舎を抜けるとやや涼し気な心地良い風が吹いて肌を擽った。前日よりは過ごしやすい気候のようだった。坂道に入っても風は続き、周囲の木々が緩くさざめいて、街灯の光に照らされて路上に映った枝葉の複雑な影が柔らかく揺らぐ。落ちている枯葉のうちのたった一枚が、一瞬僅かに浮かび上がってはまた静かになる。そのなかを下っていき、坦々とした道を辿って家に帰った。
 帰宅するとワイシャツを脱ぎ、洗面所に置いておき、下階に戻った。コンピューターを点けて、LINEにアクセスし、T田にBorodin Quartetのショスタコーヴィチ曲の演奏が素晴らしかったと送っておいた。そうして食事へ。メニューは豚肉のトマトソース煮や、ピーマンの和え物など。豚肉をおかずに白米を食べるあいだ、テレビは『クローズアップ現代+』で、ひきこもり死の問題を取り上げていた。昨年鬱病にやられていた際はこちらも実質引き籠もりのようなものだったし、あまり他人事とも思えない。番組では、五六歳で栄養失調で亡くなった人や、九三歳の父親と同居していたがその父親が死んだあと、一か月以上も遺体をそのままにして暮らしていて、やはり栄養失調か餓死かの寸前で発見されたという人が紹介されていた。前者の人はどうだったか忘れたが、後者の人は四〇代までは普通に労働をこなしていた人だと言う。人間、何がきっかけで引き籠もりになったり貧困に陥ったりするかわからないものだ。こちらも今は親元に置いてもらっているから良いが、この先どうなるか確かなことはまったく言えない。文章が少しでも金になってくれれば良いのだが。
 テレビを見ながら両親と、ロシア行きのことなど話した。そのほか、日記を投稿サイトに投稿しているけれど、そこでこのあいだ初めて記事を購入してくれる人が現れたということも報告した。職場のことも書いているから、見つかったら馘首になると言うと、母親は、止めなよと言ったが、しかしやはり止めるわけにはいかないし、仮に見つけられたとしても馘首になるほどではないかもしれない。これでもこちらという戦力はそこそこ重宝されているはずなのだ。まあもし見つかって怒られたら、職場にいるあいだの部分はインターネット上には公開しないようにしようとは考えている。
 その後、入浴し、下階に戻るとnoteに詩や短歌を投稿した。今まで日記や読書感想以外の記事はnoteには移していなかったのだが、これも少しでも金になってくれればという思いで、はてなブログにそのまま載っているものではあるけれど、noteの方にも載せてみることにしたのだ。それからLINE上にも今まで作った詩をノート形式で投稿しておき、皆に読んでもらうことにして、そうして一一時半から日記を書きはじめた。前日のものである。零時直前に完成させてインターネット上に放流したあと、ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きを始めた。打鍵しているあいだに聞いていたのは、Tらのグループで作っている音楽の音源である。まだまだ未完成で練りきれていないものが多い。三〇分間書抜きをしたあと、読書に入ることにしたが、次に何の本を読もうか迷った。小説を久しぶりに読みたいとは思っていたので、いくつかの候補のなかから、須山静夫訳『フォークナー全集 9 八月の光』を選び出した。この時は気づかなかったが、この日から八月に入っていたわけで、『八月の光』という題名の本を読むにはタイムリーな時期ではないか。そうしてベッドに移って書見を始め、いつも通り、二時を過ぎた頃だったと思うが意識を消失し、気づくと四時一〇分を迎えていた。多分二時間くらいは眠っていたのではないか。手帳に時間を記録して、入口扉脇のスイッチを押して明かりを落とし、眠りに向かった。


・作文
 11:07 - 13:56 = 2時間49分
 18:41 - 18:57 = 16分
 23:33 - 23:55 = 22分
 計: 3時間27分

・読書
 14:19 - 17:16 = (1時間引いて)1時間57分
 24:11 - 24:41 = 30分
 24:53 - 28:10 = (2時間引いて)1時間17分
 計: 3時間44分

・睡眠
 4:00 - 10:20 = 6時間20分

・音楽

2019/7/31, Wed.

 豊崎 (……)二番目に「永遠回帰」についての考え方なんですが、「永遠回帰」の背景にはやはり「神の死」があって、このことは、さっきの「ポリテイスムとパロディ」という論文のときから言ってることですが、「神の死」というのは人間のイダンチテの消滅を意味する、だから「永遠回帰」というのは、自己同一的なものがそのまま戻ってくるという意味ではありえない、すでに複数形によって拡散してしまった、もう自分ではないようなものが戻ってくるというわけです。逆に言えば、一回目とか初めてとかということはそもそもないのであって、クロソフスキーのことばを使えば、一回きりしか起らないことというのは、強度不足から無意味になってしまう。ある程度の強度をもったものは、もうはじめから複数であり反復であるわけです。それから三番目には、「永遠回帰」と当然関係するんですが、それのひとつのシーニュであり形象である悪循環の円というものがある。それをクロソフスキーニーチェの一種の陰謀、「コンプロ」として捉えるわけです。これはそれこそ積極的、能動的ニヒリズムということになるわけで、あらゆるものには根拠がないし、世界にも自分にも、それを意味づけてくれる統一的な、一なるもの、神というものはまったくないにもかかわらず、行動するわけですね。そのために、ひとつにはダーウィン自然淘汰説のように凡庸なものを選別するほうにはたらくのではなくて、異例なもの、強いものを選別するほうにはたらかせるような陰謀を組織しなきゃならないというわけで、晩年のニーチェの著作活動は全部そちらのほうへ向けられている。とくに最後の点などは、ドイツの文献は知りませんけれども、おそらくいままで〔あまり人が〕言ったことがないことのように思えるんです。ですからこの『ニーチェと悪循環』という大著、およびその前の二つの論文には、ブランショのみならず、フーコードゥルーズ、あるいはデリダなどが現在問題にしているようなことが、殆ど全部含まれてるような気がするんです。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、81~82; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)

     *

 渡辺 (……)要するにニーチェの『悲劇の誕生』を貫く基本的な衝動でもあり、また悲劇の体験の根拠をなしているものは、一種の全身体的であり全存在的な〈合一〉の体験でしょう。それはディオニュソスの巫女なり信女なりになるというあの憑依・変身の秘儀に要約される。しかし秘儀が演劇となったときには、というか演劇にならなければならなかったわけだけれど、そのためには「アポロ的な」仮象として〈表象〉を必要とした。この二つの現象、つまり合一体験と表象との緊張関係でギリシャ悲劇は成立してる。かなりヘーゲル的な図式だけれど、世界の〈根源的な一者〉が、自らを〈仮象〉として疎外し、それを〈夢〉として〈ルプレザンテする〉わけです。ただこの時期のニーチェは、ガエードが『ニーチェフロイトの先駆者か』で跡づけたように、〈夢〉に積極的な価値を与えているし〔「すべての夢みるギリシャ人は、それぞれが一箇のホメーロスだ」〕、〈夢〉は〈神話〉の言説場でもあった。ところがニーチェ自身の中で、〈夢〉への評価が否定的になり、最後に再び肯定的になるという変化があるわけです。演劇のほうからいくと、原則として演劇上演は何かを代行し再現前化するという意味でルプレザンタシオンであるわけだけれど、ところがルプレザンタシオンとしての演劇は堕落だという考えがある。それは、たとえば例のオペラのことをニーチェが非難してる部分に出てくる。レチタティーヴォを、「スティーレ・ラプレゼンタティーヴォ」と蔑称するのはその最も顕著な一例でしょう。この点ではアルトーも同じような志向をもっている。もちろん『演劇とその分身』の時期と、晩年とでは区別する必要があるでしょうが、最終的にいうと、表象とか再現とかあるいは記号化とかいうこと自体が、死であり堕落であると考える発想でしょう。ただ、アルトーもバリ島の演劇については、逆に〈記号[シーニュ]〉という語を濫用することで、ある種の〈強度〉の表現を語ろうとしているので、それが「幻覚症状」とか「神話」と一組になってるのは当然です。ところがさっき出たマラルメは、〈根源的一者〉なんてものを立てないことで仕事をした人だと思う。ニーチェの場合にも、〈根源的一者〉がいつまでものさばっているわけではないけれど、「マヤのヴェールが引き裂かれ」て「個体化の束縛から解放された」人間が「存在の母へと回帰する」という幻想というか衝動は、『悲劇の誕生』にはあった。しかし、同じような〈ヴェール〉の比喩を用いながらも、マラルメは六〇年代のあの狂気に接近した体験について、「音楽と忘却の神秘を積み上げないで〈夢〉を裸形のまま見るという罪を犯した」からと言っている。マラルメにとって〈音楽〉は、ディオニュソス的な根源的一者への回帰ではなくて、「万象間に存在する関係の総称」なんだから、そこには当然分節化ということがある。つまり一に対する複数であり、演劇は演劇である限りはルプレザンタシオンであり記号の集合であり、分節化した関係性を前提とするはずなのに、演劇のなかにはそういうものを超えて記号の彼方に突き抜けたいという欲求がどうもあるらしい。(……)
 (94~96; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)


 九時まで寝床に留まった。今日もまた非常に暑く、ベッドに寝転がっているだけで背や脚に汗が湧いて仕方がなかった。起き上がるとハーフ・パンツを履き――例によってパンツ一丁の格好で眠っていたのだ――、肌着のシャツを持って部屋を出た。階段を上がり、母親に挨拶しながらシャツを裸だった上半身に纏い、台所に入って何かあるのかと訊くと、前日の天麩羅などがあると言う。それで冷蔵庫から天麩羅や肉じゃがを取り出し、大皿にそれぞれ盛って――天麩羅に肉じゃがのほか、カレー・コロッケが半分ほど乗せられた――電子レンジに突っ込んだ。ほか、白菜の味噌汁。これもレンジで温めて卓に運び、さらにそのほか、サラダも用意された。テレビは『あさイチ』。ペット用の車椅子をオーダー・メイドで作製する工房の活動が紹介されていた。食事を取り終えると、丁度母親が冷たい水を用意してくれていたので、それを利用して抗鬱薬を飲み、台所で食器を洗った。皿を洗っているあいだ、居間のテーブルに就いた母親は、Eさんのことを話した。彼女が言っていたらしいが、I.K――小中の同級生――のお姉さんの子供も何か障害を持っている子なのだと言う。Eさん自身も障害を持っていると言うので、そうなのかと尋ねると、目が片方、ちょっと変になっているじゃない、斜視じゃないけれど、何て言うんだろう、とあった。息子のAくんが目の障害で昔からものがあまりよく見えないのは我々のあいだでは周知の事実である。それで、Eさんは、障害を持った人同士の縁結びに奮闘しているとのことだった。さらに、これはまだ食卓にいた時に聞いたことだが、Eさんはまた、市役所が今職員を募集しているから、Sくんも受けてみたら、と言ったらしい。それに対して母親は、いや、仕事は夕方からで、普段は読んだり書いたりしたいらしいよと答えたと言う。わかってくれている返答である。市役所は大学四年生の時分に一度だけ試験を受けたことがあるが、当時は生き悩んでいたので勉強にまったく身が入らず、受ける前からもう落ちるなとわかっていた。パニック障害やら面接で嘘めいたことを言わなければならないことへの嫌悪やらで就職活動もまったくせず、その後大学を卒業してから文学というものに出会って今に至っているわけだ。
 食器を洗い終えると、そのまま風呂場に行った。浴槽をブラシで擦りだすと電話が掛かってきて、母親が出て主人がどうのこうのと言っている。風呂を洗い終えて出てきてから訊いてみると、東京電力からで、木が倒れているとか何とかご主人から連絡があったが知っているかと訊かれたらしい。母親はそうした事実を把握していなかった。それで父親の携帯の方に掛けてみてくださいと答えて、電話番号を教えたらしかった。何故東京電力なのかと訊くと、倒れた木が電線に引っかかったんでしょうとの返答。電話の主は自治会長と言っていたらしいので、おそらくうちの父親だろうとのこと。
 そうして下階に戻ってくると、あまりに暑いのでエアコンを入れることにした。夏というものはこんなにも暑かっただろうか――と言うか正確には、自分がこんなに汗を搔く体質だっただろうかと疑問に思わずにはいられない。特に、顎の下や首筋に掛けて、特段のことはしていないにもかかわらず汗が湧いて仕方がなく、そこに水滴が転がるのが煩わしいことこの上ない。こんなにも自分はこの部位に汗を搔くタイプではなかったように思うのだが。それだけ今年の夏は暑いということなのか――しかし、今年の夏が今までで一番暑いなという感慨は、毎年抱いているような気がする。ともかくそれでエアコンを掛けて、コンピューターを起動させ、Evernoteをひらいて前日の日課や支出の記録を付けると、この日の記事も作成して日記を書きはじめた。一〇時だった。先にこの日の分を綴って一〇時二〇分。
 それからエアコンのずっと掛かったなか――しかしカーテンの向こうの窓はひらいている――二時間半ものあいだ、打鍵を続けたのだが、前日の記事はなかなか進まず、まだ八〇〇〇字くらいしか書けていない。音楽はFISHMANSCorduroy's Mood』を二度流し、さらに『Oh! Mountain』に移行した。終盤はT田とLINEで少々やりとり。そうして一二時半頃になって上階に行くと、既に食事の支度が済んでおり、食卓には蕎麦や天麩羅などが並んでいて、母親はもう食べはじめていた。母親の向かいに就いてものを食いはじめ、安っぽい味の蕎麦を啜り、天麩羅を汁につけて食した。そのほか、サラダ。天麩羅は赤紫蘇が多く、これは隣家のTさんから大量に貰ったものだと言う。母親は天麩羅にする以外にも、先日ジュースを作ったりもしていた。ものを食べ終えると食器を洗って、それからアイロン掛けを始めた。前日に来ていったPENDLETONのグレン・チェックのシャツだが、アイロン掛けには当て布をするようにと表示されていたので、その用途に使える布を探して引出しを探り、一枚の布地を取り出すと、母親が、あ、それが良いよ、あの憎らしい布、と言うので何かと思えば、これが鶯啼庵の布だった。八王子にある店なのだが、二〇一八年の三月――つまりこちらの感情がなくなりはじめた頃合い――に山梨の方の――つまり父方の――親戚連中が集まって会食をした際、送迎バスの運転手の態度が無愛想で、母親がお願いしますと言っても何の反応も見せなかったのだ。運転もいくらか乱暴と言うか、粗雑な風で、その後三鷹のKさんが文句の電話を入れたようなのだが、それからしばらくのあいだ、鶯啼庵のスタッフの態度が悪かったということが、語り草になっていたことがあったのだ。それでその布地を当て布にしてシャツにアイロンを掛けていたのだが、あまり皺が取れない。それなので試しに直接アイロンをシャツに当ててみたところ、それでも大丈夫そうだったので、それ以降は当て布を使わずに皺を伸ばして、それからこれも前日に着た煉瓦色のズボンの方もアイロン掛けをした。そうしているあいだに母親が、山梨の祖母から送られてきた桃を剝いて切ってくれたので、それも食す。まだいくらか固く、甘みも薄くて若い桃だった。母親はまた、ロシアに行くのに、リュックサックで街に出ると危ないかもしれない、背中に背負っていると知らないうちにファスナーを開けられてものを奪われる可能性があると、兄が言ってきたらしい注意を伝えてきた。なるべくならば自分の身体の前に鞄部分が来て抱えていられるようなショルダー・バッグなどが良いと言うのだが、ショルダー・バッグの類はこちらは持っていない。クラッチバッグならどうかと言っても、引ったくりに遭う可能性がないとも言い切れない。それで、母親が先日ユニクロで買ってきたらしいサコッシュという、小さなバッグを使うかと言うので、品を見せてもらった。小さくて、財布とパスポートを入れたらあとはいくらもものが入らないようなものだが、まあそれならばそれでも良い。
 その後、ワイシャツを持って下階に下りてきて、ふたたびエアコンを入れて仕事着に着替えると、歯磨きをした。それからここまでこの日の日記を書き足して、二時を回った頃合いとなっている。前日の記事を書くのが多大な労力である。
 クラッチバッグを持って上階に上がり、母親にそろそろ行こうと告げた。彼女が父親の靴下などを買いに行く用事があったので、そのついでに送ってくれるという話になっていたのだ。それで玄関に向かい、靴を履いて扉を抜け、車の脇に立って母親が出てくるのを待った。林からは数種類の蟬の鳴き声が重なり合って響き出ていた。母親がやって来て車を出すと、助手席に乗り込んだ。車内は言うまでもなく愚かしいほどの暑さに温まっていた。母親が発車するとともにすぐにエアコンを入れた。坂を上っていき、街道に出て東へ向かう途中、母親は、本当に老人ばかりだねと口にした。駅前で車が停まると、有難うと礼を言って降り、八百屋の前を通り過ぎて、職場に行く前にコンビニに向かった。国民年金を払い込む必要があったのだ。コンビニに入り、店の奥に進んでいき、レジに向かう通路に入って、一番手前の、四〇代くらいと見える茶髪の中年男性が担当しているレジに用紙を差し出した。わりと愛想の良い、と言うか穏やかな物腰の人だった。一六四一〇円を支払い、礼を言って用紙を受け取って店をあとにすると、駅舎のすぐ前を通り抜けて職場に向かった。
 入ると、馬鹿げた暑さですよ、と室長に漏らした。すると彼は、昨日は珍客がありましたしねと言う。何かと思えば、蟬が職場内に入ってきたのだと言う。それから座席表を見ると、この日のこちらの勤務は三コマだったはずが、あいだの一コマにこちらの名前がない。それで訊けば、元々(……)兄弟に当たっていたところが、彼らが休みになったのでそのままこちらの勤務は空白になったということらしい。別に良いのだが、そういう連絡は早めにしてほしいものではある。教室に来てから判明するのでは、事前にわかっているのとはやはり心積もりのようなものが違ってくるのだ。それで、授業を入れましょうかという流れになりかけたが、僕は全然、一コマ空きでも構わないですよと言って、休憩時間にすることになった。
 その後、準備をして――国語のテキストを予め読んでおくことに時間は費やされた――一コマ目の授業を始めた。(……)くん(中三・社会)、(……)さん(中三・国語)、(……)さん(高三・英語)が相手である。(……)くんは初見。この子もまた大人し目で、声の小さな生徒ではあるが、コミュニケーションに問題はない。社会は歴史から始まった。今季、歴史の授業を扱うことは初めてである。範囲は中世、鎌倉時代から室町時代に掛けてのあたりだ。(……)くん本人は、歴史は「ぼちぼち」であり、問題を解いてみると忘れているとは言っていたものの、そんなに悪くはない印象で、こちらの口にする用語に対する反応もそれなりにあった。
 (……)さんは多分これで当たるのは三回目だと思うが、相変わらずの無口ぶりである。下手をすると声を一度も聞かずに授業が終わってしまいそうな様子なのだが、この日は前回の授業の復習をした際に、漢字の読みを発語させることに成功した。まあ段々とこちらという講師とそのやり方に馴染んでいってくれると良い。帰り際に前日と同様(……)さんから声を掛けられていたのだが、その時の表情の方が、こちらを前に授業を受けている時よりもやはり柔らかいような気がした。彼女を相手にする時は、椅子に座ってきちんと顔が見えるような応対の仕方をした方が良いだろう。
 (……)さんは今日扱ったのは冠詞のところで、どういう場合に定冠詞を使うのか、あるいは使えないのかといった点に少々苦戦しており、問題を解くのに時間が掛かってノートを記入する時間が全然取れず、授業冒頭に一つの事項を記録しただけで終わってしまった。これは誤算だった。それで言えば(……)さんの方もやはり、同じように問題を解き終わって切りがついたのが授業の終わる直前で、残り時間に猶予がなかったのでノートに記入させられなかったのだった。このあたりの回し方はまだまだ改善の余地があるなといった印象。
 休憩時間。座席に就いて国語のテキストを読んでいたのだが、仕切りを挟んで左隣が(……)だったので、時折り立ち上がり、仕切りの上から顔を出して彼女を見下ろし、声を掛けてちょっかいを出した。彼女が受けていたのは(……)先生の古典の授業だった。(……)先生は国語の教師を長年務めていただけあって、指導は詳細だった。古典文法などこちらはほとんど忘れてしまったけれど、僅かに残っている知識でもって口出しをして、授業ノートを記入するように促したりした。
 そうして二コマ目。相手は(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)さん(中三・国語)である。まあ全体にわりあいにうまく回せたのではないか。(……)さんはやはりスピードが遅く、まずもって漢字テストの時点でかなりの時間が掛かっていたが、こればかりは致し方ない。本人のペースとレベルに合わせて着実な実力向上を図るのが個別指導の役割である。それでもテストは四〇点中三四点となかなかの成績で――とは言え、実施する前にいくらか解答を見て覚える時間を取っていたけれど――事前にノートに勉強もしていたようだったので、彼女としては結構頑張ったのではないか。あとで(……)さんに報告をした際に、彼女が、(……)さんは学校の授業を受けていないということをちらりと漏らしたのだったが、その点についてもう少し詳しく突っ込んで聞けば良かった。それで思い当たるのは、以前、(……)さんは会話のなかで、不登校の生徒などが集まる学外の施設のようなものの名前を出したことがあった――その正確な名称は思い出せないのだが。けらけらと笑うような明るめの、わりと今時の子なので、完全な不登校なのかはわからないけれど、学校に行っていないのだとしたらそれはちょっと意外ではある。それでも、彼女については将来は何となく大丈夫なのではないかという楽観的な見通しをこちらは持っている。コミュニケーション能力は充分あると思うし、今日話していても、その会話のなかに、祖父母の話題が出てきたのだ。曰く、昨日自分はエアコンも点けないで水も飲まないでずっと眠っていたら、頭が酷く痛くなった、おそらく熱中症になりかけていたのだと思う、お祖母ちゃんも扇風機だけで過ごしているので心配だ、というような話で、お祖父さんの方は釣りに行っているので日に焼けて真っ黒なのだということだった。同居しているのかは知れないが、おそらくそうなのではないか。古い考えかもしれないが、祖父母と同居している子供はわりあいに情操的に上手く育つような気がこちらはしていて、それも(……)さんの将来にはまあそこまで心配はないのではないかと判断する理由の一つである。
 授業が終わると(……)さんに報告をして、入口近くにタイムカードを押しに行ってから教室奥に戻ろうとすると、扉がひらいた。(……)さんの母親が迎えに来たのだった。それで自習席で眠っていた(……)さん――(……)ちゃん、と言った方が良いだろうか?――を(……)さんとともに起こしてやり、その片付け――色々とものが詰まって重くなったリュックサックにさらに道具を仕舞う――のを手伝ってやり、そうして入口近くまでついていき、送り出した。それから教室奥に戻ってロッカーからバッグを取り出し、退勤した。
 午後八時前にもかかわらず、もやもやとした馬鹿げた暑気だった。「浸かっている」という形容が相応しいような熱気のなか、駅舎に入り、ホームに上がると自販機に寄って、一五〇円を挿入して一三〇円のコカ・コーラを買った。そうしてベンチに就き、手帳を取り出してコーラを開けた。炭酸飲料がしゅわしゅわいっているところを一口含み、それから手帳を読みながらゆっくりと飲んでいった。飲み干すと手帳を持ったまま立ち上がって自販機横のボックスに空のボトルを捨て、座席に戻った。それからしばらくして奥多摩行きがやって来ると乗り込み、七人掛けの端に就いてクラッチバッグを折り畳み左の仕切りとの隙間に置く。そうして引き続き手帳に記された情報を、一項目五回ずつ読みながら発車と到着を待ち、最寄り駅で暑気のなかに降り立つとホームを辿った。階段通路の途中、一段の端に蟬が伏していた。まだ死んでいないように思われたが、鳴くことも動くこともせず静かに停止していた。駅舎を抜けると横断歩道の前に、若い女性が一人立っていた。ボタンを押して渡るのかと思いきや、その素振りも見せない。短いパンツを履いて脚を露出させた格好で――夜闇に加えて目が悪いので、もしかしたら肌に近い色のズボンを履いているのを見間違えたのかもしれないが――、そのような格好の若い女性が我が最寄り駅の付近に、しかも夜に立っているというのは、何とはなしに珍しい光景だった。こちらは車が途切れた隙を狙って通りを渡り、木の間の坂道を下りていった。枯葉が至るところに散らばって群れ成している。職場にいるあいだに激しい雨が通った時間があったのだが、木の天蓋を戴いた坂道には濡れ痕があまり見当たらなかった。こちらの方では降らなかったのだろうか? 坂を出て平らな夜の道を行っていると、脇の垣根からキリギリスか何かの声が立ち、数瞬置いて暗闇に包まれた林の方からも蟬らしき叫びが上がって、さらに目の前を小さな蛾が街灯の明かりに照らされて横切っていった。この世は映画だな、と思った。
 帰り着くと母親に挨拶し、ワイシャツを脱いで丸めて洗面所の籠に入れた。そうして下階に戻るとスラックスも脱いで肌着とパンツの姿になってコンピューターを点けた。Twitterを覗いたり、LINEのグループで二、三、やりとりをしたりしてから、上階に行き、食事である。メニューは酢の物に鮭や煮物、モヤシのカレー炒め、そうして白米と白菜の味噌汁だった。卓に就き、胡瓜と蛸とモヤシの混ざった酢の物をかっ喰らい、鮭をおかずに白米を貪って、それから煮物やモヤシ炒めを食べ、最後に味噌汁を飲んだ。こちらが食べている途中から母親は、父親がもうまもなく帰ってくるからと言って風呂に行ってしまい、こちらが食べ終えて薬を飲もうというところでその父親が帰ってきた。おかえりと言って挨拶したその時は、九時のニュースが始まった頃合いだった。こちらはそれから食器を洗い、下階に下りて、しばらくしてから日記を書き出した。九時半過ぎだった。BGMとして流したのは、Hank Mobley『The Dip』である。何となくこのアルバムの冒頭、タイトル曲のテーマが頭に蘇ってきたのだった。さて、それで日記を二〇分ほど書いて一〇時が近くなってから入浴に行った。浴槽のなかに浸かると両手で湯を掬って顔をばしゃばしゃ洗って脂を流した。シャンプーはもうほとんど尽きていて、ポンプを押しても洗剤が出なくなったところに湯をボトルに入れて水増しして使っている。非常に薄く稀釈されたシャンプーでもって頭を洗い、出てくると三ツ矢サイダーの缶を一本持って自室に帰った。それを飲みながらふたたび日記を書き出して、ここまで記すともう一一時が目前となっている。
 その後、Skype上で通話が始まったのでチャットで参加した。最初はYさんとKさんだけが話していたのだが、じきにRさんやCさんなどが集まってきた。こちらが、Twitterでまたメンバーを募集してみようかと提案すると了承されたので、Twitterの方でSkypeに参加できるURLを貼りつけてツイートを投稿した。それから適当に話していたのだが、じきに、Oさんという方が募集に応じてやって来てくれた。その頃にはIさんも大層久しぶりに姿を現しており、その後、NさんやAさん、MDさんなども参加してきて、いつになく盛況になった。こちらは零時頃から日記を書くのを止めて、音声で通話に参加した。その直後にIさんもやはり通話に移行してきて、久しぶりに彼の文学談義を耳にすることになった。彼は村田沙耶香コンビニ人間』や、沼田真佑『影裏』などを最近読んだと言う。どちらも芥川賞を受賞した小説だったはずだ。『コンビニ人間』は本当にコンビニでしか生きられないような、コンビニと心身ともに同化・一体化してしまったような人物の話で、読んでいて自分の身にも当て嵌まるような部分もあるのが気持ち悪かったと話した。『影裏』の方は、こちらは震災関連の小説だと何となく認識していたのだが、震災色はそこまで強くなく、むしろLGBTを主題とした小説なのだと言った。そのほか、夢野久作論が仕上がって査読を通れば雑誌に掲載されるというような話しなどがあったが、話題の大方は今思い出せないので省略する。最後の方で、安部公房を勧められた時間はあった。ガルシア=マルケスが好きなFさんなら、きっと気に入ると思いますよとのことだった。
 二時になったのを機に通話を終了し、コンピューターをシャットダウンしたこちらは、ベッドに移ってプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読みはじめたのだが、ほとんどいくらも読まないうちに意識を失ったようだった。実質三〇分すら読んでいないと思う。あとで見てみると、僅か二頁しか進んでいなかった。それで気づくと四時になっていたのでそのまま就床した。


・作文
 10:01 - 12:37 = 2時間36分
 13:46 - 14:02 = 16分
 21:34 - 21:54 = 20分
 22:10 - 23:58 = 1時間48分
 計: 5時間

・読書
 26:05 - 28:00 = 実質30分も読んでいない。

・睡眠
 2:20 - 9:00 = 6時間40分

・音楽

2019/7/30, Tue.

 清水 ところで、フーコーが死んでしまったいま、フーコーが我々に何を語りかけていたのかということになると、これは『思想』に載っていた「主体と権力」という論文にあった言葉なんですけど、「多分今日の標的は私たちが何者であるかを見出すことではなく、何者かであることを拒むことである」という言葉に要約できるんじゃないか。カッコいい言葉であるけれど、これはやはりフーコーの先取り論理であって、『性の歴史』全三巻で彼が言おうとしている、セクシュアリテを中心とした人間という個体の誕生、およびその権力構造との関係の、さらにもう一つ先のことをここでチラリと言ったんじゃないかと思うわけですよ。
 渡辺 すでに何度もその名を引いた我々の友人モーリス・パンゲは、よくフーコーのことを、「ヴォルテール的だ」と言います。それは、超越的なものを意識的に排除していく思考についても、そのような形での明晰なフランス語についても言っていると思います。しかしこれを僕なりに、ルソー的という言葉に対比して使ってみると、「ルソー的」ということが、短絡的には私小説的だと言えるなら、その意味ではやはりフーコーヴォルテール的だろうと思う。フーコーは、たとえばコレージュ・ド・フランスの就任演説では「私が語るのではなく、私を通して語りかけてくるもの」と言ったり、あるいはいろいろなところで「書物は無名でなければいけない」と言ったりしています。あるいは、『ル・モンド』が刊行した対談シリーズの冒頭を飾る無名の哲学者というのは、じつはフーコーだったわけで、そういう〈無名性〉に惹かれるフーコーというものがいる。しかし、フーコー通俗的な意味では、宿命的に無名ではありえない。それでもそういうことを言わずにいられなかったということは、「私が、私が」という騒喧に満ちた貧相な主観性の横行する風土の中では、いかにも「古典的」な節度であり、品位とも思われてきます。少なくとも、我々が相変わらずその内部に留まらされている「ルソー的」と一応は呼んでおく地平を超えるには、僕には少なくともフーコーという人は有効だし、僕自身、これからも多くのものをフーコーに負っていくだろうと思うのです。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、68~69; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)

     *

 清水 いま豊崎君の言ったことから話を多少本題にもっていくためのつなぎになるかもしれないことをいうと、ぼくは非常に単純に言って、ニーチェって人は世界文学中たぐいまれな詩人哲学者だと思うんですよ。ぼくはむかし、いま豊崎君が言ったのと同じような意味でモラリストとしてのニーチェを愛読したとき、ニーチェにはフランスのモラリストとははっきり違う面がある、メタフォールやイマージュの非常に豊かなモラリストがここにいる、というのが少なくとも少年のときの印象だった。日本語でふつう言う「詩人哲学者」というのは、ひどくくだらない垢がついているけれど、ニーチェを「詩人哲学者」と考える理由は、このメタフォールというもののいわば存在論的な機能にかかわっているんですね。ヴァレリーニーチェに感動しながらなぜ敬して遠ざけたかといえば、ニーチェはつまり考えられないことを考えようとしてた。ヴァレリーは自分が考えられないことを考えるよりは、どこからどこまでが考えられてどの線から先が考えられないかという区分をまずやって、考えられる領域に光を当てながら、その境界線を絶えず絶えず外へ外へひろげていくほうがいいと思った。それと対照的にニーチェは、おそらく考えられないことを言語でもって考える、無限に対して言語で挑みかかるということをやってのけた人で、しかもそれを小説家とか詩人〔詩は書いてますけど〕とはちがうかたちでやってのけた。そういう意味で最も高次の詩人哲学者だと思うんです。ニーチェが一九六〇年代にはっきりとフランス思想の舞台に登場してきた理由もまた、そこにあるんじゃないか。豊崎君同様、ぼくにしても少年のときにたとえば「病者の光学」ってなことばにいかれた記憶があって、そういうモラリストとしての鋭さにニーチェの魅力があるんだけれど、それを越えてブランショ風にいえば、「外」というものにぶつかってしまったところにニーチェの衝撃性がある。それをたとえばフーコーは『言葉と物』のなかで非常にはっきり言った。『言葉と物』のなかで呪文のように繰り返されるマラルメニーチェアルトーバタイユロートレアモンという一連の固有名詞は、実体としてはほとんど説明されていないけれども、少なくともニーチェの場合はわかりやすい。フーコーによれば十九世紀の末に言語それ自体が改めて問題にされるような動向があり、フィロローグとしてのニーチェが、哲学的な営みと言語それ自体に対する反省とをはじめて近づけた、あるいは合体させたというわけです。フーコーは「ニーチェ・系譜学・歴史」という表題の論文で、「善い」とか「悪い」という概念を『道徳の系譜』のなかでラテン語源、ギリシャ語源にまで遡りながら、そういう言語の厚みにおいて分析しているニーチェをつかまえて、「系譜学は、ぼやけ、すりきれ、何度も書き直された羊皮紙にもとづいて作業が進められる」と言っているわけです。「羊皮紙」という考え方、つまり言語それ自体の厚みということと、ロワイヨーモンの《ニーチェ・シンポジウム》においてフーコーが「ニーチェにとって始原的な意味はありません」と語っていることとは、明瞭に照応し合っていますね。(……)
 (77~79; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)


 七時のアラームで一度覚醒した。面白い物語風の結構が整った夢を見たはずなのだが、その詳細は覚めた当初から既に忘却の彼方だった。ベッドから起き上がってアラームを止めると、寝床に舞い戻り、それから三〇分ほどふたたび休んだ。そうして七時半を過ぎたところで再度起き上がり、股間が怒張していたのでそれが静まるのを待ちがてら、コンピューターを点けた。起動を待ち、Twitterを覗いていると逸物が収まって来たので部屋を出て、上階に行って母親に挨拶するとすぐにトイレに入って長々と放尿した。食事は、温野菜を今母親が拵えたところだった。それと茹でたソーセージを合わせて皿に盛ってくれたのを受け取り、そのほかヨーグルト――賞味期限が今日までだから食べてくれと言う――やゆで卵が食卓には並んだ。ソーセージをおかずにして、瑞々しい、炊けたばかりの白米を食し、温野菜にはドレッシングを掛けて口へ運ぶ。紫玉ねぎの辛さ、刺激の強さが口内に残った。食べているうちに父親も起きてきて、長く便所に籠っていた。こちらは食べ終えると抗鬱剤を服用し、食器を洗って下階に戻ってきて、Evernoteを立ち上げて、前日の記事に日課の記録を付けるとこの日の記事も作成して、日記に取り掛かりはじめた。先にこの日の分をここまで綴ると八時一〇分である。
 前日の記事をそれから綴って八時五〇分、電車の時間は確か九時一七分だったか? あまり猶予はなかった。それで、おそらく歯磨きをしてからだと思うが、一度上階に行った。しかし、何のために上階に行ったのだったかは覚えていない。靴下を履きに行ったのだろうか。その時、もう時間がないので風呂を洗ってくれるかと両親に頼んだ。するとそれを受けた母親は、じゃあお父さん、洗ってねと笑いながら言い、父親は、歯を磨いていたのだったか、何とも反応しなかった。こちらの服装は、いつもの煉瓦色のズボンに、薄褐色の細かなチェック柄のシャツ――チェック柄のなかに時折り細く赤い線が走っている――である。それでクラッチバッグと、T田とT谷に差し上げるプレゼントの本が入った丸善淳久堂の白い紙袋を持って部屋を抜け、階段を上がった。ハンカチは以前入れて入れっぱなしになっていたものが、もう尻のポケットに入っていたと思う。そうして出発した。もうこの朝の道行きのことはよくも覚えていないのだが、午前九時から陽射しがだいぶきつかったと思う。蟬も旺盛に鳴いていたはずだ。坂道に入ると、木の天蓋の下で陽射しがなかなか入り込まないから途端にいくらか涼しくなって、路面は濡れ痕が残った上に葉っぱがいくつも貼りついていたような覚えがある。坂を上っていくと途中で身体の小さい老婆が現れて、こちらの前方をよたよたとしたような調子でゆっくり歩いていた。その横の日向のなかを通り過ぎていき、馬鹿げた暑さのなか通りを渡って駅舎に入った。ホームに着き、屋根の下で手帳も読まず、息をつきながら風を感じるようにしていると、まもなく電車到着のアナウンスが入ったのでホームの先の方へ行った。電車に乗り込むと扉際に立ち、冷房に身を任せて汗がいくらかでも引いてくれるように願った。
 そうして青梅に着くと降車して、ホームをさらに先の方まで歩いて一号車に乗った。車両内は無人だった。七人掛けの端に腰を下ろし、手帳を取り出して読みはじめた。プリーモ・レーヴィの指摘によると、第三帝国において「敵」であるユダヤ人は、ただ死ぬだけではなく、最大限に「苦しみながら死ななければならなかった」(137~138)。そのための機能に特化したのが絶滅収容所という機関であるわけだ。病院のベッドで辛うじて生命を繋いでいたもう九〇代にもなる老女までもが収容所へと運ばれたという事実が端的にそれを表している。彼女は放っておいてももうまもなく死ぬはずだったのだから、そのまま自然に死ぬに任せた方が手間も掛からず、より「経済的」だったはずなのだ。しかし、ナチス当局はそれを許さず、彼女を苦痛のなかで死なせるために、食事も衛生設備も満足に整っていない列車に押し込めるという決定を下した。
 死という事象、そして、その死の結果生まれる人間の遺骸という物質については、「先史時代からいかなる文明のもとでも尊重され、敬意をささげられ、時には恐れられた」(142)。しかし、ラーゲルにおいてはそのような通念はまったく通用しない。強制収容所において遺骸とはもはや畏怖の念を向けられる崇高な死の表象ではなく、単なる素材であり、せいぜい良くても「何かの工業的用途に使えるだけだった」。実際、ガス室送りになった女たちの髪の毛は――アウシュヴィッツ博物館の陳列台に、それらは展示されているらしいが――ドイツの繊維産業に買い取られ、ズック地などの製造に使われたのだった。このような形で、収容所という機構の存在から無慈悲な利益を引き出した企業があったということも、我々は忘れてはならないだろう。
 路程の後半では少々眠気が湧いてきていたような覚えがある。立川に着くと、周囲の乗客たちが降りていくのを見送って、引き続き少々手帳を眺めて待ってからこちらも降車した。時刻は九時五五分だった。階段を上がっていくと、平日の午前一〇時だけあって駅の通路はいつもに比べて人が少なく、空間に隙間が大きく開けられている。そのなかを歩いて改札を抜け、壁画前に行った。待ち合わせのために並んでいる人々の顔を見ても知ったそれがないので、ひとまず立ち止まってあたりを見回していると、Mさんがすぐにやって来た。おはようございますと挨拶して二言三言、言葉を交わしていると、KくんとTも続いて到着した。そうしてT田。T谷は待ち合わせの一〇時には少々遅れるらしかった。Mさんは明日、これまでの職場を退職することになっており、今、求職中だと言う。それを聞いてKくんが、おめでとうニート、と言って笑っていた。ニート期間があったこちらもそれに乗って、ニートはいいぞ、とか何とか言ったかもしれない。そのほか、Mさんが、T谷のために作ってきた写真アルバム――先月にこちらを除いて皆がディズニー・シーに行った際の写真を集めたもので、青いカバーの小さなものだがよく出来ていた――を皆に見せたりしているうちに、T谷もやって来た。そして、今日の企画はT田のファッション・コーディネートである。T田の誕生日を祝いがてら、皆で彼の衣服をコーディネートしようという目論見だったのだ。とは言え、細かな段取りは特に決まっていなかった。つまり、メンバーそれぞれが自分が良いと思った服を選んでT田にプレゼントするか、それとも一品か二品をメンバー全員で割り勘してプレゼントするか、などの細かな部分である。こちらは何となく後者のイメージでいたのだったが、T谷などは前者の考えでいたようだった。ともかくまずは店に行ってみることにして、T田に普段どんなところで服を買うのかと訊いたところ、ユニクロとかGUとかだと言うので、ビックカメラのなかに入っているGUに行くことになった。この点も、こちらはLUMINEのなかの店舗で少々値の張る――こちらが普段買っているような――品を一品か二品見繕って、皆でプレゼントすることを何となく考えていたのだったが、そうした意図は口には出さず、GUに行くという決定に従った。
 そうして北口広場へ向けて歩き出した。屋根のある歩廊を抜けてエスカレーターに差し掛かると、愚かしいほどの熱線が重く頭に伸し掛かってくる。それを受けて汗を滲ませながらエスカレーターを下り、ビックカメラに入店すると、ここでもエスカレーターを使ってGUの入っている六階へ向かった。店舗に着くと、衣服のあいだのちょっと空間が広くなったところに集まって話し合い、皆でそれぞれT田に着せたいと思う品、似合うと思うものを持ち寄って、それを順番に試着してもらおうということになった。それで散開。こちらは自分の好みとして綺麗目、シックな装いがあるので、T田にもそうした格好をさせてみようというわけで、チェック柄のパンツにオープン・カラーの黒シャツ、茶色のベスト、ダーク・グリーンのジャケットなどのトラッドな品々を選んだ。さらには、T田がジーンズを履いているのを見たことがないというわけで、白いデニムと、臙脂色のスキニー・ジーンズも籠に入れた。しばらく店内をそれぞれ回って、もう一度集まり、順番に一人ずつ――TとMさんは二人まとめて、そしてT谷は特に選んでいなかった――プレゼンをしていった。Kくんが選んだのは、麻の白いシャツや、黒っぽい緑のアンクル・パンツなど。こちらはT田にジーンズを履かせたいという点と、トラッドな格好をしてもらいたいという点を強調した。白と臙脂色の短パンを選んだのは女性陣だったか、それともKくんだったか? シャツもたくさん集まり、Tシャツは一枚、Kくんが持ってきていたが、それはVAN HALENの文字とロゴが入ったものだった。そうしていよいよ試着室へ。FITTING ROOMの表示に従って移動すると、ずらりと一〇個の部屋が横並びに連なった廊下があって、その一番奥の端、一〇番の部屋が、車椅子に乗っている人などのためのものなのか、ほかよりも広くなっていて長めの椅子も備えつけられているものだったので、そこにまず入った。それで最初に、こちらの選んだチェック柄のパンツのうち、薄青さに寄った灰色のような色の方と、オープン・カラーの黒シャツを着てもらった。試着したあとカーテンを開けてT田が姿を現すと、おお、というようなどよめきが起こった。なかなか似合っていたと思う。さらに次には、下をもう一方のチェック・パンツ、黄土色と言うか黄褐色と言うか、そのような色味のものに替えてもらったのだが、こちらの方が明るめで良かったようだ。そのあたりだったか、もっと早かったか、あるいはもっと後だったか覚えていないが、ベビーカーを伴った婦人が一人、試着室にやって来たので、一度一〇番の室を使ってもらうために我々は九番の方に移った。それでベビーカーの婦人が去ったあと、ふたたび一〇番の方に戻ったわけである。そもそもまずもって、どうやら試着は一度に五点まで――ただし品を交換して何度も試着することは可能――というシステムだったらしく、大量の衣服をいっぺんに持ち込んだ我々の振舞いはルールに反していたのかもしれないし、それで言えばこんなに大人数で試着室を利用している人間たちもいなかったわけだが、そのあたりご愛嬌である。それでその後、次々にT田に着替えてもらい、そのたびにT谷がTの携帯で写真を撮り、どよめきが起こったり笑いが立ったりした。T田はわりとどれも似合っていて、いや、これはないなというような装いは見当たらなかった。そう言えば、皆がそれぞれ選んだ品がまったく被っていなかったことも、書き忘れていたが特筆するべき事実である。自分で選んだ英国紳士風トラッドな衣装――黄褐色のチェック・パンツに、シャツはKくんが選んだ白の麻シャツ、それに茶色のベストを被せ、ダーク・グリーンのジャケットを羽織る――がやはりこちらとしては一番好きだった。そのほか、皆が気に入ったのは紺色のポロシャツに白い短パンの組み合わせ。T谷が、高層マンションに住んでいそうだ、などと漏らしたのを皮切りに、投資をやっていそう、とか、ベンチャー企業の社長だ、などという声が聞かれた。
 すべての品の試着を終えたのは、一一時半頃だったのではないだろうか。一時間強は試着をしていたと思う。すべて終わってT田が今日着てきた装い――ちなみに、淡い青のシャツとモス・グリーンのズボンで、前者は多分スーツの下に着るようなワイシャツの類だったのではないか――になって試着室のカーテンの向こうから出てくると、拍手が起こり、お疲れさまでしたとの声が掛かった。それで、どの品を買うか決定する段に入った。まずT田に自分の気に入った品を選んでもらい、それから皆のお勧めを考慮して、累計で一三点が選ばれた。比較的、皆の気に入った品はどれも入ったようである。こちらはジャケットの装いがやはり一番良かったのと思ったが、ジャケットはこれらのなかで最も値が張って――それでも五〇〇円程度だが――それを入れると結構値段が嵩んでしまうので、ジャケットは諦め、その代わりにシャツなどを増やして点数の多さを取ることになったのだった。まあ、今買ったって今すぐ着られる品ではないし、ジャケットは秋になったらまた買えば良いわけである。それで試着室の区画を抜け、購入に至らなかった服を皆で陳列棚に戻していった。それから会計。会計はセルフレジである。品物からハンガーを外さないといけないということだったので、Mさんなどが次々に外していくハンガーをこちらは受け取って、まとめて台に置いた。そうして衣服をまとめて箱のような棚のなかに入れるのだが、一三点も一気に買う人間はそうそういないだろう、まるで大量の洗濯物のようになっていた。それで会計、Kくんがカードを使って一括で払ってくれたので、あとで皆で精算するということになった。一人頭三七〇〇円ほどである。そうして背後の台に移って二つのビニール袋に分けて衣服を入れていき、会計区画をあとにした。良い金の使い方をしたなあと話しながら、エスカレーターに向かった。白いデニムの裾上げを待つために、一〇分少々どこかで時間を潰す必要があったのだが、それでは下階にベンチがあったのではないかとなって、そこに向かったのだった。二階ほど下りたフロアに木製のベンチがあったのでそこに腰掛けた。ここでこちらはT田とT谷に、プレゼントの本を贈呈した。二人はその場で包みをひらいたのだが、布袋の包装が結構厳重で、輪ゴムが口のところに何重にも巻かれていたりして、それを外すのに結構手間取っていた。T田には『石原吉郎詩集』、T谷には谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』である。Tが二人が手に持った本を写真に撮っていた。それからT田と、こちらの短歌について話を交わした。以前T田には短歌をまとめたテキストファイルを送ってあって、それを丁寧に読んでくれているようなのだ。いくつかの歌について、これは元ネタがあるのだとか、これはあの作品からイメージが膨らんだのだ、とかいったことを話した。そうこうしているうちに一〇分くらい経ったので、ふたたびエスカレーターに乗って上階に向かい、白のデニムを受け取ってビニール袋に入れるとエスカレーターに戻って下階に下りた。昼食を取りに行く流れだった。店はKくんが事前に調べておいてくれたようで、それが、伊勢丹の下にあるということだったので、ビックカメラを抜けると、馬鹿げた暑気のなか歩廊へと上がるエスカレーターに乗って広場で上がった。そうして通路を辿っていき、伊勢丹前のエスカレーターからふたたび下の道に下りると、Emilie Flogeという店が伊勢丹の敷地の端にあった。入店。六人であると告げて待つことに。椅子は三つか四つしか空いていなかったので、こちらは立ってほかのメンバーに譲った。ここでもT田と、こちらの短歌について話をした。T田は、九三番、「鴇色のやさしい人はおしなべてうつむき歌う風の言葉を」が好きらしかった。それなので、これは岩田宏という詩人の詩のなかに、「やさしい人はおしなべてうつむき」というフレーズがあるのでそれを引用したのだと話した。そのほか、「監獄でメメント・モリを唱えつつ純粋音楽夢見て眠る」という歌についても、これは――この歌はNさんが一番好きだと言ってくれたものだったと思うが――『ショーシャンクの空に』がイメージの下敷きとしてあったのだと告げた。『ショーシャンクの空に』を実際に見たことはないのだが、そのなかの一つのエピソードは何となく知っていて、監獄に入れられた男が頭のなかでモーツァルトか何かの音楽を聞いて、身体的に制限を受け拘束されていても、精神の働き、その自由は誰にも拘束できないものなのだと語られる、そんなエピソードがあって、それが何となくイメージの発端としてあったのだと話した。「純粋音楽」という語については、詩や短歌というものは意味のない純粋な音楽のような様態に憧れるものかなと思っているので、そのような言葉になったのだとも話した。あとは『族長の秋』の語を入れた歌についても、T田は検索してそういう小説があるのだと知ったらしい。それで、『族長の秋』はこちらが今まで一番繰り返し読んだ小説である、七回くらい読んでいると話し、時空の操作が凄まじく、渦に飲まれているような感覚を与えられると紹介した。ガルシア=マルケスはいわゆるマジック・リアリズムと言われることが多く、エピソードや内容面では荒唐無稽、奇想天外な出来事が起こって、豪放磊落といったようなイメージが強いのだが、形式面、時空操作の手付きに関しては非常に几帳面で整然としているのだとも話した。T田は短歌について検索する過程で、こちらのブログを発見したらしかった。それでも、日常生活を覗くことになってしまうのが悪くて中身は詳しく覗いてはいないと言うので、別に読んでもいいぞと笑った。
 そうこうしているうちに、六人分の席が用意されて案内された。テーブルを三つ繋げた長方形の区画のなかで、こちらは下辺の右端に就いた。左隣にKくん、そのさらに左にT、こちらの向かいにはT田、その左隣にはMさん、こちらから見て対角線上の反対側にはT谷が就いた。テーブル上には、昼食のパスタセットのメニューが三つ、並べられていた。パスタは三種類、トマトソース、ジェノベーゼ、和風パスタだった。こちらとMさん、T谷がトマトソースを選び、KくんとT田は和風パスタ、Tが一人ジェノベーゼを選択した。飲み物はこちらはジンジャーエール、ほかの人々の品は何だったのか覚えていない。プラス二八〇円でケーキセットになるところ、こちらはケーキは良いかなと思っていたのだが、店員にケーキセットの方と訊かれてこちら以外の全員が手を挙げたので、え、皆食べるの、それじゃあ俺も、と追随した。ただし、ショーケースを見分して品を選ぶのは面倒臭かったのでT田がモンブランを迷わず決めていたのに倣って、こちらもモンブランを食べることにした。
 品が来る前だったか来て食べ終わったあとだったか、Kくんが隣のこちらに向かって頭上の照明を指差して、あれから何を連想する、と訊いてきた時があった。照明は球形のもので、ただ普通の球なのではなく、全体に襞がたくさんついているものだった。Kくんはフリル状のスカートを連想したらしかった。情報量が多い照明だね、と彼は言った。そのほかもう少し、Mさんも交えて話が発展したのだったが、何を話したのかよく覚えていない。海月がどうとか言っていたのだが、何故海月の話になったのかもわからない。海月の触手は何故触手状になっているのか、あれは進化の上での必然性はあるのか、というようなことをKくんが問いかけていた。
 料理は普通に美味かった。トマトソースのパスタはパプリカやズッキーニが具として入っており、あとは全体に蟹が細かく混ぜられていたようなのだが、Mさんは、蟹感があまりなかったと言っていた。モンブランは底が少々硬い、砂糖細工のようになっていた。料理を食べ終わったあとだったと思うが、Mさんに呼びかけて、現代アートの展覧会とか見に行く、と訊いた。見に行かないとのことだった。本人曰く、美大出なのに、美術館に行かない、芸術はよくわからない、という人種なのだと言った。それを受けて問わず語りにこちらは、このあいだ、クリスチャン・ボルタンスキーという現代アートの作家の展覧会に行ってきたと話した。そう口火を切ると、どんなものなのかという問いが皆から発せられたので、白黒の写真がずらりと並んでいたり、パネルのようなものが積み上げられた上に子供の顔の写真が乗せられていたりする、それはどうやらホロコーストの死者とどこかで繋がっているらしい、写真は皆薄白い顔で幽霊を連想させるような感じであり、全体的に「死」の空間、というような印象だった、というようなことを話した。
 その後、全員で一人ずつ、近況や、これからの生活の予定などを報告し合った。T田は来年からおそらく大阪に行き、どこかの大学の助教として働くことになりそうだとのこと。Tは、学校講師の職に加えて最近はコンサルタント業というようなものも開拓しはじめているらしい。母親とのあいだに問題を抱えた女性に対して、自分の経験を踏まえてアドバイスするような感じらしいが、その顧客を広げていくのに、どうやらYoutubeの動画を利用することになりそうだ、と言うので、こちらはすかさず隣のKくんに、どうですかKさん、彼女がYoutuberデビューしますけど、と話しかけたが、笑ったTによって、Youtuberじゃないと否定された。まあ今は動画で宣伝とか情報発信みたいなのたくさんあるよね、政治系のとか、芸能の噂とか、とこちらは受けた。
 T谷は八月後半からは週二程度のスケジュールで茨城に通うことになるのだと言った。Mさんは先にも書いたように求職中で、有休を使って既に休みになっているが、この翌日で今の職場を退職するということだった。転職活動も既に行っていて、面接をこなすのが嫌で仕方がないと言う。嘘つき大会だから、と苦笑しながら漏らす。既に受けたのは塾や事務などの職で、この日のあとの時間、モノレールに乗っているあいだには、発達支援の教室から内定の知らせが届いたようだったが、そこは圧迫面接のようなことを行われた職場で、絶対受からないだろうと思っていたので意外だと言っていた。こちらはMさんに、ニートしようぜ、と笑顔で持ちかけ、一年くらい休んでよく考えた方が良い、と冗談を言ったが、メンバー皆には思いの外に真面目に受け取られたようだった。その後もKくんと一緒に、ニートは大事、ニートは重要、などとこちらは冗談を言い合っていたのだが、しかし、Mさんの父母はあまりそうしたことに対して寛容ではないらしいので、何もせずに家にいるということは出来ないという話だった。
 そのほか、このあとどこに行って何をしようかということも話し合った。Tが、夜になったらタチヒビーチに行って皆で花火をしたいと言う。異存はなかった。それで、花火を買うためにひとまずドン・キホーテに行こうということになった。あとそうだ、店を出る前に、T田がトイレに行って今日買った服に着替えてきたということもあった。彼が選んだのは紺のポロシャツに白の短パンで、皆がベンチャー企業の社長みたい、と言っていたもので、いかにも夏らしい装いだった。それで先ほどのGUでの代金を精算し、さらにここEmilie Flogeの代金をまとめて払ってくれたMさんに、一五〇〇円を渡して精算を済ませ、店をあとにした。
 馬鹿げたほどに暑く重い陽射しのなかを歩いて表通りに出て、交差点を小走りになって斜めに横断し、ディスクユニオンの前を通り過ぎてドン・キホーテに入った。ドン・キホーテという店を訪れるのは、こちらはこれが生きてきて初めてである。入口を入ってすぐのところに花火が陳列されているのが早くも見つかったが、ほかにもあるだろうかということで五階に上がってみることになった。それでエスカレーターを辿っていき、様々な玩具やら何だかよくわからない雑多な物々が陳列されたフロアに入り、花火を見つけた。そこに至ってしかし、バケツと火はどうするかという問題が持ち上がった。バケツも売っていたが、一回の花火のために買うと荷物になってしまって煩わしい。タチヒビーチの方で貸してくれるのではないかとこちらは言って、Tがスマートフォンでそのあたりの情報を調べはじめた。どうでも良い情報しか含まれていないサイトにいくつか当たったあと、求めていた情報に出会うことが出来たのだが、それによれば、現地で花火を売っており、それを買う代わりにバケツや水や火を貸してくれるとのことだったので、花火は買っていかなくても良いことが判明した。それで、ビーチには――タチヒビーチについて説明していなかったが、これはららぽーともある立飛に作られたフェイク・ビーチである。言うまでもないが「タヒチ」と掛けた名前で、その規模は日本最大級だと言う――七時頃に行くとして、それまでのあいだどうするかという話になった。Mさんが"K"のMVの元になる線画を持ってきたと言うので、それを広げて見られるような個室を求めていたのだ。カラオケなどに行っても良かったのだが、レンタル会議室のようなものがあるのではないかとこちらが提案し、それを受けてTが――彼女は普段からそうした類を利用することがあるらしく、確かSpaceeという名前のサイトを使っていた――調べはじめ、立川駅南口から程近い場所に一時間五〇〇円で借りられる部屋を見つけてくれた。時刻は現在、四時を過ぎた頃合いで、四時半から六時半までの二時間、予約をした。Tがこうした調べ物をして、こちらが横でそれを見ているあいだ、T田とKくんは『Gunslinger Girl』というアニメ作品の話を交わしていた。T田が最近これを観て、非常に良かったらしい。のちのち、カレー屋に行った際にKくんからブルーレイディスクを受け取ったT田はそれをこちらに見せて、これこそ機微、機微の作品だねと言っていた。
 そうして、飲み物や菓子類などを買って会議室に行こうということになった。丁度良く、このドン・キホーテには一階にスーパーが入っていたので、下に下りていき、こちらが籠を持って、そこに皆それぞれの飲み物を収めて行った。菓子はポテトチップスをまず入れ、そのほか良さそうなものを求めて店内を回ってみたのだが、あまりピンとくるようなものがなかったし、皆もなかなか選び取って入れようとしなかったので、最終的にこちらが「じゃがりこ」などをいくつか選んで籠に収め、Kくんと一緒に会計に行った。会計の際、代金が一三四四円だったのだが、こちらが二〇〇〇円を出そうとしたところ、店員が、その場に設えられていた一円玉のたくさん入った小さなケースを指して、四円までなら使えますがと掛けてきた。どういうことなのかわからず、え? え? と二回くらい聞き返してしまったのだが、これは端数を埋める小銭が足りない時などのために、四円までなら無料で利用できるというサービスなのだった。それでどうせなので使うことにして、一の位の端数を埋めてお釣りを簡単にし、それから台に移って袋にものを適当に詰めていった。そうして皆と合流し、退店。
 愚かしいまでの熱気のなかを交差点に戻り、Kくんと並んで暑い暑いと言いながら横断歩道を渡り、エスカレーターを上がって駅に向かった。コンコースを通って南口に出ていくまでのあいだ、Kくんと並んで話を交わしながら歩いていたわけだが、彼はこちらには南国の島が意外と似合いそうだというようなことを言った。その細かな内実とその後の展開は忘れてしまったが、そんな話をしながら歩き、南口に出るとT谷の先導についていき――Tのスマートフォンがもう充電切れ間近だったので、代わりにT谷がマップを見たのだった――すずらん通りを進み、途中で右に折れて裏道に入った。会議室があるのは「エリア立川」というビルだった。狭くて急な階段を上がっていき、ダイヤル式のロックを、送られてきたメールに記されていたパスワードに合わせて鍵を取り出し、室内に入った。なかはなかなか綺麗だった。エアコンも勿論ついており、テレビや電源、アダプターの類なども完備されていた。
 それでテーブルに集まって、菓子類を広げ、食いながら話をしたのだが、こちらはエアコンの風があまり当たらないところに座ってしまったために、しばらくは汗が引かずにハンカチを使って首元を拭いたりしていた。そうして、Mさんの線画が色々と開陳されたのだが、こちらは素人なので細かな点の評価などはよくもわからないものの、労力が多大に掛かっていることは無論理解でき、凄いものだなと思われた。背景となる夕焼け空及び星空の一幕などは色付きで拵えられてきており、これはとても鮮やかで見事なもので、皆凄い凄いと言い合ったし、Tなどは写真に撮って携帯の待ち受け画像にしていたようだ。
 Mさんの絵のお披露目が終わると、今後の予定が話し合われたが、こちらはよくも聞いていなかった。ただ、多分今年中くらいを目安に、"K"、"C"、"D"の三曲を完成させることを目指すということになったようである。と言ってこちらはもうギターを弾くつもりもないし、特にやることはなく、曲を聞いて多少のコメントをするくらいしか役割としてはないだろう。八月三〇日にレコーディング・スタジオに入って"C"のレコーディングをする予定になっているらしく、そこにこちらも行くことになっているのだが、この日も特段にやることはないはずだ。それなので行く意味があるのだろうかと疑問に思いもしたのだが、まあ別に意味がなくとも仲間と時間を共有するだけでも良いかと思い直し、レコーディング・スタジオというものに入ったこともないのでこれも経験だというわけで、行くつもりで今のところはいる。T谷などは、偉そうに椅子にふんぞり返って、そこはもっとこうしたら、とか助言をしてくれれば良いのだ、と言っていたが、そんなに大した耳を持っていないしな、とこちらは笑って受けた。
 それで二時間が経ち、六時半に至って会議室を辞去することになった。外に出ると鍵を閉め、ダイヤル式ロックの箱のなかに鍵を戻しておき、狭く細くて急な階段を下りて外に出た。外気は陽が落ちてそこそこ涼しくなっていた。道を駅の方まで戻っていき、モノレールの立川南駅に向かい、改札をくぐると、T谷やTがトイレに行った。そのあいだにゴミの入ったビニール袋を持っていたMさんが、壁際に設置されたダストボックスに袋を無理やり押し込んでいた。トイレに行った連中が戻ってくるとホームに上がり、ちょっと待ってからやって来たモノレールに乗った。立飛までは僅か三駅である。MさんやTやT谷は座り、こちらはその前に立った。この時に確か、Mさんが圧迫面接をされた職場から不思議にも内定が来たという話題が出ていたのだと思う。発達支援のところだと言うので、うちの母親も発達支援の教室で働いているとこちらは言った。
 立飛着。駅を抜けて階段を下り、通りを少々行くと保育園があって、その傍にタチヒビーチの入口があった。なかに入っていくと、砂の敷き詰められた一画でサッカーをやっている人々がいる。受付でチケットを買って、花火も購入し、ワンドリンク制だったのでドリンク・チケットも貰って区画奥に進んでいった。テント風のテーブルを設置したスペースがいくつも並んで、ものを焼いてくったりしている人々がいた。そこを抜けて、もう一つあるフェイク・ビーチの区画に入っていき、その端のテーブルに皆で就いた。じきに数人、ドリンクを貰いに行くようだったので、T田にコーラを頼んだ。空は既に暮れ終わって、群青色が全体に広がりはじめていた。直上からやや東に傾いた方角に一つ、光の大きな星が浮いていて、T田に訊くとあれは多分木星だろうとのことだった。T田が持ってきてくれたコーラを啜りながら、彼が携帯で流してくれたFISHMANS『Oh! Mountain』の冒頭に合わせて身体を揺らしていたのだが、じきにT田はあとでまた、と言って貸出しされたバスケット・ボールで遊んでいたT谷たちの方に加わった。こちらもどうしようかなと思いながらも椅子に留まってコーラを口にしていたのだが、髪を結びにやって来たTが、席を離れてバスケット・コートに行く際に、F、行くぞ、と声を掛けてきたので、それじゃあこちらも行くかというわけで遊びに加わった。別にワン・オン・ワンをやったり、スリー・オン・スリーをやったりするわけでなく、ただ替わる替わるシュートを打っていって入るかどうか一喜一憂するという単純な形式の遊びだった。段々とシュート位置が後ろに下がっていき、飛距離が伸びたのだが、こちらは全部で五回くらい入れることが出来たのではないか。バスケット・ボールなど触るのは本当に何年ぶりかわからないくらいだった。
 三〇分くらい遊んだあと、ボールは返却され、こちらは席に戻り、T谷たちは今度は新たにバレー・ボールを借りてきて遊びはじめた。こちらはT田と向かい合ってFISHMANSを聞き、"感謝(驚)"を流して小さく歌ったりしていた。じきにT谷とKくんはビーチの方に入って、バレー・ボールを遠投し合ったり蹴り合ったりしはじめた。それを見ながらこちらは"ひこうき"も歌い、コーラを啜った。バレー・ボールでの遊びが終わると、いよいよ花火をやろうということで準備が始まったが、その脇でこちらは、裏拍で手を叩きながら"頼りない天使"を歌っており、横にはKくんも立って、ボイスパーカッションめいた振る舞いを披露してリズムをつけてくれたり、「ヒェッ」「ヒァッ」というようなヒップホップ風(?)の合いの手を入れたりしてくれたのだった。そうして花火の準備が出来たので、皆一つずつ持ち、T田か誰かの花火が最初に着火された。火を撒き散らしはじめたそれにほかの皆が自分の花火を近づけて、火を分けてもらい、その後は燃えている誰かの花火から誰かが火を受け継ぐということが繰り返された。こちらは両手に一つずつ花火を持って、火を点けると円状に回したり、八の字状に動かしたりする遊びをやっていると、Tが、それ私もやりたい、と言って真似をした。花火は全部で五〇本入っていたらしいのだが、あっという間になくなった。最後に線香花火をやろうという段になって、男児が二人、こんにちはー、と言って話しかけてきた。何やってるの、と言うので、花火をやっているよと答え、君たちも一緒にやる? とTが誘っていたのだが、男児たちは水鉄砲を持っていた。こちらが近づくとそれを発射してきたので、こいつら、水鉄砲持ってやがる! と言うと、子供たちは面白がってさらにこちらに向けて水を掛けてきた。それで少しのあいだ、彼らと追いかけっこをしたり、水を掛けられながらも迫っていったりして遊んでいると、じきに母親がやって来て、すみませんと言った。良いんですよと皆で受けていると子供たちはそのうちに去っていき、あとには新品のシャツを前後ともたくさん濡らされたこちらが残った。そうして線香花火へ。まず皆で一つずつ持ってやり、あと二つ余っていたので、誕生日の近いT田と、T田にじゃんけんで買った者が最後の二つを担当することになった。そうしてじゃんけんをするとこちらが買ったので、線香花火を受け取り、T田と競争しようと言って同時に火を点けた。線香花火の火花の広がりの形というのは、まじまじ見てみると複雑で凄いものである。先日行った国立科学博物館で見たトナカイの角の形を思わせるようなところもちょっとあった。T田とこちらの花火はまったく同時に落ちた。同じ風にやられたのだろう。
 その時点で時刻は八時半かそのあたりだったはずだ。立川に戻ろうということになった。それで片付けをして、荷物を持って受付の方に戻っていった。水場があったのでそこに花火のあとの水を流し、花火の残骸はTが持った袋に収めた。それから手を洗い、ハンカチで手を拭きつつ、ハンカチがぐちゃぐちゃだと言いながら掛かっていた音楽に合わせて身体を揺らしていると、隣にいたKくんがふたたび、「ヒェッ」みたいな合いの手を入れてきて、それが次に「ハンケチ、ハンケチ」という言葉に変わり、それからさらに「ケチハン」になって、「ケチハンヒェッ、イェァ」みたいな感じになってきたので二人で笑った。そうしてタチヒビーチを辞去。駅に戻ってモノレールに乗った。六人とも座ることが出来た。夕食はどうしようかという話になったが、T谷が明日仕事があるし、今日はもう解散しようかということに決まった。立川北でモノレールを降りてから、しかしこちらは並んだT田に話しかけて、明日何かあるのかと訊いた。午前中の遅い時間から仕事があると言うので、それがなければ飯に行こうと誘おうかと思っていたのだが、と言うと、別に大丈夫だと言うので、それでは喫茶店にでも行くかと相成った。ただしT田は『Gunslinger Girl』のディスクを借りるためにKくんの家がある三鷹まで行かなければならなかったので、それについてきてくれという話だった。了承し、立川駅まで歩くあいだに後ろにいたTとKくんにその旨告げると、それなら三鷹で飯を食っても良いのではないかということになった。
 駅に入り、東京行きに皆で乗った。T谷は今日は飯を食わずに帰ると言った。Mさんは迷っているようだった。優柔不断で決められないと言うよりは、何か決定的な言葉を待っているような表情を見せているように思われたが、どのような言葉を差し向ければ良いのかはわからなかった。電車に乗っているあいだ、そのMさんがこちらに向けて、結構濡れてるんだよねと言った。子供たちに水鉄砲で濡らされたシャツのことである。それでこちらだけ集中的に狙われていたと誰かが言い、それを受けてこちらは、やはり子供から好かれてしまうオーラが出ているんだねと冗談を言ったのだが、そうだと思う、とTがそのまま受け取って返してきた。
 Mさんは結局、なし崩し的に皆と一緒に三鷹で降りた。カレーの美味い店があるとKくんが言い、そこに行くことになった。駅を出てちょっと行くと、自宅マンションにディスクを取りに行くKくんとは別れ、Tが近間のその店まで先導してくれた。「マイカリー食堂」という店だった。Tが先になかに入って四人と告げてくれているあいだ、こちら、T田、Mさんの三人は外のメニューを見て注文する品を決めていた。こちらはバターチキンカレー、T田はスパイシーロースなんとか、みたいなやつ、Mさんはオーソドックスな欧風ビーフカレーみたいなやつではなかったか。それで入店したのだが、ここがカウンター席しかない店で、仕事帰りのサラリーマンがちょっと寄ってさっと食って出るというような雰囲気で、あまり長居して話が出来るような雰囲気ではなかった。これはちょっと誤算だった、というのはこちらがT田を誘ったのは彼ともう少し色々と話を交わそうかと思っていたからで、だから当初は喫茶店にでも行こうかと考えていたのだった。それに皆がついてくる結果となったわけだが、まあ致し方ない。それでとりあえず食券を買って三席にそれぞれ座り、Kくんを待つのだが、あまり長居出来る感じでもないし、Kくんが来る前に食べはじめてしまおうかということで、すみませんと店員を呼び止めて食券を渡した。まもなくKくんはやって来て、『Gunslinger Girl』のディスクをT田に渡した。それからKくんは、持ち帰りのつもりでカレーを頼んでいたのだが、じきに我々三人の隣の席が空いたので、そこで食べられるではないかということになり、店員を呼び止めて持ち帰りで頼んだのだがやはり店内で食べていって良いかと変更し、許可を取った。それで四人並んで食し、Tは先にKくんの宅に帰って行った。先に食べ終わったこちらとMさん――こちらの左隣に座っていた――は恋愛の話などしていた。KくんとTがそろそろ結婚するという話から、そうした話題に繋がったのだったと思う。Mさんは中高が女子校だったから、男性との関わりが全然なくて、恋愛には向いていない、というようなことを言った。まったく男性と付き合ったことがないのか、恋人が出来たことがないのかは訊かなかったが、恋愛経験というものは基本的にないらしい。こちらにも恋人が出来たことがないのかという質問が来たので、ない、一度もないと答えた。Mさんは、中学生の時、三〇歳になるまでには結婚するか、車に轢かれるか、妖精になるかしたいと思っていた、と言った。人生の墓場に入るか、本当の墓場に入るか、それとももはや人間でない存在になってしまいたい、ということらしかった。今彼女は二七歳だが、三〇歳までもう二年と少ししかない、恋人が出来そうな気配もないし、だから妖精になるしかないと漏らしていた。こちらも、まあ恋愛は成り行きだからねとか言って、成り行き主義者としての面目を主張した。その後、Kくんにこちらは、Kくんは、俺がTのこと好きだったって知っているんだっけと訊いた。Tからいくらかそういう話は聞いた、とのことだった。T田はそのことについて知らなかったと言うので、もう七、八年前のことになるが、恋慕していて告白したことがあったのだと改めて話した。まあそれが俺の唯一の青春だな、と言うと、T田が、青春で思い出したけど、と言い、今日俺、自分マジでリア充だなと改めて思ったわ、と、服選びやタチヒビーチでの遊びを踏まえて断言したので笑った。Kくんはこの店では口数が少なかったと言うか、T田とはよく話していたと思うが、あまりこちらの会話には入ってこなかったような印象があり、表情も多少固かったような気がして、そういう符牒から、こちらがTに恋慕していたという事実、もうまもなく結婚して自分の妻になろうという女性相手に、かつて恋心を抱いていた男が同じ仲間内にいるということに対して、ちょっと複雑な心境を抱いているのではないか、などと邪推したくもなってしまう。これは穿ち過ぎで、多分そんなことはないのだと思うが。
 一〇時になったところで、そろそろ行こうかとこちらが口にして、退店した。すると、Tがわざわざもう一度見送りに来ると言う。駅まで歩いていて駅舎に入ったところで彼女は追いついてきて、そのまま皆で改札前まで行き、そこでちょっと立ち止まって、今日は有難うございましたと挨拶を交わした。いよいよ別れようという時になって、Kくんが近づいてきて、手を差し出したので、例によってこちらも握手で受けて、じゃあな、S、と言われるのに対して、じゃあな、J、と返すというお決まりのやりとりを交わして、そうして三人で改札を抜けた。Mさんともそこで別れて、T田と二人、ホームに降りるとちょうどやって来た高尾行きに乗車した。彼と喫茶店にでも行ってくっちゃべりたかったというのは先に書いた通りだが、もう一〇時も過ぎていたのでさすがにもはやそうした余裕はない。こちらも頭痛が生じていて、早く帰った方が良さそうだった。それでこの電車内での会話だけで満足するかと思ったのだが、いざ向かい合ってみるとそれほど話題というものが出てこないのだった。それでも途中から、今はホロコースト関連の本を読んでいるということを話した。するとT田は、ホロコーストは、ドイツが敗戦国だからというので強調されすぎているきらいがありはしないかというようなことを言ったので、戦争責任として、と訊くと、戦勝国だって途方もない数の人を殺しているわけだよねと返ってきた。まあなあと受けつつもこちらは、それでもやはり数の問題があるのではないか、と言って、例の六〇〇万という数字を頭のなかに思い浮かべ、さらに同時に、テジュ・コール『オープン・シティ』のなかに書かれていたことだが、あの六〇〇万という数字がすべての異論を封じ、黙らせるための魔法の数字になってしまう、というような記述も曖昧に思い出した。加えてこちらは、また、ホロコーストはやはりただの戦争の被害者とは違う特殊性があるのではないか、ユダヤ人に苦痛を与え、彼らを絶滅させるということそれ自体を目的にしていたという点で特殊なのではないかというようなことも答えとして返した。その後、こちらも良くも知らないのだが、第三帝国はそもそも何故ユダヤ人をそれほど憎み、殺そうとしたのかということや、ヨーロッパの反ユダヤ主義感情はどこから来たのか、というようなことを話して、そうして立川に着いた。
 エスカレーターを上り、通路に出ると、それじゃあまたというわけで別れ、こちらは一番線ホームに向かった。青梅行きの先頭車両に乗ると、端の席はさすがにもう空いていなかったが、七人掛けの真ん中にはまだ空きがあったのでそこに座った。頭痛が嵩んでいたが、目を瞑っても眠れなさそうだったので、手帳を取り出して読むことにした。じきに向かいの一席に中年の男性がやって来た。その顔を見ると、冴えず、目に生気がないような力のない表情をしていた。左に一席空けてその向こう、七人掛けの一番端の席には、肥満したこれも中年のサラリーマンが座っており、背を丸めて、太い首を上半身のなかに沈めるようにして、また口を常に魚のようにひらきながら、タブレットを凝視して操作していた。何だかなあ、というような感じがした。その後、電車は発車し、こちらは手帳を眺めたが、車両内にいるほとんど誰も彼もが疲労を身に纏って困憊しているような雰囲気だった。左方の肥満した男は時折り、右足を貧乏揺すりのように細かく動かしていた。向かいにはその後、別のサラリーマンがいつの間にか座っており、彼は隣の空席に右手をつき、脚を組みつつ、大口開けて首を傾けて眠りに落ちていた。青梅に着く間近になると、うるせえ、という声が、それほど大きなものではなかったが、聞こえ、何かと思ってあたりを見ると、こちらの左方の別の七人掛けに座っていた男――この人も結構大柄で肥満しており、比較的若め、と言って三〇代には達しているように思えたが、半身になりながらタブレットか携帯か何かを弄っていたと思う――が、その向かいに座っている別の男が時折り靴を浮かせてかつかつと床につけるのに怒っているのだった。もう一度、若い男がうるせえよ、と言うのをこちらは目撃した。向かいの男性は、しかしその後も靴をかつかつ鳴らすのを止めようとしなかった。その人はどんな者だろうと思って、青梅に着く間際に席を立って車両を移る際に見てみたのだが、一瞬ではあったものの、黒いスーツを着込んだ、わりと地位のありそうなサラリーマンに見えた。たかが小さな靴音が立っているくらいで、うるせえよと気色ばむ方も大概愚かしく、余裕のないものだが、子供っぽい対抗心なのか何なのか、それを受けてもわざわざ同じ振舞いを続ける方もまた大人気なく、それをきちんとした身なりの良い大人の男性がやっているというのに、何だかなあ、と思わされた。
 青梅に着くと奥多摩行きにすぐさま乗り換えて、最寄り駅まで行き、降車した。帰路のことは特別何も覚えていない。家に続く道の途中で、黒い影が道を横切ったのを見れば、猫だったということくらいだ。市営住宅の敷地への入口に入っていったので、そこに至って横を覗いてみると、もう一匹の猫と連れ立っていたのだが、すぐに逃げて階段を下っていってしまった。帰り着くと酒を飲んだらしい父親に挨拶し、自室に帰還してコンピューターを点け、LINEで皆に帰宅したと報告し、今日は有難うございましたと礼も述べておいた。それから入浴に行って、出たあとにエアコンの入った居間で身体を涼めようと母親の隣のソファに就いた。テレビはあれは何の番組だったのかわからないが、有吉などが出ているもので、稼げる副業みたいなものを紹介していた。そのなかに、若い女性が、朝のルーティン、出勤前のメイクや衣服の準備を17LIVEというサイトで動画配信するだけで、投げ銭システムで一月に五〇万もの金を稼いだという話が取り上げられていた。母親がそれを見て、若くて綺麗な子じゃないと駄目だよねというので、その通りだなと思った。
 そうして自室に戻り、零時半からプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読みはじめた。記録上は二時二〇分頃まで二時間弱読んだことになっているのだが、頁としては一四頁しか進んでいないので、多分また途中で眠っていたのではないか。いい加減にそろそろ睡眠の魔を超克して、本をさっさと読み終わりたい。


・作文
 8:05 - 8:48 = 43分

・読書
 24:29 - 26:18 = 1時間49分

・睡眠
 3:10 - 7:30 = 4時間20分

・音楽

2019/7/29, Mon.

 清水 ところで、フーコーの著作全体を見ると『言葉と物』はむしろ例外で、それ以外の本では一貫して「権力」ないし「主体」が問題になっていますね。『監獄の誕生』において、フーコーが挙げているパノプティコンが一番わかりやすい例なのだけど、囚人というのは一望監視的な所に入れられて権力の眼によって奪われる身体しか持っていない。残っているのは、絶対に外からは見えない内面だけであり、そのことは逆に言えば、囚人は完全に純粋な内面性を保持できるということになる。逆に権力の側は、すべてを見ることができるけれど、自分自身を見ることはできない。つまりパノプティコンは、個人における純粋な内面性の契機であると同時に、権力における絶対的外面性のそれでもある……。
 渡辺 それは、〈牧人=司祭〉の権力と通じるものであるわけです。
 清水 ええ。そこにおいてフーコーは、奴隷としての内面性を拒否しようとする。
 渡辺 内面性が隷属化することをね。しかし、権力の仕掛けの中では、そういう形でしか内面性は成り立たないというわけでしょう。そしてそれを遡ると、告解の実践だということになる。そしてフロイト以降の精神分析学もこの実践の地平にあると。
 清水 だから、信徒はいつも自分の内面を語る義務を負わされており、牧人はその代償として信徒に、ある限定つきの個人としての主体性を与えることになる。そういう形で彼は、性との関連において、西欧の歴史において個人が内面を獲得し、同時に限定つきの個人のアイデンティティを獲得していったと論証するわけです。そこで気になるのは、フーコーバタイユ論を書いた時、性というものを禁止と違犯、あるいは聖なるものと結びつけて展開したわけですが、そこでは、人間がある種の禁止を違犯していく所に聖なるものが誕生していくという宗教学的図式にほぼ忠実だった。それはつまり、個人のアイデンティティを失わせる形で逆に個人を主張するということですよね。違犯を重ねていくことによって聖なるものに達するということは、個人のアイデンティティブランショ的な意味で破壊するということですからね。するとそこには当然、ある種のディナミスムなり緊張なりが生じるわけで、そのことによって、ふつうは到達しえない外部に到達しうるというこの論理の奥にはいわば悲劇的なディナミスムがある。しかしそういった悲劇的ディナミスムを主調とする性というものは、性が世界的に瀰漫しているような時代においては、その瀰漫度に反比例して減っていくわけですよ。そうなると、フーコーがセックスというものは個人を擬似主体として確立させるもので、ある種の部分的権力を持つ人間による、権力の網の目機構という形で近代社会はできあがっている、と分析したことについては、僕は疑問と言わないまでも、ちょっと留保をつけたい感じがするんですよ。擬似主体性を与えられた個人がより集まって構成する網の目としての権力構造というのは、僕は日本においてもフランスにおいても少しずつ風化していて、もう少し柔らかな脱構造的構造に移っていると思うんです。少なくとも性という視点から考えた場合にはね。ということは、フーコーがまさに西欧的・フランス的意味での知識人の代表であることは間違いないけれど、そういうフーコーの思考形式は、フーコー自身が排除した内面性というものにじつは裏側から支えられているんじゃないかということになってくる。(……)
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、63~65; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)


 早い時間から何度も目覚めていたが、最終的に九時のアラームが鳴り響いたことによって起床を見た。夢を色々見て、なかに不思議なものが含まれていた覚えはあるが、詳細はもはや脳のなかに残っていない。一つ覚えているのは暴力的な夢で、極小のハムスターか何かの世話をこちらがしていたところ、中学生だかそのくらいの子供がハムスターを踏みつけていったので、餓鬼が、調子に乗るなよと憤りながらそいつの後頭部の髪をぐわしと掴み、そのまま顔面を地面に叩きつけ、さらに首もとを押さえつけて痛めつけたというものである。もうほとんど怒りとか苛立ちという感情を覚えることはなくなっているのだが、深層においては自分のなかにもそのような暴力性が眠っているのだろうか。
 パンツ一丁で眠っていた。起き上がると、ハーフ・パンツを履き、上半身は裸のままで部屋を出て上階に行った。母親は洗面所で歯磨きをしていた。もごもごとした口調の挨拶を受け、鏡の前の母親にどいてもらって顔を洗うと、カレー・ピラフがあると言う。それで冷蔵庫からパックに収められたピラフ――ほかに、唐揚げと焼売が添えられていた――を取り出し、電子レンジに突っ込んだ。待っているあいだ、横の調理台の上では母親が、胡瓜と人参の漬物を密閉式ビニール袋から取り出し切り分けていた。それを受け取って卓に運び、ピラフも温まったので卓に持っていき、食事を始めた。テレビは『あさイチ』を掛けていて、あまり良く見なかったが、消えた年金を追跡する人の仕事などが紹介されていたようだ。ものを食べ終えると、氷水を汲んできて、抗鬱薬を服用した。それから皿を洗っていると、母親は仕事に出かけていった。こちらはその後、浴室に入って浴槽を洗いはじめる。風呂桶のなかに入って背を丸め、前屈みになってブラシで四囲の壁を擦った。シャワーで洗剤の泡を流して出てくると、何か飲み物はないかと冷蔵庫を探ったが、特に見当たらなかったので何も持たずに自室に帰った。コンピューターを点け、前日の記録をつけたりこの日の記事を作成したりしているあいだ、汗が湧いて仕方がなく、裸の肌に汗の玉が浮かんで転がる感触が煩わしいので、肌着の真っ黒なシャツを身につけた。そうして日記を書き出したのが九時四三分、BGMはいつも通り、FISHMANS『Oh! Mountain』である。ここまで書くと、一〇時が目前になっている。
 前日の記事をいつもの手順でブログ及びnoteに投稿してから、Mさんのブログを二日分読んだ。さらに続けて、Sさんのブログも三日分。最新記事から遠く遅れて、六月一一日から一三日付の記事までである。六月一二日の「夢」という記事のなかで、自分の夢に出てきた匿名的な人物に対して、「外見だけでそう言うのも失礼ながら」とわざわざ断りを入れているのがちょっと面白かった。律儀である。二人のブログを読むと――合間にNさんのブログの最新記事、東京紀行の三日目の記録も読んだ――時刻は一一時直前、ベッドに移って読書に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』だが、今まで読んできたなかで気になったところを手帳にメモするのに時間の大半は費やされ、新しいところをほとんど読み進めるには至らなかった。読み進める前に、またしても眠気の魔が到来して意識を失ってしまったのだった。メモをしているあいだは、首もとから頻りに汗が湧いて仕方がなかったので、たびたび肌着のシャツを引き上げて液体を拭う必要があった。腕の肌にも汗の玉がたくさん付着していた。その後、暑気に纏わりつかれながらも夢現の境を遊泳して、一時頃になって意識をはっきりと覚醒させた。
 上階へ行き、食事を取ることにした。冷蔵庫のなかからパックに入った生野菜のサラダと、前夜のワカメのスープの残りと、ゆで卵を取り出す。スープの鍋は火に掛けて、さらに、それだけでは少々物足りなかったので、冷凍の唐揚げを四つ、皿に用意して電子レンジのなかに収めた。三分間の加熱をセットしたあいだにスープをよそり、卓に運んだあと、食べはじめる前にトイレに行って用を足し、それからテーブルに戻ると生野菜のサラダ――具はレタス、胡瓜、赤パプリカ、トマトなど――に玉ねぎドレッシングを掛けて食べた。唐揚げもじきに温まったので、高熱を帯びた皿を両手指の先で掴んで運び、椅子に座ると鶏肉を食した。食事を終えると食器を片付け、それからベランダに吊るされていた洗濯物を取り込んだ。強い陽射しが宙を通ってベランダに達しており、洗濯物を取り、持ち上げて室内に入れているだけでまた首もとに汗が湧いた。それで、タオルを畳んだあと、シャワーを浴びることにした。久しぶりのことである。洗面所に畳んだタオルを運んでいき、そうして服を脱ぎ、肌着のシャツは取り替えるけれどパンツは同じものをまた穿けば良かろうと洗濯機の上にハーフ・パンツとともに置いておき、浴室に入った。冷水でシャワーを浴びても良さそうな陽気だった。実際、温水に設定すると湯の温度が熱すぎるくらいに感じられたので、ぬるま湯程度の温度に設定を下げた。身体全体の汗を流し、フェイスタオルで水気を拭ってから上がってくるとバスタオルでさらに身体を拭き、それから髪を乾かした。短髪をちょっと立てるように、斜めに持ち上げるように髪を流した。それで上半身裸で自室に戻ると、窓を閉めてエアコンを入れた。新たな汗が発生するのを防ぐためである。そうして日記を書き出し、ここまで書き足すと一時五〇分に至っている。
 便所に行ったのち、服を仕事着に着替えた。それから歯磨きをしたのか、それとも着替える前に既にしていたのか。ともかくワイシャツとスラックスの姿になると、エアコンの冷風で汗を防止したなか、コンピューターの前に座って「記憶」記事を一〇分間音読した。すると二時一二分に至ったので、出発するために上階に行った。仏間で靴下を履き、玄関に向かい、焦茶色の靴を履いて扉を抜けた。鍵を掛け、クラッチバッグを片手に提げて道を歩き出す。隣家の百日紅がもう幾分前から咲き出していて、すっと直立した枝の先端に、紅色の花の集まりが重そうに膨らんでいる。愚かしいほどの暑気のなかを西に歩いていき、蟬時雨の降りしきるなか、坂道に入った。上っていって途中で日向に差し掛かると、伸し掛かってくる陽射しが重く、粘っこく肌に纏わりついてくる。少々の頭痛を感じ、息を切らしつつ坂道を抜け、横断歩道を渡った。駅舎に入り、ホームに着く頃には、言うまでもなく汗だくだった。これは用心して何か飲み物を買った方が良いなと思われたので、自販機に近づき、一五〇円を挿入してポカリスウェットのイオン・ウォーターを買った。すぐ傍には青いTシャツを着た男児しゃがみこんでいて、こちらが自販機の下部からペットボトルを取り出すのをじっと見ていたようだった。屋根の下に入り、買ったばかりの液体を飲みながら、飲み物を買いたいのに金がないのだろうか、声を掛けて奢ってあげようかなどと考えながら男児の方をちらちら見やった。子供はやはりこの激しい暑気に辟易しているような顔をしながら、しゃがみこんでいた。アナウンスが入ると歩き出し、こちらもそのあとからホームの先に向けて屋根の下を出た。ホームの途中には例の、いつも独り言を言って見えない何者かと会話している老婆がいて、傘を振り回しながら何事か大きな声で呟いていた。子供はこちらの歩みと並んでホームの先まで行き、こちらが一号車の位置で止まっても、さらに先端の方へ歩いていった。大丈夫だろうかとそちらの方を見やりながら電車の入線を待ち、乗り込むと扉際に立って、手に持っていた冷たいペットボトルを首筋に当てた。ワイシャツの捲った袖口は汗で湿り、薄青いシャツの色が少々沈んでいた。青梅に着いて降りると、ペットボトルを仕舞わず片手に持ったまま、階段を下り、通路を辿って改札を抜けた。駅舎から出ると、出口のすぐ脇には、この暑いなか何やら人が集まっていた。JR東日本八王子支社の腕章をつけた人がなかにいたので、鉄道会社の研修か何かだったのだろうか。
 職場に入ると今日は室長は休みのようで、(……)さんがデスクの付近にいた。挨拶をして、靴をスリッパに履き替えると、いや、暑い、と呟き笑った。暑いですよねと(……)さんが返してくるその横を過ぎ、奥のスペースに行ってロッカーに荷物を入れて、準備を始めた。中三と高三の国語に当たっていたので、準備時間の大方はそのテキストを読むことに費やされた。そうして一コマ目は、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(中三・英語)が相手。本当はもう一人、(……)さん(高三・国語)も担当するはずだったのだが、彼女は欠席になったのだった。(……)さんは相変わらず無口で静かであり、なかなか質問もしづらい。一問、表現技法について質問をしてみたが、わからなかったのか声を出すのに緊張したのか、口元がもごもご動いてはいたものの、返答はなくて無言のままだった。それでも説明をすれば頷いて反応は示してくれる。今日扱ったのは小説や随筆の文章だったが、全体に読み取りは結構良く出来ているようだった。彼女が帰り際、(……)さんに話しかけられて笑みを見せていたり、何とか答えたりしていたのはちょっと驚いた。(……)さんのコミュニケーション能力の賜物だが、こちらも努力次第ではもう少し打ち解けてくれるかもしれない。
 (……)くんは複数の文法問題をまとめた課を扱った。彼は出来る方の生徒なのかと何となく思っていたのだが、実際問題を解かせてみるとミスが多かったので、英語はそこまで得意ではないのかもしれない。そのため、こちらとしてはノートをもっと積極的に書いてもらいたかったのだが、結局have toの否定形がdon't have toだということと、have toはmustと概ね同じ意味合いになるということのみを記録するに留まった。この日の一コマ目は二人相手だったにもかかわらず、あまり上手く回し、指導できた感触がなかった。ノートも両人とも、あまり充実させることが出来なかった。
 二コマ目の前には一コマ分、休憩が入っていたので、その前半は小学生の社会の勉強や、高校英語の予習をしていた。五時を過ぎたあたりで勉強は終いにして、コンビニに食い物を買いに行くことにした。外に出ると、冷房の利いた屋内に比して、凄まじい熱気が地面から立ち昇っており、空気中にも籠っている。駅前を通ってコンビニに入り、鶏五目のおにぎりを一つと、チキンカツの挟まったサンドウィッチを手に取り、レジへの列に並んだ。順番はすぐに巡ってきた。年嵩で灰色の髪の男性店員に四四二円を支払い、礼を言って店をあとにすると横断歩道を渡って職場へ戻っていく。マンションの黄土色の壁に西陽が掛かってオレンジ色がまぶされており、その上にさらに街路樹の複雑な影が装飾のように投げかけられていた。
 職場内に戻ると、おにぎりとサンドウィッチを食し、その後は持ってきたプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読んでいた。そうして二コマ目、相手は(……)(中一・英語)、(……)(高三・英語)、(……)くん(小六・社会)である。(……)の英語がなかなか頂けない。まとめ問題を扱ったのだが、まずもってHow many~の文や命令文など判別できず、きちんと訳せていなかった。答え合わせも適当にやってしまい、間違えているところにも丸をつけてしまう有様だ。Whereの意味も忘れていた。それで、一文ずつ文をピックアップしてノートに書いてもらい、そこにこちらが説明を書き加えていく形を取って理解の増進を図った。あとはそう、最初に行った単語テストもぼろぼろだったのだが、単語に関してはこちら側が手伝えることはあまりないのだ――一応この日は、テスト実施後に改めて六つの語をピックアップして練習させ、それから答えを見ないで書けるかどうか確認するという手順を踏んだが、これにも時間が掛かる。
 (……)は、文法問題にはもう飽きたらしかったので、長文を扱ってみた。本人の希望を訊いて難しめのワークからの問題を扱ったのだが、思いの外にと言うべきか、結構読めて、問題もミスは少なく、大方正答出来ていた。ただ、三コマ目も続けて彼の英語を担当したのだが、二コマ連続となると後半はさすがに体力切れしていたようだったが。概ね問題はないだろう。(……)くんも真面目な子なので、特段の難点はない。今日は三大工業地帯などについて扱った。
 そして三コマ目である。(……)さん(高三・英語)、(……)(高三・英語)、(……)くん(高二・英語)。(……)は先に述べた通り。(……)さんは真面目であり実力も相応にあるので問題ない。(……)くんは、学校の夏期課題として長文の和訳を扱ったのだが、中学生レベルの基本的な語彙の定着がいまいちである。それでも確認するとすぐに覚えられるので、地頭はそんなに悪くはないのではないか。
 三コマ目にあった出来事として書いておかなければならないのは、(……)の携帯を没収したということである。こちらの隣で(……)先生が授業をしていたのだが、(……)が憚りなく机の上で携帯を弄ってゲームをやっていたので、さすがに目に余るなと思って没収し、馬鹿野郎、お前はここをどこだと思っているんだと叱ったのだった。授業後に(……)先生にその後の様子を聞いてみたのだが、やはり機嫌は悪くなったらしく、仕切りをガンガンと叩いたあと、不貞寝に入ったのだということだった。しかし、授業の終盤になってほんの少し問題を解いたとも言い、だから(携帯を没収してくれて)良かったんですよ、と彼は言った。それからしばらく、(……)兄弟について話したのだが、(……)先生は、あの兄弟は二人とも変でしょう、それでいつも遅れてくるし、あれは家庭の方に何か問題があるんですかねえと漏らした。こちらも家庭事情などについては知らないのだが、そのあたりで(……)自身が何か被害者のようになっていて、追い込まれてああいう態度を取っているのだったら、あまり厳しくも出来ないなと考えて、どれくらい突っ込んだ指導をして良いものか決めきれずに(……)先生が躊躇していたところで、こちらが携帯を没収するという一種大胆な振舞いに出たわけだが、それについてはあれで良かったですと繰り返し言われた。家庭の事情の方はわかりませんけれど、僕はああいう姿勢は人間同士の関係として失礼なものだと思うので、その点は教えて良いと思いますね、とこちらが受けると、(……)先生は意気込んで、失礼ですよ、今度当たったら私もそうしますと言ったが、その調子が結構勢いの良いものだったので、こちらはトーンを落として、まああまり厳しくしすぎてもあれなので、そのあたりは室長ともよく話し合ってみてくださいと留保を付けた。
 その後、片付けをしている時に(……)先生にふたたび話しかけられたのだが、それは、文学賞には応募しているんですかという話題だった。それに対して、いやいや、と苦笑して、まず作品がなかなか作れないんですよと――こちらはもう作品を作る気持ちはほとんどなく、毎日日記さえ書けていればそれで良いと思っているのだけれど――受けた。芥川賞も最近は何だかねえ、というようなことを彼は言った。以前は凄く才能のある人が取り上げられていたけれど、最近は、と言い、予想通り又吉の名前を取り上げて、何か力が働いているんじゃないかというようなことを言うのでこちらは笑い、又吉に関してはやっぱり売れることを狙ってという目論見が出版界の方にも当然ながらあったでしょうねと受け、でも彼は本当に文学が好きみたいですよと言った。(……)先生は、企業に入って研究か何かしていたのだったか、ずっと理系職で働いてきた人なのだが、若い頃には文学の類も好きだったようで、高校生の時分には夏目漱石太宰治など非常によく読んだものだと話した。それに対して、大江健三郎は嫌いですと言う。曰く、彼はエッセイや講演などでは非常にわかりやすいことを言うのに、小説を読むと途端に超難解になってしまう、前の作品を読んでいないと意味がわからないような作品もあったりして不親切、と言うかああいうのは失礼だと思うんですよねえ、とのことだった。こちらは大江健三郎はまだ一作も読んだことがないし、苦笑を浮かべて受けるほかはない。
 そのような話をしたあと、さらに、そろそろ帰ろうかと奥のスペースにいると、また彼が話しかけてきて、自分の友人にも文学好きで賞に送ったりしている者がいるが、そいつの書くものは全然上手くないのだと話した。下手くそでねえ、と。しかしその人の叔母さんというのが、有名な作家の編集者だったと言うので誰だろうと思っていると、松本清張との名前が挙がった。松本清張か、名前は無論知っているけれど、この人も一作も読んだことがないな、何か推理小説のイメージがあるけれど。そうなんですね、凄いですね、と受けると、(……)先生は凄いでしょう、と言って、だから友人の彼もそうした遺伝子を持っているのかと思いきや、そんなことは全然ないのだと落とした。
 そのような話をしたあと、お疲れさまです、有難うございましたと礼を述べてこちらは退勤した。駅舎に入り、停まっていた奥多摩行きに乗って席に就くと、手帳をひらいてそこの文言を追った。じきに電車は発車し、まもなく最寄り駅に着いて、降りるとホームを歩いていく。階段通路で前を行く年嵩の男性が、団扇を持って、虫を払っていたらしく左右に振っていた。そのあとについて階段を下り、駅舎を抜けると車の途切れた隙に横断歩道を渡って木の間の坂道に入った。夜中の一〇時が近づいても空気には熱が籠っており、生温い湯に浸かっているような感じで、家に着く頃にはワイシャツの裏が汗にまみれていた。
 帰宅するとワイシャツを脱いで洗面所の籠のなかに入れておき、下階に下った。スラックスも脱ぎ、肌着にパンツのだらしない格好になってコンピューターを点け、Twitterを覗くと、Kさんからダイレクト・メッセージが届いていた。それを大まかに読んでからハーフ・パンツを履いて上階に行った。食事である。メニューは素麺やインゲンと竹輪を合わせたものや、エノキダケの炒め物など。テレビは『しゃべくり007』。V6の三人が出演していた。それを見ながらものを食ったあと、抗鬱薬を飲んで食器を片付け、入浴に行った。汗を流して出てくるとパンツ一丁の格好でさっさと自室に下っていき、Kさんの返信を再度読んで、再返信を考えたが、送り返す価値のあるような考えを上手くまとめられるかどうか覚束なかったので、ひとまずお礼のメッセージだけ先に送っておいた。それから書抜き、 小原雅博『東大白熱ゼミ 国際政治の授業』とヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』から文言を移して零時が迫ったところで、日記を書きはじめた。翌日は午前から出かけるので日記を綴る猶予がさほどないだろうということで、この日のうちにある程度書いてしまいたかったのだ。それで零時半を回ったのち、書見に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』だが、例によっていくらも読まないうちに意識を散らしたようである。気づくと三時過ぎで、そのまま就寝した。


・作文
 9:43 - 9:57 = 14分
 13:36 - 13:51 = 15分
 23:57 - 24:36 = 39分
 計: 1時間8分

・読書
 10:14 - 10:54 = 40分
 10:56 - 12:15 = 1時間19分
 14:02 - 14:12 = 10分
 23:21 - 23:50 = 29分
 24:40 - 27:07 = (2時間引いて)27分
 計: 3時間5分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-21「重力の文法を書き換えた夜流星群の落とし子となる」; 2019-07-22「宿り木の種を運ぶ鳥たちのさえずりを知る永遠の半ばで」
  • 「at-oyr」: 2019-06-11「充電」; 2019-06-12「夢」; 2019-06-13「draft」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』: 150 - 170
  • 「記憶」: 11 - 16
  • 小原雅博『東大白熱ゼミ 国際政治の授業』ディスカヴァー・トゥエンティワン、二〇一九年、書抜き
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き

・睡眠
 ? - 9:00 = ?

・音楽

2019/7/28, Sun.

 渡辺 ボードリヤールでしたか、「古典主義の最後のディノザウルス」と評したけれど、フーコーはやはりフランス古典主義の「自我ハ憎ムベシ」なんですよ。たしかに「隔たり」といってもいい。たとえば、例の両性具有の話、『エルキュリーヌ・バルバン』を書いていた頃に、話のはずみでゲイのアソシエーションのことが出て、フーコーに言わせると、そこに入るには、通過儀礼として自分の同性愛の経験を告白しなきゃいけないが、そういう告白の規律はばかげていると思うと語っていた。もちろんそこには、「牧人=司祭型権力」と彼が呼ぶものについての考えがあってのことですが、こういう自分の内面の告白をもって人間的誠実の基準であるとするような発想は拒否するのですね。さっきの「生存の美学」、「生き様の美学」というものも、こういう自己への隔たり[﹅3]のある配慮に関わってくると思います。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、52; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)

     *

 清水 (……)僕はそもそも文学評論家としてのフーコーをずっと読んできたので、そこに一番の関心があるわけですけど、僕がフーコーの文学評論を読んで一番面白いのは、さっき言った〈ディスタンス〉(隔たり)あるいはフィクションという問題なんです。フーコーは、レーモン・ルーセルという非常に不思議な人について書くことでデビューした。ルーセルという、いわば言葉が完全に物になった人間、言葉自体が物であってしかもその言葉が同時に二つの意味を示していて現実とますます切り離されてしまうという、不思議な世界をつくった人、――そういう文学者を論じることから自分の経歴をつくっていったのがフーコーです。そしてだいたい言葉というのは、必ず現実に対して、距離をつくるものですよね。
 渡辺 そうですね。
 清水 そういう言葉によってつくられている文学の世界というのは、まさしく虚構でしかない。それが人間のふつうの世界においては存在しない〈ディスタンス〉というものになって成立しているということをひたすら彼は言い続け、分析し続けたわけで、それが僕にとっては非常に面白かったんです。それはまさに、文学の本質そのものにかかわる発言になった。
 それから、フーコーの文学論のもう一方の軸をなすブランショ論、バタイユ論のほうでは、彼は〈外〉ということを言うんだけど、これは、個人がけっしてそれを内面化することができず、またそういう個人がけっしてその中で内面化されることのできぬ、何かしら奇怪な空間だか場みたいなものととりあえず定義できますね。言語のレベルから言えば、言語が分節言語であるかぎり、けっして捉ええない、というかむしろ排除してしまう何ものかであり、意味ないし主題のレベルから言えば、ブランショ的な意味での〈死の空間〉であり、あるいはヘルダーリンアルトー的な〈狂気の空間〉であり、あるいはバタイユ的な意味での〈非 - 知〉(ノン・サヴォワール)の空間ということです。つまり、『言葉と物』の最後の部分で走り書きされていることなんですが、言語と世界との関係があそこに語られているようになった場合、言語は、つまり文学はこの〈外〉をなんとかして指示しようと努め、そのための方途としては言語がもともともっている〈ディスタンス〉をつくる作用の、ほとんど暴力的な精密化によるしかない。矛盾語法の連続とでもいうような、あるいは否定の積分とでもいうようなブランショバタイユの小説がそういうものですね。
 (61~62; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)


 一二時二〇分まで寝坊。上へ。父親が台所でインゲンを茹でていた。洗面所で洗顔。そのまま風呂も洗う。出ると、お好み焼きが用意されていた。父親がそれぞれよそってくれて温めてくれたのを受け取り、卓へ。テレビは『のど自慢』。インゲンや胡瓜やお好み焼きを食す。食後、服薬。そうして皿洗って下階へ。コンピューター点ける。Twitter見ると通知がたくさん。なかに、Kさんという方からのリプライ。それに対する返信を考えていると、やたらと長くなったので以下に。

 「質より量」の風潮が蔓延しているということは、具体性への欲望のようなものが薄れてきていると言い換えることが出来るかもしれません。言うまでもなく、小説においては細部こそが具体的であり、そこにこそ質が宿るものであり、物語的な構造は細部の集積から抽象された一種の俯瞰的な構図に過ぎないわけです。細部における質の味読を回避して、物語的な筋のみを受容する姿勢というのは、言わば、抽象化された構築物によってのみ「泣き」、「感動する」ことであり、観念的な享楽の態度だと言えるのではないでしょうか。
 そこにあるのは結局、読書という行為に対して既知の事柄のみを求める「消費」の姿勢に他ならないと思います。何しろ、物語的な構造というものは、音楽のコード進行と同様に、誰もが既に体験的・体感的に知っているものなのですから。それをただなぞり、再受容・再生産するだけの読書においては、未知の事柄に出会って主体としての自分自身を変容させるような契機というのは起こり得ません。しかし、読書の力というのは、まさに差異との遭遇によって自己が変容させられるというその動勢にあるはずです。
 芸術と呼ばれるすべての営みの一つの目的は、まだ見ぬ新たな差異の生産にあるはずだと思います。そして、作り手たちが心血を注いで作品に施した差異を具体的に感受し、読み解くことは、より広く、人間としての他者との関係においても資するはずだと考えます。何故なら、我々すべての人間こそが、一人一人、唯一性と固有性を持って存在している差異の塊そのものに他ならないのですから。そう考えてくると、「質より量」、「具体性より抽象性」の風潮は、他者理解をも危うくするものだと感じられます。それは、ネット上に蔓延しているものですが、議論の相手に様々なレッテルを貼り、具体的な人間をその一つの属性に分類して事足れりとする不毛な論議とも軌を一にするものではないでしょうか。
 他者――テクストも芸術作品も、まさしく一つの他者です――を固有の差異において捉えること。これこそが、今の世界において軽視されている根幹の部分なのかもしれません。そうした軽視の姿勢と親和的なのは、様々な「差別」の心性です。差別とは、他者の具体性を消去して、相手をある一つの一般性――例えば「女」や「韓国人」など――に還元し、その属性に付与されているイメージによってのみ認識するという思考操作を必然的に含み持つものだと思います。勿論、ある程度の「分類」は必要――と言うよりは不可避――なのですが、差別的な認識の様態においては、人間の複雑な襞は一様に均され、ある一つの存在が全面的に一般性と同化してしまうのです。
 そうした認識様式が、仮に究極的な暴力と結合した場合に最終的に行き着く先は――少々飛躍的で、大袈裟な話に思われるかもしれませんが――ジェノサイドでしょう。石原吉郎が指摘したように、ジェノサイドにおける恐ろしさというのは、信じられないほど多量の人間が一時に殺害されるという点にのみならず、そこに「一人一人の固有の死」がないことに存します。ジェノサイドにおいては、人間の固有性は完璧に剝ぎ取られ、人間存在はまさしく究極的な抽象性としての「統計」、すなわち「数」あるいは「量」に完全に還元されてしまうのです。
 話が少々広がりすぎたようです。Twitterという制限のある場にもかかわらず、非常に長々とした返信をしてしまい、恐縮ですが、Kさんのツイートから触発されて頭のなかに浮かんだことを書いてみました。また何か、考えたこと、感じたことがあればリプライを頂けると幸いです。

 そののち、二時一一分から日記。暑気のせいもあるだろうか、細かく書く気力が起こらず、前日の記事は適当になってしまう。しかし、とにかく毎日書けていればそれで良いのだ! 現在は三時直前。音楽はFISHMANS『Chappie, Don't Cry』、『Corduroy's Mood』、それにWynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』。
 前日の記事をブログに投稿した。部屋のなかにいて打鍵をしているだけなのに、汗だくで、背中が非常にべたべたしていた。立川に出かける準備を始めることにした。上階に行くと、父親が仏間のなかでスーツ・ケースに荷物を詰めていた。八月上旬に迫っている訪露の準備である。こちらはそれを見たあと、ボディー・シートで肌のべたつきを拭い取った。母親が、仏間にエアコンが掛かっているので、もうここに入ると出れなくなるよ、と漏らした。こちらはそれから下階に戻って、裸だった上半身にTシャツを纏った。赤褐色を中心とした配色の、全体にパズルのように幾何学模様が組み合わさっているものである。それに、オレンジじみた煉瓦色のズボンを履いた。電車の時間を調べると三時三九分で、一五分ほどの猶予があったので丁度良かった。それでクラッチバッグを持って上階に上がり、ハンカチを引出しから取って後ろのポケットに入れ、母親に行ってくると告げて出発した。西へ向かって歩き、木の間の坂道に入って上っていくと、出口近くで鵯のぴよぴよという鳴き声が響き落ちてくる。空には雲が多く浮かんでおり、陽射しはないが、駅に着く頃には汗だくだった。ホームの先の方に立ち止まると、熱気がもわもわと自分の身体から立ち昇り、背中には汗の玉が転がる感覚が齎されてぞくぞくとし、腕を見ればそこにも毛穴から噴出した汗が水滴となって夥しく付着している。
 まもなく電車がやって来たのでなかに乗り込むと、熱気の籠った肌に冷房がかなり冷たい。この時は手帳は読まず、シャツを時折りぱたぱたとやりながら窓外の景色を眺めて到着を待った。青梅に着くと降車して、ホームの先の方へ向かう。いつものように二号車の三人掛けに座ろうかと思っていたところが、先に入っていった二人組があったので避け、そのまま二号車を過ぎて先頭の一号車に入り、無人の車両のなかに腰を下ろした。そうして手帳を取り出し、読みはじめた。最初は背の汗がシャツに染み込むのを避けて前屈みになっていたのだが、じきに背中を背後に預け、脚を組んで座るいつものスタイルになった。
 道中、特段のことはなかった。路程の終盤では眠気が少々出てきて、手帳を太腿の上にひらきながら瞼がたびたび閉じたので、西立川でもう手帳は仕舞ってしまい、残る一駅分は思う存分目を閉ざした。そうして立川で降りると、エレベーター裏の壁に寄って人々が捌けていくのを待つ。目の前を、若いカップルが腕を絡め合わせて賑やかにいちゃつきながら通り過ぎていった。横目で彼らを追うと、その後、男性の方が女性の肩に手を回して置きながら過ぎて行った。ちょっと経ってからこちらは歩き出し、スペースの空いた階段を上り、改札を抜けると向かいの壁の端に設置されたATMに寄った、カードを挿入し、画面やボタンを操作して五万円を下ろす。金を財布に入れると群衆のなか歩き出した。日曜日とあって人は多く、浴衣姿の女性が見かけられるのは、電車のなかでもアナウンスをしていたが、今日、昭和記念公園の花火大会があるからだ。大量の人々が魚の群れのように吐き出されているLUMINEの入口をくぐり、エスカレーターに乗って六階に行った。FREAK'S STOREで靴下を買うつもりだった。先日来た時に、カバー・ソックスが三本ワンセットで売っているのを見かけていたので、それを買うことにしたのだ。店舗に入ると早速靴下の区画を見分し、ボーダー柄の三本セット一五〇〇円を手に取り、それからついでに店内を回った。なかなかクールな真っ黒なシャツが数十パーセント引きになっていたが、買うほどの経済的猶予はない。Tシャツも安くなっていたけれど、そこまで欲しい品もなかったので、店内を大方見回ると早々にレジカウンターの前に並んだ。前には女性が一人、会計をしているところで、担当している店員は以前、チェック柄のブルゾンを買った時に相手をしてくれたTさんという方だった。自分の番が来ても何も言わなかったのだが、向こうから、以前も来てくれましたよねと話しかけてくれた。何の時でしたっけ、と訊いてくるのに、こちらも数秒記憶が上手く戻らず、何だっけな、と顎に手を当てたのだが、じきに思い出して、チェックのブルゾン、と口にした。それで相手も思い出し、あれからどうですかあのアイテムは、と訊いてきたのだが、あれからすぐに暑くなっちゃったんで、あんまり着ていないっていう、とこちらは笑って受けると、相手も大きな笑みになった。一六二〇円を払ったあと、また寄らせていただきますと挨拶して店をあとにした。そのほか、tk TAKEO KIKUCHIで安くなっているであろうTシャツを見たいような気もしたのだが、いや、今日は余計な金は使うまいと心を決めてエスカレーターに乗り、二階を目指した。エスカレーターも混んでおり、ある階で降りると人々が並んで詰まっていたので、迂回して回り、自分には珍しいことだが、右側の空いているスペースを歩いて下りて行った。それでも二階に着く前には、右側のスペースも埋まっていて立ち止まらざるを得なかったくらいである。二階に下りるとUNITED ARROWSの店舗を抜けるついでにいくらか服を見分したが、ここでも金を使う余裕はない。それですぐに出て、駅のコンコースに入り、群衆のなかを広場に出て、伊勢丹の前の高架歩廊を進んでいく。歩道橋を渡り、左手に折れて高島屋の入口のガラス扉をくぐると、すぐ脇にあるPaul Smithの店舗を見ることにした。品がこちらの手に届かないくらいに高いだろうということはわかっていたが、どんなものがあるのか一度見てみたかったのだ。客はこちら一人しかいなかった。店内を見て回っていると、ライオンの鬣を思わせる髪型をした男性店員が、時折りにこやかに話しかけてくる。スーパー・マーケットのBGMめいた、無害を装った感じの慇懃さである。品はやはりなかなか良さそうなものが多かったが、セールになっている品でも一万六〇〇〇円とかで、やはり高い。独特な柄のシャツが多くて、入口の一番近くに吊るされていた新着品のなかに結構良いものがあったのだが、手の届くものではないので、男性店員に、すみません、また来ますと言い残して店を去った。そうしてビルのなかに進んでいき、エスカレーターに乗って六階へ。淳久堂書店である。今日この店に来たのは、T田とT谷に対するプレゼントの本を買うためだったが、最初に思想の区画に入って新着図書を眺めた。しかし、余計な金は使わず、さっさと帰ろうと決めていたので、それ以上は見分せず、書架のあいだを抜けてフロアを歩き、岩波現代文庫を見に行った。小平邦彦の著作やリチャード・ファインマンのエッセイを確認するためで、棚の前にしゃがみこんで頁を少々繰ったが、結局買ってもすぐには読めないしな、というわけでこれも見送ることにして、詩のコーナーに向かった。そうして、『石原吉郎詩集』と、谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』を手に取った。前者はT田へ、後者はT谷への品である。石原吉郎は難解だが、最近T田は文学に興味が出てきているらしいので、多分大丈夫だろうと思う。それでほかの著作はほとんど見ずに、さっさと会計に行った。女性店員を相手に本を差し出して、カバーはと訊かれたのにいや、と答えたあとから、あの、プレゼント用の包装をそれぞれしていただきたくて、と申し出た。包装紙で包むバージョンと、布の袋に入れるバージョンとがあると言われた。前回Nさんへのプレゼントを包装した時には紙を選んだので、今回は布の袋にすることにした。白いテープで値段の表示を消せるがと言われたのには、良いですと答え、色は緑と紺で分けることにした。それで会計、二三三八円を支払い、一七番の番号札を渡されてレジカウンターの前を離れ、その脇に設置された座台に腰掛けた。台は先客でほとんど埋まっていた。それで手帳を見ながらしばらく待っていると、先ほどの店員が、白い紙袋に入った二つの品を持ってやって来た。お渡し用のお手提げは二枚入れておきますかと言うので、そうですねと受けて二枚のビニール袋を加えてもらい、品物を受け取って礼を言い、エスカレーターに乗った。今日はエスカレーターに乗っていても、まったく高所不安を覚えることがなかった。そうして二階で降りて退館。
 外に出ると途端に靄のような暑気が押し寄せてくる。花火大会の客で駅が混む前にさっさと帰ろうというわけで、歩道橋を渡って高架歩廊を行く。伊勢丹の前、歩廊の両側にはたくさんの人々が並んでたむろし、携帯を弄っていた。そのうちの何人かがまったく同じ、指で画面をひたすら連打するような動きを見せていたのだが、あれはやはり『ポケモンGO』をやっていたのだろうか。そこを過ぎて広場に近づくと、丁度カラーコーンが並べられ、そのあいだに黄色と黒の縞模様の棒が渡されて、通路の両側を限る柵が作られているところだった。駅舎に入る前にも、花を咲かせた浴衣姿の女性とすれ違い、なかに入ってからも同じ装いの女性が散見される。群衆のなかに、イスラームの女性だろう、ヒジャブを着用している人がおり、ベビーカーを押していた。緑のヴェールを頭から被り、身体を覆っているのは黄色の布で、どちらも明るく鮮やかな原色の色調だった。それを眺めていると、女性は改札横の売店のなかに入っていった。そこを過ぎてこちらは改札をくぐり、一番線ホームに下りて青梅行きの先頭車両に乗った。そうして席に就き、手帳を取り出して眺めていると、先ほど見かけたヒジャブの女性が車両内に入っていた。同じように覆いを身につけている女性はもうひとり連れ立っていて、そちらの人は全身真っ黒な装いだった。ほか、小さな子供が数人。
 その家族たちは西立川ですぐに降りていった。その後、こちらは手帳を眺めて過ごす。一席分空けた隣には、頭頂部の禿げていて周縁にしか髪のなくなった中年男性が座っており、河辺で降りていく直前までずっと、前屈みになって考え込むようにしながら、ガラケーを何やら注視して操作していた。シャツはよくあるストライプ柄のもので、ズボンは薄白いベージュ色のものだった。
 青梅に着くと、ホームを歩いて待合室の横へ。丘の裾、薄青く貼りついた山の遥か彼方には、夕陽の明るみを孕んだ雲がくゆっていた。小学校の裏山からはじりじりと拡散する蟬の鳴き声が響いてくる。待っているうちにまもなく電車がやって来たので、なかに入って三人掛けに腰掛けた。向かいの席には、真っ青な運動服姿の、女子高生らしき少女が乗っていた。こちらが目線を上げてその顔を見た時、彼女の表情は軽く綻んでいたのだが、あれは多分携帯で何らかのメッセージを読んで笑っていたのではないだろうか。そうして発車の時刻が来て、最寄り駅に着くと紙袋とクラッチバッグを持って降り、ホームを辿った。階段通路を上がっていくと、そのてっぺんについた時、西空の彼方の雲の下端に太陽がほんの僅かに顔を出し、視界の端に暖色を引っ掛けて来たが、地に日向を作るほどの力はなかった。階段を下りて駅舎を抜け、横断歩道を渡って木の間の坂道に入ると、ニイニイゼミだろうか、拡散する鳴き声の網のなかに、薄く遠くカナカナの声が一匹、漂った。さらに下って行くと今度はより力強く、網のなかを貫く声があった。平らな道に出て折れると、Nさんが庭にしゃがみこんで草取りか何かをしていた。その近くまで行くとあちらが顔を上げたので、こんにちはと挨拶し、暑いですねと声を掛けた。そうね、蒸し暑いですねと返されたのを受けて過ぎたあとから、お気をつけて、と声を振ってその場をあとにした。
 帰宅すると、居間では母親がソファに就いて脚を伸ばし、休んでいた。こちらはカバー・ソックスを脱いで洗面所の籠に入れにいった。父親は風呂に入っていた。それからこちらは下階に戻って、ズボンを脱ぎ、押入れの収納に仕舞っておいてから、Tシャツは脱がずに上階に行った。それでハーフ・パンツを履いて戻り、Twitterを覗くと、Kさんから返信が届いていた。以下のようなものである。

 Fさん、ありがとうございます。最後までおもしろく拝見させていただきました。ことに「具体性への欲望のようなものが薄れてきていると言い換えることが出来るかも」という点に惹かれました。実際のところ、文字表現とは、紙に書かれたインクの跡にすぎず、それに伴って考えたり感じたりすることはすべて抽象的です。にもかかわらず、その文字表現が《成功していたならば》、きわめて具体的に感じられます。
 「木が立っている」という表現があったとします。これは具体的です。これが「木が薔薇のように立っている」だったらどうだろう。一般に、これは比喩表現と呼ばれます。比喩は具体的なものでしょうか。わたしはそうだと思います。「薔薇のように立っている」と感じたそのひとの知覚こそが具体的だからです。ここで、「薔薇のように立つ」ということの解釈に考えが及んでしまうと、この表現はとたんに抽象的なものになります。おそらく、描写が邪魔者扱いされてしまうのは、後者の立場に立っているひとが多いせいだと思います。表現というのは、解釈よりも実感に寄っているのに。
 しかし、わたしは彼らの気持ちもよくわかります。たとえば、「木が薔薇のように立っている」と感じられる人間は、それ相応の感受性をもった存在なのだと捉えられるでしょう。読み手自身は、その表現に出会うまで、「薔薇のように立つ」という感覚をもったことがなかった。だけど、これを見て、そういう場合もありうるのだと新しい知覚を得た。おおげさに言えば、世界の認識が変わったかのような感覚を得た。ところが、そのあとの書き手の手抜かりが多いと、こいつはそんな繊細な感受性をもった人間にはとても見えない、というふうになることがあります。つまり、比喩を具体性たらしめている点が失われ、あの表現は書き手の単なる思いつき、べつに何も示すところのないしょうもない技巧であったことが明らかになるのです。こんな興醒めをさせられるくらいなら、確かに描写なんか邪魔者でしょう。作者がへらへらいきがって、自己主張でもしているのかと見まがうような適当な表現を見せられるだけなら、読まないほうがよほどいいと思います。べらぼうにうまい言い回しをつかう天才相手なら別でしょうが。
 今日では、世界を見たり感じたりする目は万人共通ではない、ということはあたりまえに認識されています。「木が立っている」という認識をする人間のすぐ傍に、「鳥がいない」というまったく別の認識をする人間がいることも当然です。描写とは、描写の主体と対象との具体性を示すものであり、読み手はその具体性を知る(読む)ことで、新しい具体性を獲得することができるのだと思います。それまでは、頭のなかで抽象的に「こういうひともいるのかなあ」とイメージするしかなかったものが、ぐっと身近に実感できる。
 以上のことから、問題は二点あるように思います。第一は、読み手側。描写を飛ばして大筋だけをつかむ方法は、いまの自分自身が持ち得ている具体性に対して、その大筋をあてこんでいるにすぎません。ここでは既存の解釈以上のものは生まれず、よしんば生まれたとしても、自分の思考の及ぶ範囲までしかそれは広がらない。隣の家に引っ越してくるひとはおらず、みんながみんな自分の住まいに存在してしまっているよう。これは、読書によって「新しい世界認識を得る」ことを放棄しているのにほかならず、もったいない話だと思います。
 しかし第二に、書き手側の問題である可能性も捨てきれません。書き手は、自分のこの世界認識は万人共通のものではない、個人のものである、だが個人といっても社会生活のなかで知らぬ間に根差した固定観念かもしれない……といったぐあいに、どれほどちっぽけな描写であっても、いちど熟考する必要がある気がします(言葉遊びなどなら別ですが)。書き手は、己の描写によって、自分の具体性を獲得するのではないでしょうか。いや、ひょっとしたら、逆に消失してしまうかもしれない。書き手は、自分の身体に、表現という刃を抜き差ししているような気がします。このようにして生まれた具体性が、読者に《(自分には)わからない》として伝わり、読者は「この《わからなさ》はなんだろう?」と考えはじめます。ただ考えるだけではあきたらず、それをモチーフに読者が書き手に変貌する場合もあるかもしれません。こうして、読書による世界認識の輪廻が生まれるのだと思います。
 つまり、描写を余計者としてしか見ない読者は、たしかに重大な部分を見落としているように思いますが、そのとき、書き手もまた、よく考える必要があると思います。もし、読み飛ばされてなお成立してしまう世界認識しか書き手に存在しないのであれば、書き手もまた、なにか重大な点を見落としたり書き落としたりしているのではないかと。世界認識が、本当に十人十色・千差万別であるならば、描写が飛ばされてしまったとき、とたんにその世界は崩壊してしまってもおかしくない。なぜ描写が無くても成立してしまうのか(もちろん、書き方がうますぎて、強引に成立させてしまっている可能性もある)。
 描写の欠損については、書き手と読み手の双方で考えるべき問題だとわたしは感じています。わたしも、それぞれの描写がそれぞれの描写を打ち消しあって、まったく意味不明な文章に堕しているものを見たことがあります。そういうとき、ひとはえてして「想像力の問題」「《わからなさ》を楽しめ」と言いますが、こういう俚諺を安易に用いることこそ危険きわまる振る舞いだと思っています。最初に括弧つきで《成功していたならば》と書いたのはそのためでした。
 長々と失礼いたしました。

 それに対する返信を考えながら、ベッドの上で手の爪を切り、そうして七時頃、上階へ行った。食事である。唐揚げと米、ワカメのスープに、生サラダなど。ニュースを見ながらものを食べる。日韓関係の冷え込みを受けて、民間の交流が延期されたり中止されたりしているという話題があって、大垣市で子供たちのサッカー交流が延期になったという報を受けて、父親は、子供たちには関係ないだろうに、などというような呟きを漏らしていた。ものを食い終わると服薬し、そうして食器を洗って入浴へ。汗を流し、すぐに上がってくると、パンツ一丁のままで、ジンジャーエールを持って下階に戻ったが、風呂を出たばかりで身体に熱が籠っており、背には汗が浮いていた。それで、今夏初めてのことだが、エアコンを点けた。窓を閉めてクーラーを入れ、しばらく身体を冷やして汗を止めたあとに機械を停止させると、ふたたび窓を開けた。音楽は、Bob Dylan / The Band『Before The Flood』を流していた。それで、Kさんへの再返信を書き綴った。

 Kさん、具体例も交えて、丁寧で充実した返信を有難うございます。僕のツイートが、他者理解の姿勢にまで話を少々拡大させすぎていたところ、議論を描写の問題に絞って差し戻していただき、なおかつ、書き手の感受性や世界認識の整合性という新たな論点を加えていただきました。書き手の方も、自らの世界認識の表現が統一的できちんとした形を持ったものであるかどうか、絶えず熟考し、点検しなければならないというご指摘には、日々文章を綴る者の一人として、居住まいを正されます。
 Kさんのご指摘に同意した上で、次に問いとして浮かび上がってくるのは、それでは、感受するに値する具体性や差異の感覚を与える適切な表現の有り様とはどのようなものだろう、ということです。ここで、ヒントのようなものとして僕が何となく思い浮かべるのは、古井由吉が最近の文芸誌のインタビューで述べていた言葉なのですが――以前Twitterで見かけただけなので、引用を正確なものに出来なくて申し訳ありません――「優れた小説は、そのところどころで同時に詩になっている」という言明です。この発言の意味を正確に解釈し、類推する力はもとより僕にはありませんが、そこから次のようなことを考えました。
 詩という形式における言語表現は、一般的に新奇なものが多く、非常に特殊なものです。それは一方ではとても具体的なものだと思います。と言うのは、詩作者の各々が自らの感受性を最大限に研ぎ澄ませ、洗練された表現を追究した努力の結果が、詩という形に結実しているからです。それは言わば、究極的な具体性、固有性の追究のあり方だと思います。
 しかし一方では、そのように固有性への志向が並外れているために、詩の表現というものは一般的に難解になりがちです。個々の行の意味がわかりづらいことも往々にしてありますし、個々の文の意味が取れたとしても、全体として何を言わんとしているのか解釈が難しいことも勿論あります。従って、書き手の立場からすると具体性を最大限に追究した結果の表現が、読み手の立場からするとひどく抽象的で、多義的で、意味が不明瞭なものとなりがちなのです。
 しかし、この「わかりづらさ」を、自分はいたずらに退けたくはありません。わからないけれど、確かに光を放つ表現、意味が不明瞭でも自分の感受性に何がしかの刺激を与える表現というものがあることを経験的に知っているからです。その時読者は、具体性を究極的に志向した表現のなかに、自らの世界認識にも通じるような一抹の一般性を覚えているのではないか。そうした感覚を――かなり曖昧で問題含みな概念を敢えて使わせていただければ――「リアリティ」と人は呼び習わすのではないでしょうか。
 その時、表現には何が起こっているのか。そこでは、具体/抽象の系に単純に切り分けられない感覚が生じているのではないでしょうか。究極的な具体性を目指しているはずの詩の表現が、同時に狭く閉じ籠らない大きな抽象性にも繋がっているということは、ある種、個々人の感受性の内部を掘り進めていった表現がその極点においてついに内破し、地底の裏側に掘り抜けるようにして他者の世界への経路を確保したということを表しているように思われます。そこにおいて表現は、具体と抽象の領域が重なり合うようなものになる。具体的でありながら抽象的でもあり、同時にそのどちらでもない。確かな手触りを持った具体性のなかに広大な抽象性を含み、広く通ずる観念性のなかにも特殊な固有性を孕み持つような、そのようなものになっているのではないでしょうか。
 古井由吉の言葉を、自分はこのような文脈で捉えたいと思います。そして、上のような動勢において、感覚を撹乱させられるような一種の「わからなさ」が生まれるのではないか。一方では、Kさんが指摘なさっているように、単純に「わからなさ」を称揚するような態度には慎重でなければなりません。しかし同時に、Kさんは「わからなさ」の別の側面にも目を向けておられます。と言うのはそれが、読者が他者の世界認識について思考を巡らし、その具体性を己の内に取り込み、さらにはことによると自ら受容者から生産者に変容することの契機にもなり得ると述べておられるからです。こうした「わからなさ」の積極的な側面に自分は同意し、そこから生じるであろう「世界認識の輪廻」をKさんとともに肯定したいと思っています。
 実のところ、自分にとって重要な表現や作品には、いつもいくらかの「わからなさ」が付き纏うものではないでしょうか。どんなに簡明な表現であっても、それが何らかの「リアリティ」を感じさせるものであったならば、その底には一種の「汲み尽くしがたさ」のようなものが孕まれているものではないかと思います。そうした「汲み尽くしがたさ」を最も顕著に体現するものとして僕の念頭にあるのは――偶然にも、先に名の挙がった古井由吉が訳した作品ですが――ロベルト・ムージルの「静かなヴェロニカの誘惑」です。あれはほとんど最終的と言っても良いほどに晦渋な作品ですが、それを難解さのための難解さだと打ち払ってしまえない「汲み尽くしがたさ」が横溢しているテクストであり、何度も折に触れて読む価値があるものだと感じます。
 またしても返信が長くなってしまい、申し訳ありません。最後にお願いがあるのですが、Kさんの先の一連のツイートをブログに引用し、我々のやりとりを日記として記録したいと思うのですが、お許しいただけるでしょうか?

 ブログへの転載についてはその後、無事に許可を貰えたため、上のKさんの発言も引用してあるわけである。それから八時四〇分に至って日記を書きはじめ、一時間半でここまで追いついた。合間、LINE上で翌々日の会合について話し合ったり、Skype上でYさんとやりとりをしたりしていた。三〇日の会合は、一〇時に立川集合ということになった。
 その後、一〇時四〇分からベッドに移ってプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読みはじめた。例によって終盤では意識が消失してしまったので、正確に何時まで読んでいたのか不明なのだが、一時頃までは意識を保っていたものとして考える。二時頃に正気を取り戻して、明かりを落として就床した。


・作文
 14:11 - 14:59 = 48分
 20:42 - 22:12 = 1時間30分
 計: 2時間18分

・読書
 22:39 - 25:00? = 2時間21分?

・睡眠
 ? - 12:20 = ?

・音楽

2019/7/27, Sat.

 (……)伝統的な歴史研究においては、出来事は本質的に顕在するものであって、歴史家の使命は、その背後に隠された原因あるいは意味を探求することにあった。それに対して、たとえばショーニュの研究では、同時代人にも見え、直接知覚できる出来事の下に、いわば歴史の泡とも言うべき出来事、同時代の人間には、知覚されなかったり、見えていなかった出来事が存在することを明らかにする。たとえば、セビリア港に一隻の船が入り、あるいは出ていくという出来事は、当時のセビリアの住民は完全に知っていた出来事である。しかしこの種の出来事の層の下には、より拡散した、別の型の出来事が認められ、それは、同時代人が正確に同じように知覚してはいなかったにせよ、ある程度は自覚していた出来事、たとえば価格の変動といったものであり、さらにその下には、所在をつきとめることが困難で、同時代人にはしばしば自覚されなかった別の出来事、たとえば経済曲線の変化や逆転といったものが見出される。しかも、このようなレベルの出来事は、たとえば、現在のように一国の経済に関する比較的厳密な統計を持っている経済学者ですら、完全に判定はできないものであるにもかかわらず、結局は深いところで世界の歴史を決定する出来事であることは、いまさら言うまでもない。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、23; 「フーコーの方法」)

     *

 清水 (……)たとえば『狂気の歴史』では狂気のことは何も書いてないっていうことがあるでしょう。
 渡辺 ヤスパースのように狂気の本質を問うことはしない、ということから始まる。
 清水 『狂気の歴史』という本は、ある時、理性の天下をつくるためにどのようにして非理性を排除したかという、その排除の仕方だけ書いているわけですよね。ある概念が成立するために、その周りにいかなる排除が起こり、いかなる輪郭が浮かび上がってきたかということだけを非常に明晰かつ精密に書いた。まあ「だけ」というのはすこし大げさかもしれないけれど、あの本には、十六世紀にいおいて〈メランコリー〉という語で何が考えられていたかは書いてあっても、そういうアプローチが現代まで続いているわけではない。「狂気の歴史」と題しながら、狂気それ自体の質が歴史的にどう変わったとか変わらないとか、狂気そのものについての研究や考察が歴史的にどういう展開を示しているかということはすこしも書いていない。それはすごく不思議なんですね。『狂気の歴史』が出た時、フーコーが狂気の復権を唱えたなんていう言葉がとびかったけど、そんなことは全然言っていない。
 (50~51; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)


 九時半頃起床。上階へ。今日は両親とも在宅。しかし母親は夕方からEさんと会うらしいし、父親は父親で夜は会合。上がっていくと両親は洗面所にいた。こちらは便所に行って用を足し、その後、冷蔵庫からカレーを取り出して、冷たく固まったものを大皿の米の上に掛ける。そうして電子レンジに突っ込んで、四分間も加熱した。その他、豚肉の炒め物の残りと生サラダ。ものを食べ終えると、両親は買い物に行くと言う。それでもし雨が降ったら洗濯物を頼むと言うので了承。父親が食器を洗ってくれたので、こちらは風呂場に行って風呂桶を擦り洗った。シャワーで洗剤を流し、出てくると、父親は今度は台所に立って電気ポットを掃除していた。その後ろを通って下階へ。自室に入るとコンピューターを起動させ、前日の記事の記録を付ける。それからはてなブログにログインすると、新しい通知が生まれていた。何かと思えば、Nさんが東京紀行の二日目を書き、そこでこちらのブログのURLを貼ってくれたのだった。それで彼女の文章を読み、ついでに自分の二一日と二〇日の文章も読み返した。まあそれなりに面白く書けているのではないか。それからnoteにアクセスしてみると、通知のなかに、Kさんという方がサポートをしてくれたとあって、見れば、五〇〇円を寄付してくれたのだった。さらには二五日付の記事にも一〇〇円払ってくれていて、非常に有難い。感謝(驚)である。それでこの方にお礼のメッセージを送っておき、そうして日記を記しはじめたのが一一時一四分だった。それから一時間ほど、裸の上半身の肌に汗を帯びながら書き続けて、二六日付の記事が書き終わったところで上階に行った。両親は買い物から帰ってきており、食卓にはチェーン店の寿司などが用意されてあった。まだ腹が減っていなかったが、悪くなってしまうと言うので食べることにして、卓に就き、シーチキンの手巻き寿司を一つ食ったあと、握り寿司を摘んだ。そのほか、ワカメのふんだんに入ったスープと、同じく生ワカメの和え物。『メレンゲの気持ち』でデザイナーのコシノヒロコお好み焼きを作っているのを眺めながらものを食い、ふたたび父親が率先して食器を洗ってくれたのでそれに任せて下階に下りてくると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだして――ちなみに先ほど日記を書いているあいだは、同じくFISHMANSの『Chappie, Don't Cry』を掛けていた――日記。ここまで綴ってほぼ一時に至っている。
 それから、前日職場からコピーしてきた英語のプリントを勉強した。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、閉じたコンピューターの上にプリントといらない紙を置き、受験勉強のように問題を解いていった。答えを見ないでもわりと解けたので、英語の文法などもう細部は全然忘れたつもりでいたけれど、自分、意外とやれるなと思った。二時前まで解き進め、職場からコピーしてきた分はすべて解き、確認して、それからMさんのブログを読みはじめた。この時点でもう、ブログを読みながら歯磨きをしていたと思う。続いてSさんのブログも三日分。それで二時一九分に達し、電車は三時三九分かそこらだったと思うが、その時刻が来るまで読書をすることにした。 プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』である。四〇分ほど読んで、三時を過ぎ、それから出勤の準備を始めたが、細かい手順など覚えていない。服を着替えた。バッグに荷物を入れた。それくらいで良いだろう。そうして上階に行くと、母親はエアコンの点いた居間で寛いでいた。まだ電車まで余裕はあったが、早めに出発。道中のことなど覚えていやしない。暑かったことは間違いない。空には雲が多くて、日蔭と日向の移り変わりが頻繁だった。坂を上っていき、駅へ。無人のホームに着くとベンチに腰掛けて手帳。ワイシャツと肌着の裏の肌が汗にまみれて、いくらかぞくぞくとする。座っているあいだにも日向が足もとまで押し寄せてくる。一五分かそのくらい待ったと思う。アナウンスが入ると立って、手帳を片手に持ったままホームの先へ。乗る。手帳。青梅着。降りて、通路を辿って駅を抜け、職場へ。
 今日は三時限。一コマ目は、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(高三・英語)、(……)さん(高三・英語)。家で予習したのは(……)さんの範囲である。そのおかげで問題なく解説できた。(……)さんがこちらに見つからないように携帯を授業中弄っているのが少々いただけない。彼女は見つかっていないと思っているのかもしれないが、余裕でバレている。いちいち注意するのも面倒臭いので特に触れないスタンスだがこちらは、しかしそのせいで進みが悪くなるのは良くないことだ。今日も、本当は今日扱った比較の単元以外にもう一頁復習しようと思っていたのだが、進みが遅かったのでそれが出来なかった。なるべく彼女の傍に立つようにして携帯を弄るのを防ごうとしたが、ほかの生徒にも当たらなければならないので、完全に防ぐことが出来るわけではない。
 二コマ目は(……)さん(高三・現代文)と、(……)さん(小五・社会)。二人相手はやはりやりやすい。細かいところまで指導できるし、余裕もある。(……)さんはノートには要約の練習をしてもらった。(……)さんは社会の初回。今日は緯線・経線とか、北方領土とか、そんな感じの単元。ノートはたくさん書いてくれた。
 三コマ目は、本当は三人相手のはずだったのだが、欠席なり何なりで一対一になった。マンツーマンである。相手は(……)さん(中三・英語)。彼女もなかなか進みの遅い生徒だが、今日は一対一だったので、ほとんど常につきっきりで当たることが出来たので、助動詞の単元を一頁と、復習を一頁行うことが出来た。助動詞の単元は、一番簡単な問題の頁を一回一緒に解いたあと、直後にもう一度、自分一人のみで解かせてみたのだが、そうすると問題なく出来ていたので良かった。単語の質問などしていても、そこまで絶望的に覚えが悪いという感じでもないような気がする。ただ、基礎的な力がないのは間違いないのだが。彼女くらいの生徒だと、本当は一対一の家庭教師とかの方が合っているのだろうなとは思う。最低でも一対二の時に当たりたい。三人相手のなかに彼女が含まれているとなかなか厳しい授業になる。
 それで終業。室長は途中で帰って、残っているのは(……)くんと(……)先生のみ。それで、二人に、明日何かあるのと声を掛けた。二人ともないということだったので、それなら飯食いに行こうよと誘った。それで行くことに。駅前からほんの少し歩いたところに、地ビールの店があると言うので、そこに行くことに。それで三人で教室を出て、家に財布を取りに行く(……)くんを待って、(……)先生と二人で並んで話をした。バス停のベンチに座って。彼は今大学二年。工学系の学部らしい。プログラミングなんかをやっていると。(……)くんが戻ってくると、三人で歩き出し、店へ。ガラス張りになっていて、表から店内が丸見えの店で、だからこちらの母親などは入りづらいと言っていた。ということを話しながら歩いていき、入店。がらがらだった。ほかにいた客は一組、男女一人ずつのみ。二人はビールを頼み、こちらはジンジャーエール。そのほか、ソーセージの盛り合わせ、ミモザサラダ、チキンのトマトソース煮込み、ピザ、カツレツなど。最終的に会計は五一〇〇円だったのだが、これは多分あちらのミスで、二杯目の飲み物やカツレツの値段が含まれていない。レシートを今見てみても、カツレツの表示がない。こちら側としては得をしてしまったわけだが、申し訳ない感じでもあるけれど、もしかしたら店側がサービスをしてくれたのかもしれない。真相は不明である。
 それで、色々と話したのだけれど、一番面白かったのは(……)くんの報われない恋愛話だったのだが、今細かく書く気力がないので、省略する。彼は大学三年生。法哲学をやるゼミに入っていて、今読んでいるのは木田元『現代の哲学』とのこと。前日に職場で何か文庫本を読んでいたので、あれがそうかと訊くと、あれはそうではなくて、ドストエフスキーの『地下鉄の手記』だったとのこと。情報や知識を得るのは好きだが、読書自体は嫌いだとよくわからないことを言っていた。
 細かい話を書く気力がない! 面倒臭い! 零時に達したところで、その時点で客は我々しかいなかったわけだが、店側からすみませんが閉店の時間ですとの声が掛かった。腰の低い、中年くらいの女性だった。それで会計。先に書いたように五一〇〇円だったので、それじゃあ千円で、と二人に向かって一本指を立てて、千円札二枚を頂いた。それで会計を済ませ、長いあいだ有難うございましたと店員に声を掛けると、あちらは恐縮して、いえいえ、また来てください、みたいなことを言った。それで出て、二人と向かい合い、有難うございましたと挨拶する。(……)くんが、誘ってもいいですかと訊くので、良いですよと答え、別れた。そうして夜道を三〇分ほど歩いて帰宅。
 帰宅すると風呂に入り、入浴後は部屋で一時半から読書をしようと始めたのだが、例によっていつの間にか意識を失っていた。気づくと午前五時。就床。


・作文
 11:14 - 12:28 = 1時間14分
 12:48 - 12:58 = 10分
 計: 1時間24分

・読書
 13:55 - 14:19 = 24分
 14:25 - 15:08 = 43分
 25:31 - ? = ?
 計: 1時間7分+?

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-19「そしてその目をどこにやる打ち明けたあとの余白と神々しさと」; 2019-07-20「透明な個室の隅で君は泣く君はぶたれる君がはじまる」
  • 「at-oyr」: 2019-06-08「虚構と制作」; 2019-06-09「ネットワーク以前」; 2019-06-10「雨」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』: 116 - 124

・睡眠
 4:30 - 9:30 = 5時間

・音楽

2019/7/26, Fri.

 ところで、そのようなほとんど古典主義的な名文を動員しているものは、従来の〈見方〉を根本的に変更することを要求しているフーコーの〈視線〉である。フーコーは、哲学者の使命は「人が見ていながら見えていなかったものをはっきり見えるようにすること」にあるとして、そのためには「僅かに視点をずらすだけでよい」と述べるのを好んでいる。しかし、〈覆われたもの=見えないもの〉を露呈させるという形で立ち現われる〈真理=アレーテイア〉の探求という、伝統的に哲学が使命とすることを好んだ〈視線〉に対し、一見遙かに謙虚にも見えるこの選択は、しばしば、〈隠されたものの露呈〉以上に重大な変更を思考の作業にもたらすのであり、考え方の、その価値表の逆転を要求しさえもするのである。『性の歴史』の第一巻をなす『知への意志』において、フーコーは、性に基く衝動や行動、あるいは現象の歴史を分析するに当って、それを「禁止」や「検閲」という「抑圧」のメカニズムからではなく、「性行動・性現象の言説化を煽動する装置」という視座を選ぶのであるが、その際に、「抑圧の仮説」とフーコーが規定するもの、つまり通念的に主張されている「性の歴史」を一こま一こまひっくりかえして[﹅8]いくその手つきは、ほとんどスリリングですらあるのだ。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、11~12; 「フーコーの方法」)

     *

 (……)フーコーは、あまりにも身近かなものであるがゆえに詳しくは述べなかったのかも知れないが、このような民俗学の歴史主義からの自立は、言うまでもなくレヴィ=ストロースの方法論的選択であった。レヴィ=ストロースは、自らの構造人類学を確立するに当って、マルクス主義に代表される〈歴史の呪物崇拝〉を排し、〈時間〉の暴政から〈知〉を解き放とうとしたのであり、直線的な、しかも普遍的に通用すべき発展段階的史観という、西洋近代が作り上げた進化論の文明版から、自己の研究領域を切り離し、自立させるのは急務であったからだ。
 しかしフーコーにとって重要だと思われるのは、歴史を「不断の連続性の糸」として捉える態度と、「主体[シュジェ]としての意識」とは全く相関的だという点である。そのような「連続性」に基く歴史は、人間の周囲に、人間の言葉や仕草の周囲に、常に再構成されようと待ち構えている漠とした統合を編み出すことによって、意識にとってのアリバイとなるからである。そのような連続性の歴史は、物質的な決定力とか無意識の作用、あるいは制度や事物の中に忘れられている意図などを明らかにすることによって人間から奪い去ったものを、すぐさま一つの統合という形で人間に対し再現してくれるし、再び人間が、そういう人間の手を逃れていたすべての糸を取り返し、それらの死んだ活動のすべてを再活性化し、そうすることで、それらの至高の主体[シュジェ]となることを可能にするからである。こう考えれば、すでに半世紀この方、精神分析学が、言語学が、民族学が解体してしまった〈主体[シュジェ]〉というものの最後の拠り所がこのような〈連続性の歴史〉だったのであり、それに手をつけることが哲学者にとって許し難いものに映じたのも当然のことであった。
 (20~21; 「フーコーの方法」)


 珍しく、七時半頃に自ずと起床することに成功したのだが、結局あとでまた眠ることになる。上階へ行き、母親に挨拶して便所へ。放尿。戻ってきて台所に入ると、フライパンにはソーセージとジャガイモとインゲン豆が炒めてあったので、それらをよそり、さらに前夜の残り物である茄子の味噌汁も加熱して、鍋を傾けて残った量をすべて椀に注ぎ込んだ。そうして食事。母親も向かいで食事を取っている。医者に行こうかな、と口にした。その後図書館に行って仕事の時間まで過ごすつもりだと。それで食事を食べ終わると食器を洗ってから洗面所に入ったが、洗濯はまだ完了していないと言うので、下階に戻った。コンピューターを点けて前日の記録をつけ、この日の記事を作成し、その後八時一五分からベッドに移って書見を始めたが――プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』である――またもや途中で眠りに落ちてしまった。どうしようもない。何故にこうまで眠ってしまうのか? 気づくと一〇時半前。重い身体を引いて上階に行き、風呂を洗った。母親がカレーを作ったから食べて行けばと提案するが、時間ももうあまりなかったし、カレーは今ではなく夜に食べたいという気持ちが何となくしたので、断り、下階に戻って、Twitterを覗きながら歯を磨いた。それからまた上に上がり、階段脇の腰壁の上からボディ・シートを一枚取って肌を拭った。母親は、赤紫蘇ジュースを作ったからおばさんに分けてあげようと言って、外に出て隣家に行った。このあたりの気さくなところと言うか、わざわざ隣の家に分けてやるところは母親の良い性分だと思う。こちらは下階に下りるとワイシャツとスラックスを身に纏い、コンピューターをシャットダウンしてリュックサックに入れ、電源コードやマウスも同じくリュックサックに収めた。そのほか、図書館に返却したり書抜きをしたりする予定の本を何冊もリュックサックに詰め込み、そうして上階へ。時刻は一一時を過ぎたあたりだったと思う。母親に行ってくると告げて出ようとすると、熱中症予防のタブレットを持っていきなと言うので、一つだけ受け取って口に入れ、そうして玄関を抜けた。
 今日は晴れである。新聞の天気予報を見たところ、夕刻からは雨のマークになっていて、降水確率も七〇パーセントを記されてあったのに、傘を持たずに出てしまったがどうなることか。日向の道を西へ向けて歩いていると、後ろから自転車がやって来た。野球服姿の少年が乗っている。(……)兄弟のどちらかだなと思えば果たしてその通りで、通り過ぎざまにうす、と声を掛けて会釈してきたので、こんにちはと笑って返した。陽射しは分厚く重く、いかにも夏のそれである。坂に入って上って行くと、木洩れ陽を受けて路面に空いた光の穴の、頭上の緑の天蓋が大きく風に揺らされることで、路上のそれも絶えず振動し、震えて影と光の交錯を見せ、まるで足もとが水面と化したかのようだった。そのなかを上っていき、出口に掛かると、あたりの緑が光を受けて艶々としていて、強烈な太陽の下で空間の解像度が上がったかのようだった。美しい日と言っても良いだろう。
 横断歩道を渡って階段通路を辿り、ホームに入った。ベンチには先客が一人。今日は中年の男性だった。こちらもベンチに座り、手帳を取り出して読んだ。座っているあいだ分厚い風が吹き流れ、横から肌を涼めてくれる。線路を挟んだ向かいの石壁、敷地の縁では草々が風に震わされて明緑色が空間に散乱している。そのなかを雀が一匹、すっと宙を切って渡っていき、向かいの敷地の梅の梢に突っ込んでいった。空の際には雪原めいた雲も見え、陽は時折り陰って、すると巨大な雲の影が目の前の線路から遠くの丘まですべて覆って流れていき、その様子は空間全体の色が一挙に塗り直されるかのようだった。そして数秒も経たないうちに、雲が太陽の前を素早く過ぎていったのだろう、ふたたび陽が出てきてあたりは暖色に明るみ、また空間は塗り直されて元の色彩を回復するのだった。
 電車到着のアナウンスが入ると立ち上がってホームの先に向かった。電車に乗ると引き続き、扉際で手帳を見やる。塾の生徒の(……)さんが祖母らしき高年女性と一緒に席に就いていたが、その存在を認識すると、それのみでそれ以上視線はそちらに向けず、手帳を注視した。青梅に着くと乗り換え、すぐ向かいの車両に乗り込み、歩いて一つ車両を移って、席は空いていたけれど、二駅のみだからと扉際に立った。リュックサックを下ろしたり背負い直したりするのが面倒臭かったのだ。それで河辺に着くと手帳を仕舞い、すぐ目の前の階段からは上がらず、エスカレーターのある方の上り口に向かっていき、動く足場に乗せられて階を上がると改札を抜けた。そうして駅舎を抜けると、駅前ロータリーの中央で噴水が水を撒き散らしながら大きな音を立てている。ロータリーを回って家々のあいだに入り、隈なく日向の敷かれている道を、分厚い熱気を受けながら歩いて行って医者に向かった。
 ビルに入ると階段を上っていき、待合室に入ると先客は二、三人だった。ソファ席に寄って重いリュックサックをまず下ろし、財布を取り出してカウンターに寄るとこんにちはと挨拶をして、診察券と保険証を差し出した。すぐに職員が保険証の番号をカルテと突き合わせて確認するのでそれを待ち、返されたものを受け取って席に就いた。あとは呼ばれるまで手帳を眺めるのみである。クラシック音楽の薄く流れるなかで三〇分ほど過ごしただろうか。呼ばれたのは一二時二〇分かそこらだったと思う。受付の職員に呼ばれるとはいと答えて、部屋を鷹揚に横切り、診察室の扉を二回ノックしてなかに入り、こんにちはと挨拶をした。そうして革張りの椅子に腰掛けると、どうでしたか、今月の調子はといつも通り掛けられるので、まあ、問題なく、と受けた。そろそろ学校が夏休みに入って、忙しいんじゃないですかと言うので、そうですね、と笑みを返し、一日何時間くらいですかと訊かれるのには、三コマなので……六時間くらいですかねと答えた。医師は、三コマならまあ、それほどではないな、といった反応を見せたが、こちらからすると三コマでも充分に長い。そのほか、文章を書いたり音楽を聞いたりしていますねと言うので、はい、はい、と受けて、順調ですねと判断が下された。順調なので薬もこのままで行きましょうかと終わりかけたところで、減らしませんかと笑みとともに突っ込むと、医師は、良い調子なのであまり弄りたくはないのだが、と言い、減らしたいですかと柔和な笑みを浮かべる。なるべく早く減らしたいとは思っておりますとこちらも笑みで受けると、それではアリピプラゾール=エビリファイの朝の分を除いて、夜だけにしましょうかとなったので、わかりました、有難うございますと言って席を立った。そうして出入口の扉に近寄ったところで、失礼しますと言って再度頭を下げ、退出した。
 会計――一四三〇円――を払うとソファ席のリュックサックのところに戻り、領収書を折ってなかに入れ、手帳とお薬手帳、それに処方箋は手に持ったまま待合室を抜け、階段を下りて行った。ビルを出ると隣の薬局へ。入ると先客は一人だけで随分と空いていた。局員に処方箋とお薬手帳を差し出し、五六番の札、札と言うか紙だが、それを受け取って席へ。手帳を眺めているうちに呼ばれたのでリュックサックを背負ってカウンターに寄り、局員を相手に定型的なやりとりを交わして、金を支払った。二〇六〇円だったか? そうして退出し、重く厚い陽射しのなかを駅に向かう。朝にものを食って以来何も腹に入れておらず、そろそろ胃が空になってきていたので、血糖値も下がっていることだろうし、陽射しにやられてくらくらくるのではないかと危惧しながらも、歩を確かに進めて行った。駅舎に入ると通路を辿って反対側に出て、まず図書館へと渡り、入口脇のブックポストに三冊を返却した。それでリュックサックを少々軽くすると道を戻って、途中で階段に折れて小走りに下りていき、コンビニに入店した。オレンジ色の籠を持って店内を回り、濃いカルピスと、おにぎり二つ――シーチキンマヨネーズと鶏唐揚げマヨネーズ――と、ホイップドーナツを籠に入れた。本当はチョコレートの混ざったオールド・ファッション・ドーナツを食いたかったのだが、その品は売れてしまったのか、それとも生産を中止したのか、見当たらなかった。そうして会計。愛想の良い中年の女性店員を相手に五五三円を支払い、店を出ると、ふたたび階段を上った。階段を上っている途中、手摺を見ていると、矢印を付した「踊り場」とか「階段下り」といった表示とともに、点字が施されているのに気づいた。空は蒼穹に白雲が組み合わされていかにも夏の明るさである。図書館に入ると、飲食スペースのテーブルに寄って腰掛け、ビニール袋からまずカルピスを出して摂取した。それからおにぎりを食べ、ドーナツも最後に食べて、もう一度カルピスを飲むと席を立ち、ビニール袋をぐしゃぐしゃと丸めながら外に出て、階段を下りた。図書館の飲食スペースを使ったのは、コンビニ前のベンチが何故か撤去されていて、そこにはカラー・コーンが残っているのみになっていたからなのだが、ベンチがないにもかかわらずそのあたりに座ってたむろしている男たち――若者ではない、素性の知れないような風体の者たちだ――がいて、彼らのもとに女性警官が一人寄って何やら声を掛けていた。こちらがダストボックスにゴミを捨てていると、女性警官は男たちの元から離れてコンビニに入店していった。男たちは何だろう、酒盛りをしていたわけではないとは思うのだが、何かよくわからないけれどとにかく集まってたむろしていた。階段をふたたび戻り、図書館に入って、雑誌の棚から『現代思想』を取ってちょっとめくった。panpanyaが寄稿していた。そうして雑誌を戻すと今度はCDの棚に寄って新着を確認し、それから階段を上がって新着図書も確認したのち、書架のあいだを大窓際へ抜けて、空いている一席に入った。リュックサックからコンピューターを取り出し、電源とマウスを接続すると、ハンカチで画面やキーを拭いてから起動させ、カルピスをまたごくごくと飲んだあとに日記を書きはじめたのが一時過ぎだった。それから一時間半ほどでようやくここまで追いつくことが出来た。
 それから書抜き。大澤聡『教養主義リハビリテーション』から文言をひたすらに打鍵して写す。それで二時間ほどを費やした。時折りリュックサックからカルピスを取り出して口をつけ、ごくごくと喉を動かした。本当は席での飲食は禁止されているのだが、水分をちょっと摂るためにその都度わざわざテラスまで移動するのは面倒臭い。このくらいは図書館の職員の人も許容してくれるだろう。途中で大窓の遮光幕が上がって外の景色が露わになったが、曇ってはいるものの雨は降らなそうだった。大澤聡『教養主義リハビリテーション』のあとは、小原雅博『東大白熱ゼミ 国際政治の授業』を一箇所抜書きしたのだが、その頃にはもう五時が近くなっていた。乗るつもりの電車は五時一四分、その前に書架をちょっと眺めたかったので、同書の書抜きは一箇所のみで終いとし、コンピューターをシャットダウンし、リュックサックに本やコンピューターを仕舞って席を立った。それで書棚のあいだへ。数学の区画を見分した。続いて物理学の区画も。目当てと言うか、探していた本は二種類あって、一つは物理学者リチャード・ファインマン氏のエッセイ、もう一つは、この時点では著者名も著作名も思い出せなかったのだが、数学者小平邦彦氏のやはりエッセイである。どちらも、岩波現代文庫に入っているのを書店で見かけて興味を持っていたものだ。ファインマン氏の方は、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』といった一連のエッセイ・シリーズを出しており、小平氏の方は、『ボクは算数しか出来なかった』というやはり自伝的エッセイを出版している。それで次には文庫の棚の方に行き、岩波現代文庫の当該著作があるかどうか調べたのだったが、見当たらなかった。さらに検索機に寄って、この時点では著作名が正確に思い出せなかったので、「算数」というキーワードで蔵書検索したが、出てきた無数の結果に目を凝らしても、やはりそれらしい著作は見当たらない。現在、翌七月二七日の正午前にこの日記を綴っているわけだが、先ほど図書館のホームページで改めて「小平邦彦」で検索してみても、引っかかるのは昔に出版されたハードカバーのみで、岩波現代文庫のバージョンは所蔵していないのだった。仕方がない。読みたければ買うしかないわけだ。そうして検索機の前を離れて、そろそろ電車の時間も近づいていたので、退館に向かった。
 図書館を抜けると、手に持っていた『教養主義リハビリテーション』をブックポストに返却し――カウンターに返却しなかったのは職員と数語であってもやりとりを交わすのが煩わしかったためである――歩廊を駅へと渡る。眼下のロータリーではパトカーが一台停まって、屋根の上の赤いランプをぴかぴかと点滅させている。駅に入ると改札を抜けてエスカレーターに乗ってホームに下り、一号車の端の位置に立った。そうして手帳を眺めているうちに電車がやって来た。車内には車椅子に乗った男性が一人おり、降りようとしていたので、その脇を抜けて向かいの扉際に立ち、振り返って車椅子の男性が、駅員の用意した簡易的な板――車両出口と駅ホームのあいだの段差を無化するもの――の上を通り抜けて降りていくのを見つめた。そうして扉際に立ったまま、青梅に着くまで手帳を眺めて、到着するとすぐには降りずに――改札へと向かう人々の流れを避けるためである――ちょっと待ってから車両をあとにした。ホームを歩き、階段通路を行き、改札を抜けた。改札の外には数人の小さな子供と、祖母だろうか女性があって、どうも帰っていく孫を見送るような様子らしかった。その横を通り抜けて職場へ。
 授業開始まではわりと時間がある。準備は国語のテキストを読むのに大方は費やされた。タイム・カードを押しに入口近くに行った時、西空から太陽の光が照射されており、それが入口のガラス戸の上端を縁取って眩しかったので目を細めていると、室長も同じように眩しそうにしていた。と言うのは、ちょうど室長のデスクに向かって西陽が射し込んでいるところで、彼の額のあたりが暖色で染まっていたのだ。それでタイム・カードを押してから、今日は夕方から雨とか言っていましたけどねえ、と声を掛けると、雨、降りましたよ、との返答があった。(……)さんがチラシ配りに行った際に、ちょうど雨に降られてびしょ濡れになったのだと言う。それでだろうか、彼女はスーツの上着を脱いでシャツ姿になっていた。お疲れ様ですと苦笑で掛けながら彼女の後ろを通り過ぎ、準備に入った。
 今日は二コマ。一時限目は(……)さん(中三・国語)、(……)さん(高一・英語)、(……)くん(中三・英語)が相手。(……)さんに対する解説は今日は結構充実させられたように思う。ノートにも、逆説の接続詞によって生まれるマイナスのニュアンスについてや、文章中に二項対立の論旨展開が見られた場合は、大抵、どちらか一方の項がより高く評価されているのでその点を見分けるようにとのアドバイスなどを書き記してもらった。彼女はわりあいにやりやすい相手である。笑みも多い。(……)さんは休職前にも在籍していて、当たったことのあった相手だったので、昔、当たったことがあるんだけど……と最初に口にすると、覚えているという反応があったので、改めてよろしくお願いしますと挨拶した。現在高一なので、昔当たっていた頃はおそらく中学二年だった。お互いに歳を取ってしまいましたねえ、などと笑ったが、そのあとすぐに、そうでもないか、と執り成した。今日扱ったのは完了時制。現在・過去・未来完了のそれぞれを区別して上手く問題に対応させるのが難しいようだったが、授業態度は真面目で、ノートも充実させてくれたので、悪くはない。(……)くんも結構出来る方のようである。今日扱ったのは未来形の単元だったが、ミスはイージー・ミスの類がいくつかあるのみだった。ノートには、willの次は動詞の原形になること、freeといった形容詞を使う場合の動詞はbe動詞になること、の二点を記してもらった。彼も真面目な授業態度で、終わりの際など、大きな声で有難うございましたと挨拶してくれるのが美点だ。
 二コマ目は(……)くん(中一・国語)、(……)くん(中三・社会)、(……)さん(中二・英語)。(……)くんは、野球部の部活が大変なようで、大きな荷物を二つも持っており、ぐったりしていて表情にも覇気がなかった。国語は最初は宿題だった箇所を扱ったが、そののち、夏期講習用のテキストで演習に入った。しかし、残り時間が足りなくて解説まで至れず。(……)くんを相手にするのはわりと慣れてきたような気がする。無口で大人しい生徒であはるが、質問をすれば答えてくれるということもわかってきた。しかし、ノートの方はそれほど積極的には書いてくれないという印象。まあそれでも欄をいっぱいに埋めるくらいには記してくれているが、こちらの狙ったポイントとはずれたところを記すような感じだ。まあ良い。(……)さんは小六の時分にも何回か当たったような覚えがあるのだが、それには触れずによろしくお願いしますと挨拶した。今日扱ったのは一般動詞の過去形。問題はおおよそ解けているのだが、写し間違いなどの細かいミスがあって、それに気づかないあたり、少々不安ではある。
 退勤は九時半を過ぎてしまった。翌日の準備、と言うか、翌日当たる英語の範囲のプリントを、家で予習しようと思ってコピーしたりしていたためである。退勤すると、降りてきた人々の流れに逆行して駅に入り、通路を辿り、階段を上がってホームに出た。自販機に近寄り、一三〇円で二八〇ミリリットルのコカ・コーラを今日も買う。この時、今までで初めて、SUICAを使って飲み物を買うということを実行してみた。今まではいちいち硬貨を挿入して買っていたのだが、この日はリュックサックを背負っており、背中のそれを一度下ろして財布をわざわざ取り出さなければならないのが面倒臭かったのだ。それでSUICAを利用してみたのだが、確かに楽ではあるものの、どこか味気ないような感じもする。自分はアナログな人間なので、一枚ずつ硬貨を挿入していく手間のようなものを、愛していると言っては大袈裟に過ぎるが、その一手間の時間をやはり掛けたいような気がしないでもない。それでコーラを買うと木製のベンチに就いて、手帳を眺めながら電車が来るのを待った。三〇分ほど待つようだった。そのあいだには何本か電車が着き、降りてきた人々が目の前を横切っていく。一〇時を過ぎて奥多摩行きが到着すると車両に乗り込み、三人掛けに掛けて引き続き手帳に目を落とした。
 そうして最寄り駅に着くと、青梅駅奥多摩行きに乗った頃には雨がぱらついていて、電車に乗る際に屋根と車両のあいだにひらいた僅かな隙間から水が降り掛かってくるのも感じたのだが、最寄り駅に着いた頃には雨はほとんど止んでいた。羽虫が蛍光灯に繰り返し体当たりを仕掛けているなか、通路を抜けていき、駅舎を出ると横断歩道を渡った。すると、坂道の奥の方から一匹、カナカナの鳴き声が立って、こんな時間にと思って耳を張ったが、続く声はなくてあとは途切れた。薄暗いなかを足早に降りていって、平らな道に出ると、前方から湿り気を含んで生温いような風が流れてくる。雨粒の幽かにぱらつくなかを歩いて帰宅した。
 車はあったのだが家内に父親の気配はない。ということは、今日は金曜日でもあるし、どうも飲み会に行っているのではないか。ワイシャツを脱いで洗面所に寄ると、なかに母親が入っている気配があったので扉をノックした。良いよ、と言うので開けて、パジャマ姿の母親の脇で、籠に丸めたワイシャツとハンカチを入れておき、それから自室に下りるとスラックスも脱いで気軽な格好になり、リュックサックからコンピューターを取り出して机上に据えた。そうして上階へ。食事のメニューは、カレー、茄子のソテー、ワカメのふんだんに入ったスープなどである。上階に上がる頃には父親が帰ってきており、風呂に入っていた。やはり飲み会に行っていたらしい。こちらがものを食べる傍ら、テレビは最初、何かしらの恋愛ドラマを映していた。多分、『凪のお暇』というやつだと思う。黒木華――という名前だったと思うのだが――と、高橋一生。特段の関心はない。それが終わると母親が番組を変えて、『ドキュメント72時間』が映し出された。その頃には父親も風呂から出てきており、食卓の椅子に座って脚の先の方に何か薬を塗っていた。『ドキュメント72時間』の今日の舞台は新宿かどこかにあるらしいウィッグ店で、なかに八三歳の老婦人が出てきた。ウィッグをつけてお洒落をしていることもあって、八三歳には見えない若々しさだったが、それを受けてこちらは、俺も昨日、八三歳のおばあさんに話しかけられたと両親に話した。日記に書いたようなことを話し、五〇年もの年月のひらきがあったわけだが、我ながら上手く喋れたと思うとまとめると、酒を飲んできたらしい父親は、口数多く、感心するようにしていた。それから食器を洗って入浴へ。長くは浸からず、さっさと頭と身体を洗って出てくると、柿の種を一袋持って下階に戻った。そうしてTwitterを眺めたりしながらスナックを食い、零時過ぎから読書に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』である。九一頁から九二頁に掛けては、「最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった」とあるが、これは石原吉郎も引いていたフランクルの、「すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった」という文言を当然踏まえているものだろう。「いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである」(「強制された日常から」)という石原自身の言葉ともどこか響き交わすところがある。アウシュヴィッツでは、弱い仲間を助けたり、理不尽な殴打に反抗したりした人間、つまり優秀な人間は、「その優秀さにもかかわらず死んだのではなく、その優秀さのために死んだ」のだと言う。
 一時間ほど読書をしたあとに、読書時間を記録して、意識を失った。気づくと四時半頃だった。そのまま就床。


・作文
 13:08 - 14:35 = 1時間27分

・読書
 8:15 - ? = ?
 14:37 - 16:56 = 2時間19分
 24:06 - 25:05 = 59分
 計: 3時間18分

・睡眠
 ? - 7:25 = ?

・音楽

2019/7/25, Thu.

 ミシェル・フーコーについて語ることの困難さは、別の事情に基く。たとえば『狂気の歴史』にせよ『臨床医学の誕生』にせよ、あるいは『言葉と物』『監獄の誕生』そして最新の著作『性の歴史』にもせよ、そこで扱われているのは、西洋世界、特にフーコーが「古典主義の時代」と呼ぶ十七世紀・十八世紀、ならびに「近代性の時代」と呼ぶ十八世紀末以降の西洋世界におけるある歴史的体験であり、そこで分析されるのは、そのような体験を可能にした大きな〈枠組み=構造〉と、その内部で時間的に生起して決定的な断絶を作り出した〈事件〉とである。その限りでは、〈反 - 構造主義的言説〉が何と言おうと、フーコー自身が繰り返し主張しているように、その仕事は〈歴史家〉のそれであり、その著作は〈歴史〉なのである。
 しかしその歴史は凡百の歴史ではない。と言うか、これもフーコー自身がしばしば引き合いに出して語っているように、歴史分析のモデルとして考えられているのは、マルク・ブロックやフェルナン・ブローデルのような『年鑑[アナル]』学派と呼ばれる一連の歴史家のそれであり、その限りでは、むしろ現代の歴史研究における――少くともフランスにおける本来の歴史研究の――最も正統な立場と近親性を持つものなのである。しかし、フーコーは、たんなる歴史家あるいは歴史学者ではなかった。
 言うまでもなくフーコーが研究者としての形成を負っている分野は、大学制度的に見れば〈哲学〉であったが、西洋世界における〈知〉を自らにおいて内在化し包括的に体現したヘーゲル哲学以後、哲学は時代の知の変革の場ではなくなったと考えるフーコーは、講壇哲学を見捨てて、まずはカンギレムによって拓かれた〈科学史〉をその領域として選びとった。しかしそれは、西洋世界における〈知〉の形成を、哲学の〈外部〉において追求しつつ、同時に、現代における〈知〉のよって立つ基盤やそれが置かれている地平を明らかにしようとするものであって、その意味では、歴史家フーコーの実践は、常に〈哲学者〉としての視線に裏打ちされている。しかしその哲学は、ヘーゲル的な歴史哲学として歴史を哲学に内在させることにあるのではなく、それとは正反対に、哲学の問題意識を歴史という〈外部〉へ立たせ、歴史的な体験へと変容させることにある。言いかえれば、フーコーの書く歴史を、科学史なり思想史の特殊領域の個別的研究として描写したのでも、またそれを書くフーコーの哲学者としての問題意識を列挙したのでも、フーコーを語ったことにはならないのであり、この二つは、フーコーの名を冠した言説的実践の表面で分かち難く結ばれている。それを織物の緯糸経糸の比喩で語ることもできるであろう。そのいずれの一つだけを引き出しても、織物としてのテクストは解体し、フーコーは消滅してしまう。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、8~10; 「フーコーの方法」)


 九時起床。悪くない。本当はもっと早く起きても良かったのだが。股間が怒張していた。と言っても特別官能的な気分になっていたわけではない、尿意が溜まっていたのだ。それでベッドに腰掛けて、逸物が収まるのを待ちながら手近の棚から市川春子宝石の国』の一巻を取って読んだ。しばらくすると部屋を出て上階へ、便所に行って放尿してから洗面所で顔を洗った。台所でフライパンからジャガイモとインゲンとベーコンの炒め物を皿に取り、電子レンジへ。そのほか米をよそり、あと前夜の汁物。新聞を瞥見しながら、卓に就いて新聞を見ながらものを食う。今日は母親はYさんとI.Y子さんと墓参りに行くらしいが、こちらは労働の時間までそれほど猶予もなく、日記を書いたりしなければならないので行かない。
 食事を終えると抗鬱薬を服用し――薬もそろそろなくなりかけているのだが、医者に行けるような暇な日がない――食器を洗ってそのまま浴室に行き、風呂も洗った。戻ってくると下階へ。コンピューターを点け、日記を記しはじめたのが一〇時ちょうど。途中で実に暑いので肌着のシャツを脱いで上半身を風に晒している。ここまで綴って一〇時四七分。
 一一時から読書。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』。二時間。しかし、例によって眠りに蝕まれていた時間が一時間ほどあったと思われるので、実質一時間。それからどうしたのだったか――現在、七月二六日の午後一時一〇分なので、もう前日の記憶が曖昧である。多分飯を食いに行ったと思うのだが、何を食ったのか。確か朝のメニューと同じだったと思う。朝の炒め物などがまだ残っていたので、それをおかずに米を食ったのではないか、多分。それで戻ってきて、歯磨きなどをして、一時四五分から一〇分間、「記憶」記事を音読した。この日は曇っていたのだったか? それとも晴れていたのだったか? 確か早い時間のうちはわりと晴れていたので、洗濯物をベランダに出したような覚えがある。それを仕舞った頃合いには天気はどうなっていただろうか、まだ晴れていたのかわからないが、ベランダから下を見下ろすと、我が家と隣家の境あたりに黒い猫が一匹うろついているのを見かけた覚えはある。何か下草に鼻面を突っ込むようにしていた。戯れたい。しかしあれは多分人慣れしていない猫だ。近づけばすぐに逃げてしまうだろう。猫は洗濯物を入れているあいだ、そのうちに姿を消してしまった。どこかに行ってしまった。
 それで労働はこの日は三時からだったのだが、暑いなか歩いて行くのが嫌で電車を取ることにしたのだった。その電車の時刻が、正確なところが思い出せないのだが、二時半頃だったはずだ。それで余裕のあるうちに出発することに。肌をボディー・シートで拭い、仕事着を着て、クラッチバッグに荷物を入れて――その前に、洗濯物を取り込んで畳んだ時間もあった。それらを諸々こなしたあと、出発。西へ。途中、O.Sさんの車が前からやって来た。減速して窓を開け、声を掛けてきてくれたので、こんにちは、行ってきますと返す。坂に入って上っていき、最寄り駅。ホームへ。ベンチには先客が一人、高年の婦人である。こちらがベンチの反対側に腰を下ろすと同時に、その女性が話しかけてきた。間違えて奥多摩行きに乗ってしまったのだと言う。本当は東京行きに乗って国立――あるいは国分寺だったか?――まで行くところが、電車を間違えてしまったらしい。住まいを訊くと、もう青梅に長く住んでいて、国立には整形外科か何かに通うために行くのだと言う。脚が悪いもので、と言う。しかし、青梅に長く住んでいる人が東京行きと奥多摩行きとを間違えるだろうか? その点疑問なのだが、住むには良いけれど、都心に出るにはねえ、と相手は漏らす。不便ですねとこちらも笑って受けて、僕も美術館なんかに行きたいんですけれど、全部都心の方でしょう、だからなかなか出づらいですねと言うと、相手は若い頃には美術館などよく回ったものだと返す。高校や短大が都心の方にあったからと。歳は八三歳だと言うので、その世代で短大を出ている女性というのも珍しいのではないかと思い、失礼ですがと断ってそう言ってみたところ、そうかもしれませんねえ、みたいな返事があった。結構良いところのお嬢さんだったのかもしれない、今に至っても品のある雰囲気だった。八三歳には見えない若々しさでもあった。その他落合に美術館があるという話をしたり――こちらは、落合と言えば新宿区中央図書館があるあたりですよね、と受けた。正確には高田馬場が最寄り駅だと思うが、落合は早稲田大学に通っている時分に通学途中の駅だったのだ――富山県の山の話をしたり、このあいだは遠野に行ってきたという話を聞いたりした。あとそうだ、この人はもともと慶応病院に何十年も通っていたらしいのだが、もっと近いところが良いからだろうか、今は国立の医者に変えたらしい。慶応病院と言うと、信濃町にある、とこちらは受けたのだが、偶然だが相手が出す地名の大方に対して、こちらも何かしらの知識を持ち合わせていて、そこはあれがありますよねとかああですよねとか受けられたのが我ながら意外だった。仕事は何をしていたのかは訊かなかったが、短大のあとに洋裁学校、カッティング・スクールというのに通ったということを言っていたので、何かそちら方面の仕事ではないか。八三歳と言うと一九三六年あたりの生まれだろうから、蓮實重彦古井由吉と同年代ということになる。
 電車が入線してくると、老婦人は有難うございましたと丁寧に頭を下げたので、いやいやとんでもない、と受けた。本当はどうせなので青梅までご一緒しましょうかと声を掛けようかとも思っていたのだが、挨拶をされて別れる流れになったので、立ち上がり、婦人に寄って、到着した電車の立てる響きのなか、お気をつけて、と声を掛けてこちらはホームの先の方へ行った。電車に乗り、ここでは手帳を見たのだったかどうだったか? 忘れてしまった。ともかく青梅に着くと降りて、向かいの番線に乗り換える人々のあいだを縫っていき、階段通路を辿って、八三歳と言うと古井由吉蓮實重彦と同年代だなと頭のなかで計算しながら改札を抜けて、職場に向かった。
 今日も三時限。一コマ目は、(……)くん(小六・国語)、(……)くん(小六・国語)、(……)さん(高三・英語)。(……)くんの進みが悪かった。目を離すと手遊びをしていると言うか、よくわからないのだが、指先を弄っていて鉛筆が停まっていたのだった。それでもこちらは本人のペースに任せようというわけで特に急かしたりはせず、時折り、どう、大丈夫、と声を掛けるに留めたのだが、お蔭で今日進んだのは一頁のみとなってしまい、ノートの記入も授業が終わる直前になってしまった。もう少し急かしたり、あるいは一緒に解いてやったりしたほうが良かったかもしれない。問題は一問ミスのみでよく出来ていたのだが。ほかの二人は特段の問題もない。いや、(……)くんが敬語に苦戦してはいたか。
 最初の時限と二コマ目のあいだは一コマ分、休憩が入った。そのあいだは国語のテキストを読んだり、手帳を読んだりしていた。あとそう、休憩に入った直後にコンビニに買い物に行った。ソルティ・ライチと、赤ボールペンを一つ買って二七五円。戻ってきて読んだり読んだりして時間を潰し、そうして二コマ目。(……)(高二・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(中三・英語)。ノートはとにかく、わからないところが解決されたり新しい知識を得たりしたら、その場ですぐに書かせてしまうのが良い。こちらが読書中に気になったところをメモするのと同じような感覚でやらせれば良いのだ。(……)さんは国語が得意なのかと何となく思っていたところが、そういうわけではないようだ。接続語の問題など結構間違えていた。内容の要約も覚束ないが、質問を織り交ぜながら解説して進めた。(……)くんはそこそこ出来るのではないか。そんなに悪くはない感触。
 最後のコマは(……)(高三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中三・社会)。なかなかやりやすい面子だった。(……)さんが英語が苦手な様子。レッスン四のまとめを扱ったが、まずもって基本的な英文の順番などが理解しきれていない様子だった。ミスが多かったけれど一問ずつ確認し、なかから三文ピックアップして練習してもらい、それをノートに記入してもらい、さらに宿題は今日やった頁をもう一度やってくるように出した。(……)くんは大人しい生徒だが、思いの外にやりやすい。どうだい、と訊きに行けば、わからないところを自分から質問してくれるのだ。
 退勤。退出する前に出入口のところで、(……)先生に、お疲れ様でしたと声を掛けた。彼は昨日今日と朝から晩までずっと教室にいて仕事をしていたのだ。労働基準法違反ではないかという気がするのだが。それで退出し、駅に入って通路を行っていると、後ろから人が駆けてくる音がする。抜かして行ったのを見れば、先ほど挨拶した(……)先生と(……)先生だった。通路を駆けていった彼らはそのまま階段に入って駆け上がっていったが、途中で(……)先生がものを落として、すると二人はいかにも大学生らしく賑やかに騒いでいた。立川行きに間に合いたかったらしい。結局発車直前の電車に彼らは乗り込み、こちらも反対側のホームに停まっていた奥多摩行きに乗った。そうして手帳を確認。
 最寄り駅。羽虫の飛び交っている階段通路を抜け、横断歩道を渡って木の間の暗い坂道へ。下っていき、平らな道をゆっくり歩いて帰宅。途中で公営住宅の敷地から、あれは何だったのだろうか、蟬の鳴き声だったのか、それとも、何かスプレーやムースを勢いよく吹き出しているような音にも聞こえなくもなかったが、何かよくわからない音が繰り返し響いていて不穏だった。帰り着くと母親は風呂に入っている最中で、父親はまだ帰ってきていなかった。ワイシャツを脱いで洗面所に入れておき、自室へ。コンピューターを点け、Twitterなど確認しながら着替える。そうして食事へ。何を食ったのか覚えていない。豚肉の炒め物が一つにはあった。それをおかずに米。そのほか、茄子の味噌汁などだった。食事を終えると母親が買ってきた駄菓子のなかから、チューイング・キャンディーを頂く。ソファに就いて。それから入浴。出てくると戸棚から柿の種の小袋を二つ取って自室へ。コンピューターを前にしながら柿の種をつまみ、その後、日記を書きたかったのだが、まず疲労した身体を少々休めようということでベッドに移り、読書を始めた。一一時過ぎだった。そうして例によっていつの間にか眠っていたため、その後の記憶ははっきりしない。気づくと二時か三時かそのくらいだったはずである。そのまま就床。


・作文
 9:59 - 10:47 = 48分

・読書
 11:07 - 13:07 = (1時間引いて)1時間
 13:45 - 13:55 = 10分
 23:07 - 24:42 = 1時間35分
 計: 2時間45分

・睡眠
 3:30 - 9:00 = 5時間30分

・音楽

2019/7/24, Wed.

 舫われた二艘の舟として生きるきみの存在がわたしの浮力
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、66)

 「たたむ」とは宗教であるTシャツも折りたたまれて偶像になる
 (81)

 あの人が朝食のパンにつけるバターがずっとなめらかでありますように
 (86)

 絶望が等差数列に並んで電線に止まって見下ろしている
 (90)

 キルトカバーを縫いはじめるととちゅうから青空や夜を追い越してしまう
 (105)

 金柑がそこここにこぼれ落ちている時間の国の金貨のように
 (106)

 夜の中に薔薇は薔薇のまま香ってる人は死んでも見えないだけだ
 (107)

 ふさふさの群青色が流れてく空は一頭のさみしい馬
 (124)

 畳まれた浮き輪はたぶん比喩でしょう頑張れないまま死ぬことだとかの
 (128)


 一〇時前起床。パンツ一丁で眠っていたので、起き上がるとまず肌着とハーフ・パンツを身に着けた。上階へ。母親は料理教室。パンとサラダが冷蔵庫にあるとの書き置き。便所に行って放尿してから、冷蔵庫から胡桃ロールを一個取り出し、あとサラダも。胡桃ロールは電子レンジで二〇秒加熱。サラダを持って卓へ。旨塩ドレッシングを掛けて野菜を食う。新聞瞥見。英首相がボリス・ジョンソンに決定と。
 抗鬱薬を服用し、食器を洗ったあと風呂も洗う。"感謝(驚)"のメロディを口笛で吹きながら。前後するが、食事を終えた頃合いに郵便局が届け物をして来た。玄関に出て、印鑑を押したのだが、局員というか配達員は、早口で何を言っているのかあまりよく聞き取れないような口調の人だった。それで風呂を洗ったあとは下階に下り、コンピューターを起動。Twitterを覗き、Evernoteを用意し、日記を書きはじめたのが一〇時四〇分。そこから前日の記事を通過してここまで綴ると一一時半。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』。
 二三日付の短い記事をブログやnoteに投稿。それから上階に行き、陽射しが出てきていたので、吊るされたタオルや肌着の類をベランダに出した。そうして下階に戻るとベッドに移って書見。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』だが、例によって読んでいるうちに眠気にやられて瞼を閉ざし、休むことになった。一時間ほど眠気に刺されて意識を曖昧にしていただろうか。一時を過ぎて覚醒し、そこからは読書に邁進して、二時を過ぎたところで切りとした。そうして上階へ。食事である。まずベランダに出していた洗濯物を取り込んでおき――今は陽射しが薄れて曇り、まもなく雨が降ってきそうな雰囲気になっていた――冷蔵庫のなかから胡桃ロールのパンを一つと、葡萄やゆで卵を取り出す。パンは電子レンジで二〇秒温めて、その場で食ってしまい、もぐもぐやりながら小さな豆腐を用意した。そのほか、冷凍の唐揚げを四つ皿に取り出して電子レンジに突っ込んでおいてから卓へ。そうしてものを食す。鰹節の掛かった豆腐に醤油を足らして食べ、唐揚げを賞味し、葡萄を一粒一粒ちまちまと口に入れたあと、さらにバナナも一本食べて食事を終えると、台所に立って食器を洗った。洗っていると母親が帰ってきた。荷物を運び入れるようにと呼んでみせるので玄関に出て、買い物袋を台所へと運び、冷蔵庫に入れるものは冷蔵庫に入れた。それからタオルを畳んでいると、弁当を作ってきたと言うので、それも頂くことにして、食器乾燥機のなかから箸をふたたび取り出し、卓に就いた。弁当は豚肉を青紫蘇やマヨネーズで和えたものや、トマトソースを掛けたマグロのソテーなどだった。そのほか、ババロア、と言うかムース状の甘味。柔らかいプリンのような味。なかなか美味かったそれらを食ったあと、下階に下りて歯磨きをした。それからBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流して「記憶」記事音読。一二分。そうして上階に戻り、ボディ・シートで肌を拭ってから居間の隅に吊るされたワイシャツを取って階段を下りると、母親が、送っていこうかと言う。雨が降り出していたのだ。歩くのが面倒臭いので甘えることにして、部屋に戻るとワイシャツ及びスラックスを身につけ、日記を書き出したが、コンピューターの前に立って指を動かしているだけなのに首もとや背には汗が湧いて溜まる、どうしようもない蒸し暑さである。
 上階へ。三時四〇分に出ることに。一〇分ほど余っていたので、椅子に就いて手帳をめくる。母親はソファに座ってタブレットを弄っていた。一〇分経ち、四〇分に達するところで、そろそろ行こうと立ち上がり、玄関へ。靴を履いて出る。そのあとから母親もついてくる。外に出て、母親が車を出すと助手席に乗り込み、シートベルトをつける。発車あるいは出発。坂を上っていき、街道へ。母親がクーラーを二〇度くらいの低さで掛ける。街道を走っている途中、彼女はまたCDをシステムに挿入し、Air Supplyの音楽が掛かりはじめる。"Lost In Love"である。合わせてちょっと口ずさみながら揺られ、青梅駅前で下ろしてもらう。果物屋の軒下を通って職場へ。
 座席表に寄ると、今日は三時限だと思っていたのだが、最初の一コマにこちらの名前がない。それでコピー機を使っていた(……)先生に近寄って、今日は室長は、と訊くと、休みだと言う。それでは(……)さんはと訊くと彼女はいて、授業中だったのだが、座席表のところに呼び寄せて事情を告げた。多分間違えてメールを送ったんだろうな、ということだった。どうします、事務をしますかと訊かれたのだが、適当に過ごします、予習とかしつつと答えておき、奥のスペースへ。ロッカーに荷物を入れ、タブレットを取ってきて授業記録を見ていると、(……)さんがやって来て、(……)さんが、今日は授業が入っていなかったはずなのだが来てしまって、予定外の授業が発生しそうなのでそれを担当してもらって良いかと訊いてきたので了承する。怪我の功名と言うか、こちらが間違えた時間に来たために、緊急事態に対応することが出来たわけだ。
 それで一コマ目は(……)さんとマンツーマン。科目は算数。扱ったのは小数の割り算、文章題も含むまとめの問題。マンツーマンだとさすがに暇な時間が結構生まれるので、あとの授業の準備などしていたのだが、それでも時間が余ったので、生徒が問題を問いているあいだは手帳を眺めたりしていた。(……)さんは、時間は多少掛かって、いくつか苦戦した問題もあったが、全体的にはよく解けていた。立式の間違いもなかったようだ。
 二コマ目は(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中三・英語)。(……)くんがやや不真面目と言うか、勉強をするのを嫌がっている感じだが、まあ全体として問題はない。(……)くんは確認問題レベルは簡単過ぎるだろうと思って、ちょっと難し目の頁を扱ったのだが、ミスは一問のみでほとんど完璧に出来ていた。素晴らしい。そのミスというのは、I have a coffeeみたいな文の間違いを直せというもので、coffeeは数えられない名詞だからその前にaはつかないし、複数形にもならないよということを説明し、ノートに記してもらった。
 最後のコマは(……)くん(高二・英語)、(……)くん(中三・社会)、(……)(高三・英語)。(……)くんが初顔合わせ。野球部だろうか、頭は丸刈りである。学校の夏期課題を進める。ただ進めているだけだと漫然となってしまうので、時折り介入して、長文を一緒に読んだ。そこでわからなかった単語、語彙を見る限り、英語はそれほど得意ではないよう。わからなかった単語には線を引いてたくさんの単語を確認し、それらをノートにメモしてもらった。(……)くんは前回よりは打ち解けたような気がする。相変わらず無口なタイプの子ではあるが、質問にも一応答えてくれる。(……)は、自分で勝手に進めて、わからないところもあちらから訊いてくれるので、非常にやりやすい。今日はあまり解説したり介入したり出来なかったが、その必要もなかったというのが実際のところだ。つまり、自分の弱点について把握していて疑問を抱いた箇所などをピックアップして質問してくれるので、こちらが介入しなくとも良いのだ。ある種、我が社が掲げている自立学習の理想的な形を実践できているかもしれない。
 明日の相手の生徒を(……)さんに訊いて確認したあと、退勤。駅舎に入り、通路を辿って階段を上がり、停まっていた奥多摩行きに乗車。席に就いて手帳を取り出した。向かいの番線に来る接続電車が遅れていた。最近、本当に中央線・青梅線はよく遅れている。それで奥多摩行きの発車も八分ほど遅れたようだったが、こちらは手帳を読む時間が増えたので特に問題はない。最寄り駅に着くと降車し、駅舎を抜けると横断歩道を渡って自販機に寄った。一五〇円でコカ・コーラ・ゼロのペットボトルを買い、クラッチバッグに収めて東へ。肉屋の隣の細い坂に折れた。道の左右には草が生い茂り、路面は濡れたままでそこにたくさん葉っぱが貼りついていて、じめじめと湿気が足もとから立ち昇ってくるようで、蛇でも出やしないだろうなとちょっと恐れながら薄暗闇のなかを下りていった。
 帰宅。ワイシャツを脱いで洗面所に置いておくと、自室に戻って着替え。上がってきて食事。食事は、米に、鶏肉のソテー、エノキダケの入った汁物、モヤシなどのサラダなど。テレビは『クローズアップ現代+』。縄文時代の丸木舟を再現して海を渡ろうというプロジェクトについて紹介していた。父親はまた酒を飲んだのだろう、感心しながらそれを見ている。そこに台所に立った母親がちょっと機嫌を損ねながら、届いた荷物を開けておいてと父親に言うのだが、父親はそれを聞かず、テレビに夢中である。そのうちにまた、母親が父親に、使った皿を持ってきてと言った。父親は一度は良いよ、自分で洗うから、と言うのだが、母親が求めを続けると、うるせえんだよ、ババア、などと小さくぶつぶつ呟きながら皿を台所に持っていった。父親の機嫌をわざわざ損ねるような刺々しい言い方をする母親も、酔って悪態をつく父親も、双方とも等しく愚かである。もうそれぞれ六〇年も生きている間柄なのだから、もっと穏やかで齟齬のない、落着いたコミュニケーションと関係を築いてはくれないものか。こちらは食事を終えると薬を服用し、食器を洗って入浴へ。出てくると、冷蔵庫に仕舞っておいたコーラを持って自室に帰った。Nさんが書いた東京紀行の一日目の記事を読み、Skypeにログインすると、通話が行われていたので、チャットで参加。会話をBGMにして、時折りチャットで発言しながら、大澤聡『教養主義リハビリテーション』を書抜きした。書抜きを五〇分ほどで切りを付けると、チャットに専念したが、その頃にはAさんもCさんも去って、通話で実際に喋っているのはYさんだけになっていた。チャット上でK.Mさんと会話する。彼女は映画をよく見るらしく、こちらが調子の悪い時期に小津安二郎の『麦秋』を見たと言うと、小津は一通り見たという応答があった。自分は映画はほとんど見ない、そのほかまともに見たのは、『ロミオとジュリエット』くらいだと言った。フランコ・ゼフィレッリという監督名を検索する過程で、その監督がつい先月亡くなっていたという報に接して、タイムリーなのでまた『ロミオとジュリエット』を見てみようかなと思った。
 それで零時半頃になって通話を終え、それからこちらはMさんのブログを二日分読んだ。Mさんももう日本に帰ってきているはずである。夏のあいだにまた会えればと思う。ブログを読み終えるとコンピューターをシャットダウンして、ベッドに移り、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読みはじめた。途中までは良かったのだが、多分二時頃だろうか、例によっていつの間にか意識を失っていた。何とか意識を失わずに三時頃まで書見に励みたいのだが。気づくと三時半だったので、そのまま就寝した。


・作文
 10:42 - 11:29 = 47分
 15:17 - 15:27 = 10分
 計: 57分

・読書
 11:42 - 14:08 = (1時間引いて)1時間26分
 14:54 - 15:06 = 12分
 23:01 - 23:51 = 50分
 24:28 - 24:44 = 16分
 24:52 - 27:25 = (1時間引いて)1時間33分
 計: 4時間17分

  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』: 38 - 64
  • 「記憶」: 1 - 4
  • 大澤聡『教養主義リハビリテーション』筑摩選書、二〇一八年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-17「海を見たことがないまま成人をむかえたひとの珊瑚のピアス」; 2019-07-18「身投げするものに寄り添うまなざしでながめることができない地上」

・睡眠
 4:30 - 9:50 = 5時間20分

・音楽

2019/7/23, Tue.

 醤油入れの醤油は幽閉された夜一滴ずつ解放される朝
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、39)

 気付いたり傷付いたりして秋ふかくスイートポテトの焦げ目美し
 (44)

 紅茶葉から煙りのように色の出て湯に夕焼けが広がってゆく
 (46)

 愛された記憶のごとく金色で甘く凍えるマロングラッセ
 (47)

 ばらばらなわたしはきみと目が合うたび縫い合わされシーツになってく
 (50)

 チューニングするようにきみに凝視され二人の波動が一致してしまう
 (53)

 貫かれ脳がバターになってゆく来世のじぶんがぬるく波立つ
 (54)

 ペニンシュラ、半島または愛されてもう戻れない女の体
 (57)

 一日じゅうふりこを眺めつづけたらこれと似た恍惚になるでしょう
 (58)

 人体は熱製造所にて刻刻と発熱しながら愛しつづける
 (63)



 九時のアラームで覚める。今日は労働がいつもより早い。三時から始まって、七時四〇分頃まで。面倒臭い。それでも時間で考えると五時間足らずだからまあ短いと言えば短いけれど、三時限は疲れる。今週はほとんど毎日三時限である。大変だ。上階へ。母親に挨拶。便所に行って放尿してから、カレーを冷蔵庫から取り出して火に掛ける。お玉で搔き混ぜながら熱し、米の上に掛けて卓へ。そのほか胡瓜と葡萄など。さっさとものを食い終わると抗鬱剤を服用する。母親は着物リメイクの仕事に出かけていった。こちらは食器を洗い、風呂も洗って自室へ。コンピューターを点け、Twitterなど覗いたあと、日記を書き出したのが九時五五分。ここまで綴って一〇時一〇分。音楽は例によってFISHMANS『Oh! Mountain』である。
 前日の記事をインターネットに投稿。その後、一〇時五〇分から読書をしようとベッドに移り、ジャン・ジュネ生田耕作『葬儀』をひらくも、すぐに意識は曖昧にほどけていった。一時頃まで断続的に目を閉じて休んでいただろうか。いや、一時一五分だ。それでそろそろ準備をしなければいけないなと起き出して、上階へ行った。そうして日清のカップヌードルを用意して食す。食す前に、ベランダに出してあった洗濯物を入れた。午前中、陽射しが生まれはじめたので、母親が室内に干していったのをベランダに出しておいたのだった。それでカップラーメンを食うと一時三五分頃だったはずだ。下階に戻り、仕事着に着替えて歯を磨いた。そうしてクラッチバッグに荷物を用意して出発へ。玄関を抜けたのが一時五〇分頃。
 わりと風がある道行きだった。坂を上っていき、平らな道を歩いて街道へ。街道でも車の流れに引かれて風が結構渡ってくる。道中のことは全然覚えていない。特に印象深いこともなかったのだろうか。小公園の桜の木から蟬だか鳥だかが鳴き声を降らせていたような覚えはある。裏通りに入ると、白線に沿ってあるいは白線の上を踏みながら進んでいく。風はわりと厚いのだけれど、歩いているうちに陽射しも出てきてやはり暑く、服の内が湿ってくる。白猫はいなかった。最近戯れる機会がない。林の方からは蟬の鳴き声、そのなかに、まだ一匹くらいの薄いものだが、ミンミンゼミの声も混ざっている。
 職場に到着。今日は三時限。明日も明後日も三時限である。忙しい。今日の相手は、最初の時限はまず、(……)くん(小六・算数)、(……)くん(中三・社会)、(……)くん(中三・数学)。数学はあまりやりたくないのだけれど、今日当たったのは比例と反比例のところだったので問題なかった。(……)くんは社会のコマ数が少ないため、ワーク本篇は宿題に回して、確認テストの表面だけで進めている。進度は速い。今日で地理の範囲が終わった。(……)くんは約数や公約数の箇所を扱って、まあ特段に問題はないだろう。
 二時限目は(……)さん(中三・英語)と(……)くん(中三・英語)。後者は初顔合わせ。結構真面目そうな印象。返事がはっきりしていて良い。今日扱ったのは一般動詞。ミスも少なく、致命的なものはないので、わりあいに出来るほうではないか。(……)さんは動名詞を扱い、余った時間で助動詞を一頁復習。shouldがなかなか覚えられない。
 三コマ目。(……)さん(中三・英語)、(……)さん(小五・国語)、(……)くん(小六・国語)。(……)さんはうーん、という感じ。一頁目は良かったのだが、二頁目にやたらと時間が掛かって、ほとんど授業いっぱいを費やしてしまった。本当はもっと細かく説明したり、一頁復習させたりしたかったのだが。本人は眠かったのだと言っていた。好感度もどうなのか微妙。こちらのことを好いているのか、それとも嫌っているのかいまいちよくわからない――笑みを浮かべてはいるけれど。多分嫌われてはいないと思うが、それほど好かれてもいないのだろうか。そうすると質問がやりづらいわけである。今日もいくらか質問をしたけれど、英語はどうも苦手なようで、want toとかも知らないくらいだから、あまり質問をされたくないのではないか。答えられないので。そこをうまく、相手の自尊心を貶めないような形で質問したり解説したりするのが腕の見せどころということになるのだろうが。(……)さんは初顔合わせ。資料を読み取って書く単元のところ。やや苦戦していた。記述があまり長く作れず、言葉足らずになってしまう傾向があるようだ。(……)くんは特段の問題はない。いや、あるか。今日やったのは文法の箇所で、主語・述語・修飾語だとか、名詞・動詞・形容詞だとかだったが、修飾語の修飾・被修飾関係など結構間違えていた。あとは名詞・動詞・形容詞の区別も最初のうちはあまりよくわからなかったようだ。
 退勤。駅に入る。奥多摩行きはちょうど発車する頃合いだったが、急ぐのも面倒だしコーラを飲みたくもあったので、歩調を変えずに階段を上がっていき、目の前で発車する電車を見送った。そうして自販機に寄って、一三〇円を挿入してコーラを買う。木製のベンチに就いて飲みながら手帳。途中で隣に中年の男性が腰掛ける。サラリーマン。こちらと同じように、ワイシャツとスラックスの格好。靴は明るい褐色で、先端がやや細くなっているタイプのもので、結構質が良さそう。奥多摩行きが来ると乗って、引き続き手帳。最寄り駅まで。
 降りると小雨。傘は持ってきていない。駅舎を抜け、横断歩道を渡って木の間の坂道へ。坂を下っているあいだ、頭上の木々の天蓋からぼたぼた雫が落ちてくる。木々のなくて雨がそのまま落ちてくる道よりも、雫が樹上に溜まって大きくなるので、かえって濡らされてしまう。難儀しながら坂を抜け、平らな道を行った。濡れたアスファルトが電灯の明かりを伸ばして滑らかに光っている。
 帰宅。父親ももう帰ってきており、風呂に入っていた。ワイシャツを脱いで洗面所へ。それから下階に下りて、着替えて上階に戻ってくると食事。素麺、冷凍されていた天麩羅、サラダほか。テレビは何だったか? 覚えていない。どうでも良い番組だったのではないか? 食事を終えると薬を飲み、食器を片付けて風呂へ。湯浴みを済ませて出てくると自室に帰り、九時四五分から書抜き。冨岡悦子『パウル・ツェラン石原吉郎』。それからSkypeでDさんとやりとりしながら、インターネット記事。Dさんは今は『肩甲骨は翼のなごり』という児童書を読んでいると言う。宮崎駿がお勧めしていた作品らしい。今日は通話をする予定だと言うので、僕はあとで余裕があったら参加しますと言っておき、インターネット記事を読む。星浩「「密室談合」の森政権と前代未聞の「加藤の乱」 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(11)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019030100006.html)と、結城剛志「アベノミクスで高まる財政危機のリスク。「消費税率25%を覚悟」しなければならない可能性も<ゼロから始める経済学・第6回>」(https://hbol.jp/191928)。読んでいるあいだにSkype上では通話が始まった。同時に、LINE上でTともやりとりをしていた。九月一日に空間展示を見に行くのでどうかと。了承。また、スタジオに入って録音しようという話にもなっているのだが、それは八月三〇日の予定になったと言うので、それも多分行けると思うよと言っておく。しかし、俺が行って何か役立つことがあるのだろうか? と疑問を投げかけると、いてくれるだけで安心感があるとの返答があったので、まあ別に役立たなくても良いか、時間を共有できれば、と答えておいた。Skypeの通話には、一一時くらいから参加。とは言ってもチャットである。BGMとして通話を聞きながらインターネット記事を読み進め、読み終わったあとはチャットで本格的に参加した。Yさんがウォーリーに似ているということを主張したり、Nさんはクール系な印象の外貌だったと言っていると、その当のNさんがやって来て通話に参加した。そのほか、Rさんがベールイを読んだとか、ジュリアン・グラックも読みたいですねとか話したり、各々が書いた字の画像をアップロードして、誰が一番上手いか競ったりなどした。
 そんな感じで話して、零時を回ったあたりでNさんが離脱したので、それでは僕もと言って退出した。それからベッドに移って書見。ジャン・ジュネ『葬儀』は一旦置いておいて、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読み出すことにした。『葬儀』は何となく肌に合わないと言うか、合わないというほどでもないのだけれど、チューニングをこの小説に合わせるのが何だか大変そうだったし、次回の読書会の課題書がルドルフ・ヘスアウシュヴィッツ収容所』なので、それに関連する著作を読んでおきたいという気持ちの方が強かったのだ。プリーモ・レーヴィではほかに、『これが人間か』を図書館で借りているのでこれも読む。そのほか、ハンナ・アーレントの『エルサレムアイヒマン』と、岩波現代文庫から出ている『アイヒマン調書』みたいなタイトルのやつも読みたいと思っているが、読書会の日までに果たして読めるかどうか。あとそうだ、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』というミネルヴァ書房の歴史書も持っているので、これも読めたら読みたいが、八月は六日から一週間ほどモスクワに行くわけで、そのあいだは本など読んでいる暇はないだろうから、果たしてそんなにたくさん読めるかどうかわからない。プリーモ・レーヴィを読み進めて、二時半頃までは多分起きていたと思うのだが、その後死亡。意識を失った。気づくと四時半。そのまま就寝。カーテンがもううっすら明るみはじめていた。


・作文
 9:55 - 10:11 = 16分

・読書
 10:51 - ? = ?
 21:45 - 22:27 = 42分
 22:30 - 23:22 = 52分
 24:28 - 26:30 = 2時間2分

・睡眠
 2:30 - 9:00 = 6時間30分

・音楽

2019/7/22, Mon.

 あくびした人から順に西方の浄土のような睡蓮になる
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、8)

 鳥避けのCD揺れる銀河色 四億年前の記憶のごとく
 (9)

 エレベーター昇りきるとき重力はとうめいになる シリウスが近い
 (14)

 手袋を植えた場所からさよならが生えてきてそよそよ戦いでいる
 (20)

 耳鼻科には絶滅種たちの鳴き声が標本のごと残響してる
 (21)

 日曜の歩行者天国から空へレジ袋天使が旅立ってゆく
 (24)

 「牛乳を鍋で沸かしたとき出来る膜をあつめるしごとしてます」
 (26)

 逃げ水を追いかけていて途中から鏡に迷い込み一億年
 (29)

 わたしと名付けしこの熱は今朝もキツネ色のトーストを欲しがり
 (30)

 目玉焼きが真円になる春分は万物が平等になる一日[ひとひ]
 (36)


 寝坊! 寝坊! 一時一五分頃まで徹底的な寝坊。堕落である。起きて、上階へ。両親は仕事。煮込みうどんがあると書き置きには記されていた。ほか、前夜の残りの鶏肉。冷蔵庫から鶏肉を出して電子レンジに入れ、うどんの入った鍋は火に掛ける。加熱を待つあいだ、卓に行き、参院選の結果が記されている新聞を少々眺めた。そうして料理が温まると卓に持ってきて食事。新聞を読みつつ。与党の勝利はまあ事前の情報通りである。東京選挙区ではこちらが投票した山岸一生候補は惜敗――二万票、届かなかったので惜敗と言っても良いだろう。父親が投票した塩村文夏候補は四位で当選。彼女よりも山岸候補の方が苦戦するのではないかと思ったこちらの判断は間違ってはいなかったわけだ。やはり元都議としての知名度が勝ったのだろう。「セクハラやじ」を受けて注目された時期もあったようだし。
 新聞を読みながらものを食い、食器を洗ったあと、抗鬱剤を服用して風呂場に行った。昨日洗うのを忘れてしまったので、今日は念入りに浴槽を洗っておき、出てくると下階に戻った。コンピューターを起動。Nさんから頂いた「ひよ子ピィナンシェ」を食べながらEvernoteなど準備する。Twitterを眺めると、Aさんが二〇歳の誕生日を迎えていたので、あとでメッセージを送ろうと思った。最近彼女はSkypeの方にも現れないので全然話していないので――と言うか、そもそもSkypeの通話自体が行われていないのだが――いずれ近況を伺おうと思っていたのだ。前日の記事の記録をつけようと思ったのだが、各種店舗で貰ったレシートや、国立新美術館のチケットなどが見当たらなかった。ズボンのポケットに入れたままだっただろうかと上階に行って洗われて吊るされているズボンのポケットを探ってみたが、入っていたような痕跡はない。どうしたのだろう? わからない。昨夜、自室の燃えるゴミを上階のものと合流させたから、その際にでも捨ててしまったのだろうか。それで仕方がないので、記憶に頼って大まかに支出を記録した。そうして前日の記録を完成させると、この日の記事を作成し、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しはじめながら日記を綴る。ここまで書いて二時一八分。前日の日記はまだほとんど書けていない。やばい。どうせまた一万五〇〇〇字とかそのくらいにはなるに決まっているのだ。面倒臭い。
 それから五時一五分まで日記を書き続けた。日比谷松本楼に着いたあたりまでで一万五〇〇〇字くらい書いたのだが、まだまだ終わっていなかった。一旦休むことにした。それでベッドに移って横たわりながら、ジャン・ジュネ生田耕作『葬儀』を読む。四〇分ほど読んでから目を閉じて休んでいると、外で車の音がして、母親が帰ってきたかと思って、飯の支度をしなければと起き上がったのだったが、結局この車の音は母親のそれではなかった。六時一五分頃だった。上階に行き、カレーを作り出す。材料は茄子、玉ねぎ、ジャガイモ、人参、それに冷凍されていた豚肉の欠片である。それぞれ切って、フライパンで炒める。肉の色が変わると水を注いで、煮込みはじめた。月桂樹の葉を三枚ほど入れておく。それで煮込んでいるあいだに外に出て新聞と郵便を取り、戻ってきて灰汁を取ったあとは、自室から手帳を持ってきて、食卓灯の暖色の明かりのなかで読む。六時五〇分から一〇分ほど煮込んで台所に戻ると、もうかなり水が少なくなっていたので小さな薬缶から水を注いで足し、牛乳ももう入れてしまって、ルーを投入した。そうしていると母親が帰ってきた。職場で胡瓜を大量に貰ったと言う。母親はその胡瓜を切りはじめ、こちらはカレーを完成させ、早速食べることにした。白米はたくさん炊飯器に残っていた。カレーはやけに粘度の高いものになった。もう少し水を入れてよかったかもしれない。卓に就いて食事。テレビは『YOUは何しにニッポンへ?』。見ながら食べ、薬を飲んで食器を片付けると、下階へ下りた。自室。ふたたび日記! 七時四〇分から書き出す。音楽はBlue Note All-Stars『Our Point Of View』。一時間書いたところで入浴しようと上階に上がったのだが、上がっていくと母親が、もう父親が帰ってきたと言うので、風呂は譲ることにして自室に戻った。それで九時を過ぎて前日の日記をようやく完成。二万五〇〇〇字を数える。投稿。その後入浴へ。
 戻ってくるとちょっとだらだらしてから、一〇時半前から読書に入ったのだけれど、いくらも読まないうちに意識喪失。気づくと二時半頃だったと思う。そのまま就床。


・作文
 14:06 - 17:15 = 3時間9分
 19:42 - 21:03 = 1時間21分
 計: 4時間30分

・読書
 17:16 - 17:57 = 41分
 22:24 - ? = ?
 計: 41分+?

・睡眠
 4:00 - 13:15 = 9時間15分

・音楽

2019/7/21, Sun.

 あみださん ゆるしてくれ
 人間はいつだって戦うんだ
 ただし ああ ああ
 一人で戦うとコッケイで
 大勢で戦うと悲しいだけだ
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、329; 「あみだのいる風景」; 「その他」)

     *

 生きているときのあなたは
 どうでもよかった ぼくらには……
 だれと出逢おうと別れようと
 絶望しようと満腹しようと
 ほんとにどうでもよかったんだ
 ところが今のこの慕わしさは
 なぜだろう この衛生的な世紀では
 人はもしかしたら自殺によってのみ
 わかりあえるのかもしれないね
 (331~332; 「裁きのあと」; 「その他」)

     *

 こうしてわれわれは
 おもむろに夢と死とに馴染み
 それほど劇的でもない雨の朝
 やさしい気持をとりもどすために
 もっぱら死人のことを考えよう
 生きているわれわれを思えば
 申し分なく狂暴にもなれるのだ
 (334~335; 「悼む唄」; 「その他」)

     *

 われわれでなければ
 われわれのこどもが……
 でなければ孫と孫とが……
 
 その通り われわれは貝のぬけがらや
 死んだことばを背負っているから駄目だ
 底の泥までわかりあえるのは
 まだどこにもいない者だけだろう
 かれらを探せ 風景をうらがえして
 (371~372; 「十一のデッサン」; 「6 国際交流」; 「その他」)


 結構面白い夢を見たはずなのだが、面白い夢を見た、という感触だけが残って詳細は何もかも失われてしまった。何かホラーチックなものだったような気がしないでもない。八時のアラームで覚醒。ベッドから抜け出し、鳴り響く携帯の音を止めると、ふたたびベッドに戻ってしまった。しかし二度寝には陥らない。布団を被りはしたものの、目をなるべく閉じないようにして、カーテンを開けた先の窓の白さを目にして意識の安定を図る。そうしてちょっとしてからふたたび起き上がり、上階へ。母親に挨拶。父親は洗面所で顔を洗ったり、少ない髪を整えたりしている。こちらは冷蔵庫から前夜の残り物を取り出した――醤油ご飯、ゴーヤの炒め物にサラダである。ご飯と炒め物をそれぞれ温め、サラダと炒め物は父親の分も皿によそってやり、そうして卓へ。食事。新聞を読みつつ。京都アニメーション放火の続報など。あとは書評欄。そんなに際立って興味を惹かれた本はない。食べ終わると抗鬱剤を服用し、食器を洗って下階へ。部屋に入り、コンピューターを点け、八時四八分から日記を書き出した。ここまで書いて九時直前。最近は文体が楽なように楽なように流れていて、わりと良い感じである。来たる訪露ではどうせ毎日日記を書く時間もさして取れないのだろうから、楽なようにするすると書ける方策を身につけておくべきだろう。一筆書きだ。庄野潤三を目指す。
 前日の記事を投稿。そうして九時半前から読書。ベッドで。ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』。三〇分。九時五五分まで。それからちょっと目を閉じていると、いつの間にか一〇時一五分に至っていたので慌てて起きた。電車は一〇時半である。服は既に着替えてあったのだったか? いや、多分急いで着替えたのだろう。オレンジ掛かった煉瓦色のズボンと、上は濃青のフレンチ・リネンのシャツ。リュックサックに財布や携帯などを準備して、上階へ。仏間に入って右足の絆創膏を新しいものに取り替えた。それから便所に行って用を足して出発。雨は降っていない。西へ。拡散する蟬の声。濡れ痕の残った坂を上っていく。急ぎ足で。息を切らしながら。そうして駅に着くと、ちょうど電車がやって来るところだった。ホームには何やら、スポーツ姿らしき装いの一団があって、人目を憚らずに上半身の裸を晒して服を着替えていた。汗を搔いたのだろうか。到着した電車に乗り、扉際に就いて手帳を見る。青梅に着くと向かいに乗り換え、発車がまもなくだったのですぐに乗り、揺れる電車のなかで車両を辿って一番前の車両まで行った。それで着席。今日の行きは手帳を眺めるのではなく、持ってきたヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』を読むことにした。
 それで新宿まで一時間といったところだが、そのあいだ特段に目立ったことはなかったと思う。何かあったか? 特に印象が残っていない。新宿にちょうど着く頃になって本は読み終わった。訳者あとがきまで。それで手帳に読書時間を記録し、新宿で降車。人混みを回避して、ホームを辿り、階段を上がる。南口方面へ。改札抜けて、都営大江戸線の方へ進む。群衆のなかの一員と化して。通路を辿っていき、改札くぐって、さらに深く地底へと進んでいく。ホームに着くとちょうど電車が来ているところだったので乗り込む。外国人女性三人の一団が、乗るかどうか迷いながらも結局最終的に乗ってきた。どうもこの都営大江戸線が正しい電車なのかどうかわからないらしい。見ていると、なかの一人、年嵩の人、これは二人の娘の母親という関係だったのだろうか? その年嵩の眼鏡を掛けた婦人から、Would you speak in English? と尋ねられた。speak inとinをつけて言っていたように聞こえたのだが、もしかするとinはなかったかもしれない。wouldを使っていたのは確かだと思う。丁寧である。しかし、最初こちらは苦笑しながら、no、と答えてしまった。すると彼女たちはがっかりしたように黙った。婦人はじきに席に座りに行って、娘だろうか、二人の若い女性の方がこちらの近くに残ったので、しばらくしてから彼女らに、Where do you want to go? と尋ねた。するとパンフレットと言うか地図を取り出しながら彼女らは、浅草寺、と言う。浅草か、と思った。それで、扉の上に記された路線図を眺めて、浅草の位置を確認し、苦笑しながら、It's wrong、と知らせた。wrong train? と言うので、wrong trainと復唱すると、女性の一人が、地図とスマートフォンに記された路線図を差し出して、上野に行きたいのだと行った。上野を経由して浅草に行くらしいのだが、そうなると多分山の手が一番わかりやすいのではないかとこちらは考えて、と言うかほかのルートを知らなかっただけなのだが、それでYou should return to Shinjuku and take the Yamanote Lineと言った。その頃、席に座った婦人の方も、wrong train? wrong train? とこちらの三人に向けて訊いてきたので、wrong train、と笑いながら答えてやった。それで、ちょうどその時、国立競技場前だったか、そのような名前の駅に着いたところだったので、女性が差し出した地図を指差して、We're hereと言うと、彼女らは向かいのホームに来た電車を示して、that train? と言いながら、こちらの返答も待たずに出ていってしまった。若い女性のもう一人の方が、出ていく時に、こちらに向けて、Excuse meとか何とか言い残していった。それをこちらは為す術もなく見送ったのだが、あとで考えたところでは、ここで一緒に降りてもう少し詳しくルートの説明をしてあげるべきだったと思う。それどころか、何だったら新宿までついて戻ってやって、山の手線まで案内してあげても良かったとすら思う。勿論、その場合、一二時に六本木という待ち合わせには遅れることになったわけだが、そちらの方が日記的にも体験的にも面白いことになっただろうなと思ったのだ。状況判断を失敗した。彼女らはきちんと浅草に着けただろうか? と思いを馳せながら路線図を見ていると、青山三丁目で乗り換えれば銀座線か何かで一本で上野まで行けるようだったが――と言うか、これは昨日Nさんが上野から辿ったルートの逆ではないか! ――それに気づいたのは女性たちが去ったあとだったし、気づいていたとしてもそれを説明している時間はなかっただろう。ともかく、あの時一緒に降りておくべきだった、その方が圧倒的に面白いことになっていたに違いないとその点ばかりが悔やまれる。
 ともかく、六本木に着いて、七番出口へ向かった。階段を上がっていき、地上へ。NさんとYさんはまだ来ていなかった。路傍の柵に凭れながらしばらく手帳を読みつつ待っていると、Nさんがやって来た。今日の装いは、黒っぽい、落着いた色と柄のワンピースで、彼女は昨日はつけていなかった眼鏡を掛けていた。こちらが取り出している手帳を見て彼女は驚いたような反応を見せた。細かい字でびっしり――と言うほどでもないが――文言が書き記してあるのに印象を受けたのだと思う。写経みたいな感じですか、と言うので、そうではなく、本を読んでいて気になった部分を断片的に写しているだけだと言った。Yさんと連絡がつかないと彼女は言った。彼は一〇時頃からもう既に六本木に着いていたらしいのだが、その後、連絡が途絶えてしまったのだと言う。それでどうしましょうか、まあ最悪美術館で合流すれば良いのでは、とか言いながらひとまず待っていたのだが、するとまもなくYさんは、エスカレーターを上がって駅から現れたので、問題なかった。スター・バックスにずっといたらしい。
 それで美術館に向けて歩き出した。横断歩道を渡って、ファミリー・マートの前を過ぎ、右折して、ちょっと進んだところから斜めに伸びる細道に入った。ここをまっすぐ行けば、すぐ美術館がありますよと言いながら歩いていると、高年の男性からすみません、と話しかけられた。はい、と言って立ち止まると、国立新美術館は、と訊かれるので、ここを行けばすぐ見えてきますよと道の先を示して答えた。それで、今日は道を訊かれるなと漏らして、行きの電車のなかで出会った外国人たちについて二人に話しながら、通りを辿った。美術館に着くと、外でチケット販売をしているのだが、それはウィーン・モダン展のチケットのみで、我々の目当てであるクリスチャン・ボルタンスキー展は展示室入口でチケットを販売しているとのことだったので、なかに入った。すると、YさんもNさんも来た覚えがあると言った。Nさんは、お姉さんが書道をやっていて、その展覧会か何かについてきたことがあるのだと言う。Yさんは何と言っていたか忘れてしまった。エスカレーターを上って二階に上がり、展示室Eへ。入口でチケットを購入し、作品リストを貰ってなかへ。何やら暗がりから、獣の喘ぎ声のような音声が漏れ出てきているので、一体何があるんだと言いながら、最初の室に入ってみると、暗がりのなかでビデオが流されていた。ビデオは二種類あって、それが連続して繰り返し流されていた。一つ目は、作品リストによると「咳をする男」というタイトルの映像作品で、囚人を思わせるような男、あれは頭と顔に包帯を巻いていたのだろうか? よく見えなかったのでわからないが、薄暗いような一室に座っている男が、ひたすら苦しそうに咳き込み、血を吐いているのだった。自ら吐いた血によって、太腿のあたりなどはびちゃびちゃに汚れていた。彼が血を吐く様子が、周囲から視点を変えて、近く遠く、ひたすらに映し出される。生々しく、衝撃的な映像で、人によっては気持ち悪くなるのではないか。こちらも見ながら、気分が悪くなりはしないかとちょっと危惧された。もう一つの映像は、確かスーツか何か、あるいはタキシード的なものを着ていたと思うのだが、その男が、一人の男が、仮面を被っているのだが、その男が女性の人形を色んな角度から色んな部位を舐め回している映像で、タイトルはそのまま、「なめる男」である。まあエロティックと言えばエロティック。パンフレットというか作品リストの説明の文言には、「どこか秘密めいた幻想的な儀式を思わせる」と記されている。儀式的と言えばまあそうなのかもしれない。男は映像の冒頭では、画面前景を這いながら画面内に現れていたと思う。そういう動き方にしても、仮面を付された顔にしても、人外のものを連想させなくもない。人形も生命を持たない人外のものであるわけで、人外の存在と人外の存在の一種の交合? よくわからないが。これらの二つの映像は、「咳」と「舐めること」のひたすらな反復によって特徴づけられている。
 それらを見たあと、次の室に。ここは写真。壁に無数の写真がパネル状に並べられていたり、ボードに、色々な写真をジグソーパズルのように組み合わせて展示されていたり。全部白黒である。そして、これはのちの部屋で見た「モニュメント」とか、「保存室」というような作品についても同様だが、基本的に「顔」というものが強調されている。解像度は全体的にさほど良くはない。鮮明とは言えない、曖昧に映し出された顔。「顔」概念と言えば、こちらは良くも知らないが、レヴィナスの用いていたものだと思うので、そのあたり結びつけて読み解くことももしかしたら不可能ではないのかもしれないが、こちらには勿論そんな能力はないし、そもそもレヴィナスなど一冊も読んだことがない。一通り写真を見終わったあと、Yさんが、何だか幽霊の写真みたいだねと呟いた。そうした印象を持つのは順当なことだろう。顔は皆薄白く曖昧に映っているし、部屋自体は薄暗いし、最初の「咳をする男」の映像からしても、「死」というイメージ、観念が観客の脳裏に刻まれるのは不可避だろう。「死」となると、そうするとそこから、いかにもありきたりな物語的想像力によって、「鎮魂」とか「追悼」の意味素を導き出してしまうのだけれど、そこまで言ってしまって良いものか。のちの部屋にあった「モニュメント」などの作品は、ホロコーストの犠牲者とも結びついているらしいし――「間接的に結びついてる」としかパンフレットには書かれていないので、どういう意味で「結びついている」のかよくわからないのだが。ホロコーストの犠牲者の写真を用いているというわけではないのだろうか? まあともかく、そうしたこともあるらしいし、より直接的に「鎮魂」の意味合いを読み取ってしまいたくもなるのだけれど、全部見終わってショップに行って、ボルタンスキーのインタビュー本みたいなものをちょっとぱらぱらめくって見たところでは、彼は、直接これらの作品について述べていた部分ではなかったと思うのだが、「哀悼」とかの意味合いではまったくない、もっと広い意味合いを込めている、みたいなことを言っていたので、死者に対する「鎮魂」「追悼」の意味ばかりを強調するのは、文脈を少々狭く固定化しすぎることになるのかもしれない。
 しかし、「死」が大きなテーマになっていることは確かだ。写真が展示されていた室の端には、「影」という作品があって、それは、小窓からもう一室を覗く形のもので、その室のなかには、紐で吊るされたいくつもの人形にライトが当てられており、扇風機の風でもって絶えず揺らされ続けるその影が大きく拡大されて室の三方の壁に映し出されている、そういう趣向のものだったのだが、小さな人形のなかには骸骨とか、ハングド・マンと言うか、なすすべもなく吊るされているようなポーズの人間とか、そういったものが含まれていたので、これはやはり首吊り自殺とか、首吊り形とかそういったものを連想させるし、骸骨なんてもろに、と言うかあからさますぎるくらいに直接的な「死」の象徴だろう。ただ、その人形はある種子供が作ったような結構何と言うか……何と言えば良いのだろうか、粗雑? ではないのだけれど、何と言うか素朴な作りと言うか、そんなようなもので、「死」の厳粛さと言うよりは、一種コミカルな印象をも与えるような形状にはなっていた。気味が悪いと言えば気味が悪いのだけれど、面白いと言えば面白い、つまりちょっと笑ってしまうようなユーモラスな雰囲気もないではなくて、そのあたり、直接鉄器に死を表象すると言うよりは、それを皮肉っているような、突き放しているような部分もないではなかったのかもしれない。
 この室と、次の室を仕切る扉には無数の紐で出来たカーテンと言うか暖簾と言うか、そんなようなもので仕切られていて、そこに大きな顔の映像が投影されているのだった。この顔もまた白い。これは、その時には知らなかったのだが、あとでパンフレットを見たところによると、あとでと言うか今しがた見たのだが、ここに映し出されていた顔はボルタンスキー自身の「7歳から65歳までのイメージ」だったのだと言う。それは気づかなかったがしかし、この趣向はなかなかこちらには気に入られたものである。その仕切りがある部屋の壁には、無数に、天井の際までずっと、いくつもの鏡が貼られていて、ただしその鏡は黒くなっており、あれは何なのだろうか、塗りつぶされていたのだろうか? よくわからないが、そういう黒い種類の鏡で、それを覗くと、自分の姿はほとんど輪郭しか映らない黒い影と化す。はっきりと映るのはその仕切りに投影されている顔のイメージのみという趣向で、人影はまさしく影、となるのだ。何と言うか、ここでは、自分自身やほかの観客の人々も一種死者となったような感じを受けないでもないと言うか、そのなかで幽霊じみた白い顔のイメージだけがぼんやり、ではあるけれどはっきりと、浮かび上がっているというそうした空間になっていて、これはなかなか面白かった。
 順番に書いていくのも面倒臭いし、そんなに細かく覚えてはいないので、諸々省略して行くと、次に覚えているのは「モニュメント」とか「保存室」と名づけられた作品群で、何と説明すれば良いのだろうか? 何かこうパネルのようなもので作られた長方形だとか、山型だとかの上部に、やはり薄白い顔の写真、顔が一面に映された写真が飾られている、掲げられている、そういったもので、その周りには電球が配されていて、ぼんやり顔が浮かび上がる、そんな感じだ。何と言うか、山型の作品などは特に、「祀り上げられている」というような印象を受けるもので、これらは全部はそうではなかったのかもしれないが、大概、この顔というのは子供の写真、子供の顔の写真だったようだ。「保存室」とか「聖遺物箱」とか第されているもう一種の一連の作品も同様で、これはただし土台がパネルではなくて、何か箱のようなものの積み上げになっていて、これはパンフレットによると、ブリキ缶なのだと言う。どれも共通して錆びており、かなり古びたような風合いのものだった。これらの作品では先にも述べたけれど、モノクロの写真の、白い子供の顔が拡大されて映し出されて祀り上げられるようになっており、その顔の解像度はあまり高くなく、ぼんやりとしていて、それはまさしく死者を写しているような感じであり、画像の曖昧さは幽霊としての存在を思わせると言うか、死者の主体の不確かさと言うか、存在の曖昧さと言うか、記憶の不鮮明さと言うか、まあ何だかそういったようなことを思わせられるような趣向になっていると思う。「保存室」は先にも述べたように、「ホロコーストによる死者たちと間接的に結びついている」と言うのだが、一体どういった意味で結びついているのだろうか? やはり「鎮魂」なのだろうか? 作品に用いられているブリキ缶は「骨壷を連想させる」ともパンフレットは書いているが。子供たちの「顔」しか映し出されておらず、「身体」の部分がまったく表示されていないというのも、ポイントなのだろうか。「顔」こそがやはり人間存在の固有性というものを担保している、とでも言うような――まあよくわからない。そんなことを思わされるような気はしないでもない。
 あと印象に残っているのは「ぼた山」だろうか。これは「たくさんの黒い服が積みあげられた山で、もはやその一枚一枚を見分けることは難しい。まるで人間の思い出が全て失われ、一体となっているかのようだ。個々人の個性は消え去り、不定形なかたまりだけが残されている」とパンフレットには説明書きされているもので、まあそういうことなのだろうと言わざるを得ないが、何しろこれは大きかった。この大きな塊、山、が室の中央にどでんと鎮座しており、これもまあやはりおそらくはホロコーストの犠牲者を表象するような類の作品にはなっているのだろう。無名性のなかで無数に死んでいったユダヤ人たち。黒。影。無名性というところから行くと、石原吉郎が言っていたジェノサイドの恐ろしさ、という点も連想的に思い浮かぶ。つまりジェノサイドの恐ろしさというのは、一時に大量の人間が殺されるということではなくて、そのなかに一人一人の死がないということが恐ろしいのだと。人間はその死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだが、ジェノサイドにおいてはそうした単独性、固有性は完全に消去されてしまうというわけで、そうしたジェノサイドの恐ろしさを表現した作品だとも、この「ぼた山」がそうだともまあ言って言えなくはないのではないか――そういう文脈で、人間の固有性を担保するものというのが、やはり、石原吉郎の文脈ではそれは最終的に人間の個性と言うか単独性を担保するものとして残るのは「名前」、「姓名」だったわけだけれど、ボルタンスキーの文脈ではそれはやはり「顔」なのだと、そう読んでみることも出来るのかもしれない。
 それで、その「ぼた山」の周りには、木の台に着せられた裾の長いこれも黒いコートに、音声再生機が仕込まれた作品がいくつも並べられていて、これは時折り声を発している。再生機から女性や男性の静かな声が発せられるのだが、これは「発言する」という作品群で、そこで発せられる声というのは問いかけで、「ねえ、怖かった?」とか、「聞かせて、あっという間だった?」とか、「ねえ、君は一人だったの?」とかいうような質問が絶えず発せられているのだが、これは「死」について訊いているのだと言う。「ぼた山」によって表象されている死者に対して尋ねていたとも見られるのではないか。それと同じ室だったと思うが、その端のほうには、「アニミタス(白)」という映像作品が展示されており、これは巨大なスクリーンの前に丸めた紙が無数に敷き詰められているその向こうのスクリーンには、カナダで撮られた映像らしいのだが、真っ白な、どこまでも真っ白い雪原のなか、何か細い棒のようなものに取り付けられた風鈴の映像で、風に揺らされてその風鈴がなる、繊細に金属的な音が室内に絶えず響き渡っているのだった。この作品の前には座って眺めている人も結構いた。瞑想的な、アンビエントな作品と言えるのではないか。それと似たようなものとして、もう一つ、インスタレーションとして、「ミステリオス」と題されたものがあり、これは三つの巨大スクリーンに映し出された三つの映像からなっていて、左の画面には鯨の骨が海岸に横たえられたと言うか敷かれたもの、真ん中の画面は、何かよくわからないのだがボルタンスキーが作ったらしいラッパ状の設置された機具がやはり海岸に岩ばった海岸に映し出されているもので、よくわからないのだが、「ボルタンスキーはラッパ状のオブジェを用い、クジラからの反応を期待してコミュニケーションを試みている」とパンフレットには記されている。室内には何か軋むような、金属的と言って良いのだろうか――金属的というのとはちょっと違うかもしれないが、巨大ロボットが関節を動かす時の音とでも言おうか、まあそんなようなイメージの、軋むような音が響いていて、これもよくわからなかったのだが、これがそのラッパ状オブジェから発せられる音で、それによってボルタンスキーは鯨と何か交信しようとしたということなのかもしれない。右の画面は海の映像である。茫漠と広がる海、そして水平線、そしてその上に空、というシンプルな映像で、時折り、あれは鯨の動きなのだろうか、わからないが、時折り海面が波立つだけで、これは杉本博司の写真を思わせるもの、あの意味の零度を実現したかのような海の写真を思わせるようなシンプルなものだったが、あとでショップで展覧会の図録を覗いてみると、その杉本博司とボルタンスキーの対談も収録されていた。
 この日の日記を書きはじめて二時間が経っているが、まだ半分も終わっていない! ひいひい言いながら書いている。ボルタンスキー展であと記憶に残っているのは、最後の部屋の、また写真なのだけれど、最後の部屋には子供の顔の写真がまた配されていて、ただ今度は、その写真は布地に印刷されたのか投影されたのかよくわからないが、そういうもので、布地がベースになっていて、その布地に穴がたくさん開けられているのだ。それは「死に至る病に屈し、あるいは、そうした病にむしばまれつつあるかのようである」とパンフレットには文言が記されているが、まあそういう印象は拭い難い、禁じ得ないもので、特にその穴の様子が一種皮膚病に見えるような写真もあって、天然痘とかを思わせないでもない。諸々の展示の一番最初には、電球で作られた「DEPART」の文字が壁に掲げられて、取り付けられて皓々と照っていて、最後の室の前の入口の上部には、同様に電球によって「来世」との文字が取り付けられて照っていた。ちなみにこの「来世」の前で、それをバックにしながらポーズを決めて写真を撮っている若い女性がいた。それはともかく、「出発」から始まって、一種の「死」の世界というようなものをくぐってきて、「来世」、つまりは次の生に生まれ変わって終わる、というような物語的な趣向を持っているわけなのだけれど、それならば最後は生き生きと「生」を感じさせるような展示で終わった方が収まりが良いと言うか、まあありきたりではあるけれど、物語的な結構として収まるような気がするのだが、むしろそこで、さらに強く「死」を思わせるような、子どもたちの顔を破損させた作品でもって終わるというところがまあなんというか印象的ではあったかもしれない。「咳をする男」の死にかけの様子から始まって、皮膚病に侵されたような子どもたちのイメージでもって終わるという始まりと終わりになっていた。
 その後、ショップを見物。こちらとYさんは何も買わず。Nさんはポストカードか何か買っていたようだ。そうして退出し、一階のカフェで休憩することに。ちょうど空いた席があったので、そこに就く。まずこちらが一人席に残って、二人がものを買いに行く。Yさんはチョコレートのケーキと何か飲み物、ジンジャーエールだったか? それに、Nさんは小さなマフィン一つと何か飲み物。テーブルは何だか濡れていた。よく絞っていない布巾で拭かれたらしい。それでハンカチでもって水気を多少拭っておいた。足もとにも濡れ痕があって、誰か何か零したのだろうか。ともかくその後、こちらがものを買いに行く。五〇〇円もするくせに大した量のないハムとレタスか何かのサンドを持ってレジに行き、ほか、アイスココアを注文する。アイスココアも四六〇円だか確かそのくらいしたはずだ。高い! 席に戻って、その時点で二時過ぎだったはずだ。まあ三時くらいまでゆっくりしようということになり、思いの外に結構時間が余ったけれど、どうしようかとなった。話し合って、六本木ヒルズに行ってみるかということに決定。ここではほかにどんなことを話したのか全然覚えていない。ボルタンスキー展の話は全然しなかった。Nさんの名字のイニシャルがFだということは明らかになった。イニシャルがFでこちらと同じなので、それじゃあ、Fですね、F、とこちらの名字を言って――彼らはもうこちらの本名は知っている――笑った。ちなみにNさんの下の名前はSさんと言うらしい。Nさんは途中でトイレに立った。戻ってくると眼鏡を外していて、鏡を見たら、Yさんの言った通り、何かマッドサイエンティストみたいに見えたので外しましたと笑った。それに対してこちらは、全然そんなことないのに、似合ってますよと言うと、それじゃあやっぱりつけますと彼女は眼鏡を目元に戻した。彼女の唇は赤く、時折り口紅を取り出して塗り直していた。彼女の高校生時代のことを話したのもこの時だっただろうか? 彼女は高校時代、不安が強くて、人見知りでもあり、クラスメイトが自分のことを嫌っているのではないかという思いに苛まれて、一時期学校に行けなくなった頃もあったのだと言う。こちらも精神疾患を抱えている身であるし、Yさんも同様で、メンタル的に危うい人間ばかりではないか! Nさんは、前日、飛行機で東京に着いてYさんと会う前にも、外部の人間と初めて会うことがちょっと怖くなったと言うか、それで不安になって、手が震えたりしていたのだと言う。実際にYさんに会う頃には落着いていたらしいが。こちらと会う時はさほど緊張しなかったと言った。何故だ。やはり日記を読んでくださっているので、大まかな人となりがわかっていたからだろうか。実際、この日記を毎日読んでくれている人は、家族よりも友人の誰よりもこちらのことをよく知っている人間となっているはずである。
 瞑想の話をしたのも美術館でのことだったかもしれない。それとも、あとで日比谷公園松本楼に行った時のことだったかもしれない。まあどちらでも良い。記録が出来ればどちらでも良いのだが、瞑想によって精神安定の効果はあったのかと訊かれたので、それはありましたねと答えた。まあ瞑想はもう体をなしていないと言うか、今やっても変性意識に入れないので無意味なのだが、とそのあたりのことも話した。瞑想をすると、以前は繭に包まれているような心地良さに浸ることが出来たのだが、今はもうそうした状態に入れないのだと。ただ、瞑想を長年習慣として続けたことで、苛々は確かにしなくなったと告げた。よく言われることではあるが、怒りと自分を切り離せると言うか、そういう傾向が強まる。自分の感情自体を相対化して俯瞰して眺めることが出来るようになると言うか、それが行き過ぎると離人症みたいになるし、そうでなくてもある種それは感情の生々しさが薄れるということでもあって、まあある面ではつまらないことなのかもしれないけれど、ただ嫌な感情に振り回されることが少なくなったのは確かではある。嫌な感情が湧いたとしてもちょっと時間が経てばすぐに落ち着くことが出来る。前日も、一時間半くらいこちらは上野で待たされてしまったわけだが、そのあいだもまったく苛々などしなかった。待つのは得意である。Nさんは遅れたことでこちらが怒っていないか、ブチ切れていないかちょっと心配していたようだったが、全然大丈夫でしたよ、瞑想で修業を積んだので、とこちらは笑って答えた。
 今覚えているのはそのくらいの話で、細かく書くのも面倒臭いのでさっさと次に行こう。三時を過ぎたところで美術館をあとにした。六本木ヒルズへ。ひとまず駅まで戻ることに。それで来た細道を戻るのだが、Yさんが、我々二人は歩くのが遅いと文句を言う。彼は結構歩くのが速くて、その点、前日からNさんも指摘していた。こちらはそれに対して、まあゆっくりだらだら行きましょうよ、人間やはり余裕が大事ですからねと執り成したのだが、Nさんがヒールのやや高くなっている靴を履いていたし、あまり速く歩いては彼女が大変で疲れてしまうだろうとの配慮からだった。女性はよく、ハイヒールの靴を履けるものだと思う。常に爪先立ちしているような感じになるのでしょう? 凄く大変じゃないですかね? 滅茶苦茶疲れそうなイメージがあるのだが。それでゆっくり細道を戻り、駅の七番出口の付近に着き、路傍の地図を確認する。すると、左手にまっすぐ進んでいき、大きな交差点で右折すれば六本木ヒルズだということがわかったので、そちらの方へ。交差点に着くと、Yさんが書店を発見する。それでちょっと寄ってみようということに。ブック・ファーストという店だった。品揃えはそこそこ。立川のオリオン書房淳久堂書店の方が豊富である。そう考えると立川という街はやはり素晴らしい、書店という点ではかなり、相当に頑張っている街である。こちらは詩集の棚を見ていた。すると二人がやって来た。それから海外文学の棚に。ジョイス・マンスールという詩人の存在を初めて知った。この人はほかにどこの書店でも見かけたことのない名前だった。シュルレアリスム系の人らしい。
 見ているうちに四時を過ぎたので、そろそろ行こうとなって店を出た。それで道をまっすぐ行くと、森ビルが見えていたのでそちらの方にまっすぐ行くと、じきにそれらしき区画へ。「にゃんこゲリオン」という、あれは何なのかよくわからないのだが、「にゃんこ」って一体何だ、何故それとエヴァンゲリオンがコラボレーションしているのかわからないのだが、それが大きく記された広告などが見えてくる。そこにTULLY'S COFFEEがあった。Yさんが飲み物を買いたいと言うので、こちらとNさんは二人で店の区画の脇で待った。この時、Nさんに、Fさんは結婚願望とかないんですかというような質問をされたと思う。願望もあまりないし、まあ出来ないでしょうとこちらは答えた。読み書きを続けるということがこちらの人生における最大目的、特に日記を死ぬまで書き続けるというそれが人生の目的の最大のものなので、それが出来る環境を保つとなると、やはり正社員として一日の大半を労働に費やすという生活はしていられない、どうしてもアルバイト、フリーターということになってしまう。病気のこともあるし、性分から言っても自分は多分フルタイムで働けるような人種ではないだろう。それなので、経済的にもパートナーを養えるはずもないし、と言うか現状、二九にもなって両親に未だ家に置いてもらって養われている身であるし、それで結婚など到底出来ないし、まあしたいという欲望もない。と言うかまず女性と付き合ったことがないので――男性ともないが――結婚以前にまずは恋人を見つけろという話である。恋人もまあそんなに欲しいという気持ちもないし、現状、恋人がいないでも何も困っていないと言うか、何も生活に不足を感じていないが。ただ、恋人、いわゆる世間一般的な「恋人」の観念に囚われず、生をともにしていくパートナーみたいな存在は欲しいような気はしないでもない。それはただ、いわゆる恋人ではないのだから、こちらは同性愛者ではないけれど、ことによると女性でなくてもまあ良いのではないだろうか。Nさんは結婚は、と訊き返すと、私は恋人が出来ないだろうなって思います、誰にも好かれないだろうと思っていますという何故か自己評価の低い返答があった。そんなことはないと思うのだが。実際、今まで恋人がいたこともあるはずであるし。ただ、これはあとで松本楼で聞いた話だけれど、彼女は友達などから言わせると「男を見る目がない」女性だと言われているらしくて、以前付き合っていた人も酷い虚言癖だったのだと言う。
 そんなような話をしているうちにYさんが帰ってきた。彼は昨日TULLY'Sで飲んだのと同じ品物をまた頼んでいた。それで六本木ヒルズへ。階段を上がって広場のような区画へ。六本木ヒルズに来たのは、蜘蛛のオブジェを見るという目的が一つにはあったのだが、その巨大な蜘蛛のオブジェは広場に入ってすぐそこにあった。それで、その前で三人で記念写真を撮影した。Nさんが携帯を掲げ、こちらと並び、Yさんは二人の後ろ、真ん中のあいだに入るようにして並んで撮影。あとでNさんに送ってもらった写真を見てみると、彼女は片手でピースをしてちょっと唇も柔らかくしているのに、そしてYさんも手を掲げてちょっと笑み風になっているのに、こちらは無表情でぼんやりしたような顔になっていた。
 それから、どうするかとなって、一旦森ビルに入ってみた。フロアマップと言うか地図のようなものを見ると、森美術館と一緒に展望台があるようだったので、展望台に行ってみようかということになった。それで出て、歩く。ちょっと進むともうすぐそこに森美術館及び展望台の入口があった。そこでこちらは、尿意が溜まっていたので、トイレに行きたいと口にした。すぐそこに建物の入口があって、そのなかにトイレがあるようだったので、それではと入り、便所に行った。Yさんもトイレに来た。展望台のあと、どこに行くかと言うので、もう日比谷に行ってしまって良いんじゃないですかとこちらは答えた。Nさんの観るライブの会場が日比谷公園の野外音楽堂だったのだ。そうして室を出て、やはりトイレに行っていたNさんをちょっと待ってから建物を出、展望台へ。エレベーターを待って上り、出ると、しかし、大量の人々が列を成していた。塩田千春展は四〇分待ちだということだったのだが、森美術館の展示を見るのではなくて展望台に行くのにも、並ばなければならないようだったので、それではもうここはパスして日比谷に行っちゃいましょうということになり、エレベーターで二階に戻って、来た道を戻って六本木ヒルズを抜けた。
 ちょっと行くとすぐそこに東京メトロ日比谷線六本木駅への入口があったので、乗る。乗るではなかった、入る。それで改札抜けて、ホームに降り、電車に乗る。日比谷までは三駅くらいで、すぐそこだった。降りる。ホームをちょっと移動して、案内の看板を見る。先日、『響け! ユーフォニアム』の音楽を聞きに日比谷公園に来たもので、その時、日比谷公園のすぐ横の出口を使ったのだが、それが何番出口だったか覚えていなかったのだが、一四番出口が一番公園に近いことが判明した。それで階段、と言うかエスカレーター上っていき、改札を抜けて、長々しい通路を歩く。Yさんが先に行く。こちらとNさんは歩調を合わせてあとから。そうして階段上り、日比谷公園のすぐ横に出る。公園内へ。看板見て、野外音楽堂の位置を確認して、そちらの方に。公園内では蟬がよく鳴いていた。今夏初めて聞くものだが、ミンミンゼミの声も耳にした。何だったら自然の多い我が家の周辺よりも、都会の真ん中のくせによく蟬が厚く鳴いていた。それで音楽堂の近くまで行くと、Nさんはグッズを見に行くと言う。それで残りの二人はその場で待機することに。近くの石段にこちらは腰掛け、Yさんと話している。周りにいる人間たちは皆スマートフォンを弄っていて、あれは『ポケモンGO』をやっているんじゃないですかとか言っていると、一人の画面を覗いたらしいYさんが、正解、と言った。『ポケモンGO』のブームというのはもうすっかり下火になったものだと思っていたのだが、そうでもないのかもしれない、皆まだ結構やっているのかもしれない。まあスマートフォンを持っていないこちらには関係ないし、持っていたとしても自分はやらないと思うが。Nさんはすぐに戻ってきた。ああそれで書き忘れていたけれど、書き忘れていたよな? と思うのだけれど、Nさんが今日見るバンドというのは相対性理論だと言った。名前は聞いたことがあるのだが、こちらは彼らの音源は一度も聞いたことがない。やくしまるえつこという名前のみは知っている。Nさんが、歩いているあいだ、Fさんはあまり好きじゃないかも、みたいなことを言うので、よく聞くのはジャズですよね、と言うので、でもポップスやロックも聞きますよとこちらは答えた。かなりポップなバンドらしい。でも、ものんくるみたいな感じではないのだろうか? ものんくるはちょっと違うか。
 Nさんはすぐ戻ってきた。イラストの描かれた手提げの袋を買っていた。それで、ライブが始まるまでどうしましょうかということになり、先ほど歩いている時にこちらが喫茶店みたいな建物を見かけていたから、あっちの方に店っぽいのがありましたよと言って、そこに行ってみることになった。それで道を戻り、背の低い草むらのなかにひらかれた細道を通り、行ってみると、これが松本楼という建物だった。あとでメニューを見たところでは、高村光太郎の名前があったので、彼がよく通っていた店なのかもしれない、何となくそんな話を聞いたことがあるような気もしないでもない。松本楼には高級なレストランと、それよりも廉価な方のレストラン・カフェみたいな店舗が入っているようで、我々は勿論カフェの方を選んだ。入って三人と告げ、ソファ席に通される。こちらはソファへ。Nさんはこちらの隣。Yさんは向かいの椅子の席へ。こちらとYさんは自家製ジンジャーエールというのを頼み、Nさんはレモンスカッシュを頼んでいた。この自家製ジンジャーエールが七〇〇円もする代物なのだが、自家製感は確かにあった。生姜の味がかなり濃くて辛めで、なかに、あれも生姜のものなのだろうか、何か粒のようなものも混ざっていた。こちらはゆっくり飲んだ。
 そうしてふたたび会話。店に入ったのは多分五時半頃だったか? それから七時を過ぎるまでくっちゃべっていた。さて、その内容なのだが、ここまでで既に三時間、一万七〇〇〇字も書いたし、結構疲れたので一旦ここで休ませてもらうことにする。ベッドに横たわって本でも読もうと思う。そのあとは夕食のためのカレーでも作らなければならないので、ふたたび文を書くのは夜になって夕食と風呂を終えてからのことになるだろう。
 最初に何の話をしたかなど、まったく覚えていない。Nさんに、FISHMANSを凄く聞いていますよねと言われた時があった。聞いていると言うよりは、BGM的にただ流しているだけなのだが。音楽を聞くというのも、以前よりも消費的な態度になってしまっている。あまり集中して耳を寄せるということがない。それはやはり残念なことなのだろう。飽きたりしないんですかとNさんは続けたが、こちらは、飽きるとか飽きないとかの問題ではなくなってきているような気がする、とりあえず一日の最初にFISHMANSを流すか、というような習慣になってきていると答えた。Nさんはジャズは聞かないんですっけと訊くと、ジャズは全然知らないとの返答があり、お勧め何かありますかと言うので、Bill Evans、と口にして、定番中の定番中の定番くらい定番ですけどねと言って笑った。その場でNさんは、サブスクリプションのサービスをひらいてアルバムを検索しはじめた。例えばどれが良いのかと訊かれて画面を見ると、なかに、『Sunday At The Village Vanguard』があったので、これとか、と指差して、"All Of You"とか"Alice In Wonderland"とか良いですよと紹介した。と言ってもこちらがいつも聞いているのはライブをそのままの順番で収録したコンプリート音源なので、『Waltz For Debby』や『Sunday At The Village Vanguard』の編集された順序ではもう長いこと聞いていないけれど。しかし今考えると、一九六一年のBill Evans Trioのライブ音源をジャズを聞いたことのない人間に勧めるのはあまりよろしくなかったかもしれない、と言うのもこちらの考えでは、あのライブは大名盤で入門盤としてもしばしば挙げられているけれど、初心者にそんなに優しくない音楽であるようにも思えるからだ。Evansは良い、Evansのピアノはとにかく綺麗なので、まあ大方誰が聞いても悪くは思わないだろう。しかし問題はScott LaFaroである。LaFaroは端的に言って馬鹿と言うか頭がおかしいので、彼のプレイはあまり初心者には親切ではないだろうと思う。まあEvansの優美さだけでも聞けるというのがあの盤の利点でもあるのだが、それよりはしかし、Miles Davisのマラソン・セッションあたりを勧めたほうが入門としては入りやすいのではないかと今更ながら思う。
 Nさんは今一九歳である。とすると、こちらとは一〇年の時間のひらきがあるわけか、と改めて口にした時間もあった。こちらももう三〇歳、三〇歳と言われるとだいぶおっさんになったなあと思うが、実感としては全然そんな感じはしない、というような話もした。Yさんが自分自身について、あまり精神は歳を取っていないというようなことを言った時だったと思う。大学時代とか高校時代とかが最近と感じるかと訊かれたので、全然そうは感じない、と言うか自分の場合は文章を書きはじめる前とあととで全然別人になったと思うので、文章を書きはじめるより前の過去というのは別世界のようなものだ、そこに自分の場合は歴史の区切りがあると述べた。文章を書きはじめたのは大学を出た二〇一三年の一月のことである。それよりも以前の大きな歴史的区切りとなるような事件というと当然東日本大震災があるわけだけれど、その時点でこちらは二一歳である。確かあの時は、まだ休学中だったのではないか? それとももう三年生を始めていた年だろうか? 二〇〇八年四月に大学に入学して、二年過ごしたあと、二〇一〇年の五月から一年間休学したわけだから、二〇一一年の三月は復学直前といったところか。あの日はこちらは福生にいた。あの地震の瞬間に自分がどこにいたかを、揺れを体感した人間は皆多分覚えているだろうということはやはり凄いことではないかと思うが、こちらは福生駅前のドトール・コーヒーにいて、高校の同級生のY田と会っていた。何で会っていたのだったか? その点はわからないが、外出して他人と会うことが出来ていたという点からも、自分の回復ぶりが窺われるだろう。あの日はその後、電車が停まってしまったのでYの家まで歩いていって、そこから車で送ってもらい、帰宅難民になることはなかった。そうした幸運も手伝ってか、自分としてはあの震災によってそこまで実存を揺るがされるほどの衝撃は受けなかったというのが正直なところなのだが、あの時点で既に文章を書きはじめていたら話は多少違っていただろうと思う。文学的な知見も政治的な知見も、今も大してあるわけではないけれど、あの時点では端的に言ってゼロだったのだ。
 それで、何の話だったか? 年齢の話か。Yさんが、Nちゃんもそろそろ二〇だけれど、Fくんは二〇歳の時は何してた、と訊くので、その頃はパニック障害に苦しんでいましたねとこちらは笑った。外に出れなくなったりしたんですかとNさんが訊くので、僕は幸いそこまで酷くはなかったけれど、それでもピークの時は近所を散歩するだけでも緊張していましたねと告げた。それからパニック障害の症状について多少の説明をした。パニック障害というのは別名不安障害なので、とにかく理由もなく不安になってしまうということを理解しておけば基本はオーケーである。そうしてその不安がピークに達すると、発作が起こる。発作の症状は人それぞれだが、息が出来ないようになったり、吐き気のような感覚に襲われたり、動悸が激しく高まって発汗したり、死ぬのではないかという恐怖に襲われたりといったものである。前にも書いたことがあるが、普通の人が一生のうちに味わうであろう緊張のうちの、その最大のものを遥かに越えたものだと思う。パニック障害というのは、そうした普通の人が一生のうちで一番緊張した、というような体験、その状態よりも強い緊張や不安が常時続くようなものだと思っていただければ、この病気になったことのない人間でもわかりやすいのではないか。それだから発作は発作で勿論しんどいけれど、発作に至らなくても常時の不安によって心身は蝕まれ、かなり疲弊する。最初は発作の起きる場所、不安の惹起されるシチュエーションも限定されているのだが、病気が進んで酷くなってくると、要はいつどこにいても発作が起こってもおかしくない、という思考になるので、環境を限定せずに常に緊張し、不安を常に抱えて生きることになる。つまりは、存在そのものが不安と結合されるというか、端的に言って存在=不安、というような等式が成立することになる。それだからこちらも、一番最初に発作が起こったのは電車のなかだったので、初めのうちは不安になるのは主に電車内だったが、じきにどんな場所でも不安を催すようになってきて、例えばコンビニとかスーパーとかで買い物をしているような時でも発作が起きそうになったこともあったと述べた。あとは大学の講義やテストだ。講義とかテストとかいうああいう、要するに「公的な場所」のようなものは、パニック障害患者にとってはなかなかの、相当の試練である。
 Nさんに進路はどうするんですかと訊いた時もあった。彼女は今大学で、ウェブデザインのようなことを学んでいるので、そちらの方面に進めたらと思っているらしかった。ただ、地元福岡で就職するか、東京などに出ていくかということはまだ決めていないらしい。東京に出たい気持ちはないんですかと訊くと、展覧会とかライブとかが観やすいのでそういう気持ちはなくもないが、家賃も高いだろうし、東京で暮らしていくほど自分に生活力があるかどうか、自信がないとのことだった。
 結婚の話もふたたびした。NさんがYさんに結婚願望はと訊くと、Yさんは、いや、不幸にしちゃうからねと答えたので、こちらも乗っかって、そうそう、相手を不幸にする自信ならありますと笑った。Nさんは先ほども書いた通り、何故か自分は誰にも好かれないのではないかという心理を抱えているらしく、結婚も出来ないだろうと思っているらしかった。それに対してYさんは、Nちゃんは幸せな結婚をするような気がするけどね、と言っていた。こちらは、パトロンが欲しいと最近たびたび言っていることをここでも改めて表明し、僕の日記に惚れ込んで、活動を支えてくれるような人がいたら結婚してもいいですけどねと最悪なことを口にして笑った。ヒモじゃないですかとNさんが言うので、それにも笑った。しかし彼女曰く、ヒモになるにも才能が必要なのだと言う。相手に依存して、困らせても良心の呵責をまったく覚えないような最低な人間でないといけないらしい。Fさんはそんな感じはしないのでと彼女は言った。
 そのほか、政治の話も多少はした。Nさんの友人にはやはり選挙の投票に行かない人が結構いるらしく――彼女自身は投票に行った――そういう友人たちに対して、投票に行ってほしいという気持ちはないでもないのだけれど、興味もない人に対して促したり説得したりするのは難しい、それで関係がこじれてしまっても、というようなことを言うので、まあそれはそうだろうなあと受けた。今回の参院選投票率はだいぶ低かったようで、正確な情報を見ていないけれど、半分を切ったのだったか? まあ二〇一六年にイギリスがEUを脱退するかどうかの国民投票をした時だって投票率は七割でしかなかったので、その時こちらは、あれだけの大きな事柄でも三割もの人間が投票しないのかと驚いたものだったが、もう民主主義とはそういうものにしかならないのかもしれない。こちらは、とりあえず現状に不満を感じていなければ与党に投票すれば良いし、何かしら自分の生活に不満や問題があって現状を変えてほしいのだったら野党に投票すれば良い、そのくらい気軽に考えて良いと思いますけどね、と言っておいた。
 Yさんがじきに、薬の時間だと言って、テーブル上に飲むべき薬をたくさんばら撒いた。かなりたくさん種類はあった。エビリファイジェイゾロフトはこちらが飲んでいるのと同じものである――こちらの場合は、ジェネリックにしているので、名前はアリピプラゾールとセルトラリンとなっているが。そのほか、ルーランデパケン、あと何だったか、リボリトールというやつだったか? 頓服用のやつだけれど、それなどがあった。Yさん自身も、今の服薬は多すぎるのかもしれないと思っているらしかった。医科歯科大から地元横浜のクリニックに変えた時に、一気に増やされたのだと言う。疑わしい医者なのではないか。と言うか、ジェイゾロフトルーランデパケンあたりは効用が被ってはいないだろうか? Yさんは多分医者を変えたほうが良いのではないか、とこちらは無責任に思うのだが、彼自身ももしかしたらそう思っているのかもしれない。ともかく、段々減らしていけたほうが良いですよね、とこちらは口にして、僕もさっさと減薬したいんですけどねと漏らした。
 ああそう、Nさんの過去の恋人の話を聞いたのもこの時である。彼女には三月くらいまで付き合っていた人がいたらしいのだが、先にも書いた通り、その人が虚言癖で、さらには鬱病のような病状も抱えていたらしく、精神的にも危ういようなタイプの人だったみたいで、それを友達に話すと、男を見る目がないと言われてしまったのだと言う。彼女の好みのタイプを聞いてみると、まずは痩せている人、という返答があった。と言うよりは、がっちりしている人が苦手なのだと言うのだが、それは、彼女の自己分析によると、父親に対する恐怖感のようなものから来ているのではないかとのことだった。彼女の父君も結構しっかりしていて背も高いらしい。ほか、自分の思想がない人は駄目だ、というようなことを彼女は言っていた。はっきりとした考えを持っていないと駄目なのだろうか。そんなNさんはYさんに対して、Yさんはすぐ誰でも好きになりそうですよね、みたいなことを言ったのでこちらは笑った。Yさんは綺麗な人が好きでしょ、あと胸の大きい人とかと言うので、そこでも笑った。でも、綺麗な人は僕も好きですよそりゃ、とこちらは執り成したあと、しかし綺麗でなければいけないかというとそうとは限らないかもしれないなと独りごちるようにさらに続けた。外見よりも、この歳になってくるとやはり、一緒にいて楽かどうかみたいなことが重要になってくるのではないかと話した。ここでこちらは、結婚や恋愛はともかくとしても、パートナー的な相手は欲しいような気がすると述べ、世間一般の恋人の観念に囚われず、人間として「良い関係」を築き、生をともにしていけるような相手は欲しいかもしれないと話した。
 まあ大体話としてはそんなものだろう。七時を迎えたあたりでNさんがそろそろライブに行くということになり、店をあとにすることにした。Yさんがまとめて払ってくれると言うので、こちらはジンジャーエールの代金七〇〇円を彼に渡し、Nさんと一緒に先に外に出た。Nさんは、Fさんとももうお別れですね、悲しいです――寂しいです、だったか?――と言った。またお会いできたら良いですねとこちらは受けて、出てきたYさんと一緒に、Nさんをライブ会場の近くまで見送りに行くことにした。道を辿って、野外音楽堂の近くまで来ると向かい合い、有難うございましたと互いに礼を言った。手を差し出して握手を求めると、Nさんは両手で包み込むようにこちらの右手を握ってくれた。詩集、大切に読みますねと言うので、是非読んでくださいとこちらは受け、それじゃあ、と去っていくNさんに向けて、ライブ、楽しんでくださいと掛けて見送った。彼女の姿が見えなくなるまでその場で見送り、それからYさんと公園の出口に向かった。有楽町駅まで歩いていこうということになっていた。前回日比谷公園に来たときも、有楽町駅まで歩いたのだが、道をさほど正確に覚えているわけではなかった。ただ線路沿いを歩いていったことは覚えていたので、線路が見つかれば何とかなるだろうと思っていたところ、公園を出ると大きな通りの向こうに電車が通る高架線路が早速見えたので、あそこまで出て左折すれば良いと思いますと言った。それで歩き、何やら馬鹿でかい劇場の建物の横などを通り、線路沿いに出て左折し、飲み屋やラーメン屋やらのあるなかを歩いていった。こちらは腹が結構減っていた。それでYさんに、Yさん、腹減っていないですかと訊いて、何か食って行きましょうかと提案した。歩いているうちに、有楽町電気ビルという名前だったと思うけれど、レストランの色々入っているビルが見つかった。レストラン一覧が記されたその看板の前で止まり、Yさんと話し合った。彼はあまり腹が減っていないのかわからないが、あまり正式な飯は食べたくないようだったので、カフェの方が良いかと思い、ドトール・コーヒーがあるのでそこに行きましょうかと口にした。それで階段を下って地下に入り、ドトール・コーヒーの店舗に行ったのだが、この店が何と既に閉まっていた。まだ七時である。こんな都会で七時に閉まるなどあり得るのかと思ったが、仕方ない、外に出て、ふたたび道に戻って進んでいると、今度もまた有楽町ビルとかいう、やはりレストランなどの食い物屋が色々入っているビルが発見され、そこにはサンマルク・カフェがあるようだったので、ここに行こうと相成った。それでビルに入り、地下に下り、サンマルク・カフェに入って、こちらはサンドウィッチとオレンジジュースを注文し、Yさんはチョコクロワッサンのみを頼んでいた。それで店に奥の隅の席に就いてそれぞれものを食べ、飲んだ。ここでどんな話をしたのかは全然覚えていない。恋愛感情は今はあるでしょう、と尋ねられたので、誰に? と返すと、塾の生徒とか、と言うので、それはないですよと笑った。そう言えば、過去の唯一の恋愛体験、恋愛体験と言っても付き合ったわけではなく一方的に恋慕していたというだけの話だが、女性を好きになった体験として、Tのことを二人にこの日多少話したのだったが、それはもう書くのが面倒臭い。それでものを食い、飲み終えて店をあとにすると地上に上がり、有楽町駅に向かった。
 改札をくぐり、ホームに上がって、山手線に乗った。Yさんは一駅あとの新橋で降りると言う。それで新橋に着くと、握手を交わして、またそのうちに会いましょうと言い合って別れた。こちらはその後、手帳を眺めていた。途中で席が空いたので座ったが、大崎だったか? 乗っている電車が大崎までで停まるもので、回送になってしまうものだったので、そこで降りて向かいの番線に並んだ。それでやって来た山手線にふたたび乗り、この時立っていたのか座っていたのか――いや、確か立っていたはずだ。立ちながら手帳を眺めた。それで新宿で乗り換え。東南口や南口に繋がっている区画に上がっていき、一二番線に降りて、前日と同様一号車の位置へ。ちょうど青梅行きがあった。乗り、手帳。さすがに結構脚が疲れていた。それで座りたいと思っていると、三鷹あたりだったか、一席空いていながら、その前に男性が立っているのだけれど座らずに空いている席が見つかったので、そこに入った。それで手帳。手帳! 手帳! とにかく手帳を読み続ける。青梅まで座れたので良かった。携帯で日記を書いても良かったのだけれど、結局書いたところでそれを修正しながらパソコンに写してまた書くのに結局また時間が掛かるわけだし、今日の分は記憶に頼って書くかというわけで日記は携帯では書かずに手帳を眺めたのだった。
 路程の最後の方ではちょっと微睡んでいた。青梅に着いて出ると雨が降っていたので、小走りになってホームを駆け、屋根の下へ。奥多摩行きは既に来ていた。乗ってまた手帳。そうして最寄り。最寄りに着く頃には雨は止んでいた。帰路を辿る。帰路に特段に印象深いことはなかったと思う。帰り着くと靴を脱ぎ、靴下も脱いで洗面所の籠に入れておき、自室へ。服を脱ぐ。コンピューターを点ける。Twitterをちょっと覗き、開票速報をちょっと見てから風呂へ。入浴。出てくると室に戻って、今日は文を書く気力がなかったので、コンピューター前でだらだらする。開票速報また見たり、Twitterを眺めたり。それで零時を越えるとベッドに移って本を読みはじめる。何を次に読もうかと思ったのだが、本棚に積んである本たちを見て、小説を何か読もうと思っていたのだが、というのも最近小説を全然読んでいなかったからなのだが、それで河出文庫ジャン・ジュネ生田耕作『葬儀』に決めた。そうしてベッドに横たわって読んでいたのだが、三頁くらいしか読まないうちに意識を失ったようだった。気づくと四時。そのまま就床。ああ長かった。


・作文
 8:48 - 8:54 = 6分

・読書
 9:25 - 9:55 = 30分
 10:35 - 11:24 = 49分
 24:18 - ? = ?
 計: 1時間19分+?

・睡眠
 2:40 - 8:00 = 5時間20分

・音楽
 なし。

2019/7/20, Sat.

 絵葉書よりもはるかに遠い
 直撃弾よりはるかに近い
 歴史よりも行方不明の
 わたし
 嘔気こらえて走る姙婦より美しく
 はじめての夜の枕よりも固い
 わたし
 (誰もたたかないわたしの肩)
 (誰もにぎらないわたしのてのひら)
 最終電車や めくれた暦
 ひるまの地震よりつめたくて
 ことばよりやわらかくつづく
 わたし
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、269~270; 「自家中毒」; 「その他」)

     *

 きみのうしろのきみ きみのとなりのきみ
 きみが知らないきみ きみを知らないきみ
 きみばっかりのこの車内をもう一度ふりかえってから
 さあ さようならを言おう あこがれよりも高い声で
 (275; 「自家中毒」; 「その他」)

     *

 おふくろはほんとに袋のよう
 夜目にも白く鉄条網にひっかかっていたが
 とつぜん口のすみから黄色い水をこぼし
 否定よりも烈しく掘割を跳びこえて
 小さく小さく夜の奥へ走って行った
 (290; 「脱走」; 「その他」)

     *

 ゆうべの蒸暑い外套のままで
 日曜は戦争の親戚であるなんて
 ぼくが説くのは気がひける
 帰ろう 今頃いちめんに陽をあびてる
 ぼくの部屋の可哀想な雨戸を
 一刻も早くあけてやること
 (294~295; 「おそすぎる帰り」; 「その他」)


 六時二五分頃、覚醒することが出来た。二度寝に陥るほどの頭の重さはなく、はっきりとした目覚めで、容易に起きられそうだったが、もうしばらく寝床に留まった。カーテンを開けると、空は真っ白、空漠たる白、茫漠たる白で、無制限、無際限の白さがどこまでも広がっている。しばらく経ってからもう起きてしまうことにして寝床を抜け、パンツ一丁だったので肌着とハーフ・パンツを身に纏い、コンピューターを点けておいて便所に行った。黄色い尿を放って戻ってくると、Evernoteを準備して、七時になる五分前から早速日記を記しだした。僅か一五分でここまで追いついている。
 前日の記事をインターネットに投稿し、上階へ。階段を上がり、居間に出ると、そのまま玄関に行ってサンダルを突っ掛け、外に出た。雨は降っていなかった。透明なビニール袋に入った新聞を取り、戻ると母親が上がってきたので挨拶をする。新聞の袋を鋏で切って開けておき、それから台所に入ってベーコン・エッグを作りはじめた。フライパンにオリーブ・オイルを垂らし、その上からハーフ・ベーコンを五枚敷いて、さらに卵を二つ割り落とす。加熱しているあいだに丼に米をよそり、しばらくしてから箸を取って焼かれたものをめくり、丼の上に乗せた。そうして卓へ。そのほか、前日の残りのピーマンの炒め物に、即席の吸い物。新聞で京都アニメーション放火事件の続報を追いながら食べた。食べ終わると抗鬱剤を服用し、食器を洗った。前日に父親が使ったものだろうか、流し台に放置されていた食器類もまとめて洗って、そうして下階に下りた。
 八時二二分から書抜き。『曽根ヨシ詩集』に岡本啓『グラフィティ』。BGMとして流したのはBlue Note All-Stars『Our Point Of View』。二〇分で書抜きを終えて、それから「記憶」記事の音読をした。第一次世界大戦及び二一か条の要求や、満州事変や盧溝橋事件などについて。一五分間口を動かすと切りとして、九時を回った頃合いからベッドに移って書見に入った。ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』である。しかしいくらも読まないうちに目を閉じ、微睡みのなかに入ったようだ。クッションに凭れ、脚と腕をだらりと垂らし、身体の力を抜いて微睡みながら一〇時半に達し、携帯にメールが入ったところで覚醒した。見ると、買い物に出かけた母親からで、雨が降ってきたから洗濯物を入れてくれと言う。それで上階に行き、ベランダに吊るされていたタオル類などを室内に取り込んだ。それから風呂を洗い、便所に行って糞を垂れ、出てくると制汗剤ボディ・シートを使って肌を拭い、そうして下階に下りた。着替えである。グラフィティ的な絵柄のプリントされた白いTシャツに、ガンクラブ・チェックのズボン。着替えるとFISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書き出して、ここまで綴って一一時前。
 上階へ。玄関に行って、写真を撮る。鏡に自分の姿を映した写真を撮って、Nさん、Yさんがこちらを同定出来るようにするのだ。今日は福岡から来京するNさんをYさんと一緒に迎えて、上野の国立科学博物館を見物することになっている。靴を履き、玄関に掛けられている大鏡に向けて携帯を構え、その携帯で顔の真ん中がちょうど隠れるような構図を取り、撮影。そうしてメールに添付して、この格好をしているのが僕ですと二人に連絡しておいた。それから下階へ戻り、歯磨きをして、クラッチバッグに荷物を整理して上階へ。仏間に入ってカバー・ソックスを履き、炬燵テーブルの端に置かれていたハンカチのなかからmarie claireのそれを一枚取り、ズボンの後ろのポケットに入れると出発した。西へ。拡散的な声の蟬が鳴いていたと思う。あれはやはりニイニイゼミなのだろうか。坂を上っていくと、出口付近で雨がぽつぽつ来て、白米の上に振りかけられた胡麻のように地面に点が生まれる。横断歩道を渡って駅に着き、階段通路を辿ってホームへ。ホームに人影はない。ベンチに座って手帳を取り出した。一項目につき、五回ほど繰り返し読んで知識を頭に入れていると、そのうちに老人が一人やって来た。爪先に力を込めたような音の立つ足取りでベンチまで来ると、座って、暑いな、とぼそりと呟いた。あたりに聞こえるのは右方の自販機が稼働している音と、頭上から響く雨が屋根を打つ固く金属的な音のみである。じきに駅にも人が増えてくる。そのなかの一人に、K.Mさんがいたので、互いに会釈し合った。それ以上あちらが近づいてこないのでこちらからも近づいては行かず、じきにアナウンスが入ると経って、手帳を持ったまま頁の上に目を落としつつホームの先へ。電車に乗り、優先席に就く。手帳を眺めながら到着を待ち、青梅で乗り換え。後発の東京行きに乗るか、既に来て停まっている立川行きに乗るかちょっと迷った。どちらでも良いのだが。立川行きに乗ると、当然のことだが、立川で東京行きに乗り換える必要があるので、従ってそれ以降の路程は座れないだろう。結局、あとから考えると、上野にはかなり早く着いてしまったし、青梅から神田まで東京行きで座ったまま一気に行った方が楽だったように思うが、それでもこの時は、一応先発を取って立川行きに乗ることにした。ホームを歩き、三合車から乗り、車両を渡って二号車へ。三人掛けに就く。向かいには女性一人。明るく長い茶髪。唇が赤々としている。こちらは手帳をひらいた。
 立川までのあいだは特に書くこともない。到着すると人々が捌けていくのを待ち、そのあとから出た。階段を上ると、パンを焼いているような良い香りが漂う。上がってすぐのところにあるおにぎり屋に目が行く。そろそろ腹が減りだしていた。しかし、上野に着いてから売店で何か買って食うか、と決める。おにぎり屋は結構繁盛しているようで、何人か並んでいた。ここのおにぎりはちょっと気になるのだが、今まで一度も買ったことはない。三・四番線ホームへ。四番線に快速東京行きが停まっているが、既に人が多く載っており、座れる余地はないようだったので、三番線に来る特快に乗ることに。列に並ぶ。手帳。そのうち、小銭が落ちた音を聞きつける。自販機に向かう一人の男性。イヤフォンをしているので小銭を落としたことに気づかないようだ。それなのでその場をちょっと離れ、落ちていた百円玉を拾って近づき、硬貨を持った手を掲げ、相手と視線を交わしながら無言で差し出す。向こうも言葉は発さず、会釈で受けた。無言のコミュニケーションである。それから列に戻って、ちょっとすると電車がやって来た。乗り、扉際を取ることに成功する。クラッチバッグを頭上の棚へ。手帳。対角線上の扉際には、茶髪のボブカットの女性。Nさんもあんな感じだろうかと見る。三鷹でバンドマンが乗ってくる。バンドマンと言うか、単にギターを持った人ということだが。若くはない、四〇代だろうか、髪は全体に白いものが混ざって色が薄く、灰色掛かっている。ギターと、エフェクターボードを縛りつけた、あれは何と言うのか、自分も現役の時に一つ持っていたけれど、物の名称がわからない、簡易的な台車のようなやつだ。それを抱えて乗ってくる。こちらの身体にギターが当たると、すみません、と会釈してくる。あまり威勢は良くはない。混んでいる電車のなかに大きな荷物を持って乗ってきたことに恐縮している様子。服は、白の地に黒いドット模様のシャツ。イヤフォンをつけて音楽を聞いている。音楽に合わせてピックを持った形を模した右手を動かしている。イメージ・トレーニングをしているようだ。
 新宿かどこかから外国人の一団、六人が乗ってきた。皆一様に褐色の肌で彫りが深い顔をしており、黒い髭を生やしている。香水だろうか、一気に強い匂いが車内に満ちる。コーヒーの紙カップをそれぞれ持った一団は、大きな声で、丁々発止と言うか、喧々囂々と言うか、侃々諤々と言うか、会話を交わしている。代わる代わる誰かが矢継ぎ早に話して会話の途切れる隙間がない。受け答えや口調の調子も速い。何か議論でもしていのだろうか? 時折り笑い。日本人とは調子が違うと言うか、、日本はやはりこういう風にはなかなか話せないだろうなと思った。何人だったのだろう? 何語なのか全然わからなかったが、風貌からすると何となくトルコあたりだろうか? 不明。彼らは御茶ノ水で降りて行った。
 神田で降車。階段下りて、三番線ホームへ。階段上がる。ちょうど山手線の電車が来ているので、急いで乗り込む。そして手帳。僅かなあいだだが。秋葉原御徒町を経由して三駅目で上野。降りる。公園口へ。階段上がる。売店を探す。歩いているとキオスクが発見され、入り、レジ横のパンの区画の前に立ってちょっと迷ってから、ベルギー・チョコレートを練り込んだ白く柔らかいパンを選んで買った。一〇八円。釣りとレシートを受け取り、パンをバッグに入れて店を出て、公園口改札を抜ける。横断歩道を渡り、植え込みの段へ腰掛けて、二人へ連絡。ちょっと早く着きすぎた、と。そうしてパンを食べる。周囲では立憲民主党の、奥村まさよし候補が活動している。スタッフや本人が、道行く人々に声を掛けてチラシを配っている。選挙カーからは録音された本人の声と、蓮舫の応援の言葉。それを聞くと、この人は、ボイス・パーカッション・グループのRAG FAIRの「おっくん」なのだ。その名前は一応耳にしたことはある。本人の声と蓮舫の声が繰り返し響いているそんななかで、もう一団体、横断歩道を渡った先、つまり元の駅の改札に近い方、券売機の前ということだが、そこに犬猫ボランティアの団体が活動しており、ご協力お願いしますとこの暑いなかで野太い声を張ってアピールしている。募金活動や、スタッフの募集をしているらしい。
 Yさんからメールが入った。二時半頃になる、申し訳ない、と言うので笑う。一体何をしていれば良いのだ、と送る。空港内で迷って時間が掛かったらしい。彼はNさんを空港まで迎えに行っていたのだ。適当に過ごしているので、気をつけて来て下さいと送り、時間潰しに公園内を回ってみることに。立ち上がって歩き出す。東京文化会館を過ぎ、公園奥へ。西洋美術館前も過ぎ、動物園の入口前で左折。動物園の入口外では、何か大道芸をやっているらしく人だかりが出来ていた。芸人の慌ただしい声と群衆のどよめき。何をやっていたのかは距離があったので不明。それを背後に折れて進んでいく。道中の様子など、大して覚えてはいない。言うまでもないが、外国人観光客は多かった。周囲から聞こえてくるのは日本語よりも外国語の方が多いくらいだ。このあたり、京都とも同じなのだろう。また、鳩も多かった。人間が近づいてもあまり逃げようとせず、最大限その場に留まり続けるふてぶてしい鳩たちである。彼らが背後から、宙を切って滑らかに、あるいは羽根を緩やかに柔らかく羽ばたかせて、あるいは翼を静止させながら滑空していくのもたびたび見られた。人のあいだをうまく縫って飛ぶのだが、よくぶつからないものだ。歩いているあいだにもう一人、大道芸人を見かけた。自ら大道芸人だ、これ一本で飯を食っていると名乗り、芸をやる前置きとして、終わったあとに気に入ったら投げ銭をしてくれるように、と音楽に合わせて客を促していた。
 歩いていき、そのうちに、ボート場の文字を記した看板が現れた。それで、こちらが池だなというわけで、それに従って不揃いで急な石段を下りていく。そうして下りた角にあった地図を確認してから横断歩道を渡る。広大な池は一面、背の高い蓮に満たされ、埋め尽くされている。さらに進み、祭りじみた屋台の出ているそのあいだを通り――大きなフランクフルトや焼き鳥などが焼かれて、香ばしい匂いが漂っていた――橋を渡って弁天堂へ。しかしなかには入らず、脇を回って過ぎる。堂の側面に鳩が数匹。見かけた時、一匹がまるで蜂のように宙で羽ばたきその場で静止して浮かんでいた。そこを過ぎると、鳥塚という大きな、見上げるほどの碑がある。横に何か由来の書かれたもっと小さな碑があったが、よくも読まなかった。そうして堂の裏に出て、ふたたび小橋。橋の途中から人々が池を見下ろしていて何かと思えば、鯉がたくさんいるのだった。濁った水のなかに棲む、やはり濁ったような、ちょっと黒っぽいような色の大きな鯉である。並んで水面に顔を出し、餌を欲しげに口をぱくぱくさせている。気泡。写真を撮る外国人。
 橋を渡ってボート場の前に着く。そろそろ何か冷たい飲み物を飲んだほうが良いかとも思ったのだが、ペットボトルを買ってバッグのなかに入れると、Nさんにプレゼントするために持ってきた詩集の包装が濡れてしまう。それで断念したのだが、よく考えれば、バッグに入れずに手に持って歩けば良いだけの話だった。自販機に寄ったがそういうわけで何も買わず、左に折れて池の周りを回ることに。ボート場にはピンクや白や青のスワンボートが広々とした池の水面に浮いて水を切っている。通りすがりの女性が、あんなん怖くてよう乗らんわ、と関西弁で漏らしていた。様々な人々が思い思いに過ごしている。犬の散歩。ベンチに並んで座っているカップル。ポテトチップスの大袋を広げている男性。あれは自分で食いながら、鯉にもあげていたのかもしれない。そのうちに何か、助けて、助けて、という叫び声が聞こえて、水音も響いてきた。誰かが池に落ちたらしい。ちょっと戻って見通してみると、若い男のようだ。男は多分遠くの、ボートに乗っている人々に対してだったと思うのだが、お前らあ! と声を張り上げて叫び、やめとけえ! と吠え、そのあとから動物の唸り声のような声を上げていた。狂っているのだろうか? 柄はあまり良くなさそうだ。その後、多分岸にいる仲間に向けて、お前ら、覚えとけよ、とか何とか言っていた。そのあたりまで見届けて、先を歩いた。
 池の蓮はところどころピンク色の花を咲かせており、視界の遠くまで続く一面の緑の広がりの上に桃色の塊が散発的に乗せられている。しかし花はまだ大方ひらききっておらず、丸みを帯びた形だった。これが蓮の花か、と見た。仏教的な観念を頭のなかに呼び起こす。そのほか記憶に残っているのはハーモニカで"川の流れのように"を演奏していた人や、鳩を捕まえようとして満面の笑みを浮かべながら追いかける男児などである。歩いているうちに汗だくである。池の周りを一周して元の場所に戻ってきた。石段を上がり公園の方に戻って、右に折れてまた歩く。西郷隆盛像がそのあたりにあるはずなのだが見かけなかった。違うルートを取ってしまったらしい。途中、全身白づくめで顔や肌も白く塗って彫像の真似をしているパフォーマーを見た。最初は遠目に見て本物の像だと思っていたくらいだ。パリのサクレ・クール寺院に行った時にも同じようなパフォーマーを見た。文化会館の裏でも大道芸人らしき人が何やら芸の準備をしていた。
 元の、駅前の植え込みの段に戻ってきた。汗だく。時間はちょうど二時頃だったのではないか。シャツをぱたぱたやりながら携帯で日記を書く。立憲民主党の人々はもういなくなっていた。犬猫ボランティアの人々は相変わらず声を張り上げて協力を呼びかけている。携帯の画面に注視し、両手の指を駆使して勢い良く、素早く次々と言葉を打ち込んでいく。それを四五分くらい続けた。公園を歩きはじめるあたりまで記述が達すると、左側から肩に触れられた。見れば男性が一人、立っている。Yさんである。勿論、Nさんも一緒にいた。事前に聞いていた通り、Yさんは檸檬の描かれたTシャツを着ていた。下は濃い青のデニム。Nさんは自分では全体に薄水色の格好と言っていたがその通りで、ちょっと薄緑も仄かに混ざったような色合いだったかもしれない。ふわりとした襞のあるロングスカートに、上は、あれは何と言うのだろう、レース編みみたいな花の模様に編まれた衣服。足元はヒール。
 こんにちは、Fですと挨拶。少々言葉を交わすと、それじゃあ行こうかとなる。行く先は国立科学博物館である。最上階の、鹿などの剝製を見ることになっていた。これは、二〇一四年の三月一一日のこと、つまり震災から三年が経ったちょうどその日のことになるが、Mさんと初めて会った時にも見たもので、太くてうねっている鹿の大きな角が格好良いなあと言い合ったような覚えがある。歩きながら、Skypeと声がちょっと違いますねと言う。いや、Nさんはそんなに変わらない。Yさんは、Skypeの声よりもさらに線が細いような、優しげな感じだった。丸眼鏡を掛けている風貌も穏やかで優しげな感じで、これを言うと多分本人は否定すると思うが、『ウォーリーをさがせ!』のウォーリーに似ている。Nさんはメロウで甘やかと言うよりは、どちらかと言えばクールな感じの顔貌と言って良いのではないか。女性の容貌をあまり云々言うのも良くないかもしれないが――髪は明るい茶で、短く切り揃えたショートカットである。唇はやはり赤い。
 歩いている途中、Nさんから詩を見ました、と言われる。先日作った二篇のことであろう。一つ目の詩の、「やりきれないな」の周辺部分が好きだったと言うので礼を返す。あれは適当に、と言うか、即興みたいな感じで作っちゃいましたね。「僕は詩になる」の方は多少考えたけれど、あれもまあ全然大したものではない。もっと鮮烈な言葉を生み出したいが、まあ自分の場合、所詮は手慰み程度のものにしかならないだろう。一番好きな詩とかありますか、と訊かれる。うーん、と考え、あまり自分の詩に好きという感じもないので、まあわかりやすいのはあれですけどね、「君がさみしくないように」、と受けた。Nさんはあれも好きだと言ってくれた。
 そうこうしているうちに博物館着。Yさんはもう一〇回以上来ているらしい。ベテランである。入館。Yさんが三人分、まとめて券を買ってくれた。六〇〇円ほどだったので、一〇〇〇円札を渡し、四〇〇円のお釣りを貰う。そうしてなかに入ったところで、Yさんがガチャガチャを発見する。興奮する彼。何か、何とか言う蛙の、あれはフィギュアと言うのか何と言うのか、人形? 小型の。それがレアか何からしくて、それを狙ってYさんはガチャガチャに挑戦したが、当たったのはウーパー・ルーパーだった。それで通路を通って地球館へ。エスカレーターで三階まで上がる。動物の部屋に。入口近くには子供たちが遊ぶスペースがあって、そのなかにも巨大なアザラシやシマウマの剝製が展示されていた。進んで奥に入ると、暗くなっている。こんなになっていましたっけ、と訊くと、以前は普通に照明があったとYさん。こちらが以前見た時もそうだったような気がする。室の中央に大きなスペースが設けられて、その周りを円形に回れるようになっている。スペースのなかには、鹿の仲間やチーターや豹、ライオン、虎、水牛、ゴリラ、などなど動物たちの剝製がたくさん展示されている。なかにはかなり巨大なものもある。「ボンゴ」と言う、体に縞模様が入った巨大な鹿が格好良かった。順路に沿って歩いていると、足もとがガラス張りになっていてその下にいる動物たちが見下ろせる、という一角がある。そこでNさんは携帯を足もとに向けて写真を撮っていた。その近くには、猿の仲間たちも展示されている。ピグミー・マーモセットだったか、物凄く小さい猿の仲間もいた。そこから向かい側、壁際には鳥の展示。身近にいる鵯とかメジロとか、ハシボソガラスとか、そのあたりの鳥から、巨大な禿鷲、イヌワシ、リーゼントみたいな髪型をした――髪型と言うか、あれは鶏冠の類だろうが――いかついオウムなど、普段目にすることのない鳥まで網羅。しかし、こちらは途中から、時鳥というのはどういう姿形をしているのかと探したのだが、どうも時鳥は展示されていなかったようで見つからなかった。最初の方にあったのを見落としていただけかもしれないが。
 ほか、覚えているのは雪豹と、トナカイ。トナカイの角というのは独特の、何か葉っぱのような形にひらいたような独特の形をしていて、何故あんなになっているんでしょうね、空気抵抗半端なくないですか、などと言って笑った。そうして一周して元の場所に戻ってくると、展示室を抜ける。フロアマップと言うか、各フロア紹介の看板の前に立ち、どうしましょうかと顔を見合わせる。それで、一階を見ようということに。エスカレーターを下りていく。一階。展示室へ。一階はどういう趣向だったのだろうか? テーマにあまり統一性がなかったと言うか、いや、あったのだろうが、どんなテーマだったのか忘れてしまった。虫とか、色々な種類の生物が雑多にいたような気がするのだが、ここで例の、鯨か何かの胃に寄生しているアニサキスという線虫の展示を発見した。これは以前来た時にも見て、そのグロテスクさに結構衝撃を受けたもので、それで覚えていたのだ。一見すると何か液体のなかに保存された巨大な脳のようにも見える肉色の臓器に、あれは何と言うのか――何か生えていると言うか、細長い、イソギンチャクの触手のようなものがびっしり貼りついていると言うか、そんな感じ。グロテスクである。
 それからさらに進んでいくと、また円形の部屋があって、ここには色々な、雑多な生物が展示されていて、なかに蝶の展示があった。ずらりと並んだなかにかなり大きいものもいて、展示番号で言うと三四番だったのだが、こちらが見ていると後ろを通ったカップルが、三四番、めっちゃでかくない、とか何とか漏らす。どうする、朝起きてあんなのが部屋にいたら、と男性の方が言い、女性は、いや無理、いや無理無理、とか何とか受けている。その三四番の蝶は、「ゴライアストリバネアゲハ」というもので、ゴライアスというのは旧約聖書に出てくる巨人ゴリアテのことであろう。確かダビデと戦った相手ではなかったか? それ以上の知識はないのだが。聖書も読めば面白いのだろうなあと思う。あとこちらが一番綺麗だなと思ったのは、青緑色のもので、オオルリアゲハとあったので、ああこれがオオルリアゲハというやつなのかと見た。
 二人から離れて一人でそのように楽しんだあと、二人と合流して、またどうするかとなった。Nさんに疲れていないですか、と訊くが、大丈夫だと言う。それでもYさんが、TULLY'S COFFEEに行こうかと口にして、それでまとまった。それで退館へ。通路をどう通ったかなど覚えていない。元の出入口ロビーに戻ってきて、退館すると、目の前に大きな鯨のオブジェが現れた。これもNさんは写真を撮っていた。道に出ると、Nさんが、Fさん、雨って好きですかと訊いてくる。いや、全然、と答えて、全然というほどでもないかと執り成していると、Yさんは雨が好きだって言うんですよ、と。だってこんなに空が綺麗じゃん、真っ白で、と見上げて彼。まあ確かに、茫漠とした、どこまでも続く一様な、均一な、整然とした軍隊のような統一感に溢れた白さではあった。雨がちょっと降り出していた。三人ともそれでも傘を差さず――こちらとYさんはそもそも傘を持っていなかった――歩き、文化会館横を通って公園の外に出て、あれはどちらの方角なのだろうか、まあよくわからないが、商店が立ち並んでいる方向へ進む。Yさんが言うTULLY'S COFFEEというのは、多分以前Mさんと会った時、つまり二〇一六年だが、と言うのはゴッホ&ゴーギャン展を見た時のことだが、その時にMさんと入った店ではないかと思っていたのだが、果たしてそうだった。この店でこちらは、当時読んだばかりだった『囀りとつまずき』についての感想を述べたのだったが、その際に、どのように説明しようか発言を考えすぎて会話の途中に大きな間を生み出してしまい、Mさんに、いや、めっちゃ考えるな、と突っ込まれたという覚えがある。その店に入ったのだが、こちらが危惧していた通り、なかは満員、三人座る余裕はとてもなさそうだった。席も空かなさそうである。いや、「空かなそう」か? どちらが正しいのかわからないが、と言うか、注文の順番を待ちながら店内に目を配って光らせていたのだが、全然空かなかった。それでそれぞれ品物を注文。こちらはブラッド・オレンジ・ジュース。Nさんもそれを頼んでいた。それで仕方がないので外へ。もう上野駅へ行ってしまえばよいのではという案も出ていたが、結局、店の外に留まる流れに。そこに一席あったので、Nさんに、Nさん、座って下さいと勧めると、何故か彼女は大層恐縮して、いや、私は大丈夫です、Fさんこそ、となった。Yさんにも勧めてみたが、彼も良いと言うので、それじゃあ俺が座ろうというわけで腰掛け、偉そうに脚を組んだ。二人はこちらの周りに立っていたわけだが、こちらはオレンジ・ジュースをちょっと啜ってから地面に置くと、バッグから淳久堂の包装に包まれた『岩田宏詩集』を取り出し、Nさんに、これ、プレゼントですと言って差し出した。Nさんはえっ、と瞬間絶句し、非常に驚き、良いんですかと恐縮してみせたので、是非読んでくださいと渡した。Yさんには、こちらがNさんにプレゼントをするつもりだというのがバレていたらしい。先日、本屋で包装を頼んでいるところの日記を読んで感づいたようだ。こちらも、あれを書くと感づかれるかなと思って書くかどうしようか迷ったのだが、結局、誰にプレゼントするのかという点には触れないまま、プレゼントの包装を頼んだという経緯は書いたのだった。それについて、僕も書こうかどうしようか迷ったんですけどね、でもまあバレてもいいかなと思って、と言うと、事実を書かないことってあるんですかとNさんが訊くので、まあ、すべてを書くことは出来ないですからねと曖昧に受けた。
 そのうちに席がもう二つ空いたので、こちらが座っていた席もそちらの方にずらして、こちら、その左隣にNさん、そのさらに向こうにYさんという順で腰掛けた。時刻は四時一五分とか二〇分とかそのくらいだったと思う。それから四時五〇分過ぎくらいまで雑談を交わして時間を過ごした。Nさんは、こちらの日記のなかでは買い物をしている日の記述が好きだと言った。服を買っている時など、店員とのやりとりや衣服の描写が好きなのだと言う。なかなかニッチな好みではないだろうか? そのほか、互いの居住地区について田舎自慢をしあった。Yさんがスマートフォンで画像検索した彼の住んでいる地域の画像を見せてもらったのだが、田んぼなどもあるようで、確かになかなか田舎のようだったが、しかしそれは町の中心部から離れた周縁部の風景であろう。都市部は商業施設など普通にあるに違いない。その点我が青梅は貧しい、中心的な市街と言ってせいぜい河辺くらいのもので、そこにあるのも駅の近くで言えば図書館と西友と先日までTOKYUが入っていたビル――これは八月からイオンとしてリニューアル・オープンするらしい――くらいのものである。さらには、こちらの最寄り駅付近で言えば、駅前にはコンビニの一軒もない体たらくである。一応、駅から一〇分くらい歩いたところにセブン・イレブンがあるはあるが、その程度である。スーパーもない。貧困! 東京の端でさえそのような感じなのだ。Nさんの住んでいるところも結構田舎らしかったが、しかしやはり都市部に行けば色々とあるだろう。
 そのうちにYさんが、『バットマン』か何かの映像を見せてくれた。そのほか何を話したのだろうか? いつものことだけれど全然思い出せない。今日見に行くバンドは誰なんですかと――Nさんはこのあと、青山でインディーズバンドのライブを観る予定だった。ちなみに明日も夜からは同様、別のバンドのライブを観るらしい――Nさんに訊くと、全然知らないと思うんですけど、GOODWARPって言って、との返答があった。全然知らなかった。「客観的に言うと」、もうあまり人気がなくて、東京でしか活動していない、福岡に来るとしても自費で来なければならない、そんな境遇のグループらしく、ジャンルとしてはシティ・ポップ風味と言うか、EDM――というものもどういう音楽なのかこちらはよく知らないのだが。四つ打ちの打ち込みのやつだろうか? ――が混ざったポップスみたいな感じらしい。Nさんは結構音楽の趣味は良い方だと思う――偉そうな言い分だが――ceroなど聞いているし、FISHMANSも気に入ってくれた。
 そうだ、忘れないうちに大事なことを書いておかなければならないが、Nさんからも九州土産を貰ったのだった。九州限定、「ひよ子のピィナンシェ」というやつである。「ひよ子」というサブレのような菓子があったと思うのだが、それのフィナンシェ版ということのようだ。有り難く、礼を言って頂いた。そして、これも大事なことだが、Yさんからもこちらにプレゼントがあった。古本で悪いんだけど、と彼は言ったが、彼が好きな漫画家の、カシワイという人の『107号室通信』という漫画である。この人はpanpanyaと結局同一人物なのか否か? 真相は知れないのだが、絵柄は似ている。panpanyaは以前一冊持っていたけれど、売ってしまった。
 Nさんに、乗る電車は把握していますかと訊くと、彼女は把握してませんと焦って、その場で検索を始めた。目的地は青山三丁目、上野から銀座線で渋谷行きに乗れば一本のようだった。それで、その時点で四時五〇分頃だったので、そろそろ行きましょうかとなった。席を立って、通りを渡り、JR上野駅入口から入る。あそこは何口なのだろう? まあともかく、入った。そうして通路を辿っていき、中央改札前に出た。銀座線は中央改札前を右に折れて、その先の階段を下った先のようだった。それで、銀座線の入口まで見送りしますよと言って、三人で階段を下って行った。そうして銀座線改札前に着き、有難うございましたと礼を交わす。明日は六本木に一二時、七番出口です、と確認して、そうしてNさんは去っていった。
 それでYさんと二人、道を戻り、中央改札をくぐる。途中まで通路を一緒に辿り、道が分かれるところまで来ると、それじゃあ、今日は有難うございましたと挨拶を交わして、別れた。こちらは山手線。階段を上がっていく。まもなく電車来る。乗って扉際。クラッチバッグは頭上の棚に置き、携帯を取り出して日記を綴る。道中、車内には外国人三人。なかの一人がコーラらしき缶を持って飲んでいた。英語で話していたと思う。内容はまったく聞き取れなかったと言うか聞いていなかったが。それで新宿まで。新宿に着くと押し出されるように降りて、階段下る。新宿駅は改装中なのか、以前一一・一二番線ホームに続く通路階段があったところは閉ざされていた。それでかなり遠回りして、群衆のなかの無限小の無意味な一片と化して移動し、ホームへ上がる。階段しかないので、老人などはこれは大変だぞと思った。河辺行きは見送り、ホームの端に移動して高尾行きに乗る。そうしてまた扉際で携帯をかちかちやり続ける。
 立川までの道中に特別のことはない。腹が減っていて、ラーメンを食いたい感じがしたので立川で一回駅の外に出て食って帰ることにした。それで降りると階段上り、改札抜け、北口へ。広場抜けて、エスカレーターを下り、ドラッグストアの横から裏道へ。そうして「味源」へ。ビルの二階。入ると客は全然いない。六時半頃という時間のわりに。食券機で味噌チャーシュー麺(一一五〇円)を購入。サービス券と一緒に近づいてきた店員に差し出し、餃子で、とサービス券の方は注文する。それで席に就き、冷水をコップに注いで口にする。品物を待っているあいだも携帯をかちかちやって、ラーメンが来ると携帯は仕舞って食事に専念した。モヤシ。麺。チャーシュー。メンマ。それらを貪り食う。水を時折り冷たい水を飲みながら飲んで舌を洗ってリセットしながら飲み、食う。この店は最近、愛想のない野郎の店員しか見かけず、前にいた女性店員はもう辞めてしまったのかなと思っていたのだが、そうではなかった、今日は姿を見せていた。餃子も醤油を掛けて、醤油と酢を掛けて食い、ラーメンの汁は蓮華で掬ってたくさん飲む。すべては飲み干さないが。掬っているあいだに底の方に沈んでいたモヤシや肉の欠片などが出てくるので、箸に持ち替えてそれらを搔き出して口に入れる。そうして大方スープを飲んでしまうと、ティッシュを取って鼻をかみ、水を飲み干して立ち上がり、ご馳走様ですとカウンターの向こうの店員に掛けて、退店。ビルの外へ。駅方面へ。裏通りから出て、階段上る。空は暮れ方の淡い青。偏差なく広がっている。高架歩廊を歩き、駅舎に入り、群衆の一部、無意味な粒のような泡のような一小片と化し、流れに任せて進んで行き、改札を抜ける。青梅行きは一番線から六時五一分。現在時刻は六時五〇分になろうとしているところだった。それでも急がず慌てず鷹揚に歩いていき、階段を下りてホームに入り、一号車に近づいて乗り込む。普通に間に合った。座れないかなと思っていたのだが、端に空きがあったのでそこに腰掛ける。ここでは携帯で日記を書くのはやめ――何しろもう九〇〇〇字分くらい書いていたので、いい加減面倒臭くなっていたのだ――手帳を眺めることに。道中、特段のことはなかったと思う。手帳は一項目五回ずつくらい読むことを心掛けているが、この日の朝からの読み込みでもう書いてあることの大方をさらったと言うか、一周して最新の箇所に戻ってきた。『ポピュリズムとは何か』からの情報である。ポピュリストは、自らが人民の唯一の正統な代表であることを主張する。そして、一部の人民のみが真正な人民であるという観念を拠り所にする。彼らの眼鏡に敵わないと言うか、端的に彼らを支持しない人々は「人民」の枠からは外れるのだ。そうしてポピュリストは彼らが唯一人民を――それも直接[﹅2]――代表すると主張するので、自らを人民全体と同一視する。つまり、端的に言ってドナルド・トランプに反対するものは人民全体に反対している[﹅11]とされる。そんなような話だ。
 最後の方はちょっと眠くなって手帳を眺めながらうとうとした時間があったようだ。降りる。青梅。空は濃紺。光は失われているが色味はまだ辛うじて残っている。ホームを歩き、やって来た奥多摩行きに乗る。三人掛け。そうして引き続き手帳を眺め、じきに発車。しばらくして到着。最寄り駅。降りる。ほかに降りた人は少ない。駅舎抜け、横断歩道渡って坂道へ。暗い木の間の坂の途中で、遠くから何やらマイクを通したような音声が響いてくる木の、樹間を抜けて。最初は選挙戦も終盤を迎えてまだ頑張っている候補がいるのかと思ったのだが、そうではなくて、じきに、児童遊園で盆踊りが催されているのだとわかった。そうして帰路を辿る。
 帰宅。母親に挨拶。父親は盆踊りを見に行くのかと思えば行かないと言う。今はもう風呂に入っていた。カバー・ソックスを脱ぎ、洗面所の籠に入れておき、下階へ。部屋に入るとシャツとズボンを脱ぎ、パンツ一丁になる。それでコンピューターを点け、Twitterにアクセスすると、先日大澤聡『教養主義リハビリテーション』について呟いたツイートを、著者本人が引用して言及してくれていたので、驚いた。有難いことだが、このTwitterと言うかSNSと言うかインターネットというものの、距離の近さ、こうして簡単にプロの批評家と曲がりなりにもコミュニケーションが取れるということの距離の近さみたいなものは、何なのだろう、良い面でもあると思うのだが、何となく落ち着かないと言うか、恐縮する。恐れ入るような感じがある。それで、感想をちょっとまとめてリプライを送った。感想と言っても、大方は以前日記に書いた事柄の焼き直しだが。以下のような文言である。

 著者御本人からの言及、有難うございます。『教養主義リハビリテーション』ですが、こちらとしては竹内洋さんとの対談が特に啓発的でした。例えば七〇頁や七三頁などに見られますが、竹内さんの提示した文脈に対して大澤さんが間髪入れず、打てば響くように適切な補足情報を加えていらっしゃって、批評家という人々は本当に幅広くものを読んでいるのだなあと尊敬の念を抱かされること頻りでした。また、この対談で語られていたような戦前の「教養」の歴史といったものにこちらは今まで馴染んでこなかったものですから、耳にしたことのない固有名詞が色々と出てきて刺激的で、知の世界というものはやはり途方もなく広いものだと痛感させられました。そうした意味で、この対談自体が、伝統的な形での「教養」を一種体現しており、読者を「教養」に向けて触発するような一つのモデルとなっているのではないでしょうか。勿論、大澤さん御自身にそうした自負が少なからずなければ、タイトルに「教養主義」という言葉を掲げるわけには行かなかったのではないかと愚考しますが――ともあれ、以上のような意味でとても「ためになる」読書をさせていただいたと思います。有難うございました。

 それで入浴へ。上階に上がり、洗面所に入り、服を脱いで、と言うか脱ぐまでもなくもうほとんど脱いでいたのだけれど、それでさっさと入って、湯に浸かり、頭と身体をさっさと洗って出てくると、やはりパンツ一丁で自室に帰った。コンピューターの前に座って日記を書きはじめたが八時五五分、打鍵しているだけで背に汗が吹き出す蒸し暑さである、風呂から出たばかりだということもあっただろうが。そうしてそれから三時間ほど、途中、インターネットに寄り道をしながらも、基本的にぶっ続けで日記を綴った。音楽はFISHMANS『Oh! Mountain』、『Neo Yankees' Holiday』、Blue Murder『Nothin' But Trouble』に、John Mayer Trio『Try!』。これでやっと現在時刻に追いつくことが出来た。ここまでで一万五〇〇〇字強、今日は綴っているわけだが、今日のうちに現在時刻に追いつけたというのは端的に言って快挙である。素晴らしい。勤勉だ。現在はもう日付替わりも済んで、零時一七分。John Mayerが"I Got A Woman"でブルージーなギターソロを披露している。
 ああそうだ、書き忘れていたが、一一時半頃に一度部屋を出て上階に上がった。喉が渇いたので冷たい飲み物を求めに行ったのだ。ついでに、右足の甲に絆創膏を貼っておいた。カバー・ソックスのために甲が露出していたので、今日たくさん歩いているあいだに靴の縁が肌に擦れて、皮が剝けてしまい、ちょっと痛くなっていたのだった。絆創膏を貼っておけば明日は大丈夫だろう。それで飲み物の方は、冷蔵庫を探っても緑茶しかなかったので、仕方なくそれを飲むことにした。もう少し甘みのあるものを所望していたのだが。下階に戻って、Nさんに貰った「ひよ子のピィナンシェ」を早速食べた。これは家族には分けず、自分一人で頂くことにする。
 そうしてベッドに移って読書。ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』。ヴィクトル・オルバーンの発言がふたたび触れられている。「ハンガリー憲法が批判された場合、その批判は、政府に対するものではなく、ハンガリー人民に対するものなのである」。政府と人民の直截な同一化。二時四〇分前まで読んで就寝。最後の方では例によって少々意識を失っていたような覚えがある。


・作文
 6:55 - 7:09 = 14分
 10:46 - 10:56 = 10分
 20:55 - 24:22 = 3時間27分
 計: 3時間51分

・読書
 8:22 - 8:42 = 20分
 8:47 - 9:02 = 15分
 9:04 - 10:30 = (45分引いて)41分
 24:27 - 26:34 = 2時間7分
 計: 3時間23分

・睡眠
 2:00 - 6:25 = 4時間25分

・音楽

  • Blue Note All-Stars『Our Point Of View』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • FISHMANS『Neo Yankees' Holiday』
  • Blue Murder『Nothin' But Trouble』
  • John Mayer Trio『Try!』

2019/7/19, Fri.

 わたしはわたしの水っぽい論理の力で
 雲やフィルムや卵について説明できないが
 それでもわたしたちの弱さを理解していた
 わたしはそれをどうしても詩に書こうと思い
 時間の経過を忘れ よろこばしさを忘れ
 恋の恨みのように心のしこりを保ちつづけた
 あなたもわたしも何一つ産み出していないこと
 いつも強い者の影や活字や貨幣におびえて
 口を手足を心を動かしているにすぎないこと
 だがそれを詩に書こうと思い立つと
 たちまち内側が曇り始めるのだった
 詩とは強さの証明の一形式だから
 だれだって自分が弱いとは言えないのだ
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、220~221; 「のぞみをすてろ」; 『頭脳の戦争』)

     *

 団結しろ万国のまよなかの白痴ども
 きみらのことは誰も詩に書かない
 なぜかというときみらが詩だからだ
 詩なんてものには詩でないことが書いてあるのだ
 (224; 「のぞみをすてろ」; 『頭脳の戦争』)

     *

 こぎれいな詩の一つも書いたら
 夜が明けぬうちに死にゃよかったのだ
 あくるあさの味噌汁が濃くも薄くも
 おれたちの知ったことかい
 (240~241; 「毒ある世界で」; 『グアンタナモ』)

     *

 声が叫んだ「はじめに母ありき!」
 かあさん! わたしは写真を裂きます
 声が歌った「めらんこりい……」と
 ピックアップ! わたしはレコードを割る
 声が笑った「さよなら キスして」
 焼きます あなたの手紙 いとしいあなたも
 声が語った「生きるために死ぬこと」と
 時計! わたしは倒れる 倒れてつぶやく
 (267~268; 「自家中毒」; 「その他」)


 一一時まで寝坊。しかし寝坊と言っても、三時半からで考えると七時間半ほどの睡眠だから、むしろ適正の範囲ではないか。母親からメールが入っていた。外の傘とアイロンを見てくれと言う。メールを確認するとふたたび寝床に戻り、二度寝に陥るのは避けられたがしばらくぐずぐずする。空は雲が大量に湧いて量感豊かに盛り上がっている。広く空を埋めているが、合間に青さも見えて、陽射しもベッドの端に落ちている。一一時一五分か二〇分かそこらになってようやく起き上がった。そうして上階へ。アイロンはスイッチがきちんと切られてあった。便所に行って放尿してから、サンダルを突っ掛けて玄関を抜け、外の柵に掛けて干してあった黒傘を仕舞う。そうして室内に戻り、鮭があると書き置きにあったので冷蔵庫からそれを取り出し、四つの塊に分けられたうちの一つを皿に取り出して、電子レンジで加熱。米もよそって、たった二品の簡素な食事を卓に運んだ。新聞一面は、当然、京都アニメーションの放火事件がセンセーショナルに、見出しが黒い帯の地に白抜きの文字で扱われている。死者は三三人とのこと。なかに性別不明の人が一人混ざっているというのが、火勢の激しさを物語るようだ。被害者の恐怖、恐慌の様子も語られていた。犯人は埼玉居住の四一歳の男。京都アニメーションに何らかの恨みを持っていたらしい。「パクりやがって」とか発言していたらしい。その彼も火に巻かれたようで火傷を負い、重体だと言う。
 食事を終えると抗鬱剤を飲み、食器を洗って風呂場に行った。アニメ好きのKくんなどは衝撃を受けているだろうなと考えながら風呂桶を擦った。アニメ好きの人々の怒りと悲嘆は並々ならぬものがあるだろう。テロリズム的な観点から見ても大きな事件だ。人間という存在が、こういうことが出来るのだということ、人間存在の悪辣さと言うか、黒々としたものを改めて感じさせる。仮に本当に盗作されたのだとしても、こうした事件を起こすまでの巨大な憎悪を募らせることが出来るのだということ、その激しさにはやはりぞっとするようなものを感じる。何が犯人をそこまで駆り立てたのだろう?
 風呂を洗い終えると下階へ。コンピューターを点け、Evernoteをひらき、前日の記事の記録を付けると、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を綴りはじめたのが一二時一〇分。それから四五分ほど経って、現在一時直前。
 前日の記事をインターネットに投稿。noteにアクセスすると、前日、初めて記事を有料設定してみたのだが、それが早速売れていたので驚いた。有料設定と言っても僅か一〇〇円であるし、加えて読める範囲を一番下までに設定して、要するに全文無料で読めるけれど気に入ったら一〇〇円を寄付してくださいといういわゆる「投げ銭」システムを導入してみたわけなのだが、まさか早速投げ銭してくれる人が現れるとは思わなかった。感謝と言うほかはない。それで今日も全篇公開、ただし一〇〇円を払いたければ払えるという設定にして投稿し、それから『曽根ヨシ詩集』の書抜きを始めた。三〇分ほど書き抜くと、ベッドに移って読書、ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』だが、早々に眠気にやられて落ちる。一時間半くらいは微睡み、あるいは眠らなくとも目を瞑っている時間が続いたようだ。三時四〇分になってようやく意識をはっきりさせ、四時まで本を読み進めたあと、上階に行った。まずベランダの洗濯物を室内に取り込んでおき、それから冷蔵庫からジャガイモ――小さな種類のやつが丸のまま蒸されたもの――を取り出して、いくつか別の盛り皿に取り分けて、電子レンジで加熱した。そのほか白米とゆで卵である。卓に就き、新聞を読みながらそれらを食すと、食器を洗ってから洗濯物を畳みはじめた。タオルや肌着の類を畳んで、タオル類は洗面所に運んでおき、そうして下階へ。歯磨き。それから着替えようということで、その前に上階に上がって制汗剤ボディ・シートで肌を拭った。拭ったのだが、自室に戻ってコンピューターの前に就くとそれだけで汗が湧く蒸し暑さで、今こうして打鍵していても肌がべたついてきている。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流して「記憶」記事を一〇分少々音読したのち、着替えようかと思ったのだが、ワイシャツを着ると酷く暑そうだったので、先に日記を書くことにした。ここまで綴って五時直前。今日は電車で行く。雨のなか歩くのが面倒臭い。先ほどから雨が降り出して、一時は土砂降りと言うか、天の女神の号泣のような甚だ激しい降りになったのだが、今少々和らいだようだ。
 仕事着に着替えて、と言うかワイシャツを着用して、スラックスにも履き替えた。非常に暑い。クラッチバッグに携帯やら財布やらを突っ込んで、上階へ。便所で用を足してから出発。雨はまた激しく降りしきっている。黒傘をひらいて一旦外に出て、階段を下りてポストまで行くと、夕刊と電気料金の領収書を持って戻ってきた。それを玄関内の台に置いておき、出発。雨が激しく傘の上を打ちつける。クラッチバッグが濡れないように身に引き寄せて抱えながら西へ行く。坂の入口、脇の溝には素早い水流が出来ており、途中で落葉が溜まって垣を成していた。坂道を上っていき、横断歩道に出る頃には、早くも雨はほとんど止んでいた。傘を傾けながら通りを渡ると、楓の枝葉が激しい雨に打ちつけられて水を含み、重く垂れ下がってこちらの頭のあたりにまで下りてきていた。葉を傘の天辺に擦りながら通り抜け、階段通路に入って傘を閉ざした。ホームへ。屋根の下で手帳を取り出し、電車が来るまでのあいだ知識を復習する。非常に蒸し暑く、坂を上って来たあとだと立っているだけで汗だくになり、捲った袖から伸びる腕の肌が全面水気に覆われてべたべたとする。
 じきに電車がやって来たので乗車。扉際で手帳を眺めながら到着を待ち、青梅に着くとホームを歩いて通路を渡り、改札を抜けると職場に行った。入ると、今日も前日と同じく室長の姿は見えず、(……)さんが室長代理としてデスクに就いていた。今日の相手は(……)さん(高一・英語)、(……)くん(中三・社会)、(……)くん(中三・英語)。授業準備は大方社会の予習に費やされた。そうして授業。まあ概ね問題はない。リスニングが出来なかったのだが、これは授業後に(……)さんに操作方法と言うか、表示の方法を教えてもらったので次回は多分行けると思う。(……)さんが英語が苦手で、三単現の理解すらも危ういくらいなのだが、今日は受動態を扱った。一つ一つ、事柄を丁寧に分解しながら解説し、誘導して問題を解かせたので、わりと理解は深まったのではないか。
 今日はこの一時限のみ。終わると入口付近に行って生徒の出迎え、見送りを行い、片付けたあとに久しぶりに(……)さんにチェックをしてもらった。とは言え、先にも述べたように大きな問題はない。(……)くんが教材をすべて忘れたくらいである。チェックをしてもらったあとはロッカーから荷物を取り出して退勤。職場を出て駅に向かった。改札を抜けてホームに上ると、また今日も二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買ってしまった。ベンチに就いて手帳を取り出しながらそれを飲み、飲み干すと荷物はそのままに席を一旦立って自販機横のダストボックスに捨てる。戻ると、こちらの隣席には坊主頭の野暮ったい格好をした男性が就いていた。その人が、こちらが手帳を読んでいる横で、急に呼吸を、音を立ててやや激しく繰り返しはじめた。どうもあれはヨガの「火の呼吸」の真似事をしていたのではないか。スマートフォンを弄ったり、本を読んだりすることもなく、手を身体の前で組んで、背筋を伸ばしていたので、瞑想じみたことをやっていたのではないかと思う。
 じきに電車が来たので乗り、三人掛けに就いて引き続き手帳を繰る。発車は遅れていた。立川方面から向かいの番線にやって来る電車が一〇分ほど遅れていたので、その電車からの乗り換えを待つ奥多摩行きも必然的に発車が遅れるのだった。最近、青梅線及び中央線はどうもやたらと遅れていないだろうか? まあ別にこちらは手帳を読む時間がそれだけ増えるわけなので良いのだが。発車してしばらく揺られ、最寄り駅で降りると、植物から発されるような匂いがした。ホームを歩いていると先ほどの坊主頭の人がこちらを抜かしていく。彼の後ろに就いて階段を上り下りし、駅を出て横断歩道を渡ると、木の間の坂道に入ってもその姿が前にある。近所に住んでいる人らしい。ゆるゆる坂を下りていくと、相手はさらにもう一本、電灯もなくて暗々としている坂を下って行った。こちらは東へ折れて、帰路を辿り、帰宅。雨はもう降っていなかった。
 なかに入り、小さな声で母親にただいまと挨拶して、ワイシャツを脱いで洗面所の籠に入れる。そうして自室へ帰る。スラックスを脱ぎながらコンピューターを点け、Skypeにログインすると、Yさんから、明日寝坊しないようにねとのメッセージが届いていた。わりとマジで起きられない可能性はある。一応九時にアラームが鳴るように設定したが、果たしてベッドに戻る欲求に打ち勝てるか否か。メッセージは一旦放っておき、ハーフ・パンツ、と言うかあれはステテコ・パンツか、それを履いて上階へ。食事。先日作った天麩羅の、冷凍されていた残りと、米と、胡瓜やトマトのサラダにオクラ。そのほか、お吸い物を利用した卵や菜っ葉の味噌汁。テレビはニュースだったか。天気予報を流していた。食べ終わる頃に九時に掛かって、京都アニメーション放火事件の報が流れはじめた。こちらは薬を飲み、食器を洗うと、ソファに座ってちょっとニュースを眺めた。犯人はアパートの周辺住民とたびたびトラブルを起こしていたらしく、騒音を注意しようとした隣人が、胸ぐらを掴まれ、髪を引っ張られて、「殺すぞ」と凄まれたと語っていた。「殺すぞ」「こっちには余裕がねえんだ」「もう失うものはないんだからよ」などと一方的に捲し立て、それが一〇分くらい続いて会話にはならなかったと言う。精神的に常軌を逸したタイプの人間だったのだろうか。動機については「小説のストーリーを盗まれた」と漏らしていたらしいが、これも妄想の類なのだろうか?
 そうして下階へ。YさんとSkypeでやりとり。その後、「記憶」記事を音読しはじめたが――『古事記』の序盤のストーリーの略述――まもなく母親が風呂から出たらしく天井が鳴ったので上へ。入浴。髭とともに顔の産毛を剃った。そうして出てくると、パンツ一丁で居間に出る。母親が、ゼリーを食べようかと言うので半分ずつ分け合って食べることに。アロエの入った白いヨーグルト・ゼリーの類である。スプーンを二つと、そのゼリーを持ってソファに就いている母親に近寄り、皿に半分を取り分けてもらい、半分が残った容器を貰って立ったまま食べた。容器を洗ってゴミ箱に捨てておくと、下階へ。Nさんからもメッセージが届いていたので、楽しみにしていますと返信し、一〇時から日記を書きはじめた。ここまで書いて三〇分。BGMはBlue Note All-Stars『Our Point Of View』。
 それからインターネット記事。星浩「志半ばで逝った「外交」の小渕首相 平成政治の興亡 私が見た権力者たち(10)」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019021400005.html)と、結城剛志「「最賃上げ」4つの誤解。最低賃金を上げても物価は上がらない。<ゼロから始める経済学・第5回>」(https://hbol.jp/190293)。金大中が開放するまで、韓国では日本の映画や歌謡曲が禁止されていたということを初めて知った。浅学である。五〇分ほど掛けて読んだのち、ベッドに移って書見。ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』。時折りメモを取りながら、二時間二〇分のあいだ読み続ける。メインの論旨からは外れる傍系的な部分だが、選挙は常に貴族政的な要素を含むという学説が紹介されていて、それは確かにそうだなと思った。もし我々があらゆる市民は平等であると本当に信じているのなら、古代ギリシャと同様に公職を選ぶのに選挙ではなくて、くじ引きによる抽選を採用しているはずだと言うのだ。また、ポピュリストは、全ての個々人と繋がっているという感覚を与えなければならないという分析も。従って、彼らは「人民に近いこと」をアピールする。そのために、例えばハンガリーのヴィクトル・オルバーンは毎週金曜日にラジオのインタビューを受けているし、ベネズエラウゴ・チャベスは「こんにちは大統領」というテレビ・ショーの司会を務めていた。仲介者抜きで人民と一体化しているということを彼らは演出するわけで、ポピュリストの大方がメディア批判をするのもその観点から理解出来る。言うまでもないが、メディアとはまさしく仲介者そのものである。彼らの主張するところでは政治的現実を歪めて伝えるそうした媒介者の排除を表す概念として、ナディア・ウルビナーティという人が「直接代表」という言葉を案出しているらしい。
 二時に至る前に読書を切り上げ、洗面所に行って水を二杯飲んだあと、明かりを消して薄布団の内に潜り込んだ。上半身は裸で、パンツ一丁のままだった。暑く、寝苦しい夜で、布団の下の肌が汗を帯びるのですぐに接触面積を減らして、脚や腕を布団の下から出し、腹のあたりに掛けるのみにした。眠りはなかなかやって来なかったが、一時間ほど経った頃には一応、微睡みの世界に入れたようだった。


・作文
 12:10 - 12:54 = 44分
 16:51 - 16:59 = 8分
 21:59 - 22:31 = 32分
 計: 1時間24分

・読書
 13:10 - 13:39 = 29分
 13:44 - 15:58 = (1時間半引いて)44分
 16:30 - 16:42 = 12分
 21:19 - 21:25 = 6分
 22:32 - 23:19 = 47分
 23:33 - 25:53 = 2時間20分
 計: 4時間38分

・睡眠
 3:30 - 11:00 = 7時間30分

・音楽