2022/5/2, Mon.

 選出集会で候補者が無事認められたとしても、実際の選挙に際して反対票を投ずることはもちろんできたから、選挙のたびに、有権者過半数の賛成票を得られず落選する候補者も少数ながらいた。たとえば一九八〇年二月の地方ソヴェト選挙では、計七七の選挙区で候補者が落選し、七九の選挙区では候補者が選挙期間中に立候補を辞退したため選挙がおこなわれなかった。候補者が立候補を辞退したのは、候補者選出の集会で批判が多かったにもかかわらず、候補者の差し替えが間に合わなかった場合と考えられる。一九八二年六月の選挙でも、計九四の選挙区で候補者が落選し、四三の選挙区で候補者が辞退している。政権と党は、落選者が出た場合、人々の投票行動を問題とすることはなく、当選できない人物を候補にした現地の党機関や党組織の判断の不適切さ、選挙キャンペーンにおける準備不足を問題とすることが一般的であった。
 さらに、代議員の解職請求制度があり、たとえば一九六五年には各級ソヴェト全体で三五〇人を超える代議員がこの制度により職を解かれた。選挙で落選した例も、当選した代議員が職を解かれた例も、村ソヴェトを筆頭に地方のソヴェトの例がほとんどを占めるが、ソ連最高会議についても一九五九年一〇月に解職の手続きを定めた法が施行されて以来、一九七九年三月の選挙までの二〇年間に一一人が職を解かれたという。
 上記のことを踏まえるならば、ソ連の選挙に「選良を選出する」という機能が皆無だっ(end207)たとまでは言えないだろう。なお、ソヴェト制度の特徴の一つに「選挙民の訓令」がある。議会制民主主義においては、「国民代表」の理念とともに訓令は原則としては否定されたが、ソ連においては選挙民の訓令を遂行することの重要性が一貫して主張されていた。一九七七年一〇月の憲法採択時にブレジネフは、訓令の遂行はソヴェトとその代議員の活動の重要な一部であり、過去二年間に七〇万を超える訓令が実現されたと述べている。この訓令の制度も、政権が民意を実現する形態の一つと捉えられていたと言えよう。
 また、複数候補による競争選挙ではないという意味で選挙自体は形式化・形骸化していたとしても、選挙キャンペーンが民意を集約する機能を果たしていなかったわけではない。選挙キャンペーンは、住民に対するサービスなどの欠陥を明らかにし、改善を図る機会・手段として党と政権によって位置づけられていたのであり、実際各地で開かれる候補者選出の集会では、日々の生活上の不満や要望について多くの批判的な発言がなされ、要望が述べられていた。これに加えて、人々は、投票用紙に要望や不満を書き込んだり、あるいは別紙に記して投票用紙とともに投票箱に入れたりした(書き込みには、ソヴェト政権や個々の指導者への支持や謝意を表明するものも多かった)。こうした書き込みの内容は開票の際に記録され、各地の選挙管理委員会と党機関を通じて党中央委員会まで報告されていたのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、207~208)


 (……)さんのブログ。したのエピソードのさいごにクソ笑ってしまった。

パッと見いくらかオタクっぽい若い痩せぎすの男が甚だしい独り言を漏らしながら千鳥足でレジに来るなり「すいませぇん、あのォ、ここってラッシュとか置いてないですかねェ?」とあやしい呂律でたずねるので、こりゃ酒じゃねえなと思いつつ「無いっすね」と対応したところ、こちらの言葉を理解するのにいくらか時間がかかるのか、奇妙な間を置いてから「そうですかァ。承知しましたァ」とやたらと丁寧な口調で返答してみせ、それでいてすぐその場から立ち去るわけでもなく、しばらく宙をぼうっとながめてから、またさっきと同じ質問をくりかえす。「だから無いって言うたでしょ」と若干イライラしながら答えると、衛星中継みたいなタイムラグをはさんで「承知しましたァ」とふたたびいうだけいって、やはり立ち去らない。頭にきたので「ラリっとんか?」とけしかけると、寝起きみたいな顔をして「え?」と言う。埒があかないので「邪魔やからはよ帰れ」と強めに叱ったら、「あ、失礼しました」と言って帰っていった。

 つぎの一節もおもしろかった。

祈りの効用――圧倒的な伝染力。ひとりが祈る。それを見た隣人が祈る。そのまた隣人が祈る。祈りが地表を覆えば、世界中のひとびとが目を閉じる目撃者のいない一瞬が生まれるだろう。その一瞬を利用して世界は姿を変える。そのことを誰にも教えてはならない。変化の瞬間を目撃しようとしてひとびとが目を閉じなくなるからだ。世界は姿を変えなくなるだろう。そして世界が姿を変えなくなるということは、世界の一部たるひとびとが目撃者としての態度をあらためる機会もまた失われるということである。時空の袋小路はそこにある。われわれはどこにも向かうことができない。
(2011年5月21日づけの記事)


 入浴中に一首勝手にできた。「神仏に気に入られたいうたた寝のなかからひとり追われた午後は」


 いま五月八日でもう連休がおわりあしたからまた労働なので世がはかないのだが、この日の記事はうえの引用と短歌しかなかったのでなんともはやなまけているがしかたない。この日とつぎの日は実質(……)と会って物件決めたり見に行ったりしただけなので、そのことだけ書いておければよかろうとおもう。(……)ちゃんや(……)くんとのやりとりもあったはずなのでほんとうはそれも書けたほうがよかったのだがもうわすれた。いちおう三日の記事にすこしだけは書けたし。というかまちがえて、(……)と会ったのはこの日と翌日ではなく、このぜんじつ一日とこのとうじつの二日だった。というわけで一日のぶんからまず記す。


 いま九日の午前一時半まえで、一日分はおえてさきほど投稿した。この日の昼間は兄や子どもらといっしょに(……)の釣り堀に行った。それで宵ごろから(……)と物件の内見。昼間のことを書くのがめんどうくさいというきもちもあるのだけれどやはり書いておこうかなという気がまさっている。父親の車に兄と子どもらが乗り、こちらはマクドナルドに寄って昼飯にハンバーガーを買うという母親がこっちに乗って買ってくれといってきたので軽自動車のほうに同乗。それで父親たちはさきに釣り堀に行き、こっちは(……)のマックに行く。着くまえから母親は連休の昼だしたぶんすごく混んでるよ、停められるかななどといっていたのだが、じっさいかなり混んでいてまずドライブスルーがけっこうならんでいた。母親がおまえ買ってきてくれるというのでねむかったのだが了承し、車を降りて店内へ。するとここでも列ができているわけである。レジカウンターからちょっと間をあけた地点から、客席のあいだをまっすぐとおってひとがならんでいるそのうしろについた。そうしてたちつくしながらスマートフォンをいじることもせずに、つま先立ちをして脛を伸ばしたり、首をまわしたり、カウンターのむこうの上部にある商品広告をみたり、周囲のひとびとや立ちはたらいている店員たちのすがたをながめたりしながら待つわけだが、おそらく三〇分いじょう待ったとおもう。こちらなどはまだましなほうで、じぶんがならんで以降つぎつぎと後続がきて、まっすぐならびきれないのでガラスのまえでターンしてU字にならぶようなかたちにすらなっており、そのせいであとから来たひとが最後尾を判別しづらく、なかにひとりキャップをかぶってピアスをあけ髭をちょっとはやしたヤンキーのあんちゃんみたいな男性((……)さんにわりと似ていた)が来たときに、しかもそのおとこはたぶんニューヨークヤンキースのものだったのだとおもうがパーカーだかトレーナーみたいな服に「YANKEE」という文字がかかれてあるのが見え、もうだれがどこからどうみてもあきらかにヤンキーである風体のにんげんがみずからヤンキーであることを表示して強調的に標榜するというヤンキーの同語反復が起こっており、いわばボールド加工された太字のヤンキーという文字がにんげんのすがたをとっているおもむきだったのだけれど、そのヤンキーのあんちゃんがヤンキーらしくわざと追い抜かそうとしたのか否か、それともふつうに気づかなかったのか、最後尾につかずU字の曲がり目のところにはいろうとしたのに周りの客からここじゃないですよと注意があがり、それでこちらもうしろをむいて、そこのドアあけたらいいんじゃないすか、と言った。ガラスにはとびらがついていてそのそとのテラスにつづいていたので、そこをあけてそとまでつかってまっすぐならべばええやんというあたまだったのだ。それでこちらのうしろにいたおっさんがうながして、とびらのまえにいた若い男性が戸をひらき、数人そのむこうに出て列の直線部がちょっと伸びたは伸びたのだが、しかしそれいじょうつづくものがなく、テラスをつかってもまっすぐにはならびきれない人数だったので、あんま変わんなかったか、とこちらは笑みで濁してまたまえをむいた。しかしほんとうにひとは来てにんずうも増え、ヤンキーのあんちゃんはとちゅうでしびれをきらして帰ったようだったが、こちらの時点で三〇分待ちだったけれど、こちらのあとにならんだひとたちのなかにはマジで一時間待ったものがいてもおかしくなかったとおもう。なぜそんなに待つかといえば解は明快きわまりなく、注文を受けるレジがひとつしか稼働していないからで、だからまずひとりひとりの注文を受けつけるのにけっこう間があく。そして奥で立ちはたらいている店員の数もあきらかに足りないのだろう、みんないそいでがんばっているのだけれど、商品の生産もまにあっていないわけだ。しかも店で待っているひとだけではなく、いまはたぶん携帯で事前に注文予約してつくっておいてもらって、みたいなこともできるようで、そのぶんの商品もつくらなければならない。それにしてもとりあえずレジだけはもっと稼働させて、注文を受けるだけはとりあえず受けてしまい、客がたちつくして待たなくてもよいようにしたほうがよいのでは? とおもったのだけれど、それにもやはり人員が追いつかないのだろう。なぜこんな惨状になってしまったのかわからない。連休でどうしてもひとがあつまらなかったのか。ほかの店舗からヘルプを借りてくることができなかったのか。運営側が無能だったのか。ほかの店舗もやはり同様にいっぱいいっぱいでどうしようもなかったのか。
 注文はめんどうくさいのでダブルチーズバーガーセットを五つにした。飲み物はバニラシェイクをふたつにコーラ三つ。マックなんてながねん来ていなかったので最先端がよくわからんのだが、メニューをみるにふつうのハンバーガーセットとかチーズバーガーセットとかがふつうのカテゴリではみあたらず、ハッピーセットのほうにしかなかったのだけれどハッピーセットでしかたのめないということなのだろうか? そんなことはあるまいとおもうのだが。この時点では知らなかったが(……)くんが執心のミニカーはマックのハッピーセットであつめたものらしいので、ハッピーセットをたのんであたらしいものを持っていってあげたほうがよかったのかもしれないが、景品を決めるのもめんどうくさかったしダブルチーズバーガーにした。それでちょっと待つ。できあがりはわりとはやかった。そうして車にもどる。もどると発車するまえに母親は、となりに停まっていた親子に、三〇分待ちましたよ、とおしえてあげていた。かれらが来たときにどれくらい待ってますか? ときかれたらしい。
 それでおくれて釣り堀へ。ニジマスが釣れるところで、釣ったらかならずもってかえらなければならず、釣り人精神の基礎中の基礎であるはずのキャッチ&リリースをゆるさないというおそろしいルールの施設なのだが、こちらと母親がついた時点でもうバケツのなかには何匹もマスがいた。兄が釣ったのだろうが、(……)ちゃんも挑戦していた。池には魚たちがそれはもううようようようよヒルかオタマジャクシのようにうようよしており、だからまあ餌をいれれば入れ食いというかんじなわけだ。ほかの客も二、三組いて、やはり同様にみんなおさない子どもを連れていたとおもう。なかにまたちょっとヤンキーじみた若い父親の組もあった。こちらは魚どもと真剣勝負をやりたいというきもちがなかったので遠慮して(……)くんについたり池をながめたり。終わって子どもらが手をあらっているあいだに池のほとりに立ってみずをながめたが、ときどき雨を落としていた曇天の白さがひろく反映しなめらかな膜のようになって魚群がかくれたり、ちょっとばしょをうつせば頭上にかかった樹々の若緑もおおきくあらわれて、あさい波を生んでいるみずのなかで波紋の通過をうけてふるえるその像は、水面にうつりこんでいるというよりは水底にしずんで段をなしている岩のようにしかみえなかった。
 それでじきに帰宅してバーガーを食ったり、釣ってきたマスをさっそく一匹焼いてわけたり。このときこちらもむろん食うわけだけれど、台所では母親がフライパンで魚を焼くかたわらいろいろ準備しており、しかし兄も父親もなにもやろうとしないので、早々にバーガーを食ったこちらはポテトをあたために行くついでにフライパンのまえを交代して魚を焼いて焼けたものを皿に盛ったり、ポテトを大皿に出して電子レンジで熱して食卓にはこんだり、あとなんだかわすれたがほかの品も用意してはこんだり、たぶん洗い物をしたりなんだりした。母親はあいま、ながしのまえに立って、おっさん、ちょっと、やってくれればいいのに、ともらしていたが、父親はもうつかれてしまったらしく子どものあいてをしながらぐったりしているようなありさまだった。さいきんはとみに父親の老いこみがみえる気がする。からだはあちこち痛いようで、そのわりに日中は畑に出たりそとでなにかやっていることがおおいが、しかしサロンパスシップを貼ったり(それはまえからではあるが)、夕食時やそのあとはひたすらテレビ(というかタブレット)をまえにしながら疲れをにじませつつ諸所を揉んだりしている。父親がこういうときに積極的に手伝いをしようとしなかったり、家にいるんだからさっさとこれやっときゃたしょうでも母親が楽になるのにということをやっていなかったりするのを、いぜんはこちらも他者にたいする奉仕心を知らないくせにそれでいて偉そうにだけしてるクソ馬鹿が死ねよとおもっていたのだけれど、これはもうしょうがない、たんじゅんにからだがついていかないところがあるのだなとさいきんではおもうようになった。まあもちろんそれだけではなくふつうに習慣の問題もあるし、意欲の問題もあるだろうが、やはりからだがおとろえていてうごけない、気力が出ないというのもおおきいだろうと。あとまあほかにやるしごともあるにはあるし。ただ山梨にはよく行ってるからその点では精力的ともいえるのだけれど。それでもたまに飯をつくったりはするし、まだましなほうだというべきかもしれない。こちらも経済的に依存しつつたいして家事をやっているわけではないし、えらそうなことはいえない。
 

 ぜんじつの記事に書くのをわすれたのだけれど、四時だか五時だかに(……)とわかれたあと、書店に行った。読書会の課題書になったホッブズの『リヴァイアサン』を買いたかったからである。あと、(……)くんの志望校である千葉大学の過去問(赤本)もやはりもう買っちゃって読み、こんなかんじだというのをわかっておいて情報提供できたほうがよいだろうなとおもったのでそれも。いつもどおりほかにも思想だの文学だのたしょうみてまわったわけだけれど、戸谷洋志『スマートな悪 技術と暴力について』(講談社)という本をついでに買った。おもしろそうだったし、一五〇〇円くらいで安かったので。あと、月曜社のあのちいさめのサイズのシリーズで(「古典転生」だっけか?)、サルトルの倫理思想の変遷をたどるみたいな本もあって(たしか『倫理と歴史』みたいな題)、それもけっこうほしい気はしたのだがこんかいはみおくっておいた。ほかにも買いたくなる本はあったとおもうが、積み本おおすぎて買っても読めねえしといういまさらすぎるセーブをはたらかせて欲望を制御。そうして書店のあとは、帰ると子どもたちのあいてで日記が書けないからと喫茶店に行き、そうとうにひさしぶりのことだが出先で書きものの作業をした。そういうもくろみでパソコンをもってきていたのだ。駅前のエクセルシオールにはいってレジカウンターのむかいに三つくらいならんだひとり用のちいさなテーブルの席にはいり、そこそこ厚みがあって弾力的に尻やからだをうけとめてくれる革張りの椅子で文をつづった。むかしはBGMで耳をふさいでいたが、いまはもうせず。それでも集中できないということはぜんぜんなかった。店内を行き交うひとの気配や、注文のやりとりや、客がこないあいだに男女の店員がレジカウンターのうしろでくだけた調子で雑談している声や店じたいのBGMなどがほどよい背景になってむしろよいかんじだった。ロラン・バルトがたぶん彼自身によるのなかだったとおもうけれど、飛行機ではからだが固定されてしまってまわりにひとのうごきもないので思考が駆動せずまったく書きものができない、電車とかバーとかでは周囲をひとびとの肉体がたえず行き交っていてそれがわたしのからだと感応して夢想をよびおこしてくれる、みたいなことを書いていた記憶があるのだが(原文の内容とたぶんかなりずれているというか、とりこぼしがはなはだしいとおもうが)、それにちかしいことかもしれない。八時くらいまでやったはず。


 それでこの二日は夕方六時すぎから(……)と合流。(……)駅の改札内で会った。やつは日中に髪を切り、また宅建士の免許更新に行ってきたというが、髪はめちゃくちゃうねうねしていた。メデューサも顔負けのつややかでこまかいうねりかた。じぶんでも、なんかこんなかんじにされちゃって、これ店長としてだいじょうぶかな? っておもうけど、といっていた。ともに電車に乗って(……)へ。駅前のようす(とくにパン屋)にはみおぼえがあった。大学時代だとおもうが、(……)の家にあそびに行ったときかそのかえりになんどか利用するかまえをとおったのだろう。スマートフォンをみる(……)の案内で物件へむかう。たしか降りた時点ですでにぱらぱらきていたとおもうのだが、しだいに雨はいきおいと嵩をまして本格的な降りになり、(……)は傘をもっていなかったので野郎ふたりで相合い傘することになった。周辺はまあふつうの住宅地だが、駅からのみちにスーパーもあるし、たいして栄えちゃいないけれど食い物屋とか店もそこそこあって、ぜんぜん不都合はないだろうと。代々木ゼミナールの教室があったので、しごとなかったらここではたらけるわとか、ここではたらいたら行き帰りちかすぎて楽勝だわとか軽口をたたいた。そうしてとちゅうにちいさくさびれたような公園がひとつあったのだがそのまえまで来たところで(……)がなかをのぞきながら反応をしめし、え? ここは……まさか? え? ちょっと待って……あ、そうだよな、これ、あー、青春の……いま甘酸っぱいおもいでが、あー、みたいなことをもらしたのでなにかとおもえば、高校時代に(……)さんとつきあっていたときになんどか来たことがあったという。かのじょの家がこっちのほうにあったようだ。まさかそんな記憶の不意撃ちが起こるとはおもっていなかったのでクソわらったが、いま黒猫が一匹我が物顔でいすわっていたもののわれわれの気配がちかづくとともに逃げていった屋根を頭上にもうけられたベンチに(……)さんがあおむけにねころがって、かたわらにすわるか立つかしていた(……)はもうちょっとでパンツみえるじゃんと若きスケベごころをふくらませていたらしい。(……)さん、エロかったなー、やっておけばよかった、ともらすので、いやそのあと(……)とつきあったんだからいいじゃんと笑った。そのあと物件まで行くあいだに(……)さんのはなしをたしょうきいたが、(……)がかのじょとつきあっていた期間はだいぶみじかかった記憶があって、修学旅行のあとくらいにはもう別れていたような気がしたのだが、正式に別れたのは夏休み中だったらしい。(……)さんは広島出身で(出身だかは知らないがすくなくともまえにはそこにいて)二年時から転校生としてこちらにやってきたのだけれど、夏休み中に両親は広島に一時帰っており、そのあいだ家にこないかと呼ばれたのだがなぜだったか(……)は行かず、ちょうどそのおりに広島でつきあっていた元彼が東京に来ていて(……)ではなくかれが家にいき、そこでよりをもどしたとかで別れることになったのだと。で、そのあと(……)とつきあいだしたのは文化祭くらいからだったとおもうとのこと。(……)さんについてはおぼえていなかったが、(……)にかんしてはたしかにいわれてみればそんな気がする。(……)とはこちらも文化祭くらいから本格的に仲良くなりだしたおぼえがある。席がちかくなったのだろう。かのじょは文化祭委員だかわからないがクラスでの文化祭準備の中心をになっていたはずで、いちど電話でなにか相談された記憶がある。しかしそれが二年時のことだったか三年時のことだったかおもいだせない。たぶん前者だとおもうのだが。そうだとすればかのじょは二年時も三年時も文化祭委員をつとめていたことになるが、そこは変わらなかったのだろうか? という疑問はある。三年のときに(……)が文化祭委員だったことはたしかである。というのも、三年生はどのクラスもなぜか出し物で演劇をやるという謎の暗黙ルールみたいなものがあり、われわれのクラスもホームルームかどこかではなしあって作品を決めたのだが、そのときに黒板のまえに立って進行役をやっていたのが(……)だったからである(あとたしかもうひとり、たぶん(……)さんが立っていたようなおぼえがある)。われわれのクラスはけっきょく乙一のなんとかいう小説(たしか『傷』というやつ)をもとに脚本をつくってやることになったのだが(そしてたしかその脚本を書いたのが、なんとこの雨の宵にこちらとともに相合い傘で物件にむかっていたこの(……)だったはずだ)、いくつか候補があったうちのあるものの内容を説明するとき、(……)がやや逡巡して言いよどみながら、女の子が「犯されちゃって」、レイプされちゃって、と口にしたことをはっきりと記憶している。とうじはじぶんもまだまだ多感で自意識が敏感な小賢しいティーンであり、セックスだのオナニーだの性的な単語が発されるだけで恥ずかしさをかんじていたというか、友だちとこそこそやる猥談ならまだしもたとえば授業など公共の領域とみなせる時空でなにかの拍子にセックスとかいうことばが口にされたならたぶんそれだけで恥ずかしくなりひるんでいたとおもうから、同級生の女子が強姦の意で「犯す」ということばをはっきり口にしたのもある意味でちょっとショッキングだったというか、はっとするような印象をうけたのだろう。それでいまにいたるまで記憶がのこっているわけだ。
 そうして物件に到着して見分。鍵の置き場所をみつけるのにちょっと手間取って、(……)が管理会社に電話することになったが。ぜんぜんいい部屋というかふつうに不満はない。(……)も、ぜんぜんわるくない、おもったいじょうにわるくないといっていた。七畳。とびらをはいってすぐ右にはなぜか段のおおい靴箱があり、靴箱なんぞいらんのだけれど、そのうえにちょっとだけものを置けるようになっている。そこから壁に沿ってすぐとなりにキッチン。キッチンといってもひじょうにせまく、コンロはひとつでその横はすぐ流しで、料理をするとしてまな板を置いて野菜を切るスペースすらほぼないような状態だが、靴箱のうえでがんばるか、それかテーブルを買って導入するしかないだろう。とびらをはいったところからみてすぐひだりはトイレと風呂。なかにすすむと流しのとなりのやはり壁沿いに洗濯機スペースが用意されている。その壁、入り口からみて右側の壁の最奥にはインターネット回線用の接続部があって光回線がしつらえられるらしい。そして窓。窓は西側のようだ。だから洗濯物を干すとすれば正午をこえないとあまり恩恵はないのだけれど、窓のそとにはバルコニーとは名ばかりでほぼ柵だけの出ることはできない極小スペースがあり、まあたとえばごくごくちいさな鉢植えを置いたりプチトマトをそだてたりくらいならできるかなという程度で、そのうえの左右に穴のあいた突起があるので洗濯物をそとに干すならそのあいだに竿をとおしてひっかけるしかない。そこからひだりての角にはなんだったかな、たしかテレビ用の接続部とあとエアコンがあったはず。左側の壁からてまえにもどってくるとトイレに接した位置に申し訳程度の収納があり、衣服はここにいれるしかないが、なぜかこの収納は床からちょっと浮いたぶぶんにあってそのしたがトイレの壁までくぼんだ空白スペースになっており、ここを本の置き場にできなくもない。そんなかんじのせまくるしい部屋だが部屋のせまくるしさでいったらいまの自室のほうがふつうにせまいし、亡霊とかが憑いていそうな気配もとくにかんじなかったし、リフォームもされているしむしろ好感触で、しかも角部屋なのでとなりは一部屋しかなく反対側のそとは階段だし、最低レベルでこれならむしろ運が良かったのでは? やはり日ごろのおこないともってうまれた善性と徳がものをいうな、もうここでぜんぜんいいわ、というかんじで即決した。
 それで帰りに(……)がコンビニに寄ってスマートフォン経由で申込書と同意書を印刷し、その場でじぶんの記入部分は記入してくれたので(ボールペンは手帳にともなってもっていた鈍い青のインクのやつをこちらが貸した)、これをあしたあたりにでも記入してPDFにしてメールでおくってくれればよいとのことで了解し、翌日の夜にさっそく記入しておくり審査に出したところ、五月八日に(いまは九日の月曜日、午後三時になっている)審査がとおったという連絡が来たので住める。入居日はいちおう五月三一日にしておいた。というのも家賃の引き落としというのは原則ある月に一月分先を落とすシステムになっているらしく、だから六月からにするとさいしょに六、七月分をいっぺんにはらわなくてはならなくなるということで、まあべつになんでもよいのだが五月さいごのいちにち分と六月分から家賃をはらいだす、というかたちにしておいた。いかんせんひとり暮らしをしたことがないのであと入居前にどういう準備や手続きをしておけばいいのか、水道とかガスとかネットの契約とかよくしらないしめんどうくせえなというかんじなのだけれど、そのへんもてきとうにやる。じぶんの携帯はauだが、ネット回線とか電気にかんしてはau電気とかいうのがあったはずなので、もうそれでいいのでは? とおもっている。あとカーテンと布団とスーツ類と服があればとりあえずどうにかなるかな。もっていきたいものもそんなにないし、机とかは買おうとおもっているし、べつにいっぺんにものをうつす気もない。とくに本はすこしずつ持っていくほかはない。そもそもぜんぶうつそうとしたら、置ききれるとはおもうがかなりせまくなるはず。引っ越し業者をたのむつもりもない。金がないし。

2022/5/1, Sun.

 一党支配であり、選挙には政権選択の機能がなかったにもかかわらず、ソヴェト政権と共産党にとって選挙は極めて大きな意味を持っていた。先に強調したように政権は人々の理解と協力を求めていたのであり、そのために党と政権が最も重視したのが選挙であった。故に、政権選択の機能のない選挙の実施に政権と共産党は膨大な労力を注ぎ込み、選挙運動では大規模に説明活動を組織し、人々の意見を吸い上げようとした。
 平等な選挙権を実現するため、一票の格差が生じないように選挙のたびに選挙区画の見直しがおこなわれていた。三交代勤務の労働者への便宜のため、投票時間は六時から二四時まで設定され(一九六六年の選挙以後は二二時まで)、投票所に隣接してビュッフェが設けられた。投票所がクラブなど文化啓蒙・娯楽施設であれば、選挙の日にコンサートがおこなわれたり、書物が増やされたりした。身体障害その他の理由で投票所に来られない有権者に対しては、送迎を手配したり、自宅に投票箱を運んだりする配慮がなされた。
 これらは投票率を高めるための方策であり、その狙いはソヴェト政権の正統性を主張することだと捉えることもできる。確かにそうした面はあり、選挙のたびに、九九%を超える投票率・得票率が「政権と党に対する国民の信頼の証し」として誇らしく語られた。しかし、こうした数字をもってソヴェト政権が正統性を主張し、「ソヴェト民主主義はブルジョア民主主義より民主的」と宣伝しても、それだけでは、一党支配の下で定数通りの候(end205)補者しかいない選挙を現に経験している国民には実感されることはなかったろう。実際、定数より多い候補者を立てるべきだとの要望、選挙も議会も形式化・形骸化しているとの批判は、選挙のたびに投票用紙に書き込まれたのである。
 そのことに留意しつつ、筆者が注目するのは、政権と党が選挙を「祝祭」と捉えていたことである。有権者が選挙という「祝祭」に参加し、地域の人々と交流し、音楽や書物を楽しむ時間を共有することで、大きく言えば国民統合の一助とし、より身近には地域社会の一員であることを意識させようとしたのではないかと考えるからである。そして、朝六時に投票所が開く前から詰めかける人々や、選挙権を手にして以来数十年にわたって毎回投票所に一番乗りを果している人物など、選挙に参加することに特別の意義を感じている人々がいたことからすれば、党と政権にこうした狙いがあったとすれば、それはかなり成功していたと言えるように思う。
 そしてまた、確かに党機関が主導して、「地域住民や勤労集団の代表」として定数通りの候補者が立てられるのだが、推薦された候補者が、住民や職場の同僚から不適当と見られる人物であった場合、候補者選出の集会において多くの批判が浴びせられたのであり、その結果として候補者が差し替えられた例も少なくなかった。そして、党と政権はこうした事例を「好ましい現象」と捉えていた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、205~206)


 この日は(……)で(……)と会って物件をしらべてもらい、決めた日。一時すぎから集合した。そのまえ、朝起きて飯を食っているあいだ、たぶん一〇時すぎくらいだったかとおもうが、居間では兄といっしょに滞在中の(……)ちゃんや(……)くんがうろつきまわってあそんでいるなか、だれもたいして目をむけていないテレビはニュースをうつしているわけである。ウクライナの報道がながれた。砲撃のようすや、ヘルソンで広場にあつまってヘルソンはウクライナであると、ロシアの占領支配に反対するひとびとのすがたがうつされるのだが、そのときこたつテーブルとソファのあいだにはいってテーブルに寄りながら、マクドナルドのハッピーセットでもらったらしいミニカーをうごかすかなにかたぶんしていた(……)くんがテレビをみて、あ、いっぱいだね! といい(おそらくひとがということだろう)、青と黄色、とも口にして、かたわらでよりそいながら世話をしていた父親は孫煩悩のあまい祖父の破顔に表情をくずしつつ、あ、国旗のいろね、ほんとによくわかるなあ、などと褒めことばをかけていた。このいちれんのようすをみながら、なにかしらの印象が生じた。それをあえてことばにしないほうがよい気もするのだが、しかしある程度まで言語化してしまうと、まずたんじゅんにテレビにうつった情報の苛烈な政治性と居間で起こっているできごとの平穏さの対比、ほぼ命がけといってもよいだろう政治的抗議のようすが、あるいは幸福と称してもよいかもしれない子育てのささやかな一情景にくみこまれてしまうその対照が印象的だったのだろう。もうひとつには、これもまた歴史の一場面なのかもしれないな、というようなおもいが生じたようだ。歴史の一場面というと語弊があるとおもうのだが、歴史のある一場面にまつわって方々で展開される無数の情景、小場面のうちのひとつというか。より具体的には、(……)くんはこの日この朝このときのことをわすれてしまい、こういうことがあったというのを成長してもとうぜんおもいだすことはないだろうけれど、しかしかれもいずれかの未来に学校の教科書や本などで、このいまにウクライナで戦争があったのだということを、もしかしたらヘルソンがおとされて抗議したひとびとがいたのだということまで、知ったり学んだりすることがあるのかもしれない、というおもいをえたようだった。
 (……)とは会うとまず飯を食いに行った。(……)のうえ。感染者も減ってきて連休ということで人出はおおく、レストランフロアの店はどこも混んで待ち客がたくさんならんでいた。そんななかで寿司屋だけあきらかに空いていて待っているすがたがなかったのでそこにはいろうということに。なまえを書いてすぐに呼ばれてカウンターへ。握りセットを注文。うまい。寿司をひさしぶりに食った気がした。しごとのはなしや近況報告などをここでは。
 その後喫茶店。ビルを出ると雨がだいぶ降っていた。ルノアールに行くかと言って駅から東にむかったのだが、なんとルノアールがはいっていたビルがまるごとなくなっていた! マジか。(……)くんとの会合にまいかいつかっていたのに。これでは再開しても(……)ではやりづらいぞ。べつにほかの町でもむろんかまわないが、ただ(……)は書店が充実しているのでつぎの課題書を決めるのに便利だったのだ。こちらもほかの会合もあり、また日記に追われ読書もそんなにできていない現状、そしてあちらの状況やきもちからしても再開できるかもわからないが、こちらじしんはできればまた月一であつまってはなしができたらいいなとはおもっている。じぶんが大学に行ってえたなかで真に価値あるものは(……)くんとの友人関係だけである。
 それで高架歩廊とちゅうのエクセルシオールに行くことに。移動して一階の奥のカウンター席にならんですわり、またしばらく雑談したあとに物件探し。そろそろ家を出ようとおもっているので相談させてもらえればというのがきょうの本題だったのだ。(……)は不動産屋で、(……)支店の店長をつとめている。パソコンをもってきてくれたので、それで検索してくれた。こちらは事前にまったくなにもしらべていなかった。すこしはじぶんでしらべろよというはなしだが、興味がわかないことがなかなかできないタイプだし、金もないから最低ランクのなかからえらぶしかないわけで、そのなかでまあまだましだというものを(……)にたよってえらんでもらおうという腹だったのだ。ただし(……)内に住むという条件ははずせない。(……)図書館がきわめて充実しているからである。それで(……)の最低ラインを検索してもらうと、三万円くらいだった。めちゃくちゃむかしに地元(……)で検索したときはたしか二万にみたない物件がいくつかあったおぼえがあったから二万円くらいの部屋もあるのかなとおもっていたがそうでもないようだ。その(……)でいちおう検索してもらっても最低で二万五〇〇〇円くらいで五〇〇〇円しか変わらないので、それならやっぱり(……)に住むしかねえと。で、(……)がPDFファイルをつぎつぎにひらいて間取り図や写真などをみていってくれたりこちらもみたりするなか、三万ラインだと洗濯機を室内に置ける物件がそもそもとぼしく、ふたつしかなかった。洗濯機はやはりできればじぶんで持てたほうがよいだろうとおもっていたので、実質もうそのどちらかにするしかない。ひとつは(……)、(……)駅の最寄りで一階にクリーニング屋がはいっているそのうえ。もうひとつは(……)だった。そのふたつをみてみたかんじなんとなく前者のほうがよさそうで、築は一九七一年とかあったか、だから古いが、この部屋はリフォームもはいっているらしかったし、Google Mapをみてみてもちかくにスーパーやコンビニもふつうにあるし駅からも七分というからこちらの足なら一〇分くらいだろう。余裕。楽勝。クリーニング屋が家のしたというのも都合がよい。こちらはスーツにワイシャツをつかうしごとである。もうここでよくね? とおもった。というか経済力的にえらべる身分でないからそれしかないわけである。もうほぼこころ決まりしていたがいちおう見には行って感触をえておきたくもあるわけで、(……)があしたなら行けるというので、とりあえずもうあした見に行っておこうと同行をたのんだ。物件名は「(……)」で部屋は(……)。
 (……)のはなしでは保証会社に審査をたのむ物件なのだが、審査がとおるかどうかというのはうーんまあどうかなーというかんじらしく、家賃が収入の四〇パーセントをこえるとまずいという基準が業界にはあるらしい。(……)の家賃は共益費ふくめて三三〇〇〇円で、それが四〇パーセントということは四で割って八二五〇円が一〇パー、したがってまいつき八二五〇〇円は最低でもかせいでいないといけないわけだが、いまじぶんの月収はだいたい七、八万くらいなのでややきびしい。どちらにしても家を出て七、八万でやっていくのはきついとおもうので、いまのところでもうすこししごとを増やすか、なにかべつのことでたしょう金をかせがなければならないだろうが。まあとりあえず生存できて読み書きができればだいたいなんでもよい。そんなに立派に生きようとおもっていない。

2022/4/30, Sat.

 ソ連では自由な言論などあり得ず、新聞雑誌には政権を礼賛する記事ばかりで不都合なことは一切書かれていなかったというオーウェルの『一九八四年』そのままのイメージもあるだろう。しかし、このイメージはソ連の実情に即していない。確かに時代を下るに連れて検閲が網羅的に整備され、公的なマスメディアで検閲を免れていたものはなかった。内戦期や「大テロル期」には、不満の表明は相当に危険であった。しかしスターリン時代でさえ全般的には批判的否定的な記事は数多く書かれていた。とはいえ、制約があったことも確かであり、だからこそ、後述のようにゴルバチョフの奨励したグラスノスチは大きな反響を引き起こしていったのであるが、それでも、少なくとも「雪どけ」以後のソ連は、人々が不満や苦情を一切口にすることができないほど雁字搦めに統制された国であったわ(end200)けではなく、生活に関する不満や苦情を人々は公然と表明していた。
 ソ連の人々は、不満や困難を訴え要望を伝える手紙を、様々なレベルの政治指導者や党・ソヴェト機関、新聞雑誌の編集部へと驚くほど多く寄せている。裁判所に対してさえ多くの苦情が寄せられていた。他には要望を伝える経路がなかったためでもあるが、ソヴェト政権や指導者に対する信頼が人々に多少なりとも存在していなければ、こうしたことはなされないのではなかろうか。たとえそれが「わらにもすがる」ような一縷の望みによるものであったとしても、なんらかの成果を得る可能性は意識されているはずである。そして、政権の側にも人々の手紙や投書に応えようという意識は確かに存在したし、実際、こうした手紙や投書が政権側の対応を呼び起こすこともあった。
 これは、やや具体的には次のような関係であった。ソ連では政治・経済・社会生活のほぼあらゆる局面に公的な機関が関わったため官僚機構は肥大し、官僚主義と事務遅滞がはびこって人々の不満は高まった。このため中央の指導者は、一般大衆を鼓舞し動員することによって、中下級の様々な指導者や機関の官僚主義汚職、腐敗、職権濫用などを暴かせようとキャンペーンを組織した。ブレジネフの下でもフルシチョフの下でも、スターリンの下でもこうした取り組みはなされていた。これは、日常的に人々が自らの要望を指導部に訴える回路ともなり得たのであり、人々は、物不足やサービスの欠陥の訴え、中下級(end201)の機関や指導者に対する批判と救済の訴えなどの手紙を、地区から連邦中央に至る様々なレベルの指導者、党機関・国家機関に対して常日頃から送るようになっていた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、200~202)



  • 「英語」: 61 - 90


 いま午後一一時半まえで、きょうは昼過ぎから出かけて(……)さん(……)さんと会い、有楽町で映画をみてかえってくると(……)さんはのぞいて兄とその子ふたりが来ていたのだが、外出もしていろいろと見聞きしたこの日のことをおもいかえすに、これは書いておきたいとおもうのがやはりどうしても風景なのだ。とにかく風景を書きたい。風景をみて書かないわけにはいられない。風景を書きつづけよう、ただずっとひたすらに。
 往路に出たのは一二時半直前。この日は快晴でひかりがよくとおり大気はあかるく空も青かったが気温はおもいのほかにあがらず、あかるさに比して不似合いなように涼しい昼だった。みちに接した石段のうえ、林の外周をなす草むらは背丈を伸ばしてボリューミーに繁茂してきて、織りかさなって一帯を埋め尽くしたみどりがひかりを撒かれて白さをはじいており、とくにカマキリの鎌のように細長く先端が収束した葉の垂れ下がりが目立つ。それらが編みこまれた髪の毛のようにうねりながらひろがっている。みちはしずかだった。ひと気がみえず、沿道の家から気配も立たず、風のながれもみちばたの小さ草をゆらしながらもおとを湧かさず、ときいているうちに公団まえまでいたると前方に数人、こちらに来るふたりと坂をくだっていくふたりとみえて、風もいくらか速さを増して耳の穴のまえにひびきを置いたり、家かなにかにあたっておとを立てたりした。十字路からいつもどおり木の間の坂に折れてのぼっていくと足もとにひろがったあかるみのなかに葉影が入り混じりながらゆれて路面が波打ちたわんだようで、うわ、みなもだ、とおもった。木々を縫って投射されたひかり溜まりのうえにうつった天蓋の影は蜂の巣状というか、なかをいびつにくりぬかれたその外周線が無数につながりつらなって、へんな比喩だが不格好なかたちの手裏剣が敷き詰められたようでもあり、落ちている植物の屑をきらめきでかくす白さのうえで、いちまいの影はすずしく希薄なのだろうがいくつもかさねられて黒くなったものもありそれらが揺動におうじて濃淡を微妙に交雑させてうみだす影絵の、川のおもてに陽射しがやどって銀色をまきちらしながらうねるときの波打ちとおなじくみえて、みずはひかりに、ひかりは影に転じたかたちでここはみなものあらわれだった。
 坂を越えて最寄り駅まで来るとトイレに寄って用足し。出ると正面に立ったカエデの木の明緑の葉が空に映え、じつにさわやかで、ほとんど野菜のような、みずみずしいメロンのような、まるで食べられそうなみどりのあざやかさだった。ホームにわたってさきのほうへ行き、線路をむくと視界の奥は丘で、そのもとの一軒の脇にあれはおそらく竹だろうが上下にながい葉叢が数本分風にかたむいているのはこの春おりおり見た光景だが、そのいろがやや鈍く地味なのに比して背景をなす丘の低みにはいつのまにかここも若やいだみどりがふくらんで、あかるく横にならんでいた。
 いちにちを街にすごしもどってきた帰路は八時すぎ。空気はいくらか冷え冷えとなった。最寄りの駅を抜けて暗がりの坂をおりながら、あっというまに夜になったなという感が立ち、数時間まえにみたはずのみなもはとうぜんながらもはやなく、そこを踏むのはふしぎなようで、路上にひかりの白さはあるけれどそれは太陽や月を僭する気もない人工器具のひろげるもので、街灯は樹冠よりもしたにあるから影絵はうまれずのっぺりと薄く塗られるにすぎない。しかし坂を抜けてしたのみちに出るとおおぶりの、道幅を越えて横切る影が、乗っていた子の去ってまもないブランコのようにはげしくはなく鷹揚にふれて推移しているのは公団付属の見捨てられたかにわびしい公園の桜が街灯のあかりに射抜かれたもので、大縄のごとく這う影に足もとを通過されながら、そうかこれほど葉が育ったのだ、みちをいっぱい横切るほどに葉のつらなりがおおきくなったのだとその気づきに目を枝にやり、肌寒い風で影はゆれまじわって、ここはここでまたひとつのみなものささめきだった。


 書きたかった風景というのはとくに往路のみなもで、うわみなもだ、とおもって撃たれたのでこれは書かねばならんとおもったわけだが、こんなふうに書いちゃっていいのかな? という、あるいはこんなふうに書いちゃっているだけでいいのかな? という疑問もある。おれが書いているこれは風景なのかな? という疑問もある。イメージつかいすぎだし。
 しかし、これは風景描写なのか? という点はひとまず不問に付すとして、noteにためている風景の記述はいまこれで171をかぞえているし、こんなにまいにち風景ばかりやたらこまかく書いているにんげんしょうじきほかにほぼいないとおもうし、この種の記述をあつめただけで『風景集』としていっさつ本にして出版できるのでは? とおもう。


 起きたのは九時。アラームをしかけておいたのでそれで無事に。水場に行ってきてからきょうもまず書見。クロード・シモンの『フランドルへの道』を読みながら脚をもみほぐす。瞑想のはじまり終わりをわすれたのだがたぶん三〇分ほどで、一〇時すぎくらいまでだったとおもう。上階へ。さくばん(……)のおばあさんが亡くなったということでこんかいの訪問はとりやめとあったのだが、そのおなじ晩の深夜一時ごろだったか母親が部屋に来て、あしたやっぱり来てくれっていうから行ってくるね、八時ごろには出ちゃうとおもうから洗濯物よろしく、と知らされていた。そういうわけで両親はすでに不在。天気はよくて居間の南窓から近所の屋根のかがやきがみえるが、さきにも記したように気温は意外と低めで、起きたときから空気の質感は肌寒いかのようだった。ジャージにきがえて洗面所に行き、洗顔。いつもはあたまなどたいしてととのえもせず放置しているが、きょうはいちおう女性と会うわけだし整髪料くらいちょっとつけておくかとおもって髪を濡らして乾かしたあとにたしょうととのえた。といってセットというほど格好良くできるスキルをもっていないのだが、ともかくつけるだけはつけた。そうして手指を洗い、ハムエッグを焼いて食事。新聞一面にはKAZU Ⅰの件の続報。海底一二〇メートルに沈んだ船体を発見したと。海上保安庁がソナーをつかって調べていたところ反応があったので、海上自衛隊が水中カメラを沈め、船体と、その側面にKAZU Ⅰの文字が書かれているのを確認したと。行方不明者が船内にいるのかはまだわかっておらず、捜索には時間がかかるみこみだが、船体引き上げよりもそちらを優先する予定だと。ほか、ウクライナまわりでは東部ドネツクの親露派武装集団のトップが、戦闘は五月なかばをこえて長期化する可能性があるというみとおしを述べたと。プーチンは五月九日の対独戦勝記念日を節目にしたくてそれで国内向けのはっきりした戦果をほしがっているとまえから新聞上で言われているのだが、親露派トップはそこまでに切りがつくとはかんがえていないということだ。
 食後は食器のかたづけと風呂洗い。きょうも浴槽の内側下端にぬるぬるした感触がのこらないよう、念入りにこすった。それから一二時半ごろに家を発つまでは、二時半ごろ着くよう行くと(……)さんにメールをおくったり、二回目の瞑想をしたり。(……)さんのブログをほんのすこしだけ読む時間もあった。歯磨きのあいだだろう。そこで二〇一一年三月三日からひかれたボツになった小説の書き出し案を読んだのだが、これは記憶にあって、うわこれおぼえてるわ、なつかしい! とおもってちょっとおどろいた。そのまえのふたつはぜんぜんおぼえていなかったのだが。まあじっさい過去に読んでいるわけなのでおぼえていてもべつにふしぎではないのだが、この林のやつは冒頭からなんとなくみおぼえがある気がされ、「極彩色」でこれまえに読んだのでは? という気配がつよまり、「孟宗竹」と猿の登場で確信した。
 往路ちゅう、最寄り駅までのことはうえに書いた。電車に乗ると席について目を閉じながらしばらく待ち、(……)に着くと乗り換え。客はけっこうおおい。降りると同時にむかいの乗り換え先にむかってひとびとがながれはじめるそこを縫って横切るようにしてまず垂直方向に折れ、ひとのあいだをぬけるとそのままホームのさきのほうへ。ひかりはまぶしい。いちばん先頭の車両に乗って席につくと、きょうはひさびさに出先で音楽をきいてみようというわけでとりだしたスマートフォンにイヤフォンを挿し、Amazon MusicのアプリをひらいてBill Evans Trioを検索すると『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をながした。それで基本的にずっと瞑目しつづけたまま、じっとして音楽をきくともただやすむともつかない時間をすごした。とはいえいっぽうできょうは緊張に淡くさいなまれる時間もあり、さいしょはからだのうちがわ、腹のあたりなどにかけらが散っているだけなのだが、目を閉じてじっとしていると心身がおのずと集中的なかんじになって、気をそらす外界の情報がないままじぶんの体内感覚とむきあうことになり、そうすると緊張がよくみえるからだんだんとそれがそだちはじめるわけである。やや苦しくなって、動悸がからだにひびくいっときもあった。とはいえこれにかんしてはじぶんはもうベテランだし、動悸緊張といってもその規模程度はかつてとくらべれば比較するべくもなくちいさなものだから、その場からにげだしたいほどのパニックにつながらず、からだのなかでちょっとさわいでいるのを冷静にうけとめそれがじぶんの輪郭をはみださない範囲におさまっているのもあきらかにみてとれる。だからすこしビビりながらもそれをそのままにしてしぜんとしずまるのを待つかんじだ。たぶんレベルとしては尋常のひとがたとえばはじめての受験とか就職面接とか、人生の大事をまえにしたときにおぼえる緊張とおなじ程度のものではないか。それもすぐにおさまりはするのでもう日常をすごすに支障はなく、じぶんは寛解したと言ってなにも問題ないだろうが、そうはいってもパニック障害のなごりが、いまだにこういうかたちで根強く残存しているのもたしかだなとおもった。じぶんはいつまで経っても不安からかんぜんに解放されはしないようだ。
 すさまじくひさしぶり、何年ぶりで、電車内で音楽をきいたのだが、まあおもしろいかおもしろくないかでいえばわるくはないけれどそんなにおもしろいわけではなく、いちおうカナル型イヤフォンなのだがアナウンスは容易に耳の塞ぎをつらぬいてくるし、走行音などもあってもちろんそんなに明瞭にきこえるわけでないから、とりわけジャズをながしても細部がみえきらずにうんまあまあまあそうね、という感触にはなる。ノイズキャンセリングの品をつかえばまたちがうのだろうが。しかし反対にいえばかなりの程度きこえているとも言え、Bill Evans TrioでいえばなぜかMotianのシンバルがきわだったし、こまかいフィルの質感もあわせて家できいたときよりもドラムが迫るかんじすらあり、”All of You (take 1)”にかんしてはピアノソロの終盤がやはりすごくてひきこまれたのだけれど、ぜんたいとしてじゃあ電車内で音楽をきいておもしろいかというとそこまでではないというのがひさしぶりの実感である。あとにはFISHMANSLed Zeppelinなどもきいて、こういう歌もののロックポップスならジャズよりはまあ行けるかなという気もしたが、外出時にかならず音楽をききたいとはもはやおもわない。
 いっぽうでは緊張しつつも、睡眠がすくなかったのでいっぽうではねむたくて、睡眠がすくないのも緊張要因のひとつなのだとおもうが、それでそんなに明晰な意識でもなかったので余計にBill Evans Trioははいってこない。(……)で立って特快に乗り換えることにした。立てばまだしも血がめぐるかという思惑である。それで降り、特快が来るあいだ線路をまえに立ち尽くして、正面の沿道に初心者向けのガールズバーをうたった店があるのをみたり、自転車に乗ったおとなこどもがなんにんもおもてのほうから走ってきて、そこにたぶん地下通路があったのだとおもうがそのあたりにはいっていくのをみていると、いかにも町だなという感をえた。特快に乗り換えて扉際に立ち、手すりを左手でつかみながら目を閉じて佇立。新宿を越えてちょっとしたところでスマートフォンをとりだしてGmailをみると(……)さんからメールがきていて、集合は上野でそれいぜんに動物園をぶらつこうというはなしが出ていたのだが動物園はいま予約制になっていたということで、(……)さんとはなして映画でもみたらとなったので急ですまないが有楽町に来てくれるかとあった。了承をおくり、ちょうど四ツ谷のまえだったのでYahooの路線情報にアクセスして有楽町までのルートをしらべた。これもスマートフォンに変えてできるようになったことで、ガラケー時代だったらいったん降りて路線図をみるなり駅員にきくなり、もうすこし手間がかかっていたはずである。しかし四ツ谷からだと乗り換えねばならずめんどうだなとおもったので、それではもともと経由するつもりだった神田からならどうかとみれば山手線で二駅なのでそちらで降りることにした。そもそも有楽町が山手線上の駅だということすら知らなかった。四ツ谷御茶ノ水についたあたりで音楽をFISHMANSの”バックビートに乗っかって”に変えたのだが、ひらいたドアのむこうに草のみどりがやや混ざりながらひかりがとおって空間を満たし、ホームにもかかって面を発光させているそのあかるさにあの曲の浮遊的な、酩酊的な空気がよくそぐうて、”バックビートに乗っかって”はそとできくときもちのよい異化効果があってこれはけっこういいなとおもった。神田で降りたころには”WALKING IN THE RHYTHM”にうつっており、山手線外回り(東京・品川・渋谷方面)のホームをさぐってむかうと階段の脇にちょうどトイレがあったので寄り、小便を体外に出しながら音楽をきいたが”WALKING IN THE RHYTHM”ももちろんよく、まさしくおどるようにあるくためにあるような曲だなとおもった。
 ホームにあがると来た山手ラインに乗って扉際で二駅。有楽町で降りると音楽をきくのはもうやめてイヤフォンをしまい、どの口に行けばよいかわからなかったがとりあえず中央口とあるほうに行ってみるかと階段をくだり、改札を出るまえに横のほうにそれて(……)さんに電話をかけた。すぐに出たのであいさつをし、有楽町についたがどの改札に行けばよいのかたずねると、きょうなんとか口と言い(ききとれなかったのではなくて(……)さんほんにんが「きょうなんとか口」といったのだ)、たしかにさきほど看板できょうなんとか口の文字をみたような気がしたのでともかくそっちにむかいますねと電話を切ってまわりをみれば、京橋口だった。その表示があるほうにあるき、まっすぐな通路をたどっていくとまもなくその正面にくだんの改札があったので抜け、出て右とかいっていたなとそちらをむいて折れようとしたとたんにまえを行く男女が目的のふたりではないかとみえたので、とおりすぎようとするところにちかづいて手を振るとあちらも気づいた。痩せました? といわれた。なんも変わってないですよと笑ったが、痩せたという印象は(……)さんにも(……)さんにものちにも言われ、かんがえたところまえに会ったのは二〇一九年だったので、一八年ちゅうにオランザピンの副作用で太ったその肉がとうじはまだすこしのこっていたのだろうとおもわれた。それはあとではいった喫茶店でしたはなしだ。この出会い頭にはほか、まえよりもおしゃれになってるといわれたが、こちらはむろんまえからずっとレベルのたかいおしゃれである。それは冗談としてもここ三年で服飾などひとつふたつくらいしか買い足していないわけなので、この日着ていた服もまえからもっていたもので服装が変わったわけではない。ちなみにこの日の衣装はPENDLETONの褐色のシャツにしたはいつものブルーグレーのズボン(じぶんはいつまで経ってもボトムスを「パンツ」と(「パ」にアクセントを置いておとを高くするのではなく三音ともおなじ高さで平板に)いうことができないので、これだけでガチのおしゃれ勢でないあかしにはじゅうぶんである)、上着はなんだったかたしかnicoleとかいうメーカーの濃紺のジャケットで、このジャケットはたしか一万円くらいで買ったはずだがけっこうよい品だとおもっている。PENDLETONのシャツはやわらかい質感のもので襟もややゆるく、襟元の第一ボタンもないから肌着の黒がしたに見えてしまってそれはちょっとなんかなあとおもうし、くわえてやわらかい質感のシャツなのでジャケットをはおってバッグをからだにかけるとけっこうかたよって均整がくずれたりするのもフォーマル風スタイルのわりにあんまりパキッとしないなとおもったのだが、着替えるのがめんどうだったしこれはこれでいいかとゆるく落とした。
 ともあれ映画館のチケットを買いに行くことに。いちおう東京都住まいのじぶんなのに福岡から出てきた(……)さんがスマートフォンの地図をみながら先導するのにかんぜんに依存しつつあるく。有楽町という土地に来たのも二回か三回目程度ではないか。いったん駅を抜けたのだがそちらはまちがいだったようで通路をもどり、反対側に出るといちどみちをわたってなんらかの商店集合ビルみたいなもののなかを抜け、それでひだりてにむかうと行く手に銀座インズというオレンジ色の案内看板をそなえたビルがあらわれ、そのあいまの通路をとおったところで横に折れるために横断歩道を待っているときにそれまで正面だったみちのかなたをじっとみとおして、よごれやみだれの皆無なみずいろの快晴天や、そのしたで果てのビルのかたちがよくうつっているのや、もっとてまえ、車道をわたったむかいのそこにオレンジっぽいいろの花かなにかを髪飾りめかせてゆたかに茂った濃緑の木が風にゆれているのを短時ながめた。みちをわたるとまた横に折れてその車道もわたり、そこからみぎに行くと映画館である丸の内TOEIのまえについた。みるというのは『ハッチング ―孵化―』という映画で、なんかまえにどこかで広告を目にしたような記憶があったのだが、気のせいかもしれないが、そこにあった表示をみるとホラーもしくはスリラーみたいなやつらしいので、というかあるいているあいだにそういうはなしはきいていたかもしれず、いずれにしてもホラー映画などみつけないのでホラーですか、と苦笑した。四時四〇分から。時間は二時四〇分くらいだったはず。ほかの作品もみてみたがおおかたエンタメ方面とみえたし島崎藤村の『破戒』の映画化があったがべつにそんなにみたいわけでないし、時間的にちょうどよい作品が『ハッチング』しかないようだったし、どれをみたいというこだわりもなかったのでこれをみましょうと決めてチケット購入へ。三人分まとめてこちらが払い、再会記念に(?)おごりとした。おとなひとり一九〇〇円。(……)
 それで映画の開始まではまだけっこう時間があるわけなのでどうする? と問い、まあとりあえずどこかにはいろうということでみちのさきにてきとうにあるきつつ、さっきの銀座インズに店がたくさんあるようだったと車道をわたってもどり、あいまの通路に接したオレンジ色の案内看板をみるに銀座インズは123とわかれたビルで、はいっているのは服屋などもあっただろうが飲み食いどころとしてはだいたいが飯屋、カフェという種はあまりないとみえて、インズ1の二階にはたとえばカフェレストランをうたったガストがあったり、あとCAFEという文字がついた店はあったがどちらかというとこのフロアは飯を食うばしょとおもわれ、インズ2にはめぼしいものはなく、インズ3の一階に瑠之亜珈琲なる店があって字面からしてカフェなので、どうしますインズ1の二階に行くか、それかこの瑠之亜珈琲に行ってみるか、と問うて後者に行くことになった。銀座インズ(というかそもそも有楽町という土地は銀座の範疇だったのか?)の三兄弟的なビルは横にならんでおり案内看板には現在地がインズ1の脇であることも示されており、ふつうに道沿いにあるいて3まで行けるようだったのでふつうに脇の歩道をあるいていった。天気はよくひかりはただよって空はどこでもみずいろだったが空気に熱はとぼしくて風がながれると夜のつめたさがおもわれた。インズ3につくとはいり、目のまえはマクドナルドかなにかだったのでせまい通路をたどって瑠之亜珈琲のまえまでいったが、フロア内からはいれるドアはいま出口専用になっているという表示があり、右側の入り口からともあったので右側ってこっち? とそとに出ると、そこにたしかにちいさな入り口があったのではいり、瑠之亜珈琲とはルノアール系列だということをそこで知ったのだが、女性店員がこちらをみとめて何名かきいてくるので三人だと指を立てると、かのじょは首を左右に振ってフロアをみまわして、こちらもおうじるともなく視線を左右に振ってフロアをみると入り口付近にいるこちらのばしょからみてひだりがわの壁際(というか店のそちらがわはビル内に面してガラス張りだったとおもうのでガラス際だが)にふた席客が去ったばかりで卓上にまだ食器類ののこったテーブルがあり、かたづけたあとすぐにご案内できるとおもいますと女性店員が言ったのをじぶんはそこだとおもったのだがじっさいにはしばらくしてからべつの、レジカウンターそばの円卓にとおされることになる。おかけになってお待ちくださいと店員は言ったので入り口の扉のほうに数歩もどるとそこにたしかに座席があったのだが、こちらは座らず(……)さんに譲ったところが(……)さんもすわらず、(……)さんがひとりすわったが(席は)通路がせまいのでその位置はガラス戸が開いて客が出入りするのにけっこう邪魔なので、(……)さんもそのうち立つかなにか通るひとを避けて身をちぢめるようにしていたとおもう。立ちながらいくらかはなし。しかしこのときはなした内容はおもいだせない。
 しばらくして卓にとおされた。丸テーブルのまわりに四席。こちらのむかいに(……)さん、右側に(……)さんでひだりの一席は(……)さんがバッグを置くのにつかった。店員がみずといっしょにもってきたメニューをみて、(……)さんがまず早々にシトラスジンジャーソーダに決め、こちらもチョコレートドリンクとまよいつつも甘ったるいものを飲みたい気分ではなかったのでおなじ品にし、(……)さんもいちどそれにしようかなと言ったのでぜんいんおなじですかと笑いつつも、かのじょはもうひとつのなにかのソーダに変えた。はこばれてきたドリンクのしたに置かれたコースターは桜をおもわせるような花などを切り絵めいてかたどったおそらくゴム製のもので、さんにんそれぞれいろがちがっていた。シトラスジンジャーソーダにはレモンかなにか黄色い柑橘類の輪切りがしこたま詰めこまれていた。まあまあうまい。そうして会話。(……)さんの近況をきいたが、この三月で大学を卒業し、いまはフリーターだという。大阪の企業に内定をもらっていたものの行くのがいやになってやめたとのこと。それでいまは(……)に滞在しており、この日でいったん地元福岡に帰るのだけれどここのところしばらくそこで短期バイトをしていたという(あとで国際フォーラムにむかうみちすがら、バイトってどんな? とたずねると、ホテルの受付のたぐいで住み込みだといった)。(……)という町についてはなにも知らないがまえに会ったときにもなにか模試の採点のバイトが(……)でありそのために東京に来たといっていたおぼえがあった。(……)治安がわるいという。夜にひとりでみちをあるいているとたびたび声をかけられると。そんなにも女性に飢えた男たちの巣窟みたいな町なのかとおもったが、おどろくことに(……)さんは夜にコンビニに行ったときに店内でじろじろみてきたあいてが帰り道で声をかけてきて、そこではなして仲良くなってしまったのだという。友だちになったと言っていた。それでそういうひともいるし、フリーターの身分でもあるので(……)とか、あるいは東京や神奈川の郊外らへんの住みやすそうなところに出てきて暮らすのもよいかもしれないとかんがえているとのことだった。(……)さんの家は(……)である。それなので、紹介してあげてくださいよ、いい土地、とむけると、鎌倉、というのでぜったい高いでしょ、と笑った。(……)さんはほかに大船という地名をあげていた。いずれにしてもそのへんは海がちかいわけだからロケーションはよさそう、海岸を散歩できるのはよさそう、とこちらはもらした。きいてみると(……)さんもけっこうむかしから海は行って散歩の場にしていたという。
 こちらの生活については三年前に会ったときから変わりがないわけである。あいかわらず本を読み文を書く日々だとつたえる。(……)さんはさいきんではもう本をあまり読んでいないし、読むとしてもかるいものをすこしだといった。読書が好きだったまわりの友人たちもはたらきはじめるとその余裕がなくなって、だんだん読まなくなったと言っていたと。疲れちゃうとむずかしいやつとか読めないですもんね、とこちら。(……)さんは遠野遥のような「文体がかるい」ものでないと読めなくなったと。遠野遥というひとはたしか文藝賞をとったときに磯崎憲一郎が好評していたひとではなかったかとおもうが、こちらは読んだことがないし、すこしの情報もイメージもなにもない。じぶんの変化としてかろうじていえるのは職場でまあ中心的なポジションみたいなかんじになってしまったので、それでいろいろやることが増えていそがしくはなった、と言った。ひとり暮らしとかかんがえないですかときかれたので、もう家を出ようとはかんがえていて、そのあした会う友人が((……)さんはあるいているあいだ、さきほどこちらのブログをのぞいたらあしたも出かけるってありましたけど、と言ってきたので、そう高校時代の友人と会うんですよとこたえてあった)不動産屋なんで相談することになってます、と回答。まあこのままやってても埒が明かないですから、とりあえずもう出るだけ出ちゃってあとはまあまたかんがえようと。日記も、これはあるいているあいだのことだったが、しごとがいそがしくなったら日記書けなくならないですかと問われたので、そうですね、けっこう書けなくて、でもまあそこもまえよりもうゆるくなってて、そんなにぜんぶ書かないでいいっていうか、書けるだけ書けばいいやってかんじになってますね、とこたえた。こちらはすわってはなしをしているあいだ、だいたい両手をくみあわせて股間のうえあたりに置きつつうしろにもたれる姿勢をホームポジションとし、飲み物を飲むときにはそれを解いて前傾しつつストローに口をつけ、飲み終えるとまたホームポジションにもどる、というかんじだった。意識してそうしていたわけではない。(……)さんはさいしょに出されたお冷やも一瞬で飲み干して空にしており、シトラスジンジャーソーダもかなりはやく飲み終えていたが、しかもべつにいきおいよくゴクゴクと飲んでいたわけではなく、気配がないまま気づけばコップやグラスが空になっているのだった。
 (……)
 (……)さんはいま御茶ノ水のカルチャースクールのフランス語講座にかよって勉強しており、今年の秋に大学受験があるのだという。学期とちゅうから編入するばあいのシステムを理解していないのだが、科目はフランス語だけで、あと面接で済むという。(……)大学を受けるとのこと。なぜそこをえらんだのかはきかなかった。なんか好きな先生いるんでしたっけ? ときいたが、べつにいないとのこと。(……)あとで国際フォーラムにむかうみちのとちゅうできいたところでは、講座はいま週二だったか週三だかでかよっており、内容はふつうのフランス語の授業というか、文法をやったり会話をやったりだという。講師はNHKのラジオとかにも出ているというので、界隈ではゆうめいな人物なのだろう。なまえはきかなかったしたぶん知らない。カルチャースクールの講座なので参加している年代ははばひろく、七〇代のひともいるとかで、七〇歳からフランス語ってすごいなとこちらは受けた。フランス語もいつか読めるようになりたいですけどねえ、と口にすると、なにを読みたい? とかえったので、まあプルースト、と破顔すると、めちゃくちゃ長そう、と(……)さんは言った。
 喫茶店での会話はあとおぼえていないのでこのへんにして、映画がはじまる四時四〇分までけっこう時間があり、あと一時間くらいになったところでどこかほかに行こうかという雰囲気がかもされはじめ、(……)さんが、(……)さん、本屋行かなくていいですかとか、服とかみますかときいてくれたが、本屋はきょうはいいかなという気分だったし、服もわざわざここで買おうという気も起こらない。どうすっかなとおもいつつよい案をおもいつけずにいると、それかさっき国際フォーラムで沖縄の展示やってて、と(……)さんは言い、とりあえず出てそのへんぶらぶらしてみましょうかとこちらも言って、それで退店することに。さきほど映画のチケットをこちらがまとめて払ったのだが、(……)さんが千円札を出しここでは(……)さんが一挙に会計することになったので、じゃあここの飲み物おごってくれたらそれでチャラでいいですよとこちらは言って合意をえた。出るまえにトイレへ。すわっていた席からひだりての壁に扉があってそのさきにトイレがあるらしかったが、トイレ行ってきますねと(……)さんに言うとさきほど行ったかれは意外ととおいとこたえたので、そんなに? と笑って店外の通路に出た。たしかにちょっと距離をはさんで、べつの通路のとちゅうにあった。男女いがいに多目的トイレもたしか通路の行き止まりに一室あったが、そこでは男児が親にたいしてなにかいやがるような声と、扉をたたくようなおとがきこえており、こちらが用を足し終えて出てきたときにもその親子のたたかいはまだつづいていた。店にもどってはいってきた口から出て、お待たせしましたとふたりに言ってみちをあるきだした。あまり明確な決定がないまま(……)さんが先導して国際フォーラムにむかいはじめた。さきほど行ったときには並木道がきれいだったという。(……)さんが言ったのがそれだかわからないがたしかに道中、こずえが豊富に茂りならんだ街路樹とそのしたで盛りをむかえて群れているピンクいろのツツジの一画があって、めっちゃ咲いてる、ツツジが、とこちらは指をさしてとなりの(……)さんに言い、そんな子どものようなたんじゅんさによって示された視覚的事実はかのじょもいわれるまでもなく視認していただろうが、しかしこれはたんなる認識された事実の指摘をおこなう言語の用法ではなく、ツツジがめっちゃ咲いてるということを口にだして言うことでじぶんがそれになにかしらの印象をえたことをつたえようとしたり、ばあいによってはささやかな感銘めいたその情をあいてと共有し二者関係につかのまの共同性の場をひらこうとするのかもしれない、そういうコミュニケーションの一用法なのである(ということはすなわち、叙述的・記述的(descriptiveあるいはdeclarative?)ではなくパフォーマティヴな言語ということだろう)。ほか、住み込みでホテルの受付バイトをしているということをきくなど。(……)さんにプルースト、とにやにや破顔してこたえたあたりではみちがひだりに折れ、そこはひだりがわがひろい敷地でいま消防団員だか救急隊員みたいなかっこうのにんげんがたたずんでおり、みぎがわはやはり街路樹がならんでいたとおもうがすこしずつ暖色をはらみだしている陽射しが宙にななめにかかってまぶしく、天気がいいなみたいなことをこちらは口にしたとおもう。そこからすこしだけ行ったところに国際フォーラムがあった。なまえはきいたことがあり、なにかしらアニメのイベントとかをよくやっているイメージ。敷地にはいってすぐの口からなかへ。太田道灌江戸城みたいな説明書きつきの看板があったので、なんで太田道灌、とちょっと笑いつつ階段のほうにちかづき、そのてまえで手をアルコール消毒するとえらいといわれたので、とりあえずやっときゃいいだろみたいな、と笑って段をくだった。沖縄の展示と喫茶店でいわれたときにこちらはなぜか物産展を想像してしまい、いろいろ食品とか売っているのかなとかばくぜんとおもっていたのだが、そうではなく、沖縄が日本本土に復帰して五〇年を記念した報道写真の展示で、おおこんなやつだったのか、これはけっこうおもしろそうじゃないかとおもった。フロアに仕切りでかこんだ展示区画がもうけられており、その壁の内側に沖縄史の文脈でさまざまに歴史的な日付やできごとのおおきな写真パネルがならべて展示されているかたち。仕切りの外側にもたしょうの写真や説明書きのパネルがあった。展示スペースはそこそこひろくもうけられており、出入口は三箇所、ひとつが入り口専用でふたつが出口専用。そとをちょっとみてからなかにはいって順番に写真をみていったが、印象にのこっているのはまずサンフランシスコ平和条約が発効した一九五二年の四月二八日のもので、これは沖縄の写真ではなく銀座だかどこかをうつしたもので、政治的文脈でというよりはとうじの風俗や街のようすがうつっていたのがおもしろかったということなのだが。銀座の通りで女性たち、というか少女三人が、「平和のお花を」みたいな文言つきの小宣伝板をもちながら通行人に花をくばっているところをうつしたもので、かのじょらのうしろにはとおりがかりの軍服姿の米兵ふたりもいた。写真ひだりうえのほうで建物のうえになんとかマーガリンという広告が出ていて、そんなものでマーガリンつくるの? とおもったのだったがそれがなんだったのかわすれてしまった。というわけで検索してみたところ、これはたぶん条約発効の四月二八日ではなくて調印日である九月八日のまちがいではないかとおもわれるが、その日の銀座通りの写真として、「祝講和成立 銀座通りに日の丸」というタイトルの、共同通信社のページが出てくる。その左上にみきれてしまっているのだが、おそらく「タマゴ」の文字がみられるので「タマゴマーガリン」だ。これは戦後すぐに高級人造バターとよばれていた品らしく、もしかしたらこちらの印象をひいたのは「タマゴマーガリン」よりも「人造バター」の文字のほうだったかもしれない(元写真の広告にそのことばがあったかさだかではないが)。検索して出てくる写真は展示されていたものとおそらくはおなじばしょで、少女らもおなじ人物ではないかとおもうが、細部で記憶とちがいがあり、おなじ写真ではない(米兵もいないし)。ほか、序盤にあった写真は沖縄に上陸した米兵が壕から母子を出すところや(無理やりではなくて民間人としてふさわしくあつかっている)、屋良朝苗や瀬長亀次郎のものなど。ふたりともなまえだけは知っているがそれいじょうはなにも知らない。琉球さいごの高等弁務官が民衆にみおくられて去っていくところや、あとあれだ、佐藤栄作ニクソンが会談しているところや、沖縄の本土復帰に反対するデモのようすや、あとあれも沖縄復帰への反対だったのかわすれてしまったが、沖縄からきた代表団のひとびとが国会前でハンストをやっているという写真もあった。一ドル三六〇円だった固定相場制が変動相場に変わることで一ドル三〇六円まで落ちてしまったということに反対している看板もどこかでみた。沖縄からやってきた集団就職の高校生らが埠頭でならんでいる写真もあり、中央になんにんか横一列でうつっているのは女性たちで、みないちようにきびしいというか気乗りのしなさそうというか、苦味をかんじさせる表情をしており、まわりやうしろにいるそのほかの男女も、明確にあかるい顔をしている者は皆無で無表情かやや暗い顔つきがたいはんだった。あと印象にのこっているのは沖縄が本土に復帰した一九七二年五月一五日の写真。これはふたつあった。ひとつはその日の午前零時の国際通りをとらえたもので、夜なので車もあまりないし沿道にひともすくなかったが、道路のかんじからして雨が降っているようにおもわれた。もういちまいはおなじ五月一五日、日中の国際通りで、この日は沖縄返還をことほぐ集会と反対する集会との双方が原因で道路はひじょうに渋滞したといい、いまだ右側通行だった車道はたしかにせまく接したバスや車で埋め尽くされているぐあいで、そしてやはり路面のかんじをみるに雨が降っているようにみえて、さきほど目にした一枚目も雨の印象だったわけだがじぶんはなぜか天気がつねに気になるにんげんらしく、ほんとうに雨かなとすこしもどって再確認した。道路上のひかりの反映のかんじは雨とみえるのだけれど、沿道の人影は傘をさしていない。だから降ったとしてもこの午前零時にはちょうどやんでいるところだったのかもしれない。たいして二枚目はひだりがわの沿道にひとつ傘がみえ、それはひとがかぶっているのではなくなにかのもののうえに置かれていたようなのであいまいだが、さらに植物かなにかが邪魔してよくみえないもののもうひとつみちを行っているらしき傘もみられたので、この日中には雨が降っていたのはたしかだとおもう。国際通りの車道のうえには沖縄の本土復帰を祝す横断幕がかけられており、車道と歩道の境あたりには「沖縄県」としるされたちいさな看板が等間隔でひたすらつづき、そのうえにはおなじ趣向でなぜかサンヨーの電機製品の広告がやはりずらりとつづいていた。ほかにあったとおぼえているのは沖縄県ではじめて国会議員選挙がおこなわれたときのようすで、ある候補者が市場で老婆と握手をしているのだけれど、その老婆はあたまのうえに荷物を乗せて、あやまたずささえていた。横からとらえられた顔の目尻の皺の、粘土に小刀できざまれたような濃さ。あと、あれはたぶん本土復帰をうったえるほうの運動だったか、沖縄から東京まで徒歩でたどってアピールをする団体が東京入りして町を行っているときの写真も。たしかこのパネルの説明書きに、何年何月何日に沖縄県祖国復帰協議会が設立されたと書いてあった気がする。この団体のなまえはいちおう知っている。関連運動の最先鋒で、アイゼンハワーが沖縄に来たときに県庁までの道は抗議者や市民や学生が大挙して埋めたらしいのだが、なにかの英文記事でこの団体の一員(か長?)だったひとが、大統領をまもらなければという政府側の懸念もわかるが喉をつかんだり銃剣で突いたりするのはあきらかにやりすぎだったと回顧証言しているのを読んだことがある。
 すべてみている時間はなかった。じきに四時一〇分くらいになったときに(……)さんが寄ってきてそろそろと言ったので、そろそろ行きましょうか、余裕をもって行きましょうと受けつつもそのあとまたちょっと見て、それから(……)さんと合流して映画館へもどることに。展示区画を出たところでこちらはなぜかまた小便がしたくなっていたのでトイレに行ってくると告げてみえていた表示のほうへ。トイレへつづく通路の入り口脇には中華料理店「東天紅」の看板があった。用を足してもどってくるとそとへ出て、また(……)さんの先導で来たときとはちがうルートをあるいたのだが、そうするといつのまにか駅前に出てきて、それがさいしょに京橋口からまちがえて逆に駅を抜けたその地点だったので、どういうルートでさっきのところに来たのかぜんぜんわからない、いつの間にかはじめの地点にもどってきていたとつぶやいた。そうしていちどたどったみちをふたたびたどりなおして映画館にむかい、着くとTOEI2のほうに入館。チケット売り場からみぎての地下につづく階段。職員にチケットをわたして確認してもらうとともに体温計で手首のあたりをはかられ、もう一階おりるとホールがある。(……)さんがトイレに行っているあいだにわれわれふたりははいってしまい、当該のK列まんなかあたりの席にはいった。ひだりから(……)さん、こちら、(……)さんという位置取り。映画みにくるのマジでひさしぶりですわとか言っていたが、すぐにさまざまな作品の宣伝がはじまってしゃべりづらくなったので、はなさずそれをみて時間を待った。宣伝作品のなかには『ワンピース』のREDとかいうやつとか、『ドラゴンボール』の最新映画があった。『ドラゴンボール』はあれはCGだったのか絵がやたらぬるぬるしているかんじだったので、いまこんなふうになってんのかとおもった。実写作品はなぜかちっともおぼえていない。とおもったがあれだ、『ハケンのとりかた』みたいな題だったとおもうが、吉岡里帆主演で覇権アニメをめざすアニメーターの苦闘をえがくみたいな作品がひとつあった。あと水谷豊が監督脚本だという、衰退してしまった地方楽団のさいごの公演をえがくみたいな作品も紹介された。エンタメではあるだろうがそんなに雰囲気わるくはなさそう。
 そのうちに開始。『ハッチング ―孵化―』という映画である。監督は検索したところ、ハンナ・ベルイホルム(Hanna Bergholm)というひとで、フィンランドの映画。ホラーというかスリラーというかそういうたぐいだが、かたちのないなにかみたいなものが家族に巣食って、というかんじなのかなと想像していたところそうではなくて、ふつうにものというか具体的な存在としてエイリアンじみたグロいモンスターが出てくるもので、あ、そういうやつなのね? とおもった。舞台はフィンランドで、映画は開幕、いかにも瀟洒で樹木もおおく風光明媚といった地域の住宅地からはじまり、家のなかで体操の練習か、上体をうしろにめちゃくちゃそらすストレッチをやっている少女がうつるとともにそこに何者かの手がしのびより、というホラー的意匠からはじまるのだが、この手は母親のもので、かのじょはYouTubeだかなんだかSNSにじぶんの家庭生活の動画をあげて熱心に紹介している人物で、その動画をとっているところなのだった。それから夫やもうひとりの子どもである男児もうつされ、うつくしく小綺麗な家であかるく暮らす仲の良い家族みたいな理想的イメージとしてそれが提示されている、というさまが提示される。母親の動画チャンネルのタイトルはたしか「素敵な生活」というもので、「ふつうのフィンランド人家族」の素敵な生活をおとどけしますみたいな紹介をかのじょはいうのだが(はじまってしばらくは何語がはなされているのかよくわからず、「生ゴミ」というところで「ビオ」なんとかと言っているのしかききとれず、ドイツだろうか、しかしなんかちがう気もするし、雰囲気からしデンマークあたりだろうかと推していたところ、ここでフィンランドだということが確定する)、じっさいにはもちろんそんなものではなく、さまざまな問題や不和や齟齬があるわけで、冒頭からしばらくは不吉なしるしがつづけざまに提示される。まずはじめにカラスのたぐいらしい真っ黒な鳥が室内にはいってきてギャアギャア鳴きわめきながら飛び回り、部屋のなかにあるものをめちゃくちゃに乱してついには天井についていた小シャンデリアまで落としてしまう、という事件が起こる。このときさいしょになにかが窓ガラスにぶつかったおとがして、主人公の少女であるティンヤが寄っていって窓をひらくのだが、このさいの鍵をはずすおととか窓があくおとが細部まではっきりきこえて、ああ映画のいいところってこういうおとだよな、ふだんはそんなに明瞭にきこえないおとをこうやってはっきりきけることだよな、とおもったのだけれど、ところが直後にカラスが飛び込んできてじつにけたたましく鳴きさけびながらバサバサ飛び回るわけで、そちらに移行すると音響は耳に痛いくらいのものになり、めちゃくちゃうるさかった。カラスは最終的に床におりたところをティンヤがタオルかなにか布をかぶせてとらえるのだが、このときの視点は布をかぶせられるカラスのものになっており、これはのちにティンヤの分身であるモンスターの視点がなんどか導入されるそのさきぶれになっているのかもしれない。つつみこんだ鳥を母親にわたすと、母親は即座に布のうえからその首をひねって殺してしまい、理想的にあかるい家族を提示していた母親の残酷さが観客にかいまみえるとともに、ティンヤはショックを受ける。生ゴミ捨て場に捨ててきてとティンヤはいわれて捨てにいき、おおきなドラム缶みたいなもののなかに捨てるのだが、そこにはすでにさまざまな生ゴミが捨てて溜められておりなかは黒々としているのだが、このとき発生している蛆虫のたぐいがたてるおとがウジュルウジュルときこえるのだけれど、この音響はわざとらしい、あざといものとかんじられた。こんなふうにきこえねえだろうと。不吉なしるしのさいしょはそれで、ほか、隣家に越してきた一家(その娘はたしかレータというなまえで、のちほどティンヤと友人になるが、体操の才能が抜群であり、それにたいする妬みをもったティンヤの心理によってモンスターに襲われて大怪我をすることになる)の犬にティンヤが柵ごしにさわろうとすると噛まれたり、あとティンヤのおとうとであるマティアスが母親に子守唄(「水鳥の子よ」、母のいない水鳥の子よ、とかなんとかうたう、子守唄にしては歌詞も旋律も辛気臭いような歌なのだが、この「水鳥」はフィンランド語で「アッリ」というらしく、ティンヤはのちにそれをモンスターのなまえとしてつけることになる)をうたってもらいながらぜんぜんきこえないよ! といってぐずり、母親はなにもいわないけれどストレスをかんじていることが察せられる、というあたりが不穏さとして散らされた細部である。物語のながれをそのまま追っておくと、生ゴミ場に捨てられた鳥はじつは死んでおらず、夜になってティンヤが寝ているととおくでまたけたたましい叫び声が立ち、目をさましたティンヤが声のもとをもとめて林のなかに行くとくだんの鳥が死にかけで地面のうえに横たわりながら叫んでいて、ティンヤはいちどはたすけてあげるねといいながら鳥を手にとろうとするのだけれど、ふれようとすると鳥が叫んで拒否するので、逡巡しながらもついには手近にあった石をとってそのあたまをはげしく殴打し、殺してしまう。殴打の調子は必死で感情的なものであり、殴打されて血にまみれながらぐしゃぐしゃにつぶれた鳥のあたまがそのあとみじかくうつされるのはちょっとグロいというかショッキングだった。ちなみにティンヤが林にはいって以降、かのじょをうつしているその背景には霧が湧いて、ゆっくりとうごめき、木と木のあいだの、すでに夜明けがちかくほのかに白んだ空気のなかに混ざるのがたしょうの効果を発揮しているのだが、あれもたぶん演出なのだよな? なんとなくふつうにああいう霧が発生してもおかしくなさそうな地方や土地にもみえなくもないのだが。で、鳥を殺したあとそのそばに卵がひとつ落ちているのを発見したティンヤはそれをもちかえり、じぶんの寝室でぬいぐるみのしたやその腹にかくしながらそれを育てる。すると孵化して鳥型のエイリアンじみたモンスターがうまれて、さいしょはおそれをいだくのだけれどしだいにティンヤはそのモンスターに母性じみた情をいだいたらしく、みずから育てるうちにモンスターはすがたかたちがティンヤにだんだんちかくなっていき、というわけでグロいホラーだったものが分身譚のおもむきもえることになるわけだ。このモンスターはティンヤの負の感情に反応してその対象を襲うという習性をもっており、このあたりは象徴的にきわめてわかりやすい設定になっている。つまりモンスターがティンヤのこころのなかの負の側面を具現化したものとして読まれてしまうというか、この映画をみたほぼだれもがそういう理解をおもってしまうだろうということで、これはひじょうにつまらないことなのだがそれはひとまず措く。それでなんどかモンスター関連の事件が起こったり、母親の不倫関係というべつのすじ、またティンヤの体操の大会などのすじがからみつつ進行していき、最終的にモンスターの存在はバレて、ティンヤは母親といちおうは和解し、母親はモンスターを殺そうとする。しかしさいごのところで母親はあやまってモンスターをかばったティンヤを刺してしまい、ティンヤが死ぬとともにモンスターがかんぜんにティンヤのすがたになり、「マ……マ……」と鈍く低い声でつぶやいて終わる、とめちゃくちゃおおまかにたどればそういう説話になっている。さいご、モンスターであるアッリが「ママ」と発したあと、ティンヤのすがたであるアッリはすっくとおきあがって毅然ともいえるようすで立ち、後光めいた白さを背景に負いながら、どういうニュアンスなのか意味深ともみえるような、あるいはなにも意味しないともおもえるようなまっさらに超然的な無表情で母親をみおろし、いまは倒れ伏している母親が涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をあげて床からアッリをおどろきか困惑のような表情でみつめるカットがはさまれたあと、もういちど毅然としているアッリの無表情がうつって終幕なのだが、ここの無表情は二回あわせてだいぶながくうつされており、そこそこ印象的だった。というか全篇をとおして端的に画として印象的だったのはこのさいごだけである。だからこの作品は画とか描写で攻めようというよりは、物語的な結構や設定を緊密につくってさまざまなすじや細部を有機的につなげて対応させ、ぜんたいとしての理解しやすい統一をかたちづくろうというおもむきでできており、したがって作法としてはエンタメのものであり、ロラン・バルトのことばをかりれば「読みうるテクスト」だということになる。その範疇でいえばけっこう緊密にできているような気はした。ただ、そういう線で行くならば、アッリが「マ……マ……」とつぶやいて、いわばティンヤとの入れ替わりというか置き換わりを完成させたあと、家族がティンヤと置き換わったアッリといっしょに動画にうつって「素敵な生活」を演じているところで終えれば、物語の構成としてはより完結的なものになったのに、とおもった。ありがちではあるが、さいしょとさいごの対応もとれて、終幕で冒頭にもどって終わり、というきれいな構成にもなる。ある種の「狂気」を描くのならそうしてこそ効果があがるとおもったのだが、そこまでやってしまうとやはりいかにもがすぎるということなのか、あるいはこの監督が描きたかったものやメッセージ(があるのかどうか知らないが)からはずれてしまうということなのかもしれない。
 概略的にはそんなかんじで、これは作品の要約的な説明だが、この映画をみたこちらの体験という側面を述べれば、これはもうとにかくめちゃくちゃ疲れたということに尽きるもので、なにがつかれたといって音である。ホラー映画だから観客を怖がらせにかかるわけだけれど、その恐怖の提示方法は日本的なホラーによくあるといわれる(がこちらはホラー映画も映画もぜんぜんみない人種なのでそれをじっさいに体感したことはない)しずかな恐怖というか、おおげさな演出はないのだけれど背すじがぞーっとするといわれるような(そういうふうに形容される気がするのだが)、いわば繊細な怖がらせかたではなく、とにかくもう音響と、とつぜんの登場みたいな古典的・伝統的テクニックでごり押しするみたいなやり口なわけである。だからそれはもちろん怖いは怖いのだけれど、恐怖というよりはびっくりするというおどろきの技法なのであって、怖がらせるというよりはショックをあたえる、というやりかたなのだ。これがとても疲れた。みていながらびっくりして心臓に悪い、からだに悪いとおもったし、ショックがそのあとちょっと尾を引いてからだがドキドキするもんだから、行きの電車内で起こった緊張もふまえてばあいによっちゃパニック障害を再発するぞとおもったし、とつぜんの登場はまだしも、とにかくおとのおおきさ、それがからだに響くかんじに疲労して、終わったころにはわりとぐったりしていて(……)さんにわらわれたくらいだ。
 あとべつに興味深かった点というのもたいしてないし、読み解いておもしろいというタイプの作品でもないようにおもうのだが、ただそれでもみてみればけっこうおもしろかったというか、二時間だかそこらじっと座ってうつしだされるものを追いつづけるということをふだんやらないにんげんなので、それだけでもなにか満足感があるようではあった。この作品も、全体的な構成としてもまとまっているとはいえ物珍しいものではないし、あまりにもわざとらしくはなくとも細部の紋切型もいろいろあるとおもうのだけれど、ただなんか言語としてそれを読むよりも、映画だと紋切型でもあまり気にならないというか、ありきたりなやりかたでもひとが映ってものが映っていればなんかもうそれでそこそこおもしろいみたいな感触を受けた気がする。それはじぶんが映画を習慣的にみないので比較的新鮮だという事情もあるのだろうが。なんかたまに映画をみるとまいかいこのおなじ感想を書いている気もするが。
 べつに興味深くはないのだけれど象徴的な面についても記しておくと、まずティンヤがもちかえってきた卵は時間を追うにつれておおきく成長していき、さいしょはぬいぐるみのしたに隠していたのだけれどちょっとおおきくなるとそこにおさまりづらくなるのでぬいぐるみの腹を割いてそこに入れておく隠しかたになり、モンスターが生まれる直前はもう相当におおきくなって、母親の不倫を知ってというか、正面から、わたし恋をしてるみたい、テロ(不倫相手)を愛してるの、とかいわれた直後にはなみだにくれるティンヤがそのうえに突っ伏しておおいかぶされるくらいになっており、だからみたかんじはバランスボールくらいのおおきさで、この急激な成長にはあ、そうなの? というシュールさというかファンタジックな滑稽味をちょっとおぼえるのだが、この卵はどうやらティンヤが悲しみとか負の感情をおぼえるとそれにつれて成長するらしいということがみてとれるわけである。で、そのうえにのしかかるようにして泣きまくっていたティンヤのなみだが卵の表面に垂れてつたい、それが殻のなかに吸収されると脈動がはじまって孵化が起こる、という経緯なので、だからやはりティンヤのかなしみを吸ってモンスターは誕生した、と読めるようになっている。その後もティンヤが負の感情をいだいたものをモンスター(アッリ)は襲うというのはうえにも触れたとおりで、そのいちばんさいしょは隣家のレータが飼っていた犬である。夜ティンヤが寝ているときに犬がうるさく吠えているのになかなかねむれず苦しんでいると、このときはまだモンスター然としたアッリが庭伝いに隣家に忍んでいって犬を食い殺し、その死体をティンヤの枕元にもってくる、というながれが起こる。そのとき寝苦しくなっているティンヤがうつったあとに視点はアッリのもの、つまり部屋の窓から出て低く地面を這うようなようすで隣家の庭まで行く視点になり、犬を襲った直後にティンヤは目を覚ましてアッリが(この時点ではまだアッリとなづけていなかった気がするが)じぶんのからだのうえに乗っているのを見、横をむくと惨殺された(たしか首がなくなっていたとおもうのだが)血まみれの犬の死体がある、というかたち。ほか、未遂もふくめて襲われるのは隣家の娘レータと、あと母親の不倫相手であるテロの連れ子の赤ん坊(なまえをわすれた)だけだったとおもうが(さいごの戦いでの母親はのぞく)、いずれにしてもティンヤがあいてにたいしてなんらかの負の感情を増幅させたとみえたその直後に襲撃が起こる。そしてティンヤはそのときの視点をアッリと共有するわけなので、それは分身的な要素になっている。したがってティンヤはアッリがだれかを襲うということを察知することができ、というかもっと直接的にかのじょにはそれがじぶんの視点でみえているということだろうが、だから体操の練習後にアッリが友人のレータを襲うときなどは、送ってもらう必要はないと別れてひとりで木の間の夜道(暗くておどろおどろしいようなかんじで、ここでなかばにんげんの様相になったアッリがとつぜん登場するのはなかなか怖い)を行くレータが襲撃されるのを予見したティンヤは、憑依的にこわばった表情で車を運転している母親にもどるようにつよくもとめ、その果てに叫び声をあげて錯乱する。未遂に終わるもののテロの赤ん坊が襲われるときにはこの視点のかさねあわせがより活用されており、ティンヤは体操の大会で演技にいどんでいるとちゅうなのだけれど、その演技の推移と、アッリがテロの家で赤子の部屋に行って鉈みたいな武器で子どもを襲おうとする一連のながれが交代交代にうつって対応させられており、演技のさいごで鉄棒のうえでとまったあと回転して飛び着地するという段で、ティンヤは棒をはなしてうしろむきに落ち、怪我を負うのだが、かのじょが棒をはなした瞬間とアッリが鉈を落とした瞬間だかわすれたが対応していて、ともかくアッリの襲撃は失敗に終わる(物音を聞きつけたテロがようすを見に部屋に来て窓から逃げるアッリと遭遇するのだが、かれはそれをティンヤだとおもい、それまで境遇に同情してやさしく接していたかのじょにたいし一転してつらくあたり、もうかかわりたくないと宣言するので母親とかれの蜜月的な不倫関係も終わることになる)。
 アッリのすがたかたちがだんだんとティンヤに似てくること、またかのじょの感情のはたらきによって卵が成長したこと、さらにティンヤの感情におうじてアッリが襲撃を起こしている点からして、アッリはティンヤがこころの奥底に秘めて押し殺している負の感情を代替する存在であり、いわばその具現化であるという解釈はどうしたって生まれざるをえない。この理解はきわめてつまらないものだが、作品じたいがあからさまにそう読みそう理解するようなかたちになっているとおもうし、その解釈からはみだすような要素もこちらのみたかぎりではなかったとおもう。しかしともあれ読み取った構図の記述をつづけておくと、もうひとつ、母子関係というのがこの作品の主要な軸になっており、ティンヤはアッリを一種の子のようにしてあつかうわけである。つまり母親とティンヤの関係とティンヤとアッリの関係が、反復と差異をそれぞれはらみながら対照されているということだが、この点にうえに記した抑圧された感情説をつなげれば、スピリチュアル方面の用語でいう「インナーチャイルド」的な解釈のできあがりである。それもまたつまらないことなのだが、この母親がどういうにんげんなのかについてまず記しておくと、かのじょはさいしょのほうにふれたように、動画をつくってインターネット上に理想的な家庭生活の像を投稿することに熱心な女性であり、どうももとスケート選手であったらしい。ようすのおかしいティンヤにたいして、ストレスよね、わかるわよ、わたしもスケートの試合のまえにはそうなったものだわ、と語る場面があったし、またリンク上にいるむかしの写真をまえにして右脚にのこっている傷をみつめる場面もある。そういう母親はティンヤに体操をやらせており、大会のメンバーにえらばれるようみずからでもきびしく指導するのだが、ティンヤはそちらの方面の能力はなくてなかなかうまく行かず、母親にみとめてもらうことができないし、引っ越してあとからやってきたレータが才能を発揮してティンヤにできないことを軽々と完璧にこなすさまをみて、母親によるティンヤへの抑圧はいっそうはげしいものとなる。それもすべてティンヤのためというわけではまったくなく(母親当人はそういうふうにおもいこんでいるのかもしれないが)、じぶんの子が大会で活躍するさまを配信したいという欲望のためであり、だからかのじょは高度資本主義社会が生み出した承認欲求の(それこそ)かなしきモンスター的な女性なのだが、母親はそのようにネット上の不特定多数者からの承認をもとめることに取り憑かれ、しかしティンヤが大会でうまくいかないのでその実現に失敗したいっぽう、ティンヤはそんな母親からの承認と愛をもとめてがんばるもののやはりうまく行かないわけである。だから構図としては承認をめぐる反復がティンヤにおいて抑圧を生み、抑圧されたひずみが回帰して復讐するというありがちなものになっている。母親はまたいっぽうで不倫をする。不倫相手はテロという男性で、この男がはじめて登場するのは、冒頭で破壊されたシャンデリアのとりつけにきているときで、体操の練習だか学校から帰ってきたティンヤは(ところでこの作品ではティンヤが学校にかよっているあいだの時間はまったく出てこなかったとおもう。あれが学校なのかわからないが、そうだとして映るのは体操の練習をする体育館のみで、ちなみにこの体育館の壁は木のあたたかでやわらかな色合い風合いがあらわなもので、その質感はよく、そこに北欧の文化的風土をかんじた)、脚立にのぼっているテロに母親が身を寄せてその太ももに手を這わせながら口づけするさまを目撃してしまうのだが、その夜にティンヤの寝室にきた母親は、ティンヤが不倫現場を目撃したことを確認したあと、おとなにはときどきああいうことが必要なのよみたいな言い訳をして娘をいいくるめる。いいくるめるというか、ティンヤのほうではショックを受けたりいやだとおもっているにちがいないのだが、そういう本心を口にできないわけである。母親の不倫はエスカレートし、そのつぎにはさきにもふれたように、告白のかたちで娘にたいして、わたし恋してるみたい、いままで家族のためにとおもってがんばってきたけど、女性としてのよろこびを知ったわみたいなことをつたえるのだけれど、ここでもティンヤは笑みをよそおいきれずにあからさまにかなしみでゆがんだ半端な表情をするものの、母親はそれに気づいているのかいないのかともかく無視し、ティンヤはやはり本心を口にすることができない。その直後に寝室で卵におおいかぶさりながら泣いているティンヤのカットにうつり、モンスターが誕生するといういきさつだったはず。その後も不倫はさらにすすみ、ついにはティンヤをテロの家につれていくまでにいたるのだが、この段階にいたると父親も妻の不倫を知っており、黙認するというかかなしみとともにゆるしているというかんじになっている。それを知ったティンヤはまたショックを受けるのだが、場面は食卓で、飯を食っているときに母親が、テロの家に行くわよみたいなことばをあからさまにティンヤにかけ、とうぜんティンヤははっとして父親のほうをみるのだけれど、父親はそれにたいして顔をいちおう笑みのかたちにしながらも、かなしみを押し殺しているらしき動揺で表情をふるわせ、母さんのことを尊敬しているんだ、……かのじょの、……貪欲なところを、……テロはいい男 [﹅] だ、いいひとだ、とティンヤに告げる(字幕でも「男」にたいして傍点がつけられていた)。この悲しみの表情はなかなか切なる痛みをただよわせる演技だった。ついでに父親についてもふれておくと、かれの存在感はこの作品では比較的希薄なほうであり、ほぼかんぜんに受動的な存在というかんじで、妻に不倫されてもそういうかんじだし、娘とのコミュニケーションも得意ではないようである。というのも、母親の不倫を知って疎外をおぼえたティンヤが父親の部屋に行っても、ヘッドフォンをつけてあたらしく買ったギターで遊んでいたかれは、娘とちょっとやりとりしただけで気まずさに耐えられずというかんじでまたヘッドフォンをつけて遊びにもどってしまうし(ちなみにこのときかれがあたらしく買ったというギターはたしかSGだった気がする。ちがったかもしれないが、もういっぽん、その横にレスポールがあったのはたしかだとおもうのだが)、アッリがみつからないようにとティンヤがおとうとマティアスを寝室から締め出したあとも、叱りにきた父親はティンヤのベッドに血(アッリが殺してきた犬の死体によって付着したもの)をみつけると、おそらく生理がはじまったのだと理解した描写におもわれたが、動揺して、意味をなさないつぶやきをもごもごいっただけで引き下がってしまう。スローライフ的にわりと優雅な生活をしているこの一家の収入がいったいどこから来ているのか、それはよくわからないのだが、父親のしごとはたぶん建築家で、というのも冒頭で動画を撮っているあいだにティンヤが自室で建築模型をまえにしごとをしているようすの父親をうしろから不意打ちする場面があるからである。だからたぶんこの建築家としての収入で生計をまかなえているという設定なのだとおもうが、父親はどうも外出はせず、いつも家にいるにんげんのようだ。ついでにおとうとマティアスについても記しておくと、かれはやんちゃで威勢のよいわがまま坊っちゃんというかんじで、母親がティンヤばかり優遇してじぶんにかまってくれないのを不満におもってさわぐ幼児なのだけれど、ただティンヤに起こっている異変をただしく看破しているのはこの作品中かれだけである。まずもってティンヤが犬の死体を埋めるところを目撃して、それを居間にひきだしてきて姉が犯人だと告発するし、のちには家のなかになにかえたいのしれない存在がいること、お姉ちゃんは化け物だということをうったえる(両親はむろんそれを本気に取らず、母親はゆめをみたのよといってあいてにしない)。ティンヤが大会で失敗して帰ってきたときには、負けたね、と言ってやや意地の悪い笑みを浮かべてみせるし、最終的にアッリの存在があきらかになったときにも、ゆめじゃなかった、マティアスのいったとおりだったと母親にみとめられて満足げな笑みを浮かべる。この作品では母親 - 娘のふたりと父親 - 息子の対照がくっきりしている印象で、といってそれがどういう対照なのかはよくわからないのだが、たんじゅんなはなし外見の面で、母親とティンヤは似ており、父親と息子もかなり似ている。また母親はうえに記したようにわりと奔放とみえる女性で、感情表現もあからさまで、基本的に快活と言ってよいだろうが、娘のティンヤは鬱屈をかかえておりあまり快活にはみえず、みずからの感情を遠慮せずに発出できる子どもではない。父親は妻に不倫されてもどうにもできないほど受動的で、なにかをごまかすような笑みをいつも顔に貼りつけたような調子で、他人とのコミュニケーションが得意ではないようすだが、息子マティアスはわがまま放題のおさない男児である。こうしてみてみるとまあそれぞれのラインで親と子の性質が対照的になっているようにもおもえるし、母親は自覚してか否かティンヤをみずからの代理としてあつかっているわけだが、マティアスがしきりに母親からかまってもらいたがるのも父親の欲望の代理としてみえなくもない(おもしろい読みではないが)。
 そろそろめんどうくさくなってきたのでやめるつもりだが、母子関係の反復があるよという主筋にもどると、ティンヤは母親から髪をとかしてもらったように、アッリの髪というか体毛? をとかしてあげるし、まだモンスターの段階であるアッリのあたまに花の飾りをつけて、とてもかわいい、とうっとりとしたような目つきでつぶやいたりもする(ここはなかなかに狂気じみたものをかんじさせる場面だが、見た目としては双方きれいな金髪で、まあうるわしくととのっているといえるだろう母子が承認をめぐってゆがんだ関係をなしているのにたいし、外観はかなりグロテスクなモンスターにたいしてティンヤは母親としての真正な愛情をあたえているという対比があるわけだ)。のちにアッリの存在がバレたときには「わたしが育てちゃったの」ともいっていたし、ティンヤが母性的な情をもってアッリの世話をしたことは明白とみえる。だからアッリはティンヤの分身であると同時に子でもあるという二重の象徴的地位をもつことになる(そこからさきほど挙げた「インナーチャイルド」解釈が生じてくる)。アッリが食事をとり、成長してにんげんの(ティンヤの)すがたかたちになっていくのは、ティンヤが口から(というか体内から?)はきだしたものを摂取してのことであり、要するにアッリはティンヤがいちど食べて嘔吐したものしか食べない、という設定になっているようだ。さいしょにそれが発覚するのは枕元に置かれた犬の死体をみて床に嘔吐されたティンヤの吐瀉物をモンスターがピチャピチャすすっている場面で、そのあとも鳥の餌を買ってきたティンヤはじぶんでバクバク食べまくってから嘔吐するというかたちでアッリに食事をあたえる。ティンヤが体内から出したものによってアッリがはぐくまれるという設定はさいしょからさいごまで一貫しており、うえに書いたようにまずアッリが生まれてきたのはティンヤのなみだが卵に吸収された直後だったし、さいごも、母親にあやまって胸を刺されたティンヤがアッリのうえにたおれこみ、口から吐き出され垂れ落ちた血を口に受けるというかたちで、アッリのすがたはティンヤとおなじものとして完成する(正確にはそれいぜんにすでにティンヤとみわけがつかないくらいになっており、母親もまちがえてアッリのほうの髪を梳かすくらいだったのだが、ティンヤに拒絶されたことで口が裂け、モンスター的要素をいちぶとりもどしていたのだ)。
 おもいだせることもすくないのでもう終わりにするが、あとおぼえているのはティンヤの部屋の壁紙と、テロの家の赤ん坊の部屋の壁紙がもしかしたら対応させられていたのかなということで、ティンヤの部屋のものは緑色の地にバラだかなんだかわからないが赤い花が描かれたもので、赤子の部屋のものは真っ青な地にかたちやいろはわすれたがやはり花柄のものだった。ティンヤの部屋のそれをみたときには、なんかこんなガチャガチャしたもようの壁にかこまれて寝るのおちつかなさそう、疲れそう、とおもったのでよくおぼえている。ティンヤの部屋やその壁のもようが映るときというのは寝る時間がおおく、したがって明かりはとぼしく暗い状況が大半だったとおもうし、またベッドしたにアッリをかくしたりもしているわけで、なにかこう、部屋のそと(つまりほかの家族)から切り離されて閉じこもった空間としての密室感(それはもちろん象徴的には容易に秘密の内面性につうじる)がつよい。たいして赤ん坊の部屋は三回くらいしか映る機会はなかったとおもうが、おそらくそのどの場面でも時間は日中であり、窓があけられており、ときに真っ白なカーテンが風にはためいたりもしていて、開放感がつよい。そこもまた対照させられていたのかもしれない。この赤ん坊はテロの亡くなった奥さんがのこした子なのだが、テロと不倫して愛するうちにティンヤの母親はこの赤子をひじょうにかわいくおもうようになり、体操の大会をひかえてさいごにテロの家のまえでティンヤにきびしく練習させているさなかにちかくで寝ていた赤ん坊が泣き出すと、ごめんね、ティンヤがうるさくて泣いちゃった? とか言ったり、ママのかわいい赤ちゃんはだれ? だれかしら? みたいなことを歌うように言ったりしながらあやしだし、それをみたティンヤはとうぜん疎外やかなしみのような情をおぼえ、それでティンヤが大会に行っているあいだに赤子がアッリにねらわれることになる。直後にテロの家を出発する時点でティンヤは襲撃が起こることを予期しているので赤子もいっしょに連れていってほしいと懇願するが、ききいれられない。テロはティンヤの置かれた境遇を理解しており、かのじょにやさしく接して愛情めいたものをあたえ、出発の直前に母親にたいしても帰ってきたら大事なはなしがあると告げて状況の解決にむけてうごきだす気配をみせており、だからふつうにかなりいいひとなのだが、アッリの襲撃をティンヤによるものと誤解したかれも大会後には態度を一転させて、母親は家のなかにはいって夜までながくはなしていたもののけっきょく決裂に終わり、憤怒の表情にこりかたまった無言で車にもどってきて、狂ったようにハンドルにあたまをなんどかうちつけたすえ、横をむいて鼻血を垂らしながら、あなたくらいはわたしを幸せにしてくれるとおもってたわ、とティンヤに告げる。みているこちらとしてはめちゃくちゃクソなにんげんだなと、もうこいつを殺しちゃえばいいじゃんとおもうわけだけれど、そんなふうにあたられてもアッリの襲撃対象は母親ではなく、赤子のほうなわけである。だからティンヤは母親にたいしては殺意や憎しみをもてず、ただひたすらにその承認と愛がほしいのだという理解になるだろう。それにたいして母親のほうはモンスターの存在が発覚したあと、(母親はそれを知らないだろうがティンヤの分身であるはずの)アッリを殺そうとし、ティンヤのようだけどそうじゃないなにかが家にいる、それを殺せば解決よ、と口にする短絡ぶりをみせている。ティンヤはアッリを殺したくはないわけである。母親に告白したあと、いまはもう消えてほしい、といっているが、それはあくまで「消えてほしい」のであって、殺したいとおもっているわけではなく、だから母親が刃物をもってうろついているあいだにも制するようなことばをいちどかけている(母親はそれにたいして、「でも消えてほしいんでしょ?」とかえし、ティンヤは「そうだけど……」とこたえて煮えきらず困った表情を浮かべる)。しかしけっきょく母親はアッリを、ということはつまり(母親からすればおそらく)偽物のティンヤを殺そうとし、それでもって状況は「解決」されると信じ込んでいるのだが、ところが(母親からすれば本物の)ティンヤはアッリをかばって刃物を胸に受け、母親は我が子である(本物の)ティンヤをうしなうことになる。そのいっぽうでティンヤはさいごに血を吐いてアッリにあたえることでかのじょのすがたかたちをティンヤとおなじくするわけで、これをみずからの命を犠牲にすることで子ども(アッリ)の存在をある種完成させたとみるならば、ティンヤはある意味で殉教者というか、無償の愛をあたえることに死んだ「母」としての像を受けることになるだろう。これはちょっと読みすぎというか強引な気がするが、このあたりの解釈は「インナーチャイルド」説と相性はいいはずである。というのもそちらのほうの言説では、じぶんのなかにいる子ども(というのはおおかた負の感情とか、傷ついたこころとか、じぶんがむきあいたくない自己のいちぶ、みたいなイメージで理解しているのだが)を憎んではいけません、それを遠ざけようとしてはいけません、それを我が子のようにじぶんのいちぶとしてみとめ、愛情をもってゆるし、抱きしめてあげるのです、みたいなことがよくいわれている印象だからだ。そういうはなしとむすびつけて、この作品からLove is the only solution的なわかりやすい教訓的メッセージを読み取るひともいるだろう。
 映画本篇が終わり、真っ黒な背景のクレジットもながれおわってホール内があかるくなると、みぎの(……)さんが怖かった~といい、ひだりの(……)さんはぐったりとしているこちらをみて笑った。感想をきかれたので、マジでめっちゃ疲れました、心臓にわるい! みたいなことをこたえる。(……)さんはああいうグロテスクなやつがけっこう嫌いではないらしい。それで席を立ってそとに出て、建物からも出て、駅まで行って解散ということに。あるいているあいだ(……)さんとたしょうどうだったというはなしをする。とにかく音がおおきくてからだにひびいてまったく疲れたということをくりかえした。(……)さんも鳥の声めっちゃうるさかったですねと言っていた。有楽町の駅のまえであいさつ。(……)さんが写真を撮りましょうというので三人で撮って別れ。(……)さんは東京駅で乗り換えるというので一駅だけ一緒して、こちらは神田で乗り換え。その後の帰路や帰宅後はもう記憶が無いので割愛。とおもったが、帰りの電車内はLed Zeppelinのライブ盤であるところの『The Song Remains The Same』をめちゃくちゃひさしぶりにながしたのだった。しかし出先でスマートフォンでイヤフォンできいてもやはりそんなにおもしろくはなかった。(……)駅のホームで乗り換えを待っているあいだに立ち尽くしたまま"Since I've Been Loving' You"をきいて、やはりかっこういいですな、最高ですなとはおもったが。Jimmy Pageのギターも、まあやろうとおもってもあんなふうには弾けないよね、ヘタウマとかいわれてるけど、あのラフさをあのラフさとして成立させるのは狙って練習しても無理だよね、と。帰ったら兄とその子ふたりが来ていた。

2022/4/29, Fri.

 政策に関する人々の手紙や投書は日常的にも多数送られていたが、人々の意思表示が組織的に鼓舞された際には、数量は増え、内容は一層多岐にわたった。一九五九年に組織された、七カ年計画の目標数字をめぐる全人民討議では、九六万八〇〇〇以上の集会に延べ七〇〇〇万人以上が参加、四六七万二〇〇〇人が発言したとされる。新聞雑誌の編集部や党機関、ソヴェト機関へは六五万通以上の手紙が寄せられ、そのうち三〇万通以上が新聞雑誌で公表された。
 一九六一年夏から秋にかけては、党の新綱領についての全人民討議がおこなわれた。延べ九〇〇万人を超える党員が参加した党員集会の他、企業、コルホーズ労働組合、コムソモールなどによる五〇万以上の集会に七三〇〇万人が参加したとされる。党委員会や各種新聞の編集部に対しては三〇万通以上の手紙が送られていた。
 一九七七年夏から秋にかけてのソ連の新憲法の草案をめぐる全人民討議には成年人口の(end198)五分の四以上に当たる一億四〇〇〇万人以上が参加したとされる。企業、コルホーズ、軍隊、居住地での勤労者集会は約一五〇万回、公開党員集会は四五万回以上開かれ、三〇〇万人以上が発言した。村ソヴェトから共和国最高会議まですべてのソヴェトが草案を討議し、二〇〇万人を超える代議員が討議に参加した。このような前例のない規模で草案が検討された結果、約四〇万の修正・補足の提案がなされたとされ、ソ連最高会議の憲法委員会はこの提案を検討し、一一〇の条文に変更を加え、新たな条文を一つ追加する計一五〇の修正をおこなうことを勧告、最高会議の場でさらに一二の修正がなされた。斥けられた提案も多かったが、そのうちのいくつかについては、何故斥けられたかをブレジネフが最高会議で説明した。その一方で、複数政党制を求める提案など、提案があった事実さえ明らかにされないまま斥けられた提案もあった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、198~199)



  • 「英語」: 788 - 805
  • 「読みかえし」: 710 - 720


 一一時一〇分に覚醒。曇天。布団のしたで深呼吸して、一一時二〇分に離床した。水場に行ってくるとクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』(新装復刊版)(白水社、二〇〇四年)を読んだ。そうして一一時五〇分まえから瞑想。すわっていると窓外にいた父親が急にこちらのなまえを呼んだので、え、と声をだすと、タオルをいれてくれ、雨が降ってきたからというので姿勢を解いて上階へ。ベランダの洗濯物をとりこみ、部屋にいったんもどるとゴミ箱とコップをもってひきかえし、ゴミを始末してジャージすがたへ。食事にはハムエッグを焼いた。あときのうつくった野菜の汁物。新聞、プーチンサンクトペテルブルクで演説し、諸外国がウクライナに軍事的に介入してきたら稲妻のようにすばやく反撃する用意があると言明したと。核兵器の使用も辞さないという姿勢をあらためてしめしたものだという。必要なばあいはそのちからをつかうという決定をすでにくだしていると述べたと。国際面では民間企業の衛星がウクライナでのロシアの動向を追ったり調べたりするのにおおいに活用されているという記事があった。米国の宇宙関連企業が画像を提供しているらしく、New York Timesがそれにもとづいて報道し、たとえばマリウポリではおおきな穴が日に日に拡大されており死体を埋める墓穴としてつかわれるのだろうとわかると。ICC国際刑事裁判所)がおこなっている戦争犯罪の調査でも役立つみこみで、企業側も客観的な情報を提供できるといっているが、ただ衛星情報にもとづいて攻撃がなされたばあいなど、企業は紛争当事者とみなされる可能性もたかく、危険もある。識者によればいまはひじょうにおおくの民間企業が衛星を飛ばしていてそれでたとえばウクライナのようすもいちにちに一〇〇回くらいはうかがうことができるといい、その間隔はみじかければ数分、ながくても一時間半程度なので、地上でおこなっていることを隠蔽するのは事実上不可能だと。撮影の質も高性能で、地上にある数十センチ大のものまでとらえられるという。ほか、南アフリカケープタウンで西ケープ州の分離独立をもとめるデモがあったと。西ケープ州は南アフリカでゆいいつ白人や混血が多数派(七割)を占める州だといい、二〇〇九年にジェイコブ・ズマが大統領になっていらい与党アフリカ民族会議が黒人を優先してそれいがいを差別するような政策をとってきたのに反発するうごきだと。アフリカーナーを中心とするなんとかいう民族主義政党も参加し、いっぽうで首都プレトリアでは黒人の貧困層を支持基盤として白人排斥をとなえる極左団体もデモをおこなったと。
 池辺晋一郎や佐々木幸綱が叙勲されたという報もあった。きのうも島田雅彦が褒章を受けたとあった。あと上海でロックダウンがはじまってから一か月で、じっさい中国は感染をおさえこめていないのだけれど、習近平のゼロコロナ政策が変わる気配はみられないという記事も。封鎖中の上海では感染者が出たマンションだかが即座に封鎖されて出入りできないようにされ、ある住民はまるで動物のようなあつかいだともらしていた。玄関を有刺鉄線の電気柵で封じられた家なんかもあるという。食料もなかなかとどかない。そうした状況に疲弊し、家のなかから鍋とかをガンガン鳴らしつつ大声で不満や抗議をうったえるひとの動画も出回っているらしく、これはロックダウンが七六日間つづいた武漢のときとおなじだと。
 食器を洗うと風呂場に行って浴槽をこする。きのう入浴したときにやはり左右の内壁の下端にぬるぬるした感触がのこっている箇所があったので、きょうは念入りにこすっておいた。そうして白湯をもって帰室。Notionを用意してウェブをみると音読。二時くらいまで。
 橋本努×若森みどり「自律を超える善き生(ウェルビイング)の理想を探る――橋本努『自由原理――来るべき福祉国家の理念』をめぐる対談」(2022/4/20)(https://synodos.jp/opinion/society/27929/(https://synodos.jp/opinion/society/27929/))を読みつつやすんだあと瞑想。二時二五分くらいから三時一〇分にいかないくらいまで。雨は本式の降りになっており、はげしいというほどではないが空間を密に埋めているのがみないでもわかる。その後ここまで記して三時四〇分すぎ。

 (……)さんのブログをすこし読んでから(あときのうとちゅうまで読んだ英文記事も)また瞑想した。からだをととのえて肌をなめらかにしてからでないとあんまりやる気が出ないという身体になってしまっている。四時一〇分から四〇分くらいまで。窓を少々あけた状態ですわったが、雨のおとというのはサウンドスケープとしてかなりおちつく。ここちがよい。不定的なリズムみたいなものがある。雨線の集合がかもしだすサー……というSの子音が背景的な基盤として空間ぜんたいにつねにひろがっているそのうえにたぶん木やなにかからしたたるものなのだろうがもっとボタボタとした打音が適宜ことなるリズムでさしこまれているのがきいている。すわっているあいだに降りはすこしだけ盛って、そうすると背景音のボリュームがややあがって迫るようになり、かつななめにながれる粒も出はじめたようで硬い打音もいくらかきこえた。おとといくらいからあたまが自動筆記的なモードになってじっとすわると勝手に乱雑なことばがすべりだしてわりとさわがしいが、かといってつかれるかんじはない。ヴァルザーをパクった小説をやるまえに『フィネガンズ・ウェイク』を読んでおいたほうがよいのかもしれない。
 五時までちょっとのこったのでクロード・シモンを読んだあと、五時ちょうどの鐘が鳴るとともに部屋を抜け、階上へ。父親は仏間とか元祖父母の部屋のほうをかたづけしていたようだ。兄夫婦が来るからだろう。こちらは食事の支度へ。父親がなんかやる? ときいてくるので、なんにしようかとかえすと、肉があるとかいってたからそれとほうれん草を炒めるのは、といった。ともあれまずは食器乾燥機のなかをかたづけ、炊飯器にわずかにのこった米をとって釜を洗い、あたらしく米を磨いだ。きのうだったか判明したのだがどうも炊飯器はタイマー機能がこわれたらしく、きのうまちがいなく六時半に炊けるようタイマーを設定したのに稼働していなかったので、きょうはタイマーをつかわずあとで炊飯スイッチを押すことに。それで冷蔵庫をみるとエノキダケがあったのでこれをソテーとスープの両方にすればいいやとかんがえた。きのうの汁物ももう一杯程度しかのこっていなかったので、椀にとっておく。ソテーは豚肉とタマネギとエノキダケで、きのこがあるからバターをいれようともくろみ、鍋にみずをそそいで火にかけるとエノキダケの半分弱を切り分けてまずそちらに投入。このあいだなにかの機会にテレビできのこの味をしっかりスープに出したかったらみずの時点から煮たほうがいいですといっていたのでそのようにした。そうしてのこった半分強を切り、タマネギも切り、あとキャベツも切りとやったがそのまえにあれだエノキだけでは汁物の具がすくないからそこでほうれん草をつかおうというわけで、ほうれん草は自家製のものを父親がとってきたもので玄関に網目状トレーにたくさんいれられてあったので、そこからちいさめのやつをひとつとってフライパンでゆでたのだった。それをしぼって鍋にくわえ、最弱の火でじっくり煮ておきつつソテーをつくる。油を引いてチューブのニンニクと生姜を落としてしばらく、そうして豚肉を投入してさいしょは箸でわけながら熱していたが、ある程度ではやめに野菜もくわえてしまって木べらで炒めた。醤油をそそぎ、砂糖を少々、それにバターだが、新品のバターを開封して包丁で切るのにやや手間取って炒めすぎた感がないでもない。しかしどうせ食べるころにはしなっとしてしまう。それから汁物に味噌で味つけ。たしか伊予だから愛媛県産だったとおもうがその麦味噌がのこりすくなかったのでちいさなへらでできるだけお玉にとり、それだけでは足りないので山梨の祖母がむかしつくったものだとおもうが黒々とした田舎味噌的な味噌もいっしょにとった。そうして溶かし、味見をしたものの薄かったので、いちど冷蔵庫にしまった田舎味噌をまたとりだして追加。それを溶かしおえて味見をしようというあたりで母親が帰宅し、玄関で甲高くなんとか言っているので、味の素を少量振ったところまでで火を消してそちらへ。父親は居間のテーブルでゆでられたフキの皮を剝いていたのだが、母親がぎゃーぎゃーさわぐのにすこし不機嫌そうなようすをしめしていた。座布団をはこんでくれとかいうのでサンダルを履き、傘をひらいて出ると、ジャンパーのフードをかぶって合羽がわりにしている母親は傘なんかひらいてらんないよ運ぶんだから、といったが、家のまえに停まった軽自動車の横に寄ってかのじょがさしだしてきた座布団をうけとると片腕でかかえることができて意外とそんなこともない。それで玄関に行き、ただ両腕がふさがっているので傘を閉じることができず、ひらいた傘は玄関の扉よりもおおきいので枠にひっかかってしまうのだが、その状態でなかにちょっとはいって父親に座布団をうけとってもらい、母親がもってきた後続もうけとるとこれは床のうえにひょっと投げておき、もういちど車まで行ってこんどはスリッパを腕にかかえてもどった。それも半端な姿勢で父親にわたし、そうして傘をたたんで屋内にかえると台所にもどって味噌汁の味見をし、まあこれならいいかと判断されたのでながしの洗い物をかたづけ、洗い桶もあらってあとサラダ。大根とニンジンをスライスするだけ。それをすませてほそくおろされたものをザルにあげておくと母親が洗い桶をあたらしく買ってきたものに替えようというので、貼られていたラベルを剝がし、なかをかるく洗っておいた。いまつかっているものよりもすこしだけ深い。それで台所を出て白湯をもって帰室。ここまで記すと六時四〇分まえ。きょうはあときのうのことを書き、これはすぐ終わるとおもうのだが、日曜日の通話時のことをできれば終わらせたい。しかしそちらはたぶん書くことがたくさんあるのできょうじゅうに終えられるかこころもとない。あまりこだわらずに割愛気味に行ってもよいという気にもなっているが。
 あと、居間にあがったとき父親がつけっぱなしにしていたラジオがながれていて、TBSラジオだったようだが、そこで女性と男性が人権とかヘイトスピーチとかそういう主題についてはなしており、まずきいたのは都心かどこかのほうではロシア人は出ていけみたいな声があがっているところもあるらしく、はなしているうちのひとりの知り合いでロシアの品々を売る店をやっているひともそういう被害を受けたというのだが、そのひとはロシア雑貨を売っていながらもウクライナ人なのだという。マジで愚か。どうしようもない。「ロシア」ということばとか、その語や観念を想起させる要素にただ機械的に反射的に反応して嫌悪をいだいているだけで、内実をまったく調べたり知ろうとしない。記号をそのままあいてにしているだけ。「ロシア」というこの三文字がそのままヘイトに直通している。これが差別の構造だろう。今次の戦争が起こったときに、今後ながいあいだ世界のあちこちでロシア人はロシア人であるというだけで不愉快なあつかいを受けることになってしまうのだろうという嫌なみとおしをもって日記にも書いたが、はやくもその実例を耳にすることになった。ほか、作業をしながらなのであまりよく聞こえなかったが、吉野家のうえのほうのひとが田舎から出てきた生娘をシャブ漬けにするようなかんじで牛丼中毒にしようみたいなことを大学の講義で口にしたというれいの件もとりあげられていたようだ。女性のほうが、つよいいいかたをゆるしていただければ、ほんとうににんげんとしての品性をうたがうし、ぜったい食べたくないなとおもいますと怒りをあらわにしつつも末尾あたりから笑いを混ぜて口調のつよさをやや中和していた。あと、この女性はそこそこ早口で、なおかつ「エスノメソドロジー」とかそんなに一般的でないだろうという横文字をけっこうつかっていきおいよくはなしていたのだけれど、そのあとでラジオのホストなのか男性が、発言のなかに出てきたむずかしめのことばの意味を補足的に解説していて、良心的な番組だなあとおもった(女性のほうも感謝していた)。その解説が、細部はよくきこえなかったのだけれど、口調のかんじからしてもよどみなくおちついてポイントを的確に要約しているようだったのですごい。
 日記を書いたりしたあと七時二〇分ごろにあがって食膳を用意。もちかえり、きょうも(……)さんのブログを読みながら食べた。過去ログの引用がたくさんあってたいへんおもしろいのだけれど、読みながら、じぶんが文学とか読み書きということに興味をもってそちらの世界をみてみようというときに「(……)」を発見したのは、やはりかなり幸福なことだったのかもしれないなとおもった。同ブログは二〇一三年一月に発見したと記憶しているのだが、たぶんその一か月まえくらいから文学方面の本をすこし読みはじめてもいたのだったとおもう。文学ってのがなんなのか知りたいと明確に意識してさいしょに読んだのは筒井康隆の『文学部唯野教授』だったはずで、ここからもわかるように、当初のこちらの関心というのはじぶんで小説を書きたいとかそういうことではなく、なんか世の中には文学っていうよくわからんもんをおもしろがっていろいろ論じたり語ったりしているひとたちがいるけれど(というのはとうじTwitterでじぶんと同年代の大学生らしいそういうひとびとが批評家ぶっていろいろ言っているのを目にしていたからだが)、それはどういうことなんだろう? どういうふうに読めばその魅力をかんじられるんだろう? ということだったのだ。だからそれいぜんにもそちらのたぐいの本を読んだ経験はわずかながらあって(たぶんカフカとか光文社古典新訳文庫でいちおうすでに読んだことがあったのではないか)、でもなんだかよくわからん、しかしなんか気になりはする、ということで、文学理論を小説のかたちでわかりやすく解説しているという評判をきいて(おそらく大学生協あたりで)買ってあった『文学部唯野教授』を読んでみたということだったはず。それがたしか二〇一二年の一二月ではなかったかとおもっていまEvernoteにアクセスし、七五九八個あるというノートのうちいちばんふるい作成日のものをみてみたところ、二〇一二年一月二一日にJohn Scofield『A Moment’s Peace』の記事をつくっている。このころは図書館で借りたり買ったりしたCDの曲目とかクレジットをぜんぶかならず記録していたので音源のノートがあまりにもおおすぎて邪魔なのだが、John Scofieldのうえのアルバムは、バラードアルバムなどぬるいしジャズはやはり熱気の飛び散るライブ盤がいちばんであるとおもっていたこちらがはじめてバラード作品もわるくないとおもったものだったはず。さいしょにきいたときではなく、その後なんどかきいたのちかもしれないが。書物としてさいしょにノートがつくられているのは二〇一二年一月二八日の長谷川宏『生活を哲学する』で、つぎが二月一日のサイモン・クリッチリー『ヨーロッパ大陸の哲学』。図書館にあったとっつきやすそうな哲学の本をえらんでいるのだろう。どちらも岩波書店の入門的なやつだ。そして二月六日には村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』があり、プラトン宮沢章夫をはさみつつ、二月二〇日にはダニエル・アラルコンの『ロスト・シティ・レディオ』(新潮クレスト・ブックスの一書)が出てくるから、すでにこの時点で文学方面にふれてみようという意思があったわけだ。おもったよりもはやい。たぶん大学四年になって、授業もすくなめになったのでちょっと興味があった方面に手を出してみよう、というかんじなのだろう。しかしとうじはまだまだパニック障害ものこっていて体調もよくはなくそんなにやる気も出ないというか踏ん切りもつかないし、またもうすこし経つと卒論にとりくまなければならない事情もはじまって試行(『魔の山』のセテムブリーニ氏にいわせれば「試験採用(placet experiri)」)が中断され、卒論を終えてからまた手を出すことになったわけだ。おもいだしたが、この時期のじぶんは学問とか文学とか哲学とかいうのがおもしろそうだという興味はもちつつも(それじたいは大学二年ごろに萌芽をもつ)、パニック障害から来る体調のわるさもあってか実存的にニヒリズムにおちいっており、まさしくじぶんの人生の意味を見いだせないというかんじだったし、なにかの授業でイランやイラクあたりの歴史の本を読みながら、おもしろくないわけじゃないけれどこんなもん読んでなんになるんだろう? という疑問をいだき、それで卒論指導教官だった(……)さんに相談しにいったことがあったのだ。それがたしか大学四年次がはじまるまえ、二〇一二年の二月ごろだったのではないかという気がする(あともうひとつ、じぶんはパニック障害で電車に乗るのが怖かったし、兄が毎日都心のほうまで出かけて何社も受けるという就活をしているのをちょっと見ていたのだけれど、じぶんにあんなことはぜったい無理だ、ぜったいに死ぬとおもったしはたらきたくもなかったから就活はせず(あと、ほんとうは興味がないしそこではたらきたくもない会社の面接を受けて、さもその会社ではたらきたいかのようなことを言わなければならないということの欺瞞ぶりをおもうとうんざりし、そんなことをしなければ生きていかれないこの社会に嫌気が差し、端的に言って嘘をつきたくないとおもったので就活をする気が起こらなかった)、とはいえなにかしらはたらかないといけないわけだからということで地元の市役所にはいろうとおもったのだけれど、それももちろんはいりたいなどとおもっていないわけだから勉強にとても身が入らず(とくに数的推理とか判断推理みたいなやつがむずかしくてぜんぜんわからなかった)、受けに行きながら落ちるなとおもっていたし、じっさいに試験を受けているさいちゅうもわからんもんだからこれはふつうに落ちたなとおもったし、じっさい落ちた。それで身の振り方も決まらずにいたわけだが、それがもしかするとかえって腹を決めたというか、文学ってもんに手を出してみようというその関心を確定的にさだめたという面があったのかもしれない。卒論を終えたあとに父親に、文学っていうもんに興味が出てきているから正職につかず一年くらいそれをやらせてくれと相談したのだ。そんなことをずっとわすれていたが、そういえばさいしょは一年だけとかいう約束になっていたはず。その後たしかもういちど、あと一年だかあと二年だったかわすれたがそのくらい延長された機会があったとおもうが、そのままなしくずしに現在にいたっているわけで、それをおもうと笑ってしまう)。もしそうだとするとその二〇一二年二月はニヒリズムにはまりながらも意外といろいろ読んでおり、二六日にはトーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法』なんていう本も読んでいるから、やはりこの時点でもすでに小説とか文学っていうもんをどういうふうに読めばいいんだろう? という問題意識があるのだ。この本も地元の図書館で借りたものだが、大学教授が素人の読者とちがうのはそれまでに書かれたいろいろな作品の型というかパターンをよく知っていて、たとえばこの作品の主人公は脚に傷を負っていてこれは要するにイエス・キリストとおなじだね、からだのいちぶに傷があるというのは主人公の特性として典型的なもののひとつなんだよとか、そういうふうに過去の作品とか古典とかを踏まえた重層的・象徴的な読みかたをするんですよみたいなことを解説したもので、いまからかんがえるとたいしておもしろくもない読みかただし、読むというのはそんなかんたんなことではないとおもうが、とうじのじぶんにとってはたぶん、へー、そういうもんなのか、おもしれえなとかんじられたのではないか。この作品のさいごで、マンスフィールドの『園遊会』を対象にして読みの一例をしめしていたのもおぼえている。そこでの解釈がどんなものだったかはわすれてしまったが、やはり聖書かなにかになぞらえるようなやりかただったような気もする。
 その後は卒論関連の書物がつづき、はなしをもどして問題の二〇一二年一二月にいたりたいのだが、あいだにはいっている音源の記事が大量なうえに読み込み中になるのでなかなか該当箇所を調べられない。いまやっとみられたが、しかし一二年一二月に『文学部唯野教授』の文字は出てこなかった。どういうことなのか?(いつ読んだのかわからないが、いずれにしても記事がのこっていないということは、書抜きをしようとおもう箇所がなかったということだろう) しかもじぶんが本格的に読み書きをはじめたはずの翌一三年一月も書物の記事はなにもなく、二月一日になって倉田百三出家とその弟子』と池内紀編の『尾崎放哉句集』が出てくる(どちらも岩波文庫)。三日にはレイモンド・チャンドラー『プレイバック』。一〇日に小野正嗣の『ヒューマニティーズ 文学』(やはり岩波書店の入門本)。一一日にはオルハン・パムク『わたしの名は赤』と森見登美彦太陽の塔』。一五日にミラン・クンデラの『小説の精神』、一七日にはおなじくクンデラの『カーテン 7部構成の小説論』。この時期のじぶん、本読むのはやすぎでない? 二〇日に加藤典洋『僕が批評家になったわけ』とキケロー『友情について』。というわけで、その後もジョナサン・カラーの『文学理論』とか、前田愛の『文学テクスト入門』とか、ロジャー・B・ヘンクル『小説をどう読み解くか』、佐藤亜紀『小説のストラテジー』というかんじで、文学作品じたいより「文学の読み方」本がつづく。そんなことをしていないでさっさともっとたくさん実作にふれろとおもうが、三月一〇日にニコルソン・ベイカーの『中二階』が登場する。これはよくおぼえている。とうじすでに(……)さんのブログに遭遇し、ああこういうふうにやればいいのか、こういうふうにいちにちをこまかく書けばいいんだな、じぶんでもやってみよう、というわけでいちにちをなるべくくわしく書くということをこころみだしていたのだけれど、そんなおりにインターネットをうろついていて、子どもが学校で書いた作文が先生に注意されて書き直されたのがじっさい読んでみるとあったことを順番にぜんぶこまかく書いていておもしろい、ニコルソン・ベイカーみたいだ、というブログ記事をどこかで読み、それで興味をもったのだった。『中二階』はじっさい、オフィスからそとに出るところだったか帰ってくるところだったかわすれたが、そこからはじまっていちにちのことをできごとや人物の意識思考やらひじょうにこまかく書きつらねていき、かつところどころに註をつけてそちらでも長文でいろいろかたるという作品で、冒頭付近にエスカレーターの手すりにひかりが反射してどうこうみたいな描写があったのをおぼえているし、主人公が昼飯かなにかを買いにいったストアがなんとかファーマシーで品物が茶色の紙袋にいれられたこともおぼえているし、あとこの主人公男性がワイシャツの裾をパンツ(スラックスということではなく、下着である)のなかにいれこむスタイルを提唱していたことや、トイレでとなりにひとが来ると緊張して膀胱あたりの括約筋(?)がしずまりはたらかなくなってしまい、小便をなかなか出せないのだがそれが恥ずかしいので出ないままにすませたふりをして便器のまえをはなれるということがたびたびあったのち、となりに来たにんげんの顔面にむけて小便をぶっかけてやる想像をするとそれが解決されるという方策を発見した、というはなしがあったのもおぼえている。
 二〇一三年四月は詩のほうにもふれてみようとおもって詩集をいろいろ読んだ月なのだが、このことはおぼえていた。『族長の秋』にぶっとばされたのは七月だとおもっていたのだが、記事は八月六日につくられている。読み出したのは七月かもしれない。七月終盤から八月一〇日までで保坂和志の小説論三部作も読んでいる。そこでミシェル・レリスなんかを知り、八月一八日にははやくもレリスの日記を読んでいる。みすず書房の高いやつを(……)で買ったのだろう。これはいまももっている。このときいらい再読してはいない。このへんでやめるが、この付近で磯崎憲一郎をよく読んでいるのも、保坂和志がとりあげていたのがひとつ、あと(……)さんのブログでなまえを知ったのがひとつだろう。さいごにひとつだけ記しておくと、七月二日には(……)さんの『誤自脱人』という小説の記事がつくられている。交流がはじまっているわけである。さかのぼってみると五月一日にも『Folktronica』がある。これがいちばんさいしょに読ませてもらったやつだ。たしか海辺のシーンを基調としつつなんか観念的なことをやたら展開するやつで、ニーチェを読んで触発されたみたいなことをとうじ(……)さんはいっていたような気もするが、これはたしかな記憶ではない。めちゃくちゃながく脱線してしまったが、はなしをもどすと、文学に本格的に興味をもちはじめたというときに(……)さんのブログを発見したのはやはり幸福なことだったのではないかということで、じぶんは「(……)」をみつけなくてもなにかしら文章を書くことをはじめてはいたかもしれないし、なにかべつのみちびきをえていたかもしれないが、(……)さんのブログの過去の文章を読むにやはりレベルが高いので、こういうのを日常的に書いているばしょを発見してはまったというのは、みちびきとしてもえがたいものだったのではないかとおもったのだった。
 (……)さんのブログをみつけ、読み書きをはじめ、(……)さんと知り合い、いろいろがんばって読んでいるこのころからもう丸九年ほどになるわけだが、そうかんがえてみてもよくわからない。そうなのか……というかんじ。九年という数字をみるに、もうそんなにという感もまだそれくらいという感もとりたてておぼえず、なにか別世界のようなよくわからなさと不思議さをかんじる。じぶんは読み書きをはじめるまえとそのあととでは端的に別人になったといぜんはおもっていたし、それがそれほどまちがっているともおもわないが、だからといって、読み書きをはじめたあとのじぶんといまのじぶんが地続きだとは、いまはまえよりはそうかんじない。読み書き以前以後のじぶんがおなじだとはおもわないが、そんなにちがっているともおもわなくなった。過去はきのうやすこしまえのことであろうが何年もまえのことであろうが、なにかたんじゅんに別世界のようなよくわからなさを帯びていまはうつる。それらがすべていまから等距離であるとはおもわないし、そんなわけがないともおもうが、過去であるというだけでみな平等に、それぞれ過去としての資格をえているようにおもえる。
 ところでそういえば、食事を用意するときにあがったとき、母親が、(……)のおばあちゃんが亡くなったんだって、と知らせてきた。(……)さんの祖母、(……)の両親の母親ということだ(たぶん父方か?)。したがって、あした両親は兄夫婦のところへ行く予定だったわけだがとりやめ、むこうからこちらに来るのもとりやめ。九二歳くらいだったようだ。


 風呂を出て洗面所でからだを拭いていると扉のむこうの台所で母親と父親がやりとりしているのがきこえたのだが、父親が皿を洗おうとしているらしく、いいから、洗うから、というセリフ(「いい」のぶぶんを「いぃい」みたいにちょっと伸ばす言いかたが母親にたいするわずらわしさをあらわしている)がきこえ、母親はそれで洗っちゃうと油っぽくなっちゃうから、とかいっているのだがそれは油物(というのはたぶんこちらがつくったソテーか?)の皿をさきに洗ってしまうと皿洗い用の網状の布がベタベタしてほかの食器にうつってしまう、ということだろう。父親はその忠告もしくは介入にやや気色ばんで反発しており、こちらが髪をかわかし終えて扉をあけた直後、台所のながしのまえでじぶんのひだりにならんだ母親のほうをむいて、洗っていいの? と、いらだちをはらんだおおきな声できいていた。こちらはそのうしろを抜けて居間のテーブルの端でポットからコップに白湯をそそいだのだが、その間父親は、こちらと入れ替わるようにして洗面所のほうに行った母親にたいしてともひとりごとともきこえる口調で、さきほどの気色ばみを薄い笑みに変えながら、うるせえんだよまったく、いちいち、ひとそれぞれのやりかたがあるんだから、と言い、そのさいごになあ? と同意をもとめる問いかけがついたのはたぶんカウンターをはさんで目のまえにいたこちらにむけられていたのだとおもうが、じぶんはそれを無視し、黙ってうつむいたまま白湯をポットからコップに受けるだけでなにもこたえなかった。湯のはいったコップをもって階段のほうにはなれると、ふざけんなよ、というつぶやきをもらしているのがきこえた。
 夜は日記を進行。二四日の通話時のことを記述。よくおもいだせず、やややっつけ的になってしまったが、数日経っているので致し方ない。二四日からぜんじつの二八日まで一気にブログに投稿。深夜二時台から詩をやろうとおもって進行中のやつの記事をひらいたのだが、いま書いてあるところまで読みかえして細部をほんのすこしだけ変え、それで一行足しただけでちからつきてしまった。いちにちの終わりではなく、もっとエネルギーがのこっている段階でやらないとすすめられない。

若森 本書全体での人間像の根底にあるのは、人間の自身に関する「無知」です。人は、最初から自分がどういうポテンシャル(潜性力)を持っているか知らないし、自分にとって善き生はどういうものなのかについても、予め知らない。この「無知」の定義が本書の出発点にあります。人生の試行錯誤の過程において意図せざる経験をし、また他者と出会うなかで、自分のことについてもだんだんとわかってくる。本書はこの点を強調しています。

人間の自身についての「無知」を基礎にしながら自由の意義を問い、善く生きる(ウェルビイング)とはどういうことかを考察する。これらの問いと絡めながら、福祉国家の構築へと議論を組み立てています。

橋本 先に挙げたセンのケイパビリティでいうと、私はこの概念に着目した上で「潜性的可能性としてのケイパビリティ」(capability as potentiality)という考え方を提示しています。というのは、センのいうケイパビリティは理論的に行き詰まっていて、私が考える潜性的可能性という側面から構築しないと、その考えの一番重要な部分が理解できないだけでなく、欠陥をもつことになるのです。

どういうことかというと、センはケイパビリティを、すでに能力として持っている、「できること」(ableness)という形でしか定義していない。でも、これでは「人は何が幸福なのかわからない」という問題と同様、自分の能力を十分捉えきった概念ではない。そうではなく、ケイパビリティとはむしろポテンシャル(潜性力)として捉えるべきで、自分でまだ気づいていないポテンシャルをいかに引き出すか、と問うべきなのです。

ですが、それに自分で気づいて、自分から引き出すのは難しい。だから他人にお願いして引き出してもらうような配慮をしてもらいたい。そういう、無知の前提に立った上で、その無知に対処するために福祉国家を営むことが必要になる。自分のポテンシャルを自律的に引き出すのではなく、自律した生活よりもすぐれたウェルビイングを求めて、政府に対して自律の代行を求めることができる、と考えます。

では私たちは、自律を超えるウェルビイングの理想を、どのように追求しうるのでしょうか。それは私たちそれぞれにとって、自分のウェルビイングが自生的に生まれるような環境においてである――本書の第5章で提示した、自由の原理である「自生的な善き生」の理論は、こうした政策理念を提供するものとして構想しました。

若森 「自律を超えるウェルビイング」という今のお話の論点、興味深いですね。本書の第2章「福祉国家の哲学的基礎」に、次のような印象的な一文があります:「人は、自己目的の観点から潜勢的可能性を捉えるだけでは、その力能を十分につかみとることはできない」(145頁)。人は生きるに値する人生を送りたいと根源的に欲求している。ただし私たちは、自分自身について配慮するのが苦手であるし、その可能性も孤立していてはわからない。

だから、ウェルビイングには自律を超えた、社会的な文脈が必要になるんですね。私たちには、自分自身に配慮するだけでなく、他者に配慮するようなシステムや社会的な土壌が不可欠である。この点にこそ、福祉国家の積極的な意義や役割があるともいえるわけです。――この点こそ、社会哲学者・橋本努が本書で示した福祉国家の理念の礎となる思考がある、礎といえるでしょうか。

     *

若森 話は変わりますが、本書は教育格差の議論にも活きるのではないか、と思います。生き方のロールモデルについては、ジェンダー・ギャップの問題や論じ方と絡めていろいろと考えさせられるところがあります。

たとえば、「親密圏」でのロールモデルは家父長的なもの以外の選択肢については非常に限られています。他方で、公共圏では従来の(男性主義的な)競争システムや官僚制などの支配システムが主流です。グレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」を高評価するシステムのなかで、魅力的なウェルビイングのロールモデルを見つけることは容易ではありません。本書で橋本さんが論じる、互いに配慮し合う「もてなされた生」ともいえないですよね。

教育の役割とは、親密圏の制約から出るというチャンスの提示でもある。アーレント的に言うと、私的領域で閉じ込められ、奪われている(deprived)ところから解放される。そういう意味で、「もてなされた生」にいかに配慮するかは、教育格差をなくすという議論と哲学的な問題として重なるのではないかと思っています。私的領域から解放された、先の公的領域がいかにクリエイティブでありうるか、という点も機会があれば、また、お聞きしたいです。

橋本 この点、本書でいうポテンシャル(潜性力)の概念がカギになると思います。人はそれぞれ生まれ育つ家庭で、早い段階からアイデンティティを持ちますが、同時に自分の中の他のポテンシャルに気づく機会を奪われてしまう。だから教育で、いろんなポテンシャルに気づく機会を提供すべき、となる。

豊かな文脈で育った人は、そこに位置づけられた自我(situated self)のもと、コミュニティの中で生き生きとすることができる。しかしそうした豊かな文脈に恵まれてない人もたくさんいる。だから、その文脈から離れたところで、未知のポテンシャルに気づくことが重要になる。あるいは、別のコミュニティ・新しい文脈の中で「もてなされる」ことが生き方として重要になってくる。教育はまさにこの「もてなされた生」の重要な役割でしょう。

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若森 ナッジを熟議・民主主義に取り入れているという特徴も指摘しておきたいと思います。「熟議の民主主義」を提起する政治思想史家の宇野重規は、民主主義には熟議が必要である、と論じています。まったくそのとおりなのです。しかし、「熟議の民主主義」が「熟議のための熟議」となってしまっていては、人々は失望してしまう。それに対して橋本さんは、「ナッジが熟議を刺激する」という表現をしています。ナッジそのものが、価値の普遍化や多元主義を超えるというわけではありません。しかし、ナッジを民主主義を活性化する「仕掛け」として組み込めば、自由や福祉国家の理念についての熟議も刺激される可能性がある。政治についても言えることだと思います。

橋本 背景から説明すると、経済思想では「自由市場に任せるか、政府が介入するか」の対立があり、それに対してキャス=サンスティーンはリバタリアンパターナリズムの立場から、「介入とは自由のために行われる」という、真ん中を取りに行く議論をしました。私はそこから一歩進んで、「どういう自由のための、どういう介入がいいのか、要するにどういうリバタリアンパターナリズムがいいのか」に焦点を当てています。

というのは、リバタリアンパターナリズム自体は、「効用が高まりさえすればいい」という社会的厚生主義の立場なので、それ自体では介入の仕方は何でもありの議論になってしまう。ですが、本書でも論じるように、功利は数値で測ることができるものもあるけど、わからないことのほうが多い。それがわからないのであれば、争点とすべきはやはり価値なのです。

その価値にはいろいろな議論があり、熟議もその一つですが、一番重要なのは、私たちが市民社会を築くにあたって、「理性的に考える時間を増やすのか、それとも創造的になる時間を増やすのか」ということです。これまでの議論の考え方とは「みんなが理性的に熟慮すれば、もっといい社会になるだろう」という発想です。これは、自分が無知であることを知り、無知を理性的に克服するということですが、私は必ずしもそうとは思わない。

もちろん議論の過程で他人の意見も聞くわけだから、自分の無知はある程度相対化されます。でもそれは、その他人が自分より知識があればの話ですし、議論したってわからないということも十分あり得る。

例えば、将棋を指す人と解説する人を考えてみましょう。将棋を指す人には、理性的・反省的に考えていると却(かえ)って前に進めないことがあります。むしろ、ある種のクリエイティブな直感を頼って、それを切り開いていくような行為でもって前に進んでいく。これは、ハンナ・アーレントのいう活動(action)ですが、それは理性的で自律的な営みとしての仕事(work)とは違う。自分がどうしたらいいのかわからないなりに前に進んでいくことができる、善き生とはそうした活動(action)の形でありうる、といえるのです。

ある「一手」を指すための直感は、議論の中では鍛えられないんですよね。もちろん、なぜその一手がいいのか、議論し、やはりいい手だったと納得することはできるけれど、「じゃあ君、指してみてください」って言われても、熟議でそれが身につくわけではないですよね。スポーツや音楽、演劇、あるいは多くの場面で、熟議しても身につかない能力はたくさんあります。私が本書で論じているモデルは、こうした理性を超えるような能力を引き出すことを、社会的にどう奨励するかという話です。

その時、ある人たちをロールモデルにして憧れを抱く。その人になれるわけではないけれども、自分の中のロールモデルを増やしていく、そういうあり方が、一つの人的な資本形成になる。これが私が考える介入の正当化、つまりロールモデルを増やす仕方で活動的な生(vita activa)を支援し、福祉国家を作っていくべきというものです。

     *

橋本 私の母はいま認知症で、記憶がなくなりつつあるんです。そうすると、自分の人生が良かったのか悪かったのか、そういうことを考えようにも、本人はやがてたどることができなくなるのではないか。私の理論のなかで「回顧された生」という理念があるのですが、これは現在の効用よりも、過去を回顧した場合の効用のほうが重要、という議論です。まさに己の人生をどう捉え返したかが重要なになるんですが、しかしそれは本人だけでなく、他人が捉え返す視点でもありうるという議論になっています。ケアしてくれる人がその人の過去を知っている、物語的に受け止めてくれている。そこに善き生の可能性があると思うのです。

私が本書で理論的・哲学的に一番苦労したのは、効用(utility)の概念からウェルビイングの概念を導くところで、それだけでも3ヶ月を費やしました。実はこれまで、効用についての哲学はほとんど展開されてきませんでした。近代経済学の哲学、経済思想では、日本だと清水幾太郎が『倫理学ノート』(岩波書店、1972年、講談社学術文庫、2000年)で少し紹介した程度で、それも途中で考察が中断しているんです。そしてその後、「効用とは何か」を引き受けた現代的な理論はほとんどなかった。

私はそこに取り組みました。そして、「効用と異なり、ウェルビイングは第三者が判断する/三人称になっている」という結論に至りました。ウェルビイングには「他者が誰かを配慮する」という考え方が入ってくるんですね。社会を回していく一番の根本原理として、ウェルビイングには他者を配慮(ケア)することが据えられている。そこからいろいろなことが理論的に派生していく。

これまでリベラリズムは権利・義務・正義という、大文字の男性的な理念で語られてきたんですが、本書の理論ではこれらの理念を用いず、別の観点から論じている。それが、ケアの倫理をはじめ様々な可能性を開いていると思っています。(……)

2022/4/28, Thu.

 こうした例は、他にも様々な局面で見ることができる。社会主義計画経済の原則からは、(end192)私的な生産やサービスの提供は限定的なものにとどまるべきであり、住民への商品やサービスの提供は主に公営サービス企業や協同組合によって担われることになる。しかし実際には、公営サービス企業や協同組合の活動は住民の必要を満たすことができなかった。
 このため政権は、本来の業務は別にある工業企業、コルホーズソフホーズ、そして地域社会や住民に対して一定の役割を担わせることで生活サービス網を拡充しようとしたが、少なくとも一九六〇年代まではそれも十分ではなく、人々は私営の手工業者などに頼ることも多かった。ロシア共和国のノヴォシビルスク州の例では、公営の各種修理所は日曜定休で、交換部品や原材料の不足から修理ができないこともあったため、住民は私営の手工業者を利用することが多かった。料金は公営の修理所より二~三倍高いが、補修・交換用の材料や部品も揃っていることから、特に日曜には私営手工業者が繁盛しているとの報告がなされていた。
 私営手工業者を利用する住民が高い料金の支払いを余儀なくされていることもあって、公営の修理所のサービス改善が急務とされていたのであるが、とはいえ現に公営のサービスが十分でなかったこともあって、私営手工業者の活動は課税と引き換えに合法とされていた。しかし、先のノヴォシビルスク州に関する報告によれば、登録せず、税を納めていない私営手工業者も多く、現地の財務機関はそれを把握することができないか、把握する(end193)意欲に乏しかった。業者は公然と活動し、多くの住民がそのサービスを利用しているにもかかわらず、である。ここにも統制が及ばない故の「自由」を見ることができようし、現地の財務機関が私営手工業者の活動を把握していないことが能力の限界や怠慢によるのではなかったならば、その「自由」は暗黙裡に認められていたとも言えるだろう。
 政権の努力にもかかわらず、この時期のソ連では社会秩序も労働規律も売買契約も守られないことが多かった。そのことが規制を一層強化させる方向に働いて、他国ならば法的規制にはなじまないとされるであろうことまで規制したのであるが、厳しい規制の多くは「紙の上のもの」にとどまっていた。現に規制が存在している以上、違反者が処罰された例も少なからずあったが、それは「氷山の一角」に過ぎず、秩序や規律の侵犯は跡を絶たなかった。政権が統制できる範囲は社会の全域には及ばなかったのであり、だからこそ社会団体の引き入れが繰り返し求められたと言えよう。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、192~194)



  • 「英語」: 24 - 60
  • 「読みかえし」: 698 - 709


 一一時四五分に起床。やや遅い。布団のしたで胎児のポーズをとって肉をやわらげからだに血をめぐらせる。おきあがると水場へ。顔をよく洗い、口もゆすぐとトイレで放尿。部屋にもどってくると、なにを読もうかなあときのうからまよっていたわけだが、クロード・シモンの『フランドルへの道』を読むことにした。シモンはなんだかんだいって『路面電車』しか読んだことがなかったはず。それでも一冊読んだわけなので、内容はぜんぜんおぼえていないもののあの長大な文体は知っているし、こちらじしんああいうのがわりと好みな人種でもあるわけだが、『フランドルへの道』も書き出しからしてなかなかおもしろくて興をそそられた。改行なしでながながとつづく文章のなかで時空がどんどん転換していくさまにガルシア=マルケスの『族長の秋』をおもいださないでもない。こういうタイプの作品がどういうふうにして時空を移行したり飛躍させたりいるのかをこまかくくわしく調べれば、かなり勉強になるだろう。
 ほんのすこし、数ページだけ読んで一二時二〇分くらいに上階へ。父親は山梨に行っているらしい。ジャージにきがえ、洗面所であらためて顔を洗った。食事は冷凍のたらこパスタなど。新聞をみながらものを食っているとむかいの母親が(……)のお兄さんも山梨にいってたんだってと言い、また蜂がどんなふうになっているかスマートフォンをさしむけて動画をみせてきたが、ミツバチがめちゃくちゃたくさん群れて飛び回っているようすがうつっていた。箱だかなんだかがあるのでこれどこにあんの? ときくと、あの居間のこっちがわ、と言ったが、そんなに家のちかくにあってはなかに蜂がはいってこないのだろうか? 行ったら刺されないかなと母親ももらしていた。新聞一面は知床沖で観光船が行方不明になった件で運営会社の社長が会見をひらきなんども土下座して謝罪したとの報。注意報が出ていたことは知っており波の高さも運行をとりやめる規定をこえていたものの、午前八時時点ではさほどでもなかったので、船長とはなしてばあいによっては引き返すという条件付きで出航を許可したと。ウクライナ関連ではアントニオ・グテーレス国連事務総長プーチンと会談したもののやはりあゆみよりはなくめだった成果はえられなかったとの報。文化面に浜由樹子という静岡県立大学准教授が「ネオ・ユーラシア主義」について述べた記事があったのでそれも読んだ。ユーラシア主義というのはもともと一九二〇年代から三〇年代あたりにヨーロッパに亡命したロシア人らがアジアでもヨーロッパでもない独自のアイデンティティとしてロシアを位置づけたものだと。近年それが再解釈されて「ネオ・ユーラシア主義」として一定の勢力をえているようだ。プーチンもおそらくそれを信奉しているのだとおもうが、かれにイデオロギーがあるとしたらそれは「反リベラリズム」だとも准教授は述べていた。もともとロシアも欧州との関係構築を模索して、アジアとヨーロッパをつなぐみたいな役割をかんがえていたらしいのだが、欧州的リベラリズムの「押しつけ」や旧ソ連諸国へのその浸透(プーチンにしてみれば「浸食」ということになるかもしれない)にたえられなくなりいまにいたっているということなのだろう。
 食器を洗う。母親のぶんもあわせて。パスタのはいっていたフライパンにはみずをそそいで火にかけておいたので皿をあらい終えたころには沸騰しており、湯を捨てるとキッチンペーパーで掃除。それから風呂場に行って浴槽をこすった。きょうはひさしぶりに緑茶を用意したのだがそれはきのう(……)さんが父親にくれたからで、きのう昼過ぎに瞑想しているときにこちらも窓外に声をきいていたが、となりの(……)さんの葬儀にこんかいだれも呼ばなかったわけだけれどほんらい来るはずだったようなしたしいひとにはQRコードで写真などがみられるようになっておりそれをくばってまわっていると言っていた。納骨は六月二日だといっていたはず。そのときに茶ももらったらしい。狭山茶とパッケージにしるされてありながらもほかにメーカーや期限などなんの情報もないので、たぶんこれもたいしてうまい茶ではないだろうとおもいながらもいま家にある茶がどれもあまりうまくないものばかりなので一抹の期待にそそのかされて開封したのだが、やはりこれもあまりうまい茶ではなかった。もうあんまり茶を飲まなくてもよいはよいのだが。飲めばカフェインかなにかの作用でからだもみだれはするし。たまに苦味がほしくなるけれど。
 室にかえるとそうして一服しながらウェブをみたり、その後音読したり。きょうは休みだし、というかかんがえてみるときょうから五月八日の日曜日までずっとやすみなのか? やばいな。このまま一生やすみつづけたい。休みということもあり、また胎児のポーズをよくやってからだに血がめぐっているということもあり、音読にやる気がでて「読みかえし」のほうをけっこうたくさん読んだ。読むと二時半すぎくらいだったか。きょうは起床がおそくなって瞑想をはぶいてしまったのでさっさとやりたかったのだがさきに臥位になって英文記事を読む気になり、せんじつ読んでいたDavid Robson, “The reasons why exhaustion and burnout are so common”(2016/7/23)(https://www.bbc.com/future/article/20160721-the-reasons-why-exhaustion-and-burnout-are-so-common)(https://www.bbc.com/future/article/20160721-the-reasons-why-exhaustion-and-burnout-are-so-common%EF%BC%89)をさいごまで読み、さらにMichael S Jaffee, University of Florida, “How do politicians get by on so little sleep?”(2016/7/29)(https://www.bbc.com/future/article/20160729-how-do-politicians-get-by-on-so-little-sleep(https://www.bbc.com/future/article/20160729-how-do-politicians-get-by-on-so-little-sleep))も読んだ。
 そうしてきょうのことをとちゅうまで書いて、三時四七分くらいから瞑想した。三〇分弱か? そこからまた書いてここまで。四時半ちょうど。(……)からは一日はどうかときていたのでだいじょうぶ、時間はそちらにあわせると返信し、(……)さんからはきのう、三〇日の午後から合流しようとあったので二日つづけて出かけることになる。もともと二八日といわれていたが、こちらがGmailをみないで返信せずにいるあいだに二七日にかわっていたらしく、しかしきのうはこちらが労働だったのでわざわざ三〇日に予定を変えてくれたようだ。


 いま夕食をとった直後の午後八時。れいによって(……)さんのブログを読みながらものを食べたが、冒頭の梶井基次郎の引用の書きかたがすこしおもしろく、ちょっとすごいようにもおもった。

 彼らの借りている家の大家というのは、この土地に住みついた農夫の一人だった。夫婦はこの大家から親しまれた。時どき彼らは日向や土の匂いのするようなそこの子を連れて来て家で遊ばせた。彼も家の出入には、苗床が囲ってあったりする大家の前庭を近道した。
 ――コツコツ、コツコツ――
「なんだい、あの音は」食事の箸を止めながら、耳に注意をあつめる科(しぐさ)で、行一は妻にめくばせする。クックッと含み笑いをしていたが、
「雀よ。パンの屑を屋根へ蒔いといたんですの」
 その音がし始めると、信子は仕事の手を止めて二階へ上り、抜き足差し足で明り障子へ嵌めた硝子に近づいて行った。歩くのじゃなしに、揃えた趾(あし)で跳ねながら、四五匹の雀が餌を啄(つつ)いていた。こちらが動きもしないのに、チラと信子に気づいたのか、ビュビュと飛んでしまった。――信子はそんな話をした。
「もう大慌てで逃げるんですもの。しとの顔も見ないで……」
 しとの顔で行一は笑った。信子はよくそういった話で単調な生活を飾った。行一はそんな信子を、貧乏する資格があると思った。信子は身籠った。
梶井基次郎「雪後」)

 信子が行一の質問にこたえた直後、「その音がし始めると」以下を読んでいるあいだは、このぶぶんの記述はまえの食事のシーンから地続きで、信子は食事中に席を立って二階にあがっていったようにおもえるわけである(とはいえ、「仕事の手を止めて」とあるのには、食事中に仕事ってなんなんだろうという疑問が湧いたので、ここでシーンがきりかわっていると気づくこともできるのだろうけれど、こちらは夫への給仕とかのことをいっているのかなと整合的に解釈してしまった)。ところが段落のさいごまでいくと「――信子はそんな話をした」とあるので、あ、このぶぶんはべつのときのエピソードをかたっていたのか、とわかるのだ。梶井基次郎がこういう錯覚的な時間の操作を意識的にやっているのかどうかはわからないのだが、ちょっとおもしろかった。しかしすごいとおもったのはそのあと、「しとの顔で行一は笑った。信子はよくそういった話で単調な生活を飾った。行一はそんな信子を、貧乏する資格があると思った。信子は身籠った」のながれ、とくにさいごのひとことである。「信子はよくそういった話で単調な生活を飾った」も、日常茶飯のつつましい穏和さをかんじさせ、「行一はそんな信子を、貧乏する資格があると思った」もありがちながらちょっとおもしろいいいかただなとおもうが、この終わりに「信子は身籠った」を置けるのはすごい。あざやかな飛躍がはさまっている。一読してはっとした。接続詞もしくは接続語の欠如がきいている。読みかえしてみるとこのぶぶんの記述で、そういうたぐいのことばではじまっている文はないわけである。ひるがえって我が身をおもうとじぶんはかなり接続的なことばをはさんでながれをなめらかに整地してしまおうとするなとおもった。それはたぶん、翻訳されたガルシア=マルケスの文体を手本に練習していたそのならいが基礎としてずっとのこっているのだとおもう。「そういうわけで」とか一時期よくつかっていた(「そういうわけで」は『百年の孤独』と『族長の秋』(たぶん、とりわけ前者)でたびたび活用されているのだ)。「それから」とか「そうして」「そして」、あるいは「その」「それ」「そういう」というふうに、じぶんの文章はたぶん「そ」のつく接続もしくは指示のことばがおおいとおもう。ながい描写をしているときなど、「それ」「その」でまえをうけつつつなげてしまうことがおおいなというのは書きながらじぶんでおもっている。

 夕食には麻婆豆腐と大根・ニンジン・タマネギの汁物。めんどうくさいので調理の詳細ははぶくが、そのまえにアイロン掛けもやった。で、またせっかくだからスマートフォンで音楽をききながらやるかという気になり、部屋からもってきてFISHMANSの『宇宙 日本 世田谷』をききながら作業した。よい。うたがいなくすばらしいのだけれど、FISHMANSがすごいのはすばらしさと同時にたびたび困惑をあたえてくるところだなとおもった。だいたいのところ佐藤伸治の歌詞についてそうかんじるのだが、かれの書くことばはふつうに詩的でいいじゃんとおもうものもありつつも、そのいっぽうで、なにそれ? とか、どういうこと? とか、あ、そうなの? とか、なにいってんのこいつ? みたいな反応がじぶんのなかで頻繁に起こる。それは意味深だということではないし、反対にナンセンスだということでもなく、どういうことなのかよくわからないのだけれど、とにかく、なにいってんの? というかんじを受けることがおおい。佐藤伸治のあの声でいわれるのでなおさらそうなるというのはあるとおもうのだが。FISHMANSの音楽のすばらしさとかよさの内実がどういうことなのかわからないということではなく(それもたしょうあるのかもしれないが)、ぜんたいとして、また個々のすばらしい箇所があきらかにすばらしくうたがいなくよいそのいっぽうでなんなんですかこれは? という困惑が混ざりこんでくるのがメタ的にすばらしい。


 David Robson, “The tragic fate of the people who stop sleeping”(2016/1/20)(https://www.bbc.com/future/article/20160118-the-tragic-fate-of-the-people-who-stop-sleeping(https://www.bbc.com/future/article/20160118-the-tragic-fate-of-the-people-who-stop-sleeping))を読むなど。夜は予想していたよりもあまりがんばれず、寝床にころがってウェブをまわりながらだらだらしている時間がおおかった。書抜きもしていない。

2022/4/27, Wed.

 一九五〇~一九六〇年代は、全体として見れば国はなお貧しく、食糧不足や住宅不足は深刻で、人々の生活は楽ではなかったが、豊かさを実感できる面もあり、徐々に良い方向へ向かっていると感じられた時代であった。戦勝の余韻やスプートニク打ち上げの成功などによって、ソ連の体制の正しさへの確信や社会主義による発展への期待が国民にもかなり広く共有されていた。そのことはソ連共産党の党員数の推移にも見ることができる。一九五六年二月の第二〇回党大会から一九六一年一〇月の第二二回党大会までの約五年半の間に党員は、素行不良などで二〇万人以上が除名されたにもかかわらず約二五〇万人増えて九七一万六〇〇五人となったのである。
 もちろん共産党の一党支配であることを考えれば、「出世主義者」の入党もあったろうが、第二〇回党大会以後(スターリン批判以後!)これだけ多くの人々が入党したことには、党への期待と人々の意欲の現れという面もあるだろう。社会主義体制を信頼し、近い将来における共産主義の実現も信ずる人々は決して少なくなかったのであり、「共産主義は各人が築き上げるものだ」との政権の呼びかけに応じ、「明るい未来」のために仕事に励む人々が一九五〇年代から一九六〇年代にはまだ存在した。(end176)
 第二〇回党大会前後からソヴェト政権は、労働時間の短縮を目標に掲げ、段階的に実現していったが、これに対し人々の側からは、「共産主義労働の時間」を設けて無償で一時間多く働くようにしよう、超過労働をして計画を超過達成しようという提案が政権に多数寄せられた。もっと働こうと訴えた人々はもちろんのこと、一九六〇年代までは、政権による様々なキャンペーンに参加した人々は全般に熱心に活動したのであり、実際に生産力を高める効果があったと指摘されている。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、176~177)



  • 「英語」: 783 - 787, 1 - 23


 一〇時三五分に起床した。そのまえにもなんどか覚めつつ起床にはいたれず。とはいえ寝覚めはわるくなく、からだもたいしてこごっていない。布団のなかで息を吐きつつ足首を前後にかたむけてすじを伸ばしてからおきあがった。水場に行って顔をよく洗い、口もゆすいで、トイレで小便をしてもどってくるとふたたびあおむけに。つぎ読む本がまだ決まっていないので、きょうの(……)くんの授業でもしかしたらもうはいるかもしれないなとおもい、河合塾の『やっておきたい英語長文500』を読んでおいた。二題目まで。まあ楽勝で、このくらいの文章だったら意味がわからないぶぶんも語彙もまずない。この問題集はこちらも大学受験時にやったもので、二〇〇七年が高校三年生なので一五年前ということになるだろうが、二題目のカモノハシについての文章はなぜだかその後もよくおぼえていた。印象にのこっていたらしい。とうじは三回くらいくりかえし読んで語彙を習得したりしていたとおもう。
 一一時一〇分から瞑想。肌がほぐれてきてこのくらいかなと目をあけるとちょうど三〇分ほど。やはり体感よりも数値がみじかい。四〇分くらいすわったつもりでいたのだが。右足がすこししびれたのでそれが解けるのを待ちながらティッシュで鼻のなかを掃除し、ゴミ箱とコップをもって上階へ。ゴミを始末し、ジャージにきがえて便所で排便。洗面所であらためて顔を洗ったりうがいをしたり。食事はタマネギとシーチキンを炒めたやつなど。きのうの鍋ののこりも。天気は曇り気味で、洗濯物は母親が出勤するまえになんだか降りそうと言ってもういれていった。父親はベランダの網戸をはりかえるかなにかしているようでそれをはこんでそとに行った。新聞にはアントニオ・グテーレス国連事務総長がロシアでラブロフ外相と会談との記事。プーチンとも会談する予定らしいが、マリウポリからひとびとを退避させるためのプログラムを提案したもののラブロフの反応はかんばしくなく、ウクライナは交渉に関心をもっていないとか言っているらしい。二面に関連記事。南部ヘルソンの市長がSNSで、ロシア軍が市庁舎にはいり、もといた警備員をロシアがわの人員にいれかえて占拠していると。ちょうどニュースでもその件があつかわれたが、ヘルソン市長はロシアがさだめたあたらしい行政府の長だという人物を紹介されたという。偽の住民投票をおこなってヘルソン州を親露派の「人民共和国」とし、統治を正当化しようともくろんでいるとの見込み。ヘルソン州はクリミアに隣接しており、ロシア国内では政権与党の議員からクリミアと合わせて一体化して併合するべきだという声も出ていると。そのほかモルドヴァ内でいっぽうてきに独立を宣言している親露派共和国内で爆発だかがあったらしく、これは兵員を確保するのに難儀しているロシアが沿ドニエストル共和国のにんげんを戦闘に参加させるために起こした工作ではないかという観測があるようだ。ロシアの戦果はそうのぞましくはなく、一万五〇〇〇人の兵が死に二〇〇〇台の戦車が破壊され、ベリングキャットによれば精密誘導弾の七〇パーセントをつかいきったとみられるという。
 一面にはまた知床沖で観光船が行方知れずになった件の続報も出ていて、テレビでもつたえられるわけだが、記事をきちんと仔細に読んではいないものの、事件時に運営会社の連絡設備はこわれていて該当船と交信できない状態だったとか。それなのでさいしょに該当船の異変に気づいて連絡をとったのはべつの会社だったといい、どういうしくみなのかわからんがその会社が船がもどってきておらずへんだということに気づいて連絡すると、船長がどこどこにいると受けたあとに、まずい、沈みそうだ、ライフジャケットを着せろ! とかいう声がきこえたので海上保安庁に通報したと。運営会社はどうやらすごくお粗末な管理体制だったらしいぞとだれでもおもうだろう。
 母親のぶんもあわせて食器をかたづけ、風呂洗い。それから洗面所であたまを濡らして櫛つきドライヤーで髪をかわかし、白湯をもって帰室。Notionを用意してウェブをちょっとだけみると「英語」記事を音読。このときいつもどおりFISHMANS『Oh! Mountain』をながしたのだが、そのおとのかんじがいつもとちがうようにきこえて、とくに演奏が本格的にはじまってから、ベースがこんなに鳴ってたかな? とふしぎなくらい低音が密にひびく気がしたのだが、アンプの設定は変わっていない。知らないあいだにAmazon Musicが更新されて勝手にイコライザーが変更されたりしたのかなとか、きのうだかおとといにChrome OSを更新したのでそれが関係あるのかなとかおもったがわからず、そもそもこちらのかんじかたの問題なのか、ほんとうに音質になにか変化があったのかすらわからない。ともかく音読し、一時からここまで記して一時半まえ。


 いま帰宅後、もう二八日に日付が変わったところだ! 食事と風呂を通過してきた。夕食中から(……)さんのブログを読み、(……)さんが読みかえしているラブホテル時代の記録を追っているのだけれど、やはりおもしろい。「引き継ぎ時、カレーの減りが異様に早いとMさんから指摘があった。盗み食いしているのがどうもバレているらしい。」というのになぜかかなり笑ってしまい、「 [2012年11月] 19日づけの記事には「水洗がイカれていたものと思い、出すだけ出して流していなかった大便について、大家さんから暗におまえが犯人ではないかと指摘するような、実に京都人らしく洗練された皮肉の言葉をもらった。とても90歳をまわったものと思われぬ婉曲である。」との記述。このときのことはよくおぼえている。水が流れなかったのでそのままにしておいたところ、のちほどアパートの敷地内ですれちがった大家さんから、あんなにでっかい大便見たことない! みたいなことを言われたのだ。」というのにも笑った。「(……)さんはネトウヨの虚言症、(……)さんはスピリチュアル系、(……)さんはリベラルなサブカル。三人ともヒップホップと大麻をはじめとするドラッグが大好きだった。」というのもすげえなというか、よくこうも揃うなというか、そのへんの小説よりもいかにも小説らしいようなにんげんもようで、むしろ小説にしたらあからさまにキャラ立てすぎでしょ、区別と役割つけすぎでしょみたいなことになりそうなくらいだ。二〇一二年一二月二〇日の(……)さんの登場にはこちらまでうれしくなって笑ってしまった。
 昼間にはきのうにつづき二五日付の記事を読み、そこに引かれてあったながい自動筆記のおかげでこちらのあたまもきょうは自動筆記的なモードになり、職場への往路と風呂にはいっているあいだはだいたいずっとそういうかんじのことばがめぐっていた。ヴァルザーの『タンナー兄弟姉妹』をパクったような小説を書こうとまえまえからおもっていながら一向にやりださないのだけれど、それをやったらそのなかにそういう自動筆記パートをいれようとおもった。いちにちの終わりかな。夜になって帰ってきた主人公が酒を飲んで酩酊した状態で文を書くという。そのぶぶんだけは推敲と書き直し書き換えをまったくゆるさなくするためにじっさいに紙で手書きしようとかんがえている。
 じぶんが(……)さんのブログを発見したのは二〇一三年一月だというのはきのうも書いたが、かれとの交流がはじまったのはたぶん一年後くらいだったのではないか。二〇一三年中にとうじやっていたブログをとおして(……)さんがメールをおくってきてくれて、それでかれとのかかわりがはじまり、で、たしかおたがいにブログ内容を読んでこのひと(……)さんのブログ読んでるなというのを双方直感していたということだったおぼえがあるが、きいてみれば(……)さんがその(……)さんと知り合いだったわけである。さいしょにかれとその兄((……)さんのほうがおとうとでよかったんだよな?)である(……)さん、そして(……)さんの四人で会ったのがいつだったのかおぼえていないのだけれど、たぶん二〇一四年中だったのではないかという気がする。冬か? 秋だったかもしれない。九月か一〇月か一一月だったかもしれない。新宿駅でまちあわせだったことは明確に記憶しており、東口のそとにたぶんこちらと(……)さんのふたりでいると、(……)さんが陽気にやってきて(……)さんに背後から不意打ちしたという記憶がある。(……)さんはたしか(……)さんといっしょにきたのではなかったか。それか(……)きょうだいとこちらが三人で待っていたかだが、たぶんそうではないとおもう。おそらくこれいぜんにこちらは(……)さんだけでなく(……)さんのほうとも面識があったのではないか。それはとうじ音楽をつくっていた(……)さんがボーカルをさがしているというのを(……)さんからきいて、ぼくの友だちに音楽やりたいっつって歌うたってるやついますけど、とそのころはまだかかわりがあった(……)を紹介したことがあったのだ。それがたぶん二〇一三年中だったはず。とうじのじぶんはかのじょにいっしょに音楽をやってほしいといわれてまよいつつも読み書きというものを見出してしまったからそちらのみちをすすむ気はないとおもいさだめ、しかし手助けできる範囲で手伝おうというわけでかのじょの家に行ってaikoの曲など題材にして音楽理論をたしょうおしえたり、かのじょがつくった曲にベースをちょっとつけたりしていたのだが、やってることいまと変わらんやん。それいぜん、大学三年生くらいのときだから二〇か二一あたりでかのじょへの恋慕が再燃して、二三になった二〇一三年ちゅうもたしょうはそれがのこっているようなかんじだったのだけれど、(……)とのメールのやりとりをブログに書いたことでかのじょの不興を買ってしまい、とうじはこちらもこれがおれのゆくみちなんだと、かぶれたもの特有のいまよりもはるかにつよいこだわりをもっていたので私小説系列の日本文学的な告白の罠にはまっていたというか、書けることはできるだけなんでも書くんだという熱情からその不興をあまりうけいれられず、それでだんだんかかわりがとぎれていったのだったとおもう。かのじょとふたたび連絡をとったのは二〇一八年の一年を鬱症状に死んだあと、ではなかった、あたまの狂いがピークにいたった三月の終わりに、なぜなのかいまもってもわからないのだが、このままではじぶんはことばをはなせなくなるなと錯乱してそのまえに感謝をつたえておこうと連絡し、それで四月にいちどほかのひとびともまじえて会った。で、鬱症状を死んで復活したあとに音楽づくりをてつだうことになっていまにいたっている。あたまが狂った二〇一八年三月の終わり、まさしく最終日の三一日か、そうでなければそのまえの三〇日だったとおもうのだが、そのときには(……)さんにも同様に感謝をつたえようということで連絡をしてはなしたわけだが、いままでかれとじっさいに顔をあわせたのはうえに書いたさいしょに会ったときと、二〇一六年一一月にドナルド・トランプが大統領に当選した前後の三日間くらいと、魔の二〇一八年を越えて蘇生した一九年の二月、たしか五日から七日までの三日間、その三回のみである((……)くんとひさしぶりに会ったのがたしか四日だったはずで、そのつぎの日から(……)さんや(……)さんと会った)。この一九年の二月五日には(……)さんと(……)さんも(……)さんと会食するということで、(……)さんが手配してくれた新宿のPrego Pregoという飯屋でごいっしょさせていただいた。その日はかえったあとにほとんど寝ずに(というのはとうじはまだ病のなごりであまりねむくならなかったし、ねむっても寝たのかどうかよくわからないような調子だったからだが)いちにちの記述を完成させ、出かけるまえにもけっこう書いてはあったのだけれど、引用もあわせてではあるが総計で三万字だか四万字だかわすれたがそれくらいの莫大な分量の記事をつくり、翌日荻窪に行って(……)さんと合流するよりまえにそれをもう投稿したのだった。なぜそんなことができたのかいまとなってはわからない。新宿のイタリアンレストランというかパスタ屋というかであるPrego Pregoの席では、六一年のBill Evans Trioのことが話題にあがり、それはとうじじぶんが”All of You”の三テイクをなんどもなんどもきいてこの演奏をすべてのこらず記憶したいという欲望を日記によく書きつけていたからだが、どういう内容だったかわすれたがBill Evans Trioについてこちらがこのときに書いたことと、(……)さんがブログに書いた趣旨とがほぼ一致して、おたがいにまだ投稿されたあいての記事をみることができなかったのにぐうぜんにもおなじことを書いてしまった、というミラクルが起きたことをおぼえている。Evans Trioの三人はおたがいのほうをみているようにはまったくきこえず、それぞれにひたすらじぶんの方向をむいてひとりきりでやっているのにそれがなぜかぐうぜんにも演奏として調和してしまっているという印象をあたえる、というはなしだったか。その趣旨が、たがいにおもいおもいのことを書いたはずが数奇にも内容としておなじくなった、という現象と相同的だったのではなかったか。


 出発までにたいしたことはしなかった。瞑想したくらい。そのあいだに先般亡くなったとなりの(……)さんの息子である(……)さんが窓外で父親にはなしかけて、アルバムなんかがみられるというQRコードをわたしているのをきいた。出勤まえの食事には月曜日と同様食パンをいちまい焼いて食おうとおもったのだが、冷凍庫をのぞいてみると食べてしまったらしくなくなっていたので、米に鮭のふりかけをかけて食べた。あとぜんじつのポテトサラダののこり。出発したのはほぼ三時ちょうど。ベストすがた。曇天だったが空気は穏和をこえてすこし暑いくらいだった。家から東にむかうあいだどこをむいてもあざやかなみどりいろが目にはいるありさまで、坂の入り口にかかったあたりでは大気中に初夏らしい特有のにおいが生じ、みぎてをみれば空間にひろくわたった川むこうの樹壁や山がどれもこれも青々と、あまりにもみどりしており、かたわらのガードレールをはさんですぐそこの草もだいぶ高くなった背丈でならび、反対側のひだりてでも林の外縁をなす草や枝葉たちがふくらむように繁茂して、いろと存在のその充実ぶりに圧迫的なかんじすら得る。出口まえでは右のガードレールのそとの草がかんぜんに刈られてすっきり消えていた。タンポポの綿毛がたびたびみちばたにいる。
 裏路地を行くあいだ、ぜんぽうに下校中の女子高生四人組がずっといた。距離がはなれていかず、むしろほんのわずかずつではあるもののこちらの足でもだんだんちぢんでいくくらいなのでよほど遅い。おたがい自由と無為を知っているものにしかできないあゆみの遅さだなとおもった。みんなそろってけらけら笑いながら三人が横にならび、のこったひとりがなぜかすこしだけ間をあけてその右を行きながらもべつになかまはずれではなく交流しているのをときおりみやり、またあたりの草木や丘のほうへもたびたび視線をおくりながらあるいていく。女子高生らのひとりはひろい空き地まで来たところでその縁に生えているタンポポかなにかをとるようなそぶりをみせ、じっさいにとったのかどうかわからなかったがほかから笑われていた。綿毛にひかれていっぽんちぎり、吹くか振るかして宙におくったのではないか。(……)にかかったところでこちらは信号にとめられたのでまた距離がひらき、そのあとはちぢむことはなく、きょうも(……)に寄ってトイレに行ったのでそこでみえなくなった。建物にはいってトイレへと曲がるとぜんぽうの入り口では掃除の高年女性がひいひいいうようなようすでモップがけをしており、ちょうどエレベーターか階段から職員らしきひとがおりてきてあいさつをされたのでこちらもかえしながら通路をあるくと、女性職員は掃除のおばさんに声をかけてどうですか? みたいなことをたずねていた。なにかあったらしいがこちらはすいません、いいですか? とききつつ男性トイレにはいっていちばん奥の小便器に放尿しているあいだ、すがたはみえなかったが男性の職員も合流して二階はどうのとか、トイレにこれがあったんですけどとか、とりあえずいったんここは封鎖しますとかはなしているのがきこえてきた。手を洗ったあと入り口でなおもモップがけをしているおばさんにすみません、ありがとうございましたとかけると、困った顔と笑みとがはんぶんずつ混ざったような雰囲気をつねにそなえているおばさんは、あ、足もとすべらないように、お気をつけてと言い、その場をはなれながら通路のとちゅうにあらわれていた看板をみるに、排水管の詰まりがどうとか書かれていた気がする。それでみずがあふれだしてしまったのだろうか。
 その後みちをたどって職場へ。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 それで退勤は八時五〇分くらい。駅にはいると電車に乗り、座席について瞑目すればまもなく発車。最寄り駅で降りる。夜気はすずしく風が肌にここちよい夜だったのでとおまわりして帰ることにした。街道をわたると東へ折れて自販機でコカコーラゼロの缶を買い、そのままおなじ方角へゆるゆるあるいていく。星もない曇天だったとおもうがとにかく空気のながれがなめらかでやわらかい。裏通りへと坂をくだっていき往路もたどった坂道を逆方向からおりていくと、ここでも風が周囲の草木をこまかくざわめかせるそのなかに川のひびきものぼってきて混ざる。家のそばまで来ると林のなかからなにかが落ちて竹や枝にあたるようなおとがしきりに立っており、動物がいるのかともおもったが知れず。
 帰宅後の夜についてたいしたことはない。

2022/4/26, Tue.

 ソ連と国境を接しているアフガニスタンでは一九七八年四月のクーデタで共産主義建設を目指すタラキ政権が発足し、ソ連はこれを社会主義革命と認めていた。ところが一九七九年九月にタラキが殺害され、アミンが政権を掌握した。ソ連は、アミンがアメリカ合衆国との関係改善を求めているとの情報から、新政権が合衆国に接近してアフガニスタンが合衆国の対ソ前線基地となることを警戒し、アミン政権転覆のため軍事介入したと言われる。これに加えて、合衆国がこの頃までにソ連への態度を硬化させていて遠からず緊張緩和路線を放棄するとの見通しや、社会主義革命が起きたと認めた国の政権が倒されたのを(end172)ソ連が放置することは同盟国を動揺させるとの懸念にも基づいていたとの指摘もある。
 ソ連の政治指導部は、短期間の介入で親ソ政権を樹立して撤退することを想定していた。しかし、親ソ政権の樹立までは短期間で実現したが、アメリカ合衆国の支援を受ける反政府ゲリラとの内戦となり、ソ連は大規模な軍事介入を継続する必要に迫られた。介入は泥沼化してほぼ一〇年に及び、ソ連は人的物的資源を消耗してゆく。軍事介入を開始した一九七九年一二月から一九八九年二月の撤退完了までにソ連アフガニスタンへ約六二万人の兵士を送り込み、そのうち一万四〇〇〇人以上が死亡したとされる。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、172~173)



  • 「英語」: 756 - 782
  • 「読みかえし」: 695 - 697


 一一時五〇分まで寝坊。天気は曇り。午後四時まえ現在だと雨も降っている。はげしくはないが音響がゆたかな、そこそこの降りである。おきあがったあとはいつもどおり水場に行ってきてから書見した。南直哉『「正法眼蔵」を読む』はのちにも読んで読了。いろいろ興味深いところはあったが、感想をつづるほどのかんがえはいま浮かんでこない。きょうは時間が遅くなってしまったので起床後の瞑想をせずに一二時半くらいに階をあがった。母親にあいさつしてジャージすがたになる。食事にはベーコンエッグ。米はきのう炊いたばかりなのだがもうなくなった。新聞一面にフランスの大統領選でマクロンが勝ったという報があった。きのう出勤するさいに夕刊の見出しでも確認していたが。五八パーセント対四一パーセントだったかそのくらいの差だったはず。ぜんかい同様にマリーヌ・ル・ペンと決選投票したときにはマクロンが六六だかとって圧勝だったのだけれど、着実に差は埋まってきている。今後五年でまたどうなるか。ほか、ウクライナ危機にまつわって国連安保理の機能不全ぶりを記すコラム。安保理がロシアの拒否権によって非難決議を可決できず、米欧は総会にたよって一定の成果はあげたものの有効性としてはとぼしい。ゼレンスキーは安保理の存在意義を疑問視して抜本的な改革をもとめ、それができなければ解散するべきだとすらいっているが、拒否権をもてなければ大国が参加しようとしないという事情もありむずかしい。
 (……)ででかけていた父親が帰宅。食器と風呂を洗ってもどってくると、みずをそそいで火にかけていたフライパンがまだ沸騰しておらず、また炊飯器の釜もあらっていなかったのでそれをあらう。あいま、テレビのニュースは知床半島沖で観光船が行方不明になった事件をつたえており、まだみつかってないんだと母親がいうのに父親もなかなかみつからないだろう、あんなひろい海で、とか受けつつ、国後のほうまでさがすとかさっきもいってたよ、救命具をつけてるはずだから、浮かんでながれていくのかなとつぶやいていた。船のなかにのこったままになっちゃったひともいるんじゃないかとも。
 白湯をもって帰室。ウェブをちょっとみたのちに南直哉を読んで読了。二時半まえから瞑想した。ここまでかなと目をひらくと三時五分。だから四〇分弱なのだが、体感としてはやはりもうすこし、だいぶながく、四五分くらいはすわったかんじだった。そのあと東京事変の『教育』をひさびさにながして音読し、ここまで記していま四時すぎ。
 雨はだんだんとふくらんでおもいのほかに盛り、湿りをはらんだ涼気がじわじわと室内にながれこむとともに硬い打音もいくらかきこえた。David Robson, “The reasons why exhaustion and burnout are so common”(2016/7/23)(https://www.bbc.com/future/article/20160721-the-reasons-why-exhaustion-and-burnout-are-so-common)(https://www.bbc.com/future/article/20160721-the-reasons-why-exhaustion-and-burnout-are-so-common%EF%BC%89)を読みつつ休息。五時まえになって再度瞑想。二〇分ほど。このころにはすでにやんでいた。窓外では複数種の鳥たちがにぎやかに声を交錯させ、その編み目のあいだにウグイスの鳴きも淡くきこえた。ホーホケキョという尋常の鳴きがいちど、それにまだかれらの季をむかえてまもないだろうに、ひゅるひゅるという狂い鳴きもあった。近間の家内からか談笑的なひとのはなしごえもきこえ、またたぶん川ちかくに建設中のホームだとかいう建物からだろうが槌の打音が雨後のみずっぽい大気のなかに残響をともなってよくわたり、鳥たちの声もそれとおなじくおのおの輪郭をひろげたひびきとなりつつ、ヒヨドリが飛び立つと同時にあげる叫びなどめざましく裂くような鮮烈さだった。
 五時二〇分くらいで上階へ。アイロン掛け。母親はソファについてタブレットスマートフォンをみていた。作業をはじめようというところで電話が鳴ったので出ると(……)さんだという。(……)ですかね、と父親の名をあげ、少々お待ちくださいといって保留にしておき、サンダル履きでそとにでると父親がそこの水道でなにか採ったみどりのものを洗っていたので、電話とつたえて子機をわたした(父親は濡れた手をシャツの脇腹あたりでぬぐっていた)。なかにもどるとアイロン。シャツ類や作業ズボン、エプロン。さきほど書くのをわすれていたのだけれど食事のあいだにNHK連続テレビ小説がはじまって、そのオープニング映像がまあ写実的といってよいだろうタッチのアニメーションで、こういうのって実写映像とはちがった、アニメイラスト特有のセンチメンタルさがあるなとちょっとおもったのだった。新海誠まではいかないし、そこまできれいさ美しさを押し売りしにくるかんじでもなかったとおもうのだけれど、これとまったくおなじ構図おなじシーンの映像を実写で撮れたとして、そこにこういうセンチメンタルはたぶん生じないだろうと。表象としてはにんげんが現実に目でみるものにちかいだろう視覚像をわざわざひとの手によりイラスト化してアニメーションにすることで生じるセンチメンタルも不思議だが(ということはたぶんほんとうはぜんぜんちかくないということなのだろうが)、そもそもつうじょうの感性でとらえられるような「きれい」「うつくしい」がセンチメンタルさ、すなわち感傷性や感情性へと即座につながるのはいったいなぜなのか? という疑問をおもった、ということをおもいだしながらアイロン掛けをしていると、「センチメンタル」という語からスピッツ『フェイクファー』の二曲目であるまさしく”センチメンタル”という曲をおもいだし、そのメロディがあたまにながれたので口笛でちょっと吹いたりしていたのだけれど、携帯がスマートフォンになったいまやそれをつかってAmazon Musicで音楽をきけるわけで(すこしまえ、なにかの機会にアプリをダウンロードしていたのだ)、せっかくだし音楽をききながら家事をするかということにした。それで自室にもどってスマートフォンとイヤフォンをもってきてスピッツ『フェイクファー』をききながらアイロン掛けをしたのだが、ききはじめるあたりで父親が居間にはいってきて、きょうは父親が飯をつくるらしかったので、まかせることに。それで衣服の皺を熱と圧迫によって殺しつつスピッツをきいたかんじ、かれらの曲のギターアンサンブルってだいたいはいっぽうでアコギがずっとシャカシャカやり、エレキがひとつはほどよい潰れかたのディストーションで刻んだりコードを鳴らしてひろげたりしつつ、もうひとつのエレキがメロディアスなアルペジオでいろどりをそえる、というかんじで、あまりにもスタンダードでオーソドックスなのだけれど、そのきわめて基本に忠実なやりくちをすごく忠実にやることでこれだけキャッチーになっているのだからたいしたもんだなとおもった。六曲目の”楓”のとちゅうでアイロン掛けに切りがついたが、この曲はセンチメンタルがすぎて肯定しきれない。売れはするだろうけれど、このアルバムだったらほかの曲たちのほうがぜんぜんよいとおもう。
 その後室にもどるとここまで加筆。きょうはあとどうすっかなあというかんじですね。日記はおとといきのうとまだあまり書いていないけれどたぶんきょうじゅうには終わらんだろうし、あした(……)くんの授業があるから訳文を添削しておく必要もある。あとこれもわすれていたが四時すぎにつぎにどの本を読もうかなとおもって自室と隣室にある本たちをひととおり見回ったのだけれど、まだ決めきれていない。ひとつの本を読み終えるとつぎになにを読むか、いつもまよう。おおかたどれも読みたくて持っているわけだからどれでもよいといえばよいし、どれを読んでもそれぞれなりのおもしろさ興味深さ勉強になる点があるだろうというのもみえるから、それでかえって困る。


 夕食。米が炊けていなかった。七時に炊くようタイマーの表示が出ていたのだが、その表示を出したところまでで炊飯ボタンを押さず、予約がきちんとできないままだったらしい。父親だか母親だか知らないが。母親はふだんつかっているわけで、たぶん父親のほうがミスったのだろう。米なしでもまあよいとおもったところがまえの米ののこりでつくったおにぎりがひとつ冷蔵庫のなかにはいっていたのでそれをいただくことに。ほかは野菜のおおい鍋スープなど。おおきな盆におのおの用意して鍋をこぼさないようにゆっくりはこんで自室に行くと(……)さんのブログを読みかえしながら食事。二五日の冒頭に梶井基次郎城のある町にて」の、寝床で寝られないままゴイサギの声をきいてものの遠近がおかしくなるへんな感覚がおとずれる、みたいな場面がひかれていたがこれはよくおぼえていて、この篇の終わり直前くらいだったはず。こちらが読んだとうじはこれ瞑想してるときのかんじに似ているなとおもい、そのことを日記に書きつけたおぼえもある。「厖大なものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる」、「廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう」というあたりだが、いまは瞑想をしてもこういう感覚が起こることはまずなくなった。むかしはいわゆる変性意識みたいな、ながくすわっているとある地点でステージが切り替わってなにかちょっと特殊な状態にはいっていくみたいなかんじがたしかにあったのだけれど、いまはほぼない。慣れたのか? やりかたを非能動性に変えたからかもしれない。深呼吸式でやればたぶんいまでもそういうかんじになるのではないか。あと、いわゆる丹光というやつ、まぶたを閉じた視界にみえるひかりじみた靄のようなものというのは、これはいまでもふつうにみえる。むかしはこれの湧出が盛んになって、視界の中心付近に吸いこまれていってはどうじに周縁からまたあらたな湧出がすでにはじまっておりそれも中央へと吸いこまれて、というのがくりかえされることがよくあり、それを瞑想状態が深まってなにかしらの脳波だか脳内物質が出ていることのあかしだろうとこちらはおもっていたのだが、さいきんはそういううごきかたがあったかどうかおぼえていない。たぶん似たようなことはあったのだろうが、あまりそれを気に留めていなかった。いずれにしてももはやじぶんはなにか特殊な精神状態にはいることが瞑想だというかんがえを捨てた。
 (……)さんはいま執筆中の「(……)」を書くにあたってむかしのラブホテル勤めの時代の記録を読みかえしだしているのだが、そのさいしょが二〇一二年九月一五日。こちらが(……)さんのブログを発見してはまったのは二〇一三年の一月だったはずなので、とすればこのへんっておれ読んだことないのかなとおもったのだが、そうでもないようで、一七日のSさんやマネージャーとのやりとりの記述はあきらかに読んだ記憶があった。この時点でもうブログは「(……)」だったのだろうし、「(……)」として公開されていた記事はこちらはさいしょからぜんぶ読んだはずなので、だからこのへんもいちどは読んでいるのだろう。
 

 その後飯を食い終えてうえまでさきに書くと、ジャージとパンツを脱いで下半身丸出しになり、鋏で陰毛を切って股間をすっきりさせた。さきほど夕食まえに手の爪も切ったのだ。爪と髭と陰毛は定期的に始末しなければならないのがめんどうくさくて、これらは人体になくてもいいなとおもいますね。爪もまだぜんぜん伸びていなかったというかゆびさきをほんのすこし越えただけなのだけれど、肌にあたるときの感覚がやはり鬱陶しく、ゆびさきとしても厚ぼったいというか野暮ったいようなかんじなのでもう切ってしまった。陰毛もさいきん暑くなってきているしそうすると股間というのは基本的につねに衣服におおわれているわけで外気になかなかさらされず通気性がわるいから、毛がもじゃもじゃしているとけっこう蒸れたり湿ったりして下腹部がかゆくなったりもして邪魔くさい。そういうわけで定期的に切ってととのえており、この「定期的」がどのくらいのペースなのかちょっと気になりもするのだけれど、日記を追えばいちおうしらべることは可能なはずだ。チン毛を切るときはよそをむいたりあまりものおもいにふけったりせずに鋏の切っ先と性器をよくみてゆっくり慎重にやらないと局部をあやまって傷つけることになってしまい、そうするとかなり痛い。じっさいこのときも手をうごかしながら、二〇一三年の一月に(……)さんのブログをみつけ、また読み書きをはじめたからもうそこからまる九年いじょうか、と時の経過をおもっていたせいかキンタマの襞をちょっとはさんでしまったときが一回だけあり、かなり痛かった。中国の宦官のことをおもうとおそろしくなる。二〇一三年の一月から読み書きをはじめていらいじぶんがこの方面でやったことといえば本を読み、日々を記録することだけなわけで、なかなか堂に入ったやりかたで人生を棒に振っているとおもう。これからもなるべく積極的に生を棒に振っていきたいとおもっているのだけれど、なかなかそうもいかないだろう。

 陰毛を処理しおえてうえを記し、八時半ごろに上階へ。皿を洗っていると母親が、「じっちゃんの名に賭けて」っていうよね、金田一少年の事件簿、と口にしたのはいまうつっているテレビドラマがどうやらそれだからで(ちなみに母親はさらに「放課後の魔術師」とも口にしていたので、このドラマの事件は原作漫画でいえば五巻か六巻あたりのそれだろう。たしか桜木みたいななまえの女子先輩が首吊りでころされるやつだ)、母親の「じっちゃん」の発音は一般的な、後半の「ちゃん」でおとがあがるいいかたではなく、「じっ」の音節のほうが高くなるアクセントのつけかたであり、だからたとえばみちこというなまえの女性をあだなで「みっちゃん」と呼ぶときとか、童謡の「さっちゃん」とか、あるいは「兄ちゃん」「姉ちゃん」というときや、上野だかどこだかにいる日中友好の一環として中国からおくられたのかもしれないパンダを「リンリン」と呼ぶときなどのそれとおなじアクセントなのだけれど、母親はこういうふうにつうじょうとはちがったアクセントのつけかたをする単語をいくつか所持しており、それをきいた父親がそうじゃないだろとつっこむこともたまにある。このときの父親は発音について指摘することはなかったが、じぶんはじぶんでワイヤレスイヤフォンをつけてタブレットでなにかの番組をみているから母親の発言がよくきこえなかったらしく、え? 何? とおおきなこえでききかえして、その声音にふくまれている圧迫的な粗雑さにいらだつこともまえよりなくなったものの、食器をこすりながら、にんげんは老いるとふたとおりあるとはよくいわれるところで、あるひとはまるくなったり聖人めいた鷹揚さや寛容さを体現するようになったりするいっぽう、べつのパターンでは歳に比例して子どもがえりするかのごとく幼稚になると、つまりあるものは深化し、あるものは退行退化する、とそういうはなしがあるとおもうが、ひとは歳をとると、つまり老人になると、虚飾とか余計なとりつくろいとかがなくなってある意味純化され、地の人間性があらわになってくるのかもなあとばくぜんとおもった。あまりたしかなかんがえにはみえず、むしろうさんくさいようだが、たんじゅんに年齢をかさねればからだがあちこちおとろえ壊れてきて、痛み苦しみがつねのともづれとなり、ときに病をえて、日々を暮らしそのときそこに存在しているだけで若いころよりも難儀になるだろうから(歳にかかわりなく、どれだけ楽をしていようとも、そもそもにんげんは存在しているだけでだれもかなりたいへんなのだから、若いころは若いころで難儀なのだが)、ひととしてつくろうだけの余裕がなくなり、そのひとの本性みたいなものがもしあるとすればそれがあきらかにでてくるのかもしれないと。危機においてこそそのひとの真価がためされるみたいなはなしだが、そういうことはじっさいあるのではないか。危機的状況をむかえたときにそれをどう受け止めどう行動するかというのは、それまでに、まずもって平穏な状況のうちでどれだけよくかんがえて日々を生きていたか、そこでじぶんのやること他人のやることをきちんとみていたか、あるいはみずからがかつて体験した危機や歴史上の過去の危機、そして未来の危機をどれだけおもっていたかということに左右されてくるだろう。これもよくとりあげられるはなしだが、批評(critique/criticism)と危機(crisis)の語源は同一であり、criticalの語は批評的という意味とともに危機的の意ももっている。そこからすれば批評とはすなわち危機をおもうことではないのか。というのは短絡にすぎるいいかたな気もするが、危機においてこそ人間性が真にあらわれためされるということを仮定するに、アウシュヴィッツで(少数で、かつささやかで、わずかばかりだったとはいえ)プリーモ・レーヴィをたすけた善良さが存在したことはすさまじいことだなとおもった。想像を超えている。そしてアウシュヴィッツを生きたプリーモ・レーヴィが、"We do not believe in the most obvious and facile deduction: that man is fundamentally brutal, egoistic and stupid in his conduct once every civilised institution is taken away … We believe, rather, that the only conclusion to be drawn is that in the face of driving necessity and physical disabilities many social habits and instincts are reduced to silence.”と書きえたことも同様にすさまじい。想像を超えている。
 そんなことをかんがえながら風呂にはいっていたので、排水溝カバーにたまっている毛をとっておこうとおもっていたのをわすれてしまい、あがって洗面所で髪をかわかしているとちゅうにおもいだしたので、いちど履いた寝間着のズボンを脱いでパンツ一丁になり(裾が洗い場の床について濡れるためである)、しゃがみこんだままカバーにひっかかって黒くあつまっている毛をとりのぞいた。なにかにいちどつかったあとの使い回しであろうビニールの、口を封じられるタイプの袋に手をつっこんで奥のほうにいれておく。なるべく底のほうにいれるのは後続をいれたときに先行者が浅いところにあると仲間同士でひっかかりからまって、なかなかうまく置き去りにできずゆびを引き抜くときにくっついてきてしまうためである。ブラシでカバーをこすってとれた毛をさらにいれたり、汚れをのぞいたりしておき、風呂を出ると白湯をもって帰室。ここまで書くと一〇時すぎ。

 そのあと書抜きをして、さらに(……)くんの訳文を添削。書抜き時は爪を切ったときにながしていた上田正樹とありやまじゅんじの『ぼちぼちいこか』のつづきと、西岡恭蔵とカリブの嵐『77.9.9 京都「磔磔」』をながした。この後者のライブ盤はいぜんいちどながしたのだけれどなかなかよくて、コンプリート版がほしいくらいなのだがデータでは売っていない。さいしょのメドレーのいちぶになっている”プカプカ”というのはゆうめいな曲のはずで、いったいどこできいたのかわからないがだれかがカバーしているのをどこかできいたおぼえがある。”アンナ”は初期のThe Beatlesをおもいおこさせるテイストで、ソロでこういういろあいのギターを弾かれるとわりと参ってしまうし、”MISSISSIPPI RIVER”のギターも芸がこまかく、ただしい連想なのかわからないがBob Dylanなんかをおもいだす。Bob Dylanの音楽じたいもそうだが、より具体的には七五年のThe Rolling Thunder Revueのギターを連想するようで、ということはおそらくT-Bone Burnettのいろあいということで、すなわちアメリカ南部のロックとかカントリーということなのだろうが、じぶんはT-Bone Burnettをほかできいたことはないしそのへんの音楽にもぜんぜんふれたことはない。あと二曲目の”夢”だったような気がするが、ピアノソロでよくいわれるところの「玉を転がすような」かんじのフレーズがあり、この瞬時の回転はたまらない、これはピアノでしかできない質感だなとおもって快楽をおぼえた。
 訳の添削はぜんかいまでより時間がかからなかった印象。別紙にぬきだして解説するほどのこともなかった。(……)くんほんにんもそろそろ全訳はいいかなとおもっているような気もされ、こちらとしても労力がかかるのでほんにんがもうだいじょうぶそうといえばそれでもいいかなとおもっている。ただ、和訳の練習として英文解釈のテキストとか和訳の問題とか、それは長文とどうじにやらせたほうがよいだろう。その後しばらくだらだらして休んでからひさびさにGmailをのぞいたところ、(……)さんからメールが来ていてわりとびっくりした。ひじょうにひさしぶり。二八日の木曜日に東京に来る用事があり(……)さんと美術館に行くことになったのでもしよかったらいっしょに、ということだった。とうじつにまにあってよかった。以下のように返信。

(……)

 (……)さんとまえに会ったのは二回のはずで、ブログを検索してつきとめたところでは二〇一九年の七月二一日と九月一二日のことだった。(……)さんと三人でクリスチャン・ボルタンスキー展をみにいったというのはおぼえていたものの、そのあとがいつだったかおもいだせず、たしか翌年の四月くらいだったか? とおもいつつもはっきりせず、検索のてがかりをもとめて記憶をさぐったところ、そういえば(……)に来てくれたのだ、それで電車のなかでかのじょがもっていたバッグだったかがmarimekkoというブランドで、じぶんはとうじそのなまえを知らなかったが、(……)さんはおしゃれさんなんだから知ってるでしょ、といわれたなとおもいだし、marimekkoで検索すると九月一二日がひっかかったのだ。われながらじぶんの記憶力にほれぼれしてしまいますね。たしかその二回だけだったはずで、こんかいが三回目になるとおもう。(……)

2022/4/25, Mon.

 ソ連が工業化と軍事大国化を比較的短期間で実現することができた理由の一つには、ソ連が石炭、石油、天然ガス、金、ダイヤモンドといった埋蔵資源に恵まれた国であったことが挙げられるが、豊富な資源の存在は、資源とエネルギーの節約やコスト削減の意識を弱め、技術革新を遅らせることにもつながった。石油や天然ガスの輸出、金の売却によって外貨を獲得することができ、性能の良い機械や食糧を大量に輸入することができた点も、ソ連の経済と社会にとって短期的には救いとなったが、中長期的には産業の弱体化を促すことになった。特に、一九七〇年代の石油危機に際して、西側諸国の産業はエネルギーと資源を節約するための技術革新を強いられ、そのことが技術力全般を高め、生産の効率化につながったが、産油国ソ連ではこうした動きは鈍く、技術力の差が一気に拡大することになった。
 こうして、一九七〇年代半ばにアメリカ合衆国との核戦力の量的均衡を実現したソ連は、経済的には「追いつき、追い越す」どころか、差が開く一方であった。そればかりか、第二次大戦で敗れ、数年にわたる占領さえ経験した西ドイツと日本が一九五〇~一九七〇年代に急速な経済成長を実現し、ソ連は経済的にはこの二国にも対抗できなくなっていた。
 ソ連の指導部はこのことを認識しており、一九六六年からの第八次五カ年計画には、外(end170)国の進んだ科学・技術の成果を全面的に利用し、パテントライセンスの交換を著しく拡大することが盛り込まれた。一九七〇年以降、ソ連の貿易額は急増し、先進資本主義国との貿易の割合も急増した。自動車生産でフィアットルノーとの提携がなされ、化学、繊維、鉄鋼、機械、食品などの分野でも広く先進資本主義国の技術が導入された。
 こうして一九七〇年代には、ソ連の指導部の間でも国民の間でも、社会主義体制が資本主義体制より優れているという確信が揺らいだ。この確信は一九六〇年代まではソ連の人々の間で広く共有されていたが、一九七〇年代から一九八〇年代になると多くの人々が、ソ連は先進資本主義国に遅れをとっていると意識するようになった。大々的な宣伝と検閲の下にあるソ連の人々でさえ意識するようになったソ連の遅れは、他国にはもっと前から感じられており、資本主義に対する社会主義の優位性という主張は疑わしいものとなった。ソ連は、資本主義に優る経済発展を可能とするモデルとしての魅力を失ったのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、170~171)



  • 「英語」: 741 - 755
  • 「読みかえし」: 689 - 694


 起床は一一時一三分。快晴である。なんどか覚めつつもそのたび混濁にひきもどされたのだが、さいごにさめたときはたいして寝床に長居せずまもなく起き上がった。水場に行って用を足したりなんだりしてきてから書見。南直哉『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ、二〇〇八年)。のちにも読んでいま300のまえ。そろそろ終盤。因果律の非実体性(虚構性もしくは仮象性)についてだったり、あと道元が仏教修行における作法として洗面と洗浄をことさら重視していたというはなしなど。洗面、つまり顔を洗い、また歯を磨いたりするやりかたを『正法眼蔵』のなかでこまごまと詳述しているらしい。道元によれば洗面の習慣はインドから中国につたわったというのだが、祖師のおしえいわく、「もしおもてをあらわざれば、礼 [らい] をうけ他を礼する、ともに罪あり」(267~268)ということらしい。また、とうじの中国では歯磨きの習慣が廃れていたらしいのだけれど道元はそれも批判し、南直哉の現代語訳によれば、「したがって、天下の出家者も在家人も、息が非常に臭い。一メートル近く離れてものを言うときでも、口臭がやってくる。それを嗅ぐものは耐えがたい」(271~272)とけなしているのでわらう。「仏道を心得ている老師と称し、人間界・天人界の導師と名乗る輩も、口を漱ぎ、舌を磨き、楊枝で歯を磨く方法を、それがあることさえ知らない。これをもって察するに、仏祖の偉大な道が廃れてしまったこと、どれほどのものか想像もつかない。いま我々が万里の波濤をしのいで宋の国に渡ってくるのに露ほどの命を惜しまず、異国の山川を万難を排して越えてきて、ひたすら仏道を求めようと思っても、こんなことでは、仏法の衰運を悲しむ他ない次第で、いったいどれほどの尊い教えが、さらに以前に消滅してしまったのだろうか。惜しむべきである、まことに惜しむべきである」と仰々しくつづけているのもわらう。「しかるに、日本一国の為政者・民間人、出家者・在家人、みな楊枝で歯を磨くことを知っている。これは仏の光明を知ると言うべきである」(272)とも。
 一二時すぎまで書見し、それから瞑想。三〇分ほど。まあわるくない。風がよくめぐってそとの空間がざわめき、ながれが家にぶつかるおともきこえる初夏の日である。上階に行って糞を垂れ、ジャージにきがえるとあらためて洗面所でよく顔をあらった。あと口をゆすぐとともに髪やあたまも濡らして櫛つきドライヤーでかわかした。食事はカレーうどん。居間は無人である。きょうは新聞がやすみらしくみあたらなかったので、食べ物を部屋にもちかえってコンピューターを準備しながら食った。ウェブを見聞。
 あがっていくともう一時二〇分くらいだった。食器と風呂を洗い、白湯をもって帰室。「英語」と「読みかえし」と音読。とちゅうで二時をまわったので洗濯物をとりこみにいった。まぶしくさわやかな日和。シーツのたぐいや炬燵カバー、タオル類をたたんでおき、かえるとふたたび音読。


 この日の勤務は五時すぎ出発。それまでのあいだのことはよくおぼえていないが、というかたいしたことがなかったが、書見したり瞑想したり、米を磨いでおいたり洗濯物をぜんぶたたんだりした。食事は食パンいちまいを焼いて食った。五時一〇分をこえたあたりで出発。ポストから夕刊をとって玄関内にいれておき、鍵を閉ざして道へ。むかいの宅の横側にある垣根に異国の蝶をおもわせるような赤さのツツジが咲きはじめている。花弁の襞のたおやかな質感。林の高いところでみどりのこずえたちがめぐる風にさらさらうごいておとを降らせていた。みちの前方では(……)さんらしき老女がこちらにむかって遅々とあるいており、ちかづいたところであいさつをかけた。(……)さんの家の横にも梅の木の脇の斜面の端にやはり赤いツツジが咲いていて、さきほどのものよりちいさい花だがおおく群れてあざやかであり、何年もなんどとなくこのまえをとおっているのだが、ここにツツジがあったということをこの日はじめて明確に意識した。その横には青灰色をほんのかすかはらんだようなシャガの白い花もいくつかあらわれていた。
 公団の敷地前を、フェンスに接したガードレールのあしもと、そこに生えならんでいる雑草や、そのなかにもふくまれているかなりちいさなツツジのオレンジをみながらとおりすぎ、付属公園の葉桜もみあげて上り坂へと折れた。きょうも初夏めいて気温は高く、ジャケットを着ていると暑いくらいの夕刻ではあるが、肌にあたる衣服の感触はさらさらとなめらかでここちよい。坂が尽きて最寄り駅をみちのむかいにすると駅舎階段のむこうに暮れがたの太陽が空に溶け、ななめにながれるそのあかるみが正面、カエデの樹の葉に混ぜこまれてみどりがいくらか黄色くあたたまり、そのみぎてにはもうとうに一律葉となった桜もいっぽんあり、ひかりはそこまでかからないもののこのみどりもそそがれたように充実だった。みちをわたって階段通路にはいると落陽のすじが横から顔にふれてくるのが季節がめぐってひさかたぶりの微熱だが、きょうの空はおおかたみずいろながら雲が淡くもそのまえにひろがっているようでひかりを延ばされた北西は白く、温みのなかに夏をのぞませる粘りはまだない。ホームにはいって縁のほうをあるいて行けば眼下の線路に日なたがうっすらひらいて敷かれ、レールやらそのまわりに詰められた石やら、草やら柵の土台となっているコンクリート壁やらのうえにこちらの影もななめに伸びてかるく乗りながら、物質のさかいをものともせずに、あゆみにしたがってするするとわたっていく。


 勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)

2022/4/24, Sun.

 スプートニク・ショックやキューバ危機を受けて米ソが競って核戦力を増強した結果、一九六〇年代末頃には米ソは、どちらが先制核攻撃を仕掛けても、相手の報復攻撃によって仕掛けた側も壊滅的な打撃を受ける相互確証破壊の状況となったと見られている。このため先制攻撃の戦略的な意味は失われ、人的な過ちや故障などいかなる原因によってであれいったん核攻撃がなされれば、報復の応酬となって両国とも壊滅的な打撃を受けることとなったから、軍備管理と危機管理が切実な意味を持つようになった。このため一九六八年には米ソは軍備管理交渉の準備を始めたが、この年八月にソ連軍主体のワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに軍事介入したことに合衆国が態度を硬化させたため交渉開始は遅れ、ようやく一九六九年一一月から戦略兵器制限交渉(SALT)が始められた。
 米ソ間の初めての本格的な軍備管理交渉となるSALTは難航したが、一九七二年五月に「戦略攻撃兵器の制限に関する暫定協定(SALTⅠ協定)」が調印された。合意に至ることを優先したため、長距離爆撃機を対象とせず、核弾頭やミサイルそのものではなくミサイルの発射台・発射管を規制するもので、有効期間五年の文字通り暫定の協定であったが、SALTⅠ協定は同年一〇月に発効し、交渉を継続するとの規定により、一一月から(end168)米ソは第二次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ)に入った。SALTⅡは、米ソ両国の国内事情に加え、SALTⅠ協定で棚上げにした点も含めた包括的な規制を目指したことで長い時間を要したが、一九七九年六月にSALTⅡ条約が調印された。
 この条約で米ソは、ICBM大陸間弾道ミサイル)、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)、長距離爆撃機という戦略兵器の三本柱すべてを規制の対象として「米ソの量的均衡」を確認した。後述のようにSALTⅡ条約は合衆国上院が批准せず発効に至らなかったが、ソ連にとっては、合衆国に対等の核超大国と認めさせたという点でSALTⅡ条約の調印自体が意義ある出来事であった。
 そして、数年にわたって米ソ間で戦略兵器をめぐる交渉が続けられたこと自体が東西間の緊張緩和につながり、一九七五年には全欧安保協力会議におけるヘルシンキ宣言の採択に結実した。ヨーロッパにおける国境の不可侵と内政不干渉を謳ったヘルシンキ宣言は、ソ連にとっては東側陣営という第二次世界大戦の「戦果」を公式に認めさせたことを意味し、東欧諸国の国際関係の安定化にもつながるという大きな意義を持った。ヘルシンキ宣言は他方で、調印した諸国に人権と市民的権利の擁護を義務づけ、このことはその後のソ連と東欧における人権擁護活動の支えとなり、一九八九年の「東欧革命」への踏み台の一つとなったが、国境の不可侵と内政不干渉を約したヘルシンキ宣言は、ソヴェト政権にと(end169)って当時大きな安定要因となった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、168~170)



  • 「英語」: 721 - 740
  • 「読みかえし」: 683 - 688


 一〇時まえに覚醒。きょうは曇り。布団のしたで膝をたてて呼吸したりしてしばらく過ごし、一〇時二〇分におきあがった。部屋を出て階段下にいる父親にあいさつをかけ、洗面所で顔を洗ってうがいをなんども。トイレにはいって用を足すと自室にかえって書見をした。南直哉『「正法眼蔵」を読む 存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ、二〇〇八年)。200くらいからで、いま242まで。第五章「実践するとはどういうことか」にはいっており、「坐禅箴」の解説がなされるが、これは春秋社のウェブサイトで宮川敬之と藤田一照がやっている連載でわりと内容を知っており、かさなる解釈もあるのでうんうんというかんじ。一一時すぎから瞑想して、きょうもはじまりをみなかったというか、開始時に携帯をみたはずが時間をわすれたのだが、感覚としてはけっこうながくすわっていた。起床後の瞑想はやっているとだいたいいつも便意がきざしてくるので、それで切りにすることがおおい。
 そういうわけで便所に行って腹のなかを軽くしてケツを拭いてから上階へ。ジャージにきがえる。食事はカレー。四月三〇日に(……)家の両親と兄が来る予定だったわけだが、母親いわく、(……)のお父さんに用事がはいっていたとかでこちらに来るなら一時くらいには発って帰らねばならず、それじゃあいそがしいからそっちでこちらにこないかと兄から打診があったという。つぎの日にはもう(……)に行くらしいので、(……)家両親がうちに来る線はなくなったわけである。したがってわざわざ遊びに行って逃げ出さなくてもよくはなった。翌日以降に兄や子どもら、あるいは(……)さんが来るのかどうか、そのへんはまだはっきりしない。(……)夫妻にはまだ遊んで泊めてもらえないかと打診はしていなかったので、撤回する必要はないが、せっかくなので申し出て遊ぼうかなという気もないではない。その一週間後の五月六日だか七日だかにも(……)もまじえて会うことになっているが。どうしようかな。
 新聞を読みながらカレーを食った。一面にもその報があったが、テレビのニュースは知床半島沖で観光船「KAZUⅠ(カズワン)」が行方不明になったという事件をつたえており、乗っていた二六人中、いまのところ七人が意識不明で発見されているという。母親は意識不明じゃだめかなあとかもらし、会合かなにかあるらしくワイシャツにスラックスで身支度しながらうろついている父親も、さすがにだめじゃないかな、かわいそうだけど、こんな、みずも冷たいんじゃ、と受け、船に穴があいていたのに強いて海に出たのだみたいなことをつづけ、ちょうどテレビでも、いぜんにみたときに船首のほうに亀裂がありましたと証言するひとが映っていた。その後新聞記事で読んだ情報によると、風もつよく波も高いなかでなぜか出航したらしく、一一時だか一〇時だかに出発して知床岬で折り返す三時間のルートだったという。午後一時ごろに船首から浸水して沈みかけているという連絡があり、運営会社がそれを受けて海上保安庁に救援要請したあと連絡は途絶えたと。この船は去年にも座礁事故を起こしていたという。
 ウクライナについては南部方面でも攻勢がつよまっているというきのうおとといからのながれ。米国の軍事力をしめさない外交の限界が露呈しているというコラムもあった。バイデンはウクライナ危機にさいして、「大きな棍棒を携えながら静かに話す」とかいうセオドア・ルーズベルトの台詞を援用して、「ジャベリンを携えながら静かに話す」と言って武器支援をしつつも外交的解決をめざす姿勢をしめしたのだが、ゼレンスキーとしてはじゅうぶんな援助がなされていない、もっと戦車弾薬をくださいという不満があると。米露の直接的な撃ち合い、ひいては第三次世界大戦を回避しなければならないというおもいからだが、米国の臆病さが結果としてはプーチンの暴挙をゆるしてしまったという印象があり、またロシアが核兵器の使用をちらつかせることでもそれが助長され、ある軍事専門家にいわせれば、ロシアを有効に抑止することができず、反対にロシアの核によって米国のほうが抑止されてしまっているとほぞを噛むおもいだと。きょうちょうど「読みかえし」で読んだウィリアム・アーキン(ジャーナリスト、元米陸軍情報分析官)「ロシア軍「衝撃の弱さ」と核使用の恐怖──戦略の練り直しを迫られるアメリカ(Shocking Lessons U.S. Military Leaders Learned by Watching Putin's Invasion)」(2022/3/3, Thu.)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/03/post-98211.php)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/03/post-98211.php%EF%BC%89)によれば、ロシア軍は米国や世界がおもっていたよりもめちゃくちゃ弱いというかお粗末だったらしく、具体的には、「侵攻開始後の3日間にロシアが狙いをつけた照準点の数は、イラク空爆開始時に米軍が狙いをつけた照準点(3200カ所余り)の4分の1にすぎない。米情報機関の初期分析では、ロシア軍は1万1000個の爆弾とミサイルを撃ち、うち照準点に命中したのは820個で、命中率は7%程度だった(2003年の米軍のイラク侵攻では80%を超えた)」。そういう意味で、通常軍事力の面ではロシアは米国にとっての脅威ではないと判明したのかもしれないが、弱さお粗末さを世界にさらしてしまったロシアのがわとしては、有効な方途として核のちからにますます頼ることになるはずで、それにたいするてきせつな抑止力をどう(再)構築していくかが米国(や欧州)の課題だということだろう。
 食器と風呂を洗って白湯とともに自室に帰還。ウェブをちょっとみたあとにいつもどおり音読。きょうは曇天で、たしょう雨のぱらつきもあるが気温はさほど低くなく、窓をあけているくらいだ。音読後は一時臥位になって書見。二時ごろに打ち直しをたのんだ布団をとりにいった母親が帰宅したのではこぶために階上へ。父親もちょうど帰ってきたところらしくクリーニングに出していたスーツなどを玄関からもってきたので受け取り、布団も元祖父母の部屋へ。それでいったんスーツをもって下階におりたが、そとからはいってきた母親が元祖父母の部屋ではなくじぶんたちでつかおうと言っているのがきこえたので、またうえにもどって布団をはこびなおした。母親のぶんだけでいいというので、赤いほうをからだのまえにかかえもち、そうすると足もとが見えなくなるので階段を横むきで一段一段ゆっくり下りていき、両親の寝室に置いておいた。それから帰室するときのうの記事をしあげて投稿、きょうのものもここまで記していま三時すぎ。きょうはこのあと六時から通話。


 通話のことだけ書いておきたい。(……)
 (……)
 (……)
 その他はなしたことはもっとたくさん、いろいろあったはずなのだが、おもいだせないしめんどうくさいからここまででいいかな、という気分になっているので、この日のことはここまで。

2022/4/23, Sat.

 一九七〇年代には石油価格が上昇し、ソ連は石油の輸出で多くの外貨を獲得することができた。ソ連製よりは質の良い東欧諸国の製品や、西側諸国の良質な製品の輸入が増やされて、日用品はある程度入手しやすくなったが、質の劣るソ連製品は売れなくなった。計画経済はこの状況にただちに対応することができず、ソ連消費財工業は売れない製品を多くの資源を費やして生産し続け、多くの家具や衣類、靴などが売れ残った。
 その一方で、需要の多い良質の商品はなお不足していたので、多くの人々、特に女性たちは買い物に多くの時間を費やすことになった。人々は、商品を見つけるために歩き回り、商品を手に入れるために行列に並んで、日に何時間も費やすこともあった。前述の事情から労働規律は緩かったため勤務時間中も事実上おかまいなしに買い物に出たのであり、女性の就業率が高かったこともあって業務と生産への悪影響は大きかった。そしてまた、こうした状況は、コネなしでの商品の入手を難しくし、流通の各段階での商品の横流しを常態化させて商店での商品不足を悪化させ、闇商人を横行させることにつながった。
 こうした闇商人による、「闇経済」、「第二経済」と呼ばれる非公式または違法な商品売買なしには計画経済は機能しなかったとも言われるが、闇商人の供給する商品の多くは本来の流通経路から横流しされたものであって、商品の供給量が増えたわけではないから、(end165)全体としては商品不足を解消するわけではなかった。そしてまた、闇商人は自らの利益のため、商品が不足する状態を保とうと供給をコントロールしたから、闇での価格は常に高価であった。闇で高価な商品を買うためにも、多くの人々が勤務時間中に職場の機材と材料を使って「内職」に励み、企業やコルホーズソフホーズから物資を盗み、横流しした。商品や食堂の店員、修理工といったごく一般的な職種の者たちも、商品の横流しや、勤務時間内の「内職」、規定料金を無視した高値での修理などそれぞれに「闇」の稼ぎを得ていたのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、165~166)



  • 「英語」: 701 - 720
  • 「読みかえし」: 679 - 682


 正午前まで寝坊。時間が遅くなってしまったのであまりとどまらず、まもなくおきあがって洗面所へ。洗顔や用足しをすませてくるとしかし書見はした。南直哉『「正法眼蔵」を読む』。いろいろとおもうところはあるが記述はのちほどやる気になれば。午後二時すぎくらいからまた読んでいま200まで。一二時半から瞑想をしたが時間が遅いし便意がもたげてきたので一五分程度でみじかく切ることに。
 上階へ。ジャージにきがえてからトイレに行って腹をかるくし、コップにみずをそそいで洗面所でうがい。食事は焼きそば。母親はそのへんにいるのかなと父親についてもらし、勝手口をあけて、玄関にできてます! と食事が用意されてあることをやたらでかい声でさけんでいたが、そのときには父親はすでに玄関内にきていた。こちらは母親の焼きそばをレンジであたため、大皿に盛ったじぶんのぶんもあたためて卓へ。新聞の一面からウクライナの状況について。きのうの新聞にはロシアがマリウポリの完全掌握を宣言したとあったが、戦闘や空爆砲撃などはつづいているもようで、米当局者やバイデンもかんぜんな掌握というのにはうたがいがあるとの認識。プーチンが突入作戦は現実的ではないと否定したアゾフスタリ製鉄所でも攻撃はつづいているらしい。ロシアは東部と南部の制圧をあらためて目標にかかげ、ウクライナの隣国であるモルドバ内のなんとかいうロシア系準国家でもロシア系住民がころされているみたいなことを言って介入を示唆したと。ウクライナの東部から南部をとおって西方のモルドヴァまでかんぜんに勢力下におき、ウクライナ黒海アゾフ海に接続できない内陸国にすることをめざしているのだろうとの観測。
 母親は(……)家両親と兄がくるのにそなえて居間をかたづけなければと言った。隅のほうにある雑多なものたちをとりあえずしたのクローゼットにはこぼうかと。こちらとしては(……)家のふたりに家が汚いとおもわれようがどうでもよいし、とうじつも逃げ出すつもりでいるからなおさらどうでもよいのだが、まあそれでもたしょうすっきりとしたきれいな空間でむかえられるほうがよいだろうというわけで、食器と風呂を洗ったあとにさっそくものものを勝手にはこんだ。はこぶだけ。階段を往復して、下階の両親の衣装部屋によくわからんいらなそうなものとかをつぎつぎとはこびこんでいき、床のうえにてきとうに置いておく。(……)家両親が泊まるとしたら寝るはずの元祖父母の部屋からも同様にいくらかものをはこびだした。その整理まではやらない。あとは知らんと放置して白湯をもって自室にかえると一時四〇分。Notionを用意して「英語」「読みかえし」を音読し、からだがこごっていたのでふたたびあおむいて書見。三時すぎからまくらのうえにすわって静止し、はじまりをみなかったがたぶん四〇分くらいすわった。ながめ。そとでは(……)さんの家で業者といっしょになってなにか重いものをはこんでいるらしき声や気配がしていた。たぶん(……)ちゃんだとおもうが男性と、やや甲高くて快活な声の業者男性とが、行きます、はい、せーの、とかタイミングをあわせつつ協力して運搬しているようだった。いらなくなった家電かなにかをひきとってもらうために業者の車まではこんでいるような、そんな雰囲気。業者のひとは敬語なのだが(……)ちゃんらしき男性のほうは基本的にタメ口で呼びかけており、しかしそれが失礼にひびかず業者のほうもしたしみやすくうけいれている調子だった。
 静止を解くとまたちょっと本を読み、白湯をおかわりしてきて四時すぎからきょうのことをここまで。すると四時四〇分。きのうのことは出勤まえの往路までもうさくばんちゅうに書いてしまったのでそんなにかからないだろうという目算がある。わるくないしごとぶりだ。

 きのうのことを五時まで書いて階上へ。母親ががんばった甲斐あって居間はそこそこすっきりした見た目になっていた。室の端のものが減っただけだが。東側の窓のしたの横にながい棚のうえなどいろいろ置くスペースにしていたのがかたづいていたけれど、しかし来週までにどうせまたこの状態をたもとうと意識せずにものを置いてしまうのではないか? とおもうが。ともあれまずは米をあらたに磨いでおこうと台所にはいり、手を洗って食器乾燥機のなかをかたづけ、洗い桶のなかにあったコップだったかなにかを洗い、桶も洗うと米を磨いだ。釜にいれて六時半に炊けるようにセット。そうして調理は母親にまかせ、居間に出てアイロン掛け。ハンカチやエプロン、じぶんのシャツや両親のシャツ。アイロンはいままでコンセントにつないだまま床の端に寄せるようなかたちで放置しておくのがつねだったが、カバーをかぶせて棚のうえに置いておこうというのでそのようにした。アイロンをかけているあいだにうどんが食いたいなというおもいがまえぶれなくきざし、豚汁のたぐいをつくったというからそれに入れて煮込みうどんをつくろうかなとおもい、そのつもりで玄関の戸棚から麺ももってきていたのだが、けっきょくこれはめんどうくさくなってやらなかった。アイロン掛けを終えると食事ももうやることがないというのでワイシャツをもって下階へもどり、白湯を飲むためコップをもってくるついでに階段のとちゅうに放置されていた雑巾を回収し、また居間の床のうえにもテーブルの脇に雑巾がなぜかふたつもほったらかしだったので、洗面所にもっていって洗面台でそれぞれゆすいで絞り、そのまま置いておいてよいというのでもとあったあたりの床に三つまとめて絞ったすがたでかたよせておいた。室にかえると白湯を飲み、七時ごろまで休息。
 その後食膳を用意しておおきな盆でまとめて自室にはこび、(……)さんのブログを読みながら飯を食った。八時まえに階をあがっていくと焼きそばののこりがあるといい、また冷凍してあった唐揚げも食べるのをわすれていたことに気づいたので、洗い物をかたづけたあと、ほそながいパックにのこった焼きそばのうえに唐揚げをいくつかビニールパックからとってまとめてレンジであたため、白湯一杯とともにもちかえってそれも食べた。そうしてきのうの記事をしあげておとといのぶんとともにブログに投稿。そのあとここまで書けば九時まえにいたっている。ひさしぶりに書かなければならないノルマをすべて解消して現在時に追いつくことができた。むかしはいつもこうだったのだが?

斎藤 そうなんです。資本主義のもとでは、脱成長は不可能なんですから。そこが旧世代の脱成長論と大きく異なる点です。『資本論』第一巻を刊行したあと、マルクスはまとまった著作は出していませんが、晩年の彼の遺したノートには、現代の問題を解決する大きな鉱脈が眠っています。人々が持続可能な社会で、豊かに暮らすために、資本主義社会を乗り越えないといけないということを、最もはっきりと示した思想家がマルクスなのです。繰り返せば、資本主義を前提とする限りでは、解決策はない。これは、グリーン・ニューディールで「緑の成長」をめざすケインズ主義とは完全に異なるマルクス独自の発想です。
 なぜ解決策はないのか? 資本主義には希少性を創造するメカニズムが組み込まれているからです。つまり、人々が無償でアクセスできた共有財を解体して、人工的に希少性を作り出すことで、資本は増えていくのです。そこでは、生活の「質」を犠牲にしても、とにかく資本の「量」を増やすことが重視される。資本の量が増えるのであれば、それによって環境が破壊されようが、多くの人が不幸になろうが、関係ない。
 具体例をあげると、入会地(いりあいち)の解体です。入会地はみんなで管理し、誰でもアクセスできる共有資源でした。それにより、人々は豊かな生活を送っていました。つまり、入会地は商品の価値とは無関係なものだったのです。
 しかし、みんなが生活に必要なものを入会地で調達すれば、市場で商品を売ることができません。それは資本主義にとっては非常に不都合なことです。そこで、資本主義社会では入会地に所有権を設定し、誰もが自由に利用できないようにしました。要するに、それまで潤沢に存在していたものを、無理やり、人工的に希少なものにしたということです。

白井 言うなれば、希少性の「捏造」ですね。

斎藤 希少性を作り出すことで、儲けのチャンスが生まれてくる。だから、希少性を生むために、資本主義は浪費や破壊を繰り返す。
 資本主義は本来、巨大な生産力を解き放ち、人々を豊かにするものだとされてきました。けれども、実際には格差は拡大し、環境は破壊されていくことになる。希少性に依拠した資本主義社会は、貧しい世界しか作れないのです。
 それに対して、脱成長とは、こうした社会からの脱却を意味します。脱成長とは、ソ連のように物不足で人々がいつも行列を作っているような社会ではなく、本来豊かであったはずの公共財に依拠した生活を取り戻すということです。

白井 ちょっと突っ込んだことを言うと、斎藤さんと私の『資本論』の読み方の共通点は、マルクスの「物質代謝」の概念への注目なんです。資本制社会とは自然の物質代謝の過程を資本の論理が乗っ取ってしまう社会。その論理は自然の論理とは当然異なるから、矛盾が生じる。それが環境問題です。つまり、マルクスの理論のド真ん中に環境問題をとらえられる視座がある。

浅田 ロシアのウクライナ侵攻にはさすがに驚いた。今まではジョージア(旧・グルジア)でもクリミアでもメディアをブラック・アウト状態にしたうえでスピーディな限定的攻撃により勝利してきたのが、今回は大規模すぎてもたもたしてるし、ウクライナ側がSNSを駆使して悲惨な状況を発信したんで、ロシアは世界から総スカン状態に。いずれにせよ、力による一方的な現状変更は容認できない、これは誰もが言うとおり。でも、ウラジーミル・プーチン大統領を叩けば済む話じゃなく、なぜプーチンが出現し、こんな暴挙に至ったのかを振り返っとく必要がある。

まず、ミハイル・ゴルバチョフ元・ソヴィエト連邦書記長のペレストロイカ(改革)をアメリカが経済的に支援せず失敗に追い込んだ。結果、ボリス・エリツィン元・ロシア連邦大統領がソ連を解体し、急激な資本主義化で大混乱に陥った。その混乱を収拾するストロングマンとしてプーチンが登場し、今も強権支配を続けてる。「ゴルバチョフを支援しろと言うお人好しがいたが、結局クーデターで失脚したじゃないか」と現実主義者たちは言うけれど、支援を受けられなかったゴルバチョフが経済破綻で追い込まれ、クーデターに至ったんだからね。そもそもアメリカの「現実主義者」たちは、ペレストロイカの中途半端な成功より、ソ連の壊滅を望んでたわけだし……。で、東欧民主化ドイツ統一のとき『ワルシャワ条約機構WTO)』に属する東ドイツを『北大西洋条約機構NATO)』に属する西ドイツが吸収合併するって形をゴルバチョフに認めさせるべく、ロナルド・レーガン元・米大統領の後を継いだジョージ・ブッシュ元・米大統領の名代、ジェイムズ・ベーカー国務長官から「NATOのプレゼンスを東方に拡大することはない」って趣旨の発言があり、ゴルバチョフが承諾した。書面での約束ではないけど、実際はその後NATOが次々に東方に拡大してきたわけで、プーチンが「騙された!」と怒るのにも一理はある。

     *

浅田 11月にはアメリカで議会の中間選挙があるけど、民主党は負けるだろうね。バイデンは24年の大統領選挙で再選を目指すって言ってるけど、年齢的にきつい気もする。でも、新自由主義から脱却し、いわば古いケインズ主義をグローバルに、しかも環境問題に配慮して再建しようって方向は、おおむね正しいと思うよ。世界的に法人税の最低税率を決めるとか、脱炭素を進めるとか、グローバル資本主義の暴走をコントロールする方向に持っていこうとしている。

田中 京都のゑびす神社で「人気大寄せ」と呼ばれる縁起物を買った『ソトコト』2015年3月号を読み返していたら、僕はCO2排出と同じく事業活動規模に応じて税額を決める「外形標準課税」を導入すべきと述べ、浅田さんはシンプルに売上高で企業活動の規模を測って課税すればいいと。消費税は導入されても売り上げに対する課税ができていないのが大きな問題。

浅田 新自由主義の時代は大企業や金持ちに対する増税はできないってのがゲームのルールみたいになってた。トニー・ブレア元・英首相にせよ、ビル・クリントン元・米大統領にせよ、だいたいそれに従ってた。対して、バイデンは古いケインズ主義に戻り「あるところから取ろう」と。ビル・ゲイツウォーレン・バフェットなんかは「もっと取ってくれたらいい」って言ってるわけだから。ただ「一国だけでは成り立たないんでグローバルにやる」と。岸田文雄首相も「新しい資本主義」って言うんだったら多少なりとも中身を言わないとね。

ただ、バイデンも今のアメリカでは、それだけの大転換が難しいって現実に直面してる。彼は29歳で上院議員になってからバラク・オバマ政権の副大統領になるまでずっと上院議員で、上院が紳士のクラブだった時代に超党派の合意を繰り返してきた。それがいまや不可能なんだ。

女性やマイノリティの権利を擁護してきたリベラル派の最高裁判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグが2016年の大統領選挙直前に亡くなったけど、1993年にビル・クリントンの指名した彼女の上院司法委員会での質疑応答の記録映像を見ると、共和党のオーリン・ハッチ議員が「あなたの意見のほとんどに反対だ、しかしあなたのことは尊敬する」と言うのを見て委員長のバイデンが微笑み、全員一致で通過、本会議でも96対3で承認された。現在では絶対に考えられない。ガンの闘病中だった彼女が早めに引退してれば民主党オバマが後任を指名できたはずなんで、その教訓を踏まえ最近、リベラル派のスティーヴン・ブライヤー判事が引退を表明。バイデンが後任に黒人女性のケタンジ・ブラウン・ジャクソンを指名したけど、まあ51対49くらいで通ればいいとこか。

     *

田中 ミット・ロムニーはどう?

浅田 ロムニー共和党上院議員でただひとり、トランプの弾劾に賛成して気概を示した。だけど、党内では裏切り者扱い。そういえば、トランプ支持の暴徒が連邦議会議事堂を襲撃した2021年1月6日のクーデター未遂の一周年で、死んだ議会警察官らの追悼式典に議員が集まったけど、共和党からはリズ・チェイニー下院議員と父のディック・チェイニー元・副大統領しか参加しなかった。ディック・チェイニーっていえば、ブッシュ・ジュニアを操ってイラク戦争に突入させた悪の権化。それが共和党でいちばん良識ある人間だってことになってるんだから!

反町理キャスター:
キエフ市民のこの極限状況、心理状況をどうご覧に。

浅田彰 京都芸術大学教授 批評家:
ゼレンスキー大統領は国難にあたって英雄的に抵抗しており、市民含め素晴らしい。一方、前段階でドネツク・ルガンスクの自治について全く無視したり、リアル・ポリティクスとして不用意でもあった。『逃走論』を書いた人間として、また教師として言えば、もしそこに自分の学生がいたら、隠れても逃げてもいいからとにかく生き延びろと言う。国のために死ぬのは崇高に見えるが、言い方を変えれば、プーチンみたいなゲスに殺される必要は全くない。

浅田彰 京都芸術大学教授 批評家:
一方、アメリカはかなりの部分でNATO東方拡大の当事者だが、外相会談をキャンセルし交渉しない。「いや、軍備を送っている。ウクライナ人たちが戦ってくれている」では無責任。中長期的には良くできた経済制裁をやってはいるが。

先﨑彰容 日本大学危機管理学部教授 思想史家:
日本で同様のことが起きれば、自衛隊の方をはじめ何人かの方が亡くなる可能性がある。美談にするつもりはないが、戦争での死者は国がある種の葬送の儀礼を行うことでしか浮かばれない。ところが与党から野党まで、トップの人たちが憲法9条がどうしたとツイッターの百数十字程度で書いている。この人たちが総理の座を狙っている。その人が慰問に訪れたら、私たちの家族の尊い犠牲が何らかの意味づけをされるような、粛然とした人間として一国の総理になる気概はあるのか。この情勢で、日本のトップにならんとする者は座禅でも組んで、犠牲者が出た場合どうするかと沈思黙考するぐらいの落ち着きがないと。

     *

新美有加キャスター:
混沌とする中、例えばツイッターなどでは議論というより一方的にお互いの主張を押し付け合うことが多い。日本人が議論できなくなっていると感じますか。

先﨑彰容 日本大学危機管理学部教授 思想史家:
日本だけじゃなく世界で。問題は、自分の聞きたい意見・情報のもとだけに集まり、情報が更新されないこと。自分と違う意見とロジカルに戦わせることに言語の本来の意味があるのに。だから僕も、今日はプーチン側の世界観を話してきた。

浅田彰 京都芸術大学教授 批評家:
みんなで盛り上がれる話題だけがエコーチェンバーの中を巡る。感情的な議論で人をつかんでしまう、ポピュリズムの一番危険な部分。トランプ前大統領は「エリートが議論をしてシステムを作っているが、あんなもんは全部偽善だ」と粗野だが正直な言葉でぶっちゃけ、人をつかむ。対してバイデン大統領は頑張っているが、冷静な議論なので退屈。偽善対露悪というか。僕は、偽善は重要だという考えです。

反町理キャスター:
偽善がバイデン大統領、露悪がトランプ元大統領。バランスは取れるか。

先﨑彰容 日本大学危機管理学部教授 思想史家:
かつて西部邁さんが書いたことへの僕の理解では、あらゆる欲望を詰め込んだような凶悪な人間という生き物に、偽善つまり倫理・道徳が精神の均衡を与えて、なんとか秩序を作っている。偽善に51、露悪に49を置くべきなのに、今は本当に暴力が赤裸々に表に出てきてしまっている。

浅田彰 京都芸術大学教授 批評家:
日本国憲法にせよ、憲法が信頼すると言っていることは偽善、単なる建前。いざとなれば踏み躙られると今回のことでわかった。現実的に、ある種露悪的にならざるを得ない。けれども、この単なる偽善的な建前というものを手放した途端、文明は終わるんですよ。明らかに。

先﨑彰容 日本大学危機管理学部教授 思想史家:
ここで意見が分かれて、だから浅田先生は9条を含めた日本国憲法を続けるべきだ、僕は条件付きで改正と思っている。51対49と言ったが、悪に対して我々は研ぎ澄まされた2しか差がないという緊張感を担保するならば、51という理想を持っていい。だが100対0の100の方に全体重をかけ、日本国憲法や自由と民主主義を金科玉条にして絶対に正しいと安堵しているならば、それは違うのではないか。


 夜には書抜きをしたり、あと午前一時くらいからだったとおもうが詩をものした。いぜんやっていたつくりかけのものをすすめたかたち。けっこうすすんだというか、おさめかたがみえていないのでどのくらいというのもないのだけれど、そこそこ行を足しはした。瞑目してじっとあたまのなかをみながら待つ時間をわりとつくれたのでよい。だいたい一時間くらいでちからつきたが。姿勢をたもつのもたいへんだ。書抜きは『ソ連史』をほぼ終了。書抜き箇所記録ノートに記したページのほうは終え、あとは手帳にメモしたページがいくらかのこっているだけ。三時半に消灯した。

2022/4/22, Fri.

 一九六八年一月にチェコスロヴァキアでドゥプチェクが共産党第一書記に就任し、改革の動きが始まった。四月には共産党が「行動綱領」を発表し、政治と経済の改革が本格的に検討され始め、検閲制度が事実上廃止された(「プラハの春」)。数十名の著名人らが署名した「二千語宣言」が出されるなど市民が積極的に反応したこともあって他のワルシャワ条約機構加盟国指導部は警戒を強めたが、ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げたのであり、「二千語宣言」も共産党の「行動綱領」への支持を表明したものであったから、この時点では社会主義の枠内で改革が進められる可能性はあった。
 しかしワルシャワ条約機構加盟国の指導部が、ドゥプチェクらが民衆を統御できなくなることをおそれた結果、八月二〇日深夜から二一日にかけてソ連軍を中心とする五カ国軍がチェコスロヴァキアへ軍事介入して、「プラハの春」を押し潰した。この際ソ連は、社(end162)会主義陣営の利益のためには一国の主権が制限され得るという「制限主権論」をもって介入を正当化した。この「制限主権論」の主張は、以後もソ連ワルシャワ条約機構の介入があり得ると意識させて、東欧諸国の改革の動きを抑制することになった。
 そしてまた、これを機にソ連の指導部は、改革自体を警戒し、忌避するようになったと言われている。このため、ソ連では以後、資源の節約、生産の集約化、科学技術革命、企業の自主性拡大などが何度となく唱えられた一方で、本格的な改革がおこなわれることはなく、先に見た労働者と農民の意識と態度の変化もあって、工業・農業ともに成長は鈍化し、「停滞」に至った。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、162~163)



  • 「英語」: 687 - 700


 一〇時ぴったりにはっと覚醒。寝覚めはわりとよかった。からだもおおむねまとまっており、こごりはすくない。さくばんから雨が降ってひびきがけっこうひろいものだったが、明けてみれば快晴の日和となっており、カーテンをめくると窓ガラスの上端付近ではやくも枠にかくれようとしている太陽がまぶしい。時間をかけず、一〇時一二分に離床した。水場に行ってみずを飲み、洗顔や用足しもすませてくるとあおむいて書見。南直哉『「正法眼蔵」を読む』をすすめる。この世はすべて関係性のシステムによって一定の条件下で暫時生成されるものであり不変同一的な本質や実体はないというのが縁起とか無常のかんがえであり、仏教はそれをとるわけだが、その縁起という法則や原理じたいが不変の本質となりはしないのか? という再帰性による古典的パラドックスについていくつかおもうところがありはするものの、いまは措く。のちほど余裕があったり書く気になったら。
 一一時一〇分くらいまで読んで瞑想した。からだのこごりがすくなかったのでながくすわれて四〇分ほど。上階へ。母親ははやくも一〇時から勤務に出ている。トイレに行って糞を捨てると居間にもどってジャージにきがえ。暑い。初夏らしい快晴だが空の青はいがいにもさほどの濃さでなく、雲がなじんでいるようにもみえないのだが淡くまろやかな風合いで、正午の太陽はたかくかたむきがないから近間の瓦屋根にもうまくはいらないようで、三角面に液体質の純白はうまれず、その揺らぐ光景もないまま大気はおだやかさにかわいてすこしさきの電線のもとのみがひかりをちょっとためていた。食事にはハムエッグを焼く。あときのうのカキフライのあまり。新聞一面にはウクライナの報があり、ロシアはマリウポリを完全に掌握したと宣言。セルゲイ・ショイグ国防相クレムリンプーチンに報告したと。アゾフスタリ製鉄所にはウクライナがわの兵が二〇〇〇人ほどのこっているらしいが、周辺をかんぜんに封鎖していると。プーチンはそれをうけて突入作戦は現実的ではないと言い、蠅の一匹も飛ばさないようにとの表現で封鎖の継続を指示するとともに、ウクライナがわにはあらためて投降を呼びかけた。露大統領府によれば、三月一一日時点でマリウポリには八一〇〇人ほどのウクライナ兵がいたが、そのうち四〇〇〇人ほどを殺害し、一四七八人が投降したという。ウクライナがわは完全掌握を否定し、製鉄所の部隊は抗戦をつづけると。いっぽうで負傷兵や避難民を救出するための「人道回廊」の設置をもとめ(二〇日にも設置が合意されていたものの実現しなかった)、大統領府顧問だったか副首相だったかが、そのために(たしか現地で)前提条件なしの協議におうずる用意があると述べたと。ほか、自民党安全保障委員会みたいなところ(小野寺五典が会長)が、年末の改定にむけた安保関連提案三つを正式に承認したと。いわゆる「敵基地攻撃能力」は先制攻撃との誤解がおおいとして、弾道ミサイルなどで攻撃をうけたさいの「反撃能力を保有する」という表現にあらためたと。反撃対象としては基地だけでなく、あいてがわの司令部や指揮統制機能もふくむ。
 台所に行ってフライパンにみずをくみ、火にかけるとともに食器洗い。さきほど卵をあたらしく開封して冷蔵庫のみぎがわのスペースにいれておいたのだが、そのパックも鋏でちいさめにきりわけて始末した。ついでにプラスチックゴミをいれてあるビニール袋も整理してゴミをきちんとおさめておく。そうして風呂洗い。出てくると沸騰したフライパンのみずを捨ててキッチンペーパーで拭き取り、白湯を一杯もって帰室。Notionを用意して湯をのみながらウェブをみたあと、一二時四〇分ごろから「英語」記事を音読し、一時をむかえてきょうのことをここまで記述。いまは一時四〇分。きょうは最高気温が二六度とかであつく、うえはジャージを着ていられず肌着いちまいだし、窓もあけて空気をとおしている。


 いま一一時一〇分。夕食をとりながら(……)さんのブログを読んだ。一九日にある学生たちとの夜歩きのようすがたのしそうでいいなあとおもった。まさしく愛と笑いの夜というかんじ。『愛と笑いの夜』というヘンリー・ミラーの本のタイトルはこのあいだ(……)くんがブログに文章を引いていてはじめて知ったのだけれど、この文言じたいがあまりにも幸福すぎて、もうこのひとことだけで幸福感のにおいが喚起されてしまう。検索してみると、サニー・デイ・サービスの三枚目のアルバムもこの題らしい。

 その後上階に行き、食器を洗ってから入浴。湯のなかで静止してすごし、冷水シャワーもなんどか下半身を中心に浴びせた。あたまを洗ったり、束子で全身の肌をこすったりも。きょうはけっこう念入りに脚や腹をこすっておいた。束子健康法はじっさいかなりすっきりする。出てくると炊飯器のなかの米がもうのこりすくないのであたらしく磨いでおこうとおもい、のこった米を皿にとって釜をながしへ。みずをそそいでおいてから食器乾燥機のなかのものをいちいち戸棚やほかのばしょにもどし、それから釜を洗った。父親はソファについて孫の手かなにかで肩や背をペチペチたたいたり、脚を揉んだりしている。そうしてザルをもって玄関に米をとりにいこうとしたところであがってきた母親が、パンと焼きそばがあるから米は炊かなくていいというのでそのようにした。白湯をコップにそそいでポットをのぞくと湯がすくないので薬缶にみずをいれてそこからそそぎ足しておき、ファンヒーターのまえにジャージが置きっぱなしになっていたのでたたんで仏間の簞笥におさめた。それで帰室。湯をのみながらウェブをまわっていま一時。


 昼間、この日のことを記述したあとは瞑想した。三〇分ほど。窓はあける。鳥の声が活発にたくさん散らばる季節になってきた。静止に切りをつけるとストレッチをすこししてから階上へ。ベランダの洗濯物をとりこみ、タオル類をたたんで洗面所の籠へ。それから出勤前のエネルギー補給。といってクルミのはいったやわらかいパン(白い粉がふんだんにまぶされてある)をひときれレンジであたためて食べるのみ。白湯とともに部屋にもちかえってさっと食べ、歯磨きをしてきがえ。きょうのあつさではジャケットは着ていられない。そうするとベストすがただから胸に内かくしがつくれず、ふだんそこの両側にいれている手帳と携帯をバッグにいれざるをえない。シャツの両腕はまくった。そうして階をあがり、ハンガーにつけられたものをはずしたり、肌着類などをたたんでおいて出発。ふれるからに暑い空気。家から東に出て坂にはいるまえのみちわき、新緑をゆらすカエデの木の立ったところから一段さがった敷地に花壇がもうけられているのだが、そこにおおぶりの赤いツツジがいくつもならべられて咲いていた。その脇をはしる水路に接した斜面には明緑の草のなかにハナダイコンの紫が群れている。坂にはいるとみぎては眼下の川やそのむこうの木壁、さらに川むこうの集落や果ての山まで宙がひらいてみわたせて、いかにも青々とした初夏のいろを背景にしたのみちに面して建設中の建物の、ホームかなにからしく横にけっこうながくて四角くととのっているが、その木材の薄色がほがらかだった。背にやどるぬくみは暑く、初夏をすでにこえている。風がながれてしたみちのみどりがいっぽん揺れ、木の葉もいくらかはがれていたようだが、あるくみちにも左右の端にせんじつまでみなかった落ち葉の帯が太めにつくられてあった。坂の尽きるそばの一軒で敷地の端に白い花をまとった小木が、木というよりは枝の束のようにほそいすがたですらりと立って、ひだりての西空から視界にかかったひかりをまぜられて花はおのれの輪郭をふみこえながらその白さにつやを帯び、あれは桜ともみえたがべつの種か後れ咲きのひともとなのか。坂をぬけてふたたび陽のなかにはいればまちがいなくこの春になっていちばんのひかりの厚さ、重さ粘りである。
 街道に出るまえのみちわきはガードレールのむこうが斜面で鬱蒼としたかんじの杉の木がなんぼんか立ちあがってそびえているが、そのてまえにいっぽんはいった細枝の木が、若緑の葉をつけて杉の枝葉をすこしかくすようにしており、それではじめてここにこんな木があったのかと気がついた。杉のほうも棘っぽい葉叢のところどころの茶色にもはやあかるさはなく鈍くかげっている。おもてみちに出ればフジの花の清冽な青紫が垂れてゆらぐのが目につき、むきだしの陽のうちを行くあいだ風は吹くものの涼しさにいたらず、かといってことさらぬるくながれるでもなく半端な温度のやわらかさばかりが肌をあそぶ。空は正午の淡さをはなれていまはまったきみずのひといろ、雲もとぼしくて直上から東の果てまでとめどなかった。なにをおもったか、裏にはいらずわざわざ陽の照るおもてを行こうと気が向いて、垣根をいろどるドウダンツツジの微小な白の群れなどみやりつつあるくうち、尻や脚の裏までたまる陽射しは重く、マスクをつけていれば息もややくるしくて、これはとちゅうでみずを飲んだほうがいいかとおもいながら口を風にさらした。汗をかくのでかえってながれが涼しくなる。女子高生がひとり、上着を脱いでシャツになってバッグをせおいなおしながら、友だちでも待っているのかスマートフォンをみながら暑いなかを立ち尽くしていた。ローカルなリカーストア、要するに酒屋のたぐいの横にある自販機でとまり、小銭がなかったので千円札でスポーツドリンクをひとつ買っていくらか飲んだ。そのころには陽射しもいくらか肌に馴れていて、マスクももどす。
 (……)に寄って用を足したあとかわらずおもてを行きながら、みあげた空はカーンとおとが鳴りわたるような青に抜け、車の絶えず行き過ぎてさわがしい道路の対岸では建物の間のちいさなスペースで子どもらのあそぶ声が反響し、そこにある駐車場所なのかせいぜい一、二台しかとめられなさそうな空きに接してツツジが植え込みに群れていて、日陰ながら白や赤がたがいにいりまじってあざやかだった。駅前まで来ると横断歩道をわたって折れる。駅のほうにむかいながら等間隔にもうけられた壇のなかのパンジーを見、それからみどりの葉をみたが、表面がいくらかざらついた感触のその明緑に、それまでただのみどりだったものがこれはアジサイかと名をむすび、そうだここにはアジサイがあって、毎年このならびに花が咲くのをみるのだったとおもいだされた。おもいいれがあるわけでない。しかしわすれていたのがなぜか不思議なようだった。


 (……)そうして勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 八時半ごろ職場を出て駅へ。ベンチについて瞑目。(……)行きが来ると乗って瞑目をつづけ、最寄りで降車。たいした印象はない。昼間は暑かったが、この時間になればベストすがたはすずしく、夜あるくにはよい季節となった。ジリジリとしたにぶい声の虫があらわれどこかの草のなかで鳴きはじめており、空気のながれのなかになにかのにおいが混ざってだんだんと夏っぽい。空は月のない晴れ。黒々とした金属板のなめらかさに星もあまりうつらず、家のすぐてまえでぽつりと一滴だけ顔にふれるものがあったが、こんな快晴で降るはずもなし、なんのみずだったのかどこからきたのかわからなかった。
 帰ると休んで瞑想したあと食事に入浴といつもの暮らしだが夜半まわりのことはすでに書いた。この夜のうちにこの日の往路まで書き終えることができたのは僥倖だった。とはいえやはりからだはつかれていて姿勢をたもつのも難儀だったし、いまこうして書いているその感触とくらべるととうぜんながらゆびのうごきもにぶかったので、ほんとうはやはりさっさと眠ってつぎの日に書いたほうがよいのかもしれない。

2022/4/21, Thu.

 少し遠回りになるが、体制のこの特徴について確認しておこう。計画経済が確立して以後のソ連では、国家計画委員会を中心に連邦政府が計画を作成し、二〇から三〇程度ある工業部門別の省がこの計画を執行した(連邦全体を直接管轄する全連邦省と、共和国に置か(end157)れた省を通じて管轄する連邦・共和国省とがあった)。個々の省には、企業を管轄する管理局や総管理局が複数置かれ、その下に、生産に従事する企業が複数あるというピラミッド型をなすのが一般であった(国民経済会議が置かれていた時期には工業部門別の省はなく、国民経済会議に各種の管理局が置かれ、その下に企業がある形となる)。上からは計画に基づく義務指標(ノルマ)が下ろされていき、下からは生産と供出の達成数字が上げられていく。ノルマの超過達成に対するボーナスと未達成に対するペナルティとによって企業は生産への刺激を受けることが想定されていた。
 しかし、ノルマは時間の余裕をもって示されるとは限らず、生産活動の途中で変更されることもあった(それもしばしば引き上げられた)。また、ノルマを超過達成すればボーナスが出るが、多くの場合、以後ノルマが引き上げられることになったから、経営者たちは企業の生産能力を隠して低いノルマを受け取り、それをぎりぎりで、あるいはわずかに超過して達成するよう努めた。管理する側もそのことはわかっているため、ノルマをめぐる「交渉」が頻繁になされ、生産能力や生産実績に関する虚偽の数字がやりとりされることにもなった。
 しかし、企業側の「努力」によりノルマが低く抑えられた場合でさえ、原材料や燃料が計画通り供給されず不足しがちという問題もあってノルマ達成は容易ではなかったため、(end158)企業は原材料や燃料を過剰に抑え込もうとした(このため不足は一層激しくなった。市場経済ならば需要が過剰であれば価格が上昇して需給は均衡に近づくが、計画経済では価格が固定されているため不足は解消されず、需要が増すほど不足は激しくなったのである)。
 こうした状況では、月間、年間を通じて安定した生産活動をおこなうことは難しく、原材料や燃料を合法・非合法の様々な経路を通じて確保したのち、短期間に突貫作業で製品を生産して納期に間に合わせることが常態化した(月の下旬に当月の生産高の四分の三を生産する例もめずらしくなかった)。このため企業は、この突貫作業を可能とする労働力を確保しておく必要があった。こうした通常の生産活動には必要のない余剰な労働力を抱えていることは、労働生産性を低くし、労働規律の弛緩を招いたと同時に、労働力に対する需要を大きくして、労働者の「売り手市場」という状況を強めた。そして、そのことがまた労働規律を弛緩させるという悪循環に陥っていたのである(こうした生産活動の結果として、月末や年末に作られた製品の質が常にもまして劣ったものとなるという弊害もあった)。
 その結果として、ソ連の労働者の戯画的イメージともなった「働かず、勤務中に酔っぱらっている労働者」は現実に存在した。「クビにならないだろう、クビになってもすぐ次の職場が見つかるだろう」という意識のある労働者は労働規律を守ろうとせず、酔った状態での出勤や勤務時間中の飲酒は至るところで見られた。経営者にとってこれは看過でき(end159)ない問題であったが、クビにして代わりの労働者を確保できるか定かでなく、確保できても前よりましだとは限らなかったから、飲酒だけを理由として解雇まですることは少なかったのである。これが労働規律を一層弛緩させたことは言うまでもない。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、157~160)



  • 「英語」: 633 - 645, 646 - 686
  • 「読みかえし」: 672 - 678


 一一時一五分に起床。曇天。カーテンをあけると一面の白さのなかに陽の感触や残影がわずかにないでもない。水場に行ってきてから書見。南直哉『「正法眼蔵」を読む』。なかなかおもしろい。メモしようとおもうところはそこそこある。正午くらいまで読み、それからまくらのうえに起きなおって瞑想した。三〇分行ったかどうか。たぶん行かなかったのではないか。
 上階へ行きジャージにきがえると便所に行って排便。母親は一〇時かそのくらいに部屋に来て、たけのこをわたしに行くとか言って出かけていったがだれにわたしに行ったのかは知らない。食事はチャーハン。新聞の一面からウクライナの報を読む。マリウポリのさいごの拠点である製鉄所が激しく攻撃されており、ロシア軍は地下貫通爆弾というものをつかったという。地下にまで貫通したあと爆発するものらしく、それで施設はかなり損害を受けたようで、生き残ったアゾフ大隊のにんげんだかが多数のひとびとが瓦礫に埋もれていると証言していた。施設にはウクライナ軍とアゾフ大隊の兵二五〇〇人ほどがのこっていたといい、また子どもをふくむ市民もおおく避難してきていた。マリウポリはもうほぼ全域が制圧されたようで、ロシアとウクライナは市民をザポリージャに逃す「人道回廊」の設置に合意したというが、ロシアからすればもうあたらしい市長も置いてかれらの統治をはじめるつもりのようなので、市民を逃がす必要はないといういいぶんになりそうなものだが。文化面には古川日出男があたらしい小説を書いたという報。カルト集団をとりあつかったものらしく、オウム真理教による地下鉄サリン事件が風化しつつあるいま、とうじの空気を知っているにんげんが書き残しておかなければならないという意識からものしたという。社会面、さいごのページにはヘルソンからリヴィウに避難したひとの証言。ロシア兵は家に押し入って金品などを押収し、体格のよい男性は連行されて、ころされたのか刑務所にいれられたのかだれにもわからない、という。
 食器を始末。風呂も洗う。なにかもうすこし食べたい気がしたので冷凍のたこ焼きをいただくことに。電子レンジであたためているあいだに白湯をもっていったん帰室。コンピューターでNotionの準備などして、あがるとたこ焼きをもってきた。食いつつウェブを見、その後音読。「英語」と「読みかえし」と両方とも。あいま、二時にあがって洗濯物をいれておいた。曇天だし、そんなに湿ってはいないものの乾きがよい感触ではない。「読みかえし」記事ではコンピューターなどのブルーライトを排除してなるべく陽にあたる生活を実験的におくった記者の記事があって、おれもほんとうはもっとそとに出てひかりをえたほうがいいんだろうが、とおもった。まいにち昼前までねすごしている。曇天でも室内とくらべると光量にはかなり差があるらしく、記事によれば、〈The illuminance of light is measured in lux. On a cloudless day in summer, the light outdoors can reach as high as 100,000 lux; on an overcast day, it can be as low as 1,000 lux. (……)/Back indoors, I took a reading in the centre of my shared office: 120 lux – lower even than the 500 lux you’d expect outdoors immediately after sunset. Horrified, I returned to my temporary desk by the window, where it was colder, but a sunnier 720 lux.〉ということだ。そとにでてきもちがよいのはひかりもあるが、やはり風と大気のうごきですね。ほんとうはいちにちにいっかいはかならずそれをあびたほうがよいんだろうが。
 母親は二時すぎに帰ってきた。きょうのことをここまで記すと三時一五分。きょうは休みなので余裕はある。やはりいちにちはたらいたらいちにち休まないと日記をじゅうぶんにたもつことはできない。おとといの一九日まではもうきのうのうちにかたづけたから、あときのうのことを書けばよい。

 うえに書いたようにすこしばかりでも外気を浴びようとおもったので上階にあがってベランダに出、しばらく屈伸したり左右に開脚して腰をひねり太もものつけねのほうを刺激したり、前後に開脚して脛のすじをのばしたりした。文句なしの曇天である。雲はきれいに空を白く埋め尽くしていて、上体を左右にひねりながらみあげれば一帯のなかでは西の低みがより白く、すこし高めから天頂まではそれにくらべるとみずいろの気がみえないでもないが、いずれたいした差でもなく総じて白の模様なき平面である。微風がながれて冷たさにむすばず不定のうごきで肌にふれまわりなでていくのがここちよい。自由とおちつきと開放の感覚。ことは皮膚感の問題である。とおくのおとがつたわってくるのもよい。
 

 いま午前一時直前で、二一日基準でいうと二五時である。きのうの記録をしまえた。職場にいるあいだのことがおおくてどうにもたいへんだが、書く気にならないことおぼえていないことはよいとしても、ほかのことがらにつかえる時間を確保するために、記述をみじかく縮約して書けること書く気になることを書かずにすませようというこころにどうしてもならない。この日記いがいの、なんらかの作品めいた文をつくることをかんがえるならば、とうぜんこれに割く労力をもっと減らしたほうが利口だしその必要があるわけだが、どうしてもそうする気にならない。じぶんにとってはこれがまずだいいちに来てしまう。これをすませないとほかの文を書く気にならない。ところがこれをすませるだけで気力もつかってだいたい満足してしまうし、そもそもいまやコンスタントに、まいにちおくれずにすませるということができていない。


 五時ごろにあがっていつものようにアイロン掛け。夕食をとったのは七時直前から。そのまえにOasisがながれるなかで瞑想したのだが、やたらねむくなってあまりうまくいかなかった。夕食は母親がカキフライとかローストポークとかを買ってきたのでなかなか豪盛なものになった。カキフライがけっこう美味で、食と味覚の快楽があった。
 夜はだいたいぜんじつの日記を書いたり。深夜に書抜きもできた。松戸清裕の『ソ連史』。Oasis『Familliar To Millions』をながしたが、ここの”Stand By Me”がやはりきれいでさわやかでよい。セカンドアルバムのデラックスエディションも日中や夜にひさしぶりにながして、”Talk Tonight”をきいてちょっとくちずさんだりもして、やっぱりこのくらいのシンプルな弾き語りやりたいなとおもった。三時ごろからはだらけて、三時四〇分に就床。

2022/4/20, Wed.

 先に述べたように、ソフホーズコルホーズではそこにいる農民の待遇に違いがあったが、一九六六年にはコルホーズに対しても保証賃金制(ソフホーズの労働者・職員について職種ごとに定められた賃金を基準として、コルホーズ員に対して毎月現金での賃金支払いを保証するもの)が導入されることになった。保証賃金制の導入によってコルホーズ農民の所得(end153)は一般に増えたが、コルホーズの支出も増えたため、経営が悪化するコルホーズもあった。国庫からの借り入れを重ねた挙句に返済できなくなるコルホーズも多かったが、破産させて債務整理をおこなうことは社会主義の理念上も難しかったため、国家は返済を何度も繰り延べ、ついには債権を放棄することもあって、国家財政への大きな負担となった。
 賃金を受け取るにはコルホーズでの作業ノルマを満たさなければならなかったから、保証賃金制の導入はコルホーズでの労働を促したが、作業ノルマを満たしさえすれば、収穫の多少にかかわらず賃金を受け取ることができたため、作業と生産の結果への無関心を生むことにもつながった。
 そしてまた、コルホーズにもソフホーズにも保証賃金制と年金制度が整備された結果、付属地での生産に頼らずとも賃金や年金で暮らしていけるようになったことから、少なからぬ農民が付属地での生産を放棄した。畑を耕したり家畜を世話したりすることを嫌い、それまでは付属地で自ら生産するのが一般的だった肉、牛乳や野菜を商店で買うようになり、そのための賃金と年金を受け取ることのできる最低限の労働をコルホーズソフホーズでおこなう「農民の労働者化」が進んだのである。一九六〇年代になっても畜産品や野菜の供給における付属地の役割はなお大きかったから、このことも食糧事情を悪化させる一因となった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、153~154)



  • 「英語」: 621 - 632


 一〇時一二分の起床。よろしい。六時間ほどの滞在。そのまえに八時くらいにもさめた記憶はある。寝床からおきあがり、床に足をついて背伸びをすると部屋を出て洗面所へ。うがいや洗顔、用足しをしてもどってくるとまたあおむけになって南直哉『「正法眼蔵」を読む』を読んだ。南直哉の理解(を要約するこちらの理解)によれば、道元の説く思想の要点は、この世界に本質や実体などの同一的で究極的な根拠はなくすべてが関係性の相互作用のうちから生じてくるという空=無常=縁起の次元を修行という具体的かつ身体的な実践において認識し、その認識にもとづいて現状の自己を解体するとともにあたらしくつくりなおし再構成的に生成させていくことにある、というわけで、だからやはり主体における永久革命論みたいな質感を帯びるんだよな、とおもった。この本でも、引かれている『正法眼蔵』じたいにおいても、いまのところ、それをたえまなくつづけていくのだ、というような、永久反復の様相は直接述べられてはいないとおもうが。本質をもたず条件におうじて可変的であるがゆえにいくらでも変わっていくことができるという自由と革命の思想にはそれはそれでもちろん魅力があるけれど、そのすがすがしく楽観的な野放図さはユートピア的なのかディストピア的なのかわからないし、現実いろいろ制約はあるわけで、それだけに乗るわけにもいかないだろう。
 一一時直前から瞑想。二〇分か二五分くらい。上階へ。階段のとちゅうからなにか香ばしいにおいを嗅ぎつけていたが、それは天麩羅のものだった。父親がまたたけのこを採ったのでやったと。その父親は山梨に行ったらしい。(……)さんにもたけのこをあげるとか。ながしでうがいをし、食事の用意。天麩羅や白米やきのうのサラダののこりや油揚げとほうれん草の味噌汁。新聞一面からウクライナの報を読みながら食べる。母親の職場のはなしがあったがこれはあとで書く気になったら。となりの(……)さんの家にはかたづけに来ているらしく、母親は金をもっていったようだがうけとらなかったと。葬式もいつなのかはよくわからず、だれも呼ばずに内々ですませるらしい。いまはもうそうする家がおおいし、めんどうがないからそれがよいとこちらもおもう。ただ(……)さんくらいになると、あとから悼みに来る訪問者がおおそうで、それはそれでめんどうだろうが。とはいえとなりの家はたぶんだれもはいらないだろうし、あいさつに行くといっても行くほうもどこに行けばよいのかわからないのではないか。あと、(……)家の両親と兄は三〇日に来るらしい。両親は日帰りの予定で、兄と子どもらは泊まる。車で来るとか。昼飯をともにする予定のようだが、日帰りといってもそのときの雰囲気によっては両親も一泊する可能性はある。たぶん父親なんかは泊めてゆっくり酒を飲み交わしたりしたいのだろうし。そこでこちらは三〇日と一日で(……)夫妻と会って、可能なら一泊させてもらおうかなとおもった。三〇日の昼前にさっさと逃げ出してあそびに行き、日帰りでなく宿泊になったときにそなえてこちらも外泊すると。(……)家に泊まれなかったら漫画喫茶にでも行けばよい。カラオケの一室で寝たってよい。むしろそっちのほうがよいかもしれん。うたもうたえるし。 


 いま二一日木曜日の午前三時一一分。一八日月曜日の記事を完成。ほとんど通話中の勤務中のことばかりで、ブログに公開できるぶぶんははなはだすくなくなってしまうが、ぜんたいとしてはどうやら一六五〇〇字ほどを書いている。とりわけこんかいは通話中のことをひさしぶりにけっこうがっつり書けた。それもよい。きょうも労働があって帰宅は一〇時まえだったし、行きもあるいたし勤務もそこそこながかったわけで疲労に負けてもおかしくなかったが、こうして一八日をしあげられたのはよい。やはり胎児のポーズをはじめストレッチで下半身をほぐしておくのが抵抗力になる。眼鏡も長時間かけたがその影響もあたまや額や目にない。翌一九日、つまりきのうの記事も、休日でたいした印象事もなかったので出勤まえに書き、もう書き足すことはなかったはず。


 出勤まえはいつもどおりたいした猶予もなく、うえのさいしょの一ブロックを書いてもう二時まえくらいだったのではないか。ストレッチをしたり瞑想をしたりした。階をあがったのが二時四〇分かそこら。ちいさな豆腐をひとつあたためて食うことに。その他さきほどの味噌汁。あとひとつなにか米のたぐいを食った気がするがわすれた。新聞一面から、二〇二二年度になって住民税非課税になった世帯を対象にあらたに一〇万円を支給する方針という報を読んだ。もともと二一年度の非課税世帯には支給がはじまっているが、その時点では該当でなく年度が変わって収入が減った世帯にも援助を、というはなしだったとおもう。役所が通知を送り、口座情報などを記して返信してもらうかたちの「プッシュ型」支援とかいわれていた。
 食器をかたづけると白湯を一杯ついで帰室。時刻は二時五〇分をすぎたくらいだった。徒歩で行くなら三時一五分には出ないと意味がない。ここまで来ると電車をえらんでいくばくかの余計な時間をえたい気もしたが、やはり余裕をもっていくことが大事だというわけで徒歩にむかって準備。すなわち歯磨きをして、服を仕事着に。きがえるあいだ、中村佳穂の”忘れっぽい天使”をながした。そうして上階にあがり、靴下を履いたりハンカチを尻のポケットにいれたりして玄関をくぐると三時一五分まえ。ちょうどよいといえばよい。あかるみのない平板な曇天に雨のにおいがしないでもなかったが、新聞の予報だと降水確率は三〇だったので傘はもたず。あるきはじめてさいしょのうちは母親の職場のはなしをおもいかえしつつ、そこかられいの高校の国語教育に導入された「論理国語」なる科目についてなどかんがえていたのだが、めんどうくさいので仔細ははぶく。ただ要点としては、「論理国語」という名称やその意義説明の滑稽な点は、(「文学」に「論理」がふくまれていないかのような二分法もそうだがそれよりも)まるで「論理」というものがこの世に一種類しか存在しないとおもっているかのようにみえる点だということ、そのことがむしろ、だれだか知らないがこういう制度区分を考案した文部省官僚の論理的貧困さを露呈しているようにみえるということ、意義説明で実用的な文章の読解うんぬんと言っているのだから、「論理国語」よりはっきり「実用国語」と銘打ったほうがよかったのではないかということ。
 坂を行くあいだにウグイスの声を朗々ときいた。こちらには初音だが、たぶんもうすこしまえから鳴きだしていただろう。おもてみちまで抜けて通りをわたったところの家に藤の花が咲きだしていた。街道沿いをしばらく行けば公園の桜木はもちろんもう花は消えて若緑一色の葉桜で、繁りはまださほどでないが幹のわかれめあたりにあつまった葉叢などみずをそそぎこまれたようにいろがあきらかで、初夏を待つ身とにおわしく充実している。裏へ折れて正面の公団では垣根のむこうに白のハナミズキがちいさくいっぽん咲き群れていて、曲がってさいしょの家の庭でもさきごろから盛っているピンク色の同種がもう弱ってもおかしくなさそうなのにおとろえをみせず落花のひとつもなく、ちかく接しあった群れをくずさずにはなやかないろどりに浮かんでいる。きょうは吹くというほどのものはなく、耳の穴のまえにおとも立たず、風はながれのゆるやかさだった。庭の低木であれ丘のやわらかな濃淡であれそのへんに生えている雑草であれ、どんなみどりもみどりであればおしなべて、絵の具をそこに直に塗られたような密なめざましさに現成している。ひろい空き地の縁ではもう穂がひろがらずほそって黄みがかったススキが、巨大化したネコジャラシのようにのびあがって乾いていた。
 (……)をわたってすこし行ったさき、(……)の駐車スペース的な土地(もくもくとしたおおきな常緑樹と車庫らしきものがある)と一軒のあいだの小敷地にチューリップをみた。地面は草が覆い、ネギボウズもなんぼんか立って、そこの端にあるユキヤナギはもう白い細片をほとんどたもたず茶色によごれて溶けきる寸前だった。(……)に寄って小用。出ると男子高校生の三人、ついで女子高生ふたりがみちを来ており順々にぬかされる。女子のほうからは、あんまりかっこよすぎても逆にダサいっていうか、とまずきこえて、アイドルのはなしでもしているのだろうかとおもいつつ、いまの時代や若者の感性を象徴するひとことのようにもきいたのだが、どうもアイドルのはなしではなく、おそらくダンス部かなにかで校庭かどこかでやる演目を相談しているような雰囲気だった。時期から推して部活紹介とかか? 細道が切れてあいまにはさまる横道からつぎの細道にはいっていくそのあたりでひとりがうたをくちずさみだし、その曲めっちゃいいともうひとりが同じていた。ある種の女子高生というのはなかまとそとをあるいているあいだ、ごくしぜんに、ふつうのこととしてうたをうたいだす。すばらしい。
 (……)
 勤務。(……)
 (……)
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 (……)
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 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
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 (……)
 (……)
 (……)


 そうして退勤は九時半まえ。(……)帰路にたいした記憶はなし。帰宅後も同様。勤務後かえったあとというのはなぜかたいして印象にのこることがない。この夜は一〇時ごろに帰宅して、けっこうながくやすんで過ごしてしまったわけだが、日記はそこそこ書けたのだ。ということもすでにきのう(この二一日のとうじつに)書いた。三時すぎで月曜日のことをしあげたわけだが、さすがにそこからこの日のことをさらに書くという気力は出なかった。

2022/4/19, Tue.

 革命後レーニンが電化を強く訴えたため(レーニンは「共産主義とはソヴェト権力プラス全国の電化である」と定式化した)、一九二〇年代には農村でも水車などによる発電で電灯(「イリイチのランプ」)が灯されたところが少なくなかった(ヴラヂーミル・イリイチレーニンは、敬意と親しみを込めて「イリイチ」と呼ばれた)。しかし、集団化とクラーク絶滅政(end149)策のなかでこれさえ失われたところが多く、第二次大戦前夜に電化されていたのは二五のコルホーズに一つだけだったと指摘されている。独ソ戦による被害もあって、急速な戦後復興を経た一九五〇年代でも、電化されていたのは約六つのコルホーズに一つだけだったと言われる。電気も水道も電話も通じておらず、公衆浴場も医療所も小学校もない集落は一九六〇年代になっても少なくなかったし、実に一九八〇年代になっても稀ではなかった。
 ゴルバチョフは一九五〇年代半ばのスタヴロポリ地方の様子を回想で次のように描いている。「スタヴロポリ市から遠い地区には汽車で行くか、通りがかりのトラックに乗せてもらうかして行かなければならなかった。行った先ではほとんど自分の足だけが頼りだった」。当時の出張で大変だったのは食事だった。「軽食堂もカフェも食堂も、ビュッフェさえもなかったのだ」。「食事以上に困ったのがどこに泊まるかだった。地区の中心地はともかく、農村部に足を踏みいれると、ホテルはもちろん宿泊所もなかった」。「その当時、ほとんどの農村はまだ電化されておらず、ラジオが普及していなかった。……テレビの誕生は話としてだけ伝わっていた。新聞は大幅に遅れて配達され、書籍はめったに来なかった」。
 一九八〇年頃の農村全般の様子についてはゴルバチョフの回想に次のような記述がある。「農村部は都市部にくらべ、道路、学校、医療施設、公共サービス、新聞・雑誌、映画館、(end150)文化施設といった面で整備が遅れていた」。このような問題が特に深刻化していたのが非黒土地帯を中心とする約三〇州だった。こうした州では工業部門に過大な比重を置き、農業部門を軽視した。その結果「農民は農村を捨て、明りが輝く都会に流出していった。都会では労働時間が決まっており、収入も多かった。……生活環境はあらゆる面で整っていた」。他の農村部も大同小異だった。農村を捨てた農民の代わりに臨時労働者が農村にやってきた。農作物の播種、成育の世話、収穫とその運搬、農業機械、自動車の修理も臨時労働者が担当した。こうした臨時労働者は近隣の都市から送り込まれた。「人間と土地の関係をこのような状態にすることは常識では考えられないことだ。農村の非農民化が生じたのだ」。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、149~151)



  • 「英語」: 601 - 620
  • 「読みかえし」: 665 - 671


 なんどかさめながら最終的に一一時二〇分ごろ起床した。曇天。のちには一時雨のぱらつきも。水場に行ってもどってくると臥位で書見。南直哉『「正法眼蔵」を読む』のつづき。一二時すぎまで読み、それから瞑想した。二五分くらいだったはず。わるくはない感触。
 上階へ行ってあいさつしながらジャージにきがえ、コップに水を汲んでうがいをしたあと食事へ。フライパンにたけのこや鶏肉が炒めてあったのでそれと、ケンタッキーフライドチキンもほそいやつをいっぽんもらってレンジで加熱。その他ニンジンなど野菜をこまかくおろしたスープと白米。新聞一面にはロシア軍がウクライナ全土三一五箇所にミサイル攻撃をおこなったとの報。事前に一〇〇箇所ほどに攻撃すると通告していたらしいが、じっさいにはその三倍になったと。マリウポリはもうほぼ制圧されたようすだが製鉄所を拠点にウクライナ軍とアゾフ大隊の一〇〇〇人ほどが抵抗をつづけており、投降しなければ全滅させるというロシア軍の最後通告も拒否して抗戦をえらんだ。市民らも一〇〇〇人ほどが避難して生活しているらしい。というのもこの製鉄所の地下にはソ連時代につくられたひろい領域があって(図からすると複数階層になっているようだった)、園芸所とかカフェとかもそなえられているといい、市内のほかの地下施設にもつながっているとか。ロシアがわはあたらしい市長の就任をいっぽうてきに発表しており、かんぜんな制圧を待たずに統治をはじめるもようと。
 母親は図書館で予約する本をスマートフォンでみていたようだ。二時半から歯医者だという。父親はソファでねていた。食器を洗って風呂場へ。蓋をハイターで漂白したというのでそれをまずシャワーでジャージャーながし、それから浴槽を洗った。出ると白湯をもって帰室。ウェブをみまわったあとに「英語」記事と「読みかえし」記事を音読した。それで二時くらいだったか。
 ねころがってだらだらしつつウェブをみたり(……)さんのブログを読んだりして、三時すぎからまた瞑想。どうもあたまがこごってかたかったのだがこれはきのうながい労働でずっと眼鏡をつけていたためだろう。さくばんはそこまでかんじなかったのだけれど、明けてきょうになってからむしろ頭痛が出てきた。じっとすることでそれをほぐし、そのあと頭蓋を揉んだりも。四時ごろからきょうのことをここまで記して四時半。


 夕食前にElizabeth Kolbert, “The scientists releasing cats in Australia”(2021/3/25)(https://www.bbc.com/future/article/20210324-assisting-evolution-how-much-should-we-help-species-adapt(https://www.bbc.com/future/article/20210324-assisting-evolution-how-much-should-we-help-species-adapt))をとちゅうまで。まだ序盤。ぜんぜん読んでいない。深夜にもまたすこし読んだが、さいごまでは行かず。


 いま風呂をすませてきて一〇時。きのうの日記を書こうとおもい、イヤフォンをつけてBGMもながそうという気になって、Thelonious Monk『Monk Alone The Complete Columbia Solo Studio Recordings: 1962-68』をえらんだ。さきほどMonkの独奏のコンプリート盤というのはどれがあるのかなとしらべておいたのだけれど、それで出てきたうちのひとつ。もうひとつ、『Solo』という、五四年から六一年までのコンプリート編集盤があるようなのだが、これはAmazon Musicにはないっぽい。それでうえの『Monk Alone』をながしたところが冒頭の”Body And Soul”からよくて、Monkのソロピアノはとにかくめちゃくちゃよく、なぜこんなによいのかわからない。


 五時まえに上階にあがってアイロン掛け。玄関の戸および居間からそちらにつづく扉はあけっぱなしになっており、父親は玄関内の小ベンチ的な座席にこしかけてスマートフォンをいじっていた。じきに歯医者や買い物に行っていた母親が帰宅。麻婆豆腐にするという。アイロン掛けを終えると台所にはいり、米を炊いたほうがよいだろうというわけでまずそのための準備。つまり食器乾燥機のなかに詰まっていた皿などをとりだして戸棚などの各所にもどし、それから洗い桶に浸かっていたほうれん草を絞って切る。メインとなる軸をいっぽん手にとったそのうえにさらにほかの葉っぱをいちいちむきをそろえてくわえていくかたちで束をつくり、両手でぎゅっとつぶしてしぼるとまな板に乗せていくつかにきりわける。それがすむと洗い桶をあらってザルで米を磨ぎ、六時半に炊けるようにセット。それから麻婆豆腐をつくった。中村屋のやつ。ソースをフライパンに押し出し、豆腐をひだりの手のひらにのせて、切り分けると投入。フライパンをかたむけたり木べらでかるく押したりしながらいくらか煮たあと、ネギを鋏で切って入れ、ポテトサラダにつかう用らしいエンドウマメもいくつかくわえた。青いものがなにかほしいとおもったからだが、母親はそれならレタスを入れればいいじゃんと言って、麻婆豆腐にレタスじゃあなあとおもって反対したもののききいれられずバラバラ投入されたのを木べらで混ぜつつまたしばらく加熱した。ごま油はすでにかけてあった。絹の豆腐だったし下茹でもしなかったのでくずれそうな気がしたのだが、おもいのほかにしっかりしていて、へらで押してもあまり欠けたりこわれたりしなかった。それで完成。
 その他この日はだいたいのところきのうの月曜日の日記をすすめることに費やされた。書きものに本格にとりくんだのはやはり夜から。とくに入浴後にけっこうがんばって、中断もはさみながら三時くらいまでやっていたはず。文を綴ることにたいするやる気を出すにはからだをととのえて血をめぐらせるにしくはないということを再認識した。瞑想は瞑想で心身がほぐれてなめらかにかるくなるので調律として不可欠なのだが、下半身のストレッチも活力を呼ぶには大事だ。「胎児のポーズ」がその点いちばんやりやすい。ねころがったままできるので、書見中とかにおりおりはさむだけでよい。つねにからだの調子を充実させて無理せずともいつでも文を書けるという状態をうみだしたい。

2022/4/18, Mon.

 一九六二年にフルシチョフは、核弾頭の搭載が可能で合衆国本土を射程に収める中距離ミサイルをキューバに配備することを決断した。合衆国のキューバ侵攻を抑止するとともに、米ソ間の核戦力バランスを少しでも均衡に近づけることを狙ったと見られる。
 一九五九年の革命により成立したキューバカストロ政権は、親米政権を打倒して成立したことから合衆国との関係が悪く、その結果としてカストロソ連に接近したため、キューバと合衆国の関係はさらに悪化した。一九六一年に亡命キューバ人ら反革命勢力がキューバ侵攻作戦を企てた際には、合衆国はこれを支援した。この作戦は失敗に終わったが、合衆国が本格的にキューバ侵攻に乗り出すおそれがあった。フルシチョフは、基本的に独力で革命を成し遂げたキューバの政権を高く評価していたと言われ、これを守ろうとしたと見られる。(end141)
 その一方で、ソ連ICBMを誇っていたが、実際には実戦で使えるICBMはまだ少なく、この時合衆国はソ連の四倍程度のICBM保有していると見られていた。このため、合衆国がソ連に先制核攻撃を仕掛けた場合、十分な報復能力がソ連に残るか危ぶまれる状況であり、ソ連としては合衆国に対する抑止が働くか不安に感じられる状況だった。そこで、合衆国に近いキューバに中距離ミサイルを配備し、合衆国本土への核攻撃能力を高めることで、合衆国のソ連に対する核攻撃を抑止する力も強化しようとしたと考えられるのである。
 合衆国は、偵察機の撮影した画像から、キューバに配備されたミサイルが核弾頭を搭載する可能性のあることを察知し、一九六二年一〇月、キューバ周辺海域を艦船と哨戒機によって封鎖するとともに、ソ連にミサイルの撤去を要求し、撤去しない場合のキューバ攻撃にも言及した。これはフルシチョフには予想外の強硬な対応であったようで(フルシチョフは集まった幹部たちに開口一番「レーニンの事業は失われた」と述べたとの証言がある)、ソ連指導部は国の存亡を賭けた対応を迫られることになった(キューバ危機)。
 この時米ソ間に直通の通信線(いわゆるホットライン)はなく、合衆国大統領ケネディフルシチョフ双方の疑心暗鬼もあって危機回避は危うい状況であったが、最終的にケネディキューバに侵攻しないことを約束し、フルシチョフはミサイル撤去を決断して、危(end142)機は収束した。このときキューバの最高指導者カストロは核ミサイルの使用をソ連に求めていたとされ、キューバ危機は核戦争に最も近づいた事件であったと言えよう。他方でこの事件は、米ソ間の直通通信線を生むなど、両国をやや歩み寄りに向かわせた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、141~143)


 この日は一〇時から通話だったので八時にアラームをしかけており、それで無事覚醒。しかし布団のしたでだらだらすごして離床するのはけっきょく九時ちょうどくらいになったはず。水場に行ってきて瞑想。それかもっとはやく水場には行ってきて、南直哉の本を読んでいたかもしれない。たぶんそうだ。それで脚はある程度揉みほぐすことができたはず。とはいえ睡眠がみじかいので万全でもない。しかしきのうが休日でたいしてうごいていないからからだは混濁というほどではなく、むしろどちらかといえばまとまっていた。
 瞑想を二〇分か三〇分くらいするとあがっていっててきとうに食事。あがった時点で九時三五分くらいだったはず。洗面所でうがいをしたり、食事はすくなめにてばやくすませたりして、九時五〇分くらいでしたへ。隣室にコンピューターなどはこんで準備。きょうはChromebookのほうでまずはいってみたのだが、画角はひろくてうつりも良いは良いものの、動作速度としてはあまり変わらないかむしろすこしだけわるいようだったし、あと音声がちいさくて調節がむずかしいという反応も来たのでやはりもとのパソコンでやることに。Chromebookは通話しながらインターネットをみたいときにつかうことにしよう。あと、LINEもそっちにいれておけば通話中に貼られたものなどをそちらでみることができる。Notionもすくなくともブラウザ版はつかえるようなので、常用パソコンは通話のときはかんぜんに通話だけに専念させればよいだろう。
 この日は三時すぎには労働に出なければならないしはやめにきりあげようとおもっていたのだが、けっきょくいつもどおり雑談にながくすごして二時まで通話していた。(……)
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 それから出勤までにたいした記憶はない。家を発ったのは三時四〇分くらい。雨はやんでいたが傘はもった。道中にもどうも明確な印象事がないので勤務まで飛ぼう。(……)
 (……)
 (……)先週の月曜日にはじめての授業に行き、水曜日まではまいにち登校したという。木金はオンライン。雨が降っていたからだというので、それ大学のときのおれじゃんと笑ってとうじのエピソードをはなした。大学はだいたい一年でみんな第二外国語をやることになり、こちらはイタリア語だったが、雨の日はめんどうくさいから行かないでいたところいつのまにか雨天にはかならず欠席するキャラクターにされており、ある日雨でもでむいたらおまえ雨なのになんで来てんのといわれた、というはなしだ。イタリア語のクラスでいっしょだったれんちゅうはけっきょくだれも二年いこうはぜんぜんつきあいがなくなり、西洋史コースにすすんだ二年からは(……)くんなどとのかかわりがはじまるわけだが、一年時のイタリア語のクラスメイトの顔もいくつかははっきりとおもいだせる。すくなくとも三人は出てきて、そのだれもなまえはもうわすれてしまったが、眼鏡をかけた短髪のひとりは松本みたいなかんじで「松」の字がついたはずだ。もうひとりはエジプト研究会みたいなサークルに属していた。あまりにもなつかしい。今後の人生で再会したりかかわったりすることはないだろうし、かりに顔をあわせたとしてたがいにたがいを認識できないだろう。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)退勤は一〇時すぎになった。九時をまわったあたりでカードは切ったわけで、そこからのこりすぎである。