2018/9/22, Sat.

 ベッドを抜け出すのには一二時一〇分まで掛かった。七時頃から何度も目覚めており、眠気は薄れてほとんどなくなっていたのだが、身体が気怠いようで気力が湧かず、無益に長々と布団のなかに留まってしまうのだった。時間が遅くなったので瞑想はせずに上階に行くと、鮭などをおかずに食事を取った。テレビは『メレンゲの気持ち』を流しており、NHK青井実アナウンサーなどが出演していたが、興味を持てなかったし目を向けていて楽しいとも面白いとも思えなかった。風呂は湯が多く余っているから今日は洗わなくて良いとのことだったので、食後に食器を片付けるとそのまま下階に下った。ギターを弄ったあと、モニターを前にしながら二時半前までだらだらと過ごした。何も活動を行っていないにもかかわらず、疲労感が生じていた。読書をするかたわら身を休めようとベッドに仰向けになり、手帳を取って「14:25~」と書見の開始時間をメモしたものの、実際には本をひらく前に目を閉じて休息しはじめてしまい、そうしてそのまま意識を落とすことになった。貼りつくようになった寝床から身を離したのは、それから五時間半後の午後八時直前だった。この日は合わせて一五時間もの時間を寝床で過ごすことになったわけだが、大して何も行動していないのに疲労感を身に帯びてこれほどまでに休んでしまうというのは明らかに異常であり、だいぶ回復してきたと思っていたものの、自分はその実、うつ症状の圏域からまだまだ逃れていないということなのかもしれないと思った。とにかく気力というものが心身に湧いてこず、眠気がなくとも起き上がることができずに、目を閉じて臥位のままに時間が流れて行くのだった。床を離れた頃、南の空に清かな光を持った半月が出ており、連なる波のように広がる雲の合間から落とされた月影が暗闇の部屋を通って、こちらの影を僅かに浮かび上がらせていた。上階に行くと、鍋に入った薩摩芋をつまみ食いしながら、茄子の炒め物や大根とワカメの汁物やサラダを食器に盛り、挽き割りの納豆に甘い酢を加えて支度をした。そうして卓に就き、出川哲朗の充電バイクの旅を見ながらものを食ったが、やはりテレビを見ていて興味を惹かれるとか面白いと感じるという心の働きがまったく生じず、心身にあるのは疲労感と空虚感のみだった。食後、三ツ矢サイダーをコップに注いで飲んでから、薬剤とサプリメントを摂取した。クエチアピンはここのところ勝手に一回一錠に減薬していたところ、今日のように疲労感と無気力さに襲われるばかりなので、関係があるのかわからないが二錠ずつに戻してみることにした。そうして自室に戻り、ジャージを脱いでパジャマを持って洗面所に行き、入浴した。風呂を洗わなかったので湯のなかには細かなゴミがたくさん浮遊しており、浴槽の壁もいくらかぬるぬるとしているようだった。時計を見やると、時刻は八時四五分だった。窓を少々ひらいて目を閉じ、一〇分ほど静止してから立ち上がって冷たいシャワーを浴びた。そうしてまた湯のなかに戻り、その後髪を洗って風呂を上がり、緑茶を拵えて自室に戻るとしばらくインターネットに遊んだ。日記を記しはじめたのは一〇時を四分の一過ぎた頃合いだった。記憶を思い返しながら前日の記事をのろのろと綴り、この日の分も記すと、既に九月二二日の終わりも近かった。洗面所から歯ブラシを取ってくると、歯を磨きながら金子薫『双子は驢馬に跨がって』を読みはじめた。口をゆすいできてからしばらくのあいだはベッドのヘッドボードに当てたクッションに凭れていたが、じきに臥位に移って横を向き、虫の音の窓を抜けて染み入ってくるなか、膝を曲げて身体を丸めるようにして読書を進めた。横になっているにもかかわらず、疲労感で身体が重いようで、腹には原因不明の痛みがあった。本を最後まで読み終えたのは一時過ぎだったが、この作品は書抜きをしたいと思う箇所もなく、あまり面白かったとは思えなかった。そのまま消灯して眠りに向かいたいところを、瞑想をしなければとしばらく耐えて、一時二四分から起き上がって枕に腰を下ろした。一四分間座り、そうして明かりを落として布団に潜りこんだ。入眠に苦労した覚えはない。

2018/9/21, Fri.

 七時台に一度、自ずと覚醒があった。アラームを待ってふたたび寝入り、八時半のそれが鳴ると床に立ち上がって携帯を取ったが、例によってふたたび寝床に戻った。起床を見たのはそれから一時間後の九時半だった。まだ意識が重いようなのを無理やり断ち切って布団から抜け出し、洗面所に行って顔を洗って来てから、枕に尻を乗せて瞑想を行った。雨が物静かに降っており、雨滴に満たされた空間の遠くからは鳥の声が間歇的に薄く伝わってきた。目をひらくと一七分が経っており、手帳に瞑想を行った時間をメモしてから放心したようになって窓のほうに顔を向けていると、梅の木の葉叢のなかのところどころで、上の葉から溢れた雫が落ちて当たるのだろう、たびたび縦に揺れるものがあって、大きな機械仕掛けの楽器の部分部分が入れ替わり立ち替わり鳴っているかのようだった。上階に行き、前日の残り物のうどんや林檎で食事を取る。抗精神病薬サプリメントを服用し、食器を洗ってから薬缶に水を汲んで、湯の少なくなっていた電気ポットに水を足した。そうして、パジャマからジャージに着替えてから風呂を洗い、出てくるとポットは湯を沸かしている最中なので一旦自室に戻ってコンピューターを立ち上げた。ちょっと経ってから緑茶を拵えにまた上がって行くと、母親はテーブルの端、ポットに一番近い席に座って書き物をしていた。大学時代に付き合いがあったのだろうか、石橋幸というロシアの歌を歌うらしい歌手から兄に向けて先般公演への誘いが送られてきていたのだが、それに対して、息子はモスクワに赴任中のためコンサートに行けないという返信を小さな紙片に律儀に綴っているのだった。電気ポットの台とテーブルとのあいだの狭い隙間に入り、母親の傍らで茶を注いだこちらは自室に帰って、そこから一二時頃までだらだらとした時間を過ごした。何ら有効な活動を行っていないのに、目の奥が重いような疲れが湧いていた。それで日記を記さなければならないところを、ひとまず身体を休めることにして、ベッドに横たわって金子薫『双子は驢馬に跨がって』の続きを読んだ。雨は降り続いており、腹のなかで消化が進んだためでもあろうか、寝転がりながら身に寒気を帯びる瞬間も何度かあった。それで薄布団を引き寄せてその下に入り文を読み進めるうちに、殊更に眠いわけでもないが瞼の落ちる時間が訪れる。本格的に寝入ってしまわないように注意しながらも目を閉ざしていると、突如携帯の振動音が響いて、それで落ちかけていた意識が明るむことになった。メールは、クレジットカードの請求金額確定の通知だった。それからまた少し読書をして、二時一〇分で切ると豆腐でも食べようかと上階に行った。レトルトカレーを食べて随分美味しかったと母親が言うので、こちらもそれをいただくことにして、パウチの水に浸けられているフライパンを火に掛ける。加熱しているあいだに卓のほうで、前夜の残りの炒め物を食べ、そうして台所に入ってカレーを大皿に用意し、それを続けて食した。テレビは『ミヤネ屋』を流していて、どこかのコンビニの店長の不適切な振舞い(深夜に店を訪れた女性客に向けて、ズボンのチャックの隙間から手を出してみせたり、猥褻な言葉を吐いてみせたり)を取り上げていたが、それについては細かいことは良いだろう。洗い物を済ませると、いよいよ日記を書かねばと思いながら階段を下ったが、ここに至ってもあまりやる気が湧かず、自室ではなく隣室に入ってギターに逸れてしまった。じきに三時を迎えた。便意を催したのを機にギターを弄るのを切り上げてトイレに行き、排便をすると(大したことはないが、久しぶりに肛門から血が漏れて便器のなかの水がぽつぽつと赤く染まった。排便とともに出血を見ることが、一年以上前から折に触れてあるのだが、痔なのだろうか?)自室に帰って、ようやく日記に取り掛かった。一九日の分が完成しておらず、二〇日のものに至っては一字も記していなかったが、まだ記憶の新しいこの日のことから初めに綴った。その後、一九日の記事を書き足し、二〇日のものも短く綴って仕上げると、時刻は四時一五分を迎えていた。それから(……)さんのブログを読んで五時を越えると夕食を作りに行くべき頃合いだったが、マウスの下敷きにしていたガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』を久しぶりにひらいて、アウレリャノ・ブエンディア大佐の最後の一日の記述を読んだり、自分のブログの文章を読み返したりしてしまって、部屋を出る頃には五時半を過ぎていた。階を上がって台所に入ると、茄子を二個分、楕円形に切り分けてフライパンで炒めた。野菜に焦げ目がつき、蒸気が底から薄く立ってはすぐに散っていくくらいになるまで調理をすると完成として、隣のコンロで火に掛けられていた鍋に味噌を溶かした。白菜と椎茸の味噌汁だった。あとは、食事のすぐ前に鮭を電子レンジで調理すれば良いのだった。仕事を終えて下階に帰ると、一年前の日記の読み返しを始めた。二〇一七年九月一五日の分からだった。三日分を読んで一旦打ち切り、インターネットを回ってから食事を取りに上がった頃には、八時がもう近かったはずだ。ものを食べるあいだ、テレビのなかではモーリー・ロバートソンが、日本人でも知らないような日本語のクイズに挑戦しており、一度も見たこともないような難読語を彼が正解するのを目にして母親は、凄く頭がいいんだねと感心していた。そうしたおよそどうでも良い番組に目を向けて空虚感を味わいながら食事を取ったあと、入浴に行った。浴槽のなかで身体を湯に取り囲まれながら両腕を縁に掛けて静止し、八時二〇分から八時三五分まで目を瞑っていた。そうして風呂を上がって自室に戻ると、その内実を記憶していないが午後一一時を迎えるまでインターネットに触れてだらだらと過ごしていたらしい。それからふたたび日記の読み返しを始めて、二〇一七年九月一八日から二一日の分まで四日間に目を通した。二一日の記述をここに引いておく。

 茶を用意しながら居間の南窓を見通すと、眩しさの沁みこんだ昼前の大気に瓦屋根が白く彩られ、遠くの梢が風に騒いで光を散らすなか、赤い蜻蛉の点となって飛び回っているのが見て取られる明るさである。夕べを迎えて道に出た頃にはしかし、秋晴れは雲に乱されて、汗の気配の滲まない涼しげな空気となっていた。街道に出て振り仰いでも夕陽の姿は見られず、丘の際に溜まった雲の微かに染まってはいるがその裏に隠れているのかどうかもわからず、あたりに陽の気色の僅かにもなくて、もう大方丘の向こうに下ったのだとすれば、いつの間にかそんなに季節が進んでいたかと思われた。空は白さを濃淡さまざま、ごちゃごちゃと塗られながらも青さを残し、爽やかなような水色の伸び広がった東の端に、いくつか千切れて低く浮かんだ雲の紫色に沈みはじめている。
 裏通り、エンマコオロギの鳴きが立つ。脇の家を越えた先のどこかの草の間から届くようだが、思いのほかに輪郭をふくよかに、余韻をはらんで伝わってくるなかを空気の軽やかに流れて、それを受けながら歩いて行って草の繁った空き地の横で、ベビーカーに赤子を連れてゆったり歩く老夫婦とすれ違うと、背後に向かって首を回した。夕陽が雲に抑えられながらも先ほどよりも洩れていて、オレンジがかった金色の空に淡く混ざり、塊を成した雲は形を強め、合間の薄雲は磨かれている。歩く途中で涼しさのなかに、気づけばふと肌が温もっている瞬間があったが、あの時、周囲に色は見えなくとも光線の微妙に滲み出していたらしい。それから辻を渡って、塀内の百日紅が葉の色をもう変えはじめていると見ていると、もう終わったと思っていた樹の枝葉の先に、手ですくわれるようにして紅色が僅かに残って点っていた。

 その後、日付が変わるのを待たずに音楽を聞きはじめた。いつも通り、Keith Jarrett Trioのスタジオ版の"All The Things You Are"から始め、『Tribute』の"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"を聞いた。そうして最終曲の"U Dance"を流してこのアルバムを一通り聞き終えると、Ryan Keberle & Catharsisの"Ballad Of The Sad Young Men"に飛んだ。Camila Mezaが伸びやかな声で歌う『Into The Zone』収録のそのバラードのあとには、『Azul Infinito』の最終曲、"Madalena"を聞いて音楽鑑賞を終いとし、すると時刻は零時半だった。それから(……)一時過ぎから金子薫『双子は驢馬に跨がって』の続きを読んだ。そうして二時を回り、本を閉じて瞑想をしたあと、二時半ちょうどに明かりを消して眠りに向かった。

2018/9/20, Thu.

 この日は一日中、だらだらと不活性な状態で過ごした日で(今の自分はそもそも何をしていても精神そのものが不活性であるようにも思われるのだが)、特に印象深いことも残っていない。辛うじて行った活動としては、朝晩に一五分ずつの瞑想を行ったこと(自分に何らかの恩恵があるかどうか不明だが、ひとまず以前のように起床後と就床前の瞑想をふたたび習慣にしてみようかと考えている)、午後三時一五分から五時半まで金子薫『双子は驢馬に跨がって』を読んだこと、夜半に音楽を四〇分ほど聞いたこと、その程度である。音楽は例によってKeith Jarrett Trioの"All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)に、八九年録音のライブ盤である『Tribute』から、"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"、"All The Things You Are"、"It's Easy To Remember"の四曲である。ヘッドフォンをつけて瞑目しているあいだ、瞼の裏の視界に靄のような淡い光のようなものが蠢くのが見えた。これは丹光と呼ばれるもので、以前瞑想を習慣的に行っていた時には毎度のように目にしており、これが出てきたというのは変性意識がある程度深まった証、要は何らかの脳内物質なり脳波なりが発生している証としてこちらは捉えていたのだが、今回これが見えたからといって、かつてのように意識が研ぎ澄まされるとか、液体的な心地良さが生まれるとかそういったことはなかった。脳内物質の分泌に異常がないのだとしても、受容体のほうがどうかなっているというそういう可能性はあるのかもしれない。

2018/9/19, Wed.

 この朝も何かしらの夢を見たはずだが、既に忘れてしまった。七時の携帯アラームで布団を抜けたものの、例によってふたたび寝床に戻ってしまう。この日は前日に引き続き父親が休みで、朝から墓参りに行くという話になっていた。それで何度か、天井が鳴ってこちらを呼ぶ音がしたが、それを無視して横たわり続けた。身体にさして重さがあるわけでなく、眠り足りないという感じがあるわけでもなく、ただ何だか起き上がるための活力が湧いてこないのだった。それで寝床に吸いつけられたかのようにして時間を過ごし、出かけていた両親も帰ってきたあと、一〇時五五分になってようやく身体を起こした。上階に行き、顔を洗ってから食事を取った。豚汁にハム入りの目玉焼きで、米の類は食べなかった。こちらがものを食べはじめた頃、父親は畑に出て、母親は再度買い物に出かけて行った。卓上には「iHerb」の文字を記された段ボールの小箱が置かれていた。こちらの注文したN-アセチルL-チロシンがこの午前に届いたのだ。食後、段ボールを鋏で切りひらいてサプリメントのボトルを取り出しておいたが、まだ飲みはじめはしなかった。今飲んでいるバコバハーブがなくなってから、それと入れ替わりにこれを摂取しはじめるつもりである。食器を洗うと風呂掃除もしてから、緑茶とサブレを持って自室に戻った。一一時四五分頃だった。茶を飲みながら娯楽的な動画を眺めたのち、一二時四五分に至って日記に取り掛かりはじめた。しばらくすると母親に呼ばれたので上階に行ってみると、畑の父親に食事を届けてくれと言う。それでカレー風味のドリアやらサラダやらが乗った盆を持ち、裸足にローファー型の靴を履いて玄関を抜け、家の南側に回った。ゆっくりとした足取りで通路を歩くこちらの足もとを、オレンジ色の蝶が飛び交い、草と戯れていた。父親自ら作った木製のテーブル席に膳を置くと、眼下の畑にいる父親に呼びかけ、飯、ここに置いておくからと知らせた。そうして戻る途中、草むらのなかの葉の一枚に、先ほど見かけたオレンジ色に斑点の付された蝶が乗っているのを見つけて立ち止まり、葉の上に静かに止まりながら翅をゆっくり広げては閉じるその姿を見つめた。そこにいるあいだに陽が出てきて背に掛かったが、さらりとした秋の空気のなかでその熱が、暑いのではなくむしろ気持ちが良いようだった。室内に戻ると、母親がこれも持って行ってと示すのは、氷の入ったカルピスの注がれたグラスである。それでそれも持ってふたたび外に出ると、林からツクツクホウシの鳴きがまだ立っていた。家の南側に向かって下りて行くと、上ってきた父親と出会ったので、向こうに置いておくよと掛けてすれ違い、テーブル席にグラスを加えておくと、自室に帰った。そうして書き物に戻り、一二時四五分から合わせて四時間のあいだ、黙々と日記作成を続けて、一七日のことは一万五〇〇〇字近くに達し、その翌日は反対に一〇〇〇字未満で簡易に綴り、さらにこの日の分まで書き綴ることができた。四時半前にはインターフォンが鳴ったので上階に上がって行った。玄関を開けると、予想していた通り(……)さん(トラック行商の八百屋)である。挨拶をして、今、下にいるんでと母親のことを指し、訊いてきますと言って家の南側に回る。帽子を被り、しゃがんで草取りをしている母親に、(……)さんが来たと伝えると、今日はいいと言うので、家の角を曲がり、上の道にいる(……)さんに向かって腕で✕印を作って示した。そうして坂を上って、運転席に乗りこんだ彼の近くまで行き、すみません、またお願いしますと残して見送ったあと、郵便を取ってなかに戻った。その後、夕食の支度にはピーマンと牛肉を炒め、またブナシメジの味噌汁を拵えた。それから下階に戻るとギターを弄り、部屋が暗んだ午後六時になって止めると、自室に入って(……)さんのブログを読んだ。ここのところ読めずにいて未読の記事が溜まっていたのだが、一五日のものから最新の一八日のものまで一気に読んでしまうと、一時間が過ぎて時刻は七時を越えていた。そうして食事を取りに行き、食物を摂取してから風呂に入ると、湯のなかに浸かって目を閉じた。外から響く虫の声が継ぎ目なくひと繋がりに大きくなって、空間の途中に差し挟まれているシートのようだった。入浴後は特に日課の記録も付いておらず、長く、だらだらと過ごしたはずだ。そうして午前一時に至ると読書に入ったのだが、それは残り少ないカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読み終えてしまいたかったのだ。僅かな残り頁を三〇分で読了したあと、そのまま続けて金子薫『双子は驢馬に跨がって』を新たに読み出し、二時を回ったところで切りとして、眠る前の瞑想を行った。ころころと転がる硝子の玉のような虫の声に耳を寄せたあと、二時一七分に至って目をひらき、明かりを落として就床した。

2018/9/18, Tue.

 一〇時前起床である。前日に会ったばかりの(……)が出てくる夢を見たはずだが、詳細は既に失われている。朝食は、ものを食べたいという気持ちが全然なかったため、鯖の一切れに米、あとは梨で軽く取った。日記に取り掛からなければならないはずが、一二時間以上も外出した前日の記事が長くなることがわかっているためだろう、むしろそこから遠ざかってしまい、だらだらと娯楽的な動画などを見て時間を過ごしたあと、一二時半頃になってベッドに横たわった。前夜の帰宅後にはなかった疲労感が、むしろ一夜を挟んだこの時になって湧いてきたようだった。それでちょっと休もうと身を横たえ、横を向いて身体を丸めていたところが、まったく「ちょっと」に終わらず、ここから六時過ぎまで五時間以上も寝床に留まる体たらくとなった。この日は合わせて一三時間以上も横になっていたことになる。起きて上階に行くと、飲むヨーグルトを一杯飲んで喉を潤し、フライパンで秋刀魚を焼いた。その後、自室に帰って、七時前からようやく書き物に入った。そうして八時ちょうどまで記事を書き進めてから夕食に上がって行った。炒飯の残りや秋刀魚、薩摩揚げに豚汁などである。テレビは『ヒャッキン!〜世界で100円グッズを使ってみると?〜』を映しており、酒を飲んで肌のいくらか赤くなった父親は機嫌良さそうに、番組に反応して一人で色々と呟きを漏らしている。なかに、マイクロファイバー素材の掃除用手袋というものが紹介された。両手にそれを嵌めて掃除箇所を撫でていくだけで埃が取れるという代物で、チェコの古城のシャンデリア掃除を担っている女性など、無数の細かな部品をいちいち拭かなければならないためにそれまで一つに一時間は掛けていた面倒な仕事が随分と楽になると言って、表情をニコニコとさせていた。あんなの良さそうじゃないかとこちらも呟き、それから風呂に入った。入浴後、緑茶で一服するあいだはふたたび動画を閲覧して気を緩め、一〇時半から書き物に返った。それから三時間弱、一時過ぎまで書き続けたが、『リズと青い鳥』について書き記すのに手間が掛かって、六〇〇〇字くらいまでしか進まなかったはずだ。その後、歯を磨き、また時間をちょっと使って、一時五〇分に床に就いた。

2018/9/17, Mon.

 寝付きが悪く、深夜と早朝で二度覚めたあと、無事に七時のアラームで起床することができた。久しぶりに瞑想をしたあと(七時一分から一五分まで――最中、特に気分の変化や何らかの精神作用などはなかった)、上階に上がって行き、台所に立つと、出勤前の父親が立つ脇、ソファに置かれた黒いバッグに陽射しが掛かっている。生ゴミや燃えるゴミを母親とともにゴミ袋に詰め込んで、生ゴミを保管するのに使っている薄黄色のバケツを洗って、勝手口の外に干しておいた。何を食事に取ったのかは覚えていない。ニュースは東京でも始まっているシェア自転車サービスを取り上げており、(……)さんが中国で利用しているのもこういうものなのだなと、リポーターが皇居周辺を走っているのを見やった。下階に戻るとキリンジ『3』を掛けて、服を着替える。上はボタンの色がそれぞれ違った白いシャツ、下はインクのような紺色に染まったなかにストライプが入り、裾がやや細くなったパンツである。それから上階に行って、靴下は先日買った臙脂色のものをおろし、出発前に風呂を洗った。リュックサックを背負い、「ノーブル」一〇個入りの箱の入った「(……)」の紙袋(リュックサックにはうまく入らなかった)を片手に提げて家を発ったのは八時半である。道端の草の上で朝露が光り、傍の家の屋根はその襞に合わせて川の水面のように純白を乗せて輝いていた。坂に入るとガードレールの向こうの草間に生えた彼岸花の細い手が、これもやはり陽を受けて、触れればぱきりと音を立てて折れそうな硬質の光沢を帯びている。陽射しのなかに夏日が既に窺えた。街道を渡って裏路地に入ると道は途端に静けさを増し、人は家先に出た老人やベランダで物を干す主婦ばかりで通行人も見られず、靴音が際立つようになる。見上げれば、すっと引いた線を左右に筆で搔き乱したような薄雲が走っていた。汗をかきながら二〇分ほど歩いて(……)駅に至ると、ホームの先のほうに行ってマンションの作り出した日蔭に入る。まもなく、電車がやって来た。乗りこんで手帳にメモを取ったあと、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』をひらいて読む。(……)駅で正面に乗ってきた幼子と母親の、子どもが座席に乗ると最初は「くつぬがして!」と大きな声を上げ母親に窘められていたが、その後はその子は(ミッキー・マウスのリュックサックを背負い、「LONDON」と文字の入った靴下を履いている)喋ることもなく、ただひたすらに窓の外をじっと見つめていた。立川に着くと降りて、南武線に乗り換える。川崎行きに乗って扉際に就き、四〇分ほどのあいだ、人が多く乗り降りする駅では持った本を胸に押しつけて避けながら、文章を追って到着を待った。川崎で降りると、映画館「CINECITTA」が東口方面にあると聞いていたので、そちらに合った改札口を探してホームを歩いたが、中央北改札と中央南改札は向かい合っていたので、これはどちらでも良かったのだ。中央北から抜けて、(……)にメールを送ると、予想した通り宛先が見つからないとの知らせが戻ってきた。今年の四月に数年ぶりで再会するまで随分と間があったから、アドレスの変更を通知されていなかったのだ。それで(……)のほうに到着したとメールを送っておくと、まもなく皆に知らせたと返ってきた。群衆の姿とざわめきに満ちたコンコースの一角に立って周囲を見回したり、高い天井から洩れ落ちる陽が床に矩形型に宿っているのを眺めたりしていると、突然、横から話しかけられた。見れば、やや褐色に染まった肌で青いTシャツを着た女性が箱を持って立っており、素性がよくもわからないが募金を集めていると言う。それについて何の知識も持っておらず、実態のよく知れず、あまり興味関心もない団体に対して、何も考えずに募金をすることに思うところがないではないが、せっかくなので、と呟き、日和見的に一〇〇円を与えた。女性は礼を言い、富士山の水で清めたお金だと言って、五円玉の入った小さなビニールの包みを渡してきた。礼を言って受け取ったそれの詳細を今ここに書き記しておくと、なかに入ったチラシの片面には、「NPO団体Animals Life Saves」と組織名が上端に掲げられ、その下に、「地球の生命・環境の為にあなたが出来ることを」との誘いが記され、さらにその下の段にはQRコードが付され、横には「命の危機に直面してる生命を救うために温かいご支援をお願い致します。」とある。下部には「あなたの寄付で出来ること」との題に括られた囲みのなかに、例えば「1,500円で63生命に清潔な水を」「3000円で120生命に予防接種を」などと挙げられており(「生命」が一つの数的単位として用いられている)、全体の背景として影を帯びた富士山が描かれている。紐のついた五円玉の収められたもう片側のほうには、左上に「福銭」と大きめの文字で掲げられ、右上からは縦に三行で「天下の霊峰【富士山】より/湧き出ずる霊水で清めた/神聖なる福銭です」と述べられて、下端には横向きに「あなたに幸せが訪れますように」とあり、やはり背景にはオレンジ色に染まった富士山の姿と、そのすぐ脇に、太陽を表しているのか月を表しているのか、同じ色で塗られた真円が描かれている。この包みに関してはそんなところである。それからまた立ち尽くしていると、すぐ目の前に(……)が現れていることに気づき、こちらをまだ認識していなかった彼に向けて、(……)、(……)、と声を掛けた。それからまもなく、(……)さんも現れて、こんにちはと挨拶をした。確かこの時もうすぐに、母親が頂きものをしたようで、とか言って、持っていた「(……)」の袋を彼女に渡してしまったはずだ。そうしてじきに(……)も合流し(髪が結構伸びていた――仕事が忙しく、前回会った四月以来切っていないという話だった)、一人遅れている(……)を待つ。一一時一五分頃になって改札から現れた彼女は、紫の風味の含まれた紺色(いくらか和風の雰囲気を感じさせるような色合い)の地に全体にピンクの小花が散ったワンピースを纏っていた。そうして皆で連れ立って歩き出し、こちらは(……)と並んで彼の仕事の話をちょっと聞く。(……)は企業のセキュリティ環境の診断・監修のような仕事をしていると言い、最近は案件/業務外で試験の類を三つ受けなければならないらしく(そのうちの一つは国家試験だと言っていた)、忙しいようだった。横断歩道で立ち止まると、夏日の陽射しがじりじりと顔に照りつける。「CINECITTA」のある区画に入ると、黄土色じみた穏やかな褐色の西洋風建築を、(……)は、「似非ディズニー・シーみたい」と評していた。「CINECITTA」の建物自体は外壁に結構褪色が見られた。なかに入り、機械を使って(……)がチケットを五枚発行し、各々に配る。そうしてエスカレーターを上がって行き、上映開始の一一時三五分とほぼ同時に上映ホールに入場した。人の顔のわからない暗闇のなかで席に就くと、しばらくアニメ作品の宣伝が流れたあとに、例のお定まりの撮影・録音禁止の注意が表示され、そうして『リズと青い鳥』が始まった。音が良かった、というのは上映後に皆が一致して口にしていた評価だ。冒頭、鎧塚みぞれがまず登場して、物思いや躊躇いを含むような歩調を見せたあと、次に誰なのかわからない無名の女子生徒が通り過ぎて行き、最後に傘木希美が現れてまっすぐな足取りで歩いて行く、その三者それぞれの足音に既に、性格造形をも担った細かな差異がはらまれていた。その他、こちらが生々しくて良かったと思うサウンドは、序盤の音楽室で椅子に座った傘木希美が鎧塚みぞれに近づく時の、椅子と譜面台の足が床を打つ連打の音、バスケットボールが体育館の床に打ちつけられる音、水道から流れ出た水が流しに落ちて当たる音などだが、こうして並べてみるとどれも「打音」に属するものである。シーンとして最も印象に残っているのは、フルートに反射した光の演出だろう。理科室にいる鎧塚みぞれと、そこから見える教室にいる傘木希美とのあいだで、窓越しに身振りによる無言のやりとりが交わされ、傘木希美の持っているフルートに反射した光の玉が偶然、鎧塚みぞれの身体の上で戯れる、という場面である。あとで聞いたところ、(……)もここが最も良いシーンだったという評価だったようで、こちらはあまり注目していなかったが、彼が言うにはこの作品は「窓」を利用した演出が多用されていたと言い、窓ガラスをあいだに挟んだ描写などは、鎧塚みぞれと傘木希美のあいだにある壁を表すことになる。二人の関係性には常にすれ違いや齟齬が含まれているわけだが(鎧塚みぞれは傘木希美に対して同性愛的な強い思いを抱いているが、それが傘木希美に受け止められることはない。また、作中でコンクールの自由曲として演じられる"リズと青い鳥"は、第三楽章のフルート(傘木希美)とオーボエ(鎧塚みぞれ)の掛け合いが一番の勘所とされているが、そこでの二人の演奏はうまく相応しない。終盤では、鎧塚みぞれの才能を目の当たりにした傘木希美は、彼女との差を思い知って涙することになる)、先のフルートに反射する光のシーンでは、こちらは注視していなかったものの、(……)が言うところ彼女らのあいだに挟まった窓がひらいていたらしく、とするとここは常にすれ違い続ける二人が唯一、屈託なく感情を通わせた特権的な瞬間として描かれていることになる(のちのイタリア料理店での会話の際には、こちらはそれを「ユートピア的な」瞬間という言葉で形容した)。ほか、一般的なクライマックスとして捉えられただろう場面は、終盤の合奏で、鎧塚みぞれが迷いを捨ててそれまでうまく演じられなかったオーボエのソロを朗々と吹き上げるところで、(……)はここでのオーボエの音に涙したと言っていた。楽曲 "リズと青い鳥"の原作である童話は、「一人ぼっちで」森に住むリズという少女のもとに、ある日突然青い髪の少女が現れるという物語である。その少女の正体は青い鳥で、リズは少女と暮らしを共にして心を通わせながらも、自分の「愛」が彼女を縛っているのだという考えに達し、大空に自由に羽ばたくようにと鳥を逃がすことになる。当初、物語中のリズは鎧塚みぞれと、青い鳥である少女は傘木希美と重ね合わされており(中学時代に「一人ぼっち」だった鎧塚みぞれの前に、傘木希美が「突然」現れて、吹奏楽部に入部するよう誘ったという経緯がある)、傘木希美を愛する鎧塚みぞれは、自ら好きな相手を解放して自分の前から離してしまうリズの心情が理解できず、第三楽章のオーボエのソロをうまく吹くことができない。その迷妄を解消したのは、鎧塚みぞれに音大進学を薦めた新山先生という女性教師で、彼女が鎧塚みぞれに、自分がリズではなく青い鳥だったとしたらどう思うかとヒントを与え、鎧塚みぞれは、青い鳥はリズを愛していたからこそ別れを受け入れたのだという答えに至る。この教師の導きによって、リズ=鎧塚みぞれ、青い鳥=傘木希美だった見立ての構図が反転することになるわけだが(童話中の「リズ」と「青い鳥」が本田望結という一人の女優によって演じ分けられているのは、二者関係の反転/交換可能性を示しているのではないか)、同じ頃、傘木希美もこの反転に気づくことになる。傘木希美は、鎧塚みぞれの薦められた音大に自分も行こうかなと口にしていたが、高坂麗奈(トランペット)と黄前久美子ユーフォニアム)という後輩二人(本篇の『響け!ユーフォニアム』では、彼女らが中心的な主人公になっているらしい)が、傘木希美らの演じるはずの"リズと青い鳥"第三楽章を、独自に演奏しているのを聞き、目撃したことで、「私、本当に音大に行きたいのかな?」と自分の選択に疑念を抱く。そこで、彼女も自分たち二人の関係性が、それまでの見立てとは逆であることに気づく――と言うのは、自分の存在が鎧塚みぞれを束縛しているのだと気づくということだろう――わけだが、この関係の「反転」は一方では「教師」によって、もう一方では「後輩」によって導入されているわけだ。迷いを振り切った鎧塚みぞれの演奏を耳にした傘木希美は、自分が今まで彼女の才能/可能性を制限していたのだと痛感し、合奏の途中で泣き出し、フルートを吹くことができなくなってしまう。その後に、理科室での、言わば「告白」のシーンである(理科室は、鎧塚みぞれの「居場所」である。彼女はそこで、水槽に飼われたフグをぼんやりと眺めながら、過去の記憶を回想したりするのだが、そこに新山先生が現れるのに、彼女は「どうしてここがわかったんですか」と口にする。したがって理科室は鎧塚みぞれにとって「一人になれる場所」であり、一種の「逃避」の場であるのかもしれず、イタリア料理店での会話の時には、少々大袈裟な言葉だったが、こちらはそれを「サンクチュアリ」のような場所と呼んだ(ちなみに、先の「ユートピア的な」シーンでの傘木希美とのやりとりは、この理科室とのあいだでなされている))。自分が今まで鎧塚みぞれの才能を阻害していたのだということをまくし立て、「みぞれは、ずるいよ」と口にする傘木希美を遮って、鎧塚みぞれは「大好きのハグ」(中学時代に彼女らの周りで流行っていた慣習)をしながら、傘木希美が自分のすべてなのだということを「告白」する。「希美の~~が好き」と四つくらい並べるなかに、「足音」が含まれていたのが冒頭以来の演出と合わせてこちらとしては印象的だが、それに対して傘木希美は、「みぞれのオーボエが好き」と返して、その後、身体を折り曲げて姿勢を前に崩しながら大きく笑い声を上げる(この笑いの意味はあまり判然としない)。このシーンは、鎧塚みぞれの感情が傘木希美によってともかくもようやく受け止められた場面、終盤のクライマックスなのだろうが、鎧塚みぞれにとって傘木希美がまさしく「すべて」である、つまりは全的な愛の対象であるのに対して、傘木希美が「みぞれのオーボエが好き」とただ一つの要素を返すのに留まったのは、彼女にとって鎧塚みぞれはあくまで音楽的な才能を尊敬する対象であるに留まるということなのかもしれない。とすればこの場面は、「告白」の「成就」と言うよりもむしろ、(語の意味がやや強すぎて、少々ずれてくるが)ある種の「決別」の場面であるのかもしれず、ここに至っても二人の関係は、それまでとは違った形ですれ違い続けている。実際、傘木希美は音大選択を取り止め、普通大学への進学を目指して勉強しはじめるわけで、彼女らの進路は分かれるのだが、しかしそれがこの二人の関係の収まり方だということなのだろう。二人が下校する結びの場面の確か直前に、紙の上に滲んだような赤と青の色彩が互いに浸潤し合うというカットがあったのは、二者の関係が一つの「和解」(と言うとまた言葉の意味が少々ずれてはいるのだが)に至ったということを示しているはずだ(赤は鎧塚みぞれの瞳の色であり、青は傘木希美のそれである)。そして、真っ暗な背景の上に記された「disjoint」の文字(既に冒頭に登場していた)が「joint」に変更されて『リズと青い鳥』は終わりを告げることとなる。作品を見て読み取ったことをつらつらと記してきたけれど、今回の映画鑑賞は、それなりに楽しめはしたものの、こちらにとって特段に大きな感動や興奮や衝撃を与える体験ではなかった。しかしそれは作品の質というよりは、こちらの芸術的受容体の問題であるはずで、見る人が見れば細部をもっと仔細に読み取って、この作品がこちらが感じたよりも遥かに緻密に構成されているということを実感できるのだと思う。映画が終わって場内が明るくなると、人々が一斉に席から立って退場しはじめる。その流れのなかに入って通路を下りて行くあいだ、後ろのほうの客が、「今世紀最高の女キャラ」云々とか言っていた。ホールを出て歩きながら横の(……)に、泣いた、と尋ねると、オーボエの音で泣いたと言う。(……)さんもいくらか涙したらしいが、どこの場面と言っていたかは忘れてしまった。「CINECITTA」を出て、昼食の店を求めて陽の照るなかを川崎駅のほうへと戻って行く。場当たり的に「川崎ルフロン」というビルに入り、エレベーターに乗る。最初間違えて一〇階まで昇ってしまい、そこを経由して二階に下り、フロアを通って開放された露天の広場のような空間に出ると、その一角に「イタリア食堂 カルネヴァーレ(CARNEVALE)」があった。外見にはちょっと古めかしいような、こじんまりとした小屋のような店舗である。入店すると入口脇のテーブルに通されて、五人、席に就いた。こちらは真ん中に位置取り、右には(……)、左には(……)が隣り合って、女性二人は向かい側に並んで右が(……)、左が(……)さんだった。細い通路の店内には、牛の置き物が二つ見られた。メニューの主品はおそらくパスタやピザだったのだろうが、こちらは腹が減っていなかったので、サラダ(レタスに生ハム・サラミ・イタリアンハムが混ざっていた)とベーコンの炭火焼きを注文した。(……)がマルゲリータピザを頼み、(……)と二人でそれを分け合いながら食べており、(……)と(……)さんが何を頼んだのかは覚えていない。食事を取るあいだ、先ほど鑑賞した映画作品に対する感想や考察が語られた。(……)が率先する形で色々と思いついたことを口にして、こちらは例によってあまり発言しなかったが、それに応じる形で多少の考えを述べたりした。左の(……)にどこが良かったかと訊いてみると、間の取り方が攻めているなと感じた、というようなことが返った。本篇の『響け!ユーフォニアム』は登場人物も多く、もっとテンポは速くて動的なのに対して、『リズと青い鳥』のほうは歩くシーンの長さにしてもだいぶゆったりとしていて静かで、その間の取り方に注目したということだった。また(……)は、劇伴の音楽にも耳を向けていて、本篇では管楽器などの音は、物語が吹奏楽をテーマとしたものである以上、キャラクターが出す音と混同されかねず用いられないのだが、『リズと青い鳥』のほうでは生音の楽器によるBGMが躊躇なく使用されていたと比較を述べた。そのあたりはこちらはまったく注目していなかった部分だった。ベーコンを細かく切って、マスタードとマッシュポテトとともに口に運びながらそんな話を聞き、そうして三時に至ると用事のあるという(……)さんが先に去った。そのあとから会計をして(こちらの分は一五〇〇円)退店し、「川崎ルフロン」の外に出た。カラオケに行こうという話になっていた。(……)がスマートフォンで近間のカラオケボックスの所在を調べているあいだ、傍の電気屋の入口では何かキャンペーンめいたことを催しているようで、巨大な「ピカチュウ」の人形が立っており、店員がマイクを通して、今ならこのピカチュウを殴り倒すことができます、などと緩い声で誘いを掛けているのに(……)と二人で笑った。じきに歩き出し、横断歩道を渡って高いビルの並んで固まった通りに入り、そこから裏に折れて繁華街めいた区画をちょっと行くと、カラオケ店がいくつも軒を連ねていた。そのうちの「カラオケ館」に入店して、手続きを取り((……)が持っていたメンバーズカードはもう一一年も前のものだったが、それでどうにかなったようだ)、四階の一室に入った。トイレに行ってきてから、こちらがDeep Purpleの"Burn"(我々が高校二年生の時に文化祭で演じたハードロックである)を勝手に入れて、(……)にトップバッターを切らせた。こちらはその後の時間のなかで、くるり "ばらの花"から始まって、二曲目は小沢健二 "流星ビバップ"、三曲目は忘れたが四曲目はSuchmos "YMM"、そうしてくるり"ワールズエンド・スーパーノヴァ"、最後にthe pillows "ストレンジカメレオン"と、全六曲を歌ったと思う(のちの電車内では、このうちSuchmos "YMM"が一番こちらに合っていたとの評価が(……)から下された)。(……)は大方『THE IDOLM@STER』の曲を入れて、女声曲なのに声を張り上げてハイトーンを歌い、(……)もアニメや声優方面の曲をいくつか選んでいた(なかに、『STEINS;GATE』のキャラクターである椎名まゆりのキャラクター・ソングが含まれていたが、これは帰りの電車内で語られた話に繋がることになる)。カラオケの途中にこちらは、リュックサックから「(……)」で買ったサブレを取り出して、皆に配った。五個入りなので一度配っても三つ余ったが、さらに(……)にもう一枚食べてもらい、(……)にも持ち帰ってもらって消化した。定められた時間がやってくると、最後に(……)がQueen "Bohemian Rhapsody"を入れ、こちらもいくらか声を合わせて口ずさみ、それでおひらきとなった。一階に戻り、会計を済ませて(こちらの分は一〇〇〇円)退店すると、このあとどうしようか、喫茶店にでも入ろうかと立ち迷う空気があった。時刻は五時半頃で、夕食を取るにもまだ早い。こちらは映画とカラオケでこの日の用事は済んだと思っており、もう解散しても良かったのだが、ひとまず、自然と駅まで戻ることになった。雨が降り出していたので地下街に入り、通路を通って広々とした駅のコンコースまで辿り着き、歩いていると、正面奥にその入口が見える「ラゾーナ川崎プラザ」に、芝生の広場があると(……)が言う。天気が良かったらそこで寝そべりたかったのだが、と彼女は言い、生憎の雨だけれど、その広場をちょっと見てみようという話になった。それで入ってみると、人工芝の敷かれた広場では「オクトーバーフェスト」が催されていた。良くも知らないがドイツ発祥のイベントらしく、要は集まって騒ぎながらビールを飲もうということなのだろうが、テントに覆われた座席に人々が集って飲んでいるなかにステージも設けられており、あれはドイツの音楽なのか、アコーディオンアコースティック・ギターを伴奏にした、カントリーともブルーグラスともつかないような土着的な雰囲気の楽曲が演じられており、その舞台の傍には雨を意に介さずに盛り上がって身体を動かしている人々が何人かいた。我々はエスカレーターを辿って二階上、四階に上り、中央広場の周りを円形に縁取った通路の壁に身を寄せ、下を見下ろした。雨がやや入りこんで来る場所だったが、しばらくそこに留まって立ち尽くしたまま、眼下の催しを眺めながら何でもないような話をした。屋台の屋根を彩る電飾が線になって光り、奥の舞台上にはローカルアイドルなのだろうか、女性の三人組や、DJとボーカル三人の男性グループなどが現れて歌を披露していた。高校の同級生と集まるのはやはり何となく良いな、と(……)は口にした。また、ここで(……)から、実は過去にこちらと彼女で作った楽曲("Tears"という題のもので、こちらが曲を作り、(……)がそこに歌詞を乗せたのだったが、あれを作ったのはこちらが文学に出会って間もない頃、二〇一三年の二月くらいではなかったか)を今、書き直しているのだという話があった。(……)は良い曲だと言い、(……)もメロディが良いと言っていたが、こちらとしては未熟で粗雑な大したことのないポップスに過ぎず、思い入れも特にないので、全面的に直してもらって構わないと言った。そのうちに、もう一階分、エスカレーターで昇ったが、この五階から広場を見下ろしてみるとかなり高さがあって怖く、あまり壁のほうに近づかないようにした。五階には長テーブルの座席がいくつも用意されていた。そこで、そのうちの一つに四人で腰を下ろしたのだが、雨が強まっており、座っているところにまで雨粒が散ってくる。そんな落ち着かない環境で、このあとどうするかと話が上がるのに、山梨の祖母に何か甘い物を買って行きたいとこちらの用事を明かすと(先ほど、母親からそれを頼むメールが届いていたのだ)、それではこの「ラゾーナ川崎」で買って行こうということに話がまとまった。それで場を離れ、エスカレーターで一階まで下り、菓子の店を求めてフロアを歩き、大きなスーパーの横などを通って行く。GODIVAの店舗があるのに、ゴディバは英語では「ゴディバ」という発音ではなかった気がすると(……)が口にして、こちらは「ゴダイヴァ」だとそれに答えた。Queenの"Don't Stop Me Now"のなかにも、"Lady Godiva"という歌詞が出てくる、とどうでも良い知識を隣の(……)に披露すると、しかし俺の彼女も「ゴディバ」と言うなと彼は呟く。日本人ならそうだろうと返せば、(……)の彼女というのはモンゴル人なのだと言った。(……)大学への留学生で、何やら調査の仕事の手伝いにそちらのほうに行った時に知り合ったらしい((……)は(……)大学の博士課程に所属する院生で、午前に映画館へと向かっているあいだに、エコノミークラス症候群について研究していると聞いた)。しかしこの彼女についてはのちに、(……)にはもう彼女と関係を続けようという気があまりなく、結婚を考えるような相手でもなく、正直なところいつ別れようかと思っていると述べられた。そうこうしながらフロアを回っていたが、菓子の店舗は、通路の途中、繋ぎのような場所に並ぶいくつかしかないことが判明した。祖母は一人だからちょっとしたもので良いと思うなどと話しながら、(……)と二人でそれらの前を回り、ショーウィンドウのなかの商品を眺めていると、試食用の欠片を差し出してくれるのに行き当たった。「横濱フランセ」の店である。そのガラスケースのなかに、レモンケーキ四個入りという商品があるのを見つけて、もうこれでいいんじゃないかと思うと口にすれば、(……)が、そう思ったならそれがいいよと後を押すので、それを一箱購入した(八六四円)。それで(……)と(……)の二人に合流し、通路の途中で立ち止まりながら自然発生的に始まった雑談をちょっと交わしていたのだが、じきにこちらが、何でここで立ち尽くしているんだよ、と突っ込みを入れて、それでこのあとどうするか、飯はどうするかという問題に立ち返った。(……)がちょっと食べたいような気がすると言うので、すぐ傍にあったフードコートに入り、混み合ったフロアを回ってようやく空席を確保すると、(……)と(……)が商品を注文しに行き、こちらと(……)はその場に残った。彼らが食したのは、(……)が「PANDA EXPRESS」のモンゴリアンビーフ丼、(……)はどこかの店の親子丼である。入れ替わって席を立った(……)は、ほんの少しだけということで小さな春巻きを二個のみ入手してきた。こちらは腹が減っていなかったので(と言うか、「腹が減る」という感覚自体がほとんどなくなってしまったのだが)、ここでは食べないことに決め、ほかの三人はそれぞれの品を食べながら、長々と雑談が交わされた。多分八時半頃まで留まっていたのではないか。時折り、モダンジャズ風のサックスの音や、女性ボーカルの"Summertime"がBGMに聞こえたが、人々のざわめきによってそれらはほとんどかき消されていた。"Summertime"はこの場所にいるあいだに二度耳にしたので、BGMが一周するくらいのあいだ、滞在していたということだ。ここでは左隣の(……)から、小説を読んでいる時には、登場人物の考えが自分と近いとか思いながら読んでいるのか、と質問があったので、最近はあまり読んでいても楽しくはないのだがと置きつつ、そんなに深いことは考えていないと答えた。どんな点に着目するかと言うと、やはり表現である、こんな言い方をするのかとか、こんな言葉を使うのかとかそういった点を見ると言い、あとは書抜きをしているものだから、読みの基準が自然と書抜きをするかしないかという風になっているなどと話した。さらにまた(……)からは、今日見た映画のなかで、敢えて言えば好きだと思ったキャラクター、強いて言えば気になったようなキャラクターは誰かとの問いがあったのだが、これについては該当するキャラクターは自分の心中に挙がって来なかった。映画を見ながら「感情移入」という心の働きもなかったのだが、そもそも『リズと青い鳥』のなかで内面の襞を直接的に描かれていたのは圧倒的に鎧塚みぞれなのであって、「感情移入」の余地があるとしたら彼女くらいしかいないのではないかとは思ったが、(……)はそうしたこととは関係なく、部長である黄色いリボンをつけた吉川優子が好きだったり、気の強い後輩である高坂麗奈が好きだったりするらしかった(なぜ彼女らが好きなのか、その理由は尋ねなかった)。そうこうしているうちに、時間も遅くなったのでそろそろ帰ろうということになり、フードコートをあとにした。駅のコンコースに出て、皆で改札を入り、(……)だけは別の路線を使うので別れ、(……)と(……)と三人で南武線に乗った。座れるように遅発のほうに乗り、左から(……)、(……)、こちらの順で席に就く。電車に揺られているあいだは、(……)の彼氏である(……)氏((……)の会社の同期で、(……)らの作曲活動のなかではベースを担当している)や(……)の話、LINEでの二人のやりとりなどについて語られた。(……)氏はいわゆるオタクであるらしい。(……)も最近はアニメなど結構見るようで、ここ三か月くらいは『STEINS; GATE』の、それも椎名まゆりに嵌っているらしい。要はキャラクターに恋をしてしまったような状態らしいが、そうした(……)の思いに対して(……)氏は、自分を微分するか、キャラクターを積分すればいい、などと助言(?)を与えているらしかった。(……)は、自分がアニメのキャラクターに強い思いを抱くようになるとは思っていなかったが、いざそういう状態に陥ってみると、これは自分が今まで現実の女性に対して抱いてきた「無駄な」、報われない片思い((……)は結構惚れやすい性質のようだ)と別に変わらないなと感じたと言った。むしろ、対象が二次元の場合、金があれば例えばフィギュアなどのグッズを買うこともできるし((……)自身は今の所そうした欲望はないようだったが)、創作力があれば二次創作で話を作ったり絵を描いたりして物語世界を自由に広げていけるというメリットもある。そこからちょっと話が続いたあと、(……)氏のことに話題は移って、(……)曰く彼が言うには、オタクがオタクであり続けるというのは非常にエネルギーがいることである。だからオタクがオタクでなくなってしまうというのは寂しいことなのだというが、そこで(……)が話を一般化して、熱中する対象がなくなってしまうと虚無になってしまうから、などと話したのに対して、それは俺だなとこちらは横から差し入った。(……)は、そのことのみに夢中になりすぎてほかを顧みないようになると、「神様にそれを奪われる、取り上げられる」と言う。他人のことを考えたり、社会のためになることを思ったりすれば大丈夫なのだと話して、こちらはそのようなことを信じてはいないが、重いうつ症状に沈んで読み書きのできなかったあいだに、自分は自分の能力を「奪われた」と思っていたことは事実である(何に「奪われた」のかはわからないが)。そのほか南武線に乗っているあいだは、(……)とその恋人との関係についても語られたが、これについては細かな話は良いだろう。ただ二人のあいだには結構齟齬があるようで、話を聞いたこちらは思わず、お前らもう既に仲悪いじゃん、と突っ込みを入れてしまった。(……)は稲城長沼で降り、その後は(……)と二人で立川まで乗るあいだ、今しがた降りた(……)についてなど話をした。(……)が見るに、彼は彼女と音楽活動を始めて以来明るくなったというのだが、そう言われてみると確かに電車内で(……)は自分のことを良く話していたし、何やら楽しそうだったという印象が残り、以前よりも積極的になったような気がしないでもなかった。(……)にとっては今があるいは、人生を謳歌している時期そのものなのかもしれない。(……)は(……)で家族関係などで様々苦難を経験してきてはいるものの、今はそれらを飲みこんで屈託なく笑う強さを持っている(イタリア料理店で彼女が、このチーズが一番乗っているところ、貰っていい、などと笑いながら(……)からピザを分けてもらっているのを見て、まさしく「屈託の無さ」というものを見たような気がしたものだ)。翻って自分はと言えば、彼や彼女よりも随分と冷淡な、不感症的な人間になってしまったように思われなくもなく、その点で隔たりを感じないでもない。立川に到着し、ホームを移って乗り換えると、車両の端の三人掛けに並んで入った。(……)が統合失調症患者であるお兄さんの状態などを話すのにこちらは、今の自分の感情的/感性的希薄さというのは、ドーパミンが出ていないということなのではないかと思っている、と自身の状態についての仮説を述べた。自生思考に襲われた年末年始の頃は、意識が非常に覚醒している感覚があり、書くことなども自ずと湧き出てくるような感じだったのだが、それは反対にドーパミンが出すぎていたのではないかと言うと、(……)は順当に、じゃあその反動で出なくなったのかと受ける。いささか単純で安直な考え方ではあるが、実際そうなのかもしれず、ひとまずこちらは先日、ドーパミンを増やすというサプリメントを注文したと明かし、しかしまあ効くかどうかわからないけれど、と疑念を表明すると、(……)は、でも何でもやってみよう、何が効くかわからないからと真面目に応じる。ドーパミンを増やすというその物質は何なのかと問うてくるのに、チロシンと言って、筍の周りの白い粉などに多く含まれているらしいと聞きかじりの知識を答えると、(……)は熱心にも携帯に情報をメモしていた。(……)に着くと彼女は乗り換えのために降り、こちらの乗った電車が発車するまでのあいだ、ホームに立って待っていた。出発すると、電車が動くのに合わせて小走りになりながら手を振って見送ってくれるのに、こちらも手を振り返して答えた。それからのちの路程は、本を読もうかどうしようか迷ったのだが結局書籍を出すことはなく、散漫にこの日の記憶を思い返しながら到着を待った。(……)で乗り換え、最寄り駅に至って降りると、木の間の坂道に入る。すると道の脇から、凛として涼しいような虫の音が、控え目に、ちょっと躊躇いを含ませるようにしながら、「たおやかな」とでも言いたいような質感で鳴り出てくる。アオマツムシの音と紛らわしいが、僅かに差異の見受けられるあれが、多分鈴虫の鳴き声なのだと思う。帰宅する頃には時刻は一一時近くになっていたはずだ。服を着替えてきて、熱した豆腐と即席の味噌汁を食事に取る。ニュースは樹木希林の訃報を伝えており、義理の息子の本木雅弘が話すには、このたび亡くなるより以前にも、一時危篤のようになって危なかったが持ち直したのだと言う。その時に樹木希林が絵とメッセージを記した紙を彼は見せるのだが、それには、「糸一本で何とか繋がっています/声がまったく出ないの/いつまでもしぶとい、仕方のない婆婆です」というような文言が書かれており、その横にはまた、糸一本で何とか生きており、鋏でそれを切られたらお終いだという、自虐的な皮肉とユーモアを利かせた絵も描かれていた。その他、過去の樹木希林の発言がいくつか振り返られるのを見ながら、病に陥って死が迫りながらも、それをクールに、飄々とあるいは淡々と受け入れるという姿勢(ニュースのなかでは「病と寄り添う」という言葉が用いられていた)には好感が持てるなと思った。入浴をして自室に戻ったあとは、日記を書かなければならないはずが、長くなるのがわかっているからあまり気が向かず、本を読もうかとも思ったがそれもせずに、ただ無益な夜更かしをして、午前二時過ぎに床に就いた。朝から一二時間以上も外出していたにもかかわらず、眠気はまったくなく、疲労感もほとんど感じなかった。

2018/9/16, Sun.

 やはり早朝から覚醒を見たはずで、八時のアラームにも立ち上がったのだが、それらの時間のことはうまく記憶に残っていない。夢がいくつかあった。妙なバンドの演奏を聞いたり、ダウンタウン浜田雅功が出てきたりしたはずだが、その詳細ももはや忘却の彼方である。初めのうち、空は晴れていて、太陽がいくらか昇った九時頃になると寝床に光が射しこんで、顔や背に熱を受けていたがじきにカーテンを閉ざした。それから、起きられそうでしかし起きられないままに、時計の針は少しずつ、しかし素早く流れて行って、一〇時半を過ぎてようやく起床を見た。その頃には空は一面、何の余計な付加情報もない平坦な白さだった。急須と湯呑みを持って上階に上がって行き、使用済みの茶葉を流しに空けてからポットの前に立つと、また線が抜けている。接続を戻しておいてから食べるものを探って冷蔵庫を覗いていると、出かけていた両親が帰ってきて、こちらは買ってこられた品々を受け取って冷蔵庫に収めた。食事は、前日に母親が買ってきた「箱根ベーカリー」のパンが一つ残っていると言うのでそれと、あとは豆腐に小松菜の和え物を食べることにした。卓に就き、チョコレートで渦巻き模様の入った丸いパンを噛みつつ、新聞記事をチェックする。食後は薬を、この日もクエチアピンは一錠で飲んで、食器を洗うと風呂場に入った。「カビキラー」を振りかけられた風呂場マットが床に置かれていたのでシャワーで洗剤を流し、それから浴槽を擦って洗ってしまうと、浴室を去って緑茶を用意し、下階に戻った。新聞に、「オメガ3脂肪酸」が不安の軽減に効果があるらしいという研究報告が載せられていたのを受けて、それについて検索してみたり、スレを覗いてみたりしたのだが、有益な書き込みは特にない。この「オメガ3脂肪酸」というのは青魚に含まれるDHAとかEPAとか呼ばれている成分のことで、これを摂ると頭が良くなるとか言われているものの、それは大した根拠のない俗説らしい。今回の不安軽減の報告についても、精神状態が全般的に上向くのだとしたら摂ってみたい気もするが、なぜ不安が和らぐのかその仕組みはわかっていないというから肝心なところは曖昧で、不安というのは現状自分の症状としてもなくなったものだから、おそらく今必要なものではないだろう――ただ、このサプリメントを摂ると寝起きが良くなるという報告もいくらか見られて、とにかく朝に弱い自分としてはそちらの効果を期待して摂取してみても良いのではと思わないでもないが、しかしいずれにせよ、先日、N-アセチルL-チロシンというドーパミン関連の新たな品を注文したところでもあるし、そんなに次々とどれもこれもと試すものでもあるまい。インターネットの閲覧を打ち切ると、日記を綴りはじめた。前日の記事は数文足しただけでさっさと完成し、この日のものに入ってここまで綴ると、ちょうど一二時半を迎えている。それからキリンジ『3』を掛けて、久しぶりに運動をすることにした。脚の関節の駆動が滑らかになるまで屈伸を何度も繰り返したあと、ベッドの上に乗って前屈、そのあとに腹筋運動を、休みを入れながら九〇回行うと時刻は一時に達した。上階に上がると洗面所に入って、電動シェーバーで伸びた髭を当たったのち、ちょうど振り返ったすぐそこに置かれてあった掃除機を持って自室に戻り、手早く床の埃を吸い取った。そうして祖父母の部屋に掃除機を片付けに行ったそのついでに、炬燵テーブルの前に座ってアイロン掛けを始めた。テレビで始まった『パネルクイズ アタック25』の冒頭には松田龍平が登場して、『泣き虫しょったんの奇跡』という映画の告知をしたのちに問題を出題するのだが、その様子がやや陰鬱そうだというか、口から吐き出す言葉にも勢いがなく、問題文など棒読みで、どことなく居心地が悪そうな風だったので、こんなキャラクターだったのかと勝手に親近感らしきものを覚えた。エプロンやハンカチにアイロンを施してしまうと自室に戻って服を着替え(エディ・バウアーのシャツに、例によって空色のジーンズ)、それから台所で飲むヨーグルトを一杯飲むと家を発った。(……)駅前の和菓子屋「(……)」を訪れ、翌日(……)さんに贈る品を求めるのだった。母親はまたメルカリで何か購入したらしく、コンビニでその支払いをしたいからついでに送って行こうかと言われていたが、歩く時間を作りたいので断ったのだ。天気は正午頃から曇ったりやや晴れたりを行き来していたが、今はまた陽が出てきていた。坂の入り口まで来ると、青緑色の団栗が散らばっていて、人に踏まれたり車に潰されたりして破片が擦り付けられたのだろう、路上には土汚れのような茶色がところどころ染みついていた。右手、川のほうに目をやりながら上っていると、そちらの木から立っていた鳴き声が、蟬のものではないかと遅れて気づいて、すると道を囲む近くの木立からもツクツクホウシの鳴きが降っているが、空気はもはや夏のものではない。草に覆われた斜面には彼岸花がいくつも並び、無数に分かれ湾曲して天を指す花の手の一本一本が、薄陽を受けて蠟細工のような光沢を帯びていた。街道を進んでいると、肌がいくらか汗の感覚を帯びている。何だかんだで外を歩けば音やら匂いやら次々と細かな情報が差し向けられて、その連続に、以前ほどではないにせよ、いくらか心身がひらくようだった。裏路地に入る角の一軒に生えた百日紅は、これも随分久しぶりに目にしたものだが、樹冠の全体に万遍なくピンク色を散らして、枝先にいくつか密集もあって、まだまだ花は続きそうである。自分の歩調ののろいのに、老いた身であるかのような、大病を患ったあとの病み上がりであるかのような幻想が湧くが、希死念慮の重かったうつ症状を大病と言うならばそれもそうかもしれない。緩く、ぬるい風を前から受けながら進んでいると、家屋の途切れて駐車場と土手上の線路にひらいた一画でアオマツムシの音が現れ響き、奥の林からは蟬の声が跳ねて重なり、目を振り上げれば宙には蜻蛉が舞っていた。歩きながら、過去にこだわらず、ともかくも毎日書けることを書くこと、それができれば良いのではないか、質は措いても、何であれ日々を書き続けることが自分が生きるということだったのではないかと頭の内に落ちてきて、「生きることを書くことによって書くことを生きること」という昔作った標語も浮かんだが、しかしそれはどういうことなのかと更なる言葉を繋げようとして続かなかった。駅前に出ると横断歩道を渡り、「(……)」に入店する。ガラスのウィンドウに寄って、「ノーブル」という白餡入りの焼き菓子の一〇個入りのがあるのを確認してから、壁のほうに並ぶ品々を見ていると、なかに五個入りのサブレの袋がある。そこで背後の、カウンターの奥に現れた年嵩の女性店員から、上品気な音調でいらっしゃいませ、と掛けられたので、頭を振ってこんにちはと挨拶をしてから、サブレの袋を二つ手に取った。翌日に皆で食べる用と、もう一つは自宅用である。そうして入り口近くのウィンドウに戻り、一〇個入りの箱を追加で注文して会計をした。合わせて三〇五〇円だった。一万円札をトレイに置き、小銭の詰まったなかから五〇円玉を探し当てて重ねると、奥で品物を袋に整理していた店員から、サブレのほうはビニール袋で良いか、それとも大きな紙袋にすべてまとめるかと問われたので、ビニール袋で構いませんと応じた。七〇〇〇円の釣りを受け取って財布に収めると、品物を持ち、どうもありがとうございましたと残して店をあとにした。横断歩道に立ち止まると、南の空にまだ高い太陽が雲から逃れたところであたりには日なたが敷かれ、顔の左側に厚い熱線が寄せられる。夏を思い起こさせるような陽光の調子だった。帰路のあいだも大方太陽は雲の合間に現れていて、陽射しが左頬についてきて暑いが、陽も浴びるものだろうと裏には入らず、目を細めながら表を歩いた。道のところどころで、庭木のある宅などから、車の響きに負けず昼日中から夕刻のように、アオマツムシの声が朗々と放たれて宙に伸び漂っていた。中学生か高校生か、唇の真っ赤な女子やら、手を叩きながら笑い合う男子やら、若者らといくらかすれ違ったが、どうも(……)高校で文化祭を催していたようで、通りがかりに道の奥に、門が開放されて多色で彩られたオブジェの類が何やら立っているのが見えたので、そこを訪れた者たちだったのだろう。帰宅すると時刻はおおよそ午後三時、居間のテーブルの上に買ってきたものを置いておき、シャツを脱いでしまうと(背中は汗で結構濡れていた)自室に戻って、ズボンも脱いでジャージに履き替える。それから緑茶を二杯分、それに「たべっ子どうぶつ」のビスケットを持ってきて、一服しながら「(……)」を読んだ。そうして四時前から日記に取り掛かると、これでまた一時間は掛かるだろうと歩くあいだに思った通り、現在時に追いついた頃にはもう五時が目前になっていた。今現在、九月一八日の午後七時前に至っていて、この日のこれ以降のことはほとんど記憶に残っていない。夕食の支度として茹でられたジャガイモを潰してポテトサラダを作り、ローストビーフの塊を薄くスライスして行った。六時頃から下階に戻ってギターに触れはじめ、そうしていて気分が持ち上がるでもないのだが、長く、一時間ほど弄り続けた。その後は食事と入浴、そうして一一時頃まで娯楽的な動画を視聴し続けたのち、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を一時間ほど読んで、例時過ぎには床に就いた。翌日、午前から川崎に出かけるために七時には起きなければならなかったからである。しかし、眠りは結構遠かったと思う。

2018/9/15, Sat.

 寝付きが悪く、早朝からたびたび目を覚ましていた。八時のアラームに至って本格に覚め、アラームの響きと携帯の振動音をちょっと聞いてから起き上がり、遠くにあるそれを取ると、身体の凝[こご]りを感じながら耐えるようにその場に立っていたが、結局またもや床に戻ることとなった。九時まではあっという間に過ぎたと思う。そこからは時間が細かく流れて、様々な夢を見た。どこかから歩いて来て、草原のような広い土地を前にしたものが一つある。その向こうには墓場があり、さらにその先にはマンションが一つ、突き立っていて、そちらのほうに大学のキャンパスがあるのだという認識だった。近くには一人、女性がいて、彼女が道を先に行くそのあとを追うような形になったと思うのだが、町中に出た時には、そこはどこか外国になっており、店屋の看板に日本語が(それは平仮名だったかもしれない)記されているのを目にして、ここがカナダのケベック州なのだと気づいたはずだ。そのほか、下町じみた界隈をゆっくり歩きながら松浦寿輝蓮實重彦にインタビューをするという夢もあったが、この蓮實重彦は、両目に合わせて形が分かれたものでなく一続きに長方形になったタイプのサングラスを掛けており、覚めたあとから思い返してみると現実の蓮實氏の容貌とは違った人物だった。また、ロラン・バルトとカフェで何か話をするような夢もあったはずで、その夢も色々な周辺情報に取り巻かれていたはずだが、詳細は覚えていない。起床は一〇時一五分になった。母親はこの日、(……)さんの母親と国分寺にパンケーキを食べに行くということで、瞼のひらいたままに固まったその少し前に、車のエンジンが掛かる音が聞こえてきていた。起き上がって上って行き、冷蔵庫から前夜の残り物――茄子の煮付けとベーコン・小松菜・ブナシメジの炒め物――を取り出し温め、白米は少なめに椀によそった。ほか、白菜などの入った野菜スープが作られてあったので、それを火に掛けてよそり、テーブルに就いて食事を始めた。雨が結構な勢いで降っており、大気は乳白色に濁って、山の姿は薄白い影に均されてその稜線が霞んでいた。食後、薬を飲むのだが、医師の処方には逆らうことになるものの、クエチアピンを二錠ではなく一錠とした。病気以来のこちらの感情や興味関心の希薄化、端的に言って「楽しい」「面白い」といったプラスの気分が湧いてこないことに関しては、物理的にはドーパミンの分泌が関わっているのではないかとこちらは踏んでいる。クエチアピンはドーパミンをブロックする作用があるので、減薬をしてみて自分に変化があるか試してみたいのだった。しかし同時に、クエチアピンを飲まなくなったとしても、自分の状態は特に変わらないだろうなというような見込みもある。ドーパミンの分泌低下が気分の平板さの原因なのだとして(そんなに単純なことではないとは思うが)、そのような状態に至ったのは薬剤の効果ではなくて、自分の原疾患によるものではないかとも思うのだ。要は、原因は不明だが、端的に頭がそのように変わってしまった、というだけのことではないかとも直感されるのだ。それから食器を洗い、風呂も洗ってから緑茶を用意しようとすると、ポットの線が抜けていた。それで接続を戻しておき、湯が沸くのを待つあいだに先に自室に下りて、コンピューターを点けた。日記記事を作成したりとひととき過ごしてから上階に戻り、緑茶を拵えて帰ってくると、この日はまず(……)さんのブログを読みはじめた。それで時刻は正午前、便所に行ってから部屋に戻ってきて、窓の外に目を向けると、雨は弱々しくなっており、山もまだ薄らいではいながらも緑の襞を取り戻していた。それからサプリメントの情報収集にまた余計な時間を使い、そののち日記を書きはじめた。一二時四〇分から初めて一時間ほど、前日の記事を進めて完成させ、ブログに投稿しておくと腹が減っているようだったので、食事を取りに行くことにした。階を上がると、午前に食わなかったサラダを冷蔵庫から出し、一方小さな豆腐を皿に乗せて電子レンジで加熱、さらに即席の味噌汁を用意した。そうして卓に就き、新聞の一面に目を落としながら、レタスやトマト、玉ねぎやインゲン豆を口に運んで行く。それからふと目を上げると雨は止んでいて、谷間に霧が僅かに残ってはいるが山は緑一色の姿を明らかにし、景色はくっきりとした輪郭を復活させている。食後に窓に寄って眺めると、山が偏差のない単色に染まっているのに対して、川の周辺には黄緑が混ざり、赤っぽいような褐色の梢もいくつか見られる。直上を見上げると空は視線を通すことのない厚い白だが、左方、東の低みに目を移せば雲の裾では灰色が露わで、煙の集合体めいて西空のほうまで大きく繋がったその雲の原が、刻々東から西へと動いているのがわかるのだった。それから食器を片付けて、ふたたび茶を拵えて自室に帰ると、この日の日記を綴りだし、現在は三時が目前となっている。SIRUP "SWIM"を一度流して歌うと、そこからくるりに流れて、大層久しぶりに"ばらの花"など歌った。その後、くるりのほかの曲や小沢健二などもちょっと歌って(しかし歌を歌っても高揚感や陶酔感はおろか、僅かばかりの楽しいという感覚すらない)、それから新聞記事を書き写しはじめた。BGMには『川本真琴』を流した。書き抜きする記事のなかに建築家・坂茂のインタビューが含まれていたが、九月九日、飛鳥山の紙の博物館を訪れた際に、解説熱心な職員と父親のあいだで、段ボールや紙を使って被災地に仮設住宅を作る人がいますよね、などと話が交わされていたのがこの人だと思う。二〇年余り、災害が起きるたびに避難所に赴いて、紙管と布を使った間仕切りを設けて支援を続けているということだが、役所のほうから呼ばれたことは一度もないと言った。新聞記事を写すと四時半前、少々早いがもう夕食の支度をしてしまうことにして、上階に上がった。と言って汁物は野菜スープが残っている。おかずには芸がないがまた茄子でも焼けば良かろうと四つを切り分け、玉ねぎも一つ加えてフライパンで炒めた。ほかには小松菜でも茹でておくかともう一つのフライパンで湯にくぐらせたが、野菜の入っていた透明なビニール袋の表面を見れば、小松菜とゆで卵のサラダというレシピが記されている。ちょうどゆで卵が二つ、目の前にあったのでこれを作るかというわけで、茹でた小松菜を水に晒して冷やすとざくざくと切断してプラスチック製のパックに収め、卵のほうは輪切りにできるカッターで細かく刻んで野菜と混ぜた。その上にマヨネーズを掛けて箸で混ぜようというところで、インターフォンが鳴った。受話器を取ると、二軒先の(……)さんである。少々お待ちくださいと早口に言って出ていくと、回覧板を届けに来た次第で、至急のものなのでよろしくと言った。礼を言って室内に下がり、中身を見てみると、先に八九歳で亡くなったという(……)さんの訃報である。早速、玄関の電話機を使ってコピーを取っておき、それから台所に戻って小松菜にマヨネーズと、さらにケチャップを加えてかき混ぜた。そのあとから辛子も足して和え物は完成、冷蔵庫のなかで冷やしておき、そうして下階に戻ると時刻は五時過ぎだった。ベッドに横たわってカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読み、一時間が過ぎると母親が帰ってきたのでジャージの上着を羽織って顔を見せに行くと、(……)さんから貰い物をしたと言う。ジェモジェモ(Gemeaux Gemeaux)という名のガレット・クッキーに、成城石井の茶色い紙袋に入った「いちごバター」だった。この(……)さんの娘さんはこちらの高校の同級生で、二日後の月曜日に(……)・(……)・(……)らと映画を見に集うその面子のなかに彼女も入っているので、これでは何かお返しをするようだなと母親と言を合わせた。翌日に駅前の「(……)」にでも出向いてみることにして、回覧板のほうを母親に報告したのち、至急だと言っていたものだからとこちらが率先して次の(……)さんに届けに行くことにした。サンダル履きで外に出ると、林の奥からアオマツムシの鳴き声が凜々と湧き出てくる。雨に濡れた黄昏の小暗い道を少し行き、道路の脇から細道に入ると門の閂を外して敷地内に踏み入り、大きな玄関扉の前でインターフォンを押したが、反応がなかった。念のためにもう一度ボタンを押したものの何の動きもなかったので、順番を飛ばすことにして、道を戻ると間道に折れて(……)さんの宅に入る。扉横の呼鈴を押すとなかからどうぞと聞こえたので、横開きの扉を開けてごめんくださいと訪った。障子をひらいて現れた(……)さんのおばさんに、回覧板を持ってきたと告げると、隣ではなくてと言うので、(……)さんは出かけているようでいなかったと答えた。至急のものなのでよろしくお願いしますと言うと、(……)さんの、と事情を察してみせるので肯定し、いつなのと問うたのにはその場で回覧板をひらき、通夜が一七日だと確認すれば、明日になったら(……)さんの宅に行ってみると言う。了承して礼を言い、下がって扉を閉ざし、道に出て自宅に戻るあいだ、もう八〇も越えているので当然だが、以前よりも老いたような(……)さんの印象を思い返して、労りの言葉でも掛ければ良かったか、涼しくなってきたのでお身体に気をつけて程度言えば良かったかと思いながら歩いた。帰り着くと自室に戻り、ふたたび読書に入って、たびたび書抜き箇所をメモしながら読み進めているうちにあっという間に一時間が去った。AfD(ドイツのための選択肢)の党首代行であるアレクサンダー・ガウラントは、メスト・エジルというサッカーのドイツ代表がメッカ巡礼をしたことに触れて、「メッカへ行くような人間が、本当にドイツの民主主義で守られるべき存在なのか」「彼らはドイツ基本法に忠誠心を持っているのか?」と述べている。これをエムケが取り上げて、基本法への忠誠心を疑われるべきはむしろガウラントのほうではないかと批判するのが真っ当で印象的だった。基本法によって国民の信教の自由は保障されているのだから、というところまでは順当だが、さらに一歩突っ込んで、それはガウラントもよく承知している、しかるが故に彼は、イスラム教は宗教ではないと言わねばならなかったと分析し(ガウラントは、「イスラム教は政治的な宗教です」と発言している)、この発言が事もあろうにアヤトラ・ホメイニの言葉の引用であることを続けて明かしてみせる、そうした手付きが鮮やかだった。そのほか、性概念の二極化を避けるための表記方法の努力――男性市民 Bürger と女性市民 Bürgerinnen を統合する形で、星印を用いた Bürger*innen を性別に関わらず「市民」の意としたり、男女混ざった複数の「教師たち」を表すのにLehrerとLehrerinnenを繋げて、LehrerInnen(女性を示す語尾inのIが大文字となっている)としたり――があるのを面白く思った。読書を中断したのは七時四〇分だったが、そこから自分のブログにアクセスし、気づくとどこからかリンクが繋がって昨年一一月の記事(「雨のよく降るこの星で」を「作品」にするという試みに見切りをつけ、「記録的熱情」にふたたび従って日記を書きはじめたその当初のもの)を読み返していたが、これはやはり今よりも面白く、よく書けているものだった。饒舌で闊達であり、思考や記憶が次々と繋がって語るべきことが自ずと湧き出て来ているのがよくわかる(たびたび括弧を使って挿入節を設けたり、スラッシュを挟んで複数の語を併記してみたり――それだけ表現の候補が頭のなかに浮かんでいたのだ――という点に、物事を細かく語るのがそれだけで楽しいというような饒舌さが表れている)。風景に対する感度も強く、意味/情報を仔細に掴みながら文調もうまく流れており、特に一一月一六日の記事に含まれていた一文――「空には先ほどから変わらず雲の網が形成されており、東側ではその隙間に醒めた水色が覗き、煤けたような鈍い乳白色の雲がそのなかにあるとあるかなしかの赤の色素をはらんだように見えるのだが、視線を西に振ればそちらは冷たい青さのうちに完全に沈み、山際は綿を厚く詰め込まれたように雲の壁が閉ざして残照など微塵もない」――は、読点で区切られた個々の部分に情報を固めるバランスの良さと言い、音調と言い、かなり適切に整った描写のように思われた。是非ともこの頃の能力を取り戻したいと、それは再三この日記に書きつけている通りだが、そのために出来ることと言って、結局は今の自分の乏しい感受性に辛うじて引っかかり、僅かながらも印象を与える物事をその都度記していくほかはない。食事に上がる頃には八時を回っていた。台所で料理を皿に盛っていると、帰宅した父親が居間に入ってきたのでおかえりと挨拶を掛ける。そうして卓に移動して食事を取ったが、自ら作った小松菜の和え物は、母親は辛子が利いていて美味いと言ったものの、こちらとしては大した味ではなかった。食後、食器を片付けてしまってから手持ち無沙汰に(風呂に入った父親がそろそろ出るかと待っていたのだ)立っていると、九時前のニュースが米国の中間選挙の見通しを述べる。民主党内で「プログレッシブ」と呼ばれる左派陣営の台頭が見られて、ニューヨークなどでは新人が重鎮を破る構図も出てきているが、保守的な地方でどこまで受け入れられるかは不透明だ、とのことだった。九月二日の新聞記事によれば、「リアル・クリア・ポリティクス」の調査(八月二九日現在)で、両党の支持率は共和党三九パーセントに対し民主党が四七パーセントで、下院で民主が過半数を奪還する可能性も十分にあるとの見込みである。その後一旦下階に下りていたが、父親が風呂を上がったのを聞きつけて階段を上って行くと、ニュースは今度は横田基地で日米友好祭が催されていると伝え、横田に配備予定のオスプレイが披露されたと言って機体の左右でプロペラを回す姿が映るのを、こちらはじっと見つめて、台所に立った父親も黙って注視しているようだった。それから風呂に入って出てくると緑茶を拵えて自室へ、この日の日記を記しはじめたが、じきに気づけば一時間が過ぎていて、時間が経つということの手応えがまったく感じられない。書き物に没頭しているという感じもなく、かと言って殊更散漫というわけでもなく、ただ淡々と、時というものがそれそのもので消えていく。その後、娯楽的な動画を視聴して時間を過ごし、零時四〇分に至って眠る前にもう少し本を読み進めることにした。「根源的/自然」の章の終わりまで切り良く進んで、一時半に就寝した。寝付くのには結構時間が掛かったと思う。

2018/9/14, Fri.

 早朝、五時半に覚めている。静かな、軽い目覚めだった。ふたたび眠りに入り、八時のアラームを止めに立ち上がったはずだが、この時の記憶は残っていない。いつも通りベッドに戻ったらしく、九時頃から意識が浅くなって、目を閉じては二、三分、夢のようなヴィジョンを見てから目を開ける、ということを繰り返して時間が過ぎる。最終的に九時半前に起床することができた。上階に行き、母親に挨拶して、前夜の残り物である茄子と薩摩芋を温める。ほか、四角くビニールに包まれて冷凍されていた五目ご飯があった。そのビニールを剝ぎ取り、固まったものを椀に入れてこれも電子レンジに突っ込んで二分、そうして卓に移動して、新聞をめくりながら食事を取った。空になった食器を流しに運んで水を汲み、薬やサプリメントを摂ってから皿を洗った。そのまま風呂も洗うと一〇時頃だったはずだ。室に戻ってコンピューターを点けると、Youtubetofubeats "BABY"を流して、服を着替えながら爽やかな曲を口ずさんだ。上は橙、青、黄色の三色でカラフルなチェック柄を織り成したシャツに決めて、下は初め、濃緑一色のジーンズを久しぶりに履いてみたのだが、それで洗面所の鏡の前に行ってみるとサイズ感があまりしっくり来ず、少々色が褪せてもいるのでこれはもう資源回収に出すか古着屋に持って行くこととして、自室の収納には戻さずにひとまず兄の部屋の窓際の箱の上に畳んで置いておいた。そうして、芸のない選択だが、Levi'sの空色のジーンズをこの日も選んで履き、音楽は"WHAT YOU GOT"が掛かっていたそのあとに、"Don't Stop The Music feat. 森高千里"を繋げたのだが、便所に行ってしまったのでこの曲は聞けなかった。トイレットペーパーの空芯を持って階段を上がり、袋のなかに入れておいてから戻ると、SIRUP "SWIM"のスタジオライブ動画を流して歌い、それでコンピューターはシャットダウン、本と手帳をバッグに入れて階を上がった。南の窓に寄って外を見やれば、近所の路面には雨の跡が残って水溜まりも小さく生まれており、空は雲が覆っているものの、今は光が見えだして、正面の家の白い屋根が明るみはじめる。窓際に立っているうちに身にも温もりの掛かるようになり、すると棕櫚の木の天辺の葉に乗った白露が、微風を受けて揺らぐ足場の動きに応じて、艶を帯びては失いながら細かく震える。景色を眺めるのにも飽きると、ソファに就いて、母親が支度をしているあいだ瞑目し、記憶を辿って行った。そうして、行こうとの声に目をひらいて立ち上がり、母親はトイレに寄ると言うので鍵の入ったバッグを貰って、先に車に乗りこんだ。ここでも目を閉じて記憶を探ったが、母親はすぐにやって来た。発車して、市街を走り抜けて行くあいだ母親は、(……)さんの息子が同級生だとか、新聞に近藤サトというアナウンサーの話が載っていて、とか話す。(……)さんというのはこちらは知らないのだが、(……)さん夫婦のいた小家の前の家だと言い、そこの旦那が八九歳で亡くなったのだと朝起きていった際に聞いていた。その息子には、中学生の頃だかいじめられてあまり良い印象がないと母親は言う。一方、アナウンサーのほうは、震災を機に(母親は、阪神淡路?と自信なさげに言っていたが、今検索してみると東日本大震災のほうだった)白髪を染めるのを止めたという人で、何だか知らないが、偉いと思ったと母親は言って、感銘を受けたようだった。そうこうしているうちに医院の駐車場に着く。バッグを持って降り、ビルに入って階段を上がって行き、待合室に入るとこの日の混み具合はまあまあ、四、五人の先客がいる程度だった。受付に診察券と、月が変わったので保険証も提出し、カウンター前で立ったままに待って保険証が返ってくると席に就く。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を持ってきたのだったが、何だか眠いようであまり頭も働かないような感じがして、本は取り出さずに目を閉じて、休憩半分、記憶を追うのを半分といった感じで過ごした。それでじきに三〇分が経ち、一一時半に達して、呼ばれるのもそろそろだろうと思われたため、本はもう読まずに残りの時間も瞑目して待った。そうして呼ばれると診察室に入り、医師に挨拶をして革張りの椅子に座る。この二週間、どうでしたかと問われるので、特にどうということもないのだが、調子は全然悪くはない、取り立てて良くもないが、と答えた。外出はあまりしなかったが、王子に兄の奥さんがいて、昼食を呼ばれに行ったと話し、日記はどうか、前回は縮小版と言っていたが、と来るのには、また多く書きはじめたと返答する。かなり活動的になっていますねと言うので、どうでしょうかと疑問で受けると、この春に比べたらと念押しが続くので、春に比べればそれはそうだと応じた。頭の働きについては、病前に比べるとやはり劣るかと思うが、日記もまた書いていることだしある程度は戻ってきたのではないかと述べ、睡眠は、眠れてはいるが朝が起きられないと話した。睡眠について言えば、就寝前の薬を頂いていたんですが、それがなくても眠れるようになりましたと変化を報告し、それでオランザピンとブロチゾラムはもう必要ないということになった。クエチアピンについてもこちらとしては、減薬はどうかと思っているのだがと差し向けると、オランザピンがクエチアピンと同じようなものなので、あまり「ぼん、ぼん、ぼん、と」一気に外さなくても良いのではないかと医師は言って、こちらもまあそれで良いかとこだわらずに落とした。診察は五分程度で終了したと思う。会計(一四三〇円)を済ませて隣の薬局に移り、カウンターに近寄ってこんにちはと挨拶をすると、客の対応をしていた局員が背後に向けて、受付お願いしますと声を放つ。そうして奥の調剤室のほうから急いで出てきたのが、パーマを掛けた頭で小さな背丈の(……)さん、こちらの中高時代の同級生である。数か月前からこの薬局で働いているのを見かけているのだが、あちらがこちらを同級生の(……)として同定し、認識しているのかは定かではない。中学生の時に、クラスが同じだったこともあったはずだが、さほど関わりがあったわけでもない。彼女が差し出す三九番の紙を受け取り、黄色い席の上にバッグを置くとトイレを借りた。小便を放ったあとに、トイレットペーパーで便器を拭いておき、出ると席に就いて何をするでもなくいると、すぐに三九番の方、と声が掛かった。カウンターに行って局員を前にすると、首から下げた札の名前が、(……)、となっているのに気がついた。この人は以前は(……)さんだったはずで、結婚したのだなと思ったが、今、「お薬手帳」を見てみると、七月一三日の時点で既に印の名前が(……)の姓になっているので、名札の変化が遅れたのでなければこちらがこれまで気付かなかったのだろう。会計をして(八四〇円)薬局を去った時、日記のことが頭にあって、記述が行動の連鎖だけではやはりつまらず、その流れから浮かび上がるような要素、要は風景描写のようなものを取り入れていくらかの起伏を付けたいな、などと考えていたのだが、そこから日記ということで連想された作家が一人いて、しかし名前が思い出せなかった。『七〇歳の日記』などを書いているベルギーの作家で、と思いながら車に戻ると、東急で長崎ちゃんぽんでも食べるかと母親が言うので、良いではないかと賛成した。その前にまずは買い物というわけで、近間のスーパー「(……)」に移動するのだが、そのあいだに先ほどの作家について記憶を巡らせると、アン・ブーリンとか(英国王ヘンリー八世の第二王妃である)、アン・バートンとか(オランダのジャズ・シンガーである)の名が浮かんでくる。これらと響きが似ていたと思うのだがと引き続き名を求めていると、車に揺られているあいだに、そうだ、メイ・サートンだと記憶が繋がった。それからスーパーの駐車場に停まると、空には灰色が立ち籠めはじめていて、雨を思わせる気配である。自宅用と料理教室用のものと分けて買うと言うので、カートの上下に籠をそれぞれ乗せて入店した。まず入り口の脇にある一個二五円の玉ねぎをいくつか入手する。それからこちらはカートを押して、四本入りのバナナや豆腐や五個入りの茄子を二袋手もとに加えて行ったあと、カートを母親に預けてフロアを渡った。飲むヨーグルトを二本入手して小脇に抱えて戻り、カートと合流すると、ちょうど傍にあったビスケットの区画から、小袋が六つセットになった「たべっ子どうぶつ」を取って籠に入れた。その他諸々を入手して会計、一つ目の籠は母親が五〇〇〇円を出したが、それでもうお金がないと言うので、二つ目はこちらが千円札で支払った。台の上で荷物を整理すると退店し、車に戻って移すものは保冷ボックスに移し、そうして走り出すとぱらぱらと雨がフロントガラスに散る。洗濯物をいくらか出してきてしまったと言うので、外食はなしにして帰宅することになったが、母親が東急の本屋に注文した本が届いており、それだけ取りに行かねばならなかった。それで東急のビルへ、坂を上って上層階の駐車場に入り、母親が本屋に行っているあいだこちらは車内で瞑目して待った。さほどの時間は掛けずに母親は戻ってきた。そうして帰路へ、家が近づくにつれて雨はなくなって、空からも灰色が拭われて白に寄っていた。帰り着くと荷物を運び、買ったものを冷蔵庫に収める。母親はチキンラーメンを作りに掛かり、こちらは自室に戻ってジャージに着替えた。しばらくしてから上がって行くとちょうどラーメンが出来たところ、盆に乗せられたものを台所からテーブルに運び、席に就いて食べはじめる。味が結構濃いねと母親は言った。そのほかホイップクリームの入ったデニッシュとバナナを半分ずつ食べ、食後はこちらがまとめて食器を洗ってしまう。そうして緑茶を用意して下階に下り、先ほど買ってきた「たべっ子どうぶつ」のビスケットをつまみながら一服した。顔や額の奥が澱んでいるような、疲労感のような眠気のような感覚が薄く頭のなかに生じていた。それでベッドに横になりたいところを我慢して、緑茶をもう二杯分拵えてきてから日記に取り掛かった。二時二〇分からちょうど二時間掛けてここまで至っている。自ら書いていながら、何か深い思索があるわけでもなし、物々に触れた時の生き生きとした感想があるわけでもなし、何の変哲もない生活の些末な行為ばかりをこまごまと記して、読む者の感覚を駆動させることもないだろうこのような文章を書いて、一体何になるのだろうと思わないでもない。その後、四時半からベッドに寝転んで読書を始めたのだが、薄々そうなるのではないかと思っていた通り、本はすぐに手放して眠りに落ちることになった。部屋が真っ暗闇に包まれた八時頃まで、三時間半も寝床に留まってしまう体たらくである。医者にちょっと出かけただけで疲労に襲われて、益体もなく長寝をしてしまう情けない身からすると、世の人々が毎日朝早くから晩遅くまでずっと働いているのが信じられないような思いがする。おそらく七時頃までは眠ってもかえって疲労が増すように感じていたと思われ、半醒半睡の時によくあるように、金縛りめいて頭のなかが痺れ、窒息するような感覚も訪れていたが、八時になる頃には心身が軽くなっていたようだ。起きて、食事に行く。台所にはカキフライの二つ乗った皿が用意されてあり、それにベーコン(先日両親が訪れた「サイボクハム」で買ったものだと言った)・小松菜・ブナシメジの炒め物、そして茄子の煮付けを加えてレンジで温める。そのほか汁物など用意して卓に就き、おかずとともに白米を咀嚼するあいだ、テレビは八神純子という歌手を取り上げていた。あまり興味はなかったが、米国で活動していた彼女は、二〇〇一年九月一一日の同時多発テロをきっかけとして活動休止に至ったというのがやや印象に残っている。あの事件によって、家を空けて子供たちから離れるのが怖くなったのだという風に話していた。母親はこちらよりも先に食事を終えており、父親が帰ってくる前に風呂に入ると言っていたわりに、何だかんだでぐずぐずとして立ち上がらない。彼女の使った食器もまとめて洗ってしまうと、こちらが先にさっさと入浴することにした。湯を浴びて出てきて、下階に帰る前にテーブルの端、ポットの前で緑茶を注いでいると、風呂場に行った母親が、またヤモリが出たと声を上げる。我が家では、粘土のように薄白い姿のヤモリが窓の裏に貼り付いているのがよく目撃されるのだ。随分長くいるな、梅雨頃からいるじゃないかとこちらが受けると母親は、智子さんにでも送るのだろうか、撮っておこうと携帯を持って行った。緑茶を持って自室に行くと、時刻は九時過ぎ、まず一年前の日記を読み返したが、このなかで自分の不安障害的な気質について綴っている断章がちょっと面白かったので、ここに引いておく。

 労働後、疲労感があるのは当然のことだが、この日は加えて虚しさのようなものを感じた覚えがある。夜道を行きながら薄い厭悪が滲むというか、どうにかして義務的な労働のない生活ができないか、あるいはせめてもう少し楽しいような居場所がないものかと、いつもながらの無益な思念が巡るのだが、さほど悪い職場でもなく、この日に何か特段の失敗や意気阻喪することがあったわけでもない。それでも虚しさや嫌気が生じるというのは、思うに、やはり人と接することそのものに何か、不安感のようなものを覚えているのではないか。これは例えば、裏路地で高校生などを追い抜いたり追い抜かされたりする時のことを考えてみても思い当たるのだが、そういう場合、こちらに向けられる彼ら彼女らの視線がどこか気になるようなのだ。また、人とすれ違う時なども、相手の顔をどれだけ見ても良いのか、目を逸らしたあと視線はどこに置けば良いのか、あるいは相手が知り合いならば挨拶はするか否か、するとしてどのタイミングですれば良いか、などを、半無意識的に神経質に迷いながら行動しているようなのだが、こうした極々日常的で短い対人の瞬間における振舞いの方法論というものは、こちらのなかで答えが見えず、一向に確立しない。大方の人間はそんなことは考えず、その場その場の流れに任せているはずで、このような些末な事柄に方法論などと言ってしまう点で(それほど本気で言っているわけでもないけれど――しかし、この問題は、カフカが日記に書きつけていた疑問、「数人の集団のなかにいる時に、無口だと思われないためには、どのタイミングでどの程度、どれくらいの回数喋れば良いのか?」といったそれとどこか重なり合うような気がする)、自分の自意識過剰が証される(馬鹿げたことだが、自分には挨拶という振舞いが、一つの「闘い」であるように思われることがある。そこでは、先手を打って朗らかに声を発してしまったほうが明らかに勝ちなのだが、自分はこの闘いが苦手で、勝利することはあまりない)。あるいはそれは自意識「過剰」というほどのものでなく、社会的な人間として当然持ち合わせるべき最低限の自意識なのかもしれないが、自分の場合その底に何か、人と接すること自体に対する、恐れと言っては言葉が強すぎるが、緊張や不安のようなものがかすかに含まれているように思うのだ。これは昔からそうだったはずで、パニック障害に陥ったのも結局、煎じ詰めれば、他人が世界が怖いということだったのではないか。自分はその点、社交不安あるいは対人恐怖的な性向の傾きがあるのだろうが、それがだいぶ改善されたいまになってもまだ多少残っているということなのかもしれない。要するに、ただ他人と対峙するだけでも緊張するというようなところが自分にはあって(ほかの人々にも多かれ少なかれあるのではないかと思うが)、そうした内向的な性質が人と接するにあたって自分を煩わせ、疲れさせるのではないか。そして、労働という公的領域においては関係は表面的なものに留まるから、この緊張もより助長され、疲労感も強くなり、それが虚しさや厭悪に繋がるということではないだろうか。古井由吉の使っていた言葉を用いて言い換えれば、世の「外圧」そのものに疲労するということで、これはおそらく誰もそうだろうが、この点で生というものは本質的に、世界との闘い/戦い・摩擦・齟齬、そういった側面があると言っても良いのかもしれない(カフカもやはり、世界と自分との戦いについてアフォリズムを拵えている――そもそもが戦いであり、齟齬こそが本質で、それがあるのが常態なのだと考えれば、何か煩わしいことがあってもそれほど心を乱されずに済む気もしてくるものだ)。(……)

 不安障害が消え去った今、他人と対峙する際のこうした神経質な緊張もほとんどなくなったと思うのだが、それはある種鈍感になったということでもあって、不安の残っていた一年前のほうが良くも悪くも物事を「繊細に」捉えていたということが、この記述から窺えると思う。日記を読んだあとは新聞記事を黙々と写し、それから一三日の新聞、一四日のものと読んでいると、九月一四日の時間はもはやほとんど尽きた。米国ではこの度、トランプ政権の内幕を描いた「FEAR」という本が出版されたらしい。それを紹介した記事に曰く、二〇一七年の四月にシリアで化学兵器が使用された際、ドナルド・トランプ放送禁止用語を使いながら、「あいつ(アサド大統領)をぶち殺そう! やるぞ。あいつらをたくさんぶち殺そう!」と発言したと言い、この凄まじい短絡性の発露は読んでいて印象に残るものだった。その後、歯磨きをしてしまうと、音楽鑑賞に入った。この日も聞くのはKeith Jarrett Trio、例によってスタジオ盤の"All The Things You Are"から始め、そのあと、ライブ盤である『Tribute』から"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"、そして"All The Things You Are"と流した。"Ballad Of The Sad Young Men"が、佳曲であるように思われた。無駄がなく引き締まっており、美麗さを売りにしたピアノトリオのバラードとしては文句なしの、器を満たしきった演奏ではないか。"All The Things You Are"はとにかく楽曲自体が良いが、ライブ音源のほうはスタジオに比べるとだいぶこなれていて、Jarrettが感情に任せて乱れる場面がなかったようで、その分後者に感じられるスリリングな要素には欠けていたと思われる。こちらが繰り返し聞きたいと思うのは、一九八三年録音のスタジオ版のほうである。音楽は零時半までで切りとして、それからインターネットを閲覧し、一時二〇分に床に就いた。眠りはなかなかやって来ず、しばらくしてから時計を見やるともう二時に達するところで、もう四〇分も眠れないままでいるのかと思った。しかしそれから、多分三〇分はしないうちに入眠できたのではないか。

2018/9/13, Thu.

 八時に鳴るよう仕掛けてあった携帯のアラームで一度覚め、ベッドから遠くに置いておいたそれを取りに行く。そのまま立位を保って起床してしまえれば良いのだが、鳴り響く音を消すと意志薄弱にもベッドに戻ってしまうのだった。そうして浅い二度寝に入り、たびたび目を覚ましながらも決定的な起床には至らない。窓の上端には光を放つというよりは反対に収束するようにして太陽の姿が印され、そこから幾許かの光が顔に降りかかって覚醒を助けようとしてくれるのだが、空は雲混ざりらしく、晴れ晴れと屈託のない光線とは行かなかった。川向こうから、大太鼓の打ち鳴らされる響きが伝わってきていた。そうこうしているうちに一一時に至ってようやく瞼と身が軽くなって、よし、と呟きながら身体を起こした。上階に行き、卓上の書き置きを確認し、仏間の箪笥からジャージを取り出して履くと洗面所で顔を洗った。前夜の鮭が残っているかと思えばその通りで、二切れあったうちの一つをレンジで温め、ほかには米に即席の味噌汁、これも残り物の生野菜のサラダを用意してテーブルに就いた。新聞記事を確認しながらものを食べているあいだ、大太鼓の音は続いており、それに伴って子どもらの声のようなものが聞こえたのは、幼稚園かどこかで何か催しているのかもしれない。食べ終えて食器を洗うと水を汲み、薬とサプリメントを飲んでから風呂を洗った。そうしてポットから急須に湯を注ぎ、茶葉がひらくのを待つあいだに屈伸を二〇回行って、それから体重計に乗ると六二. 六キロが表示された。以前の体重は五三キロからせいぜい五五キロほど、ひょろひょろだったその頃と比べて腹にいくらか肉がついたのが気になるが、重さとしては適正と言って良いだろう。そうして緑茶を一杯湯呑みに注ぎ、急須のなかに湯を足してからそれらを持って階段を下った。コンピューターを起動させてLINEにログインしたが、新着のメッセージはなかった。Twitterを覗いたり、前日の日課の記録を完成させたりしたのちに、すぐに日記に取り掛かるはずが何となくギターのほうに気が向いて、隣室に入って楽器を弄ったそれがちょうど正午頃、長くはせずにまもなく自室に戻って、一二時一〇分から文を書きはじめた。前日の分を仕上げてブログに投稿、その後この日の記事をここまで記すと現在はちょうど一時を迎えている。『川本真琴』とともに、新聞記事の書抜きを始めた。前日に読んだスウェーデン総選挙の結果と、ドイツでの難民追放デモについて写しておき、さらに、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』からも、この本はまだ読みはじめたばかりだが、既に三箇所を書き写した。そのうちの一部をTwitterに投稿している途中、流れていた"タイムマシーン"の、「いつまでも終わらないような夏休みみたいな夕立」というフレーズが突如として耳に引っ掛かって、音楽の効力もあるかと思うが、これは素晴らしいではないかと思った。書抜きを終え、(……)さんのブログにアクセスすると、移転の知らせが出ていたので新たな在所を早速ブックマークしておき、余っていた川本真琴の楽曲が最後まで鳴らされたあと、最新の記事をいくつか読んだ。そうして、YoutubeにあるSIRUP "SWIM"の動画を再生して一度歌うと、前日の新聞を読みはじめた。憲法九条の基礎的な事実をおさらいしたコラム、米朝首脳再会談の見込み、ドナルド・トランプに対する識者三人の評価と記事を読むとそれで時刻は三時前、そろそろ洗濯物を入れるかと上階に行った。上るとまず豆腐を食べることにして、パックから皿に移したものをレンジに突っ込み、二分三〇秒温めるあいだにフランスパンを一切れつまんで、便所に行く。戻ってくると長く持っていられないほどに熱くなった皿を調理台の上に移し、豆腐に鰹節を振ってぽん酢を掛けた。それを卓に持って行って、この日の朝刊の一面、プーチン大統領が日露平和条約の年内締結を提案したという記事を読みながら、豆腐を箸で細かく千切って一口一口食べて行った。そうして、皿と箸を網状のきれで擦り洗っておいてから、洗濯物を取りこんだ。ベランダに出ると、二日三日前には生き残った蟬の一匹の声を聞いたが、この日になるとさすがにもはや蟬の鳴きはあたりになく、秋虫の声ばかりが鳴っている。太陽は雲にやや遮られてはいるが林の上端で光っていて、直視できないほどの白の強さがあった。柵に凭れているとその温もりが背に掛かり、前からは微風が浮かんで涼しげで、重さのなくて肌に同化する大気のなかで眼下の畑の斜面の、青さをはらんだ緑の草々をしばらく眺め下ろした。近所のどこかで犬が鳴き声を立てていた。吊るされていたものをすべて室内に入れてタオルに触れてみると、ほんの僅かに湿り気が残っていたものの、鼻を寄せれば臭いがないので畳んでしまうことにした。畳んだものを洗面所に持って行き、肌着の類も整理して隣の仏間に置いておき、最後に母親の柿色のエプロンを一枚、アイロンに当てた。それで洗濯物の始末は終わり、ソファに腰掛けて脚を組み、目を閉じて例によってこの日の記憶を一つ一つ辿り、頭のなかで現在時に追いつかせるとそれだけで二五分が経っていた。それから緑茶を拵えて下階に下って行き、大して美味くもない飲み物を啜りながら(……)さんのブログを読んだ。二記事で五〇分が掛かった。今は労働から離れて実質上のニート生活を満喫しているから良いが、また働きだしたら自分は本を読む時間を取れないのではないか、労働以外には日記の作成と新聞などのその他読み物だけで一日が終わるのではないかというような気がする。五時まであと少し間があったので、川本真琴 "タイムマシーン"と続けて"やきそばパン"を流して聞き、それから上階に上がって行った。母親は四時頃に帰ってきていた。何かやってくれるのと問うのに、茄子、と答えて台所に入り、冷蔵庫から茄子を四本取り出して洗い出すところで五時を知らせる市内チャイムが鳴った。黒々と光沢を帯びた深い紫の茄子を切り分けてボウルの水に晒し、全部切り終えて笊に上げるとフライパンに油を引いてチューブ入りのニンニクを落とした。しばらく熱してから茄子を投入し、時折り振って混ぜながら、一方で鍋を火に掛け、玉ねぎを切った。味噌汁のためである。鍋に玉ねぎを入れて、茄子は焦げ目がついたところで醤油を加えて完成とし、玉ねぎの加熱を待つあいだに夕刊を持ってきて一面の、沖縄知事選の始まりを告げる記事に目を落とした。付されていた年表も読んでしまうと鍋に水をちょっと加えて、味噌をお玉に取り分けて溶かし入れた。面倒なので味見もせずに完成として、あとはやってくれと母親に告げて自室に戻った。九月一一日の新聞から、パレスチナ関連の記事を写し忘れたことに思い当たっていた。下端で小さく扱われたものだったので見落としていたのだ。改めて新聞をひらいてそれを写し、Evernoteに保存してある過去の記事(米中間選挙についてのもの)を一つ読んで、そうして日記を綴りはじめた。四〇分ほどでここまで記して六時半前、既に窓の向こうは暗闇で、室内の像が映り込んで見通せず、アオマツムシの音があたりに凛々と鳴っている。それから、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読んだ。ベッドの上で一時間を読書に過ごすと、食事を取りに行った。こちらの作ったものに加えて、台所には薩摩芋が煮られており、残り少なかった炊飯器の米は鮭や青紫蘇と混ぜて寿司飯のようになっていた。米や味噌汁などよそっては一つずつ卓に運んで行き、茄子の炒め物と薩摩芋は一つの皿にまとめて乗せて温めた。食事中に特に印象を残したことはない。『くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』がテレビには掛かっていたが、これはどうでも良い類の番組だし、何だったら大方は雑学とも言えないような些細な知識を取り上げて、それを知っていれば「ハナタカ」として悦に入れる、などというコンセプト自体もあまり好きではない。食後、風呂に入って湯に浸っていると、窓の向こうから雨音が膨らみ近寄ってきて、その下地の上に重なって秋虫の音が波打っていた。風呂から上がって短い髪を手早く乾かすと、翌日が通院だからと髭を剃ろうと思っていたのだが、父親がどこかへ持って行ったのか電動シェーバーが見当たらなかった。仕方がないので、多少髭が生えていてもさほど見窄らしくもあるまいと払って洗面所を抜け、下階に帰ると一年前の日記を読んだ。すると九時前、この日の残った時間を何に充てようか自分の欲望が見定められず、立ち迷うようなところがあったが、結局読書に費やすことにして『憎しみに抗って』を取った。ベッドで枕に凭れながらしばらく読んだところで、手の爪を切りたくなったので一旦読書を中断し、ベッド上にティッシュを一枚敷いて、SIRUP "SWIM"をリピート再生しながら爪をぱちぱちとやった。やすりがけをしているあいだに音楽はSuchmos "YMM"、"GAGA"と移して口ずさみ、終わるとふたたび書見に戻って一時間半、一一時半過ぎまで文を追ってから廊下に出た。歯ブラシを取りに洗面所に向かうと、階段下の室に上半身裸の父親がいたので、何か調べ物だろうかパソコンを前にしているのにおかえりと告げて、便所に入った。用を足し、歯磨きをしてしまうと音楽の時間である。この日はすべてKeith Jarrett Trio、例によって『Standards, Vol.1』の"All The Things You Are"から始め、その後『Tribute』から"Just In Time"、"Smoke Gets In Your Eyes"、"All Of You"と聞いた。"Just In Time"ではベースソロの終盤がカットされると言うか、Jarrettが明らかに早く、ずれた位置でバッキングに戻ってきたのに合わせてそのままソロが明けてしまい、ベースのソロは正しい小節数で完結せず、これではベースとその他二者のあいだで演奏がずれてしまうと思うのだが、何故か直後に続くバース・チェンジのドラムのソロの始まりはぴったり合っているので、どういうことなのか良くわからない。音楽を聞き終えると零時二〇分過ぎ、そのまま消灯して床に就いた。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 ときに私は、彼らをうらやむべきだろうかと考える。ときに、どうしてだろうと考える――どうしてあんなふうに憎むことができるのだろうと。どうしてあれほど確信が持てるのだろうと。そう、なにかを憎む者は、確信を持っていなければならない。でなければ、あんなふうに話し、あんなふうに傷つけ、あんなふうに殺すことなどできない。あんなふうに他者を見下し、貶め、攻撃することなどできない。憎む者は、確信を持っていなければならない。一片の疑念もなく。憎しみに疑念を抱きな(end9)がらでは、憎むことなどできない。疑念を抱きながらでは、あんなふうに我を忘れて憤慨することなどできない。憎むためには、完全な確信が必要なのだ。「もしかしたら」と考えてはならない。「あるいは」と考えてしまえば、それが憎しみのなかに浸透し、よどみなく流れるべき憎しみのエネルギーをせき止めてしまう。
 憎しみとは不明瞭なものだ。明瞭にものを見ようとすれば、うまく憎むことができなくなる。優しい気持ちが入り込み、よりよく見てみよう、よく耳を傾けてみようという意志が生まれる。ひとりひとりの人間を、その多様で矛盾した特徴や傾向まで含めて、生きた人間として認識するための差異が生まれる。だが、一度輪郭がぼかされ、一度個人が個人として認識不能になれば、残るのはただ憎しみの対象としての漠然とした集団のみであり、そんな集団のことなら、好きなように誹謗し、貶め、怒鳴りつけ、暴れることができる。「ユダヤ人」「女性」「信仰のない者」「黒人」「レズビアン」「難民」「イスラム教徒」、または「アメリカ合衆国」「政治家」「西側諸国」「警官」「メディア」「知識人」。憎しみの対象は、恣意的に作り出される。憎むのに都合よく。
 憎しみには、上に向けられるものと下に向けられるものがあるが、いずれにせよ必ず目線は縦方向だ。自分より「上のやつら」、または「下のやつら」、いずれにせよ彼らは「自分たち」を抑圧または脅迫する「他者」である。「他者」とは、危険な権力だとされるもの、または価値が劣ると考えられるものである――こうして、のちに虐待や殲滅が起きても、それは、単に「許される」行為であるばかりか、「必要な」行為でさえあったと過大評価されることになる。「他者」とは、罰を受けることな(end10)く中傷し、蔑み、傷つけ、殺すことさえできる対象なのだ。
 (9~11; 「はじめに」)

     *

 実際、ドイツ連邦共和国ではなにかが変わった。以前より公然と、躊躇なく、憎しみが表明されるようになった。ときには微笑みとともに、ときには真顔で、だがあまりにも堂々と恥知らずに。匿名の脅迫状なら以前からあったが、今日では差出人の名前と住所が書かれたものが送られる。インター(end12)ネット上でも、暴力の妄想や憎しみの書き込みは、もはやハンドルネームの陰に隠されてはいないことも多い。もし数年前に、私たちのこの社会で再び人がこんなふうに[﹅6]話すときが来ると想像できるか、と訊かれていたら、ありえないと答えただろう。公共の場での議論がこんなふうに野蛮になるとは、こんなふうに際限なしに人間に対する誹謗中傷がまかり通るようになるとは、私には想像もつかなかった。人間同士の会話とはどうあるべきかというこれまでの一般的な常識が、ひっくり返されたかのようにさえ見える。まるで、人間同士の付き合い方の基準が、まったくの正反対になってしまった――つまり、他者を尊重することを単純かつ当然の礼儀作法だと考える者のほうが、自分を恥じねばならない――かのようだ。そして、他者を尊重することを拒絶し、それどころか、できる限り大声で誹謗や偏見を叫びたてる者こそが、自分を誇らしく思っているように見える。
 (12~13; 「はじめに」)

     *

 そもそも、本書で取り上げる憎しみは、個人的なものでも偶然の産物でもない。ついうっかり、または本人たちに言わせればやむにやまれぬ必要性にかられて口にされる、あいまいな感情などではな(end13)い。ここでの憎しみとは集合的なものであり、イデオロギーという器に入っているものだ。憎しみには、それを注ぎ入れることのできる、あらかじめ作られた器が必要である。人を侮辱するのに用いられる概念、思考の整理に用いられる想像の連鎖やイメージ、人を分類し、レッテルを張るのに用いられる知覚パターンといったものが、あらかじめ出来上がっていなければならない。憎しみは突如沸き起こるものではなく、徐々に育まれていくものなのだ。憎しみを、たまたま生まれた個人的な感情だと考えてしまえば、望むと望まざるとにかかわらず、憎しみがさらに育まれ続ける環境に手を貸すことになる。
 (13~14; 「はじめに」)

2018/9/12, Wed.

 夏のあいだの薄い掛け布団だけでは肌寒くて、もう一枚を被った朝だった。この日も何度も覚めてはいるものの、活力が湧かずに寝床から離れることができず、ぐずぐずと留まって結局起き上がったのは正午だった。活動を厭うような心が薄くあったような気がする。飯を食うにも風呂を洗うにも面倒臭く、また過去には自分の本意だった読み書きにしたってそれをやってみて何になるわけでもないという無力感、空虚感の類である。それでもどうせほかにやることもないので起き上がり、ステテコパンツを履くと急須と湯呑みを持って上階に行った。台所に入ると急須の茶葉を空け、ポットを覗くと湯がなかったので薬缶を使って補充しておく。顔を洗ったあと、オクラ、ウインナー、茄子の味噌汁を運んで卓に就いた。腹が減っておらず、米を食べる気は起こらなかった。新聞をめくって記事をチェックしながらものを食べ、母親が余計に運んできたサラダやゆで卵も、特に食べたくはなかったのだがいただき、薬を飲むと食器を洗った。そのまま風呂も洗うと緑茶を用意して下階に下り、SIRUP "SWIM"をリピート再生にしてインターネットを閲覧した。LINEには新たなコメントが現れており、(……)によると映画の上映時間は一一時三五分からということだった。場所は川崎、我が家からはおそらく二時間くらい掛かるわけで、きちんと間に合う時間に起きられるのか心許ないが了承し、"SWIM"が流れるなかで前日の記録を完成させ、この日の記事も作成した。一時二〇分から日記を綴りはじめた。前日分を投稿したのちここまで綴って、現在は二時七分を迎えている。それから、ドーパミンを増やすという「ムクナ」や「チロシン」などのサプリメントについて情報を収集して(と言って匿名掲示板のスレで書き込みを拾い読みしただけだが)半ば無駄な時間を使い、三時頃になって上階に行った。ハンカチやエプロンにアイロン掛けをしたあと、緑茶をおかわりする前に何か腹にものを入れたいということで、冷蔵庫からヨーグルトミックスのゼリーを入手した。乳白色のゼリーのなかにフルーツが埋められたそれを食べ、茶を新たに用意して自室に戻ると、『ルパン三世 PART5』の最新話を視聴した。つまらなくはないが取り立てた印象をもたらすわけでもない。昨年まではアニメなどのエンターテインメント性の強いコンテンツを、所詮は出来合いのありがちな物語であると思いながらもそこそこ楽しむ心があったように思うのだが、病気を通過して物語的なものにも感受性が反応しなくなったような感じがする。アニメを見たあとは『川本真琴』を流しながら前日に読んだ新聞記事の写しに入って、スルガ銀行の不正融資の件で、成績をこなせなければ「ビルから飛び降りろ」などと上司に言われたという行員の証言を打鍵していると、天井が鳴ったようだった。音楽を止めないままに廊下に出て、階段の下から呼んだかと問いかければ、手伝ってほしいことがあると言う。上がって行くと、座布団をゴミに出すので解体するのだと言った。書抜きを中断した時刻を知りたくて時計に目を向けると、ちょうど四時を指していた。それで台所に座りこみ、鋏で座布団のカバーを切りひらき、なかの綿も、そこそこの厚みがあるものを何度も階層的に鋏を入れて、じゃきじゃきと二つに切断して行く。綿の繊維が舞って、鼻息を強くするとむずむずとなりそうだった。苦労してクッション材を二つに分けると、ちょうど行商の八百屋((……)さん)が来たところで母親は外に出ていき、こちらは台所で分かれたものをそれぞれ円筒形に丸めて紐で縛った。そうして戻ってきた母親とともに、薄緑色のビニール袋のなかに無理やり押し込むと仕事は終わり、トイレで小便をしてから下階に戻った。それから、流しっぱなしだった『川本真琴』を巻き戻して四曲目からふたたび始め、また新聞記事を写す。米国は、と言うかドナルド・トランプは、対中関税の第四弾を二六七〇億ドル分とするつもりのようで、そうすると一弾目から合わせて五〇〇〇億ドルほどある中国からの輸入品すべてに高関税が課せられることになるから、滅茶苦茶なやり口である。新聞記事を写し終え、『川本真琴』を最後まで聞くと時刻は五時直前、夕食の支度をするべく階を上がった。CDを持ってきて、Donny Hathaway『These Songs For You, LIVE!』を、三曲目、"Someday We'll All Be Free"から始めてラジカセで流した。コンロに乗った鍋には茄子の味噌汁が少々残っていた。まずはレンコンを肉と炒めてくれということで、スライサーで薄くおろし、胡麻油を熱したフライパンに投入する。歌を歌いながら炒め、しばらくしてから、肉は冷凍の小間切れになった豚肉の、僅かに残っていたのをすべて放りこみ、醤油とみりんを垂らしたあとから最後に胡麻を振って仕上げた。続いて、"What's Going On"を口ずさみながら湯を沸かし、モヤシを茹でると笊に取っておき、キャベツをスライサーで細く削って行く。"Yesterday"を歌いつつ、水を注いだ洗い桶のなかにそれを溜めていき、ほかにレタスも千切り、茹でたモヤシも混ぜてしまって、水洗いして冷やすと笊に上げた。それを食器乾燥機のなかに収めておき、あとはおかずに鮭を焼くとのことだったがまだ時間が早かったので母親に任せることにして、台所を去った。自室に帰るとちょうど五時半、運動をする気になって、繰り返されるSIRUP "SWIM"を背景に下半身を伸ばすが、歌を口ずさんでしまうから柔軟運動は集中できずになおざりなものになってしまうのだった。その後、腹筋運動を七五回、腕立て伏せを何度かに分けながら計二六回こなすと六時に至って、ものを読みはじめた。初めに、前日九月一一日の新聞である。国際面をひらくと、スウェーデンの総選挙で反移民政党である「スウェーデン民主党」が伸長したらしい(日本や米国ではリベラル寄りの名称である「民主党」が、ここでは極右として扱われているのでややこしい)。九月九日、王子からの帰りの高速道路でニュースを聞きはじめたちょうどその時に、NHKスウェーデンの移民がどうとかいう話題を取り上げていたが、あそこで話されていたのはこのことだったのだろう。与党、社会民主労働党はこの一〇〇年間、第一党の座を守っているらしく、左派的な寛容の伝統が根付いていたのだろうが、今回の選挙では中道左派の与党連合は一四四議席中道右派の野党連合は一四三議席と僅差で、どちらも過半数(一七五議席)に届かなかった。続いてその下、ドイツでの難民反対デモの記事も読み、それからカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』の読書に入った。文字を追っているうちに時刻は七時を回り、あっという間に二〇分に至って、そこでそろそろ飯を食いに行くことにした。茄子の味噌汁にはモヤシやワカメが加わって増量されていた。そのほか白米、鮭にレンコンの炒め物、生野菜のサラダ、豆腐に小松菜などを卓に並べて食事を始める。食事中、母親は下の(……)さんの話をしていたのだが(昼に食べたオクラは彼女に貰ったものだと言った)、そのうちに先般(……)さん夫妻が出て行った小家(隣の(……)さんが大家で、この九七だか九八だかになる老婆と、若い夫婦とのあいだにちょっとした揉め事があって引っ越して行ったのだ)が話題に出てきたので、そこを拾い上げて、そもそもあの家はいつからあそこにあるのかと尋ねた。それで判明したのだが、我が家も含めてこの周囲の土地は元々、(……)という栃木の人物が別荘地のようにして持っていたものだったのだと言う。その(……)さんが亡くなった時に、遠くて管理もできないからとその息子(この人は神戸にいるとかいう話だ)に頼まれて、それまで借地だったところを(……)さんやら我が家やらは買い取ったという経緯だった(我が家の土地を買うにあたっては、祖父と父親が折半したらしい)。それから、別の話としては山梨の(父方の)祖母のことが話題に出た。先日、祖母には胸がきゅっと締まるような感覚に襲われて苦しくなったということがあったのだが、それを受けて(……)さん(祖母の長女=こちらの伯母)が短い手紙とともに、新聞記事のコピーを送ってきたのだった。封筒からそれを取り出して読んでみると、「心房細動」という症状について述べられており、それは不整脈の一種で、脈の乱れによって血の塊が生じて、それが血液に運ばれて脳まで届くと脳梗塞になる、と記事は胸というよりは頭に焦点を当てた主旨だったが、祖母の症状もこれと似ているとのことらしい。二〇一四年の年末、我々が欧州に渡っていたあいだに祖母は一度脳梗塞を起こしており、先般、腰の手術をしようという際にも、軽いものだがもう一度起こって、手術は取り止めになったということもあった。それらの梗塞もこの記事で述べられていた心臓から来たものなのか、それは判然としなかったが、あるいはそうなのかもしれない。話には(……)さん(漢字は(……)さんかもしれないが――(……)さんの旦那さんである)の名前も出てきたので、彼は何の仕事をしていたのかとついでに尋ねると、NTTで何かやっていたらしいという答えがあった。そうこうしているうちに時刻は八時、薬を飲んで食器を洗い、風呂に行った。湯のなかに踏み入って身体を落とすと、肌を刺激する熱の感覚が、普段よりも何か強いような感じがしたが、それだけ気温が下がってきたということだろう。実際、本を読んでいるあいだなどは、半袖に半ズボンの格好だとちょっと肌寒いようだった。風呂場では湯に包まれながらじっと静止し、湧き出る汗に気を散らされながらこの日のことを順番に思い返した。そうして風呂を上がると茶を注いで下階に下り、コンピューターを前にすればLINEに新着メッセージが来ている。一七日に見に行く映画は、『リズと青い鳥』という作品で、『響け!ユーフォニアム』の映画ではなかったのかと思ったが、このタイトルでスピンオフ的なものらしい。それから緑茶を飲みながらインターネット記事を読み、九時半からこの日の日記を書き足しに掛かった。黙々と打鍵して一時間半、一一時直前に至ってここまで記された。(……)さんのブログの最新記事は長そうだったので翌日に回すことにして、歯を磨きながら一年前の自分の日記を読み返した。それからは音楽の時間、まずSIRUP "SWIM"を聞き、次にKeith Jarrett Trio "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)を聞いたが、ここのところ繰り返し流しているこの音源は名演と言って良いものなのだろうと、例によって感動による気分の高ぶりはないわけだが、今更ながらにそう思った。『Standards, Vol.1』および『Vol.2』の演奏のなかでも、陶酔に任せたピアノの乱れ方がほかの曲とは違っているような感じがする。それから『Tribute』のほうに移って、"Solar"、"Sun Prayer"、そしてディスク二の冒頭"Just In Time"と聞いたが、この最後の演奏もハイテンポで相当に充実しており、特にベースの強靭さが耳に残った。僅か五曲を聞いたのみだが、それでもう日付は変わっていた。コンピューターをシャットダウンしてベッドに移り、『憎しみに抗って』をいま少し読み進めることにした。二〇一六年二月にザクセン地方クラウスニッツで起こった難民バス進路妨害事件の描写や分析を読み、一時一〇分に至ったところで切りの良いところまで達したので本を閉じ、消灯した。布団のなかでは日記に記した以降のことを一つ一つ思い返していたが、そうしているうちに労せず眠りに入ったようだ。

2018/9/11, Tue.

 七時の携帯、八時の時計のアラームでそれぞれ覚めたが、音を消しただけで起床は見なかった。九時半頃には既に頭ははっきりしていたと思うのだが、前日の夕刻と同様何となくやる気が起こらず、だらだらと寝床に留まり続けた。一〇時半に、両親の帰ってきた音がした。この日は朝早く、八時から彼らは年金事務所に話を聞きに出かけており、さらにその後は「サイボクハム」というところへ昼食に行くということで、この時一旦帰宅したもののすぐにまた出たようで家中は静かになった。一面の白雲のなかに太陽の姿が辛うじて見て取れる曇りだった。気力のない状態は続き、結局、眠くもないのに目を閉じて過ごし、一一時半過ぎまで横になったままでいた。起き上がるとステテコパンツを履き、上階に行った。セブンイレブンの冷凍食品のたこ焼きを食べることにした。電子レンジに五分間掛けているあいだにもう風呂を洗ってしまい、加熱されたものを取り出すと冷えたソースを垂らしてまた二〇秒温めた。そうして細切りのキャベツとともにたこ焼きをテーブルに運び、マヨネーズと鰹節を上から加えて食した。新聞の一面から、自民党総裁選関連の記事を読みつつものを食べると、水を汲んできて薬とサプリメントを摂った。マグネシウム錠剤は特段の効力を感じられないのだが、二四〇錠入りのものを買ってしまったためにまだまだたくさん残っている。バコパハーブはだいぶ少なくなってきた。ドーパミン関連のサプリメントを新たに試してみたいと思っているのだが、現状で三種類飲んでいるわけで、あまり増えすぎても飲むのが面倒なので今あるものがなくなってから購入するつもりである。ホスファチジルセリンは一日四個飲んでいて一瓶一二〇カプセル、したがって一か月分だが、これは結構評判が良いので三か月か半年か、長期的に摂取してみるつもりでいる。食器を洗うと緑茶を用意して自室に下った。コンピューターを起動させ、Evernoteに九月一一日の記事だけ作っておくと、この日は日記を書き出すのではなく、前夜に見つけたSIRUP - SWIM / Music Bar Session(TOKYO SOUNDS)の動画(https://www.youtube.com/watch?v=TmjGdJD8i5E)を流した。この曲が大層気に入られて、何度も繰り返し再生し、歌詞も検索して合わせて歌う練習も始めて時間を費やした。一時前になると一旦止めて、(……)さんのブログを読んだ。そこにFISHMANS『空中キャンプ』の名が出てきていたので、読み終わるとこちらも"ずっと前"、"BABY BLUE"と流し、さらにまたSIRUP "SWIM"に戻ってリピート再生した。Amazonを調べてみると"SWIM"が収録されている『SIRUP EP』が出てきた。ディスクを注文しようかとちょっと思っていたが、在庫切れだったので、MP3音源で購入してしまうことにして手続きを進めた(一三三〇円)。スタジオ盤の"SWIM"を早速流してみたが、こちらは歌唱の質感がメロウ寄りになっていて、ちょっと聞いた限りではYoutubeのスタジオライブ音源のほうがこちらの好みに合っているようだった。そうして時刻は二時前、ようやく日記の作成に取り掛かり、ここまで綴ると三時の一〇分前に至っている。何か茶菓子とともに一服をしたいなというわけで、上階に行くと、もう米を研いでしまおうという気になった。それで笊に三合を用意して洗い桶のなかで研ぎ、六時半に炊けるようにセットしておくと、玄関の戸棚を探った。玄関の外からは停車した車のエンジン音が漏れ聞こえており、両親が帰ってきたのだと知れていた。バターサブレがあると思ったのだが見当たらず、煎餅くらいしかないのを確認していると母親が入ってきて荷物を置くので、それを受け取って野菜などを冷蔵庫に収めた。何か茶菓子はないかと訊くと都合良くパンを買ってきたというので、そのなかからクリームパンをありがたく頂いた。そうしてサイボクハムのチラシを目にしたのが茶を用意しているこの時だったかどうか、何にせよ、母親は一六〇〇円のハンバーグ、父親は何と三七〇〇円のステーキと豪勢な昼食を取ってきたと言うので、そんなにするのかと受けた。そうして自室に下り、緑茶を口にしながらインターネット記事を読んだ。それからベッドに移り、SIRUP "SWIM"を流したなかで足の爪を切ったあと、書抜きに取り掛かった。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』で、打鍵をしているあいだは購入したばかりの『SIRUP EP』を流していたが、"SWIM"以外の曲もなかなか良さそうだった。三〇分掛けてこの本からの書抜きは終了、そうするとベッドに腰掛け、九月八日の新聞を取って椅子の上に置いた。一面の「スルガ銀役員関与 認定 第三者委 不正融資 社長ら退任」についてはあまり興味がなかったのだが、一面に取り上げられているからという理由で一応目を通し、そうすると関連記事も読む気になって頁をめくって八面に移り、そこの記事を読んだところで五時のチャイムが鳴ったので切り上げて部屋を出た。階段を上がり、台所に入って夕食の支度はサイボクハムで買ってきた肉を焼くと言う。母親がジャガイモを切って二つの鍋で火に掛けたあとから、豚肉の肩ロース(一パック三枚で一〇〇〇円ほど)の三枚をそれぞれ三等分し、胡椒と塩を振りかけた。茄子も合わせて入れようということで母親が切ったそれをオリーブオイルの熱されたフライパンに投入し、隙間に肉を敷いて行く。そうして蓋を閉じてしばらくしてから開け、肉を裏返してみると片面に良い具合に焼き色がついたところだった。また蓋を閉じて火に掛けているとじきに肉は焼き上がったが、茄子が固いんじゃないのと母親が言って、肉だけ皿に取り出して茄子を熱する。そうしてふたたび混ぜ、おろし風焼肉のたれを全面に掛けて完成である。一方でジャガイモの鍋の一つには味噌を溶いて味噌汁にして、もう一つには醤油を差して煮詰めていた。あとはモロヘイヤを茹でねばならないということでフライパンをコンロに乗せ、新聞を読みながら湯が沸くのを待ち、モロヘイヤを投入する。茹でているあいだも新聞記事の文を追い、一記事読み終わらないうちに野菜をボウルに上げた。水を取り替えて何度かゆすぐと、まな板の上に乗せ、包丁で細かく切り分けてパックに入れておいた。最後に、獅子唐を炒めて支度は終了、階段を下りたのが五時四〇分で、室に帰るとふたたび九月八日の新聞を前にして、待機児童問題関連の記事を読んだ。いわゆる待機児童は今年四月時点で前年より六二〇〇人弱減ったが、それでもまだ二万人ほどは残っており、認可外の保育所に入ったりして「隠れ」と言われるほうは七万一三〇〇人と言う。その隣には障害者雇用水増しの件が載せられており、結局、司法機関では六割、立法機関では四割が不適切な算入だったと記されていた。それで九月八日の新聞は終い、九日の分に移って一面から「対中関税 全品に検討 第4弾30兆円に 米、日本にも「脅し」」という記事を読んだあと、読むものを新聞から書籍に変えた。金子薫『鳥打ちも夜更けには』である。ベッドに乗って物語を最後まで追ってしまうと時刻は七時過ぎ、検索して出てきた大澤聡の書評も読むと夕食を取りに行った。米にジャガイモとワカメの味噌汁、豚ロース肉と茄子の炒め物、ベーコン入りのクリームコロッケが一つ、モロヘイヤに豆腐にサラダと色々取り揃えられた食事となった。肉や茄子とともに米を咀嚼し、おかずがなくなると皿に残ったたれを米とサラダに掛けて食べた。テレビはどうでも良いような番組だったので記すほどのことはない。母親から、来月の第二火曜日(父親の休日である)にはこちらも一緒にまたサイボクハムに行こうと誘われたが、行くとも行かないとも明言しないで黙っていた。薬剤を服用して皿を洗うと、裸足のままローファー型の靴を履いて散歩に出た。雨のあとで道路は一面濡れており、外気のなかに出ると半袖半ズボンの格好ではやや冷えて、上着が欲しくなるようだった。空は繭のような煙のような雲が全面を占めて薄白い。SIRUP "SWIM"が脳内で再生されるなか坂道を上って行き、人通りのまったくない裏道を大股気味に行くあいだ、靴のサイズに僅かに余裕があるもので蹴り出しの際にかこ、かこ、と音が鳴るのだった。街道に出て、帰路を行く疎らな人々とすれ違っているうちに、背を探ってみるとほんの微かに汗の感触があって身の内が温まっているそこに、細かではありながらそこそこの雨が降りかかって来たが、意に介さず歩調は変えずに進んで行き、道の終盤になると足音のリズムに合わせてまたSIRUP "SWIM"が頭のなかについてきた。帰宅すると母親が電話をしており、身体を気遣うような言を送っていることからすると、相手は山梨の祖母らしかった。先ほどこの祖母から黄桃が贈られて来ていたので、その礼を伝えるために電話をしたのだろう。こちらはすぐに入浴し、湯に浸かったり冷水を浴びたり頭を洗ったりしながらこの日の記憶を探ったが、読んだ記事の情報がうまく出てこなくて流れが詰まり、そのまま風呂を上がった。最近はネット上の記事や新聞記事などを読んでもあまり頭に入らないようだと言うか、以前だったら内容の簡潔な要約くらい思い起こせたのではないかと思うのだが、なかなかうまく行かない。冷蔵庫のなかに入っていたバターサブレと緑茶を持って部屋に戻ると、携帯に(……)からの着信が残っていた。留守番メッセージも残されていて、聞くとLINEの設定の件で話がある、折り返してほしいとの内容が、ところどころ発音の不明瞭な、何だか判然としないような口調で述べられていた。それですぐに電話を掛けたのだが繋がらず、ひとまずこちらは茶を飲み、ビスケットをつまみながら一年前の日記を読み返した。そうして日記に取り掛かろうとしたところで着信があったので出ると、(……)さんがLINEの設定に協力してくれるとのことだった。こちらは良くも仕組みがわかっていないのだが、以前に(……)や(……)のIDを検索しても出てこなかったところ、(……)さんは「年齢認証」というものを済ませているらしく、それが成されていると検索に表示されるようで、実際(……)の伝えるIDを打ちこんで検索してみると(……)さんのアカウントが発見された。早速メッセージを送っておき、それに対する反応はすぐにはなかったが、これで(……)さんを経由して(……)たちと繋がれるだろうというわけで通話は終了した。それからこの日の日記に文を書き足して行ったが、やはりどうも記憶や文章がうまく順当に繋がって軽やかに出てこず、一一時頃に至って一旦緑茶をおかわりしに行った。そうすると父親が、山梨から来た黄桃を食べるかと切り分けはじめたのでそれを待ち、三人揃って口にした。まだ若く、身が固めだったが新鮮な味わいだった。そうして室に戻り、日記に切りを付けた現在は一一時二〇分である。先ほど(……)さんからの返信があり、(……)ともLINE上で繋がることができた。それから、こちら、(……)、(……)、(……)のグループがLINE上に作成され、そこでしばらく雑談が続いたなかに川本真琴の名前が出てきて、久しぶりにその楽曲を聞くことにして、ヘッドフォンをつけて"愛の才能"、"DNA"、"焼きそばパン"、"1/2"と流すと時刻はもう零時を一〇分越えて、LINE上の話も止まっていたのでコンピューターをスリープ状態にした。そうして歯を磨きながらカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を新たに読みはじめた。訳者あとがきから読んだのだが、そこでは本書が執筆された背景となるドイツの状況がいくつか触れられていて、そのなかに、二〇一五年の大晦日にドイツでは複数の都市で集団的な性暴行事件があったと記されており、お祭り騒ぎのなかで総計で一〇〇〇人を越える女性が被害に遭ったと言うからその規模に驚いた。とんでもない話である。口をゆすいできて訳者あとがきを読み終えると冒頭に戻り、「はじめに」を読んだところで既に時刻は一時半近く、読書はそこまでとして眠りに向かうべく消灯した。勿論、眠気はまったくなかった。眠くもないのに無理矢理にでも眠らなければならない、というのがやりきれないところである。そして朝には速やかに起きられず、やはり大して眠くもないのにベッドから離れられずにぐずぐずと時間を無駄にしてしまうのだ。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 (……)雨が牛の放尿みたいな勢いで降っていた(……)
 (183; ボーヴォワール宛; 1937年9月)

     *

 (……)彼女は、からだつきからもほぼわかるように、ブーブーなら「大恋愛家」とでも呼びそうな女だ。それに、ベッドでの彼女は魅力的だった。茶色の髪の女――いやむしろ黒ヘヤーの女[﹅6]と言った方がいいが――と寝るのは初めてだ。悪魔のようなプロヴァンス女、匂いに満ち、奇妙に毛深く、腰のくぼみに小さな毛並があり、からだは真っ白、ぼくよりもはるかに白いからだをしている。はじめ、この多少強烈な肉感性と、髭をよく剃っていない男のあごのようにチクチクする足は、少しぼくを驚かし、半ば嫌悪感を催させた。しかし慣れてしまうと、反(end198)対にかなり刺激的だ。彼女は、水滴のような形の尻をしていて、たるんではいないが、上よりも下の方がより重く、より広がっている。胸には小さな吹出物がいくつか(これはあなたにもよく知っているはず。栄養の悪い、あまり身だしなみに気をつけていない女子学生の小さな吹出物、それはむしろ優しい気持を誘う)。とてもきれいな足、筋肉質の、完全に平らな腹、肥満の影はひとかけらもない。全体的にみてしなやかで魅力的なからだだ。葦笛のような舌はとどまるところを知らず伸びてきて扁桃腺を愛撫し、口はジェジェのと同じくらい快い。概して、牢獄の扉のように仏頂面をした人間でも満足しうる程度の満足を得た。(……)
 (198~199; ボーヴォワール宛; 1938年7月14日; マルチーヌ・ブルダンの描写)

     *

 ボクサーはすばらしく美しい。十八歳の青年のようなからだをし、稀に見る軽やかさであいかわらずやせぎすで、上半身は腰の上でちょうど軸の上を自由に回る部品のように回転する。髪は黒く、銀色の糸が沢山ちりばめられている。あいかわらず美青年の持つあの一徹な顔付きをしており、とくに唇は知ってのとおり甘やかされた甘えん坊の子供のようで、上唇が突き出て官能的にふくらんでおり、下唇は引っこんで上唇の下にふてくされたように隠れ、下方で顎とともに終わっている。ただほかの部分はすべて以前より固くなっており、骨が(end206)はっきり見える。こめかみは乾いて固く、頬骨が飛び出し、美青年の顔に農夫の荒々しい顔が現われてくるのが見える。(……)
 (206~207; ボーヴォワール宛; 1938年7月水曜)

     *

 (……)フジタの細君も落ち着き払っているどころでない。彼女は、自ら言うところによると(ぼくの隣のテーブルにいたのだ)、ドゥ・マゴで戦争について大討論をしてきたらしい。罵倒されたので、そのとき彼女の連れだった男が介入しようとすると彼女はこう言った。《あなたはあたしの父親でも兄弟でも恋人でもないじゃない。ただの友だちでしょ。あたしの喧嘩に口を出したらあなたは敵よ。あたしのために喋る権利などないのだから》。
 (224; ボーヴォワール宛; 1938年9月)

     *

 (……)水っぽく緑色で柔かい自然で、しぼれば乳が出てきそうなあの緑色の植物に満ちていた。(……)
 (236; ボーヴォワール宛; 1939年7月)

     *

 (……)彼女の出発に関して言うなら、ぼくはこんなふうにも想像している。彼女にはパリがとてもうつろなものに見えるのだろう、また田舎をすこし見てまわりたくてじりじりしているのだろう、と。六月頃になると、緑野を見ることは彼女にとって絶対的な、すさまじい欲求になるのだよ。ぼく自身はこういうことがよく理解できないが、事実としては認める。彼女にとってはおなかがすいているときの食べたいという欲求と同じぐらい激しい欲求なんだ。落ち着かなくなり、そのためもう眠らなくなる。取りつかれたようになり、すこし陰気になる。(……)
 (241; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年7月)

     *

 (……)正午にそろそろ家に顔を出し、それが夜の十時半まで続く。それは葬式に近い。というのは、義父は病人で神経が高ぶっているからだ。ぼくは他にやりようがなくなると話をする。だいたいは、必死になって礼儀と共犯をないまぜにした薄笑いをしてみせる。さもなければ義父の言葉の末尾の語を繰り返す。(最近の)例、
   義父が窓際のところで――
    「おや、あそこにとまったのは誰?」
   私――
    「とまったのは誰?」
   母――
    「エムリーさん一家じゃない?」
   義父――
    「違う、地図を見るために立ちどまった人たちだ。地図をね」
   私――
    「ああ! 地図をね?」
 といった具合だ。母は五分おきにいろいろ質問をしてくる。《ここにいて満足かしら、プールー?》 《満足ですよ、お母さん》。《どう? 気分悪い?(探るような目つき)》――ぼく《いや、いいですともお母さん》。すると、力強く決然と顎を動かし、楽観的な様子で、《とにかく、あんたのためになるわ。健康にいいのよ》。(……)
 (245; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年7月)

     *

 (……)でもぼくは、どんなにきみのことを愛しているか、十分に強く言わなかったような気がする。ときどき、そのこ(end261)とをきみに感じてもらえなかったように思われる。それは、きみの愛情にしっかり確信が持てて、ぼくにはもうたった一つの願望――ぼくの愛情もまた強く激しい、現存するなんらかのショックをきみに及ぼしたいという願望――しかなくなるようなときに。きみはここにいない。けれどもきみはあんなにおもしろく手紙を書くすべを心得ていた。そこで何かしらが、ぼくにのしかかってくる。それはきみのぼくを愛する仕方だ。これは本当に一つのもの[﹅2]、現存するもの[﹅2]で、形はもたないが、重りのようにのしかかる。ぼくの愛情もまたきみにとって重苦しいものであってほしい。ぼくのいとしい宝物さん、すごく愛している。(……)
 (261~262; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年8月)

2018/9/10, Mon.

 七時のアラームの時のことは何も覚えていない。九時半頃から意識は浮上していて、起きようと思えばスムーズに起きることができたと思うのだが、どうもやる気が湧かず目を閉じたまま過ごしているうちに、一一時を迎えた。空は白く、太陽の光線はあったが雲に遮られて、身に届く頃には弱々しくなってほとんど温もりももたらさなかった。一一時一五分になると起床し、ステテコパンツを履いて、急須と湯呑みを持って上階に行った。母親はテーブルの上でレシートなど広げ、家計の整理をしていたようだ。顔を洗い、朝に作ったというおじやと、前夜の残りの餃子と茄子の味噌和えを取り出し、温めるものは温めて卓に就いた。黙々とものを食べ、薬やサプリメントを服用し、食器を洗ってしまうとそのまま風呂も洗った。そうして茶を持って自室に戻ると、早速日記を書きはじめたいところだったが、一服しながらインターネットを回って、またサプリメントの情報など求めてしまった。そのうちに「凹凸ちゃんねる」というまとめサイトに道が繋がって、発達障害統合失調症や色々な精神疾患についてのスレをまとめているのをいくつも眺めてしまった。発達障害にも様々あってこちらはそれを良くも知らないのだが、妄想癖があるとか、常に頭のなかで会話が繰り広げられるとかそのあたり、脳内に常に言葉や独り言があるというのはこちらの状態ともちょっと似ているなと思った。しかし自分はおそらく発達障害とは診断されないと思う。ほかはやはり離人症関連のスレに書かれていたことが、わりあいに当てはまるような気がした。また、一月にも発見したことだが、スキゾイドパーソナリティ障害の診断基準にも自分はかなりの程度当てはまると思われる。しかしいずれにせよ、自分の精神症状は今はどれも軽度なほうで、日常生活を送る上での支障はあまりない。先の五月から七月頃に掛けては無力感と甚だしい希死念慮に押さえつけられて(何しろ自分は途中までは本気で冬になったら練炭を買おうと考えていたし、アモキサンという薬を処方された時期は、過量服薬での死亡例があると言うから自分もオーバードーズを試みようかという誘惑を感じたことも何度かあった。自殺を選択肢から外してともかくも生きるほかはあるまいと考えるようになったのは、死ぬことや死の前の苦痛が恐ろしいということもあったが、それよりもさらに決定的だったのは死にきれる自信がなかったこと、自殺を敢行しても後遺症などを持って半端に生き残ってしまうことへの恐れだった。自分が、言ってみれば「死に選ばれる」とはどうしても思えず、自殺を試みても失敗するだろうということがほとんど確信されたので、いつか自ずと死ぬべき時が来るまではともかく生きてみようと思うようになったのだった)、パニック障害の時とは違った形でのどん底を見たと言って良いだろうが、いまはそこからも回復した。こちらの問題は日記にも再三記している通り、感受や欲望、思考や興味関心の面での衰退、感情や精神作用全般の希薄化・平板化が見られるということで、これは自分としてはアイデンティティの下降的変容あるいは欠如を表すものだが、そこに明確な苦痛が伴う類のものではなく、言わば空虚感や不満といった程度のことに過ぎないのだ。まとめサイト閲覧に切りを付けると時刻は午後一時過ぎ、ようやく日記に取り掛かりはじめた。前日の記事を仕上げるまでには一時間が掛かり、長くなってほとんど一万字に達していた。それからこの日の分も綴って、現在は三時が目前、先ほど空気が石灰水のような色に染まる土砂降りの雨が急に始まったが、いまはまた収まっている。続けて、一時間も掛けて二〇一七年初の日記を三日分、読み返した。前夜にちょっと目にして、時間を取ってきちんと読んでみようと思っていたのだが、この頃のほうが生活の記述のあいだに物事に対するちょっとした考察のようなものを挟んでいたり、読んだもの聞いたものの感想を書いてみたりと、明らかに今よりも頭が働いている――その時々の自分の状態は日記に如実に表される、言わばテクストはこちらの分身であり、写し身[﹅3]である。風景の描写や感想の類を見ても事物に対して細かく感応しており、書きぶりも全体として饒舌で、熱意を持っているようで、闊達に、うまく流れていると思われる。この頃に比べれば現在は自分は明らかに退化しており、どうにかしてかつての能力を取り戻したいと最近はそればかり頭に浮かんでいるのだが、果たしてそれが可能なのかどうか、覚束ないことだ。過去の日記からは三箇所をここに改めて引いておきたい。

 この日記を記すという営み――一日過ごしたその現実をパラフレーズ=翻訳したり、そのうちの各部分を取りあげて考察を付したりという行為――も、おのれの生活をテクストとして読んで、それに対して感想や批評を書きつけていると見なすことができるだろう。それにより深化をもたらすためには、対象に対する観察を磨くことは勿論だが、同時に、自分自身に対する観察、何かに触れた時に自分の内で蠢くものに対する明晰な視線を鍛えることが必要である。先にも触れたように、何か面白いことや独特なことを殊更に感じようとしたり、考えようとしたりする必要はない。と言うのも、本日一月三日の夕食中、新聞を読んでいるあいだにも考えた(と言うよりは自然と思い浮かんだ)ことなのだが、我々人間は、必然的に何かを感じたり考えたりしてしまう存在である。思考や感覚という動きは、常に既に起こっており、いついかなる瞬間においてもそこにある(そうした論理の路線で、思考や認識とは事後的なものにならざるを得ないのではないか、とも思いついたのだが、この思いつきがどういう意味合いを持っているのかは自分でもまだよくわからない)。そこで重要なのは、考えをある一定の方向に導いたり、一定の枠のなかに制限しようとしたりすることではなく、自由に動き回るそれの流れを自分自身で追いかけて、そのなかに気づき――自分がいま何かに気づいた、何かそれなりの厚みを持った印象を受けた、という気づき――を得ることである。要するに、生活のなかで遭遇する外界の事物の連なり、その持続のなかに生まれる起伏を観察するのと同様、自分の内側の精神の動きのなかにも描かれている起伏を観察するということが肝要なのだ。このようなことを考えていたところ(繰り返すが、それは考えようと意図して考えたのではなく、自然と頭のなかで言葉が巡るうちに湧き生まれてきたものである)、「偽日記」で紹介されていたパースbotの文言のなかに、こうした事柄と同趣旨のことを言っているのではないか、あるいはそうでなくとも、少なくとも関連はしているのではないかと思われる文章があったので、それをここに引いておく(本来これは、三日の日記に書きつけるべきことなのだろうが、忘れてしまいたくないので)。《思考は意識の中にあるものとして想定されることが多い。しかし実際は、思考を直接意識することは不可能である。思考とはむしろ、文章がそれに従うのと同様に、意識が従うところのものである。それは、現実化され得るものが、実際に現実化されたときのあり方を決定する習慣の本性を持つものである。》、また、《「運動が物体の中にある」(motion is in a body)とは言わず、「物体が運動中である」(a body is in motion)と言うのと同様に、思考が私たちの中にあるのではなく、私たちの方が思考の中にあると言うべきである。》と言う。

 こちらはほかの皆の準備が整うのを待って、居間に立ち尽くしていると、南窓の外の、太陽の光が染み通った空気のなかを、極々小さな、粉のような虫が群れて飛び回っているのが視界に浮かぶ。何匹か入り乱れながら、柔らかい軌跡で緩く斜めに落ちて行くのが、淡雪の降るのを見ているようでもあるがこの雪は、窓枠の裏に隠れて見えなくなったと思うと、すぐにまた方向を変えて巻き戻って、宙にいつまでも漂っている。遠くでは、家屋根をいくつか越えた先に立つ木の、緑に浸されきった葉に光が灯って微風とともにゆらゆら揺れているのが、一面蝶が止まって翅を震わせているようにも映る。空には雲がいくらかあって、しばらく陽が陰るとそのざわめきもなくなってしまうのだが、そうすると今度は、青空の山際に嵌まっている雲だけに光の感覚が残って白さを純化しているのが、随分と明るく際立つのだった。陽がまた現れて大気が仄かに色づけば、ふたたび輝きによって象られた蝶々たちが騒ぎはじめる。

 こちらの意識のなかでは、本を読むのが好きだという言明には、あまりぴったり来ないものを覚えるものである。もはや自分にとって読書は、そして作文は、好きとか嫌いとかいう腑分けに適合する事柄ではなく、単純に生活であり、(義務としてではなく自発的な使命のようなものとして、あるいは自分自身に対する責任として)やらなければならないことなのだ。

 そうして、モニターの前に座っていたために身体がちょっと固くなった感じがしたので、身を休めようとベッドに移って金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読みはじめた。この小説を読んでいてもやはり、退屈でつまらないというわけでもないが、取り立てて面白いと感じるわけでもなく、特段の感想も浮かんでこない。気になる事柄がまったくないわけでもないが、強い印象を与えるものではなく、そのことについて考えようという意欲を起こさない。先ほど読んだ過去の日記のなかでは、(……)さんの小説を読みながら気になった箇所のいちいちを取り上げて熱心に注釈を付しており、文を読むあいだに今よりも遥かに様々なことに引っかかりや気づきを覚えていたことがわかるが、今ではそうしたことができなくなってしまった。寝床で小説を読んでいるうちに、段々と瞼が下りはじめた。それで時計を見やって四時五〇分の時刻を確認するだけして、目を閉じ、布団を引き寄せて身体に巻き、休むがままに任せた。六時頃だったろうか、日暮れに至っても雨は続いており、しかし雲の裏の太陽の色もちょっと混ざっているのか、鈍く白濁した空には黄色か赤の色素も微かに窺えるようだった。部屋が暗んでいくなか電灯も点けず、寝床には七時一五分まで留まったのだが、そのあいだ何度か天井が鳴った。夕食の支度をしなければならないことはわかっていたが、やる気がまったく起こらなかった。六時半頃になるともう特に眠くもなく、目を閉じている必要もなかったのだが、とにかく気力というものが身に湧いてこなかったので、じっと動かないまま眠りに落ちることもなく瞑目し続けた。七時一五分に至ると食事を取りに行くかということで起き上がり、上階に行った。メニューは鯖のソテーにシチュー、茄子の味噌和えとモヤシだった。鯖を付け合わせにして米を食らうあいだ、テレビはテレビ東京『YOUは何しに日本へ?』を映しており、八二歳に至って日本人と国際結婚したスウェーデン人とか、大企業の副社長を辞めて田舎に移り住み、自給自足の生活を学ぶために奄美加計呂麻島を訪れるフランス人などが紹介されたが、詳細は省く。食後はすぐに入浴に行き、雨の音が窓から響くなか、冷水シャワーを下半身に繰り返し浴びせた。出ると緑茶とバターサブレを用意して自室に帰り、一服しながら(……)さんのブログを読んだ。九時に至るとさらに、数日前の新聞から情報を写し、続けてサルトル書簡集の書抜きも行った。ナポリの街路の特徴――小さな断片的な事物の集合によってその意味が成り立っており、刻々と異なった様相に移り変わって、ローマの街路のように一つの固定的な意味を持ち合わせないと言う――を批評的に分析しているのを写しながら、このように物事に触れて芸術作品を鑑賞するかのようにその特質を批評的に見極める眼力をぜひとも身につけたいものだなと羨んだ。この手紙は一九三六年だからサルトルは三一歳の時に文章を書いたことになるが、自分もあと三年でそうした鑑賞眼を持てるものだろうか? 以前はとにかく毎日の生活を、そのなかで感知したことを文章として書き続けていれば自分は自ずと成長できると信じており、実際そうだったのだが、病気のことがあって精神の鈍麻を招いた現在では、そうした単純な進歩主義からはいくらか説得力が欠けている。定かにものを感じるという感覚がないものだから、知識や経験が自分のうちに入りこみ、積み重ねられ蓄積されていくことで自分自身が変化していくという感じもなくなってしまったようなのだ。書抜きのあいだには、Donny Hathaway『Extension Of A Man』を流しており、七曲目、"Love, Love, Love"が少々気に入られて繰り返し流した。また、緑茶を何度もおかわりして飲みまくり、六杯は飲んだと思うのだが、それだけ摂っても心身にまったくカフェインの作用を感じない。不思議なことに、病気以来精神だけでなく身体のほうも鈍感になったようで、疲労感とか肉体の凝り固まりなども以前よりも薄いのだ。書抜きのあとはこの日の日記を書き足して、一一時を越えた。それから古谷利裕の「偽日記」を訪れると、showmore "circus"という楽曲が紹介されており、記事にリンクが貼りつけられていたスタジオライブの動画を閲覧した。これもなかなか悪くなかったが、こちらとしてはそこから自動的にリンクの繋がって再生の始まったSIRUP "SWIM"(https://www.youtube.com/watch?v=TmjGdJD8i5E)という曲が気に入られて、動画を繰り返し頭に戻しながら、ヘッドフォンを頭につけた状態でモニターの前で身体を揺らした。そうしているうちに時刻は零時に至った。引き続き音楽に触れることにして、椅子に腰を落ち着けてDonny Hathaway "Love, Love, Love"から聞きはじめた。以降、Keith Jarrett Trio "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)、"I Hear A Rhapsody", "Little Girl Blue", "Solar"(『Tribute』)、Bill Evans Trio "Solar"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』)に耳を傾けた。一曲の演奏時間が長いのでそれでもう一時を迎えて、そろそろ床に就くべきだったが、眠る前に金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読み出すと、そこからまた一時間ほど物語を追ってしまい、明かりを消すのは午前二時になった。布団のなかでのことは覚えていないから、わりあい寝付きは良かったのではないか。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 そしてこれがナポリの街路がどんなものであるかということだ、つまり右や左に薄暗い洞穴が立ち並ぶ、爽やかで、しかも臭気にみちた間道〔家々のあいだを貫き通る、いわば街中の切通し〕、まったくムフタール通りと同じように人々がざわめきうごめきながら雑踏する間道であり、おびただしい数の物が人々の頭上に張りだし、垂れさがり、揺れていて、その動きは街頭の人々の動きを、二階より上の階で繰り返しているのだ。そして時どき、大きな白いシーツが干してあって頭上に垂れさがり、風が吹くと船の帆のようにふくらむ。あるいはまた、日よけの鎧戸、ペンキを塗った美しい鎧戸であって、そのあるものはこまごました物語を語っている。ある意味で、これらの街路はみな互いに似ている。しかしそれでいて、きわめて変化に富んでもいる。第一に、街路は初めに全体の展望を人にあたえたかと思うと、見る間にこまごました挿話的な細部に分散してしまうからだ。そのため同じ街路を十遍通っても、同じと気付かないほどだ。ナポリの街路はローマの街路のようにそれぞれが一つの意味を持ってはいない、その街路全体に附属していて、他のすべての街路からそれを区別し、そこの住人にさえ認めさせる一つの意味を。というのも、それらはローマの街路のように窓の少ない壁〔立ち並ぶ建物の外壁〕――その色と高さと方向がその街路固有の意味を成り立たせる壁――で構成されてはいないからだ。ナポリの街路を構成するのは、人々であり、移動する屋台店であり、一日中垂れさがっているが乾くと突然姿を消す洗濯[ほし]物、要するに動き廻り、過ぎ去る事物なのであり、それは一つの均衡をもたず、絶えず形成されては崩れる小さな断片の集合なのだ。ルワンのシャレット通りが、午後ほとんど人けのない時と、晩方に大勢の水夫たちがぶらついている時とで、どれほど異なるかを思い出してもらいたい。そうすれば、ナポリの街路で一日に百回も起こることを(end91)少しは想像することができるだろう。そういうわけで、ぼくたちがここで散歩するとき、別の街路を通っているのか、それとも様相の変わった同じ街路を通っているのか、決して判らないのだ。ぼくたちはそれぞれの街路を一日のあらゆる時刻に散歩したいものだと思った。朝、あらゆる小職業が屋外で活動している時、午後の暑い時刻、男たちが椅子の上にまたがり両腕を椅子の背にもたせ頭を両腕の中に埋めて午寝[ひるね]をしており、母親たちは倦み疲れた様子で子供の虱をとっている時、夕方、食卓を街路に持ち出して人々が食事をしている時、夜、すべての鎧戸がとざされ、すべての胃がふたたび体内に戻り、そしてもはや二つの大きな裸の壁のあいだに人けのないじめじめした不潔な場所しか残っていない時に……。(……)
 (91~92; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

     *

 (……)ゲーテ街を上って行くと、ぼくの後で誰かがおならをするのが聞こえた。何の不思議もないことだ。ぼくはふり返らなかった。ところが、次から次へと何百とないおならが音高く続く。ぼくはおなら狂を見ようとしてふり向き、鳥打帽をかぶった、人相のよくない蒼い顔の、大きな赤い手をした男を見た。その男は自分のおならに悪態を[﹅3]つき始めた。《下種[げす]ども、いいかげんにしろ。うんざりだ、云々》と言うのだ。彼が悪態をついている間は、おならはやむ。しかし彼が黙ると、一段とさかんに出る。彼は言った、《てめえら、おれをなぶりものにしやがって!》 《こいつは、いっしょに笑うためには信じるほかないって奴だ[﹅26]》。彼は気が狂っているに違いない。幻覚における呼気の役割を研究したラガッシュも、おならの役割を研究することまでは考え及ばなかったに違いない。グロテスクではあったが、男は苦しんでいたし、極めて険悪な顔つきだったから、いささか無気味だった。ぼくは帰って寝た。彼はおならを続けながら、そしてぶつぶつ言いながらぼくの前を通って行った。そしてホテルの呼鈴を鳴らしているぼくに言った、《どうだ? 哀れな男だろ?》
 (129; ボーヴォワール宛; 1937年5月2日日曜日夜)

     *

 (……)ぼくはあなたへの愛情にしっとりとひたりきっている。(end157)あなたが一人でマルセーユや車中やストラスブールにいて、ぼくが一人でパリにいたあの夜とあの昼の間、ぼくは絶えず内面であなたと一体になった自分を感じていた。あなたに話しかけている気がしたし、ぼくの考えることは、すべてあなたに語りかけているように、というより、あなたがぼくと一緒に考えているように思われた。列車の中でも、二人の意識が融合して一つになってしまって、リヨン市あたりの大地と空の間をふわふわただよい、肉体は二つのロボットみたいに、一方はマルセーユの街を、一方は列車内の通路を、外見は忙しそうに、しかし中身は空っぽで、歩きまわっているところを想像したら、とても愉快だった。(……)
 (157~158; ボーヴォワール宛; 1937年9月15日)

2018/9/9, Sun.

 この日も五時半頃、早いうちから寝覚めた記憶が僅かにある。七時のアラームに至ると携帯を取って沈黙させ、それからまた微睡んで猫の夢など見ていたようだが、八時を迎える間際に意識が明るくなって、二重構えで仕掛けてあった時計のアラームのほうを鳴らないうちに解除した。湿り気の残って涼しく、ちょっと肌寒いとさえ言えそうな起き抜けだった。ハーフパンツを履いて上階に行き、顔を洗ってから食事を取る。モヤシとハムの炒め物、前夜から続くエノキの味噌汁に、これも前夜におろした分が余りに余っている生のキャベツ、そして飲むヨーグルトを一杯である。席に就いてものを食べはじめると、テレビから幼子のはしゃぐ声が聞こえて見れば番組は『小さな旅』、カメラはレポーターとともに一軒の家先に上って行き、そこで子どもらがビニールプールを出して水を掛け合い遊んでいた。しばらくすると今度は、ウェットスーツ姿の男が川で身を水平にして魚を採っているところが映る。先端に針のついた竹竿を用いて行う「しゃくり漁」で鮎を採っており、映った男性はまだ一七の高校生ながら、この伝統漁法を受け継ぐ町でただ一人の人間だと言う。薄青い透明さに澄んだ水中に苔のついた岩の周りを鮎が行き交うさまの映し出されるその川は「宮川」と言ったが、地域はどこかと思っているとじきに三重と出て、そう言えば(……)さんのブログにも名前が出てきた覚えがあるなと思い出した。映像に目を向けながら飯を食い、薬やサプリメントも飲むと皿を洗って、さらに早々と風呂も掃除した。そうすると緑茶を二杯分用意して自室に下り、コンピューターを起動させ、インターネット各所を瞥見してから早速日記を綴りはじめた。茶を啜りながら打鍵を進めて九時には前日分を仕上げ、それからこの日の記事にも文字を打ちこんで、まだ九時半を見ていない。朝から手早い仕事だが、寝過ごさず普段よりも早起きしたのは、今日、(……)さんの宅に昼食を呼ばれに行くからで、一〇時の出発よりも前に書くものを書いてしまいたかったからだ。それから上階に上がって、母親に頼まれて父親のズボンにアイロンを掛け、皺を取った。こちらの着替えは、上は麻素材の白無地の、ボタンの色がそれぞれ違ってカラフルな半袖シャツ、下はインクのような紺色のなかに細いストライプの入ったズボン、靴下はハーフサイズのものを選んだ。外着に着替えた頃には雲はまだ拭い取られていなかったが、雨を思わせる雰囲気は消えて、居間の窓から近所の屋根が発光しているのが見えた。白い曇り空が残っているものの、そのなかで空気に確かな陽射しが通っているその両義性がちょっと特殊なような天気の一幕だった。準備を済ませると自室で日記の読み返しをしていたのだが、二年前の九月九日の記事を読んでいるともう終わり間近のところで天井が鳴ったので、中断して外出へと向かった。時刻は一〇時を一〇分過ぎたところだった。父親の真っ青なカムリの助手席に乗り込み、Donny Hathaway『These Songs For You, Live!』のディスクをシステムに挿入して流しはじめる。出発し、街道に出てしばらく、(……)の小さな公園の前に掛かるとそこで極々小規模な祭りを催しており、囃子の楽が聞こえた。催しを背後に過ぎて歩道を見やっていると、弱い鼠色の法被姿の男性がおり、彼が公園のほうに向かって歩いて行きながら道端の空き地に唾を吐いているのを目撃した。(……)の踏切りで停まったあたりで陽光が膝の上に掛かって温かくなり、空に浮かんだ雲の形も定まって雨の名残りはほとんどなくなり、じきに夏日の気候が露わになった。国道一六号線に突き当たって南へ折れ、流れ出す"What's Going On"に合わせて口ずさんでいると、道路の横に在日米軍横田基地の敷地が広くひらけて、青空のなか彼方の低みには、建物の頭上を縁取るように入道雲が横に長く連なっているのだった。二〇一四年のことだったろうか、午後の三時くらいから自宅を出て数時間歩き詰め、宵闇の降りたなか一六号線に至って基地の施設の灯りが遠くに揺蕩うようになっていたのを、空の星が地上に降りて暗闇の海に揺れているようだとか何とか、そんなことを日記に綴ったその同じ道だった。基地のゲート前を過ぎて一路南、拝島橋を越えて八王子から高速道路に乗った。東の空に雲は変わらずもくもくと横一列に湧き広がって果てを占め、その上にはこちらは形の露わでない、遠目にはパウダー状のようにも見える薄雲が面に塗られて明るかった。高速に行くあいだは塀に囲まれた単調な景色の続いて、あまり印象に残るものもないが、ある時母親がふと、この花は何、と左手に流れて行くのを尋ねて、父親が夾竹桃だろうと答えたのに、これが夾竹桃かとこちらも目を向けたものの、高速で過ぎ去って行くので植物の姿形が見て取れず、濃いピンク色の花がついているくらいの情報しか認識できない、ということはあった。新板橋で高速を降りた。ナビの設定が妙だったようで、裏道に入ることになり、人々の通行の多い下町じみた界隈を進んでいると、目の前に巣鴨地蔵通り商店街の入口が現れた。ここがあの有名な、高年者の原宿と呼ばれるあの商店街なのか、王子からこんなに近いのかと母親は言ったが、あとで聞いたところではやはりそうなのだった。表に出たあとナビの設定をし直して、ふたたび裏道に入って行く途中、神輿を担いだ子どもらの一団とすれ違って、どこも祭りの頃合いなのだなと父親は笑った。そうこうして王子に至り、(……)さん宅から程近いパーキングに停車した。飲み物だけ買ってきてほしいとのことだったので、傍のファミリーマートに寄り、籠を持ってドリンクコーナーの前に立った。こちらはソルティライチを選び、母親はチューハイやノンアルコール飲料を籠に入れて行く。父親が(……)さんに電話するとビールを、とのことだったらしく、それを追加して会計に向かい、こちらがカウンターに籠を置くと、最後に母親が何個も入ったプチシュークリームを加えた。こちらが払おうと思って財布を出していたのだが、父親がスマートフォンを使った「クイックペイ」で支払ったので、こちらは二つの袋に分けられた荷物を受け取って退店した。荷物を提げて(……)さんの住むマンションへ向かい、入ると母親がインターフォンで到着を告げ、奥に進む扉のロックを解除してもらう。くぐるとエレベーターに乗って三階まで、降りて部屋に入るとエプロン姿の(……)さんが迎えてくれて、その足もとに(……)ちゃんもいた。お邪魔しますと靴を脱いで、用意されていたスリッパを履いて部屋の奥、リビングに入って行った。荷物をテーブルの上に置き、洗面所を借りて手を洗ってから、(……)さんがキッチンで食事の支度をしてくれていたあいだは一休みといった感じで、こちらは良く動き回る(……)ちゃんと戯れ、その頭を撫でてやったりしていた。赤ん坊というものは本当に良く動き、室内の色々なところへ次々と移って行き、彼女用の絵本の収められている箱のなかからは本を無造作に取り出して、ひらいてはページの上に指を差して何か声を上げているのだった。玩具のなかには二オクターブほどの範囲の小型のピアノがあった。(……)ちゃんはそれに興味を示さず、鍵盤を一度雑に叩いたのみで終わってしまったので、こちらが代わりというわけでもないが、Cマイナーペンタトニックのスケールに合わせて適当にフレーズを奏でていると、それを聞きつけた(……)さんが、(……)くんが弾いているの、と言ってキッチンから出てきて、凄いね、何でそんなに弾けるのと褒めてくれたので、スケールに添って適当にやっているだけですよと答えた。(……)さんはオペラ歌手として第一線で長年活躍していた人で、音大出のエリートであり、ピアノも勿論それなりに弾けて、こちらとは比べ物にならないくらいの音楽的能力を持ち合わせているのだが、楽譜がないのに弾けるっていうのが信じられないと彼女は言った。しかし本当に、こちらがやっていたのは他愛のない戯れに過ぎないのだ。じきに食卓には料理が並び、食事が始まった頃には一時を迎えていた(室の角にある小さなテレビは『のど自慢』を映しており、ゲストのつるの剛士村下孝蔵の"初恋"を歌っていた)。メニューは親子丼と味噌汁にサラダ二種、そしてローストビーフだった。サラダは一方がレンコン・牛蒡・パプリカなどを和えてシャキシャキとした口当たりのもの、もう一方はアボカド・トマト・モッツァレラチーズ・エビにルッコラを添えたもので、味噌汁は豆腐とアオサが具になっていた。どの品も美味く感じられ、どれもうちの料理よりも美味いなと心中密かに独りごちた。食事のあいだはこちらの隣に(……)ちゃんも就き、(……)さんの手によって我々のものよりも細かくされた親子丼が赤子の口に運ばれていた。腹を満たして使用された食器をキッチンに運んでおくと、また何をするでもない合間の時間が訪れて、こちらはふたたび玩具のピアノで遊んでいると、(……)さんが本物のほうを弾いて良いよと笑って言って、Rolandアップライトピアノを点けてくれたので、そちらを弄った。何も弾けるわけでないので、またスケールに添って戯れたり、左手を指一本でルート音を移行させて行きながら、右手で当てずっぽうに旋律を作るといったことをやった。そうして三時に至った頃か、今度は大粒の葡萄が食卓に用意され、また皆でそれをつまんだ。この時、(……)さんがタブレットでモスクワの夫、つまりこちらの兄に連絡を取って、起き抜けの兄の、髭もいくらか生やしていて冴えないような顔が画面に映し出された。皆で兄と通話をしているあいだに、(……)ちゃんも葡萄を与えられていたのだが、じきに彼女は眠くなってきて、その時の顔が何故かきつく顰めたような、渋くふてくされたような表情だったので皆で笑った。赤子はソファの上に移され、仰向けで眠りに入った。モスクワはもう外はだいぶ涼しいと言った。兄はこちらとは反対に――最もこちらも最近は八キロも太ってしまい、人生で初めて腹が出るという経験をした、とこの席でも話したのだが――巨漢と言って良いほどに太っているのだが、最近は胡瓜ダイエットなるものを試みて胡瓜を良く買うようにしているらしく、また運動としては週に一度、ロシア人とバレーボールをしているという話で、皆本気になってやっているわけでないけれど、夢中なので楽しいよと述べた。兄との通話を終えて、葡萄も食べ終わると、そろそろ出かけようということになった。初めはバスに乗って旧古河庭園に行くような話だったのだが、近間で良いのではないかと変わって、歩いてすぐ傍の飛鳥山公園を散歩しようと決まった。それで(……)ちゃんをベビーカーに乗せて、連れ立って部屋を出た。陽射しはまだまだ旺盛だったが、厚い風がよく吹き、日蔭にいればさほど暑さのない午後四時前だった。マンションを出てしばらくは、こちらが一行の最後尾でベビーカーを押して行った。しばらく進むと王子神社があって、そこに立ち寄ることになった。正面入口は階段なので、迂回して段差のないほうから敷地内に入り、石畳の参道に乗って社殿のほうへ進んで行く。賽銭箱の手前は配慮がなされているのか坂になっていて、そこをベビーカーを押し上げて止まり、財布を探った。五円玉があったのでそれを箱に投げ入れ、二礼二拍手一礼の作法をこなしたが、こなすのみで特に何も願わなかった(本来そういう場所ではないのかもしれないが)。今の自分が願うべきことと言えば、感性の治癒以外にないだろう。母親は多色の紐を掴んで鐘を揺らしていたが、こちらはそれもせず、場をあとにした。神社を去る時は、迂回せず(……)さんがベビーカーを担いで短い階段を下り、それでここから押し手が替わることとなった。飛鳥山公園はもうすぐ傍、またちょっと歩いて通りを渡り、緩やかなスロープを辿って入園した。初めの広場では、集団で大縄跳びを練習する若者のグループがいくつもあって、進んで行くとその次には噴水が出現し、水の噴出口付近に入りこんでいる親子や、パンツ一丁で動き回る幼児などが見られた。この公園には三つ、博物館の類があって、一つは忘れたがあとの二つは紙の博物館と渋沢栄一の史料館だった。通路を進んで行くと左手には遊具のある広場、右手に紙の博物館が現れて、こちらとしてはあまり興味を惹かれるものではなかったが、せっかく王子製紙の有名な王子に来たわけだし寄ってみるかとあいなった。入館すると父親が全員分のチケットを買ってくれ、それを受付の女性に差し出すとパンフレットと交換してもらえるのだった。展示室は円型の通路の外側の壁に様々な説明書きが設けられ、その足もとには模型などの資料を収めたガラスケースが設置され、室の中央には製紙に使う大砲にも似た機械が置かれていた。展示を漫然と眺めていると、もう七〇くらいだろうか高年のボランティアの男性が父親に説明をしはじめ、じきにそれが我々一同を相手にしたものに広がった。この人は語り好きの熱心なスタッフで、我々がゆっくりと順路を進むあいだ、各々の資料を示してやや早口に様々な知識を述べてくれるのだった。受け答えは大概父親か母親が担当し、こちらはあまり熱心に耳を傾けず、何やら嬉しそうに声を上げる(……)ちゃんの傍で彼女の頭を撫でたりしていたので、職員の話していたことを良くも覚えていないが、王子製紙は元々渋沢栄一が設立したこと、そしてこの飛鳥山に彼の別荘があり、そこから工場が稼働するのを渋沢が眺めていたという話は記憶した。初めのフロアは一階ではなく二階だった。そこから父親は階段で三階に、残りの三人はベビーカーがあったのでエレベーターで四階に上った。四階は紙の歴史の変遷を追ったコーナーらしかったが、やはりここも良くも見分していない。入ってすぐ脇に、世界最大級の木版画という孔雀明王像の図があって、これは元々仁和寺のものを木版によって複製したものらしく、それは近寄って少々じろじろと眺めた。ほか、一六〇〇年代のヨーロッパで出版された古い書物や、江戸時代の離縁状、通称「三下り半」などが資料として並ぶなかを回り、途中でこちらは便所に行った。トイレは三階だったので階段を下り、細い通路に親子連れが集っている横を通り過ぎて室に入り、用を足した。戻るとそろそろ出ようという話になっていたので、エレベーターで二階まで下りた。こまごまとした売り物の類を瞥見しつつ外に出ると時刻は四時半頃、受付の女性が表の看板を取りに出てきたりして、そろそろ閉館らしかった。入口付近には紙の原料となる植物の鉢が並べられていて、そのなかにパピルスがあって、これがパピルス紙のあれかと目をやった。細長く力ない葉のいくつか垂れ下がっているのに、古代エジプト人はよくここから紙を作ろうと思いつきましたねと(……)さんと話し、これ集めれば文字書けるんじゃね、みたいな、その発想力、と言って笑い合った。道に戻ってちょっと進むと渋沢栄一史料館があり、その向かいには渋沢の別荘のあるらしき敷地があった。門に寄ると四時半までと表示があって、既に時間は過ぎていたが、入口がひらいていたのでなかに入った。ここには青淵文庫という、渋沢が収集した『論語』関連の書物を収めたという施設と、晩香廬という小亭があった。敷地内をうろついていると、晩香廬のほうの女性スタッフが戸口から姿を現して、見られるならまだ大丈夫ですよ、といったことを知らせてくる。それでせっかくなので見学しようかと入口まで来たところが、入場にはチケットが必要だということがわかり、それを入手していなかった我々はやはり見学はできないのだった。どこでチケットを買うのかわからなかったが、おそらく渋沢史料館のほうの券でこちらの施設も見られるようになっていたのだろう。それで敷地を抜け、(……)ちゃんを遊ばせようということで遊具のある広場に戻り、足もとに枝のたくさん散らばっている木蔭の一角で(……)ちゃんをベビーカーから解放した。傍には銀杏の樹があって、見上げればその葉の連なりが縦横に交錯して無秩序な輪郭線を描き、その隙間から青空の細かく覗いて、緑と青とで模様を成しているのが目を引くようだった。時刻は五時前、子供らのてんでに遊び回っているその先の空では、低くなった太陽が大きくその身を広げて、眩い光線を木々の下にも送りこんでいた。(……)ちゃんは土の上を元気に動き回り、(……)さんや父親に担がれて小型の滑り台を滑らせてもらったりしていた。こちらは(……)ちゃんの行く先に、バスケットボールのマークのようにして、両手を広げ脚もひらいて立ち塞がって戯れたが、どんどん横に歩いて行く赤子を追ってこちらも蟹のように横移動をするのだった。足もとに石の多い場所に来たり、人の動きの多い遊具の近くに行こうとすると抱きかかえて連れ戻していたが、赤子はじきに怖じることなく人々のなかに立ち入って行き、そのあとを母親が追いかけた。少し離れた位置に(……)さんと並んで話しつつ、滑り台やブランコや城を模したような巨大な遊具のそれぞれで遊び回る子どもたち、その群れの姿を全体として目の当たりにして、これだけ多くの動き、豊富な情報を受け取ればかつてはそれだけで気分が恍惚とひらいたようなこともあったものを、と感受性の衰えた現在の自分を心中嘆くようになったことがあったが、しかし人とはそのようにして歳を取っていくものかもしれない。五時を迎えて、そろそろ帰ろうということになった。「アスカルゴ」という乗り物があると(……)さんは言い、それに乗って帰ろうと一行で歩き出したところ、背後から、アスカルゴは四時までという言葉が聞こえてきた。振り向くとハーフパンツ姿の比較的若い男性がおり、「アスカルゴ」に乗れないいま、ベビーカーでそちらのほうに行くと大変だと思う、というようなことを言った。礼を言ってそれではと方向転換し、めっちゃ親切な人ですねと智子さんと笑った。男性もまた子の父親であり、多分自分も以前行ったら乗れなくて苦労したということがあったのだろう。子どもを遊ばせている男性の脇を過ぎる際にふたたび礼を言って、もと来た道を戻りはじめた。公園を抜けると横断歩道を二つ渡って、やはり往路をそのまま反対に戻って行く。(……)さんの部屋に着くと、間を置かずにそろそろ帰ろうと我々は言ったのだが、(……)さんが、マンゴージュースを飲んでいきませんかと言う。「ジャカルタじいさん」と呼ばれている彼女の父親――インドネシア日本人学校の理事長を務めている――が外国から持ってきたものだと言った。一人だとなかなか開ける機会もないからと(……)さんはパックのジュースを開封し、コップに注ぎはじめたので、我々もそれではといただくことにした。口をつけた母親は、南国の、トロピカルな味がすると言った。そうしてジュースを飲み干してまもなく、帰途に就くことになった。部屋を出た我々に、下まで送りますと言って(……)さんもふたたびベビーカーに(……)ちゃんを乗せてついてくる。時刻はもう六時頃だったろうか、外に出ると暗くなるのがいつの間にか早くなりましたねと(……)さんは漏らした。皆で駐車場まで移動し、(……)さんにありがとうございましたと礼を言い、(……)ちゃんにもばいばいと手を振る。すると赤ん坊は言語と動作の結びつきを理解しているようで、あちらもあどけなく、横にぶらぶらと手を振り返してくれるのだった。車に乗り込み、発車すると、窓越しに会釈し、また手を振りながら親子と別れた。しばらく走って、王子北から高速に乗った。あれは荒川なのだろうか途中で眼下に現れた川が、光を失った空を反映して真っ白な鏡のようになっていた。あたりは暗み、傍らの窓から見れば、深い青の空に星が一つ灯りもしているが、前方、西の方角の果てには暗青色の雲が広範囲に染みついていた。高速を走っているあいだ、こちらは目を閉じて少々うと、とする場面があり、その時には後部席の母親も同じく疲れに負けて微睡んでいたようで、父親が黙々と運転するなか、車内に声のない時間がいくらか続いたらしい。目覚めてまもなく、掛かっていたDonny Hathawayが終わると父親は、ニュースに変えるぞとこちらに了承を求めた。六時四〇分頃だった。掛かったNHKは最初、スウェーデンの移民について何やら話していたが、その番組はすぐに終わってニュースが述べられはじめた。次々と情報が送り出されてきて頭に入れる暇もないのだが、なかでは一つ、確か千葉市と言っていたか、横転したトレーラーに軽自動車が下敷きにされて、父親と息子とその妻の家族三人が死亡したという事故が記憶に残っている。(……)インターチェンジで高速を降りた頃には、テニスの大坂なおみ選手が全米オープンで優勝したという話題が取り上げられており、父親は嬉しそうに反応していた。しかしこの試合は、セリーナ・ウィリアムスという相手の選手が苛立ちのあまりラケットを地面に叩きつけ破壊したことで一ポイント、また審判に暴言を吐いたことによって一ゲームが大坂に当てられて、スポーツマンシップに則ったけちのつかない試合というわけではなかったようだ。それから見慣れた町をしばらく走り、クリーニング屋の裏の駐車場に停まった。父親がクリーニングを引き取りに行っているあいだ、こちらは"A Song For You"を音程もよくわからず下手くそに口ずさんでいたのだが、そうしていると背後の母親が、障害者のサポートをボランティアや仕事としてやってみる気はない、と訊いてきた。こちらはそこまでの気持ちはないよと答えて、行きつけの古本屋の話題を出し、どのように働きたいという意欲も特にないが、どうせ働くのならその店で働けるのが良いと思うと述べた。もっとも店主に頼んでみないと雇ってもらえるかはわかってもらえないわけだが、話を持っていくにしてもまあもう少し様子を見てみて、と半端に落としていると、父親が戻ってきた。そうしてまたしばらく走って帰宅し、降りたこちらは玄関の鍵を開け、荷物を居間に運び込んで、真っ暗な室の明かりを灯した。クリーニングから返ってきたスーツや礼服などを下階に運んだり、服を着替えたり排便したりしているあいだに、母親は既に台所で支度を始めていた。茄子を茹で、餃子を焼いている。手を洗ってからこちらも台所に立って、餃子の焼き加減を見張るとともに、柔らかくなった茄子を味噌で和えた。そうして一旦室に戻ると、夕食の前に(……)さんのブログを読み、すると時刻はもう八時半を迎えた。腹がまったく減っていなかったので(健康的な空腹感というものももはや全然感じることがない)、食事は餃子とサラダだけで取り、終えると入浴に行った。冷水を何度か下半身に浴びせて頭を洗ったあと、麻素材一〇〇パーセントのシャツを洗面器のなかで手洗いした。ホームクリーニング用洗剤を湯に垂らして服を揉み、湯を替えてゆすぐと絞って、シャツを持って風呂を上がった。洗濯機には先に洗われた洗濯物が入っていたので、それは一旦洗面台の上に移しておき、シャツを入れて脱水を行う。シャツが回っているのを待つあいだ、居間で座って新聞から、米国の対中関税が全輸入品にまで拡大されるかもしれないとの記事を途中まで読んだ。そうしてシャツを干しておくとともに、その他の洗濯物もついでにハンガーに掛け、仕舞えると茶を用意して自室に戻った。一服しながらインターネット記事を眺め、それから長くなるだろう日記に取り掛からねばならなかったが、その前にちょっと身体を休めようとベッドに転がって、金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読んだ。三〇分で一〇頁をゆっくりと読み、それから日記を綴りはじめた。時刻は一〇時半過ぎだった。午前二時まであまり奮わない打鍵を続けて、午後五時あたりのことまで綴り、今日はここまでとして歯を磨き、床に就いた。それ以降の記憶を順に思い返しているうちに、あまり苦労せずに入眠したようだ。

2018/9/8, Sat.

 七時のアラームで鷹揚と立ち上がり、しかし携帯を取ってベッドに戻り、陽射しを受けながら微睡みのなかに苦しんで幾許、九時台から段々と意識は浮上しはじめて、一〇時一五分に至って起床した。上がって行くと、前夜のカレーをドリアにしたと言う。顔を洗ってからそれを温め、マカロニサラダとともに食事を取るあいだ、新聞をめくって野田佳彦前首相のインタビュー記事を読んだ。食事を終えて薬を飲みながら読書欄もちょっと読み、台所で皿洗いをする。久しぶりに居間の気温計は三二度を越えており、窓から覗く近間の屋根が、あれはトタンなのだろうか、太陽を受けて隈なく白く密に発光し、そこだけ浮遊したかのようになっていた。風呂を洗うと前夜に引き続き緑茶を用意して、急須と湯呑みを持って自室に戻り、一服しながらこの日はまず読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』ももう二六〇頁を越えて最終盤である。ヴァカンスの様子を伝えるサルトルの手紙を読み、一時間が経って正午に至ったところで読書は区切り、陽光の感触の空気にないのにふと気づいてカーテンを搔き分けると、窓は滑らかに白く均されている。放尿してくると窓を閉ざし、Suchmos "YMM"を流して歌い、"GAGA"も続けて歌うと日記に取り組もうという心だったが、自分のブログを読み返したりしてしまって遅れて一二時半から打鍵を始めた。食事の前に台所のラジカセから、John Mayerの"Waiting On The World To Change"が流れ出すのを耳にして、大層久しぶりだ、大学時以来かと思ったところで、彼のライブ盤をBGMに据えようとしたが、やはり記憶を探ることから気が逸れてしまうようだったのですぐに消した。記述はいくらかのろのろとなされて行き、ここまで追いつかせた現在は二時が目前、背後を見やれば、雲は過ぎたようで一度は薄れた陽がまた復活しており、明るいが強い熱気の空気に籠もるでもなく、秋に寄って過ごしやすい晴れの午後となっている。上階に行って、前日に買ってきたアイスを冷凍庫から取り出すと、昨日歩いているあいだに溶けたものか、僅かに崩れてまた冷えて固まった痕跡があった。シリアル入りのチョコレートに包まれたミント味の柔らかいそれを零さないように慎重に食べ、それから下着や両親の寝間着を畳む。空気には温みが感じられ、そのなかで服を畳んでいると昼下がりの気分は穏やかなようで、また気分というものが微かながらも生まれるようになってきたかと思った。室に戻るとサルトル書簡集の残った数ページを読み終えてしまおうと本をひらき、まもなく読了してのち、続けて(……)さんのブログを読んだ。それから、先ほどは馴染まなかったJohn Mayerのライブ盤を共連れに、九月五日の夕刊から情報を写し、さらにサルトル書簡集の書抜きも早速始めた。アルバムの終いが迫ってそろそろ切りとしようというところで、荷物を下ろしたのか足を鳴らしたのか、天井から大きく打つような音が聞こえ、母親が帰ってきたのだなと判断した。音楽の終幕と同時に書抜きも切り良く仕舞えて、上階に上がって行くと母親の姿はないが、階段口の手すりにクリーニング屋のビニールを被せられた父親のワイシャツが数枚掛かっていたので、階を下りて衣装部屋に運んでおいた。それから玄関へ行って小窓を覗いたところ駐車場に車もなく、一度帰ってきてから忙しなくまた出かけたのだろうか。時刻は四時半、食事の支度までにはまだ少し間がある。こちらはともかく室に帰って、音楽を聞くことにした。Keith Jarrett Trio『Standards, Vol.1』から"All The Things You Are"を流し、『Vol.2』のほうからも前半の三曲を聞くのだが、椅子に腰を据えて目を閉じ音楽にじっと意識を向けているあいだ、聴覚の向かう先のその音楽が何だか曇っているようで、かつてはあったはずの鮮やかさ生々しさが感じ取れないこの感覚は、ごくごく軽いものではあるがやはりいくらか離人症的なのかもしれない。離人症状の説明としては世界がヴェールに包まれたような、との表現を良く見るが、確かに感覚対象の遠いような、あいだに何かが差し挟まれて直接触れられないような、とでも形容できそうに思われた。しかし勿論、それに苦痛が伴うわけではないから病態などとは言えず、触れたものがこちらの心身に響いてこないという個人的な不満があるのみである。音楽を聞いているあいだに母親は帰ってきており、上がって行くと台所で飯の支度を行っていた。こちらは光の遠のいて淡くなった空気のなかでまた寝間着を畳み、それから水やりをしに家の外に出た。午後五時の空気はさらりとして涼やかだった。家の南側に回ってホースで植木に水を撒き、屋内に帰ると台所に入ったが、既に豆苗を添えた厚揚げは完成、エノキダケの汁物もあとは味噌を入れるだけ、さらにサーモンやマグロの刺し身があって食べるものは大方揃っていたので、野菜だけ用意しようということでサラダ菜をちぎって笊に収めた。それから大きくて重いキャベツを半分に切断して、スライサーで桶のなかに細くおろして行き、いっぱいになるとこれも笊に上げて仕事は早々に終わり、下階に戻るとふたたび音楽を聞いた。『Standards, Vol.2』の後半三曲を流し、ライブ音源である『Tribute』から冒頭一三分の"Lover Man"も聞くと、脈絡なくLed Zeppelin "Stairway To Heaven"などという超有名曲に実に久々に耳を傾けた。そうして五〇分ほどの音楽鑑賞を終いにすると、Led Zeppelin『House of the Holy』を流して、そのまま運動に入った。前屈で脚をほぐしたあとに、腹筋運動は六五回、腕立て伏せは二三回と、前回よりも少しずつ回数を増やして行っている。すると七時が間近になったので食事を取るために部屋を出た。台所に入ると、小さく分けられたイカフライを熱し、キャベツと菜っ葉を大皿に盛って、刺し身をいくらか取り分け米は茶漬けにする。そのほか厚揚げと味噌汁を卓に並べて席に就き、食事を始めた。ものを食べているあいだはテレビにも碌に目を向けず、向かいの母親が何だかんだと話しているのに相槌も打たず、静かに黙々とものを口に運んで、薬剤を飲んで皿を洗うとすぐに散歩に出た。食事を取って汗の湧いた身体に外気が涼しかった。夜空はくすんでおり、濃度に波はありながら雲が全体を覆って星の一つも見えなかった。坂を上ってひと気のない裏道を行っていると林のほうから凛々と、蟋蟀の音が湧いて通りに満ちている。表に出ると方向を変えて、車の流れる横を向かい風に包まれながら行き、しばらくすると腕にぽつりと落ちるものがあって、気のせいかと思えばもう一度続いて雨だなと察せられた。降りはじめから粒が大きくこれはすぐに降り増すなと思っていると果たして、まもなく肌に当たる水の間隔が狭まってぽつぽつ来たが、本降りと言うほどの厚さにはならず、かえって涼しいような小雨のなかを、頭や肌着を湿らせながら急がず帰った。帰宅するとすぐさま風呂に入った。湯に浸かって記憶を思い返していると、雨音が窓に寄って大きくなって遅れて本格の降りとなっていたが、これもすぐに弱まって音はまた消えた。浴室から上がって身体を拭き、ドライヤーを吹きつける髪は短くしたので即座に乾く。出ると茶を用意して室に下り、一年前の日記を二日分読み返した。文章の感触というものを繊細に感じ取れていた頃であり、記録的情熱ではなく構成の欲望を試みていた時期であって、どちらの記述も今より力の籠ったものと思われたが、九月七日のほうをここに引いておきたい。

 昼日中から薄灰色に沈みきって既に日暮れのような雨もよいに、室内もよほど暗んで、コンピューターのモニターが目に悪いほどになる。窓の内からは降っているともいないとも定かにはつかず、音もなく、ただ霧っぽい白さが湧いているのを見ていたが、夕刻を迎えて外に出ると、郵便受けの上に雫が溜まっていた。傘を持って坂に入ると、鵯の張る声が瞭々と通って、よほど衰えた蟬の声に取って替わりつつある。坂を出際にミンミンゼミの鳴きが一つ追ってきたが、上がらぬ気温に生気の鈍ったような、低く這うように間延びして勢いのない声だった。
 風はない。しかし温くはなくて、と言ってとりたてて涼しくもない。湿り気を含んだ空気が、柔らかく安々と肌に馴染んでくる。路地を行くあいだの百日紅には、主として目を向けているものが三本ある。初めに当たるのは、街道から一度垂直に折れて進み、裏路地に入る角をもう一つ折れる間際の家の抱いたもので、近頃は萎えているようにも見えたが、この日は色を薄めた花の端に、新しい紅色が咲き継がれているのを見つけた。路地の中途の一軒に、低い塀からちょっと顔を出しているのが二つ目で、これはほかの二本よりも紅色が強く、極々小さな細い木で花も多くはないが衰えを知らず日増しに充実するようで、この日も目を向けると思わず驚くほどに赤々と、水を吸ってなおさら色濃くなったか、湿った空気のなかで目覚ましいほどに鮮やかだった。もう一本は、裏道の合間に直交した坂を渡ってすぐの家の、これはなかなかに高くすらりと伸びた木だが、今年は早めに枝を落とされて以来奮っていない。
 帰路には雨がややあった。大した仕事でないのだが、労働というものはやはり疲れるなと、疲労感によって精神のひらかず狭く縮こまったようになっているのを感じながら行く。傘を打つ雨の音というものを、久しぶりに聞くような気がした。道中、周囲から盛んに鳴き寄せてくるのは、青松虫というものらしい。高く澄んだ声で、遠く聞いては鈴虫の音とも紛らわしいようで、今までそれと思っていたなかにもあるいは聞き違えがあったかもしれないが、後者に比べると青松虫は屈託なくまっすぐに、群れで堂々と鳴き盛るのではないか。鈴虫と言って思い出すのは家の近間から最寄り駅へ続く坂を夜通る時に聞こえるもので、そこに漂うのは輪郭の周囲に光暈めいた余韻をはらんだ音色であり、狐火を思わせて繊細に震えながら樹々の合間の闇の奥に見え隠れする控え目な声である。精妙な揺らぎのうちに金属の擦れ合うような感触もより強い、あれがまさしくそうなのだろう。
 雨はじきにほとんど降り止んで虫の音の方が高くなり、またもや作句の頭が働き出したが、今回はうまく形にならなかった。街道を行く車が途切れると、道の左右からふたたび、青松虫の声が湧き出て鳴きしきっていた。

 アオマツムシなどという虫の存在はすっかり忘れていて、凛と澄んで高く鳴るその声を蟋蟀の音とばかり思って聞き、今年の日記にもそう書いてきたが、この時期左右から道に溢れ、先ほどの散歩の途中にも蟋蟀として耳にしたのはおそらくこの虫なのだった。過去の日記の読み返しのあと、茶をおかわりしてくると現在の日記の作成に取り掛かり、温かい飲み物を啜りながらゆっくりキーを打って、ちょうど一〇時半を迎えて現在に追いついた。就床までの残りの時間は読み物に費やした。まず数日前の新聞から一記事読んでおき、それから金子薫『鳥打ちも夜更けには』を新しく読みはじめた。ベッドに仰向けになって読み進めて、零時四〇分を越えて切りの良いところに到達したので眠ることにして消灯した。眠気はやはりなく、仰向けの状態から姿勢を横に変えたりして、深呼吸をしながらしばらく過ごしていた覚えがあるが、入眠に苦労したというほどではなかったようだ。一時間は掛からなかったのではないか。



朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 (……)あなたへの信頼の証拠として、今まで強がりからあなたに言い得なかった次のことを告白します。それは、ぼくの可愛いお嬢ちゃん、ぼくはあなたの心の中で第一の人間ではなく唯一の[﹅3]人間でありたい、ということです。ぼくはこの自分の気持をずっと前から知っていましたが、あなたに言うつもりはありませんでした。ぼくがこのことを言うのは、あなたにこの点でほんの少しでも変わってもらいたいためではなく、あなたへの信頼のしるしとしてぼくがあなたになし得る最も辛い告白をあなたに捧げるためです。(……)
 (16; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)

     *

 (……)今夜ぼくは、あなたがいままでぼくから経験したことのない仕方であなたを愛しています。つまり、ぼくは旅行によって弱ってもいないし、あなたを身近に感じたいという欲望によって気が転倒してもいません。ぼくはあなたへの愛を統御し、それをあたかもぼく自身の構成要素のように自分の内部にとり込むのです。このことはぼくがあなたに口で言うよりもはるかに頻繁に起こることですが、あなたに手紙を書くときには稀にしか起こりません。ぼくの言う意味が判りますか、つまりぼくは外部の事象に注意を払いつつあなたを愛しているのです。トゥールーズでは、ぼくはただ単にあなたを愛するのです。しかし今夜は、ぼくは春の夜の中で[﹅6]あなたを愛しているのです。ぼくは窓をひらいて、あなたを愛しているのです。あなたはぼくに現前し、事物もぼくに現前しています。ぼくの愛はぼくをとり巻く事物を変容させ、ぼくをとり巻く事物はぼくの愛を変容させるのです。
 (22; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)

     *

 ぼくの愛する人。あなたには判らないだろう、ぼくがどれほどあなたのことを想っているか、一日中絶え間なくあなたで満ちみちたこの世界のただ中で。時によってはあなたが傍にいないのが淋しくてぼくは少し悲しい(ほんの少し、ごくごく少し)、ほかの時はぼくはカストールがこの世に存在すると考えて、この上なく幸福なのだ、彼女が焼き栗を買ってぶらつき廻っていると考えて。あなたがぼくの念頭から去ることは決してなく、ぼくは頭の中で絶えずあなたと会話をしている。(……)
 (55; ボーヴォワール宛; ホテル・プランタニア、シャルル・ラフィット街、ル・アーヴル; 1931年10月9日金曜日)

     *

 (……)ただ、それらの部屋が生あたたかく、薄暗く、強く匂うので、そして街路が眼の前にじつに涼しく、しかも同一平面上にあるので、街路が人々を引き寄せる。で、彼らは屋外[そと]に出る、節約心から電灯をつけないですますために、涼をとるために、そしてまたぼくの考えではおそらく人間中心主義から、他の人々と一緒にひしめき合うのを感じたいために。彼らは椅子やテーブルを路地に持ち出す、でなければ彼らの部屋の戸口と路地に跨った位置に置く。半ば屋内、半ば屋外のこの中間地帯で、彼らはその生活の主要な行為を行なうのだ。そういうわけで、もう屋内[なか]も屋外[そと]もなく、街路は彼らの部屋の延長となり、彼らは彼らの肉体の匂いと彼らの家具とで街路を満たす(end83)のだ。また彼らの身に起こる私的な事柄でも満たす。したがって想像してもらいたいが、ナポリの街路では、われわれは通りすがりに、無数の人々が屋外に坐って、フランス人なら人目を避けて行なうようなすべてのことをせっせと行なっているのを見るわけだ。そして彼らの背後の暗い奥まった処に彼らの調度品全部、彼らの箪笥、彼らのテーブル、彼らのベッド、それから彼らの好む小装飾品や家族の写真などをぼんやりと見分けることができる。屋外は屋内と有機的につながっているので、それはいつもぼくに、少し血のしみ出た粘膜が体外に出て無数のこまごました懐胎作用を行なっているかのような印象をあたえる。親愛なるヤロスラウ、ぼくは自然科学課目[P・C・N]修了試験の受験勉強をしていたとき、次のことを読んだ。ひとで[﹅3]は或る場合には《その胃を裏返し[デヴァジネ]にして露出する》、つまり胃を外に出し、体外で消化をはじめる、と。これを読んでぼくはひどい嫌悪感をもよおした。ところが、いまその記憶が甦ってきて、何千という家族が彼らの胃を(そして腸さえも)裏返しにして露出するナポリの路地の内臓器官的猥雑さと大らかさを強烈にぼくに感じさせたのだった。理解してもらえるだろうか、すべては屋外にあるが、それでいてすべては屋内と隣接し、接合し、有機的につながっているのだ。屋内、つまり貝殻の内部と。言い換れば、屋外で起こることに意味をあたえるのは、背後にある薄暗い洞窟――獣が夕方になると厚い木の鎧戸の背後に眠りに戻る洞窟――なのだ。(……)
 (83~84; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

     *

 (……)ナポリにはぼくたちがイタリアのどこでも見なかったものがある、トリノでも、ミラノでも、ヴェネツィアでも、フィレンツェでも、ローマでも見なかったもの、つまり露台[バルコニー]だ。ここでは二階以上の階の扉窓にはどれも専用の露台が附属していて、それらはまるで劇場の小さなボックス席のように街路の上に張り出し、明るい緑色のペンキで塗られた鉄格子の柵がついている。そしてこれらの露台はパリやルワンのとは非常に異なっている、つまりそれらは飾りでもなければ贅沢品でもなく、呼吸のための器官なのだ。それらは室内の生あたたかさから逃がれ、少し屋外[そと]で生きることを可能にしてくれる。いってみれば、それらは二階あるいは三階に引き上げられた街路の小断片のようなものだ。そして事実、それらはほとんど一日中そこの居住者によって占められ、彼らは街頭のナポリ人が行なうことを二階あるいは三階で行なうわけだ。ある者は食べ、ある者は眠り、ある者は街頭の情景をぼんやり眺めている。そして交流[コミュニケーション]はバルコニーから街路へと直接に行なわれ、部屋に一度入り、階段を通るという必要がない。居住者は紐でむすばれた小さな籠を街路におろす。すると街頭の人々は場合に応じて籠を空にするか、満たすかし、バルコニーの男はそれをゆっくりと引(end89)き上げる。バルコニーはただ単に宙に浮いた街路なのだ。
 (89~90; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)