2018/10/11, Thu.

朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年

 (……)あなたへの信頼の証拠として、今まで強がりからあなたに言い得なかった次のことを告白します。それは、ぼくの可愛いお嬢ちゃん、ぼくはあなたの心の中で第一の人間ではなく唯一の[﹅3]人間でありたい、ということです。ぼくはこの自分の気持をずっと前から知っていましたが、あなたに言うつもりはありませんでした。ぼくがこのことを言うのは、あなたにこの点でほんの少しでも変わってもらいたいためではなく、あなたへの信頼のしるしとしてぼくがあなたになし得る最も辛い告白をあなたに捧げるためです。(……)
 (16; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)

     *

 (……)今夜ぼくは、あなたがいままでぼくから経験したことのない仕方であなたを愛しています。つまり、ぼくは旅行によって弱ってもいないし、あなたを身近に感じたいという欲望によって気が転倒してもいません。ぼくはあなたへの愛を統御し、それをあたかもぼく自身の構成要素のように自分の内部にとり込むのです。このことはぼくがあなたに口で言うよりもはるかに頻繁に起こることですが、あなたに手紙を書くときには稀にしか起こりません。ぼくの言う意味が判りますか、つまりぼくは外部の事象に注意を払いつつあなたを愛しているのです。トゥールーズでは、ぼくはただ単にあなたを愛するのです。しかし今夜は、ぼくは春の夜の中で[﹅6]あなたを愛しているのです。ぼくは窓をひらいて、あなたを愛しているのです。あなたはぼくに現前し、事物もぼくに現前しています。ぼくの愛はぼくをとり巻く事物を変容させ、ぼくをとり巻く事物はぼくの愛を変容させるのです。
 (22; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)

     *

 ぼくの愛する人。あなたには判らないだろう、ぼくがどれほどあなたのことを想っているか、一日中絶え間なくあなたで満ちみちたこの世界のただ中で。時によってはあなたが傍にいないのが淋しくてぼくは少し悲しい(ほんの少し、ごくごく少し)、ほかの時はぼくはカストールがこの世に存在すると考えて、この上なく幸福なのだ、彼女が焼き栗を買ってぶらつき廻っていると考えて。あなたがぼくの念頭から去ることは決してなく、ぼくは頭の中で絶えずあなたと会話をしている。(……)
 (55; ボーヴォワール宛; ホテル・プランタニア、シャルル・ラフィット街、ル・アーヴル; 1931年10月9日金曜日)



  • 倦怠そのもの。絶対的な鈍さ。書きたいことが何もない。読み書きは自分の業としての価値を失った。生の目的の失効。純然たる無意味性。

2018/10/10, Wed.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 (……)というわけで、ひとつの場面[﹅6]を書くのに、なんと七月末から十一月末までかけることになります! それもやって面白いならいいんですが! しかしこの小説は、どんなにうまく書けたところで、決してぼくの気に入ら(end291)ないでしょう。全体像がはっきりと見えてきた今となっても、嫌悪をおぼえるのみ。(……)
 (291~292; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年十月二十五日〕火曜夕 午前零時)

     *

 (……)ぼくが親近感を抱くのは、非行動的な人間、禁欲的な者、夢想家です。――洋服を着る、脱ぐ、食べる、なんてことにもうんざりです。大麻をやるのが怖くさえなければ、パンのかわりにこれをつめこんで、かりにあと三十年生きなければならないとしたら、その間ずっと、仰向けになって、だらりとしたまま薪みたいにころがって過しますよ。
 (298; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年十二月十四日〕水曜夜 二時)

     *

 (……)一冊の書物にあっては、すべてが似ていながらじつはひとつひとつ違っている森の木の葉のように、文章という文章が、立ちさわいでいなければなりません。
 (314; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五四年四月七日〕金曜夕 午前零時)



  • 気分優れず。ずっと眠り続けていたいような倦怠感、疲労感。それに従って、三時半頃から床に寝そべり、部屋も真っ暗に浸された七時まで眠った。
  • Miles Davis, Vol.1』。最終曲、"It Never Entered My Mind"が佳演のよう。
  • フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』。「肱をつく」の主題。●19: シャルル、学生時代、ルーアンにて。「晴れわたった夏の夕べ、生暖かい街路には人通りもなく、女中たちが家の戸口で羽根つきをして遊ぶころおい、彼はよく窓をあけて肱をついた」。●23: 「男は(……)布切れに包んだ手紙を取り出して、うやうやしくシャルルに手渡した。シャルルは枕に肱をついて読んだ」。●54: 「往診に出かけるのを見送りにエンマは窓べに寄る。そして部屋着をふわりとまとったまま、窓敷居の、ジェラニウムの鉢を二つ置いたあいだに肱をついた」。●85: ヴォビエサール荘で。「エンマはショールを肩にかけ、窓を開いて肱をついた」。●103: 「エンマは榛[はしばみ]の実をかじったり、食卓に肱をついて、手もちぶさたなままに、ナイフの先で蠟びきのテーブル掛けの上に筋をつけたりした」。●153: 「トランプの勝負がつくと、こんどは薬剤師と医者がドミノをやる番だった。エンマは席を替え、テーブルに肱をついて、『イリュストラシオン』を拾い読みした」。●197: 「[エンマには]しばしば脳貧血が起こった。ある日などは血を吐いた。(……)シャルルは診察室へ逃げ込むと、事務椅子に腰をおろし、机に両肱をついて、骨相学用の髑髏の下で泣いた」。●199: 「エンマは二階の居間の窓べに肱を突き(彼女の好みの席だった。田舎では窓が劇場や散歩道の代用になる)、田舎者のごった返しをおもしろそうにながめていた」。
  • 床に就いてからとんと眠気が差してこず、寝付くまでに虫の声の響くなかで一時間以上起きていた。一時は眠りに苦労がなくなったようだったのだが、最近また寝付きにくくなっているような気がする。

2018/10/9, Tue.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 [農業共進会の場面について、]ところでこの壮大なピラミッドが内包するものは、平凡陳腐、何ともささやかなロマンスでしかない。その意味では、これはアンチ・ヒーローたちの演じるアンチ・クライマックスだとも言えて、形式の緊張が内容の空無そのものを提示するところに、もっともフロベール的な<芸術>がある。
 (287註)

     *

 この本は、ちょうど今さしかかっているところなど、ぼくを拷問の苦しみに合わせている(もっと強い言葉があればそれを使うんだが)、おかげでときには肉体的[﹅3]に病気になってしまう。(end288)ここ三週間ほど、ぼくはしょっちゅう、胸をしめつけられて気が遠くなるような感じにおそわれます。そうでなければ、胸を圧迫される感じ、あるいは食卓で吐き気をおぼえることもある。何もかもうんざりだ。今日だって、もし自尊心が邪魔をしなければ、大喜びで首を吊りたいくらいでした。確実に言えるのは、ときどきすべてをおっぽり出したくなるってこと、とりわけ『ボヴァリー』をね。こんな主題をとりあげようなんて、どうしてこんな呪わしい考えにとりつかれたんだろう! ああ、これでぼくは、身をもって<芸術>の苦患[﹅2]を知ったことになるでしょう!
 (288~289; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年十月十七日〕月曜夜 一時)

     *

 (……)最近発表された草稿研究によれば、第二部八章、わずか二十五ページ(クラシック・ガルニエ版)のために、くり返しくり返し書きなおされた草稿は、保存されているものだけで、表と裏ほぼ全面を埋めつくした原稿用紙二百枚近くにのぼる。(……)
 (290註)



  • 「間道をしばらく通り、表へと出て街道を進むそのあいだにも、歩道の上に細く薄青く伸びた自分の影の、懐かしいような穏和な明るさに包まれて、歩くほどに長く引かれていくような斜陽の四時である。表道から一つ折れて正面のアパートの、低く並んだ垣根の葉に西陽が宿って金色の雫の溜まったようでもあり、また飴細工にでも変じたようでもあるその輝きを見ていると、二つ目の角を曲がって路地へと入るその僅かなうちに、角度の具合で琥珀色のさらに強まって、短い合間で急速に磨きこまれたかのように葉が金属的な硬質さを帯びていた」(2017/10/9, Mon.)――表から裏路地へと入っていくあいだのごく短い時間における印象の推移を敏感に捉えて良く記していると思う。
  • 黒田卓也『Rising Son』の最終曲、Jose James作曲の、実にメロウで爽やいだ秋の晴れ空といった感の"Promise In Love"をひたすらにリピート再生させながらものを読む。
  • 昼下がり、瞑想をする。電気信号の縦横無尽な伝達を視覚化したかのように瞑目の視界のなかが波立つとともに、この日は微かな心地良さを感じるような気もされた。外では鳥が一匹、おはじきかビー玉でも打ち合わせるかのような短い鳴き声を立たせ、へこませた腹からは風船を擦り合わせるような内臓音が間を置いて小さく湧く。二〇分ほどの瞑想を終えると仰向けになり、両脚を重ね、両手を頭の後ろに持って行ってしばらく寝そべった。外では隣家の(……)さんがうろついて草取りをしていたようだが、そこに旧知らしい老婆仲間が幾人か通りかかって、偉いじゃんか、などと話していた。(……)さんのほうは、九七歳だと応じている。こちらは臥位のそのまま眠ってしまいたいような気がしたが、やがて立ち上がって洗濯物を取り込みに行った。

2018/10/8, Mon.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 生れつき苦しまずにすむ人間がいるものです、無神経な人たちというのがそれだ。連中は仕合せですよ! でも彼らはおかげでどれほど多くのものを失っていることか! 奇妙なことに、生物の階級を上へ昇れば昇るほど、神経的な能力、すなわち苦しむ能力も増大するようです。苦しむことと考えることは、つまるところ同じものなのでしょうか。天才とは、要するに、苦痛を研ぎ澄ませること、つまり、対象そのものをいっそう完全かつ強烈に自分の魂に滲み透らせることにほかならないのかもしれません。おそらくモリエールの悲しみは、<人類>のあらゆる愚かしさ、彼が自分自身のなかにとりこんでしまったと感じていた人類の愚かしさから来ているのです。
 ようやく共進会のなかほどまで来ました(今月できたのは十五ページほど、それも仕上がっているわけではありません)。さて出来は良いのか悪いのか? ぼくにはまったくわかりません。それにしても会話の難しさ、とりわけ会話に性格[﹅2]をもたせたいとなると! 会話によって色づけすること、しかもそのために会話の生気が失われたり不正確になったりせず、平凡でありながら常に格調高く保つこと、これはもう曲芸みたいなもんだ、ぼくの知るかぎり小説のなかでこんなことをやってのけた人はありません。会話は喜劇の文体で、語りの部分は叙事詩の文体で書かなければならないのです。
 今夜は、すでに四回も書きなおしているあのいまいましい飾りランプの話を、新しいプランにしたがって、またやりはじめました。まったく壁に頭をぶつけて死んじまいたいくらいだ! 要するにこういう話です(一ページでこれを書く)、ひとりの男が村役場の正面の壁につぎつぎといくつもの飾りランプをつけるのを群衆が見て、しだいに昂奮が高まってゆく、それを色づけして見せるんです。そこに群がる人々が驚きと歓びでわめき立てるのが、見えなくちゃいけない。それも滑稽な誇張ぬき[﹅7]、作者の考察もぬきでやる。貴女はぼくの手紙にはときにびっくりするほど感心すると言ってくれる。とても良く書けていると思うわけですね。あんなのは小手先の仕事です! なぜって手紙には、ぼくの思ったことを書けばいい。でも、他人のために、彼らが考えるであろうように考える、そして彼らに喋らせるとなると、全然違うんですよ!(……)
 (284~285; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年九月三十日〕金曜夜 午前零時)



  • tofubeats feat. 藤井隆 "ディスコの神様"をyoutubeで何度も繰り返し再生しながら、軽運動をする。音楽が流れるなか、ベッドの上で両足の裏を合わせ、その上から手で掴みながら前屈の姿勢で静止する。また、例のヨガで言うところの「コブラのポーズ」――うつ伏せの状態から両手を前方に突いて身体を持ち上げ、背中をぐっと反らせる――も行って身体をほぐす。
  • 午後五時、台所に入って、うどんを茹でるためにフライパンに湯を沸かす。水が沸騰に至るのを待つあいだにベランダに出ると、夕刻の外気は湿っぽい。思えばこの日は寝起きからどこか肌寒いようで、日中過ごすあいだもジャージを上下ともしっかり着込んでいたのだった。"ディスコの神様"のメロディを口のなかでリズミカルに鳴らしながら柵に寄ると、隣家の庭に鳥が二匹現れて、木の一本に留まった。鵯だった。鳥たちはそれから梢のあいだをくぐってばさばさと音を鳴らし、同時にぴよぴよと鳴き声も立てながら追いかけっこを始めた。一度は庭から飛び出して、我が家の畑の斜面に生えた梅の木に止まったが、またすぐに隣家の敷地へ戻って行くその姿を追いつつ、雄と雌との番いなのだろうかと思った。その後二匹は柚子の木の足もとに降り立った。こちらの位置からは姿が窺えず下草を分けてがさがさというその音のみを聞くあいだに上空を見上げると、この日は雲がひと繋がりに空を覆って全面白いそのなかに、東のほうでちょっと畝も生まれているのを目にすれば、空に境を画すもののなくてどこまでもなだらかにひらいているものだから、三方の端まで渡る空間の広さが前日よりも実感されるようだった。鳥たちはそのうちにまた飛び立って、家並みのあいだを通り抜けて林のほうへと去って行った。それを見届けたこちらは室内に戻り、北海道産小麦を使用したうどんを茹で、洗い桶に水を溜め、氷も使って冷たく締めると、笊に上げたそのあとから大根を千六本におろした。
  • 夜半前、音楽。Charles Lloyd, "Darkness On The Delta Suite", "Dervish On The Glory B", "The Caravan Moves On"(『Hyperion With Higgins』)に、同じくCharles Lloyd, "Georgia"(『The Water Is Wide』)。『Hyperion With Higgins』の終盤三曲は、どれもギターのJohn Abercrombieが流麗に、わりと活躍している印象。"Dervish On The Glory B"は、実のところあまり似てはいないのだが、『Rabo de Nube』の"Booker's Garden"を思い起こさせるようで(どことなくファンキーなようなビート感のためだろう)、Brad Mehldauのピアノソロを中心にもう一度聞きたいようだ。その後、"The Caravan Moves On"を聞くと、冒頭、雰囲気をたっぷりと湛えたLloydのサックスと言い、行進めいた低音のタムのリズムと言い、遠くにゆらゆらと揺らめきつつ、切り絵のように黒一色の影と化しながら砂丘の上を行く隊列の様子が、まさしく眼裏に表象されるようだった(つまらない、退屈なイメージ化に過ぎないが)。
  • 就床前、瞑想を行う。この日はアオマツムシの音は聞こえず、しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんと、原始的な楽器を振り鳴らすかのような虫の音が遠くに響くのみだった。鼻からゆっくりと呼吸をし、空気を吐き出しきって腹をへこませたままに静止するということを繰り返していると、じきに視界が蠢きだして、靄の収束が始まったが、だからと言って精神状態に大きな変化がもたらされるでなく、かつてのように繭に包まれたような心地良さというか、カプセルのなかで液体に浸っているような安楽さというのは訪れなかった。一五分ほど、座っていた。それから明かりを落とし、窓を開けたまま眠りに向かったが、久しぶりに寝付くのには少々苦戦して、結構な時間が掛かったようだ。

2018/10/7, Sun.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 うんざり、がっかり、へとへと、おかげで頭がくらくらします! 四時間かけて、ただのひとつ[﹅6]の文章も出来なかった。今日は、一行も書いてない、いやむしろたっぷり百行書きなぐった! なんという苛酷な仕事! なんという倦怠! ああ、<芸術>よ! <芸術>よ! 我々の心臓に食いつくこの狂った(end279)怪物[シメール]は、いったい何者だ、それにいったいなぜなのだ? こんなに苦労するなんて、気違いじみている! ああ、『ボヴァリー』よ! こいつは忘れられぬ想い出になるだろう! 今ぼくが感じているのは、爪のしたにナイフの刃をあてがったような感覚です、ぎりぎりと歯ぎしりをしたくなります。なんて馬鹿げた話なんだ! 文学という甘美なる気晴らしが、この泡立てたクリームが、行きつく先は要するに、こういうことなんです。ぼくがぶつかる障害は、平凡きわまる情況と陳腐な会話というやつです。凡庸なもの[﹅5]をよく書くこと、しかも同時に、その外観、句切り、語彙までが保たれるようにすること、これぞ至難の技なのです。そんな有難い作業を、これから先少なくとも三十ページほど、延々と続けてゆかねばなりません。まったく文体というものは高くつきますよ!
 (279~280; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年九月十二日〕月曜夕 午前零時半)


  • 「夕食の調理をしたあと、ベランダに出た。どうも精神が狭苦しいというか、窮屈なようになっている感覚があったのでそうしたのだが、広々とした空間のなかに身を置いていると気持ちもひらいていくもので、一日のなかで外気に触れる時間がやはり必要だと思ったものだ。目も疲れていたようだったので、遠くの山や雲へと視線を伸ばして、目の筋肉を解すようにした。暮れ方の僅かな残光のなかに浮かんで不定形に空を覆っている巨大な雲の端々を見ていると、何とも言葉にならなかったのだが、非常にリアルに感じられてやはりこれは凄いなと、迫ってくるような感じがあったし、飛行機の音が聞こえたのに引かれて頭上を見上げても(音の聞こえるあいだ中、結局その姿は見えなかったのだが)、くすんで淡い雲が染みのように浮いているそのために、白い空が視線を留めず果てしない空漠として映るのではなくて、そこにも確かに空間があるのだということが実感されて、何か怖いようなところがあり、また同時に、よく空について言われる屋根とか天井とかいう比喩が初めて現実的な感覚として腑に落ちたような気がした」(2017/10/7, Sat.)
  • 暑気の室内に籠りがちな快晴の日和、居間の気温計は午前一〇時台から三二度を指していたらしい。近所の屋根がまさしく銀紙を貼られたようにてらてらと光り映えているのを見た。部屋に戻ってみても前日よりも気温は高いようで、これでは扇風機が欲しくなると季節違いの望みも湧くなか、片足ずつベッドを踏まえてジャージの裾を膝上まで捲り、脛を晒す。食後の一服で緑茶を飲みつつ、暑くなった身体に肌着をぱたぱたやると汗の匂いが昇って鼻に香った。
  • 午後五時頃、台所に向かうとそこには既に母親が立っており、フライパンで鯖の切り身を焼いていて、もう一つ隣のフライパンでは南瓜がもうだいぶ色濃い金茶色に煮詰まっている。交代して調理台の前に立ち、鯖の番を受け持って時々箸で裏返すかたわら、玉ねぎを一つ切り分けた。魚が狐色の焦げ目を帯びて焼き上がり、小鍋のなかに、まだ湯が沸いていないのに早々に玉ねぎを入れてしまうと、煮えるのを待つあいだにベランダに出た。暖気のやや籠ったような室内と比べて外は涼しく、柵の手摺りに腕を置くと少々冷やりとするようだった。先日高枝鋏を使ってその実を採った隣家の柿の木の、枝はもう裸になって寒々しいなかに実だけまだいくつかついているのが目に入る。首を目一杯曲げて直上を見上げれば、黄昏に入る手前で色を薄めた夕空に静止した薄雲の、ここでは冷たく白くてちょっと雪を思わせるようだったが、そこから広がる三方向の外縁にそれぞれ大きく湧いているものは灰色を帯び、なかで東南の、市街の上に突出したもののみ青さが幽か混ざっているその下の、果ての宙に、紫の色のうっすらと漂って透き通った浅瀬のようだった。しばらく空を眺めたのちに台所に戻ると、鍋は泡立ち玉ねぎは柔らかくなっていたので、火を止めて味噌を溶き、さらに金色の溶き卵を注いで汁を仕上げた。
  • こちらが夕食に入り、鯖を千切っては米を食べていると、風呂から出てきた父親が居間の隅の体重計に乗る。裸の上半身のその上腕の途中から、酒に酔った顔の色のように赤く日に焼けていた。錦織圭の負け試合を映すテレビを見やって父親は、錦織が相手の高速で強靭なサーブにいいようにされているのに、あんだかよ、と田舎じみた嘆きの言葉を呟く。確か山梨の祖母もこの言葉を使っていたはずで、親から受け継がれたものなのだろう。もう一つ、似たような地方言葉で思い出すのは、こちらは既に亡くなった母方の祖母がよく口にしていたが、あっそろしい、という驚きの表現で、程度の甚だしさを表すこれは、おそらく「恐ろしい」が訛ったものに違いない。炬燵テーブルとソファのあいだのいつもの座に就いた父親は母親の問いに答えて、今日観戦したバスケットボールの試合のチケットは八〇〇〇円だと言った。しかし、会社からチームを応援しに行くように言いつかっているわけだろう、会社のほうで出してくれるらしい。八〇〇〇円と言えば、ブルーノートなんかで一回観るのと同じくらいだなと、こちらはこちらの基準で受けた。
  • 夕食のあいだ、母親の身につけたエプロンが話題に上がる。例の熟れた柿のような色、とこちらが言っているものだが、クリーニング店の人に素敵な色だとか褒められたらしい。母親はそれに、もう色褪せてしまって、とか返したようだが、それでもまだまだ色味のはっきりしていて褪せているようには見えないそれは、(……)さんが以前贈ってくれたインドネシア産の品だと言う。彼女の父君が彼の地で日本人学校の理事長をしているからその伝手で届いたものだろうが、バティック染め、との固有名詞を母親は口にした。東南から南アジアのあたりで行われている、「蝋纈染め」という種類の染め物らしい。それでは表面に描かれているその植物らは熱帯のものなのかとこちらは言ったが、果たしてそれは判然としなかった。

2018/10/6, Sat.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 (……)ぼくがやってみたいのは、生きるためには呼吸をすればいいのと同じように、(こんな言い方ができるとすれば)ただ文章を書きさえすれば[﹅10]いい書物をつくることです。(……)
 (252; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年六月二十五日〕土曜夜 一時)

     *

 (……)今日の午後で、訂正はやめることにしました、もう何がなんだかわからなくなってしまったので。ひとつの仕事にあまり長くかかりきっていると、目がチカチカしてくる。いま間違いだと思ったものが、五分後にはそうでないように思われてくる。こうなると、訂正のつぎに訂正の再訂正とつづいて、もはや果てしがない。ついにはただとりとめのないことをくり返すことになる、これはもう止める潮時です。(……)
 (254; ルイーズ・コレ宛、クロワッセ〔一八五三年七月二日〕土曜 午前零時)



  • せっかくの晴れ日、たまには肌に陽も浴びるものだろうと、ベランダに出てしばし外気のなかで読書をすることにした。吊るされた洗濯物のあいだをくぐって陽射しのなかに踏み入り、右手で額に庇を作りながら首を傾けるが、あまりの眩しさの圧力に視線が太陽の下で留められ、本体にまで到達できない。眼下の梅の木の、天を指す枝々のその両側に並んだ葉のそれぞれは、虫の蛹のように身を丸め、水気を失って艶などひと塗りほどもなく、褪せた緑に乾いている。近間の屋根の瓦の襞に斜めに白さが掛けられて、まるで輝く鱗のようだった。
  • 日なたのなかに胡座で座りこんで、フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』を読み進める。右方から斜めにぶつかってくる熱線はなかなかに厚く、頭の上から裸足の先まで、顔を前にやや猫背になって本を覗くその身のすべてが浸けられるようで、じきに黒い肌着の裏の皮膚から前髪の掛かった額の上まで汗を帯びた。折に、風は通る。するとその清涼さに、肌着の触れる胸のあたりの水気がかえって強調されるようだった。
  • 一時半から二時前まで二〇分強、身体に陽射しを吸収させて汗をかくとなかに入った。眩しい空気を見つめ続けた視界は室内で殊更に暗み、その上に普段は眼裏に見えるような靄った緑色が生じ被せられて、しばらく物の色形も仔細に見えなくなったが、飲むヨーグルトを冷蔵庫から取り出し一杯注[つ]いで、それをこくこく飲んでいるうちに平常に復した。
  • 自室に戻ると、引き続き読書に励む。その裏に、Cecile McLorin Salvant『Womanchild』を流した。この女性ジャズボーカルは、音源を借りた当初(どうやら二〇一五年のことらしい)には集った面子(Aaron Diehl、Rodney Whitaker、Herlin Riley)から音の種類が透けて見えるようでもあって、実際聞いてみてもその予想とさして違わず大した印象も与えなかったはずだが、久方ぶりで掛けてみると、BGMとしての聴取ではあるがバックも含めてなかなか良質の作に思われた。
  • フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』。シャルルとエンマは両人とも、窓辺に「肱をつく」。●19「晴れわたった夏の夕べ、生暖かい街路には人通りもなく、女中たちが家の戸口で羽根つきをして遊ぶころおい、彼はよく窓をあけて肱をついた」。→●54「往診に出かけるのを見送りにエンマは窓べに寄る。そして部屋着をふわりとまとったまま、窓敷居の、ジェラニウムの鉢を二つ置いたあいだに肱をついた」。→●85(ダンデルヴィリエ侯爵のヴォビエサール荘にて)「エンマはショールを肩にかけ、窓を開いて肱をついた」。
  • エンマとその父親ルオーはともに、過去を思い返してそれが「遠い昔」になってしまったことを慨嘆する。●50 ルオー爺さん。シャルルとエンマが馬車で去っていくのを見て、「自分の結婚式のこと、若かった日のこと、妻がはじめて身ごもったときのことなどを思い起こした。(……)すべてなんと遠い昔のことだろう!」→●71~72「エンマは賞品授与式の日を思い出した。(……)なんと遠い昔のことだ! それもこれも今では遠いむかしのことになってしまった!」
  • ●56「結婚するまで、エンマは恋をしているものと信じて疑わなかった。ところが、その恋から当然生まれてくるはずの幸福がいっこうにやってこないので、これはなにか自分が思い違いをしたのだろうと考えた」――「恋」と「幸福」の結びつき。
  • ●62「母親をなくした当初、エンマはひどく泣いた。(……)ベルトーへ書いた手紙では、厭世的な感想をつらねたあげく、やがては自分も母と同じ墓に埋めてほしいと頼んだりした。(……)やがてエンマは飽きてきたが、(……)惰性から、つぎには虚栄心から続けてゆくうち、ついにある日ふと気づいてみれば気持もしずまり、(……)心にもはや一片の悲しみすらとどめなくなっていた」――エンマの「冷めやすさ」?
  • ●63「物事に熱中しやすい反面、根は実際的なエンマの心(……)」
  • ●63「院長などは、エンマが最近尼僧院そのものすらを見下すようになったと、にがにがしく思っていた」。→104「いったいエンマはこのごろ何に対しても、だれに向かっても、軽蔑の色をあからさまにあらわすようになっていた」。
  • ●63「エンマは家へ帰ると、はじめのうちは召使いたちを意のままに動かすのを楽しんでいたが、やがて田舎がくさくさして、尼僧院が恋しくなった」――今いる場所、現今の生活への倦怠。別の場所への志向。
  • ●64「(……)おそらくは旅行に出るべきだったのだ。(……)ある特定の土地にだけ生えて、よそでは育ちにくい植物があるように、この地上のどこかには幸福を生むのに適した国がきっとあるのだと思われる」→●93「そのかわりかなたには,至福と情熱の広漠とした国土が地平の奥までひろがっていると思えた。(……)ちょうどインド特産の植物のように、恋愛もまた特別あつらえの土壌と特殊な気候とがあって、はじめて花開くものではなかろうか?」――別の場所への志向。「幸福」や「恋愛」は今この場所ではなく、「この地上のどこか」「かなた」にある「特定の土地」、「特別あつらえ」の環境において実現される。
  • ●71「「ああ、なぜまた結婚なんかしてしまったんだろう?」/ひょっとしたら別の巡り合わせで、別の男といっしょになることだってありえたのではないかと、彼女は考えてみる」――結婚への後悔、および別の生への志向。
  • ●71「そういえばお友だちはみんな今ごろどうしているだろう? きっと都会に住んで、街路の騒音、劇場のざわめき、舞踏会のまばゆい光につつまれて、心は浮きたち、感覚は花開くような生活を送っているにちがいない」――「都会」や社交的な生活への憧れ。
  • ●71「(……)この私の生活は、天窓が北に向いた納屋のように冷たい。蜘蛛のように黙々と、倦怠が心の四すみの闇のなかに巣を張っている」。→●101「暖炉のぬくみにぐったりすると、前よりもひとしお重い倦怠がのしかかるのを感じた」。
  • ●88「あの舞踏会はなんとまあ遠い昔のように思えることか!」――ヴォビエサール荘での舞踏会の遠さ。
  • ●90「あの方はパリにおいでだ。あの遠いパリに! パリとはどんなところなのか? なんとすばらしい大きな名だろう! パリ! 彼女はその名を繰りかえしささやいては楽しんだ」。91「エンマはパリの地図を買った」。「エンマは『花壇』という婦人新聞や、『客間[サロン]の精』をとった。芝居の初演や競馬や夜会の記事は、すみからすみまで読みあさり、女歌手の初舞台や商店の店開きなどにも関心をもった」――パリへの憧れ。
  • ●92。エンマにとっての「パリ」とは、「大使たちの社会」、「公爵夫人たちの社会」、そして「文士や女優」たちの暮らし、その三種類に大別され、それ以外のものではない。
  • ●94~95「旅がしたい、尼僧院に帰りたいなどと思い、死んでしまいたい気がすると同時に、パリへ行って住みたいとも思った」――別の場所、別の生活への志向。
  • ●96「エンマは自分の苗字になったこのボヴァリーという名が有名になってほしかった。その名が本屋の店頭をれいれいしく飾り、新聞紙上に繰りかえされ、フランス国内津々浦々まで知れわたってもらいたかった」――エンマの野心。
  • ●97「そうでなくとも彼女は近来夫に対してますます気が立ってきていた」。→●97「自愛心が夫の身におよんで、神経がいらだつ(……)」→●99「裁縫をしても気がいら立ってたまらない」――たびたびの苛立ち。
  • ●98「心の底では彼女はなにかの事件を待ち望んでいた」――「事件」、変化の待望。→99「ではこうして、これからさき、いつも今日は昨日に、明日はまた今日に似た毎日が、数限りもなく、何物ももたらさずに、ずらずらと続いてゆくのか! ほかの人たちの生活は、たとえどんなに月並みでも、なにか事件のひとつぐらいは起こる機会があるものだ。(……)ところが自分にはなにも起こらない」――「事件」の不在、および「毎日」の無差異。
  • ●102。エンマの家にときどきオルゴール弾きがやってくる。「それはどこかの遠い舞台の上でかなでられる曲、サロンで歌われる曲、夜ふけて明るいシャンデリアの下で踊られる曲だった。それはエンマの耳にまでやっととどいた社交界のこだまだった」――「社交界」の遠さ。
  • エンマは常に自分の現在の居場所、現在の生活に満足できず、別の場所、別の生を求める女性である。田舎医者シャルル・ボヴァリーと結婚するやいなや、彼女はその「平穏無事の毎日」に幻滅し、「倦怠」を抱えこむが、実のところそれ以前、尼僧院の寄宿舎にいた当時からその性質は表れていた。院に入った当初、エンマはそこに発散している「神秘なけだるさ」に浸って宗教的生活に傾倒し、「苦行のため終日断食を試みたり、なにか果たすべき誓いはないかと」絶えず気を配ったりする。母親が死んだ際にも初めはひどく悲嘆に暮れたが、その悲しみが癒えるとともに宗教心も薄れて行き、尼僧院での「清浄な生活」にも「飽きて」しまって、最後には院そのものを「見下す」ようにさえなる。そうして実家に帰ったエンマは、やはり初めのうちだけは召使いたちを自由に操るのに楽しみを覚えていたものの、じきに「田舎がくさくさして、尼僧院が恋しく」なる。現在の居場所、生活に嫌気が差して、過去、「見下す」ようにして出てきた当の場所に戻りたくなるのである。
  • シャルルとの結婚はエンマにとって、「くさくさ」とする実家での田舎生活から自分を救い出してくれる絶好の機会だっただろう。しかし、彼女がシャルルに「恋をしている」と思ったのは、端的に「思い違い」だった。シャルルとの生活は、彼女が期待したような「幸福」や「情熱」を与えてはくれなかった。彼女が書物のなかで知り、魅了されたそれらのものは、今この場所において現実化するのではなく、どこか遠くの、別の場所にあるものである。だから彼女は新婚早々に「旅行に出るべきだったのだ」と考え、またのちにはパリに住むことを夢想する。「ある特定の土地にだけ生えて、よそでは育ちにくい植物があるように、この地上のどこかには幸福を生むのに適した国がきっとある」のだ。
  • 結婚を後悔し、別の夫、別の生の可能性を想像しながら倦怠を抱えている彼女に、一つの大きな「出来事」が訪れる。ダンデルヴィリエ侯爵の邸宅、ヴォビエサール荘への招待である。この華麗な舞踏会を体験し、そのなかで「子爵」と呼ばれる人物と踊って以来、彼女の夢想する「別の場所」は、より具体的なイメージでもって形作られることになる。すなわち、そこには「パリ」という一つの固有名詞が与えられることになったのだ。エンマは「子爵様」のいるパリに恋い焦がれ、街の地図を買ってはその上を指先で隈なく辿り、または婦人新聞や雑誌を読み漁って芝居や夜会や流行服についての情報に通暁し、さてはまたバルザックジョルジュ・サンドの小説を読んで「子爵」の思い出が「織り込まれた」空想に耽る。しかし、彼女の知っているパリのイメージとは、結局のところ、大使たちや公爵夫人や文士女優らの世界、要は「社交界」のそれに収斂されるものなのだ。そこにおいてこそ、彼女の憧憬は現実化する。「ちょうどインド特産の植物のように」、「恋愛」もまたきらびやかな「社交界」のような、「特別あつらえの土壌と特殊な気候とがあって、はじめて花開く」のだが、その「至福と情熱の広漠とした国土」は遥か「かなた」に位置している。「社交界」の存在は、昼下がりに時折り家を訪問するオルゴール弾きのそのメロディに乗せられて、かろうじて「こだま」としてエンマのもとにまで届くものでしかないのだ。
  • 午後七時頃、(……)さん(どういう漢字を書くのかわからない)という父親の同級生が、贈り物を持ってきた。小田原の土産らしく、鈴廣の揚げ蒲鉾と母親は言い、鈴廣というのは地名だとこちらは思っていたところが、今検索してみると会社の屋号だった。父親にはもう一人、(……)さんという同級生がいて、先の(……)さんとは昔から三人で仲良くつるんでいた地元の仲間であるらしい。(……)さんは(……)あたりに住んでいて、こちらも何の機会にか、過去に両親がその宅まで行く車に同乗していたことがあり、またその奥さんは(……)の「(……)」で働いており(母親はこれについて、「(……)」との名を口にしていたが、この名の店も検索してみれば(……)には確かにあるらしいところ、しかしこれは鉄板料理屋のようなので混同ではないか)、以前に竹筒に入った寄せ豆腐を貰って食った覚えもあった。(……)さんという人のほうは、(……)かどこかに住んでいるらしい。
  • 夜半から音楽。例のごとくKeith Jarrett Trio, "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)を初めに流し、それからCharles Lloyd, "Secret Life Of Forbidden City", "Miss Jessye", "Hyperion With Higgins"(『Hyperion With Higgins』)、最後に一九六一年のBill Evans Trioの"All of You (take 2)"。Jarrett Trioのこのスタジオ版の"All The Things You Are"は、Jarrettの音運びやリズムの散らし方に少々不規則なところがあって(『Tribute』のライブ音源のほうがその点ではよほど安定していたのではないか)、ピアノのフレーズを追おうとしているといつも途中で一部拍子を見失ってしまう。また、Lloydのブロウの、回転の感覚の強さ。John Coltraneを引き継いだ形のものだろうと思うが、彼のそれは芯が抜けているように軽く、ふわふわとしている。ところで、曲名の"Forbidden City"とは何かと思ったら、これが紫禁城のことだった。Lloydのこのアルバムの曲名には、二曲目の"Bharati"(知恵と音楽を司るヒンドゥー教の女神らしい)にせよ、紫禁城にせよ、七曲目の"Dervish"にせよ、東洋的な要素が見受けられる(と言って、六六年録音の『In Europe』にも"Tagore"とか"Karma"とかが見えるから、昔からのことか)。
  • 就床前に瞑想。窓の外ではアオマツムシが鳴きしきっている。それが時折り気まぐれに声を止めると、空間が広くなり、ずっと奥のほうから細く幽かな光の粒子線のようにして、ほかの虫の声が辛うじて届いてくるが、じきにまた近間で鳴きを上げるアオマツムシがその上を塗りつぶしてしまう。

2018/10/5, Fri.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 いくらか仕事ができるようになりました。今月の終りには、宿屋[﹅2]の場面がおわるだろうと思います。三時間のあいだにおきたことを書くのに、二カ月以上かけることになります。(……)
 (168; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五二年十月七日〕木曜夜 一時)

     *
 (……)「昨日、頬に出来た膿瘍のために、簡単な手術を受けました。包帯でぐるぐる巻きにした顔は、相当にグロテスクです。ありとあらゆる腐敗や汚染がぼくらの誕生以前にはあって、ぼくらが死ぬときにはまたそれにつかまっちまうのに、まるでそれだけじゃもの足りないとでもいうように、ぼくら自身も生きているあ(end192)いだずっと、堕落と腐乱以外のなにものでもない、絶えまない堕落と腐乱が、つぎからつぎへと、覆いかぶさるように押しよせてくるんです。きょうは歯が抜けたと思うと、あすは毛が抜ける、傷口が開く、膿瘍ができる、そこでやれ発泡膏だ、患線だ、とくる。それに加えて足には魚の目、自然に発散する様々の悪臭、あらゆる種類、あらゆる味わい[﹅3]の分泌物、これじゃ人間様の肖像があまりぞっとしないものになるのもやむをえませんな。」
 (192~193; 一八四六年十二月十三日)

     *

 ぼくは自分の同類が大嫌いだし、自分がやつらの同類だという感じがしない。――たぶん恐しく傲慢な話だろうけれど、ぼくは乞食にたかっている虱よりもその乞食に共感をおぼえるなんてことは、金輪際ないんです。それに、木々の葉っぱが同じでないのと同様、人間おたがい兄弟なんてことはありっこないとぼくは思いますね。――葉っぱもそうだが、ただざわざわやっているだけですよ。(……)
 (240; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年五月二十六日〕木曜夜 一時)



  • 午前一時に床に就き、午後一時まで一二時間も留まってしまう体たらく。糞みたいな生。
  • 高校の連中と同窓会か何かしているらしい夢を見た。そこに(……)が出てきて、幹事だったのだろうか、彼女に会費を支払うことになっていたところが果たせなかったようで、微睡みのなかで、(……)に連絡をして金を払わなくてはと、現実と夢を混同した幾許かがあった。
  • また、(……)と、佐賀県だか有明海に面している地方を旅行しているという夢もあったはずだ。
  • 大変久しぶりに運動を行う(日記を検索してみると、九月一六日日曜日以来である)。tofubeatsの音楽をyoutubeで流しながら、屈伸や、ベッド上での前屈や、腹筋運動をこなした。藤井隆をボーカルに据えた"ディスコの神様"が、メロディに小気味良い弾性があってなかなか御機嫌である。
  • 書き物をして五時を迎えると、夕食の支度をしに台所に行く。小沢健二『刹那』のCDをラジカセで掛けた。まずは三合の米を研ぎ、六時半に炊けるように炊飯器を設定しておくと、次にフライパンに油を熱して、冷凍の餃子を一五個並べた。それを弱火に掛けながら一方でキャベツの、半分くらいになった玉のその端から薄く切り落として行く。焦げ目の多少走った頃合いで餃子には水を注いで蓋をしておき、それから汁物のために大根・里芋・人参・玉ねぎ・牛蒡を、皮を剝く母親と手分けして切り調えた。そうして口の広くやや平たいような白い鍋で野菜を炒める。鍋がどうしても焦げつきやすいので火勢は最弱にして注意して熱するが、それでもそのうちに鍋底に黒い点々がついたり、茶色い汚れが貼りついたりするので、致し方なく水を少量加えた。ラジカセから流れる"それはちょっと"を口ずさみながら野菜を搔き混ぜ、あとから加えられたひき肉も色を変えてそろそろかと、小さな薬缶を使って水を注ぐと、ちょうど歌も終わるところだった。煮込みに入るとこちらは居間に移ってアイロン掛けを行った。"いちょう並木のセレナーデ"が背後の台所から流れ出てくるなかで、格子縞の自分のシャツ、ハンカチに、熟れた柿の色のようなエプロン、また真っ赤なエプロンの皺を伸ばしてから台所に戻ると、汁物の野菜が具合良く煮えていたので、二種類の味噌を合わせて味をつけた。
  • 夕食時、向かいの母親の姿に目が向く。詰まったような白さのエプロンの下からチェック柄のブラウスが覗き、上着としては薄水色のカーディガンを羽織っているその右腕のみに、シュシュというやつだろうか、ゴムの入ったリボンのようなピンク色のバンドが留まっていた。餃子と白米をともに咀嚼しながら見やっていると、眼鏡を掛けてスマートフォンを注視していた母親はこちらの視線に気づいて、メルカリじゃないよ、と言った。グーグルで何か調べ物をしていたらしい。餃子と米を食い終わったあとは、ほか、ジャガイモの煮物や、生姜の風味の混ざった汁物や、皿から零れんばかりに盛られたキャベツなどのサラダを食べて、食後すぐに風呂に行った。
  • (……)さんがTwitterで誕生日だと呟いていたので、本日一〇月五日が彼の生誕日であることを思い出した。それで、Amazonのギフト券を贈る(中国にいてはあまりAmazonを利用しないのかもしれないとも思ったのだが、ほかに手段もないし構うまいと振り切った)。前年と同様、味気の無い簡素なプレゼントだが、あれからもう一年が経ったのかと、そう思わざるを得なかった。この一年、正確に言えば年末年始以来の今年二〇一八年の九か月は、自分が何一つ目立ったことをしなかったように、空白の時間のように思えてならない。実際、少々狂った頭を抱えながらも曲がりなりにも労働を続けていた三月まではともかく、少なくとも四月以降は、精神の変調にやられて休んでいたばかりで、進歩や肯定的変容の不在、むしろ退化の実感、というわけだろうが、そういうことでもなく、うつ症状に苦しんでベッドに寝転がってばかりいたあの夏場の時間までもがまるでなかったことのように、記憶の、過去の手触りが稀薄だとでも言おうか。

2018/10/4, Thu.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 (……)そもそも平等とは、あらゆる自由、あらゆる優越性、<自然>そのものを否定すること以外のなにものでもないじゃありませんか。平等とはすなわち隷属です。だからこそ、ぼくは芸術が好きなんです。そこでは少なくとも、(end130)すべてが虚構の世界にあって、自由ですからね。――そこではすべてが叶えられる、なんでも出来る、同時に国王と国民になれる、行動的にも受身にもなれる、生贄にも司祭にもなれる。限界というものがない、人類は鈴をつけた人形のようなもので、大道芸人が足の先で鈴を鳴らすように、文章の先でそいつを踊らせることができる(こんなふうにしてぼくはしばしば人生に復讐したものです。ペンのおかげで甘美な想いを存分に味わいました。女も、金も、旅も手に入れました)。紺碧の空のなかで、ちぢこまっていた魂はのびのびと羽を広げ、<真実>の境界ゆきつくまで飛翔することができる。じっさいに<形式[フォルム]>の欠けるところ<観念[イデー]>はありえません。一方を探し求めることは、他方を探し求めることでもあるのです。それらはたがいに切り離せない、ちょうど物質と色彩が不可分であるように。(……)
 (130~131; ルイーズ・コレ宛〔一八五二年五月十五 - 十六日〕土曜から日曜にかけて 午前一時)

     *

 『ボヴァリー』第一部全体を清書し、訂正し、削除しているところです。目がチカチカする。ひと目でこの百五十八ページを読みとって、全体をあらゆる細部とともに、ひとまとまりの思考として捉えることができたら、と思う。これを全部ブイエに読んできかせるのは、来週の日曜日、その翌日か、翌々日には貴女に会えるんです。それにしても、散文というやつは、なんて手に負えぬしろものなんだろう! 決して終ることがない、果てしなく書きなおせるのだから。しかし散文に、韻文の密度(end150)を与えることはできる、とぼくは信じています。散文の立派な文章は、立派な韻文のようでなくちゃならない。つまり、同じくらいリズム感があって、同じくらい響きがゆたかで、一字も変えられぬ[﹅8]ものでなくてはなりません。というか少なくともぼくの野心がめざしているのは、そういうものなんです。(……)
 (150~151; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五二年七月二十二日〕木曜 夕四時)



  • 早朝の目覚めから、歯痛のような耳の痛みのような、頭痛のようなあるいは鼻の奥にあるような、種類の判然としない痛みが顔に生じていた。前日の鼻水も合わせて風邪を引いたのかと思ったが、時間が経つうちに痛みは段々軽くなって、起きる頃にはまったくなくなったわけでないが耐えられるほどになっていた。その後、食事のあいだも部屋にいる時にも前日に続いて洟が水のように湧いて仕方なく、ほとんど二、三分ごとにティッシュペーパーに手を伸ばすような有様だったが、一時頃には不思議と収まっていた。
  • 前日の残り物である肉巻きに春巻き、茄子の味噌汁などで食事を取りながら、新聞をひらく。一一月六日に中間選挙を控える米国で、ドナルド・トランプに過去の脱税疑惑が持ち上がっているようだが、その関連の記事中に、彼は三歳の時点で既に父親から二〇万ドルを与えられ、長じてからは毎年一〇〇万ドルを貰っていたとあって、本当にこちらなどには想像も付かない、まるで漫画のように凄まじい世界の住人なのだなと思った。
  • 「読書の効用とは第一に、この世界そのものがテクスト=差異の織物として感得されるようになるということであり、音楽の効用とは何よりも、この世のあらゆる音が音楽として響き、聞こえるようになるということではないだろうか」(2017/10/3, Tue.)
  • 「裏路地を行きながら見上げた夜空に、コーヒーに垂らしたミルクのように、微妙に揺らいだ乳色の筋のただ一つのみ流れているのは、そこに雲があるのではなくて、ほとんど隈なく敷かれた雲の幽かな切れ目のほうであり、中秋の名月とは言うものの生憎の空模様に、さすがの月も自己の存在を示す頼りをほかには何も持てなかったのだ」(2017/10/4, Wed.)――この一文は我ながら力の籠ったものだと評価する。音調としてもうまく流れていると思う。
  • 二時前、リュックサックを背負い、ガムを口中に、傘を片手に家を出た。雨は乏しくぱらつく程度で、傘をひらくまでもない。坂道から見える川の色の、雨降りで土を混ぜられているものか、緑が柔らかに濁って淡くなっているそのなかに、水嵩は増して白波が諸所差し込まれていた。歩きながら左右から聞こえるのはまだアオマツムシでなく、翅の摩擦の感覚の露わな、電話の呼び出し音めいて回転するように伸びる虫の声である。FISHMANSのメロディを頭の内に流しながら街道を行き、口のなかで小さく鳴らしもしながら裏路地に入った。やや重いような身体をゆったりと、白線に沿って進ませるあいだ、雨粒の感触がいくらかあったが、やはり傘を差そうと決めるほどには盛らなかった。駅に着くと電車に乗りこみ、三人掛けの席に就くと脚を組んで目を閉ざす。そうして(……)まで揺られて待つと電車を降りて、改札を通って図書館に渡った。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を返却し、上階に移って新着図書の棚を見やる。岩波文庫に入ったイタロ・カルヴィーノの作品集や、山川出版社から新しく出たらしい宗教の歴史シリーズなどがあった。それから書架のあいだを抜けて大窓のほうに出ると、空席が一つ見つかったのでそこに寄り、傘を席の外側の仕切りに静かに掛け、蒸し暑かったので上着を脱いでから椅子に座った。
  • 三時前から四時半過ぎまで、前日とこの日の日記を綴り、それから六時四五分までひたすら書抜きを行った。『多田智満子詩集』と、現在読んでいる最中のフローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』である。後者は未だ六〇頁ほどしか読んでいなかったにもかかわらず、精密な描写の光る細部が多くて、既に書抜き箇所が一〇にも上っていた。閉館時刻の八時まで滞在するつもりだったが、思いのほかに早くコンピューターのバッテリーが尽きかけたので、書抜く文をいくらか残して宵の退館となった。
  • コンピューターをしまって席を立つと、大窓に鏡写しになった自分の姿のほうを見ながら、くるみボタンの青暗いブルゾンを羽織る。そうして傘を持ち、席を離れて、階段に向かう前に哲学の棚にちょっと寄ったが目新しいものは特になかった。下階に下りると僅かなCDの新着を瞥見し、『Chet Baker & Crew』という一九五六年の音源があるのを手に取って見てから、出口に向かう。退館すると、円形歩廊の床は濡れていた。図書館の出入り口からまっすぐ先、歩廊の柵を背にして立ち尽くし、何やら紙を手にして喋っている男性がいる。来る時にも見かけたので随分と長いあいだそこに立っているもので、通行人に何か聞かせている風ではあるのだが、如何せん声が小さすぎて話の内容が少しも掴めないのだった。
  • エンマコオロギの声がどこかから立って届く。駅舎の入口あたりに集まって、何やら声を上げている集団があった。募金活動でもしているらしいと見て近づくと、五、六人の男性が集っており、立てられた旗には一般社団法人の文字が見られ(団体名は忘れてしまった)、うちの二人が持った箱に、北海道胆振地方東部地震と記されてあった。こちらは立ち止まり、リュックサックを背から下ろして財布を取り出し、五百円玉を一つ、お願いしますと言いながら箱に投入した。すると、募金を呼びかけていた時と同じ、いくらか野太いような声が重なり合って、ありがとうございますとの礼が返るのだった。彼らの声は、こちらが駅に入って改札をくぐってからも、淡くなったその響きの端っこが耳に届いてきた。
  • ホームに突っ立って電車を待ち、乗ると向かいの扉際に場を占める。正面の車両の角、腰ほどの高さに銀色の手すりが設けられ、床には四角いピンク色のなかに赤子連れや車椅子利用者のマークが白抜きになった地帯には、女性が一人、窓のほうを向いて顔は暗い茶髪に隠されて、黒いバッグを手すりの上に置き、スマートフォンをいじりながら立っていた。膝の少々上まで掛かったスカートを履き、靴は黒無地の、飾り気のちっともない短靴だった。彼女の様子を観察したり、窓外の光に目を向けたり、時には瞑目したりしながら到着を待ち、降りた(……)駅では雨がぽつぽつ落ちていた。頭を下げて俯きながら屋根の下まで歩き、さらに小さなスナック菓子を売っている自販機のもとまで行って三つを買うとホームを戻って、既に到着していた乗り換え電車の一番端の車両に乗った。席に就いて目を閉じながら、退館以来の記憶を辿って、最寄りに着いて扉を出ると、黒傘をひらいてから歩き出した。通路を抜けて横断歩道のボタンを押さないままに通りを渡り、木の下坂に入って行くと、台風の痕を掃除する者が誰もなく、茶色緑色の枝葉や木屑が足の踏み場もないほどに路上に散らかり放題、落ちていた。
  • 夕食はうどんに天麩羅。天麩羅は、玉ねぎ・茄子・エノキダケ・ピーマン・ジャガイモ・人参と取り揃えられて、先日――と言うのは九月二三日日曜日のことだが――訪れた蕎麦屋のそれのようだった。

2018/10/3, Wed.

  • 一〇時台、ジャージの上着を羽織って外に出る。母親によると隣家の(……)さんから高いところの柿を採ってくれと頼まれたらしく、彼女がデイケアに出かけているあいだにそれを済ませてしまおうとの算段だった。自宅の南側に回って隣家の敷地に踏み入り、雑多な道具類の置かれたスペースから高枝鋏を借りる。件の柿の木は、数か月前まで(……)さん夫妻の住んでいた、(……)さん所有の小家の角のあたりにあった。そのすぐ足もとから斜面が始まっており、高枝鋏を伸ばして柿の実を切り取っても、落下したそれが斜面のあちこちに転がって、母親がそれらをいちいち拾いに行かなくてはならなかった。陽が出ているあいだはなかなか暑いが、雲は薄くはありながらも多く湧いて朦々と空を満たしており、空気の陰る時間のほうが多かったのではないか。柿の採集を終えると、今度は自宅の斜め向かいの敷地に移り、そこの隅に蔓延ったアサガオを、それが強く巻き付いているネットごと地面から引っこ抜き、引きずるようにして林の縁に捨てた。そうして屋内に戻ると、花粉のためだろうか鼻水がやたらと湧いて出た。腕には蚊に刺されたあとがいくつか、赤く大きく膨らんでいた。
  • (……)さんの小説、『四つのルパン、あるいは四つ目の』の感想というか中途半端な分析めいた小文を僅かに手直しして完成させ、メールで送る。脳内に浮かんできた事どもを、それなりの時間を掛けて一応形に整えはしたが、面白いものが書けたとはまったく思わない。注目点が外れているというか、この小説の面白さの核心はそこではないだろうという部分にかかずらってしまったようで、この作品に相応しい読みができなかった気がする。
  • カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』の書抜きをようやく終了させる。
  • 朝からやたらと、さらさらと水っぽい鼻水が湧き、たびたびくしゃみが出て仕方がない。どこか蒸し暑いようで背には薄く汗を帯びる一方で、それが冷やされて身体全体がいくらか冷たいように感じる。
  • フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』を読みはじめる。蓮實重彦も解説で触れているが、冒頭、「新入生」の膝に載せている帽子の描写が非常に精密で、一つ一つの細部が実に克明に描かれ膨張しているがゆえにかえって帽子全体の様子をイメージするのが難しくなっているその記述の、何か執念のようなものさえ感じさせるような、あるいは「執拗」と言いたくなるほどのものである(のちにシャルルとエンマの結婚式において供されるデコレーション・ケーキの描写にも似たような感触を得る)。また、一三頁から一六頁のあたり、シャルルの両親の行跡を物語る部分なども、記述が端正そのものとばかりに引き締まっており、具体的な情報のそれぞれがこれ以上ないほどの精度で綺麗に配分されていて、久しぶりに、まさしく小説というものを読んでいる、という感じがしたものだ。「一字も変えられぬ」最高の散文を目指して推敲の魔に取り憑かれたフローベールの面目躍如といったところだが、やや古風でありながら決して古臭くはない訳文を生み出した山田𣝣の力も並々ならぬものだろう。
  • 五時を回ると夕食の支度をするために台所に行った。母親は買い物に出かけていた。茄子を縦に二分すると、さらに櫛形に切り分けて行く。分かれた部品を豚肉の上に四つから六つほど重ねてロールし、六個の肉巻きを作ると、余った分は味噌汁にするために鍋に投入した。肉に塩胡椒を振ってからフライパンに油を引き、弱火で蓋を閉ざして肉巻きを焼き、こんがりと焼き目がついたものが仕上がって、味噌汁のほうも味を付けると、大きなキャベツをざくざくと細く切り落とし、もう一つのフライパンでモヤシを茹でた。それらをそれぞれ笊に上げておいて、あとは帰宅後の母親に任せることにして読書に戻った。
  • 夕食時、母親が、外出についてきてくれないかと言う。線路の傍の林に接した二、三軒のなかに(……)さんという家があって、ここの娘さんは兄の同級生なのだが、その家から父親が自治会で副会長を務めている我が家に、先日の台風で電柱が曲がっているから直してほしいと連絡があった。市役所に頼んだそれがもう直っているかどうか見に行きたいが、一人で夜道を行くのが怖いようなので、とのことだった。了承し、食事を取ると(自分の作った肉巻きよりも、母親の買ってきた春巻きのほうが美味かった)、母親が食べ終わるのを待ってこちらは一旦自室に帰った。ちょっとしてからまた上がり、バレーボールの日本対カメルーン戦を眺めながら母親が支度するのを待っていたが、容易でないので先にジャージを羽織って家先に出た。林のほうからはアオマツムシの鳴き声が盛んに湧いてくる。見上げれば空は全面が雲に覆われて、ひび割れも多少あって地が微かに覗いているが、その色は散漫なようで鮮やかでない。境を接する雲の色の白っぽさのために、林の木々の輪郭がかえって明らかだった。暗闇に包まれた木の間の空間をアオマツムシの音がまさにいっぱいに満たしているなとその響きに耳を寄せていると、母親がようやく家から出てきた。歩き出すとすぐに気短な母親のほうが先行して、こちらは離れてそのあとから鷹揚な歩調で進む。坂道には台風の痕がまだ残っており、多分誰か掃いて枝葉は大方片付けたのだろうが、アスファルトのささやかな凹凸の隙間に木屑が擦り込まれて路面が少々くすんでいた。上り坂の出口が近づくと母親が、ここから見える(……)がすごく綺麗で、と言う。すごく綺麗と言うほどに豪華な風景ではないが、かつては自分も勤めの帰りに、そこから目にする侘しいような町の夜灯りにいくらか叙情味を覚えていたものを、もはや詩情を覚えるような感性を自分は失ったのだと、母親がほら、と呼びかけるのにも一瞥したのみで、すぐに目をそらした。坂を上ると左の細道に折れた。窓明かりもなく沈黙した家並みの前を過ぎて行くと、母親は声をひそめながら、ここが誰々の家で、などと教えてくる。この時だけでなく歩いているあいだじゅう母親は、ここは同級生の家で、とか、あそこの家はあんなに大きいのに奥さんが出て行っちゃったらしいよ、とかどこから聞いたものなのか次々と情報を提供してきて、こちらはそれに良くそんなに色々知っているものだなと感心するのだった。街道を渡って踏切りを越えたところの、すぐ裏が林になっている角に件の電柱はあった。円筒形が途中から細くなっているその根元から少々傾いており、直すと言ってこんなもの直せるのだろうかとこちらは疑問を覚えた。母親は紙片を取り出して何やら書きつけていたようだが、大して電灯を見もせずにすぐにまた歩き出し、こちらもそのあとを追って線路沿いを行けば、赤紫色の白粉花が道端に群生していて、夜の底でもその色形を明らかに目に届かせていた。駅の入口まで来るとこちらはそこの歩道橋を渡って帰路に向かおうとしたところが、母親はもう少し遠回りして行こうと言う。しょうがねえなとこちらが折れて、採石場跡の広い敷地のほうに向かった。そのなかの細い道を歩いていると、空がひらけて一面の地味な白のなか、遠くに雲の畝が生じているのが見える。街灯もなく木の下で暗がりになった陸橋に掛かると、電車がちょうどトンネルに入って姿を消すところだった。橋を渡ったところで母親はまた、神社のほうに行こうと遠回りを提案したが、何が悲しくて母親と長々夜歩きなどせねばならぬのか、却下して駅のほうに戻った。横断歩道を渡って下り坂に入ると、暗いねと母親は言ったが、電灯のない場所のわりに脇の植物の姿体が露わで、暗んではいるものの木の葉の襞も見えるようで、明るい曇り空に暗夜というには程遠かった。坂を抜けると母親はさらに坂を下って下の道から帰ると言うので、こちらはそれには付き合わず、鍵を受け取って一人になった。ゆったりと歩き出すとすぐに、傍に声を伴わずただ一人で歩いていることの落ち着きを覚えた。輪っか状の金具を右手の人差し指に引っ掛けて鍵をくるくる回しながら行くあいだ、道の先に伸びては無色と化して路上に染みこんで行く自分の影に、何だか馴れるような親しむような思いだった。

2018/10/2, Tue.

  • 午後二時、干された布団を裏返すためにベランダに出る。快晴と言って良いだろう、柔らかな青空の昼下がり。雲は淡い断片が西の方にいくつか集って水面[みなも]の波紋めいており、直上にはいくらかまとまった量のものも浮いていたが、それも厚みや弾力を欠いて気体らしく、いずれ宙空に粒子として零れ消散していきそうな弱い質感である。運動会でも催しているのか、どどん、どどん、どどんという太鼓の連打の響きがどこからか伝わってきた。
  • 一年前の一〇月二日の日記に、もう二週間ほど精神安定剤を服用しておらず、「パニック障害や、それの圏域にある神経症的性向とも長年の付き合いだったが、もう完治したと言ってしまって良いのだろう」と気楽に綴っている。それから三か月ののちには変調が始まり、その後人生全体でも二度目となるどん底を体験するとはまったく予期していなかった。精神疾患とはままならないものである。
  • 前日からCharles Lloydの作品をBGMとして順番に流しているが、ことごとく良質で、いずれじっと耳を傾けて聞こうという気持ちにさせられる。どれも良いが、特に『Hyperion With Higgins』『The Water Is Wide』あたりが気になる(この二作品はどちらも一九九九年一二月の同じ録音の時の音源で、ドラマーBilly Higginsの最晩年の録音の一つである)。
  • 夕食に、雑多な野菜やキノコ(エノキダケにエリンギ)の入った汁物を拵える。ほか、人参を合わせた切り干し大根に、小松菜とエリンギの和え物。
  • 夕食の支度ののち六時頃、何となく外出したいような欲求を感じないでもなかった。母親が六時半頃にクリーニング店に行くと言っていたので、それに同行してどこか適当な場所で下ろしてもらい、三〇分かそこら歩いて来ようかとも考えたのだが、決心が付かないうちにクリーニング店には結局父親が行ってきたようで、階段口に掛けられたたくさんのワイシャツを下階に運んだあと、まあ良いかという感じで外出は取り止めた。
  • 夕食時、テレビには物真似コンテストのような番組が掛かっている。ものを口に運びながら瞥見するが、全然面白くない。両親がそれを見ながら似てるだの似ていないだのと口にするのすら煩わしいようで、このようなくだらない時空からは早急におさらばしようと、言葉を一言も発さずに黙々と食事を取り、さっさと風呂に行った。
  • (……)さんの小説、『四つのルパン、あるいは四つ目の』を読了したので、その感想めいた小文を綴る。六時半からの一時間および九時過ぎから零時半前までの時間はそれに費やすこととなった。量も内容も大したことのない文章なのに、合わせて四時間も掛けてしまったことになる。思考を綴るのが以前よりも明らかに不得手になっている。頭のなかに浮かぶ考えが、ぼろぼろと虫に食われたように断片的で、隙間の空いた[﹅6]ものになっており、脳内で論理をうまく繋げることができないのだ。

2018/10/1, Mon.

  • 台風一過の快晴。最高気温は三四度とか言った。まるで夏である。食後の習慣として緑茶を飲んでいると、背が汗で大層濡れて、肌着をぱたぱたとやりながらノートパソコンを前にした。午後二時頃になると、陽射しがもういくらか引いていたが、布団を干した。日暮れて既に外が真っ暗になった七時前でも、窓を閉ざしていると暑気が室内に籠って蒸し暑い。
  • (……)さんのご母堂、(……)さんが現在、東京に来ていると言う。何でも白内障の手術を受けるためにわざわざ上京せねばならないという話だ。
  • 夕食後、散歩に。道に出て見上げれば、台風の過ぎたあとの空は星を点じられて暗夜でないが、林の影が空に呑まれ吸収されるようで、梢との境が明らかでない。歩きだして首を振ると、無数に穴を開けられ毀たれた雲の筋が、それでも東から南まで辛うじて繋がり、横にまっすぐ長く通っていた。坂を上り、裏道を行くと、表に出る間際の一軒の前に八百屋のトラックが停まっており、荷台の品々の上に取り付けられた暖色の灯りが遠くからでも目に入る。八百屋の旦那とその家の主婦とが家先で何やら話していたが、随分と遅くまで行商に回っているものだ。そこを過ぎて街道に出ると東向きに方向転換し、歩を進めていると車とともに流れてくる風が涼しく、半袖の肌着から露出した腕にちょっと強いとすら言えるようだった。家の間近、木の間の坂道まで来ると台風の爪痕で、路上を埋め尽くすようにして木屑が散乱している。枝の原型を留めず細かく破砕され、路面に塗りつけられるようになったそのなかを踏み越え、坂を抜けてからもう一度視線を上げると、雲の滓の一つもなく星の寛ぐまっさらな空だった。
  • 夜半、床に就く際にカーテンをめくって、月の出ているのを目にする。まだいくらか東寄りの位置に、弧を左下に向けて傾いた姿の、夜空に埋[うず]もれた指のその爪の先のみがちょっと現れ出ているような、そんな風に見えた。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 性転換への外的な障壁は、なにより行政上のもの、また経済的、心理的、法的なものだろう。一九八一年以来、ドイツには「トランスセクシュアル法(TSG)」があり、トランスジェンダー本人の望む性が公的に認められる。「特別な場合における名の変更および性別の確定についての法」が、望む性に合った名前への変更(「小変更」)または出生記録に記載された性別の変更(「大変更」)のための前提条件を定義している。法によれば――幾度もの法改正を経て――、性転換手術はもはや公的書類上の性別変更に必要な条件ではない。むしろ重要視されるのは、性別の公的変更を望む本人が、「性転換によってもはや出生記録に記載された性には属していないと感じている[﹅12](傍点は筆者による)」ことである。つまり、「自然な」身体または「一義的な」身体は、もはや決定的な事項ではないのだ(「自然」と「一義的」の定義がどうであれ)。身体が本人の望む性のあらゆる特徴を備えていることは、もはや重要ではない。決定的なのは、与えられた性と本人のアイデンティティ[﹅8]が一致するかどうかなのである。連邦憲法裁判所による一連の決定を経て、現在では、心理的または感覚的なアイデンティティ――決して身体的な特徴ではなく――のみが性別を決定するとの合意がある。連邦憲法裁判所第一部は、二〇一一年一月十一日に、次のような決定を下した。「トランスセクシュアル法の制定以来、トランスセクシュアルに関する数々の新たな認識が得られた(中略)。トランスセクシュアルに属する人間は、出生時に身体的な性的特徴に基づいて定められた性とは別の性に属するという不可逆的およ(end133)び恒久的な自覚を持っている。彼らは非トランスセクシュアルと同様、異性愛者または同性愛者でありうる」
 (133~134)

     *

 行政上、「トランスセクシュアル」は調査が必要な事案とされている。すなわち、地方行政裁判所に心理学者による鑑定書が提出されねばならないのだ。この鑑定書は、性転換者の性アイデンティティが今後変わることはないと確認するもので、これなしには行政裁判所での公的性別変更は不可能である。心理学者による鑑定書には、必ずしも(法に定められているとおり)本人が別の性別に属すると感じている[﹅9]かどうかのみが記されるわけではない。「トランスセクシュアリティ」を病気、または(end134)「障害」と判断する鑑定書も多いのである。その際の指針となっているのが、WHO(世界保健機関)のICD - 10(疾病および関連保健問題の国際統計分類)ハンドブックに「トランスセクシュアリティ」が「障害」と分類されていることである。ICDの第五章F00 - F99節には、心理学的障害および行動障害がリストアップされている。そのなかのF60からF69までが「人格障害および行動障害」に充てられている。しかし、なぜ性転換者が行動障害者に分類されるのだろう。連邦憲法裁判所は、トランスセクシュアリティを病と見なしてはいない。トランスセクシュアルの定義は、本人が別の性に属すると感じていること、その感覚が持続的なものであることのみだ。公的書類の性別記載を変更したいと望む者は、二通の心理学鑑定書を提出するのみならず、鑑定書作成のために必要な医師との面談において、自身の苦しみをわかりやすい形で語ってみせねばならない。そのことを嘆くトランスジェンダーは少なくない。自身の苦しみを、「間違った身体」を持って生きる苦しみだと表現する者もいれば、逆に、自分の身体が社会的に受け入れがたいものだと解釈されることに対する苦しみだと表現する者もいる。病という分類を基本的には否定しないトランスジェンダーもいる。生まれ変わる前の、別の身体、別の名前での人生に大きな痛みを感じてきたからだ。だが、病との診断を受け入れがたいと考えるトランスジェンダーも多い。そういう人は、当然のことながら、「障害者」であるという決めつけを拒絶する。だが、鑑定書を手に入れようと思うなら、心理学鑑定の過程で、この決めつけに同意し、自らすすんで「障害者」を演じなければならないのである。
 (134~135)

     *

 (……)「男性 - 女性」といったいわゆる「当たり前」とされるカテゴリーにも、倫理上および言語政策上の問題が存在する。なぜならそれは、本来なら反省され、批判されるべきレッテルと二極性との反復に過ぎないからだ。それゆえ現在では、適切な呼称または表記を探す非常に多彩な言語上の提案が存在する(たとえばあらゆる性を可視化する戦略があり、それが多様な表記方法によって示される。「/」を使った二重表記や、男性を示す語尾 er と女性を示す語尾 in を大文字のIでつなげる二重表記〔たとえば男性および女性の教師たち<複数形>を表すには、男性教師たち Lehrer と女性教師たち Lehrerinnen をつなげて、LehrerInnen と表記する〕。また、呼称から性別の要素を取り除き、性別がわからないようにすると同時に、性別は男女のふたつのみだという標準を否定する戦略もある。(……)
 (197; 原註16)

2018/9/30, Sun.

  • 久しぶりにMr.Bigなど流す。再結成時に武道館で演じられた"Alive And Kickin'"の動画などもYoutubeで閲覧するが、この時のEric Martinはやはりだいぶ衰えていると言わざるを得ないだろう。それにしても、この再結成ライブが二〇〇九年だということにはそんなに前だったのかと意外の感を覚える。こちらは一九歳だから大学二年である。自分がMr.Bigを聞きはじめたのは多分高校に入ってからで、三年の時には例の有名な「ドリルソング」、"Daddy, Brother, Lover, Little Boy"など半分お遊びのようにして音楽室で演じた覚えがあるが、その頃彼らの活動は停止中だったのだろうか。
  • また、syrup16gのベストアルバム『静脈』を流す。冒頭の"Reborn"は前から知っていたのでともかくとして、二曲目の"翌日(Free Throw)"、三曲目の"I.N.M"など以前聞いた時よりも良く感じられる。特に後者は繰り返し流したい佳曲と思う。
  • 夕食時、バレーボールの日本対オランダ戦をちょっと目にする。
  • 台風の訪れ。午後九時くらいから風雨が盛り、家の外を巨大な生物が行き来しているかのように、地鳴りめいた響きが聞こえたり、雨が窓にぶち当たったり、何か物の衝突する打音が立ったりする。夜半、音楽を聞いているあいだなど、電灯が息を切らして明かりの落ちかかる瞬間が何度かあり、一度はふっと消えたのだが、一瞬のみですぐに復活し、停電には至らなかった。寝る前に瞑想をした時にはもう風はあまりなかったようだが、嵩を増した川の音なのだろうか、地にひらいた穴の底から湧き出てくるような水の響きが伝わってきていた。
  • 『多田智満子詩集』を読み終え、(……)さんの小説、『四つのルパン、あるいは四つ目の』を読み始める。
  • 日記の読み返し、二〇一七年九月二五日から二七日まで。二六日の記述を引用する。そこそこ書けてもいるし(たかだか二十代のわりに妙に老いづいたような文調になっているが、これは古井由吉に多少影響を受けているのだろう)、また、自己の分裂感に「狂いの始まりとはあるいはこういうものかもしれない」などと、その後の変調を予言するかのような言を漏らしているのだ。現実感の希薄さというものは、自分の精神状態に起伏がないものだから、生き生きとした生の実感を覚えないとそういう意味では現在常にあるのかもしれないが、それがこの時と同じく「離人感」と呼ぶべきものなのかどうかはわからない。

 道にまだ日なたの明るく敷かれている三時半、坂への入り際に、西空から降りかかる露わな陽射しに背中が暑い。上って行きながら温んだ空気に、シャツのボタンを一番上の首元まできっちり留めていることもあってか、息苦しいような感じがちょっとあった。街道に出るとまだ新鮮な、剝かれたような太陽が浮かび、光の空に満たされたその膜に呑まれてあるせいだろう、西の雲は実体を抜かれて純白の空とほとんど同化するほど稀薄になっていた。その下に、トタンのものだろうか小屋のような建物の屋根が、激しい輝きの凝縮に襲われている。
 この日は薬を飲まずに出た。もう四日間飲んでいないが、それで体調に乱れが生じるでもなく、気は怖じず心身はまとまって歩みも落着いている。パニック障害というものを患ってもう八年ほどになるから、考えてみればそこそこ長いものだ。一時は相当苦しめられたが投薬によって回復し、ここ二、三年は日常生活にもほとんど支障もないまでになっていたものの、何だかんだで止められずにいた服薬と、いよいよさらばの時が来たのか。
 長めの労働を済ますあいだも不安に触れられることもなく過ぎて、帰る夜道は風が時折り湧いて、なければ空気は揺らがず止まって随分静まる。そんななかを歩きながら虫の音も大して聞かず、昼間に聞いた毒々しいようなロックミュージックの叫びが頭のなかに繰り返し回帰し、途中で見上げれば夜空には雲間があって星が見え、その傍らを同じくらいの大きさの飛行機の光が通って行く。欠伸は湧いて来るものの、あまり夜のなかにいるという感じもしなかった。深い夜更かしの常態となった生活のせいもあろうが、そもそも自分がいまこの地点にいるということそのものに釈然としないような現実感の稀薄さがあった。前日にも風呂から出たあと髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔の、見馴れたはずのそれであることが不思議なような、腑に落ちないような感じがあって、これは離人感と呼ばれるもののごく薄い症状だろうと思う。ことによると、独我論にも通じてくるような気分のようだが、瞑想を習いとしているそのことがあるいは影響しているのだろうか。仏教における最終到達点であるはずのいわゆる「悟り」と呼ばれる境地など、知ったことでなく目指してもいないが、方法論としては現在の瞬間を絶えず観察し続けることとされており、それには一応従って続けてきた結果、観察する主体としての自己が強く優勢になりすぎたと、そんなことがあるものだろうか。主体的自己と対象的自己の分裂、などとちょっと思ってもみたが、ともかく大したものでなく、単に歳月を重ねて時空が摩耗したのだと、三十路に達せぬ若輩でそれもないものだが、つまりは曲がりなりにも歳を取ったのだと片付けてしまいたくもなる。そうは言いつつも、歩く自分の身体の動きもこちら自身から独立して勝手に動いているような分裂感があり、それを見ながら、狂いの始まりとはあるいはこういうものかもしれないと、また大袈裟なことが浮かんだ。不安障害の長かった余波からいよいよ完全に逃れるかと、昼にはそう思った同じ期に、縁起でもないことではある。しかし続けて、人が狂うという時に、一挙に果てまで発狂するよりも、気づかぬうちに忍び寄られて静かに、徐々に狂っていくものではないかと、そんな馬鹿なことを思いながら玄関の戸をくぐった。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 ヨーロッパで現在再び「国民」や「国」という概念を訴えかけている政治的・社会的活動家たちは、これらの概念を非常に狭い意味で用いている。「国民」はギリシア語のデモスの意味ではなく、ほとんどの場合はエトノス、すなわち起源、言語、文化を同じくする(少なくともそう主張される)民族の構成員の意味で用いられる。均一の[﹅3]国民または均一の[﹅3]国を夢見る党や運動は、自由で平等な個人から(end112)成る(超国家的または国家的)法共同体という理想をまさに「逆進行」させようとしている。彼らは水平軸ではなく、垂直軸によって規定される社会を追求する。すなわち、「我々」の構成員を決定するのは、民族的、宗教的な起源であって、共通の行為、共通の憲法、開かれた民主主義的協議のプロセスではないと考えるのだ。「我々」の一員となる権利は、生まれつきのものとなる。両親または祖父母が移民だったせいで、その権利を生まれつき持たない者には、特別な技能や特別な信条、「標準」への特別な適応など、ほかの者には(同じようには)求められないものが要求される。
 近代国家にとって、なぜ均一な文化または国民のほうが多様な文化または国民よりも根本的に[﹅4]望ましいのかの根拠は、滅多に示されることがない。だが本来、同一の宗教を持つ社会のほうがより大きな経済的成功を収めるのか、文化的に均一な社会のほうが経済危機をうまく乗り切ることができるのか、不平等が少ないのか、政治的により安定しているのか、互いがより尊重し合うのか、といった観点は興味深いし、重要でもあるだろう。ところが実際には逆に、均一な「我々」が理想とされる「根拠」はトートロジーであることが多い。均一な国のほうが良いのは、それが均一だからだ、といった具合である。ときには、自分たち多数派はまもなく少数派となるだろう、他者の排斥は文化的または宗教的な予防措置に過ぎない、という論も見かける。ドイツ国家民主党(NPD)や、現在ではAfDや、イギリスの「イギリス独立党」やフランスの「国民戦線」までが唱えるスローガンは、このシナリオに沿ったものである。生物学的、人種差別的に「他者」と位置付けられる者たちによって、国家はより活動的に、より多様になるのではなく、「縮小」し、「抑圧」される、または「乗っ取られ(end113)る」というシナリオだ。だがそこではいまだに、なぜ[﹅2]均一性がそれほど重要なのかは論じられていない。ただ、多様性と雑多性に対する自分たちの軽蔑を、「他者」と位置付けられた者たちに投影しているだけだ。
 近代国家における文化的、宗教的に均一の国民という理想像が、現在再び追求されるようになったのは奇妙なことだ。それが歴史に矛盾し、事実に反するという点を考えればなおさらだ。全員が「地元民」であり、移民はおらず、多様な言語も多様な習慣や伝統も、多様な宗教もない、そんな国民の均一な「核」なるものが国民国家において最後に存在したのはいつか? そしてどこか? 「国民」という概念に持ち込まれたこの有機的な均一性は、確かに強力な魅力を持ってはいるものの、結局のところ空想の産物に過ぎない。どのような形の「国民」が望まれ、称揚されるにせよ、それは決して歴史上に実在したなんらかの共同体と同じものではなく、常に想像上の作られた「国民」なのであり、その理想像に近づけた(または変容させた)社会なのである。その意味では、そこには「本来の姿」などなく、あるのは常に、全員の合意のもとに、目指すべき「本来の像」(とされるもの)を作り出すという決意のみである。
 (112~114)

     *

 しかし、AfDやPEGIDAが守ると主張するドイツ国民またはドイツ国家の均一性というものは、そもそも存在しない。それは単に「非ドイツ的」または「非ヨーロッパ的」とされるものを排斥することによって作られる概念でしかない。「真の」ドイツ人を「偽の」ドイツ人と区別する境界線を引くために、数多くの「シボレテ」が使われる。(……)
 (115)

     *

 (……)アレクサンダー・ガウラントは『シュピーゲル』誌のインタヴューで、サッカーのドイツ代表でイスラム教徒であるメスト・エジルがメッカ巡礼をしたことについてコメントした。「私はサッカーに興味がないので、エジル氏がどこへ行こうと、あまり気になりません。ですが、公務員、教師、政治家、国民のリーダーといった人たちがこういう行為をする場合には、こう問いかけたいですね。メッカへ行くような人間が、本当にドイツの民主主義で守られるべき存在なのか、と」。さらなる質問に答える形で、ガウラントは自身の考え方を説明している。「そういった人たちの忠誠心がどこにあるのかを問うことは、おかしなことではないはずです。彼らはドイツ基本法に忠誠心を持っているのか? それともイスラム教――そう、イスラム教は政治的な宗教です――なのか? そして、カアバの周りをまわることで、この政治的なイスラム教に近い立場にいることを示したいのか? とはいえ、エジル氏のようなサッカー選手のことを、私は国民のリーダーだとは考えていませんが」
 まず驚かされるのは、アレクサンダー・ガウラントが、サッカーには興味がないと何度も強調していることだ。もちろん、それ自体は問題ない。だが、それはガウラントの論旨にとってはなんの意味もないことではないか。ガウラントが断じるようにイスラム教と民主主義が相容れないのであれば、イスラム教を信仰する者は、サッカー選手だろうと上級行政裁判所の判事だろうと関係なく、問題となるはずだ。ちなみに、サッカーのドイツ代表選手というエジルの地位のことを考えれば、ガウラン(end118)トは判事よりもむしろエジルのもつ影響力のほうを心配すべきではないだろうか。とはいえ、その点は重要ではない。ガウラントの考え方の問題点は、それがメスト・エジルの忠誠心ではなく、ガウラント自身の忠誠心を疑わしくしていることである。というのも、基本法と相容れないのは、ガウラントの発言のほうだからだ。基本法によれば、すべての国民には信教の自由が保障される。そして信教の自由には、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼する自由と同様に、メッカへ巡礼する自由も含まれる。そのことはアレクサンダー・ガウラント自身もよくわかっている。それゆえ彼は、イスラム教徒が信仰共同体に属するという点への疑念を同時に表明せねばならなかった。すなわち、イスラム教は宗教ではないと言わねばならなかった。自身の論の「根拠」として、ガウラントはこともあろうか、アヤトラ・ホメイニの言葉――イスラムは政治である――を引用している。これは、たとえて言えば、民主主義の正しい定義の根拠として、ドイツ赤軍アンドレアス・バーダーの言葉を引用するようなものである。基本法への忠誠心を問題視されるべきなのは、メスト・エジルではなく、むしろアレクサンダー・ガウラントのほうではないか。メスト・エジルは、キリスト教徒または無神論者が世俗の民主主義によって守られるべき存在であること、イスラム教徒と同等の権利を持ち、国家から同等の保護を受けるべきであることに疑問を呈したりはしていない。メスト・エジルは自身の信仰を実践しているだけだ――他の人間の行為や信条を、不忠だ、非民主主義的だ、と貶めることなどなく。
 (118~119)

     *

 「自然な」性という概念は、多くの理由から、歴史的に大きな影響力を持ってきた。性は「自然」なもの、天与のものだという考え方はキリスト教の伝統であり、「神の意図」という想像と結びついている。神の意図による自然な状態には特別の価値があるとされ、それは手を加えてはならない神聖なものとされる。「自然」で「根源的」な性こそが、「正常」を定義する基準である。そして、そうでないもの、変更可能なもののすべては、この理論においては「不自然」または「不健康」で、「神の(end122)意図にそむく」ものであり、それゆえ「望ましくない」と貶められる。
 だからこそ、これほど神聖視される「正常」な性という概念を打ち破る戦術のひとつは、性の「自然性」がひとつのイデオロギーであることを明らかにすることである。そして代わりに、性が成立する際の社会的、象徴的地平の意味を強調するのだ。性は社会的に構築されたものであるという理論によって、政治的にも規範的にも望ましい余白が生まれる。なぜなら、「男性」「女性」という性が生まれついての身体的な事実ではなく、むしろ異なる存在様式を規定するための社会的、政治的な合意の結果であるならば、そこから根本的な「正常性」または価値が生まれることはないからだ。
 (122~123)

     *

 生まれ持った身体と割り当てられた性に疑問や違和感を持たない人間には、想像するのが難しいかもしれない。「トランス」という言葉を耳にしたり、星印「*」や下線「―」〔名詞から男性 - 女性という性的要素を取り除き、二極化された性概念を超えるために付けられる記号。たとえば Bürger*innen のように、男性市(end124)民 Bürger と女性市民 Bürgerinnen を統合する形で、性別に関係なく「市民」という意味で使われる〕を目にするだけで、目をそらしたり、そこから先を読むのをやめたりする人もいるかもしれない――だがそれではまるで、希少な現象や人間は注目や評価に値しないというようなものだ。トランスジェンダーに感情移入などしてはならないと思い込む人もいるかもしれない。だが実際のところ、多くの人は、シェイクスピアの作品やヘンデルのオペラや、または漫画などに出てくるもっと奇抜な人物には当然のように感情移入し、彼らの物語を理解したいと思う。「希少」は、「奇妙」とも「不気味」とも違う。希少は希少でしかない。希少な人たちとは、語られることの少ない人たちのことかもしれない。そして彼らはときに、特別で希少な特徴または経験を持つ人たちである。彼らが持つ社会的承認への憧れと、それを求める闘いは、まさに人間存在の傷つきやすさを反映するものだ。それゆえ、トランスジェンダーの傷つきやすさ、可視性と承認への彼らの希求のなかにこそ、互いに依存しあって生きるという人間存在全般の[﹅7]大きな特徴が浮かび上がるのだ。その意味ではトランスジェンダーの置かれた状況は、我々全員に切実な関係がある。彼らのように生き、感じている人たちのみならず。トランスジェンダーの権利は、あらゆる人の人権と同じように重要である。そして、それを根拠づけ、守ることは、普遍的思想にとって当然のことだ。
 (124~125)

     *

 トランスジェンダーまたは「女性になった元男性」として最近最も世間を騒がせたのは、ケイトリン・ジェンナーだろう〔アメリカ合衆国の元陸上競技選手、モントリオール五輪金メダリスト。リアリティ番組でも有名。性同一性障害を公表し、ケイトリンと改名〕。自身の性転換を医学的手術によって完成させたジェンナーは、雑誌『ヴァニティ・フェア』の表紙(アニー・リーボヴィッツ撮影)を飾って、ほぼ「完璧な」女性像を演出した。ケイトリン・ジェンナー(正確にはケイトリン・ジェンナーの写真)は、トランスジェンダーにとって大切なのは、男から女へ(または女から男へ)、美的な意味でできる限り完璧に性(end127)を転換することである、という想像と結びつけられる。そういった見方をされる限り、トランスジェンダーはこの社会において支配的な性役割像を破壊する存在にはならない。むしろ、男性らしさ、女性らしさという既存の規範が一層強調され、是認される結果になるだけだ。ケイトリン・ジェンナーの例は、性を転換するための費用を賄える経済的余裕や、彼女がもともと著名人であり、それゆえメディアの注目を集めたことなどを別にしても、決して代表的とはいえない。もちろん、ジェンナーの勇気に対する世間の尊敬がそれで失われてしまうことはないだろう。だが、多くのトランスジェンダーにとって、公的に認められる存在となることは、その階級や肌の色や社会的な疎外のせいで、ジェンナーとは比較にならないほど困難なのもまた事実だ。ケイトリン・ジェンナーという、トランスジェンダーのなかでも特別に華やかな例が注目を浴びることになったとはいえ、多くのトランスジェンダーの現実の生活は、決して華やかでも贅沢でもない。アメリカ合衆国においては、二〇一三年のトランスジェンダーの失業率は十四パーセント(全米平均の二倍)であり、年収が一万ドル以下のトランスジェンダーは十五パーセント(米国全体では四パーセント)である。
 (127~128)

     *

 (……)「トランス」とは、「男性から女性へ(または女性から男性へ)」を意味すると同時に、「男性と女性のあいだ」または「男性でも女性でもない」を意味することもある。それはすなわち、「男」と「女」という二つのカテゴリーが適切ではない、または単にふたつでは十分ではないことを意味し得る。多くの人が、「一義的な」性別または「一義的な」身体を押し付けられたくないと望み、そこから外れた場所で生きている。
 (129)

     *

 性という規範を押し付けられて苦しむ人たち、性という規範を疑問視する人たちが、結果的にその規範を是認することになるのは、どういう場合だろうか。「トランスマン」であるパウル・プレシアードは、友人たちのあいだで議論されたこの政治的な問いに答える形でこう言う。「皆が私をテストステロンのことで批判するだろうことは、わかっている。(中略)なぜなら私もほかの男性のような男性になれるから。なぜなら皆が、少女だったころの私のことを好きだったから」 まさにこれこそが、多くのトランスジェンダーが望むことだ――「ほかの男性のような男性」、「ほかの女性のような女性」になること。だが逆に、男性らしさ、女性らしさという規範、モデルから逃れたいと考える人たちもいる。(……)
 (130)



(……)『四つのルパン、あるいは四つ目の』

 (……)とにかくインターメディアテクに関しては正式なホームページもあるようですし、あらかたの詳細情報はそちらを見た方が無難に入手できるでしょう。なんにせよわたしが下手な描写を書きつらねるより一度おとずれていただくのが最良の手段だとおもえます。わたしにはこの場所を魅力的にえがく才能がみじんもないのです。それに今の目的はわたしのルパンとの出会いを叙述することです。これは慎重に行うべきです。はたしてわたしはルパンという人物を魅力的にえがくことができるでしょうか? ああ、こうした自問自体があざといのです。わたしはルパンを魅力的に書く自信をじゅうぶんに持っています。ゆえにわたしは今も休まずに手をうごかしているのです。この確信はどこから来るのか、それはわたしにしかルパンを描写することができないという事実に依拠しているのです。わたしが何故インターメディアテクを魅力的に書けないか、それはあの場所について書くことはだれにでもできる行為だからです。読者のうちの何名かがわたしのことを卑怯者だとののしる声が今にも聞こえてきそうです。しかしこれは秘密の告白でもあるのです。すなわちわたしがルパンと呼ぶ人物がどういった人物なのかはわたししか知らないのです。いえ、正確にいえばわたしさえ知らないのです。(……)
 (6~7)

     *

 (……)それに純粋な敬意というものはユーモアでつつみファニーに仕立てないと見るにたえないものでしょう。敬意にはどうあがいても狂気がやどってしまうのですから、純度がたかければなおのことです。
 (7)

2018/9/29, Sat.

  • カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』や新聞記事の書抜きに結構な時間を費やす。たくさん文を写してはいるのだが、そうしてみてもその内容が自分の頭のなかにうまく入りこんでくる感じがしない。以前の自分だったら、本を読み文を書き、また他人の文を写しているだけで、自分はともかくも前進しているのだという無条件の確信を持てていたし、実際に精神的栄養を摂取することで自分はこの五年間のあいだ、確かに一年ごとに変容を続けていたのだが、今はもはやそうではない。今あるのは、ものを読んだり物事に触れたりしてみてもそれらが自分の内に何らかの感応を呼び起こすことのない停滞の感覚、進歩/変容の欠如である。
  • 夕食時、(……)のおばさんの話になる。九四歳だかを数えてホームに入っている彼女を、先日母親と(……)さんが訪ねてきたのだったが、(……)のおばさんなどと言われてもほとんど会ったこともないだろうし顔が判らないというこちらに、母親が法事の際の集合写真を持ってきたのだった。一つは随分と昔の、生まれてまもないこちらがまだ年若く小娘のような雰囲気を残した母親の腕に抱かれているもので(写真の裏に記された日付は一九九〇年の四月のものだったので、こちらはまだ生後三か月の赤子だ)、前列の右側に(……)のおばさんが立っていた。福々としたような丸顔の、ちょっと隣家の(……)さん(こちらも九七だか九八だかの超高齢者である)に似ているような婦人だった。もう一枚の写真は、祖父の三回忌だろうか、おそらく二〇一〇年頃のことだと思われ、こちらにはいくらか人相の悪いような自分の姿もあった。顔が今よりも細長く、痩[こ]けているようなのを見て、二〇歳というとパニック障害の真っ只中にあった頃だから、それで消耗していたのではないかと推測を口にした。こちらの写真には、関係の判らない夫婦も写されていたが、これは(……)さん(祖母の弟)の娘とその婿らしく、代理として出席していたようだ。(……)さんの奥さんが(……)さんという人で、これはまるで『ゲゲゲの鬼太郎』に出てきそうな風貌をしている女性であり、一方、(……)のおばさんの息子である(……)さんの奥さんが(……)さんという名前で、一文字違いなのでややこしい。この(……)さん夫婦とは、七月くらいだったか、母親と医者に行ったあとに寄った『ステーキのどん』で遭遇したことがあり、(……)さんという人をこちらが目にするのはそれが多分ほとんど初めてだったのではないかと思うが、その顔貌はもうよく覚えていない。風呂から出たあとは、その(……)さんから貰ったというプリンを食べた。
  • 夜、緑茶をおかわりしに居間に上がって来た際、父親に通院の報告をする。症状の特段の変化はないが、ロラゼパムがなくなったと。それは何かと問うので、安定剤だと答える。現状、不安という症状はなくなったので、それはいらなくなったのだ。ロラゼパムにしろスルピリドにしろ、それで言えばクエチアピンにしろ、飲んでいても自分に何らかの効果を及ぼしているという実感は全然ない。薬が減ったにせよ、本を読んでいて楽しいとかそういう感情はやはりないのだろうと父親が問うので、その点は変わっていないと返答する。そうしたらまたそのあたりを改善する薬なり方策なりを相談してみて、と父親は言うが、賦活剤としては多分エビリファイぐらいしか選択肢はないのだろうし、メジャー・トランキライザーの類をこれ以上使うのも気が引けるものではあるし、そもそも自分にはもはや精神病薬の類はほとんど効かないのではないかというような気がする。何というか、心身が全般的に鈍感化しているのだ。それはそれとして、まあ精神疾患は長いものだろうし、例えば一年後に今よりも多少楽しくなっていたり、感受性が戻ったりしていればいいとそのくらいのスタンスではいると言うと、お前がそうして余裕のある心持ちになっているのだったらそれは良かったと父親は安心したようだった。比較材料として春から夏頃のこちらの「焦り」を彼は挙げてみせたのだが、当時のこちらは確かに自分の症状が一向に変化しないことに打ちひしがれていた。それは「焦り」というよりは、もう数か月の時間が経ったのに何の改善もない、自分はおそらくずっとこのままなのだろうなというちょっとした絶望感のようなものだったのだが、それでまともに自殺を考えていた頃に比べれば、まあ一応精神的に良くなったとは言えるのだろう。しかし、現在は現在でやはり、今の状態からこれ以上明確に良くなることも多分ないのだろうなという諦観を抱いてはいる。良くなるというのは、芸術的感受性や思考力や創造性のようなものが戻ってくるということだが、自分の状態はそうした点では多分これ以上向上することはないだろうと予測している。それは絶望というよりは、自分の体感を鑑みて下した冷静な判断である。勿論、一時期文を全然読めず、読書の能力は自分から永遠に失われたと思っていたところがまた一応はものを読めるようになったように、予測が外れることもあるかもしれないが、いずれにせよ、年始以来の自分の病理は心理的なもの、ストレスなどによるものというよりは、ほとんど純粋に器質的なものである。つまり原因はわからないものの、端的に言って脳がどうかなったということで、脳内の問題など、人間の力で直接的にどうにかなるようなことではないのだ。だから、人事を尽くして天命を待つというか、今の自分に出来ることをやって結果が出ればそれで良し、結果が出なければもう仕方がないと、そうした割り切りの心境に今はおおよそ至っている。欲望や情熱、感受性の類が戻ってくればそれは当然有り難いが、戻ってこなくともこのままで生きられないでもあるまい。それは言ってみれば退屈な、阻害/疎外された生かもしれないが、まあ最悪のものだというわけではないだろう。
  • 『多田智満子詩集』、「薔薇宇宙の発生」というエッセイ。LSDを服用した多田が眼裏に見たという薔薇世界のヴィジョンの記述がなかなか面白かったかもしれない。続く鷲巣繁男の評文は、何を言っているのか全然理解できない。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 憎しみを育む者たちと不安を煽る者たちのなかには、特殊な形式ではあるが、ベイルートからブリュッセルチュニスからパリにまで及ぶ連続殺人を犯したIS(イスラム国)と呼ばれる国際的テロ組織も含まれる。ISの思想伝達の方法は、「新右翼」のプロパガンダ担当者たちと同じ戦略に従ったものだ。すなわち、差異の論理に従ってヨーロッパ社会を分断すること。ISのテロ攻撃によってイスラム教徒に対する恐怖が煽られるのは偶然ではなく、意図的な結果だ。映像撮影された残虐行為の様子や、ポップカルチャー風に演出された無力な人質の処刑、大量虐殺などの手段で、ISは意図的、計画的に我々の社会にくさびを打ち込む――テロへの恐怖が、ヨーロッパに暮らすイスラム教徒全体に対する不信に、さらには彼らの孤立化に繋がればいいという、決して非合理的とは言えない望みのもとに。
 多様で開かれたヨーロッパ世俗社会からイスラム教徒を切り離すことこそ、ISのテロの明確な目(end67)的である。それを達成するための手段が、システマティックな二極化だ。ISのイデオロギー指導者は、あらゆる混交を嫌う。あらゆる文化的交流、啓蒙化された近代精神がもたらすあらゆる宗教的自由を嫌う。こうして、イスラム原理主義者と反イスラム過激派とは、互いが互いの奇妙な写し鏡となる。両者は、憎しみと文化的宗教的画一性という共通点でつながっている。それゆえ、右翼の掲示板には常にヨーロッパ諸都市におけるISの恐ろしいテロ攻撃についての報告が上がる。客観的な暴力、ISが実行する現実のテロが、まさにこの暴力とテロから逃れてきたすべてのイスラム教徒に対する主観的な妄想の下地となるのだ。テロ攻撃が起こるたびに、イスラム教徒に対する恐怖は正当なものだと主張される。虐殺が起こるたびに、リベラルな開かれた社会など幻想だと誹謗される。パリとブリュッセルにおけるテロ攻撃を、まずなにより自分たちの世界観が正しいことの客観的な証拠だと捉えた多くの政治家やジャーナリストの反応も、これで説明がつく。彼らにとっては、テロ犠牲者の親族とともに悲しむことより、自分が正しいと主張することのほうが重要なのだ。
 (67~68)

     *

 知覚や視野とは中立的なものではなく、歴史的な思考パターンによってあらかじめ作られたものだ。そこではパターンに合致するもののみが知覚され、記憶される。黒人が体を震わせることがいまだに怒りの表現だととらえられる社会、白人の子供たち(そして大人たち)がいまだに、黒人を避けるべき、恐れるべきなにかとして見るよう教えられる社会では、エリック・ガーナー(またはマイケル・ブラウン、サンドラ・ブランド、タミル・ライスほか、白人警官の暴力の犠牲になったすべての人たち)は、脅威であると見られる[﹅4]のだ。たとえなんの危険もない存在であっても、何世代にもわたってこういう見方をする訓練を積んできた結果、警官は実際に恐怖を感じていなくても、黒人の身体を不当に扱うこ(end80)とができる。恐怖はもうとうに、警察の組織的な自己認識へと変容し、そこに刻み込まれている。黒い身体をすべて、なにか恐ろしいものとして認識する人種差別的な思考パターンは、社会をまさにこの危険(と彼らが思いこんでいるもの)から守ることこそ自らの使命だと考える白人警官たちの態度へと乗り移る。たとえ白人警官個人はその場で憎しみや不安を感じていなくても、ためらいなく黒人の権利を制限することができる。こうして、抵抗できない死にかけた黒人の身体さえ、脅威とみなされるようになるのである。
 (80~81)

     *

 エリック・ガーナーを死に至らしめた絞め技は、偶発的なもののように見えるが、実際はそうではない。絞め技には長い伝統がある。ロサンジェルスだけでも、一九七五年から一九八三年のあいだに十六人の人間が絞め技の犠牲となった。ニューヨークでも、エリック・ガーナーの死の二十年前、ブロンクス出身の二十九歳の男性で、やはり慢性的な喘息を患っていたアンソニー・バエズが、警官の絞め技によって死亡した。バエズが絞め技をかけられたきっかけは、煙草販売を疑われたことではなく、サッカーボールで遊んでいたことだった。そのサッカーボールがうっかり(この点は警察も認めた)、駐車中の警察車両に当たってしまったのだ。エリック・ガーナーを死に至らしめた絞め技は、ずいぶん前から違法になっている。ニューヨーク市警はすでに一九九三年に絞め技を禁止している。にもかかわらず、エリック・ガーナーの死亡状況を調査し、警官ダニエル・Pの行為を判断する任務を負った大陪審は、二か月にわたる審議の結果、Pの不起訴を決定した。
 「破壊者が皆、たとえようもない悪人だというわけではない。彼らは今日にいたるまで、単にこの国の気分をそのまま実行に移す者たち、この国に受け継がれてきた力を正確に解釈する者たちに過ぎない」と、タナハシ・コーツは著書『私と世界のあいだに』で述べている。そこには悪意や突発的な激しい憎しみさえ必要ない。コーツによれば、必要なのは、黒人のことは常に貶め、軽視し、不当に扱っても構わない、それで罰を受けることはないという、連綿と続く確信のみなのだ。必要なのは、黒い身体から危険を連想させ、それゆえ黒い身体に対するいかなる暴力も常に正当化する、受け継が(end85)れてきた想像上の恐怖のみなのだ。こういった歴史のなかで内面化された価値観のもとでは、エリック・ガーナーやサンドラ・ブランドや、チャールストンのエマニュエル・アフリカン・メソジスト教会の信者たちが、客観的に見て無抵抗だった、または無実だったと指摘しても無駄である。受け継がれてきた世界観においては、白人のパラノイアは常に正当化されるのだ。
 エリック・ガーナーを死に至らしめた絞め技は、確かに個人的な行為ではある。あの状況で絞め技をかけたのはダニエル・Pという個人なのだから。だがあの絞め技は、最近#blacklivesmatter運動によって注目を集めている、アフリカ系アメリカ人に対する白人警官による暴力の歴史の一部である。白人による暴力への恐怖は、アフリカ系アメリカ人の集団的経験であり、奴隷制の遺産の一部だ。なんともやりきれないパラドックスである――黒い身体に対する人種差別的な恐怖は社会的に認知され、再生産される一方、烙印を押された黒人たちの側からの白人警官の暴力に対する正当な根拠のある恐怖は、まさにその人種差別の死角に追いやられたままなのだ。「エリック・ガーナーを窒息死させた警官が、あの日の朝、誰かを殺してやるぞと思いながら家を出たと信じる理由はない。理解せねばならないのは、あの警官は合衆国国家から権力を与えられており、アメリカの遺産を受け継ぐ者だということだ」と、タナハシ・コーツは書く。「このふたつの要素が必然的に、毎年のように破壊される身体のうち飛びぬけて多くが黒人のものであるという結果をもたらすのである」
 (85~86)

     *

 アフリカ系アメリカ人はいまだに、黒人でありながらアメリカ人であるという構造的な「矛盾」のなかで育つ。建前上、黒人はアメリカ社会の一部だということになっているが、実際にはいつまでも部外者である。合衆国における社会の分断と黒人の置かれた不利な状況は、いまだに数字にはっきりと表れている。市民権団体「全米黒人地位向上協会(NAACP)」の統計によれば、アメリカの刑務所に収監されている二百三十万人の囚人のうち、少なくとも百万人がアフリカ系アメリカ人だ。アフリカ系アメリカ人は、白人より六倍頻繁に懲役判決を受ける。「センテンシング・プロジェクト」という組織の調査によれば、アフリカ系アメリカ人が麻薬犯罪で受ける懲役刑の平均(五十八・七か月)は、白人が暴行罪で受ける懲役刑の平均(六十一・七か月)に近い。一九八〇年から二〇一三年のあいだに、アメリカ合衆国では二十六万人以上のアフリカ系アメリカ人男性が殺害された。比較のために挙げれば、ベトナム戦争で亡くなったアメリカ人兵士の総数は五万八千二百二十人である。
 (87)

     *

 加えて、見過ごされがちな「恥の瞬間」というものがある。人の言葉や身振りや行為や信条が、いつどのように自分を傷つけ、疎外するのかを、自分自身で[﹅5]指摘せねばならないのは、恥ずかしいものだ。少なくとも、私はそう感じる。心のなかでこっそりと、その場で差別を受けていない人たちも含めて皆が[﹅2]、その不正に気づいてくれることを願う。他者の道徳観に対する期待、または――もう少し穏便に表現すれば――自分の暮らす社会に対する私の信頼のなかには、抵抗すべきなのは侮辱や軽視を受けている者だけではないと皆が考えられること、すなわち、こういった侮辱に傷つけられたと感じるべきなのは、犠牲者のみならず、我々全員[﹅4]なのだと皆が考えられることも含まれる。その意味では、私自身が傷つけられる場に、ほかの誰かが介入してくれないかという期待とは裏腹に、実際にはなにも起こらないときには、どこか奇妙な失望を感じる。
 それゆえ、自分自身のために声をあげるためには、常に恐怖心のみならず、羞恥心をも乗り越えねばならない。抗議をするにも異議を唱えるにも、その原因となった差別と、それに傷ついたということを口に出さねば始まらない。ハンナ・アーレントはこう言った。「ある種の人間として受ける攻撃には、その人間として抵抗するしかない」 アーレントの場合には、ユダヤ人として受ける攻撃にはユダヤ人として対抗するしかないという意味だった。だが同時にそれは、自分がどんな人間として攻撃されたのかを常に問いかけ、それに対して自分がどんな人間として発言するかを決定することである。他者にとって不可視で不気味な存在としてなのか。他者の身振りや言葉、法律や習慣によって日常生活に不自由と重荷を感じる人間としてなのか。他者の知覚パターン、思い込み、憎しみに、もはや黙(end91)って耐える気はない人間としてなのか。
 ことのほかつらいのは、軽視されることによって生まれる憂鬱を誰にも見せることが許されないという事実だ。自分が受けた傷を言葉にする者、常に除外され続ける悲しみをもはや抑え込まない者は、「怒りっぽい」(「怒れる黒人男[アングリー・ブラック・マン]」「怒れる黒人女[アングリー・ブラック・ウーマン]」という呼称は、無力な人間たちの絶望を「怒りっぽい」と解釈する、ひとつの定型である)、「ユーモアがわからない)(フェミニストレズビアンに対する一般的な描写のひとつ)、自分たちの苦悩に満ちた歴史を利用して「利益を得ようとしている」(ユダヤ人に対して用いられる)とされる。こういった蔑視のレッテルは、なによりもまず、構造的な蔑視の被害者から抵抗する術を奪うために用いられる。被害者たちは、口を開くのが難しくなるようなレッテルを最初から貼られてしまうのだ。
 (91~92)

     *

 「相違は堕落すると不平等となり、平等性は堕落するとアイデンティティとなる」と、ツヴェタン・トドロフは『アメリカの征服』で述べている。「このふたつは、他者との関係という空間を修復不可能なまでに狭める二大巨頭である」(end102)
 トドロフは、反リベラル思想が生まれる局面を的確に突いている――各人または各グループのあいだの視覚的、宗教的、性的、文化的相違が、単なる相違[﹅2]のままではなくなる局面を。それは、相違が社会的または法的な不平等[﹅12]へと変化していく局面だ。人が自分と違う者、または標準だとされる多数派から少しでも逸脱する者を、ただ単に「違う」のみならず、突然「正しくない」と見なし、そのせいで庇護を受けられない存在へと貶める局面だ。アイデンティティの徹底的な均一性のみが重要視され、ほかのすべては疎外され、拒否されるべきものになる局面である。
 現在の社会では、偶然に過ぎない生まれつきの相違ばかりが取り上げられ、社会的な認知のみならず人権や市民権までもがその相違に左右されるようになってしまった。社会運動や政治共同体が、民主主義国家において、特定の[﹅3]市民のみ――特定の身体、特定の信仰、特定のセクシュアリティ、特定の言語を持つ者のみ[﹅2]――を平等に扱うための基準を設けようとしたら、いったいどうなるだろう。そして、その基準によって、誰が完全な人権または市民権を得ることを許され、誰が軽視され、虐待され、迫害され、殺されてもいいかが決まるとしたら。
 (102~103)

     *

 とはいえ、「自由で平等な人間たちから成る国民」というモデルもまた、歴史的に見ればひとつのフィクションである。真にすべての[﹅4]人間が自由で平等と見なされたことなどないからだ。さらに言えば、すべての人間が人間と見なされていたことなどないのだ。確かに、フランスの革命家たちは、君主制を排して、君主の位置に主権を持つ国民を置いた。だが残念なことに、民主主義社会の草案は、決して彼らが主張するような、すべての人間を対象としたものではなかった。女性といわゆる「異邦人」には、詳しい理由説明さえ必要とされないほど当然のように、市民権は与えられなかった。民主的国民は、そして旧身分の特権を廃止しようとした国家は、結局のところは別の他者を差別することでしか成立し得なかったのである。
 このことは、主権を持つ国民という思想を語る言葉、自由で平等な人間の社会契約の歴史を語る言葉に、なにより明確に表れている。すなわち、昔から政治的秩序は身体性[﹅3](コーポレーション[﹅8])という概念で描写されてきたのだ。そして、全員(すなわちあらゆる独立した個人)の民主的意思と考えられていたものは、いつの間にか全体(すなわちあいまいな集団)の意思へと変わっていく。互いに向き合い、関わり合うことによって共通の立場や信念を討議し、決定していく個々の声や視点から成る多(end108)様な存在が、均一な「全体」へと変容してしまうのだ。社会を身体[﹅2]にたとえる言説は、政治的に重大な意味を持つさまざまな連想を可能にする――ひとつの身体とは、堅固で独立したものだ。身体は皮膚に包まれており、その皮膚が外界との境界となる。身体は病原菌によって病気にかかることがある。身体は健康でなければならず、疫病から守られねばならない。そしてなにより、身体とはひとつの均一な「全体」である。
 政治的言語(およびその結果としての政治的空想)によって社会がひとつの生き物にたとえられるとき、そこには必然的に衛生という概念が結びついてくる。そしてその概念は、人間の身体を医学的に管理するという文脈で、社会を語る際にも用いられることになる。こうして、文化的または宗教的な多様性が、均一な国民という身体を持つ国家の健康を脅かすものととらえられることになる。いったんこの知覚パターンに囚われれば、「異邦人」によって病気をうつされるのではないかという不安が一気に蔓延する。相違はもはや単なる相違とはとらえられず、国家という健康で均一な身体に病を感染させる原因となる。この思考モデルとともに生まれるのは、常に他者の行為や信念によって病に感染することを恐れる独特の神経症アイデンティティである。あたかも、それぞれの国家において定められた標準からのいかなる相違も逸脱も、文化的または宗教的な飛沫感染によって、疫病のように広がっていくとでもいうかのようだ。他者の身体との接触が即座に脅威として恐れられ、忌避されねばならない社会は、(社会を身体に例える言説を借りるならば)健全な「文化的な免疫システム」を持っているとは言い難い。健康を保たねばならない身体としての国民という妄想は、どんなささいな相違(end109)にも恐怖を抱くのである。
 以上から、現代社会において、宗教的な理由で頭部を覆うというささいなことが――それがキッパであろうとヴェールであろうと――、なぜ多くの人の自己アイデンティティを脅かすのかも明らかになる。現代社会に広がる恐怖感は、まるで女性イスラム教徒のスカーフ(ヒジャブ)やユダヤ人男性のキッパを目にするだけで、キリスト教徒がもはやキリスト教徒でなくなるかのような、極端なものだ。まるでスカーフが、それをかぶる者の頭からそれを見る者の頭へと自分の足で移動するかのようだ。これほど不条理でなければ、滑稽とさえいえる想像だ。スカーフに反対する議論のなかには、スカーフはそれ自体が[﹅5]女性を抑圧するものであり(これは、女性が自分の意志でスカーフをかぶることはあり得ないという決めつけである)、それゆえ禁止されねばならないというものがある一方、スカーフによって彼ら自身[﹅2]と世俗社会とが脅かされるというものもある。あたかもたった一枚の布が、それをかぶる者ばかりでなく、それを遠くから目にする者までをも抑圧するかのように。ところが、スカーフに反対するどちらの論拠も、女性への抑圧が実際にあるとしたら、それはスカーフ自体によるものではなく、女性に本人の意志に反するなんらかの行為を強要する人間または社会構造によるものであるという点を見逃している。その意味では、スカーフをかぶれという、家父長制的および宗教的見地からの命令も、スカーフをかぶってはならない[﹅4]という、支配的および反宗教的見地からの命令も、どちらも同じように強制的だといえよう。
 社会が信教の自由を保障しながら、同時に女性の権利を守り、拡大しようとするならば、必要なの(end110)はむしろ女性の自己決定を真剣に受け止めることである。そしてそれは、(どのような形式であれ)信仰に忠実な生活または行為を望む[﹅2]女性も存在し得るという事実を受け入れることである。スカーフを例に取るならば、スカーフを着用したいという望みを即座に非合理的、非民主的、バカバカしい、あり得ないと断じる権利は、第三者にはない。スカーフを着用したいという望みも、一般的な信仰心(または宗教行為)に、さらに場合によっては伝統的、宗教的な家族像に反対の立場を取りたいという望みと同様に、尊重され、守られるべきだ。どちらの決断を下し、どちらの人生設計を取るにせよ、それを選ぶ個人的権利は、ヨーロッパのリベラル社会においては同等に尊重されるべきだろう。ただ、公的な職場でのスカーフ着用の問題となると、少々複雑になる。基本法の第四章第一節および第二節に保障された個人の信仰、良心、宗教、世界観の自由という基本的人権と、宗教的に中立の立場を維持するという国家の義務とが対立する恐れがあるからだ。だがこの問題は、学校の教室でキリスト教のシンボルである十字架のネックレスをつけることが許されるかという問いと本質的には同じものである。
 (108~111)

2018/9/28, Fri.

  • すべてがどうでも良く、空虚に思える。物事に関心を持つという精神の能力それ自体がほとんど消えかけている。自分は自分の感受性を失ってしまった。読み書きも面白くなく、結局は惰性に過ぎない。一応はまた本を読み、文を書けるようになったところで、それを楽しめるようになったわけではない。自殺するつもりはないが、さっさと死にたいような気がする。少なくともいますぐに死んだとしても何も後悔することはないだろう。あらゆることが億劫で、永遠に眠っていたいような気がする。
  • どうでも良い音楽に脳内を占拠されて鬱陶しい。思考がブロックされているような感じ。病気になって以来、自分の頭のなかに何か新しい種類の考えが一つも生まれていないということに自分は気づいている。それでなくても僅かばかりしかなかった創造性・生産性の枯渇。
  • 通院、午後から。ロラゼパムをなくすことに。これで薬剤はクエチアピンとスルピリドのみになったが、薬にこれ以上自分の状態を改善させる力はないだろう。医院では、高年の女性が市役所と揉めて、大きな声で電話をしながらいくらか被害妄想じみた訴えを捲し立てていたが、詳しく書く気力はない。医者ののち、図書館へ。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』の書抜きをしようと思っていたが、席に就いて本を取り出したところで、書抜き箇所をメモしたノートを忘れたことに気づく。それで帰ることに。スーパーに寄って、茄子や豆腐や飲むヨーグルトや緑茶などを買って帰る。
  • 自然の様相の移り変わりがまったく心に響いてこない。

2018/9/27, Thu.

  • 墓参。母親と(……)さん(叔母)と。墓参りを終えたあと、寺の池に寄って鯉にパン屑を与える。
  • 帰宅後、読書をしていると思ったらいつの間にか眠っている。一一時半くらいから一時前までだと思う。昼食を取ったあと、三時くらいからもまた眠った。八時あたりまで長々と。
  • 無力感、無価値感強し。テレビなど見ても、から騒ぎにしか感じられない。