2018/9/26, Wed.

 九時半のアラームで覚醒して、鳴り響く音を聞きながらゆっくりと起き上がり、携帯を止めたあとにふたたび寝床に戻ったのを覚えている。そこから一時間後、一〇時半にふたたび覚めるまでに夢を見た。まず最初に、(……)駅前で誰だかわからない一人の子どもと遭遇した。さらに、その子どもの友だちであるらしい(……)とも出会い、彼に、リュックサックだったか、こちらの荷物を奪われ、どこかに隠されてしまった。返してくれと言って(……)の身体を抱き上げながら、職場に行くと、(……)がいる。精神疾患で休職していたこちらが現れたことについて、良かった、とか、何かしらの反応があったはずだ。ふたたび働きはじめることになっていたのかもしれない、(……)に、新システムがどうのこうのと尋ねているところで目が覚めた。この日実際に職場に挨拶に行く予定が入っていたので、それを先取りしたかのような夢だった。一〇時半に覚めてからもしばらく、瞼をひらいたまま何をするでもなく布団の下に留まって、一〇時五〇分を迎えると枕の上に起き直って瞑想を始めた。深呼吸を繰り返してから目をひらくと、二七分が経っていた。それから上階に行き、顔を洗って、前夜の残り物たちを冷蔵庫から取り出して食事の支度をした。五目ご飯に玉ねぎと豚肉の炒め物、小ねぎと椎茸と卵の汁物にサラダ、そしてゆで卵である。卓に就き、新聞を瞥見しながらものを口に運び、磯崎憲一郎文芸時評を読むと立ち上がって食器を洗った。それから薬を飲んでいないことに思い当たって、水を汲んでまた卓のほうに行き、抗精神病薬サプリメントを服用する。そうして風呂を洗ってしまうと、この日は食後の一服は用意せずに下階に戻った。コンピューターを起動して前日の記録を付け、この日の記事も作成すると、早速日記に取り掛かった。前日分をさっさと書き終え、この日の記事にも入って夢の記述を済ませたところで時刻は一時過ぎ、そろそろ外出の身支度を始めるかとそこで打鍵を切った。歯を磨き、着替えをする。元は薄いピンク色だったが今は色褪せてほとんど白くなってしまったシャツに、最近よく履いているストライプ入りの紺色のズボン、その上にくるみボタンのブルゾンを羽織った。鏡で確認すると、ブルゾンとズボンの毛色が近く、全体に地味な色合いにまとまってしまったようにも見えたが、もう時間もなかったのでこれで良いと払って、出発した。雨降りの空気が、昨晩髭を剃ったばかりの口の周りにいくらか冷やりとする。左手にモロゾフの紙袋を提げ、右手に傘を持って歩いて行く。街道に入ってまもなく、道端の段の上、それからその下の地面にも、オレンジ色の帯が生まれている。金木犀か、とそこの塀内からはみ出しているのを見上げ、鮮やかな色の地帯を見下ろしながら過ぎて行った。雨は弱く、ほとんど視認されないほどで、粒が風に乗せられて横に流れたり、不規則に舞い踊ったりするくらい軽く、傘をひらく必要もない。裏路地に入ると、白線を辿るようにして、足音のあいだに傘を突くリズムを差し挟みながら進んで行った。合間に挟まる坂を横断してすぐの家の百日紅に目を上げると、もう大方散って葉っぱも色を変えつつあるなか、枝先に残った薄紅色の花弁のさらにその端に、露を溜めてぶら下げていた。市民会館の跡地では、何を建設するものなのか、赤銅色の巨大な鉄骨が組まれて人足たちが立ち働いている。駅前の横断歩道を渡り、職場がいよいよ近づくと、どことなく緊張のようなものが胸のあたりに差すようだった。扉をひらき、挨拶をする。(……)さんと(……)と、この人とはこれが初対面だが(……)さんという三人の人間がいた。靴を脱いでスリッパに履き替えてから、(……)さんに向けて、(……)と申します、よろしくお願いしますと挨拶をする。それから(……)さんに促されて、脇の面談スペースに入り、彼女と向かい合って椅子に就いた。ちょっとやりとりがあったあと、手紙を書いたと(……)さんは言うので、小さな紙片を受け取ってブルゾンのポケットに入れたこちらは、お返しに紙袋から小さい包みを取り出して、餞別の品ですと差し出した。それから大きなほうも取り出して、職場の皆さんで、と言って贈る。そうしてしばらく話をした。(……)さんの退職というのはメールでは「一身上の都合」と記されていて、そのあたり聞いても良いものなのだろうか、あるいは結婚でもするのだろうかなどと考えていたのだが、普通に転職をするのだということだった。人間関係の問題だろうか、社内で「色々あった」と言い、(……)は何だかなあと思い、もういいやという感じで転職を決断したらしい。こちらの症状については、以前はパニック障害、不安障害を持っていたのだが、それがずれてうつ症状のほうが主になり、そこから回復してきて、今は経過観察をしているところだと搔い摘んで説明した。そうすると復帰にはもう少し掛かりますかと言うのに肯定する。それは待つしかないものなんですか、それとも何か楽しいことをやるとかと(……)さんが訊くのに、まあ待つしかないんじゃないですかねと返答し、読み書きも一時はまったくできなかった、今はまたやっているのだが、やはり以前よりも面白くなくなってしまった、プラスの感情がなくなってしまったので、もう少し何とか持ち上がってきてくれないかというところだ、と述べた。しかしまあ精神疾患は長いものだと思うので、一年後に今よりも楽しくなっていれば、とそのくらいの感じで考えてはいるけれどと言うと、達観しておられると笑うので、パニック障害の時には結構酷い状態を体験したし、今回またそれとは違った形でどん底を経験したと思うので、達観もするものだと受けた。体調が万全になったらいつでも戻ってきてください、という雰囲気だったが、正直なところこの職に戻るつもりはもうない。しかしそうした気配は漏らさずに、丁重にありがとうございますと受けた。一〇分少々話していたと思う。(……)さんが、最後に会えて本当に良かったですと力強く言ったので、話の切りはここだなと察して礼を返し、立ち上がって面談スペースから出た。お菓子を貰ったよ、と(……)さんが報告するのに重ねて、皆さんでいただいてくださいと言ったが、敬語の誤りに気づいて、いただいてくださいじゃないや、召し上がってくださいと続けて訂正したが、誰もそんなことは気にしていなかった。それで挨拶をして職場をあとにし、帰路に就いた。紙袋も渡してきたので、傘だけを持ち、片手はポケットに突っ込んだままゆるゆる歩く、手の軽い道だった。向かいから吹いてくる風を受けながら(往路を歩いてきたので身体は温まっており、肌寒さは感じられなかった)、ふたたび白線に沿うようにして行き、足音と傘の打音とでリズムを作る。表に出たところで、雨が消えたにしては行きよりもかえって暗いようなと宙空に見て、真っ白な空を見上げて行くと、まだ顔に散ってくるものが残っていた。行きにも通った金木犀の帯の上をまた踏み越え、裏路地にふたたび入ったところで、前方に犬を散歩させている人がいる。(……)さんである。近づいてこんにちはと挨拶を交わし、さらに寄って、噛みますかと尋ねると、どうだろう、もしかするとと言うのだが、ポケットに入れていた左手を出して焦茶色の頭に触れさせてみると、特に怯えるでも気色ばむでもなかった。可愛いですねと言うと、お父さんも可愛いって言ってくれると(……)さんが返すので、そうですかと笑みで受けた。それからちょっと触って、じゃあねと切りを付け、どうも、失礼しますと先に立って歩き出し、坂を下って自宅に戻った。時刻は三時直前だった。飲むヨーグルトを一杯飲んでから自室に帰り、脱いだ服を収納に吊るしておき、ステテコパンツとジャージの姿に着替えると、この日の日記の続きを書きはじめた。そうしておよそ一時間で現在時に追いついた。
 以下省略。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 バスの進路妨害および怒鳴り声を記録したこの映像には、難民の側がなんらかの間違いを犯したようすはまったく見られない。この映像にも、その後の報告にも、車内の難民たちが歓迎されない理由となるなんらかの事情は認められない。この映像には、そもそも車内にいる人たち個人に関することはなにも映っていない。こういう状況における憎しみは、具体的な現実を無視または誇張することでこそ、その独特の力を発揮する。現実の指示もきっかけも必要ない。なんらかのステレオタイプの投影で事足りる。憎しみは確かに難民たちに向けられている、すなわち難民たちを対象としてはいるが、その憎しみの理由は難民たちではない。タイターニアがボトムを愛する理由が、ボトムがありのままのボトムだからではなく、魔法の液の作用がそう仕向けているだけであるように、クラウスニッツでバスの進路を妨害した人たちが難民を憎むのも、難民が難民だからではない。他者を尊敬、尊重するための前提が他者の認識であるのと同様、他者を軽視し、憎むための前提は他者の誤認である場合が多い。憎しみの場合も、その原因と対象とが一致するとは限らないのだ。タイターニアがボトムを愛する理由を説明することができるように、クラウスニッツの人々も、難民を憎む理由を説明すること(end55)ができるだろう――だがそれは、憎しみの本当の理由ではない。彼らは単に、バスのなかの難民のみならずあらゆる難民たちに、自分たちが「憎むべき」「危険な」「身の毛もよだつ」と考える特徴をあてはめているだけなのだ。
 この憎しみは、どのように生まれたのか。難民を「憎むべき」者ととらえる視線と思考パターンは、なにに由来するのか。
 憎しみは無から生まれるわけではない。クラウスニッツでも、フライタールやヴァルダシャフでも。トゥールーズでも、パリやオーランドでも、ファーガソンでも、スタテンアイランドやウォーラー郡でも。憎しみには常に特有の文脈がある[﹅15]。憎しみはその文脈を理由とし、その文脈から生まれるのである[﹅27]。憎しみの拠り所となる理由、なぜあるグループが憎しみに「値する」のかを説明する理由は、誰かがある特定の歴史的文化的枠組のなかで作り出さなければ、そもそも存在しない[﹅17]。何度も繰り返し持ち出され、語られ、表現されなければ、定着し得ない。既出のシェイクスピアのたとえを借りれば、こういうことだ――恋に落ちる効果を持つ魔法の液は、誰かが作らなければ存在し得ない。強烈で熱い憎しみは、長年にわたって準備されてきた、または何世代にもわたって受け継がれてきた冷たい慣習と信念の結果なのだ。「集団的な憎しみまたは軽蔑の構造は(中略)、社会的に軽蔑または憎しみの対象となる者たちから社会的な損失、危険、脅威が生まれるというイデオロギーなしには成立し得ない」
 クラウスニッツでの憎しみを招いたイデオロギーは、クラウスニッツでのみ作られたわけではない。(end56)ザクセン地方でのみ作られたわけでもない。インターネット上、議論の場、出版物、トークショー、音楽の歌詞など、難民が基本的には決して尊厳を持った同等の人間とは見なされないあらゆる文脈で作られてきたものだ。憎しみと暴力を分析しようと思うなら、それらの下地となり、それらを正当化する思考パターンが浮き彫りになっているこういった言説を注意深く観察せねばならない。クラウスニッツの映像が最初にアップロードされた前出のフェイスブック上のページ「デーベルンは抵抗する」も、大いに観察に値する。このページは特に有名なものではない。だが、バスのなかの人たちを人間として[﹅5]不可視の存在にし、なにか恐ろしいもの[﹅9]として可視の存在にする嫉妬と誹謗のパターンのすべてが、ここに見られる。だがこのサイトは、右翼過激派組織、PEGIDAに近いグループや個人など、ほかの無数のサイトに見られるイデオロギーのひとつの例に過ぎない。このイデオロギーは、その他の多くの例を用いて分析することもできる。
 「デーベルンは抵抗する」を見て最初に目につくのは、現実の意図的な矮小化[﹅3]である。ここには、移民たちをそのユーモア、音楽の才能、技術、知的または芸術的または感情的な資質などを通して際立たせる記述も情報も説明もなにひとつ見られない。ちなみに、移民個々人の失敗、弱点、俗物性などの報告も同様に見られない。実のところ、ここにはそもそも「個人」が見あたらない。あるのはただ象徴的な存在のみだ。イスラム教徒の男性や女性(とはいえ、このページで扱われているのは主に男性イスラム教徒だが)の誰もが、全体の代表者と見られている。どのイスラム教徒または移民を全体の代表として利用するかの選択は恣意的だ。彼らの全員を悪だと断定するために必要な特定の例とし(end57)て利用できれば、誰でもいいのだ。
 憎む者たちの世界は、テレビ番組「事件ファイルXY――未解決」と同じようなものだ――ただ「未解決」という言葉を除いて。悪いのは常にイスラム教であり、イスラム教徒の流入であり、難民の誰もが持っているとされる犯罪への衝動だ。社会は常に非常事態であると暗示され、個人的な幸福や、奇妙で不条理で感動的で、ときには腹立たしく面倒くさいこともある人間どうしの絆が入る余地はない。彼らの世界には、とにかく日常というものがないのだ。あるのはただ例外的なスキャンダルであり、それがすべての基準だと主張されている。彼らの世界には、文化的、社会的、または単に政治的な現実の多様性というものがない。無害な出会いもなければ、幸運な経験も、楽しい出来事もない。軽快なもの、楽しいものの一切は場違いなのである。
 こんなふうにフィルターのかかった目で世界を見ると、どんなことになるか。人間を繰り返し特定の役割、特定の位置、特定の特徴でばかり判断していると、どうなるか。最初のうちは、まだ憎しみなど生まれない。こういった種類の現実の矮小化がもたらすのは、まずなにより想像力の枯渇である。難民が常に集団として扱われ、決して個人としては登場せず、イスラム教徒が常にテロリストまたは文明の遅れた「野蛮人」として描写されるネット掲示板や出版物の致命的なところは、それが移民をなにか別の存在として想像する[﹅4]ことをほとんど不可能にする点にある。想像力が弱まれば、共感する力も弱まる。イスラム教徒あるいは移民としての在り方には無数の可能性があるが、それがたったひとつの[﹅7]形に収斂されてしまう。そして、それによって個人が集団と、集団が常に同じ特徴と結び付け(end58)られる。こういったメディアからしか情報を得ず、こういったフィルターのかかった目線を通した世界像、人間像ばかりを与えられれば、人は常に同じ固定イメージを抱き続けることになる。やがて、イスラム教徒または移民と聞いて、固定イメージとは別のものを思い浮かべることがほとんど不可能になる。想像力の枯渇だ。残るのは、こじつけの特徴や世間に出回っている批判によって操作された短絡的思考である。
 (55~59)

     *

 クラウスニッツの映像がアップロードされたフェイスブックページ「デーベルンは抵抗する」の周辺では、「人種」という概念は用いられない。代わりに語られるのは「文化」であり「移民」であり「宗教」だ。だがこれらは人種差別または反ユダヤ主義といった社会的なタブーを覆い隠すための概念であり、暗黙のうちに示されるイデオロギーは不変のままだ。ある特定の集団に向けられる敵意はいまだに存在するし、特定の集団に対して歴史とは無関係な不変の特徴がいまだに押し付けられている。ただ「人種」という概念が抜けただけだ。同じ疎外の構造に、同じイメージやモティーフが使われる――ただ使われる言葉が違うだけだ。政治的な意図がすぐに察知されてしまう「危険な言葉」は使われない。それゆえ、現在では守られるべきものとして「西洋社会」「民族」「国家」という言葉が使われるが、それらが正確になにを指しているのかは明らかにされないままだ。
 彼らの描く世界には、楽しいもの、軽やかなものがまったく存在しない。偶然も存在しない。どんな偶発的出来事にも意味が与えられ、背後に誰かのなんらかの意図があると考えられる。人間なら誰でも犯す単純な間違いや事故などない。誤謬はすべてなんらかの意図の結果であり、偶然はすべて、(end63)自分たち同胞を抑圧し、自分たちに害をなそうとするなんらかの陰謀の結果だと見なされる。「デーベルンは抵抗する」のようなフェイスブックページや、それに類する無数の出版物の中心となるテーマは、同胞どうしの「交流」ということになっている。そこでは、異質だと烙印を押されたあらゆる人間――難民、移民、非キリスト教徒、非白人――は権力者によって操られており、「同胞」を迫害する、という図式に沿ってさまざまな議論が交わされている。恐れられると同時に望まれてもいるのは、内戦が起こるというシナリオで、こういった妄想世界にモティーフとして通奏低音のように響き続ける。
 このような文脈で常に繰り返されるのは、終末論的な物語だ。同胞の没落、同胞の迫害といった(古い)物語が、自分たちの使命を特別に重要で運命的なものとして美化するために、劇的に再構築される。世界は、弱小化し破滅の危機に瀕するドイツ国家の市民たちの側と、彼らの没落を積極的に画策するとされる者たちの側とに二分される。彼らが敵と見なす側には、実際には文明社会を支え、当然のように難民たちと連帯し、難民に助けの手を差し伸べる人間たちも含まれる。彼らは「善人」だとか「駅で拍手するやつら」と蔑まれる(まるで、善人であることや、列車で到着した難民に歓迎の拍手をすることが恥ずべきことであるかのように)。
 自分たちの行動や信念に向けられる外部からの批判は、言及されることすらない。「同胞」対「異邦人」、「我々」対「彼ら」という二極化された世界観は、批判を最初から跳ね返してしまう。批判は、自身の土地、民衆、国家のための唯一正当かつ真なる戦いに身を捧げる者たちに対する検閲、弾圧、(end64)情報操作だとして貶められるのである。こうして、異議や疑念をさしはさむ余地がないとされる閉鎖的な思想が完成する。疑問視されるのは、女性や子供を脅したり、難民申請者施設に放火したりする者ではなく、それを批判する者になる。批判的な報道は、愛国的、英雄的に立ち上がる者たちを称揚しない悪意ある「虚偽のメディア」の証拠としてしか通用しなくなる。彼らはパラノイアに取りつかれており、すべてを自身の妄想の裏付けだと捉える――そしてそのせいで、自身の攻撃性を正当防衛だと思い込むことになる。
 こういう類のフェイスブックページを長時間読むのは楽ではない。同性愛者であり、ジャーナリストでもある私自身が、彼らの世界で特に憎まれる社会的集団のうちのふたつに属するからだ。私は自分がなんらかの集団の一員であるとは考えていないが、憎む者たちにとっては、そんなことは重要ではない。私のような人間は、彼らの世界においては、さまざまな特徴や傾向を持つ個人としては、いずれにせよ不可視の存在なのだから。駅で拍手をしたことが一度もなくても、私は軽蔑される人間たちのひとりなのである。私の愛し方ゆえに。考え方、書き方ゆえに。とはいえ、私が憎まれるのは、少なくとも私の行為[﹅2]の結果である。それはほとんど特権とさえ言える。肌の色や身体のせいで憎まれ、軽蔑される人たちもいるのだから。私は白人で、ドイツのパスポートを持っている――どちらも偶然与えられた条件だ。だがそのどちらもが、黒人だから、イスラム教徒だから、またはその両方だから、または有効な書類を持たないからという理由で、私が受けるよりずっと大きな憎しみと軽蔑になすすべもなくさらされている人たちと私とを隔てるものなのだ。
 (63~65)

2018/9/25, Tue.

 就床してから僅か三時間半後、五時半の頃合いに一度覚めていた。精神は軽いのだが、しかしさすがに三時間半では眠りが少ない。それでもう一度寝付き、何度か覚醒しながらも結局はいつも通り、一一時半過ぎまで床に留まった。雨が降っていた。便所に行ってきてから瞑想を行う。窓を開け、気温がいくらか低いようなので薄布団を脚に掛けて、呼吸の動きに注視しようと試みるが、頭のなかに絶えず様々な音楽が代わる代わるに流れて妨害をされる。雑念というものが絶える瞬間は、ほとんど一瞬もないように思われるほどである。意識がいくらかの深まりを得て、視界に丹光も生まれて、靄のようなものが眼裏の中央に吸いこまれてはまたすぐに供給されるのを見ていると、どことなく心地良いような感じがしないでもなかったが、以前よりも深い意識に入れないのは明白である。しかしまあ、地道に続けてみるものだろう。二〇分ほどの瞑想を終えて上階に行くと、居間は水っぽく、薄暗かった。カレーの残り、鮭、豆腐をそれぞれ電子レンジで温め、五目ご飯をそれらに添える。食卓灯を灯して、新聞記事をチェックしながらものを食べると、飲むヨーグルトの空のパックを始末し、食器乾燥機のなかを片付けてから洗い物をした。さらに風呂も洗って、緑茶がなくなったので蕎麦茶を代わりに用意して自室に帰る。一二時四五分頃だったのではないか。コンピューターを起動させてEvernoteに記録を付け、茶を飲みながら瞑想について検索したりして時間を過ごすと、あっという間に二時である。そこから書き物に入って、二時間を掛けて前日分を仕上げ、さらにこの日の分を綴ることができた。既に時刻は四時過ぎ、夕食の支度を始める五時までに新聞でも読むかということで、机に積まれたなかから数日前の、九月二〇日のものを遅れて読みはじめた。いくつか記事を拾っておき、それからこの日二度目の瞑想に入る。五時の鐘が鳴るとともに切り上げ、上階の台所に行く。母親がほうれん草を茹でてくれと言うので、フライパンに水を沸かして野菜を投入し、そのかたわらピーマンや玉ねぎを切り分ける。茹で上がったほうれん草を洗い桶のなかに入れておくと、別のフライパンに油を引いて切ったものを炒めはじめた。それから、豚肉のパックを持ち、箸で少しずつ取り上げてフライパンに加えて行く。そうしてしばらく炒めたのち、醤油を垂らして、フライパンを振るってかき混ぜ、完成とした。次に、小ねぎと椎茸を切って湯を沸かしてあった小鍋に投入する。それらが加熱されるのを待つあいだに、ほうれん草を桶から掴み取り、端を揃えて水を絞って切り分けるとパックに収めておいた。汁物は醤油と味醂で味を付けて、最後に溶き卵を加えて終い、時刻は五時半頃だった。自室に帰り、七時過ぎまでだらだらと時間を使う。それから食事に上がって行くと居間は無人でテレビの画面も真っ暗で、母親は風呂に入っているらしいから、父親の帰りが近いのだろうと推し量った。台所に入り、豚肉の炒め物と小さなカキフライを大皿に乗せて電子レンジに突っ込む。そのほか、淡い褐色の五目ご飯、小ねぎと椎茸の汁物にゆで卵を卓に並べた。音のない静けさのなかで、傍らに置いてあった新聞にも目を向けず、一人で集中してものを口に運んで行く。まず最初にカキフライを取り上げ、次に炒め物とともに五目ご飯を咀嚼し、僅かに甘いような風味のある汁物を飲み干したあと、最後に塩を振りかけながらゆで卵を食べた。食事が終わる頃には母親が風呂から出てきて、ソファに就くと脚から背中に掛けてが痛いと嘆きを漏らした。こちらは皿を洗ってしまうと、父親がまもなく帰ってくるということだったので、風呂を先に譲るつもりで一旦自室に帰った。何だかんだしているうちに父親が帰宅し、風呂も済ませて、こちらが上がっていった頃にはもう九時が過ぎていたのではないか。入浴すると湯のなかで瞑目し、この日の記憶をたどりはじめたが、じきに眠いようになって脳内が融解し、記憶の道筋を見失ってしまった。上がるまでに結構長く、三〇分以上は浴室にいたと思う。出てくると、父親が食べたモロゾフのカスタードプリンの残り半分を食し、それから自室に帰った。そうしてまた零時頃までだらだらと無益な時間を過ごした。その後歯磨きをしながら『多田智満子詩集』を読みはじめたが、ベッドに移って読んでいるうちに眠気らしきものが差し、瞼も閉じるようになってきたので、一時前に読書を切り上げて、そのまま瞑想もせずに明かりを落とした。

2018/9/24, Mon.

 七時頃から何度か覚めつつも、例によって一一時四〇分まで寝床に留まることになった。瞼がひらくようになってきた頃、外からは父親の流しているラジオの音声が聞こえており、誰か、おそらく日本人女性の歌う"It's Only A Paper Moon"が掛かって、昔、繰り返し聞いたMel Torme『Live At The Crescendo』の音源を思い出したりもした。起床して洗面所に行き、顔を洗うとともに用を足してくると、枕の上に腰掛けて瞑想を始めた。外のラジオはニュースを伝えている。頭には様々な脈絡のない記憶や雑念がノイズのように往来するなか、鼻から出入りする呼吸の感覚を注視するのだが、そうしているとそのうちに自ずと呼吸が深く引っ張られるように、滑らかなようになってきた気がした。上階から母親がこちらを呼ぶ声がしたところを切りとすると、一五分が経っていた。上がって行くと外の父親に食事を届けてくれと言うので、カレーライスやサラダの乗った盆を持ち、グラスの飲み物を零さないように注意しながらサンダル履きで玄関を抜けた。陽の掛かって温かななかを家の南側へと下って行きながら、微熱は含まれているものの空気が爽やかだなと肌に覚えていると、そこから横滑って、古井由吉が『ゆらぐ玉の緒』だったかどの作だったかで、「爽やぐ」という言い方を使っていたなと思い起こされた(今しがたEvernoteの記録を検索してみたところ、やはり『ゆらぐ玉の緒』のうちで用いられていたが、正確には「爽やぎ」と名詞形だった――「家にやっとたどりついて、テラスに出した椅子にへたりこむと、目の前に枝をひろげる樹の、青葉が一枚ずつちらちらと顫えて、風と光の細かな波の寄せるのに、身体を通り抜けられるままにまかせていた。日辺の孤帆の眺めにくらべればつましいながらこれも至福の内か、この爽やぎにつぎにめぐりあうのはいつの期だろうと思った」(189; 「弧帆一片」))。木で出来た手製のテーブルのところまで行き、膳を置くと、足音を聞きつけたものか畑の父親がこちらを向いてうなずきを送ってくるので、飯ね、と置いたものを指しながらうなずきを返し、外気を味わうようにしてゆっくりと屋内に帰った。それから居間の入口付近でユースキンを手指に塗っているその背後を母親も食膳を持って通り過ぎて行くのは、父親と同様に外でものを食べるのだ。こちらは一人室内でカレーとサラダを卓に並べ、新聞記事を確認しながら食事を取った。何となく消す気にならなかったテレビは、静岡県三島市の水路や大社の姿を映していた(そういえば、三島市というと「ノーエ節」の発祥の地だったはずで、この民謡もやはり古井由吉が、こちらは『野川』のなかで取り上げていたものだ)。薬を飲んで食器を洗い、風呂も洗ってからこの日は緑茶を用意せずに下階に下りた。そうして無駄な時間を設けずに、一時前から早々と日記に取り掛かり、前日の分をすぐに完成させ、この日のこともここまで綴って一時四三分である。瞑想の効用なのだろうか、気分は悪くなく、ここ最近のなかではやや明るめのような気がしないでもない。それからこの日二度目の瞑想に入って二三分間を座ったのち、歯磨きをしながら一年前の日記を読んだ。そうしてSuchmos "YMM"を流して着替え、続く"GAGA"を歌うと上階に行ったのだが、そこで母親に格好が変だと言われた。赤や青の組み合わさったカラフルなチェック柄のシャツに、濃い紺色のストライプ入りズボンを纏っていたのだが、柄物に柄物を合わせるのが良くないと、母親は昔ながらのファッション論を繰り出してみせる。こちらも何となくそうかなとは思っていたのだが、それを指摘されるのも煩わしく、母親の言い方がまた大袈裟に言い立てるような風なので相当に苛立ち、油断すると罵声が口から出てきそうで、それを抑えながらのぎこちない受け答えになった。玄関に掛かっている縦に長い鏡の前で格好を確認し、母親の忠言に従うことにして自室に戻ったが、収納に吊るした服を吟味してみても、ズボンにうまく合うような質の良い無地のシャツは持っていないのだった。それで上階に行き、いつもと同じ格好になってしまうが、居間に吊るされてあった麻素材の白シャツを着て、苛立ちのために母親に挨拶を掛ける気にならず、無言で玄関の戸をくぐった。母親の口から発せられる言葉の大半は、興味関心をまったく惹かないおよそどうでも良い類の駄言であるか、あるいはこちらの精神をささくれ立たせる有害な声のどちらかなのだ。プラスの情を何ら定かに感じなくなった反面、苛立ちといったマイナスの感情だけは自分の内に確かに残っているのだから、糞みたいな精神の有様である。何でもないような些末な母親の言葉がなぜ自分をそこまで苛立たせるのかは不明だが、結局のところは自分の大人気なさと未熟によるところであり、瞑想の実践によってもっと明晰で平静に自足した精神状態を身につけることができないかと願っている。それで、意気阻喪したようになって歩き出し、坂に入ると、斜面の草むらに生えた彼岸花の、真っ直ぐ上を向いて天を戴くのではなく横に薙がれたように倒れており、もう身を縮めて枯れはじめたものも散見される。街道を歩けば蒸し暑さに肌は汗の感触を帯びて、靴と靴下に包まれた足がやたらと温もった。これから立川に出ること、駅まで一歩一歩を進めて行くことそのものが億劫で、帰ってベッドに横たわりたいと思うような疲労感があり、人家の百日紅を見上げて強い視線を送るほどの気力もない。のろのろと重い足取りを進めて、裏道の途中、草の茂った空き地のあたりまで来て目に入った空の、先ほど背後から洩れだしたものに薄影の浮かぶ瞬間もあったものの今は太陽も失せて、全面に雲が掛けられているそのなかの正面、東の一角には寄り集まったものが青灰色を溜めており、雨の気色を覚えさせないでもなかった。駅に着くと改札をくぐり、ホームに出て停まっていた電車の先頭車両に乗る。発車したのは三時半ほどだったはずだ。『多田智満子詩集』を持ってきていたが疲労感があったので、行きの立川までの道中は瞑目して心身を休めることに注力した。立川に到着して降りると階段を上り、改札を抜ける前に機械のところに行ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。そうして改札を通り、頭上から降る放送の声や歩く人々のざわめきが混ざり合って煙のように満ちているコンコースを北口広場へと抜けた。この日立川を訪れたのには、職場の長である(……)さんが九月いっぱいで退職するということで、駅ビルの地下で餞別の菓子でも見繕うという目的があったが、せっかく久しぶりに立川に来たのだからとまずは書店に行ってみることにした。こちらの近くから飛び立って、モノレールの駅舎の上に止まる鳩を目で追いながら通路を行き、ビルに入ってエスカレーターを上ってオリオン書房に入店した。文庫本のコーナーを横目に海外文学の区画へ移動し、平積みにされている本を眺めて行ったが、さほど興味を惹かれるものはない。ドイツ文学の棚を眺めていた時に見つけたオスカル・パニッツァ『犯罪精神病』という著作はちょっと面白そうだったので、手帳にメモをしておいた。それから哲学のコーナーに移ってここでも平積みの書物を中心に眺めて行った。途中、清水高志・落合陽一・上妻世海の鼎談本であるピンク色の『脱近代宣言』を手に取った。上妻世海という人は一九八九年生まれでこちらと一歳しか違わないのに、このように活躍をしていて凄いものだなと思った(それで言えば落合陽一のほうも一九八七年生まれでこちらと三年しか変わらないのだ)。棚を見ていたなかでは、ロラン・バルトのインタビュー集である『声のきめ』にやや惹かれたが、値段が六〇〇〇円ほどしたので購入には踏み切れない(そもそも今、ロラン・バルトのようなものを読んで以前よりも楽しめるかどうか定かでない)。それから最後に漫画の区画をちょっと見たのち、何も買わずにエスカレーターを下りて書店と別れを告げた。高架通路を駅へと戻って行き、階段を下りて一階からルミネのなかに入った。フロアを歩きはじめてすぐに行き当たったモロゾフのウィンドウを見てみると、銀寄栗のケーキとか、「ブロードランド」と言ってフィナンシェなどの詰め合わせがあって(この品にはデンマーク王室献上品との売り文句が付されていた)、もうこれで良いのではないかとも思ったが、一応ほかの店舗も見てみようと通路を歩き出した。しかしフロア中、数多くの店に数多くの品が並んでいるもので、目移りしてしまうようで品を吟味比較して考えるのも面倒臭い。そういうわけで、一通り回ったところで最初の直感に従おうとモロゾフの場所に帰り、「ブロードランド」の八個入りのものを注文した。これは(……)さん個人に贈る用のものである。続けてほかの品を伝える暇もなく店員は内のほうに入って品の準備を始めてしまったので、彼女がカウンターに戻ってきた際に、あと二つあるんですがよろしいですかと言って、銀寄栗のケーキが二〇個ほど入ったもの(これは長らく休んでしまっているからということで、職場全体に贈るものである)と、自宅用に一つ三〇〇円強するカスタードプリンを三つ頼んだ。店員が品を包んだりしているのを、カウンターの前に立ち尽くして視線を遠くに送り、それぞれの店舗でそれぞれの制服を着た人々が立ち働いているのを眺めながら待つ。こちらが待っているあいだにウィンドウの前には中年の女性客が二人現れて、品を見ながら話をしており、それに対してただ一人で作業を進めている女性店員は少々お待ち下さいなどと声を掛けていたが、こちらは見ながら一人では大変だろうなと思った。それで、お一人では大変ですね、頑張ってください程度の言葉でも店員に掛けてあげようかとも頭に浮かんだのだが、実際に品を受け取る段になると口が動かず、礼を述べるに留まった。三種類の品物が入った紙袋は二重にされており、さらに予備の袋も大小二枚つけられていた。そうして、ゆったりとしたエスカレーターを一階分上り、駅ビルからコンコースへと出て、改札をくぐってホームに下りた。発車間近の電車は混んでいたので後発を待つことにして、ホームに立ったまま『多田智満子詩集』を読みはじめた。電車はまもなくやって来て、座席に就くと引き続き読書を進め、身体や顔をあまり動かさずに静止して、文字にじっと目を落として到着を待った。(……)に着いて降りると時刻は午後六時、空は既に青く暗んだ池と化し、西の空に集まった雲の絡みながら広がる藻草めいて影を成している。ホームを歩いて自販機の前まで行き、小銭を挿入しながら小さなスナック菓子を三種類買った。しゃがみこみ、出てきた三つを一気に掴み取り、クラッチバッグに収めて鞄を丸めると、待合室の横に場所を移して、ふたたび『多田智満子詩集』を読みながら乗り換えの電車を待った。小学校と裏山がその向こうにある暗闇の奥から、秋虫の音が盛んに鳴り出ていた。電車が来ると最後尾の車両に乗り、しばらくまた文字を追ったのち、最寄り駅で降りると、暗夜らしかった。階段を上がって行けばしかし、東南の空に雲に紛れて爪痕のような明るみが僅か見えて、月の在り処が知れる。木の間の下り坂に入ったが、この日は鈴虫らしき声は聞かれなかった。平たい道に出ると先ほどは細い傷に過ぎなかった月が、ここでは満月となって現れ、薄雲にちょっと煤けたようになってはいるが、街灯よりも赤いオレンジの色に染まっている。あとから知ったが、この日は中秋の名月だったらしい。随分と綺麗な円を描いているそれに目を向けながら歩き、帰宅するとプリンを買ってきたと母親に言って、三個入りの箱を冷蔵庫に入れた。(……)さんと職場に贈る分は仏間のほうに置いておき、下階に下りて服を着替えた。食事は昼と同様、カレーを食べ、すぐに入浴してくるとまだ時刻は八時頃だったかと思う。緑茶で一服しながら時間を潰し、九時前から新聞記事の書抜きを行った。一五日と一六日のものからいくつも記事を写すと一〇時過ぎ、そのまま今度は一七日と一九日の新聞を読んで一一時を迎える。そこでアイロン掛けをしていなかったことを思い出して上階に行くと、居間では父親がソファに就いて歯を磨いており、テレビには『落語DEEPER』が掛かっていた。炬燵テーブルの端でハンカチやシャツにアイロンを掛けながら、こちらもテレビ番組に目を向ける。番組は、「居残り佐平次」という演目を取り上げており、三代目古今亭志ん朝や、五代目三遊亭圓楽立川談志らの映像が流れる。アイロン掛けをしているために手もとに視線を落とさねばならず、間を置かずに映像を注視することができないのが煩わしかった。アイロン掛けを終えたあとも椅子に就いて、番組を最後まで視聴していると、途中で父親が、お前寄席に行ったことはあるかと尋ねてくる。ないと答えれば今度行くかと言うので、末廣亭、と唯一知っている寄席の名を挙げて、それも悪くないなと思った。一一時半までテレビを見ると自室に帰り、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』の書抜きを少々行った。(……)その後一時近くから、また『多田智満子詩集』を読みはじめた。ベッドに横になりながら一時半過ぎまでものを読み、本を閉じるとすぐさま枕に腰掛けて瞑想に入った。二〇分強座って、二時直前に就床した。やはり寝付くのに苦労はしなかったらしい。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 重要なのは、この人たちがなにを言い、なにをするかだ。重要なのは、彼らの行為[﹅2]だ――その意味でのみ、私は本書で彼らを、憎み、わめき、抗議し、誹謗する者と名付ける。行為を――その行為を成す人をではなく――見つめ、批判することこそが、行為者が自身の行為から距離を取ること、自身を変えることを可能にする。こういった見方をすれば、批判すべきは、個人または集団ではなく、その個人または集団がある具体的な[﹅4]状況下で言うこと、成すこと(そしてそのせいでもたらされる結果)となる。そうすれば、彼らも別の状況では別の行動を取る可能性があることを、認めることができる。つまり、重要なのは、以下のことだ――なにが彼らをこういった行為に走らせるのか? 彼らの言葉はどこに由来するのか? この行為にいたるまでに、どんな経緯があったのか? 彼らが難民たちに向ける視線は、どのような価値観を前提としているのか?
 (47)

     *

 この狩りと進路妨害において興味深いのは、危険であるとされる対象に近づきたいという欲求だ。写真と映像に撮影されたのは二台の異なるバスである。最初の写真にあるデーベルンのバス、そしてクラウスニッツで進路妨害に遭ったバス。だがどちらの場合も、難民の移送が画像または映像という手段を使ってスキャンダルに仕立て上げられている点は同じだ。(デーベルンにて、目立たずこっそりと」) クラウスニッツでバスの進路を妨害した者たちはいつからあの場所に立っていたのか、誰が情報を提供したのか、確かなことはわからない。確かなのは、バスの進路を妨害した者は皆、明らかに争いを望んでいた[﹅5]ということだ。難民を恐れているはずの者たちが、その難民を避けて[﹅3]はいないのだ。難民たちは嫌悪され、避けられたのではなく、まさにその逆だった――すなわち、彼らはわざわざ探し出され、争いの場に引っ張り出された。抗議する者たちの決定的な動機が(彼らが主張するように)不安や懸念だったのなら、彼らは難民たちに近づこうとはしなかったはずだ。不安でいっぱいの人間は、危険な対象とのあいだにできるかぎり大きな距離を取ろうとするものだ。だが憎しみは逆に、その対象を避けたり、対象から距離を置いたりすることができない。憎しみにとっては、その対象は手の届く距離にいて、「破滅させる」ことができなくてはならないのだ。
 (50)

2018/9/23, Sun.

 一一時過ぎに起床するまでのあいだ、夢を三、四種類見たが、その内実は大方失われているし、無理に頑張って思い出して詳細に綴るのも面倒臭い。いつもの通り、目を覚ましながらも起き上がれないままにいると、母親がやって来て蕎麦を食べに行こうと誘ったが、あまり気は進まないところだった。それからまもなくして身体を起こすと、顔を洗いもしないうちに枕に座って瞑想を始めた。近くの道をバイクが発進して滑って行く音や、空間の奥から伝わってくる川の響き、ただ一匹で僅かに生き残ったツクツクホウシの鳴き声などに耳を寄せながら一七分を座ると、上階に行った。卓に就いて新聞をめくり、記事を確認したあと、蕎麦を食いに出かけることになった。外着に着替えて玄関を抜け、鍵が見つからないとか言ってまごまごしている母親を待つあいだ、日なたに立って視線を上げ、風に吹かれて細かく蠢いている林の緑を眺めた。風は背後からこちらの身にも触れてきたが、あまり涼しさを感じさせないものだった。林の梢に接した視界の隅では、ふわりと膨らんだ雲が青空を流れて、木々の向こうに入って行こうとしているところだった。母親がやって来ると車の助手席に乗り込み、出発した。しばらく走って交差点から下る道に入ると、近間の家屋根がてらてらと純白に照り映えている。橋を渡るあいだに川を見下ろすと、絹糸を束ねて流したように白い筋が撓みながら水の表面に浮かんでいた。道を走りながら、こちらには感知できなかったが、金木犀の匂いがするねと母親は言った。そうして、「お食事処 (……)」の駐車場に入る。入店すると左手に座敷、右手には土間のような床から一段上がった席が窓際に二つ設けられており、我々は右を選んだ。靴を脱いで段を上がり、畳の上に置かれた座布団に尻を据えて、木目のついたテーブルの挟んで母親と向かい合う。店はもう結構年嵩の夫婦で切り盛りしているらしく、席に就くとまもなく、注文を受ける奥さんのほうが緑茶を持ってきた。二人ともすぐに野菜と海老の天ざる蕎麦に決めてそれをおばさんに伝えると、彼女は大きな声で厨房の旦那に向けて復唱してみせる。料理が出てくるのを待つあいだ、初めのうちは向かいの母親が何だかんだと話していたが、彼女が口から吐く言葉はことごとくおよそどうでも良いとしか思えなかった。そのうちに母親は手帳を取り出して予定の確認や書き込みを始め、喋らなくなったので、こちらは絵の具を溶かしたようにはっきりとした緑色の茶を啜って暇を潰す。右手すぐの縦に長い窓の外には幹にテープを巻かれた低木があり、上方の空には雲が多く流れて陽は出てはまた陰り、光の射す時にはテーブルの半分くらいまで日なたを置かれていた。母親の向こう、正面の窓は障子が閉てられており、その前のスペースには申し訳程度といった風に花瓶や壺や招き猫の置き物が並べられている。左端にある花瓶の表面には、おそらくは梅だろうか、深い青の流れる幹に赤い花びらのついた木の絵が描かれているが、挿さっているのは紙か布製の生気を欠いた造花の類で、古びた花弁の表面には埃の色が見えるのだった(右端にあった招き猫の人形の台も薄く埃を帯びているのが視認できた)。左手はカウンターで、その下には空き瓶のたくさん入った黄色いビールケースが置かれ、そのほか雑多な荷物類が並べられている。カウンターの上にある新聞は毎日新聞だった。カウンターの向こうは厨房になっており、換気扇の音が大きく鳴るなかで、白い割烹着姿の主人が火を上げたり湯気を立てたりしながら、調理場の各所を軽快に動き回って品を拵えていた。料理が出来あがって届くまでには一五分か二〇分くらいは掛かったのではないか。蕎麦の量は一見して少なく、こじんまりとした感じで盛られていたが、代わりに天麩羅が盛り沢山で、あとで数えてみると全部で八種類が取り揃えられており(人参・ジャガイモ・キノコ・ミョウガ・南瓜・玉ねぎ・茄子・大振りの海老)、さらに煮豆の小鉢もついていた。蕎麦の味の良し悪しなど仔細に見分ける舌を持ち合わせていないから、麺のほうは大した印象をもたらさなかったが、揚げたての天麩羅のほうは美味しくいただいた。膳が届くと同時にどこからか現れ、周囲を飛び交うようになった小蝿をたびたび手で追い払いながらの食事だった。会計は二人合わせて二三七〇円、母親が大方を卓上に出し、こちらは一〇〇円のみを加えて、緑茶のおかわりを飲み干すと席を立って厨房の夫婦にごちそうさまでしたと声を掛け、奥さんを相手に支払いを済ませた。退店すると時刻は一二時四五分頃だった。それから近間のスーパー「(……)」に移動し、車を降りて籠を載せたカートを押す。入店してすぐ脇にあったバナナを籠に入れると、カートを母親に任せてフロアを渡り、カルシウム入りの飲むヨーグルト二本を取ってきた。さらに三個で一セットの小さめの豆腐を二つ入手して加える。肉のコーナーからは、幅のある牛の肩ロース肉を二パック、今夜のメニューにと選んだ。その他諸々を追加してレジを通り、荷物をまとめると車に戻って移動し、今度はドラッグストア「(……)」に入店した。こちらは最近手指の付け根などが荒れているので「ユースキン」が欲しかったのだが、見たところこの店舗にはユースキンシリーズは置いていないようだった。それで籠を持って店内をうろつき、アイスやヨーグルトなどを入手して会計に行き、ここでは二二〇〇円をこちらが払って端数を母親が埋めた。すぐ傍にもう一店、同じ(……)の(……)店があるので、ユースキンだけ購入するためにそちらにも寄ることになった。入店して壁際に並んだ薬のなかから軟膏の区画を眺めていると、近くにいた女性の店員から何かお探しですかと掛けられたので、ユースキンはあるかと尋ねた。女性が棚から白いやつを探し出してこちらの種類で良かったかと言うのに、黄色いものがあればと返すと、少し移動して該当の箇所まで連れて行ってくれたので、礼を送って品を手に取った。まだ高校生くらいだろうか、唇の赤い若い女性を相手に八六一円を支払って車に戻ると、帰路に就いた。(……)橋を渡って坂を上っている最中、道端の家の庭に色濃い褐色の肌をした老婆の姿を発見したのだが、この人は普段、大きな声で独り言を漏らしながら(あるいは見えない何かと会話をしながら)方々を歩いているのを見かけるものである。彼女はこの時はホースを持って水を撒いていたのだが、母親はあれは人の家ではないのかと言った。ありそうなことではある。それからしばらく走って帰宅すると、荷物を運び込み、買ってきた品々を冷蔵庫に収めた。購入してきたアイスを母親と分け合って早速食べるあいだ、テレビは『パネルクイズ アタック25』の最終盤、地中海クルーズを賭けた最終問題を流しており、ヒントの画像がパネルに隠されて不完全に現れて行くのを見ていると、水墨画らしき画像がなかに一つあったので雪舟かと当てずっぽうで思い浮かべれば、それで正解だった。それから緑茶を用意して下階に帰り、インターネットを閲覧して時間を潰したのち、三時過ぎから瞑想を行った。呼吸を観察するという基本的な姿勢に立ち戻ったところ、そこそこの意識の深まりを得られたような感じがして、時間も気づけば三〇分以上が経っていた。それから便所に行ってからギターにしばし寄り道したあと、日記を記しはじめた。四時五〇分に至ると天井が鳴ったので上って行き、巻繊汁を拵えるために人参や牛蒡、椎茸や大根を切った。小さな板の上で大蒜も刻み、すり下ろした生姜とともに油を引いた鍋に投入したが、これらが鍋底にくっついてしまい、野菜を加える頃には焦げて汚くなっていたので、仕方なしに水を少々加えて難を凌いだ。しばらくしてから水を注いで煮込みに入ると、今度はもやしを笊に空け、またピーマンを三つ細切りにしてフライパンで炒めた。牛肉は食事の時間が近くなってからということで、付け合わせの野菜のみ先に調理しておいたのだ。すると時刻は五時半、汁物の野菜に楊枝を通すとまだ少々固いようだったので、待っているあいだに書き物を進めることにして一旦自室に帰った。そうして一五分だけ打鍵をしてから台所に戻り、醤油と味醂で味付けをするとひとすくい味見をし、醤油をちょっと足して完成とした。台所に立っているあいだも、原因不明の疲労感を身に帯びていた。それから自室に帰ると六時直前からふたたび日記を書き足して、ここまで綴ると一時間が経過して七時直前を迎えている。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』の書抜きをしてから、食事を取りに行った。いくらか筋張った牛肉をおかずに米を食べ、風呂に入ると時計が指しているのは八時五分、湯のなかで瞑想じみて目を閉じて過ごし、上がると緑茶を拵えて自室に戻った。そこからまた例によって、Ryan Keberle & Catharsisの音楽を流しながらも、怠惰な時間を長々と過ごして、日付の変わる直前に至った。コンピューターをスリープ状態にしてベッドに腰掛け、机の上に溜めておいた何日も前の新聞を読み出し、ゴルフボールをぐりぐりと踏みつけながら、九月一五日と一六日の分から気になる記事を取り上げて目を通すと、一時間が経っていた。そうして洗面所に行き、空きっ腹にN-アセチルチロシンを二錠、流し込む。このアミノ酸サプリメントを数日前から摂りはじめたのだが、摂取前と摂取後で自分の心身に驚くほどに何の変化も感じられない。多分自分には効かないのだと思うが、せっかく買ってしまったので一か月分は飲まなければなるまい。それからベッドに移動して、瞑想を行う。空の腹にカプセルを送りこんだせいか否か、胸焼けめいた感覚が少々あり、食道の奥から熱い空気の上がって来そうな感じがしたが、座って呼吸を繰り返しているうちに落ち着いた。三〇分を過ごして消灯し、布団を被ったあと、入眠までの記憶は残っていないので、わりあいすぐに寝付いたのではないか。再開した瞑想のおかげなのかどうか、ここ最近は入眠に苦労することはなくなったような気がする。

2018/9/22, Sat.

 ベッドを抜け出すのには一二時一〇分まで掛かった。七時頃から何度も目覚めており、眠気は薄れてほとんどなくなっていたのだが、身体が気怠いようで気力が湧かず、無益に長々と布団のなかに留まってしまうのだった。時間が遅くなったので瞑想はせずに上階に行くと、鮭などをおかずに食事を取った。テレビは『メレンゲの気持ち』を流しており、NHK青井実アナウンサーなどが出演していたが、興味を持てなかったし目を向けていて楽しいとも面白いとも思えなかった。風呂は湯が多く余っているから今日は洗わなくて良いとのことだったので、食後に食器を片付けるとそのまま下階に下った。ギターを弄ったあと、モニターを前にしながら二時半前までだらだらと過ごした。何も活動を行っていないにもかかわらず、疲労感が生じていた。読書をするかたわら身を休めようとベッドに仰向けになり、手帳を取って「14:25~」と書見の開始時間をメモしたものの、実際には本をひらく前に目を閉じて休息しはじめてしまい、そうしてそのまま意識を落とすことになった。貼りつくようになった寝床から身を離したのは、それから五時間半後の午後八時直前だった。この日は合わせて一五時間もの時間を寝床で過ごすことになったわけだが、大して何も行動していないのに疲労感を身に帯びてこれほどまでに休んでしまうというのは明らかに異常であり、だいぶ回復してきたと思っていたものの、自分はその実、うつ症状の圏域からまだまだ逃れていないということなのかもしれないと思った。とにかく気力というものが心身に湧いてこず、眠気がなくとも起き上がることができずに、目を閉じて臥位のままに時間が流れて行くのだった。床を離れた頃、南の空に清かな光を持った半月が出ており、連なる波のように広がる雲の合間から落とされた月影が暗闇の部屋を通って、こちらの影を僅かに浮かび上がらせていた。上階に行くと、鍋に入った薩摩芋をつまみ食いしながら、茄子の炒め物や大根とワカメの汁物やサラダを食器に盛り、挽き割りの納豆に甘い酢を加えて支度をした。そうして卓に就き、出川哲朗の充電バイクの旅を見ながらものを食ったが、やはりテレビを見ていて興味を惹かれるとか面白いと感じるという心の働きがまったく生じず、心身にあるのは疲労感と空虚感のみだった。食後、三ツ矢サイダーをコップに注いで飲んでから、薬剤とサプリメントを摂取した。クエチアピンはここのところ勝手に一回一錠に減薬していたところ、今日のように疲労感と無気力さに襲われるばかりなので、関係があるのかわからないが二錠ずつに戻してみることにした。そうして自室に戻り、ジャージを脱いでパジャマを持って洗面所に行き、入浴した。風呂を洗わなかったので湯のなかには細かなゴミがたくさん浮遊しており、浴槽の壁もいくらかぬるぬるとしているようだった。時計を見やると、時刻は八時四五分だった。窓を少々ひらいて目を閉じ、一〇分ほど静止してから立ち上がって冷たいシャワーを浴びた。そうしてまた湯のなかに戻り、その後髪を洗って風呂を上がり、緑茶を拵えて自室に戻るとしばらくインターネットに遊んだ。日記を記しはじめたのは一〇時を四分の一過ぎた頃合いだった。記憶を思い返しながら前日の記事をのろのろと綴り、この日の分も記すと、既に九月二二日の終わりも近かった。洗面所から歯ブラシを取ってくると、歯を磨きながら金子薫『双子は驢馬に跨がって』を読みはじめた。口をゆすいできてからしばらくのあいだはベッドのヘッドボードに当てたクッションに凭れていたが、じきに臥位に移って横を向き、虫の音の窓を抜けて染み入ってくるなか、膝を曲げて身体を丸めるようにして読書を進めた。横になっているにもかかわらず、疲労感で身体が重いようで、腹には原因不明の痛みがあった。本を最後まで読み終えたのは一時過ぎだったが、この作品は書抜きをしたいと思う箇所もなく、あまり面白かったとは思えなかった。そのまま消灯して眠りに向かいたいところを、瞑想をしなければとしばらく耐えて、一時二四分から起き上がって枕に腰を下ろした。一四分間座り、そうして明かりを落として布団に潜りこんだ。入眠に苦労した覚えはない。

2018/9/21, Fri.

 七時台に一度、自ずと覚醒があった。アラームを待ってふたたび寝入り、八時半のそれが鳴ると床に立ち上がって携帯を取ったが、例によってふたたび寝床に戻った。起床を見たのはそれから一時間後の九時半だった。まだ意識が重いようなのを無理やり断ち切って布団から抜け出し、洗面所に行って顔を洗って来てから、枕に尻を乗せて瞑想を行った。雨が物静かに降っており、雨滴に満たされた空間の遠くからは鳥の声が間歇的に薄く伝わってきた。目をひらくと一七分が経っており、手帳に瞑想を行った時間をメモしてから放心したようになって窓のほうに顔を向けていると、梅の木の葉叢のなかのところどころで、上の葉から溢れた雫が落ちて当たるのだろう、たびたび縦に揺れるものがあって、大きな機械仕掛けの楽器の部分部分が入れ替わり立ち替わり鳴っているかのようだった。上階に行き、前日の残り物のうどんや林檎で食事を取る。抗精神病薬サプリメントを服用し、食器を洗ってから薬缶に水を汲んで、湯の少なくなっていた電気ポットに水を足した。そうして、パジャマからジャージに着替えてから風呂を洗い、出てくるとポットは湯を沸かしている最中なので一旦自室に戻ってコンピューターを立ち上げた。ちょっと経ってから緑茶を拵えにまた上がって行くと、母親はテーブルの端、ポットに一番近い席に座って書き物をしていた。大学時代に付き合いがあったのだろうか、石橋幸というロシアの歌を歌うらしい歌手から兄に向けて先般公演への誘いが送られてきていたのだが、それに対して、息子はモスクワに赴任中のためコンサートに行けないという返信を小さな紙片に律儀に綴っているのだった。電気ポットの台とテーブルとのあいだの狭い隙間に入り、母親の傍らで茶を注いだこちらは自室に帰って、そこから一二時頃までだらだらとした時間を過ごした。何ら有効な活動を行っていないのに、目の奥が重いような疲れが湧いていた。それで日記を記さなければならないところを、ひとまず身体を休めることにして、ベッドに横たわって金子薫『双子は驢馬に跨がって』の続きを読んだ。雨は降り続いており、腹のなかで消化が進んだためでもあろうか、寝転がりながら身に寒気を帯びる瞬間も何度かあった。それで薄布団を引き寄せてその下に入り文を読み進めるうちに、殊更に眠いわけでもないが瞼の落ちる時間が訪れる。本格的に寝入ってしまわないように注意しながらも目を閉ざしていると、突如携帯の振動音が響いて、それで落ちかけていた意識が明るむことになった。メールは、クレジットカードの請求金額確定の通知だった。それからまた少し読書をして、二時一〇分で切ると豆腐でも食べようかと上階に行った。レトルトカレーを食べて随分美味しかったと母親が言うので、こちらもそれをいただくことにして、パウチの水に浸けられているフライパンを火に掛ける。加熱しているあいだに卓のほうで、前夜の残りの炒め物を食べ、そうして台所に入ってカレーを大皿に用意し、それを続けて食した。テレビは『ミヤネ屋』を流していて、どこかのコンビニの店長の不適切な振舞い(深夜に店を訪れた女性客に向けて、ズボンのチャックの隙間から手を出してみせたり、猥褻な言葉を吐いてみせたり)を取り上げていたが、それについては細かいことは良いだろう。洗い物を済ませると、いよいよ日記を書かねばと思いながら階段を下ったが、ここに至ってもあまりやる気が湧かず、自室ではなく隣室に入ってギターに逸れてしまった。じきに三時を迎えた。便意を催したのを機にギターを弄るのを切り上げてトイレに行き、排便をすると(大したことはないが、久しぶりに肛門から血が漏れて便器のなかの水がぽつぽつと赤く染まった。排便とともに出血を見ることが、一年以上前から折に触れてあるのだが、痔なのだろうか?)自室に帰って、ようやく日記に取り掛かった。一九日の分が完成しておらず、二〇日のものに至っては一字も記していなかったが、まだ記憶の新しいこの日のことから初めに綴った。その後、一九日の記事を書き足し、二〇日のものも短く綴って仕上げると、時刻は四時一五分を迎えていた。それから(……)さんのブログを読んで五時を越えると夕食を作りに行くべき頃合いだったが、マウスの下敷きにしていたガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』を久しぶりにひらいて、アウレリャノ・ブエンディア大佐の最後の一日の記述を読んだり、自分のブログの文章を読み返したりしてしまって、部屋を出る頃には五時半を過ぎていた。階を上がって台所に入ると、茄子を二個分、楕円形に切り分けてフライパンで炒めた。野菜に焦げ目がつき、蒸気が底から薄く立ってはすぐに散っていくくらいになるまで調理をすると完成として、隣のコンロで火に掛けられていた鍋に味噌を溶かした。白菜と椎茸の味噌汁だった。あとは、食事のすぐ前に鮭を電子レンジで調理すれば良いのだった。仕事を終えて下階に帰ると、一年前の日記の読み返しを始めた。二〇一七年九月一五日の分からだった。三日分を読んで一旦打ち切り、インターネットを回ってから食事を取りに上がった頃には、八時がもう近かったはずだ。ものを食べるあいだ、テレビのなかではモーリー・ロバートソンが、日本人でも知らないような日本語のクイズに挑戦しており、一度も見たこともないような難読語を彼が正解するのを目にして母親は、凄く頭がいいんだねと感心していた。そうしたおよそどうでも良い番組に目を向けて空虚感を味わいながら食事を取ったあと、入浴に行った。浴槽のなかで身体を湯に取り囲まれながら両腕を縁に掛けて静止し、八時二〇分から八時三五分まで目を瞑っていた。そうして風呂を上がって自室に戻ると、その内実を記憶していないが午後一一時を迎えるまでインターネットに触れてだらだらと過ごしていたらしい。それからふたたび日記の読み返しを始めて、二〇一七年九月一八日から二一日の分まで四日間に目を通した。二一日の記述をここに引いておく。

 茶を用意しながら居間の南窓を見通すと、眩しさの沁みこんだ昼前の大気に瓦屋根が白く彩られ、遠くの梢が風に騒いで光を散らすなか、赤い蜻蛉の点となって飛び回っているのが見て取られる明るさである。夕べを迎えて道に出た頃にはしかし、秋晴れは雲に乱されて、汗の気配の滲まない涼しげな空気となっていた。街道に出て振り仰いでも夕陽の姿は見られず、丘の際に溜まった雲の微かに染まってはいるがその裏に隠れているのかどうかもわからず、あたりに陽の気色の僅かにもなくて、もう大方丘の向こうに下ったのだとすれば、いつの間にかそんなに季節が進んでいたかと思われた。空は白さを濃淡さまざま、ごちゃごちゃと塗られながらも青さを残し、爽やかなような水色の伸び広がった東の端に、いくつか千切れて低く浮かんだ雲の紫色に沈みはじめている。
 裏通り、エンマコオロギの鳴きが立つ。脇の家を越えた先のどこかの草の間から届くようだが、思いのほかに輪郭をふくよかに、余韻をはらんで伝わってくるなかを空気の軽やかに流れて、それを受けながら歩いて行って草の繁った空き地の横で、ベビーカーに赤子を連れてゆったり歩く老夫婦とすれ違うと、背後に向かって首を回した。夕陽が雲に抑えられながらも先ほどよりも洩れていて、オレンジがかった金色の空に淡く混ざり、塊を成した雲は形を強め、合間の薄雲は磨かれている。歩く途中で涼しさのなかに、気づけばふと肌が温もっている瞬間があったが、あの時、周囲に色は見えなくとも光線の微妙に滲み出していたらしい。それから辻を渡って、塀内の百日紅が葉の色をもう変えはじめていると見ていると、もう終わったと思っていた樹の枝葉の先に、手ですくわれるようにして紅色が僅かに残って点っていた。

 その後、日付が変わるのを待たずに音楽を聞きはじめた。いつも通り、Keith Jarrett Trioのスタジオ版の"All The Things You Are"から始め、『Tribute』の"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"を聞いた。そうして最終曲の"U Dance"を流してこのアルバムを一通り聞き終えると、Ryan Keberle & Catharsisの"Ballad Of The Sad Young Men"に飛んだ。Camila Mezaが伸びやかな声で歌う『Into The Zone』収録のそのバラードのあとには、『Azul Infinito』の最終曲、"Madalena"を聞いて音楽鑑賞を終いとし、すると時刻は零時半だった。それから(……)一時過ぎから金子薫『双子は驢馬に跨がって』の続きを読んだ。そうして二時を回り、本を閉じて瞑想をしたあと、二時半ちょうどに明かりを消して眠りに向かった。

2018/9/20, Thu.

 この日は一日中、だらだらと不活性な状態で過ごした日で(今の自分はそもそも何をしていても精神そのものが不活性であるようにも思われるのだが)、特に印象深いことも残っていない。辛うじて行った活動としては、朝晩に一五分ずつの瞑想を行ったこと(自分に何らかの恩恵があるかどうか不明だが、ひとまず以前のように起床後と就床前の瞑想をふたたび習慣にしてみようかと考えている)、午後三時一五分から五時半まで金子薫『双子は驢馬に跨がって』を読んだこと、夜半に音楽を四〇分ほど聞いたこと、その程度である。音楽は例によってKeith Jarrett Trioの"All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)に、八九年録音のライブ盤である『Tribute』から、"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"、"All The Things You Are"、"It's Easy To Remember"の四曲である。ヘッドフォンをつけて瞑目しているあいだ、瞼の裏の視界に靄のような淡い光のようなものが蠢くのが見えた。これは丹光と呼ばれるもので、以前瞑想を習慣的に行っていた時には毎度のように目にしており、これが出てきたというのは変性意識がある程度深まった証、要は何らかの脳内物質なり脳波なりが発生している証としてこちらは捉えていたのだが、今回これが見えたからといって、かつてのように意識が研ぎ澄まされるとか、液体的な心地良さが生まれるとかそういったことはなかった。脳内物質の分泌に異常がないのだとしても、受容体のほうがどうかなっているというそういう可能性はあるのかもしれない。

2018/9/19, Wed.

 この朝も何かしらの夢を見たはずだが、既に忘れてしまった。七時の携帯アラームで布団を抜けたものの、例によってふたたび寝床に戻ってしまう。この日は前日に引き続き父親が休みで、朝から墓参りに行くという話になっていた。それで何度か、天井が鳴ってこちらを呼ぶ音がしたが、それを無視して横たわり続けた。身体にさして重さがあるわけでなく、眠り足りないという感じがあるわけでもなく、ただ何だか起き上がるための活力が湧いてこないのだった。それで寝床に吸いつけられたかのようにして時間を過ごし、出かけていた両親も帰ってきたあと、一〇時五五分になってようやく身体を起こした。上階に行き、顔を洗ってから食事を取った。豚汁にハム入りの目玉焼きで、米の類は食べなかった。こちらがものを食べはじめた頃、父親は畑に出て、母親は再度買い物に出かけて行った。卓上には「iHerb」の文字を記された段ボールの小箱が置かれていた。こちらの注文したN-アセチルL-チロシンがこの午前に届いたのだ。食後、段ボールを鋏で切りひらいてサプリメントのボトルを取り出しておいたが、まだ飲みはじめはしなかった。今飲んでいるバコバハーブがなくなってから、それと入れ替わりにこれを摂取しはじめるつもりである。食器を洗うと風呂掃除もしてから、緑茶とサブレを持って自室に戻った。一一時四五分頃だった。茶を飲みながら娯楽的な動画を眺めたのち、一二時四五分に至って日記に取り掛かりはじめた。しばらくすると母親に呼ばれたので上階に行ってみると、畑の父親に食事を届けてくれと言う。それでカレー風味のドリアやらサラダやらが乗った盆を持ち、裸足にローファー型の靴を履いて玄関を抜け、家の南側に回った。ゆっくりとした足取りで通路を歩くこちらの足もとを、オレンジ色の蝶が飛び交い、草と戯れていた。父親自ら作った木製のテーブル席に膳を置くと、眼下の畑にいる父親に呼びかけ、飯、ここに置いておくからと知らせた。そうして戻る途中、草むらのなかの葉の一枚に、先ほど見かけたオレンジ色に斑点の付された蝶が乗っているのを見つけて立ち止まり、葉の上に静かに止まりながら翅をゆっくり広げては閉じるその姿を見つめた。そこにいるあいだに陽が出てきて背に掛かったが、さらりとした秋の空気のなかでその熱が、暑いのではなくむしろ気持ちが良いようだった。室内に戻ると、母親がこれも持って行ってと示すのは、氷の入ったカルピスの注がれたグラスである。それでそれも持ってふたたび外に出ると、林からツクツクホウシの鳴きがまだ立っていた。家の南側に向かって下りて行くと、上ってきた父親と出会ったので、向こうに置いておくよと掛けてすれ違い、テーブル席にグラスを加えておくと、自室に帰った。そうして書き物に戻り、一二時四五分から合わせて四時間のあいだ、黙々と日記作成を続けて、一七日のことは一万五〇〇〇字近くに達し、その翌日は反対に一〇〇〇字未満で簡易に綴り、さらにこの日の分まで書き綴ることができた。四時半前にはインターフォンが鳴ったので上階に上がって行った。玄関を開けると、予想していた通り(……)さん(トラック行商の八百屋)である。挨拶をして、今、下にいるんでと母親のことを指し、訊いてきますと言って家の南側に回る。帽子を被り、しゃがんで草取りをしている母親に、(……)さんが来たと伝えると、今日はいいと言うので、家の角を曲がり、上の道にいる(……)さんに向かって腕で✕印を作って示した。そうして坂を上って、運転席に乗りこんだ彼の近くまで行き、すみません、またお願いしますと残して見送ったあと、郵便を取ってなかに戻った。その後、夕食の支度にはピーマンと牛肉を炒め、またブナシメジの味噌汁を拵えた。それから下階に戻るとギターを弄り、部屋が暗んだ午後六時になって止めると、自室に入って(……)さんのブログを読んだ。ここのところ読めずにいて未読の記事が溜まっていたのだが、一五日のものから最新の一八日のものまで一気に読んでしまうと、一時間が過ぎて時刻は七時を越えていた。そうして食事を取りに行き、食物を摂取してから風呂に入ると、湯のなかに浸かって目を閉じた。外から響く虫の声が継ぎ目なくひと繋がりに大きくなって、空間の途中に差し挟まれているシートのようだった。入浴後は特に日課の記録も付いておらず、長く、だらだらと過ごしたはずだ。そうして午前一時に至ると読書に入ったのだが、それは残り少ないカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読み終えてしまいたかったのだ。僅かな残り頁を三〇分で読了したあと、そのまま続けて金子薫『双子は驢馬に跨がって』を新たに読み出し、二時を回ったところで切りとして、眠る前の瞑想を行った。ころころと転がる硝子の玉のような虫の声に耳を寄せたあと、二時一七分に至って目をひらき、明かりを落として就床した。

2018/9/18, Tue.

 一〇時前起床である。前日に会ったばかりの(……)が出てくる夢を見たはずだが、詳細は既に失われている。朝食は、ものを食べたいという気持ちが全然なかったため、鯖の一切れに米、あとは梨で軽く取った。日記に取り掛からなければならないはずが、一二時間以上も外出した前日の記事が長くなることがわかっているためだろう、むしろそこから遠ざかってしまい、だらだらと娯楽的な動画などを見て時間を過ごしたあと、一二時半頃になってベッドに横たわった。前夜の帰宅後にはなかった疲労感が、むしろ一夜を挟んだこの時になって湧いてきたようだった。それでちょっと休もうと身を横たえ、横を向いて身体を丸めていたところが、まったく「ちょっと」に終わらず、ここから六時過ぎまで五時間以上も寝床に留まる体たらくとなった。この日は合わせて一三時間以上も横になっていたことになる。起きて上階に行くと、飲むヨーグルトを一杯飲んで喉を潤し、フライパンで秋刀魚を焼いた。その後、自室に帰って、七時前からようやく書き物に入った。そうして八時ちょうどまで記事を書き進めてから夕食に上がって行った。炒飯の残りや秋刀魚、薩摩揚げに豚汁などである。テレビは『ヒャッキン!〜世界で100円グッズを使ってみると?〜』を映しており、酒を飲んで肌のいくらか赤くなった父親は機嫌良さそうに、番組に反応して一人で色々と呟きを漏らしている。なかに、マイクロファイバー素材の掃除用手袋というものが紹介された。両手にそれを嵌めて掃除箇所を撫でていくだけで埃が取れるという代物で、チェコの古城のシャンデリア掃除を担っている女性など、無数の細かな部品をいちいち拭かなければならないためにそれまで一つに一時間は掛けていた面倒な仕事が随分と楽になると言って、表情をニコニコとさせていた。あんなの良さそうじゃないかとこちらも呟き、それから風呂に入った。入浴後、緑茶で一服するあいだはふたたび動画を閲覧して気を緩め、一〇時半から書き物に返った。それから三時間弱、一時過ぎまで書き続けたが、『リズと青い鳥』について書き記すのに手間が掛かって、六〇〇〇字くらいまでしか進まなかったはずだ。その後、歯を磨き、また時間をちょっと使って、一時五〇分に床に就いた。

2018/9/17, Mon.

 寝付きが悪く、深夜と早朝で二度覚めたあと、無事に七時のアラームで起床することができた。久しぶりに瞑想をしたあと(七時一分から一五分まで――最中、特に気分の変化や何らかの精神作用などはなかった)、上階に上がって行き、台所に立つと、出勤前の父親が立つ脇、ソファに置かれた黒いバッグに陽射しが掛かっている。生ゴミや燃えるゴミを母親とともにゴミ袋に詰め込んで、生ゴミを保管するのに使っている薄黄色のバケツを洗って、勝手口の外に干しておいた。何を食事に取ったのかは覚えていない。ニュースは東京でも始まっているシェア自転車サービスを取り上げており、(……)さんが中国で利用しているのもこういうものなのだなと、リポーターが皇居周辺を走っているのを見やった。下階に戻るとキリンジ『3』を掛けて、服を着替える。上はボタンの色がそれぞれ違った白いシャツ、下はインクのような紺色に染まったなかにストライプが入り、裾がやや細くなったパンツである。それから上階に行って、靴下は先日買った臙脂色のものをおろし、出発前に風呂を洗った。リュックサックを背負い、「ノーブル」一〇個入りの箱の入った「(……)」の紙袋(リュックサックにはうまく入らなかった)を片手に提げて家を発ったのは八時半である。道端の草の上で朝露が光り、傍の家の屋根はその襞に合わせて川の水面のように純白を乗せて輝いていた。坂に入るとガードレールの向こうの草間に生えた彼岸花の細い手が、これもやはり陽を受けて、触れればぱきりと音を立てて折れそうな硬質の光沢を帯びている。陽射しのなかに夏日が既に窺えた。街道を渡って裏路地に入ると道は途端に静けさを増し、人は家先に出た老人やベランダで物を干す主婦ばかりで通行人も見られず、靴音が際立つようになる。見上げれば、すっと引いた線を左右に筆で搔き乱したような薄雲が走っていた。汗をかきながら二〇分ほど歩いて(……)駅に至ると、ホームの先のほうに行ってマンションの作り出した日蔭に入る。まもなく、電車がやって来た。乗りこんで手帳にメモを取ったあと、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』をひらいて読む。(……)駅で正面に乗ってきた幼子と母親の、子どもが座席に乗ると最初は「くつぬがして!」と大きな声を上げ母親に窘められていたが、その後はその子は(ミッキー・マウスのリュックサックを背負い、「LONDON」と文字の入った靴下を履いている)喋ることもなく、ただひたすらに窓の外をじっと見つめていた。立川に着くと降りて、南武線に乗り換える。川崎行きに乗って扉際に就き、四〇分ほどのあいだ、人が多く乗り降りする駅では持った本を胸に押しつけて避けながら、文章を追って到着を待った。川崎で降りると、映画館「CINECITTA」が東口方面にあると聞いていたので、そちらに合った改札口を探してホームを歩いたが、中央北改札と中央南改札は向かい合っていたので、これはどちらでも良かったのだ。中央北から抜けて、(……)にメールを送ると、予想した通り宛先が見つからないとの知らせが戻ってきた。今年の四月に数年ぶりで再会するまで随分と間があったから、アドレスの変更を通知されていなかったのだ。それで(……)のほうに到着したとメールを送っておくと、まもなく皆に知らせたと返ってきた。群衆の姿とざわめきに満ちたコンコースの一角に立って周囲を見回したり、高い天井から洩れ落ちる陽が床に矩形型に宿っているのを眺めたりしていると、突然、横から話しかけられた。見れば、やや褐色に染まった肌で青いTシャツを着た女性が箱を持って立っており、素性がよくもわからないが募金を集めていると言う。それについて何の知識も持っておらず、実態のよく知れず、あまり興味関心もない団体に対して、何も考えずに募金をすることに思うところがないではないが、せっかくなので、と呟き、日和見的に一〇〇円を与えた。女性は礼を言い、富士山の水で清めたお金だと言って、五円玉の入った小さなビニールの包みを渡してきた。礼を言って受け取ったそれの詳細を今ここに書き記しておくと、なかに入ったチラシの片面には、「NPO団体Animals Life Saves」と組織名が上端に掲げられ、その下に、「地球の生命・環境の為にあなたが出来ることを」との誘いが記され、さらにその下の段にはQRコードが付され、横には「命の危機に直面してる生命を救うために温かいご支援をお願い致します。」とある。下部には「あなたの寄付で出来ること」との題に括られた囲みのなかに、例えば「1,500円で63生命に清潔な水を」「3000円で120生命に予防接種を」などと挙げられており(「生命」が一つの数的単位として用いられている)、全体の背景として影を帯びた富士山が描かれている。紐のついた五円玉の収められたもう片側のほうには、左上に「福銭」と大きめの文字で掲げられ、右上からは縦に三行で「天下の霊峰【富士山】より/湧き出ずる霊水で清めた/神聖なる福銭です」と述べられて、下端には横向きに「あなたに幸せが訪れますように」とあり、やはり背景にはオレンジ色に染まった富士山の姿と、そのすぐ脇に、太陽を表しているのか月を表しているのか、同じ色で塗られた真円が描かれている。この包みに関してはそんなところである。それからまた立ち尽くしていると、すぐ目の前に(……)が現れていることに気づき、こちらをまだ認識していなかった彼に向けて、(……)、(……)、と声を掛けた。それからまもなく、(……)さんも現れて、こんにちはと挨拶をした。確かこの時もうすぐに、母親が頂きものをしたようで、とか言って、持っていた「(……)」の袋を彼女に渡してしまったはずだ。そうしてじきに(……)も合流し(髪が結構伸びていた――仕事が忙しく、前回会った四月以来切っていないという話だった)、一人遅れている(……)を待つ。一一時一五分頃になって改札から現れた彼女は、紫の風味の含まれた紺色(いくらか和風の雰囲気を感じさせるような色合い)の地に全体にピンクの小花が散ったワンピースを纏っていた。そうして皆で連れ立って歩き出し、こちらは(……)と並んで彼の仕事の話をちょっと聞く。(……)は企業のセキュリティ環境の診断・監修のような仕事をしていると言い、最近は案件/業務外で試験の類を三つ受けなければならないらしく(そのうちの一つは国家試験だと言っていた)、忙しいようだった。横断歩道で立ち止まると、夏日の陽射しがじりじりと顔に照りつける。「CINECITTA」のある区画に入ると、黄土色じみた穏やかな褐色の西洋風建築を、(……)は、「似非ディズニー・シーみたい」と評していた。「CINECITTA」の建物自体は外壁に結構褪色が見られた。なかに入り、機械を使って(……)がチケットを五枚発行し、各々に配る。そうしてエスカレーターを上がって行き、上映開始の一一時三五分とほぼ同時に上映ホールに入場した。人の顔のわからない暗闇のなかで席に就くと、しばらくアニメ作品の宣伝が流れたあとに、例のお定まりの撮影・録音禁止の注意が表示され、そうして『リズと青い鳥』が始まった。音が良かった、というのは上映後に皆が一致して口にしていた評価だ。冒頭、鎧塚みぞれがまず登場して、物思いや躊躇いを含むような歩調を見せたあと、次に誰なのかわからない無名の女子生徒が通り過ぎて行き、最後に傘木希美が現れてまっすぐな足取りで歩いて行く、その三者それぞれの足音に既に、性格造形をも担った細かな差異がはらまれていた。その他、こちらが生々しくて良かったと思うサウンドは、序盤の音楽室で椅子に座った傘木希美が鎧塚みぞれに近づく時の、椅子と譜面台の足が床を打つ連打の音、バスケットボールが体育館の床に打ちつけられる音、水道から流れ出た水が流しに落ちて当たる音などだが、こうして並べてみるとどれも「打音」に属するものである。シーンとして最も印象に残っているのは、フルートに反射した光の演出だろう。理科室にいる鎧塚みぞれと、そこから見える教室にいる傘木希美とのあいだで、窓越しに身振りによる無言のやりとりが交わされ、傘木希美の持っているフルートに反射した光の玉が偶然、鎧塚みぞれの身体の上で戯れる、という場面である。あとで聞いたところ、(……)もここが最も良いシーンだったという評価だったようで、こちらはあまり注目していなかったが、彼が言うにはこの作品は「窓」を利用した演出が多用されていたと言い、窓ガラスをあいだに挟んだ描写などは、鎧塚みぞれと傘木希美のあいだにある壁を表すことになる。二人の関係性には常にすれ違いや齟齬が含まれているわけだが(鎧塚みぞれは傘木希美に対して同性愛的な強い思いを抱いているが、それが傘木希美に受け止められることはない。また、作中でコンクールの自由曲として演じられる"リズと青い鳥"は、第三楽章のフルート(傘木希美)とオーボエ(鎧塚みぞれ)の掛け合いが一番の勘所とされているが、そこでの二人の演奏はうまく相応しない。終盤では、鎧塚みぞれの才能を目の当たりにした傘木希美は、彼女との差を思い知って涙することになる)、先のフルートに反射する光のシーンでは、こちらは注視していなかったものの、(……)が言うところ彼女らのあいだに挟まった窓がひらいていたらしく、とするとここは常にすれ違い続ける二人が唯一、屈託なく感情を通わせた特権的な瞬間として描かれていることになる(のちのイタリア料理店での会話の際には、こちらはそれを「ユートピア的な」瞬間という言葉で形容した)。ほか、一般的なクライマックスとして捉えられただろう場面は、終盤の合奏で、鎧塚みぞれが迷いを捨ててそれまでうまく演じられなかったオーボエのソロを朗々と吹き上げるところで、(……)はここでのオーボエの音に涙したと言っていた。楽曲 "リズと青い鳥"の原作である童話は、「一人ぼっちで」森に住むリズという少女のもとに、ある日突然青い髪の少女が現れるという物語である。その少女の正体は青い鳥で、リズは少女と暮らしを共にして心を通わせながらも、自分の「愛」が彼女を縛っているのだという考えに達し、大空に自由に羽ばたくようにと鳥を逃がすことになる。当初、物語中のリズは鎧塚みぞれと、青い鳥である少女は傘木希美と重ね合わされており(中学時代に「一人ぼっち」だった鎧塚みぞれの前に、傘木希美が「突然」現れて、吹奏楽部に入部するよう誘ったという経緯がある)、傘木希美を愛する鎧塚みぞれは、自ら好きな相手を解放して自分の前から離してしまうリズの心情が理解できず、第三楽章のオーボエのソロをうまく吹くことができない。その迷妄を解消したのは、鎧塚みぞれに音大進学を薦めた新山先生という女性教師で、彼女が鎧塚みぞれに、自分がリズではなく青い鳥だったとしたらどう思うかとヒントを与え、鎧塚みぞれは、青い鳥はリズを愛していたからこそ別れを受け入れたのだという答えに至る。この教師の導きによって、リズ=鎧塚みぞれ、青い鳥=傘木希美だった見立ての構図が反転することになるわけだが(童話中の「リズ」と「青い鳥」が本田望結という一人の女優によって演じ分けられているのは、二者関係の反転/交換可能性を示しているのではないか)、同じ頃、傘木希美もこの反転に気づくことになる。傘木希美は、鎧塚みぞれの薦められた音大に自分も行こうかなと口にしていたが、高坂麗奈(トランペット)と黄前久美子ユーフォニアム)という後輩二人(本篇の『響け!ユーフォニアム』では、彼女らが中心的な主人公になっているらしい)が、傘木希美らの演じるはずの"リズと青い鳥"第三楽章を、独自に演奏しているのを聞き、目撃したことで、「私、本当に音大に行きたいのかな?」と自分の選択に疑念を抱く。そこで、彼女も自分たち二人の関係性が、それまでの見立てとは逆であることに気づく――と言うのは、自分の存在が鎧塚みぞれを束縛しているのだと気づくということだろう――わけだが、この関係の「反転」は一方では「教師」によって、もう一方では「後輩」によって導入されているわけだ。迷いを振り切った鎧塚みぞれの演奏を耳にした傘木希美は、自分が今まで彼女の才能/可能性を制限していたのだと痛感し、合奏の途中で泣き出し、フルートを吹くことができなくなってしまう。その後に、理科室での、言わば「告白」のシーンである(理科室は、鎧塚みぞれの「居場所」である。彼女はそこで、水槽に飼われたフグをぼんやりと眺めながら、過去の記憶を回想したりするのだが、そこに新山先生が現れるのに、彼女は「どうしてここがわかったんですか」と口にする。したがって理科室は鎧塚みぞれにとって「一人になれる場所」であり、一種の「逃避」の場であるのかもしれず、イタリア料理店での会話の時には、少々大袈裟な言葉だったが、こちらはそれを「サンクチュアリ」のような場所と呼んだ(ちなみに、先の「ユートピア的な」シーンでの傘木希美とのやりとりは、この理科室とのあいだでなされている))。自分が今まで鎧塚みぞれの才能を阻害していたのだということをまくし立て、「みぞれは、ずるいよ」と口にする傘木希美を遮って、鎧塚みぞれは「大好きのハグ」(中学時代に彼女らの周りで流行っていた慣習)をしながら、傘木希美が自分のすべてなのだということを「告白」する。「希美の~~が好き」と四つくらい並べるなかに、「足音」が含まれていたのが冒頭以来の演出と合わせてこちらとしては印象的だが、それに対して傘木希美は、「みぞれのオーボエが好き」と返して、その後、身体を折り曲げて姿勢を前に崩しながら大きく笑い声を上げる(この笑いの意味はあまり判然としない)。このシーンは、鎧塚みぞれの感情が傘木希美によってともかくもようやく受け止められた場面、終盤のクライマックスなのだろうが、鎧塚みぞれにとって傘木希美がまさしく「すべて」である、つまりは全的な愛の対象であるのに対して、傘木希美が「みぞれのオーボエが好き」とただ一つの要素を返すのに留まったのは、彼女にとって鎧塚みぞれはあくまで音楽的な才能を尊敬する対象であるに留まるということなのかもしれない。とすればこの場面は、「告白」の「成就」と言うよりもむしろ、(語の意味がやや強すぎて、少々ずれてくるが)ある種の「決別」の場面であるのかもしれず、ここに至っても二人の関係は、それまでとは違った形ですれ違い続けている。実際、傘木希美は音大選択を取り止め、普通大学への進学を目指して勉強しはじめるわけで、彼女らの進路は分かれるのだが、しかしそれがこの二人の関係の収まり方だということなのだろう。二人が下校する結びの場面の確か直前に、紙の上に滲んだような赤と青の色彩が互いに浸潤し合うというカットがあったのは、二者の関係が一つの「和解」(と言うとまた言葉の意味が少々ずれてはいるのだが)に至ったということを示しているはずだ(赤は鎧塚みぞれの瞳の色であり、青は傘木希美のそれである)。そして、真っ暗な背景の上に記された「disjoint」の文字(既に冒頭に登場していた)が「joint」に変更されて『リズと青い鳥』は終わりを告げることとなる。作品を見て読み取ったことをつらつらと記してきたけれど、今回の映画鑑賞は、それなりに楽しめはしたものの、こちらにとって特段に大きな感動や興奮や衝撃を与える体験ではなかった。しかしそれは作品の質というよりは、こちらの芸術的受容体の問題であるはずで、見る人が見れば細部をもっと仔細に読み取って、この作品がこちらが感じたよりも遥かに緻密に構成されているということを実感できるのだと思う。映画が終わって場内が明るくなると、人々が一斉に席から立って退場しはじめる。その流れのなかに入って通路を下りて行くあいだ、後ろのほうの客が、「今世紀最高の女キャラ」云々とか言っていた。ホールを出て歩きながら横の(……)に、泣いた、と尋ねると、オーボエの音で泣いたと言う。(……)さんもいくらか涙したらしいが、どこの場面と言っていたかは忘れてしまった。「CINECITTA」を出て、昼食の店を求めて陽の照るなかを川崎駅のほうへと戻って行く。場当たり的に「川崎ルフロン」というビルに入り、エレベーターに乗る。最初間違えて一〇階まで昇ってしまい、そこを経由して二階に下り、フロアを通って開放された露天の広場のような空間に出ると、その一角に「イタリア食堂 カルネヴァーレ(CARNEVALE)」があった。外見にはちょっと古めかしいような、こじんまりとした小屋のような店舗である。入店すると入口脇のテーブルに通されて、五人、席に就いた。こちらは真ん中に位置取り、右には(……)、左には(……)が隣り合って、女性二人は向かい側に並んで右が(……)、左が(……)さんだった。細い通路の店内には、牛の置き物が二つ見られた。メニューの主品はおそらくパスタやピザだったのだろうが、こちらは腹が減っていなかったので、サラダ(レタスに生ハム・サラミ・イタリアンハムが混ざっていた)とベーコンの炭火焼きを注文した。(……)がマルゲリータピザを頼み、(……)と二人でそれを分け合いながら食べており、(……)と(……)さんが何を頼んだのかは覚えていない。食事を取るあいだ、先ほど鑑賞した映画作品に対する感想や考察が語られた。(……)が率先する形で色々と思いついたことを口にして、こちらは例によってあまり発言しなかったが、それに応じる形で多少の考えを述べたりした。左の(……)にどこが良かったかと訊いてみると、間の取り方が攻めているなと感じた、というようなことが返った。本篇の『響け!ユーフォニアム』は登場人物も多く、もっとテンポは速くて動的なのに対して、『リズと青い鳥』のほうは歩くシーンの長さにしてもだいぶゆったりとしていて静かで、その間の取り方に注目したということだった。また(……)は、劇伴の音楽にも耳を向けていて、本篇では管楽器などの音は、物語が吹奏楽をテーマとしたものである以上、キャラクターが出す音と混同されかねず用いられないのだが、『リズと青い鳥』のほうでは生音の楽器によるBGMが躊躇なく使用されていたと比較を述べた。そのあたりはこちらはまったく注目していなかった部分だった。ベーコンを細かく切って、マスタードとマッシュポテトとともに口に運びながらそんな話を聞き、そうして三時に至ると用事のあるという(……)さんが先に去った。そのあとから会計をして(こちらの分は一五〇〇円)退店し、「川崎ルフロン」の外に出た。カラオケに行こうという話になっていた。(……)がスマートフォンで近間のカラオケボックスの所在を調べているあいだ、傍の電気屋の入口では何かキャンペーンめいたことを催しているようで、巨大な「ピカチュウ」の人形が立っており、店員がマイクを通して、今ならこのピカチュウを殴り倒すことができます、などと緩い声で誘いを掛けているのに(……)と二人で笑った。じきに歩き出し、横断歩道を渡って高いビルの並んで固まった通りに入り、そこから裏に折れて繁華街めいた区画をちょっと行くと、カラオケ店がいくつも軒を連ねていた。そのうちの「カラオケ館」に入店して、手続きを取り((……)が持っていたメンバーズカードはもう一一年も前のものだったが、それでどうにかなったようだ)、四階の一室に入った。トイレに行ってきてから、こちらがDeep Purpleの"Burn"(我々が高校二年生の時に文化祭で演じたハードロックである)を勝手に入れて、(……)にトップバッターを切らせた。こちらはその後の時間のなかで、くるり "ばらの花"から始まって、二曲目は小沢健二 "流星ビバップ"、三曲目は忘れたが四曲目はSuchmos "YMM"、そうしてくるり"ワールズエンド・スーパーノヴァ"、最後にthe pillows "ストレンジカメレオン"と、全六曲を歌ったと思う(のちの電車内では、このうちSuchmos "YMM"が一番こちらに合っていたとの評価が(……)から下された)。(……)は大方『THE IDOLM@STER』の曲を入れて、女声曲なのに声を張り上げてハイトーンを歌い、(……)もアニメや声優方面の曲をいくつか選んでいた(なかに、『STEINS;GATE』のキャラクターである椎名まゆりのキャラクター・ソングが含まれていたが、これは帰りの電車内で語られた話に繋がることになる)。カラオケの途中にこちらは、リュックサックから「(……)」で買ったサブレを取り出して、皆に配った。五個入りなので一度配っても三つ余ったが、さらに(……)にもう一枚食べてもらい、(……)にも持ち帰ってもらって消化した。定められた時間がやってくると、最後に(……)がQueen "Bohemian Rhapsody"を入れ、こちらもいくらか声を合わせて口ずさみ、それでおひらきとなった。一階に戻り、会計を済ませて(こちらの分は一〇〇〇円)退店すると、このあとどうしようか、喫茶店にでも入ろうかと立ち迷う空気があった。時刻は五時半頃で、夕食を取るにもまだ早い。こちらは映画とカラオケでこの日の用事は済んだと思っており、もう解散しても良かったのだが、ひとまず、自然と駅まで戻ることになった。雨が降り出していたので地下街に入り、通路を通って広々とした駅のコンコースまで辿り着き、歩いていると、正面奥にその入口が見える「ラゾーナ川崎プラザ」に、芝生の広場があると(……)が言う。天気が良かったらそこで寝そべりたかったのだが、と彼女は言い、生憎の雨だけれど、その広場をちょっと見てみようという話になった。それで入ってみると、人工芝の敷かれた広場では「オクトーバーフェスト」が催されていた。良くも知らないがドイツ発祥のイベントらしく、要は集まって騒ぎながらビールを飲もうということなのだろうが、テントに覆われた座席に人々が集って飲んでいるなかにステージも設けられており、あれはドイツの音楽なのか、アコーディオンアコースティック・ギターを伴奏にした、カントリーともブルーグラスともつかないような土着的な雰囲気の楽曲が演じられており、その舞台の傍には雨を意に介さずに盛り上がって身体を動かしている人々が何人かいた。我々はエスカレーターを辿って二階上、四階に上り、中央広場の周りを円形に縁取った通路の壁に身を寄せ、下を見下ろした。雨がやや入りこんで来る場所だったが、しばらくそこに留まって立ち尽くしたまま、眼下の催しを眺めながら何でもないような話をした。屋台の屋根を彩る電飾が線になって光り、奥の舞台上にはローカルアイドルなのだろうか、女性の三人組や、DJとボーカル三人の男性グループなどが現れて歌を披露していた。高校の同級生と集まるのはやはり何となく良いな、と(……)は口にした。また、ここで(……)から、実は過去にこちらと彼女で作った楽曲("Tears"という題のもので、こちらが曲を作り、(……)がそこに歌詞を乗せたのだったが、あれを作ったのはこちらが文学に出会って間もない頃、二〇一三年の二月くらいではなかったか)を今、書き直しているのだという話があった。(……)は良い曲だと言い、(……)もメロディが良いと言っていたが、こちらとしては未熟で粗雑な大したことのないポップスに過ぎず、思い入れも特にないので、全面的に直してもらって構わないと言った。そのうちに、もう一階分、エスカレーターで昇ったが、この五階から広場を見下ろしてみるとかなり高さがあって怖く、あまり壁のほうに近づかないようにした。五階には長テーブルの座席がいくつも用意されていた。そこで、そのうちの一つに四人で腰を下ろしたのだが、雨が強まっており、座っているところにまで雨粒が散ってくる。そんな落ち着かない環境で、このあとどうするかと話が上がるのに、山梨の祖母に何か甘い物を買って行きたいとこちらの用事を明かすと(先ほど、母親からそれを頼むメールが届いていたのだ)、それではこの「ラゾーナ川崎」で買って行こうということに話がまとまった。それで場を離れ、エスカレーターで一階まで下り、菓子の店を求めてフロアを歩き、大きなスーパーの横などを通って行く。GODIVAの店舗があるのに、ゴディバは英語では「ゴディバ」という発音ではなかった気がすると(……)が口にして、こちらは「ゴダイヴァ」だとそれに答えた。Queenの"Don't Stop Me Now"のなかにも、"Lady Godiva"という歌詞が出てくる、とどうでも良い知識を隣の(……)に披露すると、しかし俺の彼女も「ゴディバ」と言うなと彼は呟く。日本人ならそうだろうと返せば、(……)の彼女というのはモンゴル人なのだと言った。(……)大学への留学生で、何やら調査の仕事の手伝いにそちらのほうに行った時に知り合ったらしい((……)は(……)大学の博士課程に所属する院生で、午前に映画館へと向かっているあいだに、エコノミークラス症候群について研究していると聞いた)。しかしこの彼女についてはのちに、(……)にはもう彼女と関係を続けようという気があまりなく、結婚を考えるような相手でもなく、正直なところいつ別れようかと思っていると述べられた。そうこうしながらフロアを回っていたが、菓子の店舗は、通路の途中、繋ぎのような場所に並ぶいくつかしかないことが判明した。祖母は一人だからちょっとしたもので良いと思うなどと話しながら、(……)と二人でそれらの前を回り、ショーウィンドウのなかの商品を眺めていると、試食用の欠片を差し出してくれるのに行き当たった。「横濱フランセ」の店である。そのガラスケースのなかに、レモンケーキ四個入りという商品があるのを見つけて、もうこれでいいんじゃないかと思うと口にすれば、(……)が、そう思ったならそれがいいよと後を押すので、それを一箱購入した(八六四円)。それで(……)と(……)の二人に合流し、通路の途中で立ち止まりながら自然発生的に始まった雑談をちょっと交わしていたのだが、じきにこちらが、何でここで立ち尽くしているんだよ、と突っ込みを入れて、それでこのあとどうするか、飯はどうするかという問題に立ち返った。(……)がちょっと食べたいような気がすると言うので、すぐ傍にあったフードコートに入り、混み合ったフロアを回ってようやく空席を確保すると、(……)と(……)が商品を注文しに行き、こちらと(……)はその場に残った。彼らが食したのは、(……)が「PANDA EXPRESS」のモンゴリアンビーフ丼、(……)はどこかの店の親子丼である。入れ替わって席を立った(……)は、ほんの少しだけということで小さな春巻きを二個のみ入手してきた。こちらは腹が減っていなかったので(と言うか、「腹が減る」という感覚自体がほとんどなくなってしまったのだが)、ここでは食べないことに決め、ほかの三人はそれぞれの品を食べながら、長々と雑談が交わされた。多分八時半頃まで留まっていたのではないか。時折り、モダンジャズ風のサックスの音や、女性ボーカルの"Summertime"がBGMに聞こえたが、人々のざわめきによってそれらはほとんどかき消されていた。"Summertime"はこの場所にいるあいだに二度耳にしたので、BGMが一周するくらいのあいだ、滞在していたということだ。ここでは左隣の(……)から、小説を読んでいる時には、登場人物の考えが自分と近いとか思いながら読んでいるのか、と質問があったので、最近はあまり読んでいても楽しくはないのだがと置きつつ、そんなに深いことは考えていないと答えた。どんな点に着目するかと言うと、やはり表現である、こんな言い方をするのかとか、こんな言葉を使うのかとかそういった点を見ると言い、あとは書抜きをしているものだから、読みの基準が自然と書抜きをするかしないかという風になっているなどと話した。さらにまた(……)からは、今日見た映画のなかで、敢えて言えば好きだと思ったキャラクター、強いて言えば気になったようなキャラクターは誰かとの問いがあったのだが、これについては該当するキャラクターは自分の心中に挙がって来なかった。映画を見ながら「感情移入」という心の働きもなかったのだが、そもそも『リズと青い鳥』のなかで内面の襞を直接的に描かれていたのは圧倒的に鎧塚みぞれなのであって、「感情移入」の余地があるとしたら彼女くらいしかいないのではないかとは思ったが、(……)はそうしたこととは関係なく、部長である黄色いリボンをつけた吉川優子が好きだったり、気の強い後輩である高坂麗奈が好きだったりするらしかった(なぜ彼女らが好きなのか、その理由は尋ねなかった)。そうこうしているうちに、時間も遅くなったのでそろそろ帰ろうということになり、フードコートをあとにした。駅のコンコースに出て、皆で改札を入り、(……)だけは別の路線を使うので別れ、(……)と(……)と三人で南武線に乗った。座れるように遅発のほうに乗り、左から(……)、(……)、こちらの順で席に就く。電車に揺られているあいだは、(……)の彼氏である(……)氏((……)の会社の同期で、(……)らの作曲活動のなかではベースを担当している)や(……)の話、LINEでの二人のやりとりなどについて語られた。(……)氏はいわゆるオタクであるらしい。(……)も最近はアニメなど結構見るようで、ここ三か月くらいは『STEINS; GATE』の、それも椎名まゆりに嵌っているらしい。要はキャラクターに恋をしてしまったような状態らしいが、そうした(……)の思いに対して(……)氏は、自分を微分するか、キャラクターを積分すればいい、などと助言(?)を与えているらしかった。(……)は、自分がアニメのキャラクターに強い思いを抱くようになるとは思っていなかったが、いざそういう状態に陥ってみると、これは自分が今まで現実の女性に対して抱いてきた「無駄な」、報われない片思い((……)は結構惚れやすい性質のようだ)と別に変わらないなと感じたと言った。むしろ、対象が二次元の場合、金があれば例えばフィギュアなどのグッズを買うこともできるし((……)自身は今の所そうした欲望はないようだったが)、創作力があれば二次創作で話を作ったり絵を描いたりして物語世界を自由に広げていけるというメリットもある。そこからちょっと話が続いたあと、(……)氏のことに話題は移って、(……)曰く彼が言うには、オタクがオタクであり続けるというのは非常にエネルギーがいることである。だからオタクがオタクでなくなってしまうというのは寂しいことなのだというが、そこで(……)が話を一般化して、熱中する対象がなくなってしまうと虚無になってしまうから、などと話したのに対して、それは俺だなとこちらは横から差し入った。(……)は、そのことのみに夢中になりすぎてほかを顧みないようになると、「神様にそれを奪われる、取り上げられる」と言う。他人のことを考えたり、社会のためになることを思ったりすれば大丈夫なのだと話して、こちらはそのようなことを信じてはいないが、重いうつ症状に沈んで読み書きのできなかったあいだに、自分は自分の能力を「奪われた」と思っていたことは事実である(何に「奪われた」のかはわからないが)。そのほか南武線に乗っているあいだは、(……)とその恋人との関係についても語られたが、これについては細かな話は良いだろう。ただ二人のあいだには結構齟齬があるようで、話を聞いたこちらは思わず、お前らもう既に仲悪いじゃん、と突っ込みを入れてしまった。(……)は稲城長沼で降り、その後は(……)と二人で立川まで乗るあいだ、今しがた降りた(……)についてなど話をした。(……)が見るに、彼は彼女と音楽活動を始めて以来明るくなったというのだが、そう言われてみると確かに電車内で(……)は自分のことを良く話していたし、何やら楽しそうだったという印象が残り、以前よりも積極的になったような気がしないでもなかった。(……)にとっては今があるいは、人生を謳歌している時期そのものなのかもしれない。(……)は(……)で家族関係などで様々苦難を経験してきてはいるものの、今はそれらを飲みこんで屈託なく笑う強さを持っている(イタリア料理店で彼女が、このチーズが一番乗っているところ、貰っていい、などと笑いながら(……)からピザを分けてもらっているのを見て、まさしく「屈託の無さ」というものを見たような気がしたものだ)。翻って自分はと言えば、彼や彼女よりも随分と冷淡な、不感症的な人間になってしまったように思われなくもなく、その点で隔たりを感じないでもない。立川に到着し、ホームを移って乗り換えると、車両の端の三人掛けに並んで入った。(……)が統合失調症患者であるお兄さんの状態などを話すのにこちらは、今の自分の感情的/感性的希薄さというのは、ドーパミンが出ていないということなのではないかと思っている、と自身の状態についての仮説を述べた。自生思考に襲われた年末年始の頃は、意識が非常に覚醒している感覚があり、書くことなども自ずと湧き出てくるような感じだったのだが、それは反対にドーパミンが出すぎていたのではないかと言うと、(……)は順当に、じゃあその反動で出なくなったのかと受ける。いささか単純で安直な考え方ではあるが、実際そうなのかもしれず、ひとまずこちらは先日、ドーパミンを増やすというサプリメントを注文したと明かし、しかしまあ効くかどうかわからないけれど、と疑念を表明すると、(……)は、でも何でもやってみよう、何が効くかわからないからと真面目に応じる。ドーパミンを増やすというその物質は何なのかと問うてくるのに、チロシンと言って、筍の周りの白い粉などに多く含まれているらしいと聞きかじりの知識を答えると、(……)は熱心にも携帯に情報をメモしていた。(……)に着くと彼女は乗り換えのために降り、こちらの乗った電車が発車するまでのあいだ、ホームに立って待っていた。出発すると、電車が動くのに合わせて小走りになりながら手を振って見送ってくれるのに、こちらも手を振り返して答えた。それからのちの路程は、本を読もうかどうしようか迷ったのだが結局書籍を出すことはなく、散漫にこの日の記憶を思い返しながら到着を待った。(……)で乗り換え、最寄り駅に至って降りると、木の間の坂道に入る。すると道の脇から、凛として涼しいような虫の音が、控え目に、ちょっと躊躇いを含ませるようにしながら、「たおやかな」とでも言いたいような質感で鳴り出てくる。アオマツムシの音と紛らわしいが、僅かに差異の見受けられるあれが、多分鈴虫の鳴き声なのだと思う。帰宅する頃には時刻は一一時近くになっていたはずだ。服を着替えてきて、熱した豆腐と即席の味噌汁を食事に取る。ニュースは樹木希林の訃報を伝えており、義理の息子の本木雅弘が話すには、このたび亡くなるより以前にも、一時危篤のようになって危なかったが持ち直したのだと言う。その時に樹木希林が絵とメッセージを記した紙を彼は見せるのだが、それには、「糸一本で何とか繋がっています/声がまったく出ないの/いつまでもしぶとい、仕方のない婆婆です」というような文言が書かれており、その横にはまた、糸一本で何とか生きており、鋏でそれを切られたらお終いだという、自虐的な皮肉とユーモアを利かせた絵も描かれていた。その他、過去の樹木希林の発言がいくつか振り返られるのを見ながら、病に陥って死が迫りながらも、それをクールに、飄々とあるいは淡々と受け入れるという姿勢(ニュースのなかでは「病と寄り添う」という言葉が用いられていた)には好感が持てるなと思った。入浴をして自室に戻ったあとは、日記を書かなければならないはずが、長くなるのがわかっているからあまり気が向かず、本を読もうかとも思ったがそれもせずに、ただ無益な夜更かしをして、午前二時過ぎに床に就いた。朝から一二時間以上も外出していたにもかかわらず、眠気はまったくなく、疲労感もほとんど感じなかった。

2018/9/16, Sun.

 やはり早朝から覚醒を見たはずで、八時のアラームにも立ち上がったのだが、それらの時間のことはうまく記憶に残っていない。夢がいくつかあった。妙なバンドの演奏を聞いたり、ダウンタウン浜田雅功が出てきたりしたはずだが、その詳細ももはや忘却の彼方である。初めのうち、空は晴れていて、太陽がいくらか昇った九時頃になると寝床に光が射しこんで、顔や背に熱を受けていたがじきにカーテンを閉ざした。それから、起きられそうでしかし起きられないままに、時計の針は少しずつ、しかし素早く流れて行って、一〇時半を過ぎてようやく起床を見た。その頃には空は一面、何の余計な付加情報もない平坦な白さだった。急須と湯呑みを持って上階に上がって行き、使用済みの茶葉を流しに空けてからポットの前に立つと、また線が抜けている。接続を戻しておいてから食べるものを探って冷蔵庫を覗いていると、出かけていた両親が帰ってきて、こちらは買ってこられた品々を受け取って冷蔵庫に収めた。食事は、前日に母親が買ってきた「箱根ベーカリー」のパンが一つ残っていると言うのでそれと、あとは豆腐に小松菜の和え物を食べることにした。卓に就き、チョコレートで渦巻き模様の入った丸いパンを噛みつつ、新聞記事をチェックする。食後は薬を、この日もクエチアピンは一錠で飲んで、食器を洗うと風呂場に入った。「カビキラー」を振りかけられた風呂場マットが床に置かれていたのでシャワーで洗剤を流し、それから浴槽を擦って洗ってしまうと、浴室を去って緑茶を用意し、下階に戻った。新聞に、「オメガ3脂肪酸」が不安の軽減に効果があるらしいという研究報告が載せられていたのを受けて、それについて検索してみたり、スレを覗いてみたりしたのだが、有益な書き込みは特にない。この「オメガ3脂肪酸」というのは青魚に含まれるDHAとかEPAとか呼ばれている成分のことで、これを摂ると頭が良くなるとか言われているものの、それは大した根拠のない俗説らしい。今回の不安軽減の報告についても、精神状態が全般的に上向くのだとしたら摂ってみたい気もするが、なぜ不安が和らぐのかその仕組みはわかっていないというから肝心なところは曖昧で、不安というのは現状自分の症状としてもなくなったものだから、おそらく今必要なものではないだろう――ただ、このサプリメントを摂ると寝起きが良くなるという報告もいくらか見られて、とにかく朝に弱い自分としてはそちらの効果を期待して摂取してみても良いのではと思わないでもないが、しかしいずれにせよ、先日、N-アセチルL-チロシンというドーパミン関連の新たな品を注文したところでもあるし、そんなに次々とどれもこれもと試すものでもあるまい。インターネットの閲覧を打ち切ると、日記を綴りはじめた。前日の記事は数文足しただけでさっさと完成し、この日のものに入ってここまで綴ると、ちょうど一二時半を迎えている。それからキリンジ『3』を掛けて、久しぶりに運動をすることにした。脚の関節の駆動が滑らかになるまで屈伸を何度も繰り返したあと、ベッドの上に乗って前屈、そのあとに腹筋運動を、休みを入れながら九〇回行うと時刻は一時に達した。上階に上がると洗面所に入って、電動シェーバーで伸びた髭を当たったのち、ちょうど振り返ったすぐそこに置かれてあった掃除機を持って自室に戻り、手早く床の埃を吸い取った。そうして祖父母の部屋に掃除機を片付けに行ったそのついでに、炬燵テーブルの前に座ってアイロン掛けを始めた。テレビで始まった『パネルクイズ アタック25』の冒頭には松田龍平が登場して、『泣き虫しょったんの奇跡』という映画の告知をしたのちに問題を出題するのだが、その様子がやや陰鬱そうだというか、口から吐き出す言葉にも勢いがなく、問題文など棒読みで、どことなく居心地が悪そうな風だったので、こんなキャラクターだったのかと勝手に親近感らしきものを覚えた。エプロンやハンカチにアイロンを施してしまうと自室に戻って服を着替え(エディ・バウアーのシャツに、例によって空色のジーンズ)、それから台所で飲むヨーグルトを一杯飲むと家を発った。(……)駅前の和菓子屋「(……)」を訪れ、翌日(……)さんに贈る品を求めるのだった。母親はまたメルカリで何か購入したらしく、コンビニでその支払いをしたいからついでに送って行こうかと言われていたが、歩く時間を作りたいので断ったのだ。天気は正午頃から曇ったりやや晴れたりを行き来していたが、今はまた陽が出てきていた。坂の入り口まで来ると、青緑色の団栗が散らばっていて、人に踏まれたり車に潰されたりして破片が擦り付けられたのだろう、路上には土汚れのような茶色がところどころ染みついていた。右手、川のほうに目をやりながら上っていると、そちらの木から立っていた鳴き声が、蟬のものではないかと遅れて気づいて、すると道を囲む近くの木立からもツクツクホウシの鳴きが降っているが、空気はもはや夏のものではない。草に覆われた斜面には彼岸花がいくつも並び、無数に分かれ湾曲して天を指す花の手の一本一本が、薄陽を受けて蠟細工のような光沢を帯びていた。街道を進んでいると、肌がいくらか汗の感覚を帯びている。何だかんだで外を歩けば音やら匂いやら次々と細かな情報が差し向けられて、その連続に、以前ほどではないにせよ、いくらか心身がひらくようだった。裏路地に入る角の一軒に生えた百日紅は、これも随分久しぶりに目にしたものだが、樹冠の全体に万遍なくピンク色を散らして、枝先にいくつか密集もあって、まだまだ花は続きそうである。自分の歩調ののろいのに、老いた身であるかのような、大病を患ったあとの病み上がりであるかのような幻想が湧くが、希死念慮の重かったうつ症状を大病と言うならばそれもそうかもしれない。緩く、ぬるい風を前から受けながら進んでいると、家屋の途切れて駐車場と土手上の線路にひらいた一画でアオマツムシの音が現れ響き、奥の林からは蟬の声が跳ねて重なり、目を振り上げれば宙には蜻蛉が舞っていた。歩きながら、過去にこだわらず、ともかくも毎日書けることを書くこと、それができれば良いのではないか、質は措いても、何であれ日々を書き続けることが自分が生きるということだったのではないかと頭の内に落ちてきて、「生きることを書くことによって書くことを生きること」という昔作った標語も浮かんだが、しかしそれはどういうことなのかと更なる言葉を繋げようとして続かなかった。駅前に出ると横断歩道を渡り、「(……)」に入店する。ガラスのウィンドウに寄って、「ノーブル」という白餡入りの焼き菓子の一〇個入りのがあるのを確認してから、壁のほうに並ぶ品々を見ていると、なかに五個入りのサブレの袋がある。そこで背後の、カウンターの奥に現れた年嵩の女性店員から、上品気な音調でいらっしゃいませ、と掛けられたので、頭を振ってこんにちはと挨拶をしてから、サブレの袋を二つ手に取った。翌日に皆で食べる用と、もう一つは自宅用である。そうして入り口近くのウィンドウに戻り、一〇個入りの箱を追加で注文して会計をした。合わせて三〇五〇円だった。一万円札をトレイに置き、小銭の詰まったなかから五〇円玉を探し当てて重ねると、奥で品物を袋に整理していた店員から、サブレのほうはビニール袋で良いか、それとも大きな紙袋にすべてまとめるかと問われたので、ビニール袋で構いませんと応じた。七〇〇〇円の釣りを受け取って財布に収めると、品物を持ち、どうもありがとうございましたと残して店をあとにした。横断歩道に立ち止まると、南の空にまだ高い太陽が雲から逃れたところであたりには日なたが敷かれ、顔の左側に厚い熱線が寄せられる。夏を思い起こさせるような陽光の調子だった。帰路のあいだも大方太陽は雲の合間に現れていて、陽射しが左頬についてきて暑いが、陽も浴びるものだろうと裏には入らず、目を細めながら表を歩いた。道のところどころで、庭木のある宅などから、車の響きに負けず昼日中から夕刻のように、アオマツムシの声が朗々と放たれて宙に伸び漂っていた。中学生か高校生か、唇の真っ赤な女子やら、手を叩きながら笑い合う男子やら、若者らといくらかすれ違ったが、どうも(……)高校で文化祭を催していたようで、通りがかりに道の奥に、門が開放されて多色で彩られたオブジェの類が何やら立っているのが見えたので、そこを訪れた者たちだったのだろう。帰宅すると時刻はおおよそ午後三時、居間のテーブルの上に買ってきたものを置いておき、シャツを脱いでしまうと(背中は汗で結構濡れていた)自室に戻って、ズボンも脱いでジャージに履き替える。それから緑茶を二杯分、それに「たべっ子どうぶつ」のビスケットを持ってきて、一服しながら「(……)」を読んだ。そうして四時前から日記に取り掛かると、これでまた一時間は掛かるだろうと歩くあいだに思った通り、現在時に追いついた頃にはもう五時が目前になっていた。今現在、九月一八日の午後七時前に至っていて、この日のこれ以降のことはほとんど記憶に残っていない。夕食の支度として茹でられたジャガイモを潰してポテトサラダを作り、ローストビーフの塊を薄くスライスして行った。六時頃から下階に戻ってギターに触れはじめ、そうしていて気分が持ち上がるでもないのだが、長く、一時間ほど弄り続けた。その後は食事と入浴、そうして一一時頃まで娯楽的な動画を視聴し続けたのち、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を一時間ほど読んで、例時過ぎには床に就いた。翌日、午前から川崎に出かけるために七時には起きなければならなかったからである。しかし、眠りは結構遠かったと思う。

2018/9/15, Sat.

 寝付きが悪く、早朝からたびたび目を覚ましていた。八時のアラームに至って本格に覚め、アラームの響きと携帯の振動音をちょっと聞いてから起き上がり、遠くにあるそれを取ると、身体の凝[こご]りを感じながら耐えるようにその場に立っていたが、結局またもや床に戻ることとなった。九時まではあっという間に過ぎたと思う。そこからは時間が細かく流れて、様々な夢を見た。どこかから歩いて来て、草原のような広い土地を前にしたものが一つある。その向こうには墓場があり、さらにその先にはマンションが一つ、突き立っていて、そちらのほうに大学のキャンパスがあるのだという認識だった。近くには一人、女性がいて、彼女が道を先に行くそのあとを追うような形になったと思うのだが、町中に出た時には、そこはどこか外国になっており、店屋の看板に日本語が(それは平仮名だったかもしれない)記されているのを目にして、ここがカナダのケベック州なのだと気づいたはずだ。そのほか、下町じみた界隈をゆっくり歩きながら松浦寿輝蓮實重彦にインタビューをするという夢もあったが、この蓮實重彦は、両目に合わせて形が分かれたものでなく一続きに長方形になったタイプのサングラスを掛けており、覚めたあとから思い返してみると現実の蓮實氏の容貌とは違った人物だった。また、ロラン・バルトとカフェで何か話をするような夢もあったはずで、その夢も色々な周辺情報に取り巻かれていたはずだが、詳細は覚えていない。起床は一〇時一五分になった。母親はこの日、(……)さんの母親と国分寺にパンケーキを食べに行くということで、瞼のひらいたままに固まったその少し前に、車のエンジンが掛かる音が聞こえてきていた。起き上がって上って行き、冷蔵庫から前夜の残り物――茄子の煮付けとベーコン・小松菜・ブナシメジの炒め物――を取り出し温め、白米は少なめに椀によそった。ほか、白菜などの入った野菜スープが作られてあったので、それを火に掛けてよそり、テーブルに就いて食事を始めた。雨が結構な勢いで降っており、大気は乳白色に濁って、山の姿は薄白い影に均されてその稜線が霞んでいた。食後、薬を飲むのだが、医師の処方には逆らうことになるものの、クエチアピンを二錠ではなく一錠とした。病気以来のこちらの感情や興味関心の希薄化、端的に言って「楽しい」「面白い」といったプラスの気分が湧いてこないことに関しては、物理的にはドーパミンの分泌が関わっているのではないかとこちらは踏んでいる。クエチアピンはドーパミンをブロックする作用があるので、減薬をしてみて自分に変化があるか試してみたいのだった。しかし同時に、クエチアピンを飲まなくなったとしても、自分の状態は特に変わらないだろうなというような見込みもある。ドーパミンの分泌低下が気分の平板さの原因なのだとして(そんなに単純なことではないとは思うが)、そのような状態に至ったのは薬剤の効果ではなくて、自分の原疾患によるものではないかとも思うのだ。要は、原因は不明だが、端的に頭がそのように変わってしまった、というだけのことではないかとも直感されるのだ。それから食器を洗い、風呂も洗ってから緑茶を用意しようとすると、ポットの線が抜けていた。それで接続を戻しておき、湯が沸くのを待つあいだに先に自室に下りて、コンピューターを点けた。日記記事を作成したりとひととき過ごしてから上階に戻り、緑茶を拵えて帰ってくると、この日はまず(……)さんのブログを読みはじめた。それで時刻は正午前、便所に行ってから部屋に戻ってきて、窓の外に目を向けると、雨は弱々しくなっており、山もまだ薄らいではいながらも緑の襞を取り戻していた。それからサプリメントの情報収集にまた余計な時間を使い、そののち日記を書きはじめた。一二時四〇分から初めて一時間ほど、前日の記事を進めて完成させ、ブログに投稿しておくと腹が減っているようだったので、食事を取りに行くことにした。階を上がると、午前に食わなかったサラダを冷蔵庫から出し、一方小さな豆腐を皿に乗せて電子レンジで加熱、さらに即席の味噌汁を用意した。そうして卓に就き、新聞の一面に目を落としながら、レタスやトマト、玉ねぎやインゲン豆を口に運んで行く。それからふと目を上げると雨は止んでいて、谷間に霧が僅かに残ってはいるが山は緑一色の姿を明らかにし、景色はくっきりとした輪郭を復活させている。食後に窓に寄って眺めると、山が偏差のない単色に染まっているのに対して、川の周辺には黄緑が混ざり、赤っぽいような褐色の梢もいくつか見られる。直上を見上げると空は視線を通すことのない厚い白だが、左方、東の低みに目を移せば雲の裾では灰色が露わで、煙の集合体めいて西空のほうまで大きく繋がったその雲の原が、刻々東から西へと動いているのがわかるのだった。それから食器を片付けて、ふたたび茶を拵えて自室に帰ると、この日の日記を綴りだし、現在は三時が目前となっている。SIRUP "SWIM"を一度流して歌うと、そこからくるりに流れて、大層久しぶりに"ばらの花"など歌った。その後、くるりのほかの曲や小沢健二などもちょっと歌って(しかし歌を歌っても高揚感や陶酔感はおろか、僅かばかりの楽しいという感覚すらない)、それから新聞記事を書き写しはじめた。BGMには『川本真琴』を流した。書き抜きする記事のなかに建築家・坂茂のインタビューが含まれていたが、九月九日、飛鳥山の紙の博物館を訪れた際に、解説熱心な職員と父親のあいだで、段ボールや紙を使って被災地に仮設住宅を作る人がいますよね、などと話が交わされていたのがこの人だと思う。二〇年余り、災害が起きるたびに避難所に赴いて、紙管と布を使った間仕切りを設けて支援を続けているということだが、役所のほうから呼ばれたことは一度もないと言った。新聞記事を写すと四時半前、少々早いがもう夕食の支度をしてしまうことにして、上階に上がった。と言って汁物は野菜スープが残っている。おかずには芸がないがまた茄子でも焼けば良かろうと四つを切り分け、玉ねぎも一つ加えてフライパンで炒めた。ほかには小松菜でも茹でておくかともう一つのフライパンで湯にくぐらせたが、野菜の入っていた透明なビニール袋の表面を見れば、小松菜とゆで卵のサラダというレシピが記されている。ちょうどゆで卵が二つ、目の前にあったのでこれを作るかというわけで、茹でた小松菜を水に晒して冷やすとざくざくと切断してプラスチック製のパックに収め、卵のほうは輪切りにできるカッターで細かく刻んで野菜と混ぜた。その上にマヨネーズを掛けて箸で混ぜようというところで、インターフォンが鳴った。受話器を取ると、二軒先の(……)さんである。少々お待ちくださいと早口に言って出ていくと、回覧板を届けに来た次第で、至急のものなのでよろしくと言った。礼を言って室内に下がり、中身を見てみると、先に八九歳で亡くなったという(……)さんの訃報である。早速、玄関の電話機を使ってコピーを取っておき、それから台所に戻って小松菜にマヨネーズと、さらにケチャップを加えてかき混ぜた。そのあとから辛子も足して和え物は完成、冷蔵庫のなかで冷やしておき、そうして下階に戻ると時刻は五時過ぎだった。ベッドに横たわってカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読み、一時間が過ぎると母親が帰ってきたのでジャージの上着を羽織って顔を見せに行くと、(……)さんから貰い物をしたと言う。ジェモジェモ(Gemeaux Gemeaux)という名のガレット・クッキーに、成城石井の茶色い紙袋に入った「いちごバター」だった。この(……)さんの娘さんはこちらの高校の同級生で、二日後の月曜日に(……)・(……)・(……)らと映画を見に集うその面子のなかに彼女も入っているので、これでは何かお返しをするようだなと母親と言を合わせた。翌日に駅前の「(……)」にでも出向いてみることにして、回覧板のほうを母親に報告したのち、至急だと言っていたものだからとこちらが率先して次の(……)さんに届けに行くことにした。サンダル履きで外に出ると、林の奥からアオマツムシの鳴き声が凜々と湧き出てくる。雨に濡れた黄昏の小暗い道を少し行き、道路の脇から細道に入ると門の閂を外して敷地内に踏み入り、大きな玄関扉の前でインターフォンを押したが、反応がなかった。念のためにもう一度ボタンを押したものの何の動きもなかったので、順番を飛ばすことにして、道を戻ると間道に折れて(……)さんの宅に入る。扉横の呼鈴を押すとなかからどうぞと聞こえたので、横開きの扉を開けてごめんくださいと訪った。障子をひらいて現れた(……)さんのおばさんに、回覧板を持ってきたと告げると、隣ではなくてと言うので、(……)さんは出かけているようでいなかったと答えた。至急のものなのでよろしくお願いしますと言うと、(……)さんの、と事情を察してみせるので肯定し、いつなのと問うたのにはその場で回覧板をひらき、通夜が一七日だと確認すれば、明日になったら(……)さんの宅に行ってみると言う。了承して礼を言い、下がって扉を閉ざし、道に出て自宅に戻るあいだ、もう八〇も越えているので当然だが、以前よりも老いたような(……)さんの印象を思い返して、労りの言葉でも掛ければ良かったか、涼しくなってきたのでお身体に気をつけて程度言えば良かったかと思いながら歩いた。帰り着くと自室に戻り、ふたたび読書に入って、たびたび書抜き箇所をメモしながら読み進めているうちにあっという間に一時間が去った。AfD(ドイツのための選択肢)の党首代行であるアレクサンダー・ガウラントは、メスト・エジルというサッカーのドイツ代表がメッカ巡礼をしたことに触れて、「メッカへ行くような人間が、本当にドイツの民主主義で守られるべき存在なのか」「彼らはドイツ基本法に忠誠心を持っているのか?」と述べている。これをエムケが取り上げて、基本法への忠誠心を疑われるべきはむしろガウラントのほうではないかと批判するのが真っ当で印象的だった。基本法によって国民の信教の自由は保障されているのだから、というところまでは順当だが、さらに一歩突っ込んで、それはガウラントもよく承知している、しかるが故に彼は、イスラム教は宗教ではないと言わねばならなかったと分析し(ガウラントは、「イスラム教は政治的な宗教です」と発言している)、この発言が事もあろうにアヤトラ・ホメイニの言葉の引用であることを続けて明かしてみせる、そうした手付きが鮮やかだった。そのほか、性概念の二極化を避けるための表記方法の努力――男性市民 Bürger と女性市民 Bürgerinnen を統合する形で、星印を用いた Bürger*innen を性別に関わらず「市民」の意としたり、男女混ざった複数の「教師たち」を表すのにLehrerとLehrerinnenを繋げて、LehrerInnen(女性を示す語尾inのIが大文字となっている)としたり――があるのを面白く思った。読書を中断したのは七時四〇分だったが、そこから自分のブログにアクセスし、気づくとどこからかリンクが繋がって昨年一一月の記事(「雨のよく降るこの星で」を「作品」にするという試みに見切りをつけ、「記録的熱情」にふたたび従って日記を書きはじめたその当初のもの)を読み返していたが、これはやはり今よりも面白く、よく書けているものだった。饒舌で闊達であり、思考や記憶が次々と繋がって語るべきことが自ずと湧き出て来ているのがよくわかる(たびたび括弧を使って挿入節を設けたり、スラッシュを挟んで複数の語を併記してみたり――それだけ表現の候補が頭のなかに浮かんでいたのだ――という点に、物事を細かく語るのがそれだけで楽しいというような饒舌さが表れている)。風景に対する感度も強く、意味/情報を仔細に掴みながら文調もうまく流れており、特に一一月一六日の記事に含まれていた一文――「空には先ほどから変わらず雲の網が形成されており、東側ではその隙間に醒めた水色が覗き、煤けたような鈍い乳白色の雲がそのなかにあるとあるかなしかの赤の色素をはらんだように見えるのだが、視線を西に振ればそちらは冷たい青さのうちに完全に沈み、山際は綿を厚く詰め込まれたように雲の壁が閉ざして残照など微塵もない」――は、読点で区切られた個々の部分に情報を固めるバランスの良さと言い、音調と言い、かなり適切に整った描写のように思われた。是非ともこの頃の能力を取り戻したいと、それは再三この日記に書きつけている通りだが、そのために出来ることと言って、結局は今の自分の乏しい感受性に辛うじて引っかかり、僅かながらも印象を与える物事をその都度記していくほかはない。食事に上がる頃には八時を回っていた。台所で料理を皿に盛っていると、帰宅した父親が居間に入ってきたのでおかえりと挨拶を掛ける。そうして卓に移動して食事を取ったが、自ら作った小松菜の和え物は、母親は辛子が利いていて美味いと言ったものの、こちらとしては大した味ではなかった。食後、食器を片付けてしまってから手持ち無沙汰に(風呂に入った父親がそろそろ出るかと待っていたのだ)立っていると、九時前のニュースが米国の中間選挙の見通しを述べる。民主党内で「プログレッシブ」と呼ばれる左派陣営の台頭が見られて、ニューヨークなどでは新人が重鎮を破る構図も出てきているが、保守的な地方でどこまで受け入れられるかは不透明だ、とのことだった。九月二日の新聞記事によれば、「リアル・クリア・ポリティクス」の調査(八月二九日現在)で、両党の支持率は共和党三九パーセントに対し民主党が四七パーセントで、下院で民主が過半数を奪還する可能性も十分にあるとの見込みである。その後一旦下階に下りていたが、父親が風呂を上がったのを聞きつけて階段を上って行くと、ニュースは今度は横田基地で日米友好祭が催されていると伝え、横田に配備予定のオスプレイが披露されたと言って機体の左右でプロペラを回す姿が映るのを、こちらはじっと見つめて、台所に立った父親も黙って注視しているようだった。それから風呂に入って出てくると緑茶を拵えて自室へ、この日の日記を記しはじめたが、じきに気づけば一時間が過ぎていて、時間が経つということの手応えがまったく感じられない。書き物に没頭しているという感じもなく、かと言って殊更散漫というわけでもなく、ただ淡々と、時というものがそれそのもので消えていく。その後、娯楽的な動画を視聴して時間を過ごし、零時四〇分に至って眠る前にもう少し本を読み進めることにした。「根源的/自然」の章の終わりまで切り良く進んで、一時半に就寝した。寝付くのには結構時間が掛かったと思う。

2018/9/14, Fri.

 早朝、五時半に覚めている。静かな、軽い目覚めだった。ふたたび眠りに入り、八時のアラームを止めに立ち上がったはずだが、この時の記憶は残っていない。いつも通りベッドに戻ったらしく、九時頃から意識が浅くなって、目を閉じては二、三分、夢のようなヴィジョンを見てから目を開ける、ということを繰り返して時間が過ぎる。最終的に九時半前に起床することができた。上階に行き、母親に挨拶して、前夜の残り物である茄子と薩摩芋を温める。ほか、四角くビニールに包まれて冷凍されていた五目ご飯があった。そのビニールを剝ぎ取り、固まったものを椀に入れてこれも電子レンジに突っ込んで二分、そうして卓に移動して、新聞をめくりながら食事を取った。空になった食器を流しに運んで水を汲み、薬やサプリメントを摂ってから皿を洗った。そのまま風呂も洗うと一〇時頃だったはずだ。室に戻ってコンピューターを点けると、Youtubetofubeats "BABY"を流して、服を着替えながら爽やかな曲を口ずさんだ。上は橙、青、黄色の三色でカラフルなチェック柄を織り成したシャツに決めて、下は初め、濃緑一色のジーンズを久しぶりに履いてみたのだが、それで洗面所の鏡の前に行ってみるとサイズ感があまりしっくり来ず、少々色が褪せてもいるのでこれはもう資源回収に出すか古着屋に持って行くこととして、自室の収納には戻さずにひとまず兄の部屋の窓際の箱の上に畳んで置いておいた。そうして、芸のない選択だが、Levi'sの空色のジーンズをこの日も選んで履き、音楽は"WHAT YOU GOT"が掛かっていたそのあとに、"Don't Stop The Music feat. 森高千里"を繋げたのだが、便所に行ってしまったのでこの曲は聞けなかった。トイレットペーパーの空芯を持って階段を上がり、袋のなかに入れておいてから戻ると、SIRUP "SWIM"のスタジオライブ動画を流して歌い、それでコンピューターはシャットダウン、本と手帳をバッグに入れて階を上がった。南の窓に寄って外を見やれば、近所の路面には雨の跡が残って水溜まりも小さく生まれており、空は雲が覆っているものの、今は光が見えだして、正面の家の白い屋根が明るみはじめる。窓際に立っているうちに身にも温もりの掛かるようになり、すると棕櫚の木の天辺の葉に乗った白露が、微風を受けて揺らぐ足場の動きに応じて、艶を帯びては失いながら細かく震える。景色を眺めるのにも飽きると、ソファに就いて、母親が支度をしているあいだ瞑目し、記憶を辿って行った。そうして、行こうとの声に目をひらいて立ち上がり、母親はトイレに寄ると言うので鍵の入ったバッグを貰って、先に車に乗りこんだ。ここでも目を閉じて記憶を探ったが、母親はすぐにやって来た。発車して、市街を走り抜けて行くあいだ母親は、(……)さんの息子が同級生だとか、新聞に近藤サトというアナウンサーの話が載っていて、とか話す。(……)さんというのはこちらは知らないのだが、(……)さん夫婦のいた小家の前の家だと言い、そこの旦那が八九歳で亡くなったのだと朝起きていった際に聞いていた。その息子には、中学生の頃だかいじめられてあまり良い印象がないと母親は言う。一方、アナウンサーのほうは、震災を機に(母親は、阪神淡路?と自信なさげに言っていたが、今検索してみると東日本大震災のほうだった)白髪を染めるのを止めたという人で、何だか知らないが、偉いと思ったと母親は言って、感銘を受けたようだった。そうこうしているうちに医院の駐車場に着く。バッグを持って降り、ビルに入って階段を上がって行き、待合室に入るとこの日の混み具合はまあまあ、四、五人の先客がいる程度だった。受付に診察券と、月が変わったので保険証も提出し、カウンター前で立ったままに待って保険証が返ってくると席に就く。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を持ってきたのだったが、何だか眠いようであまり頭も働かないような感じがして、本は取り出さずに目を閉じて、休憩半分、記憶を追うのを半分といった感じで過ごした。それでじきに三〇分が経ち、一一時半に達して、呼ばれるのもそろそろだろうと思われたため、本はもう読まずに残りの時間も瞑目して待った。そうして呼ばれると診察室に入り、医師に挨拶をして革張りの椅子に座る。この二週間、どうでしたかと問われるので、特にどうということもないのだが、調子は全然悪くはない、取り立てて良くもないが、と答えた。外出はあまりしなかったが、王子に兄の奥さんがいて、昼食を呼ばれに行ったと話し、日記はどうか、前回は縮小版と言っていたが、と来るのには、また多く書きはじめたと返答する。かなり活動的になっていますねと言うので、どうでしょうかと疑問で受けると、この春に比べたらと念押しが続くので、春に比べればそれはそうだと応じた。頭の働きについては、病前に比べるとやはり劣るかと思うが、日記もまた書いていることだしある程度は戻ってきたのではないかと述べ、睡眠は、眠れてはいるが朝が起きられないと話した。睡眠について言えば、就寝前の薬を頂いていたんですが、それがなくても眠れるようになりましたと変化を報告し、それでオランザピンとブロチゾラムはもう必要ないということになった。クエチアピンについてもこちらとしては、減薬はどうかと思っているのだがと差し向けると、オランザピンがクエチアピンと同じようなものなので、あまり「ぼん、ぼん、ぼん、と」一気に外さなくても良いのではないかと医師は言って、こちらもまあそれで良いかとこだわらずに落とした。診察は五分程度で終了したと思う。会計(一四三〇円)を済ませて隣の薬局に移り、カウンターに近寄ってこんにちはと挨拶をすると、客の対応をしていた局員が背後に向けて、受付お願いしますと声を放つ。そうして奥の調剤室のほうから急いで出てきたのが、パーマを掛けた頭で小さな背丈の(……)さん、こちらの中高時代の同級生である。数か月前からこの薬局で働いているのを見かけているのだが、あちらがこちらを同級生の(……)として同定し、認識しているのかは定かではない。中学生の時に、クラスが同じだったこともあったはずだが、さほど関わりがあったわけでもない。彼女が差し出す三九番の紙を受け取り、黄色い席の上にバッグを置くとトイレを借りた。小便を放ったあとに、トイレットペーパーで便器を拭いておき、出ると席に就いて何をするでもなくいると、すぐに三九番の方、と声が掛かった。カウンターに行って局員を前にすると、首から下げた札の名前が、(……)、となっているのに気がついた。この人は以前は(……)さんだったはずで、結婚したのだなと思ったが、今、「お薬手帳」を見てみると、七月一三日の時点で既に印の名前が(……)の姓になっているので、名札の変化が遅れたのでなければこちらがこれまで気付かなかったのだろう。会計をして(八四〇円)薬局を去った時、日記のことが頭にあって、記述が行動の連鎖だけではやはりつまらず、その流れから浮かび上がるような要素、要は風景描写のようなものを取り入れていくらかの起伏を付けたいな、などと考えていたのだが、そこから日記ということで連想された作家が一人いて、しかし名前が思い出せなかった。『七〇歳の日記』などを書いているベルギーの作家で、と思いながら車に戻ると、東急で長崎ちゃんぽんでも食べるかと母親が言うので、良いではないかと賛成した。その前にまずは買い物というわけで、近間のスーパー「(……)」に移動するのだが、そのあいだに先ほどの作家について記憶を巡らせると、アン・ブーリンとか(英国王ヘンリー八世の第二王妃である)、アン・バートンとか(オランダのジャズ・シンガーである)の名が浮かんでくる。これらと響きが似ていたと思うのだがと引き続き名を求めていると、車に揺られているあいだに、そうだ、メイ・サートンだと記憶が繋がった。それからスーパーの駐車場に停まると、空には灰色が立ち籠めはじめていて、雨を思わせる気配である。自宅用と料理教室用のものと分けて買うと言うので、カートの上下に籠をそれぞれ乗せて入店した。まず入り口の脇にある一個二五円の玉ねぎをいくつか入手する。それからこちらはカートを押して、四本入りのバナナや豆腐や五個入りの茄子を二袋手もとに加えて行ったあと、カートを母親に預けてフロアを渡った。飲むヨーグルトを二本入手して小脇に抱えて戻り、カートと合流すると、ちょうど傍にあったビスケットの区画から、小袋が六つセットになった「たべっ子どうぶつ」を取って籠に入れた。その他諸々を入手して会計、一つ目の籠は母親が五〇〇〇円を出したが、それでもうお金がないと言うので、二つ目はこちらが千円札で支払った。台の上で荷物を整理すると退店し、車に戻って移すものは保冷ボックスに移し、そうして走り出すとぱらぱらと雨がフロントガラスに散る。洗濯物をいくらか出してきてしまったと言うので、外食はなしにして帰宅することになったが、母親が東急の本屋に注文した本が届いており、それだけ取りに行かねばならなかった。それで東急のビルへ、坂を上って上層階の駐車場に入り、母親が本屋に行っているあいだこちらは車内で瞑目して待った。さほどの時間は掛けずに母親は戻ってきた。そうして帰路へ、家が近づくにつれて雨はなくなって、空からも灰色が拭われて白に寄っていた。帰り着くと荷物を運び、買ったものを冷蔵庫に収める。母親はチキンラーメンを作りに掛かり、こちらは自室に戻ってジャージに着替えた。しばらくしてから上がって行くとちょうどラーメンが出来たところ、盆に乗せられたものを台所からテーブルに運び、席に就いて食べはじめる。味が結構濃いねと母親は言った。そのほかホイップクリームの入ったデニッシュとバナナを半分ずつ食べ、食後はこちらがまとめて食器を洗ってしまう。そうして緑茶を用意して下階に下り、先ほど買ってきた「たべっ子どうぶつ」のビスケットをつまみながら一服した。顔や額の奥が澱んでいるような、疲労感のような眠気のような感覚が薄く頭のなかに生じていた。それでベッドに横になりたいところを我慢して、緑茶をもう二杯分拵えてきてから日記に取り掛かった。二時二〇分からちょうど二時間掛けてここまで至っている。自ら書いていながら、何か深い思索があるわけでもなし、物々に触れた時の生き生きとした感想があるわけでもなし、何の変哲もない生活の些末な行為ばかりをこまごまと記して、読む者の感覚を駆動させることもないだろうこのような文章を書いて、一体何になるのだろうと思わないでもない。その後、四時半からベッドに寝転んで読書を始めたのだが、薄々そうなるのではないかと思っていた通り、本はすぐに手放して眠りに落ちることになった。部屋が真っ暗闇に包まれた八時頃まで、三時間半も寝床に留まってしまう体たらくである。医者にちょっと出かけただけで疲労に襲われて、益体もなく長寝をしてしまう情けない身からすると、世の人々が毎日朝早くから晩遅くまでずっと働いているのが信じられないような思いがする。おそらく七時頃までは眠ってもかえって疲労が増すように感じていたと思われ、半醒半睡の時によくあるように、金縛りめいて頭のなかが痺れ、窒息するような感覚も訪れていたが、八時になる頃には心身が軽くなっていたようだ。起きて、食事に行く。台所にはカキフライの二つ乗った皿が用意されてあり、それにベーコン(先日両親が訪れた「サイボクハム」で買ったものだと言った)・小松菜・ブナシメジの炒め物、そして茄子の煮付けを加えてレンジで温める。そのほか汁物など用意して卓に就き、おかずとともに白米を咀嚼するあいだ、テレビは八神純子という歌手を取り上げていた。あまり興味はなかったが、米国で活動していた彼女は、二〇〇一年九月一一日の同時多発テロをきっかけとして活動休止に至ったというのがやや印象に残っている。あの事件によって、家を空けて子供たちから離れるのが怖くなったのだという風に話していた。母親はこちらよりも先に食事を終えており、父親が帰ってくる前に風呂に入ると言っていたわりに、何だかんだでぐずぐずとして立ち上がらない。彼女の使った食器もまとめて洗ってしまうと、こちらが先にさっさと入浴することにした。湯を浴びて出てきて、下階に帰る前にテーブルの端、ポットの前で緑茶を注いでいると、風呂場に行った母親が、またヤモリが出たと声を上げる。我が家では、粘土のように薄白い姿のヤモリが窓の裏に貼り付いているのがよく目撃されるのだ。随分長くいるな、梅雨頃からいるじゃないかとこちらが受けると母親は、智子さんにでも送るのだろうか、撮っておこうと携帯を持って行った。緑茶を持って自室に行くと、時刻は九時過ぎ、まず一年前の日記を読み返したが、このなかで自分の不安障害的な気質について綴っている断章がちょっと面白かったので、ここに引いておく。

 労働後、疲労感があるのは当然のことだが、この日は加えて虚しさのようなものを感じた覚えがある。夜道を行きながら薄い厭悪が滲むというか、どうにかして義務的な労働のない生活ができないか、あるいはせめてもう少し楽しいような居場所がないものかと、いつもながらの無益な思念が巡るのだが、さほど悪い職場でもなく、この日に何か特段の失敗や意気阻喪することがあったわけでもない。それでも虚しさや嫌気が生じるというのは、思うに、やはり人と接することそのものに何か、不安感のようなものを覚えているのではないか。これは例えば、裏路地で高校生などを追い抜いたり追い抜かされたりする時のことを考えてみても思い当たるのだが、そういう場合、こちらに向けられる彼ら彼女らの視線がどこか気になるようなのだ。また、人とすれ違う時なども、相手の顔をどれだけ見ても良いのか、目を逸らしたあと視線はどこに置けば良いのか、あるいは相手が知り合いならば挨拶はするか否か、するとしてどのタイミングですれば良いか、などを、半無意識的に神経質に迷いながら行動しているようなのだが、こうした極々日常的で短い対人の瞬間における振舞いの方法論というものは、こちらのなかで答えが見えず、一向に確立しない。大方の人間はそんなことは考えず、その場その場の流れに任せているはずで、このような些末な事柄に方法論などと言ってしまう点で(それほど本気で言っているわけでもないけれど――しかし、この問題は、カフカが日記に書きつけていた疑問、「数人の集団のなかにいる時に、無口だと思われないためには、どのタイミングでどの程度、どれくらいの回数喋れば良いのか?」といったそれとどこか重なり合うような気がする)、自分の自意識過剰が証される(馬鹿げたことだが、自分には挨拶という振舞いが、一つの「闘い」であるように思われることがある。そこでは、先手を打って朗らかに声を発してしまったほうが明らかに勝ちなのだが、自分はこの闘いが苦手で、勝利することはあまりない)。あるいはそれは自意識「過剰」というほどのものでなく、社会的な人間として当然持ち合わせるべき最低限の自意識なのかもしれないが、自分の場合その底に何か、人と接すること自体に対する、恐れと言っては言葉が強すぎるが、緊張や不安のようなものがかすかに含まれているように思うのだ。これは昔からそうだったはずで、パニック障害に陥ったのも結局、煎じ詰めれば、他人が世界が怖いということだったのではないか。自分はその点、社交不安あるいは対人恐怖的な性向の傾きがあるのだろうが、それがだいぶ改善されたいまになってもまだ多少残っているということなのかもしれない。要するに、ただ他人と対峙するだけでも緊張するというようなところが自分にはあって(ほかの人々にも多かれ少なかれあるのではないかと思うが)、そうした内向的な性質が人と接するにあたって自分を煩わせ、疲れさせるのではないか。そして、労働という公的領域においては関係は表面的なものに留まるから、この緊張もより助長され、疲労感も強くなり、それが虚しさや厭悪に繋がるということではないだろうか。古井由吉の使っていた言葉を用いて言い換えれば、世の「外圧」そのものに疲労するということで、これはおそらく誰もそうだろうが、この点で生というものは本質的に、世界との闘い/戦い・摩擦・齟齬、そういった側面があると言っても良いのかもしれない(カフカもやはり、世界と自分との戦いについてアフォリズムを拵えている――そもそもが戦いであり、齟齬こそが本質で、それがあるのが常態なのだと考えれば、何か煩わしいことがあってもそれほど心を乱されずに済む気もしてくるものだ)。(……)

 不安障害が消え去った今、他人と対峙する際のこうした神経質な緊張もほとんどなくなったと思うのだが、それはある種鈍感になったということでもあって、不安の残っていた一年前のほうが良くも悪くも物事を「繊細に」捉えていたということが、この記述から窺えると思う。日記を読んだあとは新聞記事を黙々と写し、それから一三日の新聞、一四日のものと読んでいると、九月一四日の時間はもはやほとんど尽きた。米国ではこの度、トランプ政権の内幕を描いた「FEAR」という本が出版されたらしい。それを紹介した記事に曰く、二〇一七年の四月にシリアで化学兵器が使用された際、ドナルド・トランプ放送禁止用語を使いながら、「あいつ(アサド大統領)をぶち殺そう! やるぞ。あいつらをたくさんぶち殺そう!」と発言したと言い、この凄まじい短絡性の発露は読んでいて印象に残るものだった。その後、歯磨きをしてしまうと、音楽鑑賞に入った。この日も聞くのはKeith Jarrett Trio、例によってスタジオ盤の"All The Things You Are"から始め、そのあと、ライブ盤である『Tribute』から"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"、そして"All The Things You Are"と流した。"Ballad Of The Sad Young Men"が、佳曲であるように思われた。無駄がなく引き締まっており、美麗さを売りにしたピアノトリオのバラードとしては文句なしの、器を満たしきった演奏ではないか。"All The Things You Are"はとにかく楽曲自体が良いが、ライブ音源のほうはスタジオに比べるとだいぶこなれていて、Jarrettが感情に任せて乱れる場面がなかったようで、その分後者に感じられるスリリングな要素には欠けていたと思われる。こちらが繰り返し聞きたいと思うのは、一九八三年録音のスタジオ版のほうである。音楽は零時半までで切りとして、それからインターネットを閲覧し、一時二〇分に床に就いた。眠りはなかなかやって来ず、しばらくしてから時計を見やるともう二時に達するところで、もう四〇分も眠れないままでいるのかと思った。しかしそれから、多分三〇分はしないうちに入眠できたのではないか。

2018/9/13, Thu.

 八時に鳴るよう仕掛けてあった携帯のアラームで一度覚め、ベッドから遠くに置いておいたそれを取りに行く。そのまま立位を保って起床してしまえれば良いのだが、鳴り響く音を消すと意志薄弱にもベッドに戻ってしまうのだった。そうして浅い二度寝に入り、たびたび目を覚ましながらも決定的な起床には至らない。窓の上端には光を放つというよりは反対に収束するようにして太陽の姿が印され、そこから幾許かの光が顔に降りかかって覚醒を助けようとしてくれるのだが、空は雲混ざりらしく、晴れ晴れと屈託のない光線とは行かなかった。川向こうから、大太鼓の打ち鳴らされる響きが伝わってきていた。そうこうしているうちに一一時に至ってようやく瞼と身が軽くなって、よし、と呟きながら身体を起こした。上階に行き、卓上の書き置きを確認し、仏間の箪笥からジャージを取り出して履くと洗面所で顔を洗った。前夜の鮭が残っているかと思えばその通りで、二切れあったうちの一つをレンジで温め、ほかには米に即席の味噌汁、これも残り物の生野菜のサラダを用意してテーブルに就いた。新聞記事を確認しながらものを食べているあいだ、大太鼓の音は続いており、それに伴って子どもらの声のようなものが聞こえたのは、幼稚園かどこかで何か催しているのかもしれない。食べ終えて食器を洗うと水を汲み、薬とサプリメントを飲んでから風呂を洗った。そうしてポットから急須に湯を注ぎ、茶葉がひらくのを待つあいだに屈伸を二〇回行って、それから体重計に乗ると六二. 六キロが表示された。以前の体重は五三キロからせいぜい五五キロほど、ひょろひょろだったその頃と比べて腹にいくらか肉がついたのが気になるが、重さとしては適正と言って良いだろう。そうして緑茶を一杯湯呑みに注ぎ、急須のなかに湯を足してからそれらを持って階段を下った。コンピューターを起動させてLINEにログインしたが、新着のメッセージはなかった。Twitterを覗いたり、前日の日課の記録を完成させたりしたのちに、すぐに日記に取り掛かるはずが何となくギターのほうに気が向いて、隣室に入って楽器を弄ったそれがちょうど正午頃、長くはせずにまもなく自室に戻って、一二時一〇分から文を書きはじめた。前日の分を仕上げてブログに投稿、その後この日の記事をここまで記すと現在はちょうど一時を迎えている。『川本真琴』とともに、新聞記事の書抜きを始めた。前日に読んだスウェーデン総選挙の結果と、ドイツでの難民追放デモについて写しておき、さらに、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』からも、この本はまだ読みはじめたばかりだが、既に三箇所を書き写した。そのうちの一部をTwitterに投稿している途中、流れていた"タイムマシーン"の、「いつまでも終わらないような夏休みみたいな夕立」というフレーズが突如として耳に引っ掛かって、音楽の効力もあるかと思うが、これは素晴らしいではないかと思った。書抜きを終え、(……)さんのブログにアクセスすると、移転の知らせが出ていたので新たな在所を早速ブックマークしておき、余っていた川本真琴の楽曲が最後まで鳴らされたあと、最新の記事をいくつか読んだ。そうして、YoutubeにあるSIRUP "SWIM"の動画を再生して一度歌うと、前日の新聞を読みはじめた。憲法九条の基礎的な事実をおさらいしたコラム、米朝首脳再会談の見込み、ドナルド・トランプに対する識者三人の評価と記事を読むとそれで時刻は三時前、そろそろ洗濯物を入れるかと上階に行った。上るとまず豆腐を食べることにして、パックから皿に移したものをレンジに突っ込み、二分三〇秒温めるあいだにフランスパンを一切れつまんで、便所に行く。戻ってくると長く持っていられないほどに熱くなった皿を調理台の上に移し、豆腐に鰹節を振ってぽん酢を掛けた。それを卓に持って行って、この日の朝刊の一面、プーチン大統領が日露平和条約の年内締結を提案したという記事を読みながら、豆腐を箸で細かく千切って一口一口食べて行った。そうして、皿と箸を網状のきれで擦り洗っておいてから、洗濯物を取りこんだ。ベランダに出ると、二日三日前には生き残った蟬の一匹の声を聞いたが、この日になるとさすがにもはや蟬の鳴きはあたりになく、秋虫の声ばかりが鳴っている。太陽は雲にやや遮られてはいるが林の上端で光っていて、直視できないほどの白の強さがあった。柵に凭れているとその温もりが背に掛かり、前からは微風が浮かんで涼しげで、重さのなくて肌に同化する大気のなかで眼下の畑の斜面の、青さをはらんだ緑の草々をしばらく眺め下ろした。近所のどこかで犬が鳴き声を立てていた。吊るされていたものをすべて室内に入れてタオルに触れてみると、ほんの僅かに湿り気が残っていたものの、鼻を寄せれば臭いがないので畳んでしまうことにした。畳んだものを洗面所に持って行き、肌着の類も整理して隣の仏間に置いておき、最後に母親の柿色のエプロンを一枚、アイロンに当てた。それで洗濯物の始末は終わり、ソファに腰掛けて脚を組み、目を閉じて例によってこの日の記憶を一つ一つ辿り、頭のなかで現在時に追いつかせるとそれだけで二五分が経っていた。それから緑茶を拵えて下階に下って行き、大して美味くもない飲み物を啜りながら(……)さんのブログを読んだ。二記事で五〇分が掛かった。今は労働から離れて実質上のニート生活を満喫しているから良いが、また働きだしたら自分は本を読む時間を取れないのではないか、労働以外には日記の作成と新聞などのその他読み物だけで一日が終わるのではないかというような気がする。五時まであと少し間があったので、川本真琴 "タイムマシーン"と続けて"やきそばパン"を流して聞き、それから上階に上がって行った。母親は四時頃に帰ってきていた。何かやってくれるのと問うのに、茄子、と答えて台所に入り、冷蔵庫から茄子を四本取り出して洗い出すところで五時を知らせる市内チャイムが鳴った。黒々と光沢を帯びた深い紫の茄子を切り分けてボウルの水に晒し、全部切り終えて笊に上げるとフライパンに油を引いてチューブ入りのニンニクを落とした。しばらく熱してから茄子を投入し、時折り振って混ぜながら、一方で鍋を火に掛け、玉ねぎを切った。味噌汁のためである。鍋に玉ねぎを入れて、茄子は焦げ目がついたところで醤油を加えて完成とし、玉ねぎの加熱を待つあいだに夕刊を持ってきて一面の、沖縄知事選の始まりを告げる記事に目を落とした。付されていた年表も読んでしまうと鍋に水をちょっと加えて、味噌をお玉に取り分けて溶かし入れた。面倒なので味見もせずに完成として、あとはやってくれと母親に告げて自室に戻った。九月一一日の新聞から、パレスチナ関連の記事を写し忘れたことに思い当たっていた。下端で小さく扱われたものだったので見落としていたのだ。改めて新聞をひらいてそれを写し、Evernoteに保存してある過去の記事(米中間選挙についてのもの)を一つ読んで、そうして日記を綴りはじめた。四〇分ほどでここまで記して六時半前、既に窓の向こうは暗闇で、室内の像が映り込んで見通せず、アオマツムシの音があたりに凛々と鳴っている。それから、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読んだ。ベッドの上で一時間を読書に過ごすと、食事を取りに行った。こちらの作ったものに加えて、台所には薩摩芋が煮られており、残り少なかった炊飯器の米は鮭や青紫蘇と混ぜて寿司飯のようになっていた。米や味噌汁などよそっては一つずつ卓に運んで行き、茄子の炒め物と薩摩芋は一つの皿にまとめて乗せて温めた。食事中に特に印象を残したことはない。『くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』がテレビには掛かっていたが、これはどうでも良い類の番組だし、何だったら大方は雑学とも言えないような些細な知識を取り上げて、それを知っていれば「ハナタカ」として悦に入れる、などというコンセプト自体もあまり好きではない。食後、風呂に入って湯に浸っていると、窓の向こうから雨音が膨らみ近寄ってきて、その下地の上に重なって秋虫の音が波打っていた。風呂から上がって短い髪を手早く乾かすと、翌日が通院だからと髭を剃ろうと思っていたのだが、父親がどこかへ持って行ったのか電動シェーバーが見当たらなかった。仕方がないので、多少髭が生えていてもさほど見窄らしくもあるまいと払って洗面所を抜け、下階に帰ると一年前の日記を読んだ。すると九時前、この日の残った時間を何に充てようか自分の欲望が見定められず、立ち迷うようなところがあったが、結局読書に費やすことにして『憎しみに抗って』を取った。ベッドで枕に凭れながらしばらく読んだところで、手の爪を切りたくなったので一旦読書を中断し、ベッド上にティッシュを一枚敷いて、SIRUP "SWIM"をリピート再生しながら爪をぱちぱちとやった。やすりがけをしているあいだに音楽はSuchmos "YMM"、"GAGA"と移して口ずさみ、終わるとふたたび書見に戻って一時間半、一一時半過ぎまで文を追ってから廊下に出た。歯ブラシを取りに洗面所に向かうと、階段下の室に上半身裸の父親がいたので、何か調べ物だろうかパソコンを前にしているのにおかえりと告げて、便所に入った。用を足し、歯磨きをしてしまうと音楽の時間である。この日はすべてKeith Jarrett Trio、例によって『Standards, Vol.1』の"All The Things You Are"から始め、その後『Tribute』から"Just In Time"、"Smoke Gets In Your Eyes"、"All Of You"と聞いた。"Just In Time"ではベースソロの終盤がカットされると言うか、Jarrettが明らかに早く、ずれた位置でバッキングに戻ってきたのに合わせてそのままソロが明けてしまい、ベースのソロは正しい小節数で完結せず、これではベースとその他二者のあいだで演奏がずれてしまうと思うのだが、何故か直後に続くバース・チェンジのドラムのソロの始まりはぴったり合っているので、どういうことなのか良くわからない。音楽を聞き終えると零時二〇分過ぎ、そのまま消灯して床に就いた。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 ときに私は、彼らをうらやむべきだろうかと考える。ときに、どうしてだろうと考える――どうしてあんなふうに憎むことができるのだろうと。どうしてあれほど確信が持てるのだろうと。そう、なにかを憎む者は、確信を持っていなければならない。でなければ、あんなふうに話し、あんなふうに傷つけ、あんなふうに殺すことなどできない。あんなふうに他者を見下し、貶め、攻撃することなどできない。憎む者は、確信を持っていなければならない。一片の疑念もなく。憎しみに疑念を抱きな(end9)がらでは、憎むことなどできない。疑念を抱きながらでは、あんなふうに我を忘れて憤慨することなどできない。憎むためには、完全な確信が必要なのだ。「もしかしたら」と考えてはならない。「あるいは」と考えてしまえば、それが憎しみのなかに浸透し、よどみなく流れるべき憎しみのエネルギーをせき止めてしまう。
 憎しみとは不明瞭なものだ。明瞭にものを見ようとすれば、うまく憎むことができなくなる。優しい気持ちが入り込み、よりよく見てみよう、よく耳を傾けてみようという意志が生まれる。ひとりひとりの人間を、その多様で矛盾した特徴や傾向まで含めて、生きた人間として認識するための差異が生まれる。だが、一度輪郭がぼかされ、一度個人が個人として認識不能になれば、残るのはただ憎しみの対象としての漠然とした集団のみであり、そんな集団のことなら、好きなように誹謗し、貶め、怒鳴りつけ、暴れることができる。「ユダヤ人」「女性」「信仰のない者」「黒人」「レズビアン」「難民」「イスラム教徒」、または「アメリカ合衆国」「政治家」「西側諸国」「警官」「メディア」「知識人」。憎しみの対象は、恣意的に作り出される。憎むのに都合よく。
 憎しみには、上に向けられるものと下に向けられるものがあるが、いずれにせよ必ず目線は縦方向だ。自分より「上のやつら」、または「下のやつら」、いずれにせよ彼らは「自分たち」を抑圧または脅迫する「他者」である。「他者」とは、危険な権力だとされるもの、または価値が劣ると考えられるものである――こうして、のちに虐待や殲滅が起きても、それは、単に「許される」行為であるばかりか、「必要な」行為でさえあったと過大評価されることになる。「他者」とは、罰を受けることな(end10)く中傷し、蔑み、傷つけ、殺すことさえできる対象なのだ。
 (9~11; 「はじめに」)

     *

 実際、ドイツ連邦共和国ではなにかが変わった。以前より公然と、躊躇なく、憎しみが表明されるようになった。ときには微笑みとともに、ときには真顔で、だがあまりにも堂々と恥知らずに。匿名の脅迫状なら以前からあったが、今日では差出人の名前と住所が書かれたものが送られる。インター(end12)ネット上でも、暴力の妄想や憎しみの書き込みは、もはやハンドルネームの陰に隠されてはいないことも多い。もし数年前に、私たちのこの社会で再び人がこんなふうに[﹅6]話すときが来ると想像できるか、と訊かれていたら、ありえないと答えただろう。公共の場での議論がこんなふうに野蛮になるとは、こんなふうに際限なしに人間に対する誹謗中傷がまかり通るようになるとは、私には想像もつかなかった。人間同士の会話とはどうあるべきかというこれまでの一般的な常識が、ひっくり返されたかのようにさえ見える。まるで、人間同士の付き合い方の基準が、まったくの正反対になってしまった――つまり、他者を尊重することを単純かつ当然の礼儀作法だと考える者のほうが、自分を恥じねばならない――かのようだ。そして、他者を尊重することを拒絶し、それどころか、できる限り大声で誹謗や偏見を叫びたてる者こそが、自分を誇らしく思っているように見える。
 (12~13; 「はじめに」)

     *

 そもそも、本書で取り上げる憎しみは、個人的なものでも偶然の産物でもない。ついうっかり、または本人たちに言わせればやむにやまれぬ必要性にかられて口にされる、あいまいな感情などではな(end13)い。ここでの憎しみとは集合的なものであり、イデオロギーという器に入っているものだ。憎しみには、それを注ぎ入れることのできる、あらかじめ作られた器が必要である。人を侮辱するのに用いられる概念、思考の整理に用いられる想像の連鎖やイメージ、人を分類し、レッテルを張るのに用いられる知覚パターンといったものが、あらかじめ出来上がっていなければならない。憎しみは突如沸き起こるものではなく、徐々に育まれていくものなのだ。憎しみを、たまたま生まれた個人的な感情だと考えてしまえば、望むと望まざるとにかかわらず、憎しみがさらに育まれ続ける環境に手を貸すことになる。
 (13~14; 「はじめに」)

2018/9/12, Wed.

 夏のあいだの薄い掛け布団だけでは肌寒くて、もう一枚を被った朝だった。この日も何度も覚めてはいるものの、活力が湧かずに寝床から離れることができず、ぐずぐずと留まって結局起き上がったのは正午だった。活動を厭うような心が薄くあったような気がする。飯を食うにも風呂を洗うにも面倒臭く、また過去には自分の本意だった読み書きにしたってそれをやってみて何になるわけでもないという無力感、空虚感の類である。それでもどうせほかにやることもないので起き上がり、ステテコパンツを履くと急須と湯呑みを持って上階に行った。台所に入ると急須の茶葉を空け、ポットを覗くと湯がなかったので薬缶を使って補充しておく。顔を洗ったあと、オクラ、ウインナー、茄子の味噌汁を運んで卓に就いた。腹が減っておらず、米を食べる気は起こらなかった。新聞をめくって記事をチェックしながらものを食べ、母親が余計に運んできたサラダやゆで卵も、特に食べたくはなかったのだがいただき、薬を飲むと食器を洗った。そのまま風呂も洗うと緑茶を用意して下階に下り、SIRUP "SWIM"をリピート再生にしてインターネットを閲覧した。LINEには新たなコメントが現れており、(……)によると映画の上映時間は一一時三五分からということだった。場所は川崎、我が家からはおそらく二時間くらい掛かるわけで、きちんと間に合う時間に起きられるのか心許ないが了承し、"SWIM"が流れるなかで前日の記録を完成させ、この日の記事も作成した。一時二〇分から日記を綴りはじめた。前日分を投稿したのちここまで綴って、現在は二時七分を迎えている。それから、ドーパミンを増やすという「ムクナ」や「チロシン」などのサプリメントについて情報を収集して(と言って匿名掲示板のスレで書き込みを拾い読みしただけだが)半ば無駄な時間を使い、三時頃になって上階に行った。ハンカチやエプロンにアイロン掛けをしたあと、緑茶をおかわりする前に何か腹にものを入れたいということで、冷蔵庫からヨーグルトミックスのゼリーを入手した。乳白色のゼリーのなかにフルーツが埋められたそれを食べ、茶を新たに用意して自室に戻ると、『ルパン三世 PART5』の最新話を視聴した。つまらなくはないが取り立てた印象をもたらすわけでもない。昨年まではアニメなどのエンターテインメント性の強いコンテンツを、所詮は出来合いのありがちな物語であると思いながらもそこそこ楽しむ心があったように思うのだが、病気を通過して物語的なものにも感受性が反応しなくなったような感じがする。アニメを見たあとは『川本真琴』を流しながら前日に読んだ新聞記事の写しに入って、スルガ銀行の不正融資の件で、成績をこなせなければ「ビルから飛び降りろ」などと上司に言われたという行員の証言を打鍵していると、天井が鳴ったようだった。音楽を止めないままに廊下に出て、階段の下から呼んだかと問いかければ、手伝ってほしいことがあると言う。上がって行くと、座布団をゴミに出すので解体するのだと言った。書抜きを中断した時刻を知りたくて時計に目を向けると、ちょうど四時を指していた。それで台所に座りこみ、鋏で座布団のカバーを切りひらき、なかの綿も、そこそこの厚みがあるものを何度も階層的に鋏を入れて、じゃきじゃきと二つに切断して行く。綿の繊維が舞って、鼻息を強くするとむずむずとなりそうだった。苦労してクッション材を二つに分けると、ちょうど行商の八百屋((……)さん)が来たところで母親は外に出ていき、こちらは台所で分かれたものをそれぞれ円筒形に丸めて紐で縛った。そうして戻ってきた母親とともに、薄緑色のビニール袋のなかに無理やり押し込むと仕事は終わり、トイレで小便をしてから下階に戻った。それから、流しっぱなしだった『川本真琴』を巻き戻して四曲目からふたたび始め、また新聞記事を写す。米国は、と言うかドナルド・トランプは、対中関税の第四弾を二六七〇億ドル分とするつもりのようで、そうすると一弾目から合わせて五〇〇〇億ドルほどある中国からの輸入品すべてに高関税が課せられることになるから、滅茶苦茶なやり口である。新聞記事を写し終え、『川本真琴』を最後まで聞くと時刻は五時直前、夕食の支度をするべく階を上がった。CDを持ってきて、Donny Hathaway『These Songs For You, LIVE!』を、三曲目、"Someday We'll All Be Free"から始めてラジカセで流した。コンロに乗った鍋には茄子の味噌汁が少々残っていた。まずはレンコンを肉と炒めてくれということで、スライサーで薄くおろし、胡麻油を熱したフライパンに投入する。歌を歌いながら炒め、しばらくしてから、肉は冷凍の小間切れになった豚肉の、僅かに残っていたのをすべて放りこみ、醤油とみりんを垂らしたあとから最後に胡麻を振って仕上げた。続いて、"What's Going On"を口ずさみながら湯を沸かし、モヤシを茹でると笊に取っておき、キャベツをスライサーで細く削って行く。"Yesterday"を歌いつつ、水を注いだ洗い桶のなかにそれを溜めていき、ほかにレタスも千切り、茹でたモヤシも混ぜてしまって、水洗いして冷やすと笊に上げた。それを食器乾燥機のなかに収めておき、あとはおかずに鮭を焼くとのことだったがまだ時間が早かったので母親に任せることにして、台所を去った。自室に帰るとちょうど五時半、運動をする気になって、繰り返されるSIRUP "SWIM"を背景に下半身を伸ばすが、歌を口ずさんでしまうから柔軟運動は集中できずになおざりなものになってしまうのだった。その後、腹筋運動を七五回、腕立て伏せを何度かに分けながら計二六回こなすと六時に至って、ものを読みはじめた。初めに、前日九月一一日の新聞である。国際面をひらくと、スウェーデンの総選挙で反移民政党である「スウェーデン民主党」が伸長したらしい(日本や米国ではリベラル寄りの名称である「民主党」が、ここでは極右として扱われているのでややこしい)。九月九日、王子からの帰りの高速道路でニュースを聞きはじめたちょうどその時に、NHKスウェーデンの移民がどうとかいう話題を取り上げていたが、あそこで話されていたのはこのことだったのだろう。与党、社会民主労働党はこの一〇〇年間、第一党の座を守っているらしく、左派的な寛容の伝統が根付いていたのだろうが、今回の選挙では中道左派の与党連合は一四四議席中道右派の野党連合は一四三議席と僅差で、どちらも過半数(一七五議席)に届かなかった。続いてその下、ドイツでの難民反対デモの記事も読み、それからカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』の読書に入った。文字を追っているうちに時刻は七時を回り、あっという間に二〇分に至って、そこでそろそろ飯を食いに行くことにした。茄子の味噌汁にはモヤシやワカメが加わって増量されていた。そのほか白米、鮭にレンコンの炒め物、生野菜のサラダ、豆腐に小松菜などを卓に並べて食事を始める。食事中、母親は下の(……)さんの話をしていたのだが(昼に食べたオクラは彼女に貰ったものだと言った)、そのうちに先般(……)さん夫妻が出て行った小家(隣の(……)さんが大家で、この九七だか九八だかになる老婆と、若い夫婦とのあいだにちょっとした揉め事があって引っ越して行ったのだ)が話題に出てきたので、そこを拾い上げて、そもそもあの家はいつからあそこにあるのかと尋ねた。それで判明したのだが、我が家も含めてこの周囲の土地は元々、(……)という栃木の人物が別荘地のようにして持っていたものだったのだと言う。その(……)さんが亡くなった時に、遠くて管理もできないからとその息子(この人は神戸にいるとかいう話だ)に頼まれて、それまで借地だったところを(……)さんやら我が家やらは買い取ったという経緯だった(我が家の土地を買うにあたっては、祖父と父親が折半したらしい)。それから、別の話としては山梨の(父方の)祖母のことが話題に出た。先日、祖母には胸がきゅっと締まるような感覚に襲われて苦しくなったということがあったのだが、それを受けて(……)さん(祖母の長女=こちらの伯母)が短い手紙とともに、新聞記事のコピーを送ってきたのだった。封筒からそれを取り出して読んでみると、「心房細動」という症状について述べられており、それは不整脈の一種で、脈の乱れによって血の塊が生じて、それが血液に運ばれて脳まで届くと脳梗塞になる、と記事は胸というよりは頭に焦点を当てた主旨だったが、祖母の症状もこれと似ているとのことらしい。二〇一四年の年末、我々が欧州に渡っていたあいだに祖母は一度脳梗塞を起こしており、先般、腰の手術をしようという際にも、軽いものだがもう一度起こって、手術は取り止めになったということもあった。それらの梗塞もこの記事で述べられていた心臓から来たものなのか、それは判然としなかったが、あるいはそうなのかもしれない。話には(……)さん(漢字は(……)さんかもしれないが――(……)さんの旦那さんである)の名前も出てきたので、彼は何の仕事をしていたのかとついでに尋ねると、NTTで何かやっていたらしいという答えがあった。そうこうしているうちに時刻は八時、薬を飲んで食器を洗い、風呂に行った。湯のなかに踏み入って身体を落とすと、肌を刺激する熱の感覚が、普段よりも何か強いような感じがしたが、それだけ気温が下がってきたということだろう。実際、本を読んでいるあいだなどは、半袖に半ズボンの格好だとちょっと肌寒いようだった。風呂場では湯に包まれながらじっと静止し、湧き出る汗に気を散らされながらこの日のことを順番に思い返した。そうして風呂を上がると茶を注いで下階に下り、コンピューターを前にすればLINEに新着メッセージが来ている。一七日に見に行く映画は、『リズと青い鳥』という作品で、『響け!ユーフォニアム』の映画ではなかったのかと思ったが、このタイトルでスピンオフ的なものらしい。それから緑茶を飲みながらインターネット記事を読み、九時半からこの日の日記を書き足しに掛かった。黙々と打鍵して一時間半、一一時直前に至ってここまで記された。(……)さんのブログの最新記事は長そうだったので翌日に回すことにして、歯を磨きながら一年前の自分の日記を読み返した。それからは音楽の時間、まずSIRUP "SWIM"を聞き、次にKeith Jarrett Trio "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)を聞いたが、ここのところ繰り返し流しているこの音源は名演と言って良いものなのだろうと、例によって感動による気分の高ぶりはないわけだが、今更ながらにそう思った。『Standards, Vol.1』および『Vol.2』の演奏のなかでも、陶酔に任せたピアノの乱れ方がほかの曲とは違っているような感じがする。それから『Tribute』のほうに移って、"Solar"、"Sun Prayer"、そしてディスク二の冒頭"Just In Time"と聞いたが、この最後の演奏もハイテンポで相当に充実しており、特にベースの強靭さが耳に残った。僅か五曲を聞いたのみだが、それでもう日付は変わっていた。コンピューターをシャットダウンしてベッドに移り、『憎しみに抗って』をいま少し読み進めることにした。二〇一六年二月にザクセン地方クラウスニッツで起こった難民バス進路妨害事件の描写や分析を読み、一時一〇分に至ったところで切りの良いところまで達したので本を閉じ、消灯した。布団のなかでは日記に記した以降のことを一つ一つ思い返していたが、そうしているうちに労せず眠りに入ったようだ。