2022/4/17, Sun.

 ミサイル・ロケットの開発能力を誇示しつつ、フルシチョフ軍縮を訴え、一九五九年一~二月に開かれた第二一回党大会では次のように述べた。ミサイル技術でわれわれが優位にあるときに、米英仏に提案する。原子兵器、水素兵器、ミサイルの実験、生産、使用を永久に禁止しようではないか。この殺人兵器のストックをすべて廃棄しようではないか。これからは平和目的にだけ、人間の幸福のためにだけ使おうではないか。わが政府は明日にでもしかるべき条約に調印する用意がある。(end139)
 フルシチョフはこのように述べつつも、アメリカ帝国主義、西ドイツの軍国主義と復讐主義を非難していたから、この提案が米英仏に受け入れられる可能性はまずなかったが、フルシチョフは真剣に軍縮を求めていたように思う。独ソ戦で大きな被害を受けた西部の復興はまだ途上であること、国民は「雪どけ」を歓迎し平和を強く求めていること、ソ連が軍事的にも経済的にも合衆国に劣っていて、軍拡競争の負担はソ連にとってより重いことをよく認識していたと思われるからである。
 フルシチョフは一九六〇年九月の国連総会でも、核兵器の運搬手段の廃棄や外国基地の撤去などを第一段階とし、第三段階までの順を踏んで軍縮を実現することを提案した。実際フルシチョフは、自国の兵力の大幅削減を実行し、一時的にではあるが核実験を一方的に停止しさえした。
 結局、スプートニク・ショックの大きさとソ連への不信感から、合衆国指導部は核軍縮の提案には乗らず、核の運搬手段においてソ連に遅れをとってしまったとソ連の脅威を喧伝してICBMの開発に力を入れた。一九六〇年代に入る頃には合衆国はソ連をはるかに上回るICBM保有するようになって、核戦力バランスは合衆国優位に一層傾いた。とはいえ、ソ連は、一九六一年四月にガガーリンによる有人宇宙飛行を世界で初めて成功させ、科学と技術の水準の高さを世界中に印象づけた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、139~140)



  • 「英語」: 578 - 600
  • 「読みかえし」: 657 - 664
  • 一一時に離床。さいしょになぜか七時台にさめた記憶がある。さすがに睡眠がみじかすぎるので無視してねむり、それからもういちどか二度さめたのちに正式な起床にいたった。天気ははっきりしない白曇りだが雲のなかに陽のつやがまったくないでもなかった。アレグラFX一錠を歯のあいだにはさんで洗面所に行き、服用。トイレで用を足してもどってくるとベッドにころがり、南直哉『「正法眼蔵」を読む』をしばらく読んだ。一一時四五分くらいから瞑想。三〇分ほど。三〇分がかなりながくかんじられるようになっている。体感ではもうすこしすわったかなというのが目をあけてみると三〇分しか経っていない。時間の連続性と、すきまのなさと密度が増しているようなかんじ。


 上階に行ってジャージにきがえ、食事はサバなど。新聞、書評面をおもに。入り口のところで北方謙三がとりあげられていてなんとなく読んだが、意外にもはじまりは純文学方面だったという。七〇年に『新潮』に載ったのがさいしょだと。しかしふるわず、同世代の文学仲間だった中上健次などみても、おなじ題材で書けばじぶんのほうがうまく書けるという自信はあったがしかしおれにはその題材がないということを痛感したと。一〇年間で掲載されたわずかな作をまとめた本を出したときに、編集者にエンタメ方面への転向をすすめられ、そういう気になってやってみるとそれがうまくいき、八〇年代以降のハードボイルドブームをうむことになったという。中上にはない物語性をたぶんに確保しつつ、そのなかににんげんがにじみだすようなスタイルをめざして確立したと。
 書評本面では中島隆博が「いい子症候群」なるものを題材にした本をとりあげており、苅部直講談社現代新書の吉田量彦『スピノザ』というのをとりあげていた。後者は伝記的な側面と思想とを両方丹念に追う正統的なやりかたでありながら画期的なしごとだというのでちょっと気になる。新書だから読みやすそうでもあるし。食事を終えるといつもどおり食器と風呂を洗い、茶をつくって帰室。茶はきのうだかに母親が買ってきてくれた六〇〇円くらいの狭山茶なのだが、どうもやはり苦味のかんじがあまり好みでない。それを警戒して茶壺にはいれず、開封した袋から急須にいれて洗濯ばさみでとめておいたが、それで正解だった。あと、となりの(……)さんが今朝だかきのうの四時に亡くなったらしい。一〇一歳だか一〇二歳だかわすれたが、いずれにしても大往生。とつぜんくるしいようすになってそのままながびきもせずに逝ったと。さいごまでたいしたものだった。
 いつものように音読。「英語」と「読みかえし」を読み、便所に行って糞を垂れてくると、なんとなくためてあるPDFファイルのフォルダをみて、関口存男「わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか?」を読みはじめた。ねころがって一時やすみながらしばらく読む。語り口が軽妙でなかなかおもしろい。どこでひろったのだったかわすれたがいぜんネット上で入手したファイルのはずで、関口存男は著作集みたいなのがマイナーな会社から復刊されているのだけれど、それがどれもこれも一万円いじょうするみたいなぼったくり的商売だったはず。はなしにならん。社会貢献ということをなにひとつかんがえていない。むかしのひとなのだし、ぜんぶ無料で公開するべきだ。ドイツ語や語学を真摯にやりたいというにんげんへの援助ならびに文化的発展ということについてなにもおもわないのか? そんなら「猿でもわかる! 一週間で英語がスラスラしゃべれるようになる三つの秘訣 ~グローバル人材として世界にはばたく理想の自分を手に入れよう~」という情報教材サイトでもつくってアフィリエイト商売をしているがよい。
 そのあとここまで記すと三時。


 いま一八日の午前零時半まえにいたっており、きのうの記事はさきほど完成して投降したのだが、職場のことをいろいろ書いてぜんたいで一三〇〇〇字くらいになった(はてなブログの投稿フォームによれば)。それくらいおおく書くとどうもNotionの動作がおそくなるというか、文字を入力しても表示されるまでにわずかにラグがうまれてしまって、そうするとやはりきもちよくスムーズに書けないので困った。たぶん一万字を越えるくらいからそうなる気がする。これはネット回線の問題というよりも、パソコンじたいのスペックの問題なのだろう、おそらく。やはり電源ケーブルからはずしてずっとつかっているのがよくなくて劣化がはやいのかもしれない。しかしスツール椅子にのせるとちょうどすっぽりはまって側面のいちばん奥側にある接続の穴にはどうやったってケーブルをつなげない。イヤフォンジャックならてまえのほうにあるので、椅子をのむきをちょっとずらして側面が出るように置けば(やや不安定になるが)イヤフォンは挿せるのだが。それで解決策としてメモ帳に打ちこんである程度書いたらそれをコピペしてNotionの記事にうつすという迂遠な方法をとったのだけれど、これが意外とよい。メモ帳はいまはフォントが設定できるようになっており游明朝もあるし、じつにかるいソフトだからスラスラと綴ることができ、サイズ12の細字で游明朝の文字が真っ白な背景上にならんでいるのはなかなかきれいできもちがよい。Notionのほうはダークモードにしているのでやや練ったような黒さのうえに白字なのだ。それより白背景に黒字のメモ帳のほうがなんだかすっきりしてみえてここちがよいのだが、これはおそらく細字設定の寄与がおおきい。標準だとああまあまあまあ、まあね、うんまあわかるけどまあ、というかんじになる。細字のさらさらとしたかるさのほうがよい。こんどからながくなって動作が遅くなったらメモ帳をつかおう。というかむしろもうメモ帳で書いて完成したらNotionに貼るくらいでもよいかもしれない。テキストファイルで保存しておけばついでにバックアップにもなる。そこまでしなくてもよいか?


 きょうはだらだら休んだり関口存男の文章を読んだり家事をしたり日記を書いたりといつもどおりの休日にほかならない。きのう、一六日の記事にはそこそこ手間取ったというか、書くのがむずかしかったことはひとつもないのだが、職場のことがながくなるとおもっていたけれどおもったいじょうに書くことがあったというあとあじ。とはいえぜんたいで一万三〇〇〇字だからそこまでの量でもないのだが。このくらいの記事をコンスタントに翌日までに書けるようになったらたいしたものだが、しかし休日だからできたのであって、労働があると完成まで行くのはきついだろうな。いずれにしてもここ数日の書きぶりはひじょうにかるく抵抗がなくおちついて記せるようになっているので、この感じをたもちたいところだ。がんばって書くのをやめること、とにかくちからを抜くことが旨だとおもっていながら、油断するといつのまにかがんばっているということがよくあるので。


 四時ごろにはやめに上階にあがってアイロン掛け。手をうごかしながらときおり顔をあげて、正面、南窓のむこうをみやる。風景に春の葉の量が増えてその範囲がひろくなり、空間がいかにもみどりして、陽のいろのない平板な空気ながら色調があかるくいろどられているのがみてとれる。空はかわらずのとざされた白曇りで、やまぎわちかくにはほんのわずかな窪みといったかんじで青灰色がほのかに混ざりながれており、そのしたの山は冬も生きていた濃緑よりも、いつのまにかはだかをやめた木の若い明緑がおおいくらいで、巨人がそこをのぼるためのみちびきのように斜面をいろどり染めている。
 そのあといったん室にもどり、五時半ごろにあがっていくと母親がまだやっていないというので飯の支度をしたのだが、なにをつくったのだったかわすれてしまった。タマネギと卵の味噌汁か。おかずになにをつくったのかはわすれてしまった。夕食の調理を終えたあとは居間のかたすみのボックスのなかに新聞紙がたまっているので、それを紐でゆわえてそとへ。玄関を出るとちょうどオートバイに乗った男性がやってきてとまったので、配達かなにかとぼんやりおもってご苦労さまですとあいさつしたのだが、するとお父さんいますか? という。それで新聞紙の束をそのへんに置いておいて室内にもどり(玄関をくぐるまえにおなまえは? ときくと、(……)さんだといった)、ソファについていた父親に来客だと告げた。そうしてそとにもどり、いま来ますんでといいつつ物置きのほうへ。道路のむこうにはまたべつの高年女性がいたのでこんにちはとあいさつを投げたが、これはとなりの(……)さんの関係で、(……)さんかもうひとりのほう((……)さんといったはず)かわからないがその奥さんだったのではないか。物置きに新聞紙をいれてもどるとさきの(……)さんと父親がその女性と顔をあわせてやりとりをはじめ、(……)さんはどうやら(……)らしく地域の役職者として香典をわたしにきたようなようすだった。こちらもいちおう(……)さんとはながく隣人で関係したにんげんではあるので遺族にあいさつしておいたほうがよいかともおもったのだが、面識もないし、そこにはいっていくのもきおくれしたのでさっさとなかへ。

2022/4/16, Sat.

 第二次世界大戦アメリカ合衆国と対峙し競争していたソ連は、現実の国力では合衆国に大きく劣っていた。その差がとりわけ際立っていたのが、軍事力、特に核戦力においてであった。合衆国が大戦中に原爆をすでに実用化し、広島と長崎に投下してその強大な破壊力を見せつけたのに対して、ソ連はまだ原爆の実用化に至っていなかった。このためソ連側は強い危機感を抱き、多大な人的物的資源を投入し、合衆国に対するスパイ活動もおこなって原爆開発を急いだ。国内各地に極秘に核開発を進める「閉鎖都市」が作られ、科学者と技術者が集められた。原料となるウラン採掘には囚人労働が大規模に用いられた。
 こうした努力によってソ連はようやく一九四九年八月に原爆実験に成功したが、その後もしばらくは、運搬手段がなかったため合衆国本土への核攻撃能力は持たなかった。一方、アメリカ合衆国はこの頃原爆を一〇〇発以上保有し、ソ連本土への運搬手段も持っていた。米ソの核戦力の差は圧倒的であり、スターリンが「熱戦」を恐れたのも無理はなかった。
 一九五三年までに約五〇発の原爆を保有するようになったソ連は、一九五三年八月には(end138)水爆実験の最初の段階に成功した。合衆国との戦力差はなお大きかったものの(合衆国はすでに一千発程度の原爆を持ち、一九五二年一一月には水爆実験にも成功していた)、ソ連がこれほど早く水爆開発を進めていることに合衆国側は驚きと脅威を感じたという。
 ソ連は一九五七年八月には大陸間弾道ミサイルICBM)の発射、一〇月には人工衛星スプートニクの打ち上げにいずれも史上初めて成功した。ミサイル・ロケットの打ち上げと制御の技術は、核兵器の運搬能力に直結するから、ソ連が合衆国に先んじてスプートニクの打ち上げに成功したことは、ソ連が合衆国全土に自在に核兵器を落とせるかのような印象を生んだこともあって(フルシチョフは、ソ連がロケットを数十万キロも彼方の宇宙空間に飛ばすことができた以上、地球上のどの地点にでもミサイルを撃ち込めるのは明らかだと公言していた)、合衆国の国民に大きな衝撃を与えた(スプートニク・ショック)。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、138~139)



  • 「英語」: 564 - 577
  • 「読みかえし」: 653 - 656
  • 一一時ちょうどに起床。カーテンのあいまにのぞく空はくもりながらも陽の質感をもらしていたが、その後に瞑想をしているあいだには雨粒がぱらついて窓ガラスにあたるおともきいた。午後二時まえ現在では空にみずいろがあらわれ白さを溶かしつつ、ひかりのおだやかさも近所の家壁にふれている。おきて鼻を掃除し、洗面所に行ってアレグラFXを服用。用を足してもどってくるとねころがって本を読んだ。南直哉の『「正法眼蔵」を読む 存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ、二〇〇八年)をきのうから読みはじめている。一一時四五分から瞑想。れいによってだんだん便意がもたげてきて一五分くらいしかすわれず。


 また無意識に箇条書きにしていた。上階に行き、無人の居間でジャージにきがえ、食事。いつものようにハムエッグを焼こうとおもったところがハムがなく、卵もひとつしかない。冷凍に肉をもとめたがこちらもない。どうしようかとかんがえ、野菜室にキャベツをみたのでそれと卵で炒めて米に乗せることにした。味噌汁の鍋をあたためるいっぽうでフライパンに油を垂らし、そのうえからキャベツを包丁で切り落とすようにしていくらか削ぎ、炒めて卵も割り落とした。丼の米にまとめて乗せて卓へ。新聞一面はウクライナ情勢。きのうのニュースですでにみたがロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」沈没の報。大型ミサイル巡洋艦という種類の船であるこの艦は、S300とかいう防空ミサイルをそなえていて、ウクライナ南部に攻撃をしかける隊にたいして防空網を提供する役割をはたしていたといい、したがってそれがうしなわれたのはロシアにとってはおおきな打撃であり海軍力の低下はさけられず、攻撃戦略にも影響があるだろうと。ロシアはキーウにむけてミサイル攻撃を再開し、それは報復の可能性がある。東部への部隊配備はおくれており、総攻撃はまだはじまっていないらしい。ロシアがわはマリウポリの製鉄工場を「解放」したと発表したが、これがきのうおとといにウクライナ軍とアゾフ大隊のさいごの拠点としてつたえられていた製鉄所とおなじものだとすると、マリウポリはいよいよ制圧間近ということになるのではないか。ウクライナがわはその情報を否定。
 今年末にむけて自民党が安保関連三文書の要綱案を提案したという報もあった。NATOが各国にもとめている数値にあわせて、GDP比で年二パーセントの防衛費割合を五年以内に実現することをめざすと。いわゆる「敵基地攻撃能力」は専守防衛の枠組みのもとで保有。攻撃対象として基地のみならず敵側の司令本部などもふくむといい、それは司令部をたたかなければミサイル攻撃などの連続をとめることは困難であるとのかんがえからだと。
 食事を終えると台所のながしで皿を洗い、炒めものにつかったフライパンはみずをそそいで火にかけておいて風呂場へ。浴槽をあらって出てくると沸騰したフライパンから湯を捨てて、キッチンペーパーで汚れをぬぐった。そうして白湯をコップに一杯もって帰室。Notionを支度してきょうの記事をつくり、湯をちびちびすすりながらウェブをちょっとみたあと「英語」記事を音読。そのうちに買い物に行っていた両親が帰宅した。「読みかえし」にうつるまえに白湯をおかわりしに行くと、「トイザらス」まで行ってきたという。ゴールデンウィークに兄夫婦が来るようだから子どもらにあげるものをみてきたのだろう。音読に切りをつけると一時四〇分くらいで、ここまで記して二時まえ。きょうは六時から労働。五時半過ぎには出る。それまでに一三日の記事を終わらせたい。そうすればあとはきのうのことを書くだけ。


 いま三時半。一三日の記事はかたづけ、一四日分とあわせて投稿し、きのうのことも往路まで書き終えた。よい。きのうあたりからすらすらと書ける。出るまえに一五日をさらに書けるかわからないが、ここまで記せばあとはどうにでもなる。帰宅後やあしたでもすこしも問題ない。

 いま五時すぎ。三時半すぎから瞑想をして、そのあとストレッチも。ストレッチも息をがんばって吐くのではなくてやはりちからをぬくようにやったほうがよい。それから上階へ行き、母親が買ってきたやわらかいパンにメンチカツをはさんでバナナとともにもちかえった。パソコンをまえにそれを食ったのち、ゴミの始末をしていなかったのでついでにいっしょにもっていってかたづけ、食器乾燥機のなかみもついでに棚にもどしておいた。そうして白湯とともにもどってくるときのうの日記のつづきを記し、終えることができた。すばらしい。きょうのこともこれで現在時に追いついたので余裕がある。


 出勤まえに短歌を二首。「ともしびのゆらぎにおもう罪もあり表情筋の波頭ま白く」「夕暮れと真昼を分かつ破線上冒険者には既知がみえない」
 歯をみがいたりスーツにきがえたりと身支度をすませると一〇分ほどあまっていたので一曲だけなにかきくかとおもい、中村佳穂の”きっとね!”をながした。それから”忘れっぽい天使”も。中村佳穂はアクセントのつけかたとかうたっているとちゅうのことばの切りかたが独特で、この単語のこのぶぶんで切るんだ、とおもうところがあった。みじかく切りながらおとを置くようにしてうたうことがけっこうおおい。いま具体的にはおぼえていないのであした(一七日)いこうでやる気になったらききなおして記す。あと”忘れっぽい天使”だと、ほんとうに秋虫のすきとおった翅がふるえているみたいなかんじのビブラートもおりおりあって、その質感はほかであまりきいたおぼえがない。「遠い遠いむこうには」のぶぶんにひとつわかりやすいのがあった気がするが。
 上階に行き、靴下を履くと出発。林縁の石段上にはつよい紅色の花木がまだ宙にいろをのこしている。五時四〇分ごろだが南の山には濃淡でややまだらになったみどりのうえに陽のいろが乗っておだやかな暮れ、公団前までくると棟にちかく空の低みに溶けこむようなほのかな雲が、引かれたりまるめられたりいろいろありながらも整列というかんじで縦幅をくぎって横にながくつづいていた。公園の桜などみながらぼんやり行っていると、行ってらっしゃい! という声が急に横から飛んできてちょっとびっくりしたのだが、それは庭の前栽めいた低い草のむこうにしゃがんでいた(……)さんが発したもので、そこにいることにマジでまったく気づいていなかった。あ、こんにちはと受け、ご苦労さまですとかえして坂へ。
 ガードレールのもと、斜面のはじまる端のあたりに、キュウリの皮を剝いであわせたみたいなながい濃緑の葉のシャガの花が咲きだしていた。坂を終えて最寄り駅までくると八重の桜がいっぽんまだ薄紅を宙にばらまいており、盛りとみえなくもないが葉のみどりもすでに混ざりはじめている。からだのむきを変えると付属広場に立った大傘型の枝垂れのほうも淡い桃色をひろげつつもやはり軽いみどりがちらほらみられて、斉一の充実がくずれはじめるころのその色彩のとなりあいはあざやかで、官能的で、粋である。ホームにはいるとひとがなぜかたくさんいた。すぎて先頭のほうに行き、来たものに乗車。扉ぎわで目を閉じて手すりをつかみながら到着を待つ。山帰りのひとがやはりおおい。
 ついておりると駅をぬけて職場へ。勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 そうして最寄り駅までともにのり、あいさつをして別れて降りたのち、帰路にとくだんの印象はない。淡く雲をかけられた月が浮かんでいたくらい。帰宅後は休んで食事し、風呂に浸かって疲労を回復したのち日記を少々。しかしさすがに疲れていてたいしてできず、ベッドに避難しているうちに意識を落として四時を越えていた。風呂にはいりはじめたあたりでは、眼鏡をながい時間かけた影響であたまのなかや額や眼窩のうちがわあたりがかなりこごったようになっており、頭痛もあったのだが、冷水でなんどか顔を洗ったりあたまにもかけたり、またこめかみや後頭部や耳のまわりを揉むことでいちおう回復した。とくに耳の付け根やその付近の側頭部や後頭部をよくほぐすのが意外とかなり大事そう。

2022/4/15, Fri.

 コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(ソヴェト農場、国営農場)は、同じく集団化された農業経営でありながら、そこにいる「農民」の待遇は大きく異なっていた。ソフホーズの「農民」は、「国営農場の労働者」として国内パスポートを給付され、賃金が保証され、国家年金法の対象とされた一方で(ソ連では一九二〇~一九三〇年代に労働者、勤労者に対する老齢年金制度が整備され始め、一九五六年七月には国家年金法が制定されて、男性では六〇歳以上で勤務期間二五年以上の者、女性では五五歳以上で勤務期間二〇年以上の者に対する国家年(end136)金制度が設けられていた)、コルホーズの農民は「協同組合員」であり、一般に国内パスポートは給付されず、賃金の保証はなく、協同組合としての互助が求められたため国家年金の対象ともされなかった。しかし、MTS [機械・トラクターステーション] が所有していたトラクターやコンバインなどの農業機械の買い取りによってコルホーズの経営が圧迫されたこともあって、老齢者・障害者に対する互助として年金を給付する経済力のあるコルホーズは少なかった。
 農業集団化はコルホーズ中心でなされ、ソフホーズは当初少数であったが、フルシチョフ期には、経済的に弱いコルホーズを救済する手段としてコルホーズの合併によるソフホーズの創出がなされたため、一九五四年から一九六五年にソ連全体で五〇〇〇以上のソフホーズが、コルホーズからの転換によって作り出された。処女地開拓をおこなうためにソフホーズが設立されたこともあって、開拓地全体の六割近くが開拓されたカザフスタンでは、一九六五年の時点でソフホーズでの生産がコルホーズでの生産を上回っていた。こうして一九六〇年代半ばには全国的にソフホーズコルホーズに匹敵するほどの規模となり、コルホーズソフホーズにおける待遇の違いは問題だと感じられるようになっていた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、136~137)



  • 「英語」: 550 - 563


 一〇時半に覚醒して、布団のしたでしばらく息を吐きつづけたのち、一〇時五〇分に離床。ちょうど七時間の滞在。からだの感触はなめらかだった。水場に行ってうがいや洗顔、用足しをしてくるとコンピューターをもってまたねそべった。きのう『魔の山』を読了し、つぎになにを読むかまだかたまっていなかったので、きょうはウェブをみながら脚をほぐしたのだ。南直哉の『「正法眼蔵」を読む』を読もうかなという気になっているが。一一時半から瞑想。二五分。よいかんじ。肌だかすじだか、すわっているうちにからだの各所が、泡がやぶれるようなピリピリとくすぐったい刺激を生みながらほどけていく。
 上階へ。きょうも雨降り。ジャージにきがえて食事はカレー。米がもうのこりすくないのであとで出ていくまえに磨いでおいたほうがよさそう。新聞一面からウクライナ情勢を追う。ロシア黒海艦隊の旗艦である大型ミサイル巡洋艦「モスクワ」がおおきな被害をうけたと。新聞にはまだその情報はなかったが、同時にながれたテレビのニュースでは火災によって沈没したというロシアがわの発表がつたえられていたし、きのう時点ですでにそういうはなしはどこかでみたおぼえがある。ウクライナがわはミサイルで同艦を攻撃し、多大な損害をあたえたと主張しており、ロシアがわの報道は火災の原因についてはふれていない。米国のジェイク・サリバン大統領補佐官やジョン・カービー国防総省報道官は、攻撃を独立の事実として確認できていないが、ウクライナがわのいいぶんは妥当でもちろんありうることだと述べた。ロシアはキエフ再攻撃を示唆するようなことも言っており、東部からウクライナ軍の勢力をひきはなしたいようす。マリウポリではウクライナ兵一三四人が自発的に投降したと主張している。
 日本海周辺でロシア軍の軍事演習がおこなわれてミサイルが発射されたという報もあった。欧米にくみしてロシアと対立した日本への牽制らしい。
 食事を終えると皿を洗い、そのまま風呂洗い。白湯をもってもどるとNotionを準備して、FISHMANSをBGMに英文をすこし音読した。それからここまで記して一時二三分。からだの質感はだいぶなめらかでかるく、おちついている。きょうは三時に出る。


 いま一六日の午前一時四〇分ごろ。月曜日、一一日の記事をしあげて、すでにしあがっていた一二日のぶんとあわせてブログに投稿した。きょうはなぜかわからないがからだがめちゃくちゃかるくまとまっており、労働もあったのだけれど疲労をほぼかんじていない。とにかく心身がおちついており、感触がやわらかなめらかで、文を書くのも楽だし焦りがまったくない。焦りというのは基本的にいまのじぶんの状態とさきのことをみるじぶんの意思とか意図とか思念とかが乖離しているところから生まれるもののはずで、いまのじぶんの状態とみずからの意思や意図や傾向性が一致していれば生じないのだろうとおもう。きょうなぜこのような明晰かつ柔軟な心身になっているのかその理由はよくわからない。瞑想がそれにおおきな一役を買っているのはうたがいがないが、かといって瞑想をたくさんやればそれだけでいつもこうなるというわけでもない。とにかくちからがぬけている。それがこのクソみたいな世を生きるにあたってやはり肝心なことだ。この世というものは個々ですばらしい、おおきな価値あるものごともいろいろありながらも根本的にはもちろんクソなわけである。世間としてもクソだし、世界としてもクソだ。それはうたがいのない前提である。それにきづいていないにんげんはそのことを知りたくなくて目をそむけているか、無知であるか、感性か知性のどちらかがにぶいだけだ。そうでなければたぐいまれな楽天性や幸福生産力をもちあわせているか。この世がクソな点はいろいろとあるが、ひとつには、にんげんに無理にがんばることを強いるというのがそうである。世界はかならずそのひとがとくにやりたくもないことをやるように強制し、それができないにんげんをおちこぼれとして迫害する。世界はかならずひとになにかをやらせるようにはたらき、なにもやらないということをゆるさない。緊張と能動と積極性と負担を強いてくる。われわれはそれに抵抗するために、できるかぎり楽にならなければならない。楽になるというのはむやみに弛緩するとかなまけるということではない。じぶんじしんと真に一致するということである。じぶんじしんと真に一致するとは矮小なエゴにとらわれて自分勝手にこだわるということではない。じぶんじしんをとおしてじぶんではないものにひらかれつつ、じぶんじしんをもひとつのじぶんではないものとしてそれに最大限ひらかれていくということである。他者にたいするいたわりと奉仕心をもたないにんげんはクソだ。それが傲慢さの最終形態である。

 二時半くらいまで文を書き、一三日水曜日の記事の勤務中でいまとまっているのだが、歯磨きをするあいまに一年前の日記を読みかえしてみた。一年前の四月一五日木曜日はいろいろ引いていてながく、さいしょのほうのすこししか読んでいないが、二葉亭四迷浮雲』についての感想がそこそこおもしろかった。さいきんもトーマス・マン魔の山』について印象にもとづいた感想をおりおりつづったが、去年もけっこう書いていたのだなと。ライトノベルとやりくちがおなじじゃんという分析、ならびに「お勢はいまでいうところの小悪魔的な女子というのか、からかい好きな女性らしく、それに堅物の文三が焦らされ振り回されてうだうだする、みたいな調子で、だから日本の小説って一三〇年前からおなじことをやっているのか、と思った」というのはあらためて読んでみてほんとうにそうだなあというか、しょうもねえなあとおもった。すくなくとも近代をむかえて流通ということが旨となっていらい、おおくのひとにうけるやりかたというのはそう変わりはしないのだろう。

  • (……)二葉亭四迷はその後も合わせていま47くらいまで読んだが、冒頭の二葉亭四迷自身の序文と、彼が相談した相手でありこの作品を世に出すにあたって寄与があったらしい坪内逍遥の推薦序文の両方とも、文章のリズム感が当然ながら現代のものとはまるで違うし、いまや失われてちっとも知らない語彙もたくさんあって、それだけでもうかなり面白い。この二つの序文はたぶん、どちらかと言うとまだ漢文の感覚をそこそこ残しているのではないか。本文も似た感じではあるのだが、いわゆる言文一致というやつで、たしかに落語家とか講談師などがいま目の前で物語を話している、というような感じを出そうとしているのが見受けられる。文体=語り口の調子自体もそうだし、ほかにもたとえば、「(……)トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸作りの二階家へ這入る。一所に這入ッて見よう」(10)とか、「ここにチト艶 [なまめ] いた一条のお噺があるが、これを記す前に、チョッピリ孫兵衛の長女お勢の小伝を伺いましょう」(19)、「これからが肝腎要、回を改めて伺いましょう」(23)というような読者への呼びかけに、そのあたりあらわれているだろう。「回を改めて伺いましょう」というのは、この小説の区分けが「第一編」、そしてそのうちの「第~回」という言い方になっているからで、先の23の文言は第二回の締めくくりにあたるのだけれど、そういう語り口に言ってみれば紙芝居的な趣向を感じないでもない。今日はここまで、続きは次回、また聞きに来てね、という感じだ。そういう、みずからが語る物語に対して語り手が距離を取って自律しており、あれこれ言及したり評論したりしてつかの間姿をあらわすメタ的手法というのは珍しくはないのだが、二葉亭四迷のここでの紙芝居的な演出に近いものは、たとえば現代の漫画雑誌で毎話コマの外に記されているコメント、編集部なのか作者なのか主体がわからないがなんか感想じみたことを述べたり次回の内容をすこしだけ紹介したりするあれのようなかたちで残っているのではないか。それはともかく、「伺う」というのは「聞く」の謙譲語だから、話者が聞き手である読者の立場にみずから同一化しにいくような言い方で、つまり自分も話を語りながらひとりの聞き手としてみなさんと一緒に物語を聞いていますよという含みが出るので、より読者を対象化しつつ巻きこむような言葉遣いだなと思ったのだが、これは検索してみると、「《「御機嫌をうかがう」の意から》寄席などで、客に話をする。また、一般に、大ぜいの人に説明をする」という用法があることが判明した。だからやはり、語彙からしても落語や話芸のそれになっているわけだ。
  • 内容としては若い男の下級官吏がやっかいになっている叔父の娘に惚れて嫁にもらおうとするのだけれど時あたかも都合悪く役所をクビになってしまってさてどうするか、というあたりまでがいまのところ。全体的に話芸の気味というか、諧謔味というか、これがいわゆる戯作、というやつの雰囲気なのか、語り手が人物をちょっと戯画化しながらユーモラスに話す感じがあって、冒頭の役所から帰る男たちの描写にすでにそれはふくまれている。二葉亭四迷はたしかツルゲーネフを読んで翻訳し、日本の文学にもあちらのやり方を取り入れようとしたとか聞いたおぼえがあるが、うだつの上がらない冴えない平役人をちょっと滑稽に扱っているあたりはたしかにロシアの、ゴーゴリなんかを思わせないでもない。ところで主人公内海文三は先に書いたとおり、叔父の娘だから従妹にあたるお勢という女性と仲良くしていて、互いに互いの好情をわかっていながらも決定的な恋愛関係もしくは夫婦関係に入る手前のぬるま湯のなかでいちゃいちゃしている、みたいなところがあるのだけれど、これライトノベルやんと思った。べつにライトノベルに限らないのだが、漫画とか大衆小説の方面とかでよくあるやつじゃん、と思って、やり口としてはかなり流通的になっている。ある夏の夜に家内がみんな出かけているなかでお勢の部屋で二人きりになるところがあるのだけれど、文三は話しているうちに自分の感情を抑えきれなくなって、もうすこしで告白しそうになるというか、ほぼもう思いを言ってしまっているような言葉を発するのだが、そこでお勢は、「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」(29)と出し抜けに言って風景のほうに視点を移すのだけれど、これライトノベル方面でよくあってネタにされてる、聞こえないふりをするやつじゃん、と思った。そこから記述は庭の描写に移行し、さらにお勢の姿を横からながめる文三の視線に移るのだけれど、「暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面 [よこがお] が次第々々に此方へ捻れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢う」(29~30)などという動きの推移がそのあとにあって、このスローモーション的な演出も、なんと言えば良いのか、いかにも、という感じがして、ちょっと映画みたいな雰囲気もある気がするが、それで流通的なやり方になっているぞ、と思ったのだ。そのあとまた文三が思いを伝える寸前まで行きながらもひとが帰ってきてそこで打ち切りとなるのも、よく見るやつだ。こういう一夜がありつつも二人の関係はやはり決定的な踏みこみにいたらず、お勢のほうは相手が恋情に屈託しているのをどうも知りながらわからないふりをして、「アノー昨夕 [ゆうべ] は貴君どうなすったの」(31)などと言い、「やいのやいのと責め立てて、終 [つい] には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッた」(31)りもして、実際にからだを触れ合ってもいるようで「じゃらくらが高じてどやぐやと成ッた」(32)りもしているのだけれど、こいつら何いちゃついてんねん、とまあこういう感じで、お勢はいまでいうところの小悪魔的な女子というのか、からかい好きな女性らしく、それに堅物の文三が焦らされ振り回されてうだうだする、みたいな調子で、だから日本の小説って一三〇年前からおなじことをやっているのか、と思った。まあこういうのはべつに日本に限らず、もっと昔からあるのだろうが。また、物語と人物関係としてはそんな様子だけれど、おりおり風景などの描写もけっこう仔細に書かれていて、それはわりと良い。だがこちらがいまのところ一番面白かったのは、先に触れた場面の直前、文三がお勢の部屋に招き入れられて話をしているところで、文三としてはお勢に恋しているわけだけれど、彼女とあまり仲良くしていると叔母などになんだかんだ言われ噂されるからそれは嫌で、だから彼女の部屋に入るのにも躊躇して、「お這入なさいな」(24)と言われてようやく、まだもごもごしながらも踏み入るというはっきりしないありさまで、そこでお勢は、母からはそんなに仲が良いなら結婚してしまえとからかわれる、でも私は「西洋主義」(26)で嫁に行くつもりはなし、こんなことを言ってる女は友だち連中のなかでも自分だけだし、心細いけれど、でもあなたが「親友」(27)になってくれたからよほど心強いです、みたいなことを語る。お勢はかぶれやすい気質で、隣家の娘が儒者の子で学問をものしていたのを真似て塾に行っていた時期があり、ただ肝心の学問は半端におさめたくらいで終わったようなのだが、この時点ではそこから退塾して帰ってきているわけだ。文三は「親友」関係では満足できないだろうから、あなたと「親友の交際は到底出来ない」(27)と受け、あなたは私をよくわかっていると言うが実際にはわかっていない、「私には……親より……大切な者があります……」(27)と恋情をほのめかす。それにお勢も、「親より大切な者は私にも有りますワ」(27)とこたえて、そして誰かと問われたのに断言するのが、なんと「真理」なのだ。「人じゃアないの、アノ真理」(28)と言っているのだ。ここはちょっとびっくりしたというか、唐突に出てきた大きな概念の大仰さに滑稽味をおぼえながらも、ここで、明治時代の女性に「真理」などと言わせるのか、と印象深かった。まあ、こいつ何言ってんねん、という感じではあるし、男性がこう口にしたとしても大しておどろきはなく、むしろ中二病的な臭みが出るというか、大仰さが半端に終わってわざとらしいことになる可能性が大いにあると思うのだけれど、明治時代に書かれた小説のなかで女性の人物がこう口にすると、大仰さが突き抜けて臭みとかが追いつけないところまで行っている、という感じがする。実際のところ、歴史社会を想定するに、この時期(『浮雲』第一編は一八八七年に発表されている)の女性でこんなことを言うひとはほぼまったくいなかったはずで、だから当時の読者は、いやいやこんな女現実にはおらんやろ、という受け止め方をしたのではないか。相当に奇矯な女性像として受け取られたのではないかと想像されて、そのあたりもだから、ライトノベルとか漫画とかでやたら突飛な言動をする女性キャラが、現実にはそんな風に振る舞う女性はほぼいないにもかかわらず、なぜかキャラクターとして可愛く描かれ、一定数の読者の心をつかんでいるのと似たようなことになっていたのかもしれない。作者自身も当然、こうした女性が突飛で奇矯だということは理解していたようで、だから第二回のタイトルは「風変りな恋の初峯入 上」となっているし、第三回になると「余程風変りな恋の初峯入 下」と、わざわざ「余程」をつけたして強調しているから、その点読むひとに対してことわっているわけだ。


 一時半ごろからは南直哉の『「正法眼蔵」を読む』を読みだし、そのあと瞑想。出勤まえのエネルギー補給としてはちいさい豆腐をひとつあたため、また小球型のくるみパンもひとつのみあったのでそれもレンジで二〇秒だけ加熱して食った。米もあたらしく磨いで六時半に炊けるようセットしておいた。しかし家事はそれしかできない。下階にもどって身支度していると、どこかに出かけていた父親が帰宅。あがっていくと出かけるのかというので肯定し、三時一五分ごろに出発した。雨降り。傘をさし、バッグは提げるのではなくて左腕でかかえるようにしてあるいていく。みちのはじに薄桃色の桜の花びらが足をいざなう飾りのように点じられているがもとは知れない。雨はそこそこの降りだったはずだがひとつきくらいまえに得たような閉塞感、外界からの隔離の感覚はなく、せまく収縮した孤独の安息とはまたちがったおだやかな開放感があり、降りのわりに空気は灰に濁らずあかるめだったようだし、じつのところほとんど傘をさしていたという記憶がないくらいで、頭上を絶えず打っていたはずの雨音も耳にのこっていない。街道の工事はされていなかった。あたらしくつくられた歩道のアスファルトのうえをせっかくなので踏んでとおり、それから北側にわたって前進。濡れた路面をこすりあげて砂煙のような飛沫を撒き散らしつつ行く車の擦過音で街道はさわがしい。老人ホームの角を裏に折れて路地にはいると一軒目だか二軒目できょうも庭の端に立ったハナミズキが充実しており、アプリコットジャムをおもわせぬでもない品のよいピンクいろの花が隙なくいくつもつらなって、中心に淡緑の豆粒をひとつおきながら正面にむけてくちをひらいているそのすがたは空間に浮かんだ吸盤めいているが、雨をうけてもゆらぎみじろぎをすこしもみせずにしずかな満開を持していた。小学生とおおくすれちがった。自動車工のまえあたりまで来たところでとおくから叫びがきこえ、鳥か猫の絶叫かひとの声か断じづらかったが、じきにみちの果てから小学生の数人がつれだってあらわれたのであれだなとわかった。四、五人の男子だったが全員がまだちいさな、そろって三年生以下とみえる背丈のおさなさで、うんこしたい、ここでうんこしまーす、とか縁に草の生えたひろい空き地のまえでいいつつ前後に分かれてふらふらあるいているのにはやくもちょっと笑ってしまったのだけれど、その最後尾にならんだふたりのいっぽう、一年生にもみえるが入学直後にしては堂に入っているから二年とおもえるひょうきん者がにやにやしながらさきほどきこえた叫びを立てて、おまえだめだよ、さっきあのおばさんびっくりしてたから、と先行者を気にするひとりに制されていた。ヒヨドリが喉を張って鳴きつのっているときをおもわせる、たいした絶叫だった。中途にかかった坂を越えてふたたび細道を行くに一軒の脇にちいさな畑地でもありただの草花の場でもあるような、柿の木がなかにいっぽん立ったひかえめな挿入地があるが、その角に咲いているユキヤナギが白い房をもはや弱めて饐えた褐色をおおくさしこみつつ、雨にさからうちからもないようで横やうえに伸びながら微風にゆれるすがたを捨てて一様にみずの重さに垂れていた。
 (……)に寄ってトイレで小便。そうして職場へ。勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 

 帰路にたいしたことはないので割愛しよう。帰宅後も休んだり瞑想したり文を書いたり。うえにもしるしたとおりこの夜は労働後にもかかわらずよく文を書くことができた。いつもそうならよいのだが。あと、帰ってきたときにちょうど兄夫婦からビデオ通話がきており、両親がタブレットをまえに子どもらとやりとりしていたので、そこにちょっとだけ顔を出してあいさつをしてから手を洗ったりうがいをし、下階に下がった。

2022/4/14, Thu.

 フルシチョフらの世代はもちろん、「六〇年代人」もこの時点では基本的に資本主義に(end131)対する社会主義の優位性やソヴェト体制の正しさを確信していた。この確信と楽観は、本来の社会主義へと立ち戻ろう、さらには共産主義を実現しようという意識を強めた一方で、抑圧的な政策につながることもあった。たとえば反宗教政策である。独ソ戦をきっかけに政権はロシア正教会と和解したが、フルシチョフ期には政策が再び転換され、聖職者の逮捕や、教会の破壊・接収が大規模になされた。
 しかしその一方で、信者を相手に活発な活動を続ける教会も存在していた。宗教を広めることは禁止されていたが、信者を相手とする教会や宗教セクトの活動は、登録と監視の下で許されていたからである。そしてまた、宗教自体を処罰することはできないという意識も根付いてきていた。このため人々に対する宗教の浸透度は一九六〇年代になってもなお高く、党員やコムソモール員のなかにも、宗教を否定する公式見解を唱える一方で、自宅にイコンを飾ったり、子供に洗礼をおこなったりしていた者は少なくなかった。だからこそ、信者が増えることのないよう、また信者を「改心」させるべく、科学的無神論の宣伝や啓蒙活動を通じて、宗教を不要のものとする取り組みの必要性と重要性が強調されたのである。
 一九五〇~一九六〇年代には、教会婚や洗礼に対抗するため、結婚登録や出生登録の際に祝宴をおこなう試みがなされた。最初の結婚宮殿は一九五九年にレニングラードで設立(end132)され、人気を博して速やかに他の都市へと広がった。同年のモスクワ市についての報告によれば、結婚宮殿では結婚登録の他に、スピーチ、バンド、ダンス、ゲーム、軽い食事付きの集団結婚式を組織していた。写真撮影とシャンパン・フルーツ・デザート付きの軽食をサービスしていた例もあった。結婚宮殿の調度品は粗悪で、写真は質が悪く、香水の選択肢は限られ、ブーケの価格は高いといった不満も示されたが、結婚登録の際の祝宴は広く定着し、教会婚は減少していった。他方で、洗礼や教会葬はなかなか減らなかった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、131~133)



  • 「英語」: 521 - 549
  • 「読みかえし」: 646 - 652
  • 一〇時半起床。きょうは雨降りの曇天。さくばん深夜から窓を打つおとがすこしずつはじまっていた。水場に行ってアレグラFXを飲んだりうがいをしたり、トイレで小便したりしてもどってくるときょうもきょうとて書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』の下巻(新潮文庫、一九六九年)。そろそろおわりがちかい。いま730くらいまで行った。レコード熱のあとは、エレン・ブラントというオランダ生まれのデンマーク娘が登場し、かのじょが霊媒的な体質をもっているというわけでクロコフスキーのイニシアティヴでひとびとはその研究実験に邁進し、ハンス・カストルプも部屋でおこなわれるこっくりさんに参加する。かのじょを媒介としてよびだされるホルガーという霊は詩人だといい、ひとつ詩をつくってくれとたのむとその後一時間にもわたってワイングラスは文字のうえをひたすら行き来し、長大な叙情的詩文をものするのだが、この趣向はちょっとおもしろかった。こういうオカルティックなことはいかがわしいという観念がハンス・カストルプにはあるようだし、たぶんとうじはきちんとしたおとなならこんなことに首をつっこまないという認識が広範にあったのではないか(まあ、いまでもスピリチュアル方面にはまりすぎるとやばいひとあつかいされるとおもうが)。記述の調子からなんとなくそんな印象をうける(いっぽうで一九世紀末くらいには(とくにイギリスなんかで?)交霊会が盛んにおこなわれるようになったという印象があるが、それがただしい認識なのかはわからない)。それでカストルプもいちどはこのくわだてへの参加をやめ、近代科学的合理主義を旨とするセテムブリーニ氏もとうぜんいちどめの参加を非難しつつそれに賛同しているが、しかしエレン・ブラントにやどった霊がつぎはだれであれ死者を呼びだしてみせると言ったのに誘惑され、カストルプはけっきょく実験にまた参入する。この山のうえで病死したいとこヨーアヒム・ツィームセンをみたいとおもったのだ。それで最終的にみなは実験室にあらわれたかれのすがたを目撃することになるが、「ひどくいかがわしいこと」と題されたこの一節は挿話として(断片的物語として)なかなかきれいに結構がそろえられている感触をうけた。そのつぎの「立腹病」はサナトリウム内にふしぎと好戦的な雰囲気がいきわたって、だれもかれもが激しやすくなり、喧嘩騒ぎがひんぱんにもちあがるというはなしで、反ユダヤ主義者なんかもでてきて一次大戦前という時代の空気をなんとなくおもわないでもない。この節が終わればのこるは「霹靂」という節ひとつのみである。
  • 正午まえまで書見した。それからおきあがり、まくらのうえにすわって瞑想。しかし便意がだんだんおおきくなってきたので一五分かその程度しかできなかった。コップや湯呑みをもって部屋を出て上階に行くと、きがえるよりまえに便所に行って糞をひり出し、ジャージにころもがえして食事。黒っぽく濃い茶色に染まったカレー味のチャーハンなど。新聞一面にはバイデンがロシアのおこないをジェノサイドとはじめてみとめたという報があった。いままでは戦争犯罪だといいながらもこの語はつかっていなかったらしい。国際刑事裁判所ICC)の調査はすでにはじまっており、フランスの法医学専門家チームもブチャにはいったという。ウクライナのイリーナ・ベネディクトワ検事総長は五六〇〇件だかの戦争犯罪を調査しており、五〇〇人いじょうの容疑者をみこんでいると発表。マリウポリ市長はCNNとのインタビューで、市民の犠牲は二万二〇〇〇人にのぼるとかんがえられると述べた。ロシア国防省マリウポリにてウクライナ軍兵士一〇〇〇人が投降したと発表し、事実ならばさいごの拠点にいるとされる勢力の三分の一が降伏したことになるが、ウクライナ側は情報がないといって否定している。
  • ものを食べ終えたあと、すこしだけ椅子にとどまったまま南窓をながめた。いまは雨が降っているともみえず、小休止か、降っているとしてもほんのかすかなものらしく、大気にぶれやちらつきは視認されずに、くすんだ灰の気配をはらんでうっすらとした乳白色が木立や山の淡いみどりを霞めて封じ、風もないようでそのいろもふるえない。台所で食器を洗い、風呂も。出ると緑茶をつくった。いぜんに「(……)」で買った茶葉がもう一袋のこっていたとおもったのだが、玄関の戸棚をいくらさがしてもみあたらず。もう開封して、いま茶壺にはいっているのがそれだったのだったか? 葉ののこりはとぼしい。あと二回くらいでなくなりそう。カスタードクリームの今川焼がひとつだけのこっているというので冷凍のそれもあたためてもちかえった。一服したあとは「英語」ノートと「読みかえし」を音読。そうして二時半くらい。とちゅうで母親が部屋にきて、こちらの部屋のベランダがわにあたる西窓のレースと元祖父母の部屋のそれをとりかえるという。ゴールデンウィークに(……)家の両親が(……)に来てうちに泊まるかもというはなしなのだが、元祖父母の部屋のレースカーテンはしたのほうが黒くなっていて見栄えがわるいので、と。兄夫婦もいっしょに子ふたりをつれてくるわけで、そうすると六人が一気に増えていちにちだかふつかだかわからないが過ごすことになり、かんがえるといまからもういごこちがわるい。男どもはさんにんとも酒をのんでおおきな声でなんだかんだとしゃべりあうだろうし、席についたままじっとして飲み食いするばかりのかれらのために女性ふたりとこちらはたちはたらかなければならないだろう。そもそもこういう家族の団欒とか親戚づきあいみたいな状況のなかにじぶんがいるさまをイメージするだけでいごこちがわるくなり、先触れ的な疎外感と孤独への渇望が生じるのだが、それなのでとうじつはどこかに遊びに行ってそのまま外泊し、逃げようかともおもっている。とはいえ遊ぶあいても泊めてくれる家もないのだが。(……)夫婦と(……)にはどうも四日五日あたりで会うことになるようすだが、(……)家にそんなになんにちも泊まるというのもわるいだろうし、そもそもこんかい(……)も泊まることになっているのかどうかもよくしらない。こちらじしんだって何日間も他人の家でともにすごすのはわずらわしそうで気が引ける。
  • きょうのことをここまで書いて三時半まえ。またしぜんと箇条書きにしていたことにいまきづいた。だったらもうこの形式のままでよいのではないか?


 そのあとは『魔の山』のつづきを読みすすめて、五時まえに読了した。おもしろかった。さいしょの三〇〇ページくらいは、なにも起こらんしかといって描写に生きる作品でもないしぜんぜんすすまねえなとおもいつつその退屈さを味わっていたが、読み終わってみればたいした作品だなあという印象。さいごのひとつまえの「立腹病」の節では、732で、セテムブリーニの容態がだんだんわるくなっておりここのところは数日おきに寝込んでいるとか、それにつづいてナフタの調子もわるくなって病がすすんでいるという言及があるのだが、ここを読んだときに、形而上学的な議論をつねにはげしくたたかわせてきた永遠の論敵同士であるこのふたりもそろって病に服しているということにあるかなしかの感傷をおぼえた。そろそろかれらも死ぬのかもしれないという無常感をえたわけだが、ふりかえってみるに、この小説で死んでいくものたちはじつにあっさりと、ドラマティックな演出はほぼなしで、ひじょうに冷静な語り口のなかですみやかに死んでいく。ちかいところではメインヘール・ペーペルコルンもそうだったし、ハンス・カストルプの親しいいとこヨーアヒム・ツィームセンの死ですらが感情的な要素はほとんどなしに淡々とすぎていった。上巻の後半にもどれば、ハンス・カストルプが急にキリスト教的義侠心や死をおおいかくしてみえないものにせんとする施設の方針への反発に駆られて訪問した重症の患者たちもそうだった。国際サナトリウム「ベルクホーフ」においては病はもちろんつねにその全体にいきわたっており、死も直接ふれがたいながらもおりおりに生じてつぎなる患者によって埋められるべきいっときの不在をつくりだすのだが、そのふたつがもたらしがちな悲惨さや苦痛のいろはこの小説世界に希薄で、登場人物は基本的にだれも苦しんでいない。まったく苦しんでいないわけではなく、環境や設定からくる必然として病気への言及はむろんおおいし、はしばしで苦しげなようすやかなしみをみせるものもいないではないが、ぜんたいとしては病はここでの生活においてたんなる前提にすぎず、問い直されない前提につきものの無関心さであつかわれ、数しれぬ患者の死をみとってきたであろうベーレンス顧問官などは消失と新来の反復に馴れすぎたのか、悲愴さをおもてにしめす機会はほとんどなく、つねに軽妙な口をたたいて冗談ばかりいいつづけており、病も死も人生と運命のたわむれにすぎぬといった喜劇的達観ぶりだ。無数の患者連中においても、病気が苦悶や深刻な悲惨の相から本格的にとりあげられることはついぞなく、だれもかれもが病をむしろ誇りながらしかし同時にそれを無視するかのように山のうえでの生をそれなりに謳歌しており、語りにあらわれるそのすがたは一見したかぎりでは尋常な喜怒哀楽をたのしむ平常人のものと大差ない。なにしろみんなで夜中まで酒を飲んだり、音楽をきいたり、近間の風光を玩味しにいったり、みちならぬ男女の不倫にはしってみたり、街を散策したり、恋心にやられておもいみだしたりといったゆたかさである。そんななかでハンス・カストルプの教育者ふたりのおとろえにわずかばかりのはかなさがにじんだのは、読むこちらがかれらにつきあってきた紙幅や時間の量のせいもあろうし、また終演が間近で作品にもなんとなくニヒルないろあいがかもされてきていたからかもしれない。ニヒルといえばレオ・ナフタは上巻のカバー裏で「虚無主義者」の肩書を冠されていながらいままでその内実がいまいちわからなかったのだが、この終盤にいたってそのあたりがはっきりとえがかれていた。というのも、近代科学もひとつの信仰にすぎぬと否定したり(736~737)、絶対をみとめなかったり(742)、ヒューマニストリベラリズムの欺瞞をあばこうとしたり(744)しているからだ。その語り口は大仰かつ高遠でありながらも同時に「へへ、」という、ロシア古典文学をおもわせないでもない特徴的な憫笑がときにさしはさまれることでユーモアの味を一抹確保されており(743、744)、それをみるとおもわずわらってしまうのだけれど、話者は「理性の攪乱を目論んだ」(735)とか、「始末の悪いことになった」(736)とか、「陰険な底意」(739)、「悪意ある議論の実例」(739)などといっているから、一読したかぎりではセテムブリーニ氏の側についており、ナフタはこの小説において基本的には、そして最終的には否定さるべき像としてあらわれているようにみえる。訳者あとがきに紹介されていたトーマス・マンじしんの思想や政治的活動をかりに考慮にいれたり、またこの小説が設定されている一次大戦前という時代的舞台、ならびにこの小説が発表された一九二四年という時代の思潮を漠然とかんがえてみてもそれはたしかとおもえるが、ただしそう単純なはなしでもなく、レオ・ナフタの独裁的共産主義への親和やテロリズムの唱道は、一次大戦当時の欧州の別側面を憂慮とともにえがきとりつつ、またロシア革命を参照しつつ、一九二四年以後におとずれた第二次大戦の世界まで射程をのばしているようにもみえるわけだ。さらにまた、ひたすらにテロリズムにながれる極端さや、観念をただただまぜっかえして混乱させたいだけではないかという冷笑家ぶりや、ところどころ矛盾する思想の体系的瑕疵の印象はおくとしても、部分的にはかれのいいぶんは、いわゆるポストモダンの隆盛をみたのちの西暦二〇二二年になじみぶかいというか、要するにその精神の主旨は懐疑と近代批判である。それはいまや現代にめずらしいものではない。いずれにしても、健康的で明朗なる啓蒙主義者にして理性とヒューマニズムの徒であるセテムブリーニ氏がその悪逆な破壊性をゆるせるはずがなく、たびたび激論をたたかわせてきたこの二者は終盤においてついに決闘にいたるのだが、セテムブリーニが拳銃を頭上の空にむけて発砲したのを受けてナフタは武器をみずからのこめかみにむけ、ただ一息に自害して終わる。
 そうしておとずれる最終節は「霹靂」という題であり、容易に予想されるとおりこの青天の霹靂とは、その後に第一次世界大戦と呼ばれるようになった戦争の勃発なのだ。それによってこの山のうえで七年をすごし、おおいに知的発展を遂げながらも病と無為をむさぼりつづけていたハンス・カストルプは、いやおうなく低地に引きもどされて一片の兵として戦争を生きることになる。この身も蓋もない歴史のちからの到来によって高山の魔境が浸食され、下界とのあいだに堅固にたもたれていた隔離がほとんど一瞬のうちに消滅するさまは、(……)さんの『双生』を如実におもいおこさせた。「彼は両脚を引寄せ、立ちあがり、あたりを見まわした。彼は魔法を解かれ、救いだされ、自由になったのを知った。――残念ながら、彼自身の力によってではなく、恥ずかしい話だが、彼一個人の解放などということはおよそ問題としないほどの、巨大な自然力のごとき外力によって、一挙に魔法の圏外へと吹き飛ばされたのであった」(780)。ハンス・カストルプが、ついにかれを「君」と親称で呼ぶようになったセテムブリーニ氏と汽車のなかから別れをかわしたあと、二行の空白がさしはさまれたのちに戦場のようすがつぎつぎと具象的に描写され、そこを前進するハンス・カストルプが大戦を生きたのか死んだのかわからないままに話者は終幕を告げる。さいごにいたって戦争の場が具体的に、詳細に描写されたことはよかった。このながながしい小説の終わりかたとしても、事前の了解どおりといえばそうだが、これいがいには終わらせようがなかったようにおもう。数日前にふれたように、この山のうえには永劫を望見させるような再帰的な時間の沈殿が支配的なてざわりをもって鎮座しており、それはこのままいつまでもつづくのだろうなという印象すらあったのだが、この永遠を終わらせるには、歴史と事件のみがもつ暴力的な切断のちからが必要だっただろう。
 こちらじしんは衝撃を受けるほどにめちゃくちゃすごい作品とかんじたわけではないが、この小説が古典的名作としておおくのひとの関心をひきつけてきただろうというのは理解できるはなしで、トーマス・マンのほかの作品も読んでみたいというきもちは起こったし、また三〇年代からのかれの政治的活動、そしてもちろんナチズムへの対応などについても読んでみたいという気も起こった。

Q.国際社会に訴えたいことは何ですか?

申し上げたいことはただひとつ。

それは今、ウクライナの領土でロシアが戦争犯罪を犯しており、ウラジーミル・プーチンが主要戦争犯罪者としてその指令を出したということを私たちが同じように理解することです。

彼らは自分たちが「特別作戦」と呼ぶものを、私たちが「戦争」、「ジェノサイド」と呼んでいるものにしたのです。

産院や子どもが隠れている防空ごうを空爆しました。

平和な街に、その住宅地に空から爆弾を落としました。

3月9日から2週間にわたって攻撃を激化させ、街を文字どおり地表から消し去りました。

彼らは戦争犯罪を犯し、2万人の市民が死亡しました。

人々は飢餓や脱水だったり、必要な医薬品がなかったりして亡くなりました。

そしてそれはすべて戦争犯罪者の手によるものです。

彼らは街を包囲し、包囲網から住民を出そうとしませんでした。

その機会があってもそれをしようとはしなかったのです。

皆さんによく理解していただきたいのは、マリウポリの住民の2人に1人は民族的に言えばロシア人です。

つまりロシア人がロシア人を殺しにやってきたということです。

私たちは民族ではロシア人であったりアルメニア人であったりギリシャ人であったりウクライナ人であったりします。

そうした違いはあっても、精神的にはウクライナ人という「民族」なのです。

彼らはその「ウクライナ人」を滅ぼすためにやってきたのです。

ウラジーミル・プーチン自身が「ウクライナ人という民族は存在しない」と言っています。

彼の最も重要な目的はウクライナ人を滅ぼすことなのです。

それを私たちは「戦争犯罪」と呼んでいます。


 入浴中に二首: 「つつましく死期を占え青空にかくれた星は仇 [かたき] にならぬ」「相愛なことばとものがあるなんて路傍の石も知ってる嘘さ」


 湯浴みしてもどってくると一〇時ごろかそのすこしまえだったとおもうが、きのうの日記にかかったもののすぐにちからが尽きてしまい、ベッドに逃げてそのままながくやすむことになった。書きたいとおもってもどうもからだと意欲がついていかないときがあるものだ。布団をかぶったからだのまえにコンピューターをもってKindle Unlimitedについて調べたりなどして、いま一時一八分だがようやくさきほどからおきあがって書きものにもどれた。きのうの往路の記述、みた風光のことは仕舞い。とりあえずそれが書けていればよい。日中の書きぶりよりもちからを抜いて、姿勢もあまりうごかずにたもち、楽に書けている。いつもそうできるとよいのだが。ともすればやはり前のめりになるというか、息を吐いてがんばって書こうとする向きがある。いまはちょっと書いては目を閉じてからだのうごきをとめ、じぶんの感覚にたちもどりながらかるくことばをはこべている。そのようにしてちからをいれずに書けるほうがよいのだけれど、それは心身がととのっていないとできず、こごっている状態でそれをやってもとどこおるばかりでうまくいかない。


 二時半ごろまで月曜日、一一日の記事を進行。さいきんは勤務中のことで書くことがたくさんあってたいへんだ。そんなになにが変わったということもないのだが、生徒のようすなどで印象にのこることが増えた。同僚も。はなした内容とかをこまかくしるしておきたいきもちがある。これもまたつつましくきらめくなつかしき日々にいつかなるだろうというさきどりの感傷をすでにもっている。たとえば一〇年後二〇年後などに読みかえしたら、かなりおもしろいのではないかとおもう。
 一一日を終えることはできずにちからつきてベッドに逃げこみ、ウェブをみまわりながらだらだらして三時五〇分に就床。

2022/4/13, Wed.

 第一次ロンドン交渉に臨む前に、日本政府は、歯舞と色丹の二島返還を国交回復の前提条件としていた。しかし、一九五五年八月九日にソ連がこの二島の引き渡しを提案すると、日本は四島返還を要求するようになった(アメリカ合衆国政府は、歯舞・色丹は北海道の一部であり千島列島ではないとする日本の主張を支持する一方で、国後・択捉はサンフランシスコ条約で日本が放棄した千島列島に属するという立場を日ソ交渉前にはとっていたが、日本が四島返還を要求したことを問題とはしなかった)。
 日本側には国後・択捉についてさらに交渉する意思があったが、結局は、平和条約締結後の歯舞・色丹の「二島引き渡し」で合意し、一九五六年一〇月に日ソ共同宣言が調印された。同宣言の発効によって、日ソ間の戦争状態は終結して国交が正常化され、「シベリア抑留」の際にソ連で有罪判決を受けて抑留され続けていた日本人も釈放され、帰国した。日ソ共同宣言にはソ連が日本の国際連合加盟を支持することも明記され、同年一二月に日(end111)本の国連加盟が実現した。
 国連安保理で拒否権を持つソ連との国交を回復することなしには国連への加盟は望めなかったから、領土問題で日本が「譲歩」したことは妥当な判断だったと思われるが、「二島引き渡しで解決済み」とソ連が主張することにもつながった。しかもフルシチョフは、一九六〇年の日米安保条約の改定の際に、二島引き渡しは日本からの外国軍の撤退を条件とすると宣言し、その後ソ連政府は二島引き渡しも否定し、「領土問題は存在しない」と主張し続けることになる。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、111~112)



  • 「英語」: 501 - 520
  • 一〇時半に起床。からだはまあまあの感触。そんなにこごってはいない。きょうも陽射しがあきらかで暑い初夏の日より。アレグラFXを一粒もって洗面所へ行き、水を飲んで顔を洗うとトイレにはいって用を足した。もどってくるとベッドでふたたび臥位になって書見。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山(下)』(新潮文庫、一九六九年)をすすめる。国際サナトリウム「ベルクホーフ」に蓄音機がやってくるのだが、ハンス・カストルプはみずからすすんでその管理役をにない、レコードをあやつって夜ふけまで音楽をきくことに熱中している。650くらいまで。
  • まくらのうえに起きなおって瞑想。窓をあけていたが、暑くて上着を着ていられず、肌着いちまいにならざるをえない。三〇分強すわった。よろしい感触。意識が身体各所の感覚にふれて肌はぜんたいとしてなめらかになったし、呼吸もかるくなった。窓外では数種の鳥の声、車のおと、大気がうごく気配、つたわってくる飛行機のひびき、ひとの存在など、ひっきりなしにおとがうまれてはかさなったりいれちがったりで交錯し、聴覚野において生成がたえずうねってやむことがない。風はすくないようだった。
  • 上階へ。母親にあいさつしてジャージにきがえる。ジャージもやはりしただけで、うえは黒の肌着。台所でうがいをして、食事にはハムエッグを焼いた。その他たけのこと青菜をシーチキンで和えたものなど。新聞一面からウクライナの報を追う。マリウポリ市長がAP通信とのインタビューで、市民の犠牲は二万人いじょうかと述べたという。通りでは遺体が絨毯のようになっているといい、ロシア軍は移動式の火葬設備で遺体を焼いているらしく、民間人殺害を隠蔽しようとしているとかんがえられると。プーチンは極東のほうで演説し、「特殊軍事作戦」の目的はウクライナ東部のロシア系住民の保護だという従来からの主張をあらためて述べ、軍事介入はやむをえない措置だったと正当化した。ちょうどテレビでもニュースでそのようすがうつされたが、欧米にそそのかされたウクライナ民族主義勢力との衝突はおそかれはやかれ起こっていたことである、欧米はロシア国民が危機のときに一致団結するつよさを理解していない、いくつかの分野では困難が生じるだろうが、われわれは乗り越え、やりとげることができる、みたいなことを言っていた。ベラルーシアレクサンドル・ルカシェンコも同行しており、欧米の制裁にかんして協議したもよう。あと、ブチャの市民虐殺についても、シリア内戦でも化学兵器がもちいられたといわれながらのちほど真実ではないと判明した、それとおなじ「フェイク」だと、「フェイク」という語を吐き出すようにつよく発音しながら述べていた。未確認ではあるものの、マリウポリでは化学兵器がつかわれたという報告もあるらしい。アゾフ海に面する製鉄所にウクライナ軍と「アゾフ大隊」という武装組織三〇〇〇人ほどがあつまっているらしく、そこが事実上最後の拠点とみなされているらしいのだが(ロシア国防省はここから市外に脱出しようとしたウクライナ軍の「残党」五〇人を殺害したと発表している)、そのアゾフ大隊のなかに化学兵器をもちいられたと被害を訴えるひとが三人くらいいるようす。テレビでも証言者がはなす映像がながれていた。しかし米国のジョン・カービー報道官やメディアはあくまで未確認の情報だと慎重な姿勢でいる。とはいえ親露派武装組織の長はマリウポリを攻略するのに化学部隊の導入を選択肢としてあげていたらしいから、つかっていてもおかしくはない(こんかいの件にかんしては、われわれはまったく化学兵器を使用していないと否定しているが)。
  • 母親は一二時二〇分ごろ勤務へ。見田宗介が死去したが、吉見俊哉が追悼文を載せていたのでさっと読んだ。すごい学者だったもよう。食事を終えると食器を洗い、ハムエッグを焼くのにつかったフライパンには水をそそいで火にかけておき、そうして風呂洗い。出てくると沸騰をすこしだけ待って、湯をこぼすとキッチンペーパーで汚れをぬぐった。白湯を一杯用意して帰室。Notionを準備してウェブをちょっとみるともう一時で猶予がすくないが、「英語」ノートを音読した。それからきょうのことをここまで記して一時四四分。
  • いま帰宅後。一〇時四四分。(……)さんのブログを読みつつ食事。ひかれている梶井基次郎の風景描写がよかった。繊細な感性、繊細な文章というのは梶井基次郎のようなものをいうのだろうなとおもう。それをまえにすると、じぶんの文章があまりにも饒舌でよほど品のないものにかんじられる。

海の静かさは山から来る。町の後ろの山へ廻った陽がその影を徐々に海へ拡げてゆく。町も磯も今は休息のなかにある。その色はだんだん遠く海を染め分けてゆく。沖へ出てゆく漁船がその影の領分のなかから、日向のなかへ出て行くのをじっと待っているのも楽しみなものだ。オレンジの混った弱い日光がさっと船を漁師を染める。見ている自分もほーっと染まる。
 (梶井基次郎「海 断片」)

  • 梶井基次郎であと印象にのこっているのは、どちらも「冬の日」だったとおもうが、季節が秋から冬にうつるにつれてこずえをわたる風のおとも変わっていった、みたいなひとことと、さむくなって、夜になるとまちの路上が鉛筆でひからせたように凍てはじめた、みたいな比喩。ほんとうになんでもない、みじかいひとことの簡潔な描写なのだけれど、やはりまねできない。あと猫の耳を切る奇想をもてあそぶみたいな「愛撫」も印象的だし、「器楽的幻覚」とかいったか音楽会に行くやつも記憶にのこっているし、「蒼穹」もみじかいがよかったはずだし、河原にいってカジカがかわす愛の声をきくやつもおぼえている。夜にみちをあるいていてうしろから車が来て、路面にころがっている石の影がひかりのなかに伸びてギザギザに、ひかりを噛んだようになるみたいな比喩も感心したし、やはり夜にみちをあるいていて電灯に照らされるじぶんの影のうごきを追っているやつなどは、たぶんそれを読んでからこちらじしんもおなじ主題をなんどか書いている。車のやつでは、たぶんうえのつづきで、すぎていった車が谷の対岸のみちまで行って、ライトを照らして闇のなかをぐんぐんとすすむさまが、むしろ巨大な闇がうごき推移しているようにみえるだったか、わすれたがそんなような描写も印象にのこっている。「闇の絵巻」という篇だったか? これほどおりおりの描写が印象にのこる書き手もめずらしい。
  • 一一時すぎに盆をもってうえにあがり、食器を洗った。父親が洗っていれたもののうえからさらにいれて、乾燥機のスイッチをいれなおしておくと、米がもうなくなったので釜も洗い、ザルに三合半をあたらしくとってきて磨いだ。じゃっじゃっとくりかえしザルを振ってみずをきると釜に米を落とし、みずをそそいで炊飯器にセット。釜をいれる穴のまわり、蓋との接合部までのすきまにあたる縁が汚れていたので濡らしたキッチンペーパーで拭いてもおいた。それから生ゴミの処理。といって、排水溝の受け筒にすこしだけあったのを、すでにたくさんはいっているビニール袋に素手でうつし、口をまるめて洗濯ばさみでとじておいた。ポリバケツがもういっぱいではいらなかったため。もっとでかいバケツ買えばいいじゃんと母親に言ったが、そんなにいらないし、おおきいと邪魔だからとのこと。台所を出るとソファのうえにこちらが昼間たたんでいったままに放置されていた寝間着などを仏間に置いておき、じぶんの下着とパジャマをもって入浴へ。風呂のなかでは瞑想じみて停まる。さいしょ窓を開けていたがそのうちに閉めると、換気扇のおとのひびきかたがかなり変わった。どこから落ちるしずくだったのか、そしてなにに落ちていたのか確認しなかったが、いっとき何個かつづいた滴音がしだいにたかさを変化させ、やや音楽的に、はっきりとした音程をもったことがあった。瞑想とはいまここの瞬間を観察しつづけそれに集中するおこないであると、たぶんだいたいどの流派であってもそういっているとおもう。それはもちろんただしいのだが、すわってじっとうごかずにいると、「いまここ」に集中していたはずがいつのまにかその「いまここ」をわすれてべつの、どこともいつともつかない「いまここ」にいる、ということがけっこうおこりうる。端的に、じぶんがいま瞑想をしている、じっとうごかずにいるということそのものをわすれて、ちょっと経ってからそのことに気づき、あ、いま瞑想してたのか、とおもいだす、ということがさいきんはある。ねむかったりして意識があまりさだかでないと夢未満のイメージ連鎖にまきこまれて現在をうしなうということがいぜんはよくあったが、それともまたちがい、意識はずっと明晰なのだ。それでいて目をあければそこにひろがっているはずの空間、そして目を閉じているあいだもきこえつづけているはずの聴覚的刺激をわすれていることがある。
  • 風呂を出たあとは緑茶をつくり、一杯目の湯を急須にそそいで待つあいだに乾燥機でかわいた食器を棚にもどした。父親は韓国ドラマをテレビでみている。こちらがかえってきたときからだから、九時ごろからずっとみている。いや、かえってきたときにはテレビはウクライナのニュースがうつっていたか。しかしそのときもタブレットには韓国ドラマがながれていたかもしれない。飯を用意するためにあがったとき、すなわち一〇時二〇分ごろにテレビに韓国ドラマがうつっていたのはまちがいない。新聞を居間のかたすみのボックスにいれておき、薬缶にみずを汲んでポットに足しておいて下階へ。駅で買ったチョコレートとポテトチップスのたぐいをバリバリ食いつつ(……)さんのブログを読んだ。
  • その後書抜き。松戸清裕ソ連史』。BGMはFISHMANSのベスト盤をながしており、どれもよいのだが、”なんてったの”がやはりよい。ひさしぶりに耳にして、あのメロウなオルガン(だよな?)がはじまった瞬間に、めちゃくちゃよい曲だなとおもった。そして”感謝(驚)”はうたがいなくポップミュージック史上最高の一曲である。”MELODY”もよい。”Walkin’”のサビでひだりがわにコーラスがはいっているのにはじめて気づいた。


 箇条書きをやめると言ったはずが無意識にまたやっていた。やりながらきのうまでのこころみをわすれ、まったくきづいていなかった。習慣とはおそろしいものだ。一時四四分で日記を切ったあとは瞑想をした。三〇分ほどやったはず。それから上階に行って洗濯物をとりこみ、タオルをたたんで洗面所へ。出勤まえの食事にはきのうのハンバーグののこりをあたためて白米とともに食った。新聞の二面をみるとロシアはマリウポリ攻略にこだわっているという記事があり、うえにもふれた「アゾフ大隊」というのは二〇一四年のクリミア侵攻を機につくられた民族主義団体らしく、ロシアはウクライナ民族主義者らをネオナチと言って同国の「非ナチ化」を主張しているから、アゾフ大隊が本拠地としているマリウポリを征服して組織を壊滅させればおおいに名目が立つわけだ。また、プーチンは五月九日の対独戦勝記念日に勝利宣言をすることをもくろんでいるとかんがえられており、要衝マリウポリをとればおおきな戦果として国内向けにアピールもできると。
 食器を洗い、帰室して歯磨き。白湯を一杯飲んで身支度。きょうはジャケットを着るとあつすぎることが目に見えていたので、ベストすがたでいくことに。今年はじめてである。荷物をととのえてうえにいき、出るまえに下着や寝間着類をたたんでソファの背に置いておいた。たたんでいるあいだ、暑さで室内の空気がちょっと息苦しいとすらかんじたが、空に薄雲がなじんでいるのでひかりを減退された西の太陽の熱が余計にこもり気味だったのかもしれない。
 三時一〇分ごろ出発。そとに出れば大気にうごきのないときがなく、風は無限の舞踏と化して、こずえはふるえのつらなりとしてただおとを生む。道脇にみえる一段したの土地の、水路に接したみじかい斜面にあれはハナダイコンかあかるいむらさきの花が群れて揺れ、坂道にはいれば同様にみぎがわにひらいた空間のさきでひとつしたのみちに立った木から、かわいたみどりの葉がおもしろいようにはがれこぼれている。暑かった。坂の終盤から木がなくなって陽射しを受け取る余地がひらくが、きょうは雲にけずられて日なたのいろもかげも淡いのに、粘りをわずかはらんだような、冬の陽にないあの熱が肌に寄ってきた。杉の木の脇を街道につづくみちで、風が厚くふくらんでまえから身をつらぬきすぎていくと、ワイシャツと肌着のしたの脇腹や胸がすずしさに濡れる。五分あるいただけで汗をかく陽気だった。
 きょうも道路工事はつづいているので街道と裏の交差部でとまり、交通整理員にとめられている車がなくなるまでしばらく待ってから北へわたった。整理員の服装をあらためてみると薄い黄緑色のジャンパーを着込んで手首のほうまでしっかりおおわれており、きょうの陽気ではだいぶ暑そうだし、夏場などあれではたおれるものも出るだろう、ヘルメットや蛍光テープを貼ったベストはまだしも、あのジャンパーはやめさせてやればいいのにとおもった。
 街道沿いの歩道を東へ。裏に折れて自転車に乗った小学生ふたりとすれちがいながら再度折れ、路地にはいって二軒目の庭にある桃紫のモクレンはもう仕舞いだが、きょうはそのおなじ家だったかどうか、ハナミズキが咲きだしていた。まんなかにみどりの豆を乗せたピンクの、ほとんど秋の紅葉のような、紅鮭のような赤の気配をわずかはらんだ花たちが、すきまをもうけず接し合って宙を埋め、極細のかたい棒の先端にとりつけられた模型の蝶のような無数のかたちがまとめて微風にふるえている。みち沿いの家々や線路のむこうにたかまっている丘はあらためてみればけむるような若緑が冬を越えた常緑の間におおく湧いてまだらもよう、ぜんたいとしてあかるくあざやかさを増していた。風はめぐる。ある箇所でのぞいた線路むこうにひとつは日に焼けた本のページのような黄褐色を葉にふくんだ立ち木がさらさらと揺れ、もうひとつには葱色の濃いみどりの葉叢に白いものをいくつものせた木があって、ヤマボウシかとおもったがうたがわしいし、花なのかどうか眼鏡がなければよくもわからない。
 (……)にあたるてまえの一軒にはサツマイモの皮をあかるく照らせたような、紅芋タルトのあれにちかいいろの花木が入り口にあり、郵便をうけとったかなにかで出ていた老人がその脇に立って背をみせており、服のうえにあるかなしかひかりとかげの交錯がうまれ、気のせいのごとくゆらいでいた。坂をわたってちょっとすすむと脇の駐車スペースに巨木がいっぽん立っていて、きのこ雲じみてもくもくとふくらむような常緑のこずえはとおるとしばしばひびきを降らせているが、このときも風におとを吐きつつ虫の産卵のように葉っぱをつぎつぎ大量に捨て、黄色く褪せた落ち葉があたりの地面に溜まったさまの、時ならずいくらか時季おくれの感があった。


 (……)
 勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)

2022/4/12, Tue.

 一九五五年にはフルシチョフとブルガーニンは、インド、ビルマアフガニスタンを歴訪した。今やブルガーニンはマレンコフに代わって首相となっており、党と政府のトップが揃って一カ月もアジアへ外遊したのである。中国がアジアで独自の外交を展開し始めたことに対抗して、アジア重視の姿勢を示したものと言われるが、実際、ソ連はインドと中国が合意した「平和五原則」への同意を示すとともに、訪問した各国に経済・技術援助の約束をした。特にインドに約束した援助の規模は大きく、インドはこれ以後、非同盟の立場ながらソ連と長く友好関係を持つことになる。
 外交における「雪どけ」の兆しはヨーロッパでも見られた。ドイツの英米仏占領地区に西ドイツ、ソ連占領地区に東ドイツが一九四九年に成立していたが、西側の軍事同盟であるNATO北大西洋条約機構)に西ドイツが加わることが一九五四年一〇月に決定された。西ドイツの再軍備を恐れるソ連は、強い危機感を持ってこれに反発を示した。一九五五年五月にソ連は、中立化を条件にオーストリアの独立回復を承認し、ドイツも中立化する可能性をぎりぎりまで模索したが、一九五五年五月に予定通り西ドイツはNATOに加盟した。これに対抗するため、東ドイツを含むソ連東欧八カ国は相互安全保障機構としてワルシャワ条約機構を結成した。こうして、東西ドイツを最前線として東西両陣営の軍事機構が直接に対峙することとなった。しかし、その一方で一九五五年九月にはソ連は西ド(end109)イツと国交を樹立し、ヨーロッパにおける戦後処理は基本的に終わった(もっとも、東西ドイツには国交はなく、東ドイツ領内にある西ベルリンの地位と扱いは国際的な懸案であり続けた)。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、109~110)



  • 「英語」: 483 - 500
  • 「読みかえし」: 639 - 645
  • 一〇時まえに覚めて、一〇時一〇分ごろ離床。皓々とした陽の快晴。水場に行って鏡のまえでアレグラFXを服用し、うがいもおこなったあと、トイレで用足し。もどってくるとねころがって書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山(下)』(新潮文庫、一九六九年)。510くらいから。のちにも読んでいま600すぎ。メインヘール・ペーペルコルンのはなしがつづいていたが、かれは死に、ショーシャ夫人もふたたびこの地を去る。ハンス・カストルプはこのふたりとそれぞれ独立の対話をして、その両方と、もうひとりのために「同盟」や「盟約」をむすぶ。ショーシャ夫人とはペーペルコルンのためによいお友達になり、ペーペルコルンとはショーシャ夫人のために「兄弟」になる。後者との対話のときにはじぶんがかのじょのいぜんの「愛人」(といってもじっさいには謝肉祭の夜にいちど、ハンス・カストルプが熱情に暴走して乱痴気的にはなしをしたにすぎないのだが)だったことをペーペルコルンに看破され、ことの経緯をはなすにいたる。おなじあいてをめぐる恋敵であるふたりが「兄弟」の盟約をむすんで和解したあとそのいっぽうが死ぬというのは、それじたいとしてはありがちな、予想される物語のはこびである。このそれぞれの対話においてペーペルコルンとクラウディアは、おなじことがらについてほぼ同一のことばづかいをしており、対称的(「対照的」ではない)なえがかれかたをしている。ふたりとも、もうひとりが不在のところであいてについてはなしをするのに気が引けている(529: 「ねえ、こんなふうにあのひとの噂をするのは、いけないことじゃないかしら」 / 556: 「あのひとのことをこんなふうにして噂するのは、いけないことではないでしょうか」)。ふたりとも、「同盟」もしくは「盟約」にかんしておなじかんがえをもっている(532: 「あたしたちもお友だちになりましょう、あのひとのために同盟を結びましょうよ、普通なら誰かを向うに回して同盟するんだけれど」 / 564: 「(……)あなたにお与えすることのできない償いを、私はあなたにこういう形で、兄弟の盟約という形ではたさせていただきたい。盟約というものは、普通は第三者、世間、あるいはある人間に対抗して結ばれるものですが、私たちはそれをあるひとに対する気持の上で結ぶことにしましょう」)。ハンス・カストルプからみたこのふたりへの関係には、対照的な側面もまたみうけられる。カストルプは、ショーシャ夫人には「あなた」ではなく「君」と呼びかけたいものの、夫人じしんにはそれをいやがられており、また恋心がばれていなかった段階ではペーペルコルンのてまえそうすることができなかった。いっぽう、兄弟の盟約をむすんだペーペルコルンはたがいに「君」呼ばわりをするようもとめるが、カストルプのほうではそれに気が引けている(568にその対照は明言されている)。ペーペルコルンはみなで滝の見物に遠乗りしてでかけたその夜に自室で自殺するのだが、かれの死は、自殺とは予想されないにせよ、病状の悪化への言及によってまえもって用意されており、またその当夜においても、「その夜、ハンス・カストルプの眠りが浅く短かったのは、自分ではまったく意識してはいなかったのに、何事かを心の中で待ち設けていたからであろうか」(586)と入り口をあきらかに舗装されている。ペーペルコルンが死んだところまでで説話としてはひとくぎりし、節がかわるとともに終演にむけてあらたな幕がはじまったというおもむきになって、ショーシャ夫人もいつのまにか去っているのだが、その別れは、「クラウディア・ショーシャがあの偉大なる敗北の悲劇に打ちのめされて、パトロンの生き残った親友ハンス・カストルプと慎み深く遠慮がちに「さようなら」をいい合って、ここの上のひとたちのところからふたたび去っていってしまって以来」(599)と、事後的に、ことのついでといった調子でわずか四行にまとめられているのみであり、ロマンティックな調子は皆無である。のこりは二〇〇ページ弱である。これいこうにかのじょへの言及があるのかどうかわからないが、カストルプをあれほどながいあいだ動揺させてきた恋と欲望の幕引きはじつにあっさりと、冷酷なほどにあっけらかんとしており、そのことには好感なのかなんなのかわからないが、なにがしかの印象をのこされる。
  • 一一時二三分から瞑想。暑い。花粉がやばいかなとおもいながら窓をあけたが、なんともなかった。みじかく一五分ほどで切って上階へ。ジャージにきがえ、食事はうどんや天麩羅のあまりなど。新聞でウクライナ情勢を追う。すでにきのうかおとといみていたが、シリアで市民の無差別殺害を指揮した人物がウクライナ侵攻作戦の総司令官に任命されたと。ウクライナ検事総長によれば、キーウ近郊ではいまのところ一二〇〇人超の犠牲者が発覚している。また激しい市街戦がつづけられているというマリウポリでは、市議会がSNSに発信した情報によれば、ロシア軍が市民を殺害しており、その被害はすくなくともブチャの一〇倍いじょうにのぼるだろうということ。三五〇〇人は超えるということである。プーチンオーストリアの首相と会談。オーストリアは軍事的には中立をたもっている国だというが、侵攻にかんしてはやめるべきだと明言している。
  • フランス大統領選の第一回投票が一〇日におこなわれたが、事前の予想どおりマクロンが首位でル・ペンが次点。決選投票は二四日で、接戦が予想されており、このあいだ新聞でみたときには五二パーセント対四八パーセントくらいでマクロンが上回っているということだったが、ル・ペンが大統領になる可能性もふつうにある。前回も同様にこのふたりで決選になりつつもマクロンが六六パーセントだかをとって圧勝だったというから、ル・ペンはれいの「脱悪魔化」などと呼ばれているハード路線封印によって着々と支持をあつめており、今回マクロンが勝つとしても次回どうなるかはわからない。フランスで国民戦線(いまは国民連合だが)の大統領が生まれれば、ハンガリーやらポーランドやら東では右傾化している欧州のなかで、西にもおおきな楔がうちこまれることになる。
  • 食事を終えると母親のぶんもあわせて食器を洗い、風呂も。緑茶をもって帰室。(……)さんからさくばんおくったメールの返信がきていた。Notionを用意するとFISHMANS『Oh! Mountain』をながし、「英語」記事と「読みかえし」を音読した。そのあとまた臥位になって書見。『魔の山』をすすめつつ、三時まえくらいにねむけが来てすこしだけまどろんだ。その後、おきあがってきょうのことを記述しはじめたが、とちゅうで母親がベランダに来たので干してあった兄の部屋の布団をいれるのをてつだい、それからまた日記をしるしていま四時四三分。おとといの記事はもうほぼ終わっている。ところがきのうの日記はまだ一文字も書いていない。通話もあったし、労働中のことをかんがえても書くことはおおそうで、きょうじゅうに始末できるかどうか自信がない。

―ヨーガや瞑想はここ数年、とくに注目されていると思いますが、そもそもどんなものと解釈すればいいのですか。

 ひとことでいうと自分を知ることです。ネット社会になりキーワードを検索するとなんでも答えが出てくるけれど、「自分」と入れても何も出てこない。世の中のいろいろなことは知ることはできるけれど、いちばん知ることができないのが自分です。知ることができないから知ろうとする。人生というのは自分を知る作業です。死ぬまでずっと「自分はなんなのか」「生まれてきたのはなぜなんだろう」「生きることはなんなのか」「自分の仕事はこれでいいのかしら」と自問し続けるのは、全部自分を知る作業でしょう。「死ぬのは怖い」とか「死んだらどうなるんだろう」というのも、自分にまつわる「はてな」なんですよね。それをひとつずつ解決し、「こういうことなんだろうな」と答えを見つけていくのが自分を知る作業であり、ヨーガなんです。生きているからには絶対に必要なことで、よりよく生きる力をつけるためにはヨーガをやるといい。もちろんヨーガだけでなく、たとえば日本舞踊をやっていて人生の真髄がつかめる人もいるし、陸上競技でつかめる人もいる。人間の存在ってなんだろうという「はてな」を、ほかのことでつかむこともできるけれど、ヨーガはストレートに本質へ迫ることができる直線の道といえます。

―それはどうしてですか。

 ヒンドゥー教には、人は生まれ変わるもので、その輪廻をなんとか抜けだしたいという「解脱」の考えがあります。僕の解釈でいうと「人間を卒業したい」ということです。生まれ変わるというのは、例えば小学5年生が6年生になるようなもので、つまり小学校は卒業できない。人間はもう一度生まれ変わって、違う職業に就いたりして、いろいろなことを勉強する。その「人間を卒業する」ためのノウハウがストレートに詰まっているのがヨーガです。
 ただ、ヨーガは宗教ではありません。ひとりの人間が人間を卒業するためのテクニックであり、ヨーガをする人のなかにはキリスト教徒もいるし仏教徒もいる。言ってみれば個人教みたいなものです。要は個人が完成すればいいだけのことなのです。

―あくまで自分で自分を知るために実践していくのがヨーガ、人間はずっと人間を卒業する旅を続けているみたいなものですね。実際にヨーガを始めたとして、自分とはなにかという答えにたどり着けるのでしょうか。

 はっきりとはわからないのですが、インダス文明モヘンジョダロの遺跡から瞑想していると思われる人の遺物が出てきたといわれています。つまり、そのころから「人間はどうしたらいいんだろう」と考える人たちがいたということです。
 最初は自分を知りたいと思うんだけど、ヨーガをやっているうちにだんだんと、たどり着けてもたどり着けなくてもいいや、となってくるんですよ。そういう執着がなくなってくる。なくなってくるけれど続けていく。死ぬまでたどり着けないくらい遠いかもしれないけれど、それでもいいわけです。旅でいちばん楽しいのは旅行を計画しているときでしょう。同じようなものです。目的地にたどり着いたからいいというものではないじゃないですか。その前にどうしよう、こうしようと考えているのがいちばん楽しいわけですから。

内田 7月の参議院選挙のとき、僕は、立憲民主党の候補者の推薦人になっていたので、大阪の駅前で三回、街頭演説をやったんですが、そのとき「今の日本人は、デモクラシーの考え方が間違っているんじゃないか」ということを申し上げました。
 10年ぐらい前からでしょうか、日本の有権者たちが、民主制というのは個人の剥き出しの欲望をぶつけ合って、多数を取り合うゲームだと思うようになったのは。勝負なんだから、格好つけることはない。包み隠さずに自分の偏見や利己心や欲望を露出して良いのだ、と。それが人として誠実で正直なマナーであって、偽善に対して、本音をぶつけることに批評性がある、と。そういうふうに思い始めたんじゃないかと思います。
 だから、議員や首長の選挙でも、自分たちの代表者がとりわけ徳性や知性において卓越していることを求めなくなった。それよりはむしろ、自分たちと同じ程度にエゴイスティックで、了見が狭くて、偏見に満ちていて、意地の悪い人間こそが自分たちの代表にふさわしいのではないか……、そういうふうに思うようになった。
 それは与党も野党も一緒で、いつの頃からか、「お茶の間の感覚を国会へ」「生活者の目線で」というようなスローガンをどこの政党も掲げるようになりましたね。僕も最初の頃は、そういう考え方にも一理あると思っていたのです。でも、ある時期から、特に大阪で、「お茶の間感覚」とか「生活者目線」というのが、「市民的常識を踏みにじってでも剥き出しの本音を語ること」と解されるようになった。
 「NHKから国民を守る党」という政党が出てきましたけれど、以前ならあの政見放送では議席を得ることなんかあり得なかったはずの政党が国会に一議席を獲得した。投票した人たちは、その綱領や政策に特別に共感したというわけではないと思うんです。NHKを潰すことが現代日本において優先的な政治課題だと思って投票した人はごくわずかでしょう。おそらく投票した人の多くは、ふつう人前では抑制するはずの非常識な態度をテレビカメラの前で示し得たことには「鋭い批評性がある」と思った。こういう仕方で、世の中の偽善や欺瞞を叩き壊すことは端的に「いいこと」なんだと思った。政策は評価しないが、ろくでもない良識を破壊する力は評価する……というロジックで投票した人が多くいると思います。
 でも、これは昨日今日の話じゃなくて、大阪に維新が出てきた時から、ずっとそうなんです。きれいごとを言うな、空疎な理想を語るな、現実の実相はこうなんだ、と。「公的な人間としては心ならずも守るべき建前」を片っ端から破壊していった。そのあげくに、今、僕たちの目の前には救いのない荒涼たる風景が広がっている。
 道徳的な歯止めがもうほんとに効かなくなった。刑事事件で立件されないことなら、何をやっても構わないという道徳的なアナーキーに今の日本はあるわけです。それが日本社会全体を覆っている殺伐さ、非寛容、底意地の悪さの原因だと思います。
 メディアで垂れ流される「嫌韓言説」がまさにそうですけれども、あれは政治的主張のような外見をとってはいますけれど、その本質は幼児的な攻撃性、暴力性を吐き出しているんだと思います。今なら、韓国批判という文脈なら、どんな下品なこと、どんな非道なことを言っても処罰されないから。ある種の人間たちは「処罰されない」という条件が付くと、日頃抑制していた、差別意識や憎悪を剥き出しにすることにきわめて熱心になるんです。

     *

成瀬 ヨーガ行者は、現世に対する執着がなくなっていくものです。財産や家族、名誉だとか、そういったものにしがみつかない、執着をなくす生き方は理想ですが、そうは言っても、なかなかなくならないものです。食欲などは、死ぬまでなくならいでしょう。
 「なくせ」と言っても、なくならないんです。
 だから、「なくす」のではなくて「離れる」んですよ。
 「離れる」というのは、あってもいいし、なくてもいいと思えること。
 そうすると、死の瞬間、もしかして氷山・氷河でアクシデントがあって死を迎えたとしても、「ああ、今、人間卒業なんだな。これはよかった、卒業証書が来た」と思えるわけです。でも、死にたいわけじゃないですよ。その逆で、一生懸命生きたいんです。
 一生懸命生きた結果、今、死が来るのだったらウェルカムなんです。

     *

内田 世の中を一気によくしようと思ってはいけません。若いときに学生活動にかかわっていて、一番身にしみた教訓はそれですね。一気に社会正義を実現しようと思ったり、一気に万人の幸福を実現しようとすると、そのための手段として、粛清と強制収容所が必要になる。最初は善意なんですよ。世界が公正なものであってほしい、愛に満ちた場所であって欲しいと願うのは人間として自然なことなんです。でも、その理想を「一気に」実現しようとすると、そのプロセスで暴力がふるわれ、憎しみが生まれる。戦争にしても、大虐殺や政治的粛清も、どれも駆動しているのは「忍耐力のない善意」なんです。
 成瀬先生は「バランス」とおっしゃったけど、僕も一番大切なのは「バランス」や「適度」ということだと思います。
 過剰な善意が、巨大な破壊を生み出す。しけた悪意も破壊をもたらしますけれど、「しけた悪意」がもたらす破壊は「しけた破壊」なんです。過剰な善意がもたらす巨大な破壊とは比すべくもない。

内田 よい先生に出会えないというのは運不運の問題じゃないと思うんです。最終的には本人がそれを決めている。僕には先年亡くなった兄がいます。その兄にはとうとう生涯、「先生」と呼ぶ人がいませんでした。
 兄は懐の深い、頭のいい男で、性格も優しくて、僕は素直に尊敬していました。でも、兄には友だちがいなかった。彼はどこに行っても誰からも「兄貴」と呼ばれていましたけれど、それは「樹の兄貴」だから(笑)。僕の友だちの中にしか友だちがいなかった。自分で連れて来た友だちを僕に紹介するというようなことがなかった。
 兄には友だちも先生もいませんでした。それは彼が師匠や親友というものに設定していたハードルが高かったからだと思います。自分が「先生」と呼べるような人間であれば、これくらいのレベルであってほしい、自分が「友だち」と呼べるような人間であれば、これぐらいの器量の人間であってほしい……という条件をつけていて、誰もその条件をクリアーすることができなかった。
 ある時兄からしみじみと「樹はほんとうに“弟子上手”だよ」と言われました。「お前は先生をみつけるのがほんとうにうまい。オレからみたら、それほどでもないと思える人でも、すぐに『先生、先生』と慕っていって、結果的にはその先生からいろいろなものを学んで、人生を豊かにしているんだから」と言われました。そんなふうに考えたこともなかったけれど、言われてみて、なるほどそうかと思いました。
 質問にあった「先生という人に、なかなか出会えない」ことについてですけど、僕はそれは話が逆じゃないかと思うんです。理想の先生がどこかにいて、それを探し続けて、場合によってはついに生涯出会えませんでした……というのはなんかものを習う上できわめて非効率な気がするんです。「人間到る処青山あり」ですよ。そこの角を曲がったら師匠がいたって(笑)。いや、本気でそう思います。できるだけ多くの人を先生と呼んで、学んだほうがいい。
 「蒟蒻問答」という落語がありますね。こんにゃく屋の六兵衛さんという人が坊主のふりをして、そこに旅の雲水がやってきて禅問答をするという話です。雲水の方は次々と難度の高い質問をするんですけれど、六兵衛さんはそれを全部こんにゃくに関することだと勘違いして、こんにゃくの話で切り返す。でも、雲水の方は六兵衛さんのこんにゃくについてのコメントをすべて仏教の真理に関するものだと勘違いして、「ありがとうございました。よい勉強をさせていただきました。また修業し直して参ります」と去ってゆく。
 これはなかなか深い話だと思うんです。粗忽な雲水がこんにゃく屋の六兵衛さんに騙されたという話のように見えて、実は一番得をしたのは雲水なんですよ。こんにゃくをめぐる問答から、仏教の真理に触れたわけですから。
 師弟関係というのは、ある意味でそういう「勘違い」を必然的に伴っていると思うんです。師匠が何の気なしに口にした、どうでもいいような一言を「あれはオレだけに向けて師匠が告げた叡智の教えなのだ」というふうに勘違いして、「ありがとうございます。勉強させて頂きました」と涙ぐむ……というようなことは、師弟関係では日常茶飯事なんです。それでいいんです。師弟関係、習った者勝ちなんです。弟子になった者勝ち。
 でも、「弟子になった者勝ち」というふうに考える人は少ないですね。人に教える立場になるためには何か条件が要るように考えている人が多い。
 僕が大学の先生をやっていたころに、時々、学生に対して「僕は君たちに『先生』と呼ばれるほどたいした人間じゃありません」というような奇妙な謙遜をする人がいました。同僚に「何とか先生」と呼びかけると、「いや、俺は内田さんの先生じゃないから、先生と呼ぶのは止めてください」なんてね。うるさいこと言うんです(笑)。そんなのこっちの勝手じゃないですか。「先生」って呼びたいから呼んでいるわけで、こっちの都合なんですよ。自分を「先生」と呼べるのは、これこれこういう条件を満たした人間だけだなんていうのは、自分が「先生」と呼ぶのは、これこれこういう条件を満たした人間だけだ、というのの裏返しなんです。こういう人は誰かの先生にもなれないし、自分の先生を持つこともできない。こんにゃく屋の六兵衛さんだって先生になるんですから、「先生」と呼びたかったら、どんどん呼んでください。
 僕は誰からでも「内田先生」と呼ばれても全然構いません。「君に教えたことはないから『先生』と呼ばないでほしい」とか、「俺は人から『先生』と呼ばれるほどの器じゃない」とか言う権利が僕にはないと思っていますから。『先生』と呼ぶか呼ばないかは、僕の問題じゃなくて、先方の問題なんです。『先生』と呼びたければ、そう呼んで下さい。誰かを『先生』と呼びたいという気持ちって、ある種の向上心なんですよ。それに水を差すことないですよ。

     *

内田 僕も、学生にも門人にでも、人生相談されて、きちんとしたアドバイスをしたことはありませんね。でも、話はよく聞きます。「ああ、そうなんだ」と気のない相づちを打ちながら(笑)。ちらちら時計を見て、「あの、ちょっと次の授業があるから、もういいかな?」って。時間が許す限り聞きますけれど、アドバイスはなし。
 でもね、聞くのって大事だと思うんですよ。僕が右から左へ聞き流すのは、若い人が「本当のこと」を話す時は、かなり「毒」を出すからです。親に対する憎しみ、配偶者に対する憎しみ、上司に対する憎しみ……だいたい吐き出しに来る時はすごくどろどろしたものを出すんです。それをこちらがまっすぐに受けとめてしまって、「君、そんなふうに人を呪ったりしてはいけないよ」とか、そんなまともなことを言っちゃダメなんです。せっかく吐いたものを口の中に戻すみたいなことになるから(笑)。気持ちよく吐かせてあげないと。
 学生たちはけっこう頻繁に部屋に来るわけです。「毒を出し」に。それは彼女たちの成長に必要なプロセスなんだと思う。ある程度社会的に認知された大人に話を聞いてもらう。それに対して、こちらは「間違っている」とも「正しい」とも言われない。ただ、「なるほどそうか」「大変だったね」くらいしか言わない。で、「あ、もう授業が始まるから、またね」で終わる。それで十分なんです。

     *

内田 でも、僕は人の話は聞かないけど、お金は出します。若い人が困っている問題のかなりはお金で解決できることだから。若い人にはちょっと工面できないけれども、僕なら出せるくらいの額のお金で、若い人のトラブルはけっこう片づくんです。だから、話を切り上げて、「で、いくら要るの?」って聞きます。これだけ要りますと言われたら、四の五の言わずに出す。世の中に「説教はするが金は出さない」という人がいますけれど、僕は逆で、「金は出すが、説教はしない」。僕、お金の使い方、割とうまいんです(笑)。

成瀬 おおー。

内田 長く生きてわかったのは、お金って、人にあげるとすぐにあげた分以上に入ってくるんですよ(笑)。

成瀬 それはそうだね。

内田 貨幣の本質は運動性なんです。貨幣は運動したがっている。だから、流れているところに集まってくる。貨幣を抱え込んで退蔵するのは貨幣の本質にそぐわないことなんです。だから、それをやると貨幣に嫌われる。
 「お金で幸福は買えないが、不幸を追い払うことはできる」っていう台詞がありますけれど、たしかにこれは一面の真理を衝いていて、お金で解決できる問題、割と多いんです。お金では本質的な問題は解決できませんけれど、お金がないと、そもそも本質的な問題に取り組むことができない、ということはあります。
 例えば親と葛藤があっても、うちから出たいけれど、出られないという人がメンタルに傷つくということがありますけれど、これだって、お金があれば家から出られて、親から距離がとれる。職場がつらくて仕事を辞めたいけれど、辞めると暮らせないという人には、辞めてしばらく休んで、別の仕事を探したらどう? というような提案ができる。お金で問題は解決しないんだけれど、問題に取り組む余力が得られる。

     *

――また、歴史上の人物とか、身近な人でもいいんですが、理想的な死に方をしたなというモデルケースはございますか?

成瀬 僕のおじいちゃん。祖父です。世に聖者とか、素晴らしい人はたくさんいますが、祖父が一番です。聖者というのは、信者の前では素晴らしくても、一人になったときにもそうかはわかりません。祖父とは僕が十七になるまでずっと一緒に暮らして寝起きを共にしていましたが、その十七年間の間、一回も祖父が怒った姿を見たことがありませんでした。
 生涯一度も怒らないという人は、ほとんどいないと思います。
 無理をしているのではなくて、本当に怒らないのです。こういうふうにしなさい、と言われる時も「叱る」のではなくて、「説得される」。
 おふくろや親戚、いとこに聞いて回っても、誰も祖父が怒るのを見たことがない、と言いました。そのことを不思議に思った母が、ある日祖父に「どうして怒らないでいられるの?」
と聞いたら、「お天道様のことを考えると、怒る気持ちになれない」というようなことを答えたそうです。
 だから、どんな聖者よりも、祖父は僕にとっての「超えがたい存在」ですね。祖父のようにはなれないな。


 夕方に瞑想しているときになんとなくおもったのだけれど、箇条書き方式をやめてまたふつうの一字空けの段落方式にもどそうかなと。箇条書きにしたのがいつだかおぼえていないのだが、去年か一昨年くらいだったか? いちにちのあたまから終わりまで順番にくまなく書いていくのが負担になって、これでは維持できないとなったときに、断片性をたかめて、ぜんぶ書くのではなくことがらをしぼろうとおもって導入したはず。けっきょくその後も書きかたはそんなに変わらずあいかわらず現在に追いつけないで追われているまいにちだが、とはいえよほどこだわりもなくなったし、順序も時系列順にとらわれなくなったので、もう箇条書きでなくてもよいだろうと。ふつうの段落形式のほうがたぶんはてなブログにコピペして投稿するときに楽なのではないか。段落方式にするといっても、むかしみたいにぜんぶひとつながりにやるのではなく、行開けをはさんで断片性は確保できるようにするつもりである。一行や二行あけて断章にするか、それとも改行と一字あけだけでつなげておなじ断章内に段落をつくるか、という選択ができるようになる。それでまた書きかたやニュアンスにたしょうの幅がうまれるかもしれない。


 自室で夕食を食ったあとにギターを弾きたくなって、盆とつかった食器をスピーカーのうえに置いたまま隣室に移動して、ちょっとだけさわろうとおもって弾きだしたのだけれど、興が乗って一時間くらいやってしまった。ひさしぶりに充実した感があった。いつもどおり似非ブルースもやったけれど、インプロヴィゼーション的にやっている時間がながくて、それがなんかけっこうよかった。他人がきいてよいものになっているとはおもえないが、ずっと目を閉じたままおとを弾いては見て、追って、また弾いて、というかんじでやっていたので、だいぶ没入した感があってたのしかったのだ。やっぱり録っておいたほうがよかったかなとおもった。どういうふうにきこえるのか、きいてみたい。こんどやるときは録るかもしれない。録ったらnoteにあげてアーカイヴしておくつもり。
 弾くにあたって大事なのはけっきょくおとのうごきや指板上の配置をよくみるということで、目を閉じないとどうしてもそれがやりづらい。指が先行して弾いているうごきを追うようにみるということもあるのだが、そのときはだいたい手癖にながれがちであまりよいものにはならない。瞑目のうちにおのずから生じてくるつぎのおとのポジションをひろうようにやったほうが充実する傾向がある。ただテンポがはやくなったりこまかく詰めるながれになるとそれはむずかしいし、もちろんこの二種類のありかたはたえず入りみだれていて、瞬間的に交替する。指と表象がぴったり同期すると、うまく、よくながれるということになるのだろう。
 目を閉じたままでもほぼいまどこのフレットを弾いているのか認識できるようにはなってきた。たまにおおきく移動したときに一フレットだけずれてわからなくなったりもするが。


 きょうは日中ずっとかなり暑くて、六月並みの陽気ときいたおぼえがあるが、たしかに空気の感触や外空間の気配は夏のてまえといった風情で、昼過ぎにねころがって書見しているあいだ、ベッドに接している南窓もベランダにでられる西窓もひらいて風をとりこんでいた。花粉の影響はかんじられなかった。読んでいるあいだにたびたびながれはうまれて、ときに風がそとのものにふれるひびきをともないながら二方のカーテンが、おおきくではなく半端なように、ふくらむまでいかずみじろぎ程度にもちあがって、左右にちょっとだけふりふりとひねるように襞のあいだの各所がぎこちなくうごいたが、カーテンがもちあがらないほどのながれでも、おそらく棕櫚の葉らしく窓外ちかくからパタパタとかるくたたくようなおとはきこえた。
 五時一五分ごろに上階へ行ってアイロン掛け。あいまにソファの側面に両手をつきながら前傾しつつ前後に開脚して脚のすじを伸ばしたが、そうしてみえる南窓のガラスのむこうの空は淡いみずいろ、みずいろとすらいえないようななめらかな淡さが一点の障害もなくただただひろがっており、夕刻をむかえてひかりを減らした青空はさらさらとしたむき身の風情、皮をはがれて果肉をあらわにしたくだもののように清らかだった。
 アイロン掛け後に台所にはいると、ハンバーグにしたと母親は言って、ボウルのなかにすでにタネがつくられてあった。それで薄いゴムの手袋をもらって両手につけ、こねる。こねているあいだに母親はあれもこれもというかんじで牛乳とかウコンとか片栗粉とかいろいろとくわえていった。そうしてじゅうぶんこねたとおもわれたところで成型。ある程度の量をつかんで手にのせ、右手から左手にむけてかるくなげてパンパンと打ちつけるようなかんじで空気を抜き、まんなか付近をへこませて皿に。ぜんぶで五個。さいしょのふたつがおおきめになってしまったが、それは空気の抜きが足りなかったなとおもってあとでもういちどやりなおした。焼くのは母親にまかせて、ゴム手袋をつけたまま流水で洗ったあと、ひっくりかえすようにして手からはずして始末すると洗い物。乾燥機のなかをかたづけてからながしにあったものたちを処理。タネをいれていたボウルも洗剤を泡立てて漬けておいた。そのころにはもうおおかた焼けていたのでしごとを終え、アイロンをかけたシャツと白湯をもって帰室。
 夕食まえの時間でひさしぶりに書抜きができたのでよかった。まいにち一項目ずつでもやっていかなければ溜まるいっぽう。


 うえに引いてあるウェブ記事は入浴後などに読んだもので、なぜか急にこの成瀬雅春のことをおもいだしたのだった。正確にはなまえはおぼえておらず、ただむかしパニック障害をどうにかしたいとおもっていろいろ調べていたときに、図書館で『ゆっくり吐くこと』という本を借りて読んだことがあったのだが、そのことをおもいだして検索したのだった。


 noteにはじぶんの記事を明朝体で表示するという機能があって、こちらもその設定をオンにしているのだけれど、なぜかこのパソコンでみるといっこうにそれが明朝体として表示されない。きのうChromebookのほうでみたときにはちゃんと明朝になっていた。いぜんからずっとそうだったのをまあいいかと放置してきたのだが、きょうおもいたって、ブラウザのフォント設定とかの問題なのか? と検索しつつGoogle Chromeの設定を変えたのだけれど、けっきょくそれでも変化はなくいまだに気の抜けたような字体で表示されている。編集画面だと明朝になっているのだが。しょうがねえ、まあいいかと落としたのだが、変えた設定は游明朝で、そうするとなにかを検索したときのGoogleの画面なども游明朝で表示されて、それはなんとなくおちつかない。あと、エロサイトをみたときにAVの卑猥なタイトルとかがかっちりとした字で書かれているので、こんなとこ格式高くしなくていいだろと違和感をおぼえて再変更し、いろいろみた結果として游ゴシックUIというのがみやすいのでは? とおちついたのだが、これがはてなブログに記事を投稿するときの編集画面がどうもせまく接しているようでみづらい。それでまた游明朝にしたところがダッシュボード画面の文字がぜんぶそうなっているのにやはりおちつかず、投稿時は目をつぶるかと最終的にまた游ゴシックUIにさだまっているのがいまである。フォント設定はもともとぜんぶ「カスタム」となっていたのだけれど、それにもどすにはなんかファイルをいじったりしなければならないようで、めんどうくさいのでやりかたをこまかくみてもいないしひとまずこのままでいく。あとついでにブログのフォントサイズもややおおきいような気がしたので、いくらかちいさくした。

2022/4/11, Mon.

 スターリン批判は、ソ連の圧力を背景に社会主義陣営を形成し「小スターリン」的な指導者が統治していた東欧諸国にも大きな衝撃を与えた。一九五六年一〇月にはポーランドで新ソ政権を批判する集会が開かれ、暴動につながった。これを受けて、ソ連の指導部には行き過ぎと見える動きがポーランド政権内でも起こったため、ソ連の指導部はこれを放置できず、フルシチョフ自らポーランドへ乗り込んで、ソ連が許容できる範囲内で対応す(end106)るよう強く求めた。
 ポーランドでは、国民に信頼のあるゴムウカをトップに据えることで収拾が図られたが、やはり暴動が起こっていたハンガリーでは、政権が暴動を抑え切れず、ハンガリー駐留ソ連軍に出動を要請した。ソ連軍の出動後、ナジを首相とする新政権が発足して事態の収拾を目指したが、ソ連指導部は、ナジには混乱を抑えられないのではないかとの不信を強め、より大規模な介入の準備を始めた。これに対しナジは、ソ連軍の再度の介入を恐れてワルシャワ条約機構(後述。これに基づきソ連軍が駐留していた)からの脱退を宣言したため、ソ連は大規模な第二次介入に踏み切り、ナジ政権を打倒した。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、106~107)



  • この日はひさしぶりに一〇時から通話だったので九時にアラームをしかけており、無事それで起床した。しかし九時だと余裕はぜんぜんない。瞑想をするから。基本、いっかい三〇分くらいはしたいのだけれど、そんなにやっていると一〇時にまにあわないのでこのときは一五分くらいで切ったはず。そのまえにはティッシュを鼻につっこんで穴のなかを掃除したりトイレに行ったりしていただろうから、瞑想に切りをつけたときには九時半を越えていたとおもう。
  • 食事は天麩羅ののこりだったか? 新聞もみたとおもうがもはやおぼえていない。ウクライナ情勢やフランス大統領選あたりの話題だろう。とおもったがそうではない、この日はたしか朝刊がやすみだったのだ。したがって新聞はみていない。あるいはぜんじつのものをみた。そう、日曜日の書評面をみていたような気がする。しかしそれは日曜日とうじつの夜だったような気もする。いずれにしてもどうでもよい。ものを食べて皿をあらい、白湯をもって帰室すると九時五〇分ほどだった。ここのところいぜんよりもZOOMの接続速度がわるくなっているようにおもわれ、ZOOMで通話しながらウェブをみると音声がめちゃくちゃ遅くなったりするのだけれど、これはたぶんパソコンが劣化してきたということなのだろう。いつもバッテリーからはずしてつかっているからかもしれない。それでおもいついたのが、ほぼAmazon MusicをながすためだけにつかっているChromebookでZOOMにつなぎ、ウェブをみたいときなどは常用のパソコンも同時につかうのはどうかということで、一〇時まえのこの数分でその支度をしようとGoogle Play StoreからZOOMをインストールしたのけれど、アプリをふつうにはつかえずなんかよくわからなかったのでひとまずあきらめ、この日はうえの案と反対に、Chromebookを通話中のウェブ検索用にした。それでもまあよい。そもそもChromebookのほうがZOOMがなめらかになるかどうかもわからんし。次回またためしてみるつもり。
  • 通話中のことはあとにまわすとして、その後のことをさきに書くと、終了したのは午後一時。


 と書いたところで、箇条書き方式をやめようとおもっていたのをおもいだした。いま四月一三日の午前二時ごろなので、体感としては一二日の範疇なのだが、きょうの夕方に瞑想していたあいだになんとなくそういう気になったのだった。それで一二日の記事のしたのほうはすでに箇条書きではない段落方式でしるしている。


 この日のことにもどると、一時で通話を終えて自室にものをもちかえると、上階に行って洗濯物をとりこんだ。そのままタオルなどたたむ。そうしていったん下階にかえり、瞑想した。睡眠が四時間半ほどだったのでさすがにねむかったのではなかったか。よくおぼえていないが、意識があまり明晰でなかったのはたしかだとおもう。まえのようにねむすぎて上体が前後左右にふれて耐えられないということはもうあまりなくなってきたが。左右にゆれることはあるものの、ゆれながらもなぜか意識はそこそこたもたれている。
 ストレッチなんかもして二時になったおぼえがある。そして書見したのだったか? わすれた。いずれにしても出勤まえになにかしら夕食の支度をすこしだけでもしておこうとおもって、AJINOMOTOの餃子を焼くとともに味噌汁をつくったのだ。タマネギと卵の味噌汁にしようかなとおもっていたのだがタマネギがもうなかったので、どうするかと冷蔵庫をみて豆腐に決定。卵もいれようとさいしょはおもっていたのだが豆腐だけでそこそこの量になったし、かわりにネギを混ぜようというわけで、手のひらのうえで切り分けた木綿豆腐をしばらく煮たあと、ネギを鍋のうえにもち包丁ですこしずつ削ぐようなかんじでくわえた。麦味噌を溶かして完成したのが三時まえだったか? きょうは(……)さんが職場を開けるようだったし、準備時間がすくなくてもどうにかなるだろうと判断して電車で行くつもりだった。出るまえにまたも瞑想をしたのだった。一五分か一〇分かそのくらいでみじかく終えたが、一〇分一五分でもきちんとなにもしない時間を確保するのは大事だなとおもった。三〇分やろうとしなくてもよい。その後きがえたり身支度をして出発へ。調理中と出発直前でのこしていた洗濯物をそれぞれたたんだ。
 陽気はきょうも初夏、空気はやわらかで、服のうちで肌もほころびあるくあいだにふれてくる布地の質感がやけにさらさらとなめらかだった。公団付属のさびれきった小公園に立つ桜木ははや三色の混淆期にはいっており、といっても花はもうすくなくて、来たほうからみて正面にあたる東側はほぼ二色、葉の若緑と花弁の去った花柄の紅のとりあわせだが、それだとやや地味にうつり、花の白さがのこってみいろのいりまじったあの官能的なみだれぶりにはおよばない。木の間の坂を越えて最寄り駅にはいれば脇の広場ではこちらはピンク一色の、樹冠をまるくひろげふくらませた枝垂れ桜が満開で、すきまなく桃色をぬられたすじが何本も、ねじれた紐のように葡萄の房のように垂れさがって幹をかこんでいるさまの、下端から頂点までずいぶんながくたかいアーチをえがく傘のすがただった。


 帰路、最寄り駅で降りると自販機でコーラのちいさなペットボトルを買った。暑くなってきたのでさいきん品替えがなされて復活したのだ。夜気があるくにここちよい季となってきた。坂をくだって平ら道を東に行くと、どこかから虫の音がうすくつたわってきて、まだかさなりはなく一匹二匹にすぎないようだが、大気のなじみやすさにしてもすでに夏夜の気配がふくまれているなとおもった。


 勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)


 あとは通話中のこと。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)

2022/4/10, Sun.

 一九五六年二月に開かれた、スターリンの死後初めての大会となる第二〇回党大会は、新指導部の下での変化をはっきりと示した。大会では、政治と社会全般の民主化、勤労者の参加の拡大、西側との平和共存の可能性(スターリンが主張し続けた戦争不可避論の事実上の否定)が謳われ、社会主義への平和的移行の可能性も認められた。そして、大会最終日、一九五六年二月二五日の非公開会議では、フルシチョフによるスターリン批判(いわゆる秘密報告)がなされた。スターリンの下での犯罪的な行為を暴露し、それはスターリン個人のせい、スターリンに対する個人崇拝のせいで生じたと批判したのである。
 スターリンへの賛辞は、死後次第に控えられるようになってきていた。また、当時は公表されなかったが、一九五三年七月の党中央委員会総会においてスターリンの個人崇拝が批判されていた。この総会で報告を担当したマレンコフは、スターリンレーニンの偉大(end98)な継承者としながらも、スターリンの個人崇拝は常軌を逸した形態と規模になっていた、そのような歪んだ個人崇拝が党と国家の指導に深刻な損失をもたらすようになっていたことを隠す権利をわれわれは持っていないと述べて、いくつかの具体的な誤りを指摘し、総会でスターリンを讃える発言をした中央委員を批判したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、98~99)



  • 九時半のアラームで無事起床。そのまえにもいちどさめたような記憶があるが。さらにひさしぶりにゆめの記憶がのこっていた。といって書いているいまにはもうあまりないが、兄とともにどこかの町をあるいているもの。駅前のひろい広場みたいなところにいたり、そこでなにかしらのことがあった気がするのだけれど、わすれた。水場に行ってアレグラFXを飲んだり膀胱から黄色い小便を捨てたりしてくると書見。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(新潮文庫、一九六九年)下巻のつづき。500すぎくらいまで。あいもかわらずメインヘール・ペーペルコルンのはなし。ハンス・カストルプからするとショーシャ夫人もしくはクラウディアの旅の伴侶であるこの男(もう六〇歳かそのくらいのようだが)は恋敵になるはずなのだが、しかしハンス・カストルプは、さいしょのうちはいらだたしさもみせていたものの、かれにさそわれて宴会にあそんだ一夜のあとはむしろそのもとにたびたびおとずれはなしをするという友好的なふるまいをみせ、いあわせるショーシャ夫人はかれらの会話を「監視」しつつ、謝肉祭の一夜にあれほど度を失ってじぶんをかきくどいてきたこの青年がそんな調子でおちつきはらって男同士の敬愛をしめしているのでかえっていらだつ。しかしカストルプじしんはじっさいにこの老人がたいしたにんげんだとおもっているらしく、みずからすすんで「この人物の人柄の影響を受けようとした」(478)。なんについてもひとまず「傾聴に値する」とかんじていろいろなひととつきあう「愛想のよさ」は、かれ特有の性質であり、それがハンス・カストルプのまわりにひとをあつめ、たがいに敵対心や冷淡さをいだいているあいだのにんげんでさえも媒介的にむすびつけることになった、という点は488に述べられている。交際仲間一団の散歩にはすでに「ベルクホーフ」を出て婦人服仕立師の家に間借りしているセテムブリーニと、おなじ家の一階下に住んでいる同宿人レオ・ナフタもくわわり、論敵であるこれら啓蒙的自由主義者のイタリア人と、共産主義ユートピア神の国を同一視するテロリスト的イエズス会士とはあいもかわらずあるきながら高尚な議論をたたかわせ、王者メインヘール・ペーペルコルンもさすがにそれに口出しなどできず、「ただ額の皺を深めて驚いて見せたり、曖昧で嘲笑的な切れぎれの言葉をさしはさんだりするだけであった」が(502~503)、この「人物」のふしぎなおおきさや威厳によって議論の高尚さや重要性は格下げされ、「こういってはたいへん気の毒だが――結局こういう議論はどうだっていいのだという印象をみなに与えて」しまうのだった(503)。哲学者ふたりは根っから教育家的な性分であり、ハンス・カストルプへの思想的影響力をあいあらそっているのだが、そのふたりともメインヘール・ペーペルコルンのまえにあってはちっぽけな存在とうつってしまい、セテムブリーニはしかしそのことが理解できずにあんなのはたかだか「ばかな老人」(493)じゃないですかと青年に苦言を呈している。ところがハンス・カストルプがいまやみつけたのは、馬鹿とか利口とかにかかわりのないなんらかの優越性があるということなのだ。セテムブリーニはまた、カストルプがショーシャ夫人よりもじぶんの恋敵であるこの男にむしろ関心をもっているという点にも違和をとなえているが、カストルプはそれをじぶんが「男性的」(500)ではないということ、またペーペルコルンが「大人物」(501)でとてもかなわないということによって説明している。もうひとつ、ペーペルコルンはジャヴァでコーヒー農園を経営しているオランダ人であり、太平洋の島々などで原住民が利用する薬物や毒物についてかたってみせるのだが、それにおもしろみをおぼえるハンス・カストルプにセテムブリーニは、「そうでしょうとも、あなたがとかくアジア的なものにしてやられるのはよく存じています。いや実際、そういう珍しいお話は私などにはしてあげられませんからね」(499)といやみっぽいことばをむけ、あいもかわらぬアジア蔑視とヨーロッパ中心主義をあらわにしている(キルギス人のような切れ長の眼をしたロシア婦人クラウディア・ショーシャも、この「アジア」や「蒙古」に属する存在である)。
  • 一〇時一七分から瞑想。きょうはかなり暑く、のちに新聞の天気欄にみたところでは最高気温は二五度だという。寝床にいるあいだもひらいたカーテンのあいだで青海と化した空にたゆたうおおきな太陽がひかりをぞんぶんに顔におくりつけ、肌をじりじりとあたためてからだに汗を帯びさせていた。四〇分くらいまで二〇分少々じっとすわり、上階へ。両親は買い物に出かけているところだった。きのうの残り物で食事。新聞の一面からウクライナの情報を読んだ。ロシア軍がミサイルを撃ちこんだドネツククラマトルスク駅での死者は五二人に達したと。東部では住宅地や民間施設への攻撃が激化しているもよう。キーウ近郊ではブチャいがいにも銃殺された遺体がたくさん発見されているようだ。ロシアはいままで孤児をふくむ一二万人ほどを国内につれさったという情報もあった。プーチン生物兵器化学兵器、はては核を使用する決断をしないかという、そのことがいちばん気がかりである。香港の行政長官選挙で、前政務官であり林鄭月娥のもとでのナンバー2だったらしい李家超という人物が出馬表明という報もみた。警察出身で、民主派の弾圧を指揮してきた張本人であり、国家安全維持法を補完する国家安保条例みたいなものを制定するのではないかと危惧されると。選挙は親中派の選挙人による事実上の信任投票である。
  • 新聞を読んでいるあいだに両親が帰宅。食器をかたづけ、風呂洗い。すむと白湯をもって帰室し、Notionを用意しつつ湯を飲んでそのまま歯磨きもした。すでに一一時四〇分ごろだったので身支度へ。カラフルなチェックシャツとブルーグレーのズボンを身につけ、腕には時計をつけつつも荷物は財布をポケットに突っこんだだけで上階へ。靴下を履き、ちょっとうがいをしたり用を足したりしたあと出発。
  • 陽射しのひじょうにあかるい正午だった。みちをあるきながら坂下の家並みやとおくの山などをみやると、そのいろがずいぶんくっきりと、大気中になんの夾雑物をもなからしめる洗浄光のかわいた明晰さで空間にしるされている。風もたえまなくあたりをながれ回遊し、下草や林の樹々をなべてにぎやかしてはおとの泡を吐かせている。頭上をおおかたおおわれたほそい木の間の坂道にはいっても、樹冠のあいだがみずいろに澄み、みちのよこにひろがる草木の占領地にもひかりがかかって立ち木の枝葉をながれおちるよう、濃いのとあかるいのと、みどりがさまざまかさなりながらわきたっているそのむこうに、うえのみちの家の裏手のベランダにピンクや青やのあざやかなシャツがいくつか干されてあるのがのぞいた。足もとにわずかだが桜の花弁がまざっているのをみつけ、どころかのぼるあいだに宙をふらつく一、二片もあったが、あたりをみまわしみあげてもみどりばかりでもとがみつけられない。
  • おもてに出て、旺盛で幅広な、目をほそめずにはいられないひかりのなかを美容室へ。店のまえの道路でなにかの工事をしていた。といってあまり工事らしいようすもみえずどういうものかわからなかったのだが、ヘルメットすがたの整理員が車のながれを管理して、なにかの区画がつくられていたのはたしかである。入店。あいさつ。先客はひとり、高年の婦人。すぐに洗髪台へ。(……)さんに髪をあらってもらう。パニック障害のむかしはあおむけの姿勢でじっとしていなければならないこの時間がけっこうにがてでくるしくなったこともあったが、いまやどうということもない。ただ、唾だけはいまも処理しづらいが。洗い終わると礼を言って鏡のまえの椅子につき、散髪へ。(……)さんがきょうはどのくらいときいてくるので、もうばっさり、と笑い、まわりは刈ってうえのほうはたしょうのこし、ちょっとうしろにながすような、というかんじになった。まあいつもどおりてきとうにみじかくしてもらうというだけのことだが。暮れだったかなと前回来たときのことをいうので、暮れでしたかね、もうそんなか、と受けた。そのあとさらに会話のなかでおもいだされたが、たぶん(……)の結婚式があるからとそのまえに切ったのではなかったか。会計のときにスタンプカードをみた(……)さんがいうには、一一月だったというから、五か月も切っていなかったのかとおどろき、そんなに切らなかったことないですよとわらった。会話はまあたいした内容もなくいつもどおりの世間話だが、塾の生徒らは無事にみんなおくりだせたかときくのに、まあそうですね、今年は落ちた子もいなかったはずとこたえると(といいながらも、第一志望に落ちたにんげんはいたが、いちおうみんな行けるところには行けたということだ)、行くばしょにおくりこむまでがたいへんだよねえ、悠仁さまみたいにはいかないしね、まわりをさげろっていうわけにはねえ、あれも筑波大に支援金とかがけっこうわたってるんじゃない、などという答がかえって、あ、そういうはなしなんだとおもった。秋篠宮悠仁親王筑波大学附属高校に進学した件だが、それじたいは知っていたものの、そういうゴシップ的なはなしはいままできいたことがなかった。たぶん(……)さんの情報源は女性誌や週刊誌などではないか。「まわりをさげろっていうわけには」というのが、具体的にどういうことがあったと想定されているのかはよくわからない。むろんそういう皇族の裏口入学みたいなことは現実にあるのかもしれず、真実はしれないが、端的にどうでもよいことではある。
  • よくみなかったがとなりの婦人はパーマのたぐいをやっていたようだ。こちらの髪がバサバサ切られてカットクロスや床のうえに落ちているのを、洗髪のためにたちあがったときだったかそこからもどったときにみた婦人は(足がいくらかわるいようで、椅子から立つのに時間がかかって難儀しており、だいじょうぶ、たちあがるまでがね、とじぶんで言っていた)、若いからたくさんあって、みたいなことをもらし、それにすぐさま(……)さんか(……)さんがおうじて、じぶんにほしいくらいでしょ、いくらか払ってもねえ、あつめてくっつけられればねえなどと冗談を吐き、婦人も肯定して、いやそうそう、ほんとに、とかいっていた。(……)さんなどは、「総入れ替え」したいよね、とすら言っていた。こちらはそのあいだわらいをつづけて、かのじょらのことばをぶぶんてきにくりかえしたりするのみで余計なことはいわなかったが、これは生来偶然いあわせただけの初対面のひとと軽口をたたきあえるほどの社交性をそなえていないということもありつつ、また起きてから時間がそう経っていないためかあまり口がまわろうとしないという事情があったためだ。じっさい、(……)さんとの世間話も、たいした返答や話題がおもいつかず、あたまのなかにうまい文脈や連想が浮かんでこないというそのことを自覚しながら、無理はせずにそのひかえめさにとどまっていたのだった。いつもわりとそんな調子ではあるが。あと、声もなんだかすこしほそいようで出しづらかった。それでもさきの婦人がかえるときに会計の段で二〇周年なのとかいっていたのでそれをひろって、もう二〇周年なんですかときいてみると、記念品としてペンをつくったという。これはこちらもかえりにいただくことになった。二〇年だとぼくが小六のときですね、と言い、ぼくがはじめてきたのが高一だか高二のときで、そのころクラスメイトに、なんていうか、へんなおしゃれなやつみたいなのがいて、たぶんそれをみてじぶんもすこしは、っておもったんでしょうね、とわらってはなした。体育のあととかトイレでアイロンやったりしてるんですよ、とつづけたが、このへんな洒落者というのは一年のときにクラスメイトだった(……)くんのことで、ホストみたいなやや濁り気味のパサパサした茶髪で顔のまわりをおおった髪型をしており、服装にしろ髪にせよたいそう気をつかって洒落者をこころざしていたのだが、そのこだわりぶりが一〇代なかばの少年少女たちのなかではやや過剰だったのと、おそらく方向性もすこしずれていたようで、たぶん女子受けはよくはなく、(……)には「なにを(あるいはどこを)めざしているのかわからない」と評されていたのをおぼえている。一年E組には当初こういう、ややイケてるみたいな、いまでいったらいわゆる「陽キャ」だろうが、そういう男子のグループがひとつあって、そこに属していたのはこの(……)さんと、したのなまえをわすれたが(……)という背のたかいこれもけっこう顔立ちのととのったクールな男子、あと(……)(漢字がわからない)というこちらは背のひくいことをたぶんずっといじられていた、ややするどいような顔のやつなんかで、女子の胸を合法的にさわりたいといってレントゲン技師をめざした愛すべき馬鹿である(……)もそこにいたかもしれないが、このグループはさいしょのうちしばらくいっしょに飯を食っていたのだけれど、そのうちに(……)さんはそこからはずれて、それでこちらなんかとかかわりをもつようになった記憶がある(席がとなりだか前後だったかになったという事情もあった気がするが)。かれはみためはイケイケなほうだったのだろうけれど、たぶん性分としてはそんなにそっちのタイプではなかったのだろう。なにしろ合唱部にはいって安定的でふくよかな低音を出すことにこころをくだいていたくらいだし(じっさいその努力はみのり、高校三年時の合唱祭で三年A組は、かんぜんに(……)さんの趣味でプログレ的な難曲 ”44わのべにすずめ” を演ずるという無謀な選択をとったのだが、かれはみごとこのクラスをまとめあげて優勝にみちびき、実演のさいにはほんにんのバスもふくよかにちからづよくきわだってひびいていたし、この合唱をきいただけできょう来た価値はあったなと、とうじすでにえらそうな批評家めいた心性をもちあわせていたらしい一七歳のこちらにおもわせたのだった)。その(……)さんとこちらはなぜかわりとなかがよくて、二年からはA組とB組でわかれたがたまに廊下で会ってはなしたりはし、また体育はAB合同だったのでそこでもいっしょになっただろう。体育のあとにかれとよくトイレに行って濁ってパサパサになった茶髪の毛束をアイロンでのばしているのをながめたのが一年のころだったか二年時だったかはさだかでないが、かれはこちらの髪をも整髪料でちょっとととのえてくれたり、アイロンではさんでのばしたりもしてくれたはずだ(たぶん、素材はわるくないんだから、みたいなことを言ってくれていたとおもう)。それでたぶんじぶんもすこしはおしゃれにきをつかわなければというおもいがめばえたのだろう、じっさいこちらは高校時代をとおして髪はわりとながくしていたし、一時期は朝に鏡のまえで側髪をアイロンでのばしたりもしていた(だれとあるいていたのかわすれたがたぶん高校二年くらいのときに、(……)でホストの若いにいちゃんに声をかけられてはたらくようさそわれたこともいちどだけあった)。いまからかんがえるとちょっと黒歴史の感がある。しかしこういったこともいまからもうはや一六、七年まえのことなのだ。いざおもいだして書いてみると、ぜんぜんそんなかんじがしない。
  • となりの婦人はさきに終わってかえっていったのだが、調髪がおわって席からたちあがるそのときにこちらのほうをむいてなんとか言ったものの、なんといったのかよくわからなかった。笑顔でかえした。その時点でたぶんもう二度目の洗髪とドライヤーでの乾燥が終わって、さいごにととのえるのを待っていた段階ではなかったか。わからないが。ともかくみじかくしてもらって、さいごのほうでは兄のことをきかれたので、いまはロシアからかえってきて(……)に住んでいるといい、ロシアのまえはベルギーにいてそこで奥さんと出会ったということもはなすとともに、まあ貫禄はありますね、からだが、ロシアにいたときに北のほうの、林業をやってるひとたちのところに営業に行って、重機を売ってるわけなんで、それで現地視察みたいなかんじでいって、むこうのひととならんでうつってる写真をみたんですけど、からだのおおきさおなじなんですよ、熊みたいな、ロシアの木こりたちとならんで違和感なかったです、とわらってかたった。
  • 一時くらいで終えて会計。ふたりにそれぞれむきながら礼とあいさつを言って退店。陽射しはあいかわらずさんさんと分厚くふりそそいで額を熱し、目をおのずとほそめざるをえず、街道沿いを行けばまえからやってくる車たちのフロントガラスにやどりこんだ太陽はほとんどギラギラとした感触で純白のおおきな球としてふるえては突出を八方に伸ばしている。コーラが飲みたくなって自販機で缶を買った。それをうえからつかむかたちでみぎてにもちながら車がとぎれるタイミング、もしくは工事現場でとめられた列のすきまをわたるタイミングをうかがっていたが、こちらがわでとまっても対岸の車線をくるながれがあったりしてなかなかわたれず、しかたないのでとりあえずさきにむけてあるきだし、ときおりふりかえってようすをみながら快晴のしたをぶらぶら行った。しばらく行くとようやく隙がうまれたので南側にわたり、来た方向にもどっていって木の間の細道をくだる。草木のあいまにはいるとこまかな羽虫が発生して顔に寄ってくるのがうっとうしい陽気となった。したのみちに出て家まで行けば、父親が林縁の土地でピンクの小花の円陣めいた群れにかこまれたなかでなにやら地面を掘っていた。玄関にはいるまぎわ、みちのむこうのべつの林縁で段上に立った紅や白の花木の、あかるい大気のなかでいろがみごとに凝縮的につよく小球を凛々とつらねたようにきわだつさまや、林のいちばんはじのみどりがひかりをまとってかがやきながら微風にそれをはじいているのにちょっと目を張った。
  • コーラを飲むかと母親にきくとちょっと飲むというので、手を洗うとあけてついでくれとのこしていったん帰室。ジャージにきがえてもどり、昼につくられた焼きそばを皿に盛ってあたため、コーラ缶や氷をいれたコップとあわせてもちかえった。母親はコーラを父親の分も少量わけて、コップふたつをそとにもっていった。
  • 一服ついたあとに八日の日記をしるしていると母親が来て、たけのこを天麩羅にしてくれというのは父親が林から採ったらしい。せっかく書きはじめたところだったので辟易していやだよといいつつも切りをつけると上階に行き、しかし天麩羅ではなくてベランダの洗濯物をとりこんで始末した。台所では母親が支度をして揚げはじめていた。かのじょがトイレに行くあいだなどちょっとだけかわってたけのこを揚げつつたたむものをたたみ、洗面所にはこんだり仏間にならべたりしておき、さらに下階のベランダにも行って、こちらの寝床のシーツとか布団カバーもとりこんで、薄いほうとふつうの厚いほうと二種類のかけ布団にカバーをほどこした。そうしてもどると天麩羅はもうおおかた終わっていたので乾燥機をかたづけたり、台所の余計なものを棚にいれたり、洗い物をしたり。また米がもうすくないのであまったものを皿にとり、釜を洗ってあたらしく磨ぐと六時半に炊けるようセットした。そうして緑茶をつくって帰還。
  • 日記のつづきをしるして八日九日と完成。五時すぎくらいからしばらく休み、ネットで記事を読むなどしたあとおきあがってきょうのことをここまでしるせば七時一一分。かなりひさしぶりのことで現在時に追いつくことができた。どうせまたそのうちおくれるに決まっている。(……)

ただ、今回非常に特徴的だなと思うのが、そういう若い人とかインテリだけではなくて、非常に政権に近い立場の実業家みたいな人たち、あるいは企業としてプーチンの戦争に対して反対を表明するっていう現象が起きているんですよね。

やっぱり一番最初に声を上げたのが、ロシアのアルミ王と呼ばれている(オレグ・)デリパスカ、それから「アルファバンク」、非国営の中では最有力の銀行ですけど、ここの頭取の(ミハイル・)フリードマン、こういう人々がプーチンの戦争に反対ということを公然と言い出す。ちょっとこれ、私は見たことがないんですよね。これまではプーチンと一緒に、プーチンの方針に異を唱えないでプーチンを支えることによって、利益を得てきた人々というのが、プーチンの専権事項である外交安全保障に対して反対論を唱えるというのはあんまりなかった、というか初めてなんじゃないかと思うんですよね。

それからロシアの石油会社「ルクオイル」、これも非国営の中では最大手ですけど、ここも公然と戦争反対と言い出すと。それからロシアの(ロマン・)アブラモビッチチェルシーのオーナーだったアブラモビッチチェルシーを売ってウクライナ避難民の支援に充てますということですね。どうもビジネス界では、プーチンに対して距離を置いているような感じをすごく今回感じるわけです。

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もう1個は、今検討されているポーランドからウクライナに対して戦闘機を供与するという話とか、それからウクライナ上空に飛行禁止区域を設けるみたいな話ですよね。つまりこれまでよりもより強い形でのNATOからの軍事的なコミットメント、特に飛行禁止区域はつまり「ここを飛んじゃダメだよ」というだけではなくて上空に戦闘機を送り込んで制空権を取ってしまう、それでもロシアが飛行機を飛ばそうとするんだったら撃ち落とすというものですから、これはもう事実上戦闘参加に近いわけですよね。

今のところアメリカもNATOもそれは危なすぎると言って拒否していますけども、アメリカの世論が先週くらいからかなり変わってきたように世論調査とかを見ていると見えるんですよね。この中でじゃあ、さらにロシアがキエフとかハリコフで無差別攻撃をやる中で彼らを何とか救えっていう世論が西側の国々の中で高まらないという保証はないと思います。

じゃあそこで実際に飛行禁止区域を設定してロシアの空爆を阻止するみたいなことを西側諸国が本気でやる場合、あるいは戦闘機を供与して、その戦闘機の発進基地はポーランドの中の基地を使っていいですよということをやった場合、これはロシアの軍事思想ではほぼ参戦とイコールに捉えると思います。

30年くらいロシアの将軍たちが書いている雑誌をバーッとバックナンバーを読んでいくと、飛行禁止区域設定というのを事実上の宣戦布告と同じように見るところがあるんですよね。ロシアの軍人たちって。これはやはりイラクの場合であるとか、リビアの場合であるとかのことを相当よく覚えているんだろうと思います。なので今回も西側がそれをやったとしたら、ロシアはほぼ宣戦布告と考えると思います。

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ただそれでロシア対西側の全面戦争をやるかっていうと、これをやると第三次世界大戦になってしまいますし、現実にロシア軍は今ウクライナでさえ倒せていないわけなので、普通に戦ってNATO軍を全部相手にするのは明らかに無理なんですよね。じゃあそういう場合に何をするかというと、これも最近いくつかメディアでお話ししましたけど、やはり核使用の脅し。場合によっては実際に小規模な核攻撃をそんなに損害が出ない形でおこなって、参戦してくることを思いとどまらせるというシナリオは十分にありうると思います。

これは90年代にユーリー・バトゥーリンが国防次官だった頃に出てきたアイディアなんですよね。90年代にめちゃくちゃになっちゃったロシア軍の状態で、もしも万一大規模戦争が起こったらどうするかっていうときに、限定的にデモンストレーションのために核を使って戦闘の停止であるとか、あるいは域外国が参戦してくることを阻止するという思想が生まれてきて、これが2020年代の現在に至るまでどうすればそれが第三次世界大戦にならないように上手いことロシアの目的を達成できる核使用になるかっていうことをずっとロシアの軍人たちは議論し続けてきているわけです。

今まさにそれに近い状態なんですよね。これまではロシアとNATOが本当に一触即発になるっていうのは、「もしもそうなったらね」っていう感じだったわけですけれども、今回は本当にそうなりつつあって、そしたらこの四半世紀考えてきたエスカレーション抑止型の限定核使用をやらないとはなかなか断言しがたい。

実際に今回プーチン大統領が抑止戦力を特別警戒態勢に付けなさいということを国防大臣と参謀総長に命令しています。ここでプーチンは核とはいっていないんですね。抑止戦力という言い方をしています。ですから核も入るし、あと現行の2010年版軍事ドクトリンの中では初めて非核戦略抑止力という概念が盛り込まれておりますので、その非核の通常型巡航ミサイルとかも全部ひっくるめて抑止戦力というふうに呼ばれているので、必ずしもこれが核だとは限りませんが、これに対してロシアのショイグ国防大臣が言っているのは爆撃機部隊とか、太平洋艦隊と北方艦隊を戦闘配置に付けていますと報告しているんですよね。

爆撃機もそうですし、北方艦隊、太平洋艦隊というのはロシア海軍の5つの艦隊の中で唯一、弾道ミサイル原子力潜水艦を運用している艦隊ですから、全体として見ると戦略核のことを言っているように見えるんですよね。なのでもちろんそこまで配備するまで、海に出すまで、空に上げるまで、そこまでで脅しをかけるだけっていう可能性もありますし、そこで収めるべきだとも思いますけども、現状ではロシアがこれまでずっと考えてきた思想を持っている。そういう限定核使用をするという能力も持っている。状況としては想定されてきたものに極めて近いということを考えると、本当にロシアがそういうことをする可能性というのは、「まあないでしょう」というふうにはなかなか言い難いだろうというふうに思っています。

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小泉)ひっくるめてお答えいたしますと、第一にロシアの軍の中でずっと論じられてきた先制核使用ドクトリンというのは大きく2つあると思うんですね。ひとつはいまロシアがいま戦争を現にやっていて、このままだと負けそうであるというときに、ロシアにとって受け入れ可能な条件で停戦を強要するというシナリオがまずひとつです。

こういう場合の核使用のターゲットっていうのは何か非常に政治的に受け入れがたい目標に対して、1発だけというふうに想定される場合が多いと思いますね。例えば何か重要な軍事拠点であるとか重要な産業施設であるとか、人口密集地域であるとかに対して、1発だけ打ち込んで「これ以上続けるととんでもないことになりますよ」というふうにやる。これは相当の犠牲を伴います。ただしこれは犠牲を最大化することが目的ではなくて、停戦を強要することが目的なので、犠牲は出るけどターゲットは絞ってやるという考え方ですね。

ですからこれを現状の状況に当てはめると、例えばウクライナのどこかの大都市を狙うであるとか重要な産業地帯を狙うであるとか、そういうことをやるのではないかと思います。これ、もしもやるとした場合です。

もう一つのロシアの軍事思想の中にある核使用の考え方は、今は勝っているんだけど、そこに域外国が参戦してくると負けてしまう、軍事バランスが不利に傾いてしまうので、その当該域外国の参戦をくじくための核使用を行う。これは相手を逆上させるとまずいので、損害を出さないように気をつけてやるんですよね。

これは例えばその国の近くの海域上で核爆発を起こすとか、無人の地帯でやる、あるいはごく少数の軍人しかいない軍事施設に対してやるとか、そういうことが想定されているようです。

ですからこういう場合って例えばロシアがやるとしたら北大西洋上で核爆発を起こすであるとか、それからNATOの施設の中で本当にごく少数しか人がいないところをやるであるとか、そういうことは考えられると思うんですね。ただ、あのロシアも四半世紀この議論をやってきたので、最近だと初手からいきなり核を使うというのは、やはりあまりにもリスキー過ぎるということは認識されるようになっていまして、最近の議論だと、非核のミサイルを使えばいいじゃないかと。

非核のミサイルを使ってなるべくインパクトが大きくなるような攻撃の仕方をすれば、相手にその戦争の停止を強要するなり、参戦の見送りを強要するということができるんじゃないかって議論になっているんですよね。

だから今回の件に関しても、私もいくらなんでも最初から核を使うというのはないんじゃないかと思うんですね。わかりませんけど。むしろ何か通常型のミサイルでインパクトの大きいことをやる、例えば今ロシアにとって面白くないのはポーランドの国境から西側の軍事援助物資が入ってくることですよね。それを阻止したいんだったらポーランド国内にある物資の集積場を叩くであるとか、使用されているハブ空港を叩く、これはNATO加盟国に対する直接攻撃なのでインパクトは大きいんだけども、反撃してロシアと全面戦争に入るの、入らないのという究極の選択を突きつけられるわけですよね。

そういうことをロシアが狙ってくる可能性というのはあると思います。もう1個は、こういう戦略をロシアがずっと持ち続けているということ自体は、西側の国も早い段階から認識していて、多分1番この話が大々的に取り上げられたのは2012年にニコライ・ソーコフというロシアの外務省出身の核軍備管理屋さんがいて、彼がなぜロシアは限定核攻撃をエスカレーション抑止と呼ぶのかという論文を発表して、これ以降西側の人々も英語でこのエスカレーション抑止の議論に接することができるようになって、非常に注目を浴びたんですよね。

2018年のトランプ政権の核体制見直し、NPRの中ではまさにこれがメインテーマにご存知の通りなりまして、ロシアがこういう限定的な核使用をやって停戦強要するとか参戦見送り強要するって場合にどうするのっていう話になってできたのがLYTですね。つまり低出力トライデント。水爆弾頭の起爆用のプライマリー部分、要するに起爆用原爆の部分だけ取り出して弾頭にするか、出力は5キロトンぐらいしかないっていう弾頭をつくって、もしもロシアが限定核使用したらごくごく小威力な核爆発をどこかロシアの近くで起こしてやる、それによって我々はビビってないぞ、君たちの脅しは効いてないぞという政治的意思を示す。ということですよね。これは最近開発されてもうSSBMに1隻、積んだと思いますけれども、実際にアメリカはその能力は持っているので、もしもロシアが限定核使用をした場合ですけど、(使用)したとしたらアメリカもやっぱり1発撃ち返すんじゃないかと思うんですよね。

そうするとこれはつまり戦争状況下で核交換をしているわけではないけれども戦争状況下で米ロが核の脅しをするというかなり危険な状況ですから、そこまでやってエスカレーションが止まるという保証はないと思うんですよね。

ロシアが一発だけ限定的に撃ってアメリカもそれに対して礼儀正しく一発だけ撃ち返すみたいなことで、そこでちゃんちゃんというふうになるかどうかそのときの指導者とか、国民の気分次第だと思うんですよ。やっぱりこれは極めて危険なことやっているので、エスカレーション抑止できるなんていうことをロシアが考えなければいいなと思いますけれども、正直プーチンの腹一つですよね。

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アメリカの位置付けについては、要するにプーチンもロシアの戦略家たちもみんな思っているのは、アメリカ中心の秩序は面白くないってことですよね。冷戦後の世界というのはアメリカの単独覇権。ロシア側の言い方をすれば一極支配であったと。これを多極世界に変えていかなければいけないということをロシアはずっと言ってきたわけなので、まずそれがベースにあるんだと思うんですよ。

ただ2010年代前半までのロシアは経済大国として台頭していこうと。要するにアメリカ中心秩序をより平和的な手段によって変えていこうという意思自体はあったと思うんですよね。特に2000年代は原油バブルでものすごく国力がバンバン伸びていったし、特にそんなに地政学的な対立の火種がバチバチしていたわけでもないので。まだそういう見通しがあったというのがやっぱり2010年代に入ってから、プーチンが急速にアメリカに対して幻滅を強めていったような感じが私はするんですよね。

特にきっかけになったのは2012年の時のマグニツキー法ですね。ロシアの人権侵害を罰する法律。ああいうものに対してもうアメリカとはやっていけないっていう感情を10年ぐらい前にプーチンは持ったんじゃないかなというふうに私は思ってます。だから、プーチンも彼の書いたものとか言ったことを見てると、20年前のプーチンはもっとアメリカとか西側に期待してるんですよね。でもそれに対して苛立ちがどんどん、どんどん強まっていって、それが破談点に達したというのがまあ今回の戦争というふうに言えるのかなと思います。

だからこの先ロシアがおっしゃるように軍事侵攻はできないとしても西側の国にちょっかいかけ続けることは間違いないと思います。つまり、最終目標がアメリカ中心秩序を解体する。ガラガラ崩すのは無理かもしれないけど、溶解させてあのベトベトにしてダラダラに溶解させてしまうということが彼らの目標なのであるとすると、これから先もいろんなことはやってくるのは間違いないと思っています。それは軍事力を使う場合もあるし、サイバー攻撃かもしれないし情報の力かもしれないと思います。


反町理キャスター:
最初に侵攻してきたときの若いロシア兵にはいい人もいたが、しばらくしてやってきた古参兵が非常に荒っぽいことをやるようになった、という話がある。

小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:
まず正規軍が入ってくるが、正規軍はさらに前線に向かって移動する。後ろから治安部隊、情報機関のような人達が来る。この人たちの任務は戦うことではなく、監視したり人々を恐怖で押さえつけること。今回のブチャでも、生存者の証言によれば、どうも情報機関の人間が入ってきて、意図的に人々に恐怖を与えるために虐殺をした。

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反町理キャスター:
物価高騰は西側諸国のせいにして、国民には作物を植えろと。まさに戦時経済。ここでの83%の高支持率をどう見ればよいか。

畔蒜泰助 笹川平和財団主任研究員:
そこがロシア。ロシアには、自分たちは常に西側から悪者にされ、辛くあたられ、のけ者にされているという意識がある。

長野美郷キャスター:
仲間に入りたいんですか。

畔蒜泰助 笹川平和財団主任研究員:
仲間に入りたいが、条件を呑んでもらえなければ入りたくない。NATO北大西洋条約機構)の拡大をやらないと法律で明言することなど。問題の根底にあるのは、冷戦時代も冷戦後も、ヨーロッパの安全保障、秩序における意思決定にロシアが参加できない状況が続いていること。ロシアの意識の根底にはある種の疎外感があり、国民も一定の年齢層の人たちは共有している。だからプロパガンダも含め、ロシアのレトリックを聞きやすい。

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小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:
2012年にプーチンが首相から大統領に復帰した後から、ロシアは「経済制裁はロシアを弱体化するためのアメリカの陰謀だ」という見方を強めてきた。ロシアの国家安保戦略や軍事ドクトリンにも書いてある。西側がロシアの力を削ぐために、あらゆるところで嫌がらせを仕掛けてきているという世界観がある。為政者がプロパガンダとして国民に見せるにしても、たぶん6〜7割ぐらいは本気でそう思っているのではという感じがする。マインドが冷戦のまま。

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長野美郷キャスター:
ロシアは、日本の対ロシア制裁に対抗措置を取ると表明。ロシア外務省のザハロワ報道官は「日本の現政権は、前任者たちが長年に渡って築いてきた互恵的な協力関係の前向きな発展を一貫して破壊し続けている」と発言。これに対し、松野官房長官は「日本側に責任を転嫁しようとするのは極めて不当であり、受け入れられない」と反論。

畔蒜泰助 笹川平和財団主任研究員:
ロシア側が最も反発したのは、プーチン大統領自身に対して制裁をかけた点。領土問題を含めて決定できるのはプーチンだけであり、交渉しませんと言ったに等しい。日本はそれを覚悟で踏み切ったと思うが、まさにその延長線上にザハロワ報道官の発言がある。

小泉悠 東京大学先端科学技術研究センター専任講師:
畔蒜さんがおっしゃったように、プーチンに制裁をかけることの意味。ロシアでは国家の長が国家主権を体現しており、特にプーチンは非常にメンツを重んじるリーダーで、制裁は国内の威信にもかかわってくる。我々は外交安全保障政策のつもりで制裁を科しているが、プーチンにしてみると自分の国内基盤を崩されかねず、黙っていられない。日本からの制裁にかなりショックを受けているし、効いてもいるということ。

東 ぼく個人は、銅像を倒すことにあまり意味を感じません。旧ソ連崩壊時にはレーニン像が倒されました。でもロシアではいまもソ連時代の栄光を忘れられない人が多く、むしろスターリンなんか復活しています。大事なのは人の心であって、銅像はシンボルにすぎない。変えていくべきは他のところだと思いますし、それはもっと時間がかかる改革だと思います。
 そもそも、「歴史を書く」ことイコール「昔の過ちを正すこと」になってしまうのはよくありません。歴史とは、過去の人々がなにを考えていたのかを記憶する作業であって、「あの頃は間違っていました」と修正する作業ではない。ジェンダーの問題でも、#MeTooを受けてみな「間違っていました」とすぐ謝罪します。でも、同時に間違っていた頃の感覚を覚えておくことも大事です。そもそもそうでなければ反省の意味がない。これは自分のなかに分裂を抱えるということなので、なかなか難しいことではありますが。
 いずれにせよ、銅像を倒すというのは分かりやすく、フラストレーションを発散しているだけのように見えます。それ自体が社会を変えるものではないでしょう。そもそも、誰もが気がついていることですけれども、本気で植民地主義を見直すならば大英博物館を解散するべきです。

     *

東 万人が納得する誰も傷つけない言葉というのは存在しません。存在したとしても時候の挨拶のようなもので、新しい情報はありません。新しいことを主張し発言するということは、どうしても、ある集団の人たちをギョッとさせ、ある集団の人たちには暴力的に響く可能性をもつ。それをどのくらい許容するかという問題です。出版にしても初期のネットにしても、結局のところは、読者のアクセスが限られていたので大胆な表現が可能だった。いまのSNSは極端な話、小学生でも読むかもしれない。これでは何も言えなくなるのは当然です。裏返せば、この問題の解決は非常にシンプルで、大人が読むメディアを作ることですね。それしかないと思います。

――それは、「専門家がインターネットですばやくファクトチェックすればいい」などとは、まったく違う考え方ですね。自分たちの発信を受け取ってくれる拠り所を別に作るという……。

東 数字は個人的な感覚によるものでしかないですが、どんな時代でも1万人から10万人のあいだくらいは、ちゃんとものを考えている人がいる。まともなメディアはその人たち向けに作るしかない。
 これはメンバーの質というよりも、むしろスケールの問題かもしれません。ぼくたちが伝統的に「公共的」と呼んできたような感覚は、そもそも1万から10万くらいのスケールでしか機能しないのではないか。むろん近代国家の人口はそれよりもはるかに大きいですが、公共性とは近代では出版や放送のようなマスメディアがつくるものなので、「情報の送り手」の規模は人口が1億人になってもやはり変わっていなかった。ところがいまは、そういう10万人規模の近代マスメディアの上に、スケールがまったく違う数億人規模のポストモダン・ネットメディアが乗っかるかたちになっている。そして、そちらのほうが資本主義的にはお金も動くし、民主主義的には票も動く。だからほんとうの公共はこっちだろうということになってしまった。

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東 3年前に『観光客の哲学』という本を書いた時には、グローバリズムの進展の中で観光客というものが必然的に発生し、それがある種、国家と国家の対立関係への安全弁として機能するということを伝えようとしました。ところが、コロナでその安全弁が機能しなくなってしまった。いまや観光客というのはほとんどテロリストのような扱いで、いかにして入国を阻止するかが問題になっている。
 行くはずのない場所に行き、出会うはずのないひとに出会い、考えるはずのないことを考えること。その「誤配」こそが観光の本質だということで、ぼくとしてはある意味ではお気楽なものとして提示したつもりだったんですが、いまや観光客の権利や観光客の哲学的な意味が急速にアクチュアルになっている。新しい課題が出てきた感じですね。

  • 「英語」: 473 - 483
  • その後のことでおぼえているのは、ひとつはtofubeatsの『FANTASY CLUB』をながしたこと。なんだかんだ質はよい。二曲目の”SHOPPINGMALL (FOR FANTASY CLUB)”なんて曲がえがいている気分としてもけっこうよいというか、歌詞をきちんときいたり調べたりはしていないのだけれど、いわゆるファスト風土的なありかたをよく表象しているのではないかという気がする。それをこちらがよいというのはたんなる消費にすぎないのかもしれず、じっさいにそういう文化的環境で生きてきたひとにとっては、もっとひりつくような記憶が喚起されるのかもしれないが(この曲がそこまでの威力をもっているのかもわからないが)。ファーストの『Lost Decade』もながして、こちらもよいものがあった気がするがよくおぼえていない。
  • (……)
  • (……)そうしてやっていたのはTo The Lighthouseの翻訳である。この夜は風呂を出たあとからだったかそのまえからやっていたか、どちらにせよこの翻訳にだいたいの時をついやすことになった。第一部第八章のはじめの段落中、She bore about with her, からの範囲だが、けっきょく段落のさいごまでいけなかった。原文と、とちゅうまでつくれた訳をしたにひいておく。

(……)She bore about with her, she could not help knowing it, the torch of her beauty; she carried it erect into any room that she entered; and after all, veil it as she might, and shrink from the monotony of bearing that it imposed on her, her beauty was apparent. She had been admired. She had been loved. She had entered rooms where mourners sat. Tears had flown in her presence. Men, and women too, letting go the multiplicity of things, had allowed themselves with her the relief of simplicity. It injured her that he should shrink. It hurt her. And yet not cleanly, not rightly. That was what she minded, coming as it did on top of her discontent with her husband; the sense she had now when Mr. Carmichael shuffled past, just nodding to her question, with a book beneath his arm, in his yellow slippers, that she was suspected; and that all this desire of hers to give, to help, was vanity. For her own self-satisfaction was it that she wished so instinctively to help, to give, that people might say of her, "O Mrs. Ramsay! dear Mrs. Ramsay...Mrs. Ramsay, of course!" and need her and send for her and admire her? Was it not secretly this that she wanted, and therefore when Mr. Carmichael shrank away from her, as he did at this moment, making off to some corner where he did acrostics endlessly, she did not feel merely snubbed back in her instinct, but made aware of the pettiness of some part of her, and of human relations, how flawed they are, how despicable, how self-seeking, at their best. Shabby and worn out, and not presumably (her cheeks were hollow, her hair was white) any longer a sight that filled the eyes with joy, she had better devote her mind to the story of the Fisherman and his Wife and so pacify that bundle of sensitiveness (none of her children was as sensitive as he was), her son James.


 彼女は、自覚せずにはいられなかったが、美のたいまつをたずさえているようなものだった。彼女はどんな部屋にはいるときも、そのたいまつを高くかかげてはこんでいく。そして、ときにそれをつつみ隠してしまったり、それによって強いられるふるまいの単調さに辟易することがあったにしても、結局のところそのうつくしさはだれの目にもあらわだった。夫人は称賛された。愛された。葬儀のためにひとびとがあつまり座っている部屋部屋へ彼女がはいっていく。すると彼女の目のまえで、おおくのひとが涙をながす。男性たち、それどころか女性もまた、さまざまに込み入った事情を手放して、夫人とともに単純さのやすらぎを得ることができるのだった。カーマイケル氏がたじろいだのに夫人の心は痛んだ。彼女は傷つけられた。しかも、公明正大とはいえないやりかたで。それこそが彼女の気がかりで、夫への不満にくわえて念頭に浮かんできたものだった、つまりある感覚、カーマイケルさんが質問にはうなずくだけで、本を小脇に、黄色いスリッパで、足をひきずるようにすぎていくときにおぼえた、わたしは信用されていないという感覚、そして、ひとになにかを与え、助けになりたいというこの望みも、全部虚栄心にすぎないのではという感覚が。結局自己満足のためなのだろうか、わたしがこんなにも、本能みたいに、助けたり与えたりしたいと思うのも、みなさんが「ああ、」

  • さいしょのboreはbearの過去形でaboutはaroundと同義だから、かのじょはじしんとともに美のたいまつをもってはこびまわっているということになる。with herのぶぶんに、つねにいっしょにともなっているというかんじをえたので、「たずさえる」という訳語をえらんだ。
  • veil it as she mightはas she might veil itの倒置、「~だけれども」という留保の挿入。このshe mightはそのつぎのshrinkにもつながっている。shrinkは縮むなので、さいしょは「窮屈にかんじる」といういいかたをかんがえたのだが、shrink fromでしらべると、尻込みする、たじろぐというような意味が出てきて、「気後れする」をおもいつつも、意味をかんがえると、ラムジー夫人はとてもうつくしいので、おのずからそれにふさわしいようなふるまいかたをしなければならず、その自由のなさ、制限性がいやだということを言っているとおもわれるので、「いやだ」というニュアンスに寄せたいとおもって「辟易」をえらんだ。ただ検索してみるとこの語はうんざりするという意味のほかに、しりごみする、たじろぐの意味もあるようなのでちょうどよい。『太平記』の用例がでてくる。原義は「道をあけて場所をかえる(路を辟(さ)けて所を易(か)える)」ということらしい。
  • またどういうふうにかんがえて訳をつくったか、いろいろこまかく註釈をしておこうとおもったのだが、めんどうくさくなったのでやめる。しかしこんかいの箇所はだいぶむずかしかった。それでも、「それこそが彼女の気がかりで、夫への不満にくわえて念頭に浮かんできたものだった、つまりある感覚、カーマイケルさんが質問にはうなずくだけで、本を小脇に、黄色いスリッパで、足をひきずるようにすぎていくときにおぼえた、わたしは信用されていないという感覚、そして、ひとになにかを与え、助けになりたいというこの望みも、全部虚栄心にすぎないのではという感覚が」の一文はけっこうがんばった気がする。いま読みかえしてみると「気がかりであり」のほうがよかった気もするが。しかしちゃんと吟味していないのでほんとうにそうかわからない。

2022/4/9, Sat.

 テロルの大規模な発動に対する人々の不安が高まるなかスターリンは脳の発作で倒れ、一九五三年三月五日に死去した。これによりテロル発動の危機は去ったが、スターリンは、テロルの恐怖で人々を支配しただけの暴君ではなかった。スターリンの死が報じられると、多くの国民がその死を嘆き悲しんだのである。首都モスクワでは、スターリンとの最後の(end87)別れを求めて告別会場へ詰めかけようとした人々が将棋倒しとなる事故も起こった。
 当時モスクワ大学の学生だったゴルバチョフは回想に記している。教師が「悲しみにうち震え、涙ながらに学生に伝えた。『偉大な指導者は七十三歳の生涯を閉じた』」。学生には親類縁者が弾圧された人も少なくなく、政権の独裁的本質をすでに見抜いていた人は多かったが、「ほとんどの学生はスターリンの死を心底悲しみ、国にとっての悲劇であると考えた。正直に告白すれば、当時は私もそれに近い感情を抱いていた」。「この指導者のことをどう思っていたかに関係なく、国民は誰もが一様に『これからいったいどうなるのだろうか』という思いにとらわれた」。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、87~88)



  • 「英語」: 454 - 472
  • 「読みかえし」: 634 - 638
  • 九時台に覚め、一〇時台にも覚めたが、最終的に一一時二〇分の起床。おきあがってティッシュで鼻のなかをぐりぐりやって掃除し、水場に行くとアレグラFXを一錠服用した。起床時に一錠飲むだけで症状もほぼ出ずにいちにちどうにかなっている。花粉症おそるるにたらずである。便器にこしかけて小便をはなってもどってくるときょうもまず書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(新潮文庫、一九六九年)下巻。ショーシャ夫人が旅のともとしてつれてきたメインヘール・ペーペルコルンという恰幅の良い富裕なオランダ人が一座を指揮してみんなであそんだり酒を飲んだり宴会に興じている。この人物は金持ちでまさしくこれこそ「人物」だという王者のような威厳や風格があるらしいのだが、へんなにんげんで、堂々たるふるまいで手をうごかしひとびとの注意をあつめておきながら、きれぎれのよくわからないあいまいな言辞でほとんどなにをもいわないような発言をする。しかしそれでもひとびとはその風格に魅了されて、ことばの内容にかかわらずかれの発言をきいたあとには満足感をおぼえる、という調子で、トーマス・マンはユーモアのセンスがすぐれているというか、『魔の山』もほとんどつねにというようなふんだんさで妙な喜劇性が記述のはしばしにしこまれているし、へんなにんげんを書くのがうまいなあとおもった。この小説にでてくる人物はだいたいなにかちょっとへんなにんげんである。キャラが立っているということだろうが、たんにそれだけでなく、類型的なキャラクターのきわだちをこえた奇矯さとおもしろみと、かれらのおりなすこの山のうえのゆたかさがある気がする。470あたりまで。
  • それから瞑想。しかし一七分くらいでみじかく切り、上階へ行った。両親は家のそとで食っているらしい。フライパンにひき肉と菜っ葉などを混ぜた炒めものがあったり、汁物もあったのでそれぞれ用意して食事。新聞。編集小欄は「花疲れ」という季語を紹介していた。歳時記というのもおもしろそうだ。ウクライナにかんしては、住民の虐殺はロシアの意図的な行動であるとの見方がつよまっているとのことで、そうでないわけがないとおもうのだが、たとえばドイツの諜報機関は自転車に乗ったひとを撃ちころしたということをべつの兵に説明する兵士の通信を傍受していたというし、ブチャの市長がドイツの公共放送とのインタビューで述べたことには、三二〇人の遺体のうち九割には砲撃による負傷ではなく銃創があったという。ロシア軍兵だけでなく、民間軍事会社「ワグネル」の雇い兵も主要な役割をはたしたとみられると。きのうの新聞に出ていたが、この会社はアフリカはマリでも影響力をもって活動しているらしい。また、ロシア軍が市民をウクライナ軍との戦闘の前線で「人間の盾」として利用していたという証言もあるらしい。やっていることがISISなどと変わらない。
  • 食後、ちょっとだけ椅子にとどまったまま南窓のそとをながめて息をついた。きょうは相当にあたたかい初夏の陽気で気温は二〇度を超えているようだが、空は雲混じりらしく陽射しはそこまで明晰でなく、おだやかなあかるみが空間の全面にひろがり浸透して、山はみどりをたもったまま冬をこえた濃色の樹々にくわえて若緑の地帯が生じそのなかに山桜の薄ピンクも湧いていくらかまだら、それらがすべて段差をならされて希薄につらなりわずかにこもったような空気となっている。とおくでうごく粒となった鳥のすがたがおおくみられ、鳴き声も近間でたくさん散っていた。
  • 食器を洗う。乾燥機のなかのものを棚にもどし、ながしに溜まっていたものもすべてではないがある程度いっしょにかたづけ、それから風呂洗い。さくばんはいったときに浴槽内の左右壁と底面との境あたり、カーブのぶぶんがすこしぬるぬるしていて、よく洗えていないようだったので、きょうは念入りにこすっておいた。出るときょうは白湯ではなくて緑茶を飲みたい気になっていたので支度し、下階へ。Notionを用意して茶を飲みながらウェブをちょっとみると「英語」記事を音読。「読みかえし」も。いぜんやっていたときもそうだったが、音読するとなると日本語よりも英語のほうが圧倒的になにかきもちよかったりおもしろかったりして、英文のほうを優先するとともにそれだけで満足してしまいがちで、「読みかえし」のほうがなかなかすすまなくなる。
  • そのあと部屋にもってきていた新聞を読んだ。四月七日のもので、いろいろメモしておきたい情報はある。あとゼレンスキーが演説した翌日の三月二四日のものなんかも持ってきているのだが読めていない。二時半くらいからここまで記して三時。きょうあしたと休日。あしたは正午から髪を切りにいくのできょうはすこしはやめに寝たほうがよいが、どうせまた夜更かしするに決まっている。きょうで六日以降の日記を終わらせたいとおもっているがどうか。(……)

 ロシアのウクライナ侵攻を受けて日本が対ロ制裁を科す中、ロシアの政党党首が「一部の専門家によると、ロシアは北海道にすべての権利を有している」と日本への脅しとも受け止められる見解を表明した。プーチン政権は欧米と連携してロシアを非難する日本への反感を強めており、こうした考えが一定の広がりを見せる恐れがある。
 見解を表明したのは、左派政党「公正ロシア」のミロノフ党首で、1日に同党のサイトで発表された。公正ロシアは政権に従順な「体制内野党」。ミロノフ氏は2001~11年に上院議長を務めた。
 発表によると、ミロノフ氏は北方領土交渉に関し、日本は第2次大戦の結果の見直しを求めたが、「明らかに失敗に終わった」と主張。その上で「どの国も望むなら隣国に領有権を要求し、正当化する有力な根拠を見いだすことができる」と明言した。ロシアが権利を持つ根拠は明らかにしていない。
 一方で、ミロノフ氏は「日本の対決路線がどこに向かい、ロシアがどう対応しなければならないか現時点では言えない」と指摘。「日本の政治家が第2次大戦の教訓と(大戦末期にソ連軍の侵攻で壊滅した)関東軍の運命をすっかり忘れていないことを望む」と語り、「さもなければ(日本側の)記憶を呼び起こさなければならないだろう」と警告した。

 エリート傭兵部隊であるワグネル――「リーガ」の名前でも知られる――は2014年に結成され、同年のクリミア侵攻やドンバス地方での戦闘に参加。2014年から2015年にかけて、親ロシア派の分離主義勢力がドンバス内でドネツク民共和国・ルガンスク人民共和国の創設を一方的に宣言するのを手助けしたことで、注目を集めるようになった。

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 ニューヨーク・タイムズ紙によれば、ワグネルという組織名は、ロシア軍参謀本部情報局(GRU)の元メンバーで同組織を設立したドミトリー・ウトキンのコールサイン(呼出符号)に由来する。ウトキンは、ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーが好んだ作曲家「ワーグナー(ワグネル)」を自らのコールサインに選び、ナチス関連のタトゥーを複数入れているらしい。

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 西側の複数の国の政府や活動家らは、ワグネル・グループがアフリカでの人権侵害や、リビアおよびシリアでの戦闘に関与したと非難してきた。マリやモザンビークスーダンに派遣され、代理戦争を戦ってロシアの影響力を行使し、油田などの戦略的利益を奪取したこともあるという。

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 国際行動規範協会のジェイミー・ウィリアムソン事務局長は、ワグネルはロシア軍の元兵士たちを雇い、「軍事請負組織」の機能を果たしていると指摘した。
 「ワグネルとロシア政府との間には、支配権と資金の出処という点において、明らかなつながりがある」とウィリアムソンは本誌に語った。「ロシア政府はその存在を認めていないが、ワグネルは軍事請負集団と見なされている。冷戦初期にみられたような傭兵集団に等しい存在であり、アフリカの南部、東部や西部の複数の企業がワグネルに関与しているとみられる」

 【ロンドン=深沢亮爾】フランス外務省は4日、西アフリカのマリで、マリ軍とロシアの民間軍事会社「ワグネル」の合同作戦により多数の市民が死亡した情報があるとし、重大な懸念を表明した。ワグネルが活動を本格化させた1月以降、人権侵害行為が横行しているとして、マリで平和維持活動を続ける国連主導の調査を求めた。
 マリ政府は1日、先月下旬に中部で行ったイスラム過激派に対する掃討作戦で戦闘員203人を殺害したと発表した。だが、仏メディアなどは直後から、死者には相当数の民間人が含まれている可能性を報道している。過激派が主要民族と結びついて土着化し、戦闘員と民間人の区別が困難とも指摘されてきた。
 クーデターで親仏政権が倒れたマリでは、新たな軍事政権が親ロシアの立場を取り、プーチン政権に近いワグネルが治安対策名目で活動しているとされる。仏紙ル・モンドによると、マリ軍関係者に対して拷問など違法な尋問の方法を教えているとの疑惑もある。ワグネルは親露政権を支援するために派遣された中央アフリカでも人権侵害を非難され、露軍が侵攻中のウクライナ東部でも活動していると英国防省が確認している。

 親ロシア派との戦闘が続くウクライナ東部ドネツク州で、政府軍が支配するクラマトルスクの鉄道駅に8日、弾道ミサイルが撃ち込まれた。民間人に多数の犠牲者が出たと分かると、ロシアのメディアは「ウクライナ軍のミサイル」と報道。ただ、主張には早くもほころびが見える。

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 ウクライナ側の発表によると、クラマトルスクの駅は女性や子供など避難民約4000人で混雑。そこに短距離弾道ミサイルが着弾した。現地からの映像や写真によると、人々は倒れ、大きな荷物が散乱していた。ミサイルの残骸にはウクライナ語ではなくロシア語で「子供たちのために」と書かれていた。
 「ウクライナ軍が集結しているクラマトルスクの駅を10分前に攻撃した」。着弾当初、複数の親ロシア派ニュースは通信アプリ「テレグラム」でこぞって戦果として伝えた。しかし、避難民に死傷者が出ているのが判明し、不自然な形で削除。ロシアのメディアはウクライナ軍の仕業であると宣伝し始めた。
 地元記者の間では、2014年にドネツク州の親ロシア派支配地域上空でマレーシア航空機が撃墜され、乗客乗員298人が死亡した事件との類似性を指摘する声が上がる。この時、旅客機と判明するまで、親ロシア派幹部は「ウクライナ軍機を撃墜した」と誇り、これが間違いだと分かると、ウクライナ側への責任転嫁を図った。

  • 三時四〇分くらいでうえにあがってはやくもアイロン掛け。たくさんあった。シャツやエプロンやハンカチやズボン。白湯を一杯コップにそそいでおき、衣服を物干し竿などからとったりそこにもどしたりするためにたちあがるさいにちびちび飲んだ。あいまにまた屈伸したり前後に開脚したり首をまわしたりと各所のすじをのばしながらつづける。おえると台所へ。煮込みうどんを食べたい気分になっていたのでその用意をすることに。くわえて母親がジャガイモを焼いてくれというのでそれも。まずうどん用にタマネギ、ニンジン、大根を切り分け、鍋に投入して麺つゆや醤油などで汁に味つけ、そのまま最弱の火にかけてじっくり煮ておく。つぎにジャガイモの皮を剝き、剝いた皮は排水溝にながして放置するのではなく一個ごとに生ゴミ用のちいさなビニール袋にいれ、包丁で芽もとって、そのように六個ととのうと輪切りにしてフライパンでしばらく湯がいた。母親は居間のほうで座布団をカバーのなかにいれていた。もういいかなというところでジャガイモをザルにあげて、フライパンをキッチンペーパーで拭き(デンプンなのか、すこしべたついた感触が縁のほうにたまっていた)、オリーブオイルを垂らしたうえからチューブのニンニクを少量落として、木べらでふれつつしばらく炙った。そうしてジャガイモを投入。ちょっとかきまぜたあと、最大火力にしてそんなにひんぱんにうごかさず、すこし時間をおいては振るかんじで焼いていった。蓋もしない。スパイスをつかってくれというので、コショウやバジル、ローズマリー、クミンなど、どれがどういう風味でどういう効果かも知らないがてきとうにふってフライパンもよく振る。スパイスはおそらくぜんぶS&B食品のものだったはず。よいかんじに焼き色がついて表面がかたくかわいたのをみてとると完成として、かたづけをして台所をぬけた。鹿肉を焼くというのは母親にまかせることに。
  • 下階にもどると五時半すぎか六時ちかくだったはず。部屋まで来たところでなんとなくちょっとだけギターをいじろうという気になり、白湯を自室に置いてとなりの部屋へ。そこで椅子にこしかけてアコギをてきとうにつまびいた。わるくはない。性懲りもなくAとかEで似非ブルースをやったり、下手くそなフリーインプロヴィゼーションみたいにてきとうに弾いたり。フリー風にやるときは、単音だとぜんぜんだめというか、ながれもできないし、だいたい手癖的に楽なほうにながれるのだけれど、コードでやるとそこそこおもしろい瞬間がうまれる気がする。まあどちらもたいして変わらないが。フリー的にできるほどの引き出しはないし、そもそもふつうのコーダルなやりかただってたいしてできない。それでもこの日弾いているあいだ、いぜんにいちどだけやったことがあるが、こういう遊びをやるたびに録っておいてnoteにあげておこうかなとおもったが、じっさいにやるほどの意欲はまだない。一年間やるたびに録りつづけて一年後にきいたらけっこうおもしろそうな気がするのだけれど、こんなもん録ってもしょうがねえというきもちのほうがまだつよい。
  • その後にたいした印象もなし。日記はぜんじつの八日の分をけっこうすすめて、勤務中のことをほぼさいごまで書くところまでいたったのだが、夜にはけっこう臥位でなまけてしまい、しあがりまでいかなかった。あしたは一二時に髪を切りにいく予定だったので九時半にアラームをしかけておき、三時半には寝て六時間を確保しようとおもったところがやはり夜更かししてしまい、五時間でよかろうと四時半の消灯になった。

2022/4/8, Fri.

 第二次世界大戦全体での戦死者は、非戦闘員も含めて五〇〇〇万人から六〇〇〇万人(あるいはそれ以上)とも言われるが、ソ連の死者・行方不明者はその半分近い二六〇〇万人から二七〇〇万人と推計され、うち一八〇〇万人程は民間人だったとされる(ちなみに日本の死者は「十五年戦争」の総計で三一〇万人、うち民間人八〇万人と言われる)。開戦時のソ連の人口推計からすれば、七~八人に一人が死んだ計算と言われるが、死者・行方不明者のうち約二〇〇〇万人が男性であったため、単純計算では男性は約五人に一人が死んだことになり、戦後のソ連社会は人口構成上の大きな歪みを抱えることになった。(……)
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、69)



  • 「英語」: 438 - 453
  • 一〇時すぎにさめ、カーテンをひらいて陽射しを顔に浴びつつしばらく布団のしたですごした。腹を揉んだり、足首を曲げて脚を先端にむけて伸ばしつつ息を吐いたりする。陽射しはかなりまぶしく、あたたかい。一〇時四三分に起床すると水場に行ってきてからしばらく書見した。『魔の山』の下巻。ショーシャ夫人はメインヘール・ペーペルコルンというなんだかよくわからない金持ちのへんな男を連れてもどってきて、クラウディアに恋していたハンス・カストルプはかのじょがもどってくるのを待ちのぞんでいたわけだから、ショーシャ夫人が男を連れてきたというわけでとうぜん落胆する。それで声もかけられずにようすをうかがっていたところにたまさかクラウディアのほうからはなしかけてきてくれて、やりとりをし(ここでハンス・カストルプはまたかのじょのことを「君」呼ばわりして、それをほんにんからたしなめられている)、そのとちゅうでペーペルコルンも来ていっしょにあそぶことになった、というあたりまで。
  • 瞑想。三〇分に満たないくらい。わるくはない。足がしびれたが。上階へ行き、ゴミを始末してジャージにきがえ、髪を梳かして食事へ。きのうのスンドゥブがのこっていたのでそれと、れいによってハムエッグを焼き米にのせる。新聞一面からG7およびNATOの外相会合があってロシアを非難という記事、ならびにキエフやチェルニヒウ周辺からロシア軍はかんぜんに撤退したもようという報を読んだ。その兵力はいまベラルーシやロシア国内にひいているらしいが、これから東部に再配置されるはずで、そちらの戦闘激化が懸念される。国際面にはブチャの市民らの証言があった。男性は問答無用でなぐりたおされひざまずかされ、目隠しをしてあたまに銃をつきつけられた女性などもいたと。ロシア軍兵士は、おまえたちをナチスから救いに来たと告げ、ゼレンスキーはNATOにはいりたいだけのピエロだ、ナチスはどこだとおおまじめな顔で言っていたという。かれらが「ナチス」ということばでどのようなにんげんや思想を想定しているのかがまったくわからない。たんに「凶悪人」とか「われらの敵」ぐらいの、意味のはなはだひろいマジック・ワードのようにしてとらえられているふうにみえるのだが。たんなる方便でしかないのだ。そしておそらくこの例のような前線の兵はそれに気づかず、クレムリンプロパガンダを信じこみ、「ナチス」という語をじぶんに都合のよい意味で解釈し、行為を正当化するために利用している。プーチンや高官らにしてもほぼおなじことだろう。兵のなかにはまだ学生のようなあどけなさをのこした顔立ちの若者もおり、かれはいくらか動揺していたようだが、古参の兵はおちついてそのようなことを主張していたと。いっぽうで証言者によれば、酔っ払ったロシア兵の対立がきこえ、かたほうがウクライナナチスだらけだというのにたいし、もうひとりはプーチンは嫌いだ、戦争なんてしたくないといっていたという。
  • 食器を洗い、風呂も洗うと白湯を一杯ポットからコップにそそいで部屋にもちかえった。パソコンをデスクからとってスツール椅子のうえに置き、ブラウザをひらいてNotionを用意。それからFISHMANSをきょうもかけて「英語」ノートをしばらく音読した。そうしてきょうのことをここまで書けば一時二〇分。三時には出る。
  • いま帰宅後の一〇時半直前。夕食をとりながら(……)さんのブログを読んだ。椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』からの書き抜きが冒頭にひかれており、「電車の中でおまえは千円札にヒモをつけてソロソロと引っぱって歩いていたじゃないか」というぶぶんを読んだときにおもいだしたのだけれど、このあいだレベッカ・ソルニットの『ウォークス』の註で知ったことには、ネルヴァルはオマール海老に紐をつけてパリの街を散歩させていたらしい。
  • きょうの昼間のどこかのタイミングで、もうすこしじぶんじしんにつきたいとおもった。凡庸きわまりないことでもそのときじぶんがそうおもったりかんじたりしたのなら、凡庸さを凡庸さのままにいいはなってしまうふてぶてしさというか。もうすこし堂々と、厚顔無恥に書きたいと。たとえばきのうの記事でトーマス・マンの『魔の山』について記したとき、ひとをとらえる永続的かのような時間感覚の同化吸収作用が魔の山の「魔」性についての「もっとも標準的な理解となるだろう」みたいな書きかたをしたのだけれど、この「もっとも標準的な理解」というのはようするに、この作品を読めばだいたいだれでもこういうことはおもいつくだろうとくにおもしろくもない解釈だということをいいたいわけである。それをそのまま意気揚々とかきしるすのがしのびないので、自己相対化による皮肉的な水準をどうしてもさしはさんでしまうのだけれど、もうすこしこういうことわりをせずにありきたりなことを堂々と書きたいなあと。しかしまだそこまで自意識を廃することはできない。皮肉をはさむというのもそれはそれでいま現在のじぶん、どうしても相対化ぶってしまうじぶんについているともいえるのでまあべつによいはよいのだけれど、それはしょせんはじぶんはそのていどのことしかおもいつかず書くこともできない平凡者であるということをそのままみとめてしめすことができずに糊塗せざるをえない似非インテリの知的ポーズなのであって、蓮實重彦だったらせいぜい「相対的な聡明さ」にすぎないと言ってけなしたにちがいない性質である。「相対的な聡明さ」の反対がなんだったか、絶対的な愚鈍さなのか、絶対的な差異にふれる能力ということなのか、よく知らないのだが、べつにそれをほしいとまではいわないとしてももうすこし自己相対化なしでじぶんにつきたいなあと。けっきょくのところ問題はじぶんじしんに、それもじぶんじしんのまずしさに徹底的につくということなのだ。こういった思考傾向の発展には三つの段階がある。はじめに自己相対化を知らず、たんに無思考で無邪気な素朴さのレベルがある。つぎにあらゆるものごとを相対化して懐疑したり吟味したりする知的とよばれるふるまいの段階がある。それを経過して一周まわるようなかたちでさいしょの素朴さに、しかしなにかしらの深さや気配や自覚をたたえたような異なおもむきで回帰するのが三つめの水準である。ロラン・バルトはどこかでそれを螺旋状の回帰と呼んでいた。はじめとおなじ地点にもどるのだが、しかし位相がちがう。道元もたぶんそれにちかいようなことは言っているはずで、仏教のほうでもこういうかんがえかたはあるのではないか(バルトのネタ元もそうだったかもしれない)。
  • 一時二〇分のあとはストレッチをしたり瞑想をしたりだったはず。二時をまわると上階に行き、洗濯物をとりこんだ。タオルだけすぐにたたんでおく。そうしてちいさなおにぎりをひとつつくって白湯とともにもちかえり、エネルギーを補給。二時半か四〇分くらいまで、ちょっとだけ日記をしるしたのちに身支度。きょうは母親が六時半まで勤務らしいからなにか一品だけでもつくっておきたくて、冷蔵庫をみると冷凍にAJINOMOTOの餃子があったのでそれを焼ければとおもっていたのだが無理そうだったのであきらめた。歯磨きをしてスーツにきがえ、バッグをもってうえへ。肌着やジャージなどをたたんでおき、ジャージは仏間の簞笥にいれた。手を洗い、三時ちょうどくらいに出発。
  • 徒歩。家から東の坂道にはいると日なたの範囲が先日よりもみじかく、背に来るひかりもそこまで厚みをもたずじりじりしないようにおもわれたが、それはもう三時だからだろう。風があり、左右の木立をさわがせ、とちゅうの篠竹のあたりでも葉擦れを起こしているそのおとが、先月の記憶とはひびきがちがってシズルシンバルのさらさらしたたなびきではなくもっとひっかかりのある重さをもっていた。斜面したのみちにある一軒の脇で桃紫のモクレンが盛りをはずれて蝶の花にくずれの気配をみせだしている。
  • おとといとおったときとはちがって水路は平常にもどりひびかず、かわりにきょうは風がひっきりなしにおどるかのようであたりのこずえはことごとくおとを吐き、ほそながい竹などさきのほうを押されてかなりかたむいていた。きょうも街道に出ると工事現場にとめられている車を待ち、去ったところでむかいにわたって東へ一路、背後から陽射しが肩口から尻や靴もとまでつつんでくるおもて通りは先日よりも時間がくだってむしろ熱い気がした。公園の桜はまだふくらみをたもって一見かわらないが、もう盛りは超えて、となりの家の砂利の駐車場には花びらがたくさん混ざって、歩道にもあり、すぎざまになかをのぞけば地にはふるいでおとされた小麦粉のように白い花弁がまぶされていた。
  • きょうは裏にはいらずおもてをそのまま行き、じきにさすがに首のうしろにたまった熱が重くなってきたので、ジャケットを脱いでかたてにもち、バッグとで両手ともふさぎながらみちをたどった。おもてみちにも風はあり、吹けばベストから出てワイシャツいちまいにおおわれたのみの前腕がすずしい。とちゅうでとつぜん砂っぽいようなにおいがマスクのしたの鼻にふれた瞬間があり、なんだとおもったらひだりにどす黒いような木の古家があるそのまえをとおるところだったので、ああこれは木のにおいだとおもった。ひかりをうけてあたたまった古木が吐いたのだろう。観光というほどの名所もないが、(……)の枝垂れ桜でもめざすものか、よそから来たらしい散策すがたの高年の男女一団がおり、木造屋の壁に貼られた古びた地図をまえにどこだとかなんとかはなしていた。前方には女子高生四人ほどがつれだって、こちらの足でも追いつきそうな気ままなゆるやかさで下校中、とおりのむかいではビルのわきの妙な像のあたりにこちらも下校中の小学生らがつどってにぎやかにあそんでおり、笑いさざめくその声が建物や空間に反響して女子高生らもそちらをみていた。ヒバリだかツバメだかなんの鳥だかわからないが、さえずりもしきりに路上に降って、対岸かららしいとビルのうえなど目をむけるがもとを視認できようはずもない。駅ちかくなって裏に折れて行くと、自転車にふたり乗りした男子高校生らがさわがしく追い抜かしていき、みちのさき、駅前に出る角ではべつの集団がたむろしていて、なかまらしく合流してなんとかいいあったあと、こちらがそこまであるくまえにほとんどのこらず発っていった。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)八時一〇分ごろ退勤。帰路と帰宅後にとくだんの記憶はない。

2022/4/7, Thu.

 (……)国民の最低限の生活を支えるうえで重要な役割を果たしたと考えられるのが、コルホーズからの穀物調達であり、これを基に一九四一年七月半ばから導入されていった配給制度であった。
 とはいえ、軍への食糧供給が最優先されたため、都市の住民に対しては最低限のパンの配給がなされたものの、配給だけで生きていけたわけではない。このため都市住民の生活は、都市部で急遽作られた菜園での自前の生産、企業の副業での農業生産、そしてコルホーズ市場に依存することになった。特にコルホーズ市場は、主として物々交換によって都市住民が食糧を確保する重要な場となった。農産物の市場での価格が高騰して都市住民は現金では払えなくなり、他方で農民も、お金があっても買うものがないので現金より現物(end63)を受け取ることを好んだのである。しかし、一九四三年半ばには、衣類が品薄となって取引されなくなったとも言われるように、都市住民が交換する品にも限りがあり、人々は飢えに苦しんで、食糧と血液を交換したり(行政によって組織されていた)、犯罪に手を染めたりした。このような状況で、配給で得たパンが交換に役立った。配給されたパンを市場で交換することは禁じられていたが、家財を手放した都市住民にとって配給のパンは交換のための貴重な品となり、食糧事情が悪くなるにつれてパンとその他の食料品との物々交換が中心となっていった。
 都市住民の生活も苦しかったが、食料供給を支えた農民たちの負担も極めて大きかった。コルホーズの農民たちは、コルホーズでの収穫を自ら消費することは許されず(コルホーズの収穫は国家によって調達されて配給に用いられた)、しかも配給の対象とはされなかったから、生き延びるには付属地に依存するしかなかった。農民は付属地で作ったジャガイモを主食とし、朝食に、昼食に、お茶にジャガイモを食べ、「農民にとってジャガイモは、都市労働者にとってのパンと同じ」となって、農民一人当たりのジャガイモ消費量は二倍以上に増えたという。このため農民は、コルホーズ市場での交換によって都市住民からパンを得ようとしたのである。
 自分たちの生活の支えとなったことに加えて、付属地での生産物は市場で高く売ること(end64)ができたという点でも、農民にとって付属地で働く誘因は大きかったが、それにもかかわらず、大部分の農民がコルホーズで働き続け、コルホーズでの生産物を調達することで政権は配給を続けることができた。コルホーズでの作業日ノルマが一九四二年に引き上げられ、未達成に対する罰則も定められていたが、多くの農民がノルマをかなり上回る労働をコルホーズでおこなっていたことは無視できない。機械も家畜も不足する条件下で、農民たちは自らの労働力を大量に投入することでコルホーズでの生産を支えた。集団化以来コルホーズは農民にとって異質なものであり続けたと言われるにもかかわらず、である。そして、男性は軍隊と軍需工場へ駆り出されていたから、この重労働をおこなったのは主として女性たちであった。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、63~65)



  • 「英語」: 423 - 437
  • 一一時まえにめざめて布団のしたでしばらくすごし、一一時二〇分に寝床をはなれた。きのうはなぜかあさがたまでだらだらと夜更かし、というか徹夜をしてしまったので、睡眠はみじかい。天気は曇り、一面雲におおわれた白い空だった。水場に行ってアレグラFXを飲んだりトイレで放尿したりしてくると臥位にもどって書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』の下巻。あいもかわらずナフタとセテムブリーニが論争していたり、あとヨーアヒムが死んだ。喉頭結核が発覚して、わりとあっけなく、淡々と死んでいった。正午をまわってから瞑想したが、すわっているうちに便意がもたげてきたので二〇分で切ることになった。
  • 上階へ行き、ジャージにきがえてからトイレに行って排便。母親はきょうは友人の(……)ちゃんと会いに行っている。うどんを煮込むように用意してくれてあった。それで麺を鍋のスープに投入ししばらく加熱。きのうのあまりである里芋の煮物も少量あたためて卓へ。新聞をみるとロシア軍の残虐行為についての続報がつたえられている。きのうの新聞でみた情報では、ウクライナはロシア側の通信を大量に傍受しており、市民の殺害がロシア政府の指示だったことを立証しようとしている。また、New York Timesが調べたらしいが、ブチャではロシア軍撤退前の三月ちゅうから路上に遺体があったことが衛星写真の分析をとおして判明したと。その遺体はその後三月下旬になっても変わらずにずっとそこにあったので、ロシア側の、遺体はわれわれの撤退後にウクライナがでっちあげたものだという主張の正当性はうしなわれる。きょうの新聞にいわく、米国のブリンケン国務長官は民間人殺害などの残虐行為はロシアによる意図的な行動だという認識を表明したという。また、ゼレンスキーは国連安全保障理事会の会合にオンラインで参加し、ロシアがもっている拒否権によって安保理は世界の平和と安全をまもるための有効な機能を果たせていない、早急に改革をおこなうべきだ、それができないならばロシアを追放するか、それとも国連がみずから解体するべきだと主張したとのこと。またこれはきのうの新聞ですでにみたが、国営メディアの「ロシア通信」が、「ロシアがウクライナにするべきこと」みたいなタイトルの論説を載せ、そのなかで反露的なウクライナ人を「浄化」する必要性を主張したという。戦争中の悲劇は反露的な行動の抑止に役立つ、と述べ、「浄化」やエリート層の「除去」をとなえているらしい。「浄化」は即座に民族浄化(ethnic cleansing)という語をあたまに呼び起こすものだが、この語の意味からして、反露的ウクライナ人はロシアからみると一種の汚れ、あるべき状態を汚染している不純物だということになる。またぞろ純粋性のレトリックである。プーチンは開戦時の演説で「特殊軍事作戦」の目的としてウクライナの「非ナチ化」をあげ、またブチャで市民を弾圧したロシア軍兵士が「ナチス」はどこだと探していたとの報告もあり、くわえて捕虜となったあるロシア兵も「ウクライナにはナチスがいるとおもっていた」と証言しているらしいが、純粋性のイデオロギーはそれじたいがまさしくナチスドイツのものである。思想的にもじっさいの行為の面からしても、「ナチス」であるのはウクライナではなく、ロシアのほうである。ところがそのあからさまに「ナチス」的な政府の長や高官らが、ユダヤ人としての出自をもつゼレンスキーの政府や市民を「ナチス」と指弾し、国連の場でたしかな証拠をもって残虐行為を非難されても、代表大使はおおまじめな顔で、遺体や映像はロシアをおとしいれるための欧米の捏造だとそればかりをくりかえしてやまない。この現実を記憶し、記録しておかなければならない。ロシア軍によって殺された市民の遺体はおそらく今後各地でさらに出てくるだろうし、マリウポリや、ロシアが占拠している東南部の町々では、いまも現にひとびとが殺されたり、暴行を受けたり、強姦されたりしているだろう。ロシアがウクライナ人数万人をロシア国内の収容所に連れ去ったというたしかな情報がある、ともこの日の新聞には載っていた。
  • 食事を終えるといつもどおりのルーティンをこなして帰室。「英語」ノートをしばらく読んだ。あと、洗濯物は、天気が真っ白でこれでは出していてもしょうがないだろうとおもったので、うどんを煮込んでいるあいだにもうしまってしまった。音読後はうえの英文記事をとちゅうまで読んだ。「英語」ノートの音読を再開したので、またぱっと意味がわからなかった単語をふくむ文をうつして項目を増やしている。臥位ではそれがやりづらいし、やるなら座位で読む必要があり、作業としてもわりとめんどうくさいが、しかしまたどんどん増やして語彙を習得していくつもりである。
  • 三時ごろだったかに瞑想したりストレッチをしたり。睡眠がみじかかったのでやはりどうも気力が湧かず、からだはほぐれてもあたまや意識が文を書こうというほうにむかっていかないので、活力が湧くのを待ってねころがって書見することにした。四時まえから五時まで。布団をからだにかけて息を吐きながら読んでいたが、ねむけも生じてとちゅうでいくらか目をつぶって休む時間もあった。『魔の山』下巻はいま420くらいまで来ており、ちょうど800くらいで終わりなのでのこりはんぶんというところ。つきあってみるとけっこうおもしろい小説ではある。山のうえの国際サナトリウムとその近辺というせまい範囲の舞台で、ハンス・カストルプはずーっとそこにいて生活もたいして変わりはしないのに、にんげんもようや形而上学的なことやユーモアや病や死など、いろいろもりこんであってなかなかのものだなとおもった。もろもろできごとや変化や発展はあるにしても、そこの生活や生やにんげんたちが本質的には「たいして変わりはしない」ということ、「低地」から隔絶されたとくべつな場でありある種の異界であるのかもしれないアルプス高山の、そこに停滞し沈殿し永遠につづくかのような、出口のみえずまっさらにひろがる回帰的な時間のありかたをえがいている小説なのだろう、とそんな感触。終章である第七章の冒頭では「時間そのものを純粋に時間として物語ることができるであろうか」(401)という問いがなげかけられ、404では、「実のところ、私たちが時間は物語ることができるかどうかという問題を提出したのも、私たちが現に進行中のこの物語によって、事実上これを企てているということを白状したかったからにほかならない」と述べられている。話者が物語ることをこころざすその「時間」とはどういう時間なのかはよくわからないが、この小説を読んでいるときの印象としては永劫のてざわりがつよい。ただいっぽうで、この作品は「ドイツ教養小説の最高傑作」(上巻カバー裏のあらすじより)と目されているらしい。教養小説とはいっぱんに主人公がさまざまな経験をえてにんげんとして成長していくさまを物語るジャンルとされている。成長とは変化変容のことだから、それは「永遠につづく」かのような「停滞」や「沈殿」の相とは一見して対立するはずである。じっさい、ハンス・カストルプも国際サナトリウム「ベルクホーフ」での滞在をとおして、主には思想的形成や知的興味の面であきらかに発展していることがみてとれる。しかしそれじたいが、この山のうえの無時間的な時間につつみこまれ、そのなかで、あるいはそのうえで、それを必要不可欠な条件として起こっている、という印象をあたえるものだ。読者はハンス・カストルプの成長や存在をとおして、アルプスの高所に鎮座しているこの永劫的な時間にこそむしろふれることになる。だから、ありがちないいかたをすれば、この作品の主人公はハンス・カストルプ青年(だけ)ではなく、この場所に存在しつづける時間そのものだということも可能だろうし、うえで表明されている話者の企図にはそういう意味がふくまれているだろう。ありていにいって、このままずっとつづくんだろうな、という感覚を読むものにあたえる作品で、それはもしかしたらすぐれた長篇小説のあかしなのかもしれない。ヨーアヒム・ツィームセンは蛮勇によっていちどはこの牢獄的な時間を脱走したものの、けっきょくまいもどってきてしまい、出口をみいだせぬまま、時間のいっぺんとして吸収され溶けこむかのようにあっけなく死んでいった。永遠に停滞しつづける時間の、ひとびとをひきよせ、とらえ、とりこんでいくその牢獄的な同化吸収作用こそが、「魔の山」の魔力だというのがもっとも標準的な理解となるだろう(ちなみにこちらが気づいたかぎりでは、この土地について直接「魔」という語をもちいて形容した箇所は、たしか上巻の中盤あたりにあったみじかい一箇所のみなのだが、メモをとっておくのをわすれたようでいまその文を同定できない)。物語としてハンス・カストルプがついに出口をみいだすにいたるのか、下界に帰還することになるのか、それはいまだわからない。
  • さいきん(……)くんがブログを再開したのでときどきのぞいているのだが、この日みるとヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』からだという以下の引用がのせられていた。

ある人たちは––––私たちが希望的に観測しているよりもその人たちの数がはるかに多いかもしれないのだが––––戦争というものをこの世の苦悩や苦役に対する願ってもない中断とまでは考えないにしても、胸がわくわくするものと思っている。死と隣り合わせだということが、味わいを増し、平素は鈍い脳細胞の働きを早める。しかし、他方にはこの男のように、無法な殺人に反逆し、個人の力をもってしては殺し合いを終わらせようがないという辛い自覚をもち、現実社会から逃避することを選び、もっと先の都合のよい時に、もう一度この世に生まれてくる機会を与えられるとしたって、もうそれはご免こうむると思っている人間がいるのだ。人間とは、一切関係をもちたくないと思っているし、新しい試みも芽のうちに摘み取ってみたがる。そしてもちろん、戦争を失くすという努力と同様、このことに関しても無力なのである。しかし、彼らは魅力ある類いの人間だし、最終的には人類にとって貴重な存在である。それがたとえ、人類が破滅に向かってまっしぐらに進んでいるようにみえる、この暗黒の時代に信号機として振舞ってくれているだけのこととしてもだ。配電盤を操作する者はいつも見えないところにいて、そして私たちはその男に信頼を置くのであるが、しかし、線路を走ってゆくかぎり、明滅する信号機はつかの間ながら慰めを与えてくれる。私たちは機関士が安全に目的地につれて行ってくれることを望んでいる。腕を組んで座り、自分の安全を他人にまかせてしまう。ところが、もっとも優秀な機関士でさえ、地図に示されたコースにしか私たちを連れて行けない。私たちの冒険は地図にない領域においてであって、その道案内には勇気と知性と信条だけが必要だ。私たちに義務があるとすれば、それは自分の力を信頼することである。自分の運命をその手に委せることができるほど、偉大な人間とか賢明な人間はいないものだ。誰にしろ、私たちを導くことのできる唯一の方法は、私たち自身の定った方向が間違っていないという信条を取り戻させることである。偉大な人間は、この考えが常に正しいものだと示してきた。私たちを幻惑させ、道を踏み迷わせるのは、心底から守れそうもないことを、約束する連中である––––すなわち、安全、安定、平和等。そしてもっとも忌まわしいことに、こういった連中は、絵空事の目標に到達するという名目で、人間同士の殺し合いを私たちに命令する。

ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』から

  • 夜だったかどこかのタイミングで、Keith Jarrett Trio『Tribute』をまたきいた。”All of You”からはじめて”Ballad of The Sad Young Men”、”All The Things You Are”、”It’s Easy To Remember”。”All The Things You Are”がききたかったのだが、ひさしぶりにきいてみるときもちがよかった。むかしよりおとが追えるようになっているので、イントロのJarrettのごつごつしたコードプレイによるテーマがどういうことになっているのかというのもまえよりはみえる。本篇もスリリングな演奏で、Gary PeacockとJack DeJohnetteがここでは強力であり、派手なことはやらないが、ふつふつとしたはげしさをうちにこめつつ強靭きわまりない土台をかたちづくっており、そのうえにのるJarrettもそんなに息がながくないけれど、ベストなしかけかたをねらう集中力の気配をうかがわせながらリズムとわたりあうように駆けていて、きいているほうもすこし緊張する。Gary Peacockがベースソロでウォーキングをえらんだのは正解だとおもった(テンポ的にそれいがいやりづらいということもありそうだが)。ただ、ベースソロ後半からおちついてきて、DeJohnetteのソロもそんなにあばれないままテーマにもどって終わるので、爆発感が足りないような気はした。三者一体でもりあがるピークが一箇所あったほうがよかったのではないかと。ピアノソロも駆けまわってはいるのだがある種淡々と、あまりたかまらず一定の起伏におさまっていたし。ピアノソロの後半でもっともりあげる可能性もあったはずだが、そういうながれにならなかったのだろう。ところでこのライブ盤はスローバラードは三曲、”Little Girl Blue”と”Ballad of The Sad Young Men”と”It’s Easy To Remember”がはいっているのだが、どれも透明に美麗で質はたかい気がする。”Ballad of The Sad Young Men”がいちばん好みか。

2022/4/6, Wed.

 しかしスターリンは、ドイツとの戦争は避けられないとしてもヒトラーとの交渉によって今しばらく回避できると考えていたようだ。スターリンは、ドイツに対して宥和政策を採り続けたイギリスに不信感を持ち、ドイツとソ連の戦争をイギリス政府が望んでいると疑って、イギリス政府からの情報を信用しなかったとも言われる。おそらくはこうした理由からスターリンは、ドイツ軍が侵攻する直前まで、前線の部隊に対して挑発に乗らないよう指示を出していた。この結果、ドイツ軍の攻撃は奇襲となり、前線のソ連軍は、戦闘機の多くが飛び立たないうちに地上で破壊されるなど大きな損失を被ったのである(この(end58)日だけでソ連保有していた航空機の約二割を失ったとされる)。
 ドイツ軍の戦闘準備は万全であり、五五〇万人にも上る大兵力で「電撃戦」を仕掛け、制空権を握った。このためソ連軍は後退を余儀なくされ、国内深くへ攻め込まれた。三方面に分かれたドイツ軍は、わずか三週間で三〇〇~六〇〇キロも侵攻し、ソ連第二の都市レニングラードは一九四一年九月にドイツ軍によって包囲されてしまった。この包囲は以後二年以上も続き、レニングラードでは食糧と燃料の著しい不足などにより大きな被害が出た。人肉食も見られたほどの極限状況であり、六〇~一〇〇万人が死んだと言われる。首都モスクワも近郊まで攻め込まれ、空襲にさらされるようになった。早くも一九四一年一〇月には、政府機関と外国の大使館をモスクワから東へ約一〇〇〇キロ離れたクイブィシェフへ移転させることが決定された。しかしスターリンはモスクワにとどまり、モスクワを死守するよう軍と市民に呼びかけた。国の最高指導者のこの決断に軍と市民の士気は高まり、多くの人々がバリケード作りに参加するなどした結果、モスクワは守り抜かれた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、58~59)



  • さめて携帯をみれば一〇時五八分。天気は良い。とはいえ真っ青な快晴ではなく、空に雲が混ざってはいるものの、カーテンをあければガラスの上端で枠にふれながら太陽がひかりを落としてくる。それを顔に浴びつつしばらくすごし、一一時七分に離床。鼻を掃除して水場へ。アレグラFXを服用。薬をまいにち飲みつづけているためか、花粉の威勢もおちついてきているのか、さいきんはほとんど花粉症の症状が出ない。用を足してもどってくると脚をちょっと揉んでから瞑想した。しかしやはり起き抜けですじがかたいので二〇分程度しかすわれず。上半身はよいかんじだったが。きょうは一時四〇分かそのくらいには出発して徒歩で行かなければならないので猶予がすくない。
  • 労働から帰宅したのは午後一〇時くらい。ちょっとやすんだのち、一〇時半ごろからThelonios Monk『Thelonious Alone In San Francisco』をスピーカーからながしだし、まくらのうえにすわってきいた。まえから好きな音源だが、とてもすばらしくて落涙した。タイトルにAloneとはいっているとおり独奏なのだが、ここまでひとりきりになれるものかと。この録音でのMonkはきくもののことをまったくかんがえておらず、そこにはただ音楽と演者とその関係のみがある、という印象をうける。作品としてリリースするために録音された演奏のはずだが、気負いやてらいや大仰さが微塵もふくまれておらず、見せもの性を極限まで排したただただしぜんな演奏の時間がここにながれている。Monkはこれいぜんにも何千回とこのように弾いてきたし、いつでもこのように弾けるだろうし、これいこうも何回でもこのように弾いていくだろう。かれはまいにち、だれもみていないところで、じぶんのためだけに、あるいは最大限にちかしいひとのためだけに、このような演奏をしてきたのだろう。そうおもわせるような、日常性としてのしぜんさ、ピアノを弾くことと生とがひとつのおなじものとなっているにんげんの、とくべつな行為ではないことの稀有な卓越性が記録されているようにきこえる。スタジオではなく、自宅の、自室での、だれもきいていないところで弾いたひとりきりの演奏をかいまみているような気になる。かれはスタジオ(ではなく、Wikipediaをみると、Fugazi Hallというホールだった)に来て、ただピアノを弾いただけで、それいじょうでもいかでもないし、それいがいのことはなにもないのだろう。それいがいのことがなにもないというそのことが、感動的なのだ。このアルバムのAlone、ひとりきりとは、超絶的な孤高のことではない。それはひそやかさとつつましさとしての孤独であり、そのひとりきりのありかたは、ほんとうに、うつくしい。
  • Eric Dolphyが『Last Date』のさいごにのこしたゆうめいなことばに、"when you hear music, after it's over, it's gone in the air, you can never capture it again.”というものがある。そのことをとてもつよくかんじさせるのが、このMonkの独奏だった。音楽とはいまそこで生まれ、あまりにもみじかいつかの間のみ生き、まもなく消えてなくなるのだと。その過程のしずけさが、はかなさが、かそけさが、記録されている。そしてこのアルバムのMonkはまるで、そのことをいつくしんでいるかのようにきこえる。ピアノを弾くことで、みずからが生んだ音と、音楽と、ピアノという楽器とをひとしくいつくしみ、それらにいたわりとこころづかいをむけているかのように。そのいたわりをとおしてかれはもしかしたら、じぶんじしんをもまたいたわっているのかもしれない。音楽と楽器とのあいだにこのような関係をきずけるということを、じぶんは心底からうらやましくおもう。じぶんはBill Evansには羨望をかんじない。しかしMonkのこのありかたは、こころからうらやましい。おれもこんなふうに音楽と接したかった。
  • Monkの独奏をきいたあと飯を食い、それから風呂にはいりながら聴取時の印象を追い、うえに書いたようなことをかんがえていたのだが、かんがえながら、これを書くときにはけっこう困難をおぼえるだろうなという予感があった。いまじっさいに書いてみるとそうでもなかったのだけれど、もろもろの印象や、それをあらわすことばや表現はあたまに浮かびつつも、いざそれらを文章のかたちでならべ、つなげ、整序するとなるとむずかしいなとおもったのだった。たとえばそとをあるいているときに見聞きしたものの記憶を書くのもそんなに変わりはしないはずだが、徒歩中はみちゆきというものがあり、感覚器を経由した空間的配置というものがある。つまり、ことがらの順序が物質的外界にわりとねざしているので、その記憶をつづるのは比較的容易なのだ。それにくらべると、音楽や、そこからえた印象を書くのは感覚的にも曖昧模糊としがちでむずかしい(うえの文はMonkの音楽というより、ほぼそこからこちらが勝手に得た印象しか書いていないが)。ともあれうえに記したようなことを、ある意味風呂にはいりながらもうあたまのなかでまえもって書いているわけだけれど、そうしているあいだに、じっさいに書くときの困難をおもいながら、しかしそのときにはいまこうしておもいうかべていることばやいいかた、おもいかえされるその記憶ではなく、そのときじっさいに書いているその時間にこそしたがい、そこに解をみいださなければならないのだとおもった。あたりまえのようでもあるいいぶんだが、しかしこれがやはり困難なこと、そしてハードなことなのだ。小説作品などを書くときにしても事情は本質的には変わらないとおもうものだが、じぶんが書いているこの文章はとりわけみずから経験した記憶をつづるものであり、そうなると順当にかんがえれば、文を書くときには過去の記憶につくことになる。もちろんそうなのだけれど、しかし、過去にとらわれるようにしてそうするのではなく、現在において過去の記憶につくというか、過去の記憶につくということの現在をとらえなければならないというか、そんなようなことをかんじたのだ。つまりMonkの音楽への感想を書くとして、風呂のなかでかんがえたことにとらわれて、それをくまなくおもいだして不足なく再現するというようなこころではむしろうまくいかないだろうなと。結果的に過去にかんがえたこととおなじ表現になるとしても、あくまでいま書いていること、いまあらたにはじめることとしてそのことばを書かなければならない。そのときにじぶんが書いていることば、書きつつあることばをこそ、よくみなければならないのだ。もちろんそれとどうじに記憶や、印象や表象をもよくみなければならないのだが、そちらにむかってばかりで書いている現在がおろそかになってはならず、書いている目のまえの現在をよくみることにこそ、そのときどきのこたえがあるだろうと。そこにおいてその都度に、なにかが生まれているはずなのだ。それは過去にいちど生まれたものとおなじものかもしれないし、たいていのばあいはそうなのだろうが、しかし都度にまたあたらしいものがそこに生まれてもいるはずである。過去のことにしても、それは絶えず書く現在において生まれ直しているだろう。生まれ直しているものとして、はじめて生まれるものとして、その都度にあたらしくはじめることとして、ことばを書かなければならない。それが徹底的に現在につくということの意味である。端的にまとめて、あらかじめかんがえたりあたまに書いてあったことと、いまじっさいに書いていることやその時間とは、まったくべつものなのだということだ。これは書くことにかぎらず、もっと一般的に、なんであれなにかをするにあたって肝に銘じておくべきことだとおもう。たとえば労働だってそうである。なにかをじっさいにおこなうまえ、行為の時間にはいるまえに、ひとはあらかじめいろいろとかんがえ、どういうふうにやればうまくいくかとか、どうするのが正解なのかとか、計画を立てたり戦略を練ったりさまざまおもいをめぐらせる。そこでたくさんかんがえることは重要であり、必要なことである。しかし、その事前の思考は、じっさいの状況にはいったとき、本質的には役に立ちなどしないということもたしかに認識しておくべきだとおもう。あらかじめ徹底的にかんがえつくし、そして、いざ行為の時間にはいって行動するときは、そのかんがえを捨て去らなければならない。捨てないにしても、それにとらわれて目のまえの現在をないがしろにすることがあってはならない。事前の思考を利用し、採用し、たよるにしても、いま現在に生まれ直したものとして、そのときにその場でそれを再誕させなければならない。そのことがやはりハードなのだ。端的に心身がととのっていないとそれはできない。なぜならそこにはささえがないからであり、たしかな場所を生き直すことでふたしかな場所を生きなければならないからだ。だが、そのふたしかな場所にしか、たしかなこたえや、なにかあらたなものは生じえない。それを引き寄せ、みいだし、それにふれなければならない。つねにではないにしても、おりおりそれは生まれているはずなのだ。
  • 洗濯物をとりこんだとき、ベランダに日なたがあかるかったのでそのなかでちょっと屈伸をしたり上体をひねったりした。出発は一時四五分くらい。みちに出れば林に接した土地ではピンクパープルの小花が群れ、すすんでいくと近間の宙を黄色い蝶が二匹、求愛か交尾かつれだってすばやくおどっており、いかにも春の爛漫の風情、どころか背に寄せるひかりは初夏の陽気だった。坂を越えてすすむとゆくてから風音がきこえてきて、しかし樹々がゆれないなと、鳴りだけであたりのみどりがしずかなのをいぶかりながら出所をさぐっているうち、風のおとではなくて斜面したの、ほそい水路のひびきと知れた。先日の雨で増水したらしい。それからみちばたのススキをぼんやりみながら行っていると、横の視界のそとからあいさつをかけられ、みれば(……)さんがいつもながら品良いかたむきで会釈をおくっていたので、こちらも一瞬足をひらいてそちらをむきながら、あ、こんにちはとかえしてすぎた。何年かまえから髪を染めなおさず白さの弱い灰色にとどめているようだが、それもあってか、からだは息災としても老いの印象をおもってしまう。いますぐではないが、一〇年二〇年すればあのひとも死ぬだろう。
  • ガードレールのむこうで斜面したから伸び上がってならぶ杉の木の、茶色の雄花を随所につけながら陽をあびせられてみどりあざやかな立ちすがたの壮観だった。街道に出るときょうも工事をしており、いま交通警備員が車を停めてむこうからやってくるのをとおすところだったので、さえぎるもののないひろびろとしたひかりのなかでしばらく待つ。停まってならんでいたこちらがわの車も去っていったあとから北側にわたり、歩道を東へあるいていった。工事はむかいの歩道を拡幅するもので掘られた溝に人足がドリルをさしこんでガリガリやっており、その音響がなかなかの圧迫をもった衝撃波として身に寄せてくる。起きたころにはもうすこし雲があった印象だがいつか去ったらしく、みえるのは東南の一角に淡く乗った溶けかけのひと群れのみ、直上をみあげれば吸いこむような、だいぶ色濃い青さがみだれなくひろがっていた。公園の桜は満開で、しかしここのはとおめにみてもひとつながりのたなびく雲というよりややすきまをもうけた粒の感がつよく、花というより胞子の集合めいていて、ちかくからみれば枝先にいくつも毬様のまるいひらきがくっつきぶらさがっているのが青空にのって浮かぶさまの、きれいはきれいなのだがどちらかといえば奇特なようでもあった。花とか植物というのはだいたいどれも、あらためてまじまじみてみると美よりもむしろ奇異の観にうつる。
  • 週日のまんなかだが昼下がりの陽気のためか裏路地にそとに出ているひとがおおく、大学生ほどの若い男が乗った自転車がすぎていったり、駐車場の端で草をとっているしゃがみ姿もある。家々のあいだにひろくひらいたあまり舗装もされていないような共同駐車敷地にかかるとすこし土手になった線路とそのむこうの林がみとおせて、いつもこの林縁のみどりに風をみたりみなかったりするのだが、きょうはかれらは旺盛にゆれており、手招きでもないがなにか呼びかけるごとく左右にかたむきながら泡のようなひびきを吐いている。もうすこしすすむともう一箇所、さきよりはせまいがやはり駐車スペースから線路のむこうがのぞく場所があり、ここの樹々はもっとこまかく渦を巻くようなうごきをはらみ、そのうしろでたかくのびあがった杉の木もゆれさわいでいた。午後二時だから裏通りにもまだまだひかりはあって肩口を中心に身に寄っていたその熱を、服をつらぬく風が散らしてすずしさへと中和していった。ハクモクレンはこずえに花のひとつもなくなりはだかの枝先に新芽がはじまっていた。地面にも花の残骸はまったくみられず、すでにかたづけられた空間がつぎの季にうつっている。
  • (……)の枝垂れ桜が盛りというわけで淡いピンクの巨大な逆さ髪に似たそのまわりに訪問者のちいさなすがたもおおくみられ、こちらが行くみちのはたにとまって談義しながらながめる高年の一団もあった。職場について勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰りは駅のホームで電車をまちながらひさしぶりに書見した。『魔の山』。ベンチにつき、脚を組んで、息を吐きながら読みすすめる。電車は遅れていた。アナウンスがはいり、とちゅうで具合がわるくなった乗客がいたので乗務員が救護をしていたとのことだった。救急車も呼ぶさわぎになったらしい。最大で二〇分のおくれといわれていたが、じっさいそこまでではなく、けっきょく一〇分くらいのおくれですんだ。

2022/4/5, Tue.

 ソ連がドイツと不可侵条約を結んだもう一つの理由として、満洲国境付近を中心として、北東アジアにおいて日本との関係で緊張が高まっていたことがある。
 日本の関東軍は一九三一年九月の満洲事変によって満洲全域の占領に乗り出したが、日本がシベリアへも兵を進めるのではないかとソ連の指導部は警戒した。十月革命後の、日本を含む資本主義諸国による軍事干渉の記憶はまだ新しく、ポーランド戦争の経験もあって、日本と結んでポーランドが攻撃を仕掛けてくることをソ連の指導部は強く警戒した。(end51)このためソ連は戦争の回避を最優先し、日本との不可侵条約の締結を提案した(日本は提案を斥けた)。その一方でソ連は、日本との戦争に備えて極東での軍事力の強化や、極東への輸送力の増強に努めた。
 日本が一九三二年に満洲国を建てると、ソ連は日本のシベリア進出を一層警戒して同年一二月にまたもや不可侵条約の締結を日本に打診したが、日本はこれを拒否した。一九三六年に日独防共協定が結ばれたことはソ連の警戒感を一層強めた。一九三八年七月にはソ連軍と日本軍の武力衝突(張鼓峰事件)も起こった。
 ソ連・モンゴルと日本・満洲国との関係を難しくしていた一因に、モンゴルと満洲国の国境線をめぐる理解が異なっていたことがあった。清朝の行政区分と同じくハルハ川東方一三キロに国境線があるとするモンゴル側と、ハルハ川にあるとする日本・満洲国側とで主張が対立しており、満洲国軍・関東軍とモンゴル軍・ソ連軍との国境付近での小規模な衝突が何度か起きたのち、一九三九年五月から九月にかけて日本では「ノモンハン事件」として知られる軍事衝突が起こった。
 五月末までの「第一次事件」は、国境付近での小規模な戦闘としていったん終結したが、ソ連関東軍とのより大規模な衝突が起こることを予想し、モンゴルへの人的物的な援助、極東・東シベリアの軍の態勢整備、予備役の動員、輸送のための鉄道の突貫工事など、戦(end52)闘準備を急いだ。
 ソ連側の読みは正しかった。関東軍は六月二七日に、ハルハ川から約一三〇キロもモンゴル領内に入ったところにある空軍基地を計一〇〇機を超える部隊で空爆し、国境をめぐる衝突にはとどまらない大規模な戦闘が再開されたのである。
 ソ連・モンゴル側は、戦車と航空機により八月までには関東軍を撃退したものの、ソ連としては、日本が再びモンゴルやシベリアへ出兵し、本格的な戦争となることを強く恐れた。ソ連としては、この状況でドイツと戦争となることはなんとしても避けなければならなかった。東西二つの戦線で戦うことは避けたいという事情はドイツも同様であり、ここに独ソの利害が一致し、独ソ不可侵条約が結ばれるに至ったのである。先に見た独ソ不可侵条約第四条の定めによって、当時交渉が進められていた日独伊三国の対ソ軍事同盟の実現可能性も小さくなったことで、日本・満洲国がソ連を攻める可能性も小さくなったという点でも独ソ不可侵条約の締結はソ連にとって大きな意味を持った。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、51~53)



  • 「英語」: 395 - 423
  • 一〇時五八分の起床。布団を抜けて床に下り、水場に行ってアレグラFXを服用。トイレでながながと小便して下腹部をかるくしてもどるとふたたびねころがって書見した。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』の下巻。いま午後三時すぎだが、現時点で339まで行っている。遭難しかけていたハンス・カストルプはもうろうとするなかでいつかゆめをみており、楽園的なヴィジョンとか、神殿とそのなかでおこなわれている魔女の残虐な儀式とかを幻視する。その一幕は、ナフタにもセテムブリーニにもつかないというかれの独歩心をかためる役割を果たしているように読めたが、象徴的にどのくらいの射程があるのかはあまりよくわからない。二時まえくらいにまたすこし読んだが、いまいたっている339あたりでは、ハンス・カストルプはナフタと対話しており、セテムブリーニはフリーメイソンで、かれは啓蒙の徒として理性や自由や合理主義をたからかにうたいあげているけれどフリーメイソンの最盛期にはこの団体はむしろ秘儀的な要素をたぶんにはらんでいて、それはじっさいカトリック典礼などと相同的なのですよ、みたいなはなしをおしえられている。
  • 一一時半くらいから瞑想。からだの芯からほぐれ、あたたかくなる。じっとしていると皮膚やそのしたの筋肉がうごめき、パチパチとかピリピリというような感触が各所に生じて、癒着していたすじが剝がれているようなかんじにおもえるのだが、じっさいなにが起こっているのかはわからない。しかしからだのこごりやこわばりがとれて楽になるのはたしかである。呼吸もすごくかるくなる。じっとしているうちにちからをまったくいれずとも勝手にゆるゆると深いところまで吸ったり吐いたりできるようになる。呼吸のための筋肉やからだ全般がやわらかくととのっていないとまず感触がかたいし、吸ったり吐いたりをすぐに交替させないと苦しくなるだろうが、すわっていると吸気も呼気もかなりゆるやかになって、たしょう停めていたってたいして苦がない。
  • 上階へ行き、ゴミを始末。ジャージにきがえて便所に行き、糞を垂れた。洗面所で髪を梳かして、食事は米ののこりでつくったおにぎりやきのうののこりものなど。新聞の一面をみると、きのうの朝刊や夕刊でもみたがロシア軍がキエフ近郊や各地で市民を虐殺し戦争犯罪をおかしたようだという報。きのうの夕刊の情報とおなじだが、すくなくともキーウ近郊で四一〇人の遺体が確認されている。きのうの夕刊の記憶ではこれはウクライナのイリーナ・ベネディクトワという検事総長が発表した情報で、かのじょはすでに一四〇人の検死を終えたといい、フェイスブックに、これは地獄だ、犯罪者をさばくために記録をしなければならないと投稿したということだった。Human Rights Watchなどもはいって証言をあつめているようで、ロシア兵が「ナチス」をさがしていたという目撃証言もあるらしい。ウクライナ軍の捕虜になったある兵士も、ウクライナにはナチスがいるとおもっていたと言っているらしく、したがってクレムリンプロパガンダが前線の末端の兵にまで浸透していたともおもわれると。きのうの朝刊の二面にあった記事には、ロシア軍の兵士が略奪した物品をベラルーシにて露店で売りさばいているというはなしもあった。
  • 文化面では阿部和重青山真治への追悼文を載せていた。どうでもよいのだが、その文中に、なんとかかんとかを「画面にみなぎらせており」みたいなフレーズがあって、この「みなぎらせる」という動詞は蓮實重彦を連想させるなとおもった。母親は二時から歯医者に出かけるとのこと。父親はちょっとそとに出たり、レースのかかった東窓のまえに突っ立ってそとをながめながら歯磨きをしたりしたあと、おそらく一時半か二時まえくらいにはでかけていたようで、いま車がないのだが、どこに行ったのかは知らない。食後には食器を洗い、風呂場へ。浴槽の蓋がまたぬるぬるしていたのでまずそれをブラシでこすった。みずでながして立てたままに置いておき、それから風呂桶のほうをこすり洗って、洗剤をながすと蓋も設置。出ると白湯を一杯コップにもって自室にもどった。Notionを支度するとすでに一時くらいだったはず。きょうもきょうとてFISHMANS『Oh! Mountain』をながして「英語」ノートを音読。とにかくガンガン読んですすめていきたい。一時半くらいまで読んだか。その後またちょっとだけ書見し、伸びていて気になっていた手の爪を切った。というか書見はそのあとだったか。どちらでもよいが、二時すぎからKeith Jarrett Trio『Tribute』をながしてまたまくらのうえにすわった。このアルバムは父親がもっていた数少ないジャズのCDのなかにはいっていたのでそれなりにきいた。Keith Jarrett Trioは偉大なるマンネリズムではあるのだけれど、ちゃんときけばやはりおもしろいものでもある。Jack DeJohnetteのドラムソロの連打がずいぶん粒のこまかくてしかも流動的なもので、拍のあたまにアクセントもないからとらえづらく、ここがあたまだろうというのはききながらある程度とらえているつもりでいるのだがソロがあけて三者にもどるとずれていてむずかしいなあということがよくあった。DeJohnetteはバッキングもなんかへんというか、あ、そういうかんじなの? とおもうときがけっこうあり、オーソドックスではないけれどよくある拡散系でもなく、はげしくバシバシやるタイプでもなくて、地味といえば地味なのかもしれないしすくなくともバッキングちゅうは繊細さのてざわりのほうが顕著でそんなに我がつよいようにはきこえないのだけれど、しかしなにか我が道を行っているようなへんなかんじがある。Bill Evans Trioのモントルーのやつなんかではいかにも若者というかんじでもっとたたきまくっていた記憶があるが。二曲目の”I Hear A Rhapsody”のドラムソロでは突発的にめちゃくちゃおおきなおとになって連打しまくっており、ここの爆発はむかしからいつもおどろく。”Lover Man”、”I Hear A Rhapsody”、”Little Girl Blue”、”Solar”と四曲目の終わりまできいてそれで四〇分くらいなのだが、このなかだったら”I Hear A Rhapsody”がいちばん好きかな。ピアノソロの終盤からベースソロにはいるところのながれなどよく、Jarrettは後半からだんだん恍惚にはいりはじめたようで切り替わりの直前ではかなりの速弾きでおとを詰めまくりながら駆けているのだが、なんだかんだいってもJarrettは速弾きしてもくどくならずに必然性をもってきれいにきこえるのがすごい。それはやっぱり、あのうなり声から察するに、ほんにんの身体と同期しているからということなのだろうか?
  • 切ると二時五〇分。茶を飲みたかったので上階に行って用を足し、緑茶を支度するとともに、炊飯器のうえに米がザルにいれられてあったのでついでにそれをもう磨いでセットしておいた。もどってくるとさくばん駅の自販機で買った「アルフォート」のいちご味のものをつまみつつ茶を飲み、きょうのことをここまで記述。四時。
  • いま四月二日までブログに記事を投稿。日記はあと三日付ときのうの分を書けばよいので、ふつうにきょうかたづくだろう。三日付はもうかんせいしているようなもので、べつに書いても書かなくてもよいようなことがすこしのこっているだけだし。あとはあした授業があるので、(……)くんの訳文を添削したり、(……)のさいごのほうをあらためて読んでおきたい。(……)
  • 「読みかえし」: 628 - 633
  • 三日付の記事はこの日しあげて投稿した。四日付も職場にいるあいだのことをほぼ書き、完成したようなものだが、さいごまでは行かず、それによってきょう(六日)、夜のことをおもいだせずに終わった。この五日は休日なので特筆事はすくないが、ひとつにはいつもどおりアイロン掛けと夕食の調理をおこなった。アイロン掛けをするあいだ母親が録画したものとおもわれるテレビドラマがかかっており、母親はむしろそれをみておらずこちらが手をうごかしながらながめていたのだが、スマートシティ構想で町を開発するためにやってきた職員が地元民の若い女性のさそいで「けんちん祭り」を利用した町おこし企画に参加し、衝突やトラブルを通過しつつ感情の機微を知ったり成長したりするヒューマンドラマ、みたいな趣向。主人公はたぶんこの若い女性のようで、かのじょは道永さんという、ひとのきもちをうまく読み取れないと自称する職員男性にたしょうこいごころのたぐいをいだいている。女性の父親は聾者のカメラマンでむすめとは手話をつかって会話し、またむすめがかれの発言を通訳もするのだが、この父親は笑福亭鶴瓶がやっていた。なまえのわかる俳優はほかにいない。いま検索してみると、これは『しずかちゃんとパパ』というドラマだった。主人公は吉岡里帆で、そういわれてみれば、あああれ吉岡里帆だったのか、とおもった。たしかにそうだわ。あとわすれていたが、木村多江もかろうじてなまえがわかる。
  • 飯は母親がナスのとろとろ焼きというのをやってみようとかいうので、ナスを切り、肉といっしょにフライパンで調理。ショウガをたくさんすりおろす。とろとろ焼きというより、醤油やみりんや酒であさく煮るみたいになったが。ほか、ナメコと豆腐の味噌汁は母親がこしらえた。父親は山梨に行ったらしい。
  • 夜にまたKeith Jarrett Trioの『Tribute』を、CDではディスク2のさいしょだったとおもうが”Just In Time”からきき、”Smoke Gets In Your Eyes”、”All of You”まで。”Just In Time”はまあ軽快につらつらおとを詰めてたりたりやっているのだけれど、ピアノだけきいているとどうもおりおりやはりけっこう拍子がとりづらくなるところがある。本篇もまあよいが、回帰したテーマが終わったあとのアウトロでむしろJarrettは微妙にアウトしたりしてのっていて印象。”All of You”はだいたいみんなあたたかみのあるいろあいでやるスタンダードで、原曲のコードがそうなのだろうし、この音源もそうで、『My Funny Valentine』のMiles Davisだって、Herbie Hancockだからそこそこ希薄ではあったとおもうがそれでもやはりあたたかさはのこしていたはずで、そうすると六一年のBill Evans Trioのあの白銀色が異様なものとしてきわだってくる。リハーモナイズがどうなっているのかじぶんの知識ではちっともわからないけれど、あのいろでやっているひとはほかにいない。あの演奏はテーマもほぼないようなものだし。
  • 夜はながくベッドでだらだらしてしまい、午前三時ごろになってようやく(……)くんの訳文を添削しはじめた。それでけっきょく四時半の就床。

2022/4/4, Mon.

 ドイツでヒトラー政権が成立したのち、基本的にはソ連は、英仏と結んでの対独集団安全保障の確立を求めていたと言ってよいと思われるが、相互の根深い不信と利害の食い違いとからソ連は英仏と結ぶことを諦め、ドイツとの間で不可侵の約束を取りつける道を選(end49)択した。ソ連にとっては、特にイギリスが対独宥和政策を積極的に進めているように感じられたことが不信感を増した。沿バルト・東欧諸国のソ連に対する不信感・警戒感が英仏における以上に強かったことも、英仏ソを軸とする集団安全保障体制の構築を難しくした。こうしてソ連はドイツと一九三九年八月二三日に不可侵条約を結んだ。とはいえ、八月半ばに至るまでソ連は英仏との協定締結にも僅かながら望みをかけており、英仏ソの三国会談が続けられていた(ソ連がドイツと結ぶ決断をしたのは八月一七日か一九日と言われる)。
 先にも述べたように、ヒトラーの「反ソ」・「反共」の姿勢は広く知られており、他方でソ連コミンテルンを通じた「反ファシズム統一戦線」の呼びかけ、スペイン内戦における人民戦線政府への支援によって「反ファシズムの砦」として期待を集めていたから、独ソ不可侵条約の締結は、世界中で驚きを呼んだ。独ソ接近の様子に危機感を抱き始め、この条約が結ばれたその時まで英仏ソ三国会談のためモスクワに軍事使節団を送っていた英仏にとってはひときわ大きな衝撃であった。独ソ不可侵条約の第四条は、相手国を直接間接に敵国視するいかなる国家連合にも参加しないことを定めており、これによって英仏ソの対独軍事同盟結成は困難となったのである。
 そしてまた、ソ連コミンテルンが反ファシズム統一戦線戦術をとり、スペイン内戦でも人民戦線政府を支援したことが世界各国での共産党への支持を高めていたところであっ(end50)たから、突然の独ソ不可侵条約締結は各国の共産党に混乱をもたらした。
 独ソ不可侵条約の締結はソ連にとって安全保障上重要な成果であったが、この条約によってドイツとの戦争が避けられるとはソ連の指導部は考えておらず、戦争を先送りする時間稼ぎの方策であったと言ってよい。ソ連は工業化と軍備増強に取り組んでいたが、一九三〇年代の「大テロル」のなかで多数の指揮官・将校が逮捕されたり、軍籍を剝奪されたりしたことも影響して、軍事的にソ連は劣勢であると予想され、劣勢を覆すにはなお数年の時間が必要であると見られたのである。このため、独ソ不可侵条約締結によって得た猶予期間にソ連は戦争の準備に懸命に取り組んだ。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、49~51)



  • なんどめかに覚めて携帯をみると九時五〇分。しばらく呼吸をしたりして、一〇時一一分におきあがった。鼻を掃除し、水場に行ってアレグラFXを服用し、トイレで小便を捨てて帰還。きょうもさいしょにちょっと書見しながら脚を揉んだ。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』の下巻。270くらい。ハンス・カストルプは、雪山とより親密に接触して純粋な孤独をえたいみたいな、ロマン主義的といってよいだろうのぞみにかられてスキーを買い、雪のなかにくりだしている(セテムブリーニ氏はかれのその願いによろこび、感動せんばかりに称賛し、肯定している)。荒れ狂う吹雪のなかを独行してほとんど遭難みたいなことになっているのだが、山を行っているあいだの雪景色とかそこでの心境の描写とかはなかなかよい。
  • 一〇時三五分から瞑想。きょうはきのうにひきつづいて雨降りの日だが、空気はそこまで薄暗くはない。気温もきのうよりあたたかいようにかんじられる。やはり瞑想というか静止の時間をきちんととらなくては駄目だなとおもった。一一時八分かそのくらいまですわり、上階へ。無人。母親はしごとだろうが、父親は歯医者とか行っていたような気がする。ジャージにきがえながら窓のそとをみやると白っぽい空気のなかに降る雨の線がはっきりと浮かんでつぎつぎにとおりすぎていく。重さはなく、なかなかすばやくてかるがるとしつつも密な雨で、正岡子規が松かなにかの新芽にやわらかく春雨の降るみたいな有名な短歌をつくっていたとおもうが、それをおもいおこさせるようだった。検索してみると、「くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る」だった。
  • 食事はきのうの煮込みうどんののこり。鍋で熱するあいだ流しでうがい。また、屈伸したりなど。丼にすべてそそぎこむと汁がほぼ縁にまで達して、これはこぼさないのがむずかしいぞとおもいながら両手で持ち、汁の水面線を注視しながら慎重にあるいていったのだが、食卓の脇まで来たところでかたむいたようでちょっとこぼし、手に熱い刺激が生まれたのであわてて卓に置き、ティッシュでこぼれたものを拭いた。食事。新聞一面をみるとキーウ州(数日前に日本政府が、キエフは今後ロシア語の読みにもとづく「キエフ」ではなく、ウクライナ語にそくした「キーウ」と呼び、表記するということを発表したので、新聞の表記もそれにもとづいている)全域をウクライナ側が奪還したと。ただ、近郊のブチャという町では、市長がAFP通信の取材にこたえて、街中に遺体が散乱している、女性や子どももふくめたすくなくとも二八〇人を集団墓地に埋葬した、遺体はすべて後頭部を撃たれていたとはなし、現地入りしたBBCも路上などですくなくとも二〇人の遺体を確認していると。民間人とおもわれ、後ろ手に縛られた遺体の映像も報道しているという。バビ・ヤールをおもいださざるをえない。地下室に手足をしばられた一八人のバラバラ遺体が発見されるということもあったらしい。ロシア軍が民間人虐殺をくりかえしていたのではないかとみられる。撤退するまえにさいごに、ということもあったのかもしれない。ロシア軍は死体や家屋などに地雷をしかけていったといい、その調査などがなかなか難航しているようだ。ほかの各地でも略奪や女性暴行の報はあるらしく、軍紀が低下しており脱走兵も出ていると。ロシア軍に包囲されているマリウポリでは赤十字国際委員会(ICRC)の支援で民間人の退避がすすめられているというが、ロシア側は、ウクライナ赤十字の準備不足のためになかなかすすまず遅れていると批判したらしい。いっぽう、首相の特使としてポーランドをおとずれている林外相は、ウクライナ人難民を政府専用機で日本に連れてくるかんがえをしめした。いまのところ二〇人が希望を表明しているという。今夜にも帰国する予定らしい。また、停戦交渉およびウクライナの安全を保証する条約にかんしては、ウクライナ側はロシアに拒否権をあたえるような枠組みは賛同できないと。そうなればとうぜん安全の保証がそこなわれるだろうから順当なことだが、ロシアはロシアで米欧と対等のたちばで参入したいだろうから、拒否権をもとめて同意しないだろうと。ウクライナ側はゼレンスキーとプーチンの会談への準備はかなりととのったと自信をしめしたものの、ロシア側はまだその段階にはないと否定している。
  • 食器を洗い、風呂も洗うと、ヨーグルトを小鉢に用意し、白湯ももって帰室。Notionを用意してヨーグルトを食ったあと、きょうのことをここまで記して一二時三七分。きょうは勤務。二時一五分ごろに出て電車で行くつもり。あまり猶予はないが、日記はきのう四月二日まで終わったし、だからのこっているのはきのうのことだけで、きのうはきのうで休みだからそんなに書いておきたいこともないし、帰宅後にまわしてもよいという気になっている。手の爪が伸びているので切りたい。
  • しかしそこまで猶予がないので切らず。しばらく書見した。ハンス・カストルプはもはやほぼかんぜんに遭難のおもむきで、とちゅうで行き当たった乾草小屋(それを過ぎてあとにしてきたとおもったら吹雪のなかで方向感覚をうしない、いつのまにかまたそこにもどってきてしまう)の壁にもたれて風雪をたしょうしのぎながら休憩している。一時くらいから瞑想した。BGMに上田正樹有山じゅんじの『ぼちぼちいこか』。さくばん作業中にYouTubeでながしていたのがそのままだったので、それをかけた。かなりよい。ふつうに六トラックプラスされた版をほしいくらいなのだが(バッド・ジャンキー・ブルースもはいっているようだし)、こまったことにAmazonでデータで売っておらず、CDしかないらしい。こういうのをアコギでできればほんとうにぼくはもういいんですけどね、というかんじ。いつかはやりたい。一時半をこえて上階へ。父親が歯医者から帰ってきており、居間のテーブルにつくというか椅子にすわって、なぜか身につけたジャンパーのフードまでかぶった防備のかっこうでヒーターにあたって休んでいるようだった。よほどさむかったのだろうか。きょうはバイトあんのかときくのでもうそろそろいくとこたえる。ながしでうがいをして、おにぎりをひとつつくり、もちかえって食べると歯磨き。『ぼちぼちいこか』をさいしょにもどして、”大阪へ出て来てから”と”可愛い女と呼ばれたい”をちょっとくちずさみつつスーツにきがえて出発へ。
  • 雨降りである。しかし玄関を出てみれば空気に暗さはまったくなく、曇天でもあかるく抜けるようなかんじで、空は真っ白だけれど沈滞や陰鬱の気は皆無で外気の開放感が顕著だった。肌寒いにはさむいものの、コートをまとえば首もとをまもらずともたいしたこともない。林の外縁にあたる石段上に、あれも桜なのかそうともみえないが、あるいは桃の木なのかつよいピンクの花の立ち木が二、三本あざやかで、みちに出ればそのいろがアスファルトのほころびであるみずたまりにとおくからでもうつってぼんやりと赤みを添える。降りはけっこう濃いものだった。頭上にはじけるものもボタボタというよりはバチバチというひびきにちかく、車庫のまえをとおれば瞬間生じた幻影の川に接したようなおとがふくらむ。公団の敷地脇まで来ると前方に付属小公園の桜があらわれ、ここが満開らしく和菓子のあまやかさを白っぽい薄紅にこめて雲のすがたにひろげているが、雨を吸って重ったようすもみせず、浮遊するいろどりからかけらのはがれる気配もなく、まさしくいまを盛りの充実で打つものに負けずしずまっているらしく、ちかづけばさすがに路上に付された小粒もあって、ふよふよ群れをはなれる白片も気のせいのごとくひとひらみえたが、いずれにしてもこのみずをいっぱいに吸ってきょうをすぎれば一気に散り時だろうなとおもわれた。坂へ折れてのぼっていく。ひだりのガードレールのむこうは下り斜面、そこをかんぜんに満たし埋め尽くした葉っぱの層が、きょうは褐色を雨に濡らして色濃く深め、みずあめを塗った栗の表面のような光沢にひかり、それが濃淡で一面にモザイクのごとくおりなされながら枝にかかったみどりの葉っぱのこれもてらてら濡れかがやいているのと対照されて、陽射しがなくともうつくしかった。出口まで来て樹冠がなくなり頭上が空漠となれば路面に反映する空とひとつの雲の白さの、やはり足もとからほのかに浮かびあがってかもされるようなあかるさだった。
  • とおりをわたって駅の敷地にはいるとあしもとにはひろがりたまったみずのなかに桜の花びらがただよっていた。ホームにわたり、ベンチについて電車を待つ。屋根を打つ雨のおとはなかなかおおきく、からだの周囲をくまなく埋めてつつみこむようなひびきかたである。電車がやってきてもきょうはホームのさきのほうにはうつらず、屋根のしたから手近の口にはいり、座席の端に着席した。目を閉じて到着を待つ。よくみなかったがみぎのほうにそこそこ若い男たちが三人くらいおり、どうも山帰りの雰囲気だったがこんな雨の日に山に行ったのだろうか。なになにだと猛暑になるとか、正月におれが予言したうんぬんみたいなことを威勢のよいひとりが言っていた。(……)に着くと降りてホームをあるく。階段口から左方をみやれば線路をわたってむこうにある小学校の校庭でも桜がよこにほそくひろがる雲の様相で何本か白っぽい薄紅をたなびかせていた。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路や帰宅後の記憶はとくにない。

2022/4/3, Sun.

 この間ソヴェト政権は、やはり国際連盟への加盟が認められていなかったドイツと接近し、一九二二年四月に両国はラパロ条約を結んだ。ソ連とドイツは経済・軍事協力をおこなうようになるが、ドイツは欧米諸国へと接近し、一九二五年には英・仏・伊・ベルギー・ポーランドチェコスロヴァキアと安全保障に関するロカルノ条約を結んだ。一九二六年九月にはドイツが国際連盟に加入して、ソ連の孤立感は強まった。
 一九二九年にはソ連コミンテルン指導部は強硬路線に転換し、社会民主主義ファシズムの一形態とする「社会ファシズム論」を掲げて社会民主主義者を攻撃するようになった。これは結果として一九三三年一月にドイツでナチスヒトラーが政権を獲得する助け(end48)となり(ドイツでは一九三〇年の選挙まで社会民主党が議会第一党だった)、ソ連への脅威を高めた。ヒトラーは「反ソ」・「反共」を公言していたからである。
 このため、一九三三年一一月にアメリカ合衆国との国交を樹立したソ連は、一九三四年九月には国際連盟へ加わった。ソ連は、やはりドイツへの不信と不安を強めていたフランスと接近し、一九三五年五月には仏ソ相互援助条約を結んだ。ソ連英米仏との協調路線を採るのと並行して、一九三五年夏にはコミンテルンは反ファシズム人民戦線樹立を目指す路線に転じた。これはスペインとフランスで一九三六年に人民戦線政府が成立する結果につながった。まもなく始まるスペイン内戦でも、ソ連コミンテルンは人民戦線に対し大規模な支援をおこなったが、スペイン内戦は人民戦線側の敗北に終わった。やがて第二次世界大戦が始まると一九四三年には英米ソの対独大連合が結成されたことから、英米への配慮もあってコミンテルンは解散された。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、48~49)



  • 「英語」: 351 - 394
  • 九時半にいちどさめたのだが、いつのまにか意識をうしなっており、最終的に正午まえの起床。きょうは雨降り。さほどの降りではなさそう。水場に行ってきてからちょっとだけ横になって『魔の山』を読みながら脚を揉み、その後まくらのうえにすわって瞑想。二五分ほど。しずかな雨音が窓を越えて身に染み入ってくるかのようだった。そのひびきと水気でかすんだ大気のむこうで槌を打つようなおとが弱く立っていた。たぶんしたの道の工事現場のものだろう。
  • 上階へ行きあいさつして、ジャージにきがえたり髪を梳かしたり糞を垂れたり。食事はきのうつくった野菜炒めののこりや、ひき肉をカレー風味に和えたものなど。新聞からは書評欄の入り口にあった芥川賞回顧みたいな記事を読んだ。島田雅彦綿矢りさの証言。島田雅彦芥川賞落選最多六回という記録をもっていて、そのくせ選考委員をやっているわけだが、あたらしい才能を理解できなくなったら選考委員をやめるべきだという自戒の念をもってつとめてきたと。田中慎弥がとった二〇一二年には円城塔も同時に受賞し、そのさい石原慎太郎が円城の作品をつまらんときりすてたのにたいしてかなりごり押ししたという。石原はその年で選考委員の任を終えた。芥川賞はあたらしい才能を支援するための大盤振る舞いであるべきだというわけで、二〇一一年いこうは受賞者なしというのは一回しかなくなっている。作品よりも作家の人間性などのほうが話題を読んだときもあり、島田じしんもキャラクター的なポピュリズムにながれてしまった面もあったということはみとめるが、それでも芥川賞の役割というのはつねにあらたな才能をもった作家を発掘し、文壇の世代交代をすすめて活性化させることにあると。ひとことで言って時を進めることが芥川賞のつとめだというはなしだった。
  • 国際面の下部にはウィル・スミスの件の続報がちいさく出ており、かれはアカデミーを退会する意思を表明したという。じぶんの行動はまったく不適切なものだった、今後二度と暴力が理性を上回ることのないようにつとめていく、というようなことを述べたらしい。
  • 食器を洗ってかたづけ。流しの排水溝のところに溜まっていた柑橘類の皮とか種とかも生ゴミ用のうすいビニール袋にいれておく。それから風呂洗い。そうして白湯をもって帰室し、Notionを用意すると「英語」ノートを読んだ。二時まえまで。それからこの日のことをここまでさっと書いて二時一一分。

Ukraine does not now and never will qualify for NATO membership. It has a virtual civil war raging within its borders and has a perpetual risk of external war on its border, both of which disqualify it for entrance. Further, NATO’s own rules state that no country should be granted membership unless doing so contributes “to the security of the North Atlantic area” – and inviting Ukraine, with all its internal and external chaos, into NATO would undermine, not strengthen, the alliance.

One last thing that is crucial to point out: the 30-member NATO military bloc remains overwhelmingly stronger than Russia in every conventional military category – while matching his nuclear deterrent – and will continue to deter Putin from attempting any moves against so much as an inch of NATO territory. Withholding membership from Ukraine does nothing to diminish the alliance’s overwhelming power, and ironically increases the chance Ukraine is never attacked by Russia.

そういう観点でいうと、よくいわれるのは昨年7月12日に発表されたプーチン大統領の論文ですね。プーチン大統領はときどき論文を書くんですよね。もちろんこれは学術的なものではないんですけども、例えば1999年大統領代行になったときですね。つまりこれから大統領になるというときに書いた「千年紀のはざまにあるロシア」という論文であるとか、2012年、つまり首相から大統領に復帰してくるときですね。そのときに選挙キャンペーン中に書いた7本の論文があって、これはいわゆるプログラム論文と呼ばれている、つまりこれから先2012年から先の私の任期でこんなことをやりますということを分野別に色々書いたんですね、プーチンさん。国防とか経済とか、社会と旧ソ連政策とか色々あったわけですけども。

そういった形でこれまでプーチンさんは自分の考えっていうのを文章にして体系的に述べることを好むリーダーだったと思います。今回も書いてきたんですけど、ちょっと異例だなと思ったんですね。いま申し上げてきたようにプーチンさんが長い論文を書くときというのは、キャリアの節目なんですね。これから自分の任期を始めるにあたって、こういう方針でやるということを示す。

政策綱領的にものを書くということが多かったと思うんですけど、今回は去年、つまり2021年7月ですから、大統領選まではまだ先ですよね。大統領選は24年3月ですから、そういう選挙キャンペーンの時期というわけでもない。そういうときにこれから先何をする、というよりは、去年の7月のプーチン論文というのはずっと過去を振り返っているわけですね。過去を振り返って、あれ多分本当にプーチン大統領は自分で一生懸命歴史の本を読んだんだと思うんですよね。大統領府のペスコフ報道官も大統領はこのコロナ禍の間に相当歴史の本を読んだのだということを言っていますから、多分プーチン大統領は自分で勉強して、それの成果としてああいうものを書いたんでしょうが。

言っていることは歴史的に見てつまりロシア人とウクライナ人というのは分けられないのであると。不可分の同じ民族なんだということをその中で主張しているわけですね。私は歴史学者ではないのでここでプーチンさんがいっていることがどのくらい正当なのかどうかっていうことは何とも判断しがたいんですけれども、そういうことを言った上で何を主張しているかっていうところは論じられると思います。つまり今存在するウクライナというのはボリシェビキのときに作った行政区分にすぎないと。それがソ連崩壊によって独立して国家になってしまったんだとプーチンは主張するわけですね。私なりの言葉にすると、ウクライナっていうのはあれは手違いで独立国になっているんだっていうニュアンスが非常に強いわけです。

さらに現在のウクライナ政権に関してプーチンは何て言っているかというと、本来我々はこんなにも近しい同一の民族である、ソ連崩壊後も協力は続けてきたのに、現在のウクライナの政権というのは完全に西側の手先になり下がっているではないかと、強い憤りを示すわけですね。例えば政治的に見てもアメリカ、EUに完全に従属させられてしまっているであるとか、ゼレンスキー政権は非常に腐敗していて、ウクライナの富をみんな西側に流しているんだとかですね。それから軍事的にいうとNATOにこそ加盟していないかもしれないが、アメリカの軍事顧問団が入ってきているし、いずれロシアを脅かすようなミサイルが配備されるかもしれないではないかと。プーチンは細かいミサイルの名前も挙げながら論じているんですよ。「SM6を配備すれば」とかですね。以前からプーチンさんは軍事とか核抑止の問題には関心があるんだろうなと思っていましたけど、この論文なんかを読んでも彼なりに関心を持っているんだろうということが再確認されたような気がします。

     *

それにプーチンさんは以前、ドイツは主権国家ではないと言ったことがありますよね。2017年だと思いますけど、つまりそのときにプーチンが述べたことというのを要約すると、どこか同盟に入っている、大国に頼っている国というのは、フルで主権を持っていないのだと。自分で自前で安全保障を全うできる国だけが本当の主権国家なのであって、それは一例としてそのときプーチンが挙げたのはインドと中国なんですよね。要するに非同盟の核保有国だけが本当の主権国家であるということをプーチンは言ったことがあります。だからそういうプーチン的な世界観とか、主権観とかからすると、西側に頼ろうとする、つまり欧州大西洋世界との統合を志向するウクライナというのは自ら主権を放棄した、あるいは西側によって主権を奪われた国であるということになるのかもしれません。ロシアのロジックでいうとですね。

だけどそこでウクライナが主権を取り戻すためにはロシアとのパートナーシップを通じてしかないのだというのはどう解釈するかっていうのはなかなか難しいと思うんですよね。つまりここまで申し上げたようなロシア的主権観からするならば、ロシアとのパートナーシップ、つまりロシアとウクライナを1:1で比べたら圧倒的にロシアの方が強いわけですよね。それはつまりロシアによって今度は主権が制限されるっていう話になるんじゃないかと思うんですけど、プーチン論文の中ではそれこそウクライナが本当に主権を取り戻す道なのだというふうに言われているわけです。

だからこれはそもそもロシアとウクライナは一体なんだということを受け入れろと。そうすればロシアの一部として強い主権を発揮することができるという話なのだろうというふうに私は解釈しています。(……)

     *

今回ここにロシア軍が、戦争直前のバイデンの発言によると15万人くらいといわれる兵力を集めていました。今、15万人ってどのくらいのものかっていうと、陸上自衛隊まるごとくらいなわけですけども、ロシアの軍隊って全部で90万人くらいしかいないんですよね。定数で言いますと、ロシア軍は101万3628人、これに文民等加えて190万人くらいということになっているんですけど。

どこの役所もやはり定数いっぱい人間というのは充足してもらえないというのは万国同じでございまして、結局101万人に対して90万人くらいと見積もられています。去年12月のロシア国防省の拡大幹部評議会の報告では、ショイグ国防大臣が充足率92%というふうに言っていましたから、多分92万数千人というところなんじゃないかなと思っていますけども、いずれにしてもこんなもんなんです。100万人はもういないんです。それは人口的にも国力のうえからいっても、100万人規模の、3桁万人の軍隊というのは維持できなくなっていると。

ですので単純に兵力だけでいうとロシアは今世界第5位ですね。ぶっちぎりで多いのは中国の人民解放軍がいて、アメリカ、インド、あと北朝鮮ですかね。そういった国々に続いて第5位というところです。

この90万人のうち、地上兵力、陸軍と、あとロシアの場合は空挺軍ですね。パラシュート部隊が陸軍とは独立の、独立兵科という扱いになっていますので、これが4万5千人くらい。あと海軍の中に海軍歩兵部隊、アメリカふうにいうと海兵隊。これが3万5千人くらいいますので、全部ひっくるめた地上兵力が36万人くらいなんです。

あのロシアがもはや陸軍というか、地上軍種を全部ひっかき集めても36万人しかいないというのが、現状なんですね。これはつまり韓国陸軍よりも実はロシアの地上兵力っていうのは小さい。この中から15万人を集めてきてウクライナ国境周辺に展開させたというのは、まさにロシアが動かせるものを全部根こそぎ動かしてきたと考えてよかろうと思います。

     *

ロシアの今実際に戦闘を行う際の戦闘単位が、最近メディアでも散々人口に膾炙しましたけど大体戦術グループ、ベーテーゲーという単位で戦います。3個歩兵中隊機関に、1個戦車中隊つけて、あと多連装ロケット砲とか火砲とか防空小隊とかつけて、小さな諸兵科連合部隊として振る舞える800人~1000人くらいの規模の部隊なんですよね。これを所定の旅団とか師団のなかから使える部隊を抽出してきて、この大隊戦術グループを編成するというのが今のロシア軍の戦い方なんですが、今回ロシア軍はこの大隊戦術グループを120個以上各師団、旅団から生成してウクライナ周辺にかき集めてきたというふうに見られています。

     *

いずれにしても予測より相当遅い。多分これは我々外部の人間の予測より遅いだけでなくて、クレムリンの予測より遅いのではないかと思っています。ひとつはどうもこの進撃が遅れた理由と、表裏一体なんですけども、多分ですが、クレムリンはロシア軍が攻めていけばウクライナ軍はそんなに強く抵抗しないのではないかという前提で物事を組み立てたんじゃないかとしか思えないんですよね。

開戦初日にもう地上部隊が国境を越えてウクライナに侵攻しているんです。それだけではなくて、空挺部隊がヘリコプターに乗って、大規模なヘリボーン攻撃を行っているんですね。キエフ周辺に。これも成功すればいいわけですけど、まだウクライナが制空権を取っている段階でこんなもの突っ込ませていくわけですから、当然大損害が出る。こういうことを分からないロシア軍ではないはずなんですよね。

私はロシアの軍事が専門で、特に軍事思想とかその辺を見ているんですけど、1991年の湾岸戦争とか、99年のユーゴスラビア空爆、それから2003年のイラク戦争。ああいうのをロシアの将軍たちは非常にショックを持って見たんですね。つまり、NATOのハイテク戦争すごいと。これをやられたら我々は負けるかもしれないし、できたら我々も同じことやれるようにしておかなきゃいけないねということは90年代からずっと言われ続けていて、実際に2000年代以降になるとだいぶロシア軍も建て直してきますから、ロシア軍自身も巡航ミサイルみたいなものを大量に取得して、同じような長距離精密攻撃ができるような能力を構築してきたわけです。

ロシアの将軍たちが書いているものを見ると、初めは激しい航空戦から始めて、我が方がそんなに損害を出さないようにしながら大量の巡航ミサイルを撃ち込んで敵の防空システムとか、指揮通信結節とか、飛行場とか、そういうものを叩くと。敵が組織的な抵抗をできない状態にしてから地上軍が進撃していく。その際には地上軍自身もハイテクを駆使してうんぬんかんぬんということを、ずっと論じ続けてきたし、毎年秋にロシア軍は軍管区レベルの大演習を行うんですけども、こういうところを見ても相当そういう方向性でロシア軍は考えてきたんだと思うんですね。

     *

ところが今回まったくそういうこれまでの思想であるとか、演習の成果が活かされているように見えない。初日大規模な空爆を行ったのはセオリー通りなんですけども、それを本当だったら数日続けて、別に焦ることはないので、数日続けてウクライナが十分に叩けてから地上部隊を侵攻させればよかったはずなんですよね。ところが初日からいきなり地上部隊を侵攻させちゃう。まだまだウクライナ軍はピンピンしている状態なんですよね。これがまずあんまりよく分からない。

それから空軍の活動も当初非常に低調だったんですよね。巡航ミサイルとか短距離弾道ミサイルを撃つだけではなくて普通に考えれば、巡航ミサイル第一波でレーダーサイトを潰したら次に戦闘爆撃機がなだれ込んできて、さらに幅広く軍事施設を叩く、軍事用語でいうと戦果の拡張をおこなうわけですよね。戦闘機を送り込んでウクライナ上空の制空権をとるということを当然するだろうと思ったんですけど、していないんですよね。

これは我々もウクライナ周辺のロシア軍の重要飛行場をいくつかピックアップして、やはり衛星で継続的に見ていたんですけど、飛行機自体はいるんですよね。普段輸送機しかいないところに戦闘爆撃機がびっしりいるとか、全然使っていない予備飛行場に飛行機がびっしり集まってくるとかっていうことを確認したので、これはやっぱり開戦劈頭の航空戦は相当大規模なものになるだろうと思っていたら、ならないんですね。こういうことを全部総合すると、さっきの話に戻るんですけど、そんなに頑張って叩かなくていいだろうと思っていたとしか思えないんですよね。思想もあるし、能力もあるのにやっていないわけですから。それはなんでそんな考えになっちゃったのっていうと、これはやっぱり歴史的な検証を待つしかないのかもしれませんけれども、やっぱり現状でパッと思いつくことは何ですかと言われたら、それはプーチンの7月論文で述べたような思想が背景にあったんじゃないかという気はします。

つまりロシアとウクライナは兄弟民族である、今のゼレンスキー政権は悪い政権であると。だからロシアが入っていけばそんなに抵抗せずにロシアを受けいれるだろうというような考えをロシアがしていないと、やっぱりこういう軍事作戦にならないんじゃないかと思うんですよね。

私もそうですし、日本の自衛隊の人なんかもそうですけど、ロシアの軍事力というものに対しては非常に、変な言い方になりますけど、リスペクトを持っていたわけですよね。これまでもロシアは軍事大国でありますし、西側とはまた違ったやり方で軍事力を使ったプレゼンスを発揮してきた国であると。それがこうもグダグダな軍事作戦をやって2週間ウクライナ相手に苦戦しているというのは非常に意外であります。

     *

もう1個ご指摘しなければいけないのは、ウクライナが決して弱い国ではないということですね。何となくロシアにいじめられているかわいそうな小国というようなイメージを持たれがちですけども、そもそもウクライナというのは人口でいうと旧ソ連の中では第2位。4200万人くらいですよね。それから面積の部分で見ても、旧ソ連の中ではロシア、カザフスタンに次いで第3位。しかもこれは欧州という括りで見ると最大の国なんですよね。日本の1.6倍くらいあると。しかも日本は山国ですから、7割でしたっけね、山地ですけども、ウクライナの場合ひたすら真っ平らなんですよね。上を飛行機で飛んでみると分かるんですけども、どこまでいってもずっと平らな国なんですよね。国土を全部利用できて、そこを農業に使ったり、あるいは工業地帯に使ったりということができると。

ですから旧ソ連の中では非常に豊かな穀倉地帯でもあったし、重工業地帯でもあったという国ですね。なので早い話がそれなりの軍需産業をもっていて、軍隊も大きいです。ウクライナ軍が今年のミリタリーバランスを見ると、ウクライナ軍の総兵力が19万6000人くらい。うち地上兵力が一切合切して15万人くらいなんですよね。ということは実はウクライナ軍の正規の地上兵力というのは、ロシアが今回ウクライナ周辺に集めてきた地上兵力と大体同じくらいなんですよね。

それからウクライナ旧ソ連の他の国もそうですけど、色んな準軍事組織を持っていて、特に重武装のものが国家新鋭軍。昔内務省国内軍といったやつですけども、これが6万人くらいいると。その他ひっくるめて1万人くらい。さらに今回ゼレンスキー大統領が総動員令を発令しましたので、数ははっきりしませんけど、民間人をかなり動員しているということなので、数だけで見ると多分ロシアの侵攻軍よりもウクライナ軍の数は膨れ上がっている可能性、もっとずっと大きい可能性がある。

しかも地の利があるわけですよね。地形をよく知っているだとか、ロシア軍の兵站戦が比較的長くならざるを得ないのに対して、ウクライナ側は内戦作戦であるので、内側からロジスティクスがやれるであるとか。色んな面に優位があって、それをウクライナ側は逃さずにきちんと活用しているなという印象を持っています。これに対してロシア側はいわゆる外線作戦ですので、ウクライナの全周に軍隊を配備して、普通だったらそのうちのどこから攻めていくか分からないようにしたうえで、つまりウクライナ側に戦力の分散を強いたうえで、どこかに主攻撃軸を定めてそこから一点突破していくというのがセオリーだと思うんですけど、今回は何か作った周りに作った部隊グループを本当に最後まで分散させたままで攻撃軸が5つくらいあるんですよね。周りからブスブス、ブスブス攻めていると。これはせっかくのロシア側の外線作戦の利点を全部殺しているんだと思うんですよね。

私なんかは最初はこういうふうに周りにたくさん攻めてきそうな場所があるので、これのうちのどれかが本物なんだろうと。残りは偽装の攻撃軸であって、でもそれを無視するわけにもいかないから、ウクライナの戦力を分散せざるを得なくなると。これ、91年の湾岸戦争などはそうなんですよね。ペルシャ湾岸に強襲揚陸艦を待機させておいて、強襲上陸をやるんじゃないかということでイラク軍の相当大規模な兵力を南側に張り付けざるをえないというところでサウジ側からぶん殴りにいくと。

これをロシア軍はやるんじゃないかなと、これをやられたらウクライナ軍はひとたまりもないんじゃないかと思ったら、各方面から非常に中途半端な侵攻をグズグズ、グズグズ続けるだけであったと。やっぱり不可解なんですよね。そういうことが分からないロシア軍ではないだろうと。結局同じ話に戻っちゃうんですけど、やっぱりこの政治の側が変な見通しを持っていて、それでこの軍事作戦がかなり制約を受けたんじゃないかという感覚をもっています。

     *

1つが、今回ロシア軍がベラルーシから侵攻していっているっていうことですよね。これも旧ソ連の国々を見て来られた方からすると、ちょっと「おっ」っていう感じだと思います。

つまりこれまでベラルーシというのは非常に上手にコウモリ外交をやってきて、ロシア側に完全に吸収されることもなく、かといってEUの方に近づいて行ってルカシェンコの独裁体制が倒れるというわけでもないというふうに上手にバランスをとってきたわけですよね。それが良いか悪いかは別としてです。

なのでベラルーシって実はロシアの軍事同盟国でありながら、同時に憲法には、憲法18条でしたっけね、中立をめざすという、あんまりよく分からないんですけど、少なくとも最終的に中立になりたいということは憲法の中で明記していたわけです。それから同じ18条の中では核兵器を持ち込ませないということも書かれていたので、ベラルーシとしてはこの辺の条項を盾に、ロシアの同盟国なんだけども、ロシア軍を配備させないっていう方針をとってきたんですよね。

正確にいうとソ連自体からある弾道ミサイル警戒レーダーと、あと潜水艦に指令を出すVLFの通信タワーだけは置いてあったんですけど、これだけなんですよね。これ以外に関してはロシア軍の戦闘機部隊だとか、戦車部隊だとかそういうものは一切お断りという姿勢をとってきて、10年位前からロシアとしては、あそこに戦闘機の基地を作らせてくれとか色んなことを言ってきたんですけど、ルカシェンコは全部突っぱねてきたんですね。当然ウクライナとの戦争なんか一切協力しませんと。むしろ仲介者として振る舞いますよということで、2014年の第一次ミンスク合意、それから2015年の第二次ミンスク合意。これは両方ともまさにミンスクというくらいですから、ベラルーシの首都ミンスクで調印されているわけですよね。

というようにこれまでは中間的な立場であって、しかもこのロシアとウクライナが戦争している真っ最中のベラルーシ軍需産業ウクライナと協力し続けているんですよね。なんていう状態だったのに、今回は完全にロシア側に出撃基地を提供している状態ですよね。

それから実は今回、ベラルーシ軍が参戦するんじゃないかという話もあって。ただこれがなかなか国内の抵抗で参戦が決まらないんじゃないかなんていう観測も出ていますけど、いずれにしてもそういうところまでいってしまったわけで、もう完全にベラルーシが軍事的にロシアに逆らえなくなっているという感じを私は強く持っています。その内幕がどんなものなのかって、これも分からないですけども、2020年8月の反ルカシェンコ運動が大きく影響していたということはほぼ間違いないと思うんですよね。

あのとき本当にルカシェンコ政権が倒れる直前までいったわけですけども、ロシアが「これ以上やったら治安部隊を送り込むぞ」という素振りを見せたので、反体制派はここで引かざるを得なくなって失速していった。しかもその後、その前からもそうですけども、ルカシェンコ政権が凄まじい民主派の弾圧をやったので、西側諸国との関係も完全に切れてしまって、これまでのようにロシアと西側の間でコウモリ外交することもできなくなってしまった。要するにもうロシアに頼るほかなくなったわけですよね、ベラルーシは。

なので今回はあれほど嫌だったロシアの軍事的な作戦に巻き込まれているという状態であるわけです。だからロシアがウクライナを属国化するかどうかということに注目が集まっていますけど、その前の段階でロシアがかなりベラルーシに対する影響力を持ってしまったということがまずあって、さらにその上でウクライナも。で、ロシア、ベラルーシウクライナ、どういう形をとるか分かりませんけども、ロシアが主導して、東欧のスラヴ3カ国をまとめあげるということをロシアは考えたのではないかという気がするんですよね。それを何かやはり国内向けの政治的な成果にしたかったんじゃないのかなというふうに、全く根拠はないですけど、私は考えているんですけど。

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ただそれがベラルーシに関してはある程度実現しているということは認識しておく必要があると思います。しかも先月末、これは日本でも結構報じられましたけど、ベラルーシ憲法が改正されまして、さっき申し上げた18条のところの記述がそっくり削除されたんですよね。

ですから、まず中立はめざさないというか、中立に関しては言及しない。それから核兵器の持ち込み禁止に関しても言及がなくなったということなので、これはここまでのロシアとベラルーシの力関係をみると、今回の戦争がどういう風に終わるにせよ、ベラルーシに大規模なロシア軍が配備されるということは恐らく確実なんだろうと思います。

そうしますとロシアからベラルーシにかけて大規模なロシア軍が欧州に展開して、ポーランド側、今回はドイツもそうですよね、軍事力増強に舵を切るということですから、やはりヨーロッパにおける旧ソ連境界での軍事的緊張というのは、ウクライナでの戦争がどういうふうに終わるにせよ、これからも相当緊張含みで推移するんじゃないかという気がします。

あとは核持ち込み禁止条項がなくなったわけですから、ベラルーシにロシアの戦術核兵器を前方配備するとかも考えられなくはないですよね。戦術核兵器って戦略核兵器みたいに運搬手段に付けっぱなしにしておけないので、普段は前方展開貯蔵庫にまとめてしまっておくんですね。本当に戦争になって、戦術核兵器を使うという許可が出た場合に、分散してヘリコプターとかで「じゃあおたくのロケット弾には何発配分します」っていうふうに配って回るんですよ。なのでこういう前方貯蔵庫がベラルーシに作られ始めたらもう危ない。そういうことを本気で考え始めてる証拠であろうと思います。これがまずひとつ。

  • 「読みかえし」: 622 - 627
  • まあこの日は休みだったし、いえうちにずっといるわけで、そうするととくだんのできごともないし書きたいほどの印象事もあまりないのだが、瞑想はよくやった。めずらしくBGMをながしながら。それもまたよい。いちどすわったときは、なぜかスムースなものがききたくなっており、George Bensonの『Breezin’』なんておもいだして何年ぶりかわからないレベルでひさびさにかけて、このアルバムはいつだかわすれたが高校生のあいだだったか、ジャズとかフュージョンにはじめてふれはじめたころに、Lee Ritenourなんかといっしょに買ったのではなかったか。それなりにきいたはず。二曲目の”This Masquerade”がたぶんゆうめいで(”Breezin’”や”Affirmation”もゆうめいだとおもうが)、これはThe CarpentersなんかもやっているLeon Russellの曲で、Bensonのバージョンはけっこう濃いというかくどいようなかんじではある。とはいえチョーキングをはさんでエモーショナルにやっているギターはかっこうよいとかんじるぶぶんもある。もともとファンキー・ジャズでドライヴしまくっていたにんげんだから弾きぶりはそれはうまく、速弾きぶぶんよりも、そんなにおとを詰めずにじんじょうな八分とかでながれる箇所のほうがよいような気がした。速弾きはもちろんかっこうよく決まっている箇所もあるのだけれど(五曲目の後半とかで印象的ないちれんがあったおぼえがある)、ここで駆ける必要ないでしょとおもってしまうところもあって、そういうときにはBireli Lagrene的なにおいをおぼえる。FISHMANSの『空中キャンプ』を背景にながしたときもあって、やっぱりすごいなというほかはなかった。”すばらしくてNICE CHOICE”とか意味がわからんというか、まず、すばらしくてNICE CHOICEってなんやねんというかんじだし、歌詞も意味がわからんというか、言っていることはふつうにわかるはわかるがたいしてなにも言っていないようなかんじだし、佐藤伸治がうたっているとこいつなに言ってんの? というおもいにおちいる。FISHMANSの楽曲の歌詞って、けっこうなぶぶんが、ほとんどなにも言ってないじゃん、か、こいつなに言ってんの? の二種類でできているような気がするのだが、それはやっぱりちょっとすごい。あと”新しい人”もひじょうによくてきわめてすばらしいというほかない。
  • そういえばこの日はなぜか疲れがちだったというか、からだがこごっていてしかもそれがなかなかとれないようなかんじで、三時台か四時ごろからベッドにたおれたままうごけず、ねむけにうんうんくるしみながらだらだら停滞したくらいだ。昼寝のときによくおこるが、あのめちゃくちゃねむいときにねむりにおちいる寸前の、窒息するような、息ができなくなるような感覚というのはいったいなんなのか? あれがくるしかったりこわかったりしてねむろうとおもってもスムーズに入眠することができない。五時半くらいでようやくうえへ行き、アイロン掛けをすこしだけやってから炊事。鶏肉をつかった野菜炒めやら煮込みうどんやら。
  • 就床は二時五五分とじぶんにしては比較的はやかったのでよかった。これも疲労のためである。それに気づいてさからわずきょうを終えようという余裕のあるこころになったのがよかった。
  • どちらでもよいのだけれど、あといちおう記しておこうかなとおもうのはこの日に遭遇した母親のようすで、台所で飯をつくっているさいちゅう、かのじょがスマートフォンをもってきて、これじぶんだけなんかへんなふうになっちゃって、みたいなことを言ってきたのだった。画面はたぶんLINEだったとおもうのだが、職場の長である(……)さんがぜんたいにむけて画像を載せながらなにか通知したのにみんながわかりましたとか確認しましたとかおうじているなかで、母親の返信だけリプライのかたちになっていたのだ。つまり(……)さんの貼った画像が引かれつつそのしたに母親の言が出るという表示になっていたということで、母親は、じぶんだけそうなっているのがなぜなのかわからず、こちらにきいてきたのだった。ここで注目されるのは、といってべつに目新しいことがらではないのだけれど、母親はそのことにあきらかに不安や気がかりをおぼえているようすだったということで、つまり、ほかのひととちがう投稿のかたちになってしまったというただそれだけのことが、集団のなかでひとりだけちがう行動をとっているという意味合いで母親の懸念の対象になったのだ。出る杭は打たれる式の日本的世間のなかにとらわれた主体の心理をこれいじょうなくまざまざとあらわしている事例だとおもうが、じぶんだけただの投稿ではなくてリプライのかたちで返信したというあまりにもささやかさで些末な差異にすらきわめて敏感に反応して、「出る杭」になりはしないかとおもんぱかるこのとらわれぶりはやはりちょっとすごいとおもう。この程度の、ほんとうにちいさな、だれも気にしないようなどうでもいいことでも心配するのかと。それは母親がリプライ機能を理解しておらず、その無知によってなにかへんなことをやってしまったのではないかとおもったり、また職場でもハブにされているでもないけれど、なんとなく派閥があったり折り合いのよくないあいてがいたりするようだから、その齟齬や疎外感が影響したということもあるのだろうが、いずれにしてもこの日こちらはからだがよくととのっておらず、したがって心身に余裕もなかったので、母親のこういう小心というか、他人からのみえかたを気にしすぎるちっぽけな俗物根性というか、世間的矮小さみたいなものに苛立ち、いちおうリプライの説明をしつつも、これでなにが問題なの? 目のまえのこれをみてみてよ、これのなにが問題なの? と反問し、すると、いやべつに問題ってわけじゃないけど、とかいう答がかえるので、じゃあいいじゃんもうそれで、とにべもなくはなしを終わらせた。しかし母親はこちらの説明ではリプライについてよく理解できていなかったようで、その後部屋にもどったときにそとの階段下から声がきこえてきたのだが、父親にもこの件をたずね相談していた。父親は意外にも鷹揚なかんじで、比較的やさしげに説明してこたえており、それはここのところ山梨に数日行っていて顔をあわせる時間がすくなかったので、母親から受けるストレスもすくなく、つまりその蓄積がリセットされており、鬱陶しさをあまりかんじない余裕があったということではないかと推測するのだが、父親は、たくさんのひとが投稿するグループだとだれの投稿について言っているのかわからなくなることがあるから、こうやってこのひとにたいする返信だというのをしめす機能があるのだ、というような説明をしていた。そして、だからいいじゃんむしろ、(……)さんにこたえましたよっていうのがはっきりわかるわけだから、と母親の懸念を解消するような説得のことばもかけていたが、それにたいしてかのじょは、なんでじぶんだけああしたのってきかれないかな、みたいな問いをもらしており、そのときにはさすがに父親もややいらだって、そんなこときかれるわけないだろ、みたいなこたえかたをしていたようだ。ここまで書いてきてもあらためておもうが、おおくの他人とちがう、他人たちのなかでじぶんだけがちがう、という事態にたいする母親の不安や恐怖心のようなものには、こんかいのようなじつにささやかなかたちでしめされるとなおさらだが、ほとんど驚愕をおぼえる。これはこれでひとつの他者だなとおもうものだ。つうじょうの投稿ではなくリプライをしたという、たったそれだけのことでここまで気がかりになれるとは……。その行為そのもののちいささをかんがえるとほんとうに、ふしぎさをかんじる。とはいえたしかに、あえてリプライをしたというそのことにそれなりの意味合いが付与されるケースもありはするだろうが。しかしこんかいの件はそうではないとおもう。ただ「ちがう」ということ、それもこのレベルのきわめて微小な「ちがい」が、その「ちがい」の性質(よいちがいなのかわるいちがいなのか)にかかわりなく、「ちがい」であるというそれだけで、それそのものとして、即座に、無媒介的に、不安や懸念に直結するというこの事象に、とにかくおどろかされる。日本という国もしくは文化圏は村社会だということはそれなりの通説としてよくいわれており、じぶんはそれにたいして、ある程度まではたしかにそうだろうという確信とともに、しかしそれはあくまである程度まででしかないだろうという信用しきれないきもちも同様にいだいており、むかし(というのがいつなのかもわからないのだが)はそういう傾向がより強固で支配的だったにしても、また地方社会などではいまでもそういう支配権がけっこうのこっているのかもしれないとしても、こちらがものごころついてからとか現在においてはよほどましになってきている気がするのだが、しかしおりおりの母親の言動をみるに、そういう文化性・社会性のありかたがこれいじょうなく典型的に、ひじょうに具体的なものとして集約されてあらわれているようにかんじられる。母親をみていればそのあたりの人間性や心理がよく理解できるなあと、ほとんど文化人類学的な興味や探究心をおぼえるものだ。