2022/9/11, Sun.

 月は悲しむ。天使は涙を出して
 夢み、指に楽弓、かすんだ
 花の静寂に死にそうなヴィオロン
 すすり泣き花冠をすべる
 ――それは君の最初の接吻の恵みの日。
 殉教者になりたい私の夢想は
 物知りらしく悲しみの香りに酔った、(end15)
 後悔も苦い後口さえもなく
 一つの夢を摘んだ心に残された香りに。
 だから私は古い敷石を見つめながら彷徨った時
 君は街の夕暮には髪に陽を浴び
 笑いながら私の眼に現われるのであった
 私はあの光る帽子を被った妖精を見たと思った
 彼女は昔甘えっ子の私の麗しい夢の中を
 通過した、いつも軽く握った手から香る星の
 白い花束を雪のようにまき散らしながら。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、15~16; 「幻」(Apparition); 初期の詩)




 はやい時間にいちど覚めたが、最終的な覚醒をみたのは一〇時二〇分ごろ。布団のしたで膝を立て、両手をからだの脇に置いて静止し、呼吸とともにだんだんからだがやわらいでいくのを感じる。起き抜けだとやはりどうしてもからだがかたいので、呼吸もしぜんさにまかせるというより、ちょっと吐くのをてつだうような感じになる。しばらくすると布団をのけて腹を揉んだりさすったり、胸や脚もさすったり。カーテンの端をめくってみると水色の空が見えたが、ひかりの感触がそこまでつよいとは見えず、その後には雲もあらわれて、午後のはやくまで晴れたりかげったりの天気だった。三時現在だと空はおおかた雲に占められて曇りに向かっている。床を立ったのはたぶん一一時前くらいだったか。洗面所に行って小便をしたり顔を洗ったり、出るとガラス製カップで口をゆすいだり。屈伸してかたまっている脚をほぐし、水を一杯飲むと布団にもどった。サボっていた二日前の分から一年前の日記の読みかえし。2021/9/9, Thu.は新聞記事を端緒に陰謀論についての考察。

(……)新聞、いちばんうしろの社会面にワクチンにまつわる陰謀論界隈のことが書かれてあった。日本でも東京(新宿)と京都で七月に、反ワクチンのデモが起こっていたのだという。ぜんぜん知らなかった。コロナウイルスは国際的な茶番であり、政府は人民を管理するためにワクチンを打たせようとしている、という主張である。そういうかんがえで活動しているふたりの声が載っていたが、ひとりは三〇代の女性で、昨年は感染を恐れてママ友と公園に行くこともできず、家でFacebookを見ているときにワクチン陰謀説に遭遇し、さいしょは半信半疑だったが関連情報を発しているページの人間が称賛されているのを見てじぶんもみとめられたいとおもい、やりとりをするようになったと。もうひとりは七〇歳くらいの、これも女性とあった気がするが、そして元教師とか書かれていたような気もするが、そういう人物で、YouTubeで関連情報に接するうちにコミットをつよめたらしく、「本当のことをつたえなければならない」というおもいでやっているらしい。第一の例からわかるのは、陰謀論への加担に実存的承認がかかわっているということで、このひとは感染を恐れていたというからおそらく不安をかんじていたとおもわれるし、公園でママ友と交流することもできなくなったというから孤独や社会的疎外や閉塞感のようなものをおぼえていたということも充分あるだろう。他者とのかかわりがそれまでよりもとぼしくなったことで、どこかでそれを補填しなければならなかった。そこに陰謀論的コミュニティがうまい具合にはまったのだろうと、記事の記述のかぎりでは推測される。「みとめられたいとおもって」そういうページに参加するようになった、と言われていたのがわかりやすい証言だ。陰謀論にコミットするひとのすべてがそうではないだろうが、こういうひともたぶん多いのだろうとおもわれ、そこで厄介なのが、この種のひとびとにあっては陰謀論とそれにもとづいた世界観や社会の認識がそのひとの実存とわかちがたくからまりあっているとおもわれるので、陰謀論を否定するということは、彼らにとってはじぶんじしんを存在として否定されたということと同義になるだろう、ということだ。ワクチンにはマイクロチップがふくまれていて政府は統治管理のためにそれを国民に埋めこもうとしている、というような陰謀論のあやしさや無根拠さ、荒唐無稽さやありえなさをいくら述べたてたり、理性的・論理的に反証しようとしても、彼らはそれを聞き入れないはずである。なぜなら、反論のただしさを部分的にでもみとめることは、その分自己の存立基盤をうしなうことになるからだ。世界認識とアイデンティティ陰謀論的なかんがえと深くむすびついている人間にあっては、とうぜん、陰謀論をうしなうことは、自己がくずれてなくなってしまうことを意味するだろう。そこでひとは自分自身として実存するための支えを欠いたおおきな不安におそわれるはずである。だから、そういう種類の陰謀論者にとっては陰謀論はなにがなんでもまもらなければならない根幹的な橋頭堡であり、彼らはそれにしがみつかざるをえず、それを破壊しようとするあいてはすべて敵だということになるはずだ。

第二の例から判明するのは、このひとにとって陰謀論的言説は端的な真実であるということであり、くわえてその真実をひろくひとびとに認知させなければならない、という義務感や使命感のようなものをこのひとがかんじている、ということである。真理への志向という性質は哲学者に特徴的なものでもあるが、みずからもとめたというよりは電脳空間上でふと「真実」に遭遇したという事情なのだとすれば、それはむしろ宗教者におとずれる啓示に似たもののようにもおもわれる。そうして得た真理を世につたえなければならないというのも、伝道者の姿勢をおもわせるものだろう。当人からすればそれはまた、正義のおこないとみなされているかもしれない。この人物や第一の例のひとが「真実」に出会ったのはインターネットであり、それも電脳空間上の一部局所である。真実はワールドワイドウェブのかたすみにひっそりと秘められていた。おそらくふたりとも、もともと主体的に「真実」をさがしもとめていたわけではなく、ネットを見ているうちにたまたま遭遇し、こころをつかまれたのではないか(第一の例においてはそれが明言されている)。したがって真実は、隠されてはいないとしても、ひとの目につきにくいある場所にひそやかに存在しており、それが偶然に発見された。この件において真実はマイナーなものとしてあらわれている。そのマイナーなものを流通させ、メジャーな認識に変えなければならないという情熱に、彼らはつきうごかされているとおもわれる。なぜ真実が世にひろく流通していないかといえば、とうぜん新聞やテレビ、ラジオなど、おおきな影響力を持った既成メディアがそれを無視し、とりあげないからである。真実がインターネットのかたすみでかたられているのにたいし、既成メディアがかたっているのは都合よくゆがめられたり操作されたりした偽の情報である(陰謀論者にとって、既成メディアの報道することはフェイク・ニュースに見えるだろう)。虚偽を流布させる主体(すなわち「黒幕」)として想定されているのは、おそらくはまず各国政府だろう。メディアはそれを知りながら政府の情報操作に加担している犯罪的二次組織か、あるいはそれじたい虚偽情報にだまされている無能集団とみなされるはずだ。メディアから情報をえる一般市民は、悪意をもって操作された情報にだまされている被害者であったり、無知で不勉強な愚者であったりとしてあらわれるだろう。そこにおいて陰謀論者は、彼らに真実の開示(啓蒙の光)をもたらす救済者となる。

じぶんもふくめて、陰謀論にとりこまれていないひとびとが、既成のメディアの報ずることをおおむね信用しているのは、ひとつにはいままでの歴史がメディアにあたえる権威のためであり、もうひとつにはその権威がじぶん以外の他者においても共通了解として共有されているためである。ちょうどきのうまで読んでいたミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』において、「信じること」の問題がかたられている。いわく、現代社会においては、「信」は主体と情報のあいだで直接的になりたつのではなく、他者を経由することで成立している、と。あるテレビ視聴者は、「自分がフィクションだと知っているものをそうないと保証してくれるような別の [﹅2] 社会的場があると思っているのであり、だからこそかれは「それでも」信じていたのである。あたかも信仰はもはや直接の確信として語られることはできず、もっぱら他の人びとが信じていそうなものを経由してしか語られないかのように。もはや信は記号の背後に隠された不可視の他性にもとづいているのではなく、他の集団、他の領域、あるいは他の専門科学がそうだろうとみなされているものにもとづいている」(428)、「どの市民も、自分は信じていないにもかかわらず、他人が信じていることにかんしてはすべてそうなのだろうと思っている」(429)。われわれがメディアによって流通する情報をある程度まで信用するのは、歴史的権威や書物のネットワークなど、われわれにある情報を事実として信じさせるもろもろの装置が成立しているからであり、その作用がじぶんいがいの多数の他者においても確実に機能しているからである。メディアによって報じられるということじたいが、それがひとつのたしかな事実として共有されうるものであり、共有されるべきものだということを担保しており、それがひろく共有されるということがまた反転的にメディアの真実性を強化する。みんながそれを事実だとおもっているのだから、それは事実なのだろう、というわけだ。陰謀論者においてはこの論理が逆転されるだろう。みんながそれを真実だとおもっているということは、それは真実ではない、と判断されるだろう。大多数の他者が真実とみなしていることは、虚偽である。あるいは彼らにあっては、「信」を成立させるために経由するべき準拠枠である「他者」の範囲や種類がことなっているとも言えるかもしれない。

陰謀論は無根拠なものである。とはいえ、媒介された情報はどれも最終的には無根拠だとも言えよう。世に流通している情報は、それが真実なのか虚偽なのか、そのあいだであるとしてもどの程度真なのか偽なのか、最終的にはわからない。ある事象が真実や事実であると主観的に確信するいちばんの方法は、それをじぶんの身でじっさいに体験することである。しかしメディアによってつたえられることがらは、その存在条件上(メディアとはひとびとが直接体験しないことを伝播させる仲介者なのだから)、基本的に直接経験することはできない。ひとはじぶんの身に起こっていないことをいくらでもうたがうことができるし、デカルトをまつまでもなく、みずから体験したことでさえいくらでもうたがうことはできる。そうしたもろもろをかんがえたうえでしかしながら、陰謀論はその無根拠さが、つうじょうの情報に根底でつきまとう無根拠さとはことなっているというか、端的に言ってそれは荒唐無稽なものである。そして、だからこそときに強固な信を生み、情熱的に擁護されるのではないか、という気がする。陰謀論的言説が無根拠であり、しかもその無根拠の質が、荒唐無稽であるがゆえに理性的判断や論理のつみかさねによってついに到達しえず、検証しえない性質のものであるからこそ、それをつよく断言的に信じることが可能になっているのではないか。かりに陰謀論が合理的な根拠をもったたしかな言説だったら、つまり事実として相当程度共有されうるものだったとしたら、そのように熱狂的に支持され、後押しされることはないのではないか。

 2021/9/10, Fri. にも同様の記述。

(……)新聞、きのうにつづいて社会面に「虚実のはざま」。ひきつづきコロナウイルスにまつわる陰謀論についてで、三人の例が紹介されていたはず。ひとりは居酒屋をいとなんでいるひと、ひとりは二〇一九年にゲストハウスをはじめたひと、あとひとりはわすれた。ふたりだけだったかもしれない。居酒屋の店主はコロナウイルスで店を閉めているあいだに客がはなれてしまい、再開してもふるわず、賃料も重くのしかかって、店をつづけられないなら生きている甲斐がないとまでおもいつめたところに妻がネット上で見つけた言説を見せてきて、それを信じるようになったと。いわく、コロナウイルスは富裕層がもくろんだ事件で、小規模自営業をつぶして金を吸い上げるためにやっている、と。それでいまは感染対策お断りという状態で営業しており、批判もされるがそれでとおくから来てくれるひともいるという。ゲストハウスのひとも詳細はわすれたが、二〇一九年に営業をはじめてすぐにウイルス状況になったので、なんでこんなことになったのか? と疑念をいだきネット上を探索して陰謀論的言説を発見した、というはなしだったはず。きのうの記事を読んだときも陰謀論というのはひとつには心理的・実存的問題であるという従来からのかんがえを再生産したが、きょうの記事はそれをはっきりと強調するような仕立てかたになっており、ひとはじぶんのちからではどうにもならない不安な状況におちいると極端な言説を信じやすくなるとか、疎外感をかんじているひとのほうが陰謀論を信じる傾向がつよい、という研究結果が述べられていた。コメントを寄せていた識者も臨床心理学のひとで、陰謀論心理的要因や社会的要因などさまざまな要素が複雑にからみあってなりたっているもので、単にただしいことを言えば是正されるものではない、というようなことを言っていた。むしろ正論をさしむけることで、あいてをよりかたくなにして、じぶんの見地に執着させ過激化させるおそれすらあるわけだ。おおきな不安のなかにあると極端なかんがえに飛びつきやすくなるというのは、けっきょくひとは意味のないことに耐えられないということだとおもわれ、今回のようなウイルスの蔓延だとか、地震のような自然災害におそわれたとき、それがなんの人間的な意味もなく自然発生的に起こったという事実とじぶんの不幸を釣り合わせることができないので、そのあいだの齟齬を解消するためにひとは事態になんらかの意味づけをする。人間は不幸であることじたいよりも、その不幸に意味がないということにこそ耐えられないのだろう。そこに現世的な主体が想定されれば、世のどこかに「黒幕」がいて状況をしくみ、あやつっているのだ、というかんがえになる。宗教者だったら神の罰だとかんがえるかもしれない(ユダヤ一神教はバビロン捕囚という災禍を全能たるヤハウェの罰だとかんがえることで唯一神教として確立したのだし、ショアーですら神が信者にくだした罰だとかんがえた宗教者の囚人は多くいたはずだ)。人間社会の範囲はともかくとして、いわゆる「自然」とか、この世界そのものの成り立ちとか存在には最終的なところでなんの根拠も意味も必然もなく、根源的に不確かであるというのが現実なのだとおもうし、それを前提として受け入れながら生きるというのが仏教でいう無常観念なのだとじぶんはおもっているのだけれど(さらには、そういう所与の意味体系が崩壊していわば世界の非 - 絶対性が露呈された地点から、みずから積極的に意味体系を構築しなおしていくというのが、いわゆる能動的ニヒリズムと呼ばれる姿勢だとも理解しているのだけれど)、そういうかんがえになじめなかったり、気づいていなかったり、それを実感させるような体験をしたことがないひとはその無意味さにとどまって耐えることができず、不安を埋め合わせるためにわかりやすくお手軽な意味づけをもとめてじぶんを安心させようとする。そのひとつの受け皿やよりどころとなっているのが陰謀論的言説なのだろう。それがすべてではないだろうが、そういう側面はたしかにあるはずだ。

三人目の例のことをおもいだしたが、このひとはたしか五〇代の人間で、いままでの人生でひととかかわることが苦手だったといい、やはり承認をもとめて陰謀論的活動にコミットしはじめた、というようなことがかたられていた。ビラをつくってくばったりとかもやっているようだが、「こういうかたちでしかひととつながることができない」という本人の述懐があった。しかし、ひとが承認をもとめるのは自然としても、さまざまな場のなかからなぜよりにもよって陰謀論的コミュニティをえらんだのか? という疑問は解が不明瞭なものである。いわゆる陰謀論者、陰謀論的言説を支持するひとびと、あるいは過去にそれを信じていたひとびと、こういうひとたちにたいする聞き取り調査をして、みずからの世界観や信念や物語や具体的経緯をかたってもらい、それらナラティヴを集積して資料体をつくるという研究は重要なものだろう。もうある程度やっているひともいるだろうとおもうが。

 この日はそれいがいにもいろいろとおもしろいところがある。まずどうでもいいような小挿話だが、ナメクジとの遭遇。

皿をかたづけ、風呂洗い。風呂場にはいると浴槽の縁、窓のしたの壁のきわで浴槽の上辺と壁がつながっているところにナメクジが一匹いたので、ナメクジがいるわと母親におしえた。浴槽の蓋を取ってそのまま排水溝にながせばよかろうとおもっていたのだが、台紙みたいなものを持ってきた母親が、かわいそうじゃんと言って、その紙で取ってそとに捨てるようもとめたので、そのようにした。しかし、母親がそうしようとしたのは、畜生をあわれむ殊勝なこころからというよりは、排水溝にながすとなんとなくまたあらわれてきそうで嫌だ、という心理があったのではないかという気もするのだが。ナメクジはぬるぬるしていてなかなか紙ですくいとれなかったのだが、ついに乗せることに成功して窓から捨てようとすると、もっととおくにやりたいというわけで母親が紙をうけとり、勝手口からそとに出していた。けっきょくちかくのコンクリートのうえに落ちてしまった、と言っていたが。

 さらに一年前の九月一一日からは(……)さんの『双生』仮原稿を読んでの感想を引いている。「まあまあの書きぶり」とのこと。

(……)「波のまにまに接近するそのひとときを見極めて勇敢な跳躍を試みる腕白ややんちゃも少なからずいたが、せいぜいが三つ四つ続けば上出来という中で仮に七つ八つと立て続けに成功することがあったとしてもどこに辿り着くわけでもないという現実の困難に直面すれば、その意気も阻喪せざるを得ず、慣れない夜更かしに疲れた者から順に、或る者は女中におぶられて、或る者は年長者に手を引かれた二人揃っての格好で、耳を澄ませば自ずと蘇る賑わいをこの夜ばかりの子守唄とする寝床の敷かれた自宅へと去っていった」の一文に含まれた「耳を澄ませば自ずと蘇る賑わいをこの夜ばかりの子守唄とする(寝床)」という修飾がなんか気になった。挿入感が強いというか、英語を読んでいるときに関係代名詞のいわゆる非制限用法で長めの情報が差しこまれているのに行き逢ったときと似たような感覚を得た気がするのだが、ただべつにこの箇所は後置されているわけではない。「耳を澄ませば自ずと蘇る」という言い方で、子どもたちが寝床に就いたあとの時間を先取りし、なおかつその時点から(「蘇る」と言われているとおり)過去を想起する動きまでも取りこんでいる往復感が、英語で挿入句と主文を行き来するときの迂回感に似ていたということだろうか。

     *

「分かつ力のゆく果てに待ち受けていた神隠しだった。傷口ですら一晩のうちに揃いのものとする妖しい宿縁を有する子らともなれば、失踪に続く失踪などありえぬと見なす根拠のほうこそむしろ薄弱であったかもしれない」という言い方はちょっと奇妙だというか、語り手の立ち位置に困惑させられるところだ。この話者はいったい誰の視点と一体化(あるいは近接)しているのだろうか? と感じさせるということで、いわゆる「神の視点」と言ってしまえば話はそれまでなのだが、事態はそう単純でもないだろう。このすぐあとで明らかになるが、死んだ祖父を送る小舟に乗って運ばれていった双子の片割れは、その失踪に気づかれないのでもなく忘れ去られるのでもなく、その存在がもとからこの世界になかったかのように失われるのだから、家の者や町の人々はそもそも「神隠し」を認識していないというか、端的に彼らにとってそんなことは起こっていないわけで、したがって「失踪に続く失踪」について「根拠」をうんぬん判断できるわけがない。ところが上記の文では双子が「子ら」と呼ばれているように、この視点の持ち主は双子が双子であったことを知っているし、「妖しい宿縁を有する」という風に彼らをまとめて外側から指示しながらその性質について形容してもいる。「神隠し」が起こったことを知っているのは残されたほうの「片割れ」である「彼」か、あるいはこの物語をここまで読んできた読者以外には存在しない。そして「彼」自身が自分たちを「妖しい宿縁を有する子ら」として捉えることはなさそうだから、話者はこの部分で明らかに(純然たる)読者の視点を召喚しているように思われる。「失踪に続く失踪などありえぬと見なす根拠のほうこそむしろ薄弱であったかもしれない」という言葉は、その身に降りかかる運命をまるごと共有する双子において、第一の失踪に続いて第二の失踪が起こるに決まっているという読み手の予測に対して向けられた牽制のようにも感じられる。

とはいえ、この物語の主人公の座はここに至って明確に「彼」ひとりに集束させられている。したがって、片割れの運命を追って「彼」までもがこの世から「失踪」してしまっては、作品はすぐさま終わりを迎えてしまうということに読者もすぐさま気づくだろう。だからわざわざ先回りして読み手の予測に釘を刺す必要はないような気もするのだが、そう考えてくるとこの一文はむしろ、読者というよりも、この物語の文を書き綴る作者(語り手や話者ではなく、作者)の手の(そして思考の)動きの跡のようにも感じられてくる。つまり、作品のこれまでの部分にみずから書きつけて提示した「運命を共有 - 反復する双子」というモチーフの支配力、みずからが書きつけたことによって力を持ってしまった物語そのものの論理に書き手自身が抵抗し、そこから逃れてべつの方向に進むための格闘の痕跡のようにも見えてくるということだ。たぶんのちほど下でも多少触れるのではないかと思うが、(……)さん自身もブログに記していたとおり(『双生』は、「ここ数日ずっと『金太郎飴』を読んでいたために磯崎憲一郎的な文学観にたっぷり染まっていたはずであるにもかかわらず、それをしゃらくせえとばかりにはねつけるだけの強さをしっかりもっている」)、テクストや物語に対してあくまで対峙的な闘争を仕掛けるというこうした姿勢を、保坂和志 - 磯崎憲一郎的な作法(それは物語に対して「闘争」するというよりは、「逃走」することに近いものではないだろうか)に対する身ぶりとしての批評と理解することもできるのかもしれない。もっとも、保坂 - 磯崎路線もまたべつの仕方で物語と「闘争」していると言っても良いのだろうし、それを「逃走」的と呼べるとしても、物語から逃れようとしたその先で彼らは今度は「小説」と「闘争」している、ということになるのかもしれないが。

語り手の位置の話にもどって先にそれに関してひとつ触れておくと、「日射しの下に立つときには必ず赤地に白抜きで蔓草模様の散りばめられているスカーフを頬被りする習慣のためにか、未だ大福のように白く清潔に保たれているその肌の瑞々しさばかりは生娘らしく透き通っていたものの、盛り上がった頬骨の縁に沿って落ちていく法令線は、微笑ひとつ湛えぬその面にも関わらず指で強くなぞられた直後のようにくっきりと跡づけられていた」という箇所でも話者の立場が気になった。「日射しの下に立つときには必ず赤地に白抜きで蔓草模様の散りばめられているスカーフを頬被りする習慣」という一節のことだが、この文が書きつけられているのはフランチスカが二年ぶりに「彼」の前に現れて二度目の邂逅を果たしたその瞬間であり、そしてこの場面には「彼」とフランチスカの二人しか存在していない。フランチスカは「彼」の妻候補として二年前に三日間、屋敷に滞在したが、言葉も通じない「彼」と仲を深めたわけでもないし、そもそも「その間フランチスカと彼は一語たりとも言葉を交わさなかった」し、記述からして二人が一緒に出歩く機会があったわけでもなさそうなので、「彼」がフランチスカの「習慣」を知ることができたとは思われない。したがって、ここで話者は明らかに「彼」の視点とその知識を超えており、語り手固有の立場についている。この作品の話者は基本的に物語内の人物にわりと近く添って語りを進めるように思うのだけれど、ところどころで誰のものでもないような視点にふっと浮かび上がることがある。それをいわゆる「神の視点」と呼ぶのが物語理論におけるもっとも一般的な理解の仕方だと思うのだが、そんな言葉を発してみたところで具体的には何の説明にもなっていないことは明白で、とりわけこの作品だったら語り手は(全知全能か、それに近いものとしての)偏在的な「神」などではなく、ときにみずから問いを発してそれに答えたり答えなかったりもしてみせるのだから、語り手としての独自の〈厚み〉のようなものを明確にそなえている。それを「神」と呼ぶならば、欠陥を抱えた「神」とでも言うべきだろう。

     *

今日のところまで『双生』を読んできてこちらに際立って感じられたのは端的に語りの卓越性であり、物事を提示する順序、情報の配置によって生み出される展開の整え方がうまく、ひとつの場面をどこまで語っておいてあとでどこから語り直すかというようなバランスが優れており、全体に物語が通り一遍でない動き方で、しかしきわめてなめらかに流れている。象徴的な意味の領域にも色々と仕掛けが施されているのだと思うけれど、それを措いても単純に物語としての面白さが強く確保されているということで、起こる出来事もそれ自体として面白いし、ごく素朴に次はどうなるのだろうと思わせて誘惑する魅力が充分にある。上にも言及したけれど、文体の面でも語りの面でも意味の面でもきちんと作品を作りこんでいこう、しっかり成型して道を整えていこうというこの姿勢は、磯崎憲一郎的な文学観、つまり言語(テクスト)自体の持つ自走性に同化的に従おうとするというか、すくなくともそれをなるべく引き寄せていこうというようなやり方に強力に対抗しているのではないか。磯崎憲一郎(ならびに保坂和志)は、作者(人間)よりも小説そのもののほうが全然偉くて大きい、みたいなことを言っていた記憶があり、それもまあもちろんわかるのだけれど、『双生』はあくまで人間主体として小説作品に対峙し、交渉し、できるところまで格闘しようというような、高度に政治的とも思えるような実直さが感じられる。(……)

 同様に2020/9/11, Fri.から出勤路の記述を引きつつ、一段落目について、「ここが正直かなりうまいというか、なんか文が相当ながれている感覚があって、いや、俺、うまいな、とおもった。べつにそんなに大した表現ではなく、ふつうの文といえばそうなのだが、音律やこまかいことばえらびや意味のつらねかたがととのっているようにおもわれ、かたくもならず弛緩もせずにとにかくなめらかにながれている、という感覚をえた。一年前のじぶんの書きぶりがどんなかんじだったかおぼえていないのだが、けっこう苦心して丁寧に書いたのかもしれないけれど、そうだとしてそれをうかがわせず、さっとかるく書いたような、熟練めいたスムーズさがある。脱帽した」と自画自賛しているが、いま読んでみるとそこまでとはおもわない。いちおう再掲しておく。

(……)玄関を抜けた瞬間から風が走って隣の敷地の旗が大きく軟体化しており、道に出ても林の内から響きが膨らんで、その上に秋虫の声が鮮やかともいうべき明瞭さでかぶさり曇りなく騒ぎ立てていて、歩くあいだに身体の周囲どの方向からも音響が降りそそいで迫ってくる。坂の入口に至って樹々が近くなれば、苛烈さすら一抹感じさせるような振動量を呈し、硬いようなざらついた震えで頭に触れてきた。

もはや七時で陽のなごりなどむろんなく、空は雲がかりのなかに場所によっては青味がひらいて星も光を散らしているが、普通に暑くて余裕で汗が湧き、特に首のうしろに熱が固まる。髪を切っておらず、襟足が雑駁に伸び放題だからだろう。駅に着いてホームに入ると蛍光灯に惹かれた羽虫らがおびただしくそこら中を飛び回っており、明かりのそばに張られた蜘蛛の巣など、羽虫が無数に捕らえられてほとんど一枚の布と化しているくらいだった。

 むしろこの日のいちばんしたに記されている出勤路の描写のほうが良いような気がした。一文目からして、空の果てを越えてみえないぶぶんの雲から残光がわずかに漏れ出しているという観察がこまかく、「(空の)下端の境界線をまたいだ雲」とか、「落日のオレンジをかそけくもふくんで」とかの言い方に、まだ言ったことのない言い方で書いてみようという、微細な点においてではあっても日々あらたな表現を探究しているこころを見るような気がする。さいきんはたぶんそれをきちんとできていない。

空は雲もいくらかなごっているものの大方水色に淡く、道の正面奥、西の際では梢や家並みにかくれながら下端の境界線をまたいだ雲が茜の色をほのかに発しているようだった。坂道をのぼって駅へ。階段から見るに西空は弱い稲妻の残影みたいなすこしジグザグした薄雲がしるされていて、これも落日のオレンジをかそけくもふくんでおり、ホームにはいってベンチについてからまた見やれば、先払いめいたそのほそい突出はからだいっぱい青く染まったおおきな母体雲からカタツムリの触角めいてのびだしたものだった。ベストを身につけては暑いだろうとわかっていたが、この時期になってまたワイシャツだけにもどるのもなんとなくなじめず、羽織りとネクタイをよそおってきたので、上り坂をこえてきたからだはとうぜん暑くて汗をかいていた。ベンチにすわってじっとしながら風を身に受けて汗をなだめる。

 さらに、瞑想についての考察。ほかの箇所に、「やはり瞑想とストレッチだ。心身をととのえることこそが最重要だ」ということばもあるが、ここ数日のじぶんもそれを再実感している。

瞑想。四時二八分から五一分くらいまで。かなりよろしい。やはり静止だ。あたまではなにをかんがえてもおもってもかんじてもよく、精神の方向はどうであろうと自由だが、からだはしずかに座ってとまっていなければならない。というか、その非行動性ができていればあとはなんでもよろしい。瞑想をしているときの状態を言語であらわすと、「座って動かずただじっとしている」という言述に尽きる。身体の状態としてこれいがいの要素、この外部がないというのが瞑想ということである。道元のいわゆる「只管打坐」もそういうことではないかとおもうのだけれど。只管打坐というと、曹洞宗とか坐禅にまつわる修行のイメージがつきまとうから、ただひたすらに、一心に、という勤勉さとか熱情の意味合いがいままでなんとなくふくまれていたのだけれど、そうではなくて、ただ座る、単に座っているだけ、という、そういう意味合いでの「ただ」なのではないか。只管は「ひたすら」の意らしいが、ひとつのことや一方向に脇目も振らずひたすらに集中する、という意識のありかたと、瞑想や坐禅をやっているときのじっさいのありかたとはちがうとおもう。たとえば呼吸を操作して意識するような一点集中型の方式もむろんあって、それは仏教においてサマタと呼ばれるが、ヴィパッサナーをめざす立場からすれば(そして仏陀以来、仏教の根本目標やその瞑想における本義はヴィパッサナーのはずである)それはあくまで通過点であり、自転車に乗れるようになるための補助輪のようなものにすぎないはずである。瞑想をしているときの集中のありかた(それを集中と呼べるのだとすれば)は、語義矛盾のようだが拡散的な集中というべきものであり、一字変えて拡張的と言ってもよく、また回遊的なものでもある。そこで意識や精神は開放的・解放的で自由である。たいして身体はほぼ不動にとどまりつづける。精神がいくら自由だといっても、それがあまりに散乱しすぎて困惑を呼び、動揺をきたしては害となる。だから精神がいくら拡散的に遊泳してもそれを最終的につなぎとめる一点がどこかに必要となり、それが不動の身体と呼吸の感覚であるとかんがえればわかりやすい。実態として、また仏教の正式なかんがえかたとしてそれがただしいのかはわからないが。ただそうかんがえると、一点集中型のサマタ瞑想は、そういう楔としての身体感覚をまずある程度つくって得るためのものだと想定することができる。おそらくたいていの人間はもともと精神がかなりとっちらかっていておちつきがないため、さいしょからふつうにヴィパッサナーをこころみると、とっちらかっている精神をさらに拡散させてしまうことになりがちなのではないか。そこからはさまざまな精神的害が生じてくる。精神疾患をわずらっているひとは瞑想をやらないほうがいいと警告されるのは、ひとつにはそういう事情があるだろう。まずある程度意識の動揺をおさえ、またそれに耐えるちからを身につけてはじめて拡散型に移行できるわけである。

 この日つくった「旅立ちを言祝ぐ空の青さとは記憶は無窮であるその証明」という短歌はすこし良い。あと、碧海祐人 [おおみまさと] を聞いてceroみたいだとも言っている。また聞いてみたい。そうして出勤路。遭遇しているのは(……)さんだが、「言ってみれば目がほそいイシツブテみたいなかんじで」という顔立ちの形容が的確すぎて笑った。

往路。(……)さんに遭遇。家を出て西にあるいている道のとちゅうで。顔が視認できずすがたもまだまだちいさいとおくから見ても、あるきかたのかんじからしておそらく(……)さんだな、とわかった。ちょっとたちばなし。きのうも駅のまわりをあるいてましたよね? と聞き(ホームから見かけたのだ)、お元気そうで、と笑いをむけたが、本人はそれを肯定するでもなく、めだった反応は見せずにむっつりしてうーん、みたいなようすでいる。もともとこのひとは顔がいかつく、あたまのかたちも四角く角張っているようで、まあ言ってみれば目がほそいイシツブテみたいなかんじで、仁王像とはちょっとちがうがある種の仏像なんかにありそうな顔立ちをしている。しかし、片手に杖をつきながらではあるが、スニーカーを履いて(毎日ではないかもしれないが)夕べごとにあるいているのだから、まだ気力はあるわけだ。これから行って、何時まで? と聞くので、きょうはさいごまでなんで……遅いと、一一時くらいになっちゃいますね、とこたえた。その後も二、三、かわして、じゃあ、お気をつけて、とさきにすすもうとすると、ありがとうございます、と丁寧な礼をかえしてくるのは律儀で、がんばって、と言われたのにこちらも礼のことばで受けた。

 九月一〇日分まで読むと正午前、床をふたたびはなれた。空に青さがみえたしきょうは洗う服もすくないから衣服ではなくてシーツを洗う良いタイミングなのではとおもっていたのだけれど、おもいのほか陽が出ず、出るときは出るがかげっている時間のほうが多い調子で、時間も遅くなったし、洗ってもいまいち乾ききらなそうなので踏み切れず。しかし洗わないまでも干して風に当てるだけはしておくかとおもい、寝床のうえの座布団とかChromebookとか本とかを掛け布団といっしょにどかして、シーツを取ると窓外の棒にかけて干した。そとに出しながら表面のこまかなゴミや埃を払っておく。敷布団も同様にゴミを払いながら柵にかけようとしたのだけれど、ピンチでうまく留められず、といっていぜんはそれでがんばっていたのだけれど、なんか風で取れそうな気もしたし、しかたがないから窓ガラスと柵とのあいだの狭いスペースにたたんで出しておくだけにした。のこった部分に座布団も一枚出しておく。
 それで瞑想。あるいは瞑想が先だったかもしれない。一二時九分からはじめて三七分までだったかな。三〇分弱だったはず。わりとよろしい。すでに夏ではなくパソコンの右下の気温表示も二七度とかなのだけれど、座ってじっとしていても暑く、からだがじわじわと熱を帯びてくるのが顕著だ。むしろ夏ごろよりも暑い気すらするというか、基本的にやはり室内が暑いのだ。そとに出れば外気のながれが涼しいはずなのだが。このときは窓もあけていなかった。あけると車の音がやたらうるさかったりするので。あと、これは瞑想中ではなくて寝床から立つ直前のことだったが、そとを男児がふたり駆けてくる音と声がして、そのことばが日本語ではなく、英語でもなく、たぶん中韓でもなく東南アジアとかインド方面のことばであるようにおもわれた。すがたはみなかったが、スケボーかキックボードか、カシャンカシャンと地面に当たる音とかゴロゴロ地をこする響きをともなっていた。
 プラスチックゴミをちいさく切って始末し、食事はいつもどおりまずサラダをこしらえる。キャベツは半玉をつかいおわった。このとき取り出した豆腐の一パックがなんだか皺を寄せてちぢんだようになっており、汁気も出ていて、開封して嗅いでみるとわずかに饐えているような気もしたので、なんで? とおもいながら捨てた、というか生ゴミとして出すためにラップにつつんで冷凍室に入れておいた。賞味期限は九月二二日でまだまだであり、冷蔵庫のいちばんうえの段に置いておいたのだけれど、おなじ段にあったほかの豆腐は変わっておらず、その一セットのやつだけほかのふたつもすこしだけ汁気がおおくなっている。夏場よりも気温が下がったはずなのにかえって饐えるとは? と解せなかったが、しかしもしかするとあれは、冷気が出てくるであろう奥にちかく置いてあったから、饐えていたのではなくて冷やされすぎてちょっと凍ったようになって変質をこうむっていたのかもしれない。わからない。サラダには汁気がすこし多くなっていた一パックをこれはだいじょうぶそうだと判断してつかったが、変な味もしなかったし、腹も痛くなっていない。サラダのほかはレトルトのポモドーロカレー。パック米はサトウのごはんではなくて(……)の自社製品をこのあいだは買った。サトウのごはんのほうがあきらかに味がよいのだけれど、ちょっと高くつくので。食事中は(……)さんのブログを読んだ。九月四日。中国事情として以下の記述。顔認証で支払いとかできるのか、とはじめて知った。今後あたらしいかたちでの全体主義が絶対に出てきて二〇世紀の惨禍をくりかえすとおもうというか、中国やロシアはすでにかなりの程度それを現実化してしまっているとおもうのだけれど、高度IT技術とむすびついた全体主義国家ほどおそろしいものはない。これが二一世紀か。世界はそれをどうにかして避けなければならないし、避けなければならなかったのだが。

 あらためて二階に移動。セルフレジに並ぶ。ふたりとも顔認証で支払いをすませた。こんな田舎でも顔認証で支払いをすませることができるのだ。こちらがセルフレジを利用するときは、商品のバーコードを自分の手で読み取らせるところまでは同じなのだが、その後画面に表示されるQRコード微信で読み込んでパスワードを打ち込んでという手続きが必要になる。顔写真と紐づけられた身分証明書を有している中国人の場合はそんな面倒な手続きは必要なく、バーコードの読み取りを終えたところで機械を顔認証モードにし、そこにじぶんの顔をうつせばそれで支払いが済む。おそろしい。

 あとわすれていたが、布団を干したときにそのしたの床の掃き掃除もした。枕元の壁際とか髪の毛や埃がたくさん溜まっているのを気にかけながらも一向に始末せず放置していたので、良い機会だった。カレーを食べたあとは先日実家からもらってきた天麩羅ののこりも食べてしまおうとおもって、冷凍されていたやつを椀にうつして電子レンジであたためて食す。食欲はわりとあるというか、三品食ってもなんか甘いもんでも食べたいなという欲求を感じた。さいきんはけっこうスーパーでアイスを買ってきて食後に食うことも多かったし、脳が砂糖にやられているのかもしれない。洗い物を始末すると一時半過ぎくらいだったか。
 きょうも日記を書き出すまえに音楽を聞くことに。きのうにつづいてJoshua Redman, Brad Mehldau, Christian McBride, Brian Bladeの『LongGone』。このアルバムタイトルはどうもあいだにスペースがはいっていないのが正式なようだ。きょうは後半の三曲、"Kite Song", "Ship to Shore", "Rejoice"。きのうは比べなくてもよいところをわざわざ比べて自明性がどうのなどと述べてしまったが、この演奏だってすごいものであることはまちがいなく、くりかえし聞きたいとおもうアルバムだ。Brad Mehldauのプレイにやはり気にかかるものがふくまれていて、きのうも書いたけれど、尋常なアプローチとアウトとのあいだでまだ開拓されていない未知の部分を見つけだそうという志向をもってやっているような気がする。それはコードとかモードとかなんとか既存の枠組みの問題ではなく、それらをもちろん踏まえながらも、もっと微妙な、見過ごされているところをさぐりつつ独自の地点にいたろうとしているように聞こえる。Brad Mehldauは端的にインテリで(まえになにかのライナーノーツでミシェル・フーコーを引いていた)、楽理とか理論とかにも精通しきっているにちがいなく、そのプレイだって知性的とか内省的とかなんとか形容されることがたぶん多いとおもうし、じぶんの作品づくりでもそういう面はおおいに出ているとおもうのだけれど、ここでのMehldauはそれらもろもろの知的領域を消化し下敷きにしながらも、あくまでときどきの感覚にしたがってなにかを探りあてようとしているような、ここからまたこれまでにないあたらしい場所へ行こうとしているようなかたむきを感じる。Mehldauを多く聞いてきたわけでないし、きちんと聞いてきたわけでもないので、確かな言い分ではないが。あとさいごの"Rejoice"はライブ音源で、さいしょにこれはじぶんの曲でとかいっているのはたぶんChristian McBrideだとおもうのだけれど、このメンツでライブで一二分となればそれはすごいに決まっていて、これは端的にすごい。やはりスタジオ音源よりも各人の持つものが十全に展開されているなという感じがする。そもそもそれいぜんの五曲で、たとえばベースソロがあるのは五曲目だけだったとおもうし、ドラムソロはバースチェンジですら一曲も取り入れられていなかったのではないか? どっかあったかな? メインはJoshua RedmanBrad Mehldauのふたりで、Christian McBrideBrian Bladeのふたりは、このライブにくらべれば、いわばスタジオらしいおとなしさ、行儀のよい巧みで的確なサポートにほぼおさまっているわけである。しかし"Rejoice"ではとくにChristian McBrideが、じぶんの曲ということもあってかかっ飛んでいて、Joshua Redmanも流麗をきわめてすばらしい。Mehldauはここではスタジオ音源のようにあらたな方向を探るというよりは、もうライブらしく、じぶんの手札をいっぱいもちいて盛り上がるぜというおもむきのほうがつよいように聞こえ、ソロ中でMcBrideと交感したりもしているけれど、やはりすごい。しかしこの四人でライブやれば、だいたいのところこういうレベルにはいつだってできるのだとおもう。それはそれで化け物だ。
 そのあとにまたきのうと同様六一年六月二五日のEvans Trioも聞いた。ディスク2のさいご、きのうも聞いた"My Romance (take 2)"と、"Milestones"。"My Romance (take 2)"のピアノソロは完璧を具現化しているように聞こえるときのう書いたが、とりわけLaFaroがそれまで攻めるようにガシガシうごきまわっていたのをやめて、めずらしくふつうのフォービートに徹しているあいだのEvansを聞いてみてくださいよ。この闊達さ。踊っているとしかいいようがないじゃないですか。それでワンコーラスだかやったのち、つぎのコーラスのとちゅうからLaFaroが好機をうかがっていたかのようにとつぜん高音部にあがって、衝動にまかせるようにして同音を連打する箇所がある。こういうアプローチはいまではわりとふつうのことで、それこそ"Rejoice"でのChristian McBrideもMehldauのソロのとちゅうでおなじように急にしかけていた。そうしてMehldauもそれを受け返して合わせるようにリズムを刻んでいたわけだけれど、Bill Evansが特異ですごいのは、LaFaroがこういうことをやってもぜったいに受け返したりなどしないというところなのだ。ふつうは受ける。そしてそこに成立しているのが音楽を言語とした対話だとか、演者のあいだの交感だとかコミュニケーションだとか、まさしくインタープレイだとかいわれるわけだ。それはちっともまちがってなどいない。ところがEvansはLaFaroがそういうアプローチをしたとしても、すくなくとも明示的にはぜったいに受け返したりしないし、それまでのペースとなにも変わらず、ただひたすらにじぶんのしごとに専心している。影響を受けるということ、揺るがされるということがない。それはなにもLaFaroのことを無視するというわけではない。LaFaroがそういう振る舞いを取るということは、このトリオにあってはすでにしぜんなこととなっており、いまさらとりたてて受けるでも無視するでもないLaFaroのありかたなのだ。LaFaroがLaFaroとしてそういうことをやっているのだから、じぶんもじぶんのしごとをただすればよい。そのようにしておのおのがじぶんのことをやれば、それらがおのずからひとつの秩序をとりむすぶだろう。だからそこに生まれているのは対話的な調和ではなく、それとはべつのかたちの、並行共存的な音楽のありかたなのだ。それでいてもちろんかんぜんに離散しているわけではなく、頻繁にふれあいはしながらも、しかし決してたがいに目を合わせることがなく、ひとつの空間のなかですれちがいをつづけることで、接触にとどまり一致することのないその軌跡があるかたちとある模様をえがき、空間そのものを浮き彫りにし、成り立たせている。そのような、ある意味ですきまのおおい、風通しのよい、ことさらにバラバラになろうとするでもなく、ことさらに手をとりあおうとするでもない、しかしむすばれている、つねにつかずはなれずの絶妙な間合いをたもった集合性が六一年のBill Evans Trioのありかたである。おそらくジャズ史上、ほかになく稀有なありかたのひとつである。それを成立させたのは、ひとつにはもちろんScott LaFaroの攻撃性、破壊性、その革新性である。しかしそれよりも重要で本質的だったのが、たぶんBill Evansの特質、これいじょうなくひとりになることのできるかれの才能である。三者で演奏し、ほかのふたりをまえにしていながら、ただじぶんひとりになることができるというのがBill Evansの特異性であり、その孤高さである。それがなければ、このトリオの並行共存的なかたちはありえなかった。そして一九六一年につかの間えがかれていたこういう音楽のありかたは、その後さまざまなピアニストにおいてそれぞれに変質しながら学ばれつつも、その根本の部分はついに十全には受け継がれず、黎明のままに終わってしまい、再開を待っているというのがこちらの認識である。モダンから現代までジャズをそんなに幅広く聞いているわけでないから、あまり根拠のある認識ではなく、たんなる直感的なものにすぎない。けれどそれがもしいくらかなり正しいとするなら、後継が生まれ得なかったのは、Bill Evansほどひとりになれる才能をもったピアニストがほかにいなかったということなのだろうとおもう。
 "Milestones"でのLaFaroのベースソロは、やはりなにか執念的なような、得体の知れないようなものを感じるというか、支えのないところで、ベースという楽器になにができるのか、じぶんになにができるのかあらかじめわかっていないところで、土や岩盤を掘り進めるようにしてフレーズを刻んでいるように聞こえる。太いトーンもそうだけれど、そこにLaFaroの開拓者的な豪腕を感じる。Motianの刻みだけをバックにして、コードの援助を排して、こういうベースソロをやるということ、しかもあれだけのトーンとこまかさと音使いでやるということ。それはやっぱり六一年当時ではほかにまずだれもできなかったことなのだろうし、ここのLaFaroは枠組みやフレージングはともかくとしても、精神性としてはかんぜんにもうアヴァンギャルドのほうに行っているとおもう。そしてこのLaFaroはまだ完成などしておらず、じぶんのいまに安住しておらず、執念的になにかを探りつづけている。Scott LaFaroはここでまだとちゅうだった。かれが生きていたら、ここからよりじぶんにできることを突き詰めていったのはまちがいないとおもわれる。ひとつにはたぶん、かんぜんに無伴奏のベースソロを探究したのではないか。
 音楽を聞いたあと、雲が増えてカーテンに陽が射さないようになっていたので、もう出していてもあれだなとおもって布団を入れた。そういえば音楽を聞いているさいちゅうにも、窓をカツカツ叩く音が響いて、ちょっとびっくりしておもわず目を開けてしまったが、それはシーツが風にあおられてそれをはさんだピンチがガラスにぶつかる音だったのだ。寝床をしつらえておき、三時ごろからきょうのことを書き出して、ここまで記すと四時五〇分。きょうは八時から通話。日記は九日のとちゅうまで書いてある。それをすすめるとともに、ワイシャツや私服のシャツやハンカチなどにアイロンをかけたり、できれば(……)くんの訳文添削も済ませてしまいたい。あした出勤前に出来ないこともないとおもうが、やはりできるときにさっさと済ませておきたい。


     *


 したは何日付だったかわすれたが、(……)さんのブログに引かれていた描写。夏目漱石やっぱさすがだなとおもう。「眼に入らぬ陽炎を踏み潰したような心持ちがする」、すばらしい。

 どこへ腰を据えたものかと、草のなかを遠近(おちこち)と徘徊する。椽(えん)から見たときは画になると思った景色も、いざとなると存外纏まらない。色もしだいに変ってくる。草原をのそつくうちに、いつしか描(か)く気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐った所がわが住居(すまい)である。染み込んだ春の日が、深く草の根に籠(こも)って、どっかと尻を卸(おろ)すと、眼に入らぬ陽炎を踏み潰したような心持ちがする。
夏目漱石草枕」)

 この日のことはあと通話時のはなしくらい。(……)
 (……)
 (……)
 後半は、『文学空間』のつぎなに読みます? みたいなながれになって、ひとまず『パンセ』と決まっているのだけれど(いちおうこちらの選択になっている)、あらためて「必読書150」のリストを見て、あれも読みたいこれも読みたいとか、これは読んだどうだったとかいうはなしになった。こちらはレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んでおもしろかった、ブラジルに行くとちゅうの船のこととかも書いてあるんですけど、そこでやることないからずっと甲板にいて雲を見てるんですよ、で、その雲がどんなふうに変化するかっていう記述を八ページくらいずーっとやってたりして、あれはすごかったな、そういうのを読むかぎりレヴィ=ストロースって文学的な能力もそうとうあったひとで、なんか若いころ小説書いてたらしいんですよね、小説とか戯曲とか書いてたみたいで、未発表だとおもうんですけど、などと語って紹介した。こういうはなしはいつものことで、あれ読みたいこれ読みたいとみんなで言い合っては一生あっても時間が足りないと嘆いたり、もっと読まなきゃなあと奮起したりするわけで、これじたいが不毛な時間といえばそんな感もなくはないが、ただそういうはなしをしているとやはり、読まなくては、本を、日々着実に読まなくては、というきもちが再燃するもので、だからこの日のあとかこのつぎの日にはさいきんなかなか読めない『文学空間』を読んだりもした。日記やその他のことに追われつつも、やはり日々着実に読んでいかなければならない。日記はもう基本、コンスタントに満足に書きながら現在時に追いつくのは無理だという現実ができているので、それをみとめ、もうすこしゆるくかんがえて、さきにほかのことにも時間をつかったりしていくべきだろう。日記を書くことを優先してしまうと、それだけで時間がつぶれて心身も疲労するから、たとえばアイロン掛けとかをあとでやろうとおもっていてもできなくなる、ということがあるのだ。(……)だから日記は、そもそも終わらないものなのだと、満足に書くことはできないし、きょう終わらせることは土台無理なものなのだということを前提にして、とりわけ書きたいことがあったらそれをさきに書いたり、比較的重要度の低いことはわすれてしまってよいと妥協したり、書くべき日が溜まっていてもほかのことをさきにやったりと、そういうスタンスにしていくべきだろうとおもう。ただ、ここにしていくべきだろうとおもう、などと済ました顔でかしこぶって書きはしても、じっさいそうできるかというと、こちらの心身が日記を書くことのほうに優先的に向かってしまう傾向があるとおもわれ、こういうことを書きつけたときにその後ちょっとのあいだはそうなっても、しばらくするとまたもとのような状態にもどっているという事態はいままでくりかえされてきた。とはいえすでに事実、うえに書いたような妥協の状態が恒常化してはいるのだけれど。ただとにかくほかのことができない。書抜きができないし読書もできないし、日記いがいの文章を書いてなにかしらのものをつくっていくこともできない。それが問題だ。


―――――

  • 「読みかえし1」: 388 - 394
  • 日記読み: 2021/9/9, Thu. / 2021/9/10, Fri. / 2021/9/11, Sat.

テレビのニュースには二〇〇一年九月一一日のテロから二〇年という報がうつしだされ、それを見た母親は、もう二〇年も経ったんだ、ともらして、あのときは(……)(兄)もオーストラリアに行ってて、お父さんもアメリカに行っててふたりともいなかった、みたいなことを言ったのだが、それは記憶ちがいではないかという気がする。兄はたしかに高校時代にオーストラリアにホームステイをしていたことがあるのだが、二〇〇一年九月だとこちらは一一歳、兄は五歳上だったはずだから一六歳で、高校一年だろう。ホームステイが高校一年だったかさだかでない。二年時ではなかったか? という気がするのだが。それにホームステイは夏休み中だったというから、だとすれば九月にはもう帰ってきていたのではないか。父親が当時アメリカにいたというのもたぶんまちがいで、たしかに父親も会社の出張だかなんだかで短期アメリカ(ハワイなどだったはず)に行っていた時期はあったものの、滞在中にテロが起こったということではなかったとおもう。渡米が二〇〇一年だったかどうかもさだかでない。母親の言い分には、記憶の物語化作用による事実の改竄がいくらか起こっているのではないかという気がするのだが。

もう二〇年も経ったんだと印象深そうにもらした母親はしかし事件そのものにはひどい出来事だったという以上とりたてて関心はないとおもわれ、彼女にあって同時テロはただ二〇年というおおきな時間の経過を確認させる指標としてのみ機能したようで、二〇年だから生まれた子どもが成人するくらい、もうそんなに経ったのか、とつづけたあとそこから、八〇歳まで生きるとしてあと二〇年もあるでしょ、それなのに山梨に行ったり畑やったりばっかりで、といつものごとく、再就職しない父親への不満につながった。すごい。あらゆる物事や情報や言説が最終的にそこへとつうじてゆく。飛躍をおりおりはらんだその論理や意味のうごきは、隙間がありさえすればどんなほそいそれでも見出しはいっていける水のようでもあり、『テニスの王子様』にいわゆる「手塚ゾーン」のごとき強烈な引力の磁場が発生しているようでもある。

2022/9/10, Sat.

 人が皆、軽蔑の唾を彼等の顔へふきかける時
 価値もない、また雷に祈 [いのり] をささやく髭 [あごひげ] にすぎない
 これらの英雄たちはおどけた不安につかれ

 滑稽にも街燈で首を吊りに行く。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、15; 「不運」(Le Guignon); 初期の詩; 一八六二年発表)




 いちど七時半過ぎに覚めたのだが、あいまいに寝つき、まどろみをつづけて、だんだんとふたたび浮上。保育園の子どもたちの声が室内にあってそんなに聞こえなかったり、門の開閉する音や送り届けの気配もないことから、たぶんもう一〇時くらいかなとおもって携帯を見るとやはりそうだった。呼吸しつつ身をやしなって、腹や胸や腕や腰をさすったり。一〇時四二分に床をはなれた。洗面所に行って顔を洗い、小便を捨て、出るとガラス製カップでぶくぶく口をゆすいだりうがいをしたり。洗濯ももうはじめることに。ニトリのビニール袋に入れておいたものをひとつずつつまみあげて洗濯機のなかに落とし、注水をはじめると窓辺に吊るしてあったものたちをかたづけた。その後洗剤をそそいで稼働させはじめ、水を飲んだり蒸しタオルで額を熱したり。寝床にもどるときょうも日記の読みかえしはサボってウェブを見回った。天気はそこそこあかるい。一一時半過ぎくらいに立ち上がって、すでに洗濯は終わっていたので洗われた衣服類をハンガーにつけて、窓外へ。このときにはもう陽が出ており、ワイシャツを吊るせばかたむくくらいのながれもあって、よく乾きそうな雰囲気だ。それから屈伸したりしてのち、瞑想。一一時五八分からはじめて、目をあけるとちょうど一二時半だった。寝床で胎児のポーズをやったりなんどか屈伸したりしておいたから、脚が痛くならず姿勢も安定して、三〇分座ることができた。首のすじなんかがじわじわと剝がれるような感触でほぐれていってからだの統合性が高まるのを感じつづける。脚も終わってみればしびれていないわけではないのだけれど、やっているとちゅうはそれを顕著に感じず、さまたげにならない。携帯を見ると電話がはいっており、見覚えのある番号だったがなんだったかなとおもって履歴をさかのぼると過去にかけた記録もあり、地元の美容室か? とおもったがそうではなくて(……)だった。脚のしびれが取れてからかけてみると受付の女性の知った声が出るので、お世話になっております、(……)と申しますが、電話をいただいたようですが、と向けると、いま臨時休診をしていてそのお知らせだということだった。一三日まで休みだというが、ヤクはまだけっこうあるので問題ない。事情は知れないけれど、(……)先生ももうそこそこの歳なはずだし、なんか急に病気になったとかそういうことかもしれないとおもった。あるいは、期間がくぎられているということは身内の不幸とかか。いずれにしても礼を言って切り、それから食事へ。サラダはキャベツとセロリ、豆腐、サニーレタス、大根、ハム。サニーレタスとリーフレタスはいったいなにが違うのか。値段もおなじ税抜き一五八円だったとおもうし。きのう買ったキューピーのごま油&ガーリックドレッシングをかけて食うが、このドレッシングはセロリと合わせるとけっこう風味がよくなる気がする。その他これも昨晩買った冷凍のミートソーススパゲッティ。食後はさっさと皿を洗い、というかサラダをつくったその直後とか、スパゲッティをあたためているあいだとかからすこしずつもう洗っているのだけれど、かたをつけると活動前に音楽を聞くことにした。音楽を聞くというかこれも静止して肉体をやしなおうということの一環で、BGMなしのふつうの瞑想はもういちどやっているし、音楽聞きつつもうすこしからだを落ち着けようみたいなことなのだが。Amazon MusicにアクセスするとおすすめとしてJoshua RedmanBrad MehldauChristian McBrideBrian Bladeがやった『Long Gone』が表示されており、すこしまえに一曲だけ先行公開されていたのを聞いたけれど、これが発売されたらしいので聞いてみようと選択した。“Long Gone”, “Disco Ears”, “Statuesque”と三曲目まで。Brad Mehldauがよい。一曲目も二曲目も、よくこんな旋律つくれるなという音使いで、ふつうにコードに合わせるアプローチはほぼないのだけれど、かといってあからさまにアウトするでもなく(たしか一曲目のほうでは後半に行くにしたがってすこしずつそういう感覚も増えてきていたが)、あいだの絶妙なところを探索している感じがある。じゃあそれはモード的ふるまいなのかというと、そのあたりの楽理はぜんぜんわからないのだけれどたぶんそういうことでもなくて、もっと独自の、別様の旋律体系を持っているんだろうなという気がする。不思議な音使いなのだけれど、ほかにあまりない感覚で、聞いているとある種の快楽が生じる。それに比べるとJoshua Redmanのほうは比較的わかりやすい、尋常なほうに寄った音のつらなりをつくる気がするけれど、二曲目なんかはソプラノでじつになめらかに縦横に行き来して音を埋めていて、そのきっちりしたリズム感での連鎖もきもちがよい。二曲目はすこしColtraneカルテットを連想したのだけれど、それは単に曲調にほんのすこしそんな雰囲気があったというのと、ソプラノサックスをつかったということと、Brian Bladeが広範囲にいろいろ手を出しているのがElvin Jonesをちょっとおもわせたというくらいのことではないか。RedmanじしんはColtraneみたいに音を一気に詰めこんではやく吹くということはほぼやっておらず、むしろうえにも触れたように正確なリズムで八分音符をひたすらつらねていく時間がおおかったとおもうし、MehldauとMcCoy Tynerはぜんぜんちがう。ともあれ格好良いサウンドではあるし、現代ジャズ界のおのおのの方面の最高峰のひとりと言ってよいにんげんたちが揃っているわけだから、わるくなりようがない。ただ、それであるがゆえに、この四人ならまあだいたいこういう感じになるよな、というところはある。そしてそれがやはり、たとえば六一年のBill Evans Trioなんかとはちがうところなのだとおもう。まったく主観的な言い分なので根拠をしめせないが、六一年Village VanguardのEvans Trioには、あの演奏があのように成り立ってしまうということがまるで自明ではないという感覚があり、音楽とはまったく自明の事態ではないということが音楽じたいによって証言され、あかされているような感じを受ける。そこでいつも、When you hear the music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again. というEric Dolphyのことばをおもいだしてしまうのだけれど、音楽が成り立つということはすこしもとうぜんのことではなく、必然的なことでもなく、それはつかのまの、たまさかの成立にすぎないのだと、音楽はtransientなもので、なにかがすこしずれれば立ちどころに成り立たなくなってしまうものなのだと、そういうことを証言しているように感じさせる種類の音楽がときにある。六一年のBill Evans Trioがそうだし、たぶんColtraneカルテットもEric Dolphyもそうなのではないか。それがかれらのようなレジェンドといわれる音楽家たちの特質で、その音楽は、これが成り立つか成り立たないかわからないし、いま成り立っているとしてもなにかがちがえばとたんに崩壊してしまいかねないという危機を踏まえた地点でどうにか成立している、という感覚をふくんでいる。ことは六一年のBill Evans Trioにかぎらない。音楽とはほんらい、すべてそうであり、いま成り立っていることがつぎの瞬間にはもう成り立たなくなってしまうかもしれないという、根拠のとぼしいところでどうかして絶え間なく維持されつづけているもののはずだ。Joshua Redman以下四人の演者たちが演奏中にそれを感じていないわけがない。ないのだが、さきほど聞いた『Long Gone』は、すごい演奏、すばらしい演奏であることはまちがいがないのだけれど、この音楽がこういうふうに成り立つということは自明であり、あらかじめわかっていることだとおもえてしまう。だから聞きながら安心してしまえる。安心してすごいとおもえる音楽だってそれはそれで良いのだけれど、ひるがえってBill Evans Trioを聞いたときには、つねに危機を踏まえながら刻々それが維持され持続されていることの非自明性に感動し、泣いてしまうわけである。じっさいこのあと六一年六月二五日のライブの二枚目から"Alice In Wonderland (take 2)", "Porgy (I Loves You Porgy)", "My Romance (take 2)"と聞いたけれど、一曲につき一回は泣いてしまった。音楽の成立を自明のものとせず、形式との葛藤や角逐のなかで、すこしまちがえばもう崩れてしまうという危機の場所にいる演者としてわかりやすいのは、やはりあきらかにLaFaroで、かれはむしろ隙があれば形式をみずから揺さぶりに行こうとするような、どこまでがだいじょうぶでどこからがもう駄目なのか、その境を探ろうとしているようなおもむきがあり、その振る舞い方は破壊衝動やある種の自殺願望のようなかたちにすら聞こえる。そういう破壊性と対峙しながらEvansはEvansで、それが見えていないかのように、じぶんにできる最高のことをつねに、ほんとうにつねにやりつづけている。じぶんにできる最高のことをやっていない瞬間がない。絶望的にすさまじくすばらしいその一貫性、一定性は、明晰な狂気である。一見ひたすら透明でうつくしいのでそうとおもわれないが、そのじつ狂気としかおもえないほどにきわまったひとつの明晰さである。だれもがきれいだと言い、だれもがうつくしいと言い、わかりにくいこと、不思議なこと、異常なことはそこになにもないとおもうだろう。とんでもない。LaFaroをまえにしながら決して乱れなくつねに維持されているその明快さこそが、Bill Evansというピアニストの、そしてまたこのトリオの、もっとも異常でおそるべきところである。"My Romance (take 2)"のピアノソロは完璧を具現化しているように聞こえてしまう。LaFaroにもどると"Alice In Wonderland (take 2)"はベースソロもすごくて、バッキングのときのような自殺願望的なやりかたとはまたちがうけれど、ソロはソロでベースという楽器に安住していない感じがありありとあって、ベースソロのやりかたはまったく自明ではないという認識をもっていたとしかおもえない。しかもそれでいてすばらしいパフォーマンス、すばらしい踊り方におさまっているわけで、六一年時点でこんな弾き方をしていたというのは、やはりあたまがおかしかったんだろうとおもう。EvansとLaFaroのふたりはいわばそれぞれにひとつの極限にいるのだけれど、そのあいだにあってMotianはあいかわらずなんだかよくわからない。かれにはそういう極限的な、究極的な感じはなく、ふつうなところもありつつときどきひとりだけちがうゲームをやって勝手にたのしんでいるみたいな変なところとか、半端な感じがある。だからこそ、うまく行ったのかもしれない。EvansとLaFaroのふたりだけでは成立しなくて、Motianが単にふつうではなく、かといってぶっ飛んでしまっているわけでもなく、変に中途半端だったからこそ、このトリオが成り立ったのかもしれない。二時半くらいからはじめてここまで記すともう四時一二分。


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 いま九時二二分。五時から(……)と二時間通話して、それから七日の日記八日の日記と書いてしまえたところ。これであとはきのうのことを記せばだいたい済むわけでよろしい。きょうはここまで部屋から出ていない。さいきんは休日でもかならずいちどは歩きに出ていたはずなので、籠っているのはひさしぶりだ。このあと夜歩きに出てもよいし、そうするべきだろうが、その気が起こるかどうか微妙な感じだ。とりあえず腹が減ったので食事を取りたい。


     *


 (……)との通話でことさら書いておきたいことはそんなにないのだが、ともあれなにかがあたまのなかに寄ってくるか、書き出してみよう。さいしょのうちはこちらがひとり暮らしをはじめたということで、生活はどうかとか、家電は友だちといっしょに買いに行ったとか、部屋はかたづいておらず床の掃除もなかなかできなくて汚いとか、サラダをつくっているだけで調理はまだはじめていないとか、(……)が聞くのにこたえてそんなことをはなした。あちらも(……)で「(……)」の活動、すなわち宣教もしくは伝道((……)本人がつかっていたことばは後者だったはず)をやっているので、そのへんのことをたしょう質問して聞く。いまは週二であつまって聖書をまなぶ会合があるという。(……)はけっこうひろく、人口がたしか四六万人と言っていたとおもうからけっこうな規模で、市内だけで「(……)」のグループが一三〇だかあるとか言っていた。そのうちのひとつに(……)も参加し、コロナウイルスがふるっていたころはオンラインだったが、今年の四月だったかそのくらいから公民館的なところにあつまるようになったと。四六万人の都市とはいえ一三〇もグループがあるとは(しかも一グループで数十人と言っていたとおもう)、信徒はずいぶんおおい。しかも東京や大都市圏ですらない、地方の一都市でそれなのだから、(……)という組織もだいぶの勢力をもっているなとおもうもので、統一教会しかり創価学会しかり、宗教的なものにたいする忌避感がつよいとか、無宗教社会だとかいわれる日本でも、ずいぶんと宗教がちからをもっているなとみえる。伝道をしてみると、(……)は東京よりもひとがゆっくりしていて、はなしを聞いてくれるひとがおおいような印象だということだった。伝道はふつうに訪問をして、聖書をまなんでいるとか、こういった疑問についてかんがえているとか活動を紹介し、誘うようなかたちらしい。実家にいたころうちにも二、三回来たおぼえがある。母親はちょっとはなしを聞いてあげていたようだった(最終的にはがんばってくださいと言いつつことわるわけだが)。
 こちらから(……)の生活や近況などについて聞いたのはそのくらいで、あとはだいたいむこうの質問にこたえるか、なにかあたまに浮かんだことを喋るかという感じだった。後半は(……)が、あれ、まえにも聞いたかもしれないけど、(……)さんは、神についてはどうおもってるんだっけ? と聞いてきたのを端緒に、わりとそういう哲学的だったり抽象的だったりする方面のはなしをいろいろ語った。神にかんしては質問に、実在として信じてはおらず、存在しているのかいないのか端的にじぶんにはわからない、実在というよりは、にんげんがものを突き詰めてかんがえていったときに必然的に行き当たらざるをえない存在のようなものじゃないかとおもう、とこたえると、ひとがあたまのなかでつくりだしたっていう、と来たので、まあつくりだしたっていうか、どうしても出てきちゃってかんがえざるをえないっていうか、と返す。そういう観念としての神はわかるが、この世界をつくった超越的な存在としての神というのは、端的にじぶんにはリアリティをもって感じたり、そこにつながることができない、だからよくわからないというほかないとじぶんの感覚を述べてまとめた。(……)は、じぶんが神を信じているのは(というのだから(……)だってやはり神を「感じる」のではなく、それはあくまで感覚にかかわらず実在を「信じる」ものなわけだ)、まさしくいま(……)さんが言ったようなことで、なにをかんがえるにしても最終的に神に行き当たっちゃうとおもうんだよね、世界でもなんでもいいんだけど、なにかものがあったら、それをつくったものとして神がいないとおかしいとおもう、と言った。たぶん、世界が複雑によくできすぎているから、それがしぜんに構成されたとはおもわれず、それをつくった存在がいないとおかしいという趣旨だろう。のちには、こちらが風景や書くことのはなしなんかをしたあとだが、海とかをみていてもすごくきれいだよね、にんげんがきれいって感じるようにできてる、じゃあそれをつくった神は、まあ……なんかあたたかい、やさしい神かな、とか、と述べていた。この点がすこし不思議なところで、(……)の立場からすれば神は全知全能でわれわれの理解を超えた存在であるはずなのに、それに形容詞をあてて人間的意味に引き下ろし、ある程度いじょう人格化して語ることをするわけだ。神は言語を超越した存在であり、どのような表現や性質もそれをただしくとらえることはできないというかんがえではないのだろうか。あるいは反対に、神は全的な超越者なのだから、すべての比喩を吸いこめる大空のように、どんな言語や形容詞をも受け入れておのれの性質とすることができる、という理屈なのだろうか。どちらでもよいのだけれど、神というものをリアリティをもってじぶんのなかに位置づけることができないということをはなしたあとに、でもいま言ったことと矛盾するようだけど、敬虔な宗教者のそういう感じもちょっとわかるような気もするけどねと言って、じぶんの書きもののいとなみのことを説明した。いままでなんども書いていることなのでめんどうくさいから割愛するが、つまり風景を見たときにおぼえるこれは書くに値する、書きたい、という感覚とか、日記をつづけて書ける範囲がひろがるにつれて、まったくおなじ一日はなくそのすべてがちがった固有性をもった一日であり、それをさらに微細にかんがえるとそもそも生のどの瞬間もほんらいはまったくちがった固有性をもつ一回だけの瞬間だという認識にいたり、そしてそれらすべてが原理的には書くに値するのだという一種の「信仰」をえた、というはなしのことだ。だからいってみればおれにとってはこの世界そのものが神みたいなもんだよね、と言い、それは宗教者が神にたいしていだく感じとあまりちがってないんじゃないかとおもう、と述べた。
 (……)がじぶんの神にたいするスタンスを語ったあとに、こちらとあちらの相違点として、起源をもとめるか否かというところだとおもうと指摘し、じぶんはまあわりと世界はそれじたいとして勝手にあるとおもってるタイプだと言った。それにくわえて、おれはそもそも世界に起源があるということがいまいちわからない、神が宇宙をつくったでもいいし、物理学ならなんかビッグバンで宇宙が生まれてとかいうわけだけど、まったくの無からなにかが生じるっていうことがおれにはわからないから、世界にははじまりなんてなくて、そもそもさいしょからあったし、いままでありつづけてきたし、これからもずっとある、はじまりがないのだから終わりもないという、そういうほうがおれにはわかる気がする、もちろんビッグバンいぜんの世界はいまとはまったくちがうわけだよ、そこにはまだ地球もないし、生命体もないし、星もないしなんなのかよくわからんけど、でもなにかしら世界が世界としてあっただろうと、まったくの無だったというのはわからない、と述べた。そもそも有と対比された相対的な無ではない、それじたいとしての純然たる無そのものをにんげんは思考できないはずだとおもうので、その無と有のあいだにある断絶(文学的に言うなら深淵)におもいあたったり、絶対無など存在しない(なんという語義矛盾的ないいかた!)ということをおもえば、無起源性のほうがふつうに納得行くような気がするのだけれど、まあそういうことをずっとむかしの、古代ギリシャの哲学者で言ってるやつがいて、そのかんがえを読んだときにおれはけっこうしっくりくるとおもったな、とふれたのはパルメニデスのことである。マジで「ある」の永遠的偏在というパルメニデスの論はこちらにはなにほどかのリアリティをもって受け止められている。そういうはなしにたいして(……)は、でもビッグバンよりまえにもなにかがあったし、ずっとありつづけるっていう、そのなにかが神なんじゃない? と言った。宗教者はまあそういうだろう。ただ、そうなるとそれはこの世界そのものと神がおなじだと言っていることになるから、そもそも宇宙と神を区別して宇宙をわざわざ神という(超越的であるとされながらしかしたぶんに人格的な要素をふくんだ)べつの概念に変換する意義があまりよくわからなくなるし、また、この世界そのものを超越した創造主としての神はそこではどうなるのか、という疑問も生まれる。神は総体としての世界を超えて世界内には所属しない世界創造者なのか、それとも世界そのものと一体化している偏在者なのか、ということで、(……)の神把握はこのあいだでぶれがあるはずである。けれどそんなこまかいことをいやらしく突っこんでみてもしょうがないし、ややこしくてめんどうなはなしでもあるのでそれは指摘しなかった。神は人知やわれわれの思惟を超えており全知全能であるという前提からかんがえれば、世界創造者として世界を超出していながら同時に世界内に偏在したり、そこと接続することも可能であるようにもおもわれる。なにしろ全能なのだから。だから神は絶対的創造主でありかつ世界そのものであるという超越論と汎神論の二重化も余裕綽々なはずで、そのほかにもひとびとがおのおの神にたいしていろいろなことを言ったり、それぞれのとらえかたをしていることをおもうと、神っていうのはやはり事実上あらゆる言語や概念を吸いこむことのできるマジックワードとして機能し存在しているよなというところに当たる。これは否定神学とは表面上違うはずである。否定神学というのは、神は言語や概念や思惟を超えており、なになにであると言い得ないものだから、なになにでないという言明しかそれについてはできない、という立場のはずで(ちゃんと勉強したことがないからほんとうにそれで合っているのかわからないが)、だから言語がついにいたりえずその周囲に無数に寄りあつまることしかできないおおいなる穴(深淵、すなわち絶対無?)のようなものとしてある。それにたいしてうえで述べたのは、神は全能者だからどのような言語や概念も受け入れる余地があり、いわばすべてが神であるというかんがえのはずだ。わたしもきみもあなたもおれもおまえもきさまも神である。道端の石ころから火星まで、大海から尻の毛のいっぽんにいたるまでぜんぶ神である。それはふつうにかんがえれば汎神論と呼ばれる立場のはずだ。汎神論と否定神学は表裏なのか? わからないが、ただ、これらのふたつのかんがえは実際上おなじことをいっているようにもおもえる。たぶん、「神は言語や概念や思惟を超えており」まではおなじで、そのあとの道行きがちがうだけなのだ。否定神学で神はおおいなる穴だが、汎神論でもすべてを吸いこむブラックホールのようなものとして比喩化されるだろう。そして後者においてもけっきょく、神の超越性は確保されなければならない。全能であり超越者であるというのは崩れない前提だからだ。だから神はあらゆる言語や概念や事物を受け入れて、すべてが神だが、しかしそのすべてのどれも同時に神ではない、ということになるはずだろう。あらゆるものを吸いこんでなお、神はそのすべてを超えたものである。プロティノスの流出説とかがもしかするとこのへんに近いのか?(流出と吸収だから思考のモチーフとしては逆だが)
 あと、さいきんよくじぶんの死をおもう、まあおれももう三二にもなっちゃったけど、死ぬまであっという間だろうなあっていうか、おれも死ぬ、いつか死ぬなってよくおもう、夜道をひとりであるいてるときとかに、べつにそれいじょうなんもないんだけど、いつか死ぬなっていうだけで、だからがんばって生きようでもないし、逆におれの生なんて無価値だでもないんだけど、ただ死ぬなってことはよくおもう、とはなし、そこかられいのハイデガーの理屈と、その格好良さと、しかし同時にふくまれている危険性とかについて(つまりテロリストを生んでしまいかねないという)ひじょうに大雑把に(そもそもハイデガーを読んだことがないので矮小化してしか語れない)語ったりしたが、このへんはめんどうなので省く。いろいろとペラペラ語ったけれど、(……)が果たしてこういうはなしを聞いてどう感じるのか、おもしろいのか否か、なにか益するところがあるのか否か、よくわからない。いちおうあとでメールで、死についてのはなしはおもしろかったと来ていたが。ただそれに聖書の引用が付されて、聖書でもこういうことを言っていますという紹介がつけくわえられているわけで、キリスト者ならまあとうぜんかもしれないが、けっきょくのところ(……)にとってはすべてがそこに回収されるのだろうし、かれじしん積極的にそうしようとしているだろうとおもう。そんなに積極的に勧誘はしてこないが、たまに連絡が来てこちらとはなすのもたぶん伝道活動の一環で、まあべつにことさら誘う気はないけどできれば組織にはいってくれればとはおもうし、聖書も紹介してすこしでもその意義やその思想による幸福を普及していければ、というくらいのおもいがあるのではないか。もしそうだとするとそれはかえってある意味人間的ではないというか、失礼ないいぶんだがある種プログラム化された自動作用にしたがっている機械のようなイメージもいだくもので、じっさい(……)が送ってくるメールにはほぼかならず聖書の文言やそれに関連することがらがふくまれており、どんなことがらでもそれにむすびつけて解釈され、ある意味聖書を引き合いに出すためのネタになる。これは(いますでに九月一四日の午前零時半過ぎなので)九月一一日の記事に一年前から引いてあるが、母親が米同時テロから二〇年のニュースをみながらそれを再就職しない父親への不満へと連想的にむすびつけたのとおなじようなことで、そこでじぶんはその精神のはたらきを、「『テニスの王子様』にいわゆる「手塚ゾーン」のごとき強烈な引力の磁場が発生しているようでもある」と形容している。なんでも吸いこんでしまうわけだ。そういう意味では(……)にとって聖書はまさしく神なのだろう。ただ、すべてがそういうふうに、ある意味聖書のためのネタに、ある種従属的な、副次的な立場に追いやられるとすると、いやいや聖書によらないおまえのかんがえはどうやねん、おまえの感想は、おまえの感情は、おまえのよろこびや怒りや嫌悪や反発や、理解しがたさや興味深さや他者との齟齬や葛藤は、そういったものはどうやねん、というきもちはちょっといだかないでもない。もちろん(……)にそれらがないわけがないのだが、(……)と通話していていつもこちらからあいての生や生活や近況などについてあまり質問があたまに浮かんでこないのは、たぶんこういう、答えの決まっている感じをうっすらと感知し、予見しているからなのではないかとおもう。(……)にとってはおそらく、まさしく世界や自己の答えはもうわかっているのだろう。聖書のおしえをまなび、できるかぎりひろめていくというのがかれにとっての世界と自己の真理だろう。そういう意味でかれは一種の知者である。だが、こちらは知者ではない。こちらは解を見出してなどいないし、絶対的な解にいたろうなどともおもっていない。じぶんなりに知り、まなぶことと探究をつづけることこそがこちらの望みである。解など、その途上で行き当たるたんなるひとつの結果でしかなく、暫定的な宿りでしかない。アクシデントのようなものではないのか。こちらはじぶんを哲学者だとも思想家だともおもっていないが、はばかりながら知をもとめつづける性向、愛智的性質をそこそこもっているとはおもっている。そういう意味でのフィロソフィア的存在でありたいというきもちはある。つづけようではないか、放浪を、堂々巡りのうろつきを。あるきつづけようではないか、回遊しながらもどってくる、その都度おなじでしかし変容した風に吹かれながら。

2022/9/9, Fri.

 ありがとう、新しい年はわたしにとても親切だ。つまり、言葉がわたしに向かって、形となって湧き起こり、舞いながら飛んで来るということだ。どんどん年老いていくにつれて、この魔法のような狂気がますますわたしを包み込むかのようだ。奇妙で仕方がないのだが、わたしはおとなしく受け入れるようにしよう。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、297; ジョセフ・パリシ宛、1993年2月1日午後10時31分)




 八時半ごろに覚醒した。携帯で時間を見て、まあこのくらいならいいかと判断し、もう起床に向かうことに。そうは言っても時間はかかって、起き上がったのは九時一五分くらいだったが。寝床にいるあいだはまた鼻からゆっくり呼吸したり鳩尾あたりをさすってやわらげたり、腹や脚の付け根を揉んだりしていた。窓外では子どもたちのにぎやかな声が響いており、たぶん園庭に出るだけではなく近間の公園に出かけたりしていたのではないか。保育士がなんとかいうのに、ふだんはバラバラにさわいでいるのにそこだけみんなではーい、と声を合わせたりするあたり、よく教育されている。つづけてなんとかいわれるのに、活発な子がスミレ! とかこたえてもいた。洗面所に行って顔を洗ったり、黄色い小便をながながと放ったりして、室を出ると水を飲みつつパソコンを用意。電子レンジで二分間の蒸しタオルをつくっているあいだに屈伸したりした。そうして額から目にかけてをあたためると寝床にもどったが、きょうは日記の読みかえしをサボっててきとうにウェブを見回るだけになってしまった。一一時にいたって再度の離床。水をまたちょっと飲んで、浄水ポットからペットボトルへあらたに補充した。そういえば日記に書いたかおぼえていないが、浄水カートリッジは先日『文学空間』といっしょのタイミングでAmazonで買って、数日前にあたらしいものに交換した。だいたい八週間だったかが適正期間らしく、浄水ポットの蓋にあとどれくらい期間がのこっているかを四段階の目盛りで表示する機能がついている。それが尽きたので。尽きてからも二、三回、替えないままにつかっていたけど。そうして一一時八分くらいから瞑想した。れいによって足首がかたいままなのでつづかず、二〇分も行かなかったはず。さすったりしてからやったほうがほんとうはよいのだろう。食事もいつものようにサラダにハンバーグやナゲット、それにパック米である。そろそろ調理をはじめてもうすこしなんかバリエーションを持たせたいが、そのためにはまず電子レンジを冷蔵庫のうえから移動させなければなるまい。食事中はきのうにひきつづき、コ2 [kostu] のサイトの連載記事をいろいろ読んだ。筋共鳴とか、後屈入門とか、イールドワークとか。筋共鳴とか反射区みたいなはなしはもろにそうだが、だいたいみんなからだ全体の連動性とか統合性みたいなはなしをふくんでいて、やはりそういうことなんだろうと。さいきんストレッチをやっていてもおもうのは、姿勢を取っているあいだに、伸ばしている該当箇所だけではなくてその他の部位とかからだ全体の感覚とかをも意識したり観察したりするのが大事だということで、だから要はマインドフルネスでいうボディスキャンをやりながらやるということでもあり、まえからなんども書いているように肉を伸ばすというよりはポーズを取った瞑想としてやるということでもあるのだけれど、つうじょうの座位でおこなう瞑想はとくべつどこも伸長させずなにもせずにからだの全体を感じつづけるということで、いわばニュートラルなかたちでおこなわれる身体観察であり、座ってじっとしているとまさしくからだの統合性が高まって正確に調律されたような感じになる。なぜなのかわからないが、ある部分を意識しているとそこがほぐれてくるということがじっさいに起こる。そこの部分の感覚に意識を向けることで血流がうながされたりするのだろうか。めちゃくちゃ下世話な例だけれど、股間を意識することで勃起してしまうみたいなことなのか。瞑想は措いてストレッチのたぐいでいちばん全身の統合性を感じたり確保しやすいのは背伸びか胎児のポーズではないかとおもう。それで食後、皿を洗ったあとはやたら背伸びしてしまった。ただ手をゆるく組んで直上に伸ばしあげて目を閉じながら静止するだけなのだけれど、足の裏からあたまのさきまでという感じでこれがなかなかよろしい。首とか胸とか背とかがだんだんほぐれてくる。コ2の後屈入門でも、この連載はさいしょとさいごの記事しか無料では読めずとちゅうのほかの記事はnoteで一五〇円だか払わなければならないのだけれど(そのほかの連載もだいたいそうだ)、さいごの記事で、大事なのは筋肉を伸ばすことではなくて、つま先からあたままで全身が連動していることを感じることだと書いてあった。そういうわけで屈伸などもはさみながらしばらくやってしまい、そうするともう一時である。ここまで書いて一時半前。二時半には出るからもうシャワーを浴びて準備をはじめなければならない。


     *


 その後シャワーを浴び、ワイシャツにアイロンをかけたり歯を磨いたりして身支度。着替えて荷物を用意すると二時半までいくらかのこったので、ちょっとだけでも床の掃除をしておくかと、扉脇の隅に立てかけてある箒とちりとりのセットを取った。埃がつく可能性があるから、やるのだったら着替えないうちにやったほうが良かったのだろうが。そういえばスラックスの腹まわりがゆるいからベルトをつけようとおもって、きのう冬服の茶色いズボンにつけてあったやはり茶色のベルトをはずしておいたのだけれど、いざスラックスを履くと腹まわりを締めつけるのがなんかなあとおもわれたのでけっきょくゆるいままで行くことにした。そうしてしゃがんだ姿勢を取りつつ床のうえを掃き、埃や髪の毛をあつめてはゴミ箱に捨てる。髪の毛がとにかく多い。一〇分少々だったが、扉付近から椅子のした、寝床のきわまでいちおう始末できた。机のしたのコットンラグのうえはぜんぜんやっていないし、椅子のしたの保護シートの裏も同様。シートの表面にもゴミがついたりしているので、ほんとうは掃くだけではなく拭き掃除もしなければならない。そうして二時半をむかえたので出発へ。建物を抜けて道を踏むと左に折れる。太陽は雲にひっかかりながらもひかりを送って路地には明暗の差がうすく湧いており、公園に来ると滑り台に群がる子どもらをあそばせて遠くでながめながら立ち話をしている女性ふたりの、うちいっぽうが折りたたみのような平たいかたちの青い傘で頭上をまもっていた。右折して西を正面にしてもけっこう暑い。路地をすすめば停まっている車につやが宿る瞬間もある。ある一軒では軽自動車のボンネットとあたまのうえに、デフォルメされた花の絵の座布団が四つ、置かれて陽に当てられていた。小公園を過ぎたあたりでまえから小学生の男子が三人やってきて、そのさきにも立ち話をする女子ふたりがいたり、出口にみえるおもての横断歩道のところでは旗をもった老人が誘導役をつとめ、ランドセルの子どもたちのすがたが横にながれていく。いままでこの時間に下校する小学生をみかけたおぼえはない。夏休みが終わって学校がはじまったからか。それにしても一学期中もみかけた記憶がない、とおもったが、六月七月はパニック障害の再発で金曜日に出勤することがすくなかったから、そのためではといまおもいあたった。通りをわたって細道にはいると前方からやってくるチェックのシャツで白髪の年嵩は、(……)というなまえのスーパーの店員である。きのうも夜に行ったときレジをやってもらったが、いまから出勤ということはたぶん三時からだろう、それできのうは一〇時半前にいたわけだから、きょうもおなじだとすると七時間半、ずいぶんながいなとおもった。ながいというかそれがふつうなのかもしれないが。いちにち六時間いじょうは決して労働しないこちらからするとながい。とは言いながらじぶんもさいきんはなんだかんだのこってながくなったりもするが。しかし週三だ。それがじぶんの限界だ。週四いじょうは無理。
 駅にはいると緊張をうっすら感じた。ホームに行っても同様。とりあえず携帯とイヤフォンを出して、Curtis Mayfieldの『Curtis/Live!』をながしはじめる。来た電車に乗ると扉際に立って目を閉じるがやはり緊張はある。(……)に着いて移動し、乗り換えてからも同様。しかもこの日はこの時間にもかかわらず乗客がやや多い。車両のいちばん端にもベビーカーをともなった夫婦があったので最奥の隅は取れず、その手前の扉際に立つ。緊張はそこまでつよくはないものの、うちに圧迫感は絶えずあり、それがいつ高まってくるかわからないというおちつかなさにつねにおびやかされてはいる。しかし立ったままではあるものの手すりをつかんで瞑目のうちに静止し、からだがほぐれておちついてくるのを待つ。夫婦は(……)で降りていき、それで角を取ったが、そのおかげもあってじきにこれならだいじょうぶだなという感じになってきた。きょうは背伸びをよくして血をめぐらせからだをほぐしたつもりでいたのだけれど、電車に来てみればじっさいには肌がけっこうざらついていて身におちつきが足りないわけである。そうしてちからを抜いてじっととまりながら待っていると、だんだん肌のざらつきがなくなっておちついてくる。つまり瞑想をしているときとおなじことなのだが、それでおもったのだけれど、身の安心、心身のおちつきというのは、たんに血流が良くなっている、からだがあたたまっているというだけではなくて、やはり統合性の問題なのだろうと。からだぜんたいがなめらかにひとつながりになったかのようにまとまっているという統合感覚こそがおちつきをもたらすのであって、バランスの問題なのだ。いくらよく血がめぐって体内が活発になっていても、それが身体全体としてよいバランスになっていなければ安息は生まれない。そして、そういう統合感覚を身に呼ぶにはやはり瞑想がいちばん効果があるとおもわれる。だから起床時に一回と、くわえて外出前にもういちどできたほうがよいのだろう。実家にいたときにはだいたいそうしていた。一晩ねむるとからだというのは統合性をうしなっているというか、前日のメンテナンスがかんぜんにうしなわれるわけではないけれど、こごったりざらついたりよどんだりかたまったりして、いってみれば惨状を呈しているというか、かなりバランスのわるい状態になっている。だからそれをまいにちとりなおし、調律的にととのえて、あらたにはじめなければならない。ねむるとどうしたってチューニングが狂っているんだよな。しかしそれは必要なことなのだろう。つまり、ギターもきちんとしているひとはネックに負担をかけないように、弾いたあと各弦をてきとうにゆるめてしまっておいたりするけれど、それとおなじようなことがからだにも自動的におこなわれるのだろう。こころをおちつかせるには丹田だとか上虚下実だとかよくいわれて、そういう東洋身体術の方面のひとはぜったいに、かならずみんなそう言うのだけれど、それからするとやはり下半身をよくうごかして血をめぐらせておくのが大事なのではないか。屈伸とか胎児のポーズをやると全身に血がまわるので、脚や太ももをほぐして血をまわしたうえで、瞑想してそのながれをバランスよくするのが身体養生としてはよさそう。ところでCurtis Mayfieldのライブ盤は、(……)行きに乗ってから序盤のうちは緊張があったのでたいして耳を向けられもしなかったのだが、冒頭曲の"Mighty Mighty"のとちゅうで、we don't need no music, we got conga! とか、we got soulとか言ってパーカスをフィーチュアするのはいいなとおもった。あと英語がやはりほんのすこしながらいぜんよりも聞き取れるようになっているのだが、"People Get Ready"で、train to Jordanどうのこうのとか、There ain't no room for the hopeless sinnerとか言っていて、宗教的もしくは政治的な歌詞の雰囲気が感知され、この曲ってそんな歌だったのかとおもった。また、"Stare and Stare"のころにはもうおちついていたのでわりとよく聞けたのだけれど、ギターいっぽんからはじまるこの曲のそのギター、音数はおおくないくせにくねくねしており譜割りがどうなっているのかいまいちよくわからないようなこれはいったいなんやねん、とおもった。ほかの楽器やボーカルがはいってくるにつれて、拍子がふつうに四分の四だということはわかるのだが、妙な譜割りになっていて、リズム感が至極つかみづらい。そんななかでCurtis Mayfieldはふつうに四分の四にあわせたボーカルを取っているからへんな感じだし、ギターもソロのときにはそういうリズム感になるのだけれど、このリフのときにこれをどうしぜんに感覚しているのかがわからない。


     *


 電車内での静止によってからだがだいぶおちつきはしたのだけれど、勤務にむけてもうすこしあたためておくかなとおもい、時間にまだまだ余裕があるので駅を出るとそのへんをひとまわりしてくることにした。職場の脇から裏路地にはいってまっすぐ行くと、どうかんがえても客などはいっていないだろうとおもわれるイタリア料理屋とかとんかつ屋とかがあるのだが、そのあたりで関電工のひとびとがクレーン車を出して電線をいじっていた。というかそれいぜん、駅前駐車場の脇に軽トラが二台停まっていて、青いつなぎを着込んだ関電工のひとがそのいっぽうからなにか道具を受け取ると、まるでロボットの歩みめいたうごきでガシャガシャいわせながらもういっぽうの荷台に移し、それから道の奥、クレーン車のほうに歩いていった。荷台にはよくわからないがなにか円形の、タイヤのホイール部分のようなものがたくさん載せられてあった。そうしてすすんでいくとクレーンに乗ったひとが作業しているところにあたり、交通誘導員が端をどうぞとしめしてくるので会釈して、頭上のようすをみあげながらとおりすぎた。そのさきは路地がいったん切れて十字地点に出る。まっすぐすすめば林の脇を抜けていく裏道で、そこの木々からはミンミンゼミがまだ鳴きをあげているので、さすが地元だなとおもった。右折しておもてへ。すぐ街道にあたるのでまた右折。そうして車道沿いにまっすぐぶらぶら行き、駅前でまた右折すれば長方形にひとまわりするかたちで職場に着く。
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 帰路は(……)までまたあるいた。街道沿いの北側を行く。さしたる印象はない。空気はかなり涼しかったはず。駅に着くとホームの先頭に出て乗車。車中では着席して瞑目に休む。ややまどろんだ。やたらねむいというか、からだが重いようで、(……)に着いて降り、階段をのぼってみても、あるいてきたためか脚に疲労と熱が溜まっている感があり、とにかくねむく、これだと帰りにスーパーに寄ろうとおもっていたがやっぱりやめようかなとおもったが、(……)線にうつって扉際で待ち、(……)に降りたころにはすこしねむけが散っていて、けっきょく寄った。寄ったのはドレッシングを切らしていたので買いたかったためである。キューピーのごま油&ガーリックのものと、コブサラダドレッシングにする。そのほかキャベツやタマネギとか、冷凍のパスタとか。レジはきのうと同様白髪の(……)氏で、やはり行きにみかけたときからこの時間まではたらいているのだ。その後の帰路にたいした印象はない。じぶんのちいさな足音を聞くに周囲からリーリー鳴きを送ったりヒュルヒュル立ちあがったりする秋虫の声よりもかすかで、そうしたしずかなひとりの夜道のなかではじぶんも秋虫も一片として平等で、じぶんが世界の中心などではなくたかだかひとひらの、宮沢賢治のいいかたをかりればただ一粒の銀のアトムにすぎない、その自己における脱中心化とたんなる希薄な単一への埋没が、この世界がひとにあたえてくれる恩寵だろうとおもったが、これをおもったのは正確にはもともとこの二日前、水曜日の帰路のことだった。帰宅後は休んでから食事を取り、日記をいくらかでも書こうとこころみたのだが、メモ帳をひらいて文をすこし落とすとすぐに詰まり、そこで目を閉じて来たるものを受けようとしても食後の肉体の重さとねむけに殺されて、耐えられず寝床に投げ身してそのまま意識をうしなった。

2022/9/8, Thu.

 夜になると、わたしはコンピューターに向かうこともある。そうでなければ、無理をしたりはしない。言葉が浮かび上がってこないかぎり、じっとしていればいい。何も閃かなくてコンピューターのそばに近づかないこともあって、死んでいるのかただ休んでいるだけなのか、そのうちわかることだろう。とはいえわたしは次の一行が画面に現れるまでは死んでいる。書くことは神聖なことではなくどこまでも必要欠くべからざることなのだ。そうだ。そのとおり。その間、わたしはできるかぎり人間らしくいようとしている。妻に話しかけ、猫を可愛がり、そうできる時は座ってテレビを見たり、あるいはもしかして新聞を一面から最後の面まで読んだり、あるいはもしかしてただ早く寝たり。七十二歳になるとは新たな冒険なのだ。九十二歳になったら今を振り返って大笑いすることだろう。いや、わたしはもうたっぷりと生きてしまった。同じ繰り返しはもう勘弁だ。わたしたち誰もがもっと醜くなっていくだけだというのに。こんなに生きるとは思ってもいなかったが、お迎えが来るのなら、わたしは覚悟ができている。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、296; ジャック・グレープス宛、1992年10月22日午後12時10分)


 投稿のさいにうえをちょっと見返しておもったのだけれど、この九二年の時点ですでに「コンピューター」なのだなと。これいぜんはずっと、ブコウスキーは文を書く道具としてタイプライターについて言及していた。このころのコンピューターというとどんなものなのか、いまでいうパソコンのようなものではまだぜんぜんないはずで、ワープロのたぐいではないかとおもうのだが。そうかんがえると「ワープロ」なんてことばも、いまの若い世代は知らない、聞く機会がないのではないか。




 覚醒すると八時前だった。そのまま深呼吸をはじめて起床に向かう。カーテンの端をめくると空は真っ白でつめたいような色合いである。れいによって腹を揉んだりするが、きょうはそのとちゅうで、カーテンを開けないうちにもうChromebookを持ってウェブをちょっと見たりしていた。起き上がったのは九時前くらいだったはず。洗面所に行って顔を洗ったり用を足したりして、屈伸をしてから水を飲む。そうして寝床にもどると一年前の日記の読みかえし。新聞で読んだ中東方面のニュースをいろいろ記している。紙の新聞がまいにち家に来るというのもやっぱりけっこういいよなあとおもう。いまはニュースサイトをおとずれるのをわすれてしまいがちなので、世情にうとい。イギリスの首相がLiz Trussに変わったのも先日実家に行ったときにそこで新聞の一面を見かけて知った。ウクライナの動向も追えていないのでひさびさにGuardianにアクセスして概観の記事を読み、そのあとは「コ2 [kotsu] 」という武術とかからだのうごかしかたとかのコンテンツをいろいろ載せているサイトの対談記事をいくらか読んだ。藤田一照のものを中心に。そこそこおもしろい。瞑想をしつつよく歩くようになった昨今、やっぱり身体ですわという感じがよりつよくなってきている。
 それで一〇時台まで寝床で時を過ごし、起き上がるとまた水を飲んで、携帯をみると先日も来ていたが家賃保証会社からの着信がのこっていたので、その場でかけかえした。サービスセンターの女性が出たのに、お世話になっておりますと言いながら名乗り、電話をもらったようですがと告げると、したのなまえまでおしえてほしいともとめられたので再度名乗り、すると申し訳無さそうな声色でいま回線が混み合っていてデータを出すのにちょっと時間がかかる、一、二分くらいしたらこちらからかけ直してもよいかと来たので了承していったん切った。そうしてすぐまた来たので受けてはなしを聞くと、先日ネット上でおこなった口座振替手続きは問題なく済んでおり、むこうにも把握されていて、九月分の家賃はコンビニ支払い書を送るのでそれで払ってほしいというので了解した。はなしの終わりぎわに、お手間をとらせて申し訳ありません、と謝っておいた。するとあいての女性はちょっと笑って問題ない旨をこたえた。
 その後二〇分ほど瞑想し、食事へ。もう野菜があまりない。キャベツもなくなっている。リーフレタスを大皿にたくさんちぎって敷き詰め、そのうえに豆腐やトマト、大根やタマネギを乗せてシーザーサラダドレッシング。その他きょうはレトルトカレーを食うことにして、サトウのごはんをあたためて木製皿に出すとともに、ながしのうえの戸棚にしまってあったポモドーロカレーを取り出して、米にかけるとふたたび加熱。食事中もコ2の記事をいろいろ読んだ。藤田一照いがいにもけっこうおもしろいものはある。ただこういう身体系のやつって宇宙だの生命だのおおきな概念とも容易につながって、スピリチュアル方面とも相性が良いのがたまにあれだが。まあこのサイトはそういう要素はそんなにないとおもうが。まあべつにこのさき、身体法をきわめてスピリチュアルがひらかれ、おおいなる大地とたましいとのつながりを体感しちゃってもべつにいいですけどね。それはそれでおもしろいかもしれない。だいいち、文学だって哲学だってつきつめていけば神秘思想へのかたむきは濃厚にありますよ。エマソンとかホイットマンなんてもろにそうだろうし、古井由吉だって中世ヨーロッパの神秘家に興味を持って『神秘の人々』とかいう本を出していたし、日本の古典とか(おそらく日本にかぎらず)近代いぜんの思想なんて言ってみればぜんぶ神秘主義で、そこを否定したら成り立たないじゃないですか、みたいなことを大江健三郎かだれかとの対談で言っていたおぼえもある。
 食後は洗い物をかたづけて洗濯。あるいはもっとまえからはじめていたか? わすれたがこまかな順番はどうでもよろしい。シャワーを浴びたあとは活動のまえにとおもってイヤフォンでYellowjacketsの『Parallel Motion』を三曲聞いたり。良質ではあるけれどまあフュージョンらしいフュージョンの範疇で、おどろくような音ではない。きょうは休日でこころに余裕があるため、日記をさっさと書かなければならないにもかかわらず、書抜きからはじめることにした。カフカ全集一〇巻、フェリーツェへの手紙の前半である。YellowjacketsをひきつづきBGMにして打鍵。それでもう三時をまわっていたはず。やはりあるかないとからだがあまりしゃきっとしないのだが、しかしきょうはあるきに出るやる気が起こらない。夜に買い出しに行くつもりだからそれで歩行の時間は確保されるとおもっていたこともある。それで書抜き後は布団にながれてしまい、ながれつつまたコ2の記事をいろいろ読みながら太ももを揉んだり。パソコンを置き、あおむけで両手をからだの脇に置いて、目を閉じて鼻から深呼吸するという、要するにヨガでいう死体のポーズだが、それもやっておいた。深呼吸もやればなんだかんだ血はめぐってからだはゆびのさきのほうまであたたまってほぐれはするわけで、おりおり時間を取れたら取ったほうがたぶん良いのだろう。消化がすすんで腹がかなり軽くなってからやるのが吉な気がする。あとちからを入れて吐きすぎてはいけない。あくまでもやはりちからを抜く方向でやるべきだ。ウェブ記事にくわえて、ブランショの『文学空間』もいくらか読んだ。この本はやたらむずかしくてなかなかすすまないので、このあいだ通話で(……)くんにも、一一日の会はいったん延期しません? といわれて了承した。(……)さんもそうしようと言っていたらしい。それでその後のLINEのやりとりで、当日は雑談だけするというはなしになっている。
 四時四〇分くらいに寝床を立った。腹が減ったのでちょっとなにかくおうということで、ひとつのこっていたナーンドッグ。しかしそれだけでは飽き足らず、さらに冷凍のチキンナゲットや肉まんも食ってしまう。そうしながらまたコ2の対談記事を読んでいた。武芸というか、身体実践的なものなにかひとつやってみたいな、というきもちをいだかないでもない。スポーツでもなんでもよいのだろうが。体育の成績で2か3しか取ったことのないおれがそんなことをおもうようになるとは。ダンスなんかも、高校のときには運動会でみんな基本参加するダンスがあったのに、クラスでそれを取り仕切っていた(……)に、おれ出なくていい? と無遠慮に聞いて、好きにすれば? みたいなことをつっけんどんに言われてちょっとビビったことがあったくらいだが、いまとなっては踊れるってのはいいことだなあとおもう。じぶんのばあい、ダンスというよりは舞踊というか、踊り、という感じかな。田中泯みたいなことできたらそりゃもうおもしろいんだろうなあとおもう。じぶんのからだをうごかすことがそのまま芸術になるという。たださいきんストレッチとかしてわかってきたのは、たとえばヨガにはいちおうさだめられたポーズが無数にあるけれど、ヨガの根本の部分っておそらくそういうポーズじたいにあるのではなくて、ある一定のポーズやうごきを取ったときにじぶんのからだの各部分がどのようにうごいたりうごかなかったり、どんな作用を受けたりするのか、どの筋肉とどの筋肉がじつはつながっているのか、ここをこううごかすとこっちがこう反応するみたいなことを、呼吸を媒介にした自己観察によってみずから実験し、理解していくということにあるとおもわれて、だからじぶんの身体をこまかく徹底的に知るとともにじぶんが身体であることを知るというのがその原理ではないかとおもうのだけれど、それがただしいとすれば、べつに既成のポーズを取る必要はないというか、ある意味どんな姿勢でいるときでも静止しながら目を閉じてじぶんのからだに観察を向ければ、それがもうひとつの身体訓練になるのだとおもう。ある種どんなポーズやうごきかたでもストレッチになるというか、じぶんのからだがよりよく把握できるようになると、いまここがこごっていて楽にしたいけどそのためにはこういううごきかたをすればいいなとかいうことが容易にわかるようになってきて、じぶんで勝手にうごきかたとか伸ばし方とかを開発できるようになるのだとおもう。まあそういう知見をながい歴史のなかで洗練させて形態化したのが既成のポーズや「型」なのだろうけれど、万人のからだにつねにうまく適合する型など存在するわけがないから、型はあくまで型であって、それとじぶんの身体との距離や齟齬をはかってより合うように調節していくというはたらきかけはつねに必要だろう。
 そのあとここまで記して六時半過ぎ。


     *


 九時台後半に夜歩き兼買い物に出た。アパートを出ると雨がぽつぽつ落ちていたので、階段をもどって扉をあけて傘を持つ。それで再度道に出て、降りは弱いのでまだ差さずにTシャツから出る腕に水の点を受けながら路地を南へ。もう九月も八日でこの時刻となると、かなり涼しかった。風がながれればぬるさと涼しさのさかいで肌にやわらかみだけをもたらす半端さにとどまらず、明確に冷たさのほうにかたむく瞬間がふくまれている。いまは沈黙している建築現場の白いフェンスのまえを行き、車道のあるおもてに出ると右折、西方面へ。このあたりで降りがややこまかく鬱陶しくなってきたので傘をひらいた。あるくうちにまさってきて、パトカーが一台道路に停まっていたがそのライトのなかはななめの線で埋め尽くされて、雨線というよりも空間を壁としてえがかれた疵模様みたいになっている。ドラッグストアやコンビニのまえをとおりすぎてさらに車道沿いに行くあいだしかし、なんにんかすれちがう対向者は歩きも自転車もみな傘を差しておらず、ひとりじぶんだけが頭上に幕をかかげているので、まるでこの雨がこちらじしんにしか見えていないかのような、じぶんだけ雨が降っているべつの位相にはいってしまったかのような感覚が生じたが、もちろんそんなわけはなく、自転車で過ぎていった女性など雨粒にやられて顔をちょっとしかめていたはずだ。道のさきでは踏切りで電車が左右にとおっていく灯がみえる。そのてまえの横断歩道を渡るときょうは踏切りにすすむのではなく右折した。ここはもう(……)通りで、すなわちスーパーのある通りなのだけれど、とちゅうでわざわざ駅のほうに折れてひとまわりするかたちで店にいたろうとおもっていた。このあたりから歩道のタイルがじゅうぶんに濡れたようで信号の青緑がその表面に垂れて浸潤し、薄氷が張ったようになるのが見られた。駅のほうに曲がると左側にいくつか飲み屋や美容室などがならび、そのいちばんさいしょ、居酒屋からいま女性が出てきたところで、いくらかうねった髪の毛をうしろで結わえて腰からエプロンを巻いた店員らしいかっこうのそのひとは、ちょっと休憩なのか、煙草をとりだして一服するようすだった。駅の間近に踏切りがある。その向こうは駐輪場で、オレンジ色の明かりが闇を薄めてきわだっているのをよく帰りに駅のホームから目に留めるが、ひろがるその色は暖色らしいあたたかみをふくむというよりは、なにかおちつかない、精神を覚醒させるような、不穏なような印象をあたえる。駅のまえをとおりすぎて寺とマンションにはさまれた道を行けば風がいくらかながれてこずえが揺れ、向かいからは女性ふたり男性ひとりの連れ合いが来るが暗くて姿形もよくわからない。せいぜい女性のひとりが履いているズボンの白さが浮かび上がって見えるくらいである。角で曲がっておもてに出ると再度右折し、まっすぐ行けばスーパーにまわりこむかたちになる。この時間でも駐車場に車がはいってきたり、入店してみてもそこそこ客のすがたがあった。
 帰路は店を出て通りをわたるとそこの口からは裏にはいらず、左折してまた遠回りをする。このころにはもう雨が降っていなかったので、閉じた傘とビニール袋をそれぞれ片手にもちながら車道に沿っていき、小学校前で右にはいった。頭上にはクラゲ型というべきか、籠のような囲いにはいった白い明かりの街灯がさして間をあけずまっすぐ前方へつらなっていく。この道にひとの通りがまったくないのはめずらしい気がしたが、一〇時半にもなればそんなものだろう。車が一台遠のいていくと稀有なしずけさがひろがったが、またすぐに一台はいってきてながくはつづかない。とちゅうの珈琲屋のシャッターの向こうからは笑い声が漏れてくる。行き当たったところを右に曲がって行っているとそのへんの家から打音と、おそらく中高生くらいの男子の声が聞こえてきて、ミットをあいてにボクシングの練習をしているような、バスケットボールをダムダム打っているような響きだった。アパートの角にいたる通りは車線をくぎるセンターラインも引かれていないものの、左右のあいだはけっこうひろくて空が幅をもっており、はいったとたんに視界とからだに受け取られるその開放感はけっこう好きだ。


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  • 「読みかえし1」: 375 - 387
  • 日記読み: 2021/9/8, Wed.

ミャンマーでは民主派が結成した「国民統一政府」(NUG)が国軍との戦闘開始を宣言して、傘下の国民防衛軍(といって民兵というか武装市民の組織だが)には戦闘を、少数民族武装勢力には連帯を、一般国民には支援をそれぞれもとめたという。副大統領にあたるひとがFacebookに演説動画をアップしたらしい。このタイミングで宣言に出たというのは、一四日から国連総会がはじまるので、そこで国際社会の支援を得られるようにあらためてじぶんたちが置かれた情況をアピールするという意味合いもあるもよう。国軍のクーデター以後も職をつづけているもともとの国連大使が承認されるか、それとも国軍が任命した人間のほうが承認されるかというのがひとつの焦点で、チョー・モー・トゥンというこの民主派の大使は職を解かれたらたぶんマジで国軍に殺されるのだとおもう。すでに先日、大使館員だったかスタッフのなかに暗殺を企図した人間がしのびこんでいた、という件もあったし。民主派がうえのように宣言をして、いまのところ北部シャン族の武装組織とマンダレーの学生組合は呼応して連帯を表明したらしく、また一部都市では警察や国軍の拠点への襲撃も起こっているとかいうが、しかし一般国民がどこまでそれに応じて乗るかというのは不透明で、戦闘力でいったらふつうに国軍のほうがうえのはずである。

アフガニスタンタリバンが東部パンジシール州から抵抗者をかたづけたと発表し、全土掌握を宣言。夕刊には閣僚三三人の顔ぶれを発表したと載っていた。首相には旧政権で外相などつとめていたひとがついたらしい。もともとは政治部門トップのバラダルが首相につくとみこまれていたようだが、戦闘部門のほうから異議が出たらしく、政治方面にも軍のほうにも顔がきく人間になったと。それでバラダルは副首相。ハッカニ・ネットワークのハッカニが内相になったというが、この人物はFBIが指名手配している人間らしい。最高指導者のアクンザダは内閣にははいらず、おそらく旧政権と同様最高評議会で実権をにぎるだろうと。女性の入閣はなし。アクンザダは、ここ二〇年の戦争でおおくの聖戦士を殺されてきたわれわれがなぜ譲歩しなければならないのか、と述べて欧米の要求に反発したらしい。

カブールでは数百人規模の反タリバンのデモが起こったという。タリバンの実権掌握以降、最大の規模。女性は大学へ通うことと授業への出席がいちおうゆるされているらしいが、原則男性とはべつの教室で授業を受けることとされ、どうしても部屋が足りないばあいのみ、仕切りで区切るかたちで同室での受講がみとめられるという。カーテンで男性の列と女性の列が分かたれている写真が載せられてあった。服装はむろん、髪や肌を露出しないもの。いぜんはふつうに男女同室で混ざって授業を受けており、服装もカジュアルなものが多かったという。

アフガニスタンからの難民への対応に中東各国は難儀しているところだろうが、中東情勢が荒れているここ一〇年くらいで、各国は国境沿いに壁の建設をすすめているらしい。トルコはイラン側に壁をもうけ、シリア側にも計画しており、いっぽうでシリアやリビアなどに軍事力を派遣してプレゼンスをつよめている。その他エジプトなりサウジアラビアなり、だいたいどこの国も壁建設はおこなっているようで、もともとアラビア世界は(スンニ派シーア派の対立はあるにしても)イスラームなどを共通要素として、国境の行き来は比較的ゆるかったらしいのだが、米国の介入によって難民やテロの波及に対応せざるをえなくなった結果、そういうことになったらしい。


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Léonie Chao-Fong, Tobi Thomas and Samantha Lock, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 196 of the invasion”(2022/9/7, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/07/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-196-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/07/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-196-of-the-invasion))

A Ukrainian counteroffensive is occurring in eastern and north-eastern Ukraine as well as in the south, a senior presidential adviser has claimed. Writing on Telegram, Oleksiy Arestovych said that in the coming months Ukraine could expect the defeat of Russian troops in the Kherson region on the western bank of the Dnieper River and a significant Ukraine advance in the east.

Ukrainian forces are planning for a long and brutal campaign with the goal of taking back most of the Russian-occupied region of Kherson by the end of the year, according to reports. Ukraine’s goal of recapturing Kherson by the end of 2022 is ambitious but possible, US officials said.

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Ukrainian troops could be in a position to seize the entire right bank of the Dnieper, including Kherson city, by October, according to a French general. Ukrainian forces have methodically prepared their counterattack in the southern Kherson region, launching offensives on “almost the entire southern frontline”, Gen Dominique Trinquand, a former head of the French military mission to the UN, said.

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Ukraine is considering shutting down the Zaporizhzhia nuclear plant for safety reasons, according to Kyiv’s top nuclear safety expert. Oleh Korikov also expressed concerns about the reserves of diesel fuel used for backup generators. Vladimir Putin has accused Ukraine of threatening Europe’s nuclear security by shelling the plant, and claimed Russia has no military equipment at the facility.

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Lithuania, Latvia and Estonia have reached an agreement in principle to restrict the entry of Russian citizens travelling from Russia and Belarus, the Latvian foreign minister said. Edgars Rinkēvičs said the increase of border crossings by Russian citizens was “a public security issue […] also an issue of a moral and political nature”.

2022/9/7, Wed.

 ほら、『我が心』はあの頃そのもので、それは奇妙な時で、その時わたしは若くすらなかった。そして今、わたしは七十二年生きてきて、工場やつまらない仕事から何とか抜け出そうとずっと頑張っていたようなものだ。今も書くことはいっぱいあるように思え、言葉が紙に噛み付いていくかのようで、これまで同様書かずにはいられない[…]書くことで救われ、わたしは精神病院に(end295)入ったり、殺人を犯したり自殺をしたりせずに済んだのだ。今も書かずにはいられない。今この時。明日。息を引き取るその時まで。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、295~296; ジャック・グレープス宛、1992年10月22日午後12時10分)




 またしてもいつの間にか意識を喪失。三時をまわった時点でいちど覚めて、明かりを落として正式な就眠。そうして朝をむかえて覚醒すると八時六分だった。布団をまとったからだが暑く、いくらか汗ばんでいたので布をごちゃごちゃと横にどかし、深呼吸をしながら腹を揉んだり頭蓋を揉んだり。カーテンの端をめくってみたところ、天気は白さのつよい曇りである。雨になりそうな予感をふくんでいないでもない。からだの各所を揉んで起き上がったのが八時三九分、きのうもけっこうあるいたから肉の感じはわるくない。歩行を習慣にしてしばらく経ったが、あおむけになっているときの腹にすこし張りが出てきたような気がする。いずれにしても細すぎて筋肉などないので貧弱なのには変わりないが。洗面所に行って顔を洗ったり用を足したりするともう屈伸をしておき、そうして口をゆすいでうがい。椅子につくと水を飲み、パソコンを用意しながら蒸しタオルも。きょうは寝床にもどらず、はやい時点でいちどあるきに出てしまおうとおもっていた。昨晩読んだ英文記事で、あるくにはやはり朝がいちばんよい、目がひかりをとりいれるとメラトニンが抑制されるとともに一五時間後に眠るようにからだが調節される、いっぽうでセロトニンも分泌されてこれが夜になるとメラトニンに変わるから眠りもよくなる、つまり総じていわゆる体内時計、circadian rhythmが適正にととのえられる、というはなしを読んだので。もちろんすでに知っている内容だったが、それでやはりからだもほぐれるし、朝起きてちょっとだけなにか食ってもうすぐいちどすこしばかり歩くべきだなとおもったのだった。そういうわけでウインナーのはさまったナーンドッグをひとつあたためて、それだけ食す。食事中はJames Campbell, “Iain Sinclair: 'I take a walk every morning. It's opening up your system to the world, charging circuits to be able to write’”(2013/11/1, Fri.)(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview))というこれも歩行関連の記事のどれかからリンクされていたやつを読む。Iain Sinclairというのはおそらく日本ではまったく知られていないようだが、ビート方面などから影響を受けた作家で、ロンドン近辺とかを題材にしながらフィクションとノンフィクションが混ざったような作品を書いているらしい。ゼーバルトみたいなものか? とおもったのだが、たぶんそれともまた違うのだろう。ところでかんがえてみればゼーバルトもよく歩いたにんげんのはずで、こちらの読んだことがあるのは『土星の環』とあともう一冊『目眩まし』だったか、それだけだけれど、『土星の環』なんて副題が「イギリス行脚」だったはずだし、後者にもイタリアの町中をあるくシーンが多くあったようにおぼえている。そうかんがえるとまた興味が出てくるな。
 食事を終えるとナーンドッグがはいっていたプラスチック製パッケージをさっと洗っておき、出るまえに洗濯もはじめておこうとおもった。そうすればあるいているあいだに洗濯機が勝手にすすめてくれる。そういうわけでニトリのビニール袋に入れておいた汚れ物を洗濯機にひとつひとつ投入して、注水を待ちながら屈伸したり背伸びしたりする。洗剤はエマールもワイドハイターもともになくなった。エマールのほうは詰替用を買ってあったのでそれで補充するが、ワイドハイターのほうはない。ネットでエマールだけだと洗浄力が弱いからワイドハイターを合わせると良いと書いてあるのを見つけてやってみたのだけれど、現状ワイドハイターの恩恵を感知できていないというか、むしろ漂白剤を入れるとすこしだけごわつくような気もされて、エマールだけのほうがいいんじゃないの? という気もしているのだがよくわからない。いずれにしても洗濯をはじめると服を着替える。といってうえは肌着にジャージのうえを羽織るだけ、したもジャージでも良いのだけれどそうするといかにもだから、青灰色のズボンである。それで九時三四分に部屋を出た。アパート近辺を細長い長方形を描くかたちで一〇分一五分程度一周してくればじゅうぶんだろうとおもっていた。階段を降りて建物を出ると左へ。保育園では部屋で遊んでいる声もあり、また園庭に出ているすがたもすこしある。路地にはこちらとおなじように朝歩きにはげんでいるらしいひとや、自転車でどこかに出かける通行人などがある。公園のところまで来ると横手から黒くてからだにわりとぴったりつく素材の、スポーティーな格好で膝下をさらした年嵩の男性があらわれて、耳にイヤフォンも挿していたとおもうが、すでによく汗をかいているようすで公園縁に沿って曲がるとゆっくり走り出していた。そのあとからまっすぐ南にすすんでいくとここに越してきて以来ずっと建設中のおおきな敷地があり、足場が組まれて透明な網状のシートがかけられてちょっとかすんだように靄ったようになっているその向こうには三、四階建てくらいと見える建物がもう構造はつくられており、組まれた足場とはべつに廊下めいて正式な通路が走っているその各所に縦に長いガラスの扉がもうけられて、それはたぶん窓ではなくて部屋の入り口なのだとおもうが、そこを人足が行ったり来たりしていた。その建築現場にかかるまえの角だったが、右手の一軒のまえを通ると、庭ですらなく戸口のまえの狭いスペースにちいさなビニールプールを置いて水風船みたいなボールが浮かぶなかで遊んでいる幼児とそれを至近でみまもる老婆のすがたがあらわれて、一瞬だけ目を向けた。幼児はなにかあいまいな疑問符めいた声を漏らし、老婆は赤子をみながらほほえんでいた。まっすぐすすむと横にとおった車道に突き当たるが、ここを右折すればすぐにストアとコンビニのある角に出る。行っているとうしろから抜かしてきた男があり、見れば髪はピンク色で、かぶった帽子のうしろからちょっと突き出して浮かんでいるさまは染めた毛というよりはあたまに貼りつけた人工毛のような感じで、衣服はうえもしたも真っ黒でやはり薄手のスポーティーな格好なのだがトップスの背中にはJack The Ripperの文字があり、足もとだけ不思議にも真っ黄色の靴下を履いたそのからだはまた腕や脛にタトゥーをたくさん入れており、そういう風貌のひとが両腕はいちおう拳をにぎってからだの脇にゆるく持ち上げ、上体はほんのわずか前傾させながらも足は歩幅をちいさくパタパタと重力感のとぼしい踏み方で、明確にあるくでもなく走るでもなく半端なうごきでさきを行った。ドラッグストアのある角で右折すると方角は北になり、ここをずっとまっすぐいってまた右折し、てきとうなところで最後にいちど右にはいればそのままアパートにもどってくるだろうという目論見である。風が正面からあって涼しい。空はなべての白曇りに薄よどみの影がいくらかひっかかっている。道をずっと北上すると、(……)通りのほうに曲がる口を過ぎたあと、米を売っているローカルな商店があったり、突き当たりには「(……)」という医院があって、そこで右の細い裏道にはいった。住宅地のならびである。アパートやら戸建てのあいだを行き、右手をのぞいて見通しながら、保育園の建物のピンク色がのぞく角があったから、ああここだな、ここを行けばちょうどアパートだなとおもったもののいったん通り越し、そのさきで右折したのだけれどけっきょく道は合流してしまった。まえにはどこに行くのかキャリーケースをからだの横に置いて片手に引いた老婆がゆるゆる歩いており、うしろから車が来るので振り向いてうかがいながら端に寄る。こちらもおなじように背後を見ながら車をやり過ごして、路地を抜けると渡ってアパートにもどった。保育園の園庭端では保育士がひとり柵に腰をあずけるようにしてもたれ、その足もとでオレンジ色の帽子をかぶった園児がひとり、しゃがみこんだ姿勢から柵を手がかりにして保育士のほうを見上げながら徐々に立ち上がるところだった。
 部屋にもどってつけっぱなしにしてあったパソコンを見ると九時五三分、だから一〇分一五分程度とおもっていたところがじっさい二〇分ほどの道行きだったわけだ。朝起きてしばらくしてから二〇分歩ければこれは良いのではないか。習慣化したいところ。洗濯は続いている。ともかく手を洗い、曇天とはいえ汗はやはりかいているので肌着を脱いでズボンもハーフパンツに着替え、制汗剤シートで上半身をぬぐうとそのまま布をまとわずに瞑想した。一〇時一分だった。あるいてきたのでからだがほぐれてあたたまっており、足もしびれない。座っているのは楽である。とはいえ一五分程度で終えてしまったが。まもなく洗濯が終わったのでそれを干す。天気はふるわない。白い曇天に陽の気配が弱く、雨が来てもおかしくないなとYahoo!の天気予報を見るとやはりいくらか確率がある。それでもとりあえずはそとに出しておこうといくつかハンガーをかけ、それから頭蓋を揉みつつJames Campbell, “Iain Sinclair: 'I take a walk every morning. It's opening up your system to the world, charging circuits to be able to write’”(2013/11/1, Fri.)(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview))をさいごまで読んだ。そういえばさいきんではもう「英語」ノートにわからなかった単語をふくむ前後をうつして読み返すということをやっていない。そろそろいいのではないかとおもったのだ。その都度調べるだけで、どんどん読んでいけばよいのではないかと。音読による読みかえしはもう「読みかえし」ノートだけで良かろうと。そちらにも英文記事からの引用はおりにあるから、英語を口に出して読む機会もなくなるわけではない。その後、きょうのことをここまで記せば一一時三五分。きょうは二時の電車で行かなければならない。


     *


 この日の文を書いたあと、出勤前にもう一食食べた。サラダをこしらえて、もう一品なんだったかおぼえていない。冷凍の肉まんだったか? 二時前にはでなければならないので、その他シャワーを浴びたりワイシャツにアイロンをかけたりで、なにをやっている時間もない。たしょう雨降りだったので、ビニール傘を持つ。路地のとちゅうのサルスベリはさすがにもう花を落としきってこずえに白さもみられず、地面に落ちた滓もだいたい消えている。とおりすぎたあとから振り返って低い塀にかかっているのをみやったが、そうしてみると緑のあいだにすきまもあって、花がふくらんでいたときとはずいぶんちがってうつる。駅までの道中、ほかのことはおもいだせない。駅にはいってホームにうつるとベンチに座って目を閉じながら数分待ち、やってきた電車に乗りこんだ。扉際に立って手すりをつかみながら瞑目のなかに待って、(……)で降りると乗り換えに余裕があるのでホームの向かい側にうつり、ひとつさきの口へとあるく。そこから階段をのぼると上階フロアでは床上に品の箱をならべて路上販売的に野菜を売っている。先日もみた。けっこう足をとめているひともおり、こちらも勤務がなければちょっと見たいくらいだが、いまは乗り換え先のホームに行かねばならない。下りていっていちばん先頭のほうに行き、所定の位置に立つとイヤフォンと携帯を出して音楽をながしはじめた。なぜかCurtis Mayfieldのことをおもいだしており、『Curtis Live!』も聞きたかったが"Move On Up"があたまにながれていたので、『Curtis』を再生した。冒頭曲は"(Don't Worry) If There's a Hell Below"だが、むかし聞いていたころよりなにを言っているのかすこし聞き取れるようになっている。ほかの曲もわりとそう。そうはいってもすこしだけだが。しかし"We the People Who Are Darker Than Blue"とか良い曲だなあと。電車に乗ってからも席について聞いていたが、ヤクを二錠飲むとやはりねむくなってしまい、肝心の"Move On Up"はおぼえていない。
 (……)に着くと首をまわしたり、スラックスなのにちょっと屈伸したりしてから降りて職場へ。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)


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James Campbell, “Iain Sinclair: 'I take a walk every morning. It's opening up your system to the world, charging circuits to be able to write’”(2013/11/1, Fri.)(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview(https://www.theguardian.com/books/2013/nov/01/iain-sinclair-interview))

JC: There's a nice phrase in the book, about "burning fresh neural pathways" when you make your "plodding journeys". Walking is one of the things you're known for. What's happening when you walk?

IS: Everything. I do a walk around here every morning before I start. It's opening up your system to the world, making the skin porous, letting all the impressions pour through and charging circuits to be able to write. And the burning of neural pathways is when you've established a set of pathways in the head. To go somewhere new is to feel the brain is being remapped, in an interesting way. And you hope that by doing that, a new form of writing might emerge.

JC: Now the Olympics are over, and Hackney has changed in ways you dislike, is there a sense of despair?

IS: Now that it's over, I think we wait for something new. But the shadow, the ghost of that, hangs heavy, because almost everything's referred to it. It's a stain that runs through the whole of our media – as if that was a golden moment in England, and everything's got to try to reflect it. But I feel that the territory's breathing a sigh of relief. It's coming back to life in different ways. Ginsberg always talked about how the mass media is a hallucinatory form. And the business of the writer is to find something out for yourself and to stick by it. To forge a new mythology out of materials pertinent to the moment. Otherwise you're at the mercy of their mythology, which is a destruction of language, above everything else. This non-language, this bureaucratic-speak of the global corporate entities, is a horror in the world. So that strange language we started with – that piece of Kerouac – I think is more valuable than ever.

2022/9/6, Tue.

 わたしは駆け出しの作家だという思いにずっと囚われ続けている。そこではかつての興奮や驚きが甦る……素晴らしい狂気だ。あまりにも多くの作家たちが、このゲームにしばらく参加しているうち、熟練しすぎ、用心深くなりすぎてしまったとわたしは思う。彼らは失敗することを恐れている。ダイスを振れば、最悪の目になることだってある。わたしはきちんとせず、放埒なままにしておきたい。研ぎ澄まされた完璧な詩がたまたま生まれることもあるが、それが閃くのは何か別のことをやっている時だったり(end290)する。どうしようもない詩を時々書いていると自分でもわかっているが、そのままにして、バンバンとドラムスを叩けば、みずみずしい自由が溢れ出る。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、290~291; ジョン・マーティン宛、1991年3月23日午後11時36分)




 目覚めて携帯を見てみると九時七分。昨夜は疲労によって例のごとく休んでいるうちに寝ていたわけだが、五時前あたりにいちど覚めて消灯した記憶がある。零時を越えたころにはもう意識をうしなっていたとかんがえると、八時間九時間程度たっぷり眠ったわけで、きのう睡眠がみじかかったからそれはよろしい。ながく眠ることは大事だ。鼻から深呼吸をはじめて腹を揉み、太ももやこめかみあたりや頭蓋も揉んだり、また首を左右に伸ばしたりもして、そうこうしているうちに一〇時前にいたってようやく起床した。横になっているあいだにいちどカーテンの端をめくって窓を見たが、曇りの白さでも朝の空はつねにまぶしく刺激的なもので、目をほそめながら見ているうちに意識というよりも瞳がじわじわと覚醒してくるのがわかる。立ち上がると喉が渇いている気がしたのできょうはさきに水を飲み、それから洗面所に行って顔を洗ったり用を足したり。そのまえ、水を飲んでいるときにすでにドライヤーで髪を梳かすこともしていたかもしれない。蒸しタオルはさいきんめんどうくさくてやっていないが、やらないよりはたぶんやったほうがよいのだろう。寝床にもどるとウェブをちょっと見てから一年前の日記の読みかえし。きのうできなかったので2021/9/5, Sun.から。セルトーの引用があいかわらずおもしろい。その一日を読むともう一一時ごろになってしまったので起き上がり、洗濯をしようかなとおもったがニトリの袋にはいっているのはきのうのワイシャツと靴下だけ、ならきょうはまだいいかと払ったが、あとでかんがえてみればこういうときこそシーツを洗うチャンスだったのだ。きょうは陽もけっこう出ているし。しかし三時かそのくらいには実家に行く予定で、シーツを洗うべきだったと気づいたのはすでに午後、干している時間もあまりなかったので断念した。屈伸したり背伸びしたりとからだを伸ばしてから、一一時二五分くらいに椅子について瞑想をはじめた。二〇分ほど。よろしい。
 それから食事のまえに、そういえばきのう知らない番号から着信が来ていたと携帯を見てその番号を検索してみたところ、家賃保証会社からのものである。印鑑相違で書類が返ってきたあと、口座振替手続きをまだやっていないから催促するためかけてきたのだろう。というかかんがえてみれば家賃は月末締めで翌月のものを払うシステムになっていたはずだから、いま九月分のものはまだ払っていないはずで、滞納状態になっているわけなのでまずい。その手続きを済ませようときょう実家に古い印鑑を取りにいくのだけれど、八月分家賃を払いこんだときの受領証をみてみるとQRコードでネットから登録できるとあった。しかしいぜんSMSによってやってみたとき、口座に登録されている電話番号が実家のもので、その番号に一時パスワードが通知されて手続きをすすめるというかたちだったのでできず、これも同様だろうなとおもってすすめてみるとやはりそうである。しかしさっさとやってしまったほうがよいし、実家に電話をかけて母親か父親にパスワードを聞いてもらってすすめるかとおもい、いったん携帯のウェブ画面を閉じて電話をかけると、何回かコールしたあとに母親が出た。事情を説明していちど切り、パスワードを通知するというボタンを押して一分ほど待ってからまた実家にかけると、聞き取った数字をおしえてくれたが、それを入力しても時間切れだった。それなのでやはりしかたがない、印鑑と書類でやるにしてもネットで手続きするにしても実家に行く必要がある。その場でじぶんが電話を受けてパスワードを聞き取り、即座に入力すればOKだろう。そういうわけなので再度電話をかけて、時間切れだったとつたえ、きょう行ってそこでやるわと言っておいた。天麩羅を揚げたらしい。
 そうして食事へ。キャベツ・豆腐・リーフレタス・トマトのサラダ。シーザードレッシング。それに冷凍の五種の野菜がはいったペペロンチーノ。このあいだ実家に行ったときに母親がフライパンと鍋持ってったらと言っていて、コンロがちいさくてばしょが狭いからサイズが合うかわからないと言って断ったのだが、一向にじぶんで調理器具を用意しようとしない現状、ちいさめのものをもらっておいたほうがよいかもしれない。フライパンは措いても鍋だけでももらえば野菜を茹でることができるし、たとえば生ラーメンとかもつくれるようになる。煮込みうどんも食えるではないか! 野菜だったらアスパラガスなんかを茹でて食いたい気はする。食事を取りながら2021/9/6, Mon.を読みかえした。以下の記述がまあわるくない。「曇った秋の夕べをやわらかく走り抜ける空気は涼しく」というこの一節、このリズムひとつで、もういかにもじぶんの文だなという感じが起こる。「ベストを身につけていてもほとんど肌寒いくらいで」というのは意外だ。ことしはまだそんなに涼しくなっていない。ただ、地元のほうがたぶん気温がすこし低いという事情もあるだろう。

曇った秋の夕べをやわらかく走り抜ける空気は涼しく、ベストを身につけていてもほとんど肌寒いくらいで、ワイシャツの表面に溜まった涼気が布地を抜けてその下の肌につたわってくるのがかんじられる。坂をのぼって最寄り駅へ。ホームのベンチには先客がふたり、おさない女児とその保護者で、さいしょ、保護者の女性は茶髪ではあるものの年嵩に見えて祖母かとおもったのだが、ベンチの端にはいってちょっと後ろ姿を見たときには髪の染めかたが若いように見えたので、ふつうに母親だったのかもしれない。女性は声がかなりちいさく、ささやくようなかんじで子どもとやりとりをしていた。目を閉じれば涼しさが身のまわりをながれていくのが浮き彫りとなり、丘のほうではセミがまだほんのすこしだけ生き残っているようで、そのひびきのもっとてまえでは秋虫がいくつかそれぞれの場所をえて鳴いているけれど、それが一定の調子で、はじまりから終わりまでの長さも毎度おなじく規則的なので、それらの鳴き声だけを聞いていると、その都度おなじ時間が巻き戻ってはくりかえされているような、数秒ごとに時空がリセットされてはじまりなおしているようなふうに聞こえるのだった。

 あとこの昨年の九月六日は通話をしており、猥談をしたり、そこで(……)くんがとち狂って露出しはじめ、小学生以下の下ネタでクソ笑ったりしていてあまりにも馬鹿すぎておもしろいのだけれど、(……)くんの名誉のためにこれは検閲したままにしておこう。食後はすぐに食器類を洗ってかたづけ、きのう、作業のまえに音楽とともに身を休めるというか落ち着かせるのいいなとおもったので、きょうもそうすることに。ねむければ音のなかでまどろめばよいし、そうでなくとも静止するから心身がしずかになったり、よい音楽なら精神的にあがったりする。それできのう出勤前にも聞いたけれど中村佳穂『AINOU』の”アイアム主人公”からはじめてさいごまで、そうしてYellowjacketsの新譜だという『Parallel Motion』から冒頭の”Intrigue”を聞き、そのあとで一九六一年六月二五日のEvans Trioの”All of You”を三テイクまとめてあるプレイリストから、テイク1とテイク2だけ聞いて切りとした。中村佳穂の歌はやっぱりすごいなとおもう。”アイアム主人公”だと、二番のさいしょで、この町のなんとか派閥だらけでなんとか闊歩しづらくなってる、みたいなことを言っている箇所があるけれど(聞き取れない、というか正確におぼえていない)、あそこの声とことばのながれかたなんて、周囲の演奏と混ざって聞くとボーカルというよりほとんど楽器というか、ある種のサックスのフレーズみたいに聞こえるし、最終曲の”AINOU”の歌唱はじっさいに即興なのかはわからないが、聞いているほうの感覚としてはジャズの楽器のアドリブとか、あるいはスキャットとかを聞いているのとほとんど変わらない。まずもって一番でだれだかわからない男性が歌ったあと、間奏部をはさんで(ここで右側にさしこまれているアボイドノート混じりの電子音の泡立ちはけっこう好きだ)二番にうつると、中村佳穂はさいしょから三連符をつかってはじめて、その後もややシャッフルめいた感覚がおりおりつづき、そこまでとリズム感がぜんぜんちがっているし。中村佳穂のボーカルは歌=旋律(とそこからの拡張としての声)、ことば(語り)、楽器(音)という三要素が絶えず微妙な配合によっていれかわりたちかわりあらわれてはつねにそのあいだをゆらぎながらひとつのながれとなっているような気がする。たいがいの歌い手にはほぼ歌=旋律(とそれにどういうニュアンスをつけるかという観点としての声)しか存在しないわけである。せいぜいひとによってはそのスタイルからして、語りにちょっと寄っていたり、歌=旋律がくずれて語り的な瞬間があるというくらいだ。中村佳穂は、そういうつうじょうのボーカルもしくは歌とはまったくちがった場所で、もっと総合的なものとしての歌唱をやっている気がする。
 #10 “忘れっぽい天使”は好きな曲だが、聞くたびに、ビブラートがほんとうに虫の翅の震動みたいだなとおもう。一番の「それなら それなら どうして」の二回の「れ」とか、二番の「思い出さなくていい思い出に いまでも途方に暮れるのさ」の「ま」の音とかである。そこまで顕著ではなくとも、ビブラートをふくんでいる部分はそれいがいにもいくつもある。一音だけのこの短さで瞬間的にこういう震え方をするというのはほかでは聞いたおぼえがなくて、この質感がほんとうに夜に道をあるいているときにそのへんから立ち上がる秋虫の音の震え方とほぼおなじで、にんげんの声というより自然物の震え方だなとおもう。ちなみに二番の「それなら それなら」はもうビブラートはかからず、そのあとも震える部分はほぼなかったはず。「通り雨の冷たさに」もそれまでと比して微妙に、だがかなりはっきりと歌っていて、つまり二番の後半からすこしずつ声に芯をつくって歌うようになっており、そうして合唱にはいっていく。この合唱のとちゅうにある「街の上に正論が渦を巻いてる」が『AINOU』でいちばん印象的でよく記憶しているフレーズだ。そのつぎの#11 “そのいのち”はやたらいい曲、すばらしい曲で、「夜に道ひとりで歩いても/新しいページがひかっても/生きているだけで君が好きさ/明日はなにを歌っているの」のところが好きだ。「夜に道ひとりで歩いても」はこの日記を読めば一目瞭然なようにあきらかにじぶんにそぐうたテーマだけれど、そのつぎに「新しいページがひかっても」が来るのがすばらしい。「生きているだけで君が好きさ」はストレートすぎて気恥ずかしく、またじぶんには残念ながらこの「君」が存在しないが、「明日はなにを歌っているの」はまたすばらしい。
 Yellowjacketsは先日もちょっとだけ耳にして、そのときもおもったのだけれど、いかにも都会的なフュージョン、都市のフュージョンだなあという感じで、こりゃあまさしくアメリカ西海岸ロサンゼルスのフュージョンの音ですわ、とかおもったのだけれど、そんなのはてきとうなイメージでしかない。純ジャズのほうが好きだとか言っていても、いまやそんなにこだわりもないし、こういうのもけっこうわるくない。Bill Evans Trioはテイク1がやはりすごくて、このときVillage Vanguardにいた客たちはこれを横でやられていったいなにをしているんだ? とおもった。ふつうに飯食ったりしゃべったりしていたのか? と。テイク2あたりになるともう意識がやや乱れてきていたというか、じっと座っているのにも疲れてきたような感じがあってあまり聞こえなかったが、このテイク2は比較的地味ではあって、しかしそのなかでもLaFaroのベースソロとかうーんこれは……ほんとによくこんなこと、こんなフレーズやるな、という感じだし、Motianのソロもうえもしたもバシャバシャドカドカやっていてうるさく、おまえはいったいなにをやりたいのかと。
 音楽に切りをつけると一時半前だった。立ち上がり、屈伸したり背伸びしたりして座りつづけていたからだをほぐし、それからきょうのことを書きはじめてここまでで二時三六分。ゆびがすらすらとうごく。あと、Spangle call Lilli lineというバンドを知った。ちょっとだけ聞いたが、けっこうよさそう。


     *


 路上でのことをさきに書いておきたい。家を発ったのは四時過ぎ。アパートを出ると右折したのは、きのうとおなじ道を行くと記憶が混ざってしまうとおもったからだ。空に雲は多いものの、太陽はそれを一息も意に介さず、アパートの角を抜ければ通りには日なたがひろく敷かれて逃れようもなく、ひかりを浴びながら太陽の方角へと向かう。豆腐屋の角から裏路地にはいってみると左側の家々が影をけっこう湧かして道幅のなかばあたりまで黒く塗っているところも多く、しばらくまえにも熱中症を避けてここを通ったことがあったが、そのときにはここまで影がひろくなかったのは季節がすすんだ証拠かとおもった。もっとも、その日は出たのがもっとはやかったのかもしれない。影があるとはいえそこを踏んでもあたままではかくれきらず、家並みを越えて浮かぶ陽の球が額や目を射抜き、対向者があってもひろがるまばゆさのためにほとんどそのすがたも見えはせず、右手では庭や垣根の緑の葉が白さを塗られてつやつやかがやき、庭木のいっぽんに風が通ればうごめくこずえに無数の白光点が跳ねるようにふるえ、まさしくそこだけ暮れ時を待つ綺羅の川面となったようなゆらぎは催眠的である。おもてに出ると横断歩道を渡り、寺の塀に沿って角をはいったり曲がったり、すると右側に駅前マンションがそびえて左は寺のかまえとなるが、階段状になっているマンションのてっぺんには階ごとに柵か壁らしきものがもうけられており、それがまた白くひかって段々をつくっている。風がまえからにわかにはげしく吹きつけた。身をかんぜんにつつみこみ、前髪はすべて額から剝がして、それどころか前に踏もうとするからだを押し返して強固な圧迫と抵抗によって歩みを格段にのろくさせる、その風のながれを受けてマンション前の低木も、枝葉を浮かべてこれから飛び立たんと翼をもちあげひらいた鳥の風情、というかもはや平らになってすでに空中を滑空している空の者のように舞い踊ってやまぬこずえだった。(……)駅にはいってもホーム前の床が白光し、ホームじたいにも陽はかかって、階段をのぼりおりするあいだ空をのぞけばひろがった白さのうえにほぼ真円とみえる黄色の丸がシールのように浮かんで、一瞬月のようにみえたけれどそんなはずはなく、さきほど片手を眉にあてながら目にした太陽の残像がひとみに刻まれているもので、視線をうつすにおうじてその黄色い円は西に見える病院などの建物の合間やそのうえにつぎつぎ移動していく。
 この日はねむりもよくとったし、からだがよくほぐれていて、地元に行くまで困難はなかった。(……)から三十五分くらい歩いて実家に行ったが、その道中のことも省く。どんどんカットするぞ。実家についたのが六時くらいだったか。声もかけずに空いている玄関からはいっていき、手を消毒して居間にはいると母親がいるのであいさつ。父親は入浴中。はなしもそこそこにまず口座振替の手続きを済ます。そのあと天麩羅を揚げたというから腹も減っているしちょっとだけもらうかと用意してもらったりじぶんで用意したりする。天麩羅と蕎麦とレタス。食っていると父親が風呂からあがったのであいさつ。兄夫婦や子どもらの写真を見るなど。そうして七時過ぎくらいにはもう帰ることにしたが、フライパンと鍋をくれと言ってもらったり、天麩羅とか煮物とかもくれるというので密閉パックに入れてもらったり。そのいっぽうでこちらは下階に下りて、文庫本をいくらか持っていくかと見繕った。中上健次の持っている文庫本五冊(たしかそれで全部だったとおもうのだが)や、寺田透の『正法眼蔵を読む』や、國分功一郎が動画で紹介していた河出文庫ドゥルーズの『ザッヘル・マゾッホ紹介』にマゾッホ『残酷な女たち』や、阿部良雄訳のちくま文庫ボードレール詩集二巻。安藤元雄訳の『悪の華』もあるのだけれど、それはまたこんど。下階でそうして本を見繕っているあいだに母親もやってきて、父親にたいする愚痴めいたものをいくらか漏らしていた。酒を飲んであまり運動もせずにいるためか、肌にできものみたいなものができてしまった、だから飲むのを一時やめればいいのに飲んでばかりいる、と。愚直な歩行の信奉者となったこちらは、歩けばいいのに、もう歩くだけでいいですよ、そんなん治るよ、とてきとうなことを言っておく。山梨にもむろんたしょう行ってはいるようだが、飲めばまたうるさいのだろうから、母親のほうもいっしょにいるのがストレスで、それで、これいぜんにそのはなしは聞いていたが、いまは(……)でやっている介護系の講座に週二だかそのくらいで通っているのだという。そりゃいいじゃんと言っておいた。なんでも(……)の広報に載っていたと。それにくわえてしごともあるわけなので週日は毎日でかけているようだ。ばしょは(……)(兄がむかし、というのは高校時代に通っており、大学に行ったあともバイトをしていたが)のそばだという。(……)のばしょを正確に把握していなかったが、南口だというから、駅前をまっすぐ行った交差点の通りでしょ? 角にコンビニがある、じゃあ通るわ、さいきんあるいてるから帰りにあるくわ、と受けた。テキストと授業料込みで、二か月の期間だかで一万円だという。テキストを見せてもらったが三冊くらいあって、いかにも教科書という雰囲気の、とはいえイラストなども多くあってやわらかい色合いのものだったが、こういうのもちょっとおもしろそうだなとはおもう。たぶん二か月講座受けて、いちおう最低ランクの資格が取れるみたいなことなのではないかとおもうが、二か月の授業料で教科書もふくめて一万円というのは相当に安いのではないか。教科書は箱の裏に七〇〇〇円とかあったとおもうから、授業料は実質三〇〇〇円くらいなわけで、ふつうだったら一回の授業でそのくらいは取られるはずだろう。それを二か月もやってやろうというのだからずいぶん太っ腹で、そんなんでもとが取れるのだろうかとおもうが、役所の広報に載っていたからには信用できるはずだろう。そういうのに精を出すのもよいとおもう。母親がそうやってじぶんなりに興味を見つけて活発に六〇代を謳歌しようとしているのに対し、父親はまあ畑をやったり山梨の家に蜂をそだてたり、そちらはそちらでおのれの関心に精を出しているにしても、夜はだいたいずっと酒飲んでテレビ見てひとりごと言ってるはずで、そういう対比をあたまのなかにおもいえがくと、母親がまだはたらいてほしい、社会との接点をもってほしい、金稼いでほしいとグチグチ嘆くのも、まあわからんでもないなという気にはなる。歳を取ると女性のほうが元気でつよいし長生きするとかよくいわれるものだが(歳を取らなくても言われるかもしれないが)、そういう紋切型を地で言っているように見えなくもない。母親のほうがたしかに快活で活発には見える。もともとの性格や性向があるにしても。表情もほがらかである。母親はここ数年、お父さんが死んだら畑の道具とかかたづけどうしよう、できないよとひじょうに頻繁に心配を漏らしており、たぶんいまでもおなじだとおもうのだけれど、だからかのじょのなかではじぶんよりもさきに父親のほうが死に、じぶんはあとにのこるということはほぼ疑いのない決定事として前提化されているようなのだけれど、このまま行くとたしかにそうなりそうだなという雰囲気は感じる。あと、兄が来た先日に、この家をどうするかみたいな、そういうこともいちどみんなではなしたほうがいいからそういう場をもちたいみたいなはなしになったらしいのだけれど、べつにこちらとしてはなんでもよろしいというか、家も土地ももらう気などないしなにもいらんから兄にぜんぶあげてまかせたいというのが真情だ。しかし実家やその土地が今後のこるのかわからないが、処分せずに管理をつづけるとしたら、このさきもふつうに兄よりこちらのほうが自由度が高くて時間の融通がきく生活をつづけるはずだから、こちらが通って世話をすることになるのではないか? まあそれならそれでよいが。それもまたひとつの書くネタにはなろう。ともかくまいにち読んで書くこの生活をつづけるかぎりこちらは週三いじょうの労働はできないし、そうするつもりもないわけで、月収一〇万以下で生きていくことになるから、労働いがいになにかしらの収入をつくれないと老後(「老後」ということばは正職に就いてはたらきつづけてきたものが「現役」を引退したあと、という含みが前提化されているような気がするので、正職に就く気のないこちらの「老後」とはいかに? みたいな感じがちょっとないでもないのだが)はふつうに貧困におちいっているはず。それいぜんに病を得て死んだり、死ぬまでいかなくともにっちもさっちもいかないことになっている可能性もまあわりとあるだろう。しょうじき知ったこっちゃねえという感じだが。金を稼いだり地位や名誉をえたり世間並みの幸せだったり不幸だったりする家庭をきずいたりするよりも、良いことをしたり、じぶんがやるべきだとおもったことをやることのほうが大事だ。じぶんなりにできる良いしごとをすることこそが大事なことだ。そもそもまずじぶんは「しごと」といえるほどのことをしてすらいないが。とりあえずTo The Lighthouseを訳さなければとはおもう。
 リュックサックに本や食い物を入れ、フライパンと鍋はUnited Arrowsの紐で口をすぼめるタイプの袋に入れて、というかそちらにも野菜とか本もたしょう入れて、そうして帰ることに。(……)まで歩いていくと言って車で送るというのをことわると、母親もとちゅうまでついてきた。上り坂の出口付近まで。そのあいだも父親のことをなんだかんだ言っているが、とにかく歩けと、あなたたちはもうこれからなにもしなければからだが衰えていくばかりなのだから、なるべく歩いたほうがいい、あるけなくなったらにんげんおしまいだと、なんども繰り返すけれどそれだけは言っておく、と言っておいた。(……)までのことはわすれたし、その後の帰路もアパートに帰ったあとも同様。


―――――

  • 日記読み: 2021/9/5, Sun. / 2021/9/6, Mon.


 2021/9/5, Sun.より。

(……)新聞では、白井さゆりという慶應義塾大学の経済学者の語りがあったのでそれを読んだ。気候変動が金融市場などにも影響をあたえてくるだろうというはなしで、自然災害が起こって橋とか道路とか街とかが破壊されたりすると、そこでもろもろの企業活動にもいろいろ影響があって株価などにも影響するわけだけれど、いまの金融市場というのはそういう非常事態にあまり予測対応するようなものにはなっていないところ、これからは気候変動によって災害ももっと頻繁に、かつ大規模になってくる可能性がある、そうなったときに対応できるようなしくみをつくっておかないと経済の混乱がおおきくなるというのがひとつ。また、地球温暖化をくいとめて気候変動を乗り越えるにはエネルギー政策の抜本的な変容が必須で、要するに太陽光やクリーンエネルギーをもっと大々的に導入しなければならず、しかしそうすると全国的な送電網の整備とか余った電力を貯めておく蓄電池の普及とかが必要で、それにはとうぜんおおきなコストがかかる。気候変動によって居住環境が悪化し、もはや住んだり生活を営んだりできなくなるようなことになるよりはむろんそちらのほうが良いわけだが、しかしコストはとうぜんながら増税とか電力料金の値上げとか、製品の値段とかに反映されざるをえないわけで、国民の理解と協力をあおぐには政府がしっかりとした説明をしなければならないと。このひとは二〇一一年から一六年まで日銀の政策検討委員会みたいな、わすれたがなにかしらの委員をつとめたといい、白川方明から黒田東彦に総裁が変わって方針がおおきく転換されるのを間近で見てきたというのだが、黒田東彦が「異次元緩和」とかいって金利を下げまくったのは(マイナス金利とかいうこともやっていたはず)基本的には良かったというか、震災後の経済をささえるには正解だっただろうと。しかし、いまの低金利水準を今後もずっとつづけていけるはずはないし、気候変動の件もあるので、コロナウイルス騒動が終わったとしても楽観はできないと。

     *

そういえば昼に食事を取っているとき、テレビは『開運!なんでも鑑定団』を映していて、そこに篠井英介が出ていた。顔は知っている俳優だが、なまえははじめて知った。小学生のときに見た『サウンド・オブ・ミュージック』のジュリー・アンドリュースにあこがれてむかしから女性の役をやりたいという欲望がつよかったらしく、後年、『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ原作)で杉村春子の演技を見たときも衝撃を受けて、いつかこのブランチ役をじぶんもやるんだとおもいださめて、その後実現したという。いちど、男性に女性役をやらせるのは駄目だという権利者側の意向で企画が頓挫したらしいが、粘り強く許諾をもとめてついにゆるされたということだった。出品したのはルドゥーテというベルギーの版画家の花の絵で、七〇万で入手したもののべつの画商にこれはせいぜい一、二万ですよといわれたので不安になってこの番組に出演したと。絵の価値などわかるはずもないが、見たところ実に端正に写実的で、つやもあるようでかなりきれいな植物画だったので、七〇万は高すぎるとしても一万二万ということはないんではないか、とおもっていると、一〇万円だった。じぶんも植物画とか静物画とか、なんにせよものを絵で描くことができればすごくおもしろいだろうとおもうのだが。じぶんが絵をやるとしたら人でも風景でもなくてとにかくものを描きたい。目の前にひとつものを置いて、それを絵にするということだけをやりたい。道具や形式もなんでも良い。しかし、そちらの方面の素養はまるでない。中学校時代の美術の成績は二である。

     *

ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)より。

338: 「十九世紀の初頭になると、医学のイデオロギーはしだいに転換をみせはじめ、摘出の治療法(病気とはなにか余計なもの――余分ななにかあるいは過剰ななにか――であって、刺絡や下剤やらをもちいてそれを身体からとり除かねばならない)はおおむねすたれてゆき、かわって付加の治療法(病気とはなにかの欠如、欠損であって、薬品なり支柱なりを使ってそれを補わなければならない)が登場してくるようになるが、それでもなお、道具という [﹅5] 装備は、あいかわらず古いテクストに代えて新たな社会的知のテクストを身体に書きこんでゆくという役割を果たしつづけており、ちょうどそれは、『流刑地にて』に描かれるあの馬鍬が、紙に書かれた命令がどう変わろうとおかまいなく、受刑者の身体にその命令を刻んでゆくのとおなじことである」

339~340: 「十七世紀に、清教徒の《宗教改革者》たちは、法律家たちと手をたずさえながら、当時はからずも《物理学者 [﹅4/フィジシャン] 》とよばれていた医師たちの知をみずからもまた獲得しようとめざしたが [註11] 、ここから大いなる野心がうまれてくることになった。すなわち、ひとつのテクストにもとづいて歴史を書きなおそうという野心である。堕落した社会と腐敗した教会にかこまれつつ、聖書 [エクリチュール] がこの二つを改 - 革 [レフォルメ] 〔再成型〕するためのモデルを提供してくれるにちがいない。それが、宗教改革の神話であった。根源にたちかえること、キリスト教的西欧の根源にとどまらず、宇宙の根源にまでたちかえって、《ロゴス》に身体をあたえ、ロゴスがこれまでとは別なありかたでふたたび「肉となる」ような創生をめざすこと。このルネッサンス時代には、このような神話のバリエーションがそこここにみうけられるが、ユートピア的、哲学的、科学的、政治的、宗教的の別をとわず、いずれをとっても、《理性》が世界を創始し、あるいは復興しうるはずだという信念に支えられており、問題なの(end339)はもはや秩序や隠れたる《作者》の秘密を解読することではなく、ひとつの秩序を生産 [﹅2] し、その秩序を粗野な社会、腐敗堕落した社会の身体のうえに書きしるす [﹅5] ことだという信念をともにしていた。歴史を矯正し、たわめ、しつけなければならないという目的とともに、エクリチュールは歴史にたいしてある権利を獲得する [註12] 。世界とは理性であるという仮説にたち、生まれの特権を文字という装備におきかえようとめざす「ブルジョワジー」の手中にあって、エクリチュールは権力となるのだ。自然を変えるべく理論を自然のなかに刻みこまねばならないという信念は、やがて「啓蒙」や革命の公準に変わってゆくが、こうした信念とともにエクリチュールは科学となり、政治となる。迷信ぶかい民衆や、いまだ魔術にとらわれている地方の隅々までわけいって、それらを裁断し切断しつつ、エクリチュールは暴力となるのである」; (註11): Charles Webster, The Great Instauration. Science, Medicine and Reform, 1626-1660, New York, Holmes & Meier, 1975. とくに次の箇所。《Conclusions》, p. 484-520.; (註12): 歴史にたいするエクリチュールのこうした新たな権力については次を見よ。Michel de Certeau, l'Écriture de l'histoire, Gallimard, 2e éd., 1978.

348~349: 「ディスクールの信憑性 [﹅3] とはなによりまず信じる者をそのとおりにしたがわせるものである。信憑性は実行者をうみだす。信じさせること、それは行なわせることである。ところが、奇妙な循環によって、したがわせる――身体を書かせ組み立てさせる――力能とは、まさしく信じさせる力のことなのだ。法がすでに身体を使用し身体に適用され、身体の実践のうちに「受肉化」しているからこそ、法は信用されるのであり、法は「現実」の名において語っているのだと信じさせることができるのである。「このテクストを汝らに伝え(end348)るのは《現実》である」、そう言いながら法は信頼をうるのだ。ひとは現実と称せられたものを信じるのだが、ディスクールにこの「現実性」を付与するのは信仰であって、この信仰がディスクールに法の刻まれた身体をさずけるのである。法が信用され実施されるためには、かならず身体の「先行投資」が要り、受肉の資本が要る。つまり法はすでに刻みこまれた身体があればこそ刻みこまれるのである。法を他の人びとに信頼させるものは証人や殉教者や例証なのだ。このようにして法はその臣下に尊重される。「昔の人びとはそうしていた」、「ほかの人びとはそのとおり信じて行なっていた」、「汝みずから、汝の身体のうちに我が署名を宿している」」

349: 「言いかえれば、規範的ディスクール [﹅6] は、すでにそれが物語 [﹅2] となり、現実的なものと結ばれ現実的なものの名において語るテクストとなったとき、すなわち、身体によって物語られ、人物列伝とともに史実化された掟になったときにはじめて「うけいれられる」のである。規範的ディスクールがみずからを信じさせながらさらに物語をうみだしてゆくためには、そのディスクールがすでに物語になっていることが前提になっている。そうしてまさしく道具は、身体を掟に順応させつつ掟の受肉化を助け、かくて掟は現実そのものによって語られるのだという信用をあたえるのであり、このことをとおしてディスクールの物語への移行を保証する」

352: 「そのエクリチュールは、際限なく書きつづけてゆき、どこまでいっても自分以外のものに出会うことがない。出口はフィクションにしかなく、ただ描かれた窓、ガラス - 鏡があるだけである。この世界には、書かれた穴か裂け目のほかは何もない。それらは、裸形と拷問のコメディであり、意味の壊滅の「自動」物語、バラバラに分解した顔の狂騒劇である。これらの作品が幻想的なものをはらんでいるのは、それらが言語 [ランガージュ] のはてる境界に怪しげな現実を出現させるからでなく、ひたすらシミュラークルの生産装置があるばかりでそれ以外のものが不在 [「ひたすら」から﹅] 」だからである。これらのフィクションが小説なりイメージなりで語っているのは、エクリチュールには入り口も出口もなく、ただ自己製作というはてしない戯れしかないということだ。この神話は事件の非 [ノン] - 場所 [リュ] を、あるいは起こらない [ナ・パ・リュ] 事件を語っている――およそ事件というものがなにかの入り口であり出口であるとするならば。言語の生産機械はストーリーをきれいに拭いとられ、現実の猥雑さを奪いとられ、絶 - 対的で、自分以外の「独身者」とかかわりをもたない」

362~363: 「こうしてオラルなものが締めだされてしまったあげく、それに押しつけられてしまった歴史的な形態をもう少しあきらかにしておかねばならない。経済的な有効性を維持し、それをみださぬようにという理由によってこのような排除をこうむってしまった声は、なによりまず引用 [﹅2] というかたちをとってあらわれる。引用というのは、書かれたものの領域にあって、ロビンソンの島の浜辺についたあの裸足の痕跡にもひとしいものだ。エクリチュールの文化のなかで、引用は、解釈をうみだすはたらきと(引用はテクストを生産させる)、変質をもたらすはたらきと(引用はテクストを動 - 揺させる)、その二つをかねそなえている。それは、この二極のあいだをゆれうごき、二極のそれぞれが、引用のとる二つの極限形態を特徴づけている。すなわち、一方にあるのは、口 - 実 [ プレテクスト] としての引用 [﹅8] であり、こちらの引用は、権威をそなえた口承の伝統のなかから選別した遺物にもとづいて(注釈や分析とみなされる)テクストを製造するのに奉仕している。もう一方は、道徳としての引用 [﹅8] であって、言語のなかにこの引用の跡が描かれてゆくのは、われわれの世界を構造化(end362)していながら書かれたものによって抑圧されているもろもろのオラルな関係が、断片的に(まるで声の破片のように)、しかし遠慮なく立ち返ってくるからである。この二つが極限的なケースであって、これ以外ではもはや声は問題にならないように思われる。前者の場合、引用はディスクールが増殖してゆくための手段となり、後者の場合、引用はディスクールを逃れながら、ディスクールをバラバラに切断してゆく」

2022/9/5, Mon.

 確かに、わたしはあなたたちが創作や作家たちをどんなふうに捉えているのかわかる。わたしたちは対象を見失ってしまっているようだ。作家たちは作家として有名になりたくて書いているようだ。何かに極限まで追い詰められて彼らは書いたりはしない。パウンド、T・S・エリオットe・e・カミングス、ジェファーズ、オーデン、スペンダーが活躍していた頃を振り返ってみる。彼らの作品は紙の上から音を立てて飛び出し、紙を燃え上がらせた。詩は事件にして爆発になった。興奮を抑え切れなかった。ところが今や、何十年にもわたって、状況は凪いでしまっているようで、しかもその凪は巧みに仕組まれて [﹅8] いて、冴えないことこそが才能の証しのようになってしまっている。しかも才能ある者が新たに出現したとしても、相手にされるのは一瞬のことで、何編か詩が読まれ、薄い詩集が出て、それから彼もしくは彼女はサンドペーパーできれいに磨かれ、取り込まれ、まるで何ごともなかったかのような状態になってしまう。才能があっても耐久力がなかったらそれはとんでもなく恥ずべきことなのだ。居心地のいい罠にはまってしまうということで、褒められて舞い上がるということで、要するに短命で終わってしまうということなのだ。作家とは何冊か本を出版した作家のことではない。作家とは文学を教える作家のことではない。今現在、今夜、この瞬間、書くことができる者(end285)だけが作家なのだ。タイプを打ち続ける元作家があまりにも多すぎる。わたしの手から本が何冊も床に落ちる。まったくのクズでしかない。わたしたちは半世紀もの間風の吹くままさらわれて今は悪臭を放つ風の中にいるのだと思う。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、285~286; 『Colorado North Review /コロラド・ノース・レビュー』の編集者宛、1990年9月15日)




 九時にアラームをしかけていたが、その直前におのずから覚醒。れいによってだらだら夜更かしをしてしまったので睡眠はみじかい。しかし一〇時から通話があるので、深呼吸をはじめて、鼻から空気を送り出しつつ腹を揉んだり胸をさすったりする。月曜日の朝、窓外は保育園の門がたびたび開け閉めされてにぎやかで、のちには子どもたちがきゃーきゃー遊ぶ歓喜の声も聞こえた。また、園児のひとりが誕生日だったらしく、ハッピバースデートゥーユーと、旋律の体はなさずにたんにことばをおもいおもいおおきな声ではなつかたちの唱和も聞かれた。九時二五分ごろにいたると起き上がり、カーテンをあけ、洗面所に行ったり小便をやたらながく排出したり屈伸をしたり。九時四〇分から瞑想した。一五分ほど。それから屈伸したり背伸びしたりとからだをほぐす。通話がはじまるまえに洗濯もはじめてしまいたかったのでストレッチしながら水が溜まるのを待ち、洗剤を入れてうごかしはじめ、カレーパンを冷蔵庫から出してあたためた。ひとまずの食事はそれとちいさな蒸しパンふたつ。そうして一〇時をたしょう過ぎてしまったがZOOMにログインすると、(……)さんしかいなかったので、ふたりしかいないじゃんと笑った。通話中のことはまたあとに記す。終えたのは一二時半過ぎ。ZOOMから離脱すると即座に立って背を伸ばし、ちょっとうごいてから、とりあえず洗濯物を干した。まいにち洗っているのですくない。いくつかのものを都合よく陽の出てきている窓外にかけ、それから寝床のうえでストレッチ。合蹠とか座位前屈とか、ひさしぶりにちゃんとやる。胎児のポーズがやっぱり楽なうえに全身に効く感じがあって簡便だ。あおむけで寝転がったままできるというのがなによりも楽だ。膝をかかえこんで半分寝ているだけですからね。しかしさすがにきょうは睡眠がみじかいので、からだはほぐれてまとまってはいるけれど重力の重さがすこしばかり増している感じはあり、二度目の食事を取るとそれがより感じられた。二時ごろである。そのまえにきのうの深夜に一時間半かけてつくった(……)くんの訳文添削をメールで職場に送っておいた。めんどうといえばめんどうではあるが、じぶんでも訳文をつくってポイントを解説するという方式を取っているから、なんだかんだけっこうおもしろく、今回はながながしい余談なんかも書いてしまって、これで金もらえるんだからわるくないわな、とおもう。英文のレベルも所詮は大学受験レベルだし、まだテキストのさいしょのほうでもあるからぜんぜんむずかしくない。訳すのに困難はほぼない。困難がほぼないそこのところをしかしどういう言い方にするかリズムはどれがいいかと、文を書くものの習癖で、かんたんではあるけれどきちんとした文をつくるというのもなかなか興がある。テキストの模範訳と(……)くんの訳と、いわば既訳がふたつこちらの手もとにはあるわけなので、かれの参考をはかってあえてそれらとはちがった感じに訳すこともある。ところで食事はいつもどおりサラダと、ウインナーのはさまったチーズナンである。食事のまえに二度目の瞑想もしたのだった。からだをうごかしたあとでやたら血がめぐっていたためか、このくらいかなと満足して目をあけるとわずか一〇分しか経っていなかった。サラダはキャベツと豆腐とタマネギと大根。リーフレタスとトマトは今回はつかわず。薄緑と白さの組み合わさった筋肉のような、血管の走りみだれている肌のようなキャベツの葉を細切りにしているそのあいだ、太陽が雲にかかったようでひかりが翳り、室内の空気や洗濯機のうえで野菜を切っている手もとの色も一時落ちる。ものを食べると臓器に負担がかかるからだろう、やはりねむりのすくなさがきわだってくる。それで食後、皿を洗ってかたづけておくと、すこしまどろもうとおもった。とはいえ食べたばかりなので横にはなれない。なので音楽を耳に入れながら椅子でうとうとすることにした。耳をふさぐと格段にまどろみやすくなる。それでAmazon Musicにはいり、中村佳穂『AINOU』をBGMにして椅子に深く腰掛け、左右の腕置きに肘のあたりを置いて背をうしろにぴったりつけた姿勢で目を閉じる。後頭部はつかない。リクライニングにしても良かったのだが、そこまでの欲求はなかった。三曲目の"きっとね!"かそのつぎくらいまではふつうに意識は保たれていてわりとよく聞こえていたが、だんだんとねむさの芽が生じてきて、じきに具合よくあたまがまえにかたむくようになってきた。それで#7の"SHE'S GONE"がおわるところまで。印象にのこっているのは、さいしょの"You may they"の終わりちかく、さいごにもういちどワンコーラスはいるそのまえにつなぎの範囲があるけれど、そこでなんかいろいろ左右に音や声が散らされているのがやっぱりこれはなんか変だよなあということと(それはもちろん悪い意味ではない)、二曲目の"GUM"の基調となっているこまかいリズムの刻みがきもちよいということと、"きっとね!"も一番から二番に行くつなぎのところとかに、なんかキラキラしたようなシャラシャラしたような音が左側からうっすら浮かび上がってきて消えるという装飾がされていて、こんな音はいってたのかとおもったこと。切りをつけて目をあけると二時五〇分とかだった。それからこの日のことをここまで記して、三時半直前。書きもののまえに音楽聞きながらまどろんで意識を洗うというのは良いかもしれん。きのうのこともいくらか書きたいがそろそろ出勤の時間がちかいからまあ無理をしないほうがよいかな。それよりもまた音楽聞いてまどろんでおくべきかもしれない。きょうは睡眠が足りないし、雲はおおくて太陽はだんだん存在感をなくしつつあるようだけれど、気温もそこそこあって四時台でも暑そうだし、(……)まであるくのはやめて(……)から行こうかとおもっている。帰りにまた(……)まであるいてさらに(……)からもあるけばそれだけで一時間にはなる。いちにち一時間あるければたいしたもんだろう。そういえば洗濯物は三時ごろ、カーテンの色が無機質に沈んであやしいかなとおもったので、もうそこでしまっておいた。


     *


 この日の往路帰路の印象はもうわすれてしまった。陽がたしょう出ていて暑かったようなおぼえはある。おぼえているのは電車内で緊張を感じたことで、(……)駅のホームにはいったあたりで妙に鼓動がからだに響いているのを感知して、さいしょはあるいてきて心拍数が上がったためかともおもったのだけれど、ホームを移って椅子に座っていても周りにひとがあつまってきたり電車の時刻がちかづいたりするのにあきらかに心臓が反応しているようで、緊張しているな、とわかったのだ。それでじっさい乗ってみても鼓動は高まって苦しいし、(……)で乗り換えたあともFISHMANSで耳をふさいで目も閉じて座っていながらやはりいつまで経っても鼓動が決定的に落ち着かないし、胸の内に圧迫感があるので、これではとおもってヤクを財布から出して服用した。たぶん睡眠不足だったせいではないか。あるいはもうひとつ、おもいかえしてみるとこの日外出前に薬を飲んだ記憶があまりはっきりせず、出る直前に服用したのは確かなのだがそれいぜんの食事のときに飲んだかどうかがおもいだせなかったのだ。通話前にパンを食ったときには飲まなかったのだけれど、そのつぎの二度目の食事のときがわからない。こちらは服用したつもりでいて、外出前に二錠目を飲んだつもりだったのだけれど、食事時に飲みわすれていて、実質一錠しか飲んでいない状態で、それも服用したばかりだったからまだあまり効いていない状態で駅まで来てしまったのかもしれない。わからない。二錠飲んでいたのに睡眠不足のためにからだが安定しなかったのかもしれない。どちらでもよろしいが、緊張とは言い条、苦しいけれどもそこまですごく切迫したという感じはなかった。動悸をいちおうからだがつつめているような感じ。そうはいってもそこから拍車がかかる可能性はつねにあるわけだし、嫌な感じなので薬を飲んだのだが、そうすると途端に鼓動のからだへの響きが弱まりはじめて、じょじょに、しかし顕著におちついていったので、いやいやそんなにすぐ効くわけがないんだが、とじぶんでちょっとおかしくおもった。飲んだだけでもう薬理作用がじっさいにまわるよりまえに、精神的に安心したのだろう。
 いますでに九月八日の午後七時前で、この日以降のことを詳しくおもいだして記すのがめんどうくさいし、また大胆にカットしてやっつけでいいかなという気分になっている。どうもやはり、どうしてもまいにち満足に、とまでは行かなくとも、十分いぜんの及第点程度にすら綴れない。忸怩たる現状だが、しかし去年の日記を読みかえしていると、昨年のいまごろもおなじような状況におちいっていて、だからこの一年変わっていないわけで、しかも昨年のほうが一〇日とか二週間とか遅れたりしているので、それに比べればましだとすら言える。去年はたぶんそういう事態に屈託してニヒリストぶったことを書きつけていたのだとおもうが、今年のじぶんはもはや冷笑主義を捨てた愚直な歩行者である。ともかくもそのときどきでできることをやり、書きつづけられればそれでよい。そういうわけで勤務中のことははぶき、通話中のことをすこしだけ記しておこうとおもう。(……)

2022/9/4, Sun.

 書くことはわたしたちが何年もかけて日々どうなっていくのか、その結果にしかすぎない。自分が何をしたのかが指紋のようにくっきりと映し出され、逃れようがない。そして過去に書かれたものなどすべて無意味だ。何が大切なのかと言えば……次に何を書くのかだ。そして次の一行が浮かび上がってこないのだとすれば、あなたは年老いたということではない、あなたは死んでしまったのだ。死ぬのは大丈夫だ、避けられないことだ。とはいえ、後回しにしてもらえることをわたしは切望する、わたしたち誰もがそう思っていることだろうが。熱を帯びたデスクランプに照らされ、このマシーンにもう一枚紙を差し込み、ワインを手放さず、タバコの吸い差しにまた火をつけるが、階下でこうした物音を聞いているかわいそうな妻は、わたしがおかしくなってしまったのか、それともただ飲んでいるだけなのか、あれやこれやと気を揉んでいることだろう。わたしは自分が書いているものを妻には見せない。話題にもしない。運に見放されず本が無事に出版されたら、わたしはベッドでその本を読み、何も言わずに彼女に手渡す。彼女はそれを読み、ほとんど何も言わない。これこそが神が導こうとしているやり方なのだ。死や善悪を熟慮した末に見つけられる生き方なのだ。これこそ究極の答えだ。そう定められている。やがてわたしは棺の中に横たわり骸骨となる定めなのだろうが、このマシーンの前に座って過ごすこうした痛快な夜が、何であれこの先損なわれるようなことは決してあり得ないのだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、278~279; ウィリアム・パッカード宛、1986年3月27日)




 一〇時前に覚醒。尿意がわだかまっていてめちゃくちゃ小便がしたかったので、ちょっとするととりあえず起き上がってトイレに行き、便器に腰掛けてちょろちょろ放尿した。ついでに顔も洗い、室を出ると、カーテンもまだ開けていない薄暗さのなかでうがいをしたり水を飲んだりする。それから幕をひらき、部屋を白くして布団のうえにもどると、しばらくあおむけで深呼吸した。じきにChromebookを持って一年前の日記の読みかえしへ。きのうサボってしまったので2021/9/3, Fri.から。「五時過ぎで出発。雨が降っていた。さほどの降りではなくしっとりとした感じのしずけさで、だから山も色にせよかたちにせよほとんどかすんでおらず、薄膜を一枚かぶせられた程度。きょうは数か月ぶりでベストを身につけネクタイも締めたが、それでちょうどよい気温の低さだった。セミの声はもはや一匹もなく死滅した」とのことで、かなり涼しい気候になっているよう。今年はまだネクタイを締めたりベストをつけたりするにはいたっていない。帰路にはつぎのような記述。

(……)それからじぶんの電車を待つ。正面先の小学校校舎は夜の空間の黒さにほぼ埋没してぼんやりとした量感として浮かびあがるのみであり、骨っぽい亡霊か、暗闇のなかの蜃気楼といったぐあいである。線路上の白色灯が濡れた空気につややかに染みている。やってきた電車に乗って瞑目に休み、最寄りで降りるとうしろから三人の若者も降りた。めずらしい。階段通路を行くあいだ、ひとりが先んじてこちらを抜かし、駅前に停まっていた車に寄ってなかのひととはなしていたので、むかえに来てもらった親か家族に友だちを連れていっていいか聞いている、というかんじだったようだ。車通りのない道路をわたって木の間の坂道にはいり、マスクをずらすと、まえを行く小太りのサラリーマンの吸う煙草のにおいが鼻に触れてくる。雨はぽつぽつとかすかに散っており、面倒くさいので傘はひらかなかったが、樹の下を行くと周囲の木立のすきまから雨垂れの音がけっこう立って、坂のそとよりも増幅される。前方のひとが煙を吐き出すと漏れ出した精気のようにして薄白さが細い楕円として上下に伸びひろがり、風がまったくないのですぐに散らずかたちを保ってその場にとどまり、こちらがそこまであるいたころにも街灯の白びかりのもとで頭上にただよっているくらいだった。サラリーマンは左手に鞄や荷物を持ち、煙草を持っている右手は口もとにはこばれるとき以外はわりとせかせかした調子で腰の横を前後に揺れているが、その印象に比して歩速はそこまではやくはない。こちらは左手はポケットに突っこんでおり、歩みがのろいのでバッグと傘を持った右手もほとんど振れることはない。平路に出て、電灯の白さがなめらかにひろがっているアスファルトを踏んでいく。夜空は一様な曇り、しかし先日見たおなじ曇天よりも色が濃くなってやや沈んだかんじが出ているようだった。気温はやはり低く、虫はリーリーひびいて、ベストすがたでなければ肌寒いくらいだったはず。

 これは描写というよりも、ほんとうに記録だよなとおもった。部分的には描写の感もあるけれど、総体としてはひとつのなにかを統合的に構成しようとしているのではなく、ほんとうに見聞きしたものをおおむね順番に記録しているだけという印象。そしてふつうはこんなことはわざわざ記録するような対象にはならないわけで、ここだけ取ってみるとなぜこの書き手がこんなふうにこんなものたちを書いているのか、動機がわからないとすら感じる。むかし(……)さんと会ったとき、(……)さんは(……)さんともまたちがって、変ですよね、なんであんなふうに書いてるのかわからない、みたいなことを言われたことがあったが、じぶんじしんでも一年前の文章にそれをかんじてしまった。そのとき(……)さんは、(……)さんがああやってまいにちブログ書いてるのは、もともと小説書くための練習というかウォーミングアップっていうか、そういう役割があったとおもうんですよね、みたいなことも言っていた。からだをあたためる準備運動みたいなものだということだろう。こちらだってもともとはそういうつもりだった。日記は日記で書きつつそこでやしなったちからを土台として小説を書きたいとおもっていたし、いまもいちおうおもってはいるわけだが、ところが現にこの体たらくである。(……)さんがいだいた戸惑いというのはたぶん、ひとりで素振りだけをまいにちひたすらにつづけていながら一向に試合に出ようとしないものを見たときのそれがひとつにはふくまれていたのではないか。 
 2021/9/4, Sat.も読んだ。冒頭、「きょうも天気は雨降りのようで、ゴーヤの葉のすきまを満たす空は白かったし、空気は薄暗さに寄って、大した降りではないようだが雨垂れの音もそとから聞こえる。ミンミンゼミが一匹、遠くで、やはりかなりゆったりとした、老いの愉悦みたいな振幅でうねっていた」とあり、「老いの愉悦みたいな振幅」にはおお、とおもった。帰路のようすはやはりそこそこ書いている。

退勤は七時。電車に乗って最寄りへ。このころには雨はかなり激しい様態になっていた。坂道にはいると、幾重にもつらなったさざなみが路上に生まれており、カタツムリ的な、まさしく這ううごきの鷹揚さでゆっくりくだりながれていく。雨夜ではあるもののあまり暗いという印象もなく、坂にはいったところでは道端の低みに咲いている花群れの白さもあきらかだったし、傘を差したこちらの影もそちらの壁に投げかけられてはっきり浮かぶ。それはふつうに街灯によるものではあるわけだが、それをおいても、空が雲に閉ざされていても足もとまで完全に夜に漬けられるというかんじではないようだった。下の道に出てバッグを腹のまえに抱えながら行っていると、突如として空間に白光が二、三度、つよく震えながら走った瞬間があり、雷だ、めちゃくちゃあかるい、いままで見たことがないくらいだった、とおもっていると、かなり近い距離で轟音が響き、なにかが落ちたというよりも山の火口が爆発してなにかが噴き出したかのような巨大な砲音だったのだが、そのあとすこし響きがのたうちまわるようにうなりながらとどまっていて、英語で雷にたいしてrollの語がつかわれるのが実感的に理解できた。すぐちかくの山か丘あたりに落ちたのではないか。馬鹿でかい音だったので、こうして家まですこしのところをあるいているこのあいだに雷に撃たれて死ぬということも可能性としてないとはいえない、などとおもいながら残りをすすんだ。

 その他ニュースやミシェル・ド・セルトーの記述はしたに。セルトーの文はあいかわらずよく書き抜きしていて、おもしろいものもいろいろある。
 一一時二〇分くらいに寝床を立った。合蹠しておき、立ち上がってからも屈伸や背伸びなどしばらく。そうして水をもう一杯飲みつつパソコンをつける。電源を入れるとログイン画面はまいどランダムに世界の風景みたいな画像がうつしだされて、きょうはそれが丈の短い緑草がふさふさとひろがったなかに小川がながれ、その向こうに風車や家々がみえるといういかにもオランダ的な光景で、まさしくハーグ派とかバルビゾン派とか、あるいはコンスタブルみたいなあのへんの風景画で描かれているような風景だなとおもった。コンスタブルの絵はちょっとなまで見てみたいのだが。意外となんかへんなところというか、尋常さにおさまらないところがあるのではないかという気がしているのだけれど。なぜそうおもうのかまったくわからないが。
 そうして瞑想。はじまりの時間をみるのをわすれたというか、見たような気もするのだが即座にわすれた。終えたのは一二時七分。れいによって足がしびれてきたので。たぶん二〇分くらいだっただろう。感触はわるくない。からだの内がわりとなめらかである。足のしびれがなくなると食事の支度。キャベツは半玉をつかいきってもう半分に手を出し、その他野菜はもう大根とタマネギしかない。したがってそれらと豆腐を合わせてサラダにし、シーザーサラダドレッシングをかけるとともにハムを三枚乗せる。いっぽうで冷凍のハンバーグと唐揚げを木製皿に入れて加熱。まな板などをさきに洗ってしまいつつ、洗濯もはじめる。洗濯物はすくないが、あしたは勤務だしもう洗ってしまうことにした。水を溜めているあいだは席についてサラダを食いはじめる。また國分功一郎の動画でもみるかとおもって、〈映像による哲学の試み〉というやつの第三回を視聴した。まもなく水が溜まるので席を立って洗剤を入れ、洗濯機をまわしたそのあとも、肉を取ったりパック米をあたためたりするからたびたび動画を一時停止してイヤフォンをはずし、立ち上がることになる。第三回の動画はドゥルーズの『ザッヘル・マゾッホ紹介』からひじょうにこころに留めてきた一節があるのできょうはそれを紹介するということで、フランス語で読まれたのは、超越論的探究の特性、もしくは固有の性質(英語でいうところのpropertyだろう)とは、やめたいとおもったときにそれをやめられないということである、ということばだった。じぶんの身に照らしてよくわかるはなしだった。超越論的(英語でいうとtranscendental)とはカントの用語で、にんげんには限界を超えようとしてしまう傾向があるがそのにんげんの認識とかに課された限界とはどのようなものなのか、にんげんの認識がそこで成り立つ条件を探究するというような意味であり、國分功一郎によればカント以後このことばは「哲学」とほぼ同義とみなしてよいものだと。ドゥルーズもとりわけそうかんがえていたとおもうとのことで、カントいぜんと以後ではそこがおおきく違う、プラトンとかスピノザとかにはそういうところはない、カントによって哲学といういとなみがそのように変えられたあと、その圏域がいまにいたるまでまだずっとつづいており、ドゥルーズはしたがってカントはじぶんの敵だと言っていた、ただそう言いながらも『カントの批判哲学』という本を書いており、しかもけっこう気に入っているとか言っている、敵というのはだからわれわれがまだカントによって変革された思考の枠組みのなかにとどまっており、その乗り越えをかんがえざるをえないという意味だろうとおもう、この点はおおくの哲学研究者が同意してくれるとおもう、ということで、そこを乗り越えようとしたさいきんの動向のひとつが、ぜんぜんよく知らないがカンタン・メイヤスーなのだろう。カントによって確立された相関主義、つまりにんげんの認識や思考と世界の様態とは相関しており、われわれが理解したり認知したりできるのはふたつながら組み合わさっているその相関性だけで、いわゆる物自体にいたることはできない、というかんがえかた(それって現象学ってことでよいのか? 現象学というのがなんなのかをいまだに理解していないのだが)をメイヤスーは批判したということだけは聞きおよんでいる。その内実については知らない。思弁的実在論というわけなので、なんか思弁によって論理をつみかさねていくことで世界の内実、実在がどういうものなのか一抹いたることができる、ということなのだろうが。ドゥルーズのことばにもどると哲学というのはそういうもので、ものごとのこたえとなるようななんらかの原理を見出しはするし、それも大事なことなのだが、ただ原理を見出したからといってそこで止まるものではなく、まだつづいてしまうのだと。それはしかしこたえがないということともちがって、こたえがないという言明はそれじたいがひとつのこたえであり、いかにも安住的な思考停止であって、こたえがないとひとが表明するときにじっさいに言っているのはじぶんはもうこれいじょうかんがえたくないという意味であると。かんがえたくないのはしょうがない、それはそれでよいのだけれど、ただ哲学といういとなみじたいは個々人のそういう停止や消耗を意に介さず、だからにんげんによっておこなわれることなのだけれどにんげんから独立したものでもあり、独立的に勝手に駆動していって止まることのないそのうごきにどうしてか巻きこまれてしまったひとびとが、そのうごきによってかんがえさせられたことを書き記している、そういうものだとおもう、ドゥルーズはまさしくそうだった、ドゥルーズのうえのようなことばを読みながら、ドゥルーズじしんにそのことをつよく感じる、あとハイデガーなんかにもそれを感じる、とそんなようなはなし。やめたいとおもったときにやめられないというのは、もちろんとてもよくわかるわけである。べつにじぶんの日々の書きものは哲学でもないし超越論的探究でもないし文学でもないし作品でもないが。ただ、行けるところまで行くみたいな、ともかく限界をめざすみたいなことは文を書くにんげんだいたいみんなあるわけで、それはもちろん文を書くことにかぎらないが、その限界の条件を概念をもちいて距離を置きながら考察しようというのではないけれど(自己反省というかたちでそういうこともおおいにふくまれはするが)、行けるところまで行こうとするその実践のなかに必然的にそういう探索のうごきははらまれあらわれるはずで、そういう意味ではこういう日記だって、にんげん一般ではなくてひとつの個人的レベルにおける超越論的探究といえないこともない。で、じぶんはこんなものはほんとうにやめたいとおもったらいつだってやめられる、いつだって捨てられると去年いらいさいきんにいたるまでうそぶいてきたが、じっさいやはりそうでもないのかもしれない。やめられるやめられるというのもそのじつ要はじぶんにたいして、やめてもいいのだと言い聞かせようとしている、ということだとおもうし。へんなはなし、これをつづけてもなんにもならないし……というよりは、いまさらやめてもなんにもならないし……という感じのほうがつよい。
 國分功一郎の動画は第二回も先日見ており、しかし内容を記しておくのはわすれたしそう詳しく書こうともおもわないが、そこではサド=アイロニーマゾッホ=ユーモアというドゥルーズの説がいくらか解説されていて、それによればアイロニーというのは自我を統制しようとする超自我が過剰につよくなっている状態なのだという。超自我というのは自我にたいしてこういうふうにしなさいと命令するもので、ドゥルーズおよび國分功一郎のはなしの文脈は法にたいする二種類の姿勢というものなのだが、つまりサドのほうは自我をガチガチにしばって法を破壊しなければならない、乗り越えなければならないと命令し駆り立てるものだと。これはある意味かなりわかりやすい主体性のモデルであり、われわれがいだくサドのイメージとも一致するが、それにたいしてユーモアというのは、國分功一郎がいうには、超自我が自我にたいして、そのことはそんなにたいしたことじゃないよ? とちょっと言ってくれるようなものであり、法にしたがうことによってかえってその法の裏をかき、出し抜いて無効化してしまうようなありかただと。だからいかにもロラン・バルト的、もしくは現代思想的な概念だろうが、サド=イロニーが法を乗り越える高みをめざして上昇するのにたいし、マゾッホ=ユーモアは法にしたがって生まれてくる帰結に下降し、そこでなにかのすり抜けかたを見つけてしまうようなものだということで、(……)さんの『双生』に書きこまれていた理屈はそういうことだろう。
 食事を終え、動画も見終えると皿を洗ったり洗濯物を干したり。ちょうどよく薄陽が出てレースのカーテンがあかるんでいた。しかし二時半現在また曇り気味のいろになっており、とはいえ窓辺に行って空をのぞいてみると、太陽は雲にとらえられながらもすがたはあきらかで、周辺に色あせた質感ではあるけれど水色も塗られている。きょうのことをさっそく書き出し、ここまで。きょうはもともときのうから兄夫婦が子どもを連れて来ているということで実家に行くことになっていたのだが、日記も書きたいし、(……)くんの訳文添削のしごともあるし、やっぱりやめようかなとおもっている。ただ、家賃の口座振替申込書が印鑑ちがいで先日かえって来ており、九月八日までに再提出しなければならないので、古いほうの印鑑を取りにいかなければならず、あさって火曜日にそうしようかなとはおもっている。送られてきたSMSから手続きしようとしたのだけれど、ゆうちょ銀行の口座に登録されている番号が実家のもので、それを変えなければならず、そのためには郵便局に行かねばならずと、郵便局はあるいて五分もしないところにあるしむしろそちらのほうが楽なのかもしれないが、なんかめんどうくさくてやる気にならない。髪もいいかげんうっとうしいので切りたい。九月一日に散歩したときに(……)駅のそばの裏路地で、ビルの二階に「(……)」というメンズヘアサロンの看板を発見し、こじんまりしてるしなんかここよさそうとおもったのだけれど、帰ってから検索するとカットとシャンプーで七〇〇〇円くらいしてさすがにそんなにかけていられない。完全予約制で個室でたぶんひとりずつマンツーマンでやるみたいな感じのようなので、値段をのぞけばよさそうなのだけれど。しかしそんな店に行くほど髪の毛にこだわりもないのだが。やはり(……)駅前の床屋にひとまず行くしかないか。
 さきほど歯をみがいたときにTower Recordsのジャズのページを見たら、さくねん結成四〇年をむかえたYellowjacketsが新作を発表したとかで、Yellowjacketsなどほぼ聞いたことがないし、どちらかといえばフュージョンよりも純ジャズのほうが好きなにんげんなのだけれど、ちょっと聞いてみたくなった。Bob MintzerやRussell Ferrante、もう七〇代ですって。ところでページの左端には予約ランキングというものが縦にならんでいて、Makaya McCravenとかあってあーこのひともなんだかんだまだ聞いたことないやとおもうのだけれど、その一位になっているのがMusesMuses』というアルバムで、ちいさくうつっている画像をみるに、え? Angraじゃないんですか? ネオクラシカルメタルの作品では? というアートワークで、かんぜんにAngraか北欧あたりのネオクラのジャケットなのでわかるひとは見てみてほしい。作品ページを見てみると、日本の女性フュージョングループらしい。


     *


 そのあと立って背伸びなどして、そのあいまに母親にきょうはやっぱり行くのをやめるというメッセージを送っておいた。兄貴たちによろしく言っておいてくれとつたえ、あさっての火曜日に古い印鑑を取りに行こうとおもうということもつたえておく。そうしてともかく九月一日のことをさっさと終わらせようととりかかり、仕上げると三時半くらいだったのではないか。疲れたので投稿はあとにして寝床でいったん休憩。ジョン・フォード論が出たのは七月と奥付に書いてあったよなと検索してみると、入江哲朗による蓮實重彦へのインタビュー記事が出てきたのでそれを読んだ。「蓮實重彦、『ジョン・フォード論』を語る【前編】──“愚かにも半世紀近い時間をかけて、あまり緻密ではない老人がなんとか辿り着きました”」(2022/8/1)(https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220801-shiguehiko-hasumi-intv-1)と、「蓮實重彦、『ジョン・フォード論』を語る【後編】──“この本は、青山真治へのラヴレターのようなものでもあります”」(2022/8/2)(https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220802-shiguehiko-hasumi-intv-2)。興味深かったのは以下の点。

──映画監督ジャン゠マリー・ストローブを感動させたこのラストシーンに、研究者たちはしばしば「ブレヒト的」という形容詞を当てはめてきました。しかし、『ジョン・フォード論』の序章は、「ブレヒト的」という抽象的な概念に安住しようとした者たちがどれほど多くのものを見逃してきたかを、『アパッチ砦』のラストシーンの具体的な分析によって明らかにしてゆきます。とりわけ重要だと思われたのは、記者会見のシーンだけを見ていたのでは十分な分析はできないと蓮實さんがおっしゃっていたことです。

蓮實:わたくしは『ジョン・フォード論』の序章「フォードを論じるために」にこう記しました。「映画を論じるにあたって重要なのは、あるシークェンスを語ろうとするとき、それを構成しているあらゆるショットが、それに先だつ、あるいはそれよりもあとに姿を見せるしかるべき視覚的な要素との間に、必然的かつ想定外の響応関係を成立せしめているか否かを見極めることにある」(21頁)。

『アパッチ砦』のラストシーンに関して言えば、直前のショットと記者会見のシーンとのあいだに数年の時間が流れていると思われますから、ふつうの監督なら「○○年後」みたいな説明を書きくわえたショットを挿入しそうであるのに、ジョン・フォードはそうしない。そうしないことによって、『ジョン・フォード論』で論じたように、記者会見に先だつショット、すなわちサーズデー中佐らから奪った連隊旗を酋長コーチーズが無言で地面に立てるところを捉えた砂塵の巻きあがるロングショットと、記者会見のシーンとのあいだの響応関係が際だつわけです。

さらに言えば、これは『ジョン・フォード論』にはっきりとは書かなかったことですが、サーズデー中佐の最期を捉えたショット、すなわち迫りくる敵の集団を迎え撃つヘンリー・フォンダの勇姿……。

──『ジョン・フォード論』の序章の扉(7頁)にある画像を含むショットですね。

蓮實:そう、あの光景を、ジョン・ウエインもまた見ていたのではないか、という気さえしてくる。もちろん、そのときジョン・ウエイン演じるヨーク大尉は後方にいて、戦いを望遠鏡でむなしく見守っていたのですから、ヘンリー・フォンダがインディアンを迎え撃って戦死するというショットをジョン・ウエインが見ていたということは物語的にはありえません。しかしながら、あたかもジョン・ウエインがそれを見ていたかのように記者会見のシーンは推移しているのではないか。記者会見中にジョン・ウエインは、まさしくあのショットを脳裡に浮かべながらサーズデー中佐の威厳を想起しているのではないか。これはいささかこじつけのようでもありますが、こうしたありえないはずの響応関係を感じとる視点も、映画にはあっていいはずだとわたくしは考えております。

──いまのお話を伺って、『ショットとは何か』での、ショットの「穏やかな厳密さ」に関する議論を思い出しました。たとえば、『アパッチ砦』の記者会見のシーンがいくつのショットから成るかとか、それぞれのショットが何秒間持続するかといったことは「厳密」に計測できます。にもかかわらず、記者会見のシーンを構成するショットを「厳密」な計測によって取り出すだけでは十分な分析はできない。なぜならショットは「穏やかな」ものでもあるからで、それはつまり、「厳密」な単位に収まりきらずに別のショットへ浸透してしまうこともしばしば起こるからだということですよね。私としてはこれを、ショットは「フリンジ」(fringe)を持つ、あるいは「辺縁」を持つとも言い換えたくなってしまうのですが、いかがでしょうか。

蓮實:「辺縁」というよりはむしろ、ショットには不可視の「魂」のようなものが込められているということです。ショットは、何か魂のような見えないものをとおして別のショットと繫がることがある。こうした魂による繫がりは誰にも否定しえないけれども、にもかかわらず、ほとんどの人はそれを見ておりません。

──なるほど。『ジョン・フォード論』の第5章にある重要な一節が、ショットの「魂」とも関わっているように思われます。そこで蓮實さんは、『駅馬車』(1939)に関するある研究者の議論に、「映画では可視的なイメージだけが意味を持つと高を括り、不可視の説話論的な構造へと思考を向けまいとする者の視界の単純化」が「みじめなまでに露呈」されていると述べていらっしゃいます(302頁)。いましがた蓮實さんがおっしゃった「魂による繫がり」は、「可視的なイメージだけ」を見ていては感じとれないものですよね。

蓮實:はい。いま引用していただいた箇所でわたくしが述べていたように、「可視的なイメージ」と「不可視の説話論的な構造」との双方へ同時に注意を向けるということが、映画を見るうえでは重要な作業となってきます。これは至難の業ではありますが、そうしないと映画を見たことになりません。

──蓮實さんの映画批評に関してはときおり、「可視的なイメージだけ」をひたすら見ることがその特徴だと語られることがありますが、それが誤りであることが、いま蓮實さんご自身の言葉によっても確かめられたかと思います。

 これまでずっと表層だの、まずは見えるものを見るべきだだの、いま目のまえに見えているものをそこに見えていないものへと還元してはならない、みたいな姿勢を取ってきた蓮實重彦が、「ショットには不可視の「魂」のようなものが込められている」、「ショットは、何か魂のような見えないものをとおして別のショットと繫がることがある」と、不用意ともおもえるようなことばを吐いているわけである(もっとも「魂」ということばじたいは、「魂の唯物論的な擁護」というフレーズで九〇年代あたりからつかっていたが)。ただ蓮實重彦が批判した、目のまえに見えているものを見えていないものへと還元するおこないというのは、要するに作品内のことがらを作品外のことがらに回収したうえでなされる「解釈」であり、そのような解釈によってこそだれもが紋切型のまずしさにおちいってしまい、作品じたいにそなわっているはずの具体性を見過ごし捨象してやまないという状況があったわけだし、いまもわりとあるわけだ。ここで「不可視」とされているのは「不可視の説話論的な構造」ともいわれているようにそれとはちょっとちがっていて、あくまでも作品内の要素の作品内におけるつながりのことだろう。だから「魂」などといういかにも抽象的なことばでいわれているけれど、それはいわばあるひとつの要素がはらんでいる意味論的なひろがり、余白の気配といったもののことを言っているはずである。そうはいうもののしかし、ジョン・ウエインについて語っている部分は蓮實重彦にあってはだいぶ意外というか、これはいわば印象批評、かれじしんの想像のたぐいじゃないかとおもうものだ。だからこそ「これは『ジョン・フォード論』にはっきりとは書かなかったことですが」といわれ、「あの光景を、ジョン・ウエインもまた見ていたのではないか、という気さえしてくる」と主観的ないいかたがなされており、じぶんはもちろんこのシーンの消息をじっさいに目にしてもいないし蓮實重彦の著作本文を読んでもいないので詳しいことはわからないものの、それは「物語的にはありえません」と断言され、「いささかこじつけのようでもありますが」と留保を置かれてもいる。とはいえおそらくは、「ありえません」のまえに付された「物語的には」ということばが重要なのだとおもわれる。つまり、説話内容のレベルではありえないことでも、「不可視の説話論的構造」を感じ取り、分析した結果として、それをベースにしながら浮かび上がってくる印象というものがあるわけで、これは「物語的には」「ありえないはずの響応関係」なのだけれど、「「可視的なイメージ」と「不可視の説話論的な構造」との双方へ同時に注意を向ける」映画体験においてはおおいに生まれうるものだということではないか。そこで、「こうしたありえないはずの響応関係を感じとる視点も、映画にはあっていいはずだ」と言われるとき、では「小説」や「文学」においてはどうなのか、という疑問が生じてくるわけだけれど、むしろ蓮實重彦がたとえば『「私小説」を読む』とかでやっていたのはまさしくそういうことだったのではないか。
 もうひとつ、したではテマティークについての簡易な説明。

蓮實:「主題」というものがどこから来たかというと、ガストン・バシュラールからです。たとえば彼の『水と夢』(1942)という試論は、「水」という主題を扱っています。そして、バシュラールがテマティック(主題論的)な批評の大本にいるとすれば、それを精緻化したのがジャン゠ピエール・リシャールだというのが、わたくしの見たてです。

リシャールは、主題が孕んでいる、ほかのものに対する漠たる色気のようなものを掬い上げました。さきほどあなたがおっしゃった「フリンジ」とも近い、ほかのものへと伸びる触手のようなものです。わたくしは、そうした触手のようなものを持つ意義深い細部にことのほか惹かれるのであり、触手を持たないひとつのイメージには、それがどれほど見事な構図におさまっていようと、興味がありません。たとえば、ジョン・フォードのある作品における「投げる」という身振りが、フォードのほかの作品における「投げる」ことへと触手を伸ばしている。さらに、今度は白いエプロンがほかのものへと触手を伸ばしている。このように触手に導かれながら、いましがた申し上げた「魂による繫がり」をわたくしは見ているということです。

 「わたくしは、そうした触手のようなものを持つ意義深い細部にことのほか惹かれるのであり、触手を持たないひとつのイメージには、それがどれほど見事な構図におさまっていようと、興味がありません」という点からするに、蓮實重彦にいだかれているとおもわれる細部偏愛というイメージもいくらかちがうのだろうと。あくまで体系的な構造のなかに組み込めるか、すくなくともそのような気配をおぼえさせる点において細部に惹かれるのであって、たんにフェティシズム的な、ほかとの関連から切り離されたものとしての見事なイメージを愛するわけではないと。ただここでおもうのは、そういうフェティシズム的な(ということばでよいのかわからないが)、ほかとの関連を問わず、なんかよくわからんけどこことにかくやばくない? すごいよね、いいよね、みたいなことはじっさいにあるわけで、蓮實重彦がそれを感じていないなどということはありえないはずである。そのばあい、「なんかよくわからんけど」のなかに「魂による繋がり」の気配がふくまれているということなのか、わからんが、体系化されうる細部にたいする感受の裏面として、それらとの関係で、体系化することのできない細部の切断性というものもとうぜん浮かび上がってくるはずで、フェティシズム的な、独立完結的な偏愛があるとしても、あくまで体系感覚を踏まえたうえでのものだということになるかもしれない。
 その他後編には以下の言。やっぱそうなんだ、という感じ。

──ジョン・フォードの作品からいくつもの主題論的な統一を読みとるにあたって、蓮實さんはたとえば映画を見ながらメモをお取りになるのですか。

蓮實:メモは絶対に取りません。

──「あの作品のあの場面にあの主題が現れていたはず」という記憶を確かめるさいに、その場面だけをDVDで再生するといったこともなさらないのですか。

蓮實:しません。そういう場合も、必ず最初から最後まで見てしまいます。ですから、ものすごく時間がかかる。問題の場面だけを見て済ませたいという誘惑に駆られることがないわけではありませんが、それは作品への冒瀆だという思いも生じ、結局いつも全部見ることになってしまいます。

 起き上がると四時半くらい。水を飲んでから瞑想。さくねんの日記を読むとだいたい起床時と出勤前の二回瞑想しているし、もっとやる日は帰宅後とかもやっているし、やっぱりいちにち二回か三回くらいは座ってもよいのではとおもったのだ。じっと座ればともあれ心身はやわらいできもちもおちつくし、あまり気負うことなくやることをやれるようになるかもしれない。あと、パニック障害をつねにうちにかかえているじぶんにとっては、やっぱり心身の緊張をほぐすということが最重要なのではないかという気もする。そして、ただじっと座っているとふしぎなことに体内はほぐれて風通しがよいようになってくる。これは深呼吸によっては得られないものである。呼吸法やそのたぐいのストレッチではからだはおおいに伸びるけれどそれはたんに伸縮性が高まるのであって、緊張がとけるとはかぎらないし、からだがほぐれて気体にちかくなったりはなかなかしない。座りはじめの時間をまたわすれたが、終えたのは五時九分だった。たぶん二五分くらいだったのではないか。それから寝床にうつってストレッチに時間をついやしてしまい、あっという間に五時三五分になって世界は暮れ時、筆洗のなかで混ぜ合わされて濁った淡緑みたいな薄暗さに部屋がつつまれているので明かりをともし、腹が空なので冷凍の小型肉まんふたつとヨーグルトを食べた。そのあいだは(……)さんのブログを読む。八月三一日。『草枕』の以下の記述が、こりゃいいなとおもった。

 眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水草が、往生して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄(すすき)なら靡く事を知っている。藻の草ならば誘う波の情けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調えて、朝な夕なに、弄(なぶ)らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代(いくよ)の思(おもい)を茎(くき)の先に籠(こ)めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
 余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功徳になると思ったから、眼の先へ、一つ抛(ほう)り込んでやる。ぶくぶくと泡が二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三茎(みくき)ほどの長い髪が、慵(ものうげ)に揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南無阿弥陀仏
夏目漱石草枕」)

 こりゃいいなとおもったのはぜんたいてきな内容もあるが、とくに、「岡の薄(すすき)なら靡く事を知っている。藻の草ならば誘う波の情けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は(……)」の推移で、つまりここを読むに、こちらだったらぜったい「百年待っても」のまえに逆接の接続語を入れてしまうな、とおもったのだ。読みながらあたまのなかでもう勝手にことばが出てきていたし。しかし夏目漱石はここにわざわざつなぎをはさんでみせはせず、くわえて「岡の薄なら」「藻の草ならば」とみじかい主語をあたまに据えた文の連続で来ていたそのあとに、「百年待っても動きそうもない、」という読点つきの修飾句からはじまる文をあえて置き、すると接続語の欠如ともあいまってなにかこの部分が一瞬宙に浮くような感覚が生じたのだ。じぶんの文章にはぜったいに生まれえないリズムだとおもう。こちらはかなりきちんと形態化してしまうタイプだとおもうし、接続語もどんどんはさむ。夏目漱石は作品ごとでもかなり違うのだろうけれど、リズム的にやはりへんだったり、いまだとこんなふうには書けないよなというところがおおいにあるとおもわれ、とりわけあの軽妙さというのは、接続語をあまりつかわないという点にももしかして根ざすところがあるのだろうか? 夏目漱石がここ以外でも文頭の接続詞をあまりつかわないのか否かわからないが、なんとなくそんな気がする。そして明治大正あたりの日本近代文学の作家たちってもしかしてけっこうみんなそうなのかもしれないという気もなんとなくされ、それは誤解で夏目漱石に特有のことなのかもしれないけれど、しかしもし近代文学初期の連中がわりとそうなのだとしたら、そこから文体的・リズム的に学ぶことはおおいにあるよなとおもう。夏目漱石の感じにかんしては、ありがちなはなしだけれど、やはり江戸文学とか落語とかの文化的下地がまだまだのこっていた世代ということになるのだろうか? あとこれもよくいわれるはなしだとおもうけれど、樋口一葉の文章を近代以降の日本語はおそらくじゅうぶんに受け止めきれていないはずである。そうかといって二葉亭四迷だって、けっこうへんなところがあるんじゃないかとおもうが。『浮雲』しか読んだことないが。
 そのあとここまで記せば七時過ぎ。九月二日のことをなんとかやっつけで仕舞えてしまいたい。きのうのことも散歩中のことが書けたし、あとはたいした記憶もないしよいだろう。そうしてほかには(……)くんの訳文添削をおこなえれば、きょうなすべきことはおわる。あとで九時くらいになったらあるきに出るついでにスーパーかストアかで野菜か冷凍のパスタあたりでも買っておきたい。


     *


 九時過ぎくらいに外出した。雨が降り出していたのでビニール傘をもつ。いくらか散歩してから帰りにスーパーに寄ってたしょうものを買うことに。アパートを出ると左へ。公園にセミの声はもちろんもうなく、それにかわってコオロギなどの秋虫どもがリンリンと声を高めてあたりに響かせ、右折して細道にはいってもそれが背後からながくついてくる。雨降りのためにアスファルトの路面は微小なおうとつに水が街灯をそれぞれ分け持って、歩につれてあいまいな微光点がじりじりじらじらとうごめきうねる。道を渡って再度左折するとさらに南に向かい、コンビニの角でまた西方面にからだが向いた。車道沿いを行くことになる。歩道のきわには白い棒をとおした柵がもうけられており、したを見ながらあるいているとちょっと渡りがさしはさまったとき、その端から黄色っぽい色がだんだんともれてひろがってくるのはまえから来た車のライトであり、柵や歩道によってかたどられながらもおしとどめられない水のようにゆっくりとしたうごきであふれでてきたそのつぎ、歩道に乗って行けばべつの車のライトがこんどは柵のすきまをとおってかかり、細長いひかり、というよりは細長い影が何本も路上に映りだすとともに車がまえから来て過ぎていくにつれてひかりと影でセットになったその格子棒が横手に向かって回転をはらみながらおおきくひろがりながれていって、あざやかな色はないけれど素材不足の万華鏡を一部分のぞいたようなうごきだった。前方の交差点で停まっている車のライトは濡れた空気と路面にあかるく、反映によって増幅されているからエネルギー波のように厚みがあって、横断歩道の信号も健康にわるそうなかき氷のシロップめいた青緑を道路に投げかけ混ぜこんでいるが、信号が変わったからといってそれはなくならずただ一挙に赤さにうつるばかりで、ひかりが反射にしろ輪郭にしろおのれの領分を超えて世界ににじみだす過剰さを誇るのが雨の夜だった。踏切りをわたってそのまままっすぐ進む。空き地にかかってひらく空を見るに雨夜のわりに色は濃くなく、全面を覆っている雲は暗まず、闇の色をしておらず暗夜には遠い。
 病院や文化施設のまえを過ぎて交通量の多い交差点にいたった。右に曲がろうと角を出たところでそちらから来た自転車に出会ったので歩を停めて身を引き、曲がりながらうしろを向けば背後からも二台来るので脇に寄って止まりながらゆずり、そうしてすすむと焼肉屋の横のベンチに男があおむけで寝ているのにさいしょは気づかず、気配を感じ取れないままにちかくなって認知したのでちょっとびくっとからだをうごかしてしまった。まもなくまた右折してさきほど来た道の裏手にあたるほうをもどる。家を出たころ雨はしとしとと、あからさまな打音を立てずに染み入るような降り方だったが、このころにはもうだいぶ弱くなっており、傘をおろしてもいいがそうすると顔や腕にぴたぴたあたってくるものはまだすこしは冷たくてわずらわしいという微妙なあんばいである。とりあえず差しながら行き、病院の裏手で先日の白い花をのぞき、蕊がやはり分かれていないのでこれはムクゲだなと確定させた。背後からは女性の声が聞こえていた。ひとりがおおきな声でいまのバイトはつなぎだからどうこう、もっといいところではたらきたいうんぬんとか愚痴めいたことを言っているのに、応じる声が聞こえなかったので電話しながらあるいているのだろうかとおもっていたところが、こちらの足の遅さのためにだんだんと声がちかづいてくると、どうやらもうひとり同行がいるらしいなと判ぜられて、駅そばの踏切りまで来て止まったところで追い抜かされたあいてをみれば、ワンピースめいたかっこうをしてわりと若く、たぶん大学生くらいだろうという女性ふたりだった。過ぎていく電車も濡れているために反映力があがっているらしく、踏切りの赤灯や待っているわれわれの影を車体側面につかの間うっすらうつしてそこにつくりあげたあと、払い捨てて去っていく。渡ると左折し、駅前からまっすぐな細道を行ってスーパーに寄った。買い物中のことは特別つよくおぼえてはいない。野菜はリーフレタスとトマトを買った。トイレットペーパーもストックがあとひとつになっているので買っておいたほうがよいのだけれど、このときは断念。

     *

 スーパーのレジはなんどか担当してもらったことのある年嵩の女性があいてだったのだけれど、(……)のポイントカードは、とさいしょに聞かれたときに、いや、と手を振りながら、大丈夫ですとこたえたのと、品物の読み込みが終わって値段がつたえられ、籠がレジ台端のセルフ会計機械の脇に置かれたときに、はい、ありがとうございますとこたえたこの二回、あとでおもいあたったのだけれど、この二回のみがこの日こちらがじっさいに喉をふるわせて声を発した機会だったのだ。すこしおどろきを感じないでもなかった。いちにち家に籠った日などは、だからひとことも実声を発していないはずだが、いままでそのことを意識することがなかった。ひとりでいてもほんとうにほぼずっとあたまのなかでひとりごとを言いつづけているような感じなので、あまり喋っていないという感じもしないのかもしれない。
 いまもう九月八日の午前零時一六分なのでこの帰路のことはよくもおぼえていないが、あるきながらとちゅうでFISHMANSの"忘れちゃうひととき"があたまにながれて、あれはいい曲だよなあとおもった。全篇良いが、「ずっと前に見たような木の茂ってるB級映画のようさ」というフレーズが好きだ(ちなみにFISHMANSはファーストアルバムのさいしょの曲である"ひっくりかえってた2人"でも、ある晴れた夏の日にくだらない映画を見て笑いころげてた、と歌っている)。じぶんはまさしくああいう忘れちゃうひとときのことを書きたいのだろう。しかしそれはほんらいわすれるにまかせるべきもので、記録するようなものではないのではないかという疑問もあるが。ところでFISHMANSがうたっていたような時間とはべつだけれど、晩年の古井由吉もそういうわすれてしまうような、記憶にのこらないような平常の時をひとつには書きたかったのだとおもう。おもうというか、ほんにんがどこかでそんなようなことを言っていた。又吉直樹かだれかとの対談だったかもしれない。にんげんがふだん部屋のなかにいてなんでもないようなことをやっていて、なにをやっていたのかそれはあとにものこらない、そういう時間のことをね、書きたいとおもってますね、とかなんとか。じっさい、『ゆらぐ玉の緒』あたりではけっこうそういう感じの篇もあったとおもう。それはともかくFISHMANSの歌をあたまに再生しつつあるいていき、裏路地をとおって公園の前、アパートのある道にいたったあたりでいつもながら、夜道をこうしてひとりでしずかにあるいているときほどじぶんの存在が孤であり個であるときわだつ時間はないな、とおもった。自由と解放と安息の行為、それが夜の歩行だ。瞑想もおなじく自由と解放と安息のおこないだとはおもうものの、しょせんはながれるもののない部屋のなかでおこなわれるものにすぎない。大気に触れてひとの心身はひろくなる。とりわけどこかに向かう往路ではなく帰ってくる道のほうが自由と解放のおもむきがつよいというのもたびたび書いてきたところだが、佐藤伸治もまた"帰り道"という曲をつくっているわけである。「帰り道の さみしさの そのわけを 教えてよ」とうたわれているこの「さみしさ」が、じぶんのいうところの孤であり個である感覚なのではないか。じぶんはそれを「さみしさ」という情緒としてはまったく感じない。ただ自由と解放、それに尽きる。それはにんげんの生活のなかでもっとも自由かつ解放されたひとときだ。"帰り道"では「行くときは時がつぶれてた」といわれ、「帰り道はずいぶん長い気がする」ともうたわれる。「時がつぶれてた」というのはだから、時間がみじかかった、道があっという間だったということではないか。じっさい、どこか向かう目的があるというだけでにんげんのこころは幾許かはそれにとらわれて、そちらに引きずられ、ときに焦ったり急かされたりする。そうでなくともなにか物思いの種があれば周囲のものものは目に耳にはいらず、たましいが身からはなれたようなあくがれの状態でいつの間にか道が過ぎているだろう。帰路にはなぜかふしぎと、そういったおもいの占領がなく、道の行く手に現在がぽっかりとひろがることが多くあるようだ。「帰り道はずいぶん長い気がする」というのはそういうことではないか。ふだん意識などされない実存というものが感知されるのはそういうときだ。生活のあわただしさのなかに突如ぽかんとひらいたその空隙は、だから、ひとによってはおそれや忌避感をすらおぼえさせるかもしれない。自己の存在と向き合うことに耐えられず、じぶんとともにあることのできない者は、本能的に危険を察知して、いそいでその空隙を埋めようとするだろう。だからこそみな、夜道を行きながらもスマートフォンを手からはなさない。なにもなさをおそれることが、現代の文明が総体として罹患している恐怖症だ。資本主義はその恐怖によって駆動されている。


―――――

  • 日記読み: 2021/9/3, Fri. / 2021/9/4, Sat.


 2021/9/3, Fri.より。

アフガニスタン関連の記事を読む。駐留米軍の一員として警察養成などにはたらいたひとの言が載っていた。このひとは二〇〇一年九月一一日のテロの現場にも出動して、このような惨禍を引き起こした者には報復をしなければならないと憤り、みずから志願してアフガニスタンの駐留軍にくわわり、しばらくは米国がやっていることは価値のあることだと信じていたのだが(警察として雇われたアフガニスタン人はだいたいまずしい非識字層だったので、銃の構え方撃ち方からさまざまなことを手取り足取り丁寧におしえたという)、テロの犠牲者が増えるにつれて、米国の若者が本国から遠く離れた地でたたかい殺されることが本当に国益にかなうのだろうかという疑念が生じ、最後のほうでは駐留米軍の撤退を主張する活動にコミットしていたという。終局で混乱はあったものの、完全撤退じたいは正しい選択だったとおもっていると。同時テロ直後、ジョージ・W・ブッシュアフガニスタン侵攻をはじめたあたりでは、この戦争はただしいと賛同する人間は世論調査で九割を占めていたといい、反対派は五パーセントとかせいぜいそのくらいしかおらず、一年後もほぼ同様だったらしいが、長引くにつれてだんだん反対派が増えていって、二〇一四年には四九パーセントをかぞえて一時賛成派の割合を越え、ここ数年は厭戦気分が支配的になっていたと。

     *

 ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)より。

297~298: 「(1) 行為の舞台を創造すること [﹅12] 。物語はなによりもまず権威づけの機能を、あるいはより正確に言うなら、創生 [﹅2] の機能をそなえている。厳密に言えばこの機能は法的なもの、すなわち法律や判決にかかわるものではない。むしろそれはジョルジュ・デュメジルが分析した、印欧語の語根 dhē 「すえる」と、そこから派生したサンスクリット語(dhātu)とラテン語(fās)からきている。「聖なる掟(fās)は」、とデュメジルは書いている。「ま(end297)さに不可視の世界における神秘的な礎であり、これがなければ、iūs〔人間の法〕によって罰せられたり許されたりする行動、さらにひろくあらゆる人間的行動は、不確かで危ういもの、いや、破滅的なものになってしまう。fāsはiūsのように分析や決疑論の対象にはなりえない。この名詞は語尾変化もしなければ、それ以上細分化することもできない」」

298~299: 「「《西欧の創造》」は、みずからfāsにあたる固有の儀礼をつくりだし、ローマがこの儀礼を完成していったが、伝令僧(fētiāles)とよばれる司祭がもっぱらこの任にあたった。この儀礼は、宣戦布告、軍事的遠征、他国家との同盟といった、「他国とわたりあうローマのあらゆる行為のはじまるところ」に関与する。それは、遠心的にひろがってゆく三段階の歩みであって、第一段階は国内だが国境近く、第二段階は国境において、第三段階は外国という過程をふんでいった。儀礼的行為が、いかなる民事的ないし軍事的行為にも先立って遂行されたのであり、というのもその儀礼的行為の役割は、政治的活動や軍事的活動のために必要な領域を創造する [﹅7] ことだったからである。したがってそ(end298)れはまた、ものの反復(repetitio rerum)でもある。すなわち、原初の創生行為の再現 [﹅2] と反復でもあれば、新たな企てを正当化するための系譜の暗唱 [﹅2] と引用でもあり、戦闘や契約や征服にとりかかるにあたっての成功の予言 [﹅2] と約束でもあるのだ。実際の上演に先立っておこなわれる総稽古のように、身ぶりをともなう語りである儀礼が、歴史的な実現に先立つのである」

309~310: 「もし仮に違反的なものがみずから身をずらしながらしか存在せず、周縁にではなくコードの間隙に生きながらその裏をかき、それをずらしてゆくという特性をそなえており、状態 [﹅2] にたいして移動 [﹅2] を優先させるという特徴をそなえているとするなら、物語は違反的なものである。社会に違反するということは、物語を字義どおりうけとめること、社会がもはや個々人や集団にたいして象徴的な出口か静止した空間しかさしだそうとしないときに、この物語をそのものとして実存の原理にすること、もはや規律に従って中におさまるか非合法のはみだしかの二者択一しかなく、それゆえ監獄か外部への彷徨かの二つに一つしか(end309)ないとき、物語を実存の原理とすることであろう。逆に言えば、物語とは余地に生きつづける違反行為であり、みずから隅に身をひきながら存在する違反行為であって、伝統社会(古代、中世、等々)のなかでは、秩序と共存してきたものであった」

318~319: 「(2) こうした区別が、あるひとつの領域(たとえば言語 [ラング] )やあるシステム(たとえばエクリチュール)の確立と、そうして確立されたものの外部、または残りの部分(パロール、あるいはオラル)との関係としてあるかぎり、これら二項は、対等でもないし、比較することもできない。それらの一貫性からみてもそういえるし(一方を規定することは、他方を無規定にしておくことを前提にする)、それらの操作性からみてもそういえる(一方は(end318)生産的で支配的で分節化されており、他方を無力なもの、支配されたもの、そして不透明な抵抗という立場に追いやる)。つまりそれら二項を、記号が逆転すれば同一の機能をはたすものと措定することは不可能なのだ。二者のあいだの差異は質的なものであって、共通の尺度をもっていない」

 2021/9/4, Sat.より。

 2  前項の末尾にひいた引用 [『時間と他者』] にもどる。――レヴィナスは、まず「時間」は「孤立し単独な主体にかかわることがら」ではない、とかたりだしていた。時間がとりあえずはむしろ内面的で主観 [﹅] 的な現象としてとりだされることを前提とするかぎり、この断定は自明ではない。じっさい、アウグスティヌスに先だってアリストテレスもすでにまた、『自然学』にふくまれた時間論の末尾で、こころと時間の関係という問いを立てていた [註54] 。レヴィナスにちかいところでいえば、たとえばベルクソンの時間論はまさに、空間化さ(end170)れ客観化された時間にたいして、内的に体験される「純粋持続」を手繰りよせようとするこころみである。レヴィナス自身がたかく評価するように、それは「時計の時間の第一次性を破壊する [註55] 」作業であったのである。とすれば、時間をたんなる内面性に封じこめないために辿られる理路こそがむしろ問題となる。
 他方ではこれにたいして、時間はそれじたい社会的に、あるいは共同的にかたちづくられる「観念」であり、「表象」であるとする立場がありうる。特定の共同体における生のかたちはたしかに、成員の時間のとらえかたにふかい影響をあたえうる。ひとはこの次元で、たとえば循環する時間について、一方向的に流れる時間について、あるいは単一な時間や、複数的で多形的な時間にかんして、そのなりたちと由来とを問題とすることもできるであろう [註56] 。――共同体がさまざまな時のかたちをさだめうるのは、そもそも時刻 [﹅] も時間 [﹅] も、ひととひとのあいだがら [﹅5] に根ざすものであるからである。ひとの生にあって公共的に反復されることがらが、たとえば起床・食事・就寝が、また種まき・草とり・収穫が、時の区切り目としてえらびだされ、時刻となり季節となる。ひとはまた、他者と出会うべき時までのあいだを測り、間 [﹅] がないといい、間 [﹅] に合わせるという。このような時のあいだ [﹅3] はそのまま一箇のひとのあいだ [﹅3] であって、時間はたしかに人間 [﹅] 関係によって「区切られ整序され」(前出)てゆく [註57] 。
 レヴィナスにあっては、だが、「時間についてのわれわれの観念ではなく、時間それ(end171)自体が問題なのである」。時間それ自体とは、そしてレヴィナスによれば「主体と他者との関係そのもの」にほかならない(同)。時間にかんする「社会学的」な説明があやまりであるわけではない。時間そのものが他者との関係 [﹅2] の次元に根ざしていることこそが問題なのである。講演の論点をかんたんに辿っておこう。
 〈私〉とその現在が、たんにある [﹅2] こと、匿名的にあることを切断する。たんにあることは〈私〉のなりたちとともにあるもの [﹅4] となる。レヴィナスのいうイポスターズとは、単純にいえば、ことのこのなりたちにかかわる消息にほかならない。単独なこの〈私〉とともに成立する現在は、しかしいまだ「時間の要素」ではない。現在とはここでは「自己から到来するなにものか」である [註58] 。過去とむすばれず、未来へとひらかれていない現在は、なお時をかたちづくってはいない。それは〈私〉がとりあえず端的な同一性、みずからのうちで鎖 [と] ざされた同一性であるからである。その意味で、時間は孤立し単独な主体 [﹅8] からは生成しない。
 この同一性は、あるいは主体によるみずからの存在の支配は、しかしやがて破綻する。この破綻こそが、他なるもの [﹅5] の到来にほかならない。同一性を解れさせるものは、ひとつには私の死 [﹅3] である。死において私はもはや私の主人ではなく、生は私の手のなかで毀れてゆく。〈私〉はなんらか絶対的に〈他なるもの〉にたいして曝されているのである。
 私が死ぬということは、「その存在そのものが他であること(altérité)であるような、(end172)なにものか」と、〈私〉が関係しているということである [註59] 。死とは「他性」そのものなのだ。――死は不可避的に到来する。死は、だがけっして現在には回収されない。死をいま [﹅2] 予感することは死ぬことそのものではない。死は、私がそこに居あわせる経験 [﹅2] ではありえない [註60] 。その意味で死は絶対的な未来である。現在と地つづきな未来、予期される未来ではなく、端的な未来 [﹅2] である。
 そうであるとすれば、だがしかし、死はいまだ私に時間をもたらさない。私の死は断じて「現在との関係」に入ることがないからである。死という絶対的な未来は、ただ直面する他者を経由して私にかかわるはずである。だから、と講演でレヴィナスは説く。「未来との関係、現在における未来の現前は、他者との対面(le face-à-face avec autrui)のうちで実現するようにおもわれる。対面の状況が時間の現成そのものであろう [註61] 」。

 (註54): Cf. Aristoteles, *Physica*, 223a16-29.
 (註55): E. Lévinas, *Éthique et Infini. Dialogues avec Philippe Nemo*, Fayard 1982, p. 17.
 (註56): いわゆるモノクロニックな時間とポリクロニックな時間との差異のことである。簡単には、熊野純彦「理性とその他者――〈理性の外部〉をめぐる思考のために」(岩波講座『現代思想』第一四巻、一九九四年刊)一七〇頁以下参照。
 (註57): たとえば、和辻哲郎の時間論がそのような洞察のうえに展開されている。ここでは、『和辻哲郎全集』第一〇巻(岩波書店、一九六二年刊)二〇〇頁以下参照。和辻時間論の問題点については、熊野純彦「人のあいだ、時のあいだ――和辻倫理学における「信頼」の問題を中心に」(佐藤康邦他編『甦る和辻哲郎』ナカニシヤ出版、一九九九年刊)参照。
 (註58): E. Lévinas, *Le temps et l'autre* (1948), PUF 1983, p. 32 f.
 (註59): *Ibid*., p. 63.
 (註60): Cf. E. Lévinas, *La mort et le temps* (1991), L'Herne 1992, p. 21-24.
 (註61): E. Lévinas, *Le temps et l'autre*, p. 68 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、170~173; 第Ⅱ部 第一章「物語の時間/断絶する時間」)

     *

(……)新聞、一面は菅義偉の退陣をつたえている。きのうのテレビとか、インターネット上のニュースの見出しでは「辞任」ということばがつかわれていて、こちらもそれをそのままつかったが、いますぐ辞任するわけではなく総裁選には出ないということなので、「退陣」の意向、というほうがいくらか正確なのだろう。あんまり変わらんか? アフガニスタンと米国の記事を読んだ。タリバンは国境を管理していて、せっかく国境にたどりついてもカブールに追い返されるひとも多数いるようだ。カブールの国際空港は外国軍がいなくなったので完全にタリバンの管理下にあり、戦闘員が周囲を包囲しているから市民はちかづくことすらできない。となれば陸路での脱出が道となるが、そちらもとうぜんタリバンは防ごうとしているし、また周辺の隣国も難民の定着や不安定要素の流入をおそれて積極的な受け入れ姿勢をしめすとはかぎらない。事実、パキスタンは二箇所の検問所のうち一箇所を閉じたらしいし、二六〇〇キロだかにおよぶ国境の九〇パーセントの範囲にフェンスをもうけて密入国をきびしく取り締まっているという。まだ開いている一箇所の検問所にはひとが多数押しかけて圧死が起こる事態になっていると。イランのほうはいちおうまだひらいていて受け入れ姿勢を取っているようだが、それもいつどうなるかわからない。ドイツや英国はウズベキスタンタジキスタンにはたらきかけて国境を閉じないよう要請しているようだ。米国の記事は連載で、二〇〇一年九月一一日のテロ以来、米国でムスリムが置かれた立場について。テロ以来、米国のムスリムは平等で対等な市民としてあつかわれなくなったというのが当事者の声で、それはいまもつづいており、ふだんとちがうモスクに行ったりすると捜査官が家に来て理由をたずねたりするのだという。FBIだか警察当局がモスクにスパイを潜入させたりということもおこなわれてきたようで、それが一定程度過激派の摘発につながったこともたぶん事実ではあるのだろうが。しかしひとりのムスリムに言わせればあたらしい世代に希望も見える、とのことで、たとえばドナルド・トランプイスラーム圏の国からの渡航禁止を打ち出した際には宗教も人種も関係なく多くのひとびとが反対と連帯を表明したし、それは昨年の黒人差別への抗議運動も同様だと。テロ行為にはしるというのは、特定の宗教が原因ではないという見方もひろがってきているのではないか、とのこと。

     *

 ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)より。

322~323: 「こうして書くという企ては、外から受けとるものをなかで変換させたり保存したりし、自己の内部で、外的空間を領有するための器具をつくりだす。それは、ものを分類してストックし、拡張のための手段をそなえつける。過去を蓄積する [﹅4] 能力と、世界の他性をみずからのモデルに適合させる [﹅5] 能力をかねそなえているこの企ては、資本主義的であり、征服的である。科学の仕事場も産業の仕事場も(まさしく産業はマルクスによ(end322)って「科学」がみずからを書きしるす「書」であると定義されている [註4] )、同一のシェーマにしたがっているのだ。そして近代的な都市もまた。それは、境界線をひかれた空間、そこに外部の住民を集めてストックしようとする意志と、地方を都市モデルに適合させようとする意志とが実現されてゆく空間なのである」; (註4): Karl Marx, 《Manuscrits de 1844》, in Marx-Engels, Werke, ed. Dietz, t. 1 (1961), p. 542-544. 〔城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波書店

323: 「革命という「近代的な」観念そのものが、全社会的規模でもって書を書こうとする企図のあらわれであり、その野望は、まず過去にたいして自己を白紙にかえす [﹅3] ということ、そしてその白紙のうえにみずからを書いてゆくということ(すなわち固有のシステムとしてみずからを生産してゆくということ)、そしてみずからが製造するモデルにのっとって歴史を新しくつくりかえる [﹅6] 〔書きなおす〕ということである(それが「進歩」なるものであろう)」

331: 「身体のうえに書かれないような法はひとつとして存在しない。法律は身体を支配している。集団からきりはなせる個人という観念そのものからして、法律的な必要からうまれてきたものであって、刑法にとっては懲罰を徴づけるための身体が必要であり、婚姻法にとっては、集団間の取引に際し、値を徴づけられるような身体が必要だったのだ。誕生から死にいたるまで、法律は身体を「とらえ」、身体をみずからのテクストにする」

331: 「これらのエクリチュールは、相補的な二つの操作をおこなっている。まず第一に、法をとおして生きた存在は「テクストのなかにくみこまれ」、もろもろの規律の記号表現 [シニフィアン] に変えられてしまう(それがテクスト化である)。他方で、社会の理性ないし《ロゴス》は「肉となる」(それが受肉である)」

332: 「あらゆる権力は、法律の権力もふくめて、まずその臣下たちの背中に描かれるのである。知もおなじことをする。こうして西欧の民族学という学問は、他者の身体がさしだす空間に書きこまれていったのだ。こうしてみれば羊皮紙も紙も、われわれの皮膚のかわりにできたものであり、平和なあいだはその代役をはたして、皮膚を保護する上塗りになってくれているといっていいだろう。もろもろの書物は身体のメタファーにすぎないのだ。だがひとたび危機の時代がやってくると、法にはもはや紙が足らなくなり、またもや身体のうえに法が描かれてゆく。印刷されたテクストはすべてみな、われわれの身体に刷りこまれたものを指し示しているのであり、最後には《名》と《掟》の(赤い鉄の)徴が、苦痛そして/あるいは快楽によってその身体を変質させ、それを《他者》の象徴に変えてしまうのだ。ある宣告 [﹅2] 、ある呼び名 [﹅3] 、あるひとつの名 [﹅] に」

2022/9/3, Sat.

 わからないよ、A・D、自分がどうやってやってこれたのかよくわからない。酒にはいつも救われた。今もそうだ。それに、正直に言って、わたしは書くことが好きで好きでたまらなかった! タイプライターを打つ音。タイプライターがその音だけ立ててく(end269)れればいいと思うことがある。そして手元には酒がある、スコッチと一緒にビール、マシーンのそばには。そしてさっきまで吸っていた葉巻の吸い差しを見つけると、酔っ払ったまま火をつけて鼻先をやけどする。わたしは作家になろうと必死で努力していたわけではなく、ただ自分がご機嫌になれることをやっていただけの話なのだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、269~270; A・D・ワイナンズ宛、1985年2月22日)




 きょうはなぜかけっこう寝坊してしまい、うすく覚めながらもまどろみがながくつづいて、最終的に一一時九分にいちど離床。ここさいきん出勤日も休日もたくさんあるいていたので、疲れが蓄積されていたのだろうか。覚醒後、ひさしぶりに深呼吸をよくやっておいた。鼻から息をゆっくりちからをこめずに吐いていき、しぜんにとまるところでとまるにまかせてそのまますぐ吸わずすこし停止する、という感じにおのずとなったが、そうしてみると呼吸のなめらかさ、抵抗のなさがすこしまえとはだいぶちがっているようにおもう。起き上がってカーテンをあけると曇り空だが、のちには陽も出た。洗面所に行ったり水を飲んだりといつものルーティンを済ませると寝床に帰還し、Chromebookでウェブを閲覧。日記の読みかえしはサボってしまった。正午を回ってふたたび起き上がり、一二時一三分から二〇分ほど瞑想。深呼吸をしておくとからだがぜんたいてきにほぐれるから静止もやはり安定する。それから食事の支度へ。まずさきにれいによって流しの横のスペースに置いてあったプラスチックゴミを切ったり潰したりして半透明のビニール袋に始末。そうして水切りケースを床に下ろし、まな板や包丁、大皿などを取り出して、洗濯機のうえで野菜を切りはじめた。キャベツをザクザク大雑把にやり、豆腐を手のひらのうえで四二ピースにこまかく分け、半分あまっていた黄色のパプリカもぜんぶつかってしまい、リーフレタスを周辺にてきとうに散らすとともに大根をスライス。けっこうよい色合いのサラダになった。シーザーサラダドレッシングを開封。もう一品はきょうもまたレトルトのカレーを食べることにして、スープカレーの袋を流しのうえの戸棚から取り出し、サトウのごはんをレンジで熱したあと木製皿に出してスプーンでちょっと崩したそのうえからカレーをかけ、もういちどレンジに入れてしばらく加熱。そうしているあいだにまな板とかは洗ってしまい、豆腐のパックとかレトルトパウチとかもゆすいでおいた。食事。ここでも日記の読みかえしはサボり、ウェブをてきとうに見ながら食す。おおく眠ってしまったためか、どうにもしゃきっとしない日である。わすれていたが、サラダをこしらえた時点で洗濯もはじめていた。ものを食べ終えるとちょうど一時ごろになっており、まもなく洗濯が終わったところに都合よく雲のすきまからひかりが漏れはじめていたので、吊るされていたものたちを取ったあとからあたらしく取りつけて窓のそとに干した。座布団もいちまい出しておく。取ったものもたたんでかたづけ、日記を書きたいところだがそこからだらだらしてしまい、なかなか取りかからない。あいまに屈伸したり背伸びしたり、血をめぐらせてけっこうからだはやわらかくなっているのだが、どうもあたまがしゃっきりとしない。そうこうするうちに三時を越えて、消化がすすんで腹がかるくなっているから寝床にうつってストレッチなどしてみても、どうにも意識がねむたいようだ。ある程度はととのってきていたので椅子にもどると音読してから文を書こうとおもって口をうごかしたものの、やはりどうしてもあたまが硬いというか重いというか、晴れ晴れとしない感じがあったので、きょうはひさしぶりに籠っても良いとおもっていたけれど、これはやはり歩かないと駄目だなとおもい、散歩に出ることにした。ほんとうは一日のうちのなるべくはやく、飯を食ってすぐとかにいちど歩いてしまうのが良いのだろう。それでTシャツと青灰色のズボンに着替え、靴下を履き、荷物は鍵をポケットに入れ手首に腕時計をつけただけの軽装で、携帯も持たず財布も持たず、マスクをつけて部屋を抜けた。わすれていたが洗濯物は四時ごろ、ひかりが薄くなってきて窓正面の西空が灰色混じりの雲で満たされたので、雲行きがあやしいなと取りこんでおいた。部屋を出たのは四時一五分ごろである。まず左、公園のある南方面へ。三一日の昼に草ぐさがひかりと風を受けてあかるい緑の刻みとなっていた一軒では、きょうは草たちは風にもほとんど揺れず、低い塀にかこわれた小庭を埋め尽くさんばかりに繁茂したそのままのすがたでとまっている。路地に日なたはない。暗くはないが、空は雲がちで射してくるひかりもない。そのため暑くもなく、風が通ればよほど涼しい、体温と葛藤しない穏和な肌触りの暮れ前である。公園では遊びまわるおさなごを連れた女性らが立って会話しており、セミの声はまだかろうじて聞こえた。右折すれば正面が西で、目のまえに伸びる路地やそのさきの車道を渡って向こうの家並みを越えた果ての低みに空は白く、そこにも雲があるのだが灰色混じりで覆いひろがる周囲のそれより薄いようで、ひかりの気配がふくまれている。車道を渡ると左折してふたたび少々南に移行し、コンビニの駐車場をななめに抜ければまた西が正面となって、左に接する二車線の道路はまんなかに植込みかなにか据えられているからそこそこ幅広で空もひろがり、白雲のなかにひとつひらいたちいさなほころびがいま陽を漏らしつつあるところで、こちらのあるく歩道沿いの木々からほのかな影がにじみだすなかを行けば、ほころびに溜まるつやめきはすこしずつふくらんで、路面にうっすらと、暖色ともいえないくらいの色を乗せて影をかたどり、車道を駆けてくる車のてっぺんも白さをはじきながら去っていく。足取りはゆるい。まえに見える横断歩道が青でもいそがず、かわるにまかせてつぎを待つ。手に持つものもなく、リュックサックを負ってもいないので、胸をちょっと張って背を伸ばすのに難もなく、身軽さのままにゆったりと行ける。駅そばの空き地の手前でわたる踏切りは(……)踏切というなまえだった。「(……)」でよいのか、なんと読むのかわからなかったが、いま検索してみると「(……)」というようだ。目のまえには巨大な昆虫の瞳のような、ヒマワリの花の中心部のような赤色ランプが上下にならび、おもちゃめいた詰まった音がカンカン鳴るあいだ赤い灯しが二つを行き来して、電車がガーガー過ぎていく。向かいがわには徒歩だけでなく自転車のすがたも何人かある。遮断器が上がるとかれらとすれちがって渡ったが、渡り終えたとたんにまたカンカン鳴り出したのでずいぶんはやいなとおもった。それを背後に置き残して病院付近の草の生えた空き地に沿ってすすんでいき、病院の敷地まで来ればいくつも立ったヒマワリはやはりそんなに堂々とはしていないがうなだれるでもなく顔を見せているものが多かった。前方で、まさしく病院の建物正面に入っていく道にかかった横断歩道が点滅し、赤になる。しかしあちらがわから来た自転車のひとは気にせずスピードをあげて渡り越し、そのあとでこちらの背後から抜かしていく女性の自転車も遅れて通り越え、立ち止まったじぶんも信号無視してしまうかと間をはかったがそこに病院のある右手からバスがズーンとやってきたので、目と鼻の先をそれが過ぎるのを見送った。それから渡れば、女性はすぐ脇にある患者用の駐輪スペースに停めて病院に向かっていた。ここまであるいて二〇分ほどだったのではないか。
 (……)のまえを過ぎて(……)通りと(……)通り、交通量の多いふたつの道路が交差する地点にちかづいていくと、こちらから見て前後に四車線の車道を左右にすばやく行き来していく自動車たちの、ごうごういうようなうなるような走行音が、遅速それぞれありつつ各所から立って、ビルの多い空間に一挙に響いて埋めるのではなくじわりじわりと回遊しながらひろがるようで、その音響にふれながら交差点を目の当たりにして、いかにも都市だな、都市の音だなと感じた。きょうは渡らず右に折れる。やや香ばしいにおいのかおる焼肉店のまえを過ぎ、ちょっと行くとまた右折して敷地の裏側をもと来たほうにもどっていく。このあたりでマスクをはずした。歩道は歩行者用と自転車用レーンがいちおう分けて設けられており、車道と自転車レーンにはさまれる縁にはサルスベリがずっとさきまで植えられている。ちかくで見ればショッキングピンクのようなつよい紅色だが、ならびのさきに遠くで見ればちいさなこずえを飾る色は少々弱まって橙にちかづいたように、花木というより果樹のようにうつる。その向こうには病院の建物をむすぶ空中通路が道路のうえに横にかかって、さらに先は空、通路のすぐうしろがわは青さをはらんだものもふくめて数本の雲が波のようにかさなり、その他の領域も雲に覆われがちだけれどすきまもおりおりはさまって、左手向かいの建物の屋根やその付近の高さでは空の青さはさらさらとした水色であり、もっと首をかたむけて高くをみやれば頭上の青さはより濃やかに締まっていた。そのまままっすぐ病院裏をあるくあいだ右隣に白い花をつけた低木がいくつも植わっており、先端をちょっとしなりとさせたような五弁花のなかに黄にいたらないクリーム色めいて蕊が差されているのがおぼえのあるような気もするのだが、なんの花なのか名がわからない。フヨウだろうか? そこでれいによっていま検索してみたところ、ムクゲのすがたが記憶と似ている。あれがムクゲか、とおもったが、ムクゲとフヨウはおなじアオイ科で似ているらしく、やはりフヨウの可能性もある。見分け方として蕊がまっすぐなのがムクゲ、先で五つに分かれてカーブしているのがフヨウといい、よくも見なかったけれどまっすぐに伸びて分かれていなかったようにおもうので、ムクゲだったのではないか。
 駅そばの踏切りを渡り、左に折れて、ちょうど駅から出てきたひとらとすれ違いつつ、駅舎前を通り過ぎてマンションと寺にはさまれた道を行く。セミの声が落ち、前から風が吹いて肌を撫でるのが涼しいが、マンション脇の木や、寺の塀を越えて出ている木の枝葉は風の感触からすればもっと揺れそうなものを、意外にも緩慢としてちらちらうごいているばかり、そのさきで右折するとなじみの(……)通りで、渡ってすすめばもう家のほうである。豆腐屋のまえで中年の男女が窓口からすみませーんと声をかけたが、聞こえないのか反応はなく、薄暗いなかからひとも出てこず、アパートそばまで来れば保育園の迎えに来たものか車が路駐されているその脇をすりぬけて階段にはいった。
 帰ってきたのはちょうど五時ごろだったとおもう。だいたい四五分ほど歩いたようだ。しかしあっという間だったというか、アパートが見えたときに、時間をはかりつつ、ぜんぜんながくなかったなとおもった。さほど汗もかいていない。服を着替えて楽なかっこうになると、腹が減ったので冷凍のちいさな肉まんをふたつあたためて食い、先日ふたつ買ってひとつのこっていたキリンレモンを飲んだあと、一息ついてからきょうのことを書き出した。それでいま七時半になっているから、ここまでだいたい二時間で書いたことになる。あいまに立ってからだをうごかしたり検索したりもしていたけれど、もうすこしかからないとおもっていたのだが。それか書きはじめたのがもうすこしあとで、六時ごろだったか? おとといきのうのことを書きたいが、きょうじゅうにどこまで行けるか。とりあえず疲れたので寝転がって休憩したい。あとそうだ、わすれていたが書きものの前に爪を切ったのだった。そのさいにWhitesnakeの八七年のいわゆるサーペント・アルバムなんてながしてしまったのだけれど、これをおもいだしたのは、まずこの前日に雨降りのなかをあるいたわけだが、じぶんはふつうに傘を差していたからべつに濡れそぼったわけではないけれど、町田康が『くっすん大黒』ではなくてタイトルをわすれたがたぶん三冊目くらいの本にはいっていた小説で、土砂降りのなかで雨にひたすら降られてびしょびしょになる男の一人称で、「根源的に俺は濡れてた」というフレーズを書いていたのをおもいだした、それとともに"Crying In The Rain"という曲をおもいだしたからで、もっともこちらが直接おもいだしたのはWhitesnake版ではなくてJohn Sykesがたぶん二〇〇五年くらいに出してその後音沙汰がなくなったライブアルバムである『Bad Boy Live!』の四曲目にはいっていた音源なのだけれど、それでなんかWhitesnakeをながしてみる気になったのだった。"Still of the Night"からはじまる。ああこんな感じだったなあと。二曲目が"Give Me All Your Love"で、これはタイトルだけではどんな曲かおもいだせなかったのだけれど、はじまるとちょっとだけ哀愁風味をふくめたコードワークでシャッフルを刻むほんのりブルージーなやつで、いかにも七〇年代からの延長としての八〇年代ハードロックだなあとおもった。こういうのはわりと嫌いではない。サビを聞けば、ああこの曲か、ともなる。その他"Bad Boys"や"Is This Love"はJohn Sykesもうえのライブ盤でやっていてよく聞いたからタイトルだけで曲が出てくる。ほかの曲はそうならないが、じっさいに聞けばたしかにこんな曲あったなあ、という感じにはなる("Here I Go Again"で、なんとなくこの曲はJourneyっぽくないか? と感じた)。ところで、のちに書き抜き中にながした分もふくめてけっきょく一〇曲目に収録されていた"Crying In The Rain"までいかなかったのだけれど、いまあれ? とおもって調べてみると、こちらが聞いたのは二〇〇七年の二〇周年リマスター版だったのだが、オリジナルとそれの曲順はちがっている。八七年の北米版はまさしく"Crying In The Rain"が冒頭になっており、たしかにそうだった、じぶんが聞いていたのもこれからはじまっていたはずだ。
 この日はあとカフカの書簡の書き抜きをそこそこやったくらいしかおぼえていない。


―――――

  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 369 - 374

2022/9/2, Fri.

 わたしはロマンチックになっている、確かに。かつてこんな女性を知っていた、とてもきれいだった。E・パウンドの恋人だったこともある。彼は『詩篇/Cantos』の中のある節で彼女のことに触れている。さて、その彼女がある時ジェファーズに会いに行った。彼の家のドアをノックした。多分彼女はパウンドとジェファーズと関係を持ったこの世でただ一人の女になりたかったのだろう。ところが、ドアを開けたのはジェファーズではなかった。開けたのは歳のいった女性だった。叔母か家政婦かそんな存在で、彼女は正体を明かさなかった。くだんの美しい女性が歳のいった女性に告げた、「先生にお会いしたいのですが」。「しばらくお待ちください」と、歳のいった女性が答えた。しばらくしてからその歳のいった女性が戻ってきて、表に出てきて伝えた、「ジェファーズが言うには、わたしは自分の礎を築いた、あなたも自分の礎を築きなさいとのことです……」。わたしはこの話が好きだった、と言うのもその頃わたしは美しい女たちといろいろと厄介なことになっていたから。しかし今ではわたしはこう考えるようになっている、多分この歳のいった女性はジェファーズに何も(end251)告げなかったのではないかと、しばらくの間ひとりでじっとしていてから、戻ってきて美女に何と答えればいいのか閃いたのではないか。彼女が何を考えていたのかもよくわからないし、わたしは今もまだ自分の礎を築いていない、まわりに何もない時にそれが出現したりすることもあるけれど。
 ここでわたしが何を言おうとしているのかといえば、有名だったり善良な者などまだ誰一人としていなくて、それは全部過去の話だと言うことだ。死んでから有名になったり善人になったりすることがあるかもしれないが、まだ生きているうちは、何か大切なことがあるとして、混迷の最中に何らかの魔法を見せられるのだとしたら、それは今日や明日の話に違いなく、これまで何をやったか [﹅4] など、ウサギの切断された肛門でいっぱいの糞袋を前にして何の足しにもならないのだ。これはルールなんかではない、事実なのだ。そしてわたしが手紙で質問されてもそこには事実しかなく、わたしは答えることができない。さもなければわたしは創作の講座で教鞭をとっていることだろう。
 どんどん酔っ払ってきていることがわかるが、ひどい詩の中でいったいどうすることができる、あなたを前にして。公園の古びたベンチに座っていた頃、『ケニヨン(レビュー)』や『シウォニー・レビュー』に掲載されている評論文を読んでいたことをいつも思い出すが、そこでの言葉の使われ方はたとえインチキだとわかっていても気に入っていて、結局のところわたしたちが使う言葉は全部インチキだ、そうだろう、バーテンダー? わたしたちにいったい何ができるのか? あまりない。おそらくツキが回ってくること。残された者たちに言われるがまま、役立たずになって追い詰められ、気がつけばにっちもさっちもいかなくなってしまっている、そうはならないようわたしたちに必要とされるのはビートとちょっとしたエンターテインメント感覚だ。わたし(end251)たちがこんなにも限られた数しかいないなんてとんでもなく悲しくなってしまう。しかしあなたが正しい、いったい比べられるどんなものがあるというのか? 何の助けにもならない。飲み干してしまおう。そしてまた飲み干す……小さなブリキのフォークでこのたわけたもの全てを切り刻もうとしながら……
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、250~252; ロス・ペキーノ・グレイジャー宛、1983年2月16日)




 八時一七分だかにおのずと覚醒。目をひらき、手を伸ばして携帯を見て時間を確認すると、そのままもう起きるモードになった。れいによって腹を揉んだりなんだり。横を向いたときにカーテンの端をめくって瞳に白さを取りこんでもおく。さくばんからひきつづいて本格的な雨降りの日である。八時五〇分までからだをやしなって離床。カーテンをひらき、立ち上がるともう屈伸をしておいて、洗面所で洗顔。パソコンをスリープ状態から復帰させ、水を飲みつつきょうの記事をNotionにつくり、蒸しタオルで額をあたためると臥位にかえった。そうではない、そのまえに洗濯もはじめていた。ひとり暮らしをはじめるまえは二、三日に一回とかではないのかとおもっていたところが、けっきょくだいたいまいにち洗っている。雨降りなので室内の窓辺に干すしかないが。さいきんは洗濯物がつつがなく乾くほど晴れ晴れとした日をあまり見ていない。寝床ではウェブをちょっと見てから一年前の日記の読みかえし。ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)の記述をやたらたくさんうつしていて、読みかえすのにも骨が折れた。テーマとしては都市、歩行、物語というわけで、歩くことに開眼したこのタイミングでそういう記述にふれなおすのもなかなかタイムリーなことだ。一〇時を過ぎてふたたび起き上がる。合蹠をやっておき、立つと屈伸をしたり開脚したり上体をひねったりもする。室内は暗く、まだ午前なのにすでにきのうの夕暮れのような暗さで明かりをつけているし、それがあまりとどかないデスクのあたりは雨で濡れたそとの空気のいろがうす青さとして宙やものたちにかかっている。洗濯物を干した。窓辺に吊るされていたものたちをハンガーからはずしてたたんでおき、あたらしくとりつけてならべる。そうして一〇時四四分から瞑想。姿勢がわりと安定した。一一時一〇分まで。雨はつづいており、窓外を行く車の走行音に水の感触がじつにふんだんにふくまれている。携帯を見ると母親からSMSがとどいており、あしたの夕方に兄が来て四日に(……)くんが(……)をやるので来れないかということだった。それで、じゃあ四日にちょっと行って即日帰ろうかなとおもった。まだ返信していないが。あしたの夜から行ってもよいのだけれど、どうも泊まる気にならないし、たぶん父親や兄が酒を飲んで夜中までおおきな声でなんだかんだはなすのだろうから、そこに同席するのもめんどうくさい。風呂には入りたいが。ひさしぶりに湯船でからだをまるごと湯に漬ける快楽をあじわいたいきもちはあるが、今回は見送ろうとおもう。
 それから食事。サラダをこしらえ、冷凍のハンバーグをおかずに米を食う。セロリがしんなりしてきていたのでいっぽんをすべてつかってしまった。その他少量あまっていたタマネギもつかいきり、パプリカもそろそろつかいはじめないとまずいのではとおもってたしょう刻む。リーフレタスをまわりに置くがそこに乗せるトマトはもうない。すりおろしタマネギドレッシング。食事中は(……)さんのブログを八月二六日分から読んだ。食後までで二八日まで。二六日に引かれていた『草枕』の以下の記述があまりにもエロくてびっくりした。『草枕』は過去に読んだことがあるが、そのときはこんなにエロいとはおもわなかった。フェミニズム的にはかなりよろしくなさそうな描写だけれど。

 室を埋(うず)むる湯煙は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。春の夜の灯を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓(にじ)の世界が濃(こまや)かに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈(ぼか)して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓を見よ。 頸筋(くびすじ)を軽(かろ)く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分(わか)れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢を後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠(あしのうら)に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑(さくざつ)した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
夏目漱石草枕」)

 ヤクを飲み、皿を洗い、そのあとからヨーグルトを食べ足して、(……)さんのブログに切りをつけるときょうのことを書き出してここまで。一二時二七分。きょうは労働。二時過ぎに出てまた歩く。往路は(……)で降りずに(……)まで行ってしまってよいかな。帰路にあるけば。二時半の電車に乗れば往路をあるいても余裕をもって職場に着けるが。出るまでにシャワーを浴び、アイロンをかけ、できればきのうのことをいくらかでも書いておきたい。


     *


 どこかのタイミングで(……)さんのブログを読み、そこに一年前から山内マリコの小説の感想が引かれていたのだけれど、そのなかの本文引用として「郊外にはもっとこじゃれたお店ができて、二十代の女の子がサングラスをかけながらフラペチーノとか飲んでるらしい。「わたしたちだってまだ二十代じゃん」と言うと、加賀美は「いやーそんな感じもう全然ないから!」とがらっぱちな調子で言った」という一節があり、この「がらっぱち」という語は良い語だなとおもった。なぜよいのかわからないが。ここで形容としてつかわれているのがどうのというより、この語のひびきじたいになにかしら良いものがある。じぶんではたぶんいちどもつかったことがない。Nelson's Navigator for Modern Jazzというサイトがあって、ジャズを聞きはじめたころとかにいろいろ世話になったが、そのなかで五六年あたり、Miles Davisのグループにはいってまもないマラソンセッション期のColtraneについて「ガラッパチ」という形容がなされていて、たぶんそこではじめてこのことばを知ったとおもう。
 この日の往路帰路のことはもうほぼわすれた。行きはまた(……)駅まであるいたし、帰りも(……)まで歩いて電車に乗り、そのあとも(……)まで行かずまた(……)から徒歩。雨降りの日なので往路は傘を差していた。あるいているうちに妙に尿意がたかまってきて、やや緊張してちょっと漏らしそうな予感をもおぼえたのだけれど、なんとかやりすごして駅舎したの公衆トイレで身を解放した。帰路のことでおぼえているのは傘がこわれたことくらい。横断歩道で待っているときに閉じて巻いた傘を地面に突き立てており、それからもちあげようとすると柄の部分がすぽっという感じで取れたのだ。柄からすり抜けていった傘本体の先端部分には、たぶん接着剤の残骸だとおもうが、汚らしい黄色のなにかが付着しており、すぐにもどすといちおうはまる感覚はあって体裁はつくけれど、おなじように突き立てて持ち上げるとまた外れるようすだった。差しているあいだは柄がしたになるわけなのでつかえないこともない。
 あとは勤務のことだがこれも省略気味に行きたいところ。(……)さいごになにか聞きたいこと言いたいことはないですかと笑って聞いてみると、国語を解いているときの時間配分はどういうふうにしたらいいかという質問があり、あまり明確なことは言えないわけだけれどかんがえをこたえ、また全部読んだほうがいいかという問いも来たので、笑いつつ、これにかんしてはぼくは、いまみたいな練習のうちはかならずあたまからさいごまで文章をすべて読まないとちからはつかないという立場です、と宣言した。そうやってきちんとおおくの文に触れていかないと、本番で見たことのない文章を読めるようなちからや幅の広さというのはぜったいにつかない、そういう練習をかさねていった結果として、本番で、いやでもこれはちょっと間に合わないな、ぜんぶ読んでいたら厳しいなとなったら、それはしょうがない、そのときはカットしてでもできることをやるしかない、と。たしかに問題によっては部分的に読んだだけで容易に正解をみちびきだせるものもあるというか、むしろそれが大半であるというか、本文ぜんたいを踏まえてこたえるような問いはすくないわけだけれど、部分的にちょっと読んで正解をえらぶという能力はたんなる効率的な問題解決の能力、すなわち事務処理の能力でしかなく、そんなものは読解力や思考力や想像力や観察力や洞察力ではない。そしていやしくも国語教育がめざし学生がそこで身につけるべきだとおもわれるのは読解力、つまりそこに書かれてあることばの意味やつながりを丹念に読み取って理解する能力であるはずなのだが、ところがじっさいには問いを解くことだけが目的として優先される。問いが解けるというのは目的ではなくて結果であるはずなのだ。適切に読解力を身につけていれば、結果としておのずと問いが解けるというのがただしい順序なのだけれど、ところがみんなとうぜんながら志望校にははいりたいものだから、読む力をつけることではなくて問題に正解することが目的化される。受験教育業界もそれを後押しする。もしかしたら学校教育においてすらそうかもしれない。くそくらえである。だいたいあんないかにもどうでもよろしいような、退屈きわまりない選択問題に正解できたからといってなんだというのか? あんな問題に正解したからといって、文章が読めていることにはならない。いわんや、ことばをたしょうなりとも自己の武器として身につけ、それによってものごとや世界やじぶんじしんを理解したり、他者となにかしらの表現を交わしたりするちからが向上するわけではないだろう。国語教育とはなによりも、読み、理解し、書くことを身につけさせ、そして理想的にはそのあいだの循環を生徒において涵養するための時間ではないのか。こんなことはいまさらだれも言わないような、いかにも優等生的な言い分である。なぜわざわざそんなことを言わなければならないのか。そんな優等生的な退屈さすらがじゅうぶんに果たされていないのがこの国の国語教育の現状ではないのか。まずもって、じぶんも中高生のときは作文は嫌いだったけれど、学校教育の国語は(あるいはその他の科目も)読む時間に比して書く時間があまりにもすくなすぎる。すくなくとも書き抜きや書き写しをさせるべきである。きちんとよく書かれた他人の文を書き写す時間を小学校からもっと増やしていかないと駄目だとおもう。ひとりひとりに書き抜きノートを持たせて、授業であつかった文章やじぶんで読んだ文章から良いとおもった箇所を書き写させ提出させるべきである。そこに評価をつける必要はない。ただそういう習慣を身につける契機と可能性をあたえるだけでよい。右派の連中は自虐史観自虐史観ととなえるまえに、古事記日本書紀を中学校の国語であつかって原文と現代語訳をともに筆写させるべきだくらいのことを言うべきだろう。平家物語の暗唱なんかさせてるばあいじゃねえ。それはそれでまあよいが、だったら小学校一年生から万葉・古今・新古今のなかから和歌をいくらかおぼえさせたり、近代詩現代詩のかんたんなやつを暗唱させたりするべきだろう。フランスでは幼稚園から詩をおぼえさせてフランス語教育をするというはなしだったはず。なぜそうならないのか? なぜそうしようとおもわないのか。役に立つだの立たないだの、クソどうでもよいことばかり言いやがって。あげくのはてに実用国語だ。詩の一節をおぼえることが実用性を持つわけがないだろうが。それは実用的ではなくて実存的なことだ。ことばというのはわれわれが否応なくつねにすでにそこに投げこまれている海のような環境なのだから、それに習熟しないでどうして水のなかを自信をもって泳いでいくことができようか。水につつみこまれて泳ぐ行為に実用性も効率性も存在しない。あるのは水の抵抗と自己の存在が一刻ごとにとりかわす齟齬や葛藤や衝突や調和や共存などのさまざまな関係だけだ。実用性なんてものはさっさとまとめて捨てて、月曜日の朝にきちんと生ゴミに出しておけ。だいたい実用性うんぬん言っているにんげんの言う実用性とか「役に立つ」とかいうことは、だいたいのところ金になるということか、時間や手間が省けるとか、なにかべつのことにつながるくらいのことでしかないだろう。そんな半端な実用性など大上段にかかげているんじゃねえ。実用性を主張し標榜するならもっと徹底的に普遍的に役に立つことをかんがえろ。
 (……)
 (……)


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  • 「ことば」: 6 - 10
  • 日記読み: 2021/9/2, Thu.

 「共時性」への執着が「戦争」を生む。他者の共時化への欲望は「闘争」への欲望である。「平和」にあっては、それがたんに「交換と交易」へとかたちを変えるにすぎない(15/20)。――そのように説く文脈で、レヴィナスはつぎのように書いている。とりあえず論脈をはなれて、当面の論点とのかかわりでだけ取りあげておく。

 諸存在はつねに集約されたままであり、つまり現前しつづけている。だがそれは、記憶と歴史とによって物質のように規定された全体性へと延びひろがる現在におい(end163)てのことであり、生成を排除する、裂け目も突発事もない現在においてのことである。つまり、記憶と歴史とによって、そのほとんどが再 - 現前化からなるような現在にあってのことなのである(16/21)。

 ひとがつうじょう紛れもない「現在」と考えているものは「そのほとんどが再 - 現前化からなるような現在」であるにすぎない。知覚すら「記憶と歴史とによって」かたどられ、現在には過去が浸潤している。そのことによって、「諸存在はつねに集約されたままであり、つまり現前しつづけている」のである。そうした現在、記憶と歴史 [﹅5] に支配された現在とはまた、「裂け目も突発事もない現在」、その意味で「物質のように規定された全体性へと延びひろがる現在」にほかならない。「いっさいの知覚はすでに記憶である」かぎり、「現在はほとんど直接的な過去のうちにある」(ベルクソン [註40] )。純粋知覚なるものがひとつの抽象であるように、混じりけのない現在もまた一箇の幻想にほかならない。そこではつまり、過去こそが現在であり [﹅5] 、過去が現前している [﹅6] 。――そればかりではない。あるいは当面の問題の焦点は、むしろいま確認したことがらの裏面に存在する。
 過去はすでに [﹅3] 過ぎ去りもはや [﹅3] 存在しない。過去はたんに想起されるのみであり、物語のなかに立ちあらわれるだけである。たしかに、過去がそこで回帰するかにみえる「再(end164)現前化は純粋な現在である」(La repésentation est pur présent [註41] )。いっさいは現在のうちにあり、存在するものはすべて現前という様式において存在する。だが、そうであるにせよ、現在は存在する [﹅7] のであろうか。「純粋な現在」とはむしろ「時間と接触することのない、点的にすら接触することのない」ものなのではないだろうか [註42] 。
 現在は存在し、過去は存在した [﹅4] と考えること、つまり過去は存在しない [﹅5] と考えることは、抜きがたい一箇のおもいなしである。おもいなしというのは、要するに、そこでは存在 [﹅2] と現前 [﹅2] とがとりちがえられているからだ。現在はむしろ過ぎ去ることにおいて [﹅10] 現在である。あるいはかろうじて現在的であると呼ばれる。現在はつねに移ろい、現在にとって不可避的なことはかえって過去になる [﹅5] ことにほかならない。「現在」は、かくてより本質的な意味で「すでに過去に属している [註43] 」。
 現在はつねに過ぎ去り [﹅4] 、移ろっている。そうであるとすれば、現在ではなく、むしろ過去こそが過ぎ去らず、打ち消しがたい、と考える余地がある [註44] 。じっさいたとえば「悔い」(18/25)といった感情のありようは、抹消不能な過去、現在よりもなお現在的 [﹅3] な過去のかたちをみとめることがなければ、いったいどのように説明されうるだろうか。みずからを嚙む [﹅7] ほどに「悩みくるしむ [﹅6] 」(se ronger)悔いとは(182/214)、取りかえしがつかず、しかも取り消しもできない過去のありようを、現在にけっして回収されず [﹅5] 、しかしそのもの自体として [﹅9] いやおうなく繰りかえし現在に切迫する過去のありかを示している [註45] 。(end165)――ひとはまた、過去についてすら祈ることがある。「なんらかみずからに先行するもの、あるいは自身に後続するもの」である「祈り」(24/32)は、過去にさしむけられたときにこそ切実である。たとえばすでに [﹅3] 遭難にあったことが報じられた、他者の無事を祈る [﹅5] ときのように、である [註46] 。その祈りが切迫したものとなるのは、過去こそが過ぎゆかず、抹消不能であることを、ひとがおもい知っているからである。

 (註40): H. Bergson, Matière et mémoire, 3ème éd., PUF 1990, p. 166 f. ここではベルクソンを引いたが、このベルクソン的な記憶観が、レヴィナスの積極的な主張とかさなるわけでない。レヴィナスは現在を引き裂くものを、感受性の次元にみとめてゆく。この件については、次章第3節で主題的に考える。
 (註41): E. Lévinas, Totalitè et Infini. p. 131. (邦訳、一八三頁)
 (註42): Ibid. (邦訳、一八三頁以下)
 (註43): Ibid., p. 137. (邦訳、一九二頁)
 (註44): 近年では、大森荘蔵「過去の制作」(『時間と自我』青土社、一九九二年刊)が、「想起」は「過去の定義的体験 [﹅5] 」であることを強調している(四〇頁)。河本英夫「物語と時間化の隠喩」(『諸科学の解体』三嶺書房、一九八七年刊)二一五頁が、大森の論点に肯定的なかたちで言及しているほか、野家、前掲書(註7 [野家啓一『物語の哲学』(岩波書店、一九九六年刊)] )、一四九頁以下もこの論点を追認し、それが野家の歴史=物語論(前註30参照)における哲学的支柱のひとつとなっている。これにたいして、「過去の存在」という論点については、湯浅博雄『反復論序説』(未來社、一九九六年刊)一四六頁以下参照。
 (註45): サルトルの『倫理学ノート』が、カントの義務論に関連して、義務はつうじょうの時間性を超えていることを論じている。「責務は時間性の背後にあって、時間性を非本質的なものとする。私の構造のすべてとしての時間性は、責務という、背後の現前によって非本質的なものとされるのである」(J.-P. Sartre, Cahiers pour une morale, Gallimard 1983, p. 264)。「〈歴史〉のただなかにあっては、それぞれの歴史的存在は、同時に非歴史的な絶対である」(ibid., p. 32)ともかたる遺稿は、ときとしてレヴィナスの思考の近辺で倫理を手さぐりしているかに見えることがある。
 (註46): ダメットのあげた例である。べつのヴァージョンが、大森荘蔵「「後の祭り」を祈る」(『時は流れず』青土社、一九九六年刊)で紹介・検討されている。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、163~166; 第Ⅱ部 第一章「物語の時間/断絶する時間」)

     *

起きたのは正午過ぎ。新聞からはアフガニスタンの件。米軍の撤退が終わったわけだが、取り残されたアフガン人協力者は憤りを隠していない、と。バイデンは演説で、退避作戦はこれ以上ないくらい成功をおさめた、みたいなことを言ったようだ。タリバンに首都をおとされ、ISISによるテロも起こってしまったのに成功もクソもないだろうとおもうのだが、しかしそういう状況下でも累計で一二万人だかそれくらい退避させることができ、取り残された米国人も一〇〇から二〇〇くらいにおさまったというのは、たしかにそれはそれですごいのかもしれない、ともおもった。八月以降、ことにタリバンがカブールを奪取して以降にかぎっていえば、そうかんがえることもできるのかもしれない。

六面にはいわゆる対テロ戦争もしくは「テロとの戦い」の軌跡をふりかえるみたいな特集がされており、七面にも関連記事があった。タリバンがカブールを掌握して以降、町ではやはり女性の外出姿というのはなくなっており、美容院のポスターなども黒く塗りつぶされているらしい。米国によって導入された民主体制下では女性の社会進出もすすんで、アナウンサーとかラッパーとかとして活躍するひとも出ていたらしいが、ここでそのながれが逆行するだろう。外出禁止だとか服装などの規定だとかもとうぜんゆるしがたいが、いちばんクソだとおもうのは女性に教育を受ける権利はないとされることで、それは、おまえたちは無知蒙昧のままなにもかんがえず男のいうことにただしたがっていれば良い、と言い渡しているということだからだ。ひとびとに、ものをかんがえるな、と命令することがいちばんゆるせない。それは強制収容所の論理である。タリバンだけでなく、たとえば中国という国にかんしていちばんクソだとかんじるのはその点である。そういう国はいずれかならず滅ぶとじぶんはおもっている。

     *

ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)

251~252: 「もうひとつつけくわえておけば、都市工学者や建築家たちのあつかう幾何学的空間というのは、文法学者や(end251)言語学者たちが、ノーマルで規範的なレベルなるものをうちたて、それにてらして「比喩的な [フィギュレ] 」派生義を規定しようとする、あの「本義 [サンス・プロープル] 」なるものに等しい、ということだ。実のところ、このような(彩 [フィギュール] 〔比喩的な意味〕をもたない)「正確さ [プロープル] 」などというものは、ことばだろうと歩きかただろうと、普段の用法で実際にあったためしはない。そんなものは、メタ言語というそれじたい特殊な科学的用法によってうみだされたフィクションにすぎないのであり、こうした科学的用法は、そのような区別そのものによって他に差をつけようとしているのである [註27] 」; (註27): 「固有なものの理論」については次を見よ。J. Derrida, Marges de la philosophie, Ed. de Minuit, 1972 〔高橋允昭・藤本一勇訳『哲学の余白』上・下、法政大学出版局〕: 《La mythologie blanche》, p. 247-324.

257~258: 「歩くということ、それは場を失うということだ。それは、その場を不在にし、自分のもの [プロープル] を探し求めてゆくはてしないプロセスである。都市はしだいに多様な彷徨をうみだしていっているが、そうした彷徨をとおして、都市全体が場所の剝奪という巨大な社会的試練の場と化してしまっている――そう、たしかにそれはひとつの試練なのだ。ささやかな無数の流刑(移動と歩行)のうちに散り散りになってゆく試練。そのかわり、その試練をとおして、人びとの大移動が交わりをうみだし、その交差と結びつきによって都市の織り目がつくりだされてゆく。そうした試練の彷徨は、究極的にはどこかの場所をめざしているのだ。といってもその場所は《都市》というひとつの名でしかないのだが。この場所によってあたえられるアイデンティティは、どうしたところで象徴的な(名ばかりの)ものになってしまう。なぜならそこには、市民としての肩書も所得もてんでばらばらなのに、行き交う人びとのうごめきだけがあり、身をよせるものといえば交通手段という仮の場の編み目があるのみ、ただ、自分のものに似たなにかを求めて横切ってゆく足どりだけがあり、非 - 場(end257)所につきまとわれ、夢みる場につきまとわれる仮住まいの宇宙があるだけなのだから」

258~259: 「いっぽう都市はといえば、ほとんど無人の「砂漠」と化してしまっている。その砂漠では、奇怪なもの、ひとをぞっとさせるものは、もはやなにかの影ではなく、ジュネの演劇にあるような仮借なき光、闇なき都市のテクストを生産する光であって、テクノクラシーの権力はいたるところその光のテクストをつくりだし、住む人びとを監視している(それにしてもいったい何が監視しているのだろう)。「都市がわたしたちをじっと見つめていて、そのまなざしを感じると、くらくらしてしまう」と、ルーアンに住む住民のひとりが語っている [註36] 。見知らぬ [エトランジェ] 理性によって容赦なく照らしだされた空間のなか、固有名詞(end258)は、なじみぶかいひそやかな意味作用の余地をうがつ。それらは「意味 [サンス] 〔方向〕をなす」のである。言いかえれば、それら固有名詞は、さまざまな動きをひきおこすのだ。ちょうど、なにかに呼ばれたり導かれたりして、それまでは思いもかけなかった意味(または方向)がひらかれ、道筋がそれたり曲がったりするような具合に。これらの名はもろもろの場所のなかになにかの非 - 場所をつくりだす。そうした名によって場所はパサージュにかわるのである」; (註36): Ph. Dard, F. Desbons et al., la Ville, symbolique en souffrance, C. E. P., 1975, p. 200.

259~260: 「とすると、固有名詞はいったいなにを綴っているというのだろうか。都市の表面を意味(end259)論的に序列化し秩序づける星座のように配置され、年代記的な配列と歴史的な理由づけのオペレーターとなりながら、これらの語(ボレゴ通り、ボットサリス通り、ブーガンヴィル通り)は、使い古された硬貨のように、刻みこまれた価値を徐々に失っていっているけれど、もとの価値がなくなっても、なにかを意味するというその能力はなおも生きつづけている。サン=ペール、コランタン・セルトン、赤の広場……。それらは、通る人びとがそれぞれ好き勝手に付与する多義性に身をゆだねている。それらの名は、もともとそれが指すはずだった場所から離れていって、メタファーと化しつつ、もとの価値とはかけはなれた理由、けれど通る人びとはそれと気づいている/いない理由によってさまざまな旅をつくりだし、その旅の途上での空想の出会いの場所になっているのだ。場所からきりはなされて、いまだない「意味」を描く雲の地理のように都市のうえに漂いながら、それにつられてつい人びとがふらりと足をむけてしまう、不思議な地名。プラース・ド・レトワール、コンコルド、ポワソニエール……。こうした星座が交通のなかだちをしている。道しるべの星々。「コンコルド広場なんてものは存在しない」、とマラパルトは語っていた。「それはひとつの観念なのだ」、と [註37] 。それはひとつの「観念」以上のものだ。固有名詞の魔力を理解するには、もっといろいろなものと比較してみる必要があるだろう。それらの名は、ひとを旅におもむかせ、旅を飾りながら、その旅の手に運ばれているかのようである」; (註37): たとえば次の書のエピグラフも参照せよ。Patrick Modiano, Place de l'Étoile (Gallimard, 1968). 〔有田英也訳『エトワール広場/夜のロンド』作品社〕

266~267: 「このようにして物語を構成していることばの遺物、忘れられた話や不透明な身ぶりにゆかりのある遺物たちは、たがいどうしの関係が思考されぬままにひとつのコラージュのなかに並べられており、だからこそひとつの神話的な全体を形成している [註46] 。それらは欠落によって結びつけられているのだ。したがってそれらは、テクストという構造化された空間のなかに反 - テクストをうみだし、変装と遁走の効果を、あるパサージュから別のパサージュへ移動する可能性をつくりだす。あたかも地下室や茂みのようなものだ。「おお、木立よ、おお、複数のものたちよ! [註47] 」 これらの物語は、こうしてきりひらかれる散種 [ディセミナシオン] の(end266)プロセスによって、風評 [﹅2] なるものと対立しあう。なぜなら、風評というのは、かならずなにかを指令するもの、空間の平準化をうみだし、またその結果でもあるものであって、ひとをなにかの行為にかりたて、そのうえなにかを信じこませ、秩序の強化に役立つような、全員に共通の動きをつくりだすものだからだ。物語はさまざまな差異をつくりだすが、風評は全体化する。この二つは、つねに近づいたり離れたりしてあいだを揺れ動いてはいるものの、現在では上下の層に重なりあっているのではないだろうか。というのも、物語はプライベートなものになっていって、街や家庭の片隅、ひとりひとりの心の片隅にうずもれているのにたいし、メディアのながす風評はすべてをおおいつくし、匿名の掟の呪文にもひとしい《都市 [﹅2] 》というすがたをとって、あらゆる固有名詞にとってかわり、なおも都市に抵抗をつづける迷信とたたかい、抹殺しているからである」; (註46): 相互の関係が思考されぬまま、それでいてたがいに不可欠なものとして措定されている諸項は象徴的であると呼びうるであろう。このような思考の「欠如」によって特徴づけられる認識装置としての象徴主義の定義については、次を参照。Dan Sperber, le Symbolisme en général, Hermann, 1974. 〔菅野盾樹訳『象徴表現とはなにか』紀伊國屋書店〕; (註47): F. Ponge, la Promenade dans nos serres, Gallimard, 1967.

283~284: 「まずはじめに、あつかう領野をはっきりさせるために、空間と場所の区別をつけておきたい。場所 [﹅2] というのは、もろもろの要素が並列的に配置されている秩序(秩序のいかんをとわず)のことである。したがってここでは、二つのものが同一の位置を占める可能性はありえないことになる。ここを支配しているのは、「適正 [プロープル] 」かどうかという法則なのだ。つまりここでは、考察の対象になる諸要素は、たがいに隣接 [﹅2] 関係に置かれ、ひとつひとつ(end283)がはっきり異なる「適正」な箇所におさめられている。場所というのはしたがって、すべてのポジションが一挙にあたえられるような布置のことである。そこには、安定性がしめされている」

284: 「方向というベクトル、速度のいかん、時間という変数をとりいれてみれば、空間 [﹅2] ということになる。空間というのは、動くものの交錯するところなのだ。空間は、いってみればそこで繰りひろげられる運動によって活気づけられるのである。空間というのは、それを方向づけ、情況づけ、時間化する操作がうみだすものであり、そうした操作によって空間は、たがいに対立しあうプログラムや相次ぐ諸関係からなる多価的な統一体として機能するようになる。空間と場所の関係は、語とそれが実際に話されるときの状態にひきくらべてみることができるだろう。つまりそのとき語は、それが口にされる情況の曖昧さをひきずっており、多様な社会慣習にそまったことば [ターム] に変わり、ある一定の現在(またはある一定の時間)における行為として発せられ、前後につづくものによって転換させられ変容させられている。したがって空間には、場所とちがって、「適正」なるものにそなわるような一義性もなければ安定性もない」

284~285: 「要するに、空間とは実践された場所のことである [﹅17] 。たとえば都市計画によって幾何学的にできあがった都市は、そこを歩く者たちによって空間に転換させられてしまう。おなじように、読むという行為も、記号のシステムがつくりだした場所――書かれたもの――を(end284)実践化することによって空間をうみだすのである」

2022/9/1, Thu.

 わたしが何を言おうとしているのかといえば、幸運が巡ってきても、それを真に受けるなということだ。二十代で有名になったりすると、それに押しつぶされないようにするのは至難の技だ。六十歳を過ぎて少しだけ有名になったとしても、うまく対応することができる。エズ・パウンド老がいつも言っていたのは、「自分の仕事 [﹅2] をしろ」ということだった。わたしは彼が言わんとすることを明確に理解していた。たとえわたしにとって書くことが酒を飲むこと以上の仕事になり得ないとしても。そして、もちろんのこと、今もわたしは酒を飲んでいて、この手紙が少しとっ散らかっているとしても、そう、これがわたしのスタイル [﹅4] なのだ。
 あなたがご承知かどうかはわからない。何人かの詩人を引き合いに出してみる。最初からとてもうまくいく者がいる。閃き、燃え上がり、いちかばちかのやり方で書き留める。最初の一、二冊はかなりのものだが、やがて消え去ってしまう [﹅8] ように思える。あたりを見回してみれば、彼らはどこかの大学で創作についての講義をしている。今や自分たちはどういうふうに書けばいいのかわかっていると思い込み、その方法を他人に教えようとしているわけだ。これはむかつく。彼らは自分たちの今の姿を受け入れてしまっているのだ。そんなことができるなんて信じられない。まるでどこかの男がふらっと現れ、自分はおまんこをするのが得意だと思っているから、わたしにおまんこの仕方を教えようとするよ(end246)うなものだ。
 いい作家がどこかにいるとすれば、彼らは「わたしは作家だ」と思いながら、あたりをうろつき回り、あちこちに顔を出し、ペラペラと何でも喋り、やたらと目につくことをするとは思えない。他にやることが何もないからそうやって生きているだけだ。山積しているではないか……恐ろしいことに恐ろしくないこと、さまざまなお喋り、フニャちん野郎たちに悪夢、悲鳴、笑い声と死と何もない果てしない空間などなどが、ひとつになり始め、それからタイプライターが目に入ると、彼らはその前に座って、押し出されていく、計画など何もない、ただ出てくるだけ。彼らがまだついているのなら。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、246~247; ロス・ペキーノ・グレイジャー宛、1983年2月16日)




 いまもう九月二日の午前零時六分になったがここまでこの日のことを書けなかった。きょうはなぜか六時半過ぎに覚めて七時台にはやくも起床してしまい、あとでねむくなったので二時前にいくらかまどろんだが、またもたくさんあるくために出かけた休日である。(……)に出て、モノレールしたの広場を一周そぞろあるいた。歩行の熱をとどめたからだでひさしぶりに喫茶店にはいってそこでバリバリと書きものをしようかなとおもっていたのだが、(……)に併設された店にいざ行ってみるとけっこう混んでいてはいる気にならなかったので、けっきょく帰ったあとにきのうのことをわりと怒涛のいきおいで書き、さきほどしあげて投稿した。引用をのぞいても検閲されている職場のことをふくめれば一万五〇〇〇字は超えているのではないか。あるくととうぜんながら知覚刺激と印象と情報量が格段に増えるので書くこともふくれあがってなかなか追いつかない。しかし、あるかなくてももともと追いついていなかったので変わりはしないどころか、むしろ歩いたほうがまだやる気が出てよく書ける。きのう、八月三一日の記事はひさしぶりにだいぶ満足に記せたという充実感がある。きょうのこともさっさと記したいが、もうだいぶ文を書くことに心身をついやしたし、さすがにこの時間になるとここからさらにこのまま行くぞという気にはなりがたい。しかし軽いポイントだけさきに書いておくと、まず朝起きたときにそこそこはげしい雨降りだった。その後止んだが、洗濯物はなかに干した。外出はちょうど三時ごろ。帰宅後にブランショ『文学空間』を寝床でいくらか読んだところ、ようやく乗れるようになってきたような感じがあった。ここまで読み出してもそのたびにぜんぜんすすまなかったのだが、きょうは20ページくらいすすむことができた。外出の帰りにはスーパーに寄っていくらか買い物。米といっしょに食うようなものがなかったので。そもそもそのパック米じたい、あとひとつになっていた。きょうの歩行はたぶん一時間四〇分か五〇分くらいになったはず。きのうは勤務だったが、行きに三五分ほど、帰りに職場から(……)までで二〇分、(……)から家までで三五分というわけで、一時間三〇分はあるいただろう。行きにも(……)で降りてあるけばもう二〇分追加になる。晴れの日はまださすがに厳しいが、曇りだったり、これから季節が涼しくなってくればそれもできるだろう。歩行時間の記録をつくって、週ごととか月ごととか累計のデータを取るのもよいかもしれない。そういえばきのうときょうで"The Gymnasiums of the Mind"(https://philosophynow.org/issues/44/The_Gymnasiums_of_the_Mind)という記事を読んだのだけれど、これによればソローとかニーチェとかはめちゃくちゃ歩いていて笑う。おまえそれはいくらなんでもあるきすぎだろと。記述を引いておくと、ソローについては、〈In his brief life Henry David Thoreau walked an estimated 250,000 miles, or ten times the circumference of earth. “I think that I cannot preserve my health and spirits,” wrote Thoreau, “unless I spend four hours a day at least – and it is commonly more than that – sauntering through the woods and over the hills and fields absolutely free from worldly engagements.〉とのこと。一日に最低でも四時間はあるかないと健康と気力をたもてない気がすると言っているわけである。ニーチェはもっとやばくて、〈None of these laggards, however, could touch Friedrich Nietzsche, who held that “all truly great thoughts are conceived by walking.” Rising at dawn, Nietzsche would stalk through the countryside till 11 a.m. Then, after a short break, he would set out on a two-hour hike through the forest to Lake Sils. After lunch he was off again, parasol in hand, returning home at four or five o’clock, to commence the day’s writing.〉とある。かれに比べればみんな"laggards"(のろま、愚図)になってしまうわけで、というのはニーチェは夜明けとともに起き、休憩をはさみながらも午後四時か五時まで散策に行っているからだ。仮に九時から外出したとしても五時まで八時間あり、休憩を二時間と多めに見積もっても六時間はあるいている。労働者か。かれはあるきすぎてあたまがおかしくなったのかもしれない。ところでソローといえばきょう行った(……)の海外文学の棚(場所が変わりだいぶ縮小していたのだが、そもそも店舗じたい、いぜんは書店の範囲だった奥の区画が「(……)」になっており、着実におびやかされているようだ)にソローとジョン・ミューアゲーリー・スナイダーをならべて論じた九州大学出版局の四二〇〇円くらいの本があり、ソローの「野生」の哲学がミューアとスナイダーにどのように影響し受け継がれたかみたいなはなしのようで、いわば「野生」の系譜学だが、著者は高橋勤というなまえだったとおもう。このテーマはもちろんこちらの関心ピンポイントなのだけれど、きょうはなにも買う気がなかったし、買ってもすぐに読めるわけでないので見送った。これいじょうのことはあしたにしようかな。あしたは勤務なのでそう書ける気はしないが。天気を調べてみると曇りもしくは雨で、最高気温も二七度だというのでなかなか良いんじゃないか? 往路も(……)からあるけるのではないか。


     *


 先述のようにはやく目覚めて、活動開始も応じてはやかったのだが、ウェブ記事をたくさん読んだり洗濯をしたりと、出かけるまでにけっこう時間がかかってしまった。ウェブ記事というのはまた歩行にかんするGuardianとかの英文コラムだが、歩行時の姿勢のとりかたとか注意する筋肉とかについてやたら詳しく説明した記事などあっていちおう読んでしまう。そんなにガチで、ウォーキングとしてやるつもりはないのだが。Zoe Williamsというなまえだったがこのひとが専門家にじっさいに習って書いたこのコラムでは、歩行について記した近代の作家たちはみな共通してひとつのことを書いている、つまり歩行という活動の遅さを称讃することだ、と言い、しかし適切な姿勢とからだのうごかしかたを身につけてすばやく歩くことでそれとはべつの歩行感覚や身体的感覚の領野がひらけるみたいなはなしだった。はやく歩くと歩行の詩性(poesy)がうしなわれてしまうとおもわれるかもしれないが、それとはちがった、身体じたいのポエジーがあらわれてくるみたいな、ちょっと記憶が正確でないけれどそんなことを言っていたとおもう。とはいえじぶんはそっちに向かうつもりはいまのところなく、あくまでもゆっくりかるくあるいてひとびとから追い抜かされることを愛するものであり、ウォーキング・チルの信奉者である。たんじゅんなはなし、まわりのものものをゆっくり見たい。ただ姿勢をきちんとするとかは参考にしてよいかもしれない。両手をポケットに突っこんで猫背気味にゆらゆらあるくよりは、気張る必要はないけれどもうちょい背すじを伸ばしたほうがよいだろう。そうおもってこの日はあまりポケットに手を入れずにあるいたわけだが。ウォーキングについての記事を読んでいるとちゅうで画面右端に新着としてJulian Borger in Washington, “China’s treatment of Uyghurs may be crime against humanity, says UN human rights chief”(2022/9/1)(https://www.theguardian.com/world/2022/aug/31/china-uyghur-muslims-xinjiang-michelle-bachelet-un)というのも見かけたので、それも読んでおいた。


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 この日の道行きのことを。すでに九月四日の午前零時にはいったところなので、けっこうわすれてしまっているが。ほぼ三時に外出した。この日はアパートを出て左折するのではなく、きのうとは違う道から行こうということで右へ。角を出ると通りをわたって左折、西にすすんでいくととちゅうに学習塾があるわけだが、いつも自転車が停まっているその一階部分のスペースできょうは男性がなにかに黒いラッカースプレーをかけていた。突き当たると右に曲がりつつ向かいに渡り、左折して通りにはいる。まっすぐすすめば(……)通りに出るが、きょうはそこで横断歩道をわたったさきの裏道から(……)のほうへ行ってみることにした。まわりの建物はとうぜんながらだいたい住宅である。じきに踏切りに当たるがここが(……)駅からほんのすこし北上した地点で、渡りながらひだりを見れば、なんどかそこに立ったことのあるホームの端もすぐちかくに見えており、そこにないじぶんのすがたをみるような逆転の感が立つとともに、反対側を向けばホームからもたびたび望んだことのある赤白の電波塔がとおくに見える。あれは高校時代の通学路とちゅうにあったものだとおもっていたが、先日その横をとおった(……)の敷地内に立っているものかもしれない。レゴブロックを組み合わせたおもちゃのようでもあるし、巧みな手のあやとりによるみごとな一造形のようでもあるが、いずれにしてもその遊び手たる子どもは巨人である。踏切りを西に越えてからは裏道をそのままひたすらまっすぐ。よくわからんガールズバーみたいな店がとちゅうにあったり、建物から出てきた老人が上下オレンジいろのずいぶん派手なかっこうをしていたり。そうして出たのは堂々たるホテルが角にそびえている交差点で、つまり(……)の実家の通りをあるいてきたときとおなじ地点であり、まあ予想通りだ。そこを向かいにわたってそのまますすめばさくばんエッチなキャバクラにさそわれたのとおなじ道を反対からたどることになる。まだコロナウイルス状況はつづいており、東京都でもさいきん減ってきているとはいえいちにちの新規感染者は一万数千人規模のはずなのだが、このへんの飲み屋は夜にとおりながらなかをのぞくとふつうに席は埋まり、にぎわって繁盛している。みんなもうあまり気にしていないのだろう。感染したとしてももういいやというか、いちいち騒ぎ立てるようなことではない、くらいの感覚になってきているのではないか。じっさいのところ、比較的若い世代にとっての心配の種は感染症状そのものというよりも後遺症のほうだろう。パンデミックがはじまって序盤に「自粛警察」と呼ばれたような行動を取っていたひとびとは、いまどうおもっているのだろう?
 (……)駅に着くときょうは階段をのぼって駅舎に入り、北へ抜ける。特に目的地はなかったのだが、とりあえずモノレール下の広場をぶらぶらあるいてみようとおもっていた。それで北口広場に出ると左折し、高架歩廊上をたどっていって、モノレール駅のしたの通路を抜けて端まで来ると階段を下りて広場にはいった。広場は中央の頭上にモノレールの線路がとおり、そのしたは植込みがあったり草木があしらわれたり、その縁にベンチがもうけられたりしている。ベンチは左右にひろく幅をとられた通路の端などそこここにたくさんもうけられており、ひとびとはおもいおもいに腰掛けて飯を食ったり携帯を見たり、談笑したり愛を語らったりしているだろう。家からここまであるいてきてベンチに座り、あたたまったからだで風を浴びながら書見をするというのもわるくはなさそうだ。いかにも文学青年じみているが。それで右側の通路からあるきだして一周することに。ほかにもあるくひとびと、自転車で通るひとびと、ベンチに座っているひとびとはたくさんいる。しばらくすすむと中央部に草木が増えて木の間隔がせまくなり、するとセミの声がまだいくらかのこっている。あるいているとこちらを追い抜かすものがひとり、ヒップホップが好きそうな、ちょっとだぼっとした感じのストリートファッション風の若い男で、からだのゆれかたや歩調にはたしょうそういう生意気そうな威勢がみえないでもないが、しかし顔は終始うつむき気味で、うしろすがたにもかかわらず浮かない雰囲気が見えなくもない。じきに右端の店舗がならぶほうにはいっていって建物のまえを行ったかとおもいきや、ちょっと見ていなかったうちにすがたを消しており、そこにあった美容室か薬局かにはいったようだった。さらにすすんでいって広場端から左の通路にうつり、逆方向に振り向いてあるきだすから視点としてはまた右側の道をもときたほうに戻ることになる。そこには(……)なんとかいうカフェがあって(検索すると(……)だった)、ずいぶん洒落ていそうなようすでこんなところにこんなカフェあったのかとおもったが、(……)のライブホールに併設されたものだから、駅からわりとはなれていてもイベントに来た客がよくはいるだろう。ヤサにはしづらいのではないか。まあ、もうそとで作業をする気になることもまずないが。


     *


 記述がめんどうだしよくおぼえていないのでもうだいたい省略したいが、広場をもどっているあいだに、ここまでで一時間弱くらいぶっつづけであるいていたとおもうのだけれど、さすがに疲れたようでちょっとふらついてくる感じがあり、なんか飲んで休んだほうがいいなとおもった。とはいえもともと喫茶店にはいろうかとおもっていたので、(……)まではがんばろうとゆっくりあるき、広場に面した一階の入り口からビルにはいると息をつきながらエスカレーターをのぼっていって(……)へ。しかしいざ書店にはいってみて併設されている喫茶店をのぞいてみればけっこう混んでいるわけである。それなのではいる気が失せて、まあちょっと見ていくかということでそのへんの美術とか音楽とかの本を見たり。壁際は映画のコーナーで、ここに復刊されたヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』が表紙を見せて置かれてあったので買ってしまおうかともおもったがおもいとどまり、そのすぐちかくには蓮實重彦の『ジョン・フォード論』があって、あ、知らないうちについに出てたのか、とおもった。奥付を見てみるとたしか七月だったとおもう。むろん読みたいは読みたいが、ジョン・フォード論を読むよりジョン・フォードをみることのほうが大事だろう。映画というものをみる習慣がぜんぜんない現状、映画の本を読むよりそもそももっと映画を見たほうがよいに決まっているのだが、どうしてもそうできない。それからまた振り向いて棚のあいだにはいってみるとおどろいたことにここに海外文学が移動しており、いぜんは人文書方面の壁際にあって、それよりもまえ、何年もまえはレジやエスカレーターそばの区画に何列かつかって取り揃えられており、そこでミシェル・レリス日記とかムージル著作集全九巻とかをすこしずつ買ったものだが、ついに縮小の一途でここまで来てしまったのだ。そればかりでなく、通路を行ってみるとレジの向こうの区画は、いぜんは受験参考書とかがあったとおもうのだけれどなんともはや(……)ですらなく「(……)」になっていた。(……)というのは(……)が同人誌を通販で買うのにつかっていた店だから、そういうアニメ・漫画・ゲーム方面の店だとおもっている。つまりとらのあな的な。やはりそちらのほうがつよいのだ。海外文学なんてたいして読まれやしない。時代は漫画とアニメだ。言語的構築物などという手間とエネルギーのかかるものなど読んでいられないのだ。あっという間に映像とVRとAIとテレパシー技術が言語造形を過去の遺跡とするだろう。もっとも、アニメや漫画や映像だってみるほうはともかく、つくるほうはめちゃくちゃな手間と労力がかかるはずだが。それは文学や哲学や言語的著作物にかけられるもののおおきさとなにひとつまったく変わりはしない。ばあいによってはそれよりもおおきいだろう。また、(……)がここまで衰退しているのはなんねんかまえに(……)に(……)がはいったという事情がかなりおおきいとおもうのだけれど、それいぜんはこの(……)こそ、(……)市の海外文学頒布を一手にになっていた功あるすばらしい店であった。それで海外文学の棚をみていると、ソローとジョン・ミューアとスナイダーを系譜的に論じたらしい本をみつけたというのはうえに書いたとおりだ。あとなんといったかわすれたのだけれどなんかアルトーとかブルトンとかが好きだったみたいななんとかいう作家の著作集みたいなものが二巻あるのを見かけたおぼえがある。ほか、ホフマン小説全集(だったか?)も。国書刊行会から上下巻で出ているでかいやつ。
 それでもう帰ることにして、エスカレーターをくだってフロアを下り、出口までのあいだに自販機があるのでそこで買ってなにか飲んでも良かったのだが、どうせだったらモノレールした広場で風を浴びながら休もうとおもってそとに出て、階段をまた下りるとそのへんの自販機まで歩き、キリンのスポーツドリンクを買うと手近のベンチに腰をおろして水分補給した。けっこうながくとどまる。そのあいだときどきボトルを取っては飲み物を飲むだけで、あとは目の前を行き過ぎるひとのすがたを見たりとかあたりを見回したりとかでなにもやっていない。このころには雲行きがだいぶあやしくなってきており、頭上は薄墨色にほぼおおわれつくしたような感じだった。左のほうのベンチには、さきほど広場のさきからもどってきたときにすでに見とめていたが、インドか東南アジアかそのへんの外国人男性がふたり腰掛けてなんとかはなしており、なんとなくひとりが職場の上司とか、年上の相談相手みたいなかんじで、もうひとりがなにか悩みをはなしたり問題を相談したりしているような感じで、そこそこ深刻そうな雰囲気だった。
 帰路へ。帰路もよくおぼえていないので省くが、ルートだけ記しておくと、広場から出ると映画館のあるそこの通りに沿って東進し、交差点を駅のほうへ、つまり南へわたるともうすこしすすんだところで対岸へ渡り、(……)の横の路地を行く。それで郵便局の角を出れば駅北口を出てすぐ東にはいった線路脇の道のとちゅうに出るわけで、つまり高校時代の通学路である。こんな店はなかったなとか、あーこれはあった、まだあんのか、とかならびを見ながらすすむ。(……)がバイトしていた中華屋もまだ生き残っていた。Family Martと寿司屋もそのまま。そのFamily Martのとなりがとくになんの思い出もないがなつかしき(……)ビルであり、その横がセンスの悪いカプセルホテルで、そこから向かいにわたったところに地下通路があるのでそれでもって南に抜けることに。抜けたあとはすぐ左折してほそい道を行ったがそのへんはラブホテルなのかよくわからんがたぶんそうらしい薄寂れたホテル類がいくつかあって、このへんこんな感じだったのかとおもいつつ行っていると線路脇に公園もあり、曇り空のうえに木蓋にふさがれて薄暗いそこの滑り台だかなんだか真っ赤なやつが妙なかたちをしていたので、ああこれがれいの「(……)」か、こんなばしょにあったのかとおもった。そのあとは公園のまえで右折しておもてに出て、来たときもあたった巨大なホテルがある交差点にいたり、そこから裏通りをおなじくもどるのは芸がないから(……)の実家のある通りをすすみ、線路に沿って曲がってみようかなとおもいきや踏切りを越えるとすぐには右にはいれない。ちょっといったところの口から折れて行っていると、行きもとおった(……)駅のほんのすこし北にある踏切りに出て、そこに線路脇をあるける細い通路があるので(帰ってきて電車から降りたさいによくホームからここを行くひとのすがたを見ていたものだが)、そこを行って駅前マンション敷地の脇を抜けてなじみのばしょへ、それでいつものまっすぐな細道を行ってスーパーに寄ったのだがこの時点で空がもちこたえてくれずすでに降り出していた。買い物後もいくらか降っていたが、そこまでではないのでいそがずあるいて帰宅。その後は前日のことをよく書いた。


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  • 「ことば」: 1- 5
  • 「読みかえし1」: 354 - 368
  • 日記読み: 2021/9/1, Wed. / 2014/2/12, Wed.


ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)より。

229: 「よく知られていて、すぐそれとわかる話では、「時々の情況にあった」ディテールひとつで、そのもてる意味をくつがえすことができる。話を「語りきかせる」ということは、決まり文句というありがたいステレオタイプのもとにこっそり忍びこませたこの余分な [﹅3] 要素を活かすということなのだ。もとになる枠組みにさしはさまれた「ふとしたもの」は、その場に、ちがった効果をうみだすのである。聞く耳をもった者にはそれがわかるのだ。さとい耳は、きまった語り [﹅2] のなかから、いまここで(それを [﹅3] )語る行為 [﹅4] ににじみでるなにかちがったものを聞きわけるすべを心得ていて、語り手のその巧みなひねりに耳をこらすそぶりをみせたりなどしない」

236: 「そうした神をよそに、都市の日常的な営みは、「下のほう」(down)、可視性がそこでとだえてしまうところから始まる。こうした日々の営みの基本形態、それは、歩く者たち(Wandersmänner)であり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書きつづっている都市という「テクスト」の活字の太さ細さに沿って動いてゆく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。その空間についてかれらが知っていることといえば、抱きあう恋人たちが相手のからだを見ようにも見えないのとおなじくらいに、ただひたすら盲目の知識があるのみだ。この絡みあいのなかでこたえ交わし通じあう道の数々、ひとつひとつの身体がほかのたくさんの身体の徴を刻みながら織りなしてゆく知られざる詩の数々は、およそ読みえないものである。すべては、あたかも盲目性が、都市に住む人びとの実践の特徴をなしているかのようだ [註5] 。これらのエクリチュールの網の目は、作者も観衆もない物語 [イストワール] 、とぎれとぎれの軌跡の断片と、空間の変容とからなる多種多様な物語をつくりなしてゆく。こうした物語は、都市の表象にたいして、日常的に、そしてどこまでも、他者でありつづけている」; (註5): すでにデカルトは『精神指導の規則』において、視覚のあたえる錯覚と誤謬にたいし、盲目が事物と場所の認識を保証するとしている。

245~246: 「歩く行為 [アクト・ド・マルシェ] の都市システムにたいする関係は、発話行為(speech act)が言語 [ラング] や言い終えられた発話にたいする関係にひとしい [註13] 。実際、もっとも基本的なレベルで、歩く行為は、三重の「発話行為的」機能をはたしている。まずそれは、歩行者が地理システムを自分のものにする [﹅8] プロセスである(ちょうど話し手が言語を自分のものにし、身につけるのと同様に)。またそれは、場所の空間的実現 [﹅2] である(ちょうどパロール行為が言語の音声的実現であるように)。最後に、歩く行為は、相異なる立場のあいだで交わされるさまざまな(end245)関係 [﹅2] を、すなわち動きという形態をとった言語行為的な「契約」をふくんでいる(ちょうどことばによる [ヴェルバル] 発話行為が「話しかけ」であって、話し手と「相手をむかいあわせ」、対話者どうしのあいだにいろいろな契約を成立させるように [註14] )。こうして、歩くことはまず第一に、発話行為の空間として定義されるだろう」; (註13): 次をはじめ、この問題にとりくんでいる多くの研究を見られたい。J. Searle, 《What is a speech act?》, in M. Black (ed.), Philosophy in America, Allen & Unwin and Cornell University Press, 1965, p. 221-239.; (註14): E. Benveniste, Problèmes de linguistique générale, t. 2, Gallimard, 1974, p. 79-88, etc.


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Julian Borger in Washington, “China’s treatment of Uyghurs may be crime against humanity, says UN human rights chief”(2022/9/1)(https://www.theguardian.com/world/2022/aug/31/china-uyghur-muslims-xinjiang-michelle-bachelet-un(https://www.theguardian.com/world/2022/aug/31/china-uyghur-muslims-xinjiang-michelle-bachelet-un))

Over the past five years, China swept an estimated million Uyghurs and other minority groups into internment camps which it termed training centres. Some of the centres have since been closed but there are still thought to be hundreds of thousands still incarcerated. In several hundred cases families had no idea about the fate of relatives who had been detained.

Out of 26 former inmates interviewed by UN investigators, two-thirds “reported having been subjected to treatment that would amount to torture and/or other forms of ill-treatment”.

The abuses described included beatings with electric batons while being strapped in a “tiger chair” (to which inmates are strapped by their hands and feet), extended solitary confinement, as well as what appeared to be a form of waterboarding, “being subjected to interrogation with water being poured in their faces”.

The US and some other countries have said the mass incarceration of Uyghurs and other Muslims in Xinjiang, the destruction of mosques and communities and forced abortion and sterilisation, amount to genocide. The UN report does not mention genocide but says allegations of torture, including force medical procedures, as well as sexual violence were all “credible”.

It said that the authorities had deemed violations of the three-child official limit on family size to be an indicator of “extremism”, leading to internment.

“Several women interviewed by OHCHR raised allegations of forced birth control, in particular forced IUD [intrauterine device] placements and possible forced sterilisations with respect to Uyghur and ethnic Kazakh women. Some women spoke of the risk of harsh punishments including “internment” or “imprisonment” for violations of the family planning policy,” the report said.

“Among these, OHCHR interviewed some women who said they were forced to have abortions or forced to have IUDs inserted, after having reached the permitted number of children under the family planning policy. These first-hand accounts, although limited in number, are considered credible.”

In the report, Bachelet, a former Chilean president, noted that the average rate of sterilisation per 100,000 inhabitants in China as a whole was just over 32. In the Xinjiang Uyghur Autonomous Region it was 243.

2022/8/31, Wed.

 書くことがわたしにとって務めになったことはこれまで一度もなく、たとえまるでうまく書けないとしても、わたしは書くという行為そのものやタイプライターが立てる音、仕上げることが好きなのだ。そしてたとえうまく書けないとしても、決して無駄にはならず、ただ読み返し、あれこれ気にしたりはしない。わたしにはどんどん良くなる機会が与えられているのだ。どこまで粘れるかということで、叩き続けていれば、直すべきところもちゃんと見えてくるようだ。間違いの数々や幸運の知らせに気づくようになって、ちゃんと読めるようになっていい気分にもなれる。重要かそうではないかということではない。ただパチパチパチと叩く。もちろん、タイプを打っていて何か面白いことが浮かび上がればとてもいいが、毎日そうなるわけではない。二日ほど待たなければならないこともある。そして何世紀にもわたってそういうことをやり続けていた大物たちは、たとえ彼らを模倣したり、彼らなしでは何も始められなかったとしても、それほどうまくやれていたわけではなく、負い目を感じることは何もないのだということに気づかなければならない。そこで、パチパチパチ……
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、237; ジョン・マーティン宛、1982年1月3日)




 覚醒はほぼ九時ちょうど。布団のしたでいくらか息を吐いて酸素を回し、腹を揉んだり胸をさすったり、首を左右にかたむけて伸ばしたり。窓外では保育園の子どもらやおとなの声が聞こえる。ふだん運動をしないのにきのういきなりたくさん歩いたためだろう、腰が痛かったので、横を向いて腰や尾骶骨のあたりもさすっておいた。九時半にからだを起こし、紺色のカーテンをあけると雲混じりではあるがきのうよりあかるく、晴れに寄った天気である。布団の脇に置かれてあったスリッパを履くと、洗面所で洗顔したり用を足したりして、出てくるともうゆっくり屈伸してかたまっている足をほぐしておく。冷蔵庫からペットボトルを出して黒いマグカップにつめたい水を一杯そそぎ、コンピューターをティッシュで拭いてから点けるとNotionを準備。水を飲んだあと、レンジでつくった蒸しタオルで額を熱してから臥位にもどった。Chromebookでウェブをみる。日記の読みかえしはサボってしまったが、帰宅後にでも読めればよかろう。腰が消耗しているので背のしたに置いている座布団にもぞもぞこすりつけて皮膚のしたをやわらげる。一〇時半に再度起き上がり、またちょっと屈伸などしてから瞑想した。からだの感覚はよくまとまっている。二〇分しか座らなかったがだいぶノイズがながれてなめらかになった。そとでは子どもたちの歓声。エアコンをつけていないと座っていても肌がじわりと熱を帯びてすこし暑いくらいの陽気だ。目をあけると一一時ちょうどで、ややあかるくなっているし洗濯物を一部だけ出すかとおもって集合ハンガーを窓外にかけたが、足がしびれたのでいったん椅子に帰り、しびれが解けるとバスタオルだけピンチで留めてそとに吊るしておいた。食事。きのう買ったキャベツをつかいはじめる。さいしょに半分に分割。表面の葉は緑色がけっこうのこっていて、やや固めですこし青臭かったがべつによい。それをなるべく細く切り、あとリーフレタス、トマト、豆腐。うま塩ドレッシングをかけて大皿を机に乗せ、冷凍の唐揚げを木製皿で加熱する。その他米も。食事中に過去の日記を読もうとおもったのだが、きょうも出勤の往路に(……)駅まであるいていこうとおもっているので、このあいだメモしておいた歩行の健康効果を述べる英文記事を読んでモチベーションをあげた。免疫力を全般的に高めたりとか、心臓血管をつよくして病気のリスクを減らしたりとか、記憶力を向上させたりとか、関節を強化して修復力をあげたりとか、筋肉をうごかすことで長寿とかもろもろにかかわるマイトカインなるホルモンが分泌されたりとか、とにかく良いことづくめみたいな感じでみんな書いている。じっさいおとといきのうとあるいてみても、からだがあたたまってほぐれやすくなったり、やる気が出るというのは実感としてまちがいがない。こまかい作用は措いても、そりゃよくあるいたほうが健康的だよねというのはだれもが体感的にわかっている。歩行と作家とか哲学者という点でいうとよく知られているのはルソー、カント、ソロー、ニーチェキルケゴールあたりだが、ラッセルもよくあるいていて、歩行中にメモしたことをもとに帰ってから文章をつくったりしていたらしい。岩波文庫の『幸福論』でも読み返すか? かれの本で読んだことがあるのはそれしかないし、持っているのもそれだけ。
 食事を終えて読みものにも切りをつけるとすぐに皿洗いをかたづける。プラスチックゴミも瞑想のあとだかに始末しておいた。豆腐のパックみたいに段差があるやつは、半分に切ったうえでさらに辺に沿って縁をいくつかに分けて切り、薄っぺらい破片に分割している。これゴミ処理センターとかに送られてからの処理上、そういうことをして良いのかわからないが。まえにインターネットでちょっと検索したところでは、どこかの市のページの説明によると、処理場で目視で分類しているのであまりこまかくしないでくださいとあったが。そのへんで正午を越えた。ヤクは一錠飲んでおき、読みものをもうすこし読んだあと、きょうのことを書きはじめて、ここまででいま一時てまえ。二時ごろに出る。きのうの往路のことくらいは書いておきたい。というのも、きょうもおなじ道をたどるつもりなので、そうすると記憶が混ざってしまうからだ。


     *


 いま帰宅後の一一時半まえ、食事を取りながら一年前の日記を読みかえしている。2020/1/18, Sat.から雪降りの日の描写が引かれているが、まあなかなかやってんなという感じ。

 雪の降りは微妙に増していた。傘を持って玄関の戸口を出ると、宙を埋める粒が軒下まで迫ってくる。道へ出ると雪は西から東へ、つまり前から傾きながら降ってくるので、コートの裾に白く細かなものが付着するのを防ぐ手立てがない。せめても流れてくるものを受け止めようと傘を前に傾けると視界は狭くなり、視線を横に逃せば(……)さんの宅の庭に置かれてある材木が白さを被せられており、さらに道の縁の垣根の上端の、葉の一枚一枚の上にも薄く積もって表皮と化したものがあり、雪の純白に彩られると物々がかえってつくりものめくようで、原寸大の模型のようにも映るのだった。降るものはしかし足もとのアスファルトには残らず、緩慢な飛び降り自殺のようにゆっくりと落ちてくる粒はことごとく路面に吸いこまれて消えていく。降雪を少しでも避けようと道の端の樹の下に入りながら行くが、公営住宅の前まで来ると樹もなくなったのでまた道の中央に出て、視線を下に向けると路面にはひらいた傘の影が多角形の図となって黒くぼやけて映っており、その上の宙にはある地点から自分の至近だけ粒子が消滅する境があって、それは当然、頭上に掲げられた傘によって降りが遮られているに過ぎないのだが、身体の周囲に目に見えないバリアが張られているようで何だか不思議な眺めだった。その外は空間が無数の粒に籠められて、一歩ごと一瞬ごとにその布置、位置関係は複雑精妙に変成しているはずだが、じっと観察を凝らしても一瞬前と一瞬後の違いがわからず、まったく同じシーンを永劫に巻き戻して反復しているかのようで、催眠的である。

 つぎのような記述も。

きょうは休日。一日はたらけば一日休めるということはすばらしい。労働とは全世界的にそういうものでなければならない。一週間が七日あり、そのうち五日か六日はたらくのがふつうだとみなされている世界など、まちがいなくあたまがおかしいのだ。ほぼ普遍化されたその狂気にひとびとはあまり気づいていない。あるいは気づいていても、そういうものだとおもっている。たしかに、しかたのないことだ。しかし、「だからといってこの事実 [﹅2] がわれわれの掟 [﹅] になろうはずはないだろう」(ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年、102)。「たとえ事実は少しも変わらないとしても、この事実 [﹅2] を掟 [﹅] としてうけいれることはできない」(81)。一日はたらいたらそれに応じて一日休む、これがほんらい人間のあるべきリズムである。ものごとは均衡をたもってこそ、相補的・相乗的でありうる。

 「一週間が七日あり、そのうち五日か六日はたらくのがふつうだとみなされている世界など、まちがいなくあたまがおかしいのだ」という断言とか、「ものごとは均衡をたもってこそ、相補的・相乗的でありうる」などとアフォリズム的に理屈をこねているのにちょっと笑ってしまうが、週七日のうち五日か六日はたらくこと、はたらくというのは生きていくために義務的な労働に従事するということだが、それがスタンダードであるこの世界が狂っているというのはまちがいなくそうだといまでも確信している。この点にかんしては、あたまがおかしいのはじぶんではなくて世界のほうだと自信をもって断言できる。つまり、天地創造時の神がすでに狂っていたのだ。正気をうしなった神だったのだ。神は一日世界をつくっては、つぎの一日でその世界をおとずれたりめぐったり観察したりして、それからつぎのものをつくるべきだった。
 セルトーの本の感想も。そこそこおもしろい。「倫理的かつ詩的な身ぶり」、芸術とはまさしくそれのことではないのか。

(……)それが終わると一時すぎだったか。「読みかえし」。Oasis『(What's The Story) Morning Glory?』をながす。なんだかんだで気持ちの良いアルバムだ。何曲か、アコギで弾き語りたい。その後、ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読んだ。186から216まで。第5章「理論の技」のさいごのほうで、カントの判断力論が援用されていて、「判断力がおよぶのは、(……)多数の要素の比例関係 [﹅4] についてであり、そうした判断力は、新しくひとつの要素をつけくわえられてこの比例関係をほどよく [﹅4] 按配しながら、具体的に一個の新たな全体を創造する行為のなかにしか存在しない」(197)とか、「判断力とはすなわち形式的な「配合」であり、想像力と理解力とからなる主観的な「バランス」である」(199)とか、「このようにして倫理的かつ詩的行為にあずかる判断力を、カント以前にもとめようとすれば、おそらくかつての宗教的経験がそれであろう。その昔は宗教的経験もまたひとつの「巧み [タクト] 」であり、個別的な実践のなかでひとつの「調和」を把握し創造すること、なんらかの具体的行為の連鎖のなかで、ある協和をつなぎなおし(religare)たりつくりだしたりする倫理的かつ詩的な身ぶりであった」(200)などと述べられているのを見るに、何年かまえ(二〇一七年の年末あたりに)じぶんが「実践的芸術家/芸術的実践者」といういいかたでかんがえていたこととおなじテーマがかたられているな、じぶんがかんがえていたのは、カントの文脈でいくと判断力についてのことだったのか、とおもった。じぶんがかんがえていたのは、テクスト上にさまざまな語と意味を配置しひとつの高度な秩序をかたちづくっていく作家、もしくはより広範に芸術家をモデルにして、現実世界の状況において行為と発話によってそれと類同的なことをおこなうのが「実践的芸術家/芸術的実践者」だということで、作家はテクストにことばを書きこむことによって意味や表象の布置をある程度まであやつり、芸術的・美的に高度で印象的かつ深い作用を読み手におよぼすような構造やながれ、動きや模様をかたちづくることができるわけだが、現実の世界をテクストとして比喩的にとらえることで、それとおなじようなことができる余地が生まれるのではないかとおもったのだ。ここでいうテクストとしての現実世界(現実世界としてのテクスト)というのは、ある一定の時空においてひとびとが交わし合う意味およびちから・情報や、そこに存在しているもろもろの事物によってかたちづくられたネットワークのつながり・織りなしのことで、作家がテクストにことばを書きこんで作品のネットワーク編成を変えていくことが、ここではひとがなんらかの行為をおこない、あるいはパロールとしてのことばを他者に差し向けていくことで、状況に影響をあたえ、変化させることに類比される。適切なタイミングにおける適切な対象へのそういう介入 - 操作によってその時空のネットワーク編成をより良いもの(より目的にかなっていたり、より調和的だったり、より快適だったり、より美的だったり)に変化させていくというのが、現実世界(という作品・テクスト)を舞台にした芸術家としての実践行為ではないか、というようなはなしで、このようにかたると大仰なひびきを持つが、こういうことはみんなふだんからふつうにやっていることで、とりわけ有能な仕事人とか調停者とかはそれを有効に活用しているはずである。具体的に言えば、職場の上司が調子の悪そうな部下に声をかけて気遣ったり、あまり関係を持っていなかったあるひととあるひとに共同の作業をあたえて関係構築をうながしたりとか、ひとつひとつとしてはそういったささやかなことである。そういう無数の個別的で些細な行為による介入 - 操作をとおして、その場にあらたなつながりを生み出したりとか、ネットワーク中に生じているノイズ的要素を除去して意味やちからや情報の交通をより円滑にしたりとか(もちろん、目的によっては反対に阻害・切断したりとか)、それらを駆使してある高度な秩序のかたちを構築していくのが実践的芸術家だ、というはなしなのだけれど、ミシェル・ド・セルトーがとりあげているのもわりとそういうはなしで、第6章「物語の時間」では、マルセル・ドゥティエンヌという歴史家・人類学者を参照しながら、ギリシア人の「メティス」について論述している。メティスとはギリシア語で「知恵」をあらわすことばで、ここでは好機(カイロス)をとらえて行動し、すぐれた機転と狡智によって状況におおきな効果と変化をもたらす能力、というような意味でかたられている。だから、「メティス」とは、うえでこちらが言った「無数の個別的で些細な行為による介入 - 操作」のうち、とりわけすぐれておおきなちからをもった状況転換行為(言ってみれば、「会心の一撃」のようなもの)、あるいはそれを生み出す「知恵」だということになるだろう。第6章で注目するべきなのは、それが物語およびそれを語る行為と相同的なものとしてとらえられていることで(215: 「もし物語というものもまたメティスに似たなにかである [﹅3] とすれば」)、だからここで、文学という営みの実践倫理的効力、という視野がひらけてくるのかもしれない、ということになる。まだこのあたりまでしか読んでいないので、セルトーにおけるその内実はあきらかでないが、こちらがうえで語ったことに引き寄せて述べればつぎのようなことになるだろう。まず、内容の側面からいって、物語は、状況や行為や体験や人物の豊富な具体例を提供する。読み手がじっさいに経験するものではなく、言語やその他の媒体によって仮想・表象された仮構的体験ではあるにしても、物語を読む者はそれを現実の経験と類比的なものとして理解し、そこでなんらかの感情や、行動の指針や、世界にたいする理解をえたりする。つまり、物語は、仮構的かつ代理補完的なかたちではあるものの、経験の蓄積の役割を果たす。もちろん経験がより多く蓄積されたからといって、かならずしもなんらかの意味ですぐれたふるまいができるとはかぎらないが、すくなくとも状況判断の参照先を増やしたり、未知の領域を減らすことでものごとの理解の益になったりはするわけで、それがあるとないとでは行為の選択肢も変わってくるだろう。つぎに、物語を緻密に読むこととはそこに展開され形態化されていることばや意味のネットワークを把握し、詳細に観察して理解することであり、この能力を磨くことで、現実の時空を対象にしたばあいでも、その場の諸要素のつながりや配置をテクスト的に把握することができるようになり、状況の理解や判断が緻密化され、明晰になる(かもしれない)。すなわち、文学を読むことが読み手にもたらす効用とは、すべてを文学として読むことができるようになるということである、というわけだ。第三に、物語を書くこと、もしくは語ることの側面からいって、語る行為とはさまざまな技術の組み合わせや応用の場であり、それらの技術は、とりわけことばや意味やその他の要素の配置・配列・整序、組み換えや変形の妙にかかわるものであり、ひとまとめにしていえばおそらく、ものごとの構築とながれをつくることにかかわる手法である。語る行為をそのようにとらえるとともに、その理解を物語だけでなくさまざまな実践に共通のものとして一般化してかんがえれば、語る技術からえられるものがより広範な状況において適用・応用できる(かもしれない)というわけだ。まだ先を読んでいないのでわからないが、たぶんセルトーが主に注目しているのはこの第三の領域なのではないかという気がする。物語行為を端緒にして、そこで用いられるさまざまな技術の方式や理解の形式などを、そのほかの実践行為にも見出して分析していこうというのが今後の道行きなのではないか(「Ⅱ 技芸の理論」は第6章「物語の時間」までで終わりで、「Ⅲ 空間の実践」にはいって第7章「都市を歩く」から、ようやく具体的な日常的実践形態の論述がはじまるのだとおもう)。「物語の理論は実践の理論とわかちがたく結ばれているのであって、こうした物語こそ実践の理論の条件であり同時にその生産でもあると考えねばならないのではないのか」(207)。

 その他せっかくなので、セルトー本文の気になった記述も。

197: 「ものをなす技 [アール・ド・フェール] は、美学の圏内におさめられ、思考の「非 - 論理的」条件として、判断力のもとに位置づけられている [註20] 。思考の根源に技芸 [﹅2] をみてとり、判断力を理論と実践 [プラクシス] のあいだの「中間項」(Mittelglied)ととらえる視点によって、「操作性」と「反省」とのあいだの伝統的な二律背反がのりこえられるのである。カントのこのような思考の技 [アール・ド・パンセ] は、二つのものの総合的統一をなしとげている」; (註20): Cf. A. Philonenko, Théorie et praxis dans la pensée morale et politique de Kant et de Fichte en 1793, Vrin, 1968, p. 19-24; Jurgen Heinrichs, Das Problem der Zeit in der praktischen Philosophie Kants (Kantstudien, vol. 95), H. Bouvier und Co Verlag, Bonn, 1968, p. 34-43 (《Innerer Sinn und Bewusstsein》), Paul Guyer, Kant and the Claims of Taste, Harvard University Press, 1979, p. 120-165 (《A universal Voice》), 331-350 (《The Metaphysics of Taste》).

197~198: 「判断力がおよぶのは、たんに社会的な「適合性」(もろもろの暗黙の契約が織りなす網の目に抵触しないようなバランス)についてばかりでなく、さらにひろく、多数の要素の比例関係 [﹅4] についてであり、そうした判断力は、新しくひとつの要素をつけくわえてこの比例関係をほどよく [﹅4] 按配しながら、具体的に一個の新たな全体を創造する行為のなかにしか存在しない。ちょうど、赤やオークルをくわえながら一枚の絵を破壊す(end197)ることなく変化させるような具合に。所与のバランスをある別のバランスに転化させること、それが技芸の特徴である」

198: 「カントは書いている、わたしのところでは(in meinem Gegenden、わたしの地方、わたしの「くに」では)、「ごく普通のひと」(der Gemeine Mann)が言う(sagt)ことに、手品師(Taschenspielers)のやることは知の領分に属している(トリックを知ればできる)けれども、綱渡り(Seiltänzers)は技芸に属している、と [註22] 。綱渡りをすること、それは、一歩ふみだすごとに新たに加わってくる力を利用してバランスをとりなおしながら、一瞬一瞬バランス [﹅4] をとりつづけてゆくことである。それは、あたかも釣り合いを「維持している」かにみせかけながら、けっしてそれまでとは同じでない釣り合いをとり、たえず新たにつくりだされてゆく釣り合いを保ちつづけてゆくことだ。このようにして、行為の技芸 [アール・ド・フェール] がみごとに定義されることになる。事実、ここでは、バランスを修正しながら崩さないように保ってゆくことが問題なのだが、実践者自身がそのバランスの一部をつくりなしているのである」; (註22): Kant, Kritik der Urteilskraft, § 43.

199: 「認識する悟性と、欲求する理性とのあいだにあって、判断力とはすなわち形式的な「配合」であり、想像力と理解力とからなる主観的な「バランス」である。この判断力は、快 [﹅] という形式をとるが、これは外的な形式ではなく、実際になにかをやるときのそのやりかたの様式にかかわっている。すなわちこの判断力は、想像力と悟性との調和という普遍的 [﹅3] 原理を、具体的 [﹅3] な経験としてうみだすのである。それは、感覚 [﹅2] (Sinn)であるが、「共通の」感覚である。共通感覚(Gemeinsinn)あるいは判断力、なのだ」

204~205: 「これ [判断力や巧みといった問題] についてカントは、先にみたように引用を援用している。世に言われる諺 [アダージュ] 、あるいは「普通の」人間のいうことば [モ] を。このような手続きは、いまだ法学的(しかもすでに民族学的)なものであって、他人になにかを語らせ [﹅10] 、それに釈義をくだしているのである。民衆の「託宣 [オラクル] 」(Spruch)は、こうした技芸について述べたてている [﹅7] にちがいない、しからば注釈者がこの「格言」に注解をほどこそう [﹅8] 、というわけである。たしかにこのとき〔理論的〕ディスクールは人びとの口にする(end204)ことば [パロール] をまじめにうけとめてはいる(実践をおおっていることばは過誤にみちているとみなすのとは正反対に)、けれどもこのディスクールは実践の外部に位置し、理解し観察しようとする距離を保っている。それは、他者がみずからの技にかんして語っていることについて [﹅4] 語っているのであって、この技そのものが [﹅5] 語っているのではない。もしこの「技」が実践されるしかなく、この遂行をはなれては発話もないのだとすれば、言語は同時に実践であるはずである。語りの技 [アール・ド・ディール] とはそのようなものであろう。あのものをなす技 [アール・ド・フェール] 、カントがその根底に思考の技をみてとった、あの技がまさにそこで遂行されているのだ。言いかえれば、まさにそれが物語 [レシ] というものであろう。語りの技がそれじたいものをなす技でありしかも思考の技であるなら、物語は同時にこの技の実践でもあり、理論でもあるはずである」

206~207: 「数多くの研究のなかで、物語性 [ナラティヴィテ] は学問的ディスクールのなかにしのびこみ、ある時にはその総称(タイトル)となり、ある時にはその一部分(「事例」分析、集団や「人物の伝記」、等々)となり、あるいはまたその対重(断片的引用、インタビュー、「格言」、等々)となっている。学問的ディスクールにはたえず物語性がつきまとっているのだ。そこに、物語性の科学的 [﹅3] 正当性を認める必要があるのではなかろうか。物語性はディスクールの排除しえぬ残り、あるいはいまだ排除されざる残りであるどころか、ディスクールの不可欠の機能をになうもので(end206)あり、物語の理論は実践の理論とわかちがたく結ばれているのであって、こうした物語こそ実践の理論の条件であり同時にその生産でもあると考えねばならないのではないのか [「物語の理論は」以下﹅] 」

208~209: 「たしかに物語にはある内容があるけれども、この内容もまた事 [ク] をやってのける技に属している。それは、ある過去なり(「いつかある日」、「その昔」)、ある引用(「格言」、ことわざ)なりを使いながら、機をとらえ、不意をおそいつつバランスを変えるために迂回を(end208)するのだ。ここでディスクールは、それがしめすものよりもむしろ、それが遂行されてゆく [﹅7] ありかたによって特徴づけられる。だからこのとき、ディスクールが語っていることとは別のことを理解しなければならないのだ。つまりそれは効果をうみだしているのであって、対象をうみだしているのではないのである。それは語り [ナラシオン] であって、記述ではない。それは、語りの技 [﹅] なのである」


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 一時半まできのうのことを書き、そのあと余裕をもって支度をして、二時過ぎには部屋を出た。空には青さがおおくのぞいて路地にもひかりが射しこんでおり、おもったよりも晴れていて、出て左に曲がればすぐそこの、道の右側にある一軒の玄関前で、ここの家はかこわれたなかに草がたくさん茂っているのだが、一面緑のあかるさであるその草ぐさが風にふれられゆるくゆらいで、なかでもさきがちょっととがったように細長い種のそれが淡いアーチを描きながら横に突き出しなびくいくつもの線条として、緑のうえにまじりけのない白さをかぶせながら空間に刻まれたように存在しており、まいったな、こんなんじゃロマン派の詩人みたいになっちゃうぞとおもった。うつくしい日和だった。のちにはかなり暑くなったが、陽射しは盛夏のひりつきをもたずわずかに粘りながらも肌から細胞を活性化させるような調子で、あるきはじめにはさわやかさがあった。公園にセミの音はまだかろうじてのこっている。おびただしくころがった落ち葉たちが風に押されて地をいっせいに駆け、園のなかには数人おさなごがいてちいさな女児がなにかをもちながらからだをいっぱいにひろげて走りだしていた。ルートとしてはおとといの夜にたどってきたほうをまたかんがえていたが、ただしちがうすじを行く。車道に出て渡り、サンドラッグやローソンのあるほうにすすみ、角で西に折れればそのまま方角はまっすぐとなる。しかしこのあたりで、雲にいくらかさえぎられながらも陽射しが日なたをひろくつくっており、そのなかを行くうちにまずいな、これで三〇分はきついかもしれない、熱中症にならないようにしなければ、とおもった。まだ駅を過ぎていないから電車に変更しても良かったのだが、やはりあるきたいというこだわりがまさって却下された。とはいえなるべく日なたのせまい裏道を行こうとコンビニのさきで右にはいる。そこはちょうど電線工事をしているところで、ヘルメットをかぶった整理員が手を差し出してどうぞと案内するのに会釈をし、とおりすぎざまに見上げてみれば伸ばされた足場に乗った作業員が、電線にべつの線をななめに巻きつけるようにしていた。裏通りにはまだしも日陰はあるがそれでも暑い。からだが汗をかき、血がめぐり、鼓動があがって、だんだんとひかりの熱が重くなってくる。出ると通りをわたって駅前につづく道である。居酒屋や美容室や学習塾やカフェのたぐいがいくつかならんだそのさきで、(……)という施設が線路のそばにあるが、そこの職員らしいワイシャツにスラックスの老人が道に水を撒いているところで、通行人が来るとホースのさきを道ばたの草のほうに向け変える。濡れた草のきらめきを見ながら過ぎると、駅のすぐそばにある踏切りを渡って西に越え、病院や(……)の裏手にあたる道を行くことにした。ここでも陽射しがなかなかさえぎられずに厳しい。道の向かいにはなにかを建設中の敷地があって、住友林業の名が書かれてあり囲いのおおきな白いフェンスには木のイラストが描かれていたが、その入り口をまもって立っている警備員はヘルメットに制服を着込んだままうごかず立ち尽くしていて、よくあんなかっこうで陽射しのなかにずっと立っていられるものだとおもった。病院の建物が歩道に漏らしている陰をたよりにすすむ。暑いが景色はよい場所で、対岸を越えて果て、北の方角は空がながくひろがっており、青いなかに雲もたくさん湧いて浸透したり、あるいは低みには浸透したそのうえにさらにかたまりが浮かんで、いくつも突き立ったマンションに伍しており、ひかりの偏在を受けたそれらすべてがさわやかで、そこから道のすぐ向かいに目を転じれば病院の駐車場がひろがっているその手前縁に木がいっぽん風を受けていて、就学前の子どもでもつかめそうなほど低く垂れ下がった緑の枝葉がブランコのように前後にゆらゆらふれていた。歩道にはおりおり真っ赤な花のサルスベリが植えられている。それにしても陰もすくないしさすがに暑く、マスクははずしているがだんだんと息苦しいようになってきて、これは休み休み行かないとほんとうにあぶないかもしれないとときどき立ち止まって、リュックサックから出した水を飲んで息をついた。めまいまでは行かないが、平衡の乱れ、からだの不安定さをすこし感じもした。そうしてなんとか(……)の敷地端、ひろい車道に車が絶えず行き交って音響のはげしい交差点のまえまで来て、横断歩道を待つようだが陽のなかにいるとつらいので角のビルの日陰に寄った。渡ってそのまままっすぐ入れるのは先日の夜に濡れながら帰ってきた(……)通りから一本北側の道で、ここもいろいろ店があってそこそこ栄えているけれど道幅がより狭いから日陰も多く、これならなんとか行けそうだなと安心した。とはいえからだには熱がこもりきっているからいそがずゆっくり負担をかけないようにして歩き、とちゅう、コンビニのまえでまたリュックを下ろし、壁に寄って水を飲みながらしばしのあいだ息をととのえた。駅はもう間近である。多くのひととすれ違う。向かいに渡るとドトールコーヒーのまえで、まだ夏休みが終わっていないのか平日の昼間から暇そうな男子高校生らが、だぼっとしたゆるいかっこうでけらけら笑いながら連れ立ってぶらついている。駅舎のすぐしたまで来たが階段をのぼるのがきつそうだったので、ビルのなかにはいってエスカレーターをつかった。そうして大通路の屋根のしたに移ればあとはどうにでもなる。人波のなかをあるいて改札をくぐると、三〇分くらいで着いており電車までかなり余裕があった。トイレに寄って膀胱を軽くするとホームに下りる。電車はもう来ていたのでいちばん先頭の座席につき、また水を飲んでおいてから携帯でFISHMANSをながしはじめた。『空中キャンプ』。そのうちに時間が来て発車。ヤクは二錠飲んでいるし、あるいてきてからだもあたたまりほぐれているので緊張はまずない。一定以上あるくと腹も胸もやわらぐようで違和感をほぼ感じない。さいしょのうちはからだが昂進しているので目を閉じて耳をふさいでいてもねむくならず音がよく聞こえていたが、だんだんおちついてくるとさすがにねむけが来て一駅ごとにあたまが落ちた。しかし意識をうしなうほどではない。
 (……)に着いてもすぐには降りず、あくびをしたり、首をまわして腕を伸ばしたりとちょっとしてから降車。ここも雲もふくめてさわやかに晴れている。職場へ行って勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 退勤は八時二〇分ごろ。歩行に開眼したので(……)から乗るのではなく、ひとつさきの(……)駅まであるこうとおもっており、じっさいにそうした。行きも暑いなかをあるいてきたし、勤務中もそんなに座る時間はないわけで、足やからだはふつうに疲れているはずなのだが、そんなことは問題にならない。道を南下して街道に出ると向かいに渡り、左に折れて東へ。八時半にもかかわらず地ビールを売りにしたガラス張りの飲み屋は店長らしき男性がシャッターを閉めている我が町のさびれぶりである。いちおう街道と言ってむかしは馬や大名行列なんかが通って賑わったのだろうが、いまや夜にもなれば人通りはとぼしく、車は行き交うけれど途切れる間もおりにあってさすがに(……)の街の音響とは比べものにならず、車が消えて静寂がひろがればそこに沿道で鳴く虫の声がリーリーとおおきく響くし、そもそも車が行くあいだもかんぜんにかき消されずに上回ってくる。そのしずけさ、ひとのすくなさは夜歩くに佳くて、じぶんの性質としてほんとうはやはりこのくらいの場末のほうが合ってはいるのだろう。歩道を行きながらときおり右をのぞくと、建物のすきまから南の果ての宙がちいさくひらく場所もあり、黒々と塗られて空との境もさだかではないが山影だと知っているその闇の、黒さがどことなく慕わしい。まっすぐ伸びる道路を見通せば街灯の白さが左右に浮かび、まんなかには遠く信号機の青やら車のヘッドライトの黄みがかった白さやらバックライトの赤い点やら、各色のひかりがわびしいながらも道をいろどって、夜に見るそうしたひかりのにじみ出しはどこの土地でもうつくしいものだ。(……)の道沿いに一軒、何年かまえにできた「(……)」という、こじんまりとした箱型の焼き鳥屋的な飲み屋があって、すこしひとがはいっていたようだが、労働の帰りにこういう店にふらっとひとりで寄って、ぐうぜんいあわせた知らぬひととどうでもよいはなしを交わしたりそこで関係をつくったり、そういう生もじぶんにありえたのだろうなとおもった。というかいまからでもべつにありえるわけだが。こちらはあまりひとりで飯屋にはいる気になる人種でないが(いまはパニック障害が再発中なので余計にそうだ)、(……)さんなんかは料理人ということもあってよくそうしていたようだし、結婚したあいても行きつけの店で知り合ったひとではなかったか。じぶんにあっては酒を飲まないというのがおおきいのだろう。飲酒を知っていればもうすこし、しごと終わりに一杯、という文化になじんだかもしれない。
 (……)駅にはいるまえに公衆トイレに寄って小便をした。そうしてホームに移り、わざわざいちばん先のほうまで行き、微風が横にながれるなかを立ち尽くして寸時待って、来た電車にはいって着席。(……)方面に帰るひとはほとんどない。したがっておなじ区画に座るひとはおらず、たったひとりで席を悠々ととつかい、隣席にメモ用の手帳を置きながら持ってきたブランショの『文学空間』を読む。言っていることはまったくわからないではない。わかるはわかるが抽象的なので取りつきにくく、こういう本は理解しようとして読むというより、書き抜きしたいかどうかというセンサーをはたらかせて一文一文を追い、その軽重をはかるような読み方になる。この段落ならこの文がかっこうよかったり、あるいはなにかじぶんにとって重要な感じがするので写したいが、そのばあい文脈がわかるためには前後はここまでいっしょにする、とかそういう感じだ。そしてなかなか晦渋な本だが、書き抜きたいフレーズや部分はたくさんあって、範囲によってはほとんど一段落ごとにすべてというようなことにもなる。電車に乗っているあいだにしかし五ページくらいしかすすまなかった。
 (……)に着いて席を立ち、車両を出てホームに降り立つと、さあここからまたわたしは歩くのだ、夜の街を、というおもいになった。とはいえそろそろ記述するのが面倒くさくなってきた。大雑把に行きたいが、ああ、でもおもしろいことをおぼえている。南口を出て、きょうは南下せずに駅前をすぐ東に折れて、(……)通りというのを翌日に知ったが幅広の車道に行き当たったところで南に曲がり、そこから行きに通ってきた道を反対にたどろうとおもっていたが、駅ビルのまえをとおってちょっと行くと水商売の店に客を引く男らが立っている一角がある。まずひとりめが、ガールズバーどうっすか、とちょっとななめに身をかたむけてさそってくるのに無言で会釈して過ぎると、つぎに立っているふたりめの、これはいくらか恰幅の良いワイシャツすがたの男性が、やはり身をかたむけて手をあげながらお疲れさまです~、とねぎらいを入れつつ、キャバクラはいかがですか、と来るのでおなじく無言で会釈を返し、するとさいごに三人目の若いあんちゃんが待ち受けるかのように正面に立っていて、ちかづいていけば、どうも、エッチなキャバクラ、いかがっすか、と来たのでさすがに笑いそうになったが、仏頂面を崩さずに会釈で乗り切ってとおりすぎた。エッチなキャバクラとそうでないキャバクラがあるらしい。キャバクラやガールズバーのたぐいにも、風俗店のたぐいにも行ったことはない。行けば行ったで書くネタがいろいろあっておもしろそうではあるが、とてもでないがひとりで行くような気にはなれない。だれか通じているひとに連れて行ってもらわない限り行く機会はないだろう。それにしても、先月の月収が四万で、よくても八万にしかならないこのおれをキャバクラに誘うとはいい度胸だ。
 (……)通りで渡ると折れて南下し、そうすれば幅広の車道の遠くにやはり白い街灯と青や赤の、饗宴というほど豪奢ではない共演が浮かびあがっており、音響の激しさや周囲の建物の背の高さをのぞけば地元の街道で見たのとたいして変わりもしないが、その類似で土地と土地がつながったのか、あそこからまだ一時間くらいしか経っていないのに、もういまここにいてべつの街を歩いているじぶんが不思議なようにおもわれて、そのあいだのことはおぼえているし電車内でもきょうは意識を失っていたわけでなく、すべてはつづいていたのにいつの間にかここに飛んでいたような不思議な切断感がそこにあった。(……)のところで曲がって昼間に暑くて苦しかったサルスベリの歩道を行く。方向は左側になったが夜空も昼空と変わらずひろく、雲はあれからだいぶ減ったようで灰白の影がちらほら浮かぶばかりの、藍色めいて深い平面に星のすがたもいくらか見えた。踏切りを渡ってしばらく行ったところで、よくあるいたし暑いし炭酸ジュースでも買って帰るかという気になり、自販機に寄ってキリンレモンの缶をふたつ買い、リュックに入れて帰路をたどった。帰り着くとからだはとうぜん汗にまみれている。きがえて上半身裸になり、ドライでつけたエアコンで汗をかわかしつつ、疲れてまたシャワーを浴びないまま寝てしまうかもしれないとおもって、制汗剤シートで拭いてもおいた。けっきょく予想通りそうなったわけである。その後にたいしたことはないが、前日のことをいくらか書くことはできた。よくあるくともちろん疲れはするのだけれど、やる気も出るので、労働後でもかえって歩かなかった日より文を書ける。しかしさすがに一時かそのくらいにはちからつきて寝床にうつってしまい、休んで湯を浴びようとおもっていたところが果たせず死んだ。


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  • 日記読み: 2021/8/31, Tue.

2022/8/30, Tue.

 (……)わたしが思うにミラーが引き起こした問題は(彼のせいではないが)、頑張って自分の作品をせっかちに(早めに)出してしまい、それゆえそれが正しいやり方なのだとほかの人たちに思わせてしまったことで、そこで半人前の作家の大隊が押し寄せてドアをノックし、自分たちの才能とやらを見せびらかせて押し売りするようになってしまっていて、それはなぜかといえば自分たちがずっと「見出されていない」からで、見出されていないというまさにその事実に自分たちは天才だということを確信させられてしまっていて、それというのも「世界はまだ彼らに追いついていない」からなのだ。
 彼らの大部分にとって世界が追いつくことは決してないだろう。彼らは書き方を知らないし、言葉や言葉遣いの恩寵もまったく受けたことはないのだ。そうでない者にわたしは会ったこともないし作品を読んだこともない。そんな者たちがどこかにいてくれることを願う。わたしたちにはそんな人物が必要だ。まわりにいるのは、鍛錬していないやつらばかりだ。しかしギターを抱えて現(end228)れた者たちにしても、わたしにわかったのは、いちばん才能のないやつらがいちばん大きな声で叫び、最も下品で、最も自己満足に浸っているということだ。やつらはわたしのカウチで眠り、わたしの敷物の上に吐き、わたしの酒を飲み、自分たちがどれほど偉大かわたしに向かってのべつまくなしに喋りたてていた。わたしは歌や詩や長編小説と短編小説、あるいは長編小説か短編小説を出版する人間ではない。闘いの場がどこなのかはわかっている。友だちや恋人、そのほかの者たちに頼み込むのは空に向かってマスターベーションをすることだ。そう、今夜わたしはワインをたっぷり飲んでいて、訪ねてきた者たちにきっと困惑してしまったのだろう。作家たちども、どうかわたしを作家たちのもとから救い出しておくれ。アルヴァラド通りの娼婦たちのおしゃべりの方がもっと面白かったし、みんな違っていてありきたりではなかった。[…]
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、228~229; ジョン・マーティン宛、1980年[6月か?])




 目を覚まして携帯を見ると、七時五八分。やはりさくばんあるいたためだろう、からだがぜんたいてきに軽い感じがした。部屋のなかは曇り日の明度といろあいで、気温はもうよほど低く、腹を揉んだり胸をさすったりするにも布団をどける気にならずそのなかでもぞもぞやる。あまり時間をかけず、八時二〇分ごろに離床した。吊るされている洗濯物をどけつつカーテンをあけて、そのあとはいつもどおり顔を洗ったりなんだり。パソコンは落とさずにスリープ状態で寝たのでそれを復活させるとNotionのきょうの記事もさっそくつくっておいた。蒸しタオルを額に乗せると寝床にもどり、Chromebookでウェブをちょっと見たり、一年前の日記を読みかえしたり。読みながらきのうつかった足をよく揉んでおく。2021/8/30, Tue.には二〇一六年の情景記述がふたつ引かれており、もうこの時点でもそこそこやってんな、という印象を得た。書きぶりがそんなにいまとちがわない。ただ、いまよりも読点を頻繁に置いてあたまのなかで呼吸をととのえながら書いているような感じがある。また、このころはこういう文を書くのにいまよりもたぶん苦労して、ちからをついやしてがんばっていたはずだ。いまはもう風景描写もたいしてがんばっていない。見聞きしておもいだせるものを記録しようとしているだけ。

いま三一日の午前一時四〇分。過去の日記の読みかえし兼検閲でもするかというわけで、2020/1/18, Sat.をブログで読んでいる。2016/12/17, Sat.および2016/8/20から情景描写がそれぞれ引かれているのだが、そのどちらもなかなか悪くなく書けているようにおもわれた。ひとつめの記述では、「白く締まって満ちるように艶めいて」といういいかたが良い。また、「どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに」の、「~~だけに」などといういいかたはもうずっとつかったおぼえがない。もしかしたらこのとき以来いちどもつかっていないかもしれない。まがい物のほうが本物よりも真実味を帯びる、という逆説のテーマはありふれたものだが、なかなかロマンティックに書けていて悪くない。後者の記述もちいさなもののささやかな現象をずいぶんと綿密に、熱心に書いているなという印象。


 ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった。

     *

 それで窓を眺めていると、外の電灯が流れて行く時に、白であれ黄色っぽいものであれ赤みがかった暖色灯であれみなおしなべて例外なく、その光の周囲に電磁波を纏っているような風に、放電現象の如く細かく振動する嵩を膨らませながら通過していく。それは初めて目にするもので、なぜそんな事象が起こっているのかしばらくわからなかったのだが、途中の駅で少々停車している際に、ガラスに目をやると先の雨の名残りが――と言ってこの頃にはまた降りはじめていたのだが――無数に付着していて、その粒の一つ一つが、いまは静止している白い街灯の光を吸収して分け持っているのを発見し、これだなと気付いた。灯火が水粒の敷き詰められた地帯を踏み越えて行く際に、無数の粒のそれぞれに刹那飛び移り、それによって分散させられ、広げられ、また起伏を付与されて乱されながら滑り抜けて行くので、あたかも乱反射めいた揺動が光に生じ、実際にそうした効果が演じられているのは目と鼻の先のガラスの表面においてなのだが、街灯のほうに瞳の焦点を合わせているとまるで、電車の外の空中に現実に電気の衣が生まれているかのように見えるのだった。

 この日、二〇二一年じたいの風景描写もまあまあ。「通りすがりの花の香のように淡い日なた」なんてずいぶんロマンティックな比喩をつかっている。このマンションのうえにほのかに浮かんでいる電線などの影の図はけっこうよくおもいだせる。さいごの一段も季節感と夜道の感じがよく喚起される。これらの記述にかんしては、「やはりそとでからだに感覚したものをよくおぼえているうちに十分に記述できるというのが充実するようで、べつにきわだってよく書けたというてごたえがあるわけではないけれど、満足感がある。なぜだかわからないが、まったく急がず、ゆっくりと落ちついてしるせたのも良かった。それでいて文に凝ったわけでなく、さほどちからをこめずにゆるやかにかるい感触で書けた」というコメントをのこしている。

(……)西へ向かった。空は暗くはないもののなめらかに薄雲まじりで、そのせいもあるだろうがあたりはおろか南の川向こうにももはや陽の色がはっきりと見えず、だいぶ日も短くなったようだなとおもわれた。(……)さんと(……)さんの宅のあいだには白の、(……)さんの庭には紅色の、それぞれサルスベリが花を厚く咲かせ、色をあつめてボンボンかシュシュか毬のような小球を、あまり整然とせずおおきさもかたちも違えていくつも浮かべた様相になっていた。

坂をのぼれば抜けるころにはやはり汗で肌がべたついている。駅前の横断歩道から見ると雲につつまれて弱くなりながら落ちゆく太陽もやはりずいぶん西寄りの低い位置、林の梢にほどちかいところにもうかたよっていて、秋へとむかう季節が再度おもわれる。ホームにうつると、おとろえて弱々しいとはいえ陽のひかりがななめにながれるように差しており、通りすがりの花の香のように淡い日なたとそれに応じた色しかもたない蔭とがかろうじて分かれ、陽の先にあるマンションは壁をすべてつつまれながらも大して色も変えず、ただ電線の影をやさしく捺されて浮かべているばかり、そんななかでもあるいていけば首から喉から胸から顔からと汗が肌を濡らしていて、とまるとハンカチで湿りをぬぐわずにはいられなかった。

最寄り駅からの帰路。坂のとちゅうから、道の奥のほうから浮遊してくるようにして風が生じ、やわらかかったが、くだって平路を行けばそれがさらにふくらんでここちよく、おもわず足をゆるめて歩を遅めながら浴びるようになった。公営住宅の敷地をくぎるフェンスを前後からかこむように伸びた草ぐさが身を反らして揺れ、路上にまばらに落ちている葉っぱも小動物めいてちょっとすべって道をこすり、風は膜か糸束をからだにかけられたようにやわらかだけれど涼しくはなく、もう九月目前であたりの虫も秋の声というのにぬるい夏夜のながれだった。

 そのあときのうのAmy Fleming, "It’s a superpower’: how walking makes us healthier, happier and brainier"(2019/7/28, Sun.)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jul/28/its-a-superpower-how-walking-makes-us-healthier-happier-and-brainier)のつづきをさいごまで読み、立ち上がると屈伸などしてから瞑想。九時四〇分から一〇時まで。そとではおおきなプールのある水遊び施設とか遊園地であそんでいるかのような子どもたちのにぎやかな歓声が聞こえ、ホイッスルをいきおいよく吹き鳴らして狭いすきまから空気をするどく噴出させるようなよろこびの高音がたびたび立ち上がる。保育士の女性がちょっとおどかしながら子どもを追いかけているらしき声も聞こえる。瞑想は二〇分ほどで、目をひらくと一〇時一分だった。そうして食事へ。キャベツと豆腐、大根とタマネギにハムのサラダを用意。サラダに豆腐を入れるのはとてもよい。あとは冷凍のパスタ(ナスとベーコンの端切れとほうれん草らしき菜っ葉がはいったバター醤油味のもの)で、そろそろまた食い物がすくなくなってきた。キャベツものこりすくないし、野菜はあと大根とタマネギしかない。大根はまだ半分がまるまるあって、タマネギもそこそこあるが。冷凍にも未開封のチキンナゲットと唐揚げがあるから、そんなにすくなくなっていないと言えばそうだけれど、野菜を補充したい。あと米。きょうは昨晩駆り立てられた歩行欲にしたがって図書館まであるいていくつもりである。食事中にはなんか動画でも見るかとおもって、まえにも一回すこしだけ見たのだが、國分功一郎がVimeoにあげているマゾッホについての動画の第一回を見た。これは(……)さんがブログでふれていて知り、メモしておいたもの。こういうのを飯を食うあいだに見るのもわるくない。國分功一郎は東西のあいだでつねに翻弄されてきたガリツィア(ポーランド東部からウクライナ西部のあたり)という地方が、フランスを代表として確立された近代主権概念(それを敷衍すれば自律的で確固とした主体の概念となる)とはべつのモデルやひとびとの生き方のべつの戦略をかんがえるにあたり、なにか興味深い端緒になるのではないかとかんがえているようだった。そこにマゾッホマゾヒズムの問題がつうじていると(むろん、今次のロシアによるウクライナ侵攻は端的な暴挙で言語道断のぜったいにあってはならないことであり、ウクライナの主権は侵害されてはならないということをとうぜんの前提としたうえでのはなしである)。というのもマゾッホは、今次の戦争でもニュースでなまえがたびたび見られたいまでいうウクライナ西部リヴィウの出身だったらしい。いわゆる通俗化されたマゾヒズムのイメージとはまったくちがって、歴史的にひじょうに複雑な経緯を持った地域での少数民族ユダヤ人や革命運動や国籍の問題などについての作品をものしたという。それをドゥルーズが一九六七年に『ザッヘル・マゾッホ紹介』という著述によって紹介し、そのなかで、サディズムマゾヒズムはぜんぜん関係がない、対になるようなものではないということを主張しているらしい(そもそもその時点ですでにサド/マゾの二分論が生まれていたのか、いつからあったのかという疑問があるのだが)。
 食後は食器をすぐに洗い、そのままきのうの日記を書きはじめた。やはりあるいたためかやる気がみなぎっており、からだも安定していて、即座にとりかかることができる。そのままさいごまで書き記し、投稿したのが一時過ぎくらいか。しごとがはやい。とにかくあるきたいというほとんど胸がどきどきするかのような官能的欲望をおぼえており、さっさと出かけたいのだが、そのまえにシャワーも浴びなければならないし、洗濯もしておきたい。そういうわけでまたちょっと体操すると身にまとっているものを脱いで全裸になり、袋に入れてあったものと合わせて洗濯機に服を入れ、水が溜まるまでのあいだは腕を伸ばしたり開脚したりして、洗剤を投入すると浴室にはいった。湯を浴びる。髭を剃りたいがこのときはその気にならず。できたら今夜に。あがるとからだの水気を取り、肌着とハーフパンツを身につけ、ドライヤーで髪を乾かし、さきに歯を磨き、水を飲みつつきょうのことを書き出して、とちゅうで洗濯が終わったがそれを無視してここまで記すといま二時半をまわったところだ。けっこう遅くなってしまった。もっとさっさと出かけたかったのだが。しかしきょうは休日だからべつに遅くなったってとくに問題はない。


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 洗濯物を干した。曇りだし、出かけるので部屋干し。ハンガーについていたものたちを取ってたたみ(タオルなどやはりいくらか特有の湿ったにおいがなごっている)、かわりに洗ったものをつけたりかけたりして吊るす。そのまえだったかもしれないが、腹が減ったしこれからたくさんあるくのでなにかすこしだけものを入れておいたほうがよいだろうとおもって、豆腐とハム二枚とヨーグルトだけ食べた。それなのでもういちど歯磨きをして、いつものTシャツと黒ズボンにきがえると出発。三時一五分ごろだったとおもう。部屋を出ると通路端に寄って白天のもとに雨が降っているか、顔を出したり手をちょっと伸ばしたりしてたしかめる。降っていないようだった。とはいえ降り出してもおかしくなさそうな空気感ではあるので傘を持ってもよかったのだが、あるくのにめんどうくさいとおもい、降ったらコンビニで買えばいいやと払った。階段をとんとんくだって道に出ると左折。もうよほど涼しい。さきほどは降っていないと見たけれど、かすかにぱらつくものが腕などに触れてきて、つよまるとめんどうだなとおもいながらももどらずにすすむ。公園には、保育園の子と保育士なのか、おとなに連れられたふたりが出てくるところで、ひとりが入り口にあるちいさな柱上の石、ちょうど爪楊枝のうえのほうを切り落として置いたみたいに溝がはいっているが、そのうえに乗って腕をひろげながら意気高く叫ぶのを女性があっちに帰るよ、と誘って先導していた。右折しておもてへ。ルートはきのうの夜に帰ってきた道をそのまま逆からたどろうとおもっていた。それなので出ると向かいに渡りさらに左、つまり南へ向かう。正面から自転車に乗った婦人が来たが駐車場の柵と街路樹にはさまれた道は狭く、あちらがてまえで止まったので会釈をしつつ、木の足もとに生えたネコジャラシなどをわさわさこするようにしてさっと抜ける。コンビニのところで右折して西へ。このあたりでマスクをはずしたが、そうするとなんのものなのか、いずれそのへんにある木とか草とか植え込みとかそのしたに敷き詰められている葉の残骸などが湿った大気に感応して吐いたにちがいないが、草っぽいような土っぽいようなにおいがかすかにふれて、においはそれがどんなものであれほのかであればあるほど、ただよって嗅覚を乱すその一瞬だけは官能性をもたらすようだ。ここからは当面のあいだ、西へ一路まっすぐである。昨晩雨のしずけさを見た踏切りを反対側から越え、病院にいたるてまえの敷地は草の生えた空き地がひろくあるが、そのなかがいくらか刈られていて、このへんではマスクをもどしていたが青臭いにおいが鼻に寄ってくる。敷地はすこしまえに夜歩きでとおったときには一面ぜんぶひろびろとした空き地で、細い丸太棒とワイヤーで画されていたのだが、それがこのあいだから半分くらいフェンスになっており、そちらのなかには奥に二棟、黄土色のちょっと混ざったような茶色の小屋があって、看板を瞥見するに水道新設工事をするとかで作業員のすがたもあった。ということはあの小屋は作業用の簡易拠点なのだろうか。水道を引くというのは病院関連の建物ができて範囲がひろがるということなのか。わからないが、すすめば病院のまえに来て、そこには草木がよく植わっていて患者があるきまわる用にだろう、草のなかを行く細道みたいなものももうけられており、なかにヒマワリがいくらか立って、もう夏も終いにちかいがおおきな顔で咲きひらいたものもあり、しかしきょうは曇り空で太陽のありかもさだかでないから向く方向も見いだせないのか、どれも首をやや垂れてうつむきがちだった。すぐ脇に生えたいっぽんのまえを通りすぎざまに見ると、黄色い花弁のなかの円形部分はまあなんかすごい質感で、おおきな饅頭みたいに丸く盛り上がっている。入り口に二股の巨木がある敷地は(……)公園というなまえだった。昼間にとおったことがなかったが、よく見れば奥に小広場もあって遊具も見える。(……)の入り口まえには赤く小さな鳥居のところに中学生か高校生か男女が数人寄ってつどっている。まもなくひろめの交差点にかかり、ここを右折してずっと行けばなつかしき(……)ビルのあたりにいたるはずで、そちらに行ってもみたかったがきょうはとりあえずきのうの道を逆からたどろう、(……)ビルは帰りにしようと決めてそのまままっすぐ通りをわたった。あたりには飯屋やさまざまな商店やコンビニ、そして雑居ビルが通りのどちらがわにもおおくならび、さすがに街のことで車が途切れる隙はなくひっきりなしに走行音がつづき、ひとの数も増えてきて、たいがいは追い抜かされるわけだが、ベビーカーといまは歩行中のおさなごをともなってあるく女性とならんだりもする。右手の路地にはいってみたい気もしたが、それもまたこんど。とちゅう、その入り口にみじかい横断歩道と信号がもうけられた路地もあり、赤だったので止まったものの車がはいってくるようすもなく、こんなみじかさなんだからぜんぜん渡ってしまっていいでしょとおもいつつも、向かいでチャリに乗っている老人もだれもみんな律儀に待っているので郷に入っては郷に従った。ひとり、信号が変わらないうちに、路地のほうにちょっとはいってそこから渡ったおばさんもいたが。駅がちかくなるとだんだん繁華なおもむきが出てきて、右をのぞけば高校大学時代にうろついておぼえのある風景もあり、そのへんではいってしまってもよかったのだがきのうの道すじに固執する。ここのVELOCEはなんどかはいったことがあるとか、ここのFamily Martはこういう位置だったのかという調子で、過去の記憶と現在たどってきた道のりが接続される。しかしここよりさらに南にはまだいちども行ったことがない。駅前につづく幅広の交差点で右に折れ、高架歩廊のしたの薄暗さのなかを行くと、無断駐輪の自転車に、「警告」といかにも警告的な太めの字体で真っ黄色の地に書かれた紙が貼られていたりする。車道のきわでも路上駐車の車に、薄緑っぽい制服を着た老人ふたりが寄って紙を貼っていたようだ。階段をのぼって高架歩廊にうつり、太陽はと空をみあげつつ行ったところが、いちおう西空に白さがはっきりしているところがあるからそこだと所在はわかるのだけれど、すべてはあくまで雲であり、瞳にたいした刺激もあたえてこない。そうして駅舎内大通路を北へとおりぬける。またしても緑一色のボトムスを履いた女性を見つけてしまった。(……)のまえから男性ひとりと三人で連れ立ってあるきだしたのだが、ひとりは青味をかんじさせるビリジアン的な緑の襞のゆるいロングスカートで、もうひとりはこちらはそれよりもわずかに黄色の混ざった色調の細身のパンツを履いており、足もとはともに白のスニーカー、パンツのほうのひとはピンクのラインがわずかはいっていたが、それにしても姉妹なのか? というようなかっこうだった。北口広場かどこかでももうひとり、おなじような緑一色の下半身をした女性を見かけたおぼえがある。ほんとうにあの色を履いているひとがおおくてやたら目につくのだが。目的地は図書館である。広場に出て歩廊をたどりつつ西を見上げると、あるのはやはり真っ白なひろがりで、目をこらせばそのうえに煙、というよりは染みのような微灰の雲がかろうじて見受けられる程度だが、東がわはまだしもうす青さがなじんでいなくもない。高架歩廊上をすすんでいく。おもいだしたが、緑色のズボンのひとをみかけたのは広場ではなく、この歩廊のとちゅうのことだった。周辺のビルではたらいているひとだろう、一色のパンツにうえはさらさらした感じのチュニックといえばよいのかそんな服で、足は低い黒のパンプス、バッグをともなっていなかったから、時刻は四時だが、おそらくは休憩に出てきてなにか買いに行くところだったのではないか。そのすがたとすれちがい、もうすこし行けば図書館のビルに着く。したの車道のうえを渡りながら風が身に触れてくるが、眼下の道に沿ってならぶ街路樹は、枝の両側にまるい葉の茂ってながく伸びた房だとやはりその程度の風では動じないくらいに重いのか、ほとんど揺れずにたたずんでいた。ソバージュ的に房がいくらかぼさぼさ突き出した木もある。


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 入館。ゲート前に設置されている消毒液を手に出し、こすりながらはいる。ながくあるいてきて下半身や膀胱が刺激されたためにかなり小便がしたかったので、なにはともあれトイレに行った。すこし曲がり目の多いつくりになっているトイレ内を行って、いちばん奥の小便器に用を足す。手を洗って出ると、目的はカフカ全集の再貸出だったが、美術方面の本とかちょっと見ておくかとおもって階をあがった。かつてはここでCDをたくさん借りたものだが、いまやAmazon Musicの世話になっているため見向きもしない。海外小説の文庫棚をまず見てブコウスキーがなにかないかとおもったが柴田元幸訳の『パルプ』のみ。これは単行本でむかし読んだ。それもこの図書館で借りたものだったはず。なんかめっちゃB級の探偵映画みたいな小説ではなかったか。てきとうにさらさらノリといきおいで書いたのか? みたいな感じで、柴田元幸も、この本の訳はじぶんが手を加えているという感覚がなくてすーっとできた、そういうのが翻訳のひとつの理想だとおもう、みたいなことをどこかで言っていた気がする(記憶がふたしかなのでかなり文言がちがっているとおもうが)。それから哲学とか宗教とかの文庫をみたのは、一〇月一五日の読書会で読むことになっている鈴木大拙の『禅』がないかなとおもったからだが、みあたらず。芸術、言語、文学のあたりもちょっと見て、それから単行本の書架のほうにながれて英語関連の書を見分。英語史の本とか、ちょっとした新書とか、こういうのも読んでおいたほうが良いのだろうなとおもう。ジェームス・バーダマンなんてなまえを見たが、これは大学の教授として知ったなまえだ。授業を取ったことはないが。たしかシラバスに英語でやると書かれてあって、とてもじゃないがそんな講義でいきのこれる気がしないとおもった記憶がある。言語総記の欄にもおもしろそうな本がたくさんある。みすず書房の『エコラリアス』とか、チョムスキーとか、アガンベンもなにか一冊あった。英語の区画は見分している老婦人がいたのであまり見ないうちに去ったのだったが、その後ひとがいなくなったのをうかがってもどってくると、翻訳学とか翻訳関連の欄もあり、そこにもけっこうおもしろそうな本があった。あと、文庫の言語の区画には安西徹雄の本もあって、そういうのも読んでおきたい。しかも安西徹雄は光文社古典新訳の『十二夜』とかシェイクスピアの訳が良かったのでなおさら読みたい。その後、音楽、美術、写真、映画などと周辺の区画をだいたい見てまわった。音楽では武満徹著作集とか吉田秀和の本なんかがやはり気になるものだし、ショパンの書簡なんかもある。ジョン・ケージ伝なども読みたい。ジャズ方面だと中山康晴がエヴァンスについて書いている本をすこし立ち読みして、一九六一年六月二五日のライブについて書かれてあるところをざっと読んだが、この本は伝記的情報ばかりで音楽や演奏がどうというはなしはしていなかった。ちなみにそこの情報によると、このライブの音源はまず『Sunday at the Village Vanguard』として発表され、それから翌年に『Waltz For Debby』として、前者に収録されなかった音源が公開された。『Sunday at the Village Vanguard』はLaFaro追悼の向きがつよく、Evansも演奏の選択にくわわったらしい。収録されたのは、"Gloria's Step", "My Man's Gone Now", "Solar", "Alice in Wonderland", "All of You", "Jade Visions"である。よくわかる選曲だ。このうちさいしょとさいごはLaFaroの作曲であり、"My Man's Gone Now"はつかみどころのない地味な演奏でよくわからないが、"Solar"はLaFaroがドラムだけをバックに長尺のソロを取ってあからさまにフィーチュアされているし、"Alice in Wonderland"と"All of You"の二曲はたぶんこの日のライブでトリオとしていちばんすごい演奏の二曲だとおもう(どのテイクも)。美術だと気になるのはまあとうぜんいろいろあるが、ゴヤとかセザンヌとかデュシャンとか、その他まあなんでも気にはなる。みすず書房から何か月かまえに出たアルフレッド・ウォリスの本もあった。おなじくみすずから石川美子が青のなんとかみたいなタイトルの、世界最初の風景画家とかいう本も出していて、これもいぜんから気になっている。ジャコメッティの『エクリ』なんかもあった。何年かまえに法政大学出版局から出されたものだがセザンヌとゾラの往復書簡なんかも気になる。ゴッホ書簡全集全六巻はむかし、二〇一四年だか一五年だかたぶんそのくらいにぜんぶ読んだ。写真はリチャード・ロングかハミッシュ・フルトンの写真集があればぜひとも見たいとおもったのだがあるわけがない。そもそもそんなもの出版されているのかも知らないし、されていたとして日本語の本になっているともおもえない。写真もいろいろおもしろそうなものはあるのだけれど、二〇一三年とか一四年のころにほんのすこしだけ借りて、いままでそれきりだ。アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集とか借りて見た。あとエドワード・スタイケンも借りたおぼえがあるが、よくおぼえていない。映画では、これは文庫の棚にあったものだが、ゴダール『映画史(全)』なんかも。それより映画のほうを見ろというはなしだが。歩行に開眼したのであるいて(……)の(……)にかよえばよいのだよな。あとこのへんでミニシアターみたいなやつはないのだろうか? いまとりあえず(……)のページを見たところ、『ファイナルアカウント 第三帝国最後の証言』というやつとか、ブライアン・ウィルソンの映画とか、ほかにもぜんぜん知らんやつとかがあるのだけれど、そのなかに『名探偵コナン ハロウィンの花嫁』があるのが浮きすぎてて笑う。ここはまえにサイトを見たときにもショアー関連の映画をやっていて、せっかくちかくなったのだからそういうのどんどん見に行くべきなのだよな。ミニシアターはいま検索したかぎりでは、やはりすくなくとも吉祥寺まで行かないとなさそう。ポレポレ東中野とか行ってみたい。ところで映画の区画を見たのはヴェルナー・ヘルツォークの『氷上旅日記』が先般白水社から新装版で復刊されたからで、しかし前回図書館に来たときには海外文学の棚でそれを見かけたおぼえがなかった。かなり丹念に見たので見落としたのでなければ映画のほうにあるのでは? とおもって探してみたのだけれどやはり見当たらず。まだ発売されたばかりなのではいっていないのか、とおもったが、いま調べてみるとやはりむかしの版しかない。たぶんそのうち新装版も入れてくれるはずなので、そうしたらさっさと読みたい。この本はおそらく、歩く人間のバイブルのようなもののはず。あと榎本ロッパ(というのはまちがいで古川ロッパであり、榎本健一エノケンと混ざってしまったのだ)の日記も全四巻だかでかいやつがでんとならんでいて、これも何年かまえに新聞記事かなにかで見ていらいちょっと気になっていた。
 上階の探索をひととおり終えるとそろそろカフカ全集を借りて帰るかということで階をおり、海外文学の区画へ。ヘルツォークはドイツかオーストリアのはずとおもってそのへん見てみたがやはり見つからず。ゼーバルトなんかも読みたいけれど、カフカ全集一〇巻を取ってさっさと帰ることに。カウンターで貸出。出口へ。新着図書の棚にはこのあいだからマルク・オジェ『メトロの民俗学者』がある。あの水声社の真っ赤なジャケットの人類学シリーズの一冊。
 どういうルートで帰ろうかなとおもっていたのだけれど、交差点から南にくだって(……)ビルのあたりを抜けてさらにまっすぐ南下すれば、(……)そばのあの交差点にいたるはずというのがわかっていたので、そう行くことに。こうしてみると(……)っていう街は主要な通りはだいたいまっすぐ、縦横に交差してそこそこ整然とつくられている。それで図書館を出て目のまえにある階段からしたの道に下り、ビルのあいだを抜けてオフィス区画をはなれる。とちゅうに小公園があるが、ここは喫煙自由らしく、ワイシャツすがたのサラリーマンやら私服の暇そうな若者やら、せまいのでそう距離もあけずに、しかしたがいにかかわりを持たずにそれぞれのグループではなしたりひとりでいたりするひとびとの多くが煙草を吸っていてそのにおいが道にも漂っていた。いまや煙草を吸うにもばしょがすくなく肩身の狭い、いわば喫煙難民らのあつまりだろう。端の座席があるあたりでは野外の飲み会めいて酒を飲んでいるらしい中年男女がおり、女性はよく見えなかったが犬を足もとに連れ、男性のほうは席のうえで横になっていた。向かいに渡り、折れ、交差点へ。信号待ちのひとびとがたまっている脇を南へと曲がる。このへんもそれなりに様変わりしており、むかしは地下フロアのマクドナルドがあって高校時代などけっこう行ったものだが、いまやとうぜんないし、どの建物がそれだったのかもわからない。2nd Streetがあった。こんなところにできていたのははじめて知った。いまかるく着て出られるTシャツがこの日着ていたいちまいしかないし、それももうかなりごわごわして毛玉ができたりもしているので、古着屋でなんかてきとうに買いたいのだが、この日は寄る気にならず。そうして一路南へ。ああこんな感じだったなという景色がおりおりある。高校時代の帰り道で図書館に行くときなどたどった通りだからだ。じきに車が複雑なながれをする交差点で信号待ちにあたり、ここの信号がなかなか変わらず、こんなに変わらないばしょだったかなとおもったが、左に分かれる道をのぞけば、そこに受験予備校の(……)があるのはたしかにここにあったなと記憶どおりである。(……)がここに通っていたはずだ。信号を待ちながら、おおなつかしき(……)ビルよ、わたしはおまえのことをまだわすれていない、いま行くぞとおもっていたが、じつのところ(……)ビルはただの背の高いオフィスビルだしなかにはいる機会などあったわけもなく、ただ高校の行き帰りにそのまえを通り過ぎていたというだけである。そのそばには趣味のわるいデザインのカプセルホテルがある。しかしようやく渡れるようになってもルートをまちがえてしまい、ほんとうは(……)ビルはもっと駅寄りだから右のほうにはいっていかなければならなかったのだが、そのまままっすぐ南下する歩道をえらんでしまった。またの邂逅を待つ。その通りは上述のように高校の帰りであるくこともままあった道なので、行くにつれて、ああこのラーメン屋たしかにあったわとか、ああそうだここに小学校があったんだったとか、これはこれでひじょうになつかしい見覚えに行き当たる。こちらの右を通る車道は中洲みたいな敷地がいくつかまんなかに据えられて左右に分かたれており、その敷地はいったいなんの用途なのかわからず、一部駐車場になってTimesの黄色い看板があったりするものの、ただ漠然と、半端な調子で縁に植木がならべられて、錆びついた柵で閉ざされなかにはいれないようになっているところもある。たしかこのへんはなんとか緑地とかいわれていたはずなので、もともと草木を植えて緑地にする計画だったのが立ち消えになったのかもしれない。われわれは毎朝(……)駅からあるいてきて裏道を抜け、この通りをあちらがわから渡ってきてこのへんのどこかでまた路地にはいり、しばらくあるいて高校に向かったわけである。どこだったか、その路地の入り口は、毎朝たどっていたあの道はいったいどこだったかと見ながら行くに、いまや(……)となって中学校と一体化した母校の生徒であろう、制服姿の女子がおりおりあらわれ、かのじょらが出てきた角があったので、あああそこだなとおもいだした。横断歩道をわたって目のまえという位置も記憶と一致する。しかしいざそこに行ってのぞいてみると、こんな色、こんな見え方の道だったかなとうたがったのだが、すすんでもほかにそれらしい道がないからやはりあれだったのだ。


     *


 もともと(……)ビルをちかくに臨むあたりを抜けて南へ渡り、そのまままっすぐ行って(……)そばの交差点にいたる道をかんがえていたのだが、すじをまちがえてしまった。とはいえ大雑把な方向はおなじなのだから、とにかく線路を越えて南に行けばどうにかなるわけである。どこから線路を越えられるんだったかなとすすんでいるうちに高い棟がいくつもひろがるおおきな団地の区画にいたり、棟と棟のあいだには木が植えられてセミの声もひびき、つよいピンクのサルスベリが薄暗い木叢のなかにあったが、犬の散歩は禁じられているらしかった。まもなく車道の端にいたり、そのへんではもう低めの高架になっている線路のしたをくぐり抜けられる場所を見つけたので、そこを通ってさらにすすんだ。むかしやはりこのあたりを通って(……)の実家に連れて行かれたことがあった気がする。じきに(……)が出てきて、ここにあったのかとおもった。このへんにあるとはよく聞いていたし、ここの教習車は家の近辺でよく見かけるし、都心のほうから電車に乗って帰ってくるときも見かける敷地だが、間近に接したのははじめてである。敷地が広いので頭上の空が開放されて南西のとおくにはマンションやらなにやら背の高い建物がいくつもならび、すでに五時台だが空は白けて夕陽の色味もほのかにも混ざらず、青味が湧き出すにもまだはやくて色気のない暮れがただが、あまり汚れた白さでもないし、空がひろければそれだけでもどこか晴れ晴れとする。このさきが(……)の実家のある通りではないかとおもって路地を抜けるとやはりそうだった。ただ、右手に見える踏切りの向こうが(……)の家だったか、それとも反対側だったかがおもいだせない。しかしこのときは気づかなかったが、この線路は(……)線のもののはずだから、だからそれに沿ってくだったさきが最寄りの(……)駅なのだ。このときはなんとなく左をえらんで車道沿いに歩道を行くと、(……)の実家があらわれたのでああこっちだった、とおもった。そうすればそのいくらか先で右に伸びるのが(……)通りでスーパーのある通りだからちょうどよい。ここからまっすぐ北進すると、おそらくはちょうど母校のあるあたりに着くのだろう。通りにはいってまっすぐ進み、スーパー(……)にいたると入店。手を消毒して籠を持ち、野菜コーナーからまわってもろもろ籠をいっぱいにした。あたらしいものとしてはレトルトのカレーを買ってみたり。木製皿があるのだからそれにサトウのごはんを出して、カレーをかけてあたためればよいではないかとおもったのだ。あとレンジでできるらしい水餃子。野菜はキャベツ、セロリ、パプリカ、リーフレタス、トマト、タマネギ。ドレッシングもそろそろなくなるのでシーザーサラダドレッシングをえらび、豆腐をサラダに入れずにそのまま食うとき用の鰹節も切れていたのでそれも。会計。夜に来るとひとりでレジをまわしていてけっこう客を待たせていることがおおいが、このときは五時半過ぎだから帰り道で買うひともおおい時間だろう、レジは三列稼働しており、しかしちょうど客の切れたときですぐに受け持ってもらえた。年嵩の女性。こちらの背後のカウンターではいつもの灰色髪のおじさんがやっていたが、かれが積み上がった籠を始末しようとしたさいに女性は、(……)ちゃんだか(……)ちゃんだかわからないが男性のなまえが「(……)」なのでそこから取ったあだなを呼び、いいよさきにじぶんのやっちゃいな、と言っていた。男性はあきらかにベテランだとおもっていたのだが、この女性のほうが歴がながいのかもしれない。とはいえ品物を読み込んでいく手際はそうはやくはなく、~~ね、~~ね、と確認しながらながしていき、バラの野菜のときには、キャベツね、キャベツで……確定! と言いながらパネルに触れて情報を入力していた。集計が済むと礼を言って籠を受け取り、カウンター端のセルフレジで会計をする。そうして整理台にうつり、リュックサックとビニール袋にそれぞれものを詰めて帰宅へ。


     *


 アパートまでの帰路の印象はよみがえってこない。帰り着くと六時過ぎだった。三時一五分ごろ家を発ったはずだからちょうど三時間ほどの外出で、そのうちだいたい半分くらいはあるいていたはずだからざっと一時間半はあるいただろう。それいがいの時間も座ることはなかったし、図書館やスーパーのなかでも止まりつつ歩を運んではいる。だいぶたくさん歩いたと言ってよい。しかしたった三時間であれだけあるけるとおもうとむしろぜんぜんいいな、こんどから休日は部屋にこもらずともかく歩きに出ようとおもった。品物を冷蔵庫に入れたり着替えたりし、さすがに疲れたので寝床で休息したのち、七時を過ぎてから飯を食ったはず。この日はまだカレーではなくて冷凍のタレ味の唐揚げをおかずに米を食ったとおもう。そのあとのことはあまり印象にのこっていない。借りてきたカフカ全集の書き抜きは五箇所できたが、たくさんあるいてさすがに疲労したため日付が変わるあたりからだらだら休んだおぼえがある。湯を浴びることはかろうじてかない、三時二〇分ごろ就寝した。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 330 - 353
  • 日記読み: 2021/8/30, Tue.

 第二の主著『存在するとはべつのしかたで』にあってレヴィナスは、老いてゆく身体の時間性を見つめている。「〈自己に反して [﹅6] 〉(malgré soi)ということが、生きることそのものにおける生をしるしづけている。生とは生に反する生である。生の忍耐によって、生が老いることによってそうなのである」(86/105)。生は生に反して [﹅5] 剝がれおちてゆく。生は生であるとともに [﹅4] 、生が剝離してゆくことである。生はじぶんを維持しようとして、かえってみずからを失ってゆく。時間が時間であるとは、生のなかで生が剝落してゆくことである。生が「忍耐」であり、「老いること」が生にとって必然的である、すなわち避けがたいことがらである、とはそういうことだ。生とは「回収不能な経過」であり、老いることは「いっさいの意志の外部」にある(90/110)。どのような意志も老いてゆくことに抵抗することができず、意志それ自体もやがて死滅するからである。――私とは時間である。ただし「ディアクロニー」としての、「同一性が散逸すること」としての、絶えず自己を喪失してゆくこととしての時間の時間化である(88/107)。「主体」が「時(end138)間のうちに [﹅3] あるわけではない。主体がディアクロニーそのものなのである」(96/117)。
 レヴィナスのいうディアクロニーはしかし「たんなる喪失」(66/82)ではなく、時間はたんなる悲劇ではない。レヴィナスが見つめようとするものは、時間の〈倫理〉的な側面である。ディアクロニーとはとりあえず、私の現在へと回収しえない、「隣人の他性」(239/278)そのもの、差異がかたちづくる時間でもある。他者と〈私〉とは差異によってへだてられ、時間性は差異によって散乱してゆく。他者との時間を私は、ともに在る現在として経験することができない。他者の現前に、私の現在はつねにいやおうなく「遅れて」しまう、ともレヴィナスはかたる。他者と〈私〉とが差異によってへだてられているとは、そのことにほかならない。目のまえの他者もまた、歴史と時間の傷跡を皺のあいだに刻みこみ、ほどなく死者となってゆくことにおいて、私をさけがたく「強迫」しつづける。かくして私は、他者との絶対的差異にもかかわらず、あるいは他者との遥かな隔たりのゆえに、他者にたいして「無関心であることができない」。
 時間への問いは、レヴィナスにあってはこうして、〈他者との関係〉への問いとなり、〈倫理〉をめぐる問いかけとなる。あるいは、他者との関係に目を凝らし、他者という差異のかたちを〈倫理〉そのものとして見さだめようとするレヴィナスの思考は、そもそものはじめからもうひとつの時間 [﹅8] をめぐる思考、ないしは時間をめぐるもうひとつの思考 [﹅8] であったといってもよい。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、138~139; 第Ⅱ部「はじめに――移ろいゆくものへ」)


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田中康夫×浅田彰「「憂国呆談」第1回【Part1】: ゼレンスキーへの危うい「熱狂」と、リベラル言論人の衰退を問う」(2022/5/10)(https://gendai.media/articles/-/94281(https://gendai.media/articles/-/94281))

田中 もう1点留意すべきは、非資源国ニッポンの冷厳な現実だ。カロリーベースの食料自給率が、統計を1965年に開始して以降で最低数値の37・17%を2020年度に更新し、パンや麺類や菓子に欠かせぬ小麦粉も、豆腐の原料の大豆も、国内消費量の9割以上を輸入に依存している。鎖国時代の江戸と異なり、「ボーダーレス経済」の中に日本も組み込まれている。
 とするなら、ウクライナとロシアという穀倉地帯でのきな臭さに直面する今こそ、「食の経済安全保障」構築が急務だ。SUSHIと並んで今や世界用語となったSOBAのソバの実の6割を輸入依存する日本への最大輸出国は、皮肉にもロシアなのだからね。
 (……)
 資源輸入国と思われがちな人口14億人の中国は、エネルギー自給率8割、穀物自給率は9割を超える。そして、ロシアとウクライナは両国合わせて小麦の3割、大麦の3割、トウモロコシの2割、ヒマワリの75%を世界に供給している。「侵攻」前から既にニッポンは生殺与奪を握られているんだよ。

2022/8/29, Mon.

 (……)立派な態度などくそくらえだ。そんなものはわたしとは縁がなかった。わたしは酒を飲み、女とやって、酒場で気が触れ、窓ガラスを叩き割り、自分の本音をとことんぶちまけ、生きてきた。わけなどわかるはずがなかった。わたしは今も必死で取り組み続けている。まだものにはできていない。たぶんそうなることはないだろう。わたしは自分の無学を愛してすらいる。黄色いバターがべっとり塗られた自分の無学の腹を愛している。自分のおぞましい魂をタイプライターの舌で舐め尽くしてやる。わたしは芸術などまったく追い求めてはいない。まず求めるのは娯楽だ。わたしは忘れたい。わたしは酔っ払って、ワインのせいでぐるぐる回るシャンデリアを見つめ、大声で叫びたい。わたしは望む。つまり、わたしたちが関心を持たれる [﹅7] ようになってからも、芸術をうまく取り込める [﹅5] なら、それは結構なことだ。しかし神聖にしないようにしよう、トゥララ、トゥララ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、204; デヴィッド・エヴァニエ宛、1972年後半)




 ねむりの質がわるかったのか、はやい時間からなんどか覚めた。さいしょに携帯を見たときには四時台だった気がする。まだまだ真っ暗。その後もあいまいに覚めつつ、七時半ごろ覚醒をたしかにした。きょうは一〇時から通話なので八時に鳴るようアラームをしかけていたが、それを待たずにみずから目覚めることができた。きのうは一一時くらいからまどろみはじめて一時には消灯したわけだが、おもいがけずはやくながく寝られてよかったともおもえる。れいによって布団をぐしゃっと乱雑にどかし、腹を揉んだり胸をさすったり、あたまを左右にころがして首すじを伸ばしたり。きょうは月曜日なので窓外では保育園に来る子どもたちや、保護者や保育士の声がたくさん聞こえる。セミもまだ一、二匹、のこって鳴いているのがときおりはさまる。起床したのは八時二〇分。紺色のカーテンをあけると空は雲の混ぜこまれた淡い水色で、洗濯物にとってよい陽気にはならなさそうだ。しかし溜まったものはきのうすべて洗ったので、ニトリのビニール袋は空っぽになってころがっている。いま正午で、集合ハンガーだけ風に当てるだけ当てようかなとおもって出しておいたが(そのほかのものはピンチで棒に留めなければならないのでめんどうくさい――集合ハンガーはいつもいちばん端、壁から突き出して棒をそのなかに通してささえている支持具の穴にひっかけているので)、もう水色もみえない真っ白な曇り空になっており、沈みがちな大気のいろに雨の気配をかんじないでもないから、あまり意味がないかもしれない。
 洗面所に行って洗顔や放尿、そうして椅子について水を飲みつつNotionを準備。しかしその後、いったんシャットダウンしておいた。蒸しタオルをやるのはわすれた。さきほどそのことに気がついて追ってやっておいたが。寝床に帰るとChromebookでウェブをみる。すでに八時四〇分である。一〇時から通話なので、九時過ぎくらいにはふたたび立って二、三〇分瞑想をやり、通話がはじまるまでには飯を用意してしまいたい。そういうわけできょうはあまりだらだらせずに床をはなれて、屈伸などちょっとしてから瞑想した。九時一九分。子どもたちの声はにぎやかで、保育士もそとに出てはなしていたり水を出したりしているようだが、それらの声はあまり気にはならない。うるさいとは感じず、BGM的に聞き流されつつときおり焦点化される。せんせー、せんせえ、せんせええぇぇぇ……と、スイッチを切った掃除機が吸いこみ音を低めていって絶えさせてしまうまぎわみたいな、そんな声で保育士を呼びまくっている子どもがひとりいた。座ったのは九時四七分だったかそのくらいまで。四五分だったか? どちらでもよいが、二五分間くらいだったはず。そこでLINEをのぞいてみると、(……)さんも(……)くんも勤務とか体調とかで休むといっているので、きょうはなしということになった。おもいがけず時間が生まれたのでいそがず食事を用意。水切りケースのなかに入れてあった冷凍パスタの中袋を始末しておき、いつもどおりキャベツを剝いで細切り。そのほかセロリをつかいきり、大根とタマネギをスライス。うま塩ドレッシングをかけてハムを二枚乗せる。もう一品はまたしてもきのう買った冷凍のパスタで、きょうはカルボナーラ。食事を取りながら一年前の日記を読みかえした。アフガニスタンの報や、ミシェル・ド・セルトー。読み終えるとすぐに洗い物をする。さきにまな板とか包丁などを洗ってから、排水溝の中蓋の内側を汚してしまうとめんどうなので、それをはずしてパスタの中袋をゆすぎ、机に置いてあったサラダとパスタの皿をそれからもってきてゆすいだり洗ったりする。その後排水溝カバーとか中蓋とかシンク内とかを金束子でこすっておき、席にもどると腹や体内がおちつくのを待ちながら音読。「英語」ノートはMary Arnold-ForsterについてのBBC Futureの記事など。このひとは夢とか明晰夢研究のパイオニア的な人物で、とはいっても学術的な研究者ではなく、たんにじぶんの悪夢体験に対処しているうちに明晰夢へのはいりかたとか夢のなかで飛ぶやりかたとかを発見・探究してそれを個人的に記録したらしいが、ウルフとも親交があったはずの作家で『ハワーズ・エンド』がゆうめいなE・M・フォースターの、姪だかわすれたが姻戚だったはずである。じぶんの観察や調査をStudies in Dreamsという本にまとめており、Mary Arnold-Forsterのなまえで検索すると、まえにも見た気がするが、forgottenbooksとかいうサイトでPDF化されているのが出てきたのでいちおうダウンロードしておいた。明晰夢とかはちょっと興味がないでもない。というか、ゆめももっと記述したい。さいきんもけっこう見ているはずなのだけれど、いつもわすれてしまう。
 ある程度読んで切りにするときのうのことをほんのすこし足して投稿。はてなブログにログインしたさいに(……)さんがあたらしくブログ記事を書いているのに気づいたので見てみたが、いま料理長としてはたらいている店は客単価二五〇〇〇円くらいだといい、今後いまの会社で客単価三〇〇〇〇円くらいの天麩羅屋をやらせてもらえることにもなっているというので、マジかよ、そんなところでやってたのか、一生行ける気がしないぞとおもった。料理ならだれも到達したことのない未知の領域に行けるとおもう、と言っているのでやばい。すごい。
 それで二八日分をブログとnoteに投稿し、そのあときょうのことも書きはじめた。とちゅうで席を立ってちょっと背伸びをしたり、開脚してふくらはぎを伸ばしたり、便所にはいってクソを垂れたりして、ここまで綴ると一二時半。きょうは労働がある。四時半の電車で行く予定なので、まだそこそこの猶予がある。それまでにアイロン掛けをしたり、床をたしょう掃き掃除したり、できれば書き抜きしたりしたい。『文学空間』も読みすすめておかなければならない。晦渋なのでなかなかすすまないのだが。


     *


 とりあえずアイロン掛けをすることにした。まずふだん着ているワイシャツ二枚。アイロンというか四角い小型のスチーマーだが、それを用意し、二枚かさねた座布団を台座としてそのうえで皺を取っていく。熱い蒸気がたくさん出るので、気をつけないとゆびを火傷してしまう。たまには換気したほうがよいだろうとおもい、いまは保育園も昼寝の時間でさわがしくないので、カーテンをあけて窓もひらいておいた。その他、寝床の足もとにある段ボール箱のうえに放置していたハンカチや私服のシャツ、ほかのワイシャツもようやくかたづける。シャツを処理しても南壁の物掛けスペースはスーツとかジャケットですべて埋まっているので、吊るしておくばしょがない。そのへんも追々なにかかんがえてどうにかしなければならないが、ひとまずまえと同様たたんで収納スペースに置いておいた。ワイシャツはよく着ている二枚のほかにもう二枚あるのだけれど、薄水色のやつはもうだいぶくたびれているし、これは処分しようと決めた。もういちまいの真っ白なやつはまだまだつかえる。しかしそれまでアイロン掛けするやる気がこのときは出ず、ハンガーにかけて窓辺のいちばん端に吊るしておいた。それから一〇分かそのくらいだけでも床を掃除しようとおもって、扉の脇の角に立てかけてある箒とちりとりを手に取った。その周辺からやっていく。箒をうごかせば即座に埃がかたまって出てきて、うごかしつづけるかぎり湧出が永遠に終わらないのではというありさまである。ある程度掃き入れるとゴミ箱に捨て、箒の毛先にからまった埃や髪の毛も取り、扉のほうからながしや洗濯機や冷蔵庫のまえを通過して椅子のしたまでひととおり掃いていった。椅子のしたに敷かれている保護シートも一部めくり、裏側にはいりこんでいる髪の毛とかくっついているゴミとかもある程度始末。きょうはそこまで。机のしたとか冷蔵庫のうしろのほうとか、寝床のまわりの隅とか、掃除しなければならない場所はいろいろある。掃き掃除を済ますと一時二〇分くらいだった。それからすこしストレッチなどをやったのち、椅子のうえで二度目の瞑想をした。心身が安定してしずまり、なかなかわるくない。ねむけもあるというほどには感じなかった。二時四分まで座り、出勤前のエネルギー補給としてバーガーをあたため、ヨーグルトとともに食べる。食べているあいだは東京新聞のニュースを読む。もうすこしだけなにかほしいとおもって豆腐をひとつ、椀に入れて麺つゆと生姜をかけて食し、洗い物はさっさとかたづけてニュースをひきつづき読んだ。勤務があって電車に乗るので、ヤクも一錠ブースト。それで三時をまわると湯浴み。あたまとからだにあたたかい湯をかけたり洗剤をこすりつけたりして垢やあぶらをながし、シャワーをとめて扉をあけると浴槽内であたまやからだを拭いてからちょっと立ち尽くしてみたのだが、ちからを抜いて自然体にしてみると、両肩がちょっと下がって内側に丸まるような感じになるので、猫背というほどではないがこれがやはりよくないのではないかとおもった。しぜんに立った状態で、ちょっとだけ胸が張るくらいの姿勢にならなければいけないのではないか。それで扉の陰に出ると背伸びをしたり、両腕をうしろに引っ張るストレッチをやっておいた。それからからだと髪の毛を拭き、肌着にハーフパンツを身につけてドライヤーであたまを乾かす。いままでわざわざ枕元に行って、部屋の角のコンセントに挿していたのだが、よくかんがえれば机上にも電源タップがひとつあって口がたくさん空いているのだからそこでやればよかろうと気づき、椅子に座った状態で髪を乾かした。そのあと水を飲みつつきょうのことをここまで加筆して四時が目前になっている。ヤクを追加したためにすこしあたまにねむけの重たるさが混ざっているような感覚がある。


     *


 それからワイシャツとスラックスに着替え、リュックサックに財布や携帯、ペットボトルの水などを入れる。もしかしたらきょうは電車内で読むかもしれないとおもって、ブランショの『文学空間』も入れておいた(けっきょく読まなかったが)。ドライでつけていたエアコンを消し、Mobile Wi-Fiの電源も切っておいて、出発したのは四時一五分ごろである。空は真っ白。階段をくだって道に出ると左折して南の公園のほうへ。公園ではずいぶんとちいさな子が大人ふたりに連れられてはいってあるきはじめたところであり、縁に沿ってちょっと行き、セミの声をまだすこし吐いている木々のまえを過ぎると、ジャージすがたの女子中学生ふたりもたたずんでいた。右折して細道を行き、わたってさらに路地をすすむ。陽もない曇り空で大気に熱はなく、風もたいして吹かずおだやかな平板さだった。(……)駅に着いて通路をわたりながら見た南空も、ミルクめいた白さやあるかなしかの灰色や青みがずいぶんなめらかに敷かれている。ホームにおりるとベンチの空いていた一席に腰掛け、きょうはもうここで携帯とイヤフォンを出してFISHMANSを耳にながしはじめた。瞑目に待ち、電車が来て目前を過ぎはじめると立ち上がり、乗車。扉際についてしばらく。(……)で降りるときょうは乗り換えに猶予があるからいそがずホームの端をとおってひとつ向こうの口まであるき、そこの階段からのぼってフロアを行き来するひとびとのなかに身をくわえた。余裕があるので便所に寄りさえする。はいって小便器のまえで放尿し、手を洗うとちょっとだけ顔をあげて、一瞬のみじぶんの顔を見てからハンカチを手に退出。ちょうど電車から降りて階段を上がって出てくるひとびとが続々とあるいているあいだを分けてちょっと行き、フロアのまんなかで立ち止まってハンカチを逆方向にたたんでから尻のポケットにおさめた。それで階段を下りる。いつもは先発の(……)行きに乗っているのだが、きょうはその向かいに停まっている(……)行きに乗ろうかなとおもった。これだと(……)まで行ってそこからまた追ってくる(……)行きを待たなければならないのだが、(……)行きのほうが先発が出てからの時間がみじかいので、そのぶんひともすくないのではとおもったのだ。それで先頭車両のいちばん端のほうに行き、すでにひとり座っているその斜向かいに着席。けっきょくのところ乗客数は先発と変わらない気がしたが、いずれにせよきょうは心身がおちついていたので問題なかった。明確に緊張を感じる瞬間もなく、FISHMANSで耳をふさがれて、とちゅうから意識を落とすまでは行かないが首がかたむきあたまが落ちるくらいにはなった。それで(……)に着くと降車。ベンチに座る。正面に見えるのは駅前の円形高架歩廊をひとびとが多数行き来するすがたで、その奥にはビルがふたつ立ち上がって空は雲があさくうねる白海ムクドリかなにか知らないが鳥が多数群れて歩廊上の空中をわたり、街路樹の一本に殺到する推移のうち、宙に散らばり群れて隊列のように刻まれるまではいかにも弾丸のような、鳥というよりむしろブンブン浮かぶ羽虫のような、バラバラのはずが妙に秩序めいたととのいをかんじさせる硬さの絵が目に映るが、こずえの至近まで来るとそれが一気に減速しておのおの弱く曲がりながらとまり場を見出すのが、かるく放られた網のひろがりのようにこんどはやわらかさに転じているのだった。瞬刻に展開されるその変容のすばやさ、切れ目のなさ。背後では男子高校生だかふたりがおおきな声でなにか盛り上がっていた。ここのベンチはつるつるしていて背がとどまりにくい。ちょっと斜めに当てて背骨で支えつつ、目を閉じてじっとうごかずからだを感じながら待った。(……)行きが来ると立って乗車。席についてまた着くまで瞑目に安らぐ。降りればホーム上には雨後の草土のようなにおい、虫かごのなかで湿った土のようなあのにおいがちょっとただよっていて、わずかに降ったのかもしれない。駅を抜けるまえから核兵器廃絶かなにかを主張する団体が演説をしている声が聞こえていた。駅前で台というかテーブルをもうけて署名ももとめていたようだが、こちらはとまらず、職場へ。


     *


 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 退勤。雨がすこし降っていた。駅にはいってホームに上がり、ちょうどやってきた電車の先頭のほうに行って乗車。それから(……)までのあいだは瞑目のうちにじっと休み、からだを安らげる。そうしているうちに、きょうは(……)からあるいてかえろうかなというきもちが湧いてきた。あるいて帰るととうぜんそのぶん遅くなるわけだが、なにかそうしたいこころがあったのだ。(……)に着いて扉がひらくまで静止をつづけ、席を立って出て階段をのぼっているとさすがに足に疲れをかんじるからやっぱりやめようかなとかたむいたが、(……)線のホームのほうまで行って電光掲示板を見上げ(視力が落ちているのでよほど近づかないとよく見えない)、電車を確認すると一〇時五〇分発、現在時刻は一〇時四五分だった。数分待って乗って降りて一五分くらい歩いて、というのと、ここで駅を出てまあ三〇分かそこら歩いて、というのを比べるとそこまで変わりもしないので、やっぱり歩いて帰ろうと決まって引き返し、改札を抜けた。雨が降っているだろうから傘を買うかも迷ったが(職場で借りてくれば良かったのだが)、(……)ではたいした降りではなかったからと周囲のひとが傘を持っているか否か、あるいは持っている傘の濡れ方がどうかなど、ようすをうかがいながら大通路を行き、南口に出るとこまかな雨がぱらぱら宙を剝がれるみたいに降っており、差しているひともいないひともありという感じで、たいした降りではないがさすがに三〇分行けばそこそこ湿るか、というところだった。あまり濡れるようだったらとちゅうでコンビニに寄って買えばいいやと高架歩廊を行き、階段で下りてしたの道を南下する。交差点に出たところで左折し、そのまま一路東である。夜一一時だが街のこととて対向者やうしろから来るものもたしょうあり、だいたいはやはり傘を差している。そのなかで意に介せず、急ぎもせずにぱらぱらと落ちつづけるものを受けながら歩き、降りはときおり強まったかとおもえばまたすこしおさまるときもあり、いずれ重さのない雨粒で、たしかなかたちと厚みをそなえたものがすばやく落ちて音を打つということがなく、とはいえ街灯のしたや横道から来た車のライト中にはやわらかく斜めにながれてひかりを埋めるその軌跡が微弱な吹雪めいて浮かびあがる。車道は薄いたまり水を帯として、右手の車線をまえから来る車のライトや信号の青がそのなかを引っ張られるようにななめにわたって溶けて伸び、左の歩道のこちらがわを行く車のテールライトも化学的な赤をおなじように増幅させる。空は鈍色ひとつ、ながく歩いていれば髪はそれなりに濡れる。ひきかえ服は明確に濡れるまで行かず、湿るくらいだった。けっきょく傘を買うのはめんどうで濡れるにまかせ、(……)のまえをとおりすぎて病院とのあいだの公園めいた一画に来ると、そこのベンチに雨降りにもかかわらず座っているひとがふたりいる。根元近くで二股におおきく分かれつつそのうえでもいくらか分枝した大木がいっぽん立っており、ベンチはその左右に据えられていてそれぞれひとりずつ占めており、かたほうは自転車をともなって、かたほうは煙草を吸っているようだったが、電灯によって巨木の影がながく伸びて路上に差しかかりつつ奥にも木々がつらなっているあたりは暗く、こちらのほうに届いてくるまで道にさしこまれひかりに画された木の影は黒々とするどいかのようで、そのもとの左右で無干渉にとどまっているふたりのにんげんは姿形の細部も見えないから、ひとというよりも、ひとつの巨大な影に寄せられてやってきたまたべつの影の民のようだった。病院まえは草木がおおくしつらえられているから大気にそのにおいが混じり、リンリンヒュルヒュルと鳴く虫のリズムも地元で聞いていたのとおなじである。じきに踏切りにかかる。雨のいきおいは変わっていないがそこでは降りがながれずまっすぐ落ちるようになっており、いまはひらいている遮断器の棒とか電柱とか、縦に立ったものがおおいなかでそのまわりをつつみ添うように、ひかりに浮かべられておなじ方向にいそがず落下する無数の雨粒はしずかで、うつくしかった。さらに東にすすんでそのうち左折、つまり北上すればアパートにいたる。近間のストアのところからはいるかとおもっていると、家まであとすこしのそのへんでにわかに降りがつよくなってきて、北を向けば顔にあたる粒もおおく浴びせられるが、まいったなとおもいつつどうせもう濡れているのだからここまで来ていそぐこともない。公園前に出ると折れてさいごのいっぽんをたどった。
 帰宅。一一時二〇分くらいだったか。(……)駅からアパートまでだとおそらく三五分程度、実家から職場まで徒歩で行ったばあいの時間と変わらない。リュックサックを背負ったまま手を洗い、バッグをおろしたところでプラスチックゴミを出しておくんだったとおもいだし、すでに縛ってあった袋を三つ、きがえるまえにとかかえて扉を抜け、階段をおりて建物脇でネットをかぶせておいた。そうしてもどると服を着替え、きょうはあるいてきたためかからだに活力があって寝床にころがらず、飯を食いたい気もあって、椅子について水を飲んで一息つくとそのままもう食事にはいった。足が疲れるはずだとおもうのだが、屈伸をよくやっているためかさほどこごった感じもなかった。むしろ太ももの裏側、いわゆるハムストリングスがじつによくあたたまっているのがズボンを脱ぐときに感じられた。とはいえむろんからだはぜんたいに疲労を帯びてはいる。帯びてはいるのだけれどサラダをややすくなめにこしらえてカレーパンといっしょに食べたあと、この日の往路、職場に行くまでのことを書けるくらいの気力があった。それでやはりあるいたほうがよいのだなと。けっきょく足をうごかしてあるくのが、心身をととのえるいちばんの方法なのではないかと。やはりまいにちあるこう、あるきたい、とやたらモチベーションがあがって、あしたは休日だがいつものように部屋にとどまらずなんでもいいからあるきに出ようと欲求にかられ、モチベーションをさらにあげるためにGuardianにあるウォーキング関連の記事を探ってしまうことすらした。そのなかの、Amy Fleming, "It’s a superpower’: how walking makes us healthier, happier and brainier"(2019/7/28, Sun.)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jul/28/its-a-superpower-how-walking-makes-us-healthier-happier-and-brainier)といういかにもなものをいくらか読み、しかしさすがに一時半を越えると疲れがまさったので寝床にたおれ、歯は磨いたがシャワーを浴びることはできず、だらだら休んだあとに三時四〇分ごろ就寝した。


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  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「英語」: 795 - 813
  • 日記読み: 2021/8/29, Sun.

(……)新聞からはアフガニスタンの続報。テロの死者は一八〇人をかぞえたと。二六日に爆発があったとき、日本大使館のアフガン人職員やJICAのひとなどがバスに乗って空港にむかっていたのだが、そこに事件があって近寄れなくなり、退避がかなわなかった、という情報が載っていた。ひとりだけ自衛隊の輸送機でパキスタンイスラマバードに移動できたひとは共同通信の通信員だというが(実名で載っていた)、このひともバスに載っており、ひきかえしたあとでカタール政府関連の車だったかでほかの外国人記者とともに空港にむかうことができ、それで自衛隊機で移送されたということだった。アフガニスタン人の仲間から、国外脱出の方法を問うメールがとどいて、とてもつらい、と語っていた。けっきょく自衛隊が移送したのはこのひとと、二六日にアフガニスタン人一二人だか一三人だかをはこんだのみのようだ。このアフガニスタン人はもともと米国かどこかほかの国が移送する予定だったのだけれど、機が空いていなかったかなにかで急遽日本がはこぶことになった、というはなしだった。米軍は無人機による報復攻撃で民間人の死者を出さずにISISの戦闘員ひとりを殺害し、この人物はテロを立案する役割だったと見られているらしい(どうしてそれがわかるのかわからないが)。ただ、今回のテロの立案者かどうかは不明。しかし新たなテロの準備のために移動しているところを攻撃したという情報もあるようだ。

日本人もアフガニスタン人もほかの国のひとも救出されないまま取り残される人間が多数にのぼることになるだろうが、英国ではボリス・ジョンソンがその点に率直に言及し、一二〇〇人ほどを救出できないまま作戦は終了することになる、非常に悲しみをおぼえる、と述べたらしい。もちろん今後もタリバンとの交渉をつづけてあらゆる手立てを尽くすと言ってはいるものの、どうなるか。国際面にはアメリカ支局長だったかが一文寄せていて、ベトナム戦争当時のモン族救出と今回の件を対比していた。ベトナム戦争時に隣国のラオスでモン族のひとびとがCIAによって訓練されて工作員としてはたらいていたらしく、戦争後に迫害されたので米国に多数の難民が脱出したらしいのだが、そのときに難民の受け入れにむけて熱心にはたらいたのがのちに(一九九六年四月に橋本龍太郎政権が普天間基地の返還を発表するさいに)駐日米大使だったウォルター・モンデールだったという(当時はカーター政権の副大統領)。モン族の米国内での立場は現在も良くはなく、貧困家庭が多いようだが、それでもちょうど今回の東京オリンピックでモン族出身の体操選手がメダルを取ったとか。そういった歴史を踏まえて、ベトナム戦争時の米国にはまだしも超大国として自国の失敗に責任を取ろうという姿勢があった、今次のアフガニスタンでもそういう姿勢をしめさなければ、米国にたいする世界の信頼はますます損なわれることになるだろう、と記事は締めくくっていた。ちなみにドナルド・トランプは、バイデンは米国にテロリストを連れてくるつもりだと言って難民の受け入れに反対し、復権を狙っているらしい。

     *

ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)より。

162~163: 「場によって統括されるこれらの「戦略」、物識りでありながら自分では無自覚なこうした「戦略」とともに、もっとも伝統的な民族学が立ち返ってくる。事実これまで民族学は、みずからは隔絶した区域に身をおき、そこから観察をつづけながら、一民族にそなわる諸要素を首尾一貫して [﹅6] しかも無意識的なもの [﹅7] とみなしていた。この二つの面はわかちがたく結びついている。首尾一貫性なるものがひとつの知の公準であり、知がみずからにさずける地位の公準、みずからが準拠する知識モデルの公準であるためには、この知を、客観化された社会からはなれたところに位置づけなければならず、したがってこの知を、その社会がみずからについて抱いている知識とは隔たったもの [エトランジェ] 、それよりいちだんと高いものと前提しなければならなかった。研究の対象となる集団の無意識は、知がみずからの首尾一貫性を保持するために支払わねばならない対価(知が報わねばならない対価)であった。(end162)ひとつの社会は、みずからそうと知らずにしかシステムでありえなかったのである。そこから、次の命題が派生してくる。すなわち、自分ではわからないままに社会をなしているその社会がどのような社会であるかを知るためには民族学者が必要なのだ」

173~174: 「遠い昔にさかのぼるまでもなく、カント以来、いかなる理論的探求も、こうしたディスクールなき活動、人間的活動のうちで、なんらかの言語で飼いならされ象徴化されたことのないものからできあがっているこの広大な「残り」と自己とがどのよう(end173)な関係にあるのか、程度の差こそあれ、真向からたちむかってあきらかにしないわけにはいかなかった。個別科学はこのような真向からの対決をさけて通る。それは、みずからア・プリオリに条件を設定し、なにごとであれ、それを「ことばにしうる」ような、固有の限定された領域内でしか事物をあつかおうとしない。それは、事物をして「語らせる」ことができるようなモデルと仮説の碁盤割りをひいて事物を待ちうけているのであり、この質問装置は、狩猟家のはる罠にも似て、事物の沈黙を「回答」に、したがって言語にかえてしまうのである。それが、実証という作業だ [註1] 。これにたいして理論的な問いかけは、こうしたもろもろの科学的ディスクールうしの相互関係のみならず、それらがみずからの領域を設定せんがために意図的に排除してしまったものと共通に結びあっている関係を忘れはしない [﹅6] し、忘れるわけにはゆかない。理論的な問いかけは、無限にひしめきあう(いまだ?)語らないものと結ばれており、なかでも「日常的な」実践というすがたをしたものと結ばれあっている。それは、この「残り」の記憶 [﹅7] なのである」; (註1): すでにカントが『純粋理性批判』においてこのことを語っていた。学者とは「自分で問いの型を決め、その問いにたいして証人に答えさせようとする判事である」、と。


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東京大空襲は熟慮なき「即興的破壊」だった 米側の内幕を描いたマルコム・グラッドウェルさんに聞く」(2022/8/29)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198700(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198700))

 グラッドウェルさんは大空襲に至る経緯を語るのに、2人の対照的な米軍司令官を軸に据えた。精密爆撃による「きれいな戦争」を追求した理想主義者のヘイウッド・ハンセルと、現実的で戦果のためには冷酷な策も辞さないカーティス・ルメイだ(いずれも故人)。
 ハンセルは、第1次世界大戦の大量殺戮さつりくへの反省から、敵の重要拠点に絞って爆撃を加え、戦闘能力を奪う方法で勝利を図ったグループ「ボマー(爆撃機)マフィア」の一員だった。マフィアには結束力の強い秘密組織の意味合いがある。
 1944年時点で、日本空爆はハンセルが指揮した。だが、日中に対空砲火が届かない高度約1万メートルから軍用機工場を狙う「高高度白昼精密爆撃」は、当時の照準器の技術では成果を上げなかった。時速300キロ以上に達する日本上空のジェット気流への認識も欠けていた。
 45年1月、ハンセルは解任され、ルメイが後を継ぐ。同年3月の東京大空襲以降、ルメイが選んだのは、闇に紛れて高度約2000メートルからナパーム弾で都市を無差別に焼き尽くす「超低高度夜間焼夷弾しょういだん爆撃」だった。

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 ルメイは大空襲以降、終戦までの半年で、日本全国67都市を狙って爆撃した。グラッドウェルさんは一連の爆撃行について、歴史家の言葉を引用し「即興的破壊」と表現した。
 「私の背筋を最も凍らせたのは、ルメイが自身の判断で日本の67都市を焼き尽くしたことだ」
 原爆投下には軍事や科学の専門家を含めた米政府上層部の議論があった。ところが爆撃行に、政府や軍中枢の熟考や明確な指示はなかった。結果、遠いグアムにいるルメイの考えに委ねられ、執拗しつような空爆で数十万人が死亡したとみられる。
 戦争終盤、米国の指揮系統もカオス(混沌こんとん)だったという。グラッドウェルさんはくぎを刺す。「戦争は長引けば、制御を失い、計り知れない損害を生む」
 無力な市民の命を奪った爆撃行。グラッドウェルさんは「戦争終結が目的だが、モラルを超えている」と切り捨て「ジェノサイド(大量虐殺)」と非難する。
 「少し遅過ぎるかもしれないが、本には日本国民への謝罪の意味がある」と話し「米国人の間に、正しい戦争の終わらせ方ではなかったという気づきがあると伝えたい」と望んだ。


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「フランスで「ブルキニ」着用巡り論争 イスラム教徒の女性用水着 市の許可を司法が覆す」(2022/8/29)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198708(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198708))

 グルノーブル市がブルキニを認めるプール運営内規を決定したのは今年5月。左派の環境政党所属のエリック・ピオル市長は「女性ができるだけ自由に水着を選択するのを後押しするため」と語ったが、同市を管轄するオーベルニュ・ローヌ・アルプ地域圏のローラン・ボキエ議長が「補助金を1サンチーム(0.01ユーロ)も出さない」と述べるなど、右派政治家を中心に全国的な猛反発が起きた。

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 政教分離を国是とするフランスは、役所や学校などの公共施設で職員が女性用スカーフなどイスラム教を象徴する衣装を身に着けることを法律で禁じている。ブルキニを巡る論争は2016年にも起き、南部ニースで86人が犠牲になったトラック暴走テロの後、海水浴場での着用禁止令を出す自治体が相次いだ。
 当時、禁止令の推進派は「イスラム主義を象徴するブルキニは公共の秩序に重大な緊張をもたらす」と主張したが、行政訴訟での最高裁に相当する仏国務院は「人権侵害だ」として禁止令は無効だと判断した。
 だが、国務院は今回の判断で「少数の利用者のために他の大多数の利用者の衛生、安全面が脅かされるのは平等ではない」として、グルノーブル市の決定を認めなかった。水中でスカート部分がふわりと広がる可能性のあるブルキニは「衛生、安全面」で問題があるのだという。
 実際、海水浴場と違いプールでは多くの自治体の内規がこうした理由でブルキニ着用を禁じているが、議論になった例は少ない。ピオル市長はこうしたタブー視に一石を投じる狙いがあったことも主張している。
 国務院が指摘するように、プールでのブルキニ着用を望む人は少数なのだろうか。グルノーブル市内のイスラム衣料品店の女性店員は「ブルキニを買う人はたまにいるけど、私個人はどんな水着でもプライベートプール以外では絶対に着ない」と話す。あるプール職員は「ブルキニ着用を求めているのは特定の団体の人ばかり」と明かした。
 この団体は19年ごろからブルキニを着た女性らの集団入場を断続的に試みており、市長と近い立場にあるとされる。市議会の右派野党は「国務院の決定後もブルキニを着た団体メンバーの入場を許した」として今月中旬に市長を告発。論争の余波は続いている。


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「安倍元首相の国葬から増大する予備費を考える 国会経ず支出される税金 若者ら反発「財政民主主義」取り戻せ」(2022/8/29)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198426(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198426))

 来月予定される安倍晋三元首相の国葬の費用は、国会の審議を経ずに政府が使い道を決められる「予備費」で賄われる。賛否が割れる儀式にかかる多額の費用が、国会での議論を素通りして決まった。
 税金の使い道は、国民から選ばれた代表者である国会議員が議論し、国会の議決に基づいて決める―。現行憲法に盛り込まれている「財政民主主義」という原則だ。
 この原則の背景には、戦前の反省がある。政府が緊急時に国会のチェックを受けずに国債を発行できる制度を利用し、戦費を調達するために国債を乱発し、国の財政が破綻した。
 しかし今、財政民主主義の理念が揺らいでいる。財政民主主義の例外と位置付けられる予備費が肥大化しているためだ。使い道が適切かどうか疑問視されるケースも増えている。
 予備費には、毎年度計上される一般予備費と、別枠の予備費がある。一般予備費は最近、5000億円程度で推移してきたが、2020年度以降、新型コロナウイルスや物価高対策を名目にした別枠の予備費が積み増され、総額は20兆円を超えた。識者は、制度の健全な利用を訴える。

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 財政民主主義は憲法で裏付けられている。83条は予算や課税など「国の財政を処理する権限」は、国会の議決に基づいて行使すると明記。国民の代表である国会の議決という民主的なチェックを経て決める「原則」だ。
 一方、憲法87条は「予見し難い予算の不足に充てる」ため、あらかじめ使い道を決めない予備費の計上を認めている。財政民主主義の「例外」だが、最近は新型コロナウイルス対策などの名目で例外が拡大しているのが実情だ。


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安倍晋三元首相の国葬費は過去最大の2.5億円 しかも警備費や要人接遇費は別」(2022/8/27)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198326(https://www.tokyo-np.co.jp/article/198326))

 政府は26日の閣議で、9月27日に予定する安倍晋三元首相の国葬の費用として一般予備費から約2億4900万円を支出することを決定した。国葬への国民の賛否が割れる中で、戦後の歴代首相の葬儀に対する国費支出額として過去最大となる。費用には警察による警備費や海外要人の接遇に使う経費は含まれておらず、さらに膨らむ。参列者は最大で約6000人を見込む。(山口哲人、坂田奈央)
 費用の内訳は、会場となる日本武道館の借り上げ料に約3000万円、会場の設営費などに約2億1000万円。設営費には、会場の装飾や新型コロナウイルス対策のほか、金属探知機など警備強化、海外要人向けの同時通訳の費用などを充てる。参列者の会場への送迎バス代も盛り込む。会場の外に一般向けに献花台を設置する。
 これ以外の警備や警護、外国要人の接遇などは「通常発生する業務の延長」(鈴木俊一財務相)とみなし、今回の予備費支出に盛り込まれていない。

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 国費投入額として過去最大だったのは、1988年に行われた三木武夫元首相の衆院・内閣合同葬。この時は約1億1871万円だったが、今回はその2倍超となる。


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「「昔なら当たり前と言われる」「管理者の理解低い」…進まない中小企業のパワハラ対策」(2022/8/29)(https://www.yomiuri.co.jp/national/20220829-OYT1T50116/(https://www.yomiuri.co.jp/national/20220829-OYT1T50116/))

 職場でのパワーハラスメント対策が中小企業でなかなか進まない。改正労働施策総合推進法(パワハラ防止法)に基づき、4月から対策が義務化されたが、実施している割合は大企業の半分というデータも。起きた場合の配置転換が難しく、経営陣の理解が高まらないことが要因とされ、対応を急ぐよう求める声が上がる。
 2020年6月施行の改正法は、パワハラについて▽職場の優越的な関係を背景としている▽業務上必要かつ相当な範囲を超えている▽労働者の就業環境が害される――と定義。企業にパワハラの禁止や、そうした行為に厳正に対処することを就業規則などに明記し、周知することを義務づけた。
 相談体制の整備や迅速な対処も必要で、大企業では施行時に適用され、努力義務だった中小企業も今年4月から義務化された。中小企業で対象になるのは従業員300人以下の製造業や100人以下のサービス業など。罰則規定はないが、違反した企業は労働局から指導や勧告を受け、従わなければ企業名が公表される。

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 しかし、人材サービス大手のエン・ジャパン(東京)が3月に公表した調査結果(497社の人事担当者が回答)によると、対策を実施している従業員50人未満の企業は45%で、1000人以上の企業(90%)の半分にとどまった。課題として「管理職の認識・理解が低い」ことを挙げる企業が最多の55%で、「パワハラがあっても『昔なら当たり前』と言われる」(不動産・建設業)などの意見があった。

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 従業員へのパワハラは後を絶たない。厚労省によると、2021年度に精神疾患で労災認定されたのは全国で過去最多の629人。原因別ではパワハラの125人がワーストで、うち12人が自殺していた。

2022/8/28, Sun.

 詩をもっと同封した。貯蔵作品の山を作って自分の詩でこの世界をぶっ飛ばそうとしている。そうだよ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、202; ウィリアム・パッカード宛、1972年10月13日)




 九時過ぎに覚醒した。雨降りの暗さ。昨晩から降り出して、このときもまだ降っていたはず。例によって掛け布団を脇にぐしゃっとどけ、腹を揉んだり首を伸ばしたり胎児のポーズを取ったりしたのち、九時三九分に起床した。カーテンをひらくと窓外の大気のいろは翳の混ざった薄白さでいかにもよどんでいる。洗顔や放尿、うがいや飲水、蒸しタオルなどをそれぞれ済ませる。水をちびちび飲みながらティッシュと消毒スプレーでパソコンを拭き、スイッチを入れてもうNotionにあたらしい記事をつくっておいた。そうして寝床にもどるとChromebookを持ってウェブをのぞき、その後過去日記の読みかえし。2021/8/28, Sat.は米軍のアフガニスタンからの撤退および市民らの退避輸送作戦中に起こった空港近くでのテロの続報を記している。夕刊を見て、「米軍が東部ナンガルハル州で無人機をつかってISISを報復攻撃したという。攻撃時、戦闘員は移動中だったとかで、さらなるテロのために準備をしていたのかもしれないとのこと」と書いているが、たしかこれはじっさいにはISIS戦闘員ではなくて、関係のない人間を誤って殺してしまったということがのちほどあきらかになっていたはずだ。本はミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読んでおり、記事最下部にやたらたくさん記述を引いている。この時期はその日読んだ範囲のなかから気になった部分をメモとして毎記事うつしておくというとりくみをやっており、これはかなりたいへんなのでその後途切れてしまったが、やればじっさい益するだろうし、一年後にこうして読み返してみてもおもしろい。二〇一四年のほうは二月一一日だが祖母が死んだあとでバタバタしていたり、前日分までを数日まとめてながく書いたので疲れたらしく、たぶん一〇〇〇字かそのくらいを句点なしでてきとうにつなげて書いて済ませている。
 読んでいるあいだはなんどか胎児になって自己の脈動がからだにめぐるのを感じ、一一時ごろにいたってふたたび立ち上がった。水を飲み、椅子のうえにあぐらをかいて瞑想をはじめたのが一一時一二分。二〇分ほどで切ったのはやはり足がしびれたからである。事前によく屈伸したり揉んだりしておかないとどうしてもしびれてくる。座っているあいだ雨音は聞こえず、あれはなんの音なのか、虫の音なのか建物内の配管の音なのか、それとも室内にあるなにかの機器が発しているのか、チリチリというような、微小の鈴をおもわせないでもない響きが空間に混ざっていて、ほかにたぶん上階の部屋が水をつかったらしく壁内をながれおちるような奥まった音がいちどあったが聞こえてくるのはそれくらい、物干し棒や柵に雨粒が当たっているようでもないし、ときおり通る車の音にも水気があきらかにはふくまれていないので、いまは止んでいるのかもしれないとおもった。その後、だんだん空気のよどみが薄くなってきて、一時くらいにはいっときレースのカーテンにあかるみが浮かびあがることもあったのだが、二時半現在だとまた曇りの中性色がひろがっている。
 足のしびれが解けるのを待って、屈伸したりしてから食事へ。プラスチックゴミも野菜を切り出すまえに始末しておいた。ヨーグルトの容器はよく見たら蓋とラベルは紙だとあったので側面のラベルを剝がし、分けて捨てておく。そうしてサラダをこしらえる。もう食い物は野菜と豆腐とヨーグルトしかないわけだ。野菜はまだそこそこ豊富にあるが。キャベツの半玉をあたらしくつかいはじめて何枚か葉っぱを細切りにして、セロリも一本未使用のおおきなやつを開封し、半分に切って軸のほうをつかい、葉っぱのほうはラップにつつんでおいた。リーフレタスはのこりすくなかったのでぜんぶてきとうにちぎって周辺に配置し、豆腐をこまかくしてキャベツとセロリのうえに乗せ、大根をスライス。しかし大根はしょうじきサラダにしてもあまりうまくない。飽きてきた。実家ではよく細切りになるスライサーでやっていてそれはわるくなかったが、いま持っているやつは薄い輪切りにしかできない。それだとなんだかあまりうまくないし、ちょっと辛味もある。ところが大根は一回にそんなにおおくつかうものでもないから少量のあまりのほかにもう一本このあいだ買ったやつもある。そろそろ豚肉炒めたり餃子焼いたりして米といっしょに食いたいが、そのためには炊飯器とかフライパンとかを買わなければならない。
 ウェブを見つつ食事。大皿いちまいだけなのですぐに終わる。ヤクを一錠飲み、一息つくと皿洗い。食後は腹を揉みながら音読した。「読みかえし」記事はBBC Futureで読んだ宗教の未来はどうなるかみたいな記事で、これはけっこうおもしろかった。BBC Futureはたまにだいぶおもしろく、ちからのはいった記事がある。イギリスで『スター・ウォーズ』のジェダイズムをまじめに信奉しているひとがかなりの数いるとか、Roko’s BasiliskとかAnthony LevandowskiのAI教会みたいなやつとか、そんなはなしだったなあとおもしろく読みかえす。あいまに一時過ぎくらいから席を立って体操もしくはストレッチ。けっこうながくやってしまい、もどってふたたび口をこそこそうごかしながら文を読んでいると二時を越えた。シャワーを浴びることに。バスタオルにタオル、あたらしい下着を用意しておく。うえの肌着を脱いで上半身をさらしたあとにまた壁に両の拳を押しつけるようにして腕の筋肉をほぐしたりして、裸になって浴室にはいるとながれでるシャワーがあたたかくなるまでのあいだ顔を洗った。湯が出てくると足先からはじめて肩のほうまでじょじょにかけていき、その後しゃがみこんで湯をかけながら首をさすったり顎をこすったりなど。ボディソープとシャンプーでそれぞれ洗うと泡をながして、室を出てくると扉の陰でちょっと静止したが、きょうは気温が低くて室内の空気も涼しいのであまり待たずさっさとバスタオルでからだを拭いた。あたまもがしがしやっておき、洗濯をはじめる。いまつかったものもふくめて洗濯機に入れ、注水のあいだに部屋の角、枕元に座りこんでドライヤーで髪を乾かす。そうして洗剤と漂白剤を投入するとスタートさせて、それからきょうのことを書きはじめた。とちゅうでまたストレッチしたくなったので席を立って屈伸し、ものを食ってからもう二時間いじょう経ったしだいじょうぶだろうというわけで布団に乗って胎児になったり合蹠したりもした。プランクも。きのうもおなじようにおりおりからだに血をめぐらせていたからほぐれ度は高い。屈伸をよくやるとやはりあたまのほうにも血と酸素が行くのか、頭蓋もちょっとゆるむ感じがするし、視界も見えやすくなる気がする。ストレッチをしているあいだに洗濯が終わったがすぐには立たず、それからもちょっとつづけて床をはなれると三時一〇分だった。天気はまた白灰色のよどみにかたむいていて、また降っても不思議ではなさそうだし、そとに出してもこれではとおもって洗ったものを室内に干す。そうしてここまで書き足すと三時二五分。腹が減ったので近間のストアに行ってなにかしら買おうかなという気になっている。スーパーまでもさして遠くはないのだが、なにかめんどうくさい。野菜はあるので冷凍食品とかパンとかを買ってきょうあしたをしのげば、火曜日が休日なのでスーパーに行ける。きょうはあと、きのうの記事はもうできているようなものなので、二六日分だけしあげればようやっと負債が消える。またその直後から生まれていくのだが。


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 きのうのことをひとことだけ足してしあげ、二六日の往路もすこし書くと、買い物に行くことにした。肌着とハーフパンツを脱いで、いつもの赤褐色めいたTシャツと真っ黒なズボンに履き替える。すぐ近間だし暑くもないからいいやと靴下は履かず。(……)に行くついでにコンビニで水道の料金も払ってしまうことに。すぐ帰ってくるからと洗濯物を乾かすためにつけていたドライのエアコンも切らず、マスクをつけてリュックサックを背負うと部屋を抜けた。通路の端の開口部からは真っ白な空が見えており、ちょっと顔を出してみても雨は降っていないのでそのまま階段を下りる。郵便はなし。道に出ると暑さはまるでなく、大気は肌になじむ雨後のおだやかさで、すぐ南の公園まであるいていくとひとかげはひとつもないなかにセミが一匹逝きおくれて鳴き出し、曲がれば細道で正面から来る風のながれにTシャツから露出した肌は涼しさがつよいようだった。おもてに向かってすすむと車道をはさんで向かいの路地から年嵩のひとがふたり出てきて、道にかかれたみじかい歩道を車の来ない隙にわたり、こちらも反対側から向こうにわたる。わたる前の角にはちいさな長方形の畑があって、夏を過ぎて生えていたものをおおかたのぞいて濃い色の土があらわれているそこにいま主である老人がひとりたたずんでおり、はじめて見かけたが、わたっていった年嵩の女性は知り合いらしくあいさつをかけていた。老人は白いタンクトップにしたはオレンジっぽい、ずいぶんあかるい色の服装だった。そこから道沿いに南下すると右側の駐車場の柵のあいまからはネコジャラシがいくつか顔を出し、左は街路樹のあしもとに同様に草が群れて当たらずには通れないせまさのところもある。空を見上げると白くおおわれたなかに灰色の濁りがかさなって浮かんだ箇所もおおく、正面の一角にみえるものなど空中からまさしくじゅわっとにじみ出したような質感だった。マスクをつけて(……)へ。はいり、置いてあるスプレーボトルで手を消毒。ジャージすがたの中学生か高校生かわからないが女子ふたりがいるその横をとおってまずATMへ。金を五万円おろしているあいだ女子ふたりはうしろをとおりすぎていったが、そのときの会話が日本語として聞き取れず、中国語かなにかのように聞こえたのだけれど、中国人とはおもえなかったのだが。金をおろすとそのままレジに行って水道料金の支払いをする。そうして退店し、控えを封筒に入れて、財布はすぐまたつかうのでズボンのポケットに突っこんで向かいのストアへ。はいると客はけっこう多い。籠を持って店内を行き、バーガーとかパンとか、ヨーグルトや豆腐、冷凍のパスタやアイスなどを確保していった。そうしてレジに行って会計し、籠を持って整理台に行くと、この店の整理台は入り口のすぐ脇にあるのだけれどスペースがちいさく、小テーブルを三つならべたくらいで、いまそこに男女の老人がいて荷物を詰めているさいちゅうだったので、じぶんは籠を床に置いてレシートをおりたたみ財布をリュックサックにしまいながら待ち、男性のほうがボストンバッグと袋を持って去ったあとにはいって品物を整理した。リュックサックと持ってきたビニール袋にそれぞれ入れて退店。入り口脇に籠をもどそうと踏み出すといま車椅子に乗った男性がはいってきたところでそのまえに出るかっこうになり、会釈するとあいても上目遣いでかえしてきたのだがその横からこんどは少年がひとりやってきてこちらのまえに出たので、ごめんねとちいさくつぶやきながらそのうえを通すかたちで籠をもどし、店のそとに出た。たかが数分、買い物をしただけだが、帰路というだけでなにかおちつき足がゆるくなるところがある。通りをわたって裏道へ。空は白雲を詰めこまれつつもところどころに水色ののぞく小さ穴もほころび、かんぜんな穴ではないがうすく削られていろのちょっと透ける箇所もあり、それはパンをゆびで押しこんでへこませたり、まっさらに積もった雪を靴で踏んであしあとがのこったときなどとまるでおなじ様相である。道をあるき足をうごかすことそれじたいになんらかの微細な快楽がたしかにある。だからもっとあるこうかな、あとで夜歩きに出ようかなとおもいはするのだけれど、部屋にもどってしまうと四囲をかこまれた抵抗のなさに安住して、じっさいにまた出ることはなさそうだ。
 部屋にもどると買ってきたものを冷蔵庫に入れて手を洗い、服をきがえて、ともかくも腹が減ったのでいま買ってきたパスタを食うことにした。ボロネーゼ。電子レンジであたためているあいだにさきほど生じたプラスチックゴミを始末したり、屈伸をしたりする。パスタが熱されると火傷しないように気をつけながら鋏で袋を開封し、そのままそれを載せていた木製皿になかみをすべらせ、箸でかきまぜて机に置く。その他チーズバーガーも熱して食事。(……)さんのブログを読んだ。八月二四日。以下のような『草枕』の引用。

 われわれは草鞋旅行(わらじたび)をする間、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊(そうゆう)を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々(ちょうちょう)して、したり顔である。これはあえて自ら欺くの、人を偽わるのと云う了見ではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
夏目漱石草枕」)

 読んで、夏目漱石やっぱりさすがだなとおもった。内容じたいはたいしたことではないが、リズムとか、さいごの「して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」などという比喩とか、こういう気の利いたいいかたがひょいっと出てくるんだもんなあと。ものを食い終えると皿は一時ながしで漬けておき、二六日の記事をかたづけにかかった。勤務中のことをいろいろと綴り、つつがなく完成。そうして投稿。投稿作業中は山中千尋『After Hours』をながす。済むと六時過ぎ。ようやくきのうの分までかたづけられた、といういちにちになった。LINEをのぞく(……)。そのあときょうのことをここまで記述して七時一四分。そのまえに皿を洗ったのだった。そのさいにまた屈伸をして、屈伸をするといってこちらは膝を曲げてしゃがんだ状態でかるくこまかく上下をつづけるのだけれど、そうすると太ももやふくらはぎがいっぺんに刺激されるからあきらかに血がまわる感じがあり、なんどかくりかえしていると暑くすらなってくる。そうして血行をうながしているあいだにどうでもいいことをおもいだしたのは小学生時分のはなしで、とうじの理科の教師、たしか(……)みたいななまえだった気がするのだけれど、ちょっとカバっぽいような、頬が左右にふくれたような顔立ちの、生徒らにたいして「みんなたち」と呼びかけるのが特徴的な男性だったのだが(いつだったか、海に行ってそこにいたクラゲをなまで食って帰りに腹をこわして駅のトイレで苦しんだというエピソードをはなしてくれたおぼえがある)、かれが、にんげんがいちばんかんたんに鼓動をはやくするのってどういうときだとおもう? という問いかけをして、それにたいしてクラスメイトの(……)が、階段をいそいでのぼってるとき、とこたえたのだ。まさしくそれが正解で、屈伸をして鼓動が活気づいていたのでそのことをおもいだしたのだろうが、なんというかあのときの、もしくはあのころの(……)をおもいだすと、やはり勉強のできるあたまの良い自信を持った男子という感じで、ほかのみんながおもいつかないようなことをすぱっと言ってしまうようなところがあってスマートだったなと。小学校五、六年のことである。じぶんも学業成績はむかしから優秀で、(……)ともわりと競い合うようなレベルだったが、性格的にはあちらがサッカーもやっていて快活なのにたいし、こちらは運動はからきしで引っ込み思案で臆病というわけでちがっていて、それでも仲良い友だちでこちらが本格的に読書にふけるようになる『魔術師オーフェン』シリーズはやつからおしえてもらったのだけれど、(……)がああやってこちらのおもいつかないこととか、おもいついていてもみんなのまえで堂々とこたえて目立つのに気後れするようなことをすぱっと言ってしまうとき、じぶんはそこに、おお……という感情をいだき、たしょうの劣等感めいたものももしかしたらおぼえていたのかもしれないとおもった。なんというか、ただ学校の勉強ができる、テストで良い点を取れるというだけでなく、発想力とか機知とか機転があるというような。発想力、これがじぶんはむかしからぜんぜんないと自認してきた。なにしろ中学校の美術で課題をあたえられてもなにをつくればよいのかぜんぜんわからず、作品を出さずに2をあたえられたくらいである。いま文章を書いていても創作的なものではなく、こうして体験を、つまりそこに現にあり、あったものをひたすらに書き綴る種のものに耽溺しているのも根源をおなじくしているのかもしれないともおもう。もっとも発想力なんていうものもなにもないところから発揮されるわけがなく、それまでの経験とかふれたものとかとおい記憶とか知識とかをいろいろ引き寄せたり組み合わせたり、つなげてみたり裏返してみたりとそういう操作をする能力が主だろうといまではおもい、そういう意味では基盤となるネタがいろいろあるはずの現在、発想力なるものが涵養されていてもおかしくはない気がするのだけれど、そういうことは措いて、やはりじぶんはなにかいわゆる創作的な、クリエイティヴィティ的なものには欠けるところがあるような感じもする。 


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 そのあとはたいしたことをできず。書き抜きをしたいとおもっていたのだけれど、だんだんと疲れが出てきたというか血のめぐりがからだに響くようになってきて、九時くらいから休みつつブランショ『文学空間』を読みはじめたのだが、それも散漫であまりすすまず、一一時くらいには寝床で意識をうしなっていたとおもう。あいまいにまどろんで、はっきり気づくと一時前だった。それなのでそのまま消灯して就眠へ。『文学空間』は抽象的なはなしでむずかしく、よくわからないが、書きぬこうとおもうぶぶんはたくさんある。しかしまだ30ページくらいまでしか行っていない。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 316 - 330
  • 日記読み: 2021/8/28, Sat. / 2014/2/11, Tue.

新聞一面には昨晩の夕刊でもつたえられていたカブールでのテロの報があった。昨夜の報では死者は七〇人超だったが、それから数字が増えて一〇〇人以上となっていた。米兵一三人というのは変わらず。二面と三面にまたがって関連記事があったのでそれを読む。今回の件を受けて各国とも救出作戦の続行は困難だと判断しはじめているようで、だからアフガニスタンを脱出できずとりのこされるひとがけっこう出るのだとおもう。バイデンも三一日までで任務を終えるという姿勢をくずしていないようだし(ただいっぽうで、数日前にブリンケン国務長官のほうは八月を越えてもすべての米国人や協力者が退避できるまで救出はつづける、と述べていたはずだが、この二者の不一致はどういうことなのだろう――という疑問について、九月二日の時点から加筆しておくが、ブリンケンが言ったのは単純に、退避任務を終えて米軍がアフガニスタンから撤退したのちも残された米国人や協力者を脱出させるためのとりくみはつづける、ということだったのだろう)、そうすると、米軍が去ったあとに十分な治安維持は無理だから、そんななかでとても救出作戦など実行できない、というわけだろう。日本ももともとそのつもりで、数日前に自衛隊機を派遣したわけだけれど、米国が月末までに撤退するという事情を受けて、二七日か二八日までに作戦を終えるという計画だったらしい。それできのう、一人を移送したらしいが、たぶん自衛隊がはこんだのはけっきょくこのひとりだけなのだろうか? 機を派遣したはいいけれど、やはり空港に自主的に来てもらうのがむずかしく、しかもテロも起こってしまったわけだし、じっさいあまり大したはたらきはできなかったのだとおもう。自民党からも、もっとはやく自衛隊を派遣していたらまたちがったはずだ、という批判が出ているという。米国はいままでで一〇万人ほどを脱出させたと発表しているらしい。

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(……)夕刊にアフガニスタンの続報。死者は一七〇人越えと。米兵は一三人、タリバンは二八人が死んだらしい。米軍が東部ナンガルハル州で無人機をつかってISISを報復攻撃したという。攻撃時、戦闘員は移動中だったとかで、さらなるテロのために準備をしていたのかもしれないとのこと。また、自衛隊はきのうひとり移送したほかに、二六日にアフガニスタン人十数人をパキスタンにはこんでいたのだという。アフガニスタン国内には日本の大使館員やその家族など、最大で五〇〇人がのこっていると見られるらしい。

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ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)より。

88~89: 「こうした方法のもつ欠点は、それが成功した条件でもあるのだが、文献資料をその歴史的な [﹅4] コンテキストから抽出し、さまざまな時間や場所や対抗関係からなる特定の情況下で(end88)話し手がおこなったもろもろの操作を [﹅3] 排除してしまうということである。科学的実践がその固有の領域で遂行されるためには、日常的な言語的実践が(そしてその戦術の空間が)消去されねばならないのだ。したがって、しかじかの時点に、しかじかの話し相手にむかって、あることわざを「うまくさしはさむ」無数のやりかたがあるということは、考察の外におかれてしまう。このような芸 [アール] は排除されてしまって、その芸の持ち主ともども、研究所から閉め出されてしまうのだ。いかなる科学も対象の限定と単純化を必要とするという理由からばかりでなく、およそあらゆる分析にさきだって科学の場所が成立するには、研究すべき対象をその場所まで移転させる [﹅5] ことができなければならないからである。考察しうるのは、持ち運び可能なものだけにかぎられる。根こそぎにできないものは、そもそもからして圏外に放置されてしまう。だからこそこれらの研究はディスクール [﹅6] に特権をさずけるのであり、世にディスクールほど容易にとらえて記録化し、安全な場所まで持ち運んで考察することのできるものはない。ところが、パロール行為 [﹅2] は情況からきりはなすことができないものである」

104: 「ひとつの技 [アール] と連帯をあらわすようなテクストを創作しよう。あの無償交換というゲームをやろう。上司や同僚が「目をつむる」だけではあきたらず、ペナルティを科したっていいではないか。結託の跡を残し、器用な細工の跡を残すような制作をすること。贈与には贈り物でこたえること。こうして、科学の工場のなかで機械のための仕事を強制してくる掟をくつがえし、これと同じロジックで、創造せよという要請と、「あたえる義務」とを、なしくずし的に無くしてゆくこと」

114~115: 「事実、発話行為というものは次のことを前提としている。(1)なにかを語ることによって言語システムの可能性を現動化する実行活動 [﹅4] (言語は話(end114)す行為のなかでしか現実化しない)。(2)言語を話す話し手による言語の適用 [﹅2] 。(3)話し相手(現実ないし虚構の)の導入、したがって相互的な契約 [﹅2] あるいは話しかけの設定(ひとはだれかにむかって話す)。(4)話す「わたし」の行為による現在 [﹅2] の創設。そしてこれにともなう時間の編成、というのも「現在はなかんずく時間の源泉であるから」(現在は、以前と以後を創りだす)。そして世界への現存である「いま」の存在 [註9] 」; (註9): Cf. Emile Benveniste, Problèmes de linguistique générale, t. 2, Gallimard, 1974, p. 79-88.

115: 「以上の要素(実現すること、適用すること、関係のなかに組みこまれること、時間のなかに身をおくこと)によって、発話行為、そしてこれにともなう言語使用は、さまざまな情況の結び目となり、「コンテキスト」からきりはなしえない結節となるのであって、発話行為は抽象的にしかこのコンテキストから区別されえない。語るという行為は、いまある瞬間 [﹅2] 、特殊な [﹅3] 情況、そして何かをやること [﹅7] (なんらかの言語をうみだし、ある関係の力関係を変えること)ときりはなすことができないものであって、ある一定の [﹅5] 言語の使用であり、言語にくわえられる [﹅7] 操作なのである。こうした使用法がすべて消費にもあてはまるものと仮定すれば、このモデルを数多くの非言語的な操作に適用することができる」

119: 「わたしが戦略 [﹅2] とよぶのは、ある意志と権力の主体(企業、軍隊、都市、学術制度など)が、周囲から独立してはじめて可能になる力関係の計算(または操作 [マニピュラシオン] )のことである。こうした戦略が前提にしているのは、自分のもの [﹅5] 〔固有のもの〕として境界線をひくことができ、標的とか脅威とかいった外部 [﹅2] (客や競争相手、敵、都市周辺の田舎、研究の目標や対象、等々)との関係を管理するための基地にできるような、ある一定の場所 [﹅7] である。経理の場合がそうであるように、すべて「戦略的な」合理化というものは、まずはじめに、「周囲」から「自分のもの [プロープル] 」を、すなわち自分の権力と意志の場所をとりだして区別してかかる。言うなればそれはデカルト的な身ぶりである。《他者》の視えざる力によって魔術にかけられた世界から身をまもるべく、自分のものを境界線でかこむこと。科学、政治、軍事を問わず、近代にふさわしい身ぶりなのだ」

120: 「知の権力 [﹅4] とは、こうして歴史の不確実性を読みうる空間に変えてしまう能力のことであると定義してもまちがいではあるまい」

120~121: 「このようにして軍事的戦略も科学的戦略も、つねに「固有の」領域(自治都市、「中立」ないし「独立」の制度、「利害をこえた自主独立の」研究をかかげる研究所、等々)を設定してはじめて創始されたのであった。いいかえれば、こうした知の先行条件として権力がある [﹅18] の(end120)であり、権力はたんに知の結果や属性ではないのである。権力が知を可能にし、いやおうなくその特性を規定してしまうのだ。知は権力のなかで生産されるのである」

129~130: 「分析というものは重要にはちがいないが、抑圧 [﹅2] の制度とメカニズムを記述することにのみ熱心で、それに偏しているきらいがある。さまざまな研究領域で抑圧という問題系がなにより重視されているのは驚くにあたらない。しかしながら科学という制度は、科学が研究しようとしている当のシステムそのものの一部をなしているのである。システムを考察しながら、ともすれば科学は、なれあい談義というあのお決まりの型にはまってしまう(批判というものは、依存関係のなかにありながら、距離を保っているかのような外観をうみだすが、批判的イデオロギーだからといってイデオロギーの作用はいささかも変わるわけではない)。そればかりか、科学はそこで、悪魔とか狼男とかいった、なにやら恐ろしげな尾鰭をつけくわえさえして、夜になると家でそれが語り草になるというわけである。だが、このような装(end129)置それじたいによる自己解明にありがちな欠点は、この装置にとって異質なものである実践、この装置が抑圧している、あるいは抑圧していると信じている実践のすがたを見ようとしない [﹅7] ことである。けれども、こうした実践がこの装置のなかにもまた [﹅3] 生きていても少しも不思議ではないし、いずれにしろこれらの実践はこれまた [﹅4] 社会生活の一部をなしているのであって、不断の変化に適応し柔軟性に富んでいるだけ、この実践のほうがもちこたえる力は大きい。日々たえることなく、それでいてとらえどころのないこの現実を探ろうとするとき、われわれは社会の夜を探訪しているかのような印象におそわれる。昼よりも長い夜、相次いだもろもろの制度がばらばらに断ち切られてゆく闇のひろがり、無辺の海のはるけさ。その海のなかでは、社会経済的な諸制度など、かりそめのはかない島々に見えることだろう」