2021/8/20, Fri.

 嫉妬の結果がかくも均衡を欠くことになりがちなのは、しかし、嫉妬が(第三に)そもそも不可能な情熱に裏うちされ、あらかじめ挫折がさだめられている欲望に発するものであるからではないだろうか。つまり、ある特異な志向的構造をともない、〈ひとしさ〉の要求からも身をもぎはなしてしまう嫉妬は、ほんらい狂った〈渇望〉の産物なのではないだろうか。
 たとえばスワンがオデットに恋して、やがて激しく嫉妬するとき、スワンはじぶんには見えないオデットの時間そのものに嫉妬している。あるいはまた、「私」が結果においてはスワンの恋をなぞるかのようにアルベルティーヌに恋着するとき、「私」はアルベルティーヌのすべての時間を所有しようとしてかの女を幽閉し、しかしほどなく逃れられて、しかも決定的な不在を味わわされてしまう(プルースト『失われた時をもとめて』)。いまにもじぶんから逃げ出してしまうのではないか、という憂慮そのものがアルベルティーヌへの恋心の原因であり、それがまた嫉妬の炎を燃やしつづける理由ともなる。「偉大な《時》の女神」(「囚われの女」)であったアルベルティーヌは、どのようにあがいて(end100)みても「近接不能の女」「未知の女」であった。だが、アルベルティーヌへの、「私」の所有の「欲望はきわめて強くまた過度のものだったので、ついには喪失の保障者となってしまった」のである(バタイユ [註81] )。あるいは、レヴィナスそのひとの分析によれば、アルベルティーヌは囚えられたときすでに逃げさっており、逃亡してなおその痕跡によって「私」をとらえつづける。「私」の嫉妬は「他者の他性への飽くことをしらない好奇心」に、つまり満たされえない渇望 [﹅2] に発している。だがそれは、そもそも不可能性への情熱、あるいはゆがんだ〈渇望〉なのである。かの女の死が、そして最終的に「アルベルティーヌの無」として、かの女の「まったき他性」をあかしだてることになったのである [註82] 。

 (註81): G・バタイユ『内的体験』(出口裕弘訳、現代思潮社)三〇七頁以下参照。
 (註82): Cf. E. Lévinas, L'autre dans Proust (1947), in: Noms propres, p. 121 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、100~101; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時まえ離床。覚醒をつかめない。きょうも晴れでひとみにひかりを浴びるが、寝床から見える空には青一色だったきのうとはちがって雲も差しこまれている。瞑想OK。
  • ハムエッグを焼いて米と食す。新聞はアフガニスタン情勢。バイデンは米軍撤退延長も示唆と。アフガニスタン内にいる米国人の退避が終わるまでだということ。米国とタリバンのあいだで、すくなくとも米軍の撤退期限としてさいしょにさだめられていた九月一一日までは、タリバンがカブールにて空港までの道を妨害せず国外に出たい市民の安全な通行を保証する、という合意がとりきめられたということなのだが、じっさいには現場の連中は妨害行為などをおこなっているもよう。また、各地で反タリバンのデモが起こり、タリバン側がそれに発砲して何人か死者が出ている。元第一副大統領で暫定大統領だと自称しているなんとかいうひとは交渉というよりも徹底抗戦のかまえでひとびとにも呼びかけているらしく、まだたたかいが起こる可能性があると。ガニ大統領が逃げたのはアラブ首長国連邦だったらしいが、国内にもどれるようタリバンと交渉しているらしい。いっぽうでタリバン政権樹立のうごきはすすんでおり、元の政府の高官とかれらのあいだではなしあいがもたれている。幹部があきらかにしたところでは、民主的な体制にはならず、過去のタリバン政権のときと同様、シャリーアにもとづいた政治になり、最高評議会が設置されて最高指導者がその議長に就任するだろうと。タリバンはいま最高指導者(三代目だったか?)のもとに三人の副官がおり、ひとりはカタールに常駐して交渉を担当していた穏健派(創設者の義弟)、もうひとりはわすれたが、あとひとりは創設者の息子で、このひとだったかふたりめだったかどちらかがなんとかハッカニというなまえで、そのひとの名をとってハッカニ・ネットワークというテロリスト組織というかたぶん不定形な集団みたいなものがあるらしく、だからとりわけ米国などはもちろんその影響力でテロ活動が活発化するのではないかと危惧している。
  • コロナウイルスは茨城とか栃木とか群馬とか、一〇県くらいが緊急事態宣言の対象に追加され、蔓延防止等重点措置の県も増えて、緊急事態宣言下の都道府県は一三、重点措置は一六とあったはず。だからもう全国で半分以上の都道府県が緊急対応の対象になっている。新規感染者はきのうで二万いくらかとかで、過去最多を更新していると。やはりデルタ株の威力がすごいようだ。もう駄目ですわ。
  • 書見後、三時まえからストレッチを念入りに。
  • 山梨に行っていた父親が帰宅。こちらはきのうの余り物で食事を取った。それが三時半まえくらい。そのあと洗濯物をたたむ。二時にベランダから取り入れたときにタオルはたたんでおいた。そのさい、ベランダの日なたのなかでしばらく陽光を浴びて肌に吸ったが、西をふりあおげばそちらは雲がおおくわだかまって混雑しており、太陽もそのなかにあってほとんど一秒ごとにあたりのあかるみがうすれてはまたもどって、という時間もあった。ひかりが照ったときはからだがすべてつつまれてさすがに暑く、強力な、どんな対象からも水をしぼりだそうとするような苛烈な熱射であり、きのうは晴れのわりにもうけっこう涼しさがあった印象だけれどきょうは一時季節がひきかえしてまた夏めいていた。
  • プルーストは「スワンの恋」を終えて第三部にはいった。スワンの恋はわりとしずかに、自然に嫉妬や恋情がうすれていって醒める、みたいな終わり方になっていて、こんなかんじだったかとおもった。そこにカンブルメール若夫人の魅力が介在しているというのはまったく記憶になかったところだ。コタール夫人とのやりとりはなんとなくおぼえがあったが。「スワンの恋」が終わって第三部がはじまると、そのいちばんさいしょから、わたしが夜に起きていままで過ごしたことのあるさまざまな部屋をおもいだしているとき、そのなかでコンブレーの部屋といちばん似ていない部屋はバルベックのグランド・ホテルの一室で……というはなしがかたられており、だからこれは第一部「コンブレー」と直結し、そこから順当にすすんでいる展開で、したがって第二部「スワンの恋」とはほぼ関係がなく、第二部全体が非常にながながとした迂回のように見えるもので、なんでわざわざあいだにながながしいスワンの恋の物語をはさんだのかな? とその必然性に疑問が生じる。まあ、プルーストにあってはそういうことはわりとどうでも良いのだが。もちろんこの「スワンの恋」ははるかのちにかたられる話者じしんのアルベルティーヌへの恋に前例として先行するというか、話者はそこにおいてスワンがオデットにたいしておもったことかんがえたことやろうとしたことを多くの面で反復するとおもうのだけれど(その核心はむろん、「占有」の欲求である)、そのくりかえしとひびきかわしとがあるにしてもこのタイミングで? ということはある。ただまた、話者とスワンの類同性というか彼らがいわば同族であるということは、アルベルティーヌを待たずにすでにあらわれてもいて、つまりスワンの恋はおさない話者と母親との関係にはやくも部分的に反復されており、そのことは明言されている(50: 「私がさっきまで感じていた苦悩、そんなものをスワンは、もし私の手紙を読んで目的を見ぬいたとしたら、ずいぶんばかにしただろう、とそのときの私は考えていた、ところが、それは反対で、後年私にわかったように、それに似た苦悩がスワンの生活の長年の心労だったのであり、おそらくは彼ほどよく私を理解することができた人はなかったのだ、彼の場合は、自分がいない、自分が会いに行けない、そんな快楽の場所に、愛するひとがいるのを感じるという苦悩であって、それを切実に彼に感じさせるようになったのは恋なのであり(……)」、また、500~501: 「彼はオデットの姿を見かけても、彼女がほかの男たちとともにしているたのしみをこっそりさぐるようなふりをして怒らせてはという心配から、長居をする勇気はなかった、そしてひとりさみしく帰宅して、不安を感じながら床につくのであったが――あたかもそれから数年後、コンブレーで、彼が私の家に晩餐にきた宵ごとに、私自身が不安を感じなくてはならなかったように――そうしたあいだ、彼にとっては、彼女のたのしみが、その結末を見とどけてこなかっただけに、無際限であるように思われるのであった」)。スワンは話者の、言ってみれば先行者、先達、先輩のようなものである。
  • 往路に出たころには頭上に雲がおおく、二時にベランダから見たときにすでに雲がわだかまっていた西空からさらにひろがりだしたようで、いまだ青さがのこっているのは東のとおくのみであり、道を行くうちにカナカナが一匹、林から鳴きだしそれについでむかいから風がはじまるとそのながれが間をおかずスムーズに厚くふくらんでいき、耳の穴のまえでバタバタ鳴るくらいになったので、涼しくて佳いがどうも雨の気配だな、とおもっていると、風がおさまったあとからはたして、はやくもぽつりぽつりと散るものがはじまって頬に触れてきた。(……)さんが家の入り口に出て身をかがめながら草を取るかなにかしていたので、いつものようにちかづいてあいさつすると、いまちょっと降ってきましたねというので、そうですね、ぽつぽつ来ましたねと受けてすすむ。しかしそのあとで背後から、お父さんも家のまわりをよく丁寧にやられてるね、と追って投げてくるのもよくあることだ。ふりむいてなんとか受けたあと、会釈をおくって坂へ。
  • セミの音はまだけっこう盛ん。アブラゼミが背景をなしてずっとジージー宙に敷かれているうえに、ミンミンゼミやツクツクホウシがときおり無法則に差しこんできて、不定形で区切りのない拡散平面のなかにリズムの感覚をもたらす。律動感がつよいのはやはりツクツクホウシである。駅につくとすでに電車が入線していたが、発車まですこし間があったのでさきのほうへ。乗ると優先席にインドのひとだか東南アジアだか、浅黒い肌で髭を生やした男性らが乗っていた。けっこうこっちのほうの山へ行く外国人も多い。
  • (……)
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  • 帰路は徒歩。疲労感がなかなか濃かった。きょうは日中は晴れて夜になっても気温が高かったようで、あるくうちに汗と熱がこもってワイシャツの裏の肌が湿ったし、ポケットに突っこんだ左手の手首で腕時計がその裏の肌に汗を溜めるのがわずらわしいのでそれを外して胸ポケットにおさめる、という行動を取るくらいには蒸し暑かったのだ。白猫は不在。室外機にもいない。空には雲が豊富に湧いて夜空に煙色をひろげていたが、もうだいぶ満月にちかづいた月がその裏にあってもものともせずにひかりをはなって赤とか黄のほそい光暈を微妙にまといながら白いすがたをあらわにし、そのために雲のかたちも白さも容易に見て取られた。
  • 疲労が濃かったので、帰宅後はちょっと眠ってしまった。ベッドにあおむいて、しばらく深呼吸してからパソコンを見ようとおもっていたところが、意識を失っていたのだ。三〇分くらい落ちていたようで、一一時四〇分ごろになって復活。意識をうしなうまえ、網戸にした窓のそとからエンマコオロギの声が立ちつづけているのを聞いていた。トゥルルルル、とかティリリリリ、というかんじの、ほそくてちいさな水柱がつかの間湧いて伸び上がる、というふうなかたちの音なのだが、それがあるときからもうすこしべつの鳴き方にかわり、ティリリ鳴いたあとに低部でちょっと溜まってもぞもぞする、みたいな音色になって、だからゆっくり放物線を描く水流の形象をおもったのだが、そこから汚い連想だけれどゆるい軌跡ではなたれた小便が落ちたところでジョボジョボいっているさまなんかもイメージされた。
  • 零時で食事へ。ひとりの居間でしずかに食べる。夕刊には音楽の話題。松平あかねという音楽評論家が、周防亮介というヴァイオリニストがパガニーニをとりあげたコンサートの評を書いており、クラシックを聞きつけない人間なのでどちらもまったく知らないのだけれど、このひとの文章はなかなか良いなとおもわれた。たしかいぜんもいちど、そのようにおもったおぼえがある。短い欄だけれど、聞いた音楽の具体的な動きやニュアンスやそこからかんじられるイメージをきちんと記述しており、形容詞や比喩も文学的にくさくなりすぎず、空疎にもなっていないようにおもわれた。クラシック界隈では知らないが、すくなくともポピュラー音楽のほうでは音楽のかたちや動きをきちんと記述できている評論というのは、意外なほどにすくないという印象をこちらは持っている。ただ音楽評論などたいして読んだことがないはずなので、狭い範囲の勝手なイメージともおもわれるが。
  • 夜半以降は一七日の記事をすすめて書抜きもして完成。投稿はあした。Gary Clark Jr.『Gary Clark Jr. Live』をながした。冒頭は"Catfish Blues"で、Muddy Watersの曲だけれど、あらためて聞いてみるとマジでほぼコード一発の曲で、よくこんなシンプルさでやろうとおもったな、とおもった。ブルースといいながらもブルース進行ですらない。それはGary Clark Jr.というよりもオリジナルのMuddy Watersへの賛辞で、Gary Clark Jr.はバンドでやっているから、ベースとドラムがいてエレキギターでやればコード一発だろうがいろいろやりようはある。しかしMuddy Watersがこの曲をもともとやっていたときはアコギ一本の弾き語りだったわけで、とはいえオリジナルでもコード進行がこんなに単純だったか、もうすこし展開していたかおぼえていないのだけれど、かなり地味なかんじだったことはたしかで、オリジナルも一発だったとすると、よくアコギと歌だけなのにそれでやろうとおもったな、とおもったのだった。まあそれを言えばSon Houseなんかはじぶんの手拍子だけを伴奏にして歌ったりもしているが。しかしそれはまたべつのはなしのような気もするが。
  • 637: 「いつかはオデットにおぼれなくなる日がくるであろうことを考えて、かつてスワンはしばしば恐怖をおぼえ、注意して見張っていなくてはならないという気になり、恋が逃げさりそうだと感じると、すぐにかじりついて、つなぎとめようと心にきめたものであった。しかしいまは彼の恋の衰退は、同時に、恋人でありたいという欲望の衰退につながっていた」
  • 638~639: 「スワンがふとしたはずみに、フォルシュヴィルがオデットの恋人であったという証拠を身近にひろうとき、彼はそれにたいしてなんの苦痛も感じないこと、恋はいまでは遠くにあることに気づき、永久に恋とわか(end638)れていった瞬間があらかじめ自分に告げられなかったことを残念がった。そして、彼がはじめてオデットを接吻するに先だって、いままで彼のまえに長いあいだ見せていた彼女の顔、この接吻の思出でいまからは変わって見えるであろう顔を、はっきり記憶のなかにきざみつけようと努力したように、こんども、彼に恋や嫉妬を吹きこんだオデット、彼にさまざまな苦しみをひきおこし、そしていまではもうふたたび会うこともないであろうあのオデットに、彼女がまだ存在しているあいだにせめて心のなかでなりとも最後のわかれを送ることができたらと思った」
  • 643~644: 「われわれの生活における関心事はたいそう複雑なもので、おなじ一つの状況のなかに、まだ(end643)存在しない幸福の標柱が、現に深まりつつある悲嘆のかたわらにうちこまれているのはさしてめずらしいことではない。そして、まぎれもなくその現象は、スワンにあっては、サン=トゥーヴェルト夫人の邸以外の場所にいても、やはり起こりえたであろう。あの夜、彼がどこかほかの場所にいても、あれとはちがった幸福や、あれとはちがった悲嘆に見舞われ、それがのちになってから彼に不可避なものであったと思われたことであろう。しかし、彼に不可避なものであったと思われたのは、あのとき催された出来事なのであって、あのサン=トゥーヴェルト夫人の夜会に行こうと決心した事実のなかには、何か摂理のようなものがあったことを、彼はやがて見てとるのであった、なぜなら、人生のゆたかな創意をたたえることに熱心ではあっても、一つの問題、たとえば自分のもっともねがっていたものが何であるかを見出すといった問題を、長いあいだ自分に課しつづけることができない彼の精神は、あの夜経験した苦しみと、すでにはぐくまれていたがあのときにはまだ気づかなかったたのしみとのあいだに――しかもそれら二つのものの価値を正確にはかりくらべることはなんとしてもむずかしかったが――必然的な一種の連鎖があると考えたからであった」
  • 647: 「私にとって、海の上の嵐を見たいという欲望にも増して大きな欲望はなかったが、それは美しい光景としてよりも、自然の現実の生命のあらわな瞬間としてながめたいという欲望であった、言いかえれば、私にとって何よりも美しい光景とは、私の快感に訴えようとして人工的に工夫されたのではないこと、必然的であること、変えられないことを、私が知っているもの、――つまり風景の美とか大芸術の美とかいったものでしかなかったのであった。私の好奇心をそそったもの、私が知りたくてたまらなかったものは、私自身よりももっと真実だと私に思われたものだけであり、大天才の思想とか、自然が人間の関与なしに勝手にふるまっている場合の威力とか美しさとかを、すこしでも私のために見せてくれる価値をもったものだけなのであった」
  • 651~652: 「それからは、単なる大気の変化だけで、私のなかに、そうした転調を十分ひきおこすことができるようになり、そのためには、もはや季節のめぐりを待つ必要がなかった。というのは、一つ(end651)の季節のなかに、しばしば他の季節の一日が迷いこんでいることがあるが、そうした日は、その季節に生きているような気持をわれわれにあたえ、その季節特有のよろこびをただちに喚起し、欲望させ、われわれがいま抱きつつある夢を中断してしまうものなのであって、そうした日は、幸運 [﹅2] のマーク入り日めくりカレンダーのなかに、他のページからはがれたそのマーク入りの一枚を、その順番がめぐってくるよりも早いところかおそいところかにはさみこんだようなものだ」
  • 652: 「私が大西洋の夢やイタリアの夢を生みだすときも、季節や天候の変化だけに左右される必要がなくなった。それらの夢を再生させるには、私はただその地名を発音するだけでよかった、バルベック、ヴェネチアフィレンツェ、と。その名で示された土地が私に吹きこんだ欲望は、ついにその名の内部にはいって、そこに蓄積されてしまったからであった」

2021/8/19, Thu.

 嫉妬にはさらに、〈正〉しさにかんする特徴的なあらわれがみとめられるようにおもわ(end98)れる。たんにねたむ [﹅3] ものは、ある場合には、じぶんよりすぐれたものがじぶんより多くを所有することを妬み [﹅2] 、あるいはまた、じぶんとひとしいものがより多くをもつことを、ないしは、じぶんより劣っている(とおもっている)ものがじぶんとおなじだけのものを所有することを嫉む [﹅2] 。――こうしたねたみには、ゆがめられたものであれ、一種の正義と均衡への要求が孕まれているようにおもわれる。ルサンティマンにとり憑かれた者たちがじっさい、〈配分的正義〉をさがし、〈匡正的正義〉をもとめることは十分にありうることである。羨望する者たちはたんにねたんで [﹅4] いるのではなく、かれらのおもいにおいてはある〈正〉しさを、〈ひとしさ〉としての正義を希求しているのである。
 これに反して、嫉妬するものはむしろ多く、〈ひとしさ〉にたいして嫉妬する。つまり嫉妬は、すくなくともそのはじまりにあってたいていのばあい、私にとって特別な存在である他者が、私いがいの第二の他者つまり「第三者」とも、私にたいする関係とひとしい [﹅4] 関係をとりむすんでいることを知ったとき(あるいはそれを想像したときに)、とつぜん襲いかかってくるものである。嫉妬がむしろ〈ひとしさ〉への憤激に発するものである以上、嫉妬それ自体を動機とする復讐には、たいていのばあい均衡がいちじるしく欠けている。たとえば、イアソンが恋した相手ばかりでなく、イアソンとのあいだにできた子どもまでも殺しつくして「復讐」をとげたメディアのようにである(エウリピデス『メディア』)。復讐とは正義への原始的な要求であり、〈ひとしさ〉の復旧へのこころみで(end99)ある。だが、嫉妬は元来かえって〈ひとしさ〉そのものへの憤りでもある以上、回復されるべき〈ひとしさ〉はあらかじめ失われている。嫉妬の炎で「まなじりを緑に燃え上がらせた」(シェークスピア『オセロ』)ものが復讐に走るとき、理不尽きわまりない仕打ちが古来くりかえされてきたのも、おそらくはそのゆえにである。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、98~100; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • きょうは一〇時に正式に覚醒することができてよろしい。そこからこめかみを揉んだり、膝とか踵をつかって脚をほぐしたりして一〇時四〇分に離床。天気はひさしぶりに晴れで、臥位のあたまをちょっと窓に寄せればガラスの端に白く濃縮された球である太陽がすがたをあらわし、そのひかりをひとみにとりいれながらまぶたをとじたりひらいたりしているその視界では、窓外のネットにやどったゴーヤの葉たちのすきまにそそがれている晴天の青がずいぶん濃く映り、葉の緑もあかるく透けかねないまでにやわらいでいるそのうえにほかの葉の影が黒っぽいもう一種の緑としてくみあわされてつくりかけでまだまだ未完成のまま放棄されてしまったジグソーパズルのようになっていたり、角度によっては葉のおもて面に白光が塗られてきらめいているのが頻々ととおりぬける微風によってふるふるおどらされている。
  • 瞑想もOK。二〇分すわれた。
  • 新聞からは主に国際面。アフガニスタンの報を追う。昨晩の夕刊にも出ていたが、タリバンの報道官が会見して政権樹立方針を述べたと。女性の権利などはイスラーム法の範囲でみとめるとのこと。挙国一致政権というか、アフガニスタン中央政府の役人や対立する民族の人間などもふくめた政府をつくるといったり、米国への協力者に報復はせず前政府の人間や治安部隊員にも「恩赦」をあたえるといっていちおう融和姿勢を提示しているもよう。ガニ大統領は国外へ脱出したわけだが、第一副大統領だったひとがとどまって暫定大統領に就任したと表明しているらしく、だからこのひとが前政府側の代表として交渉にあたることになるのだろう。タリバンは融和や寛容をしめして国民にのこってほしいわけだが、カブールの空港にはいまも脱出をのぞむ多数の市民が押しかけているらしく、米国がそのうち六四〇人だか乗せてカタールに送ったときのうの夕刊にはあった。今次のアフガン騒動でバイデンの支持率は急落したともいわれており、四六パーセントだったかそのくらいになって、一月の政権発足以来最低と。Wall Street Journalとか国内メディアからも、撤退を正式に決定したのはたしかに前トランプ政権だが、期限を延長することは可能だった、二〇〇一年九月一一日から二〇年の節目という象徴的な意味合いを優先してそれに間に合わせるために拙速な対応になってしまった、という批判が聞かれているらしい。さいしょバイデンは、九月一一日までに撤退を完了すると宣言し、その後さらにはやめて八月末まで、と、けっこうつよい調子で断言していた記憶があるのだが、なぜはやめたのだろう。
  • きょうもいつもと同様「読みかえし」ノートを読み、プルーストもすすめる。その後、二時台後半からストレッチをした。ストレッチはやはり毎日やったほうが良い。きょうは肉や筋を伸ばしながら息を吐くという方式をひさびさに取ってみたが、そうするとたしかにより伸びてほぐれることが再認識されたので、毎回そのやりかたでやったほうがいいかもしれない。プルーストはもう「スワンの恋」も終盤。スワンはオデットに愛されることをもはやあきらめ(サン=トゥーヴェルト夫人の夜会でヴァントゥイユのソナタをふたたび耳にしたことでそういう心境にいたったという点はいぜん読んだときには認識していなかったところだ)、彼女の過去の「悪徳」もあかるみにではじめて(スワンの訊問にたいして彼女じしんの口から明言されて)、スワンはおりにふれて回帰してくる苦しみのなかにとらわれている。スワンにとって、オデット本人のことやオデットの過去の行状とかを連想させたりおもいださせたりするような固有名詞(人名や地名)はおおきな苦しみのもととなっているのだけれど、この、あるひとつのなまえに莫大な意味が付与されてさまざまなイメージを喚起したり心情的作用をおよぼしたりするというのはこの作品にあってたぶん通底的な主要テーマのひとつで、すでに第一部「コンブレー」でも話者じしんが「ゲルマント」という名のひびきにオレンジ色のイメージを見ていたり、そこになにかきらびやかで神話的なようなイメージを付与していて、それがゆえにゲルマント公爵夫人当人を見かけたときに彼女がふつうの人間のように見えて、イメージと現実との格差に幻滅し落胆する、という展開があった。で、このあとに来る第三部「土地の名、――名 [﹅] 」というのもタイトルにしめされているようにそういうはなしだったはず。たしかここでバルベックとかヴェネツィアとかにたいするあこがれなどがかたられるのではなかったか。また、固有名詞を支えにした観念の実体化というか、たんなる記号にすぎないはずのことばがものすごく現実性をもって身体的に多大な影響をあたえるみたいなこういう現象はじぶんの体験にてらしあわせてもわりとよく理解できて、というのは、パニック障害がひどかった時期に嘔吐恐怖をもっていたのだけれど、そのころは文章を読んでいて「吐」という文字が出てくるとそれだけで不安を惹起されていたからだ。「はく」とかひらがなで書かれてあってもだめだったはず。ほんらいなら「吐く」という動詞にしても、その意味は前後のほかのことばのくみあわせ、つまり文脈でもって決まるはずで、唾を吐くとか悪口を吐くとか電車から乗客たちが吐き出されるとかそういったいろいろな文脈があるわけだけれど、それらにまったくかかわりなく、「吐」というこの一文字があるともうそれが自動的に一瞬で嘔吐の意味に直結されてしまい、その意味やイメージがじっさいの文脈においてかたられている意味やその他の連想的バリエーションをはるかに超過してあたまを占領し、恐怖を生じさせる、というかんじのことがそこでは起こっていたはず。
  • いま三時まえ。きょうは勤務後でも、入浴からもどったあと、一時くらいからいままで書き物ができて良かった。一六日はしあげて投稿、一八日すなわちきのうの分も夜道のことを書いて本文は終了、あとは一七日のことを書き、一七一八両日の書抜きだが、それはあした以降。きょうのこともいろいろ書くことはあるが、それもあした以降。
  • この夜の夕食時にテレビで母親が録った『推しの王子様』というドラマがながれていて、そのみじかいオープニングでかかった曲がそこそこ洒落ており、なんか古き良き時代のちょっとだけダサさがふくまれていながらもそれが愛嬌になるなつかしいR&B、みたいな印象をえたのだけれど(しかしR&Bなど聞きつけてきた人間ではないので、そんなR&Bがじっさいにあるのかわからないのだけれど)、これ誰の曲、とソファでタブレットをいじっている母親にきくと、ディーンじゃない、とかえるので、そうなのか、とおもった。ディーン・フジオカが作中に出演しているのだ。意外とそこそこ洒落た音楽をやるんだなとおもった。
  • 起きていったときに聞いたのだけれど、昼前くらいだか午前中に訪問者があって、そのひとが、うちの妻が来ているとおもうんですけど、と言ったのだという。そんなはずはない。車が、車種もナンバーもおなじだというので、母親が私の車ですよ、といってなかにクッションなんかがあるのを示したところ、それで男性はまちがいに気づき、謝って帰っていったらしい。妙なはなしだな、とおもった。妻が友人のところに遊びに行っているならその行動とか外出先を把握していないのがまず変な気がするし(まあそのあたり互いにあまり知らせない夫婦もふつうにあるだろうが)、仮にじっさいにここに妻がいたとして、それでどうするつもりだったのかもわからない。母親が言うには、男性はこの暑いのにジョギングだかなんだかしてきたようなよそおいだったらしい。新手の押し売りというか、そういうやり口で関係を持って悪どいことをやろうとする人間ではないかという疑いも湧き(母親もそのあたり疑って、宗教ではないかとおもった、と言っていたが)、またいっぽうで、母親の不十分な語りのせいもあろうが、精神的にやや突飛というか妄想のつよいひとなのかなともおもったのだったが、さらにおもしろいのはこのひとがその後あらためて謝罪と礼にやってきたことで、こちらが飯を食って風呂洗いにとりかかるあたりでインターフォンが鳴ったのだ。母親はすでに窓からたしかにじぶんのものとおなじ車が道をやってくるのを見つけており、あのひとが来たのかも、と漏らしたが果たしてそうだった。それで母親が応対に出て、こちらは車もそのひとのすがたも見ずに声だけを耳にしていたのだけれど、それを聞くかぎりではふつうに快活で愛想の良い若い男性という印象で、母親が、宗教かなにかかとおもっちゃって、と言うのにもそうですよね、と笑っており、妙な勘違いをしたことを謝りながら、すごく親切にしてもらったので、ありがとうございましたと言っていたようだ。それで菓子(「パイの実」と「歌舞伎揚」)をくれたのだが、このくらいのことでそこまでするのも妙と言えば妙ではある。ずいぶん丁寧というか善良な性分のひとだったようだ。
  • ほか、(……)さんも来て、空芯菜をくれた。食後にスイカを食べたが、これは今夏初のこと。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 595: 「この夜会 [スワンがヴァントゥイユの小楽節をふたたび耳にしたサン=トゥーヴェルト夫人の夜会] から、スワンは、彼にたいするオデットの以前のような感情がふたたびよみがえらないこと、幸福への彼の希望がもはや実現されないことを理解した」
  • 596: 「しかし、オデットがパリにいるあいだに、パリを離れること、またたとえ彼女がパリにいないときでも自分からパリを離れることは――習慣の力で感覚が鈍らされない新しい土地では、苦痛はやきなおされ生きかえるものだから――彼にはあまりにも残酷な計画だったので、けっして実行しないとの決心が自分にわかっているからこそ、たえずそんなことを考えることができるのだと思うのであった」
  • 598: 「ときどき彼は、朝から晩まで外出している彼女が、街のなかや道路で、ふとした事故に会って、なんの苦しみもなく死んだらと望むことがあった。そして、彼女がぶじに帰ってくると、人間のからだが、ひどく柔軟であり、強靭であって、周囲に起こるすべての危険(ひそかに事故死をねがって危険を計算してみるようになって以来、危険は数かぎりなくあることにスワンは気づくのであった)、そんな危険を、たえず食いとめ、未然にふせぐことができ、そんなふうにして、人々にたいして毎日ほとんどさしさわりなく、その虚偽の行為と快楽の追求にふけらせていることに、彼は感心するのであった」
  • 603: 「シャルリュスやレ・ロームはあれこれ欠点をもっているかもしれないが誠実な人間だ。オルサンはどうやら欠点はもっていないらしいが、誠実な人間ではない」
  • 606~607: 「もとより彼は、オデットによくいっていたように、誠実さを愛してはいた、しかしそれは愛人の日々の生活を自分にくわしく教えてくれる斡旋屋のおかみを愛するように、その誠実さを愛していたのであった。だか(end606)ら、その誠実さにたいする愛は、利害を超越したものではなく、したがって彼をさらに善良な人間にするものではなかった。彼が好んでいる真実は、オデットが彼にいってくれるでもあろう真実であり、しかも彼自身は、そんな真実をつかむためには、うその手をつかうこともはばからなかった、その一方で、オデットにたいしては、うそはおよそ人間を堕落にみちびくものだとつねづね言いつづけてきたのであった。要するに、彼がオデットとおなじくらいにうそをついたのは、彼女よりもいっそう不幸であり、彼女に劣らずエゴイストであったからだ」
  • 613~614: 「それでも、こうした不幸のすべてを彼にもたらす原因であるこのオデットは、彼にとっていとしい女でなくなったわけではなく、むしろ逆に、苦しみが増すにつれて、この女だけがもっている鎮痛剤的な、解毒剤的な価値が増すかのように、いよいよたいせつになるのであった。彼は悪化していることがにわかにわかった病気にたいするように、いっそう彼女に気をつけてやりたかった。彼女が「二度か三度」やったといったおそろしいことがふたたび起こらないようになってほしかった。そのためには、オデットから目を離してはならなかった。友達にその愛人のあやまちを知らせるのは、かえって二人を近づける結果にしかならないの(end613)は、相手の男がそんなあやまちを信じないからだ、とよくいわれるが、しかし信じたとしたら、さらに猛烈に二人を近づけるだろう! ところで、とスワンは心のなかでいうのであった、どうすればうまく彼女を保護してやれるだろう? おそらく彼には、彼女がある一人の女に近づかないようにはできたであろうが、ほかにも女は何百人といるのであった、そして彼は、ヴェルデュラン家でオデットを見かけなかった晩に、他者を占有するというどこまでも不可能なことを欲求しはじめたとき、どんな狂気が自分を襲ったかを思い知った」
  • 618~619: 「しかし彼は人生を興味あるものと見なす習慣――人生のなかに見出すことのできるめずらしい発見に感心する習慣――を深く身につけていたので、このような苦痛にはとうてい長く堪えることはできないと思うほど苦しみながらも、心のなかではこういうのであった、「人生はじつにおどろくべきものであって、思いがけない美しいものをたくわえている、悪徳にしても、要するに、案外範囲がひろいものなのであろう。ここにぼくが信頼していた一人の女がいる、いまでは(end618)至極単純で、たいそう誠実そうに見える、たとえ浮薄な女であったにしても、ともかく、本人は正常で、好みも健全に見えた、そんな女を、ぼくはほんとうらしくもない密告にもとづいて詰問する、そして彼女の告白したわずかのことが、ぼくのうたがいよりもはるかに多くのことをもらすのだ。」」
  • 621~622: 「そして彼が回想のなかのどんな点にふれようとしても、ヴェルデュラン家の連中があんなにたびたびボワの島で夕食をしたあの季節全体が、彼を痛めつけるのであった。その痛みのあまり、嫉妬による好奇心も、その好奇心を満足させるには新しい拷問の苦しみを負わなくてはならないという恐怖から、徐々にうすれていった。オデットが彼と出会う以前に送った生活の、過ぎさったすべての時期、彼がこれまで想像しようともしなかった時期は、彼が漠然(end621)と思いうかべているような抽象的な時間の連続ではなくて、やはり特別な年月からなりたち、具体的な事件に満ちていることに彼は気づくのであった。しかしその年月をくわしく知れば、それまで無色で流れていてがまんができたあの過去が、たちまち手にふれることができる不潔な肉体となり、個性的で悪魔的な相貌を呈するのではないか、と彼はおそれた。そして、彼はひきつづきそんな過去のことを考えようとはしなくなった、考えることが億劫だからではなくて、苦しむことをおそれたからであった。いつかはボワ島、レ・ローム大公夫人の名を、以前ほどはげしい痛恨なしに耳にきくことができるような結果におわることを彼は望み、痛みがほとんど鎮まったかと思われるときに、べつの形でその痛みを再生させるような新しい言葉や、場所の名や、異なった種々の事情などを、オデットをそそのかして自白させるのは、あさはかなことだと思うのであった」

2021/8/18, Wed.

 それでは、他者の〈顔〉は私にどのように呼びかけるのであろうか。〈ことば〉は普遍的なものであり、ことばによって世界をものがたるとは「贈与によって、共有と普遍性とを創設すること」(74/104)であった(三・5・B)。他者のことばは、だから、世界を占有することを私に禁じている。「顔は、所有に、私の権能に抵抗する」(215/298)。顔は、他方また、「《なんじ、殺すなかれ》(tu ne commettras pas de meurtre)という、最初のことば」(217/301)である、とレヴィナスは主張する。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、95; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • いちど九時台後半に覚めたおぼえがあるが、チャンスをつかめず一一時。こめかみやら脚やら各所を揉んで、一一時四〇分を越えて離床。きょうは瞑想をおこなえたのでよろしい。天気は曇りもしくは雨降りなのだけれど、午後から薄陽の色があらわれる晴れ間が時にはさまり、午後四時現在もわりと晴れている。
  • ハムエッグを焼いて米と食べる。新聞はアフガニスタンの続報。タリバンは四月に米軍が正式に撤退を表明して以来、政府役人や各地の部族長とかと水面下で交渉をすすめていたといい、身の安全を保証するかわりに「無血開城」を飲ませて取ったという地域もけっこうあったらしい。とにかくアフガニスタン政府が信頼と正当性をえられていなかったということが大きかったのだろう。治安部隊員も複数の民族から成っていて、国への忠誠が薄かったとか。米国が各種支援や投資をおこなったにもかかわらずうまくいかなかった、さまざまな面で失敗した、責務を果たさなかった、みたいなことをバイデンは演説で述べてガニ大統領を批判したらしく、米国としてはむろんそういうふうに、われわれはやることをやったのだと言いたいだろう。じっさい、ガニ大統領はなんというか統治に意欲がないというか、やるべきことをやらないみたいなようすも見られていたらしいし、今回も駐留米軍トップが戦力の集中を助言したにもかかわらず反対に拡散させて、その結果タリバンの速攻をゆるしてしまったわけで、国外逃亡をしたこともあって(しかもそのさいに多額の現金をもちだしたもよう、とも伝えられている)元側近のひとりは「売国奴」などと呼んでいるらしいが、そういうもろもろを読むかぎりではたしかにガニ大統領の行動がむしろ積極的にタリバンを益したようにすら見えてくる。
  • ほか、政池明という原子物理学方面の京大名誉教授が戦時の証言をしている記事。戦時中、日本では理化学研究所が「ニ号計画」という原爆開発プロジェクトをすすめていたのだが、そのいっぽうで京大でも、荒勝文策というひとを中心に「F計画」というものが進行しており、その資料や荒勝文策のノートは占領時に進駐軍によって没収されてしまったところ、このひとは米国の国会図書館などからそれを発見して当時の研究状況などを調べたらしい。荒勝文策はもともと戦争中に原爆を完成させるのは無理だと言っていたらしく、基礎研究としてそれをやったり、また優秀な若い学者を出征させないために海軍からの研究要求を飲んだという事情があったようだが、それでも戦後に、ああいう研究はやらないほうが良かった、みたいなことを言っていたとか。
  • 「読みかえし」とプルースト。四時ごろに二食目を取りにいったとき、米をあたらしく磨いでおいた。
  • 意識はさいしょのうちやや重たるいようだったが、書見とともに脚をほぐしたり、ストレッチをしたことで明晰に。
  • 作: 「夢をうしなった反復者の朝は星に射られて不老を得たい」「シーツさえ浮かべるほどの涙にて君を待ち侘ぶ戦後千年」
  • 出勤は五時過ぎ。晴れてきたので林から湧くセミの合唱が厚くなっていた。空はふりむいたさき、市街のある東南方面をのぞいてすっきりとした水色をたたえており、雲が追いやられたそのあとに化石のような月が淡く浮かんでいる。路上にはこまかな葉や植物の屑が無数に散らばって、アスファルトとともに濡れて色を鈍くしながらほぼ同化している。公営住宅まえまで来ると雨後でやわらかな湿りをはらみながらもさわやかな風がながれてここちよく、十字路沿いの木々の列はそのてっぺんに横薙ぎの陽がかかってあかるんでいる。坂にはいると太腿の筋肉のうごきをたしかめるようにしながらゆっくりのぼっていった。やはり太腿をうごかすと血がめぐってからだがあたたまるようで、よほどゆっくり踏んでいてもじきにやや熱がこもり、マスクの裏の息もすこし苦しくなる。出口付近まで来て片側が木立でなくなれば、右手の斜面へは夕陽のオレンジ色が悠々ととおり、坂上の一軒をつつみながらその窓にひかりを凝縮させるとともに、斜面上にたちならんだ竹の、見上げる高さの先端から雑然と草にかこまれた根元までこちらもまとめてつつみこんでいた。
  • 五時の太陽は北寄りの西空にあらわに浮かんでいるが駅の階段通路をのぼるときにはちょうど薄雲にひっかかっていて、漬けられるというほどの暑さは避けられた。ホームにはいるとしかし、柱のたすけでひかりに当たらない日陰をさぐって立ち、短時電車を待つ。沿道から一段下がってひろがっている線路区画の端、むかいの壁には草が群れて茂っており、そこは北側だからひかりは当たらず緑色もややかげっているのだけれど、そのかげりを背景にして線路のうえの宙には羽虫が琥珀色めいた点となってふらふら飛び交い、沿道に立った柱にまつわる蜘蛛の糸も水中の蛸のごとく大気のながれにゆらぎながらその身のすべて一挙にではなく一瞬ごとにことなる部分に微光をやどしてすがたをあらわに浮かべている。そのかなた、太陽のそばにはしぼり伸ばされたようにひらたく長い雲がふたつ引かれて、下腹を白くつやめかせていた。
  • 深夜二時過ぎ。一五日の日記にプルーストの書抜きをしながらBuddy Rich『The Roar of '74』をながしていて、#5 "Time Check"でベースがずいぶん活きが良かったので、このアルバムのベースだれだったかなとおもってWikipediaをみると、Tony Levinで、Tony LevinってあのTony Levinかとおもったらそうで、こんなしごとしてたんかとおどろいた。ぜんぜん知らなかったが、もともとSteve GaddといっしょにGap Mangione(Chuck Mangioneのきょうだいらしい)のレコーディングからキャリアをはじめたらしい。それで初期はけっこうそういうフュージョンとかファンキー系とかのしごともしていたようだ。Discogsを見るに、Gary McFarland、Brother Jack McDuff、Gary Burton Quartet(『Live In Tokyo』)、Charlie Marianoなどのなまえが見られる。
  • 帰路は徒歩。職場を出ると、すぐに月があらわに浮いているのが目にはいる。夜空は晴れ渡って暗い青味があきらかであり、月だけでなく星もすがたをあらわし散っており、裏道から家々と線路のむこうの森のほうを見たときには空と梢の境も明白で、壁かおおきくもりあがりながら凍りついた波のように鎮座している木々列の、葉叢の襞の明暗もけっこう見てとれるくらいだった。夜道はもはや秋である。虫たちの音響にしても大気の肌触りにしてもそうだ。いつもの家のまえまで来て白猫はいるかと上体をかがめてみたものの、車のしたから出てくるものはない。それでさいきん不在だなとすすめばきょうはべつの一軒の隣家とのほそい隙間で壁に取りつけられた室外機のうえにちょこりと乗って、手足もからだに吸収されたような格好でしずかにたたずんでいた。いぜんもいちどだけここにいるのを見かけたことがある。ちかづいて手を伸ばしてみるものの、ねむいようすであまり反応をしめさない。道の端からだとぎりぎり手がとどかないくらいで、触れるにはその家をかこむごく低いブロックの段に乗らなければならないが、そこまでするのもなんだし、ねむいようだから放っておいてあげようときょうはあきらめて去った。
  • 月は半月をすこし越えてふくらんだほどで、割れた恐竜の卵の殻が埋めこまれたようでもあり、巨大な親指がその先だけ夜空の開口部から顔を出しているようでもあり、街道と裏の交差部まで来るとあたりの街灯のあいだにのぞくからとおくの道の同種の電灯がひとつ見えているかのようでもあるが、いずれにしても黄の色味は街灯のそれよりもつよく、楕円のなかはなめらかである。ガードレールのむこうの下り斜面の底で、高く伸び上がる杉の木々にかこまれた沢がおもったよりも水音を増していた。道端にはユリのたぐいが生えていてここ以外にもいくつか見かけたが、どれも例外なくことごとくほそながい花部をくたりと曲げて垂れ下げており、死がもうすぐまぢかまでせまっていることを知った抑鬱のなかでしずかな苦悶の顔をかくしつつうなだれながら斬首を待っている囚人のようだった。木の間の下り坂にはいればジージーいっている夜蟬の気配はもうひとつきり、あとはコオロギの種なのか存在じたいがもっと大気にちかいかのように淡い声を回転させる虫が大半で夜気は秋めき、ひだりの木立の暗がりの先から川の音が、ひとつ下の道を越えてさらに斜面をくだればそこにあるからとおくないとはいえそれにしてもずいぶんそばでながれているかのようにうねりひびいてもちあがってくる。坂が終わるあたりでは視界がひらけて近所の家々のならびが見渡せるが、あいだに暗闇を満たしてしずまっている家並みのなかにともった街灯の白円はなにかを表示する暗号のようであり、暗号といってしかしそれがつたえるのはかくされた意味ではなくて道であって、つまり家を沈めた黒い海のなかに浮かぶ灯火がすきまのひろすぎる破線のようにして地上のそれとはことなり夜のあいだだけあらわれるもうひとつの道をつなぎつくっているように見えるのだけれど、一歩踏んですすむごとに街灯の位置関係は変化するから、その道もかたちや向きや角度をあらたにして絶えずむすびつきなおしては変成しつづける魔法の道のように映るのだった。
  • 朝刊の文化面に、山根貞男が編集したという『日本映画作品大事典』なる本が紹介されていた。三省堂。収録されている監督は一三〇〇人、作品数でいえば二万弱というはなしで、二二年だかかかったというが、山根貞男はもう八二歳くらいなのにまったくすごいしごとをするものだ。一九〇八年の作品から二〇一八年のものまで収録されていて、一〇〇年いじょうの日本映画の財産を見渡せるものになっているわけだ。執筆者は五〇人以上。完成までこれだけかかったのにいちばんの困難だったのが、文書記録のまちがいや異同を調査してデータを正確にすることだったらしく、ある記録とべつの記録で題名とか出演者とかがちがっていたり、記録とじっさいの作品でタイトルがちがっていたりすることがざらで、映画が軟体生物のようにとらえどころのないものだということがこういう企画をいざ実行するにあたって浮き彫りになってよくわかったというようなことを山根は述べていた。こういう事典のたぐいだから、一〇万はいかないまでも五万円くらいはするのだろうか。
  • 581~582:

 (……)そしてこのことがスワンにわかって、彼が、「これはヴァ(end581)ントゥイユのソナタの小楽節だ、きくまい!」と心につぶやく以前に、早くも、オデットが彼に夢中になっていたころの思出、この日まで彼の存在の深いところに目に見えない形でうまく彼がおしとどめていたあのすべての思出がよみがえり、それらの思出は、恋の時期をかがやかせていたあの光がまた突然さしてきたのだと思いこみ、その光にだまされて目をさましながら、はばたきして舞いあがり、現在の彼の不幸をあわれみもしないで、幸福の歌の忘れられたルフランを狂おしげに彼の耳にひびかせるのであった。
 「ぼくが幸福だったとき」、「ぼくが愛されていたとき」といった抽象的な言葉を、彼はこれまでしばしば口にして、それで大した苦痛を感じなかったのは、彼の理知が、過去から何も保存していないものをいわゆる過去の精髄だと称して後生大事に残していたからなのだが、そうした抽象的な言葉ではなくて、いま彼が見出したのは、あの失われた幸福の、特別な、蒸発しやすいエッセンスを、ことごとく永久に固定しているものなのであった(……)

  • 583: 「ところがいまは、どんよりしたハレーションのようにオデットの魅力をひろげているこのおそろしい恐怖、彼女が何をしたかをいかなる場合にも知らず、いたるところで、つねに、彼女を占有するわけには行かないというこのかぎりない苦悩にくらべては、オデットの魅力はなんという微々たるものであろう!」
  • 586~587: 「なるほど、小(end586)楽節はまた、たびたび二人の恋のはかなさを彼に警告した。そしてあのころ、小楽節のほほえみのなかに、熱中からさめた、澄みきった、その抑揚のなかに、彼は苦しみを読みとってさえいた、しかしいまはそのなかに彼はむしろ陽気に近いあきらめの美しさを見出すのであった。かつて小楽節は彼に悲嘆を語りかけ、彼自身はその悲嘆にとらえられずに、小楽節がほほえみながらその悲嘆を曲折に富むすみやかな音の流れのなかにさそってゆくのを、ただながめていただけなのだが、いまではその悲嘆は彼自身のものとなり、片時もそれから解放される望はなくなった、しかし小楽節は、その悲嘆について、かつて彼の幸福について告げたように、彼にこう告げているように思われるのだ、「それがなんだ、そんなものはすべてなんでもないのだ。」 そしてスワンの思考は、はじめて、あわれみと愛情にあふれながら、あのヴァントゥイユのほうへ、スワンとおなじように、ひどく苦しんだにちがいなかったあの未知の崇高な兄弟のほうへと向けられた。ヴァントゥイユの生涯はどんなものであったのか? どんな苦痛の底から、神のようなあの力、創造のかぎりないあの力強さをくみとったのか? スワンに彼の苦しみの空しさを語ってくれたのは小楽節なのであって、このとき、彼は心のなごやかさをとりもどし、たったいままで堪えられないと思われたまわりの人たちの分別――彼の恋をつまらないたわごとだと考えていた無関心な連中の顔にありありと読めるような気がしたあの分別――にも快さを見出すのであった」
  • 588: 「小楽節がそうした魅力を織りこんだ形式は、もとより理屈では解くことのできないものであった。しかしこの一年あまり、彼の魂の数々の富を彼自身に啓示しながら、たとえしばらくのあいだでも、音楽への愛が彼のなかに生まれてからというもの、スワンは音楽の種々のモチーフを、べつの世界、べつの秩序に属する、真の思想 [イデ] と呼ばれるべきものと見なしていた、それは闇で被われた、未知の思想であり、理知がはいりこめない思想であったが、それでいてやはりその思想の一つ一つがまったく明瞭に区別され、価値も意味もそれぞれにひとしくない思想なのであった」
  • 589: 「また、音楽家にひらかれている領域は、七つの音の貧弱な鍵盤ではなくて、際限のない、まだほとんど全体にわたって知られていない鍵盤であり、そこにあっては、鍵盤を構成している愛情、情熱、勇気、平静の幾百万のキーのうちのいくつかが、わずかにあちこちに、未踏の地の濃い闇によってたがいにへだてられ、それらのおのおのは、ちょうど一つの宇宙が他の宇宙と異なるように、他のキーと異なっているのであって、それらは、数人の大芸術家によって発見されたので、その人たちこそ、彼らの見出したテーマと交感しあうものをわれわれのなかに呼びさましながら、どんな富が、どんな変化が、われわれの空虚と見なし虚無と見なす魂のあのはいりこめない絶望的な広大な闇のなかに、知られずにかくされているかをわれわれのために見せてくれるのだ、ということを彼は知るのであった。ヴァントゥイユはそうした音楽家の一人であったのだ」

2021/8/17, Tue.

 これにたいして、顔はその裸形にあって、たしかになにかをかたっている。しかも、つねに [﹅3] かたっている。指さきそのものには指示する意味が宿ることはないが、「まなざしの身ぶり [﹅8] 」(ビューラー [註76] )は、他者の注視している対象がなんであるかを示すことができる。無表情な顔も、無関心を、あるいは不機嫌をかたる。なにものもかたりかけない顔とはすでに死に絶えた顔であろう。生きて目のまえにいる他者の「顔は生きた現前であり、顔とは表出〔表情〕なのである」(61/86)。デスマスクですらときに、穏やかさや苦悶をあらわしている。つねになにごとか [﹅5] をかたりつづける顔は、それに対面する〈私〉にたいしてなにものか [﹅5] を訴えつづけている。「〈私〉が問いただされること、おなじことだが、顔における〈他者〉の〈あらわれ〉を、われわれはことばと呼ぶ」(185/260)。
 他者の顔とは「〈他者〉が有する絶対的な剰余」(le surplus absolu de l'Autre)(98/139)である。他者は、顔において端的に〈他なるもの〉であることをあらわす。つまり、あるものとして〈あらわれ〉ることで、同時にその〈あらわれ〉を超え、そのあらわれとは〈他なるもの〉となってゆく。他者は顔の裸形において現前し、かつ現前しない。それは、(end93)世界がその裸形においてはみずからと密着しつづけ、みずからとのいかなるずれ [﹅2] 、ことなり [﹅4] をも示さず、したがって一滴の意味も分泌しないのと対照的な、裸形の〈顔〉のありようであるといわなければならない。
 意味とは存在の余剰、あるいはずれ [﹅2] であった。〈もの〉にはそれ自体としては剰余がない。あるいはそれ自身として余計なもの [﹅5] は存在しない。裸形の世界には意味が宿っていない。裸形の身体の全体は意味が貧困であり、指さきも一義的な意味をもってはいない。ただ、〈顔〉だけがそれ自体として、それ自身の剰余であり、そのものとして意味している [﹅6] 。顔のみがほんらい裸形でありえ、コンテクストなく意味しうる。それは、顔が不断にすがたを変え、〈かたち〉を解体してゆくからである。顔は〈かたち〉を超えたところに〈あらわれ〉る。顔はたえず〈かたち〉を変え、一瞬まえの顔のかたちとのずれ [﹅2] とことなり [﹅4] をつくりだす。そのぶれ [﹅2] が、あるいは直前の〈かたち〉からの遅延 [﹅2] と余剰が意味である。「〈他〉として現前するために、〈同〉に適合的なかたちを解体するこのしかたが、意味すること、あるいは意味をもつことなのである」(61/86)。

 (註76): K. Bühler, Ausdruckstheorie, 2. Aufl., Fischer 1968, S. 205.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、93~94; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時四〇分の離床。瞑想サボる。朝刊はタリバンがカブールを陥落させた件がとうぜんおおい。一面と三面を読んだ。食事は煮込み素麺で、帰室後は「読みかえし」や書見。三時で素麺をまた食うため取りにいき、食ってから前日のことを記述。今日も空は白く、一時、霧雨がけむっていた。
  • 作: 「はたらけど楽にはならぬ俗世には神はいません博打以外の」「ともだちを殺して喰った戦場に老いて帰った真夏の無音」「氷漬けの海の底には時がなく魚の息とは死者のことである」
  • きょうも勤務後の夜道はあるいた。大したものではないが雨が降っていて、これだといちおう差さないと、というかんじだったので頭上をまもってあるく。きょうはあまり拘束のない気分ではなく、かんがえごとなどしている時間もおおかったよう。それでも風がながれればやはり気持ち良い。帰宅後のからだはだいぶ疲労の感が濃かった。わりとはやく、一〇時半ごろに帰れたのだが。食事と入浴後の深夜は書き物できず、一五日の記事にすこし読書メモを抜いただけで終わってしまう。
  • その書き写しのさいにAmazon Musicで『The Flip Phillips Buddy Rich Trio』をながしていたのだけれど、なかなかよいバップで、録音が五〇年くらいのようだが、当時の良心的なジャズというかんじ。Buddy Richは一九一七年生まれのようなので当時三三歳くらいで、もう貫禄があるというか、たびたびやるこまかな連打の粒立ちは抜群できれいだし、非常にスピーディーな感覚をあたえられる。豪快さというか、キックをバシバシ踏んだりドカドカやったりするところはArt Blakeyを連想させないでもないが(Blakeyは一九一九年生まれらしい)、Buddy Richのほうがもっと軽い速さ、フットワークの軽さやすばやい切り替えによる音楽性があって、Blakeyは重めの印象。このアルバムはWikipediaの情報がじっさいとちがうらしく、パーソネルがあまりはっきりしないのだが、トリオでやっているときはHank Jonesがピアノらしく、四人いるときはそこにRay Brownがくわわっているもよう(リーダーのFlip Phillipsというのはテナー)。ピアノを聞いても、これHank Jonesなの? という印象で、あまりそんなかんじがしないのだけれど、彼のプレイをさだかに聞き分けられるほど聞いているわけでないし、一九五〇年だとまた違うのかもしれない。
  • 勤務(……)。
  • (……)
  • (……)
  • 519~520: 「しかし、彼の恋はじつは肉体的な欲望の範囲を越えたひろがりをもっていたのであった。そこにあってはオデットの身柄さえ、大した場所を占めてはいなかった。彼の目が机の上のオデットの写真に出会うとき、または彼女が訪ねてくるとき、彼は肉体としての顔、または印画紙の顔と、彼のなかに住みつづけている苦しい不断の混乱とを、同一のものとは思いかねるのであった。彼はほとんどおどろきに似た気持でひとりつぶやくのだ、「これが彼女なのだ」、あたかも突然目のまえに、自分の病気の一つを、(end519)とりだして見せつけられ、それが自分の苦しんでいる病気とは似もつかないものだと知ったときのように。「彼女」、それは一体何か、と彼は自分にたずねようと試みた、というのも、ある人間の現実がとらえられずに逃げさってゆくという懸念のなかで、その人間の神秘にたいするわれわれの疑問をさらに深めさせるのは、恋が死に似ているからであって、つねにくりかえしいわれるように、ほかの何かに漠然と似ているからではないのだ」
  • 527: 「しかし、真相を知るまでは、耳にするのが何よりもおそろしく、何よりも信じられないと思っていたいろんなことも、一度知ってしまうと、永久に彼の悲しみのなかに合体し、彼はそれを承認するようになり、そんなことがなかったとはもはや考えられなくなるのであった。そうした事実は、その一つ一つが、彼の愛人についてつくりあげている観念に消すことのできない修正のあとを残すことにしかならなかったのである」
  • 527: 「しかし、いままでバーデンとかニースとかの国際色の濃い生活に関することほどつまらないものはないように思われた彼が、そうした歓楽の町でオデットがあそび暮らしたらしいことを知るにつけ、それが、彼のおかげでやがてその必要が満たされるあの金銭の不如意のためであったのか、または、これからも出てくる可能性のある気まぐれを満足させるためであったのか、それを突きとめるあてもないとわかったいまは、無力な、盲目同然な、目まいを起こさせるばかりの苦悩におそわれ、底なしの深淵にかがみこむのであった(……)」
  • 528: 「そして、もしも当時のコート・ダジュールの新聞記事が、オデットの微笑やまなざし――といっても非常にまじめな純真なまなざし――のなかにあった何かを理解するのに役立ったとしたら、ボッティチェルリの『ラ・プリマヴェラ』や、『ラ・ベルラ・ヴァンナ』や、『ウェヌスの誕生』などの絵の真髄のなかにさらに深くわけいる努力をしようとして、十五世紀のフィレンツェの現存する記録をしらべる美学者以上の情熱をもって、スワンはその新聞記事の些細な事実の再構築に着手したことであろう」
  • 529~530: 「やがて彼女は両手で髪をかきあげると、額も顔も、大きくなったかのように見える、そのとき突如として素直な一種の人間的感情と、休息や内省に身をまかせるときに誰の心にもわくあの善良な気持とが、彼女の目のなかから黄色い光線のようにほとばしり出るのであった。するとたちまち彼女の顔はあかるくなって、雲に被われて暗くかげっていた野原が、夕日の沈むときに急に雲が流れて一変するときのように見えた。そんなとき、オデットのなかでいとなまれている生活や、さらには彼女がうっとりと見つめているかのような未来さえも、スワンは彼女とともにたのしむことができたであろう、そうした生活には、どんないとわしい不安も滓を残していたとは思われなかった。どんなにまれであったにせよ、そうした瞬間は無益ではなかった。回想によってスワンはそれらの時の一つ一つをむすびつけ、それぞれのあいだにある間隔を消しさり、まるで金を鋳型に流しこむように、親切で物静かな一人のオデ(end529)ットをつくりだすのであった」
  • 530~531: 「ときどき、彼女のきげんをそこねて(end530)もいいから、彼女がどこへ行ったかをしらべてみようと決心したり、それを教えてくれるかもしれないと思って、フォルシュヴィルと同盟することも考えた。もっとも彼女が誰といっしょに宵を過ごすかがわかっているときには、彼女と出かけたその男を間接にでも知っていて、簡単に何かの情報をくれる誰かが友達のあいだに見つからぬことはほとんどなかった。そして、ある友人にしかじかの点をしらべてほしいと手紙でたのんでやると、彼は自分で答のえられない問題は棚あげにして、調査の苦労を他人にまかせたという安堵でほっとするのであった」
  • 533: 「彼女がどこへ行ったかわからないときでも、そのとき彼の感じた不安を鎮める特効薬は、オデットが帰って目のまえにいること、つまり自分が彼女のそばにいる快さだけでしかなかったので(この種の特効薬も、長くつづけているあいだについに病気を慢性にするのだが、すくなくとも一時は苦痛をやわらげるのであった)、オデットがゆるしてさえくれるなら、留守中も彼女のもとにじっととどまって、帰ってくるまで待っていれば、それで彼には十分だったであろう。魔法と呪いにかけられたまったくべつの時間だと思われたそうしたつらい待ち時間は、やがて彼女の帰宅の時間の鎮静のなかに溶けこんでしまったことであろう」
  • 536~537: 「ああ! 彼はどんなにその女友達を知りたかったことであろう! その女はイッポドロームによく行き、彼をオデットといっしょにそこへ連れていってくれるかもしれないのだ。オデットといつも会っている女のためなら、どんなに彼は自分の交際をかなぐりすてたことであろう! たとえその女がマニキュア娘であろうと、ショップガールであろうとかまわな(end536)いのだ。そうした女たちのためなら、女王にたいするよりも多くの犠牲をはらったであろう。そうした女たちこそ、彼女らにふくまれているオデットの生活のなかから、彼の苦しみにたいする唯一の鎮痛剤をさしだしてくれるのではなかったか? オデットが、身のためか、それとも掛値なしの単純な気持からか、とにかく交際をつづけているそうしたささやかな暮らしの女たちの誰かのところへ、彼自身が日を送りに行くのだったら、どんなによろこんで彼は駆けつけたことであろう! うらやましいと彼が思ってもオデットが連れていってくれない、そうしたむさくるしい建物の六階に、どんなに進んで彼は永久の住まいを選んだことであろう!」
  • 540: 「「すこしでもぼくを愛しているのでなければ」と彼は考えるのであった、「このぼくを変えたいとねがうはずはない。ぼくを変えるためには、彼女はもっとたびたびぼくと会わなくてはならないだろう。」 そのようにして彼は、彼女が浴びせた非難のなかに、利害につながる証拠、おそらくは愛の証拠らしいものを見出すのであった、また、じつのところ、いまでは彼女はそうした証拠をほとんど示さないので、彼女にあれこれととがめだてをされると、それを利害につながる証拠、愛の証拠と考えないわけには行かなかった」
  • 541~542:

 (……)オデットが彼に関してつめたくなったのは日を重ねてだんだんそうなっていたので、はじめのころの彼女を現在の彼女にくらべるよりほかには、すでにできあがってしまった変化の深さをはかることが彼にはできなかったであろう。ところでそうした変化は、彼のなかに深くひそんだ傷であって、夜となくひるとなく彼に痛みをあたえるので、彼は思考がすこしその傷に近づきすぎたと感じると、苦しみすぎることをおそれて、すばやくそれをべつの方向にそらすのであった。なるほど彼は抽象的な言いかたでこう自分に(end541)いっていた、「オデットがもっとぼくを愛していた時期もあった」と、しかしそんな時期をふたたび見ることはけっしてないのであった。彼の書斎には一つの簞笥があって、彼はいつもそれを見ないように心がけ、出入りのときにはそれを避けるためにまわり道をしていたが、そのなかには、はじめて彼女をその家のまえまで送りとどけた晩に彼女がくれた菊の花、そののち彼女がくれた手紙の類がしまってあり、手紙の文句は、「どうしてあなたのお心もこれといっしょにお忘れにはならなかったのでしょうね、お心ならばこうしておかえしすることはなかったでしょうに」とか、「おひるでも夜でも、時間はかまいませんわ、私にご用がございましたら、ひとことお知らせください、そしてご自由に私を使ってくださいませ」とかであって、そうした簞笥を書斎のなかで避けていたように、彼自身のなかにも、彼がけっして自分の精神を近づかせない一つの場所があり、やむをえない場合には、長々しい推理のまわり道をたどることによって、精神がそのまえを通らなくてもすむようにしていたが、そこには幸福な日々の思出が生きていたのであった。

2021/8/16, Mon.

 「意味とは他者の顔のことである」(227/313)と、レヴィナスはいう。ことばとはまず〈顔〉なのである。あるいは、「ことば(parole)は、見つめている私を見つめる顔のうちですでに萌している」(100/142)。「顔はかたる。顔の〈あらわれ〉はすでに言説である」(61/86)。――なぜだろうか。なぜ〈顔〉なのだろうか。レヴィナスのテクストのうちに(end90)明確で一義的な回答は存在しない。これまでのところ、立ちいった解釈もまた存在しない。すこし考えてみよう。
 たんに立方体であるもの [﹅2] がマッチ箱という意味をもち、それ自体としては鉄と木ぎれの連結にすぎないもの [﹅2] が、そのもの以上の [﹅3] あるものとしてはハンマーである。つまり、〈もの〉がたんにそのもの以上のあるもの [﹅4] であることが、〈もの〉が意味をもつ [﹅5] ということであり、もの以上の〈あるもの〉がその〈もの〉の意味 [﹅2] である。そうであるとするならば、意味とは一般に、存在者が存在することの余剰であり、ある〈もの〉が意味をもつとは、存在者そのものからのずれ [﹅2] を前提することがらではないだろうか。
 だからまた、〈もの〉の「裸形」といわれることがらが、つねに両義的となるのではないか。〈もの〉は一方では、装飾を欠き剝き出しの機能だけをあらわに [﹅4] しているとき裸形であるといわれる。たとえば「裸の壁(les murs nus)、寒々しい風景(les paysages nus)」といわれる場合がそうである。〈もの〉は他方、機能が欠け、あるいは喪われて [﹅4] いるとき、裸形のものである。壊れて道端にうちすてられた機械が寒々とした [﹅5] すがたをさらし、本体から取りはずされた部品が裸である [﹅4] ようにである。後者の意味でのもの [﹅2] の裸形とは「その目的にたいする存在の余剰」、つまりもはや使い目のない余りもの [﹅4] であるということにほかならない(71/100 f.)。
 機能を露出していることも、それを欠如させていることも、しかしいうまでもなく、(end91)〈私〉の目からみて、あるいは〈ひと〉の視点からして、ということであるにすぎない。〈もの〉の存在には、ほんらいどのような〈余剰〉もありえない。およそ、世界には余計なもの [﹅5] などいっさい存在しないのではないだろうか。逆にいえば、ほんとうに裸のもの [﹅4] 、世界の裸形 [﹅5] は、それ自体としてはいかなる意味ももってはいないのではないか。裸形の世界、すべての意味を剝落させたあるがままの世界に、たんに人間が耐えきれないだけのことなのではないだろうか [註73] 。だからこそ、たとえば難破したアリスティッポスは、ひとけのない荒涼とした海岸になお人間の足跡をもとめ、意味をもとめたのであるとおもわれる(vestigium hominis video)(カントの第三批判・第六四節による [註74] )。それは、「身体の両義性が意識 [﹅2] である」(178/249)ことの、つまり、意識とは身体という〈もの〉からのずれ [﹅2] であり、「身体の身体性の繰り延べ」(179/250)であることの、さけがたい帰結である。意識とはいわば、そのつど裸形の世界のなかで意味を探究せざるをえない〈反省的判断力〉なのである。

 (註73): むろん、ひとは裸形の世界を見ることも、それに触れることもできない。私が目にするもの、手で触れるものは、すべて意味に浸されている。山肌はごつごつとした手ざわりを見せ [﹅7] 、樹々が葉をすりあわせる音はざわめき [﹅4] に聞こえてしまう。とはいえ、たとえば、あるいは大地震、あるいは大火災の翌朝、人間のいとなみのほとんどが引き裂かれたあとに、無残なすがたを曝しているかにみえる世界が、そのものとしてはすこしも「無残」ではありえないこと、世界の表面がほんのちょっとかたちをかえ、世界がわずかに「もとにもどった」にすぎないことに、ひとはときとして気づいてしまうようにおもわれる。そうした光景に遭遇した私にはどれほど切実な経験であろうと、世界は私とはかかわりなく、いつでもみずからとぴったり重なりあって存在しつづけている。世界の裸形には意味がないとは、たんにそのことのいいかえであるにすぎない。
 (註74): I. Kant, Gesammelte Schriften Bd. 5, Akademie-Ausgabe, S. 370.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、90~92; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • きのうは全体的に気分がかるくてわりと飄々としていたのだけれど、きょうは起床すぐあとから重たるいようで、倦怠の色が濃い。それはやっぱりきょうからまた毎日労働にでむかなければならないということが大きいのだろう。とにかく面倒臭い。
  • 天気はきょうも曇りもしくは雨。空はあまねく白い。いま三時半すぎで、先ほど出勤前にとひきわり納豆で米を食ったが、そのとき台所の勝手口があけはなされていて(父親が椅子をはこんできてそれにつきながら調理台のうえに乗せた電子レンジをゴシゴシ拭き掃除していた)、空気は白いものの雨は降っておらず、湧き上がるセミの声がけっこう盛んだった。このときもながれいってくるものはなかったし、食事中に南窓から山を見たかんじでも、風はなさそう。
  • きょうも「読みかえし」ノートとプルースト。倦怠がつよいためにかえってちからが抜けるというか、気張るかんじにならずにゆるくできていてそれはいいのだけれど、あまりほがらかな気分ではない。とにかくすべてが面倒臭いし、大げさにいえばどこかに逃げたい。プルーストはスワンがヴェルデュラン家から放逐されてひとつのフェイズの終わりが決定的となり、オデットともそう頻繁にあえなくなるので、見えない彼女の生活を想像して嫉妬がつのり、あたまのなかのイメージだけが膨張的に増大していって、あるときはオデットを下劣でどうしようもない女だとおもってにくむが、べつのあるときにはじぶんにたいする彼女のやさしいふるまいをおもいだして感謝の念がよみがえり、善良な女だとかんじいる、というふうにスワンが情緒不安定になってきている。もうすこし行くときのう「読みかえし」ノートで読んだ鈴木道彦訳のなかにあったように、こういう感情のはげしい揺動にがんじがらめにされて消耗し疲弊したスワンがじぶんかオデットの死を望むようになるはず。
  • 新聞はきょうは朝刊が休みなのできのうのものをまたひらいた。国際面に、韓国が北朝鮮工作員とつながりがあった国内スパイ四人を摘発したとの報。元労働団体の長とかで、いまは自主統一なんとか同志会みたいななまえの組織の長をやっているひとやそのまわりの人間らしい。韓国の国情院はもともとけっこうまえからこのひとたちをマークしていたらしく、北朝鮮工作員接触しているところもつかんでおり、家宅捜索でやりとりなどを記録したデータが出てきたのでまちがいないと。市民の反米感情をあおれとか、反日世論を利用して北朝鮮に有利な状況をつくれとか指令を受けていたらしい。韓国ではつい先ごろ南北連絡通話みたいな、わすれたが、南北融和のための定期連絡的なものが復活したばかりだったのに、このタイミングで摘発がなされたために南北融和・統一を目指す文在寅政権としては完全に水を差されたかっこうになったと。国情院のスパイにたいする捜査権限みたいなものがそのうち警察のほうに移る予定になっているらしく、ここでスパイをあげておいて一定の影響力を維持しようという思惑が国情院側にはあったのではないか、という観測も記されていた。
  • 帰宅後やすんでから零時をまわって飯を取ったが、夕刊を見るに一面でアフガニスタン首都カブール陥落、政権崩壊とおおきくつたえられていたので、マジかよ、すごいことになったなとおもった。時間の問題という印象はあったものの、こんなにはやいとはおもわなかった。タリバンの戦闘員が大統領府に侵攻してすみやかに制圧したらしく、ガニ大統領の執務室を占拠したといい、その執務室なのか、府内の一室に銃をたずさえた髭面の戦闘員たちがあつまって我が物顔に座ったり立ったりいるなかで、役人なのかなんなのかひとりだけワイシャツにスーツの格好の男性がなんともいえないような表情で立ってたたずんでいる写真が載せられてあった。アル・ジャジーラが制圧のようすを中継したらしい。ガニ大統領は飛行機で国外逃亡。行き先はウズベキスタンだとかタジキスタンだとか。カブールにタリバンがはいったあと戦闘はほとんど起こらなかったようすだといい、治安部隊が展開していたのだけれど彼らはほぼ投降するようなかんじでタリバンを止めず、事実上の「無血開城」になったとのことだった。この翌日の朝刊で読んだ情報もここにもう付加しておくと、二五歳のある治安部隊員は上官から、もうタリバンが勝つから戦っても無駄だ、抵抗するなという指示をあたえられて、その言にしたがい、銃などを黙って手渡したとのこと。そのひとは、みんな戦おうとしないのにじぶんだけ戦っても意味がない、と言っていた。アフガニスタン政府の治安部隊は三〇万人おり、タリバン側は一〇万人規模なのだけれど、じっさいにはそういうかんじで投降したりたたかわずに敗走したり積極的にタリバンを支持したりしたケースも多かったようで、それは兵隊だけでなく、場所によっては州知事が花束をわたしてタリバンをむかえて州都を明け渡す、というところもあったらしい。アフガニスタン政府の求心力が相当に低かったということだろうし、またつよい権力を得そうな側につこうとする、長いものに巻かれる式の魂胆をもった役人もたくさんいたということなのだとおもうが、住民らは女性の自由や娯楽などを制限したり逆らう市民を公開処刑したりしたかつての極端なイスラーム主義支配が復活しないかととうぜんおびえており、難民もすでに数多く出ているわけだし、またカブールの空港には国外脱出をこころみるひとびとが殺到して飛行機によじのぼるという騒ぎになったり、その騒動のなかで銃撃があって五人くらい死んだりしたという。タリバン側は国外に逃げる市民を止めはしないと言っており、また平和的な権力の移行を望むこと、そして住民の生活と安全を守らなければならないという意志を表明しているものの、果たして、と。バイデンは米軍撤退の意向を崩さず、米兵の臨時増派を六〇〇〇人に増やして大使館員も退避させようとしており、ほかイギリスなども同様に大使館を閉めるか縮小するかのうごきにむかっているようだが、そんななかロシアとトルコは駐在をつづける見込みで、この二国はおそらくタリバン政権を承認することになるのだろう。
  • 労働に出たのは五時過ぎ。ひさしぶりに道を歩く。雨はもう降っていなかったが黒傘を持った。公営住宅まえまで来ると(……)さんが宅敷地の入口まで出て草を取るかなにかしていたので、ちかづいてあいさつ。格好はジャージというかジャンパーみたいなかんじだったが、あたまには白いパナマ帽みたいな帽子をかぶっていて、その帽子はちょっと洒落ていなくもなく、わりと似合っていた。しかし顔には髭がまばらに生えていて、しゃがんだりちょっと歩を踏んだりするからだのうごきも緩慢で安定感にとぼしく、老いの印象は避けがたい。さっきまでちょっと降ってたけどいまはもう、こっちのほうではそんなに降らなくてよかったですねえ、と言ってくるので、西日本ではたいへんなことになってますもんね、と受けて別れる。
  • 坂道を行くにきょうは曇りで暑くもないどころかワイシャツだけだと涼しさがつよいようにおもえるくらいなのだけれど、カナカナが木の間からまだはげしく声を振り立てて、それが顔の左右に迫って耳をつらぬくので、おもいのほかにまだセミがのこって夏をひきとめているような印象だ。久方ぶりの労働でまた連日の勤務がはじまるというわけで、足取りに倦怠がやどるのは避けられないが、他方ではその倦怠感がかえってまあもうなんでもいいや、どうせ大したことでもないし、あまり気張らずてきとうにやろう、というあきらめのような鷹揚さにひるがえって、そのちからの抜けた投げやりの感が身を軽くしてすこし心地よい、という状態だった。それで坂も一歩一歩ぜんぜんちからをこめずにゆっくりのぼった。
  • 帰路を先につづると、この日はあるいた。もともとあるく気分になっていて、傘を持ったのもそのためである。夜空は全面雲に占められているので星はむろん見えないし乱れのない灰色の一様性につつまれているのだが、その色は硬いわけでもなく粘土というような停滞感でもなく、方角と高さによっては青味がほんのかすかながら透けてかんじられるような気もされ、浸透的なひろがりかただった。裏通りにはいってまもなくぱらぱら散るものがはじまり、その後帰宅までずっと散ってはいたようだが、降るという段階にまでいたらず、傘を差すほどのことではなかった。白猫は車の下に不在。裏道を往路とおなじくかなりだらだらあるきながら、きょうは道がながいとかんじられ、それはひさしぶりに外出してあるいたこともあろうし勤務の疲労が足を覆っていることもあろうが、その道のながさが苦ではなく、心境と齟齬を生まずに調和しており、こころおちつくようだった。しかしとりわけおちついたのは街道の終わりちかくで微風が生まれてそれに顔をなでられたときで、生活のなかでいちばんおちつき安息や自足をかんじる瞬間というのは、寒い季節はのぞくけれどそとをあるいていて風のながれに触れられるときではないかとおもう。
  • そういえば行きで(……)駅に降りたときにこちらの降りる口から電車に乗ってきたひとが(……)さんで、かなりひさしぶりに顔を合わせてあいさつしたが、金泥色とでもいうか鈍めの色と白さが混ざった髪の毛など見るに、ここでもやはり老いの印象があとにのこった。べつにまえとさして変わっていないとおもうのだが。そのあとホームや通路をあるきつつ、じぶんで気づかないにしても俺も老いているのだろうなあとあたまにめぐり、じぶんがもっと歳をとったときのことなどちょっとおもった。
  • (……)
  • 帰宅後は書き物できず。やはり労働があるとつかれてなかなかどうにもならない。
  • 500~501: 「彼はオデットの姿を見かけても、彼女がほかの男たちとともにしているたのしみをこっそりさぐるようなふりをして怒らせてはという心配から、長居をする勇気はなかった、そしてひとりさみしく帰宅して、不安を感じながら床につくのであったが――あたかもそれから数年後、コンブレーで、彼が私の家に晩餐にきた宵ごとに、私自身が不安を感じなくてはならなかったように――そうしたあいだ、彼にとっては、彼女のたのしみが、その結末を見とどけてこなかっただけに、無際限であるように思われるので(end500)あった」

2021/8/15, Sun.

 素朴に考えて、会話するふたりの人間は、こもごも話し手となり聞き手となることができる。この原初的な対称性がなりたっていることで、ことばを発することがさらに、他者にたいして、あるいは懇願 [﹅2] し要請 [﹅2] し、あるいは命令 [﹅2] する行為となることがありうる。他者と私のあいだのことばという関係は、基底的には対称的な関係であることで、適切な条件のもとで、非対称的な関係 [﹅7] をつくりだすこともできるのだ。だから私は、ことばによって [﹅7] 他者をうごかす [﹅4] ことが可能である。たとえば私は、他者のからだを物理的に部屋から押し出すかわりに、(適切な条件のもとでは [註64] )「出てゆけ!」と発話すること [﹅6] で、他者を部屋のそとに放逐する [﹅4] ことができる。あるいはまた、不注意で崖から転落しようとしているひとの襟首を摑んで引きもどすまえに、「危ない!」と叫ぶこと [﹅4] で、そのあゆみを止める [﹅3] ことも可能なのである。――ほんとうだろうか。うたがいもなく明白にみ(end85)えるこうした言語行為(speech acts)の諸事実は、〈ことば〉を使用することの、より基本的な消息をおおいかくしているのではないか。
 アリストテレスは、論理学的著作群のなかですでに、「文」(ロゴス)はすべて意味をもつが、しかし真偽を問いえない文があること、つまり「命題」(アポファンシス)ではない表現が存在することに注意していた。その代表的な例としてあげられるのは「祈り」(エウケー)である [註65] 。唐突に結論を先どりするならば、だが、いっさいの言語行為、あるいはすくなくともそのうちで典型的なものは、かえってどこか〈祈り〉に似てはいないであろうか。というより、むしろ〈祈り〉そのものなのではないだろうか。
 サールが誘導型あるいは指示型(Directives)に分類する発語内行為、たとえば命令をとりあげてみる [註66] 。適切な状況と条件のもとで「出てゆけ!」という発語行為がなされたとき、それは「同時にかつ、それ自体として」もうひとつのべつの行為、すなわち(退出を命じる)命令という発語内行為を構成する [註67] 。だが、端的なところ、(その発語内行為が適切性条件のすべてをみたしているにもかかわらず)相手がその命令にしたがわない場合はどうか。――もちろん、命令がなされた結果あるいは成立するかもしれず、あるいは成立しないかもしれない「退出」もしくは「服従」という行為は、発語媒介行為にかかわり、発語内行為とはべつの独立のことがらである。だからこそまた「違反」と「反抗」がありうる。また一般に、「無駄」な脅迫や、「むなしい」勧告もありうる。そ(end86)うであるならば、逆にしかし、実現し服従された命令とは、たまたま聞きとどけられた「命令」であるにすぎないことになるのではないだろうか。
 じっさい、「命令」(command)は、ときに「要求」(request)になり、あるいは「依頼」(ask)へと後退し、また「懇願」(beg)と交替する。それらはやがては「祈り」(pray)となりおおせるのではないだろうか。命令のゆくすえが他者にゆだねられ、実現の未来が他者からのみ到来するかぎり、しかも「時間は、存在にあらたなものを、絶対的にあらたなものをつけくわえる」(316/438)ものであるかぎり、命令は本質的には、未来としての他者への祈り [﹅2] であるほかはないとおもわれる [註68] 。「未来との関係、現在における未来の現前 [註69] 」は、それじたい言語の本質的な特徴であるが、それはまた、「標なき未来」(121/170)がそこにかかっている他者との関係においてのみ可能である。当面の問題についていうならば、「命令」はただ「命令せよという命令を〈他者〉から受けとること」(194/272)によってのみ可能となる。――命令はつねに〈高み〉から到来する。他者はとりつくしえない無限であることで、私にとって〈高み〉に立っている。命令は、だからいつでも他者からのみ私に到来する。〈命じること〉もまた、他者に〈仕えること〉に先だたれているのである。
 「指示」するという言語行為が他者の参与を必要とするものであることは、すでにみた(三・5・B)。指示もまた参与の要請であり、やがてはやはり〈祈り〉となるであろう。(end87)もうひとつだけ例をあげておくとすれば、たとえば「命名」という言語行為のうちには、(親が子どもを名づけるような)典型的なばあい、命名の対象がその名で呼ばれることへの願いが、つまりは結局はあてどない未来への〈祈り〉がふくまれている。不確定な未来の先どりということについてオースティン以来よく知られた一例をあげれば、「約束」にかんして、たとえば祈るように [﹅5] 交わされる再会の約束を考えてみれば、その性格は十分にあきらかであろう。
 かくして、およそ私が他者にむけてかたりだす「〈ことば〉は他者へとむけられ、他者を召還し他者に祈念する」(70/98)。ヤコブソンはかつて(「ことばによる交流」 phatic communion という)マリノウスキーの着眼をうけて、言語の「交話的機能」(la fonction phatique)という概念を提起した。交話的機能とは、対話の開始、継続、終了そのものを確認することばのはたらきのことである。よく知られているように、そして、交話的機能は最初に獲得され、最後に喪失される〈ことば〉のはたらきにほかならない [註70] 。その意味でも、「〈ことば〉の関係は、召還、呼格(le vocatif)をその本質とする」(65/91)のである。ことばとはまず、声じたいが聞きとどけられることへの呼びかけであり、祈りなのだ。
 言語行為の諸事実がおしえているように、たしかに私はことばによって [﹅7] 他者にはたらきかけ、他者をうごかす [﹅7] ことができる。ただしそれは、ことばがあらかじめ呼びかけ [﹅4] で(end88)あり、祈り [﹅2] であることによってである。さきに触れておいたように、こうして、ことばによって他者に命令しようとするものこそがかえって、ことばをつうじて他者にかぎりなく仕える [﹅3] ことになるのである。

 (註64): たとえば、相手が部屋のなかにいること、私が命令しうる立場と状況にあること、相手に声が聞こえていること、等々である。
 (註65): Aristoteles, De interpretatione, 17 a 1-5.
 (註66): Cf. J. R. Searle, Expressions and Meaning, Cambridge U. P. 1979, p. 13 f. ちなみに、サールは発語行為を独立の行為としてはみとめない。Cf. idem, Speech Acts, Cambridge U. P. 1969, p. 23 n. 1.
 (註67): 「出てゆけ!」という発語行為において使用されている文は、この場合は真偽を問いうる命題ではない。もちろんしかし、同等の「発語内の力」(illocutionary force)をもった行為が、見かけ上たんなる命題の使用によって遂行されることも可能である。たとえば「ドアはあいているよ」等々。
 (註68): レヴィナスの時間論については、第Ⅱ部参照。時間論をめぐって、とくにハイデガーとの比較にかんしては、岩田靖夫レヴィナスにおける死と時間」(『思想』一九九六年三月号)、フッサールとの連続性にかんしては、斎藤慶典「他者と時間」(『現象学年報 5』日本現象学会、一九九〇年刊)参照。
 (註69): E. Lévinas, Le temps et l'autre, p. 68.
 (註70): R. Jakobson, Essais de linguistique générale, Minuit 1963, p. 217. この論点についてはさしあたり、熊野純彦「ことばが生まれる場へ」(岩波講座『現代社会学 5』一九九六年刊)六九頁以下参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、85~89; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 五時すぎくらいから掃除をした。(……)との通話を終えたあと上階でアイロンかけをしたのだが、そのあいだに母親が下階から、「電球が息してる」(というのは呼吸をしているかのようにひかりが増減する、ということだろうが)から取り替えて、などと言って呼んできたので、こちらと父親のどちらが行っても良かったのだろうけれど、父親は内田康夫浅見光彦シリーズのテレビドラマ(沢村一樹のときまでしか記憶にないが、いまは平岡祐太というひとが浅見光彦を演じているようで、このときやっていたのはたぶん沢村一樹版だったとおもうけれど、こちらにいちばん馴染みがあるのは中村俊輔が演じていたバージョンで、浅見光彦シリーズとしては彼がいちばん好きである)を見ていたのでアイロン掛けを終えると下階にくだり、両親の寝室に行って、化粧台に付属した小さな椅子のうえに乗って蛍光灯を替えた(「電球」と言っていたからちいさな豆電球のことかとおもっていたらそうではなくてふつうにほそながい蛍光灯の一本のひかりがもうちょっと不安定になっているということだった)。ついでにちょっとそこを拭いてよと雑巾をわたされたので、もとめにおうじて壁のうえのほうとか、引き戸や押入れの入り口をかこむ枠のうえとか、壁の最上端で天井に接するところのすこし台のように盛り上がっている部分(建築用語がわからない)などの埃をぬぐいとった。一回ではむろんすべてを拭けないので、じぶんで行ったり母親にたのんだりしてたびたび雑巾をゆすぎにいかなくてはならない。寝室内にはこちらが中学生のときに学ランすがたで兄(当時もう高校生なのでブレザー)と母親と神社で撮った写真と、こちらが高校を卒業するときに母親とならんでふたりで撮った写真が壁にあったが、高校のそれを見てみると当時はまだ髪がいまよりもよほどながく、顔の両側を縁取るようにまっすぐ垂らして頭頂部はちょっと逆立てるという髪型を取っていて、すこしホスト風でもあるのだけれど、意外とそこそこ似合っているようにおもわれた。いきがっている馬鹿な高校生にありがちなことでとうじはなぜかそういうスタイルにあこがれており、髪をまっすぐにしたいとおもって朝にアイロンをつかって加熱しながら伸ばしたりなどもしていたのだ。いまはもう面倒臭いので整髪料をつけることすらほぼやらないが、いいかげんシンプルな髪型にも飽きてきたのでもうすこし洒落っ気を出したい気持ちもあるにはある。しかしこの高校時代の写真で注目すべきは髪型よりもその目つきであり、なんというかすべて黒く塗りつぶされたかのような、いかにも覇気がなくてうつろといったかんじの目をして映っており、アニメや漫画のほうでよくそういう表現がされるとおもうけれどマジでそれにちかいような雰囲気で、当時の鬱屈度合いをよくあらわしているようで、ああ俺ってやっぱり高校のころはこういうかんじだったんだなとおもった。まあじっさいにはふだんはもうすこしひかりのある目をしていただろうし、たのしいこともいろいろあったはあっただろうが、なにしろ口癖が「帰りてえ」「ねむい」「だるい」「つかれた」「腹減った」だったので。ここから二年を待たずにパニック障害におそわれることになる。中学時代の写真のほうは髪も坊っちゃん刈りだし、ふつうにまじめな坊っちゃんというかんじで、これが何年生のときかわからないが背格好からみてたぶん二年生ではなかったか。表情は、もちろんはつらつとしてはいないけれど、顎をやや引きすぎたような状態からまぶしさを我慢するような上目遣いをくりだしており、まあふつうの、おとなしそうで臆病そうな少年というところで、まだそんなに鬱屈や疎外をかかえている雰囲気はない。
  • その後、飯の支度もするようではあったのだけれど、なんか掃除のながれになったからついでに自室にずっと放置してあった新聞をしばってかたづけておこうという気になって、ちょうどよく階段下の室にあったしばるようのテープを持っていき、三つのまとまりをこしらえた。さいしょのひとつは一本で縦横巻いてしばったのだが、それだとややゆるくなるようだったし、ながさをイメージするのも面倒臭かったので、あとのふたつは縦に一本横に一本と贅沢につかって二度しばり、より緊密にしあげた。それでそれらをもって階段をあがり、そとの物置きにはこんでおく。雨が降っていたので片手に傘を持たねばならず、そうするともう片手ではまとまりひとつずつしか運べないので、のろのろと三往復することになったが、そのぶん外気にふれる時間もながくなったので面倒臭くはなかった。雨はそこそこの降りであり、大気はやわらかくて涼しく、林からはさいしょのうちはセミの声は聞こえずにむしろ鳥たち、ヒヨドリかなにかピーピーいう鳥たちが雨に負けまいと気張るかのように叫んでいたが、じきに鳥よりもミンミンゼミのうなりのほうが目立つようになって、セミセミで雨音を意に介さずはねかえしてそのなかをつらぬくようになかなか密に締まったひびきを出していた。
  • これで自室の机のしたの暗がりやベッド脇の片方のスピーカーのまえがすっきりしたわけだが、新聞が去ったあとの埃がすごいのでそれを処理しなければならない。そういうわけで両親の寝室から掃除機を持ってきて吸いはじめると、ふだんだらだら生きていてなまけているわりに根が神経症者なのでいちどはじめるとわりときちんとやりたくなるという性分で、スピーカーの前面や側面に付着した埃とか、その裏の壁と机とベッドとスピーカーに四方からかこまれた埃の聖域(サンクチュアリもしくはアジール)みたいな領域にはびこり蓄積した埃たちとか、机のうえに積まれた棚のうえにさらに六塔ぶんつみあげられている本たちのうえや横に溜まった埃とか(いちばんうえの本の表面だけではなくて、ひとつうえの本よりもすこしサイズがおおきかったり位置がずれていたりして塔の輪郭線からほんのすこしでもはみだした本のぶぶんがあると埃はそこにも容赦なく溜まってそのほそい舞台を隙間なく埋め尽くしており、その綿密なしごとぶりときたら大地のどんな一片にも油断なく降り積もってあまねくすべてをおおいつくす雪のそれとまるでおなじではないかと感心してしまったくらいだ)、そこからふりむいたさきにあるラックのうえにおなじようにつみあげられた本の埃とかを始末する意欲が湧いてしまい、あとはふつうに床のうえや机のうえを掃除する意欲も湧いて、けっこういろいろなところをきれいにした。もちろん完全ではないにしても、連休のさいごにこうして多少部屋を掃除できたのは良かった。ベッド脇のスピーカーのうえにはロラン・バルトの著作と関連本がふたつの塔としてつみあげられてあって、それはバルトぜんぶ読みたいしこうしてすぐに手のとどくところに置いておいてガンガン読んでいこう、などとあさはかなことをかんがえた過去のじぶんがそうしていたのだけれど、そうしておいてもじっさいなかなか読みはしないし、ここのスペースはかたづけてほかのものを気軽に置けるサイドボード的な場所にするかとおもい、たぶんぜんぶで三〇冊くらいあったとおもうのだけれどそれらを一冊ずつとりあげて丁寧に撫でるようにして埃を吸い取っていき(掃除機がノズルの先に埃をとらえかき出すための毛をとりつけたモードにできるのでやりやすい)、自室には置く余裕がないのでとなりの兄の部屋の本棚を略奪しようというわけで、棚の一スペースに置かれてあったなんだかよくわからない大学時代の資料みたいなものとかギターの教則本とか謎の冊子とかロシア語の本とかをてきとうにべつの場所にうつしてそのあとにバルト関連の本をはこんでいった。
  • そういうかんじでけっこうすっきりしたのだが、まだまだものは多いし、とくにもういっぽうのスピーカーのうえにはアンプが置かれているのだけれどそのうえがやはり本の塔三つでかんぜんに占領されていて、これだとアンプの熱が逃げなくなるしふつうに機械にわるいはずなのでこのあたりもほんとうはどうにかしたい。本を隣室に移動させながらおもったのは、すぐ目に見えるところに書物たちがいつもあって、あそこにあの本があったなとか、この話題に関連の本はあれだからつぎに読んでみたいなとか、そういうかんじであたまのなかで書物ネットワークがつながって把握できたり、気軽に取って調べたりできるということももちろん大事ではあるのだけれど(電子書籍の画面上のアーカイブだと物質性がなくてたびたび背表紙とかカバーの色やデザインとかが目にはいっておのずと配置が記憶されるということがないので、そういうことはたぶん起こりにくいとおもう)、じぶんは読み方として併読をしないしひとつを読んでいるとちゅうにべつの本をおもいだして調べ物をするということもあまりやらないので、ほんとうは本を保管しておくだけの用途の書斎というか図書室みたいな部屋があって、じぶんがふだん生活する部屋はもっとものをすくなくすっきりさせて、図書室にたびたび行ってそこから何冊か持ってきて読む、という暮らしができたら理想だなあということだ。
  • きょうもまず「読みかえし」ノートを読んだが、きのうかおとといに鈴木道彦訳の『失われた時を求めて』二巻の書抜きを足したのでそれ。両方読んでみると、井上究一郎はいまの日本語の感覚に照らして意外とそんなにこなれていないというか、ひとつにはたぶん一九〇九年生まれの人間の古い日本語の感覚があったり、もうひとつにはいわゆる翻訳文体というかそういうかんじも多少あったりして、日本語のいいまわしとしてけっこうわかりづらいところがあったり、あと読点もかなり多かったりしてそんなにするするなめらか、というかんじではない。鈴木道彦訳のほうがその点、文の組み立てや語り口や細部の説明のしかたにしてもわかりやすく、スムーズに読みやすいものになっているとかんじる。
  • それにしても二〇一六年のじぶんが書抜きしている部分を読んでみるに、やっぱりプルーストの心理解剖ぶりとかその叙述とかってなかなかすごいものだなという感が立った。えがかれているのはメロドラマ的恋愛心理の典型といえばそうなのかもしれないが、やはり分析が詳細にわたるためなのか読んでいても俗悪という感触をうけず、真実味をおぼえさせられる箇所がおおい(全体としてみれば陳腐な心理だとしても、個々の内容のつなげかたとその順序、つまりはひとに理解(や説得や共感)をあたえるまでのながれのつくりかたがうまいのではないか)。スワンが理知的な人間という設定になっているので、けっこう自己分析とか自己相対化をしているのだけれど、じぶんのある感情に評価や判断をくだして、さらにまたその評価や判断を対象化して今度はそれにたいして評価や判断をくだしたりべつの感情をおぼえたり、といったかんじの人間の思考の絶え間なさととめどなさと堂々めぐりとがよくえがかれているようにおもう。スワンはじぶんの恋情が狂ったようなものであるとか、それによってじぶんが不幸になったり苦しんだりしているとか、その恋情もいずれおさまって終わるときが来るだろうとか、じぶんで明晰に認識しているのだけれど、そういう理性的な自己分析をしてもだからといってそれが解決になるわけではなく、オデットへの恋と嫉妬によって苦しめられていることをよく知っていながら恋をやめることはできず、それどころか恋情がなくなって終わることを恐れている。しかし恋によって苦しめられつづけるのもまたつらいので、偶然にオデットが死ぬかじぶんが死ぬかしてこの恋愛状況全体がだしぬけにいっぺんになくなることを他方では夢見ている、という状態で、じぶんで不幸になることを明確に知りながらもしかしそのことをやめることはできず、そちらにむかっていくしかない、というのがスワンのいわば悲劇性なわけだけれど、それはいかにも理性的な主体の醒めた悲劇というかんじで、知らずにあやつられる悲劇(オイディプス)ではなくて知っていながら(むしろ積極的に)あやつられる悲劇という点で、『白鯨』のエイハブ船長の悲劇性をおもいおこさないでもない(積極性の度合いはスワンとエイハブとでけっこう違いがあるだろうが)。

 しかしながら、スワンはちゃんと気づいていた、自分がこうして懐かしんでいるのは落ちつきであり、平和であって、それは自分の恋にとって都合のよい環境ではなかったろう、と。オデットが自分にとって常に不在の、常に自分が未練に思う想像の女であることをやめるとき、彼女に対する自分の気持が、もはやソナタの楽節が惹き起こすのと同じ不思議な不安ではなくて、愛情や感謝になるとき、また二人のあいだに正常な関係がうちたてられ、それが彼の狂気や悲しみに終止符をうつとき、そのようなときにはおそらくオデットの生活にあらわれるもろもろの行為が、それ自体としてはさして興味のないものに思われることだろう――ちょうどこれまで彼が何回となく、そうではないかと疑ったように。たとえばフォルシュヴィルあての手紙を透かし読みした日がそうだった。スワンはまるで研究のために自分に細菌を接種した者のような明敏さで、自分の苦しみをじっと考察しながら、この苦しみから全快するときは、オデットが何をしようと自分にはどうでもよくなるのだろうと考えた。しかし実はこのような病的な状態のなかにあって、彼が死と同じくらいに怖れていたのは、現在の彼のすべてが死んでしまうそのような全快であった。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』(集英社、一九九七年)、212)


 彼女の行先が分からない場合でも、そのとき感ずる苦悩を鎮めるためならば、オデットの存在と自分が彼女のそばにいるという喜びだけがその苦悩の唯一の特効薬なのであるから(この特効(end239)薬は、長い目で見れば、かえって病状を悪化させるが、一時的には痛みを押さえるものだった)、オデットさえ許してくれれば彼女の留守中もその家に残っていて帰りを待ち、魔法や呪いにかけられたようにほかの時間とまるで異なっていると思われたそれまでの数時間を、彼女の帰宅時間によってもたらされる鎮静のなかに溶けこませてしまえば、それで充分だったろう。けれども彼女はうんと言わなかった。それで彼は自分の家へ戻ることになる。道々彼は、無理にもさまざまな計画を作り上げ、オデットのことは考えまいとした。そればかりか家に帰って着替えながら、心のなかでかなり楽しいことをあれやこれやと考えるのに成功さえした。ベッドにはいり、明りを消すときには、明日は何かすばらしい絵でも見に行こうという希望に心が満ち満ちていた。けれども、いざ眠ろうとして、習慣になっていたので意識さえしなかった心の緊張をゆるめたそのとたん、ぞっとするものが不意に湧き上がり、彼はたちまち嗚咽しはじめた。なぜこうなったのか、その理由さえ知りたいとも思わずに、彼は目を拭うと、笑いながら自分に言うのだった、「あきれ返った話だ、ノイローゼになるなんて」 それから彼は、明日もまたオデットのしたことを知ろうとつとめなければならないし、なんとか彼女に会うためにいろいろ力になる人を動かさねばと思うと、ひどい倦怠感を覚えずにはいられなかった。このように休みない、変化のない、そして結果も得られない行動が必要だということは、あまりに残酷なものだったから、ある日腹にでき物ができているのに気づいた彼は、ことによるとこれは命とりの腫瘍であり、もう自分は何ものにもかかわる必要がなくなるのではないか、この病気が自分を支配し、もてあそび、やが(end240)て息の根をとめてしまうのではないかと考えて、心の底から嬉しくなった。事実このころには、自分でそれと認めたわけではないにしても、よく彼は死にたくなることがあったのだが、それは苦痛の激しさを逃れるというよりも、むしろかわり映えのしない努力をつづけたくなかったからであった。
 (239~241)


 ときとして彼は、朝から晩まで家の外にいるオデットが、路地や広い道路で何かの事故に遭って、苦痛もなしに死んでくれたらと考えた。けれども彼女がかならず無事に戻ってくるので、人間の身体がこんなに柔軟で強靭であること、それをとりまいてさまざまな危険があるにもかかわらず(ひそかにオデットの死を願って、危険を数えあげるようになって以来、スワンは無数の危険がころがっていると思っていた)、いつもこれをことごとく巧みに防止し、その裏をかくものであること、こうして人間が毎日、ほぼなんの咎めも受けずに、欺瞞の仕事や快楽の追求に耽っていられることに、すっかり感心してしまった。そしてスワンは、あのマホメット二世、ベルリーニの描いたその肖像画が彼は好きだったが、そのマホメット二世の気持を自分の心のすぐ傍らに感じるのだった。この人物は、自分の妻の一人に狂気のような恋を感じはじめたと思ったので、ヴェネツィアの彼の伝記作家がナイーヴに伝えるところによると、自分の精神の自由をとり戻すためにその妻を短刀で刺し殺したのだった。それからスワンは、こんなふうに自分のことしか考えないのに腹を立てた。そして彼がこれまでに覚えた苦悩にしても、彼自身がオデットの生命をこれほど軽視している以上、なんの同情にも価しないもののように思われるのだった。
 (307)


 「(……)ね、オデット、こんな時間をいつまでも長引かせないでおくれ。これはぼくら二人にとって拷問だよ。その気になればすぐ片がついて、きみは永久に解放されるんだ。ね、そのメダルにかけて、いったいこれまでにこういうことをやったかどうか、言っておくれ」
 「だって、知るもんですか、わたし」と彼女はすっかり怒って叫びだした、「ことによったらずっと前、自分でもしてることが分からずに、たぶん二度か三度したかもしれないけれど」(end320)
 スワンはありとあらゆる可能性を検討していた。だがこうなると、あたかも頭上の雲のかすかな動きと私たちをぐっさり突き刺すナイフの一撃とが何の関係もないように、現実は可能性とおよそ無関係なものになる。なぜならこの「二度か三度」という言葉が、生きたままの彼の心臓に一種の十字架を彫りつけたのだから。奇妙なことに、この「二度か三度」という言葉は単なる言葉にすぎず、空中で、離れたところで発音されたものなのに、それがまるで本当に心臓にふれたかのように心を引き裂き、毒でも飲んだようにスワンを病気にさせることができるのである。スワンは知らず知らずにサン = トゥーヴェルト夫人のところで耳にしたあの「こんなにすばらしいものは、回転テーブル以来見たことがございません」という言葉を考えていた。いま彼が感じているこの苦痛は、彼がこれまでに考えたどんなことにも似ていなかった。それは単に、このとき以上に何もかもすっかり信用できなくなった瞬間でさえ、こんな不幸にまで想像を及ぼすことは稀だったから、というだけではない。たとえそのようなことを想像したときですら、それはぼんやりとしていて不確かで、「たぶん二度か三度は」といった言葉から洩れるような、はっきりとした、特有の、身震いするようなおぞましさを欠いており、はじめてかかった病気と同じように、これまで知っているどんなものとも異なったこの言葉の特殊な残酷さを持ってはいなかったからだ。にもかかわらず、彼にこういった苦痛のすべてを与えるこのオデットは、憎らしい女に思えるどころか、ますます大切な人になってゆき、それはあたかも苦痛が増すに従って、同時にこの女だけが所有している鎮痛剤、解毒剤の価値も増加してゆくかのようだった。彼は、まるで(end321)急に重病と分かった人に対していっそうの手当をするように、もっと彼女に心をかけたいと思った。彼女が「二度か三度」やったと語ったあのおそろしいことが、もう繰り返されるはずのないものであってくれと願った。そのためには、オデットを監視する必要があった。よく言われることだが、友人に向かってその愛人の犯したあやまちを告げると、相手はそれを信じないために、ますます相手を女に近づける結果にしかならない。だがもしその告げ口を信じた場合は、さらにいっそう相手を女に近づけることになるのだ! それにしても、いったいどうやったら彼女をうまく保護できるだろう、とスワンは考えた。たぶん、ある一人の女から彼女を守ることくらいはできるだろうが、しかし何百人という別の女がいるのだ。そして彼は、ヴェルデュラン家でオデットの姿が見えなかった日の晩、他人を自分のものにするなどという絶対に実現不可能なことを欲しはじめたあのときに、どんな狂気が自分の心を通り過ぎたかを理解した。(……)
 (320~322)

  • 三時から(……)と通話した。話題は近況やいま読んでいるプルーストのことや、オリンピックや社会状況などについてだが、はなしたことはだいたい馴染みというか、過去の日記にもおりおり書いているようなことが大半だったとおもうので、くりかえすのが面倒臭いからおおよそ省く。(……)とはなすときはいつもこちらからあまり口火を切らず、しかし問われるとけっこうベラベラかたる、という言動になることがなぜかおおく、ベラベラかたったあとにそちらはどう? と問い返すようなことすらあまりせず、だからいきおい自分語りばかりしている感触になってしまう。それでも多少問うたり、自発的な反応によってむこうのことも聞くわけだが、(……)はオリンピックはけっこう見たという。見れば選手らがひたむきにがんばって長年の努力と鍛錬の成果を発揮したり、メダルを取ってむくわれたようなようすを見せたりするのに感動するが、いっぽうで、たとえば金メダルをとったからといってそれがほんとうにそのひとにとってむくわれたということなのかなあ、今回のオリンピックが終わったらもうすぐさまつぎのパリ五輪ではどういうふうにしたいとか言わないといけないし、とか、そのようにして選手にかかるプレッシャーのこととか、ファンというか観戦者がTwitterほかで垂れ流す誹謗中傷のこととか、そういったことごとが気にかかりもしたようだった。そこから実存とか承認とかいつもながらのはなしにもつうじたが、それは省く。ほかに興味深かったのは(……)がさいきん中国人に聖書をおしえているということで、それをもっとうまく説明したいという意欲でもって中国語の勉強もけっこうがんばっているらしく、聖書の内容を中国語で説明できんの? ときいたら、わりとできる、と言っていたので、それはすげえなと受けた。また、中国人のひとが聖書とかキリスト教をまなぼうとするきっかけってどういうかんじなの、っていうのは、中国共産党ってキリスト教を弾圧してるじゃん? だからそのひとたちが中国に帰ったらやばいじゃん、っておもったんだけど、と聞いてみると、日本に来ているからにはやはり中国社会に馴染めずに違和感をいだいて、なにかをもとめて日本に来ているというひとがわりと多いといい、いまの中国は拝金主義というかとにかく金を稼ぐという価値観がけっこう支配的らしく、貧富の格差も相当になっていて、そういうなかで適合できずほんとうに大事なものはなんなのかとか、やはりまあ実存的疑問をいだいて聖書をまなんでみたい、という動機のひとがあるようで、じっさいに聖書をいっしょに読んでおしえてみると、ここに書いてあることはほんとうにそうだとおもう、わたしのおもいやかんがえとまったくおなじことが書かれている、という反応がかえることがけっこうあるという((……)の体感としては、日本人におしえてどうおもいますかと意見をもとめても、そのひとの自由だとか、好きにすればいい、まあいいんじゃないですか、とかいうこたえがかえることがおおく、このじぶんがどう感じるかどう思うかというのを明確に述べないことがおおいのにたいし、中国人は、わたしはこうおもう、こうかんじる、ここに書いてあることにわたしはとても賛成だ、といったことをはっきりと言明する傾向があるようにおもう、とのことだった)。そういうはなしを聞いているとちゅうでこちらは笑ってしまったのだが、というのは、共産主義というのはもともとは貧富の差をなくしてみんな平等な社会をつくろうという思想だったはずなのに、共産主義を標榜しているはずの現在の中国ではむしろ金を稼ぐことが支配的目標になっており、そのために中国が批判している資本主義社会とおなじくらいかもしかしたらそれ以上の貧富の格差も生じており、そこに堪えられないひとはもっと大切な内面的価値のようなものをもとめてほかならぬその資本主義国に脱出してくる、という状況全体の矛盾やアイロニーがおもしろくおもえてしまったからで、そのことを説明すると(……)も、いやほんとに、矛盾してるよね、と同意していた。
  • 新聞からはアフガニスタンの状況をひきつづき追ったが、タリバンはもう三四州のうち二一州都だったかそのくらい制圧していて、カブールから一一キロの地点まで来ているという。指導層はいちおう、住民の財産保護や生活の向上に意識をはらえと言明しているようなのだが、実働部隊や下位の構成員らがそれにしたがっているかというともちろんそんなわけがなく、占領した各地でたとえば学校や建物を焼いたりとか、たとえば一二歳の少女に結婚を強要したりとか、たとえば大量の食事や物資を供出させたりとか、そういったことをおこなっているらしい。あとは書評欄をきょうはあまりちゃんと読まずほんのすこしだけ見たが、梅崎春生の本を紹介した記事のなかに直木賞受賞という情報があって、梅崎春生って直木賞とってたのか、とおもった。まったく読んだことないし、『桜島』が有名だということしか知らんのだが。この作はたしか古井由吉もけっこう褒めていたはず。あと岩波文庫V・S・ナイポールの『ミゲル・ストリート』の紹介など。小野正嗣訳。夕食時に読んだのはAIと衛星をくみあわせて日本周辺の不審船などを早期に検出してよりすばやく対応できるようにするという計画を防衛省や政府がすすめているというはなしと、博士課程の学生をインターンシップに参加させるという計画を文科省トヨタ自動車とか大手企業四十五社が共同ですすめているというはなしで、いわゆるポスドク問題および地位の不安定さによって博士課程に進学するひとが減っていることへの対応策というわけだが、しかしこの企業らが受け入れる人材というのは、やはり「理系の学生を中心に」と書かれてあった。新商品の研究開発などにしばらく参加してもらい、むろん場合によってはそのまま採用するケースも、とのこと。
  • 夜半くらいに新聞。きょうの新聞のなかからピックアップして持ってきておいたページをベッドで読んだ。ひとつは「あすへの考」で、これは一府一二省庁になった中央政府行政改革から二〇年を期してその経緯をふりかえったり、官邸のちからがつよくなりすぎたことの問題点を述べたりする記事。政治行政分野では基礎的なことがらなのだろうけれどぜんぜん知らないし、簡易によくまとまっているようにおもわれたのでこれはのちほど書き抜いておくことにした。あとは日曜版の絵画を紹介するシリーズで、円山応挙の幽霊図がとりあげられていた。さらに、記事の裏側つまり二面のほうには「Jホラーの原点の一つ」として、「霊のうごめく家」という作があげられており、「3話オムニバスのオリジナルビデオ作品「ほんとにあった怖い話/第二夜」(1991年)の1編」だという。監督は鶴田法男で、これは先日(……)さんが一年前の日記から感想を引いていた『リング0~バースデイ~』のひとじゃないかとおもった。この「霊のうごめく家」は鶴田監督が子どものころに遭遇したじっさいの幽霊体験をもとにしているといい、家に帰ったら見知らぬ男がいてべつになにもしないでいるだけだったのだがそのうちにふすまを通り抜けて両親の部屋にすーっとはいっていっていなくなった、両親にきいても誰もいなかったといわれた、というはなしで、発表当初はまわりから「幽霊に見えない」と言われたというがこれがむしろそれまでと比べて斬新な表現のリアルな怖さとしてそのあとのホラー作家に影響をあたえたらしい。
  • Ronald Purser, "The mindfulness conspiracy"(2019/6/14)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality))も読了。マインドフルネスから一時ひらいて、ネオリベラリズム一般のイデオロギー的支柱もしくは原理(すべてを原子的な個人の領域に還元するとともに市場および資本の論理に従属させるので、社会変革の活動としても集団的なものを好まず、その領域をないがしろにし、たとえば環境問題(ゴミによる環境汚染などで、いまでいえばプラスチックによるそれ)にせよ個々人の行動によってのみ状況を変えられるというテーゼを強力に主張して消費者ひとりひとりの責任を問ういっぽうで、プラスチックを大量に生産したりつかったりしているはずの企業の責任は不問にふされたり、あまりひかりをあてられなかったりするというわけで、この原理のもとではスピリチュアリティとか精神的・感情的なことがらもやはりおなじように孤立化・個人化させられて、社会的・外的な要因が考慮されないまま、個人の努力やとりくみや生活改善によって精神的・感情的問題も解決できるとされてしまう、というのが筆者の論旨であり、とうぜんそこからはその裏面として、じぶんの精神を涵養しおちついたこころをえようとしたり感情マネジメントとかを実践しないのはそのひとが悪い、というかたちでまさしく「自己責任」の論理が精神領域にも適用されてしまうというわけだろう)を概説するぶぶんはけっこうおもしろかったのだけれど、ほかの箇所はだいたいきのうの記事に要約したような内容をほぼそのまま何度もくりかえすような記述になっており、具体的な事例や現場を詳述したりとか、もうすこし掘り下げるようなことをしてほしかった感はある。
  • 457: 「なるほどスワンは、これまでは、オデットがどう考えてみても人目に立つような女ではないとしばしば考えたし、それに、彼は自分よりもひどく劣っている者には絶対的な権力をふるっていたので、「信者」たちの面前でそのこと [「二人が毎晩約束して会っていること」など、スワンとオデットの親密さ] が公表される場に立ちあっていても、すこしも得意な気持にはならなかったにちがいない、しかし多くの男たちにオデットが欲情をそそるほれぼれするような女に見えることに気づいてからは、他の男たちに呼びかける彼女の肉体の魅力が、彼女の心の隅々まで支配したいというなやましい要求を彼のなかに目ざめさせたのであった」
  • 459~460: 「その通に面したすべての窓のあかりはとっくに消されていて真暗であったが、そのなかでただ一つの窓が、部屋いっぱいに満ちた光を――その鎧戸のあいだから金色のふかしぎな果肉(end459)をしぼりだすように――そとにあふれさせているのを彼は見た」
  • 460: 「しかしながら、彼はやはりやってきてよかったと思った、彼を駆りたてて寝てはいられなくしたあの苦悶は、これでそのあいまいさを失うとともに、その鋭さを失ったのであった、そしていまは、オデットのかくれたもう一つの生活、さっきの瞬間に彼が突然無力なうたがいをもったもう一つの生活を、彼はにぎったのだ、その生活は、目のまえの部屋のなかで、煌々と灯火に照らされながら、何も知らない囚われびとのようにとじこめられ、彼の思いのままにいつでもふみこんでいって、とりおさえることができるだろう(……)」
  • 461: 「そして、おそらく、この瞬間に、彼がほとんど快いまでに感じたものは、疑念や苦痛が鎮まるときに感じるものとはべつな気持、つまり理知的な快楽なのであった。彼が恋にふけるようになって以来、いろんなものが昔のようなたのしい興味をいくらか彼にとりもどしてくれるようになったけれども、それはそうしたものがオデットの思出に照らされた場合にかぎられていた、ところがいま、彼の嫉妬がよみがえらせてくれたものは、勉強好きであった若いころのもう一つの精神作用であった、つまり真実への情熱であった、それも彼と愛人とのあいだにあって愛人のみから光を受ける真実なのだが、またオデットの行為、彼女の交際、彼女の計画、彼女の過去を、その唯一の対象とし、無限の価値をもった対象とし、ほとんど利害を離れた美をもった対象とするまったく個人的な真実への情熱であった」
  • 461~462: 「ところが恋愛というこの奇妙な時期には、相手の個人というものが(end461)まったく意味深長なものになるのであって、彼もまた一人の女の日常の些事にたいしてさえ、自分のなかに好奇心が目ざめるのを感じ、その好奇心は、昔彼が歴史 [﹅2] に抱いたそれとおなじものであった。そしていままでならばはずかしいと思うようなすべての事柄、たとえば、窓のまえでそっとなかのようすをさぐったり、いや、もしかすると、あすにでも、無関係な第三者にかまをかけてしゃべらせたり、召使を買収したり、戸口でぬすみ聞きしたりするようなことが、彼にはもっぱら、テキストの判読、種々の証言の比較研究、記念碑の解釈などと同様に、真に知的な価値をもった科学的調査の方法であり、真実の探究に最適の方法であると思われるのであった」
  • 462: 「目先の快楽にがまんができなくて、人は将来に可能な幸福の実現をどれほど犠牲にすることか! しかし、真実を知ろうという欲望は、それよりももっと強く、もっと貴いように彼には思われた」
  • 470~471: 「しかし、いまスワンが抱いているなやましい好奇心の原因が、この自分だけにあるとわかっても、そのことからただちに、この好奇心を重大視したり、それを十分はたらかせて満足させたりすることはばかげている、と考えるわけにはいかなかった。それは、スワンが一定の年齢に達していたからだが、その年輩の者の哲学は――当時の哲学、またスワンが長らく生活してきた環境の哲学、レ・ローム大公夫人の取巻連の哲学(この連中のあいだにあっては、人間の理知というものは、すべてのものをうたがう度合に応じるものであり、現実的で抗議の余地のないものは各自の好みだけだと知ることであるとされていた)によって支持されていた哲学は――すでに青年の哲学ではなくて、実証的な、ほとんど医学的な哲学であり、自分の渇望の対象に形態をあたえるかわりに、(end470)すでに流れさった星霜のなかから、そこにこびりついた情熱や習慣の滓をとりのぞこうと試みる人間の哲学であり、それらの情熱や習慣を自分たちのなかの性格的なもの、不変のものと考え、自分たちの採用する生活様式がそうしたものを満足させることをまず第一に考える人間の哲学であった」
  • 477: 「彼は最初のころは、オデットの生活のすべてに嫉妬したわけではなく、おそらくは状況判断のまちがいから、てっきりだまされたらしいと思うようになったときだけ嫉妬をおぼえた。彼の嫉妬は、第一、第二、第三と触手をのばす蛸のように、この夕方の五時という時間に、つぎにはまた他の時間に、それからさらに他の時間に、というふうにぴったりとからみついた」
  • 477~478: 「彼はオデットをフォルシュヴィルから遠ざけよう、数日南フランスに連れてゆこうと思った。しかし彼女はそこのホテルに泊っている男という男に欲望の目で見られ、彼女自身もまた彼らに欲望を感じるだ(end477)ろう、と彼は考えるのであった。そんなわけで、かつては旅に出ると、新しい人々、にぎやかなつどいを追い求めたのに、いまでは、男たちの交際でひどく傷つけられたかのように、交際ぎらいになり、交際を避けているのが見られるのであった。男という男がオデットの愛人になりそうに見えるとき、どうして人間ぎらいにならずにいられよう? そのようにして嫉妬は、はじめのころオデットに抱いた官能的なたのしい欲望がスワンの性格を変えた以上の変質を彼の性格にもたらし、そのために、彼の性格は、その外面にあらわれる徴候にいたるまで、他人の目にすっかり一変して見えるのであった」
  • 478~479: 「ヴェルデュラン夫人は、スワンがすぐそばにいるのを見ると、一種特別の表情をした、そ(end478)れは、しゃべっている人にはだまらせたいという気持と、きいている人にはそ知らぬ顔をしたいという気持とが中和して、まなざしが極度にうつろになるときの表情であり、共犯者の落ちつきはらった合図が無邪気な微笑の下にかくされている表情であり、また他人のへまに気づいた人の誰もがおなじように浮かべる表情、へまをやった当人にたいしてではなく、むしろその相手にたいして、すぐさまそのへまをあらわに感じさせるあの表情であった。オデットは急に、のしかかる生活の困難とたたかうことをあきらめた絶望の女のようなようすをした(……)」
  • 480~481:

 「私たちにたいするいまのスワンの出かたをごらんになって?」とヴェルデュラン夫人は、帰宅すると夫にいった。「私はいまにも食いつかれるかと思ったわ、私たちがオデットを送るといったものだから。失礼たらありゃしない、ほんとに! いまからすぐにでも、私たちが娼家を経営している、とはっきりふれてまわればいいわ! オデットがどうしてあんなやりかたに辛抱しているのか、私にはわからない。あの男は、はっきり、あなたは私のものだ、といっているようだわ。私は一度オデットに私の考えかたを言います、わかってくれればい(end480)いのだけれど。」
 そういってしばらくしてから、彼女は憤然として、さらにこうつけくわえた、
 「ゆるせないわ、まったく、あん畜生!」 思わず知らず彼女がつかったこの言葉、それはおそらく自分を正当化しようとする漠然とした要求――コンブレーで、若鶏がなかなか死のうとしなかったときのフランソワーズとおなじ要求――から出てきたもので、息もたえだえの無抵抗な動物の最後のあがきが、それをひねりつぶそうとする百姓から思わず吐きださせる言葉であった。

  • 485~486: 「しかし、彼が最近まで、ヴェルデュラン家の連中に認めていた美徳は、実際にそんな美徳を彼らが所有していたとしても、彼らが彼の恋をかばい、また擁護してくれなかったとしたら、彼らの度量のひろさに感動しながら彼の味わうあの陶酔、しかも他人の手からわかってきたにせよ、結局オデット自身からしかくるはずはなかったあの陶酔を、スワンのうちにひきおこすには不十分であっただろう、同様に、いまヴェルデュラン家の連中に彼が見出した背徳性は、たとえそれが彼らの本性であるとしても、彼らが彼を除外者にして、オデットをフォルシュヴィルといっしょに招待することさえなければ、彼の激怒を買って「彼らの破廉(end485)恥」を弾劾させるほどの力はもたなかったであろう。またこのとき、スワンの声は、おそらくスワン自身よりも聡明であったといえる、なぜなら、彼の声はヴェルデュラン家の取巻連への嫌悪や、連中と手を切ったよろこびでいっぱいのそうした言葉を、まるでそれが選ばれたのは彼の思考を表現するよりはむしろ彼の腹立たしさをやわらげるためであるかのように、わざとらしい口調でまくしたてることしかやらなかったのだから」
  • 486~487:

 (……)さて一方コタール医師は、ある重病患者に立ちあうために地方に呼ばれていて、数日間、ヴェルデュラン家の連中とも会わず、シャトゥーにも行けなかったのだが、その晩餐会の翌日、ヴェルデュラン家で食卓につくときにいった、「ところで、今夜はスワンさんにお目にかかれないのですか? あの人はたしか個人的親交なるものをあの…」
 「そういうことはないでしょう!」とヴェルデュラン夫人は声を高めた、「ありがたいわ、きてくれなくて、あれは退屈で、ばかで、無作法な人ね。」
 この言葉に、コタールは、いままでの所信に反するが、抗弁の余地のない明証をもった真(end486)理をまえにしたように、おどろきと従順とを同時にあらわした、そしていかにもおそれ入った、びくびくしたようすで皿の上に面をかがめ、やっと、「ほほう! ほう! ほう! ほう! ほう!」とだけ答え、彼の声の全音域を、うしろ向きに、下降音階に沿ってくだりながら、順々に後退していって、彼自身の一番奥のところに、小さくなってひっこんでしまった。そしてスワンはもうヴェルデュラン家の話題にのぼらなくなった。

2021/8/14, Sat.

 他者との関係がそもそものはじまり [﹅4] から非対称的で不均等なものであるならば、他者との〈正〉しい関係、つまり「正義」とは「普遍性という均衡状態」ではない。他者との関係が私のかぎりない〈責め〉でおわる [﹅3] かぎり、そもそも〈配分的な正義〉がもはや文字どおりの意味ではなりたたない。むしろ「正義は、〈私〉を、正義の直線のかなたへとおもむくようにうながすのであり、そのあゆみの終点を、なにものもしるしづけることはできない」(274/380)のである。正義もまた、おわり [﹅3] のありえない関係 [﹅2] である。無限に、つまり果てしなく他者に応答しつづけてゆくことのほかに、正義をかたるべき場所はない。正義とは、〈他者をむかえいれること〉(hospitalité)以外のことがらを意味することができない。
 他者との関係にあって、〈私〉の存在の重点がかえって私の存在そのものの外部へと移行してしまうかぎり、「正義とは他者であるという特権の承認であり、他者による統御の承認である」(69/97)。レヴィナスはしかも、「われわれは言説において正面から応接することを正義とよぶ [括弧内﹅] 」という。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、83; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



(……)

  • 五時にいたって階をあがり、麻婆豆腐をこしらえてアイロンかけをしたのだけれど、そうしながら、気が滅入るまではいかないとしても閉塞的なストレスをかんじていることを身に認知したので、この盆休み中ほぼそとに出ていないから、外気を浴びなさすぎたのだなとおもって、そのあと雨のなかビニール傘をさして玄関を出た。そうすると、扉を抜けた瞬間からさっそくながれていく風のやわらかさがかなり気持ちよくて、やはり一日一回は外気を浴びないとだめだなとおもった。まわりを囲われておらず、ひろくひらけていて空気のながれがある場所に出ないと。それでしばらく林縁の土地をうろついて、沢を見下ろしたり林を見上げたり(セミの声はすくないものの、ミンミンゼミやカナカナの鳴きが木々の奥から降ってくる)、なんの種か知らないが植わってそだてられている野菜をしゃがんでながめたりしつつ心身をほぐした。外気のなかにとどまって風を浴びて雨音を聞いているだけでかなりおちつく。夕刊を取ってもどった。
  • (……)
  • (……)
  • 起きたのは一一時二五分。夢を見た。ひとまず冒頭は(……)が舞台。駅で待ち合わせをしていたよう。時刻は午前五時とか四時とかでまだ夜も明けておらず、なぜかそんなにはやい時間から、どうやってきたのか知らないがでむいており、さいしょは駅にいたのだけれど合流しないうちに街のほうにちょっと出た記憶がある。そのうちに(……)と合流。モツ鍋屋みたいなところに行く。(……)はここで品の予約をしていて、それを受け取るらしかった。店内はけっこう混んでいたようだ。はいると女性店員(中年のひとで、顔に見覚えがあり、醒めたあと、じっさいにこちらの身辺で遭遇する機会があったどこかの店の店員ではないかとおもったのだけれど、不明)が、慇懃だがやたら厳しい口調で注意もしくは文句を言ってきて、それは、おもての看板を見たか、そこに書かれてある品とか組み合わせのなかからあらかじめ注文を決めておいてからはいり、すぐに注文するのだ、みたいなことだったようだ。(……)が手間取ったのが気に入らなかったらしい(あとであきらかになったところでは、予約じたいは(……)が電話でしていたらしく、それで(……)は品の詳細について知らずに携帯を確認したりしなければならなかったようだ)。そのあともいくらかながれがあったはずだがそれは忘却。
  • プルーストは413からいま456まで。「スワンの恋」のつづき。フォルシュヴィル伯爵も出てきて、スワンもヴェルデュラン夫妻から煙たがられるようになり、いよいよそろそろオデットとの関係に苦しみはじめるところだ。ヴェルデュラン夫妻とそのサロンにあつまる連中というのは、スワンが行き慣れていた貴族などがあつまる上流社交界の趣味や価値観からすると(スワンじしんはそこに慣れ親しんだことともちまえの皮肉ぶりでその上流社交界じたいも本質的にはたいしたものではないといくらか軽侮の念をもっているのだが)一段もしくは数段下がるというか、やや卑俗に映るような振舞いとか価値観の持ち主たちで、だから医師コタールがくだらない冗談を吐きまくってみんなが笑っているなかでスワンひとりはそれに乗れずお愛想としてのほほえみを漏らすほかないし、大学教授ブリショの軍隊式口調をまじえた長広舌は衒学的で粗野だとかんじられるし、ヴェルデュラン夫人をはじめとしてひとびとがじぶんより上層の公爵夫人などを「やりきれない連中」とけなし、まだあんなひとたちのところに行ってはなしあいてをしてあげるひとがいるなんて信じられない、などとこきおろすときにも、スワンはじっさいにその公爵夫人(というかレ・ローム大公夫人で、これは要するにのちのゲルマント公爵夫人である)と親しい知り合いなので、あの方は聡明で魅力のある方ですよと擁護せざるをえず、ヴェルデュラン夫人をカンカンに怒らせ、一座をしらけさせてしまう。そういう、ひとびとのスノッブぶりとか虚栄心とか、スワンの繊細さとか、それがどう受け止められるかとかのようすはおもしろく、また、読みながら、ああ……そうね……なるほど……みたいなかんじにならないでもない。そういうエレガントで理知的なスワンがオデットに恋したばかりに(その恋情もボッティチェルリの作品を重要な要素として介しているという点でだいぶ特殊なようにおもわれるが)つまらん連中の卑俗なサロンに出入りしなければならず、それどころか出入りすることに幸福をかんじていたりとか、オデットをいわば「啓蒙」するのではなく彼女の趣味にあわせて俗っぽい芝居を見に行ったりすることにやはり幸福をおぼえたりとか、まさしく恋に狂ったような心情におちいったりとか、そのいっぽうでじぶんのこころを冷静に分析するところもあったりとか、しかしそれは部分的なものにとどまって醒めるにはいたらなかったりむしろ恋情をうしないたくがないために都合の良い理屈をでっちあげたりとか、そういった恋愛者の心理や行動の解剖はまあやはりおもしろい。結末を先取りしてしまうと、たしかこの部のさいごでスワンは最終的にオデットとの関係に苦しめられることもなくなり悟ったような心境にいたって、「あんなつまらない女にこんなにのめりこむなんて、まったく俺も馬鹿な時間のつかいかたをしたもんだ!」みたいなことを吐いていた記憶があるが(そう言いながらもスワンはけっきょくオデットと結婚するわけだが)。
  • あと、プルーストは一般的・理論的(やはりあくまで文学者としてのそれなので、似非理論的とでもいうようなかんじだが)な考察とか説明をしたあとに、それは~~とおなじことである、あたかも~~のようなものである、とかいって、比喩をつけたして説明のたすけにすることがおおいのだけれど、そこで提示される比喩イメージはふつうの作家とくらべると相当に具体的というか微に入るようなもので、その記述がそれじたいかなりながくて何行にも渡ったりすることがままあるので、それ比喩として適切なのか? 説明としてむしろわかりにくくなってないか? とつっこんでしまうところがあっておもしろい。ただ彼は書簡のなかで、「個別的なものの頂点においてこそ普遍的なものが花開く」ということばを書いているので(正確な典拠は省くが、これはロラン・バルトコレージュ・ド・フランス講義録の三冊目、『小説の準備』のなかに引いていた)、その言にしたがったプルーストらしい作法だといえるのかもしれないが。
  • 新聞。国際面。タリバンはひきつづき攻勢をつよめて各地を奪取しており、夕刊では全三四州のうち一七州都をとったとあった。米国には、アフガニスタン政府軍がここまで対応できないとはおもわなかった、という誤算があるらしい。兵力じたいは政府軍が三〇万でタリバンが一〇万ほどだからふつうに政府軍が勝てそうなものだが、駐留米軍トップが、特殊訓練を受けた七万五〇〇〇の精鋭を要衝にわりふって拠点をまもるべきであるとアドバイスしたのをガニ大統領がきかず、あさくひろく各地に散らばらせて展開する方針をとった結果、各地でタリバンから奇襲を受けたりしてまともにたたかわないままに敗走を喫することがおおい現状らしい。カブールはいちおうまだいますぐどうという状況ではないという声があるようだが、じっさいのところ、カブールが落ちる落ちない、タリバンが政権を奪取するしないにかかわらず、現時点までですでに、政治的影響力とかたたかいでえられるものとかの観点からしタリバンの勝利でアフガニスタンおよび米国側の敗北と評価して良いことは新聞を読んでいるだけの素人の目からしてもあきらかではないか? ホワイトハウスにも、危機感とあきらめのいりまじった雰囲気がただよっている、と記事にはしるされてあった。二〇〇一年以来の二〇年を経て米国とアフガニスタンがえた結果がこれなのだ。米国がアフガニスタンにもたらした結果、と言っても良いはず。
  • 隣国パキスタンでは「パキスタンタリバン運動」みたいななまえの過激派がアフガニスタンタリバンの動向に影響されて活発化しているらしく、七月一四日に起こって当初はガス漏れによる事故だとおもわれていたバス爆破事件の首謀者がこの組織だったという調査結果を当局が発表したという。米国のアジア系のひとびとにかんする連載シリーズも読んだ。先の大統領選挙で、いままで共和党の牙城だった南部ジョージア州を今回バイデンがとったらしいが、それに寄与したのがアジア系のひとびとの票だったと。民主党陣営ではたらいているアジア系のひとがベトナム語や韓国語のビラをつくって戸別訪問をしたり、投票所でお茶をふるまったりしてアジア系のひとびとの投票率をあげたらしい。
  • いま午後一〇時まえだが、きょうは天気も基本的に雨降りだったし、気温は低めで、パソコンの画面右下のタスクバー上の天気表示(何か月かまえからいつのまにかこれがあたらしく出るようになっていたのだが)では二二度であり、エアコンをつけないまま緑茶を飲んでも我慢できる気候で、いま背後でカーテンのむこうの窓を網戸にあけてあるがそれではいってくる夜気も肌や肩口にけっこう涼しくて佳い。
  • 宵前に手の爪を切ることができた。
  • アイロンかけをしていたときに南窓のむこうに見えた空は端的な白一色のむらのない塗りつぶしで、きのうおとといは灰色がいくらかひきちぎったフェルトみたいにひっかかっていたのだけれど、雨降りのきょうはすべて一色でおおわれているために個別の雲すら存在しない白だった。山はその空に上方をやや侵食されている。このときだったかテレビのニュースでは各地で大雨のために道路が冠水したり川が激しくなったりしているという報がつたえられ、岐阜県飛騨川と長野県南木曽(「なぎそ」と読むことをはじめて知った)の木曽川と、あと佐賀県武雄市江の川というのがあげられていたとおもったが、記憶に自信がなかったのでいま検索したら江の川は佐賀ではなくて島根県だった。佐賀県武雄市が映ったのもまちがいはない。ところで江の川というのは「えのかわ」と読むのだろうとおもったところが「ごうのがわ」という読みで、「江の川」という文字が画面に何個か映りながらもアナウンサーが「ごうのがわ」と発音するのでその文字と声のあいだに連関をつけられず、ごうのがわってのはどういう字なんだ? どこに書いてあるんだ? とすこしのあいだ目を走らせてさがしてしまう、ということが起こった。
  • プルーストは368から370あたりにかけてオデットの自宅が描写されているのだが、そこには日本や中国や東洋の文物がふんだんに散りばめられている。まずもって家のまえの庭には菊が生えているし、サロンにも「当時としてはまだめずらしかった大輪の菊の花」がならべられてある。サロンにむかうまでにとおる階段通路の左右には「東邦の織物や、トルコの数珠や、絹の細紐でつるした日本の大きな提灯」がさがっているし、サロン内のようすにもどると、「支那のかざり鉢に植えた大きな棕櫚とか、写真やリボンかざりや扇などを貼りつけた屛風」もあり、まねきいれたスワンにオデットが提供するのは「日本絹のクッション」だし、果ては「部屋係の従僕が、ほとんどすべて支那の陶器にはめこんだランプをつぎつぎに数多くはこんできて」、室内をいろどりだす。「当時としてはまだめずらしかった」とプルーストじしんもしるしているように(この時点の時代設定はたぶん一八八〇年代後半から一八九〇年あたりが主となっているとおもうのだが)、そのころフランスにおいて日本趣味の流行があったらしく、たぶん当時のこういう「シック」な連中(もしくは「シック」を気取りたい連中)は東洋的文物を積極的にとりいれて宅に配置したのだろう。そのあたりのいわゆるジャポニスムにも興味が惹かれるが、それはプルーストの小説への興味というより、もっと一般的なフランスの文化史や社会風俗にかんしての興味である。ところでこのさいしょのオデット訪問のさいにスワンはシガレット・ケースをわすれてしまい、帰ってまもなくオデットからそれを知らせる手紙が来るのだけれど、(この訪問を描くながい一段落のしめくくりとして)そこに記されているのは、「どうしてあなたのお心もこれといっしょにお忘れにならなかったのでしょうね。お心ならば、こうしてお返しすることはなかったでしょうに。」(372)という文句で、これを読んだときに、まるで平安朝の和歌のような口ぶりではないか? じっさい、なにか有名な和歌でこんな内容のものがなかったか? とおもったのだった。日本の和歌俳句も一九世紀末かすくなくとも二〇世紀初頭にはたぶんフランスにすでにはいっていたとおもうのだけれど(たしかフランス人と結婚したかでむこうにわたって和歌アンソロジーみたいなものをつくった日本人女性がいたような記憶があり、これもロラン・バルトの『小説の準備』のなかで読んだ情報である)、プルーストがそこまで読んでいたかというとさすがにそこまでは読んでいなかったのではないか。だからおそらく、日本趣味にあふれた邸内のようすを記述する段落を閉じるこの一節が(こちらの印象では)和歌っぽいとして、それは偶然だとおもうのだが。
  • (……)とあしたの午後通話するというはなしになっていたので(七月後半にメールが来て、そのように決めた)、何時からがいいかと送り、三時からと決定。
  • 風呂で止まって安らいでいるときになんとなくおもったというかおもいだしたのだけれど、こちらがパニック障害になって瞑想を知ったころ(パニック障害のさいしょの発作にみまわれたのは大学二年当時の秋だから二〇〇九年の、たぶん一〇月だった気がするのだが(まだ大学祭をむかえてはいなかったはずで、大学祭はたしか一一月のさいしょにあったとおもうので)、その後たぶん二〇一〇年中には瞑想をすこしばかりやるようになっていたはず――復学して大学三年生になった二〇一一年に、英文を輪読する(……)さんの授業でいっしょになった(……)なんとかいうスペインかどこかのハーフのすらっと背の高くて顔立ちも西洋人寄りだった女性がいて(たしかサルサダンスだかフラメンコだかを熱心にやっているというはなしだった)、そのひとにパニック障害のことをはなしたときに、瞑想とかやってみたらとかえされて、瞑想はときどきやってんだわ、とこたえた記憶があるので、二〇一一年中にやっていたのはまちがいない)、「マインドフルネス」ということばは、だいたい「マインドフルネス心理療法」というかたちで、あくまで精神医学方面の治療法のひとつとして提示されることがもっぱらだったな、と。だからあまり一般には知られていなかったはず。じぶんはたぶん休学中の二〇一〇年のあいだだったかとおもうが、図書館で関連書をひとつふたつ借りて読んだようなおぼえもある(とはいえいっぽうで、Steve Jobsがそういう瞑想を習慣にとりいれているというはなしもすでにそこそこ流通していたような気もするが)。そこから一〇年でずいぶん人口に膾炙してたんなるリフレッシュ法とかストレス低減のセラピー的なものとして大衆化したなあとおもったのだった。
  • そういうことをかんがえたときにはまだRonald Purser, "The mindfulness conspiracy"(2019/6/14)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality))をひらいてはおらず、ウェブ記事のURLをメモしてあるノートのなかでつぎに読むあたりの記事のなかに偶然これがあって読むことにしたのだが、まさしくうえでいったマインドフルネスの大衆化・商品化が、指導者や推進者の意図はどうあれ資本主義システムと結果的に共謀することになってしまっている、という論旨の記事で、いわく、マインドフルネスがおしえる現在の瞬間を無判断的に観察してあるがままにしておくという技法や、個人の不幸や苦しみは最終的にはそのひとのこころのなかの迷妄とかに帰せられるものでそこを解決すれば幸福になれるとかいう言い分とかは、すべての問題を内面性に還元してしまうもので(非常にひらたくいえば、すべてが「心の持ちよう」の問題になってしまうということだろう)、(仏教の知恵が本来もっていたはずの道徳的・倫理的側面を欠いており)個人の苦しみを生み出している外的な諸要因、つまるところ社会構造とそのなかでの権力の布置・配分・占有とかへの批判的視点を涵養しない、したがって根本的な問題の解決や解消や変革へと個々人を導くことがないまま、中途半端に現状に満足してストレス低減策になぐさめられながらそこそこうまくやっていく主体、いわばmindful capitalistを生産するばかりである、みたいなはなしで、なんかめちゃくちゃオーソドックスな左派的もしくはマルクス主義的論説だなという印象をえたのだけれど、たぶん西洋社会でのこの方面にかんする実態をわりとただしく記述しているんじゃないか、という気はした。まだとちゅうまでしか読んでいないが。そもそも、TIMES誌が特集したマインドフルネス特集のときの記事の一文句として、〈“The ability to focus for a few minutes on a single raisin isn’t silly if the skills it requires are the keys to surviving and succeeding in the 21st century,” the author explained.〉と引かれたりしているのだけれど、survivingはともかくとしてもsucceeding in the 21st centuryってなんやねん、マインドフルネスがそこから出てきた仏教のおしえやブッダはそんなことちっともかんがえていないどころかそういう発想からひとを自由にするということをこそ実践していたのではないのか、とおもった。それはともかくとしても、Jon Kabbat Zinというひとが西欧におけるいってみれば近代的もしくは現代的マインドフルネスの方法論の創始者とみなされているらしいのだけれど、いまマインドフルネスを実践しているひとびとのなかにはたとえば企業の幹部連とか役職者とかもけっこうおおいようで(Steve Jobsもやっていたわけだし)、彼らにマインドフルネスを指導しても、彼らの会社が従業員たちにどういう負担を強いているかとか、システム的にどういった問題があるかとかそういう方面には目をひらかせることにはならず(そういう方向に観察と反省をめぐらせるような指導のしかたはせず)、ただじぶんがバリバリはたらくにあたっての負担やストレスを緩和してより強力な企業活動を推進していくための単なる一ツールになってしまっている、というわけで、それはたぶんわりとそうなのだろう。それは幹部連まで行かずともふつうの労働者についても言えることで、現状を(根本的に)改善しないままそれなりに乗り切るための手助けにしかなっていないというわけだが(こちらじしんも、バリバリはたらかずにだらだら生きている人種ではあるけれど、日々をすこしばかり楽にするツールとして瞑想をつかっている側面があるのは否定できないところだ)、こういう分析はアドルノがジャズについてしていたものとたぶんだいたいおなじなのだとおもう。アドルノじしんの文章を読んだことがないし聞きかじりでしかないからよく知らないのだけれど、アドルノはジャズについて、労働者たちを踊らせることでつかの間慰撫してフォーディズム的生産体制のなかによりうまく適合させるための低俗な音楽でしかない、みたいなことを言っているらしく、踊るとか言っているのだとしたらアドルノがジャズとしていっているのはたぶんスウィングあたりのジャズのことのはずで、せいぜいビバップのはじまりくらいで、ハードバップまではたぶんふくんでいなかったのではないかとおもうのだが。だから時代的にいうとおそらくせいぜい一九四〇年代前半くらいまでのもので、一九五〇年以降のジャズはふくまれていないのではないかとおもうのだが。
  • 個人的には、物事にたいして判断や評価をしないというのは、あるとしてもつかの間のことにすぎず、そのように生きていくのは最終的には人間には不可能だとおもうし、マインドフルネスというか瞑想的方法論において身につくのはたんなる相対化・対象化の姿勢、つまりじぶんのこの考えや認識は事実ではなくて判断である、とか、判断が判断である、感情が感情である、思考が思考である、ということをより明確に認識できるようになる、というくらいのことではないかとおもう。相対化というのは、確実なものはなにもないという全的ニヒリズムとしばしば同一視されるいわゆる相対主義や、相対化・対象化したその物事を否定するということとおなじではなく、ただそれが絶対なわけではないということを知る、というだけのことにすぎない。だからいってみれば、思考や認識にワンクッション分だけバッファーを置く、というくらいのことでしかないはず。それによって結果的により良い、より精錬された判断をできる、かもしれない、というのが、仏教の教義としてはそういうことは言っていないかもしれないが、マインドフルネスなるものの実際的効用(もしそれがあるとすれば)ではないかとおもうのだが(あとは、瞑想をしているとなぜかわからないがからだの感覚がまとまって心身がおちつき楽になるという、作用機序がよくわからない生理学的効果があって、それがまさしくストレス低減策・リフレッシュ法ということだろう)。あと、こちらの体感では、瞑想習慣をおこなうことで観察力がやしなわれるのはじぶんの内面にたいしてばかりではなくて、外界の物事にたいしてもひとしく観察力がみがかれるはずだとおもうし、その点についてはむしろより積極的に、そうでなければならないとおもうのだが。
  • それにしても、GuardianのこのThe long readのシリーズってじっさいけっこうながくて読むのもわりとたいへんなのだけれど、テーマは多様でおもしろそうなものがおおいし、思想方面もカバーしているし、これだけの量と質をもった記事を(Audio版をのぞいて)一週間に二つくらいはコンスタントにアップしているのだから、Guardianってマジでやばいメディアだな、と、マジで世界でいちばんすごいメディアだなとおもう。さいきんのを見てみても、Paul Gilroyについて詳細に紹介した記事とか、いまだに武装闘争をつづけているアイルランド共和軍の残党についてとか、中国がビデオゲーム界隈にどういう監視の手をひろげつつあるかとか、イラク戦争にまつわる米国の神話とか、英国のインド統治についてアマルティア・センがかたっているらしき記事とか、ポーランドハンガリーが近年なんであんなに反動的になっているのかとか、そういう話題が見られる。
  • 414: 「『セルジュ・パニーヌ』をふたたび見に行ったり、オリヴィエ・メトラの指揮ぶりを見る機会を求めていたのも、オデットの物の考えかたのすべてに精通する快さ、彼女の趣味のすべてをわけあっていると感じる快さのためであった。彼女の好きな作品または場所にまつわっていて、彼を彼女に近づけるそんな魅力は、それよりも美しい作品、または場所に内在しているけれども、彼に彼女を思いおこさせない魅力よりも、彼にとってはずっと神秘に思われた」
  • 416: 「ところで彼は、自分がいつまでもオデットを愛するだろうと言いきる決断がつかなかった、そう考えなくなるときのことをおそれたからであった、そしてせめていつまでもヴェルデュラン家に出入りするだろうと想像するようにつとめながら(これはア・プリオリ [﹅5] には、彼の理知からの原則的異議をひきおこさない命題であった)、今後もずっと毎晩オデットに会いつづける自分を目に見るのであった」
  • 418: 「あることがほんとうだからというのではなく、口にするのがたのしく、また自分でしゃべっていながら、その声がどこか自分以外からくるようにきこえるので、自分のいっている内容がはっきりつかめなくても、それを口にしていると、おのずから感じられるあの軽い感動(……)」
  • 420: 「(……)そんなすべてがつみかさなり、彼らがスワンを腹にすえかねる理由をなしていた。しかしその深い理由はほかにあった。それは彼らがいちはやくスワンのなかにはいりこめない一つの場所がとっておかれているのを感じていたからであって、そんな場所でスワンは、サガン大公夫人はグロテスクではない、コタールの冗談はおもしろくない、とひそかに自分に向かって言いつづけているのであり、けっして彼が愛想のよさを失わず、また彼らの教義に反抗していなくても、結局そんなスワンに、彼らの教義をおしつけて完全に改宗させることは、いままでに例がなかったほど不可能であるのを彼らが感じていたからであった」
  • 450~451: 「しかし、いかに事実そうであろうと考えたにしても、おそらく彼は、彼女が彼に見出す魅力や長所よりももっと持続力をもった支柱、すなわちあの利害(end450)関係を、オデットの彼にたいする愛のなかに見つけて苦しむということはなかったであろう、むしろそうした利害関係のために、彼女が彼に会うことをやめてしまいたいと思う日の到来がせきとめられているのではないか。さしあたって、彼女を贈物で満たし、なにくれと世話をやきながら、自分自身の魅力で彼女をよろこばせようと身をすりへらす苦労を避けて、自分の人格のそとにあり、自分の知力のそとにある特権にまかせておくだけでよかったのだ。そして、恋に身を置くという官能のよろこび、恋だけに生きるという官能のよろこび、ときどきその現実性が彼にうたがわれるほどの官能のよろこびのために、非物質的な感覚の愛好者として彼の支払っている代償が、要するに彼にその官能のよろこびを増させたのである」

2021/8/13, Fri.

 他者との関係じたいが、あるいは私という「〈同〉のエゴイスティックな自発性」を問いただす「〈他者〉の現前」(la présence d'Autrui)そのものが「倫理」と呼ばれる。すな(end79)わち「私の思考と私の所有にたいする〈他者〉の異邦性、つまり〈他者〉を〈私〉に還元することはできないということが、まさしく私の自発性を問いただすこととして、すなわち倫理として現成する」(33/46 f.)のである。他者とは私との絶対的な差異であることそのものが、〈倫理〉なのだ。
 この倫理の関係のなかで、私は無限の〈責め〉を負う。なぜ〈責め〉であり、なぜ「無限の」なのか。関係の絶対的な出発点がこの [﹅2] 私であり、私が逃れようもなくほかならない [﹅6] 私でしかない以上、〈呼応〉しないこと、応答(réponse)をこばむこと自体が、関係の内部での [﹅4] 一箇の反応となってしまい、関係から [﹅2] 逃れ出ようとすることそのものが関係への [﹅2] 回答となってしまうからである。つまり「呼応可能性」(responsabilité)としての〈責め〉(responsabilité)からは逃れようがなく、〈責め〉は終わることもなく、完結することもない。責めは、とりつくされることがない。他者を無視 [﹅2] することは、むろん他者にたいするきわめて「有意」な応答であり、いったん応答したかぎりは以後の〈私〉の対応はすべて有意性 [﹅3] の桎梏の内部に囚われつづける。
 このことはしかも、およそ私がとりむすび、あるいはより適切には巻きこまれる [﹅6] 、いっさいの関係についてあてはまる。たんに私の切符を確認にくるだけの車掌、私にシェービング・クリームを手わたすだけの店員にたいして、私がかれらをたんなる「類型」とみなし、そのようにふるまうとき、私はやはり一種の応答をしている。シュッツがそ(end80)う書きとめているように、「私がシェービング・クリームを購入する店の女性店員、私の靴をみがく男性は、もしかすると、私の友人たちの多くよりはるかに興味ぶかいひととなりのもちぬしであるかもしれない [註62] 」。類型化された他者との、それじたい類型化した応接も〈邂逅〉でありえ、〈私〉は〈めぐりあい〉の時を不断に逸しつづけている、のかもしれない。すべての呼応は「外部性」という「驚異」(325/448)への応接 [﹅2] になりえ、出会いは邂逅 [﹅2] となりうる。――ほんとうは、しかしそこに問題があるのではない。女性店員であれ、靴磨きの老人であれ、あるいはかけがえのない親友、恋人であれ、みなえらぶところなく〈他者〉であり、おなじように近く [﹅2] 、ひとしく遠い [﹅2] のだ。目のまえに他者が現前しているということは、どのようなケースにおいてであれ、そのまま「可視的なあらわれよりも直接的な現前であるとともに、遥かな現前、すなわち〈他なるもの〉の現前」(62/87)である。
 もちろん、「責めが無限であるということは、それが現実的に無際限であるということを意味しているのではない [「責めが」以降﹅] 」。そうであるならば、〈責め〉は現実には端的に不可能である。責めの無限性とはかえって、「責めが引き受けられれば引き受けられるほど、責めが増大してゆくということ [「責めが」以降﹅] 」を意味している(274/379)。――責めの無限性 [﹅3] とは、その量的なかぎりなさのことではない。責めが無限であるとは、問いただしがつねに他者からのみ私に到来するという、抹消不能な受動性 [﹅3] を表示することがらであるにすぎない。(end81)

註62:
 A. Schutz, Collected Papers vol. 2, p. 70.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、79~81; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時五五分離床と、なぜか遅くなってしまった。きょうも天気は灰色に寄って薄暗い曇りで、雨がいつ降ってもおかしくない色合い。遅くなったので瞑想をサボった。上階へ行き、食事はカレーうどんやきのうの天麩羅ののこりなど。父親は山梨に行ったという。新聞からはまず、エチオピアの記事。中央政府が攻撃を再開するというはなしだったとおもうが、北部ティグレ人勢力のみならず南の勢力、オロモ人みたいななまえだった気がするが、そちらの武装勢力(野党から分離した組織で、オロモ人はエチオピア内で最大の民族であり、その代表を標榜しているとあった)もティグレ人との共闘を表明し、したがって紛争は全国規模へとひろがるだろうとのこと。もうひとつには中国関連の記事。中国がコロナウイルス関連で米国を批判する論拠としたスイス人学者のFacebook投稿があったらしいのだが、在中国スイス大使館が、この学者はスイスに存在しない人間であると発表したらしい。調べてみるとFacebookのアカウント開設も投稿のわずか三日前だったから、工作というかフェイクの可能性が高く、中国の批判の根拠がうしなわれたと。
  • テレビはさいしょ、ひねくれ女のひとり飯、みたいなドラマが映されており、寿司屋だったので、寿司食いてえなあとか、こういうまわらないカウンターの寿司屋っていままで行ったことないんだけど、とか母親とはなしていた。そのあと、芸人のヒロシが各地にでむいてやはり飯屋をさぐるような番組にうつり、舞台は千葉県常盤平で、駅のちかくの裏道でやっていた移動式自動車喫茶みたいなものにさいしょ行き当たり、オルゴールの音色を聞かせたという豆のコーヒーなどヒロシは味わっている。そのときほかの客で女性三人の一団がいて、ヒロシはそのうちのひとりに、水森亜土さん? と聞いていて、偶然そういう有名人に出会ったのかなとおもったのだったが、あとで検索してみると水森亜土というひとはイラストレーターや女優などいろいろやっているひとで一九三九年生まれだったので、このときの質問は、その女性のファッションとか服装について、水森亜土さんが好きなんですか? とか、水森亜土さんの描く絵のスタイルですか? とかたずねるような意図だったのだろう。そのあと移動式カフェの店主女性におそわって若いアーティスト連中があつまっているという駅前のビルにヒロシはでむく。階段をあがっていくとちゅうから、階上からギター一本の伴奏でなにかをうたっているようすが聞こえてきており、そのギターの音があきらかにチューニングがあっていない濁ったひびきだったので、チューニング合ってねえだろとこちらは笑ったのだったが、だんだんちかづいていくにつれてかたちが明確になってくる曲にはききおぼえがあった。これなんだったかなとおもいながら(すでに風呂洗いをすませたあとで)茶を用意しているうちに、(いっぽうでBob Dylanだったかなとなんとなくなまえが出てきていたのだったが)ああそうだ、"No Woman No Cry"だ、Bob Marleyだとおもいだした。大学の軽音楽サークルの部室みたいな一室で、そこそこ若めの男性らがアート作品をつくっているらしかった。
  • きょうも「読みかえし」ノートを読み、またプルーストを書見。「スワンの恋」のパートにはいっており、『失われた時を求めて』はいままで集英社の鈴木道彦訳でいちおう二回ぜんぶ読んでいるのだけれど、その二回目、前回読んだとき(何年前だったかわからないが、たぶん二〇一六年か一七年くらいではないか)はたしか、この「スワンの恋」の部は恋愛小説としてかなりおもしろいなと感じ、ほとんどエンタメ小説のようにして物語的な面白味をおぼえてガンガンページを繰ってすすんでいったおぼえがある。今回はそこまで物語に引っ張られる感覚というものはおぼえていないが、とはいえ恋愛者の心理や行動(占有欲求としての恋愛の側面からうがった)が、プルースト特有のときどき理路がよくわからなくなる抽象的な考察ならびにかなり具体的にこまかいところまで描かれる比喩イメージをまじえながら詳細に記述されていてたしかにおもしろい。気になるのはやはりスワンがオデットをボッティチェルリの描いたシスティナ礼拝堂にある絵のなかの一女性とかさねて見ているというそのあたりの精神のはたらき、つまり芸術作品と現実の人間を二重化して見ることが恋愛感情におよぼす影響とかそのエゴイズムとかがひとつ。あとはオデットの家が日本趣味もしくは中国趣味にあふれていることも風俗的な側面からすこし気になる。ひとつのクライマックスというか盛り上がりとしてあげられるのはやはり、ヴェルデュラン家のサロンに行ってオデットが先に帰ってしまったことを知らされたスワンが、彼女をもとめて夜のパリを放浪するところからはじまる一連のながれ、とりわけそのあとオデットと行き会うにいたっていっしょに馬車に乗り、そのなかではじめて情事をおこなうその場面だが、ここでスワンが彼女のからだに手をつけるにあたって口実としてえらばれるのが、彼女が胸元につけていたカトレアの花(菊とならんでオデットのお気に入りの花)が馬車の揺れで乱れて取れそうになってしまったのでそれを挿しなおしてもいいか、ということで、いいですか? 挿しなおしても……おいやではないですか? それにしてもこの花はほんとうに匂いがしないんでしょうか、顔をちかづけて嗅いでみてもいいですか? おいやではないですか、ほんとうのことをおっしゃってください、とか言いながらスワンはオデットをはじめて「占有」するにいたるわけだけれど、ここは前回読んだときもそうだったのだが滑稽で、アホだろとおもって笑ってしまう。気取りがすぎるというか、いちおう洗練された教養のある知的文化人としてあからさまにガツガツあいての肉体をもとめるようなことはできずに駆け引きをするということなのだろうが、その洗練された迂遠さがかえって反転的にスワンのおこないや欲求の卑俗さや軽俗さを強調しているようにかんじられる。このさいしょの情事のあともしばらくはおなじ口実がつかわれるのだけれど、そのなごりで、こういう口実が必要でなくなったあとも「愛戯」のおこない、すなわちmake loveもしくはセックスをするときには「カトレアをする」という隠語がもちいられるというその後のくだりもこいつらアホだろと笑ってしまう。ただいっぽうで、そういうふうに造語が生み出されるというそのこと自体、その経緯とかようすそのものはおもしろいが。また、さいしょの情事にいたるまでの経緯の段落(さきほどのセリフがあるところ)と、その後の「カトレアをする」について述べた段落とのあいだには、スワンがオデットの顔に手を添えてオデットは首をかしげながら見つめかえし、スワンはいまからじぶんのものにする女性がじぶんのものとして「占有」されるまえの最後の表情の見納めにとその顔を記憶しようとしているかのようだ、みたいな記述の段落があるのだけれど、その前後が滑稽なわりにここは非常にロマンティックで正直良いなとおもってしまう。この、じぶんがものにするまえの女性の最後の表情の見納め、という男性のエゴイスト的発想には、前回読んだときにかなり驚いてすげえなとおもったのだった。今回読んでみると、発想そのものはべつにそんなにおどろくほどのものではないのかもしれないなといっぽうではおもいつつも、じっさい文章を読むにやはりなかなかすごいなとおもうかんじも他方にあり、比喩も独特で、子どもの晴れ姿を見に急ぐ母親、なんてあたりははまっているのかいないのか、ここにふさわしい比喩なのか否かよくわからないようなかんじでもある。

 彼はあいている一方の手をオデットの頬に沿うようにしてあげていった、彼女は彼を見つめた、彼女との類似を彼が見出したあのフィレンツェ派の巨匠の手になる女たちの、物憂げな、重々しいようすをして。その女たちの瞳のように、彼女の大きな、切れ長のかがやく瞳は、まぶたのふちまでひきよせられていて、さながら二滴の涙のように、いまにもこぼれおちそうに見えた。彼女は首をかしげていた、フィレンツェ派の巨匠の女たちがすべて、宗教画のなかにあっても、異教の場面にあっても、そうしているのが見られるように。そして、おそらく彼女がふだんから慣れている姿勢、こういうときにはうってつけだと知っていて忘れないように心がけている姿勢、そんな姿勢で、彼女は顔をささえるのに全力を要するように見えた、あたかも目に見えない力がスワンのほうにその顔をひきつけてでもいるように。(end391)そして、彼女が心にもなくといった風情で、そんな顔を彼の唇の上に落とそうとする寸前に、その顔をすこし離して、さっと両手でささえたのは、スワンであった。彼が思考のなかであんなに長いあいだはぐくんできた夢を、思考に駆けよらせてはっきりと認めさせ、その夢の実現に立ちあわせる余裕を、彼は自分の思考に残してやりたかったのだ、あたかも非常にかわいがってきた子供の表彰の席に参加させるために、その母親を呼んでやるように。おそらくまたスワンは、自分がまだ占有していないオデット、まだ自分が接吻さえしていないオデットの、これが最後の顔だ、と思って見るその顔に、旅立ちの日に永遠にわかれを告げようとする風景を眼底におさめてゆこうとする人の、あのまなざしをそそいでいたのであろう。
 (マルセル・プルースト井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)、391~392)

 彼はもう一方の手を、オデットの頬に沿って上げていった。彼女は、物憂く重々しい様子で、じっと彼を見つめたが、それはかねがね彼がよく似ていると思っていたフィレンツェの巨匠の描く婦人たちの目つきだった。彼女らの目のように大きく切れ長で、きらきら光っているオデットの瞳は、飛び出さんばかりに瞼の縁まで引き寄せられて、まるで二粒の涙のように今にもこぼれ(end94)落ちそうに見えた。フィレンツェの巨匠の婦人たちが、宗教画のなかでも異教の情景のなかでもみなそうやっているように、彼女も首をかしげていた。そして、たぶん彼女のいつもの姿勢なのであろうか、このようなときにふさわしいことを心得ていて、忘れずにそうするように気をつけている姿勢をしながら、まるで目に見えない力でスワンの方に引き寄せられているかのように、自分の顔を抑えるのに必死になっている様子だった。そして、まるで心ならずもといったように、スワンの唇の上にその顔を落とすより早く、スワンの方が彼女の顔を両の手にはさんで、少し自分から離してそれを支えた。彼は、自分の思考が大急ぎでそこに駆けつけて、こんなに長いこと温めてきた夢を認め、その夢の実現に立ち会えるように、その余裕を与えてやりたかったのだ――ちょうど親戚の女性に声をかけて、彼女がとても可愛がっていた子供の晴れの舞台に列席させるように。おそらくまたスワンは、まだ肉体を所有していないオデット、まだ接吻すらしていないオデットの、最後の見おさめにと、あたかも出発の日に永久に別れを告げようとしている眼前の風景を目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする人のように、その視線をじっと彼女の顔に注いでいたのだろう。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』(集英社、一九九七年)、94~95)

  • 鈴木道彦訳とあわせて引いたが、ふたりの訳のちがいを読みくらべるのも興のあることだ。一文の組み立て方、各情報の順序のちがいなど、なかなかおもしろい。ニュアンスにはっきりしたちがいが発生するのは、「(……)彼女は顔をささえるのに全力を要するように見えた、あたかも目に見えない力がスワンのほうにその顔をひきつけてでもいるように。そして、彼女が心にもなくといった風情で、そんな顔を彼の唇の上に落とそうとする寸前に(……)」/「(……)まるで目に見えない力でスワンの方に引き寄せられているかのように、自分の顔を抑えるのに必死になっている様子だった。そして、まるで心ならずもといったように、スワンの唇の上にその顔を落とすより早く(……)」の箇所ではないか。井上究一郎のほうだと、「ささえる」ということばがつかわれているので、オデットが苦心しているのは「姿勢」を保つことだという印象になり、スワンのほうに引き寄せる力に抵抗する、というニュアンスが比較的すくないが、鈴木道彦訳だと「抑える」ということばによってそこがよりストレートに表現されている。そして、それによってさらに、恋心もしくは欲望や陶酔によって、無意志的にスワンのくちびるへとじぶんの顔をちかづけてしまう、という含意が生まれうるもので、そのあとの「まるで心ならずもといったように」といういいかたはその理解にもとづいているのだろう。ひるがえって井上究一郎訳だとそのぶぶんは「心にもなくといった風情で」といういいかたになっている。「心にもなく」という表現はおそらく鈴木道彦訳と同様に無意志的であることもふくまれうるのだろうけれど、それよりは、本意ではない、というニュアンスをあらわすことがおおいいいかたではないか。そのように読むならば、鈴木道彦訳にはらまれていたロマンティシズム(「恋心もしくは欲望や陶酔」の介在)はここでむしろくだかれて、井上究一郎訳では対照的に、スワンを恋するふりをよそおって彼をよろこばせようとおうじる冷静で打算的な女オデットという像がたちあらわれるはずである。なかなかおもしろい。
  • また、例の子どもの晴れ舞台の比喩のなかでは、声をかけて呼んでやるあいてが「母親」と「親戚の女性」でちがっているが、フランス語ができないし原文もわからないのでこれはなぜなのかわからない。さいごの一文のなかでは、鈴木訳の、「眼前の風景を目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする」といういいかたがすばらしい。井上訳のほうにある「眼底」の語も良いが、ここでは「目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする」のほうに軍配をあげたい。
  • BBCの英文記事を四つ読み、(……)さんのブログ(八月一一日と一二日)、(……)さんのブログ(八月一〇日と一一日)もそれぞれ読んだ。(……)さんのほうでは、二〇二〇年の八月一二日から引かれた下のはなしがおもしろかった。ここでの定式化に沿うなら、ムージル古井由吉はこの(1)(2)のあいだというか、かぎりなく1にちかい2、みたいなところを攻めているような気がした。

『リング』。松嶋菜々子って大根だなと思った。現在執筆中の小説の性格上、意味の操作にはあまり関心が持てないので、そういう観点からの分析はしないが、脚本の節約術が見事だと思った。いま書いている小説は、こしらえた人物の背景や設定を、こしらえておきながら作中では決して説明しないというかたちで書き進めているのだが、たとえば『リング』では、松嶋菜々子真田広之が離婚した理由については触れられていないし、そもそも結婚した馴れ初めについても触れられていない。しかしそれらをみるものに十分に想像させるだけの余地が、しっかりと用意されている(離婚にはどうやら真田広之の血統的な超能力が関係しているようだと推測したり、オカルト現象を追いかけるマスコミ関係者である松嶋菜々子とはその縁で知り合ったのではないかと推測したりできる)。また、真田広之は大学で数学を教えているという設定であるが、これも、自分自身の異能に対するアンビバレンツな感情から要請された専門なのではないかという「物語」を、みるものはでっちあげることができるだろう。ここで重要なのは、そのような「物語」が劇中で言明されていれば、それはあまりに整合性がとれており、出来事を因果関係で処理しすぎであるという、いわゆる物語批判のうってつけの対象になっていただろうに、「異能」と「数学」という組み合わせに関する説明がなされていないかぎり、その空白地帯はあくまでありうべき可能性の域にペンディングされており、(反物語としての)出来事の水準にとどまっているという点だ。物語が因果関係で数珠つなぎされた出来事の線的な連鎖であるとすれば、反物語の定義とは⑴そのような連鎖から開放された出来事の面的な偏在ということになるのかもしれないが、それとは別に、⑵連鎖の内実が不明である状態というものも考えられる。「異能」と「数学」の同居は、ここで、少なくとも受け手であるこちらにたいしては、離婚理由や馴れ初めの不在とともに、⑵の意味での反物語としてせまってみえた。そこのところのさじ加減が本当にうまい。

  • 夕刊、米軍がアフガニスタンに三〇〇〇人増派と。アメリカ大使館の人員を退避させるためという名目。その三〇〇〇人は一日二日以内にカブールの空港に到着するといい、ほか、不測の事態にそなえてクウェートに四〇〇〇人を派兵し、また翻訳者など米国への協力者だったひとびとの退避を支援するためにカタールに一〇〇〇人を派遣とも書いてあったはず。国内にはいって、せめてカブールにはいって協力者らをあつめて逃がすことができないかとおもうが、それをするとたぶんタリバンに喧嘩を売るということになってしまうのだろう。タリバンは協力者らを殺そうとしているはずなので。
  • 夜半すぎにBessie Smithを寝転がって聞いた。『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』の六曲目まで。#1, #4, #5, #6が良かった。とりわけ#4の"Muddy Water (Mississippi Moan)"か。たぶん一九二〇年代か三〇年代くらいの録音だとおもうので音質はむろん良いとはいえず、声の写実性もいまの録音とくらべるととうぜん低いが、じっさいに聞いたらたぶん声めちゃくちゃでかかったんだろうな、という印象。"Muddy Water"というタイトルからはどうしたってMuddy Watersをおもいだすし(それでこの翌日には二枚組の『Muddy "Mississippi" Waters Live』をひさしぶりにながしたのだが)、五曲目は"St. Louis Blues"で、そういうのを聞いていると、こういうところからすべてが(というのはジャズとブルースとロックということだが)はじまったんだなあ、という感慨が生じる。この日はきかなかったけれど九曲目は"Need A Little Sugar In My Bowl"という曲で、この曲をもとにしたかもしくはオマージュみたいなかんじでNina Simoneが"I Want A Little Sugar In My Bowl"という曲をつくっており、『It Is Finished - Nina Simone 1974』というライブ音源の五曲目でやっているバージョンがじぶんはとても好きである。
  • 368: 「そんなふうに、彼女はスワンの馬車で帰るのであったが、ある晩、彼女が馬車をおり、そして彼が彼女に、ではあすまた、といったとき、彼女はあたふたと、家のまえの小さな庭から、もう最後の菊を一輪摘みとって、帰ろうとする彼に手わたした」
  • 369~370:

 表通よりも高くなった一階にあるオデットの寝室は、奥のほうで表と平行した小さな通に面していたが、その寝室を左にして、まっすぐな階段がくすんだ色の壁のあいだにあり、その壁からは東邦の織物や、トルコの数珠や、絹の細紐でつるした日本の大きな提灯がさがっていた(その提灯には、訪問者からヨーロッパ文明の最近の快適さをうばわないために、ガス灯がともされていた)、そしてその階段をあがるとそこが大小二つのサロンになっていた。この二つのサロンのまえにはせまい控室があり、その壁は、庭の格子垣のように碁盤縞、しかも金塗の碁盤縞になっていて、壁ぎわまでの長さの長方形の一つの箱でふちどられ、そこには当時としてはまだめずらしかった大輪の菊の花が、といってもずっとのちになって園芸家が栽培に成功したものにはとてもおよばなかったが、温室のなかのように一列にならんで咲いていた。スワンはまえの年から菊に移ってきた流行をにがにがしく思っていたが、ふと、どんよりくもった灰色の日々にかがやいている、そんなつかのまの星々の、匂を放つ光によって、ばら色や、オレンジ色や、白に縞模様をつけられている部屋の薄あかりを見て、たのしい気持になったのであった。オデットはばら色の絹のガウンを着て、首筋も腕も出したまま彼をむかえいれたのであった。彼女は、サロンの奥まったところに設けてあって、支那のかざり鉢に植えた大きな棕櫚とか、写真やリボンかざりや扇などを貼りつけた屛風とかでかこわれているあの数多くの神秘めかした壁のくぼみの一つに彼をさそい、自分のそばに腰を(end369)かけさせたのであった。「それではお楽ではないでしょう、ちょっとお待ちになって、私がうまくなおしてさしあげます」と彼女は彼にいった、そして、何か自分だけの思いつきを誇るかのようにかすかなほほえみを浮かべながら、スワンの頭のうしろと足の下に、日本絹のクッションをあてがい、まるでそうした貴重品が惜しくもなく、その値打もべつに気にしていないかのように、それらをくしゃくしゃにしてしまったのであった。しかし部屋係の従僕が、ほとんどすべて支那の陶器にはめこんだランプをつぎつぎに数多くはこんできて、それらがみんな、まるで祭壇の上のように、さまざまな家具の上に、一個または対になってともり、そのようにして――この部屋のあかるくなった窓がそとにもらすと同時にそとからかくしている人の気配の神秘さのまえに、ふと足をとどめた恋する男の誰かを、おそらく表通で夢みさせながら――冬の午後のおわりのもう夜を思わせるたそがれのなかで、自然よりももっと長くつづく落日、自然よりももっとばら色で、もっと人間的な落日を再現しはじめると、彼女は従僕がそれらのランプをきまったところにうまく置くかどうかを、横目できびしく見まもったのであった。(……)

  • 372: 「一時間後、彼は使の者から短い伝言を受けとり、そのはでな筆蹟で、すぐにオデットからだとわかったが、イギリス風にぎごちなく気どった彼女の筆蹟は、形をくずした文字に、長年の修練のようなものを見せつけていたが、彼ほども好感をもっていない人の目には、おそらくそれらの文字は、だらしない思考、不十分な教育、率直さと意志との不足を意味したことであろう。スワンはオデットのところにシガレット・ケースを忘れてきたのであった。「どうしてあなたのお心もこれといっしょにお忘れにならなかったのでしょうね。お心ならば、こうしてお返しすることはなかったでしょうに。」」
  • 372~373: 「彼の二度目の訪問は、もっと重大な結果をもった、といってもよかった。その日も彼は、彼女の家に向かいながら、これから彼女に会おうとするときのいつものように、まえもって彼女を自分に思いえがくのであった、そして彼女の顔を美しいと思うためには、しばしば黄(end372)色くて、やつれていて、ときどき赤い小さな斑点があらわれている彼女の頬から、ばら色でみずみずしい頬骨のあたりだけを切りはなす必要のあったことが、あたかも人間の理想がつねに近づきにくく、幸福がつねに中途半端であることを証明しているように思われて、彼を悲しくするのであった」
  • 373: 「彼女は豪華に刺繡をほどこした布をコートのように胸の上でかきあわせながら、モーヴ色のクレープ・デシンの化粧着姿で彼をむかえた」: モーヴ色10
  • 373: 「スワンは、ずっと以前から、巨匠の絵のなかに、われわれをとりまく現実の普遍的な特徴ばかりでなく、それとは逆に、普遍性のもっともすくなく見えるようなわれわれの知人の顔の個性的な特徴をも、そこに見つけることが好きだという、そんな特別な趣味をもっていた(……)」
  • 375: 「スワンはもはやオデットの顔を、彼女の頬の部分的なよしあしとか、いつか思いきって彼女に接吻するとして自分の唇をその頬につけるときに見出すにちがいないと思われるあの肉の純粋なやわらかさとか、そういうものから評価しなくなり、むしろ彼女の顔を、繊細で美しい線の錯綜として評価し、その錯綜を目でさばき、その渦巻くカーブをたどり、首筋のリズムを髪の毛の流やまぶたの屈曲にあわせながら、あたかも彼女のタイプがよくわかり明確になるような一つの肖像画に仕上げたかのように、その顔を評価した」
  • 375~376: 「彼は彼女をじっと見つめるのだ、すると彼女の顔や彼女のからだのなかに、壁画の一断片があらわれてくるのであった、そしてそれからは、オデットのそばにいるときでも、ひとりで彼女のことを思っているときでも、彼はつねに彼女の顔やからだにその壁画の断片をさがし求めた、なるほど、彼がフィレンツェ派の傑作にとらわれたのは、彼女のなかにそれを見出したからにすぎなかったが、それにしても、この類似によって彼は彼女にもまた美しさを認め、彼女をいっそう貴重なものに思ったのだ。スワンは大サンドロの目にだったらあがめられるような美しさに映ったであろうひとの、価値を見そこなったことで自分を責めた、そしてオデットに会うことのたのしみが彼自身の美的教養のなかで正当化できることをさいわいだと思った。彼は考えた、自分がオデットを思う心と、幸福の夢とをむすびつけても、これまで思っていたように、不完全な、間にあわせのひとに、仕方なく甘んじていたのではない、なぜなら自分のもっとも洗練された芸術的趣味を、自分の内心において、彼女は満足さ(end375)せてくれるのだから、と」
  • 376: 「そして、彼がこの女についてもっていた純然たる肉体的な見解が、彼女の顔や、からだの長所、彼女の美しさの全体の長所について、たえず彼に新しい疑念を起こさせながら、彼の恋をよわめていったのにたいして、他方彼が肉体的な見解のかわりに、ある美学の所与 [データ] を根底にもったとき、一方の疑念はうちくだかれ、恋は確実になった。いうまでもなく、接吻や肉体の占有が、美に欠けるところのある肉体によって彼にあたえられた場合は、むしろそのほうが自然で、ありきたりで、つまらなく思われたのだが、美術館のある作品にたいする熱愛をいやが上にも高めてくれる場合、それは彼にとって、超自然で、言いようもなく快いものであろうと思われた」
  • 376~377: 「そして、数か月以来オデットに会うことよりほかに何もしなかったという後悔の念に駆られると、彼はこう自分に言いきかせるのであった、評価を絶した傑作に多くの時間をさくのは当然ではないか、これこそは、あとにも先にもなく、いままでとはまったく異なる材料、特別風味のある材料に流しこまれ、世にもまれな作例となった傑作で、自分はそんな作品を、あるときは芸術家の謙譲と霊性と無私とでながめ、あるときはコレクターの誇とエゴイスム(end376)と肉感性とでながめているのだ、と」
  • 377: 「これまで審美的に美しいと考えたものを、生きた女性の観念にあてはめながら、彼はそんな美を肉体的な長所の変形し、そのような肉体的長所の数々が、やがて自分の占有できる一人の女に集中していることを思って、身のさいわいを感じるのであった。われわれは一つの傑作を見つめていると、おのずからそのほうにさそわれてゆく漠然とした共感をおぼえるものだが、そうした共感は、スワンがエテロの娘の肉感の母体を知るにいたったいま、一つの欲望となり、こんどはその欲望が、はじめオデットの肉体からそそられなかった欲望の埋めあわせをすることになった」
  • 381~382:

 「あなたの意見には、失礼ながら賛成しかねるね」とヴェルデュラン氏がいった、「私にはどうもぴったりとこないな、彼氏は。あれは気取屋だと思うんだよ。」(end381)
 ヴェルデュラン夫人は動かなくなった、彫像になったかと思われるほど活気のない表情になった、そんな擬装のおかげで、この気取屋という堪えられない言葉が、彼女の耳にはいらなかったと見なされるからであって、この言葉には、自分たち夫妻にたいして「気どる」ことのできる人間がいる、したがって「自分たちよりも上手 [うわて] 」の人間がいる、という意味がふくまれているように思われるのであった。

  • 383~384: 「そしてふとある瞬間に、あたかもねむりからさめ、いままではっきり自分をひきはなさずに思いめぐらしていたあの夢想のばからしさを意識する熱病患者のように、スワンは、ヴェルデュラン家で、オデットが帰ってしまったことをきかされたときから頭のなかをぐるぐるまわっていた思考の奇妙さ、彼が苦しんでいる胸の苦痛の新しさに、突然気がついた、しかも、いま目をさましたかのように、はっきりとその苦痛を認めた。いったいどうしたことか? あすでなければオデットに会えないということから、こんなにひどく動揺してしまって。こうなるのは、一時間まえに、ヴェルデュラン夫人の家に向かいながら、まさしく自分がねがっていたことではなかったのか! いまや彼はは(end383)っきり認めないわけには行かなかった、プレヴォーに自分をはこんでゆくこのおなじ馬車のなかで、自分はもういままでの自分とおなじではなく、また自分はもはやひとりではない、新しく生まれた人間がそこにいて、自分に密着し、自分に結合されている、そしてその新しい人間から自分はおそらく自由になれないで、これからは主人や病気にたいするように、その人間となれあってゆかなくてはならないだろう、ということを。しかしながら、そんな新しい人間が彼に加えられたと感じた一瞬から、彼にとって人生が一段と興味深く思われだした」
  • 384: 「いつもの晩のように、オデットといっしょになると、すぐに彼は、彼女のよく変わる顔をこっそりながめながら、自分の目の色から彼女に欲望のまえぶれを読まれること、自分が無関心ではないのをさとられることをおそれて、すぐにまた目をそらし、彼女のことを考える気力を失うだろう、そして、彼女からすぐ離れないでいるために、言いかえれば、思いきってだきしめることができずに彼が近よっているこの女との空しい対面がもたらす幻滅と苦痛をこの場はのばし、もう一日あらためてそれをくりかえす口実を見つけるために、ひたすら心をくだくだろう」
  • 393: 「どんなに女ずれがしていても、またどんなに種類の異なる占有もつねに同一でありあらかじめわかっていると考えていても、スワンにとって最初カトレアの花をなおすということがそうであったように、女との関係の思いがけない何かの挿話からそうした占有を生みださなくてはならないほど女があつかいにくい――またはあつかいにくいとわれわれに思われる――場合、占有はかえって新しい快楽となるのである。その晩彼が身をふるわせながら望んでいたのは(まさかオデットは、と彼は内心で考えていた、ぼくの計略にかかりこそすれ、ぼくの計画を見ぬくことはあるまい)、カトレアの大きなモーヴ色の花弁のあいだからこの女の占有がひきだされてくることであった」: モーヴ色11
  • 398~399: 「スワンにとってなんという大きな休息であり、神秘な更生であったか――その目がどんなに絵画の鑑賞にすぐれているとしても、その精神がどんなに風俗の観察に鋭くても、その目、その精神が、無味乾燥の生活の消しがたい痕跡をいつまでもとどめていた彼スワンにとって――人類とは無関係な被造物、論理的能力に欠ける、盲目の被造物、ほとんど荒唐無稽の一角獣にも似て、ただ聴覚によって世界を知覚するにすぎない怪獣めいた被造物に自分の身が変貌させられたと感じることは。そして、しかもなお小楽節に、自分の理知がそこまで深くおりてゆくことができないようなある意味を求めていた彼にとって、自分のもっとも内的な魂から理性のあ(end398)らゆる援助をはぎとり、そうした魂に、ただひとりで、音 [おん] の廊下、音の暗い濾過装置のなかを通らせるのは、なんという異常な陶酔であったか!」

2021/8/12, Thu.

 他者とのかかわりは、このような関係でありうるであろうか。まず、他者と「隣りあう」という関係は、「空間的な意味での隣接」ではない。隣人という意味での他者のむしろ「近さ」は、本とペンの接近と同様ではない。「隣」人であるということはひとつの「偶有的な [﹅4] 性格」をふくんでいるが、その偶有性は、一本の万年筆と一冊の書籍にあっての、(外的関係としての)位置関係の偶然性と等価ではない。「隣人」とは「だれでもよい者」(le premier venu)である一方、〈私〉にとって「最初に到来した者」(le premier venu)でもあるのであって、つまりおきかえのきかないこの [﹅2] 他者であるからである [註60] 。(end77)
 第二に、しかしより主要には、その関係の一方の〈項〉が、この、ほかならない [﹅8] 私、つまり〈私〉であるかぎり、他者との関係は、本と万年筆の関係と同等なものではありえない。ほかならない〈私〉と〈他者〉との関係にあっては、むしろ「《空間のひずみ》が人間存在のあいだの関係を表現している」(324/445)。――書籍とペンとの関係にあっては、空間は等質的な隔たりを両者のあいだにつくりだしている。私は両項の位置関係を外部から等分に確認 [﹅2] し、両者を公平に [﹅3] 見くらべることができる。空間はゆがんではいない。〈他者〉と〈私〉の関係は、なぜ空間のひずみをもたらすのであろうか。
 理由はある意味では単純である。「私が〈他者〉の他性に接近するのは、〈私〉から出発することによってであって、私と他者との比較によってではない」(126/177)からである。そのような比較は原理的に不可能である。すくなくとも、ペンと書籍との空間的位置関係の外部に立って両者を等分に見くらべ、その隔たりを測るようなしかたでは、原理的にいって不可能である。 〈他者〉との関係にあるかぎり、〈私〉はその関係を端的に超越し、関係を外部 [﹅2] からかたり、関係の項を等分に比較 [﹅2] することができない。――関係を意識するということ自体たしかに、なにほどかは関係の超越をふくんでいる、といいうるかもしれない。だが、「超越は〈私〉による超越である」(341/469)。しかも、超越するさき、関係のもう一方の項は、〈私〉にはあたえられていない。その意味で「絶対的に〈他なるもの〉、それが〈他者〉である。〈他者〉は〈私〉と数的関係をもたない」(28/40)。つまり、こ(end78)の [﹅2] 私は、他者とならびたつ地点、両者を等分に見くらべる原点、等質性を裏うちする観点、すなわち量化を可能とする視点には、原理的に立ちえないのである。
 「他性は私 [﹅] を出発点としてのみ可能である」(29/41)。他者と、ほかならないこの私との関係を「外側から見ること」は「根底的」に「不可能」である。つまり、「おなじ方向から(dans le même sens おなじ意味において)自己と他者たちをかたること」は、その関係そのもののなりたち [﹅4] からいって不可能なのである(cf. 46/65) [註61] 。
 そのかぎりでのみ、「〈私〉はエッフェル塔やジョコンダが唯一であるように、唯一であるのではない」(122/171)。つねになにものか [﹅5] であるこの私、ありふれたなまえ [﹅3] をもち、「だれ [﹅2] 」という問いに「なに [﹅2] 」によっても、たとえば職名 [﹅] をもってこたえうるようなこの私 [﹅3] (cf. 193/270)は、そのなにものかである [﹅2] ことにおいて、うたがいもなく平凡であり、凡庸である。「〈私〉の自己性(ipséité)とは、個体的なものと一般的なものとの区別の外部にありつづけることである」のは、つまり「〈私〉の唯一性(l'unicité)」が際だったものとなるのは、私が〈他者〉との関係のうちにあり、その関係のなかで逃れようもなく〈私〉でしかないことによってである(122/171)。他者との「関係の絶対的な出発点 [﹅10] 」であることによってのみ、私は〈私 [﹅] 〉となるのである(25/35)。

 (註60): Cf. E. Lévinas, Dieu et l'onto-théologie, in: Dieu, la mort et le temps, Bernard Grasset 1993, p. 156.
 (註61): この問題は〈私〉をめぐって山田友幸と永井均とのあいだであらそわれた論点と関係しているかもしれない。山田友幸「他者とは何か」(飯田隆・土屋俊編『ウィトゲンシュタイン以後』東京大学出版会、一九九一年刊)、とくに五三頁以下参照。永井の応答については、永井均『〈魂〉に対する態度』(勁草書房、一九九一年刊)一七〇頁以下参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、77~79; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時二七分に離床。さだかにさめたのは一五分。それいぜんもはやい時間から二回ほどさめたおぼえがあるが。きょうは天気は曇りもしくは雨。きのうの夕刊を見たところでは、一週間ずっと雨がちな天気がつづくらしい。それで陽の色もないしこの昼は比較的涼しくて、水場に行ってきてから瞑想をやっても暖気は寄せず、汗もあきらかには湧かない。そのわりに窓外のセミの声はきのうまでよりかえって厚くなったような印象で、盛りをこえつつ一時もちなおしたというところなのか、永遠に発泡しつづける炭酸水のように音響がシューシューさわいでいるなかでミンミンゼミが鈍く、低調なような重さをもってあさくうねる。
  • 食事はカレー。きのうのテレビのニュースですでに知っていたが、一面には全国の感染者数が過去最多とかつたえられており、東京も一時二〇〇〇人台まで落ちていたはずだが一日の新規感染者が四〇〇〇人台にまであがっているし、しょうがねえ、念を入れて(……)との会合はとりやめにするかとおもい、あとでその旨おくっておいた。まあ、潜伏期間とかPCR検査の用意とかをかんがえるとその日の感染者数が反映しているのはだいたい一週間くらいまえの人流とか動向ではないかと推測しており、きのう感染者がたくさん確認されたからといってかならずしもきょうそれに見合ってウイルスが爆発的に蔓延しているというわけではないとおもうが。ほか、タリバンが九つの州都を落としたというか制圧したという報。きのうは八つだった。八月六日にはじめて州都をとっていらいもう九つなわけで、じつにすばやい、破竹の快進撃といって良いのではないか。EUの関連高官によれば、タリバンはいまや全土の六五パーセントを支配しているとみられるという。カブールもとうぜん狙っている。首都が落ちたらマジでやばいとおもうが、とはいえ、仮に首都を落としてもタリバン中央政府として統治をおこなうような能力はないという声もあるようで、だから和平交渉で優位に立つために進撃をつづけているという予測がなされているようだ。そういう目論見はとうぜんあるだろう。取れるものを取れるだけ取っておけば、たとえば中央政府内にポストをもうけさせることもできるかもしれないし、イスラーム的政策をみとめさせることもできるかもしれないし、自治区的なかんじで国内に一部領土を掌握することもできるかもしれない。バイデンは米軍撤退をひるがえしはせず、決断を後悔してはいないと表明しつつ、国境外からの空爆や物資支援などはおこなうという当初の方針。カタールタリバンの交渉代表が常駐しているらしく、米国の高官もそこにむかい、またEU周辺諸国からもあつまっているようで、そこでタリバンがどうでるかがポイントだと。
  • ほか、小中高時代に読書をよくやったひとのほうが大人になってからの各種能力(主体的意欲、物事の理解力、批判的思考力、自分を客観視する能力とかだったとおもうが)が高い、という調査結果が青少年なんとか機構みたいなところから発表されたとあったが、読書好きの人間としては、そんなんあたりまえだろとなんの疑問もなく断言してしまう。とはいえ、なぜそうなるのかはかならずしも詳細にあきらかではないが。あと、電子書籍よりも紙の本で読む人間のほうがやはり理解力だったか記憶力だったか、それが高いというデータも出たようだが、それはあまりよくわからないし、じぶんとしてはどちらでも良いとおもう。
  • 風呂洗いでは、窓の内側の枠というか、壁のとちゅうがくぼんで窓になっているわけだけれど、そのくりぬかれた四角の下辺、窓ガラスのてまえのなにかちょっとしたものを置いたりもできる部分が汚れているのがまえから目についていたので、そこも擦って洗っておいた。茶を用意し、母親が切ってくれた桃とともに持ち帰るとウェブを見たあと「読みかえし」ノート。意味をきちんと読み取ろうとせずにとりあえず声に出して口を動かしていればそれでいいなとあらためておもった。それでけっこうたくさん、二時くらいまで読んでからベッドで書見。プルースト。これも四時あたりまでけっこうつづけて、310からはじめていま350くらいまで行ったはず。第一部「コンブレー」を終えて第二部「スワンの恋」にはいったが、第一部を読みとおしてみると、たしかにこのパートってマジでコンブレーの記憶をひたすらかたりつらねただけだな、というかんじ。冒頭、夜中にめざめたときにさまざまな記憶がよみがえってくる、というとりかかりからはじまるわけだが(単にそのことを説明するだけでも一〇ページくらいかけていたはずだが)、第一部のさいごにいたっても、このようにしてわたしは真夜中に起きてしまったときにそれいじょう寝られず、朝がくるまでベッドのなかでコンブレーのあらゆることを回想するのだ、みたいなまとめかたがされていて、だからマジで、大枠のはなしとしては、不眠の夜にたびたび子供時代のことを回想している、というだけのはなしになっている(いちおう菩提樹の茶とマドレーヌの挿話もあって、そこは夜中ではないわけだが)。その記憶の内容がずーっとひたすら三〇〇ページくらい紹介されている、という趣向。「スワンの恋」はヴェルデュラン家のサロンの説明からはじまっていて、そうかここでヴェルデュランからはじまるのだったかとおもった。そこにいたオデットがスワンと知り合って、スワンをサロンにつれてきて、そこでヴァントゥイユのソナタを聞いたスワンがオデットと恋愛してそのソナタはふたりの恋のテーマ曲みたいなものになる、という展開だったと記憶しているが、いまちょうどピアニストがヴァントゥイユの曲を弾いてスワンがそれを聞いているあたりまできている。ヴェルデュラン家というのは貴族階級ではなくて旦那はなんだか知らないが夫人は金持ちのブルジョアの家の出身で、そういう階級の鼻持ちならない人間として上流層にたいするコンプレックスがあるからその反動で本場の一流の社交界のひとびとを「やりきれない連中」として軽蔑しており、通人を気取りながら一握りのえらばれた仲間たち(「信者」)から構成される小規模なグループ(「核」)でもって夜な夜なあつまってたのしくやっているというかんじで、彼らのやりとりの記述にかんじられるその閉鎖的ないかにも内輪ノリのスノッブな虚栄心みたいなものは滑稽でもあるし鼻持ちならないものでもあるのだけれど、しかし同時に、読んでいるとなにかほほえましいようなもの、ある種の罪のなさみたいなものもかんじてしまった。それはわりと偉そうな見方でもあるのだろうが。つまり、超然とした位置から彼らを無邪気な連中だなあと、子どもの遊びでもながめるかのように笑って見ている、というような。とはいえ彼らはむろん実在する人間たちではなく、所詮は単なることばでしかない。所詮は単なることばでしかない人間たちにたいしてどのような印象をいだくかということにおいて、所詮は単なることばでしかないその彼らにたいして、直接的な道徳上の責任はたぶんない。しかし、彼らへの直接的な道徳的責任はないとしても、そのほかの道徳的・倫理的側面がそこに存在しないわけではないはずで、たとえばじぶんじしんにたいする倫理性というものはふつうに存在しうるはず。つまるところ、彼らにたいしてどのような印象を持ち、どのようなことば(とりわけ形容詞)をさしむけるかによって浮き彫りにされるのは、彼らの特徴とか性質ではなくて(それは作品に記されてあることばそのものをひろいあげてつなげることでしか浮き彫りにされない)、読んでいるこちらじしんの立場とかイデオロギーとか性質とか偏見とか感性とかだということ。とくに新鮮なはなしではなく、通有のかんがえかただが。つまり、文学作品とは読むもののすがたを映し出す鏡である、という紋切型に要約されてしまうはなしだが。
  • ちょっとストレッチをしてからここまで記して五時過ぎ。
  • なぜかわからないが、今年は自室のなかで蚊に遭遇するという経験がいままでないことに気がついた。去年までは、就眠時に耳のまわりを蚊がプーンと飛んで鬱陶しく、苛立たされてねむりにはいれないということが何度かあったが、今夏はそれがいちども起こっていない。蚊に刺されるということ自体もこれまでほぼなかった気がする。
  • アイロンかけのときに(雨は降っていなかったとおもうが空には濃いめの灰色をそそがれた雲がわだかまっていて、山にも靄がまつわって緑が見えにくくなっており、窓外は全体として墨絵の風合いになっていた)テレビが録画された『家、ついて行ってイイですか?』をながしていたのでながめた。「運命の分かれ道スペシャル」みたいな回で、さいしょ老舗の中華屋を継ぐ若い夫婦が出ていて結婚するとか述べており、そのあと千葉のスーパーだかJAだかで若い夫婦と行き会って旦那のほうの実家をおとずれたのだが、この男性は農家のひとで、その父親が一五年くらいまえにトラック運転手から家業だった農業に転換して成功し、でかい家を建てたというはなしだった。それがたしかに正面にひろくておおきな階段をかまえてそのうえには神社のような門まである御殿で、くだんの父親によれば階段の横に置いてある狛犬の像にあわせて中国風にしたということだった。番組スタッフが、数億円くらいしましたかと率直に生臭い問いをかけたところ、そんなにはしないよと言って濁していたが、たぶん二、三億とかそのくらいはするのではないか。
  • そのあと番組は終わり、すると録画リスト一覧みたいな画面にテレビは勝手にうつって、選択中のデータのプレビューとして左上のちいさな枠のなかに映像がながれるので、このおなじ『家、ついて行ってイイですか?』の回がさいしょからまたながれだす。それをそのまま放置しておき、アイロンをかけながら先ほど見はじめたときにはもう過ぎてしまっていたさいしょのほうの内容を(小さな画面なのであまり明確に視認できないものの)視聴した。あれはたぶん川崎駅だったのだとおもうが、そこで「街頭活動」をしている男性(沖縄の歌をうたったりもしているようだが、本義は政治方面のこころみだったようだ)に遭遇して自宅へ。これがけっこうおもしろくて、妻がいて帰るとちょうど夕食をつくっているところで、家はなかに楽器がたくさんあったり音楽スペースみたいなものとか妻が絵を描くためのアトリエがあったりして文化的においによって洒落ており、はなしを聞けばふたりは高校時代の軽音楽部の先輩後輩で(妻が先輩)、男性はもともと結婚相手と子どもがいたのだけれど、子どもの幼稚園の入園式に行ったその二週間後だかに家に帰ったら妻と子どもがいなくなっていたという。その直後に深夜三時ごろのコンビニで現在の妻とひさしぶりに再会し、意気投合して三か月で結婚、ということだった。男性は二四歳のときにインディーズバンドでCDを出しており、妻はすごい才能なんですよといって、そのバンドの音楽がどんなバンドよりも一番好きだといい、ながれる音楽にあわせて踊ったり狂乱したりしてみせ、非常に仲睦まじくたのしくやっているようすだったのだが、実は男性はここ二か月かそのくらい家に帰っていなくて会うのが非常にひさしぶりだったらしく、というのも政治活動に精を出しているからだと。まえの妻と子どもが出ていってしまったのもそれが原因だったらしく、もともと尖閣諸島沖で中国漁船と海上保安庁の船が衝突した事件のときに(Wikipediaを参照すると二〇一〇年のことで、sengokuなんとかいうアカウント名の人物によってYouTubeに衝突時の映像が流出したあの件だが、たしかこのあとに石原慎太郎尖閣を東京都が所有するという目論見を口にしはじめて、その後最終的に野田政権のときに国有化にいたったはず)、このままだと中国と戦争になってしまう、やばい、とおもって政治方面に関心をもちだし、その後沖縄に行ったりして(たぶん辺野古基地建設反対運動に参加していたということではないか)コミットをつよめていったという。それで家庭をなおざりにしてしまって、と男性は反省の言を口にしていたが、でもいまもおなじことやってるじゃん、わたしを放ったらかしにして、と妻に突っこまれており、それでいっしょにいると喧嘩になってしまうから距離を置いているというはなしだった(家をはなれているとき、男性はだいたい一泊一七〇〇円とかの宿に滞在しているらしく、いっしょにいると「喧嘩」になっちゃう、でも距離を置くとそれが「はなしあい」になる、「はなしあい」ができるようになるんですよ、と言っていた)。
  • 307~308: 「むろん、自然のそんな一角、庭園のそんな片すみは、ささやかなあの通行人、夢みていたあの少年によって――国王が群衆にまぎれこんだ記録作者によってのように――じっと長くながめられていたとき、自分たちがその少年のおかげで、この上もなくはかなく消えさる自分たちの特徴をいつまでもあとに残すようになろうとは、思いもよらなかったであろう、にもかかわらず、生垣に沿ってやがて野ばらにあとをゆずることになるさんざしのあの密集した(end307)花の匂、小道の砂利の上をふんでゆく反響のない足音、水草にあたる川水にむすぶかと見えてただちにくずれさる泡、私の高揚は、それらのものを、こんにちまでもちこたえ、それらのものにあのように多くの年月をつぎつぎに遍歴させることに成功したのであり、一方周辺の道は姿を消し、その道をふんだ人々も、その道をふんだ人々の思出も死んでしまっているのだ」
  • 310: 「もとより、メゼグリーズのほうにしてもゲルマントのほうにしても、異なったさまざまな印象を、同時に私に植えつけてしまったばかりに、それらの印象の一つ一つを永久に分解できないほど私のなかで一体化してしまったので、将来にわたって、この二つの方向は、多くの幻滅や、多くのまちがいの危険にさえ、私をさらすようになった。というのも、しばしば私は、ある人がただ単に私にさんざしの生垣を思いださせるだけであるのに、やたらにその人にもう一度会いたいと思うようになったり、単に旅行したいという欲望だけから、ある相手にたいして愛情がもどったと自分に思い、相手にもそう思わせようとするそんな気持にさそわれるようになったからだ」
  • 311: 「この二つの方向は、またそれらの印象に、ある魅力、私だけにしかないある意味をつけくわえている。夏の夕方、調和に満ちた空が、野獣のようにほえ、みんなが口々に雷雨に不平をこぼすとき、私だけが一人、ふりしきる雨の音を通して、目には見えずにいまもなお残っているリラの匂を嗅ぎながら恍惚としていられるのは、メゼグリーズのほうのおかげなのだ」
  • 312: 「むろん、朝が近づくころには、夜なかの私の目ざめに伴ったあのつかのまの不確実さは、消えてから長く経っていた。私は自分が実際にどんな部屋にいるかを知っていたし、すでに闇のなかで私は自分を中心にしてその部屋を再建していた、そして――ただ記憶だけで自分の向きをきめたり、ふと目にしたかよわい光を手がかりにして、その光のすそに窓ガラスのカーテンを置いたりしながら――あたかも窓や戸口の面積は元通りにして改装する建築師や室内装飾家のように、その部屋をすっかり再建し、家具を入れ、姿見を置き、簞笥をいつもの場所にすえてしまっていた。しかし、夜あけの光が――それも、私が夜あけの光だと解釈した銅製のカーテン・ロッドに映る最後の燠火の反射ではなくて、ほんとうの夜あけの光が――闇のなかに、チョークで書いたように、その最初の、白い、訂正の線を入れるやいなや、窓はそのカーテンとともに、私がまちがって戸口の框に置いていたその場所を離れ、一方私の記憶が迂闊にもそこにすえられていたと思いこんでいた仕事机は、窓に席をゆずるために、暖炉を前方に突きだし、廊下との境の壁をおしのけながら、大いそぎでのがれさるのであった(……)」
  • 320~321: 「聡明な人が他の聡明な人から愚物と見られることをおそれないように、エレガントな人間は、自分のエレガントが、大貴族にかえりみられないことをおそれないで、田舎者にかえりみら(end320)れないことをおそれるのである。この世がはじまって以来、人々が浪費したあの才気の代償、虚栄から出た虚偽、それらはかえって人々を小さくしただけであるが、それらのものの大部分は、劣等者を目標にされてきたのであった。そして、公爵夫人にはなんのこだわりもなくのびのびしていられたスワンも、小間使のまえでは、軽蔑されはしないかとびくびくして、気どったポーズをとるのであった」
  • 322~323: 「それからまた、理知にすぐれていながらいままで無為に日を送ってきて、その無為が自分の理(end322)知に、芸術や学問が提供するのとおなじほど興味に値する対象を提供するという思想、「人生 [﹅2] 」はどんな小説よりもおもしろく、どんな小説よりも小説的な状況をふくんでいるという思想に、一つのなぐさめを、またおそらくは一つの口実を求めている人たちがいるものだが、スワンはそんな理知に富んだ人たちの部類に属していた」
  • 327~328: 「 [オデットは] スワンにはなるほど美しくない女とは思われなかったが、しかし彼が関心をそそられるような美しさではなく、なんの欲情もそそらず、むしろ一種の肉体的嫌悪をさえ起こさせるといった美しさに属する女で、個人差はあろうがどの男でもそれぞれもっているような女、われわれの官能が要求するのとは反対のタイプの女の一人だというふうに映ったのであった。彼が気に入るにしては、横顔はとがりすぎ、肌はよわよわしすぎ、頬骨は出すぎ、顔立はやつれすぎていた。目は美しかったが、いかにも大きくて、それ自身の重さでたわみ、そのために顔の(end327)残りの部分は、疲れをおびて、いつも色がわるく、不機嫌そうなようすに見えた」
  • 350: スワンがはじめてヴァントゥイユのソナタを聞いたときの一節: 「それからヴァイオリンの、ほそくて、手ごたえのある、密度の高い、統率的な、小さな線の下から、突如としてピアノの部分の大量の音が、ざわめきながらわきたち、月光に魅惑され変記号に転調された波のモーヴ色の大ゆれのように、さまざまな形をとり、うちつづき、平にのび、ぶつかりあって、高まってこようとしているのを見たとき、それだけでもう彼は大きな快感にひたったのであった」: モーヴ色8
  • 357~358: 「彼ら [コタール] 夫妻にとっては、ピアニストがソナタを弾くときは、自分たちになじみの形式とはまったく無関係な音符をでたらめにピアノの鍵盤にひっかけているように見えたし、(end357)画家はその画布の上にでたらめにいろんな色を投げつけているように見えるのであった。そうした画布に彼らがある形を認めることができたとしても、彼らはその形を重苦しくて低俗だと考えるのであって(つまり彼らは街で生きた人間を見る場合でも、いつも絵画の流派を見本に使い、それに照らしてその人間にエレガンスが欠けていると考えるのであって)、ムッシュー・ビッシュには人間の肩の構造も、また女の髪の毛がモーヴ色ではないことも、ともにわかっていないかのように、彼の絵には真実がないと思うのであった」: モーヴ色9

2021/8/11, Wed.

 『観念に到来する神』「序文」のなかで、レヴィナスはつぎのように書いている。

 〈私〉のうちにある無限の観念――あるいは、神への私の関係――は、他の人間への私の関係の具体的なありかたのうちに、つまり、隣人にたいする責めであるような社会性のうちで、〈私〉に到来する。この〈責め〉は、なんらかの《経験》において〈私〉に負わされたものではない。そうではなく、この〈責め〉について、他者の顔が、(end74)その他者性、異邦性そのものによって、どこから [﹅4] 由来するのかわからない [﹅5] 戒律をかたるのである [註57] 。

 レヴィナスの「神」について、本稿では立ちいることができない [註58] 。レヴィナス自身が「〈同〉と〈他〉とのあいだにうちたてられながら、全体性をかたちづくることのない絆(lien)を宗教(religion ふたたび - むすびつけるもの)と呼ぼう」(30/42)とかたっている以上、これは小稿のあきらかな限界であることはまちがいがない。それはしかし、レヴィナスにおける〈唯物論〉的な思考の動機にむしろ注目しようとするこの稿にあって、あえて意図された限界である。――「どこから [﹅4] 由来するのかわからない [﹅5] 戒律」(le commandement venu on ne sait pas d'ou)とは、ひとことでいえば、〈殺すなかれ〉という戒律である。レヴィナスによれば、〈顔〉の裸形の現前が、この戒律をかたりつづける。一見とほうもなく断言的な、レヴィナスのこの主張の内実については、のちに検討することにしよう(四・5)。
 ここで注目しておきたいのは、細部におけるレヴィナス的な用語そのものではなく、むしろ、引用の全体を支配しているレヴィナス固有のひとつの発想である。それは、「無限」を「他の人間への私の関係の具体的なありかた」のうちに見さだめ、その関係を、しかも、「隣人にたいする責め」としてとらえる(レヴィナスのものとして、それ自(end75)体としては今日ではよく知られた)発想にほかならない。この〈責め〉は、しかもレヴィナスによれば、〈他者〉にたいする私のがわの、たんに一方的な [﹅7] 責めなのである。
 ここにはたしかに、極端なかたちで自他の〈非対称性〉をとく発想がある。その発想は、しかも、哲学史上くりかえし登場した〈他我認識不可能論〉とはおもむきをことにした、ある種の徹底した立場であるようにおもわれる。いわゆる〈他我認識不可能論〉は、自他の関係がなりたっていることを(暗黙のうちに)前提したうえで、他者の心的状態の不可知性 [﹅4] をとく。その理説はしかも、〈私〉の特権性を、その直接的な可知性 [﹅3] というかたちで、あらかじめ先どりするものにほかならない。レヴィナスはこれにたいして、他者への関係そのもののなりたちを問い、〈私〉の特権性それ自体 [﹅7] の意味を問いかえしているようにおもわれる。(……)

 (註57): E. Lévinas, De Dieu qui vient à l'idée, Vrin 1986, p. 11.
 (註58): この問題については、岩田靖夫『神の痕跡』(岩波書店、一九九〇年刊)参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、74~76; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時。しばらくあおむけで深呼吸して、一一時一五分に離床。きのうの夕刊できょうは最高気温三六度になると見たのだけれど、そのわりにきのうとくらべるとそこまで暑気がはなはだしくはないかんじがした。水場に行ってきてから瞑想をやってみても、一五分以上座っていられた。とはいえむろん暑いが。やはり一日のさいしょに心身を調律するのは大事だと再実感する。
  • 食事はハムエッグを焼いた。あときのうのゴーヤのワタをつかったお好み焼き的な品を少々。母親はしごとで不在、父親はこの暑いのにそとでなにやらやっていたが、食事中に汗だくで居間にはいってきて、鉛筆はないかといいながらごそごそさがしていた。新聞で、磯田道史の「古今をちこち」をざっと読んだ。疫病史すなわち過去の事例にもとづいてかんがえるかぎり、今回のコロナウイルス騒動は中盤から終盤のあたりにはいってきているように見えると。過去の例としてそこであげられているのは一〇〇年ほどまえのスペイン風邪なのだが、それもふくめて疫病はだいたい、新型のウイルス発生→感染拡大→ウイルスが変異→都市部を中心に爆発的に流行→死者を出しながらも流行によって抗体や免疫が獲得される→それまでかからなかったひとや山間部などにもひろがる→国民の大多数に免疫がついて終息、というながれをとるらしい。それで今回の件は、この四番目か五番目あたりにさしかかっているようにおもわれると。日本ではいま四番目のフェイズ、インドでは五番目のフェイズではないかと。というのも、インドでは主要八州の人口の七〇パーセントが免疫を獲得しているとあきらかになっているらしい。まあそんなにうまく予測に沿うかな? という気もするが。
  • 風呂洗いではくみあげポンプのさきのほうが汚れていたのでそれも擦っておいた。垢なのかなんなのか、ピンク色の、言ってみれば皮を剝いだ鶏の肉とか内臓みたいな濁ったようなピンク色の汚れが溜まっていたので。管の蛇腹の襞のすきまにこびりついたそれをちいさなブラシでこそぎ落とす。
  • 帰室すると(……)にメール返信。というか上階に行くまえに返していたのだったか。けっきょく一三日の昼間に会うことにして、(……)でとあったので了承したのだ。新聞を見るにいちおうまだ感染もおおいし、飯をさっと食ってそのあとは野外の木陰のベンチにでも座ってくっちゃべったほうが良いのではとおもっているが。
  • 「読みかえし」ノートを読む。蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』からの書抜き。これも再読したい。なんだかんだいってもやはり書きつけられていることばにまずは厳密にそくしてたしかな論理をつなげる、という批評家をもうすこし読んでいきたい。ジャック・ネーフ(Jacques Neefs)とレイモンド・ドゥブレ=ジュネット(Raymonde Debray-Genette)がわりと気になるのだが。後者はジェラール・ジュネットのつれあいだったはずで、蓮實重彦は『「知」的放蕩論序説』かなにかにはいっていた対談(渡辺直己とか絓秀実がいたはず)のなかで、フランスの文芸批評でもバルトなんてもう読まれちゃいないし、もとのテクストのパラフレーズをみんなきちんと丹念にやらないし、読むことは壊滅的な状態にある、みたいなことをはなす文脈で、そんななかでドゥブレ=ジュネットだけはただひとり描写の問題を鋭敏にとりあつかっていてさすがだとおもいます、みたいなことを言っていたおぼえがある。

Hope and despair in Auschwitz, by Primo Levi

Sooner or later in life everyone discovers that perfect happiness is unrealisable, but there are few who pause to consider the antithesis: that perfect unhappiness is equally unattainable. The obstacles preventing the realisation of both these extreme states are of the same nature: they derive from our human condition which is opposed to everything infinite. Our ever-insufficient knowledge of the future opposes it: and this is called, in the one instance, hope, and in the other, uncertainty of the following day. The certainty of death opposes it: for it places a limit on every joy, but also on every grief. The inevitable material cares oppose it: for as they poison every lasting happiness, they equally assiduously distract us from our misfortunes and make our consciousness of them intermittent and hence supportable.

October 1944

We fought with all our strength to prevent the arrival of winter. We clung to all the warm hours, at every dusk we tried to keep the sun in the sky for a little longer, but it was all in vain. Yesterday evening the sun went down irrevocably behind a confusion of dirty clouds, chimney stacks and wires, and today it is winter.

We know what it means because we were here last winter; and the others will soon learn. It means that in the course of these months, from October till April, seven out of 10 of us will die. Whoever does not die will suffer minute by minute, all day, every day: from the morning before dawn until the distribution of the evening soup, we will have to keep our muscles continually tensed, dance from foot to foot, beat our arms under our shoulders against the cold. We will have to spend bread to acquire gloves, and lose hours of sleep to repair them when they become unstitched. As it will no longer be possible to eat in the open, we will have to eat our meals in the hut, on our feet, everyone will be assigned an area of floor as large as a hand, as it is forbidden to rest against the bunks. Wounds will open on everyone's hands, and to be given a bandage will mean waiting every evening for hours on one's feet in the snow and wind.

Just as our hunger is not that feeling of missing a meal, so our way of being cold has need of a new word. We say "hunger", we say "tiredness", "fear", "pain", we say "winter" and they are different things. They are free words, created and used by free men who lived in comfort and suffering in their homes. If the Lagers had lasted longer a new, harsh language would have been born; and only this language could express what it means to toil the whole day in the wind, with the temperature below freezing, wear ing only a shirt, underpants, cloth jacket and trousers, and in one's body nothing but weakness, hunger and knowledge of the end drawing nearer.

In the same way in which one sees a hope end, winter arrived this morning. We realised it when we left the hut to go and wash: there were no stars, the dark, cold air had the smell of snow. In roll-call square, in the grey of dawn, when we assembled for work, no one spoke. When we saw the first flakes of snow, we thought that if at the same time last year they had told us that we would have seen another winter in Lager, we would have gone and touched the electric wire-fence; and that even now, we would go if we were logical, were it not for this last senseless crazy residue of unavoidable hope.

When it rains, we would like to cry. It is November, it has been raining for 10 days now and the ground is like the bottom of a swamp. Everything made of wood gives out a smell of mushrooms.

If I could walk 10 steps to the left I would be under shelter in the shed; a sack to cover my shoulders would be sufficient, or even the prospect of a fire where I could dry myself; or even a dry rag to put between my shirt and my back. Between one movement of the shovel and another I think about it, and I really believe that to have a dry rag would be positive happiness.

By now it would be impossible to be wetter; I will just have to pay attention to move as little as possible, and above all not to make new movements, to prevent some other part of my skin coming into unnecessary contact with my soaking, icy clothes.

It is lucky that it is not windy today. Strange how, in some way, one always has the impression of being fortunate, how some chance happening, perhaps infinitesimal, stops us crossing the threshold of despair and allows us to live. It is raining, but it is not windy. Or else, it is raining and is also windy: but you know that this evening, it is your turn for the supplement of soup so that even today, you find the strength to reach the evening. Or it is raining, windy and you have the usual hunger, and then you think that if you really had to, if you really felt nothing in your heart but suffering and tedium - as sometimes happens, when you really seem to lie on the bottom - well, even in that case, at any moment you want you could always go and touch the electric wire-fence, or throw yourself under the shunting trains, and then it would stop raining.

  • 夕刻、食事の支度。米を磨ぎ、ナスと冷凍に保存されていたひき肉および業務用の簡易な豚肉を合わせて焼いた。ほか、キュウリや大根をスライスして生サラダ。
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  • 風呂のなかでは瞑想的に静止し、それで再認識したのだけれど、瞑想というのは徹頭徹尾身体的な技法もしくはありかたなのだ。「瞑想」という語は目を瞑ってものを想うというわけだし、また悟りとかのイメージともむすびついているので、ものをかんがえたり、あるいは逆になにもかんがえない状態を目指すだったり、なんらか特殊な精神状態を志向するものだとおもわれがちな気がするが、じぶんの理解ではまったくそんなものではない。それはあくまで身体のことがらなのであって、だから「瞑想」というより「座禅」といったほうが、たぶん用語として実態にちかいのだろう。それはまず第一になにもしないこと、行動を停止することである。第二に、瞑想というのは、その停止状態においてじぶんの身体を感じつづけることだと理解した。そのときに感じつづける対象となる身体とは、まず主には皮膚の感覚である。からだの表面に無法則に生起してはまた消えることをくりかえす無数の感覚(かゆみだったり痛みだったり、風呂場であれば汗が肌をながれていく感覚だったり、ひっかかりだったり、熱感や涼感だったり)をそれぞれにひろいあげて感覚し、認識しつづける。べつにことさらに観察しようとしなくとも、停止状態においては意識の領野がクリアになるからそのひろがりのなかにおのずからつぎつぎと感覚はたちいってくるし、現象学方面で共有されている基本的前提にしたがって意識がつねに志向性をもっていて一度にあるひとつのものしか志向できないとしても、意識それじたいのはたらきにまかせれば、おびただしく無数の生滅のあいだをその志向性はたえまなくうつりわたっていく。だから、イメージとしてはひろがった空間にあちらから知覚刺激がはいってくるというかんじなので、「観察」という語をつかうよりもむしろ「検出」(detect)とでもいったほうがいいような印象で、イメージをより具体的にすればレーダーということになるだろうし、またべつの比喩をつかえば、『HUNTER✕HUNTER』に「円」という念能力があるけれどまあああいったかんじだ(もちろん漫画のようにすごく遠くのものを感じ取るようなことはできないが)。その皮膚感覚からはじまって、さらに体表面ではなくてからだの内側の感覚(筋肉の動きとかそれがほぐれていく感覚とか内臓がうごめくかんじ(空腹時はマジでよくうごく)とか呼吸のそれとか、単純な存在感覚とか)も検知され、そこからさらに拡張的にじぶんのからだをはなれた外界の気配とか音とか空気のながれとかに意識はひろがってゆく。皮膚感覚をふくめた体感覚はきわめて無数で多種なので、非常におおげさないいかたをすれば、瞑想をしているときというのは、みずからの身体がひとつの小宇宙と化すようなもので、その世界のいたるところで起こっている出来事を俯瞰的に見守っている神のような視点に立っている(じっさいには座っているわけだが)といえなくもない。とはいえ、いま便宜的に「皮膚感覚からはじまって」と述べたけれど、じっさいの時間においてさいしょにかならず皮膚感覚にたいして意識が集中されるわけではなく、さいしょのうちにまず外の世界の物音に耳が向いたりとか、それはそのときどきでさまざまである。ただそのなかでも皮膚の感覚が根本的なものなのではないかとじぶんは個人的におもっているし(その根拠は特にない)、またじっさい、どこからはじまるにしても座っているうちに最終的にはじぶんの身体やその輪郭がまとまる、という感じを得るだろう。
  • ところで瞑想中にあるのはもちろん身体だけではなくておのれの精神もそこに絶えず存在しているわけだが、こちらのほうはといえばなんでもいいわけである。なにかをかんがえていてもいいし、かんがえていなくてもいい。あたまのなかで思考とか独語とか記憶とか表象とか想像とかがとどまるということはふつうに生きている人間においてありえない(あるとしてもせいぜいながくて五秒くらいではないか)。藤田一照が『現代坐禅講義』のなかにたしか他人のことばとして書きつけていたが、人間のそういう精神の作用というのは恒常的な「分泌物」である。つまり唾が出るとかそういうこととだいたいおなじものだということで、これは卓抜な比喩である。だからなにかをかんがえないようにしようとかそういう意図は無駄で無理なものであり(だいいち、そこではすでに「なにかをかんがえないようにしよう」とかんがえている)、精神のほうは端的にどうでもよいというか、ただそこにあってたえずうごいているものとしてただそこにあらしめているだけでいいというようなかんじだ。だからいってみればそれも、じぶんからはなれた外界のもろもろの物事がじぶんの意志とは無関係にそれじたいで勝手に生滅しているようなものとして認識されて、たとえば窓のそとで鳴いている虫の声とおなじ平面にあるものとして同列にとらえられる、ということなのかもしれない。
  • ほか、(……)さんのブログを読み、(……)さんのブログも最新からいくつか読み、2020/1/16, Thu.も読んだ。同日の日記のなかには、2014/5/28, Wed.からの引用があって、いまとぜんぜん文体が違うもののなにかひとつの感触みたいなものがあってなかなか悪くない、とか記されていたのだけれど、そのうちのひとつはたしかに二〇一四年のじぶんのわりになかなか良いなとおもわれた。「マグロのソテーと米とみそ汁を食べた。食べながら食べ物の熱が顔やからだにうつって汗が出た。これが夏だった、と思いだした。空気はなまあたたかくて、熱が顔にまとわりついて何もしなくても汗が出て、ときどき風が吹きこんで涼しくてレースのカーテンがスカートみたいに持ちあがって、それか逆に網戸に吸いつけられて、温度計は三十度だった。もうすこし気温があがってセミの声がくわわれば夏が完成する」という文。なんということもない記述ではあるが。「レースのカーテンがスカートみたいに持ちあがって、それか逆に網戸に吸いつけられて」というぶぶんがいちばん良い。いまもじぶんは、「~~して」もしくは「~~で」をつらねて文をながくすることがけっこうおおいとじぶんでおもっているのだけれど、このころからもうそういう口調なのだな、とおもった。
  • あと、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読んでいて、これは再読したい。また、この一年半前の冬は日常のルーティンの個々の動作までやたらこまかく記していて、なんでこいつこんなにこまかく書いてんの? とおもわれ、そのあたりの毎日変わらないこまごまとした行為連鎖は退屈なのだが、そこから出勤路に出て外空間のなかで見聞きしたものを書く段になると一気にひろがったような感覚になって、やはりじぶんはどうしてもこういうところなのだなと、これを書くために日記を記しているようなものなのかもしれないとおもった。記述としてはいまとあまり変わらず、以下のような調子。

 足もとのアスファルトの表面の凹凸、あるいは襞、比喩的な意味での網目を見下ろしながら行く。寒気はかなり強い。空には朦々と、丸みを帯びた雲が湧き、いびつな球が繋がったように広がっていて、それに閉ざされた天空のもと、冷気は地上に集合して地の底から冷えてくるようで、冷たさがほとんど物体的なまでの勢力を誇っている。公営住宅に接した小公園の前に掛かったところで、無骨な幹の、桜の裸木が目に入った。葉を散らさず残した黒い樹々と闇を湛えた大気とを背景に、その枝ぶりの直線的で固い広がりは、死んで乾いた動物の骨組みのようでもあり、亡霊が差し出している手のようでもあり、無機質な砂利のような色で浮かび上がっていた。

  • あと、ロラン・バルト『テクストの楽しみ』から引いた文に関連して、以下のように言っている。そのなかの、「創造的なごみ、あるいは偉大なる屑」といういいかたはなかなかいいなとおもった。

こちらとしては何と言うか、ごみのような存在でありたいと思うのだが。創造的なごみ、あるいは偉大なる屑。つまり、有用でありたくなどまったくない、何かの役に立ちたくなどない、ということだ。完全に無用で無償だが、それでも存在する、という密かでしたたかな権利を主張したいのだ。しかしそれもまた反動的とも思えるもので、そして反動こそ容易に回収されてしまう。やはりある程度は、もしくはある形では、制度や社会とのあいだに共犯関係を築き、あるいは〈寄生虫〉としてあらざるを得ないのではないか。大勢が定めた意味において役に立たないものは存在を許されない、そうした趨勢にこそ抗っていきたいのだが。

  • ほか、岡田温司アガンベンは間違っているのか?」(「REPRE Vol. 39」)(https://www.repre.org/repre/vol39/greeting/(https://www.repre.org/repre/vol39/greeting/))も読んだ。無断転載禁止と最下部にあるので興味深いところがあっても引けないが、この記事にかんしては本文中に特に引いておきたいようなところはなかった。ただ、コロナウイルスまわりで西欧の知識人たち(アガンベンとかバディウとか、ブルーノ・ラトゥールとか)が書いた英文記事がいろいろ註にしめされてあったので、それらはありがたい。ぜんぶメモしておいた。表象文化論学会のこのREPREのページはバックナンバーがすべて揃っていて、ただで読めるなかにけっこうおもしろい記事もありそうなので読んでいきたい。
  • 297: 「絹地のふくらんだモーヴ色のスカーフの上に、やさしいおどろきをたたえた彼女の目を、いまでもまだ私ははっきりと思いうかべる、彼女はそんな目に、いかにも家臣たちにすまないというような、いかにも家臣たちを愛しているような、女領主らしいすこしはにかんだほほえみをつけくわえていたが、そのほほえみは彼女があえて誰かに向けようとしたものではなく、居あわしているすべての人々が配分にあずかることのできるものなのであった」: モーヴ色7
  • 297: 「そしてたちまち私は彼女に恋をした、というのもわれわれが女を恋するには、スワン嬢の場合に私がそう思ったように、女がわれわれを軽蔑の目でながめていて、その女が絶対にものにならないだろうとわれわれが考えるだけで、ときには十分なこともあるし、またゲルマント夫人の場合のように、女が好意をもってわれわれをながめ、その女がものになるだろうとわれわれが考えるだけで、ときには十分なこともあるからだ」
  • 298~299: 「そうしたすべての文学的な気がかりからまったく離れた境地で、しかもそんな気がかりとはいっさ(end298)い無関係に、突如としてある屋根が、石の上のある日ざしが、ある道の匂が、私の足をとめさせるのであった、というのもそれらが私にある特別の快感をあたえたからであり、またおなじくそれらが、私に何かをとりだすようにさそっているのにどう努力しても私に発見できないその何かを、私が目にするもののかなたにかくしているように思われたからであった」
  • 299: 「なるほど、そんな種類の印象は、私が失ってしまった希望、将来作家や詩人になれるという希望を、私にとりもどしてくれるものではなかった、なぜなら、それらの印象は、知的価値のない物質、どんな抽象的真理にも無関係なある特殊の物質につねにむすびついていたからであった。しかし、すくなくとも、それらの印象は、理由がわからないある快感を、また一種のゆたかな力がわきおこるような幻想を私にあたえ、それによって、これまである大きな文学作品のための哲学的主題を探究したたびに私が痛感した困惑や無力感を私から払いさってくれるのであった」
  • 300: 「ひとたび家に帰ると、私はほかのことを考えていた、そして、そのようにして、私の精神のなかには(私が散歩で摘んできた草花とか、人からもらったものが、私の部屋のなかにあるように)、日ざしを浴びていた石とか、屋根とか、鐘の音とか、木の葉の匂とか、その他多くのちがった映像がつみかさなっていて、それらの映像にくるまれて、私に予感はできたが意志の力が十分ではなかったために発見するにはいたらないでいる現実が、長い以前から死んだままになっているのだ」
  • 302: 「馭者は口を利きたくないようすで、私が話しかけてもろくに答えなかったので、ほかに相手はなし、やむなく私は自分自身に鋒先を向け、私の鐘塔を思いだそうとした。するとまもなく、鐘塔の線と、夕日を浴びた表面が、まるで一種の外皮のようにやぶれ、それらのなかにかくされていたものが、すこしばかり私に姿を見せた、しばらくまえまで私に存在しなかった一つの思考が私にわき、頭のなかでいくつかの語の形をとった、そして先ほど鐘塔を見たときにおぼえた快感がぐっとこみあげてきたので、一種の陶酔にとらえられた私は、もうほかのことが考えられなくなってしまった」
  • 303: 「マルタンヴィルの鐘塔の背後にかくされていたものは、いくつかの語の形で私にあらわれ、それらの語が私に快感を起こさせたのだから、それは美しい文章に似た何物かであるにちがいない、とはっきりそう思ったわけではないけれども、私は医師から鉛筆と紙とを借り、良心の呵責を軽くするために、また自分の感激に素直にしたがうために、馬車がゆれるのもかまわず、つぎのような短文をつくったが、これはあとで私に見つかり、ほとんど修正を加える必要さえなかったものなのである」
  • 304~305: 「そのとき、つまり、医師の馭者がマルタンヴィルの市場で買ってきた家禽をいつもかごに入れてのせておくあの馭者台の片すみでこれを書きおわったとたんに、私は非常にうれしくなった、それはこの短(end302)文が、鐘塔と、鐘塔が背後にかくしていたものとを、私から完全に一掃してくれたという気持が強かったからで、私はまるで私自身が雌鶏であり、いまたまごを生みおとしたばかりのように、声を張りあげてうたいはじめた」

2021/8/10, Tue.

 他者が、〈他者〉だけが、その「他性 [﹅2] 」(altérité)がけっして私のうちに回収されない〈他なるもの〉である。つまり形而上学の「運動の終点」となる「卓越した意味で他なるもの [﹅5] 」である。レヴィナスにあって形而上学とは、この「〈他なるもの〉にむかう渇望」なのである。「形而上学的な渇望」は、「完全に他なるもの [﹅8] 」をめざしている(同 [21/30 f.] )。それは、「接触よりも貴重な隔たり」(195/274)をもたらすことになるだろう。そのかぎりでは、〈他者〉という〈絶対的に他なるもの〉をめぐる経験は、とりあえずは [﹅6] 跨ぎこせない〈隔たり〉の、あるいは到達しえない〈遠さ〉の経験にほかならない。
 そのゆえに、〈他者〉とは「所有しえないものである」(175/245)。私は、私とは完全に〈他なるもの〉を、所有することができない。あるいは、絶対的にへだたっているもの、無限に遠くにあるものを所有しえない。だが、なぜ「絶対的に」あるいは「無限に」(infiniment)なのだろうか。
 レヴィナス自身が注意しているように(cf. 42/58, 82/116)、ことがらのこの消息には、アンセルムスを先蹤としデカルトへと継承された、「神の存在論的証明」の議論構造とつうじあうものがある。私より「完全なもの」という「観念」は、私をはみ出してしまっている。私より完全なものはじつは観念ではなく、むしろ私がそれについてなんらかの観念をもつ完全性のいっさいをそなえたもの、つまり「神」そのものにほかならない [註56] 。
 おなじように、「〈他者〉は、他者について〈私〉がもつことのできる観念 [﹅2] のすべてから、(end72)絶対的に溢れ出てしまっている」(86/121)。レヴィナスによれば、他者の観念は〈私〉という「有限のうちにある無限、最小のうちにある最大」(42/59)にほかならない。だから、他者をめぐる「観念」はじつは観念 [﹅2] ではなく、「渇望」(désir)である、とレヴィナスはいう(82/116)。渇望されるのは、〈私〉から無限にはみ出してゆくもの、「〈他者〉、つまり〈無限なもの〉(l'Infini)」(82/115)なのである。他者は、私によってとりつくされることがない。他者とはつまり、私にとって [﹅5] 〈無限〉である。
 レヴィナスによれば、「無限の無限性を測るものが渇望である」(56/79)。というのも、他者への渇望とは、「〈渇望されるもの〉の所有によって癒やされるような渇望ではなく、渇望されるものが満足させるかわりに引き起こすような、〈無限〉の〈渇望〉である」(42/59)からである。その意味では、「渇望とは、測定することがまさに不可能であることによる測定である」(56/79)。「私のうちなる他者の観念 [﹅11] を過ぎこして〈他者〉が現前するしかたを、われわれはじっさい、顔と称する」(43/60)。あるいは、「渇望によって測られる測りえないものが、顔(visage)なのである」(56/79)。
 「無限の観念」は空虚なものではない。それは他者が存在する「存在の様式」、あるいは存在することを超えている様式、「無限の無限化 [﹅3] 」(l'infinition de l'infini)というしかた、〈他者〉が私にとってあらわれるしかたである(cf. 12/23)。つまり、他者が〈顔〉としてあらわれ、他者についての私の観念を溢れ出てゆく様式なのである。(end73)
 測りえないもの、際限(ペラス)をもたないものを、ひとは所有することができない(二・4)。いつまでも、あるいはどこまでも〈渇望〉されるにとどまるものを、私は所有しえない。かくして、「〈他者〉――この〈絶対的に他なるもの〉――が所有を麻痺させる。〈他者〉は、顔のうちに〈顕現〉することで、所有に異議をとなえる」(185/259)ことになる。(……)

註56: Cf. R. Descartes, Œuvres tome 6 (Adam/Tannery), p. 34 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、72~74; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 木村敏が八月四日に亡くなっていたらしい。

The young Primo Levi was tormented at the thought of picking up a gun and killing another human being. His biographer Carole Angier writes of his "deep horror of violence". But in 1943, he would "resist his instincts and make a moral choice to accept the necessity of killing" by joining the anti-Nazi resistance.

After weeks of agonising Levi came to the painful conclusion that his belief in non-violence was inadequate for his times. By joining the Justice and Liberty partisans, he resolved a tension between what the theologian Reinhold Niebuhr famously called "moral man" and "immoral society".

     *

Levi complicates his first thought - fight! - with other thoughts: the need for prudence, the threshold of "last resort", and the awareness of the unintended consequences - or what Levi calls the hard-to-control "genealogies" - of violence.

On the need for prudence: politicians, Levi advised, should "learn to live like chess players". He wanted his politicians "meditating before moving, even though knowing that the time allowed for each move is limited, remembering that every move of ours provokes another by the opponent, difficult but not impossible to foresee; and paying for wrong moves". On the fifth anniversary of the Iraq war, and with Jonathan Powell's admission that the post-conflict planning was (with hindsight) woeful, I don't need to belabour the relevance of that insight.

On the "last resort": "There do not exist problems that cannot be solved around a table," Levi wrote, though he added, crucially, "provided there is good will and reciprocal trust."

On unintended consequences: "From violence only violence is born," he wrote. One can disagree with that formulation and think it an overstatement, and it is contradicted by much else that Levi wrote. But where he says it, in his last book The Drowned and the Saved, he is telling an important truth: war, even a just war, will pulse out violence in uncontrollable ways, "in a pendular action that becomes more frenzied," as he puts it.

  • この日は一一時まえ起床。クソ暑かった。たぶんきょうの最高気温は三五度以上あったのではないか? 夕刊の予報ではあしたも三六度だというし。水場に行ってきてから瞑想をしても、すぐに肌着が汗ではりついて不快なので一〇分も座れなかったとおもう。
  • 食事はうどん。新聞からは長崎の原爆忌関連の記事を瞥見するなど。食後に椅子についたまま南窓のそとをぼんやり見やれば、そとはひどくあかるく、濁りない青空のもとでひかりがどこまでもあまねく染みとおっており、山の麓あたりの一画で緑が活動的にうねっているが、その緑もひかりに射抜かれてあざやかなかるさにはなやいでおり、しかも視界のなかに見える周辺のどの緑もそのおなじはなやぎの色に浸されていて、あるのは色種の差異ではなくおなじ緑の明暗の襞にすぎず、その高度な斉一性の達成はすごかった。
  • そういえば目覚めたときにも白いレースのカーテンがさらにひかりの白さにひたされていて、その凝縮的な純白がカーテンの襞におうじて偏差をつくってところどころに溜まってきらきらするものだから、海面みたいだなとおもったのだったが、同時にその白光領域となったカーテンのうえには窓外でネットにやどってそだっているゴーヤの葉や蔓の影も映ってはいりこみ、風に絶えず触れられる本体をまねてふるふると立ちさわいでいた。
  • いつもどおり茶を飲みつつウェブをまわり、さいしょに上記のLaurent Gaudéの記事を読んだあと、「読みかえし」。そしてプルーストプルーストは散歩の記述がつづき、そうすると風景にまつわる描写や文がおおいから、いきおいメモしようとおもう箇所はおおくなる。256からはじめていま295まですすんでいるが、きょう読んだところのなかで、話者が作家になることを夢見ているという言及がたぶんはじめて明言されるし、想像のなかで神秘的で高尚な存在としておもいえがいていたゲルマント夫人のじっさいのすがた(「鼻のわきに小さな吹出物があった」(292)り、「赤い顔をしていたり、サズラ夫人のようにモーヴ色のスカーフをつけていたり」(292~293)する)に接して幻滅もしくは失望するという場面もあるし、ヴァントゥイユの娘とその女友達がおこなう情事(すなわち同性愛のテーマ)の目撃(窃視)もあるし、メゼグリーズのほう(スワン家のほう)にしてもゲルマントのほうにしてもいろいろ詳細に描かれるし、主要なテーマがだんだん出揃いつつあるという感触。
  • ストレッチもおこなった。ほぼ一セットだが。合蹠だけ二セット。九日の記事をしあげて投稿したあと、五時まえに上階へ行き、まず米を磨いでセット。それから洗濯物をたたみ、アイロン掛け。そのころには下階かどこかにいた母親が台所にあがってきており、これよりもまえにもすでにスープなどつくってあったようでもう品がわりとそろっており、アイロン掛けを終えても料理はいいというので自室へ。上記した英文記事らを読んですごす。エアコンは切って窓をあけていたが、暑い。(……)さんかだれかがそとでラジオを垂れ流していて、その音声がちかく立っていた。関西弁のひとがなにやらにぎやかにトークしている番組だった。ラジオというか、YouTubeなどのチャンネル動画かもしれない。
  • 七時まえに食事へ。焼売や鮭など。焼売はややおおきめで充実したものでうまかった。それらをおかずに白米をむさぼる。新聞、夕刊一面には名古屋入管で三月に死亡したウィシュマ・サンダマリの件で出入国管理庁が調査結果報告を発表し、常勤医がおらず非常勤の内科医が週に二日二時間しか時間をとらない体制だったとか、現場の職員が内規に反した対応をしていて幹部まで情報がいっていなかったとか、そういった問題点・改善点を指摘したと。調査の主体として他機関が記されていなかったので、たぶん管理庁じたいによる調査および評価なのだとおもうのだけれど、第三者にはいってもらわなくて良いのだろうか? 同時にテレビでもこの件のニュースが報道されたが、それによれば、入管所内でのサンダマリ氏のようすを映した映像を遺族に開示すると管理庁は表明したらしい。いままでずっと渋っていた対応である。遺族は会見し、ウィシュマ氏の妹が、姉が最初の死亡者でも最後の死亡者でもない、いつになったら医療体制は改善されるのか? と訴える映像がしめされていた。ほか、「日本史アップデート」で中世以降の日朝外交について。対馬の宗氏が国書を偽造して日本政府と朝鮮との仲介をしていたことが近年あきらかになっているという。江戸幕府が朝鮮と国交をむすんだときも宗氏が文書を偽造して家康が下手に出て朝鮮との友好を望んでいるかのようによそおい、朝鮮側の返答も辻褄が合うようにいじったという。室町時代以来ずっとそういうことをやっていたようで、足利義政の時期に多数の「偽使」をおくっていたこともわかっているらしい。朝鮮がある時期から通常の日本からの通行を禁止したらしいのだけれど、対馬にとっては朝鮮との往来は死活問題だったので、なんだかんだと理由をでっちあげて偽の使節をおくって通行を維持し、朝鮮側もそれが虚偽だと薄々気づいていながらも黙認していたらしき節があるらしい。近年になって宗家にのこされていた史料として多数の印鑑が見つかり、そこに諸大名のものとか将軍のものとか、果ては朝鮮国王のものまでふくまれていたので偽造は確定だと。宮内庁が保存している朝鮮から豊臣秀吉にあてられた一五九〇年の国書におされた印とその朝鮮国王の印璽を比較してみると、朱の部分まで完璧に一致したので、したがって秀吉のときからもう対馬が偽造していたということになる。仲介役がそういうふうに勝手な都合で文書改竄をして双方の意思疎通がさまたげられたのが朝鮮出兵をまねいた一因だと、宗氏の責任をただすような終わりになっていた。
  • 食事中、台所にいた母親が、おばさん大丈夫かな、勝手口がなんか生ゴミ臭くて、とか漏らしていたのだけれど、ところにまさしくその(……)さんから電話がかかってきて、あげたゴーヤをつかってなんかつくったっていうから取りに行ってくると。それでもどってきた母親はしかし表情にせよ言動にせよ見るからにありがた迷惑といったようすで、得体のしれないものをもらってしまった、という雰囲気であり、持っていたビニール袋のなかにはいっているゴーヤ料理も汁気がおおくてやや黒々としており、どういう調理をしたのか遠目にわからなかったのだが、悪いけど、私はいいや、と母親はつぶやき、この袋もなんか古かったら嫌で、台所が生ゴミ臭かったし、というので、こちらがちょっと食べてみることにした。菜箸でいくらか椀に取ってみればこまかめに刻んだゴーヤに肉の細片が混ざったもので、たぶん炒めたあとに和えたのかなとおもわれたが、食べてみればべつにそんなにうまいわけでもないがまずくもなく、ふつうの料理で、甘じょっぱいような方向性で甘味がつよめでやや味が濃かったのだけれど、白米にでも合わせればわりといけるだろう、というかんじだった。母親は、この時期は他人がつくったものは嫌で(というのは暑いので、食中毒とか衛生方面が気になるのだろう)、だからこっちからもつくったものはあげてないけど、と言い、いまだったらくわえてコロナウイルスも気になっているにちがいない。
  • 食事中にはまた南窓にヤモリがあらわれて、それを見ると母親がまた出てきたとか言ったり、風呂からあがってきた父親もおうじたりしているのだが、さいきんは毎日ヤモリはこうして窓にあらわれてときに虫を食うさまが見られるようだし、夕食時をはなれても一日のおりおりに自室なり浴室なりで窓によく見かけるし、このあいだは下階の洗面所にはいりこんでもいた。
  • 四時過ぎに(……)からメール。ひさしぶりである。飯でもどうかと。コロナウイルスの感染者があいかわらずなのでやや気が引けるが、近間でふたりで会うくらいなら平気でないかと判断し、しかしこの数日でいきおいがいくらか下がることを願って一四日はどうかとおくったところ、一四、一五は用事があるという。それなので一三日か、あるいは一二日に会おうかなとおもっているが、場所などどうするか。昼飯でもちょっとだけ、と言っているが。
  • めちゃくちゃ伸びていた足の爪をようやっと切ることができた。

 適菜収『国賊論』のサブタイトルは「安倍晋三と仲間たち」。こんな表題の本だけあり、適菜の安倍批判は激烈である。
 〈安倍晋三は、国を乱し、世に害を与えてきた。文字どおり、定義どおりの国賊である〉と彼は書きだす。〈安保法制騒動では憲法破壊に手を染め、北方領土の主権を棚上げし、不平等条約締結に邁進。国のかたちを変えてしまう移民政策を嘘とデマで押し通し、森友事件における財務省の公文書改竄、南スーダンPKOにおける防衛省の日報隠蔽、裁量労働制における厚生労働省のデータ捏造など、一連の「安倍事件」で国の信頼性を完全に破壊した。/安倍は、水道事業の民営化や放送局の外資規制の撤廃をもくろみ、皇室に嫌がらせを続け、「桜を見る会」問題では徹底的に証拠隠滅を図った。/要するに悪党が総理大臣をやっていたのだ〉。

     *

 〈この究極の売国奴国賊を支えてきたのが産経新聞をはじめとする安倍礼賛メディアであり、カルトや政商、「保守」を自称する言論人だった。「桜を見る会」には、統一教会の関係者、悪徳マルチ商法の「ジャパンライフ」会長、反社会的勢力のメンバー、半グレ組織のトップらが呼ばれていたが、そこには安倍とその周辺による国家の私物化が象徴的に表れていた〉。
 安倍政権の「罪」は三つに分類できるだろう。
 ①無体な法律(特定秘密保護法、安保法、共謀罪を含む改正組織的犯罪処罰法、IR法、水道民営化法、改正種子法ほか)の制定、二度の消費増税沖縄県辺野古の新基地建設、米国からの武器の爆買いなど、平和憲法軽視や生活破壊に通じる数々の政策。
 ②数を頼んだ強行採決、メディアへの圧力、電通吉本興業と結託した政治宣伝など、官邸主導の独善的な政権運営
 ③森友問題、加計問題、「桜を見る会」問題に代表される政治の私物化と、それに伴う公文書の隠蔽や改ざん。
 ①については賛否が分かれるとしても、②は民主主義の原則にもとる専制だし、③に至っては犯罪ないし犯罪すれすれの大スキャンダルである。それでも安倍政権は野党やメディアや追及をかわし、まんまと難局を乗り切った。ひとえにこれは、官邸の要たる官房長官菅義偉の手腕によるところが大きい。
 「アベ政治を許さない」というスローガンに象徴されるように、左派リベラルは首相個人を最大の敵と見定めてきた。でも、もしかしたらそれは買いかぶり、幻想だったのかもしれない。
 〈大事なことは、安倍には悪意すらないことだ。安倍には記憶力もモラルもない。善悪の区別がつかない人間に悪意は発生しない。歴史を知らないから戦前に回帰しようもない。恥を知らない。言っていることは支離滅裂だが、整合性がないことは気にならない。中心は空っぽ。そこが安倍の最大の強さだろう〉と適菜はいう。

     *

 彼の手腕の一端は『伏魔殿――菅義偉と官邸の支配者たち』という本の中でも垣間見ることができる。
 〈2019年9月の内閣改造後、菅氏の周辺で、まるで狙い打ちにされたかのようなスキャンダルが続発した。/河井克行法相(当時)、菅原一秀経産相(同)の大臣辞任と、河井氏の妻・案里参議院議員公選法違反疑惑。河井氏、菅原氏はいずれも菅氏の側近で、入閣は「菅人事」と呼ばれた。また、同時に入閣した小泉進次郎環境相についても、就任以降の発言が「意味不明」と酷評され、私生活上のスキャンダルも報じられている。小泉氏もまた〝菅派〟の1人だ〉。さらに、〈菅氏の懐刀と呼ばれる和泉洋人首相補佐官と、厚労省の女性幹部官僚の「京都不倫旅行」〉、一二月には伊藤詩織さんが民事裁判で勝訴して、〈かつて菅官房長官の秘書官をつとめた中村格警察庁官房長が、山口敬之氏(元TBSワシントン支局長)の「逮捕を止めた」一件がクローズアップされた〉。さらにまだある。やはり一二月に、IRをめぐる汚職事件で秋元司衆院議員が逮捕された一件も、〈IRの旗振り役をつとめてきた菅氏にも「火の粉」が降りかかる可能性は十分にある〉。
 ちなみに河井夫妻はその後、逮捕されている。剛腕な番頭のほころびが目立ちはじめたことを指摘した記事ではあるが、逆にいうと菅はそれほど強引な人事をやってきたってことである。

     *

 今日の事態を見こしたかのように、〈この先「安倍政権にはずっと疑問を感じていましたが、立場上、発言できなかったんです」と言い出す人間のクズがたくさん出てくるはずだ〉と『国賊論』は予言する。〈しかし、安倍に見切りをつけて、泥船から逃げ出したとしても、一件落着という話にはならない。社会の空気が腐っている限り、同じようなものが担がれるだけ〉。

  • ほかにこの日は(……)さんのブログと2020/1/15, Wed.も読んだ。一時ごろだったかそのくらいにいたってなにかのくぎりがついたときに、つぎはなにをしようかとおもったものの、なにをしようという意志もあまり明確に湧いてこず、きょうはたくさん読んだし文もふつうに書いたから言語に飽いたのかなとおもった。それなら音楽を聞くのも手だが、そういう気にもならなかったし、ウェブを見るこころでもなかったので、なにもやる気にならないときはなにもやらなくてよかろうと寝床にあおむいてしばらくなにもしなかった。そのうちにおきあがってそのまま瞑想。二七分くらいやったはず。一週間くらいまえからすでにそうだったとおもうが、窓外の音響を聞くかぎりではもう夜はわりと秋をおもわせるかんじで、大気のなかに生まれた小さな渦そのものといった風な回転式の色気のない虫の声がひとつ、これは息ながくつづいてとぎれてもちょっと間をおいてまた伸びだすそのうえに、言ってみればエイトビートのような定期的なリズムでチリチリ鳴く虫が何匹かいてかわるがわる勤勉につとめをはたしている。しずかなので、室内の家鳴りらしき音や、微細な虫が天井のむきだしの蛍光灯にカンカンあたっているらしい音やらが聞こえ、また窓のすぐそとで羽虫がカーテンから漏れる明かりにつられてうろついているようで、ときおり翅をバタバタやってゴーヤの葉のあいだをブンブン移動しているらしき音も間近く耳にさしこまれて、虫はとりたてて好きではないのでカーテンと網戸をはさんだすぐそこにそれがいるとかんがえるとちょっとからだに緊張をかんじた。
  • 風呂を出たときに母親が桃をむいてくれていたのでそれをいただくためにソファですこし待ったのだが、そのときテレビは北野武国分太一がパーソナリティをつとめる情報番組的なものをながしていて、玉城絵美といってボディシェアリングなる技術を研究開発しているひとが紹介されていた。腕に巻くタイプの機械をふたりがつけ、いっぽうが手を握ったりするとその情報がつたわってもうひとりも意図せずとも勝手にからだがおなじようにうごく、というもので、しくみは、だいたいひとはここの部分がうごけばどの指がうごくというのが決まっているらしく、腕に巻いた機械でどこの筋肉がうごいたというのを読み取り、そことおなじぶぶんをうごかすように周波刺激を他方におくって筋肉を強制的にうごかす、というものらしい。TIMES誌の世界の発明五〇みたいなやつにえらばれて注目されており、このまますすめばノーベル賞ものになるかもしれないとのこと。
  • 257~258: 「なるほど私は、本のなかでは――そしてその場合は私自身もフランソワーズとまったく同様に――喪の概念に同感しただろう。たとえば『ロランの歌』の喪とか、またサン=タンドレ=デ=シャンの正面玄関にあらわされている喪とかの場合である。しか(end257)し、フランソワーズが私のそばにくると、ある悪魔が私をそそのかして、彼女を怒らせてやれという気持にさせるので、私はわずかなきっかけを見つけては、こんなことを彼女にいうのだ、叔母が亡くなったのを自分が惜しむのは、こっけいに見えることばかりをやっていても彼女が善良なひとであったからなので、叔母であったからというのではけっしてない、たとえ相手が私の叔母であっても私にとっていやに思われることもありうるし、彼女が死んでも私になんの悲しみも起こさせないことだってあるだろう、と。つまり、そういうことを本で読んだとしたら私にはきっとくだらないと思われたようなことを、フランソワーズのまえで口にするのであった」
  • 259: 「家々の壁、タンソンヴィルの生垣、ルーサンヴィルの森の木々、モンジューヴァンが背を寄りかからせている灌木のしげみ、それらは私の雨傘とかステッキとかにぴしぴしとたたかれ、私の歓声を浴びるのだ、そうした私のふるまいは、私をたかぶらせている混乱した思考、そとの光のなかにはいってまだ落ちつけなかった混乱した思考が、徐々に、難儀しながら、あきらかな形をとるよりも、直接のはけ口へ手っとり早く流れでようとする快さを好んだために生じた結果にほかならなかった」
  • 259~260:

 (……)現在の私がメゼグリーズのほうに負っているもの、メゼグリーズのほうがたまたま背景となりまた必要な啓示となってもたらされたささやかな発見、そうしたものをいま私が数えあげようとするとき、私に思いだされるのは、その秋の、そうした散歩のある日に、私が、モンジューヴァンの背後の防壁となっている灌木のしげった斜面の近くで、われわれの受ける印象と、その印象をわれわれが表現する日常の言葉とのあいだのくいちがいに、はじめて(end259)心を打たれた、ということである。一時間ばかり、大よろこびで雨や風と格闘したあげく、私がモンジューヴァンの沼のほとりの、ヴァントゥイユ氏の庭師が庭園づくりの道具をしまっていたスレートぶきの小屋に着いたとき、ちょうど太陽がふたたびあらわれたばかりで、驟雨に洗われた太陽の金箔が、空に、木々の表面に、小屋の壁に、まだぬれているスレートの屋根に、新しくかがやいていて、その小屋の屋根のいただきに一羽の雌鶏が歩いていた。吹く風が壁面に生えてしまった雑草やその雌鶏の綿毛を横になびかせ、雑草も綿毛もともどもに、やわらかくて軽い物に特有の抵抗のなさで、その長さいっぱいまで、風の吹くままになびいていた。ふたたび太陽を反映して光っている沼のなかに、スレートの屋根がばら色の大理石のまだら模様をつくっていたが、そんな模様に注目したことはまだ一度もなかった。そして水のおもてと壁の表面に、ある青ざめたほほえみがちらつき、それが空のほほえみに答えているのを見て、私は熱狂のあまり、とざした雨傘を振りまわしながら叫んだ、「ちえっ、ちえっ、ちえっ、ちえっ。」 しかし同時に、自分の義務はこんな不透明な語にとどまることではなく、自分の魂をうばったこの恍惚をもっとはっきりと見るようにつとめることではなかろうか、と感じた。

  • 262: 「しかし女の出現をねがうそんな欲望が、私にとって、周囲の自然の魅力にさらに何か興奮的なものをつけくわえたように思われたとすれば、その反面で、自然の魅力は、せまくなりすぎるおそれがあった女の魅力の領域をひろげるのであった。木々の美はさらにその女の美であり、その女のくちづけは、私が見わたしていた地平の風景の、ルーサンヴィルの村の、その年に私が読んでいた本の、それぞれの魂を私につたえてくれるように思われた、そして私の想像力は、私の肉感性に接触して力をとりもどし、肉感性は想像力の全領域にひろがり、私の欲望にはもはや限界がなかった。つまり――われわれがそのように自然のただなかで夢想するときに、習慣の作用は停止され、事物についてのわれわれの抽象的な概念は脇におしやられるので、われわれは自分が所在する場所の独自性、その場所の個性的な生命を、深い信仰のように信じるものなのだが、そのようなときによく起こるように――私の欲望が出現を呼びかけている通りがかりの女は、女性というあの普遍的なタイプの任意の一例ではなくて、この土壌から生まれた必然的な、自然な存在であると私に思われたのであった」
  • 263: 「メゼグリーズやバルベックそのものにたいして欲望をもったように、私はメゼグリーズやルーサンヴィルの農家の娘に、またはバルベックの漁師の娘に、それぞれ欲望をもった」
  • 263: 「私の目に、木の葉の影をまだらに浴びた姿でしか思いうかばなかったその娘は、それ自身、私にとって、いわば特定の地方に自生する植物の一種類であった、そしてその種類は、おなじ植物の他の種類より丈が高いだけでなく、その構造も、この地方の風致の本質に一段と深くせまることを可能にするものなのである」
  • 272:

 「あら! お父さまのあの写真が私たちを見つめているわ、誰がこんなところに置いたのかしら、二十度もいったのに、場所ちがいだって。」
 これはヴァントゥイユ氏が自分の作曲した楽譜のことで私の父にいった言葉であったのを私は思いだした。この肖像写真は、彼女たちがおこなう儀式である瀆聖に、おそらくいつも役立っていたのだ、なぜなら女友達は、彼女の典礼の応答の一部をなしていたにちがいないつぎのような言葉で、ヴァントゥイユ嬢に答えたからである。
 「いいのよ、そのままにしておけば、私たちにうるさくいおうとしても、もう生きていないのだから。それともこんなに窓をあけっぱなしにしているあなたを見たら、泣きべそをかいて、あなたにコートをかけてくれるとでも思っているの、あのいやらしい猿がさ。」

  • 274~275: 「彼女のようなサディスムの女(end274)は、悪の芸術家であって、根底からわるい人間は、悪の芸術家にはなりえないであろう、なぜなら、根底からの悪人にあっては、悪は外部のものではなく、まったく自然に自分にそなわったものに思われ、その悪は自分自身と区別さえつかないであろうから、そして、美徳や、死んだ人たちへの追憶や、子としての親への愛情にしても、そんな悪人は、自分がそうしたものに崇拝の念を抱かないであろうから」
  • 281: 「きんぽうげは、このあたりに非常に多く、彼らは草の上であそぶためにこの場所を選んだかのようで、一ところに孤立したり、対になったり、群をなしたりして、卵黄の黄色をふりまいていたが、そのあざやかな視覚の快感が、どんな味覚をさそいだすこともできないうちに、私はそれらのきんぽうげの金色に焼けている卵黄の表面に視覚の快感をどんどん盛りあげていって、ついにその快感が食欲を越えた美を生みだすまでに強くなったので、それらの黄色はますますかがやくように私には見えるのであった」
  • 282:

 私は土地の子供たちが小さな魚をとるためにヴィヴォーヌ川のなかに沈めるガラスびんを見るのがたのしかったが、そうしたガラスびんは、なかに川水を満たし、そとはそとで川水にすっぽりとつつまれて、まるでかたまった水のように透明な、ふくれたそとまわりをもった「容器」であると同時に、流れている液状のクリスタルのもっと大きな容器のなかに投げこまれた「内容」でもあって、それが水さしとして食卓に出されていたときよりも一段とおいしそうな、一段と心のいらだつ清涼感を呼びおこした、というのも、そのように川に沈んだガラスびんは、手でとらえることができない、かたさのない水と、口にふくんで味わえない、流動性のないガラスとのあいだに、たえず同一の律動の反復をくりかえして消えてゆくものとしてしかその清涼感をそそらなかったからであった。私はあとで釣竿をもってここへこようと心にきめ、間食のたべもののなかから、パンをすこしねだり、それを小さなパンきれにまるめてヴィヴォーヌ川に投げるのであったが、そんなパンきれだけでそこに過飽和現象をひきおこすには十分であったように思われた、なぜなら、水はパンきれのまわりにただちに固形化して、ぐにゃりとしたおたまじゃくしのかたまりのような卵形の房になったからである、おそらく水は、そのときまで、いつでも結晶させられるようにして、そんな房を、目に見えないように、そっと溶かしてひそめていたのであろう。

  • 284~285: 「一方もうすこし先に行くと、文字通りの浮かぶ花壇となって、おしあうように密生し、まるであちこちの庭のパンジーが、蝶のように、その青味をおびた、つやのある羽を、この水上の花畑の透明(end284)な斜面に休めにきていたかのようであった、この水上の花畑はまた天上の花畑でもあった、なぜなら、この花畑は、花自身の色よりも、もっと貴重な、もっと感動的な色でできた、一種の土を、花々にあたえていたからであり、またこの花畑は、午後のあいだ、睡蓮の下に、注意深くだまって動く幸福の万華鏡をきらめかせるときも、夕方になって、どこか遠い港のように、沈む夕日のばら色と夢の色とに満たされるときも、次第に色調が固定する花冠のまわりに、その時刻にもっとも奥深いものとの調和、もっとも逃げさりやすいものとの調和、もっとも神秘なものとの調和――すなわち無限なものとの調和――をいつまでも失わないようにたえず変化しながら、睡蓮を中天に花咲かせたように思われたからであった」
  • 288: 「要するに、私が思いえがいたのは、つねにメロヴィンガ王朝時代の神秘につつまれ、ゲルマントのあの「アント」 antes というシラブルから出てくるオレンジ色の光を浴びて、さながら夕日のなかに浸っているように思われた人物なのであった。しかし、それにもかかわらず彼らは、公爵であり公爵夫人である以上、私にとって、見知らぬ人間ではあっても、現実の存在であることに変わりがなかったとすれば、こんどは逆に、公爵という称号をもった人物が、途方もなく膨張し、非物質化して、その人物自体のなかに、彼らがその公爵である公爵夫人であるあのゲルマント家を、太陽に照らされたあの「ゲルマントのほう」の全体を、ヴィヴォーヌ川の流を、その睡蓮とその背の高い木々を、そしておびただしい晴天の午後を、残らずふくむことができるようになるのであった」
  • 289~290: 「彼女は私が書こうと思っている詩篇の主題を私に話させるのだ。そしてそんな数々の夢は、私が他日作家になることを望んでいる以上、私が何を書こうとするつもりなのか、それを知る時期がいまきていることを私に告げているのであった。しかし、そのことを自分に考えながら、ある無限な哲学的意味をもたせることのできる主題を何か見出そうとつとめると、すぐに私の精神は活動を停止し、注意力をあつめ(end289)ても前面には空虚しか見えず、自分には才能がないか、それともたぶん脳がわるいために才能のあらわれがさまたげられているかだという気がするのであった」
  • 291: 「そう思うと、私は自分がほかの人たちとおなじように存在し、彼らと同様に年をとって死ぬだろう、自分は彼らのあいだにまじって、書く素質をもたない人間の数にはいっているだけだ、という気がした。それで、私は勇気もくじけ、ブロックの激励にもかかわらず、永久に文学をあきらめようとするのであった。自分の思想が虚無であるという、私が抱いたこの内心の直接的な感情は、人からどんなお世辞の言葉を浴びせられても、それをうち消すほどに強く、悪人がみんなから善行をほめそやされるときの、良心のやましさに似た感情であった」
  • 291~292: 「ふと、結婚のミサのあいだに、聖堂警手がからだを動かしたはずみに、小祭壇に腰をかけ(end291)ている一人の貴婦人が私の目にとまった、それは鼻の高い、ブロンドの婦人で、青い、鋭い目、スカーフはモーヴ色の、軽くふくらんだ、なめらかな、新しい、光る絹地で、鼻のわきに小さな吹出物があった」: モーヴ色5
  • 292~293: 「私の失望は大きかった。それというのも、もともとゲルマント夫人のことを考えるとき、彼女をタペストリーやステーンド・グラスの色彩といっしょにして、生きている他の人間とは異なる世紀のなかに、異なる材料でできているもののように思いえがいていたことに、自分でけっして注意しなかったからなのであった。彼女が赤い顔をしていた(end292)り、サズラ夫人のようにモーヴ色のスカーフをつけていたりしようとは思ってもみなかった(……)」: モーヴ色6

2021/8/9, Mon.

 この運動〔形而上学の運動〕の終点――〈べつのところ〉あるいは〈他なるもの〉――は、卓越した意味で〈他なるもの [﹅5] 〉であるといわれる。どのような旅も、どのような気候や風景の変化も、〈べつのところ〉〈他なるもの〉にむかう渇望を充足することができない。形而上学的に渇望された〈他なるもの〉は、私が食べるパン、私がすみつく地方、私が眺める風景のような《他なるもの》ではないし、私じしんが私じしんにとって往々にしてそうであるような、この《他者》としての《私》でもない。こうした実在についていえば、私は《満腹》し、おおよそ満足することができる。そうした実在を、私がたんに欠いていたかのようにである。そのことによってまさに、それらの他性 [﹅2] は、思考し、あるいは所有する、私の同一性のうちに吸収される。形而上学的な渇望は、完全に他なるもの、絶対的に他なるもの [﹅17] をめざしているのである(21/30 f.)。

 前章までの議論の確認をもかねて、この一節でレヴィナスがとくところを跡づけてみよう。
 「私が食べるパン、私がすみつく地方、私が眺める風景」、それらはすべて、レヴィナスにとって、私の享受の対象であり、「糧」であった。享受は「他なるもの」(l'autre)に(end69)よって支えられながら、しかしこの〈他なるもの〉を解消する。欲求がもとめ、欲求をみたすものは、とくべつな意味における〈他なるもの〉ではない(二・3)。私が「満腹」しうるものは、〈同〉にとっての本質的な〈他〉ではありえない。私にとって端的に〈他〉であるものは〈同〉によって所有されることがないものでなければならないはずである。
 たしかにまた、「私じしんが私じしんにとって往々にして」他なるものである。つまり「《他者》としての《私》」が確実に存在する。――ここで問題となる論点はさしあたりふたつありえよう。《他者》となりうる私のありかは、ひとつには私の身体であり、いまひとつにはいわゆる無意識の存在であるとおもわれる。
 まず前者から考えてみよう。私の生は、ある匿名的な生と地つづきのものとしてあらわれる。私は呼吸をし、飲みかつ食べることで生きているにせよ、そうした身体の生は、〈私〉という人称的な存在がえらびとったものではない。私は(選択したり決意したりするのではなく)たんにそのこと「によって」生きている(二・2)。人称的な生の背後で身体の生がいとなまれ、強いていえば「ひと」(on)が、その生を前人称的にになっているのである。だからこそ「私はけっして絶対的には《私》とかたることはできない [註54] 」のだ。
 メルロ=ポンティが浮きぼりにした、この前人称的な生の次元は、しかしあくまで私のうちでいとなまれている。それは内部における外部性であって、端的に〈他なるもの〉ではありえない。〈私〉とは、身体である [﹅3] ことで、そうした〈他〉を同化しながら〈同〉であ(end70)りつづける自己であるからである。
 それでは、「フロイトのいう無意識」についてはどうであろうか。それはまさに自己の内部に端的に〈他なるもの〉が巣くっていること、主体としての〈私〉の綻びを、あますところなく示しているのではないか。無意識とは、いわば「〈私〉の背後の現前」、私の視線が到達しえない背面にほかならない(305/422)。私の意識にすら、意識そのものによって回収不能なもの、意識の光が到達しえない昏がりがある。〈私〉の意識という意味でのコギトにはたしかに、絶対的な外部があるのである。私の存在と意識との完全な一致という、素朴なコギト・スムを、無意識の存在は確実に喰いやぶるものであるようにおもわれる。
 この意味での無意識すら、しかしほんとうの〈他なるもの〉ではない。じっさい、フロイトのいう「不気味なもの」(das Unheimliche)とは、抑圧を経てふたたび回帰してきた「慣れ親しんだもの」(das Heimliche)、つまりは元来は「家」(Heim)にあったものにほかならない [註55] 。レヴィナスの視点からすれば、〈家〉にあったものとは、〈私のもの〉であった [﹅4] もの、あるいは〈私〉であったもの [﹅2] のことである(三・1)。抑圧によって疎遠なものとされたことがらすら、私にとって「絶対的に他なるもの [﹅9] 」(l'absolument autre)ではありえない。無 [﹅] 意識もそれが無意識 [﹅2] であるかぎり、ある意味ではやはり「思考し、あるいは所有する、私の同一性」(前出)のうちへと回収される。

註54: M. Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Gallimard 1945, p. 241.

註55: フロイトの無意識の理解については、鷲田清一フロイト――意識のブラックホール」(鷲田他著『現代思想の源流』講談社、一九九六年刊)一六三頁以下参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、69~71; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時半離床。寝床でしばらく深呼吸。水場に行ってきてから瞑想もおこない、二〇分座れた。よろしい。セミの声はあいかわらずではあるけれど、ただかさなりあってひろがっているその質感がいぜんよりなめらかになっているような気がされて、それは慣れてきただけなのか、あるいははやくも盛夏がその盛りをすぎようとしているのか。その音響のなかにつつまれてたゆたうようなかんじになった。
  • 食事はきのうののこりものなど。きょうの天気は曇り気味だが、あがっていったときには多少陽の色があったので、すでに取りこまれてあったタオルを出しておいた。新聞は一面でオリンピックの閉会をつたえている。国際面を見るとベラルーシ関連の記事。「トリブーナ」というスポーツ専門のニュースサイトが「過激派」に認定されたというのだが、その理由が、オリンピック参加後にポーランドに亡命した例のクリスツィナなんとかいう陸上選手のインタビューを掲載し、そこで彼女への帰国命令には政権中枢がかかわっていたみたいな指摘をしたからということで、それだけのことでスポーツメディアを「過激派」認定するなどただのアホである。どうしようもない政府だ。しかし、ここ二年くらいで(もっとさかのぼるならむろんドナルド・トランプいらい)、世界中マジでどこでもやばいかんじになってきているという印象を禁じえない。
  • きょうは風がゆたかで、起きたときにも部屋に厚いながれがはいりこんできていて、比較的涼しかった。風呂洗いを済ませて出てくると窓外の空気の色が落ちておさえられており、空も白雲がひろくはびこって雨の気配だったので、これはもうだめだなとおもってタオルを入れ、網戸で全開になっていた窓もそれぞれ閉めて開口をだいぶほそくしておいた。とはいえ雨はその後降ったのか降らなかったのか、明確に気づかれたときはいまのところなく(いま午後四時直前だが)、ついさきほどちょっと通ったような音を聞いたが風の音かもしれない。二時半ごろに書見を中断して上階のトイレに行ったときも、便器に座れば背後の上部にあたる細窓から、それは横開きの窓ではなくて上端がわずかにずれてひらくだけのものでだからほとんどひらいておらず風のとおり道はほそかったのだが、そこからながれがはいってきて床まで降りて足先のほうまで撫でるくらいだった。
  • 茶を持って帰室すると「読みかえし」ノートと書見。プルーストはついに「ゲルマントのほう」および「スワン家のほう」(メゼグリーズのほう)が説明され、スワンの所有地タンソンヴィルにてジルベルトとのはじめての邂逅も描かれ、オデットとシャルリュスもつかの間登場し、ようやく物語がすこしばかり駆動しはじめるような気配。ここまでは二二〇ページほどつかってもほんとうにひたすら舞台を描きひろげてととのえるだけというか、さまざまな人物や関係やエピソードが並列的につぎつぎと提示されるばかりで、単線であれ複線であれなんらかの道筋が生まれてまえに進行していくという感覚がなかった。三時ごろまで読んでストレッチ。BGMはLed Zeppelinをファーストからずっとながしていた。"Since I've Been Loving You"のギターソロはなんだかんだいっても格好が良い。ブルースロックだなあ、というかんじ。ところどころで音程があやしいときがあるが(チョーキングのとちゅうがむろんそうだけれど、チョーキングをしていないときでもそういう箇所があったような気がするのだが)、それもふくめてこういうギター、こういう音楽だよなあというかんじ。
  • "Top 10 eyewitness accounts of 20th-century history"の記事で紹介されている本はどれもおもしろそうで、メモしておくと、The Russian Revolution by Nikolai Sukhanov、The Diaries of Harry Kessler、The Diaries of Wasif Jawhariyyeh、Dateline: Toronto, 1920-1924 by Ernest Hemingway、The Devil in France by Lion Feuchtwanger、The Inner Circle: A View of War at the Top by Joan Bright Astley。あとはプリーモ・レーヴィの『これが人間か』と、ソルジェニーツィンの『収容所群島』と、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』(英題だと、The Unwomanly Face of Warとなっているが、名詞句を主述形式に変換したこの邦題は何気にファインプレーではないか)があがっている。とりわけ気になるのはHarry KesslerとWasif Jawhariyyehの日記で、そのつぎがJoan Bright AstleyとLion Feuchtwangerか。Harry Kesslerというのはドイツの外交官らしく、"eternally inquisitive"なひとであり、"Kessler got everywhere and met everyone from Bismarck to Josephine Baker. A diplomat as well as a dandy, he understood politics as well as art and cared for both (earning the moniker the Red Count). And he wrote brilliantly."とのこと。Wasif Jawhariyyehはオスマン帝国治下のエルサレムに生まれたキリスト教徒アラブ人で、英語とフランス語とトルコ語をはなし、クルアーンについても地元のイスラーム教師にまなんだといい、"he was his city’s Harry Kesssler: a poet and musician open to all, living in a world with ever-diminishing space for such eclectics."とのこと。
  • 五時まえで上階へ。母親が帰宅した直後だった。彼女が買ってきた品物を冷蔵庫へおさめる。あとで聞いたことには、ほんとうは五時までの勤務だが、きょうは所長もいなかったし、同僚三人で掃除をがんばって四時一五分までであがれたとのこと。こちらは台所にはいって、麻婆豆腐をつくることに。「丸美屋」の、なんだったか、贅の極み、みたいな文言がはいった品(「贅」という文字がはいっていたことは確実)の辛口。豆腐いがいにナスもくわえることにして一本切り、湯がく。いっぽうでフライパンにソースと豆腐を入れて加熱。やわらかくなったナスを足すと味醂とか足し、煮えるとごま油をまわしかけ、細ネギをきざんでもうすこし煮て完成。ついで、ゴーヤを切って塩もみしておいてくれと母親がいうので、冷蔵庫にはいっていたゴーヤ(我が部屋および隣室のそとのネットでそだてられ収穫されたもの)を二つ切り、なかのワタはくりぬいてパックに入れておいてくれというのでそのようにして(揚げたり、お好み焼き風にしたりするもので、この夕食でも後者のかたちで出された)、薄い輪切りにしていってザルに入れると塩を振ってかしゃかしゃ振ったり手でかきまぜたりしておいた。
  • クソ腹が減っていたのだが、それで帰室すると上述のように英文記事を読みつつベッドでだらだら休み、七時で夕食へ。新聞からさきほどのベラルーシの記事を読み直し、くわえてアフガニスタンタリバンが北部三州の州都を制圧したとかいう報も読んだ。カブールでもテロをつづけているらしいし、ほかの町でも警察署とか高官だか役人の公邸とかを襲撃したりしているという。やばい。テレビは『YOUは何しにニッポンへ?』。見ればなかなかおもしろい。ロンドンから来た男性が大阪から東京まで徒歩で旅行するというのに密着していて、あるいているあいだのようすは単調だろうからやはり大部分カットされておりおりの写真ばかりでどんどん日にちがすすんでいくものの、まあわりとおもしろい。じぶんも徒歩旅行してその記録を書けばまあおもしろいだろうなとはおもう。ながくやるのはしかしたいへんなので、一日だけあるきつめてそれを翌日書く、とかそういうことからやるか。むかしにいちどだけやったことがあるが、あれはたしか二〇一四年だったので、まだ筆力がついておらず、たいして書けなかったはず。一万字にも達さなかったのではないか。せいぜい六〇〇〇字くらいではなかったか?
  • 食後、茶をもってもどってきてここまで記述。八時半すぎ。あと、記述のまえに(……)さんのブログの八月八日を読んだ。保坂和志『未明の闘争』を読みだしている。保坂和志もまた読みたいなとおもう。保坂和志でじぶんが読んだことがあるものってすくなくて、小説作品はたぶん『カンバセイション・ピース』と『未明の闘争』だけで、後者はともかく『カンバセイション・ピース』を読んだのはもう相当まえだからほぼなにもおぼえていないし、エッセイのたぐいもほぼ小説論三部作だけのはず。あと、『言葉の外へ』だったか、そんなやつと、『書きあぐねている人のための小説入門』みたいなタイトルのやつがあったとおもうが、そのくらい。『季節の記憶』とか、『このひとの閾』(だったか?)とか、『カンバセイション・ピース』(がたしか、二〇〇三年ではなかったかとおもうのだが)いぜんの作品をまったく触れたことがない。

【ソウル聯合ニュース】韓国MBCテレビの調査報道番組「PD手帳」は9日、韓国情報機関の国家情報院(国情院)と日本の右翼団体の間で不当な取引があったことを確認し、10日の番組で関連映像や内容を報じると予告した。
 制作陣によると、国情院で25年間海外工作員として勤務した情報提供者が、番組側に対し「国情院が日本の極右勢力を支援しており、独島と旧日本軍の慰安婦問題を扱う市民団体の内部情報を日本の極右勢力に流出させるのに協力した」と明らかにした。
 番組側はこのインタビューに基づき、日本の右翼団体が韓国の独島、慰安婦関連の市民団体の動きを事前に把握し、弾圧する未公開映像を入手したと説明した。
 また、「7カ月間の追跡取材で国情院の多くの関係者が驚くべき事実を告白した。国情院が訪韓した日本の右翼関係者を接待し、北の重要情報を彼らと共有した」と主張した。
 制作陣は国情院から支援を受けたとされる代表的な右翼関係者として、安倍晋三前首相と近い関係にあることが知られるジャーナリストの桜井よしこ氏を挙げた。
 番組は10日午後10時半から放送される。

  • 入浴中、窓外に風の音を聞く。一〇時か一一時ごろだったはずだが、まだまだ盛んで、林の樹々が一面に葉を鳴らしているひびきがおりおりに厚くふくらんで寄せ、ほとんど絶え間なくつづくものの、それでいて浴室内で湯に浸かっている身にはあきらかに触れてくる涼しさがないので立ち上がって窓に寄り、ほそい隙間のまえに顔を置いたところ、そうすれば網戸のむこうのかたいような闇のなかで街灯をさしこまれながら旗はばたばた揺れており、たしかにながれこんでくるものが肌に触れて涼しい。
  • 八月七日分、八日分の日記を読書メモもすませてかたづけ、投稿することができた。よろしい。書抜きも一箇所、深夜に。三時まえだった。それよりいぜん、日記をすませたあとはベッドにうつってコンピューターをみながらだらだらしていたのだけれど、そのあいだずっと踵で両の太腿をぐりぐりやっていたところ、マジでからだ全体がめちゃくちゃ楽になってやばい。血のめぐりがよくなって、あおむけで寝て安静にしているのに汗が湧いてからだが熱くなった。プルーストをすこしだけ読みすすめたあと、四時で就寝。
  • 223: 「夏になると、反対に、私たちが帰ってくるとき、日はまだ沈んでいなかった、そしてレオニー叔母を部屋に見舞っているあいだに、傾きかかる日の光は、窓にふれ、左右にしぼった内側の大きなカーテンとその留紐とのあいだに突きあたり、割れ、こまかい枝にわかれ、濾過されてから、簞笥のレモン材の生地にこまかい金のかけらの象眼をちりばめながら、森の下草にさしこむときのような繊細さで、部屋を斜に照らした」
  • 224: 「それで私たちは、身につけているものをとるひまもなく、いそいでレオニー叔母の部屋にあがって安心させ、彼女がそれまでにめぐらしていた想像とはちがって、何事も起こらず、じつは「ゲルマントのほうへ」行ってきたことを私たちはあきらかにする(……)」: ここがたぶん、「ゲルマントのほう」の初出。
  • 225: 「というのも、コンブレーの周辺には、散歩に出るのに二つの「ほう」があった、そしてこの二つの方向はまるで反対なので、どちらへ行こうとするときも、おなじ門から家を出るということは実際にはなかったからである。その一つは、メゼグリーズ=ラ=ヴィヌーズのほうであって、おなじくまたスワン家のほうとも呼ばれていたが、それはスワン氏の所有地のまえを通ってそちらへ行くからであった、そしてもう一つは、ゲルマントのほうであった」
  • 227: 「私たちは、その [スワン氏の] 庭園のリラの花の匂が、そこに着くまえに、そとからくる人たちをむかえにきているのに出会った。リラの花自身は、その葉むらの小さなハート形の若々しいみどりのあいだから、庭園の柵の上にモーヴ色や白い色の羽かざりを物めずらしそうにもたげていて、午後は日陰になっていても、それまで日を浴びていたのでつややかに光っていた」: モーヴ色③
  • 228: 「私たちはひととき柵のまえに立ちどまった。リラの花時もおわりに近づこうとしていた、そのあるものはモーヴ色の高い枝付燭台の形をして、まだその花の繊細な泡を吹きこぼしていたが、その葉むらの多くの部分では、一週間まえに、波がしらにさかまく泡沫のように咲いていたかおり高い花が、早くもいまは、くぼんだ、干からびた、かおりの失せたあぶくとなって、そこに、小さくかたまり、黒ずんで、しなびていた」: モーヴ色④
  • 230: 「どの小道にもなんの足音もきこえなかった。どこかよくわからない木の高さを二分してとまった、姿の見えない小鳥が、この一日を短く感じさせてやろうと思いついて、声を長くひきながら、あたりの静寂をさぐっていたが、返ってくるものは、どこからも一様の反撃、静寂と不動とを何倍かにする反撥ばかりなので、その小鳥は、早く過ぎさせようと苦心した時刻を、永久に停止させてしまったかのようであった」
  • 232: 「しかし、私はそんなさんざしのまえで、目には見えないがそこに固定しているその匂を吸って、それを私の思考のまえにもってゆこうとじっと立ちつくしていたにもかかわらず、思考はその匂をどうあつかったらいいかを知らず、私はいたずらにその匂を失ったり見出したりするばかりで、さんざしが若々しい歓喜にあふれながら、楽器のある種の音程のように思いがけない間を置いて、ここかしこにその花をまきちらしている、そんなリズムに一体化しようとする私の努力はむだであった、しかもさんざしの花は、おなじ魅力を、つきることなくたっぷりと、無限に私にさしだしながら、連続して百度演奏してもそれ以上深くその秘密に近づくことができないメロディーのつながりのように、その魅力をそれ以上に深く私にきわめさせてくれないのであった」
  • 242: 「「そうじゃない、それはスワン [﹅3] の父親の職業のことだよ、あの生垣はスワン [﹅3] の庭の一部分だよ。」 そういわれると、私はほっと息をつがなくてはならなかった、それほどその名は、つねに私のなかに書きこまれ、その書きこまれた場所に居すわりながら、私に息苦しくのしかかっていたのであって、その名を耳にするとき、それはほかのどんな名よりも充実しているように私には思われた、なぜなら、口にするまえに、そっと心のなかでいってみたそのたびに、重さを加えていったからである」
  • 242~243: 「私の心をそそる特殊な魅惑をことごとく私はスワンという名にこめていたから、家の人たちがその名を口にすると、すぐに私はその名のなかに私の心をそそる魅惑(end242)を見出すのであった」

2021/8/8, Sun.

 C 労働し加工してえられたもの、「労働生産物」あるいは「製品」、広義の「作品」(œuvre)は、「内面性を外部にあらわす」もの、労働するもの、制作するものの意図の実現であり表現であると考えられる。労働生産物はその意味で、まずは労働する者の所有に帰し、作品と作者のあいだには特別な関係、親密なかかわりが存在するかにおもわれる。レヴィナスによれば、しかし、「労働の産物は譲渡できない所有物ではなく、〈他者〉によって簒奪されうる。作品は私から独立の運命を有しており、作品の総体のうちに組みこまれる [註44] 」(191/268)。なぜか。
 第一に、作品はつねに私の意図を一方では過小に表現し、他方では過剰に表現しているからである。労働という「活動が質料のうちに引く方向線(les lignes de sens 意味をもつ線)は、引かれるやいなや、曖昧さでみたされてしまう」(191/267)。たとえば、とある焼き物の表面を覆っている微妙な紋様の数々は、窯元の意図したとおりの条痕なのか、炎のもたらした偶然の装飾なのか。質料 [﹅2] が材料となるかぎり、すみずみまで私の意図が浸透した作品が制作されることはありえない。作品と作者とのあいだの特権的な関係に(end64)範型をもとめるベルクソン的な自由の理念は挫折する [註45] 。作品とはある意味では「労働の残骸」(ibid.)であり、なにほどかは意図の表現に「失敗した行為」(252/350)である。だから「作品は、他者の意味付与(la Sinngebung d'autrui)にたいして身をまもることができない」。「作品は、疎遠な意志の企図に身をゆだね、領有されるがままになる」(252/349)。
 第二に、かりに作品のなかに作者の意図がうつしだされているにしても、作品そのものはそれをみずからかたるわけではない。たしかに「作品は意味作用を有するが、沈黙をまもりつづけている」(250/346)。茶碗のおもてを無数に走っている亀裂、条痕には意味がある。が、それがどのような意味なのか、作者の意図のうちにふくまれていたことなのか、器はなにもかたらない [﹅5] 。作品はその本質からして〈匿名的〉になる。
 かくして、「作品は商品という匿名的なありかたを身にまとい」(250/346 f.)、「交換可能となり、貨幣という匿名的なもののかたちをとることになる」(191/268)。――〈もの〉は「自体的(en soi)には存在しない」。そのゆえに、「〈もの〉は交換され、したがって比較され量化され、そのことを通じてすでにその同一性そのものをうしなって、貨幣のなかにみずからを映しだす」(174 f./245)。あるいはむしろ〈もの〉そのものが「貨幣になることができる」のだ(149/208)。この最後の点は、なお考えておくにあたいする [註46] 。
 交換は「ひとしさ」(イソテース)を前提する。ひとしさはしかし、「おなじ基準で測る」(シュムメトレオー)ことによってなりたつ。だが、たとえば家とベッドをおなじ基準で測(end65)ることはできない。両者は、その目的、効用、つまり〈使用価値〉において端的にことなっている。家とベッドとをたがいに〈おきかえ〉ることはできない。交換は [﹅3] ほんとうは不可能 [﹅3] なのだ。アリストテレスによれば、だからこそひとしい量化の基準として、「とりきめ」(ノモス)に基づいてたんに名目的なものが、諸商品の質的な差異を抹消する」貨幣」(ノミスマ [註47] )が登場する。そうではないか。ところがレヴィナスによれば、作品はそれ自体としてすでに貨幣 [﹅12] なのである。
 これはただしい認識であるとおもわれる。すべての生産物、商品、いっさいの作品はマルクスのいう「等価物」となりうる。あるいは「等価形態」に立ちうる。等価物はじぶんの価値を表現せず、ただ〈他なるもの〉の価値のみを表現する。一着の上着が二〇エレのリンネルの価値表現となるようにである。この第一の価値形態のうちに、すべての価値形態の秘密がかくされている [註48] 。ある〈もの〉が他の〈もの〉の価値を表現するということがらのうちに、あるいはより端的には、ある〈もの〉と他の〈もの〉との関係そのもののうちに、「貨幣の細胞形態」「貨幣が自体的にあるもの」がある [註49] 。かくして、すべては貨幣であり、いっさいは交換可能であって、交換され、〈他なるもの〉の価値を表現することでみずからをうしなって(s'aliéner)ゆく。譲渡され(s'aliéner)、所有は解消される [﹅8] のである [註50] 。
 ここにあらわれているのは、もちろん、「交換可能な人間の人間性」である。「人間を(end66)たがいにおきかえることは、本源的な不敬であって、それが搾取そのものを可能にするのである」(332/457)。――領有法則は転回する [﹅9] 。労働による所有は否定され、作品は収奪される。悲劇的な意味でも、こうして所有は挫折し [﹅6] 、ひとびとは賃金奴隷制のもとにおかれ、資本のもとに「実質的に包摂」される [註51] 。まさにマルクスが説くとおりに、である。

註44: 以下では、レヴィナスにならい「作品」で代表させる。レヴィナスの議論は、ヘーゲルが『精神現象学』で「ことそのもの」(Sache selbst)「作品」(Werk)をめぐって説くところときわめて近接している(vgl. G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden Bd. 3, S. 294 ff.)。ちなみに、ルカーチは「ことそのもの」を「資本主義的商品関係」と解する(G. Lukács, Der junge Hegel, Suhrkamp 1973, S. 745)。「作品」をめぐるヘーゲルの所論については、とりあえず、熊野純彦ヘーゲル他者論の射程」(上妻精他編『ヘーゲル』情況出版、一九九四年刊)二七六頁以下参照。

註45: H. Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, 155e édition, PUF 1982, p. 129.

註46: レヴィナス貨幣論については、E・レヴィナス「社会性と貨幣」(斎藤慶典訳、『思想』一九九七年四月号)をも参照。

註47: Cf. Aristoteles, Ethica nicomacheia, 1133 b 21.

註48: Vgl. K. Marx, Das Kapital Bd. Ⅰ, MEW Bd. 23, S. 63.

註49: K. Marx, Das Kapital, Iste Aufl. 1867, S. 16.

註50: マルクス価値形態論の哲学的な意味については、廣松渉資本論の哲学』(現代評論社、一九七四年刊)参照。同書は増訂を経て勁草書房から一九八七年にに再刊され、この増補版が『廣松渉著作集』第一二巻(岩波書店、一九九六年刊)に再録されている。なおまた、吉田憲夫『資本論の思想』(情況出版、一九九五年刊)参照。

註51: 「資本のもとへの労働の実質的包摂」の具体的なさまについては、山本耕一「協働連関とその物象化」(廣松渉編『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店、一九八六年刊、所収)参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、64~67; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • きょうはやや遅くなって、一二時二〇分の離床。瞑想もサボる。あがっていくとテレビは女子バスケットボールの試合。アメリカに負けて銀メダルという結果になったようだ。食事は炒飯ほか。新聞の書評欄はきょうは、すこやかになれる本、みたいなテーマで各書評委員が一冊をえらんで紹介する形式だった。尾崎真理子は福岡伸一ダーウィンにならってガラパゴスかどこか行ったときの記録みたいな著作をあげていた。おもしろそう。苅部直田村隆一関連のもの、大家と店子という関係で彼の家に間借りだかしたひと(女性だったはず)が書いた本をあげていて、政治学者なのに現代詩方面までカバーしているのだからさすがだなとおもった。ほか、成田龍一が寄稿というか「あすへの考」でかたっていたのでそれも読む。戦争体験世代を三つに分類していた。ひとつが大正デモクラシーを経験しており日本に根づいていた民主主義が軍国主義によって破壊されたとかんがえた世代で、この代表が丸山眞男(一九一四年生まれ)であり、彼らは戦後民主主義を推進しようとした。もうひとつが青年期に学徒動員されて出征したひとびとで、この代表が三島由紀夫。さいごが戦時体制のなかで少年少女として育ち、国のために尽くして死ぬという道徳を教育された世代で、この最年少世代は敗戦を機に軍国主義から民主主義に即座に転換した大人たちを裏切り者とみなしながらも、いずれその立場を理解するにいたるが、青年として戦争に出た世代は戦後民主主義の問題とか欺瞞とかを看過できず、それに懐疑をいだきつづけ、その象徴が三島事件であると。
  • 風呂では蓋の裏側や縁がぬるぬるしていたので、ちいさいブラシをつかってひさしぶりにそれも洗っておいた。帰室するといつもどおり茶を飲みつつ「読みかえし」ノートやプルーストを書見。とちゅうで雨降り。「読みかえし」ノートには石原吉郎『望郷と海』の記述を足す。あといくつかEvernoteからNotionに書抜きをうつしておいた。これらもおいおい追加していく。プルーストは194からはじめて223まで。ルグランダンのスノッブぶりがあらわになる一幕が滑稽でおもしろい。ルグランダンは技師として成功しつつ、しごとにはまったく関係ない、いくらか似非っぽいような文学的芸術的教養を持っているひとで(112)、話者の一家とは散歩のときによく出くわし、遭遇するといつも子どもの話者にたいして妙に気取ったような、いかにも鼻持ちならない勘違い野郎の通俗的詩的表現みたいなことばを吐くのだけれど、彼は近間に城をもっているという貴族(これがゲルマント家のひとかどうか、まだ確定的ではない)の女性と交際していたり、彼の妹はバルベックのほうでカンブルメールという貴族に嫁いでカンブルメール若夫人になっていたりするのだけれど、そういう上流階級者との交際にブルジョア階級である話者一家をかかわらせたくないという気持ちがありながらももちろんそれをあまり表立って直接にあらわすことはできないから、滑稽な振舞いを取ることになる。おりしも話者が祖母といっしょにバルベックに海水浴に行くというはなしがもちあがったさい、ルグランダンが妹をわれわれに紹介しようとするかためしてみようと父親はもくろみ、散歩で出会ったときに都合よくバルベックのうつくしさをペラペラかたりはじめたルグランダンに、「おや! バルベックに誰か知ったかたがおありですか?」(219)と問うて妹のことを引き出そうとするのだが、「ルグランダンは、私の父にじっと目をそそいでいた瞬間に、ふいにこの質問を受けて、その目をそらすことができず、友情と率直さとのようすをつくろい、面と向かって話相手をながめることをおそれないといった態度で、一刻ごとに強さを増して相手の目を見つめ――しかも悲しそうにほほえみながら――まるで相手の顔が透明になり、その顔を通してそのときはるかかなたの背後にあるあざやかに色どられた一片の雲を見ているかのように思われた」(220)といったようすをしめしてやりすごそうとする。しかし話者の父親は、あちらに友だちがいらっしゃるんですか、と、もういちどおなじ質問をさしむけて追撃し、ルグランダンはなにかしらこたえなくてはならなくなるのだが、そこで口にするのが、「私の友達ならどこにでもいます、傷つきながらまだ屈せず、たがいに身をよせあい、自分たちをあわれんでくれない冷酷な天に向かって、悲壮な執拗さで、いっしょになって哀願している木々の群があるところなら、どこにでもいますよ。」(220~221)という時宜を得ないインチキ詩人みたいなセリフで、こいつなに言ってんねん、というかんじでこれがおもしろかった。そのあとも彼はうだうだとおなじような調子で質問への返答を回避しつつ煙に巻くような言をつづけ、はじめはそのうつくしさを称揚していたバルベックを、「まだ気質ができあがっていない子供には、やはり不健全ですね」(222)と言って前言をひるがえし、バルベックに行くのはやめたほうがいいと言い残して去っていく。
  • 書見は四時くらいまでだったか。そのあと瞑想した。そう、三時五二分から四時一九分までの瞑想だった。だから二七分で、これくらいながくすわったのはひさしぶりである。おかげでからだの輪郭がだいぶなめらかになった。やはり瞑想はきちんと時間を取って毎日おりおりやったほうが良い。それから多少ストレッチもおこない、きょうのことをすこしだけ書くと五時になったのでうえへ。アイロンかけをして二、三枚さっと処理する。南窓のむこうの空は白く、白地のうえに綿あめ的質感の淡い灰色雲が少々浮き、青さもいくらか混ざってあさくうねった潟をつくっている。空気は暗くはない。窓の端のほうにセミが一匹とまっており、茶色い翅だったが翅がべっ甲みたいな褐色なのはミンミンゼミだったか? それともアブラゼミか? とまってはいるものの鳴くわけでもなく、すこしもうごかず、すでに死んでいるかのように不動で、とまったまま息を引き取ったものの網戸の隙間にひっかかった脚が物体的惰性でもってかろうじてたもたれて落ちずにいる、といったようすだ。アイロンを終えると台所へ行き、ナスを切って湯がき、いっぽうでホタテを焼いてくれというので解凍したものをフライパンで焼く。焼くというか、袋をひっくりかえすと溶けた水もいっしょにフライパンにはいってしまったので、蓋をして蒸し焼きみたいにする。生臭いだろうというのでショウガをすりおろしまくった。醤油や酒や味醂で味つけ。バターを入れ忘れた。いっぽう、ひさしぶりに煮込みうどんを食べようとおもったので、ホタテを熱しているかたわら野菜を切ってつゆをつくり、ホタテがしあがると麺をさっとゆでて、つゆとあわせてそのまま食事へ。六時過ぎ。ほかには母親がつくった品、輪切りにしたゴーヤを焼いたものとか、サラダとか。食事を取りながら、新聞からは国際面を見る。ミャンマーでは八八年の八月八日に大規模な学生蜂起および軍との衝突があったらしいのだが、そこを経験したひとびとは「88世代」と呼ばれており、国軍から摘発対象として目をつけられているため今回の抗議で表立ってはうごけないが、後方支援でささえているという記事があった。「政治犯支援協会」だったか、国軍の弾圧で亡くなったひとや拘束されたひとの情報をあつめている組織の代表もとうじの抗議の中心的存在だったひとらしく、二回収監されたあとタイに逃れたという。ほか、ロシアや中国のテレビで、オリンピックに出場したトランスジェンダーの選手や女性選手を差別するような振舞いや質問があったとの報。テレビは『バンキシャ!』。さいしょのうちは成城学園あたりで電車内でひとを刺して逃げた例の事件がつたえられていたようだが、そのうちにオリンピックへ。女子バスケ銀メダルの報があったあと、今次オリンピックをささえたボランティアやスタッフのひとびとに海外の選手から感謝や称賛の声があがっているとの紹介。
  • 食後もどってきてここまで記し、七時一一分。八時半から(……)と通話の予定。

 百田自身は石戸 [石戸諭『ルポ百田尚樹現象』] の取材に対し、『永遠の0』について〈テーマに戦争を選んだのは、自分の原点である親世代の経験を自分の子供の世代に残したかったからであり、伝えたかったのは「生きることの素晴らしさ」である〉と語っている。五〇歳を前に戦争世代の父や叔父が死んでゆく。〈僕が何かの形で戦争を語り継ぎたいと思いました。映画も含めて、これはどう見ても特攻全否定の作品ですよ〉。
 この言葉に嘘はないだろう。『永遠の0』では左派的歴史観をとうとうと語る朝日新聞の記者とおぼしき人物が揶揄的に描かれていて、その点は歴史修正主義的なのだが、半面、戦争賛美の色は薄く、なかなか批判しにくい作品なのだ。この本を出した岡も担当編集者も「右傾化エンタメ」と呼ばれるようになったのは、一〇年に百田がツイッターを開始して以降の話という。

     *

 すると、百田はいつから右派論壇との関係を強めたのか。
 転機は一二年。キーパーソンは、右派論壇誌「WiLL」の編集長だった花田紀凱 [かずよし] (現在は「月刊Hanada」の編集長)だ。同誌は民主党政権批判を盛んにツイートしていた百田に目をつけ、〈もっと思い切り書いてみませんか〉ともちかけた。百田自身は頼まれたから書いたという程度の気持ちだったようだが、一二年九月号に寄せたはじめての論考を、安倍再登板待望論で結んだ。これを機に百田と安倍晋三の対談が実現。安倍の再登板を画策していたグループとも結びついて右派の輪の中に入り、〈安倍再登板が実現して以降、百田の右派系メディアでの仕事や政治的な発言、歴史認識についての発信の場は急速に増えていった〉。

     *

 百田人気を支える第二の理由は「普通の人」の感覚だという。石戸はヤフーニュースのコメント欄を分析した木村忠正の、「普通の人」の感覚として〈(1)韓国、中国に対する憤り(2)少数派が優遇されることへの憤り(3)反マスコミという感情〉の三つがあるとの説を紹介し、ネットの言論空間には〈百田のツイッターにも通じる気軽な排外主義〉が渦巻いているという。ただし、それらの声がメディアで公然と語られることはない。
 百田はしかし、〈ごく普通の感覚にアプローチする術を感覚的に知る人〉だった。百田自身も語っている。
〈僕は反権威主義ですねぇ。一番の権威? 朝日新聞やね。だって一日に数百万部単位で発行されているんですよ。僕の部数や影響力なんてたかが知れている。そこに連なっている知識人とか文化人も含めた朝日的なものが最大の権威だと思う〉。

     *

 百田尚樹ポストモダンぶりは、彼の源流ともいうべき論客と比較するとよくわかる。『ルポ百田尚樹現象』は「自虐史観」という語の発生源である三人の人物に取材している。「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた藤岡信勝、『国民の歴史』の著者である西尾幹二、『戦争論』をヒットさせた小林よしのり。彼らは一見みんな同じに見えるが、背景はバラバラだ。
 大学院で教育学を学び、左翼運動に傾倒した藤岡は、アメリカ留学中に湾岸戦争に遭遇して価値観が崩壊する。フリーの漫画家である小林は、自らかかわった薬害エイズ問題の解決後も、日常に戻らない学生たちに幻滅した。そして、ニーチェの研究者である保守言論人の西尾には一〇歳で迎えた敗戦の体験がある。
 彼らを結びつけたのは〈当時のメディア状況の中でマイノリティー意識を抱き、さらに自身の人生に対し「真面目」であったことが大きい〉と石戸はいう。マイノリティ意識を持った彼らは「権威」に立ち向かい、〈運動のターゲットをエリート層(学者や官僚、政治家、左派系メディア)ではなく、「ごく普通の人々」に定めて訴えた〉。それが当人たちも驚くほどの反響を呼び、予想外のうねりをつくった。それが「つくる会」運動だった。
 彼ら三人の運動は自身の過去や人生観とつながっており、したがって思想や情念があった。ひるがえって百田尚樹は、どんな思想も物語も着脱可能。〈情念はやがて忘れられ、反権威という「スタイル」だけ、それも表層的な小林の真似事としてのスタイルだけが残ったのが現代の百田現象だ〉。

  • 通話は八時四〇分から。冒頭はオリンピックのはなしを(……)から振ってきた。見てる? というので、ぜんぜん見ていない、とこたえる。(……)もリアルタイムというかすぐに見たものはないようだが、インターネット上にアーカイブされてある映像でいくらか見たようだ。それか、ネットでライブがどうのとも言っていたので、生中継で見たものもあったのだろうか。サーフィンが印象的だったらしい。すごいたいへんなスポーツだとおもったと。サーフィンは今回からオリンピックにくわわったらしく、いままで(……)は、サーフィンがスポーツ競技だという認識をしていなかったらしく(娯楽的な、遊びのイメージだったのだろう)、波でボードが割れたのを見てやばいなとおもったという。サーフィンって会場どこだったのかねとたずねると、その場で検索され、釣ヶ崎という地名が特定された。千葉らしい。こちらも検索して地図で見てみると、たしかに千葉で、それもだいぶ奥のほうというか端のほうというか、太平洋に面した東南部のけっこう下のほうだった。良い波が来るサーフィンスポットとして著名らしい。ほか、馬術がどうのとかいったので、馬術って七〇歳くらいのひとが出てなかったっけときくと、やはりその場で検索され、法華津なんとかという男性がシニアのスターみたいに呼ばれているらしい、という情報がもたらされた。それで、たしかに法華津というひとだった、とおもいだした。しかし今回の東京オリンピックには出ていなかったようだ。ただ、二〇一二年ロンドンオリンピックには出場していて、その時点でもう七〇歳くらいだったよう。
  • 家族はオリンピックを見ているかとたずねられたので、父親は好きでよく見てるね、と回答。まわりにあまり好んで見るひとがいない、というので、職場でひとり、けっこう見るっていう女性がいたけど、とこたえつつも、われわれくらいの世代になると、もうあんまり、日本をみんなでいっしょになって応援するっていうかんじがないんじゃない、親くらいの世代だとまだそれがあるんじゃないかな、と述べると、そうだとおもう、と同意がかえった。(……)の母親もけっこうよく見ているらしい。見るひとも、ふわっとしてるっていうか、なにがなんでも日本を、っていうより、まあおなじ国だから応援するくらいのかんじだよね、と(……)。(……)くんは、だから、もし日本が出場しないスポーツ世界大会みたいなものがあったら、それでも見るか、ってところだよね、とさしこんできた。そこでスポーツファンというか、国に関係なくもっぱらスポーツを見たいというひとと、気持ちの度合いに多少はあれ日本を応援したいというひとに分かれるというわけだ。つまらんはなしですよ、とこちらは笑い、金メダルとかやめたほうがいいとおもってるけどね、けっきょくどこの国がどれだけメダルとるかの競争になってるじゃん、金が何個とか、くだらんですよ、とけなし、つづけて、まあ金メダルとりたいっていう選手もいるだろうし、好きなチームを応援したいっていうのもあるとはおもうんだけど、スポーツって、なんかすごいプレイとかすばらしい瞬間があればそれで感動するわけで、国とか関係なくね? とおもうんだけど、とつけたすと、(……)からも同意がかえった。ただまあ、これは言ってみればいわゆる「芸術至上主義」的なかんがえかたの一種だとおもわれ、政治性とか社会情勢とかを考慮しない素朴者の言かもしれないが。とはいえ、いちおうオリンピックって「平和の祭典」などと呼ばれているにもかかわらず、国威発揚を目的とされたり、国民国家単位で競うナショナリズム的代替戦争みたいなかんじになるのはいいの? ともおもうが。あと、今回のオリンピックが、「東京2020」とかいわれたり表記されたりすることにもなにがしかの違和感をおぼえる。なぜ2020の年号を固定化しようとするのかよくわからない。
  • オリンピックのはなしのあとはこちらの近況で、さいきんはまた音読をよくやるようになっていて、音読をすると文がすらすら書けるという現象を再認識した、とはなした。(……)
  • (……)
  • そんなかんじで零時まえまで通話。(……)そのあとは入浴に行き、とりたてたこともせずになまけたはず。上記の英文記事も読んだ。
  • 203: 「(……)私がうっとりしたのはアスパラガスのまえに立ったときで、それらは、ウルトラマリンとピンクに染められ、穂先はモーヴと空色とにこまかく点描され、根元のところにきて――苗床の土の色にまだよごれてはいるが――地上のものならぬ虹色の光彩によるうすれたぼかしになっていた。そうした天上の色彩のニュアンスは、たわむれに野菜に変身していた美しい女人たちの姿をあらわにしているように私には思われたが、そんな美女たちは、そのおいしそうな、ひきしまった肉体の変装を通して、生まれたばかりのあかつきの色や、さっと刷きつけられた虹の色や、消えてゆく青い暮色のなかに、貴重な本質をのぞかせているのであって、そのような本質は、私がアスパラガスをたべた夕食のあとにつづく夜にはいっても、まだ私のなかに認められ、そこに出てくる変身の美女たちは、シェイクスピアの夢幻劇のように詩的であると同時に野卑なファルスを演じながら、私のしびんを香水びんに変えてしまうのであった」
  • 205: 「身内のものを除けば、彼女 [フランソワーズ] から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。新聞を読んでいて、彼女が見知らぬ人たちの不幸に流すおびただしい涙は、すこしでも明確に当人を思いうかべることができると、たちまちとまってしまうのであった」
  • 209: 「ルグランダンの顔は、異常なまでの活気と熱意とをあらわしていた、彼は深く腰を折って挨拶をしてから、つぎにうしろに反りかえり、それを急に最初よりは反り身の位置にもどしたが、これは彼の妹のカンブルメール夫人の夫から教えられたものにちがいなかった。このすばやい姿勢の立てなおしは、私がそれほど肉づきがいいとは思わなかったルグランダンのお尻を、隆々と盛りあがった一種の激浪のように逆流させた、そしてなぜだかよくわからないが、この純然たる物質のうねり、精神性をあらわす何物もなく低劣さに満ちた慇懃な動作が暴風雨のように荒れ狂っているこの完全な肉の大波は、私たちが知っているルグランダンとは全然ちがったルグランダンがいるのかもしれないという感じを、ふと私の心に呼びおこした」
  • 209~210: 「彼はまるで夢のなかにいるようにうっとりとしてほほえんでいた、それからあたふたと婦人のほうにひきかえしたがいつになく足を早めて歩くので、両肩はこっけいなほど左右にゆれ、またほかのことは念頭になく、すっかり幸福に身をゆだねているので、その姿は惰性で動い(end209)ている幸福という名の機械仕掛のおもちゃのように見えた」
  • 214: 「「いいえ、私はどなたもよく知りません」と彼はいったが、そのように簡単なことを知らせ、そのように変わりばえのしない返事をするのに、それにふさわしい、自然な、普通の口調にならないで、一語一語に力をこめ、身をかがめると同時に頭をさげながら、きれぎれに答え、しかも、信じてもらうために、ほんとうらしくない断言をして――彼がゲルマント家の人々を知らないという事実が奇妙な偶然の結果でしかありえなかったかのように――それをおしつけようとし、さらにまたそれを誇張し、自分の苦しい状態をだまっていることができなくて、他人にそれを公言する人のように、自分の告白がすこしも自分につらくはなく、平気であり、愉快であり、自然に出てくるものである、といった観念をあたえようとする、または状況そのものが――ゲルマント家の人々と無関係であるという状況が――そとから強いられたものではなく、自分から欲したものであって、ゲルマント家との交際をとくに禁じる自分の家の慣例、道徳上の主義、秘密な誓約の結果なのであろう、といった観念をあたえようとするのであった」
  • 220: 「ルグランダンは、私の父にじっと目をそそいでいた瞬間に、ふいにこの質問を受けて、その目をそらすことができず、友情と率直さとのようすをつくろい、面と向かって話相手をながめることをおそれないといった態度で、一刻ごとに強さを増して相手の目を見つめ――しかも悲しそうにほほえみながら――まるで相手の顔が透明になり、その顔を通してそのときはるかかなたの背後にあるあざやかに色どられた一片の雲を見ているかのように思われた、そしてその雲もまた、彼のために精神のアリバイになり、バルベックに知りあいはないかとたずねられたとき、ほかのことに気をとられて質問をききもらした、という口実になるかのようであった」

2021/8/7, Sat.

 B 「ことば」(langage)とは「個体的なものから一般的なものへの移行そのもの」である。「〈ことば〉が私の所有するものを他者に供することになる」(74/104)と、レヴィナスはいう。この間の消息をめぐるレヴィナスの議論は明晰である。引用する。

 ある〈もの〉を指示するとき、私はそれを他者にたいして指示する。指示の行為が、私が〈もの〉を享受し所有する関係を変容し、〈もの〉を他者のパースペクティヴのうちに位置づける。記号を使用することは、だからじっさい、〈もの〉との直接的関係を間接的関係におきかえることにとどまるものではない。それは、〈もの〉を提供可能なものとし、〈もの〉を私の使用からひきはなし、譲渡させ、外的なものとする。〈もの〉を指示する語は、それが、〈私〉と他者たちのあいだでわかちもたれることを証明する(230/317 f.)。

 アリストテレスが説くとおり、〈かたる〉ことは、〈かたるひと〉(ホ・レゴン)と〈それに(end62)ついてかたられることがら〉(ペリ・フー・レゲイ)、ならびに〈そのひとにたいしてかたられるひと〉(プロス・ホン)をふくんでいる [註41] 。「〈他者〉にたいして世界をかたる」(189/264)さい、「ある〈もの〉を指示するとき、私はそれを他者にたいして指示する」。指示することは、他者との共同的な行為なのであって、〈他者〉の参与あるいは寄与(partage)なくしてありえない。
 目のまえにある〈もの〉を指さし [﹅3] て「これ見て!」ということすら、聞き手のがわの了解の確保を前提している。その動作と文の複合は、指に注視をもとめるものとも理解されうるからである(たとえば、爪の負傷に注意を喚起している場合 [註42] )。「指示の行為」とは「〈もの〉を他者のパースペクティヴのうちに位置づける」行為であって、そのためには同時に他者の参与をもとめる行為でもなければならない。指示において〈もの〉は、他者の視点に差しだされ、他者の〈もの〉ともなっている。「記号を使用すること」は、だから、たんに〈もの〉のかわりに〈ことば〉を使用し、「間接的関係におきかえること」ではない。それは、〈もの〉を「提供可能なもの」とし、私にとっては「外的なもの」とする。つまり、私から疎遠な [﹅3] ものとし「譲渡」することなのだ。〈もの〉を指示するとは、その〈もの〉が「〈私〉と他者たちのあいだでわかちもたれること(partage)」にひとしい。
 そのゆえに、「〈もの〉を〈他者〉にさししめす〈ことば〉は、所有権の本源的な剝奪であり、最初の贈与なのである」(189/264)、とレヴィナスはいう。労働は私の所有を創設し、(end63)〈ことば〉が私の占有的な所有を解消する。だから、「労働」と「〈ことば〉とのあいだには、底知れない深淵がある [註43] 」(331/456)。
 〈ことば〉はかくて所有を転覆する [﹅7] 。(……)

註41: Aristoteles, Ars rhetorica, 1358 b 1-2.

註42: この論点については、熊野純彦「直示行為と「意味」」(『現代思想』一九九〇年一月号、青土社)二二七頁以下参照。

註43: 労働と言語をめぐるレヴィナスの考察はヘーゲルのイエナ草稿群をおもわせ、また、その検討に裏うちされたハーバマスの議論をおもわせる。Vgl. J. Habermas, Technik und Wissenschaft alsIdeologie 〈, 10. Aufl., Suhrkamp 1979, S. 9 ff.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、62~64; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 一〇時二〇分に覚醒。なぜかいつもよりはやい。天気はこのとき曇り気味だったはず。雨がぱらつく音が窓に聞こえたおぼえもある。その後、みじかいあいだだけ陽の色が見える時間もあったものの、現在四時半ではまた雲がひろく垂れこめて空のすべてを占領するようになっていて、先ほど雨がぱらつくいじょうに通る時間もあった。脚がやたらこごっていたので、ベッド上にとどまりながらほぐし、一〇時五〇分に離床。水場に行ってきて瞑想もおこなった。
  • 食事は焼きそば。新聞は橋本五郎のコラムを読んで、福田赳夫の評伝が紹介されており、五百旗頭真が監修したやつでたしかミネルヴァ書房から出ていたのだったか? これは先日も書評欄で、たしか苅部直がとりあげていたはず。福田赳夫田中角栄とか大平正芳とか中曽根康弘とかとくらべると詳細で本格的な評伝とか研究とかがすくなかったらしいのだけれど、この新著は彼の本質をとらえているとのこと。高橋是清由来の、好況時は緊縮し不況時は財政支出を増やすという経済観を一貫して保つとともに、弱者というか高度経済成長の裏でとりのこされるひとびとへの関心も持っていたらしく、岸政権で成立した最低賃金法とかいまにもつうじるもろもろの経済基盤政策にはすべて福田がかかわっていたというし、成田空港開発の件でも水面下で反対派とのはなしあいを模索しつづけていたという。わりと清廉簡素なひとがらであり、また生活もそのようなものだったといい、橋本五郎は記者として交流もあったらしいが、人物と思想と生が一貫して調和しているさまを見せられたとのこと。いわゆる角福戦争なるもので敗北するわけだが、そもそも金権政治に反対で、権力闘争にもあまり関心がつよくなかったので、必然としての敗北だったかもしれない、と。
  • 帰室後は「読みかえし」ノートを読み、プルーストを書見。143からで、話者が庭で本を読んでいるあたり。小説と、それが読み手の精神にあたえる影響みたいなことについての論がちょっとぶたれたあと、サン・ティレールの鐘が大空にひびきわたる描写がされたり、兵隊の行進をみなが見に行くみたいな場面がはさまれたりして、ベルゴットの話題が出てくる。ベルゴットは古風で特殊な表現が文学好きのひとびとのこころをひきつける作家で、とうじはじぶんのアイドルであったみたいなことがかたられたのち、ある日ベルゴットを庭で読んでいるときに、スワンがやってきてそれに言及したことがあった、とそのひとことだけ書いてのち、いったん、ベルゴットをわたしがはじめて知ったのは学校の友人ブロックを通してだった、とブロックのはなしにそれて、このユダヤ人の級友がむやみに哲学者ぶって、わたしの精神は形而下の事象になどまったく影響されずそれをみとめないので、雨が降っていたかどうかなどあなたにもうしあげることは絶対にできません、などと話者の父親に述べて、あいつは天気のはなしすらできない白痴だな、と軽蔑されたり(ちなみにこのさいに父は、天気ほど人間にとって重要なことはないのに! みたいなことばも漏らしていて、晴雨計を愛好する彼の気象への偏愛がしめされている)、話者の家族にきらわれてまねかれることがなくなる、という迂回的エピソードがはさまったのち、庭にスワンが登場するところにもどって、ベルゴットならわたしと懇意で、夕食を取りにこない週はないくらいですし、うちの娘と仲が良くてよくフランスの史蹟を見にいったりしてますよ、とかたられて、それで話者はまえまえからきれいな少女だといううわさを聞いて興味を持っていたこのスワンの娘(ここではまだなまえが出ていないが、すなわち初恋のあいてジルベルト)へのおもいをなおさらにつのらせる、というところでひとくくりが閉じて、一行空けがはさまれる。このさいごのあたりを一読したかぎりでは、だから、話者のジルベルトへのさいしょの恋心は、ジルベルトじしんの性質の情報というよりは、彼女が話者の偏愛する作家ベルゴットとしたしいという事実によって媒介されているようにもおもわれたのだが、そのあたりはくわしく読んでみないと確実ではない。一行空けのあとは、レオニ叔母(話者の一家がコンブレーにいるあいだその家に滞在している大叔母の娘で、病身で、夫のオクターヴを失って以来一日中ベッドで過ごしている)と女中フランソワーズや、ユーラリーという叔母を不快にさせず当を得た返答をすることに長けた友人の女性や司祭の訪問などについてはなしが展開されるが、レオニ叔母の生活のようすとかフランソワーズやユーラリーと彼女との関係はまえにいちどかたられているので、それもたしか、マドレーヌの場面が終わって全コンブレーが回想されはじめるその冒頭でかたられていたはずなので、ここでそれが回帰してきて、いわば仕切り直しというか、ここからあらためてべつの方向にすすんでいく、というながれになっているとおもわれ、たしかこのあとゲルマント一族のはなしとかにつながっていくのではなかったか。この司祭というひとはなかなかおもしろく、芸術的な興味はまったくもっていないらしいが、しかしフランスのさまざまな地名の語源にやたらくわしくて、レオニ叔母に会いにきてながながと滞在し、病気の叔母を疲労させながら、教会のことを説明するはなしのあいまあいまにこの地名はもともとこういうなまえでこれが訛ったものなのですよ、みたいなどうでもよい豆知識をはさみまくる衒学家である。
  • 四時半ごろに切って、ここまで記述し、いま五時をまわったところ。
  • 先週の金曜日(七月三〇日)の夕刊に載っていた音楽情報をいまさら記録しておくと、Black Midi『Cavalcade』というのがひとつ。King Crimsonと「米国の実験的なロックバンドのバトルスを思い起こした」とあり、「今、世界で最も面白いバンドの一つだ」とべた褒めされていて気になる。大西順子 presents THE ORCHESTRA『Out Of The Dawn』というのも。大西本人はプロデュースのみで曲作りにも演奏にもくわわっていないらしいが。マハラージャン『僕のスピな☆ムン太郎』というなんだかよくわからないシンガーソングライターの初メジャーアルバムも出ていて、ジャケットや題はキワモノっぽいが石若駿が参加しているというからちょっと気になる。ハマ・オカモトも参加というからわりとファンキー路線なのか。あとはKIRINJI feat. Awichの『爆ぜる心臓』。T-SQUAREの七枚組ボックスはまあべつに、というかんじ。
  • やりたいこと: 『双生』の覚書 / 書抜き / 詩作 / (……)くんの小説を読むこと
  • この夜に入浴したさいに、夜にもかかわらず窓外でセミがまだ鳴きまくっていて、沢の音か風の音かと混ざり合ってもいたようだが、しかし拡散的に旺盛だった。湯のなかで目をつぶってじっとしていると、首すじとか肩のまわりや胸の上部(肩から鳩尾までのあいだの領域)に汗が続々と湧いてはながれつづけ、肌のうえを愛撫的にくすぐったくなぞるそれらの水滴のうごきかたは大都市中心部の狭い土地を縦横無尽に張り巡らされている道路のうえを行く無数の車集団の軌跡よりも複雑なはずである。
  • 144: 「人は、自分の精神がかつて事物の上に投射した光の反映を、その光のためにそのとき美しく見えた事物のなかに、もう一度見出そうとつとめるが、それらの事物は、思考のなかである種の観念と隣りあっていたためにもっていたかつての魅力を、自然のなかでうばわれてしまったように見えることを知って、人は幻滅を味わう」
  • 146: 「コンブレーの庭のマロニエの木陰の、日曜日の晴れた午後よ、私は個人生活の平凡な出来事をおまえから入念に排除し、それらをきれいな川にうるおうある山国のなかの奇妙な冒険とあこがれとの生活に置きかえたが、いまでもおまえは、私がおまえのことを考えるとき、そうした生活を私に呼びおこしてくれるし、おまえの静かな、よくひびく、かおり高い、澄みきった時間が、葉陰を通してゆっくりと変化しながら、つぎつぎに形成する結晶のなかに――一方私の読書が進み、日中の暑気がさがっていったあいだに――おまえはそうした生活をすこしずつまるくまとめてとじこめていったので、いまでもおまえは実際にそうした生活をおまえのなかにふくんでいるのだ」
  • 154:

 「おや、ブロックさん、どんな天気ですか、そとは? 雨がふったのですか? おかしいな、晴雨計は上々吉だったのに。」
 それにたいして父はこんな返事しかひきだせなかったのだ、
 「それはあなた、絶対に申しあげられません、ぼくとしては、雨がふったかどうかなどと。ぼくはじつに断乎として形而下の偶発事のそとに生きていますから、ぼくの感覚はそのような偶発事をぼくに通告する労はとらないのです。」
 「いやまったく、あなたにはわるいけれど、白痴だね、あなたの友達は」とブロックが帰ったあとで父がいった。「なんてことだ! あいつはきょうの天気のことさえ私に話せない! いや、天気ほど関心をひくものはないのだからね! あいつは低能だよ。」

  • 185: 「このお産のような非常にまれな出来事以外には叔母の毎日のこまごとにはなんの変化もなかった、と私がいうとき、一定の間隔をおいて、つねにおなじように反復されながら、千篇一律のなかにさらに一種の副次的な千篇一律をもちこむにすぎないような、そんな変化もあったことを言いもらしている。たとえば、土曜日はいつも、午後からフランソワーズがルーサンヴィル=ル=パンの市場に行くので、昼食は私たちみんなにとって一時間早かった、というようなことがある。そして叔母は、そんな週一回の違反にすっかり慣れてしまったので、その違反の習慣を他の習慣とおなじようにたいせつにしていた」

2021/8/6, Fri.

 所有を創設する労働は、結局は、外部の [﹅3] 世界をみずからのうちにとりこむ、もしくは世界の外部性 [﹅3] を同化するにすぎない。あるいは、「労働は世界を変容するが、変容される世界にささえられている。質料がそれに抵抗する労働は、質料の抵抗から恩恵をこうむっている。抵抗は依然として、〈同〉の内部にとどまる」(30/43)。――質料あるいは素材は、変形としての労働に抵抗する。労働そのものがしかし、材料の抵抗を利用している。たとえば樹木が風のようであったなら、ひとはそれを切り倒すことができない。木材が水のようになんの抵抗もなく〈手〉や〈道具〉を受け容れるならば、私はそれで像を刻むことはできない。風の勢いはしかしまた、風車をまわし、水の抵抗を利用して水車がつくられることになる。素材の抵抗はだから、「なまえのない質料の偽りの抵抗」であるにすぎない(172/241)。
 労働において私はつねに「自然力」にささえられている。マルクスがいうように、ひとは労働することにおいて、たんに「自然がそうするようなしかたで」自然に〈手〉をくわえるにすぎない。いいかえれば、労働が富の唯一の「源泉」ではない。所有とは、その意味では、「大地」からの寄与の忘却であり抹消である [註38: Vgl. K. Marx, Das Kapital Bd. Ⅰ, MEW Bd. 23, S. 58. ] 。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、60; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 一二時三分離床。七時半すぎくらいになぜか出し抜けに覚めたときがあり、しかも枕の横に置いてあった携帯をみると(……)さんからメールが来ていた。だが、こちらはふだん携帯をサイレントモードにしていて、メールや電話が来ても音も出ないしバイブレーションも作動しないので、それで目を覚ましたともおもわれない。あるいはメールをうけて閉じたままの(じぶんの携帯はいまだにガラケーである)携帯表面に発生したわずかばかりのひかりによって覚めたのだろうか。その場で返信しておき、ふたたび就眠。
  • 暑気のためかなかなか起き上がれず。いつもどおりではあるが。瞑想もきょうはサボった。食事には冷凍にあまっていた豚肉と卵をいっしょに焼き、米に乗せて食う。
  • そうして習慣どおり、「読みかえし」ノートを読み、書見。「読みかえし」ノートはEvernoteから山我哲雄『一神教の起源』をあらたにうつして100番までつくった。Evernoteに保存されている書抜きをNotionのほうにうつしながらまたあらためてつくっていくつもり。書見はプルーストをすすめる。140をすぎたあたりまでで、マジでこいつ筋をつくらないというか、おもいだすことをともかくぜんぶ書こう、みたいなかんじで、コンブレーの家族や親戚まわりのこまごまとしたことがひたすらかたられるばかり。本格的に回想をかたりはじめるまえのパートのさいごで(例の有名な紅茶にひたしたマドレーヌのくだりの終わりだ)、もろもろの人物や印象や記憶など、「全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである」(79)と言われているとおりである。とはいえ、この小説にもとうぜん説話的構成とか物語的戦略とかがないわけではなく、たとえばきょう読んだところではオデットが「ばら色の婦人」としてすでに登場しているし、全篇をとおしてもいちおうこの小説は、小説を書くことをながくこころざしながらも挫折していた主人公がついにあきらめかけたところで無意志的記憶の不意打ちにあって芸術的真実を見出し、いよいよ確信をもって小説作品を書くことに着手するにいたる(そしてそのようにして書かれたのがこの作品である)、という結構をもっともおおきなかたちではそなえていたはず。とはいうもののしかし……みたいなかんじだが。物語を書こう、筋をかたろうというよりはやはり、あまりに空間的にすぎるというか、空間的というとあたらないのだろうが、絵画のようなかんじがあるというか、めちゃくちゃ広大なひとつのキャンバスを手当り次第つぎつぎに埋めていって共時的小宇宙をえがきだそうみたいな、そういう感触を受ける。
  • いま七日の午前二時すぎで、さきほど一年前の八月七日の日記を読んだ。生活はいまと変わっておらず、昼に起きて夕刻から労働の日々。往路の記述は、「出発。空気はやはり停滞的で重く、かなり暑い。なかに草の饐えたようなにおいも籠っている。道を行けばクロアゲハがすぐ前を横切って林の茂みへ入っていって、先日も坂道で何匹も飛んでいたのだけれど、こんなに見かけるような虫だっただろうか? 歩みを進める身体は暑気にやられているのか、すでに疲れているような感じだ。木の間の坂道には蟬が叫びを撒き散らしており、距離が近いと侵入的な(まさしく頭蓋のなかに侵入してきて脳に触れるような)やかましさである。ガードレール先の木叢の一角では葉っぱたちが光の飴を塗りかぶせられててらてら橙金色に輝いている」というかんじでこれも変わり映えしない。あつかっているテーマはいまとまるでおなじである。クロアゲハは今年はぜんぜん見ないが。「光の飴」とか「橙金色」といういいかたも今年はつかっていない。あたまのなかにおもいつくことがなかった。
  • 八月一日の記事にプルーストのメモを取っているのだが、17から18の、「ところで、その悠々たる騎行をとめることができるものは何もなかったのだ。人が幻灯を動かすと、ゴロの馬は、窓のカーテンの上を、その襞のと(end17)ころでそりあがったり、そのくぼみに駆けおりたりしながら、前進しつづけるのがはっきり私に見えた。ゴロ自身のからだは、乗っている馬のからだとおなじように超自然な要素でできていて、途中に横たわるすべての物的障害、すべての邪魔物をうまく処理して、それを自分の骨組のようなものにし、それを体内にとりこんでしまい、たとえそれがドアのハンドルであっても、彼の赤い服、または青白い顔は、ただちにそれにぴったりとあい、またその表面にぽっかりと浮かびあがって、その顔は、いつまでもおなじように高貴で、おなじように憂鬱だが、そうした脊椎骨移植のどんな苦痛をあらわすこともなかった」という記述をうつしながらあらためてよくおもわれた。幻灯のひかりでできた物語の登場人物の像がものもののうえをわたっていくのを述べているもので、だからひかりの反映といううごきを書いているだけなのだが、「それを自分の骨組のようなものにし、それを体内にとりこんでしまい」とか良くおもわれたし、「そうした脊椎骨移植のどんな苦痛をあらわすこともなかった」というのもおもしろい。
  • 22の、「そして空に斜にあげたまま私たちのまえをくりかえし過ぎてゆく彼女 [祖母] の気品のある顔を見ていると、その褐色の、しわのよった頬は、鋤きおこされた秋の畑のように、更年期のためにほとんどモーヴ色になっていて、そとに出るときはすこし高目にあげた小さなヴェールにかくされるその頬の上には、さむさのためか、それとも何か悲しい思いにさそわれてか、知らず知らずに流れた涙の一しずくがいつも乾こうとしていた」というぶぶんが、全篇ではじめて「モーヴ色」が出てくるところ。
  • 57の「スワンにはたいへんな気苦労があるのだと思うわ、あの蓮っぱな女を奥さんにしたものだから。その女がシャルリュスさんとかいう男と、コンブレー中に知られながら、いっしょに暮らしているのですからね。町の語りぐさだわ。」という話者の母親のセリフが、シャルリュス男爵の名の初出。
  • 午後五時すぎに出勤へ。夕刊を取っておくためにポストをひらくと、新聞いがいにいくつか郵便物があり、そのなかにこちら宛の携帯会社からのおおきな茶色の親展の封筒があって、これはいまつかっているガラケーが来年の三月末まででつかえなくなるからさっさと機種変更をしろという通知であり、同種のものはいままでにも何度か来ていて、そのどれもすこしもなかをのぞかずにずっと放置してあるのだが、いよいようながしがつよくなってきたらしく、封筒の下部には「本案内状を必ずご確認ください。」と記されたうえ、「必ずご確認ください」の文字は赤になっている。しかし、興味がぜんぜんわかない。たしかにいちおうスマートフォンは持つつもりでいるし、携帯会社としてもはやめにさっさと手続きをしてほしいのだろうけれど、こういうツールとかガジェットとかのたぐいにぜんぜん興味がわかない人間なので、封を破ってなかを見るのがとにかく面倒くさく、そうしようという気持ちにならない。しかしそろそろチェックしなければなるまい。
  • 空はむかうさきの西のほうはすっきり晴れて青いのだけれど、南から東にかけては雲が塗りかぶされており、量感と立体感がそうあるとはいえないがかといって完全に淡い、パウダー的なそれでもなく、いくらかうねって厚みをおびたシートかもしくはムースを塗り伸ばしたようなかんじの雲で、そちらは青さが隠され気味であまり明るくない。公営住宅まえまで来ると正面から車がはしってきて、あれは(……)さんの宅のものではと見ればやはり宅のまえで曲がって車庫にはいり、息子さんが運転しているのかまさか本人かとおもいながらちかづいていくと、降りてきたすがたが本人なので、まだ運転しているのかと(九〇歳をこえているので)おもいながら笑ってあいさつをかけ、すごいですね、運転されて、とおくると、聞き取れなかったようでいちど問い返されるので、もういちどおなじ言をおくる。まだ運転しているんですか、と率直にいうと年齢を強調するようで失礼にあたるだろうとおもって、上記のいいかたにしつつ、なおかつ「運転していて」ではなくて「運転されて」と申し訳程度の敬体子もつかったのだが、それでもまだ運転しているのかという含意はどうせ自動的に連想されて避けえなかっただろうから、いくらか無礼のニュアンスも避けられなかっただろう。(……)さんはややもごもごした呂律で、どこどこにちょっと用があって、みたいなことをいったのだが、どこどこというのが聞き取れなかった。たぶん、奥さんが入院しているか施設にはいっているかで、そこに見舞いに行ってきたということではないかとおもうのだが。たしかそういうはなしをいぜんにきいたようなおぼえがある。下の道をとおってゆっくりいく、とつづいたので、そうですね、と、それがいいですよ、という意味をこめて受けておき、あいさつをして別れ。
  • 坂道には木洩れ陽の色が見えたが、右手の壁をまだらに染めたりひだりのガードレールの隙間から足もとに這い出して香気のようにひくく浮かんだりしているそのオレンジ色が数日前までの記憶よりも濃いようにおもわれて、それは季節がすすんでいるということなのか、あるいはきょうは数分遅く出たのでそのせいなのか、双方の要素の相乗なのか。カナカナが左右からひっきりなしに立ちさわぎ、すぐちかくから鳴かれるとちょっとびっくりするくらいに耳やあたまをつらぬいていく。しゃらしゃらと鈴を振り鳴らしつづけるようでもあり、またその一音一音が分離しながらもとなりあって一房としてながくつらなりのびていくようでもあり、だから鈴鳴りでもありかつ鈴生りでもあるような、ふたとおりの経路で鈴をイメージさせるような声。
  • 最寄り駅では通路ちかくの日蔭に立つ。たいへんに蒸し暑く、あるいてきたからだは肌のどの一隅も汗でべたついてワイシャツの奥で肌着が皮膚にくっついているが、それだけに微風でもうごけばすぐに涼しさが身に生じる。電車内はすわれなかったので扉際で待機。(……)につくとおりて職場へ。ホーム上、停まっている電車と屋根の隙間のぶんだけ足もとに日なたの帯がずっとさきまでまっすぐつづいて生まれるので、そこを避けていく。駅を出て裏路地のむこうにみえるマンションはきょうもその壁にうえからしたまであかるみを受けてほのかになっているのだけれど、きょうはその背景の東の空が雲でかきまわされて青灰色に濁ったようになっているので、前後のその落差がめずらしくやや変な効果だ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)それで休み、最寄り駅につくとセミがきょうも頭上でバタバタやっている木の間の坂をとおって帰宅。
  • 帰宅後は休息し、零時まえくらいから飯。麻婆豆腐を米にかけるなど。夕刊に、小田急成城学園駅付近で乗客を刺した男の事件がすでにつたえられていたはず。あと原爆忌および広島平和記念式典の報を読んだのだ。平和宣言と首相のあいさつの全文も載っていたので読んだが、菅首相があいさつ中に一部を読み飛ばしたという報もあり、見てみるにそれがずいぶん半端なところで飛んでおり、しかも唯一の被爆国であるわが国はどの国よりも核兵器の非人道性をよく理解しており、「核兵器のない世界」の実現をめざしていく、みたいな内容の、まあメッセージの核心といって良いだろうぶぶんをごそっと省いたかたちになっていたので、目の前にある文をそのまま読み上げることもできないような人間がこの国の首相なのかとおもったが、あとではてなブログに記事を投稿するためにログインしたところ、話題になっているニュースみたいな欄にこの件がとりあげられており、毎日新聞ならびに共同通信の記事にいわく、原稿が糊でとめられて蛇腹のようになったのをひらくかたちのものだったところ、一部糊がおおすぎて剝がれなかったページがあったということで、「完全に事務方のミスだ」という言が記されてあった。
  • この深夜中にプルーストからの読書メモを各記事に取り、八月三日の記事までブログに投稿したはず。
  • (……)くんから先日小説のデータをもらったので、それも読みたい。
  • 135: 「この女中の姿が、腹のまえにかかえている、つけたされた象徴でふくらみ、それが単なる重い荷物であるかのように、本人にはそれの意味がわかっているようすもなく、また彼女の顔の表情のどこにもそれの美と精神とをあらわすものはなかったが、同様にアレーナ礼拝堂の「慈悲 [カリタス] 」という名の下に描かれている力強い主婦、複製がコンブレーの私の勉強部屋の壁にかけられていたその主婦は、自分がそんな徳性をあらわしていると気づいているようすもなく、それでいてこの徳性の化身であり、またこれまでどんな慈悲の思想も、彼女のような力にあふれた、卑俗な顔で表現されたことはなかったように思われるのである」
  • 137: 「パドヴァの美徳 [﹅2] と悪徳 [﹅2] とが私には身重の女中とおなじように生き生きとしたものに見え、また女中自身も私にはそれらの絵に大して劣らないほど寓意的に見えた、というのだから、あの美徳 [﹅2] と悪徳 [﹅2] とは、それ自身のなかに、多くの現実性をもっているにちがいなかった」
  • 137: 「私がのちに、私の人生の途上で、たとえば修道院で、活動的な慈悲の化身、まったく神聖そのもののような化身に、たまたま出会ったようなとき、そうした人たちは、おしなべて、多忙な外科医によく見かける、快活な、積極的な、無頓着な、ぶっきらぼうなようすをしていたし、人の苦しみを目のまえにして、どんな同情も、どんなあわれみも見せない顔、人の苦しみにぶつかってすこしもおそれない顔をしていた、つまり、やさしさのない、思いやりのない顔、それが真の善意のもつ崇高な顔なのである」
  • 141~142: 「なるほどそれに関係していた人物は、フランソワーズがいうように、「実際の」人物ではなかった。しかし、実際の人物のよろこびまたは不幸がわれわれに感じさせる感情も、すべてそのよろこびまたは不幸の映像を仲介にしてしかわれわれの心のなかにわきおこらないものなのだ、われわれの感動装置では、この映像が唯一の本質的要素だから、小説の創始者のすぐれた工夫は、実際の人物を思いきってあっさり消してしまうといった単純化こそ決定的な完成であろうと解した点にあった。実際の人間は、われわれがその人間にどんなに深く共感しても、その大部分はわれわれの感覚で知覚されるものであり、ということは、われわれにとって不透明のままなのであり、一種の荷重を呈していて、われわれの感受性はそれをうまくもちあげることができないのである。不幸がその人間を襲うとしよう、そのとき彼の不幸にわれわれが心を痛めるのは、彼についてわれわれがもっている概念の総体の一部分においてでしかないだろう、さらにまた、彼自身が自分の不幸に心を痛めるのも、彼が自分についてもっている概念の総体の一部分においてでしかないだろう。小説家のたくみな発見は、精神がはいりこめないそうした多くの部分を、等量の非物質的な部分、すなわちわれわれの精神が同化することのできるものに置きか(end141)えることを考えつくようになったことであった」