2018/9/11, Tue.

 七時の携帯、八時の時計のアラームでそれぞれ覚めたが、音を消しただけで起床は見なかった。九時半頃には既に頭ははっきりしていたと思うのだが、前日の夕刻と同様何となくやる気が起こらず、だらだらと寝床に留まり続けた。一〇時半に、両親の帰ってきた音がした。この日は朝早く、八時から彼らは年金事務所に話を聞きに出かけており、さらにその後は「サイボクハム」というところへ昼食に行くということで、この時一旦帰宅したもののすぐにまた出たようで家中は静かになった。一面の白雲のなかに太陽の姿が辛うじて見て取れる曇りだった。気力のない状態は続き、結局、眠くもないのに目を閉じて過ごし、一一時半過ぎまで横になったままでいた。起き上がるとステテコパンツを履き、上階に行った。セブンイレブンの冷凍食品のたこ焼きを食べることにした。電子レンジに五分間掛けているあいだにもう風呂を洗ってしまい、加熱されたものを取り出すと冷えたソースを垂らしてまた二〇秒温めた。そうして細切りのキャベツとともにたこ焼きをテーブルに運び、マヨネーズと鰹節を上から加えて食した。新聞の一面から、自民党総裁選関連の記事を読みつつものを食べると、水を汲んできて薬とサプリメントを摂った。マグネシウム錠剤は特段の効力を感じられないのだが、二四〇錠入りのものを買ってしまったためにまだまだたくさん残っている。バコパハーブはだいぶ少なくなってきた。ドーパミン関連のサプリメントを新たに試してみたいと思っているのだが、現状で三種類飲んでいるわけで、あまり増えすぎても飲むのが面倒なので今あるものがなくなってから購入するつもりである。ホスファチジルセリンは一日四個飲んでいて一瓶一二〇カプセル、したがって一か月分だが、これは結構評判が良いので三か月か半年か、長期的に摂取してみるつもりでいる。食器を洗うと緑茶を用意して自室に下った。コンピューターを起動させ、Evernoteに九月一一日の記事だけ作っておくと、この日は日記を書き出すのではなく、前夜に見つけたSIRUP - SWIM / Music Bar Session(TOKYO SOUNDS)の動画(https://www.youtube.com/watch?v=TmjGdJD8i5E)を流した。この曲が大層気に入られて、何度も繰り返し再生し、歌詞も検索して合わせて歌う練習も始めて時間を費やした。一時前になると一旦止めて、(……)さんのブログを読んだ。そこにFISHMANS『空中キャンプ』の名が出てきていたので、読み終わるとこちらも"ずっと前"、"BABY BLUE"と流し、さらにまたSIRUP "SWIM"に戻ってリピート再生した。Amazonを調べてみると"SWIM"が収録されている『SIRUP EP』が出てきた。ディスクを注文しようかとちょっと思っていたが、在庫切れだったので、MP3音源で購入してしまうことにして手続きを進めた(一三三〇円)。スタジオ盤の"SWIM"を早速流してみたが、こちらは歌唱の質感がメロウ寄りになっていて、ちょっと聞いた限りではYoutubeのスタジオライブ音源のほうがこちらの好みに合っているようだった。そうして時刻は二時前、ようやく日記の作成に取り掛かり、ここまで綴ると三時の一〇分前に至っている。何か茶菓子とともに一服をしたいなというわけで、上階に行くと、もう米を研いでしまおうという気になった。それで笊に三合を用意して洗い桶のなかで研ぎ、六時半に炊けるようにセットしておくと、玄関の戸棚を探った。玄関の外からは停車した車のエンジン音が漏れ聞こえており、両親が帰ってきたのだと知れていた。バターサブレがあると思ったのだが見当たらず、煎餅くらいしかないのを確認していると母親が入ってきて荷物を置くので、それを受け取って野菜などを冷蔵庫に収めた。何か茶菓子はないかと訊くと都合良くパンを買ってきたというので、そのなかからクリームパンをありがたく頂いた。そうしてサイボクハムのチラシを目にしたのが茶を用意しているこの時だったかどうか、何にせよ、母親は一六〇〇円のハンバーグ、父親は何と三七〇〇円のステーキと豪勢な昼食を取ってきたと言うので、そんなにするのかと受けた。そうして自室に下り、緑茶を口にしながらインターネット記事を読んだ。それからベッドに移り、SIRUP "SWIM"を流したなかで足の爪を切ったあと、書抜きに取り掛かった。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』で、打鍵をしているあいだは購入したばかりの『SIRUP EP』を流していたが、"SWIM"以外の曲もなかなか良さそうだった。三〇分掛けてこの本からの書抜きは終了、そうするとベッドに腰掛け、九月八日の新聞を取って椅子の上に置いた。一面の「スルガ銀役員関与 認定 第三者委 不正融資 社長ら退任」についてはあまり興味がなかったのだが、一面に取り上げられているからという理由で一応目を通し、そうすると関連記事も読む気になって頁をめくって八面に移り、そこの記事を読んだところで五時のチャイムが鳴ったので切り上げて部屋を出た。階段を上がり、台所に入って夕食の支度はサイボクハムで買ってきた肉を焼くと言う。母親がジャガイモを切って二つの鍋で火に掛けたあとから、豚肉の肩ロース(一パック三枚で一〇〇〇円ほど)の三枚をそれぞれ三等分し、胡椒と塩を振りかけた。茄子も合わせて入れようということで母親が切ったそれをオリーブオイルの熱されたフライパンに投入し、隙間に肉を敷いて行く。そうして蓋を閉じてしばらくしてから開け、肉を裏返してみると片面に良い具合に焼き色がついたところだった。また蓋を閉じて火に掛けているとじきに肉は焼き上がったが、茄子が固いんじゃないのと母親が言って、肉だけ皿に取り出して茄子を熱する。そうしてふたたび混ぜ、おろし風焼肉のたれを全面に掛けて完成である。一方でジャガイモの鍋の一つには味噌を溶いて味噌汁にして、もう一つには醤油を差して煮詰めていた。あとはモロヘイヤを茹でねばならないということでフライパンをコンロに乗せ、新聞を読みながら湯が沸くのを待ち、モロヘイヤを投入する。茹でているあいだも新聞記事の文を追い、一記事読み終わらないうちに野菜をボウルに上げた。水を取り替えて何度かゆすぐと、まな板の上に乗せ、包丁で細かく切り分けてパックに入れておいた。最後に、獅子唐を炒めて支度は終了、階段を下りたのが五時四〇分で、室に帰るとふたたび九月八日の新聞を前にして、待機児童問題関連の記事を読んだ。いわゆる待機児童は今年四月時点で前年より六二〇〇人弱減ったが、それでもまだ二万人ほどは残っており、認可外の保育所に入ったりして「隠れ」と言われるほうは七万一三〇〇人と言う。その隣には障害者雇用水増しの件が載せられており、結局、司法機関では六割、立法機関では四割が不適切な算入だったと記されていた。それで九月八日の新聞は終い、九日の分に移って一面から「対中関税 全品に検討 第4弾30兆円に 米、日本にも「脅し」」という記事を読んだあと、読むものを新聞から書籍に変えた。金子薫『鳥打ちも夜更けには』である。ベッドに乗って物語を最後まで追ってしまうと時刻は七時過ぎ、検索して出てきた大澤聡の書評も読むと夕食を取りに行った。米にジャガイモとワカメの味噌汁、豚ロース肉と茄子の炒め物、ベーコン入りのクリームコロッケが一つ、モロヘイヤに豆腐にサラダと色々取り揃えられた食事となった。肉や茄子とともに米を咀嚼し、おかずがなくなると皿に残ったたれを米とサラダに掛けて食べた。テレビはどうでも良いような番組だったので記すほどのことはない。母親から、来月の第二火曜日(父親の休日である)にはこちらも一緒にまたサイボクハムに行こうと誘われたが、行くとも行かないとも明言しないで黙っていた。薬剤を服用して皿を洗うと、裸足のままローファー型の靴を履いて散歩に出た。雨のあとで道路は一面濡れており、外気のなかに出ると半袖半ズボンの格好ではやや冷えて、上着が欲しくなるようだった。空は繭のような煙のような雲が全面を占めて薄白い。SIRUP "SWIM"が脳内で再生されるなか坂道を上って行き、人通りのまったくない裏道を大股気味に行くあいだ、靴のサイズに僅かに余裕があるもので蹴り出しの際にかこ、かこ、と音が鳴るのだった。街道に出て、帰路を行く疎らな人々とすれ違っているうちに、背を探ってみるとほんの微かに汗の感触があって身の内が温まっているそこに、細かではありながらそこそこの雨が降りかかって来たが、意に介さず歩調は変えずに進んで行き、道の終盤になると足音のリズムに合わせてまたSIRUP "SWIM"が頭のなかについてきた。帰宅すると母親が電話をしており、身体を気遣うような言を送っていることからすると、相手は山梨の祖母らしかった。先ほどこの祖母から黄桃が贈られて来ていたので、その礼を伝えるために電話をしたのだろう。こちらはすぐに入浴し、湯に浸かったり冷水を浴びたり頭を洗ったりしながらこの日の記憶を探ったが、読んだ記事の情報がうまく出てこなくて流れが詰まり、そのまま風呂を上がった。最近はネット上の記事や新聞記事などを読んでもあまり頭に入らないようだと言うか、以前だったら内容の簡潔な要約くらい思い起こせたのではないかと思うのだが、なかなかうまく行かない。冷蔵庫のなかに入っていたバターサブレと緑茶を持って部屋に戻ると、携帯に(……)からの着信が残っていた。留守番メッセージも残されていて、聞くとLINEの設定の件で話がある、折り返してほしいとの内容が、ところどころ発音の不明瞭な、何だか判然としないような口調で述べられていた。それですぐに電話を掛けたのだが繋がらず、ひとまずこちらは茶を飲み、ビスケットをつまみながら一年前の日記を読み返した。そうして日記に取り掛かろうとしたところで着信があったので出ると、(……)さんがLINEの設定に協力してくれるとのことだった。こちらは良くも仕組みがわかっていないのだが、以前に(……)や(……)のIDを検索しても出てこなかったところ、(……)さんは「年齢認証」というものを済ませているらしく、それが成されていると検索に表示されるようで、実際(……)の伝えるIDを打ちこんで検索してみると(……)さんのアカウントが発見された。早速メッセージを送っておき、それに対する反応はすぐにはなかったが、これで(……)さんを経由して(……)たちと繋がれるだろうというわけで通話は終了した。それからこの日の日記に文を書き足して行ったが、やはりどうも記憶や文章がうまく順当に繋がって軽やかに出てこず、一一時頃に至って一旦緑茶をおかわりしに行った。そうすると父親が、山梨から来た黄桃を食べるかと切り分けはじめたのでそれを待ち、三人揃って口にした。まだ若く、身が固めだったが新鮮な味わいだった。そうして室に戻り、日記に切りを付けた現在は一一時二〇分である。先ほど(……)さんからの返信があり、(……)ともLINE上で繋がることができた。それから、こちら、(……)、(……)、(……)のグループがLINE上に作成され、そこでしばらく雑談が続いたなかに川本真琴の名前が出てきて、久しぶりにその楽曲を聞くことにして、ヘッドフォンをつけて"愛の才能"、"DNA"、"焼きそばパン"、"1/2"と流すと時刻はもう零時を一〇分越えて、LINE上の話も止まっていたのでコンピューターをスリープ状態にした。そうして歯を磨きながらカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を新たに読みはじめた。訳者あとがきから読んだのだが、そこでは本書が執筆された背景となるドイツの状況がいくつか触れられていて、そのなかに、二〇一五年の大晦日にドイツでは複数の都市で集団的な性暴行事件があったと記されており、お祭り騒ぎのなかで総計で一〇〇〇人を越える女性が被害に遭ったと言うからその規模に驚いた。とんでもない話である。口をゆすいできて訳者あとがきを読み終えると冒頭に戻り、「はじめに」を読んだところで既に時刻は一時半近く、読書はそこまでとして眠りに向かうべく消灯した。勿論、眠気はまったくなかった。眠くもないのに無理矢理にでも眠らなければならない、というのがやりきれないところである。そして朝には速やかに起きられず、やはり大して眠くもないのにベッドから離れられずにぐずぐずと時間を無駄にしてしまうのだ。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 (……)雨が牛の放尿みたいな勢いで降っていた(……)
 (183; ボーヴォワール宛; 1937年9月)

     *

 (……)彼女は、からだつきからもほぼわかるように、ブーブーなら「大恋愛家」とでも呼びそうな女だ。それに、ベッドでの彼女は魅力的だった。茶色の髪の女――いやむしろ黒ヘヤーの女[﹅6]と言った方がいいが――と寝るのは初めてだ。悪魔のようなプロヴァンス女、匂いに満ち、奇妙に毛深く、腰のくぼみに小さな毛並があり、からだは真っ白、ぼくよりもはるかに白いからだをしている。はじめ、この多少強烈な肉感性と、髭をよく剃っていない男のあごのようにチクチクする足は、少しぼくを驚かし、半ば嫌悪感を催させた。しかし慣れてしまうと、反(end198)対にかなり刺激的だ。彼女は、水滴のような形の尻をしていて、たるんではいないが、上よりも下の方がより重く、より広がっている。胸には小さな吹出物がいくつか(これはあなたにもよく知っているはず。栄養の悪い、あまり身だしなみに気をつけていない女子学生の小さな吹出物、それはむしろ優しい気持を誘う)。とてもきれいな足、筋肉質の、完全に平らな腹、肥満の影はひとかけらもない。全体的にみてしなやかで魅力的なからだだ。葦笛のような舌はとどまるところを知らず伸びてきて扁桃腺を愛撫し、口はジェジェのと同じくらい快い。概して、牢獄の扉のように仏頂面をした人間でも満足しうる程度の満足を得た。(……)
 (198~199; ボーヴォワール宛; 1938年7月14日; マルチーヌ・ブルダンの描写)

     *

 ボクサーはすばらしく美しい。十八歳の青年のようなからだをし、稀に見る軽やかさであいかわらずやせぎすで、上半身は腰の上でちょうど軸の上を自由に回る部品のように回転する。髪は黒く、銀色の糸が沢山ちりばめられている。あいかわらず美青年の持つあの一徹な顔付きをしており、とくに唇は知ってのとおり甘やかされた甘えん坊の子供のようで、上唇が突き出て官能的にふくらんでおり、下唇は引っこんで上唇の下にふてくされたように隠れ、下方で顎とともに終わっている。ただほかの部分はすべて以前より固くなっており、骨が(end206)はっきり見える。こめかみは乾いて固く、頬骨が飛び出し、美青年の顔に農夫の荒々しい顔が現われてくるのが見える。(……)
 (206~207; ボーヴォワール宛; 1938年7月水曜)

     *

 (……)フジタの細君も落ち着き払っているどころでない。彼女は、自ら言うところによると(ぼくの隣のテーブルにいたのだ)、ドゥ・マゴで戦争について大討論をしてきたらしい。罵倒されたので、そのとき彼女の連れだった男が介入しようとすると彼女はこう言った。《あなたはあたしの父親でも兄弟でも恋人でもないじゃない。ただの友だちでしょ。あたしの喧嘩に口を出したらあなたは敵よ。あたしのために喋る権利などないのだから》。
 (224; ボーヴォワール宛; 1938年9月)

     *

 (……)水っぽく緑色で柔かい自然で、しぼれば乳が出てきそうなあの緑色の植物に満ちていた。(……)
 (236; ボーヴォワール宛; 1939年7月)

     *

 (……)彼女の出発に関して言うなら、ぼくはこんなふうにも想像している。彼女にはパリがとてもうつろなものに見えるのだろう、また田舎をすこし見てまわりたくてじりじりしているのだろう、と。六月頃になると、緑野を見ることは彼女にとって絶対的な、すさまじい欲求になるのだよ。ぼく自身はこういうことがよく理解できないが、事実としては認める。彼女にとってはおなかがすいているときの食べたいという欲求と同じぐらい激しい欲求なんだ。落ち着かなくなり、そのためもう眠らなくなる。取りつかれたようになり、すこし陰気になる。(……)
 (241; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年7月)

     *

 (……)正午にそろそろ家に顔を出し、それが夜の十時半まで続く。それは葬式に近い。というのは、義父は病人で神経が高ぶっているからだ。ぼくは他にやりようがなくなると話をする。だいたいは、必死になって礼儀と共犯をないまぜにした薄笑いをしてみせる。さもなければ義父の言葉の末尾の語を繰り返す。(最近の)例、
   義父が窓際のところで――
    「おや、あそこにとまったのは誰?」
   私――
    「とまったのは誰?」
   母――
    「エムリーさん一家じゃない?」
   義父――
    「違う、地図を見るために立ちどまった人たちだ。地図をね」
   私――
    「ああ! 地図をね?」
 といった具合だ。母は五分おきにいろいろ質問をしてくる。《ここにいて満足かしら、プールー?》 《満足ですよ、お母さん》。《どう? 気分悪い?(探るような目つき)》――ぼく《いや、いいですともお母さん》。すると、力強く決然と顎を動かし、楽観的な様子で、《とにかく、あんたのためになるわ。健康にいいのよ》。(……)
 (245; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年7月)

     *

 (……)でもぼくは、どんなにきみのことを愛しているか、十分に強く言わなかったような気がする。ときどき、そのこ(end261)とをきみに感じてもらえなかったように思われる。それは、きみの愛情にしっかり確信が持てて、ぼくにはもうたった一つの願望――ぼくの愛情もまた強く激しい、現存するなんらかのショックをきみに及ぼしたいという願望――しかなくなるようなときに。きみはここにいない。けれどもきみはあんなにおもしろく手紙を書くすべを心得ていた。そこで何かしらが、ぼくにのしかかってくる。それはきみのぼくを愛する仕方だ。これは本当に一つのもの[﹅2]、現存するもの[﹅2]で、形はもたないが、重りのようにのしかかる。ぼくの愛情もまたきみにとって重苦しいものであってほしい。ぼくのいとしい宝物さん、すごく愛している。(……)
 (261~262; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年8月)

2018/9/10, Mon.

 七時のアラームの時のことは何も覚えていない。九時半頃から意識は浮上していて、起きようと思えばスムーズに起きることができたと思うのだが、どうもやる気が湧かず目を閉じたまま過ごしているうちに、一一時を迎えた。空は白く、太陽の光線はあったが雲に遮られて、身に届く頃には弱々しくなってほとんど温もりももたらさなかった。一一時一五分になると起床し、ステテコパンツを履いて、急須と湯呑みを持って上階に行った。母親はテーブルの上でレシートなど広げ、家計の整理をしていたようだ。顔を洗い、朝に作ったというおじやと、前夜の残りの餃子と茄子の味噌和えを取り出し、温めるものは温めて卓に就いた。黙々とものを食べ、薬やサプリメントを服用し、食器を洗ってしまうとそのまま風呂も洗った。そうして茶を持って自室に戻ると、早速日記を書きはじめたいところだったが、一服しながらインターネットを回って、またサプリメントの情報など求めてしまった。そのうちに「凹凸ちゃんねる」というまとめサイトに道が繋がって、発達障害統合失調症や色々な精神疾患についてのスレをまとめているのをいくつも眺めてしまった。発達障害にも様々あってこちらはそれを良くも知らないのだが、妄想癖があるとか、常に頭のなかで会話が繰り広げられるとかそのあたり、脳内に常に言葉や独り言があるというのはこちらの状態ともちょっと似ているなと思った。しかし自分はおそらく発達障害とは診断されないと思う。ほかはやはり離人症関連のスレに書かれていたことが、わりあいに当てはまるような気がした。また、一月にも発見したことだが、スキゾイドパーソナリティ障害の診断基準にも自分はかなりの程度当てはまると思われる。しかしいずれにせよ、自分の精神症状は今はどれも軽度なほうで、日常生活を送る上での支障はあまりない。先の五月から七月頃に掛けては無力感と甚だしい希死念慮に押さえつけられて(何しろ自分は途中までは本気で冬になったら練炭を買おうと考えていたし、アモキサンという薬を処方された時期は、過量服薬での死亡例があると言うから自分もオーバードーズを試みようかという誘惑を感じたことも何度かあった。自殺を選択肢から外してともかくも生きるほかはあるまいと考えるようになったのは、死ぬことや死の前の苦痛が恐ろしいということもあったが、それよりもさらに決定的だったのは死にきれる自信がなかったこと、自殺を敢行しても後遺症などを持って半端に生き残ってしまうことへの恐れだった。自分が、言ってみれば「死に選ばれる」とはどうしても思えず、自殺を試みても失敗するだろうということがほとんど確信されたので、いつか自ずと死ぬべき時が来るまではともかく生きてみようと思うようになったのだった)、パニック障害の時とは違った形でのどん底を見たと言って良いだろうが、いまはそこからも回復した。こちらの問題は日記にも再三記している通り、感受や欲望、思考や興味関心の面での衰退、感情や精神作用全般の希薄化・平板化が見られるということで、これは自分としてはアイデンティティの下降的変容あるいは欠如を表すものだが、そこに明確な苦痛が伴う類のものではなく、言わば空虚感や不満といった程度のことに過ぎないのだ。まとめサイト閲覧に切りを付けると時刻は午後一時過ぎ、ようやく日記に取り掛かりはじめた。前日の記事を仕上げるまでには一時間が掛かり、長くなってほとんど一万字に達していた。それからこの日の分も綴って、現在は三時が目前、先ほど空気が石灰水のような色に染まる土砂降りの雨が急に始まったが、いまはまた収まっている。続けて、一時間も掛けて二〇一七年初の日記を三日分、読み返した。前夜にちょっと目にして、時間を取ってきちんと読んでみようと思っていたのだが、この頃のほうが生活の記述のあいだに物事に対するちょっとした考察のようなものを挟んでいたり、読んだもの聞いたものの感想を書いてみたりと、明らかに今よりも頭が働いている――その時々の自分の状態は日記に如実に表される、言わばテクストはこちらの分身であり、写し身[﹅3]である。風景の描写や感想の類を見ても事物に対して細かく感応しており、書きぶりも全体として饒舌で、熱意を持っているようで、闊達に、うまく流れていると思われる。この頃に比べれば現在は自分は明らかに退化しており、どうにかしてかつての能力を取り戻したいと最近はそればかり頭に浮かんでいるのだが、果たしてそれが可能なのかどうか、覚束ないことだ。過去の日記からは三箇所をここに改めて引いておきたい。

 この日記を記すという営み――一日過ごしたその現実をパラフレーズ=翻訳したり、そのうちの各部分を取りあげて考察を付したりという行為――も、おのれの生活をテクストとして読んで、それに対して感想や批評を書きつけていると見なすことができるだろう。それにより深化をもたらすためには、対象に対する観察を磨くことは勿論だが、同時に、自分自身に対する観察、何かに触れた時に自分の内で蠢くものに対する明晰な視線を鍛えることが必要である。先にも触れたように、何か面白いことや独特なことを殊更に感じようとしたり、考えようとしたりする必要はない。と言うのも、本日一月三日の夕食中、新聞を読んでいるあいだにも考えた(と言うよりは自然と思い浮かんだ)ことなのだが、我々人間は、必然的に何かを感じたり考えたりしてしまう存在である。思考や感覚という動きは、常に既に起こっており、いついかなる瞬間においてもそこにある(そうした論理の路線で、思考や認識とは事後的なものにならざるを得ないのではないか、とも思いついたのだが、この思いつきがどういう意味合いを持っているのかは自分でもまだよくわからない)。そこで重要なのは、考えをある一定の方向に導いたり、一定の枠のなかに制限しようとしたりすることではなく、自由に動き回るそれの流れを自分自身で追いかけて、そのなかに気づき――自分がいま何かに気づいた、何かそれなりの厚みを持った印象を受けた、という気づき――を得ることである。要するに、生活のなかで遭遇する外界の事物の連なり、その持続のなかに生まれる起伏を観察するのと同様、自分の内側の精神の動きのなかにも描かれている起伏を観察するということが肝要なのだ。このようなことを考えていたところ(繰り返すが、それは考えようと意図して考えたのではなく、自然と頭のなかで言葉が巡るうちに湧き生まれてきたものである)、「偽日記」で紹介されていたパースbotの文言のなかに、こうした事柄と同趣旨のことを言っているのではないか、あるいはそうでなくとも、少なくとも関連はしているのではないかと思われる文章があったので、それをここに引いておく(本来これは、三日の日記に書きつけるべきことなのだろうが、忘れてしまいたくないので)。《思考は意識の中にあるものとして想定されることが多い。しかし実際は、思考を直接意識することは不可能である。思考とはむしろ、文章がそれに従うのと同様に、意識が従うところのものである。それは、現実化され得るものが、実際に現実化されたときのあり方を決定する習慣の本性を持つものである。》、また、《「運動が物体の中にある」(motion is in a body)とは言わず、「物体が運動中である」(a body is in motion)と言うのと同様に、思考が私たちの中にあるのではなく、私たちの方が思考の中にあると言うべきである。》と言う。

 こちらはほかの皆の準備が整うのを待って、居間に立ち尽くしていると、南窓の外の、太陽の光が染み通った空気のなかを、極々小さな、粉のような虫が群れて飛び回っているのが視界に浮かぶ。何匹か入り乱れながら、柔らかい軌跡で緩く斜めに落ちて行くのが、淡雪の降るのを見ているようでもあるがこの雪は、窓枠の裏に隠れて見えなくなったと思うと、すぐにまた方向を変えて巻き戻って、宙にいつまでも漂っている。遠くでは、家屋根をいくつか越えた先に立つ木の、緑に浸されきった葉に光が灯って微風とともにゆらゆら揺れているのが、一面蝶が止まって翅を震わせているようにも映る。空には雲がいくらかあって、しばらく陽が陰るとそのざわめきもなくなってしまうのだが、そうすると今度は、青空の山際に嵌まっている雲だけに光の感覚が残って白さを純化しているのが、随分と明るく際立つのだった。陽がまた現れて大気が仄かに色づけば、ふたたび輝きによって象られた蝶々たちが騒ぎはじめる。

 こちらの意識のなかでは、本を読むのが好きだという言明には、あまりぴったり来ないものを覚えるものである。もはや自分にとって読書は、そして作文は、好きとか嫌いとかいう腑分けに適合する事柄ではなく、単純に生活であり、(義務としてではなく自発的な使命のようなものとして、あるいは自分自身に対する責任として)やらなければならないことなのだ。

 そうして、モニターの前に座っていたために身体がちょっと固くなった感じがしたので、身を休めようとベッドに移って金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読みはじめた。この小説を読んでいてもやはり、退屈でつまらないというわけでもないが、取り立てて面白いと感じるわけでもなく、特段の感想も浮かんでこない。気になる事柄がまったくないわけでもないが、強い印象を与えるものではなく、そのことについて考えようという意欲を起こさない。先ほど読んだ過去の日記のなかでは、(……)さんの小説を読みながら気になった箇所のいちいちを取り上げて熱心に注釈を付しており、文を読むあいだに今よりも遥かに様々なことに引っかかりや気づきを覚えていたことがわかるが、今ではそうしたことができなくなってしまった。寝床で小説を読んでいるうちに、段々と瞼が下りはじめた。それで時計を見やって四時五〇分の時刻を確認するだけして、目を閉じ、布団を引き寄せて身体に巻き、休むがままに任せた。六時頃だったろうか、日暮れに至っても雨は続いており、しかし雲の裏の太陽の色もちょっと混ざっているのか、鈍く白濁した空には黄色か赤の色素も微かに窺えるようだった。部屋が暗んでいくなか電灯も点けず、寝床には七時一五分まで留まったのだが、そのあいだ何度か天井が鳴った。夕食の支度をしなければならないことはわかっていたが、やる気がまったく起こらなかった。六時半頃になるともう特に眠くもなく、目を閉じている必要もなかったのだが、とにかく気力というものが身に湧いてこなかったので、じっと動かないまま眠りに落ちることもなく瞑目し続けた。七時一五分に至ると食事を取りに行くかということで起き上がり、上階に行った。メニューは鯖のソテーにシチュー、茄子の味噌和えとモヤシだった。鯖を付け合わせにして米を食らうあいだ、テレビはテレビ東京『YOUは何しに日本へ?』を映しており、八二歳に至って日本人と国際結婚したスウェーデン人とか、大企業の副社長を辞めて田舎に移り住み、自給自足の生活を学ぶために奄美加計呂麻島を訪れるフランス人などが紹介されたが、詳細は省く。食後はすぐに入浴に行き、雨の音が窓から響くなか、冷水シャワーを下半身に繰り返し浴びせた。出ると緑茶とバターサブレを用意して自室に帰り、一服しながら(……)さんのブログを読んだ。九時に至るとさらに、数日前の新聞から情報を写し、続けてサルトル書簡集の書抜きも行った。ナポリの街路の特徴――小さな断片的な事物の集合によってその意味が成り立っており、刻々と異なった様相に移り変わって、ローマの街路のように一つの固定的な意味を持ち合わせないと言う――を批評的に分析しているのを写しながら、このように物事に触れて芸術作品を鑑賞するかのようにその特質を批評的に見極める眼力をぜひとも身につけたいものだなと羨んだ。この手紙は一九三六年だからサルトルは三一歳の時に文章を書いたことになるが、自分もあと三年でそうした鑑賞眼を持てるものだろうか? 以前はとにかく毎日の生活を、そのなかで感知したことを文章として書き続けていれば自分は自ずと成長できると信じており、実際そうだったのだが、病気のことがあって精神の鈍麻を招いた現在では、そうした単純な進歩主義からはいくらか説得力が欠けている。定かにものを感じるという感覚がないものだから、知識や経験が自分のうちに入りこみ、積み重ねられ蓄積されていくことで自分自身が変化していくという感じもなくなってしまったようなのだ。書抜きのあいだには、Donny Hathaway『Extension Of A Man』を流しており、七曲目、"Love, Love, Love"が少々気に入られて繰り返し流した。また、緑茶を何度もおかわりして飲みまくり、六杯は飲んだと思うのだが、それだけ摂っても心身にまったくカフェインの作用を感じない。不思議なことに、病気以来精神だけでなく身体のほうも鈍感になったようで、疲労感とか肉体の凝り固まりなども以前よりも薄いのだ。書抜きのあとはこの日の日記を書き足して、一一時を越えた。それから古谷利裕の「偽日記」を訪れると、showmore "circus"という楽曲が紹介されており、記事にリンクが貼りつけられていたスタジオライブの動画を閲覧した。これもなかなか悪くなかったが、こちらとしてはそこから自動的にリンクの繋がって再生の始まったSIRUP "SWIM"(https://www.youtube.com/watch?v=TmjGdJD8i5E)という曲が気に入られて、動画を繰り返し頭に戻しながら、ヘッドフォンを頭につけた状態でモニターの前で身体を揺らした。そうしているうちに時刻は零時に至った。引き続き音楽に触れることにして、椅子に腰を落ち着けてDonny Hathaway "Love, Love, Love"から聞きはじめた。以降、Keith Jarrett Trio "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)、"I Hear A Rhapsody", "Little Girl Blue", "Solar"(『Tribute』)、Bill Evans Trio "Solar"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』)に耳を傾けた。一曲の演奏時間が長いのでそれでもう一時を迎えて、そろそろ床に就くべきだったが、眠る前に金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読み出すと、そこからまた一時間ほど物語を追ってしまい、明かりを消すのは午前二時になった。布団のなかでのことは覚えていないから、わりあい寝付きは良かったのではないか。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 そしてこれがナポリの街路がどんなものであるかということだ、つまり右や左に薄暗い洞穴が立ち並ぶ、爽やかで、しかも臭気にみちた間道〔家々のあいだを貫き通る、いわば街中の切通し〕、まったくムフタール通りと同じように人々がざわめきうごめきながら雑踏する間道であり、おびただしい数の物が人々の頭上に張りだし、垂れさがり、揺れていて、その動きは街頭の人々の動きを、二階より上の階で繰り返しているのだ。そして時どき、大きな白いシーツが干してあって頭上に垂れさがり、風が吹くと船の帆のようにふくらむ。あるいはまた、日よけの鎧戸、ペンキを塗った美しい鎧戸であって、そのあるものはこまごました物語を語っている。ある意味で、これらの街路はみな互いに似ている。しかしそれでいて、きわめて変化に富んでもいる。第一に、街路は初めに全体の展望を人にあたえたかと思うと、見る間にこまごました挿話的な細部に分散してしまうからだ。そのため同じ街路を十遍通っても、同じと気付かないほどだ。ナポリの街路はローマの街路のようにそれぞれが一つの意味を持ってはいない、その街路全体に附属していて、他のすべての街路からそれを区別し、そこの住人にさえ認めさせる一つの意味を。というのも、それらはローマの街路のように窓の少ない壁〔立ち並ぶ建物の外壁〕――その色と高さと方向がその街路固有の意味を成り立たせる壁――で構成されてはいないからだ。ナポリの街路を構成するのは、人々であり、移動する屋台店であり、一日中垂れさがっているが乾くと突然姿を消す洗濯[ほし]物、要するに動き廻り、過ぎ去る事物なのであり、それは一つの均衡をもたず、絶えず形成されては崩れる小さな断片の集合なのだ。ルワンのシャレット通りが、午後ほとんど人けのない時と、晩方に大勢の水夫たちがぶらついている時とで、どれほど異なるかを思い出してもらいたい。そうすれば、ナポリの街路で一日に百回も起こることを(end91)少しは想像することができるだろう。そういうわけで、ぼくたちがここで散歩するとき、別の街路を通っているのか、それとも様相の変わった同じ街路を通っているのか、決して判らないのだ。ぼくたちはそれぞれの街路を一日のあらゆる時刻に散歩したいものだと思った。朝、あらゆる小職業が屋外で活動している時、午後の暑い時刻、男たちが椅子の上にまたがり両腕を椅子の背にもたせ頭を両腕の中に埋めて午寝[ひるね]をしており、母親たちは倦み疲れた様子で子供の虱をとっている時、夕方、食卓を街路に持ち出して人々が食事をしている時、夜、すべての鎧戸がとざされ、すべての胃がふたたび体内に戻り、そしてもはや二つの大きな裸の壁のあいだに人けのないじめじめした不潔な場所しか残っていない時に……。(……)
 (91~92; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

     *

 (……)ゲーテ街を上って行くと、ぼくの後で誰かがおならをするのが聞こえた。何の不思議もないことだ。ぼくはふり返らなかった。ところが、次から次へと何百とないおならが音高く続く。ぼくはおなら狂を見ようとしてふり向き、鳥打帽をかぶった、人相のよくない蒼い顔の、大きな赤い手をした男を見た。その男は自分のおならに悪態を[﹅3]つき始めた。《下種[げす]ども、いいかげんにしろ。うんざりだ、云々》と言うのだ。彼が悪態をついている間は、おならはやむ。しかし彼が黙ると、一段とさかんに出る。彼は言った、《てめえら、おれをなぶりものにしやがって!》 《こいつは、いっしょに笑うためには信じるほかないって奴だ[﹅26]》。彼は気が狂っているに違いない。幻覚における呼気の役割を研究したラガッシュも、おならの役割を研究することまでは考え及ばなかったに違いない。グロテスクではあったが、男は苦しんでいたし、極めて険悪な顔つきだったから、いささか無気味だった。ぼくは帰って寝た。彼はおならを続けながら、そしてぶつぶつ言いながらぼくの前を通って行った。そしてホテルの呼鈴を鳴らしているぼくに言った、《どうだ? 哀れな男だろ?》
 (129; ボーヴォワール宛; 1937年5月2日日曜日夜)

     *

 (……)ぼくはあなたへの愛情にしっとりとひたりきっている。(end157)あなたが一人でマルセーユや車中やストラスブールにいて、ぼくが一人でパリにいたあの夜とあの昼の間、ぼくは絶えず内面であなたと一体になった自分を感じていた。あなたに話しかけている気がしたし、ぼくの考えることは、すべてあなたに語りかけているように、というより、あなたがぼくと一緒に考えているように思われた。列車の中でも、二人の意識が融合して一つになってしまって、リヨン市あたりの大地と空の間をふわふわただよい、肉体は二つのロボットみたいに、一方はマルセーユの街を、一方は列車内の通路を、外見は忙しそうに、しかし中身は空っぽで、歩きまわっているところを想像したら、とても愉快だった。(……)
 (157~158; ボーヴォワール宛; 1937年9月15日)

2018/9/9, Sun.

 この日も五時半頃、早いうちから寝覚めた記憶が僅かにある。七時のアラームに至ると携帯を取って沈黙させ、それからまた微睡んで猫の夢など見ていたようだが、八時を迎える間際に意識が明るくなって、二重構えで仕掛けてあった時計のアラームのほうを鳴らないうちに解除した。湿り気の残って涼しく、ちょっと肌寒いとさえ言えそうな起き抜けだった。ハーフパンツを履いて上階に行き、顔を洗ってから食事を取る。モヤシとハムの炒め物、前夜から続くエノキの味噌汁に、これも前夜におろした分が余りに余っている生のキャベツ、そして飲むヨーグルトを一杯である。席に就いてものを食べはじめると、テレビから幼子のはしゃぐ声が聞こえて見れば番組は『小さな旅』、カメラはレポーターとともに一軒の家先に上って行き、そこで子どもらがビニールプールを出して水を掛け合い遊んでいた。しばらくすると今度は、ウェットスーツ姿の男が川で身を水平にして魚を採っているところが映る。先端に針のついた竹竿を用いて行う「しゃくり漁」で鮎を採っており、映った男性はまだ一七の高校生ながら、この伝統漁法を受け継ぐ町でただ一人の人間だと言う。薄青い透明さに澄んだ水中に苔のついた岩の周りを鮎が行き交うさまの映し出されるその川は「宮川」と言ったが、地域はどこかと思っているとじきに三重と出て、そう言えば(……)さんのブログにも名前が出てきた覚えがあるなと思い出した。映像に目を向けながら飯を食い、薬やサプリメントも飲むと皿を洗って、さらに早々と風呂も掃除した。そうすると緑茶を二杯分用意して自室に下り、コンピューターを起動させ、インターネット各所を瞥見してから早速日記を綴りはじめた。茶を啜りながら打鍵を進めて九時には前日分を仕上げ、それからこの日の記事にも文字を打ちこんで、まだ九時半を見ていない。朝から手早い仕事だが、寝過ごさず普段よりも早起きしたのは、今日、(……)さんの宅に昼食を呼ばれに行くからで、一〇時の出発よりも前に書くものを書いてしまいたかったからだ。それから上階に上がって、母親に頼まれて父親のズボンにアイロンを掛け、皺を取った。こちらの着替えは、上は麻素材の白無地の、ボタンの色がそれぞれ違ってカラフルな半袖シャツ、下はインクのような紺色のなかに細いストライプの入ったズボン、靴下はハーフサイズのものを選んだ。外着に着替えた頃には雲はまだ拭い取られていなかったが、雨を思わせる雰囲気は消えて、居間の窓から近所の屋根が発光しているのが見えた。白い曇り空が残っているものの、そのなかで空気に確かな陽射しが通っているその両義性がちょっと特殊なような天気の一幕だった。準備を済ませると自室で日記の読み返しをしていたのだが、二年前の九月九日の記事を読んでいるともう終わり間近のところで天井が鳴ったので、中断して外出へと向かった。時刻は一〇時を一〇分過ぎたところだった。父親の真っ青なカムリの助手席に乗り込み、Donny Hathaway『These Songs For You, Live!』のディスクをシステムに挿入して流しはじめる。出発し、街道に出てしばらく、(……)の小さな公園の前に掛かるとそこで極々小規模な祭りを催しており、囃子の楽が聞こえた。催しを背後に過ぎて歩道を見やっていると、弱い鼠色の法被姿の男性がおり、彼が公園のほうに向かって歩いて行きながら道端の空き地に唾を吐いているのを目撃した。(……)の踏切りで停まったあたりで陽光が膝の上に掛かって温かくなり、空に浮かんだ雲の形も定まって雨の名残りはほとんどなくなり、じきに夏日の気候が露わになった。国道一六号線に突き当たって南へ折れ、流れ出す"What's Going On"に合わせて口ずさんでいると、道路の横に在日米軍横田基地の敷地が広くひらけて、青空のなか彼方の低みには、建物の頭上を縁取るように入道雲が横に長く連なっているのだった。二〇一四年のことだったろうか、午後の三時くらいから自宅を出て数時間歩き詰め、宵闇の降りたなか一六号線に至って基地の施設の灯りが遠くに揺蕩うようになっていたのを、空の星が地上に降りて暗闇の海に揺れているようだとか何とか、そんなことを日記に綴ったその同じ道だった。基地のゲート前を過ぎて一路南、拝島橋を越えて八王子から高速道路に乗った。東の空に雲は変わらずもくもくと横一列に湧き広がって果てを占め、その上にはこちらは形の露わでない、遠目にはパウダー状のようにも見える薄雲が面に塗られて明るかった。高速に行くあいだは塀に囲まれた単調な景色の続いて、あまり印象に残るものもないが、ある時母親がふと、この花は何、と左手に流れて行くのを尋ねて、父親が夾竹桃だろうと答えたのに、これが夾竹桃かとこちらも目を向けたものの、高速で過ぎ去って行くので植物の姿形が見て取れず、濃いピンク色の花がついているくらいの情報しか認識できない、ということはあった。新板橋で高速を降りた。ナビの設定が妙だったようで、裏道に入ることになり、人々の通行の多い下町じみた界隈を進んでいると、目の前に巣鴨地蔵通り商店街の入口が現れた。ここがあの有名な、高年者の原宿と呼ばれるあの商店街なのか、王子からこんなに近いのかと母親は言ったが、あとで聞いたところではやはりそうなのだった。表に出たあとナビの設定をし直して、ふたたび裏道に入って行く途中、神輿を担いだ子どもらの一団とすれ違って、どこも祭りの頃合いなのだなと父親は笑った。そうこうして王子に至り、(……)さん宅から程近いパーキングに停車した。飲み物だけ買ってきてほしいとのことだったので、傍のファミリーマートに寄り、籠を持ってドリンクコーナーの前に立った。こちらはソルティライチを選び、母親はチューハイやノンアルコール飲料を籠に入れて行く。父親が(……)さんに電話するとビールを、とのことだったらしく、それを追加して会計に向かい、こちらがカウンターに籠を置くと、最後に母親が何個も入ったプチシュークリームを加えた。こちらが払おうと思って財布を出していたのだが、父親がスマートフォンを使った「クイックペイ」で支払ったので、こちらは二つの袋に分けられた荷物を受け取って退店した。荷物を提げて(……)さんの住むマンションへ向かい、入ると母親がインターフォンで到着を告げ、奥に進む扉のロックを解除してもらう。くぐるとエレベーターに乗って三階まで、降りて部屋に入るとエプロン姿の(……)さんが迎えてくれて、その足もとに(……)ちゃんもいた。お邪魔しますと靴を脱いで、用意されていたスリッパを履いて部屋の奥、リビングに入って行った。荷物をテーブルの上に置き、洗面所を借りて手を洗ってから、(……)さんがキッチンで食事の支度をしてくれていたあいだは一休みといった感じで、こちらは良く動き回る(……)ちゃんと戯れ、その頭を撫でてやったりしていた。赤ん坊というものは本当に良く動き、室内の色々なところへ次々と移って行き、彼女用の絵本の収められている箱のなかからは本を無造作に取り出して、ひらいてはページの上に指を差して何か声を上げているのだった。玩具のなかには二オクターブほどの範囲の小型のピアノがあった。(……)ちゃんはそれに興味を示さず、鍵盤を一度雑に叩いたのみで終わってしまったので、こちらが代わりというわけでもないが、Cマイナーペンタトニックのスケールに合わせて適当にフレーズを奏でていると、それを聞きつけた(……)さんが、(……)くんが弾いているの、と言ってキッチンから出てきて、凄いね、何でそんなに弾けるのと褒めてくれたので、スケールに添って適当にやっているだけですよと答えた。(……)さんはオペラ歌手として第一線で長年活躍していた人で、音大出のエリートであり、ピアノも勿論それなりに弾けて、こちらとは比べ物にならないくらいの音楽的能力を持ち合わせているのだが、楽譜がないのに弾けるっていうのが信じられないと彼女は言った。しかし本当に、こちらがやっていたのは他愛のない戯れに過ぎないのだ。じきに食卓には料理が並び、食事が始まった頃には一時を迎えていた(室の角にある小さなテレビは『のど自慢』を映しており、ゲストのつるの剛士村下孝蔵の"初恋"を歌っていた)。メニューは親子丼と味噌汁にサラダ二種、そしてローストビーフだった。サラダは一方がレンコン・牛蒡・パプリカなどを和えてシャキシャキとした口当たりのもの、もう一方はアボカド・トマト・モッツァレラチーズ・エビにルッコラを添えたもので、味噌汁は豆腐とアオサが具になっていた。どの品も美味く感じられ、どれもうちの料理よりも美味いなと心中密かに独りごちた。食事のあいだはこちらの隣に(……)ちゃんも就き、(……)さんの手によって我々のものよりも細かくされた親子丼が赤子の口に運ばれていた。腹を満たして使用された食器をキッチンに運んでおくと、また何をするでもない合間の時間が訪れて、こちらはふたたび玩具のピアノで遊んでいると、(……)さんが本物のほうを弾いて良いよと笑って言って、Rolandアップライトピアノを点けてくれたので、そちらを弄った。何も弾けるわけでないので、またスケールに添って戯れたり、左手を指一本でルート音を移行させて行きながら、右手で当てずっぽうに旋律を作るといったことをやった。そうして三時に至った頃か、今度は大粒の葡萄が食卓に用意され、また皆でそれをつまんだ。この時、(……)さんがタブレットでモスクワの夫、つまりこちらの兄に連絡を取って、起き抜けの兄の、髭もいくらか生やしていて冴えないような顔が画面に映し出された。皆で兄と通話をしているあいだに、(……)ちゃんも葡萄を与えられていたのだが、じきに彼女は眠くなってきて、その時の顔が何故かきつく顰めたような、渋くふてくされたような表情だったので皆で笑った。赤子はソファの上に移され、仰向けで眠りに入った。モスクワはもう外はだいぶ涼しいと言った。兄はこちらとは反対に――最もこちらも最近は八キロも太ってしまい、人生で初めて腹が出るという経験をした、とこの席でも話したのだが――巨漢と言って良いほどに太っているのだが、最近は胡瓜ダイエットなるものを試みて胡瓜を良く買うようにしているらしく、また運動としては週に一度、ロシア人とバレーボールをしているという話で、皆本気になってやっているわけでないけれど、夢中なので楽しいよと述べた。兄との通話を終えて、葡萄も食べ終わると、そろそろ出かけようということになった。初めはバスに乗って旧古河庭園に行くような話だったのだが、近間で良いのではないかと変わって、歩いてすぐ傍の飛鳥山公園を散歩しようと決まった。それで(……)ちゃんをベビーカーに乗せて、連れ立って部屋を出た。陽射しはまだまだ旺盛だったが、厚い風がよく吹き、日蔭にいればさほど暑さのない午後四時前だった。マンションを出てしばらくは、こちらが一行の最後尾でベビーカーを押して行った。しばらく進むと王子神社があって、そこに立ち寄ることになった。正面入口は階段なので、迂回して段差のないほうから敷地内に入り、石畳の参道に乗って社殿のほうへ進んで行く。賽銭箱の手前は配慮がなされているのか坂になっていて、そこをベビーカーを押し上げて止まり、財布を探った。五円玉があったのでそれを箱に投げ入れ、二礼二拍手一礼の作法をこなしたが、こなすのみで特に何も願わなかった(本来そういう場所ではないのかもしれないが)。今の自分が願うべきことと言えば、感性の治癒以外にないだろう。母親は多色の紐を掴んで鐘を揺らしていたが、こちらはそれもせず、場をあとにした。神社を去る時は、迂回せず(……)さんがベビーカーを担いで短い階段を下り、それでここから押し手が替わることとなった。飛鳥山公園はもうすぐ傍、またちょっと歩いて通りを渡り、緩やかなスロープを辿って入園した。初めの広場では、集団で大縄跳びを練習する若者のグループがいくつもあって、進んで行くとその次には噴水が出現し、水の噴出口付近に入りこんでいる親子や、パンツ一丁で動き回る幼児などが見られた。この公園には三つ、博物館の類があって、一つは忘れたがあとの二つは紙の博物館と渋沢栄一の史料館だった。通路を進んで行くと左手には遊具のある広場、右手に紙の博物館が現れて、こちらとしてはあまり興味を惹かれるものではなかったが、せっかく王子製紙の有名な王子に来たわけだし寄ってみるかとあいなった。入館すると父親が全員分のチケットを買ってくれ、それを受付の女性に差し出すとパンフレットと交換してもらえるのだった。展示室は円型の通路の外側の壁に様々な説明書きが設けられ、その足もとには模型などの資料を収めたガラスケースが設置され、室の中央には製紙に使う大砲にも似た機械が置かれていた。展示を漫然と眺めていると、もう七〇くらいだろうか高年のボランティアの男性が父親に説明をしはじめ、じきにそれが我々一同を相手にしたものに広がった。この人は語り好きの熱心なスタッフで、我々がゆっくりと順路を進むあいだ、各々の資料を示してやや早口に様々な知識を述べてくれるのだった。受け答えは大概父親か母親が担当し、こちらはあまり熱心に耳を傾けず、何やら嬉しそうに声を上げる(……)ちゃんの傍で彼女の頭を撫でたりしていたので、職員の話していたことを良くも覚えていないが、王子製紙は元々渋沢栄一が設立したこと、そしてこの飛鳥山に彼の別荘があり、そこから工場が稼働するのを渋沢が眺めていたという話は記憶した。初めのフロアは一階ではなく二階だった。そこから父親は階段で三階に、残りの三人はベビーカーがあったのでエレベーターで四階に上った。四階は紙の歴史の変遷を追ったコーナーらしかったが、やはりここも良くも見分していない。入ってすぐ脇に、世界最大級の木版画という孔雀明王像の図があって、これは元々仁和寺のものを木版によって複製したものらしく、それは近寄って少々じろじろと眺めた。ほか、一六〇〇年代のヨーロッパで出版された古い書物や、江戸時代の離縁状、通称「三下り半」などが資料として並ぶなかを回り、途中でこちらは便所に行った。トイレは三階だったので階段を下り、細い通路に親子連れが集っている横を通り過ぎて室に入り、用を足した。戻るとそろそろ出ようという話になっていたので、エレベーターで二階まで下りた。こまごまとした売り物の類を瞥見しつつ外に出ると時刻は四時半頃、受付の女性が表の看板を取りに出てきたりして、そろそろ閉館らしかった。入口付近には紙の原料となる植物の鉢が並べられていて、そのなかにパピルスがあって、これがパピルス紙のあれかと目をやった。細長く力ない葉のいくつか垂れ下がっているのに、古代エジプト人はよくここから紙を作ろうと思いつきましたねと(……)さんと話し、これ集めれば文字書けるんじゃね、みたいな、その発想力、と言って笑い合った。道に戻ってちょっと進むと渋沢栄一史料館があり、その向かいには渋沢の別荘のあるらしき敷地があった。門に寄ると四時半までと表示があって、既に時間は過ぎていたが、入口がひらいていたのでなかに入った。ここには青淵文庫という、渋沢が収集した『論語』関連の書物を収めたという施設と、晩香廬という小亭があった。敷地内をうろついていると、晩香廬のほうの女性スタッフが戸口から姿を現して、見られるならまだ大丈夫ですよ、といったことを知らせてくる。それでせっかくなので見学しようかと入口まで来たところが、入場にはチケットが必要だということがわかり、それを入手していなかった我々はやはり見学はできないのだった。どこでチケットを買うのかわからなかったが、おそらく渋沢史料館のほうの券でこちらの施設も見られるようになっていたのだろう。それで敷地を抜け、(……)ちゃんを遊ばせようということで遊具のある広場に戻り、足もとに枝のたくさん散らばっている木蔭の一角で(……)ちゃんをベビーカーから解放した。傍には銀杏の樹があって、見上げればその葉の連なりが縦横に交錯して無秩序な輪郭線を描き、その隙間から青空の細かく覗いて、緑と青とで模様を成しているのが目を引くようだった。時刻は五時前、子供らのてんでに遊び回っているその先の空では、低くなった太陽が大きくその身を広げて、眩い光線を木々の下にも送りこんでいた。(……)ちゃんは土の上を元気に動き回り、(……)さんや父親に担がれて小型の滑り台を滑らせてもらったりしていた。こちらは(……)ちゃんの行く先に、バスケットボールのマークのようにして、両手を広げ脚もひらいて立ち塞がって戯れたが、どんどん横に歩いて行く赤子を追ってこちらも蟹のように横移動をするのだった。足もとに石の多い場所に来たり、人の動きの多い遊具の近くに行こうとすると抱きかかえて連れ戻していたが、赤子はじきに怖じることなく人々のなかに立ち入って行き、そのあとを母親が追いかけた。少し離れた位置に(……)さんと並んで話しつつ、滑り台やブランコや城を模したような巨大な遊具のそれぞれで遊び回る子どもたち、その群れの姿を全体として目の当たりにして、これだけ多くの動き、豊富な情報を受け取ればかつてはそれだけで気分が恍惚とひらいたようなこともあったものを、と感受性の衰えた現在の自分を心中嘆くようになったことがあったが、しかし人とはそのようにして歳を取っていくものかもしれない。五時を迎えて、そろそろ帰ろうということになった。「アスカルゴ」という乗り物があると(……)さんは言い、それに乗って帰ろうと一行で歩き出したところ、背後から、アスカルゴは四時までという言葉が聞こえてきた。振り向くとハーフパンツ姿の比較的若い男性がおり、「アスカルゴ」に乗れないいま、ベビーカーでそちらのほうに行くと大変だと思う、というようなことを言った。礼を言ってそれではと方向転換し、めっちゃ親切な人ですねと智子さんと笑った。男性もまた子の父親であり、多分自分も以前行ったら乗れなくて苦労したということがあったのだろう。子どもを遊ばせている男性の脇を過ぎる際にふたたび礼を言って、もと来た道を戻りはじめた。公園を抜けると横断歩道を二つ渡って、やはり往路をそのまま反対に戻って行く。(……)さんの部屋に着くと、間を置かずにそろそろ帰ろうと我々は言ったのだが、(……)さんが、マンゴージュースを飲んでいきませんかと言う。「ジャカルタじいさん」と呼ばれている彼女の父親――インドネシア日本人学校の理事長を務めている――が外国から持ってきたものだと言った。一人だとなかなか開ける機会もないからと(……)さんはパックのジュースを開封し、コップに注ぎはじめたので、我々もそれではといただくことにした。口をつけた母親は、南国の、トロピカルな味がすると言った。そうしてジュースを飲み干してまもなく、帰途に就くことになった。部屋を出た我々に、下まで送りますと言って(……)さんもふたたびベビーカーに(……)ちゃんを乗せてついてくる。時刻はもう六時頃だったろうか、外に出ると暗くなるのがいつの間にか早くなりましたねと(……)さんは漏らした。皆で駐車場まで移動し、(……)さんにありがとうございましたと礼を言い、(……)ちゃんにもばいばいと手を振る。すると赤ん坊は言語と動作の結びつきを理解しているようで、あちらもあどけなく、横にぶらぶらと手を振り返してくれるのだった。車に乗り込み、発車すると、窓越しに会釈し、また手を振りながら親子と別れた。しばらく走って、王子北から高速に乗った。あれは荒川なのだろうか途中で眼下に現れた川が、光を失った空を反映して真っ白な鏡のようになっていた。あたりは暗み、傍らの窓から見れば、深い青の空に星が一つ灯りもしているが、前方、西の方角の果てには暗青色の雲が広範囲に染みついていた。高速を走っているあいだ、こちらは目を閉じて少々うと、とする場面があり、その時には後部席の母親も同じく疲れに負けて微睡んでいたようで、父親が黙々と運転するなか、車内に声のない時間がいくらか続いたらしい。目覚めてまもなく、掛かっていたDonny Hathawayが終わると父親は、ニュースに変えるぞとこちらに了承を求めた。六時四〇分頃だった。掛かったNHKは最初、スウェーデンの移民について何やら話していたが、その番組はすぐに終わってニュースが述べられはじめた。次々と情報が送り出されてきて頭に入れる暇もないのだが、なかでは一つ、確か千葉市と言っていたか、横転したトレーラーに軽自動車が下敷きにされて、父親と息子とその妻の家族三人が死亡したという事故が記憶に残っている。(……)インターチェンジで高速を降りた頃には、テニスの大坂なおみ選手が全米オープンで優勝したという話題が取り上げられており、父親は嬉しそうに反応していた。しかしこの試合は、セリーナ・ウィリアムスという相手の選手が苛立ちのあまりラケットを地面に叩きつけ破壊したことで一ポイント、また審判に暴言を吐いたことによって一ゲームが大坂に当てられて、スポーツマンシップに則ったけちのつかない試合というわけではなかったようだ。それから見慣れた町をしばらく走り、クリーニング屋の裏の駐車場に停まった。父親がクリーニングを引き取りに行っているあいだ、こちらは"A Song For You"を音程もよくわからず下手くそに口ずさんでいたのだが、そうしていると背後の母親が、障害者のサポートをボランティアや仕事としてやってみる気はない、と訊いてきた。こちらはそこまでの気持ちはないよと答えて、行きつけの古本屋の話題を出し、どのように働きたいという意欲も特にないが、どうせ働くのならその店で働けるのが良いと思うと述べた。もっとも店主に頼んでみないと雇ってもらえるかはわかってもらえないわけだが、話を持っていくにしてもまあもう少し様子を見てみて、と半端に落としていると、父親が戻ってきた。そうしてまたしばらく走って帰宅し、降りたこちらは玄関の鍵を開け、荷物を居間に運び込んで、真っ暗な室の明かりを灯した。クリーニングから返ってきたスーツや礼服などを下階に運んだり、服を着替えたり排便したりしているあいだに、母親は既に台所で支度を始めていた。茄子を茹で、餃子を焼いている。手を洗ってからこちらも台所に立って、餃子の焼き加減を見張るとともに、柔らかくなった茄子を味噌で和えた。そうして一旦室に戻ると、夕食の前に(……)さんのブログを読み、すると時刻はもう八時半を迎えた。腹がまったく減っていなかったので(健康的な空腹感というものももはや全然感じることがない)、食事は餃子とサラダだけで取り、終えると入浴に行った。冷水を何度か下半身に浴びせて頭を洗ったあと、麻素材一〇〇パーセントのシャツを洗面器のなかで手洗いした。ホームクリーニング用洗剤を湯に垂らして服を揉み、湯を替えてゆすぐと絞って、シャツを持って風呂を上がった。洗濯機には先に洗われた洗濯物が入っていたので、それは一旦洗面台の上に移しておき、シャツを入れて脱水を行う。シャツが回っているのを待つあいだ、居間で座って新聞から、米国の対中関税が全輸入品にまで拡大されるかもしれないとの記事を途中まで読んだ。そうしてシャツを干しておくとともに、その他の洗濯物もついでにハンガーに掛け、仕舞えると茶を用意して自室に戻った。一服しながらインターネット記事を眺め、それから長くなるだろう日記に取り掛からねばならなかったが、その前にちょっと身体を休めようとベッドに転がって、金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読んだ。三〇分で一〇頁をゆっくりと読み、それから日記を綴りはじめた。時刻は一〇時半過ぎだった。午前二時まであまり奮わない打鍵を続けて、午後五時あたりのことまで綴り、今日はここまでとして歯を磨き、床に就いた。それ以降の記憶を順に思い返しているうちに、あまり苦労せずに入眠したようだ。

2018/9/8, Sat.

 七時のアラームで鷹揚と立ち上がり、しかし携帯を取ってベッドに戻り、陽射しを受けながら微睡みのなかに苦しんで幾許、九時台から段々と意識は浮上しはじめて、一〇時一五分に至って起床した。上がって行くと、前夜のカレーをドリアにしたと言う。顔を洗ってからそれを温め、マカロニサラダとともに食事を取るあいだ、新聞をめくって野田佳彦前首相のインタビュー記事を読んだ。食事を終えて薬を飲みながら読書欄もちょっと読み、台所で皿洗いをする。久しぶりに居間の気温計は三二度を越えており、窓から覗く近間の屋根が、あれはトタンなのだろうか、太陽を受けて隈なく白く密に発光し、そこだけ浮遊したかのようになっていた。風呂を洗うと前夜に引き続き緑茶を用意して、急須と湯呑みを持って自室に戻り、一服しながらこの日はまず読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』ももう二六〇頁を越えて最終盤である。ヴァカンスの様子を伝えるサルトルの手紙を読み、一時間が経って正午に至ったところで読書は区切り、陽光の感触の空気にないのにふと気づいてカーテンを搔き分けると、窓は滑らかに白く均されている。放尿してくると窓を閉ざし、Suchmos "YMM"を流して歌い、"GAGA"も続けて歌うと日記に取り組もうという心だったが、自分のブログを読み返したりしてしまって遅れて一二時半から打鍵を始めた。食事の前に台所のラジカセから、John Mayerの"Waiting On The World To Change"が流れ出すのを耳にして、大層久しぶりだ、大学時以来かと思ったところで、彼のライブ盤をBGMに据えようとしたが、やはり記憶を探ることから気が逸れてしまうようだったのですぐに消した。記述はいくらかのろのろとなされて行き、ここまで追いつかせた現在は二時が目前、背後を見やれば、雲は過ぎたようで一度は薄れた陽がまた復活しており、明るいが強い熱気の空気に籠もるでもなく、秋に寄って過ごしやすい晴れの午後となっている。上階に行って、前日に買ってきたアイスを冷凍庫から取り出すと、昨日歩いているあいだに溶けたものか、僅かに崩れてまた冷えて固まった痕跡があった。シリアル入りのチョコレートに包まれたミント味の柔らかいそれを零さないように慎重に食べ、それから下着や両親の寝間着を畳む。空気には温みが感じられ、そのなかで服を畳んでいると昼下がりの気分は穏やかなようで、また気分というものが微かながらも生まれるようになってきたかと思った。室に戻るとサルトル書簡集の残った数ページを読み終えてしまおうと本をひらき、まもなく読了してのち、続けて(……)さんのブログを読んだ。それから、先ほどは馴染まなかったJohn Mayerのライブ盤を共連れに、九月五日の夕刊から情報を写し、さらにサルトル書簡集の書抜きも早速始めた。アルバムの終いが迫ってそろそろ切りとしようというところで、荷物を下ろしたのか足を鳴らしたのか、天井から大きく打つような音が聞こえ、母親が帰ってきたのだなと判断した。音楽の終幕と同時に書抜きも切り良く仕舞えて、上階に上がって行くと母親の姿はないが、階段口の手すりにクリーニング屋のビニールを被せられた父親のワイシャツが数枚掛かっていたので、階を下りて衣装部屋に運んでおいた。それから玄関へ行って小窓を覗いたところ駐車場に車もなく、一度帰ってきてから忙しなくまた出かけたのだろうか。時刻は四時半、食事の支度までにはまだ少し間がある。こちらはともかく室に帰って、音楽を聞くことにした。Keith Jarrett Trio『Standards, Vol.1』から"All The Things You Are"を流し、『Vol.2』のほうからも前半の三曲を聞くのだが、椅子に腰を据えて目を閉じ音楽にじっと意識を向けているあいだ、聴覚の向かう先のその音楽が何だか曇っているようで、かつてはあったはずの鮮やかさ生々しさが感じ取れないこの感覚は、ごくごく軽いものではあるがやはりいくらか離人症的なのかもしれない。離人症状の説明としては世界がヴェールに包まれたような、との表現を良く見るが、確かに感覚対象の遠いような、あいだに何かが差し挟まれて直接触れられないような、とでも形容できそうに思われた。しかし勿論、それに苦痛が伴うわけではないから病態などとは言えず、触れたものがこちらの心身に響いてこないという個人的な不満があるのみである。音楽を聞いているあいだに母親は帰ってきており、上がって行くと台所で飯の支度を行っていた。こちらは光の遠のいて淡くなった空気のなかでまた寝間着を畳み、それから水やりをしに家の外に出た。午後五時の空気はさらりとして涼やかだった。家の南側に回ってホースで植木に水を撒き、屋内に帰ると台所に入ったが、既に豆苗を添えた厚揚げは完成、エノキダケの汁物もあとは味噌を入れるだけ、さらにサーモンやマグロの刺し身があって食べるものは大方揃っていたので、野菜だけ用意しようということでサラダ菜をちぎって笊に収めた。それから大きくて重いキャベツを半分に切断して、スライサーで桶のなかに細くおろして行き、いっぱいになるとこれも笊に上げて仕事は早々に終わり、下階に戻るとふたたび音楽を聞いた。『Standards, Vol.2』の後半三曲を流し、ライブ音源である『Tribute』から冒頭一三分の"Lover Man"も聞くと、脈絡なくLed Zeppelin "Stairway To Heaven"などという超有名曲に実に久々に耳を傾けた。そうして五〇分ほどの音楽鑑賞を終いにすると、Led Zeppelin『House of the Holy』を流して、そのまま運動に入った。前屈で脚をほぐしたあとに、腹筋運動は六五回、腕立て伏せは二三回と、前回よりも少しずつ回数を増やして行っている。すると七時が間近になったので食事を取るために部屋を出た。台所に入ると、小さく分けられたイカフライを熱し、キャベツと菜っ葉を大皿に盛って、刺し身をいくらか取り分け米は茶漬けにする。そのほか厚揚げと味噌汁を卓に並べて席に就き、食事を始めた。ものを食べているあいだはテレビにも碌に目を向けず、向かいの母親が何だかんだと話しているのに相槌も打たず、静かに黙々とものを口に運んで、薬剤を飲んで皿を洗うとすぐに散歩に出た。食事を取って汗の湧いた身体に外気が涼しかった。夜空はくすんでおり、濃度に波はありながら雲が全体を覆って星の一つも見えなかった。坂を上ってひと気のない裏道を行っていると林のほうから凛々と、蟋蟀の音が湧いて通りに満ちている。表に出ると方向を変えて、車の流れる横を向かい風に包まれながら行き、しばらくすると腕にぽつりと落ちるものがあって、気のせいかと思えばもう一度続いて雨だなと察せられた。降りはじめから粒が大きくこれはすぐに降り増すなと思っていると果たして、まもなく肌に当たる水の間隔が狭まってぽつぽつ来たが、本降りと言うほどの厚さにはならず、かえって涼しいような小雨のなかを、頭や肌着を湿らせながら急がず帰った。帰宅するとすぐさま風呂に入った。湯に浸かって記憶を思い返していると、雨音が窓に寄って大きくなって遅れて本格の降りとなっていたが、これもすぐに弱まって音はまた消えた。浴室から上がって身体を拭き、ドライヤーを吹きつける髪は短くしたので即座に乾く。出ると茶を用意して室に下り、一年前の日記を二日分読み返した。文章の感触というものを繊細に感じ取れていた頃であり、記録的情熱ではなく構成の欲望を試みていた時期であって、どちらの記述も今より力の籠ったものと思われたが、九月七日のほうをここに引いておきたい。

 昼日中から薄灰色に沈みきって既に日暮れのような雨もよいに、室内もよほど暗んで、コンピューターのモニターが目に悪いほどになる。窓の内からは降っているともいないとも定かにはつかず、音もなく、ただ霧っぽい白さが湧いているのを見ていたが、夕刻を迎えて外に出ると、郵便受けの上に雫が溜まっていた。傘を持って坂に入ると、鵯の張る声が瞭々と通って、よほど衰えた蟬の声に取って替わりつつある。坂を出際にミンミンゼミの鳴きが一つ追ってきたが、上がらぬ気温に生気の鈍ったような、低く這うように間延びして勢いのない声だった。
 風はない。しかし温くはなくて、と言ってとりたてて涼しくもない。湿り気を含んだ空気が、柔らかく安々と肌に馴染んでくる。路地を行くあいだの百日紅には、主として目を向けているものが三本ある。初めに当たるのは、街道から一度垂直に折れて進み、裏路地に入る角をもう一つ折れる間際の家の抱いたもので、近頃は萎えているようにも見えたが、この日は色を薄めた花の端に、新しい紅色が咲き継がれているのを見つけた。路地の中途の一軒に、低い塀からちょっと顔を出しているのが二つ目で、これはほかの二本よりも紅色が強く、極々小さな細い木で花も多くはないが衰えを知らず日増しに充実するようで、この日も目を向けると思わず驚くほどに赤々と、水を吸ってなおさら色濃くなったか、湿った空気のなかで目覚ましいほどに鮮やかだった。もう一本は、裏道の合間に直交した坂を渡ってすぐの家の、これはなかなかに高くすらりと伸びた木だが、今年は早めに枝を落とされて以来奮っていない。
 帰路には雨がややあった。大した仕事でないのだが、労働というものはやはり疲れるなと、疲労感によって精神のひらかず狭く縮こまったようになっているのを感じながら行く。傘を打つ雨の音というものを、久しぶりに聞くような気がした。道中、周囲から盛んに鳴き寄せてくるのは、青松虫というものらしい。高く澄んだ声で、遠く聞いては鈴虫の音とも紛らわしいようで、今までそれと思っていたなかにもあるいは聞き違えがあったかもしれないが、後者に比べると青松虫は屈託なくまっすぐに、群れで堂々と鳴き盛るのではないか。鈴虫と言って思い出すのは家の近間から最寄り駅へ続く坂を夜通る時に聞こえるもので、そこに漂うのは輪郭の周囲に光暈めいた余韻をはらんだ音色であり、狐火を思わせて繊細に震えながら樹々の合間の闇の奥に見え隠れする控え目な声である。精妙な揺らぎのうちに金属の擦れ合うような感触もより強い、あれがまさしくそうなのだろう。
 雨はじきにほとんど降り止んで虫の音の方が高くなり、またもや作句の頭が働き出したが、今回はうまく形にならなかった。街道を行く車が途切れると、道の左右からふたたび、青松虫の声が湧き出て鳴きしきっていた。

 アオマツムシなどという虫の存在はすっかり忘れていて、凛と澄んで高く鳴るその声を蟋蟀の音とばかり思って聞き、今年の日記にもそう書いてきたが、この時期左右から道に溢れ、先ほどの散歩の途中にも蟋蟀として耳にしたのはおそらくこの虫なのだった。過去の日記の読み返しのあと、茶をおかわりしてくると現在の日記の作成に取り掛かり、温かい飲み物を啜りながらゆっくりキーを打って、ちょうど一〇時半を迎えて現在に追いついた。就床までの残りの時間は読み物に費やした。まず数日前の新聞から一記事読んでおき、それから金子薫『鳥打ちも夜更けには』を新しく読みはじめた。ベッドに仰向けになって読み進めて、零時四〇分を越えて切りの良いところに到達したので眠ることにして消灯した。眠気はやはりなく、仰向けの状態から姿勢を横に変えたりして、深呼吸をしながらしばらく過ごしていた覚えがあるが、入眠に苦労したというほどではなかったようだ。一時間は掛からなかったのではないか。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 (……)あなたへの信頼の証拠として、今まで強がりからあなたに言い得なかった次のことを告白します。それは、ぼくの可愛いお嬢ちゃん、ぼくはあなたの心の中で第一の人間ではなく唯一の[﹅3]人間でありたい、ということです。ぼくはこの自分の気持をずっと前から知っていましたが、あなたに言うつもりはありませんでした。ぼくがこのことを言うのは、あなたにこの点でほんの少しでも変わってもらいたいためではなく、あなたへの信頼のしるしとしてぼくがあなたになし得る最も辛い告白をあなたに捧げるためです。(……)
 (16; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)

     *

 (……)今夜ぼくは、あなたがいままでぼくから経験したことのない仕方であなたを愛しています。つまり、ぼくは旅行によって弱ってもいないし、あなたを身近に感じたいという欲望によって気が転倒してもいません。ぼくはあなたへの愛を統御し、それをあたかもぼく自身の構成要素のように自分の内部にとり込むのです。このことはぼくがあなたに口で言うよりもはるかに頻繁に起こることですが、あなたに手紙を書くときには稀にしか起こりません。ぼくの言う意味が判りますか、つまりぼくは外部の事象に注意を払いつつあなたを愛しているのです。トゥールーズでは、ぼくはただ単にあなたを愛するのです。しかし今夜は、ぼくは春の夜の中で[﹅6]あなたを愛しているのです。ぼくは窓をひらいて、あなたを愛しているのです。あなたはぼくに現前し、事物もぼくに現前しています。ぼくの愛はぼくをとり巻く事物を変容させ、ぼくをとり巻く事物はぼくの愛を変容させるのです。
 (22; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)

     *

 ぼくの愛する人。あなたには判らないだろう、ぼくがどれほどあなたのことを想っているか、一日中絶え間なくあなたで満ちみちたこの世界のただ中で。時によってはあなたが傍にいないのが淋しくてぼくは少し悲しい(ほんの少し、ごくごく少し)、ほかの時はぼくはカストールがこの世に存在すると考えて、この上なく幸福なのだ、彼女が焼き栗を買ってぶらつき廻っていると考えて。あなたがぼくの念頭から去ることは決してなく、ぼくは頭の中で絶えずあなたと会話をしている。(……)
 (55; ボーヴォワール宛; ホテル・プランタニア、シャルル・ラフィット街、ル・アーヴル; 1931年10月9日金曜日)

     *

 (……)ただ、それらの部屋が生あたたかく、薄暗く、強く匂うので、そして街路が眼の前にじつに涼しく、しかも同一平面上にあるので、街路が人々を引き寄せる。で、彼らは屋外[そと]に出る、節約心から電灯をつけないですますために、涼をとるために、そしてまたぼくの考えではおそらく人間中心主義から、他の人々と一緒にひしめき合うのを感じたいために。彼らは椅子やテーブルを路地に持ち出す、でなければ彼らの部屋の戸口と路地に跨った位置に置く。半ば屋内、半ば屋外のこの中間地帯で、彼らはその生活の主要な行為を行なうのだ。そういうわけで、もう屋内[なか]も屋外[そと]もなく、街路は彼らの部屋の延長となり、彼らは彼らの肉体の匂いと彼らの家具とで街路を満たす(end83)のだ。また彼らの身に起こる私的な事柄でも満たす。したがって想像してもらいたいが、ナポリの街路では、われわれは通りすがりに、無数の人々が屋外に坐って、フランス人なら人目を避けて行なうようなすべてのことをせっせと行なっているのを見るわけだ。そして彼らの背後の暗い奥まった処に彼らの調度品全部、彼らの箪笥、彼らのテーブル、彼らのベッド、それから彼らの好む小装飾品や家族の写真などをぼんやりと見分けることができる。屋外は屋内と有機的につながっているので、それはいつもぼくに、少し血のしみ出た粘膜が体外に出て無数のこまごました懐胎作用を行なっているかのような印象をあたえる。親愛なるヤロスラウ、ぼくは自然科学課目[P・C・N]修了試験の受験勉強をしていたとき、次のことを読んだ。ひとで[﹅3]は或る場合には《その胃を裏返し[デヴァジネ]にして露出する》、つまり胃を外に出し、体外で消化をはじめる、と。これを読んでぼくはひどい嫌悪感をもよおした。ところが、いまその記憶が甦ってきて、何千という家族が彼らの胃を(そして腸さえも)裏返しにして露出するナポリの路地の内臓器官的猥雑さと大らかさを強烈にぼくに感じさせたのだった。理解してもらえるだろうか、すべては屋外にあるが、それでいてすべては屋内と隣接し、接合し、有機的につながっているのだ。屋内、つまり貝殻の内部と。言い換れば、屋外で起こることに意味をあたえるのは、背後にある薄暗い洞窟――獣が夕方になると厚い木の鎧戸の背後に眠りに戻る洞窟――なのだ。(……)
 (83~84; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

     *

 (……)ナポリにはぼくたちがイタリアのどこでも見なかったものがある、トリノでも、ミラノでも、ヴェネツィアでも、フィレンツェでも、ローマでも見なかったもの、つまり露台[バルコニー]だ。ここでは二階以上の階の扉窓にはどれも専用の露台が附属していて、それらはまるで劇場の小さなボックス席のように街路の上に張り出し、明るい緑色のペンキで塗られた鉄格子の柵がついている。そしてこれらの露台はパリやルワンのとは非常に異なっている、つまりそれらは飾りでもなければ贅沢品でもなく、呼吸のための器官なのだ。それらは室内の生あたたかさから逃がれ、少し屋外[そと]で生きることを可能にしてくれる。いってみれば、それらは二階あるいは三階に引き上げられた街路の小断片のようなものだ。そして事実、それらはほとんど一日中そこの居住者によって占められ、彼らは街頭のナポリ人が行なうことを二階あるいは三階で行なうわけだ。ある者は食べ、ある者は眠り、ある者は街頭の情景をぼんやり眺めている。そして交流[コミュニケーション]はバルコニーから街路へと直接に行なわれ、部屋に一度入り、階段を通るという必要がない。居住者は紐でむすばれた小さな籠を街路におろす。すると街頭の人々は場合に応じて籠を空にするか、満たすかし、バルコニーの男はそれをゆっくりと引(end89)き上げる。バルコニーはただ単に宙に浮いた街路なのだ。
 (89~90; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

2018/9/7, Fri.

 カーテンの際に薄く明るみの漏れる早朝五時半に、静かに目を覚ました。ふたたび目を閉ざしていると、いつの間にかといった感じで七時を迎えて、携帯のアラーム音で再度の目覚めを得た。ベッドから立ち上がり、アラームを止めて、ここでそのまま起床できれば良いのだが、やはり頭の重いような感じが僅かにあってまた寝床に戻ってしまう。そうすると浅く切れ切れの眠りながら長く臥位に留まってしまい、一一時を越え、メールの届いた振動音を機に瞼がひらいたままになった。窓は白かった。立ち上がって上階に行くと母親はクリーニング屋に出向いていて不在、冷蔵庫のなかからジャガイモのソテーと味噌汁の残りをそれぞれ取り出して温め、その二品のみで食事を取った。食後、風呂を洗って出てくるとちょうど母親が帰宅したので、玄関に運ばれた荷物を取り上げて、品々を冷蔵庫に移して行く。それから下の階に下って、一二時過ぎから前日の日記に取り掛かった。会話を書くのは難しく、なかなかすらすらというわけには行かず、骨が折れる。勿論記憶していて記すことができるのはごく一部であり、実際の順序通りに再構成するのも不可能技だが、覚えていると言っても事細かにそのまま覚えているわけでないから、受け取った意味を自分の言葉に移し替えるのに手間が掛かり、また個々の内容のあいだの脈絡を整備するのも難しい。そういうわけで一時間半を費やしても記事は終わらず、一時四〇分に至ってそろそろ出かける準備をしなければならないとキーボードから手を離した。美容院の予約が二時だったのだ。服を外着に替えて歯磨きをして、上がって行くと、母親が身体を拭いて行ったらと言う。自分ではわからないけれど近寄ると男臭いから、と言って、そんなに体臭を発しているつもりはないのだが、忠告通りにデオドラントシートで肌を拭い、そうして出発した。苔の染みついた林中の坂道を上って行くと、道のすぐ脇の草のなかからツクツクホウシの声が立つ。そこを過ぎて街道に出て、通りを渡って入店すると、先客はおらず、パートのスタッフもおらず、美容師の中年女性一人だった。これは何となく安堵する材料だった、と言うのは調子を崩してうつ病のようになっていたことをおそらく話すことになるだろうと予想していたところ、ほかの客やスタッフのいるなかではやはり話しづらいと思っていたからだ。早速明るい店内に招き入れられて、洗髪台に身体を預ける。最初の主な話題はパートの(……)さんの家の事情で、彼女の家のお爺さん、と言うのは旦那さんの父親が、もういくらか認知症で呆けていたのだが、電車と接触して病院に運ばれたと言うのだ。ICUに入っていて、意識はおそらくないようで「葬式待ち」との語が聞かれた。その老人は山のなかにある小さな祠のようなものにお参りで通っていたらしく、人もあまり通らないようなところなのですぐに見つけられて通報されたのは運が良かったと美容師は言った。そんな話を聞いてのち、鏡の前に移り、身体をカットクロスで包まれてしばらく、そうして(……)くんは元気だったと来たので、実は一月頃から調子を崩していたのだと明かした。仔細を尋ねられるのには、さほど詳しくは話さず、元々持っていたパニック障害が悪化したところから始まって、最終的にはうつ病のようになった、しかし今はもう段々回復してきたところであると説明した。(……)くんはものを良く考えて頭を良く使うから、というようなことを美容師は言った。一時間ほど髪を切られているあいだに二、三度、(……)くんは(歳のわりに)「しっかりしている」という評言を与えられたのだが、これがいまいち良くわからないもので、客観的に見て自分はしっかりしてなどいないとこちらは思う。二八にもなって親元を出ずにアルバイト身分のままで過ごして、実家にいながらさほど家事を受け持つでもなくやっていたのは読み書きばかり、挙句の果てに精神疾患を悪化させて休職中、などというのは多少なりとも情けないと言うべき現状ではないだろうか。この前夜の通話でも(……)が、こちらには能力があるのにそれが社会的に活用されていないのが勿体ない、というようなことを言っていたのだが、これも過大評価で、こちらはあまり家からも出ず大層世間知らずだし、大した能力など特に持ち合わせてはいない。唯一磨いてきた能力であるところの作文も、要はこの日記形式の文章しか書けないので、多様性のあるものではない。それでも昨年の秋にはコンサートの感想などもちょっと綴っていたし、年末頃には哲学的な考察なども日記のなかに取り入れて、わりあい「いい線行っていた」ように思えるのだが、現在はそうした契機も生まれて来ない。自分としてはこの日記ももはや大して面白い文章だとは思っておらず、欲望も希薄で、何故こうして毎日多くの時間を費やして書いているのかもよくわからないのだが、ともかく、美容師はこちらの受け答えを見て「しっかりしている」ということを繰り返し口にして、店にやって来る人々(大概中高年の女性だと思うが)などは、他人の話も聞かずに自分の好きなことを喋るだけだと毒づいた。そうした流れのなかでふたたび(……)さんが話題に登場したのだが、美容師は彼女が連日ICUに子連れで見舞っていることを取り上げて、そこにいるほかの人々も重傷の人ばかりだし、あまりそう頻繁に行く場所でもないだろうと苦言を呈してみせた。(……)さんは朝早く、子どもの学校の前などに病院を訪れており、看護師さんに毎回関係を聞かれるんですよとか、病院のあとはデニーズで外食なんですよとか話していたらしく、美容師はそれをいくらか考えなしな言だと取っているようだったが、こちらは笑って、あっけらかんとしているんですねと受けた。これは初めて知った事実なのだが、(……)さんは耳が悪いらしく、補聴器をつけてはいるのだが、それもあって仕事中にも話を半分くらいしか聞かずに適当に答えていることがあると美容師は苦笑する。五〇歳にもなってそれだと彼女は言うのだが、しかしこちらは、そうしたあっけらかんとしているところが(……)さんの良いところなんですよと不在の彼女をフォローした。ほか、ヨガをしたらどうかとか、ジムに行ったらどうかとかそういった話もあったのだが、それらに関しては詳しく語らずとも良いだろう。散髪の終盤、美容師はこちらの頭を指でぐりぐりと刺激しながら、(……)くん、前頭葉が固くなっているよと言った。頭を使いすぎているという言い分らしいが、しばらく刺激していると、若いからすぐ柔らかくなるわと頭皮を動かしてみせる。そのマッサージは遠慮がなく、力の籠ったもので少々痛いくらいだったのだが、それは口にせずになされるがままに施術を受けていた。髪を切ってもらいすっきりすると、三二五〇円を払い、礼を言って退店した。時刻は午後三時だった。何となくアイスでも食べたいなという心があって、散歩がてら、近間の、と言って歩いて一五分ほどは掛かる先のセブンイレブンまで行くことにした。何だかんだで人と接して多少笑いながら話したこともあってか、気持ちは僅かに朗らかに、ほぐれたようになっていた気がする。横から身を通過していく風は涼しさもぬるさもなくまろやかで、空には雲が多く掛かっていたが、大概は青灰色を混ぜたなかに一箇所、白が磨かれ艶めいたようになっている部分があって、あそこに太陽があるなと窺えた。道を歩きながら自らの二八という歳を思って、まだ三〇にも達していない、考えるまでもなく若いなと、それだけぽつんと心中に独りごちた瞬間があったが、薬剤のせいで性欲もなく感受の官能も失ってしまった現在、自分が若いということも実感としてあまり馴染まないようでもある。街道を進んで交差点まで来ると、蟋蟀の、硝子を擦り合わせているように摩擦の強い鳴き声が通りの脇から湧いていた。ガソリンスタンドにはジャパン・ビバレッジのトラックが停まっており、もう年嵩の店員が運転席の外で愛想良く、窓越しにドライバーとやりとりをしているところだった。コンビニに入る前にもう一度空を見上げると、先ほど見つけた太陽の痕跡はなく、雲は広く連なっているが、南のほうには洩れる白さの散在があって青みも見え、雨の心配はなさそうだった。入店すると籠を持ち、ドリンクコーナーの前に立ったが、飲むヨーグルトは普段買っているものの半分ほどのサイズの品しかなく、それで一五一円と割高だった。しかしそれを二つ籠に収め、振り返ってアイスの区画を見分し、いくつか保持してさらに、たまには両親に甘い物でも買って行こうと甘味の類も数種加えてレジに向かった。一四九二円を会計して店を出ると、また蟋蟀の音が通りに渡っていたが、すぐに車の走行音に乱された。ビニール袋を片手に提げながら歩いて行き、交差点から裏道に入る。もう夏は過ぎたが歩いていれば肌着が汗で湿って、林からはまだいくつかツクツクホウシの鳴きが飛び出ている。土塊を積み上げた敷地の前に人相の良くない人夫らが三人座りこみ、軽トラックの脇で休憩を取っている。その横を過ぎ、ほかに人のいない裏道を、緩い向かい風を浴びながら家に帰った。帰宅すると買ってきたものを冷蔵庫に収め、居間に立ったまま、ワッフルコーンのアイスクリームを食す。母親もこちらが買ってきた「雪見だいふく」を一つ食べ、こちらは貪欲に余ったもう一つも食べてしまうと自室に帰り、服を着替えて日記を綴った。時刻は四時、それから三〇分強で前日の記事が完成したが、それを投稿するとそこからこの日の分には入れず、隣室に足が向いてギターを弄りはじめた。適当に乱雑に弾いているうちに時間を費やしすぎて五時半目前になり、母親が上階に上がった気配を聞いてこちらも台所に向かった。カレーを作ろうと言う。BGMとして小沢健二『刹那』をラジカセで掛けようと思ったところが、CDが見当たらない。部屋に確認しに行っても見つからなかったので、仕方なく、"流星ビバップ"のメロディーを口笛で吹きながら野菜を切り、フライパンで炒めた。かたわら、前夜に(……)さんに貰ったオクラを茹でて、笊に上げておき、フライパンのほうは水を注いで、そこに肉を投入した。煮ているあいだに郵便を取りに行くと、夕刊と、「国境なき医師団」の活動報告と(父親がいくらか献金しているのだと思う)、(……)クリニックからの父親宛の封書が入っていた。居間に戻って夕刊の一面、北海道の続報を伝えている脇の、自民党総裁選が告示という記事だけを読み、それから台所に入って、ジャガイモを割り箸で刺してみると既に柔らかく割れる。それでカレールーを投入し、お玉を揺らして湯に溶かし、母親がスパイス類を振ったあとから牛乳を加えて完成とした。隣のコンロではオクラの肉巻きが四つ焼かれており、母親はあとでこのうちの一つを隣家に持っていったようだった。時刻は六時ちょうどだった。それから自室に下りてきてふたたび日記に取り掛かり、一時間半以上を掛けて記述を現在時まで連ねて行った。大した文を書くでもなく、ただ時間だけが本当に抵抗なく、するすると過ぎ去ってしまう。そうして食事に向かった。カレーを火に掛け、イカフライとオクラの肉巻きの乗った皿をレンジで温め、マカロニのサラダや豆モヤシが母親の手によって一皿に収められる。品をそれぞれ運んで椅子に就くと、サラダから口をつけはじめた。まもなく八時を迎えてテレビは『ぴったんこカン・カン』を流しはじめて、画面のなかでは米倉涼子がスペインの一家に滞在し、四か月間勉強したというスペイン語を、短い期間のわりに巧みに話していたが、特段の興味はない。料理を平らげて食器を片付けると風呂に行き、湯をくぐって出てくると冷凍庫から「クーリッシュ」(ベルギーチョコレート味)を掴み出して自室に下り、(……)さんのブログを読みながらアイスを吸った。それから、久しぶりに緑茶を飲む気になった。上階に行き、台所の頭上の戸棚から急須と湯呑みを取り出して、まず一杯注ぎ、さらに急須に湯を入れておいて部屋に持って行くと、二杯半分の茶で一服しながらインターネットを閲覧した。以前は緑茶を飲むと、おそらくカフェインの作用で覿面に心身が強張り、すぐに強い尿意も覚えたものだったが、パニック障害の症状が消えた今、不思議なことにそうした影響も感じられなかった。九時過ぎからサルトルの書簡集を読みはじめたが、書見のかたわらにも茶が欲しくなっておかわりを注ぎに階を上がった。母親が入浴に行っているなか点けっぱなしにされた居間のテレビは、地震に襲われた北海道からの中継をしていて、街路灯も家の灯も消えた真っ暗な住宅街をレポーターが示してみせた。あちらに明かりがあるのが見えますでしょうかと指されたその先は、緊急停止した苫東厚真発電所だといい、そこから目と鼻の先の区画でもまだ停電が続いているということだった。テレビに目を向けながら茶を用意していると、帰宅した父親が居間に入ってきたので、おかえりと顔を合わせた。そうして下階に戻り、茶で腹を水っぽく膨れさせながら読書をしていたのだが、ちょうど一〇時に掛かる頃、唐突に歌が歌いたいような心が起こって、本を置き去りにしてSuchmos "YMM"を流した。さらに"GAGA"、"Alright"と歌うと小沢健二に移って、"流星ビバップ"、"痛快ウキウキ通り"、"さよならなんて云えないよ(美しさ)"、"大人になれば"、"ローラースケート・パーク"と流していき、最後にキリンジの三曲、"グッデイ・グッバイ"、"エイリアンズ"、"あの世で罰を受けるほど"と歌って、長々とした一人歌唱大会は終わりを告げた。一時間ほどが経っており、一一時からふたたび読書に戻った。サルトルボーヴォワールに宛てた手紙は必ず「ぼくの可愛いカストール」で始め、律儀にも毎回何らかの直截な睦言を記している。一九三九年の最初から順にいくつか拾ってみると、次の通りである。

「あなたにさよならを言えなかったことがとても心残りだよ、ぼくのいとしい人」
「情熱的に愛しているよ」
「あなたをこの腕の中に抱きしめたい」
「ぼくのすてきなカストール、ものすごく好きだよ」
「あなたに会いたくて仕方がないよ、頑固屋さん」
「あなたのそばに行きたくてたまらない」
「あなたから離れて本当に淋しいよ、ぼくのいとしい花」
「ものすごく愛してるよ、ぼくのすてきなカストール。あなたに再会し、あなたと一緒に楽しみたくてたまらない。あなたは少しも抽象的になど思われない」

 一方で一九三九年夏のこの時期、サルトルはルイーズ・ヴェドゥリーヌというボーヴォワールの友人とも恋愛関係を始め、手紙の書き出しでこちらには「ぼくの恋人」と呼びかけながら、やはり律儀に毎度、同じような愛の言葉を送っている。以下のようなものである。

「ものすごく会いたいよ、恋人さん。きみのベッドのわきに坐り、きみの暖かい小さな手をとって、きみの優しいほほえみの一つを目にしたいな」
「全力をこめて愛している」
「ぼくだってきみのそばに、ベッドの端に腰をおろして、きみの髪の毛を愛撫したくてたまらないんだ」
「いつでもきみのことを考えていて、きみによって自分を癒やしている」
「全力をこめて接吻する。熱烈に愛しているよ」
「ぼくの恋人さん、どんなにぼくがきみのことを愛しているか、どんなに激しくきみに愛着をいだいているか、せめてきみに感じてもらえたらいいのに」

 そのすぐあとの時期には前々から交流のあったターニャという女性と一緒に旅行に出ており、彼女と寝たなどということをボーヴォワールに報告している(サルトルは彼女の処女を奪ったらしく、「こんな汚ない仕事」などという語を使っている)。ターニャとの関係は、ボーヴォワールやルイーズとのあいだにあるような穏やかなものではなかったようで、罵り合いの修羅場のような場面も彼は手紙に綴ってボーヴォワールに知らせていたが、いずれにせよ多情な男なのだ。書見は午前二時まで続けられた。その間、(……)さんから送られてきた手紙二通のことを思い出してそれを読み返したり、コンピューター前に立って自分の最近の日記を読み返したりもした。日記はそこそこ悪くないのかもしれない、思ったよりも頑張って書けているのかもしれないとちょっと思われた。この日も睡眠薬を服用せず、本を閉じるとすぐに消灯して布団に入ったが、例によって眠気はまったく感じられなかった。ヨガで言うところの「死者のポーズ」、あるいは自律訓練法のポーズのように、腕を身体の両側にだらりと伸ばして力を抜いた姿勢でじっとしながら夕食時以降の記憶を追いかけて行った。それが終わると姿勢を崩して横を向いたりもしたが、外から重なり合って響く虫の音は、その重奏のなかにほとんど新たな動きは導入されず単調に繰り返されるのみで、片耳でそれを聞いているとちょっと催眠的なようにも思えたものの、眠りはやはり遠かった。寝返りを繰り返しているうちに一度時計を見て、三時過ぎに至っていたのは覚えている。それからどれくらいで眠りに就いたのかは定かでない。

2018/9/6, Thu.

 七時のアラームで覚めて、携帯を取ったあと布団に戻ったが、このあたりのことはもはや記憶が曖昧で蘇ってこない。一〇時頃から寝床で蠢きだしたが、瞼がひらいたままになる最終的な起床は一一時を待った。寝そべっているあいだ、太陽の光が胸の上に置かれて熱く、ひらいていたカーテンをふたたび閉ざしていた。起きた頃にはツクツクホウシが一匹、窓の外で鳴きを上げていた。起き上がると、ステテコパンツを履いて上階に行く。母親は皮膚科に出かけていた。手指にウイルス性の出来物のようなものができ、それを窒素によって焼き切る治療をしているのだ。洗面所に入って顔を洗い、調理台の前でチョココロネやカキフライやらを用意していると、腹が排泄を訴えたので便所に行った。このタイミングで便意を催し、排便する際にも尻の穴にひりひりするような刺激があったのは、おそらく前夜に食べた獅子唐のためだろう。戻ってくると食事を卓に運んで新聞をめくりながら食べ、薬剤やサプリメントの類を摂取したあと食器を洗った。そうして風呂場に行き、浴槽を擦りながらこの朝の睡眠時間を計算して、八時間も九時間も床にいるのはやはり眠り過ぎでもう少し早く起きねばならないと考えた。浴室を出ると台所で立ったまま、前日に「ぎょうざの満洲」で買った杏仁豆腐プリンを食し、そうして自室に下りて行った。正午を回ったところから日記を書きはじめ、一時半を迎える前には記述はここまでに至っている。文を綴っているあいだにTwitterを覗くと、北海道で震度六の地震があったという報に出くわして、大阪の地震から西日本豪雨、つい前々日の台風二一号にまた大きな地震と、よくもこう次から次へと自然災害が起こるものだなと思った。日記に区切りが付くと、そのまま間髪入れずに岡田睦『明日なき身』の書抜きを行った。二箇所を写し、それから久しぶりに過去の日記の読み返しをした。二〇一七年と二〇一六年の九月六日の記事である。昨年というのは、今のようにあるいは二〇一六年のように起床から就床まで自分の行動を追って行くという形式の記述を一旦取りやめていた時期であり、この日は私的な思考の類を綴っているのだが、この頃に比べて長く論理を繋げた内省がどうもできなくなった、何かに触発されて思考が生まれるということがあまりなくなってしまったというのが病後の一つの変化である。またこの日には、瞑想に相当集中できたようで、体感では一五分ほど座っているように感じられたところが、目をひらいてみると実際には一〇分しか経っていなかった、とも記されているのだが、こうした研ぎ澄まされた精神の集中、これを今の自分は失ってしまった。過去には耳鳴りを招きそうになるくらいの静謐な集中力を瞑想の際に発揮していたこともあり、そうした集中性はものを感じ考えるにあたっての基盤になっていたと思うのだが、現在の自分の精神というのは、安定していると言えば聞こえは良いが波がなく、一日のどの時点でも感触が変わらず、弛緩してはいないまでも平板である。とにかく差異=ニュアンスを感じる力が衰退したとともに、応じて自分の精神内にも差異=ニュアンスの起伏が生じなくなったというのが、病後の状態の最も主要な特徴だろう。一月から三月頃に掛けて自分は統合失調症様の症状を呈していたわけだが、あれが本当に統合失調症になりかけていたのだとすると、自分の世界からの差異=ニュアンスの消失はそれによって起こった認知機能の低下なのかもしれないし、あるいはその後に現れてきたうつ症状の後遺症なのかもしれないし、あるいは離人症/現実感喪失症候群の軽いものなのかもしれない。精神疾患とは厄介なもので、確かな解答は知れないし、医者にも誰にもわからない。ただ病前と病後で自分が変質し、自分の内から何かが欠けてしまったかのように感じられるのは確かである。そうしたことはともかく、日記の読み返しを終えると二時を回っていたので上階に行った。肌着を畳んでからアイロンのスイッチを入れると、機械が温まるのを待つあいだに屈伸をして、台所で飲むヨーグルトを一杯飲む(この一杯で最後だった)。それからシャツやハンカチにアイロン掛けをして、エディ・バウアーのシャツを持って自室に戻り、収納のなかに掛けておくと、運動をする気持ちが起こっていた。Keith Jarrett Trio『Tribute』を流して下半身をほぐしはじめ、その後は腹筋運動を六〇回、さらに休み休み腕立て伏せを行って、すると三時を迎えた。午前の晴れ空から一転して外は曇っており、空気はくすんだ色合いに落ちこんで、薄灰色の雲に雨の気配すら感じさせるようだった。「(……)」を読んだあとは、音楽を消してサルトルの書簡集を読みはじめた。ベッドに寝転がったまま読書を進め、五時のチャイムが鳴ってまもなく、インターフォンの鳴る音がした。急いで上がって行き、受話器を取ると、行商の八百屋をしている(……)さんである。玄関に出ていき、すいませんと声を掛け、今、下で草取りをしててと母親の所在を告げると、じゃあいいかと相手は言うので、もう一度すいませんと言って引き取った。わざわざどうもね、と言って(……)さんはトラックのエンジンを掛け、去って行った。こちらは自室に戻って、手帳に読書の時間をメモしておくと、台所に入って米を三合研ぎ、炊飯器にセットするとすぐさま炊きはじめた。飯の用意を急ぐのは、この日は八時から(……)や(……)らとSkypeで通話する約束になっていたからだ。それから茄子を五本切って、フライパンで炒める。たびたびフライパンを振ってかき混ぜながら火が通るのを待ち、醤油で味付けを済ませると、今度は小鍋を火に掛け、粉の出汁を水に振っておいてから玉ねぎを切った。味噌汁の支度である。玉ねぎを投入すると卵を一個、椀に溶いておき、夕刊を取りに玄関を出た。一面は全面北海道の地震に当てられており、センセーショナルな事件を伝える際の、太く真っ黒な帯に白抜きの見出しが用いられていた。室内に入ると玉ねぎが柔らかくなるのを待ちながら、卓に就いてその一面を読んだ。厚真町というところで土砂崩れが起こり、くすんだ色の森が広範囲に渡って滑り落ちて山裾の住宅を巻き込み、チョコレートのような色の山肌が露出している写真が載せられていた。道内最大の苫東厚真火力発電所が緊急停止し、北海道の全域二九五万戸が停電したというから凄まじい。記事を読み終えて台所に戻ると、玉ねぎは具合良く煮えていたので火を弱めて味噌を溶き、そのあとから溶き卵も垂らして加えた。それで支度は終いとし、風呂のスイッチを付けて階段を下ると、草取りを終えた母親が疲れたと言いながら途中に座っている。何かやってくれたのと問うのに、茄子と味噌汁と答えて横を通り抜け、自室に入るとすぐさま日記を綴りはじめた。現在時まで記述を繋げる頃には六時半前を迎えた。それから「北海道地震、最大震度7で死者7人 阪神上回る295万戸停電で経済活動に大きな打撃」の記事を読んで、早々と食事を取りに上階に行った。こちらが作ったものに加えて魚を煮たと母親は言った。煮るというよりはソテーのようになったその魚料理に、米に茄子、味噌汁にサラダをそれぞれよそって卓に移った。食べはじめてまもなく、インターフォンが鳴って、出て行った母親が大きな声で話しているのを窺うところでは、隣家の(……)さんらしかった。しばらく話してから戻ってきた母親は、オクラを貰った、こんなに大きいのと言って、台所でそれを差し上げてみせた。テレビはニュースを映しており、話題は勿論、北海道地震の被害の様子である。水の配給に並ぶ人々や避難所の人々の姿が映され、卓に移動した母親は、大変だね、と漏らし、電気が使えないなんて、どんな生活かと思うねと続けた。茄子や魚とともに白米を咀嚼し、サラダを食ってから最後に味噌汁を飲んで食事を平らげると、薬を飲み、入浴に行った。早々に上がって時刻は七時半頃、自室に戻ると約束の八時まで前日の夕刊を読んだ。そうして時間が間近になってSkypeにログインし、八時ちょうどになると携帯が震えて五分だけ待ってくれと(……)から届く。それから自分の今日の記憶を探ったり、日記に僅かに文章を書き足したりして、五分ばかりでなくしばらく待ったのだが相手がログインする気配がないので、メールを送ると、IDを教えてくれと返ってくる。それでこちらのIDを伝えるとコンタクトがあって無事に繋げることができ、まもなく(……)と(……)のいるグループにも呼ばれて通話が始まった。初めのうちは部屋が暑いとか、(……)は涼しそうだとか、背景に蟋蟀が聞こえて風流だとか些末な話をしていたのだが、そのうちにこちらの容態に話題が移って、一月以降の症状の変遷を話した。言葉が高速で脳内を渦巻き流れて行くのに不安を覚えたというところから始まって、一月から三月頃までは統合失調症に近く、思ってもいないことが頭に浮かんでくる自生思考の症状があったが、三月の末頃から欲望の希薄化が始まり、そこからうつ症状が始まった、それが最も重かったのが五月から七月に掛けてだが、七月末に読書ができるようになって以来、うつ症状からもだいぶ回復して今に至る、というわけである。(……)の兄は統合失調症患者なのだが、お兄さんには自生思考はあったのかと尋ねると、陽性症状が出ている時期にはやはり話すことがまとまらないような状態になったらしかった(しかしこちらの経験した症状は、「話すことや思考がまとまらない」ということとは少し違う気がする)。そこから(……)の兄の話も混ざるようになり、彼の容態の経過が語られた。曰く、二年ほど前に幻聴に命令されて部屋から飛び降り、その際に統合失調症専門医の元に入院してから状況が上向いた。同じ病気に苦しむ人々が自分以外にも数多くいるというのが気持ちを楽にさせる発見だったらしく、病院から紹介されて患者の集まりのような場所に顔を出すようになった。一方で精神保健福祉手帳を取得し、障害年金を得ることで金銭上の心配は解消させ、今は職業訓練所に週五で通って、病気だということをオープンにしながら就職することを目指しているとのことだった。以前に比べると兄の状態は安定しており、楽しそうにしていると言う。そうした兄の体験を踏まえて(……)は、こちらにも社会的な繋がりのようなものがあったほうが治って行くと思うよと言った。一方で(……)も同様に考えているらしく、こちらに、今長期的にやらなければならないことや行かなければならない場所などはあるかと尋ねてみせた。要は労働などの社会的な義務のことだろうと捉えて、それはない、そこからは解放されていると答えたが、やはりそうした社会や外部の他人との関わりがあったほうが良いという話だったのだろう。義務とは少々異なるが、日記を書くということはあるけれどと言うと、それは公開しているのかというようなことを訊くので、ブログをやっていると答えると、そこに他人の声は届くのかなどと(……)は言う。Youtuberの例を挙げて、彼らはあれで飯を食っているわけだが、その際に視聴者の声が経済的にも精神的にも大きな支えになっている、言わばそれで呼吸をすることができていると述べるのに、こちらは、自分はしかしそうしたものがなくても書いていけるタイプだからなと応じ、何かに繋がれば良いけどねとの言には、何かに繋がるなら繋がるで悪いことではないが、そうでなくても別に良く、こちらは積極的にそれを求めていこうとは思わないと述べたが、これはあるいは意固地なように映ったかもしれない。その「悪くない」ということが大事なのだと(……)が言って、話の意味合いは少々ずれるが、五感をひらいて日常のなかに「悪くない」瞬間を探して行ってほしいという風に言ったのは、感受性が働かないというこちらの症状を踏まえてのことだろうが、話を俗っぽく均してしまえば要は「小さな幸せ」のようなものを生活のなかに発見していくことが生を豊かにするというようなことではないのだろうか。芸術的な瞬間と言い換えても良いが、自分はかつては確かにそうした五感を駆動させる瞬間のことを知っており、それをわりと頻繁に感じてもおり、本を読んで書抜きしたいと思う箇所に遭遇するのと同様に、道を歩いていればあたかも言葉でそれを採集するがごとく日記に記述したいと思う瞬間に日々出会っていたものだった。書物に記された言葉の意味と、世界のなかに無数に浮遊している意味=ニュアンスとは、自分にとってはほとんど同水準にあるもので、言わば自分はこの世界そのものを世界で最も豊かなテクストとして、あるいは芸術作品として読んでいたのだが、そのように感じられていた感性こそがなくなってしまった、というのが今の自分の状況なのだ。そしてそれはおそらくは心理的な要因に帰せられるものというよりは、純粋に物質的な要因によるもので、要はどういうわけか脳が変質して、ドーパミンだかノルアドレナリンだかわからないが、ある種の脳内物質が分泌されなくなったのだろうとこちらは踏んでいる(この推測は、瞑想をしても変性意識に入れなくなったという状況とも符合する)。それにはもしかすると、医者で処方されている抗精神病薬の効果も関連しているのかもしれない、何しろ精神の薬はまさしくその脳内物質の伝達を調整するものなのだから。有り体に言って、抗精神病薬の服用をやめればまたかつてのような感性が戻ってきてくれはしないかとも考えるのだが、それはわからないし、差し当たりは医師の処方に従って薬を飲み続けるつもりではいる。話が逸れたが、この夜の友人たちとの会話に戻ると、諸々話している時に(……)が突然、自分でもその唐突さに言及しながら、もう皆でアイマスの曲でもやれば良いんじゃないかと思ったねと言い出した。「アイマス」というのは『THE IDOLM@STER』というゲーム及びアニメのことで、(……)はわりとそちら方面の趣味を持っている人間なのだ。その(……)の発言に対して、それまで黙りがちだった(……)が軽く乗って、(……)も明るく応じたのだが、こちらとしてはギターをまた練習したり、スタジオに入って演奏を合わせたりということはいささか面倒に思われたので、気乗りはしなかった。病前はアコースティックギターで弾き語りをしたいなとか、ブルースでもやりたいなとちょっと思うことはあったが、そうした音楽をやりたいという気持ちも現状薄れている。しかし黙っているこちらを置いて、三人が具体的に話を進めようとするのには、疎外感と言うほどでもないが、モニターの向こうとの温度差を感じるのが事実だった。こうした音楽をやろうなどという提案は、こちらの生活に外部から新たな刺激を取り入れようというか、括って言えば、自分の世界に閉じこもってばかりいないで、「他者」との関わりの機会を持ち、それによってできれば感性の駆動を狙っていこうとの誘いだと受け取れて、こちらにはままならない存在である「他者」との交流が重要だという点には自分も同意するのだが、しかしこちらの症状がそれで改善するかどうかは未知数であり、スタジオ入りの一点に関して言えば気が向かないのが実際のところだった。(……)はのちになってまた唐突に、カラオケに行きたいとも口にした。こちらはそれを受けて、会話の終盤、何か言っておきたいことはあるかと問われた際に、スタジオ入りはどうかなと思うが、カラオケに行くくらいだったら練習もいらないし良いかなというくらいの気分でいると述べたところ、そのくらいから始めて行くかと話がまとまった。具体的な日取りに関しては、(……)と(……)は元々九月一七日に映画を見に行く用があったらしく、その日で良いのではとなった。場所は川崎で、(……)からはだいぶ遠いのがネックではあるが、立川から南武線で一本ではあるし、たまには遠出もしてみるものだろう。何の映画を見るのかと尋ねても、笑いばかりで判然とした答えが返って来ず、タイトルは明言されなかったが、アニメだということ、そして(……)が漏らした「ユーフォ」の語を聞くに、『響け!ユーフォニアム』の劇場版なのだろう(このアニメ作品のタイトルは、古谷利裕が放送当時、「偽日記」で「神作品」だと興奮した様子で言及していたのでこちらも知っている)。テレビ版放送を見ていないと話がわからないのではとの懸念も提出されたが、何も知らないで見るのもそれはそれで面白そうだとのことで、こちらも映画から参加するという雰囲気になった。放映時間はまだ詳細が出ていないらしく、集まりの正確な時間は(……)がそれを確認してから、とのことになった。それで通話は終わり、おやすみ、ありがとうと言い合ってSkypeからログアウトしたのだが、連絡のためにLINEをインストールしてほしいという話が出ていた。こちらの携帯はスマートフォンではなくてガラケーなのだが、PC版LINEというものがあるというので、それをインストールして電話番号で登録し、早速登録したとの報告を(……)に送っておいた。そうすると時刻は零時が間近になっていた。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』の読書を始め、一時間ほど読んで一時が目前になったところで本を閉じ、瞑想を始めた。この時、変性意識には相変わらず入れないのだが、うまい具合に身体の力が抜けた感じになり、二〇分ほどの瞑想を終えたあと布団に入って同様に身体を緩いようにしていると、睡眠薬を飲まなかったがさほど苦労せずに入眠できたようだ。



岡田睦『明日なき身』講談社文芸文庫、二〇一七年

 (……)早速、便所の裏に行ってみた。この下に下水道がある。丸くて分厚いコンクリートの蓋がふたつあって、手前のが浮いているように見える。これが下の便所ので、もう一枚が上。この上のが水が出なくなった。ずいぶん前だが、この上の便所の水が止まり、これも水道工事店の人に来てもらった。応急措置でもしたのか、水が出るようになったが、こんど、水が出なくなったら、全部取り替えるようですね。黙然と聞いているきりだった。これだって、水洗便所一式買い、取り付けの手間賃払える金などあるはずがない。で、使用しなくなった。一階の蓋の傍に行ってみると、糞と小便とトイレットペーパーで押し上げられているのがわかった。カーキ色の臭い液体がまわりに溢れている。自分でなんとかするほかない。着たなりのまま、把手の付いた蓋を取り除け、スウェーターの右手を腕まくりして、黄色い物を摑み上げた。糞小便とトイレットペーパーが溶け合って、摑みにくくなっている。右手で掬うように搔き出すのだが、躰までが凍て付くような冷めたさだった。こ(end64)こは石塀と家屋のあいだにある細長い所で、搔き出した異物をあたりかまわず放るように捨てた。それが、いくらやっても黄色くてひどく臭い物はあとからあとから現れる。この糞尿物の始末、別のやり方はないかと思案した。やってみるに価する方策がうかんだ。右腕はもう痺れたような感じになって、しかも汚れている。風呂場の洗面所へ行って、キレイキレイという薬用の液体石鹸で丹念に洗った。水道の水のほうが、まだ冷めたくなかった。そこから、ガレーヂの跡の簡易物置に行き、スコップを持ち出した。門扉からはいった所に、下水溝がある。そこにも蓋があるが、下水道のよりひとまわりもふたまわりも大きく、厚さ五センチほどか、マンホールのような、これも丸くて重い物だ。それを、スコップの先を梃子にしてこじあけることを考えついたのだ。門扉から物置までコンクリートが打ってあり、その蓋との隙間にスコップの先を挿し入れ、すこしずつまた挿し入れては持ち上げた。かなり蓋があいたので、スコップをそのままにして、そのマンホールの如き重い円形物に両手をかけて取り除いた。蓋の裏に、見たこともない白くて小さい虫がびっしり犇[ひし]めいていた。目下は、そんな虫けらどもにぞく、としてはいられない。見ると、下水溝の縦の丸い孔があり、それへ落ちる下水道の横の穴が汚物でぎっちり詰まっていた。また思いついたのは、これも物置にあるが、今では使っていない家庭用のゴミ焼却炉の火搔棒だった。そいつを持って来て、糞小便と紙の"三位一体"をちょっと搔き出したら、(end64)黄色の汚物が下痢便のように落下した。すぐにまた手を洗わなくちゃと思いながら、異臭に包まれて立ちつくしていた。
 (63~65)

     *

 二日二た晩、原稿書くボールペンも擲[なげう]ち、ただ寝ていた。餓えは痛い。胃を中心に苦痛が広がり、全身ちくちく痙攣する。三日目、本棚の隅の小ぶりなバッグをふらふらあけ(end137)た。この上にゴミを被せてある。ずいぶん前、いつだったか、ドアの鍵をなくしてしまった。一度、女家主に出て行けといわれている。鍵紛失しましたなどいったら、本当に追い出される。この中に、NTT、東電に支払う現金入れてある。誰がはいって来るかわからない。だが、この劣化した部屋に、これまで侵入した者は一人もいない。その形跡すら窺えない。摑み出して、出かけた。行きつけの"コンビニ"がある。これを喰おうと思っていた物を買った。まるで、餓鬼だ。トリの唐揚げ。そこの赤いベンチで、一と口齧って啖らおうとした。噛み切れない。喰うのにも、体力が要るのを痛感した。寝たきり、痴呆、末期ガン患者等々、流動食とか胃にカテーテルの穴をあけるとか点滴になる。人の手を借りる。厭だ。トリ肉に前歯を立て、全力を込めた。一と切れ、口中にはいった。入念に咀嚼した。呑み込んだ。ネコ舌というのか、なんでも冷めたいのが好みで、店にある"チン"を頼まないから、肉がとても固い。
 (137~138)

2018/9/5, Wed.

 睡眠薬を飲まなかったためにうまく寝付けず、早朝から覚醒があった。七時を迎えるとテーブルの上の携帯が鳴り、応じて布団から抜け出して機械を手に取る。立ち上がったまま伸びをして、そのまま起床しようと思えばできそうだったが、やはりもう少し休みたいと怠け心が働いて寝床に戻った。起床は一〇時頃になった。これでも遅いが正午まで寝ていたここ最近に比べれば進歩だろう。台風が過ぎて外は晴れ空、ひらいたカーテンのあいだから陽射しが身体に乗って暑く、市内放送で高温注意情報が発表されたと伝えられた。起き上がって上階に行くと、卓の端に就いた母親は、タブレットを使ってまたメルカリを閲覧しているようだった。顔を洗い、冷蔵庫から豚汁の鍋を取り出して、一杯椀に盛ったのを電子レンジで温める。腹が減っているという感じがなかったので、ほか、ゆで卵を一つだけで朝食は済ませることにした。食べていると母親が梨を剝いてくれたのでそれもいただき、薬剤やサプリメントを摂取しておいて食器を片付け、すぐに風呂を洗った。そうして下階に下りるとコンピューターを前に、またしばらくサプリメントの情報などを求めて余計なインターネット徘徊をしたのだが、これはほとんど無駄な時間だったと言うべきだろう。サプリメントなどというものは、結局はプラシーボ効果も含めて自分の体感がすべてなのだから、無闇に他人の体験談など求めても仕方なく、ともかくも飲んでみて自分に何らかの変化があるかどうかというところに尽きるだろう。それで余計なことだとスレの閲覧を打ち切り、一一時半過ぎから日記を書き出した。つい前夜のことなのに記憶が希薄で、書きつける言葉もやはり以前のようにすらすらとは出てこない。ともかくも現在時まで綴ると、今は一二時二〇分前を迎えている。それからまたインターネットを少々回ってから上階に行った。寿司を作ったと母親が言うのを台所に見てみれば、稲荷寿司である。特段腹は減っていなかったが食べるかという気になり、いくつも並んだうちから二つを取り分け、ほかに豚汁の残りと小皿に入ったサラダを持って卓に就いた。二個でいいの、と母親は聞き、自分も二個と思っていたら、もう一つ食べてしまったと話す。テレビはNHK連続テレビ小説の再放送を流していたが、こちらに特段の興味はないのでそちらには目を向けず、ものを食べていると、またメルカリを見ていたらしい母親がこれはどう、と言って画面を見せてくる。ガラス製の器で、酒を飲む父親にどうかとのことで、一〇〇〇円だと言うから一〇〇〇円は安いとこちらは受けた。飲むヨーグルトを一杯飲んで食事を終えるとすぐに皿を洗い、下階に戻ってきた。そうして新聞記事の書抜きに入る。米国の利上げによって新興国から資金が流出するということの細かな仕組みがわからず、インターネットで検索をした。経済は苦手分野である。出てきた記事を二つ読んでみてもまだよくわからなかったが、ひとまずペソなどを売ってドルを買う動きが進んだということで良いらしいと落とした。それから新聞の書抜きに戻り、ミャンマーリビアの記事から情報を写しておくとちょうど二時頃、上階に行くと母親が洗濯物を取りこみはじめていた。床に乱雑に置かれたタオルを取り上げ、ソファの背もたれの上に一つ一つ畳んで行く。そうしているあいだ、肌着のシャツやパンツがもう古くなっているから新しいものが欲しいという話が出て、東急にでも買いに行こうか、図書館に行くついでにとこちらは漏らした。元々図書館は七日の金曜日、美容院のあとに行くつもりだったが、天気も良くなったことだし別に今日出かけたって構わない。すると母親も図書館に返却する本があるらしく、行こうかと言って、出かけることに話がまとまった。しかしユニクロの方が安いだろうと言うと、じゃあユニクロに行こうと目的地が固まり、それからこちらはアイロン掛けを行った。自分の麻素材の白いシャツにハンカチを処理し、終えると自室に戻ってすぐに着替えた。上はエディ・バウアーの爽やかそうな、水色を基調にしたチェックのシャツ、下は柄物が上下で被るのを避けて、雲の混ざった淡い空のような色の無地のジーンズを履いた。それから本と手帳をバッグに入れて帽子を被って階を上がると、赤い靴下を履き、南の窓に寄って外を眺めた。陽射しに照りつけるという感じはなく、植物の上に薄めに乗っており、乗られた葉は乾いて褪せたような風合いで、そのあいだを小さな白っぽい蝶が何匹か飛び交っていた。背後の階段を母親が上がってくる。たくさんの雑誌や本を渡されてそれを袋に入れると、母親はベランダに余っていた洗濯物を取りこんだので、こちらはタオルを追加で一つ畳んだ。それからこまごまとした外出の支度を待って、出発するべく玄関を抜けた。道の先から体操着姿の中学生が帰ってくるところで、林のなかではツクツクホウシの声が泡立っていた。車に乗って、子どもたちのあいだを通り抜けて行く。陽射しは柔らかな感じで、車内の熱気もすぐに散り、夏の盛り、酷暑は既に終わって残暑の感が滲む。母親は運転しながら口が良く動き、(……)さんがどうの、(……)さんという「(……)」のレジをしているお婆さんがどうの、職場での出来事がどうのと語り続け、こちらはそれを聞くともなしに聞いていた。昨日には、豚汁がとても美味かったと父親が言っていたと言う。それで二杯食べ、母親もおいしく食べたらしいが、こちらとしてはあまりはっきりしない味だと思っていた。東急のビルに上って行き、五階の駐車場に停車する。母親の本や雑誌の入った袋も持って降り、フロア内に入って彼女と別れた。母親は東急のなかで腕時計のベルトを変えてもらうという用事があり、それでこちらは図書館に先んじるのだった(しかしこの用事は、革の仕入れがないとのことで結局果たせなかった)。五階の連絡通路を通りながら眼下に駅舎や円型歩廊を見下ろすが、高所に怯む時の不安な感じがなく、パニック障害あるいは不安障害の症状は不思議なことに本当になくなってしまったのだなと思った。しかし不安がある代わりに精神が鋭敏だったほうがまだしも良かったと、そんなことを考えながらエレベーターで下り、入館した。カウンターに寄って職員に挨拶し、多いんですけど、すいませんと言いながら本を返却する。それからCDのコーナーに入ってジャズの欄をちょっと見たが、新たに借りるべきものはなさそうだったので離れて階を上った。新着図書を確認し、それから国際政治の書架を眺める。借りる本には目当てがあって、みすず書房から出ているカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』というのがそれで、以前に新着の棚に見かけて以来、何となく印象に残っていたのだった。ヘイトスピーチ以下の短絡的な罵言がインターネット上に蔓延して止まない現代、こうした本を読んでみるのも大事ではないかというわけで、棚から発見したこの著作を保持し、それから日本文学の区画に移動した。中原昌也『知的生き方教室』も何となく印象に残っていてこれを借りようかとぼんやり頭にあったのだが、実際に手にしてめくってみるとその気があまり起こらなかったので棚に戻し、それから列を移動して、金子薫の著作を取った。『双子は驢馬に跨がって』と、『鳥打ちも夜更けには』の二作である。先日読んだこの作家の『アルタッドに捧ぐ』は面白かったのかどうか判然としないが、何となく、ほかの作を読んでみたいような気がするのだった。先のものと合わせて三冊を持って、機械で貸出手続きをした。それから哲学の区画に行って棚をちょっと眺め、近くに並んでいた白洲正子全集なども一つ二つ手に取ってめくってみる(結構面白そうだった)。母親がやってくるのを待たなければならないわけだが、ここにいればすぐに気づくだろうというわけで、書棚の横に設けられた座席の一つ、貸出機や新着図書の棚に間近のそこに腰を下ろして、手帳にメモを取って行く。そのうちに母親は来て、目算通りこちらの姿に気づいた。彼女が本を見て回っているのを待ちながら記憶をメモに移し替え続け、母親の貸出手続きが終わったところで行こうかと席を立った。階段口に入ると、隣の敷地に立った樹の葉が横に薙がれているのが見え、すごい風だねと母親は言った。退館したところで、カキフライを買って行こうかと母親が提案したので、エレベーターの方ではなく、左手、東急のほうへと歩廊を渡り、ビルのなかに入ると母親は、パンを買いたいからカキフライを買っておいてと言うので了承し、惣菜屋の列に並んだ。番が来るとカキフライを九個お願いしますと注文し、一一六六円を支払って袋を受け取った(一個一三〇円ほど)。そうしてフロアを戻り、パン屋から出てきた母親と合流して、エスカレーターに乗って五階まで戻った。乗車して出発、餃子も買って行こうかとの話が出ていた。お前が買ってくれる、と頼まれたので了承し、「ぎょうざの満洲」の前に着くと降車して入店し、冷蔵庫から二〇個入りの袋を二つ、さらに三つセットの杏仁豆腐も加えて取って、会計は一一八八円だった。車に戻るとユニクロに向かうわけだが、母親がメルカリで手続きを進めている途中で、コメントに字の間違いがないか見てくれと言ってスマートフォンを渡された。品はこの昼に母親がどうかと言っていたガラス製の器である。一〇〇〇円だったところを、母親の願いを受けて相手は九〇〇円に引いてくれるらしい。移動のあいだ、そのままこちらが母親の代わりに購入まで進めて、その後に車は路肩に停まって、返したスマートフォンを母親が確認する。ちょっと草原[くさはら]のようになったところの横で、カネタタキの声が背の低い草の合間から聞こえ、目前には一本の樹を囲むようにして紫陽花の、既に枯れて生気を失った花の群れがある。高度の下がった太陽から送られる陽射しが顔の側面に暑かった。その太陽の横の空には雲が湧いていて、それは立体的な形を作っていながらも、西陽の光がその前を通っているせいだろう、空に染み込んでそのまま平面に形を写し取られたかのように希薄でもあるのだった。再度出発し、しばらく移動して、ユニクロの前にその斜向かいにある「ジェーソン」というスーパーに寄った。ジュースなどが随分と安く売っているという話だった。こちらは籠を乗せたカートを押し、サイダーやコーラなどの飲み物を加えたほかは、黙々と母親のあとについて回り、品物を籠に受け入れて行った。会計を済ませると母親はどこかに行ってしまい、こちらは一人、狭い整理台で品々を袋二つに収めていった。そうして見回すと、離れたところにいる母親は何か追加でものを買うらしかったので、こちらは袋を二つにティッシュペーパーとキッチンペーパーを抱えてカートを引き、店の前に返却しておくと車まで行って待機した。しばらくして母親が戻ってくると荷物を車内に入れ、そうして斜向かいのユニクロに移動した。入店し、フロアの奥まで進んでいって籠を取り、まず靴下を見分して、臙脂色のものと深い青のもの、あとは模様の入ったハーフサイズのものを保持した。そのほかトランクスを二枚取り、肌着のシャツは黒の三枚入りセット、VネックMサイズのものを買うことにして籠に収め、それで目当ての品々は押さえた。その後、店内をぶらりと回って見分してみたが、シャツも羽織りも今十分に持っていて不足はないし、購買意欲を刺激されるものは特に見当たらなかった(カーディガンは一着あっても良いかもしれないが、ユニクロで買おうとは思わない)。それで会計に行き、二一三五円を払ったのち母親と合流して退店した。セブンイレブンに行く必要があった、と言うのは母親が先ほど購入したメルカリの品の代金を早速支払うというわけだった。携帯の画面に表示されたバーコードをレジで読み取ってもらうことで支払いができるらしかった。それですぐ近間のコンビニに寄り、車内でほんの僅かに待ったあと、帰途に就いた。帰路の途中では母親が、仕事をしなくちゃいけないと思うのだけれどできないし、家にいるとやることがいくらでもあってと、前々からお定まりの繰り言を漏らし、その変化のなさに強く苛立つでもないがやはり少々うんざりとしたこちらは、いつまでそこに、その場所にいるんだ、昔から進歩がないじゃないかと口を挟んだ。しかしこちらも大きい声で偉そうなことを言える身分でもない、体調は良くなったけれどそれから目立った進歩を遂げているとも思えないし、そもそも母親が二月頃から通いはじめていた「(……)」の勤めを休止したのだって、こちらの症状が悪化したからというのが理由なのだ。自分の調子も良くなったことだし、その「(……)」に復帰すれば良いじゃないかと言うと、子どもたちに運動を教えなくてはならないのだが、そんな自信がないと言う。そんなことを言っていたら何もできないとこちらはありきたりに受け、何だかんだとまだ話が続くのには、そんな話に興味はないとすげなく呟いた。その頃には市街に入っていたが、道は何故か渋滞しており、なかなか車が進まなかった。時刻は六時前、フロントガラスのなかに太陽が入ってきて光を広げていた。帰り着いて降りると、ちょうど犬を二匹散歩させている婦人がやって来て、母親と立ち話を始めた。こちらもこんにちはと挨拶だけして、そのかたわら荷物を運ぼうとしていたのだが、犬が寄ってきたのでよしよしと頭を撫でてやり、婦人には(犬を触らせてくれて)ありがとうございますと礼を言って、家のなかに入った。冷蔵庫や戸棚に買ってきたものを整理しながら、入ってきた母親にあれはどこの誰なのかと訊くと、二丁目の自治会館の前だかに住んでいるという話で、よく会話はするのだが名前は知らないのだということだった。それから仏間に買ってきた肌着類を置いておき、下階に戻ると服を脱いで気楽な格好に着替えた。そうして台所に行き、獅子唐とハムを炒める。その一方で小鍋では筍とワカメが煮られており、そのほかカキフライや稲荷寿司の残りなどがあるので、夕食の支度はそれだけで良いだろうということになった。それで下階に下ったこちらは、早速日記を書きはじめた。取り掛かったのは六時半、それから文を綴っているうちにあっという間に時間が過ぎて、ここまで記す頃には八時目前となっていた。席を離れると、食事を取りに行く前に、ベッドの上に脱ぎ散らかしていたシャツを手に取り、すると体長二、三ミリ程度の、極小の小蝿のような虫が何匹もシャツにたかっている。改めて目を移してみると白いシーツの上にも点々と、しかし相当な数が集まっていて、この虫は最近よく見かけてそのたびにつまんではゴミ箱に送って始末していたのだが、ここまで蔓延しているのを見るのは始めてだった。おそらくとても小さいから、網戸や窓の隙間から入りこんでくるのだろう。それで掃除機でいっぺんに吸ってしまったほうが良いなと考えて上階に行き、暗い祖父母の部屋に入るとしかし掃除機がない。どこかと母親に場所を訊くと、何でと返って、ベッドの上に小蝿のような虫がたくさんいると告げると、ここにもいるよと母親は声を上げた。洗面所の掃除機を取ってきて見れば、確かにソファの上にも虫の姿があり、さらに父親の座であるソファと炬燵テーブルのあいだに敷かれた布の上にもやはり相当数たかっていて、ちょっとぞっとするようなほどだった。それらを掃除機で吸い取って行き、自室に下りると乱暴にベッドの上を吸い、小蝿たちを始末すると食事に行った。台所には、豆腐とモヤシのサラダが既に皿に入って用意されていた。小皿を三つ取り出し、稲荷寿司を二つ取り分け、カキフライを三つ温め、獅子唐とハムの炒め物をよそり、卓へと移動した。獅子唐がとてつもなく辛くて、先日食べた母親はもう二度と食べないと思ったと言う。それで炒め物を口にしてみたところ、最初は全然辛くなかったのだがなかに一つ、辛いものが混ざっていて、それが確かに強烈な辛味で口のなかが痛くなり、涙が出るほどだった。慌てて氷水を用意してきてそれを飲みながら残りの食事を進めて行くのだが、胃が熱くなっているのがわかり、また温かいものを口に入れるとそれだけで口腔内がひりひりとして、せっかくのカキフライの味が刺激によって妨害されるのだった。テレビはテレビ東京の『家、ついて行ってイイですか?』を放送していたが、あまり目を向けなかった。この番組も、様々な人生模様が次々と語られるのを以前は結構面白く眺めていたと思うのだが、最近はテレビ番組というもの全般に興味を失いつつあるようだ。食後、入浴に行って出てくるともう九時頃だった。室に帰るとSuchmosを流し、狭い室内をうろうろと動きながら歌を歌った。"YMM"、"GAGA"、"Alright"、"Mint"、"Pinkvibes"と歌い、"Tobacco"の途中で切ると、「(……)」を読み、さらに、「事実上の「移民」受け入れを進める安倍政権。真に受け入れるなら「人として」生活できる制度づくりをせよ」というインターネット記事も読んだ。そうして、『ルパン三世 PART5』の最新話を視聴したあと、一〇時半から読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。一時まで読んだのだが、この読書がやや散漫だったというか、文の意味がなかなかうまく頭に入らないようなところがあって、二時間半掛けたわりに二〇頁も進まなかった。一九三八年になると、サルトルはマルチーヌ・ブルダンという女性と関係を持つのだが、情事の際に目にした彼女の身体的特徴や前後の経緯などを細かくボーヴォワールに書き送っている。それでいて同時に、彼女に宛てた手紙にはほとんど必ず「愛している」の文言が見られる。サルトルのプレイボーイぶりはともかくとしても、一人の相手を熱愛しながら(とサルトルの口調からは思われるのだが)、その女性にほかの相手との恋愛の次第を詳細に報告するというのは、やはりかなり特殊な関係ではあるだろう。本を読みながら歯磨きをして、口をゆすいで戻ってくるとちょうど一時だったので読書はそこまでとして瞑想に入った。三〇分掛けてこの日の記憶を思い返したのち、一時三五分頃消灯して床に就いた。例によって眠気は生じず、眠りは遠く、一時間ほど輾転反側とする状態が続いた。それでも一応、その後に入眠することができたようである。

2018/9/4, Tue.

 眠剤を飲まなかったわけだが、それでもいつもと変わらず一一時四五分まで動くことができなかった。カーテンをひらくと窓には一面、激しく雨粒のぶち当たった痕が残っており、見通しが悪くなっていた。台風の日である。身体を起こしてベッドから下り、上階に行くと、母親は(……)で不在、天気が平気だったらと書き置きにはあり、おそらく夕刻まで仕事をしてくるようだった。洗面所で顔を洗い、冷蔵庫を覗くと、冷凍食品の丸いチキンが一つ、それに鮭がある。それらを電子レンジで熱しているあいだにトイレで用を足し、戻ってくると白米とともに食べた。皿を洗ってから薬剤を服用した時には、雨が降り増して窓は乳白色に染まっていた。それから風呂も洗ってしまうとガムを三粒口に放り込んで下階に下り、コンピューターを点けたが、パスワードを打ち込まないうちに床の汚れが目について、そろそろ埃も溜まってきたしこのあたりで掃除機を掛けておくかという心になった。それで上階の洗面所に掃除機を取りに行ってきて、戻ると狭苦しい自室の床を掃除し、ベッドの下やベッドと壁との隙間などにもノズルを突っ込んだ。掃除に切りをつけ、機械を上階の祖父母の部屋に置いてくると、コンピューターを立ち上げて、インターネットをちょっと回ってから日記を書きはじめた。時刻は既に一時近くになっていた。それから一時間で記述を現在時点まで追いつかせ、二時を回ったところで読書に取り組みはじめた。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。読み出してまもなく、母親の帰ってきた気配が上階に生まれた。仕事は夕方までにはならず、台風による注意報が発令されたので昼までで切り上げて来たのだった。帰ってきた時の物音のみでその後は動く気配がまったく立たないのは、おそらくはソファにじっと腰を下ろしてまたメルカリでも眺めているのに違いなかった。三時頃になると一度上階に上がって母親と顔を合わせ、ガムを三粒含んで帰ってくると窓に寄った。空は視線を引っ掛ける隙のないまっさらな白に埋め尽くされていたが、雨は一時止んでいるようだった。それからまた本を読んでいるうちに、ぱちぱちと雨粒が窓ガラスに弾ける時間もあった。四時半を過ぎた頃、市内放送が流れだした。妙に朗らかなような、慇懃で無害なような声音で何とか言っているのは、ダムから放水するという知らせではないかと推測され、直後にサイレンの音が宙に伸び上がって聞こえた。肌着にハーフパンツの格好では微かに肌寒いようだったので、こちらは読書の途中から薄布団を身に被せていたが、五時を回る頃合いになると例によって微睡みに捕えられる気配があった。完全に意識を落としはせず、窓に風が荒々しく寄せる音のたびに覚醒しながらも、本の頁に指を突っ込んだままに休んでいたが、五時半を越えたところで天井が大きく鳴った。それを機に立ち上がり、音の無遠慮さに微かな嫌気を感じながら上階に行くと、豚汁を作ろうと母親は言った。それで台所に入り、玉ねぎ、人参、大根を切り分けると、鍋に油を引いたが、水気が完全に拭い去られていなかったために油がばちばちと音を立てて激しく跳ねた。火力レバーを最弱にずらし、その上から生姜をすり下ろすと、跳ねが収まらないので熱されるのを待たずに野菜を投入した。しばらく炒めてから水を零れそうなくらいに注いで煮込みに入った。煮えるのを待つあいだはまず母親の貰ってきた「東京牛乳ラスク」をばりばりと食べたが、この時カウンター越しのテレビに、突風にやられたのだろうか駐車場や車道の途中で車がいくつも横転している映像を目にした。また車から火の上がっている映像も見かけたのだが、それがこの時だったかどうかは定かでない。それから届いていた段ボールの小箱を鋏で開封した。ホスファチジルセリンサプリメントである。そうして朝刊を持ってふたたび水場に入ったところが、モヤシを茹でておいてと母親が言うので、記事を読む前にそのようにして、それから新聞に目を通して野菜が柔らかくなるのを待った。そうして、味付けである。味噌がもうほとんどなくなっていたので、パックに鍋から湯を汲んで(熱によってパックがぼこぼこと歪む)こびりついた少量の味噌を箸で溶かして行った。それだけでは足らないので、山梨の祖母から貰ったもう一種の味噌を溶かし入れ、それで豚汁を完成とした。母親が台所に入ってきてエノキダケを取り出し、豚汁に加えたり、モヤシと和え物にしようとしたりするのを尻目に、こちらの仕事は終わっただろうと判断して階段を下りて行った。時刻は六時一五分ほどだった。それから七時まで、ホスファチジルセリンのスレなどを無駄に閲覧してしまった。たかがサプリメント、劇的な効果はないだろうとわかってはいるのだが、それでも同時に少しでも効果があったという証言を得て気休めにしたいと、神経症的な性分が働くのだった。一応、記憶力が改善されたとする書き込みはいくつか見られはしたが、果たしてどうなるものか、ともかくもある程度の期間飲み続けてみないとわからないだろう。七時を越えたところで食事を取りに上階に行った。それぞれの品――米、鮭、豚汁、大根の煮物、豆モヤシとエノキダケの和え物――をよそって卓に就くと、テレビのニュースでは浸水した大阪湾岸の情景が映し出され、コンテナが水に浮かされて海の方へと流れて行っているということだった。ものを食べ終えると、こちらと入れ替わりのようにして母親が食膳を持って卓に就いた。皿洗いを済ませて水を汲んできたこちらに母親は、今度は何のサプリメントを買ったのと問う。脳を構成する脂とか何とか、と、こちらも良くもわかっていないのだが答えると、そんなにいくつも飲んで大丈夫なの、先生に聞いてみたほうがいいんじゃないのと来る。そんな必要はないとこちらは返した。医師はサプリメントは否定派だろうし、こちら自身も頭の改善を大きく期待しているわけではない。今飲んでいるマグネシウムバコパハーブにしても効果はないようだと断じたところ、母親は、それはまだわからないと受け、こちらの症状が良くなったのもそれを飲みはじめたからではないのかと言ったが、これは母親の勘違いでサプリメントに興味を持ったのは調子が上向いて以降のことである。その後、医者で処方されている薬を飲んでいてもおそらくこれ以上の回復は見込めないと思うとの見通しを話した。これ以上の回復というのは勿論、日記でも再三繰り返している通り、病前のような感受性と頭の働きを取り戻せるということだ。多分自分はあのような創造性をふたたび発揮できることはないだろうし、仮にできるとしたらそれは何年かあとのことになるのではないか。体感として、薬剤にはこれ以上の効果はないと思われ、現在と同じ心身と頭の状態でいずれは見切りを付けないといけないことになる。見切りを付けるというのは仕事に復帰するということだが、物事の説明を旨とする塾講師の職に戻る気はもはやなく、元々労働意欲の全然ない性分だから強いて勤めたいという職もなく、考えつくのは母親も行っていた発達障害の児童支援サービス「(……)」か、知り合いの古本屋に雇ってもらうかである。古本屋に関してはまずは話をしてみないといけないわけだが、話をすると言って、本を読んでいても面白くないんですよなどと話しても仕方がないだろうとこちらは言った。本が好きで好きでしょうがないっていうのが、と母親は受け、それが普通だろう、古本屋で働こうというからには、とこちらも応じ、以前はそうだったのだがと落とす。古本屋に話を持っていくにしても、せめてもう少しでも感受性が戻ってから、いくらかなりと本を読むのが楽しくなってからにしたいというのが実際のところだ(そうなる見込みは見えないのだが)。自分の症状において、寛解とはどこなのだろう? 日常生活を問題なく送れるということであれば、労働の一点を除いて自分はもうほとんど寛解に達しているようにも思える。しかし、病前の能力を取り戻すということなのであれば、それはほとんど不可能事ではないかと自分には思われる。ともかく、少々嘆きのような音調の話を続けたあと、母親は、(……)ちゃんを見てると本当に、癒されるっていうかと話題を変え、これ見たっけと携帯電話を差し出してみせる。それに対して夕刊を広げていたこちらは、いいよ、と払いのけ、可愛いとか癒されるとか、そういうことも感じられないんだと突き放した。実際そうで、赤子を見て可愛らしいと感じるほどの自然な感情の働きすらこちらにはもはや存在しないのだ。その後、入浴に行った。湯に浸かっているあいだ、強い雨風に薙がれる林の響きが絶えず窓から聞こえ、そのなかから虫たちの声が熱心なように立っていた。頭を洗ってからふたたび湯のなかにいると、父親が帰ってきて車の扉を閉める音がした。目をつぶって汗をだらだら流しながらこの日の記憶を思い返していたのだが、父親が家に入ってきてからしばらくして八時半頃、風呂に入るだろう父親を待たせてもと立ち上がって浴室を出た。髪を乾かして出てくると父親におかえりと挨拶し、飲むヨーグルトを一杯飲んだ。そうしてガムを三粒口に放り込んで下階に下り、しばらく噛んで味のなくなったものを捨てると、瞑想に入った。瞑想と言っても呼吸に集中するとかそういった類のものでなく、風呂にいた時と同じようにこの日の記憶を一つ一つ思い返して言葉にしていくのだった。枕の上で静止しながらそれを終えると、あっという間に二六分が経っていた。それから実際に日記に取り掛かり、今しがた思い返した記憶を文章として成型させていった。九時二〇分から始めて、現在時に追いつくまでには一時間強を費やすことになった。それから、「(……)」を読み、菅野完「正体を隠して活動する日本会議の「カルト性」」の記事を読んだ。この後者の記事をEvernoteにコピーしておく際、Twitterからの引用部がうまく貼付けされず処理に無駄な時間を掛けて、いつの間にか一一時半直前になっていた。この日は音楽を聞く時間は取らないことにして、そのままサルトルの書簡集に取り組む。一方で歯磨きをして、口をゆすいで戻ってくると窓の向こうから凛々と、澄んだ蟋蟀の鳴き声が入ってくるのに耳が寄って、野原などないが「野もせに」という言葉など思い出した。古井由吉の小説で知った表現だ。臥位での読書は一時間ほど続いた。零時半になると本を閉じ、瞑想に入って二〇分、一時になる前に消灯して布団を被った。この日も睡眠用の薬を飲まなかったので、眠りは遠かった。一時間ほど輾転反側しているあいだ、数日前と比べても多く、密度を増したらしい虫の音ばかりが聞こえて、雨風は止んでいるようだったが、二時を迎える頃に突然降り出し、厚くなって、しかしすぐに過ぎるかと思いきや風が加わって窓に斜めに打ちつけはじめたので、ひらいていたのを僅かな隙間を残してほとんど閉ざした。それからいつ、どのようにして眠りに就けたのかはわからない。

2018/9/3, Mon.

 この日の起床も例によって遅くなり、正午を越えた。七時、九時、一一時と頻繁に意識が浮上しかけてはいるのだが、寝床から動くことができないのだ。一時に就床したので、時間にすると一一時間もベッドに留まっている体たらくである。上階に行くと母親に挨拶をして、洗面所で顔を洗った。食事は前日の残り物が多くあった。焼きそばにたこ焼き、茄子や玉ねぎの炒め物である。それらを温めて卓に就いて食べていると、母親が自分の分と二人分、キャベツの千切りと同じくキャベツのスープを用意してきてくれた。ものを摂取しながら、目は新聞の一面を散漫に追っていた。薬を服用して食器を洗い、浴室に向かうと、キッチンハイターの匂いが香った。実際、浴槽の縁にレバー式のハイターが置かれてあったが、どこに用いたのかは不明だった。意に介さずに浴槽を洗い、出てくるとガムを三粒一気に口に入れて咀嚼しながら階段を下った。コンピューターを起動させ、前日の記録をつけるとともにこの日の記事も作成しておくと、日記を綴る前にと読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。ベッドに仰向いて読んでいるとしかし、一時間ほど経った頃から眠気とも疲れともつかないものが差しはじめた。一一時間も寝床にいたにもかかわらず、あるいはむしろそのためになのか、横になると身体はやや重いようで、次第に瞼が閉じてくるのだ。それで、定かに眠ったわけではなく頭は半分保たれていたのだが、五時半まで薄い意識のなかに過ごした。ここまで怠けてしまう体たらくは異常であり、やはりうつ症状がまだ残っているということなのか、それとも慢性疲労症候群か何かなのか、いずれにせよ気分障害や鬱には日内変動があって遅い時刻から症状が和らぐ傾向にあると聞いた憶えがあるが、自分も夕刻以降のほうが心身が楽なような気がする。重い身体を何とか起こし、被っていた布団を片寄せておくと上階に行った。あとは蕎麦を茹でるだけ、と母親は言った。ソファに就いている彼女の隣に腰掛け、ぼんやりとテレビを眺めた。明日は台風二一号が日本列島のちょうど中央付近に上陸するらしかった。居間には卵のような匂いが漂っており、何か料理に使ったのかと思えば、その硫黄性の香りは例の「マグマ塩」のものだと言う。そう答える母親はタブレットを操って、買うつもりもないのだろうが電子書籍購入アプリのようなものを操作して、恩田陸とか京極夏彦とかの著作を眺めていた。時刻は六時に到った。こちらは日記を書いてしまおうと下階に戻って、二日の記事を仕上げて、ちょうど一時間ほどでここまで綴って現在は七時である。
 ふたたび上階に上がって行くと、テレビは再三、台風二一号の上陸に対して注意を促している。関西の方では上陸を見越して既に鉄道の運行停止や学校の臨時休校が決定されているらしかった(休校だからと言って、やったーと喜んで遊びに行ったりしてはならないよと注意する小学校教師に対して、当たり前じゃん!とそれこそ大いに喜んでいそうな生徒の声が返っていた)。台所に入って、蕎麦つゆを用意し、大皿にキャベツを敷いたその上に茹でた豚肉を乗せる。食卓に就いてものを食べはじめると、母親が番組を移して『スカっとジャパン』が流れるが、この番組はわりあいにくだらないものだとこちらは思っており、あまり好きではない。向かいの母親は、メルカリで売ってしまったブラウスを買い戻したいと話した。Laura Ashleyのもので気に入っていたのだが、「軽い気持ち」で売りに出してしまい、「馬鹿なこと」をしたと後悔していると言う。こうした母親の無思慮あるいは優柔不断は以前からのことで、それを受けるとこちらは何か口を突っ込みたいような気分にもなり、父親なども多分これにはたびたび苛立たされて来ているのではないか。こちらもこの時、母親の嘆きのトーンに対して心の底で苛立ちのようなものをほんの微かに感じたようだったが、特に言いたいことが思いつかなかったので、家にいるとメルカリばかり見てて依存症のようだと気落ちした風に漏らす母親を沈黙で受けながら蕎麦を啜った。食後、母親の分もまとめて皿を洗い、入浴を済ませると自室に戻って、「わたしたちが塩の柱になるとき」を読んだ。それからTwitterを覗いていると瀬川昌久に関する柳樂光隆の発言を見かけた。瀬川昌久という人はジャズ評論の重鎮で、こちらは蓮實重彦と対談をしているという繋がりでその名を知ったものだ。柳樂曰く、瀬川から電話が掛かってきて、東京ジャズの出演者だったCorneliusやRobert Glasperなどについて質問攻めを受けたと言うのだが、御年九四歳の人間が探究心を失わずにRobert Glasperなどを聞いているというのは素直に凄いなと思われた。それから前日の新聞記事から書抜きを行った。一時間以上も費やして情報を写しているあいだ、BGMはJose James『No Beginning No End』、それから『Love In A Time of Madness』と移行して行ったが、この後者の作品は最初にじっくりと耳を傾けて聞いた時よりもBGMとして流したほうがむしろ良い印象を受けるようだった。書抜きを終えると一〇時過ぎ、この日の新聞からもいくつか記事を読み、そのあとは日付が変わるまでサルトルの書簡を追った。そして歯磨きを終えると夜半の音楽の時間である。まずKeith Jarrett Trioの『Standards, Vol.1』から"All The Things You Are"を流したのだが、これは難しい演奏で、テンポも速めでこちらなどはJarrettのピアノを追おうとしてもそのうちに正確な拍をロストしてしまう。続けて"It Never Entered My Mind"にそのまま移行し(虫の羽音を激しく増幅させたかのようなスネアの切り込み)、それからAvishai Cohenの『Into The Silence』から二曲聞いた。ECMのカラーに合わせたのか、このアルバムでのCohenは比較的ゆったりと、ロングトーンを穏やかに波打たせながら吹いており、ソロイストとして前面に出張るのでなく、ピアノに役割を委ねて全体のサウンドを構成するほうに重きを置いているようだった。それで、Avishai Cohenというのはもっと激しいトランペッターだったよなと『The Trumpet Player』の冒頭、"The Fast"を聞いてみると、ここではまさしく火を吹くようなと言うべき、息つく間もなく高速で均一に宙を埋め尽くすプレイが披露されていた。最後にいつも通り、Bill Evans Trioの"All of You"(この日はtake 2だった)を聞いて、終いである。それから瞑想をして、一時二五分に床に就いた。薬剤のせいで早く起きられないのではないかと疑って、この日は就寝前の薬を服用しなかったのだが、そのせいだろう、眠気は微塵も感じられず(薬を飲んだとしてもほとんど何も感じられないのだが)、入眠には時間が掛かった。目は冴えていたが、それでも何度か姿勢を移しているうちにどうにか寝付いたようである。

2018/9/2, Sun.

 早い時間から何度も目が覚めてはいるのだが、やはりどうしても身体を起き上がらせることができない。最終的に、携帯電話のバイブレーションの響きによって覚醒を定かなものにした。登録されていない番号からの着信だったので出ないでやり過ごし、洗面所に行ってきてから瞑想を行った。雨降りの昼前で、窓の隙間から入ってくる空気が肌に触れると少々冷やりとするようだった。前夜からの雨で沢の音が増幅されて、普段よりも近く這い寄って来ているような感じがした。
 五目ご飯、茄子入りの煮込み素麺に煮物を食べる。食べながら新聞をめくると星野智幸の寄稿があり、大江健三郎の『政治少年死す』をネット右翼が跳梁跋扈する現在の状況にも通ずるものだと評している。食器を空にすると水を汲んできて薬剤の類を飲み、流しで皿を洗ってから風呂場に行き、浴槽を擦って掃除した。
 下階に下りてコンピューターを点けると、前日の記録を完成させ、この日の記事も作成し、それからインターネットでサプリメント関連の記事を追ってしまった。たかがサプリメントで今の自分の状態が回復されるとはとても思えないのだが、しかし希望を求めてしまう。ホスファチジルセリンと、オメガ脂肪酸というものは、うつ病に対しても効果があるようなことが言われているので、それらはとりあえず試してみようかと思っている。前者は既に注文済み、ひとまずそちらを飲み続けてみて、時期を窺って後者も注文するだろう。こちらがネットサーフィンをしているあいだに母親は出かけて行った。今日は地元の神社の祭りの日で、社務所でお茶汲みなどの雑務をするとのことである。
 それから、前日の新聞からいくつか情報を書抜きした。四五分それに費やし、二時半から朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』を読みはじめると、ベッドに仰向けに転がってすぐ、玄関の階段を上がる音がする。荷物が届いたのだなと素早く聞きつけ、急ぎ足でベッドから下りて上階に行き、インターフォンの受話器を取った。郵便局ですと言われるのにありがとうございますと返し、簡易印鑑を持って戸をひらいた。男性の郵便局員にいつもありがとうございますとふたたび礼を言いながら、差し出された用紙に印を押し、小包みを受け取ると最後にまたありがとうございますと頭を下げた。何と言っていたか忘れたが、母親がまたメルカリで購入した物品である。それをテーブルの上に置いておいてから、自室での読書に戻ったが、またすぐ、三時前になると、戸棚にあるワンタンスープのことを思い出し、何だかそれが食べたくなったのでふたたび上階にやって来た。即席の品に湯を注ぎ、三分待ってから食べながら書面の文字を追った。スープも飲み干してしまうとカップや箸を洗って片付け、その後自室には戻らずそのまま居間で読書の続きをすることにした。と言うのは、こちらの注文したホスファチジルセリンもこの日に届くのではないかとの可能性を考えてのことだったが、これは結局まだ配達されなかった。ひらいた本をティッシュ箱に立てかけて目をやりながら、ボトルからガムを二、三粒取って口に運ぶ。しばらく噛んで味が希薄になると紙に吐き出し、また二、三粒取っては噛むということを何度か繰り返した。増水した沢の音が外から絶え間なく響いており、聴覚を刺激するものはその流れと自分の咀嚼音だけだった。それで四時台の途中には居間に座っているのも飽きて、自室のベッドに戻り、それからまもなくして母親が帰ってきた。戸口に姿を現して、クレープと焼きそばを買ってきたと言うので、あとでいただくと答えた。読書は四時四〇分まで続けられた。一九三六年夏の手紙でサルトルナポリでの体験について綴り、街路や人々の有り様について実に長々と考察している(この手紙は六七頁から九四頁にまでも及んでいる)。そのなかで、ナポリの人々が人目を憚らずに屋外の街路に出て生活を営んでいること、内と外との区分けがあまり截然としていないことを、胃を体外に出して消化をするヒトデにたぐえて「ナポリの路地の内臓器官的猥雑さ」などと言っているのがちょっと面白かった。それから読書に切りを付けると、Suchmos『THE BAY』を流して運動を行った。"YMM"や"GAGA"を口ずさみながら下半身を伸ばし、腹筋運動は休みを入れながら五二回行った。それから腕立て伏せもしたのだが、まったく動いていなかった時期が長いので、こちらは休憩を挟んで僅か一〇回しかこなせない貧弱な有様である。体重が増えたことも回数をこなせない一因だろう。メジャー・トランキライザーであるクエチアピンとオランザピンは、良くもわからないが何か代謝に働きかける作用があるらしくて糖尿病患者には禁忌とされており、副作用として体重の増加が起こり、こちらも以前は五三キロから五五キロと痩せ型だったのが、今は下腹にちょっと肉がついて六三キロにまで増えてしまったのだ。むしろ今までが痩せすぎだったのであって今の体重のほうがちょうど良いのかもしれないが、身体についた肉を脂肪でなく少しでも筋肉に変えて行きたいところである。運動を終えると五時過ぎ、上階に行く。クレープが半分あるというので、ここで食べると夕食が欲しくなくなるとわかっていながらもそれを口にした(そもそも変調以来、空腹感というものが希薄になってもいる)。それから台所に入り、茄子と玉ねぎと豚肉で炒め物を作ることにした。冷蔵庫に前日の秋刀魚が残っており、汁物の代わりに朝の煮込み素麺もあり、焼きそばも買ってきてありと色々揃っているので、一品作ればそれで良いだろうという話だった。食材を切り分け、手早くフライパンで炒め、味付けの段になって醤油を取ろうとしたところで、調理台の上にあったオイスターソースに目が行った。「炒めもののコクだしに」と記されているのを受けて、それではこれをいくらか入れてみようとフライパンに垂らし、それから醤油も加えてかき混ぜると完成とした。そうして新聞を持って自分のねぐらに戻り、記事を読みはじめた。一面トップで扱われていた情報だが、インターネット上では「Q」という謎の人物が、ドナルド・トランプは不正ばかりのこの世界を救う救世主だという陰謀論を振りかざして信奉者を増やしているのだと言う。米タイム誌がこの正体不明の投稿者を「ネットで最も影響力のある世界の25人」に選んだというから驚きである。そのほか、二〇一六年七月に自衛隊が派遣されていた南スーダンはジュバで武力衝突が起こったが、その際の事態を記録した内部文書が入手されたという記事、外国人技能実習制度についての記事などを読み、それからふたたびサルトルの書簡に戻ったが、すぐに気を変えて日記を綴りはじめた。そうして現在は八時直前を迎えている。この間、(……)とメールのやりとりをしており、(……)や(……)とSkypeをするのはどうかと言われていたのに、立川で会っても良いとこちらが提案したので、どうやらその方向で決まりそうである。
 上階に行くとテーブルの上には新たな焼きそばが一パックとたこ焼きがあった。父親も屋台の品を買って帰ってきたのだった。それらを熱してほか、先ほどの炒め物や素麺を用意し、皿に盛った生のキャベツの上には大根おろしをさらに乗せた。テレビはNHK大河ドラマ西郷どん』を放映しており、父親はそれを注視していたが、こちらはあまり興味がないのでさほど目を向けなかった。向かいでは母親が携帯で(……)さんとやりとりをしていた。元々九月一一日の火曜日が父親の休みの日で、年金事務所に話を聞きに行くらしいのだが、そのあと(……)さんの家まで伺えないかという提案だったところ、一一日は(……)さんには用事があるらしい。来週末はどうかとあちらから返ってきたのは一五、一六ではなく八、九日のことで、父親は九日が休みらしい。(……)さんはあちらから(……)に来るつもりでいるようだったが、それは大変だから我々が王子まで出向けば良いだろうと、父親はそういう心だった。食事を終えるとこちらは入浴する。浴室に入った途端に外から虫の音が立っているのに、秋の雰囲気を感じないでもない。湯に浸かって耳を寄せると、沢の水音のなかに一つ、キイキイキイキイと弾くようでもあり、シャンシャンシャンシャンと何か振るようにも聞こえる虫の声が際立って、その声が止むと周囲を包むほかの虫の音が薄く窓を埋めるのだった。風呂を浴びて出てくると、(……)さんのブログを読み、それから東京新聞のサイトから「杉田水脈とLGBT問題 「弱くある自由」認めよ 中島岳志」という記事も読んで九時半、ふたたび『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』を読み出した。途中、一〇時頃に上階に行き、台所に入って飲むヨーグルトを飲んだ。父親が、九日にこちらから伺いますと言っておけば良いだろうと改めて母親に伝達しており、どうやら王子訪問が決まりそうだった。台所にいるこちらに母親が、九日はと聞いてきたが当然何か用事のある身でもなく、大丈夫だと了承された。自室に戻ると日付の変わる前までサルトルの書簡を読み続けた。一九三七年のある手紙のなかで、ホテルのロビーに居合わせた人々のやりとりをサルトルが詳細に綴っている箇所があるのだが、「芝居見物ができた」と彼が言っている通り、それが戯曲のようでちょっと面白かった――と言うか正確には、偶然遭遇した会話の細部まで記憶し、それを戯曲のようにして仔細に再構成できる能力を羨ましく思った。歯を磨き、その戯曲めいた部分の段落で読書は区切りとして、音楽を聞きはじめた。Keith Jarrett Trio, "All The Things You Are", "It Never Entered My Mind", "The Masquerade Is Over", "God Bless The Child"(『Standards, Vol.1』: #2-#5), "All The Things You Are"(『Tribute』: D2#5)、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#5)で一時間弱。そうしてオランザピンとブロチゾラムを含んで来てから瞑想をする。細い窓の隙間から、水の流れの撓んでぼこぼこと泡立つような音が聞こえていた。ちょうど一時頃になって明かりを落とした。

2018/9/1, Sat.

 一一時四五分の遅い起床となった。朝食は鮭茶漬けに汁物にゆで卵。食っているとクリーニング屋に行っていたらしい母親が帰宅。
 新聞をめくっていると、米国がパレスチナ難民救済事業機関への資金拠出を全面停止という記事が目を引き、あとで読もうと思った。テレビのニュースでも同じ情報が流れ、一一月の中間選挙に向けてドナルド・トランプは、イスラエル派の支持者にアピールする狙いがあるのだろうというようなことが注釈されていた。
 風呂を洗ってから自室に帰ると、(……)さんのブログを読んでから、日記。一時過ぎから二時まで。BGMはJose James『Love In A Time of Madness』。以前は読み書きをするだけで自分は自分の生活にわりあい満足していたと思うのだが、今や充実感というものがない。
 二時半から書抜き、保坂和志『未明の闘争』。終了させる。疲労感があったのでベッドに転がると、例によってまた寝てしまう。六時一五分に到り、携帯のバイブレーションの音で確かな覚醒を得た。見ると、休職中の職場からで、(……)さんが「一身上の都合」により、九月いっぱいで退職するとのことだった。
 上階へ。母親はクリーニングを取りに行くと言う。こちらは新聞を読む。母親の出かけたあと、部屋に戻って窓を背にして読んでいると、雨が盛りだし、雷の音も響いた。この日は地元の神社の祭りの前夜祭で、有志が社の舞台の上で歌を歌ったりするのだったが、この雨では催しもどうか。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』もちょっと読んで、七時半頃上階へ。
 食事。餃子と茄子の煮付けをおかずに米を食う。その他モヤシの和え物、コーンと卵の汁物。テレビは出川哲朗の充電バイクでの旅番組。恵那峡というところを訪れていた。
 入浴後、九時過ぎからまた読書。一〇時半に到って運動、ストレッチに腹筋運動を五〇回。
 音楽、Jose James, "Lover Man", "God Bless The Child", "Strange Fruit"(『Yesterday I Had The Blues - The Music of Billie Holiday』: #7-#9)、Keith Jarrett Trio, "Meaning of The Blues", "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』: #1-#2)、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D3#4)。零時を回ってふたたび読書。一時過ぎまで。その後瞑想をして、一時半に就寝。

2018/8/31, Fri.

 一〇時前起床。柔らかく煮込んだうどんを食べる。
 通院の日である。服は久しぶりに麻素材の真っ白なシャツを着ることにした。ボタンの一つ一つの色が違っているという部分に、ちょっと洒落気の利いている品である。ズボンはこれも久しぶりに、藍色のストライプ柄のものを履いた。それに帽子を被って、クラッチバッグに本と手帳、年金の払込書を入れて持つ。
 八月の最終日だが猛暑がまだ残って、車中はかなり暑かったと思う。医院の駐車場には結構車が停まっていたので、これは混んでいるのではないかと予想した。車から降りてビルの入り口に入って行くと、こちらの前後にもそれぞれ歩く者があって、それもこちらと同じ精神科が目当てらしい。後ろの女性がエレベーターを使うのに、抜かされてしまうと母親は言ったが、こだわらずに階段でゆっくり上がった。待合室に入るとやはり混んでおり、席に空きがあまりなかったので、診察券を受付に出すと別室のほうに行って椅子に腰掛けた。母親が暑いと言って西側の窓を少々開けた。前回、二週間前に来た時もやはり北の窓を背にしたこの席に座って、その時は風がやたらと荒れて激しい音が聞こえたものだが、この日はそういったことはなく、聞こえてくるのは時折りの電車の走行音くらいのものだった。岡田睦『明日なき身』を読んで一時間弱、正午を回ったところで名を呼ばれた。急いで本を閉じて鞄を持ち、待合室に入ると受付の職員のほうに顔を向け、はい、すいませんと言いながら室内を横断する。軽いノックをして診察室に入り、医師に挨拶をして椅子に腰を下ろした。
 二週間のあいだ来なかったということは、特に(おそらくは悪い意味での)変化はなかったようですねと医師が言い、安定しているとこちらは受けた。生活にも自分の感覚にも特段の変容はない。友人に会いに二度出かけたことを報告し、そのうちの一回が代々木だと言うと医師はその遠出に少々目をひらくようだったが、こちらとしてはパニック障害の症状が消散したいま、出かけることに特別の難儀は感じない。それよりもとにかく感性と思考なのだ。そういうわけで、安定しているけれど、本を読んでいてもあまり面白くはないし(日記に関しては、問われた際に、書いていても面白くないので今は縮小版になっていると答えた)、何というかもう少しテンションが上がるというような状態が欲しいと述べたが、その点に関しては医師は楽観的で、回復してきているようなので段々そうなってくると思いますよという軽い返答があった。こちらはあまり楽観視はできない。一二月以前の感性と思考力のレベルを取り戻したいというのが理想なわけだが、頭の働きが以前とは違っているのが明らかにわかるのだ。かと言って改善のために何が出来るわけでもなし、とりあえず薬を飲みながら時が経つのを待つほかはない。自分はあまり性急に、多くを望みすぎているのかもしれない。この日に綴った(……)への返信にも書いたことだが、二〇一三年から丸五年を費やして頭を養ってきたのだから、もし元のレベルに戻りたいとすればそれにも同じくらいの時間は掛かるのではないか。処方はふたたび二週間分となった。ありがとうございますと礼を言って立ち上がり、扉に寄って、失礼しますと言いながら室を出た。
 会計は一四三〇円だった。釣り銭や診察券を財布に収めて、処方箋と明細書を手に取ってから、どうもありがとうございますと女性の事務員に礼を言う。すると、お大事にと返ってくる。いつも通りそのやりとりをこなしてから待合室を抜けて、階段を下った。薬局は空いていた。四三番の番号を渡されたが、薬の出来た番号が示される電光掲示板には既に四二の数字があったので、それほど待つことはなさそうだった。実際、岡田睦を読んでいるとじきに呼ばれ、カウンターに近寄った。(……)さんという、四〇代ぐらいだろうか、細面で眼鏡を掛けた女性の職員が相手だった。これまでにも何度も顔を合わせたことがある。相手が薬を一つずつ示すのに、はい、はい、と単調な相槌を打ち、調子はと問われたところに安定していて、と受けた。会計は一一二〇円だった。丁度を支払い、受け取った領収書をビニール袋に収めて、薬局をあとにした。
 車のなかは酷い暑さだった。「から好し」で昼食を取ることになった。移動し、入店するとお好きな席にどうぞと言われた。先客の食膳が片付いていなかったが、テーブル席のうちの一つに就いて、膳が下がるとメニューをひらいた。母親はレディースセットにすると言った。こちらは油淋鶏定食に決め、卓を拭きに来た店員に、注文よろしいですかと声を掛けて品を頼んだ。そうしてこちらは席を立って、水を二杯用意してきた。料理が届くまではさほど待たず、意外に早く来たなと思った。鶏肉をかじっては白米を同時に口に含み、咀嚼する。合間に千切りのキャベツを挟み、米も肉もなくなると味噌汁を啜って終いである。母親のほうの唐揚げは三個、こちらは四個だったが、母親はこれでも多いと言って三個目をこちらに寄越してみせた。さらにレディースセットにはついていた杏仁豆腐も半分いただいた。食事を終えると母親はトイレに行くと言って一万円札を取り出し、払っておいてと言うので席を立ってレジカウンターに行き、端数を充当して会計を済ませた。
 前日か前々日あたりから、イオンモールむさし村山に行こうという話になっていた。こちらの靴がひびが入っているほど古くなってしまったので、それを新調したいのだった。しかしその前に、年金を払い込むためにコンビニに寄った。入店すると手前のカウンターは空で、奥のカウンターに寄って払込みを済ませた。それからアイスの区画を眺めた。冷たいものを一つ食いたい気分になっていたのだが、見れば普通のワッフルコーンの横に、三〇〇円もする割高なソフトクリームがあって、一丁これを食ってみるかと手に取った。会計を済ませると外のダストボックスにカバーを捨て、母親を待つあいだ(彼女はまたメルカリのために何か品を発送していたようだ)、立ち尽くしてアイスをかじった。母親も出てきたところで車に戻って、なかでコーンをぱりぱり食って平らげた。
 時刻は一時過ぎだった。三〇分ほど掛けてイオンモールに移動した。ノースコートの正面、入り口の近い端に停車した。建物のなかに入ると母親と別れ、フロアを歩いて行った。比較的早い時点、電子表示の案内板を前にしているあいだに、冷たいものを先ほど食べたためだろうか便意を催して、トイレに行った。行ってみると個室は和式を除いて埋まっていたので、壁に寄って催したものに耐えながらしばらく待った。待っているこちらの前を子どもが一人、通り過ぎて、小便を済ませて出て行った。先客が一人去ったところで入れ替わりに個室に入った。広めの便所だった。
 案内板にまた戻ってちょっと眺めると、ZARAの店舗に入った。靴のほかにはややフォーマルな感じのジャケットも欲しいと前から思っており、あれは三月だったか前回来た際にZARAには結構良さそうなものが並べられていた記憶があったが、この度はあまりぴんとくるものがなかった。先日立川のTreasure Factoryで目にしたようなチェック柄のものが欲しいような気がしていたが、自分の持っているシャツの多くが柄物であることを考えると、組み合わせが悪くなってしまいそうで、悩みどころではあった。
 一階の通路を辿って行き、端まで行くと二階に上がって、こちらも通路に沿って順番に店に入って見分していった。COMME CAの店員がやたらと話しかけてきて(別に不快に感じたわけではない)、ウール地のジャケットを手に取った時など、それはウールの生産が日本一の町で作っていてと、愛知県だったかどこだかの名前を挙げていたが、耳にした傍から忘れてしまった。HIDEAWAYSという店にデニム調の靴のシリーズが並べられていて、これが少々気になった。ここの店員は店内に一人女性がいるのみで、積極的に話してくるでもなく、いらっしゃいませなどの声を上げるでもなく、距離を取って不動で立ち尽くしながらこちらの動きを窺っているようだった。
 エスカレーターで一階に下りた。ちょうど最初の位置から一回りしてきた格好だった。初めに素通りしていたGrand PARKという店に入ってみると、こちらの乏しいセンスを惹きつける(何かに惹きつけられる感性というものが今や希薄化してしまっているわけだが)ジャケットがあった。無地の紺色のものだった。羽織ってみると、見事にぴったりのサイズだった。身につけて鏡に向かい合うとほぼ同時に男性の店員が声を掛けてきて、プッシュしはじめた。とにかく生地がしっかりとしているということだったが、実際、先ほど見回ってきたなかにあったものはどれも薄かったり固かったりして、フォーマル度合いが足らず、こちらの要望にぴったりと答えるものではなかったのだ。店員の勧めに殊更に乗せられたわけではないが、元々二万円ほどの品が半額になっているということもあって、これは買いだろうと判断し、購入を決定した。そのほかこの店では、気軽に羽織れるようなタイプのジャケットも試着してみたりして、店員の方と話しながらいささか時間を使ったのだが、迷われたものの羽織りの品はいくつか既にあるので、買うのは先ほどのジャケット一着のみとした。
 クリーニング屋が用いるような黒いカバータイプの袋を提げながら階を上がって、HIDEAWAYSにふたたび入った。靴を見分していると女性店員が近寄ってきたが、地味な感じの、あまりセールストークが得意でなさそうな人だった。彼女と話しながら、そこにあったデニム調のシリーズの品を履き比べ、最終的にローファータイプのものに決定した。今まで履いていたものは処分してもらうことにして、新たな品で足を覆いながら会計を済ませ、店をあとにしたのだが、いざ歩いてみると、足のサイズにぴったりだと思っていたのが僅かに隙間があり、また足の裏への負荷も思ったよりもあったので、これは丈の高いほうを買うべきだったかもしれないなと早速疑われた。しかし今更品を取り替えに行く気もない。
 時刻はちょうど三時だった。買いたいものは買ったと母親に連絡すると、しばらくしてから返信があり、二階のスターバックスコーヒーの前で落ち合うことになった。それでそちらに移動して、立ったままちょっと待っていると母親が姿を現した。彼女はまだ一階をもう少し見て回りたいと言った。こちらはもう用は済ませたし、さっさと帰路に就きたかった。エスカレーターを下り、スーパー成城石井に入って買い物をしようとするのを見て、それでは車の鍵を貸してくれと言って受け取り、フロアを辿って外に出た。買ったものを車に収めておき、本の入った鞄を取り出した。喉が渇いていたので何か飲むことにして、手近の自販機に近づき、林檎ジュースを買った。近くには滑り台のついた遊具が設置されており、数人の子どもがその上を動き回って遊んでいた。ベンチには一人の男児の母親らしい女性がおり、こちらが立ち尽くしたままジュースを飲んでいると、しばらくして彼女はゆうた、ゆうた、と息子に声を掛けたのだが、子どものほうは遊ぶのに夢中で声の答えず、母親のほうを一瞥もしていなかった。
 ふたたび建物のなかに入り、通路の途中にある背もたれつきの小型ソファのような座席に座った。PARIS JULIETという店の前にいると母親に送っておいてから、岡田睦『明日なき身』を読み出したのだが、一〇分もしないうちに連絡があって、今もう車に来ていると言った。同じメールには同時に、アイスクリームを買ってきてとの要望が記されていた。確かにフロア中のどこかでアイスが売っているのを見かけた憶えがあったが、わざわざ戻って買うのも面倒なので要求は無視して出口に向かうと、その出入り口のすぐ脇に店があったので、それならと買うことにした。バナナ風味のアイスクリームは三九〇円だった。それを持って車に戻り、母親と分け合って食ってから乗りこんで出発した。
 帰りにスーパーに寄って買い物をしていくということだった。それで(……)のスーパー「オザム」に到着し、入店した。カートを押しながら回って行き、野菜やら豆腐やら飲むヨーグルトやらを籠に収めて、品物は籠から溢れそうなほどいっぱいになった。会計を済ませて荷物を袋に整理し、車に戻った。母親は隣接する服屋を見て来たいと言うので、こちらは車内で読書をしながら待った。扉を閉じていると車内は蒸し暑く、途中でドアをひらいたが、外気が入ってくるとそれだけでだいぶ涼しくなるものだった。時刻は午後五時、陽射しはなく空は曇り気味で、雨粒が散った瞬間もあった。五時二〇分に到って『明日なき身』を読了したが、その時間を手帳にメモすると同時に母親が戻ってきた。二〇〇〇円くらいの品(ガウチョパンツだったか?)を一つ買ったらしかった。
 それで帰路に就いた。疲れたこちらは座席を後ろに倒し、フロントガラスに向けて足を伸ばし、赤い靴下の足が外の人から見えるような、行儀の悪い姿勢を取って休んだ。自宅に着く頃には折悪しく雨が結構な降りになっており、濡れながら荷物を運び込んだ。買ったものを冷蔵庫に収めておくと、下階に戻った。レシートを見ながらこの日の支出を日記に記録しておくと、疲労していたので、夕食の支度は母親に任せてこちらはベッドに横になったのだが、このあたりのことはよく憶えていない。携帯を見ると、七時前に(……)にメールの返信を送っているから、寝転びながらその文章を練っていたものかと思う。

ありがとう。回復したのは、7月から薬を変えてそれが効いたのかもしれない。あまり実感はないけどね。7月末からまた読書ができるようになった。

気分の落ち込みはなくなったが、感情は平板なままで、以前感じられたことが感じられない(欲望とか、喜びとか、面白さとか、季節感とか)。

ともかく読み書きを、また楽しく充実してできたらっていうのが目標というか理想かな。それにはもしかしたら、何年か掛かるのかもしれない。以前のレベルに達するのにも、丸五年掛かったわけだから。

(……)のほうも、元気に家族仲良く夏を越せたようで良かったね(まだ暑い日はあると思うが)。

 夕食には、朝にも食ったうどんの残りを食べたが、これは時間が経って相当にでろでろになっていた。ほか、スーパーで買ってきたばかりの秋刀魚などを食した。食事のあいだは雨が盛って、雷も頻繁に聞こえ、停電しないだろうかと母親は不安を漏らした。
 日記を綴るのだったが、やはり疲労感が勝っていたので、一〇時から寝転がって読書を始めた。岡田睦の次に選んだのは、朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。訳者の朝吹三吉というのは、朝吹亮二の父親で、朝吹真理子の祖父らしい。
 一一時を越えると、Jose James『While You Were Sleeping』を流しながら日記を綴った。もはや記憶を無理に掘り起こそうとして詳細に書くのでなく、覚えている限りのことを適当に記せば良いだろうという軽い姿勢でいたのだが、それでも一時間半掛けてイオンモールの途中までしか記せなかった。一時過ぎからふたたび読書をして、二時頃就床。

2018/8/30, Thu.

  • 五時頃一度覚める。肌が何かちくちくすると思ったら、小さな百足が身体にたかっていた。シャツの下から出し、シーツの上に落ちたところをティッシュペーパーでくるんで捨てた。
  • それから九時過ぎに起床するまで、夢をたくさん見たはずなのだが(そして微睡みのなかで忘れないように反芻したはずなのだが)まったく思い出せない。
  • 起床後、洗面所に行ってきてから瞑想をする。悪くない感じだった。
  • 朝食は素麺と昨日のゴーヤチャンプルーの残り。気温計は三二度。高温注意情報の放送があったが、猛暑というほどではなさそう。
  • 一〇時半から読書をする。岡田睦『明日なき身』。一二時半頃に到って眠気にやられる。そこから三時間、薄い眠り。目を閉じるたびに夢を見るが、その記憶をあとに残せない。
  • 起き上がって瞑想をした。四時ぴったりまで一八分。今更瞑想をしたところで意味があるのかないのか不明。少しでも感覚の鋭敏さが戻ってくれないか。そこからまた本を読み、五時を回ったところで上階へ。
  • キャベツを茹で、スライスしたジャガイモのソテーを作る。ゴーヤを切っておき、それを使った煮物は母親に任せて下へ。ギターを弄った。そうして歌を歌い、七時を越えて食事へ。
  • 夕食後、散歩。涼しく、風もある。これなら汗をかかなさそうと思ったところが、一〇分ほど歩けばやはり肌は湿りはじめて、路程の後半では背中一面濡れていた。駅のポストで母親から頼まれた懸賞葉書を投函する。歩いているあいだは、以前のように周囲の事物や空気の感触に意識が行くのでなく、まとまりと繋がりを持った思考が展開されるのでもなく、余計な音楽や断片的な言葉が頭に入り混じって次々と移って行く。何かを定かに感じることもできないし、論理的に整然とした思考を組み立てることもできない。自分がまた以前のように感じ、考えられる日は来るのだろうか、多分来ないのだろうなと、毎日そればかり頭によぎっては過ぎて行く。
  • 帰ると入浴。翌日が通院のため、髭を剃った。出てのち、九時四五分から読書。本は相変わらず面白くもつまらなくもないし、取り立てた感想もない。
  • 夜半、Jose James『Yesterday I Had The Blues - The Music of Billie Holiday』を聞く。

2018/8/29, Wed.

  • 正午過ぎ起床。
  • 二時半、『人文死生学宣言』を読みはじめたのだがすぐに中断。この本の読書は止めることに。今の自分は、小難しい形而上学を楽しめる頭の状態ではない。論旨が追えず、内容がうまく理解できない。代わりに岡田睦『明日なき身』を読みはじめる。
  • (……)からメール。
  • ホスファチジルセリンを注文。
  • 夕刻、牛蒡の煮物、ゴーヤチャンプルーを作る。また、(……)さんから貰った讃岐うどんを茹でたが、鍋の深さが足りず、いくらか底に貼りつけて焦がしてしまった。
  • 何かをしているという実感なく、ただ漫然と無駄に消費されていく日々。
  • 夕食時に鳥人間コンテストをちょっと目にする。青春の一風景。欲望と正常な感情の働きを持って何かに情熱を燃やせる人間たちが羨ましい。

2018/8/28, Tue.

  • 正午過ぎ起床。わりあいに涼しい日。居間の気温計は三〇度ほど。二時半頃、雨が降ったが、すぐに止んだよう。
  • 二時半から五時半まで読書。この日は昼寝に陥ることはなかった。保坂和志『未明の闘争』を読了。渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣編著『人文死生学宣言――私の死の謎』を読み出す。
  • 夕刻、茄子の炒め物とエノキダケの味噌汁を作る。
  • あらゆる意味での差異を感じることができない。