2018/2/2, Fri.

 一度覚めた時に時計を見やると二時四〇分で、毎日驚くほど正確だなと思った。薬を飲んで九時まで眠り、ボディスキャンをしてから起き上がる。上階に行くと、外は雪景色である。立ったまま居間の南窓を見通すと、川沿いの樹々が雪を施されて、白さが樹々の合間に差し挟まったために遠近の境が曖昧になり、全体としてボリュームを増したような風に見えた。朝食中は、あまり気分が晴れなかったようである。
 一〇時半から正午過ぎまで、読書をしている。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。途中、白い空に太陽がうっすらと見えた時間があった。音読をして気分が少々明るいようになり、その後、運動である。
 そうして昼食へ。確かこの時は煮込みうどんを食べたのではなかったかと思うが、ものを食べると副交感神経が働いたのか、穏やかな気分になった。芸能人の女性たちが格安の着こなしを競う番組を眺め、食後、炬燵で休んだ。その後、外へ。隣の(……)宅の入り口の階段を掃除しようというわけで、母親と一緒に雪搔きを行った。母親は塵取りを使い、こちらは大きなスコップ型の雪搔きを操って、段の上の雪をすくっては、階段を上り、道に出て、林のほうへと投げ捨てて行った。(……)の家の階段を掃除し終えると、その後、自宅の前もいくらか綺麗にする。合間、母親は駐車場の隅で、濃いピンク色の手袋を付けた手で雪をぺたぺたとやって、不格好な雪だるまのようなものを作っていた。その子どものような様子、また、目を向けると返されてきた笑みに、何かちょっと心が和むような気持ちが湧いた。
 室内に戻ると、二時半になっている。自室に帰ると、やはり自分のいまの状態に対して不安が抜けきれないのだろう、ヴィパッサナー瞑想認知行動療法について検索してしまい、それに時間を費やして、書き物をする時間がなくなった。二〇分だけ前日の日記を記すと、外出の支度に入る。上階に行って、豆腐を温めて食べた。この頃には、川沿いの樹々の雪がもう溶けてなくなっていたので、あまり大した降雪ではなかったと言えよう。
 家を出発すると、林のほうから、梢の雪が落ちて竹の葉を掠めて鳴らし、また地にも連続的に当たる音が立つ。姿は見えなかったが、烏が樹冠のほうで鳴き声を降らしていた。坂を上っているあいだにも、脇の林から雪の落ちる響きが続く。
 裏通りを行きながら、空き地にふたたび敷かれた雪のまっさらな白さに目をやっていると、反対側から激しい猫の鳴き声が立って驚いた。見れば、自動車整備工の敷地に、二匹の猫がいる。一匹は細めのもの、もう一匹は相対的にやや肥えたように見えるもので、細いほうが何かやたらと地面に寝転んで身をくねらせているその周りを、もう一匹が回っていた。
 この日の勤務中は、何か気が逸っていたと言うか、不安があったと言うか、落着かずに時間が過ぎるのを待つようなところがあったようである。終わると、もうすぐに帰れるからというわけだろう、一応落着いて、電車が入線してくる時間まで待ち、退勤すると駅に入った。
 帰るといつも通り、ストーブの前に座って身体を温めるのだが、そうしているうちに父親が帰ってきた。アイスを買ってきたと言う。これはあとで食後にいただいたのだが、濃厚な味の美味いもので、食器を洗っている父親と並んだ際に、礼を言っておいた。夕食は鶏肉とグラタンを混ぜたような料理だった。
 入浴を済ませて室に帰ると一一時半頃、眠る前に少々本を読もうと思ったが、意識を保つことができず、いつの間にか時間が過ぎており、零時半になって諦めて就床した。

2018/2/1, Thu.

 やはり三時前に覚める。しかし、心身の緊張感というのはあまりなかったようだ。もう慣れたもので、さっさと薬を飲んで再度寝入り、何度か覚めながら八時頃まで眠った。起き上がる前に横たわったままボディスキャンをしておき、八時半頃、身を起こした。上階に行き、いつも通り母親に挨拶をして、ストーブの前に座る。ちょっと身体を温めてから洗面所に立ち、髪を梳かしたり顔を洗ったりする。食事は、炊飯器の米がもう最後だったので、固まったものを椀に取って、茶漬けにした。ほか、前夜の汁物の残りである。曇りの日で、何でもまた雪が降るとかいう話だった。
 食器を洗い、風呂も洗って下階に戻ると、一〇時前から読書を始める。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。初めはベッドに腰掛けて読んでいたのが、じきに寝台の上に移って、布団を身に掛けながら脚を伸ばし、さらには終盤では枕に頭を乗せる、という風に移行しながら一二時半まで長く読み続けた。昼前の曇天は平板な白さのなかにほんの少し青さが含まれており、一一時頃だったか、窓の右上のほうに太陽の作る丸く小さな穴も見えた。途中、視界の端を何か横切ったと見れば、近所の家の電波受信アンテナの上に烏が一羽、止まっており、その様子をじっと見つめた。烏は後ろ羽をちょっと広げながら短めに鳴き声を上げていたが、それに応じたものか、遠くからもっと長く伸びた声が返るように響いてきていた。じきに、緩く滑空して、別の家の建物で隠されて見えないほうに行ってしまった。
 読書に切りを付けると、昼食を取りに上階に行く。母親は石油などを買いに出かけていた。うどんが一つあると書置きにあったので、冷蔵庫からそれを取り出し、フライパンを使って少々湯搔く。一方で、汁物はもう残りが乏しかったので、麺つゆと水を足して嵩増しし、湯搔いたものをそちらに入れて煮込みうどんとした。それを丼によそって卓に運んでから、豆腐を電子レンジで温めて、加熱を待ちながら食事を始める。豆腐も卓に並べて食べていると、母親が帰ってきた声がして、石油を運んでくれと言うものだから玄関から出て、車の後部に乗ったポリタンクを勝手口のほうに運んだ。ついでに、ポンプを使ってもう一つのタンクのほうに中身を移しておき、それから室内に戻って食事を続けた。
 昼食後には眠気が湧いていた。母親が、世界遺産を紹介するテレビ番組を録画しておいたらしく、それを流しはじめたので見る。取り上げられるのはベルギーはブリュージュで、ここは二〇一四年の渡欧の際に訪れた場所なので、それで母親も録画したのだ。見覚えがあるような運河や町並みの様子が映る。ブリュージュはその旧市街と、鐘楼と、ベギン会の修道院の三つが世界遺産として登録されているのだが、初めに紹介されたのは鐘楼だった。ここには多数の鐘が設置されていて、ピアノのようにしてそれを演奏できるのだ。と言っても、ピアノとは異なって鐘に繋がっているわけだから、その鍵盤は太く大きく、演奏者は拳を握り込むようにして叩いて奏でていた。鐘は、小さいものでは一二キロから、大きなものでは五トンにもなるとか言っていたと思う。
 その他、我々も訪れたマルクト広場やベギン会の修道院、また、なかには入らなかったがビールの醸造所なども映し出されるのを見て、下階に行った。三時前から他人のブログを読んでいる。その後、書き物に入って、四〇分ほどで四時に至ったので切りとすると、着替えをして、上階に行った。出るまでにまだ少し時間があったので、炬燵に入ってテレビを見ている母親の横で、ソファに就いて脚を入れさせてもらって、こちらもテレビを眺め、少々笑ったりもする。番組は、これも録画してあったのだろう、有吉弘行の『夜会』で、実演販売のカリスマのような人が出演して、品物を紹介していた。途中で歯を磨いていなかったことに気づいたので、歯磨きを済ませ、そうして出勤へ向かった。
 昼食のあいだから雨が始まっており、家を発つ時にも降り続いていた。この夜からまた雪になるとかいう話だった。辻まで行くと、八百屋が来ている。こんにちはと挨拶をして、少々やりとりをする。(……)
 街道を歩いていると、雨のなかに、ごく幽かなものではあるが既に雪が混じりはじめていて、地面に落ちる直前で左右に緩く振れる白い粒が見える。裏通りを進んでいると、男子中学生の集団が、傘も差さずに後ろから歩いてきて、賑やかにやりながら通り過ぎた。彼らはその後、一行のなかの誰かの家らしいアパートのベランダに寄って、柵を乗り越えて入ろうとしていた。
 (……)
 電車に乗って帰宅する。降りると、ホームには雪が敷かれはじめていた。その上を歩くともう、ぎゅっ、ぎゅっ、と踏み固める靴の音が立つくらいには積もっている。(……)
 着替えて、その後夕食である。(……)食後、自分も貰ってきた菓子を食べたが、これがなかなか美味いものだった。
 風呂に入っているあいだ、束子を持ってくるのを忘れたことに気づいたので、呼び出しボタンを押して母親に持ってきてもらった。そうして身体を擦り、出ると、湯たんぽを用意して、部屋に戻ると眠気に耐えられず、すぐに床に就いた。

2018/1/31, Wed.

 例によって、三時前のあたりで一度覚めた。薬を服用して寝付いたのだが、五時か六時かそのくらいでふたたび目覚めて、この時、尿意があったので便所に立ったのだが、その行き帰り、空気が寒いにしても、身体がやたらとぶるぶる震えて止まらなかった。何かしら、神経がおかしいのだと思う。床に戻ると、しばらく腰をもぞもぞと動かしながら温まり、最終的に九時まで眠り続けた。
 上階に行き、母親に挨拶をして、ストーブの前で少々温まってから、洗面所に行って髪を梳かすとともに顔を洗う。さらに嗽もしてから食事を用意する。前夜と同じメニューである。食べるあいだ、意識が逸れがちではあったと思うが、ものを口に運び、咀嚼している現在を意識するようにした。食事を終えると皿を洗い、風呂洗いもして、白湯を持って自室に戻る。
 コンピューターを点けて前日の記録を付けたり、この日の記事を作ったりすると、この日も早速、読書に入った。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を音読していく。読書のあいだ、ふと顔を上げて窓のほうを見やると、希薄な色の青空に、山の稜線の近くにすっと飛行機雲が通っていた。棕櫚の葉が、風で少々揺らされている。
 正午前まで読むと、インターネットを覗いて、ちょっと娯楽的な時間を作ってから、昼食を取りに行った。レトルトのキーマカレーが、露芯式ストーブの熱を利用して、温められていた。それを母親と分け合って米に掛け、ほか、朝と同じく汁物とサラダである。カレーはなかなか美味く感じられた。(……)
 林檎も食べて食事を終えると、台所に移り、皿洗いをする。ストーブの上で沸いていた薬缶の湯を使うようにと母親が言うので、洗い桶のなかに食器を入れた上から湯を注ぎ、洗剤も混ぜてちょっと揺らしてから洗い物を始めた。終えると下階に戻り、過去の日記の読み返しをする。それからさらに、他人のブログも読んだあと、便所に立ち、戻ってくると隣室に入ってギターを弄った。そうして二時、ギターを弄っている一方でまた頭がぐるぐると回ったようで、何か不安な感じが出ていたので、音読をして心を落着けるかとちょっとだけ声を出し、そうして二時半から運動に入った(ブログを読んだのは、この運動に入る前の時間だったかもしれない)。身体を動かすとちょうど三時を迎えて、そこから日記を記述しはじめて、現在は四時直前である。
 上階に行き、ゆで卵を食べてエネルギーの補給として、下階に戻ると歯磨きをして、着替えもした。出るまでにちょっと時間が余ったので一〇分だけ読書をして、それから出発した。薄白い、曇り空の夕方だった。街道の南側の歩道にはまだ雪がいくらか残っている。裏通りを行くあいだ、この日は数種類の鳥の声が良く耳に入った。呼吸を意識しながら歩いていると、不安はほとんど湧いてこなかったようである。
 勤務は前日よりもさらに、余計な思考を差し挟まずに、ここでも折に触れて呼吸に意識を置いて、比較的集中して取り組めた。帰りは例によって電車に乗る。ホームに行くと既に着いていたので、最後尾からなかに入って、手近の席に腰掛け、瞑目して出発と到着を待つ。(……)
 最寄り駅で降りて、坂に入る。風が周囲の樹々から音を立てさせ、見上げれば墨色がかった夜空に月があるのだが、それが爪の切れ端を二つ重ねたように、弧が二つ並んで二重にぼやけているように見えた。帰ってからテレビで知ったことには、この日は皆既月食というものだったらしい。
 帰宅して居間に入り、両親と挨拶を交わす。ストーブの前にあぐらをかいて座りこみ、身体を温めると、手を洗ってから下階へ下りた。ジャージ姿に着替えて、上階に行き、食事を取った。肉と豆腐の料理に汁物、緑の菜っ葉の類である。テレビは『クローズアップ現代+』で、ビットコイン流出問題を扱っていたが、この仮想通貨の仕組みや問題はこちらの理解には余るし、今のところあまり興味も湧いてこない。皿を空にしたあと、母親が林檎を剝いてくれたのをいただいたが、これが瑞々しく、美味に感じられた。
 食後、風呂に入ったのが一一時前、出てくると湯を沸かして湯たんぽを用意した。そうして自室に帰って、あまりすぐに寝るとまた胃液の逆流で覚めるのではないかと、トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を読みだしたのだが、頭が重く、眠気があったもので一〇分しか続かず、仕方がないと日付が変わる前にもう床に就いた。

2018/1/30, Tue.

 一度覚めると、一時四五分頃だった。例によって心身には覚醒感、不安な感じがあった。薬を服用しながらも、三時頃まで眠れなかったが、その後、一応寝付いたようで、五時頃に一度目を覚まし、さらに眠って七時半が最終的な目覚めとなった。八時頃まで腰をもぞもぞと動かしながら寝床に留まって、それから上階に行く。
 上がって行き、母親に挨拶をする。食事は、前夜の鯖の残りや汁物である。前日から始めたヴィパッサナー瞑想の行動の実況中継が、早くも根付いてきたようで、鯖を皿に取り分けて、電子レンジのなかに入れ、加熱のボタンを押すあいだなども、いちいち自分の動作を追っていた。食事を取り、食器を洗うと白湯を持って下階に戻った。
 コンピューターを点け、今日の記事を作成すると、早々と読書に入った。ベッドの上に乗り、窓から射しこんでくる陽光を浴びながら、『後藤明生コレクション 4 後期』を音読する。この日は、無声音ではなくて、小さく声を出して読んでみることにした。そうして最後まで読み終えたのだが、この時、何か爽やかな気分になっていたので、実際音読というのは脳に良い効果があるのではないかと思う。ありがたいことに、もっと本を読もうという意欲的な気持ちになっていたので、次の本として、トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』を選んだ。そうしてさらに音読を続けて、正午前に至り、この本も早くも六〇頁ほどまで読み進めることができた。この日は既に、三時間弱も読書をすることができたわけである。
 落着いた気分は続いていた。そのままtofubeatsの音楽を流して運動に入る。運動のあいだもやはり、「伸ばしている、伸ばしている」とか、「呼吸、呼吸」、「船のポーズ、船のポーズ」といった具合で、自分が今行っている動作や姿勢を実況中継し、一方で歌を口ずさんだりもしていた。二〇分少々で身体をほぐし終えると、そのままちょっと歌を歌う。このあいだもやはり、歌っているということを自覚したり、喉の感覚に意識を寄せたりと、現在に集中するようにした。そうしていると、確かに不安とか余計な思考というものは、ほとんど出てこないようである。
 そうして、一時前から書き物に入った。文を綴りながら折々に呼吸を意識していたところ、以前と概ね同じような感覚で日記を書くことができたと思う。書いているあいだ、時間の流れ方もゆったりとした感じに思われ、一時間半で現在時点まで追いつけることができた。今は、二時二三分になっている。
 それで上階に上がり、ゆで卵などを食べてエネルギーを補給した。食事を終えると三時に至っており、思いのほかにもう時間がなかったのだが、アイロン掛けをすることにして、自分のシャツとハンカチを何枚か、皺を伸ばした(エプロンは、時間がなくて扱うことができなかった)。そうして下階に戻ると歯磨きをして服を着替え、出勤に向かう。老人のようだが、貼りつけられるタイプのホットカイロを背中に貼って、マスクを一枚持って出発である。母親は外出していたが、居間のカーテンは閉めなかった。五時頃には帰ってくるという話だったので、もう今の時期ならば五時でもそこまで暗くはならないだろうと判断したのだ。
 時間が遅くなってしまったため、徒歩ではなく最寄り駅から電車に乗ることにした。坂へ向かっていると、ちょうどその坂から小学生の女児が下りて来て、こちらとすれ違いながら公営住宅のほうへ入っていく。坂を上るあいだは、妙に呼吸が苦しいような感じがした。街道に出ると、何やら道路工事を行っている。交通整理員の人に目配せをすると、こちらから、と横断歩道の位置よりも少し離れたほうに誘導されたので、はい、と受けて通りを渡った。ホームに入り、西から来る陽射しを受けながら電車を待つ。
 先頭の車両の一番手前側に乗ると、近くの席にちょうど(……)が座っていた。到着すると横に来て、挨拶を掛けてきたので返し、降車する。彼は一人ですたすたと先に行く。そのあとからゆっくりと階段を下りて行く(……)。
 勤務である。勤務中もヴィパッサナー瞑想の実況中継を意識したところ、余計な思考はわりあいに抑えられて、概ね集中して取り組むことができたようである。(……)
 電車内では席に就き、瞑目して到着を待つ。降りるとホームを辿って駅を抜けるが、帰路の道中の記憶はこれといって残っていない。帰り着くとストーブの前で身体を温めてから手を洗い、下階に下りた。服を着替え、シャツにつけていたホットカイロを肌着につけかえて背に保持し、そうして上階に行き、食事である。夕食のおかずは肉料理、ほか、醤油風味の野菜の汁物や、トマトやキャベツやベビーリーフの混ざったサラダである。
 夕食後、風呂に入ったのが一一時頃ではなかったか。身体の隅から隅まで、丹念に束子で肌を擦り、出てくると、湯たんぽを用意した。その間、母親が録画した『マツコの知らない世界』を見ていたので、こちらもちょっと目を向けた。紙袋収集家の人が出ており、袋の口を鼻に寄せてぱたぱたやりながら匂いを嗅いだりしているのを見て、少々笑った。切りの良いところで自室に帰り、湯たんぽを布団のなかに仕込んでおくと、歯磨きをして、眠る前の読書を始めた。トリスタン・グーリー/屋代通子訳『日常を探検に変える ナチュラル・エクスプローラーのすすめ』である。日付の変わる前から一時間弱読んで、就床した。

2018/1/29, Mon.

 例によって深夜に覚めはしたものの、その時のことはあまり覚えておらず、その後、一応七時まで眠ることができた。上階に行くと、ハムエッグを焼いて、食事にする。皿洗いと風呂洗いをして自室に戻ると、またもや自分の症状が気に掛かって、こちらは解離性障害なのではないかなどと調べ物をしてしまった。解離性障害と呼ばれる症状でも、思考促迫や知覚の敏感さがあると言う。また、現実が現実でないような、あるいは自分が自分でないような感覚、いわゆる離人症も主な症状の一つとしてあるらしいが、自分にはこれが実際あるなとこの時はそう思われた。「解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの」(https://susumu-akashi.com/2015/12/dd_creativity/#i-2)というページなどを見ていたわけだが、しかし、もうこのようなことに必要以上にかかずらうのはやめようと思う。結局のところ、人間の精神の形というのはそんなに単純に割り切れるようなものではなく、外から見てこれこれであると確実な診断を付すのは難しく、実際、統合失調症などは診断ミスが多いという話だが、それも当然で、ある一つの精神症状が色々な名前の疾患のどれにも現れる、ということもあるのだ。一度診断を付した精神が、その後変化するということだってあるだろう。自分の場合、時折り不安に襲われることはあるものの、概ね日常生活を問題なく遅れているのだから、もうそれで十分だと考える。
 インターネットを回ったあとは、読書をした。『後藤明生コレクション 4 後期』だが、この時、音読は無声音に戻していた。声を出すと、どうも頭を使いすぎるような感じがしていたからだ。読んでいるあいだ、気分はわりあいに良くて、やはり自分は、この現在に集中してそれを感じ、そこから得たものを綴って行きたいなと開き直るような気持ちになった。その後、そうした明るめの気分のまま運動に入り、tofubeatsを流して歌いながら身体をほぐした。
 一一時を過ぎると、久しぶりに日記の読み返しを行った。そのあいだ、廊下のほうから母親が呼ぶので何かと行ってみると、階段下の室でコンピューターを前にしており、なかに入っている写真を見たいのだということだった。ダブルクリックをするのだと実に初歩的な事柄を教えて、写真のファイルをひらいたあとは、これ全部いちいちクリックしないといけないの、と言うので、キーボードの矢印キーを押すようにと教えて自室に帰った。
 そうして日記を読んだあと、正午になると上階に行った。台所に入ると、大根の葉を炒めるかと母親が言うので了承して、ベーコンとともに切り分けて、フライパンで加熱した。ほか、スープやカレーパンなども合わせて食事を取る。テレビでは成田山新勝寺が取り上げられていた。昼食のあいだはだいぶ落着いた気分になっており、(……)。
 食後、立ち上がると、好天に惹かれてベランダに出たが、陽射しはあってもやはり風が冷たい。眼下の棕櫚の樹は葉を落としてすっきりとした姿になっており、畑の雪はほとんど溶けたようだった。食器を洗って自室に帰ったあとは、他人のブログを読んだり、またインターネットを回ったりして、一時から二時間も時間を使ってしまった。それから書き物に入る。二八日は外出の日だったが、やはり頻繁に思考というか妄想が湧いて、現在の瞬間に集中できていなかったのだろう、それほど記憶に残っていることがなく、一時間ほどで完成した。労力の面からすると、そのくらいコンパクトにまとまったほうが良いのかもしれない。
 外出の準備中は、無益な妄想を断ち切るためにヴィパッサナー瞑想の実況中継の技法を実行してみようというわけで、廊下から服を取って着るあいだも、「歩く、歩く」、「ボタンを付ける、ボタンを付ける」などと心中で呟きつつ、自分の動作を追うようにした。そうしていると確かに、不安は生じてこないようである。ここ数日で実感したことがあるが、不安というものは徹頭徹尾、自分の思考の働きから生まれてくるものである。要は、「~~したらどうしよう」などと考え、そのような考えを自分自身に差し向けることで、自ら不安を惹起しているのだ。そうした余計な思考=妄想が暴走してしまったのが最近のこちらなのだろうが、そこをヴィパッサナー瞑想の方法論で矯正していきたいと思う。
 身支度を整えると上階に行き、水を一杯汲んで薬を服用した。そこで電話が鳴り、母親が出たところ、(……)さんらしい。こちらは玄関のほうに出て、戸棚からマスクを一枚取ると、電話中の母親に行ってくると告げて出発した。
 道中、街道を歩いている途中に、不安が身に生じてきたが、これもちょっと経てば薄れていくのだと考えて呼吸に意識を戻し、やり過ごした。出勤のあいだも、呼吸や歩みに意識を向けようと試みたが、実際にはまた結構余計なことを考えてしまっていたようである。勤務中も、妙な妄想をしてしまい、自分がそれに従って突拍子のない行動を取ってしまうのではないかと心配したが、そのようなことはなかった。
 (……)
 そうして退勤し、駅に入って電車に乗る。目を閉じて休みながら到着を待ち、最寄りで降りると、ホームには真ん中あたりにまだ雪が残っていて、しかし降りた最後尾のあたりから階段のほうへ進むにしたがって、次第に乏しくなって行った。帰路の記憶は特にない。
 帰ると、母親は風呂に入っていたと思う。ストーブの前で温まるそのあいだも、呼吸や手を擦り合わせる感覚に意識の志向性を向けた。下階に降りて着替えをする時も同様である。上階に行くと食事、やや甘じょっぱいような鯖をおかずにして米を咀嚼する。テレビは『しゃべくり007』である。前半は阿川佐和子が出演していた。今まで二〇〇〇人以上もの人々にインタヴューを行ってきた阿川に対して、しゃべくりメンバーたちが札に書かれたお題を聞き出してみようという企画が行われる。有田哲平が趣旨を無視してひたすら一人語りで終わらせたのもちょっと面白かったが、白眉はやはりそのあとの堀内健で、始まりの何も考えずにものを言っているようなすっとぼけたような間からして面白かったし、そのあと、カラスの言葉がわかる、などと急に尋ねるのも訳がわからない。その後、カラスの声真似をして何を言っているのか互いに当てる、などというやりとりをしていたところから、突然お題の、嫌いな芸能人はいるかという質問に移ったのも脈絡がないが、カラス語で良いので、などと補足を付したのもさすがの瞬発力だった。
 途中、飲み会だったらしい父親が帰ってきて風呂に行ったので、それを待ちながら後半の、ゆりやんレトリィバァという女性芸人の出演回も視聴して笑い、最後まで見たのちに風呂に行った。出てくると、自室から布団のなかに入っていた湯たんぽを取り出して(数日前から用意して入れるようにしている)、上階に運び、薬缶で湯を沸かした。薬缶を火に掛けているあいだは、傍らに立ったまま、呼吸に集中するようにした。それで湯が高熱に沸いたところで、布巾を手と取っ手のあいだに挟んで薬缶を持ち上げ、湯たんぽに湯を注ぎ入れたのだが、その後、新たに薬缶に水を入れておこうと蓋を開けたところで、なかから昇ってきた高温の蒸気が左手の親指にまともに掛かってしまい、軽い火傷のようになった。じんじんと痛むのを流水でいくらか冷やしておいたのだが、現在、痛みも腫れもない。
 そうして室に帰って湯たんぽを仕込んだあと、眠る前に少々、と『後藤明生コレクション 4 後期』を読みだしたのだが、頭が重かったので、一五分ほど読んだのみで就床した。

2018/1/28, Sun.

 覚めると、二時半だった。また随分と早く寝覚めしてしまったなと思い、しばらく気を落着けてから薬を飲んだが、やはり眠れない。寝床で瞑目したまま過ごして、そろそろ一時間くらい経っただろうと思って時計を見るとやはりそうで、仕方がないので読書でもしながら眠気を待つかとなった。それで身体を起こし、『後藤明生コレクション4』を読み出して、一時間ほど経ったところでまた横になってみることにした。それでもやはり確かな入眠はできず、眠ったのか眠っていないのか良くわからないような時間を過ごし、七時に至ったところで、ひとまず起きることにした。上階に行き、ストーブの前に座っていると、父親が起きてきたので挨拶をする。しばらくしてからカレーをよそって食べ、皿を洗い、風呂も洗って下階に下りた。
 そうして、セロトニン神経を活性化させようというわけで、読書である。前日までは無声音でやっていたが、この時は小さく声を出して行った。途中からベッドのヘッドボードにもたれるようにして、曇り空から洩れてくる陽光を受けながら読む。そうして一時間半ほど読んで、一〇時前に至ると、運動を行った。呼吸を意識しながら柔軟をして、頭がすっきりとしたところで、眠りを補おうとベッドに仰向けになり、しばらく静止した。この時は、うまく意識の混濁というか、イメージの流れのようなものに乗っていけて、心地良い休息が取れ、目をひらくと一五分ほどが経っていた。
 その後、先に外着に着替えてしまい、インターネットをちょっとチェックしてから、日記を書き出して、二七日の記事を仕上げてここまで至ると、正午を回っている。
 一時頃に出発。最寄り駅から行こうかと思ったが、居間の壁の時刻表を見てみるともう間に合わない時間だったので、(……)まで徒歩を取る。この時には気分はわりあい落着いていて、何と言うか、いまここに生存している、もうそれだけで十分なのではないかという思いが湧いていた。歩きはじめてすぐ、風が林の木の葉を鳴らすのを聞いても、この音だけで十分なのだ、という思いが立った。好天ではあるが、風がやはり冷たかったと思う。裏通りの路面には、まだ氷が貼り付いている。駅まで来て電光掲示板を見ると、発車まで数分あったので、公衆トイレで用を足してから改札を抜けた。一番前の車両に乗り、席に就いて、目を閉じて到着を待つ。あまり眠れていなかったので、睡眠を確保しようとしたのだ。ある程度は眠れたようで、立川の手前で、もう過ぎてしまったのではとびくりとなって覚めた記憶がある。
 到着すると、人々が降りて行くのをちょっと待ってから自分も降り、便所に寄ってから改札を抜けた。時刻は既に、二時一五分頃になっていたと思う。喫茶店へ向かう。入店し、寄ってきた店員に待ち合わせをしていると告げて、(……)たちを探す。それらしい人が壁際の席に就いており、一人でコンピューターを弄っていたので、今日は(……)はいないのかとそちらに向かいかけると、横から声が掛けられて、それで勘違いに気づいた。テーブル席に就き、会合の課題書だった本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を取り出し、しばらくしてから近くにいた店員にココアを注文する。
 本については、こちらはあまり印象に残ったことがなかったので、特段に話すこともなかった。(……)の印象としても、思っていたよりも柔らかく、さして掘り下げない概論的な本だった、というようなものだったらしい。(……)は、横文字の人名が覚えられないと言って、高校時代に世界史の授業で使っていたというレポート用紙を用いて、真面目な勉強のように項目をまとめてきていた。会話をしているあいだ、まず、喫茶店は結構混んでいたのだが、周囲のざわめきが耳を圧するようにやけに厚く聞こえて、知覚が過敏になっているのではと思われた。また、(……)らの話を聞きながらも、「くだらない」とか「どうでも良い」とか、以前だったら思ったはずもなく、また本心で思っているとも思われないような心の声が自動的に湧き上がってきて、それでやはり、自分は統合失調症的な精神になっているのではないかと思われて、気分があまり晴れなかった。四時半を前にして、会計を済ませ、書店に向かう。
 外に出ると、五時前でも空に青さが残っており、日が随分と長くなったようだった。駅舎横のエスカレーターを上がって広場に出ると、雪がまだ結構広く残っており、小児がその上で遊んでいるのも見られる。オリオン書房への道を辿り、入店して、海外文学の棚を見に行った。しばらく見たのだが、それほど興味を惹かれるものもない((……)が読んだというロベルト・ボラーニョの『チリ夜想曲』はちょっと読んでみたいが)。次回の課題書をどうするかと言いながら、今回は日本の小説でも取り上げるかと思い立って、それで芥川賞を獲った若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』を話題に出した。振り返った背後がちょうど日本文学の棚であり、平積みされているなかの端のほうに、件の本がある。また、同時にもう一人受賞した人がいたなということも言い、それも探して、反対側の端近くに見つけた。石井遊佳『百年泥』である。どちらもそれほど長いものではないから、これら二冊を合わせて次の会の課題書としても良いのではないかと提案すると、そのように受け入れられた。図書館ではきっと予約がたくさん入っていて借りられないだろうからと、ここで購入してしまうことにして、二冊を持ち、岩波文庫や哲学の区画をちょっと見てから、購入に行った。
 エスカレーターを下って退店し、SUIT SELECTの前を通ると、聞き覚えのあるモダンジャズが掛かっていたが、何の曲だか思い出せなかった(Hank Mobleyか何かではないか?)。駅に向かうあいだもやはり風が大層冷たく、ぶるぶると震えてしまう。(……)からは、喫茶店にいるあいだに、今日は飯に行くかと訊かれていたが、精神が不安定なので、今日は帰るつもりでいると断っていた。駅舎の通路に入ってもざわめきが厚い感じがしたが、先ほど、喫茶店にいる時よりは耳につかなかったような気がする。改札を抜けたところで別れの挨拶を交わし、発車が近くて人々が急ぐなか、ゆっくりとホームに降りた。端の車両に乗ったが、席が埋まっていたので扉際に就く。本を読む気にもならなかったので、概ね目を閉じて移動を待った。そのあいだ、次第に尿意が意識されてきて、不安を来たすかと思って見ていたところが、じわじわと高くなっては来るものの、突発的に盛るということはなかった。
 (……)で降りると、ホームを辿って便所に行く。用を足して出てくると、ちょうど乗り換えの電車が着くところだったので、たまには、と最後尾でなく一番前の車両に乗り、座席に就いた。ここでも本は読まず、目を閉じて休み、時折りひらいていま自分が電車内にいるのだということを確認するようにしながら発車を待った。最寄り駅からの帰路のことは特別覚えていないが、やはり寒さに苛まれたと思う。
 帰り着くと、父親の車はあるが母親のそれがなく、どこかに出かけているらしかった。無人の居間に入って家中の静かなことを感じると、今までの自分からは信じられないことだが、やはり精神が不安定なところがあるのだろう、一人でいることの寂しさのようなものを感じた。しばらくすると母親が帰ってきた。職場からたくさん貰ってきたパンを、知人のところに届けに行っていたということだった。それで食事を取る。
 食事のあと、すぐに入浴した。束子健康法を行ったが、丁寧にやりはじめて幾日か経ったので、段々とあまり効果が感じられなくなってきているように思われる。しかし、なおざりにするのではなくて、これからも丹念に続けていくつもりである。入浴後は、頭に疲労感があって、今日は眠れそうだなという感じがしていた。それにしても九時に眠るのでは早すぎるので、もう少し時間を使おうということで、『後藤明生コレクション 4 後期』を読み進めた。ここでも声を出して音読をしたのだが、そうすると余計に頭が疲労して行くのがわかり、少々ふらつくような感じにもなってきた。それで、九時五〇分で読み物は打ち切り、上階に行って湯を沸かし、湯たんぽを用意すると、室に帰って早々と就床した。

2018/1/27, Sat.

 初めに覚めたのは四時二〇分である。だいぶましにはなったが、例によって心身の緊張があった。それをやりすごし、しばらく経ってから薬を服用する。そうして、腰をもぞもぞとベッドに擦りつけながら時間を過ごす。この動きを行うと、どうしてなのか緊張が緩くなり、神経が和らぐのを如実に感じたが、しかしなかなか眠りはやって来ない。六時頃になってようやく寝付いたらしく、最終的に覚めたのは九時前だった。頭には確か、藤井隆"ディスコの神様"が流れていた。
 瞑想はせず、上階に行く。母親に挨拶をして、鍋のおじやを丼に移し、電子レンジで温めて卓に就く。それで新聞記事をチェックしながらものを食べる。食事を取って下階に帰ったあとは、まず読書をした。時刻はちょうど一〇時、『後藤明生コレクション4』を二六〇頁の「ジャムの空壜」から読み出す。黙読ではなくて、音読をする、と言っても声をはっきり出すのではなくて口を動かして無声音を発するのだが、このようにしたのは、ずっと昔、パニック障害の症状が酷かった時代にやはり諸々インターネットで調べてしまうもので、その折、音読がセロトニン神経を活性化させて不安に良いとか見たのを思い出したからだ。当時もいくらか取り組んだのだが、その時は効果をあまり実感できず、続かなかったようだ。今はどうかと言うと、確かに何となく、頭が落着くような気はするので、しばらく本を読む時はこの方式でやってみるつもりである。前日もそのようにして読書に勤しみ、コンピューターをほとんど使わなかったこともあって、随分と久しぶりのことで一〇〇頁も読んだのだ。
 それで一〇時半まで読書をして、それから何をしたのかは覚えていない。医者に行くつもりだったので、一一時前になると電車の時間を調べ、すると一一時半頃のものがあったので、外出の支度を始めた。いつもながらのチェックのシャツに空色のジーンズを履き、カーディガンとモッズコートを羽織る。上階に行くと、母親は出かけているようで、玄関を出ると車がなかった。道を歩きはじめると、前方に(……)が、道に出ているのが見える。距離のあるところからちょっと会釈をして、家に続く細道に入らずに杖をついて立っているのに近づいて行き、挨拶をして少々立ち話をした。先のほうに、消防車が来ており、人もちょっと集まっているのが見えていた。それについて話を振ると、何だか良くわからないが、シートか何かが燃えたとかいう話である。誰かが火を点けたのか、あるいは太陽光線の反射の具合で発火したのか、真相は知れない。天気は澄みやかな晴れだったが、雪が残っていてまだ寒いですねと言うと、お祖母ちゃんの時も随分降ったね、という風なことを返してくる。こちらの祖母が死んだのは二〇一四年の二月七日だが、夜の九時頃に病院から故人の亡骸を運んで帰ってくるちょうどその道すがら、雪が始まり、翌日に掛けて大層降ったのだ。あれも四年前ですねと言いつつ、その一週間後の葬儀の時にも同じくらい降りまして、と当時の記憶を話した。順番は前後するかもしれないが、目的地を訊かれて医者に、と答えると、どこか悪いのかと続くので、精神科とかパニック障害とか言うのもこちらは構わないが、あちらには無用な気遣いを与えるかと気が引けて、ずっと前から持病のようなものがあるんですよ、と濁した。そうして、お寒いので気をつけてと別れ、進むと、すぐ先で今度は(……)が掃き掃除をしているので、挨拶をする。ここでも同じようなやりとりで、どこへと訊かれて医者へと答え、どこか悪いのかと言うのにも同じようにして濁した。
 消防車は一台、こちらが消防員や集まっている人々のあいだに入ると、パトカーがちょうど発っていくところだった。事情は窺い知れなかったが、過ぎて坂に入り、駅へと上って行く。駅へ入ればホームには日なたがあるものの、西から吹く風が大層冷たい冬の晴れである。やって来た電車に乗ると、席に就いて到着を待ち、降りると向かいに乗り換えた。
 (……)で降り、便所に寄ってから改札を抜けて、(……)へ向かう。やはりひどく冷たい風が吹き、身を刺されながら行くと、医者のビルの周囲にも雪が残っており、道に貼り付いてもいる。ビルに入って階段を上がって行き、待合室に入ると、結構先客が集まっていた。カウンターの事務員にカードを差し出し、室の角、ソファの端に就いて、『後藤明生コレクション4』を読みはじめた。ここでも、口の動きはほとんどなく、ほとんど口内で僅かに舌を動かすのみだが、音読のようにして順番を待つ。人数は結構いたのだが、診察室に入っても長く留まる人がおらず、思いのほかに早々と捌けていって、正午前に着いたところが、一二時二〇分には番が来た。ノックをして失礼しますと言いながら室に入り、医師に挨拶をして、椅子に腰を下ろした。どうかと訊かれるのには、まあわりあいに落着きまして、と笑みを浮かべながら応じ、ただ一番大きなこととしては、必ず早朝に寝覚めをしてしまうと言った。四時から五時頃と具体的な時間を言い、その時に必ず心身に緊張感があるなどと説明し、どうも早朝に神経症状というのが出やすいらしいと話したところ、医師は睡眠薬の処方をするかと尋ねてきた。どうしようかなと思いながらここに来たんですけど、と応じつつ、しかしひとまず、良くはなっているようなので、今のままで様子を見てみるという風に告げ、同じ薬を出してもらうことにして、室を後にした。
 会計を済ませるとビルを出て、隣の薬局へ行く。カウンター裏で立ち働いていた局員に挨拶をして処方箋を渡し、お薬手帳はと訊かれたのには、もう埋まってしまったので新しいものをいただきたいと頼んだ。そうして手近な席に就き、順番を待ったのだが、この日の薬局は常になく忙しかったようで、一旦外出していた人らが戻ってきてもちょっと待つような状態だったし、隣の老人などはそのようにして待たされるのに苛々したのか、途中、立ち上がってその場をちょっとうろうろとしていた。こちらは待つことはそう苦ではないから、落着いて本を読み、呼ばれるとカウンターに行って、前回も同じ人だったが、眼鏡の女性局員とやりとりをした。そうして会計をして、退出する。
 道に貼り付いている氷の上を、小学生の、まだ低学年の女児が前後に滑り、母親がそれをたしなめるように穏やかな呆れのような調子で声を掛けていた。こちらは道を線路のほうへ折れて、駅へと向かう。風がやはり大変に冷たく、身体をぶるぶると震わせたが、好天のためにこの時はかなり穏やかな気分になっていたと思う。駅を反対側へと渡ると、図書館に入る。特に何かを借りるつもりはなかったが、新着図書でも見ておこうかと思ったのだ。入館して、雑誌の区画をちょっと覗くと、『現代思想』の最新号が入っており、「保守とリベラル」と題されていたと思うが、手に取ることはしなかった。そのままCDの新着も見るが、特に興味を惹かれるものはなく、便所に行ってから階を上がる。新着図書は多少気を惹かれるものがあったのだが、メモを取っておらず、覚えていない。確認してから哲学の棚を見に行くと、ここに『脳はいかに意識をつくるのか 脳の異常から心の謎に迫る』という本があり、取って見てみると、「抑うつと心脳問題――精神疾患は、実のところ心の障害ではなく安静状態の障害なのか?」とか、「統合失調症における「世界‐脳」関係の崩壊――「世界‐脳」関係が崩壊すると何が起こるのか?」とか、こちらの身に迫る話題があり、その場で立ち尽くしたまま読んだ。じきに、書棚の横の席に移って、ほとんど憑かれるようにして読んだのだが、それは自分が統合失調症なのではないか、少なくともそれになりかけているのではないかという不安に衝き動かされたが故の行動であり、そのように不安に興奮させられた頭だったので、ゆっくりと文字を追うような心の余裕もなく、文をなぞる視線の動きも早くて、また専門用語もあって本がどういったことを言っているのか理解できない部分もあったし、内容もほとんど覚えていない。ただ、そこに載っていた統合失調症の例とか、抑うつの説明とかに、自分との類似点(例えばここで紹介されていた統合失調症患者は、前兆症状として、視覚や聴覚が相当程度鋭敏化していた、などという点である)を見出しては恐れ慄き、身を不安に浸していた。しかし結局のところ、この本では自分が統合失調症になりかけているのか否かわからないので、そのうちに落着いて読むのを止め、そうして退館に向かった。
 駅までの通路の上に残った雪から水が溶け出しており、注ぐ陽光に輝き、際立っている。駅に渡ってホームに入ると、陽射しのなかに入って正面からそれを浴びるのだが、胸に当たる光の感触がじりじりと、随分と熱く強く感じられた。
 電車に乗って(……)まで行くと、すぐには降りずにしばらく目を閉じてうとうととしていた。そこに発車を知らせるアナウンスが聞こえたので、急いで降りたが、それは向かいの番線の電車だった。電車が滑り出して行く横、ホームを中ほどに向かって歩き、自販機でスナック菓子を二つ買う。まもなくやって来た電車に乗り、最寄りへ至った。
 帰路に特段の印象はない。帰宅すると、母親が食べた煮込みうどんの残りがあったので、それをいただき、室に帰った。この時もまた、自分は統合失調症なのではないか、このまま行くと人格が崩壊したり、後戻りできない地点に至るのではないかという不安から、色々とインターネットで検索してしまった。以前も引用したサイトだが、まず下記にこのページを引用する。

◆ 初期の自覚症状
発症の初期によく体験される症状として、以下の様にまとめられます。(中安信夫著、初期分裂病より)。

1、 自分の意思によらずに、体験そのものが勝手に生じてくると感じられる。その中に、自生思考(とりとめもない考えが次々と浮かんできて、まとまらなくなる。考えが自然に出てくる。連想がつながっていく)、自生視覚(明瞭な視覚的イメージが自然に浮かんでくる)、自生記憶想起(忘れてしまった些細な体験が次々と思い出される)、自生内言(心の中に度々ハッキリした言葉がフッと浮かんでくる)等により、「集中できない」「邪魔される」と感じられる。
2、 自分が注意を向けている事以外の、様々な些細な音や、人の動きや風景、自分の身体感覚や身体の動き等を、意図しないのに気付いてしまう。そのことで容易に注意がそがれてしまう。「どうしてこんなことが気になるのか」と困惑していたものが、「気が散る」「集中できない」と感じる。
3、 どことなくまわりから見られている感じがする。この体験は人込みの中で感じられることもあるが、自室に一人でいる場合でも生じる。気配を感じることもある。
4、 何かが差し迫っているようで緊張してしまうが、何故そんな気分になるのか分からなくて戸惑ってしまう。緊迫が勝手に起こり、それに対して困惑するような症状。
 (第7回 「統合失調症の初期症状」; http://www.oe-hospital.or.jp/column/column7.html

 このなかで、一番と二番は概ね自分に当て嵌まるもので、昨日今日だと特に、自生思考よりも音楽が頭のなかに勝手に流れるという症状のほうが目立っている。四番も当て嵌まるが、これは、そのように頭のなかに勝手に思考や音楽が湧き上がってくることに対する緊張や不安であり、それによるストレスだろう。その基盤となっているのは、ドーパミンの分泌過剰なのだと思う。
 続いて、同じサイトの次のページを引用する。

 統合失調症の初期症状を、本人は違和感として自覚できるように、普段の自分にない状態を「病気ではないか」と判断できることを「病識」といいます。しかし、病初期にあった病識は、病状の進行により曖昧になり、結局消失することもあります。妄想等の激しい急性期症状への経過についてまとめてみます。
◆ 初期症状により「集中できない」等の違和感について、「何故このようなことが起きるのか」という意味を考えたり、「何とかしよう」と対処を考えても症状は消えないため、神経がすり減りひどい疲れを自覚することが多い様です。不眠などの睡眠障害も伴います。この段階では病識があります。
◆ それでもなお、普段気にならない周りの音や雰囲気、人の仕草に過敏になり、例えば「何か特別の意味があるから人は笑っているのではないか?」「何かのサインがどこからか送られているかもしれない」と疑い深くなります。集中しようとしても考えがまとまらず混乱し、徐々に病識は曖昧になります。
◆ この状態が続くことは本人にとって不安や恐怖であり、予期せぬことに備えて、人との接触を避け部屋に閉じこもりじっとしていることもあります。この状態を自閉といいます。また幻覚として、自分のことを言われる内容の幻聴なども出現します。このように自閉をすることは、自分を守るための手段であると考えられます。
◆ 何とかこの事態を納得させるために理屈を考えます。例えば「人が笑っているのは、自分のことが外部に漏れているからだ」と考え「部屋に盗聴器が仕掛けられている」と結論付けたりします。この状態で病識はなくなります。
◆ この状態で人に関わると「自分を馬鹿にしようとたくらんでいる」等と感じるため怒りっぽくなり、時に「追い込まれた」と感じ急速に緊張感が著しくなり、強い拒絶や興奮が起きてしまいます。
 (第8回 「初期症状から急性期症状と病識の変遷」; http://www.oe-hospital.or.jp/column/column8.html

 現在自分は、概ね一つ目の項目の段階に至っている。ここに書かれていることがかなりの程度で当て嵌まるので、自分は統合失調症なのではないかという疑問が解消されて、確かにそうらしい、ことによると統合失調症と呼ばれる疾患に陥っていたその手前まで来ていたらしいと認識され、それでむしろ落着くようなところがあった。気が狂うということを恐れてしまうというのは、年末年始の変調がややトラウマ化しており、あまり思考を野放しにしすぎるとまたあのようになってしまうのではないか、それ以上先に行ってしまうのではないかという恐怖だが、これは不安障害的な症状だろう。思考が生じてくること、自生思考がコントロールできなくなることに恐怖を抱いているわけだが、ある意味で、自分はこの不安によって気づかないうちに症状がこれ以上進行することを止められたのかもしれない。そうだとすると、皮肉なことに、不安障害的な性向によって自分はある種救われたとも言えるわけだ。
 しかし、まだ来ていないことを恐れてばかりいても仕方がない。自分がこの先発狂するかどうかなど結局は誰にもわからず、もしそうなってしまったとしても、それは自分にはどうしようもないことである。現実的に考えて、自分は今、肉体的な神経症状も大方収まって、日常生活を概ね問題なくこなすことができている。今現在の実際的な問題としては、うまく眠れないということがおそらく一番大きなこととしてあるだろう。これに関しては、睡眠薬を用いても良かったなと現在二八日の時点ではそういう気分になっているのだが、この日の医者では処方を断ってしまった。もう一つの問題としては、自生思考や自生音楽が気に掛かって不安になる、ということがある。これに関しては、まず、唯物的な要因としてドーパミン優位の脳をどうにかする必要がある。単純な対立図式になってしまうが、それにはセロトニン、あるいは副交感神経を活性化させることがやはり有効なはずで、その点、効果的なのはまずはおそらく運動だろうと思う。さらには音読もどうもやはり効果があるような気がしており、声を出して文をゆっくり読んでいると、明らかに頭が、悪い意味でなく重くなって来て、呼吸の調子も緩くなり、欠伸が出てきたりもするのだ。これはやはり、セロトニンが分泌されている証しなのだと思う。ただ、今日(二八日)の話になるが、今しがた一時間ほど『後藤明生コレクション4』を音読したところ(「大阪城ワッソ」及び「四天王寺ワッソ」)、途中まではリラックスしていたのだが(頭の重い状態で声を止めて、思考を確認してみても、自生思考や自生音楽は生じてこなかった)、終盤は頭が澄んでまた自生音楽が始まってしまったような具合で、これは多分、副交感神経が活性化されたのに拮抗して、その後、交感神経も活性化され、ドーパミンの分泌が促されたということではないのか。そのようにしてバランスが取られるのだと思うのだが、要は不安を感じず、自生思考もそこまで暴走せず、目の前のことややりたいことに集中できればそれで良いわけで、文を読む際には音読を行って、そのたびにセロトニン神経を活性化させるのは良い習慣ではないかと思う。そのようにして、全体的に今よりも落着いた頭になって行ってくれないかというのがこちらの望みである。
 また、意識の志向性が頭のなかの音楽や思考に向き、そこから離れなくなってしまうというのが煩わしい、あるいは怖いわけだが、これに対してはサマタ瞑想の技法が有効かもしれない。つまり、常に(とは現実には行かなくとも、折に触れて)呼吸に意識を向けるようにしつつ、頭が逸れて、自生思考や自生音楽が生じていることに気づいたら、また呼吸に戻すという方法である。ティク・ナット・ハン氏という仏僧がおり、彼は日常生活を送る上で常に「いま・ここ」に気づき続けるマインドフルネス=汎瞑想を提唱しているようなのだが、インターネットで調べた限り、おそらく彼もこのようにして呼吸(とそれと連動した身体感覚)をホームポジション的な位置づけとして置いているようだ。この人の本は、いずれ読んでみたいと思う。
 今現在の結論としては、このような地点に自分は至っている。こうした生の技法を続けていれば、自分は何とか、不安にも追い立てられず、また自生思考などの症状をこれ以上進行させることもなく生きていけるのではないか。
 日記を書くつもりが、そうこうしているうちに五時に至ってしまったので、上階に上がった。カレーを作ることにして、野菜を切り分け、鍋で炒める。煮込みはじめると母親に後を任せて下階へ戻り、『後藤明生コレクション 4 後期』を読んだ。音読をしているうちに七時を回ったので、上階に行くのだが、腹が減っていなかったので先に風呂に入ることにした。それで洗面所で服を脱ぎ、ぶるぶると震えながら浴室に入って蓋をめくったところが、湯が入っていない。スイッチを点けるのを忘れていたらしいので、湯沸かしのそれを押しておき、ジャージを着て居間のストーブの前に避難した。そうして身体を温めながら待っているうちに、やはり先に食事を取るかという気になったので、カレーをよそって食べる。テレビは、八時台から、出川哲朗が電気駆動のバイクを充電させてもらいながら各地を旅する番組が始まって、結構面白くそれを眺めた。出川のキャラクターもともかくとして、映し出される一般の人々の様子が、特に何ら際立った印象をもたらすわけでないけれど面白く、テレビ番組というのは基本的に、芸能人を映しているよりもそのあたりの人間を映しているほうが面白いのではないかとも思われる。
 その後入浴し、九時を過ぎて室に帰ると、日記を記した。二六日の分をノートから写して投稿し、この日の分も一一時過ぎまで書いたところで、この日はそこまでで切りとして、眠りの準備を始めた。コンピューターを前にしていたので頭が冴えていたような感じがしたが、歯を磨いてからまたちょっと音読をしていると、欠伸が湧いてくる。それで零時ちょうどに明かりを落として就床した。

2018/1/26, Fri.

  • 一度覚めると二時頃。右を向いていた。この時気づいたが、この時間に覚めたのは、逆流性食道炎的なものでは? 以前にもあった。胃の感覚からしてそうだと思われる。左に向き直る。
  • その後、二度ほど覚める。五時。この時、夢の中で発作。頭がぐにゃりとゆがむと言うか。覚める。落ちついてから薬を飲もうと起きあがると、ぐらりとする感じが残っている。
  • その後眠れず。死者のポーズ的に脱力し、そのまま静止してすごす。頭の感覚が変だったのが、次第に落ちついたよう。寒気がくり返し、身を通りぬけていく。そのまま6時半。
  • その後も眠れず。夢のようなイメージに巻きこまれかけると、頭が自動的に反応し、そこから出てしまうというようなことを、5分ごとくらいにくり返す。そうして8時すぎ。
  • 起床。寒い。身体、小刻みに震える。上階へ。ストーブの前で温まる。その後食事。気分は平静なのだが、夢の中のような発作がいつくるか、と警戒するような感じ。身体のほうはだいぶ落ちついてきたが、頭の感覚がとにかく妙である。顔面から頭蓋の皮(筋肉)が常に張っているような。時折り、額のあたりも勝手にぴくぴくと動く。とにかく神経が何かしらおかしくなっている。
  • それでPCをやはり使わないことに。ここまで書いて9時40分。日記はやや簡略化せざるを得ない。
  • その後、PCを使わないので、読書へ。『後藤明生コレクション4』。寝床で布団を身体にかけ、太陽光を大いに浴びながら読む。途中、眠くなってうとうととするのだが、その「眠くなってうとうとしている」状態をも頭のどこかで観察している自分がいるようで、完全に意識を失うことがない。正午すぎまで長く読む。「蜂アカデミーへの報告」は長く、なかなかに面白い。引用されていたファーブルの『昆虫記』はぜひとも読んでみたいが、一体いつになるのか?
  • 瞑想をしてみることに。頭のしびれのような症状に効果があるかと。結果、よくわからない。その後、ギターを弾き、上階へ。食事を取る。納豆と豆腐を用意し、米と汁物。食後、一旦室に戻り、ふたたび読書をしていたのだが、20分ほどでPCへ。マインドフルネスと脳内物質など調べてしまう。こうした振るまいが神経症そのものである。頭のしびれるような感覚がなくなれば、概ね正常だと思うのだが。しかし焦るまい。
  • 2時に至ったので洗濯物を取りこみに行く。タオルをたたみ、アイロンかけもして、室へ。ここまで記録。
  • 運動。頭のしびれ解消。すっきりとさわやかに。
  • 上へ。補給。汁物と卵。夕食作ろうかと。しかしやめる。
  • 読書。音読。「蜂~」読み終える。
  • 着替え。
  • 母親帰宅。寒いのでカイロ。石油入れ。空、雲。希薄だが煙。灰のなかに陽の色。雪、残っている。タンク持つ。
  • 出発。西、雲、バラ色。この頃はかなり正常。

2018/1/25, Fri.

 寝付いてすぐ、二時頃に一度目覚めた。就床の際に室を暖かく保っておこうと、空調を二時間後に切れる設定で入れておいたのだが、それがまだ稼働している最中だった。ここではしかし、問題なくふたたび寝入り、次に覚めたのが例によって五時前だった。心身が緊張にまみれていた。何故なのかわからないが、神経の乱れというものはとりわけ眠りの最中に発現するらしい。以前も記したと思うが、パニック障害に罹患した初期の頃もよく、激烈な神経症状によって早朝に起こされることがあったのだ。もう慣れているので、呼吸に意識を向けて心身の感覚を落着けて、それから薬を服用した。しかし頭は冴えたままで、どうも入眠できない気配だったので、もう一旦ここで起きてしまい、本を読む時間を取り、そのうちにまた眠くなってきたら寝ようと決めた。そのような判断を実行できるくらいには体調が回復していたわけである。実際、薬を飲んだこともあり、かなり緩やかで落着いた心身の調子になっていたと思う。
 それで明かりを点け(外はまだ暗闇だった)、ストーブと空調を入れて、『後藤明生コレクション4』を読み進めた。「蜂アカデミーへの報告」である。頭は冴えていたはずだが、眠りが少ないためなのか、文をやすやすと、スムーズに通過しては行くものの、気づけばやはりその意味がうまく拾い上げられていないというような感じがあった。また、自生思考あるいは自生音楽も頭のなかにあったのではなかったかと思う。起き抜けには確か、これも随分と懐かしい曲だがJourneyの"Don't Stop Believin'"が流れていたのだが、それで不安になるということはなかった。
 六時を越えたあたりで、どうもこれはまた眠れるのではないかという感触が兆しだしたので、読書は六時一七分までとして消灯し、ふたたび眠りに向かった。確かこの時に、ヨガでいうところの「死者のポーズ」めいた姿勢を取り、ボディスキャンを行ったのだが、手がさほど温かく重くはなっていかないかわりに、ここ数日のように痺れたりもしないので、神経が調ってきているとの確信を深くした。少々時間は掛かったかと思うが。無事に寝付くことができて、その後二度目覚め、八時二〇分頃を正式な覚醒とした。
 五時に覚めた頃からあまり寒さを感じていなかったのだが、七時頃に覚めた時には、脚のほうに薄く汗の感触があったくらいで、身体が熱を持っていた。最後の覚醒の時もちょっと発熱した風になっており、また筋肉痛のような鈍い感覚が身体の各所にあった。それと似たものとして思い出されるのは、深呼吸を頑張りすぎていた時のことで、あの時はそれ以前から夜更かしが続いて身体が狂いはじめていたところに、交感神経を過剰に活性化させてしまって発作を引き起こし、それを起点としてさらに神経が狂っていったのではないかと今となっては推測するが、この時も、昨夜の束子摩擦で神経を活性化させすぎてしまったかとも思ったものの、交感神経だけでなく副交感神経のほうも調えられたようで、不安になるということはなかったし、呼吸の調子も自ずと、軽い感触でありながら深いものになっていた。それでしばらくすると床を抜け、背伸びをしてから便所に行く。戻ってくると、瞑想である。この時もやはり自生音楽があって、なかなか消えずたびたびそちらに意識が逸れてしまったが、不安は覚えず、心身の感触としても、ここ数日にはないほどにすっきりとまとまっていた。二〇分ほど座って、上階に行く。
 母親に挨拶をして、ストーブの前にちょっと座ってから(空は見える限り雲はなく、実に晴れがましい、澄んだ青さにひらかれており、窓の右上に位置する太陽から注ぐ光がその青さを覆って輝き、こちらの目にも眩しく落ちてくる)、洗面所に行き、顔を洗うとともに髪を梳かした。それからゆっくりと嗽をして、台所に出ると米のおかずが特段ないので、例によってハムエッグを焼くことにした。ほか、野菜の雑多に入った汁物とともに卓に就き、新聞をめくりながら食事を取る。新聞記事をチェックするだけはしておきながら、実際にはまったく読めていない数日が続いている。この時、見田宗介のインタビュー記事が載っていたのだが、それでこの人の名前が「みた・むねすけ」と読むのだと初めて知った(ずっと、「けんだ・そうすけ」だと勘違いしていたのだ)。
 食事中も自生思考があったと思うが、自分の行動やほかの知覚と比べてそれが殊更に際立って煩わしいということはなかった。呼吸の感触や、汁物の野菜を咀嚼する速度から自分の落着きが自然と測られる。食事を終えると皿を洗い、この日は忘れずに風呂洗いも済ませて、室から湯呑みを持ってきた。白湯を注ぐ前に、南の窓に向いて脚をひらいたり、伸びをしたりしたのだが、その時に見えた近所の一軒の屋根に積もった雪の層の、あれは木造家屋で周囲のほかのスタンダードな瓦屋根とは屋根の形が少々違うようだが、細かな襞を成してなだらかに傾斜した白さのまさしくうねり[﹅3]と言うべき感触を帯びており、まるで高級な布のように映るのが珍しく思われた。
 白湯を注いで室に戻ると、コンピューターを点して前日の記録を付け、早速日記を書きはじめた。そうしているとやはり、神経の疼きのような微細な感覚が身体のあちらこちらに生じるので、まだ油断はできない。ひとまずは早朝の寝覚めとその際の緊張感がなくなるかどうかが一つのポイントだろう。しかし、前日にも離人感的なものが少々生じて怖くなり、自生思考がぐるぐると回った時間があったが、これも結局は神経の乱れが自分に行わせているのだということを確信しつつある。だからやはり肉体に働きかけて唯物的な部分のバランスを調えることが活路になるはずで、昨夜から今日までの感触では、それには束子健康法が一番効果があるのではという気がしている。これを毎日、やりすぎることはないが、丁寧に実行していればそのうちに自然と心身が調っていくだろう。今回の変調は、そのような丹念な「自己への配慮」を怠ったがゆえの狂いだったと言うべきだろう。
 日記を綴っていると母親が掃除機を持って部屋に来たので、機械を受け取って床や机上や本の上の埃を吸い取った。それからここまで記し、現在は一〇時四三分である。それからさらに前日、二四日の記事も書き上げてしまうと、一一時二〇分になった。コンピューターの前に座り続けて頭が濁った感じがしたので、瞑想をして心身を調え、さらに運動に入った。tofubeatsの音楽を流して、三〇分ほど身体をほぐし、その後小沢健二の歌をいくつか歌った。

書き物。途中、番組タイトル調べる。ヴァージニア・ウルフ。彼女の病気を検索。自分と似ているのではと。統合失調症だとか、解離性障害だとか。それで調べて、不安になる。
寄り道してしまい、二二日を書き終えるのは二時に。わかったのだが、不安というものは徹頭徹尾自分自身が作り出している。実感できたように思う。思考によって、つまりは言語によって。思考をする限り、言語を操る限り、不安はなくならない。重要なのは不安に飲み込まれないということ。不安が来ても、呼吸などでコントロールできると知ること。
ただ、それは認知の方面。神経的な唯物的なものがあって、こちらの調整もしなければならない。と言うか、これがベースとして調っていなければ、落着いて不安に対抗することはできない。
自分の今のものとしては、思考恐怖、雑念恐怖のようなもの。思考のコントロール。あるいは、考えは考えに過ぎないと知ること。
食事しながらそのようなことを考える。お茶漬け、汁物、卵、林檎。思考を手放せるかどうか試してみる。わりあいにうまく行ったよう。
洗濯物。出しておいた。食事したのち、アイロン掛けして、たたむ。そして下階へ。日記とブログ読む。この頃には既に落着いていたよう。ブログ途中まで。神経症状出てきたので。身体が妙な感じに。額のあたりもぴくぴくしたり。
ベッドで脚ほぐしながら読書。英語。四時過ぎに終えて、ストレッチ。足の裏を合わせて股関節を伸ばすやつ。
歯磨き。現在に集中。先ほどの思考繰り返す。思考をよく見つめるようにする。

2018/1/24, Wed.

 やはり明け方、五時になる前くらいに一度覚めた。会陰部をほぐしておいたおかげか、この時、切迫する尿意の高まりはなかった。しかし例によって、頭が何だかおかしな状態になっており、ふたたび寝付こうとしてじっとしていると、両手の感覚が、特に左手のそれが消えて行く、あるいは痺れて行く。それでもこの日は、薬も使わずに寝入ることができて、その後もほとんど一時間おきに目を覚ますような状態だったが、そのたびに何とか寝付くことができた。と言うよりは、呼吸をしているうちに意識の乱れに巻き込まれて行って、入眠したのかどうか定かでない時間を過ごしたそのうちに、気づいて時計を見ると時間がいくらか経っている、というような感じだった。
 最後に覚めたのは九時一〇分である。これくらい眠れればこちらとしてもありがたいとそれ以上は眠らず、しばらく寝床でぼんやりとした。緊張感はやや残っており、また気になることとして、左手の痺れもいくらか残っていた(薬を飲むと和らいだようだったが、一一時現在、今も手首のあたりにかすかに残っている)。寝床でやはり自分の症状について思いを巡らせてしまうものだが、考えても仕方がない、身体のことは身体に、不安のことは不安に任せ、自分にできることをやっていこうというわけで、ひとまず起き上がり、ダウンジャケットを着て伸びをした。そうして便所に行ったのだが、用を足すと、尿の色がいつにも増して濃い黄色だった。
 戻ってくると、薬を服用してから瞑想を行う。左手の痺れがどうなるか気に掛かったが、静かに呼吸をしているあいだ、強くなりはしなかったので安堵した。薬の効果もあってか、心身も次第に落着いていったようである。九時半から四五分まで座って上階に行き、母親に挨拶して、ストーブの前にちょっと座ったあと、食事の支度をした。納豆を取り出して葱を刻み、タレと酢を混ぜる。ほか、前夜の残りのポトフと、これも僅かに残ったカレーピラフである。卓に就いて新聞記事をチェックしながらものを食べる。外では、川沿いの樹々が風を受けて薄緑の梢を、いたいけなように、やや緩慢に左右に揺り動かしている。食事を終えてぼんやりとしながら炬燵テーブルに目をやると、二枚乗っている座布団のその上に日なたが露わで、天板の上にはさらに、窓ガラスを区切る真ん中の枠の影が縦に差したその外側に、白い光がまばゆく溜まっている。
 食器を片付けると、白湯とともに室に帰って、日記を書きはじめた。ここまで記して一一時半過ぎ、やはり前立腺のほうが気に掛かって、座らずに立ったほうが良いのだろうかと思いつつも、ベッドの縁に腰掛けている。薬を飲んで以来、朝は比較的穏やかな気分だったのだが、先ほど排便してきて以来なぜか、また少し落着かない、そわそわとしたような調子になってきている。
 そわそわしてばかりいても仕方あるまいというわけで、風呂を洗いに行った。そうして戻ってくると、この不安感が瞑想によって改善されるのか試してみようというわけで、ふたたび枕の上に座って瞑目した。しばらく呼吸していると、一応、呼吸や身体が少々柔らかくなってきたようではあった。同時にちょっと眠いような感じになり、脳内に音楽が湧いてきたり、まったく何の脈絡もなく、創作物の一場面のようなシーンが浮かんだりするのだが、前者はともかくとして、後者の夢のようなイメージは一体何なのか。それほど深いところまで入ったつもりもなく(実際、瞑想は八分間で終わった)、意識は比較的明晰なのに(それらのイメージを妄念だとして払うメタ認知能力は定かに保たれている)、入眠時に見るようなイメージの断片が浮かんでくるのはどういうわけなのか。終えてみても、不安感が薄れたのかどうなのか、あまり良くわからない。
 その後、『後藤明生コレクション』を読んだが、このあいだのことは覚えていない。覚えていないことはどんどんカットして進むと、居間で昼食を取るあいだに、窓外の景色を眺めた。朝と同じく、川沿いの樹々が風に靡いているのだが、朝よりも光の粒立ちが均されて全体に渡るようになっているその薄緑色のざわめきを一心に見つめる。山の樹々から雪はほとんどなくなり、右方の山肌の露出した丘にはまだ残っているのだが、白さの合間に茶色が差し込まれているその質感が、全体としてまるで樹の皮を貼りつけたように見えた。空中には光が満ち渡って実に明るく朗らかであり、そのような光景を眺めていると、ああ美しいなあという感傷的な気分がやはり兆してしまい、小沢健二 "さよならなんて云えないよ(美しさ)"の一節、「本当はわかってる/二度と戻らない美しい日にいると」が自動的に連想され、このような光景もまたすぐになくなってしまうのだなあ、そして結局、我々も死に、消え去って行くのだなあと、無常感の典型みたいなことを思って、恥ずかしながら涙を催しかけた(日本の古典文学にでも描かれていそうなセンチメンタリズム)。その後、食事を終えてアイロン掛けをしているあいだも、涙が湧きそうになるのを抑えたのだが、このようなセンチメンタルな感じやすさこそが最近の自分の精神的・神経的不安定を証すものではないのかなどとも考えた。
 昨晩、極寒のなかを歩くことになり、やはり身体を冷やすのは神経にまずいと思ったので、今まで着ていなかったコートをこの日は大人しく羽織ることにした。そうして三時半頃、出発する。道を行くあいだ、やはり少々不安があって、最後のほうではまた頭がぐるぐる回って離人感めいた症状が出てきていたようである。職場に着いてからもそれはしばらく続き、最初のうちは働きながら、自分の行動や言動が自分のものでないようだというか、本当に自動的に適したように動いてくれる感じで、しかしそれで特段の誤りもないのでこれはこれで、自分自身が勝手にやってくれるのだから楽ではないかというような分離の感覚があったのだが、そのうちにそれもなくなったようだった。また、折々に前立腺炎的な症状が生じていた。この日は身体を冷やさないように、さっさと電車で帰りたかったのだが、仕事があって間に合わず、結局歩いて帰らざるを得なくなった。空腹になると交感神経が優位になるのだったか、何となく落着かない感じもあり、暖かいものを補給しなくては冷え冷えとした夜道を渡って行けないだろうということで、自販機でコーンスープを買って飲んだ。そうすると多少楽になったようで、コートを着ていたこともあって震えることもなく歩いて行く。弧が真下に向いた月が西の途上に出ていた。
 帰宅後、呼吸を意識しながら心身を落着けるように、服をゆっくりと脱いでは着替える(ボタンを外すだとか、ハンガーに掛けるだとかの動作にいちいち集中した)。食事のあいだの記憶は特段蘇ってこないので省略して、一一時を回った頃合いに入浴である。温冷浴と束子健康法の習慣を、常になく丹念に行った。冷水シャワーは細かく区切って、まずは左右の脚の膝くらいまで浴びせてから一度湯船に戻り、次は太腿のあたりまで、次は腰までという風にして、冷水と湯のあいだを何とか往復した(上半身までやると負担が大きいので、最近はもう腰くらいまでしかやっていない)。その後、束子で身体を擦るわけだが、これもほとんど身体全体、隅々までやってみようというわけで、腕から始めて腹や背、首回り、下半身は足の先から始めて両脚の付け根まで、と丁寧に行った。特段力を込めてごしごしとやる必要はない。自らの心身を労るようなつもりで、ゆっくりと軽い調子で、しかし丹念に行い、時折り身体に湯を掛けたり、湯船に戻ったりしていると、外に出ていてもあまり寒さを感じないようになった。最後にふたたび冷水をいくらか浴びて上がったが、服を着ると身体の熱が保たれており、身も軽くリラックスして、明確に神経が調っているのがわかった。眠気もあって、本を読むような頭でもないので、下階に戻るとさっと歯磨きをして早々に眠ることにした。零時二五分である。不思議なもので、歯磨きをしているうちから、身体が眠りに向かいつつある状態になると、前立腺のほうがやや蠢きだしているのが感じられたのだが、束子健康法を行って身体を温めたおかげか、大したものではなく、この夜は床に入ってからも股間のほうが縮こまるような感覚は生じなかった。まったくありがたい話で、入眠にはそう苦労しなかったのではないか。

2018/1/23, Tue.

 一度覚めた時、四時一五分頃だったと思う。先日ほどではないが、またもや尿意の高まりがあった。それは段々弱くなっていったと思うが、ふたたび寝付くことができない。眠ろうと身体を止めても、眠気は一向にやって来ず、心身が冴えたままに瞑想時の変性意識のような状態になってしまうのだ。なぜそんなに脳内物質が分泌されやすくなっているのか? わからないが、またドーパミン神経が活性化しているのだろうかと考え、不安はなかったので、ドーパミンの分泌を抑えるらしいスルピリドだけをひとまず服用した。しかしそうしてみてもやはり眠れないので、しばらくしてからロラゼパムのほうも飲む。少々心身が和らぐようではあったが、それでもやはり寝入ることができず、結局寝床に入ったまま三時間を過ごし、夜も明けて七時台を迎えた。まさか自分がここまでの不眠に苛まれるとは思わなかった。眠りたいのに眠れないというのは、なかなか辛いものである。以前も眠気がやって来ないことはままあり、そういう時は、もし眠りが来なくても、このまま朝まで寝床で耐えてやると強気に構えて、しかし実際に朝まで起きたままということにはならず、いつもそのうちに意識が途切れていたのだが、今回はそのような気持ちにもなれなかった。年始以来、順調に回復してきたと思っていたが、これは思ったよりも長丁場になるかもしれない。とは言え、今まで何年も薬を飲みつつゆっくりやって来たわけで、今次の件も長い目で捉え、一年後には多少良くなっているだろう、というくらいの気持ちで考えるのが良いのだろう。
 七時半を迎えたところで、仕方がないと起床した。心身の調子はさほど悪くないように感じられたのだが、やはり眠りが少なすぎる。上階に行ったあとのことはよく思い出せない。食事を終えて自室に戻ってくると、また慢性前立腺炎について調べて、落着かず、気が気でなかったようである。実際、自宅にいるというのに尿意も普段よりもずっとすぐに、強く感じられていたのだ。腰の痛みもあり、自分が慢性前立腺炎と呼ばれる類の症状を発現しているのは確かだと思われるのだが、これが実体のない、神経的な、言わば脳の誤作動によるものなのか、それとも実際に前立腺が炎症を起こしているのか、当然こちらにはわからない。専門家にも、根本的な原因はわかっていないようで、精神的な要因も大いに関わってくると言うから、やはりパニック障害の下位症状の一つなのだろうか。
 九時を過ぎたあたりで瞑想を行い、すると頭が振れるようだったので、この調子で眠れるのではないかと布団に入ったところが、やはり入眠することはできなかった。何かこちらの意識、あるいは脳が、眠りを拒んでいるような様子すらあるように思われる。仕方がないので諦めて、『後藤明生コレクション4』を読みはじめたのだが、前立腺炎的な症状があったので、身体を動かしたほうが良いかとすぐに切り替えて、運動を行った(その合間に、前立腺に効くというツボを調べて刺激したりもした)。
 そうして一一時一〇分からふたたび読書を始めた。「鰐か鯨か」を読み、「蜂アカデミーへの報告」にもちょっと入ったのだが、どちらの篇も、どこがどうとは明確に言えないが、なかなかに面白く読めたようである。正午も越えて、一二時四〇分頃になると、上階へ行った。朝と同じく、米に前夜の残りの鯖、汁物を用意して卓に就く。テレビのワイドショーは、小室哲哉の引退会見を取り上げて、街の人の声を聞いたり、何やら議論風のことをしたりしていた。会見に向けられる疑問点を特に三つ挙げており、引退をする必要はあったのか、妻であるKEIKO氏(この人はくも膜下出血か何か起こして、脳の障害で闘病中らしい)の容態を細かに話す必要はあったのか、あと一つは「文春」がどうのこうの、と書かれていたが、こちらとしては小室哲哉本人にも彼の作った音楽にも個人的な思い入れはないので、特段の興味は湧かない。向かいの母親は、引退しなくても良かったのにとか、奥さんのことを詳しく話さなくても良かったのにとか洩らしていた。前日の降雪から一転して晴れがましい明るさの日和であり、上に書き忘れたが、朝の居間では、昇りはじめた太陽に照らされて、電線の上にあった雪が溶けはじめ、光を帯びてゆらゆらと揺れるさまがそこここで見られた。白さの薄れた山の姿に目を向けていると、そのうちにテレビはニュースに変わっていて、群馬は草津白根山というのが噴火したと言う。気象庁の会見(音量が小さくておおよそ聞き取れなかったが)にぼんやりと目を向け、そのうちに立って、母親のものと一緒に皿を洗った。
 この頃には前立腺炎的な症状は比較的収まっていたので、白湯を持って室に帰り、飲みながらこの日の日記を記しはじめた。一五分綴ったところでしかし、そう言えば神経症状が気になって風呂を洗っていなかったのではないかと思い当たり、書き物を中断して上階に行くと、やはりそうだったので浴槽を擦った。そのついでに、ベランダに積もった雪を払うことにして、玄関の外から雪搔きを持ってきて、長靴を履いて取り掛かる。前日に母親が測ったところでは、一四センチの厚みがあったそうである。その雪の積み重なりをスコップですくい上げ、柵を越えて、植木類に当たらないようにと少々遠めに、下の地面へと投げ落とした。終えるとさらについでにストーブの石油を補充しておき、そうして自室に帰った。
 ふたたび書き物を始めたのだが、そのあいだも不安があると言うか、心身に落着きがなくそわそわとしているのが如実にわかり、そうした心身の(あるいは脳の)状態が、自分の思考にも大いに影響を与えて、疑心暗鬼的なほうへと追いやっているのが自らわかる。それで二五分ほど書いてから、また瞑想をしてみるかと思った。変性意識的な深い状態に入るのが嫌だというか、それでまた頭の調子がおかしくなったらと考えて少々怖いところはあるのだが、しかし例えば、南直哉『日常生活のなかの禅』など少々覗いてみても、坐禅が深まると「感覚の統合が失われて、五感がすべて同時に明滅しているように、あらゆるものが波動として感じられる」などと書いてあり、この人はこうした深い状態に今まで何度も入っていながら自己を定かに保っているのだろうから、そうそう容易に狂うでもないはずだ。また自分の場合、瞑想をするというのは、修行をしようとか悟りをひらこうとかいうつもりはまったくなく、実感として「心身のチューニング」といったようなものだったはずである。万全の状態を作ろうとして余計に呼吸を頑張ってしまったおかげで多分交感神経の働きが過剰になっているのが今の状態なのではないかと思うのだが、そうだとすれば、ただ何もせず座って自然な呼吸に任せるというリラックスの時間を取ることで、神経系を調えることができないか。実際以前はそのようにして概ね心身の安定を保っていたのだから、またその頃の習慣に合わせてみて、自分がどうなるか試してみようと考えた。それで回復して行けばそれで良し、仮に悪くなったとしても、薬を増やせば生きていけないではあるまいというわけで、一旦ベッドに移り窓をひらいて、二時半前から枕に座った。自然で軽い呼吸に任せるようにして、ただ何もせず座る、非能動の時間を取るのだと心掛け、すると次第に、身体の緊張がちょっとほぐれて行く。意識の志向性は、ストーブの送風音や、自分の身体の各所や、外で鳴いている烏の声のあいだを渡って行く。あまりそれらに集中しすぎないよう、リラックスを心掛け、脳内に思考が湧いているのに気づいたら呼吸に意識を戻す、という風にやっていると、そのうちに眼裏に例の靄のような薄い光のようなものが見えてくる。来やがったな、と思った。何らかの脳内物質が分泌されている証なのだろうが、


書き物。三時に至る。支度しなくてはと。 
出発。道の真ん中から雪はもうない。辻、坂、雪搔きの姿。街道。渡る。頭上で鵯の声。背中に陽射し、気づく、暖かさに。
裏。踏まれて板状の氷のようになったのが残る。歩くとしゃりしゃりと音。滑らないように慎重に、歩幅狭く行く。降りれば歩きやすい。ここでも雪搔きやっている。おばさん。左右に、いびつな三角や多角形。白い雪の上に。灰色混じりに薄汚れて。集められている。寄せられている。空き地、触れられていない雪の青い襞。昔もこれを見たなと思う。
駅近く。小学生、雪投げたりしながら歩く。
勤務。何となく落着かない。浮足立つような。前立腺も気になる。途中で何かどきりときた瞬間があり、薬服用。自分の心身が常に緊張しながら、抑えられているのがわかる。一日に三粒はさすがに多くて、頭が重く、疲労感も。
帰路、歩き。途方もなく寒い。運動したほうが良いと思ったが、選択を誤った。電車でさっさと帰るべきだった。左右に積まれた雪の残骸から冷気。がたがたと震える。その力みがまた悪いのではないかと、緊張に繋がるのではと思う。途中から腰や背の痛みなどの症状も。早く家に着きたいと気が急いてばかりいた。
帰宅。ストーブで温まる。着替え後、身体を温めようと、布団にもぐり、腰をもぞもぞとやる。しばらくして、一〇時半、上へ。食事。カレーピラフにポトフほか。
入浴。湯のなかで、前立腺とはどこかと股間さぐる。会陰部、何か固く張っている。こんなに張っているものかと押していると、何か、どっ、どっ、どっ、と音。何かと思い、もう一度押してみると、またする。それが自分の心臓。驚く。音が聞こえるくらい高まっていたが、身体に響く感じがまったくなかった。薬のおかげか。胸に手を当て、脈を取って速さを確認する。座ったりして会陰部が圧迫されるたびにこのようになっていたらそれは緊張もする、心臓発作で死んでしまうと恐れ、呼吸を調える。脈を確認しながら、深い呼吸よりもむしろ、軽い呼吸のほうが脈が遅くなるので、自然なそれに任せる。その後、髪洗い、束子。足の裏を念入りに。戻ってまた会陰部確認。ほぐれていて、押しても鼓動高まらない。ここをマッサージすることで症状が和らぐのではと周辺をもみほぐしておく。
出ると、湯たんぽを用意。湯を沸かして。バスタオルで巻く。室へ。もう頭が重く、眠い。歯磨きをなおざりにして、床へ。しかし、横になって眠りに向かった途端、変調。緊張感があり、前立腺のあたりが何か蠢く。高所に立つと股間のあたりが縮こまる感じになると思うが、あのような。それが自動的に起こる。こちらの脳あるいは身体は、かなりおかしくなっているなと思った。姿勢を変えてやりすごそうとするがうまくいかない。じきに覚悟を決めて、受け入れる態勢に入る。たびたびイメージに巻き込まれながら、呼吸に立ち戻るという瞬間があった。しかしそのうちに、眠っていたようである。

2018/1/22, Mon.

 やはり明け方に一度覚める。例によって、心身が不安と緊張にまみれていた。呼吸を観察すると、自ずとその感触が固く、浅くなっているのが感じられる。だからと言って特段に深いものにしようとはせず、ただ呼吸と身体の感覚に意識を向け続けているうちに、わりあいに落着いて、吐息が軽いものとなってきた。しかし、それでも容易には寝付けなさそうだったので、薬の力を借りるかというわけで起き上がり(この時だったか、時刻を確認すると、四時四五分頃だったと思う)、机の一角から紙袋を取ってベッドの上に薬剤を取り出す。暗闇のなかで種類を間違えないように、目覚まし時計を持ち、ボタンを押して薄いライトを灯して薬のパッケージに近づけ、きちんと確認してから服用した。そうしてまた布団のなかに潜ると、スルピリドドグマチール)が胃薬としての効果もあるからだろう、空の腹がぐるぐると動き、音を鳴らす。薬剤のおかげで緊張感は段々薄くなってきたが、かと言って眠気のほうは一向にやって来ず、それを待ちながら自ずとものを考えた。呼吸に意識を向けながら考えるという技術を身に着けられたようなので、この時の物思いは落着いたものであり、思考があるからと言ってストレスを覚えるわけではなかった。
 まず、このように不安に冒されている時間をも自分は丁寧に生きていきたいと思ったのだが、そこにおいて丁寧に生きるとはどういうことなのかと言えば、勿論、そこに生じている不安(によって導かれる身体感覚)をすら、よく感じ取るということである。しかしだからと言って、その不安に巻き込まれてはいけない。そのために軸足を置く足場、まさしく場所[﹅2]として、呼吸というもの(を中心とした身体感覚)があるのだが、それを常に己の根幹/ベースに据えることによって、能動性でも受動性でもないただ「ある」の状態、「存在性」とでも言いたいものが開示されてくるのではないか、というのは過去に記した通りである。それは、呼吸感覚こそが自分の存在の最終的な帰着先になるということで、これは考えてみればまるで当たり前のことであるというか、何しろ、呼吸活動というのは生命維持機能の根幹であり、呼吸がそこにある限り自分が存在していることは明らかだし、呼吸が(一時的にではなく恒久的に)なくなれば自分がもはや存在していないということもまた同様に明らかであるはずだ。したがって、例のデカルトは「近代的」と呼ばれるらしい「自我」の存在様態として、「私は考える、故に私は存在している」という定式を作ったわけだが、これを、「私は呼吸している、故に私は存在している」と読み替えるのがヴィパッサナー瞑想的なあり方ではないか(あるいは呼吸とはほとんど自動的な機能なのだから、ここに「私」という一人称の主体を持ち出すことすらことによると誤りというか、不正確なのかもしれない。「呼吸がある」ということそのものが、そのまま等しく「生」である、というような言い方のほうが良いのかもしれない)。
 こうした定式は上にも書いた通り、まったくもって当然の、言わば常識的な事柄であるはずで、ブログを通じてこの文章を読む方にもこちらの感じていることの内実が伝わるかどうか心許ないのだが、しかしおそらく、生を送るうちに我々人間は(様々な感情の働きや言語などに慣れ親しむことで)この当然の事柄についての実感/体感を失ってしまうのではないだろうか。例えば赤ん坊の頃などは、誰も自分の存在感として、ほとんど呼吸と身体の感覚しか持ち合わせていなかったはずで、ヴィパッサナー瞑想的な実践というのは、言わばそのような、人間としての(あるいは動物としての?)原初的な[﹅4]生の様態を幾分か取り戻そうとする試みなのかもしれない。
 呼吸を通じて現在の瞬間をよく感じ取り、しかし同時にそれに巻き込まれることはないというあり方を考える時に思い出されるのは、一昨日見つけた資料(http://hikumano.umin.ac.jp/hosei/CBT7.pdf)で読んだ仏陀の言葉であり、曰く、「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない。内にもいない。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。それは一切の苦しみの終わりである」と言う。ここから考えるに、呼吸とは、物事への密着[﹅2]の術なのではないか。物事の内側に取り込まれることなく、しかしかと言って、それらを恐れて逃れ、殊更に距離を置くでもなく、外でも内でもないまさしく境界線上に立つこと[﹅21]、そのようにある意味で付かず離れず(「不即不離」とは仏教的な概念ではないか?)でありながら、境界線上における密着(と言うと、「付く」の意味合いが強くなってしまい、それは「より良く感じる」という側面を強調したい自分の心の現れだと思うが、むしろもう少し中立的な言葉でもって、「接触」とでも言ったほうが良いのかもしれない)の位置にあること、自分としては現在のところ、仏陀の言葉からこのようなことを考えた。
 眠りを待ちながらそうしたことを考えているうちに、母親がトイレに立つ物音が聞こえたのだが、かすかな困惑とともに時計を確認してみると、先ほどから一時間が経って六時近くになっていたので、自分はそんなに長いあいだ眠れずに過ごしていたのか、と驚いた。その後もなかなか、意識がきちんと沈んでいかず、寝ているのか覚めているのかわからないような状態があいだに挟まったのち、何とか一応眠れたようで、九時一〇分に目を覚ました。
 前日に書いた通り、もう敢えて座する瞑想を行わず、生活のなかで実践していけば良いのではないかというわけで、起き抜けの瞑想はやらなかった。伸びをしてダウンジャケットを羽織り、上階に行く。ベッドから抜け出した直後は大して寒くないと思ったのだが、居間に上がって行くとやはり寒く、あとで新聞を見れば最高気温は四度とあり、何でも雪が降るらしい(と言うか、一一時を回った現在、既に降り出している)。台所に立って、電子レンジのなかのホットドッグや、鍋の汁物が温まるのを待つあいだも、欠伸をすると身体が小刻みに震えるさまだった。
 食卓に就いてものを食べていると、母親が、携帯電話をこちらに差し向けて、画像を見せてくれる。(……)の妹である(……)はニューヨーク付近に住んでいるらしいのだが、そちらでは雪が積もっており、それでシャー・ペイ犬を模した雪像を作ったということだった(前日にはやはり、梟の模造も見せられていたのだが、そちらは羽根の襞も細かく表現されており、大した出来映えだった)。シャー・ペイ犬という犬の種はここで初めて知ったのだが、中国の犬らしく、皮膚が弛んでたくさんの皺を持つものらしい。母親はその後、それと似たチャウ・チャウ犬の動画を携帯電話で探し、閲覧していた。
 外は一面まっさらに白い曇り空であり、寒暖の差で窓が曇る。母親によればもうごく小粒の雪が降り出しているということだが、卓の位置からは視認できなかった。食事を終えると食器と風呂を洗い、一度下階に戻って湯呑みを取ってきて、ポットから白湯を注いで戻る(階段や廊下を行くあいだ、裸足の裏がひどく冷たい)。コンピューターを点けると前日の記録を付け、一〇時一五分から早速日記を書き出した。前日の分を早々と完成させ、この日のことを書いているあいだ、ふと背後の窓を見やれば、雪が本当に降り出しており、既に近所の瓦屋根の襞の合間にいくらか溜まっていたので驚いた。しかし、一一時半前を迎えている現在、降りは先ほどよりも細かく、かすかなものとなっており、そう積もる気配も見えない。
 その後、二一日の記事をブログに投稿し、久しぶりに何となくはてなキーワードを探っていると、自分のものと同じように日記形式で毎日記されているブログを発見し(「(……)」というものである)、ちょっと覗いてみて興味を覚えたので読者登録をした(こちらは極々一般的なブログ、何らかの明確な主題を持ち、それに沿って明確なタイトルを付した記事を並べているそれには基本的に興味が湧かず、自分のそれと同じように毎日の生活を題材とし、日付ばかりを記事の題として由無し事を綴っているものに専ら関心を持つ性質である)。それから自分のここ最近の記事も読み返したのち、脚をほぐそうというわけで読書に入った。『後藤明生コレクション 4 後期』である。前夜に読んだ冒頭の「『饗宴』問答」は、何だかんだ言ってもやはり不安に脅かされているようなところがあったのだろうか、あまり強い印象を覚える瞬間がなかったようなのだが、この時に読みだした「謎の手紙をめぐる数通の手紙」は、読み進めているうちに面白いな、と感じられた。手紙の前置きや余談/迂回が膨張しすぎていつまで経っても本題が見えてこない感じなど、もうわりあいに見知ったやり方ではあるものの、やはりこちらの好みではある。そのようなあたり、少なくともこの「後期」の後藤明生というのは、やはりカフカやヴァルザーの方面に近い書きぶりと言って良いのだろうが、まったく曖昧な印象批評ではあるものの、彼らほど「適当に」書いてはいないというか、言語の自走性に従ってぽん、と勢いで書いてみたという雰囲気の部分が散見されるようでありつつも、同時にそれらをうまく整地/舗装して流れを作り出している、というような感触もあって、天然さと理知性がうまく同居しているような印象を受けた。この篇はまだ二通目の手紙の冒頭までしか読んでいないのだが、最初の手紙の対話など大変面白く、笑ってしまうもので(「お話の途中、失礼ですが……」「は?」というやりとりの反復など、ヴァルザーの文章にもある反復技法を思い出してしまう)、後藤という人は、一篇目の「『饗宴』問答」の架空の問答についても、こうした「饗宴」ならばいつまででも続けられると書き込まれてあったけれど、多分本当に、このような「問答」をいくらでも書き続けられるような作家だったのではないか。
 一時一五分まで読んだところで切りとした。その頃には、先ほどは幽かなものでしかなかった雪が急激に降り増して積もりだし、景色を白く埋めていた。読書の途中に職場からメールが届いており、早めに出勤できないかとのものだったので、了承の返事を送っておいた。そうして上階に行き、食事を取る。朝のホットドッグの残りと素麺である。卓に就いて心を落着けて素麺を啜ると、非常に美味く感じられたので、自分はどうやら大丈夫そうだなとの感をここでも深めた。改めて窓外を見てみると、座った姿勢からは近間の道路は窓の下方に隠れて見えず、いくつかの家屋根と、樹々と川向こうの集落とその先の山が目に入るのだが、それらの景色の大方が空漠とした白さに籠められて、山の姿はまったく映らないし、川向こうの家の姿形も霞んでほとんど見えない有様だった。こんな調子では、長靴を履いていくようではないか、むしろ職場も完全に閉まってはくれないか、などと母親と交わしながら食事を取り、室に帰ると日記を書き足しはじめた。書き出してまもなく、携帯電話に(……)から着信があり、出れば、(……)やはり来てもらうようだとのことなので、長靴を履いて行きますと了承した。ここまで記して二時一六分である。
 その後、もう支度を始めることにして、歯を磨きはじめた。その合間に過去の日記の読み返しをするつもりのところが、自分のブログの最近の記事を読んでしまい、それで時間を使って、口を濯ぐと上階に行った。靴下を履く。テレビのなかでは高田純次が故郷の調布を訪れており、それを見やりながらちょっと体操を行ったあと、室に戻った。Oasisを流して服を着替える。それで三時直前、まだ余裕があったので歌をいくつか歌ったが、この時も気持ちを高めすぎないように、歌いながら自分の呼吸や身体の感覚を意識した。
 そうして上階に行き、外出の準備を締めくくる。長靴を履くとは言ったものの、実際にはそうする気にならず、ただ雪のなかを行って靴や靴下が濡れるだろうから、替えのものをビニール袋に入れてバッグに収めた。タオルも加えて出発である。家の敷地やその前の道路にも既に雪が厚く積もっており、道に出ると車の作った轍のなかを行く。坂に入る間際で振り向くと、白く染まった家々に、遠くの霞んだ景色のなか、すぐ傍の柚子の樹が白さのなかに黄色を加えており、見ていると電線から落ちた雪が樹に当たり、仲間を巻きこんでさらに落ちて行った。坂に入ってから右手を見れば、白く塗られた樹々のなかに川の水の動きは見えず、家屋根には、ありがちな比喩だがまさしくチョコレートの板のように四角く整然と雪が形を成している。上っていくあいだ、雪かきの音があたりから聞こえる。静かななかに、烏の声や、ぴよぴよと軽い鳥の鳴きがくっきりと立つのが、雪の降っているなかにも、と何か物珍しく思われた。
 街道に出ると、歩道に積もった雪はほとんど手付かずの厚いままで、先人が踏み分けたその足跡をこちらも辿るようにしてゆっくりと踏んでいく。前方に下校する女子中学生が見えたところで、北側に渡った。そうしてまた慎重に行くあいだ、歩を踏み出すたびに、足の裏の前方に重さが移る際、雪が踏み固められる音が鈍く、連続的に立つ。
 裏通りに入ると、車の通った跡を辿れるので、多少は歩きやすくなった。進んでいると女子中学生の二人連れが後ろから迫り、ふわふわで嬉しい、などと言いながらこちらを追い抜かして行く。見れば先を行くオレンジの靴のほうが、轍でなくてその外の白雪のまだ踏まれていないなかを敢えて踏み分け、白い靴下の上に素肌のちょっと覗く足を蹴り上げたりしている。中学一年か二年生だろうか、二人とも折り畳み傘の狭い守りの下に小さな身体を屈めるようにして足もとを向き、快活に進んでいく後ろ姿(リュックサックを背負っていた)を見るに、何て邪気がないのだろう、これだけでもう小説ではないかと思った。しばらく先でも、横道から入ってきたやはり女子中学生の集団が、道脇のちょっとひらいた敷地に集まって、何やらきゃあきゃあとはしゃぎ合っているのに、また邪気のなさを覚える。小学生くらいの年齢の子どもの無邪気そうに遊び回る姿は見慣れたものだが、自意識もおおよそ固まった中学生がそのように、ひとときであっても無垢なような様子を示しているというのは、何だか感動的ではないだろうか? 
 道は静かだった。足音や道端の家の雪かきの音、時折り裏路に入ってくる車の音など、さまざまな音が、雪が降っているというその響きがあることによって、それぞれくっきりと輪郭を立たせるようであり、その合間の時間も実に静かに感じられるというのは、どういう効果なのだろう。さらに進んで空き地に掛かると、一面白く埋められたそのなかに男児が二人遊んでおり、目を振れば女児の姿も二つあって、水色とピンクの傘をそれぞれ指した彼女らが白さのなかをゆっくりと、少しずつ横切っていくそのさまを真横から眺める視線になって、ここでも、これだけでもう映画ではないかとの感を得た。その場を離れながら、やはりこの世界そのものこそがこの世で最も豊かな映画、音楽、小説、そしてテクストなのだと前々からの考えを繰り返したのだが、これらの極々日常的でささやかなシーン/偶発事に、そんな風に殊更に感じ入ってしまって良いものだろうか? 
 ようやくのことで職場に着く。服の前面やバッグについた雪を払い、傘の雪も飛ばしてから扉をひらく(……)。(……)仕事は結局なくなったということだった。(……)ただの散歩になってしまった(……)が、色々なものを見聞きすることができたので、損をしたという気持ちはまったくなかった。(……)
 (……)帰途に就く。電車が出ているのか心配だったが、駅に入ると、遅れてはいるが動いているようだったので改札をくぐる。自販機でスナック菓子を二つ買い、電車に乗る。途上、外を眺めていると、樹々は雪を乗せて白く凍った像のようになっており、時折り乗ったものがなだれ落ちて白い幕を作っているのが見られる。最寄りに着いて降りると、ホームにも雪が大層厚く積もっており、ここを行くのがこの日の路程で一番難儀だったかもしれないというほどだった。足もとの雪は至る所からちらちらと煌めきを放っており、その上に降り続く雪片の影が舞い乱れるのだが、実のところ、それらのうちのどれが電灯に照らされた影なのか、どれが地に落ちる直前に揺動する実物なのかまったく見分けがつかなかった。
 普段下りる坂は車や人の通りもあまりないので、雪が多く残っているだろうと思われ、そちらを通る気にはならず、行きにも来た道を戻ることにして遠くへ回る。街道の対岸で雪搔きをやっており、「これからあとどんくらい積もんのかな」と声が聞こえる。進むとこちら側でもやっている人があるので、通り過ぎざまにご苦労様ですと声を掛けた。入った坂でも同様である。帰り着くと、靴のなかに新聞を詰めておく。時刻は五時半くらいだったようだ。
 ひどく空腹だった。日記の読み返しをしてから上階に行ったが、米がまだ炊けていなかった。卓で待っているあいだ眠くて、目を瞑ってしまい、じきに突っ伏して眠りを取った。起きると七時に至っており、米が炊けているので台所へ行き、炊飯器を開けて米をかき混ぜ、熱を逃した。ほか、鯖やカボチャに汁物をよそって卓に就く。呼吸を意識しながら、ゆっくりと食べるように心掛けた。テレビは『YOUは何しに日本へ?』を映していた。それを見ながらものを食べ、八時くらいになると風呂に入った。身体を労るようにして束子でゆっくりと皮膚を刺激したあと、ストールを洗った。洗面器に洗剤を混ぜて揉み洗いをして、濯いでから出ると、洗濯機に放りこんで脱水を行った。長く入浴して、既に九時頃だったはずである。そうしてエプロンにアイロンを掛けていると、父親が帰ってきた。電車が途中で停まっていたので、タクシーを使ったらしい。前に一〇人ほど待っており、後ろにはさらに並んでいたという話だった。
 室に帰ると一〇時過ぎから書き物を始めたが、どうも力が入ってしまい、すらすらと言葉が出てこず、記憶の細部を思い出そうと考えてしまうようだった。緊張感とも言うべき集中の感じがあったが、しかしそこに不安はないようだった。
 この日の残りの時間については特に覚えていないので、省略する。

2018/1/21, Sun.

 多分、七時頃に例によって一旦目覚めたのではないだろうか。やはり心身が緊張感に冒されている感じがあったのだが、変な話、だからと言って殊更に恐怖を覚えたり、その状態から抜け出したいという欲求を強く感じるわけでもなく、緊張で固くなったまま安定しているようなところがあり、実際、そのうちにまた寝付くことができた。正式な覚醒は九時半となったので、八時間二〇分ほどの睡眠になる。この時には緊張感は、大方去っていたような覚えがあるが、それでも一応薬を服用しておき、用を足してきてから瞑想を行った。自生思考があっても大丈夫であり、想念が湧き上がるのはむしろ自動的で当然のことであり、それに不安になる必要はないということを自分の脳に理解させるため、この時にはあまり呼吸に意識を引き戻そうともせず、思念が遊泳するがままに任せた。この朝の夢で、母親が、『マクロスF』というアニメの挿入歌である"星間飛行"を聞いているという一場面があり(勿論、現実には母親は『マクロスF』を知らないし、こちらもこのアニメは見たことがなく、曲だけどこかで耳にして知っている)、その記憶が留まっていたのだろう、たびたびこの曲の一節が頭に生じてきて、それが煩わしく感じられるようではあったが、しかし不安は覚えなかった(この時聞こえていた曲が"星間飛行"だと思っていたのだが、今検索してみたところそうではなく、坂本真綾"トライアングラー"のほうだった。この曲の冒頭の、「君は誰とキスをする/わたしそれともあの子」という部分が繰り返し想起されて仕方がなかったのだが、菅野よう子作曲らしいので、彼女の仕事を探っていた時などに知ったのではないか)。
 二〇分瞑想をして、一〇時を回ったところで上階に行く。両親は、(……)の葬儀に出かける用があり、さらにその後一旦帰ってきてから、山梨の祖母の誕生日を(祖母には知らせずにサプライズとして)祝いに行くとのことだった。それで混ぜご飯を作っておいたと言う。ほか、ベーコンと卵を焼き、エリンギの入ったスープとともに卓に並べて、食事を取った。新聞の読書欄を見ると、磯崎憲一郎が小文を寄せていて、仔細に読んだわけでないが、知り合いの子煩悩を馬鹿にしていたところが自分に子が出来た途端に自らこそが子煩悩になってしまった、というようなことを一つには書いており、これと同じような内容が彼の小説作品のどれかに書き込まれていたような記憶が朧気にあるのだが、また、新聞に寄せて自分自身の体験を語っているその文章の文体が小説のそれの調子とまったく異ならないのが、彼の場合、やはりそうだろうなと思われた。
 室に帰ると白湯を飲みながら、他人のブログを読んだ。その後、自分の日記も二日分読み返し(二〇一六年一二月二二日と二三日)、すると正午を回ったのだが、ここで、そう言えば風呂を洗っていなかったのではないかと気づき、部屋を出た。両親がちょうど出かけて行く時刻である。上階に行って浴室に入ると、浴槽の蓋の表面が、何なのかわからないが濁った淡い黄緑といったような色でところどころ汚れているのに気づき、栓を抜いて湯が流れて行くのを待つあいだに、先にそちらを擦った。その後浴槽内も洗うのだが、終えたところで、そう言えばこの(多分、合成樹脂という素材の?)ブラシも、使ったらちょっと水を押し出して浴室の隅に吊るしているだけで毎日用いているが、それでは雑菌が繁殖しないのだろうか、今までそれで特別問題が生じているとは思えないが、一応束子と同じようにベランダに干して陽や風に当てたほうが良いのではないかと神経質に考えて、そのようにした。
 そうして下階に戻るのだが、廊下を通って自室の直前まで来たところで、自ずと足が隣室のほうへ折れてしまい、なかに入ってギターを弄りはじめた。しばらく適当に弾き散らかしてから自室に戻ると一時前、日記を記すより前に読書を始めた。例によって横になり、脚をほぐしながら本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読む。この時も、初めは文字を追いながら同時に様々な雑念が浮かんでいるのがわかり、それが気になるようだったのだが、人間、そのような散漫な思念があって当然なのだと考え、意識が逸れるたびにそれを自覚し、あるいは文を読むと同時に思念が混ざっていることを自覚しながら読んでいるうちに、思念のほうが、なくなるわけではないが後方にちょっと退いていったように薄くなって、本のほうに主に意識を向けることができたようである。志向性とは常に何かの対象に対する志向性であり、意識は常に何かしらのものを志向している、というようなことをハイデガーが言っていると聞いたことがあり、それはハイデガーの考えというよりも、多分現象学的な認識の基礎なのではないかと特段の根拠もなく推測するのだが、ヴィパッサナー瞑想によってメタ認知を鍛えた結果、まさしく自分の意識が常に何かを志向しているということがありありと「見えてしまう」ことがストレスだというのが、最近の変調の一つの要素だった。しかしこれは多分、神経のバランスが崩れていたために、自分の意識の情報取得に対して処理のほうが追いついていないというか、そのような状態だったのではないか。と言うよりはむしろ、その「見えてしまう」ということが、発狂への恐怖と結びついた結果、見えることそのものが不安になったというほうが正確かもしれない。
 今自分は、生活のあいだの多くの時間、脳内で独り言を言い続けているような状態であり、そのような自生思考が常態となっているのだが、しかし本当は多分、人間は皆そうであって、そう思えない人がいるとしたらそれに気づいていないだけなのではないだろうか。その自生思考がコントロールを失って、自己の思考の自律というものがなくなってしまったらどうしよう、というのが、今回の発狂恐怖の具体的な内実だったと思うが、しかしコントロールを失うも何も、こうした雑念・想念の類はそもそもコントロールなどできないはずである。思念とは(すなわち言語とは)次々と自然に生じてきては去っていく、そういうものなのであって、こちらにできるのはただそれに飲み込まれないように、メタ認知=観察の能力を磨くことだけではないのだろうか。ほとんど常に頭のなかに雑念・思念があると言っても、以前はそれで平気だったし、むしろそれで良いと思い、それに自ら耽るようなところすらあったのが、神経の乱れによって不安を感じやすくなった頭が、それを恐怖へと繋げてしまったというところではないか。
 そうした話は措いておいて、二時四〇分に至って読書をやめると、インターネットを少々覗き、それからエネルギーを補給しに上階に行った。混ぜご飯を一杯食べてさっさと戻ると、ふたたび読書を始め、三五分ほどで本村凌二の本を最後まで読み終えた。次には、(……)との会合の課題書となっている後藤明生コレクションを読むつもりである。
 それからまたインターネットを覗き、五時が間近になったところで上階へ行って、居間のカーテンを閉めた。さらにタオル類も畳んでおくと室に帰ってきて、日記を書きはじめたのだが、ここまで記して既に六時半前に至っている。文を書きながら、思考が湧いてそちらに逸れている時間が多かったようで、そのように脇道に逸れてしまって今自分が進めたいはずの事柄に集中できない、というのがストレスだというようなところがあった。しかしこれは、その都度サマタ瞑想方式で、目の前のことに意識を引き戻して行くほかないのだろう。ここに来て、思考が生じてくるということそのものが自分の神経症の対象となってきたようだ。
 その後、上階に上がって、夕食の一品として餃子を焼いた。台所に立って作業をしているあいだも、散漫な、内容を記憶できていないような思念が頭のなかを巡っており、餃子の袋に書かれた作り方の手順を読んでも頭に入って来ず、複数回、文字をなぞってしまうような有様だった。焼き上げると下階に戻って、(……)読書に入った。今度は英語のリーディング、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionである。英語の読書の仕方、と言うか語彙の習得方法というのはいつも悩ましいところがあり、Conradを読んでいた頃は覚えたい単語には線を引いておき、折に触れて頁を遡ってそれらを振り返っていたし、Hemingwayの時には、書抜き箇所を記しておく用のノートに調べた単語をメモしておき、これも折に触れて振り返ったりしていたのだが、そのように意志的に反復をするのが面倒臭いという気持ちに最近はなっている。それでも一応、辞書を調べたもののなかから、頭に多少印象づけておいたほうが良いかなという語彙については手帳にメモだけはしてあり、日記を書く時にこれらを改めて写すということもやろうと思っていたのだが、忘れていたので、ここ数日分をいっぺんにここに記してしまうことにする(日本語の意味はこれも面倒臭いので記録していない)。まず一七日が、corporeal, mote, impart, plumage, fabric, constituent, swarm, uniform properties, optically, graze, frisk, gambol, conspicuous, extrapolate, fluctuate。一八日が、purport, ambient, swerve, edible, permeate, terrestrial, dissemination, propel, deduction, promulgate, distillation。一九日が、lucrative, practitioner, corpuscularian, corpuscle, tertiary, devoid of。そして今日の分が、inertia, subservient, intricacy, balk at, in lieu of, defunctである。こうして写していても、意味が自然と浮かび上がってくるものもあれば、来ないものもあるのだが、自ずと想起されないものを頑張って思い出すのも面倒臭く、受験勉強のように努力して覚えて行くのもやる気にならないので、記録をするというところだけは最低限の落とし所として、英文を読む経験を重ねるうちに自然と語彙が増えて行くことを期待したい。
 英語を読んでいるあいだも、またしても思念に妨害されて文をうまく読み取れず、余計に時間が掛かってしまった感があった。七時半を回ったあたりで両親が帰ってきた音がしたので、上階に上がり、食事を取ることにした。品をそれぞれよそって運び、ものを食べているあいだは、やはりホームポジションとしての呼吸を意識するのが良いのではと考えていた。思考が生じてくるのはもうどうしようもないから、呼吸を自己の中核として据えることによって、それに巻き込まれないようにすればそれで良いのではないか、ということで、これはヴィパッサナー瞑想というよりも、サマタ的な実践だと思うのだが、これらは対立的なものというよりも、止と観を合わせて一体の、相補的なものと捉えるべきなのだろう。そのようなことを考えて、呼吸と身体の感覚にちょっと目を向けるようにしたところ、ここでは心が落着いたようで、食べ物の味も美味く感じた(……)また、母親が見せてくれた画像に、祖母とケーキとともに佐藤愛子の『それでもこの世は悪くなかった』が映っており、訊けば(……)があげたものらしい。この本と著者は新聞広告にたびたび名前が出ていたので知っており、どうもだいぶ人気で売れているという印象があるのだが、祖母は同じ著者の『九十歳。何がめでたい』も面白く読んだらしく、本は何でも貰うよと言っていたと言うので、こちらとしては安堵した。と言うのは、こちらも一人暮らしの慰みに、何か本をあげたいと思っていたのだ。以前、祖母が書いたちょっとしたメモや、自分の来し方を振り返る文章などを読んだ限り、彼女は結構「文学的」な素養がある人間なのではないか、それ相応の関心を持ち、訓練をすれば、小説か何か書ける存在だったのではないかという印象を持ったのだが、それでわかりやすく娯楽的ないわゆる大衆小説のようなものでなく、多少「文学的」な本も読めるのではないかとこちらは考えているのだ。自分としては、メイ・サートンが気になっている。この人はベルギーの作家で、『独り居の日記』とか『七〇歳の日記』とか高齢の一人暮らしの生活で綴ったらしい日記の類がみすず書房から出ており、個人的にもそれらの本を読んでみたいと思っているのだが、やはり高齢の一人暮らしである祖母にも(彼女はここで八八歳になるらしい)、何か感じ入るようなことが、共感を覚えるようなことが書いてあるのではないかという気がしているのだ。と言って自分の読んでいない本をあげるのも何だかなあという気がするので、プレゼントするのならばさっさと読んでみなくてはならない。ついでに記しておくと、二日に会って映画の話などをした(……)にも本をあげたいと思っており、こちらは、古井由吉の今のところの最新刊である『ゆらぐ玉の緒』を考えている。古井という作家は決して読みやすいものではないが、『ゆらぐ玉の緒』は、例えばその前の『雨の裾』などに比べて、全体的にわりと素直に生活に即したような書きぶりだったという印象が残っているので(特に最後の「その日暮らし」などは、本当にほとんど身辺雑記というか、「私小説」と言って良いのかわからないが(そもそも自分は、「私小説」というものが一体何なのか良くわからない)、古井にしては比較的衒わない、率直な書き方だったような記憶が残っている。ついでに言えば、この篇には、語り手である「私」が若い頃に書いた作品として「山躁賦」の名がはっきりと書き込まれており、ということは少なくともこの篇に限っては、この話者たる「私」はまさしく古井由吉という名で呼ばれている作家と同一人物であるということになると思うのだが、古井の書いたもののなかでほかにそのような篇はあるのだろうか)、やはりそれなりの歳である(……)にも(彼は確か、七〇の手前くらいではなかったか?)、何かしみじみと感じ入って受け入れられるようなところがあるのではないか、という気がするのだ。
 食事を終えて皿を洗うと、アイロン掛けを行った。大河ドラマ『西郷どん』に目を向けながら手を動かし、終えるともう父親が風呂から出る気配だったので、脚をひらいて筋を伸ばしながら待って、入れ替わりに入浴に行った。風呂のなかでもまたもや思考が回って仕方がなく、呼吸を意識すれば落着いて過ごせるのではと考えても、そのように不安から逃れようとすることでかえって不安を招き寄せてしまうのでは、とか、呼吸を意識するということが今度は強迫観念になり、ストレスを生むのでは、などという懸念が即座に湧いてきて、本当に自分の頭は大した神経症であるというか、何をしていても、何を感じ、何を考えても、ほとんど自動的な反応のようにして、それに対する心配・不安・懸念を差し向けて/突きつけてしまうようで、風呂に入っているあいだは不安を覚えていたのだが、いまこうしてその時の自分のことを記していると、滑稽なようで自ら笑えてもくる。ブログを通じてこの日記を読んでいる読者の皆さんも良く見てほしい、年末からのこちらの日記は、不安障害患者の実態をかなり克明に描けているという自信がある。
 そのように思考を回し、思考の働きによって不安を生み出し、しかしその不安を感じ、観察することでその都度、不安のことは不安に任せれば良いのだと突き放し、それに巻き込まれないようにしながらまた考えていたのだが、やはり呼吸を意識するというのは一つのポイントだろうなと思った。自分はやはり、出来る限り平静と自足を保ち、その瞬間瞬間を丁寧に生き、その時々の自己と他者を大切にして生きて行きたいと思うものであり、それが自分にとっては多分、要は書くことと生きることを一致させるということの内実だと思うのだが、そのような考えがもし強迫観念となって自分を苦しめるとしても(しかし人間、ある意味で、何かしらの事柄を強迫観念としなくては生きていけないのではないか? 自らそれに従うことを同意し、自覚した形での強迫観念、それがそれぞれの人の「物語」であり、あるいは「信仰」というものではないのだろうか)、そうであっても自分はそのようにしていきたい、瞬間を書き続けることをやめたくはないという結論が、一応導出された(しかしまたそのうちに、これを疑いはじめるのではないかという気もしており、さらにその後、またここに回帰するのではないかという見通しまで立つ。もう自分はそのように、常に迷い続ける存在で良いと思う)。そのためにはやはり、呼吸に意識を向け(しかしおそらく、呼吸を操作する必要はない)、それを経由して[﹅7]、絶えず現在の瞬間に気づいていく、ということが肝要であるはずで、そのように日常生活のすべての瞬間が瞑想の実践となるというのが、ヴィパッサナー瞑想の行き着く先だと思うが、自分はわりとそのような段階に入ってきていると思われるので、もう敢えて座してじっとする「瞑想」の時間を取らなくても良いのかもしれない。
 風呂を出ると水を一杯飲み、流し台の上のカウンターに母親の使った食器が置かれていたので(父親は炬燵テーブルで食事を取りながら韓国ドラマを見ており、母親は卓に就いてタブレットを弄っていた)、それを洗っておいて、自室に戻ると、Ciniiにアクセスして以前も読んだことのあるヴィパッサナー瞑想関連の文献を流し読みし、それから日記を書きはじめた。そのあいだ、先ほど考えたことにしたがって、たびたび呼吸に意識を向けるようにしてみたのだが、そうすると確かに心が静まり、文もすらすらと綴ることができ(そのわりにもう二時間掛けているが)、書きはじめた頃には頭痛があったのだが、気づけば今はそれもほとんどなくなっている。また、今日は朝に薬を飲んだだけで、二度目はまだ飲まずに済んでいる。現在は日付が変わる直前である。
 それから歯を磨きつつ、『後藤明生コレクション 4 後期』を読みはじめた。この時は文に集中することができて、一時間ほど、最初の「『饗宴』問答」を終いまで読み、それで切りとして、(……)明かりを落としてさっさと眠ることにした。時刻は一時四〇分だか五〇分だかだったはずである。薬を飲んでも良かったのだが、ひとまず自力で眠れるかどうか試してみようというわけで、服用せずに床に入った。頭痛がまた現れていたこともあって、結構時間は掛かったと思うが、一応そのうちに寝付くことができたらしい。

2018/1/20, Sat.

 例によって明け方に覚めたが、昨晩眠る前に、脚を丹念にほぐして血流を良くした甲斐あって、緊張感はさほどのものでなく、明確な神経症状らしいものも出ていなかった。しばらく自力で心身を和らげていたけれど、入眠できそうもないので、薬に頼ってさっさと寝付こうというわけで、スルピリドロラゼパムを一粒ずつ服用した(この時、枕元の目覚まし時計を確認すると六時二〇分くらいだった)。それでふたたび横になったところが、それでもなかなかすぐには寝付けない。じっと身体を静止させて呼吸を続けていると、自ずと心身の感覚をも観察してしまい、瞑想のような向きになってきて、薬の作用も手伝ってかじきに意識が深いところに入っていく。手が麻痺するような、あるいはその感覚がなくなったような風になり、何らかの脳内物質が多く分泌されているのがよくわかる。ある境を越えると本当に、まさしく明鏡止水といった趣で心のうちがぴたりと静まっているのがわかるのだが、それは眠りに向かっていく寛ぎといった感じではなく、また同時に意識が鋭敏になっているから、ちょっとした家鳴りの音とか、起き出した母親が活動する音などが突然立つと、ややびくりと驚くような風になって心の静止が乱される。その揺れをもさらに観察して、ふたたび平静に復帰することもできるのだが、あまりこうした深い状態に長く入り続けてそれでまた頭の調子が狂っても困ると懸念されて、適当なところで瞑想状態を解除した。しかし、眠りに入ろうと目を閉ざすとまた自ずとそちらの方向に心身が導かれる。もう一度起きてしまって、眠気が湧いてくるのを待とうかとも思ったのだが、四時間程度の短い睡眠ではそれはそれで辛い。静止をしているのがまずいのだというわけで、ちょっと動きながらリラックスしようと、腰を左右に動かして床に擦りつけはじめ、そのあたりをほぐしていると、じきに欠伸が湧いてきた。これなら眠れそうだなと、ある時点で動きを止め、その後無事に入眠できたようである。
 この日目覚めても目立った神経症状がなかった点で、自分はもう大丈夫そうだな、これから順調に回復していくだろうなという見通しが立った気がする。ここのところのこちらの変調というのは、統合失調症かなどと疑ったこともあり、実際そのような症状を少々呈しもしたのだが、結局はやはりパニック障害と、それに付随する自律神経失調症的な症状なのだと思う(と言うか、いわゆる自律神経のバランスが崩れたために、パニック障害的な症候が再発したのだろう)。つまりは今までに経験してきたことの反復なのであって(発狂に対する恐怖、というのは新しい要素だったが)、しかも過去よりも遥かに小規模な反復に過ぎず、その点大して恐るるに足らない。実際、過去の経験を思ってみれば、発症当初は一日の多くの時間をベッドで寝込んでいるような時期もあったわけで、その頃に比べれば今次は曲がりなりにも勤務に出続けることもできているのだから、まあ楽勝である(という強気な気分に、この時の寝床ではなっていたが、そのうちにまた弱気が出てくることもあろう)。
 神経が乱れたのはやはり、コンピューターに向かい合いながらいつまでも夜を更かして起きているという生活が寄与したのだろうと思う(実際、最初の発症の時期も夜更かしばかりしていたのだ)。そこでやはり、少なくとも勤務日の夜、帰宅後にはコンピューターを点けず、なるべく早めに眠る生活を保ちたい。脹脛をほぐすことが効果的なのは、昨晩からこの朝の心身の状態で立証された気がするので、眠る前には一時間かそこら、寝床で脚をほぐしながら読書をする時間を確保するようにすれば良いのではないか(寝転がって本を読んでいるうちに身体が温まり、神経が調うのだから、これほど楽な話はない)。実際以前はそのような習慣だったような気がするのだが、それがいつの間にか途絶えてしまったのは、書き物を夜にやるようになったのが原因なのだろう。文を構築する方向に欲望が向かっていた頃に(つまりは(仮)のついていない「雨のよく降るこの星で」の時期)、日中はどうにも文を作ることに集中できず、深夜の静寂のなかでないとうまく書けないという風になってしまったのだ。今はもう文章を緻密に構築しようなどとはまったく考えておらず、気楽に、適当に書けるようになったので、こうして昼日中であっても日記を記せているし、外部的な要因で中断を余儀なくされてもほとんど苛立つこともない。
 一一時五分に覚めはしたが、例によってすぐには起き上がれず、ベッドのなかでもぞもぞ動いて、二〇分頃になってから起床した。瞑想は寝床のなかでもうしたようなものなので、この起き抜けには省略し、上階に行く。母親がおり、食事はおじやだと言った。洗面所に入って櫛付きのドライヤーで髪を梳かし、顔を洗い、嗽をしたのち、食事を用意する。電子レンジのなかで鮭が加熱されているのを待ちながら椀におじやをよそって、それも同様に温めると、汁物とともに卓に並べて食べはじめた。新聞記事はドナルド・トランプ米政権のこれまでの総括が多かったようである。記事をチェックするだけして閉ざすと、母親が点けたテレビが『ドキュメント72時間』の再放送を流す(昨夜にもやっていたが、その時は良く見なかった)。熊手などを売る酉の市が舞台で、ものを口に運びながら何となく目を向けていると、デザイン事務所の長らしい六五歳の男性が現れる。一七の時から自力本願でやってきたという通り、実に自信のありげな、どっしりとした自負心に満ちたような語り口だが、その自恃には、幼少の頃から小児麻痺で脚が動きにくいところ、そうでない奴らには負けたくないというような跳ね返りの気持ちも含まれていたと言う。小学校の頃だったか、プールで泳いでいると脚がうまく動かなくなって死にそうになったが、それでも五〇メートルを泳ぎきったその時に、「人間死ぬ気になりゃ何でもできるな、と思った」と語るのを見て、あ、これは面白いな、と思った。個々の人間の人生観=物語の形成、つまりは己の体験をどのように解釈し、そこからどのような意味を引き出したかという語りは概ね面白いのだが、この人も、そうした物語を手短に語ってくれたのだ。しかし、この発言そのものはいかにも紋切り型の、良く聞かれるものであり、この人の語った内容のみがそのまま言語として[﹅9]例えば小説の頁を埋める活字になっていたとしても、それを読んだこちらはおそらく、少しも面白いとは思わないだろう(実にありがちな物語だとしか思わないはずだ。おそらく同じように、こちらが変換した言語[﹅2]を通じてこの日記を読む人々も、この時こちらが感じた面白さをあまり実感できないのではないだろうか)。なぜこの時、彼の発言=物語が面白かったかと言うと、それはやはり、それまでの数分に映った彼の身振り、動作、姿形、表情、語り口、声の調子、そういった諸々の周辺情報と発言が結び合わされていた結果なのであり、これらの周辺情報こそが小説でいうところのまさしく描写[﹅2]の領分であり、それによる差異=ニュアンス[﹅7]の付与に類比されるものだろう。それらの具体的な意味の網目[﹅5]のなかに置かれたからこそ、それそのものとしては凡庸極まりないこの発言が、具体的な重みと質感、ある種の説得力のようなものとすら言っても良いかもしれないもの(こちらがその言に説得されるという意味ではなく、この発言が彼の物語として確かに生きられている、ということを感じさせるような)を帯びるに至ったのだと思われる。こうした事柄を物凄く平たく言い換えると、例えばただ単に「愛している」と言っただけで相手に伝わるはずがない、ということなのだが、ところが不思議なことに、ほとんどただ単に「愛している」と繰り返すだけの、素朴とすら言えないほどの表現が、その「貧しさ」故に広く受け入れられ、流通しているかのように見えるのがこの世の中なのだ(全然良く知らないが、「メジャーどころ」のJ-POPなんかがその代表だろう)。
 食後、風呂を洗って室に帰り、前日の日課を記録したのち、早速この日の日記を綴りはじめた。上の段落まで書いたところで一時間が経過して午後一時を過ぎており、身体もこごりだしている感じがしたので、ここで中断して読書に入ることにした。ベッドに寝転がって本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を読み進める。ほぼ一時間でちょうど三〇頁ほどを読むと、二時を回っていたので上階に行った。母親は買い物に出かけており、洗濯物は既に入れられてあった。ひとまず腹にものを補給することにして、と言って米もないのでカップラーメンで良かろうと戸棚から取り出し、湯を注いだ。一方で小さな豆腐を冷蔵庫から出し、皿に移して電子レンジで二分間加熱する。熱しているあいだ、レンジの前で何をするでもなくじっと待ち、熱の力で下部がやや崩れて水気も漏れ出ているそれに、鰹節と麺つゆを掛けた。そうして卓に移って食事を取る。ものを食べるあいだ、ベランダに続く西の窓の曇った色が少々明るむ時間があるが、太陽の気配はまたすぐに絶えてしまう。
 塩気が舌にひりつくスープもほとんど飲んでしまうと、ラーメンの容器や食器に始末を付けて(立ち上がって流し台のほうに行く際、外の道に薄陽が射して、アスファルトの上に一部、砂地ができたようになっているのを見かけた)、アイロン掛けを始めた。エプロンやシャツやハンカチの皺を伸ばしながら窓を見やると、この時はまた陽射しは薄れており、空に水色がまったくないではないが雲の多く含まれて希薄な色で、川沿いの樹々や山の姿を見る限り、空気もやや濁っている。しかし、明るく澄み切ったものでなく、フィルターを掛けられたようなその鈍い質感も、まあ悪くはないと思った。アイロンを掛け終えると、吊るされているタオルに手を出す。表面的には乾いているものの、湿り気が仄かに残っているのが感じられ、洗剤の匂いも嗅がれないが、今更外に出しても仕方なし、これ以上爽やかになるわけでもなし、と畳んでしまうことにした。その後さらに、下着や靴下なども畳もうとしたのだが、こちらはまだ水気が残っていたので、ひとまず吊るしたままにしておいた。
 そうして白湯を一杯用意して、自室に帰る。日記を進める前に他人のブログを読むことにしてコンピューターに向かい合ったが、立った姿勢で読んでいるとどうも神経が刺激される感覚があって、頭が微かに揺らされるようであり、目も乾くようなので、椅子の上にコンピューターを置き、ベッドのほうに移って腰を据えた。読みはじめた時刻は三時七分である(そう言えば、食事を取っているあいだに時計を見て、そろそろ三時か、と思いながら直後に、まだ起きてから四時間しか経っていないのかと時間の流れが遅く感じられた瞬間があった)。読み物を終えると日記に掛かりはじめて、ここまで書くと現在は四時を回ったところである。これから、前日の分も綴らなくてはならない。
 今現在、翌二一日の午後一〇時前を迎えているのだが、この日のこのあとのことは仔細に思い出せない、と言うか記憶を掘り起こすのが面倒臭いので、短く済ませることにする。記しておきたいことがあるとすれば、五時頃になって夕食に、肉と玉ねぎやエリンギなどの炒め物を作ったこと、ミシェル・フーコー中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』の書抜きを終わらせたこと、音楽を聞いたこと(Bill Evans Trio, "All of You (take 2)", "My Romance (take 1)"、James Levine, "Maple Leaf Rag", "Scott Joplin's New Rag", "The Cascades", "The Chrysanthemum"(『James Levine Plays Scott Joplin』: #2,#4-#6)、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5))、あとは、夜、また気持ちの落着かない時間があって、そこで例によってインターネットでヴィパッサナー瞑想などについて検索したのだが、その過程で以下のページや資料を見つけたということくらいである。

マインドフルネス認知療法
http://hikumano.umin.ac.jp/hosei/CBT7.pdf

瞑想(マインドフルネス)の注意点と危険性
http://hotrussianbabe.com/shinrigaku/archives/3494

雑念恐怖症の諸相〜森田療法の観点から〜
http://www.tuins.ac.jp/library/pdf/2008kokusai-PDF/00803otani.pdf

永井均先生のヴィパッサナー瞑想についてのつぶやきのまとめ~「不放逸は不死の境地、放逸は死の境涯」
https://togetter.com/li/652043

2018/1/19, Fri.

 明け方に一度、目覚めた覚えがある。例によって心身が緊張感に満たされており、この日はまた尿意の高潮があった(これは多分、寝る前に蕎麦茶を飲んだことが寄与しているのではないか)。それでトイレに立って用を足し、薬も服用してベッドに戻ったが、下腹部の緊張感がまだ取れない。ひとまず腰をもぞもぞと床に擦り付けるように動かして温めていると、症状が和らいで来たので安堵した。しかし定かに寝付くことはできず、眠りに入ったという感じのないまま七時を過ぎて、そのあたりでようやく入眠したようだった。そうして覚めると、九時五〇分頃である。床を抜けようというところでちょうど、上階で電話が鳴ったのが聞こえ、出た母親の声を聞けば予想通り(……)である。何だか知らないが前日に、こちらに用があるから、明日の朝に電話してくれという留守電が入っていたのだ。それで瞑想もせずに室を抜けて上がって行くと、今から(……)が来ると言う。この老婦人は祖母の友人だった人で、坂下に住んでおり、一二月一八日に我が家を訪れている。一時期鬱病のような状態になっていたことがあり、(……)こちらに用事というのは、(……)(その待合室でこちらは彼女と一度、行き会ったことがある)について聞きたいことがあるといったことだろうか、と考えるのが自然な推測ではあろう。
 洗面所に入ってドライヤーを使って髪を調え、来るまでに排便しておこうと階段を下りかけたところが、そこでもう玄関外の階段を上がってくる足音が聞こえており、随分と早いなと思った。用を足してから上階に戻って玄関に出ると、(……)は壁際の腰掛けに就いており、母親は床の際に座してその横にはヒーターが置かれている。挨拶をする(……)。用というのがこれだった、というよりは、このような形で敢えて用向きを拵えることで、話をしに来る口実にしたというのが実際のところではないかという気がする。
 母親は茶を用意しに一旦下がったので、床にあぐらを搔いて無造作に座ったこちらは、しばらく(……)と話をした。孫の(……)は中学生なのだが、インフルエンザで学級閉鎖が起こっているらしいとか、こちらも薬を飲まずにやれていたのだが、この年末年始でまたちょっと悪くなり、どうもよく眠れずに寝覚めしてしまう、などといった事柄である。その後、母親がチーズケーキを用意してきて、(……)は初めはお構いなく、と遠慮の口ぶりだったのだが、いざ目の前に出されると食べちゃおうかとなり、茶を飲みながら一欠片を平らげた。そうした様子や、話している時の声調からしても、前回に会った時よりも元気そうだという印象を受けたので、こちらは安心した。その後、母親が戻って座に加わると、二人のあいだで話が展開されるので(ここで(……)という、この奥さんも祖母の友人だった人の旦那さんが亡くなったのだが、その弔問に行くかどうか、いつ行くかとかいった話だった)こちらは黙り、しばらくして(……)が帰宅すると席を立ったが、こちらは今回は見送りには出ず、室内で挨拶するのみに済ませた。
 そうして、食事を取る。母親は買い物に出かけ、食事を終えたこちらは食器や風呂を洗うのだが、そのあいだもどうも下腹部のほうで感覚がざわざわとして気に掛かるような感じだった。それで室に帰ると、コンピューターを立ち上げて、前立腺炎について調べた。自分は神経症もあってか頻尿気味のところもあり、以前、そのあたりのことについて調べていて、前立腺炎というものを知ったのだが、今回また、どうもそれではないかという可能性を考えたのだ。しかし、急性や細菌性でない慢性前立腺炎というのは、これも例の自律神経失調症なるものと似たようなもので、定かな原因が絞れず、ストレスでも発症するとかいうことらしいので、これもやはり自分の場合、神経症状の一つなのではないか。結局のところ、出来ることとしては、適度に運動をしながら、自分の心身にとって良くないことを生活のなかで見極めて行き、それを避けるようにするしかないのだろう。ひとまず、利尿作用のある飲み物はやはり自分には良くないように思われたので、ここのところ飲んでいた蕎麦茶もまた一旦取り止めることにした。
 そうしてEvernoteに記事を作り、前日の記録を付けたのち、正午前からこの日のことをここまで記して、一二時半である。さらに前日の記事も綴って、今は一時二〇分になっている。書いているあいだにも、やはり下半身・下腹部のほうに感覚が乱れていて、睾丸痛めいたものや腰痛がたびたび生じていた。一八日の記事をブログに投稿したが、その際、「About」の欄に引いてあったロラン・バルトの言葉を、このような駄弁じみた日記に戻ったことだし、エピグラフめいた大袈裟な振舞いは止めにしようということで削除し、代わりに、「読者」とのあいだの最小限の回路を一応ひらいてはおくかということで、メールアドレスを載せておいた。ブログタイトルも極々単純に「駄弁」に変えようかとも思っているのだが、やはりもう少し格好付けた語句にしたい気持ちもあって、踏み切れずにいる。
 その後、瞑想を行った。座って呼吸をしているあいだ、頭の内が高速で回るのが感じられ、様々なイメージも脳裏に浮かんでは消えていったが、それに対する不安はあまり感じなかった。そのうちに、頭蓋の感覚に意識が向いて、すると何と言ったら良いのか、スピリチュアルな方面で「エネルギーが溜まる」とか「上昇する」とか何とか言われる感覚だと思うが、まあそのような感じが湧き、意識が一挙に変容するのではないかとか、極端な話、気絶するのではないかとか、発作を招くのではないかとかいう懸念があってそれはちょっと怖い感覚なのだが、ホームポジションとしての呼吸にたびたび立ち返りつつそれをも観察し続けていると、頭の感覚の引っ掛かりがふっとなくなり、一つ別のフェイズに抜ける、という瞬間があり、要はここで何らかの安息的な脳内物質の分泌が盛んになったということなのだろうが、落着いて軽い心持ちに入った。その状態に入ると不思議なことに、下半身のほうを中心にざわめいていた神経症状がほとんど収まり、まさしく心身が静止している[﹅6]といった趣になった。しばらくその状態を続け、そろそろ良いかなと思ったところで顔や身体を擦り、腕を伸ばしながら目をひらいた。その後しばらくのあいだ、落着きと神経症状の欠如が続いていたので(またそのうちに復活してしまったのだが)、瞑想はこのようにして「成功」できれば、心身を安らげて神経症に対抗するために確かに「使える」手法ではある。
 瞑想を行ったのは一時三一分から五〇分までのあいだである。その後、二時四六分から他人のブログを読み出すまでのあいだは、何をやっていたのか記憶が蘇ってこない。ブログを読むとそのまま新聞記事を書抜きし、三時半に至って運動を行った。その後ふたたび瞑想を行い、この時も先ほどと同様に「成功」することができた。時刻は四時一八分、歯磨きをして、服を着替えて出発に向かった。
 道中には大した印象もないし、書くのも面倒臭いので省略する。勤務を終えたあとは、最近は毎度電車で帰っていたところ、やはり歩く時間を多く取ったほうが良いのではないかというわけで、久しぶりに夜道を徒歩で帰ることにした。往路帰路ともに歩けば、それだけで一時間ほどは脚を動かすことになる。夜気にさほどの寒さは感じなかった。働いている最中は、目の前の仕事に追われているから余計なことを考える間もなく(それがつまらないのではあるが)、時折り神経症状や緊張が生じながらも、薬のおかげで大方落着いてもいて、しかし我ながらこうした性向、不調を抱えながらも良くもやるものだと思うくらいにはそつなくこなしていると思う。しかし職場を離れて一人になり、自分の心身に意識を向けてみると、空腹のせいもあってかやはりどことなく緊張しているような、身体が自ずと何かに耐えているかのような固さがあり、心のうちはさほど乱れていないのだが、気づけば歯を食いしばりたがっているかのように、奥歯のほうに力が入っているのが観察された(これは数日前にもあった)。しかし、歩きながら呼吸を注視しているうちに、そうした緊張感も多少和らいで、口のなかの力も抜けてきたようだった。
 帰宅後のこまごまとしたことも思い出すのが面倒なので記さないが、ぜひとも書いておかなければならないのは入浴中のことで、ここで束子健康法を久しぶりに丹念に実行したのだ。自分は数年前には、やはりあれも神経の乱れから来るものだったのだろうがアトピー的な症状を持っており、それでいつからか入浴時にも石鹸を使わなくなり、代わりに束子健康法と言って要は乾布摩擦の一種なのだが、そのまま束子で身体を擦るということを始めたのだけれど、長く続けているとやはり適当になるもので、これをなおざりにしていたのだ。この日は久しぶりに思い立って、腹回りとか腰の回りとか、さらには下半身に症状が出ているからと太腿とか脹脛とか足の裏とかを念入りに擦ってみたところ、非常に神経に効いている感じがあり、心身がすっきりとした。それでやはりいわゆる自律神経のバランスが乱れているのだなと自覚したのだが、しかし同時に、ここのところの自分の変調の原因が根本的にはそれだったのだとすると、考え方や認知といった抽象的なものを操作するのでなくて、肉体に働きかけることによってここを改善すれば良いのだから、それは簡単な話である。それで風呂を出たあとも、やはり下半身、脚を養い労るのが大事なのだなという認識の下、コンピューターなどには見向きもせずにさっさとベッドに転がり、本を読みながら膝で脹脛を刺激した。するとやはり、時間が経つにつれて身体が軽くなり、温まって神経症状もほとんど生じなくなる。『長生きしたけりゃふくらはぎを揉みなさい』とかいう本が良く新聞の広告に出ていたと思うが、自分の体感上、これは確かなことで、自律神経を調える、などというのはおそらく大方、血流の問題なのだ。要は血流を促進するような習慣を実行すれば良いというわけで、自分の場合、瞑想を一日に一回から三回ほど、柔軟を中心とした運動、入浴時の束子健康法、脹脛の刺激、これらを丁寧にやっていればおおよそ心身の健康を調えることができるのではないかという目星が付いた。薬剤の補助を借りつつそれらの(まさしく)「自己への配慮」を実践していれば、多分そのうちに不安に追いやられているような感じも消え、健やかな気分を大方保てるようになるだろうと今は見込んでいる。
 読書は零時ちょうどから二時前まで、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionと本村凌二『興亡の世界史 地中海世界ローマ帝国』を続けて読み、就床前の瞑想はせずに床に就いた。