2022/5/17, Tue.

 「クロコフスキーめ」とセテムブリーニは叫んだ。「ああやってぶらぶらしていますが、あいつはサナトリウムのご婦人連の秘密をみんな握っているんですよ。彼の服装の微妙な象徴性にご注目ください。彼があんな黒っぽい服装をしているのは、彼の最も得意とする専門分野が夜の世界であることを暗示するためなのです。あいつの頭の中には、たったひとつの考えしかない、しかもそのひとつがなんと不潔なことか。(……)」
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、136)


 一首: 「そこらじゅう耳をひらけば偶然の魔法を知れよ街を行くひと」

  • 「英語」: 433 - 462
  • 「読みかえし」: 775 - 787


 一〇時四二分に正式な覚醒。ねむりはやや混濁気味で、そのまえにもなんどかさめたが浮上しきれずすぐに沈下することをくりかえし、一〇時四二分にいたってようやく、なぜか容易に意識がかたまりとどまることができた。ゆめをみて、起きた時点ですでに大部分うしなわれており、のこったいくらかを寝床で反芻したのだけれどそれももうわすれてしまった。布団のしたでしばらく深呼吸。胎児のポーズもやって、一一時四分に離床。天気はきょうも曇りで、雨は降っていないようだがひかりの感触はなく、よどんだかんじで気温も高くない。洗面所に行って顔を洗うとともにうがいし、トイレで用も足してもどるといつもどおり書見。ホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅠ』(中公クラシックス、二〇〇九年)。原著は一六五一年刊行の古典である。けっこうおもしろい。冒頭で《リヴァイアサン》すなわち国家は「人工人間」であるという定式がなされるとともに、それに関連してこの書で考察される四部のポイントがみじかく要約されているのだが、まず「第一に、その「素材」と「製作者」。それはともに「人間」であるということ。」(8)というわけで、だから本篇は「人間について」と題された部からはじまり、「感覚について」「イマジネイションについて」「イマジネイションの継起あるいは連続について」「言語(スピーチ)について」と各章であつかわれる。ホッブズのかんがえではにんげんの思考のおおもととしてまず「感覚」があり、それは対象のなんらかの運動に刺激されたわれわれの器官や脳髄がわれわれの内部につくりだすおなじく運動としての表象=現れ=心像であって、それが思考の根源をなす、もしくは思考そのものである。それはまた「イマジネイション」と呼んでもよいが、さらにいいかえれば「衰えゆく感覚」(18)ともいえるもので、そのさらに具体的な名称が「記憶」であり、記憶が多量化すれば「経験」と呼ばれる。ホッブズによればにんげんの思考はかならずかつていちどはなんらかのかたちで(「全部いちどきにか、あるいは部分的に数回にわたって」(20))感覚されたことがらから成っており、ケンタウルスのような想像の産物も「あるときに見た人の姿と他のときに見た馬の姿」(20)から「複合的」(20)につくりだされる。この点、つまり感覚=知覚がすべてのおおもとであるということはかれがなんどか強調するところだが、そこからうみだされるいちれんの思考はおおまかには二種類があり、つまり「「導きのない」「企図のない」不定なもの」(27)か、「ある意欲とか企図によって「規制(レギュレイト)された」もの」(30)である。後者のうちにたとえば「回想」とか「深慮」すなわち経験にもとづいた未来の予測=推測がふくまれ、ここまでは「人間に生得の精神作用で、それを行使するのに、人間として生まれ、五感を働かす以外何一つ必要としないもの」(34)なのだが、さらにそこに「ことば(ワード)と話(スピーチ)の発明」(34)、すなわち言語がくわわることで、にんげんはほかの生物から区別される高みに達している。そこで第四章からは言語についての考察がはじまるのだが、そのなかではたとえば「「真」あるいは「偽」は、事物ではなく言語(スピーチ)の属性であり、言語のないところには「真」も「偽」もない」(43)(ただし、「「誤謬」ということはありうる」(43~44))といわれたり、「「真理」とは私たちが断定を行なうさいに名称を正しく並べることである」(44)といわれていたりして、いわばテクスト主義者的なおもむきがかいまみえる。文学を好むものとしてそれには好感をいだくところだけれど、いっぽうで、こういう姿勢はもしかしたら分析哲学へとつうじていくイギリスの哲学的伝統なのかもしれない。言語分析はひじょうに大切だとおもうし、分析哲学についてもぜんぜんよくしらないが、言語の配列や構造や連関の分析によって真偽を腑分けし、それでもってにんげんの思考における問題がすべて解決したり解消されるとみなすならば、それはやはりちがうだろうとおもう。ともあれそういうわけで、国家論をものするのに人間についての語りからはじまり、認識論にはじまって言語論へとながれていくというみちゆきになっていて、このあたりすごくむかしの哲学者っぽいやりかただなという気がした。プラトンの『国家』篇もたしか、善い国家とはなにかをかんがえるためには、まず国家よりもちいさくてちかくにあるもの、人間においての善さとはなんなのかをかんがえなければなるまい、みたいな理屈になっていたおぼえがある。逆だったか? さいしょにまず老年についての対話みたいなことがあって、それから正しさとは強者の利益であると主張するやつが出てきて、ソクラテスがこれをれいのいやらしい問答法で自己瓦解においつめ論駁するのだけれど、それでもしかし正しさとはなんなのかけっきょくよくわからんねえ、それでは善とはなにかを洞察するために、にんげんよりおおきくてよく見えやすいもの、国家や共同体における正しさをかんがえよう、そののちにそれをまたにんげんのたましいへと適用してかんがえてみようではないか、みたいなはなしだったかもしれない。しかもさいごまで行ってもけっきょく善とはなんなのかということについての明確な結論や定式はしめされず(そのくせソクラテスは、にんげんは善く生きるべきであるということ、善く生きるということがにんげんの幸福であるということだけは絶対的に確信している)、たましいの輪廻についての神話的な物語がかたられて終わるという構成になっていたはず。
 一二時過ぎまで読んで瞑想。三〇分弱。だいぶよいかんじがした。瞑想とはなにもしないということ、能動性をできるだけ無化することであるという点をさいきんわすれていたような気がされ、座っていてもなにかしらのことをしてしまっていたような気がするのだが、きょうはその原点にたちかえることができ、しかもけっこううまく行ったようだった。やはりそれが基本原理だ。そしてとてもむずかしい。なにもしないとはどういうことなのかとかんがえるに、記述的にとらえて「座っている」という一語で事態が終了しそれいがいになにもないということではないかとおもわれ、ひとまず主語をつけておくとそこで座っているのはじぶんだから「わたしが座っている」となる。只管打坐という道元の用語があるわけだが、その「只管」を「ひたすらに~する」の意ではなくて「~しかない」のonlyでとらえたいというのはいぜんなんどか記したとおりで(学問的にみて成り立ちうる妥当な解釈なのかわからないが)、それが可能だとしたら「只管打坐」という語も、座るということいがいになにもない、座るで事態が終結しておりその外部がない、座るによって世界がばっさりと切り落とされている、というようなイメージになる。座るしかないとはいってもじっさいにはもろもろの内外の知覚や思念があるわけだが、じぶんにたいして紐付けられる述語的な要素としては座るしかないということで、したがってそれはなにもしないといっているのとほぼおなじことである。しかも瞑想においてなにもせずじっとしているというのはまさしく「している」ということであり、つまり一回の行為としての「座る」ではなく、「座っている」という状態、その持続だということになる。なにもせずに座っていることによってにんげんを絶えず拘束している行為や行動(すなわち能動性)の呪縛からひととき逃れて自由と解放の時空を現出するのが瞑想だといえるのかもしれず、それをいいかえれば自己の存在の全的な武装解除ということだが、そうとらえたときの瞑想において目指されるのかもしれない事態の推移を記述的にかんがえてみると、まずさいしょに「わたしが座っている」というところからそれははじまる。座っている状態のなかから能動性がより薄くなっていくにつれて、おそらく主語が脱落し、そこで言語定式は「座っている」になるだろう。そうなるとこの「座っている」はじっとうごかずなにもしないことなので、ほぼ「存在している」と同義になって転化され、きわまれば、なにが存在しているでもなく、ただ「存在している」、さまざまな事物や知覚や思念など、じぶんをふくめたあらゆる存在が存在しているという同語反復の状態にいたるのではないか。瞑想にかんして主客同一だの存在の初期化だのといわれているのは、言語的に記述するとそういうことなのではないかと推測できる。
 こういう瞑想的な自由と解放のありかたを瞑想いがいの時間、つまりふつうに生きてなんらかの行為や行動をおこなっている時間に援用してかんがえるとき、まずonlyのもう一面の意味をそこに導入したい。「~しかない」ということは、行為にあてはめて裏返していえば、「ただ~する」ということである。「自然」ということがよくいわれるもので、それはときにこの「ただ~する」といういいかたと同義の語としていいかえられ、こちらじしんも「ただ書く」ということを実現したいなどと過去になんどか書きつけてきたが、この「ただ~する」という行為のありかたもしくはしかたがどういうことなのかという点は、意外にも、もしくは順当にも、なかなか判然とせずむずかしいところだ。それはあるばあいには、無意識的な、ほとんど自動的な行為のありかた、つまりじぶんのおこなっている行為にたいするメタ的な認識をうしない再帰的な顧慮や調節(ということはつまり能動性)がまったくはたらかない没入(没我)状態として語られ、あるときには、むしろ顧慮が最大化されて行為の隅々まで配慮や調節が行き届き、そのメタ的な認識にこそ最大限に没入している事態として語られるようにおもう。どちらにせよ、自己と、その自己がおこなうなんらかの行為(というよりは、それはおそらく「行為」ですらないことがあるとおもわれるから、述語的要素)のあいだに分裂や齟齬ばかりかわずかばかりの距離すらなくなって、主述が調和的に一致する状態ということなのかもしれないが、そこで大事になってくるのがまさしくこの「状態」ということばなのではないか。つまりうえの瞑想についてのかんがえを援用してみるに、行為を状態化するというのが「ただ~する」ということのひとつの内実なのではないかということで、瞑想をしているときに理想的にはそこに「座っている」しかないように、「~している」しかなくなる、というのがその意味なのではないか。そういうありかたで行為において、理想的な瞑想とおなじように諸縁を放下した自由と解放の時空が実現するのかどうか、その点はよくわからないが、行為が状態化して自己の存在とまるごと一致するようなことになればそういうこともありうるのかもしれないし、スポーツ選手がゾーンに入るとか言っていることもそういう様相なのではないか。「~している」というのは英語では進行形というカテゴリであらわされることがらであり、進行形にはbe動詞が構成要素として必要である。状態動詞は進行形にならないというルールはよく知られている通りだが、なぜかといえば状態動詞はそのなかにすでに持続をはらんでいるからで、したがって進行ということと状態ということがらは比較的ちかいはずである。そして状態動詞の最たるものは、存在をあらわすbe動詞だろう。したがって、「ただ~する」ということ、すなわち「行為を状態化する」、もしくは「行為が状態化して自己の存在とまるごと一致する」ということは、文法的なことばでいえば、行為動詞を(進行形を経由して)be動詞にできうるかぎりちかづけていく、というふうに換言できるかもしれない。たとえば書くことだったら、writingがbeingになるということで、それをwriting is beingと書きあらわすと、なんか自己啓発本にありそうなお手軽なにおいが出てきていやなかんじだが、ただいっぽうで、このbeingをもし「生きること」の意味でとらえるならば、この表現はむかしじぶんがよく記していた書くことと生きることの一致、「生きることを書くことによって書くことを生きること」のテーマともちかい射程を帯びてくる。ただこのばあいの「生きること」は生活とか人生の意だから時間的空間的範囲がひろい。いまかんがえているのはもっとちいさな、ひとつの行為の観点である。英語をつかって「行為の状態化」という事態を言語的に形態化してみるに、まず前提としてI am. があるだろう。つまり、わたしは存在している、ということである。つぎにI am writingといえば、「わたしは書いている」とつうじょう訳されるが、be動詞は存在の意であるとともにイコールをあらわすことばなのだから、これはI = writingであって、「わたしは書くことである」もしくは「わたしは書くこととして存在している」といういいかたもできるだろう。だからこの時点ですでに、「行為が状態化して自己の存在とまるごと一致する」という様相がわりと実現しているようにもみえるのだが、現実にはI am writingという表現は、「わたしは書いている」、わたしが能動的な主語として書くという行為を進行している、という意味でもっぱらうけとめられる。ここからwritingがより状態に近くなっていって能動性が消えることにより主語が脱落するとかんがえると、am writingとなる。主語としてのわたしが脱落したので主語となりうべき名詞はwritingしかないとかんがえてこれを逆転させれば、writing is. となる。「書くことが存在している」である。これが主客合一というか没我の言語的定式化だろうが、ただ現実には、わたしが消え去って書くことだけがそこにあるというような事態は、作家とか思想家たちはそういうことをしばしばいうけれど、そうそう起こるものではない。そこでいちおうここにわたしを再導入してのこすとするなら補語の位置しかないわけだが、そのときかんがえられる等置は、まずはwriting is meである。「書くことがわたしとして存在している」。「書くことは」と「は」をつかうと、日本語として総称的な、普遍的なニュアンスが出てしまうので、「が」のほうがおそらくよいだろう。これもまあわからんではない。作家や思想家やあるいは宗教者などがしばしばいう、わたしが主体ではなくて、たとえば言語とか、つうじょう述語となることがらのほうが主体なのだといういいぶんは、みじかく定式化するとこうなるだろう。もうひとつ、わたしを書くことが発生し展開する場だととらえて前置詞を導入するいいかたがありうるかもしれない。writing is in me、もしくはinだと包含の意味が出てしまうので、writing is on meのほうがよいかもしれない。行為が状態化され、その状態しかそこにはないとなったときに、しかしいちおう主語の地位をおわれたわたしをのこそうとすれば、行為がある場としてのわたし、すなわち名詞化された補語ではなく、存在する行為(行為が存在すること)にたいする副詞句としての補足的な(修飾的な)わたし、というありかたがじっさいにちかいのではないかという気がする。つまり、わたしがなんらかの時空において行為しているのではなくて、行為が状態となることをつうじてわたしが時空化する。
 余談だが、「は」と「が」のちがいについておもったこともすこし。「わたし」と「書くこと」をれいにしてこのふたつの助詞をつかったbe動詞的な文を四パターンつくりだすと、「わたしは書くことである」「わたしが書くことである」「書くことはわたしである」「書くことがわたしである」となる。このうちまず「わたしが書くことである」という文はある意味で不遜さが混じっているというか、「わたしこそが書くことである」というようなひびきを帯びてかんじられる。つまりそこでは、わたしいがいにもほかにたくさんひと(もしくはこの文の主語になりうるもの)があるなかで、このわたしこそが、というふうに、多数の選択肢を前提としながらあえてこの主語を選んでいる、というような含みがあるようにおもえる。ここで直接いいあらわされていない範列的余地がこの「わたし」をとりかこんでおり、しかしそれらのわたしいがいのものは書くことではない、というかたちで、わたしの外部の存在や領域が潜在的に参照され、前提となり、暗示されているようにかんじられる。たいして、「わたしは書くことである」になると、この外部への参照がないようにみえる。この文には、ここで主語になっているこの「わたし」しか射程として含まれていないようにきこえる。ということは、そのほかのものが書くことであるのか否かは、この文の範囲では問題としてとりあげられていない。このような切り捨ての感覚があるかどうかが、「は」と「が」の違いだとひとまずかんがえてみる。そこで「書くこと」を主語にした文のほうにうつると、さきほどうえで、「書くことはわたしである」とすると総称的、普遍的なニュアンスが出てしまうと記したように、「は」をつかうと、「書くということは」、「書くこと」にもさまざまな種類だったりそれがおこなわれる個別の機会だったり、多数の「書くこと」があるけれど、それらすべてをひっくるめた総体としての「書くこと」、というひびきがかんじられる。そのばあい、すべての「書くこと」がそのなかに含まれるわけだから、「わたしは書くことである」と書いたときと同様、(すくなくとも「書くこと」の範疇において)その外部はなくなる。この文は「書くこと」についてしかふれていないし、その他の行為やものがわたしであるか否かは問題化されていないということになる。そしておもしろいことに、「書くこと」を主語としたばあいには、こちらのほうが不遜にかんじられるのだ。あらゆるすべての書くこととはわたしである、という響きを帯びるからである。「書くことがわたしである」といったばあいには、うえの段落で述べた内容や文脈にあわせていえば、ある個別の時空において、というニュアンスをはらむのだ。すなわち、「書くこと」には無数のさまざまな「書くこと」があるけれど、ある特定の機会においては書くことがわたしである、あるひとつの「書くこと」がわたしである、という含みを得る。ここで「書くこと」は限定され、条件付きのものになるわけだ。したがってそれもやはり、「書くこと」の多数性を前提としている。多数のもののなかから限定することで個を強調し、選ばれたものとその外部という区分をつくりだすのが「が」のはたらきであるという理解になるが、うえの例で生じる不遜さの印象は、まさしく主述のあいだにある個と総体という地位のずれに起因している。それをしめすまえにここでもうひとつポイントとなるのは、文を言明する主体にとって、「わたし」とはまさしく「このわたし」しか存在しない、ということである。「わたし」ということばは唯一の「このわたし」を前提としており、総体と個が同一で、したがって「わたしが書くことである」という言明において「わたし」の外部として暗示されるのは、「わたし」いがいの他者である。「わたし」のなかに複数性が導入されることはない。「わたし」は基本的には個としての、「このわたし」としての地位をもっているため、述語に置かれたばあいは個としての位置づけになる。「わたしが」というと、「わたし」いがいの外部を参照するから多数のなかでの個別性がより強調され、「わたしは」といえば個がそのままで総体化される。述語としての「わたし」は「ひとつのもの」、「わたしが」の「わたし」は「多くのもののなかのひとつのもの」、「わたしは」の「わたし」は「ひとつであり全体であるもの」となるだろう。これにたいして「書くこと」には複数性があるから、「書くこと」の内部で、あるひとつの個と総体の区別がなりたちえる。このような一般的名詞は、それだけで述語の位置におかれると、なんの特性も帯びないので漠然と総体化されてとらえられる。いじょうを踏まえて四パターンの文に主述の地位をあてはめてみると、「わたしは書くことである」は総=総、「わたしが書くことである」は個=総、「書くことはわたしである」は総=個、「書くことがわたしである」は個=個となる。したがって、これらの文を読んだときにこちらがかんじる不遜の感覚は、個が普遍を僭称するときのそれである。
 

 タイトル案ふたつ: 「きのうの景色とあしたの音色 [ねいろ] 」「眠りぎわに天使はささやく」


 瞑想にかんして能動性を無化するということをまえからいいつづけているわけだが、「~する」よりも、「~しようとする」のほうが難敵なのではないかという気がしてきた。なにもせずじっと座っていることとして定義される瞑想中であっても、なんらかの意味での「~する」をかんぜんに排除するのは非現実的だし、それどころか不自然である。完璧主義とはむしろ能動性の極致だ。それよりも「~しようとする」にどう対応するかのほうがむずかしく、大事なポイントのような気がする。それはとくに身体的なことがらよりも精神のうごきにかんしていえる。身体においては「~しようとする」と「~する」のあいだにまさしく身体というクッションが介在しているために、そこがかならずしも直結するわけではないが、精神的な領域においては「~しようとする」が発生した瞬間にそれがほぼそのまま「~する」に変わっている。そのうごきを追認し、強化することになるとまずいというか、まずいといったって現実そんなうまく切断できないわけだけれど、というか精神のうごきを切断するとかんがえるとそこにまた能動性が生まれるわけだけれど、ともかくよくいわれるように、思念の発生やそのながれを承認しつつ放っておく、というのがコツではあるのだろう。それをどうやるの? ということになると、これは言語化できないわけだが。「放っておく」ができればよいのだが、「放っておこうとする」になるとよどみ、濁るという、ここにもおなじ問題が出来する。そして瞑想という時間にかんするかぎり、それはすべての動詞につきまとう問題となる。能動性とはこの「~しようとする」を追認的に強化することにあるのではないか。能動性にたいして傾向性という概念を導入してみたとして、事態が傾向性の段階にとどまっていればよいのだが、それをひろい、とりあげてひとつのながれに固定化し、みちをつけると能動性に転化すると。そういうわけで、傾向性を追認し、強化することを能動性として定義できるかもしれない。能動性が無化された状態を理想的な瞑想として想定するなら、それは心身の(主には思念の)みちすじが固定されずあらゆる方向への傾向性を潜在的にはらみ、実際上も自由にうごめきまわりながら、しかしどの方角にもとどまることのない拡散的なたゆたいの状態だと記述できるかもしれない。
 一二時半ごろ上階へ。ジャージにきがえて食事はオクラの味噌汁やマクドナルドのバーガー。テリヤキチキンだとおもう。ポテトも一箱というか容器ひとつ分、大皿にあけて電子レンジであたため、食った。新聞一面は六月から予定の外国人の入国解禁にあわせて、出国時の検査が充実しているいちぶの国からの入国にかんしては水際対策を緩和する方針との報。一日の入国上限もいまは一万人だが二万人に増やす予定だと。ビジネス界から日本は制限がきびしく、事業の足かせになっているみたいな声があったらしい。いまは出国前七二時間以内におこなったPCR検査などの陰性証明書を出さなければならず、また入国時も抗原検査かなにかで陰性を確認しないといけないとか。ウクライナにかんしては、ハルキウ(ハリコフ)付近でウクライナ軍がロシア軍を押し戻して国境に到達したとあった。すごい。しかしロシアは東部ルハンスクの全域掌握を優先しているらしく、すでに九割が制圧されていると。英国の発表によれば、今後三〇日間、ロシアが劇的な前進をすることはないだろうと予測されているらしい。よくもわるくも長期化がみこまれる。二面にはプーチンが集団安全保障条約(CSTO)の対面会合をモスクワでおこない、同盟国に戦争への積極的な関与というか支援をもとめたと。つまりプーチンとしては出兵してほしいわけだ。構成国は、ロシア、ベラルーシカザフスタンキルギスアルメニアタジキスタン。しかしどの国も反応は鈍く、カザフスタンは今年一月に反政府デモが拡大したさいにロシアが軍をおくったにもかかわらずウクライナ侵攻に反対するデモを黙認しているというし、ベラルーシのルカシェンコですら、ロシア軍に拠点を提供してはいるものの、出兵にかんしては要求をかわしているという。スウェーデンのマグダレナ・アンデション首相がNATO加盟申請を正式に表明という報もあった。
 食器を洗い、風呂も洗うと帰室。きのうは二時ごろにいつのまにか力尽き、パソコンをつけたまま眠ったのでNotionはすでにひらいてあった。あたらしくきょうの記事をつくると音読。なぜかすらすら読めて、とくに「読みかえし」のほうをおおくできた。そうするともう三時。そのあとはきょうのことを書いたり休んだり。なぜかうえのように思考がやたら走って、抽象的なことがらをつらつら綴ることになってしまった。五時すぎで上階へ。アイロン掛け、とはいってもじぶんのワイシャツ一枚だけ。食事の支度も母親がすでにやっていたのでしごとがなく、さっさと帰るとまたきょうのことを書いた。「は」と「が」の区別について。それができるとベッドでウェブをみながら脚をマッサージし、八時で夕食へ。スンドゥブなど品をそれぞれ膳に支度し、長方形の盆の左右を両手でもって、足をはずさないように身を横にかたむけながらしたをよく見つつ階段をゆっくり下りる。きょうは(……)さんのブログを読まずにウェブをてきとうにみながら食し、九時をまわってうえに行くと食器を洗い、ながしの洗い桶に漬けられていた包丁とかパックとかもついでに洗った。入浴。湯のなかで目を閉じてじっとしたが、思念は高速で秩序なくながれ、なんでもないような記憶が瞬間的におもいだされたり、FISHMANSの”幸せ者”がなんども回帰してきてほとんどそこに固着するようになったり、にんげんの精神というのはその本質からして分裂的というか、ほとんど散り散りなのだとおもう。表象が映ったり、かいまみえたりするその速度ははやい。ある知覚からある印象や思念が生じ、またそれがひろいあげられずつぎの思念に場をわたして消えていくその速度もはやい。クロード・シモンが『フランドルへの道』のさいごのほうで散乱した記憶が混線して混ざり合うみたいな表現をやっていたが、もしひとの思念をより正確に(そこでいう「正確」とはいったいなんなのか?)言語化できたとすれば、あれをさらにはるかに破砕的にこまかくしてモザイクみたいに組み合わせるというかたちの表現になるだろう。それもこころみとしておもしろそうだが、果たしてそれが小説として成り立つかというとむずかしい気もする。どちらかといえば詩とみなされるものになるのではないか。そういえばとちゅうで、母校である(……)高校のようす、門をはいって昇降口までのあいだにあるスペース(職員室などがあった棟のしたをくぐるかたちになっており、だから昇降口のすぐまえに来るまで大部分頭上はおおわれている)や、下駄箱というかロッカーのある昇降口をはいったあたりの一階のフロアのようすとかがおもいおこされるときがあって、そんな空間の情景はもうながいあいだおもいだすことがなかった。
 風呂を出てもどってきて、ここまで記すと一一時をまわったところ。きのうのことを書かねばならない。


 そのあとはだいたい前日、一六日のことを書くのについやされた。しかしぜんぶは終わりきらず。職場のことをいくらかのこしたところで、きょうはここまでかなとちからが尽きた感があったのでそれにしたがい、その後は怠けた。四時就床。

2022/5/16, Mon.

 散策者は林の中、谿流沿いの路、丘に登る七曲りの坂道など、どこでも気のおもむくままにたどってゆくがよい。午後の太陽が傾きはじめ、澄みはじめた光線が何かを訴えるかのように微妙になる時刻ならばさらに良い。風が吹きすぎるたびに、波の白浜にうち寄せるような、無数の木の葉の音をきくがよい。夏の終り、山々の色あいが高い方からかわってゆく時でも、あるいは鹿皮のように雪が斑に草原をおおう時でも、そこには魂のもっとも深い所に忘れられた古い絃をよびさます何者かが常に潜んでいる。そんな小径に咲く花の可憐な姿などを見ながらゆっくりと散策してゆくと、大抵は人気のない小さな村々に出会うだろう。石の古い匂いが漂っているような村の秋はまた格別で、かさこそとマロニエの大きな枯葉が、ひなびて角が摩滅した噴水のまわりに舞っていたり、犬が新来のよそ者をいかにもいぶかしげに眺めているだろう。そんな所には、ニースの海岸通りで出会うような豪華な乗用車も見られないし、大都会でふと出会う暗い深淵、絶望と自棄との深淵とも無縁であった。ただ古い噴泉の水が誰のためにでもなく清冽に流れて、水面におちた枯葉のあいだにきれぎれの秋空が揺れているのだった。ところがそこにも人間の営みがある。散弾銃を背負った男が、軽快な猟犬をともなって歩く姿や、日暮れ時には、雑貨商やパン屋に村の女たちが集っているのを目にするだろう。そうしてやがて深い静寂が夜とともに訪れてくる。コスモスの沈黙が村を支配してゆくのだ。初めの頃私の感性は、突然自然そのものが訪れてくるようなその沈黙を怖れたものだった。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、156~157; 「Ⅱ ベイルート夜話」)


 なんどか覚めつつ、ねむりが足りないなと覚醒をやりすごし、一〇時ぴったりに携帯をみて正式にさめた。しばらく布団のしたで足の裏をあわせて深呼吸。天気は雨。気温はここのところではやや低い。ゆめみがあった。(……)といっしょにどこかにむかって電車に乗っている。扉際にふたりで立っており、じぶんは座席の端の縦向きの手すりをつかんでいるが、いつのまにかねむってしまう。目をさまして立ったままねむっていたことに気づき、よくたおれなかったなというような遅ればせの不安をかんじる。(……)の顔をみると、かれは笑っていたかもしれないが、その顔は(……)のものではなくじぶんの顔である。しかし夢中ではそれをじぶんのすがただとは認識していなかった。そのあと携帯にメールがはいって、みれば(……)からで、きょうやっぱり家にもどってこれないかだったか、あるいは職場にいられないか、みたいなことが書かれている。もともとなにか相談をしたいかいっしょにすすめたいことがあるらしいのを勤務だからとことわっていたようだが、じっさいには(……)とこうしてどこかに出かけている。職場とあるのは、勤務のとちゅうに職場から遠隔ではなすということなのかな? と疑問におもう。
 これいぜんにもなにかみたおぼえがあるが、それは忘れてしまった。一〇時一五分に起床し、水場に行って顔を洗ったり口をゆすいだり。便所で小便もはなってくるとまたベッドにあおむいて書見した。ホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅠ』(中公クラシックス、二〇〇九年)。さいしょに載せられている川出良枝というひとの解説を読み、本篇の冒頭もほんのすこしだけ。にんげんは「技術」によって《自然》を模倣するが、それにとどまらず人間自身をも模倣するもので、すなわち《リヴァイアサン》たる国家はひとつの「人工人間」であるという言明がさいしょにあり、ここでもうはやくも「リヴァイアサン」という語が出てくるんだなとおもったし、また、それであのゆうめいな、国土のうえに王冠を戴いた巨人がだいだらぼっちのようにぐあーっと君臨しているというれいの絵があるんだなとおもった。リヴァイアサンというのはもともと旧約聖書の「ヨブ記」に出てくる最強の海の獣、一種の怪物らしいのだが、ホッブズはそれを獣から「人工人間」におきかえ、機械論的に分節してかんがえようとしている。
 そのうちに便意がきざしたのでクソを垂れにいった。きょうは便が硬いということもなくつつがなく肛門を通過し、腹を軽くしてもどってくるとNotionを用意してから瞑想した。一一時一五分から三〇分ほど。わるくはないが、そんなにここちがよかったり集中できたというかんじでもなかった。その後上階へ。ジャージにきがえ、屈伸をくりかえして脚や膝をやわらかくし、きのうのあまりもので食事。山芋のとろろがあるというのでいただくことに。べつにとりたてて好きではないが。新聞一面は沖縄の本土復帰五〇年を期しておこなわれた式典のもようや、読売新聞の世論調査では内閣支持率が上昇して六三パーセントになったこと、またフィンランドの首脳ふたりが正式にNATOへの加盟申請を表明したという話題など。岸田文雄は式典にさいして、キャンプ瑞慶覧のいちぶを返還前に先行的に公園として開放すると発表したらしい。内閣支持率は野党支持層でも三〇パーセント台から五〇パーセントを超えて、支持と不支持の割合が逆転したという。コロナウイルス対策やロシアのウクライナ侵攻への対応が評価されたとのこと。フィンランドNATO加盟にかんしてはスウェーデンも同時に申請するうごきをみせているらしい。
 食器を洗い、風呂も洗って、洗面所で髪を濡らさないまま櫛つきドライヤーでちょっとなでておき、白湯を一杯ついで自室へ還った。さっそくきのうのことをみじかく書き足して投稿。それからきょうのこともここまで記し、一時を越えたところ。きょうは労働で、雨なので歩くか、それともかなり余裕が生まれてしまうが三時すぎのはやい電車で行くか迷っている。予習で読んでおきたいテキストもあるしはやめに行けば行ったでやることはあるのだが。

  • 「英語」: 416 - 432


 音読をしたあと、一時半くらいから二時ごろまでストレッチをした。そのあと瞑想。意識はそこまで明晰というわけではなく、眠いというほどでもないのだが思念や知覚が明確に意識されずにたゆたうようなかんじになり、きもちがよかった。半分眠っているというか、はっきりと意識をたもって起きながら眠っているというかんじ。二時半ごろに階をあがり、おにぎりをひとつつくって白湯といっしょに持って帰り、食べながら河合塾の『やっておきたい英語長文500』を予習。まあいきなり読んでもわからない文はまずないだろうが、授業であつかうならばやはり事前に読んでおかなければ。六課と七課。八もとちゅうまで。あと歯磨きしながら電気工事士の資格参考書も。こういうのもいざ読んでみればそれなりにおもしろいはおもしろい。いわゆる理系の分野にはまったくつうじていないし。なんであれものごとを知るということはおもしろいことだ。読み書きをはじめ、何年もつづけていちばん身についたのは、だいたいなにごとにもなんらかの面白みをみいだすという姿勢や感じかただろう。だからといって退屈なことがらがまったくなくなるというわけではないが、すくなくとも退屈な時空というのはほぼかんぜんになくなった。それはたぶんに、じぶんが習慣的にやる書きものがこういう形式だったということも影響しているはずで、あまり一般化はできないのかもしれないが、しかしすくなくとも文学と哲学はこの世のすべてを対象としうる可能性をもち、それぞれにちがうやりかたで普遍と個別を志向する面があるはずで、だからむしろある程度はそうなるのが自然ではないかという気もするのだが。
 三時すぎに出発。けっきょく電車に間に合わない時間になったので歩くことに。気温が低めなのでジャケットも着る。スーツのジャケットを羽織ったのはひさしぶりなかんじがした。雨はすでにやんでいたが空はまだまだまったき曇天で、玄関を抜ければあたりの大気にあかるみの気配すらなくよどみがちなので、また降っても少しも不思議ではなさそうだったが、まあ降らないだろう、降ったらそのときとひとり決めして傘をもたなかった。東へ向かう。みちのはたにピンク色の微細な小花をつけた雑草が背低く群れて点々といろを散らしている。いまは淡いみどりのとがった葉が風にゆらぐカエデの木か、そのてまえの電柱かにヒヨドリがいて鳴き声を張り、弾力的にながしていたが、すがたをみつけられなかった。坂道にはいるとガードレールを支えにしてからだをおおきく反らせている老人がいた。歩いているうちに腰が疲れたか痛んだ、ということのようだ。過ぎざまにこんにちはと声をかけた。のぼっていくあいだ左の林縁には爪のおおきさほどもない白い小花が無数の粒としてところどころに集まっており、ちかづいてその粒立ちをちょっとみたがこれは卯の花だったはずだ。それにともなって、この時期の雨のことを「卯の花くたし」ということもおもいだした。坂道には風が吹いて頭上のこずえから水がざらっと、もしくはぱたぱたと落ち、服やあたまにも降りかかって雨がひととき復活したかのよう、湿り気をはらんだ大気のうごきにこれはまた降るかもなと危ぶんだが、けっきょくその後、降りはなかった。坂道が終わるあたりで右の眼下にのぞくしたの道の一軒のまえで、婦人がその家の犬を小脇にかかえて戸口に向かうところで、ちいさな犬が腹のところでひっかけられるようにして無造作に右腕で抱えられているのはやんちゃな少女が人形やぬいぐるみをたずさえているようでもあり、またゆるくあさいアーチをえがいたそのからだからはホースとかの扱いをおもいだすようでもあった。
 街道に出るすぐまえのガードレール脇には斜面下から立ち上がった杉の木の枝葉が浮かぶ。籠もるような鈍いみどりで樹冠のひろげるかげにかくれているその葉叢のさきに、しかしもっと真新しくあかるいみどりのすじがいくつかみられ、人差し指でところどころいろをこすりつけて回ったかのように、曇ったガラスに指で線を引いたときのおだやかな輪郭と湾曲をもった軌跡の群れがみじかく多方向にひろがっており、空に爆発して弾けた花火の一本一本の条線が、あたまのほうはまだいろを燃やし尾のほうは夜に埋めてかくしながら宙を垂れながれるあのさまにも似ていた。きょうは雨だったからなのか、それとももう終わったのか、街道に工事の光景はなかった。人足も整理員もいない。ただ道沿いの空き地に重機のたぐいが二台置かれてあり、風は湿気をふくんで涼しい。老人ホームの建物横にはパンジーなどの花がこまかくカラフルに植えられてあたまをふるふるみだしている。裏に折れる横道のとちゅうには一軒の塀のむこうにかなり大ぶりの赤いツツジが咲いていて、花弁に皺を寄せながら口をおおきくひらいたその真っ赤なすがたは、花というよりもヒトデなどのような一種の海棲生物をおもわせる。ガクアジサイなどもそうだが、植物のなかには、海というひとの永住をゆるさない遠い環境でながくはぐくまれたもの特有の、奇矯や素っ頓狂じみた畸形や特異性を帯びているものがたまにある。
 裏路地。みぎてにバッグを提げ、左手はスラックスのポケットに突っこみながら軽めの足取りで行く。ひとどおりはない。家並みの向こうに屋根を越えてつねにみえている丘をみやれば、樹々はもはや緑でないものがなく、どこをとってもなんらかの緑にそろえられていて、混じりけといっておそらくヤマボウシだろう白さがいちばん下の最前にちょっとみえたのみ、緑のうちには若きも老いもあかるさも地味もとりどりあって、どちらかといえばむしろ後者のほうがおおい気がしたがいずれまだらというほどでなく、あたらしそうなこずえと常緑らしい褐色点まじりが接している箇所もあるけれど、きょうの湿った天気もあって、緑は緑、とすべてしっとりならされている。電柱の脇に生えた雑草を掘り取っているひとがいた。年嵩の女性で、派手ではないピンク色の、エプロンというよりも割烹着といいたくなる服をつけており、さいしょは立った状態から腰を曲げて草に手を伸ばしていたが、そのあとしゃがみこんで背を丸めながら器具をつかって本格的に掘っていた。しだいに下校中の小学生がたくさんあらわれる。なかに六人の、赤いランドセルの女子がおそらくひとりだけだったとおもうが、二年か三年だろうからだのちいさな一団があって、前方にあらわれたかれらはあるくあいだに前後左右のならびを自由に入れ替えて色がうごめくが、だんだんちかくなると聞こえた会話に「人間の賞味期限」というワードがふくまれており、おいおい、なかなか残酷で辛辣なことばをつかうなとひそかにおもった。いったいなにをしたというのか同級生のひとりについて厳しく糾弾しているらしく、数人がゴミだゴミだと言い合っており、あいつ一年のときからゴミ、いや幼稚園からゴミ、生まれたときからゴミだ、と非難が倍がけ的にエスカレートして重ねられていた。
 いつもどおり(……)に寄って小用。ちがう。この日は休みだったのだ。だから寄っていない。そのまえを過ぎてみちを行くとちゅう、ふりむくと横に男子高校生がひとりいて、振り向いたのは車の気配をみただけだったのだが高校生はじぶんに目をむけられたとおもったような雰囲気をかもした。それはおそらく若い男特有の(女性にもあるのかもしれないが)同性や他人の目をうかがってやや対立的にとらえる自意識の産物だろう。なかなかかっこうのよい男子で、なにがかっこうよいといって髪型で、うしろにひとつゆわえてさきをみだしたいってみればパイナップル的な髪型であり、まあEXILEとかああいう系のグループにいそうなかんじでそうかんがえるとオラオラしたおもむきが出てきてなんか嫌だが、しかしこの男子においてはそれがラフに決まっていてなかなかかっこうよくかんじられ、だがそのすぐあとでかれは黒のニット帽をかぶっていた。こちらの視線を気にしたのか? とおもったが、それはこんどはこちらの自意識過剰、気にしすぎというものだろう。かれは前方をどんどん行って距離をひろげながら、なんどかうしろをふりかえっていたが、それもこちらを気にしたのかはわからない。いっぽうでニット帽はいちどかぶられたあとにまたすぐはずされ、さらにまたすぐかぶっており、またとちゅうからは制服の上着を脱いで着崩したワイシャツすがたになってもいた。
 職場について勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 帰宅後の夜はこともなし。日記を書きたいところがやはりながくそとにいてはたらきもしたので、入浴をすませて帰ってくると疲労がぬぐえず、休んでいるうちに意識をうしなっていた。おそらく二時ごろ。気づくと五時だったので消灯して就寝。

2022/5/15, Sun.

 シリアのバスラでみた円形劇場でローマ人たちは遊興に耽ったであろう。けれどこのバールベックでは沈みゆく太陽、黄金の髪をなびかせて朱の空に隠れゆく日輪そのものを神とする古代信仰の儀式がおごそかに行なわれていたのだ。巫女たちの姿はこの小アジアの平野を古代の静けさでみたしていたことだろう。ところが何一つ変るものもなく永遠の支配とみえたものの底に、歴史はゆっくりとめぐっていたのであった。多数の彫像が壁をうめつくしていた内陣が、テオドシウス帝の命令によってバシリカに改装された時、古代世界が終熄をむかえたことをどれだけの人々が明確に意識したであろうか。星々に公転 [レボリューション] があるように歴史にも公転が存在するのではないか。東方の一植民地に生まれたクォ・ヴァディスの祈りの声がキャピトールにまで猖獗をきわめた時、ローマ帝国はかつて知りえたもっとも根源的な革命に遭遇したのであった。こうしたことを考えると、文明の興亡の背後にその(end148)動力としてある超越的な何者かへの崇拝があるのではないかと想像されるのである。マックス・ウェーバーのようにローマ帝国滅亡の原因を一種の傭兵制度であったオイコス制に求めることも可能であろう。ただ文明建設への莫大なエネルギーを生みだしてゆくのは一種の信仰以外の何物でもないであろう。かつて自分たちが神に選ばれた民族だと信じなかった文明建設者がいたであろうか。文明の勃興期における情熱と内面の充実は、前進のエネルギーを飢えからと同時にそうしたファナティックな情念から汲んだにちがいないのである。それはあたかも人間がふとかいまみた聖なるものへ一歩でも近づこうとするかのようである。そしてこれとは反対に信奉するものの原理が現実によって裏切られ、信じることがただちに偽善に通じるようになった時、文明は内部から解体してゆくのではないだろうか。樹液を汲み上げえないほど高くなった木が崩れてゆくように。私は何か眩暈のようなものを覚えていた。こうした歴史のあつみは個人の魂に生滅する喜怒哀楽をとるにたらないものと思わせてしまうからだ。はじめから勝負は決まっているようにさえ見える。たった一個人の人生で出会う悲しみ、喜びなどといった感情は、私の足が意識することもなく踏みつぶす蟻の命ほどにも小さなものであろう。だが不思議にも歴史をつらぬいてひびいてくるのは詩人の歌である。歴史からみればとるに足らぬ個人の命は、だからこそ丁重に尊ばねばならないのだ。芸術家の天職はまさにそこにある。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、148~149; 「Ⅱ ベイルート夜話」)



  • 「英語」: 401 - 415
  • 「読みかえし」: 762 - 775


 一〇時二〇分に起床。それいぜんにもいちどか二度、さめたおぼえはある。さいしょにさめたときには布団のしたでからだが汗をかいており、けっこう暑かった。ゆめみ。ミスチルのライブでギターを弾くもの。ドラゴンボールの天下一武闘会のような四角い舞台上で演奏しており、四囲は舞台のしたを観客が大勢埋め尽くしている。いっしょに演じているのはボーカルの桜井とドラムのひとだけで、ベースとギターはおらず、じぶんは代役だったのかもしれない。しかしさいきんのミスチルの曲など知りはしないし、コード進行すらわからないからちっとも弾けず、バッキングをするのをあきらめてボーカルのメロディにあわせててきとうに単音フレーズを添えるかたちでお茶を濁す
 ベッドからおりて立ち上がり、ティッシュを鼻につっこんで掃除しながらデスクのまえでふりかえると、天気は白い曇りなのだがシーツのうえに四角くチップ状にちいさな日なたがいくつかならんで生まれていて、それはレースカーテンの下端の波打ちのすきまからはいってきてやどったものである。トイレに行って小便をしてきてから書見。クロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』。270くらいまで行き、そろそろ終盤。いままでいじょうに時空の混濁がはげしくというかこまかくなり、第三部からは語りのとちゅうで明確なしるしや舗装もなしにいきなりふっと飛ぶこともおおかったのだが、ひとことだけべつの時空を参照してすぐもどるみたいなこともはじまって、それは走馬灯でもないが記憶が混線的にいりみだれてとけあっているようにも読める。そこでポイントとなっているのが代名詞で、「彼」もしくは「彼女」が媒介となっていることがおおく、ある時空のある「彼」や「彼女」を指して語っていたのが、いつのまにかべつの「彼」「彼女」にうつっているというやりかたがおりおりみられる。それはまたテーマ的にも、人物や人間関係のあいだに反復や類似がもうけられているためにやりやすくなっており(ド・レシャック大尉/コリンヌ/イグレジア - 大尉の先祖/その妻/召使いという不倫の男女関係がもっとも中心的な反復で、そこに村のびっこの男/女性/助役がたしょうからんでくる)、だからこの「彼」「彼女」は媒介となる転換のための蝶番であると同時に、さまざまな人物がそれをつうじて(あるいはそこにおいて)参照的に多重化させられる(かもしれない)かさなりの場でもある。そういう技法をもちいつつつらつらとかたられるのはやはり偏執狂的なまでの具体性の連鎖であり、ひじょうに肉体的かつ比喩にあふれたセックスの描写など圧巻で、じぶんとあいて(たぶんコリンヌだとおもうのだが)のからだの位置関係、おれのあたまのうえに彼女の足が山のようにおおきく影をえがいておれの頬にあたっている反対側の脚は太ももの付け根から鳶色になっていて、みたいな、位置関係や自他のからだの股間まわりをやたらこまかくえがいてみせる執拗な即物性をはらみつつ、挿入して腰をうごかして果てるといういちれんのながれが例の句読点なしのマシンガン的文体でひたすらつらねられ、なおかつその前後やとちゅうにべつの時空が召喚されて混ざったり枠取ったりするわけで、これはすごい。おもしろい。
 本を読んでいるうちにきょうは瞑想を待たずに便意がきざしてきたので一一時半くらいまで読んだところでトイレに行ったのだが、なぜかわからないが便は硬く、なかなかながくて苦労なたたかいとなった。腹が張っているわりに尻のなかのものが硬いなというのは容易にみてとられて、それでも腹まわりを揉んでたしょう出てくるところまではとくに問題なかったが、それからがけっこうながく、ケツの穴にさしかかりつつとちゅうで停まっているものが杭をすっぽりぶっ挿したような硬さの圧力で、ひきつづき腹を揉んでみたり、息をゆっくり吐きながらちからをこめてみたり、するとだんだんナメクジのような遅さながらじわじわと肛門を通過していくのがかんじとれるのだが、便秘ではないけれどこんなに便が硬いのもひさしぶりだなとおもいつつ、鬱症状時代にも薬の副作用で便秘になってめちゃくちゃ難儀したことがあったなとおもいだした。アモキサンというやつだ。二〇一八年の夏のことである。とうじのじぶんは希死念慮がきわまっていたので、けっこういっぺんに量をもらっていたこの薬をつかわずにためておき、オーバードーズして自殺できないかと調べたことがあったが、かなりの量が必要そうだったし、じっさいにそうしながらたしか数日くらいかけて苦しんで死んだ自殺者の例が出てきたので、やめようとおもったのだった。そういうことをおもいだしつつ大便の杭とたたかい、起き抜けだしあまりちからをいれすぎて意識がとおくならないようにと注意をしつつ深呼吸をつづけたりとめたりして、なんとか押し出すようにしぼりだすようにして排出することができた。ケツがすこし痛い。それで穴を拭いてみずをながして洗面台でみずを飲んでもどってくると、瞑想をしようとおもっていたのだがケツがまだすこしひりひりしている状態ですわるのもよくないとおもったので、さきにデスクのまえに立ってコンピューターでNotionを用意し、それから枕のうえにすわった。一一時五二分。一二時二三分まで。やはりじぶんのからだ、肌の感覚を注視するというか精査するというか、かんじる時間をとるのは大事だなとおもった。瞑想というのは世界をむさぼるというか、むさぼるというと語がつよすぎるが、世界を全身で浴びるみたいなところがあるなともおもった。そこでだいいちの受容体となるのは肌である。窓をあけていても肌寒さはなく、ながれまで行かずとも大気の気配が、鼻のまえに指を立てながらのごとくすーっとしずかにはいりこんでくる涼しさで、そとでは回遊する風が草木にさわって切れ目なくゆったりと持続するSのおとを生んでながし、それはほとんど弱い雨のようだし、巨大な透明の蛇が草木のみならず空間を茂みとしながらしゅるしゅると這ってわたっていくようにもきこえる。鳥の声は無数に散っている。そのそれぞれの声音はかたちとして、また上下の運動や、漠然とした線や軌跡として、図形未満のあいまいな、観念そのものというかんじの無定形な幾何的断片としてまなうらにうつり、それらがさらに位置関係におうじて空間的に配置され、そのように聴覚は意識においてかたちと場所の分布図に変換されるので、鳥たちの声をきいているときその声をきいているのか、それともじぶんの脳裏にえがかれた表象をみているのか、区別がつかない。
 上階に行き、ジャージにきがえて食事。炒めものや天麩羅など、きのうのあまりをおかずに米。そして大根の味噌汁。新聞の一面は沖縄の本土復帰から五〇年との報。午後二時から沖縄と東京の二箇所で式典がおこなわれるとあった。同時に二箇所で式典がなされるのは復帰時以来はじめてらしい。各ページを瞥見しつつものを食べ、玄関で食っていた父親のぶんの食器がながしにあったのでそれもいっしょに洗ってかたづけると、風呂場へ。浴槽をこすって洗い、出てくるとポットから白湯を一杯ついで帰室。きのうの記事にすこしだけ書き足してさっさと投稿してしまった。それから「英語」記事と「読みかえし」記事を音読。きょうは後者にわりとやる気が出て多めに読めた。
 そのあとおりおりストレッチをはさんだり白湯をおかわりしにいったりしながらきょうの記述。いちどあがったときにテレビが『開運!なんでも鑑定団』をうつしていて、だれか日本人の画家を紹介していたが画面にうつった海の風景画がすこし印象派っぽくてちょっとよく、だれかなとおもってテレビのほうにちかより右上の文字をみてみると竹久夢二だった。竹久夢二というとたしか大正ロマンとかで美人画がゆうめいなはずだが、そのあとうつった女性画数枚はとくによいとはおもわなかった。その後も日記をつづけ、ここまで記せば四時をまわったところ。小便をしにいったときに二つあるペーパーホルダーのうち片方からトイレットペーパーがなくなっていたのでとりつけておいたのだが、そのとき個室内のちいさな収納をあけるともうペーパーがほぼないようだったし、下階のトイレのそとには洗面台のしたに突起にひっかけるかたちでちいさな紙袋がおかれてありそのなかにトイレットペーパーの芯をいれておくようになっているのだけれど、それがもう満杯であふれて落ちかねんありさまだったので、さきほどまた白湯をついでくるついでに袋を上階にもっていき、玄関の戸棚のまえでひとつずつ(横方向に、つまりほそながくなるように)たたんでつぶしながら雑紙用の袋に始末し、そのあと洗面所の脱いだ衣服をいれる籠のなかにあるペーパーを開封して三つもってかえり、トイレの収納にいれておくともどって、母親がたたんだタオルが居間の床のうえに置いてあったのでそれを洗面所にはこび、それから白湯をおかわりしてもどってきた。
 あと、「組み合わせのあだな夢から覚めたなら歌え、歌え、論理の豚よ」という一首をつくった。これで一七〇に達したので、一六一からの一〇首をnoteに投稿しておくことに。


 『フランドルへの道』のつづきを読んだ。本篇を二、三ページだけのこして、五時をこえると上階へ。母親が台所で天麩羅を揚げはじめていた。やってくれる? というので、トイレに行ってからとこたえて用を足してきて、ながしで泡石鹸をつけて手を洗い、あまっていた少量の油で鶏肉を揚げたところらしく油をかえるというので、食器乾燥機の食器類をかたづけた。油を始末したあとにみずを沸騰させたフライパンから湯を捨ててペーパーでぬぐい、開封されたあたらしい油をそそいで加熱。衣はボウルにすでにあり、タケノコがはいっていた。それを二つから四つのあいだで箸につかみ、揚げていく。コンロのまえに立って油のなかでこまかな泡を噴出しつづけるタケノコをみつめているとだんだん全体的に茶色くなっていく。いまどのぶぶんが茶色く変わったとみわけられる瞬間もないのに、目のまえでずっとみているうちにじわじわと、確実に茶色くいろづいていく。タケノコはかなりたくさんあった。揚げたものを取っておく皿も作業をとおしてなんどかつくるようだった。つくるというのは戸棚からとりだしてたたんだキッチンペーパーを敷くということだが。タケノコのあとは山椒の葉、スナップエンドウ、ネギ坊主、さいごにネギやニンジンや鶏肉やショウガなどまざったかき揚げと揚げていった。母親は玄関に行って電話をしたり、居間の椅子やソファについて、楽天のサイトでまえになにか買ったとおもうんだけどわからない、カートにいれたとおもうんだけどどうやればいいのかわからない、などといっていた。父親はこちらが上階にあがった時点ではすでに寝巻き姿でテーブルについてなにかの皮を剝くかなにか、作業をしていたが、じきにソファにうつってタブレットで相撲かスポーツをみつつ、贔屓の力士が負けたのかときおりとつぜんおおきな声をあげていてうるさい。それが終わると炬燵テーブルのうえでなにか書き物をしているようにみえたが、あとで瞥見したところではこれはどうも新聞のクロスワードパズルをやっていたようだ。天麩羅は時間がかかった。ぜんぶで一時間二〇分くらいやっていた。揚げているあいだは開脚してストレッチしたり、なにをするでもなく立ち尽くしてながめたり。ネギボウズまでにしようとおもって、かき揚げやってくれる? と母親が台所に来たさいに言っておいたのだが、いざかき揚げの段にはいるとまあいいかという気になってけっきょくぜんぶやりとおした。洗い物をすませ、そのあとは母親にまかせて下階へ。『フランドルへの道』を読了し、七時をこえて夕食。盆に天麩羅や米や味噌汁や生サラダを乗せてもってきて、(……)さんのブログを読みながら食べた。自明のことだが天麩羅は揚げたそばから食うのがいちばんうまいはずで、この程度でも時間が経ってしまうと電子レンジで熱したところで気休めにすぎず、うまいはうまいがなにかもったいなさがある。食器をはこんで洗ってくると書抜き。レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)。BGMはSøren Kristiansen & Thomas Fonnesbaek『Touch』。デンマークのピアノとベース。デュオでOscar PetersonとNiels Pedersenのレパートリーにいどむと。なかなかよい感触。書抜きに切りをつけると#6の”On Danish Shore”のとちゅうから椅子にすわって目を閉じてきき、”Wheatland”、”There Is No Greater Love”とつづく。ただいざじっときいてみるとなんだか意識がそんなにはっきりせず、あまりよくおとがみえなかった。”There Is No Greater Love”で『Four & More』のそれをおもいだしてききたくなったが、じっさいにきいたのはさいしょの”So What”で、このころにはたしょう意識が晴れていたのでわりとよくきこえ、ここのTony Williamsやっぱりすごいなとおもった。機動力が抜群にたかい。ピアノソロの裏なんかではけっこうシンバルのタイミングをずらしたり、拍子を変えたり、そもそも楽譜的な分節にあわないように打ったりするところがあったとおもうが、それができるのもRon Carterがひたすらに一定のペースでウォーキングしているからで、堅固なフォービートをくずさず保ちながらもかれもピアノのもりあがりにおうじてかなり高音までいったりしていて、終盤では三者が一体というとちがうのだけれど、それぞれにやることをやって印象的な場面もあった。
 九時をまわって入浴へ。束子でからだをたくさんこする。冷水シャワーも。出てくると母親は台所で洗い物など。炬燵テーブルでは酒を飲んだ父親が赤い顔でおおきく腕をうごかしながら卓上を拭いている。白湯をもって帰室し、日記を書こうとしたが父親が上階で母親になにか言ったりひとりごとでわめいたりぶつぶついったりしているのがきこえてうるさいので、イヤフォンで耳をふさいだ。『Four & More』。ここまで書くと一〇時四三分。


 そのあとは書抜き。レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)。Oded Tzur『Isabela』というECMの新譜をながしてみたが、これもけっこうよかった。このひとはテナーで、ピアノNitai Hershkovits、ベースPetros Klampanis、ドラムJohnathan Blake。ベースのみ初見のなまえ。さいごの曲で、おなじくECMから出ているFLY『Year of the Snake』の六曲目の”Kingston”をちょっとおもいだした。曲の雰囲気はぜんぜんちがうが、サックスがシーケンス的にすばやく吹きつのるさまが。
 零時くらいから一時やすみ、そのあとあきらかに胃にわるいが天麩羅と米で夜食をとり、おとといはじめた散文をすこし加筆。寝るまえにホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅠ』(中公クラシックス、二〇〇九年)を読みはじめたが、ねむかったのでいくらも読まないうちに消灯。三時三八分だった。

2022/5/14, Sat.

 こうした日々のなかで、数年にわたった仕事も何とか形になりそうな所まできた頃、どうしても見つからないある十九世紀の精神科医の本があって、思いあまった私はリュフ先生に持っておられぬかと手紙を書いた。そしてもしお持ちならば是非読ませていただきたいとつけ加えた。私のなかには書物に対する古い感覚があって、こうした要求をするのには勇気がいった。けれど、ただちに返事があって、その本は手元にあるからすぐ来るようにと記され、私の杞憂は霧散すると同時に心が躍った。とるものもとりあえず先生の書斎に着くと、親切にも先生は私に机と椅子とをあてがい、目的の本を私の前に置いて下さった。その時、私の心は感動で震えていた。ほとんど嬉しさで泣きたいほどであった。それは久しく捜し求めていた書物が今眼前にあるということをこえて、真の師と呼ばれるものの偉大さであり、人の心がそれほど無償に美しくなれるものであることに感動していたのだった。人の心がある場合には涯しもなく知性をもつがゆえに悪魔的になりうるのとは反対に、無限に高貴にもなりうるということを弟子に示すのが、魂の聖なる火を手渡してゆく師の姿なのではあるまいか。……私は書斎の窓に夕暮が落ちてくるまで懸命にページをくりノートをとった。精神の炉が白熱してゆき、もはや何物も眼中になく、古びた紙を開いていったのだが、その時、私はふと、ごく小さなそして人(end136)の知らない世界であろうと、一つの信念に身を捧げてゆく人々の深い歓喜がほんのわずかでも分ったように思ったのだった。そして、こうした精神の熱狂と呼んでもさしつかえのない状態こそ、都会という澱んだ空間のなかで私が捜しあぐねていた魂の気象ではなかったろうか。自らに巣食った停滞を破るその魂の状態 [エタ・ダーム] は、自己という牢獄をこえてゆく無償の大きな愛によくにているように思われたのだった。必要なノートをとり終ったころ、手元がやや暗くなっていつものように冬の短い日は暮れようとしていた。
 「おもしろかったかね。」
 いつのまにか背後に立っておられたリュフ先生はそう声をかけ、常日頃のように御茶の席に招いて下さるのであった。そしてひとたび書斎の扉を閉ざすと、東洋の一青年に茶菓子をふるまわれる優しい方であった。青春時代には眼を悪くされ、医者の命で一時は学問を諦められて、高等中学 [リセ] で教鞭をとられていたというような想い出話や、在野にも学者以上に物識りはいるのだ、というような戒めの言葉などを謙虚に語られるのだった。そうした大いなるへりくだりの心は俗につながった野心を赤面させるに充分であり、またそこに先生のカトリック信仰を思わずにいられなかった。実際、優れた個人はどのような時代、風俗、どのような政治体制においても優れたものではないか。多分、先生の静かな日々はいまだ私のものではない、私はまだまだ俗にまみれ、路頭で行きくれる日もあるだろう、(end137)という意識は消しがたくはあったが、広間の肱掛椅子にいる間は愛する人々だけを集めた一種のファランステールの夢を追うことができた。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、136~138; 「Ⅱ ベイルート夜話」)



  • 「英語」: 371 - 400
  • 「読みかえし」: 757 - 761


 寝坊して一一時五〇分の起床。曇天である。きのう降っていた雨はやんでおり、空気は白くてもよどみはすくなく、気温が高くて窓をあけても風の気配がはいってこずに大気は停滞にぬくもっている。水場に行ってくると書見。クロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』。一二時半ごろまで読んで階上へ。ジャージにきがえる。上着はきのう自室で脱いだまま枕の横に置いてあり、ジャージになったのはしただけで上半身は黒の肌着である。洗面所で洗顔やうがいをしたり口をゆすいだりして、食事。きのうの炒めもののあまりやシュウマイなどをおかずに白米を食べる。卵や野菜のはいった醤油風味のスープも。新聞を読もうとしたがテレビで中居正広が司会をつとめる報道番組というかワイドショーがやっており、ウクライナのことをはなしていたのでそちらに邪魔されてあまりうまく読めなかった。中居正広っていまこんなことやっているんだなとおもった。テレビに出演していたのはかれのほか、劇団ひとりみちょぱ古市憲寿とあとは知らないにんげん。専門家らしき男性も遠隔でつながり、こなれた調子で明快にものごとを説明していた。その番組で瞥見したところではプーチンが「自由主義は時代遅れだ」と発言したというのだが、これはいま検索してみるとどうやら過去の発言を紹介していたぶぶんのようで、「プーチン氏「自由主義は廃れた」 FTインタビュー」という日経の記事が出てくる(2019/6/28)。Financial Timesとの単独インタビューでそう言ったらしい。英語で検索すれば、”Putin: Russian president says liberalism 'obsolete’”(2019/7/28)(https://www.bbc.com/news/world-europe-48795764(https://www.bbc.com/news/world-europe-48795764))というBBCの記事も出てくる。そこからかれの発言を引いておくと、以下のようなかんじである。

The Russian president said the ideology that has underpinned Western democracies for decades had "outlived its purpose".

The Russian leader also praised the rise of populism in Europe and America, saying ideas like multiculturalism were "no longer tenable".

     *

"[Liberals] cannot simply dictate anything to anyone," said Mr Putin, who is on his fourth term as president.

He added that liberalism conflicted with "the interests of the overwhelming majority of the population," and took aim at German Chancellor Angela Merkel for allowing large numbers of refugees to settle in Germany.

"This liberal idea presupposes that nothing needs to be done. That migrants can kill, plunder and rape with impunity because their rights as migrants have to be protected."

Mr Putin, 66, also said Russia had "no problems with LGBT persons… but some things do appear excessive to us".

"They claim now that children can play five or six gender roles," he continued.

"Let everyone be happy, we have no problem with that. But this must not be allowed to overshadow the culture, traditions and traditional family values of millions of people making up the core population."

 それで、じぶんがなぜプーチンのこの発言にひっかかったかというと、やっぱりヒトラーといってることおなじなんだよなあ、とおもったからだった。いぜん読んだヒトラーの演説中の発言の記憶が触発されてよみがえったのだ。したの引用の、「民主主義がお話にならないことは誰もが知っている」という一文。まあ前後とか文脈とかはそんなに似てはいないが、「自由主義は時代遅れ」というプーチンの発言と、ヒトラーのこのひとことがじぶんのあたまのなかでひびきかわしたのだった。

 今、ドイツ人はどうすれば救われるか。どうすれば失業を逃れられるか。私は一四年間言い続けてきたが、何度でも繰り返し言おう。経済計画や産業への信用供与や国庫補助金はすべてナンセンスだ。失業から逃れられる方法はふたつしかない。ひとつ目はどんな価格でもいいから、何としても輸出を増やすこと、ふたつ目は大規模な移住政策をとることだ。これ(end50)はドイツ国民の生存圏の拡大を前提条件とする。私が提案するのは二番目の方法だ。五〇年から六〇年で、まったく新しい健全な国家ができあがるだろう。しかしこれらの計画は、必要な前提条件が整ってはじめて実行に移すことができる。前提条件とは国の強化だ。ひとはもはや世界の市民であってはならない。民主主義や平和主義などありえない。民主主義がお話にならないことは誰もが知っている。民主主義は経済においても有害だ。労使協議会は兵士の協議会と同じくらい無意味だ。なぜ民主主義がこの国で可能だなどと考えられるのか。[……]ゆえに政権を掌握し、徹底的に破壊分子の考えを抑圧し、道徳的規準に沿って民衆を教育することがわれわれの仕事だ。反逆を試みる者がいれば、死刑をもって冷酷に罰しなければならない。あらゆる方法でマルクス主義を抑圧することが私の目標だ。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、50~51; 一九三三年二月三日、ヒトラーの演説)

 食事を終えると食器を洗い、そのまま風呂も。終えると白湯をコップについで自室へもどった。コンピューターをスツール椅子のうえに乗せてNotionを準備し、きょうはさいしょに音読するのではなくてきのうの記事をさきに書いて投稿してしまった。それから「英語」と「読みかえし」を音読。BGM(いつもFISHMANS『Oh! Mountain』)をながすので窓を閉めるのだけれど、きょうはそうすると蒸し暑くて肌が火照りにかこまれたようになるくらいの気温である。音読後、きょうのことをここまで記述。プーチンの発言を検索する過程でロシア関連の記事をいくつかみつけ、なかにひとつ、松下隆志・岩手大学准教授「現代ロシア作家に広がる「プーチン支持」 ドストエフスキートルストイの“文学大国”はどこへ」(2022/5/9, Mon.)(https://news.yahoo.co.jp/articles/a7864d00ce6bc72e686c0871ee8d79a7bfec17e1(https://news.yahoo.co.jp/articles/a7864d00ce6bc72e686c0871ee8d79a7bfec17e1))というのがあった。それによれば以下の由。

 このように体制に批判的な作家がいる一方で、逆の立場の作家もいる。サンクトペテルブルグの作家パーヴェル・クルサーノフ氏(61年生まれ)は、ソ連アンダーグラウンド・ロックの世界で活躍した後、文学活動に転じた。作品は徐々に帝国主義的傾向を強め、出世作となった歴史改変小説『天使に噛まれて』(00年)はその反米的な内容が物議を醸した。地元の知識人らと「ペテルブルグの原理主義者」と称するグループを結成し、02年には芸術的な「パフォーマンス」としてプーチン大統領宛にロシアの領土拡張を訴える公開書簡を送った。

 プーチン政権下でロシア文学は急速に保守化したが、今回のウクライナ侵攻との関連でとくに見逃せないのは、若い世代による愛国的な文学の台頭だ。この傾向を代表するザハール・プリレーピン氏(75年生まれ)は、大学で学ぶかたわらオモン(ロシア警察特殊部隊)隊員としてチェチェン紛争(ロシアからの分離独立を目指すチェチェン共和国との紛争)に従軍し、戦場での実体験にもとづいて書いた戦争小説「病理」(04年)でデビューした。

 荒削りながらエネルギッシュで躍動感のある文体を持ち味とし、作中ではしばしばマチズモやヒロイズムが強調される。「帝国」としてのロシアを賛美し、ブログや作中でプーチン大統領をじかに「皇帝」と呼んでいる。

 もっとも、プリレーピン氏は最初からプーチン大統領を支持していたわけではなく、かつては「ナショナル・ボリシェヴィキ党(NBP)」という極右と極左の要素を併せ持つ過激な反体制政党の党員だった。ファシズム的なイデオロギーなどから「ネオナチ」と称されることもあるが、党首エドゥアルド・リモーノフ氏のカリスマ性も手伝ってNBPは愛国的な若者の間で人気を博し、90年代ロシアのサブカルチャーを象徴する現象の一つにもなった。

 客観的に見て、ロシアの現代文学におけるプリレーピン氏の快進撃はめざましいものだ。ヤースナヤ・ポリャーナ賞、ナショナル・ベストセラー賞、ビッグ・ブック賞などロシアの主要な文学賞を相次いで受賞し、11年にはスーパー・ナツベスト賞(過去10年間のナショナル・ベストセラー賞受賞作の中からとくに優れた作品に贈られる賞)に輝いている。また、創作だけでなく評論活動や若手作家のアンソロジー(作品集)の編纂(へんさん)などにも積極的に取り組んでおり、新世代の文学の牽引役として存在感を示した。さらにその旺盛な活動は文学の領域のみに留まらず、俳優やミュージシャンなど多彩な顔を持っており、自身のユーチューブ・チャンネルも開設している(チャンネル登録者数16.5万人)。

 その一方で、公然とスターリンを礼賛するエッセイ(12年)を発表するなど、強い愛国心に裏打ちされた過激な政治的言動はたびたび問題視されてきた。リベラル派との溝は次第に深まり、14年のクリミア危機をきっかけにプーチン支持に転向した。ウクライナ東部のドンバス戦争にも積極的に関与する姿勢を見せ、「ドネツク民共和国」の首長アレクサンドル・ザハルチェンコ氏の顧問となり、同地で自身の大隊を招集した。18年8月にザハルチェンコ氏が暗殺される1カ月前にロシアに帰国したとされるが、その後のユーチューブのインタビューで自分の大隊がいかに多くの敵を殺害したかを自慢げに語り、これまた物議を醸した。

 うえまで書いた時点ではやくも午後四時がちかくなっていた。ベッドにねころがって書見。『フランドルへの道』のつづき。第三部にはいった。扉ページにひかれている題辞がかっこうよい。「肉体のよろこびとはつまり、ひとりの死者のからだをふたりの生者が抱きしめることなのだ。その場合の《死体》とは、しばしの間扼殺され触覚でたしかめることのできる実質と化した時間だ。」(マルコム・ド・シャザル)。この人物がなにものなのか、はじめてみるなまえだしまったく知らなかったのだが、検索するとマダガスカルの詩人だと出てくる。「ジャン・ポーランに見いだされた、叙情的で感覚的な新進の詩人の一人」とコトバンクのページにはあって、ジャン・ポーランというなまえはきいたことがあるのだがどこできいたのかもどういうにんげんなのかもわからない。レジスタンス方面のなまえだった気はするのだが。マルコム・ド・シャザルはマダガスカルの詩人とあるいっぽうでモーリシャス生まれらしく、Wikipediaには、”Except for six years at Louisiana State University, where he received an engineering degree, he spent most of his time in Mauritius where he worked as an agronomist on sugar plantations and later for the Office of Telecommunications.”とあるから、「マダガスカルの詩人」ではないのでは? という気がするのだが。アンドレ・ブルトンが称賛していたらしい。『フランドルへの道』の第三部はおもしろく、これまでも文章が句読点なしでながくつづくマシンガン的な箇所はおりおりにあったけれどそれがまた出てきて、しかもそのとちゅうで場面がいきなり変わって時空がとけあい混線するようなおもむきになっている。読むのに骨は折れるがそんなに読みにくかったりわけがわからなかったりするわけではなく、比喩によるイメージはあるけれど基本的にはあくまで具体的な行為や知覚のたたみかけになっており、観念とか考察のほうに遊離しないのがじぶんとしては好きなポイントで、とりわけこのへんではこれまでによくあったように丸括弧の挿入で修飾を膨張させたりやたらながい形容をつかったりすることがそんなになく、句読点のくぎりは排しながらも比較的みじかい分節で情報をかさねていくやりかたになっており、その具体性のたたみかけによるひたすらな執拗さみたいなところに惹かれる。『族長の秋』をじぶんでもいずれやりたいとむかしからずっと夢想しているが、シモンのこういう句読点なしのマシンガン的文体でそれをやることも不可能ではないかもな、とおもった。ただ、これでもって一定のペースで叙事をやるのはむずかしいだろうし、わざわざこの文体で『族長の秋』のような一定性をたもってもそれはなんか、という気もするので、そのへんはまた問題になるだろうが。ただ、この文体でながたらしい歴史とか神話を語るような長篇小説ができたらおもしろそうな気はする。歴史の声というか、歴史そのものが語っている、みたいなかんじにできたらよさそうなのだが。
 四時四五分から瞑想。ここ数日はストレッチなどでからだがととのっているので瞑想をサボりがちだが、なにもせずじっとする時間もとっていきたい。カラスが数羽、窓外でさわがしくしきりに鳴き交わしており、一羽は距離がちかくて飛んで移動しながら声を降らしているのがわかり、その声はカーカーカーというかんじではなくもっと気のないような、走っているにんげんがハッ、ハッ、ハッ、と一定の間隔で息を吐くような鳴きかたで、はばたきのおとはきこえないけれどまなうらで空中を移動している黒いすがたのイメージが宙を打つ翼のうごきと同期するかのような一定性で、そのほかに三羽がよりとおく、ばしょもわかれて空間の奥から声を発してわたらせて、第一のカラスのはっきりとした実体的な声のしたやそのむこうに交雑するように浮かべていたが、それらの鳴きかたはみんな異なっていた。カラスたちの声が去れば近間のより地上にちかいところでチュンチュンいう小鳥たちの声があちこちに散る。
 五時一〇分まですわってうえへ。台所にはいって手を洗う。蕎麦が食べたいと母親。豚肉があり、自家製らしい新タマネギもシンクのうえに置かれていたのでそれらを炒めることに。汚れているフライパンに水をくんで火にかけ、そのあいだにタマネギを切り、沸騰したら湯を捨ててキッチンペーパーで水気とよごれをぬぐい、ピーマンも切ったあと、油を落としてチューブのニンニクとショウガ。そうして母親がいくらか保存用に(袋型の真空パックのたぐいを裏返すようにはめた手で)取ったのこりの肉をフライパンに投入し、木べらふたつをつかってたしょうちぎりながら熱していって、ピーマンとタマネギもくわえて炒めた。醤油と味醂と料理酒と塩コショウをそれぞれてきとうに入れ、水気がおおいのでほとんど煮るかにしながらあいまに切れた醤油のボトルからラベルやキャップを取ってかたづけるなど。母親は鍋でほうれん草をゆでる。炒めものができると洗い物を始末し、蕎麦をゆでるのにいいおおきさの鍋がないというので収納をみたが、まえあったのをいくらか出してしまったらしくたしかにちょうどよい器具がない。フライパンでやるとなると狭すぎるし、いつもタケノコを長時間湯がくのにつかっている巨大鍋だとおおきすぎるのだが、まあそれでやるしかないだろうと頭上の戸棚の天井ちかくからそれをとりだし、水をそそぎいれてコンロに乗せた。しかし母親が天麩羅をやるというし、まだ時間もはやかったので麺をゆでるのはそのあとでいいだろうとおもって、いったん白湯とともに下階にもどってきてここまで記せば六時四〇分。空腹。


 上階へ行くと父親がすでに蕎麦をゆでて、ゆであがったものをパックやちいさな竹ひごのザルにまるめてわけているところだった。それをもらい、天麩羅や炒めものもあたためて用意し、長方形のおおきな盆に膳をならべて下階へ。(……)さんのブログを読みながら食す。五月二日付。二〇一一年一一月六日からのエピソードがおもしろい。金の神マモンをあがめるアイドル業界のたましいの売りっぷりもやばいし、アイドルのひとも苛烈な競争がたいへんそうだし、Fさんもやばいしで内容が濃すぎる。

NMB48の握手会に参加してきたFさんの土産話が面白かった。せいぜい数百人程度の参加者だろうとFさんは見込んでいたらしいのだけれどじっさいは数十万人いたとかいっていて、数十万人はいくらなんでも大袈裟だろうと思うのだけれど、意外だったのは女性ファンもかなりな割合で会場に来ていたということで、Fさんは事前にCDを3枚だか購入していてそのため三度にわたって握手のための列にならぶことができるとかそういうシステムになっているらしいのだけれど、えげつないことに握手チケット付きのCDが当日の会場でも山のように販売されていたみたいで、そこは金に糸目のつけないFさん、とりあえず8枚購入したとかいっていたのだけれど、それとはまた別にメンバーの写真だかポストカードだかが一枚1000円で販売されているらしいのだけれど中身がランダムという鬼畜仕様というか、つまりいちばんお目当ての女の子の写真が出る確率は1/48とかになってくるわけでそのあたりもほんとえげつないと思うのだけれどとりあえず Fさんはそのお目当ての子をもとめて50枚購入したと言っていた。あとFさんの好きな子は上から二番目だか三番目だかに人気のある子でそのため握手の列もとてもこんでいたらしいのだけれど、そういう列にならびながらふととなりのレーンを見遣るといまひとつ人気のないメンバーなのかひとけはなくガラガラで、その先でぽつねんと立つ女の子のさびしそうな表情を見ているといてもたってもいられなくなるというか、そういうときにかぎってふとその子と目があったりして、するとこちらにむけてうるうる目線を送ってきたり小さく手をふってきたりする、そんなことされればなあ(……)くん! もう行くしかないやんそっち側にさァ! と義侠心あふれるFさんは熱弁していて、たいして興味もなかったメンバーの列へ途中で抜けて握手してそれからまた別のチケットで本命のところにならびなおして、それでその本命の子といざ握手するとなったとき、あなたさっきとなりの子に浮気してたでしょ!? みたいなことを言われたとかなんとか、いやー参ったわ、きっちり見られとると思わんかったからなァ、これからは一筋ですって言うといたけどな、と語るFさんのデレデレっぷりは半端なく、それにしても「浮気」という語を使ってみせるなんてそのメンバーの子もなかなかしたたかだなぁと感心した。

 したの小説案もよくおぼえている。

 エリーにもきっと十七歳のころがあった。当然のことだ。そしてそれはさほど遠くない昔のことだ。わたし自身そのころのエリーと言葉を交わしたことがある。とんでもない! それどころか一年にもわたって衣食住を共にしてきたのだ。にもかかわらず十七歳のエリーがどんな女性だったか、てんで思い出すことができないのはどうしてだろう? それこそサラをつまずかせた最初の疑問だった。疑問というものが答えを前提とすることではじめて成立し、意識化されるものであるということを彼女は知らなかったのだ。
 十二歳のわたしの記憶力はそれほど貧弱なものだったのかしら? いいえ、いいえ、これはきっと記憶力の問題なんかじゃないわ、とサラは考えた。十二歳のわたしと十六歳のわたし――もっとも十六歳のわたしも明日になれば湖の底(トムはまた釣りに出かけているのかしら? ギドとうまくやれているといいけれど! ああ、かわいそうなサールにたいする風当たりがこれ以上強くなりませんように!)に降り積もった仄暗くてやわらかくてちょっぴり生温い泥の褥に沈みこんでしまうんでしょうけど――の違いのせいだわ。四歳のわたしが十二歳のわたしと十六歳のわたしの間にたちふさがってふたりを引き離しているのよ。するとサラの頭の中にはたちまち背格好の異なるふたりのじぶんによって右から左から挟み撃ちされているタチアナの、肩幅よりも少しひろく足を開いて腰を落とし地面を踏みしめながら両手を思い切り左右に突っ張って決死の様相で圧迫に抗っている姿がおぼろげとも鮮明ともつかぬ像と言葉の接点でとりむすばれたイメージがあらわれた。それはいわば草の葉のように繊細で、かぼそく、ときにたやすく踏みにじられ虐げられもする、呆れるほどのよわさに震えどおしの、そしてそのよわさを犠牲にしてするどさを獲得した、村の中でもきっと彼女だけしか持ち合せていないに違いない(けれどひょっとするとロランや、もしかするとサールにだってその萌芽のようなものがあるかもしれない、ええそうよ、いいわ、認めてあげる! わたしたちみんな仲間よ、同族よ!)感受性にのみなせるわざだった。けれど――と、摘み取ったばかりのハーブをすでに入り用な野草の数々によってたっぷりとふくらみ彩られてるバスケットの中にちょっとしたアクセントをつけるように添えながらサラは踏みとどまった――けれど、タチアナは四歳じゃない。もう八歳だわ。そうよ、そうなのよ! まるで背骨を刺しつらぬく氷柱のような当惑だった。結局、わたしだってお姉ちゃんと同じことをしているのだ。目を閉じて思い描くタチアナの姿はきっと四歳なのだ。なんてことだろう! 八歳のタチアナをわたしは心のとても深いところ――そう、それこそやっぱり湖の底に降り積もった仄暗くてやわらかくてちょっぴり生温い泥の褥よ(ギドったら最近はトムにまで口答えするようになってしまった。ふところに異教徒から奪った曲刀さえ忍ばせているって、ロランのあの話は本当かしら? いいえ、ギドにはきっとそんな大それたことなんてできないわ、きっとロランを前に大見得を切ったにすぎないのよ)――に葬ってしまっているのだ! それどころじゃないわ、九歳のタチアナも十歳のタチアナも、なんだったら二十歳のタチアナも三十歳のタチアナも、ひょっとすると七十歳や八十歳のきっといまよりずっと落ち着いて率直で素直で穏和になったおばあさんのタチアナまでも、わたしは先回りして葬ってしまっているのだ! まるで村の長い夜を震えあがらせるおそろしい噂 ――それはゴードンが毛皮を売りにピドンへ出稼ぎに行くたびに持ち帰ってくる土産話のひとつで(村のみんなったらどんな手土産よりもゴードンの物語を楽しみにしているのだ)かつては海上要塞として繁栄した北方の半島に位置する海辺の街でじっさいに起こったのだという聞くもおそろしい残虐な事件についてのものだった(ああ、悪趣味なゴードン! 悪趣味な村の大人たち!)――の中でくりかえし語られるあの身も凍るような殺人鬼にじぶんがなってしまったかのような気がして、サラはおもわず身震いした。けれどその身震いには彼女自身、自覚と無自覚のあわいに留めおくことにしているある種の恣意のようなものがあった。そしてそのような恣意的な開きなおりこそが、陶酔的な自己肯定と卑屈な正当化こそが、おそらくはこれまでにも幾度となくつまずきかけたサラの脚をぎりぎりのところでひょいと支えてみせた、重心の安全を保つあのすばしっこい補助の正体であった。
 葬ってしまったものをただちに蘇生する奇蹟を念じるかのようにサラは指先につまんだものから目をあげるが早いか、遠い山並みのむこうにごろごろと唸る雷雲を従えながらもいまはまだはっきりと晴れ渡っている、きらきらとした光線が暖かくやわらかな織物――まるでミュルスさま(またこんな言い方をしてる、癖になってしまったんだわ!)の華奢で繊細な体をゆったりと覆っていたあの最後の絹織物みたい(ああ、かわいそうなサール! もう三年が経とうしているのにいまだにあんなにうちひしがれたままで!)――のようにふわりと敷きならべられてある丘の緑いちめんに狩人のような目つき――ギドが弓の扱い方をお姉ちゃんに内緒で教えてあげると言ってくれてからもう二月が経つ――をめぐらせた。幼子でも区別のつく紫色の花びらを申し訳程度にちらつかせた背の低いハーブを摘むようにとの言いつけなんてまるでいちども耳にしたことなんてないとばかりに花環を編むのにやっきになっているタチアナの姿――そう、確かに八歳の―― をとらえると、ひとつの役割に特化した者だけがおびることのできるすこやかなひたむきさ、透明な懸命さ、輝く無心のなんでもなさによってその一挙手一投足が日の明るみのもとでも見劣りすることなくきらめく無数の燐光で彩られている、痛いほどの貴さをたちまち認めることになった。それはまだいかなる習慣にも規則にも惰性にも傾いてはいない平行な注意力の、その都度その都度の移ろいに背をゆだねて漂うことのできるあの選ばれた一族だけがおのずとにじませることのできる、このうえなく善良で高貴なしるしのようなものであった。あんなふうにたったひとつのちいさな営みに、明日になってしまえばもうきっと忘れてしまうような些細な取り組みにじぶんの全身全霊をそそぎこんだことがわたしにもあったのかしら? あるいはこれからあるのかしら? ちいさな熊のぬいぐるみを背負ったちいさなタチアナにたいしてさえいちいち負い目を感じているじぶんに気がつくと、自嘲にしてはどうにもふてぶてしさに欠ける、どんな家畜も呼び寄せることのできない口笛のような溜息をつかずにはいられなかった。そうだ、いつもこうなのだ。わたしはいつもこんなふうに後ろめたいのだ。でも、どうして? 何にたいして? タチアナはどうして花環を編んでいるのだろう? だれかに贈るつもりなのかしら? 彼女の夢中は贈り物をするよろこびにむけられているの、それともただその手の中でしだいにかたちづくられていく美しさに魅入られているだけ? 八歳のわたしもやっぱりあんなふうにありったけの五感を指先とまなざしに寄せ集めた真剣なようすで花環を編んだものかしら? わからない、でもピブロフのお屋敷――なんて口にするたびにエリーに馬鹿にされたっけ、でも仕方がないじゃない、八歳のちいさなわたしにはたしかにお屋敷のように(そうよ、お屋敷なのよ、エリー!)見えたんだから――の庭園にもリノンと同じ花が咲いていた覚えがあるわ。
 不意にタチアナが手元の花環から目をそらし、あらぬかたに目をむけた。まるで茂みを揺らす気配を敏感に察知して草を食むのをやめて耳をそばだてる鹿のような仕草――なんて魅力的なんだろう!――だった。注視の過剰が対象との完璧な同期を果たし得たかのように、その魅惑に屈してみずからもまた鹿と化し、鹿と化すことで鹿の耳や注意力を獲得したサラの遠くおしひろげられ拡散する聴覚の帯を、雨雲の接近を告げる山鳥の声にも似たせわしなさが横切った。ハーブの群生地からずっと離れたところでなだらかな曲線のまるで春の日の波――そう、これも過ぎ去りしピブロフの日々の数少ない残像だわ――のように、豊かな夫人の艶かしくにおいたつ下腹のようにだんだんとうねる小高い丘のむこうからこちらにむけて声を弾ませながら(「帰ってきたよ、帰ってきたよ!」)駆けてくるのがロランであることはわざわざまばゆい痛みに細めた遠目を青白い逆光の彼方にさしこんでみせるまでもなく明白であったし――いったいこの村に寝起きする誰があのわんぱくな声を耳にして騎士様の剣の代わりに棒切れをふりまわしながらちょこまかと駆けめぐるロランの姿を思い浮かべずにいられるだろう!――じぶんの姿が目に入るところより遠くへ行っちゃ駄目だとあれほど強く言い聞かせたのにもかかわらずその忠告を簡単に破り姿をくらませていたことにたいする腹立たしさもあって――ほんの一ヶ月ほど前に迷子になって村のみんなの手をわずらわせたばかり(エリーったらわたしのことを子守りもできない女だなんて村のみんなの前で罵ったわ!)だというのに!――サラは近づきつつある声にはあえてそっぽをむいたまま、ついさきほどまで思慮深げに硬直していた手にふたたび血をめぐらせてハーブとバスケットの間を淡々と行き来させた。まるでいまのいままでロランのことなんてちっとも気にもかけていなかったとでもいうように、そしてなにかしらたいへんな知らせ ――おそらくは山道を抜けるゴードンのあの赤いジャケットが目についたのだろう。ああ、わたしたち(ニカったらなんでまたこんなときにかぎって!)の香水はピドンのひとびとに受け入れてもらえたかしら?――をもたらそうと大急ぎでこちらに駆けてくるいまもさほど気にはならないとでもいうような、無情な熱心のとりつくろったひけらかしだった。そんなことをしたところで無意味なのだ、興奮しきっているロランにこんな迂回路が通じているはずなどないのだ。ああ、わたしったらほんの子供相手にどうしてこんなふうな抗議の意志を表明することしかできないのだろう? そのような迂回が、婉曲が、間接性の意思表示が、姉にたいする態度そのままであることにサラ自身気づかないわけがなかったし、それに罪のないゴードン――二週間ぶりの我が家を前にしてきっとうきうきしているに違いない(陽気な秘密主義者ゴードンだなんてまったくもってひどい言い草だわ!)――を巻き添えにしかねないことを考えると、ただでさえ重苦しく息のつまる自身の気弱さや臆病さを呪うような気持ち以上に、いますぐにでもどこかに駆け出してしまいたくなるような羞恥心が炎のように燃えあがり、その炎はたちまち彼女の意固地を氷解させた。バスケットを片手にたちあがったサラを見上げると、あとは環を閉じるだけとなった作りかけの花環を地面に置いて同じようにたちあがったタチアナはたちまち、いまではもう息の切れて叫ぶ声もままならずそれでも懸命にこちらにむけて駆けてくるロラン――この懸命さにはやはりある種の貴さが認められる――にむけて、だあれ? ねえロラン、帰ってきたのはだあれ? と声のかぎり叫んだ。ゴードンだよう、ゴードンが知らないひとといっしょに来たよう! 知らないひと? ギドでもなくて?  ひとすじの細い不安がきざしたのはタチアナも同様らしく、山吹色の洗いざらしてめっきり薄くなってしまったために先月から野良着として着用することに決めた身頃と一体化したスカート――スカートで働くなんて馬鹿げているとエリーがこぼしていたとジュリアンから聞いたのは一昨日のことだ――の軽くしぼられた腰のあたりの布地めがけて噛みつくようにしてのばされ、握りしめられたちいさな手のひらの頼りない五本指の上にサラは重ねて手を添えてやりながら、そう、これこそほかでもないあの四歳のタチアナの不安げな仕草よ、トムのコートの陰に隠れるようにぴたりとよりそっていたあのころのタチアナと瓜二つだわ、と考え、幼いじぶんの鏡像を思い浮かべようとしたところで結べども結べどもタチアナの姿ばかりが像をなした先ほどの失態はきっとじぶんの姿をまざまざと目にする機会の少なさだけが原因などではないのだ、そうなのだ、わたしったらもっと積極的に、こういってよかったら暴力的にタチアナの立ち姿を横取りしているのだわ、彼女を彼女からじぶんへとひきつけているんだわ、わたしたちそんなふうになんでもかんでもじぶんにひきつけちゃうのかしら? 心の奥底でじぶんより弱いと見なしているひとたちのことをそうやってじぶんの分身にしちゃうのかしら? そう、だからわたしにはエリーの十七歳がわからない――十七歳のエリーはこんなふうな日だまりを遠慮がちに低く流れる風に眠気を誘われたことがあったかしら? まるで牧師様に頭を撫でられた気恥ずかしさにびっくりしておもわず付き添い人の背中にまわりこんで身を隠してしまった子供みたいに野草のこうべが吹き抜けるもののあるたびごとに身を低くそわそわしている(つまり牧師様はジュリアン、身を隠す子供はタチアナってことね)――のよ、エリーのことをじぶんじゃ太刀打ちできない強いひとだと思い込んで、負けを認めてしまって、頭があがらないなんて独り合点してしまって、
(未完)

 このころの記事はブログを発見してそんなに経たないころにさかのぼって読んだのだとおもうが、とうじのじぶんはまだ読み書きをはじめてまもなかったわけで、孟宗竹と猿の断片もそうだけど、こんなのをひょいひょいボツにできるくらいふつうにスラスラ書けるの? 想像力ありすぎじゃない? とビビっていた記憶がある。うえのやつはたしかロマサガ3をもとにしていたはずで、ウルフとマンスフィールドをやろうとしたらクロード・シモンがまざった畸形児みたいになっちまった、みたいなことをとうじ(……)さんは書いていたような気がする。「それはまだいかなる習慣にも規則にも惰性にも傾いてはいない平行な注意力の、その都度その都度の移ろいに背をゆだねて漂うことのできるあの選ばれた一族だけがおのずとにじませることのできる、このうえなく善良で高貴なしるしのようなものであった」というぶぶんは、『灯台へ』の冒頭の記述にもとづいたものだろう(「あの選ばれた一族」)。「それはいわば草の葉のように繊細で、かぼそく、ときにたやすく踏みにじられ虐げられもする、呆れるほどのよわさに震えどおしの、そしてそのよわさを犠牲にしてするどさを獲得した、村の中でもきっと彼女だけしか持ち合せていないに違いない((……))感受性にのみなせるわざだった」ももしかしたらそうかもしれない。
 「Hくんからほかの住人の残飯食べるのはマジでやめてくださいと言われたときにふと思いついたのだけれど、「残飯」といわずに「エコフード」といえばすべての問題が解決するような気がする」にはクソ笑う。
 しかし(……)さんが執筆のためにこうして過去の日記を順次読みかえしているのをみると、じぶんもじぶんの日記を読みかえしてむかしなにがあったのかなというのを知りたくなってくる。おもしろくないわけがない。一年前の日記すら読みかえさなくなってひさしいが、そもそも日記って書いているだけではあまり意味ないというか、読みかえしてなんぼのものだとおもうのだが? ほんとうは検閲もすすめなければならないし。とりあえず一年前の記事を読みかえす習慣を再確立させたいのだけれど、どうもやる気にならない。


 きょうは暑い。夏の夜のようになってきている。


 レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)の書抜き。西岡恭蔵とカリブの嵐『77.9.9 京都「磔磔」』をながす。

 (……)このテーマで書くことの大きな喜びのひとつは、歩くことが限られた専門家ではなく無数のアマチュアの領分であることだ。誰もが歩き、驚くほど多くの人が歩くとはなにか考えをめぐらせ、その歴史はあらゆる分野に広がっている。だから知り合いの誰もがエピソードや情報の源となり、探究の見通しを立てる助けとなってくれた。歩行の歴史はすべての人の歴史なのだ。(……)
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、7; 「謝辞」)

 「歩くことは意志のある行為でありながら、呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い」(13)。感動する。「作業と休息、存在と行為の繊細なバランスの上で思索と経験を生み、そのうちどこかへ到達する肉体的な労働である」。「歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながらも、それらに煩わされることから解放される。自らの思惟に埋没し切ることなく考えることを許される」(14)。「ただし車や船や飛行機によって移動するのではなく、それ自体が移ろってゆく身体の運動によってしかある種の放浪への憧れは慰めることができない。運動とともに、心になにかをひらめかせるように過ぎ去ってゆく光景。それが歩行に多義性と無限の豊かさを与える。そして手段且つ目的であるもの、旅と目的地の両方に歩くことをかえてゆく」(15)。


 書抜きちゅうにまたちょっとギターが弾きたくなったので切りのよいところまで打つと隣室に行って楽器をいじった。八時四五分ごろ。きのうよりはおもしろかった。九時一五分くらいになるときりあげて入浴へ。湯のなかではきのう書いた散文をこのあとどういう展開にすればいいのかなあということをすこしかんがえた。洗い場に立って束子で腹のあたりを中心にからだのあちこちをこするのだけれど、そうしながら足もとをみおろすと、紙の一、二枚分をはがしたくらいのほんのわずかなくぼみが縦横に走っている床が水気にまみれており、その水はあるところではくぼみを埋め、あるところでは埋めず、また通路のようなくぼみからはみだしてあるところではひろくつながり、あるところではつながらずにあいだに欠如をつくっているのだが、それらの水がおりなす不規則なかたちはアメーバ状のジグソーパズルのようにみえた。洗面器のなかではこちらのうごきにおうじて微小な水の粒が散りかかるのだろう、湯が表面をたえずマントのようにたわませている。
 出て白湯をもってもどってくると歯を磨きつつ(……)さんのブログをまたすこしだけ読んだ。したのエピソード、おもしろすぎる。へんなひとのおもしろエピソードおおすぎでしょ。京都って魔界だったのか?

借りるものを借りてさて帰ろうかと駐輪場からケッタを出しかけたところでじぶんのケッタのとなりに駐車してある大型バイクの持ち主とおぼしきおっさんというかおじいさんというか実年齢はおじいさんなのだけれど心意気はおっさんみたいなアレであるのでその心意気を買って以下おっさんと表記することにするけれどそのおっさんがなにやら話しかけてきて、すみませんすみませんと言うものだからてっきりこっちのケッタを出すのに相手のバイクがちょっと妨げになっているのでそれを気にしてわざわざ一声かけてくれてんのかなと思ってふりむくと、あのあなたね、ミュージック、ミュージックに興味ない? と唐突にたずねられた。ああこれはもう絶対おもしろいことになるわとその時点で確信したので長期戦になるのを覚悟して、え、ミュージックって音楽ってことですか、と興味津々に問い直すと、そう音楽、あなた音楽やらない、というのはね、わたしね、曲をね、音楽をね、二曲、二曲いまあるんだけれど、あなたそれやってみない、ギターとか弾いてね、と言うので、え、ていうかなんでそもそも僕なんすか、と重ねて問うと、いや、もう一目見たときにね、このひとだと思ったんですわ、わかるから、もうミュージックやってるでしょ、わかるから、とアパートの下見におとずれたときの大家さんみたいなことを言う。ああ、バンドメンバー募集みたいなことですか、と答えると、いや、バンドとかじゃないんですわ、お兄さんにはね、歌ってくれないかなって、うんお兄さんにね、それでまあわたしはプロデューサーっていうかたちでね、と思ったんだけど、もちろん著作権はこっち持ちなんだけどね、どうかなと思って、そういうふうに考えてるんやけどね、と続けて、どんな音楽なんですか、と問えば、演歌、演歌やね、演歌、と即答し、ちなみにね、曲はね、いまのところ二曲、(ダウンジャケットのポケットに収納されているとおぼしきレコーダーか携帯電話を指し示しながら)これ、これ二曲までやったらふきこめるからね、ひとつはね、「明日は明日の風が吹く」って曲でね、まあこういう感じなんやけど、(※以下、90秒ほど歌唱)、これはね、むかしね、友人がなにかの拍子に口にした言葉でね、このあいだ酒飲んでたときにふと思い出して、それで広辞苑を調べてみたら、ほら、のってる、のってるからそこに、それでこれはもうええ言葉やとね、酒飲みながらね、紙に書いてみたらね、そしたらねあなた、続けてすらすらとね、次の一行が出てきますがなほんと、それで気ィついたらできてますやろ詩が、それでもうこれは歌になるわと、そう思ったんですわ、それでもうひとつ、もう一曲は「薔薇の花」というのでね、(※以下、60秒ほど歌唱。Bメロの歌詞を忘れるというトラブルも!)これはね、四ヶ月前にできた曲でね、きっかけは(※以下、友人宅に遊びにいった際に庭に咲いていた薔薇を刈り取ってくれと頼まれて刈り取ったはいいもののあまりの美しさに捨てられなかったという最近のエピソードが、友人とその奥さん(この奥さんはおっさんのことをとても嫌っているらしい)の声色をそれぞれ小器用に使い分けたうえでたっぷりのジェスチャーとともに演じられる)でね、まあそういう感じですわ、とここでようやくおさまる。いやもうじぶんで歌ったらいいんじゃないですか、そのほうがいいっすよ、歌だって上手じゃないっすか、と言うと、気恥ずかしそうに笑いながら、いやワシこんな指しとるから、とだらんとさげていた左手をつかのまパッと開けてみせて、はっきりは見えなかったのだけれど指が一本緑色っぽくなっていてそのときは痣か何かかなと思ったのだけれどとにかく、こんなんじゃね、(ギター)弾けんから、と続けて、それにね、ワシもう60、60で歌うってのはちょっとな、いまはほれ、大学生とかな、月にいっぺんくらいコンサートできるって言うから、知り合いがね、そやから大学生と仲良くなってね、その子に歌わせればええって、ワシは曲とね、あと詩、詩だけ書いてそれを提供する、それやからこうやってね、ワシ大学生の知り合いとかおらんからね、いやひとりもおらんことないですよ、おるにはおるけど、ほれ、こっちのほう(と言いながらギターを弾く仕草をしてみせる)できる大学生ってのがね、残念ながらおらんもんで、それでお兄さんどうかなって思ってね、お兄さん大学生? と問うので、や、もう卒業してフリーターっす、と答えると、そう、まあそんな感じでね、こうやってね、声をかけてるんやけどね、若い子のほうが、ほら、テレビにも出れるし、と言うので、なんでテレビ出たいんすか、と果敢につっこんでみると、とたんに顔色が変わって、そりゃワシ、テレビに出れると思ってるから! それくらいええ曲作ってるから! とよくわからんタイミングで若干キレ気味に言うので、ていうかね、そもそもぼくがあなたの立場やったらそこまでええ曲作っときながらひとに歌わすなんてこと絶対しないっすけどね、ほんなもんじぶんで歌いますよ、だいたいなんすかそのテレビどうのこうのって、若いの使わな駄目みたいなこと言うたの誰か知りませんけど、なんすかそれ、そいつ、ちょけとんすかねそいつ、ほんなもんいちいち耳貸しとってどうすんですか、ほんなもん知ったこっちゃないってくらいの心意気ないと駄目ですよそもそも、だいたい指がどうのとか年齢がどうのってなに逃げ腰になっとんすか、芸術ってのはアレっしょ、おもくそフェアな舞台でしょほんなん、年齢もクソもないっすよ、あのーあれあれ、ジャンゴ・ラインハルトみたいなひとやっておるんすから、ほんなもん関係ないっすわ、いっさい関係ない、しょうもない連中の言うことなんて耳貸す必要ないですよそんなの、クソ喰らえですよ、なにおとなしく言うこと聞いとんすか、ぼくやったら唾吐きかけたりますよほんと、ねえ、もっと突っ張ってくださいよ、だいたいテレビ出とんがええもんとは限らんでしょそもそも、いやほんとぼくの好きなミュージシャンなんてだれもテレビ出とりませんよ、と適当にホラを吹いてみると、いや! いや! いや、どうもすんまへん! あなたの言うとおり! やっぱりあなたはね、ほかと違う! 芸術家やと思うてたんですわ! そりゃ見たらわかる、もう一目見たらそれくらいのこと、ワシらくらいの年齢になるとね、わかるもんですから! 一目見たらわかる! だから声かけさせてもろたんですわ! とあって、とりあえずこの調子で今日交わした会話を書きつづけるとほんと原稿用紙50枚とかになりかねないので以下は端折って書くけれど、そのおっさんの本職は彫り師だった。脛を見せてもらったけれどびっしり蓮の花かなんかが咲いていた。指の痣と見えたのはたぶん彫り物で、あとたぶん小指がなかった。突っ込んでみると、いや不義理をしてもうてね、若いころはほんと酒癖が悪くてね、と照れていた(やくざもんにもっと突っ張れとか説教してしまったじぶんがはずかCが後の祭り!)。高校一年のときだか英語の授業中に弁当を食べていたところ教師に注意されたので腹がたって手近にあった何かをぶんなげてそれで退学になって、育ての親にもうこれ以上の面倒は見れんから働きなさいと親族の経営する会社を紹介されてそこで電気工事かなにかの仕事を数年して、徹夜で工事が当り前だったとか関西電力の偉いさんに袖の下がどうのとか面白いエピソードもいくつかあったのだけれどとにかく色々あって親方相手にぶちきれて喧嘩ふっかけたところボコボコにされて(ここで大笑いすると、いや、でもその後数年してからもう一回挑んだからね、出てこーい言うても出てこやへんもんやから窓ガラスぜんぶ蹴破ってね、それでそのときはまあ、勝ちましたわ、おかげで留置所で一泊しましたけど、でもね、そっからまた十数年経ってからね、ワシ酒おごりましたわ、わざわざ神戸まで会いにいってね、筋だけは通しましたわ、と激烈な反論があった)、それでそのあとはなんだったけな、友人五人で同居生活してたこやき屋経営したりキャバレーのボーイをしたり、でもどんな仕事も続かなくてどうしようというときに銭湯でやくざを見かけて、その刺青を目にしたときにじぶんにはこれしかないと思って彫り師の門を叩いたとかなんとか、結局師匠のもとで修行をしていた期間は一年にも満たず(「不義理をしてもうてね、不義理を!」)あとは独学だということだった。それでだいたい面白い話も聞かせてもらったし小一時間も屋外で突っ立ったままでいたものだからいい加減冷えてきたしそろそろお開きかなと思っていると、最後にええこと、ええこと教えましょか、最後にええこと、ええことでっせ、とどんだけ期待させんだよみたいな前フリをするので、ええぜひ、と応じると、あのね、と秘密を打ち明ける口調で言いながらほとんどキスができるくらいのパーソナルスペースガン無視な距離にまでこちらに接近したうえで、あのね、おてんとさんはみんな見てる、みんな見てるで、と口にしたあげくほとんど神々しいくらい満面のドヤ顔をしてみせて、で、なんかこのあといきなり守護神の話みたいなスピリチュアルな方向に話が急展開し、神社における二礼二拍手一礼の作法だとか神棚の作り方とか塩の盛り方とかそういう諸々をレクチャーされたのだけれどその前にアレだ、たしかじぶんが寅年だみたいなことを言い出して、寅年の守護神は文殊菩薩なのだけれどその文殊菩薩広辞苑で調べてみたところ釈迦のガーディアン(大意)みたいなことが書いてあり、ところで寅年の前後にあたる子年と丑年、それに卯年と辰年はそれぞれのペアにつきひとりずつ別のなんとか菩薩が守護神でそれらをやっぱり広辞苑で調べてみたところ、どちらの菩薩も「文殊菩薩とともに」釈迦を守るとかなんとかそういう書き方がしてあったものだから文殊菩薩やべえじゃん、超えらいさんじゃんとなって、それでじぶんの周囲の家族や友人知人の干支を調べてみるとなんとみんながみんな子年か丑年か卯年か辰年だったのだ! みたいな、だいたいそんなふうな話がくりひろげられたのだけれどこちらとしてはただおれの干支をきいてくれるなとその一念ばかりで、というのもこちらの干支はしょせんは文殊菩薩の脇役にすぎないなんとか菩薩を守護神とする丑だからなのだけれど、ま、案の定そこのところをたずねられたので、いやもうあんま言いたくないっすけど見事に丑ですね、と言うと、もう見たことのないようなすっごいしたり顔が出た。あとこれも別れ際だったように思うけれど、右目の下にほくろがあると異性から言い寄られるタイプ(「宮沢りえとかそうでっしゃろ?」)、左目の下にあると逆に言い寄るタイプらしいのだけれど、ワシは言い寄るほうなんやけどね、もういい加減言い寄られたい、言い寄られたいからね、ほれ、ここにほくろあるやろ、これね、ワシじぶんで刺青いれたったんですわ、とか言ってたのがクソ面白かった。効果はどうですか、とたずねてみたところ、さっぱりや、と歯切れの良い返事があったのがまた可笑しくてふたりしてゲラゲラ笑い、ほんならぼくもまあさびしなってきたらじぶんでペンかなんか突き刺してほくろ作りますわ、と言うと、とたんにきびしい顔つきになり、いやあかん、そんな簡単にするもんやないで、ワシなんかもうこの年やからアレやけど、ほんと一変するから、あんまり簡単にするもんやないで、となぜかいきなりたしなめるような感じになって、その態度というのがいかにもおふざけも軽口いいけどここはきっちり一線画すべき領域だぜ小僧みたいな格好つけたアレだったもんだから、なにいってんだこの煩悩のかたまりが、と思った。それで最後にかたく握手してバイナラした。菩薩さまの名前を口にするときや念じるときは必ず菩薩さまというふうに「さま」まできっちりつけること、呼び捨てもさん付けも駄目だと最後に忠告をくれたのだけれど、当のおっさん、ついさっきまで文殊菩薩文殊菩薩と呼び捨てにしまくりだったし、じぶんの守護神以外の菩薩については完全に名前失念していたりもした。

 そのあとまた書抜きをすることにして、diskunionのジャズ新着ページをみたらCharlie Parkerの復刻とかあったのでParkerをきくかとAmazon Musicで検索し、さいしょに出てきた『Bebop Story Live, Vol. 3, 1952-53』というやつを選んだ。これはどうやら出自のよくわからんコンピレーションみたいなやつのようで、検索しても情報が出てこなかったのだけれどそれをながしてみると、これがものすごくて、おどろかされ、ひさしぶりにぶっ飛ばされた。Charlie Parkerは過去にも、そんなにちゃんとではないし回数もおおくないにしてもきいたことはあるのだけれど、こんなにおどろくことはなかった。びっくりしたので書抜きのあと、さいしょにもどって三曲分じっときいた。このなかにすでにEric Dolphyがいるようにしかきこえないし、John Coltraneの『Giant Steps』にしても、たんにここにもどっただけのようにしかおもえない。音質がひじょうにわるいので二曲目の”52nd Street Theme”なんてピアノがほぼきこえず、(もともとよくあるスタンダードというかんじの進行でもないだろうし)コード感が希薄なのだけれど、へんなはなしそれでアヴァンギャルド系の演奏をきいているようにひびく瞬間すらある。これが一九五二年か……とおもった。おそろしい時代だ。Charlie Parkerは地位を確立したレジェンドとして語られているのでじぶんのおどろきはいまさらなのだけれど、なるほどなあ、たしかにこれは行くところまで行っちまっている、とおもった。こういう演奏法を洗練されたスタイルや技術として大成したというよりは、黎明のあらあらしさをのこしたままで無理やり行き着いてしまったようにもきこえる気がする。たしかにこれ以降のサックス奏者が、このあとでまたあらたにはじめなければならない、そういう奏者なのだと。おそらく、Art TatumBud Powellのあとのピアニストがまたあらたにはじめなければならなかったように。というか晩年のParkerは衰えが顕著だったという評判はよくきいたことがあって、かれは五五年に死んでいるから五二、三年は晩年と言ってよいようにおもうのだけれど、とても衰えているようにはきこえない。これが全盛期じゃないの? と。それにしてもビバップという音楽はじつに愚直で、苛烈で、まるで戦争みたいな音楽ではないかとおもった。これほど苛烈な音楽もないんじゃないか。あまりにもマッチョだ。ハードバップビバップの区別もよくわからんのだが、いちおうジャズ史的には五四年のBlakeyの『A Night At Birdland』がハードバップの嚆矢だとされているはずで、ハードバップといったらじぶんのイメージもあれなのだけれど、しかしそれ以降五〇年代のジャズよりもParkerがここでやっているビバップのほうが苛烈で、ある種純化されているようにきこえる。やばい。
 この音源の出所、もとのデータが知りたいとおもって調べたところ、Milt Jacksonもはいった三曲目の”How High The Moon”とおなじものがYouTubeにあがっていて、その典拠として『CHARLIE PARKER, VOLUME 1 - BALLADS AND BIRDLAND』というのが書かれており、discogsをみてみればその冒頭二曲目が”Ornithology”と”52nd Street Theme”なのでおそらくこれである。五曲目まではたぶんここから引っ張ってきたものだ。録音年月も一九五二年となっているし。さいしょの二曲が九月二〇日で、つぎの三曲が一一月一日。前者のベースはCharles Mingusで、ドラムはBlakeyかな? とおもっていたのだけれど、Phil Brownというひと。ピアノはDuke Jordan。三曲のほうはMilt Jackson、John Lewis、Percy Heath、Kenny Clarkeとやっていて、だからModern Jazz QuartetにParkerが乗ったかたちだ。


 うえまで書き、ベッド上で少々やすみ、夜食になにか食うことに。上階に行くと母親はぐったりとしたようなようすでソファについており、手にはスマートフォンかリモコンをもちながらうごかさず、テレビはよくわからなかったが子どもむけみたいなかぶりものの扮装劇めいたものをうつしており、開脚して上体をひねりながらこれなんなの? ときけば、いや、よくわからないんだけど、タコの一生を追うみたいな、とかえった。食パンと豆腐を食うことに。オーブントースターでパンを焼きつつ豆腐を用意し、また食器乾燥機のなかの皿たちを、もう時間がおそいのでなるべくおとを立てないようにとりだしはこんで棚に整理する。しかし豆腐にかける麺つゆの細長いボトルを冷蔵庫からとりだすさいに、ボトルをひきだすと天麩羅のあまりをキッチンペーパーにつつんで置いてあった真っ白な皿があやまってそれについてきて、冷蔵庫の縁から落ちそうになったものだからあわてて手を伸べたのだけれどふれるだけでもちなおすことにはならず、落としてしまってけっこうおおきなおとが立った。パンにはバターとハムを乗せて、焼けるともって自室へ。(……)さんのブログをまた読む。したにしるされた女子高生のいち場面は『囀りとつまずき』のなかでもこちらがいちばん好きかもしれない断章のそれだ。ヴァルザーの言にまつわっていえば、じぶんは中学校からもれてくる吹奏楽部の練習のおとにかなり魅力をかんじる。あれはいつも、すごくよい。意味ではなくて存在を、そこにものがあり、あったのだということをひたすらにさししめしつづけるということが、小説のひとつのかたちとしてやはりあるべきなのではないか?

中国人の女の子が乗車してきた年寄りに席を譲ろうとして座席から立ち上がったものの肝心の年寄りがその譲歩に気づかず、席を譲った当人もその意思を日本語で伝達することができないらしく仲間の同国人相手にどうしたものかといくらか困惑の体ではにかみ目配せを送っていたバスの一幕が完璧だった。京都駅の待合室ではまだ小学校にも就学していないように見える幼い兄弟ふたりが流行歌らしきものを口ずさんでいた。しずまりかえった室内の空気を尊重するかのように、抑制された、ほとんどつぶやくようにして重ねられる声の、それでもところどころ内側からあふれだすように高まる抑揚や、そのことに気づくが早いかすぐさま誰かに叱られたわけでもなしに声のトーンを落としてみせる健気さなんかがすばらしすぎて、読書どころではなかった。歌声よりも口ずさむ声のほうが好きだ。もう二年か三年前になると思うけれど、いぜん住んでいた家の近所にある交差点で信号待ちをしているとき、そばにいた女子高生三人組のうちのひとりが、なか卯の店内から漏れてくるテーマソングにあわせて鼻歌をうたいだし、それに触発されるようにして残る二人も同様に口ずさみだすと、そこではじめてじぶんが鼻歌をうたっていることに気づいたとでもいうようなちょっとした驚きに目を見張ると同時に、そんななんでもなさ、気のなさ、無自覚な一手が契機となってひとつのうねりをつくりだしはじめた歓びにあらためて顔を輝かせた瞬間を目の当たりにしたことがあって、声はしだいに抑揚を増し、信号が変わるころには三人が三人ちょっとしたふりつけのようなものに身体を揺らしさえしながら歌声と笑い声の半々になった声で合唱していて、その照れくさそうな表情には周囲の目線はたしかに気にはなるけれどでもいまのじぶんたちだったらそれさえも有利な環境や条件に改変してしまうことができるのだという無敵感にみちあふれていて、あんな幸福な一幕ぜったいに忘れることなんてできない。近所を散歩しているときにどこかの家の中からひびいてくるピアノのたどたどしい音色がじぶんをいちばん感動させるのだみたいなことをヴァルザーが書いていたけれど、よくわかる。ただ、それはある種の権威にたいする素朴な反発なんかでもなければ(そういう露骨で単純な反動性みたいなのはむしろじぶんの嫌悪するところである)、「子供(の無垢さ)」の特権化なんかともぜんぜん違うものだ。要するにそこでじぶんが感受しているのは「音楽」ではなく「風景」なんだろう。なんの教訓にもならない、使い道のない風景。でもきっと折りにふれては思い出す。忘れることはきっとないというその確信だけを根拠にかろうじて保たれているもの。『偶景』を書いたバルトは正しい。バルトは小説というものを本当に心の底から愛していたのだと思う。


 その後、河東哲夫「「プーチンはロシアの未来を破壊した」GDPも平均賃金も5倍にした"繁栄"はウクライナ侵攻で終わりを告げた」(2022/5/13)(https://president.jp/articles/-/57074?page=1(https://president.jp/articles/-/57074?page=1))を読み、ベッドにうつって『フランドルへの道』も読み出したが、じきにねむけが差したので三時一五分か二〇分くらいでもう寝ることにした。できればきょうじゅうにシモンを読了したかったのだがしかたない。

 1992年1月2日、ソ連崩壊で全権を掌握したエリツィンが、それまで国が全部決めていたモノの価格を一斉に自由化したからたまらない。パンの値段が1日で2倍になることも珍しくない、ハイパー・インフレとなった。たった2年間でルーブルの対ドル価値は6000分の1に落ち込んだのである。

 当時は僕も、ロシアで誰かを食事に招待した時など、何センチもの厚さの札束をいくつも袋に入れて出かけたものだ。

 街の雰囲気は激変した。ソ連末期、流通を握ったマフィアがインフレを予期してモノを退蔵し、店には文字通り何もなかった。しかし、価格自由化後は街路に粗末なキオスクが林立し、アパートの一階には「商業店」なるものがやたら増えて、西側の安っぽい化粧品や装飾品を並べた棚の向こうに、口紅を分厚いバターのように塗りたくった女店員が座っているようになったのだ。それは何でもありの、暴力とカネが支配する世界。僕も、血だまりに横たわる死体のそばを車で通り過ぎたことがある。

 こんな状況だったが、インテリたちは、「やっと自由と民主主義の社会になった」として改革への期待に燃えていた。自分でベンチャー・ビジネスを始める意欲に燃えた青年も多かった。

 そして混乱も3年ほど経つと、西側の資本がちらほらとスーパーやショッピング・センターを開き始めた。ソ連時代は顧客に微笑むことなどなかった女店員たちがぎこちないスマイルをしてくる。社会主義時代は、客にスマイルするのは気がある時だけだった。

 やがてそのスマイルも自然なものになってきた頃、社会は落ち着いた、というか利権の再配分が終わって、その汚い傷にかさぶたがかぶさったような具合になった。ソ連崩壊は改革にはつながらず、ただの利権の取り合いで終わってしまったのだ。

     *

 1990年代後半、エリツィン国債の大量発行で偽りの繁栄を築く。しかし、1998年5月、インド・パキスタン間で核戦争の危機が高まったことで、高リスクのロシア国債は投げ売りされ、同年8月にはロシア政府は元利支払いを停止、デフォルトを宣言する。ルーブルは4カ月で3分の1以下へと値を下げ、モスクワ市内の高級レストランはがらがらになった。

 その混乱がまだ収まらない1999年12月、エリツィン大統領はプーチンに権力を禅譲プーチン時代となったのである。ルーブルが大幅に減価するところまでは、制裁を食らった後の今のロシアに似ている。後はプーチンが誰かに権力を禅譲すれば、歴史の一サイクルは回ったことになる。

     *

 まだサンクト・ペテルブルクで無名だった1997年、プーチンは博士論文を出した。その題名は、「市場経済形成下における鉱産業の再生・その戦略的方向」。要するに、国の富の基本である石油・資源部門を政府ががっちり押さえ、そこから上がる利益で賢い投資を行っていこうという、ソ連時代のブレジネフを髣髴ほうふつとさせる内容のものである。

 プーチンは大統領になると、この政策を早速実現する。サンクト・ペテルブルク市庁勤務時代からの側近、セーチンを使って、ソ連崩壊でばらばらになっていた石油・ガス部門をほとんど政府の下に集約してしまうのである。ソ連時代と違うのは、外国資本を恐れず活用して、製造業を改革しようとする姿勢、そして民営の中小企業を振興しようとする点である。だからプーチンは2012年、交渉を始めて18年も経っていたロシアのWTO加盟をやり遂げ、OECD加盟を次の目標にすえたのである。

     *

 エリツィンから政権を引き継いだ2000年は、まだソ連崩壊と1998年のデフォルトの傷跡が生々しく、既に言ったように給料遅配、企業間の現物決済=物々交換は収まっていなかった。2000年のGDPはわずか2600億ドル程度しかなかったのである。ところがリーマン・ショック前の2007年にはGDPは1兆3000億ドル、つまり7年で5倍になり、まさに中国を上回る世界史上の一大奇蹟(手品)を成し遂げる。

 平均賃金も2000年から2013年の間に5倍になり、プーチンの支持率を高止まりさせる消費生活は、別天地であるかのように良くなった。きらびやかで広大なショッピング・センターから、都心・郊外のそこここに点在する市場いちば、小型のスーパーまで。所得水準に応じて何でも買える。スマホでタクシーを呼べば数分でやってくる。地図検索もネットでできるから、会合の場所にもすぐたどりつける。電子書籍も普及したし、寿司さえも24時間のデリバリー・サービスがある時代。

 だが、国民は知っていた。これが脆い繁栄であることを。僕はある時、タクシーの運転手に聞いてみた。「プーチン大統領、すごいね。あんた、収入何倍にもなっただろう」と。すると運転手は前を向いたまま、こともなげに答える。

 「まあね。でも石油の値段がこんなに上がれば、誰だってこんなことできるさ」

2022/5/13, Fri.

 先生の書斎は方七メートルほどで、天井まで書物が整然とアルファベット順に置かれ、北側の窓からはオリーヴの樹々が見えた。壁の一角にモネの銅版によるボードレール像がかかっており、わずかに道路を疾走する車の音が伝わってくるだけで、学問の場にふさわしい静寂が常にその部屋を充していた。先生はいつも礼儀正しく背広にネクタイを締めて待っておられ、私が扉を開くと、「ボンジュール・イノウエ。」とはにかんだように握手を求められるのだった。その態度には社交家の如才のなさといったものは微塵もなく、戸惑っているようなぎこちなささえ感じられるのだった。そうして、森閑とした書斎の片隅に置いてある長椅子に私を座らせると、朱の入った私の原稿を片手に問題点を指摘してゆくのだった。ひとたび話が文学に触れると、もの静かだった先生は突然情熱に憑かれて、深い所から魂の炎が迸りでるようだった。これは偉大な老人の性質ではないだろうか。肉体は衰えるものであるが、魂の炎は理想を追う人々にとっては絶対につきることがない。この不思議な炎の源は神秘的ですらある。先生は多くの場合きわめて厳しかった。そっと原稿をのぞいてみると「否 [ノン] 」と大きな朱が入っている部分などもあって、しばしば絶望につき落される気もしたのだった。極東の一読者(end134)のパンセが石造りの城壁に粉々になってしまう苦しみも味わったが、先生はそうした批判を権威ずくですることはなく、面白い見方があると異邦人の意見でも充分に尊ぶ雅量と公正さとを常に失われなかった。本当の自信、それは全知全能ではない、一つの限界とさらに大きなものを何時でも認めうる心だと教えて下さったのはリュフ先生だった。つまりこうした会話を通して、私は先生のなかに文学に対する深い愛情と人文主義的なよき伝統といったものを発見していったのだった。たしかに、複雑で人の魂を消耗させる現代では、先生の立場は古く、もっと戦闘的な思想が必要だと人は云うかも知れない。人文主義的伝統など過去の夢だ、全てを破壊しつくしたいのだという悲劇的な攻撃欲もあることだろう。しかしまた人間性を深く愛し、その理想を夢みることは不滅の事柄なのである。こうしてリュフ先生の篤実な人柄に惹かれはじめていた私は、仕事が終るまでは日本に帰るまいと決心していた。
 静かな書斎に闇がこくなり、煙草をともすマッチの火が一瞬明るく感じられる頃になると、広間へ行って御茶に招いて下さるのだった。「日本の御茶にはかないませんが。」と先生は常に地味だった。こうした時には夫人も同席されるならわしで、開け放された窓の向うには、南仏のなだらかな丘と谷が紫の夕靄におおわれていた。その涯にはカンヌ沖あたりの地中海があるはずだった。先生は古き良き時代のフランス、香水の原料がすべて自然の花であった時代や、旅行の想い出などを淡々と語られ(end135)るのであった。人生の夕映えを爽やかにむかえた老夫婦の静謐が美しかった。そしてそうした数刻、私は幸福な弟子であり、魂の平和にみちた夕が永遠にとどまることを虚しく願うのであった。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、134~136; 「Ⅱ ベイルート夜話」)



  • 「英語」: 323 - 370
  • 「読みかえし」: 752 - 754, 755 - 756


 一〇時ごろ覚醒し、一〇時二〇分に起床。さくばんいつのまにか意識をうしなっていてなしくずしのようにしてねむってしまったので、めざめはあまり晴れやかではなかった。天気は雨。というかこの時点ではやんでいたようだが、書見をしているあいだに降りはじめた。水場に行ってきてからクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読む。200をこえてだんだん終わりがちかい。いつの間にかなめらかにというかんじで時空を移行するのがけっこうみじかい間でつづくところがあった。ジョルジュが括弧内の直接話法で「おれ」という一人称で語っていたのが急に「わたし」に変わり、鍵括弧が閉じないままイグレジアの発言を引きつつ段落が切れて、改行すると三人称「彼」の語りがはじまってコリンヌをまえにしている、というながれがそのひとつ。一一時半くらいまで読み、きょうは瞑想をする気にならなかったので上階へ。母親は居間にいる。ジャージにきがえて洗顔してからトイレに行くため玄関に出ると父親は戸をあけはなしにしてそこの座席にすわりスマートフォンをいじっていた。便所で腹のなかみを捨ててからだをかるくしてから食事。焼きそばやおじや。あたためて席につき、食べながら新聞の一面をみると、フィンランドの大統領と首相が連名でNATOへの加盟申請を支持すると表明、との記事があった。ロシアのウクライナ侵攻をうけてフィンランドは自国の安全のためNATOに加盟するべきであると主張しており、政府はちかく正式に加盟を申請するみこみとのこと。フィンランドは約一三〇〇キロの国境でロシアと接しており、冷戦期はソ連との関係をはかってNATOにはいらず中立をたもっていたという。ソ連崩壊後もEUにははいったもののNATOにはくわわっていなかった。おなじく軍事的中立をたもっていた隣国スウェーデンNATO加盟のうごきをみせているらしい。二面には戦況。ハルキウ(ハリコフ)近郊、国境までの幹線道路に面した集落をウクライナ軍がいくつか奪還して、露軍は国境地帯まで押し戻されたらしい。ただ英国の発表によれば、ロシア軍は補給や部隊再編のために撤退した可能性があると。またヘルソン州の親露派「軍民政権」の幹部は、地元住民のうち希望者にはロシアが旅券を発効するだろうというみこみをしめしたと。これはきのうの新聞で、プーチンにヘルソンのロシア併合を要請したとつたえられていた幹部と同一人物のようだ。
 母親のぶんもあわせて食器を洗い、風呂へ。詰替え用洗剤の封を切ってボトルに補充しておいた。そうして浴槽をブラシでこすり洗い、出てくると白湯とともに帰室。コンピューターをまえにしてNotionを準備し、音読した。「英語」記事と「読みかえし」ノート。英語のほうはわりと読む気になるのだが、読みかえしノートのほうはなぜかあまり気分が乗らないことがおおい。一時すぎまで読み、体操とかかるいストレッチとかをはさみつつきょうのことをここまで記していま二時ぴったり。きょうから三日間は休み。きょうじゅうにおとといきのうの日記を終えたい。


 その後、おとといきのうにとりくんで、午後六時ごろに終えて投稿した。これであとはきょうの現在時に追いつかせればひとまずノルマはなくなる。二時をすぎてもさいしょのうちはどうも乗らないかんじがなくもなかったのだけれど、たしょうスクワットをしたりストレッチをしたりとやっているうちに血がめぐって書きやすくなった。たいせつなのはやはり脚で、ふくらはぎもそうだがとりわけ太ももであり、見たかんじでもいちばん太いぶぶんなので納得ではあるが、ここをどれだけほぐせるかどうかで心身ぜんたいのやる気は決まる。そのためにやりやすいのは胎児のポーズとスクワットで、前者は脚のみならず上体や首のほうまでからだぜんたいをやわらげることができる。スクワットといってもこちらがやるのはそんなに強度のたかいものではなく、そもそも上下したりもせず、開脚してたしょう腰を落とした状態でとまりながら息を吐くというだけでかんたんなのだが、これをおりおりやればからだはしっかりしたかんじになる。ゆびさきまで血と酸素がいきわたるから手もかるがるとうごくようになり、打鍵するのも楽だ。この文章をいま読んでいるみなさん、一〇年後、五〇年後、五〇〇年後一〇〇〇年後にこの文章を読むにんげんがもしいるとしてそのみなさん、みなさんにじぶんがこの日記をとおしてつたえたいのは、にんげんの健康はなによりも脚からであるというそのことだけである。一〇〇〇年後も人体の構造や機能はたいして変わっちゃいないだろう。脚をほぐすとやる気が出るぞというそのことだけをじぶんのメッセージとしてすべてのひとにつたえたい。サッカー部や運動部のれんちゅうがだいたいみんな威勢がよいのも納得だ。
 五時すぎ時点できのうの日記をすでに完成させていたかもしれない。わすれた。まだ二時間も経っていないのに。五時を数分こえたところで上階へ。父親が台所にはいっていた。米を磨ごうとおもっていたのでながしで手を洗い、さきに食器乾燥機のなかを各所にかたづける。父親は冷凍されていたホッケだかサバだか魚を焼くようで準備をしていたので、料理はまかせることに。ザルに米をとりにいく。二合ほどで尽きたのであたらしい袋を鋏で開封。古い袋にはいっていた唐辛子をあらたな袋のほうにくわえておき、米をすくいおえると洗濯バサミでとじておいて台所へ。父親がながしでフライパンを洗っているところだったので居間のほうに出てさきにアイロン掛けの準備をし、そのうち空いた隙をついて米を磨いだ。六時半に炊けるようセット。さきほど見にいったら炊けたようだったので、まえにタイマーがこわれているとおもったのはなにかのまちがいだったのかもしれない。機能しているらしい。そうしてアイロン掛け。テレビは相撲をうつしており、シャツの皺を伸ばしながら目をむけた。若隆景という力士と高安のたたかいがひとつあり、高安はいちおうなんとなく見たことがある。かれの腹はよくふくらんでおり、それを手でたたくおとが、どこのマイクなのかわからないがボン、ボン、とはいってきこえており、ずいぶんよくひびく、よく鳴るなとおもった。しかし試合は若隆景の勝ちで、こちらのほうが背が低くて体躯も比較的ほそいのだが、身を低くしずめてあたりにいき、高安の腋の下にはいりこむようにしてみぎてでまわしをとってあいてをうごけなくするという場面が三度くらいあり、終始身をかがめて立ち向かっていくような姿勢で試合中ずっとうつむいているから顔がみえなかったくらいで、最終的に行事が甲高く「ハッケヨーイ!」と声を張ったのを機にもう一段深く身をしずめて均衡をくずし、押し出しにいたっていた。ガッツのある取り方。相撲というものにおおきな興味はないがみればけっこうおもしろい。スポーツはなんでもそうだ。ぶつかりあう力士の尻の肉がはげしくふるえてマジでみなものようにうねりをわたしていくさまなどなかなか見ものである。人体があんなにふるえることもそうそうないだろう。
 アイロン掛けを終えると白湯とじぶんのワイシャツをもって下階にかえり、手の爪が伸びていてうっとうしかったのでそれを切ることにした。きのうあたりから全般的にSo What?というきぶんになっていたのでMiles Davisの”So What”がききたくなり、『Kind of Blue』ではなくて『Four & More』のほうをながした。爪を切ってやすりながら聞き、そのままついでにつぎの”Walkin’”もきいた。『Walkin’』が何年だったかわすれたが一九五四年か五年かたぶんそのくらいのはずで、おそらく初出だとおもうがあのもったりとしたスタジオ演奏をおもいおこすとこのライブの”Walkin’”はすさまじい変貌をとげてほぼ行けるところまで行った感があり、一〇年あればこれだけ変わるということじたいは意外ではないが、しかし時間はべつとしてここまで行くんだなと。こいつらぜんいん指うごかすのはやすぎない? とおもう。Milesもはじけているし、George ColemanもColtraneとかMichael Breckerとかとはちがってかき乱すようなブロウにならず、このテンポではやく吹いても一音一音が立って音程のとれるなめらかなつらなりになっているのがすごい。Ron Carterもここの演奏は文句なしにすごいしすばらしいのだが。後年のRon Carterは、こちらはあまりいいとおもえたことがない。
 そのあとここまで書いて七時。


 それからはたいしたこともなし。夕食時だったとおもうが(……)さんのブログでしたの梶井基次郎の文章を読んだ。(……)さんもいっているし、こちらじしんむかしに読んだときにおなじ感想をもったとおもうが、ここに書かれてあることほぼぜんぶかなりよくわかるなとおもった。パニック障害、不安障害の心理そのもの。「吉田はほとんど身動きもできない姿勢で身体を鯱硬張らせたままかろうじて胸へ呼吸を送っていた。そして今もし突如この平衡を破るものが現われたら自分はどうなるかしれないということを思っていた」という一節など、大学のいきかえりに電車のなかで呼吸のバランスがくずれないように必死になっていたときのことをおもいださせる。息をゆっくりながく吐くと副交感神経がはたらいて緊張がやわらぎ心身がおちつくというのはよくいわれるところなのだが、パニック障害レベルだとそれも焼け石に水というかたいして効果はなくて、むしろながく吐くことで逆に苦しくなるようなこともよくあり、じぶんのばあいはとくに呼気と吸気のかわりめの一瞬に緊張がたかまってビクビクすることがおおかった。それが発作まで転化しないように細心の注意をはらって呼吸のリズムやながさやつよさを調節する、ということになる。「何故不安が不安になって来るかというと、これからだんだん人が寝てしまって医者へ行ってもらうということもほんとうにできなくなるということや、そして母親も寝てしまってあとはただ自分一人が荒涼とした夜の時間のなかへ取り残されるということや、そしてもしその時間の真中でこのえたいの知れない不安の内容が実現するようなことがあればもはや自分はどうすることもできないではないかというようなことを考えるからで」というぶぶんもすさまじくよくわかる。「胸のなかの苦痛をそのまま掴み出して相手に叩きつけたいような癇癪」というのはむかし読んだときにすごい比喩だなとおもって、それでこの箇所を書き抜いた記憶がある。夏目漱石も『坑夫』のなかで似たような比喩をつかっていたようなおぼえがあるが、なんだったかな?

 吉田はこれまで一度もそんな経験をしたことがなかったので、そんなときは第一にその不安の原因に思い悩むのだった。いったいひどく心臓でも弱って来たんだろうか、それともこんな病気にはあり勝ちな、不安ほどにはないなにかの現象なんだろうか、それとも自分の過敏になった神経がなにかの苦痛をそういうふうに感じさせるんだろうか。――吉田はほとんど身動きもできない姿勢で身体を鯱硬張らせたままかろうじて胸へ呼吸を送っていた。そして今もし突如この平衡を破るものが現われたら自分はどうなるかしれないということを思っていた。だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度遭うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。また吉田がこの状態を続けてゆくというのには絶えない努力感の緊張が必要であって、もしその綱渡りのような努力になにか不安の影が射せばたちどころに吉田は深い苦痛に陥らざるを得ないのだった。――しかしそんなことはいくら考えても決定的な知識のない吉田にはその解決がつくはずはなかった。その原因を臆測するにもまたその正否を判断するにも結局当の自分の不安の感じに由るほかはないのだとすると、結局それは何をやっているのかわけのわからないことになるのは当然のことなのだったが、しかしそんな状態にいる吉田にはそんな諦めがつくはずはなく、いくらでもそれは苦痛を増していくことになるのだった。
 第二に吉田を苦しめるのはこの不安には手段があると思うことだった。それは人に医者へ行ってもらうことと誰かに寝ずの番についていてもらうことだった。しかし吉田は誰もみな一日の仕事をすましてそろそろ寝ようとする今頃になって、半里(はんみち)もある田舎道を医者へ行って来てくれとか、六十も越してしまった母親に寝ずについていてくれとか言うことは言い出しにくかった。またそれを思い切って頼む段になると、吉田は今のこの自分の状態をどうしてわかりの悪い母親にわからしていいか、――それよりも自分がかろうじてそれを言うことができても、じっくりとした母親の平常の態度でそれを考えられたり、またその使いを頼まれた人間がその使いを行き渋ったりするときのことを考えると、実際それは吉田にとって泰山を動かすような空想になってしまうのだった。しかし何故不安になって来るか――もう一つ精密に言うと――何故不安が不安になって来るかというと、これからだんだん人が寝てしまって医者へ行ってもらうということもほんとうにできなくなるということや、そして母親も寝てしまってあとはただ自分一人が荒涼とした夜の時間のなかへ取り残されるということや、そしてもしその時間の真中でこのえたいの知れない不安の内容が実現するようなことがあればもはや自分はどうすることもできないではないかというようなことを考えるからで――だからこれは目をつぶって「辛抱するか、頼むか」ということを決める以外それ自身のなかにはなんら解決の手段も含んでいない事柄なのであるが、たとえ吉田は漠然とそれを感じることができても、身体も心も抜き差しのならない自分の状態であってみればなおのことその迷妄を捨て切ってしまうこともできず、その結果はあがきのとれない苦痛がますます増大してゆく一方となり、そのはてにはもうその苦しさだけにも堪え切れなくなって、「こんなに苦しむくらいならいっそのこと言ってしまおう」と最後の決心をするようになるのだが、そのときはもう何故か手も足も出なくなったような感じで、その傍に坐っている自分の母親がいかにも歯痒いのんきな存在に見え、「こことそこだのに何故これを相手にわからすことができないのだろう」と胸のなかの苦痛をそのまま掴み出して相手に叩きつけたいような癇癪が吉田には起こって来るのだった。
 しかし結局はそれも「不安や」「不安や」という弱々しい未練いっぱいの訴えとなって終わってしまうほかないので、それも考えてみれば未練とは言ってもやはり夜中なにか起こったときには相手をはっと気づかせることの役には立つという切羽つまった下心もは入っているにはちがいなく、そうすることによってやっと自分一人が寝られないで取り残される夜の退引(のっぴ)きならない辛抱をすることになるのだった。
 (梶井基次郎「のんきな患者」)

 入浴後、一〇時すぎにギターをいじりたくなってちょっといじったが、時間がおそいのであまりおおっぴらにおおきなおとを出せず、たいしておもしろくはなかった。そのあと風呂場などでおもいついていた散文を綴った。カフカが日記に夜な夜な書きつけていた断片のようなかんじでやろうとおもったのだが。とちゅうまで。あと、「隻眼の家出少女のみちびきに乗るも乗らぬも雨音しだい」という一首をつくった。あとそうだ、書抜きもやって、トーマス・マン魔の山』の上巻は終わらせた。書いた散文はした。

 森のなかに、犬がいる。これは夢だとその目がいう。あるいは鳴き声が。わたしは町を捨ててきたのだが、そのことが記憶にない。犬の声を聞いても思い出すわけではない。犬はただ鳴いている。鳴くというよりは小便をちょろちょろと漏らすような、不安をかきたてるような鳴き方で、その声はクゥンクゥン……でもキャインキャイン……でもなく、文字にすることがむずかしい。鳴き声というより、強いていうならば、夏の夜に道端の草むらでじりじり鳴っている虫の翅音のような声だ。秋になると虫の声は透きとおって旋律に似てくるが、そのまえの、なまぬるい風だけをふくんでいる、詰まった鈍いうなり。わたしは犬をなでる。それ以上のことはできない。不遜さはすでに上限に達している。不運か幸運かでいったら幸運だろう。
 風は吹き、木の葉は鳴る。わたしは犬をなでる。しらみをとるようにではない。復讐や、勉強のようにではない。ように、はなく、ただ手をすべらせる。腹や背、首元に。頭をなでていると、耳が見つかった。耳の片方はいくぶん欠けている。そこに指を一本入れると、自動ドアが閉まるように、カメラのシャッターの収縮のように耳は吸いつき、指に引っかかる。わたしは立ちあがった。犬は軽く、重力ではなくその法則そのもののように重さをもたず、指にぶらさがってついてくる。わたしの目のまえには彼の(彼女であっても何ひとつ問題ない)口、そして歯が浮かぶ。その歯に映っているのはわたしの顔だが、映っているというか、ひとの顔がそのまま実になっている地獄の木のように、ひとつひとつの歯にわたしの顔が描かれている、というかひとつひとつの歯がわたしの顔である。だからといって、鏡であるわけではない。どんな素材でできているのかわからない。ただ、エナメルや酸素、印刷用インクや金平糖でないことだけはまちがいない。ここは森だった。ということは、おそらく葉っぱでできているのだろう。つまり、繊維質なのだ。
 風は吹き、木の葉は鳴る。これがひとつのできごとだ。では、ふたつのできごととは何か? 鳴った木の葉が落ち、池の水にふれて波紋を生むことだ。犬がそこに飛びこんで、生まれたての波紋を破壊する。粉砕する。それが三つ目。わたしは犬とともに池に入り、水浴びをする。服を着たまま浴びたのか、脱いで浴びたのかは重要ではない。水を浴びたということが大切なのだ。池から出てきたわたしから水滴がぼたぼたと落ち、地面に薄黒い水玉模様を描く。これが四つ目のできごとで、地べたに座りこんだわたしが空をあおぐと、日の光が目を刺してなみだがながれた。五つ目だ。涙腺が刺激されたわけではない。目に向かってまっすぐ射られた太陽光線が、睫毛に濾しとられ眼球の上をころがるように通過することで、なみだに変わって伝い落ちたのだ。そうして納得されるものがあった。自分の死期は近い。だとすれば、この犬を殺してやらねばなるまい。
 それもまた不遜にちがいない。不遜さはすでに上限を超えている。しかし犬は、その目は、何もいわなかった。わたしは彼(彼女であってもまったく問題がない)を尊敬し、感謝と敬意を払い、四つんばいになって

2022/5/12, Thu.

 雑踏やタクシーでにぎわうブルジェ(カノン)広場から、アーケードの路地に入ってゆくと、そこにスークが開かれていた。通り路には珍らしく涼を呼ぶ氷柱などが置かれてあって、ダマスカスやアレッポのそれに較べてはるかに観光地化されているように見えた。けれどそれ以上に大きなちがいはどことなく黄金の匂いが漂っていることだった。それはスーク特有の金銀細工や宝石を売る店々があるためではなく、むしろ路地に軒をならべた両替屋をみた時にうける印象が原因だった。ショーウィンドーに世界各国の紙幣がべたべたとはられ「あらゆる通貨を両替いたします」と広告しているのだった。景気がよい光景というより、生々しく露骨で、紙幣特有のくすんだ色が不潔なのである。そのうえ奇異なのは、店々の内部に散策するものの眼を楽しませてくれる色鮮やかな商品がまったくないのである。かわって代書屋のような殺風景があるばかりだった。そして、汚れたテーブルをかこんで、金銭を直接あつかう者特有の、無表情で眼の鋭い男たちが紙幣の束を数えていて、計算しおえると、札束をくるくるとまるめ、パチンと輪ゴムでとめてしまうのである。そんな光景をみていると、金銭が小気味よいほど紙ッペラとうつるだけでなく、富というものに対して一種の嫌悪の情がわきあがってくるのだった。現世の喉元をぐっとしめあげている魔神ににた表情が、両替屋の机につみあげられた紙幣の山にあって、そのどぎつい抽象性がニタリと笑っているように見えた。(end123)
 このスークで宝石商を営むK氏は妻の実家の古い友人であった。トルコから追われ、世界に散ったアルメニア人の一人として、氏はアレッポに居を定めていたのだが、アラブ社会主義による国有化の風波がたちはじめたころ、いさぎよくアレッポをも捨ててベイルートへ移住してしまったのである。だから彼もまた今回の私の旅で多く出会った難民の一人だった。実のところ、難民の苦渋にみちた心を知るには単一民族国家にすむ日本人はあまりに幸福すぎるのではなかろうか。フランス滞在中、あるパレスチナ人の学生が何のはっきりした理由もなく退去命令をうけた事件があったが、私が彼だとして、八日以内に国外退去すること、出国までは日に一度警察署に出頭せよ、という令状をうけとったと仮定してみよう。今まで親しかった者たちと私のあいだに見えない鉄壁が降り、いかに叫んだとして応答してくれるものもなく、平和な街角で自分が無益な零 [ゼロ] である、という自覚が襲ってくるにちがいない。こうした抹殺される者の不安と孤独はいかばかりであろう。気も狂わんばかりであるだろう。世界の不正に対する絶望と反抗は、おのれの死を選ぶか、世界の破滅を願うかというところまでエスカレートしてゆくだろう。つまり「流浪の民」はこうした煮え湯をのんで誕生するのである。たぶんここにかれらの絶望の深さがあると同時に強靭な性格の秘密もあるのだ。タンポポの種子のように運命の風にとばされてきた異邦の土地で、難民は心に誓うだろう、絶対に成功することを。さもなくば難民に明日はないからである。そうしたもっとも単純なあらわれが経済力への渇仰なのである。ニー(end124)スの市場で誰よりも早く店をあけ、誰よりも遅く店をたたんでいたアルメニア人夫婦のけなげな姿を忘れられないのもそのためである。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、123~125; 「Ⅱ ベイルート夜話」)



  • 「英語」: 301 - 322


 九時に覚醒した。ゆめみをすこしだけ。ふだん徒歩での出勤につかう街道までのみちをあるいているあいだに八百屋(「(……)」)のおっさん(もう五〇代か六〇くらいだとおもうのに、「おっさん」というよりも「あんちゃん」といったほうがにつかわしいような雰囲気の、若々しくて威勢のよいひとだが)と遭遇する。街道に出るすぐてまえにガードレールを右側に置いてそのむこうが杉の樹のいくつか立ち上がる下り斜面になっているところがあるがその斜面のあたりにいたようで(こちらはみちに立っていたもののみおろすのではなくおなじ高さでむかいあっていたから、ガードレールのむこうに浮かぶようなかんじだったのかもしれない)、なんとかやりとり。内容はおおかたわすれてしまったが、ひとつ、さいきんは不安でしかたがない、という弱気をわらいながらもらし、もともとにんげんが弱いから、だったか、あるいはもろいから、だったかそんなような自己評価をつけくわえていた。その形容詞はこのひとの調子にまったくそぐわないものである。
 カーテンをあけると雲まじりながらも青さがひろくみえる空でひかりもとおっていたので酸素をもとめる魚のようにからだと枕の位置をずりずりずらして東空からななめにかかって窓の至近に落ちている小日向に顔を入れ、しばらくまぶしさと熱を浴びた。はやくも九時一〇分には離床。「胎児のポーズ」をたくさんやるようになったのでからだのぜんたいに血がよくめぐっており、心身はかるい。(……)の結婚式でもらった小型除菌スプレーをティッシュに吹きつけてパソコンをちょっとこすり、それから水場に行って顔を洗ったり口をゆすいだり用を足したりした。部屋にひきかえしてくるとクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読む。これはこのときではなくきのうの夜寝るまえに読んだぶぶんだが、ひとりのセリフのとちゅうで丸括弧がはじまり、それが閉じないまま直接話法の鍵括弧のほうが閉じてもうひとりが発言し、再返答のとちゅうで丸括弧が終わるというかたちがあった。182である。こういうつかいかたははじめてみた。《「(……)しかしとにかくそのアニェスの肉体は、生暖かくて手に触れることのできるからだだけは……(だっておまえも彼女が亭主より二十歳も年下だったのでそれで……といわなかったか?」、そこでジョルジュ、「とんでもない。おまえはなんでもいっしょくたにしてしまうんだ。それは彼じゃなくて……」、そこでブルム、「……曽孫 [ひいまご] か。そうだったな。しかしそれでも想像できないことではないな、あの時代は十三歳の少女を老人と結婚させたもので、たとえその二枚の肖像画ではふたりがいかにも同年配に見えたとしてもそれはきっと画家の手腕が(つまり処世術が、つまりへつらい方のうまさが)いくらか細君のほうを若がえらせたからなのさ。いや、いいまちがいでもなんでもないよ、はっきり細君といったさ、つまり彼女の実際の経験、数字でいえば、嘘と二枚舌とにかけては、彼よりもざっと千年ほど多い経験の、外にすけて見える部分をぼかしやわらげたからなんだ。)……そこでその博愛心に富んだジャコバン党員で、戦争ずきなアルノルフは、人類を改良することをいよいよあきらめ(……)」》ということ。
 一〇時をまわって一五分から枕のうえにおきなおり、瞑想した。ここちがよかった。すでにだいぶからだがほぐれているところにもってさらにじわじわほぐれてなめらかになっていくのできもちがよく、そうとうしずかにとまることもできて肉体として存在していることをほとんどわすれるかのような瞬間もあった。窓外ではきょうもとおくに、たちのぼる川のみずのおとなのかひびきがあり、そのうちに子どもたちの、おそらくは小学校未満、幼稚園や保育園のおさなごらの歓声がどこかから湧き、わあああ……というかんじであどけなく高い声がざわめきとして一体化し、プールにはいっているのだろうか、暑くなってきたから水浴びが解禁されたのだろうかという印象なのだが、そのざわめきはきいているうちになんどかおなじ調子で周期的にもりあがり、まるであそんでいる子どもたちぜんいんにむかってたびたび滝のようにおおきなみずのながれが浴びせられているか、それかなにかの試合や競争を観戦していて白熱のせめぎあいに応援を投げているかのようだった。
 三五分すわった。上階へ。居間は無人。郵便局で簡易保険の更新だかあたらしいサービスだかの説明をするため一〇時に来るということだったが、それはすぐに終わったようだ。書き置きによれば母親はパーマをかけにいっているらしい。居間はやたらかたづいていてテーブルやソファのうえにものがぜんぜんなかったが、これは局員があがるかもしれないとおもった母親がきれいにしたものだろう。しかしたぶん、家のなかまであがらず、玄関でみじかく済んだのではないか。仏間に追いやられていたジャージにきがえる。このときはやくもひかりと青空はうしなわれて雲がおおう曇天になっていた。きのうと同様、晴れとくもりのうつりかわりがはやい。勝手口のそとに洗って干してあったゴミ箱をなかにいれて、じぶんの部屋にビニール袋があったのをおもいだして持ってきて、台所にセット。洗面所でうがいをしたり髪を濡らしてから乾かしたり。食事はベーコンエッグを焼いた。あとさくばんのナメコの味噌汁ののこり。新聞一面にはヘルソンの市長がインタビューにこたえたとあり、その記事の冒頭に、「ロシア軍はヘルソン州住民投票を実施し、一方的な「独立」の宣言を画策している」みたいな文があったのだけれど、これだと住民投票の実施がすでにおこなわれた事実のようにも読めてしまって誤解をまねきかねないから報道の文としてはよくないんじゃないかとおもった。「住民投票を実施し、一方的な「独立」を宣言することを画策している」とか、「住民投票の実施と、一方的な「独立」の宣言を画策している」のように、並列されるふたつのことがらの身分を動詞か名詞に統一したほうがよいとおもう。ロシアはヘルソン市のあたらしい行政長をいっぽうてきに任命しているが、市長はいまも遠隔で実務をこなしているといい、ロシアにはぜったいに協力しない、戦時の住民投票は法に違反していると述べたと。この日一面でもっともおおきくあつかわれていたのは沖縄の本土復帰五〇年にさいして連載されているコラムの記事で、沖縄本島から五〇九キロ南西、日本最西端の与那国島付近で中国の動向にたいして防衛力が整備されているというはなしだった。与那国島は人口一七〇〇人の島で、台湾から一一一キロ、台湾の東側で軍事演習がおこなわれると漁協に気をつけてと連絡がくるのだがその回数が増しており、二〇一八年に一八回だったのがさくねんは三四回、地元の漁協長は台湾が有事にそなえて演習を活発化させているのをひしひしとかんじると。むかしは与那国の防衛は「拳銃二丁」と揶揄されており、これは島に交番二つのみでほかに防衛力がないことを指したものだが、二〇一六年の三月から陸上自衛隊が駐屯していまは一七〇人だかが二四時間体制で国境付近の状況を監視しており、近年航空自衛隊も出張ってレーダーをつかい、スクランブル発進の必要があるときには那覇の基地に連絡して発進につなげている。その回数がいつのデータだったかわすれたが、たしか一年で一〇〇四回にのぼるとかで、そのうちの七割は中国機への対応だと。与那国のほか、宮古島にも自衛隊は置かれ、石垣島にも二二年から配備される予定らしい。二面にはヘルソン州で親露派「政権」の幹部が、同州のロシアへの編入プーチンに要請する予定だと表明したと。ヘルソンはもともとロシアの領土だった、住民投票は必要ないと述べ、クリミアへの併合を想定しているとみられるとのこと。文化面には明石家さんまのインタビュー。六〇歳で引退しようとおもっていたらしいが、太田光に、かっこうよすぎる、落ちてくところをみせてくれといわれてじゃあつづけるかとなったという。いっぽう、きのう母親がつぶやいたのをすでにきいていたが、ダチョウ倶楽部上島竜兵が亡くなった。家でたおれていたとかきいたが、記事によれば自殺とみられるという。明石家さんまは六六歳、上島竜兵は六一歳。東京大空襲の資料や証言をあつめる活動に奮闘しつづけた早乙女なんとかいう作家のひとも亡くなったと。
 食器を洗い、風呂。洗剤はギリギリもった。あした詰め替える。出ると白湯をもって下階の自室にかえり、コンピューターを用意すると「英語」ノートを音読。はじめたのは一二時をまわったくらいだったはず。いや、一二時まえだったかもしれない。みじかくすませてきょうのことを記述しはじめ、ここまで記せば一時。きょうも三時ごろには出勤にむかわねばならない。書けていないのは月曜日のことときのうのこと。月曜のことはもうおぼえていないのであとまわしにして、出発までにきのうの往路のことを記したいところ。雲行きがあまりよくなさそうだし新聞の天気予報も降水確率は五〇とあったので、洗濯物もちょっと気になる。

 まもなく母親が帰宅した。きのうの日記にとりかかり、二時までで往路のことを記述し終えた。それからベッドにうつってストレッチをしているとすこしひらいていた窓のそとから草木に雨粒があたるらしきおとがはじまったので降ってきたなと察してうえにいくと、洗濯物はすでに母親がとりこんでいた。もう出勤まえの食事をとってしまうことに。天麩羅のあまりや米やバナナはんぶんなど。用意して、朱塗りの盆に乗せて自室にもってかえり、窓ととびらをあけて空気をとおしながら、コンピューターには(……)さんのブログをうつして読みつつものを食った。四月三〇日。丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』からの引用。

そこで……子供の心を持ったひとならこれが帽子ではなくて象を呑み込んだ大きなヘビだとわかるはずです……サン・テグジュペリの『星の王子さま』の冒頭の一節が浮かぶ。大嫌いな一節。子供の心を持ったひと? 子供の世界には確定した情報の量が希薄だ。その結果彼らはその希薄な確定情報を寄せ集めて膨大な物理的知覚情報を処理するしかない。そこから彼らの「説明」は大人からすれば突飛な、愛らしい空想の趣を帯びて聞こえることになる。ヘリコプターのプロペラが見えなくなるのは、あまりに早く回るからプロペラに風と光が混ざってしまうからだ……青虫の腹が揺れるのは中に葉を溶かす工場があるからだ…… 蟻たちは青虫の首を運ぶ警察を持っている……しかし、その論理は本質的に異様なほど唯物論的である。彼が希少な情報を駆使して自らに説得しようとしているのはひたすら物質的世界であって空想や夢の世界ではない。だからその説明が大人の目から愛らしい想像に見えても、彼らは想像しているのではない。そこにはメタファーはない。そこに「子供の世界」の想像豊かな夢の広がりを読み取るのは大人の側の勝手な視線の問題であり、そこには実際上ロマン主義はほとんどない。子供の世界が無気味なのは夢が完全に欠如しているからであるだろう。子供は夢見ない。夢見るのは大人であって子供ではない。


(…)最悪だったのは「ポストモダン」の概念が、(…)「モダン」の絶対主義に対する「ポストモダン」の相対主義というかたちで一部に理解されてしまったことだった。実際は、相対主義は「モダン」の補足性質であり、「ポストモダン」はむしろ「留保なき絶対主義」とでもよぶべき象面を持っているのである。
 簡単な例。百人の人間が目の前にいる時、「モダンな視線」(!)はその中のただ一人に注視し憑かれる視線である。その視線の中で、ただ一人が絶対化され、そして残りの九十九人は誰でもいい誰かの集合として相対化される。一方、「ポストモダンな視線」(!)は百人の人間全部を同じ強度で見つめようとする。その視線が見出すのは、同じ強度で存在する置き換え不能の百人である。百人を絶対的に同時に・同じ強度において見ること、これが「ポストモダン的視線」の要請である。そこには相対主義は有り得ない。それはドゥルーズが「スキゾフレニア」という誤解されやすい言い方で示唆したものであり、アラン・バディウドゥルーズについて、「無数に多数化された絶対一者」という矛盾した言い方で説明しようとしたことである(…)。
 選べるもの・選びたいものだけを選んで他を相対化するという身振りは、「語り得るもの」だけを選んで「見えているもの」を無化し相対化することである。それに対して「すべてを同等に同じ強度で見る」とは「見えているもの」の絶対性に与することによって「語ること」の選別性を解体することである(…)。仮にドゥルーズについてすら「ポストモダン」が語られるとすれば、「ポストモダン」とは「語り得るもの」の選別的閉鎖の解体における「苦行」であるだろう(…)。

 ひとつめはそんなにめずらしいいいぶんとはおもわないが、「子供の世界が無気味なのは夢が完全に欠如しているからであるだろう」という逆説がたいせつで、この原理を小説化できたらおもしろそうだなとおもった。
 ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』への言及もあり、こちらなどぜったいに好きだとおもうといわれているが、まさしくそうで、この本はレベッカ・ソルニット『ウォークス』のなかですこしだけふれられており、それを読んだときからおもしろそうだなとおもっていた。したがひかれている一節。さいしょの、「リンゴが、収穫する人もいないまま、木のまわりのぬかるむ地面に落ちて、半分腐って転がっている。遠くから見たときは、一本だけ葉がついていると思っていた木が、近づいてみると、不思議なことに、リンゴがまだひとつも落ちずに、全部なったままだった」というのがすばらしい。とくに後文。

リンゴが、収穫する人もいないまま、木のまわりのぬかるむ地面に落ちて、半分腐って転がっている。遠くから見たときは、一本だけ葉がついていると思っていた木が、近づいてみると、不思議なことに、リンゴがまだひとつも落ちずに、全部なったままだった。濡れた気には、葉は一枚も残っておらず、あるのは、落ちることを拒んでいる、濡れたリンゴだけだった。ひとつ取ってかじってみると、かなりすっぱかったが、汁が喉の渇きをいやしてくれた。食べたリンゴの残りを木にぶつけると、リンゴが雨のように降ってきた。リンゴの落ちる音がやみ、地面が静けさを取り戻したとき、ひとり心のなかで、これほどのさびしさは誰にも想像できまい、と思った。今日は、今までのなかで、一番さびしい日だ。それで、木に歩み寄って、実が全部落ちてしまうまで、揺さぶった。静まり返ったなかで、リンゴは音を立てて地面に落ちた。残らず落ちてしまうと、不意に途方もない静けさが、こっちの心のなかにまで、広がった。

 二〇一一年九月二六日からひかれているカフカのでてくる以下のゆめのなかでは、「大晦日の夜にはいつもひとりボートで大河をさかのぼり母方の実家のある国にまでむかうのだ」というフレーズがなぜかすごくよいとかんじた。

夢。カフカと一緒にいる。大晦日の夜にはいつもひとりボートで大河をさかのぼり母方の実家のある国にまでむかうのだというのでぜひじぶんも同行させてくれと頼みこむ。本音の見えないポートレイトのあの表情で了承される。どちらかというと嫌がっているように見えなくもない。父親の運転するワゴン車に乗ってひとまずカフカの家にむかう。じぶんは助手席、カフカは後部座席に乗っており、そのカフカのとなりにはもしかしたら母親もいたかもしれない。カフカのどこがそんなによいのだ、とたずねる父にむけて、たましいが、と答える。左右にむけて長細くのぼる部屋の真ん中でカフカの父が背もたれのない丸椅子に腰かけている。白衣を身にまとっているところから見るとどうやら医者であるらしい。商人ではない。部屋の左隅にはカフカの妹がひとり置物のように硬直して動かず、右手にはカフカの母親が盆の上に飲み物かなにかを乗せて部屋をゆっくりとした足取りで行ったり来たりしている。カフカの父のおどろいたような目つきから、カフカがじぶんの訪問について家族に何も告げていなかったのだと察する。そのことにかんして腹立たしい気持ちになるが、これもやはり父との確執ゆえにだろうと思いなおす。丸椅子に腰かけたままこちらをじっと直視し続けているカフカの父にむけて英語で話しかける。するとたどたどしい英語で返事があり、そこから英語でのやりとりがしばらく続く。どうしてここに来たのだ、との質問に、我慢ができなかったから、と答える。しばらくやりとりが続いたところで根負けし、それじゃあホテルに戻ります、と告げる。するとカフカの母親が途端になにやら口にし、その中にあったシスターという語から、どうやら寝床として教会か修道院を斡旋してくれるらしいと見当をつける。カフカの部屋にいる。二段ベッドの上の段に横たわりながら本を読んでいる。すると門を叩く音が聞こえる。むかえが来たらしい。部屋を出て玄関にむかうカフカが立ち去るまぎわ、門を叩く音がいつもと違う、とつぶやく。ひとり部屋に居残り耳をすませながら、暗くひろびろとした屋敷の中を燭台も持たずに雨の夜にむけて歩いていくカフカの姿を想像する。それは『アメリカ』の序盤でマックス少年が屋敷を徘徊する場面そのものである。

 三時ごろまで文を記し、もう時間がないなと気づいていそいできがえ、三時すぎに出発。雨は一時やんでおり、またすぐに降ってもまるでおかしくはなさそうな空と大気のいろだったが、降ったところで本式にはならないだろうと根拠もなくひとり合点して傘をもたず、ベストすがたでみちをいく。じきにやはりぱらぱら落ちるものがあったが、この往路は予想通り降りにはいたることがなかった。街道に出てむかいにわたるとそこの目のまえ、顔のたかさにツツジがいくらか茂っており、しかしピンクの花はことごとくもう身をしぼませて黄ばみを帯びたり土のような黒点に汚れたりして、精液をはきだされたまま部屋の隅にながく放置されたコンドームのようにゴムじみてたれさがっている(しかしじぶんは他人とセックスをしたことがないので必然コンドームを買ったこともないし、つかったこともないし、そもそもたぶん実物にふれたこともみたこともないのではないか。中学生のときにコンドームを財布にいれておくと金運があがるみたいな言説がいちぶにあった記憶があり、それでやんちゃな方面のやつが財布からとりだしたのをみかけたような気がしないでもないが)。きょうも工事中できのうとは反対側の車線、こちらの行く対岸にあたる南側でやはりアスファルトをつくりなおしており、きのうとおなじく信号機色の青緑をした液状的な薄いビニールが敷かれたうえにコバルトまではいかない鈍い青黒さの粉末が大量にかけられて、人足たちがそこにあつまりおのおの中腰でスコップをあやつり粉をたいらにひろげている。上体には全員かならず白い蛍光テープをいきわたらせながらしたの履き物はそれぞれちがっているかれらの脚は土木作業員にしてはみなほそく、おおかた若い世代にみえたがガタイのいいというほどのからだつきはそこになかった。すすむとむかいはバスが停まれるスペースにときおり老人たちがゲートボールに興じる広場が接した敷地になり、赤い花をつけた木とも草ともいいがたい中間くらいのおおきさの植物がいくつか立ちならんでいて、瀟洒な住宅地にでもありそうというかその木じたいがなんらかの瀟洒をふくんだすがたにうつった。
 きのうとちがってこの日はなぜか下校する高校生らをまったくみなかった。裏路地をいったが、道中印象的というほどの記憶ものこっていない。あたまのなかに詩の断片めいたことばがめぐっている時間がおおかった。きょうも(……)に寄ってトイレを借り、膀胱をかるくしてから職場へ。
 労働。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 八時四〇分ごろに退勤。駅にはいり、ベンチでちょっと待って、やってきた電車に乗ると席について瞑目。そこそこの疲れ。やはり二日連続ではたらいたあとだと、一日はたらいただけの勤務後とはちがうようだ。最寄りで降りると雨がそれなりに降っており、しかしボタボタバチバチおとを立てるというほどのいきおいではなかった。いずれにせよ傘がないので濡れるほかはない。気にせず駅を出て通りをわたり、木の間の坂をおりていくあいだ、葉にしずくがおおきくたまって落ちてくるほどの降りではないので樹冠にむしろたすけられる。風がながれてひだりの林縁からはりだしている枝葉がたわむようにゆれ、したのみちに出れば公団付属の公園の桜がこずえの影をみちにながしてむかいの宅の庭までおおきくわたりながら影絵はするする足もとを掃き、幅をひろく往復してあいまいな光影のダンスをえがく。すすめば濡れたアスファルトはこまかくなった肌理でもって街灯の白さをなめらかに受け、その発光がみちのまんなかに輪郭をくずしたあかりのすじを、こちらにむかっていっぽんすっと走らせている。雨粒にうたれる感触もないが、風は肌においてすずしさをやや越えた。
 帰宅後、ベッドで休息。父親が上階の居間でなんだかんだひとりごとをいったり、歌をくちずさんだりしている声がきこえてくる。夕食は鶏肉のソテーなど。(……)さんのブログを読みながら食べたはず。この日で五月一日まで読んだ。風呂から出た母親が天井をどんどん踏みならして合図するのでぶちころすぞとおもう。ひとが飯を食っているときに急かしたりしずかにできなかったりするにんげんをゆるさない。とはいえ母親はあした勤務だし、はやく洗濯をしたいとかあるだろうから、食事を終えるとすぐに盆をもって上階へ。階段にかかったあたりでは、おそらく母親が図書館で本を借りてきても読んでる時間がないとか、居間にいられると邪魔だみたいなことを言ったのだとおもうが、父親が、もうしたに行くから、ここで読めばいいじゃん、これだけみたらもうおれはしたに行くから、とかややおおきめの声でいっていた。うんざりする。父親は午前中とか、午後のはやい時間くらいはまだうっとうしさがなくてなんともおもわないのだが、夕方くらいからはじまって夜にはいると疲労のためかいつもかたなしというかんじになっていて、うっとうしいことこのうえない。声もでかくなるし、どうでもいいささいなことで気色ばむし。このときもタブレットでたぶん韓国ドラマをみながら、劇の展開にたびたび反応をしめしてうなったり笑ったりことばをつぶやいたりしていた。こちらは乾燥機のなかみをかたづけて食器を洗い、生ゴミ受けからゴミをつかみとってビニール袋にいれておき、米がもうのこりすくないので皿にとってあたらしく磨いでおこうとおもったところが、洗面所とのあいだを行き来していた母親が、焼きそばとか古い米があるからあした炊けばいいというのでそのようにして、釜だけ洗っておき、また炊飯器の蓋をあけて釜をいれこむ穴の縁、枠みたいなぶぶんに固まった米粒がたまっていたりなにか汚れていたりするので、キッチンペーパーでそこを拭いておいた。そうして入浴。出たのは零時ごろだったか。出るとあかりが食卓灯のオレンジ色だけになったなかで母親がソファにねころがっており、テレビはなんらかのドラマをうつしていて、若い夫婦らしき男女がきりこさんだったか年上の女性にモツ煮を食べてもらいながらこの家をよくしていくという決意を語って協力をあおぐみたいな場面で、よくわからないが老舗の料理屋にあたらしい味を導入してたてなおすみたいなことなのかなとおもったが、女性のほうが土屋太鳳のようにみえたのだけれど目がよくないし自信はない。母親はそのドラマをみるわけではなくスマートフォンを手にもっていたとおもうが、それをみるわけでもなくほぼねむっているような調子だった。白湯をもって帰室し、そのあとは日記を書こうとし、じっさい書いたのだけれど、やはりからだがあまりついていかずいくらもできず、一時半くらいであきらめてベッドに休んでいたところがいつか意識を落としていた。気づくと四時だったので、たちあがり、部屋の入り口脇にあるスイッチで消灯して就床。こういうことがあるたびに、労働後の夜はがんばろうとしても無駄だから書見なりなんなりにあててからだを休め、よくねむってつぎの日にやったほうがいいなとおもうのだけれど、じっさいにそういう状況に身を置くといつもそうする気にはならない。

2022/5/11, Wed.

 この後も、附近に散在するギリシャの遺跡を見物にゆくために、山ふところに珍らしく緑が眼にしみる道を村童にたずね進んでいった。そして、突然前方に、青空とあたりの木立にはっきりと映える列柱が出現した。雷に打たれたような廃墟の列柱はいいものである。現世の栄耀に心うばわれた者の眼には廃墟は墓場、それも手入れのよくない墓地にしかすぎないだろうが、列柱は高貴な人のようにじっと佇んでいる。ゲーテのように、「石よ、語れ!」と呼びかければ神殿廃墟の列柱たちは旅人に(end58)大理石の心を開いてくれるかも知れなかった。けれど耳を澄まし、懐古の夢にふけるわけにゆかなかった。というのもその雑草が茂った廃墟には十八、九歳ほどの一群の少年兵たちが見学にきていたからだった。
 目ざとく私を見つけた彼等はおずおずと中国人か日本人かと問うてきた。「ヤバーニだ。」と答えると、彼等のいかにも単純そうな眸はにわかに親愛の情にかがやき、ロッド空港事件や日航機ハイジャック事件における日本人の武勇 [﹅2] をたたえるのだった。いわゆる「赤軍派」がどれほど日本の市民社会を震撼させたかは詳しく知るところではないが、皮肉にもこの少年兵たちにとって日本人テロリストは英雄であり、「岡本にかけて」という表現がアラブで話されているらしい。(……)
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、58~59; 「Ⅰ 聖シメオンの木菟――シリア紀行――」)



  • 「英語」: 282 - 300


 一〇時直前に覚醒した。なにかしらゆめをみていたはずだが覚醒直後からもはやおぼえていなかった。からだのかんじはかなりなめらか。カーテンをあけると空は一面希薄なみずいろで、真っ青というほどの青さではないが雲がかたちなすこともなくひかりがなじんでつやめいている、とみながらあたまをちょっと起こすと、つやめきからのがれた空の下部にチョークの粉末めいて白さが淡くそえられているのがみてとれて、それで空ぜんたいに雲が混ざっているみずいろの穏和さなのだなとわかった。布団のしたでしばらく足首を前後に曲げたり。「胎児のポーズ」もおこなった。やはりからだ全体に血をめぐらせてやわらげるにはこれがいちばんよい。しばらくやっていると足の先からあたまのほうまでほんとうに肉がほぐれてくる。一一時二〇分に離床。(……)の結婚式でもらったちいさな消毒スプレーをティッシュに吹きかけてコンピューターのモニターやキーボード部をこすってきれいにし、それから水場へ。顔を洗ったり小便をしたりしてもどってくるときょうははじめから臥位でクロード・シモン『フランドルへの道』を読んだ。174で、「あるいはさらに何年ものちに、相変わらずひとりぼっちで(いまはひとりの女の生暖かいからだのそばに横になっているけれども)」とあるのだが、この「ひとりの女」というのはまえに第一部の終わりちかくででてきただれなのかよくわからない謎の女だろう。「いまは」とあるから、語りの現在はいちおうこの女性と共寝している時点にすえられているようだ。
 一一時一〇分から瞑想。窓をあけてすわっていてもきょうは肌寒さをかんじない。すわりはじめてまもなくとおくで風のうずまくおとがきこえてなかなか盛っているなとききつつもそれが一向にちかよってこなかったのだが、じきに飛行機のうなりだったとわかった。しかしそれが去ったあともとおくでなにかひびきはきこえており、それが川のみずのおとなのか、それとも川向こうの地区で走っている車のおとなのかがわからない。二〇分でみじかめに切り。どこかのチャイムがきこえたのでそれを機にしたら一一時半だった。「胎児のポーズ」をまたやっておいてから上階へ。母親にあいさつし、トイレで糞を垂れてきてジャージにきがえ。このときはやくも窓外は雲におおわれていてひかりのつやがなくなっていた。洗面所で口をゆすいだりうがいをしたり髪にみずをつけて乾かしたりして、食事はレトルトのカレーやきのうの天麩羅ののこり。新聞を読む。一面にはロシアがアゾフスタリ製鉄所への突入作戦を再開したという記事。マリウポリの市長だかがSNSで、一一日にロシア軍が化学兵器を使用するみこみとの情報をえていると発表したらしい。せんじつ国連は避難が完了したと表明したものの、製鉄所内には民間人がまだ一〇〇人ほどのこっている可能性もあるという。南部オデーサでは極超音速ミサイル「キンジャル」が使用されてショッピングモールなどが破壊されたといい、そのときちょうどEU大統領ウクライナ首相と会っているところでふたりはシェルターに避難したと。二面には九日のプーチンの演説について欧米側から虚偽ばかりだと非難の声があがっているとあった。各国とも批判しており、たとえばイギリスのベン・ウォレス国防大臣は、ロシアはかんぜんに七七年前のファシズムを踏襲し全体主義の失敗をくりかえしていると述べたと。マリーヌ・ル・ペンとあらそって大統領の座をまもったマクロンは記者会見で演説についての感想をもとめられ、プーチンの語調が「戦士のよう」だったといってその攻撃的なトーンに苦言を呈したというが、これは批判としては煮えきらない態度のようにみえる。マクロンはまだ対話をあきらめていないというか、今次の危機いぜんにはけっこうプーチンと会って関係構築していたようだから、あからさまな、激烈な非難をしにくいのかなとおもった。二面にはまたフィリピンの大統領選の報もあり、独裁的な統治をしたマルコス元大統領の息子であるフェルディナンド・マルコスが当選を確実にしたと。二位に二倍いじょうの差をつけているらしい。SNSを駆使して独裁時代を知らない若い世代にうまくアプローチしたという。副大統領選ではドゥテルテの娘であるサラが当確。
 母親のぶんもまとめて食器を洗い、そのあと風呂も。洗剤がもうのこりとぼしくなっているが詰替えをするのがめんどうくさかったので、出なくなるまでつかいきってから補充することに。きょうはもった。水場を抜けるとポットからコップに湯をついで下階へ。Notionを用意し、音読をはじめるころにはすでに一二時二〇分くらいだったとおもう。みじかめに切って、それからきょうのことをここまで記述すれば一時一一分。三時まえには労働に出なければならない。物件手続きの金をふりこむため郵便局に寄るつもりなので、すこしはやめに出ようとおもっている。(……)からは九時ごろだったかにメールがきていて、海外に引っ越す(……)をおくる会は二七日に決まったとあった。日付を手帳にメモしておいた。あとLINEをのぞいたところ(……)が、じぶんが買った電子レンジが実家につかわれないまま置かれてあるのでもし必要だったらあげてもいいと言っていたので、礼を言ってもしかしたらもらうかもしれないとうけておいた。炊飯器も買わなあかんな。いちおう米炊いて自炊するつもりなので。あの部屋のかんじをみるにどこに置くかというのがむずかしそうだが。

 そのあとちょっと屈伸したり、左右に開脚して上体をひねったり、ベッドの縁に手をついて片足をうしろに伸ばしながら前傾するかたちで脛のすじをほぐしたりとからだをうごかしたあと、七日の記事をしばらく記述。二時まえまで。圓照寺まで終わった。ベッドにうつってストレッチをし、二時をわずかにこえて上階へ。ベランダから洗濯物をとりこむ。曇天のわりに空気はあたたかでことによると蒸し暑さにながれかねないくらいの感触であり、洗濯物はぱりっとまではいかないとしてもいがいと乾いていた。タオルや肌着、靴下や母親の寝巻きなどたたんでしまい、足拭きマットとタオル類を洗面所にうつしておいて、それから炊飯器にわずかあまっていた米を皿にとった。釜をあらってからザルをながしのしたからとりだし、玄関のほうに行って戸棚のなかの米袋より三合半をすくっていれる。それを磨ぎ、六時半に炊けるようにセットしておいたが、炊飯器のタイマー機能はせんじつきちんとはたらかなかったのでどうだかわからない。見た目には変調のしるしはないのだが。冷蔵庫に歪球型のちいさなクルミのパンがひとつだけあったのでそれをむしゃむしゃやりつつコップに湯をそそぎ、ポットにはみずを汲んだ薬缶から基準線まで補充しておき、食器乾燥機のなかを戸棚にかたづけると下階へ。白湯をちびちび飲みつつここまで加筆して二時半。もう支度をして出勤にむかわなければなるまい。


 いま帰宅後の一一時半すぎで、夕食をとりながら(……)さんのブログを読みすすめた。四月三〇日の記事にむかしの日記からベルクソン『思想と動くもの』の記述がひかれている。

直観的に考えるとは持続のなかで考えるということである。悟性は通常不動から出発し、並置された幾つかの不動をもってどうにかこうにか運動を元どおりに作る。直観は運動から出発し、それを事象そのものとして定立し、あるいはむしろ知覚し、不動というものを、われわれの精神が動きに対して撮った瞬間撮影に当たる抽象的な瞬間としか見ない。悟性は、その通常認める事物を安定的なものと考えて、変化というものをその上に付けくわえられた属性だとしている。直観にとって本質的なものは変化であり、悟性が意味しているような事物は生成のさなかにほどこした切り口で、それをわれわれの精神が全体の代用物に仕上げたものである。思考は通常新しいものを前から実在している要素の新しい並べ方として表象する。思考にとっては何もなくならず、何も創り出されない。直観は持続すなわち成長に注がれるので、そこに予見のできない新しいものの途切れない連続を認める。


(…)現にあらゆる言い方、考え方、知り方には、不動と不変が権利上存在すること、運動と変化とが、それ自身動かずそれ自身変わらない事物の上に、付随的属性として付けくわわるということが、意味としてふくまれているからである。変化の表象は、実体のなかに次々に起こる性質もしくは状態の表象である。それらの性質の一つひとつ、それらの状態の一つひとつは固定しているものであって、変化はそれらの継起から成り立っていることになり、継起する状態および性質を支える役目の実体は固定性そのものだということになる。こういうのが、われわれの言語に内在し、アリストテレスが一度にぴたりと方式を与えた論理である。悟性は判断を本質とし、判断は主語に述語を付けることによってはたらく。主語は、人がそれに名前を付けたというだけで、不変なものと定義され、変化は、人がこの主語について次々に主張する状態の多用性に存する。こうして主語に述語を、固定したものに固定したものを付けていくやり方によって、われわれはわれわれの悟性の斜面に従って進み、われわれの言語の要求に適合し、つまりわれわれは自然に服従する。現に自然は人間を社会生活に入るものと前から決めている。自然は共同の作業を欲した。この作業が可能になるためには、われわれは一方において主語の絶対的に決定的な安定性を、他方においてはやがて属性となる性質および状態の漸定的に決定的な固定性を認容するのである。

 ここでベルクソンがいってることマジでめちゃくちゃよくわかるなとおもった。とくに、「直観は持続すなわち成長に注がれるので、そこに予見のできない新しいものの途切れない連続を認める」とか、「主語は、人がそれに名前を付けたというだけで、不変なものと定義され、変化は、人がこの主語について次々に主張する状態の多用性に存する」という一節が、じぶんにとって内容としてめあたらしいものではないが(そもそもすごくよくわかるということはめあたらしいものではないということだろう)、なにかあらためて腑に落ちるようなかんじがした。にんげんはものごとに反復をみるし、みないかぎり生きてはいけない。たとえばいまブログを読みながら飯を食っているこの夜一一時ごろは、ぜんじつや、労働があったほかの日の夜一一時ごろとだいたいおなじようなもので、そこにくりかえしや踏襲をみないわけにはいかない。しかしじっさいにはこの夜一一時ごろときのうの夜一一時ごろはまったくべつのありかたをしているのだろうし、それどころかこの一瞬とつぎの一瞬こそが接続はしていながらもつねにそれぞれまったくべつのものとしてあるのだろう。そして世界はほんらい局部としても総体としても一瞬ごとにそのように更新されており、つねにあらたなものとしてつぎの瞬間をひたすらにうみだしつづけている。そこにくりかえしは存在しない。終わりがあるのかどうかもわからないが、すくなくとも終わりがくるまでに経過されるすべての時空を、どれだけ微細に分化したとしてもそのひとつひとつはかならずまるでべつの時空なのだ。つまり、おなじものというものはほんらいない。われわれはいちどしか生きられないし、あらゆる瞬間もほんとうはその都度いちどしかない。不可逆というよりは、一回かぎりのつねにあらたなものたちがどこまでもつらなってつづき、それらのあたらしさが尽きることはなく、もどることも似ることもくりかえされることもない。「直観は持続すなわち成長に注がれるので、そこに予見のできない新しいものの途切れない連続を認める」という一文を読んで、そのような観念的イメージがあたまのなかに生じた。


 いま午前三時(二七時)まえ。入浴後に日記にとりかかってながく外出した五月七日をしまえ、すでに書いてあった八日といっしょに投稿。あとは九日ときょうのことが未筆。あしたじゅうには無理かもしれないが、あさってには現在時においつくことができるはず。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)の書き抜きも三箇所おこなった。七日の日記に「Deep Purpleの”Speed King”」なんて書いたからちょっとききたくなり、『Made In Japan』をながした。デラックス・エディションで、これだとむかしきいてなじんでいた普通版と曲順がかなりちがう。”Highway Star”からはじまらないというのはなんとなく肩透かしをされたようなかんじ。


 午後二時半のあとは歯磨きをしたりスーツにきがえたりして出発へ。ベランダに出たときの空気の感触からしてかなり温暖そうだったので、ジャケットをはおらずにベストすがたにした。そうしてワイシャツの袖をまくる。三時ちょうどくらいに出発。玄関を出ると(……)さんがみちのみぎがわから、知らない女性がひだりがわからあるいてくるところで、鍵を閉めたりしているあいだに(……)さんのほうはすぎさっていった。みちに出て東にむかってあるきだし、しばらく行くとその知らない高年女性が車をやりすごしてみちばたにとまるようにしていたのでこんにちはとあいさつし、坂にはいった。眼下、川のてまえに建設中のホームだとかいう建物は骨組みにまだすこし囲まれた壁がすべて真っ白なのだが、あれはたぶん壁じたいのいろではなくてシートが貼られているのではないか。坂道をのぼっていくとみぎての茂みからミシミシというような草をわけるおとが立ったのでみてみると、草むらのなかに鳥が二匹、いろとしてはスズメにちかい褐色だけれどもうすこし濃く、からだもそれよりおおきくて太ったヒヨドリくらいはあり、栄養のおおいあかるいいろの沃土をチョコレートパウダーめいてまぶしたような体色の鳥がもぞもぞしていた。ハトか? このころには陽が出ており、といって雲ものこっていて太陽をつつむ西空は白く、街道まで行くあいだはあたたかくても夏めいたひかりの重さ厚さ粘りがさほどないようにかんじられ、汗ばましいというほどではないなと、めざましいとかしたわしいを類例としてふつういわない活用を造語したが、車の行き交うおもてに抜けて背後から陽射しに射抜かれるとやはり暑くて汗は出る。街道の工事はつづいている。歩道の整備は終わったがきょうは車道のアスファルトを塗りなおすようなことをやっており、現場にちかづくとトラックの荷台に薄オレンジの巨大ななにかの容器がふたつと、どこかにケーブルを伸ばしながらゴウンゴウンおとを立てるなんらかの機械が乗っており、すすめば道路のうえにあざやかで化学的な青緑色、信号機の青さをそのまま溶かしたような液にまみれたシートが長方形にながく敷かれていて、人足たちがそのうえにスコップなどでアスファルトの粉末をのせてならすなか、あたりには特有のにおいをはらんだ煙が立ってこちらの目にも染みてきた。さらにさきでは地面をかためているのか重機がゆっくりと行き来しているばしょもあり、もうほとんどみちとなったそこのアスファルトはみずけをふくんで、背後からやってくるまだ高くていろのない西陽にきらきらかがやき、路肩に置かれたスコップも同様に先端に付着した焦茶色の土をきらめかせていた。公園ではベンチに作業員が休憩するいっぽう、子どもたちが遊具にあつまってにぎやかにしてもいる。
 郵便局に寄る用があったので表通りをそのまま行った。いつのまにか行く手の空からは雲が消えてほとんど快晴じみた濃い青がひろがっており、陽射しは暑いもののからだにまとわりつくかんじもなく、ことさら重くはおぼえない。(……)高校から出てきたところの横断歩道をもう夏服で上着なしの軽装の高校生男女らがわたってきて、男子はぎゃはぎゃはわらいながらのろのろしているが女子らは自転車に乗って立ち漕ぎの澄ました顔でさっとわたり、茶髪をうしろで結わえた少女が目のまえをそうして横切るすがたは凛と絵になっていた。道中ほかにも女子高生の数人がさびれた公園にそぞろにはいってたまったりしており、青葉のみどりはあかるさに濡れながら微風にゆれてこまかく影を散らす。
 郵便局着。(……)のもの。はいるとATMをつかっている中年女性の先客がひとりいたがすぐに終わったのでそのあとにはいり、スマートフォンで請求書のPDFをひらき、機械を操作して手帳を挿入。振込は二件あった。表示にしたがって銀行や支店を検索し、口座番号をいれたりじぶんの電話番号を入力したりして、あわせて一三万円ほどの送金を完了。待っていたひとにすみません、お待たせしましたと声をかけながらそとに出て、記帳された情報をすこし確認。のこった残高はちょうど七〇万ほどだった。そのあと(……)に寄って小便をしつつ職場まで行って勤務。
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 帰路。最寄り駅についておりるとスマートフォンをみながら前方を行くサラリーマンがひとりあり、階段通路でみおろすそのうしろすがたはまず頭頂部が河童の皿的にすこし禿げていて、円形に頭皮がみえている中央部をかこむ髪の毛のうちいくらかがそこにはみだして楕円のかたちをゆがめている。かっこうはスーツなのだけれど右肩にかけた青いトートバッグのためにジャケットがうしろにひっぱられて、襟のあたりがべろんとはがれるかになってそのしたの白いワイシャツがのぞくくらいにかたちがゆがんでいるのだが、気づいているのか否か意に介するようすはまったくなかった。帰宅後の印象事はなし。というかもううえに書いてある。

2022/5/10, Tue.

 ボーイングは放たれた矢のように雲ひとつない地中海上空に舞いあがると、イタリア半島にそって下り、その南端を横切ってアドリア海を一飛びし、ロードス島キプロス島上空で高度一万メートルの夕焼けを背に負っていた。零下何十度という凍った成層圏に映える夕焼けは、レーザー光線をつかった前衛芸術のようであり、その茜色の空間は神々しい。実際、美の巨大な浪費を思わせるその境界では、もっとも素朴な天地創造の神秘感に圧倒されてしまうのだった。だから、東から迫ってくる夜(end28)のとばりの中を飛行してゆく時、永遠に地上に帰りたくないという島人の気持もわからないではなかった。窓外には、七色の光彩で飾られた焼絵ガラスの高層雲がおりかさなり、世界があたかも讃嘆と祈りのためにつくられた七堂伽藍であるかのような美的幻想にみちているのだった。そして、このような人間を超えた美を忘れ薬 [ネパンテス] のように味わった者にとって、地上のどのような街も、惨めな汚濁の廃園でしかないだろう。だから人は清浄な美の楽園に憧れて、宇宙ににることをめざし、太陽の都 [﹅4] をつくろうと試みて、ついには自然の戦慄的な美しさが私たちからあまりにも遠いものであるという嘆きに終ってしまうのであろう。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、28~29; 「Ⅰ 聖シメオンの木菟――シリア紀行――」)



  • 「英語」: 242 - 281
  • 「読みかえし」: 748 - 751


 一〇時五〇分に覚醒した。天気は晴れ晴れというほどではなく空はみずいろをしたに透かした白っぽさにおおわれているが、とおりぬけてくるひかりのつやもあって穏和な風情。足首を前後に曲げながら息を吐くことで脚のすじを伸ばし、布団のしたでしばらくすごして一一時二〇分におきあがった。背伸びをし、水場に行ってくるとクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読んだ。さいしょしばらくは立ち、じきに臥位になって脚をもみつつ読む。ジョルジュやブルムやイグレジアがいるばしょが「収容所」であることが明言されたが、この語でその場がなざされることはそれいぜんになかった気がする。気づいていなかっただけかもしれないが。正午ぴったりから瞑想した。れいによって便意がだんだんと肛門のあたりにたまってくるので二三分くらいしかすわれず。姿勢を解くとコップやゴミ箱をもって上階に行き、ゴミを始末しておいてからトイレでクソを垂れた。ジャージにきがえる。いえうちは無人で、父親はきのう山梨に行き、母親は歯医者。のちほど一時ごろに、映画をみてくるから洗濯物をたのむというメールがはいっていた(じっさいには「洗たく機」をたのむとあったが、洗濯物とまちがえたのだろう)。食事にはレトルトの中華丼があったのでそのパウチを電子レンジで加熱し、あいまに洗面所でよく洗顔。櫛つきドライヤーであたまもたしょうなでておき、中華丼の素があたたまると丼に盛った米にかけ、その他即席の味噌汁とキュウリやトマト。新聞一面をみると対独戦勝記念日にさいしてプーチンが演説したが「戦果」の誇示はなかったと。述べたことは従前からの主張と変わりなく、二月二四日いぜんには欧米によって危険がたかまっていた、責任はかんぜんに欧米側にあると強弁。軍事作戦はゆいいつのただしい選択だったみたいなことも言ったらしく、まったく関係ないのだがその文言から、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやりかた」なんていうタイトルをおもいだしてしまった。ロシア兵にたいしては、みなさんは国家の安全をまもるためにたたかっていると称賛を投げかけ、作戦の目的はナチスを排除することであるという点、ウクライナのゼレンスキーはナチであるという言もくりかえしたと。軍事パレードはクリミアをふくむ各地でおこなわれ、モスクワのそれはさすがにさくねんよりいくらか規模がちいさくなったという。マリウポリやヘルソンでは「市民の行進」がおこなわれたというが、これは反対の行進ということなのか、それともロシアがむりやり動員してやらせたということなのか? と疑問におもっていたのでいま検索してみたところ、親露派市民の行進ということのようだ。マリウポリのアゾフスタリ製鉄所からは女性や子どもや老人がすべて避難したと七日にウクライナのイリナ・ベレシュチュク副首相が発表していたが、アゾフ大隊の長は八日に、全員避難できたかどうかは確認できていないと表明した。いずれにせよ避難活動に従事していた国連の車列がドンバス州をはなれるのにあわせてロシア軍は製鉄所への攻撃を再開したと。東部のなんとかいう村では九〇人ほどが避難していた学校が空爆され、二七人が救出されたものの六〇人ほどが瓦礫の下敷きになって死亡した可能性があるという。
 食事を終えるとたちあがって背伸び。立つと南窓のむこうがみえやすくなり、さらさらとした若いみどりの葉叢がいくつも微風にゆれながら空間をいろどっている。なかにひとつあれは春モミジなのか、シソの葉のような、酸味でもふくんでいそうな渋い赤紫の木もあったが、その紅さもやはり秋のものではなく初夏のそれとうつる。食器を台所にはこんで洗っているあいだカウンターをとおしておなじ窓からこんどは鯉のぼりがみえ、風はゆるいようで垂れ落ちて竿に寄っているときもおおいが、いくらかでも泳ぎだすと身をくねらせるうごきのなかに襞のかげが生まれるとともにときおりあかるみを浮かばせて、風のたすけでもちあがって横向きになると鱗にあたるぶぶんはややひかるくらいに白さをはなった。
 風呂も洗うと白湯をもって帰室。コンピューターとNotionを用意し、音読。一時くらいから。さいしょのうちは座ってボールを踏んでいたがじきに立った。とちゅうインターネットにちょっとそれてしまい、二時になると洗濯物をとりこみにうえへ。ベランダの端には日なたがかかり空気につめたさはなく、鳥たちの声がそこらじゅうに散ってときたま笛のような、ものがすばやくこすれたりひっかかったりしたかのようなPのおとをさしこんでいた。タオルのみひとまずたたんで洗面所にもっていっておき、白湯をおかわりしてもどると「読みかえし」ノートのつづきを読んで、そのあときょうのことをここまで記述。三時。物件契約のために金を振りこまなければならないのだが、もうこの時間になってしまったし、あした労働に行くまえに郵便局によればいいかなというあたまになっている。

 ベッドで脚をもみつつ休息。そのあと書抜きをした。井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)の手帳にメモしてあったほう。すべて終了。五時をこえてうえへ。母親も帰宅しており、天麩羅をやるという。こちらはアイロン掛け。足腰をきたえようというわけで座布団を敷かず、しゃがんでかかとを浮かせてつま先で立つような姿勢でおこなった。かかとまでつけるしゃがみかた(いわゆるうんこ座り)だと高さがあわずに作業がしづらいのだ。シャツいちまいをかけるあいだそうしているだけで脚の筋肉はけっこうつかれて、かけ終えたものを物干し竿に吊るすためにたちあがったあと、そのたび屈伸したり膝のうらをかるくもんだりした。六時まえに切り。それからさきほどたたまなかった洗濯物をたたみ、もどってきてここまで加筆。腹がめちゃくちゃ減っている。もう食事にするつもり。あとそういえば三時ごろに携帯をみたところメールがきていて、だれかとおもえば、というか急遽出勤の要請ではないかと推してそうだったらめんどうくせえなとおもいながらみると(……)で、(……)が海外に引っ越すことになったからそのまえに会うとあり、五月ちゅうで四日候補がしるされていた。二五日いがいならどこでも行けるという腐れフリーターの自由度である。そのように返信。きのうだかおとといだかに(……)にまつわって(……)のことをおもいだして文化祭時のエピソードを記し、また(……)のなまえもどこかに書きつけたところで、奇遇の感がある。


 いま午後一一時すぎ。風呂を出てもどってきてから七日の日記をすこしだけ書き足したあと、音楽をきこうかなというきもちになり、それもあたらしいやつではなくて文句なしにすばらしいとすでに知っているやつをきいて英気をやしなおうとおもい、Jesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』から”Love for Sale”をきいた。データをもっているがハードディスクをつないだりアンプにつながっているケーブルをChromebookからこのパソコンにさしかえたりがめんどうくさかったので、YouTubeできいた。あらためてきいてみてもBert van den Brinkというピアノがとにかくすごいなという感が支配的で、さいしょからさいごまで通り一遍にながれるところがひとつもなく、どこをとっても緊密に締まりきっており、各部のアプローチも多彩豊富でつぎつぎと手管をみせてくれて飽きようがなく、おもいついたことできることをぜんぶいれこんだというおもむきながら、それが無理にではなくデュオのながれと合致してむしろ推進力をつくっており、しかも洒脱さをけっしてうしなわずこともなくというかに余裕をのこしている。Jesse van Rullerのプレイだってすごいけれど、先行するかれのソロのあいだはバッキングにもかかわらずvan den Brinkが主導権をとって牽引しているようにきこえてしまう(とくにピアノが低音でのウォーキングをやっているあいだはギターのフレーズがややもごもごしていまひとつはっきりせず、どう弾こうか迷って決めきれていないようにきこえる)。ピアノソロのすごさはうたがいがない。バッキング時もそうだがコードのさしこみはぎゅっと詰まっていてすぱっと切り落とされた断面のように輪郭の立ちがあざやかだし、タイム的にも完璧なまでに正鵠を射ておりすばやくするどい。とくにこの”Love for Sale”は七拍子の弾力的なリズムで演じられているので余計にするどさがきわだつもので、和音にしてもある種の単位フレーズにしても箱型のブロック感がつよいのだが、その硬さ充実ぶりはほとんどてざわりのようにして耳にきこえる。
 ついでにさいごに収録されているライブ音源の”Stablemates”もきいた。これもいぜんになんどもきいてめちゃくちゃすごい演奏だとおもっており、ここにあるすべてを記憶したいくらいだが、ただきょうはなぜかまえほど迫ってはこなかった。とくにピアノが意外にもぐわっとこなかったのだが、それはなんとなくYouTube音源の音質のせいだったような気もする。とはいえすさまじいライブ演奏に変わりはない。ただいぜんはえもいわれぬ緊張感にみちみちているようにきこえ、きいているこちらの心身もおのずとそれに同じていたが、あらためてきけばたとえばテーマがはじまってまもないころのピアノなど、リズムが意外とよれているというか、意図的にニュアンスをつけたのか、ジャストではなくてちょっとはやくさっとながしたりつっこんだりということがなんどかみられて、そのあたりはライブのおもむきがある。二者の接し方も、どこをとっても緻密だしすごいところはとことんすごいけれど、ときにわずかすきまが生じるようでもあって、組み合いかたの安定感でいえば、”Love for Sale”のほうが終始より一定に緊密さの感覚がいきわたっているような気がした。しかし先発であるピアノソロのなかば以降、とりわけ演奏がもりあがってくる曲の後半はすさまじく、うえにふれたピアノのするどさはふんだんに発揮され、Bill Evansがよくやる数音単位で段階的にのぼっていく音取りをより苛烈にしたようなたたみかけもみられてめざましい。これぞジャズだといいたくなるような、そのとき発せられたおとにしか存在根拠をもたず、つかのまのたまさかのむすびつきによってのみ不安定に支えられ、なにかがちがえばとたんにくずれて消え去ってしまうような、そんな時空ができあがっている。
 ”Love for Sale”は立ってきいていたのだがさすがに脚が疲れてききづらいので、”Stablemates”からは座った。せっかくだし六一年のBill Evans Trioの”All of You”もきいておくかとおもってテイク1をAmazon Musicできいたが、きょうも混沌をかんじた。これほど流動的に、融通無碍にきこえる音楽はない。とくにピアノソロちゅうMotianとLaFaroがフォービートをはじめるまえ、まだ走らずにいる時点がそうで、なにか巨大な鍋のなかの重い液体をかきまわしているような、演奏がひたすらにかきまぜられているような感触をおぼえるのだが、その後のEvansのきららかさよりもこのあたりがこのトリオの本領なのではという気がする。フリーへと超えない地点でできる最大限の流動性を生んでいるのではないか。フォービートに移行するとLaFaroが比較的なりをひそめてMotianに同じ、Evansも走り出してここは尋常のピアノトリオにかなりちかくなるが、それでもどこかなにかちがう感触もやはりおぼえる。終盤にあるMotianのドラムソロは、その三周目というかワンコーラスを四分割したときの三列目がいつもふしぎで、ロール風にシンバルを連打する直前からリズムがとりづらくなり、連打に入るそのながれかたとそこからの抜けかたがどうなっているのか、どういう感覚であれをやっているのかいつも理解できない。もうなんどもきいているので抜けたあとの拍頭はわかるし、ロストすることもないのだが、それはあたまでかぞえたような理解で、違和感なくきけるよう感覚としてなじんで腑に落とすことがどうしてもできない。
 ところでAmazon Musicはブラウザできくと基本標準音質にしかならないようで、この”All of You”だとSDというマークがでており、アプリ版でみてみるとHDだったのでちがうものかなとそちらでももう一周きいてみた。たしかに一回目よりもすこしだけあざやかに、どのおともちかく迫るようにきこえる気がしたが、気のせいといわれればそうともおもえる程度で、SDとHDのちがいを自信をもっていえるほどじぶんの耳はきたえられてはいない。


 夕食をとったあとの夜は七日の日記を書いたりまた書き抜きをしたりベッドで休んだりうえのように音楽をきいたり。さして印象事はない。書き抜きはトーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)。書き抜きも一向に減らずむしろ増えるばかりだからどんどんやっていかないと。立つ時間を確保するとかんがえてなるべくまいにちやっていきたい。七日の日記はおもったよりもすすまず。まだ東中野をあるいているあいだまでしか行っていない。就床は四時だった。そろそろ四時にかかるとカーテンがうす青くなる季節をむかえている。

2022/5/9, Mon.

 旅をするのが必ずしも好きというわけではない私にも、少年時代から、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊のおもひやまず」という余りにも有名な言葉が耳について離れない。この漠然たる旅へのいざないはそれ自身美しいものだ。新しい風物に接したり、何の目的もなく未知の街の暗い路地を亡命者のように歩いたり、また予期しない歓待にむかえられて王侯貴族の気分になったりする旅は市民社会に蠱惑的な自由のかおりを運びこむ怪しげな客人のものである。それはクヌルプの姿であり、時に心貧しい寄食者であったり、また時に誇り高く御しにくい自由の民でもあろう。
 けれど、旅は前もって完全に計画された時には旅でなくなってしまうだろうし、心を杖とし、心の山野をもまた歩むことがなければ旅が啓示となることもないだろう。どのようにジェット旅客機という文明の利器にのろうと、私の旅はいつも西国巡礼のそれに似ており、明日という未来 [﹅2] を怖れつつそ(end25)の怖れを踏破してゆく小さな覚悟とともに進行してゆく。だから旅はまた怖ろしいものでもある。不帰の旅人として、異国の土地に血の一滴となって倒れることもあろう。そこに萩の原があるとは限らない。だからこそ、見知らぬ宿の一部屋へ扉をあけて入って行く時、厳しい瞬間がとりかこみ、人間は常に異邦にいるという古代人の信仰が現前するのだ。そんな風にベッドや閉ざされた窓が示している厳しい刹那を追体験するたびに、日常生活に狎 [な] れようとする傾向を疑わしく思うのだ。いずれにもせよ、人はいつの日か暗い未知の彼方へ、それが味方なのか敵なのかさえ判らず、ただひとり立ち去ってゆかねばならないのだから。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、25~26; 「Ⅰ 聖シメオンの木菟――シリア紀行――」)



  • 「英語」: 201 - 241
  • 「読みかえし」: 740 - 747


 九時半まえに目がさめた。滞在としてはみじかいのだが、なぜか意識はよく冴えており、からだもあまり濁っていない。だいじょうぶそうだったのですぐに起きてしまい、床にたちあがって背伸びをした。きのうのいちにちで理解したのだが、立位の時間を増やしたほうがやはり血流がよくなって心身に気力が湧き、ねむりの質もよくなるようだ。かんがえてみればとうぜんのことだ。だらだらねころがってばかりいるばあいじゃなかった。立ち、あるくことが二足歩行動物であるにんげんの健康のみなもとである。脚がつかれてきたら横になってやすみながらマッサージすればよいのだ。そうかんがえるとこんどは座位がむしろ半端な中間段階のようにおもえてくるな。独居をはじめたら部屋にはスタンディングデスクを導入することにこころを決めた。とはいえ集中してことばをつくるときはやはり腰をすえてじっとできるようにしないとだめかもしれない。しかしそれも、こちらの集中というのはようするに目をとじてからだのうごきをとめるということなので、立ったままできるようなからだやスキルをてにいれればいけそうな気もする。ヘミングウェイにならおう。
 水場に行ってきてながながと放尿し、下腹部の重さを消し去ってからもどると書見。クロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』。ここでも立ったまま読んだりねころがって脚をほぐしたりと両方やった。140からはじめて156までいったのだが、この間二度時空の移行があり、それが流動的にいつのまにかするっと推移するというかんじだったので、なるほどこうやるのねとおもった。おもしろい。ながれのあとづけはのちに余裕があったら。文体としても、いままでにもそういうぶぶんはあったけれど、改行どころか句読点もまったくはさまずひたすら空きがなく文字が埋め尽くされてつづく地帯がけっこうながくあったりして、口に出して読んでみればよりそれがかんじられるがマシンガン的なおもむきがあっておもしろい。銃撃をうけてあわてふためく兵(ワック)の馬上のからだのうごきとか、池でカエルがもぐったり顔を出したり移動したりするうごきとか、時間としてはひじょうにみじかいあいだに起こっているはずのできごとを、これでもかというくらいに分割しまたイメージによる修飾などもふんだんに詰めこんで膨張的にえがくやりくちは、なにかしら執念深いようなものをおぼえてひきつけられる。ふつうに微視的というのとはちがう。スローモーションの感覚。
 一〇時半くらいまで読んで、瞑想。二五分ほど。やはり便意がきざしたので切った。コップとゴミ箱をもって階をあがり、ゴミを始末。ジャージにきがえてトイレに行くと糞を垂れ、洗面所であらためて顔を洗ったり口をゆすいだりうがいをしたり。髪を濡らして櫛つきドライヤーでかわかしもした。食事はきのうと同様煮込みうどんや、ゴーヤ炒め。それに米をちょっと添え、それぞれ卓にはこぶときょうは新聞がないようだったので、自室からきのうのものをもってきた。ミア・カンキマキという、清少納言についての著作を書いたフィンランド人作家のインタビューを読んだ。もともと出版社につとめていたが気づけば独身でアラフォーになっておりおなじルーティンがくりかえされるまいにちにうんざりして死にそうになり、大学時代にであって惹かれていた清少納言を理解したいと二〇一〇年から一一年にかけて四度京都に滞在し、帰国すると三八歳で会社を辞めてその経験を題材にしたエッセイを執筆し作家デビューしたと。清少納言には、恋愛における女心のゆれの記述を読んでじぶんの体験とおなじくかんじ、深い共感をおぼえていたのだという。かのじょの随筆は現代的だといい、その要素として三つくらいあげていて、ひとつは随筆的なこととか日記的エピソードとか目録とか多種のことがらがまざった形式で、これはさいきん流行りだとかいう「物語的ノンフィクション」と似たようなものだという。もうひとつは目録様式で、「~~なこと」というふうにテーマごとにことがらをとりあげて列挙していくやりかただと。あとひとつはわすれた。いや、おもいだしたが、たしか簡潔で軽快な記述ぶりということで、清少納言がもし現代にいたらSNSで大人気になっているだろうと(私見ですがとことわりつつ、清少納言の著作は平安宮廷の女官たちのあいだなどで朗読されたり共有されたりしていたかもしれない、もしそうだとすればかのじょはいまでいうところの「インフルエンサー」みたいな存在だったのではないか、とも氏は述べていた)。これらの特徴がほんとうに「現代的」なのか否かこちらにはうたがわしくよくわからないし、現代的であろうがなかろうがどうでもよろしいが、目録的な列挙という形式はこちらも好きである。それでいえばきのう図書館に行ったときに棚にみたが、ユーディット・シャランスキー『失われたいくつかの物の目録』という本がおもしろそうで読みたいなと、新着図書の棚でその存在を知っていらい、けっこうまえからおもっているのだが、読めていない。ともあれ『枕草子』もさっさと読もうとおもった。あと、清少納言清原元輔という歌人のむすめらしく、「清」の字はそこからとったのではないかという説らしいが、この清原元輔の生没年は九〇八年から九九〇年で、たいして清少納言一条天皇中宮定子につかえたのは九九三年あたりからの一〇年くらいだといい、まず清原元輔平安時代のにんげんにしてはずいぶん長生きだなということにおどろかされるのだけれど、清少納言の生没年は不明ながら父親の年齢から推すに女房になったのはもうだいぶ歳がいってからでないの? という疑問をいだいた。仮に父親が三〇歳のときに生まれたとすれば九三年にはもう五五歳である。女房というのはもっと若くから宮仕えしているイメージなのだが。あるいは父の歳がいってからの子だったのか。
 食事を終えると食器を洗い、風呂も。白湯をポットからコップにそそいで帰室。Notionを用意して音読。一二時から一時くらいまで。前半はベッド縁にこしかけてゴルフボールを踏みつつ読み、後半はコンピューターをデスクに移動させて立った。そのあとここまで記していま一時半をまわったところ。きょうは労働である。あるいていく気になっているが、だとすれば五時直前くらいには出たい。それまでに五月二日の日記をしまえて、七日分もできればいくらかでも書きたいが。


 この日のことはだいたいわすれた。勤務中のことをすこしおぼえていなくもないが、そんなに書きたいというきもちもない。しかしほんのすこしだけ記しておくと(……)。

2022/5/8, Sun.

 一九九一年三月一七日、連邦の維持をめぐる国民投票が、ロシア、ウクライナベラルーシ(ベロルシアが改称した)、カザフスタンウズベキスタンキルギスタントルクメニスタンタジキスタンアゼルバイジャンの九共和国で実施され(独立を目指すバルト三国アルメニアグルジアモルダヴィアはボイコットした)、いずれの共和国でも賛成多数、全体では七六%が連邦の維持に賛成票を投じた。後述のようにこの年の末には連邦解体を主導することになるロシア、ウクライナベラルーシでも約七割が賛成した。この投票で賛否が問われた「平等な主権共和国の刷新された連邦」がいかなるものかは必ずしも明確ではなかったが、ともかくも七割以上の賛成票を得たことは、連邦維持を目指すゴルバチョフには大きな得点となった。
 これを受けて、一九九一年四月には、連邦の権限を大きく削減することで「九プラス一合意」(「国民投票を実施した九共和国の首脳」プラス「連邦首脳」の合意)が実現したが、ゴルバチョフの譲歩は連邦の政府と議会の諒承を得ないものだったため、連邦政府の要人たちはこの合意に強い不満を示した。合意に基づく新しい連邦条約は八月二〇日に調印される予定であったが、不満と危機感を抱いた連邦の副大統領、首相、国防相らが、ゴルバチ(end228)ョフを拘束し、八月一九日に国家非常事態委員会を組織して非常事態を宣言するクーデタ(八月クーデタ)を起こした。
 国家非常事態委員会の宣言はもっぱら秩序維持を訴えるもので、社会主義やソヴェト体制維持を主張したものではなかったが、国民の多くは、クーデタはペレストロイカ以前への回帰を目指すものと受け止めて強く反発した。首都モスクワでは、ロシア共和国大統領エリツィンらロシアの政府・議会関係者が、共和国最高会議ビルを拠点としてクーデタに徹底抗戦する姿勢を示し、多くのモスクワ市民がこれを支援した。国家非常事態委員会は軍隊を掌握し切れていなかったこともあって、クーデタは三日で失敗に終わった。
 ソ連共産党はこのクーデタに直接関与したわけではなかったが、エリツィンがロシア国内での活動を停止させたため、ゴルバチョフも党書記長を辞すとともに党中央委員会に解散を勧告し、共産党の政治的な力は失われた。
 八月クーデタにより新連邦条約の調印は流れ、共和国の独立宣言が相次いだが、国家連合形式での連邦条約締結を実現させようという努力をゴルバチョフはなおも続けた。「九プラス一合意」に加わった共和国の首脳たちにはこれに応ずる動きもあった。しかし、一九九一年一二月におこなわれたウクライナ国民投票において、独立を求める票が約九割となったことがゴルバチョフの努力に事実上終止符を打った。ロシアは一貫して、ウクラ(end229)イナ抜きの連邦はあり得ないとの態度をとっていたからである。
 一九九一年一二月八日には、一九二二年に連邦を結成する条約に調印した四者のうちの三者、ロシア、ウクライナベラルーシの首脳が会談し、一九二二年の連邦条約の無効と独立国家共同体(CIS)の創設を宣言したことによって、情勢は連邦解体へと一気に動いた。カザフスタンなどは、この三国のみによるCIS創設宣言に反発を示したが、結局これに合流することを決め、一二月二一日にはバルト三国グルジアを除く一一カ国がCIS結成で合意した。一二月二五日にはゴルバチョフソ連大統領の職務停止を宣言するテレビ演説をおこなった。ソ連という国家は、連邦を構成していた共和国によって解体される形で消滅したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、228~230)



  • 「英語」: 156 - 200
  • 「読みかえし」: 733 - 739


 なんどもさめながら、最終的に一一時すぎにおきあがった。天気は曇り。からだの感覚はけっこうよい。ぜんじつながく出かけていちにちの終わりにはほとんどくたくただったわりに、そこまでその疲労がのこっておらず、肌の感覚もざらついていない。帰路の電車内は立っていようがすわっていようがずっと目を閉じてじっとしていたから、その休息のおかげなのかもしれない。また、けっきょくのところやはりじぶんは最低でも六時間、できれば七時間くらいの睡眠をとらなければコンディションをよくととのえられないからだなのだとおもった。世のなかのたいはんのひともそうだろう。きのうは五時間くらいの睡眠ながらさめたときはけっこう冴えていたし、からだじたいはこごっていなかったのだが、往路で最寄り駅に立ったときなど視界があまりクリアでなくいつもより周縁からせばまっているようなかんじだったし、外出してあそんでいるあいだもたびたびあくびが出た。あれはやはりたんじゅんにねむりがすくなかったことによるのだろう。睡眠時間をみじかくしてそのぶんやりたいことをやり、活動しようなどというかんがえは捨てたほうがよい。きちんとねむって心身をしっかりやすめることのほうが健康にかんしてもパフォーマンスにかんしても大事だ。それでいえばほんとうはもちろん早寝早起きをしたほうがよいのだろうが、いつまでたってもそれは実現できない。
 水場に行って顔をあらったりトイレで用を足したりしてくると、ねころがってクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読んだ。一〇ページくらい。なにしろ改行がすくなくながながとつづく多層的な文体なので、読みすすめるのにもなかなか時間がかかる。しかしこのくらいの文章だったらふつうに読むだけならとくに苦にはならない。なにしろおれは『族長の秋』を七回読んだおとこだ。邦訳とはいえ、そんな日本人はこの国にほぼいないだろう。一一時四〇分から瞑想した。からだのかんじはすでにそこそこやわらかだった。二五分ほどすわり、上階へ。ジャージにきがえ。上着は部屋に置いてきたのでうえは肌着のみ。母親はなんかちょっとさむいよねといって、たしかにわからなくもないが、肌寒いとかんじるほどでもない。洗面所であらためて顔をあらったりうがいをしたりのあと、フライパンで煮込んだうどんで食事をとる。きのうナスを炒めたようだが、それなんかがはいっている。卓にはこんで新聞をみながら食事。日曜日の正午すぎなのでテレビは『のど自慢』がはじまるところだった。新聞一面にはウクライナ東部でウクライナ軍が反撃という報があった。ハルキウ(ハリコフ)で五つの集落を奪還したという。ロシア軍のほうも米欧からの支援を断つため補給拠点などを攻撃しているが、アメリカは補給には支障がないといちおう断言してはいる。バイデンは一億五〇〇〇万ドル分だったかわすれたが追加支援を表明し、絶え間なく武器弾薬を援助すると。そのあとページをめくってめぼしい記事をさぐっていたところ、いちばんうしろの社会面に、日本でも反ワクチンの陰謀論グループが活動を活発化させているという記事があり、なんでもQアノンの日本支部を自称するという「神真都 [やまと] Q」なる団体があるらしい。モノホンのにおいを如実にただよわせるなかなかの当て字センスだが、昨年の一二月に設立されてすでに一般社団法人としての登録もすませているというこの団体は、今年の一月のなんにちかにはなんと全国すべての都道府県で反ワクチンのデモを実行し、捜査当局によれば総計で六〇〇〇人が参加したとみられるという。けっこうな動員力。主張としては反ワクチンのほか本家アメリカのQアノンをだいたい踏襲するかんじらしく、だからひかりと闇のたたかいみたいなスターウォーズ的二元論で世界をみているようで(本家Qアノンによればひかりはドナルド・トランプであり、闇はいわゆるディープ・ステートである)、いまどきライトノベルでももうすこし世界に複雑さを導入しているのではないかとおもうが、とうぜんドナルド・トランプを信奉し大統領選挙は不正だったのでやりなおすべきだとかんがえており、またウクライナ侵攻にさいしてもプーチンは救世主であり正義だととなえているらしい。そのほか、「龍神天王」なる存在もあがめているらしく、なかなかすさまじいモノホンのスピリチュアリストたちのようだ。組織は執行管理部とか広報方面とかいくつかの部署にわかれており、港区白金台に本部をもっていて、幹部になんとかいう元俳優がいて、このひととほか四人は渋谷区のクリニックに押し入った容疑で逮捕されており、それで一時活動は停滞しているようだが五月中旬には再開するということを予告しているという。いまさらではあるけれど、ほんとうに漫画のなかに出てくるような組織がそこそこの勢力をもって現実化してしまう世なのだなと。
 うどんをよそったときに、タケノコを湯がくのにつかった巨大な鍋を移動させてほしいといわれてうつしていたのでながしはせまくなっている。そのすきまで食器を洗い、風呂も洗って、出てくると大阪のお母さん((……)家の母、すなわち(……)さんの母親)にもらったというほうじ茶を飲んでみることにした。一保堂というメーカーのもので、母親がいうにはゆうめいな店でけっこう高い品だろうという。つくって部屋にもちかえり、飲みながらNotionを用意したりウェブをちょっとみたりして、そのあと音読。あいまに、新聞一面下部の出版広告に『天才たちの習慣 女性編』みたいな本があったのをおもいだして、ちょっと気になってしまったので検索し、女性編ではないが類似の本についてしるされた記事を瞥見した。みるとやはりみんな散歩してたよねというはなしがひとつにはあって、『ウォークス』でも読んだがキルケゴールコペンハーゲンの街をひたすらにあるきまわっていたらしいし、ディケンズはまいにち昼食後だったかに三時間あるくことを習慣にしていたらしい。チャイコフスキーも二時間。あるきすぎでしょとおもうが。エリック・サティもパリから労働者地区にあった家まであるいて帰る習慣で、そのとちゅうでアイディアがおもいつくとたちどまってメモをとっており、だから戦時統制で灯火が制限された時期は生産性が落ちたという分析すらあるらしい。二時間三時間はあるきすぎとしてもやっぱり散歩を習慣化できたほうがいいのだよなあとおもった。生産性だのクリエイティヴィティだのの側面はおいても、じぶんの日々の書きものの充実はまあだいたい外出して風景をみたか否かによっているし、たんじゅんにやはり健康、からだをととのえるという面の考慮がおおきい。その記事の下部に関連記事のリンクで、すわりつづけているのは喫煙とおなじようなものかもしれないと示唆しつつ「散歩会議」をすすめるようなタイトルがあったのでそれも読んでみたが、長時間すわるのが常態化するとやはりやばいと。それに触発されて立つ時間をつくろうとおもい、だからいまこの文は立位でつづっている。ここまで記して二時四七分。とはいえ立ったまま作業をするのは、下半身がほぐれていないとなかなかたいへんではある。きょうはやわらかくなっているのでいまのところ苦がないが。そしておれは気づいてしまったのだが、本だって脚と腰がゆるすのなら立ったままで読んだほうがよいのではないか?
 うえの記事を読んであるきたいきもちが生じており、なんとなく図書館にでもひさしぶりに行こうかなというおもいがないでもないのだが、記すべきことがらもおおいはおおいのでどちらつかずの状態。図書館に行っても、いまシモンを読んでいてそれを終えたら読書会のためにホッブズを読むので借りることはできない。ただなんとなく棚の本を見分しておこうかなというきもちがある。

 
 血流と健康のために立位の時間をより確保しようというあたまがあり、また書抜きをしたい気にもなっていたので、白いデスクにコンピューターを置いて書抜きにとりくんだ。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)。BGMをながすことにして、ディスクユニオンのフリージャズの新譜紹介ページをみるとHermeto Pascoalの名がまずあり、この作品はまだ入荷していないというのでAmazonにもないだろうとおもいつつ検索し、『Hermeto Solo: Por Diferentes Caminhos (Piano Acustico)』というアルバムをえらんだ。Hermeto Pascoalってピアノソロアルバム出してたのかと。なかなかよい。それで書抜きをすすめていま四時まえ。図書館にはやはり出かけることに。あしたからまた労働だしそんなに余裕があるとはいえないが、そとをあるきたいというきょうのきもちをきょうはころさないことに決めた。


 いま帰宅後、七時まえ。また書抜きをしている。こんどは井上輝夫『聖シメオンの木菟』。手帳にメモしておいたちょっとしたぶぶんのほう。詩人だけあって細部のささやかなことばのつかいかたでもこれはいいなとおもうものがおおい。冒頭の創作的なみじかい篇では、砂漠に住んでいる熱病で錯乱したおとこの、「見えるぞ、見えるぞ、愛らしい野の花が春風にゆれているのが、薄いまるで夕べの雲の一片のような花弁だ。雪花石膏 [アラバスター] のような茎だ。沈黙した天使の後姿のように美しい花だ」(21)というセリフの、「沈黙した天使の後姿のように」という比喩がよい。紀行篇にはいってからは、「翌朝、四十度を突破する灼熱の太陽に容赦なく発 [あば] かれたダマスカスの市街は砂ぼこりにまみれた石の褐色の堆積だった」(33)という一節中で、「発く」という書きかた読みかたをはじめて知った。表現としてもなかなかよい。じぶんでもつかいたい。

 そういえばいま唐突におもいだしたが、ほうじ茶を飲み終えたあと昼過ぎに白湯をそそぐため階をあがったさい、テレビは『開運! なんでも鑑定団』をうつしていたのだが、木をえがいたいちまいの絵がいまとりあげられており、暮れがたのような黄色みをちょっとはらんだほの暗いような背景のなか木のこずえがややそよいでいるふうにもみえるその絵に、カミーユ・コローではないか? となまえをおもいだしたのだけれど、白湯をついだあとにテレビにちかづいて右上のテロップを確認してみると、まさしくそうだった。コローの絵をみた機会などほぼないし、美術展に行ったことのある回数もぜんぜん豊富でないのに、わかるもんだなとおもった。

 四時ごろになると外出の支度。歯を磨き、上田正樹とありやまじゅんじの『ぼちぼちいこか』をながしつつちょっと屈伸したり開脚したりして、そうしてきがえ。だれに会うわけでもなしそんなに着飾らなくてよいだろうとおもい、ジャケットはパスして上着は灰色チェックのスプリングコートみたいなやつにすることに。したはブルーグレーのズボンを履き、うえはわりと安かった白いシャツ。Tシャツにブルゾンのスタイルをとりたい気もしたのだが、曇りの日だしそれではまだ寒いかなとおもったのだ。モンドリアンの配色を意識したらしいPOLOのちいさなショルダーバッグをからだにかけた。そうしてうえへ行き、真っ赤な靴下を履いてハンカチをとり、玄関であかりをつけて雑多なものの整理かたづけをしていた母親に出かけると告げる。トイレで小便をして出発。徒歩なのでみちに出ると東へ。父親が林縁の土地の草を機械で刈っていたので手をあげてあいさつ。曇天の大気にいま風はなく、みちを行きながら首を横にまわして近間の家並みに目をやると、(……)さんの家の鯉のぼりも何匹ともわかたれずだらりとたれさがって竿にまつわっているばかり、坂にかかりながらみぎて下方にみえる建設中の建物はもうだいぶかたちができて壁かシートか白いよそおいにかこまれていた。ひだりの林をふちどる樹々のしげみからおとが立つのは風のながれではなく声を散らす鳥がいるのだが、諸所で散発的に葉がうごくのみでそのすがた軌跡をとらえられない。みちの両側には葉っぱがゆたかに落ちて枠線を塗り、地面の幅をせばめているが、地になじんですでにながく生気をうしなったそのいろは、みどりは仮借なく抜かれかといって落ち葉によくある香ばしげな茶色をあたえられるでもなく、白っぽく褪せてはいるけれどなんといったものかどうにもつかめない、もちろんうつくしくもないしといってきたなくもなく、だれも目にとめないような、絵画の対象にもあえてえらばれないような、とにかくこれといったいろみをもたない無実質なくすみいろで、葉というよりも実を捨てて役目を終えたあとの殻に似たような、ある種のうすい砂のようないろかもしれず、もしかするとああいうものを土気色と呼ぶのかもしれない。坂を越えて街道にむかうとちゅう、ゆるいカーブの角にあたる一軒のよこ、ガードレールのそとに生えたコデマリは、小毬の球はたもっているものの白さのなかに褐色の粉もまじって饐えはじめており、それをみていると柵の足もとにスズメが一羽あらわれて、脚をすこししずかにしたこちらの気も知らず、目をはずしているうちにいつか消えていた。
 街道は果てまでつづき、視界がひらく。みちを越えてさらにつづく空はみずいろのどこにもみえない一面の曇り、おおかたは練ったような白のなかに灰なり淡青なりたしょうは差して、とおくにすじやら襞やらほそながい段やら、うねりも浅くえがかれはするが、いずれ敷かれ詰めこまれ閉ざされた天である。それでいてなのかそれゆえになのか、風はとぼしい。みち沿いの公園には子どももおとなもひとりもいなかった。老人ホームのある角で裏にむけて曲がると、そこに立つ桜にとまっていたのがホームのうえに移動したカラスが、建物は四角くアパートのようで屋上もたいらのはずだがあるくとギシギシおとが立ち、カーカー鳴く声の鳥というよりは間の抜けたにんげんの声のような、あくびじみて吐かれた気息のような暢気さだった。いつであれどこであれ、おとはあるものだ。裏路地を行きながら耳が聞くのは、川面に落とされる小石のような絶え間なく散る鳥たちの声、老女ふたりのあるくあしおととその話、いえうちや庭にいるひとの気配、室外機の稼働音、車、耳の穴のまえをすぎていく微風のひびき、などだった。とちゅうで家がこわされたあとらしき空き地ができており、だれが植えたわけでもないはずのナガミヒナゲシが、健康的なオレンジ色で無償のいろどりをそえている。
 (……)駅まであるき、なかにはいってホームへあがると二号車あたりに乗車。席につくとむかいの壁に、「ライブ配信で一億円稼いだ話」とかいう広告板があるのをみて、一億円もかせげればいいよなあとおもった。それで目を閉じて到着を待っているあいだ、もしじぶんが宝くじとかなにかのまちがいで一億円を手にしてしまったらだれにいくらあげようという無益きわまりない夢想をしていた。これほど豪気な皮算用もあるまい。家族にはまあいちおうわけようかなとおもうし、もし大金がはいったらあげたい友だちもいくらかいる。仮に一億円あったら(……)さんにははんぶんの五〇〇〇万円をわけていいとおもっている。
 (……)について降り、ホームをあがって改札をぬけ、図書館へ。来るのはかなりひさしぶり。入館して手を消毒。雑誌のコーナーで『思想』の最新号の表紙の記事タイトルと『現代思想』の表紙をみてから上階へ。新着図書。そんなにめぼしい本はなかった。佐藤亜紀のなんとかいうあたらしい小説があった。タイトルがけっこうかっこうよかったのだけれどわすれてしまったが、なかをぱらぱらみるとベギン会とかみえたので、たぶんベルギーあたりを舞台にした中世物だろうか。ほかにもうひとつ海外のひとの本をてにとった気がするのだが亡失。『ベニー・グッドマングレン・ミラーの時代』みたいな題の本もあってちょっと気になったが確認はせず。それからフロアの端の総記のあたり、書評本があつまっている区画、ふりむいて中公新書(英文法関連の本をいずれ借りて読みたい)、棚の裏側にいって哲学、倫理学などと見分したが、たしょうあたらしい本はくわわっているもののもうほとんどは見知った顔である。そのうちじっさいに読めたものはほとんどないが。それから海外文学のほうへ。そのまえに英語の区画(ここにもたしょう借りて読みたいものはある)、詩のばしょなど瞥見し、そうして英米文学のコーナー。ウルフは『幕間』も『波』もあり、西崎憲訳の短篇集の復刊もある。エッセイのほうでは平凡社ライブラリーで『三ギニー』と『自分ひとりの部屋』もある。このへんはぐずぐずしていないでさっさと読まねばならない。そこからドイツフランス南米イタリアなどと移行していって、読みたいものはもちろんいくらもあるが、すごくおっ、となって印象にのこるほどでもない。ベルンハルトが四冊あったのは読みたい。家にも『消去』があるのでさっさと読むべきなのだが。
 もともとなにも借りるつもりはなかったのではやくも帰ろうかとおもったが、さいごに映画や音楽らへんをみておくことに。セロニアス・モンクの伝記があったのでこれは読みたい。美術の区画をみると岡崎乾二郎の『抽象の力』もあってこれはねらいめである。よく買ってくれた。まえになんかネット上で読んだような記憶もあるのだが。あときょうの新聞広告でみてうえにもふれた『天才たちの日課 女性編』というのもなぜか美術のところにあってみてみたが、おもいのほかに自己啓発臭が濃くはないというか、このひとはこういうことをやってましたバーン! みたいなかんじではなく、そのひとのいちにちの過ごしかたとか生活についてのかんがえかたとか仕事ぶりとかを証言や典拠をきちんと引用しながら数ページに要約して紹介している趣向で、おもったよりもちゃんとしていて意外とおもしろそうだった。スーザン・ソンタグのところなど瞥見した。ほんとうに瞥見しただけなので内容が印象にのこっていないが。訳者のひとりは金原瑞人
 そうして帰ることに。たいして長居していないが、それでも五時四〇分ごろになっていた。館をぬけて円形の高架歩廊をとおり駅舎にはいる。改札をくぐってホームにくだり、だれもいないベンチについて電車を待って数分、来ると乗って席にしばらく瞑目し、降りると乗り換え。自販機で菓子でも買ってかえろうかなという気になっていたのでホームを行って当該のばしょをめざしたが、行けば電車待ちのひとがそのまえにいてきおくれしたので、まもなく来る電車を待つことにして立ち尽くし、着いてひとが去ると品をみて、チョコレートとちいさいポテトチップスのたぐいを買った。身につけているショルダーバッグにいれて袋をふくらませ、いちばんうしろの車両に乗って最寄りへ。ゆっくり帰路をたどった。
 かえりつくと立ったりあるいたりで血がめぐっているらしくやる気がじゅうぶんだったのでジャージにきがえてすぐに立位できょうの日記を記し、とおもったがそうではなくて書抜きをしたのだった。七時をまわるくらいまでやって、そうするとさすがに脚がつかれたので一時ベッドでほぐしながら休み、七時半をすぎると食事。うどんののこりやスンドゥブなど。(……)さんのブログを読みつつ。あがって食器をかたづけ、もどると日記を書いたのだったかな。そうだ。九時で入浴。束子でからだじゅうを念入りにこすった。きのうあらためて実感したのだけれどこれをていねいにやるとやはりからだはめちゃくちゃすっきりする。出てもどると菓子を食いつつまた(……)さんのブログを読んだ。四月二九日に一〇年いじょうまえのおじいさんとのやりとりが引かれていたがこれがよくて、「「恩賜」(当時でいうところの生活保護みたいなものらしい)を受けているものは手を挙げろと言われたとき、小学生当時の祖父は恥ずかしさから手を挙げることができなかったという。それを見とがめた担任教諭が祖父のそばにまでつかつかと歩みよってきて、尋問したあげくにビンタではり倒し、倒れ込んだ祖父の首根っこをつかんでふたたび起き上がらせたところで今度は拳骨で鼻血が出るほど殴りつけ、最終的に教室の後ろで立たされることになったじぶんのもとに教室全体からずらりと集めよせられた五十対のまなざしの矢、それを忘れることがどうしてもできない、五十年六十年経ってもじぶんの頭の中に焼きついていて貧乏の恥ずかしさ悔しさがいつになってもぬぐいきれない、と祖父はじぶんと顔をあわせるたびにその話をくりかえす」というぶぶんがすごかった。そのあとのドロドロしたはなしもすごいというかこれでもう小説じゃんというかんじなのだけれど、ドロドロしていて私的なので個人情報に配慮していちおうブログには引かずにおく。その後日記をつづり、ここまでで一一時。あしたから労働めんどうくさい。
 あとわすれていたが図書館からの帰りに(……)駅のベンチにすわってバッグのなかの携帯をみたところメールがはいっており、(……)からで家の審査通過したよということだった。よかったよかった。Gmailに転送しておいて帰宅後に添付されていた請求書のPDFをみたのだが、もろもろの費用で一三万くらいを一二日までに振り込むべしということで、やすくてせまい部屋に住むためにもなかなか金がかかるもんだ。(……)には礼をいい、こんど飯おごらせてくれと返信。


 その後は五月一日の日記を綴ってしあげ、投稿したくらいでおおきなことはなし。だらだら夜更かしして寝たのはおそかった。もう白みはじめて鳥の音がはじまっているころだった。

2022/5/7, Sat.

 独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきソ連の勢力圏とされ、まもなくソ連に併合されたバルト三国では、その歴史的経緯に加え、多くのロシア人が移住していたことによって現地の民族が危機意識を強め、反連邦の急先鋒となった。一九八八年六月、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの各国で人民戦線が結成された(リトアニアではサユディスと称した)。いずれも民族的価値を尊重し、グラスノスチによる民主化を進め、共和国の権限を強化することを目指すものであった。バルト三国の共和国共産党内でも、これに同調する「改革派」の動きが活発化し始める。
 一九八八年一一月、エストニア共和国最高会議は主権宣言を採択するとともに共和国憲法の改正を決定し、連邦の法令は共和国最高会議の批准によって効力を発すると定めた。共和国側の拒否権を定めたのであるが、この時点では、エストニア最高会議内でも独立を追求する者と、連邦内での主権国家を求める者とが入り混じっていたと言われる。ソ連最(end226)高会議幹部会は、この決定は連邦憲法に違反し無効であると宣言したが、翌一九八九年にはリトアニアとラトヴィアも主権宣言を採択した。この年の一二月に連邦の最高権力機関であるソ連人民代議員大会が、それまで存在しないとされてきた独ソ不可侵条約付属秘密議定書の存在を確認して非難したことは、バルト三国ソ連加入自体の正当性と合法性を疑わしいものとした。バルト三国は一九九〇年には独立を宣言するに至った。
 とはいえ、これによって独立が達成されたわけではない。最も急進的なリトアニアに対しゴルバチョフは独立宣言の取り消しを求め、拒否されると経済封鎖に踏み切った。一九九一年一月にはリトアニアとラトヴィアで、連邦の治安部隊と独立派市民たちとが衝突する事態も起こった。
 他の共和国においても一九八九年から一九九〇年にかけて同種の憲法改正や主権宣言が次々となされていき、一九九〇年には連邦の中心的存在であるロシア共和国までが主権宣言を発するに至った。主権宣言は、連邦の存在を一応前提としていたが、連邦法に対する共和国法の優位が主張され、両者が矛盾した内容を持つ「法の戦争」とまで呼ばれる状況となったことは、この時進められていた市場経済化への取り組みの混乱と困難を増大させた。そのためゴルバチョフは、新たに連邦と共和国との関係を規定する「新連邦条約」の締結によって、連邦を維持し、共和国との関係を整序することを目指したが、共和国が自(end227)立性を高めることによって連邦中央はその存立基盤を掘り崩されていき、国家連合的な性格を強いられていく。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、226~228)


 八時のアラームを受けるよりまえにめざめていた。六時台にもさめた記憶があるし、七時台にはもうわりとはっきり覚醒していて、しかし睡眠がすくないからアラームまでからだをやすめようと、七時半を確認すると布団のしたであおむけになり両手をからだの脇に置いて静止し、気泡がぷつぷつ割れていくように肌がじわじわほぐれていくのをかんじていた。そうしてアラームをむかえるとおきあがって携帯をとめ、洗面所に行ってきてからふたたび臥位に。カーテンをひらけば空は青くて空気はあかるく、ひかりが、太陽はまだ東だから顔のほうにはかからないものの、鋭角をなして窓と交差し太もものあたりにやどりぬくもった。クロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読む。やはり括弧付きの独白をはさんで、もしくはそれを媒介にして時空を転換させるやりかたがおおい印象。ただひとつひとつの場面や時空の滞留は比較的ながく(この朝は110からはじまって128の一行目まで読んだが、そのあいだに時空がうつったのは二回だけだったとおもう)、ある場面での時系列的に順当な推移がしばらくつづいたあと、ながい独白にうつってそのうちいつのまにかべつの時空になっている。とはいえ転換点はわりとわかりやすいし、そんなにせわしなく入り乱れているというかんじはうけない。各時空がそれまでに出てきたなかのどこなのかというのもほぼ同定できる。せわしなさやめくるめくような感覚でいったら『族長の秋』のほうがよほどつよいとおもう。ただシモンの転換のやりかたはガルシア=マルケスよりはやはり融解的で、ぬるっとしたかんじの移行をしている。それもそうで、『族長の秋』のあれはやはりいちおう叙事の作法なのだ。だから個人の記憶や意識を語る語りのそれとはおのずからちがう。歴史や神話を語るもののそれにちかい。『族長の秋』の語りはめちゃくちゃ高度で高速でありカバーする時空の範囲もひじょうに広大ではあるものの、あくまで大統領というひとりの他人の生と事績を語るもののそれであって、「われわれ」を基盤としながらそこにさまざまな民衆の声が召喚されて、いわば証言録のおもむきもいちぶ盛りこまれてある。あの作品は散文の形態をとった叙事詩だということで(マルケスじしん、あれは散文詩として書いたとインタビューで言っていた)、そこで叙事詩人、吟遊詩人となっているのは総体としての不特定多数の民衆全員だということになる。ひとりひとりの民衆それぞれがうたう叙事詩文としての声がつなぎあわされ一体となり、ひとりのにんげんの生から死までを(大統領の誕生時のことが書かれていたかどうか記憶にないのだが――とおもったが、「ふいごのようなおならをした」みたいな赤ん坊の描写があった気がする――とおもったが、これは大統領じしんではなくその子どもについての一節だったかもしれない)、ならびに国の歴史をひたすら追いかけ描く物語となるのだ。めちゃくちゃおもろいやん。あの作品においてできごとの時系列はなぜみだされ、なぜ語りは編年体をとらないのか? 話者が単一の存在ではないからである。つまり、すべての民衆が権利上平等に語りに参入する資格をもっており、かれらがそれぞれ見聞きし知っているのは大統領の断片でしかなく、かれらかのじょらの存在には順序がないからである。寄せ集められた声の複数性と、語りにおける無秩序(ただし統制された無秩序)は対応している。


 この日は昼前から出かけて(……)、(……)くん、(……)の三人と東中野をあるき、その後(……)の(……)家で夜一〇時半ごろまですごした。なんだかからだがすこしざわざわしていた日で、往路の電車内ではさいしょのうち、けっこう緊張をおぼえて嘔吐恐怖がうすくあった。体内の感覚がうごきすぎているようなかんじ。瞑目してじっとやりすごしているうちにだんだんとからだが安らいでくるのでおちついたが。東中野についたのは一時ごろ。中野でおりてのりかえたのなんてだいぶひさしぶりだ。津田沼行きは五番線だったが、大学時代はよくこの五番線から東西線に乗って大学に行ったものだ。それでつくと雨が降り出していた。改札にむかい、三人と合流。(……)が会うなりなんか気づかない? とききながら髪をみせるようなそぶりをするので、ああと気づいて笑いつつ、髪染めた? といった。しかし見た目ではほとんどもとの黒と変わらないので、まえにLINEでとつぜん髪を染める気になった、つぎに会うときには茶髪だといわれていなかったらわからなかっただろう。改札を抜け、雨が降っているのでどうするかとしばらくはなしたのち、次第におさまってきているようすだったのでともかく出ることに。駅を抜けるとまだたしょう降っていたが、もともと行こうかと話題に出ていたロシア料理屋まで数分のようだったので、濡れるのをいとわずあるくことになり、コンビニで傘も買わず通りを行った。頬につめたいもののたいした降りではなかった。あるくあいだは(……)とならんでたしょう雑談。いくらかまえにこちらの日記をひさしぶりに読んだことをおもいだしたと(……)はまえ置き、Jack DeJohnetteへんだよねといってきたので、ってことはKeith Jarrett Trioきいた日だなと受けて、そう、なんかわからんけどちょっとへんだよね、と同意した。まだ若いときにBill Evans Trioのライブで、モントルーでやったやつがあるんだけど、スイスの、そこではふつうにガンガン叩いてるかんじなんだけど、Keith Jarrett Trioでやってるときはなんかよくわかんないね、繊細ではあるんだろうけど、というと、(……)も、裏でちょこまかやってるけどそんなに目立つでもないし、どういうアプローチなのかはっきりしないし、ドラムやってるひとでもないと気づかないというかおもしろくないだろう、というようなことをかんじていたらしき返答があった。こちらはけっこう嫌いではない。気づかれないところで好きに遊んでいるというか、わりとわが道を行っているようなかんじがないでもない。ときおりシンバルのつかいかたで美しい瞬間もあるのだが。
 そうこうするうちに店に到着。「(……)」という、ロシア語なのだろうか、どういう意味かまったくわからないなまえ。入店。まあなんというかイメージでしかないが、ロシアの場末の居酒屋とか田舎食堂みたいな雰囲気をかんじないでもない。最奥、店内隅のテーブルにとおされ、こちらは壁を背にしたがわのひだり、となりは(……)くんでむかいに(……)、みぎななめまえが(……)という席取りになった。中年の女性店員(このひとの顔や雰囲気がどこかでみたような気がするものだったのだが、既視感のみなもとがわからない)がメニューというかセットがいくつか書かれた看板をもってきて注文をきく。(……)と(……)くんがボルシチに魚のグラタンのセット、(……)はピロシキボルシチのセット、こちらはチキンカツレツのセットと全種類コンプリートされた。どのセットにもコーヒーがついてくるのだったが、(……)がカフェインがだめなのでお湯でいいです、といったのにじぶんもそうするかとおもい、ぼくもそうなんで、とたのんだが、いったんさがったあとにすこししてから女性はまた来て、いつもできるわけじゃないんですけど、いまはルイボスティーが用意できるので、それにしましょうかと提案してきた。それでふたりともこの茶を飲むことに。
 (……)くんと(……)いわく、グラタンはよくある日本風の味つけとはなにかちがっていたらしい。チキンカツはけっこうおおきなものが二枚あってなかなかボリューミーであり、揚げられた肉のうえにはトマトとあとタマネギだったかをこまかく刻んだ酸味のあるソースがたっぷりかけられていた。うまそうだったが、まだ胃のあたりがなんとなくざわつくような気がしたので、ぜんぶだとおおいかもしれないとおもい、無理はせずにほかの三人にわけることにして、ナイフで肉をきりわけていちまい分をみなに配った。腹の調子があまりよくないからといって(……)におおめに恵んでやった。食えばうまい。マッシュポテトがたくさんそえられているのもよい。しかしやはり万全のコンディションで食べればもっとうまかっただろう。
 こちらと(……)くんの背後の壁には「Ramen egg」なる直截な題の、卵のなかにラーメンがはいっているというややシュールレアリスティックな絵がかかっていて、むかいがわ、(……)の席の脇の壁、つまりこちらからみて右側の壁にもなんらかの絵がかかっており、背後のラーメンエッグとそちらの絵柄は雰囲気がちがうようにおもわれたが、どちらもおなじ作者だったのかどうか。また、店を出るまえにトイレに行ったがそのとき便器のむこうの壁にもちいさなものだがやはりシュールレアリスティックな絵があって、それは海のうえでザクロから真っ赤な魚(タイ?)が飛び出し、さらにそこから虎が(たしか二匹)飛び出しているというもので、記憶が不確かだけれどみぎがわには船の甲板も描かれていたかもしれない。シュール度でいうとこれがいちばん高かった。印象的だったのでその後(……)くんや(……)がトイレに行ってからもどってきたあと、トイレにあった絵みた? へんなおもしろい絵だったよ、とおしえたくらいだ(ふたりともみにいっていた)。
 食事中に交わした会話はほとんどおぼえていないが、実家を出るつもりで物件も決めていま審査中だということをつたえた。不動産屋につとめている(……)に相談してしらべてもらって、という経緯もたしょうはなす。(……)はえらいとか行動力があるとかやたら称賛したが、そもそも行動力があるにんげんだったら三二になるまで経済的に依存しながら親元にとどまってなどいない。とはいえ(……)のそうしたことばはお兄さんのことを念頭において発されたものだったようで、かのじょの兄は統合失調症をわずらいながらもいまはたぶんけっこうよくなって、作業所を出たあと家のちかくではたらいているのだけれど、お兄ちゃんもまえから家を出るって言ってるんだけど、ほんとに出るかな? って疑問があって、わたしはべつにそれでもいいんだけど、ただいまはたらいてるところが家から五分くらいなのね、だからしょうじき出る必要ないのよ、というはなしだった。
 個別で会計して退店。チキンカツレツセットは九〇〇円。そとに出るとまだたしょう雨はあった。きょうの企画は東中野のまちをてきとうにぶらぶらあるいたのち短歌をものしようというもの。それでいきあたりばったりでてきとうに行く方向を決めつつぶらついた。とちゅう、「KAZE」という演劇グループの稽古場みたいな建物があり、そのまえには公演のようすをうつした写真がいくつも掲示されていて、『ハムレット』があったり、ブレヒトの作品をとりあげたりしていた。そのなかのひとつに字幕つきのものがあったのだけれど、そこに書かれていたセリフが、「要するに、おれが愛した女は町の衛生を気にしていたんだ」みたいな文言で、(……)くんがそれをみてどういうこと? とわらっていた。そこからみちぞいにすすむ。まもなく小学生女子三人がわれわれを抜かしていったのだったか前方にあらわれたのだが、(……)がそのうしろすがたをみて、さいきんの小学生脚ほそくてながいね、と評し、たしかにみぎのふたりは細身のジーンズかなにかおとなっぽいようなズボンを履いていて腰の位置がたかくみえる。(……)としてはいちばんひだりの子がいちばんほそい、とこちらはハーフパンツ的なみじかい履き物から脚を露出させている女子が目にとまったようだった。そのうちにかのじょらとの距離がすこしちぢまり、小学生たちは通りのむかいにわたっていったのだけれど、(……)がそこでまたなんだったかかのじょらに言及して、その発言がけっこうふつうにしゃべるおおきさだったので、あいてに聞こえるぞとおもった(べつにわるく言うような内容ではなかったが)。のちほど線路の北側にうつって沿線をあるいていたときも、背のひくくてこじんまりとしたような体躯の高年女性がすたすたあるいてわれわれを抜かしていったさいに、からだはちいさいけど意外と背すじが立っててきれいにあるくね、かわいらしい、ホビットみたいな、とか評していて(たしかホビットだったとおもうのだが)、このときは声をたしょうひそめてはいたけれどやはりばあいによっては聞こえるかもしれないという距離だったので、かのじょはそのへんあんまり気にしないんだなとおもった。
 演劇集団の拠点をすぎてしばらくすると川のうえにさしかかり、神田川らしかったので、これが神田川なのか、あのうたになってる、といったがみな知らないという。南こうせつ知らない? ときいても知らないと(……)がいうので、あなたはもおお、わすれたかしら、たらら、たららら、とあまりきれいな音取りではないがメロディをうたうと、ああそれ? 知ってる、という反応があった。それで橋をわたって上り坂をすすむと行く手に看板が出てひだりにはいると北新宿公園とか図書館があるとあったので、そちらに行ってみることになった。すぐに公園があらわれて、そのまえにつらなっている並木をみた(……)はいいね、あの木がいいねと肯定の言を投げ、なんの変哲もない針葉樹たちを褒めてみせるのにちょっとわらってしまったのだが、あんまりああいうおおきい木がならんでるのみないから、みたいなことをいっていた。たしかに、こちらの家だったらまわりにいくらでもあるが、(……)だの(……)だのにいれば公園にでもいかないかぎりまちなかでは目にしないかもしれない。北新宿公園では少年野球がおこなわれているところで、子どもたちの声とともに応援したり檄を飛ばしたりするおとなの声も飛んできて、縁に沿うようにみちをすすんでいってみぎに折れると私服すがたの子どもが歩道との境あたりになんにんか立って、野球をみるというよりはただそこにたむろしているような気ままさでいるそのむこうにグラウンドがのぞいて試合のようすがみえるのだが、ユニフォームに身をつつんだ少年たちはみなまだまだからだのちいさいあどけないようなすがたで、背丈からして小学校一年から三年、低学年の子たちとみえた。公園をすぎると公民センターみたいなものと一体化した北新宿図書館があり、われわれがそのまえに来て子育て支援掲示をみたりしているとき、二階からなにやら怒声がきこえていた。裏路地をそのまますすむ。おおぶりのピンクのツツジがさきほどの雨の水滴を花の表面にのせながら群れて咲いている角があり、(……)がそれをみてオオムラサキかといったのを、こちらはいっしゅんちょうちょがいるのかとおもったのだが、(……)は花についていっているらしかったので、ツツジオオムラサキという品種があるのかとここではじめて知った。ツツジだということしかわからん、種類とかぜんぜんなにも知らないと言い、コムラサキもあんのかな、蝶となまえのつけかたおなじじゃんと笑った。曲がってさらにすすんでいくととちゅうで圓照寺という寺があったのではいることに。ほそい参道にはいると山門(というほどでかいものでもなく、そもそも山でもないが)から出てきて帰る女性が三人むこうから来て、ひとりは高齢でもうふたりは中年、そのうちのひとりが老女に介添えするようにしながら、あらあらあら! まあ! みたいなあかるくかしましい調子でお姉さんがどうのこうのとか老女にきいており、そのようす(おそらく主に声のトーン)を見聞きして(……)はわらっていた。みちの左右には植え込みがつくられてあり、なかに葉っぱがところどころぐじゅぐじゅと変形したような、化膿して畸形的にめくれもりあがった皮膚がそのままかたまってしまったかのようになっている木があって(ゴッホの絵画にあるが、厚塗りしまくってキャンパス表面から絵の具がもりあがり皮が剝がれたかのように乾いているあれをちょっとおもいおこさせなくもない)、なんだろこれ病気なのかなと(……)くんと言い合ったのだが、その脇に寺の由緒を説明した掲示があり、真言宗で、だから空海弘法大師)の名がみられ、総本山は奈良桜井の長谷寺とあった。門をくぐって寺庭へ。ひとはおらず、しずかななかに鳥の声が散ったり走ったりひらめいたりして、微風のささめきが回遊する。門をはいって左方には鐘があって、説明掲示をみるに江戸時代のもので新宿区の有形文化財に登録されているらしかった。門からすぐ正面には大樹を中央に据えた草木の一画があり、樹のまえには横向きに段層的なすじのはいった岩があって、のちほど(……)がこれについてこのすじはなんなんだろうどうやってついたんだろうと疑問を口にしたので、地層みたいだよね、やっぱりみずのながれで削られたんじゃないか、川か海のなかからとってきたんじゃないか、あるいはいまは山になってても太古のむかしに海だったところにあったんじゃないか、などとみなではなした。奥には本堂があり、(……)は賽銭をいれて参っていたようだ。けっこうおおきめの階段が一〇段いじょうはあって年寄りには賽銭箱のまえまでのぼるのもたいへんそうだが、こちらはその階段のとちゅう、頂上のすこししたにこしかけてあたりをみまわし、(……)もこちらからみて右下、はんぶんほどの地点にはさまれた段のくぎりスペースのあたりに腰をおろしていたが、(……)くんがそんなわれわれを写真におさめていた。しばらく滞在して退出。参道をふちどっている草の葉のうえに水滴がたまっているのを(……)くんが葉をさわってゆらしていたのでこちらも葉っぱをぺしぺし人差し指でたたくようにすると、撥水効果がはなはだしくみずの粒はにぎやかにうごいてまとまるとともに跳ねあがって葉のそとへ身投げしていくほどだったので、すげえなこれ、スライムみたいになってるとわらった。
 寺を出てみちにもどると鳥の声がひとつしきりにあたりに降っており、みなでみあげてじきに電線のうえにとまっているすがたがみつけられた。(……)だったか、オウム? といって、さすがにオウムはないだろうとわらったところが、曇天を背景に影となったシルエットの尾がながく、たしかにオウム(というかインコか)のかたちにみえなくもなく、影のなかにみどりっぽいいろもふくまれているような気もしたので、野生化したのかなとつぶやいた。そこから小坂をのぼってひだりに折れ小学校の脇にはいるあいだ、(……)の家でむかしヒヨドリを飼っていて(どうもそのへんから勝手につかまえてきたらしいが)、それが二度脱走しながらどちらのときもみつかってもどすことができたというはなしが語られた。いちどめはわりと苦がなかったらしいが、二度目のときは奇跡的で母親があてずっぽうにさがしにいったらちかづいても逃げずにのろのろしているやつがおり、たぶんあれだなとおもって呼びかけると確保できたと。そんなことある? とわらい、わかんないよそのときべつのやつといれかわってるかもよとむけたが、怪我だか傷だかがからだのどこかにあって個体識別はまちがいないとのことだった。
 線路にいきあたった。オレンジ色がさしこまれた中央線の電車がとおりすぎていくのがみえた。Google Mapをいまみてみると、これは東中野から大久保へむかう線路である。高架というか壁のうえを行くようなかたちになっており、そのしたをくぐって北側へぬけたあと、北新宿ということなのでもしかすると落合とかがちかいのか? と大学時代にいきかえりでとおりすぎた地名をおもったが(降りたことはたぶんいちどもない)、Mapをみるとぜんぜんそこまでではない。東中野駅からまっすぐ北にむかうと落合があるが、われわれがこのときうろついていたのは駅から東の方面である。時刻は三時半くらいだったはずだ。そろそろ短歌をつくりたいということで、ちかくに公園があればそこにいこうとの声に(……)くんが地図をしらべると、まぢかにあるようだったので裏にはいっていくと、鉢植えやら花がもう枯れてしぼんでいるツツジの茂みやら低めの木やら、やたらと植物にかこまれている公園にたどりついた。大東橋公園といった。なかにはいるとちいさな子と親の組があって幼児があそびまわったりしており、のちにはきょうだいなのかフリスビーをやる少女と少年がいたり、母親といっしょにシャボン玉に興じる女児などもいた。ここできょうの散歩をテーマとしながら短歌をものすることに。(……)がビニールシートをもってきていたので(……)くんが低木のしたにそれを敷いて、花は咲いていなかったがまるでひとり花見のようなかっこうでそこにすわり、こちらと(……)は地面に埋まってはんぶんつきだしたタイヤを尻の置き場にして、(……)はいくつかならんだブロック(表面に童謡かなにか書かれていたようだ)のひとつにすわっていた。それで作成。(……)がルーズリーフを配ったがこちらは手帳をつかうのでいいとことわり、目を閉じてかんがえてはかたちになると手帳に横書きで書いていった。五首。ほぼどれも即景というか、ひねりもなくみたものをだいたいそのまま(「そのまま」なんてほんとうは存在しないのだが)書いたようなもので、ふだんつくっているのは事物や経験をうたうものではなくイメージや意味のくみあわせでかんがえるものなので、こういう即物をやるとなるとかえってむずかしい。とちゅうでわれわれが黙りこくってそれぞれかんがえていると、黄色いジャケットを着た男性がちかづいてきて、こんにちは、いまちょっとおはなしよろしいですか? ときいてきながらその直後に、あ、お取り込み中ですか? と引こうとしたので、笑みであいまいにうなずくと、失礼しましたとはなれていった。家を売っているらしく、広告を手にもっており、ほかの親子連れのほうに行ってはなしかけていた。このひとのことも即座に題材にして一首つくった。
 みんなけっこう苦戦していて、(……)くんがルーズリーフにマインドマップめいた図をかきながらとりくんで、やっとひとつできたと息をついたのに、三つ、とゆびを立てるとかれは目をひらいておどろき、短歌界のスピードスターと評したが、(……)によると(……)氏((……)くんの大阪時代からの友だちで、たしか(……)という名字だったはず)といっしょにやったときもかれがはやいのにそう言っていたらしく、これはスピードスターということばを言いたいだけだという(Deep Purpleの"Speed King"と、ジョジョスピードワゴンと(とくに「スピードワゴンはクールに去るぜ」というセリフ)、やはりDeep Purpleの"Highway Star"をまとめておもいだす)。四時を切りとしてあつまってそれぞれ発表。(……)くんは二首、(……)も二首、(……)はきょうはなんだかつかれていてぜんぜんおもいつかなかったといって一首。(……)くんの一首のなかに「ハッチポッチ」ということばがふくまれており、ハッチポッチってハッチポッチステーションしかわからんというと、ごたまぜとかめちゃくちゃみたいな意味だという。つくった短歌を利用して歌詞にすればみたいなことも(……)がいっていたので、ハッチポッチ・ブルースいけるな、ありそう、といった。
 そうして駅にもどって(……)宅へむかうことに。公園を出るまえに公衆トイレに行ったのだが、小屋型のそれの扉をあけるとすぐ足もと、入り口とそとの境付近にちいさな蟻が大量にむらがってうようようようようごめいており、おもわずびっくりして、ちょっと気色がわるかった。室の奥にはぜんぜんおらず、蟻を引き寄せる蜜でも塗られているかのようになぜかそこにだけあつまっているのだ。それをまたぎこえてなかにはいり、和式の便器に小便をはなってもどると、みつけたものを親にはなす無邪気な少年のように喜々として蟻のことを報告し、そのあと行った(……)くんも扉をあけるとえ? マジ? みたいなかんじで足もとをしばらくまじまじとみおろしていたので、そのすがたをみてわらった。
 公園を出て以降、電車に乗って(……)まで行きマンションの一室にはいるまでのことは大胆にカットする。ながい距離とそこそこの時間をこの一文で瞬時に飛び越え、(……)家に行ってからもいつもどおりだいたいギターをいじってばかりでそんなに書くこともないのだが、(……)が相談したいことがあるといってはなしあいがされたのでそのへんのことだけすこし書いておこう。(……)
 (……)

2022/5/6, Fri.

 一九八五年秋にゴルバチョフは、アメリカ合衆国との核の量的均衡ではなく、合理的十分性を主張するようになり、核廃絶も訴えて一時的一方的に核実験を停止した。一九八六年一月にはゴルバチョフは、ヨーロッパ配備の米ソの中距離核戦力(INF)の全廃を提(end222)案した。以前合衆国が提案し、ソ連が拒否していた「ゼロ・オプション」を逆提案したのである。この提案を出発点に米ソはINFをめぐる交渉を重ね、一九八七年一二月に、地上発射の中距離核ミサイルを全廃するINF条約に調印した。ミサイルの撤去ではなく廃棄を定めた点、相互の現地査察に合意した点で、この条約は前例のない画期的なものであった。廃棄の対象となるミサイルが合衆国の八五九に対しソ連は一八三六と量的に大きな差があるなかで合意にこぎつけたことの意味も大きかった。ゴルバチョフの「新思考」への信頼を高め、米ソが再び緊張緩和を迎えることにつながったのである(一九八八年五~六月にはレーガンの訪ソが実現した)。
 「新思考」外交は「全方位的」で、アフガニスタンからの撤退、中国との関係改善、朝鮮戦争以来絶えていた韓国との国交回復も実現した。東側陣営の東欧諸国には改革を促すとともにソ連の介入はないと約束した結果、一九八九年夏から年末にかけて各国で体制転換が相次ぐ「東欧革命」が起こった。こうして、一九八九年一二月には米ソ首脳により「冷戦終結」が確認されるに至った。第二次大戦後、米ソ関係さらには世界を拘束してきた冷戦が終結に至ったことへのゴルバチョフの役割は大きく、ゴルバチョフは一九九〇年にノーベル平和賞を授与された。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、222~223)



  • 「英語」: 820 - 822, 123 - 155
  • 「読みかえし」: 729 - 732


 九時起床。七時台にも覚めたおぼえがある。じぶんの習慣からするとだいぶはやい。とはいえ実質一時には意識をうしなっていたわけで、だから八時間くらい滞在していることにはなる。よく晴れた朝だったが、一一時ごろには雲がひろがって空はいちめんうす白くなっていた。しかし暗くはないし、雨の気配もなさそう。起き上がって水場に行ってきてからクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読んだ。よくもまあ現実にあったら数秒ですぎさるようなものごとの一連のながれをこんなにこまかくながながと書くな、というかんじ。話者もしくはジョルジュがどこからこのはなしをひたすらに語りつづけているのかははっきりしない。はじめのうちは敗戦後、ブルムといっしょに詰めこまれているらしい貨車かもしくは収容所的なばしょで戦争のことをおもいかえしている設定なのかとおもったが、ブルムがいないばあいもあってよくわからない。第一部のさいごのほうでは、まず「それから彼はそうしたことをいま自分が説明している相手がブルムではないことを了解し(いまはそのブルムは三年以上も前に死んでいた、つまりブルムが死んだということを彼が聞き知っていたのであって(……)」(85)とあるし、それにつづく箇所では裸体らしい女がジョルジュのうえに覆いかぶさるようになっており、「そこは(……)あの貨車のなかでもなく」(86~87)と明言されるとともに、部屋のなかのようすは「鏡のなかでもそれが光っているのが見え洋服簞笥の切り妻部の両端の松かさ模様が見え」(87)とわずかに描写されている。この「切り妻部」の「松かさ模様」というふたつの語句をこれいぜんにも見かけたおぼえがあってちょっとさがしてみたのだが、見つけられなかった。そしてそのつぎの段落、88からはじまる段落では、「それからジョルジュはもう彼女のいうことに耳をかさず、彼女の声も耳にはいらず、ふたたび息づまるような闇のなかに閉じこめられて胸の上に例のもの、例の重みを感じていたが、それは女の生暖かい肉ではなくてただの空気で(……)」(88)とまずあり、さらにつかまった連中が「乗りこんで」(89)きてそのなかにブルムもいる、というながれが記述されているので、ここは貨車のなかのように見え、すくなくともあきらかにさきほど女とジョルジュがいた部屋ではない。そこからやりとりや、括弧付きのジョルジュのながい独白がつづいたあと、第一部の終わりの直前で、「彼が話しかけたいと思った相手は彼の父ではなかった。彼のかたわらに横になっている姿の見えない女でもなく、もし太陽がかくれてさえいなかったら彼らの影がどっちのほうへ進んでゆくのかわかったはずだということを、いま彼がひそひそ声で説明している相手はおそらくブルムでもなかったのだった」(92)とさしこまれ、この女がいったいだれなのか、語りの現在がどこなのかがけっきょくはっきりしないまま幕引きとなる。とはいえ物語られることがらはだいたいのところ、戦場の場面(ド・レシャックが死んだときやそのあとのこと)、貨車や収容所めいたもののなかにいる場面、ド・レシャックの一族やジョルジュじしんの家(ド・レシャックの親戚)にかかわる歴史や過去の記憶、に大別できるようにおもう。この作品は戦後に戦中のことをひたすら回想しているという設定らしく、とすればすべては記憶の平面にあるわけで、それにふさわしくものごとが語られる順序はばらばらで、ある場面にいたはずがいつのまにか時空が飛んでべつの場面になっている、ということは頻繁であるいじょうにこの小説の基本的なうごきかたであり、くわえて綿々とつづいていく文のながさ、また大量に挿入される丸括弧とそのなかの文のながさ、さらに鍵括弧つきで語られる独白のながさを利用して催眠的というか混雑的なかんじを生み出そうとしているのだとおもうが、その時空のうつりかわりはもちろんあいまいでわかりにくいものの、意外とわかりやすいといえばわかりやすいともいえる。たとえば第二部のはじめ、95からは、ド・レシャックが死んでおそらく部隊も敗走のなかでちりぢりになり、ジョルジュとイグレジアがふたりで戦場を逃げている場面が語られており、101にいたるとかれらは服を手に入れるためにある家にしのびこみ、102でその家の主である老人に発見され、104でイグレジアが老人をおどして衣服を手に入れることに成功している。そのつぎの段落ではいったん三人は戸外に出て飛行機の掃射を目撃しているのだが、段落が変わって105の終盤では「そしてそれからもうすこしたって、彼らのまわりにはふたたび壁が、とにかくなにか閉じた空間があり」と場面はふたたび室内にうつっており、つまりさきの老人の宅内にまたもどったようなのだが、そこでジョルジュは酒をもらって酩酊気味になっている。ここまでは、記述がやたらこまかく挿入が無数であることをのぞけば順当な時空の推移である。問題は106の半分過ぎからはじまる鍵括弧つきの独白で、なんだかんだなんだかんだとやたらながなが語られたあと、108の一行目で閉じられたその直後に、じかに接してこんどは丸括弧がはじまって、「(ジョルジュの腕が半円を描き、手が彼の胸からはなれて、彼らの足もとの人影のうようよするバラックの室内、それから汚れた窓ガラスの向こう側にあるおなじようなもう一棟のバラックのタールを塗った板壁を指し示すのだったが、さらに、その向こうにも(……)むきだしの平地におよそ十メートルごとに建てられた、おなじバラックの単調なくりかえしがあるのであって(……)」と描写されるので、ここで場面は収容所らしきばしょに明確にうつっている。さらにすすめばジョルジュだけでなくブルムもでてくるし、ほかの収容者がさわいでいるようすも語られる。まだこの場面のとちゅうの110までしか読んでいないのでこのあとどうなっているかはわからないのだが、なるほどな、ながたらしい独白を媒介として、というか媒介まで行かずともあいだにはさむことで時空を飛ばすと、そういうやりかたがあるわけだとおもった。とはいえシモンがここでやっていることは括弧でくぎられてもいるし、そこまであいまいで融解的だというわけでもない。おなじようなことはガルシア=マルケスも『族長の秋』でやっているとおもうが、あちらのほうが時空の推移はもっとはやかったとおもう。一文書いてもうつぎ、みたいなこともあったのではないか(そもそもすくなくとも翻訳では文体の冗長さがまったくちがっており、『族長の秋』は改行はないものの一文一文はそんなにながくはないのでたんじゅんな比較はできないが)。推移のはやさと融解の感触とはまたべつものであり、『族長の秋』も融解的というよりは、うつりかわりじたいはけっこうはっきりくぎられているのだけれどそれがはやすぎて見落とされてしまう、みたいなかんじだった気がするが、そのあたりは読みなおしてみないとわからない。『フランドルへの道』の語りのみちゆきも尋常の小説からすればいうまでもなくきわめて異質なものであり、うえで追ったような展開がどうしてできるのか、括弧を活用した強引ともおもえる時空の移行を可能たらしめているこの小説の原理はなんなのか、というのはよくわからないが、ひとつにはむろんさきにもふれたように語りが記憶であるという設定なのだろう。それは措くとして、小説の語りの技法として、括弧の内外を癒着させるというか、わざと括弧を閉じないでそれをひとつづきのものとして溶け合わせてしまうというやりかたがありうるのだなとおもった(シモンはこの作品ではいまのところまだ閉じられない括弧をつかってはいなかったとおもうが)。『フランドルへの道』もあるところでは地の文の話者が「ぼく」と言ういっぽうで、「彼」とか「ジョルジュ」と名指されもして、どこまでが一人称でどこまでが三人称なのかよくわからないのだが、たとえばもっともたんじゅんなはなし、地の文では一貫して「彼」と三人称で語り鍵括弧つきの直接話法の内部では「ぼく」と語らせていたのに、ながながとつづく独白の果てに鍵括弧が閉じないままに三人称で語るようになって、話者と独白が同一化してしまう、と。話者と独白がもともと同一者だとみなせる設定が基盤としてあればそれはもちろんやりやすい(ふつうだったらそれは両方とも一人称で語られることになる)。三人称の語りがいわゆる神というか、にんげんらしくない匿名の存在としてあったばあいなら、独白をになう人物が話者へと嵌入し、浸食していくようなかんじになるだろう。逆のパターンもありうる。地の文ではずっと一人称で語っており、それとはべつの人物として直接話法でセリフをいうにんげんがいたのに、それがいつのまにか癒着すると。ミステリーの叙述トリックなんかでつかわれそうだが、いずれにせよいろいろなやりかたがあるだろう。ヴァルザーをパクった小説にもそういうしかけをいれられるかもしれない。まあいれたとして、だからなんなの? というかんじではあるけれど、ただ『盗賊』がそういう、話者と人物の分離がちょっとあやしいみたいなにおいをかもしている作品だったおぼえがあるので、読みかえしてそのあたりをみてみてもよいかもしれない(そういう目論見をべつとしてもヴァルザーはぜんぶまた読みかえしたいが)。もうひとつ、似たようなはなしだが、この作品は語りがすべてジョルジュの記憶だという設定があるいじょう、三人称で語ろうが一人称で語ろうが、地の文だろうが括弧内だろうがその起源はすべてジョルジュになるわけだけれど、そういうばあい、語りの現在を直接話法の鍵括弧で召喚することで時空を飛ばせるなということもおもった。うえに追った場面でやっているのももしかするとそういうことなのかもしれないが、ある過去の場面を展開させているとちゅうで、セリフとして独白をはさむのだが、そのセリフはじつはその過去時点で口にされたことではなく、いまどこかで語っている話者の現在の独白であり、その内容を媒介としてべつの時空にうつっていくと。すべてがあるひとりの記憶であるというように、話者が偏在者的な地位をもてるのだったら、この挿入は話者の「現在」である必要もなく、どこかべつの記憶、べつの過去であっても成り立つ。独白のとちゅうでいつのまにかべつの時空に接続してしまうと。ただこれも似たようなことはたぶん『族長の秋』でやられていたような気もする。しかしあの小説が画期的ですごかったのはやはり、語りの基盤を一人称複数「われわれ」にすることによって、その「セリフ」、「声」を単一化せず、極端なはなしどこのだれでも召喚できるようにしてしまったことだ。その無数の声の集束先というか逆説的な結節点として大統領の存在があるわけだが、だから極論すれば、大統領にかんすることを述べていればいつどこのどんな存在であっても「声」として呼び出すことが可能だったはず。そうかんがえると、あの小説はすでにかなり過激なものだけれど、もしかしたらいちぶでもうすこし過激なことをやれたのかもしれない。じっさいあの作品に出てくる「声」は、「われわれ」か、大統領のものか、「われわれ」をそのなかに潜在させつつも一見すると三人称と変わらない地の文にあたる基調的語りか、それかあるひとりの人物が一時召喚されてしばらくしゃべって消えていく、というありかた、そのくらいだったはず。つまりたとえば複数の人物がつぎつぎと入れ替わってわちゃわちゃ喋りまくるみたいなことは作中になかったはず(もしかするとあったかもしれないが)。そういうかたちでの集団性、にぎやかな混沌とか、集団演劇的な要素、猥雑な多声的オーケストラみたいな場面はたしかなかったはずで(ぜんたいとしてみればもちろん多声的ではあるのだが)、そういうこともばあいによっては盛り込めたのかもしれない(それが過激なものになるかどうかはまたべつだが)。ガルシア=マルケスは、やはり形式的な混沌をうみだすことはできなかったのかなあ、という気もする。性分とか、スタイルとして。むかしからなんども言っているが、かれの小説は「マジック・リアリズム」などといわれて現実には起こりえないことが起こったり、物理的に可能だとしてもとんでもない規模とか突拍子もないようなできごとだったりして、内容面では混沌としているとか猥雑とかいう印象をうけてもおかしくはないとおもうのだが、それを語る語りのありかたや配分はきわめて几帳面で、紳士的に厳密であり、明晰でない箇所はひとつもないといっても過言ではないとおもう(『百年の孤独』の一章一章は、その分量が一定に調節されており、邦訳でいうと二〇ページからほぼ二五ページにおさまる量にさだめられている)。『族長の秋』だけは内容のみならず語りの推移の面でも混沌としていると言ってよいかもしれないが、ただその混沌は曖昧模糊とした融解のそれではなく、ひとつひとつの区分は明確な諸要素が大量にあつめられてひたすらならべられ配置されることでかたちづくられた渦のそれである。紳士的な几帳面さを徹底的につきつめたさきで生まれた人工的な混沌だろう。だからかれが『族長の秋』でさらにもっと多声性や集団的猥雑さにフォーカスしてなにかやったとして、それもまた破綻の気味にいたらず明晰なものになったのではないかという気がするが、そんなマルケスが晩年はまさしく意識や記憶の明晰さをうしなう病である認知症におとしこまれたとおもうと、なんともいえないものをかんじる。
 臥位で息を吐きながら本を読んだあと、一〇時ごろから瞑想。しかしれいによって便意がもたげてきて、脚やからだもやや硬かったし二〇分もすわれず。上階へ。ジャージにきがえて顔を洗い、食事にはハムエッグを焼いた。きのうのタケノコなどの炒めものとともに食べる。新聞、日英首脳会談や、ウクライナの続報や、知床沖で沈没した「KAZU Ⅰ」の件などが一面。運航会社の社長は安全の総責任者みたいなたちばと、陸上での運航管理責任者みたいなたちばを兼任していたが、管理者が不在のときに代理をつとめる運航補助者みたいな役職を置いておらず、これが違法につながると。補助者をさだめることじたいは義務ではないのだが、ただ管理者不在で運航をすると違法なので、くだんの会社では社長が詰めていなければ運航できないはずのところ、事件当時社長は外出していた(病院にいたといぜんの新聞ではみた)。ほか、二面には米国の地方メディアの衰退についての記事。なんとかいうおおきな会社が地方の新聞社を買い取って傘下に置き、でかいグループになっているらしいのだが、当初はメディアの重要性を理解しその自立性を尊重するみたいないいぶんだったところがじっさいには利益優先で経営縮小させたりリストラしたりで、一八年からの二年間で全米では六〇〇〇人の記者が消えることになったと。正確な情報を質量ともにじゅうぶんにつたえるような地方メディアがなければとうぜんながら地方のコミュニティは衰退をまぬがれないわけで、まさに金儲け主義のハゲタカによって米国の民主主義が食い荒らされているというはなしであり、世論調査にもそれは反映されているらしい。
 父親は一一時から歯医者らしくでかけていった。こちらが飯を食ったり新聞を読んだりしているあいだに配達が来て、母親が出てもちかえってきたのは(……)さんからおくられてきた小包らしく、それはきょうが母親の誕生日なのでそのプレゼントである。アイスケーキだった。じっくり解凍してというはなしらしいので、冷蔵庫にいれておいて帰宅後に食べようという。母親は連休が終わってきょうからしごと。あしたは夫婦で食事に行くもよう。こちらもあしたは遊びに行く。それであさってまで休みで月曜日から労働。あした外出するのでまた書くことが増えるわけで、きょうじゅうに四月三〇日いこう、五月二日まで記述をすませてしまいたいのだが、できる自信はない。食後は食器や風呂を洗い、自室に帰ると音読。そのあときょうのことを書きはじめたが、シモンの小説などについてながなが書いてしまい、いまはもう二時一六分にいたっている。


 階をあがって洗濯物をとりこんだ。まだ始末せず、いれただけで放置してもどり、日記に切りをつけると臥位になって少々休息。それからおきあがり、上階に行って、母親が冷凍保存されていた天麩羅や唐揚げを米のうえに乗せた丼じみたものをこしらえていってくれたので、それを加熱し、電子レンジをうごかしているあいだにトイレで小便をはなつともどってきて天つゆを丼にかけ、自室にもちかえって(……)さんのブログを読みながら食事をとった。四月二九日の序盤までしか読めていない。皿を洗ってかたづけてくると白湯をちびちびすすりながらここまで加筆。三時一五分。とりあえず四月三〇日にとりくむか? めんどうくさかったらめんどうくさいというきもちにしたがってあまり詳述せずみじかくやっつけるという姿勢をたぶんもう身につけたはずなので、三〇日からの三日ぶんはそれを発揮してかんたんにしたいとおもっているが。

 そのあと四月三〇日にとりかかりはじめて、四時五〇分ごろまでいったん綴った。『ハッチング ―孵化―』のうちおぼえていることをひたすらに記述する。そんなに字数をついやす必要もない作品だとはおもうのだけれど、おぼえていればおぼえていることを書きたくなってしまう。五時まえまで書いたところで瞑想した。父親が窓外にいてラジオの音声がきこえていたが、とちゅうで電話に出て車の保険かなにかについてはなしていることばになった。母親の免許についてきかれたようで、ゴールドになったんだっけかなとか自問し、いま出かけてるから、帰ってきたら確認してあした連絡するわといっていた。旧知のあいてらしい。おそらくもといた会社((……))のひとだろう。五時一五分まですわって階上へ。母親が小僧寿しを買ってくると言っていたしメモ書きにものこしてあったので、汁物をつくればよかろうと台所へ。タマネギとネギに卵をくわえた味噌汁をこしらえることにした。ほか、自家製のほうれん草がいくらかあったのでそれも茹でてちいさな副菜とすることに。鍋にみずをそそいで火にかけつつ、冷蔵庫の野菜室に半端にあまっていたタマネギを薄切りにし、鍋が沸騰しないうちからもう投入してしまった。しばらくすると粉出汁も振って弱火で煮る。いっぽうでフライパンにもみずをそそいで火にかけ、すぐには沸騰しないのであいまに台所を抜け、とりこんだだけで放置していた洗濯物をたたんで整理する。ある程度でもどってほうれん草をフライパンに入れ、茹でるあいだまたしばらく洗濯物をかたづけて、このへんかなとコンロのまえにもどるとちょっと待ってから洗い桶にとり、フライパンの緑色の汁はながしに捨ててしまった。みずにさらして漬けておき、タマネギが煮えた鍋のほうにはネギを鋏で刻んでくわえ、卵を椀に溶いておいてから味噌で味つけ。伊予の麦味噌というやつ。ちいさな木べらで味噌の袋からお玉にとり、木べらにわずかにのこったものを溶かすために鍋のなかにつっこんでちょっと動かしたあと、袋のはいった密閉容器を閉ざして味噌を冷蔵庫にしまい、それからお玉のうえで箸をこまかくうごかして汁に味噌を溶かしていった。味見はめんどうなのでせず。そのあと溶き卵を箸を経由させるようにして投入し、その後洗い物をするあいだに最弱の火で加熱しつづけ、完成。ちがう、洗い物をするあいだではなくてゆでたほうれん草を絞って切るあいだだった。そうして料理が終わるとながしの洗い物をかたづけて、洗濯物もたたみ終えるとアイロン掛け。両親のシャツやチュニックのたぐい、またズボンやエプロンなど。時刻は五時五〇分ごろで、五月にはいって日はよほどながく、空にみずいろもほぼ映らず曇っているものの六時まえでもたそがれはとおい空気のいろ、初夏のみどりを背景に敷いた空中に残照のあたたかさはないけれど薄暗さもまだまじっていない。しかし六時をこえて一〇分たつと、表面上は変わりなくみえるけれどさすがにつや消しされたような風合いで、薄墨の気配が目に差すいろというよりにおいのようにほのかにうかがわれ、そこからさらに五分たつとこんどはかえって残光ではないけれど、それまでなかったいろみが濁りもひきうけつつうっすらとまじりだして、きょうはかくれているもののたしか西陽は暮れのピークでおちきる直前にわずか盛りかえすようにいろを散らすのではなかったか。六時ごろに父親がはいってきて、台所でなにやら飲み物をすすりながらフライパンでなにか焼いているようだったが、これはサバだった。こちらもコップについでテーブルに置いた白湯をあいまにすすりながらアイロン掛けをすすめ、すむころには父親は調理を終えて風呂に行った。処理をし終えた衣服は階段のとちゅうにはこんでおき、居間のカーテンはベランダがわと東の小窓のものを閉めて(しかし暑いので窓じたいはあけたままにしておく)、食卓上のちいさいライトをともして下階にかえった。そうしてまた四月三〇日の日記を進行。
 母親から電話があったようなのでかえすと小僧寿しが混んでいてすこし遅くなるとのこと。なんでもいいよとこたえて味噌汁などつくったことをつたえておき、それからも記述に邁進して八時でようやく食事をとりにいった。夕食をとり、日記を書き、九時で階をあがって洗い物をすると入浴し、日記を書き、一一時くらいで四月三〇日をようやく完成。投稿。ブログで投稿するさいに固有名詞の検閲箇所がおおかったのでだいたい読み返すようなかたちになったが、映画館でチケットを買ってから喫茶店に移動するまでのながれをだらだらうだうだと書いているそのなかに、「天気はよくひかりはただよって空はどこでもみずいろだったが空気に熱はとぼしくて風がながれると夜のつめたさがおもわれた」という一文がはさまれていて、これは完璧に簡潔なすばらしい気候の描写を書いてしまったぞと自画自賛した。リズムにしてもことばと情報のわりあてや配置にしても、漢字とひらきの配分にしても完璧な一文だというほかはない。飾りはない、特殊なことばもつかっていない、どこがきわだっているというわけでもない一節だが、これいじょうないバランスで過不足なくととのっており、こんな一文をさらっと書けるのだからたいしたもんだ、おれも捨てたもんじゃないとおもう。丸八年いじょうほぼまいにちやってきただけはある。
 それからLINEにログインして遅くなってしまったがあしたの予定についてやりとり。一時に東中野に集合ということになった。街歩きをして、短歌をものしたり連詩をこころみたりするらしい。ギターはもっていかないことに。一時に東中野だと一一時半ごろの電車に乗ることになる。きょうのことをここまで加筆していまは一時半まえ。五月一日二日もやりたいけれど、その二日はまあ実質(……)とはなして物件をみにいったことに尽きるので、たぶんそんなにかからないはず。したがって無理はせずにあした以降にまわすのがよさそうだ。
 

 一首: 「夕焼けにかつての神が自傷してしたたるものを時となづけよ」

2022/5/5, Thu.

 社会を活性化し、「停滞」から脱却することが目指されたが、なにより経済の建て直しと生産性の向上が急務であった。一九八七年には、外国企業との合弁企業設立、サービス業での協同組合経営と個人経営が認められた。これらは生産とサービスの中心をなす国営(end215)企業以外の経営主体を認めたもので、経済全体での比重はごく小さなものだったが、一九八八年一月には「国営企業法」が施行されて、国営企業全般について、市場の要素の導入と企業の自主性の拡大を軸とする経済改革が始められた。しかし、国民生活に必要不可欠な財の生産やサービスの提供を保障するための国家発注制度が設けられていたことが、経済改革を妨げることにつながった。従来の国から企業への指令を国家発注に代えることで国家と企業の関係も市場的な契約関係に転じさせ、国家発注を次第に減らすことで企業間の取引を拡大させていき、企業の自主性が発揮されるようになることが想定されていたのだが、法の規定に不備があったため国家発注が恣意的になされた例のあったことに加えて、生産物の引き受けが保障される国家発注を企業の側が望んだこともあって、国家発注は減らず、市場的な関係の拡大を妨げた。並行して価格の自由化も進められるはずであったが、国家発注による生産物には従来通りの固定価格が適用され、これが多くの部分を占めたため、価格の自由化も遅々として進まなかった。
 経済改革がうまくいかなかったのは、制度上の不備だけが理由ではなかった。それまで価格が低く据え置かれていたため、価格の自由化はほとんどの場合値上げを意味し、国民の生活を圧迫して不満を強めるという問題もあった。生産性向上のための労働規律の引き締めは、労働者にとっては労働強化を意味したから不評で、労働者の多くは熱心に取り組(end216)もうとはしなかった。買い物に多くの時間を費やしていた状況での労働規律の引き締めは、人々の不便さを増すことにもなった。労働者に対する経済的刺激策の導入も、一部の意欲的で有能な者には歓迎されたが、そうでない者には給与の引き下げや賃金格差の発生による不満を生んだ。
 こうして経済改革は期待通りの成果につながらず、この頃原油価格が急落したこともあって、「停滞」の時代においてもかろうじてプラス成長だった経済が一九八九年にマイナス成長に陥り、商品不足と買いだめの悪循環は一層激しくなった。ゴルバチョフの回想には次のように記されている。「一九八九年秋、さまざまな赤信号が点った。少なくとも縮小再生産という事態が発生したことをわれわれははっきりと認識した。商品の供給は国民の購買力に追い付かなくなっていた。……正負は小売り物価の値上げを行なうのではないかという噂が町に流れたとたん、あっという間に商店の棚から商品が姿を消した。ある時はいくつかの都市で、別の時はソ連全土で”商品飢餓”とでもいうべき事態が頻繁に発生した。タバコ、砂糖といった品が何日もまったく店頭に現れないことになったのだ」。
 このため、一九八九年から一九九〇年にかけて市場経済化が本格的に検討され始めたが、保守派の抵抗や、連邦指導部とロシア共和国指導部との対立などによって、市場経済化を進める計画の策定さえ難航した。この間、経済状況は悪化の一途をたどり、一九九一年に(end217)は経済危機は一層深刻化した。肉、バター、砂糖などの商品には配給券が登場した。商品が相対的に豊富なモスクワなど大都市への近隣住民の買い出しが大規模に起こり、これを防ぐため、都市の居住許可を受けている住人を対象にカードが発行され、これなしでは買い物ができないことになった。こうした状況は、体制とゴルバチョフに対する国民の不満を著しく高めた。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、215~218


 九時四五分ごろに離床。きょうは快晴の暑い日和。明晰夢をみたおぼえがあるが、詳細はほぼわすれた。明晰夢をみられるようになる方法、つまりゆめのなかでここはゆめだと気づくための方法としてじぶんの手をおりにふれてみるのを習慣とするというやりかたがあり、おとといゆめ関連の英文記事を読んでからちょっとだけやっていたのだが、さっそく効果が出たかたち。ただこのときゆめだと気づいたのは夢中で手をみたからではなく、それいぜんになぜか気づき、直後にこの方法をおもいだして確認のようにして手のひらをみるというながれがあった。詳細はわすれたわけだがばしょは大量の本がある図書館だったはずで、飛行というか、ちょっと浮かんですべって移動するみたいなことをためしてできたおぼえがある。
 水場に行ってくるときょうは書見せずウェブをみてまわり、一〇時台後半から瞑想。二五分ほど。上階へ行って食事や新聞。ロシアは各地で駅やなにかにミサイル攻撃しており、欧米からの武器補給を断つためだと主張していると。マリウポリやアゾフスタリ製鉄所からは市民がいちおうたしょうは避難できたようだが、国連の担当官によれば第二陣はいまのところ決まっていないと。
 その後、きょうもきのうにひきつづきかなりなまけた日で、音読すらせずにだらだらしつづけた。午後七時でようやく階上へ。アイロン掛けを少々。そうして夕食。


 この日はあとたいした印象事もなく、日記もやはりすすめられていない。怠け気味である。夜に書抜きはできて、井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)のノートにメモしてあるぶんは終わらせた。ほんとうはそのあと日記を書けたらよかったのだがベッドにたおれてからだを休ませているうちにまたも意識をうしなって、気がつけば三時。そのままあかりを消してねむった。

2022/5/4, Wed.

 先に述べたように、一九五〇~一九七〇年代に市民の提案や申し立てを重視し、その権(end213)利を保障する決定が何度もなされていたが、必ずしも実現していなかった。ゴルバチョフの右腕としてペレストロイカを推進したヤコブレフは回想で、一九八五年末にゴルバチョフに提出したメモで次のように述べたと記している。「国家機関の行為に対する不服申し立てを含め、あらゆる問題で個人の権利を保護すること。国民は行政機関と官吏に対して訴訟を起こす権利を与えられなければなりません。行政訴訟を扱う行政裁判所が必要です」。
 この指摘からも、国家機関と社会団体に対して活動改善を提案する権利や不服を申し立てる権利に関する憲法の規定は、この時点まで事実上紙の上のものにとどまっていたと言えよう。これは主に、批判をおこなった者が、職場の所属長や党機関・労働組合の幹部、さらには国家保安委員会によって抑圧されることがあったからである。しかし、憲法に規定された権利は、ペレストロイカが始められたことによって実質的な意味を持つことになった。ゴルバチョフは一九八七年一月に、「下からの統制」の重要性を訴え、腐敗や職権濫用を批判し、グラスノスチと批判の必要性を強調した。ゴルバチョフは、批判された者が保身に努め、批判者に対して締めつけや抑圧をおこなう例がめずらしくないことを指摘し、マスメディアの力を強めることが必要だと述べた。ゴルバチョフは、社会を活性化し、「停滞」から脱却する武器として「下からの統制」を活かすため、人々による批判を奨励(end214)し、マスメディアの役割を強調したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、213~215)



  • 「英語」: 808 - 819, 101 - 122
  • 「読みかえし」: 721 - 728


 一〇時一五分離床。きのうはこちらの習慣からするとかなりはやく、一時四〇分ごろ消灯したのだが、そのわりにはやく起床することができなかった。これいぜんにも二、三度さめた記憶はあるが。ゆめをいくらかみたけれど起床時にはほぼ消滅。おぼえているのはひとつだけで、蓮實重彦に小説をみてもらって酷評されたというもの。設定としてはほかにふたり、あわせて三人がウェブ上で小説を提出して、それを蓮實重彦が審査して順位をつけるみたいなものだったようだ。評価をいいわたされたのは自宅の居間で、いちばんわるいものとしてさいしょにこちらが呼ばれて、こんなにひどい作品はありませんみたいなかんじでボロクソに評された。書いたものは短篇で、たしかにどうやらじぶんでもうまく書けたとはおもっていなかったようで、物語的なながれとか有機性をつくることができず、かといって文章や個々の描写としても冴えない半端で退屈なしろものだったようだ。
 水場に行ってきて『フランドルへの道』を少々読んでから瞑想。上階へ。ジャージにきがえて食事はきのうのマグロソテーののこりなど。新聞、国連もかかわってマリウポリから市民の退避がおこなわれているものの、ロシアはマリウポリ市内外に「選別収容所」なるものをもうけて避難の可否を決めているという。一七歳の少女の証言があった。この子は両親と妹の四人で避難したがとちゅうでみつかって選別にかけられた。一四歳以下は免除されるとかで妹と病弱な母親はまぬがれ、父親と少女のふたりが尋問をうけたが、少女じしんのほうは兵士が「童顔すぎる」といってすぐに解放したと。もし兵士の好みに合っていたら性的暴行を受けていただろうとのこと。父親のほうは携帯電話のデータを消去していたことが発覚し、そこを追及されてあたまを殴られ、そのせいで片目を失明しながらも選別はなんとか通過することができ、その後負傷したからだで車を走らせて避難することができた。ブチャなどの虐殺しかり、マリウポリ市内の同様の状況しかり、この「選別収容所」しかり、ロシア国内への強制連行しかり、ほんとうにナチスドイツがおこなったことと変わらない行為が現におこなわれているらしい。知床のKAZU Ⅰの件は運行会社の社長が記者会見で言ったことと遺族むけの説明会での資料にくいちがいがあり、社長は規定についてよく知らずきちんと理解していなかったようにみえるとのこと。事件時も病院におり、船長が航行中に海や風のようすを報告する定期連絡もおこなっていなかったという。
 その後はいつもどおりものを洗ったり、部屋に帰ってからは音読をしたり。天気が良かったので布団も干した。三時くらいからはひたすらになまけてしまい、八時ごろまでずっとごろごろ。こんなにごろごろしたのもひさしぶりだ。夕食をとって食器を洗ってのち、きょうのことをここまで記した。いろいろいそがしかったので四月三〇日以降をぜんぜん書けていない。 


 この日はあとなにをしたのかおぼえていないが、めだったことはほぼなにもせずにやはりだらだらなまけたとおもう。そのわりになぜか夜半すぎくらいでもう疲労がきざして、いつか意識をおとしてしまい、気づけば四時だったのでしかたなく消灯してねむりについた。

2022/5/3, Tue.

 一九八五年三月にチェルネンコの後任として党書記長となったゴルバチョフは、この頃のソ連の状況について次のように回想に記している。一九八四年は「一年を通じ、ソ連政権にとって苦悩の年だった」。産業の近代化、経済の改革、食糧プログラムの実現といっ(end210)たアンドロポフ時代に始められた事業を発展させなければならなかった。ところがこうした事業はすべて停止してしまったか、ブレーキがかかった。「ソ連は先進諸国に大きく遅れをとり……現実に先進諸国を唯一つ上回ることのできた経済発展テンポでも負けることになってしまった」。一九八一~一九八二年には国民所得の成長率はほぼゼロになった。社会主義の成果と優位性を訴える一大キャンペーンがおこなわれたが、「その背後に隠された惨憺たる状態に対する警告信号が社会に伝わっていった」。
 現実は危機的であり、不足に悩まされる多くの国民は体制に強い不満を抱くようになっていた。ゴルバチョフら一部の指導者は、危機的な現状を認識し、そうした現状で「社会主義の成果」を宣伝することは国民の不満を強めるだけだということにようやく気づきつつあった。
 ゴルバチョフは回想でこうも記している。「『すべては人間の幸福のために』というスローガンに反して国民生活向上のためという生産目的は裏庭へ押しやられ、工業財生産と防衛生産の十分すぎるほどの増強の犠牲にされた」。「耐久消費財、生活用品、自動車の生産は世界のレベルからどうしようもないほどおくれていた」、重工業も「絶望的なまでに老朽化してい」た。膨大な軍事費が経済に重圧を加えていることはわかっていたが、「書記長になって初めて、私は国の軍事大国化の実際の規模を知った……軍事支出は国家予算(end211)の、公表された一六%ではなくて、四〇%(!)、軍産複合体の生産高は国民総生産の六%ではなくて、二〇%だったのである」。一九八〇年代初頭には経済の成長が止まり、国は社会・経済の衰退に直面した。「食糧や工業製品ばかりでなく、鉄鋼、燃料、建設資材も不足するようになった」。国家の財産が個人の懐を肥やすために大々的に利用され、行政規律が揺らぎだした。自動車や農業機械などは部品を十分に手当てしないまま大雑把に組立てて発送され、「その上途中で盗まれて、現場ではほとんど改めて組立てなければならないような有様だった」。規律の弛みは運輸部門にも広がり、「待避線や引込み線に、国に必要な物資を積んだたくさんの車輛が放置され、損傷と掠奪にまかせられていた」。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、211~212)



  • 「英語」: 806 - 807, 90 - 100


 兄と子どもふたりはこの日に帰った。正午くらいだったか。こちらは一〇時に起きて、食事を取ったあとは子どもたちのあいてなど。父親が家の南側につれだしていたのでそこに行ったり。きのうと同様そのへんの草木をみたり、テントウムシをさがしたりしてあそんでいるのだが、きょうは(……)くんが斜面の縁をとおろうとしたりして、ちょっと踏み外したりバランスをくずせばころげおちてしまうのでひやひやしながらそばに寄って、あぶない、あぶないよ、こっち行こう、などと誘導した。そこは土台に乗った木造りのテーブルがあるところなのだが、土台と傾斜の開始地点のあいだにあるわずかなすきま付近をうろついていたわけで、ここにのぼろうといって土台のうえにもちあげることで安心な状態にできた。その後はうえにもどって家のまえや林のほうをうろうろするなど。うえのみちにもどったときに(……)のおじいさんに遭遇した。兄貴が来ていてその子どもふたりだと言う。(……)ちゃんは知らないひとだがあいさつしていたし、物怖じせずなんとかかんとかしゃべりかけていた。父親が(……)くんはときいたのに、おじいさんがなんとこたえていたか詳しくわすれたが、ただ奥さんと子どもがどうとか言っていたはずなので、あいつも結婚してひとの親らしい。林縁の土地では水路の脇に植えられている花に(……)くんの注意をうながしたり、紫色の微小な花をつけた草が群れて空いたまんなかをかこむようになっているのでそのなかにはいるよう誘ったり。(……)ちゃんが水路をみながら蜘蛛の巣だと声をあげていたが、たしかに貧相な小堀めいて直方体の箱型にくぼんでいるそのなかに、左右の石壁のあいだをわたって遮断するように蜘蛛の巣がいくつもひろがっており、正面からみるとそうでもないがななめの位置に立つと糸はことごとくあかるみに浮かびあがって張りなされた図形があらわになる。そういういっぽうで家のすぐまえに父親の車が横付けされて出発の準備がなされていたので、そこに荷物をはこびこんだりも。出発まえに(……)くんのオムツをかえなければならないので、なかなかなかにはいろうとしない男児に、(……)ちゃん、オムツかえようよ、オムツかえないと帰れないよ、とーと(つまり父親である兄)のところいってかえてもらおうよ、などとなんどか声をかけてうながしたのだが、玄関につづく階段をのぼったとおもいきやとちゅうでもどってしまうことがつづいてうまくいかなかった。いちどは階段のとちゅうでしゃがみこんで、なにもない段のうえをじっとみてゆびでふれたりしており、そこに(……)ちゃんも来てなにみてるの? とききながらとなりにしゃがみ、からだを寄せてくっつけながらいっしょになったのだが、あの(……)くんのようすはなんとなくなかにはいりたくなくてすねているというか、気が向かないのをごまかしているというか、うながしをはぐらかして避けようとしているようなニュアンスをおぼえたのだがじっさいは知れない。その後なんとか無事に屋内にはいった。(……)くんはいま二歳だった気がするがはなしはよくつうじる。こちらのいうことはよく理解しており、たとえばそとからもどってきたときに手洗おうよ、こっちきな、といえば誘導にしたがって洗面所に来て、そこに用意されている台にのぼってみずから蛇口をひねろうとする。こちらが「(……)くん」であることも認識しており、舌足らずのくずれた発音で「(……)」みたいなかんじになるものの、たまにそれを口にすることもある。これは何色? ときけばまちがいなくこたえられるし、乗り物が好きでそのたぐいの本やマックのハッピーセットでもらったらしいトミカのミニカーをいくつかもっているのだが、車のなまえなんかもわりといえる。家の南側から北側にもどるときに(……)ちゃんがなかなかこないのに、(……)ちゃんは? と姉がいないのを気にするか不安がるようなようすをみせたので、呼んでみな、(……)ちゃーん!って、とうながすと、それにしたがっておおきな声でなまえを呼びもした。これだけことばがわかればもうふつうににんげんですわ。出発のすこしまえに、我が家のむかいの木造屋(このときはひとが不在だった)の正面、家屋に接してほんのすこしだけ段があってすわれるのだが、くまなく陽のひかりにおおわれたそこに腰掛けながら(……)くんにも呼びかけて、ここすわりな、というと、幼児はすわろうとしたのだけれどその段はおおきめの石がところどころ、はんぶんむきだしのようなかたちで埋めこまれているものだったので、その石を手がかり足がかりにのぼろうとした(……)くんはしかし、のぼってみると出っ張りが尻にあわなかったようで、すわれないな、とつぶやいてべつのところに行ってしまった。こちらはそれからもちょっとすわったままで陽射しの熱とまぶしさを浴びていると、トカゲだかカナヘビだかわからないがそのたぐいが一匹石のすきまからあらわれて、おもいのほかよくきこえる摩擦音をもらしながらそのへんをうろつきだしたので、そのあと(……)ちゃんに声をかけて、さっきあそこにトカゲいたよとおしえてふたりでならんですわり、石のすきまに逃げてしまったトカゲを待って女児といっしょに声や気配をころしたのだが、けっきょく爬虫類はすがたをみせなかった。
 兄と子ども、それに父親が車に乗りこんで(……)へむかって発ったあとは休息。疲労感ははなはだしかった。ここ数日出かけたり、家でも子どもらの世話をしていたからだろう。母親もそれは同様。こちらは三時くらいまでだらだら休んだのだが、その後五時で上階にあがったときもアイロン掛けをしようとおもいながらもやたらねむく、からだがおもくてソファにもたれてしまい、そこにあった薄布団を上掛けにしてかなりながく休むことになった。日中にこのようにまどろまなければならないというのは相当にひさしぶりのことである。六時半くらいになってからようやく家事にかかった。
 David Robson, “A dream-traveller’s guide to the sleeping mind”(2015/8/14)(https://www.bbc.com/future/article/20150819-a-dream-travellers-guide-to-the-sleeping-mind(https://www.bbc.com/future/article/20150819-a-dream-travellers-guide-to-the-sleeping-mind))、William Park, “What you may not know about sleep”(2015/7/10)(https://www.bbc.com/future/article/20150710-what-you-may-not-know-about-sleep(https://www.bbc.com/future/article/20150710-what-you-may-not-know-about-sleep))、David Robson, “Dos and don’ts for restful sleep”(2015/2/4)(https://www.bbc.com/future/article/20150203-dos-and-donts-of-a-restful-sleep(https://www.bbc.com/future/article/20150203-dos-and-donts-of-a-restful-sleep))と英文記事を読み、入浴したあと夜の一〇時くらいからはきのう(……)にもらった申込書と同意書を記入。年収を書くときに、ついでに給与明細を整理してじっさいに足して計算した。ところが一年分ぜんぶそろっている年はなく、二〇二一年は一〇月まででさいごの二か月がみあたらなかった。それいぜんの年はもっと欠けている。どゆこと? 室長が出しわすれた月がけっこうあったのだろうか。まあたしかに給与明細なんてたいして見ちゃいないしこちらから催促もしないから、レターボックスにはいっていなければそのままもらわずになってもおかしくはない。一〇か月分そろっている二一年で計算すると、一〇月までで八〇万くらい。とすると平均してひと月八万なので欠けている二月分をそれで埋めれば年で九六万ほどだが、(……)の言っていた情報によれば家賃が給料の四〇パーセントを超えるとこのひとはあやういんじゃない? ほんとに払っていけるの? という判断になるらしい。借りようとしている部屋の家賃は共益費ふくめて三三〇〇〇円なので、これを四〇パーセントとすると一〇パーセントは八二五〇円、つまり一か月で最低でも八二五〇〇円はかせいでいなければならず、これを一年分にすると九九万円で、二一年の年収を三万円ほどうわまわってしまう。それなので年収欄の数字はすこしだけ盛ってぴったり一〇〇万円としておいた。きのう(……)が、1. 2倍くらいに盛ってもいいかもねと言っていたのだが、あまり盛ってもこまかい審査がはいったときにめんどうくさそうなのでギリギリにしておいた。ただこれでもギリギリなので追加審査をしなければならない可能性はけっこうある気がされ、そのとき給与明細の提出とかもとめられたらやばそうだが。そういうの何か月分出せばよいのかぜんぜん知らんけれど、わりとちかくの二一年一一月と一二月がないわけなので、そもそも明細欠けてるってどういうこと? というかんじで信用がうしなわれそう。ともあれこれで提出して出たこと勝負である。同意書も記入し、階段下の室にあるプリンターでパソコンにとりこんで(……)のメールアドレスにおくることに。プリンターとパソコンをUSBケーブルでつないだのだが、まえもそうだったとおもうけれどプリンターがわの操作ではパソコンと接続できていないみたいなことになってスキャンできない。パソコンがわの操作ではたらくものの、こちらにはさいしょからPDFにする機能はないのでいったんJPGでとりこんでそのあとPDFに変換した。フリーソフトをさがすあたまでいたのだが、いまは検索すればもうネット上でファイル変換できるサイトがすぐさま出てくる。アップロードや変換のスピードもはやい。それでべつに一ファイルでだいじょうぶだろとおもいつつも、なぜかいちおう、申込書・同意書・パスポートの個別ファイルと、それら三つをひとつにまとめたファイルの四種類つくってしまい、Gmailから(……)におくっておいた。かれはすぐさま管理会社におくってくれたようで、とはいえ連休なのでそんなにすぐに対応はされないだろう。(……)からこういうふうにおくっておいたと来た転送メールをみると、引っ越し後に最寄りの塾で正社員としてはたらくことも視野に入れているという説明がさいごにあり、これはかれが独自につけくわえてくれた方便なわけだが、きのうみにいったときに物件のちかくに代々木ゼミナールがあったのに、しごとなかったら最悪ここではたらけるわとか、ここではたらいたら行き帰りめちゃくちゃ楽だな、五分だわ、とか言っていたのを受けたものだろう。