2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧

2021/8/31, Tue.

メルロ=ポンティの《根源的歴史性》は――そこでは、主体とその世界が一箇の世界のうちで集約されるのだが――〈語られたこと〉のうちを動いている。〔これにたいして〕心性あるいは生気をふきこまれることとは、一者と他者のあいだの差異が――しかしそれはまた…

2021/8/30, Mon.

第二の主著『存在するとはべつのしかたで』にあってレヴィナスは、老いてゆく身体の時間性を見つめている。「〈自己に反して [﹅6] 〉(malgré soi)ということが、生きることそのものにおける生をしるしづけている。生とは生に反する生である。生の忍耐によ…

2021/8/29, Sun.

いまや、主体の主体性そのものが、明示的にも一種の〈女性性〉としてとらえかえされることになる。ただし、その〈性的〉な規定を拭いさったかたちでの女性性としてである。そうした女性性をレヴィナスは(それ自体むろん問題なしとしないところではあるが)…

2021/8/28, Sat.

『全体性と無限』にあってもレヴィナスは、「〈私〉の唯一性」についてかたり、そのありかをむしろ、〈他者〉との関係のなかで私が逃れようもなく〈私〉であること、そのゆえに私が無限の〈責め〉を負わされていることのうちに見さだめていた(四・2)。第二…

2021/8/27, Fri.

いわゆる「〈エロス〉の現象学」は、「愛は〈他者〉をめざし、その弱さをめざす」という一文で開始されていた。その現象学が「〈愛される者〉とは〈愛される女〉である」という立場から出発する以上、レヴィナスそのひとの記述は中立的(中性的)なものであ…

2021/8/26, Thu.

〈無限〉である他者と私がなしうることとのあいだ、他者の〈顔〉と私の権能とのあいだには、したがって、ある「障害」があるはずである。とはいえ、現に殺人が日常の一齣でもあるという事実が「障害がほとんどなきにひとしいこと」をもさししめしている。だ…

2021/8/25, Wed.

「自由にとっての最高の試練は、死ではなく苦しみである。憎悪がこのことをよく知っている」(266/369)。そう説いたあとにレヴィナスは、つづけてつぎのように書いている。(end114) 憎悪は、把持不能なものを把持しようとする。そこで他者が純粋な受動性…

2021/8/24, Tue.

〈ふたり〉であって〈ひとつ〉ではありえないことこそが〈渇望〉をうみ、エロス的な関係に養分を提供しつづける。とすれば、性愛は所有を挫折させるだけでなく、殺人をもむしろ禁じている。他者としての「異邦人の顔の裸形は、寒さにふるえ、裸形を恥じる身…

2021/8/23, Mon.

エロス的なものが「把持すること」「所有すること」を、あるいは「認識すること」を意味するならば、さきの設問にたいする答えは「しかり」である [註88] 。愛撫はつまり、必然的に挫折する。〈手〉がどれほどせわしなく、もどかしげに動きまわろうと、手は…

2021/8/22, Sun.

ひとは他者の身体を愛撫するとき、身体の「なめらかさやぬくもり [註85] 」そのものをもとめているのだろうか。一見そのとおりであるようにみえる。ひとはたしかに、じぶんのものではない肌に宿った体温をもとめているのだ。とはいえ、他者の〈肌〉はときに…

2021/8/21, Sat.

レヴィナスは、「愛」に「〈他者〉がその他性を保持しながら、欲求の対象としてあらわれる可能性」を、さらにはまた「〈他者〉を享受する可能性」をみとめている(285/392)。性愛はたしかに、身体の〈贈与〉をふくんでいるようにおもわれる。愛が「享受」で…

2021/8/20, Fri.

嫉妬の結果がかくも均衡を欠くことになりがちなのは、しかし、嫉妬が(第三に)そもそも不可能な情熱に裏うちされ、あらかじめ挫折がさだめられている欲望に発するものであるからではないだろうか。つまり、ある特異な志向的構造をともない、〈ひとしさ〉の…

2021/8/19, Thu.

嫉妬にはさらに、〈正〉しさにかんする特徴的なあらわれがみとめられるようにおもわ(end98)れる。たんにねたむ [﹅3] ものは、ある場合には、じぶんよりすぐれたものがじぶんより多くを所有することを妬み [﹅2] 、あるいはまた、じぶんとひとしいものがよ…

2021/8/18, Wed.

それでは、他者の〈顔〉は私にどのように呼びかけるのであろうか。〈ことば〉は普遍的なものであり、ことばによって世界をものがたるとは「贈与によって、共有と普遍性とを創設すること」(74/104)であった(三・5・B)。他者のことばは、だから、世界を占…

2021/8/17, Tue.

これにたいして、顔はその裸形にあって、たしかになにかをかたっている。しかも、つねに [﹅3] かたっている。指さきそのものには指示する意味が宿ることはないが、「まなざしの身ぶり [﹅8] 」(ビューラー [註76] )は、他者の注視している対象がなんであ…

2021/8/16, Mon.

「意味とは他者の顔のことである」(227/313)と、レヴィナスはいう。ことばとはまず〈顔〉なのである。あるいは、「ことば(parole)は、見つめている私を見つめる顔のうちですでに萌している」(100/142)。「顔はかたる。顔の〈あらわれ〉はすでに言説で…

2021/8/15, Sun.

素朴に考えて、会話するふたりの人間は、こもごも話し手となり聞き手となることができる。この原初的な対称性がなりたっていることで、ことばを発することがさらに、他者にたいして、あるいは懇願 [﹅2] し要請 [﹅2] し、あるいは命令 [﹅2] する行為となる…

2021/8/14, Sat.

他者との関係がそもそものはじまり [﹅4] から非対称的で不均等なものであるならば、他者との〈正〉しい関係、つまり「正義」とは「普遍性という均衡状態」ではない。他者との関係が私のかぎりない〈責め〉でおわる [﹅3] かぎり、そもそも〈配分的な正義〉…

2021/8/13, Fri.

他者との関係じたいが、あるいは私という「〈同〉のエゴイスティックな自発性」を問いただす「〈他者〉の現前」(la présence d'Autrui)そのものが「倫理」と呼ばれる。すな(end79)わち「私の思考と私の所有にたいする〈他者〉の異邦性、つまり〈他者〉を…

2021/8/12, Thu.

他者とのかかわりは、このような関係でありうるであろうか。まず、他者と「隣りあう」という関係は、「空間的な意味での隣接」ではない。隣人という意味での他者のむしろ「近さ」は、本とペンの接近と同様ではない。「隣」人であるということはひとつの「偶…

2021/8/11, Wed.

『観念に到来する神』「序文」のなかで、レヴィナスはつぎのように書いている。 〈私〉のうちにある無限の観念――あるいは、神への私の関係――は、他の人間への私の関係の具体的なありかたのうちに、つまり、隣人にたいする責めであるような社会性のうちで、〈…

2021/8/10, Tue.

他者が、〈他者〉だけが、その「他性 [﹅2] 」(altérité)がけっして私のうちに回収されない〈他なるもの〉である。つまり形而上学の「運動の終点」となる「卓越した意味で他なるもの [﹅5] 」である。レヴィナスにあって形而上学とは、この「〈他なるもの…

2021/8/9, Mon.

この運動〔形而上学の運動〕の終点――〈べつのところ〉あるいは〈他なるもの〉――は、卓越した意味で〈他なるもの [﹅5] 〉であるといわれる。どのような旅も、どのような気候や風景の変化も、〈べつのところ〉〈他なるもの〉にむかう渇望を充足することができ…

2021/8/8, Sun.

C 労働し加工してえられたもの、「労働生産物」あるいは「製品」、広義の「作品」(œuvre)は、「内面性を外部にあらわす」もの、労働するもの、制作するものの意図の実現であり表現であると考えられる。労働生産物はその意味で、まずは労働する者の所有に帰…

2021/8/7, Sat.

B 「ことば」(langage)とは「個体的なものから一般的なものへの移行そのもの」である。「〈ことば〉が私の所有するものを他者に供することになる」(74/104)と、レヴィナスはいう。この間の消息をめぐるレヴィナスの議論は明晰である。引用する。 ある〈…

2021/8/6, Fri.

所有を創設する労働は、結局は、外部の [﹅3] 世界をみずからのうちにとりこむ、もしくは世界の外部性 [﹅3] を同化するにすぎない。あるいは、「労働は世界を変容するが、変容される世界にささえられている。質料がそれに抵抗する労働は、質料の抵抗から恩…

2021/8/5, Thu.

労働は、レヴィナスによればしかし、たんに所有のみを創設するばかりではない。労働はまた、〈もの〉をつくりだすことで、実体 [﹅2] を、あるいは諸性質の基体 [﹅2] をつくりだす。労働は〈もの〉からなる世界を、実体がかたちづくる世界を創設する [﹅7] …

2021/8/4, Wed.

つぎに、〈目〉の例ではなく〈手〉の場合を考える。ひとが山道で下枝を手折るとき、もちろん、手折られるまえの枝は、幹から「切りはな」されてはいない。枝はもともと閉じた [﹅3] 輪郭を有してはいないということだ。大地の石を拾いあげることはどうか。い…

2021/8/3, Tue.

にもかかわらず、ひとはしばしばもの [﹅2] といえば、石、木片、時計、リンゴ、バラ、といった〈もの〉を、つまりは広義の「物体」をおもいうかべる [註33: M. Heidegger, Die Frage nach dem Ding, in: Gesamtausgabe Bd. 41, S. 6.] 。その結果、ひとは多…

2021/8/2, Mon.

労働すること、はたらくこととは、なによりもまず身体を、四肢をうごかすことをふくんでいる。とはいえ、たとえば〈足〉をうごかすことはそれ自体としては〈歩行〉でもありうる。それは、第一義的にはまだ労働ではない。〈手〉をうごかすこともまた、たんな…