2018/9/7, Fri.

 カーテンの際に薄く明るみの漏れる早朝五時半に、静かに目を覚ました。ふたたび目を閉ざしていると、いつの間にかといった感じで七時を迎えて、携帯のアラーム音で再度の目覚めを得た。ベッドから立ち上がり、アラームを止めて、ここでそのまま起床できれば良いのだが、やはり頭の重いような感じが僅かにあってまた寝床に戻ってしまう。そうすると浅く切れ切れの眠りながら長く臥位に留まってしまい、一一時を越え、メールの届いた振動音を機に瞼がひらいたままになった。窓は白かった。立ち上がって上階に行くと母親はクリーニング屋に出向いていて不在、冷蔵庫のなかからジャガイモのソテーと味噌汁の残りをそれぞれ取り出して温め、その二品のみで食事を取った。食後、風呂を洗って出てくるとちょうど母親が帰宅したので、玄関に運ばれた荷物を取り上げて、品々を冷蔵庫に移して行く。それから下の階に下って、一二時過ぎから前日の日記に取り掛かった。会話を書くのは難しく、なかなかすらすらというわけには行かず、骨が折れる。勿論記憶していて記すことができるのはごく一部であり、実際の順序通りに再構成するのも不可能技だが、覚えていると言っても事細かにそのまま覚えているわけでないから、受け取った意味を自分の言葉に移し替えるのに手間が掛かり、また個々の内容のあいだの脈絡を整備するのも難しい。そういうわけで一時間半を費やしても記事は終わらず、一時四〇分に至ってそろそろ出かける準備をしなければならないとキーボードから手を離した。美容院の予約が二時だったのだ。服を外着に替えて歯磨きをして、上がって行くと、母親が身体を拭いて行ったらと言う。自分ではわからないけれど近寄ると男臭いから、と言って、そんなに体臭を発しているつもりはないのだが、忠告通りにデオドラントシートで肌を拭い、そうして出発した。苔の染みついた林中の坂道を上って行くと、道のすぐ脇の草のなかからツクツクホウシの声が立つ。そこを過ぎて街道に出て、通りを渡って入店すると、先客はおらず、パートのスタッフもおらず、美容師の中年女性一人だった。これは何となく安堵する材料だった、と言うのは調子を崩してうつ病のようになっていたことをおそらく話すことになるだろうと予想していたところ、ほかの客やスタッフのいるなかではやはり話しづらいと思っていたからだ。早速明るい店内に招き入れられて、洗髪台に身体を預ける。最初の主な話題はパートの(……)さんの家の事情で、彼女の家のお爺さん、と言うのは旦那さんの父親が、もういくらか認知症で呆けていたのだが、電車と接触して病院に運ばれたと言うのだ。ICUに入っていて、意識はおそらくないようで「葬式待ち」との語が聞かれた。その老人は山のなかにある小さな祠のようなものにお参りで通っていたらしく、人もあまり通らないようなところなのですぐに見つけられて通報されたのは運が良かったと美容師は言った。そんな話を聞いてのち、鏡の前に移り、身体をカットクロスで包まれてしばらく、そうして(……)くんは元気だったと来たので、実は一月頃から調子を崩していたのだと明かした。仔細を尋ねられるのには、さほど詳しくは話さず、元々持っていたパニック障害が悪化したところから始まって、最終的にはうつ病のようになった、しかし今はもう段々回復してきたところであると説明した。(……)くんはものを良く考えて頭を良く使うから、というようなことを美容師は言った。一時間ほど髪を切られているあいだに二、三度、(……)くんは(歳のわりに)「しっかりしている」という評言を与えられたのだが、これがいまいち良くわからないもので、客観的に見て自分はしっかりしてなどいないとこちらは思う。二八にもなって親元を出ずにアルバイト身分のままで過ごして、実家にいながらさほど家事を受け持つでもなくやっていたのは読み書きばかり、挙句の果てに精神疾患を悪化させて休職中、などというのは多少なりとも情けないと言うべき現状ではないだろうか。この前夜の通話でも(……)が、こちらには能力があるのにそれが社会的に活用されていないのが勿体ない、というようなことを言っていたのだが、これも過大評価で、こちらはあまり家からも出ず大層世間知らずだし、大した能力など特に持ち合わせてはいない。唯一磨いてきた能力であるところの作文も、要はこの日記形式の文章しか書けないので、多様性のあるものではない。それでも昨年の秋にはコンサートの感想などもちょっと綴っていたし、年末頃には哲学的な考察なども日記のなかに取り入れて、わりあい「いい線行っていた」ように思えるのだが、現在はそうした契機も生まれて来ない。自分としてはこの日記ももはや大して面白い文章だとは思っておらず、欲望も希薄で、何故こうして毎日多くの時間を費やして書いているのかもよくわからないのだが、ともかく、美容師はこちらの受け答えを見て「しっかりしている」ということを繰り返し口にして、店にやって来る人々(大概中高年の女性だと思うが)などは、他人の話も聞かずに自分の好きなことを喋るだけだと毒づいた。そうした流れのなかでふたたび(……)さんが話題に登場したのだが、美容師は彼女が連日ICUに子連れで見舞っていることを取り上げて、そこにいるほかの人々も重傷の人ばかりだし、あまりそう頻繁に行く場所でもないだろうと苦言を呈してみせた。(……)さんは朝早く、子どもの学校の前などに病院を訪れており、看護師さんに毎回関係を聞かれるんですよとか、病院のあとはデニーズで外食なんですよとか話していたらしく、美容師はそれをいくらか考えなしな言だと取っているようだったが、こちらは笑って、あっけらかんとしているんですねと受けた。これは初めて知った事実なのだが、(……)さんは耳が悪いらしく、補聴器をつけてはいるのだが、それもあって仕事中にも話を半分くらいしか聞かずに適当に答えていることがあると美容師は苦笑する。五〇歳にもなってそれだと彼女は言うのだが、しかしこちらは、そうしたあっけらかんとしているところが(……)さんの良いところなんですよと不在の彼女をフォローした。ほか、ヨガをしたらどうかとか、ジムに行ったらどうかとかそういった話もあったのだが、それらに関しては詳しく語らずとも良いだろう。散髪の終盤、美容師はこちらの頭を指でぐりぐりと刺激しながら、(……)くん、前頭葉が固くなっているよと言った。頭を使いすぎているという言い分らしいが、しばらく刺激していると、若いからすぐ柔らかくなるわと頭皮を動かしてみせる。そのマッサージは遠慮がなく、力の籠ったもので少々痛いくらいだったのだが、それは口にせずになされるがままに施術を受けていた。髪を切ってもらいすっきりすると、三二五〇円を払い、礼を言って退店した。時刻は午後三時だった。何となくアイスでも食べたいなという心があって、散歩がてら、近間の、と言って歩いて一五分ほどは掛かる先のセブンイレブンまで行くことにした。何だかんだで人と接して多少笑いながら話したこともあってか、気持ちは僅かに朗らかに、ほぐれたようになっていた気がする。横から身を通過していく風は涼しさもぬるさもなくまろやかで、空には雲が多く掛かっていたが、大概は青灰色を混ぜたなかに一箇所、白が磨かれ艶めいたようになっている部分があって、あそこに太陽があるなと窺えた。道を歩きながら自らの二八という歳を思って、まだ三〇にも達していない、考えるまでもなく若いなと、それだけぽつんと心中に独りごちた瞬間があったが、薬剤のせいで性欲もなく感受の官能も失ってしまった現在、自分が若いということも実感としてあまり馴染まないようでもある。街道を進んで交差点まで来ると、蟋蟀の、硝子を擦り合わせているように摩擦の強い鳴き声が通りの脇から湧いていた。ガソリンスタンドにはジャパン・ビバレッジのトラックが停まっており、もう年嵩の店員が運転席の外で愛想良く、窓越しにドライバーとやりとりをしているところだった。コンビニに入る前にもう一度空を見上げると、先ほど見つけた太陽の痕跡はなく、雲は広く連なっているが、南のほうには洩れる白さの散在があって青みも見え、雨の心配はなさそうだった。入店すると籠を持ち、ドリンクコーナーの前に立ったが、飲むヨーグルトは普段買っているものの半分ほどのサイズの品しかなく、それで一五一円と割高だった。しかしそれを二つ籠に収め、振り返ってアイスの区画を見分し、いくつか保持してさらに、たまには両親に甘い物でも買って行こうと甘味の類も数種加えてレジに向かった。一四九二円を会計して店を出ると、また蟋蟀の音が通りに渡っていたが、すぐに車の走行音に乱された。ビニール袋を片手に提げながら歩いて行き、交差点から裏道に入る。もう夏は過ぎたが歩いていれば肌着が汗で湿って、林からはまだいくつかツクツクホウシの鳴きが飛び出ている。土塊を積み上げた敷地の前に人相の良くない人夫らが三人座りこみ、軽トラックの脇で休憩を取っている。その横を過ぎ、ほかに人のいない裏道を、緩い向かい風を浴びながら家に帰った。帰宅すると買ってきたものを冷蔵庫に収め、居間に立ったまま、ワッフルコーンのアイスクリームを食す。母親もこちらが買ってきた「雪見だいふく」を一つ食べ、こちらは貪欲に余ったもう一つも食べてしまうと自室に帰り、服を着替えて日記を綴った。時刻は四時、それから三〇分強で前日の記事が完成したが、それを投稿するとそこからこの日の分には入れず、隣室に足が向いてギターを弄りはじめた。適当に乱雑に弾いているうちに時間を費やしすぎて五時半目前になり、母親が上階に上がった気配を聞いてこちらも台所に向かった。カレーを作ろうと言う。BGMとして小沢健二『刹那』をラジカセで掛けようと思ったところが、CDが見当たらない。部屋に確認しに行っても見つからなかったので、仕方なく、"流星ビバップ"のメロディーを口笛で吹きながら野菜を切り、フライパンで炒めた。かたわら、前夜に(……)さんに貰ったオクラを茹でて、笊に上げておき、フライパンのほうは水を注いで、そこに肉を投入した。煮ているあいだに郵便を取りに行くと、夕刊と、「国境なき医師団」の活動報告と(父親がいくらか献金しているのだと思う)、(……)クリニックからの父親宛の封書が入っていた。居間に戻って夕刊の一面、北海道の続報を伝えている脇の、自民党総裁選が告示という記事だけを読み、それから台所に入って、ジャガイモを割り箸で刺してみると既に柔らかく割れる。それでカレールーを投入し、お玉を揺らして湯に溶かし、母親がスパイス類を振ったあとから牛乳を加えて完成とした。隣のコンロではオクラの肉巻きが四つ焼かれており、母親はあとでこのうちの一つを隣家に持っていったようだった。時刻は六時ちょうどだった。それから自室に下りてきてふたたび日記に取り掛かり、一時間半以上を掛けて記述を現在時まで連ねて行った。大した文を書くでもなく、ただ時間だけが本当に抵抗なく、するすると過ぎ去ってしまう。そうして食事に向かった。カレーを火に掛け、イカフライとオクラの肉巻きの乗った皿をレンジで温め、マカロニのサラダや豆モヤシが母親の手によって一皿に収められる。品をそれぞれ運んで椅子に就くと、サラダから口をつけはじめた。まもなく八時を迎えてテレビは『ぴったんこカン・カン』を流しはじめて、画面のなかでは米倉涼子がスペインの一家に滞在し、四か月間勉強したというスペイン語を、短い期間のわりに巧みに話していたが、特段の興味はない。料理を平らげて食器を片付けると風呂に行き、湯をくぐって出てくると冷凍庫から「クーリッシュ」(ベルギーチョコレート味)を掴み出して自室に下り、(……)さんのブログを読みながらアイスを吸った。それから、久しぶりに緑茶を飲む気になった。上階に行き、台所の頭上の戸棚から急須と湯呑みを取り出して、まず一杯注ぎ、さらに急須に湯を入れておいて部屋に持って行くと、二杯半分の茶で一服しながらインターネットを閲覧した。以前は緑茶を飲むと、おそらくカフェインの作用で覿面に心身が強張り、すぐに強い尿意も覚えたものだったが、パニック障害の症状が消えた今、不思議なことにそうした影響も感じられなかった。九時過ぎからサルトルの書簡集を読みはじめたが、書見のかたわらにも茶が欲しくなっておかわりを注ぎに階を上がった。母親が入浴に行っているなか点けっぱなしにされた居間のテレビは、地震に襲われた北海道からの中継をしていて、街路灯も家の灯も消えた真っ暗な住宅街をレポーターが示してみせた。あちらに明かりがあるのが見えますでしょうかと指されたその先は、緊急停止した苫東厚真発電所だといい、そこから目と鼻の先の区画でもまだ停電が続いているということだった。テレビに目を向けながら茶を用意していると、帰宅した父親が居間に入ってきたので、おかえりと顔を合わせた。そうして下階に戻り、茶で腹を水っぽく膨れさせながら読書をしていたのだが、ちょうど一〇時に掛かる頃、唐突に歌が歌いたいような心が起こって、本を置き去りにしてSuchmos "YMM"を流した。さらに"GAGA"、"Alright"と歌うと小沢健二に移って、"流星ビバップ"、"痛快ウキウキ通り"、"さよならなんて云えないよ(美しさ)"、"大人になれば"、"ローラースケート・パーク"と流していき、最後にキリンジの三曲、"グッデイ・グッバイ"、"エイリアンズ"、"あの世で罰を受けるほど"と歌って、長々とした一人歌唱大会は終わりを告げた。一時間ほどが経っており、一一時からふたたび読書に戻った。サルトルボーヴォワールに宛てた手紙は必ず「ぼくの可愛いカストール」で始め、律儀にも毎回何らかの直截な睦言を記している。一九三九年の最初から順にいくつか拾ってみると、次の通りである。

「あなたにさよならを言えなかったことがとても心残りだよ、ぼくのいとしい人」
「情熱的に愛しているよ」
「あなたをこの腕の中に抱きしめたい」
「ぼくのすてきなカストール、ものすごく好きだよ」
「あなたに会いたくて仕方がないよ、頑固屋さん」
「あなたのそばに行きたくてたまらない」
「あなたから離れて本当に淋しいよ、ぼくのいとしい花」
「ものすごく愛してるよ、ぼくのすてきなカストール。あなたに再会し、あなたと一緒に楽しみたくてたまらない。あなたは少しも抽象的になど思われない」

 一方で一九三九年夏のこの時期、サルトルはルイーズ・ヴェドゥリーヌというボーヴォワールの友人とも恋愛関係を始め、手紙の書き出しでこちらには「ぼくの恋人」と呼びかけながら、やはり律儀に毎度、同じような愛の言葉を送っている。以下のようなものである。

「ものすごく会いたいよ、恋人さん。きみのベッドのわきに坐り、きみの暖かい小さな手をとって、きみの優しいほほえみの一つを目にしたいな」
「全力をこめて愛している」
「ぼくだってきみのそばに、ベッドの端に腰をおろして、きみの髪の毛を愛撫したくてたまらないんだ」
「いつでもきみのことを考えていて、きみによって自分を癒やしている」
「全力をこめて接吻する。熱烈に愛しているよ」
「ぼくの恋人さん、どんなにぼくがきみのことを愛しているか、どんなに激しくきみに愛着をいだいているか、せめてきみに感じてもらえたらいいのに」

 そのすぐあとの時期には前々から交流のあったターニャという女性と一緒に旅行に出ており、彼女と寝たなどということをボーヴォワールに報告している(サルトルは彼女の処女を奪ったらしく、「こんな汚ない仕事」などという語を使っている)。ターニャとの関係は、ボーヴォワールやルイーズとのあいだにあるような穏やかなものではなかったようで、罵り合いの修羅場のような場面も彼は手紙に綴ってボーヴォワールに知らせていたが、いずれにせよ多情な男なのだ。書見は午前二時まで続けられた。その間、(……)さんから送られてきた手紙二通のことを思い出してそれを読み返したり、コンピューター前に立って自分の最近の日記を読み返したりもした。日記はそこそこ悪くないのかもしれない、思ったよりも頑張って書けているのかもしれないとちょっと思われた。この日も睡眠薬を服用せず、本を閉じるとすぐに消灯して布団に入ったが、例によって眠気はまったく感じられなかった。ヨガで言うところの「死者のポーズ」、あるいは自律訓練法のポーズのように、腕を身体の両側にだらりと伸ばして力を抜いた姿勢でじっとしながら夕食時以降の記憶を追いかけて行った。それが終わると姿勢を崩して横を向いたりもしたが、外から重なり合って響く虫の音は、その重奏のなかにほとんど新たな動きは導入されず単調に繰り返されるのみで、片耳でそれを聞いているとちょっと催眠的なようにも思えたものの、眠りはやはり遠かった。寝返りを繰り返しているうちに一度時計を見て、三時過ぎに至っていたのは覚えている。それからどれくらいで眠りに就いたのかは定かでない。

2018/9/6, Thu.

 七時のアラームで覚めて、携帯を取ったあと布団に戻ったが、このあたりのことはもはや記憶が曖昧で蘇ってこない。一〇時頃から寝床で蠢きだしたが、瞼がひらいたままになる最終的な起床は一一時を待った。寝そべっているあいだ、太陽の光が胸の上に置かれて熱く、ひらいていたカーテンをふたたび閉ざしていた。起きた頃にはツクツクホウシが一匹、窓の外で鳴きを上げていた。起き上がると、ステテコパンツを履いて上階に行く。母親は皮膚科に出かけていた。手指にウイルス性の出来物のようなものができ、それを窒素によって焼き切る治療をしているのだ。洗面所に入って顔を洗い、調理台の前でチョココロネやカキフライやらを用意していると、腹が排泄を訴えたので便所に行った。このタイミングで便意を催し、排便する際にも尻の穴にひりひりするような刺激があったのは、おそらく前夜に食べた獅子唐のためだろう。戻ってくると食事を卓に運んで新聞をめくりながら食べ、薬剤やサプリメントの類を摂取したあと食器を洗った。そうして風呂場に行き、浴槽を擦りながらこの朝の睡眠時間を計算して、八時間も九時間も床にいるのはやはり眠り過ぎでもう少し早く起きねばならないと考えた。浴室を出ると台所で立ったまま、前日に「ぎょうざの満洲」で買った杏仁豆腐プリンを食し、そうして自室に下りて行った。正午を回ったところから日記を書きはじめ、一時半を迎える前には記述はここまでに至っている。文を綴っているあいだにTwitterを覗くと、北海道で震度六の地震があったという報に出くわして、大阪の地震から西日本豪雨、つい前々日の台風二一号にまた大きな地震と、よくもこう次から次へと自然災害が起こるものだなと思った。日記に区切りが付くと、そのまま間髪入れずに岡田睦『明日なき身』の書抜きを行った。二箇所を写し、それから久しぶりに過去の日記の読み返しをした。二〇一七年と二〇一六年の九月六日の記事である。昨年というのは、今のようにあるいは二〇一六年のように起床から就床まで自分の行動を追って行くという形式の記述を一旦取りやめていた時期であり、この日は私的な思考の類を綴っているのだが、この頃に比べて長く論理を繋げた内省がどうもできなくなった、何かに触発されて思考が生まれるということがあまりなくなってしまったというのが病後の一つの変化である。またこの日には、瞑想に相当集中できたようで、体感では一五分ほど座っているように感じられたところが、目をひらいてみると実際には一〇分しか経っていなかった、とも記されているのだが、こうした研ぎ澄まされた精神の集中、これを今の自分は失ってしまった。過去には耳鳴りを招きそうになるくらいの静謐な集中力を瞑想の際に発揮していたこともあり、そうした集中性はものを感じ考えるにあたっての基盤になっていたと思うのだが、現在の自分の精神というのは、安定していると言えば聞こえは良いが波がなく、一日のどの時点でも感触が変わらず、弛緩してはいないまでも平板である。とにかく差異=ニュアンスを感じる力が衰退したとともに、応じて自分の精神内にも差異=ニュアンスの起伏が生じなくなったというのが、病後の状態の最も主要な特徴だろう。一月から三月頃に掛けて自分は統合失調症様の症状を呈していたわけだが、あれが本当に統合失調症になりかけていたのだとすると、自分の世界からの差異=ニュアンスの消失はそれによって起こった認知機能の低下なのかもしれないし、あるいはその後に現れてきたうつ症状の後遺症なのかもしれないし、あるいは離人症/現実感喪失症候群の軽いものなのかもしれない。精神疾患とは厄介なもので、確かな解答は知れないし、医者にも誰にもわからない。ただ病前と病後で自分が変質し、自分の内から何かが欠けてしまったかのように感じられるのは確かである。そうしたことはともかく、日記の読み返しを終えると二時を回っていたので上階に行った。肌着を畳んでからアイロンのスイッチを入れると、機械が温まるのを待つあいだに屈伸をして、台所で飲むヨーグルトを一杯飲む(この一杯で最後だった)。それからシャツやハンカチにアイロン掛けをして、エディ・バウアーのシャツを持って自室に戻り、収納のなかに掛けておくと、運動をする気持ちが起こっていた。Keith Jarrett Trio『Tribute』を流して下半身をほぐしはじめ、その後は腹筋運動を六〇回、さらに休み休み腕立て伏せを行って、すると三時を迎えた。午前の晴れ空から一転して外は曇っており、空気はくすんだ色合いに落ちこんで、薄灰色の雲に雨の気配すら感じさせるようだった。「(……)」を読んだあとは、音楽を消してサルトルの書簡集を読みはじめた。ベッドに寝転がったまま読書を進め、五時のチャイムが鳴ってまもなく、インターフォンの鳴る音がした。急いで上がって行き、受話器を取ると、行商の八百屋をしている(……)さんである。玄関に出ていき、すいませんと声を掛け、今、下で草取りをしててと母親の所在を告げると、じゃあいいかと相手は言うので、もう一度すいませんと言って引き取った。わざわざどうもね、と言って(……)さんはトラックのエンジンを掛け、去って行った。こちらは自室に戻って、手帳に読書の時間をメモしておくと、台所に入って米を三合研ぎ、炊飯器にセットするとすぐさま炊きはじめた。飯の用意を急ぐのは、この日は八時から(……)や(……)らとSkypeで通話する約束になっていたからだ。それから茄子を五本切って、フライパンで炒める。たびたびフライパンを振ってかき混ぜながら火が通るのを待ち、醤油で味付けを済ませると、今度は小鍋を火に掛け、粉の出汁を水に振っておいてから玉ねぎを切った。味噌汁の支度である。玉ねぎを投入すると卵を一個、椀に溶いておき、夕刊を取りに玄関を出た。一面は全面北海道の地震に当てられており、センセーショナルな事件を伝える際の、太く真っ黒な帯に白抜きの見出しが用いられていた。室内に入ると玉ねぎが柔らかくなるのを待ちながら、卓に就いてその一面を読んだ。厚真町というところで土砂崩れが起こり、くすんだ色の森が広範囲に渡って滑り落ちて山裾の住宅を巻き込み、チョコレートのような色の山肌が露出している写真が載せられていた。道内最大の苫東厚真火力発電所が緊急停止し、北海道の全域二九五万戸が停電したというから凄まじい。記事を読み終えて台所に戻ると、玉ねぎは具合良く煮えていたので火を弱めて味噌を溶き、そのあとから溶き卵も垂らして加えた。それで支度は終いとし、風呂のスイッチを付けて階段を下ると、草取りを終えた母親が疲れたと言いながら途中に座っている。何かやってくれたのと問うのに、茄子と味噌汁と答えて横を通り抜け、自室に入るとすぐさま日記を綴りはじめた。現在時まで記述を繋げる頃には六時半前を迎えた。それから「北海道地震、最大震度7で死者7人 阪神上回る295万戸停電で経済活動に大きな打撃」の記事を読んで、早々と食事を取りに上階に行った。こちらが作ったものに加えて魚を煮たと母親は言った。煮るというよりはソテーのようになったその魚料理に、米に茄子、味噌汁にサラダをそれぞれよそって卓に移った。食べはじめてまもなく、インターフォンが鳴って、出て行った母親が大きな声で話しているのを窺うところでは、隣家の(……)さんらしかった。しばらく話してから戻ってきた母親は、オクラを貰った、こんなに大きいのと言って、台所でそれを差し上げてみせた。テレビはニュースを映しており、話題は勿論、北海道地震の被害の様子である。水の配給に並ぶ人々や避難所の人々の姿が映され、卓に移動した母親は、大変だね、と漏らし、電気が使えないなんて、どんな生活かと思うねと続けた。茄子や魚とともに白米を咀嚼し、サラダを食ってから最後に味噌汁を飲んで食事を平らげると、薬を飲み、入浴に行った。早々に上がって時刻は七時半頃、自室に戻ると約束の八時まで前日の夕刊を読んだ。そうして時間が間近になってSkypeにログインし、八時ちょうどになると携帯が震えて五分だけ待ってくれと(……)から届く。それから自分の今日の記憶を探ったり、日記に僅かに文章を書き足したりして、五分ばかりでなくしばらく待ったのだが相手がログインする気配がないので、メールを送ると、IDを教えてくれと返ってくる。それでこちらのIDを伝えるとコンタクトがあって無事に繋げることができ、まもなく(……)と(……)のいるグループにも呼ばれて通話が始まった。初めのうちは部屋が暑いとか、(……)は涼しそうだとか、背景に蟋蟀が聞こえて風流だとか些末な話をしていたのだが、そのうちにこちらの容態に話題が移って、一月以降の症状の変遷を話した。言葉が高速で脳内を渦巻き流れて行くのに不安を覚えたというところから始まって、一月から三月頃までは統合失調症に近く、思ってもいないことが頭に浮かんでくる自生思考の症状があったが、三月の末頃から欲望の希薄化が始まり、そこからうつ症状が始まった、それが最も重かったのが五月から七月に掛けてだが、七月末に読書ができるようになって以来、うつ症状からもだいぶ回復して今に至る、というわけである。(……)の兄は統合失調症患者なのだが、お兄さんには自生思考はあったのかと尋ねると、陽性症状が出ている時期にはやはり話すことがまとまらないような状態になったらしかった(しかしこちらの経験した症状は、「話すことや思考がまとまらない」ということとは少し違う気がする)。そこから(……)の兄の話も混ざるようになり、彼の容態の経過が語られた。曰く、二年ほど前に幻聴に命令されて部屋から飛び降り、その際に統合失調症専門医の元に入院してから状況が上向いた。同じ病気に苦しむ人々が自分以外にも数多くいるというのが気持ちを楽にさせる発見だったらしく、病院から紹介されて患者の集まりのような場所に顔を出すようになった。一方で精神保健福祉手帳を取得し、障害年金を得ることで金銭上の心配は解消させ、今は職業訓練所に週五で通って、病気だということをオープンにしながら就職することを目指しているとのことだった。以前に比べると兄の状態は安定しており、楽しそうにしていると言う。そうした兄の体験を踏まえて(……)は、こちらにも社会的な繋がりのようなものがあったほうが治って行くと思うよと言った。一方で(……)も同様に考えているらしく、こちらに、今長期的にやらなければならないことや行かなければならない場所などはあるかと尋ねてみせた。要は労働などの社会的な義務のことだろうと捉えて、それはない、そこからは解放されていると答えたが、やはりそうした社会や外部の他人との関わりがあったほうが良いという話だったのだろう。義務とは少々異なるが、日記を書くということはあるけれどと言うと、それは公開しているのかというようなことを訊くので、ブログをやっていると答えると、そこに他人の声は届くのかなどと(……)は言う。Youtuberの例を挙げて、彼らはあれで飯を食っているわけだが、その際に視聴者の声が経済的にも精神的にも大きな支えになっている、言わばそれで呼吸をすることができていると述べるのに、こちらは、自分はしかしそうしたものがなくても書いていけるタイプだからなと応じ、何かに繋がれば良いけどねとの言には、何かに繋がるなら繋がるで悪いことではないが、そうでなくても別に良く、こちらは積極的にそれを求めていこうとは思わないと述べたが、これはあるいは意固地なように映ったかもしれない。その「悪くない」ということが大事なのだと(……)が言って、話の意味合いは少々ずれるが、五感をひらいて日常のなかに「悪くない」瞬間を探して行ってほしいという風に言ったのは、感受性が働かないというこちらの症状を踏まえてのことだろうが、話を俗っぽく均してしまえば要は「小さな幸せ」のようなものを生活のなかに発見していくことが生を豊かにするというようなことではないのだろうか。芸術的な瞬間と言い換えても良いが、自分はかつては確かにそうした五感を駆動させる瞬間のことを知っており、それをわりと頻繁に感じてもおり、本を読んで書抜きしたいと思う箇所に遭遇するのと同様に、道を歩いていればあたかも言葉でそれを採集するがごとく日記に記述したいと思う瞬間に日々出会っていたものだった。書物に記された言葉の意味と、世界のなかに無数に浮遊している意味=ニュアンスとは、自分にとってはほとんど同水準にあるもので、言わば自分はこの世界そのものを世界で最も豊かなテクストとして、あるいは芸術作品として読んでいたのだが、そのように感じられていた感性こそがなくなってしまった、というのが今の自分の状況なのだ。そしてそれはおそらくは心理的な要因に帰せられるものというよりは、純粋に物質的な要因によるもので、要はどういうわけか脳が変質して、ドーパミンだかノルアドレナリンだかわからないが、ある種の脳内物質が分泌されなくなったのだろうとこちらは踏んでいる(この推測は、瞑想をしても変性意識に入れなくなったという状況とも符合する)。それにはもしかすると、医者で処方されている抗精神病薬の効果も関連しているのかもしれない、何しろ精神の薬はまさしくその脳内物質の伝達を調整するものなのだから。有り体に言って、抗精神病薬の服用をやめればまたかつてのような感性が戻ってきてくれはしないかとも考えるのだが、それはわからないし、差し当たりは医師の処方に従って薬を飲み続けるつもりではいる。話が逸れたが、この夜の友人たちとの会話に戻ると、諸々話している時に(……)が突然、自分でもその唐突さに言及しながら、もう皆でアイマスの曲でもやれば良いんじゃないかと思ったねと言い出した。「アイマス」というのは『THE IDOLM@STER』というゲーム及びアニメのことで、(……)はわりとそちら方面の趣味を持っている人間なのだ。その(……)の発言に対して、それまで黙りがちだった(……)が軽く乗って、(……)も明るく応じたのだが、こちらとしてはギターをまた練習したり、スタジオに入って演奏を合わせたりということはいささか面倒に思われたので、気乗りはしなかった。病前はアコースティックギターで弾き語りをしたいなとか、ブルースでもやりたいなとちょっと思うことはあったが、そうした音楽をやりたいという気持ちも現状薄れている。しかし黙っているこちらを置いて、三人が具体的に話を進めようとするのには、疎外感と言うほどでもないが、モニターの向こうとの温度差を感じるのが事実だった。こうした音楽をやろうなどという提案は、こちらの生活に外部から新たな刺激を取り入れようというか、括って言えば、自分の世界に閉じこもってばかりいないで、「他者」との関わりの機会を持ち、それによってできれば感性の駆動を狙っていこうとの誘いだと受け取れて、こちらにはままならない存在である「他者」との交流が重要だという点には自分も同意するのだが、しかしこちらの症状がそれで改善するかどうかは未知数であり、スタジオ入りの一点に関して言えば気が向かないのが実際のところだった。(……)はのちになってまた唐突に、カラオケに行きたいとも口にした。こちらはそれを受けて、会話の終盤、何か言っておきたいことはあるかと問われた際に、スタジオ入りはどうかなと思うが、カラオケに行くくらいだったら練習もいらないし良いかなというくらいの気分でいると述べたところ、そのくらいから始めて行くかと話がまとまった。具体的な日取りに関しては、(……)と(……)は元々九月一七日に映画を見に行く用があったらしく、その日で良いのではとなった。場所は川崎で、(……)からはだいぶ遠いのがネックではあるが、立川から南武線で一本ではあるし、たまには遠出もしてみるものだろう。何の映画を見るのかと尋ねても、笑いばかりで判然とした答えが返って来ず、タイトルは明言されなかったが、アニメだということ、そして(……)が漏らした「ユーフォ」の語を聞くに、『響け!ユーフォニアム』の劇場版なのだろう(このアニメ作品のタイトルは、古谷利裕が放送当時、「偽日記」で「神作品」だと興奮した様子で言及していたのでこちらも知っている)。テレビ版放送を見ていないと話がわからないのではとの懸念も提出されたが、何も知らないで見るのもそれはそれで面白そうだとのことで、こちらも映画から参加するという雰囲気になった。放映時間はまだ詳細が出ていないらしく、集まりの正確な時間は(……)がそれを確認してから、とのことになった。それで通話は終わり、おやすみ、ありがとうと言い合ってSkypeからログアウトしたのだが、連絡のためにLINEをインストールしてほしいという話が出ていた。こちらの携帯はスマートフォンではなくてガラケーなのだが、PC版LINEというものがあるというので、それをインストールして電話番号で登録し、早速登録したとの報告を(……)に送っておいた。そうすると時刻は零時が間近になっていた。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』の読書を始め、一時間ほど読んで一時が目前になったところで本を閉じ、瞑想を始めた。この時、変性意識には相変わらず入れないのだが、うまい具合に身体の力が抜けた感じになり、二〇分ほどの瞑想を終えたあと布団に入って同様に身体を緩いようにしていると、睡眠薬を飲まなかったがさほど苦労せずに入眠できたようだ。



岡田睦『明日なき身』講談社文芸文庫、二〇一七年

 (……)早速、便所の裏に行ってみた。この下に下水道がある。丸くて分厚いコンクリートの蓋がふたつあって、手前のが浮いているように見える。これが下の便所ので、もう一枚が上。この上のが水が出なくなった。ずいぶん前だが、この上の便所の水が止まり、これも水道工事店の人に来てもらった。応急措置でもしたのか、水が出るようになったが、こんど、水が出なくなったら、全部取り替えるようですね。黙然と聞いているきりだった。これだって、水洗便所一式買い、取り付けの手間賃払える金などあるはずがない。で、使用しなくなった。一階の蓋の傍に行ってみると、糞と小便とトイレットペーパーで押し上げられているのがわかった。カーキ色の臭い液体がまわりに溢れている。自分でなんとかするほかない。着たなりのまま、把手の付いた蓋を取り除け、スウェーターの右手を腕まくりして、黄色い物を摑み上げた。糞小便とトイレットペーパーが溶け合って、摑みにくくなっている。右手で掬うように搔き出すのだが、躰までが凍て付くような冷めたさだった。こ(end64)こは石塀と家屋のあいだにある細長い所で、搔き出した異物をあたりかまわず放るように捨てた。それが、いくらやっても黄色くてひどく臭い物はあとからあとから現れる。この糞尿物の始末、別のやり方はないかと思案した。やってみるに価する方策がうかんだ。右腕はもう痺れたような感じになって、しかも汚れている。風呂場の洗面所へ行って、キレイキレイという薬用の液体石鹸で丹念に洗った。水道の水のほうが、まだ冷めたくなかった。そこから、ガレーヂの跡の簡易物置に行き、スコップを持ち出した。門扉からはいった所に、下水溝がある。そこにも蓋があるが、下水道のよりひとまわりもふたまわりも大きく、厚さ五センチほどか、マンホールのような、これも丸くて重い物だ。それを、スコップの先を梃子にしてこじあけることを考えついたのだ。門扉から物置までコンクリートが打ってあり、その蓋との隙間にスコップの先を挿し入れ、すこしずつまた挿し入れては持ち上げた。かなり蓋があいたので、スコップをそのままにして、そのマンホールの如き重い円形物に両手をかけて取り除いた。蓋の裏に、見たこともない白くて小さい虫がびっしり犇[ひし]めいていた。目下は、そんな虫けらどもにぞく、としてはいられない。見ると、下水溝の縦の丸い孔があり、それへ落ちる下水道の横の穴が汚物でぎっちり詰まっていた。また思いついたのは、これも物置にあるが、今では使っていない家庭用のゴミ焼却炉の火搔棒だった。そいつを持って来て、糞小便と紙の"三位一体"をちょっと搔き出したら、(end64)黄色の汚物が下痢便のように落下した。すぐにまた手を洗わなくちゃと思いながら、異臭に包まれて立ちつくしていた。
 (63~65)

     *

 二日二た晩、原稿書くボールペンも擲[なげう]ち、ただ寝ていた。餓えは痛い。胃を中心に苦痛が広がり、全身ちくちく痙攣する。三日目、本棚の隅の小ぶりなバッグをふらふらあけ(end137)た。この上にゴミを被せてある。ずいぶん前、いつだったか、ドアの鍵をなくしてしまった。一度、女家主に出て行けといわれている。鍵紛失しましたなどいったら、本当に追い出される。この中に、NTT、東電に支払う現金入れてある。誰がはいって来るかわからない。だが、この劣化した部屋に、これまで侵入した者は一人もいない。その形跡すら窺えない。摑み出して、出かけた。行きつけの"コンビニ"がある。これを喰おうと思っていた物を買った。まるで、餓鬼だ。トリの唐揚げ。そこの赤いベンチで、一と口齧って啖らおうとした。噛み切れない。喰うのにも、体力が要るのを痛感した。寝たきり、痴呆、末期ガン患者等々、流動食とか胃にカテーテルの穴をあけるとか点滴になる。人の手を借りる。厭だ。トリ肉に前歯を立て、全力を込めた。一と切れ、口中にはいった。入念に咀嚼した。呑み込んだ。ネコ舌というのか、なんでも冷めたいのが好みで、店にある"チン"を頼まないから、肉がとても固い。
 (137~138)

2018/9/5, Wed.

 睡眠薬を飲まなかったためにうまく寝付けず、早朝から覚醒があった。七時を迎えるとテーブルの上の携帯が鳴り、応じて布団から抜け出して機械を手に取る。立ち上がったまま伸びをして、そのまま起床しようと思えばできそうだったが、やはりもう少し休みたいと怠け心が働いて寝床に戻った。起床は一〇時頃になった。これでも遅いが正午まで寝ていたここ最近に比べれば進歩だろう。台風が過ぎて外は晴れ空、ひらいたカーテンのあいだから陽射しが身体に乗って暑く、市内放送で高温注意情報が発表されたと伝えられた。起き上がって上階に行くと、卓の端に就いた母親は、タブレットを使ってまたメルカリを閲覧しているようだった。顔を洗い、冷蔵庫から豚汁の鍋を取り出して、一杯椀に盛ったのを電子レンジで温める。腹が減っているという感じがなかったので、ほか、ゆで卵を一つだけで朝食は済ませることにした。食べていると母親が梨を剝いてくれたのでそれもいただき、薬剤やサプリメントを摂取しておいて食器を片付け、すぐに風呂を洗った。そうして下階に下りるとコンピューターを前に、またしばらくサプリメントの情報などを求めて余計なインターネット徘徊をしたのだが、これはほとんど無駄な時間だったと言うべきだろう。サプリメントなどというものは、結局はプラシーボ効果も含めて自分の体感がすべてなのだから、無闇に他人の体験談など求めても仕方なく、ともかくも飲んでみて自分に何らかの変化があるかどうかというところに尽きるだろう。それで余計なことだとスレの閲覧を打ち切り、一一時半過ぎから日記を書き出した。つい前夜のことなのに記憶が希薄で、書きつける言葉もやはり以前のようにすらすらとは出てこない。ともかくも現在時まで綴ると、今は一二時二〇分前を迎えている。それからまたインターネットを少々回ってから上階に行った。寿司を作ったと母親が言うのを台所に見てみれば、稲荷寿司である。特段腹は減っていなかったが食べるかという気になり、いくつも並んだうちから二つを取り分け、ほかに豚汁の残りと小皿に入ったサラダを持って卓に就いた。二個でいいの、と母親は聞き、自分も二個と思っていたら、もう一つ食べてしまったと話す。テレビはNHK連続テレビ小説の再放送を流していたが、こちらに特段の興味はないのでそちらには目を向けず、ものを食べていると、またメルカリを見ていたらしい母親がこれはどう、と言って画面を見せてくる。ガラス製の器で、酒を飲む父親にどうかとのことで、一〇〇〇円だと言うから一〇〇〇円は安いとこちらは受けた。飲むヨーグルトを一杯飲んで食事を終えるとすぐに皿を洗い、下階に戻ってきた。そうして新聞記事の書抜きに入る。米国の利上げによって新興国から資金が流出するということの細かな仕組みがわからず、インターネットで検索をした。経済は苦手分野である。出てきた記事を二つ読んでみてもまだよくわからなかったが、ひとまずペソなどを売ってドルを買う動きが進んだということで良いらしいと落とした。それから新聞の書抜きに戻り、ミャンマーリビアの記事から情報を写しておくとちょうど二時頃、上階に行くと母親が洗濯物を取りこみはじめていた。床に乱雑に置かれたタオルを取り上げ、ソファの背もたれの上に一つ一つ畳んで行く。そうしているあいだ、肌着のシャツやパンツがもう古くなっているから新しいものが欲しいという話が出て、東急にでも買いに行こうか、図書館に行くついでにとこちらは漏らした。元々図書館は七日の金曜日、美容院のあとに行くつもりだったが、天気も良くなったことだし別に今日出かけたって構わない。すると母親も図書館に返却する本があるらしく、行こうかと言って、出かけることに話がまとまった。しかしユニクロの方が安いだろうと言うと、じゃあユニクロに行こうと目的地が固まり、それからこちらはアイロン掛けを行った。自分の麻素材の白いシャツにハンカチを処理し、終えると自室に戻ってすぐに着替えた。上はエディ・バウアーの爽やかそうな、水色を基調にしたチェックのシャツ、下は柄物が上下で被るのを避けて、雲の混ざった淡い空のような色の無地のジーンズを履いた。それから本と手帳をバッグに入れて帽子を被って階を上がると、赤い靴下を履き、南の窓に寄って外を眺めた。陽射しに照りつけるという感じはなく、植物の上に薄めに乗っており、乗られた葉は乾いて褪せたような風合いで、そのあいだを小さな白っぽい蝶が何匹か飛び交っていた。背後の階段を母親が上がってくる。たくさんの雑誌や本を渡されてそれを袋に入れると、母親はベランダに余っていた洗濯物を取りこんだので、こちらはタオルを追加で一つ畳んだ。それからこまごまとした外出の支度を待って、出発するべく玄関を抜けた。道の先から体操着姿の中学生が帰ってくるところで、林のなかではツクツクホウシの声が泡立っていた。車に乗って、子どもたちのあいだを通り抜けて行く。陽射しは柔らかな感じで、車内の熱気もすぐに散り、夏の盛り、酷暑は既に終わって残暑の感が滲む。母親は運転しながら口が良く動き、(……)さんがどうの、(……)さんという「(……)」のレジをしているお婆さんがどうの、職場での出来事がどうのと語り続け、こちらはそれを聞くともなしに聞いていた。昨日には、豚汁がとても美味かったと父親が言っていたと言う。それで二杯食べ、母親もおいしく食べたらしいが、こちらとしてはあまりはっきりしない味だと思っていた。東急のビルに上って行き、五階の駐車場に停車する。母親の本や雑誌の入った袋も持って降り、フロア内に入って彼女と別れた。母親は東急のなかで腕時計のベルトを変えてもらうという用事があり、それでこちらは図書館に先んじるのだった(しかしこの用事は、革の仕入れがないとのことで結局果たせなかった)。五階の連絡通路を通りながら眼下に駅舎や円型歩廊を見下ろすが、高所に怯む時の不安な感じがなく、パニック障害あるいは不安障害の症状は不思議なことに本当になくなってしまったのだなと思った。しかし不安がある代わりに精神が鋭敏だったほうがまだしも良かったと、そんなことを考えながらエレベーターで下り、入館した。カウンターに寄って職員に挨拶し、多いんですけど、すいませんと言いながら本を返却する。それからCDのコーナーに入ってジャズの欄をちょっと見たが、新たに借りるべきものはなさそうだったので離れて階を上った。新着図書を確認し、それから国際政治の書架を眺める。借りる本には目当てがあって、みすず書房から出ているカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』というのがそれで、以前に新着の棚に見かけて以来、何となく印象に残っていたのだった。ヘイトスピーチ以下の短絡的な罵言がインターネット上に蔓延して止まない現代、こうした本を読んでみるのも大事ではないかというわけで、棚から発見したこの著作を保持し、それから日本文学の区画に移動した。中原昌也『知的生き方教室』も何となく印象に残っていてこれを借りようかとぼんやり頭にあったのだが、実際に手にしてめくってみるとその気があまり起こらなかったので棚に戻し、それから列を移動して、金子薫の著作を取った。『双子は驢馬に跨がって』と、『鳥打ちも夜更けには』の二作である。先日読んだこの作家の『アルタッドに捧ぐ』は面白かったのかどうか判然としないが、何となく、ほかの作を読んでみたいような気がするのだった。先のものと合わせて三冊を持って、機械で貸出手続きをした。それから哲学の区画に行って棚をちょっと眺め、近くに並んでいた白洲正子全集なども一つ二つ手に取ってめくってみる(結構面白そうだった)。母親がやってくるのを待たなければならないわけだが、ここにいればすぐに気づくだろうというわけで、書棚の横に設けられた座席の一つ、貸出機や新着図書の棚に間近のそこに腰を下ろして、手帳にメモを取って行く。そのうちに母親は来て、目算通りこちらの姿に気づいた。彼女が本を見て回っているのを待ちながら記憶をメモに移し替え続け、母親の貸出手続きが終わったところで行こうかと席を立った。階段口に入ると、隣の敷地に立った樹の葉が横に薙がれているのが見え、すごい風だねと母親は言った。退館したところで、カキフライを買って行こうかと母親が提案したので、エレベーターの方ではなく、左手、東急のほうへと歩廊を渡り、ビルのなかに入ると母親は、パンを買いたいからカキフライを買っておいてと言うので了承し、惣菜屋の列に並んだ。番が来るとカキフライを九個お願いしますと注文し、一一六六円を支払って袋を受け取った(一個一三〇円ほど)。そうしてフロアを戻り、パン屋から出てきた母親と合流して、エスカレーターに乗って五階まで戻った。乗車して出発、餃子も買って行こうかとの話が出ていた。お前が買ってくれる、と頼まれたので了承し、「ぎょうざの満洲」の前に着くと降車して入店し、冷蔵庫から二〇個入りの袋を二つ、さらに三つセットの杏仁豆腐も加えて取って、会計は一一八八円だった。車に戻るとユニクロに向かうわけだが、母親がメルカリで手続きを進めている途中で、コメントに字の間違いがないか見てくれと言ってスマートフォンを渡された。品はこの昼に母親がどうかと言っていたガラス製の器である。一〇〇〇円だったところを、母親の願いを受けて相手は九〇〇円に引いてくれるらしい。移動のあいだ、そのままこちらが母親の代わりに購入まで進めて、その後に車は路肩に停まって、返したスマートフォンを母親が確認する。ちょっと草原[くさはら]のようになったところの横で、カネタタキの声が背の低い草の合間から聞こえ、目前には一本の樹を囲むようにして紫陽花の、既に枯れて生気を失った花の群れがある。高度の下がった太陽から送られる陽射しが顔の側面に暑かった。その太陽の横の空には雲が湧いていて、それは立体的な形を作っていながらも、西陽の光がその前を通っているせいだろう、空に染み込んでそのまま平面に形を写し取られたかのように希薄でもあるのだった。再度出発し、しばらく移動して、ユニクロの前にその斜向かいにある「ジェーソン」というスーパーに寄った。ジュースなどが随分と安く売っているという話だった。こちらは籠を乗せたカートを押し、サイダーやコーラなどの飲み物を加えたほかは、黙々と母親のあとについて回り、品物を籠に受け入れて行った。会計を済ませると母親はどこかに行ってしまい、こちらは一人、狭い整理台で品々を袋二つに収めていった。そうして見回すと、離れたところにいる母親は何か追加でものを買うらしかったので、こちらは袋を二つにティッシュペーパーとキッチンペーパーを抱えてカートを引き、店の前に返却しておくと車まで行って待機した。しばらくして母親が戻ってくると荷物を車内に入れ、そうして斜向かいのユニクロに移動した。入店し、フロアの奥まで進んでいって籠を取り、まず靴下を見分して、臙脂色のものと深い青のもの、あとは模様の入ったハーフサイズのものを保持した。そのほかトランクスを二枚取り、肌着のシャツは黒の三枚入りセット、VネックMサイズのものを買うことにして籠に収め、それで目当ての品々は押さえた。その後、店内をぶらりと回って見分してみたが、シャツも羽織りも今十分に持っていて不足はないし、購買意欲を刺激されるものは特に見当たらなかった(カーディガンは一着あっても良いかもしれないが、ユニクロで買おうとは思わない)。それで会計に行き、二一三五円を払ったのち母親と合流して退店した。セブンイレブンに行く必要があった、と言うのは母親が先ほど購入したメルカリの品の代金を早速支払うというわけだった。携帯の画面に表示されたバーコードをレジで読み取ってもらうことで支払いができるらしかった。それですぐ近間のコンビニに寄り、車内でほんの僅かに待ったあと、帰途に就いた。帰路の途中では母親が、仕事をしなくちゃいけないと思うのだけれどできないし、家にいるとやることがいくらでもあってと、前々からお定まりの繰り言を漏らし、その変化のなさに強く苛立つでもないがやはり少々うんざりとしたこちらは、いつまでそこに、その場所にいるんだ、昔から進歩がないじゃないかと口を挟んだ。しかしこちらも大きい声で偉そうなことを言える身分でもない、体調は良くなったけれどそれから目立った進歩を遂げているとも思えないし、そもそも母親が二月頃から通いはじめていた「(……)」の勤めを休止したのだって、こちらの症状が悪化したからというのが理由なのだ。自分の調子も良くなったことだし、その「(……)」に復帰すれば良いじゃないかと言うと、子どもたちに運動を教えなくてはならないのだが、そんな自信がないと言う。そんなことを言っていたら何もできないとこちらはありきたりに受け、何だかんだとまだ話が続くのには、そんな話に興味はないとすげなく呟いた。その頃には市街に入っていたが、道は何故か渋滞しており、なかなか車が進まなかった。時刻は六時前、フロントガラスのなかに太陽が入ってきて光を広げていた。帰り着いて降りると、ちょうど犬を二匹散歩させている婦人がやって来て、母親と立ち話を始めた。こちらもこんにちはと挨拶だけして、そのかたわら荷物を運ぼうとしていたのだが、犬が寄ってきたのでよしよしと頭を撫でてやり、婦人には(犬を触らせてくれて)ありがとうございますと礼を言って、家のなかに入った。冷蔵庫や戸棚に買ってきたものを整理しながら、入ってきた母親にあれはどこの誰なのかと訊くと、二丁目の自治会館の前だかに住んでいるという話で、よく会話はするのだが名前は知らないのだということだった。それから仏間に買ってきた肌着類を置いておき、下階に戻ると服を脱いで気楽な格好に着替えた。そうして台所に行き、獅子唐とハムを炒める。その一方で小鍋では筍とワカメが煮られており、そのほかカキフライや稲荷寿司の残りなどがあるので、夕食の支度はそれだけで良いだろうということになった。それで下階に下ったこちらは、早速日記を書きはじめた。取り掛かったのは六時半、それから文を綴っているうちにあっという間に時間が過ぎて、ここまで記す頃には八時目前となっていた。席を離れると、食事を取りに行く前に、ベッドの上に脱ぎ散らかしていたシャツを手に取り、すると体長二、三ミリ程度の、極小の小蝿のような虫が何匹もシャツにたかっている。改めて目を移してみると白いシーツの上にも点々と、しかし相当な数が集まっていて、この虫は最近よく見かけてそのたびにつまんではゴミ箱に送って始末していたのだが、ここまで蔓延しているのを見るのは始めてだった。おそらくとても小さいから、網戸や窓の隙間から入りこんでくるのだろう。それで掃除機でいっぺんに吸ってしまったほうが良いなと考えて上階に行き、暗い祖父母の部屋に入るとしかし掃除機がない。どこかと母親に場所を訊くと、何でと返って、ベッドの上に小蝿のような虫がたくさんいると告げると、ここにもいるよと母親は声を上げた。洗面所の掃除機を取ってきて見れば、確かにソファの上にも虫の姿があり、さらに父親の座であるソファと炬燵テーブルのあいだに敷かれた布の上にもやはり相当数たかっていて、ちょっとぞっとするようなほどだった。それらを掃除機で吸い取って行き、自室に下りると乱暴にベッドの上を吸い、小蝿たちを始末すると食事に行った。台所には、豆腐とモヤシのサラダが既に皿に入って用意されていた。小皿を三つ取り出し、稲荷寿司を二つ取り分け、カキフライを三つ温め、獅子唐とハムの炒め物をよそり、卓へと移動した。獅子唐がとてつもなく辛くて、先日食べた母親はもう二度と食べないと思ったと言う。それで炒め物を口にしてみたところ、最初は全然辛くなかったのだがなかに一つ、辛いものが混ざっていて、それが確かに強烈な辛味で口のなかが痛くなり、涙が出るほどだった。慌てて氷水を用意してきてそれを飲みながら残りの食事を進めて行くのだが、胃が熱くなっているのがわかり、また温かいものを口に入れるとそれだけで口腔内がひりひりとして、せっかくのカキフライの味が刺激によって妨害されるのだった。テレビはテレビ東京の『家、ついて行ってイイですか?』を放送していたが、あまり目を向けなかった。この番組も、様々な人生模様が次々と語られるのを以前は結構面白く眺めていたと思うのだが、最近はテレビ番組というもの全般に興味を失いつつあるようだ。食後、入浴に行って出てくるともう九時頃だった。室に帰るとSuchmosを流し、狭い室内をうろうろと動きながら歌を歌った。"YMM"、"GAGA"、"Alright"、"Mint"、"Pinkvibes"と歌い、"Tobacco"の途中で切ると、「(……)」を読み、さらに、「事実上の「移民」受け入れを進める安倍政権。真に受け入れるなら「人として」生活できる制度づくりをせよ」というインターネット記事も読んだ。そうして、『ルパン三世 PART5』の最新話を視聴したあと、一〇時半から読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。一時まで読んだのだが、この読書がやや散漫だったというか、文の意味がなかなかうまく頭に入らないようなところがあって、二時間半掛けたわりに二〇頁も進まなかった。一九三八年になると、サルトルはマルチーヌ・ブルダンという女性と関係を持つのだが、情事の際に目にした彼女の身体的特徴や前後の経緯などを細かくボーヴォワールに書き送っている。それでいて同時に、彼女に宛てた手紙にはほとんど必ず「愛している」の文言が見られる。サルトルのプレイボーイぶりはともかくとしても、一人の相手を熱愛しながら(とサルトルの口調からは思われるのだが)、その女性にほかの相手との恋愛の次第を詳細に報告するというのは、やはりかなり特殊な関係ではあるだろう。本を読みながら歯磨きをして、口をゆすいで戻ってくるとちょうど一時だったので読書はそこまでとして瞑想に入った。三〇分掛けてこの日の記憶を思い返したのち、一時三五分頃消灯して床に就いた。例によって眠気は生じず、眠りは遠く、一時間ほど輾転反側とする状態が続いた。それでも一応、その後に入眠することができたようである。

2018/9/4, Tue.

 眠剤を飲まなかったわけだが、それでもいつもと変わらず一一時四五分まで動くことができなかった。カーテンをひらくと窓には一面、激しく雨粒のぶち当たった痕が残っており、見通しが悪くなっていた。台風の日である。身体を起こしてベッドから下り、上階に行くと、母親は(……)で不在、天気が平気だったらと書き置きにはあり、おそらく夕刻まで仕事をしてくるようだった。洗面所で顔を洗い、冷蔵庫を覗くと、冷凍食品の丸いチキンが一つ、それに鮭がある。それらを電子レンジで熱しているあいだにトイレで用を足し、戻ってくると白米とともに食べた。皿を洗ってから薬剤を服用した時には、雨が降り増して窓は乳白色に染まっていた。それから風呂も洗ってしまうとガムを三粒口に放り込んで下階に下り、コンピューターを点けたが、パスワードを打ち込まないうちに床の汚れが目について、そろそろ埃も溜まってきたしこのあたりで掃除機を掛けておくかという心になった。それで上階の洗面所に掃除機を取りに行ってきて、戻ると狭苦しい自室の床を掃除し、ベッドの下やベッドと壁との隙間などにもノズルを突っ込んだ。掃除に切りをつけ、機械を上階の祖父母の部屋に置いてくると、コンピューターを立ち上げて、インターネットをちょっと回ってから日記を書きはじめた。時刻は既に一時近くになっていた。それから一時間で記述を現在時点まで追いつかせ、二時を回ったところで読書に取り組みはじめた。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。読み出してまもなく、母親の帰ってきた気配が上階に生まれた。仕事は夕方までにはならず、台風による注意報が発令されたので昼までで切り上げて来たのだった。帰ってきた時の物音のみでその後は動く気配がまったく立たないのは、おそらくはソファにじっと腰を下ろしてまたメルカリでも眺めているのに違いなかった。三時頃になると一度上階に上がって母親と顔を合わせ、ガムを三粒含んで帰ってくると窓に寄った。空は視線を引っ掛ける隙のないまっさらな白に埋め尽くされていたが、雨は一時止んでいるようだった。それからまた本を読んでいるうちに、ぱちぱちと雨粒が窓ガラスに弾ける時間もあった。四時半を過ぎた頃、市内放送が流れだした。妙に朗らかなような、慇懃で無害なような声音で何とか言っているのは、ダムから放水するという知らせではないかと推測され、直後にサイレンの音が宙に伸び上がって聞こえた。肌着にハーフパンツの格好では微かに肌寒いようだったので、こちらは読書の途中から薄布団を身に被せていたが、五時を回る頃合いになると例によって微睡みに捕えられる気配があった。完全に意識を落としはせず、窓に風が荒々しく寄せる音のたびに覚醒しながらも、本の頁に指を突っ込んだままに休んでいたが、五時半を越えたところで天井が大きく鳴った。それを機に立ち上がり、音の無遠慮さに微かな嫌気を感じながら上階に行くと、豚汁を作ろうと母親は言った。それで台所に入り、玉ねぎ、人参、大根を切り分けると、鍋に油を引いたが、水気が完全に拭い去られていなかったために油がばちばちと音を立てて激しく跳ねた。火力レバーを最弱にずらし、その上から生姜をすり下ろすと、跳ねが収まらないので熱されるのを待たずに野菜を投入した。しばらく炒めてから水を零れそうなくらいに注いで煮込みに入った。煮えるのを待つあいだはまず母親の貰ってきた「東京牛乳ラスク」をばりばりと食べたが、この時カウンター越しのテレビに、突風にやられたのだろうか駐車場や車道の途中で車がいくつも横転している映像を目にした。また車から火の上がっている映像も見かけたのだが、それがこの時だったかどうかは定かでない。それから届いていた段ボールの小箱を鋏で開封した。ホスファチジルセリンサプリメントである。そうして朝刊を持ってふたたび水場に入ったところが、モヤシを茹でておいてと母親が言うので、記事を読む前にそのようにして、それから新聞に目を通して野菜が柔らかくなるのを待った。そうして、味付けである。味噌がもうほとんどなくなっていたので、パックに鍋から湯を汲んで(熱によってパックがぼこぼこと歪む)こびりついた少量の味噌を箸で溶かして行った。それだけでは足らないので、山梨の祖母から貰ったもう一種の味噌を溶かし入れ、それで豚汁を完成とした。母親が台所に入ってきてエノキダケを取り出し、豚汁に加えたり、モヤシと和え物にしようとしたりするのを尻目に、こちらの仕事は終わっただろうと判断して階段を下りて行った。時刻は六時一五分ほどだった。それから七時まで、ホスファチジルセリンのスレなどを無駄に閲覧してしまった。たかがサプリメント、劇的な効果はないだろうとわかってはいるのだが、それでも同時に少しでも効果があったという証言を得て気休めにしたいと、神経症的な性分が働くのだった。一応、記憶力が改善されたとする書き込みはいくつか見られはしたが、果たしてどうなるものか、ともかくもある程度の期間飲み続けてみないとわからないだろう。七時を越えたところで食事を取りに上階に行った。それぞれの品――米、鮭、豚汁、大根の煮物、豆モヤシとエノキダケの和え物――をよそって卓に就くと、テレビのニュースでは浸水した大阪湾岸の情景が映し出され、コンテナが水に浮かされて海の方へと流れて行っているということだった。ものを食べ終えると、こちらと入れ替わりのようにして母親が食膳を持って卓に就いた。皿洗いを済ませて水を汲んできたこちらに母親は、今度は何のサプリメントを買ったのと問う。脳を構成する脂とか何とか、と、こちらも良くもわかっていないのだが答えると、そんなにいくつも飲んで大丈夫なの、先生に聞いてみたほうがいいんじゃないのと来る。そんな必要はないとこちらは返した。医師はサプリメントは否定派だろうし、こちら自身も頭の改善を大きく期待しているわけではない。今飲んでいるマグネシウムバコパハーブにしても効果はないようだと断じたところ、母親は、それはまだわからないと受け、こちらの症状が良くなったのもそれを飲みはじめたからではないのかと言ったが、これは母親の勘違いでサプリメントに興味を持ったのは調子が上向いて以降のことである。その後、医者で処方されている薬を飲んでいてもおそらくこれ以上の回復は見込めないと思うとの見通しを話した。これ以上の回復というのは勿論、日記でも再三繰り返している通り、病前のような感受性と頭の働きを取り戻せるということだ。多分自分はあのような創造性をふたたび発揮できることはないだろうし、仮にできるとしたらそれは何年かあとのことになるのではないか。体感として、薬剤にはこれ以上の効果はないと思われ、現在と同じ心身と頭の状態でいずれは見切りを付けないといけないことになる。見切りを付けるというのは仕事に復帰するということだが、物事の説明を旨とする塾講師の職に戻る気はもはやなく、元々労働意欲の全然ない性分だから強いて勤めたいという職もなく、考えつくのは母親も行っていた発達障害の児童支援サービス「(……)」か、知り合いの古本屋に雇ってもらうかである。古本屋に関してはまずは話をしてみないといけないわけだが、話をすると言って、本を読んでいても面白くないんですよなどと話しても仕方がないだろうとこちらは言った。本が好きで好きでしょうがないっていうのが、と母親は受け、それが普通だろう、古本屋で働こうというからには、とこちらも応じ、以前はそうだったのだがと落とす。古本屋に話を持っていくにしても、せめてもう少しでも感受性が戻ってから、いくらかなりと本を読むのが楽しくなってからにしたいというのが実際のところだ(そうなる見込みは見えないのだが)。自分の症状において、寛解とはどこなのだろう? 日常生活を問題なく送れるということであれば、労働の一点を除いて自分はもうほとんど寛解に達しているようにも思える。しかし、病前の能力を取り戻すということなのであれば、それはほとんど不可能事ではないかと自分には思われる。ともかく、少々嘆きのような音調の話を続けたあと、母親は、(……)ちゃんを見てると本当に、癒されるっていうかと話題を変え、これ見たっけと携帯電話を差し出してみせる。それに対して夕刊を広げていたこちらは、いいよ、と払いのけ、可愛いとか癒されるとか、そういうことも感じられないんだと突き放した。実際そうで、赤子を見て可愛らしいと感じるほどの自然な感情の働きすらこちらにはもはや存在しないのだ。その後、入浴に行った。湯に浸かっているあいだ、強い雨風に薙がれる林の響きが絶えず窓から聞こえ、そのなかから虫たちの声が熱心なように立っていた。頭を洗ってからふたたび湯のなかにいると、父親が帰ってきて車の扉を閉める音がした。目をつぶって汗をだらだら流しながらこの日の記憶を思い返していたのだが、父親が家に入ってきてからしばらくして八時半頃、風呂に入るだろう父親を待たせてもと立ち上がって浴室を出た。髪を乾かして出てくると父親におかえりと挨拶し、飲むヨーグルトを一杯飲んだ。そうしてガムを三粒口に放り込んで下階に下り、しばらく噛んで味のなくなったものを捨てると、瞑想に入った。瞑想と言っても呼吸に集中するとかそういった類のものでなく、風呂にいた時と同じようにこの日の記憶を一つ一つ思い返して言葉にしていくのだった。枕の上で静止しながらそれを終えると、あっという間に二六分が経っていた。それから実際に日記に取り掛かり、今しがた思い返した記憶を文章として成型させていった。九時二〇分から始めて、現在時に追いつくまでには一時間強を費やすことになった。それから、「(……)」を読み、菅野完「正体を隠して活動する日本会議の「カルト性」」の記事を読んだ。この後者の記事をEvernoteにコピーしておく際、Twitterからの引用部がうまく貼付けされず処理に無駄な時間を掛けて、いつの間にか一一時半直前になっていた。この日は音楽を聞く時間は取らないことにして、そのままサルトルの書簡集に取り組む。一方で歯磨きをして、口をゆすいで戻ってくると窓の向こうから凛々と、澄んだ蟋蟀の鳴き声が入ってくるのに耳が寄って、野原などないが「野もせに」という言葉など思い出した。古井由吉の小説で知った表現だ。臥位での読書は一時間ほど続いた。零時半になると本を閉じ、瞑想に入って二〇分、一時になる前に消灯して布団を被った。この日も睡眠用の薬を飲まなかったので、眠りは遠かった。一時間ほど輾転反側しているあいだ、数日前と比べても多く、密度を増したらしい虫の音ばかりが聞こえて、雨風は止んでいるようだったが、二時を迎える頃に突然降り出し、厚くなって、しかしすぐに過ぎるかと思いきや風が加わって窓に斜めに打ちつけはじめたので、ひらいていたのを僅かな隙間を残してほとんど閉ざした。それからいつ、どのようにして眠りに就けたのかはわからない。

2018/9/3, Mon.

 この日の起床も例によって遅くなり、正午を越えた。七時、九時、一一時と頻繁に意識が浮上しかけてはいるのだが、寝床から動くことができないのだ。一時に就床したので、時間にすると一一時間もベッドに留まっている体たらくである。上階に行くと母親に挨拶をして、洗面所で顔を洗った。食事は前日の残り物が多くあった。焼きそばにたこ焼き、茄子や玉ねぎの炒め物である。それらを温めて卓に就いて食べていると、母親が自分の分と二人分、キャベツの千切りと同じくキャベツのスープを用意してきてくれた。ものを摂取しながら、目は新聞の一面を散漫に追っていた。薬を服用して食器を洗い、浴室に向かうと、キッチンハイターの匂いが香った。実際、浴槽の縁にレバー式のハイターが置かれてあったが、どこに用いたのかは不明だった。意に介さずに浴槽を洗い、出てくるとガムを三粒一気に口に入れて咀嚼しながら階段を下った。コンピューターを起動させ、前日の記録をつけるとともにこの日の記事も作成しておくと、日記を綴る前にと読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。ベッドに仰向いて読んでいるとしかし、一時間ほど経った頃から眠気とも疲れともつかないものが差しはじめた。一一時間も寝床にいたにもかかわらず、あるいはむしろそのためになのか、横になると身体はやや重いようで、次第に瞼が閉じてくるのだ。それで、定かに眠ったわけではなく頭は半分保たれていたのだが、五時半まで薄い意識のなかに過ごした。ここまで怠けてしまう体たらくは異常であり、やはりうつ症状がまだ残っているということなのか、それとも慢性疲労症候群か何かなのか、いずれにせよ気分障害や鬱には日内変動があって遅い時刻から症状が和らぐ傾向にあると聞いた憶えがあるが、自分も夕刻以降のほうが心身が楽なような気がする。重い身体を何とか起こし、被っていた布団を片寄せておくと上階に行った。あとは蕎麦を茹でるだけ、と母親は言った。ソファに就いている彼女の隣に腰掛け、ぼんやりとテレビを眺めた。明日は台風二一号が日本列島のちょうど中央付近に上陸するらしかった。居間には卵のような匂いが漂っており、何か料理に使ったのかと思えば、その硫黄性の香りは例の「マグマ塩」のものだと言う。そう答える母親はタブレットを操って、買うつもりもないのだろうが電子書籍購入アプリのようなものを操作して、恩田陸とか京極夏彦とかの著作を眺めていた。時刻は六時に到った。こちらは日記を書いてしまおうと下階に戻って、二日の記事を仕上げて、ちょうど一時間ほどでここまで綴って現在は七時である。
 ふたたび上階に上がって行くと、テレビは再三、台風二一号の上陸に対して注意を促している。関西の方では上陸を見越して既に鉄道の運行停止や学校の臨時休校が決定されているらしかった(休校だからと言って、やったーと喜んで遊びに行ったりしてはならないよと注意する小学校教師に対して、当たり前じゃん!とそれこそ大いに喜んでいそうな生徒の声が返っていた)。台所に入って、蕎麦つゆを用意し、大皿にキャベツを敷いたその上に茹でた豚肉を乗せる。食卓に就いてものを食べはじめると、母親が番組を移して『スカっとジャパン』が流れるが、この番組はわりあいにくだらないものだとこちらは思っており、あまり好きではない。向かいの母親は、メルカリで売ってしまったブラウスを買い戻したいと話した。Laura Ashleyのもので気に入っていたのだが、「軽い気持ち」で売りに出してしまい、「馬鹿なこと」をしたと後悔していると言う。こうした母親の無思慮あるいは優柔不断は以前からのことで、それを受けるとこちらは何か口を突っ込みたいような気分にもなり、父親なども多分これにはたびたび苛立たされて来ているのではないか。こちらもこの時、母親の嘆きのトーンに対して心の底で苛立ちのようなものをほんの微かに感じたようだったが、特に言いたいことが思いつかなかったので、家にいるとメルカリばかり見てて依存症のようだと気落ちした風に漏らす母親を沈黙で受けながら蕎麦を啜った。食後、母親の分もまとめて皿を洗い、入浴を済ませると自室に戻って、「わたしたちが塩の柱になるとき」を読んだ。それからTwitterを覗いていると瀬川昌久に関する柳樂光隆の発言を見かけた。瀬川昌久という人はジャズ評論の重鎮で、こちらは蓮實重彦と対談をしているという繋がりでその名を知ったものだ。柳樂曰く、瀬川から電話が掛かってきて、東京ジャズの出演者だったCorneliusやRobert Glasperなどについて質問攻めを受けたと言うのだが、御年九四歳の人間が探究心を失わずにRobert Glasperなどを聞いているというのは素直に凄いなと思われた。それから前日の新聞記事から書抜きを行った。一時間以上も費やして情報を写しているあいだ、BGMはJose James『No Beginning No End』、それから『Love In A Time of Madness』と移行して行ったが、この後者の作品は最初にじっくりと耳を傾けて聞いた時よりもBGMとして流したほうがむしろ良い印象を受けるようだった。書抜きを終えると一〇時過ぎ、この日の新聞からもいくつか記事を読み、そのあとは日付が変わるまでサルトルの書簡を追った。そして歯磨きを終えると夜半の音楽の時間である。まずKeith Jarrett Trioの『Standards, Vol.1』から"All The Things You Are"を流したのだが、これは難しい演奏で、テンポも速めでこちらなどはJarrettのピアノを追おうとしてもそのうちに正確な拍をロストしてしまう。続けて"It Never Entered My Mind"にそのまま移行し(虫の羽音を激しく増幅させたかのようなスネアの切り込み)、それからAvishai Cohenの『Into The Silence』から二曲聞いた。ECMのカラーに合わせたのか、このアルバムでのCohenは比較的ゆったりと、ロングトーンを穏やかに波打たせながら吹いており、ソロイストとして前面に出張るのでなく、ピアノに役割を委ねて全体のサウンドを構成するほうに重きを置いているようだった。それで、Avishai Cohenというのはもっと激しいトランペッターだったよなと『The Trumpet Player』の冒頭、"The Fast"を聞いてみると、ここではまさしく火を吹くようなと言うべき、息つく間もなく高速で均一に宙を埋め尽くすプレイが披露されていた。最後にいつも通り、Bill Evans Trioの"All of You"(この日はtake 2だった)を聞いて、終いである。それから瞑想をして、一時二五分に床に就いた。薬剤のせいで早く起きられないのではないかと疑って、この日は就寝前の薬を服用しなかったのだが、そのせいだろう、眠気は微塵も感じられず(薬を飲んだとしてもほとんど何も感じられないのだが)、入眠には時間が掛かった。目は冴えていたが、それでも何度か姿勢を移しているうちにどうにか寝付いたようである。

2018/9/2, Sun.

 早い時間から何度も目が覚めてはいるのだが、やはりどうしても身体を起き上がらせることができない。最終的に、携帯電話のバイブレーションの響きによって覚醒を定かなものにした。登録されていない番号からの着信だったので出ないでやり過ごし、洗面所に行ってきてから瞑想を行った。雨降りの昼前で、窓の隙間から入ってくる空気が肌に触れると少々冷やりとするようだった。前夜からの雨で沢の音が増幅されて、普段よりも近く這い寄って来ているような感じがした。
 五目ご飯、茄子入りの煮込み素麺に煮物を食べる。食べながら新聞をめくると星野智幸の寄稿があり、大江健三郎の『政治少年死す』をネット右翼が跳梁跋扈する現在の状況にも通ずるものだと評している。食器を空にすると水を汲んできて薬剤の類を飲み、流しで皿を洗ってから風呂場に行き、浴槽を擦って掃除した。
 下階に下りてコンピューターを点けると、前日の記録を完成させ、この日の記事も作成し、それからインターネットでサプリメント関連の記事を追ってしまった。たかがサプリメントで今の自分の状態が回復されるとはとても思えないのだが、しかし希望を求めてしまう。ホスファチジルセリンと、オメガ脂肪酸というものは、うつ病に対しても効果があるようなことが言われているので、それらはとりあえず試してみようかと思っている。前者は既に注文済み、ひとまずそちらを飲み続けてみて、時期を窺って後者も注文するだろう。こちらがネットサーフィンをしているあいだに母親は出かけて行った。今日は地元の神社の祭りの日で、社務所でお茶汲みなどの雑務をするとのことである。
 それから、前日の新聞からいくつか情報を書抜きした。四五分それに費やし、二時半から朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』を読みはじめると、ベッドに仰向けに転がってすぐ、玄関の階段を上がる音がする。荷物が届いたのだなと素早く聞きつけ、急ぎ足でベッドから下りて上階に行き、インターフォンの受話器を取った。郵便局ですと言われるのにありがとうございますと返し、簡易印鑑を持って戸をひらいた。男性の郵便局員にいつもありがとうございますとふたたび礼を言いながら、差し出された用紙に印を押し、小包みを受け取ると最後にまたありがとうございますと頭を下げた。何と言っていたか忘れたが、母親がまたメルカリで購入した物品である。それをテーブルの上に置いておいてから、自室での読書に戻ったが、またすぐ、三時前になると、戸棚にあるワンタンスープのことを思い出し、何だかそれが食べたくなったのでふたたび上階にやって来た。即席の品に湯を注ぎ、三分待ってから食べながら書面の文字を追った。スープも飲み干してしまうとカップや箸を洗って片付け、その後自室には戻らずそのまま居間で読書の続きをすることにした。と言うのは、こちらの注文したホスファチジルセリンもこの日に届くのではないかとの可能性を考えてのことだったが、これは結局まだ配達されなかった。ひらいた本をティッシュ箱に立てかけて目をやりながら、ボトルからガムを二、三粒取って口に運ぶ。しばらく噛んで味が希薄になると紙に吐き出し、また二、三粒取っては噛むということを何度か繰り返した。増水した沢の音が外から絶え間なく響いており、聴覚を刺激するものはその流れと自分の咀嚼音だけだった。それで四時台の途中には居間に座っているのも飽きて、自室のベッドに戻り、それからまもなくして母親が帰ってきた。戸口に姿を現して、クレープと焼きそばを買ってきたと言うので、あとでいただくと答えた。読書は四時四〇分まで続けられた。一九三六年夏の手紙でサルトルナポリでの体験について綴り、街路や人々の有り様について実に長々と考察している(この手紙は六七頁から九四頁にまでも及んでいる)。そのなかで、ナポリの人々が人目を憚らずに屋外の街路に出て生活を営んでいること、内と外との区分けがあまり截然としていないことを、胃を体外に出して消化をするヒトデにたぐえて「ナポリの路地の内臓器官的猥雑さ」などと言っているのがちょっと面白かった。それから読書に切りを付けると、Suchmos『THE BAY』を流して運動を行った。"YMM"や"GAGA"を口ずさみながら下半身を伸ばし、腹筋運動は休みを入れながら五二回行った。それから腕立て伏せもしたのだが、まったく動いていなかった時期が長いので、こちらは休憩を挟んで僅か一〇回しかこなせない貧弱な有様である。体重が増えたことも回数をこなせない一因だろう。メジャー・トランキライザーであるクエチアピンとオランザピンは、良くもわからないが何か代謝に働きかける作用があるらしくて糖尿病患者には禁忌とされており、副作用として体重の増加が起こり、こちらも以前は五三キロから五五キロと痩せ型だったのが、今は下腹にちょっと肉がついて六三キロにまで増えてしまったのだ。むしろ今までが痩せすぎだったのであって今の体重のほうがちょうど良いのかもしれないが、身体についた肉を脂肪でなく少しでも筋肉に変えて行きたいところである。運動を終えると五時過ぎ、上階に行く。クレープが半分あるというので、ここで食べると夕食が欲しくなくなるとわかっていながらもそれを口にした(そもそも変調以来、空腹感というものが希薄になってもいる)。それから台所に入り、茄子と玉ねぎと豚肉で炒め物を作ることにした。冷蔵庫に前日の秋刀魚が残っており、汁物の代わりに朝の煮込み素麺もあり、焼きそばも買ってきてありと色々揃っているので、一品作ればそれで良いだろうという話だった。食材を切り分け、手早くフライパンで炒め、味付けの段になって醤油を取ろうとしたところで、調理台の上にあったオイスターソースに目が行った。「炒めもののコクだしに」と記されているのを受けて、それではこれをいくらか入れてみようとフライパンに垂らし、それから醤油も加えてかき混ぜると完成とした。そうして新聞を持って自分のねぐらに戻り、記事を読みはじめた。一面トップで扱われていた情報だが、インターネット上では「Q」という謎の人物が、ドナルド・トランプは不正ばかりのこの世界を救う救世主だという陰謀論を振りかざして信奉者を増やしているのだと言う。米タイム誌がこの正体不明の投稿者を「ネットで最も影響力のある世界の25人」に選んだというから驚きである。そのほか、二〇一六年七月に自衛隊が派遣されていた南スーダンはジュバで武力衝突が起こったが、その際の事態を記録した内部文書が入手されたという記事、外国人技能実習制度についての記事などを読み、それからふたたびサルトルの書簡に戻ったが、すぐに気を変えて日記を綴りはじめた。そうして現在は八時直前を迎えている。この間、(……)とメールのやりとりをしており、(……)や(……)とSkypeをするのはどうかと言われていたのに、立川で会っても良いとこちらが提案したので、どうやらその方向で決まりそうである。
 上階に行くとテーブルの上には新たな焼きそばが一パックとたこ焼きがあった。父親も屋台の品を買って帰ってきたのだった。それらを熱してほか、先ほどの炒め物や素麺を用意し、皿に盛った生のキャベツの上には大根おろしをさらに乗せた。テレビはNHK大河ドラマ西郷どん』を放映しており、父親はそれを注視していたが、こちらはあまり興味がないのでさほど目を向けなかった。向かいでは母親が携帯で(……)さんとやりとりをしていた。元々九月一一日の火曜日が父親の休みの日で、年金事務所に話を聞きに行くらしいのだが、そのあと(……)さんの家まで伺えないかという提案だったところ、一一日は(……)さんには用事があるらしい。来週末はどうかとあちらから返ってきたのは一五、一六ではなく八、九日のことで、父親は九日が休みらしい。(……)さんはあちらから(……)に来るつもりでいるようだったが、それは大変だから我々が王子まで出向けば良いだろうと、父親はそういう心だった。食事を終えるとこちらは入浴する。浴室に入った途端に外から虫の音が立っているのに、秋の雰囲気を感じないでもない。湯に浸かって耳を寄せると、沢の水音のなかに一つ、キイキイキイキイと弾くようでもあり、シャンシャンシャンシャンと何か振るようにも聞こえる虫の声が際立って、その声が止むと周囲を包むほかの虫の音が薄く窓を埋めるのだった。風呂を浴びて出てくると、(……)さんのブログを読み、それから東京新聞のサイトから「杉田水脈とLGBT問題 「弱くある自由」認めよ 中島岳志」という記事も読んで九時半、ふたたび『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』を読み出した。途中、一〇時頃に上階に行き、台所に入って飲むヨーグルトを飲んだ。父親が、九日にこちらから伺いますと言っておけば良いだろうと改めて母親に伝達しており、どうやら王子訪問が決まりそうだった。台所にいるこちらに母親が、九日はと聞いてきたが当然何か用事のある身でもなく、大丈夫だと了承された。自室に戻ると日付の変わる前までサルトルの書簡を読み続けた。一九三七年のある手紙のなかで、ホテルのロビーに居合わせた人々のやりとりをサルトルが詳細に綴っている箇所があるのだが、「芝居見物ができた」と彼が言っている通り、それが戯曲のようでちょっと面白かった――と言うか正確には、偶然遭遇した会話の細部まで記憶し、それを戯曲のようにして仔細に再構成できる能力を羨ましく思った。歯を磨き、その戯曲めいた部分の段落で読書は区切りとして、音楽を聞きはじめた。Keith Jarrett Trio, "All The Things You Are", "It Never Entered My Mind", "The Masquerade Is Over", "God Bless The Child"(『Standards, Vol.1』: #2-#5), "All The Things You Are"(『Tribute』: D2#5)、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#5)で一時間弱。そうしてオランザピンとブロチゾラムを含んで来てから瞑想をする。細い窓の隙間から、水の流れの撓んでぼこぼこと泡立つような音が聞こえていた。ちょうど一時頃になって明かりを落とした。

2018/9/1, Sat.

 一一時四五分の遅い起床となった。朝食は鮭茶漬けに汁物にゆで卵。食っているとクリーニング屋に行っていたらしい母親が帰宅。
 新聞をめくっていると、米国がパレスチナ難民救済事業機関への資金拠出を全面停止という記事が目を引き、あとで読もうと思った。テレビのニュースでも同じ情報が流れ、一一月の中間選挙に向けてドナルド・トランプは、イスラエル派の支持者にアピールする狙いがあるのだろうというようなことが注釈されていた。
 風呂を洗ってから自室に帰ると、(……)さんのブログを読んでから、日記。一時過ぎから二時まで。BGMはJose James『Love In A Time of Madness』。以前は読み書きをするだけで自分は自分の生活にわりあい満足していたと思うのだが、今や充実感というものがない。
 二時半から書抜き、保坂和志『未明の闘争』。終了させる。疲労感があったのでベッドに転がると、例によってまた寝てしまう。六時一五分に到り、携帯のバイブレーションの音で確かな覚醒を得た。見ると、休職中の職場からで、(……)さんが「一身上の都合」により、九月いっぱいで退職するとのことだった。
 上階へ。母親はクリーニングを取りに行くと言う。こちらは新聞を読む。母親の出かけたあと、部屋に戻って窓を背にして読んでいると、雨が盛りだし、雷の音も響いた。この日は地元の神社の祭りの前夜祭で、有志が社の舞台の上で歌を歌ったりするのだったが、この雨では催しもどうか。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』もちょっと読んで、七時半頃上階へ。
 食事。餃子と茄子の煮付けをおかずに米を食う。その他モヤシの和え物、コーンと卵の汁物。テレビは出川哲朗の充電バイクでの旅番組。恵那峡というところを訪れていた。
 入浴後、九時過ぎからまた読書。一〇時半に到って運動、ストレッチに腹筋運動を五〇回。
 音楽、Jose James, "Lover Man", "God Bless The Child", "Strange Fruit"(『Yesterday I Had The Blues - The Music of Billie Holiday』: #7-#9)、Keith Jarrett Trio, "Meaning of The Blues", "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』: #1-#2)、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D3#4)。零時を回ってふたたび読書。一時過ぎまで。その後瞑想をして、一時半に就寝。

2018/8/31, Fri.

 一〇時前起床。柔らかく煮込んだうどんを食べる。
 通院の日である。服は久しぶりに麻素材の真っ白なシャツを着ることにした。ボタンの一つ一つの色が違っているという部分に、ちょっと洒落気の利いている品である。ズボンはこれも久しぶりに、藍色のストライプ柄のものを履いた。それに帽子を被って、クラッチバッグに本と手帳、年金の払込書を入れて持つ。
 八月の最終日だが猛暑がまだ残って、車中はかなり暑かったと思う。医院の駐車場には結構車が停まっていたので、これは混んでいるのではないかと予想した。車から降りてビルの入り口に入って行くと、こちらの前後にもそれぞれ歩く者があって、それもこちらと同じ精神科が目当てらしい。後ろの女性がエレベーターを使うのに、抜かされてしまうと母親は言ったが、こだわらずに階段でゆっくり上がった。待合室に入るとやはり混んでおり、席に空きがあまりなかったので、診察券を受付に出すと別室のほうに行って椅子に腰掛けた。母親が暑いと言って西側の窓を少々開けた。前回、二週間前に来た時もやはり北の窓を背にしたこの席に座って、その時は風がやたらと荒れて激しい音が聞こえたものだが、この日はそういったことはなく、聞こえてくるのは時折りの電車の走行音くらいのものだった。岡田睦『明日なき身』を読んで一時間弱、正午を回ったところで名を呼ばれた。急いで本を閉じて鞄を持ち、待合室に入ると受付の職員のほうに顔を向け、はい、すいませんと言いながら室内を横断する。軽いノックをして診察室に入り、医師に挨拶をして椅子に腰を下ろした。
 二週間のあいだ来なかったということは、特に(おそらくは悪い意味での)変化はなかったようですねと医師が言い、安定しているとこちらは受けた。生活にも自分の感覚にも特段の変容はない。友人に会いに二度出かけたことを報告し、そのうちの一回が代々木だと言うと医師はその遠出に少々目をひらくようだったが、こちらとしてはパニック障害の症状が消散したいま、出かけることに特別の難儀は感じない。それよりもとにかく感性と思考なのだ。そういうわけで、安定しているけれど、本を読んでいてもあまり面白くはないし(日記に関しては、問われた際に、書いていても面白くないので今は縮小版になっていると答えた)、何というかもう少しテンションが上がるというような状態が欲しいと述べたが、その点に関しては医師は楽観的で、回復してきているようなので段々そうなってくると思いますよという軽い返答があった。こちらはあまり楽観視はできない。一二月以前の感性と思考力のレベルを取り戻したいというのが理想なわけだが、頭の働きが以前とは違っているのが明らかにわかるのだ。かと言って改善のために何が出来るわけでもなし、とりあえず薬を飲みながら時が経つのを待つほかはない。自分はあまり性急に、多くを望みすぎているのかもしれない。この日に綴った(……)への返信にも書いたことだが、二〇一三年から丸五年を費やして頭を養ってきたのだから、もし元のレベルに戻りたいとすればそれにも同じくらいの時間は掛かるのではないか。処方はふたたび二週間分となった。ありがとうございますと礼を言って立ち上がり、扉に寄って、失礼しますと言いながら室を出た。
 会計は一四三〇円だった。釣り銭や診察券を財布に収めて、処方箋と明細書を手に取ってから、どうもありがとうございますと女性の事務員に礼を言う。すると、お大事にと返ってくる。いつも通りそのやりとりをこなしてから待合室を抜けて、階段を下った。薬局は空いていた。四三番の番号を渡されたが、薬の出来た番号が示される電光掲示板には既に四二の数字があったので、それほど待つことはなさそうだった。実際、岡田睦を読んでいるとじきに呼ばれ、カウンターに近寄った。(……)さんという、四〇代ぐらいだろうか、細面で眼鏡を掛けた女性の職員が相手だった。これまでにも何度も顔を合わせたことがある。相手が薬を一つずつ示すのに、はい、はい、と単調な相槌を打ち、調子はと問われたところに安定していて、と受けた。会計は一一二〇円だった。丁度を支払い、受け取った領収書をビニール袋に収めて、薬局をあとにした。
 車のなかは酷い暑さだった。「から好し」で昼食を取ることになった。移動し、入店するとお好きな席にどうぞと言われた。先客の食膳が片付いていなかったが、テーブル席のうちの一つに就いて、膳が下がるとメニューをひらいた。母親はレディースセットにすると言った。こちらは油淋鶏定食に決め、卓を拭きに来た店員に、注文よろしいですかと声を掛けて品を頼んだ。そうしてこちらは席を立って、水を二杯用意してきた。料理が届くまではさほど待たず、意外に早く来たなと思った。鶏肉をかじっては白米を同時に口に含み、咀嚼する。合間に千切りのキャベツを挟み、米も肉もなくなると味噌汁を啜って終いである。母親のほうの唐揚げは三個、こちらは四個だったが、母親はこれでも多いと言って三個目をこちらに寄越してみせた。さらにレディースセットにはついていた杏仁豆腐も半分いただいた。食事を終えると母親はトイレに行くと言って一万円札を取り出し、払っておいてと言うので席を立ってレジカウンターに行き、端数を充当して会計を済ませた。
 前日か前々日あたりから、イオンモールむさし村山に行こうという話になっていた。こちらの靴がひびが入っているほど古くなってしまったので、それを新調したいのだった。しかしその前に、年金を払い込むためにコンビニに寄った。入店すると手前のカウンターは空で、奥のカウンターに寄って払込みを済ませた。それからアイスの区画を眺めた。冷たいものを一つ食いたい気分になっていたのだが、見れば普通のワッフルコーンの横に、三〇〇円もする割高なソフトクリームがあって、一丁これを食ってみるかと手に取った。会計を済ませると外のダストボックスにカバーを捨て、母親を待つあいだ(彼女はまたメルカリのために何か品を発送していたようだ)、立ち尽くしてアイスをかじった。母親も出てきたところで車に戻って、なかでコーンをぱりぱり食って平らげた。
 時刻は一時過ぎだった。三〇分ほど掛けてイオンモールに移動した。ノースコートの正面、入り口の近い端に停車した。建物のなかに入ると母親と別れ、フロアを歩いて行った。比較的早い時点、電子表示の案内板を前にしているあいだに、冷たいものを先ほど食べたためだろうか便意を催して、トイレに行った。行ってみると個室は和式を除いて埋まっていたので、壁に寄って催したものに耐えながらしばらく待った。待っているこちらの前を子どもが一人、通り過ぎて、小便を済ませて出て行った。先客が一人去ったところで入れ替わりに個室に入った。広めの便所だった。
 案内板にまた戻ってちょっと眺めると、ZARAの店舗に入った。靴のほかにはややフォーマルな感じのジャケットも欲しいと前から思っており、あれは三月だったか前回来た際にZARAには結構良さそうなものが並べられていた記憶があったが、この度はあまりぴんとくるものがなかった。先日立川のTreasure Factoryで目にしたようなチェック柄のものが欲しいような気がしていたが、自分の持っているシャツの多くが柄物であることを考えると、組み合わせが悪くなってしまいそうで、悩みどころではあった。
 一階の通路を辿って行き、端まで行くと二階に上がって、こちらも通路に沿って順番に店に入って見分していった。COMME CAの店員がやたらと話しかけてきて(別に不快に感じたわけではない)、ウール地のジャケットを手に取った時など、それはウールの生産が日本一の町で作っていてと、愛知県だったかどこだかの名前を挙げていたが、耳にした傍から忘れてしまった。HIDEAWAYSという店にデニム調の靴のシリーズが並べられていて、これが少々気になった。ここの店員は店内に一人女性がいるのみで、積極的に話してくるでもなく、いらっしゃいませなどの声を上げるでもなく、距離を取って不動で立ち尽くしながらこちらの動きを窺っているようだった。
 エスカレーターで一階に下りた。ちょうど最初の位置から一回りしてきた格好だった。初めに素通りしていたGrand PARKという店に入ってみると、こちらの乏しいセンスを惹きつける(何かに惹きつけられる感性というものが今や希薄化してしまっているわけだが)ジャケットがあった。無地の紺色のものだった。羽織ってみると、見事にぴったりのサイズだった。身につけて鏡に向かい合うとほぼ同時に男性の店員が声を掛けてきて、プッシュしはじめた。とにかく生地がしっかりとしているということだったが、実際、先ほど見回ってきたなかにあったものはどれも薄かったり固かったりして、フォーマル度合いが足らず、こちらの要望にぴったりと答えるものではなかったのだ。店員の勧めに殊更に乗せられたわけではないが、元々二万円ほどの品が半額になっているということもあって、これは買いだろうと判断し、購入を決定した。そのほかこの店では、気軽に羽織れるようなタイプのジャケットも試着してみたりして、店員の方と話しながらいささか時間を使ったのだが、迷われたものの羽織りの品はいくつか既にあるので、買うのは先ほどのジャケット一着のみとした。
 クリーニング屋が用いるような黒いカバータイプの袋を提げながら階を上がって、HIDEAWAYSにふたたび入った。靴を見分していると女性店員が近寄ってきたが、地味な感じの、あまりセールストークが得意でなさそうな人だった。彼女と話しながら、そこにあったデニム調のシリーズの品を履き比べ、最終的にローファータイプのものに決定した。今まで履いていたものは処分してもらうことにして、新たな品で足を覆いながら会計を済ませ、店をあとにしたのだが、いざ歩いてみると、足のサイズにぴったりだと思っていたのが僅かに隙間があり、また足の裏への負荷も思ったよりもあったので、これは丈の高いほうを買うべきだったかもしれないなと早速疑われた。しかし今更品を取り替えに行く気もない。
 時刻はちょうど三時だった。買いたいものは買ったと母親に連絡すると、しばらくしてから返信があり、二階のスターバックスコーヒーの前で落ち合うことになった。それでそちらに移動して、立ったままちょっと待っていると母親が姿を現した。彼女はまだ一階をもう少し見て回りたいと言った。こちらはもう用は済ませたし、さっさと帰路に就きたかった。エスカレーターを下り、スーパー成城石井に入って買い物をしようとするのを見て、それでは車の鍵を貸してくれと言って受け取り、フロアを辿って外に出た。買ったものを車に収めておき、本の入った鞄を取り出した。喉が渇いていたので何か飲むことにして、手近の自販機に近づき、林檎ジュースを買った。近くには滑り台のついた遊具が設置されており、数人の子どもがその上を動き回って遊んでいた。ベンチには一人の男児の母親らしい女性がおり、こちらが立ち尽くしたままジュースを飲んでいると、しばらくして彼女はゆうた、ゆうた、と息子に声を掛けたのだが、子どものほうは遊ぶのに夢中で声の答えず、母親のほうを一瞥もしていなかった。
 ふたたび建物のなかに入り、通路の途中にある背もたれつきの小型ソファのような座席に座った。PARIS JULIETという店の前にいると母親に送っておいてから、岡田睦『明日なき身』を読み出したのだが、一〇分もしないうちに連絡があって、今もう車に来ていると言った。同じメールには同時に、アイスクリームを買ってきてとの要望が記されていた。確かにフロア中のどこかでアイスが売っているのを見かけた憶えがあったが、わざわざ戻って買うのも面倒なので要求は無視して出口に向かうと、その出入り口のすぐ脇に店があったので、それならと買うことにした。バナナ風味のアイスクリームは三九〇円だった。それを持って車に戻り、母親と分け合って食ってから乗りこんで出発した。
 帰りにスーパーに寄って買い物をしていくということだった。それで(……)のスーパー「オザム」に到着し、入店した。カートを押しながら回って行き、野菜やら豆腐やら飲むヨーグルトやらを籠に収めて、品物は籠から溢れそうなほどいっぱいになった。会計を済ませて荷物を袋に整理し、車に戻った。母親は隣接する服屋を見て来たいと言うので、こちらは車内で読書をしながら待った。扉を閉じていると車内は蒸し暑く、途中でドアをひらいたが、外気が入ってくるとそれだけでだいぶ涼しくなるものだった。時刻は午後五時、陽射しはなく空は曇り気味で、雨粒が散った瞬間もあった。五時二〇分に到って『明日なき身』を読了したが、その時間を手帳にメモすると同時に母親が戻ってきた。二〇〇〇円くらいの品(ガウチョパンツだったか?)を一つ買ったらしかった。
 それで帰路に就いた。疲れたこちらは座席を後ろに倒し、フロントガラスに向けて足を伸ばし、赤い靴下の足が外の人から見えるような、行儀の悪い姿勢を取って休んだ。自宅に着く頃には折悪しく雨が結構な降りになっており、濡れながら荷物を運び込んだ。買ったものを冷蔵庫に収めておくと、下階に戻った。レシートを見ながらこの日の支出を日記に記録しておくと、疲労していたので、夕食の支度は母親に任せてこちらはベッドに横になったのだが、このあたりのことはよく憶えていない。携帯を見ると、七時前に(……)にメールの返信を送っているから、寝転びながらその文章を練っていたものかと思う。

ありがとう。回復したのは、7月から薬を変えてそれが効いたのかもしれない。あまり実感はないけどね。7月末からまた読書ができるようになった。

気分の落ち込みはなくなったが、感情は平板なままで、以前感じられたことが感じられない(欲望とか、喜びとか、面白さとか、季節感とか)。

ともかく読み書きを、また楽しく充実してできたらっていうのが目標というか理想かな。それにはもしかしたら、何年か掛かるのかもしれない。以前のレベルに達するのにも、丸五年掛かったわけだから。

(……)のほうも、元気に家族仲良く夏を越せたようで良かったね(まだ暑い日はあると思うが)。

 夕食には、朝にも食ったうどんの残りを食べたが、これは時間が経って相当にでろでろになっていた。ほか、スーパーで買ってきたばかりの秋刀魚などを食した。食事のあいだは雨が盛って、雷も頻繁に聞こえ、停電しないだろうかと母親は不安を漏らした。
 日記を綴るのだったが、やはり疲労感が勝っていたので、一〇時から寝転がって読書を始めた。岡田睦の次に選んだのは、朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。訳者の朝吹三吉というのは、朝吹亮二の父親で、朝吹真理子の祖父らしい。
 一一時を越えると、Jose James『While You Were Sleeping』を流しながら日記を綴った。もはや記憶を無理に掘り起こそうとして詳細に書くのでなく、覚えている限りのことを適当に記せば良いだろうという軽い姿勢でいたのだが、それでも一時間半掛けてイオンモールの途中までしか記せなかった。一時過ぎからふたたび読書をして、二時頃就床。

2018/8/30, Thu.

  • 五時頃一度覚める。肌が何かちくちくすると思ったら、小さな百足が身体にたかっていた。シャツの下から出し、シーツの上に落ちたところをティッシュペーパーでくるんで捨てた。
  • それから九時過ぎに起床するまで、夢をたくさん見たはずなのだが(そして微睡みのなかで忘れないように反芻したはずなのだが)まったく思い出せない。
  • 起床後、洗面所に行ってきてから瞑想をする。悪くない感じだった。
  • 朝食は素麺と昨日のゴーヤチャンプルーの残り。気温計は三二度。高温注意情報の放送があったが、猛暑というほどではなさそう。
  • 一〇時半から読書をする。岡田睦『明日なき身』。一二時半頃に到って眠気にやられる。そこから三時間、薄い眠り。目を閉じるたびに夢を見るが、その記憶をあとに残せない。
  • 起き上がって瞑想をした。四時ぴったりまで一八分。今更瞑想をしたところで意味があるのかないのか不明。少しでも感覚の鋭敏さが戻ってくれないか。そこからまた本を読み、五時を回ったところで上階へ。
  • キャベツを茹で、スライスしたジャガイモのソテーを作る。ゴーヤを切っておき、それを使った煮物は母親に任せて下へ。ギターを弄った。そうして歌を歌い、七時を越えて食事へ。
  • 夕食後、散歩。涼しく、風もある。これなら汗をかかなさそうと思ったところが、一〇分ほど歩けばやはり肌は湿りはじめて、路程の後半では背中一面濡れていた。駅のポストで母親から頼まれた懸賞葉書を投函する。歩いているあいだは、以前のように周囲の事物や空気の感触に意識が行くのでなく、まとまりと繋がりを持った思考が展開されるのでもなく、余計な音楽や断片的な言葉が頭に入り混じって次々と移って行く。何かを定かに感じることもできないし、論理的に整然とした思考を組み立てることもできない。自分がまた以前のように感じ、考えられる日は来るのだろうか、多分来ないのだろうなと、毎日そればかり頭によぎっては過ぎて行く。
  • 帰ると入浴。翌日が通院のため、髭を剃った。出てのち、九時四五分から読書。本は相変わらず面白くもつまらなくもないし、取り立てた感想もない。
  • 夜半、Jose James『Yesterday I Had The Blues - The Music of Billie Holiday』を聞く。

2018/8/29, Wed.

  • 正午過ぎ起床。
  • 二時半、『人文死生学宣言』を読みはじめたのだがすぐに中断。この本の読書は止めることに。今の自分は、小難しい形而上学を楽しめる頭の状態ではない。論旨が追えず、内容がうまく理解できない。代わりに岡田睦『明日なき身』を読みはじめる。
  • (……)からメール。
  • ホスファチジルセリンを注文。
  • 夕刻、牛蒡の煮物、ゴーヤチャンプルーを作る。また、(……)さんから貰った讃岐うどんを茹でたが、鍋の深さが足りず、いくらか底に貼りつけて焦がしてしまった。
  • 何かをしているという実感なく、ただ漫然と無駄に消費されていく日々。
  • 夕食時に鳥人間コンテストをちょっと目にする。青春の一風景。欲望と正常な感情の働きを持って何かに情熱を燃やせる人間たちが羨ましい。

2018/8/28, Tue.

  • 正午過ぎ起床。わりあいに涼しい日。居間の気温計は三〇度ほど。二時半頃、雨が降ったが、すぐに止んだよう。
  • 二時半から五時半まで読書。この日は昼寝に陥ることはなかった。保坂和志『未明の闘争』を読了。渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣編著『人文死生学宣言――私の死の謎』を読み出す。
  • 夕刻、茄子の炒め物とエノキダケの味噌汁を作る。
  • あらゆる意味での差異を感じることができない。

2018/8/27, Mon.

  • 正午前起床。汗だく。
  • 猛暑日。気力湧かず、ベッドで読書していると二時頃から意識を失う。そのまま六時台後半まで横たわり続ける。
  • 夜、雨。にわかに激しく盛る瞬間も。
  • 絶対的な平板さと、内実を欠いた抜け殻のような生。

2018/8/26, Sun.

 八時のアラームで一度覚めたが、例によって二度寝に入って寝過ごし、気づけば一一時五〇分を迎えていた。部屋の空気には熱が籠もっており、肌は汗を帯びていた。上階に行き、顔を洗ってから前夜の残り物を温めていると、買い物に出ていた母親が帰ってきた。玄関に置かれた荷物を運び込み、品物を冷蔵庫に収めていった。食事を取ると風呂を洗い、浴室から出てくると前日に(……)くんに貰ったクッキーを食べた。室に戻ってコンピューターを点け、メールをチェックすると、(……)さんからメールが届いていた。田中彰吾という研究者のホームページを見ていたら、離人症関連の文献リストを発見したので報告するとのことだった。添付されていたPDFファイルを眺めたところ、覚慶悟『離人症日記』というものが面白いかもしれないと思われたので、Amazonのほしいものリストに追加しておいた。
 それからインターネットを閲覧して娯楽的な時間を過ごしたあと、二時過ぎから前日の日記の続きに取り掛かった。細部まで記憶が蘇って来ず、記憶にせよ書きつけている文にせよとにかく手応えを感じることができないので、文章を綴っていてもまったく面白くなく、こんなことをやっていて意味があるのだろうかと疑問を抱かざるを得なかった。
 三時半から読書を始めるが、例によってまたもやいつの間にか眠りに。
 夕刻、餃子を作る。
 夕食時、ニュース、ジョン・マケイン議員死去の報。
 夕食後、散歩。満月。空、群青。

2018/8/25, Sat.

 早朝から何度も目覚めていたが、八時のアラームまで最終的な覚醒を待った。アラームが鳴るとゆっくりと身体を起こし、携帯電話を手に取って音を止めた。身体は重かった。上階に上がって行くと父親と顔を合わせたので挨拶し、母親の横を通って洗面所に入り、顔を洗った。前日の肉じゃがが残っていたが、それは食べずにハムエッグを作ることにした。オリーブオイルのパックを逆さにして残り少ない液体をすべてフライパンに垂らし、ハムを四枚敷いた上から卵を二つ割り落とした。それで出来たものを丼の米に乗せ、エノキダケの入った汁物とともに卓に運んで食べはじめた。向かいでは父親も食事を取っていた。
 食器を片付けると冷蔵庫からクッキーを二つ取り出し、自室に戻った。それを食べながら「(……)」の長々とした記事を読み、最新の日付まで読み通すと時刻は九時半、日記を記しはじめた。僅か一〇分そこそこで前日の記事を仕上げ、この日の分も綴ることができた。中身のない生を送っていることの証左である。
 その後、歯を磨いたり服を着替えたり、外出の支度を済ませて、一〇時一五分頃に家を発った。玄関を抜ける間際、でも出かけられるようになって良かったと言う母親の声が背後から聞こえたが、全然良くなどない、感じられなければ意味がないのだとこちらは思った。(……)さんの家の塀の影が路上にくっきりと映っていた。空気は澄んでおり、遠くの山も雲の白さも、すぐ間近の庭木の色合いもくっきりと強く際立っているように見えた。坂に入るとすぐにツクツクホウシの声が降ってきたが、蟬の声は全体として明らかに少なくなっていた。薄緑の葉っぱに繋がった団栗をぱきぱきと踏みながら上って行く。途中の家から女性が出てきて、扉に鍵を掛けてから道に踏み出しこちらの前を過ぎると、香水の匂いがあとに残った。
 駅のホームに降りていくと、特殊列車が入線してきたところだった。濃い紫色の車体にピンクのストライプが一本伸びていた。なかの席はテーブル式になっていて、飲み物やつまみの類が卓上に置かれ、乗客たちは卓を囲んで宴会のようにしているようだった。ホームの先へ陽射しのなかに出ると腕に水が湧き、背に転がるものの感触もあったが、風が流れて肌に涼しかった。
 乗車すると扉際に陣取った。車内の空気は涼しかったが、まだ背中には汗の玉が転がっていた。乗り換えた先でもドアの脇に就き、到着を待つあいだ、感じられない、感じられないと頭のなかに声が巡り、それで一体何の意味があるのだろうと疑問を投げかけていた。
 (……)に着き、階段を上って改札を抜ける。歩廊は照り返しが眩しく、目をほとんど閉じてしまうほどだった。そこを通って図書館に入館し、カウンターに本とCDを返却すると階段を上った。新着図書には一次大戦から二次大戦のヨーロッパ内戦を扱ったものや、確か『主権の二千年史』というタイトルの本などがあった。新着図書の離れると哲学の区画に移ったが、特に何も借りるつもりはなく、ここもすぐに離れて席を探そうと大窓のほうへと出た。土曜日とあって午前から混んでいて、窓際に空いている席はなく、テラス側も埋まっているのは明白だった。それで途中から何となくまた書架のあいだに入り、金子薫の、先日に読んでいない二作を手に取って眺めた。そのすぐ近くに金井美恵子があり、彼女の『目白雑録』のことを思い出したのでエッセイの区画に移動して、当該作を少々めくった。そのまたすぐ近くに「対談」と題に含まれた本があり、何かと見てみれば加藤典洋の著作だった。何となくひらいてみると、中原昌也の名前があったので、彼との対談のみ適当に拾い読みをした。
 日記を書きたかったのだが空席がなかったので諦めて、図書館をあとにした。外に出ると歩廊の眩しさがふたたび目に刺さる。コンビニのダストボックス脇で店員がゴミ袋の整理をしており、そのすぐ傍には配達のトラックが停まっている。そちらに横目を振りながら通路を渡って、改札を入った。ホームに降りるとベンチに座って、家を発ってからのことを手帳に記録して行った。そのうちに一一時半の電車がやって来たので乗車した。
 座席の端が早々と取られてしまったので、席に就かずに扉の前に立ち尽くし、保坂和志『未明の闘争』に目を落としながら到着を待った。立川駅に着いて降りると階段口がごった返していたので、人々の脇を通り過ぎて反対側の階段まで移動し、そこを上った。改札を抜けて、壁画の前に立っていた(……)くんと(……)くんと合流した。法務省からロンドンに出向していた(……)くんとは、二年と数か月ぶりの再会だった。(……)くんが朝をほとんど食わずに来て腹を減らしているとのことだったので、とりあえず飯を食いに行こうとなり、こちらの一言でルミネのレストランフロアに向かった。エスカレーターを昇って行き、八階に着くとフロアガイドの前で小考し、お好み焼き屋「千房」に入ることに決定した。店に入ると入り口から左手の壁際の席に通された。
 店のオリジナルである「千房焼き」に、ミックス山芋焼き、それに葱焼きを注文した。料理が届くあいだに確認すると、(……)くんは二〇一六年の四月から留学していたということだった。彼はRUSIというイギリスのシンクタンク(検索してみると、英国王立防衛安全保障研究所という長たらしい名称が出てくる)に出向していて、連日安全保障関連の講演を聞きに行ってはそのレポートをまとめるという日々を送っていたと話した。
 焼き上げられた状態で届けられるお好み焼きを三つに分けて食べるわけだが、あまり喋らないからだろう、ものを食べるのはこちらが一番早く、早々に皿は空になって二人が食べている様子を眺めることになった。食事のあいだにどのような話をしたのか、まるで記憶が蘇ってこない。驚くほどに会話が覚えられなくなった――会話だけでなく、あらゆる事柄に対して何らかの定かな印象を抱くということがほとんどなくなってしまったのだが。お好み焼き三玉を食べてもまだ余裕があると三人一致したので、さらに牛タン焼きを注文して食った。
 財布に一万円しか入っていなかったので、ここはひとまず自分がまとめて支払うと申し出た。二人とも細かな金がなかったので精算はのちにとのことになり、代金を払って店をあとにすると、エレベーターに向かった。ちょうどやって来たのに滑り込み、一階まで下りてフロアに出てそのままビルを抜けた。毎月の会合に使っていたルノアールに行こうとの話になっていた。この時、道端で三脚を立てている人があって何かと思ったのだが、のちに喫茶店から出てきた時に通ると、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の幟が設置されており、こんにちは、こんにちは、と通行人に声を掛ける女性の姿があった。
 ルノアールに入店すると、入り口から左方の四人掛けに腰を下ろした。こちらはアイスココア、(……)くんはカフェゼリー・アンド・ココアフロート、(……)くんはカフェゼリー・アンド・オーレフロートを注文し、テーブルの上に並んだのはどれも薄茶色の一見して見分けがつきにくいグラスが三つとなった。ここでも(……)くんのロンドン生活の詳細とか、のちには大学時代の回想とかが語られたが、印象に残っているというほどのこともなく、仔細に思い出して綴ることはできない。(……)くんらが二人でやりとりをしているあいだは、こちらは言葉少なに相槌を打つことに徹していた――と言うか、上手い受け答えが思い浮かんでこないので、自ずとそうなってしまうのだった。彼らの話していることが自分に何の手応えも与えず、うまく理解できないと感じた瞬間もあった。こちらがいくらか口を動かして喋ったのは、自分の今の状態について話した時くらいだ――病気自慢しか話題がないというわけだ。こちらの話題に移ったのは(……)くんがトイレに立った時で、(……)くんに、最近本は読んでいるのかと訊かれ、読んではいるがうまく感じられないと答えたところからそれが始まったのだったと思う。戻ってきた(……)くんも相手にして、年末年始以来の症状の経緯や、薬のことや、とにかく感受性と記憶力が希薄になってしまったということなどを述べた。三人のあいだには沈黙が漂った。病気でものが感じられないのだ、などと言われても、それは言われたほうも困惑するほかないだろうとは思う。そのうちに話題はまた別のことに移って行った。
 本屋に行くことになっていた。と言うのは、(……)くんが水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズを買いたいということだったのだが、このシリーズの本はAmazonでも在庫がなく、横浜や川崎の本屋でも見つからず、立川のオリオン書房を除いては新宿紀伊國屋書店でしか見かけたことがないと言うのだった。実際、立川オリオン書房は海外文学が充実しており、今や少ないであろうこのジャンルの愛好家にとっては有難い本屋になっている。それで五時になる前だったかと思うが、退店した。空気に籠もった熱はまだまだ残っており、駅の方へ向かう途中、路面に点々と黒ずんだガムの跡が西陽を受けて白く染まり、光を放っていた。駅ビルの脇のエスカレーターを上がって駅舎の出入り口を通り、書店のほうに足を向けると、バス乗り場付近に行列が出来ている。なかに浴衣を着て扇を持ったカップルの姿が散見されて、何か催しでもあるのかと思われた。モノレールの駅の下をくぐっていると、横から照射された光に通行人の顔がことごとく明るみ、数歩進むと今度はその同じ光を我々も頬に受け、顔を明るくさせることになるのだった。屋根のないあたりまで来ると太鼓の音が聞こえた。通りすがりに目をやると、モノレール線路下の広場にはテントがいくつも設けられ、舞台も作られて催し物の雰囲気だった。
 建物に入ると、SUIT SELECTの店舗からヴィブラフォンのジャズが流れ出ている。その横を通ってエスカレーターを上り、オリオン書房に入店すると海外文学の区画に移動した。アレホ・カルペンティエールバロック協奏曲』が(……)くんの目当てだった。鼓直(つづみ・ただし)だとこちらが訳者を指摘すると、俺が「コチョク」だと思ってた人ね、と(……)くんは返した。この人は、ガルシア=マルケスの『族長の秋』を翻訳するという偉業を達成した人物なのだ。『族長の秋』は二〇一三年の夏、こちらの文学への耽溺を決定づけた書物であり、五回か六回読み返すほどこちらにとっては特別な作品だったのだが、今再読してもおそらくは面白く感じられないだろう。南米文学のコーナーには、ホセ・ドノソ『境界なき土地』も紹介されており(棚の途中にスペースを設けて表紙を見えるようにして置いてあった)、(……)くんがもう一冊購入に踏み切ったのは多分この著作だったのだと思う。ホセ・ドノソと言えば『夜のみだらな鳥』だが、その作品名を紹介しようとしても頭に浮かび上がって来ず、些細なことなのだがこうした部分でも自分の記憶力は劣化しているのではないかと危惧を抱いた一幕もあった。
 海外文学の棚の前を巡ってみても、欲しいと思うものも殊更に読みたいと感じる著作も見つからなかった。(……)くんが購入を済ませてきたところに声を掛けて、お好み焼きの精算を要求した。同じように(……)くんからも金を受け取ると、書店での要は済んだというわけで出口に向かった。途中、書架の横に「書物復権」のコーナーが設けられていた。二人が近くに置かれた雑貨などを見ている一方でこちらは、蓮實重彦『表象の奈落』などを取り上げて目次を眺めた。何年か前に読んだ時はこちらの経験値不足で書かれている内容のいくらも理解できなかったが、今これを読んだとしてもやはり手応えを得ることが出来ず、うまく理解できないように感じるのだろう――昨年末に掛けては段々と哲学的な著作に対する準備も出来ていたところであり、変調がなければミシェル・フーコーの後期の文献など読んで思索を深め、発展させていたはずなのだが、今は「思索」などという精神の働きが丸っきり消失してしまった。
 (……)くんがこの同じビルの一階にあるTreasure Factoryに寄っていくというので、ほかの二人も付き合うことにした。こちらとしては特に目当てもなかったが、所狭しと並べられた古着を漁っていると、United Arrows Green Label Relaxingのグレーのジャケットが発掘された。七八〇〇円のところを三割引のシールが貼られていた。すぐ傍におそらく揃いであろうスラックスも見つかった。ジャケットを羽織ってみるとかなりぴったりとしてちょうど良いサイズで、その姿を(……)くんに見られると、決まっているよと彼は褒めてくれた。(……)はお洒落だよね、服はどうやって選んでんのと続いたのに、着ていた青いチェック柄のシャツを示して、これは義理の姉がプレゼントしてくれたものだと言い、星のような小さな模様の散ったベージュのズボンのほうは、ずっと前に古着屋で買ったものだと言った。服など、もう一年かそこらは買っていないはずだった。今回のグレーのジャケットも、悪くはないが何か決定打に欠けるように思われて購入は見送った。
 さらに探っていると、ZARAタータンチェックのジャケット、元々一五〇〇〇円ほどの品が未使用品にもかかわらず五〇〇〇円ほどになっているのを発見し、これは掘り出し物かと思ったが、羽織ってみるとサイズがきつく、ボタンを閉じられないくらいだったので、これでは駄目だなと諦めた。ある程度経ったところで三人とももう大丈夫だとなり、(……)くんも結局は何も買わないで店を去ることになった。外に出ると、目前はちょうど広場で、木の台車に載せられた太鼓が、調律を試しているかのように鳴らされ、ステージでは何か催しているらしくマイクを通した音声が聞こえていた。階段を上って高架歩廊を駅へと向かう。西南の空に掛けて雲が千切れ、薄オレンジ色が空の果てに溜まっていた。駅の傍まで来ると、先ほどのバス乗り場の行列がさらに増幅して、駅舎の入り口にまで届くほどに長々しいものとなっていた。並んでいるのはほとんど全員が若者に見え、浴衣姿も相当にあった。彼らの横を通り過ぎて駅構内に入り、ごった返す改札を通ったところで二人と向き合った。暇なので、と笑ってまた誘ってくれと言い、本がもう少し読めるようになったらまた読書会もやりたいと思っていると伝え、ありがとうと礼を言って別れた。
 電車は混んでおり、座れる座席はなく、辛うじて扉脇の位置を確保することができた。六時過ぎの発車とともに保坂和志『未明の闘争』を読みはじめた。暮れが進んで、地上の大半にはもはや光は届かず、線路の近くの家々は薄青い空気に包まれていた。(……)だったかそのあたりで座席の端の空きを見つけたのでそこに移り、左足の先を右膝のあたりに乗せて横柄な格好を取り、書物に視線を落とし続けた。(……)からの乗り換えには三〇分ほど待つ時間があった。電車を降りると西の山際に白く澄んだ残光が洩れており、小学校とその裏山の上に湧き上がった雲は青灰色に沈んでいた。ホームを歩いて自販機の前に行き、例によって小さなスナック菓子を三つ買う。それからベンチに腰掛けて、保坂和志『未明の闘争』を読みつつ電車の到着を待った。やって来た乗り換え電車に乗りこんだあとも、頁に目を向け続けて、最寄り駅で降りると七時過ぎだが、まだ熱の残った空気がズボンを通り抜けて脚に触れる。坂道に入ると摩擦の強い鈴虫の鳴き声が響いていた。電灯に照らし出された木の葉の影が路上で僅かに揺れる道を下って行き、平らな通りに出ると蟋蟀の声が左右から絶え間なく湧いてくる。風にようやく、涼しさが含まれはじめていた。
 家に帰り着くと、(……)くんに貰った土産を卓上に出した。書くのを忘れていたが、喫茶店でロンドン土産を貰っていたのだ。一つはバッキンガム宮殿の売店で売っているというクッキー、もう一つは、ヘイスティングスの戦いを模したイベントの様子が映っている3D写真だった。服を脱ぎ、下階で着替えてきてから夕食を取る。白米に大根の煮物、魚と中華丼の素を混ぜた料理だった。食べながら向かいの母親が、今日はたくさん話せたかとか、その子はどんな仕事をしているのとか訊いてくるのが煩わしく、大人気なくどうでもいいだろ!と声を上げた。テレビは歌番組を賑やかに流していた。すべてがから騒ぎでくだらなく感じられ、無意味な生だと思ったが、そうした空虚の感覚すら希薄だった。普通に感情というものを持ち合わせているすべての人間が羨ましく思えた。
 風呂に入ったあとは自室に戻り、インターネットを閲覧したあと、一〇時直前から日記を綴りはじめた。二時間を費やし、日付が変わる直前になると切って、喉が渇いていたので水を飲むために上階に行った。居間では父親が一人、ものを食べ、酒を飲みながら落語を見ていた。おかえりと声を掛け、氷の入った水を用意して席に就くと、今日は友だちと会ってきたのかといった感じで会話が始まった。そこから一時を回るまで、今日会ってきた二人のことや、先日に会った部谷さんのことや、症状の経過などについて話し続けた。話も尽きたところで、父親が皿のなかのサラダに全然手をつけていないのを見て、それ、食べちゃわないとと促した。続けて明日は休みなのかと訊けば、朝八時から相撲の土俵作りがあると言う。もう寝ようと父親が言って、互いにありがとうと礼を交わしてコップを片付け、部屋に下りた。眠る前にもう少し本を読みたいような気がしていた。それでベッドに寝転びながら保坂和志『未明の闘争』を追って、二時を越えたところで消灯した。

2018/8/24, Fri.

 八時のアラームを活かすことができず、またもや一一時四〇分まで意識と身体が軽くならなかった。家中に人の気配はなかった。上がって行っても母親の姿はなく、玄関の小窓から外を覗けば車もなくなっているが、どこに出かけたのか書き置きの類はなかった。顔を洗うと、冷蔵庫から炒飯を取り出して電子レンジに突っ込み、それが熱されているあいだに便所に行って用を足した。戻ってくるとカキフライも二つ温めて卓に向かい、新聞をめくって記事をチェックしながらものを食べた。それから薬を飲んで皿を洗うと、風呂も洗って下階に下りた。部屋に入ってコンピューターを点すと同時に便意を催したので、トイレに行って出すものを出し、尻を拭いていると母親の帰ってきた音が伝わってきた。室を出て手を洗い、荷物があるかと思って上階に行ったところが何もない。どこに行ったのかと尋ねると、眼科に行ったということだった。
 自室に戻ってコンピューターを前にして、Evernoteにこの日の記事を作成しておくと、早速読書に入った。保坂和志『未明の闘争』である。一時間ほどそれを読んで区切り、日記を記しはじめたが、日記を書いていてもまったく面白くない。本を読んでいても何ら感情的な反応が起こらず、感想も浮かんでこず、それ以外の時間にあっても世界の細部が具体性を持って感知されるということがなくなってしまったので、必然書くといっても内容の薄い表層的な事柄しか綴ることができないからだ。感性も知性も失われた状態にあって文章など書いていても仕方ないなと思う。とにかく感受性が戻らないと何も話にならない。
 日記をつけると二時半だった。そこからまた、ここ数日そうであるように、寝床で横になってだらだらと休んでしまった。何か疲れているようで、気力が湧かず、本を読む気にも何をする気にもならなかったのだ。途中から布団を身に寄せながら結局六時頃まで横たわっていた。きちんと眠っていたわけではないが、いつの間にかそのくらい時間が経っていた。
 起き上がって上階に行くと、母親が肉じゃがを作ろうと言う。面倒臭く思ったが逆らわず、ジャガイモを取りに階段を下りた。廊下の途中の窓をひらくと、勝手口の下の物置スペースに接しているそこに、ジャガイモがいくつも籠に入れられて保存されているのだ。窓を開けると涼風が吹いて身体を撫でて行く。五個くらいジャガイモを取って上階に戻り、流しの前に立って皮剝きを使って皮を剝いて行く。それを横に立った母親が切り分けて、全部剝き終わらないうちに早くも玉ねぎや人参と一緒に炒めはじめた。その上にさらに細切れになった冷凍肉をばらばらとたくさん投入する。こちらは皮剝きを終えて追いつくと、箸を使ってフライパンのものを炒めた。隣のもう一つのフライパンではサバがソテーされていた。肉の色が大方変わったところで水を注ぎ、それでこちらは台所を離れた。夕刊を取りに玄関を出ると、東の空に浮かんだ雲の左の頬が薄赤く残光を反映していた。新聞を読みながら肉じゃがが煮えるのを待とうと思っていたのだが、そうした気持ちが湧かなかったので料理の残りは母親に任せることにして下階に下りた。
 そうして一二月の日記を読み返したのだが、全体として今より比べて相当に良く書けているように思われた。一二月二日の『ダロウェイ夫人』を読んでの感想などは、とても今の自分には感じられないものだし、それを除いてもちょっとした一文にも明らかに今よりものを良く感じ取っているのが窺われる。この頃が言ってみれば自分の読み書きの能力の最盛期だったのだろう。二〇一三年の一月から丸五年を費やしてそうした能力を養ってきたわけだが、それも年始以降の変調で、すべてとは言わないまでも半ば以上は失われてしまったわけだ。今から考えると、年末頃には保たれていた鋭い感受性と自分の不安障害はセットだったのではないかという気もする。不安というものが主体としての自分の底に第一原理として敷かれており、それがあるからこそ自分はものを感じることができていたのではないか。今、パニック障害の症状はまったくなくなり、生活のなかで何かに不安を覚えることもなくなったのだが、その替わりのようにして感性が働かなくなり、定かにものを感じたり、感受から発展して思考を展開させることができなくなった。不安もないが感性の喜びもない今の状態と比べると、不安がありつつも様々な感情や欲望が自分のうちに煌めいていた以前のほうが、やはり生としてましに思われる。年末の頃の頭の状態に戻れるならば戻りたいものだ。とにかくものが感じられない考えられないというのが今の自分の悩みの根本だが、これがこの先改善されて行くのかというと、やはりあまり期待はできないように思われる。そもそも自分の今の状態が鬱病なのか離人症なのか、基本的な診断すら最終的にははっきりしないのだから、精神疾患とは厄介なものだ。診断がはっきりしないのだから、症状への対処も、確かにこれが効く、というようなものにはなり得ない。そもそも「ものを感じられない病気」と言って、それに対して一体どんな治療の仕方があるというのか? 結局鬱症状を脱してまた読み書きができるようになったと言ったって、何かを感じることができない状態はほとんど変わっていないのだ。自分は年始から春にかけて何らかの不可逆的な変化を通過してしまい、元には戻れず、感性も思考力も希薄になった今このままで、そこから変化発展することはもうないのではないかと、どうしてもそのように考えられてならない。一年後、自分はどうなっているだろうか? 今と何も変わっていないのではないだろうか? 時間が経ってみなければいずれわからないことではあるが、もしそうだとすればこの生とはほとんど意味のない、無価値なものとなってしまうだろう。
 その後、新聞の記事を日記に写し、七時を回ったので食事を取りに行った。米にサバのソテー、肉じゃが、細切りにした胡瓜と大根にレタスを混ぜた生サラダで、あとから刺身蒟蒻も出てきた。テレビは子どもの面白映像の類を紹介していた。食事を終えて薬を飲むと、この日も散歩には出ず、さっさと風呂に入った。出てくると、階段を下りたところに置いてあった袋からクッキーの缶を取り出した。父親が夏の休み明けに、会社の人からハワイ土産として貰ってきたものらしい。居間に上がってサーフボードを模した形らしい缶を開封し、中身を一つ二つつまんだ。結構美味いものだった。チョコレートが溶けていたので冷蔵庫に入れておくことになったが、その前にチョコを用いていないやつを二つ確保して、自分の部屋に下りて行った。
 クッキーを食いながらインターネットを閲覧し、九時前から保坂和志『未明の闘争』を読みはじめた。BGMに流したのはU2『All That You Can't Leave Behind』だった。一時間ほど読むと日記に取り掛かり、ここまで記して一一時が間近となっている。
 歯を磨き、一一時半頃から音楽を聞きはじめた。Becca Stevens『Regina』から六曲、そして最後にBill Evans Trioの"All of You (take 1)"を聞くと既に零時を越えていた。それからちょっとだけインターネットを回り、半になる頃には薬を服用して床に就いた。いつものことだが、眠気はまったくなかった。意味のなさない呻き声を上げながら左右に姿勢を変えている途中、時計がほぼ一時を指しているのを確認した。それからしばらくして寝付いたようだが、いつも自分がどうやって入眠しているのか不思議である。